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◆ユンカース(Junkers)A50「報知日米親善号」太平洋横断飛行
写真(上)2014年8月、ドイツ連邦、バイエルン州ミュンヘン(München)、ドイツ博物館(Deutsches Museum)に展示されているユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)複座軽飛行機(登録コード:D-2054)
:同型機は、1932年のヘルシンキ=ケープタウン往復、1933年のアジア巡回飛行を成し遂げた。
English: Junkers D-2054 aircraft in Deutsches Museum. Date 10 August 2014, 17:44:42 Source Own work Author Tiia Monto
写真は、Wikimedia Commons, Category:Junkers A 50 File:Junkers D-2054.jpg引用。

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

1.ユンカース(Junkers)A50 ユニオール(Junior)スポーツ飛行機

写真(右)1929年8月15日、ドイツ、フランスの航空雑誌に掲載されたユンカース(Junkers)A50「ユニオール」(Junior:青年)スポーツ機/軽飛行機(登録コード:D-1982):ジーメンス(Siemens & Halske Sh13空冷星形5気筒エンジン75馬力1基を機首に装備している。
Description English: Junkers A 50be photo from L'Air August 15,1929 Date 15 August 1929 Author L'Air magazine.
写真は、Wikimedia Commons, Category:Junkers A 50 File:Junkers A 50be L'Air August 15,1929.jpg引用。


1930年代に活躍したA.50軽飛行機は、ユンカースが飛行機製造に用いたジュラルミン製波板状外板を採用しているので、機体は平面の物よりもはるかに強度が高く、堅牢である。そこで、鋼管フレーム構造を胴体骨格として、その周囲にジュラルミン外板をはった。

ドイツのユンカース(Junkers)A50Junior軽輸送機が搭載したジーメンスSiemens-Halske Sh 13空冷星形エンジンは、1928年完成、シリンダー・ボア 105 mm、ストローク 120 mm、エンジン排気量H 5,2L (5200 cm³)、圧縮比 5.2 : 1で、出力は56 kW (75 hp)、回転数(毎分)1,850 rpmの小型エンジンである。



ユンカース(Junkers)A50ci「ユニオール」(Junior:青年)軽飛行機のジーメンス(Siemens & Halske)Sh 13空冷星形5気筒エンジン(Five-cylinder radial engine)56 kW (75 hp)は、気筒ボア(Bore): 105 mm (4.13 in)、気筒行程(Stroke): 120 mm (4.72 in) 排気量(Displacement): 5.2 L (316 cu in)、乾燥重量(Dry weight): 110 kg (242 lb)

ドイツ、ミュンヘンのドイツ博物館(Deutsches Museum)で展示されたユンカース(Junkers)A50ci「ユニオール」(Junior:青年)スポーツ機/軽飛行機(登録コード:D-2054)(製造番号:C/N 3575):
Charles M. Daniels Collection Photo Title: Charles M. Daniels Collection Photo Aircraft/Subject: Junkers A 50 Junior Daniels Album Name: Deutsches Museum '96
Album Page #: 63 Additional Information: With a Bücker Bü 131 Jungmann suspended above.
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives Catalog #: 15_000476引用。


写真(上)2004年7月、ドイツ連邦、バイエルン州ミュンヘン(München)、ドイツ博物館(Deutsches Museum)に展示されているユンカース(Junkers)A50 「ユニオール」(Junior:青年)複座軽飛行機(登録コード:D-2054)
:同型機は、1932年のヘルシンキ=ケープタウン往復、1933年のアジア巡回飛行を成し遂げた。
Deutsch: Junkers A50 im Deutschen Museum Source first published at the German Wikipedia project as de:Bild:Junkers-a50.jpg by its author Softeis at 21:44, 13. Jul 2004 Author photo taken by Softeis Permission (Reusing this file) GNU-FDL
写真は、Wikimedia Commons, Category:Junkers A 50 File:Junkers-a50.jpg引用。


ヴァイノ・ブレマーWäinö Elias Bremer:1899 - 1964) は、ユンカース(Junkers)A 50ce「ユニオール」(Junior)を1機購入し、1931年2月23日にもう1機ユンカース(Junkers)A 50"Junior"を購入した。この機体は、1931年3月6日に、登録コードをOH-ABB与えられ、民間登録された。1931年、ヴァイノ・ブレマー(Wäinö Bremer) はユンカースA50でヨーロッパ・ツアーに出発し、11か国を訪問した。1932年、ヴァイノ・ブレマー(Väinö (Wäinö) Bremer) は、ユンカース(Junkers)A 50ce(OH-ABB)スポーツ機で、南アフリカ共和国ケープタウンの往復飛行に成功した。そして、ヴァイノ・ブレマーWäinö (Väinö) Bremer) は、1933年に世界一周飛行の地球周回を試みたが、1939年にフィンランドとソビエト連邦との冬戦争が始まったために、ユンカースA 50ce(Junior:OH-ABB)はフィンランド空軍に徴用された。このユンカースA 50(Junior)は破損し、1943年6月26日に変換された。

ユンカース(Junkers)W.33と同じく、ユンカース(Junkers)A50のジュラルミン製波板状外板は、平面の物よりもはるかに強度が高く、堅牢である。そこで、鋼管フレームで直方体形状を作り、それを胴体骨格として、その外板にジュラルミン板をはった。

1929年2月13日初飛行のユンカース(Junkers)A 50"Junior"の諸元
全長7.12 m、全幅 10 m、全高 2.39 m
主翼面積 13.7 平方メートル
空虚重量 340 kg、総重量 590 kg
発動機 アームストロング(Armstrong)Siddeley Genet II)空冷星形5気筒エンジン65 kW (87 hp)
最高速力164 km/h、巡航速力 140 km/h
航続距離 600 km、航続時間 5時間
実用上昇限度 4,200 m
上昇時間 3,000 m/21分
離陸距離 250 m、着陸距離 187 m

ユンカース(Junkers)A50軽飛行機を見る。


2.北太平洋横断飛行のユンカース(Junkers)A50軽飛行機「報知日米親善号」

1930年8月30日、吉原清治操縦は、ベルリン〜東京間11404kmを79時間58分で飛行、1931年5月14日にユンカース(Junkers)A50水上機「日米号」で、太平洋横断飛行をめざして羽田を出発したが、失敗した。第2回・第3回の太平洋横断の試みは、ユンカースW33「第三報知日米号」によるもので、報知新聞は2回、太平洋横断飛行を試み失敗している。1931年、吉原清治は、報知新聞社主催の飛行機による北太平洋横断飛行に、5月14日と7月5日に挑んだが、いずれも失敗した。そして、1932年5月、飛行艇での北太平洋逆横断飛行に挑んだが、アメリカのオークランドで試験飛行中、高波により機体が大破、機関士とともに負傷し飛行を断念した。

報知新聞社が試みた第1回目の太平洋横断飛行は、国威発揚の場として意識され、日本中で大きく喧伝され、日本の指導者たちも出発式に参加している。この第1回目の、ユンカースA50「報知日米号」による太平洋横断の様子を、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)から見てみよう。

新聞(右)1931年、「本社主催 北太平洋横断飛行(一)魔の北太平洋を天翔る使命ー世界が目指す新路開拓に乗出す報知水上機」:吉原清治飛行士軽飛行機ユンケルス水陸交替機(Junkers A50)による第1回目の太平洋横断の試みを奉じた報知新聞。この紙面では、小型軽飛行機によるアリューシャン列島という悪条件の飛行が難しいことを指摘している。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)

本社主催 北太平洋横断飛行(一)

魔の北太平洋を天翔る使命
世界が目指す新路開拓に乗出す報知水上機

(一)

魔の空北太平洋を征服せよッ−大自然は我等人類に永い間高らかに呼びかけている、何という力強い挑戦の言葉だ、反ぱつ的に吾等は起った、し尺をも弁ぜぬ濃霧と、端知れぬ氷河と、移動火山と、未開の無人島からなる北太平洋上に『先ず航空路を開拓せよ』と、三一年の全世界人は暗黙のうちに約束するに至った、全世界の航空界の王者達が、真一文字にこの太平洋へ突進せんとしている時、本社が陽春四月下旬乃至五月の候、日米親善北太平洋征空の壮挙を敢行せんとするも、この世界的情勢を黙視するに忍びないからである

本社の計画は既報の通り軽飛行機ユンケルス水陸交替機を以て、日本が生んだ国際的飛行家吉原飛行士/a>をして北太平洋を島伝いに飛行せしめんとするものであるが、翼長僅か十メートル、八十馬力の小型飛行機を以てこの魔の空といわるる北太平洋を征服せんとすることは真にいまだかつて何人も企て及ばなかった処であり、大冒険飛行である
 海の内外から本社に殺到している激励や讃辞は、即ち世界の何人も北太平洋の空についてより多くを知り求めんとしているからであろう、未知の北太平洋に飢えているからであろう、更に近き将来当然開かるべき国際航空路の一大指針を得んとしているからであろう、空の王者達が志す一気横断への参考に供せんとしているからであろう、しかして全世界の人類が、大自然征服の勝利を満喫せんとしているからに外ならない

本社の目的もここにあり、この飛行の深遠なる意義もまたここにある、計画はあらゆる待望のうちに発表され、準備は着々進行している、しかし北太平洋の征空は世界航空界の至難中の至難な飛行である、既に大西洋も、南太平洋も征服された、南北両極も機影を印したが、北太平洋のみは一九二四年春米国海軍機が六十余日の難飛行で東から西へ飛んで以来、いまだ何人もしょう破したものはない  かくして北太平洋は全世界航空界の難コース中の難コースとされ、その征空は多年の懸案地帯とされている、今回本社の敢行せんとするコースを大観すれば三つの難関がある、いわく千島からカムチャッカ島に至る間、カムチャッカよりアリューシアン群島を経てアラスカに至る間、アラスカよりカナダに至る間の三ケ所だ

[写真あり 省略]
北極 千島列島千百余キロは名にし負う濃霧の地帯、アリューシャン群島は北極海太平洋の怒涛狂奔する中に点在する移動火山列島、アラスカ半島からカナダへは一万呎以上の連峰連り、氷河と霧の地帯である、これを如何に切り抜けて行くか、その実状は? 北太平洋飛行への興味はここに新しい興味と興奮を起させる(写真は北太平洋をこむる断雲の層) 濃霧と低気圧の密集地帯が北太平洋である、濃霧が去れば低気圧が後を襲い、極寒と共に霧氷にとざさる、これが北太平洋の空の正体で如実の魔の空であり、空の鬼門であり、ここには夏と冬しかない、しかも今度の飛行の全コースの三分の二がこの地帯に当る

至難の飛行は想像にあまりあるが同地帯は一帯に四月下旬から五月九月下旬から十月を夏、冬二季の境界として気象の激変を来す、飛行家泣かせのし尺を弁ぜぬ濃霧は低気圧と霧氷期を脱して夏季に入る、五月末より北海道からアラスカへかけて起る静穏な天候は忽ちにして激変、濃霧は海上より襲来して視界を全くさえぎり、一度濃霧につつまれたが最後、海も、山も、河も、港も、空中、地上の万象ことごとくおおわれて展望はすべて遮断される

五月に北海道東端の小区域に現れ三〇パーセントを示す濃霧は、六月になればその範囲が更に拡大されて、アリューシャンの中西部から北海道へ及び四〇−五〇パーセントとなり、それ以東は二〇−三〇パーセントの霧となる、更に七月は五〇乃至七〇パーセントの濃霧がこの一帯をつつんでしまう
 アリューシャン以東アラスカへかけて四〇パーセント、アラスカからバンクーバーへかけては三〇乃至三五パーセント、まさに北太平洋上は濃霧におおいつくされてしまう、流石の濃霧も八月からやや下り坂、十月になると、北海道方面から去ってアメリカの西海岸で二〇乃至三〇パーセントを示すだけになる

しかしこの頃から低気圧はようやく頭を北太平洋上に現し、十一月にはその中心はアリューシャンにあって示度七五〇ミリとなり、そのまま翌年四月に至る、この低気圧の発達と共に風向は全く不定となる
 雪、霰、霧氷は絶え間なく襲来、海面から数千メートルの間は一面に雲が満ち満ちて霧と雲の境界はつかなくなる、四月になって低気圧が去れば既に北海道東部は二〇乃至二五パーセント、アリューシャン群島の中東部からアラスカへかけて一五乃至二〇パーセントの濃霧が入り代って登場する、全く始末に終えない地帯である

[写真あり 省略]
霧氷にとざされた恐ろしい経験について気象台の築地技師は『霧氷の甚だしい時期の十一月を選んでシヤトル航路の船に乗ったが、横浜からシヤトルまで十二日の間太陽を見た−それも肉眼ではない−のはたった一日、いや一瞬時であった、一度この霧氷が襲来すると文字通り一間先は見えなくなるもので、実にいやなものです』と語っている

 かつて一九二四年北太平洋を飛んで来た米国海軍機の指揮官マルチン少佐がアラスカ半島で山に衝突遭難したのも、この濃霧のためであった、同年日本から米国へ飛行を企てた英国のマクラレン少佐が、カムチャッカで雄図をなげうったのも前途を阻む濃霧に抗し得られなくなったためである。(写真はほとんど絶えぬ濃霧の層)

夏季、北太平洋上をおおおいかくす濃霧は、いわゆる海霧である、しかもこの霧はその日その日の気流、風向によって忽ぜんとして現れ、一瞬にして消え去り、文字通りの雲散霧消の状態を示す、これがサンフランシスコからカナダ一帯の沿岸になると、西風乃至西北風の時にとざされ、北太平洋方面のそれと同様、千変万化極まりなく、全く空の勇者たちも全心血をそそいでこれが突破を企てるのである

濃霧こそ航空機に対する最後的陣営で、雲霧が低くたれていると、原則的航法は忽ち応用出来なくなって、一度濃霧に入ったが最後、冷静な飛行家も、上下、左右、前後の感覚に異常な錯誤を生じ、かかる場合には得て悲惨事を起す  よし悲惨事は免かれるにせよ、雲霧にとざされると自己の現在居る位置が判りにくくなり、座席内の計器−傾斜計、羅針盤、旋回計−のみによって飛行しなくてはならない、地面を望見することも出来ない、従って地物との対照によって針路を測定することも出来ず、真の盲目飛行より外に方法はない

新聞(右)1931年、「本社主催 北太平洋横断飛行(一)魔の北太平洋を天翔る使命ー世界が目指す新路開拓に乗出す報知水上機」:第1回目の太平洋横断に使われる吉原清治飛行士軽飛行機ユンケルス水上機(Junkers A50)『報知日米号』が導入した「米国スペリー会社から最新式計器スペリー・アーティフィシャル・ホライズン(スペリー人工水平線指示器)並びにパイオニア計器会社製のフライト・インジケーター(飛行指示器−旋回計と傾斜計を一つにした計器)」などを報じている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


更に雲の上に抜け出ると、時によっては極めて平穏なことがあるが雲上に居ては雲下の天候状態は全く不明で、かつ羅針盤の角度を修正しても、その時々の風向の相違に基づく偏流を修正しなくては目的地に到達することが出来ない
 更に雲下に降下せんとしてもその状態が不明であるため、飛行家は非常な不安に襲われる、若し降下せんとした位置に霧に包まれた山岳があったが最後、飛行機は山岳と衝突するような悲惨事を惹起する、我が国においてもこうした例は過去にしばしばある

濃霧ときいて飛行家がその晴るるを待ち、あるいは大迂回、あるいは一時機翼を休めるもそのために外ならない、この濃霧が千島からアリューシャン一帯を襲うのだ、如何に北太平洋飛行が困難であるか、また思いを新にするものがあろう… 全世界注視の真っただ中に、魔の空北太平洋横断を八十馬力の軽飛行機で敢行する本社の壮図も漸く迫り、その使用機ユンケルス水陸交替機は、立川で陸上機として組立改造を終り、近く霞ケ浦航空隊に空輸されるが、霞ケ浦では水上機として最後の改造を行った上、吉原飛行士は、今回の大飛行の成否のかぎを握るともいうべき計器飛行の訓練をなすのである

魔の空北太平洋上は濃霧の世界だこの濃霧にとじこめられた飛行機は、一寸先も見えぬ霧の中で、一個の計器をたよりにブラインドフライ(盲目飛行)を続けねばならぬ、従って今後の飛行訓練の重要点は計器飛行に存するともいえる
 昭和二年四月、霞ケ浦航空隊のエキスパート菊岡、加藤両大尉が一四式水上偵察機二機で、霞ケ浦、千島間の飛行を行った際往復二十余日の飛行時間を要したに拘わらず、千島列島の単冠から目的地の武魯頓島に至るのに濃霧の為めついに武魯頓を発見するに至らず、むなしく帰還して以来、霞ケ浦航空隊では、この計器飛行の訓練に専念して来た

霞ケ浦航空隊では最近米国スペリー会社から最新式計器スペリー・アーティフィシャル・ホライズン(スペリー人工水平線指示器)並びにパイオニア計器会社製のフライト・インジケーター(飛行指示器−旋回計と傾斜計を一つにした計器)を二個購入し(我国にはこの二個しか現有せぬ)計器飛行の研究を行っている

この計器飛行とは以上の計器を飛行機の座席に装備し、飛行機の離陸直後において座席を幌で覆い、外界の展望を全然さえぎり、計器をたよりに全くの盲目飛行を行うもので、同航空隊では去る十七、八の両日霞ケ浦、三方ケ原間で計器飛行の権威者三和義勇大尉、中野忠二郎大尉、鈴木正一大尉等によって我国最初の長距離計器飛行を行い好成績を収めた我が吉原飛行士が霞ケ浦で訓練を行うものは、即ちこの計器による盲目飛行、し尺も弁ぜぬ太平洋上の濃霧の中に、無事大飛行の成功を収めんには、この計器飛行によらねばならぬからだ、この訓練には同隊の三和大尉が専らこれに当る筈である、松永副長も  吉原君は、濃霧で有名なベルリンとケルンの間を飛行した経験もあるから、非常に参考になっているだろう、吉原君ならその成功は確信出来るし、吉原君は航法は充分会得している筈だから計器飛行の訓練さえすれば、もう充分だ といっている(写真はスペリー人工水平線指示器

[写真あり 省略]
Alaska 風−霧に劣らぬ飛行の強敵は風である、強い風は濃霧を吹き飛ばす、けれども飛行機をも押流すのである、風に吹き流される時は飛行家は偏流の修正をして進むのであるが、偏流修正が充分でないとコンパスの上では機首は進む方向に向っていても目的地に到達することが出来ない、かつて大西洋でリンドバーグの二番乗をしてパリを目ざして飛行したチェンバレンがドイツのある地点に到着したのはこの例と見てよかろう、更に強風一変軟風となれば場所により濃霧を伴ない、また一方順風は飛行にもって来いの味方となる、順風を利すればスピードを増す飛行機自身のスピードプラス全力はこの時の速力となるのである、兵家の弁を以てすれば飛行に取っては風なるかなでまことに有難いものであるが、帯に短したすきに長しの風ほど飛行にとって迷惑であるものはない

さて北太平洋の風である、大体にいえば冬季は北西の風が強く吹きしきる、夏は風がなげば彼の恐ろしい濃霧をお供につれて来る、強くなれば雨が後から追っかけて来る、四、五月と九、十月は幾分よいとはいえ気候の変り目は風の変り目、風向不定ということになっている、いよいよ以て油断も隙もない訳だ、これを長年にわたって統計の上から見れば

四月はアリューシャンの北部カムチャッカ、アラスカの南西部にかけてある低気圧の低圧部に対し、日本から進む低気圧である、この方面は西風西、南風等が吹き、アメリカ西岸はまちまちの風が多い、五月になると千島、カムチャッカアリューシャンは四五メートルの西寄の風が吹く、強風も割合に少いといわれている、これはこんどの飛行には追風となるので、まことに便利であるが、アメリカ大陸側は西風のため、飛行機は常に横風を食い、流されやすい恐れがあり、かつこの風は霧をも伴なう、風の向さえ注意すれば、一年中最もよい

六月からは濃霧季に入ることは前述の通りである、気圧の傾度は漸次減少して来る、風力はなくなるが、このゆるやかな風は霧という厄介なものを背負って、ゆるゆる進むのだから堪まらない、これは一度強く吹けば雨が伴ない海上は全く暗く閉ざされてしまう、これが三ケ月にわたる、九月になるとアメリカ西海岸は北西寄の風であるが、北太平洋は西寄の風が擡頭して霧が去る、十月は北太平洋は北緯四十度乃至六十度に至るアリューシャン方面はまちまちの風または東南風、東風が吹いて日本からアメリカに飛ぶのは向い風となる、この上冬季の前兆として強風が非常に多くなる、これは雪やアラレを伴なうが、この特徴がだんだん強くなる

十一月には西寄となるがアジア大陸の高気圧、アリューシャン[Aleutian]の低気圧及び北太平洋上の高気圧と対立して来るため、大気の環流が起り、全く飛行不可能な時となる、十二月また同様、吹きまくる強風は霧、氷、ミゾレ、雪、アラレを伴ない、幾日も幾日も晴れぬ日が続く、一月も同断、二月になると我千島方面は強風の本場となり、しかも太平洋西部は西寄の風、カムチャッカ東部は北東の風、太平洋東部は西寄の風、地方地方勝手気ままに吹きまくる

