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◆ユンカース(Junkers)W33輸送機「第3報知日米号」の太平洋横断飛行
写真(上)1932年、日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)
:1932年(昭和7年)9月24日、青森県三沢市の淋代海岸kから、太平洋を無着陸横断飛行をしてアメリカ大陸北岸に飛び立った。搭乗者は、海軍兵学校出身の本間清中佐を機長に、馬場英一郎操縦士,井下知義通信士の3名。機首は、光の反射を避けるために、黒色で塗装されている。
写真は,Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия Index of /image/idop/cw1/w33引用。


写真(上)1929年、スウェーデン、ベルゲン、アーレンバーグ・ドックに着いたユンカースL5液冷エンジン装備のユンカースW33輸送機(登録コード:SE-ADY)
:大西洋横断飛行に臨む直前、コックピットで待ち受けるスタッフと、主翼付け根からコックピットに乗り込む搭乗員。開放式ではなく密閉式のガラス風防コックピットで、胴体後方は貨物室には扉がついている。
Ahrenberg (på bryggan) anländer till Bergen vid sitt Atlantflygningsförsök 1929.
Fotograf: Okänd Accession 1944 Säljare till museet: Martin, Harald, samling
Avbildad - namn: Ahrenberg, Albin Avbildad, ort: Norge Bergen Publisher: Tekniska museet Identifier: TEKA0121936 Institution: Tekniska Museet Date published:March 19, 2016 DIMU-CODE:021016341295 UUID:1E16B868-85B1-452F-BA3F-0DD2A17BEC7B
写真はTekniska museet ・Identifier: TEKA0121936およびSwedish Open Cultural Heritage | K-samsök Identifier: TEKA0121936 引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.1931年ユンカースA50軽飛行機「報知日米親善号」の太平洋横断飛行

写真(右)1931年7月6日、フィンランド南部、ヘルシンキ、ユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)水上スポーツ機(登録コード:OH-ABB):これと同型のA50を使って、1933年、フィンランド空軍の将校ブレマーは、フィンランドのヘルシンキから、南アフリカ共和国のケープタウンまで往復飛行に成功した。1933年、ブレンマーは世界周遊飛行を計画したが、ソビエト連邦は上空の飛行を拒否したため、アメリカを拠点に飛行することとなった。
Väinö Bremer Junkers A50 Junior lentokoneen (OH-ABB) vieressä
Creator: Pietinen Creation date: 7.6.1931 Institution: Finnish Heritage Agency
Provider: National Library of Finland Providing country: Finland First published in Europeana: 2019-09-09
写真は、europeana collections,Finnish Heritage Agency Dataset: 2021009_Ag_ FI_NDL_musketti ・M012: HK19670603:4571 引用。


1929年2月13日初飛行のユンカース(Junkers)A 50"Junior"の諸元
全長7.12 m、全幅 10 m、全高 2.39 m
主翼面積 13.7 平方メートル
空虚重量 340 kg、総重量 590 kg
発動機 アームストロング(Armstrong)Siddeley Genet II)空冷星形5気筒エンジン65 kW (87 hp)
最高速力164 km/h、巡航速力 140 km/h
航続距離 600 km、航続時間 5時間
実用上昇限度 4,200 m
上昇時間 3,000 m/21分
離陸距離 250 m、着陸距離 187 m

写真(右)1933年、フィンランド南部、ヘルシンキにフィンランド空軍将校ヴェイノ・ブレマー(Väinö Bremer)の操縦で到着したユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)陸上機(登録コード:OH-SKY):シーメンスSiemens-Halske Sh 13空冷星形エンジン搭載。
kapteeni Väinö Bremer saapunut Junkers A 50 -koneellaan maail-manympärilento-yritykseltään.
Creation date: 1931 Size: 6 x 9 cm Creation date: 1933, elokuu Identifier: M012: HK 19670603:10649 Institution: Finnish Heritage Agency Provider: National Library of Finland Providing country: Finland First published in Europeana: 2019-09-09
写真は,Finnish Heritage Agency Identifier: HK19670603引用。


ユンカース(Junkers)A50c「ユニオール」(Junior:青年)軽飛行機が装備したのシーメンス(Siemens & Halske)Sh 13空冷星形5気筒エンジン(Five-cylinder radial engine)の諸元
出力:56 kW (75 hp)
気筒ボア(Bore): 105 mm (4.13 in)、気筒行程(Stroke): 120 mm (4.72 in)
排気量(Displacement): 5.2 L (316 cu in)
乾燥重量(Dry weight): 110 kg (242 lb)

写真(右)1933年、フィンランド、ヘルシンキ郊外、ヴェイノ・ブレマー(Väinö Bremer)の搭乗するユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)陸上機(登録コード:OH-SKY):1899年4月24日生まれのヴェイノ・ブレマーが、世界巡回飛行の途中にフィンランドを出発する時期の撮影と思われる。1933年5月11日から、1933年8月13日まで、アジアを巡回飛行してフィンランドの名声を高めた。このときのユンカースA 50ジュニアは、ヘルシンキ空港に展示されている。
kapteeni Väinö Bremer saapunut Junkers A 50 -koneellaan maail-manympärilento-yritykseltään.
Creation date: 1931 Creator: Pietinen Size: 6 x 9 cm Creation date: 1933, elokuu Identifier: M012 :HK19670603:10650 , HK19670603:10650 Institution: Finnish Heritage Agency Provider: National Library of Finland Providing country: Finland First published in Europeana: 2019-09-09
写真はNational Library of Finland,Finnish Heritage Agency Identifier: HK19670603:10650 引用。


フィンランド空軍の将校ヴェイノ・ブレマー(Väinö Bremer)は、1920年代には飛行中隊の長を務め、1928年パイロットとして表彰されている。1931年、ブレマーはヨーロッパ飛行に出発し、1932年にはフィンランドのヘルシンキから、南アフリカ共和国のケープタウンまで飛行機で往復している。1933年、ブレンマーは世界周遊飛行を計画したが、ソビエト連邦は上空の飛行を拒否したため、アラスカからアメリカ本土への飛行することとし、アメリカを世界飛行の拠点とした。このとき、日本からアメリカのカリフォルニアへ太平洋を越えるた時は、移動に船舶を用いている。また、ユンカースA 50では、アメリカからアイスランドを経由してヨーロッパには飛行するほどの航続距離はなかったため、やはり大西洋横断も船を使っている。アメリカ出発時に、ブレマーはイタリア人パイロットのイタロ・バルボ将軍に会っている。

写真(右)1931-1938年頃、フィンランド、ユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)スポーツ水上機(登録コード:OH-ABB):機首には貝殻シェルのマークを描き、前席には覆いをかけて、単座後席で操縦をしている。垂直尾翼方向舵に「32」の番号を入れている。
Finsk Junkers JU 50 "Junior".;
Produktion Tillverkare av avbildat objekt: Junkers Motorenbau GmbH Fotografering Fotograf: Wallberg, Karl Accession Arkivreferenser:Teknik- och industrihistoriska arkivet / Tekniska museet (ARK-K206) Säljare till museet: Martin, Harald, samling
Alternative name: B17474 - Institutionsintern katalog/lista 1992/3258 - Tidigare använt inom den egna institutionen Part of collection:Tekniska museets arkiv Owner of collection:Tekniska museet Institution: Tekniska Museet Date published:July 5, 2017
写真は、europeana collections,Tekniska Museet Identifier: TEKA0013233引用。


写真(右)1931年5月27日、フィンランド南部、ヘルシンキ郊外、フィンランド空軍将校ヴェイノ・ブレマー(Väinö Bremer)が愛機ユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)水上スポーツ機(登録コード:OH-ABB)のフロートを舫を結んでいる。:このA50を使って、ブレマーは、1933年、は、フィンランドのヘルシンキから、南アフリカ共和国のケープタウンまで往復飛行に成功した。1933年、ブレンマーは世界周遊飛行を計画したが、ソビエト連邦は上空の飛行を拒否したため、アメリカを拠点に飛行することとなった。
Crew: max. two Length: 7.12 m Wingspan: 10.02 m Height: 2.40 m Empty weight: 360 kg Maximum speed: 172 km/h Range: 600 km Service ceiling: 4,600 m
Väinö Bremer kiinnittää koneensa OH-ABB Katajanokan lentosataman laituriin, koneen malli: Junkers A50 nimihistoria: D-1915, OH-ABB Bremerin ja Talvitien kone voitti Tukholman kansainvälisen lentokilpailun Aiheen paikka Katajanokka, Helsinki Aiheen aika 27.5.1931 Aiheen toimija Bremer Väinö Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 27.5.1931 Helsinki Pietinen Aarne, kuvaaja
写真は、europeana collections,Finna.Fl 引用。


⇒写真集Album:ヴェイノ・ブレマーのユンカース(Junkers)A50 (OH-ABB)アフリカ縦断飛行を見る。

新聞(右)1931年、「太北太平洋飛行記念号:北太平洋征空の途にきょう報知日米号出発;春空に恵まれ観衆三万以上 元気一杯の吉原飛行士」:ユンカースW33「第三報知日米号」より前に、報知新聞は2回、太平洋横断飛行を試みている。第1回目の太平洋横断の試みが、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機によるものだった。1930年8月30日、吉原清治操縦は、ベルリン〜東京間11404kmを79時間58分で飛行、1931年5月14日にユンカース(Junkers)A50水上機「日米号」で、太平洋横断飛行をめざして羽田を出発したが、失敗した。1931年、吉原清治は、報知新聞社主催の飛行機による北太平洋横断飛行に、5月14日と7月5日に挑んだが、いずれも失敗した。そして、1932年5月、飛行艇での北太平洋逆横断飛行に挑んだが、アメリカのオークランドで試験飛行中、高波により機体が大破、機関士とともに負傷し飛行を断念した。
写真は神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-014) 報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)引用。


報知日米号を送る 内閣総理大臣男爵 若槻礼次郎

昨年日独親善欧亜聨絡飛行を、軽飛行機による世界新記録によって遂行し、我が民間飛行の実力を世界に示した報知新聞社の吉原飛行士が、今回報知日米号によって日米親善北太平洋横断飛行を成就されんとするは、余の真に欣快に堪えざる所である  今や世界各国民は、地球上にのこされた空界の処女地として、ひとしく太平洋を注視している、この時に際し、堅実なる計画と果敢なる実行力による報知新聞社の北太平洋横断飛行が、我が航空界の盛名を全世界にあげ、国民精神の作興に大なる効果あるばかりでなく、米、露、カナダ等通過各国との親善増進に深き寄与あるべきはいうまでもない  余は切に吉原飛行士の不とうなる健闘を期待し、我が国空前の大壮図が、必ず偉大なる成功を以て結ばれんことを、衷心より祈るものである

新聞(右)1931年、「吉原飛行士の遭難手記 風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む」:この紙面では、日米親善新航空路開拓の使命を担って出発した吉原清治飛行士がユンカース(Junkers)A50『報知日米号』で得撫島を過ぎるころから濃霧となり、「命と頼む発動機に変調の起り出し」「スルスルスルと発動機の廻転が止ってしまった」ために、新知島付近で「機体は大うねりの谷へどかんとばかり落ち込んだ」不時着水の状況が語られている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


吉原飛行士の遭難手記 風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む
[写真(吉原飛行士)あり 省略]

