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◆ハインケル(Heinkel)He112戦闘機
写真(上)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He-112戦闘機
;1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Stephen Greensted Heinkel 70 about to depart
Heinkel, He 112 Title: Heinkel, He 112 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 112 Tags: Heinkel, He 112.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081309引用。



図(上)1938年、ドイツ空軍が審査したハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機
;ドイツ空軍は最終審査でメッサーシュミットBf109を制式することを決定したが、ハインケルは、ルーマニア、ハンガリー、日本にHe112を輸出することができた。
Description Heinkel He 112 in der Luftwaffenausführung 1938 Date 10.01.2013 Source Own work (Original text: Selfmade) Author PimboliDD
図はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 112,File:He 112 Luftwaffenversion.png。

ドルニエ(Dornier)Do-17 ◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒の中で決めないでほしい」と語った。これは、徴兵復活、軍備強化、独裁政権獲得という願望である。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。

写真(右)1941年4月21日,アドルフ・ヒトラー総統(右)と会談する海軍総司令官レーダ元帥(黒の制服),空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(薄いブルーグレーの制服),陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥(左):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1915年までは偵察員だったが,1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。
Bauer撮影。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-L18622引用(他引用不許可)。


1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1940年6月のフランス降伏で,元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,の裏切りに怒り,ゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る


1.エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)

図(右)1982年作成、ドイツ、ハインケル(Heinkel)教授のポートレット画;スペイン内戦に活躍したハインケルHe-111爆撃機と第二次大戦末期に部隊配備されたハインケルHe-162ジェット戦闘機が背景に描かれているが、どちらも第二次世界大戦の軍用機である。
Heinkel, Dr. Ernst Hall of Fame Portrait 1982
Catalog #: BIOH00212 Last Name: Heinkel First Name: Dr. Ernst -
写真は,SDASM Archives Catalog #: BIOH00212引用。


エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)略歴
生誕日:1888年1月24日
生誕地:グルンバッハ(Grunbach)
死没日:1958年1月30日(70歳)
死没地:シュトゥットガルト(Stuttgart)

学歴:シュトゥットガルト工科大学(Technischen Hochschule Stuttgart)
専門:航空技術
学位・資格:博士・教授
勤務先:LVG社、アルバトロス社、ハインケル社

業績
世界初のロケット機He176の初飛行(1939年6月20日)
世界初のジェット機He178の飛行(1939年8月27日)

エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、1888年1月24日、ドイツ南部、ヴュルテンベルク州シュヴァーベン(Schwaben)地方のグルンバッハ(Grunbach )に生まれ、自ら独立心旺盛で自尊心の高い短気なシュワーベン人であると自負していた。
1958年1月30日、シュトゥットガルトで死去。

写真(右)1937年11月、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888-1958)と1939年3月30日、新鋭機He100戦闘機試作8号機機V8(D-IDGH)で世界最速記録を樹立したハンス・ディタレ(Hans Dieterle):エルンスト・ハインケル航空機工場のトップとして大活躍した。30 March 1939: At 5:25 p.m., Ernst Heinkel Flugzeugwerke GmbH test pilot Hans Dieterle, flying a high-performance prototype fighter, the Heinkel He 100 V8, D-IDGH, entered a measured 3 kilometer course near the factory’s airfield at Oranienberg, Germany. He would attempt to set a new Fédération Aéronautique Internationale (FAI) World Record for Speed Over a 3 Kilometer Course.¹
Signature Bild 183-S34632 Original title Scherl: Weltrekorde werden "verarbeitet" UBz: die beiden Piloten der zweimotorigen Heinkel-Landmaschine, Flugkapitän Nitschke (links) und Flugzeugführer Dieterle (rechts), die am Montag drei Geschwindigkeits-Weltrekorde über 1.000 km für die deutschen Farben errangen, zusammen mit dem Konstrukteur der Heinkelmaschinen, Dr. Ernst Heinkel (Mitte), mit dem sie ihre Erfahrungen auf dem Rekordflug besprechen. 23.11.1937 [Herausgabedatum] 15007-37 Archive title Vlnr: Gerhard Nitschke, Ernst Heinkel, Hans Dieterle im Gespräch Date November 1937
写真はドイツ連邦アーカイブ,Das Digitale Bildarchiv des Bundesarchivs, Bild 183-S34632.引用。


第一次世界大戦時、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel:1888年1月24日-1958年1月30日)は、ドイツの航空機メーカー、アルバトロス(Albatros)社で主に設計の仕事をし、戦後の1922年には、ドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデ (Warnemünde) にハインケル航空機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。

写真(右)1937年11月、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888-1958)と1939年3月30日、新鋭機He100戦闘機試作8号機機V8(D-IDGH)で世界最速記録を樹立したハンス・ディタレ(Hans Dieterle)
Description Русский: Хейнкель и пилоты его фирмы Date photo is taken at 11938 Source Heinkel He 100 // Война в воздухе ?140 - 2005 год. Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Ernst Heinkel, File:Хейнкель и пилоты.JPG引用。


ヴァーネミュンデのハインケル工場は、バルト海を挟んでスウェーデンに面しており、1919年のベルサイユ条約によって軍用機の開発・保有を一切禁止されたドイツにあって、対岸のスェーデンで、秘密裏に軍用機でも開発できるという利点があった。この軍用機は、空軍を禁じられたドイツ向けというより、外国への輸出販売用だった。

ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、1935年3月16日、ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄して、ドイツ再軍備宣言した。その直後の1933年5月、ドイツ国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、第一次大戦と同様だった陸軍航空隊を1933年4月設立の航空省に移管し、それまで民間スポーツ機などの名目で保有していた航空機も併せてドイツ空軍(Luftwaffe)を設立した。

写真(右)1940年頃(?)、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888-1958):エルンスト・ハインケル航空機工場のトップとして大活躍した。
Portraitserie Ernst Heinkel
Datensatz 70246185
Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait
Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050035引用。


1935年3月16日のドイツ再軍備宣言から半年以上経過した1935年11月7日、第一次大戦勃発の時1914年生まれの成人男子に徴兵が開始され、それまで10万人だった共和国軍(ライヒスヴェア)は、50万人の国防軍(ヴェアマハト)へ拡張された。

ドイツ空軍は、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの下、航空省次官エアハルト・ミルヒが編成・生産の実務を担当したが、航空省とドイツ空軍は事実上、一体化することになった。エルンスト・ウーデットが航空省技術局長に就任したのは、翌年1936年6月である。

1936年には、ラインラントの無武装地帯に武力進駐を強行し、同年に勃発したスペイン内戦に反乱側フランコ将軍支援の陸・空軍兵力を派兵している。

写真(右)1940年9月、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888-1958)と技師:エルンスト・ハインケル航空機工場のトップとして大活躍した。30 March 1939: At 5:25 p.m., Ernst Heinkel Flugzeugwerke GmbH test pilot Hans Dieterle, flying a high-performance prototype fighter, the Heinkel He 100 V8, D-IDGH, entered a measured 3 kilometer course near the factory’s airfield at Oranienberg, Germany. He would attempt to set a new Fédération Aéronautique Internationale (FAI) World Record for Speed Over a 3 Kilometer Course.¹
ignatur Bild 183-2009-0317-500 Originaltitel Wehrwirtschaftsführer Prof. Dr. Ernst Heinkel. Prof. Heinkel bekümmert sich auch um die Lehrlingsausbildung. Bei der Entgegennahme eines Berichtes eines Lehrlings über seine Ausbildung. September 1940 [Herausgabedatum] Datierung September 1940
写真はドイツ連邦アーカイブ,Das Digitale Bildarchiv des Bundesarchivs, Bild 183-S34632.引用。


スペイン内戦は、1936年にスペイン共和国政府にフランコ将軍らが起こしたファシストの反乱による内戦だが、ドイツはイタリアとともにファシスト反乱軍を軍事援助し「コンドル軍団」を派遣した。そして、1937年4月26日のゲルニカ空襲には、無差別爆撃として悪名高い。ドイツ・コンドル軍団によるゲルニカ爆撃には、主力ユンカースJu52爆撃機のほかに、ハインケル He111爆撃機、ハインケルHe51戦闘機も攻撃に投入されている。

1922年、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、ドイツ北部バルト海沿岸、ポンメルン州ヴァーネミュンデ (Warnemünde)に、ハインケル航空を設立した後、ベルサイユ条約の航空兵器保有禁止の条項をかいくぐるために、対岸のスウェーデンで軍用機の開発を行った。この高性能水上偵察機は、日本海軍の注目するところとなった。

エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)航空機工場は、1922年にドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデWarnemünde)に設立された。ここでは、日本海軍のために、1925年、HD-25水上機、すなわち愛知航空機 二式複座水上偵察機を開発している。日本は、第一次大戦の戦勝国だったが、敗戦国ドイツから鹵獲した兵器・飛行機に注目して、再審議医術の取得に熱心だった。

