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◆沖縄 伊江島の戦い ◇ 琉球新報2010年1月23日「戦禍を掘る 出会いの十字路」記事

◎2015年11月21日,横浜市栄公会堂にて市民公開講座「戦後70年、あの戦争を語る」で「沖縄戦の実相−今に続くオキナワの課題はここに始まった」と題して講演。
◎以下の記事は、2010年1月琉球新報に掲載された「戦禍を掘る 出会いの十字路」の伊江島の戦いに関するニュースを鳥飼行博研究室が記録保管するためにコピーしています。


琉球新報2010年1月23日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156091-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [104 伊江島の防衛隊(上)]手投げ弾頼りに夜襲 2010年1月23日 島に閉じ込められた800人

 沖縄戦の初期、昭和20年4月16日から21日まで、「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘が伊江島で繰り広げられた。日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死したが、現地召集の防衛隊員の多くも運命をともにした。

 伊江島の防衛隊員は昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備、保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだったという。

 同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。

 「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領。島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていたが、島から召集され、今なお島で農業に従事している玉城徳元さん(72)=伊江村字西江前=は当時を振り返る。

 米軍は沖縄到着後、ただちに伊江島への空爆を始めた。3月25日には島の沖に敵艦が姿を現した。本部半島との間は多くの艦艇でいっぱいだったという。そのうち、島への上陸2日前の4月14日から間断なく艦砲射撃が加えられた。島は焼け野原に形を変える。16日未明、ブルース少将率いる米軍約6000の先発隊が上陸を始め、島は激戦に覆われた。

 玉城さんら防衛隊が守る島の西側でもまら死闘が続いた。「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。4日ほど続いたという。

 4回目の夜襲、19日の攻撃後、斬り込み隊をまとめ、飛行場の南端に来た時、宜保隊長と下士官との間で議論が起こった。「どうせ死ぬ身じゃないか。いっそのこと、白昼戦闘に持ち込もう」と主張する下士官と、夜襲を重んじる宜保中尉の対立だった。結局、下士官らが折れて、昼間の戦闘は行われなかったが、宜保中尉は「これ以上の部隊行動は無理」と判断。「数人ずつグループに別れ敵中突破。本隊・井川部隊に合流せよ」と命令を下した。

 玉城さんはいう。「その当時は死ぬことだけが国のためになると思っていた。誇りでさえあった。だから、生きのびようとはだれ一人、考えてなく、下士官の主張にも当然だと思った。大隊本部の重要書類をはじめ、紙幣まで燃やして出陣したのは、その表れだったのだから」と。

 しかし、「数人ずつに別れて本隊に合流せよ」との命令、すなわち実質的には“部隊解散”命令が出た時から玉城さんは戦闘意欲を失った。張りつめていた気持ちが一遍に消えた。「今の今まで死ぬことだけを考えていたのが、ウソのようだった。拍子抜けするとはあのことを言うのだろうか」と当時の心境を話す玉城さん。200人ほどに減っていた防衛隊員は小人数ずつになって別れたが、玉城さんの場合、それからの行動は「生」を求めてのものに変わった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月21日掲載

琉球新報2010年1月23日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156091-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [105 伊江島の防衛隊(中)]800人中600人が戦死 まだ人知れず眠る遺骨

 3、4人の仲間と行動をともにした玉城さん。伊江島タッチューのふもと、いまの、伊江中学校の建つ「学校台地」の争奪をめぐって死闘を繰り広げる井川部隊への合流は思いもしなかった。島の北西部・真謝地区へ逃げ、北海岸の絶壁にあった自然壕で2日ほど過ごした22日、タッチューに翻る星条旗を見た。

 「中国での戦争に参加した経験から、やがて掃討戦が始まる」とみた玉城さんは島の西端の灯台付近へ仲間と一緒に移動。捕らえられるまで島を逃げまどった。

 当時、玉城さんは32歳。両親のほかに妻子がいた。兄・徳行さんは伊江島での戦闘で亡くなったが、両親と妻、2人の子供は3月上旬、今帰仁へと疎開していた。既に応召していた玉城さんは2人の子供の手を取り、臨月に近いお腹をした妻の見送りにも行けず、大隊本部で急造爆雷の製造に励んでいたという。

 そのうち、伊江島での戦闘に先立って、4月12日、日米両軍は本部半島で戦火を交えた。本部半島に駐屯していた宇土部隊と米軍が激突したのだ。玉城さんはそのニュースに接し、また陣地から眺める対岸が赤々と燃えるのを見て「親も子も、家族みんなが殺された」と思い込んだ。以後は家族のことは努めて忘れようとしたと話す。

 一方、玉城さんの思い込みとは逆に、家族は家族で、米軍の捕虜となり、久志の収容所に捕らわれの身になりながらも玉城さんの安否を気遣っていた。伊江島での激戦を耳にして、玉城さんのことはあきらめていたという。

 戦争による悲しい“すれ違い”をみる思いのする話だが、あの当時、実際に戦場に身を置いた人々からすれば当然だったのかもしれない。

 伊江島で捕らわれた玉城さんは、5月に入り、生存者2100人とともに慶良間の収容所へ。座間味村慶良間島に約400人、渡嘉敷村に約1700人と分かれたが、玉城さんは渡嘉敷へ収容された。21年4月、慶良間にとどめられていた村民が沖縄本島に帰されるまでの1年間を玉城さんは「天涯孤独」と思い込み、悶々(もんもん)として暮らした。

 やがて、本島久志村(当時)に戻った玉城さんは劇的ともいえる家族との「再会」を果たす。双方ともに相手は、「もうこの世にはいない」と信じ切っていただけに言葉にもならなかった。感激の対面。初めて見る三男坊。「あのようなことは、本人でなければ分かるものではないし、言い表すことはできない」とドラマチックな思い出を語る玉城さん。「家族があんな風に別れ別れになる時代は二度と嫌だ」と言葉を継ぐ。

 「結局、あの当時は自分も含め、人の心も世の中もすべて狂っているとしか言いようがなく、だからこそあんな悲惨な戦争ができた」と述懐する玉城さん。伊江島での戦のことを家族にも話したことは無いそうだ。自己の体験を語りたがらない玉城さんに、かえって戦争のむごさが読み取れるようだった。

 飛行場整備―爆雷の製造―相次ぐ夜襲―生への逃避行―捕虜―収容所生活―家族との感激の再会―と続いた玉城さんの戦争はこうして終わった。が、玉城さんの調べた限りでは約800人の防衛隊員中、生きながらえたのは180人余。600人余が戦死した。伊江島にはまだかなりの数の遺骨が人知れず土の中で眠っている。厚生省は昨年、38年ぶりに同島での収骨作業を開始、13の壕から195柱を収骨し、「芳魂之塔」に祭ったが、玉城さんと苦労をともにした防衛隊員も交じっていたかもしれない。「芳魂之塔」は昨年の収骨作業を前に納骨堂は広げられ、全戦没者が収骨されるのを待っている。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月22日掲載

琉球新報2010年1月24日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156199-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [106 伊江島の防衛隊(下)]米上陸になすすべも2010年1月24日 城山の星条旗見て「敗れた」

 降り続ける雨の中、14日から始まった今年の厚生省の収骨作業を見守る1人の年寄りがいた―。場所は伊江村字西江前のシキミズ池東軍隊壕で、壕は海岸から数百メートル離れた小高い丘。伊江島タッチューが東北に望める位置で、年寄りはこの壕の生存者の1人、下門秀栄さん(69)=伊江村字川平。翌15日になると、もう1人の生存者、下門竜源さん(63)=同=も加わり、2人で39年前、悪夢の日を過ごした壕に見入った。

 防衛隊員として昭和19年10月、応召した秀栄さんと竜源さんの2人が、宜保猛豊隊長の命令を受けて、田村中隊の守備区である同壕にやって来たのは、米軍上陸を10日後に控えたころだった。それから陣地構築が始められ、昼夜を問わず隆起石灰岩を掘り続け、4、5日かけて完成。高さ、幅とも1メートルちょっとの抜け道約40メートルが通じた。

 米軍を迎え撃つ、海岸を向いた正面を墓を利用しての構造。高さが50センチほどしかなく、トーチカの銃眼のよう。竜源さんが持ってきた軽機関銃が据えられ、上陸を待ち受けたものの、激しい米軍の攻撃の前には何の役にも立たなかった。「1発撃つと、何千発ものお返しが飛んできた」からで、竜源さんは「戦争どころの話ではなかった。ただじっとしているだけのモグラ暮らし。人として生まれて来て、ここで死ぬだけかと思うと情けなく、ただ身を縮めているだけだった」という。

 米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいたが、米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかったという秀栄さん。