白鳳丸にて十五日午前十一時吉原飛行士発落石無電局経由=紗那を離水したのは十四日の朝七時二十二分だった、六十五度のコースを取って進んだ、やがて別飛、蘂取の上空を飛行中、眼下に真っ黒き大魚が数頭(クジラだと思ったが大イルカだった)游弋しているのを見たと思ったのも束の間、海峡からふき出した高度二百メートル位の濃霧のために下が見えなくなってしまった、この濃霧の上を飛び越え得撫島[ウルップ]西北のところで、ほんのしばし海面を見ることが出来た、やがて白雪に覆われた山の姿を横に眺めながら、上方のすみきった青空をたよりに、私は眼もくらみそうな濃霧の白い光りを飛行眼鏡で避けながらずんずんと高度を高めて行った、九時近く得撫島[ウルップ]を過ぎるころから霧は益々右上りに無限に高く続き、少しの晴れ間さえも見出せない、この時計らずも命と頼む発動機に変調の起り出したことを感じた、私は『どうしようか』と思った、進むべきか引返すべきか、が、既に五百メートルもの高い濃霧の上では、引返してもとても駄目だと思い、むしろ出発の時視界広しとの通報があった武魯頓湾を目ざすより外なしと決心し、七百メートルの上空でレバーを八まで開いて千九百六十廻し、非常手段をとった、知理保以と武魯頓との間を、濃霧の上にかすかに見せている島の頂きを眺めながら約半時間ほど進んだが、霧はいよいよ高まるばかり、一方発動機の廻転はいよいよ利かなくなって行く、私は新知島[シムシル]にあがる火山の噴煙を見て、なお六十五度のコースで飛ぶ、時速百五十キロであった、ちょうど山が右側になったとき、スルスルスルと発動機の廻転が止ってしまった『駄目だ』と思った『万事休す』と思った、そして左へ百二十度ばかり廻って運を天にまかせて下降した、濃霧のまっただ中に入った、盲になったように、下方はおろか周囲の何ものも見えぬ、高度百メートル位と思われるところで百二十キロの速力にし、そのまま待っていた旋回針と速度計で海面の見えるのを待ち遠しく思っていた、と、チラッと狂う白浪が目に入った、斜め前から大きなうねりが来るのが見えた『これは大きいな』と思うと同時に、飛行機を立て直す暇もなく、機体は大うねりの谷へどかんとばかり落ち込んだ、発動機が止っているので如何なる操作も無効だった、瞬間『沈むんだな』と思って覚悟をきめた、が、はからざりき私は機体と共に浮いている、そう思うとやっと気が落ち着いて来た、しかし直ちに北洋風浪の真っただ中に弄ばれていることがぴんと来た『どうにでもなれ』とまた決心せねばならなかった、風浪に翻弄漂流されつつ翼が激浪にたたかれているのを眺めながら、いよいよ沈むときの準備を了った

新聞(右)1931年、「強風に崖へ吹寄せられ疲労を忍び愛機を繋縛 天佑、濃霧中に救いの船」:この紙面は、太平洋横断飛行に出発した吉原清治飛行士が、ユンカース(Junkers)A50『報知日米号』の発動機故障でアリューシャン列島の「風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む」に続く記事で、「天佑、濃霧中に救いの船」とあるものの、「救われた勇士の母と助けた船長の夫人は語る もう一度清治に飛ばさせてください 健気なとみ子母堂」と国家の威信にかけて再度挑戦が当然であるとの世論を盛り上げている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


強風に崖へ吹寄せられ疲労を忍び愛機を繋縛 天佑、濃霧中に救いの船

そのうちにふと風がやんだのに気がついた、時計を見ると漂流してから一時間ほどを経過していた、霧がほんの少しずつ晴れ出して行く、やがて三四哩前方に新知湾が眺められた、それから北東に流されること一時間半、こんどは風向きが北東に変って、私は機体と共にだんだん岸の方へ吹寄せられて来た、不時着水、風浪に漂流して五時間余に、やっと錨のとどく程度の深さの岸へ流れ着いたので錨のロープを携えてうねりを避けつつ、玉石のある岸を目ざして六十回ほど海中歩行を試みた末、辛うじて石によじ登ったが、激しい疲労のため足が少しも利かず、一歩の歩行すらも出来なかった、仕方なしにそこへ身を投げて休んでいたが、愛機のフロートが浪にたたかれるのを見て我慢出来ず、漸く携えていたロープを崖の石にむすびつけ、必死の力を出して飛行機の引揚を試みたが、力尽きて能わず、辛うじてその尾部から半分ほどを岸へ陸揚出来ただけであった、私は疲れのため何もする気力がなかったが、陸上での危険も慮られたので、早速武装を整えて海と陸とに警戒をせねばならなかった、狐が二三匹現れて、キョトンと私の方を眺めては姿を消した、三時半頃から濃霧がまたも低くたれこめて来た、見通せるのはやっと二町位しかない、全く運を天にまかせて時間を過ごした、五時頃だった、大海獣のほうこうのような、または汽笛のような音を二度三度耳にした、『何だろう』と思って、私は眠る支度をしながら一るの望みを以て耳を傾けていた、五時十分、また聞こえた、その方角が自分の前方の海上らしい、『はて船かな』と思った私は、直ぐにピストルを二発放った、と遥か海上からまた先刻の音が聞こえて来た、私は更に一発ピストルを発車してそれに呼応した、やはり船だった、私はいろいろ考えた、『出来れば再挙だ』『皆様に相済まぬ』−と、また『どうすべきか』とも考えた、全く航行不可能になっているところを白鳳丸の勇敢な活動によって発見されたのだ、そして飛行機と共にボートに曳かれて本船に着いた、思わず涙があふれ出た、私には何もいえなかった、ただ熱い涙が出るばかりだった、山本船長以下船員全部は私の無事な姿を発見して非常に喜んでくれた、せまい甲板に組立てたままの破損飛行機を積みおえたのは午後八時過ぎであった、みんな白鳳丸のお蔭だと私はしみじみ感謝している

救われた勇士の母と助けた船長の夫人は語る もう一度清治に飛ばさせてください 健気なとみ子母堂

時々刻々変化して、全く予測を許さない北海の魔空に出没する濃霧は、ついに若き空の英雄吉原飛行士をして新知島[シムシル]付近の魔海に遭難せしめたが、幸いにして体に何等の異状なく九死に一生を得て意気ますます軒昂、十六日朝根室に到着を待って再挙を計る筈である、市外蒲田町女塚一四六山口氏宅の吉原氏母堂とみ子刀自は十五日午後一時『遭難で皆様に御心配かけて申訳ない』と清治氏の叔父佐賀県八坂神社神官山口良吾氏を代理として本社を訪問せしめたが再挙の報を聞き蒲田の寓居で語る

『清治のことで、社の皆様はいうに及ばず、世間の皆様、殊には一方ならぬ御恩ちょうを賜わった各宮様や政府方面の方々に御心配をかけたことは何とも申訳がありません、特に清治が飛んで行くのを今日か明日かと寒い北の島々で待っていられる人々が、さぞ心配され落胆されただろうと思いますと、じっとしていられないような気がいたします、清治は社のため、国のために捧げた身です、私は神仏に捧げた身です、たとい清治が一命を失っても思い残すことはありません

ただ今再挙のお話を聞きまして、私の喜びはいうに及ばず、清治もこの上なく喜んでいることでしょう、清治の母としてのお願は、たとい清治の技はつなたく、清治の力は足らなくても、死を覚悟してたった清治です、何とかしてもう一度飛ばしてやって下さい、親一人、子一人の私達です、死ぬより生きて大飛行を完成して呉れることを望まないではありませんけれど、それじゃあれ程清治のため応援して下された世間の皆様に申訳がありません、私はただもう清治が無事に飛んで呉れることをのみ神仏に祈ります』

 母堂の眼には、子を思う親心のあらわれか熱い涙が宿っていた

以上は、報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)引用。

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)A-50「報知日米親善号」の太平洋横断飛行をく見る。


2.1932年ユンカース(Junkers)W33「第三報知日米号」の太平洋横断飛行

新聞(右)1931年(昭和6年)5月26日、大阪朝日新聞「太平洋無着陸横断 懸賞飛行審査會 本社内に設置」:この紙面は、「太平洋無着陸横断飛行に金十萬円(外国人の場合は五萬円)を贈呈する本社の懸賞は果然世界各地に大いなる反響を起し横断飛行を名乗るものも続出する有様であるが、いよいよこれが実現の暁、萬一の疑義を解決し完全なる横断飛行たるを決定するため本社内に審査期間を設置し左記各国を代表する大公使諸氏をはじめ関係諸大臣を顧問とする審査会を作りその委員には航空関係各方面の左記専門大家を移植し快諾を得、ここに太平洋無着陸横断審査の準備は全く整ひ横断実行者の出現をまつのみとなった」とある。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、大阪朝日新聞「太平洋無着陸横断 懸賞飛行審査會 本社内に設置」1931年(昭和6年)5月26日引用。


1931年(昭和6年)5月26日、大阪朝日新聞「太平洋無着陸横断 懸賞飛行審査會 本社内に設置」の紙面には、「太平洋無着陸横断飛行に金十萬円(外国人の場合は五萬円)を贈呈する本社の懸賞は果然世界各地に大いなる反響を起し横断飛行を名乗るものも続出する有様であるが、いよいよこれが実現の暁、萬一の疑義を解決し完全なる横断飛行たるを決定するため本社内に審査期間を設置し左記各国を代表する大公使諸氏をはじめ関係諸大臣を顧問とする審査会を作りその委員には航空関係各方面の左記専門大家を移植し快諾を得、ここに太平洋無着陸横断審査の準備は全く整ひ横断実行者の出現をまつのみとなった」とある。

1931年(昭和6年)5月、大阪朝日新聞社は、太平洋無着陸横断飛行に10万円(外国人なら5万円)の懸賞を開けたが、その太平洋無着陸横断 懸賞飛行審査會には、外国代表としては、ベルギー大使、フランス大使、ドイツ大使、イタリア大使、アメリカ大使、サヴェート(ソビエト)連邦大使、カナダ公使、チリー行使、中華民国公使、メキシコ公使、オランダ公使、ペルー公使、シャム(タイ王国)公使が名を連ねている。

また、太平洋無着陸横断 懸賞飛行審査會の日本国内代表としては、外務大臣男爵幣原喜重郎陸軍大臣南次郎、海軍大臣男爵安保清積、逓信大臣小泉又二郎、東京大学航空研究所長男爵工学博士斯波忠三郎らが名を連ねている。

しかし、此の懸賞は太平洋「無着陸」横断であり、1930年代に実質的な太平洋横断は、飛行機の航続距離部族から不可能だった。そこで、ベーリング海峡に連なる千島列島から、アリューシャン列島、アラスカまでの北米大陸まで、島伝いに飛行するルートが考案された。飛行には適さない気象条件の北方海域を飛ぶのは、目視飛行では困難で、無線ラジオによる誘導が欠かせないが、これは当時の最先端技術であり、実用化の途上であった。

したがって、北太平洋の島伝いの横断飛行は、金10万円の懸賞の条件を満たさないだけではなく、有視界飛行、星を利用した天測航法が濃霧や強風に脅かされるアリューシャンでの飛行となり、島伝いの飛行でもリスクが高かった。