当初、日本は、特許やライセンスに無頓着に、技術を模倣して取り入れていたが、そのうちライセンス料をようになった。のして、日本陸海軍が同じダイムラーベンツDB601液冷エンジンのライセンスを取得するのに、陸海軍が別個にライセンス料を支払うという無定見ぶりを発揮している。

写真(右)1940年頃、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888-1958):孫娘と一緒の写真かと錯覚してしまう。
Portraitserie Ernst Heinkel
Datensatz 70246186
Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait
Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050037引用。


1881年1月24日生まれのエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、二人兄弟、3回結婚し、連れ子2人を含め7人の子供をもつ。1938年ニュルンベルク開催のナチ党大会では、ハインケルに対して、国家芸術科学賞が授与されており、軍需生産に依存したハインケル航空工場の繁栄がもたらされた。
1958年1月30日、シュッツガルトで逝去。

 ハインケルは、1932年9月にHe70高速輸送機を初飛行させ、1935年のドイツ再軍備宣言後には、ドイツ空軍の創設に伴い高速輸送機として開発したハインケルHe111を爆撃機として採用させ、さらにハインケルHe51複葉戦闘機の量産をも受注することで、ドイツ有数の航空機メーカーに成長していった。

1933年1月末、ナチ党総統アドルフ・ヒトラーが、首相に任命され、1935年にドイツ再軍備を宣言して、ドイツ空軍を設立すると、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、政権獲得前から既存の飛行機を活かして、軍用機として開発したHe59双発水上機He60水上偵察機などを採用された。

写真(右)1940年頃、自ら設計した新品のハインケルHe111爆撃機H/P型を背景にしたエルンスト・ハインケル教授は、スーツ左襟のフラワーホールにスワスチカ卍のナチ党徽章(党員バッチ)を付けている。エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士の後方には、機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型が控えている。ただし、機首の図宇座には、モーゼルMG15旋回機関銃は設置されておらず、軍に引き渡し前の機体のようだ。
Beeldnummer 44748 Collectie NIOD
Trefwoorden Luftwaffe, Gevechtsvliegtuigen, Vliegtuigen, Duitse strijdkrachten
Bijschrift Formatie Heinkel 111, gevechtsvliegtuigen.
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 44748 引用。


He70高速機 エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。アドルフ・ヒトラーの唱える国家社会主義に共鳴し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党:NSDAP)に入党した。

ハインケルは、自伝によればスピード感に陶酔しており、スピードへの追及に熱心で、He70高速輸送機のような凝った設計の高速機を開発した。He70高速輸送機は、1932年にドイツ・ルフトハンザ航空に採用されている。

ハインケルが、ワイマール・ドイツ共和国時代にひそかに開発した軍用機は、特に斬新な設計ではなく、性能も平均的なものだった。しかし、ドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデWarnemünde)のハインケル航空機工場は、軍需を得て航空機メーカーとして、順調に資本形成を進めることができた。そして、工場の拡張によって飛行機製造能力も高まったのである。

写真(右)1941年7月11日、ドイツ、ハインケル航空機工場(?)、背広左襟フラワーホールにスワスチカ卍のナチ党員バッチを付けたエルンスト・ハインケル教授と技師のジークフリート・ギュンター(Siegfried Günter: 1899-1969):ヴァルター・ギュンター(Walter Günter:1899-1937年9月21日)は双子の兄弟でやはりハインケルの技師だった。
Title Ernst Heinkel, Siegfried Günter Info non-talk.svg
II. Weltkrieg 1939-45 Rüstungsindustrie im faschistischen Deutschland, Juli 1941 Der Flugzeugkonstrukteur Prof. Ernst Heinkel (r.) überprüft und verändert die Konstruktionszeichnung eines Mitarbeiters.
Depicted people Heinkel, Ernst Prof. Dr. Ing.: Flugzeugkonstrukteur, Deutschland Günter, Siegfried: Flugzeugkonstrukteur, Deutschland Date July 1941
写真は,Category:Ernst Heinkel, File:Bundesarchiv Bild 183-1982-1022-509, Flugzeugkonstrukteur Prof. Ernst Heinkel.jpg引用。


双子の兄弟ヴァルター・ギュンター(Walter Günter:1899-1937年9月21日)もドイツ航空省の飛行技師だった。1931年にエルンスト・ハインケル航空機工場に入社したギュンター兄弟は、ドイツ北東部バルト海沿岸ロストック、ヴァーネミュンデWarnemünde)のハインケル工場で、He51複葉戦闘機、He70高速輸送機、He111旅客輸送機、He112戦闘機などハインケルの代表的な飛行機を設計した。

ヴァルターは、1937年9月21日に交通事故で死亡。その後、ジークフリート・ギュンター(Siegfried Günter)は、He100戦闘機、He176ロケット機、He178ジェット機、He280ジェット機の設計に加わっているが、いずれも試作実験機のみである。また大量生産が決まった国民戦闘機He162ジェット戦闘機も、戦局悪化、終戦によって少数の量産に終わっている。

He178ジェット機は、世界最初のターボジェット推進機で、第二次大戦勃発1週間前の1939年8月27日にテストパイロットのエーリッヒ・ワルシッツ (Erich Warsitz) にって初飛行した。総重量1,998 kg、ハインケルHeS 3b ターボジェットエンジン(推力450 kg)1基を胴体内部に搭載、最高速力700 km/h(計画値)、航続時間10分で、兵装はなかった。

  写真(右)1941年8月9日、ハインケルHe111爆撃機の模型を子供に見せているエルンスト・ハインケル教授:機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型の模型。
Beeldnummer 44741 Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany
Trefwoorden Duitsers, Luftwaffe, Kinderen, Vliegtuigen, Speelgoed
Personen Heinkel, Ernst
Bijschrift Model He 111 Ein grosser und zwei kleine Heinkel. Doch dies und das gibt's zu erkunden, (Für manches ist die Hand zu klein). 'Ach wer das Flugzeug hat erfunden, Der muss doch schrecklich tüchtig sein!'
Datum 09/08/1941
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 44741 引用。


1933年1月末、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)アドルフ・ヒトラー総統がドイツ首相に任命され、その後の国会議事堂放火事件、大統領緊急令、全権委任法の成立によって、ナチ党独裁政治が始まった。密かにドイツ再軍備が実行に移され、ドイツ向けの軍用機を開発するようになった。

  写真(右)1942年頃、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel:1888年1月24日-1958年1月30日)
Ernst Heikel, Walter Funk, Ferdinand Porsche Neue Pioniere der Arbeit Links: Professor Dr. Ing. e. h. Dr. phil. h. c. Ernst Heikel, der bekannte Flugzeugkonstrukteur und Leiter der Heinkel Flugzeugwerke; Mitte: Reichswirtschaftsminister und Reichsbankpräsident Walter Funk; Rechts: Professor Dr. Ing. e. h. Ferdinand Porsche, der Schöpfer und Entwickler des deutschen Volkswagens. 29.4.42 [Herausgabedatum] AV 67446 1942 Collection German Federal Archives Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-B21019
写真は,© SLUB / Deutsche Fotothek / Eschen, Fritz Category:Ernst Heinkel, File:Ernst Heinkel.jpg引用。


1935年にドイツ再軍備宣言が出され、その直後にドイツ空軍が設立されてからは、ハインケルは、He 59複葉戦闘機、ハインケルHe-115双発水上偵察攻撃機、ハインケルHe111双発爆撃機などを開発し量産した。そして、これらの期待は、スウェーデン、スペインなどでも採用され、輸出や外国製造ライセンス料の収入をもたらした。

第二次大戦前に、ハインケルHe112戦闘機を開発したが、Bf109戦闘機との競争試作に敗れた。この理由は、飛行性能的に若干劣っていたこと、量産性に難点があったことであるが、エルンスト・ハインケルがナチ党やヒトラーとの相性が悪かったことも指摘されている。ただし、このようなハインケルの自由闊達な性格がもたらしたナチ党全体主義・反ユダヤ主義への嫌悪といったものは、戦後になって自著で述べられてはいるが、当時のハインケルは、ナチ党への追随的行動をとっていた。

写真(右)1942年4月24日、ドイツ、自ら開発したハインケルHe115 水上偵察機をバックにした教授エルンスト・ハインケル博士(Professor Dr. Ernst Heinkel);He115の搭載したBMW132空冷星形9気筒エンジンと3翅プロペラが背後に見える。
Collectie NIOD
Trefwoorden Duitsers, Luftwaffe, Oorlogsindustrie, Vliegtuigen, Portretten
Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany
Personen Heinkel, Ernst
Bijschrift Professor Heinkel zum Pionier der Arbeit ernannt. Auf Grund seiner hervorragenden Leistungen auf den Gebiet des deutschen Flugzeugbaues wurde Professor Ernst Heinkel, der Schöpfer zahlreicher unübertroffener Flugzeugtypen vom Führer zum Pionier der Arbeit ernannt. Professor Dr. h.c. Ernst Heinkel vor einen seiner Kampfflugzeuge, der He 115.
Type Foto
Datum 24/04/1942 Datum type Opname
写真は Beeldbank WO2 : Beeldnummer 29482引用。


エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、振動力のジェット・エンジンにも注目し、世界初となるターボジェット搭載のジェット実験機ハインケル He178を完成させ、1939年8月27日にジェット初飛行に成功した。これは、エルンスト・ハインケル博士によれば、スピードへの陶酔の発露であるが、高度の軍事技術への関心の大いにあったはずだ。

He-162ジェット 実際、ハインケルの開発した世界初のジェット機ハインケル He178の初飛行は、第二次世界大戦の始まる5日前だった。しかし、ドイツ空軍は、ジェットエンジン無しでも戦争は勝利できると過信しており、このハインケルHe178には実用性がないと考え注目しなかった。ジェットが実用化されたのは、1943年末だったが、実際にハインケルにジェット戦闘機He162の量産が始まったのは、1945年に入ってからだった。

ハインケルは、ベルリン郊外のドイツ飛行機工場(Luftverkehrsgesellschaft m.b.H. :LVG) に入社したが、この工場が、ファルマン(Farman)機の製造を始めたのは入社時の1912年だった。その後すぐにアルバトロス航空機工場(Albatros Flugzeugwerke)に移り、アルバトロス(Albatros)B.II複葉偵察機の設計にかかわったが、これは1913年の第一次大戦勃発前年のことだった。1914年の第一次世界大戦のときは、アルバトロスを出て、ハンザ・ブランデンブルク(Hansa-Brandenburg)で、水上機などを設計した。


Ernst Heinkel - Ein Pionier der Luftfahrt - Aufnahmen der Typen He 70, 100, 111, 178, 28
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写真(右)1941年頃、ドイツ、自ら設計したハインケルHe111Hを飛行士とともに視察するエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士[中央](1888-1958):エンジンの左側に空気取り入れ口インテイクがあるので装備した発動機はユモJumo211液冷エンジンでHe111H型が装備した。他方、ダイムラーベンツ(Daimler-Benz)DB601液冷エンジンはインテークが右側にあり、これを装備したのがHe111P型である。
Perma_000757 Permann Collection Image
Ernst Heinkel, Famous Nazi Plane Designer --Perman Collection Image
Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SmugMug+Flickr., SDASM Archives引用。


ハインケル(Heinkel)He111P爆撃機の発動機は、単発のメッサーシュミットBf109戦闘機、双発のBf110駆逐戦闘機と同じダイムラーベンツ(Daimler-Benz)DB601液冷エンジンを搭載した。

しかし、ダイムラーベンツDB601液冷エンジンは、戦闘機専用として優先配備することになり、代替策として、より大型で重いユモ(Jumo)211液冷エンジンに換装したHe111H爆撃が開発、量産された。

ハインケル(Heinkel)He111Pでは、DB601エンジンの左側に空気取り入れ口インテイクがあるのに対して、He111Hでは、ユモJumo211エンジンの右側にインテークがあるので、両者の区別は可能である。

 第二次大戦中のハインケルは、ヴァーネミュンデWarnemünde)で旧式化したHe111爆撃機を量産し続け、失敗作となったHe177四発重爆撃機を制式させ量産を開始し、さらに国民戦闘機He162ジェット戦闘機の第量産の準備を進めるなど、ドイツ政府、空軍との関係は終始良好だったのである。

他方、空軍幹部の無理解で採用されなかったHe280ジェット戦闘機、ミルヒの横やりで200機の生産に留まったHe219夜間戦闘、など不遇な傑作機といえる機体もあり、ハインケルの評価は難しいことも確かである。

⇒写真集(Album)エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel) を見る。


2.新生ドイツ空軍初の制式ハインケルHe-51複葉戦闘機

写真(右)1935年8月、ドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機の機首正面と整備兵: 1933年5月にHe70と同一のBMW VI V型12気筒液冷ガソリンエンジン(750馬力)1基装備して初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。He-70輸送機とは異なる堅実な設計で、斬新なデザインを取り入れていない。ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、たかだかHe70高速輸送機以降に浸透しはじめた方針であり、当初から天才的才能があったというのは自画自賛であろう。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 Signatur Bild 102-04674 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz. Archivtitel Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeug Heinkel He 51 Datierung 3. August 1935 Fotograf Pahl, Georg
写真はドイツ連邦アーカイブ,Das Digitale Bildarchiv des Bundesarchivs, Bild 102-04674 引用。


第一次世界大戦に敗北し、ベルサイユ条約の軍備制限の下に置かれたドイツ共和国では、軍用機の保有を禁じられており、空軍兵力は持つことができなかった。しかし、ドイツの航空機メーカーは、ユンカース、ハインケル、ドルニエともに、輸送機やスポーツ機といった民間機を開発しており、それを軍事転用することも可能だった。ハインケルHe-51も宙返りやアクロバット飛行するスポーツ機として航空省に採用されている。

ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、1935年3月1日、ドイツの再軍備宣言をし、その後、ドイツ空軍も再建した。この新生ドイツ空軍の最初の制式戦闘機が、1933年5月初飛行のハインケルHe51戦闘機である。 ハインケルHe51は、複葉機で胴体も羽布張り、固定脚であったから、後のHe70輸送機、He112戦闘機のような全金属製単葉低翼の高速機とは全く異なる旧式機だった。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、BMW VI 73Z液冷V型12気筒エンジン 750馬力)装備のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機の3機の列機(登録コード:D-IRKO 他);1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に黒のナチ党卍カギ十字スワスチカを赤帯白丸に付けている。He-70輸送機やHe112戦闘機とは異なって、古風な羽布張り胴体に複葉、固定脚の第一次大戦以来の古風な設計である。目新しさはない
Ray Wagner Collection Image Heinkel 51 C
PictionID:46168667 - Catalog:16_007351 - Title: Heinkel 51 C Nowarra Collection - Filename:16_007351.TIF- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168642引用。


ハインケルHe51戦闘機は、He70と同様のBMW VI 液冷V型12気筒エンジン(750馬力)1基を搭載しているが、設計方針はHe70輸送機とは全く異なる。エルンスト・ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、He70高速輸送機には当てはまっても、He51戦闘機は堅実というより時代遅れの設計である。

複葉、固定脚、羽布張というHe 51戦闘機の構造は、単葉、引込み脚、全金属製の飛行機が搭乗していた時期には、旧式すぎする。ハインケルが当初から天才的才能があったというのは自画自賛で、アメリカのロッキードなど斬新な設計に着想を得てから、発展した思考であろう。

写真(右)1936年5月以降、スペイン(?)、スペイン内戦でドイツが派遣したコンドル軍団のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機;ファシスト反乱軍の国籍マークは、胴体に黒丸、垂直尾翼に白地に黒のX印である。1936年7月〜1939年3月にスペイン人民戦線政府と反乱軍の内戦が続いた。ヒトラーとムッソリーニは、ファシスト反乱軍のフランシスコ・フランコを援助するために義従軍を派遣した。ソ連は人民戦線内閣に義勇軍を派遣した。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007352 - Title:Heinkel He 51c in Spain - Filename:16_007352.TIF- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168680引用。


ハインケルが、斬新な高性能機を開発しまくったというのは、He70高速輸送機の斬新なデザインが一般的となったかのような過大評価に基づくプロパガンダ、俗説である。当時、すでにソ連のI-153複葉戦闘機は引込み式降着装置を装備、I-16戦闘機は単葉・引込み脚で、ドイツのハインケルHe51戦闘機より100km/h近く速い高速戦闘機だった。

⇒写真集(Album)ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機を見る。


2.Bf109に敗れたハインケル(Heinkel)He 112戦闘機

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 112V-1 戦闘機の試作1号機(登録コード:D-IADO);He 112V-1 戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_005280 - Title:Heinkel He 112V-1 Nowarra photo - Filename:16_005280.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935836引用。


1933年1月末に首相に任命されたヒトラーは、ベルサイユ条約を反古にして航空省を空軍省に軍事化すべく、旧式化するのが明白だったハインケルHe51複葉戦闘機を、金属製で単発単葉、引込み式降着装置の高速戦闘機に更新しようと、新戦闘機の開発をドイツの航空機工場に要請した。

この航空省の新型戦闘機試作要請に応えて完成した有力候補が、1935年に完成した低翼のハインケルHe112とメッサーシュミットBf109だった。He112は、He70単発高速輸送機から引き継いだ逆ガル楕円翼を採用していた。Bf109よりも左右主翼下面から延びる主脚の車輪間隔を広くとっていたために、地上での安定性が良く、地上での方向転換も容易だった。

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 112V-2戦闘機の試作2号機(登録コード:D-IHGE);He 112V-2戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935728 - Catalog:16_005270 - Title:Heinkel He 112V-2 Nowarra photo - Filename: 16_005270 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935728 引用。


