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◆開戦前夜の東京湾における触雷:菊池金雄氏 ◇Neval Mine Accident in 1941/12/07


写真(左):雷撃により沈没した戦艦ウェスト・ヴァージニア;カゴ型マスト、中部の煙突は残っているが、甲板近くまで船体は沈んでいる。 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真(右):左から戦艦ウェスト・バージニア(West Virginia),大破した戦艦テネシーU.S.S. (Tennessee),沈没した戦艦アリゾナ(Arizona)Title: Stricken from the air. Testifying to the extent of the Japanese sneak attacks are these three stricken U.S. battleships. Left to right: U.S.S. West Virginia, severely damaged; U.S.S. Tennessee, damaged; and U.S.S. Arizona, sunk Date Created/Published: 1941 Dec. Medium: 1 negative ; 4 x 5 inches or smaller. Reproduction Number: LC-USW33-038539-ZC (b&w film neg.) Rights Advisory: No known restrictions on images made by the U.S. government; images copied from other sources may be restricted. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Call Number: LC-USW33- 038539-ZC [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print

開戦前夜の東京湾における触雷〜SOS事件追跡資料
  http://www.geocities.jp/kaneojp/03/03311.html引用

平成二十一年十一月三十日 菊池 金雄

I 東京湾周辺の機雷敷設情報
出典:海面防備(対潜・対機雷)関係者回想所見集「横須賀防備隊機雷長林幸市大佐手記」 昭和十六年十月初旬

久里浜東方海面 敷設地点の水深対応の結止機雷敷設
  敷設艇  夏島 

浦賀港東方海面  防潜網設置  敷設艇  曳船 通船

島ヶ崎東方海面  九二式機雷敷設 防備隊全艦艇で敷設

九二式機雷の要目


この機雷は陸上管制の 聴音機雷で、炸薬量は五〇〇トンの大型のものを、六個連結一群連を陸上でキーを押すと六個同時に三〇〇〇トンの爆薬が爆発する方式であった。

出入船舶の響導・監視

この防備作業完了と同時に防備艦艇は出入船舶の響導・監視に専従した。

本危険海域に突入した船は次の小型商船一隻だけであった。

この商船は静岡方面から入港したもので、これらの危険区域について何も知らされていなかったため、夜間、 防潜網設置海域に入り、推進器に防潜網がからみ動けなくなり、付近艦艇がこのからみを解いたが、幸い機雷爆発に至らず無事離脱することができた。

十二月八日 日米開戦と同時に、 剣崎・洲崎の 防備衛所は、 敵潜潜入に備えて活動開始。 水中聴音機の聴知成果は 鳥ケ崎指揮所への速報体制を確立した。

補足 : 防御海面内での 電波輻射は十二月六日付「横須賀鎮守府防御海面船舶航行取締規則」により禁止されていたようである。



II 当時の対船舶電波管制

(1) 銚子無線局

昭和15年7月: 電報の発信制限(重要通信以外一般電報は発信禁止)された。

昭和16年8月 内国無線電報検閲局に指定され、 横須賀海軍鎮守府から 検閲将校が常駐。このころから電波管制が実施された。

1944年: 昭和19年5月 潜水艦情報、防空警報を1日3回,長,中波で同時放送

出典;  船舶無線の歴史(http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse057.html)

(2)長崎無線局

O氏の証言

昭和19年1月、私が、 長崎無線局に官立無線電信講習所実習生として勤務していた時には、 佐世保鎮守府から派遣された通信関係の海軍特務中尉が監督武官として駐在、業務を監視していた。

(3)潮岬無線局

S氏の証言

O氏と同じ頃、 潮岬海岸局で実習生として勤務したが、海軍派遣武官の 特務中尉が紺の制服で日勤していた。

 開戦前夜の SOS事件についての考察

1)当時各無線局(海岸局)には最寄鎮守府から無線通信検閲将校が常駐して、軍の機密にかかわる無線情報は厳重に監視され、当該、触雷SOSは高度の秘匿案件のため、ただちに封印されたため、各無線局とも本件遭難通信に介入しなかったものと思料される。

2)Iの危険海域に突入した小型商船は防潜網が推進器に絡み動けないため、推測ではあるが、救助要請のSOS発信の可能性は否定できない。しかし、Iの補足にある電波規制のため救援艦艇から電波発射を封印されたものとも考えられる。

3)触雷したか否かの点は、前記SOSでは触雷と報じたので更なる検証を望みたい。


菊池金雄氏が体験したSOS事件、すなわち開戦日に、 商船 触雷し、SOS信号を出した事件で、その船名が明かされないまま、黙殺されているとしたら、その理由は何か、鳥飼研究室では、次のように考えてみた。

1.開戦当初の日本海軍の最重要案件は、 ハワイ攻撃の秘匿であって、機雷による日本あるいは外国の 商船爆破、その後の 救助活動は、その障害になる可能性があった。これは、 アメリカ海軍 イギリス海軍にとって、日本軍の機雷など兵器の使用、触雷に注意をそらしての奇襲、開戦にあたっての先制攻撃の前触れなど、憶測を呼ぶ可能性があったからである。商船1隻のために、 開戦日にハワイ奇襲を危うくすることはあり得なかったという憶測である。

 2.ハワイ奇襲、 マレー半島侵攻など先制攻撃の作戦を発動し終わっている以上、 遭難した商船の通報などに事前に対処しない、黙殺すると決めていた可能性である。アメリカ、イギリスに開戦企図を知られるのは避けなければならず、 海難事故によって、外国の注意が日本近海に向くことを避けたかったのかもしれない。
3.アメリカ海軍、イギリス海軍の 潜水艦が、日本本土近海を 哨戒偵察していると考え、それに対して無線封鎖によって対抗しようとして、SOSであっても無視する対応を決めていたとも考えられる。暗号によらない無線通信、特に民間通信には救難などの措置も、敵潜水艦にとって、 機雷敷設海面などの情報提供になる可能性が高く、黙殺する方針があったのかもしれない。

◆太平洋戦争開戦時のSOS信号、機雷敷設に関連する情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。⇒判明した真相は以下に記載しました。ご協力ありがとうございます。

◆電気通信大学同窓会社団法人目黒会CHOFU Network」のvol.25-1 members' voiceにおいて「開戦前夜東京湾口での触雷事件」の真相が公表された。これは、自分史「硝煙の海」のホームページを開設されている菊池金雄氏(昭和14年11月特科)が全国に問い合わせ、五十嵐温彦氏(戦没船事績調査研究家)からのご指摘を得て作成した、次の記事で明らかにされている。

 この話は半世紀前、太平洋戦争開戦前夜の奇妙な事件であった。それは、日本の貨物船(船名失念)が昭和16年12月7日の深夜東京湾の入り口で触雷したため、国際遭難電波である500キロサイクルでSOSを発信したことである。

 誰も翌日に開戦することなど感知するはずもなく全く不思議なSOSであり、普通なら最寄り海岸局や付近船舶が救助のための情報交換通信が殺到するのであるが、なぜか後続情報がなく尻切れトンボになった。当時、私が乗っていた恵昭丸(大同海運貨物船5800総トン)は横須賀鎮守府所属徴用船で、南洋委任統治の島々にドラム缶入り航空ガソリンの輸送任務を終え横須賀軍港に向け帰航中であった。本船内でも一体日本海軍はどうなっているのか、と不信の声がでた。

 翌8日朝、開戦のラジオニュースがあり、本船が横須賀に入港しようとしたら、海軍の内火艇が航路を先導したことは、前夜のうちに機雷による防潜柵が敷設されたものと推測された。

 思うに、このSOS電波は米国など外局の無線局でもキャッチされた可能性があり、機密保持上からも遺憾な事件ではなかったろうかと、鮮明に当時のことが想起される。

このことについては自分史「硝煙の海」のホームページ(http://www.geocities.jp/kaneojp/)第一部の恵昭丸の章で触れているので、どこからか同SOSをキャッチした情報を期待していたがいまだ何らの関連通報も得られないので、先般JCS(銚子海岸局)と、JGC(横浜港務部無線局)の当事のOBの方に問い合わせたところ、JCSにはそのころ海軍の情報将校が派遣されており、この種機密に属する無線情報はただちに封印されたためかこのSOSに関し耳にしたことが無いこと。またJGCのOBの方は、たまたま12月8日の朝、通信当直の引継ぎを受けたが本件のことは引継ぎ事項に含まれていなかったとのことであった。

◆太平洋戦争開戦時のSOS信号・機雷敷設に関して、菊池金雄氏自らが真相を探索され、次のように結論を述べられている。(2013年12月10日website本記載)

  触雷船の船名判明

                    情報提供者:五十嵐温彦氏(戦没船事績調査研究家)

 出展;横須賀鎮守府戦時日誌
横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長あて通信文
 船名 共同丸C油槽船  船主 鍵冨正作

 該船は昭和16年(1941年)12月7日2320(23時20分) 観音崎灯台162度 3.5浬(マイル)に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。

補足情報
 この共同丸は昭和19年(1944年)10月25日スルー海昭豊丸が米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に驚愕するとともに、往時を彷彿させられる・・・とにかく共同丸に移乗・・・すぐ入浴、同時に衣類を水洗いして、私は無線局長室で休息させていただいた恩義が去来するばかりである。

  共同丸はその後マニラ経由で昭和20年(1945年)1月6日リンガエン湾において、アメリカ第38任務部隊Fast Carrier Task Force:高速空母機動部隊)搭載機の爆撃を受けて沈没し船員10名が死亡.とのことで、切に戦没者のご冥福を念ずる。
電気通信大学の同窓会報「CHOFU Network Vol.25-1」引用終わり)



写真(左):1942年8月、アメリカ、テキサス州、アメリカ海軍PBYカタリナ飛行艇のスリップ;Title: Starting a propeller at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34922 (digital file from original transparency) LC-USW361-976 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-976 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真(右):1942年8月、アメリカ、テキサス州、アメリカ海軍PBYカタリナ飛行艇:Title: Working with a sea-plane at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34914 (digital file from original transparency) LC-USW361-968 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-968 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.


