鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
日清戦争・義和団事件・日露戦争・植民地 2007
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◆アジアの人種民族差別と虐殺;日清戦争・義和団事件・日露戦争・植民地戦争
20世紀初頭の中国の絵葉書(上):満州における罪人の処刑。
大きな足枷をし,首を刎ねる。「蛮行」の記念絵葉書が多数残っているのには驚く。現在でも,コレクションの蛮行絵葉書は販売されているが,価格は1枚50-150ドルである。これは,町並みの絵葉書の2-5倍の価格で,依然として「蛮行」の人気は高い。英文の紹介説付きなどは,外国人向けか。,1901年に清朝は列国に降伏したが,国内的には人権蹂躙,残虐行為を平然と行っている(ように思われた)。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。

序 帝国主義と人種・民族差別

 第一次世界大戦では、戦闘員たる兵士に加えて、後方・銃後の非戦闘員たる市民や子供も、工場労働,農作業、資源節約を通して参加した。戦争は軍民が一体となって戦う総力戦となった。総力戦を戦うために、戦争の大義がつくりだされ、それが市民に喧伝された。ポスター、新聞、雑誌などメディアを活用して、プロパガンダが大々的に行われた。

ユダヤ人は,キリストを殺した裏切り者だ(この俗説は教皇庁によって否定されている) ,貪欲な金融資本家だ(非ユダヤ人でも金融資本家はいる),このような反ユダヤの人種民族的偏見,すなわちアンチ・セミティズムAnti-Semitismが,プロパガンダで広められた。自動車のフォード社を創設したフォードも,反ユダヤ主義の見解を表明していた。反ユダヤ主義のような人種民族差別は,決してナチスドイツによるものばかりではなかった。ロシア,ポーランド,オーストリア=ハンガリー帝国,スペイン,フランス,アメリカでもアンチ・セミティズムAnti-Semitismの偏見は,一部の人々に根強く残っていた。一流のビジネスマン,政治かも,普通の市民も,意識しないうちに,人種民族差別の偏見を植えつけられているのかもしれない。

アジア、アフリカに対する帝国主義的な侵略は、当時は、文明化されていない野蛮人、土人に対する教化の一環であり、アジア、アフリカの人々を未開人として差別した。 米国は、英仏に遅れて、帝国主義的な政策を採用し、マニフェスト・デスティニー(必然的な天命)として,膨張してゆく。この語句は、1845年、テキサスのアメリカへの併合を主張するジョン・オサリバンが使用したが、アメリカ大陸東部から入植地が開拓され、それが西進して太平洋にまで達する膨張主義を正当化した。

アメリカは,19世紀にメキシコ領テキサスに侵入し、1846年メキシコ=アメリカ戦争(米墨戦争)を起こし,にカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドをメキシコに割譲させ,アメリカ領に組み入れた。

1889年、キューバの独立を支援すると称して、スペイン=アメリカ戦争(米西戦争)が起こった。スペインの植民地フィリピンに対しても、アメリカは攻撃を仕掛け,キューバとプエルト・リコを保護国となした。アジアでは、フィリピンが米植民地、グアム島が米領となった。アメリカ・スペイン戦争に際して、米軍と共に戦ってきたフィリピンは、1899年1月1日、エミリオ・アギナルドを大統領として独立を宣言したが、アメリカはフィリピン人の民族自決を認めず、反乱として鎮圧した。
ただし,帝国主義の英仏米でも、民主主義の普及と共に20世紀前半には、マーク・トウェインのように、フィリピンの併合に反対した市民もいた。  

第一次世界大戦では、戦闘員たる兵士だけではなく、後方・銃後の非戦闘員・市民・子供も、工場労働,農作業、資源節約を通して戦争に協力した。戦争は,軍民が一体となって戦う総力戦となったのである。総力戦を戦うために、戦争の大義がつくりだされ、世論形成のために,新聞、雑誌などメディアを活用たプロパガンダが行われた。

1.日清戦争の発端は,朝鮮半島を巡る日本と中国清朝の対立だった。日清戦争に勝利した日本は,台湾,澎湖諸島を領有し,朝鮮半島を勢力圏に置いた。日本も帝国主義諸国の仲間入りを果たした。このような時代に,周樹人は,中国の官費留学生として日本にやってきた。後の魯迅その人である。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「明治27年5月1日,我軍九里島虎山九連城ヲ占領,我兵ノ勇猛ヲ世界ニ誇ルニ足ル」MIT Visualizing Cultures引用。1894年5月1日,中国の九連城を攻略した日本軍。

朝鮮半島の李氏朝鮮は1392年に建国し500年以上続いた由緒ある王朝だった。李成桂は1393年に中国明朝から「権知朝鮮国事」として朝鮮王に封ぜられて国号を朝鮮と定めた。これは,朝鮮半島が,中国に服属する冊封体制に入ったことを意味した。

1592年の文禄の役では,豊臣秀吉の派遣した日本軍に国土を制圧された。しかし,占領地では,義兵による抗日武装闘争がおこった。さらに,明の遠征軍が朝鮮半島に派遣され,日本と明は休戦した。
1597年、日本は再び朝鮮半島へ出兵して,慶長の役が起こったが,秀吉の死去に伴って,日本軍は撤兵した。朝鮮半島に外国軍が出現するのは,1845-46年英仏海軍が来朝したときである。

20世紀の初め,アジアの内紛,残虐行為の頻発のため,列国はアジアを軽蔑し,あるいは指導する地位にあると考えた。アジアの平和と繁栄のためにも,列国の介入は当然であるとして,行動した。

1937年7月7日の盧溝橋Marco Polo bridge事件は,北京(首都でないので正式には北平)の郊外に駐屯していた日本軍と中国軍の一時的な武力紛争である。きっかけは,日中両軍接近している中で夜間演習中に日本兵1名が行方不明になり(後日帰還),その捜索のために,日本軍が北京市内(城内)に突入しようとしたためである。北京郊外に日本軍がいたのは,義和団事件後に国際的に認められた軍隊駐屯権があったためである。

義和団事件・北清事変において清朝を敗北させた列国八カ国は,4憶5千万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させるという駐屯権を獲得した。このとき,地理的にも近かった日本は,列国の中で派兵数も多かったが,国際協調(=列国への追随)を行っていたため,批判されるどころか,小国なのに多大な国際貢献をしたと評価された。日本の歴史学者でも,中国に派兵した日本は軍紀厳正で,よく任務を全うした,列国からもお褒めの言葉を賜った--ことを持ち上げる方がいるほどだ。

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪であり,公開の場で,残虐な処刑をされていた。これは,目を覆っても気分が悪くなるような処刑である。例えば,1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,ゆっくりと切り刻んで殺害したりする,とても目視できないような残虐な方法で処刑された。出典にも”A man committed a crime for murdering a royal family member. He was first sentenced to death by "lighten the heavenly torch" (burn to death), but the emperor thought it would be more "human" to just cut him to death. This cruel penalty was called "Ling-Chi", the person would be cut live then slowly die, the executioner had to avoid the primary blood vessels so the poor guy would not die too quickly from bleeding (if the man died too quickly the executioner might receive a death penalty too!). The record showed some of this penalty might last 20 days before the person punished died ."とある。

処刑執行者も好き好んで残虐な殺害をするものばかりではないであろうが,制度,組織の中で,そのような残虐な処刑を執行するように言い渡されれば逆らえない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行されている。清朝は,八カ国連合軍に対して宣戦布告したのを後悔し,列国にへつらうかのように,義和団関係者に過酷な処置をとった。捕らえられた容疑者は,裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。


絵葉書(左):首枷を付けさらされる罪人
(上海,撮影は1901年頃か)(右):1911年辛亥革命の惨禍;「12月3日夜半,街において叛徒に虐殺された」と日本語の解説が下についている。差出印は天津。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。忌むべき風流が蔓延していると。

中国では,外国人が行政権と警察権を握っていた地域,すなわち租界がアヘン戦争以来,大都市,開港場各地に設けられた。これは,治外法権の当てはまる地域である。また,中国から鉄道敷設権を得た国は,鉄道付属地を租界と同じようにみなしていた。そこで,列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき400-1000名程度の小規模な警備兵力を,駐屯権の枠組みで認めさせた。

日清露戦争の浮世絵(右)「奉天府遠望 日軍露営ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。日清戦争の戦場は,当初の朝鮮半島から,中国東北地方(満州)に移った。

李王朝は,甲午農民戦争の鎮圧後,日清両軍の撤兵を要請したが、日清両軍とも駐屯を続けた。日本は、自国の安全を保つために、朝鮮の中立を望むと主張した。そして,李王朝は、官僚腐敗と国土の荒廃、清国・ロシアの脅威で国家主権の保持は危ういと決め付けて,もはや国家の独立を維持するだけの国力を保持していないと,日本の勢力圏の下におくことを正当化した。こうして,日本と清朝の間のバランスをとった外交を展開していた李氏朝鮮は,窮地に立たされた。

閔妃は,日本の勢力をけん制するためにロシアに接近したが,1895年,日本人浪士と朝鮮の親日派はテロによって閔妃が殺害した。王の高宗は,1896年、ロシア領事館に亡命したが,この臆病な行動によって,王朝の権威は失墜し、外国勢力の内政干渉が激化した。

日本は朝鮮半島を清朝の勢力を排除しようとして,軍事力を背景に、李氏朝鮮に親日政府を組織させた。清朝の李氏朝鮮への影響力排除を,朝鮮半島の中立・独立を大義名分に,推し進めようとしたのである。清は,李王朝の宗主国として,日本の介入を許さず,日中の対立が激化した。

日清露戦争の浮世絵(右)「清国旗艦沈没」MIT Visualizing Cultures引用。日本海軍旗を掲げた小型の水雷艇が肉薄し,清国戦艦を撃沈。1894年9月16日,日本海軍の連合艦隊は,豊島沖を出港、翌17日,海洋島に煤煙をあげる清国艦隊を発見。連合艦隊旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊旗艦「定遠」以下14隻と交戦した。これが,日清戦争の最大の海戦「黄海の海戦」である。日本艦は損傷4隻,清国艦隊は撃沈5隻,損傷6隻だった。

1894年7月,日清戦争が勃発,宣戦布告は9月だった。日本陸軍は,9月中に平壌を攻略、黄海海戦で清朝艦隊を撃滅した。連合艦隊司令長官伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻、清国艦隊は丁女昌提督率いる旗艦「定遠」以下14隻と黄海の海戦を戦った。日本艦は損傷4隻で,清国艦5隻を撃沈,6隻を破損させ勝利した。

日本軍は,朝鮮半島を超えて,11月,中国の遼東半島の旅順・大連を攻略した。1895年3月には,下関講和中だったにもかかわらず,日本軍は、澎湖諸島を占領し,台湾領有の足がかりを作った。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「樺山軍令部長 西京丸ヲモッテ敵艦ニ当タル」MIT Visualizing Cultures引用。1894年10月。オークションでは1万6500円。黄海海戦では,樺山軍令部長は西京丸に乗っていた。Adachi Ginkô Fukuda Kumajirô Kabayama, the Head of the Naval Commanding Staff, onboard Seikyômaru, Attacks Enemy Ships (Kabayama gunreibuchô Seikyômaru o motte tekikan ni ataru) Ukiyo-e print 1894 (Meiji 27), October