写真(右)1920-1930年代、スウェーデン南端、マルメ(Malmö)、ユンカース(Junkers)W.33輸送機(登録コード:SE-ABZ):1932年(昭和7年)9月24日、青森県三沢市の淋代海岸を飛び立って、太平洋を無着陸横断飛行をしてアメリカ大陸北岸の到着を目指した日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)と同型機。
Description Airport Malmö Bulltofta BUA, Junkers W-33, SE-ABZ Dalsland at Bulltofta Airport, Malmö Date circa 1920 s/1930s Source http://images.flysas.com Author SAS Scandinavian Airlines
写真は,Category:Junkers W 33  File:Airport Malmö Bulltofta BUA, Junkers W-33, SE-ABZ Dalsland at Bulltofta Airport, Malmö.jpg引用。


報知新聞社の購入したユンカースW33輸送機「第三報知日米號」の改装がなり、機長・本間清海軍中佐を機長に馬場英一操縦士、井上智義通信・機関士の3名が搭乗、1931年(昭和6年)12月12日、午前10時40分、岐阜県各務原飛行場(現在は自衛隊岐阜基地)を出発して、帝都東京を訪問飛行した。そして、そのまま午後1時8分、東京湾岸の羽田飛行場に着陸した。羽田飛行場では、ユンカースW33「第三報知日米號」を、報知新聞寺田副社長、広田・中村両局長らが歓迎した。

ユンカースW33輸送機「第三報知日米号」は、悪天候、厳しい気象条件の北太平洋を飛行する好機を花田を基地にして半年待って、その間に飛行計画と、中継地の準備を整えた。そして、1932年(昭和7年)9月10日、羽田飛行場で出発式を行った。当日、「第三報知日米號」は、 羽田飛行場に飛来した歓送機に囲まれ、井上陸軍大将、安東海軍中将を筆頭に、陸海軍の航空関係者と日本政府の逓信省、外務省、陸軍省、海軍省、外国からも アメリカカナダロシアの代表が参列し、報知新聞野間清治社長が歓送の辞を述べた。

写真(右)1938年2月、カナダ中部、サスカチュワン(Saskatchewan)州ゴールドフィールズ(Goldfields)、降着装置をスキー式としたユンカース(Junkers)W.33輸送機(登録コード:CF-AQW):この機体は発動機にシーメンス・ハルスケ(Siemens-Halske)Sh 20空冷星形9気筒エンジンを搭載している。このSh 20はイギリスのブリストル(Bristol)ジュピター(Jupiter)空冷星形9気筒エンジン (排気量28.7 L) 400 kW (540 hp) のドイツのライセンス生産版である。他方、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」や「第三報知日米号」はユンカース(Junkers)L5液冷6気筒エンジン(排気量22.92L)260 kW (348.7 hp)を搭載した。
Description Goldfields, Saskatchewan, February 1938. From the Charles Eymundson fonds, PR2012.0927/183. Date 13 November 2013, 12:04 Source CF-AQW ski plane Author Provincial Archives of Alberta Permission (Reusing this file) Provincial Archives of Alberta
写真は,Category:Junkers W 33  File:Airport Malmö Bulltofta BUA, Junkers W-33, SE-ABZ Dalsland at Bulltofta Airport, Malmö.jpg引用。


 1932年(昭和7年)9月10日、午前10時5分、羽田飛行場でユンカースJunkers W 33第三報知日米號」出発式おいて、野間清治社長の激励にこたえて、機長本間清海軍中佐は「細心なる準備の下に決行する横断飛行の事であるからそこに何らの不安はなく勇躍この大飛行に従事し得ることを喜ぶと同時に皆々様の御後援に感謝します。この大事業を完成したいと念じて止まない処であります」と決意の程を語った。本間中佐は佐渡河原田町出身、当時43歳、四谷区大番町の宅には、きみ子夫人、母堂のとき子刀自がいたが、子はなかった。

 ユンカースJunkers W 33の馬場英一朗操縦士は「過去1ヶ年間、黙々の中に着々準備して来た。この上は天候と天命の御加護により日本男子の意気を中外に発揚することこそ、吾々の勤めである。」と語った。当時28歳、滋賀県坂田郡春照村出身の気鋭の名パイロット、実兄は本所区江東橋の馬場義郎氏である。

 ユンカースJunkers W 33の井下知義機関・通信士は「一死任務に報ずる」と固い決意を語った。当時32歳、島根県出身で海軍出身の名オペレーターであった。

写真(右)1932年、太平洋横断飛行に挑戦した日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB):本間清機長、馬場英一郎操縦士,井下知義通信士の搭乗で羽田飛行場を出発,淋代で燃料を満載して離陸した。
2 Fantastic RARE ORIGINAL 1932 B/W ( THESE ARE NOT COPIES OR REPRODUCTIONS OF ANY TYPE-THEY ARE 100% ORIGINAL PERIOD DEVELOPED PHOTOGRAPHS ) ACME Newspictures news photographs showing the Japanese crew of Junkers W33 f registration number J-BFUB named the No.3 Hochi - Nichi - Bei before their ill-fated non-stop trans-pacific flight of September 1932. While Clyde Pangborn and Hugh Herndon Jr. had made the first non-stop trans-pacific flight in 1931 flying their Bellanca monoplane " Miss Veedol ", it had always been a dream of the Japanese to successfully fly a trans-pacific flight. I have been unable to ascertain any information regarding the flight of the Hochi other than it was lost somew near Sabishiro Beach during the flight on or about September 24th 1932.
写真はDiscover Worth, Worthopedia引用。


ユンカースJunkers W 33輸送機の諸元
初飛行:1926年
搭乗員: 2人
発動機:ユンカース(Junkers) L5エンジン(排気量22.92 L)228 kW(310馬力)1基
全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m
全高: 2,90 m
主翼面積 43平方メートル
最高速度: 197 km/h
重量:2100 kg
生産機数:199機

1932年9月10日に羽田飛行場において、報知新聞社が購入したユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の太平洋横断飛行出発式が開催された。この時は、帝国飛行協会のユンカースW33「オイローパ」EUROPA(登録記号:J-BAWG)も参加している。報知新聞社の第3回目の挑戦となる北太平洋横断飛行には、今までよりも大型のユンカースW33型機「第三報知日米号」が使用された。搭乗者は、機長・本間清中佐、操縦士・馬場英一郎中佐、通信士・井下知義氏で、出発前の1932年(昭和7年)9月6日、東京で日本電報通信社が写真撮影している。2週間後、1932年9月24日に、ユンカースW33「第三報知日米号」(登録記号:J-BFUB)は、青森県三沢市の淋代海岸(さびしろかいがん)を出発し、米国聨合通信アメリカ北部を目指したが、飛行途中、千島 列島付近で消息を絶った。

下澤木鉢郎「淋代放牧」 1928年9月18日にドイツのデッサウ飛行場を離陸したユンカースW33「オイローパ」"Europa"(D-1197 :c/n 2505.)は,1928年10月18日、日本の立川飛行場を目指していたが、天候不順で多摩川の河原に不時着、破損した。このユンカースW33「オイローパ」は、ドイツ人搭乗員ヒューネフェルト男爵など3名が搭乗し,ベルリンから、12日間、90時間の飛行時間で東京まで1万4250kmを飛翔した。途中、燃料補給のために、10回着陸している。河原に不時着破損したユンカースW33「オイローパ」"Europa"(D-1197 :c/n 2505.)は三菱飛行機で修理されたうえで,1929年に、帝国飛行協会に譲渡された。帝国飛行協会でもオイローパ(EUROPA)の機名を引き継いでいる。

1929年2月、帝国飛行協会は、日本学生航空連盟にユンカースW33「オイローパ」EUROPA(登録記号:J-BAWG)を貸与した。しかし、搭載していたユンカースL5水冷エンジンは、日本では部品で整備困難となり、実際にはほとんど使用さずに終わったという。

1932年(昭和7年)9月10日、壮行式を終えたユンカースW33「第三報知日米号」は、羽田飛行場を午前11時過ぎに離陸して、歓送飛行する朝日新聞プス・モス輸送機、ユンカースA20軽飛行機の舞う中を。羽田上空を一周し、日本最後の地となる青森県三沢市の淋代に向った。

 ユンカースW33「第三報知日米号」は、羽田飛行場を飛び立って、茨城県の霞ケ浦(午後11時35分)、水戸(同58分)、福島県の小名浜(午後0時28分)、宮城県の仙台(13時25分)に通過して、午後15時31分、飛行時間4時間余、青森県三沢市の淋代に着陸した。ただし、歓送機だったユンカースA50「報知号」(浅井操縦士)は、発動機故障のために、東京品川海岸に不時着してている。

写真(右)1932年、太平洋横断飛行に挑戦した日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)搭乗員の本間清機長、馬場英一郎操縦士,井下知義通信士:右翼に日章旗、左翼に星条旗が描かれたという。
2 Fantastic RARE ORIGINAL 1932 B/W ( THESE ARE NOT COPIES OR REPRODUCTIONS OF ANY TYPE-THEY ARE 100% ORIGINAL PERIOD DEVELOPED PHOTOGRAPHS ) ACME I found information about the Junkers on a German web site that gave the aircraft type and registration number but nothing else. Photos show the crew & aircraft at Haneda Airport prior to the attempted flight and show Kiyoshi Honma (navigator), Eiichiri Baba (pilot) and Tomoyoshi (radio operator). Other photo lists Homna as the Chief Pilot and Baba as the co-pilot. Great research possibilities and RARE photos of this event. Photos measure 9" x 7" and are in near mint condition with attached flimsy captions (please read scans for text) and ACME newspictures credit stamp .
写真はDiscover Worth, Worthopedia引用。


関野凖一郎「淋代平」 1932年(昭和7年)9月24日、本間清海軍中佐を機長に馬場英一操縦士、井上智義機関士の3名の搭乗する日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)は、羽田飛行場を出発し青森県三沢市の淋代海岸は、前年1931年に周辺住民が杉板を敷いて飛行場を建設し、10月4日、アメリカ人クライド・パングボーン(Clyde Edward Pangborn)、ヒュー・ハーンドンの2人が搭乗したベランカ(Bellanca)J-300「ミス・ビードル」Miss Veedolが太平洋横断飛行に飛び立った海岸である。

1932年(昭和7年)9月24日、午前5時37分、ユンカースJunkers W 33機長本間清海軍中佐、馬場英一操縦士、井上智義機関士の3名が搭乗するユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)は、青森県三沢市淋代海岸を離陸して、アメリカの本土を目指して、太平洋横断無着陸飛行に発進した。

ユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の発動機は、ユンカースL5液冷エンジン(310馬力)で、燃料満タンで全重量4.5トンで、離陸速度160kmだった。午前11時過ぎ「エトロフ島南方を通過」の無線が入ったあと、ユンカースJunkers W 33輸送機「第三報知日米号」は消息を絶った。それから捜索が行われたが機体は見つからないままだった。帝国飛行協会は、1932年12月、「横断飛行断念」の声明を出した。

写真(右)1932年9月24日、太平洋横断飛行に挑戦した日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の報知日米号搭乗員慰霊之碑:右翼に日章旗、左翼に星条旗が描かれたという。
写真はMyルートガイド -青森版- 報知日米号搭乗員慰霊之碑引用。