写真(左):1942年8月、アメリカ、テキサス州、アメリカ海軍ボートOS2Uキングフィッシャー (Kingfisher:カワセミ)水上観測機;Title: Aviation cadets in training at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34903 (digital file from original transparency) LC-USW361-391 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-391 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真(右):1942年8月、アメリカ、テキサス州、アメリカ海軍ボートOS2Uキングフィッシャー (Kingfisher:カワセミ)水上観測機の機首エンジンカウリング ;Title: Aviation cadet in training at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34905 (digital file from original transparency) LC-USW361-393 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-393 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of CongressPrints and Photographs Division Washington, D.C. FSA/OWI ColorPhotographs


写真(左):1942年5月、アメリカ、サウスカロライナ州パリスアイランド、ページ・フィールド基地、アメリカ海軍パイロット養成のために使用されたグライダー;Title: Marine Corps gliders in flight out of Parris Island, S.C. Creator(s): Palmer, Alfred T., photographer Date Created/Published: 1942 May Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a35134 (digital file from original transparency) LC-USW361-1005 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-1005 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真(右):1942年5月、アメリカ、サウスカロライナ州パリスアイランド、ページ・フィールド基地、アメリカ海軍パイロット養成のために使用されたグライダー:Title: Marine Corps gliders being towed from Page Field, Parris Island, S.C. Creator(s): Palmer, Alfred T., photographer Date Created/Published: 1942 May Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a35137 (digital file from original transparency) LC-USW361-1008 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-1008 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.


写真(左):1942年8月、アメリカ、サウスカロライナ州パリスアイランド、ページ・フィールド基地、アメリカ海軍パイロット養成のために使用されたアメリカ海軍 N2S 練習機;1934年初飛行のボーイング・ステアマン モデル75(Boeing-Stearman Model 75)練習機は、アメリカ陸海軍で共に使用された練習機で1万機以上生産された。アメリカ海軍はこの機体を N2S練習機と呼んだ。Title: Navy N2S primary land planes at the naval Air Base, Corpus Christi, Texas Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34904 (digital file from original transparency) LC-USW361-392 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-392 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真(右):1942年8月、アメリカ、サウスカロライナ州パリスアイランド、ページ・フィールド基地、アメリカ海軍パイロット養成のために使用されたN2S練習機の機首エンジンカウリング ;Title: Marine lieutenant by the power plane which tows the training gliders at Page Field, Parris, Island, S.C. Creator(s): Palmer, Alfred T., photographer Date Created/Published: 1942 May Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a35130 (digital file from original transparency) LC-USW361-1001 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-USW36-1001 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 出所:Library of CongressPrints and Photographs Division Washington, D.C. FSA/OWI ColorPhotographs

第II部 開戦までの日米交渉・ハルノート・ニイタカヤマノボレ一二〇八



1.1939年9月に勃発した第二次世界大戦(欧州大戦)に中立を維持してきた米国の参戦を促すため,ルーズベルト大統領,イギリス,中国,ソ連は,米国連邦議会が対日・対独宣戦布告することを望んだ。日本軍が,1940年9月,インドシナ半島(北部仏印)に進駐,日独伊三国軍事同盟が成立すると,米英は,日本,ドイツへの経済制裁,侵略非難,強圧的な要求を行うようになった。1941年7月の南部仏印進駐後,8月の大西洋憲章では,日本,ドイツを敵視し,その先制攻撃や対米宣戦布告を挑発しているかのような行動をとるようになった。


真珠湾攻撃の経緯を把握した上で、日米開戦に至る道のりを検証してみましょう。米国を中心に、中国、ソ連、欧州の視点も加えて検証し、日本における評価とは違った側面を強調しています。

1937年7月の日中全面戦争以来,米国は日本の中国侵略を非難しているが,1939年7月に日米通商条約を廃棄した。

写真(右):1940年12月、アメリカは、ドイツと孤軍奮闘するイギリスに対して、軍事援助を本格的に開始した。この第一陣が、武器貸与法に基づいて、イギリスの海上交通・物資輸入を確保するための船団護衛用の駆逐艦50隻の供与である。;当時第二次大戦勃発から1年以上経過していたが、中立を維持していたアメリカは、イギリスに分隊を送り込むことはできなかった。しかし、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領は、中立とはいうものの,反ドイツの立場でイギリスに大量の武器・弾薬・食料などを供与した。さらに、イギリス同盟国のカナダからイギリスへの輸送船団の護送も行った。

ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と不参戦を公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートからイギリス艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。

1941年3月、米国は武器貸与法を成立させ,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とされた。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が認められた。そして,1941年7月末-8月初頭に,米国は日本資産を凍結し,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出も禁止する。そして,9月末に,対日鉄屑輸出を禁止する。

Secret Affairs: Franklin Roosevelt, Cordell Hull 1941年7月2日(水)1000-1200,第五回御前会議で帝国国策要綱、南方施策、対英米政策を決定。
情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱

方針として「帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て世界平和の確立に寄与せんとする方針」で,「支那事変処理に邁進」「自存自衛の基礎を確立」「南方進出の歩を進め」さらに対ソ「北方問題を解決」することを企図s,その障害は排除すると決定した。
要綱では,「重慶政権に対する交戦権を行使」「支那に於ける敵性租界を接収」を進めつつ,「自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行」するが,これは「対英米戦準備を整え」て,「仏印及泰に対する諸方策を完追」その上で「南方進出の体制を強化」するとした。この結果,対米英関係が悪化することを覚悟して,「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす」と決定。

独ソ戦は「介入することなく密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す」として,「独ソ戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と唯我独尊の戦略を決めた。「米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三国条約に基き行動す」と,対芸戦争の可能性を認めた。

7月16日,第二次近衛文麿内閣の外相松岡洋介は,対米強行外交を主導しており,日米交渉の障害となるとして,近衛首相は総辞職した。その後の第三次近衛内閣の外務大臣には豊田貞次郎が就任。

写真(右)1940年1月30日、58回目の誕生日を迎えたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)
Title: FDR [Franklin Delano Roosevelt] ON HIS 58TH BIRTHDAY Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: 1940 January 30.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-47548 (digital file from original negative) Rights Advisory: No known restrictions on publication. For more information, see Harris & Ewing Photographs - Rights and Restrictions Information(http://www.loc.gov/rr/print/res/140_harr.html)
Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Call Number: LC-H21- C-1126 [P&P] 引用。




1941年8月9-13日には,米英の政府と軍の高官による大西洋会談が,カナダ(イギリス連邦の一員として対独参戦している)のハリファックス近くのニューファウンドランド島沖で開催された。そして,1941年8月14日,ルーズベルト大統領とイギリス首相チャーチルは,大西洋憲章Atlantic Charter)を世界に公表した。この米英共同声明は,領土不拡大,国境維持,反ナチス・ドイツの立場で,次のように謳われている。

写真(右):1941年8月10日、大西洋会談のためにイギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Walesのイギリス首相ウィンストン・チャーチルの元にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトを運んだアメリカ海軍駆逐艦「マクドゥガル」USS MCDOUGAL (DD-358);アメリカ海軍駆逐艦「マクドゥガル」は、ニューヨーク造船所で、着工 1933年12月18日、進水 1936年7月17日、就役1936年12月23日、基準排水量1,850 tons, 満載排水量2,597 tons、全長116.15 m、ビーム 11.25 m、吃水3.15 m、兵装: 5インチ(127mm)38口径連装砲4基8門、 21インチ(533mm) 四連装魚雷発射管2基8門、最高速力 37 knots、航続距離 6,500マイル/12 knots。
Title:Atlantic charter conference, Aug. 1941 Caption:USS MCDOUGAL (DD-358), with President Franklin D. Roosevelt on board, pulls alongside HMS PRINCE OF WALES in Placentia Bay, Newfoundland, 10 August 1941. Note twin 5.25" gun turrets at left. Description: Catalog #:80-G-26921 Copyright Owner:National Archives Original Creator: Original Date:Sun, Aug 10, 1941 写真は、Naval History and Heritage Command;80-G-26921 Atlantic charter conference, Aug. 1941 引用。




1941年8月の米英首脳による大西洋憲章の内容
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。

大西洋会談のために,イギリス海軍最新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」に乗艦してイギリス首相チャーチルは,カナダにやってきたが,これはドイツ戦艦「ビスマルク」Bismarckを撃沈した光栄ある艦による演出であり,会談への熱意の表れである。大西洋会談では,米国の対独,対日戦争が,米英軍の高官も交えて話し合われている。まさに,共同謀議による戦争計画とも受け取れる。つまり,大西洋憲章は, 米英の軍の最高司令官が集まり,事実上,米英同盟を宣言したものである。米国が,イギリス側に立って,対ドイツ,対日本に宣戦布告をする前段階と推測された。まさに,米英の共同謀議による戦争計画とも解釈できる。

ルーズベルト秘録 大西洋会談の8月,ルーズベルト大統領は,「日本を赤子のようにあやしておく」"babying the Japanese along"といったと産経新聞社編『ルーズベルト秘録』にある。国務省極東部次長バレンタインは,11月に大統領が“babying”を使ったともいうが,大西洋憲章の討議の中で,FDRが日本を「子ども扱いして,あしらっておく」と誤訳されてきた。そして,「日本を赤ん坊扱い」をしたルーズベルト大統領は,当初から日本相手に陰謀をたくらんでいたと誤って解釈されてきた(須藤直志『真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交』(講談社選書)参照)。

実際は,FDRのニューディールNew Dealをファシズムや共産主義と同様だと批判していたJohn Thomas Flynn による次の証言がある。彼は,1920-30年代,The New Republic, Harper's Magazine, Collier's Weeklyで有名な評論家であり,FDRを支持していた。しかし,参戦反対の立場から,アメリカ第一委員会の設立者の一人となり,FDRの政策を批判するようになっていた。

Franklin D. Roosevelt John T. Flynn(1945/09,NY)The Final Secret of Pearl Harbor

In Japan the war makers were in a desperate hurry. In the United States, Roosevelt, for some reason, became impatient of delay. So much so that he actually considered sometime be]ore November 14 an invasion of China which would have put us at war with Japan. He proposed it to the Army and Navy staffs. They dissuaded him because we were not ready. So he waited a little longer -babying the Japanese along, but making it plain that they would get no agreement, save by abject surrender -terms he knew no Japanese government would dare accept. He did not nave long to wait. By November 14 the sands were running fast, as Grew had warned. Something had happened which put the play irrevocably in Roosevelt's hands.