1895年4月,日本は,日清戦争に勝利し、朝鮮半島での清朝(中国)に対する優越的地位を獲得した。そして,下関条約では,清国は朝鮮の独立を確認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億両(3億円)、沙市・重慶・蘇州・杭州の開港を認めた。遼東半島の割譲は,即座に独仏露の三国干渉を呼び起こした。5月,日本は,外圧を恐れて,遼東半島を中国に返還した。

ロシアは,日清戦争後の1898年3月,旅順,大連の租借権,ハルピン・旅順間の鉄道敷設権を獲得した。首相伊藤博文は,4月,外相西徳二郎にロシア外相のRoman Rosen ロマン・ローゼンと西ローゼン協定を結ばせ,大韓帝国の内政不干渉、大韓帝国の軍事・財政顧問派遣につき事前承認に合意した。日本に放棄させた遼東半島を奪い取ったとして,日本国民はロシアを恨んだ。

日清戦争後の1895年下関条約によって,清は,朝鮮が独立国であることを認めた。清は,李氏朝鮮からの貢・献上・典礼等を廃止。しかし,李氏朝鮮では,清の冊封体制から離脱した以上,李氏朝鮮を称することは望ましくないと考えられた。1896年,グレゴリオ暦へ改暦し元号を「建陽」と改元し,1897年,国号を大韓と改め、李氏王朝の王・高宗は,皇帝に即位。清の冊封体制にあることを示す清朝皇帝施設の「迎恩門」「大清皇帝功徳碑」を撤去,「独立門」を作った。

日清露戦争の浮世絵木版画(右)「日清両国ノ大官,公命ヲ全フシテ能ク平和ノ局を結ブ」MIT Visualizing Cultures引用。下関条約によって,日本は賠償金のほかに,台湾,遼東半島を領土とし,朝鮮半島を勢力化に組み込んだ。Ogata Gekkô Japanese and Chinese Dignitaries Accomplish Their Missions in Successfully Concluding a Peace Treaty (Nisshin ryôkoku no taikan kômei o mattoshite yoku heiwa no kyoku o musubu) Ukiyo-e print 1895 (Meiji 28) Woodblock print (nishiki-e); ink and color on paper Vertical ôban triptych Museum of Fine Arts, Bostonボストン美術館所蔵。

1900年,義和団事件では,日本は八カ国連合軍の主力として,陸軍部隊を中国に派遣し,義和団を制圧した。この時,ロシアは,敗残兵掃討,租借地・鉄道防衛のために満州に派兵。1901年9月の北京議定書にもとづいて,各国は,北京占領後,敗残兵掃討を名目に満州に派兵,租借地,鉄道防衛のために,軍を常時駐屯させた。しかし,ロシア軍の満州駐屯は,米国務長官ジョン・ヘイのOpen Door Policy門戸開放宣言(1899年)に反する行動とみなされた。そこで,英米日は,ロシアに撤兵を要求し,元首相伊藤博文は、12月,日露協定の交渉に入ったが,合意はならなかった。

他方,ロシアは、日本の大韓帝国への投資を妨害しないこと、日本は,ロシアが満州を勢力範囲に置くことを認めた。日露両国は,極東の勢力範囲を,その住民や主権者にお構いなく,分割した。

青空文庫魯迅『薬』:一九一九年四月:底本「魯迅全集」改造社,1932年11月)で斬首される罪人は,秋瑾クイジン(1875-1907)で,魯迅と同じく,浙江省紹興府出身の女性革命家(父の赴任していた福建省廈門の生れ)。1904年(明治37年)、日本留学。魯迅と同じく、弘文学院で日本語を習い、後に青山実践女学校で教育・工芸・看護学・武術を学ぶ。1905年9月、孫文が主導する中国同盟会に加わり,反清朝の革命を志す。

革命を警戒した清朝は,日本政府に、留学中の中国人による革命運動取締りを求めた。これが,1905年11月の清国留学生取締規定で,これに反発した中国人日本留学生は,授業ボイコットをし,一斉退学の示威行動を計画された。

日本留学中の秋瑾は,短刀を示し、一斉退学を促したが,実際に中国へ帰国した留学生はそれほど多くはなかったようだ。しかし,革命を志す秋瑾は、1905年12月,帰国し浙江省紹興で,光復会による革命運動を指導した。秋瑾は,大通学堂で,革命党光復会の革命家を育成し、軍事訓練,革命軍の組織化を行った。
1907年5月、革命党光復会による主導の革命武装蜂起が実行に移されたが,失敗し,秋瑾は7月に斬首された。

反清朝の革命家・夏家の倅は罪人として斬首されたが,その犠牲を利己的に利用とした庶民は,自らの死ぬ運命を避けることはできなかった。社会改革を志した革命家に対する魯迅のの同調の背後には,革命の必要性を理解せず,その犠牲を食い物にしようとする無理解,社会の無関心さ,庶民の傍観的態度,無知蒙昧への魯迅の焦燥感が感じられる。

◆魯迅『薬』では,革命家の志を理解できない者は,土饅頭の墓に埋められるだけだが,革命家の墓には,花が咲いた。これは,魯迅が,革命家の志と行動力を高く評価していると同時に,革命・社会主義に希望を持ち続けていることの現れでもある。魯迅は『故郷』(1921年)の末尾を「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。」と結んだ。

1902年1月,日本は,日英同盟を結び,独仏によるロシアへの軍事支援を抑止した。そして,1903年8月,イギリスの諒解を得て,日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を勢力範囲とする日露交渉をした。ロシアは,10年来蔵相を務めた不戦派セルゲイ・ウィッテを辞職させ,10月,北緯39度以北を中立地帯とする南北朝鮮分割案を日本に提起。

2.中国では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰が横行していた。、米英仏日など列国の駐屯軍も,中国であるいは,植民地で残虐行為に及ぶこともあった。これらは,人種民族あるいは身分による差別があったことを反映している。基本的人権が認められない人種民族・身分があった。

写真(右):中国官憲による晒し刑(1900年頃);このまま死ぬまで放置されるという。罪人の処罰を公開することで,犯罪抑止力を期待している。しかし,庶民に向けて,権威の恐ろしさを知らしめて,従順にして服従させる意味もある。これは,庶民への威嚇効果を期待してのことである。

南京事件(南京大屠殺)については,事件直後から,当時の雑誌は、日本軍の残虐行為として,国際的に非難し,各地の日本領事館も南京事件の反響を本省に通報した。戦後裁判では事件関係者が処刑された。日本軍部内部でも「行き過ぎ」を憂慮していた。

義和団事件に出動した八カ国連合軍は残虐行為を見物し,自ら行った。日露戦争では,日本はキリスト教国の英米仏へ配慮して,戦略的にロシアの捕虜を厚遇したが、日清戦争では必ずしもそうではない。

本webでは,「中国・朝鮮における残虐行為」を見直して,戦争の中では,誰もが残虐行為を起こしえたこと明らかにしたい。残虐行為は,民族性や国民性という単純なカテゴリー分けで片付けることはできない。


(左):首枷を付けて晒される罪人(1900年頃);晒し者(さらしもの)にする公開処刑は罪人を更生するのではなく,見せしめにして民衆を抑圧する。死ぬまで放置されるという。権力の崩壊,新たな権威の確立を誇示する目的でも,公開処刑が行われた。21世紀でも処刑は,敵対する人種民族あるいは特定身分集団に対する強烈なプロパガンダとなる。

1898年義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦した。しかし、北京の大使館を包囲したが清朝軍は、7万名(うち日本軍は1万3000名)の八カ国連合軍の反撃にあい、1901年に降伏。

清朝を敗北させた列強八カ国は,賠償金,公使館区域、防衛のために軍駐屯権を獲得した。中国人に対する人種民族差別は,中国人への過酷な対処に現れている。

写真(右):1900年頃の中国での罪人の晒し刑;罪人を晒して,権威に反抗する無謀さを,民衆に教え込むのが目的である。治安対策の一環として,残虐な処刑が行われた。

1900-1901年の北清事変では,八カ国連合軍が,北京など中国各地を占領。中国の地方政府や官憲の協力を得て,義和団加盟者、反政府的人物、罪人を処刑し,治安を安定化しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,ナショナリズムや社会主義思想を徐々に警戒し始めた頃の話である。ロシア革命前で,反共白色テロではないが,中国や朝鮮の排外主義者,ナショナリストは、暴徒、邪教崇拝者、反逆者として,処刑された。中国,韓国などアジア人種民族にたいしては,人権意識が働かなかった。これは,文明を理解できない野蛮なアジア人という人種民族差別がなせる業である。

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪で,公開処刑された。1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,切り刻んで殺害したりする,正視できない方法で処刑された。出典にはこうある。”A man committed a crime for murdering a royal family member. He was first sentenced to death by "lighten the heavenly torch" (burn to death), but the emperor thought it would be more "human" to just cut him to death. This cruel penalty was called "Ling-Chi", the person would be cut live then slowly die, the executioner had to avoid the primary blood vessels so the poor guy would not die too quickly from bleeding (if the man died too quickly the executioner might receive a death penalty too!). The record showed some of this penalty might last 20 days before the person punished died ."

処刑執行者も好んで残虐な殺害したわけではないが,組織の中で,残虐な処刑を執行を明示されれば、逆らうことはできない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行された。軍隊や処刑部隊に配属された人間が、自分の意思で処刑することを拒否することはできない。決して、民族性から残虐な処刑を好んだと単純化することはできない。日本人だろうとアメリカ人だろうと,文明を理解できない野蛮なアジア人という人種民族差別がつよければ,人道的な扱いは期待できなかった。慈悲,憐憫があればいいほうだった。


写真(上):義和団事件関係者と思われる公開斬首(1900年頃?);出典には「中国の野蛮な処刑(1894年撮影)」とある。1894年は日清戦争の時であるが、中国人が中国人を処刑しており、他の出所も考慮すると、義和団事件関係者が中国官憲によって公開斬首された時のものであろう。手は後ろに縛られ,足枷をかけられた。重罪人は斬首され,死体も見せしめに晒された。

清朝は,八カ国連合軍に宣戦布告したのを後悔し,取り繕うために義和団関係者に残虐な処刑を執行した。君子は豹変す、である。捕らえられた容疑者は,適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。

写真(右):1900年頃の中国での処刑;フランス領インドシナで使用された絵葉書。フランス領インドシナに派遣されてたフランス官憲や軍人、その家族も残虐行為に見慣れていたわけではないだろう。珍しい「凄い見もの」だから「蛮行」の写真絵葉書を購入し、知人に郵送した。CHINA - Execution of a Chinese man at Nam Quan (Postally Used Postcard in French Indochina). $80.00

晒し者(さらしもの)にする公開処刑は,罪人の更生を期待するのではなく,反抗する民衆を抑圧する目的がある。

残虐行為を公認すれば,アジアは「野蛮」であるとして,中国政府と中国人を軽蔑する外国人も増える。他方,野蛮なアジアを,平和な文明国に作り変えるのが,列国の役割,キリスト者の義務であるという驕りも生まれた。

