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沖縄地上戦 ◇ THE FINAL CAMPAIGN 1945 2005
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◆沖縄地上戦 ◇ The Okinawa Attacked 1945/04/01

写真:(左)沖縄で投降した日本兵
;A U.S. soldier searches a surrendering Japanese soldier. (National Archives)民間人も玉砕を強いられた場合があったが,沖縄では多数の民間人とならんで,日本軍将兵も捕虜となり生き残った。
写真(左)米軍の捕虜になった沖縄住民
「沖縄玉砕戦」と日本は呼ぶが、降伏して生き残った沖縄軍民は14万人に達している。


写真(右):ガダルカナル島,沖縄で戦った海兵隊伍長Corporalジム・ウッドJim Wood;James W. "Jim" Wood (SSN 801169)Cpl., United States Marine Corps,1943 - 1944 Company M, 3rd Battalion, Marine Raiders. 1944 - 1945 Company I, 4th Regiment, 3rd Battalion, 6th Marine Division.
Links
沖縄戦における住民の集団自決:集団死と捕虜処刑の真相
沖縄戦の特攻:菊水作戦,航空総攻撃
沖縄戦の戦艦「大和」:海上特攻
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN
UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT
U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945

◆2015年11月21日,横浜市栄公会堂にて市民公開講座「戦後70年、あの戦争を語る」で「沖縄戦の実相−今に続くオキナワの課題はここに始まった」と題して講演。

1.米空母任務部隊は,1945年3月,沖縄攻略の前段階として,沖縄,九州,本州を艦載機で攻撃した。日本陸軍は沖縄を持久戦の場として,本土決戦の時間稼ぎあるいは「捨石」として位置づけたが,1944年7月中旬,沖縄では学童疎開,一般疎開によって,住民8万人を日本本土へ,2万人を台湾へ疎開させる計画があった。  


ヤルタ会談の三巨頭
;1945年2月4日から11日までの8日間,クリミア半島のヤルタ市で,ルーズヴェルト,チャーチル,スターリンが会談。(1)ドイツおよび東ヨーロッパの処理,(2)国際連合設立,(3)ソ連の対日参戦,を話し合った。


米海軍太平洋艦隊司令長官および太平洋方面総司令官のニミッツ元帥は、1945年(昭和20年)3月に沖縄攻略計画「アイスバーグ作戦」に着手した。

 米軍が沖縄を攻略できれば,台湾、中国沿岸、日本本土のすべてが、爆撃機の攻撃圏内に入る上に,中国・南方から日本本土への交通線,特に海上輸送ルート(Sealane)は,完全に遮断される。
また,沖縄に航空基地を整備すれば,日本本土を攻撃した爆撃機の不時着基地としても活用できる。

1944年7月7日にサイパン島が陥落し,次は本土,沖縄方面に来襲すると考えた日本軍は,政府に本土(北海道,本州,四国,九州),沖縄で疎開を進めるように要請した。

写真(左):沖縄の丘陵地帯;海岸段丘にまで農地が広がっている。戦場になって,焦土となった地域もあったが,残った地域もかなりあった。

1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し,学校単位で疎開事務を推進し始めた。これは,沖縄防衛のために多数の兵士が,本土,台湾,中国大陸から沖縄に移駐することになり,その食糧・用地・施設を確保するためには,沖縄住民,民間人が足手まといになるからである。1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。

1944年8月22日2223,鹿児島県沖で疎開船「対馬丸」を撃沈し,7才から14才の学童疎開者775名(引率者を含め804名),一般疎開者569名を殺害したのは米潜水艦「ボーンフィッシュ」である。

  ⇒学童疎開船「対馬丸」撃沈を詳しく読む。

 
写真(右):米軍の重爆撃機B-29「スーパー・フォートレス」
;1944年末から,日本本土を大規模空襲した。最高速度590km,爆弾等裁量9トン。マリアナ諸島から出撃し日本本土を空襲したB29爆撃機;1945年になると日本爆撃後に,緊急不時着地として硫黄島と並んで沖縄の飛行場(嘉手納基地や伊江島飛行場など)も使用された。

天号作戦指導要領
1,1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成し,来攻部隊を撃破する。 
2,航空作戦の主要目標は輸送船団。
3,米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用する。また,南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用する。
4,航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮する。

南西諸島とは、九州南方から台湾東方にかけて点在する諸島で、奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島などがあるが,本webでは沖縄方面という語句を使用する。

写真(左):シュガーローフ・ヒルを攻撃する米軍37ミリ対戦車砲とM4中戦車;持久戦を戦うために,日本軍は地下壕を構築し立てこもった。そこを,戦車,砲撃で攻撃した。

1945年3月23日:南西諸島全域に空襲。沖縄本島に艦載機355機来襲。
1945年3月24日:沖縄本島に米艦載機約600機来襲,南部を米艦艇が艦砲射撃。 
1945年3月25日:沖縄本島に来襲、延べ515機。米艦艇が艦砲射撃。糸満西方海域を掃海。
1945年3月26日:米艦艇が沖縄本島,伊江島、久米島への艦砲射撃。米陸軍第77師団の大隊上陸部隊が,慶良間列島渡嘉敷島に上陸。艦載機が沖縄本島713機、宮古島79機、大東島94機、奄美120機来襲。九州にB-29約150機が来襲。

日本本土も,1944年7月に占領されたマリアナ諸島のサイパン島,テニアン島,グアム島などから飛来する大型爆撃機ボーイングB-29「スーパー・フォートレス」の空襲を受けていた。当初は,航空機工場など軍事目標を中心にした精密爆撃であったが,効果が薄いために,都市無差別爆撃に切り替えられた。


写真(上):1945年3月10日東京大空襲の焼死者;米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機300機以上が東京を夜間空襲した。主に焼夷弾を投下して,住宅を焼き尽くす作戦である。米軍爆撃機の米国人搭乗員が殺害したのであるが,殺害者が焼死体を直接見ることもないので,罪悪感は感じない。焼死体を見たとしても,米軍兵士や中国の民衆を虐待した日本人が受けるべき報いであるとして,同情すらしないかもしれない。


写真(左):米軍が航空機から撒いたビラ
;マリアナ諸島・硫黄島,沖縄を攻略した米軍は,日本の都市を爆撃,空襲して灰燼に帰すことを予告している。恐怖によって日本人の厭戦気分を高め,軍民離間を策した。このようなビラを拾った者は、警察にビラを届ける


都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、あわせて家屋を破壊し、家族を殺すことで、戦意を挫き、厭戦気分を高めることで、世論、政治的にも,戦争主導に支障をきたすことを期待した。留守宅を守るはずの家族の安否が気になるのであれば、出征している兵士たちも、戦争継続の意思が挫けてくるかもしれない。

都市には婦女子、児童・乳幼児まで住んでおり、彼らも爆撃によって殺される。上空にいる米軍爆撃機搭乗員は、爆撃されて殺されり、負傷させられたりした日本の市民を見ていない。

しかし,米国の爆撃機搭乗員やその指揮官たちは、真珠湾をだまし討ちにして、戦争を仕掛けてきた日本人、米軍捕虜を虐待、殺害し、アジアの人々の財産を奪い、恐怖で支配した日本人との認識から、都市無差別爆撃を報復と考えた。

戦争を早く終わらせ、米国兵士の命を少しでも救うことが使命、任務であると認識し、爆撃をすることを大いに誇りにしていたかもしれない。

軍の上層部も,本土決戦の準備をしたが,これは全軍特攻化,一憶総特攻の掛け声の下にで行われた。1945年3月に、米軍が海と空から沖縄を攻撃したのは,日本本土が大空襲を受けている時期であり,沖縄を守るよりも本土と国体の危機が叫ばれていた。沖縄が,本土決戦の準備時間を稼ぐための持久戦,捨石作戦であるというのは,このような本土空襲の激化が第一の要因として挙げられる。

本土防空すらおぼつかなくなっていた日本軍にとって,沖縄で決戦するために航空兵力を投入しつくすことはできない。本土決戦のための予備航空兵力は残しながらも,1944年10月のフィリピン戦、1945年3月の沖縄戦では、航空機による大規模な特攻作戦が実施された。

米軍は,日本本土に上陸・占領しなければ日本は降伏しないとの判断の下に,1945年4月〜10月)に沖縄を攻略し,1945年10月〜1946年2月には志布志湾から九州を攻略する「オリンピック作戦」を実施し、最後に,九十九里浜から関東地方,東京を攻略する「コロネット作戦」を計画していた。

米軍が沖縄を攻略できれば,
?台湾、中国沿岸、日本本土のすべてが、攻撃機・爆撃機の攻撃圏内に入る,
?中国・南方から日本本土への海上輸送ルート(シーレーン)は,完全に遮断される,
?沖縄を日本本土を攻撃する後方基地として港湾,飛行場,物資集積場を整備できる,
?日本本土を空襲した爆撃機・艦船の不時着あるいは避難基地として活用できる。実際,九州の長崎に原爆投下をしたB29は,マリアナ諸島テニアン島を発進した後,燃料不足で,急遽,沖縄に向かい不時着している。
このような戦略的,戦術的利点が大きいために,米軍は沖縄を攻撃し攻略する。


写真(上):1945年9月戦後の横浜;戦車上陸用舟艇Landing Craft Tank LCT-803の乗員の撮影。米国陸軍航空隊のB-29重爆撃機が爆撃したため,市街地の多くが焦土と化した。NESHOBA PICTURES FROM CHRISTOPHER KIRKEGARD

しかし、本土空襲に際しても、日本陸軍航空隊は、米爆撃機B-29に体当たりを行う空対空の特攻隊、すなわち震天制空隊を編成していた。戦闘機の武装を外して軽量化し、性能向上を図った。日本の戦闘機は数も少なく、搭乗員の錬度も低い。さらに、エンジンの低出力に起因する低性能で、故障の多い日本の戦闘機が、最高峰の爆撃機B-29に対抗するには、体当たりによる特攻ぐらいしか、大きな戦果は見込めなかったのである。日本上空の制空権も、連合軍に侵食されれていたのである。このような本土の危機を前にして、沖縄決戦はあきらめて,より航空基地が整備され,兵力が整っている本土で地上決戦するほうがよいと考えられていた。

写真(左):沖縄に車両を揚陸する戦車揚陸艇LST877号;1945年撮影

日本本土は,1944年7月に占領されたマリアナ諸島のサイパン島,テニアン島,グアム島などから飛来する大型爆撃機ボーイングB-29「スーパー・フォートレス」の空襲を受けていた。当初は,航空機工場など軍事目標を中心にした精密爆撃であったが,効果が薄いために,都市無差別爆撃に切り替えられた。

軍の上層部も,本土決戦の準備をしたが,これは全軍特攻化,一憶総特攻の掛け声で行われた。沖縄戦が開始されたのは,まさに本土が大空襲を受けている時期であり,沖縄を守るよりも本土の機器が叫ばれていた。沖縄が,本土決戦の準備時間を稼ぐための持久戦,捨石作戦であるというのは,このよな本土空襲の激化が第一の要因として挙げられる。

写真(右):米海軍戦艦「ミズーリ」;1944年,前部甲板の上でキリスト教会の礼拝。

当時,戦後冷戦の図式は,米国では国務長官バーンズ,陸軍元帥マッカーサーなど一部の政治家・軍人しか認識してはいなかったようだが,英国のチャーチル,ソ連のスターリンは,米国大統領ルーズベルトとは異なり,戦後の東西対立を予期していた。米国では東西対立に備える構想は熟してはいなかったが,結果として,沖縄の米軍基地は冷戦構造の中枢として位置づけられていったといえる。

当時,日本軍は本土防空すらおぼつかなくなっていた。そこで,沖縄で決戦するために航空兵力を投入しつくしてしまえば,本土防衛は,まったく航空援護を欠いたものになってしまう。
やはり,沖縄決戦はあきらめて,より航空基地が整備され,兵力が整っている本土で決戦するほうがよいと考えられていた。

 戦後の世界秩序形成にあたって,米国の影響力を極東地域発揮するためにも,沖縄は軍事基地として最適である。インドシナ北部,フィリピン,台湾,中国、日本,ソ連を西太平洋の入り口で抑えることが可能となるからである。

  写真(左):米軍のM7 105ミリ自走砲;105mm榴弾砲を搭載した自走砲だが,泥に足を取られて身動きできなくなった。当時の沖縄には鉄道はあったが,舗装道路は少なかった。

2.沖縄地上戦は,最大規模の島嶼攻防戦であり,日米双方に大きな被害をもたらしたが,特に,沖縄住民の死傷者が著しく多かった。

  Battle of Okinawa/Wikipedia によれば,沖縄戦の参加者・死傷者は次のとおり。
米軍兵力は作戦当初15万0名から最終的には30万名まで増加した。

日本陸軍兵力は7万6,000名,民間兵士2万4,000名。 米軍の損害:死者1万8,900名,負傷者3万8,000名,戦闘以外の負傷者non combat wounded 3万3,096名 , 航空機763機喪失。

日本軍の損害:兵士の死者7万6,000名以上,民間兵士死者2万7,000名, 投降・捕虜7,455名 surrendered/captured (日本人2,300名), 民間人死者10万名以上 (⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量)。

写真(右):沖縄の日本陸軍配備状況;1944年8月。

1944年6月にサイパン島などマリアナ諸島が米軍に攻撃,占領されると,日本軍は,フィリピンと沖縄の防衛を強化する。沖縄方面の陸軍としては,1944年2月に設立された第32軍があったが,この司令官に新たに牛島満中将を任命し,第9師団・第24師団・第62師団を増強した。