1932年9月24日、「ミス・ビードル」に遅れること1年後、日本人として太平洋横断飛行を成功させようと報知新聞社が導入したユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)が発進した。

しかし、北太平洋の悪天候に阻まれ3飛行士とともにユンカースJunkers W 33の遭難した。その遺徳をたたえて1962年(昭和37年)、本間機長と海軍兵学校同期の桑原虎雄氏らによって、青森県三沢市招和台公園に「報知日米号搭乗員慰霊之碑」が建立された。

リンドバーグ 1927年、アメリカ人チャールズ・リンドバーグCharles Lindbergh: 1902-1974)は、ニュヨークからパリまで、5800kmの大西洋無着陸横断飛行に成功した。その4年後、1931年、アメリカ人2人の搭乗する機体が、青森県三沢市の淋代海岸を離陸し、空気抵抗減少のために車輪を投下し、41時間後に、8000km彼方のアメリカ・ワシントン州ウエナッチに胴体着陸した。これが世界初の太平洋無着陸横断飛行である。

日本も全国紙の報知新聞社が飛行機を輸入して、太平洋横断無着陸飛行の計画を立てた。1932年9月24日、本間機長以下のユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)が3回目の挑戦をした。しかし、エトロフ島近郊での連絡を最後に消息を絶ち、行方不明となった。その後、捜索が1年間行われたが、痕跡は見つからなかった。発進前、井下通信士は「技術的には十分な自身あるも天佑は左右し難し」との遺書を家族に残していた。

このユンカースJunkers W 33太平洋横断飛行の挑戦者を追悼する報知日米号搭乗員慰霊之碑が、1962年、本間機長の海軍兵学校同期生らによって青森県三沢市三沢山ノ神15「三沢市招和台公園」に建てられた。

報知日米号搭乗員慰霊之碑
本間 清
機長、新潟県佐渡郡河原田町(現佐和田町)出身、享年45歳
北洋天低暗雲迷 (ほくようてんひくくあんうんまよい)
霧塞前程転凄惨 (きりぜんていをふさぎうたたせいさん)
決然破暁就鵬程 (けつぜんはぎょうほうていにつき)
爆々快翔横北溟 (ばくばくかいしょうほくめいをよこぎらん)
出発前の書、小比類巻家所蔵

馬場英一郎
操縦士、滋賀県坂田郡春照(すいじょう)村(現伊吹町)出身、享年28歳

井下 知義
通信士、島根県邑智郡川越村(現桜江町)出身、享年32歳


3.ユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」”Bremen”(D 1167)大西洋横断飛行

写真(右)1928年4月、アイルランド、アメリカ大陸までの太平洋横断無着陸飛行の出発準備をするドイツのユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」"Bremen" :燃料補給用のドラム缶3個が、草地の滑走路に転がっている。W33「ブレーメン」の搭乗者は、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)の3名
Irland, Flugplatz Baldonnel bei Dublin.- Startvorbereitung des Flugzeugs Junkers W 33 "Bremen" (Kennung D-1167) für Atlantiküberquerung Title Junkers W 33 "Bremen" Info non-talk.svg Der Start des deutschen Junkers-Flugzeuges "Bremen" zum Amerikaflug. Die deutsche Junkersmaschine "Bremen" wird auf dem Flugplatz in Baldouel zum Start fertig gemacht. Date April 1928 Collection German Federal Archives Collection German Federal Archives
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-05720, Junkers W 33 "Bremen".jpg引用。


ユンカースW.33輸送機「ブレーメン」”Bremen”は、アイルランドのバルドネルを出発し、大西洋を西に向かって飛行し、カナダのグリー二ー島(51.38度、N 57.19度)まで、飛行することに成功した。これは、世界初の、大西洋の東から西への横断飛行である。現在、復元された機体が、ドイツのブレーメン空港に展示されている。

写真(右)1928年4月、アイルランド、アメリカ大陸まで太平洋横断無着陸飛行に出発する前のドイツのユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」"Bremen" :搭乗者は、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)の3名
Irland, Flugplatz Baldonnel bei Dublin.- Startvorbereitung des Flugzeugs Junkers W 33 "Bremen" (Kennung D-1167) mit Hauptmann Hermann Köhl und Ehrenfried Günther Freiherr von Hünefeld für Atlantiküberquerung Title Köhl, v. Hünefeld und Familien vor Junkers W 33 Info non-talk.svg Der Start des deutschen Junkers-Flugzeuges "Bremen" zum Amerikaflug. Die Führer des deutschen Junkers-Ozeanflugzeuges Hauptmann Köhl mit seiner Gattin, rechts neben ihm sein Begleiter der erste Flugpassagier über den Ozean Freiherr von Hünefeld, kurz vor dem Start. Depicted people Köhl, Hermann Hünefeld, Ehrenfried Günther von Freiherr Date April 1928 Collection German Federal Archives
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Junkers aircraft Bremen.jpg引用。


写真(右)1928年4月、アイルランドからカナダに到着したドイツのユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」"Bremen" :搭乗者は、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)の3名
The Junkers W33 aircraft nicknamed Bremen, following its successful east-west trans-Atlantic flight. The group at right includes Romeo Vachon and Baron von Huenefeld Date April 1928 Source Library and Archives Canada / PA-126212 Author Edward N. Jackson
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-05722, Köhl, v. Hünefeld und Familien vor Junkers W 33.jpg引用。


写真(右)1927年8月、ドイツ、デッサウ、ユンカース(Junkers)G.31三発輸送機をバックにしたドイツの飛行家。左から、ユンカースW33「ブレーメン」 ”Bremen”搭乗員のヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)と、ユンカース社の主任パイロットで水上機周遊世界記録保持者フリッツ・ルース(Fritz Loose)フリッツ・ルース(Fritz Loose:1987-1982)は、1923年1月、ユンカース社でパイロット実習を受けて、飛行免許を取得し、ユンカースF 13輸送機(メルセデス160馬力6気筒)の操縦し、航空輸送に従事し、モロッコでは、スペイン赤十字のために負傷者輸送にも従事したことがある。1926年のドイツ・ルフトハンザ航空設立後も、ユンカース社の専属パイロットとして飛び続けている。1927年に水上機の長距離高速飛行の世界記録を樹立した。ユンカースF 13輸送機を使って、1933年までに80以上の飛行場で、1万2,000の離着陸をした経験豊富な飛行士である。
Dessau.- Von links: Hermann Köhl, Ehrenfried von Hünefeld und Fritz Loose vor dem Ozeanflug des Junkers-Flugzeugs "Bremen" Title Dessau, Ozeanflieger Das Flugzeug im Hintergrund ist eine Junkers G 31 Hünefeld, Ehrenfried Günther von Freiherr: Ozeanflieger, Deutschland (GND 117049867) Loose, Fritz: Chefpilot der Junkerswerke in Dessau, Deutschland (GND 118574256) Köhl, Hermann: Hauptmann, Luftwaffe, Ozeanflieger, Deutschland Date August 1927 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-00876A, Dessau, Ozeanflieger.jpg引用。


1928年4月13日,ドイツ、大西洋横断無着陸飛行に成功したドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D 1167)搭乗員は、ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)でドイツ人搭乗員は2人が褒賞された。しかし、実際に太平洋を横断した飛行には、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)も搭乗していた。

アメリカのチャールズ・リンドバーグCharles Lindbergh:1928‐1974)は、1927年5月20日、ライアンNYPスピリットオブセントルイス」(Spirit of St. Louis)を操縦し、アメリカのニューヨークを離陸し、5月21日、フランスのパリに着陸し、大都市間の大西洋単独無着陸飛行に成功した。

チャールズ・リンドバーグCharles Lindbergh)が、大西洋を西から東に飛行したのは、地球の自転、偏西風の影響で、飛行にはプラスに作用するからである。他方、東から西ヘの大西洋横断は、遥かに困難が多かった。これに挑んだのが、ドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」Bremenで、1928年4が十18日に、アイルランドからカナダまで無着陸飛行に成功した。

写真(右)1928年6月、アイルランド(Ireland)東部、リメリック(Limerick)鉄道駅におけるユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」"Bremen"の東から西への大西洋横断無着陸初飛行の成功祝賀イベント :アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)を特に記念するものだったようだ。ドイツ人搭乗者は、ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)の二人で、アイルランド人フィッツモーリス1人だった。
Author Unknown or not provided Record creator U.S. Information Agency. (08/01/1953 - 03/27/1978) Title Ticker tape and confetti floating onto the motorcade carrying the crew of the Bremen, and the crowds assembled to greet them. Broadway, New York Depicted place New York (New York state, United States, Date 1928 Collection National Archives at College Park
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-05720, Junkers W 33 "Bremen".jpg引用。


写真(右)1928年4月,アメリカ、ニューヨーク、大西洋横断無着陸飛行に成功したドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D 1167)を祝賀するパレードと紙吹雪:大西洋横断一番乗りは、アメリカ人チャールズ・リンドバークだが、これは西から東へ、偏西風を利用して順風の大西洋横断飛行だった。他方、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)が搭乗したユンカースW33は、東から西への逆風の中を大西洋を横断した。
Irland, Flugplatz Baldonnel bei Dublin.- Startvorbereitung des Flugzeugs Junkers W 33 "Bremen" (Kennung D-1167) mit Hauptmann Hermann Köhl, Ehrenfried Günther Freiherr von Hünefeld und James Fitzmaurice für Atlantiküberquerung
Title: Köhl, v. Hünefeld, Fitzmaurice vor Junkers W 33
Der Start des deutschen Junkers-Flugzeuges "Bremen" zum Amerikaflug. Die beiden deutschen Ozeanflieger Hauptmann Köhl und Freiherr von Hünefeld, welche mit dem irischen Piloten Kommandeur James Fitzmaurice zum Amerikaflug gestartet sind.
Depicted people:
Hünefeld, Ehrenfried Günther von Freiherr: Ozeanflieger, Deutschland
Fitzmaurice, James A.: Major, Ozeanflieger, Irland
Köhl, Hermann: Hauptmann, Luftwaffe, Ozeanflieger, Deutschland
Date April 1928 Photographer: Georg Pahl (1900–1963)
写真はWikimedia Commons, Category:Hermann Köhl File:Ticker tape and confetti floating onto the motorcade carrying the crew of the Bremen, and the crowds assembled to greet - NARA - 541910.jpg引用。


フリッツ・ルース(Fritz Loose:1987-1982)は、1923年1月、ユンカースの飛行機工場で実用パイロットとして実習を受け、試験に合格してベルリンで民間航空証明書を取得、正規のパイロットとなった。その後、デッサウからベルリンまで、ユンカースF 13輸送機(メルセデス160馬力6気筒)で飛んだのを手始めに、飛行時間を増やしていった。ストックホルムではスウェーデンの航空免許も取得している。また、モロッコ植民地反乱鎮圧戦争では、スペイン赤十字のために負傷者輸送に従事した。

1926年にユンカース航空が合併して、ドイツ・ルフトハンザ航空が設立されても、ユンカース社に所属して、飛行を続けた。デモ飛行、高架道路をくぐる抜ける曲芸飛行、記録飛行が仕事となった。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行を見る。