三月になってもこの調子、強風の吹く範囲は東千島からアッツ島間となり、アメリカ側では東寄または北寄の風が多い、そのためこの方面は寒気を伴なう、かくの如く北太平洋の風から見てこの時期というべき安全な航空日和はない、かつて我国が太平洋横断飛行を企てた時、神風が吹くからそれに乗って行くといった名士もあったが、全くその通り神風でも吹かねば安心して飛行することはなかなか許されない

北太平洋…聞くだに恐ろしい魔の海である、人跡未踏の海や島、この中には珍しい魚の群、猛々しい獣の群の住み家がある、決死の意気で飛ぶ吉原飛行士にとって、いまだかつて人の目にふれないものの前に立って人類最初の視野に接することは無上の喜びであるに違いない、横断コースの中には『オットセイの家』といわれ世界の獣類学者を垂ぜんさせている島があるのだ

それは米領アラスカの一部に属するベーリング島、カッパアイランド島とロシア領のセントポール島、セントジョージ島がそれである、これ等はベーリング海の真ん中にある絶海の孤島で、数百里の間には何物もないという所だ、夏の中は非常に深い濃霧に包まれて二三尺先さえ見られぬという物すごい島である、この中が即ちオットセイの社会だ、社会の成立ちというのはいろいろの分子から出来ている、その中で一番大きいのでブルといういわゆる日本でいう『老大将』だ、これは七八歳から十五六歳までの最も剛健で、体力の旺盛な男で、その次にコウというのがある、これは母獣で四五歳から十歳近くまでの子供を産む間の牝をさすのだが、この外に未丁年者男女がある、年齢は二歳以上から四五歳までの男女をいっている、なおパップという一歳未満の乳を飲んでいる稚獣がいる、これだけのメンバーが集まってオットセイは独特の社会を造っているのである

オットセイの家族は一夫多妻主義だ、一匹の勢力旺盛な『老大将』は二十から四五十位までの女がついている、学者の間ではこれを一夫多妻主義のトルコの宮殿にならってハーレムといっている、このハーレムが沢山集まって獣群を成しているのだが、この社会の外にバチラーといわれる若い者のたむろがある、この両者は少しでも秩序を紊すことが出来ない、若者の方はハーレムの方に近寄りでもすると叱られて島から直ちに勘当されるという規則になっている

[写真あり 省略]
五月の初めになるとブルの群がおのおの島に陣取って女の群の来るのを待っているが、他人の縄張りの中には一歩も入ることが出来ず、あたかも東京市内の盛り場にある夜店と同じ形式だ、五月末から六月になると女の群がやって来て盛んに子供を産むそして老大将が牝を愛する熱烈さと牝がその子を愛することはこれまた人間などのとても及ぶべきものでないという、夫婦愛、母性愛の強いオットセイの群はかくして十月頃まで島に住み雪の降る頃になると再び姿を消すのである(写真は海岸に群をなしているオットセイ)

エスキモー アリュウシャン群島にはどんな民族が住まって居るか?これまでロシア、アメリカその他の人類学者や探険隊がしばしばこの地に向って調査を試みたが既に述べた通り、気象、国土の関係から充分なる調査が行われず、従って今なお詳細正確なる報告書が発表されて居ないために深いなぞと無限の興味とを氷下に深く秘めたままである、今回の我社北太平洋横断飛行によってこれ等のなぞは解かれるわけで、世界航空界がその成功に絶大なる期待をかけていると同様に、世界の学会においても、吉原飛行士ならびに地上勤務員の学術的報告に多大の興味と期待とをかけているのであるが、Dall氏、Hamy氏、Havelapue氏、Brinton氏その他の露、米の諸学者の調査報告を通じてここに住む民族の習性その他を記して見よう

アリュウリャン群島[Aleutian Islands]に住まっている民族は、世界の学者によってアレウト(Aleut)族と呼ばれている、アレウトという名はロシアの探険隊によって名づけられたというのが最も正しいようである、最初カムチャッカに行ったロシアの最も古い探険隊はカムチャッカのむかい側に島のあるのを発見して、そこに住んでいた土人チュクチ族の一人にあれはなんという島かとたずねたところ、チュクチ族の土人はアレウトと答えた、アレウトの語は実はチュクチ族の島という義であったが、それを知らなかったロシア探険隊は、その人種をアレウトというのだと考え、アレウト族と呼ぶようになったのである、アリュウシャン群島の名は、勿論アレウト族から来た名であるから、これをカムチャッカ土人チュクチ語からいうと『島の島」ということになる訳である

新聞(右)1931年、「本社主催 北太平洋横断飛行(一)魔の北太平洋を天翔る使命ー世界が目指す新路開拓に乗出す報知水上機」:この紙面では、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機『報知日米号』の飛行予定地「アリュウリャン群島に住まっている民族」「未開土人」「蛮風」「一夫多妻の原始的な結婚様式」のアレウト(Aleut)族について「アレウト族の間には、我が国のアイヌや内地の神話伝説に甚だ近似しているものが相当に多い事」などを報じている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


エスキモー アレウト[Aleut]の人種については、学者の説がいろいろあってわからないが、エスキモー人種の一つの分派であるという説が最も有力である、アレウトのオーソリチーであるドウル氏は貝塚の発掘によって、大陸エスキモーの手になったものである事を力説し、最近ジマシュップ探検隊のヨヘルソン氏はエスキモー語とアレウト語との語根の類似、文法の類似等言語学上よりアレウト族がエスキモー族の一種であることを主張している

アレウト族[Aleut]は最初ロシア人がこの島々に到着した頃は相当な人口であったが、その概数は現在のアイヌの数、ざっと二万五千人位であったらしいが、今ではその十分の一にも足りない、その減少の原因は、我国の嘉永元年(西暦一八四八年)にほうそうが流行して生き残ったものが僅かに九百人ばかりになった事や、アメリカ領となって優生民族のために自然淘汰された結果であった、現在は性質は非常に温和になっているし、また戦闘など好まなくなっているが、昔日ロシア人がこの島にはいった頃は、盛んにロシア人に対抗して戦い、投槍その他の原始的な武器を以て、ロシア人の火器と戦ったものである

彼等の宗教は、もとはごく未開のシャーマン教であったが、文政五年(西暦一八二二年)にロシア人がペニアミノフ教会をここに設けてギリシャ教の布教が始まり、アメリカ領となってからいよいよキリスト教に変って来たが、しかしまだ古老の間などには昔のままのシャーマンの影がかなりはっきりと残っている(写真はアレウトの婦女)

[写真あり 省略]
カムチャツカ アレウト族は、皮膚は黄褐色で鼻はぺしゃんこの扁平、眼の虹彩は褐色で、頭髪は黒くバリバリとかたい、未開土人であるためにひげはぼうぼうとしているだろうとは誰もが想像するところであるが、大体において少い方である 頭の形はこの族特異なものがある、それは後頭骨を人工的にへん平にすることで、子供の時に後頭部に板を縛りつけて丸い頭をわざわざ平べったくするのである、支那の婦人が折角の足を子供のうちから小さい花靴でしめつけて小さくしたのと同じような蛮風である、また鼻と唇とに穴をうがって輪鼓形の骨片で作ったもの、または輪を入れ顔には入墨を施している  アメリカ領となってからは、次第にこれ等の蛮風は減少しているが、なおその風を各島の土人の間に見る事が出来る、また面白い風俗としては頭を河童形にして、その真中をそっていることである、これはエスキモーからカムチャツカにかけて住む古シベリア民族に非常によく似ている点である

彼等の土俗の中、特に珍しいのはエスキモーと同じように、皮の舟でかいをあやつりながら島から島へ移住し、ラッコ、アザラシなどを猟することに妙を得ていることである、ロシア人などもかつては彼等を連れ歩いて海獣の猟をしたことがあり、かつてロシア・アメリカ商会なるものが設立されたことがあった、その頃、千島のウルップ島にまで、アレウトをつれて来てこの附近でラッコ狩を行ったことがあったが、樺太と千島との交換後は、千島がアレウト土人はいつの間にかまたアリューシャン群島に引あげてしまった

 彼等は鳥の羽根をつづった衣服や毛皮製の筒袖を着て、背にはアザラシのひげをかけている、頭には黄色な縁をとった帽子を冠っているが、ひさしをつけて太陽の光線や雪の反射光線をさけるようにし、身には骨で作った飾をつけ長い毛皮製の靴をつけている

彼等は主として竪穴の中に住まっているが、この竪穴は石器時代の遺物であって穴居生活の最も原始的なものである
 フォックス島の竪穴を調査したクック氏の報告によると、竪穴の長さは三十呎、幅二十呎から三十呎まであって、内部に柱を立て、木で交さして屋根をつくり、この上に土をかぶせ、天井に穴をあけて出入には梯子を用いるのである 村落には酋長があって部族を統一していたが、この頃では、はっきりと酋長の制ある部落は少くなっている

 一般に一夫多妻の原始的な結婚様式をとって居り、妻の交換売買というようなことも平気で行っている、無精者が多く、その体にはよくシラミなどをわかしているが、一向平気で入浴というような事はほとんど行わない 食物は主として海獣や魚肉であるが、夏の間にこれを獲りためておき、これを氷の下に埋めておいて氷雪厳冬の候になれば何もせずに穴ぐらの中でこれ等の食物をたべて生活をつづけ、氷雪のとける夏を待つのである 灯火はこの頃ではアメリカ本国人より石油類などの供給をうけて、ランプなどを用いるものも港に近い土人の間には見受けられるが、極めて少数で、大多数は熊やその他の海獣の油に、木片や毛皮等の摩擦によって火を起し、また日本の古代のように火打石を用いて火を起して灯をつけているものもある

安政七年(西紀一七七八年)に第三回目の航海をしたキャプテンクック [Captain Cook] の航海記には、多量の硫黄をすりつけた石を他の石に打ちつけて火を出したり、長さ十八吋程の棒のとがった端を平たい石の上であたかももみきりのように急速に廻転して数分の間に火を出していたと記されているが、今でもこんな事をしているものも多いとの事である(写アレウト族には奇抜な舞踊が行われている、今ではだんだん少くはなっているが、それでもなおアメリカ人などのあまり近寄らない島々においてはまだしばしば行われるという、この舞踊は日本などにおいて行われる盆踊などのように夏季に行われるのではない、氷点下五十度にもなる氷雪の島、そのアリューシャン群島に住む土人のアレウトが雪と氷と寒風の十二月の真っただなかに裸ダンスをやるというのだから面白い

十二月はアレウト族にとって一般に楽しい時期である、食物は豊富にあるし、狩猟期には間がある、そこでこの十二月にお祭をはじめるのであるが、甲の村の祭には、乙の村の人全部が招かれるのである、饗応の時には大人は裸になって、粗末な太鼓を打ちたたき子供等はそれに合せて踊りまわる、そして女は奇妙な盛装をする、巫女は呪文をとなえながらこれに現れる、つまりこれがお祭である、このほかに特別な宗教的舞踊も行われる、このときは流木や毛皮で作った粗末な人形を作り、これを島から島へ送り運ぶのである、この儀式は実に珍しいもので招神の儀といい、神を地上に招き寄せるというのである

昔は百人程の女子がお面を被り裸体で踊り、男子は絶対にこの場所に入ることを禁ぜられ、若しこれを犯すものは死刑に処せられたものである、お面には紐がついていて、頭部の後で縛り口のところに木の突起が出来ていてこれを歯でくわえる、鼻孔のところのみ穴をあけて、眼のところには穴がない、これは神様を見ると罰があたるからというのである、そして儀式が終るとこのお面は全部壊されてしまうのが例である

これ等の原始的舞踊は次第に滅亡せんとしつつあるが、なお各島で盛んに行われているのは海岸にクジラが打ちあげられた時に行われる舞踊である、アリューシャン群島地方には、クジラが相当に多くいるが、氷山に衝突したり、海獣との戦いに傷ついたりしてよく島へ打ちあげられる、するとその地方の土人は全部海岸に寄り集まり直ちにそこで非常に盛んな儀式を行う、即ち人々は手に手に異った大きな太鼓を持って盛んに打鳴らしながらクジラの死体を切断し一定の場所に運び、そこで盛大な祝宴を開く、この時の踊りはやはり巫女の行から出た遺風で、男子数人は最も華々しい衣裳をつけ、他のものは数人裸体となって、肩に達する程の大きな木の面をかぶって踊る、これは海獣を真似たもので、その身振りなどは、アザラシのような、ラッコのような、そしてまた不思議なる海獣のような、甚だ珍妙を極めたものであるという

この氷雪のアリューシャンにミイラが多いという事は注目すべきことである、これは古代のアレウト族のものだけでなく、近代及び現代人のものも多い、氷雪寒冷のため岩窟の中に死体を網に入れて投げこんでおくのだが、それがエジプトの如く種々なる薬品その他の施術を行わずして完全にミイラとなるというのである
濃霧と、氷雪と、暴風との中にさびしい原始人の生活をくりかえしている彼等アレウトは常にあたたかい太陽と、透明な空気と、やわらかい風とをひたすらに願い求めている、その証拠には彼等は次のような口碑伝説を持っている

 我々の祖先は、大昔は太陽の暖い、空の明るい、風の暖い国に住んでいた、そこは大陸であって、アリアフシュカというところであった、アレウトの国には久しい間和平がつづけられたのであったが、ある時、アレウトの間に不和が起った、闘争が起った、そこで戦いに負けた我々の祖先は、遂にこのアリアフシュカの地を捨てて東方へ安住の地を捜して進んだ、やがて我々はある海岸にたどりつく事が出来た、そしてその海岸地方にアレウトの聖地を建設しようとしたが、他の民族の圧迫を受け、またこの海岸をも去らねばならなくなり、やむなく海岸を去って海の中の島に避難したのであった、こうして島から島へと、渡りあるいて最後に到着したのが、今日のアリュウシャン群島であった

この島に根をおろした我々の祖先は、勇士を選抜して北アメリカの最北の岬に達せしめたが、それ等のものはたちまちに島に帰って来て、北アメリカの北の岬地方は、土地の上は一面に氷を以て覆われて居って、何の生産もない、という事を報告したので、東方大陸への移住を中止する事になったのである、けれども、一部のものたちは、その極北の地にとどまった、それが今のエスキモーである、一部の人々は南下してアメリカの南方に行った、これがアメリカ旧土人である

というのであるが、この伝承は民族移動と人類文化の移動のあとを知るために、すこぶる重要なもので、アレウト族のこの伝承が果して事実の伝承であるとすればアレウト族はもとアジア民族であった事がわかって来る、ロシアの人類学者などは極力このアジア民族の東進説を主張しているが、いずれにしてもアレウト族とエスキモー人種との類似や、カムチャツカ地方に在住する古アジア人種との類似なども、この伝承によって成程と首肯する事が出来る

面白い事には、アレウト族の間には、我が国のアイヌや内地の神話伝説に甚だ近似しているものが相当に多い事である  たとえば彼等は、月の神を男神として崇拝している、これは我国における月読命の神話に近似するものであり、また太陽の神話に昔太陽は大きな鳥にのみこまれていたが後に吐き出されたので、世の中はまた明るい世界となったものであるというのがあるが、これも日本神話の天の岩戸神話と同じ型のものであると同時に、アイヌ神話の日の神トカプチュプカムイが暗の巨魔のために呑み込まれようとした時、烏の神がそのけん族多数を引きつれて、一度にどっと巨魔の口の中にとびこんだために巨魔は窒息してしまったので、烏の功によって太陽はたすけられたという話を逆にいったものとも考えられる

この外、コロボックルの小人に関する神話などもある事から考えると、アレウト族と日本民族との間にも何等かの交渉がありそうにも思われる、もっともこれ等の神話伝説はカムチャッカ在住のコリヤーグ族の間にもある話であるから直接日本民族からアレウトに伝わったものかどうかは断言出来ないが、何れにしても興味ある点でなければならない

アリューシャン群島にはどんな鳥獣が住んでいるか、セイウチ(海象)トド(海馬)オットセイ、ラッコなど北太平洋特産の海獣のほか、クジラの類、アザラシの類もいろいろある、セイウチといえばいつか函館の近くで一頭とれたことがあるが、これが後にもさきにも日本ではただ一度だけで、これ以外お目にかかった事のない珍獣で、これがアリューシャンまでゆくとなかなか多いそうだ 二間半から三間もある大きな獣で、牙を持っているから見た処は物すごいが、向うから進んで人間に危害を加えるなどという事はない、昔は随分撲殺したものだが、この頃は流石に向うも警戒するようになって、あまり海を離れなくなった上に、眠る時でも番兵のようなものを設けている

元来温和な獣ではあるが敵に危害を加えられると猛然と奮いたちヒグマでもかなわない時がある、一体にあの辺に住む獣は人間に向って来るような事はない、アリューシャンの動物については文献が極めて少く、ジョルダン氏、パーカー氏の著書位しかないので、日本の学会にもほとんど未知数のところである、イルカの類で白クジラというのが河にも上って来るが、アザラシも同じように河に現れる、  北極熊もいる、陸上では狐、殊に北極狐と呼ばれる青狐が幅を利かしている、千島からアリューシャンにかけて住む鳥は何といっても海烏である、俗にオイラン鳥といわれるエトピリカもいる 善知鳥、海雀の類、ガン、シギ、鴨も手づかみに出来る位いるそうだ、鍋に水を入れておくと、鴨の方から飛びこんで煮えて呉れるというウソのような話もある、現にカムチャッカでは石油の井戸に鴨がおりて来て、人間に手づかみにされるそうだ、水のつもりで飲みに来てこの憂目を見るのである、アリューシャンでうっかり歩いていると、踏む位鴨がいるという話である  海烏が群れて飛ぶのを遠くから見ると、まるで煙のように見える、そのため汽船と間違えられる事もしばしばある、オイラン鳥はその名の如く美しい鳥である、変っているのは春の繁殖期が過ぎるとくちばしが落ちる事で、穴の中にいていくら人間が近寄っても逃げない程これもおう揚たるものである、エトピリカとはアイヌ語で美しいくちばしの意である

話は少し戻るが、アリューシャンにかかる前に千島という難コースがある、霧、風、寒気等の条件はむしろアリューシャンよりも悪いくらいである、それは兎も角としても、意想外なのは通信聨絡の困難ということである、そのために『報知日米号』の着陸予定地も変更せねばならぬことを発見した
『報知日米号』の最初の着陸予定地は村上湾か片岡湾にするつもりであった、ところが実施の事情について精査して見たところ意外な困難のそこにあることが判った、仮りに村上湾に着くとすると、その通信聨絡は海峡を横ぎって幌莚島の無電局によらねばならぬ、ところがこの海峡がオホーツク海と太平洋の潮流が交錯する猛烈な急流で、僅かに白波を立てるぐらいの外貌だが、その底にたちまちにして船を呑込む程の魔のような力を持っている

昨年も漁夫が無電を打つためにこの海峡を横ぎって風浪もないのに舟は転覆、漁夫は溺死した、それでは村上湾に着いた場合はどうか?矢張り幌莚無電局によらねばならぬのだが、これは陸路で山伝いに行ける、ところがこの幌莚島は全島熊の巣で矢張り昨年無電を打ちに出かけた男が山で熊に食殺されてしまった、この恐怖のために今では幌莚無電局とは全く人の交通はないのである  ところが幌莚島のオホーツク海岸に加熊別というのがある、名前は熊が加わって別れるというのだからあまり気持のよい名前ではないが、実際は日米水産会社の工場もあり、漁期には人も三十六人程いて、その上いいことには小さいながら私設の無電があるのだ、この無電は勿論落石までは届かないが、仲継の船を利用すれば落石との聨絡が充分にとれることが判った この好条件がそろった以上我『報知日米号』は当然ここで機翼を休めるようになるであろう、そしてここが帝国領土の最後の着陸予定地である(写真は幌莚島チクラ岳)

[写真あり 省略]
北洋征空をめざして『報知日米号』が、晴れの壮途につく日はいよいよ切迫した、このコースの中で最難関といわれるアリューシャン諸島の事情は連日にわたって読者の前に紹介した処であるが、今一つ披露しなければならないことは、この島々にいるアレウト(住民)の全部が、日米親善という重い任務を帯びて『我等の国』をおとずれる空の勇士吉原飛行士の無事であることを祈りながら、一日も早くと真心こめて歓迎している事である

新聞(右)1931年、「本社主催 北太平洋横断飛行(一)魔の北太平洋を天翔る使命ー世界が目指す新路開拓に乗出す報知水上機」:この紙面では、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機『報知日米号』が向かう「アリューシャン諸島中の『銀座』といわれ、行政庁の所在地であるダッチハーバー」の街並みや生活を報じている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


殊に着水予定地として、アリューシャン諸島中の『銀座』といわれ、行政庁の所在地である。ダッチハーバー [Dutch Harbor] では、去月初め米本国からの定期航路の船の便りで、日米親善の勇士あることを知って官民あげておとずれの日を待ちわびているという  このダッチハーバーとはどんな所か?ここには農林省の水産関係の人や、民間漁業関係者が常に出入している、そして微かな消息を伝えているに過ぎないがそれを綜合すると、同地の物価は驚くべき高価なもので、初めて渡島した日本人を仰天させている、一ケ月の生活費が貧しい浜人夫でも、下級の船員でも百五十円か二百円位かかっている