写真(左):中国官憲による斬首(1900年頃);CHINA - Beheading a native (Real photo, Unused Postcard). $80.00 このような絵葉書が世界に出回っていたのが20世紀前半の状況である。人権を無視した行為も、敵・悪・罪とされれば、当然のように晒されたのである。世界各地の極刑は死刑であり、なかには死に至らしめるまで、苦しめたり,晒したりする処刑もあった。

罪人に対する処刑も残虐であったが,革命家や民族主義者も反社会的で,惨禍を招く犯罪者として認識されており,残虐な刑罰も正当化された。人権意識がなく,人権が擁護されていなかった時期,犯罪者は厳罰に処された。この厳罰主義は,1937年の南京事件にも関連してくる。

現代の視点では,斬首やさらし首のような刑罰は,非人道的であり,公開処刑にも抵抗がある。マスメディアの報道でも,死体や血を公開する画像は,日本では公開されないのが普通である。小学校での解剖実習も,フナのような魚であっても,行わなくなりつつある。生物に対する損傷は,生命の繋がりを断ち切る行為として,残虐であるとされる。これは,命を絶たれ,傷つけられるものが,罪人,犯罪者であっても同じである。しかし,解剖になれた医師や看護師は別の感性をもつこともある。慣れてしまえば,人体を扱うことに抵抗はほとんどなくなるとも言われる。あるいは強い義務感から,嘔吐を起こさないような感情に変化するともいわれる。


写真(上):1898-1901年義和団事件の容疑者処刑
;北京1900-1901年頃撮影。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。しかし,自ら処刑したり,中国官憲の処刑を見物したりして楽しんでいた。ジョナサンスペンス『中国の世紀』大月書店によるキャプションは「即刻処刑 救援軍の外国の軍人と清朝の兵士が処刑された義和団の首のない死体の横に立っている。日本の軍人は刀の血をぬぐっている。」

写真(右):捕らえられた中国人(1900年頃);義和団事件関係者が外国軍(八カ国連合軍)に捕らえられた。手足が動けないように袋詰めにされた。1898年の義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦,北京の大使館を攻撃,包囲する。しかし,日本軍1万3000名など7万名の八カ国連合軍の攻撃を受け,清朝は降伏。この戦争は,日本では北清事変とも呼ばれる。

中国人の残虐性を指摘する人もいる。北清事変における華北の通州での日本人惨殺,盧溝橋事件後の通州での日本人惨殺などである。しかし,義和団事件における米英仏日など列国の義和団参加者への処刑,朝鮮半島での反日活動や朝鮮独立運動参加者への弾圧をみれば,米英仏日など列国も残虐である。 

文明開化を唱えた福沢諭吉は1885年から脱亜論を主張した。「不幸なるは近隣に国あり」として清朝と李氏朝鮮を儒教を墨守する旧態依然とした古い封建国家として批判し、「今の文明東漸の風潮」に際し、独立を維持することはできない非文明国と断じた。福沢諭吉は、中国・韓国のような「悪友」を謝絶し、列強の帝国主義政策に対抗して、日本の独立を維持する文明開化を推し進める道を模索した。これが日本がアジアを脱し、欧米列国と共にアジアを教化する帝国主義と結びついたのは、皮肉である。

20世紀は戦争の時代であるが、その思想的背景の一つは、帝国主義である。帝国主義とは、強大な軍事力によって、威嚇や侵略を進めて、他国を征服し、属国としたり、領土を併合したりして、主権を奪い支配すること、つまり植民地獲得を中核とする、覇権主義である。そして、植民地の資源エネルギー、労働力を搾取して、本国の国益として、吸い上げてしまう点に着目すれば、帝国主義は植民地主義とも並び称される。

ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、資本主義が大企業による独占段階に入り、世界市場を獲得し、国内で飽和した資本を国外に投下するために、植民地を求めると考え、帝国主義を資本主義の発展段階として理解したようだ。
 しかし、帝国主義や植民地主義が、他の国民を隷属させ、人権を侵害する悪の思想であるとの認識は20世紀初頭には、あまりなかった。それどころか、文明の及ばない無知蒙昧な民族を教化する、内紛の耐えない紛争地域に秩序と安定をもたらすとして、世界の福利厚生を向上させ、平和と繁栄をもたらす恩恵的リーダーシップ論として、帝国市民に肯定的に理解され、支持されていた。そこで、外交使節を殺害し、公使館を攻撃するなど野蛮な行為を続けた義和団は暴徒であり、排外的な行動を取り、列国に宣戦布告した清朝は、野蛮な専制国家であるとされ、制裁の対象となった。帝国主義戦争は、自国の権威・文化・思想を拡張し、平和と安定を追求する行為であり、決して悪とは認識されなかった。

 実際、帝国主義者は、被支配者を鷹揚に弱者、哀れな者、貧困者として処遇した。キリスト教の教義や、王室への忠誠といった正当化された思想と帝国主義とは、独占資本だけではなく、市民の要求とも調和するものであった。鉄道・電線を敷設し、学校・病院を建設し、資源を開発し、農業を振興した。植民地を近代化して、恩恵をもたらしていると考えた。ただし、産業近代化の利益は、本国の帝国主義者が吸い上げてしまったし、被支配者には、基本的人権すら認めなかった。

3.アメリカの帝国主義による中国・フィリピンへの侵略では,独立派の中国人・フィリピン人を反乱者として処罰した。

写真(右):拷問台のフィリピン人(1899年);マニラの監獄は,スペイン,ついで米国によって運営された。Execution Chamber and Garrote, Manila, 1899, C.H. Graves (courtesy of Keystone-Mast Photographic Archive)

1899年、フィリピンのエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)は独立宣言したが、米軍は反乱として鎮圧した。カトリック国のフィリピンでも南部ミンダナオ島、ホロ島などは、ムスリムの多い地域である。アメリカ支配に反抗するムスリムも、米軍の前に鎮圧され、降伏した。「フィリピンの反乱」は、独立、民族の誇りをかけたナショナリズムという側面と人権弾圧に抵抗する革命という側面が見て取れる。しかし、反乱に失敗すれば、虐殺されるか、降伏して勝者に慈悲を請うしかない。

アメリカは、フィリピンでのサトウキビ、ココナツ油、パイナップル、タバコなど一次産品の生産を進めると共に、キリスト教化がスペイン時代に済んでいたことをふまえて、英語によるアメリカ式教育を施し、思想文化のアメリカ化を図った。ただし,ミンダナオ地域のムスリムの多くは,アメリカ支配に抵抗した。

アジア、アフリカに対する帝国主義的な侵略は、当時は、文明化されていない野蛮人、土人に対する教化の一環であり、アジア、アフリカを文明国とはみなさないような状況では、そこで暮らす人々も文明人とは見なされなくなってしまう。 米国は、英仏に遅れて、帝国主義的な政策を採用したが、これは、マニフェスト・デスティニー(必然的な天命)として理解された。この語句は、1845年、テキサスのアメリカへの併合を主張するジョン・オサリバンが使用したが、アメリカ大陸東部から入植地が開拓され、それが西進して太平洋にまで達する膨張主義を正当化した。この西進の過程で、アメリカは、メキシコ、スペインと領土争いをした。 中南米諸国は、スペイン植民地支配に対して、19世紀に欧州移民の子孫であるメスチーソを中心に独立戦争を戦った。そして、独立を勝ち得ていた。しかし、アメリカ大陸の南西部では、アメリカがメキシコ領テキサスに侵入し、ついで1846年メキシコ=アメリカ戦争(米墨戦争)が勃発した。メキシコは敗北し、1848年のガダルーペ・イダルゴ条約では、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラドを割譲した。

1889年、キューバの独立を支援すると称して、スペイン=アメリカ戦争(米西戦争が起こった。スペインの植民地フィリピンに対しても、アメリカは攻撃を仕掛けた。1898年のパリ講和条約で、アメリカは、キューバとプエルト・リコを保護国となした。現在でもキューバのグァンタナモは米領、プエルト・リコは米自治領である。また、アジアでは、フィリピンが米植民地、グアム島が米領となった。アメリカ・スペイン戦争に際して、米軍と共に戦ってきたフィリピンは、1899年1月1日、エミリオ・アギナルドを大統領として独立を宣言したが、アメリカは独立を認めず、反乱として鎮圧した。
帝国主義の先進国である英仏米では、民主主義の普及と共に20世紀前半には、帝国主義への批判が起こった。マーク・トウェインも、フィリピンの併合に反対した。-----

4.日本では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰も残っていた上に,特別高等警察が組織され,治安維持法違反に対する拷問・過酷な処罰が横行していた。また,思想犯,政治犯には厳罰をもって臨んでいた。犯罪者,反乱分子という言葉は,イデオロギーだけではなく,為政者・権力者が指定した人種民族あるいは平民以下の庶民という身分に基づく差別にも由来している。

残虐な処刑は,日本国内でも古くからあったが、江戸時代の斬首,磔刑,拷問は、明治になって,廃止された。しかし,佐賀の乱など士族の叛乱を鎮圧した後には,江藤新平など多数の謀反人が,晒し首に処せられた。

 不平士族の反乱「佐賀の乱」(1874年)は,政府軍により鎮圧。江藤新平ら幹部は逃亡したが、土佐で警察に捕らえられ、佐賀裁判所に送られた。江藤新平の政敵大久保利通は、全権(行政権・軍事権・司法権)を委任されて裁断の場に自ら赴き、「除族の上、斬首晒し首」と判決。士族の身分を剥奪、斬首、首を晒す。1874年4月13日,江藤新平胤雄(たねお)は41歳で判決同日に処刑。 これは江藤が作った法律(新典)にはない旧法による判決で,過酷な特別処置である。

写真(右):斬首晒し首に処せられた江藤新平(1874年4月);司法卿も勤めた明治維新の活躍者だが,佐賀の乱の主導者として過酷な処刑をされた。日本国内でも明治時代になっても重罪者には見せしめに過酷な刑に処していた。

 当時は,過酷な刑罰は,権力や国家に反抗する謀反人には当然で、残忍な処刑をしないと,政府の権力保持が困難になると思われた。犯罪者の矯正には関心がなく厳罰主義が横行していた。

日露戦争後,ロシアに遠慮なく、日本軍は,併合に障害になる朝鮮軍を無力化した。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,これに抵抗して朝鮮軍は,日本軍と衝突し,1907年には民衆も巻き込んで大規模な義兵闘争が起こった。朝鮮側も日本側も,お互いをしばしばテロ・処刑の対象にした。


写真(上):朝鮮の反日活動参加者の処刑
:1907年。出典には「日本軍は,朝鮮抗日運動の闘士を鎮圧した。Japanese troops are used to combat the Korean resistance movement fighter.」とある。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。日本国内でも,佐賀の乱の江藤新平など日本人叛乱首謀者には,斬首・晒し首のような残虐な処刑を特別に課した。もちろん,朝鮮の反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争まで,捕虜を厚遇したように言われるが,朝鮮での反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。

列国では,中国人の残虐性,中国は人権に配慮しない「野蛮な国」であるという悪評,軽蔑が当時広まっていた。その野蛮な国を平和な文明国に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,(思い上がった)気持ちも生まれた。日本も,アジアから抜け出て米英列国の仲間入りを目指す。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉も「脱亜論」(亜細亜を脱して,列国に仲間入り)を国是とすべきと考えていた。