写真(右)1928年8月、ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、コックピットをバックにしたドイツの飛行家ユンカース社の主任パイロットで水上機周遊世界記録保持者フリッツ・ルース(Fritz Loose)(手前)、ヘルマン・コール(Hermann Koehl)(中央)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)(奥):フリッツ・ルース(Fritz Loose:1987-1982)は、1923年1月、ユンカース社でパイロット実習を受けて、飛行免許を取得し、ユンカースF 13輸送機(メルセデス160馬力6気筒)の操縦し、航空輸送に従事し、モロッコでは、スペイン赤十字のために負傷者輸送にも従事したことがある。1926年のドイツ・ルフトハンザ航空設立後も、ユンカース社の専属パイロットとして飛び続けている。1927年に水上機の長距離高速飛行の世界記録を樹立した。
Deutsche Piloten wollen zum Ozeanflug starten! Die Junkersflieger Köhl und Loose sowie ein Begleiter , Baron von Hünefeld, wollen es trotz der bisher misslungenen Ozeanflüge wagen denselben mit einer Junkersmaschine zu überfliegen. Die Probeflüge haben in Berlin-Tempelhof bereits zur Befriedigung stattgefunden.
Loose, Fritz: Chefpilot der Junkerswerke in Dessau, Deutschland Köhl, Hermann: Hauptmann, Luftwaffe, Ozeanflieger, Deutschland Hünefeld, Ehrenfried Günther von Freiherr: Ozeanflieger, Deutschland Depicted place Tempelhof Date March 1928
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-05651, Berlin-Tempelhof, Vorbereitung eines Ozeanfluges.jpg引用。


1927年3月29日に、1905年設立、フリッツ・ルース(国際航空連盟Fédération Aéronautique Internationale:FIA)の水上飛行機クラス(C.bis)にユンカースW33水上機(L5液冷エンジン装備)を使って挑み、ドイツ中部ザクセンのアーケン(エルベ)で500キロのぺーロードを搭載し、無着陸で規定区域を1702.08キロメートル周遊飛行し、飛行時間14時間8分2秒の国際航空連盟Fédération Aéronautique Internationale:FIA)の公認世界記録を樹立している。この記録は、現在でも破られていない。

写真(右)1930年8月、ドイツ、デッサウ、ユンカース(Junkers)A50軽飛行機コックピットをバックにしたドイツの飛行家ユンカース社の主任パイロットで水上機周遊世界記録保持者フリッツ・ルース(Fritz Loose):フリッツ・ルース(Fritz Loose:1987-1982)は、ユンカースF 13輸送機を使って、1933年までに80以上の飛行場で、1万2,000の離着陸をした経験豊富な飛行士である。1933年、ドレスデンのドイツ航空スポーツ協会の指導者となり、1934年から1938年まで、ニューギニアで、ユンカースF 13改造機を使って、村落でキリスト教を布教するルーテル教会(ALC)のために、伝道飛行ネットワークを構築した。1939年に第二次世界大戦が始まると、フリッツ・ルースは、ドイツのデサウ、ベルンブルク、ライプツィヒにあるユンカース工場で完成した1000機ものユンカースJu 88爆撃機を試験・運搬飛行した。
Der Chef-Pilot der Junkerswerke in Dessau Fritz Loose geht nach Amerika ! Fritz Loose, welcher 5 Weltrekorde eroberte, sollauf einer Parade internationaler Flugzeuge in Chicago deutsche Flugzeuge vorführen. Depicted people Loose, Fritz Date August 1930 Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102)
写真はWikimedia Commons, Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-10266, Fritz Loose.jpg引用。


1928年、3機のユンカースJunkers W 33輸送機をアジアに運んだ際には、ユンカースW 33輸送機1機は船で上海に運ばれ、フリッツ・ルース(Fritz Loose)とその整備士はシベリア横断鉄道と船で移動している。中国河南省では、地元の軍事指導者の下で、士官パイロットの指導、訓練を受けもった。この時、他のユンカースW 33輸送機2機は、フィリピンに出荷された。

1930年3月1日、フリッツ・ルース(Fritz Loose)はユンカース航空機製造社のキャプテンに任命されるとともに、ドイツ・エアロクラブから、1930年のヨーロッパ往復の試験飛行のためにユンカースA 50を託された。他方、既に十分な飛行経験があったルースは、1万キロメートルのレースに参加することを認められずに終わっただった。その後、ルースは、イタリアのサボイアマルケッティ機に搭乗し、アメリカシカゴのナショナルエアレースに参加した。

1931年には、イギリスでオート・ジャイロのセルバ(Cierva)C-19 Mk IIIの試験にも参加し、合計で飛行時間30時間、飛行距離4500キロを記録している。また、6人乗りユンカースF 13輸送機を使って、1933年までに80以上の飛行場で、1万2,000の離着陸をしている。

1933年、フリッツ・ルース(Fritz Loose)は、ドレスデンのドイツ航空スポーツ協会の指導者となり、1934年から1938年まで、ニューギニアで、ユンカースF 13改造機によるルーテル教会(ALC)の伝道飛行網を構築した。1939年にドイツに戻った後、フリッツ・ルースは、デサウ、ベルンブルク、ライプツィヒにあるユンカース工場で働き、1000機ものユンカースJu 88爆撃機を試験・運搬飛行している。

写真(右)1929年、ドイツ、ドレスデン、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”:ユンカースW 33輸送機は、単発エンジンの輸送機だが、空力的かつ構造的に洗練されており、低翼式、全金属製の単葉機として完成した。生産機数は約200機。最初の大西洋直行東西横断飛行に成功した。1928年4月13日に、ドイツのユンカースW.33輸送機「ブレーメン」”Bremen”が向かい風の中を西から東に大西洋を横断して信頼性を高め、それが世界の航空会社がW.33輸送機を採用する理由にもなったであろう。
Description: Technikgeschichte | Grundlagen der Technik, Wissenschaft und Kultur | Technische Denkmale | Verkehrswesen | Verkehrsmittel | Junkers-Verkehrsflugzeug W33 Bremen Gesammelt (von wem): SLUB/Deutsche Fotothek Language: Deutsch Location: Sächsische Landesbibliothek - Staats- und Universitätsbibliothek Dresden
写真はSLUB / Deutsche Fotothek・Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0006672引用。


ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」Bremen(登録コード:D 1167)は、ノンストップでヨーロッパ大陸からアメリカ大陸に東から西への大西洋横断飛行(Transatlantic flight)を成功させた初めての飛行機である。この時のユンカース(Junkers)W.33搭乗員は、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)で1928年4月12日にアイルランド、ダブリン郊外のバルドネル(Baldonnel)飛行場を飛び立ち、36時間半かけて大西洋を横断し、翌日、カナダ、ニューファウンドランド島沖のグリンリー(Greenly)島に着陸した。

写真(右)1929年、ドイツ、ドレスデン、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”:1928年、大西洋を横断した。
ユンカースJunkers W 33は1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。
Description: Hausschild, Alfred Bräter, Edmund, Technikgeschichte | Grundlagen der Technik, Wissenschaft und Kultur | Technische Denkmale | Verkehrswesen | Verkehrsmittel | Junkers-Verkehrsflugzeug W33 Bremen, Stübelallee, Stübelplatz Dresden, Ausstellungspalast Geschaffen (von wem): Hausschild, Alfred; Bräter, Edmund Geschaffen (wann): 1894
Fotothek, Detail: Junkers-Verkehrsflugzeug W 33 "Bremen" (einmotoriger Tiefdecker) nach dem Transatlantikflug mit ... am 12./13. April 1928, 1929
写真はNational Archives of The Netherlands:SLUB / Deutsche Fotothek・Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0006671 引用。


前年1927年5月20日に大西洋を西から東に、ニューヨーク〜パリ単独無着陸飛行をアメリカ人にチャールズ・オーガスタス・リンドバーグCharles Lindbergh:1902年2月4日 - 1974年8月26日)がライアンNYP-1「スピリット・オブ・セントルイス」で成功させているが、1928年4月12日、ユンカース(Junkers)W.33「ブレーメン」Bremenの行った東から西への大西洋横断は偏西風の影響で遥かに困難である。

写真(右)1927年、ドイツ、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”の操縦席の操縦桿:操縦桿の前には、水平儀・羅針儀(コンパス)・メーターが並んだ計器盤が見える。
1928年、大西洋を横断した。

Title: Führerraum-Instrumentierung. Junkers W 33 "Bremen", 1927 Dating: 1927
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard
Colour: black and white Orientation: Horizontal Format: Categories: View Collection, Unknown, Cockpit + Aircraft radiocommunication and navigation compartment, Product photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33 Record Name: Ans_05338-02-169-AL-FL
写真はNational Archives of The Netherlands:ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv ・Ans_05338-02-169-AL-FL引用。


ユンカースJunkers W 33は1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。

写真(右)1927年、ドイツ、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」”Bremen”の操縦席正面の計器盤:水平儀・羅針儀(コンパス)・エンジンと燃料関係のメーターが並んでいる。
Title: Führerraum-Instrumentierung. Junkers W 33 "Bremen", 1927 Dating: 1927 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Colour: black and white Orientation: Horizontal Categories: View Collection, Unknown, Cockpit + Aircraft radiocommunication and navigation compartment, Product photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33 Record Name: Ans_05338-02-168-AL-FL W 33 "Bremen" (einmotoriger Tiefdecker) nach dem Transatlantikflug mit ... am 12./13. April 1928, 1929
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv ・Ans_05338-02-168-AL-FL 引用。


写真(右)1928年、アメリカ、大西洋を横断したばかりのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D-1167)搭乗員のドイツ人機長ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)
SDASM Archives Historic Flight Trans Atlantic Title: Historic Flight Trans Atlantic Date: 1928 Additional Information: Junkers W-33 ""Breman"" Kohl/Con Hunefeld/Fitzmaurice Tags: Historic Flight Trans Atlantic, Junkers W-33 ""Breman"" Kohl/Con Hunefeld/Fitzmaurice, 1928
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): "Catalog #: 01_00081555"引用。



写真(上)1928年4月13日,ドイツ、大西洋横断無着陸飛行に成功したドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D 1167)
:ドイツ人搭乗員のヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)の肖像画あるが、同乗したアイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)の肖像はない。
Die Flugpioniere Hermann Köhl und Ehrenfried Günther Freiherr von Hünefeld mit dem Flugzeug "Bremen D 1167" vom Typ Junkers W 33 vor ihrem Transatlantikflug, Unsere Ozeanbezwinger mit der "Bremen"Aineistotyyppi Date: 1928 , First half of the 20th century Identifier: http://www.deutschefotothek.de/obj89004142.html Institution: Deutsche Fotothek Provider: Deutsche Digitale Bibliothek Providing country: Germany First published in Europeana: 2017-02-13
写真はDeutsche Fotothek,Deutsche Digitale Bibliothek・2048418_Ag_DE_DDB_SLUB-Sub10 引用。


写真(右)1928年10月(?)、ドイツ、ベルリン、カイザーダム、第2回国際航空展のホール(?)、大西洋を横断したユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D-1167):アメリカ国旗、「W33」のプレートを掲げて展示されている。コックピットは、長い機種の大きなエンジンに妨げられ、さらに空気抵抗を抑えるためか、風防の高さも低いために、操縦席からの視界は良くないように見える。
Junkers W 33 "Bremen", first east to west Atlantic crossing
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): "Catalog #: 10_0015275"引用。