さらに、第32軍の直轄として砲400門以上を擁する第5砲兵司令部を置いた。1944年6月、北飛行場に航空飛行部隊(第25飛行団)と飛行場守備の任務を担う独立高射砲第27大隊第3中隊が、座喜味に配備された。1944年7月初旬、独立混成第44旅団指揮下の独立混成第15連隊および第9師団(武部隊)が沖縄本島に到着した。

こうして,沖縄へ日本軍守備隊が増派され,沖縄に駐屯する日本将兵が増えるにつれて,沖縄の食糧,住居,軍用地が不足してくるから,戦闘に寄与できない住民は,沖縄での軍事行動に支障となる。そこで,戦闘も労働も困難な者,すなわち学童,老人の疎開が積極的に行われるようになる。

7月7日にサイパン島が陥落し,次は本土,沖縄方面に来襲すると考えた日本軍は,政府に本土(北海道,本州,四国,九州),沖縄で疎開を進めるように要請した。家族ごとに疎開する「一般疎開」、学校ごとに生徒・教員が疎開する「学童疎開」があったが,予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人と大量であった。このような疎開は,沖縄住民を戦火から守るといった配慮のほかに,隠された意図があった(→対馬丸遭難:沖縄関係資料閲覧室)。

1944年7月19日,沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し,学校単位で疎開事務を推進し始めた。1944年7月から1945年3月の最終疎開まで、沖縄から出航した疎開船は,延べ187隻,疎開者は約8万人に達する。

⇒このような疎開輸送中,1944年8月22日,対馬丸が米潜水艦に撃沈され学童750名を含む1400名以上が殺害。これが対馬丸遭難事件である。

写真(左):沖縄の陸軍部隊配置;1944年12月-1945年1月下旬の台湾への第9師団転出以降。

1944年10月10日には,米海軍空母任務部隊の艦載機によって,沖縄が大空襲された。これは,「10.10空襲」と呼ばれ,旧那覇市街の大半が焼失した。第9師団(武部隊)は1944年12月中旬より台湾に移動になり、その穴埋めとして第24師団(山部隊)が南部方面へ転出した。1944年7月〜8月にかけて、読谷山村に駐屯していた独立混成第15連隊(球部隊)が、12月になって再び読谷山村へ戻ってきた。
 しかし,フィリピン戦に即応するために台湾から抽出した部隊の穴埋めとして、沖縄駐屯の第9師団を台湾へ転出したことで,沖縄の兵力は減少し北・中飛行場は、主陣地外に置かれその防衛は弱体化してしまった。

写真(右):沖縄の陸軍部隊配置;1945年2月から4月1日の米軍上陸まで。

1945年2月以降,第503特設警備工兵隊(球18817)の各中隊や、第504特設警備工兵隊(球18818)の各中隊(中飛行場駐屯)、第56飛行場大隊(球9173部隊)、高射砲部隊等へ多くの村民が召集された。読谷山村内には飛行場関係部隊と賀谷支隊の二つの小隊のみが配備されていた。
 1945年3月23日、特設第一連隊という飛行場関係部隊,防衛隊員を寄せ集めた地上戦闘能力の低い連隊が編成された。

フィリピンの次に米軍の攻撃が予想されるのは,台湾か沖縄であったが,航空基地,艦艇泊地が十分にあり,台湾より日本本土に接近している沖縄のほうが,攻略目標としては適していた。台湾の住民の多さ,広く険しい山岳地帯の存在を考慮すれば,当然,沖縄が攻略目標になることは自明であった。

海軍軍令部は沖縄を最終決戦の場と見ていたが,陸軍の参謀本部は,本土防衛のための時間稼ぎの場と考えて作戦を計画していた。

沖縄の日本軍兵力については、1945年2月28日付「『沖縄群島』告示第53―45号」に5万5000〜6000名と記されているようだが,これは正規兵のみの数値である。

実際には、正規兵以外にも,現地召集兵,防衛隊・学徒隊・義勇隊など沖縄住民で補充した兵約3万余、海軍の沖縄方面根拠地隊の約1万人を加えて約10万人の兵力であった。


写真(左):沖縄第32軍指令部の幹部集合写真;JAPANESE COMMANDERS on Okinawa (photographed early in February 1945). In center: (1) Admiral Minoru Ota 大田實, (2) Lt. Gen. Mitsuru Ushijima 牛島満, (3) Lt. Gen. Isamu Cho 長勇, (4) Col. Hitoshi Kanayama, (5) Col. Kikuji Hongo, and (6) Col. Hiromichi Yahara 八原博道。写真(右):沖縄第32軍指令部の牛島満司令官と長勇参謀長;沖縄に派遣されたということは,市を命ぜられたのに等しいと,司令官たちは自覚していたようだが,八原高級参謀は,米軍の捕虜になっている。合理的な考えの持ち主といわれる。しかし,自分が生き残るつもりならば,部下に対して,投降命令を出すように司令官に進言すべきだった。

沖縄戦では、住民も兵力の一端を担わされた。ただし,軍人あるいは徴用された軍属として,正式に部隊が編成された場合,召集は受けたが軍の正規の筆記命令ではなく,部隊指揮官が独断で民間人を使用した場合,学生などが非正規に軍に隷属する学徒隊・自警団・民間防衛隊として,指揮された場合など様々である。

沖縄陸軍守備隊 86,400名(+民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊22,000名)。


写真(左):米艦隊司令官ニミッツ元帥とハルゼー提督;1945年撮影。
写真(右):沖縄上陸部隊司令官バックナー中将Lt. Gen. Simon B. Buckner(左)と第三海兵隊を率いたロイ・ガイガーRoy Geiger司令官(1885-1947)Geiger was recalled to Marine Corps Headquarters to become Director of Aviation but return to active duty when he commanded the Marine Amphibious Corps on Bougainville. He also led the Marines that invaded Guam (July 1944) and took part in the invasion of Iwo Jima (February-March, 1945) where almost 6,000 Marines were killed. Geiger also led the III Corps at Okinawa (April-June, 1945) where the Americans suffered 49,000 casualties.

写真(左):ロケット弾攻撃をするF4U「コルセア」戦闘機;12.7mm機銃6丁とロケット弾あるいは225kg爆弾2発の威力は大きく,日本の爆撃機と同等の攻撃力があった。

 第32軍 司令官 牛島満中将,参謀長 長勇中将,高級参謀 八原博通大佐
第24師団長 雨宮巽中将
第62師団長 藤岡武雄中将
独立混成第44旅団長 鈴木繁二少将
第5砲兵司令官 和田孝助中将。

沖縄の海軍守備隊 10,000名
沖縄方面根拠地隊 司令官 大田實少将
         先任参謀 前川親一郎大佐
南西諸島航空隊司令 棚町整大佐
第951航空隊派遣隊司令 羽田次郎大佐

米軍情報部は、航空機による偵察,暗号解読,捕虜への尋問などによって,1944年から、沖縄に配備されている日本軍の守備隊の名称と兵力をほぼ正確に把握していた。
1944年12月に第九師団が、沖縄本島から台湾へ移動したことも的確に把握していたのである。日本軍は,暗号を解読されていることは,まったく知らなかった。暗号解読は不可能であるとの認識を最後まで改めなかったようだ。

写真(右):日本陸軍の九六式15センチ榴弾砲と八九式加濃(カノン)砲;口径149.1mmの大型火砲は,沖縄戦で米軍が鹵獲したもの。砲兵にとって軍旗であるはずの砲が敵に戦利品として奪われた。しかし,戦後の日本人の努力で,米軍から引き渡してもらうことができた。靖国神社の遊就館は長らく野ざらしで展示していた。現在は,館内に展示されている。

米軍情報部は、沖縄の日本軍配備について、1945年3月直前には、次のように予測していた。米軍の沖縄戦記録

 It was believed that the Japanese had moved four infantry divisions to the Ryukyus during 1944. These were identified as the 9th, 62d, 24th, and 28th Divisions. Army intelligence learned that one division, perhaps the 9th, had been moved from Okinawa to Formosa in December 1944. In March 1945 American intelligence estimated that the Japanese forces on Okinawa consisted of the following troops, which included 26 battalions of infantry:

米軍の予測した日本軍兵力
写真(左):米軍の鹵獲した九二式重機関銃Model 92 (1932) 7.7-mm heavy machine gun.:Caliber 7.7-mm (0.303 inch). Weight (including tripod) 122 pounds. Strip capacity 30 round clips. Cyclic rate of fire 450 rounds per minute. Muzzle velocity 2,400 feet per second.

本部Headquarters 第32軍(32d Army) 625
第24師団 24th Division (triangular) 15,000-17,000
第62師団 62d Division (square) 11,500
第44独立混成旅団 44th Independent Mixed Brigade 6,000
混成連隊 One independent mixed regiment 2,500
戦車連隊 One tank regiment 750
砲兵連隊 One medium artillery regiment
迫撃砲大隊 two mortar battalions 対戦車大隊 one anti-tank battalion 対戦車中隊 three antitank companies 対空中隊 antiaircraft units 5,875
空軍地上部隊 Air-ground personnel 3,500
飛行場建設部隊 Service and construction troops 5,000-6,000
海軍地上部隊 Naval-ground troops 3,000
総兵力Total 5万3,000-5万6,000人。


米海軍の戦艦「コロラド」と「ノースカロライナ」の16インチ砲(40センチ砲);戦艦「コロラド」は40cm連装砲塔4基を装備した速度25ノットの低速戦艦。1943年秋撮影。戦艦「ノースカロライナ」は,40cm三連装砲塔3基を装備した速度28ノット。1941年4月に就役した新鋭戦艦。

米戦艦「ミズーリ」;基準排水量 :48,500トン 満載排水量:53,000トン、全長 270メートル、全幅 33メートル、最高速度 33ノット、兵装:40センチ三連装砲塔3基9門、38口径12.7センチ連装高角砲 10基20門 、起工: 1941年1月、就役 1944年6月のアメリカ海軍の新鋭高速戦艦。1945年10月撮影。

米軍が予測した日本軍地上兵力は,第24師団15,000-17,000名 ,第62師団 11,500名,第44独立混成旅団 6,000名を中核とし,戦車連隊,砲兵連隊,対空部隊5,875名,空軍地上部隊3,500名 飛行場建設部隊5,000-6,000名など総兵力は5万3,000-5万6,000名であった(→米軍の予測した日本軍地上兵力)。

しかし,実際には,沖縄の陸軍守備隊 86,400名(+民間人からなる沖縄県民防衛隊・学徒隊・義勇隊22,000名)があり,この牛島満中将の指揮する第32軍の指揮下に,沖縄の海軍守備隊 10,000名(沖縄方面根拠地隊司令官大田實少将)もあった。

他方,米軍地上兵力は,上陸時の総兵力18万3,000名である。そのうち15万4,000名が7個師団に配属され,予備の第81師団は,ニューカレドニアで待機していた。 上陸7個師団には全てに戦車大隊,トラック・トラクター大隊が配属され, 支援・補給部隊もあった。


写真(右):米戦艦「ミズーリ」の12.7センチ対空砲による夜間射撃;米軍の新鋭戦艦は,副砲は全て対空砲であり,近接信管を装備していた。戦艦ミズーリは、改装され、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争にも参加した。戦艦ミズーリが退役したのは、1992年3月31日である。1999年1月29日、退役した戦艦ミズーリは、ハワイ真珠湾のアリゾナ・メモリアルの近くで博物館として公開された。

 第一波上陸部隊は,総勢 11万6,000名である。第1海兵師団Marine Divisions,は,2万6,274名,第6海兵師団は 2万4,356名で,2500名の建設大隊naval construction battalionが付属している。 陸軍の第7師団,第77師団,第96師団は1個師団当たり平均2万2000名の兵力を配していた。各々の師団には,1,000名の配属されたばかりの新兵understrength in organic infantry personnelがいた。第27師団は予備軍で, 1万6,143名で, 2,000名の新兵がいた。第2海兵師団も予備軍で兵員は2万2,195名である。

U.S. Merchant Ships Participating in Pacific Theater Combat Operationsによれば、沖縄戦に参加した米国商船(民間船)は176隻であり、レイテ戦に参加した商船108隻をはるかに上回り、太平洋戦争では最大の規模である。

3.1945年3月末から4月上旬,沖縄本島上陸に先立って,米軍はの慶良間列島に上陸した。慶良間列島には,日本軍が体当たり自爆用の水上特攻艇,海上挺身隊を準備,編成していたが,多くは攻撃をかけないうちに破壊,鹵獲された。また,慶良間列島では,沖縄住民の集団自決・集団死,日本兵によるに敵性住民,裏切り者住民,非国民の処刑があったようだ。

 
写真(上左):慶良間列島の水上特攻艇
;日本海軍の「震洋」,陸軍の「マルレ艇」があった。
写真(上右):慶良間列島に在泊する戦車揚陸艦LST-53ほか;LST-53 nested at Kerama Rhetto, circa late-May early-June 1945, with LSM-83 (starboard) and the hulk of the decommissioned Barry (APD-29) and the fleet ocean tug Lipan (ATF-85) (port). Barry was used as a decoy ship to lure suicide planes into burned out ships. Lipan's job was to tow her.
重量1,780 t.(lt), 3,880 t.(fl)
全長 328' 全幅 50' 速力 12 kts.
乗員 将校8-10名,下士官・兵100-115名
搭載舟艇 2-6 LCVP
武装 40mm対空機関砲4門,20mm対空機銃8丁,.50口径12.7mm機銃2丁,7.62mm機銃4丁
GM12-567ディーゼルエンジン, 2軸。