ロシア・中国の影響力排除を目的に,日本は朝鮮半島を勢力範囲下に置こうとした。しかし,韓国人の立場に配慮しない日本の半島進出は,韓国人の抵抗運動に直面する。そこで,日本は日露戦争後,ロシアに遠慮なく駐留していた日本軍を使って,併合に障害になる朝鮮軍を無力化しようとした。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,朝鮮軍は名誉を重んじ,義兵闘争を戦った。1907年には民衆も巻き込んで大規模な反乱が起こった。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。もちろん,大規模な反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争までは,国際法に基づいて捕虜を待遇したように言われるが,併合しようとした朝鮮での反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。三一朝鮮独立運動の参加者の処刑(1919年3月1日)に参加した朝鮮人1万8000名が1919年10月までに投獄された。

併合された朝鮮は日本領であり,「植民地でなく,日本と同じである」とも抗弁される。しかし,韓国人に(朝鮮在住の日本人には適用される)大日本帝国憲法の規定は適用されない。帝国議会への韓国人参政権もない。憲法における兵役,教育から,会社法,不動産法規,株取引,商店経営でも,韓国人の権利は日本人より劣位に置かれた。

1910年の朝鮮併合の後,朝鮮語の使用禁止,創氏改名など朝鮮文化の否定,民族アイデンティティ粉砕が行われ,朝鮮王族には必ずしも支持をしてこなかった人々までも,朝鮮独立運動を支持するようになる。王党派,民族主義者から社会主義者まで,広い階層に支持を得た独立運動,義兵闘争がおこった。日本軍は,反乱が二度とおきないように,抵抗運動の撲滅,反日活動家の殲滅を図る。敵対者や潜在的敵対者を,公開処刑したのである。日本軍は,反抗が二度とおきないように,抵抗運動の撲滅,反日活動家の殲滅を図る。敵対者や潜在的敵対者を,適切な手続きを経ないまま,見せしめに処刑した。

独立運動の弾圧は,民族主義の熱にうかされて反乱という熱病が広まらないようにする予防戦争ともなった。つまり,反乱の参加者だけではなく,反乱に参加しそうな人物,反日適人物まで,処罰する事前の反乱予防措置である。
こうして中国,朝鮮,日本では人権に配慮しない残虐行為が横行した。こうして,列国は,ますますアジアを軽蔑し,野蛮なアジアに平和な文明をもららすのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという(思い上がった)気持ちも強まった。中国人として,庶民の社会的無関心,傍観者的態度を批判した魯迅も,欧米列国の大儀「文明の衝突」を信じたわけではなかったであろう。

1919年3月1日の三一独立運動など,併合した後も朝鮮では民族運動が生じた。三一独立運動に参加した朝鮮人のうち,1万8000名が1919年10月までに投獄、処罰の対象とされたという。

写真(右):朝鮮の反日運動容疑者の処刑:1907年撮影。出典には「日本軍は,抵抗運動の容疑者をしばしばテロの対象にした。Japanese occupation troops frequently engage in terror tactics, executing anyone suspected of being involved with the resistance. 」とある。

併合された朝鮮は日本領であり,「植民地でなく,日本と同じである」と抗弁する方もいる。しかし,朝鮮の人々に(朝鮮の日本人には適用される)大日本帝国憲法の規定は適用されない。だから,朝鮮人に選挙権はない。帝国議会に選出された朝鮮人代表者は一人もいない。日本人のもっていた参政権,兵役,教育の権利は適用されない。公用語以外でも、韓国語の出版は許されなかった。(「外国語」の英語などの出版は可。)会社法,不動産法規,株取引,商店経営などでも,朝鮮人は差別された。

朝鮮植民地化の中で,朝鮮人尹奉吉(ユン・ポンギル)(1908年6月21日 - 1932年12月19日)のように、韓人愛国党に入党して,抗日テロを成功させた人物もいる。彼は1932年4月29日天長節(天皇誕生日),上海の日本人居留区での祝賀式典に,爆弾テロを仕掛けた。そして,上海派遣軍司令官陸軍大将白川義則、上海日本人居留民団行政委員長河端貞次を殺害し、第3艦隊司令長官海軍中将野村吉三郎、第9師団長陸軍中将植田謙吉、上海駐在総領事村井、上海駐在公使重光葵らが重傷を負わせた。現行犯逮捕された尹奉吉は、1932年5月25日上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受け、12月19日陸軍第9師団の駐屯地金沢市の練兵場で銃殺。尹奉吉は,日本側からは爆弾テロリストであるが,朝鮮側から見れば独立闘争を戦った英雄である(⇒1932年上海爆弾テロ映像)。

独立運動弾圧では、反乱参加者だけではなく,反乱に参加する恐れのある人物,反日的傾向の人物まで,事前に弾圧した。「反乱の芽は、小さなうちに摘み取る」のが予防戦争である。

中国,朝鮮,日本では人権に配慮しない「蛮行」が横行する。このような悪評,風評が列国に広まり,アジアは「野蛮な国」と軽蔑される。野蛮な国を「平和な文明国」に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,思い上がりも生まれる。欧米列国のアジア、アフリカ植民地における残虐行為は、棚上げにされる一方で、アジア人、アフリカ人の残虐行為だけが、非難の対象となった。

日本は,野蛮なアジア人から抜け出て欧米人の仲間入りを目指す。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉は「脱亜論」(アジアを脱して,文明国に仲間入り)を国是とすべきと考えた。他方,文明国にふさわしい刑罰を定めるため、斬首や晒しなど、残虐な処刑は、穏当な方法に変更された。

5.日本は,日露戦争で,朝鮮半島を勢力圏に組み込もうとした。これは,朝鮮の独立維持という名目の下の軍事行動である。日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木(いしかわたくぼく)は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。

日露戦争の浮世絵(右)「大日本帝国海軍大勝利」MIT Visualizing Cultures引用。沈没寸前のロシア艦上の将兵。ボストン美術館所蔵。

日本は、ロシア動員前に攻撃をしようと,1904年2月4日、明治天皇臨席の御前会議で開戦を決定,6日,外相小村寿太郎はロシア駐日公使ローゼンに国交断絶を宣告した。

1904年2月8日,日本陸軍は,朝鮮半島仁川に上陸,海軍は付近のロシア艦と交戦した後,9日,明治天皇の宣戦詔勅が渙発された。大韓帝国での日本軍の自由行動を定めた日韓議定書(明治37年2月23日)が調印され,翌日,日銀副総裁高橋是清が,戦費調達の外債募集のため,ロンドンに派遣された。
大韓民国は,日露交渉に一切参加を許されず,開戦後,日本軍の自由行動を認めさせられた。日本は,ロシアの東アジア侵略の野望を阻止するためというよりも,満州からロシアを排除し,朝鮮半島を勢力範囲とするために戦ったといえる。

⇒国立公文書館アジア資料センター(http://www.jacar.go.jp)「日露戦争特別展」参照。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)10月31日、十七歳で上京、英語翻訳で生活費を得ようとした。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。

啄木日記
 1902年(明治35年)11月12日
快晴、故山の友への手紙かき初む。
 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む

日露戦争の浮世絵(右)「日露戦争 大日本赤十字野戦病院 負傷者救療ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。囲み絵の露西亜(ロシア)野蛮兵と対比。日清戦争にあって,中国の清朝兵士を過酷に処断した日本軍は,日露戦争ではロシア兵士の恤兵に配慮した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人という文明の衝突ではないという証明のためである。
対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなされれば,処刑された。東北大学医学部に留学していた魯迅も,日露戦争で「第7金州城門破壊の決死工作 第8吉田小隊長石田一等卒敵兵13人を生け捕り」のスライド,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑のスライドを,教室で見た。 


素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』
 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日−19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。
⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると考えていた日本人の中に,魯迅たち中国人留学生がいた。中国東北地方・満州は中国領であるが、ロシアと日本の領土争いは,現地の中国人にお構いなく,戦われた。

1904年(明治37)年6月27日Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』8月7日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。トルストイの訴えは,石川啄木,日本留学中の魯迅も感銘を受けた非戦論である。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「-----戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。----実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。

 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
『日露戦争論(トルストイ)』電子図書館引用)

◆満州軍総司令官大山巌元帥児と軍総参謀長児玉源太郎陸軍中将の下で,第三軍司令官乃木希典陸軍大将は、8月19日、遼東半島の旅順を総攻撃した。しかし、11月までの三次に渡る総攻撃はすべて失敗した。

第一師団軍医部長の日誌には、日本軍兵士は戦傷、脚気、伝染病で「26日来入院総数千4百名、現在77名(うち7名内科)、帰隊230、自傷80」とある。戦意を喪失し、戦場離脱のために自傷行為、発狂が現れた。冬の寒さは甚だしく、兵は「なにをのぎのぎしていやる」と作戦指導の無能さを非難し、兵士と将校の離反が問題となった。

児玉軍総参謀長の督戦到来前、決死の第四次総攻撃で12月5日、203高地を占領した。ステッセル将軍は、食糧不足、負傷者の増大に対処できず、1905年1月1日、降伏軍師を送った(→大濱徹也(2003)『庶民のみた日清・日露戦争−帝国への歩み』刀水書房 参照)。

日露戦争の浮世絵木版凹版画(右)MIT Visualizing Cultures引用。ロシア軍コサック騎兵を撃破する日本陸軍騎兵部隊。ボストン美術館所蔵。

(⇒与謝野晶子の戦争文学参照)

日露戦争の烏森宿泊所における搬送負傷兵の絵はがき(MIT Visualizing Cultures)にあるように,帰還した負傷者には看護婦だけではなく,市民も恤兵(じゆつぺい)に資金,労力を提供した。
 しかし,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とさみなされれば,中国人は処刑され,日本人であれば逮捕された。ロシア人は,外見からロシア人として警戒されたから,スパイ嫌疑で即刻捕まえることができたが,中国人は敵味方の識別が困難だった。戦争に関する物資や言論の統制も,後年ほどには厳しくなかったが,日露戦争反対を公然と唱えたのは,一部の文化人,平民新聞くらいだった。

駅頭で軍隊出立を見送る親類友達が、行く子の手を握って、「無事で帰れ、気を附けよ」「万歳」と言っている。日本の各階層の市民がみな武運長久を願っている。与謝野晶子のいう「まことの心をまことの声」とは武運長久であって,戦争反対ではない。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。文化人晶子は,戦争への動員を受け入れ,銃後の女子として,祖国の助けになりたいと考えた。

  写真(右):石川啄木;(1886年2月20日 - 1912年4月13日)日本の歌人・詩人・評論家。本名 石川一(はじめ)。岩手県玉山村生まれ。盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名)入学。1902年盛岡中学を放校・退学。1905年1月5日、新詩社の新年会に参加。5月、第一詩集『あこがれ』を自費出版(上田敏序詩、与謝野鉄幹跋文)。1909年『スバル』創刊、『東京朝日新聞』校正係となる。ローマ字日記をつけ始める。1910年,第一歌集『一握の砂』刊行。1912年,第二歌集『悲しき玩具』を死後刊行。『ウィキペディア(Wikipedia)』石川啄木参照。