米本国からの定期航路はあっても物資の搬入は極めて少いため、どんなものでも船から陸揚げされる品物は、まるで宝物扱いにされている、その珍重さはお話しの外で、タバコでもあろうものなら奪い合いを行って、一本の巻タバコを十人位で吸うという滑稽さえ演ぜられる有様である

 またマッチを大切にすることも想像以上で、たった一個のマッチを上等なヒョウの毛皮一枚と交換するような馬鹿気たことが平気で行われる、これは火を出すのに日本でいえば原始時代のように毛皮をすったり、火打石を使ったりしているからで、従ってマッチは彼等には重宝なものとなっている、キャラメルやチョコレートなどお菓子の類になると、まず日本で売買されている価格のザッと十二倍か二十倍で取引されている

[写真あり 省略]
ダッチハーバーにはカフェーもある、木賃宿もある、この営業者達は日本人が行くと金離れがいいといって喜ぶそうだが、一般の島民は何か日本特産のおみやげ物でももらわないと頭も振らない、その代り絵葉書でもやると態度が一変してお世辞を振まく現金な人々である(写真はダッチハーバー港)
ダッチハーバーに機翼を休めた『報知日米号』は、急潮逆巻くユニマック海峡を飛越えて、アラスカ半島に渡り、太平洋岸のチグニックに着水する、この航程四三九キロ、チグニックは鑵詰工場などもある小さな漁村である  アラスカ半島は東南ダグラス岬から西南端パンコフ岬まで四二五浬、狭小な土地が突き出てベーリング海と太平洋とを分けている、ベーリング海岸は湾曲も少く浅瀬が多いが、これに反して太平洋岸は海岸線に富み、重要な港が沢山あって、米本国とカナダとを聨絡する定期航路の終点はコジャク島にある

半島の背中は険しゅんなアラスカ火山脈で、なかんずく二、七四二メートルの空にそびゆるパプロフ火山の如きは航海者にとっても航空者にとってもいい目標である  アラスカ半島の沿岸はすべて海の宝庫である、到る処に漁場があり、鑵詰工場があり、人間が定住している、殊にブリストル湾は有名なタラの産地で、日本からもこの附近の公海には盛んに遠征している

半島は広漠たる原始林に覆われている、そしてそこはヒグマ、黒貂、青狐、白狐等の高価な毛皮獣や馴鹿、山羊等の楽園だ  またアラスカ半島にすぐ接しているユニマック島の西北岸は世界でも有名な水鳥の孵化場で、冬季に入ると白鳥やガンや鴨などが空も暗くなる程群れ立つ、そしてこの島の沖は世界一のクジラの産地である

アラスカといえば多くの人はチャップリンの不朽の傑作『黄金狂時代』のあのいくつかの場面を思い出すであろう、その黄金はアラスカ半島の西北部カグヤック、ユカック等の北方の山々に無数に埋蔵されている、読者諸君は『黄金狂時代』のあの哀傷に満ちたいくつかの場面を思い出すと共に、その荒涼たるアラスカの風物の上をただ一人飛んで行く我が『報知日米号』と吉原飛行士の姿を想像して頂きたい

報知新聞社が試みた第1回目の太平洋横断飛行は、国威発揚の場として意識され、日本中で大きく喧伝され、日本の指導者たちも出発式に参加している。この第1回目の、ユンカースA50「報知日米親善号」による太平洋横断の様子を、報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)から見てみよう。

新聞(右)1931年、「太北太平洋飛行記念号:北太平洋征空の途にきょう報知日米号出発;春空に恵まれ観衆三万以上 元気一杯の吉原飛行士」:紙面では、「日米親善新航空路開拓の使命を担って、ユンケルスA五〇型水上機を操縦して単身北太平洋征空の壮途に上った」吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50『報知日米号』による太平洋横断飛行の開始を報じている。第1回目の太平洋横断の試みが、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機によるものだった。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-014) 報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)引用。


北太平洋飛行記念号

北太平洋征空の途にきょう報知日米号出発[1931年5月4日]
春空に恵まれ観衆三十万以上 元気一杯の吉原飛行士


爽快なる初夏の空を破る爆音、地に満ちる歓声、『報知日米号』は白銀に輝きながら翔け上った、正に四日午前十時十分、世を挙げて期待したその時刻、吉原飛行士は日米親善新航空路開拓の使命を担って、ユンケルスA五〇型水上機を操縦して単身北太平洋征空の壮途に上った、この晴れの出発を見送るべく、羽田東京飛行場を中心として海陸を埋めた観衆は三十万と註され、飛行場内の式場には幣原[喜重郎]外相、小泉[又次郎]逓相、南[次郎]陸相の各閣僚の他朝野の名士約四千五百名参集、吉原飛行士の母堂も列席して盛大なる出発式が挙げられた

両殿下特に御使を差遣され光栄一入輝く出発式 御下賜の日章旗は高く掲げられ朝野名士の熱烈なる演説[1931年5月4日]

この日『報知日米号』は吉原飛行士操縦のもとに、午前六時五十五分霞ケ浦より羽田へ空中輸送され、高橋兵曹等の指導によってガソリンその他主要積載物の積込みを終った、吉原飛行士は耐寒装備の新調の飛行服を凛々しく身につけて、甲斐々々しく愛機の点検を行い壮図決行を前にして涙ぐましい緊張を示す、この頃式場には続々招待者参集し、久邇宮御使として御付武官安藤海軍少佐、賀陽宮御使として事務官梶田文太郎氏を差遣わされた、八時四十分いよいよ出発式に入り、戸山学校軍楽隊の吹奏によって一同国歌を合唱し、吉原飛行士も唱和して荘重なる興奮は式場を包み、この間いとけない八歳の鍋島松子さん(鍋島直縄子令嬢)の手によって式場内マスト高く賀陽宮殿下より拝受の国旗は掲揚された、寺田副社長は今回の大飛行がいかなる計画のもとに進められたかの簡単ながら胸を打つ報告をなし、来賓代表としてアメリカ大使代理ネヴィル参事官、ロシア大使代理ボドルスキー参事官、小泉[又次郎]逓信大臣、カナダ公使代理カークウッド氏、日米協会副会長樺山伯爵等が各々壮烈にして力強き送別の辞を飛行士に送り激励した、つづいて小泉逓信大臣は米国大統領に送るメッセージを吉原飛行士に伝達し、幣原[喜重郎]外相、永田東京市長、清浦伯、カナダ公使、徳川家達公、津村広告倶楽部会長、ロシア大使、横浜市長等のメッセージ及び社長より米国大統領、国務長官その他に呈するメッセージを伝達した、かくて野間[清治]社長は熱誠あふるる各方面の後援に対して息づまる如き熱情的謝辞を述べ、プログラムにはなかったがこの時幣原外相登壇し、今回の壮挙の使命の重大なることを説き成功を衷心から期待すると熱弁を揮って飛行士を激励し、更に石井羽田町長の送別の辞あり、いよいよ吉原飛行士は立って壮途に上る決意を例のキビキビした口調で語り袂別の挨拶を終った

天に轟く万歳に送られ吉原飛行士愛機に搭乗 空に舞う千羽の鳩と歓送機 見事、羽田飛行場を離水

かくて飛行の完成を祈念しつつ吉原飛行士は明治神宮御下賜の神酒を頂き、杯をほしたが、その面上には流石に一脈の悲壮なる緊張が現れていた、式場内の空気は高潮し、並いる人々の胸に血脈は躍った、花束は次々に捧げられ期せずして、北太平洋横断歌の合唱となり、戸山学校軍楽隊がこれを演奏すれば、吉原飛行士は野間社長に同伴され、再び両宮家御使の前に進んでいよいよ出発の時にいたった挨拶を申上げた、式まさに終ろうとして野間社長は感激に声を振るわせ皇室の万歳を高唱して総員これに唱和し、小泉[又次郎]逓信大臣は『報知日米号』の万歳を叫び、これまた一同唱和し羽田海上にこだまする万歳の声は天地をとどろかした,戸山学校軍楽隊は重ねて国歌を吹奏し、壮重なる厳粛なる、しかも悲壮なる告別の時は過ぎゆき、この間に国旗はマストより引降ろされ、野間社長よりこの栄光にかがやく国旗は吉原飛行士に授与された、式は終ったそれより吉原飛行士は母堂の席に近づいて『行って来ます』と唯一言の悲壮極まる告別をなし、大臣と固く握手して飛行の完成を誓った吉原飛行士は新井航空官等に守られつつ仮桟橋より『報知日米号』に搭乗した、出発の時は近づいた、午前十時九分沖合に進んだ『報知日米号』のプロペラは勢いよく回転を始めた、かくて『報知日米号』は白銀の翼を初夏の陽にかがやかしつつ、軽快極まる滑走約六百メートルを以て羽田海上さして離水した、出発と同時に放たれた千羽の伝書鳩が鳩笛をならして青空を祝福する中を場を一周し第一日の着水地沼崎をさして霞ケ浦八号飛行船初め十余機の歓迎飛行機にかこまれながら、重き使命をもつユンケルスA五〇型の軽快なる姿は青空の中に遠く没した時正に十時十二分であった

吉原飛行士の上途を送る

報知日米号が、輝かしき銀翼を張って一路北太平洋の上空に直進するその日は到来した。日米親善、在外同胞慰問、世界航空路の開拓、これ等二重三重の重大なる使命を担うて、我が吉原飛行士は、雄々しくも、きょう羽田飛行場を鹿島立つのである。腕に百錬の鍛えがあり、胸に磐石の確信はあるも、目指すは世界の魔空であり、最大の難航路である。決死報国の壮図に気負える空界勇士の心の中にも、自から其所に悲壮なる決意と、厳粛なる責任感あるはあえて茲に呶々するの要あるを見ないであろう。一度壮挙決行の計画を発表してより、内外の激励と讃辞は怒涛の如く、今や日本全国民の心は、打って一丸となり、ひたすら功を収むるの日を祈念待望しつつあるやに見ゆる。吉原飛行士が出発の間際に臨んでの心境は、その昔、源氏一門の栄辱を一身に担うて、波上の扇の的を目指し、弓を満月の如くに引絞った刹那の与市宗高にも比すべく、弓矢八幡八百万の神々に誓い、飽く迄初志を貫徹せねば已まない意気に燃ゆるを疑わないが、要するに成敗を決するは天にあり。我等は切に天佑の冥助、神仏の加護、報知日米号と吉原飛行士の上に豊かならんことを祈って已まぬ。

いうまでもなく,軽飛行機を以てする北太平洋横断の決行は、単なる一新聞社、一飛行士の私挙でなく、その成否は延て国家の栄辱に係り、その影響は地上全人類の福祉に影響する。前総理大臣浜口雄幸氏が、北太平洋横断飛行は真に国家的大事業として、国民挙ってその成功を刮目期待するのみならず、更に近き将来における日米交通は、層一層航空機を利用すること多きに至るや論なく、今回の飛行が、正しくその魁を為すものたるを疑わないと激励の辞を寄せたのも、事業その物の性質に顧み、その語の偶然ならざるを思わしむるものがある。斯くして、国民上下の熱烈なる声援と、絶大なる期待の間に、報知日米号と吉原飛行士の任やいよいよ重く、責やますます大なるを加うるを自覚すると共に、この声援期待に酬ゆるの途は唯一つ、万難を排して、首尾よく横断の功を収むる以外にあり得ないであろう。

弦を離れたる箭は、如何にしても行き着く所に行き着かねばならぬ。魔空何かあらん。悪気流何かあらん。暗礁何するものぞ。猛獣何するものぞ。海を隔てたる太平洋の彼岸には、大手を拡げて勇者の飛来を待ち、赤心を傾け尽して、歓待の準備に忙しとの快報もあり、我等の胸は高鳴り、我等の眼は感激の涙に曇る。鵬程一万三百余キロ、遠く約束の彼岸を望み、万死を冒して翔り行く吉原飛行士の前途には、重畳する艱難辛苦の横わると共に、赫灼たる光明と、名誉ある月桂冠とが手を携えて待ち、恐ろしき虎穴も、千金の虎児を得ることに依って、始めて険を冒すものの意義を為す。我等は今全運命を一葉の飛機に託し、勇ましく征途に上らんとする吉原飛行士の後姿を見送り、その安全と成功とを熱祷しつつ、目出度く所期の成果を収めて、凱旋将軍の如く帰来するの日を指折り数えて待つ。

写真(右)1926年、第1次若槻内閣時、大日本帝国、若槻礼次郎総理大臣(1866年3月21日〜1949年11月20日):憲政会総裁、内相を兼任。第1次若槻内閣在任期間:1926年1月28日-1926年1月30日、昭和金融恐慌が勃発、台湾銀行の鈴木商店への債権が回収できず、救済困難により辞任。立憲民政党の第2次若槻内閣在任期間:1931年4月14日 - 1931年12月13日。 父は松江藩士。明治25年(1892)帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に出仕。主税局長、大蔵事務次官を歴任し、44年貴族院議員。第3次桂内閣、第2次大隈内閣では蔵相をつとめる。大正13年(1924)加藤高明内閣の内相に就任し、普通選挙法の成立に尽力。15年に首相となる。ロンドン海軍軍縮会議首席全権を経て昭和6年(1931)再び首相に就任。日米開戦に反対し、開戦後は和平派の立場をとった。
Description Portrait of Wakatsuki Reijiro (若槻礼次郎, 1866 – 1949) Date Published in 1926 Source Japanese book Gendai Daihyoteki Jinbutsu Shashin Meikan Statesman ver. vol.1 (現代代表的人物写真名鑑 政治家篇 第1編) National Diet Library This image is available from the website of the National Diet Library
写真は、Wikimedia Commons, Categories: Reijir&# 333; Wakatsuki File:Reijiro Wakatsuki posing.jpg引用。


報知日米号を送る 内閣総理大臣男爵 若槻礼次郎[1931年5月4日]

昨年日独親善欧亜聨絡飛行を、軽飛行機による世界新記録によって遂行し、我が民間飛行の実力を世界に示した報知新聞社の吉原飛行士が、今回報知日米号によって日米親善北太平洋横断飛行を成就されんとするは、余の真に欣快に堪えざる所である  今や世界各国民は、地球上にのこされた空界の処女地として、ひとしく太平洋を注視している、この時に際し、堅実なる計画と果敢なる実行力による報知新聞社の北太平洋横断飛行が、我が航空界の盛名を全世界にあげ、国民精神の作興に大なる効果あるばかりでなく、米、露、カナダ等通過各国との親善増進に深き寄与あるべきはいうまでもない  余は切に吉原飛行士の不とうなる健闘を期待し、我が国空前の大壮図が、必ず偉大なる成功を以て結ばれんことを、衷心より祈るものである

出発の報を聞き勇躍の沼崎 各地の天気情報良好

沼崎特電=北太平洋横断飛行の壮途に上るべき四日の第一次着水地沼崎地方は、前日来気遣われていた気象も朝来無風快晴の珍しい日本晴れとなり、各地より集まった気象通報は何れも晴れ、微風の報に午前六時というに漆戸村長初め後援会和田会長、久保副会長、米内山理事及び会員三十名、海老名青年団長外三十名の団員、安倍在郷軍人分会長を初め分会員総出で地上勤務員を扶けて諸般の準備に労力を提供、部落各戸毎に朝来国旗を掲揚して『報知日米号』歓迎に全部総動員の形で、一方森航空官を初め地上勤務員は勇躍して諸般の準備は午前十時全く整い、ひたすら飛来を待ちわびている、折柄十時十分出発の報を得て勇躍思わず万歳を絶叫する者もあった

来観の外人名士の顔触れ

四日午前八時在留外人も続々と羽田飛行場に押寄せ、米国スタンダード石油会社東京代表ペンニー・パッカー氏、同バッキュムオイル会社[現モービル石油]デーア氏等の飛行に関係の深い人々を初め米国大使館陸軍武官マックレロイ大佐、米国貿易官ダツロー氏、露国大使館参事官兼総領事ボドウスキー氏、二等書記官ガルコヴィッチ氏、一等通訳官スパルイン博士、カナダ公使館書記官カークウッド氏、ロンドン・テレグラフ特派記者ペンリングトン氏及び夫人、ニュヨークタイムス特派記者バイアス氏、カナダ聨合通信記者ホイッチング氏米国聨合通信東京記者ホウ氏等の顔も見え、当日の光景を早急に本国に打電した

霞ケ浦でも空中歓送 飛行隊上空で

土浦支局電話=吉原飛行士が大飛行決行の訓練の地霞ケ浦では東京を出発した『報知日米号』を再び飛行隊上空に迎え折柄練習中の飛行機が空中で大歓迎送をやった

未明早くも愛機を霞ケ浦から空中輸送 元気一杯の吉原飛行士[1931年5月4日]

土浦支局電話=四日の朝霞ケ浦の空は一点の雲なく、風もなく波一つ立たぬ、この朝吉原飛行士は早くも五時起床して元気一杯静かに一路平安を神に祈って五時半皆川秘書と共に土浦の宿舎松庄旅館を出発、霞ケ浦航空隊へ向ったが、これより先き航空隊では先着の安田助手が晴れの『報知日米号』を格納庫から引出して最後の点検を済ました『安田君に安心してまかせる』と吉原君から絶対の信頼を受けて居る安田助手は前夜ほとんど徹夜で『報知日米号』を守り通したのだ、松永副長、千田飛行長、和田水上隊長、三和、中野、内堀、渡辺の各教官を初め多数の将校が吉原飛行士を迎えて『絶好の飛行日和に恵まれて幸先よい』と祝辞を浴びせる中に午前六時地上試験運転を開始し、調子がよいので吉原飛行士はニッコリしつつ六時五分ビールとスルメで祝杯があげられた、松永副長が音頭を取って『吉原飛行士万歳』を叫んだ、吉原飛行士は航空隊の今まで寄せられた好意を感謝した後同十分いよいよ機上の人となった、プロペラは廻り出した『では行って参ります』といとも軽やかに機上から手を振る、機尾から波をあげて『報知日米号』はスラスラと滑走を開始した、一分間で離水し、航空隊の上空を約五分間三周して同二十二分朝霧のかなた帝都へ向って機影を没した

花輪花束 寄贈者の芳名

出発式場において吉原飛行士に対し左の諸氏から花輪、花束の寄贈があった(順序不同)

▲東京日日新聞社▲電報通信社長光永星郎氏▲東京朝日新聞社員富岡重雄氏▲ワーナー・コア社▲大西横浜市長▲帝国航空教育会▲三越呉服店▲博報堂▲都鳥会代表大川千代子氏▲成毛英之助氏▲橋本製薬株式会社海老内四郎氏▲山崎自転車店▲蒲田松竹撮影所川崎弘子、若水絹子、伊達里子諸氏

吉原飛行士の母堂 群衆に一々目礼 十四万坪の広場も埋められた その日の羽田国際飛行場[1931年5月4日]

『報知日米号』出発の日−十四万坪の羽田国際飛行場は全世界の視聴を集め、さしもの広場は見送る群衆で埋められてしまった、愛児清治氏を遠くアメリカへ送るこの日のとみ子母堂は黒紋服姿で、遥々熊本、門司、大阪から集まった親戚縁者に取りかこまれて八時には式場に見え、続々として詰かける観衆に目礼しつつ愛児の無事出発と航程一万三百キロの安全をジッと祈っていた、式場正面には中央放送局が早朝八時半からマイクロフォンを据付けて刻々に状況を全国に放送し、日本ビクター会社では飛行場の北隅に陣取って拡声器を通じ『太平洋横断歌』を絶えず繰り返して場内の人気をあおり、横断気分はいよいよ濃厚となる、出発地点エビトリ川をはさんで数町の見送り人が報知旗と日の丸の小旗を打振り『吉原飛行士万歳』を連呼するとき、八十馬力の軽飛行機は赤いフロートを初夏の陽にかがやかしながらフワリと舞上った『吉原、吉原』と呼ぶかん声が大きな渦巻となって『報知日米号』を見送れば、吉原飛行士また空中に手を振り、母堂とみ子氏から贈られた黒猫のマスコットを胸にしっかりとつけて、北太平洋へと機首を向けた、あとに巻揚るかん声は、いずれも吉原飛行士に幸あれと祈る言葉であった

きのう午後三時三十三分横断機沼崎安着 懸念された強風を衝いて先ず第一航程を翔破

沼崎特電=第一次着水地沼崎では前夜来気遣われた天候も四日には無風快晴の飛行日和となり、青年団在郷軍人分会、後援会委員等が森航空官外地上勤務員の指揮で徹宵準備を整え、飛行の万全を期するため強風の場合を予想してテント張りの臨時格納庫も出来上り、水電会社の好意によって着水場附近には電灯設備もされたが、午前十時十分の羽田飛行場出発の報を得て合図の花火が打揚げられ、各戸では戸毎に歓迎の国旗を掲揚、附近部落からは小学校児童地方、民が未明から陸続として着水場目がけて詰掛け、正午過ぎには観衆約一万に達し、さしもに広い小河原沼沿岸も人の黒山を築き、ひたすら飛来を待ちわびていた折柄、午後一時過ぎには七乃至九メートルの風が吹き始め、天気晴朗なれど着水地小河原沼に小波が立って一同も着水を憂慮し、地上勤務員は着水に遺憾なからしむるため最大の努力をしたが午後三時二十五分機影を認め、同三十三分歓呼裡に着水した

地上の歓呼を聞きつつ吉原飛行士の余裕ある操縦 空輸機にて=石毛特派員(鳩便)

一片の雲もなく、からりと晴れた空には風さえない、この静かな空中に『報知日米号』の雄姿が浮かんだ、銀色の両翼と赤いフロートは初夏の陽光に映えてぎらぎらとかがやく、場所は羽田飛行場の上空である、これを歓送する日本空輸の六人乗旅客機は中山支所長と記者及び高崎写真班員、松竹キネマの撮影班二名を乗せた小川一等飛行士の操縦(川端機関士搭乗)機が『報知日米号』と雁行して羽田飛行場の上空を一周する

これに続いて過般驚異的な滞空記録をつくったスマートな三式八号飛行船、同業朝日新聞の軽飛行機、機体赤色にかがやく日々新聞機、まぶしいような銀色の電報通信社機それに続いて陸軍機や東京航空輸送社機等賑やかな十数の飛行機が吉原飛行士の『報知日米号』をかこんで、右に左に、上に下に…見事に飛んでいる、そして地上にある雲霞の如き歓送の人々に敬意を表した『報知日米号』は、機首を北へ向け羽田を離れて銀座、日本橋、上野へ!