At the Atlantic Charter meeting, Churchill had urged Roosevelt to send an ultimatum to Japan at once. He replied saying: "Let me baby her along for another three months."

Mr. Grew, our Ambassador to Tokyo, had advised Roosevelt in December, 1940, that the hope of peace had vanished in the East and that it was no longer a question of whether we would have war with Japan but when. The United States must decide whether it should be later or now. And he, Grew, was for now. To this, on January 21, 1941, Roosevelt replied that he completely agreed with Mr. Grew. And a few weeks later Admiral Stark notified Admiral Kimmel that "war with Japan is no longer a question of whether but of when."

大西洋憲章の討議の中で,FDRは日本を「あしらっておく」のではなく,「日本を赤ん坊のように大事に甘やかして」,対日交渉を三ヶ月ほど引き伸ばし,その間に,対日戦争準備を整えるという意味である。まさに,大西洋憲章の発表時期に,日米開戦が決意されたといえる。

写真(右):1941年8月大西洋会談に使われたイギリス海軍戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」HMS Prince of Wales艦上のイギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト;奥でFDRに話しかけているのは、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、後列中央はアーネスト・キング海軍司令長官、手前はハロルド・スターク海軍作戦部長。この英国最新鋭戦艦は,1941年5月にドイツの最新鋭戦艦「ビスマルク」撃沈に活躍したばかり。大西洋会談にわざわざ貴重な戦力を割いたのは,英国首相チャーチルの熱意の表れである。大西洋会談では,米国の対独,対日戦争が,米英軍の高官も交えて話し合が行われている。
Title:WWII Atlantic Charter, 10-12 August 1941 Description:L to R (standing): GEN George C. Marshall (leaning over talking to FDR), Ernest J. King, and ADM Harold R. Stark. Sitting: President Franklin D. Roosevelt and Prime Minister Winston Churchill. Photograph taken at the conclusion of church services about HMS Prince of Wales, off Newfoundland, 10 August 1941. 写真は、Naval History and Heritage Command;NH 67211 WWII Atlantic Charter, 10-12 August 1941 引用。


こうして,米国大統領ルーズベルトが,日本に対する経済制裁を強化しつつ,英国側にたって,第二次大戦に参戦する希望を抱いていることは,誰の目にも明らかになった。特に,日本は,艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠である。石油は米国からの輸入に70%以上を頼っており,米国からの石油輸入がなければ,国力・軍事力の維持はできない。

米国は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,「ハル・ノート」によって,(満州を除く)中国からの日本軍の(期限の定めのない)撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求した。「ハル・ノート」が手交された時点で,日本は米国との和平交渉を諦め,開戦を決意した。近衛内閣の時期,1941年9月6日の御前会議では、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定した。しかし,米国の日本への要求は,「満州の日本軍は撤退しなくともよい」「中国からの日本の撤兵は5年後からでもよい」として,日米交渉を継続することが可能であった。日独伊三国軍事同盟の解消といっても,即座に実行する必要はなかった。

写真(左):東京裁判に出廷した元首相・陸相・参謀総長・東條英機;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,当時の首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もない。
大日本帝国憲法の第四章「国務大臣及枢密顧問」は次の通り。
第五十五条 1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2. 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六条  枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
海軍のハワイ攻撃についても,既に計画は進んでおり,東條首相が関与する余地はほとんどなかった。しかし,1941年12月1日の御前会議で,天皇の下,日米開戦の最終決定にかかわった。


しかし,開戦を決意するとした1941年10月上旬を迎えると,近衛内閣は総辞職してしまう。開戦の決定から逃げ,責任を回避したのである。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議の日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)こととし,東條英機陸軍大将を内閣総理大臣に推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた人物である。

1941年10月に成立した東條内閣は,日米交渉を続けたが,米国は1941年11月26日には,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」を手渡してきた。この11月26日のハル・ノートが日本に手交されるにおよんで,もはや米国が日本との和平を本気で求めてはいないことが明らかになった。
しかし,日本はハルノートが提出される直前に,すでに日米開戦を決意し,軍を進めていたのである。

2.1941年11月26月(日本時間11/25),中国からの日本軍撤退を日米交渉の条件とするハルノートが,野村・来栖両大使に手渡された。これを,米国の最後通牒として,日米開戦が決定されたというのは誤解である。1941年9月6日第六回御前会議決定の帝国国策遂行要領で対米戦を決意,11月5日の第七回御前会議では,帝国国策遂行要領を確認し「現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設するため」対米英開戦を決意することを確認ていた。

1941年9月6日,第六回御前会議決定の帝国国策遂行要領
ここでは,米英蘭による対日攻勢,ソ連の情勢,日本の国力を考慮して,「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と戦争準備を開始し,同時に「帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む」と外交継続も平行させた。しかし,「目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す,対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」と世界大戦を決意した。

1941年11月5日(水)1030-1515,第七回御前会議が開催。昭和天皇の臨席の下,近衛首相らは対米交渉案として甲案と乙案が決定した。まず甲案を提示して交渉を進め、これが受け容れられない場合にはより譲歩した乙案を提示するとの外交方針である。

1941年11月5日1030-1515の第七回御前会議決定の帝国国策遂行要領
「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し」と,世界戦争開始を再確認した。そして,「武力発動の時期を十二月初旬と定め,陸海軍は作戦準備を完整す」とした。対米交渉は継続するが,「独伊との提携強化」「武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係」の樹立を図り,「対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止」とした。つまり,12月1日までに日米交渉が妥結しない以上,世界戦争が始まることになったのである。

1941年11月8日の「海軍作戦計画ノ大要」は,海軍軍令部総長永野修身大将と陸軍の参謀総長杉山元大将が、侍従武官長宛てに発信した。これには海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功から総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねている。

海軍の軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。 陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長とは総長を補佐する者で,総長と同じく御前会議の構成員でもある。

写真(右):1941年12月7日,真珠湾攻撃に向かう航空母艦「赤城」の零式艦上戦闘機21型;1941年4月9日-1944年2月21日軍令部総長だった永野修身海軍大将(1943年6月21日から元帥)の指揮の下,ハワイ奇襲が決定した。永野修身元帥は,1947年極東軍事裁判公判中に病死。元外相の松岡も病死だった。 ,日本海軍は集中運用する空母機動部隊を編成していた。Description English: The second wave of attack aircraft launches from the Imperial Japanese Navy aircraft carrier Akagi against Pearl Harbor, Hawaii. Date 7 December 1941 Source Werneth, Ron, Beyond Pearl Harbor: The Untold Stories of Japan's Naval Airmen, Schiffer Military History, Atglen, PA, 2008, p. 19. Book states that the photo is from the Makiel Collection via Wenger. 写真はWikimedia Commons, Category:Akagi (ship, 1927) File:Akagi Pearl Harbor Second Wave Launch.jpg引用。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同じくして、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻を基幹とする機動部隊によって空襲すると述べている。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発信して航空互換、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えるとしている。香港,シンガポール攻略についても,作戦が述べられている。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を保有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされたのである。

真珠湾攻撃計画は,連合艦隊司令長官山本五十六大将が主導したが,無謀な作戦として,反対論が強かった。それを,軍令部総長永野修身大将が許可したのである。そして,最終的には陸軍も同意し,天皇が裁可している。ドイツ軍,米軍と違って,日本軍は少数の軍事専門家による創意工夫よりも総意を重視したようだ。

1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した。日本は,宣戦布告の最後通牒(のつもりの文書)を米国に手交する1ヶ月前,攻撃計画が決定していた。つまり,ハル・ノートが手交されるか否かにかかわらず,日米開戦が危惧されていた。

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。

野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命全権大使は、ハル米国務長官と会談し,ハル国務長官より乙案拒否を意味する「ハル・ノート」を受け取った。これによって乙案を最終案としていた第七回御前会議決定の日米交渉継続の前提条件が崩れた。

3.ハルノート手交前の1941年11月19日,日本外務省は,戦争危機を認識し,短波ラジオ放送による暗号機破壊指令暗号放送「ウィンド・メッセージ」を各国大使館に打電したが,これは米英に解読され,マジック情報として,日本の開戦意思が伝わっていた。実際,11月22日から,択捉島単冠(ヒトカップ)湾に南雲忠一中将率いる第一航空艦隊,すなわち空母機動部隊が集結していた。空母機動部隊の出撃は,11月26日で、これはハルノート手交の前日だった。日本の攻撃行動開始は,ハルノートの手交前から,始まっていた。

1941年11月19日,外務省は,各国大使に非常事態の特別メッセージを送信し,国際通信断絶に備えた。つまり,戦争あるいは切迫する戦争危機によって,国際通信が途絶させられた場合,短波ラジオ放送によって,暗号を送信,状況を知らせるという指令である。