石川啄木は,1907年,北海道の函館,札幌,小樽,釧路と各地の新聞社を転々とした。魯迅の日本留学終了直前の1910年,啄木は『一握の砂』を刊行したが,この時期,日本は韓国(大韓帝国)を日本の植民地とし,それに反対する義兵闘争,独立運動を弾圧した。これは,魯迅にとって,中国における革命弾圧と同様に感じたかもしれない。

1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「---予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。---予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。---」とある。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

日清戦争の浮世絵(右)「平壌大捷 清将三捕ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。朝鮮半島の平壌を陥落させ,清朝の将軍を捕虜とした日本軍。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」

 かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 ---我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。---

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。----

 かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。---。

   かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

  文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

   (青空文庫:底本「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社 1967年 引用)

7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者だった。石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。魯迅も社会改革を目指す社会主義思想には無関心ではなかった。

日清戦争時期の浮世絵(右)明治天皇ご一行。MIT Visualizing Cultures引用。日本陸海軍の最高司令官は,大元帥明治天皇である。最上級の軍装を着用した司令部要員。ボストン美術館所蔵。

石川啄木『所謂今度の事』
----かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

二 ----無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。----しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。
帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等--日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。----新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。--そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。

 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。----
 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

  五 ----凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。-----ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。----  (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

8.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,危険思想であり,日本でも中国でも弾圧された。この時代閉塞の現状に,批判を続けたのが,魯迅だった。

赤旗事件の回顧   堺利彦


 神田錦町の錦輝館(きんきかん)の二階の広間、正面の舞台には伊藤痴遊君が着席して、明智光秀の本能寺襲撃か何かの講演をやってる。それに聞きほれたり、拍手したり、喝采したり、まぜかえしたり、あるいは身につまされた感激の掛け声を送ったりしている者が、婦人や子供をまじえて五、六十人、それが当時の社会主義運動の常連であった。

 ----会はだいたい面白く無事に終わって、散会が宣告された。皆がそろそろ立ちかけた。するとたちまち一群の青年の間に、赤い、大きな、旗がひるがえされた。彼らはその二つの旗を打ち振りつつ、例の○○歌か何か歌いながら、階段を降りて、玄関の方に出て行った。

 ----しかし騒ぎはそれで止まらなかった。巻いた旗が再び自然にほぐれた。巡査らはまたそれに飛びかかった。あちらにも、こちらにも、激しいもみあいが続いた。錦輝館の前通りから一ツ橋通りにかけて、まっ黒な人だかりになった。その中に二つの赤旗がおりおり高くひるがえされたり、すぐにまた引きずりおろされたりした。目の血ばしった青年、片そでのちぎれた若者、振りみだした髪を背になびかせて走っている少女などが、みな口々にワメキ叫んでいた。そして巡査らがいちいちそれを追いまわしたり、引っつかまえたり、ネジふせたりしていた。 (昭和2年6月『太陽』臨時号所載)
(⇒青空文庫:底本「堺利彦全集 第三巻」法律文化社, 1970年発行 引用)

写真(右)日露戦争の従軍看護婦:MIT Visualizing Cultures引用。

平民新聞,その支持する社会主義について,与謝野晶子は「ひらきぶみ」で「下様(しもざま)の下司(げす)」「今時(いまどき)の」「あさまし」い読み物には「身震いがする」といって嫌悪感をあらわにた。他方,石川啄木,芥川龍之介は,当時の社会主義の持つリベラルな側面,現実批判精神,理想主義の側面に多大な関心を示した。魯迅は,当初は清王朝に,後に社会改革を目指す革命に身を投じたり,革命に便乗したりした中国人の作品を書いた。魯迅には,石川啄木「時代閉塞の現状」や芥川龍之介或社会主義者」に同調する部分が見て取れる。天皇を中核とする国体の精華を歌った与謝野晶子とは異質なものが見えてくる。

与謝野晶子 〔無題〕 1927年の祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙未だ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語

   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。

世は変る、変る、
偏すること無く変る
愛と正義の中に変る

   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちと
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ

世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる

陛下は地上の太陽、
唯だ光もておほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界をるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします

   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
れつるは本にかへれ。
ひとの国にはひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
は明けんとす、ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。止めよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。

青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/2558_15785.html)より底本「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社,1980年および「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社,1980年を引用掲載。

日清戦争の浮世絵(右)「日本万歳 百撰百笑」(百戦百勝)MIT Visualizing Cultures引用。悪夢を見る辮髪の中国清朝の要人(李鴻章?)。青軍服の清朝兵士は劣勢で,白軍服の日本軍兵士によって砲撃され,放火される。骸骨の悪魔がすぐそこに迫ってきた。

日清戦争後の中国人の日本留学生・郭沫若,魯迅は,ともに医学から方向転換して,文学の道を志した。それは,日本の朝鮮半島・中国大陸への進出の時期,中国におけるナショナリズムが高揚した時期であった。

。 ◆郭沫若と市川(中山文化村自主管理事業運営委員会 浅賀徹也)によれば,郭沫若に先立つこと9年前の1904年、魯迅は,医学を学ぶため仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学。しかしそこで見せられた中国人スパイ容疑者の処刑と取り巻く傍観的な中国人を撮影した実写幻灯に衝撃を受け、医学を断念、文学・社会活動の道を進む。郭沫若も九州帝国大学医学部を卒業したが,文学・歴史・政治活動家として活躍した。魯迅と郭沫若の二人の日本留学生には共通点がある。

魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で両江総督劉坤一によって、官費による日本留学生となった。1909年8月まで7年間以上,日本に滞在した。
1894 年の日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣したが,魯迅留学の年には600名,1906 年には1万2,000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。

◆清国留学生魯迅が1902年5月から1904年9月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。大部分が八旗(満州族)出身で、長江流域の各地からやってきた総督派遣の留学生にくらべて、上位の身分だった。また、弘文学院校長の嘉納治五郎は、支那人種(漢族)が満州人種(満州族)に臣服しているとしたから、魯迅など弘文学院の漢民族留学生は奴隷教育を受けているように感じた。
他方,漢人にとって屈辱の象徴とも言える弁髪を残して、無頓着な振る舞いをする中国人留学生は、江南出身者魯迅にとって異質であり、日本で漢民族の弊害を強く認識し,「立人(人間の確立)」という思想理念を打ち立てる契機になった。魯迅は,満州族からの漢民族の自立と同時に、日本人の視点から、中国を眺めることが可能になった。

◆魯迅は,1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期に,東北地方仙台で医学を学んだ。仙台では,日露戦争の出征兵士壮行会や祝捷会が行われていたが,これは町内会組織を使って運営されていた。下宿主人の佐藤喜東治氏は祝捷行列係員だった。仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。
東北大学片平キャンパスには,魯迅の胸像がある。

魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、煎餅とお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する記録は、異国における魯迅の生活を物語る。それは魯迅にとって、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。

日清露戦争の浮世絵/錦絵凹版木版画(右)「暴行清兵ヲ斬首スル図」MIT Visualizing Cultures引用。1894年(明治27年)10月。「我軍隊は正義慈仁」だが,中国清朝兵士は,「病院に闖入し自由ならざる負傷・病者を殺害するが如き」暴虐の限りを尽くした。そこで,捕虜とした後,「暴兵を引き出し止むを得ず三十八名を」(面前に?)斬首処刑した。生き残ることを許された「俘虜は感涙して我帝国軍隊の仁義慈愛に心服せしめた」。Utagawa Kokunimasa (Ryûa) Fukuda Hatsujirô,Illustration of the Decapitation of Violent Chinese Soldiers (Bôkô shihei o zanshu suru zu) Ukiyo-e print,1894 (Meiji 27), October Woodblock print (nishiki-e);35.5 x 72.3 cm ボストン美術館所蔵。

東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。

◆魯迅『阿Q正伝』には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が仙台留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の傍観者的様子の心象風景である。
阿Qは,節操なく革命家を気取った盗人であり,立身出世を目指した革命の謀反人であった。魯迅は,阿Qのようなエセ革命家が,今後の中国に出現することを危惧していた。革命の謀反人によって,革命家は犠牲にされ,一般市民も革命を劇場国家の一部として傍観する立場に終わってしまう。こうして,革命が失敗し,中国が混乱することを,魯迅は心配していた。

日清戦争の浮世絵木版画(右)「我義軍清賤奴 捕虜ノ図」MIT Visualizing Cultures引用。ボストン美術館所蔵。Museum of Fine Arts, Boston。日露戦争では,日本軍はロシア人捕虜を人道的に処遇したが,日清戦争のときは,中国人捕虜を過酷に処遇した。

魯迅「阿Q正伝」の末尾。

「一人を槍玉に上げれば百人が注意する。ねえ君! わたしが革命党を組織してからまだ二十日にもならないのに、掠奪事件が十何件もあってまるきり挙らない。わたしの顔がどこに立つ? 罪人が挙っても君はまだ愚図々々している。これが旨く行かんと乃公の責任になるんだよ
 挙人老爺は大に窮したが、なお頑固に前説を固持して贓品の追徴をしなければ、彼は即刻民政の職務を辞任すると言った。けれど少尉殿はびくともせず、「どうぞ御随意になさいませ」と言った。

 そこで挙人老爺はその晩とうとうまんじりともしなかったが、翌日は幸い辞職もしなかった。  阿Qが三度目に丸太格子から抓み出された時には、すなわち挙人老爺が寝つかれない晩の翌日の午前であった。彼が大広間に来ると上席にはいつもの通り、くりくり坊主の親爺が坐っていた。阿Qもまたいつもの通り膝を突いて下にいた。親爺はいとも懇(ねんご)ろに尋ねた。「お前はまだほかに何か言うことがあるかね」
 阿Qはちょっと考えたが別に言うこともないので、「ありません」と答えた。

 長い著物を著た人と短い著物を著た人が大勢いて、たちまち彼に白金巾(しろかたきん)の袖無しを著せた。上に字が書いてあった。阿Qははなはだ心苦しく思った。それは葬式の著物のようで、葬式の著物を著るのは縁喜(えんき)が好くないからだ。しかしそう思うまもなく彼は両手を縛られて、ずんずんお役所の外へ引きずり出された。

 阿Qは屋根無しの車の上に舁(かつ)ぎあげられ、短い著物の人が幾人も彼と同座して一緒にいた。
 この車は立ちどころに動き始めた。前には鉄砲をかついだ兵隊と自衛団が歩いていた。両側には大勢の見物人が口を開け放して見ていた。後ろはどうなっているか、阿Qには見えなかった。しかし突然感じたのは、こいつはいけねえ、首を斬られるんじゃねえか。
 彼はそう思うと心が顛倒して二つの眼が暗くなり、耳朶の中がガーンとした。気絶をしたようでもあったが、しかし全く気を失ったわけではない。ある時は慌てたが、ある時はまたかえって落著(おちつ)いた。彼は考えているうちに、人間の世の中はもともとこんなもんで、時に依ると首を斬られなければならないこともあるかもしれない、と感じたらしかった。