 その後、正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた。

 その日の攻撃を壕内で、顔を土に押しつけるようにして、やっとの思いで生き延びた秀栄さんは、米軍が引き揚げた夜になって、脱出を提案したが従う者はだれもいなかった。秀栄さんは1人で壕を出た。逃げる途中、自動小銃の攻撃を受けたものの、脱出に成功。くり舟で本部本島にたどり着いた。

 一方、現役兵ら14、5人と壕内にとどまった竜源さんは翌日、米軍が再攻撃を仕掛けてきた際、ひざをついて壕を飛び出した。「無我夢中だった。何人かがついてきたようだが、出た所や壕入り口付近で殺されたりしたようだ」と当時を語る竜源さん。必死の思いで城山(タッチュー)にたて込もる本隊と合流して、数度斬り込み隊(原文:切り込み隊)に加わったが、最後の夜襲でも生き残った。「最後の時は女子も含め100人ぐらいいたが、それも全滅。1人になり、海岸を歩いている時、城山に星条旗を見た」。ただ「もう敗れたんだ」との思いがするだけだった―と淡々とした口調で話す。

 捕らわれの身となった竜源さんらが、伊江島に帰ったのは昭和22年3月。2カ年の村民不在の伊江島で、米軍は米兵の遺体を収容し飛行場を改修、主要道路の建設を行っていた。しかし、日本兵や村民の遺体は野ざらしのまま。遺骨の収容が竜源さんら村民の“復興”への最初の仕事となった。多くの遺骨を拾い丁重に弔ったが、壕の側を通る度に「壕内にはまだ遺骨が眠っているはずだ」と心を痛めてきた竜源さん。短い付き合いで、他府県出身や本島出身の戦死者のことはあまり知らないが、「あの人ではなかろうか、この人だったのかな」と長いこと思い続けてきた。2柱の遺骨が収骨された時、竜源さんは「よかった」とつぶやき、目頭を押さえ鼻をすすった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月23日掲載

◆以上の記事は、2010年1月、琉球新報に掲載された「戦禍を掘る 出会いの十字路」の伊江島の戦いに関するニュースを鳥飼行博研究室が記録保管するためにコピーしたものです。

琉球新報2015年12月19日(http://ryukyushimpo.jp/news/entry-191248.html)引用

伊江島補助飛行場 着陸帯、幅2倍超に 訓練増の可能性(2015年12月19日)

【伊江】来春着工予定の米軍伊江島補助飛行場の改良工事で、工事後の着陸帯敷地の幅が現状の2倍以上となる800〜900メートルとなることが18日、分かった。17日の村議会12月定例会で、名嘉實氏が着陸帯の工事図面を現状の着陸帯の航空写真と照らし合わせて明らかにした。

 改良工事が予定されるの着陸帯の名称は「LHDデッキ」で、強襲揚陸艦の甲板を模している。
 着陸帯の幅や面積が増加することで、工事後の離着陸訓練が増加する可能性がある。  沖縄防衛局は村に対し工事の詳細などの情報を提供しておらず、島袋秀幸村長は「村も独自で情報収集に励む」と述べた。

2015年12月19日掲載

◆太平洋戦争後期、伊江島は日本軍の航空要塞として注目されたが、結局、1945年4月には飛行場を敵のアメリカ軍に奪取されてしまった。アメリカ軍はすぐに伊江島に沖縄本土の嘉手納基地に次ぐ大型飛行場を整備し、8月9日、長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」(Bockscar)もここに着陸した。戦後、終戦命令を伝達する日本軍の降伏使節団も8月19日、白色に塗装した緑十字の一式陸上攻撃機にのってやってきて、伊江島からフィリピン方面に向かった。有事の際、対中国、北朝鮮を相手の航空戦に伊江島はいまだに戦略的価値を失っていないようだ。
琉球新報2016年4月22日(http://ryukyushimpo.jp/news/entry-264590.html)引用

戦の記憶 風化を懸念 伊江島で平和祈願祭(2016年4月22日)

伊江島 平和祈願祭

 【伊江】沖縄戦で激しい空爆と地上戦があった伊江村の戦没者を悼む平和祈願祭が21日、同村の芳魂之塔であった。約250人の遺族や関係者が参列した。黙とうをささげたり花を手向けたりして、戦没者の安らかな眠りを祈った。

 伊江村の戦闘が終結した毎年4月21日に祈願祭を行っている。塔の地下には引き取り手のいない遺骨などを納骨している。
 島袋秀幸村長は「焦土と化した村は復興へといち早く立ち上がった。犠牲になられたみ霊のお導きとご加護のたまものだ。平和の尊さとありがたさを享受している毎日だ」と述べた。
 村遺族会の新城孝雄会長は「悲惨な戦争の記憶が風化しつつある中、犠牲になられた方々に思いをはせると心の痛みは癒えることがない」とあいさつした。
 芳魂之塔の隣にある刻銘板には、村内戦没者や村出身戦没者4288人の名前が刻まれている。

2016年4月22日掲載

◆1945年4月13日,沖縄本島中西部の伊江島に,米軍が上陸したが,ここでも日本軍の飛行場が簡単に占領されてしまう。また,日本軍兵士と同数の住民が死亡している。 

写真(左):伊江島に進出した米陸軍航空隊P-47「サンダーボルト」戦闘機;沖縄有数の飛行場が,この伊江島の基地である。

伊江島には城山(タッチュー:ぐすくやま)と呼ばれる標高172mの岩山はあるが,ほとんどは平地である。伊江島の戦闘によれば,日本軍は1943年秋ころから陸軍飛行場を建設し、1944年9月末には伊江島中飛行場、伊江島東飛行場が完成した。

しかし,沖縄への米軍侵攻の1ヶ月近く以前に,1945年3月10日、第32軍は、守備不可能な島の飛行場の破壊を命じた。飛行場破壊は3月末まで目途とし、破壊終了後飛行場大隊などは本島に移動するように命令されていた。

「米軍、伊江島に上陸」には,終戦を知らず自然壕で二年余すごした 南恩納の佐渡山安棟氏の体験が記載されている(那覇出版)。

しかし、実際には米軍は伊江島を占領すると、旧日本軍の飛行場を拡張整備し、大航空基地を建設してしまう。米軍の機械工作力の前には、占領地に飛行場を作らせないといった一方的な企図は貫徹困難である。日本軍としては、航空兵力を活用して、継続的に飛行場を爆撃、攻撃してその機能を麻痺させるしかないのである。


写真(上左):伊江島に上陸した米軍:1945年4月24日撮影。中型揚陸艦LSM-135, LSM-24, LCT-1326 and other landing craft unloading cargo on Ie Shima, Ryukyu Islands, 24 April 1945.
写真(上右):伊江島城山の日本軍陣地にロケット弾を打ち込む米軍機

写真(右):米軍にガバメント・ヒルと呼ばれた伊江島のタッチュー(ぐすくやま)麓の拠点;島の集落は空襲,砲撃によって灰燼に帰した。伊江島住民の死者は1,500名で、捕虜は2,100名っだった。島の収容者は、渡嘉敷島に移送させられ、2年間帰島を許されなかった。米軍は伊江島で飛行場を整備した。1947年、伊江島帰島を許された住民は、米軍のかまぼこ型兵舎一つ当たり4-5家族が押し込まれた。島の三分の一が米軍の基地用地となった。

1944年10月24日,防衛隊召集
 私に防衛隊召集の令状が発せられたのは昭和十九年十月二十四日頃であるが、受け取ったのは二十九日であった。当時、私は、普天間農事試験場で農兵隊(食糧増産隊)の宿舎準備にあたっていたからである。その日は、夜どおし歩いて午後七時に本部の渡久地港から、伊江島 行きの船に乗り、午後八時頃、先に現地入りしていた、村出身者が居る所に着いた。兵舎も無く、松林の中で野宿していた。

入隊した部隊は、球一八八一六部隊(一名五〇一部隊)と呼んでいた。
兵舎は、茅葺き長屋の土間に一尺位上げた床板を敷き、雨露をしのぐ程度のものだった。後で、板張りの三角兵舎になっていた。

伊江島守備隊は,米軍の見積もりでは約2000名(実際は2700名,民間人を集めた防衛隊を含めて7000名)で,独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊(3個中隊)を基幹としていた。  私達の任務は、飛行場整備と訓練であった。主に竹槍訓練であった。

写真(右):伊江島を攻撃するロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-199;高くそびえるのは石灰でできた城山(ぐすくやま)。LSM(R)-199 firing her rockets, during the invasion of Ie Shima, 16 April 1945. In the background is Mt. Gosuki. Note: smoke from the bombardment all along the beach area. This photo was probably taken from West Virginia (BB-48).