ユンカースJunkers W 33が飛行機製造に用いたジュラルミン製波板状外板は、平面の物よりもはるかに強度が高く、堅牢である。そこで、鋼管フレームで直方体形状を作り、それを胴体骨格として、その外板にジュラルミン真美板をはった。そこで、胴体の形状は、家屋と同じように直方体となり、円筒状の一般的な飛行機よりも胴体容積を無駄なく使うことができた。

写真(右)1928年10月、ドイツ、ベルリン、カイザーダム、第2回国際航空展のホールに展示された大西洋を横断したユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D-1167):ヘルマン・コール(Hermann Koehl)機長の下で、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)少佐が、大西洋で最初の東西飛行を行った。機体の前には、アメリカ国旗、「W33」のプレートを掲げて展示され、太平洋横断飛行を成功させた搭乗員3名の写真が花輪で飾られている。
Title Luftfahrtausstellung, Flugzeug Junkers W 33 Info non-talk.svg Die Eröffnung der II. Internationalen Luftfahrt-Ausstellung in den Ausstellungshallen am Kaiserdamm in Berlin 1. Das Junkers-Flugzeug "Bremen", mit welchem Hauptmann Köhl, von Hünefeld und Major Fitzmaurice den ersten Ost-West-Flug über den Ozean ausführten. Vor der Maschine das geschmückte Bild der drei erfolgreichen Ozeanflieger. Depicted place Luftfahrtausstellung Date October 1928
写真はWikimedia Commons,Bremen (Junkers W 33) File:Bundesarchiv Bild 102-06642, Luftfahrtausstellung, Flugzeug Junkers W 33.jpg引用。


ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」”Bremen”は、アイルランドのバルドネルを出発し、大西洋を西に向かって飛行し、カナダのグリー二ー島(51.38度、N 57.19度)まで、飛行することに成功した。これは、世界初の、大西洋の東から西への横断飛行である。現在、復元されたユンカース(Junkers)W.33「ブレーメン」が、ドイツのブレーメン空港に展示されている。

写真(右)2007年3月,ドイツ、ブレーメン飛行場に展示されている大西洋横断無着陸飛行に成功したドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D 1167):大西洋横断一番乗りは、アメリカ人チャールズ・リンドバーグだが、これは西から東へ、偏西風を利用して順風の大西洋横断飛行だった。他方、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)が搭乗したユンカースW33は、東から西への逆風の中を大西洋を横断した。
English: Junkers W33 - displayed at "Bremenhalle" Airport Bremen Deutsch: Junkers W33 - ausgestellt in der Bremenhalle am Flughafen Bremen Date 11.03.07 Source Self-photographed Author Tomas Mellies
写真はWikimedia Commons, Category:Hermann Köhl File:Ticker tape and confetti floating onto the motorcade carrying the crew of the Bremen, and the crowds assembled to greet - NARA - 541910.jpg引用。


⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)W33輸送機Bremen大西洋横断飛行を見る。


4.1928年メイベル・ボル(Mabel Boll)のライト・ベランカ WB-2「コロンビア」の大西洋横断


写真(上)1927年5月1日,大西洋横断無着陸飛行に後れを取ったライト・ベランカ(Bellanca)WB-2「コロンビア」'Columbia'
:高性能機だったが、1927年5月21日、リンドバーグは,ライアン NYP-1「スピリット・オブ・セントルイス」(Spirit of St. Louis)にただ一人搭乗し、ニューヨーク=パリの大西洋横断無着陸飛行の先陣を奪った。
Description English: Bellanca WB-2 'Columbia' photo from L'Aérophile May,1927 Date 1 May 1927 Source https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553815x/f144.item Author L'Aérophile magazine
写真はWikimedia Commons,Columbia (aircraft)・File:Bellanca WB-2 'Columbia' L'Aérophile May,1927.jpg引用。


イタリア系アメリカ人ジュセッペ・ベランカ(Giuseppe Mario Bellanca:1886–1960)設計になるライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)単発機は、1926年に完成し、「コロンビア」、その後「メープルリーフ」の固有名詞で、長距離飛行に使用された。

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)飛行滑走路、発進準備中のライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)。搭乗員はオリバー・コリン・ルブティラー(Oliver Colin LeBoutillier )とオーサー・アーガス(Arthur Argles)
Conception Bay Museum.
The airplane "Columbia" at the Harbour Grace airstrip, circa June 12-20, 1928.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


ライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」は、C.C.チャンピオン(C.C. Champion)操縦で1926年ナショナル・エア・レース(National Air Races )に参加し好成績を示した。しかし、ライト航空はエンジン開発優先の方針をとったため、ジュセッペ・ベランカ(Giuseppe Bellanca)は、チャールズ・レヴィン(Charles Levine:1897-1991)とともに新たにコロンビア飛行機(Columbia Aircraft Company)を創立し、そこでライト・ベランカ WB-2を運用することとした。

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)飛行滑走路、ブロードウェー女優メイベル・ボル(Mabel Boll)が、発進準備中のライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)の尾翼をバックに記念撮影した。搭乗員はオリバー・コリン・ルブティラー(Oliver Colin LeBoutillier )とオーサー・アーガス(Arthur Argles)
Conception Bay Museum.
The airplane "Columbia" at the Harbour Grace airstrip, circa June 12-20, 1928.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


1926年初飛行のライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)諸元

乗員:6名
全長:8.15 m(26 ft 9 in)
翼幅:14.12 m(46 ft 4 in)
翼面積:25.3 m2(272 sq ft)
空虚重量:839 kg(1,850 lb)
最大離陸重量:2,449 kg(5,400 lb)
燃料積載量:502L
発動機: ライト(Wright)J-5 ヴィールウィンド(Whirlwind)空冷星型9気筒エンジン 164 kW (220 hp)1基
最大速度:203 km/h(109 kn; 126 mph)
巡航速度:169 km/h (91 kn; 105 mph)
実用上昇限度:4,000 m(13,000 ft)

アメリア・イアハート  メイベル・ボルMabel Boll)は、富豪で女優だったので、スタント飛行をして映画にも多数出演していた操縦士オリバー・コリン・ルブティラーとは知り合いで、ハーバーグレース飛行場への初着陸をしたライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)のイベントにも参加している。

オリバー・コリン・ルブティラーの操縦するこの「コロンビア」で大西洋横断飛行する初めての女性乗客を目指したが、女性飛行士アメリア・イアハート(Amelia Earhart)がフォッカー (Fokker)F.VIIb-3m三発水上旅客輸送機「フレンドシップ」 "Friendship" で大西洋横断飛行を成功させたために、「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)による大西洋横断飛行の計画はキャンセルされた。

1928年中に、メイベル・ボルMabel Boll)は、チャールズ・レヴァインの購入したユンカースW33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てていた。

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)、大西洋横断一番乗りの女性を目指したブロードウェー女優で富豪のメイベル・ボル(Mabel Boll)とライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」操縦士オリバー・コリン・ルブティラー(Oliver Colin LeBoutillier)(中央)。後方は、待機中の「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237):1927年にチャールズ・リンドバーグが飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功すると、メイベル・ボル(Mabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪でブロドウェー女優であり、大西洋横断飛行をした最初の女性同乗者を目指したが、1928年6月17日アメリア・イアハートはフォッカーF.VIIb-3m「フレンドシップ」"Friendship"三発水上旅客輸送機で初の大西洋横断飛行女性尺の名誉を獲得した。しかし、1928年中に、メイベル・ボルは、チャールズ・レヴァインの購入したユンカースW33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てた。しかし、計画は実現せず、終わった。ただし、この機体は、1931年にポルトガルのリスボンから大西洋横断飛行に出発し、途中で不時着水している。
Conception Bay MuseumOliver Colin LeBoutillier (centre), pilot of the "Columbia" airplane, and Mabel Boll (right), Broadway actress and passenger, at Harbour Grace, circa June 12-20, 1928. #nlhistory #columbia #hrgrace #harbourgrace #aviation #conceptionbaymuseum.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


オリバー・コリン・ルブティラー(1894-1983)は、カナダ生まれ、第一次大戦にイギリス空軍飛行士として参戦し、ドイツ軍のエースパイロットのマンフレッド・フォン・リヒトホーフェンの撃墜を目撃した撃墜王(スコア10機)。戦後は、飛行機で空に文字を描くスカイライター(skywriter)、スタント飛行パイロットになり、数々の映画に出演している。また、飛行機インストラクターとしても活躍し、アメリア・イアハートAmelia Earhart)に双発機の操縦を教えている。

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)飛行滑走路、発進準備中のライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237) ;メリー・アノセン(Mary Anonsen)夫人、マウリーン・アノセン(Maureen Anonsen)とエームンド・アノセン(Amund Anonsen):整った服装の子供が水平尾翼の前に立っている。
Conception Bay Museum.
The "Columbia" airplane at the Harbour Grace airstrip, circa June 12-20, 1928
Learning of the success of their rival, Boll, LeBoutillier and Argles decided to cancel their flight. After eight nights at the Cochrane Hotel, the trio left on June 20 and headed back to New York. While Boll was the first female flyer to visit Harbour Grace, she wouldn’t be the last. ThoughEarhart had made history as a passenger on the "Friendship," she wasn’t satisfied with just keeping the logbook. The aviatress would later return to Newfoundland—to Harbour Grace, specifically—in May 1932, to complete her solo transatlantic flight. The "Columbia" airplane would later return, too, with different passengers, when Erroll Boyd and Harry Connor became the first Canadians to cross the Atlantic on October 10, 1930.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


リンドバーグ ニューヨーク・パリ間の大西洋無着陸横断飛行の懸賞金オルティーグ賞2万5,000ドルに挑戦するために、チャールズ・リンドバーグCharles Lindbergh: 1902-1974)は、ライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」の購入を交渉したが、機体が賞金と同額の2万5,000ドルということでまとまらなかった。しかし、「コロンビア」は高性能だったために、かえって運用の在り方がまとまらず、横断飛行の実施が遅れた。

他方、リンドバーグは,ライアン NYP-1「スピリット・オブ・セントルイス」(Spirit of St. Louis)を1万ドルで購入し、1927年5月21日、世界初のニューヨーク・パリ間単独無着陸飛行に成功し、オルティーグ賞を獲得してしまった。

しかし、1927年6月4日, ライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」は、アメリカから、ドイツのベルリンへの大西洋横断飛行を決行、大西洋をなした三番目の飛行機となった。また、この時、チャールズ・レヴィン(Charles Levine:1897-1991)は、初めての大西洋横断をした乗客となった。

The Times’s print archive(December 18, 1991, Section D, Page 23)には、次のようなチャールズ・レヴィン(Charles Levine)死亡記事“Charles A. Levine, 94, Is Dead; First Trans-Atlantic Air Passenger”が掲載されている。

リンドバーグ Charles A. Levine, who became aviation's first trans-Atlantic passenger in 1927 when he sponsored an attempt to beat Col. Charles A. Lindbergh to Europe, died Dec. 6 at Sibley Memorial Hospital in Washington. He was 94 years old and had moved to Washington from New York City this fall.

His family said he died after a brief illness.
Mr. Levine flew into history with Clarence D. Chamberlin at the controls of a monoplane designed by Giuseppe Ballanca and owned by Mr. Levine, then a millionaire businessman. Their 225-horsepower craft, named Columbia, had been ready for weeks. But the race to be the first to fly the Atlantic was lost to Colonel Lindbergh when a suit filed by one of Mr. Chamberlin's would-be co-pilots, Lloyd Bertaud, marooned the Columbia in its hangar at Roosevelt Field on Long Island.