 彼はまた見覚えのある路を見た。そこで少々変に思った。なぜお仕置に行かないのか。彼は自分が引廻しになって皆に見せしめられているのを知らなかった。しかし知らしめたも同然だった。彼はただ人間世界はもともと大抵こんなもんで、時に依ると引廻しになって皆に見せしめなければならないものであるかもしれない、と思ったかもしれない。

戦記雑誌『実記』博文館(徳冨蘇峰)第108編(1905年12月13日号)「露探とされた中国人の処刑 Panishment to the Russian spys in Manchurian」:「満州軍中の露探の斬首」「魯迅の仙台留学ー魯迅の見た露探処刑「幻灯」に関する資料と解説」引用。「満州土人中、数しば露軍の間諜と為て我軍の運動を敵に通ずる者あり。捉はるる毎に斬に処す。本図は其一なり。」魯迅は,日露戦争中にロシアスパイ(露探)とされた中国人の処刑のスライドを東北大の教室で見た。

 彼は覚醒した。これはまわり道してお仕置場にゆく路だ。これはきっとずばりと首を刎(は)ねられるんだ。彼はガッカリしてあたりを見ると、まるで蟻のように人が附いて来た。そうして図らずも人ごみの中に一人の呉媽を発見した。ずいぶんしばらくだった。彼女は城内で仕事をしていたのだ。彼はたちまち非常な羞恥を感じて我れながら気が滅入ってしまった。つまりあの芝居の歌を唱(うた)う勇気がないのだ。彼の思想はさながら旋風のように、頭の中を一まわりした。「若寡婦(わかごけ)の墓参り」も立派な歌ではない。「竜虎図」の「後悔するには及ばぬ」も余りつまらな過ぎた。やっぱり「手に鉄鞭(てつべん)を執ってキサマを打つぞ」なんだろう。そう思うと彼は手を挙げたくなったが、考えてみるとその手は縛られていたのだ。そこで「手に鉄鞭を執り」さえも唱(とな)えなかった。
「二十年過ぎればこれもまた一つのものだ……」阿Qはゴタゴタの中で、今まで言ったことのないこの言葉を「師匠も無しに」半分ほどひり出した。

「好!!!」と人ごみの中から狼の吠声のような声が出た。  
車は停まらずに進んだ。阿Qは喝采の中に眼玉を動して呉媽を見ると、彼女は一向彼に眼を止めた様子もなくただ熱心に兵隊の背の上にある鉄砲を見ていた。
 そこで、阿Qはもう一度喝采の人を見た。
 この刹那、彼の思想はさながら旋風のように脳裏を一廻りした。四年前(ぜん)に彼は一度山下で狼に出遇(であ)った。狼は附かず離れず跟いて来て彼の肉を食(くら)おうと思った。彼はその時全く生きている空は無かった。幸い一つの薪割を持っていたので、ようやく元気を引起し、未荘まで持ちこたえて来た。これこそ永久に忘られぬ狼の眼だ。臆病でいながら鋭く、鬼火のようにキラめく二つの眼は、遠くの方から彼の皮肉を刺し通すようでもあった。ところが彼は今まで見た事もない恐ろしい眼付を更に発見した。鈍くもあるが鋭くもあった。すでに彼の話を咀嚼したのみならず、彼の皮肉以上の代物を噛みしめて、附かず離れずとこしえに彼の跡にくっついて来る。これ等の眼玉は一つに繋がって、もうどこかそこらで彼の霊魂に咬みついているようでもあった。
「助けてくれ」
 阿Qは口に出して言わないが、その時もう二つの眼が暗くなって、耳朶の中がガアンとして、全身が木端微塵に飛び散ったように覚えた。
------

    (一九二一年十二月)
(⇒青空図書館「阿Q正伝」底本:「魯迅全集」改造社、1932年11月引用)

「魯迅の解剖学ノートの驚嘆すべき綿密さと、添削の多さを眺めると、こと勉学では幼い頃から貫き通してきた魯迅の完璧主義者ぶりと、「田舎の鈍才」的な藤野先生の基礎学に対する強烈な迫力のようなものを、門外ではあるがひしひしと感じさせられて、まさに身の引き締まる思いがするのである。」(魯迅と医学の道阿部兼也/東北大学名誉教授引用)

魯迅「藤野先生」

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。 
 解剖実習がはじまつてたしか一週間目ごろ、彼はまた私を呼んで、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調でこう言つた──
「ぼくは、中国人は霊魂を敬うときいていたので、君が屍体の解剖をいやがりはしないかと思つて、ずいぶん心配したよ。まずまず安心さ、そんなことがなくてね」
 しかし彼は、たまに私を困らせることもあつた。彼は、中国の女は纏足(てんそく)しているそうだが、くわしいことがわからない、と言つて、どんな風に纏足するのか、足の骨はどんな工合に畸形になるか、などと私にただし、それから嘆息して言つた。「どうしても一度見ないと、わからないね、いったい、どんな風になるものか」

 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによつて引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。
 それで思い出したのは、二、三日前にこんな事件があつた。クラス会を開くというので、幹事が黒板に通知を書いたが、最後の一句は「全員漏レナク出席サレタシ」とあつて、その「漏」の字の横に圏点がつけてあつた。圏点はおかしいと、そのとき感じたが、別に気にもとめなかつた。その字が、私へのあてこすりであること、つまり、私が教員から問題を漏らしてもらつたことを諷していたのだと、いまはじめて気がついた。

 私は、そのことをすぐに藤野先生に知らせた。私と仲のよかつた数人の同級生も、憤慨して、いつしよに幹事のところへ行つて、口実を設けてノートを検査した無礼を問責し、あわせて検査の結果を発表すべく要求した。結局、この流言は立消えになつた。すると、幹事は八方奔走して、例の匿名の手紙を回牧しようと試みた。最後に、私からこのトルストイ式の手紙を彼らの手へ戻して、ケリがついた。

写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)「露探の斬首」:「1905年3月20日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような処刑写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目にも触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(1996年11月6日)。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)として処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑の日露戦争スライドを教室で見た。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。

魯迅「藤野先生」続き。

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。

「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。

第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。
「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださつた学問は、やはり役に立ちます」実は私は、生物学を習う気などなかつたのだが、彼がガッカリしているらしいので、慰めるつもりで嘘を言つたのである。
「医学のために教えた解剖学の類(たぐい)は、生物学には大して役に立つまい」彼は嘆息して言つた。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。そして、私の写真もくれるようにと希望した。あいにく私は、そのとき写真をとつたのがなかった。彼は、後日写したら送るように、また、時おり便りを書いて以後の状況を知らせるように、としきりに懇望した。

 仙台を去つて後、私は多年写真をうつさなかつた。それに状況も思わしくなく、通知すれば彼を失望させるだけだと思うと、手紙を書く気にもなれなかつた。年月が過ぎるにつれて、今さら改まつて書きにくくなり、そのため、たまに書きたいと思うことはあつても、容易に筆がとれなかつた。こうして、そのまま現在まで、ついに一通の手紙、一枚の写真も送らずにしまつた。彼の方から見れば、去つてのち杳(よう)として消息がなかつたわけである。

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。

 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまつておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失つた。あいにくこのノートも、失われたなかにあつた。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかつた。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。

     (魯迅「藤野先生」引用終わり)

写真(右):1933年初夏、上海の魯迅と内山完造:1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍のな販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。内山書店では書籍を陳列し、読者は読みたい本を自由に読むことができた。1927年10月5日、魯迅が内山書店を訪れたことを契機に、内山完造と魯迅は親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった経験がある。郭沫若、陶行知など左翼文化人も官憲の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。魯迅は「三閑書店」の名義で出版し、内山書店が代理で販売した。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若の書。(チャイナネット2007年3月「内山書店と魯迅」引用)。

◆1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、恩師藤野厳九郎先生に医学をやめる旨を伝えた。魯迅は,社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。帰国後,魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な左翼文学に結びついた。

9.中国の経済中枢である上海では,1927-1930年の反共白色クーデターが起こった。このとき,中国国民党軍とその下の保安隊・ギャングによって,多数の共産主義者とその容疑者が残虐な方法で処刑された。満州事変後の1932年には,日本からの独立を目指す韓国人による天長節爆破事件が起こった。

写真(左):上海白色テロでの晒し:1930年。中国国民党が,共産党系の容疑者を政権から排除し,労働組合運動を煽動するものも同じく処刑した。

1927年の上海反共クーデター(白色テロ)では,国民党が共産主義者や反国民党的な人物を,上海で処刑し,政権から中国共産党の影響を排除しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,ロシア革命以来影響力を持ち始めた社会主義思想を警戒したためである。中国国民党も,政権強化と中国財閥,外国資本の支援・支持を期待して,反共クーデターに及んだ。こうして、国民党政府は、国際社会に公認された。

1900年代初期から,罪人に対する処罰とはいえ,残虐行為と映る写真・絵葉書が残っている。1930年になっても、皇族・政府高官・軍高官を傷つける行為や政権交代・政権奪取を図る革命は、社会秩序を破壊するものとして認識されていた。

写真(左):中国国民党による共産主義者あるいは反体制派容疑者の公開斬首(1927年頃の広東):December 1927 witnessed the final nightmare act of what had been a catastrophic year for the Communists.Stalin,angry and embarrassed by the movement's collapse in China,intructed two young Comintern agents to establish a worker's commune in Canton.Two few workers rallied to the call ,and reprisals by local military commanders were instantaneous and terrible.Executions were commonplace. The American Consul in Canton, Jay Calvin Huston,witnessed the massacres and sent photos of them back to the State Departement in Washington. The photos gave a violent,disturbed and distressing picture of the situation in China .これを日本軍の行為としている資料もある。

写真(右):上海白色テロでの処刑:1930年。罪状を記した板を背負わされたまま銃殺され,見せしめとして晒された。中国人同士の殺害も無残である。

当時の人々には、公開斬首のような処刑方法は、重罪人には当然であった。公開斬首には、多数の見物人がきたから、「凄い見もの」であったことは確かである。しかし、重罪人の処刑方法が残虐であり、人道に背く行為であるから、廃止したほうが良いと考えたのは、少数派だった。悪人には、残虐行為は当然の報いだった。

残虐な処刑が、治安維持、反乱鎮圧に有効だとの思想は古くからあった。中国に限らず、20世紀に入っても,公開斬首によって敵対者を怯えさせ,抑圧しようとする組織的活動があった。残虐行為を犯罪抑止力と考え、残虐行為を行った中国人,日本人,米国人は,何万人もいるわけではない。どのような国の市民、民族であっても、人間をいとも簡単に殺害すること、残虐に処刑することには、「いのちを奪う」という恐怖が伴う。殺人は簡単にできることではない。その意味で、中国人は戦争慣れしているから残虐だ、欧米人は狩猟民族だから残虐だ、というステレオタイプの議論は単純すぎる。戦争となれば、自分のいのちが脅かされるのであれば、誰でも残虐になる可能性がある。