これには,次の三種類の暗号“ウィンド・メッセージ”が定められた。
?日米関係が危機に陥った場合,「東の風雨」
?日ソ関係が危機に陥った場合,「北の風曇」
?日英関係が危機に陥った場合,「西の風晴」
この天気予報が二回繰り返された場合,直ちに暗号書・暗号機を処分し,官憲による暗号押収に備えるように命じられた。
付け加えとして,日本の外交が危険になりつつある場合,海外向けニュースの最初と最後に,次の暗号を5回繰り返すと電報を打った。
?日米関係,「東」
?日ソ関係,「北」
?日英(タイ,マラヤ,蘭印を含む)関係,「西」

外務省の国際関係の認識・戦争開始を示す暗号“ウィンド・メッセージ”は,米軍がタイプB“パープル(the Purple)”と呼んだ外交暗号で送信されたが,実は,この暗号は米英軍の協力によって,傍受・解読され,1941年11月28日,“マジック(Magic)”として最高機密扱いの情報としてアメリカ側に解読されていた。香港,シンガポール(以上英領),ブレッチリーパーク(ロンドン郊外の政府暗号学校)の協力を得て,日本の外交暗号,海軍暗号(JN25)は,かなりの部分が解読されていたのである。

米陸軍省通信情報局(SIS)の数学者フリードマン(William F. Friedman)ら暗号解読チームは、1940年9月,日本の外務省が使用していた暗号機B型(米軍のコードネーム "パープル(紫)" )の複製を作成、外交暗号電報を傍受・解読し始めた。解読された日本語は、英訳され,陸軍参謀本部・陸軍情報部(Military Intelligence Division)G-2陸軍情報局(Military Intelligence Service)極東班長が精査、重要と判断されたものは,陸軍長官、陸軍参謀総長、情報部長、海軍作戦部長に回覧された。これが,"マジック"の秘匿名称で呼ばれた暗号情報である。

真珠湾奇襲論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 1941年11月26月(日本時間11/25)のハルノート手交のとき,日本海軍は,ハワイ真珠湾攻撃に向けて,空母機動部隊を出撃させていた。
1941年11月22日,択捉(エトロフ)島単冠(ヒトカップ)湾に,南雲忠一中将率いる第一航空艦隊,すなわち海軍機動部隊が終結していた。機動部隊は,航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」の6隻を基幹とし,艦載機の搭載機数は,350機(零式艦戦78機、九九式艦爆129機、九七式艦攻143機)に達していた。

ヒトカップ湾から,日本海軍機動部隊が出撃したのは,1941年11月26日(ハルノート手交前日)で、これは攻撃行動開始を意味する。日本は,ハルノート手交の前日に,ハワイへの大規模奇襲攻撃に向けて,空母部隊を出撃させていたのである。

ハルノートには,日米戦争を誘発させる目的があったと考えられ,ルーズベルト大統領は,はじめの一発を日本に撃たせたいと考えていた。11月26日にハルノートを手渡した国務長官コーデル・ハルは,翌27日早朝,スチムソン陸軍長官に電話で「日米交渉は私の手を離れた。もうそれは,あなた(スチムソン陸軍長官)とノックス(海軍長官)の手中にある。」と述べた。これはスチムソン陸軍長官の日記の記述だが,の戦争陰謀だと批判することは可能である。しかし,ハルノートは,日米戦争を引き起こしたひとつの誘引ではあっても,不可欠な要因ではない。つまり,ハルノートがなかったら,日米戦争が起こらなかった,とすることはできない。

1941年12月1日1405-1600の第八回御前会議
天皇、首相東條英機など日本の最高首脳陣が揃って出席、宮中で開催。(国会ではなく)そこで対米英戦争の開始が最終決定された。11月27日の「ハルノート」によって,日本は対米交渉を打ち切り,御前会議において、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦が正式に決定されたのである。
大元帥昭和天皇は,真珠湾攻撃計画を以前から知らされており、対米英戦を(不本意かもしれないが)主要閣僚の総意と国体護持を尊重して、裁可している。この御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(真珠湾のあるホノルル時間の12月7日午後12時40分)とすることも決められた。

1941年12月1日の御前会議は議論する場ではなく、総意のとれた最終決定を確認する場である。したがって、開戦の決意は、12月1日の御前会議の前に,既になされていたはずである。また,開戦するには,勝利の採算のある攻撃計画が策定されているはずだが,この計画は,遅くとも11月初頭には決定していた。つまり,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が大元帥昭和天皇に上奏されたのは、1941年11月8日である。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であるが,最終部分は12月7日で,開戦予定日前日である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,直前まで米英に察知されないためである。そこで,結果として、直前まで和平交渉をしていると欺瞞し,既に決している攻撃意図を悟らせないようにした,と見なされる。


1939年11月9日、アメリカ教育コンフェレンスに参加した、奥のアメリカ国務長官コ−デル・ハル(Cordell Hull)、ジョンホプキンス大学学長イザイア・ボウマン博士、手前の国務次官サムナー・ウェルズ
;Title: State Department high officials address Inter-American education conference. Washington, D.C., Nov. 9. Secretary of State Cordell Hull, Dr. Isiah Bowman, President of the Johns Hopkins University, and Undersecretary of State Sumner Welles photographed today at the luncheon-meeting of the conference on inter-American relations in the field of education meeting today and tomorrow here. Secretary Hull told the gathering of educators from both South and North America that they must resolve to work together 'to accomplish that function which is rightfully theirs--to guard, to enrich, and to forward the civilization which, in the high calling of education, all of us must seek to serve' Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: [19]39 November 9. Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-27632 (digital file from original negative) Rights Advisory: No known restrictions on publication. For more information, see Harris & Ewing Photographs - Rights and Restrictions Information(http://www.loc.gov/rr/print/res/140_harr.html) 写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Call Number: Call Number: LC-H22-D- 7777 [P&P] 引用。


ハル・ノートは,日本では、米国の最後通牒であると認識された。しかし,ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていない。最後通牒とは断定できない。また,日本は,9月と11月の帝国国策遂行要領で,対米英戦争を決意していた。これは,ハル・ノート提出前である。

しかし,米国は,日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけ,開戦の契機が欲しかった。日本の対米宣戦布告は望むところであった。

米軍の情報部による「マジック」は,東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受・解読し,米英首脳・軍事指揮官は,日本の攻撃(日米開戦)が差し迫っていることを理解していた。国務長官コーデル・ハルCordell Hull(外務大臣に相当)も,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していた。日本大使館が本国からの暗号無線を解読するよりも先に,米軍が解読できたからである。

4.日本の真珠湾攻撃は,「宣戦布告無しの先制攻撃」である。日本外務省の手違いで,対米宣戦布告が遅れたという言い訳は,当時から,外務省は過去から現在まで一度もしたことはない。したがって,日本政府が認めていない異常,日本の識者が宣戦布告するつもりだったといっても,米国政府は黙殺し続け,相手にしていない。

写真(右):1941年11月17日、アメリカ、ワシントンDC、ホワイトハウスのアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの元にアメリカ国務長官コーデル・ハルが野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特命大使(右)を案内している。;ハル国務長官は、1941年11月26日、日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した。 フランクリン・ルーズベルト大統領との会談のためにコーデル・ハル国務長官と共にホワイトハウスに向う野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特命大使(右)(1941年11月17日)。 Date 17 November 1941 Source http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/pop_29.html Author Mainicni Shinbun /『毎日新聞』 写真はWikimedia Commons, Category:Kichisaburō Nomura File:Hull, Nomura and Kurusu on 7 December 1941.jpg引用。

写真(右):ハル・ノートへの回答文書を手交した来栖特命全権大使(右),野村駐米大使(中)とハル国務長官(外務大臣相当);文書を手渡したとき,真珠湾空襲から55分が経過していたが,日本人二人はこの攻撃を知らされていない。他方,ハル長官は,暗号解読によって,日本人二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していた。しかし,この文書が,宣戦布告をした最後通牒であるという日本の主張を,米国は認めない。コーデル・ハルは,1945年に国際連合の設立の功績を評価され,「国連の父」としてノーベル平和賞を受賞した。

1941年12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から国務省に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着。日本の二人の大使たち(野村吉三郎大使・来栖三郎特命全権大使)は、11月26日の「ハル・ノート」への回答と思われる文書を手渡した(もちろん、日本側は、宣戦布告の文書を持ってきた---とは言わない)。

国務長官のハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、驚き、不快感をあらわにして「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を受け取ったことない」と次のように言わしめた。日本の大使たちは、真珠湾攻撃も、マレー半島への日本軍上陸も(のんきにも?)知らないでいる。

写真(右):1939年1月13日、上院委員会でキューバとの貿易協定について話すアメリカ国務長官コ−デル・ハル(Cordell Hull);1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した。Title: Nothing improper in trade agreement with Cuba, Hull tells Senate Committee. Washington, D.C., Jan. 13. Secretary of State Cordell Hull, today denied before the Senate Finance Committee that there was any improper State Department procedure in negotiating a trade agreement with Cuba. Hull appeared before the committee as it opened an investigation ordered at the instigation of a group of Senators from beet sugar and cane producing areas, 1/13/39 Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: [19]39 January 13. Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-25823 (digital file from original negative) Rights Advisory: No known restrictions on publication. For more information, see Harris & Ewing Photographs - Rights and Restrictions Information(http://www.loc.gov/rr/print/res/140_harr.html) 写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Call Number: LC-H22-D- 5497 [P&P] 引用。

日本の二人の大使が国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡したのは、12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった50分から55後である。演説では遅れた時間を10分長くして,1時間遅れとした。日本の文書手交の遅れをより重大な謀略(失策ではない)としたかったからである。真珠湾攻撃と宣戦布告に関しては,反日プロパガンダが盛んに行われ,これはルーズベルト大統領の謀略あるいは巧妙な政略といえる。しかし,真珠湾攻撃を知っていたならば,わざと「先制テロ攻撃」させる元首はいない。