特攻兵器:水上特攻艇の海軍「震洋」,陸軍「マルレ艇」が,慶良間列島に配備され,沖縄本島に上陸する米軍を迎撃する予定でいた。

日本軍は希望的観測もあって,飛行場適地のない慶良間列島に米軍が上陸することはないと考えていた。そこで,上陸部隊に対する本格的な防御は施していなかったし,守備兵力も小銃と若干の擲弾筒を装備する程度の弱小部隊であったようだ。

中型揚陸艦(ロケット弾搭載型)LSM-Rは,米軍地上軍の上陸する海岸を,上陸直前にロケット弾攻撃した。LSM-201は,558隻建造されたLSMの第1号艦で,Dravo社(Wilmington, オクラホマ州)で1943年12月24日に建造が開始された。竣工は1944年2月26日,就役したのは1944年4月14日である。つまり建造から就役まで, 80日間かかった。
造船所によっては,LSMを最短53日で仕上げ,就役させている。

Landing Ship Medium (LSM),Landing Ship Medium (Rocket) LSM(R)gaaruga,LSMは,中型戦車 5台あるいは重戦車3台,または 水陸両用舟艇LVTを6台あるいは 水陸両用トラックDUKW 9台を搭載できる。搭載能力は165トン。兵員搭載能力は将校2名と兵48名である。

Loaded, 1,095 tons.
Draft: 6' 4-1/2" forward, 8' 3-1/2" aft. 3' 5-3/4" forward, 7' 1/2" aft. Landing, 743 tons. Light, 520 tons. Tons per inch immersion, 14.4 (loaded), 14.3 (landing).
武装 1, 40 mm twin. (1, 40 mm single interim installation). 4, 20 mm.(→ロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)引用)

しかし,米軍の火力優位をみせつけれれ,制空権,制海権を敵に握られている日本軍は,砲火による反撃も,敵から猛射を受ける覚悟が必要だった。LSMの乗員は,将校6名,兵下士官137名。建造隻数は,中型揚陸艦艇(LSMとLSM-R)で総計558隻である。
しかし,米軍は,慶良間列島が艦船の停泊に優れており,そこを補給基地,修理泊地として活用する意図で,沖縄本島への上陸に先立って攻撃した。

写真(右):ロケット弾搭載上陸用舟艇LCI(G)-73;Underway as a unit of the 7th Amphibious Group. LCI-1 Class Landing Craft Infantry (gun).中城湾で水上特攻艇がLCI(G)-73と同型の上陸用舟艇を1945/04/04撃沈した。

渡嘉敷村の歴史によれば,慶良間列島の沖縄戦は次のように描写されている。

日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200-300隻をしのばせていた。240kgの爆薬を搭載した体当たり小型ボートである。ところが、予想に反して米軍の沖縄攻略部隊は、1945年3月23日、慶良間諸島に艦砲爆撃を行い、機雷掃海をして,3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸し、占領してしまう。米軍は、沖縄本島上陸作戦の補給基地として,慶良間列島を確保したのである。


写真(上左):米軍の鹵獲した九四式速射砲;37mmの対戦車砲だが,米軍の戦車の前には無力だった。
写真(上右):米軍の鹵獲した日本軍の四一式山砲;75mmの軽量近距離砲。

写真(右):米軍に鹵獲された日本陸軍の九一式手榴弾;三月二十七日,集団自決を体験した渡嘉敷島生まれの当時十六歳の金城重明は、軍から手榴弾が二個あらかじめ渡され(一個は敵に投げ、もう一個は自決用)ていた事実をあげて、軍によって「集団自決」への道が事前に備えられていたともいえる、と強調している。自決用(攻撃用?)に住民に手榴弾が手渡されていたとすれば,まさに自決命令が口頭で出ていたとも推測できる。民間人である島の住民は、日本軍から手榴弾1発だけを譲ってもらったが、他の武器は無いのであり、手榴弾は自決用だったと考えられる。手榴弾で住民が家族とともに死のうとしたとき、不発の手榴弾もいくつか出た。日本軍が住民に渡した手榴弾は、古い中古品ともいえる劣悪な武器だったようだ。しかし、そのために生き残ることができた家族があった。

4.沖縄戦では,沖縄住民が集団自決に追い込まれたり,虐殺されたりした。住民集団自決・集団死の理由としては,?物資・兵力の不足により,日本軍が住民を保護できなかったこと,?戦場で住民が,日本軍に厄介者視され,敵への情報漏えいなど利敵行為が危惧されたこと,?中国などでの日本軍将兵による敵性住民・捕虜への処刑の伝聞と日本政府・軍の鬼畜米英のプロパガンダから,日本軍将兵・民間人が捕虜となれば残虐行為を受けると恐れていたことがあげられる。

 慶良間列島では,丘陵地帯に追い込まれた日本兵と民間人が,自己破壊ともいえる自決を図った。3月28日の夜,渡嘉敷島の北端から1マイルの地点で,第306連隊は爆発音と痛みを訴える悲鳴を耳にした。翌朝,小さな渓谷に150名以上の死体が打ち捨てられていた。大半は民間人の死体である。父親が家族の喉を欠き切り,ナイフや手榴弾で自爆した。


写真(右):鹵獲された九二式歩兵砲

◆沖縄戦での住民集団死(集団自決)・捕虜処刑 を読む。

  慶良間列島に配備されていた水上特攻隊(海上挺進隊)は、6カ月分の食糧を確保していたが,米軍上陸に先立つ砲爆撃,米軍上陸部隊の展開に伴って,その大半を失ってしまった。そのため,日本軍は民間人の食糧を徴発したり,島の食料資源を軍を支える食糧として独占しようとした。

こうして,日本軍が駐屯したことで,住民の食糧事情は悪化し、米は1人当たり1日マッチ箱1杯という状況となり、蛇、とかげ、蛙など食えるものはすべて食い尽くしていったという。そのため栄養失調で死者が出たほか、飢餓にたまりかねて逃亡する民間人・軍人もでたようだ。

写真(左):阿嘉島への砲撃準備をするロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-196;慶良間諸島の阿嘉島をロケット弾で砲撃する。1945年3月31日には,島を占領しているはずだが,抵抗が続いていたのか。LSM(R)-196 crew members Joe Clapaftisi S1/c, at left, (note the "regulation" shoes) and Patrick Curtain RM3/c at right, loading rockets at Aka Shima, Ryukyu Islands, 31 March 1945.

 
慶良間列島座間味島(座間味村)には戦時中、水上特攻艇関係の陸軍部隊が約1,500名駐屯していた。海上挺身隊の渡嘉敷島の隊長赤松大尉,座間味島の梅澤少佐など,積極的交戦はしていないようである。持久に徹し,確保した食糧で、慶良間列島の日本軍将兵終戦まで生き残っている。

読谷村のチビチリガマ「集団自決」の思い出に,次のような記述がある。

「もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、満州で支那事変帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした」。

3月26日には,米軍は本島上陸に先立って,慶良間諸島に上陸し,3月29日には占領した。3月30日には,本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊した。


写真(上左):米軍のロケット弾搭載中型揚陸艦LMS-R190号

写真(上右):特攻機の命中を受けた中型揚陸艦LMS-R188号
;1945年3月29日,慶良間列島で特攻機の命中を受けた。

MILITARY GOVERNMENT set up headquarters in Shimabuku at beginning of the Okinawa campaign. Tent city was quickly established, and registration of military-age civilians was started . Many Okinawan men (left) were given jobs carrying supplies to American troops, while others helped to distribute food supplies to displace persons.

写真(右):日本海軍根拠地隊の地下壕司令部;海軍根拠地隊司令官大田實少将は,ここから決別の電報を送り,自決した。

沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」では,沖縄戦の開始以来,陸海軍は防衛戦闘に専念し,県民を殆ど顧みることがなかったが,沖縄の青少年を防衛召集し,家屋と家財を焼却させられ,残る老人幼児婦女子も軍の作戦に差し支えのない小防空壕しか与えられなかったことを認めている。他方,女子も看護婦,炊事婦,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るなど,戦闘に巻き込まれたことを述べ,こうなったのは敵が来襲すれば,老人子供は殺され,婦女子は暴行されることがわかっていたからとする。

日本陸海軍部隊の沖縄進駐以来,勤労奉仕,物資節約を強要せられた住民には,軍の悪評もたったが,沖縄を焦土とするまで戦った県民に対し,後世特別ご高配を賜らんことを望むとした。

しかし,沖縄住民が住居,食糧,医療に関して当面当てに出来るのは米軍の保護だけだった。沖縄の日本軍守備隊には,沖縄住民を保護するための物資も避難所も用意できなかった。

写真(左):沖縄婦人;頭に荷物を載せて運ぶ。Edward Schwartz 撮影。 About two weeks Later three marines went up to the same village and they never came out. In the following days, the American troops made a topographical survey of the area. They then grated it And used it as a place to stockpile back-up materials for the eventual invasion of Japan. A hospital was also constructed as well as a shop to repair American vessels and planes that were immobilized during the war. The war raged on and conditions made it hard to keep morale high. "I remember not being able to see the sun for three months," Mr. Schwartz recalled. While guarding American tents, he found the opportunity to obtain photographs that showed what life was like during the war, both as a soldier and a civilian.

米軍の捕虜となれば辱められて,処刑される。このような認識をもった日本の将兵や住民は,自決したり,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死を選択した。自決や集団死は,過酷な運命に身をゆだねるよりも,死ぬ自由があるうちに,死ぬことを選択する意味がある。家族の手で看取ってあげることことが,せめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。

他方,米軍に収容されて軍政の下におかれた沖縄住民は,1945年4月末段階で12万名を超えていた。軍政下の住民は,米軍~供与された食糧を自ら運搬,配分したり,米軍の物資運搬を手伝わされたり,あるいは裁縫・縫製の作業をしたりと,米軍に協力するような行動をとらざるを得なかった。戦っている日本軍から見れば,投降した沖縄住民は,利敵行為をする非国民と映る。日本軍は警察や中の学校出身の諜報員と協力して,沖縄住民の中の不逞分子を摘発し,スパイを処刑した。

5.1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸は,日本軍の反撃をほとんど受けず,主要飛行場もすぐに占領することができた。これは,沖縄守備隊が,米軍との長期持久戦を戦い,本土決戦を準備する時間稼ぎを企図したためである。

  写真(左):首里城の日本軍陣地跡;ここに地下壕を構築して持久戦を図ったが、2ヶ月と持ちこたえることはできなかった。A mass of rubble is all that is left of Shuri Castle, its walls, the moat below them, and Shuri City beyond, after the 5th Marines had captured the area. The battered trees are part of a forest growth which in more peaceful times had surrounded it.

当時婦人会長を務めていた喜名の安里※※は次のように証言している。

 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍の対応が仕事になっていました。毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めた事もありました。それも婦人会の仕事でした。鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。


写真(左):八八式七糎半高射砲;野戦高射砲として広く使用されたが,航空機用の照準装置と信管が時代遅れになっており,威力はなかった。最大射高8000m(有効射高4000m),生産数2000門。写真(右):九八式二十粍高射機関砲;日本陸軍で採用された20mm対空機関砲.Pictured are Ray Vaughn and H. D. Johnson.Allan was with the 7th Infantry Div., confirmed by his separation papers. His MOS was 915, which translates to "ARTILLERY MECHANIC/HEAVY-ANTI-AIRCRAFT." He repaired a variety of guns, including captured weapons that were taken so they could not be used by again by "the Jap's." Allan R. Moore's Attu Scrapbook

喜友名※※(座喜味)大正八年生
 イシンニーバルにいた高射砲部隊(野戦高射砲第七十九大隊)の小峰隊長(第一中隊長陸軍中尉 小峰康敏)たちが、井戸があるという事で私の家にいました。これは役場から連絡が来て、受け入れることになりました。小峰隊長は長崎の人で、二十二、三歳ぐらいで、いつも仏壇の前に座ってね。小峰隊長の他に、事務が二人、給仕係りが三人いました。ここは部隊事務所になっていたんです。昭和十九年夏頃から来て冬もいましたね。

 台所では東京からきた新兵の阿部上等兵が隊長の世話係りをしていました。一番座から台所まで、全部兵隊が使っていました。時折、彼らは慌ただしく、鐘をならしたり、ナーカヌカーに走って行ったりしていました。私たち家族八名はクチャグヮー(裏座)に入っていました。台所も兵隊に占領されていたので、食事もシンメー鍋一つに芋を炊いて食べていました。そうして、私たちの家に電話がひかれて、軍隊の連絡はここに来ていました(→読谷村民の証言引用)。


写真(左):沖縄伊江島沖で撃沈されたLSM135号
;1945年5月25日,後方の丘はタッチュー。

 沖縄戦直前における住民動員についての資料も出てきた(米海軍資料)。
1945年1月30日付の第三二軍参謀部の資料によると、2月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されていた。

たとえば第六二師団(石部隊)には労務者3500名、学徒255名、計3755名(島尻郡から1350名、中頭郡から2405名)、北飛行場(読谷)には労務者1400名、学徒100名、計1500名(すべて中頭郡より)、など沖縄本島と伊江島を合わせて3万9742名が徴用されることになっていた。

 また戦闘直前の3月6日におこなわれた防衛召集について第六二師団の召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった(米陸軍資料)。たとえば西原村では待機者461名中400名、読谷山では624名中550名が第六三歩兵旅団に配属されるよう命令されていた。第六二師団の管轄地域では待機者6940名に対して5489名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよいだろう。