昭和二十年二月末頃から南方方面の戦況が悪くなったので、島の北側のソテツ山を切り開いて飛行機の避難道路を作り始めた。(3月末頃か)----、飛行場破壊命令が出て、破壊作業に取りかかった。まさか、沖縄で地上戦が始まるとは思っていなかったので、意外な事であった。三月の末頃からは、各小隊の陣地構築に取りかかった。私は、仲地善吉少尉の隊に属していた。古墓を利用して壕を掘り、待機していた。

 四月十四日朝六時頃、敵の戦艦七隻が陣地の真下の海岸近くに一列に並び、艦砲射撃が始まった。---武器を持たない私達は、なす術もなく、壕の奥でうずくまるしかなかった。このとき仲地隊長は、詩吟を唄い隊員の士気を鼓舞した。 一日おいて、十六日、早朝から、米艦船から艦砲射撃が始まり、同時に水陸両用の戦車が、私達の壕の東側の砂浜に上陸した。

写真(右):伊江島城山(タッチュー)の日本軍の地下式陣地の見取り図;米軍に占領されたが,頑強な半地下式の攻略は容易ではない。島は,このグスクを除くと平坦で,飛行場建設に適していたために,米軍は本島占領以前に,ここを攻略して,飛行場を整備した。

 
(米軍公刊戦史によれば,4月16日早朝に艦砲射撃を行ったのは第四艦隊所属の戦艦2隻,巡洋艦4隻, 駆逐艦7隻。0650に上陸用舟艇準備。0758には,島南部の飛行場近くに上陸。)間もなく私達の壕の下まで進出した戦車から蓋を開け頭を出した米兵が周囲を見回していた。鉄砲以外に武器はないので戦車がたち去るのを待つばかりであった。
 日が暮れたので、隊長以下全員、島の北西方の竹山に移動した。島の西海岸は、自然壕が多いので島の住民や防衛隊も竹山に集結していた。


写真(上):伊江島の米軍第77師団;左は日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。During the fighting on Bloody Ridge two medium tanks (below) were knocked out by Japanese artillery fire from the Pinnacle.流血の崖の米軍。GOVERNMENT HOUSE HILL, western end of Bloody Ridge, viewed after the battle from beach road at east end of Red Beach 4. Scarcely any vestige of the town of Ie remained. The Pinnacle looms behind ridge.

斬込み命令
 三日後、防衛隊の統制がとれないので今晩、斬込みを実行するとの隊長命令が下った。敵陣を突破して城山の井川隊に合流するようにということだった。私達は、訓練に使っていた竹槍は、もとの壕に置いたままだったので、斬込みといっても武器は無いので、手榴弾を二個持って、晩九時頃に各隊は出発した。

 私達の仲地隊は、竹山の壕から南東に向かい、飛行場を横切って松林の中を通り、その時、松の枝を折って、手榴弾を投げ終ったら、その枝で敵を攻撃することにした。---仲地隊長の伏せの号令が発せられたが、すでに敵は、我々を探知し、手榴弾や機関銃を浴びせてきた。隊長は「さがれ」の命令と同時に、先にさがったので、我々も後につづいた。これまで進んできた道を戻り、竹山の壕に戻った。
隊長は、道に迷い、翌朝竹山に戻ってきた。浜から斬込みに行った隊員の多くは戦死し、竹山に帰ってきたのは僅かであった。隊長達は、全員が帰って来ていた。私は、隊長達の使役に使われていたが、村出身隊員達から、早く我々の壕に来なさいとすすめられていたので、隊長達には、無断で恩納村出身隊員の居る壕に入った。

写真(左):米第7海兵師団:7th Marine troops closing in on a Japanese-held cave in the Dakeshi Ridge hug the ground as an enemy mortar shell burst on crest. Cave is in the depression to right of shell burst.

脱出計画
 此の壕では、米のご飯や牛肉もあり、腹一杯、御馳走になり、その晩から、行動を共にすることにした。伊江島の村民は、家を焼かれ、住む所もなく多くの人が竹山の壕に避難していた。夕方になると海岸に下りて、水を求めて右往左往していた。

その姿は気の毒で、日本政府は、どうしてこのような戦争を始めたのか、腹だたしくなった。  竹山に戻ってからは、各人、自由行動をとるようになり、恩納村出身者七人は、初めは一緒であったが、二人一組で筏をつくり、本部備瀬に渡る計画をしていた。皆が一緒に海に入ったが、 湧川の方から敵の機関銃弾が飛んでくるので沖の方へ出た。今度は、潮流が早く、流されるおそれがあるので、諦めて、全員、元の壕に戻った。

 ---翌日の夕方、東崎に行く準備をした。海岸に大きな杉の丸太があったので、二人で岸まで転がし、海に浮かべたら、かるく浮いたので、私が先に乗ったら、よく浮いた。---岡に上ったら盛光の姿は見えなくなっていた。

声を出すことも出来ないので、一人、海岸づたいに東崎を目あてに歩いて湧川まで来た。---しばらく歩いていると腐臭がするので、よく見たら友軍が戦死して大分腐乱しているようでウジがサラサラ湧いていた。

写真(右):米軍の揚陸艦の接岸上陸海岸;Ship-to-shore supply causeway at Hagushi beaches .

(出会った友軍の)二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、二人が隠れていた壕に泊めてもらった。

---翌朝、この壕を出て海岸に出た。 ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、 その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。(引用終わり)

伊江島の日本軍の戦死者は住民を含めて4706名に及んだ。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。


写真(上):沖縄の米軍;左は上陸した米兵。右は,日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。短機関銃Submachine Gun M1/M1A1 Thompson「トンプソン」を射撃する米第1海兵師団の兵士
突撃する米軍兵士
(1945年6月撮影)の写真も有名である。


9.沖縄戦では,多数の住民が死傷した。これは,日本人に敵の捕虜となれば殺されるとの強迫観念があったことも一因である。しかし,米軍は豊富な物資・人員の一部を住民保護に割り当て,1945年3月26日の慶良間列島直後には軍政を敷いた。

写真(左):米兵に鹵獲された九七式曲射砲;1937年制式の81mm迫撃砲。Model 97 (1937) 81-mm mortar. Caliber 81-mm (3.19 inch). Maximum range (light shell) 3,100 yards. Length of barrel 49 1/2 inches. Total weight 145 pounds. Weight of shell 6.93 pounds (1 pound of TNT).

那覇市の沖縄戦が異説では,「軍人よりも住民の死者が多いのか」として,次のように説明している。

沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所に戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用した。住民は砲弾のなかに追い出される事となった。(引用終わり)

 沖縄戦での住民の集団自決の背景としては、臣民として一億特攻を強要されるがごときプロパガンダが行われ、軍人・民間人・非戦闘員のすべてが,敵への降伏・投降はできないと認識があったことが指摘できる。捕虜となることができないというのは,日本人としての誇りもあるが,同時に捕虜となっても虐殺されたり,強姦(レイプ)されたりと残虐行為を受けると,兵士も民間人も考えていたことがより大きい原因であろう。

写真(右):米軍の鹵獲した九六式軽機関銃Model 96 (1936) 6.5-mm light machine gun ;Caliber 6.5-mm (0.256 inch). Weight (without bayonet or magazine) 20 pounds. Magazine capacity 30 rounds Muzzle velocity 2,410 feet per second. Cyclic rate of fire 550 rounds per minute.

なにしろ,日中戦争の時から,中国の正規兵やゲリラを捕らえても,斬首や刺殺の度胸試しに使用し続けており,中国の民間人へも強姦や暴行あるいは強制労働など当然のように行われていた。

悲惨な中国人捕虜。民間人の話を聞き及んでいた沖縄駐屯日本兵や,このような実態を帰還兵から聞いて知っていた沖縄の住民,兵士は,自分たちが捕虜となれば,日本軍と同じような捕虜の扱い=残虐行為を受けると確信していたのである。


写真(左):小禄飛行場近く那覇の海岸に転がる日本兵の遺体を検分する米兵
;日本兵の所持する命令書、日記、手帳などから部隊情報を収集し、兵器を鹵獲して攻撃力を調査した。


沖縄中部で,西海岸に上陸した米軍が東海岸まで侵攻し,沖縄本島の日本軍支配地域が南北に分断された時点で、住民が本島北部の国頭地区への疎開は不可能となった。

南部に残された住民は南端の島尻地区に避難したが,日本軍守備軍が島尻地区に撤退してくると,軍民の避難所の割り当て,すなわち少ない避難所から民間人が放逐されるという問題が生じた。逃げ場のない戦場で民間人の被害が増加したともいえる。

<鉄血勤皇隊・通信隊>
 沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校、同第二中学校、同第三中学校、同工業学校、同農林学校、同水産学校、市立商業学校、私立開南中学校の九校の学徒が,14-17歳は「鉄血勤皇隊」,12-13歳は「通信隊」を編制して軍務についた。


写真(左):日本軍の半地下式の防御砲台と地下壕の内部
;火点は航空機からも発見しにくいように偽装され,歩兵も地下壕に入って,艦砲射撃や空襲に耐えられるように防備した。


ひめゆり学徒隊
 1945年3月24日,島尻郡玉城村港川へ米軍の艦砲射撃が始まったときに,沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人,教師18人の計240人(職員生徒297名ともいう)で構成されたのが「ひめゆり学徒隊」で,主に那覇市の南東5キロ南風原(はえばる)陸軍病院において従軍看護婦に相当する補助看護婦の任務を与えられた。米軍上陸から1ヵ月半たった1945年5月25日,撤退命令により南風原陸軍病院から南下し,第1、第2、第3の各外科壕に配属された。


写真(上):日本軍の地下式防御陣地の内部
;左は,地下通路の木製柱と梯子。中央は司令部号の内部。右は発電用ジェネレーター。



摩文仁(ヒル89)の丘を望む海上から日本人に投降を呼びかける
;上陸用舟艇から捕虜となった日本人が,投身自殺しないように拡声器で呼びかけた。SURRENDER instructions to the enemy were broadcast by this "converted" Japanese from an LCI standing off the rocky cliff near Hill 89. Below is seen a group of prisoners who preferred capture to suicide. They are waiting to be questioned by American officers.