米国が日本の暗号を解読していることは極秘であるから、文書を読んではじめて宣戦布告に等しいと知ったわけである。しかし、文書の手交されたとき、すでに真珠湾「空襲」(攻撃でなく)から1時間近く経過していた。


1940年4月12日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトから貿易に関するアメリカの関税等対外権限に関する協定をサインしたペンを受け取る国務長官コ−デル・ハル(Cordell Hull)
;Title: PRESIDENT PRESENTS TO SECRETARY HULL PEN USED IN SIGNING BILL TO EXTEND TRADE PROGRAM. WASHINGTON, D.C. APRIL 12. PRESIDENT ROOSEVELT PRESENTING TO SECRETARY OF STATE CORDELL HULL ONE OF THE PENS HE USED IN THE SIGNING TODAY THE BILL EXTENDING FOR THREE YEARS THE POWER OF THE UNITED STATES TO NEGOTIATE TRADE TREATIES WITH FOREIGN POWERS. OTHERS IN PICTURE L TO R: SECRETARY OF AGRICULTURE HENRY A. WALLACE; SENATOR PAT HARRISON, CHAIRMAN OF THE SENATE FINANCE COMMITTEE; AND REP. ROBERT L. DOUGHTON, CHAIRMAN OF THE HOUSE WAYS AND MEANS COMMITTEE Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: [1940] April 12. Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-47562 (digital file from original negative) 写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Call Number: LC-H21- C-1144 [P&P] 引用。


しかし、この文書を暗号で受けて、解読,文書化し,手交するまでの日本の米国大使館員の行動は、真珠湾攻撃はおろか、日米開戦すら知らされていなかった。しかし,このような同情すべき事情を割り引いても、緊張感・焦燥感が感じられないと、現在の日本では徹底的に批判されている(当時は問われていない)。

真珠湾攻撃を知ったときは、唖然としたであろうことは想像できるが、実は文書の手交が手遅れになったことを、当日のうちに認識したかどうかも不明である。文書手交の時間と真珠湾攻撃の時間を、日曜日のラジオ(大統領演説は翌日)で識別し,その順番を認識できたのかどうか。もしかすると,最後通牒の手交が,真珠湾攻撃より遅れたのを後々までも知らないでいた可能性も残る。

対照的に、上手に立ち回った米国の外交担当者に対しては、暗号解読の進展もからんで、「真珠湾奇襲を予知していて、わざと攻撃させた」という空想が「真珠湾攻撃の真相」ルーズベルト陰謀説として現在でも持てはやされている。しかし、日本のパープル暗号を部分的に解読し、宣戦布告も知っていたとしても、真珠湾が12月7日に攻撃されるという確証は得ていない。

前日の(戦後天皇の開戦責任に関する独白録に関わる)大使館員壮行会で飲みすぎたため、日曜日で寝坊していたため、暗号解読,和文英訳,タイプ打ちに不慣れなためなど、宣戦布告遅れの理由が,民間人から,いろいろ指摘されている。

駐米日本大使館では,基本的には、暗号解読と文書作成を、即座にこなす人物ではいなかった。外務省のエリートとして,誇り高く、立派な人物は、暗号解読やタイプ打ちなど雑務を軽視していたはずだ。大使館員は、日本の単なる取次ぎ連絡員やメッセンジャーではない。高度な外交交渉を担当する専門家である。このような自負や誇りを重視したために、タイプを打ち、文書を手交するという単純な事務的処理が、外務省の中では軽視されていた。組織の中で業務が滞りなく進めばよいので,一人が雑務と政治・経営の判断の双方を担う必要はない。しかし,組織に大きな偏りがあると,業務が円滑に進行しなくなる。

日米交渉に関わる外務省の失策後、大使も外務省職員も処罰されていない。宣戦布告の遅れや宣戦布告とはみなせない文書の作成などは,いずれも外務省の責任ではないということ。それどころか順調にエリート・コースを邁進した。

1941年12月8日,ルーズベルト大統領は,a date which will live in infamy「屈辱の中に生きることになる日」として演説し,真珠湾12.7攻撃を騙まし討ちとして非難した。ここで真珠湾攻撃が「騙まし討ち」とされた理由は,日本が,日米和平交渉を継続すると見せかけながら,戦争の準備をし,宣戦布告無しに,米国を先制テロ攻撃したからである

5.日本も米国も、真珠湾「空襲」以前に攻撃・戦闘を始めていた。宣戦布告文書と開戦日時の問題は、外交だけの問題ではない

写真(右):1920年8月14日、アメリカ海軍第17駆逐艦群の1隻となった。ウィックス級駆逐艦「ウォード」USS Ward (DD-139); ;アメリカ海軍駆逐艦「マクドゥガル」は、煙突が林立する旧式駆逐艦で起工 1918年5月15日、進水 1918年6月1日、就役 1918年7月24日。 基準排水量 1,247トン、全長 95.81 m、全幅9.42 m、吃水3.00 m、機関 2缶 蒸気タービン2基2軸、1万3,500馬力、最高速力35ノット。」ただし、 1941年12月の太平洋戦争突入時には、旧式化しており、出力も低下していた。それでも、潜水艦攻撃には有効なので,哨戒や輸送船団の護衛任務に多用された。1940年にイギリスに譲渡されたのもこのような旧式駆逐艦である。真珠湾で最初に敵に向けて発砲したウォードは,その後,フィリピンで特攻機の体当たり攻撃を受けている。
Title:Destroyer Division Seventeen Description:Panoramic photograph of the Division's ships, taken by O.A. Tunnell in San Diego Harbor, California, probably on 14 August 1920. The ships are, from left to right: USS Kennison (DD-138); USS Claxton (DD-140); USS Ward (DD-139); USS Boggs (DD-136); and USS Hamilton (DD-141). This image is copied from the original print for Photo # NH 106144. Donation of Rear Admiral Joe Stanton Thompson, USN (Retired), 2008. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. 写真は、Naval History and Heritage Command;NH 106144-B Destroyer Division Seventeen 引用。


真珠湾「空襲」の1時間以上前、午前5時30分に日本海軍の重巡洋艦「利根」から零式水上偵察機が飛び立った。目的は、真珠湾上空を偵察して、在泊中の艦船の状況を報告することである。そして、この偵察機は、戦艦9隻の停泊、航空母艦不在を確認・報告して、目的を達した。偵察であるから,戦闘行為でないという詭弁は通用しない。上空侵犯して敵の港湾を偵察する行為自体,立派な戦闘行為であり,軍事的には,偵察したときに「真珠湾攻撃」が開始されたといってもよい。

空襲作戦の第一段階が順調にいった。真珠湾空襲部隊の第1次攻撃隊第1波183機の発進は、午前5時55分、第2波167機の発進は、午前7時5分。真珠湾口では午前6時30分に、雑役補給艦アンタレスが国籍不明の潜水艦を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡し、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。

写真(右)1941年12月7日、ハワイ諸島オアフ島、座礁してアメリカ軍に鹵獲された日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」;:2004年、艦首に魚雷2本搭載。"captured from the Japs after the sneak attack on Pearl Harbor”. 撮影場所はカリフォルニア州バレッジョVallejoであるが,潜航艇をトレーラーに乗せて全国を巡回展示に使われた。戦時公債,戦時切手販売のための客寄せだった。Title: Captured Japanese submarine. A Japanese vest-pocket sub, captured from the Japs after the sneak attack on Pearl Harbor, is being utilized in a plan to sell war bonds and stamps in various communities throughout the States. The sub, which requires only a two-man crew, is shown here as it appeared in Vallejo, California. The purchase of a war stamp or bond entitles the buyer to a peek at the inside of the vessel Creator(s): Palmer, Alfred T., photographer Related Names: United States. Office of War Information. Date Created/Published: 1943? Medium: 1 negative : safety ; 4 x 5 inches or smaller. Reproduction Number: LC-USE6-D-008516 (b&w film neg.) Call Number: LC-USE6- D-008516 [P&P] LOT 3474 (corresponding photographic print) Other Number: J 766 写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Reproduction Number: LC-USE6-D-008516引用。

真珠湾を攻撃し湾口で撃沈された甲標的;日本海軍の特別攻撃隊の1隻が,水深400mの深海で61年ぶりに,2002年8月28日12.20 p.m. ハワイ海底探査研究所Hawai‘i Undersea Research Laboratory (HURL)のJohn C. Wiltshire, Ph.D.たちが潜水艇を使用して,発見し撮影に成功した。

それでは,真珠湾攻撃での発砲の時期はどうかというと、1941年12月7日午前6時45分に、米国駆逐艦「ウォード」が,真珠湾入り口で発見された国籍不明の潜航艇(実は日本の特殊潜航艇)を4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃している。つまり、真珠湾攻撃においては,日本軍ではなく,米軍が「先制砲撃」している。

日本海軍の特殊潜航艇は「甲標的」という秘匿名称で呼ばれ,艦首に45センチ魚雷を2本装備した二人乗り潜航艇である。当初,艦隊決戦のために洋上で使用することを想定していたが,真珠湾攻撃にあたって,米海軍泊地に潜入し,雷撃して艦船を撃沈しようとした。航続距離は短く,電池を使い切った後は,充電もできないので,作戦地点までは伊号潜水艦の前部甲板に載せて輸送された。

特殊潜航艇による攻撃の後は,乗員回収の予定だったというが,実際に搭乗員が生きて帰ってくるのが困難なことは自明であった。だからこそ,甲標的による攻撃は,真珠湾空襲部隊とは別個に「特別攻撃隊」と呼称していた。1944年10月から,フィリピン戦で航空機による大規模な特攻作戦が展開されるが,その萌芽は,すでに開戦劈頭に現れているといえる。