写真(右):慶良間列島を去る米航空母艦「サンガモン」;1945年5月4日,慶良間列島沖で撮影。

 三月三十一日の空襲と艦砲射撃。

 三十一日は延べ約700機が大挙来襲した。奄美大島地区約140機、宮古および石垣方面には各約50機の来襲があった。その日、九州方面にはB29約150機が来襲していた。

 米軍の艦砲射撃は北、中飛行場方面が約500発、北谷方面約100発、小禄方面420発、港川方面110発であった。

日本軍は,米軍の砲弾発射数を耳で聞いて数えていたようだが,実際の砲弾発射数は日本軍の推計よりも多い。砲撃戦と入っても,10発程度の基数で5基も発射すれば,最大級の砲撃と考えていた日本軍と比較して,米軍は10-100倍を標準砲撃として考えていた。米国兵士の人命の犠牲を少なくするために,砲弾は惜しむことなく発射されたが,これは日本人の命で米兵の命を買うことを意味していた。

写真(左):米軍に撃破された日本陸軍九四式軽装甲車 ;米陸軍第96師団の兵士のよって検証されている日本の豆戦車。5月4日までに,日本の戦車は全て破壊された。

 守備軍の米軍上陸地点に関する判断は、主上陸地は北、中飛行場方面と予想していたが、沖縄本島南東部の港川方面においては米艦船の策動が続いた。そこで,依然一部の上陸の算ありとして、各個撃破の意図で対応すべく準備していたが,これは米軍の陽動作戦に欺瞞された結果である。

 軍はその作戦構想に関して航空作戦の指導について、三十一日夜、次のように要望した。敵が北、中飛行場方面と港川方面に同時に上陸する場合は、軍は先ず前者において持久し、後者においては決戦指導を行うので、航空攻撃の重点もこれに即応するよう指導されたい、とした。読谷村史第五巻引用)

しかし、兵力、特に火力が不足し、制空権、制海権ともに、米軍に握られていたから、沖縄守備隊が米軍に勝利する見込みはまったくなかった。できることは、長期間持久戦を戦い、多数の米軍兵力を沖縄に拘束して、その間に、本土の守備を固めることであった。

その意味で、沖縄戦は、日本軍にとって、遅延戦闘であり、本土決戦のための「捨石」にされたという評価も、誤りとはいえない。

写真(右):米軍の多用した水陸両用装軌車Amtrak「アムトラック」;海上から兵士や物資を運搬するのに使用された。車輪を装備した水陸両用車DKUW「ダック」は,重量7.5トン,全長9.3m,全幅2.4m,全高2.6m。最高速度 海上10km,陸上80km。エンジン排気量4.4リットル,2万1000台以上生産された。The DUKW is capable of carrying a 2 1/2 ton payload over land or water. It is equipped with a GMC 270 cubic inch 6 cylinder gasoline engine. It has a 5 speed transmission with a 2 speed transfer case. This gives a total of 10 forward speeds and 2 in reverse. It has 6 wheel drive, a water propeller and a 10 ton winch. All or any of these can be run separately or together in any combination. Top speed on land is 50 to 55 mph while on the water top speed is only 6 mph (land miles per hour not knots).

写真(左):沖縄本島における日米両軍の戦闘の推移;南部西岸に上陸して,沖縄を南北に分断した。

 第77師団は,1195名の民間人,121名の日本兵捕虜を拘束した。26名からなる韓国人は,白旗を掲げて投降してきた。阿嘉島では,自発的に投降してきた日本陸軍中尉が「自殺するなんて意味がないことだ」といった。(→ Seizure of the Kerama Islands慶良間諸島侵攻引用)
 
電報綴には「〇三四〇ヨリ電波探信ニ出現セシ敵艦船ハ〇六〇〇払暁ト共ニ當基地西方ヨリ近接〇六三〇 二八〇度乃至三一〇度間八粁ニ上陸用舟艇一七隻一五粁ニ約六〇隻(視界不良ノ為艦種不詳)其ノ他前日ト略同様ト推定セラル艦船ヲ伴ヒ低速ヲ以テ東進一部北中飛行場方面那覇沖縄方面根拠地隊司令部附近ヲ砲撃戦爆二二機ヲ以テ重爆撃(中略)。

〇八三〇神山島附近ノ上陸舟艇ヲ除キ他ノ船艇ハ漸次ヨミ谷山方面ニモ進ミ主力ヲ以テ北中飛行場方面ニ一部ヲ以テ那覇小禄方面ニ上陸ノ對勢ヲトルニ至レリ〇九三〇ニ至ル迄未ダ上陸セズ我ガ方発砲セズ」とある。

 こうして、明四月一日の米軍の歴史的な上陸を迎え、その夕刻「一八〇〇迄座キ味・西原・中飛行場東側・桃原・北タニヲ結ブ線ニ達ス」(電報綴)ということになる。(→ 読谷村史第五巻引用)

佐久川※※の証言(比謝)
 私たち一家は喜瀬武原に避難していた。しかし食料が不足気味で心配だからと、祖母と妹達を残して両親と叔母、※※のおじさん(松田※※)と私の五名で、比謝の家に食べ物を取りにいくことにした。
 三月三十一日の夕方、私達は喜瀬武原を出た。歩いて親志辺りまでくると、艦砲射撃が激しくなり、喜名からはさらにひどくなった。これ以上進むのは無理だからやめようと思ったが、喜瀬武原に残してきた祖母や妹達のことを考えると、ここまでは来ているし、いまさら引き返すわけにもいかないと、何とか進んでいった。ようやく比謝の自宅にたどりついたが、古堅国民学校辺りの兵舎をめがけていたのか、米軍の攻撃がすさまじく、身動きが取れない程の状態になっていた。これじゃもう食料どころではないと、走って持って行けるぐらいの分量の米とフシカブ(切り干し大根)を担いで、四月一日の夜明け前に隣組で掘ってあったフカサクの壕に入った。(→ 読谷村史第五巻引用)
 中飛行場(嘉手納基地)の背後にあった第24師団独立歩兵第12大隊(賀谷興吉中佐)と平安山付近の海軍第11砲台(通称ウカマジーの海軍砲台)が任務についたが、上陸した米軍の猛攻を受け、上陸当日の4月1日には独立歩兵第12大隊は後退、海軍第11砲台の30名は壊滅した(→読谷村史  >「戦時記録」下巻  >第三章 史(資)料にみる読谷山村と沖縄戦 第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山 より引用)。


写真:1945年4月1日,沖縄本島に上陸した米軍兵士。
(左)海岸「ブルー・ビーチ2」に上陸した第7海兵隊第1連隊。Assault troops of the 1st Battalion, 7th Marines, clamber over a seawall after landing on Blue Beach 2 on 1 April 1945, against no opposition at the beachhead. Department of Defense Photo (USMC) 117020 (右)兵員上陸用舟艇LCVPから下船する海兵隊。Other Marines were boated to the beachhead in LCVPs. Debarking from the Higgins boats, they waded through the quiet surf over the coral reef to reach shore. Department of Defense Photo (USMC) 116368


4月1日,米軍は,沖縄本島西岸の読谷村に上陸した。0530に艦砲射撃を開始し,0745には航空攻撃も加えた。上陸前のロケット弾搭載揚陸艦LSM-R(LANDING SHIP MEDIUM ROCKET)による支援射撃も行われた。

写真(右):ブローニング自動小銃を持って進撃する米兵;中型歩兵揚陸艦をから、沖縄に上陸した歩兵。ガーランド自動小銃が中心兵器だったが、連発可能なブローニング小銃も配備されていた。

沖縄戦に先立っては,水際で撃退するつもりで,陣地を構築していたが,米軍の火力・航空攻撃の威力の前には反撃が困難であるとして,内陸部での持久戦を採用した。しかし,陣地構築や兵舎の確保など,作戦の変更は,現地部隊に大きな負担を強いた。また,住民の避難が遅れたために,沖縄戦における民間人の死傷者が増加する原因にもなった。

LSM-Rは,758トンの中型歩兵揚陸艦を改造した20連発5インチロケット弾を搭載するほか,40mm連装機銃2基,20mm連装機銃4基,4.2インチ迫撃砲4門装備している。乗員は,将校6名,兵下士官137名。建造隻数は,中型揚陸艦全体(LSMとLSM-R)で総計558隻。太平洋戦争中に建造されたが,朝鮮戦争でも活躍している。

写真(右):米軍の沖縄上陸地点;1945年4月4日比謝川河口付近。河口付近には,米軍が日本軍の魚雷艇(実際には水上特攻艇)を上空偵察により発見しており,占領後には,折りたたみ式舟艇を鹵獲している。PCS-1452 is in the lower left corner of photo U.S. Army Signal Corps photo SC 207 486。

1945年4月1日0800,米軍の上陸部隊が沖縄本島の陸地を目指して発進した。この上陸地点の近くには,北・中2飛行場(後の嘉手納基地)があり,飛行場警備を目的とした特設部隊が配備されていた。しかし,3月末に,飛行場警備部隊は,飛行場を米軍の手に渡さないようにと破壊命令を受ける。されども,広大な飛行場を破壊しようにも,爆薬も時間もなかった。

米軍は,沖縄上陸地点の防備を破壊しようとして,徹底した砲撃,爆撃を行ったが,実際は,上陸地点には,日本軍守備兵はほとんど配置されず,頑丈な洞窟陣地も構築されてはいなかった。米軍は,北・中2飛行場を上陸して3時間後の1130には占領した。

米軍は戦車揚陸艦LST (Landing Ship, Tank)を海岸に横付けし,戦野や車両を沖縄に揚陸した。
第二次大戦中の米軍のLSTは3種類あり,LST-1 CLASS は390隻,(100隻が1942年9月16日にキャンセルされた),LST-491 CLASSが50隻,LST-542 CLASS”CHELAN COUNTY CLASS"が 612隻建造された。

 ⇒沖縄戦の統計では揚陸補給物資重量も記載してある。

写真(左):沖縄を砲撃する米戦艦「コロラド」;1945年3月29日撮影。戦艦コロラドは 16"/45 (40.6 cm) Mark 5 Mod 1艦載砲を装備。この40.6センチ砲は,重量2,240 lbs. (1,016 kg)の Mark 5 APC砲弾を発射できた。1941年12月7日の真珠湾攻撃で日本海軍機の空襲で撃破されたが,1943年には戦列に復帰している。にUSS Colorado BB-45 bombarding Okinawa 29 March 1945 U.S. Naval Historical Center Photograph # 80-G-316831 。

那覇市の沖縄戦概説では,「沖縄戦とは?」として次のように説明している。
沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いをいう。
1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 として10.10空襲があった。 このときは,台湾方面の日本軍の航空機が米軍の空母任務部隊を攻撃するために発進し,多数の空母を撃沈したという虚報(誤報)を信じ,日本陸軍はフィリピンのレイテ島に上陸してきた米軍に,決戦を仕掛けた。

しかし,実際には,米軍艦隊はほとんど無傷であり,対照的に10/10空襲では,旧那覇市街の90%が焼失してしまった。旧那覇市内の養蚕試験場にあった司令部も焼け 、首里城の地下に司令部壕が掘られる事になる。その壕を掘ったのが,沖縄の学徒達であった。

写真(左):米軍のM1「ガーラント」自動小銃 ;M-1 GARAND CAL. 30-06. WW2 production. 引き金を引くだけで発射できる口径7.62mmの(半)自動小銃。ただし,機関銃のように連続発射はできない。

米軍の上陸地点からこの首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び、司令部が首里陥落を目前に 南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいる。 ひめゆり学徒隊あの悲劇もこの南部地域で起きた。 ひめゆり学徒は何度も映画化され有名な映画であり,南部地域こそが沖縄戦の主戦場であったと思われていることが多い。しかし南部戦線は米軍にとっては,掃討作戦,敗残兵狩りに等しく、 米軍の上陸地点から首里城までの中部地域こそが,砲撃戦も含めて日米沖縄戦の主戦場である。
写真(右):日本軍の三八式小銃・九九式小銃・騎兵銃;弾丸を1発ずつ装填する手動式小銃。明治38年に制式になった6.5ミリ弾小銃と,1939年に制式になった7.7ミリ弾小銃の二種類を併用していたため,弾薬の補給が煩雑になった。Type 38 or Type 99 Japanese Rifles 。

米軍は上陸地点である北谷から首里城までの10キロを進むのに50日間かかっている。沖縄守備軍は この間10万人の内7万4000人(主戦力のほぼ7割)の兵力を失っている。日本兵の死者は1日あたり1000人以上になる、太平洋戦争もっとも激しい戦いといわれるゆえんである。

米戦艦コロラドなどの艦砲射撃を受けた読谷村;三月二十九日の艦砲射撃 
 昨二十八日午後の100隻の大船団接近の報告により、第三十二軍は米軍の上陸に備えていたが、朝からの来襲機も少なく上陸作戦の気配は見られなかった。南部港川地区は0730ころから艦砲射撃を受けたが、北、中飛行場の西海上の米艦船は僅少であった。

 この日の本島地区への来襲機は、米機動部隊が九州方面攻撃中のためか、354機で前日に比べて少なかった。艦砲射撃は北飛行場地区約2500発、中飛行場地区約800発、北谷地区約1500〇発、小禄地区約1000発、港川方面が約1300発であった。


写真(右):沖縄攻略前の1945年1月2日,米軍が偵察した小禄飛行場と那覇;高度6000mより撮影。第32軍司令部のある首里は,右上。左下の瀬尾島は,本島とつながっている。現在は,那覇飛行場として,米軍の占領していた1945年末よりも遥かに拡張されている。