地上から限りなく起る万歳の声は歓送の機上までひびく、市内の各小学校の運動場には少国民の群が小旗をふって送っている、機上の吉原飛行士を仰げば、上下左右の歓送機に一々手をあげニコニコと笑顔を見せて挨拶している、それは余裕しゃくしゃくとして自信に満ちた操縦ぶりである、これを見た歓送機上の一同はいずれも感嘆した、同乗したわが社写真班員、松竹ニュース班は帝都上空の機上で左の窓から右の窓からこの歴史的に記念される『報知日米号』が翔ける雄姿をカメラにおさめるため冒険的な活動を続ける

かくて上野の森を越え、惜んでも惜みきれぬ心を胸に抱くが如き吉原飛行士は、時に後方に眼をやり帝都に別れて進んで行く、隅田川を越した、荒川放水路を越した、地上に白い一線を描いた日光街道では、行人や疾走中の自動車までが空の雄姿を見出し、その行を止めて遥かに空を仰ぎながら手拭や帽子をふり、万歳を叫ぶのが手にとるように見える、団旗を高く掲げて成功を祝しているのもある

埼玉県草加町を右側に吉川町を左側に一直線にコースをとって進んだ、ここでわれ等の歓送機は立川に引返すので、最後の別辞を述べるためその機体を『報知日米号』と併行して僅かに数十メートルのところに近づけ帽子、ハンケチ等をふって『万歳』を連呼すると、吉原飛行士は機上から乗出すように中腰になって『有難う有難う』と首をふって挨拶する 大飛行船からも松永副長等乗組員が盛んに手をふっているのが見える、吉川町上空で名ごりを惜みながらわれ等の歓送機を後にした空の美人『報知日米号』は海軍の三式八号船その他にかこまれて北へ!…北へ!と一路沼崎に向ってその機影を消した、そこより歓送を終った日本空輸機は東北本線ワラビ駅上空を通過一路立川飛行場に飛び午前十時四十五分着陸した

写真(右)1927年5月24日、日本、土浦、霞ケ浦飛行場格納庫の日本海軍N3「第六航空船」: 日本海軍は、1925年6月に軍用飛行船として、イタリア人で北極探検飛行で有名になるウンベルト・ノビレの設計した半硬式飛行船「N3」を1926年(大正15年)に輸入した。このイタリアの飛行船はN3「第六航空船」と命名され、1927年4月6日に初飛行した。体積 7,774 立方メートル、全長 80.1 m、全幅 15 m、全高 18 m、発動機 マイバッハIV型エンジン 200馬力2基、最高速力 56ノット(103.7 km/h)、巡航速力 40ノット(74.08 km/h。就役したのは、1927年6月20日である。その後、N3「第六航空船」は、海軍大演習に参加したが、その直後の1927年10月23日、暴風に遭遇、伊豆諸島神津島に不時着、喪失した。そこで、飛行船補充のために、N3「第六航空船」をベースにした国産飛行船として「三式飛行船第八飛行船」が製造され、1929年7月23日に霞ヶ浦で初飛行した。体積 7,500立方メートル、全長 82.3 m、全幅 15 m、全高 17 m、発動機 三式発動機 150馬力2基、最高速力 56ノット(103 km/h) 、巡航速力 40ノット(74 km/h)はN3飛行船と同等である。
The Library of Congress Follow "N3," Japan (LOC) Bain News Service,, publisher. "N3," Japan [1927 May 24] (date created or published later by Bain) 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller. Notes: Title and date from unverified data provided by the Bain News Service on the negative. Photo shows balloon at Kasumigaura. Forms part of: George Grantham Bain Collection (Library of Congress). Format: Glass negatives. Rights Info: No known restrictions on publication. Repository: Library of Congress, Prints and Photographs Division, Washington, D.C. 20540 USA, hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print General information about the Bain Collection is available at hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.ggbain Higher resolution image is available (Persistent URL): hdl.loc.gov/loc.pnp/ggbain.26688.
写真はFlickr Aircraft And Flight Book And Other Pics 1 N3, Japan (LOC) (1)引用。


千島は朝来大吹雪 予想される大難航 幌莚加熊別にて 松山特派員[1931年5月4日]

日米丸託送幌莚無電松山特派員四日発=五月に入るも当地の天候依然不良、連日曇または雪を見、北及び北西風強く海上浪高し、壮挙決行の四日朝来猛烈な吹雪は北西風にあおられ吹付けられて居る、千島征服を前に吉原飛行士の苦心想像にあまる

ペトロも準備成る
ペトロパヴロフスク四日堀内特派員発落石無電局経由=準備成る、オソアヴァヒム(露国飛行協会)全員をあげて飛行機を待っているが、荒天が続いているので多少懸念されている、当地では毎日朝五時より夜八時まで明るい

羅府の日本人会が両国親善に大馬力 『報知日米号』の飛来を機に石油会社も大乗気

ロスアンゼルス三日井上特置員発=『報知日米号』の飛来迫り、ロスアンゼルス在留佐賀県人団体では、郷土の誇りとして歓迎委員会を本日組織し、吉原飛行士の来羅を待って大々的歓迎方法を講ずる準備を進めているが日本人会でも特に同機到着の頃高松宮殿下も御訪問になるので羅府の親日気分みなぎるを好機とし、ロスアンゼルス日本人対白人の感情融和に資すること多大と察し、羅府をあげて日本デーとなすべくいろいろ計画中である、なお第二コース、ワシントンまで飛ぶこととなれば『使用のガソリンは我が社のを使用して呉れ』と石油会社が競争的に申込んでいる、東善作飛行士は吉原機出迎えにサンフランシスコまで飛行機で飛ぶ筈で、空の両勇士の再会は如何に劇的であるか思うだに涙ぐましい

写真(右)1927年頃、日本、土浦、霞ケ浦飛行場格納庫の日本海軍N3「第六航空船」:1926年(大正15年)日本は、イタリア人で北極探検飛行で有名になるウンベルト・ノビレに設計を依頼し、半硬式飛行船「N3」を購入したが。後継同型飛行船の「三式飛行船第八飛行船」は1931年3月14日から17日にかけて2組12名の搭乗員によって長時間滞空飛行を実施、霞ヶ浦、鹿島灘付近を60時間1分、滞空飛行をしたが、これは当時の半硬式飛行船滞空の世界記録だった。1931年5月14日、ユンカース(Junkers)A50スポーツ機「報知日米号に」よる太平洋横断飛行の式典に参加した。
David Valenzuela "N3," Japan (LOC1) Uploaded on ‎November‎ ‎5‎, ‎2016.
写真はFlickr The Library of Congress Call Number: LC-B2- 4563-11引用。


根室の準備成り飛来を待つ 東京発の報に人気沸く

根室山本特派員発=四日午前十時半根室無電局は、世界空前の大使命を負うて北太平洋一万三百キロの魔の空征服の壮途に吉原飛行士が十時十分単身『報知日米号』を操縦して東京を出発した旨を伝えた、この飛行の快報を待っていた山田、早川両航空官初め根室町民は狂喜して市内各所に速報紙が貼り出された、小雨の空を見つめつつ『明日はきっと晴れる』『海も静かになる』と異口同音に吉原飛行士の飛来を待っている、当日晴れの大使命を持つ『報知日米号』着水場は四日朝から取片づけをなし、午後は吹流しさえ揚げて準備全く完成した、着水場も南風なれば根室港、北風なれば花咲港とし、根室郵便局では特に花咲港に臨時飛行専用電話を施設し通信の便をはかる事になった、札幌逓信局では村田技師の外藤懸技師を根室無電局に応援として派遣し、外国通信聨絡をなす準備をして居る、なお根室では『報知日米号』着水後直に陸揚し、在郷軍人青年団、消防隊、水難救護会が聨合して十数名ずつ徹宵機体の警戒に当る事になって居る、また北海道長官代理岩本学務部長は四日午後五時来根『報知日米号』の歓迎をなす

三十通に余るメッセージ 最初の飛行郵便として託送

吉原飛行士が『報知日米号』で持って行ったメッセージはアジアより米大陸に運ぶ最初の飛行郵便であるが、次の如くである

▲米国大統領フーヴァー閣下宛(小泉逓相) ▲米国国務長官スチムソン閣下宛(幣原外相) ▲米国大統領フーヴァー閣下宛(永田市長) ▲サンフランシスコ市長宛(同) ▲ロスアンゼルス市長宛(同) ▲シヤアトル市長宛(同) ▲バンクーバー市長宛(同) ▲米国大統領フーヴァー閣下宛(日本新聞協会長清浦伯爵) ▲カナダ首相宛(カナダ公使) ▲ラッセルス氏宛(米国大使館ホステッスのラッセル夫人) ▲米国飛行協会々長宛(帝国飛行協会田中館副会長) ▲シヤアトル日本協会々長宛(日米協会長徳川家達公) ▲ニュヨーク日本協会長宛(同) ▲サンフランシスコ日本協会々長宛(同) ▲ニュヨーク、アドバータイジング倶楽部会長宛(日本広告倶楽部津村会長) ▲ペトロパヴロフスク市ソヴィエット会長宛(ロシア大使) ▲ニコルスキー市ソヴィエット会長宛(同) ▲サンフランシスコ市長宛(大西横浜市長) ▲シヤアトル市長宛(同) ▲バンクーバー市長宛(同) ▲サンフランシスコ市長宛(羽田町長) ▲サンフランシスコ青少年団各位(羽田町青年団) ▲米国大統領フーヴァー閣下宛(野間社長) ▲米国国務長官スチムソン閣下宛(同) ▲サンフランシスコ市長宛(同) ▲シヤアトル市長宛(同) ▲バンクーバー市長宛(同) ▲ポートランド市長宛(同) ▲ロスアンゼルス市長宛(同) ▲シヤアトルランデス夫人宛(専修大学道家斉一郎氏) ▲着陸地の同胞へ(野間社長)

きょうの予定 根室着は二時十五分頃

『報知日米号』の五日のコースにおける通過時刻は
▲沼崎出発 午前十時
尻矢岬通過 同十時四十分
襟裳岬 正午▲釧路 午後一時十五分 ▲厚岸 同一時三十六分
根室着 同二時十五分

各地通過時間(午前十時十分羽田出発)

小名浜四日午前十一時三十八分
富岡町同十一時五十八分
原町同午後零時十六分
中村町同零時二十五分
荻ノ浜同零時四十八分
釜石同一時五十六分
陸中山田同二時十三分
久慈同二時三十分
沼崎同三時三十三分(着)

写真(右)1930年11月-1931年12日発行の「タイム」«TIME»の表紙を飾った、第2次若槻内閣時、大日本帝国、内閣総理大臣臨時代理幣原喜重郎男爵(1872年9月13日(明治5年8月11日) - 1951年(昭和26年)3月10日)):濱口内閣在任時に内閣総理大臣臨時代理(1930年11月14日 - 1931年3月10日)に就任。首相濱口雄幸が、東京駅で銃撃され負傷し執務不能になったために臨時代理に116日間在任した。第40代 外務大臣(濱口内閣、第2次若槻内閣:1929年7月2日 - 1931年12月13日)、それ以前にも加藤高明内閣・第1次若槻内閣の時、1924年6月11日 - 1927年4月20日、外務大臣に在任。
帝国大学卒業。明治29年(1896)外務省に入る。大正4年(1915)外務次官、8年駐米大使、10年ワシントン会議の全権委員となる。13年加藤内閣の外相。以後、若槻内閣、浜口内閣でも外相を務め、国際協調・中国内政不干渉の幣原外交を展開した。15年貴族院議員。第二次大戦後、昭和20年(1945)10月に首相に就任し、天皇制維持、新憲法草案作成などをめぐりGHQとの交渉に当たる。辞任後日本進歩党総裁。22年衆議院議員、24年衆議院議長となる。
Portrait of Shidehara Kijuro (幣原喜重郎, 1872 – 1951) Date Pu;blished in 1939 Source Japanese book Kensei 50nenshi (憲政50年史) National Diet Library This image is available from the website of the National Diet Library
写真は、Wikimedia Commons, Category:Kijūrō Shidehara File:Baron Shidehara Kijuro as Acting Prime Minister in full dress.jpg引用。


国交上に大貢献 凱旋の姿を見たい 出発式における幣原外相の演説[1931年5月4日]

報知新聞社主催、吉原飛行士による北太平洋横断飛行の首途に当り外務大臣として、この盛典に列するの光栄を得たことを感謝します、吉原君は先きに日独親善飛行を完成した航空界の偉大なる存在であって、私は今回の日米親善飛行も必ず成功することを信じて疑わぬ一人であります

そしてこの壮挙は単なる一新聞社の一事業と見るべからざる多分の意味が含まれているのを痛感いたします、何んとなれば『報知日米号』がしょう破せんとする北太平洋の航空路は、日本からする前人未踏の魔海である、これを開拓することが如何に重大なる意義を持つかは私が申すまでもありません、更に北太平洋を結ぶ沿岸諸外国及び終局の目的地たる米国と日本との国交上に及ぼす親善味の増大は予期以上のものがありましょう

勇士吉原清治君の決死的努力が日本にもたらす多大なる貢献は、このほか言葉に尽しがたい沢山のものがあります、ねがわくは沈着と慎重を念として、北太平洋を征服し凱旋将軍の如きさっそうたる勇姿を横浜埠頭にお迎えするの日の早からんことを心から祈るものであります

まさに記念すべき昭和六年五月四日 八千万国民の熱情に深謝す 野間社長の謝辞(速記)

本日ここにかくも盛会なる式典を挙げることを得ましたのは、何とも申上げようなき無上の光栄と感謝に堪えぬ次第であります、ただ今はまた米国大使、露国大使、逓信大臣、樺山伯爵、お歴々の誠に御懇切な御言葉を戴きまして、ただただ感激の胸に迫るを覚えるのであります、なお見渡しますれば式場以外かなたの岸、こちらの土手、田にも畑にも、広場にも、数万数十万の方々、雲の如く山の如くしかもただ一つ心に本日の門出を祝し、一斉にお見送り下さいまして、その中には五里十里、あるいは三十里五十里の遠方よりお出かけのお方も見えるのであります、有難くかたじけなく何とも御礼の申しようがございません、ただ感銘、感激これあるのみであります

今回の事、これを発表致しましてから今日に至るまで、畏れ多くも上皇室を始め奉りまして、朝野の諸名士、全日本のすべての方々から蒙りました御温情、御親切、これはもう毎日々々感謝して居ります、幾百万の人々の御情けと御温情をしみじみ感謝して居ります吉原飛行士は感涙にむせんで居ります、吉原飛行士の母堂も感涙にむせんで居ります、報知新聞社全社員ことごとく感涙にむせんで居ります、今回のこと、是非ともその大目的を達成し、御期待に副うように致さなければならぬのは勿論のこと、今後においても万難を排して天下皆様の御厚恩に御報い致さなければなりません、また必ず御報いせずには置かぬ、これ私共一同の心願であります

天地神明も照覧あれ、ここに御臨場の皆様の前において、謹んで誓言致します、微力なりといえども報知新聞社全社員、いよいよますます駑馬に鞭うち、奮励刻苦御国のため、社会のため出来る限りの努力を尽し、御厚恩に御報いしたいと存じます、さて万端の準備既に整いまして、間もなく吉原飛行士は出発致すのであります、太平洋を飛び越すのであります、難航路中の難航路といえども必ずこれをしょう破してくれるであろうと確信するのであります、吉原君の面上には確固たる意気、断乎たる確信の色が鮮かに見えて居ります、氷山も濃霧も悪気流もことごとくこれを征服して、必ず必ず予期以上の成績を収めねば置かぬ大確信、大信念がさっ爽たる雄姿の上に、そのりんりんたる眉目の中に窺われるのであります(中略)

私は声を大にして諸外国の方々に申上げたい、吉原飛行士は一人でありますが、その経過する処各国の方々と握手するその手は全日本八千万国民の固い握手、熱い握手であります、吉原君の真心は日本八千万の同胞の真心であります、かくの如くに吉原君のこの行が、希くは国際親善の為め人類共愛の為め、将たまたこの太平洋新航空路開拓の為め、東西文明融合の促進の為めに、更にその他いろいろの目的を有するのでありまして、それ等に充分に役立つようにと念じてやまぬ次第であります、今や吉原氏は実に実に重且大なる使命を帯びて、未曾有の大壮挙を決行せんとして飛び立つのであります私は日本の国威により、皆様の御熱誠によって、吉原飛行士の成功を見、この門出の日、昭和六年五月四日は実に記念日として永遠に伝えられるであろうと確信して疑わぬものであります、今後吉原飛行士の消息一切は、毎日の新聞において皆様方に逐一御報道申上げるのでありますが、それに致しましても、この上とも神仏の御加護、皆様の御援助をひたすら祈り上げるのであります、申上げたいことは山々ございますが、これをことごとく尽すことが出来ません、幾重にも御親切御同情に対して、厚く御礼申上げる次第であります

祝辞 米国大使フォーブス氏

吉原清治君、私は貴下の、この勇壮なる航空が良好なる天候に恵まれつつ、行路の旺ならん事を祈ると共に対岸の熱誠なる合衆国同胞に、一刻も早く相見えられん事を希うものである、貴下がこの大壮挙によって対岸にもたらすべき貴国民の熱誠は以て合衆国民の心に触るる処多大なるべく、私は貴下のこの大壮挙の完成が日米間の親善と結合に資する処偉大なるものがある事を信じて止まぬ者である

吉原清治氏に餞す 矢田挿雲

[写真あり 省略]
鵬を搏ち鯤を蹴る薫風一万里 日の道を君が蔽えば夏霞 たらちねに残す心も涼しけれ

航空第一の難路千島列島の自然 見るもの聞くものさすがは『魔の島』

『報知日米号』が翔破する魔の空の中で、最も難航とされている千島については八日の夕刊に(上)を掲載したが更にその続きを述べて見る。

千島史略(八日夕刊続き)

二五五四年(一八九四)明治二十六年報効義会郡司成忠大尉外六名占守島片岡に渡って越年、翌年白瀬□外五名同地に越年す。
二五五七年(一八九七)明治二十九年九月報効義会々員六十名片岡に移住す。この年占守島別飛に漁場を創始す。明治三十一年幌莚島シーベットプに、三十二年占守島中川に相次で漁場を開くも業績思わしからず。
二五六一年(一九〇一)北海道庁参事官高岡直吉氏外六名の各専門調査委員が軍艦武蔵[1888年就役の3本マスト汽帆スループ]に搭乗し列島の産業調査をなす。
二五六九年(一九〇九)千島興業株式会社創設以来漁場を経営するもの相継ぎ、北海道庁、中央政府と共に各種の助力をなし、昭和五年七、八両月にわたり北海道庁はその所属船三洋丸に同庁技師中村廉次氏以下搭乗し北千島の調査を行ったが、その結果は得る処甚だ多かったと。将来千島列島の経営も適当なる投資を得ればその開発成果見るべきものがあろう。もっとも、千島開発の過渡期に活躍した人々の功を忘れるわけには行かぬ。

千島列島は千島火山脈の勃起せるもので、水面から直立して特に高く感ぜられる。根室の東の水晶諸島は平らで、あたかも木の葉の浮かんで居るようであるのと、占守島が特に高山がなくて丘陵が起伏して居る外は、多くはせん峰を有し、夏なお雪を頂いて居るものが少くない。列島中最も高山の多いのは幌莚島で、千メートル以上のものが十峰を算する。千島火山脈中の最高峰は国後の茶々岳で、標高一、八四五メートル、那須ケ岳より約七〇メートル低い。五六百メートルの山は至る処にある。