⇒真珠湾攻撃の部隊編成や経緯についは真珠湾攻撃の一日を参照。

写真(右)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で鹵獲され展示されている特殊潜航艇「甲標的」Ha-19:45センチ魚雷2本を搭載した2人乗り潜航艇5隻が真珠湾に潜入を企図。雷撃を試みた艦もあるが、戦果なし。2004年、アメリカ合衆国テキサス州太平洋戦争国立博物館に展示中の姿。アメリカでは,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。Title: The HA-19, also known as Japanese Midget Submarine "C" by the US Navy, a historic Imperial Japanese Navy Type A Ko-hyoteki-class midget submarine displayed at the National Museum of the Pacific War in Fredericksburg, Texas Creator(s): Highsmith, Carol M., 1946-, photographer Date Created/Published: 2014-04-11. Medium: 1 photograph : digital, tiff file, color. Reproduction Number: LC-DIG-highsm-28219 (original digital file) Rights Advisory: No known restrictions on publication. Call Number: LC-DIG-highsm- 28219 (ONLINE) [P&P] . 写真はNaval History and Heritage Command NH 64477 Pearl Harbor Attack引用。

これは、戦争が差し迫っていることを認識していたキンメル海軍大将から、疑わしき場合も、敵対的行動に対して、即座に反撃、発砲せよと事前通告が出ていたためである。暗号解読によるマジックの報告を受けたルーズベルト大統領は,キンメル大将に,日本の攻撃が差し迫っているという警告を1941年11月25日には与えていた。日米開戦を予期した米軍は,真珠湾攻撃の12日前に日本軍による奇襲を警戒し,国籍不明の敵対的行動にも躊躇せず攻撃せよとの事前通告を出していたのである。

ハワイ方面のアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官キンメル大将(Admiral Husband Kimmel:右)とハワイ方面陸軍最高司令官ショート中将(Lt. General Walter Short:左);二人の司令官は,真珠湾の大損害の責任を取らされ,罷免されてしまう。写真中央は,英国軍のマウントバッテン卿Lord Louis Mountbatten。後のビルマ・インド方面の最高司令官;太平洋の米国海軍の指揮官の頂点に立つのがキンメル大将である。彼もハワイ軍管区の陸軍司令官のショート中将も真珠湾攻撃に警戒を怠ったとして,罷免されてしまう。予期せぬ大損害に,大統領や海軍長官,陸軍長官が部下に責任を押し付ける形になった。つまり,日本の攻撃は予期できたが,真珠湾が攻撃目標となるとはわからなかったし,大損害も予想していなかった。

1941年11月25日,ホワイトハウスでは,陸軍情報部ブラットン大佐は,ルーズベルト大統領ん,戦争を予測できる十分な情報を入手したことを伝えた。彼は,日本の無線を傍受して,日本海軍の暗号解読する「マジック」のメンバーで,フリードマン大佐は日本の最高機密を扱うパープル暗号を解読していたのである。11月25日のホワイトハウスでの首脳会議で,ルーズベルト大統領,スチムソン陸軍長官,ノックス海軍長官は,来週(12月1日)には日本の米国攻撃が差し迫っていることを理解しており,これは宣戦布告なく行われると考えていた。問題は,米国が甚大な損害を被ることがなく,巧みに画策して日本に対米宣戦布告させるか先制攻撃させるかである。最初の1発を撃たせるのはともかくとして,その被害を小さくするのは難しかった。

日米開戦時,日本軍の先制攻撃によって,甚大な被害,特に多数の人命が失われることになれば,大統領や軍高官は,米国指導者として,情報収集能力,危機管理能力が欠如しているとみなされ,世論や議会から大きな非難をうける。先制攻撃は,米国参戦理由になるので好ましいが,先制攻撃の被害は,米国の政治的,軍事的指導者にとっては,個人的な責任を伴う危険があった。

図(右):1941年8月10日、ハズバンド・エドワード・キンメル(Husband Edward Kimmel, 1882年2月26日 - 1968年5月14日)海軍大将;1941年2月、アメリカ海軍が新たに設けた太平洋艦隊司令長官に就任したと同時に大将に昇進。しかし、ハワイ真珠湾奇襲の大損害の引責を迫られ、12月17日には太平洋艦隊司令長官を解任、裁判にかけられ、1942年3月に予備役に編入。しかし、1999年5月25日、ハズバンド・キンメルとハワイ陸軍司令官ウォルター・ショートの名誉二人の回復決議が上院で可決された。2000年10月11日、下院でも二人の名誉回復決議が可決された。
Title:Admiral Husband E. Kimmel, USN Caption:Admiral Husband E. Kimmel, USN. Description: Catalog #:80-G-458142 Copyright Owner:National Archives Original Creator:McClelland Barclay circa 1940, artist 写真は、Naval History and Heritage Command;80-G-458142 Admiral Husband E. Kimmel, USN 引用。


ルーズベルト大統領が,真珠湾攻撃を知っていながら,放置したという説は,被害縮小のための対策を指示していないことから,容易に反証できる。真珠湾の大被害,人命損失の責任を回避したかった大統領,米陸海軍の最高司令官たちは,ハワイにおける最高司令官,すなわち太平洋艦隊司令長官キンメル大将,陸軍部隊司令長官ショート中将を罷免する。これは,責任を転嫁したもので,キンメルとショートへの名誉毀損に当たる。

キンメル大将,ショート中将は,後に名誉毀損で訴え,戦後(死後),名誉は回復された。しかし,このような失敗に対する責任追求は,米軍に限らず,英国軍も厳しいし,ソ連軍,ドイツ軍では容赦がない。それに比較して,日本軍は厳正な軍紀を誇っていたが,軍高官に対する責任追及,処罰は甘かった。階級序列,陸軍大学・海軍大学の卒業成績の序列が,昇進や重要ポストの任命の基準だった。

1941年11月25日の米国ワシントンのホワイトハウスでの首脳会議では,日本軍の先制攻撃の目標が議論され,真珠湾からすべての航空母艦と半数の航空機を移動することが賢明であると判断した。そして,大統領は,軍へ戦争警報を発するように命じた。
「これは戦争警報である。日本軍による攻撃が数日以内に予測される。-----日本軍は,フィリピン,タイ,マレー半島のクラ地峡か,ボルネオ島へ上陸を敢行するであろう。」

当時ハワイにいた太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将,ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸海二人の司令官も,この戦争警報を11月25日に受け取っており,は,全航空母艦2隻を護衛部隊とともにハワイから(日本軍輸送船団に迎撃できる)西方に移動した。ハワイ西方のウェーキ島,ミッドウェー島は孤立しており,そこに日本軍が攻撃を仕掛けたり,攻略のための部隊を上陸したりすることは十分に予測できたからである。ハワイ諸島の真珠湾から日本軍侵攻方向に向かって,空母エンタープライズ、空母レキシントンは別々に西進した。米国は、護衛はつけたが単艦で空母を使用し、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかったのである。つまり,米軍は日本の攻撃が差し迫っていることを察知して,米国の空母部隊2隊を,日本艦隊や輸送船団の迎撃に向けた西進させたと判断できる。

米国では,航空母艦を複数集めた機動部隊としての運用はしておらず,航空母艦1席に護衛部隊をつける空母部隊を編成していた。太平洋方面の航空母艦は,エンタープライズ,レキシントン,サラトガの3隻であるが,サラトガはサンディエゴ海軍基地で改装中であった。そこで,当時,真珠湾基地から,西方迎撃に向かった米空母は2隻である。米空母は,日本軍が進撃してくるであろう日本の東方海上に向けて,迎撃体制に入ったといえる。

図(右):日米の太平洋戦争勃発直後の1942年、アメリカ海軍航空母艦「ホーネット」USS HORNET (CV-8);初頭の撮影。B-25を搭載して,ハワイ攻撃の報復として,東京初空襲を行った。 Title:USS HORNET (CV-8) Caption:USS HORNET (CV-8). Description:Courtesy of John H. Chafee, 1974 Catalog #:NH 82718-KN Copyright Owner:Naval History and Heritage Command Original Creator:Gordon Grant, 1942, artist 写真は、Naval History and Heritage Command;">Naval History and Heritage Command; Original Medium:Painting, Color Photo 引用。


命令を受け,空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

米軍が航空母艦を「退避させた」というのは誤りである。たしかに,後になって航空母艦を中心にする任務部隊(機動部隊)が海軍の攻撃力の中核となったが,当時はまだ戦艦による艦隊決戦が制海権の帰趨を決定すると考えられていた。空母を集団利用する「任務部隊」(機動部隊)は米軍にはなく,空母は1隻ずつ戦艦の護衛あるいは補助攻撃力として分散利用されていた。

米国海軍は主力の航空母艦を温存するつもりであった,真珠湾攻撃を予知していて,攻撃の損害を旧式戦艦の損失だけにとどめようとした,などと邪知され,米海軍の空母が真珠湾に不在だったのはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を予知していた証拠である,など「真珠湾攻撃の陰謀説」が謳っている。

しかし,この狭義の「真珠湾攻撃の陰謀説」は,誤りである。米空母2隻は,,米国本土に向けて東方に退避したのではない。明らかに,日本に向け西方に進撃し,ウェーキ島方面とミッドウェー方面で,攻撃してくる日本軍を迎撃する準備体制をとったのである。(空母2隻をまとめて運用する任務部隊ではなく,空母を1隻ずつ別方面に出動させた。)空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

写真(右):1941年12月7日,真珠湾攻撃に向かう日本海軍航空母艦「赤城」の零式艦上戦闘機21型;ハワイ真珠湾に浮かぶフォード島航空基地を,日本海軍航空隊は真っ先に銃爆撃した。米国海軍は,空母を1隻ずつ分離して運用していたが,日本海軍は集中運用する空母機動部隊を編成していた。Description English: Aircraft are prepared for launch on the Imperial Japanese Navy aircraft carrier Akagi to participate in the second wave of attacks on Pearl Harbor, Hawaii. The aircraft appear to be warming up as the wings are still tethered to the deck and the deck crews are standing around each aircraft (Parshall and Tully). Date 7 December 1941 Source Werneth, Ron, Beyond Pearl Harbor: The Untold Stories of Japan's Naval Airmen, Schiffer Military History, Atglen, PA, 2008, p. 42. Book states that the photo is from the Makiel Collection via Wenger. Photo also included in: * Parshall, Jonathan (2005) Shattered Sword: The Untold Story of the Battle of Midway, Dulles: Potomac Books ISBN: 1-57488-923-0. , p. 127. 写真はWikimedia Commons, Category:Akagi (ship, 1927) File:Akagi :Pearl Harbor Second Wave.jpg引用。