Mr. Levine got a sheriff's attachment quashed hours after Lindbergh, in the Spirit of St. Louis, lifted off from the same airfield. Lindbergh's arrival in Paris on May 21 astounded the world and overshadowed the Chamberlin-Levine venture.
To revive interest in the flight, Mr. Levine announced that Mr. Chamberlin would fly nonstop to Berlin, taking off June 4 with a mystery passenger -- who turned out to be himself. Record for Nonstop Flight

The plane out of gas before reaching its goal but still set a record of 3,911 miles in 43 hours of nonstop flight, surpassing Lindbergh's mark by about 300 miles. With Mr. Chamberlin at the controls virtually the entire time, the Columbia landed 100 miles short of Berlin in the town of Eisleben on June 6.

Mr. Levine was born in North Adams, Mass., in 1897 but was reared in Brooklyn. He left school early to help his father in the scrap-metal business, set up his own company in 1917 and made a fortune with a salvage contract for the War Department, buying and disposing of spent shell casings.

He branched out into airplane manufacturing in the mid-1920's and took flying lessons. He was said to have lost heavily in the stock market crash of 1929 but kept his interest in aviation, backing flights and spending large sums on experimental planes.

In 1937 he was convicted on a Federal smuggling-conspiracy charge involving 2,000 pounds of tungsten powder from Canada and then served two years in prison.

In Los Angeles in 1942 he was convicted of smuggling a German alien into the United States from Mexico and was sentenced to 150 days in jail. The alien was identified at the trial as a refugee from a concentration camp.
Mr. Levine is survived by a daughter, Ardith Polley of Palm Springs, Calif., five grandchildren and one great-grandchild.

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)飛行滑走路、発進準備中のライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」“Columbia”(登録コード:N-X-237)。搭乗員はオリバー・コリン・ルブティラー(Oliver Colin LeBoutillier )とオーサー・アーガス(Arthur Argles)
Conception Bay Museum.
The "Columbia" airplane at the Harbour Grace airstrip, circa June 12-20, 1928
Learning of the success of their rival, Boll, LeBoutillier and Argles decided to cancel their flight. After eight nights at the Cochrane Hotel, the trio left on June 20 and headed back to New York. While Boll was the first female flyer to visit Harbour Grace, she wouldn’t be the last. Though Earhart had made history as a passenger on the "Friendship," she wasn’t satisfied with just keeping the logbook. The aviatress would later return to Newfoundland—to Harbour Grace, specifically—in May 1932, to complete her solo transatlantic flight. The "Columbia" airplane would later return, too, with different passengers, when Erroll Boyd and Harry Connor became the first Canadians to cross the Atlantic on October 10, 1930.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


1928年3月5日、ウィルマー・シュルツ(Wilmer Stultz)が操縦するライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」にメイベル・ボルが同乗し、キューバのハバナまでカリブ海を飛行したことを契機に、メイベル・ボルは、同機による大西洋横断飛行に同乗させてくれるように依頼したが、交渉するが、シュルツが拒否したためはボルはバードのフォッカー機と交渉することになった。

1930年6月29日、コロンビア号はエロール・ボイド (Erroll Boyd)、ロジャー・Q・ウィリアムズ(Roger Q. Williams)、ハリー・P・コナー(Harry P. Conner)が搭乗して、ニューヨークからバーミューダ諸島までの17時間の往復飛行を行い、郵便を投下した。

1930年にメーペルリーフ号と改名されて、カナダ国内博覧会に展示された。1930年10月9日、ボイド、ウィリアムズ、コナーの操縦でカナダからロンドンまでの36時間10分の無着陸横断飛行を行い、カナダ人による最初の大西洋横断飛行となった。その他、1933年にニューヨークからハイチまでの無着陸飛行などを行った。1934年1月25日、格納庫の火事で、失われた。

ユンカースJu 52は、1930年に初飛行した単発輸送機だったが、出力不足のために1932年にBMW132空冷星形9気筒エンジン3基搭載に改良された。そのため原型の単発Ju 52は、Ju 52/1mと命名され、改良された3発機はJu 52/3mと命名された。この3mのmは、発動機モーターを意味する"Motor"(ドイツ語)の頭文字である。Ju52/3mの乗客は17名、で1935年から運用された。

写真(右)1928年6月12-20日、カナダ東端、ニューファンドランド州、アバロン半島に囲まれたコンセプションベイ(Conception Bay )に面したハーバーグレース(Harbour Grace)飛行滑走路を飛び立ったライト・ベランカ WB-2(Wright-Bellanca WB-2)「コロンビア」(登録コード:N-X-237)。搭乗員はオリバー・コリン・ルブティラー(Oliver Colin LeBoutillier )とオーサー・アーガス(Arthur Argles)
Conception Bay Museum.
The "Columbia" airplane at the Harbour Grace airstrip, circa June 12-20, 1928
Learning of the success of their rival, Boll, LeBoutillier and Argles decided to cancel their flight. After eight nights at the Cochrane Hotel, the trio left on June 20 and headed back to New York. While Boll was the first female flyer to visit Harbour Grace, she wouldn’t be the last. Though Earhart had made history as a passenger on the "Friendship," she wasn’t satisfied with just keeping the logbook. The aviatress would later return to Newfoundland—to Harbour Grace, specifically—in May 1932, to complete her solo transatlantic flight. The "Columbia" airplane would later return, too, with different passengers, when Erroll Boyd and Harry Connor became the first Canadians to cross the Atlantic on October 10, 1930.
写真はflicker,Conception Bay Museum:The "Columbia" in Harbour Grace - June 12-20, 1928引用。


1927年にチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)が「スピリット オブ セントルイス」機で大西洋無着陸横断飛行に成功すると、メイベル・ボルMabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪夫人で、大西洋横断飛行をした最初の女性同乗者を目指したが実現せず、1928年6月17日アメリア・イアハートは女性初の大西洋横断飛行を、フォッカーF.VIIb-3m「フレンドシップ」("Friendship")三発水上旅客輸送機に同乗して成し遂げた。しかし、1928年中に、メイベル・ボル(Mabel Boll)は、チャールズ・レヴァインの購入したユンカース(Junkers)W.33「クィーンオブエア」に同乗して、   ロンドンから大西洋を横断する計画を立てた。しかし、計画は実現せず、終わった。ただし、この機体は、1931年にポルトガルのリスボンから大西洋横断飛行に出発し、途中で不時着水している。

写真(右)1928年、大西洋を横断したユンカース(Junkers)W.33輸送機「空の女王」 ”Queen of the Air”:1927年にチャールズ・リンドバーグが飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功すると、メイベル・ボル(Mabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪夫人で、大西洋横断飛行をした最初の女性を目指したが、1928年6月17日アメリア・イアハートは女性初の大西洋横断飛行を成し遂げた。しかし、1928年中にメイベル・ボル(Mabel Boll)は、チャールズ・レヴァインの購入したユンカースW33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てた。しかし、計画は実現せず、終わった。ただし、この機体は、1931年にポルトガルのリスボンから大西洋横断飛行に出発し、途中で不時着水している。
Junkers, W.33 Catalog #: 01_00081555 Title: Junkers, W.33 Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: W.33 Tags: Junkers, W.33
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): Catalog #: 01_00081555引用。



5.1928年アメリア・イアハート(Amelia Earhart)のフォッカー F.VII「フレンドシップ」大西洋横断

写真(右)1928年、大西洋を横断したフォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028):大西洋を横断した時の降着装置は、主輪・尾輪式の陸上機仕様ではなくて、双フロートの水上機仕様だった。1927年にアメリカ人チャールズ・リンドバーグが飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功、それに続く女性の大西洋横断飛行一番乗りは、1928年6月17日「フレンドシップ」に同乗したアメリカ人アメリア・イアハートだった。女性初の大西洋横断飛行を逃したアメリカ女優で大富豪のメイベル・ボル(Mabel Boll:1895-1949)は、チャールズ・レヴァインの購入したユンカースW33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから逆回りで大西洋を横断する計画を立てた。しかし、計画は実現せず、終わった。
The Fokker F.VIIb-3m "Friendship" (NX-4204, c/n 5028), in which Wilmer Stultz and Louis Gordon flew across the Atlantic from Trepassy Harbour, Newfoundland, to Pwll, Wales, on 17-18 June 1928, with Amelia Earhart riding as a passenger. Catalog #: 10_0015334 Title: Historic Flight Trans Atlantic Date: 1928 Additional Information: Fokker ""Friendship"" Tags: Historic Flight Trans Atlantic, Fokker ""Friendship"", 1928 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 1928 Source Historic Flight Trans Atlantic
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は,SDASM Archives(Aircraft Races, Air Shows and Historic Flights): File:Fokker F.VIIb-3m "Friendship" NX-4204 (8091755853).jpg引用。


1928年6月17日に、アメリカ女性アメリア・イアハートAmelia Mary Earhart:1897-1939)が同乗したフォッカー (Fokker)F.VIIb-3m三発水上旅客輸送機「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上旅客機は、カナダ東端、ニューファンドランド州、ニューファンドランド島トレパシー湾を離水した。

1928年6月17日、そして、大西洋を横断して、飛行時間21時間で、イギリスのにウェールズ、バリー・ポートに着水した。これが、女性による初の大西洋無着陸横断の記録である。この後、アメリアは飛行士として有名になるが、この大西洋横断はアメリカ女性アメリア・イアハートAmelia Mary Earhart)は、乗客として同乗した。

つまり、1928年6月の女性初の大西洋横断飛行とは、男性の操縦する飛行機の乗客、形式的には航法員として、同乗したのがアメリカ人女性アメリア・イヤハートだったということで、確かに女性初の大西洋横断だが、飛行機の搭乗員(操縦士・航法士・機関士)として搭乗したわけではない。

アメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart:1897年7月24日-1937年7月2日)は、アメリカの女性飛行士として 1927年のチャールズ・リンドバーグによる大西洋横断飛行の壮挙に続く、女性として初の大西洋横断飛行をしと喧伝された。彼女が、実際に単独で女性初の大西洋横断飛行をするロッキード・ベガ(Lockheed Vega)"Little Red Bus".(Lockheed L-10 Electra)(登録コード:NR16020)によって、1932年5月21日、カナダ東端ニューファウンドランドからイギリス、北アイルランドまで横断飛行したときだった。

日本語版wikiでも「1927年のチャールズ・リンドバーグの快挙に続き、女性として初めての大西洋単独横断飛行をした」とミス・リンディの愛称をミスリードするような記述がある。「知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていた」というのも、彼女の力だけではなく、夫ジョージ・パットナムのメディアと資金によるところが大きい。しかし、本来、魅力ある女性飛行士であることには変わりはなく、現代アメリカでも著名なヒロインである。