 九州地区は0630ころから終日にわたり米艦載機延べ約600機の攻撃を受け、多大な被害を蒙って、その後の沖縄作戦に支障をきたすことになった 。

電報綴には、その日の米艦船の数「北飛行場那覇方面戦艦6,巡洋艦8隻,軽巡洋艦3隻,駆逐艦5隻,掃海艇18隻,小型舟艇8隻」とある。

米軍の上陸した読谷村には,1個連隊を配置していたが,航空機がなくなり余剰となった航空関係部隊で3月23日に急遽編成された「特設第一連隊」のみである。

編成時の特設第1連隊の任務は「主力ハ敵カ沖縄北、中飛行場方面ニ上陸スルカ若クハ我航空作戦上右両飛行場ヲ必要トセサルニ至ラハ軍命令ニ依リ之ヲ破壊シ島袋附近ニ転移シ第62師団長ノ指揮ニ入リ勉メテ長ク中飛行場ノ制扼ニ任ス」(第19航空地区司令官命令)であった。

写真(右):戦後の1945年12月10日,米軍の撮影した小禄飛行場と那覇;高度4000mより撮影。小禄飛行場が拡張され,道路網も整備されている。

特設第一連隊
 1945年3月23日、第一大隊(北飛行場)および第二大隊(中飛行場)で編成。第一大隊の任務は、主力をもって二二〇高地の既設陣地に拠って努めて長く飛行場を制扼すること。
連隊長 青柳時香中佐
 連隊本部(第19航空地区司令部) 45名
 第1大隊長 第56飛行場大隊長 黒澤巌少佐 
 第56飛行場大隊 370名
 第503特設警備工兵隊 800名
○第503特設警備工兵隊(球18817部隊)

 「沖縄戦当時の部隊所在表」(防衛研修所戦史室)によると、1945年3月31日現在,本部、第一中隊、第四中隊が古堅に、第二中隊が伊良皆、第三中隊が座喜味に配備されていた。

神谷※※の証言(宇座)要約
 三月二十九日、私達が移って二日後にヤーガーは大変な爆撃を受けました。一回目の爆弾がヤーガーのすぐ傍に落ち、二回目の爆撃はヤーガーを直撃しました。天井の大きな岩が崩れ落ち、モウモウと立ちこめる砂塵の中、泣き叫ぶ声にまじって、母の名を、父の名を、あるいは子の名を呼ぶ声が聞こえました。岩に押しつぶされて身動きならず「助けてくれ!」と叫ぶ声等が、ガマの暗闇に響きわたりました。

 やっとの思いで外に出ると、まだ午後四時か五時くらいで日が暮れてはいませんでした。ヤーガーを飛び出した私達の背中を追うようにして、敵機が機関銃で「パラパラッ」と撃ってきました。家族はバラバラにウージ畑に逃げ込み、日が暮れるまでそのまま隠れていました(→ 読谷村史第五巻引用)。

写真(右):米軍の作図になる首里の沖縄守備隊司令部の見取図;第32軍の司令部の横断図。

特設第1連隊の装備は不十分で,八原博通高級参謀自ら「烏合(うごう)の衆」というように捨て石とされた部隊である。飛行場の防衛が重要なはずだが,圧倒的な火力を誇る米軍の侵攻を予期して,捨石となるような弱小部隊しか配備しなかったのである。

飛行場を放棄して持久戦を戦うというのは,大本営,参謀本部には理解できなかった。沖縄に米軍の航空基地が整備されてしまえば,九州は陸上爆撃機の攻撃圏内に取り込まれてしまう。

第503特設警備工兵隊隊は沖縄住民からなる防衛隊によって編成された部隊で、「防衛召集概況一覧表」(防衛研修所戦史室)によると、県下各地から防衛召集を受けている。

写真(右):米軍の作図になる日本軍の沖縄守備隊司令部の見取図;米軍は地下壕に立てこもる日本軍兵士に対して,爆薬やナパーム弾を使用した。

例えば,第2大隊には,第四十四飛行場大隊長野崎眞一大尉の下に,兵員1500名と生徒隊(尚謙少尉の指揮する)県立農林学校生徒隊170名があった。(→読谷村史 >「戦時記録」下巻>第三章史(資)料にみる読谷山村と沖縄戦 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 読谷山村への日本軍部隊配備より引用)

米軍の空襲後の3月26日、第32軍は特設第一連隊に対して、読谷山(二二〇高地)の既設陣地により北飛行場を制扼する任務を与えた。しかし,1945年3月30日には,沖縄の主要な航空基地である北・中飛行場(後の嘉手納基地)の破壊命令が出されたものの,破壊のための十分な爆薬準備もなく,飛行場の破壊は不十分であった。米軍は4月1日,上陸日にあっさり二大飛行場を占領できたことを喜んだ。

写真(左):沖縄の日本軍トーチカ陣地;米軍に鹵獲された旧式砲火のあるトーチカ。

米軍が上陸した海岸付近では,日本軍の折りたたみ式舟艇が多数鹵獲されているが,これは逆上陸にも使用できる秘密兵器で,なぜ放置したままにしたのか。折舟艇の秘匿について,管理不行き届きだったようだ。また,慶良間列島,沖縄本島海岸では,体当たり自爆特攻艇「震洋」「マルレ艇」を,沖縄の飛行場では,日本軍の人間爆弾「桜花」も多数鹵獲されている。いずれも,奇襲特殊兵器として最優先に開発,生産された秘密兵器だったはずだ。また,特攻は奇襲攻撃を旨とするはずだ。にもかかわらず,兵器管理が杜撰なのか,あっさりと秘密特攻兵器を米軍に鹵獲されてしまっている。これでは,米軍に特攻の対抗手段をとられてしまっても当然である。

写真(右):日本軍の八九式擲弾筒;1929年(昭和4年:皇紀2589年)制式の口径50ミリの携帯用小型迫撃砲。弾薬は、専用の八九式榴弾を使用すると射程は500メートル、十年式手榴弾か九一式手榴弾を使用すると射程は200メートルだった。専用の八九式榴弾は、筒身にあるライフルに噛合う銅帯があった。ために、長射程が可能だった。小銃擲弾(ライフルグレネード)と迫撃砲の中間的な兵器は日本陸軍の独自なものといえるが、迫撃砲の装備が不十分だったために、その補充に装備されたともいえる。

各部隊は戦闘配備につき、上陸した米軍に対して主に「夜間斬り込み」「対戦車肉弾攻撃」を実施したように記述する戦記もあるが,重装備の米軍に,支援射撃も航空機もなく「斬り込み」にいっても,殲滅されるだけである。

沖縄西岸に上陸した米軍が,数日にして沖縄東岸に達し,本島を分断した。南北に分断された沖縄では,北部にほとんど兵力を配備していなかったために,南部の主力が包囲される形になった。北部では,取り残された日本軍部隊が個別に戦うか,掃討してくる米軍から逃げ回るしかなかった。

しかし,賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)の戦闘では,支隊が兵員1233名が米軍2個師団を相手に4月4日夜までは,遅滞戦闘を行ったとする。賀谷支隊は3〜5年の現役兵が主体であり、北支治安戦で大隊の独立戦闘、特に中・小隊ごと独立して少数兵力で敵に包囲される等苦しい戦闘を続けてきた。

賀谷支隊は1944年8月に沖縄上陸し、島袋地区周辺で陣地構築や警備にあたっていた。そこで,現地の地理に詳しく、軽快・靱強な戦闘に大きく貢献したとする。機銃,歩兵砲などで反撃しつつ,米軍の進撃を遅らせ,一部4月4日夜、主力は5日夜に幸地に後退し、前方部隊の任務を果たした。賀谷支隊の損害は、戦死将校11名、下士官兵231名。負傷数不明(→賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)の戦闘引用)。

写真(右):沖縄で鹵獲された日本軍の折りたたみ式舟艇;秘匿兵器のはずが,折舟艇も,あっさりと米軍に捕獲されてしまっている。もっとも,このような舟艇を使って兵員や補給物資を補給したり,敵の背後に逆上陸したりすることができるような戦況ではなかった。

しかし,米軍は歩兵揚陸艦や戦車揚陸艦から,トラック,M4中戦車,155mm榴弾砲「ロング・トム」などを素早く陸揚げし,飛行場に進出してきた。機動力と火力に富んでいる上に,航空機と艦船の支援攻撃にカバーされている米軍を,火砲が満足に揃っていない歩兵部隊が平地で食い止めるのはまず無理である。

6.沖縄地上戦では,米軍の砲撃,艦砲射撃,航空機による地上攻撃など陸海空の火力の優位が際立っており,兵員の数はあっても,火力の劣る日本軍は洞窟陣地に立てこもるしか反撃の方法はなかった。

 
写真(右):首里の日本軍防衛陣地俯瞰図;米軍が作成した作戦参照用の写真。東西南北の方向と目標が示されている。

米海軍工作部隊兵士の手紙; Letter from Okinawa - 12 June 1945

12 June 1945 Time 1112
Dear Kids, 
Polly [Note: Dad's sister], I just received your letter yesterday. It seems to have been wandering around the Pacific for a long, long time. The mail in general, though, is starting to come through in pretty good season now.

Everything is going along pretty good now. We have some showers built so we can bathe every day now. Our chow hall is about completed and while we are still eating field rations for the most part, the fare isn't too bad.
It hasn't rained so much lately so we are slowly digging ourselves out of the mud. They have started building a ship's store today and when that is built I expect that I will be back at the old job again.

慶良間列島の戦車揚陸艦LST349号:部隊とその装備を海岸から直接揚陸した。小型揚陸舟艇を使った作業も並行して実施された。AMTRACS scurry around unloading troops and equipment and LCT 1409 has yet to be unloaded from the LSTs main deck and put into operation. This was LST-649's first day participating in the Invasion of Okinawa, 26 March 1945.

Guess I will more or less have charge of the Ship's store in addition to keeping the records for all the Ship's Store activities. It probably won't be too bad a job if we can only get hold of some merchandise to sell.

We brought a stock along with us on our last move but it was badly pilfered on the way. I will have quite a little work at first determining the losses and charging them off and getting back on a sound financial footing. Also we will be using invasion currency entirely.

As you may have guessed, there are many orientals on this place. I haven't been out of camp much so I haven't had much of a chance to observe them. Later on, my ship's store activities should get me out and around a little more.

日本軍陣地を攻撃する戦場の様子;砲爆撃で焼き尽くされていく。焦土とされた。占領後、沖縄西岸の電話ケーブルの敷設など、米軍は通信手段,運搬手段を確保するなど後方任務を重視した。他方、日本軍は通信機器の性能も低く,伝令命令が主体であり,砲撃によって交通が寸断されると組織的な反撃が困難になった。

Transportation is a tremendous problem right now. When it rains, everything gets bogged down in the mud. I am trying out a new typewriter we just unpacked and it doesn't seem to work just right.

It misses a letter once in a while and then too the letters you punch on the board don't always seem to come up on the paper. I suppose a new typewriter is something you folks dream about anymore. I am trying to wangle a new one for the store.

Of the military situation as it affects us, I'm afraid I can tell you nothing. We have frequent air raid alerts and they always generally come at the time when you are through work for the day and want to settle down to a nice quiet evening of reading and relaxation.

So far, the battalion has been very fortunate. One of the storekeepers was accidentally shot through the arm by a forty-five automatic and was evacuated. We have a very convenient cave about fifteen feet from the door of our tent which we can use if it gets a little too hot. Well, there isn't much else that I can tell you.

I have been doing all sorts of jobs around the warehouse from digging holes in the ground to stevedoring. Just now got through unloading a truck load of tents and what I mean, they are mean to handle. All our cherry-pickers and cranes are busy on other jobs. So we get a detail of men and wrassle the big stuff around as best we can.


写真(右):泥道を行軍する米軍
;臼砲を装備した自走砲の脇を進む歩兵。


I shouldn't wonder but what I might see Bill out here some day {Note: Dad's brother Bill Taake]. If he comes, I think he will probably be among the first to come out here from Europe. He will find conditions considerably different from what he is accustomed to.

Well, we are digging a place to lay a floor for an addition to our warehouse and I expect maybe I better help a little. Our warehouse is a native building which we have fixed up and we are now adding lean-tos to it.
So long and the best of everything to all of you.
    Love
    Fred
   Fred J. Taake, Sk 2/c

写真(右):日本軍の機動一式速射砲;口径47ミリの日本軍では最新,最強の対戦車砲だったが,米軍のM4中戦車を撃破するには,威力不足だったため,苦戦した。

写真:九五式七糎半野砲の半地下陣地;フランスのシュナイダー社の設計を活かした75mm砲。1945年6月14日,フィリピンのルソン島で米軍が撮影。A Jap 75mm howitzer remains in a cave dug into the hillside on the Villa verde trail on Luzon. P.I. Jun 14, 1945.
写真:米軍の105ミリ榴弾砲;LONGUEUR 5.994 M. POIDS 2258 KG. LARGEUR 2.159 M. 射程 11,000 M.