新戦闘機の試作審査には、アラドAr80、フォッケウルフFw159も開発され、審査に参加したが、パラソル翼で低速だったために、最終候補はハインケルHe112とメッサーシュミットBf109の2機種になった。He-70が搭載したBMW液冷エンジン500馬力よりも高出力の同じユモJumo210液冷エンジン650馬力を装備したハインケル(Heinkel)He-112戦闘機とメッサーシュミットBf109だったが、1935年10月に行われた比較審査では、ハインケルHe112の最高速力は440 km/h、メッサーシュミットBf109の最高速力は467 km/hで、ハインケルHe112は30 km/h以上低速だったうえに、上昇能力も低かったため。また、He112の楕円翼は、量産性に問題があったため。結局、ハインケルHe112は、ドイツ空軍の戦闘機としては制式されずに終わった。

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 112V-3戦闘機の試作3号機(登録コード:D-IDMO);He 112V-3戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_005271 - Title:Heinkel He 112V-3 Nowarra photo - Filename:16_005271.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935740 引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 112V-3戦闘機の試作3号機(登録コード:D-IDMO);He 112V-3戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935716 - Catalog:16_005269 - Title:Heinkel He 112V-3 Nowarra photo - Filename: 16_005269 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935716引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He-112V-4戦闘機の試作4号機;He-112V-4戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
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- Catalog:16_005278 - Title:Heinkel He 112V-4 Nowarra photo - Filename: 16_005278. TIF -- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935824 引用。


1933年のドイツ航空省による新型戦闘機の競争試作には、1935年9月初飛行のハインケルHe112と1935年5月28日初飛行のメッサーシュミットBf109とが最終候補に残った。この2機の比較審査で、最高速力、上昇性能、量産性の観点で劣るとされ、He112のドイツ空軍での制式は見送られた。

ハインケル He 112 A-0 V4戦闘機の諸元
乗員Crew: 1名
全長Length: 9 m (29 ft 6 in)、全幅Wingspan: 11.5 m (37 ft 9 in)、全高Height: 3.7 m (12 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 23.2 m2 (250 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,680 kg (3,704 lb)
最大離昇重量Max takeoff weight: 2,230 kg (4,916 lb)
発動機Powerplant: 1 × Junkers Jumo 210Da V-12液冷」ガソリンエンジン 514 kW (689 hp)
プロペラPropellers: 3翅(bladed)可変ピッチ(variable-pitch)

性能Performance
最高速力Maximum speed: 488 km/h (303 mph, 263 kn) /3,500 m (11,483 ft)
航続距離Range: 1,100 km (680 mi, 590 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 8,000 m (26,000 ft)
翼面過重Wing loading: 102.5 kg/m2 (21.0 lb/sq ft)

兵装Armament
2 × 7.92 mm (.312 in) MG 17機関銃(機首)
2 × 20mm エリコン(Oerlikon)MG FF機関銃(主翼)

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、無塗装のハインケル(Heinkel)He 112V-5戦闘機の試作5号機;He-112V-5戦闘機のコックピットは、開放式である。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
Catalog:16_005272 - Title:Heinkel He 112V-5 Nowarra photo - Filename: 16_005272 .TIF- - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935752 - 引用。


ハインケル(Heinkel)He-112戦闘機は、He-70のBMW液冷ガソリンエンジン500馬力よりも高出力のJumo210液冷エンジン650馬力を装備した。しかし、1935年10月の比較審査では、最高速力は440 km/hで、同じエンジンを搭載したメッサーシュミットBf109試作機の最高職力467 km/hより30 km/h以上も低速で、上昇力も劣っていた上に、量産性に問題があったためにドイツ空軍の戦闘機としては制式されずに終わった。

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He 112V-6戦闘機試作6号機;1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_005279 - Title:Heinkel He 112V-6 Nowarra photo - Filename: 16_005279 .TIF - -- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935851引用。


1933年1月末に首相に任命されたヒトラーは、ベルサイユ条約を反古にして航空省を空軍省に軍事化すべく動き出した。そこで、ドイツ航空省は、旧式化するのが明白だったハインケルHe51複葉戦闘機を、金属製で単発単葉、引込み式降着装置の高速戦闘機に更新しようと、新戦闘機の開発をドイツの航空機工場に要請した。この試作要請に応えて完成した有力候補が、1935年に完成した低翼のハインケルHe112とメッサーシュミットBf109だった。He112は、He70単発高速輸送機から引き継いだ逆ガル楕円翼を採用していた。Bf109よりも主脚の感覚を広くとり、地上安定性が良かった。

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、半開放式コックピットのハインケル(Heinkel)He 112V-7戦闘機試作7号機(登録コード:D-IKIK);試作機は無塗装だが、このほうが空気抵抗か少なくなる。しかし、海風や砂埃などで機体表面が損傷しやすくなる。また、地上に待機しているときに、銀色なので光を反射し地表に混じることができないので、上空から発見されい。したがって、軍用機は、戦地の制空を掌握していない場合、迷彩塗装を施すのがふつうである。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_005273 - Title:Heinkel He 112V-7 Nowarra photo - Filename: 16_005273 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935764引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He 112V-8 戦闘機試作8号機(登録コード:D-IRXO);1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_005274 - Title:Heinkel He 112V-8 Nowarra photo - Filename: 16_005274 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935776 引用。


1938年9月29日から30日にかけて、ドイツ南部、ミュンヘンにおいて、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統領ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統が会談し、チェコスロバキアの北部で、多数のドイツ系住民が居住していたズデーテン地方のドイツ割譲を決定した。イギリスとフランスは、ドイツがこれ以上の領土割譲要求をしないとの条件で、1938年9月29日にミュンヘン協定に署名し、平和が守られたと宣言した。このミュンヘン会談は、第二次世界大戦前のイギリス・フランスの対ドイツ宥和の頂点にして、最後の機会だった。この時、ゲーリングは、ドイツ空軍がチェコ空襲をいつでも始める覚悟があると威嚇のポーズをとっていたのである。

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He 112V-9戦闘機試作9号機(登録コード:D-IGSI);1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_005275 - Title:Heinkel He 112V-9 Nowarra photo - Filename: 16_005275 .TIF- - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935788 引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He 112V-10戦闘機試作10号機(登録コード:D-???A);He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼で地面との距離が最も狭い折り目に降着装置を付けて、脚支柱の長さを短くしている。車輪は外側に閉じて、主翼内に収める。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_005276 - Title:Heinkel He 112V-10 Nowarra photo - Filename: 16_005276 .TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935800引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットのハインケル(Heinkel)He 112V-11戦闘機試作11号機(登録コード:D-IYWE);He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼で地面との距離が最も狭い折り目に降着装置を付けて、脚支柱の長さを短くしている。車輪は外側に閉じて、主翼内に収める。
Ray Wagner Collection Image - Catalog: 16_005283 - Title:Heinkel He 112V-11 Nowarra photo - Filename: 16_005283.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935888引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、無塗装のハインケル(Heinkel)He 112V-12戦闘機の試作12号機(登録コード:D-IRXS);He-112V-12戦闘機のコックピットは、密閉式に改良されている。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
Catalog: 16_005284 - Title:Heinkel He 112V-12 Nowarra photo - Filename: 16_005284 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935901 -引用。


写真(右)1937年、ドイツ、野外の未舗装飛行場のハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932)の正面;ユモJumo 210Da液冷倒立V型12気筒エンジン680 hp(排気量19.7 L)逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。引込み式降着装置には車輪止めが嵌められている。
Photographer: Eidgenössische Konstruktionswerkstätte (Thun) Find similar records Title:Flugzeug Heinkel He-112 Militärflugzeug, Tiefdecker, Kampfflugzeug, Immatrikulation D-IZMY, Deutschland, Flugplatz Thun.Special Size: 10,5 x 15 cm
The fourth prototype, the He 112 V4, pictured here, was in fact the first pre-series He 112A fighter with a 680 hp Jumo 210Da engine, a new wing of semi-elliptical planform and new horizontal tail surfaces. This aircraft was sent to Spain in December 1936 for operational evaluation with the Legion Condor.写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv, ETH Library Record Name: Ans_05035-255引用。


ドイツのハインケル(Heinkel)He 112 V4 戦闘機試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932)は、1936年12月にスペイン内戦に派遣され、ドイツ義勇軍(実際は正規軍)コンドル軍団で、反乱軍側のフランコ将軍派国民戦線を軍事援助した。

写真(右)1937年、ドイツ、格納庫の前で整備中のハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行したHe-112戦闘機のコックピットは、半開放式で、密閉式ではなかった。尾部を持ち上げて、機体を地面に平行にして整備している。
Photographer: Eidgenössische Konstruktionswerkstätte (Thun) Find similar records Title:Flugzeug Heinkel He-112 Find similar records Caption: Militärflugzeug, Tiefdecker.Special Size: 10,5 x 15 cm
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv, ETH Library Record Name: Ans_05035-260引用。