写真(右)1928年4月12日、大西洋横断準備中のフォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)の尾翼で記念撮影した搭乗員のヴィルマー・シュルツ(Wilmer Stultz):機体が上を向いて駐機しているので、大西洋を横断のために、主輪・尾輪式の陸上機仕様の降着装置を、双フロートの水上機仕様に改造作業直前の撮影と思われる。1927年にアメリカ人チャールズ・リンドバーグが飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功、それに続く女性の大西洋横断飛行一番乗りは、1928年6月17日フォッカー F.VII(F.VIIb/3m)「フレンドシップ」に同乗したアメリカ人アメリア・イアハートだった。
Wilmer Stultz standing side of tail of Byrd's 3-motor fokker that flies to the South Pole. Plane Friendship Creator/Contributor: Jones, Leslie, 1886-1967 (photographer) Date created: 1928-04-12 Physical description: 1 negative : glass, black & white ; 4 x 5 in. Genre: Glass negatives Subjects: Stultz, Wilmer L., 1899-1929; Gordon, Louis E.; Friendship (Airplane); Airplanes Notes: Title and date from information provided by Leslie Jones or the Boston Public Library on the negative or negative sleeve. Collection: Leslie Jones Collection Location: Boston Public Library, Print Department Rights: Copyright © Leslie Jones. Preferred citation: Courtesy of the Boston Public Library, Leslie Jones Collection.
写真は,Boston Public Library File name: 08_06_001443引用。


アメリア・イアハート 1924年4月11日オランダで初飛行し、1928年にアメリア・イアハートAmelia M. Earhart)を大西洋横断飛行をした初の女性としたフォッカー F.VII(F.VIIb/3m)の諸元

搭乗員: 2名
乗客: 8名
全長: 14.60 m
全幅: 21.70 m
全高: 3.90 m
主翼面積:58.5平方メートル
空虚重量: 6,725 kg kg
総重量: 11,570 kg
エンジン: ライト(Wright)J-5 ヴィールウィンド(Whirlwind)空冷星型9気筒エンジン 164 kW (220 hp)3基
巡航速度:170 km/h
最高速力:185 km/h /1980 m
航続距離:1160 km
実用上昇限度:2600 m
生産期間:1925-1932年 283機

⇒写真集Album:メリア・イヤハートのフォッカー(Fokker)F.VII「フレンドシップ」 "Friendship"大西洋横断初飛行を見る。


6.1931年ベランカCH-400「ミス・ビードル」Miss Veedol の太平洋横断初飛行

写真(右)2009年、青森県三沢基地で展示中の初の太平洋横断機のベランカ(Bellanca)CH-400 スカイロケットSkyrocket「ミス・ビードル」Miss Veedol (replica):1931年10月4日早朝、青森県三沢村の淋代海岸に杉板を敷きつめてつくられた特設飛行場から離陸したミス・ビードルは、北太平洋を横断して、アメリカ、ウェナッチ市まで7982kmを41時間13分で飛行することに成功した。
Description English: Miss veedol Date January 2009 Source Own work Author Sampsonsimpson20
写真はeuropiana collections,Airliners Bellanca CH-400 Skyrocket (replica) - Pangborn World Flight Company / あるいはWikimedia Commons, Category:Miss Veedol File:MissVeedol.jpg引用。


初の太平洋横断無着陸飛行に成功したベランカ(Bellanca)J-300「ミス・ビードル」Miss Veedolは、全幅14.8m、全長8.5m、発動機はにブラッド&ホイットニ「ワスプ」425馬力エンジン1基装備で、機内食として、サンドイッチ、鶏の揚げ物、りんご「紅玉」20個を搭載したという。

1931年10月4日、青森県三沢市淋代海岸を発進したベランカ(Bellanca)「ミス・ビードル」Miss Veedolは、北アメリカ大陸アメリカ、ワシントン州ウェナッチ市まで、7982kmを41時間13分かけて飛行し、初の太平洋無着陸横断を成功させている。アメリア・イアハートの大西洋横断の1928年の3年後である。

写真(右)2011年、青森県三沢基地で展示中の初の太平洋横断機のベランカ(Bellanca)CH-400 スカイロケットSkyrocket「ミス・ビードル」Miss Veedol (replica):1931年10月、クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンが搭乗した同型CH-400 機は、日本からアメリカ本土までの最初の太平洋無着陸飛行に成功した飛行機。機体を1930年に開発、製造したのは、ベランカ航空機社で1927年に創立され、現在でもアビア・ベランカ航空(AviaBellanca Aircraft)として存続している。
Toshi Aoki - JP Spotters Location Misawa (MSJ / RJSM), Japan Aircraft type Bellanca CH-400 Skyrocket (replica) Operator Pangborn World Flight Company / Tydol Registration NR796W Type Photograph Description English: 80th anniversary first to fly non-stop across the Pacific Ocean. Miss Veedol Japan tour 2011. "Misawa Air Fest 2011" Date 4 September 2011
写真はeuropiana collections,Airliners Bellanca CH-400 Skyrocket (replica) - Pangborn World Flight Company / あるいはWikimedia Commons, Category:Miss Veedol File:Bellanca CH-400 Skyrocket (replica), Pangborn World Flight Company - Tydol AN1983554.jpg引用。


1931年10月4日、クライド・パングボーンとヒュー・ハーンドンは、ミス・ビードル(Miss Veedol)に搭乗、大西洋横断飛行を達成するために、青森県三沢村淋代海岸を離陸した。そして、ミス・ビードルは、飛行時間41時間で、翌10月5日、アメリカ太平洋岸のワシントン州ワナッチー市に着地した。これは、世界初の太平洋無着陸横断の記録である。搭乗員のパングボーンとハーンドンは。北太平洋横断無着陸を成功させた功績で、1931年、その年の最優秀飛行士に贈呈されるハーモン・トロフィーを受賞した。

写真(右)2015年、青森県三沢市、青森県立三沢航空科学館で展示中の初の太平洋横断機のベランカ(Bellanca)CH-400 スカイロケットSkyrocket「ミス・ビードル」Miss Veedol (replica)の機首:1931年10月4日早朝、青森県三沢村の淋代海岸に杉板を敷きつめてつくられた特設飛行場から離陸したミス・ビードルは、北太平洋を横断して、アメリカ、ウェナッチ市まで7982kmを41時間13分で飛行することに成功した。
青森県立三沢航空科学館にて。 所在地は青森県三沢市。 Camera: Sony ILCE-6000 Lens: Sony SEL1670Z (Carl Zeiss) Date 1 November 2015 Source Own work Author 663highland
写真はWikimedia Commons, Category:Miss Veedol File:151101 Misawa Aviation & Science Museum, Aomori Japan36bs.jpg引用。


ベランカCH-400「スカイロケット」は、1930年に、ベランカ航空機社(Bellanca Aircraft Company)が開発した機体で32機が製造された。同社は、1927年に創立、1983年からはアビア・ベランカ航空(AviaBellanca Aircraft Corporation)として存続している。

写真(右)1930年代、アメリカ、アメリカ海兵隊のベランカ(Bellanca)XRE-3「スカイロケット」Skyrocket (BuNo 9341):1931年10月4日早朝、青森県三沢村の淋代海岸に杉板を敷きつめてつくられた特設飛行場から離陸したミス・ビードルは、北太平洋を横断して、アメリカ、ウェナッチ市まで7982kmを41時間13分で飛行することに成功した。
青森県立三沢航空科学館にて。 所在地は青森県三沢市。 Description A U.S. Marine Corps Bellanca XRE-3 Skyrocket (BuNo 9341). This aircraft was used as an air ambulance and could carry two stretchers and was acquired in 1932. Date 1930s Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 2011.003.084.003
写真はWikimedia Commons, Category:Bellanca CH-400 File:Bellanca XRE-3 Skyrocket USMC c1933.jpeg引用。


ベランカCH-400「スカイロケット」(Bellanca CH-400)の諸元
初飛行:1930年
乗員Crew: 1人 乗客Capacity: 5人
全幅Length: 27 ft 10 in (8.48 m)
全幅Wingspan: 46 ft 4 in (14.12 m)
全高Height: 8 ft 4 in (2.54 m)
主翼面積Wing area: 273 sq ft (25.4 m2)
空虚重量Empty weight: 2,592 lb (1,176 kg)
総重量Gross weight: 4,600 lb (2,087 kg)
燃料搭載量Fuel capacity: 120 US gal (100 imp gal; 450 L)
発動機Powerplant: 1 × プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)C 空冷星形エンジン, 420 hp (310 kW)
飛行性能Performance:
最高速力Maximum speed: 155 mph (249 km/h, 135 kn)
巡航速力Cruise speed: 130 mph (210 km/h, 110 kn)
航続距離Range: 750 mi (1,210 km, 650 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 20,000 ft (6,100 m)
上昇率Rate of climb: 1,250 ft/min (6.4 m/s)
総生産機数:32機


7.民間用のユンカース(Junkers)F.13輸送機


写真(右)1923年5-6月、アラスカ、ノルウェー・アムンゼン(Roald Amundsen)隊のユンカースF.13 輸送機水上機型「エリザベス」"Elisabeth":アラスカから北極点を通過して北極圏スバーバル諸島にまで飛行する計画だった。実際には、
Flere uidentifiserte personer i arbeid med understellet til flyet "Elisabeth", 1923 Beskrivelse / Description: Roald Amundsen hadde tenkt å fly fra Alaska over Nordpolen til Svalbard med det. Under en prøveflyvning gikk imidlertid understellet i stykker og ekspedisjonen ble avsluttet. Dato / Date: mai-juni 1923 Sted / Place: USA, Alaska, Wainwright Fotograf / Photographer: ukjent / unknown Digital kopi av original / Digital copy of original: s/h negativ, plast Eier / Owner Institution: Nasjonalbiblioteket / National Library of Norway Lenke / Link: www.nb.no Bildesignatur / Image Number: bldsa_SURA0821
写真は,Nasjonalbiblioteket(National Library of Norway )・"Identifier: NL.97010132 "引用。


1911年12月に南極点発到達を達成したロアール・アムンセン(Roald Amundsen) は、1925年、ドルニエDo-Jワール(Wal)飛行艇で北極点到達を目指すも失敗、1926年5月12日、イタリア人ウンベルト・ノビレUmberto Nobile)の開発した飛行船ノルゲ(Norge:ノルウェー)で、彼とともに北極点を飛行することに成功した。ただし、1926年5月9日、アメリカ人リチャード・バードRichard Byrd)がフォッカー(Fokker) F.VII三発機「ジョセフィン・フォード」で、スピッツベルゲン島から北極点まで飛行したのが北極点世界初飛行である。

1921年、ユンカース社は自ら開発したユンカース(Junkers)F.13 輸送機を就航させるユンカース航空を設立したが、1926年にドイツ・アエロ・ロイド社と合併して、ドイツ・ルフトハンザ航空となった。

ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機の1919年から1929年までの生産機数は、ドイツ93機、ソ連49機、アメリカ26機、コロンビア17機、ポーランド16機、イタリア12機、日本・ボリビア各8機、フランス・フィンランド・オーストリア各7機、イギリス・ハンガリー・ペルシャ各6機、スウェーデン・スイス各5機、中国・トルコ各4機、ベルギー・スペイン・ラトビア・アルゼンチン各3機、ルーマニア・ブルガリア・オーストラリア・チリ各1機などと世界で300機以上生産・組み立てられている。

ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機の年間生産機数は、1919年2機、1920年26機、1921年26機、1922年21機、1923年47機、1924年39機、1925年68機、1926年13機、1927年25機、1928年29機、1929年18機と、11年間に合計314機が量産された。

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)G-24輸送機を見る。

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)G-31輸送機を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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