これ等の主峰に連って幾多のしゅん険があるが、小島では主峰が海面から抜け出して居りその傾斜はすこぶる急しゅんである。山頂は国後島の泊山、羅臼山、茶々岳、得撫島の得撫富士、知理保以島の北島、新知島の新知富士、計吐夷島[けとい]、羅処和島[ラスシュア]、松輪島[まつわ]、捨子古丹島[シアシュコタン]、択捉島の硫黄岳、幌莚島の一文字岳、富士形山、硫黄山等は現時活動中の火山であって、活火山山頂はせん峰をな巓頂は雪なく中腹以下に雪積り、休火山には円錐状または円峰が多い、何れも航空航海上の好目標を呈して居る。各島の岬角は断崖絶壁が多く砂岬はまれである。時に長大な砂浜を認めるが、概して露岩暗礁が多く、この島にアザラシ、アシカ、海馬多く棲息し、ラッコ、オットセイは大群は少い。離岩岬角に胸白鴨、エトピリカ、鵜、海雀が群集し、航海者は霧中これ等のほうこう、てい鳴を耳にし航行上の参考とする。また岩礁の附近には、海草繁茂し、なかんづくエゾコンブ(ケルプ)と称するものは、その幅数尺、長さ数丈に及び、船のスクリューにてん絡する危険がある。山間には樵径すらまれで、渓谷、活火山地帯を除きては、至る処深林密樹がある。川は幌莚島の□川、熊川は最も大なるもので、択捉、国後にも十キロ以上のものがある。いずれの川もサケ、マス類の遡江するものが多い。沼沢は噴火口の遺跡で、その一部が欠壊して湾となったものが多い。また多くは川によりて外海に聨絡をしている、国後島(以下島を略す)の東沸湖最も長い部分直径一里以上にわたるものを初めとし、同島の一菱内湖、択捉の内保沼、年萠沼、別飛沼、薬取沼、得撫の床丹沼、春牟古丹の同名沼、占守の柏原湖等がある。

飲料水としては雪どけの川水が適良であって、地質の関係上川や沼の水の内で、石灰、塩分、硫化物、亜硝酸を含むものがある。沼の細菌や微生物に関する調査は残されたるものと思うから、その飲用に関しては注意を要するものがあろう。山野を横行する獣類はヒグマ、テン、鼠、野狐類が多いが、現在野狐は激減し、青狐やトナカイの養殖を官業とされて居る。魚類は川や沼にヤマメ、サケ、マス、鮎類を産し、沿海はサケ、マス、タラ、場所によりカニ、小エビ、ウニを多産する。もっとも潮流の関係上ほとんど魚族を寄せつけない島のあることも考えねばならぬ。

千島の産物 魚類が最豊富 最近の調査

千島列島の産物につき各方面の調査を綜合して、これを概述すれば次の通りである

一、植物
 気候、特に風の強いため成育し得ざる理由によって矮樹が多く、建築材料となるものは稀である。大体において南部の国後、エトロフ、得撫の諸島の陸生植物は、北海道東部のものと同様で、白樺、ハイ松、ミヤマハンノキ、楊柳、千島ツツジの類が多く三四尺を出でないのである。北千島には白樺はなく、ミヤマハンノキ多く、山間の日当りの良い処で十数尺にも及ぶものを稀に見るが、本島唯一の燃料となるのである。草類は高山植物に属するもののみで、フガンコウランいたる処に繁茂して居る。海そう類は二十余種を産し、コンブ、ノリ(紫菜)若布、石花菜、フノリ、銀杏草、松藻多産する。

二、動物
海獣としてはアシカ最も多く、アザラシ、海馬これに次でラッコ、オットセイは樺太、カイヒョウ島や、ベーリング島には到底及ばない。クジラは少くない。好晴の際に波静かなる海面に吐潮するものが多い。各種のものがあるようである。陸生動物としては幌莚、得撫、新知、エトロフ、国後の諸島にヒグマが多い。月の輪のある黒熊は棲息して居らないようである。テン、狐、リス等は多いが、狐は赤褐色のもの及び高価なる三毛狐を野生し、黒狐は現在稀である。鳥類は胸白鴨至る処に常棲し、カモメ類も多く、シギは山間河畔、平野に多住し、なかんずく幌莚島のシギの巣原と称する処はその名にそむかない。内地の猟天狗が見舞わないのがその根絶せざるゆえんであろう。

三、鉱物
 有用鉱物に関する調査は未決であると信ぜられる。しかしカムチャッカの豊富なる鉱産を考えて見たならば、あるいは無尽の豊庫が秘蔵せられているかも知れない。航海者が北洋航路において多大の磁差を見ることは、鉄鉱に関する着眼を必要とするであろう。

四、漁産
 サケ、マス、タラ、カニを主として居るが、漁業経営は当事者の努力に対し不振の状態である。明治四十一年千島興業株式会社タラ漁を開始したるを以てこう矢としたのであるが、大正八九年に至り不振状態に陥り、次で大日本遠洋漁業株式会社が海獣捕獲を開始し、明治四十四年海獣保護条約の締結によりタラ漁に転じたが、不振のため大正三年休業するに至り、同年日本漁業株式会社が塩蔵開タラ漁を始め、大正八年には資本金五百万円に増加したが、大正十年以来米国への輸出に停頓を来し、大正十四年休業するに至った。現在大規模に継続して居るものには第一に日米水産株式会社をあげねばならぬ。同社は前述各社と同様大正十一年四月以来タラ漁業販売に従事し、目下盛業中で、大正十四年千島漁業株式会社が、日本漁業株式会社の業務を継承し、カニ及びサケ、マス鑵詰業を今日まで経営をして居る。右の外小規模の漁業は南千島において行われて居り、サケ、マスの外帆立貝も行われて居る。北千島における昭和四年の漁獲成績は次の通りである。
タラ 九〇〇、〇〇〇円 カニ 四〇〇、〇〇〇 帆立貝 一一、二〇〇 計 一、三一一、二〇〇

武魯頓湾と加熊別湾(幌莚)

横断機が最初から着水予定地として選定した新知島[しむしる]の武魯頓湾[ぶろとん]と、幌莚島の加熊別湾の状況は左の通りである。

武魯頓湾

位置 北緯四七度九分、東経一五三度一五分。新知島は中部千島における大島で、知理保以島北島の北東三八浬にある長さ三二哩、幅五哩、武魯頓湾はその東端にある湾である。
地勢 新知島は全島熄火山で特に武魯頓湾は、噴火口跡である。その北口は決壊して海に通じたもので、日本崎と武魯頓湾が湾口を扼し、この部分の水深は二ヒロを出でないから、極めて吃水の浅い船の外出入を許さない。もっとも湾の中心は二五〇ヒロに及んで居る、湾は三日月形をなし、西北海岸に農林省養狐場があり、吏員二名越年定住して居り、湾は湾口より一浬半、山岳に囲繞せられて居るから、暴風の時でも風波は起らぬ。

加熊別湾

位置 北緯五〇度二三分、東経一五五度三五分、幌莚島唯一の良湾で、北方に開口して居る。幌莚島は南西の長さ五五哩、幅約一二哩で、北部千島の最大島である。
地勢 幌莚島は高山脈連亘し千メートル以上の十峰を有し、後鏃岳(一七九八メートル)千倉岳(一八一七メートル)最も有名である。海岸は一般に断崖で岩礁近く碁布し、距岸二哩に及ぶ。風波を保証し得る湾に乏しく、加熊別を唯一の錨地として居る。同湾は北方を除き周囲山を負うて居るから、夏季の南東風に対し安全で、その濃霧を防ぐことが出来る。幌莚島の南東岸及び幌莚海峡では、ほとんど濃霧を見ない日がなくても、本湾に限り霧が比較的少い。
産物 沿岸は海産物に富み、四月より十月に至る間、三十三ケ所に漁場が開かれ、主としてタラ、カニ漁に従事し、八百名以上の漁夫と十五六隻の機械船、二十隻以上の川崎船が出漁する。陸には熊、狐類多棲し、雷鳥、鴨類が多い。

今朝濃霧起って内保一帯を包む 北洋の天候依然不良

根室山本特派員発=十一日午前七時吉原氏より左の如き入電があった
万端の手配終了したるも昨夜の猛雨から引続き今朝は小雨に加うるに濃霧あり、当地一帯を包んでいるので自重して昼頃まで見合せることにした、なお本日の武魯頓は陰鬱な天気にて飛行に不適なる旨の通知があった

得撫の先もだんだん悪くなる

中央気象台に達した十一日朝六時観測の千島列島の天候はエトロフ島沙那において南々東の風十二メートルで晴れ、得撫島附近は東南東の疾風で曇りであるが、気象台の観測によれば  得撫島より先きは風は南に寄り追手になるが次第に強く天気は悪くなる

地上勤務員の配置滞りなく完了す 危険を冒して燃料油も配給 殊勲の第百国際丸

北太平洋横断の全航程一万二百四十五キロ中最難関と聞くアリューシャン群島ウナラスカ島ダッチハーバーまでの燃料油と、決死的な地上勤務員を乗せた第百国際丸は北海の荒波に幾度か危険を伝えられつつ露領ペトロ、ニコルスキーからアリューシャン群島、アッツ島のチチヤゴフ港、アンチトカ島のコンスタンチー港、アトカ島のナザン・ベーに配油と地上勤務員の配置を続け、最後の地ダッチハーバー港へ九日午後五時(日本時間十日午後一時)海路三千八百余浬の難航を無事押し切って到着その大任を果した
第百国際丸は二日間ダッチに滞在し、再びアッツ島チチヤゴフに戻って飛行通信に当ることになった、一方ダッチハーバーから桑港までは既報の如くスタンダード並びにバッキンガム両オイル会社に依頼して配油に着手し

 コジアック島コジアック港、アラスカ、セワード・コルドヴァ、ヤクタット、ジュノウ、ウランゲル、英領コロンビアのプリンス・ルバート、スワンソン湾、コルモランド島アラウト湾、バンクーバー、北米シヤアトル、ポートランド、メッドフォード及びサンフランシスコには八日夜までに完全に配給を終った

旨の来電に接し、ここに本飛行計画に万全を期し最も苦心せる配油準備は第百国際丸の勇敢なる行動と、米国両オイル会社の尽力によって完成し大飛行の成功を待つことになった
 即ち全航程に配置された地上勤務員はダッチハーバーの木村特派員を最後に所定の場所に着き、完全なる通信聨絡を開始した訳で、根室に派遣された山本特派員をはじめ、千島の幌莚に松山特派員、露領ペトロに堀内特派員、ニコルスキーに草野特派員、米領アラスカ州アリューシャン群島アッツには杉本特派員、アトカ島に福林特派員、ダッチハーバーに木村特派員、シヤアトルに清沢特派員、サンフランシスコに赤沢並に奈良両特派員等コース一万二百四十五キロに全神経を働かせることとなったのである

ペトロ全市の人気は高潮 少年連の活動

ペトロパヴロフスク十日堀内特派員発落石無電局経由=五千市民の『報知日米号』に対する歓迎気分頂点にあり、余(堀内特派員)は毎日各方面の人々に到着日の質問攻めに逢いつつあり、当地官憲も歓迎の用意を始め、支那人コックは腕を揮って料理の支度中であるが、余等を助くる飛行協会の少年達は連日連夜活動を続けただ感涙にむせぶ次第である吹雪も漸くやみ白き山々は太陽にかがやき『報知日米号』の飛来を待つばかりである

東飛行士金門湾頭へ歓迎飛行

サンフランシスコ十日発電通=吉原飛行士と相前後して欧亜大陸横断飛行を完成し浅からぬ因縁を持つ空のジプシー東善作飛行士は、今後の飛行計画に関する色々なうわさをよそに今はチャプスイ『赤い翼』の主人公に納まり黙々として飛行術の研究に余念がないが盟友吉原飛行士の太平洋横断の壮挙には大喜びで最近当地の友人に寄せた手紙の中にも 吉原君の技量と沈勇を以てすれば今度の壮挙の成功は疑もない所だ、吉原君の飛来に際しては借り物の飛行機のこと故遠くまでは行かれないが金門湾の上空位までは是非共出迎に行かなければならない といって寄越したが金門湾頭に両勇士が相会し互に喜びの旋回飛行を行う日こそ在留邦人から鶴首して待たれている

北太平洋横断飛行 一気にペトロ目指して日米号まず武魯頓へ 今朝七時十五分紗那出発

紗那十四日午前七時二十分特電=『報知日米号』の吉原飛行士は今朝七時十五分武魯頓に向って出発した、同地にて燃料補給の上一気にペトロパヴロフスクに飛ぶ予定なるも天候に変化あれば加熊別にて着水、同地にて一泊し明朝ペトロに向う、紗那から武魯頓までは約四百六十キロで三時間半乃至四時間を要する見込である

武魯頓に翻る大日章旗 白鳳丸船長以下快報に上陸 水陸の準備を整う

十四日午前九時三十分根室にて山本特派員発=北太平洋横断飛行援助のため武魯頓湾に碇泊中の農林省水産局白鳳丸は吉原飛行士紗那出発の報を受けて船長山本清内氏外船員十名は勇躍直ちに上陸し目標のため大日章旗を掲揚し午前九時二十分には水上陸上とも準備全く整い一刻千秋の思いで飛来を待っている旨落石無電局に入電があった 天気快晴風波なし 恵まれたり今日の幌莚

幌莚松山特派員発日米丸託送=十四日快、晴風なく、波なく、雪の千島に春の訪れた感があり、悪天候に悩まされた若き吉原飛行士の『報知日米号』を迎えるにこよなき島の情景である、この朝飛行機出発の報を聞くや、漁場は着水の準備充分整い、国旗、社旗、日米旗、吹流しなごやかにはためき海空共に飛来を待ち顔である

紗那湾頭の劇的情景 入港の船舶は日章旗を掲揚 村人総出動万歳で歓送

十四日午前七時三十分紗那郵便局長発落石無電局経由=『報知日米号』出発が村中に報ぜられるや人々は老若男女を問わずニンガ浜に集まり熱狂的な万歳をもって出発を送った折柄紗那湾にはフラカワ丸が入港して来たが船員達は甲板に群れてしきりに帽子、ハンケチを振って勇士の出発を見送り船首には日章旗も掲げられ、紗那湾は真に涙ぐましい荘厳な光景を呈した、この朝吉原飛行士は青年団旗、在郷軍人団旗、校旗につつまれて記念撮影をなし非常に元気よく終始微笑を浮かべて如何にもきょうの好天気に恵まれたのを喜んでいるように見えた、吉原飛行士はこの村民たちの厚情に酬いる為め紗那を飛び去るに及んで三回も上空を旋回したのは村民を一層感激させ歓喜させた

全米に漲る素晴らしい歓迎熱 野間本社長宛の来翰

『報知日米号』の米国訪問飛行の報が一度全米に伝わるやその人気は大したもので、各都市の市長や商業会議所会頭は野間社長のもとにその各市設飛行場の詳細を報告し是非ともわが都市に訪問飛行をするよう要求して来ているが、その主なるものは左の通りである

サンフランシスコ市長ロッシー氏
 報知新聞社専属飛行士吉原清治氏が、我シスコ市を訪問されるという光栄に対しては、実に我々は感謝の外ない、我々が貴下に対し、偉大なる飛行家吉原氏の壮挙を衷心称讃している事を申述べるのは、実に我々の喜びとするところである

ニュヨーク市聨合通信社外報部長スミス氏
 貴社々員吉原飛行士の御壮挙に関しては、本社岩永通信員は詳細なる報告を本社宛通知しているが、我々はこの未曾有の飛行に対し深甚の敬意を表すると共に、太平洋沿岸の本社通信員全員に対して、吉原飛行士には可及的援助を為すべしと命令を発した、衷心その御成功を祈ってやまない

サンタ・ポーラ市高級助役デマレスト氏
 貴社吉原飛行士がこの方面御通過の節当市に着陸されるならば余等は実に歓喜に堪えない、そして当市着陸の日時を予め御報告願えれば、出来るだけの敬意と歓迎の労をとりたい、我々は当市設飛行場を御紹介し、その飛行場にかくの如き非凡なる飛行士の来訪を受けるという事が如何に我々の栄誉であるかを申述べたい、全市参事会員はこの手紙を通じて貴社に対し、その衷心よりの挨拶の意を託しているし、また貴紙によりて貴国民に我々の誠意を伝えられん事を懇望している
その他サンタ・ポーラ商業会議所、セントラリア市長、メリースビーユ市、マーシュフィールド市、ベーカー市、オークランド市等より同様の讃辞と歓迎申込の手紙が来ている

魔の新知湾上空にて『報知日米号』遭難す 吉原飛行士九死に一生を得 白鳳丸に救助さる

新知湾にて白鳳丸十四日午後五時五十七分発落石無電局経由=吉原飛行士の操縦せる『報知日米号』行方不明となりたりとの無電に接し、本船は直ちに出動してその任務に就く、この日新知島附近は濃霧深くしてほとんど咫尺を弁ぜず、本船はボートを出しあらゆる困難を冒して同湾内を捜索したる結果、漸くにして『報知日米号』が機体の一部を破損して波濤の上に漂いつつあるを発見し、直ちに機体をボートに繋ぎたり、吉原飛行士は意気軒昂悠揚迫らず、我に向ってその好意を謝し、ボートに曳かれつつ本船に収容されたり、山本船長を初め乗員一同同氏の無事を祝す、『報知日米号』が着水して収容さるるまで海上に漂うこと実に七時間半の長きにわたり、吉原氏の沈勇実に驚歎に値す、遭難詳報は後刻吉原氏より電報せん

濃霧、強風、激浪の上を漂流七時間三十分 白鳳丸に救助されるまで 白鳳丸にて 吉原飛行士発

白鳳丸にて十四日午後七時二十分吉原飛行士発落石無電局経由=今日こそは一気に加熊別まで飛行し機械の調子良くばペトロパヴロフスクまで飛しょうせんと勇を鼓して午前七時十五分紗那を出発、七時二十五分択捉島北端蘂取の上空を通過、一気に新知島の給油予定地武魯頓へ飛行したが、途中今まで晴れていた空は俄かにかき曇り『報知日米号』の行手を遮り、加うるに激しき風も起って飛行の危険を感じたので、雲上に逃れんと上舵を取ったが、密雲また密雲、危く窒息せんとした中を漸く密雲の層を突破し、三千メートル以上の高空に出で、密雲と強風とを下に見て、雲上飛行を継続すること約半時、然るに不幸にも発動機が突然に停止して墜落の危機に直面した、漸く空中滑走により再び密雲をくぐり、不時着水の手段に出でたるも、更に濃霧の襲来あり、何処が海か、今何処まで来たか、全く不明なので、止むなく冒険的に着水せんとしたが水上さえ見えず、あわやという間に五メートルの上空より激浪の上に機を叩きつけられ、間髪を容れず機体の胴部及び前脚を大破した、時に午前十時十五分、所は新知湾外北部、不時着水の後余は機とともに全く咫尺も弁ぜざる濃霧中を激浪にもまれつつ漂流、時々襲い来る大波に機体諸共水にのまれんとすること幾十度、今はただ運を天にまかせて最善の努力を続け、午後二時十五分頃辛くも新知湾東部約六キロの点まで流れつき、救助船の来着を待合せ中遥かに汽船の警笛を耳にした、船の航行全く不可能なるこの濃霧激浪中、汽船の警笛に接した余は全く狂喜し、ただちに用意の短銃を濃霧中に連続的に発射して呼応した、この音と濃霧中にかがやく火せんを認めたのか、やがて一つのボートが近づいて来た、見れば白鳳丸の救命ボートだ、ボート長の決死的なる行動により余の機は漸くにしてロープにつながれ、これにえい行されて飛行機諸共無事救助された、時に午後五時五十分である、乗船後山本船長の談によれば白鳳丸は濃霧に悩まされつつ新知湾越年者に『報知日米号』の安否をたずぬべく寄港したるも、猛烈なる濃霧のため針路やや狂い、余の遭難地を新知湾と思い、また余の発砲せる短銃を越年者の信号銃声と思い、ここに双方偶然に遭ったのは誠に奇蹟というべきであった

機体は白鳳丸に積込み一旦根室へ引返すに決定

根室十四日午後八時三分山田航空官発=吉原飛行士よりの報告左の如し
 発動機の故障はガソリン系統なり、機体は前脚取付部胴体が下方へ屈折す、フロート小破、中央翼取付部折損、飛行不可能なり、飛行機は組立のまま白鳳丸に積み終りたり 十四日午後七時三十六分片平落石無電局長発=飛行機は白鳳丸に積込み吉原氏と共に一旦根室に引返す由なり

ゆうべは新知湾に仮泊

白鳳丸船長十四日午後九時五十分発=新知湾口に今夜仮泊し、明日武魯頓湾に帰り、残してある人を乗せて根室へ向う予定である

直に再挙に着手 全社挙げてこれに当り満天下の同情に酬いん

日米親善北太平洋横断大飛行の壮途に上った我が『報知日米号』は別項の如く十四日千島新知島沖合の上空において天候の急変により濃霧の襲来に逢い、発動機に故障を生じ飛行続行の難きに至り、満天下同情諸賢に多大の配慮を煩すに至りたるは、遺憾この上なき処であるが、それにしても吉原飛行士の沈勇果敢なる行動によって濃霧、怒濤の魔海に不時着水を行い得て、同飛行士七時間有半の漂流においても何等身体に異状なかりしは不幸中の幸にして、この壮図に敢然起ってその任に当りし吉原飛行士はいうまでもなく、これを計画せる我が報知新聞社としては、かねて天下に声明したる如く、固より非常な決意と不撓の精神とをもってこれを続行することは勿論、一度倒るれば二度、二度倒るれば三度最善の努力をもってこれを遂行せねば已まぬ覚悟である、よって直ちに再挙の準備に着手し、全社を挙げて層一層の力を傾注することとなった、かくして我が社並に吉原飛行士に賜わった満天下の熱烈なる御同情に深き感謝の意を捧げると共に、この御同情に対して必ず酬いる処あらんことをここに固く誓う次第である