しかし,6月18日に軍よりひめゆり学徒隊の解散命令が出て、翌19日に脱出の為に第3外科壕に集合している時に、米軍のガス弾攻撃を受けた。6月19日の第三外科の壕では、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名が岩に枕を並べた。そして,軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。沖縄戦で,ひめゆり学徒194人,職員を合わせて219名が生命を失なった。

学徒である鉄血勤皇隊の総数は1780名,死者数は890名で,死亡率は50.0%である。女子看護隊の総数は581名,死者数は334名,死亡率は57.5%である。

米軍の沖縄における軍政計画

MEDICAL DEPARTMENT, UNITED STATES ARMY;CIVIL AFFAIRS/MILITARY GOVERNMENT PUBLIC HEALTH ACTIVITIES 第16章Section II. Okinawa Planning for Military Governmentによれば,米軍の軍政計画は次のようなものである。

写真(右):沖縄避難民となった婦女子;米軍の損害;死者1万2 540名,負傷者 3万2 000名,艦艇沈没 36隻,航空機損失 763機.
日本の損害; 死者20万名 (内訳は兵士6万6 000名,軍に動員された民間人 9万名,一般民間人4万名),特攻機 1 900機,捕虜 7 400名。


1.1945年1月6日に,第10軍司令部に軍政に関する作戦命令第7号Operational Directive No. 7 for Military Government of the Commanding General Tenth Armyが発令。

2.1945年2月25日,沖縄住民を管理するために、米軍各師団・軍には形式の異なるA、B、C、Dの四つの民間政務部隊Civil Affairs units が配置された。
 Aチーム(将校4名,下士官兵11名):各師団に配置され、住民を戦闘地域から避難させて住民集結キャンプを設置すると戦闘部隊とともに移動する(4月1・2日上陸)。6チームあり。

Bチーム(将校8名,下士官兵19名):各師団と軍に配置され、Aチームの移動後住民集結キャンプを引き継ぐ(4月2・3日上陸)。3チームあり。

Cチーム(将校10名,下士官兵26名):キャンプチームとも呼ばれ、各師団を統括する二つの軍に配置される。約1万人規模のキャンプの設置、運営を任務とする(最初の上陸は4月3日)。13チームあり。

Dチーム(将校22名,下士官兵60名):地区チームとも呼ばれ、駐留のはじめに上陸する(最初の上陸は4月27日)。沖縄が軍政地区に分割されると地区内のCチームを管理する。Bチームを吸収して6万から10万人規模の民間人地区を統治する。6チームあり。
(『沖縄県史 琉球列島の軍政』26頁を紹介した読谷村史  >「戦時記録」下巻  >第四章 米軍上陸後の収容所豊田純志から一部引用)

写真(右):米兵に後送される負傷者;海上に停泊する艦船に負傷者を運び,後方基地,本国に後送する。

米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,1945年4月1日の米軍沖縄上陸から,米軍による軍政下におかれる沖縄住民が急増し,4月末は,住民12万6876人が米軍軍政下に保護・収容された。そして,首里の防衛線が崩壊する5月中に,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。

1944年4月30日,沖縄の住民12万5000人が米軍の軍政下にあったが,安全保障上の理由から戦場から離れた集落に集められたり,鉄条網で囲われた収容所に入れられた。3万1825人のいる囲われた収容キャンプもあった。

住民に対する扱いは,
?人道的配慮・人権保護という側面と並んで,
?日本軍に関する軍事情報(陣地の位置,兵力,装備など)の取得,
?日本の世論把握といった情報戦の側面,
?人権を重視した民主国家であり正義の戦争を行っているというプロパガンダの側面もある。
また,沖縄住民の保護を可能にした豊かな物資とそれを支える経済力も指摘しておく必要があろう。

日本軍に対して,投降を促す試みとして,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初は,効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵の投降関心のない将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。


写真(左):沖縄島の米軍補給基地写真(右);米兵に鹵獲された寺院の梵鐘 ;製鉄所ない沖縄では金属供出運動はあまり行われず,梵鐘も残っていたのか。


写真(左):戦利品の寄せ書き日章旗と九九式軽機関銃を誇示する米兵沖縄の米軍第96師団;これらの持ち主だった日本兵は殺されたのであろう。写真(右): 37ミリ対戦車砲で日本軍陣地を砲撃する米軍第96師団

沖縄戦 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では,沖縄戦における人的被害,民間人の被害について,次のように説明している。

 第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。また、民間人の犠牲者が、戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。日本側の死者・行方不明者は、沖縄県援護課の調査によると18万8136人で、うち12万228人が民間人(戦闘に協力した民間人を含む)。負傷者数は不明。アメリカ軍の死者・行方不明者は1万2千人で、負傷者7万2000人。ただし、日本側の死者数は戸籍の焼失などにより全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。

写真(右):沖縄宜野湾道路を進撃する第96師団第382歩兵連隊;1945年4月。On the Ginowan road, men and armor of the 382d Infantry, 96th Division, move through a wooded area, alert for concealed enemy positions.

日本軍には、防衛隊,学徒隊、従軍看護婦など、現地で徴集した軍属が含まれていた。これらを合計して,沖縄の民間人出身の軍人軍属は2万8228人である。沖縄の民間人出身を除くと,本来の正規の日本軍兵士の戦死者6万5908人である。

また、「戦闘参加者」というのは、住民のうち援護法の適用を認められ遺族年金などが支給されている戦没者のことである。軍人,軍属,民間人からなる沖縄県出身者の戦没者は12万2228人に達するという。さらに,山中や孤島でマラリア病・栄養失調で亡くなった者、乳幼児など,戦没者から抜け落ちている可能性がある。

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

沖縄戦でのゲリラ戦と捕虜


写真(右):米軍の揚陸艦の接岸上陸海岸
;Ship-to-shore supply causeway at Hagushi beaches .

(出会った友軍の)二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、二人が隠れていた壕に泊めてもらった。

---翌朝、この壕を出て海岸に出た。 ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、 その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。(引用終わり)

伊江島の日本軍の戦死者は住民を含めて4706名に及んだ。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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◆沖縄 伊江島の戦い ◇ 琉球新報2010年1月23日「戦禍を掘る 出会いの十字路」記事

◎2015年11月21日,横浜市栄公会堂にて市民公開講座「戦後70年、あの戦争を語る」で「沖縄戦の実相−今に続くオキナワの課題はここに始まった」と題して講演。
◎以下の記事は、2010年1月琉球新報に掲載された「戦禍を掘る 出会いの十字路」の伊江島の戦いに関するニュースを鳥飼行博研究室が記録保管するためにコピーしています。


琉球新報2010年1月23日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156091-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [104 伊江島の防衛隊(上)]手投げ弾頼りに夜襲 2010年1月23日 島に閉じ込められた800人

 沖縄戦の初期、昭和20年4月16日から21日まで、「六日戦争」と呼ばれる日米の激しい戦闘が伊江島で繰り広げられた。日本軍約2000人、村民約1500人がこの6日間で戦死したが、現地召集の防衛隊員の多くも運命をともにした。

 伊江島の防衛隊員は昭和19年の10月に500人、11月に200人、沖縄戦直前の3月に100人増強されて計800人が名護町(当時)屋部出身の宜保豊猛中尉に率いられて3個中隊に分かれ、島の中央部にあった飛行場から西側の守備に当たっていた。主な任務は飛行場の整備、保守だったから装備も十分でなく、各中隊に小銃約10丁、てき弾筒各1、それに大隊全部で軽機関銃が2丁だけ。あとは手投げ弾と竹ヤリが武器のすべてだったという。