写真(上)1936-1938年頃、ドイツ、飛行するハインケル(Heinkel)He-112戦闘機
;コックピットは開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。1935年9月に初飛行、Bf109との競争試作に敗れ、量産されずに終わった。
Heinkel, He 112 Title: Heinkel, He 112 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 112 Tags: Heinkel, He 112 -
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081308 引用。



写真(上)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機の戦列
;1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。逆ガル楕円翼の形状が識別できる。
Description Heinkel He 112 PictionID:38237004 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002344.TIF - -------Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.-----------SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Date 30 June 2014, 14:41 Source Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album Author SDASM Archives .
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 112 File:Heinkel He 112 (15083319030).jpg引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機の戦列;1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Heinkel, He 112 Title: Heinkel, He 112 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 112 Tags: Heinkel, He 112 .
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081310引用。


写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);He 112V-1 戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼、2翅プロペラを採用し1935年9月に初飛行した。
Settore tedesco del Salone internazionale aeronautico del 1937 alla Fiera di Milano
Numero d'inventario Numero: 1937_SA_283 Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17 Indicazioni sul soggetto In primo piano l'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4 Identificazione del soggetto Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore tedesco.
写真は, Fiera di Milano 引用。


写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。胴体中央部左面にステップが設置され、操縦席コックピットの内部を見学できるようになっている。
one Numero d'inventario Numero: 1937_SA_283 Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17 Indicazioni sul soggetto In primo piano l'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4 Identificazione del soggetto Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore tedesco
写真, Fiera di Milano 引用。


写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932)の機首左側面;カバーを開けて、エンジンの一部分を見せている。He 112V-1 戦闘機のコックピットは、開放式であるが、さらに出入りしやすいように、左側が下方に開いて、開放部を大きくすることができる。2翅プロペラ装備のダイムラーベンツDB600液冷エンジンが間に合わなかったために、ユモJumo 210Daを搭載した。試作4号機V4は、最高速力485 km/hを記録し、これは1937年では、世界最高速力の実用的戦闘機といってよかった。1935年9月に初飛行し機体は、た。
Settore tedesco del Salone internazionale aeronautico del 1937 alla Fiera di Milano
Numero d'inventario Numero: 1937_SA_350
Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17
Indicazioni sul soggetto Particolare dell'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4Identificazione del soggetto Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore tedesco.
写真は, Fiera di Milano 引用。


ハインケルHe112初期試作機が搭載したユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)210は、1930年代にユンカース飛行機エンジン工場 (Junkers Flugzeug- und Motorenwerke) が開発した液冷倒立V型12気筒エンジンで、出力は600-700hpで、イギリスのロールス・ロイス ケストレルと同等の性能である。Jumo210の開発が始まったのは、1931年で、当初は社内で L10エンジンと命名されていた。初号機は1932年10月22日に稼働したが、すぐにユンカースJu W33輸送機の発動機として採用された。

ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)210液冷倒立V型12気筒エンジンは、機械式過給機を搭載し、1シリンダー当たり弁は3つあった。出力は、シリンダー容積のわりに小さいが、軽量で量産性に優れていたために、大戦中にも改良型が開発され、第二次大戦末期まで第一線機に長期間、使用された。

写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);;国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Ray Wagner Collection Image one Numero d'inventario Numero: 1937_SA_172 Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17 Indicazioni sul soggetto Alcuni visitatori ammirano l'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4 nel settore tedesco del Salone Identificazione del soggetto Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore tedesco - Visitatori Torna alla ricerca
写真は, Fiera di Milano


写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);;国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Settore tedesco del Salone internazionale aeronautico del 1937 alla Fiera di Milano Descrizione Numero d'inventario Numero: 1937_SA_285 Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17 Indicazioni sul soggetto In primo piano l'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4; sullo sfondo l'aereo da bombardamento Junkers Ju 86 K
写真は, Fiera di Milano


写真(右)1937年10月2日‐17日、イタリア、ミラノ国際航空祭、展示されたドイツのハインケル(Heinkel)He 112 戦闘機V4 試作4号機(登録コード:D-IZMY;製造番号 Nr.1932);He 112V-1 戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼、2翅プロペラを採用し1935年9月に初飛行した。
Settore tedesco del Salone internazionale aeronautico del 1937 alla Fiera di Milano
Numero d'inventario Numero: 1937_SA_283 Data post 1937/10/02 - ante 1937/10/17 Indicazioni sul soggetto In primo piano l'aereo da caccia Heinkel He 112 V-4 Identificazione del soggetto Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore tedesco.
写真は, Fiera di Milano 引用。


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、密閉式のコックピットに改良されたハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機の戦列;1933年1月に成立したヒトラー政権下の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けた。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用した。
Ray Wagner Collection Image - Catalog: 16_005277 - Title:Heinkel He 112B Nowarra photo - Filename: 16_005277.TIF .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935812引用。


写真(右)1938年5月14−22日、フィンランド、ヘルシンキ、展示されているドイツのハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機(D-IEFC)[奥];手前は、アラド(Arado)Ar 95複葉水上機で、胴体下面に魚雷(ダミー)を搭載している雷撃仕様。フィンランドは、ソ連と対抗する必要上、ドイツの新鋭戦闘機のBf109とHe112に注目して、導入を検討した。He112の発動機は、ユンカース社ユモJumo 210D液冷ガソリンエンジンで、試作1号機の初飛行は1935年9月だった。競争試作相手は、メッサーシュミットBf109、アラドAr80、フォッケウルフFw159であり、最終的にはBf109との一騎打ちになった。
Helsingin Messuhallin viereen rakennettuun paviljonkiin sijoitettu saksalaisen lentokoneteollisuuden osasto SILI 1938 -ilmailunäyttelyssä (toinen Suomessa järjestetty kansainvälinen ilmailunäyttely) 14.-22.05.1938. Esille asetettuina ovat etualalla Arado Ar 95 -meritoimintakone (D-ODGY) ja taustalla Heinkel He 112B-1 -hävittäjä (D-IEFC). COLLECTION Harju-Jeanty, Raoul ORGANISATION Finnish Aviation Museum IDENTIFIER SIM VK 34:93 MEASUREMENTS 12x9 cm Vedos PHOTO INFO 1938-05
写真は,FINNA.Fl, [奥]引用。


写真(右)1938年5月、フィンランド、ヘルシンキ、ハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機(D-IEFC);フィンランドは、ソ連と対抗する必要上、ドイツの新鋭戦闘機のBf109とHe112に注目して、導入を検討した。He112の発動機は、ユンカース社ユモJumo 210D液冷ガソリンエンジンで、試作1号機の初飛行は1935年9月だった。競争試作相手は、メッサーシュミットBf109、アラドAr80、フォッケウルフFw159であり、最終的にはBf109との一騎打ちになった。
Saksalainen Heinkel He 112 E D-IEFC pysäköitynä nurmikolle. Koneen kuomu on auki. Koneen takana näkyy poika polkupyörän kanssa ja ohiajava auto (Ford vm. 1935/36). Aineistotyyppi COLLECTION Harju-Jeanty, Raoul ORGANISATION Finnish Aviation Museum IDENTIFIER SIM VK 34:93 MEASUREMENTS 12x9 cm Vedos PHOTO INFO 1938-05;
写真は,FINNA.Fl, SIM VK 119:82引用。


写真(右)1938年、フィンランド、ヘルシンキ、飛行場を低空飛行するハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機(D-IEFC);フィンランドは、ソ連と対抗する必要上、ドイツの新鋭戦闘機のBf109とHe112に注目して、導入を検討した。He112の発動機は、ユンカース社ユモJumo 210D液冷ガソリンエンジンで、試作1号機の初飛行は1935年9月だった。競争試作相手は、メッサーシュミットBf109、アラドAr80、フォッケウルフFw159であり、最終的にはBf109との一騎打ちになった。
Saksalainen Heinkel He 112 E D-IEFC pysäköitynä nurmikolle. Koneen kuomu on auki. Koneen takana näkyy poika polkupyörän kanssa ja ohiajava auto (Ford vm. 1935/36). Aineistotyyppi Valokuva Kokoelma Hoffrén, Henri Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Tunniste SIM VK 267:36 Mitat 6 x 9 cm Vedos Kuvaustiedot 1938 Turku, Artukainen, Turun lentokenttä
写真は,FINNA.Fl, SIM VK 119:82引用。