1944年(昭和19)10月10日に,米空母任務部隊の艦載機は,那覇を中心に大空襲を行った。1945年1月以降,断続的に沖縄,九州,本州方面を空襲し,3月23日以降は沖縄方面を継続的に空襲,艦砲射撃した。1945年3月26日には慶良間諸島、4月1日には読谷・嘉手納の海岸から沖縄本島に上陸し、瞬く間に沖縄本島の中部を占領していった。

一式47ミリ速射砲:37mm速射砲の威力を向上させた改良型だが,配備数は少なかった。

野砲兵第42連隊の戦争体験
第24師団に所属する野砲兵第42連隊(2298名)にある。山三四八〇部隊野砲兵第五中隊(150名)の野恵田光之氏は、10センチ榴弾砲を四門持っていた。1944年8月6日に満州から沖縄に移転した際、砲を移動させる馬も連れてきた。大砲一門運ぶのに6頭の大型馬が必要だった。4月7日に大名(オオナ:z那覇市内)に馬で移動し,三日くらい経ってから識名(シキナ)に移動して、そこに5月28日の撤退までいた。

写真(右):日本陸軍の九一式十糎半榴弾砲;フランスのシュナイダー社に設計を依頼した105ミリ砲。1個師団につき、10門も配備されなかった。九二式歩兵砲(直接照準水平射撃と間接照準曲射射撃が可能な70ミリ砲)のような最大射程2800mしかない旧式砲でも、日本軍には重要な火砲だった。

しかし,米軍も即座に火器や航空機を総動員して応戦し、午前8時頃までには日本軍の攻撃をほぼ鎮圧した。
沖縄戦では,馬が死んで、仕方がなく人力で砲を移動させた。5月4日午前4時50分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。

「水に浸した毛布を砲身に被せて冷やしながら、(九一式十糎半榴弾砲を)撃ちまくりましたよ。私の中隊は丘陵越しに撃ったので、敵からの攻撃が少なくて済んだんですが、6中隊は全滅しました。」

「私の中隊は4門とも無事でしたが、運ぶ馬がいません。2門を爆破して、残りの2門を生き残った兵隊で運んだんです。」
運ばれた先は、与座岳北側の崖の下であった。「崖を掘って砲を入れようとしたんですが、間に合わなくて自然洞窟にも入れました。そして6月15日に、米軍戦車と直接撃ち合って全滅してしまったのです。

写真(左):泥道を進撃する米兵;地蔵者交通の発達していない沖縄に舗装道路は少なく、雨によって道路事情は急速に悪化した。

しかし、新垣の集落はすでに米軍に包囲されていた。暗闇の中に虫が這うように、大勢の兵隊達がいた。--50mほど離れたところに、10人ほどの人影が見えた。十良沢は、味方だと思って声をかけてしまった。「だめだっ、敵だっ!」と恵田は叫んだ手遅れであった。十良沢は、たちどころに自動小銃で撃ち殺された。

そのあとアメリカ兵は、恵田の方に這って近づいて来た。彼はゆっくり包帯に包まれていた手榴弾を、取り出した。雨の中、三ヶ月も持ち歩いていた二発のうちの一つである。ピンを口で抜いて、岩にたたきつけるとうまいことに火花がシューっと出た。敵兵に向かって投げると、爆発した。

こうして彼は九死に一生を得てその夜をやり過ごし、翌朝地元の中学生と出あった。-----新垣という集落の井戸で沖縄の少年に声を掛けられた。少年は「兵隊さん1人なら入れるよ」と、家族の壕に招いた。深さ1m余、上に板と泥をかぶせただけの壕は、少年の祖母と父、母がいて、恵田さんを入れ5人になった。

写真:米第3師団の155ミリ榴弾砲:1945年6月フィリピンのルソン島イロコスで撮影。A 155mm field piece from the 122nd FA Bn. 33rd Div), firing on Jap pocket in the hills near Butac, Ilocos Sur, Luzon, P.I. - 10 Jun 1945.

 1時間もたたないうちに、子供を抱え足に傷を負った女性が入り、7人になった。子供が大声で泣き始め、察知した米軍が手りゅう弾を投げ入れてきた。祖母は血まみれになった。2発目が投げ込まれたとき、父の合図で少年が壕を飛び出した。戻ってきた少年は恵田さんに「壕はアメリカに包囲されている。兵隊さんどうしますか」と言った。

 「一緒に自決してください」と、子供を抱えた女性が頼んだ。恵田さんは「死ぬんだったらいつでも死ねる。おれが先頭に立つから出よう」と壕を出た。「自分が決断しなくてはいけない。ここにいる人たちが助からなければ、おれも助からない。そんな思いだった」と振り返る。

 傷ついた祖母を背負い、子供を抱いて500メートル先の収容所に向かった。「子供を抱いたとき、女性が涙をためながら私を拝んだんです。生まれて初めて、そして今までもそんな経験はない」。---私の中隊は150名いて、生きて戻ったのは7名だけです。
(→究極の戦場 沖縄および。壕の家族の自決制し拝まれる引用)

写真(右):沖縄本部半島の退避壕内の日本軍八九式十五加農砲(15センチ砲);口径149.1mmの重砲。沖縄で玉砕した独立重砲兵第百大隊に属す。この15センチカノン砲は「戦後洞窟陣地から発掘された」ともいわれるが、実際は米軍に鹵獲されている。沖縄の米軍博物館、陸自那覇駐屯地を経て、1993年に靖國神社に奉納された。Uncovered on Motobu Peninsula, hidden in a cave, was this Japanese 150mm gun waiting to be used against 6th Marine Division troops advancing northwards. Department of Defense Photo (USMC) 122207 。

砲兵司令官和田孝助中将の球第4401部隊は、熾烈なる敵の艦砲射撃と間断なき砲爆撃下,勇戦奮闘したが,逐次本島南部地区に撤退した。この部隊の九六式十五糎榴弾砲は,糸満町真壁の陣地で全弾を打ち尽くし,1945年6月22日,連隊長山根忠大佐以下砲兵隊員は敵戦車への火焔攻撃という「斬り込み」「肉弾攻撃」を敢行したという。1966年以来15センチ砲を保管・展示している靖國神社遊就館の解説には「739柱の将兵悉く、祖国日本の永遠の平和と繁栄を祈念しつつ、護国悠久の大義に殉じ、火砲と運命を倶にし玉砕せり」とある。

全弾撃ちつくし,砲兵は肉弾攻撃して玉砕したとの説明は,完全な形で鹵獲された榴弾砲と矛盾するようにも思われる。誉れ高い皇軍では「砲即軍旗」,砲兵は砲とともに運命を共にするはずではなかったのか。最善を尽くし最後まで任務を全うしたのであれば,投降しても止むを得ないが,それを許さないのが,弾のない砲兵による斬り込み,玉砕の顕彰である。


写真:九十式機動七糎半野砲;ゴムタイヤ装備で牽引車に繋がれて高速で移動できる75ミリ砲。直接照準水平射撃。五年式十五糎榴弾砲は,大正4年に制式されて149.1mm榴弾砲だが,沖縄戦当時は既に旧式化していた。

80日余りに及んだ沖縄戦における戦死者は、米軍が1万人余に対し日本軍は約9万人で、県民は10数万人といわれる。

1945年5月末には,日本軍兵士と,軍と共に南部へ移動した中部地区の人々が入ったため,喜屋武岬一帯の東西10?足らずの地域に,約3万人の将兵と10万人余の住民が撤退した。 ⇒沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

写真(右):日本軍の八九式15糎加濃砲;陸軍の代表的な大口径カノン砲で,やはり米軍に鹵獲されたもの。戦後になってから,米軍から返還され,靖国神社の遊就館に展示されている。

世界の軍事博物館は、祖国の軍隊の栄光や奮闘を称え、自国将兵・兵器の優秀さを証明し、さらに自国の戦った戦争の大儀を喧伝する場所である。そこで、戦争に勝利した証として、敵から鹵獲した戦利品を展示し、自国の兵器の技術的優秀さや兵士の勇敢さを誇示することが多い。そこで、敵に勝利した自国の兵器と、打ち負かして敵から鹵獲した戦利品を展示するのが「軍事博物館」の一般的方法となる。遊就館のように敵米軍から戦利品(日本軍兵器)を返却・譲渡してもらって展示するのは珍しい。かつての敵同士であった日米に、安全保障条約が締結されて同盟国となった、このような事情が、旧敵国鹵獲品の返却展示から窺われる。戦前の遊就館には、日露戦争の戦利品も多数展示してあったようだが、現在の展示には、中国、米国、英国など連合軍から日本軍が鹵獲した兵器の展示は無い。陳列されている日本軍の航空機や戦車から水筒・飯盒まで、多くは、戦後の遺骨・遺品収集の過程で集められたものが多い。あたかも慰霊碑のように展示されている。(メール質問への回答として2007/7/16追記)

沖縄本島に配備された軍直轄部隊の第5砲兵司令部は,和田孝助中将に率いられた野戦重砲兵2個連隊,重砲兵1個連隊,独立重砲兵1個大隊,臼砲1個連隊,迫撃砲4個大隊,野戦高射砲4個大隊,独立速射砲3個大隊を基幹としている。 配備された火砲は,75ミリ以上の砲400門であり,太平洋戦線でかつてないほどの火力を誇っていた。

和田中将の砲兵部隊には,かつてないほど火砲が配備され,半地下壕やコンクリート陣地に隠匿した。しかし,沖縄に上陸した米軍を砲撃すると,すぐに何倍,何十倍も反撃の砲撃を受けた。米軍は,上空の制空権を握り,観測機から誘導を受けて正確な砲撃をし,海上にある戦艦,巡洋艦などの主砲は,日本陸軍の最大級の火砲よりも遥かに強力だった。また,米軍航空機による機銃掃射,通常爆弾・ナパーム弾の投下,ロケット弾の射撃が行われ,地上攻撃も熾烈であった。


写真(右):米軍陣地からの反撃;米軍陣地が,砲撃,銃撃にさらされると,米軍はもう反撃を加えた。

米第10軍報告書Tenth Army's Action Reporによれば,日本の沖縄守備隊第32軍の防備を評して "連続した洞口陣地を構築しての戦いこそが最大の特徴であると述べている。The continued development and improvement of cave warfare was the most outstanding feature of the enemy's tactics on Okinawa."

首里城一帯の高地から南部にかけて守備を固めた 牛島司令官と参謀は,二つの戦略拠点,那覇港と中城湾 ( Buckner Bay)とを制圧できた。そこで,攻め込む米軍は,日本軍の待ち受ける「牛島将軍の殲滅地区 Ushijima's preregistered killing zones」に入り込み,日本軍の格好の標的にされた。

このように,米軍の側では,沖縄の日本軍守備隊の戦闘能力を高く評価しているが,そのまま鵜呑みにすることは禁物である。米軍側が日本軍を高く評価する理由は,自分たちが打ち破った敵が強かったことを,換言すれば,強い敵を殲滅した沖縄の米地上軍が優秀であったことを示したいからである。


写真(右):米軍連絡機NE-1 / L-4 Grasshopper「グラスホッパー」
;連絡飛行や患者・医薬品の輸送にも使用された。しかし,日本軍の陣地・避難壕などを上空から観測し,米軍の砲火を誘導したため,日本人からは恐れられた。A "Grasshopper" from a Marine observation squadron flies over Naha, permitting an aerial photographer to take oblique photos which will be used by Marine artillery units to spot targets and determine the damage already done by the Allies. Department of Defense Photo (USMC) 128032 。


米軍戦記では,物量に上回る米軍が,劣勢な日本軍を破ったような,安直な描き方はしない。頑丈な洞窟陣地を構築して容易万端待ち伏せしていた日本軍を撃破できたのは,攻撃した米地上軍に,強固な意志があったからである,という勝利・名誉が誇示されている。

米軍側が日本軍の強さを強調するのは,米軍の優秀さを示すための計略・欺瞞でもある。米軍が勝ったのは,日本軍が弱かったのではなく,日本軍以上に強かったから-----ということである。これを認識せずに,米軍の戦記を鵜呑みにして「日本軍は強かった,日本の将兵はよく戦った」と自画自賛するのは,計略に巧く乗せられているからで,口惜しい。

日本軍砲兵は,隠匿した陣地から射撃したが,米軍観測機「グラスホッパー」による上空偵察により発見されれば,集中攻撃を受けた。沖縄防衛戦で、独立重砲兵第100大隊装備の九六式十五糎榴弾砲8門は、強力な長射程と火力で、2ヶ月以上に渡り抗戦を続けたようにいわれるが,砲の大半は,5月4日の日本軍の反攻時期かそれ以前に破壊されてしまったようだ。


写真(上):1945年4月19日ごろの米軍の8インチ榴弾砲の半地下陣地と歩兵用浮橋による渡河;OPENING ACTION, 19 APRIL, was the crossing of Machinato Inlet on footbridge in the early morning. Supporting artillery included this 8-inch howitzer unit (below), one of the first used against the Japanese in the Pacific fighting.