 同部隊には、米軍上陸が迫る3月、飛行場破壊命令が出され、終了後は本島に引き揚げるよう軍命があったというが、本島へ渡ろうにも船はなく、そのまま島の防衛につくしかなかった。

 「米軍は上陸後、飛行場を中心に島を占領。島は東西に分断されてしまって、東側を守備していた日本軍主力との連絡も途絶え、何も分からないまま戦闘を続けていた」。同防衛隊は恩納村以北の各部落かた召集された人らで編成されていたが、島から召集され、今なお島で農業に従事している玉城徳元さん(72)=伊江村字西江前=は当時を振り返る。

 米軍は沖縄到着後、ただちに伊江島への空爆を始めた。3月25日には島の沖に敵艦が姿を現した。本部半島との間は多くの艦艇でいっぱいだったという。そのうち、島への上陸2日前の4月14日から間断なく艦砲射撃が加えられた。島は焼け野原に形を変える。16日未明、ブルース少将率いる米軍約6000の先発隊が上陸を始め、島は激戦に覆われた。

 玉城さんら防衛隊が守る島の西側でもまら死闘が続いた。「上陸したその日のうちに、戦車を先頭に押し寄せてくる米軍にじゅうりんされ、部隊はほとんどが壊滅した。それ以後は山のりょう線に沿って掘られたたこ壷に身を潜め、夜になってからはい出し、各自に2個ずつ配られていた手投げ弾だけを頼りに夜襲が行われた」。4日ほど続いたという。

 4回目の夜襲、19日の攻撃後、斬り込み隊をまとめ、飛行場の南端に来た時、宜保隊長と下士官との間で議論が起こった。「どうせ死ぬ身じゃないか。いっそのこと、白昼戦闘に持ち込もう」と主張する下士官と、夜襲を重んじる宜保中尉の対立だった。結局、下士官らが折れて、昼間の戦闘は行われなかったが、宜保中尉は「これ以上の部隊行動は無理」と判断。「数人ずつグループに別れ敵中突破。本隊・井川部隊に合流せよ」と命令を下した。

 玉城さんはいう。「その当時は死ぬことだけが国のためになると思っていた。誇りでさえあった。だから、生きのびようとはだれ一人、考えてなく、下士官の主張にも当然だと思った。大隊本部の重要書類をはじめ、紙幣まで燃やして出陣したのは、その表れだったのだから」と。

 しかし、「数人ずつに別れて本隊に合流せよ」との命令、すなわち実質的には“部隊解散”命令が出た時から玉城さんは戦闘意欲を失った。張りつめていた気持ちが一遍に消えた。「今の今まで死ぬことだけを考えていたのが、ウソのようだった。拍子抜けするとはあのことを言うのだろうか」と当時の心境を話す玉城さん。200人ほどに減っていた防衛隊員は小人数ずつになって別れたが、玉城さんの場合、それからの行動は「生」を求めてのものに変わった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月21日掲載

琉球新報2010年1月23日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156091-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [105 伊江島の防衛隊(中)]800人中600人が戦死 まだ人知れず眠る遺骨

 3、4人の仲間と行動をともにした玉城さん。伊江島タッチューのふもと、いまの、伊江中学校の建つ「学校台地」の争奪をめぐって死闘を繰り広げる井川部隊への合流は思いもしなかった。島の北西部・真謝地区へ逃げ、北海岸の絶壁にあった自然壕で2日ほど過ごした22日、タッチューに翻る星条旗を見た。

 「中国での戦争に参加した経験から、やがて掃討戦が始まる」とみた玉城さんは島の西端の灯台付近へ仲間と一緒に移動。捕らえられるまで島を逃げまどった。

 当時、玉城さんは32歳。両親のほかに妻子がいた。兄・徳行さんは伊江島での戦闘で亡くなったが、両親と妻、2人の子供は3月上旬、今帰仁へと疎開していた。既に応召していた玉城さんは2人の子供の手を取り、臨月に近いお腹をした妻の見送りにも行けず、大隊本部で急造爆雷の製造に励んでいたという。

 そのうち、伊江島での戦闘に先立って、4月12日、日米両軍は本部半島で戦火を交えた。本部半島に駐屯していた宇土部隊と米軍が激突したのだ。玉城さんはそのニュースに接し、また陣地から眺める対岸が赤々と燃えるのを見て「親も子も、家族みんなが殺された」と思い込んだ。以後は家族のことは努めて忘れようとしたと話す。

 一方、玉城さんの思い込みとは逆に、家族は家族で、米軍の捕虜となり、久志の収容所に捕らわれの身になりながらも玉城さんの安否を気遣っていた。伊江島での激戦を耳にして、玉城さんのことはあきらめていたという。

 戦争による悲しい“すれ違い”をみる思いのする話だが、あの当時、実際に戦場に身を置いた人々からすれば当然だったのかもしれない。

 伊江島で捕らわれた玉城さんは、5月に入り、生存者2100人とともに慶良間の収容所へ。座間味村慶良間島に約400人、渡嘉敷村に約1700人と分かれたが、玉城さんは渡嘉敷へ収容された。21年4月、慶良間にとどめられていた村民が沖縄本島に帰されるまでの1年間を玉城さんは「天涯孤独」と思い込み、悶々(もんもん)として暮らした。

 やがて、本島久志村(当時)に戻った玉城さんは劇的ともいえる家族との「再会」を果たす。双方ともに相手は、「もうこの世にはいない」と信じ切っていただけに言葉にもならなかった。感激の対面。初めて見る三男坊。「あのようなことは、本人でなければ分かるものではないし、言い表すことはできない」とドラマチックな思い出を語る玉城さん。「家族があんな風に別れ別れになる時代は二度と嫌だ」と言葉を継ぐ。

 「結局、あの当時は自分も含め、人の心も世の中もすべて狂っているとしか言いようがなく、だからこそあんな悲惨な戦争ができた」と述懐する玉城さん。伊江島での戦のことを家族にも話したことは無いそうだ。自己の体験を語りたがらない玉城さんに、かえって戦争のむごさが読み取れるようだった。

 飛行場整備―爆雷の製造―相次ぐ夜襲―生への逃避行―捕虜―収容所生活―家族との感激の再会―と続いた玉城さんの戦争はこうして終わった。が、玉城さんの調べた限りでは約800人の防衛隊員中、生きながらえたのは180人余。600人余が戦死した。伊江島にはまだかなりの数の遺骨が人知れず土の中で眠っている。厚生省は昨年、38年ぶりに同島での収骨作業を開始、13の壕から195柱を収骨し、「芳魂之塔」に祭ったが、玉城さんと苦労をともにした防衛隊員も交じっていたかもしれない。「芳魂之塔」は昨年の収骨作業を前に納骨堂は広げられ、全戦没者が収骨されるのを待っている。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月22日掲載

琉球新報2010年1月24日(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156199-storytopic-212.html)引用

戦禍を掘る 出会いの十字路 [106 伊江島の防衛隊(下)]米上陸になすすべも2010年1月24日 城山の星条旗見て「敗れた」

 降り続ける雨の中、14日から始まった今年の厚生省の収骨作業を見守る1人の年寄りがいた―。場所は伊江村字西江前のシキミズ池東軍隊壕で、壕は海岸から数百メートル離れた小高い丘。伊江島タッチューが東北に望める位置で、年寄りはこの壕の生存者の1人、下門秀栄さん(69)=伊江村字川平。翌15日になると、もう1人の生存者、下門竜源さん(63)=同=も加わり、2人で39年前、悪夢の日を過ごした壕に見入った。

 防衛隊員として昭和19年10月、応召した秀栄さんと竜源さんの2人が、宜保猛豊隊長の命令を受けて、田村中隊の守備区である同壕にやって来たのは、米軍上陸を10日後に控えたころだった。それから陣地構築が始められ、昼夜を問わず隆起石灰岩を掘り続け、4、5日かけて完成。高さ、幅とも1メートルちょっとの抜け道約40メートルが通じた。

 米軍を迎え撃つ、海岸を向いた正面を墓を利用しての構造。高さが50センチほどしかなく、トーチカの銃眼のよう。竜源さんが持ってきた軽機関銃が据えられ、上陸を待ち受けたものの、激しい米軍の攻撃の前には何の役にも立たなかった。「1発撃つと、何千発ものお返しが飛んできた」からで、竜源さんは「戦争どころの話ではなかった。ただじっとしているだけのモグラ暮らし。人として生まれて来て、ここで死ぬだけかと思うと情けなく、ただ身を縮めているだけだった」という。

 米軍は上陸の翌日、17日には同壕への攻撃を開始。正面からも、丘の上に通ずる抜け道からも攻めて来た。当時、壕内には、14、5人の日本兵が潜んでいたが、米軍の侵入を防ぐため、正面入り口付近に置いてあったダイナマイトを爆破してふさいだ。全員が爆風で服はボロボロ。鼻からは血が噴き出し、惨々な状態となったが、これ以上はなす術を知らない。「首をすくめた亀の子と同じ」で、どうにもできなかったという秀栄さん。