昭和六年五月十四日 報知新聞社

濃霧の千島海上に四船舶の捜索活動 落石無電局の急電に接し勇敢決死的な働き

根室山本特派員発=十四日午前十時三十分頃武魯頓湾に到着予定の『報知日米号』が午後一時に至るも未着の報に接するや、落石無電局経由千島附近航海中の船舶に対し、『報知日米号』の捜索方を依頼し(別図の位置にありし)各船舶は直ちに同上方向に捜索行動を開始した、即ち十四日正午北緯四十五度十九、東経百四十八度五十五にありし呉淞丸は、択捉海峡を北上して得撫島の西岸を北上捜索に従事し、同正午の位置北緯四十五度五十四、東経百五十度十一を航行中なりし稲葉山丸は、西得撫水道を北上して得撫島の西岸を南下し、同じく正午の位置北緯四十六度三十一、東経百十一度六十四にあった千山丸は南得撫水道を南より北に抜けチリホイ島西岸より新知島の南西アロン岬に向って捜索を開始した、更に武魯頓にあって『報知日米号』の飛来を待ちつつあった農林省水産局白鳳丸は、午後二時武魯頓を出航して同じく捜索に向った、しかるに千島一帯は濃霧のため全く咫尺も弁ぜぬ状態にあり、各船共ほとんど自己の危険をも打ち忘れて必死の努力を払い、殊に白鳳丸は待ちに待った『報知日米号』が自己の寸前において消息を絶った事に対して船員一同涙ぐましいまでに心痛し、先ず西廻りにて新知島にそいつつ南下し、午後四時新知島中泊浦に至り、越年者にたずねたが爆音を聞かなかったとの事に、更に新知湾まで南下し、一寸先も見えぬ猛烈な濃霧をおかし、適時にボートを下して海岸の捜索に従う中、火せんの音を聞きつけ、ついに午後五時四十五分実に奇蹟にも『報知日米号』発見したものである
[図表(捜索船活動の跡)あり 省略]

遭難と再挙の報来り在米同胞の一憂一喜 朝野の歓迎熱更に高まる 桑港にて 赤沢特派員

サンフランシスコ十五日赤沢特派員発=日米親善北太平洋横断飛行の壮途にある『報知日米号』の吉原飛行士が、千島の濃霧にはばまれて遭難したとの急報は、ひたすらその飛来を待ちつつあった米国朝野に一大衝動を与え、殊に母国の勇士を迎えんと喜び勇んで待ちあぐんでいた在米各地の同胞は、吉原飛行士と愛機の安否を気づかってその詳報を得んと焦燥した、しかも遭難の詳報には吉原飛行士の沈着と勇敢により、白鳳丸の活動とあいまって神助あり、何等怪我もなく健在なりとの快報来り、ついで直ちに再挙敢行の一大快報をもたらしたので、在米同胞は愁眉を開くと共に、更に異常の感激をもって壮挙の完成を待望するに至った、吉原飛行士の勇敢と報知新聞社の不撓を讃えつつ母国の空を仰いで、北太平洋横断飛行に関する一報々々を得るごとに、一喜一憂する在米同胞の熱誠なる後援と深厚なる期待とはまことに涙ぐましきものがある、第一難関における遭難と再挙の敢行とは、この大壮挙に対する米国朝野の視聴と関心とを一層揺り高め、『報知日米号』の飛来をまつ注目と人気はいよいよ全米にみなぎって来た

再挙の快報を得て湧き立つシヤアトル市 シヤアトルにて 清沢特派員

シヤアトル十五日清沢特派員発=日米親善北太平洋横断の壮途にあった吉原飛行士が、千島新知湾上で遭難したとの報は、全市をあげてその歓迎準備を急いでいた市民に一大衝動を与えた、しかし続いて『再挙決行』の快報がきたので市民はまたまた熱狂し歓迎に一層の熱火を加えるに至った、シヤアトル市長フランク・エドワーズ氏は余に対し左の如く語った
吉原飛行士が途中不幸にも遭難したとの報をきいた時は驚きました、しかし吉原氏が無事である以上必ずや再挙を決行すると思っていました処へ再挙の報を手にし、喜びに堪えない、一日も早く飛来することを望むものである

シヤアトル着の光景を東京で仲継放送 電波による日米の握手

『報知日米号』の遭難の報は全米をいたく震がいせしめたが、本社の万難を排しての再挙の準備着手の報が一度到るや、その賞讃の声は再び人気を白熱化し、吉原飛行士の沈勇と優秀なる技量は必ずやこの難関を突破するものとして晴れのその日を待ちこがれて居る、シヤアトルの放送局NBCでは、吉原飛行士の同地着の模様を全米に放送しようという計画のなっていることは、本紙特報の通りであるが、十六日朝AKの中山常務理事宛に

ツェッペリン伯号  当方の準備は既に完了して今やその日を待って居る、ついては貴局においてそれを仲継して全日本に放送する意思はないか
という長文の電報を寄せて来た、そこで中山常務理事は直ちに葭村総務部長、矢部放送部長、北村技師長、苫米地企画課長等を招致してこれに対する協議をなした結果、これに応ずることになり、その旨をNBC局へ打電すると同時に逓信省方面へその手配方を依頼したが、日米親善を目的とする『報知日米号』の訪米は、端なくもここにまた電波による両国間の完全な握手をなすことになったのは喜ばしい限りである

米国からの愉快な申込み 立派にやってみたい 中山常務理事談

大変に結構なことで直ちにそれに応ずることにした、さきにツェッペリン伯号の飛来の当時ドイツからそれを仲継したいから放送をして呉れという申込みを受けそれを放送した事もあるが、邦人によるこの大飛行の完成を米国から放送してはどうかというような申込みを受けることは、実に愉快に堪えない、これはとりもなおさず国際親善のくさびとなることであり、AKとしては万難を排してその完全を期することとして居る

試練を経て今度こそ成功 荒木航空参謀談

航空母艦赤城八王子支局電話=多摩御陵に参拝の海軍航空母艦赤城参謀荒木海軍少佐(前霞ケ浦航空隊第一飛行隊長)は吉原飛行士遭難につき語る

海軍でも今回の飛行は非常に注目している、期待していたのに不可抗力とはいえ遭難は誠に残念であった、太平洋を北海の島伝いに飛ぶことはある意味からいうと太平洋無着陸の横断飛行以上の難事業である、現在我海軍でも無着陸横断飛行の腕を持っている人は多数あろうが、島伝いに単身で飛び切る自信のある人は一人もない筈である、それというのは濃霧やその他天候の急変を冒して、数十マイルの間に点在する島を探し求めながら飛び、万一その島を発見することが出来ねばたとい飛行機に故障がなくとも、燃料は尽き飛行能力時間は終ってしまうからである、今回の吉原君の遭難はこの試練を実際に受けたもので、この事あるは予期していた筈であるだけ失敗ではない、再挙を計る上に最も良き生きた参考である、今度こそはぜひ成功させたい、日本の名誉の上からも成功させたい


新聞(上)1931年、「吉原飛行士の遭難手記 風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む」
:この紙面では、日米親善新航空路開拓の使命を担って出発した吉原清治飛行士がユンカース(Junkers)A50『報知日米号』で得撫島を過ぎるころから濃霧となり、「命と頼む発動機に変調の起り出し」「スルスルスルと発動機の廻転が止ってしまった」ために、新知島付近で「機体は大うねりの谷へどかんとばかり落ち込んだ」不時着水の状況が語られている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


航空母艦赤城 吉原飛行士の遭難手記 風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む
[写真(吉原飛行士)あり 省略]

白鳳丸にて十五日午前十一時吉原飛行士発落石無電局経由=紗那を離水したのは十四日の朝七時二十二分だった、六十五度のコースを取って進んだ、やがて別飛、蘂取の上空を飛行中、眼下に真っ黒き大魚が数頭(クジラだと思ったが大イルカだった)游弋しているのを見たと思ったのも束の間、海峡からふき出した高度二百メートル位の濃霧のために下が見えなくなってしまった、この濃霧の上を飛び越え得撫島[ウルップ]西北のところで、ほんのしばし海面を見ることが出来た、やがて白雪に覆われた山の姿を横に眺めながら、上方のすみきった青空をたよりに、私は眼もくらみそうな濃霧の白い光りを飛行眼鏡で避けながらずんずんと高度を高めて行った、九時近く得撫島[ウルップ]を過ぎるころから霧は益々右上りに無限に高く続き、少しの晴れ間さえも見出せない、この時計らずも命と頼む発動機に変調の起り出したことを感じた、私は『どうしようか』と思った、進むべきか引返すべきか、が、既に五百メートルもの高い濃霧の上では、引返してもとても駄目だと思い、むしろ出発の時視界広しとの通報があった武魯頓湾を目ざすより外なしと決心し、七百メートルの上空でレバーを八まで開いて千九百六十廻し、非常手段をとった、知理保以と武魯頓との間を、濃霧の上にかすかに見せている島の頂きを眺めながら約半時間ほど進んだが、霧はいよいよ高まるばかり、一方発動機の廻転はいよいよ利かなくなって行く、私は新知島[シムシル]にあがる火山の噴煙を見て、なお六十五度のコースで飛ぶ、時速百五十キロであった、ちょうど山が右側になったとき、スルスルスルと発動機の廻転が止ってしまった『駄目だ』と思った『万事休す』と思った、そして左へ百二十度ばかり廻って運を天にまかせて下降した、濃霧のまっただ中に入った、盲になったように、下方はおろか周囲の何ものも見えぬ、高度百メートル位と思われるところで百二十キロの速力にし、そのまま待っていた旋回針と速度計で海面の見えるのを待ち遠しく思っていた、と、チラッと狂う白浪が目に入った、斜め前から大きなうねりが来るのが見えた『これは大きいな』と思うと同時に、飛行機を立て直す暇もなく、機体は大うねりの谷へどかんとばかり落ち込んだ、発動機が止っているので如何なる操作も無効だった、瞬間『沈むんだな』と思って覚悟をきめた、が、はからざりき私は機体と共に浮いている、そう思うとやっと気が落ち着いて来た、しかし直ちに北洋風浪の真っただ中に弄ばれていることがぴんと来た『どうにでもなれ』とまた決心せねばならなかった、風浪に翻弄漂流されつつ翼が激浪にたたかれているのを眺めながら、いよいよ沈むときの準備を了った


新聞(上)1931年、「強風に崖へ吹寄せられ疲労を忍び愛機を繋縛 天佑、濃霧中に救いの船」
:この紙面は、太平洋横断飛行に出発した吉原清治飛行士が、ユンカース(Junkers)A50『報知日米号』の発動機故障でアリューシャン列島の「風浪上に死の体験 濃霧中で発動機に故障 沈没の覚悟を定む」に続く記事で、「天佑、濃霧中に救いの船」とあるものの、「救われた勇士の母と助けた船長の夫人は語る もう一度清治に飛ばさせてください 健気なとみ子母堂」と国家の威信にかけて再度挑戦が当然であるとの世論を盛り上げている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


強風に崖へ吹寄せられ疲労を忍び愛機を繋縛 天佑、濃霧中に救いの船

そのうちにふと風がやんだのに気がついた、時計を見ると漂流してから一時間ほどを経過していた、霧がほんの少しずつ晴れ出して行く、やがて三四哩前方に新知湾が眺められた、それから北東に流されること一時間半、こんどは風向きが北東に変って、私は機体と共にだんだん岸の方へ吹寄せられて来た、不時着水、風浪に漂流して五時間余に、やっと錨のとどく程度の深さの岸へ流れ着いたので錨のロープを携えてうねりを避けつつ、玉石のある岸を目ざして六十回ほど海中歩行を試みた末、辛うじて石によじ登ったが、激しい疲労のため足が少しも利かず、一歩の歩行すらも出来なかった、仕方なしにそこへ身を投げて休んでいたが、愛機のフロートが浪にたたかれるのを見て我慢出来ず、漸く携えていたロープを崖の石にむすびつけ、必死の力を出して飛行機の引揚を試みたが、力尽きて能わず、辛うじてその尾部から半分ほどを岸へ陸揚出来ただけであった、私は疲れのため何もする気力がなかったが、陸上での危険も慮られたので、早速武装を整えて海と陸とに警戒をせねばならなかった、狐が二三匹現れて、キョトンと私の方を眺めては姿を消した、三時半頃から濃霧がまたも低くたれこめて来た、見通せるのはやっと二町位しかない、全く運を天にまかせて時間を過ごした、五時頃だった、大海獣のほうこうのような、または汽笛のような音を二度三度耳にした、『何だろう』と思って、私は眠る支度をしながら一るの望みを以て耳を傾けていた、五時十分、また聞こえた、その方角が自分の前方の海上らしい、『はて船かな』と思った私は、直ぐにピストルを二発放った、と遥か海上からまた先刻の音が聞こえて来た、私は更に一発ピストルを発車してそれに呼応した、やはり船だった、私はいろいろ考えた、『出来れば再挙だ』『皆様に相済まぬ』−と、また『どうすべきか』とも考えた、全く航行不可能になっているところを白鳳丸の勇敢な活動によって発見されたのだ、そして飛行機と共にボートに曳かれて本船に着いた、思わず涙があふれ出た、私には何もいえなかった、ただ熱い涙が出るばかりだった、山本船長以下船員全部は私の無事な姿を発見して非常に喜んでくれた、せまい甲板に組立てたままの破損飛行機を積みおえたのは午後八時過ぎであった、みんな白鳳丸のお蔭だと私はしみじみ感謝している

救われた勇士の母と助けた船長の夫人は語る もう一度清治に飛ばさせてください 健気なとみ子母堂

時々刻々変化して、全く予測を許さない北海の魔空に出没する濃霧は、ついに若き空の英雄吉原飛行士をして新知島[シムシル]付近の魔海に遭難せしめたが、幸いにして体に何等の異状なく九死に一生を得て意気ますます軒昂、十六日朝根室に到着を待って再挙を計る筈である、市外蒲田町女塚一四六山口氏宅の吉原氏母堂とみ子刀自は十五日午後一時『遭難で皆様に御心配かけて申訳ない』と清治氏の叔父佐賀県八坂神社神官山口良吾氏を代理として本社を訪問せしめたが再挙の報を聞き蒲田の寓居で語る

『清治のことで、社の皆様はいうに及ばず、世間の皆様、殊には一方ならぬ御恩ちょうを賜わった各宮様や政府方面の方々に御心配をかけたことは何とも申訳がありません、特に清治が飛んで行くのを今日か明日かと寒い北の島々で待っていられる人々が、さぞ心配され落胆されただろうと思いますと、じっとしていられないような気がいたします、清治は社のため、国のために捧げた身です、私は神仏に捧げた身です、たとい清治が一命を失っても思い残すことはありません

ただ今再挙のお話を聞きまして、私の喜びはいうに及ばず、清治もこの上なく喜んでいることでしょう、清治の母としてのお願は、たとい清治の技はつなたく、清治の力は足らなくても、死を覚悟してたった清治です、何とかしてもう一度飛ばしてやって下さい、親一人、子一人の私達です、死ぬより生きて大飛行を完成して呉れることを望まないではありませんけれど、それじゃあれ程清治のため応援して下された世間の皆様に申訳がありません、私はただもう清治が無事に飛んで呉れることをのみ神仏に祈ります』
 母堂の眼には、子を思う親心のあらわれか熱い涙が宿っていた

お察ししても…涙がにじむ 吉原氏の母堂を褒める 白鳳丸山本船長夫人は語る

果て知れぬ北洋のただ中で『報知日米号』を発見、救助した白鳳丸は、更にその前日は千島列島中の羅所和島[らしょわ]北東端で遭難の大連丸を発見、その船員三十八名を無事救助したという殊勲振りで、僅々三百三十四トンというびょうたる船で、去る四月末農林省の命令でカムチャッカから根室間の北洋漁業監視のため、殊に今年は特に『報知日米号』の壮図警戒の任務も帯び、例年より早く出航したものである、主務省でも今回の白鳳丸の殊勲に対して、船長山本清内(四一)氏の老練をほめちぎっている、同船長の留守宅を東京市外世田谷町代田中原六五二に訪えば、はるの夫人(三九)は言葉少なに語る
 吉原さんの御運が強かったのです、このようなまるで奇蹟と思われる程御運の強い方ですから、再挙なされば必ず今度は目的を貫徹なさると信じます、それにしても吉原さんのお母さんのお心の内はまあどんなでしょう、私のような気の弱い女ではお察しするだけでも涙がこぼれます、天にも地にもかけ代えのない親一人子一人の仲、名誉とはいいながら千万無量の思いが致しましょうに…日本の女性にはこれ程の活きた教訓はありません、宅は例年なら五月か六月に任地に参るのが、今年は飛行機のことがあった為めか早く出立しました、便りはまるで致しません、帰るのも十一月頃になる予定です
留守宅には宏(八つ)洋(五つ)万里(二つ)と可愛い三人の娘さんが、長いお父さんのお留守を待って居られる

『報知日米号』の貢献こそ偉大 『無着陸飛行は賭博的行為』と再挙を称揚する米紙

『報知日米号』の再挙に対して本社はその後引続き米国側から激励の飛電に接して居るが、今回の再挙に先だち更に飛行スケジュールを延長し、日米親善飛行の真意を徹底すべく、単にサンフランシスコを終点とせず、全米大陸を飛行して、首府ワシントンにこの鵬翼をおさむべしと厚意的勧告を寄せて来るもあり、また米国オレゴン州ヤキマ市のヤキマ・デーリー・レパブリック紙はその社説に『日本人の飛行』と題して無着陸飛行が世人を愚にするに反し、吉原飛行士の訪米飛行は商業経済交通上に貢献する真価の絶大なる貢献あるを指摘して左の如く論じて居る

太平洋無着陸飛行の如き際物的の興行よりも、若き一日本飛行士の二十ケ所着陸の飛行は商業の実益上に有効なる試練を捧ぐるものである、無着陸飛行を東京より米大陸に試みんとするものもあるが、これは懸賞金を目当てとした賭博的行為のもので、飛行の真価より見れば愚劣なるものである、この意味において吉原飛行士の小型飛行機による北太平洋横断飛行は安全第一を主義とし、徒らに生命の危険を賭するものでなく、用意を得た判断に基くもので、何人も首肯し得べきスケジュールの立て方である

彼の勇気がこの当を得た判断に相当するならば、共に相まって必ず成功すべきを信じ、且つその成功を飛行界のために期待するのである、即ち太平洋飛行がもたらす処の経済的貢献の前に方りて、如何にしても必要なる航空路沿線の詳細なる地理的、気象学的な資料の一切を世界航空界に提供するという重大なる任務を有する点においても、この一小日本人飛行士の飛行が如何に貴重なるものなるかを肯定することが出来るからである

無着陸飛行は以上の意味からいえば、科学上何等貢献する処なく、また航空の進歩を促すも何等役立たぬものであって、単に冒険的企てを以て新聞記事を煽る一時的のものなることを断するのである

北太平洋横断飛行 新知島を出発して愈々大飛行を継続 出発は二十五日の予定 新機体は中旬現場に輸送

国の内外をあげての熱烈なる支援と、満天下の同情のうちに、本社主催日米親善北太平洋横断飛行は、新機体の完成と共に、いよいよ近く魔の空北太平洋翔破の壮途にのぼることとなった−有史以来未曾有の大快挙として、全世界の耳目を聳動せしめ、狂熱的支援のうちに、その壮途にのぼった我が『報知日米号』が不幸壮途半ばにして去月十四日魔の新知湾[しんしる]に遭難するや、本社においては直ちに再挙に着手、爾来逓信省航空局並に三菱航空機会社の援助と指導により、吉原飛行士また自ら新機体組立に全力をあげていたが、いよいよ三日完成、直ちに航空局の耐航検査を受けることになった、同検査は魔の空征服のため万全を期し、四日より一週間にわたって逓信省航空局山田、森、駒林、坂本、斎藤、早川、新井(七)の各航空官、係員立会の下に名古屋港において精密なる検査を実施する予定である、検査終了後は直ちに根室に列車輸送し、同地で組立の上、魔の気象天候への試験として耐寒、耐湿試験を行う、かくて再度にわたる厳密、周到なる試験飛行の上傭船にて新知島に輸送、あらゆる飛行準備を整えて天候見定めの上、二十五日頃同所からこの大飛行を継続、その完成を期することとなった、このため逓信省では根室へは山田、駒林、坂本、早川の各航空官を特派、本社においては千島及びカムチャッカ、アリューシャン方面の気象通信並に飛行機援護のため、傭船数隻を配置し万全を期する準備をなしている


新聞(上)1931年、「濃霧期の飛行援助のため更に傭船して無電の聨絡」
:この紙面は、太平洋横断飛行に出発した吉原清治飛行士が、ユンカース(Junkers)A50『報知日米号』の発動機故障でアリューシャン列島に不時着、救助後の再起をかけた挑戦の話である。「新装鮮かに成った第二報知日米號ー近く名古屋上空で試験飛行」とあり、「名古屋上空に銀翼の雄姿を現し空中飛行試験を行うまでに準備が進み、再挙の日も日1日と迫っている」とある。しかし、肝心のユンカースA.20「第二報知日米號」の写真がない。これは、あまりに小さな軽飛行機で、これで荒れたアリューシャン列島を飛び石渡りにアラスカまで横断するのは無理と感じられたからか。「元気な吉原飛行士」の大きな写真は印象深い 。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.5 (昭和6)引用。