1945年4月19日0900,米軍機67機がナパームnapalm弾で与那原を攻撃した。首里にも139機を送り攻撃した。海軍と海兵隊で合計650機が,爆弾,ロケット弾,ナパーム弾機銃で地上攻撃を行った。第五艦隊所属の戦艦6隻,巡洋艦6隻,駆逐艦6隻も陸上砲撃に加わった。この砲弾は,日本陸軍第62師団 4,000名の上に降り注いだ。

写真(右):米軍の60mmバズーカ砲;本来は対戦車用歩兵携帯兵器であるが、陣地に立てこもる日本軍に対して使用された。Bazooka ;1942年制式の M1A1は、全長137 cm、口径 60 mm (2.36 in)、重量 15 lb (6.8 kg)で、弾頭は成形炸薬 1.59 kgである1943年制式の M9A1は、全長を1,550 mmに延長し、射程を最大 400–500 yards (350–450 m)に延長した改良型である。操作は2名で行う。

27個大隊,合計 324部隊が,105-mm砲から 8-inch榴弾砲までが,0600に砲撃を開始した。 砲火を集中したので,前線1マイルにつき75門の火砲が配備された。砲弾が20分間,敵の前線を攻撃し500ヤード先を再び砲撃した。0630に,10分間,火砲は敵戦線の後方を砲撃した。 0600-0640の40分間の間に. 米軍は1万9,000発の砲弾を発射した。

この九六式十五糎砲のうち一門が、知念村の洞窟内から発見され、戦後に在沖縄米軍博物館に展示されていた。15センチ砲は,1976年10月に陸上自衛隊に寄贈され,その後、元重砲兵の運動もあって、1993年4月に靖国神社に移された。

米軍は上陸一日目の4月1日に北(読谷)・中(嘉手納)飛行場を占領し、二日目には中城湾を見下ろす高地から普天間北方まで進撃し、3日に沖縄東海岸に到達し南北に細長い本島を南北に分断してしまう。

写真(右):カミカゼに体当たりされ沈んだ米軍の上陸用舟艇;1945年5月25日,伊江島で撃沈されたLSM135号。Sunk by Kamikaze attack off Okinawa, Ryukyu Islands, 25 May 1945 at approximately 0830 hours. 排水量 520 t.(light), 743 t. (landing) 1,095 t.(fully loaded)
最高速度 13.2 kts. (max),乗員 5 officers, 54 enlisted
搭載能力 戦車3-5台, または 6 LVT's, または 9 DUKW's
ディーゼルエンジン 1,440 BHP,4,900 miles @ 12kts.(928 tons)


谷川中尉は161.8高地に軽機関銃8丁、重機関銃2丁を配備した。機関銃の前縁にはその間隙を埋めるべく塹壕と掩蓋を構築して死角をなくした。守備隊は塹壕とトンネルとで地下を通して連絡をとり、地下を移動することもできた。

稜線の頂上には50ミリ迫撃砲が4門、反対斜面である南斜面にも3門以上の迫撃砲を有していた。また野砲の射弾観測は南側にある第62師団地域から行なうように計画され、主要接近経路には有刺鉄線や地雷原を敷設していた。(→前進陣地161.8高地の戦闘 (ピナクルの戦闘)引用)


米軍水陸両用装軌車LVT 1型;1940年に開発され,1942年夏のガダルカナル争奪戦で実戦使用された。生産台数1225台。キャタピラでなく車輪をつけた水陸両用車DUKW「ダック」も大量生産された。
In 1940, the Marines adopted the Landing Vehicle, Tracked (1), designed by Donald Roebling. More commonly known as the "amtrac" (short for amphibian tractor), the LVT(1) had a driver's cab in front and a small engine compartment in the rear, with the bulk of the body used for carrying space. During the next three years, 1,225 LVT(1)s were built, primarily by the Food Machinery Corporation. The LVT(1) was constructed of welded steel and was propelled on both land and water by paddle-type treads. Designed solely as a supply vehicle, it could carry 4,500 pounds of cargo. In August 1942, the LVT(1) first saw combat on Guadalcanal with the 1st Amphibian Tractor Battalion, 1st Marine Division.


陣地戦では,沖縄住民は兵士や物資運搬員としても働いたが,婦女子は食糧を浪費する邪魔な存在とみなされたようだ。住民を守るのではなく,陣地を死守することが命令であれば,部隊指揮官としては,用のない住民には陣地から立ち退いてもらうしかない。

1945年の沖縄戦では,日本軍兵士による米軍捕虜の処刑,利敵行為をしたと疑われた住民処刑も行われたが,中国などでの捕虜への処刑の経験に加えて,特攻隊や死守部隊という切羽詰った状況が敵の処刑という形で具現したとも言える。

日本軍の捕虜になった連合国兵士・民間人 


写真(上左):人間爆弾「桜花」I-13は、1945年4月1日、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷の陸軍沖縄北飛行場でアメリカ軍が鹵獲した機体。写真(上右):人間爆弾「桜花」I-18は、I-13と同じく、読谷の陸軍北飛行場で鹵獲された機体。海軍航空技術廠 MXY-7人間爆弾「桜花」のことを、アメリカ軍は自殺爆弾・自爆を卑下してBaka(馬鹿)爆弾と呼んだ。


7.沖縄戦では,日本軍が航空機による大規模な特攻作戦を展開した。

検証:沖縄戦の特攻を参照。


1945年(昭和20年)3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃を開始した。米艦隊が撤退せず攻撃を続けたため,上陸を覚悟した日本側は,3月25日に県庁を、首里城内の軍司令部地下壕に移転するとともに,沖縄守備隊の第32軍は、甲号戦備(戦闘準備)を下令した。そして,本土の第10方面軍と海軍は,「天1号作戦」を発動した。これは,日本陸軍機・海軍機と地上軍による米輸送船団と艦艇に対する迎撃戦である。


写真(左):ロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-194
;集団自決のあった座間味島海岸の洞窟を4月1日に砲撃したとあるが,3月中に占領された後でも抵抗が続いていたのか。LSM(R)-194 underway, date and place unknown.LSM(R)-194 in the distance with an unidentified LCI(R) in the foreground firing into caves on the beach at Zamai Shima, 1 April 1945.

写真(右):沖縄伊江島沖で撃沈されたLSM135号
;1945年5月25日,LSM-135 after being sunk off Ie Shima by Japanese Kamikaze the morning of 25 May 1945. Port quarter view showing damage to conn.


<日本海軍・陸軍の沖縄方面特攻作戦>

練習航空隊で操縦や航法に励む搭乗員の思惑や自発的志願とは関係なく、「神風特別攻撃隊」の編成は,軍中央部の意思で計画的に進められていた。
つまり,特攻隊は決して自然発生的に行われたボランティアとはいえない。

菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日)
菊水二号作戦・第二次航空総攻撃(4月10日〜4月15日
菊水三号作戦・第三次航空総攻撃(4月16日〜4月19日
菊水四号作戦・第四、五次航空総攻撃(4月22日〜5月1日
菊水五号作戦・第六次航空総攻撃(5月3日〜5月9日)
菊水六号作戦・第七次航空総攻撃(5月11日〜5月21日)
菊水七号作戦・第八次航空総攻撃(5月24日〜5月27日)
菊水八号作戦・第九次航空総攻撃(5月28日〜5月30日)
菊水九号作戦・第十次航空総攻撃(6月1日〜6月11日)
菊水十号作戦・第十一次航空総攻撃(6月15日〜6月22日)

写真(左):靖国神社遊就館に展示してある零式艦上戦闘機52型;戦争末期には低性能となり,特攻機として多数使用された。

沖縄戦による米軍艦艇の損害は,特攻以外の被害も含めて沈没36隻、大破約50隻。
米国商船の被害一覧によれば,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈した米国の商船は6隻。沖縄方面で被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計23隻,撃沈は4隻である。

天号作戦では輸送船団を主要攻撃目標とする適切な判断をしていたが,いつの間にか,敵艦船,特に米任務部隊の空母に集中してしまった。たしかに,自爆特攻の目標を,輸送船とするのは,海軍上層部でもできなかったのかもしれない。

8.1945年4月13日,沖縄本島中西部の伊江島に,米軍が上陸したが,ここでも日本軍の飛行場が簡単に占領されてしまう。また,日本軍兵士と同数の住民が死亡している。 

写真(左):伊江島に進出した米陸軍航空隊P-47「サンダーボルト」戦闘機;沖縄有数の飛行場が,この伊江島の基地である。

伊江島には城山(タッチュー:ぐすくやま)と呼ばれる標高172mの岩山はあるが,ほとんどは平地である。伊江島の戦闘によれば,日本軍は1943年秋ころから陸軍飛行場を建設し、1944年9月末には伊江島中飛行場、伊江島東飛行場が完成した。

しかし,沖縄への米軍侵攻の1ヶ月近く以前に,1945年3月10日、第32軍は、守備不可能な島の飛行場の破壊を命じた。飛行場破壊は3月末まで目途とし、破壊終了後飛行場大隊などは本島に移動するように命令されていた。

「米軍、伊江島に上陸」には,終戦を知らず自然壕で二年余すごした 南恩納の佐渡山安棟氏の体験が記載されている(那覇出版)。

しかし、実際には米軍は伊江島を占領すると、旧日本軍の飛行場を拡張整備し、大航空基地を建設してしまう。米軍の機械工作力の前には、占領地に飛行場を作らせないといった一方的な企図は貫徹困難である。日本軍としては、航空兵力を活用して、継続的に飛行場を爆撃、攻撃してその機能を麻痺させるしかないのである。


写真(上左):伊江島に上陸した米軍:1945年4月24日撮影。中型揚陸艦LSM-135, LSM-24, LCT-1326 and other landing craft unloading cargo on Ie Shima, Ryukyu Islands, 24 April 1945.
写真(上右):伊江島城山の日本軍陣地にロケット弾を打ち込む米軍機

写真(右):米軍にガバメント・ヒルと呼ばれた伊江島のタッチュー(ぐすくやま)麓の拠点;島の集落は空襲,砲撃によって灰燼に帰した。伊江島住民の死者は1,500名で、捕虜は2,100名っだった。島の収容者は、渡嘉敷島に移送させられ、2年間帰島を許されなかった。米軍は伊江島で飛行場を整備した。1947年、伊江島帰島を許された住民は、米軍のかまぼこ型兵舎一つ当たり4-5家族が押し込まれた。島の三分の一が米軍の基地用地となった。

1944年10月24日,防衛隊召集
 私に防衛隊召集の令状が発せられたのは昭和十九年十月二十四日頃であるが、受け取ったのは二十九日であった。当時、私は、普天間農事試験場で農兵隊(食糧増産隊)の宿舎準備にあたっていたからである。その日は、夜どおし歩いて午後七時に本部の渡久地港から、伊江島 行きの船に乗り、午後八時頃、先に現地入りしていた、村出身者が居る所に着いた。兵舎も無く、松林の中で野宿していた。

入隊した部隊は、球一八八一六部隊(一名五〇一部隊)と呼んでいた。
兵舎は、茅葺き長屋の土間に一尺位上げた床板を敷き、雨露をしのぐ程度のものだった。後で、板張りの三角兵舎になっていた。

伊江島守備隊は,米軍の見積もりでは約2000名(実際は2700名,民間人を集めた防衛隊を含めて7000名)で,独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊(3個中隊)を基幹としていた。  私達の任務は、飛行場整備と訓練であった。主に竹槍訓練であった。

写真(右):伊江島を攻撃するロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-199;高くそびえるのは石灰でできた城山(ぐすくやま)。LSM(R)-199 firing her rockets, during the invasion of Ie Shima, 16 April 1945. In the background is Mt. Gosuki. Note: smoke from the bombardment all along the beach area. This photo was probably taken from West Virginia (BB-48).

昭和二十年二月末頃から南方方面の戦況が悪くなったので、島の北側のソテツ山を切り開いて飛行機の避難道路を作り始めた。(3月末頃か)----、飛行場破壊命令が出て、破壊作業に取りかかった。まさか、沖縄で地上戦が始まるとは思っていなかったので、意外な事であった。三月の末頃からは、各小隊の陣地構築に取りかかった。私は、仲地善吉少尉の隊に属していた。古墓を利用して壕を掘り、待機していた。

 四月十四日朝六時頃、敵の戦艦七隻が陣地の真下の海岸近くに一列に並び、艦砲射撃が始まった。---武器を持たない私達は、なす術もなく、壕の奥でうずくまるしかなかった。このとき仲地隊長は、詩吟を唄い隊員の士気を鼓舞した。 一日おいて、十六日、早朝から、米艦船から艦砲射撃が始まり、同時に水陸両用の戦車が、私達の壕の東側の砂浜に上陸した。

写真(右):伊江島城山(タッチュー)の日本軍の地下式陣地の見取り図;米軍に占領されたが,頑強な半地下式の攻略は容易ではない。島は,このグスクを除くと平坦で,飛行場建設に適していたために,米軍は本島占領以前に,ここを攻略して,飛行場を整備した。

 
(米軍公刊戦史によれば,4月16日早朝に艦砲射撃を行ったのは第四艦隊所属の戦艦2隻,巡洋艦4隻, 駆逐艦7隻。0650に上陸用舟艇準備。0758には,島南部の飛行場近くに上陸。)間もなく私達の壕の下まで進出した戦車から蓋を開け頭を出した米兵が周囲を見回していた。鉄砲以外に武器はないので戦車がたち去るのを待つばかりであった。
 日が暮れたので、隊長以下全員、島の北西方の竹山に移動した。島の西海岸は、自然壕が多いので島の住民や防衛隊も竹山に集結していた。


写真(上):伊江島の米軍第77師団;左は日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。During the fighting on Bloody Ridge two medium tanks (below) were knocked out by Japanese artillery fire from the Pinnacle.流血の崖の米軍。GOVERNMENT HOUSE HILL, western end of Bloody Ridge, viewed after the battle from beach road at east end of Red Beach 4. Scarcely any vestige of the town of Ie remained. The Pinnacle looms behind ridge.