 その後、正面入り口が爆破されたことから、米軍は裏に回って“馬のり攻撃”。ガソリンを注ぎ、火炎放射器で攻め寄せた。

 その日の攻撃を壕内で、顔を土に押しつけるようにして、やっとの思いで生き延びた秀栄さんは、米軍が引き揚げた夜になって、脱出を提案したが従う者はだれもいなかった。秀栄さんは1人で壕を出た。逃げる途中、自動小銃の攻撃を受けたものの、脱出に成功。くり舟で本部本島にたどり着いた。

 一方、現役兵ら14、5人と壕内にとどまった竜源さんは翌日、米軍が再攻撃を仕掛けてきた際、ひざをついて壕を飛び出した。「無我夢中だった。何人かがついてきたようだが、出た所や壕入り口付近で殺されたりしたようだ」と当時を語る竜源さん。必死の思いで城山(タッチュー)にたて込もる本隊と合流して、数度斬り込み隊(原文:切り込み隊)に加わったが、最後の夜襲でも生き残った。「最後の時は女子も含め100人ぐらいいたが、それも全滅。1人になり、海岸を歩いている時、城山に星条旗を見た」。ただ「もう敗れたんだ」との思いがするだけだった―と淡々とした口調で話す。

 捕らわれの身となった竜源さんらが、伊江島に帰ったのは昭和22年3月。2カ年の村民不在の伊江島で、米軍は米兵の遺体を収容し飛行場を改修、主要道路の建設を行っていた。しかし、日本兵や村民の遺体は野ざらしのまま。遺骨の収容が竜源さんら村民の“復興”への最初の仕事となった。多くの遺骨を拾い丁重に弔ったが、壕の側を通る度に「壕内にはまだ遺骨が眠っているはずだ」と心を痛めてきた竜源さん。短い付き合いで、他府県出身や本島出身の戦死者のことはあまり知らないが、「あの人ではなかろうか、この人だったのかな」と長いこと思い続けてきた。2柱の遺骨が収骨された時、竜源さんは「よかった」とつぶやき、目頭を押さえ鼻をすすった。

(「戦禍を掘る」取材班) 1984年2月23日掲載

◆以上の記事は、2010年1月、琉球新報に掲載された「戦禍を掘る 出会いの十字路」の伊江島の戦いに関するニュースを鳥飼行博研究室が記録保管するためにコピーしたものです。

琉球新報2015年12月19日(http://ryukyushimpo.jp/news/entry-191248.html)引用

伊江島補助飛行場 着陸帯、幅2倍超に 訓練増の可能性(2015年12月19日)

【伊江】来春着工予定の米軍伊江島補助飛行場の改良工事で、工事後の着陸帯敷地の幅が現状の2倍以上となる800〜900メートルとなることが18日、分かった。17日の村議会12月定例会で、名嘉實氏が着陸帯の工事図面を現状の着陸帯の航空写真と照らし合わせて明らかにした。

 改良工事が予定されるの着陸帯の名称は「LHDデッキ」で、強襲揚陸艦の甲板を模している。
 着陸帯の幅や面積が増加することで、工事後の離着陸訓練が増加する可能性がある。  沖縄防衛局は村に対し工事の詳細などの情報を提供しておらず、島袋秀幸村長は「村も独自で情報収集に励む」と述べた。

2015年12月19日掲載

◆太平洋戦争後期、伊江島は日本軍の航空要塞として注目されたが、結局、1945年4月には飛行場を敵のアメリカ軍に奪取されてしまった。アメリカ軍はすぐに伊江島に沖縄本土の嘉手納基地に次ぐ大型飛行場を整備し、8月9日、長崎に原爆を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」(Bockscar)もここに着陸した。戦後、終戦命令を伝達する日本軍の降伏使節団も8月19日、白色に塗装した緑十字の一式陸上攻撃機にのってやってきて、伊江島からフィリピン方面に向かった。有事の際、対中国、北朝鮮を相手の航空戦に伊江島はいまだに戦略的価値を失っていないようだ。
琉球新報2016年4月22日(http://ryukyushimpo.jp/news/entry-264590.html)引用

戦の記憶 風化を懸念 伊江島で平和祈願祭(2016年4月22日)

伊江島 平和祈願祭

 【伊江】沖縄戦で激しい空爆と地上戦があった伊江村の戦没者を悼む平和祈願祭が21日、同村の芳魂之塔であった。約250人の遺族や関係者が参列した。黙とうをささげたり花を手向けたりして、戦没者の安らかな眠りを祈った。

 伊江村の戦闘が終結した毎年4月21日に祈願祭を行っている。塔の地下には引き取り手のいない遺骨などを納骨している。
 島袋秀幸村長は「焦土と化した村は復興へといち早く立ち上がった。犠牲になられたみ霊のお導きとご加護のたまものだ。平和の尊さとありがたさを享受している毎日だ」と述べた。
 村遺族会の新城孝雄会長は「悲惨な戦争の記憶が風化しつつある中、犠牲になられた方々に思いをはせると心の痛みは癒えることがない」とあいさつした。
 芳魂之塔の隣にある刻銘板には、村内戦没者や村出身戦没者4288人の名前が刻まれている。

2016年4月22日掲載

◆1945年4月13日,沖縄本島中西部の伊江島に,米軍が上陸したが,ここでも日本軍の飛行場が簡単に占領されてしまう。また,日本軍兵士と同数の住民が死亡している。 

写真(左):伊江島に進出した米陸軍航空隊P-47「サンダーボルト」戦闘機;沖縄有数の飛行場が,この伊江島の基地である。

伊江島には城山(タッチュー:ぐすくやま)と呼ばれる標高172mの岩山はあるが,ほとんどは平地である。伊江島の戦闘によれば,日本軍は1943年秋ころから陸軍飛行場を建設し、1944年9月末には伊江島中飛行場、伊江島東飛行場が完成した。

しかし,沖縄への米軍侵攻の1ヶ月近く以前に,1945年3月10日、第32軍は、守備不可能な島の飛行場の破壊を命じた。飛行場破壊は3月末まで目途とし、破壊終了後飛行場大隊などは本島に移動するように命令されていた。

「米軍、伊江島に上陸」には,終戦を知らず自然壕で二年余すごした 南恩納の佐渡山安棟氏の体験が記載されている(那覇出版)。

しかし、実際には米軍は伊江島を占領すると、旧日本軍の飛行場を拡張整備し、大航空基地を建設してしまう。米軍の機械工作力の前には、占領地に飛行場を作らせないといった一方的な企図は貫徹困難である。日本軍としては、航空兵力を活用して、継続的に飛行場を爆撃、攻撃してその機能を麻痺させるしかないのである。


写真(上左):伊江島に上陸した米軍:1945年4月24日撮影。中型揚陸艦LSM-135, LSM-24, LCT-1326 and other landing craft unloading cargo on Ie Shima, Ryukyu Islands, 24 April 1945.
写真(上右):伊江島城山の日本軍陣地にロケット弾を打ち込む米軍機

写真(右):米軍にガバメント・ヒルと呼ばれた伊江島のタッチュー(ぐすくやま)麓の拠点;島の集落は空襲,砲撃によって灰燼に帰した。伊江島住民の死者は1,500名で、捕虜は2,100名っだった。島の収容者は、渡嘉敷島に移送させられ、2年間帰島を許されなかった。米軍は伊江島で飛行場を整備した。1947年、伊江島帰島を許された住民は、米軍のかまぼこ型兵舎一つ当たり4-5家族が押し込まれた。島の三分の一が米軍の基地用地となった。

1944年10月24日,防衛隊召集
 私に防衛隊召集の令状が発せられたのは昭和十九年十月二十四日頃であるが、受け取ったのは二十九日であった。当時、私は、普天間農事試験場で農兵隊(食糧増産隊)の宿舎準備にあたっていたからである。その日は、夜どおし歩いて午後七時に本部の渡久地港から、伊江島 行きの船に乗り、午後八時頃、先に現地入りしていた、村出身者が居る所に着いた。兵舎も無く、松林の中で野宿していた。

入隊した部隊は、球一八八一六部隊(一名五〇一部隊)と呼んでいた。
兵舎は、茅葺き長屋の土間に一尺位上げた床板を敷き、雨露をしのぐ程度のものだった。後で、板張りの三角兵舎になっていた。

伊江島守備隊は,米軍の見積もりでは約2000名(実際は2700名,民間人を集めた防衛隊を含めて7000名)で,独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊(3個中隊)を基幹としていた。  私達の任務は、飛行場整備と訓練であった。主に竹槍訓練であった。

写真(右):伊江島を攻撃するロケット弾搭載揚陸艦LSM(R)-199;高くそびえるのは石灰でできた城山(ぐすくやま)。LSM(R)-199 firing her rockets, during the invasion of Ie Shima, 16 April 1945. In the background is Mt. Gosuki. Note: smoke from the bombardment all along the beach area. This photo was probably taken from West Virginia (BB-48).