写真(右)1938年、フィンランド、ヘルシンキ、ハインケル(Heinkel)He-112B-1戦闘機(D-IEFC);フィンランドは、ソ連と対抗する必要上、ドイツの新鋭戦闘機のBf109とHe112に注目して、導入を検討した。He112の発動機は、ユンカース社ユモJumo 210D液冷ガソリンエンジンで、試作1号機の初飛行は1935年9月だった。競争試作相手は、メッサーシュミットBf109、アラドAr80、フォッケウルフFw159であり、最終的にはBf109との一騎打ちになった。
Heinkel He 112 B-1 -hävittäjäkone (D-IEFC) Helsingin lentokentällä (Malmilla) kentän vihkiäisten aikoihin toukokuussa 1938. Content Type Photo Collection Puhakka, Olli Organisation Finnish Aviation Museum Identifier SIM VK 119:78 Measurements 9x6 cm Vedos Photo info 1938
写真は,FINNA.Fl, SIM VK 119:78引用。


ハインケルHe70を引き継いだ楕円型の曲面主翼「楕円翼」を採用したハインケルHe112戦闘機は、試作1号機が1935年9月に初飛行した。競争試作相手のメッサーシュミットBf109戦闘機よりも一回り大きく、将来のエンジン換装、武装強化、航続距離延長には有利だった。


ハインケルHe112の楕円主翼は、曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用されたが、これが量産性を低下させると判断された。こうして、量産性が低いこと、さらにドイツ空軍の幕僚たちとの政治的コネクションの観点から、ハインケルHe112はドイツ空軍では不採用となり、Bf109が制式された。

しかし、高性能のハインケルHe112戦闘機には、世界各国の軍隊が注目した。そして、日本、ハンガリー、ルーマニア、スペインは、最新技術を誇ったHe112戦闘機を購入・輸入した。そのため、He112戦闘機は、ドイツ空軍の制式ではないが、1939年までに100機が量産された。

写真(右)1940年頃、ルーマニア空軍が輸入し部隊配備したドイツ製ハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機;ルーマニアは20機以上のHe-112を購入したが、その内11機はユモJumo 210G液冷エンジンに換装したB-1型である。1941年6月以降の対ソ連戦に使用された。 尾翼にもルーマニアの三色旗を描いている。
Description Română: Un avion Heinkel He 112 românesc pe aeroportul din Focșani la sfârșitul anului 1942. Avionul era folosit la vremea respectivă pentru zboruri de antrenament. English: A Heinkel He 112 in FARR romanian livery at Focsani airport in the end of 1942. The plane was used at that time for training flights. Date 15 January 2011 (original upload date) Source Bernád, Dénes. Heinkel He 112 in action', p. 47, Carrollton, Texas: Squadron/Signal Publications Inc., 1996. Author The original uploader was Mircea87 at Romanian Wikipedia.
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 112, File:He112FARR.jpg引用。



図(上)1940年頃、ルーマニア空軍が輸入し部隊配備したドイツ製ハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機
;ルーマニアは20機以上のHe-112を購入したが、その内11機はユモJumo 210G液冷エンジンに換装したB-1型である。1941年6月以降の対ソ連戦に使用された。
Description Seitenprofil einer Heinkel He 112 der rumänischen Luftwaffe Date 08.01.2013 Source Own work (Original text: Selfmade) Author PimboliDD
図はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 112,  File:He 112 Rumänien II.png引用。



図(上)1940年頃、ハンガリー空軍が輸入し部隊配備したドイツ製ハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機
;ルーマニアは12機のHe-112を購入し、1941年6月以降の対ソ連戦に使用した。
Description Seitenprofil einer Heinkel He 112 der rumänischen Luftwaffe Date 08.01.2013 Source Own work (Original text: Selfmade) Author PimboliDD
図はWikimedia Commons, SDASM Archives File:He 112 MKHL.jpg引用。



写真(右)1940年、ドイツ同盟国ハンガリー、ハンガリー空軍の密閉式のコックピット採用のハインケル(Heinkel)He-112B戦闘機
;領土争いをしていたハンガリーとルーマニアがドイツの同盟国tなり、同じハインケルHe112戦闘機を購入して、空軍戦闘機として制式した。両国は、対ソ連戦争にドイツとともに参戦したが、犬猿の仲だった。スターリングラードのソ連反抗も、両国の令閨の悪さを突いたものだった。
Description Magyar: Heinkel He-112B vadászrepülőgép az RKI (Repülő Kisérleti Intézet) állományában. Tags: Royal Hungarian Air Force, Heinkel-brand, German brand, airplane, fighterplane, airport Title: Heinkel He-112B vadászrepülőgép az RKI (Repülő Kisérleti Intézet) állományában. Date 1940 Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_15592.jpg Author FOTO:Fortepan — ID 9213: Home pagePictureInformation page Adományozó/Donor: Erky-Nagy Tibor..
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 112 File:Heinkel He 112 (15083319030).jpg引用。



図(右)1941年頃、ドイツ製ハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機の三面図
;ルーマニア、ハンガリーで実戦使用されたが、ドイツでは制式されなかった。
Description Seitenprofil einer Heinkel He 112 der rumänischen Luftwaffe Date 08.01.2013 Source Own work (Original text: Selfmade) Author PimboliDD
図はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 112,  File:Heinkel He 112 Drei-Seiten-Ansicht.png引用。


ハインケル(Heinkel)He-112 B戦闘機の諸元
乗員: 1名
全長: 9.30 m
全幅: 9.10 m
全高: 3.85 m
翼面積: 17.0 m2
全備重量: 2,250 kg
エンジン: ユンカース ユモ 210Ea液冷12気筒エンジン680 hp 1基
最高速力: 510 km/h
実用上限高度: 8,500 m
航続距離: 1,100 km
武装
エリコン20 mmMG FF 機関銃2丁
モーゼル7.92 mmMG 17 機関銃2丁

ハインケル He112は、ドイツ再軍備宣言後に開発され本格的な単座・単発の戦闘機の競争試作に応じた機体で、ドイツ空軍の主力戦闘機の座を獲得するために開発された。ドイツのハインケル社は、既にHe70 高速郵便機で高性能を発揮した楕円翼を引き継ぎ、逆ガル主翼の全金属製低翼単葉機を試作した。メッサーシュミットBf109との最終比較審査にのこったが、主輪間隔が広く、地上安定性が優れていたほか、火器の搭載能力も大きかったが、性能、量産性の上で敗れた。これを政治的理由という見方が多いが、メッサシュミット社は新興の航空機メーカーであり、実績も、飛行機製造能力もハインケルにはるかに劣っていたのであって、政治力というなら、メッサシュミットよりハインケルのほうが上である。He112は当初、開放式コックピットを採用しており、Bf109の密閉式コックピットに比して、近代化技術の採用に後れを取っていた面もあった。しかし、ルーマニア、ハンガリー、日本は、その高性能に注目し、He112を購入し、戦闘機としての実用性、制式の可能性を審査している。


3.ハインケル(Heinkel)He 100(He-113)戦闘機

写真(右)1938年、ドイツ北部バルト海沿岸、ロストック(Rostock)郊外、ハインケル社マリーエンエーエ(Marienehe)社用飛行場、無塗装のハインケル(Heinkel)He 100V1戦闘機試作1号機;前作He112試作は、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用したが、He100では採用していない。しかし、空気抵抗は少ない主翼表面冷却器を採用して、1938年1月22日に初飛行した。
Русский: He 100 V1 на аэродроме Росток-Мариенех
Date 1938 Source Heinkel He 100 // Война в воздухе ?140 - 2005 год Transferred from ru.wikipedia to Commons by ceminarist.  D .
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 100 File:He 100 V1 на аэродроме Росток-Мариенех.JPG引用。


ハインケル(Heinkel)He-100戦闘機は、ハインケルHe-70輸送機のような楕円翼はやめて、直線テーパー翼としたが、整備が不慣れな主翼表面冷却器を採用して1938年1月22日に初飛行した。前作He-112よりも小型の機体として、速力を向上させた。また、水冷エンジンのラジエーター(冷却機)を主翼前面に内蔵する「表面冷却器」という新機軸を取り入れていた。

主翼に表面冷却器を装備し、空気抵抗減少を企図したハインケル(Heinkel)He 100V1戦闘機は、それまでになかった方式だったので、取り扱いが困難で、液冷エンジンの冷却能力も不十分だったようだ。実戦部隊に配備するには課題が残されており、結局、機首下面に冷却器空気取り入れ口を開口さる従来の冷却方式に戻されてしまった。ハインケル(Heinkel)He 100 D戦闘機の生産数は19機で実戦参加はしていない。

写真(右)1938-1939年頃、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He-100V-3戦闘機試作3号機(登録コード:D-ISVR);ハインケル(Heinkel)He 100は、He 100 V試作機が6機、He 100 D増加試作機が19機の合計25機が生産されてただけで、制式されることなく、実戦にも投入されることなく退役している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935876 - Catalog:16_005282 - Title:Heinkel He 100V-3 before fixed to attempt to beat world speed record Nowarra photo - Filename:16_005282.TIF - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation-
写真は, SDASM Archives PictionID:43935876引用。