1)太平洋戦争開戦以前,米国は単艦で空母を運用しており,空母は戦艦を補助する艦艇として位置づけていた。したがって航空母艦は,海軍の主力ではない。
2)航空母艦を「退避」させるなら,日本に接近する東方に航行するはずがない。真珠湾攻撃が予測される方向であるから(実際は北方から迂回攻撃)。日本軍が,ウェーキ島,グアム島,ミッドウェー島を攻撃する場合に,航空攻撃を加える,あるいは艦隊来航により日本軍上陸部隊(輸送船からなる)に威圧感を与え,退避させることが,空母を西方(日本の東方海上)に向けて「進撃」あるいは「迎撃」させた理由である。攻勢防御,撹乱攻撃の準備のために,空母を日本に向けて西に航行させたのである。事実,日本軍は,開戦劈頭にウェーキ,グアム島を攻略し,ミッドウェー島を襲撃している。真珠湾攻撃部隊からも,帰路,援軍を派遣している。

真珠湾から米空母部隊を出航させ,ウェーキ島周辺で演習を行う,というのは,空母部隊移動の口実である。日本軍の攻撃(真珠湾攻撃ではなく)を暗号解読,情報分析によって察知していた軍指揮官としは,暗号解読の事実を日本に知られてはいけないし,米軍内部でも機密扱いである。そこで,日本軍の攻撃に備えた準備行動であっても,開戦していない以上,「演習」といったに過ぎない。

日本軍を迎撃するかのような攻勢をとったのは,太平洋艦隊司令長官キンメル大将である。キンメル大将は,ハワイの警備隊にも,敵の攻撃が差し迫っていること,敵と思われる物体(潜水艦・航空機など)へは,即座に攻撃するように事前に警告していた。この事前警告を受けていた駆逐艦ウォードは,国籍不明の潜水艦に,躊躇なく砲撃し,航空機も爆雷を投下している。

米軍が攻撃したのは、日本海軍の小型潜航艇(二人乗り、魚雷2本搭載)である。大型2500トンの伊号潜水艦5隻が、各1隻の特殊潜航艇を甲板に搭載し、真珠湾近くで、発進させた。排水量1000トン以上を伊号潜水艦,500-1000トン未満を呂号潜水艦という。特殊潜航艇の発進目的は、真珠湾内の敵艦船の雷撃である。したがって、真珠湾「空襲」で日米が戦闘を開始したというのは誤りである。

米駆逐艦の砲撃、哨戒機の爆雷投下はもちろん、真珠湾の偵察を目的とした水上偵察機の発進、特殊潜航艇の発進は、空襲部隊の発進と同じく、作戦行動であり、敵対行動、攻撃そのものである。銃火を構えて進撃すれば,発砲しなくとも「攻撃」である。米国の領海内に侵入し,空襲部隊と砲撃の準備した段階で,「攻撃した」とみなされる。

ルーズベルト大統領による日米「戦争」勃発後の「恥辱の日」の演説でも、次のように日本によるアジア太平洋の侵略を非難している。

In addition, American ships have been reported torpedoed on the high seas between San Francisco and Honolulu.
Yesterday, the Japanese government also launched an attack against Malaya. 
Last night, Japanese forces attacked Hong Kong.
Last night, Japanese forces attacked Guam.
Last night, Japanese forces attacked the Philippine Islands.
Last night, the Japanese attacked Wake Island.
And this morning, the Japanese attacked Midway Island.

つまり、12月7日には、真珠湾以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

・12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・陸軍大将菅原道大率いる第三飛行集団の九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島コタバルKota Baru(現マレーシア)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を20センチ砲などで砲撃している。

日本は,米,英,オランダなどの厳しい経済制裁によって,石油,鉄屑などが輸入できず,在外資産も凍結されてしまったから,南方(東南アジア)の石油,ゴム,鉄鉱石など資源を手に入れることが最優先された。真珠湾攻撃は,南方に侵攻する日本軍が,太平洋方面で米国艦隊に攻撃を受けたり,米国植民地のフィリピンから,艦艇,航空機によって,南方と日本との海上交通が遮断されることを恐れての一撃ともいえる。

真珠湾を攻撃すると同時に,ハワイに上陸,占領するという作戦は,占領後のハワイへの補給が困難なためか,取り上げられなかったとされる。しかし,南方を確保することが最優先だったのであって,米国艦隊の撃滅は,そのための必要条件の一つに過ぎなかったといえる。

米国もこれら日本軍の南方侵攻は予知していたし,実際に攻撃を警戒していた英国から情報を入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。

しかし、日本軍の南方への上陸作戦は,宣戦布告無しの攻撃であり、まさしく「騙まし討ち」である。その上、英国に対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本軍は,真珠湾空襲以前に,(日付は翌日8日であるが)マレー半島の英国領植民地マレー2ヵ所(現マレーシア)に上陸している。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。これらの部隊は,シンガポール攻略をめざす陸軍部隊で,航空機,海軍艦艇の援護を受けていた。

真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 真珠湾2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃で始まった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、米国に宣戦布告はしていない---。それどころか、イギリスにもオランダにも、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けた(と見なされている)。

ポスター(右):「星条旗は逃げ出さない。真珠湾を忘れるな」;日本機の空襲から逃げ出さずに果敢に反撃した真珠湾の米兵は,敗残兵ではなく,英雄である。

「ハル・ノート」への回答である14部の覚書(メッセージ)"Fourteen Part Message" の最終部分は、次のように結ばれている。

"Thus, the earnest hope of the Japanese Government to adjust Japanese-American relations and to preserve and promote the peace of the Pacific through cooperation with the American Government has finally been lost.
"The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.
"December 7, 1941."

したがって、日本では「宣戦布告の最後通牒」とされる文書が、実は米国でも東京裁判でも、疑われている。14部の覚書はハル・ノートへの回答文書であり、日米交渉を打ち切ってはいるが、明確に宣戦布告を述べたメッセージがないからである。

当時の日本にもこれでは、日米交渉の打ち切りのみで、宣戦布告とは見なせないのではないか、という疑問もあったし、明確な宣戦布告のステートメントも準備されていたらしいのだが。(→宣戦布告の起草)。東郷外相や外務省では、最後通牒としての形式を備えた書簡とステートメントが必要と感じ、北米課長加瀬俊一らが準備していたらしい。しかし、日本軍は、東條首相も含めて、その通告をすれば、日本は行動の自由を得たと考えていた。

つまり、外交交渉の決裂を伝える通告文にすぎないものを手交した理由は、外交よりも真珠湾、マレー半島などへの奇襲攻撃を重視したためである。換言すれば、外交上は、日本の攻撃の意図、戦争決定を分からないように秘匿して、実は作戦準備、部隊展開を図っていた。まさに、極秘の決定的な奇襲攻撃、すなわち「騙まし討ち」こそが、日本の意図するところであった、と見なされてもしかたがない。

図(右):真珠湾攻撃の第一航空艦隊の航路:日本時間11月26日0800に日本を出航し、日本時間12月8日0130に最接近。Pearl Harborから日本に向かって西方に伸びる赤航路は空母「エンタープライズ」、青航路は空母「レキシントン」。米国は、護衛はつけたが単艦で空母を使用し、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかった。米国の空母部隊2隊は,ウェーキ島,ミッドウェー島を目指し,航空機を運案したというが、攻撃してくるであろう日本艦隊や輸送船団の迎撃に向かったようにもみえる。

ルーズベルト大統領は「真珠湾攻撃は、何日もあるいは何週間も前から計画、準備されていたものであり、その間、日本は平和を希求している米国と偽りの和平交渉を行い、(攻撃する意図を隠し)騙し続けていた」と演説した。

日本空母機動部隊は,11月26日に出撃しており、12月1日の時点までに日米交渉が再開できれば、引き返すつもりでいた。しかし、大艦隊の出撃自体が、動員令と同じく、戦争開始であると指摘されれば,反論するのは難しい。開戦とは、砲火を交える戦闘が起こった時点では決してない。真珠湾が日本から遠く隔てられていることを踏まえれば、問題としているのは、「宣戦布告が1時間遅れた」という短時間のテクニカルな問題では決してない。

2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された。
1941年12月7日の日本海軍機動部隊による真珠湾空襲より前の0645に真珠湾入り口で,米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦(実は甲標的)を発見し,4インチ砲で攻撃し,撃沈したという報告が確認されたのである。このとき,駆逐艦「ウォード」の通報は,真珠湾の海軍司令部に無視されてしまったため,日本海軍空母艦載機に真珠湾を奇襲されることになった。しかし,61年ぶりに米駆逐艦が,日本の特殊潜航艇「甲標的(甲型)」を発見,司令塔に4インチ砲を命中させ撃沈

1941年11月22日,択捉島単冠(ヒトカップ)湾に,南雲忠一中将率いる第一航空艦隊(空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」他),すなわち空母機動部隊が終結。機動部隊の単冠湾出撃は1941年11月26日、これは攻撃行動開始を意味する。機動部隊出撃は,すでに戦争を開始しているとみなされてうる状況である。1941年12月2日「ニイタカヤマノボレ1208( ヒトフタマルハチ )」電文発信以前の敵対(準備)行為がされた。