昭和二十年二月末頃から南方方面の戦況が悪くなったので、島の北側のソテツ山を切り開いて飛行機の避難道路を作り始めた。(3月末頃か)----、飛行場破壊命令が出て、破壊作業に取りかかった。まさか、沖縄で地上戦が始まるとは思っていなかったので、意外な事であった。三月の末頃からは、各小隊の陣地構築に取りかかった。私は、仲地善吉少尉の隊に属していた。古墓を利用して壕を掘り、待機していた。

 四月十四日朝六時頃、敵の戦艦七隻が陣地の真下の海岸近くに一列に並び、艦砲射撃が始まった。---武器を持たない私達は、なす術もなく、壕の奥でうずくまるしかなかった。このとき仲地隊長は、詩吟を唄い隊員の士気を鼓舞した。 一日おいて、十六日、早朝から、米艦船から艦砲射撃が始まり、同時に水陸両用の戦車が、私達の壕の東側の砂浜に上陸した。

写真(右):伊江島城山(タッチュー)の日本軍の地下式陣地の見取り図;米軍に占領されたが,頑強な半地下式の攻略は容易ではない。島は,このグスクを除くと平坦で,飛行場建設に適していたために,米軍は本島占領以前に,ここを攻略して,飛行場を整備した。

 
(米軍公刊戦史によれば,4月16日早朝に艦砲射撃を行ったのは第四艦隊所属の戦艦2隻,巡洋艦4隻, 駆逐艦7隻。0650に上陸用舟艇準備。0758には,島南部の飛行場近くに上陸。)間もなく私達の壕の下まで進出した戦車から蓋を開け頭を出した米兵が周囲を見回していた。鉄砲以外に武器はないので戦車がたち去るのを待つばかりであった。
 日が暮れたので、隊長以下全員、島の北西方の竹山に移動した。島の西海岸は、自然壕が多いので島の住民や防衛隊も竹山に集結していた。


写真(上):伊江島の米軍第77師団;左は日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。During the fighting on Bloody Ridge two medium tanks (below) were knocked out by Japanese artillery fire from the Pinnacle.流血の崖の米軍。GOVERNMENT HOUSE HILL, western end of Bloody Ridge, viewed after the battle from beach road at east end of Red Beach 4. Scarcely any vestige of the town of Ie remained. The Pinnacle looms behind ridge.

斬込み命令
 三日後、防衛隊の統制がとれないので今晩、斬込みを実行するとの隊長命令が下った。敵陣を突破して城山の井川隊に合流するようにということだった。私達は、訓練に使っていた竹槍は、もとの壕に置いたままだったので、斬込みといっても武器は無いので、手榴弾を二個持って、晩九時頃に各隊は出発した。

 私達の仲地隊は、竹山の壕から南東に向かい、飛行場を横切って松林の中を通り、その時、松の枝を折って、手榴弾を投げ終ったら、その枝で敵を攻撃することにした。---仲地隊長の伏せの号令が発せられたが、すでに敵は、我々を探知し、手榴弾や機関銃を浴びせてきた。隊長は「さがれ」の命令と同時に、先にさがったので、我々も後につづいた。これまで進んできた道を戻り、竹山の壕に戻った。
隊長は、道に迷い、翌朝竹山に戻ってきた。浜から斬込みに行った隊員の多くは戦死し、竹山に帰ってきたのは僅かであった。隊長達は、全員が帰って来ていた。私は、隊長達の使役に使われていたが、村出身隊員達から、早く我々の壕に来なさいとすすめられていたので、隊長達には、無断で恩納村出身隊員の居る壕に入った。

写真(左):米第7海兵師団:7th Marine troops closing in on a Japanese-held cave in the Dakeshi Ridge hug the ground as an enemy mortar shell burst on crest. Cave is in the depression to right of shell burst.

脱出計画
 此の壕では、米のご飯や牛肉もあり、腹一杯、御馳走になり、その晩から、行動を共にすることにした。伊江島の村民は、家を焼かれ、住む所もなく多くの人が竹山の壕に避難していた。夕方になると海岸に下りて、水を求めて右往左往していた。

その姿は気の毒で、日本政府は、どうしてこのような戦争を始めたのか、腹だたしくなった。  竹山に戻ってからは、各人、自由行動をとるようになり、恩納村出身者七人は、初めは一緒であったが、二人一組で筏をつくり、本部備瀬に渡る計画をしていた。皆が一緒に海に入ったが、 湧川の方から敵の機関銃弾が飛んでくるので沖の方へ出た。今度は、潮流が早く、流されるおそれがあるので、諦めて、全員、元の壕に戻った。

 ---翌日の夕方、東崎に行く準備をした。海岸に大きな杉の丸太があったので、二人で岸まで転がし、海に浮かべたら、かるく浮いたので、私が先に乗ったら、よく浮いた。---岡に上ったら盛光の姿は見えなくなっていた。

声を出すことも出来ないので、一人、海岸づたいに東崎を目あてに歩いて湧川まで来た。---しばらく歩いていると腐臭がするので、よく見たら友軍が戦死して大分腐乱しているようでウジがサラサラ湧いていた。

写真(右):米軍の揚陸艦の接岸上陸海岸;Ship-to-shore supply causeway at Hagushi beaches .

(出会った友軍の)二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、二人が隠れていた壕に泊めてもらった。

---翌朝、この壕を出て海岸に出た。 ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、 その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。(引用終わり)

伊江島の日本軍の戦死者は住民を含めて4706名に及んだ。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。


写真(上):沖縄の米軍;左は上陸した米兵。右は,日本軍の砲撃で破壊されたM4中戦車。短機関銃Submachine Gun M1/M1A1 Thompson「トンプソン」を射撃する米第1海兵師団の兵士
突撃する米軍兵士
(1945年6月撮影)の写真も有名である。


9.沖縄戦では,多数の住民が死傷した。これは,日本人に敵の捕虜となれば殺されるとの強迫観念があったことも一因である。しかし,米軍は豊富な物資・人員の一部を住民保護に割り当て,1945年3月26日の慶良間列島直後には軍政を敷いた。

写真(左):米兵に鹵獲された九七式曲射砲;1937年制式の81mm迫撃砲。Model 97 (1937) 81-mm mortar. Caliber 81-mm (3.19 inch). Maximum range (light shell) 3,100 yards. Length of barrel 49 1/2 inches. Total weight 145 pounds. Weight of shell 6.93 pounds (1 pound of TNT).

那覇市の沖縄戦が異説では,「軍人よりも住民の死者が多いのか」として,次のように説明している。

沖縄戦は首里城にある沖縄守備軍の司令部壕が陥落すれば終わるものと、米軍側も、当初は沖縄守備軍の司令官も、沖縄住民も思っていた。それで首里以南の南部地域には多くの住民が避難していた。ところが本土防衛、国体護持の時間稼ぎのため5月22日に南部撤退が決定される。多くの住民が避難していた所に戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用した。住民は砲弾のなかに追い出される事となった。(引用終わり)

 沖縄戦での住民の集団自決の背景としては、臣民として一億特攻を強要されるがごときプロパガンダが行われ、軍人・民間人・非戦闘員のすべてが,敵への降伏・投降はできないと認識があったことが指摘できる。捕虜となることができないというのは,日本人としての誇りもあるが,同時に捕虜となっても虐殺されたり,強姦(レイプ)されたりと残虐行為を受けると,兵士も民間人も考えていたことがより大きい原因であろう。

写真(右):米軍の鹵獲した九六式軽機関銃Model 96 (1936) 6.5-mm light machine gun ;Caliber 6.5-mm (0.256 inch). Weight (without bayonet or magazine) 20 pounds. Magazine capacity 30 rounds Muzzle velocity 2,410 feet per second. Cyclic rate of fire 550 rounds per minute.