ハインケル(Heinkel)He 100戦闘機 ハインケル(Heinkel)He-100V-1戦闘機試作1号機は、1938年1月22日に初飛行した。前作He-112よりも小型の機体として、速力を向上させた。また、水冷エンジンのラジエーター(冷却機)を主翼前面に内蔵する「表面冷却器」という新機軸を取り入れていた。4か月半後の1938年6月5日、第一次世界大戦のエースだった航空省技術局長エルンスト・ウーデット大佐が操縦するHe100V-3試作3号機は、100km周回航路で世界最速録634.32km/hを記録する快挙を達成した。

1938年6月5日のハインケル(Heinkel)He 100 V-3戦闘機試作3号機(登録コード:D-ISVR)によるは最高速力634.32km/hを記録してから半年以上たった1939年3月10日、ハインケル(Heinkel)He-100V-8戦闘機試作8号機は、DB601液冷エンジンに水メタノール噴射装置を追加し、短時間緊急出力増強を可能にしたうえ、さらに空気抵抗削減のために全幅を短く切り詰めた特別仕様として、最高速力746.606km/hの公認記録を達成した。ドイツ空軍省は、この世界最速記録もハインケルHe 112U による成果として世界に喧伝した。 この時、ハインケルは大成功したHe100がドイツ空軍制式戦闘機になることを疑わなかったであろう。

ハインケル(Heinkel)He-100V-3戦闘機試作3号機(登録コード:D-ISVR)はDB601液冷エンジン(1,175hpエンジン)を搭載、1938年6月5日、第一次大戦のエースでドイツ航空省技術局長のエルンスト・ウーデット大佐が搭乗して、最高速力634.32km/hを記録した。ドイツ航空省は、この大成功を大々的に宣伝し、このHe 100を前作He112の発展型He 112Uと呼称で世界中に広めた。


写真(上)1938年2月以降、ドイツ、密閉式のコックピットのハインケル(Heinkel)He-100 V-8戦闘機試作8号機(登録コード:D-IDGH)
;レーサー機のような局面ガラス1枚の空気抵抗が少ない風防であるが、視界が歪んでしまい、スピード記録用にはいいが、空中戦には不向きである。
Stephen Greensted Heinkel, He 100 Title: Heinkel, He 100 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 100 Tags: Heinkel, He 100 .
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081276引用。


ハインケル(Heinkel)He 100戦闘機 ドイツ航空省技術局長エルンスト・ウーデット大佐は、この機体の革新性を評価し1938年6月5日、He-100V3試作3号機を自ら操縦し、100km周回区間の世界速度記録634.32km/hをマークした。ドイツは、この新型機を実用化しているかのようなプロパガンダを展開し、He100をHe112Uの名称で喧伝した。1939年3月10日には、ハインケル(Heinkel)He-100の高出力エンジン搭載型が、746.6km/hの最高速力を記録している。

日本海軍はハインケル(Heinkel)He 112に継いで、1941年、ハインケル(Heinkel)He 100D(He113)戦闘機2機、He 119高速偵察機2機を輸入した。そして、ハインケルのクルト・シュミット技師の助けを得て、試験飛行を行った。審査の結果、最高速力が600キロ以上で高く評価された反面、旋回性に劣り、失速しやすいなど、機体安定性に問題があるとされた。

ハインケル(Heinkel)He 100 D(He113)戦闘機の諸元 乗員: 1名 全長: 8.20 m、全幅: 9.40 m、全高:3.60 m
翼面積: 14.5平方メートル
全備重量: 2,500 kg
発動機: ダイムラーベンツ(Daimler-Benz)DB 601M液冷12気筒エンジン1175馬力 (865 kW) 1基
最高速力: 670 km/h
実用上限高度: 11.000 m
航続距離:1000 km 搭載予定の兵装 20ミリMG FF 機関銃 1丁 (モーターカノン:実際にはモーターカノンは1941年まで実用化できていない)、 7.92ミリMG 17機関銃 2丁 (機首上面)

⇒写真集(Album)ハインケル(Heinkel)He-100戦闘機を見る。


4.ハインケル(Heinkel)He 280ジェット戦闘機

ハインケル(Heinkel)He 280ジェット戦闘機 世界初のジェット推進機ハインケル He 178試作機は、ハインケルHeS 3ターボジェットエンジン1基を搭載し1939年8月に初飛行に成功していた。その戦闘機型のHe280は、HeS 3エンジンを改良したハインケル HeS 8 (Heinkel Strahltriebwerk 8)ジェットエンジンを2基、主翼に取り下げて取り付けた。試作戦闘機 He 280 が初飛行したのは、1941年3月31日で、4月に実施されたフォッケウルフFw-190A戦闘機との模擬空戦審査では、高速と上昇力を生かして、Fw 190に勝る性能を発揮した。

しかし、ハインケルHe 280ジェット戦闘機のターボ・ジェットエンジンの信頼性が低く、推力増強も難しかったうえに、ドイツ航空省のジェットエンジンへの無理解から、He280の量産化はなされなかった。ハインケルHe 280ジェット戦闘機は、9機が試作されただけで、最終試作機He 280 V9試作9号機(登録コード:NU+ED)が1943年8月31日に初飛行したものの、He 280の開発は放棄されてしまった。

ハインケル(Heinkel)He 280ジェット戦闘機は、左右主翼下面にジェットエンジンを搭載、首輪(前輪)式の降着装置のため、地上では地面に水平の位置で駐機しているので、離着陸は尾輪式よりも容易である。また、双発のエンジン排気のために地面や滑走路が傷むことは少ない。他方、本機より1年遅れのメッサーシュミットMe262ジェット戦闘機は、尾輪式だったために、その後、首輪(前輪)式の降着装置に改装されている。

⇒写真集(Album)ハインケル(Heinkel)He-280ジェット戦闘機を見る。


5.実戦に間に合わなかったハインケルHe 162ジェット戦闘機

He-162本 ハインケル(Heinkel)He-162ジェット戦闘は、小型・軽量なので、Hw280やMe262とは違って、エンジンは1機で出力を確保できた。胴体背面にBMW003ターボジェット1基を搭載したが、このような配置は、整備の上からは不都合で、エンジンの変換にも手間が語った。当時のジェットエンジンは、信頼性が低く、整備を頻繁に行う必要があり、さらに耐用時間も短いので、エンジン換装も必要になった。1944年12月6日初飛行し戦局悪化の急速増産が始まっていた国民戦闘機。最高速力850 km/h、162機が量産されたが、実戦参加はしていない。

ハインケル(Heinkel)He-162ジェット戦闘は、肩翼式で、双垂直尾翼だったが、これは胴体背面のジェットエンジンの噴流が後方に排出されるためで、このジェット噴流を妨害しないように、垂直尾翼を中心線から離して二つ配置した。しかし、強度の上からは、脆弱ではなかったのか。また、金属節約のために、木製主翼を採用したが、この接合強度なども問題があったようだ。これらの課題は、本来は試作審査の中で改良されるはずだが、その時間的余裕がなかった。そのため、戦時中のドイツでも戦後に使用したイギリスでも本機に空中分解事故が起こっている。

⇒写真集(Album)ハインケル(Heinkel)He-162ジェット戦闘機を見る。


6.スペイン内戦とドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB
Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen.
31.5.1939
Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


フランコ 1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,ヒトラーは、間髪をいれずに, フランシス・フランコFrancisco Franco:1892-1975) 将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍との建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことに対して、 フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。

フランコ将軍率いる反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

1936年7月、スペインでは、人民戦線政府に対して、モロッコ植民地に駐留していた フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍の反乱軍が蜂起した。このスペイン内乱に際して、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、即座に支援を命令し、ドイツ・コンドル軍団をスペインに派遣することが決定した。

 ドイツは、形式上は、スペイン市民戦争に不干渉の立場にあると表明しながらも、義勇軍の形式をとったコンドル軍団を編成して、ドイツ正規軍の派兵を実装した。この時、コンドル軍団に配備されたハインケルHe51戦闘機、He111爆撃機、He70輸送機もスペイン内乱に反乱軍への援軍として実戦投入されている。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリング  ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。
スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカ空襲のような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

1936年に勃発したスペイン内戦に、ドイツは、正規軍を義勇軍コンドル軍団としては派兵したが、ハインケル(Heinkel)He46 C偵察爆撃機は、スペイン内戦勃発直後1936年9月に28機が投入され、実戦テストに供されている。

また、1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻を契機とする第二次大戦にも、ドイツ軍は2個飛行隊のハインケル(Heinkel)He46偵察爆撃機を配備していた。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

Ju87 スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1936年に中佐としてスペイン内戦に「コンドル軍団(Legion Condor)」の義勇兵として参戦し、1937年4月26日のゲルニカ空襲を指揮したコンドル軍団(Legion Condor)の参謀となった。バスク地方のゲルニカ空襲ば、都市無差別爆撃の嚆矢となった。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンが指揮したドイツ・ コンドル軍団(Legion Condor)の航空機は、ユンカース Ju52爆撃機、ハインケルHe51戦闘機が主力であるが、このほかにも、新鋭機のドルニエDo-17爆撃機、ハインケルHe111爆撃機、ユンカースJu87急降下爆撃機、Hs 123襲撃機、ハインケルHe 112戦闘機試作機V6/V9、メッサーシュミット Bf109B戦闘機が加わっている。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1937年10月、スペインから帰還するも、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋した。