暗号「ニイタカヤマノボレ1208 」は,台湾の最高峰3,952mの玉山に登ることだが,X日,すなわち日米開戦を12月8日午前0時とすることを意味する海軍の開戦暗号である。陸軍の開戦暗号は「ヒノデハヤマガタトス」。

1941年12月2日1730,「新高山登れ1208」は、東京通信隊から発信、出撃中の機動部隊はこれを受信,ハワイ真珠湾攻撃の最終決定となった。第二航空戦隊(司令山口多聞少将)の空母「飛龍」「蒼龍」を護衛した重巡洋艦「筑摩」の無線士も,この電報を生々しく記憶している。

重巡「筑摩」(排水量1万1000t,20.3センチ砲8門,水偵6機搭載)は1939年5月三菱長崎造船所竣工、同型艦「利根」と共に第二艦隊第八戦隊に編入。1941年12月のハワイ攻撃では、「筑摩」「利根」搭載の零式水偵が、空母機動部隊の攻撃隊に先行して真珠湾を偵察。その後,1942年4月のコロンボ空襲,6月のミッドウェー海戦に参加。1942年10月,南太平洋海戦では,空襲によって損傷,呉に帰還。1943年2月,復旧工事にあわせて、電波探信儀(電探)を装備,対空用の25ミリ機銃増備。1944年10月,比島沖海戦では、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第七戦隊に編入,25日,サーマル沖海戦で米護衛空母を砲撃するも,米艦載機の雷撃・爆撃によって撃沈。

写真(右)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上したアメリカ海軍戦艦「アリゾナ」「ウェストバージニア」:ハワイで空襲を受け、大炎上したアリゾナは、廃棄された。米国では,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。Title: Wreckage of USS Arizona, Pearl Harbor, Hawaii Related Names: United States. Office for Emergency Management. Date Created/Published: 1941 Dec. 7. Medium: 1 negative : safety ; 5 x 7 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8e09026 (digital file from original neg.) LC-USE62-D-OA-000189 (b&w film neg.) 写真は、Library of Congress > Prints & Photographs Online Catalog Call Number: LC-USE62- D-OA-000189 [P&P] LOT 11710-1 (corresponding photographic print) 引用。

1941年12月6日(日本時間12/7)に真珠湾口に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。これは,完全な戦争開始といえる。米国海軍駆逐艦「ウォード」による発砲は12月7日0645,日米太平洋戦争の戦死第一号は,甲標的の搭乗員2名だった。駆逐艦「ウォード」はきっかり3年後の1944年12月7日に,フィリピン方面で特攻機により撃沈。 初めて日本軍の「特別攻撃」を防いだ軍艦が,3年後の開戦記念日に日本機の特攻により沈められた。  

国内外の世論形成,米国議会の支持こそが重要であり、そのためのプロパガンダの方法が問われるのである。宣戦布告をわざと遅らせたのではない--といった末葉にこだわった弁明を外交や国際関係専門家が続けているとしたら、戦争と動員,議会の支持,対日戦争、動員に有利であり、宣戦布告に関するテクニカルな弁明は、大衆の前では聞く耳をもたれない。 

統帥権をもつ日本軍の最高司令官は、大元帥(昭和天皇天皇)である、宣戦布告の権利も天皇が保有しているし、この大権を犯すことは誰にもできない。その天皇による宣戦布告は「大詔」で、東京時間12月8日午前11時40分に発せられている。これは、それ以前の軍事行動、攻撃を追認する意味しか見出せないが、攻撃後の宣戦布告となっている。日本の攻撃は、太平洋上、アジア全土で行われた。まさに12.7は、「米国にとって屈辱の日」である。 

ハル・ノートへの回答では、日米交渉打ち切りを告げてはいるが、明確な宣戦布告を述べていない。そこで、これが真珠湾空襲以前に手交されて、「宣戦布告」が間に合っていた---としても、米国は日本から宣戦布告を受けてはいないという立場を採用したに違いない。大日本帝国憲法では,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ日本軍の大元帥(昭和天皇天皇)がもっており,天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せられている。 

写真(右)1941年12月7日(日本時間8日),ハワイ真珠湾奇襲攻撃で炎上した戦艦「ウェストバージニア」:米国では,真珠湾騙まし討ちとして卑劣極まりない行為として,反日感情が爆発した。2001年の9.11同時多発テロのときに,真珠湾以来のテロを受けたとして,マスメディア,大統領もその憤慨を公言している。Description:USS Tern (AM-31) fighting fires aboard the sunken USS West Virginia (BB-48), on 7 December 1941, immediately after the Japanese raid. Note radar antenna, paravanes and 16/45 twin gun turrets on the battleship. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. 写真はNaval History and Heritage Command NH 64477 Pearl Harbor Attack引用。

日露戦争、第一次大戦では明確な宣戦布告をしながら、1930年以降の中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。また、1941年12月7日0755の真珠湾空襲については、1週間前から日本は米国に開戦することを決めていた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。したがって、ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を行ってきたのであって、これは米国から見て明らかに「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す準備をしている」騙まし討ちである。

日米和平交渉を誠意を持って担当してきた二人に対して,米国は軽蔑感を抱き,それを隠そうとしない。外交交渉を米国が,戦争準備のための時間引き延ばしとしていたなら,なおさらである。しかし,真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だったので,反日プロパガンダによって,米国人は「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップJapは、人間ではない。テロを起こすジャップは殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。

真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。 

フランクリン・ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説:Pearl Harbor Address to the Nation. ここでは,議会に対日宣戦布告するように要請した。これを受けて,連邦議会は,反対1票で,対日宣戦布告をした。連邦憲法の下では,宣戦布告の権利は,大統領にではなく,議会にある。政府,議会,世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために動員することが可能になった。

真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説は、演説巻頭でつぎのように「屈辱の日」の表現が使われている。(→演説音声を聞く)。

"Yesterday December 7 1941-a date which will live in infamy-the United States of America was suddenly and deliberately attacked by naval and air forces of the Empire of Japan. "

後の米国大統領ジョージ・ブッシュは,太平洋戦争に雷撃機搭乗員として日本と戦った。硫黄島付近で撃墜されたが,米潜水艦に救助され,真珠湾に送られた。彼の搭乗した2人乗り雷撃機が,グラマンTBF「アベンジャー」Avenger(復讐者)である。真珠湾攻撃の後になって,アベンジャーは,実用化されているので,明らかに「真珠湾テロへの復讐者」の意味である。復讐者の息子(ジュニア)も米国大統領に就任した。

「真珠湾を忘れるな」とは,騙まし討ちのテロを行った日本人に報復せよという意味で,民主主義と自由を守るための「正義の戦争」である,とみなされた。したがって,米国の対日戦争は,日本が降伏するまで続けると,大統領,議会,国民は当然のように考えた。正義は勝つ。米国人は,日本との戦争に負けると思ったことは,(緒戦で敗北しても)一度たりともない。1944年以降,大規模な特攻を受けたが,和平を求める声はアメリカにはなかった。


◆東南アジアへの侵攻へ ◇ 1941/12/08

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。日本からは、米国の最後通牒であると認識された。ハルノートには日本が回答すべき期限は定められていないから、最後通牒であったとしても、宣戦布告ではない。日米双方が、これは了解していた。しかし、日本に絶対にできない(可能かも?)であろうことを突きつけてきたのであり、これに対して、日本は、宣戦布告を準備した。もともと、米国としては日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけたから、その結果、日米戦争となっても、米国は驚かない。逆に、日本の対米攻撃あるいは宣戦布告は望むところであった。

日本は、太平洋・アジアを侵略し、ドイツと並んで世界制覇を企てる悪の枢軸である、と見なされた

1941年12月7日、真珠湾奇襲以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

写真(右):香港上空を飛ぶ日本陸軍の川崎キ32九八式軽爆撃機:1941年12月25日,香港は陥落する。
全長: 11.64m、全幅: 15.00 m
全高: 2.90 m
主翼面積: 34平方メートル
自重: 2,349 kg
全備重量: 3,762 kg
発動機: 川崎九八式850馬力ハ9-II乙液冷V12気筒エンジン
最高速度: 423 km/h
航続距離: 1,220km
上昇限度: 8,900 m
乗員: 2名
兵装: 7.7ミリ機関銃2丁
爆弾搭載量:450kg


・1941年12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は 触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は 無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・菅原道大陸軍大将率いる第三飛行集団の中島キ27九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島(現マレーシア)コタバル(Kota Baru)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を巡洋艦搭載の20センチ砲などで砲撃している。

アメリカもこれらの情報を英国から入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。しかし、これらの攻撃は、宣戦布告以前のものであり、「騙まし討ち」である。その上、イギリスに対しては 宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を(事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。

騙まし討ちは、真珠湾だけではない。2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃ではじまった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、アメリカに宣戦布告はしていない---。それどころか、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けてた(と見なされている)。



ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、1941年12月11日ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。米国国民も、「日本とドイツは世界を征服しようとしている」というプロパガンダを信じてしまう。なんといっても、日本とドイツは、中立だった米国に進んで先制攻撃を仕掛けたのだから。日本はアジアに大東亜共栄圏、ドイツは欧州支配と東欧・ソ連に東方生存圏をつくるだけでも精一杯だったのに、南北アメリカ、オーストラリアを含む世界を支配しようと大戦争を仕掛けてきた、このように「連合国」の国民は信じることになり,厳しい動員にも積極的に戦争協力するのである。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

◆2007年12月21日(金曜)テレビ朝日「スーパーモーニング」において,東京裁判法廷の巨大地図にハワイ諸島が掲載されていない点につき,謎解きがありました。駆逐艦ウォードの4インチ砲射撃が,ハワイ第一弾(太平洋戦争第一弾はマレー方面での九七戦の英哨戒機撃墜)だったことを隠蔽するだけでなく,米国が日本の暗号を解読していて,戦争警報を発令していたことを隠蔽したかったようです。


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