濃霧期の飛行援助のため更に傭船して無電の聨絡

二旬後に迫る出発期の北太平洋は漸く濃霧期の高潮時に入り独特の濃霧は随所に発生襲来する飛行困難時期なので、本社では飛行続行を容易ならしむるため既に各地にある地上勤務員の外に、特に飛行援護船をチャーターし、その任につかしむる手配をしている、援護船はコースに沿うて航行し落石、幌莚[ほろむしろ]加熊別[幌筵島]、ペトロ、ニコルスキー、第百国際丸の無電と聨絡をとりつつ気象、通信その他に当るのである、なお現に各地にあってこの飛行完成につくしている地上勤務員は左の通りであるが、この外にペトロには西川航空官、ダッチハーバー(Dutch Harbor)には田中航空官が滞在第二報知日米号の飛来を待っている、本社の地上勤務員は
▲幌莚島加熊別 松山記者
▲ペトロ 堀内記者
▲ニコルスキー 草野記者
アッツ島(Attu) 杉本記者 ▲アトカ島 福林記者
ダッチハーバー(Dutch Harbor) 木村記者
この外米国には赤沢、清沢、奈良の各特派社員が出張、それぞれ準備をすすめている

新装鮮かに成った第二報知日米号 近く名古屋上空で試験飛行

名古屋支局電話=本社北太平洋横断飛行再挙の準備は目下三菱航空製作所名古屋工場において着々と進められ再挙に使用さるる『第二報知日米号』も、日米両国旗を初め『第二報知日米号』その他の文字もあざやかに書かれて新装をこらし一両日中に名古屋港上空に銀翼の雄姿を現し空中飛行試験を行うまでの準備が進み、再挙の日も日一日と迫っている
[写真(元気な吉原飛行士)あり 省略]

再挙を前にして(一)吉原清治手記 第一回飛行の経過 遭難から救われるまで

北洋の魔空征服の想定のもとに実施された第二『報知日米号』の堪航検査も無事終了したので、私はいよいよ来る二十五日頃、私にとっては最も印象の深い新知島を出発、宿志を遂げるべく再び北太平洋飛行を決行することになりました、相当困難を思わせる今度の飛行出発前に当り満天下御後援御同情の万分の一に応えたい微意から羽田より新知島までの飛行経過を委細報告し、更に一段の努力をもって、今次の飛行計画を実行し皆様の熱烈なる御後援と御同情にむくいたいと存じます

五月四日

飛び起きた、四時だ、ほんのりそまった暁の空、素晴らしい天気だ、待ちに待った出発の日だ、今日こそ飛ぶんだッ−と思うとムズムズする、ゆうべぐっすり寝込んだので、とても頭がはっきりしている、じっとしていられぬ気持ちだ、宿の主人の心尽くしの朝湯につかる、手も足ものびのびしている、体の調子は素敵だ、社から付添って来て下さった皆川さんと神前に額いて成功を祈願し、厳粛なしかも清浄無くな出発の日の気分を作った

五時半、訓練を受けた霞ケ浦航空隊に着く、この早朝にかかわらず、松永副長、千田飛行長、和田水上隊長はじめ三和、中野、内堀、渡辺の各教官並びに幹部の方々が出迎えて下さった、いろいろ有難い激励のお言葉を頂いた、愛機『報知日米号』は隊員によって格納庫から鏡のような湖面に浮かべられた、いつも見なれた機も、今日ばかりは、心なしか格別に晴れ晴れしく見える、食糧品、その他の携帯品を積み、発動機の試運転を行った、すぐエンジンがかかり、気持ちよい爆音は霞ケ浦の湖面を流れる、喜びがこみあげて来る、調整後機から下りて、自分のためにしつらわれた送別式場に臨む、旭光躍る湖面を眺めて杯をあげ、万歳三唱を身に浴びて再び機上の人となった

遼遠なる前途を思い、落ちついた気持、緊張した心意気で、朝の静かな湖面をすべり上った、時に六時二十二分だった、朝霧をついて一路、晴れの出発地羽田飛行場へ−靄に包まれた大東京の朝の姿を右に見下ろして同五十五分出発準備たけなわなる羽田飛行場に着水した

再挙を前にして 吉原清治手記 第一回飛行の経過 遭難から救われるまで(四)

五月六日

前夜来低下の傾向を示していた気圧は、果然、今朝に至って、七五六ミリとなった、五時から紗那、武魯頓、加熊別の天候通報を、毎時接受したが、何れも同様気圧の低下を報ず、殊に前夜樺太沖にあった七五六ミリの低気圧は今朝に至ってきょうしょう破すべき択捉島沖に進んで、七五四ミリに低下、中部千島一帯、わが行手をさえぎってしまった、なかなか頑強な低気圧らしい

だが武魯頓までなら正午までに根室を出発すれば大丈夫だ、そう思いながら刻々来る各地の天候通報を前に、山田航空官、根室測候所鈴見所長等と協議した、しかし、駄目だった、各地とも飛行不適の通信だ、じりじりする心をおさえ、大事をとって十一時半きょうの出発を見合せることにした、如何にも残念だが、天候には勝てない、この低気圧を行き過ごして明朝出発に決意す

午後無電局を訪れた、片平局長の熱心なる御活動に心から感謝する、局長から千島方面の気象の実状、経験談も聞いた、自分にとってはいい参考であった、辞去して後、無電局裏手の山でピストルの発射練習をやった、はじめて打つピストルの音、はじめはなかなか見当がつかなかったが、三発、五発と打つうちに手加減がわかった、その夜は山田、早川氏等とコースについての打合せをした

午後八時半、中央気象台からの気象通報によれば根室沖、網走沖、新知島には何れも示度七五六の低気圧があり、更にウラジオ、朝鮮北部、支那東海にも同様低気圧の中心がある、何れも東進しているという、この低気圧と低気圧の間を飛ぶより仕方ないと思い、七日はどうしても武魯頓、若し都合よくば加熊別まで飛ぶ決意で寝につく

東郷元帥の激励 記念すべき首途を前に 吉原飛行士引見

晴れの壮挙続行のために吉原飛行士は、十五日かたい決心を胸にいだき、元気そのものの姿で東京をあとに根室に向った、これより先き午後一時三十分吉原飛行士は野間本社々長令息恒氏、山崎社会部長と共に麹町上六番町の東郷元帥邸を訪問、元帥は黒縮の木綿の単衣に袴を着けた極めて質素な服装で、にこやかな顔で一同を応接間に引見し、ここに海の軍神と北洋の魔空を征服せんとする空の勇士との記念すべき会見が行われた、山崎社会部長から吉原飛行士を紹介し野間氏から『再挙のため吉原氏が東京を去る日に当り御引見下され、社員一同感激しています』旨のお礼を述べた、元帥は皇国の興廃を一挙に決した人とも思われぬ温顔を浮かべ御社の北太平洋横断の壮挙は紙上を通じて知って居ります、この大事業は日本の国威を世界に宣揚する上に最もよい企てであると考える、これを決行する吉原君はその技術は優秀、気象その他については充分研究しているであろうが、何事も注意が肝腎じゃ、大いに心して壮途につかれることを望む、精神一到何事か成らざらんやじゃ、人間が行うことは決心次第で決まるものじゃ、自分の経験によると千島、樺太地方の霧はそれは物凄いものだ、しかし七月末から八九月にかけては割合よい天気が続く、時期は決して遅くはない、健康を保って日本男児のために焦らず細心の注意をして成功することを祈る

と八十六歳の老齢とも思われぬキビキビした激励の言葉があった、これに対し吉原飛行士は壮挙中途にして遭難した顛末から再挙の準備全く出来て近く再び壮途につくまでの経過を話すと『遭難は残念だった、再挙の決心をしたことはうれしい、この上共に充分注意してくれ、必ず成功する』と謹厳な元帥もこの大事業の再挙を非常に喜んでくれた、かくして玄関で記念撮影の後元帥と吉原飛行士はかたいかたい握手をかわし、最後に『閣下には日本のために健康であられることを祈ります』と吉原飛行士が述べると、元帥はにこにこしつつ『有難う、君も身体に気をつけてやってくれ』と、幾度か激励の言葉があって、ここに世界的英雄東郷元帥と吉原飛行士の会見は終って同五十分一同は元帥邸を辞した

遭難から救助まで 第一回飛行の経過(六) 再挙を前にして 吉原清治手記

五月八日

きょうは−と思ったのに依然北西の烈風、港内波高く、千島方面も大同小異、択捉は十四メートルの北西風という荒天である、この日も飛行を断念するの余儀なきに至った『魔の空千島』は言葉の綾でも、文章の修飾辞でもない、今ここに来てしみじみその感あり、宿の窓から空と海を眺めては歎息また歎息、明日は大丈夫−との予報をせめてもの慰めとする、飛行見合せと決した以上は、一日地図と首ッ引きで山田、早川氏等とコースの研究に暮らす、夕刻になってから気圧も上昇し、吹きまくった南西の風もようやく納まった、択捉島も風は北西七メートルに落ちついて来た、午後六時の気象は七六六ミリの高気圧は北海道全部にわたって、明日は天候よしと報ぜられた、明日こそきっと飛ぶ−堅い決心で寝についた

五月九日

思いがけぬ天候にはばまれて四日間も根室に足留していたが、いよいよきょうはお別れだ、根室も、紗那も、珍しく晴れ武魯頓も好天気、風も根室は南西で追風、絶好の飛行日和だ、勇気百倍、七時飛行出発の準備にかかる、何としてもきょうこそは武魯頓まで飛ぶ、固い決心で、ここまで見送りに来られた小池逓信次官、安藤町長等と訣別の杯をあげて機上の人となった、きょうも万余の町民に送られ、岸辺から水上滑走で港外に出た、心は踊る、離水もよく八時三十八分飛び上った、あがれば国後も見える、追風を受けて恨みをのんだ色丹島を右に見て国後水道にかかった、漁船が何ばいも航行しているのが見えた、いい気持ちでこの模様を見ながら択捉島にかかった、この頃からだった、いつも調子のいい発動機がどうも変だ、レバーを開いて廻転の調製をして飛んだ、内保湾の沖合にかかった時、廻転がだんだん落ちて来た、どうも変だ、一七〇〇回転になった、不安になった、この分では到底飛行をつづけることは出来ない、どうかして予備着水場たる紗那まで飛びたいと思ったが駄目らしい、『よしッ、無理するなッ』−心に命じて、内保湾に着水した、十時五分である、村人たちはすぐ駆けつけてくれた、一先ず砂浜に引きあげてもらった、ここで発動機の一部分解をして修理に着手した、出来次第飛行を継続するつもりで取急いだ、昼食もくわずに修理した結果午後二時すべて完了、直ちに試運転を行った、成績は良い、この分なら大丈夫、機体は再び村人たちに助けられて水上に浮かべられた、滑走せんとしたが、北西に開いた湾は波のうねり意外に高く、到底滑走が出来ない、残念ながら飛行を見合せて再び陸揚のやむなきに至った、四時である、内保は三〇戸、二百人ほどの漁村である、雪がまだ山には二尺ほど積っていてなかなか寒い、駅停宿に一夜をあかして天候の回復を待つことにした

両親や妻子の写真に別れを告げて死を覚悟 国際丸の遭難に直面して ペトロにて=堀内特派員手記

同人諸兄、われわれ地上勤務員一行を乗せた第百国際丸の難航−遭難につきましては、さぞかし御心痛なすったことと存じます。万が一助かることはあるまいと覚悟していましたが、天佑により不思議にも命を拾いました。北海の怒濤に悩まされ、九死に一生を得た当時の状況を一行に代って書き送ります。(五月五日ペトロパヴロフスクにて 堀内敬三記)

十八日

夜、浪高く、船首波につっ込みほとんど航行不能、船のスピードを二ノット乃至三ノットに落とす、風浪船首甲板を洗い、杉本君、水漏れのため毛布を甚だしくぬらし寒さにふるう。船のピッチング甚だしく、乗員ほとんど全部酔う。翌朝船長初め食をとるものなし。

二十一日

午前静かなる航海、午後五時頃より天候悪化し始む、バロメーター急速に低下し、低気圧襲来を予報、その中刻々風加わり浪高まる。船はペトロへの最短コースをとり、襟裳岬海岸を距る百八十哩の距離を航行、船の動揺は物すごく、夜に入って山の如き高浪船を間断なく襲い、デッキはほとんど水夫以外は歩み得ず、夜十時半に至り、左甲板は海中に没し、一同柱をかたくつかまざれば立ち得ず、傾斜角度二十度余、船員全部作業困難な中に必死の努力をつづけしも水平を保たず、水夫達の漸次心配するを見て、船になれざる余等、早くも死を覚悟す。  暗黒の中に、デッキを襲う浪白くくだけてすごさ限りなし、船尾にあっては蓄音機その他の品物右方より下へ落ち、更に上部より海水漏れて大騒ぎを演ず。その中、到底水平を保ち得ずと思われた船はうれしくも立ち直る。傾斜時間七分間なりしも、余等には千日の思いなりき。  この時、船長、航海長相談の上安全なる航海をはかり、根室に針路をとり、沿岸航行をしばし続けしも途中方針を変更し、再び再短距離をとるべく、百八十哩程度の距離をとってペトロを目指す。なお船の傾斜中、電信局ではSOSの信号を発すべく、準備を整えたり。

二十二日

午前中、風浪高く、船の進行意の如くならず、午後三時頃、再び低気圧に襲われ二時間ばかり非常な難航、やがて五時頃低気圧去った旨船長より報告あり、更に船長は前夜低気圧の中心に船があった旨を語る。杉本君の寝室の水漏れは既に止みしも、余の寝室は前夜来海水漏れ、余の毛布すっかりぬれ、寒さ身にしむ。

二十六日

朝、雪あり、風浪やや強し、午後に入り浪次第に高まり、低気圧襲来のおそれありと感ず。夕刻六時頃より船のローリング甚だしく、更にピッチングを加う。一同七時頃既に就寝、九時頃、船体は更に前後左右の猛烈なる動揺を来し、一同悩む。この頃余の寝室に盛んに海水浸み込み、寒さに堪え難く余は床に寝んとせしも場所なく、かつ全員酔い、余も立ち続ける勇気なく、やむなく濡れねずみのまま横たわる。床につくも寒さのため毫も眠られず、真夜中に至り船は風浪のため進行困難に陥り、エンジンをとどめ浪にまかす。

二十七日

船は依然苦難にあり、デッキを洗う水流出せず、危険次第に迫るを感ず。午前六時に至り、果然右甲板は海中に没し、傾斜角度三十三度より四十五度(西川氏測定)の間を往来し、時を経るも水平を保ち得ず、余の傍らの丸窓(ガラス)は常に水中にあり、浪のためガラス破られる恐れあり、余は鉄板をかたく閉め、かつ船首にありし杉本、木村その他の地上勤務員と共に援助方を申し出でたるが、水夫達はかえって邪魔になる旨を述べたるをもって、余等は静かに横たわる。

五分、十分、二十分と時は経てども船は依然傾斜し、漸次死地に陥りつつあるを知る、傾斜既に四十分、余は最早沈没を免れざるを察し、万一の際にと用意したる父母妻女及び愛児の写真を取出し、最後の別れを告げんとせしも、トランクは船首ハッチにあり、遺憾ながらとり出し得ず、やむなくぬれ毛布をまといて死を待つ。翌日聞く処によれば、機関長もまた死を覚悟し、衣服をあらため、子供の名を三度び呼んで別れを告げたという。父母に、妻に、子に別れを告げんとしたるもの勤務員のみならず、水夫達もまた同様、当時の悲壮さ、御推察ありたし。しかも嬉しきは流石日本人なり、誰一人騒ぐものなく、従容として死に就かんとせる様、今追懐するも心地よし。船尾における田中、西川、福林、荒井の四氏は、船尾に浸入する水をバケツで汲み出し、非常な努力を払えり。西川氏はエンジンルームにはい上り、天窓をかたくしめんとせしもボルト合わず、あるいは途中より折れ損じ、施す策なし。四氏は全力をあげて努力せしも万策尽き、各自妻子の写真をとり出して別れを告ぐ。

しかるに何たる天佑ぞ。万中一の希望もなき状態において、嬉しや船は水平となる。余等一同余りの事に呆然、喜ぶ暇もなくただ眼を疑うのみ、船傾いてより一時間余…この間米二俵、副食物多数流失、かつ飲料水を失う。 船員は涙ぐましきまでに働きくれたり。されど最後に至っては、何れもあきらめたる様子なりき。船の助かりたるはもとより船員諸氏の努力にまつところ多けれど、これのみにては到底助かり得ず、実に神仏の加護というのみ。
即ち風と浪と更に排水弁が、奇蹟的に開きて水を排出したるによる。右甲板排水弁は従来固く閉じて甲板に水たまるも排出せず、為に漸次水量を増し傾くに至るが、船体の起きる刹那船より流れ出たる大小二塊の石炭が、奇蹟的にも一つの排水弁をこじ開け、排水に便したり。若しこの二塊の石炭が排水弁を開けなかりせば、たとい船が一度は立ち直るとも、また傾く事は必定。風と、浪と、排水弁の三作用が同一瞬間に起りしは、実に奇蹟というべく、一老水夫は、水夫生活三十年中、いまだかくの如き危難に会いたる事なしといえり。 翌朝余等は一同手をとり合って無事を祝福したり。されど余と杉本君は、ぬれ毛布にくるまりしため、痔痛を起し、草野君は船体の傾斜中左腕をもって身体を支えたるため、腕甚だ痛みたり。但し草野君はペトロ出発当時、既に腕の痛みとれ、余の痔痛はほとんど癒え今僅かの痛みに過ぎず。

横断飛行の第三コースアラスカのいろいろ 世界一の氷河や世界的の高山到るところに美しい大森林

吉原飛行士によって征空されるべき北米のアラスカは、一八六七年七百二十万弗の代価でアメリカ政府が露国から買った土地である、その代価の支払方法は、アメリカ政府がアラスカから取得した金鉱、毛皮、魚類、石炭、木材、パルプ等の価格により、数次にわたって支払われたものである。アラスカは五十九万余方哩の広大な面積を有しているが、人口は僅かに五万五千であって、これを日本の面積十四万八千七百余方哩、人口六千五百万に比較して見ると、その大きさと人口の度合がはっきりわかる。

この広大な領土に鉄道が三本敷設されて居る

一、スカグウェイからユーコン河へ至るもの
これは主としてユーコン河の砂金採取の目的で建設されたもので、一八九七年から開通している。太平洋岸からユーコンの流域へ旅客や貨物を輸送するために利用されているが、この鉄道敷設以前においては、アラスカ東部海岸からユーコン流域地にはいるには、どうしても非常な危険と困難をおかして、有名な白馬嶺の険を越えねばならなかったのであった。

二、セワードからバンクロフトに至るものこれは米国政府によって建設されたもので、全長五百二哩あり、完成したのが一九二三年である。この鉄道はマッキンレー山に沿って走り、壮大と風光明びとをもって鳴っているいわゆるマッキンレー国立公園を縦断している訳である。マッキンレー山は北米大陸中最高の山で二万三百フィートある、この鉄道の主目的は、米国政府がその海軍に使用する石炭をアラスカ内地からセワードへ運搬するにある。この鉄道の終点であるバンクロフトには、アラスカ中央飛行場があって、合衆国、アラスカ間の定期航空路の終点となっている。

三、コルドバーからコシネコット銅山に至るもの
これは銅採掘のために敷設されたもので、製銅会社の私設線である。全長一九六マイル

[写真(雪のペトロパヴロフスク)あり 省略]
アラスカの名物の第一は、何といっても氷河である。その内でもタク、ミューア、ベーリング、ダビッドソン等の氷河が最も壮大で、タクの大氷河は欧洲でも見られないほどのものであり、またマラスピナの氷河は世界一の称がある。このアラスカの氷河地帯は、吉原飛行士がやがて通過するコースであって、空中からこの雄大な光景を眺めると相当飛行士の心胆を寒からしめるに違いない。

アラスカ、カドヴァ附近の氷河

アラスカにはマッキンレー山のほか、セイント・エリアス山やウランゲル山等、世界的高山があって、いずれも一万七千呎以上である。地の利の関係上、欧洲の神嶺アルプスほど喧伝はされていないが、四時雪を頂いてき然としてそそり立つ姿は、旅行者の眼を楽しますに充分である。

北極圏は丁度アラスカの中央部を画している。それほどアラスカは地球の北端近く位しているので、夏期はほとんど一日中太陽がかがやき、真夜中に一二時間暗黒になるだけである。だから真夏は実に気候がよくて、スカグウェイ附近一帯は六〇度乃至七〇度の温帯地方の気温である。こんな具合に夏は日中が永いから、果物や野菜がよく成長し、アラスカの馬鈴薯やイチゴは定評がある。アラスカの土地は地下二三尺下は一年中氷結していて、これ等の野菜類は初夏になって雪解けの上皮の柔かい土で育てられるのである。

また アラスカは樹木がよく成長し、世界に送り出されたアラスカの写真には、この森林がオミットされているものはない筈である。どこへ行っても山という山、谷という谷は、すべて美しいそう林が見られる。そしてパルプ材の森林が数十万方哩にわたって密生し、米国の素晴らしいジャーナリズムの発展に対して、無尽の資源を提供している。これ等木材の多量の供給と、発電用水力の利用のために、サンフランシスコ及びロスアンゼルスの大カメロン・チャンドラー新聞用紙製造会社は、ジュノー附近一帯の地を米国政府から借受け、数百万金を投じて発電所及び製紙工場を設立する計画を進めている。またクラウン・ワイラメット・チェラーバック製紙会社も、ケチカン附近一帯の地を同じく米国政府から借受け、二年前からそこへ一隊の技師を派遣して、製紙業並びに水力利用の実地踏査をせしめている。