ネヴィル・チェンバレン ポーランド空軍の反撃は、あまりなかったようだが、ドイツ空軍機は、初戦から敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿されていた。1943年以降、西側連合軍がドイツ本土、占領地に空襲を掛ける時期には、この対空偽装はより厳重に徹底されることになる。13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,機数や燃料が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869–1940)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。

しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

メッサーシュミットBf109 ドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。

1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

ムッソリーニ 1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチル首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦(Operation Dynamo)を発動した。

ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。

1940年5月20日,フランスでは、レノー内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、イタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

ヒトラー フランス休戦の場所として、ドイツのアドルフ・ヒトラーは、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けて、そこで行った。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

ドイツのアドルフ・ヒトラーは、降伏後のフランス休戦の条件として、
1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、
2.フランス軍の武装解除、
3大西洋側の港湾をドイツに引き渡す、
4.フランス艦船の行動停止、
5亡命者の引渡し、
6.フランスによる占領経費の負担、
という思いのほか寛大な講和条件を認めた。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は,フランス降伏後の戦勝報償として、元帥以上の階級として特別に定められた国家元帥に昇進した。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,大戦末期、1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


7.近距離偵察機ヘンシュルHs-126


写真(右)1941年冬(?),対ソ連東部戦線(?)ドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機(V7-4A):固定式降着装置の固定脚の地上車輪間隔を広くし、地上安定性を確保している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43932413 - Catalog:16_005350 - Title:Henschel Henschel Hs 126 Salo print - Filename:16_005350.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum。写真は,SDASM Archives 引用。


写真(右)1942年,第二次世界大戦のドイツ、ドレスデンで刊行された著作に掲載されたドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機の写真図解
Description Henschel Hs 126 Date 1942 Source Dr. Spohr Verlag, Dresden Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Henschel Hs 126 File:Henschel Hs 126 1942.jpg引用。

ヘンシェルHS-126偵察機諸元
全長: 10.85 m
全幅: 14.50 m
全高: 3.75m
全備重量: 3,275 kg
発動機: B.M.W. ブラモ 323A-1 空冷9気筒 850 hp
最高速力 356 km/h
航続距離: 720 km
武装 7.92mm機銃2丁
爆弾 100 kg
乗員: 2名

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張した。ヒトラーは,激烈な生存闘争を生き残り,生存圏を確保するには,弱肉強食の戦争にあって,敵を殲滅する勝利が不可欠であると考えた。

⇒写真集Album:ヘンシェルHs-126偵察機を見る。



8.ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141近距離偵察機

写真(右)1942年5月6日,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:フォッケウルフFw-189と競争試作で敗れたとはいえ、単発3座偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は機首のエンジンと操縦席を主翼上に離して設けているために、左右非対称の世界的に珍しい形状の飛行機だった。尾翼も左側のみ通常の大きさで、右翼は垂直尾翼に固定するために僅かに突出しているに過ぎない。まるで、尾翼の右側に被弾して破損したかのような状態に見えてくる。
Photographer Unknown author Title Aufklärungsflugzeug Blohm + Voss BV 141 Info non-talk.svg Original caption BV 141 - das erste unsymmetrische Flugzeug der Welt! Die Flugzeugwerke der weltbekannten Schiffswerft Blohm & Voss haben für die deutsche Luftwaffe mit der BV 141 ein in Aufbau und Formgebung vollkommen neuartiges Flugzeugmuster entwickelt, das bei seinen ersten Einsätzen im Ostfeldzug überragende Erfolge verbuchen konnte. Dieses erste "unsymmetrische" Flugzeug der Welt ist eine Schöpfung des Chefkonstrukteurs der Flugzeugwerke Blohm & Voss, Wehrwirtschaftführer Dr. Ing. Vogt. Der Sondereinsatz, für den dieses Flugzeug vorgesehen ist, bedingte eine von den bisher eingeschlagenen Wegen der Flugtechnik grundlegend abweichende Konstruktion. Diese kann in ihrer nach jahrelanger Forschungsarbeit nunmehr erreichten Lösung als epochemachend angesehen werden. Erstmalig findet sich hier die vollkommen unsymmetrische Bauart, die auf dem linken Flügel den Leitwerkträger mit Motor und auf dem rechten Flügel den getrennt hiervon als geschlossene Vollsichtkanzel ausgeführten Raum für die dreiköpfige Besatzung trägt. Die auf Grund der taktischen Forderungen notwendige Sonderheit der Konstruktion hat gleichzeitig einen überaus günstigen Einfluß auf die Flugeigenschaften und Leistungen des Flugzeuges ergeben: hohe Geschwindigkeit, besondere Wendigkeit und Steigleistung. Die Bewaffnung der BV 141 besteht aus Kanonen und Maschinengewehren modernster Konstruktion. Als Motor finde der neue BMW-Doppelsternmotor BMW 801 Verwendung. Bereits seit geraumer Zeit läuft die BV 141 im Grosserienbau in den in Ostdeutschland gelegenen Flugzeugwerken der Firma Blohm & Voss. Der damit garantierte, in immer gesteigerterem Umfang möglich werdende Einsatz dieses Flugzeuges bedeutet eine wesentliche Stärkung der Schlagkraft unserer Luftwaffen. PK-Aufnahme: Luftwaffe (Sch) 2722-42 Date 6 May 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-B21073
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"File:Bundesarchiv Bild 183-B21073, Aufklärungsflugzeug Blohm - Voß BV 141.jpg"引用


ブロームウントフォスBlohm und Voß BV 141 B 諸元:
乗員:4人
全長:13.95 m、全巾:17.46 m、全高:3.6 m
翼面積:53.15 m平方メートル
空虚重量:4,700 kg、全備重量:5,700 kg
エンジン;BMW 801 出力:1,160 kW(1,560 hp)
最高速度:438km/h /3,510m、上昇率:570 m/分
武装:7.92ミリMG 17 旋回機関銃2丁、7.92ミリMG 15 固定機関銃2丁

初飛行は1938年2月、1940年までに、BV 141 V1から試作機8機が生産されたが、搭載したBMW 132Nエンジン865馬力と低出力であり、同程度の出力のエンジン2基を装備した競争試作機フォッケウルフ Fw 189が敗れて不採用になった。

主任設計技師は、1923年から1933年まで川崎航空機に招聘されたリヒャルト・フォークトRichard Vogt, 1894- 1979)。彼は、川崎の主任設計技師として、日本陸軍の制式になった九二式複葉戦闘機、八八式複葉偵察機などを設計している。

1941年には、エンジンをBMW 801(1700馬力)に強化したBV 141 B型が開発されたが、このような機種は、既存のもので十分間に合ったために、先行量産型として20機が生産されたにとどまった。

⇒写真集Album:ブロームウントフォスBV-141偵察機を見る。


9.指揮連絡機フィーゼラーFi-156シュトルヒ(こうもり)

写真(右)1939年8月以前,陸上移動用大型尾輪の取り付け作業中のドイツ空軍フィーゼラー(Fiesler) ・シュトルヒ(Storch)連絡機(D-IRDJ):1937年から1945年に合計2600機生産された連絡機Fieseler Fi 156 "Storch"は,滑走路でない草原に離着陸できた。全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
Fiesler Fi-156 Catalog #: 00079213 Manufacturer: Fiesler Designation: Fi-156 Official Nickname: Storch Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archive引用。


東部戦線におけるドイツ空軍機は,1941年6月22日から8月8日までは喪失1023機,破壊657機,1941年8月3日から9月27日までは喪失580機,破壊371機だった。1941年6月22日から1942年4月8日までの10ヶ月間の合計で,喪失2951機,破壊1997機の損害で,これは同時期の航空機生産の三分の一に相当した。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。

ブラウ作戦は、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。その上,カフカスとスーリングラードのニ目標を追うことになり,軍集団を二分するという失策を犯してしまう。戦力を分散投入してしまったために,どちらの目標も達成できなかった。

写真(右)1945年6月以降,ポーランド、第二次大戦終了後、ドイツ軍の残した機体を接取して使用されたポーランド軍のフィーゼラーFi156"シュトルヒ"連絡機:垂直尾翼の方向舵にポーランドの国籍マークが描かれている。Fi156は、本家フィーゼラーで1908機生産されたほか、フランスのモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)で784機など合計2867機が量産された。
Fiesler Fi-156 Catalog #: 00079240 Manufacturer: Fiesler Designation: Fi-156 Official Nickname: Storch
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives引用。


⇒写真集Album:フィーゼラーFi156連絡機を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機

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