斬込み命令
 三日後、防衛隊の統制がとれないので今晩、斬込みを実行するとの隊長命令が下った。敵陣を突破して城山の井川隊に合流するようにということだった。私達は、訓練に使っていた竹槍は、もとの壕に置いたままだったので、斬込みといっても武器は無いので、手榴弾を二個持って、晩九時頃に各隊は出発した。

 私達の仲地隊は、竹山の壕から南東に向かい、飛行場を横切って松林の中を通り、その時、松の枝を折って、手榴弾を投げ終ったら、その枝で敵を攻撃することにした。---仲地隊長の伏せの号令が発せられたが、すでに敵は、我々を探知し、手榴弾や機関銃を浴びせてきた。隊長は「さがれ」の命令と同時に、先にさがったので、我々も後につづいた。これまで進んできた道を戻り、竹山の壕に戻った。
隊長は、道に迷い、翌朝竹山に戻ってきた。浜から斬込みに行った隊員の多くは戦死し、竹山に帰ってきたのは僅かであった。隊長達は、全員が帰って来ていた。私は、隊長達の使役に使われていたが、村出身隊員達から、早く我々の壕に来なさいとすすめられていたので、隊長達には、無断で恩納村出身隊員の居る壕に入った。

写真(左):米第7海兵師団:7th Marine troops closing in on a Japanese-held cave in the Dakeshi Ridge hug the ground as an enemy mortar shell burst on crest. Cave is in the depression to right of shell burst.

脱出計画
 此の壕では、米のご飯や牛肉もあり、腹一杯、御馳走になり、その晩から、行動を共にすることにした。伊江島の村民は、家を焼かれ、住む所もなく多くの人が竹山の壕に避難していた。夕方になると海岸に下りて、水を求めて右往左往していた。

その姿は気の毒で、日本政府は、どうしてこのような戦争を始めたのか、腹だたしくなった。  竹山に戻ってからは、各人、自由行動をとるようになり、恩納村出身者七人は、初めは一緒であったが、二人一組で筏をつくり、本部備瀬に渡る計画をしていた。皆が一緒に海に入ったが、 湧川の方から敵の機関銃弾が飛んでくるので沖の方へ出た。今度は、潮流が早く、流されるおそれがあるので、諦めて、全員、元の壕に戻った。

 ---翌日の夕方、東崎に行く準備をした。海岸に大きな杉の丸太があったので、二人で岸まで転がし、海に浮かべたら、かるく浮いたので、私が先に乗ったら、よく浮いた。---岡に上ったら盛光の姿は見えなくなっていた。

声を出すことも出来ないので、一人、海岸づたいに東崎を目あてに歩いて湧川まで来た。---しばらく歩いていると腐臭がするので、よく見たら友軍が戦死して大分腐乱しているようでウジがサラサラ湧いていた。

写真(右):米軍の揚陸艦の接岸上陸海岸;Ship-to-shore supply causeway at Hagushi beaches .

(出会った友軍の)二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、二人が隠れていた壕に泊めてもらった。

---翌朝、この壕を出て海岸に出た。 ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、 その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。(引用終わり)

伊江島の日本軍の戦死者は住民を含めて4706名に及んだ。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。


写真(上):沖縄の米軍;左は上陸した米兵。右は,日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。短機関銃Submachine Gun M1/M1A1 Thompson「トンプソン」を射撃する米第1海兵師団の兵士
突撃する米軍兵士
(1945年6月撮影)の写真も有名である。


9.沖縄戦では,多数の住民が死傷した。これは,日本人に敵の捕虜となれば殺されるとの強迫観念があったことも一因である。しかし,米軍は豊富な物資・人員の一部を住民保護に割り当て,1945年3月26日の慶良間列島直後には軍政を敷いた。

写真(左):米兵に鹵獲された九七式曲射砲;1937年制式の81mm迫撃砲。Model 97 (1937) 81-mm mortar. Caliber 81-mm (3.19 inch). Maximum range (light shell) 3,100 yards. Length of barrel 49 1/2 inches. Total weight 145 pounds. Weight of shell 6.93 pounds (1 pound of TNT).

那覇市の沖縄戦が異説では,「軍人よりも住民の死者が多いのか」として,次のように説明している。

沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所に戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用した。住民は砲弾のなかに追い出される事となった。(引用終わり)

 沖縄戦での住民の集団自決の背景としては、臣民として一億特攻を強要されるがごときプロパガンダが行われ、軍人・民間人・非戦闘員のすべてが,敵への降伏・投降はできないと認識があったことが指摘できる。捕虜となることができないというのは,日本人としての誇りもあるが,同時に捕虜となっても虐殺されたり,強姦(レイプ)されたりと残虐行為を受けると,兵士も民間人も考えていたことがより大きい原因であろう。

写真(右):米軍の鹵獲した九六式軽機関銃Model 96 (1936) 6.5-mm light machine gun ;Caliber 6.5-mm (0.256 inch). Weight (without bayonet or magazine) 20 pounds. Magazine capacity 30 rounds Muzzle velocity 2,410 feet per second. Cyclic rate of fire 550 rounds per minute.

なにしろ,日中戦争の時から,中国の正規兵やゲリラを捕らえても,斬首や刺殺の度胸試しに使用し続けており,中国の民間人へも強姦や暴行あるいは強制労働など当然のように行われていた。

悲惨な中国人捕虜。民間人の話を聞き及んでいた沖縄駐屯日本兵や,このような実態を帰還兵から聞いて知っていた沖縄の住民,兵士は,自分たちが捕虜となれば,日本軍と同じような捕虜の扱い=残虐行為を受けると確信していたのである。


写真(左):小禄飛行場近く那覇の海岸に転がる日本兵の遺体を検分する米兵
;日本兵の所持する命令書、日記、手帳などから部隊情報を収集し、兵器を鹵獲して攻撃力を調査した。


沖縄中部で,西海岸に上陸した米軍が東海岸まで侵攻し,沖縄本島の日本軍支配地域が南北に分断された時点で、住民が本島北部の国頭地区への疎開は不可能となった。

南部に残された住民は南端の島尻地区に避難したが,日本軍守備軍が島尻地区に撤退してくると,軍民の避難所の割り当て,すなわち少ない避難所から民間人が放逐されるという問題が生じた。逃げ場のない戦場で民間人の被害が増加したともいえる。

<鉄血勤皇隊・通信隊>
 沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校、同第二中学校、同第三中学校、同工業学校、同農林学校、同水産学校、市立商業学校、私立開南中学校の九校の学徒が,14-17歳は「鉄血勤皇隊」,12-13歳は「通信隊」を編制して軍務についた。


写真(左):日本軍の半地下式の防御砲台と地下壕の内部
;火点は航空機からも発見しにくいように偽装され,歩兵も地下壕に入って,艦砲射撃や空襲に耐えられるように防備した。


ひめゆり学徒隊
 1945年3月24日,島尻郡玉城村港川へ米軍の艦砲射撃が始まったときに,沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人,教師18人の計240人(職員生徒297名ともいう)で構成されたのが「ひめゆり学徒隊」で,主に那覇市の南東5キロ南風原(はえばる)陸軍病院において従軍看護婦に相当する補助看護婦の任務を与えられた。米軍上陸から1ヵ月半たった1945年5月25日,撤退命令により南風原陸軍病院から南下し,第1、第2、第3の各外科壕に配属された。


写真(上):日本軍の地下式防御陣地の内部
;左は,地下通路の木製柱と梯子。中央は司令部号の内部。右は発電用ジェネレーター。



摩文仁(ヒル89)の丘を望む海上から日本人に投降を呼びかける
;上陸用舟艇から捕虜となった日本人が,投身自殺しないように拡声器で呼びかけた。SURRENDER instructions to the enemy were broadcast by this "converted" Japanese from an LCI standing off the rocky cliff near Hill 89. Below is seen a group of prisoners who preferred capture to suicide. They are waiting to be questioned by American officers.


しかし,6月18日に軍よりひめゆり学徒隊の解散命令が出て、翌19日に脱出の為に第3外科壕に集合している時に、米軍のガス弾攻撃を受けた。6月19日の第三外科の壕では、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名が岩に枕を並べた。そして,軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。沖縄戦で,ひめゆり学徒194人,職員を合わせて219名が生命を失なった。

学徒である鉄血勤皇隊の総数は1780名,死者数は890名で,死亡率は50.0%である。女子看護隊の総数は581名,死者数は334名,死亡率は57.5%である。

米軍の沖縄における軍政計画

MEDICAL DEPARTMENT, UNITED STATES ARMY;CIVIL AFFAIRS/MILITARY GOVERNMENT PUBLIC HEALTH ACTIVITIES 第16章Section II. Okinawa Planning for Military Governmentによれば,米軍の軍政計画は次のようなものである。

写真(右):沖縄避難民となった婦女子;米軍の損害;死者1万2 540名,負傷者 3万2 000名,艦艇沈没 36隻,航空機損失 763機.
日本の損害; 死者20万名 (内訳は兵士6万6 000名,軍に動員された民間人 9万名,一般民間人4万名),特攻機 1 900機,捕虜 7 400名。


1.1945年1月6日に,第10軍司令部に軍政に関する作戦命令第7号Operational Directive No. 7 for Military Government of the Commanding General Tenth Armyが発令。

2.1945年2月25日,沖縄住民を管理するために、米軍各師団・軍には形式の異なるA、B、C、Dの四つの民間政務部隊Civil Affairs units が配置された。
 Aチーム(将校4名,下士官兵11名):各師団に配置され、住民を戦闘地域から避難させて住民集結キャンプを設置すると戦闘部隊とともに移動する(4月1・2日上陸)。6チームあり。

Bチーム(将校8名,下士官兵19名):各師団と軍に配置され、Aチームの移動後住民集結キャンプを引き継ぐ(4月2・3日上陸)。3チームあり。

Cチーム(将校10名,下士官兵26名):キャンプチームとも呼ばれ、各師団を統括する二つの軍に配置される。約1万人規模のキャンプの設置、運営を任務とする(最初の上陸は4月3日)。13チームあり。

Dチーム(将校22名,下士官兵60名):地区チームとも呼ばれ、駐留のはじめに上陸する(最初の上陸は4月27日)。沖縄が軍政地区に分割されると地区内のCチームを管理する。Bチームを吸収して6万から10万人規模の民間人地区を統治する。6チームあり。
(『沖縄県史 琉球列島の軍政』26頁を紹介した読谷村史  >「戦時記録」下巻  >第四章 米軍上陸後の収容所豊田純志から一部引用)

写真(右):米兵に後送される負傷者;海上に停泊する艦船に負傷者を運び,後方基地,本国に後送する。

米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,1945年4月1日の米軍沖縄上陸から,米軍による軍政下におかれる沖縄住民が急増し,4月末は,住民12万6876人が米軍軍政下に保護・収容された。そして,首里の防衛線が崩壊する5月中に,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。

1944年4月30日,沖縄の住民12万5000人が米軍の軍政下にあったが,安全保障上の理由から戦場から離れた集落に集められたり,鉄条網で囲われた収容所に入れられた。3万1825人のいる囲われた収容キャンプもあった。

住民に対する扱いは,
?人道的配慮・人権保護という側面と並んで,
?日本軍に関する軍事情報(陣地の位置,兵力,装備など)の取得,
?日本の世論把握といった情報戦の側面,
?人権を重視した民主国家であり正義の戦争を行っているというプロパガンダの側面もある。
また,沖縄住民の保護を可能にした豊かな物資とそれを支える経済力も指摘しておく必要があろう。

日本軍に対して,投降を促す試みとして,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初は,効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵の投降関心のない将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。


写真(左):沖縄島の米軍補給基地写真(右);米兵に鹵獲された寺院の梵鐘 ;製鉄所ない沖縄では金属供出運動はあまり行われず,梵鐘も残っていたのか。


写真(左):戦利品の寄せ書き日章旗と九九式軽機関銃を誇示する米兵沖縄の米軍第96師団;これらの持ち主だった日本兵は殺されたのであろう。写真(右): 37ミリ対戦車砲で日本軍陣地を砲撃する米軍第96師団

沖縄戦 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では,沖縄戦における人的被害,民間人の被害について,次のように説明している。

 第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。また、民間人の犠牲者が、戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。日本側の死者・行方不明者は、沖縄県援護課の調査によると18万8136人で、うち12万228人が民間人(戦闘に協力した民間人を含む)。負傷者数は不明。アメリカ軍の死者・行方不明者は1万2千人で、負傷者7万2000人。ただし、日本側の死者数は戸籍の焼失などにより全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。

写真(右):沖縄宜野湾道路を進撃する第96師団第382歩兵連隊;1945年4月。On the Ginowan road, men and armor of the 382d Infantry, 96th Division, move through a wooded area, alert for concealed enemy positions.

日本軍には、防衛隊,学徒隊、従軍看護婦など、現地で徴集した軍属が含まれていた。これらを合計して,沖縄の民間人出身の軍人軍属は2万8228人である。沖縄の民間人出身を除くと,本来の正規の日本軍兵士の戦死者6万5908人である。

また、「戦闘参加者」というのは、住民のうち援護法の適用を認められ遺族年金などが支給されている戦没者のことである。軍人,軍属,民間人からなる沖縄県出身者の戦没者は12万2228人に達するという。さらに,山中や孤島でマラリア病・栄養失調で亡くなった者、乳幼児など,戦没者から抜け落ちている可能性がある。

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

沖縄戦でのゲリラ戦と捕虜


写真(左):沖縄の忠魂碑(戦死者記念塔)で休息する米兵;歓会門近くにあった首里忠魂碑 と思われる。
写真(右):米軍に収容された沖縄住民;物資運搬と住民生活物資の分配に協力した。
第6海兵師団シェパード少将 Major General Lemuel C. Shepherd; Earlier in the Pacific War, he commanded the 9th Marines, served as Assistant Commander of the 1st Marine Division at Cape Gloucester, and commanded the 1st Provisional Marine Brigade at Guam. In September 1944 at Guadalcanal, he became the first commanding general of the newly formed 6th Marine Division and led it with great valor throughout Okinawa.CREATED/PUBLISHED: 1945 June 28



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機


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