なにしろ,日中戦争の時から,中国の正規兵やゲリラを捕らえても,斬首や刺殺の度胸試しに使用し続けており,中国の民間人へも強姦や暴行あるいは強制労働など当然のように行われていた。

悲惨な中国人捕虜。民間人の話を聞き及んでいた沖縄駐屯日本兵や,このような実態を帰還兵から聞いて知っていた沖縄の住民,兵士は,自分たちが捕虜となれば,日本軍と同じような捕虜の扱い=残虐行為を受けると確信していたのである。


写真(左):小禄飛行場近く那覇の海岸に転がる日本兵の遺体を検分する米兵
;日本兵の所持する命令書、日記、手帳などから部隊情報を収集し、兵器を鹵獲して攻撃力を調査した。


沖縄中部で,西海岸に上陸した米軍が東海岸まで侵攻し,沖縄本島の日本軍支配地域が南北に分断された時点で、住民が本島北部の国頭地区への疎開は不可能となった。

南部に残された住民は南端の島尻地区に避難したが,日本軍守備軍が島尻地区に撤退してくると,軍民の避難所の割り当て,すなわち少ない避難所から民間人が放逐されるという問題が生じた。逃げ場のない戦場で民間人の被害が増加したともいえる。

<鉄血勤皇隊・通信隊>
 沖縄師範学校男子部、沖縄県立第一中学校、同第二中学校、同第三中学校、同工業学校、同農林学校、同水産学校、市立商業学校、私立開南中学校の九校の学徒が,14-17歳は「鉄血勤皇隊」,12-13歳は「通信隊」を編制して軍務についた。


写真(左):日本軍の半地下式の防御砲台と地下壕の内部
;火点は航空機からも発見しにくいように偽装され,歩兵も地下壕に入って,艦砲射撃や空襲に耐えられるように防備した。


ひめゆり学徒隊
 1945年3月24日,島尻郡玉城村港川へ米軍の艦砲射撃が始まったときに,沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒222人,教師18人の計240人(職員生徒297名ともいう)で構成されたのが「ひめゆり学徒隊」で,主に那覇市の南東5キロ南風原(はえばる)陸軍病院において従軍看護婦に相当する補助看護婦の任務を与えられた。米軍上陸から1ヵ月半たった1945年5月25日,撤退命令により南風原陸軍病院から南下し,第1、第2、第3の各外科壕に配属された。


写真(上):日本軍の地下式防御陣地の内部
;左は,地下通路の木製柱と梯子。中央は司令部号の内部。右は発電用ジェネレーター。



摩文仁(ヒル89)の丘を望む海上から日本人に投降を呼びかける
;上陸用舟艇から捕虜となった日本人が,投身自殺しないように拡声器で呼びかけた。SURRENDER instructions to the enemy were broadcast by this "converted" Japanese from an LCI standing off the rocky cliff near Hill 89. Below is seen a group of prisoners who preferred capture to suicide. They are waiting to be questioned by American officers.


しかし,6月18日に軍よりひめゆり学徒隊の解散命令が出て、翌19日に脱出の為に第3外科壕に集合している時に、米軍のガス弾攻撃を受けた。6月19日の第三外科の壕では、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名が岩に枕を並べた。そして,軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も運命をともにした。沖縄戦で,ひめゆり学徒194人,職員を合わせて219名が生命を失なった。

学徒である鉄血勤皇隊の総数は1780名,死者数は890名で,死亡率は50.0%である。女子看護隊の総数は581名,死者数は334名,死亡率は57.5%である。

米軍の沖縄における軍政計画

MEDICAL DEPARTMENT, UNITED STATES ARMY;CIVIL AFFAIRS/MILITARY GOVERNMENT PUBLIC HEALTH ACTIVITIES 第16章Section II. Okinawa Planning for Military Governmentによれば,米軍の軍政計画は次のようなものである。

写真(右):沖縄避難民となった婦女子;米軍の損害;死者1万2 540名,負傷者 3万2 000名,艦艇沈没 36隻,航空機損失 763機.
日本の損害; 死者20万名 (内訳は兵士6万6 000名,軍に動員された民間人 9万名,一般民間人4万名),特攻機 1 900機,捕虜 7 400名。


1.1945年1月6日に,第10軍司令部に軍政に関する作戦命令第7号Operational Directive No. 7 for Military Government of the Commanding General Tenth Armyが発令。

2.1945年2月25日,沖縄住民を管理するために、米軍各師団・軍には形式の異なるA、B、C、Dの四つの民間政務部隊Civil Affairs units が配置された。
 Aチーム(将校4名,下士官兵11名):各師団に配置され、住民を戦闘地域から避難させて住民集結キャンプを設置すると戦闘部隊とともに移動する(4月1・2日上陸)。6チームあり。

Bチーム(将校8名,下士官兵19名):各師団と軍に配置され、Aチームの移動後住民集結キャンプを引き継ぐ(4月2・3日上陸)。3チームあり。

Cチーム(将校10名,下士官兵26名):キャンプチームとも呼ばれ、各師団を統括する二つの軍に配置される。約1万人規模のキャンプの設置、運営を任務とする(最初の上陸は4月3日)。13チームあり。

Dチーム(将校22名,下士官兵60名):地区チームとも呼ばれ、駐留のはじめに上陸する(最初の上陸は4月27日)。沖縄が軍政地区に分割されると地区内のCチームを管理する。Bチームを吸収して6万から10万人規模の民間人地区を統治する。6チームあり。
(『沖縄県史 琉球列島の軍政』26頁を紹介した読谷村史  >「戦時記録」下巻  >第四章 米軍上陸後の収容所豊田純志から一部引用)

写真(右):米兵に後送される負傷者;海上に停泊する艦船に負傷者を運び,後方基地,本国に後送する。

米陸軍公刊戦史Chapter XVI Behind the Front;Military Governmentによれば,1945年4月1日の米軍沖縄上陸から,米軍による軍政下におかれる沖縄住民が急増し,4月末は,住民12万6876人が米軍軍政下に保護・収容された。そして,首里の防衛線が崩壊する5月中に,その数は増え続け,6月初めには,14万4331人にまで増加した。

1944年4月30日,沖縄の住民12万5000人が米軍の軍政下にあったが,安全保障上の理由から戦場から離れた集落に集められたり,鉄条網で囲われた収容所に入れられた。3万1825人のいる囲われた収容キャンプもあった。

住民に対する扱いは,
?人道的配慮・人権保護という側面と並んで,
?日本軍に関する軍事情報(陣地の位置,兵力,装備など)の取得,
?日本の世論把握といった情報戦の側面,
?人権を重視した民主国家であり正義の戦争を行っているというプロパガンダの側面もある。
また,沖縄住民の保護を可能にした豊かな物資とそれを支える経済力も指摘しておく必要があろう。

日本軍に対して,投降を促す試みとして,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初は,効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵の投降関心のない将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。


写真(左):沖縄島の米軍補給基地写真(右);米兵に鹵獲された寺院の梵鐘 ;製鉄所ない沖縄では金属供出運動はあまり行われず,梵鐘も残っていたのか。


写真(左):戦利品の寄せ書き日章旗と九九式軽機関銃を誇示する米兵沖縄の米軍第96師団;これらの持ち主だった日本兵は殺されたのであろう。写真(右): 37ミリ対戦車砲で日本軍陣地を砲撃する米軍第96師団

沖縄戦 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では,沖縄戦における人的被害,民間人の被害について,次のように説明している。

 第二次世界大戦における、日本国内(マリアナ諸島および占領地域を除く)で民間人を巻き込んだものとしては最大の地上戦である。また、民間人の犠牲者が、戦闘員の死者よりも多かったのもこの戦闘の特徴である。日本側の死者・行方不明者は、沖縄県援護課の調査によると18万8136人で、うち12万228人が民間人(戦闘に協力した民間人を含む)。負傷者数は不明。アメリカ軍の死者・行方不明者は1万2千人で、負傷者7万2000人。ただし、日本側の死者数は戸籍の焼失などにより全面的な調査は行われていないため、実数はこれを大きく上回るという指摘がある。

写真(右):沖縄宜野湾道路を進撃する第96師団第382歩兵連隊;1945年4月。On the Ginowan road, men and armor of the 382d Infantry, 96th Division, move through a wooded area, alert for concealed enemy positions.

日本軍には、防衛隊,学徒隊、従軍看護婦など、現地で徴集した軍属が含まれていた。これらを合計して,沖縄の民間人出身の軍人軍属は2万8228人である。沖縄の民間人出身を除くと,本来の正規の日本軍兵士の戦死者6万5908人である。

また、「戦闘参加者」というのは、住民のうち援護法の適用を認められ遺族年金などが支給されている戦没者のことである。軍人,軍属,民間人からなる沖縄県出身者の戦没者は12万2228人に達するという。さらに,山中や孤島でマラリア病・栄養失調で亡くなった者、乳幼児など,戦没者から抜け落ちている可能性がある。

沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失,揚陸補給物資重量

沖縄戦でのゲリラ戦と捕虜


写真(右):米軍の揚陸艦の接岸上陸海岸
;Ship-to-shore supply causeway at Hagushi beaches .

(出会った友軍の)二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、二人が隠れていた壕に泊めてもらった。

---翌朝、この壕を出て海岸に出た。 ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、 その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。(引用終わり)

伊江島の日本軍の戦死者は住民を含めて4706名に及んだ。米軍の戦死者172名、負傷902名、行方不明46名、死傷者合計1120名。


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