アメリカ本国とアラスカをむすぶ交通路は飛行機によるかまたは船によるかである。初夏になってアラスカの沢山の川へマスを取りに行く猟師、ユーコン河に砂金採取に行く労働者、炭坑夫、その外アラスカ政庁の役人等、毎年初夏になって北へ動く米国の労働者は、皆海路によるのである。シヤアトルからアラスカのスカグウェイに至るいわゆる『インサイド・パッセージ』は世界における屈指の美景と賞讃されている。カナダからアラスカにかけて西海岸は一帯に大小無数の島が散在している。この内海をシヤアトルからスカグウェイまでなめらなか波の上をえんえん一千哩も航海を続けるのである。

沿岸は雪を頂いた山々、壮大な氷河、緑におおわれた原野等、次々に美しいパノラマが展開する。そして岸には美しい百花が咲きみだれているし、また諸所に美しい雄大な滝がかかっている。この美しいそして長い海上の公園とを、やがて吉原飛行士は銀線を描きつつアラスカからカナダへ、カナダからアメリカへと重い使命を帯びて南下するのである。 この外南部アラスカの名物に、カトマイ島(若くはコディアック島)の『煙の谿』(Valley of Ten Thausand Smokes)という、世界に有名な名所がある。またカトマイ火山の噴火は、世界史上にもまれな大噴火山の一である。アラスカ名物の中でインデアン種族は数え落とされないものである。

サケの鑵詰工場は現在のところアラスカ唯一の大事業で、その製造高は毎年世界に冠絶し、アラスカのサケ鑵詰は、世界中いたるところで供給されている。最近に至って馴鹿の肉の生産という新しい産業も生れて来た。この馴鹿はもと僅かに数百頭を、ロシアから買ってアラスカに放牧したものであったが、これが今日驚くべき速度で繁殖した。その肉は大部分天然氷庫の中に貯蔵されて、漸次アメリカに輸送され、ホテルやレストランや、一般家庭の台所に落着く訳である。 以上は大体今回本社吉原飛行士が、日米親善北太平洋横断飛行のコースとして選定した地域の概略の情勢である。ダッチハーバーは今回の飛行計画上にも、重要な地点として選定されたものであるが、政治上、経済上にも太平洋とベーリング海を聨繋する一要港として重要な街である。またアザラシの捕獲の中心地でもある。

吉原飛行士の壮途安全を祈願 けさ明治神宮へ

更生の意気に燃える吉原飛行士がかがやく第二『報知日米号』によって再挙を決行する日は旬日の後に迫り、吉原飛行士は十五日午後二時三十分上野駅を出発根室に向うことになったので、同日午前九時吉原飛行士、本社員並びに講談社々員、少年社員三百余名は明治神宮に参拝し壮図達成の祈願をこめた、この日、午前八時過ぎ神宮橋前には元気一ぱいの吉原飛行士、本社長代理として令息恒氏、寺田副社長、久間、三木両重役を初め本社員、講談社員続々として押し寄せ、午前九時吉原飛行士を先頭に一同三百余名は神宮社殿前に至り潔斎した後、拝殿において飯田禰宜他三名の神官の先導によりおごそかに壮図達成の祈願式が行われ一同感激の裡に大飛行の完成を心をこめて祈った、式が終って吉原飛行士は神酒をいただき一同と共に退出した

通信聨絡と援護のためさらに二汽船を傭入る

北太平洋横断大飛行の継続飛行決行の日は今や目しょうの間に迫り、諸準備また着々成りつつあるが、今回の飛行は気象の関係その他から第一次飛行の時より更に更に慎重なるを要し本社はあらゆる犠牲をも顧みず万全を期している、殊に地上任務については寸分の隙もなき注意を払い、先の第百国際丸と同様通信聨絡に当る船舶二隻を新に傭い入れ、これをコース上に配備して気象通報その他重要任務につかしむることとした、かくて目下ダッチハーバーにある第百国際丸と今回新に雇い入れた第二高運丸、久美愛丸のトリオによって北太平洋横断飛行はいよいよその成功の確実性を深めることとなった

新聞(右)1931年、「重要任務に就く第二高運丸 無上の光栄…入江船長語る」:この紙面では、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機『報知日米号』による太平洋横断飛行を支援する第二高運丸(総トン数606トン)が「久美愛丸と聨絡して飛行の便を計る事となっているが、更に飛行機の出発後はペトロ方面に出動し、海上の警戒と通信聨絡に当る」重要任務に就くことを報じている。
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-010)、報知新聞 1931.3.20-1931.4.5 (昭和6)引用。


重要任務に就く第二高運丸 無上の光栄…入江船長語る

第二高運丸は函館市船場町三好商会の所有船で総トン数六〇六トン(重量トン数七一〇トン)優秀なる無電を有する鋼鉄製旅客船で十八、九日頃根室に入港する予定であるが、同地において第二『報知日米号』が試験飛行を終るや二十四日頃第二『報知日米号』及び吉原飛行士を載せて根室を出帆し新知島に至り出発地点の重要任務に従事し、久美愛丸と聨絡して飛行の便を計る事となっているが、更に飛行機の出発後はペトロ方面に出動し、海上の警戒と通信聨絡に当る筈である。函館入港の際船長入江伊太郎氏(五四)は全く無上の光栄ですと喜びながら左の如く語った

 私は北洋方面の航海に従事してから約二十年になり航海数も忘れる位で約六十回以上になります、千島一帯は何時通ってもガスばかりで難航を続けました、吉原飛行士もさぞガスのために悩まされた事でしょう、全く自分の身に経験があるのでこれからの飛行も非常に困難だろうと同情します、しかし空の英雄だけに必ず成功される事を疑いません、太平洋横断も各国飛行家が色々計画を発表しているようですが是が非でも日本人である吉原飛行士に第一着に成功してもらいたいと念じています、私共はあらゆる困難に打勝ちこの大任を果し報知新聞社並に吉原飛行士のため、あらゆる努力を惜しまない覚悟です

第二高運丸乗組員

▲船長入江伊太郎▲一等運転士湊直作▲二等運転士時田康一▲無電局長小島栄吉▲機関長菅原繁▲一等機関士辻崎久四郎▲水夫長上野作太郎▲水夫岡本作治▲舵夫鶴賀勉、金田哲一、仲嶺惣光▲油差梅田芳信、奥田久三郎▲火夫加治彦次、望川金治、都命権、折戸和一▲料理人市川市太郎、野崎重太郎▲給仕加藤清造

コースに沿い移動聨絡 久美愛丸の任務

久美愛丸は直江津商船株式会社の所有船で総トン数九九〇トン(重量トン数一、七〇〇トン)の鋼鉄貨物船で、これまた優秀なる無電をそなえている、目下はカムチャッカで漁業に従事中であるが二十一日小樽に入港、直ちに千島へ出動し捨子古丹島に急航して通信聨絡並びに海上の任務に従事し、更に飛行機の進行に伴ないカムチャッカからアリューシャン方面に移動してアッツ島に至る事となっている、船長は高畠喜一氏で、これまた北洋の航海には非常に熟練した人である

以上は、新聞記事文庫 航空(2-014) 報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)引用。


3.1928年ユンカース(Junkers)W33「ブレーメン」Bremenの大西洋横断飛行

写真(右)1928年4月13日,ドイツ、大西洋横断無着陸飛行に成功したドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”(登録コード:D 1167)搭乗員のヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld):ドイツ人搭乗員2人しか映っていないが、実際に太平洋を横断した飛行には、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)も搭乗していた。
Beschreibung: Die Flugpioniere Hermann Köhl und Ehrenfried Günther Freiherr von Hünefeld mit dem Flugzeug "Bremen D 1167" vom Typ Junkers W 33 vor ihrem Transatlantikflug Zusatzinformation : Der 36-stündige Flug erfolgte gemeinsam mit dem irischen Kopiloten James Fitzmaurice am 12.04.1928 von Baldonnel, Irland nach Greenly Island auf Neufundland. Der Weiterflug nach New York war aufgrund eines Motorschadens nicht möglich. Positiv (Papier, 14,2 x 9 cm, schwarzweiß)
写真はDeutsche Fotothek,Deutsche Fotothek・Aufn.-Nr.: df_pos-2009-a_0004636 引用。


ユンカースW.33輸送機「ブレーメン」”Bremen”は、アイルランドのバルドネルを出発し、大西洋を西に向かって飛行し、カナダのグリー二ー島(51.38度、N 57.19度)まで、飛行することに成功した。これは、世界初の、大西洋の東から西への横断飛行である。こので、現在、復元された機体が、ドイツのブレーメン空港に展示されている。

ユンカース(Junkers)W 33 (Junkers)W 33輸送機の諸元
発動機(Triebwerk): Junkers L 5
出力(Leistung:kW): 228 kW
初飛行(Baujahr): 1926年
全幅(Spannweite): 17,75 m
全長(Länge): 10,50 m
全高(Höhe): 2,90 m
翌面積(Flügelfläche): 43,00 qm(平方メートル)
総重量(Startmasse): 2100 kg
最高速力(Höchstgeschwindigkeit): 197 km/h
搭乗員(Besatzung): 2名

アメリカのチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh:1928‐1974)は、1927年5月20日、スピリットオブセントルイス(ライアンNYP)を操縦し、アメリカのニューヨークを離陸し、5月21日、フランスのパリに着陸し、大都市間の大西洋単独無着陸飛行に成功した。彼が、大西洋を西から東に飛行したのは、地球の自転、偏西風の影響で、飛行にはプラスに作用するからである。他方、東から西ヘの大西洋横断は、遥かに困難が多かった。これに挑んだのが、ドイツのユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」Bremenで、1928年4月18日に、アイルランドからカナダまで無着陸飛行に成功した。

ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」Bremen(登録コード:D 1167)は、ノンストップでヨーロッパ大陸からアメリカ大陸に東から西への大西洋横断飛行(Transatlantic flight)を成功させた初めての飛行機である。この時のユンカース(Junkers)W.33搭乗員は、ドイツ人ヘルマン・コール(Hermann Koehl)、エレンフリート・キュンター・フォン・ヒューネフェルト(Ehrenfried Guenther von Huenefeld)、アイルランド人ジェイムス・フィッツモーリス(James Fitzmaurice)で1928年4月12日にアイルランド、ダブリン郊外のバルドネル(Baldonnel)飛行場を飛び立ち、36時間半かけて大西洋を横断し、翌日、カナダ、ニューファウンドランド島沖のグリンリー(Greenly)島に着陸した。

写真(右)1929年、ドイツ、ドレスデン、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「ブレーメン」 ”Bremen”:1928年、大西洋を横断した。
ユンカースJunkers W 33は1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。
Description: Hausschild, Alfred Bräter, Edmund, Technikgeschichte | Grundlagen der Technik, Wissenschaft und Kultur | Technische Denkmale | Verkehrswesen | Verkehrsmittel | Junkers-Verkehrsflugzeug W33 Bremen, Stübelallee, Stübelplatz Dresden, Ausstellungspalast Geschaffen (von wem): Hausschild, Alfred; Bräter, Edmund Geschaffen (wann): 1894
Fotothek, Detail: Junkers-Verkehrsflugzeug W 33 "Bremen" (einmotoriger Tiefdecker) nach dem Transatlantikflug mit ... am 12./13. April 1928, 1929
写真はNational Archives of The Netherlands:SLUB / Deutsche Fotothek・Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0006671 引用。


前年1927年5月20日に大西洋を西から東に、ニューヨーク〜パリ単独無着陸飛行をアメリカ人にチャールズ・オーガスタス・リンドバーグCharles Lindbergh:1902年2月4日 - 1974年8月26日)がライアンNYP-1「スピリット・オブ・セントルイス」で成功させているが、1928年4月12日、ユンカース(Junkers)W.33「ブレーメン」Bremenの行った東から西への大西洋横断は偏西風の影響で遥かに困難である。

⇒写真集Album:ユンカース(junkers)W33「ブレーメン」"Bremen"の大西洋横断飛行を詳しく見る。

写真(右)1928年、大西洋を横断したユンカース(Junkers)W.33輸送機「空の女王」 ”Queen of the Air”:1927年にチャールズ・リンドバーグが飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功すると、メイベル・ボル(Mabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪夫人で、大西洋横断飛行をした最初の女性を目指したが、1928年6月17日アメリア・イアハートは女性初の大西洋横断飛行を成し遂げた。しかし、1928年中に、メイベル・ボルは、チャールズ・レヴァインの購入したユンカースW33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てた。しかし、計画は実現せず、終わった。ただし、この機体は、1931年にポルトガルのリスボンから大西洋横断飛行に出発し、途中で不時着水している。
Junkers, W.33 Catalog #: 01_00081555 Title: Junkers, W.33 Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: W.33 Tags: Junkers, W.33
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): Catalog #: 01_00081555引用。


1927年にチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)が飛行機で大西洋無着陸横断飛行に成功すると、メイベル・ボル(Mabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪夫人で、大西洋横断飛行をした最初の女性を目指したが実現せず、1928年6月17日アメリア・イアハートは女性初の大西洋横断飛行を成し遂げた。しかし、1928年中に、メイベル・ボル(Mabel Boll)は、チャールズ・レヴァインの購入したユンカース(Junkers)W.33「クィーンオブエア」に同乗して、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てた。

アメリカ婦人メイベル・ボルMabel Boll:1895-1949)は、アメリカの富豪夫人で、大西洋横断飛行を成功させようとした。1928年中に、メイベル・ボルは、チャールズ・レヴァインの購入したユンカース(Junkers)W.33単発輸送機「空の女王」 ”Queen of the Air”を使って、ロンドンから大西洋を横断する計画を立てたのである。しかし、大西洋横断の計画は実現できなかった。実際に女性初の大西洋無着陸横断飛行は、1928年6月17日、アメリカ婦人アメリア・イアハートAmelia Earhart:1897-1937)の搭乗した三発輸送機フォッカー (Fokker)F.VII「フレンドシップ」によるものである。その後、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「空の女王」 ”Queen of the Air”は、1931年にポルトガルのリスボンから大西洋横断飛行に出発しているが、途中で不時着水している。


4.ユンカース(Junkers)W33輸送機「報知日米親善号」の第3回太平洋横断飛行挑戦

写真(右)2011年、青森県三沢基地で展示中の初の太平洋横断機のベランカ(Bellanca)CH-400 スカイロケットSkyrocket「ミス・ビードル」Miss Veedol (replica):1931年10月4日早朝、青森県三沢村の淋代海岸に杉板を敷きつめてつくられた特設飛行場から離陸したミス・ビードルは、北太平洋を横断して、アメリカ、ウェナッチ市まで7982kmを41時間13分で飛行することに成功した。
Toshi Aoki - JP Spotters Location Misawa (MSJ / RJSM), Japan Aircraft type Bellanca CH-400 Skyrocket (replica) Operator Pangborn World Flight Company / Tydol Registration NR796W Type Photograph Description English: 80th anniversary first to fly non-stop across the Pacific Ocean. Miss Veedol Japan tour 2011. "Misawa Air Fest 2011" Date 4 September 2011
写真はeuropiana collections,Airliners Bellanca CH-400 Skyrocket (replica) - Pangborn World Flight Company / あるいはWikimedia Commons, Category:Miss Veedol File:Bellanca CH-400 Skyrocket (replica), Pangborn World Flight Company - Tydol AN1983554.jpg引用。


初の太平洋横断無着陸飛行に成功したベランカ(Bellanca)J-300「ミス・ビードル」Miss Veedolは、全幅14.8m、全長8.5m、発動機はにブラッド&ホイットニ「ワスプ」425馬力エンジン1基装備で、機内食として、サンドイッチ、鶏の揚げ物、りんご「紅玉」20個を搭載したという。1931年10月4日、青森県三沢市淋代海岸を発進したベランカ(Bellanca)「ミス・ビードル」Miss Veedolは、北アメリカ大陸アメリカ、ワシントン州ウェナッチ市まで、7982kmを41時間13分かけて飛行し、初の太平洋無着陸横断を成功させている。

⇒写真集Album:ベランカ(Bellanca)CH-400「ミス・ビートル」(Miss Veedol)の太平洋横断初飛行を詳しく見る。

写真(右)1932年、日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB):1932年(昭和7年)9月24日、青森県三沢市の淋代海岸を飛び立って、太平洋を無着陸横断飛行をしてアメリカ大陸北岸の到着を目指した。搭乗者は、海軍兵学校出身の本間清中佐を機長に、馬場英一郎操縦士,井下知義通信士の3名である。機首は、光の反射を避けるために、黒色で塗装されている。機体後方には客室の窓があるが、長距離飛行用の燃料タンクや食糧・飲料水も搭載されたはずである。
写真は,Уголок неба - Большая авиационная энциклопедия Index of /image/idop/cw1/w33引用。


ユンカースJunkers W 33は、試作機が1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。

1932年(昭和7年)9月24日、本間清海軍中佐を機長に馬場英一操縦士、井上智義機関士の3名の搭乗する日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)は、羽田を出発し青森県三沢市の淋代海岸に着陸し燃料を補給した。青森県三沢市の淋代海岸は、前年1931年に周辺住民が杉板を敷いて飛行場を建設し、10月4日、アメリカ人クライド・パングボーン(Clyde Edward Pangborn)、ヒュー・ハーンドンの2人が搭乗したベランカ(Bellanca)J-300「ミス・ビードル」Miss Veedolが太平洋横断飛行に飛び立った海岸である。

1932年(昭和7年)9月24日、午前5時37分、機長本間清海軍中佐、馬場英一操縦士、井上智義機関士の3名が搭乗するユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)は、青森県三沢市淋代海岸を離陸して、アメリカの本土を目指して、太平洋横断無着陸飛行に発進した。

ユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の発動機は、ユンカースL5液冷エンジン(310馬力)で、燃料満タンで全重量4.5トンで、離陸速度160kmだった。午前11時過ぎ「エトロフ島南方を通過」の無線が入ったあと、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」は消息を絶った。それから捜索が行われたが機体は見つからないままだった。帝国飛行協会は、1932年12月、「横断飛行断念」の声明を出した。

1932年9月10日に羽田飛行場において、報知新聞社が購入したユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の太平洋横断飛行出発式が開催された。この時は、帝国飛行協会のユンカースW33「オイローパ」EUROPA(登録記号:J-BAWG)も参加している。それから2週間後の1932年9月24日に、ユンカースW33「第三報知日米号」(登録記号:J-BFUB)は、淋代を出発したが、千島列島付近で行方不明となった。

第1回目の太平洋横断の試みが、吉原清治飛行士のユンカース(Junkers)A50水上機によるものだった。1930年8月30日、吉原清治操縦は、ベルリン〜東京間11404kmを79時間58分で飛行、1931年5月14日にユンカース(Junkers)A50水上機「日米号」で、太平洋横断飛行をめざして羽田を出発したが、失敗した。1931年、吉原清治は、報知新聞社主催の飛行機による北太平洋横断飛行に、5月14日と7月5日に挑んだが、いずれも失敗した。そして、1932年5月、飛行艇での北太平洋逆横断飛行に挑んだが、アメリカのオークランドで試験飛行中、高波により機体が大破、機関士とともに負傷し飛行を断念した。
写真は神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(2-014) 報知新聞 1931.5.5-1931.6.16 (昭和6)参照。

1932年9月24日、「ミス・ビードル」に遅れること1年後、日本人として太平洋横断飛行を成功させようと報知新聞社が導入したユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)が発進した。しかし、北太平洋の悪天候に阻まれ3飛行士とともに遭難した。

1927年、アメリカ人リンドバーグは、ニューヨークからパリまで、5800kmの大西洋無着陸横断飛行に成功した。その4年後、1931年、アメリカ人2人の搭乗する機体が、青森県三沢市の淋代海岸を離陸し、空気抵抗減少のために車輪を投下し、41時間後に、8000km彼方のアメリカ・ワシントン州ウエナッチに胴体着陸した。これが世界初の太平洋無着陸横断飛行である。

日本も全国紙の報知新聞社が飛行機を輸入して、太平洋横断無着陸飛行の計画を立てた。1932年9月24日、本間機長以下のユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)が3回目の挑戦をした。しかし、エトロフ島近郊での連絡を最後に消息を絶ち、行方不明となった。その後、太平洋横断飛行の挑戦者を追悼する報知日米号搭乗員慰霊之碑が、1962年、本間機長の海軍兵学校同期生らによって青森県三沢市「三沢市招和台公園」に建てられた。

報知日米号搭乗員慰霊之碑
本間 清:機長、新潟県佐渡郡河原田町(現佐和田町)出身、享年45歳
馬場英一郎:操縦士、滋賀県坂田郡春照(すいじょう)村(現伊吹町)出身、享年28歳

井下 知義:通信士、島根県邑智群川越村(現桜江町)出身、享年32歳

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)W.33 報知日米号を見る。

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)G-24輸送機を見る。

⇒写真集Album:ユンカース(Junker)G-31輸送機を見る。

⇒写真集Album:ユンカース(junkers)Ju 52 輸送機を見る。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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