写真(左):「1927年第一次共産革命」の時の処刑者の連行;国民党兵士に捕まった共産主義の反政府活動容疑者のようだが,写真の裏には「私は,中国共産主義武装組織が,中国婦人を連行し,処刑した写真をいくつか見た。彼らは,裸にしてから斬首した。女子には,銃殺し,吊るし,首を切ることはしない。」とある。手前には男子二人が,奥に女子一人が連行されている。しかし,軍装から見ると共産軍ではなく国民党軍が連行している。国民党が革命を企てた共産主義者を鎮圧したと発表したから、絵葉書の文章をしたためた外国人は、中国語が不十分で,伝聞を勘違いしたようだ。Shanghai : Real photo postcard of a woman being led to execution in Shanghai in 1927 (First Communist revolt). The sender of the card added "I have seen photos of executions of women by these Communist troops depicyting spears being thrown at their naked bodies. Shooting, hanging & beheading were not used on women" (Real photo, Unused Postcard written on reverse). $180.00(処刑写真・絵葉書で,由来を記した当時の書き込みがあるものは特に高価である)。

<1932年4月29日天長節上海爆弾事件>
天長節(昭和天皇誕生日4月29日)の式典が現在の魯迅公園で開催されたが、朝鮮独立過激派による爆弾事件が起こる。
1932年4月29日、虹口公園で天長節の閲兵祝賀式典が行われた。これには、日本人居留民数万が出席し、園内に紅白布をはり、階段と台に緋色の絨毯を敷いた。そして、高さ2メートル、縦4メートル、幅12メートルの閲兵台が設けられた。

壇上には上海派遣軍司令官白川義則軍大将、日本駐中国公使重光葵大将、第九師団長植田兼吉陸軍中将、第3艦隊司令野村吉三郎海軍中将、日本駐上海総領事村井倉松、日本居留民団団長河端貞次、居留民団書記長友野盛の7人が揃った。

閲兵式は午前9時半に開始、11時半に終了。引続き日本人居留民による共同祝賀式典が始まり、海軍軍楽隊の伴奏で参加者たちが国歌斉唱したが、この時、尹奉吉が壇上に向かって爆弾を投げつけた。


写真(左):天長節爆弾事件の犯人尹奉吉(ユン・ボンギル)[右の人物]:大韓民国の国旗「テークッキ」を掲げての記念写真。

Yun Pong-Gil throws a bomb at a Japanese ceremony in Hingkew Park killing several Japanese officials and wounding scores of others, including the top military man in China, Gen. Shirakawa (who is to sign the surrender doc ument in 1945, with one leg crippled by Yun's bomb) - Chinese boycott of Japanese goods leads to the Battle of Shanghai; Japanese aircraft carriers go into action for the first time in the world's history. The League of Nations condemns Japanese aggression in Manchuria.

尹奉吉は、水筒と弁当箱に爆弾を仕掛けたものを身につけ、祝賀会場にいた。祝賀会の途中、尹奉吉は水筒型の爆弾を壇上に投げた。爆弾は爆発し、白川大将は重態(その後5月に死亡)、河端居留民団長は重態で翌日死亡、重光公使は片足を失うなど重傷、野村海軍中尉は右目失明、村井総領事・植田謙吉中尉は負傷をした。

犯人は抗日組織、韓人愛国党党員尹奉吉(ユル・ポンギル)である。尹奉吉(ユン・ボンギル)は、19088年6月21日、韓国 忠清南道禮山郡徳山面生まれ。徳山普通学校に在学中の1919年に起きた三・一独立運動を契機に、学校を退学し書塾で漢文を学んだ。

写真(右):天長節爆弾事件の爆弾爆発直後の様子。

 1922年、?用順と結婚。1928年から農村啓蒙運動に力を注いだため、日本の弾圧を受け1930年、妻子を残して満州に亡命し、さらに上海に向かった。当時、上海にいた金九は、大韓民国臨時政府を形成を目指し、1931年、韓人愛国団を組織した。尹奉吉は、韓人愛国団に加わった。

 金九は大韓民国臨時政府の活動が、日本の弾圧により困難になっている状況を打開するため、天皇や日本の政府・軍部の要人を暗殺することを企てた。その第一弾が1932年1月8日、李奉昌が桜田門外で昭和天皇を狙った爆弾暗殺未遂事件「桜田門事件」であり、第二弾が尹奉吉による「上海虹口公園爆弾事件」である。

映像【上海 天長節祝賀会場爆弾事件】を見る:1932年4月29日、上海の天長節祝賀式場に朝鮮独立党員・尹奉吉が爆弾を投げ、参列していた白川軍司令官らを死亡させた他、野村艦隊長、駐華公使・重光葵ら日本人幹部の殆どに重傷を負わせその場で逮捕された。この映像は雛壇の白川、野村、重光、混乱する会場の状況。

尹奉吉は、その場で逮捕され5月25日上海派遣軍軍法会議で死刑判決を受け、11月18日 大阪へ移監された。その後、12月18日陸軍第9師団の駐屯地である石川県金沢市へ連行され、練兵場のある三小牛山で12月19日銃殺刑に処され、隣山である野田山の陸軍墓地通路に埋葬された。

野田山に埋葬されていた遺体は、1946年3 月発掘され本国に帰還した。1992年12月尹義士が埋葬されていた場所が、「尹奉吉義士暗葬の跡」として保存 第三艦隊編成、野村大将が司令長官に任命された。

写真(左):爆弾事件の現行犯尹奉吉(ユン・ボンギル)の逮捕。

朝鮮人独立運動(テロ活動)家の尹奉吉〈ユン・ボンギル〉が投げた爆弾を受けて負傷、片足を失った重光葵は、1936年駐ソ大使、駐英大使経て、南京(傀儡)汪兆銘政府駐在大使、1943年東条・小磯内閣の外相、1945年東久邇内閣の外相を勤め、降伏文書に署名した。

戦後、極東軍事裁判にかけられ,「平和に対する罪」の訴因に基づき禁固7年の有罪判決を受けた。1950年に仮釈放となり、翌1951年刑期満了。1952年に改進党総裁となり、1954年鳩山内閣(1次〜3次)の外相を勤めた。1957年1月死亡。

尹奉吉「義士」の中国上海「義挙」はテロではなく、交戦中の戦闘行為だったという主張(強弁?)もある。

天長節爆弾事件の白川義則大将戦傷死と判断した理由
1.尹奉吉の傷害の目的(別紙事件公判調書に依拠する)
朝鮮独立運動を促進するために、白川大将、植田中将を殺害し、日本軍を撹乱すること。

2.爆傷が、死亡原因である(カルテに依拠する)
?顔面及び前膊の化膿は長期の間、治癒しなかった。弾丸数十個が体内に残留し、鉛毒を発生させた。
?爆傷に対する各種の治療・血清注射により、血清病を併発した
以上の理由から胃潰瘍を発症して遂に動脈出血で死亡した。

三、止める事が出来ない軍務のために発症した。受傷及び発症後、病床にいても絶えず軍事統帥に関する重要業務に従事した。軍帰還の命令が下ると心身を疲弊させた。

写真(左1):天長節爆弾事件を報じる雑誌写真(左2):爆弾テロの犯人尹奉吉(ユン・ボンギル):朝鮮独立過激派闘志でもある。

上海の「天長節兇変爆弾事件」で、外務省報告書が1932年9月にだされた(アジア歴史資料センター:レファレンスコードB02030474600;表題:上海ニ於ケル天長節式中ノ爆弾兇変事件)。

これは、死亡した上海派遣日本軍司令官白川義則大将に公務遂行中死亡ではなく、戦傷死として処理するという文書である。それによれば、尹奉吉の上海での「天長節爆弾事件」は 交戦中の戦闘行為として認められるという主張を裏付ける日本の公的文書であるという。

「本傷害事件は 上海戦闘過程で私たち軍首脳者殺害を目的にしており 敵国暗殺団活躍中に発生した事件」と言いながら「下手人は 朝鮮不逞人だが, 彼らは中国軍及び抗日暗殺団と一脈相通じて, 中国軍便衣隊と同一視する理由がある」とした。

ユンの暗殺行為とその意思を個人的次元のテロリストではなく、戦闘員として認め、「上海派遣軍軍司令官白川大将の死は、単純な公務死亡ではなく, 戦傷者として判定するべきである」と結論している。

1937年の第一次上海事変は、中国が国際連盟に1月29日に提訴し、翌1月30日15条適用となり米英は、日本の侵略に抗議した。

1932年5月5日,国際連盟19カ国委員会の決定にもとづいて、日本と中国は停戦協定を結んだ。第一次上海事変の停戦に至るまでは、リットン調査団の入京,1932年2月20日攻撃の際の「肉弾三勇士」伝説、3月1日総攻撃開始日の満州国建国宣言,4月29日の上海の天長節祝賀会場爆弾事件などが起きている。

この後、5月15日には、海軍将校によるクーデター未遂事件「五・一五事件」が起きている。

中国軍の頑強な抵抗、米英の抗議の前に,日本は停戦した。しかし、中国国民党政府(南京政府)も、反日民衆運動の高揚が抗日戦争・租界回復要求にむすびつくこと、民衆運動が中国共産党の指導力・影響力の発揮に結びつくことを懸念していた。日中双方とも、全面戦争を開始するつもりはなかった。これは、5年後の盧溝橋事件、第二次上海事変とは大きく異なる点であろう。

1932年5月31日、日本軍増援部隊は、上海より総引揚げをすることとなった。これは、内地への勝利の凱旋という形をとった。

第二次大戦の後半における大本営発表は、事実からかけ離れて、日本軍の善戦振りを伝えていたことで有名になった。しかし、事実の一面しか伝えないという情報操作やプロパガンダは、1931年の満州事変、1932年の第一次上海事変でもまったく同じであったといえよう。

<神社>
「諏訪神社」「滬上神社」「上海神社」と名称変更してきた 神社
1908年、白石六三郎、西江湾路230号に料亭「六三園」を設立。
1912年4月14日、白石六三郎ら六三園内に「諏訪神社」を建立。
1912年7月5日、上海日本総領事の有吉明によって諏訪神社を「滬上神社」と改称。「滬」は上海の別称。

1932年1月28日、第一次上海事変勃発。戦火の為、滬上神社の社殿炎上。

1933年11月、焼失した滬上神社を「上海神社」と改名して北四川路(現、四川北路)118号に再建。

上海海軍特別陸戦隊ヘ勅諭下付ノ件レファレンスコード:A04018345300
 作成者: 内閣総理大臣子爵 齋藤實、海軍大臣 岡田啓介
 作成年月日: 1932年12月13日
 内容: 上海海軍特別陸戦隊ヘ勅諭下付ノ件 右謹テ裁可ヲ仰ク
 昭和七年十二月十三日 内閣総理大臣子爵齋藤實 海第一九八号
起案:昭和七年十二月十二日、裁可:昭和七年十二月十三日、 施行:昭和七年十二月十四日下付。

絵葉書(右):「上海神社」とあるので1933年以降発行の絵葉書:1912.4-1912.7「諏訪神社」、1912.7-1932.1「滬上神社」と名称変更し、第一次上海事変で焼失後、1933年11月、上海神社として再建された。

1932年12月、勅語を賜った植松練磨(うえまつとうま)海軍少将
 1883年生れ、1948年没
1883年福島県相馬郡鹿島町に父琢磨、母フミの三男として生まれる。鹿島小学校、安積中学校、海軍兵学校、海軍大学校を経て海軍少将となる。

第一次世界大戦では軍艦「樫」の艦長として地中海へ出動する。上海事変後、上海海軍特別陸戦隊指揮官に命ぜられ戦功を飾った。昭和7年には昭和天皇より勅語を賜る。

植松練磨(うえまつとうま)
海軍少将が、1932年12月、勅語を賜る以前の3年間の経歴。 1929年11月10日 巡洋艦「妙高」艦長
1930年12月1日 軍令部出仕
1931年12月1日 海軍少将、 第二水雷戦隊司令官
1932年2月4日 第三艦隊司令部附:中国方面を担当する海軍艦隊として新設された。
1932年6月1日 上海特陸隊司令官
(第一次上海事変は、5月には終了している)
1932年6月6日 軍令部出仕。

勅諭下付は、軍人として最高級の名誉であり,それを下付された臣下に対する批判、その忠臣の行為に対する疑問は、許されなくなる。

上海事変の問題点やその後の課題、特に列国との協調関係強化、中国民衆の抗日運動への認識、中国国民党の交戦意思の高さなどは、綿密に分析まま、日本軍の自画自賛に終始してしまった印象がある。

盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident への道

写真(右):上海事変の日本海軍陸戦隊(1932年あるいは1937年7-8月?):上海租界の日本人街の警備を担当したのは日本海軍陸戦隊だった。ここでは、不審な中国人を検問しようとしている。陸戦隊は、ヴィッカース社Vickers Crossley装甲車10台以上を保有していたが,兵力は3000名程度で、中国軍よりも遥かに劣勢であった。これは、駐屯軍は、警備,居留民保護の警察力しか認められなかったからである。そこで,上海事変の際も、日本陸軍の増援部隊の派遣が決定された。

第一次上海事変後,中国国民党政府は,日本に対して懐柔的な対応をする。この理由は次の通り。

?南京を首都とする中国国民党政府は,共産主義勢力の排除,内政優先という「安内攘外」を基本方針として採用した,
?海軍と航空兵力で優位に立つ日本軍との戦闘で敗北した中国軍は,日本軍の軍事力を恐れるようになった,
?米英列国がヒトラーを首相とするナチス・ドイツの誕生に関心を向け,中国問題に介入しなかった。

こういった理由から1933年5月31日に日中は停戦協定(タンクー協定)を結んだ。タンクー協定では,中国国民党政府は,長城以南に非武装地帯の設定,満州国への通車・通郵手続きの承認など,日本に大幅譲歩した。つまり,1933年5月31日のタンクー停戦協定によって,中国は,事実上,満州国の日本支配を黙認したのである。

首都南京占領後、近衛内閣は、国民政府を正当な中国政府とは認めず、自治政府(傀儡政権)を樹立し,東亜の平和を追求した。これが,1938年1月16日「国民政府対手ニセズ」の近衛声明である。

写真(右):1927-1930年の上海反共クーデターでの連行;中国国民党政府とその配下にある暴力団(ギャング)が,共産主義者と労働者団体など反蒋介石勢力となりうる潜在的な敵対者を捕らえた。多数の容疑者が,即決裁判,裁判なしの処刑が行われ、白色テロともいわれた。孫文時代の第一次国共合作は崩壊。

野蛮な行為を嫌悪し,中国の内紛を政治的力量不足として中国を軽蔑していた列国は,1931年の満州事変以降,対中国認識を徐々に好転させた。これには,次のような理由がある。

?国際協調,機会均等の下で,米英列国による中国の半植民地化が進んでいたが,日本だけは,単独で満州を支配し,中国にさらなる特殊権益を求めるようになる(対華21か条要求など)。そこで,中国,列国では,日本の中国進出への反感が高まり、日本の単独行動を阻止する国際的介入・斡旋・仲介を行う。列国による親中国政策の採用,米中接近の契機となった。
そして、中国への親近感を、次のような変化が、呼び起こした。
?中国国民党軍が群雄割拠する軍閥を打倒し,北伐を完了した。国民党政府の下に中国(満州を除く)を統一することに成功した。1924年の五四運動以来、中国の国民連帯感も高まりつつあり、統一中国が現実のものとなった。
?列国の中国居留民,駐屯軍が,高い教養を身につけた中国人、親切な庶民としての中国人とコミュニケーションをとるうちに,中国に好意的となった。
?国民党は、共産党を排除することによって、国際社会から信頼を勝ち得、中国を代表する政府として公認された。日本のみが、国民党政府を「対手(相手)とせず」として、傀儡政権を作った。のちに、ソ連も国民党政府を公認する。

したがって,中国蔑視が残っていた列国でも、反日感情の高まり,国民党・中国政府への信頼,中国人に対する親近感が育っていた。

10.1925年の治安維持法の以降,国体(天皇制)変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰するようになった。このような重罪犯は,日本人であっても厳重に罰せられたのであるから,中国人・韓国人であれば,非国民の当然のこととして成敗すべき対象となった。

1925年の治安維持法は,国体(天皇制)変革,私有財産制の否定を企てるものを処罰するが、この制度を担う組織が特高警察(特高)である。1911年に警視庁(東京)に特別高等警察課が設置,1928年、全国に設置された。特高は、1922年創設の日本共産党,労働組合,社会主義者,さらには自由主義者,民主主義者まで反政府的とみなし、容疑者を逮捕した。そして,拷問,密偵・密告などによる思想弾圧を行った。

写真(右):1933年2月20日特高により拷問死したプロレタリア文学作家小林多喜二;1925年治安維持法が成立し,1928年には全国に特高が組織される。小林多喜二は小説『1928年3月15日』の中で、特高の拷問の凄まじさを描写したことから特高の逆恨みを買っていたらしい。共産党員1932年3月以来、潜伏していたが,1933年2月20日に逮捕され,即日死亡。拷問による死亡である。

『蟹工船』で過酷な収奪に喘ぐ漁船労働者を描き,社会悪を追求した小林多喜二は,1931年、合法の日本共産党に入党。1932年2月20日に特高に逮捕。築地警察で拷問され、監獄内で倒れた小林多喜二は,目を半分むいて痙攣し始めた。築地署裏の前田病院に担ぎ困れたが,同日死亡(享年30歳)。家族に引き取られた遺体には、首筋やこめかみに5,6ヶ所の裂傷があり、首には縄で絞めたような痕が深く残っていた。下半身には内出血が広がり、大腿部には15〜16箇所ほど釘を刺されたように裂けていたという。

もちろん,小林多喜二の死の真相を報道した新聞はない。毛利特高課長の「決して拷問した事実はない。心臓に急変をきたしたものだ」という談話、友人の江口渙の「顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血がひどく、たんなる心臓マヒとは思えません」という談話(都新聞)、家族や友人が「むごくも変わりはてた姿に死の対面をした」(読売新聞)と死因をにおわせた。

小林多喜二拷問のように,特高警察など日本における同胞重罪人への処遇には厳しいものがあった。日本人の治安維持法違反(罪人)への処遇も厳しいのであるから,暴戻なる敵中国軍の兵士や日本に反旗を翻す暴虐な中国人(ゲリラや反日活動家など)に対しては,情け容赦のない処置をとっても,残虐行為とは認識されなかった。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,近衛文麿首相による1937年8月15日の「暴支膺懲」の声明である。

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」。

松井石根大将の日記によれば,「支那官民は蒋介石多年の抗日侮日の精神相当に徹底せるにや、到る処我軍に対し強き敵愾心を抱き、直接間接居留民か敵軍の為めに我軍に不利なる諸般の行動に出てたるのみならす、婦女子すらも自ら義勇軍員となり又は密偵的任務に当れるものあり」であった。つまり,民間人による反日活動(中国側からみれば,愛国心あふれるレジスタンス)が頻発した。日記では「自然作戦地域は極めて一般に不安なる状勢に陥り、我作戦の進捗を阻害」と述べている。

写真(右):1944年12月5日,ビルマ北部ミイトキーナ飛行場から中国に帰還する10歳の中国軍少年兵:このような少年兵が実践に参加したのか,中国人民の戦意を高めるためのプロパガンダなのか。兵士として武器を取っていたのであれば,捕虜となった場合を想定したのか。いずれにしても,装備を充実させた中国軍が,日本軍に対して負けることは無いとの確信を強めいていた所作であろう。This Chinese soldier, age 10, with heavy pack, is a member of a Chinese division which is boarding planes at the North Airstrip, Myitkyina, Burma, bound for China.: 12/05/1944 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

中国軍民の抵抗を憎悪した日本軍将兵の中には捕虜・住民あるいはゲリラ兵の処刑を行うものがあった。これは,古兵の度胸の誇示,新兵の度胸試しなど,個人的な振る舞いもあった。同時に,反抗した中国軍民に,日本は過酷な処置をとることが、威嚇となり、反乱平定、治安回復に繋がると考えた。

日本軍は,中国に侵攻して,中国人の住む農村・都市を占領し続け、占領地の治安維持に配慮して,住民に対する暴行,強姦,略奪を禁じた。しかし,価値のない軍票・通貨・空手形での支払いは,事実上の略奪であった。戦闘部隊は,後続の補給部隊が支払うとして,物資食糧を徴発して,支払い約束書をおいていったこともあった。この多くは反故にされたようだ。

中国農村や都市を通過したり,滞在・宿泊した日本軍は,民家や集落で見つけた貴重品や便利な道具を略奪した。略奪品や食糧を住民を使役し運ばせた。少年を丁稚・小間使い・奴隷のように連行した。支払いなしに使役し,行軍に従わせた中国人に,日本軍将兵は,「温情」を示し「殺さないで、使役しただけで許してやった。

 運搬手段・宿泊施設、補給物資を十分に準備できなかった日本軍は,兵士個人の中国人への感情や態度如何にかかわらず,中国の住民から憎まれる略奪を行うしかなかった。徴発・略奪・暴行を受け,使役された住民,戦火で財産を破壊された住民が多数いたるところにいた。住民は、国民意識や国際認識とは無関係に,日本軍に反感を持った。日本軍に家族を殺害された中国住民は、日本軍を憎んだ。中国住民を適切に扱った日本軍部隊も多かった。

しかし,悲惨な経験をした住民は,「日本軍は残虐である」と憎悪し、その所業を許さない。日本軍は全て敵とみなされた。両親,配偶者,子供,家族,友人を殺し,暴行した「日本人の集団」を許すことはない。特定集団のメンバーが犯した罪は、メンバー全員=集団に責任が負わされた。こうして、日本軍将兵も,中国住民を信用できなくなり、敵性住民として処遇した。厳しい態度で接することで、日本軍と中国住民の関係はいっそう悪化した。「アジア,中国の平和と安定を目指す日本は,暴虐な現在の中国国民政府に反省を求めるために派兵した」という近衛声明は、中国では誰も信じなかったであろう。

人種民族差別・迫害・虐殺・絶滅の流れを知れば、人種民族の差異,戦争の大義が如何なるものであろうとも、迫害と破壊と殺戮を繰り返す差別と戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行である。迫害と戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが引き起こしたのである。経済と軍事力に支えられた迫害と破壊と殺戮を見れば,戦争は政治の延長にすぎないというニヒリズムの愚かさ,冷淡さに気づかされる。だが,我々の祖先も、私たち自身も加担した差別と戦争を再び見つめるには、勇気と内省が求められる。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機

鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。2008年1月31日以来多数の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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