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マッカーサーのダグラス(Douglas)輸送機 2020
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◆マッカーサーのダグラス/ロッキード「バターン」輸送機
写真(上):2016年、アメリカ、オハイオ州デイトン、国立アメリカ空軍博物館が保管しているフランクリン・ルーズベルト(FDR)とハリー・トルーマン大統領の専用機ダグラス(Douglas)VC-54C輸送機"Sacred Cow"
:FDRは1945年2月のヤルタ会談に出席するときに使用したのが最後で、その後はハリー・トルーマン大統領が専ら使用した。
DAYTON, Ohio -- Douglas VC-54C "Sacred Cow" at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo) The Sacred Cow carried President Roosevelt to the Yalta Conference in February 1945. Illustrating the high stakes associated with presidential airlift, the Sacred Cow’s serial number was changed for the flight as a special security measure. The trip to Yalta was Roosevelt’s only flight aboard the aircraft before his untimely death in April 1945.
写真は, National Museum of the United States Air Force Douglas VC-54C “Sacred Cow”引用。



写真(上):1950年、アメリカ上空を飛行するハリー・トルーマン大統領の2代目専用輸送ダグラス(Douglas)VC-118輸送機'Independence'
:1947年初飛行、与圧式キャビンのダグラスDC-6ライフマスター(Liftmaster)四発輸送機を流用した大統領専用機。胴体はブルーのラインで鷲の頭部が描かれ、機首が鷲の嘴、操縦室のガラス窓が鷲の目に当たる。
Description U.S. President Harry S. Truman's Douglas VC-118 Independence in flight, circa 1950. Related Collection Francis W. Williams Papers Keywords Airplanes ; Presidential aircraft HST Keywords Airplanes - Independence
Presidential airplane of President Harry S. Truman, the "Independence," in flight over unknown location. Date(s) ca. 1950
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2003-103 およびWikimedia Commons, Category:Douglas VC-118 Independence File:Douglas VC-118 Independence in flight c1950.jpg、あるいはKev Curtis Douglas VC-118 Liftmaster 46-0505 USAF引用。


1. ダグラス(Douglas)DC-4四発輸送機

ダグラスのDC3輸送機は、実用性が高く性能も良かったためにアメリカの航空会社が競って採用したベストセラーとなった。しかし、実はDC-3が実用化される前の1935年、ダグラス社は、DC-3より大型で長距離飛行が可能な四発旅客輸送機を開発し、大西洋、太平洋を越える民間航路も開拓しようとした。これが、DC-4E旅客輸送機で、乗客42名、航続距離3000km以上を目指した。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、出迎えたアメリカ陸軍第二機甲師団を閲兵する。大統領のジープには、後方を警戒する護衛隊員がいる。この後、大統領は、国務長官ジェームズ・バーンズとともにポツダムに向かった。遠方に1942年に開発され1947年までに1200機生産されたアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」が3機ある。
ダグラスC-54
Description: President Harry S. Truman stands at attention during the playing of the National Anthem as the honor guard from the 2nd Armored Division presents arms, after his arrival at Gatow Airport in Berlin. He is on the way to the Potsdam Conference. Secretary of State James Byrnes is at the President's left. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-04引用。


アメリカ大統領専用機は、エアフォースワン(Air Force One)と呼ばれるが、その第1号機がダグラスDC-4四発輸送機の特別仕様VC-54C輸送機「セイクリッド・カウ」 (Sacred Cow)だった。「ワン」(One)とは、1953年以降のアメリカ大統領が搭乗する軍用機のコールサイン(呼出し符号)で、長距離の飛行機での移動をするときにはアメリカ空軍機を使用するので、コールサイン(呼出し符号)がエアフォースワン(Air Force One)であるが、事実上、アメリカ大統領専用機の名称となっている。

⇒写真集Album:民間航空のダグラス(Douglas)DC-4旅客輸送機を見る。


2. 1945年8月30日、 ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)将軍は、日本降伏の最大の戦功者として、神奈川県の厚着飛行場に降り立った。彼の乗機は、ダグラスC-54 (VC-54E)スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターンII」“Bataan II"であり、マニラから沖縄の読谷飛行場を経由、アメリカ軍先遣隊の待つ厚木基地に到着した。これが、連合軍総司令部(GHQ)による日本占領統治・軍政の始まりだった。アメリカ軍は、第二次世界大戦で使用していた軍用機ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター輸送機を使って、沖縄諸島に展開していた部隊を日本本土に派遣し、首都圏では入間川基地を拠点として使用した。

写真(右):1945年8月2日、フィリピン、マニラ、フィリピン帰還、日本軍殲滅という約束を果たしたアメリカ陸軍太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー元帥(MacArthur, Douglas, 1880-1964 ):1944年10月のレイテ島上陸で、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、フィリピン全土を日本軍の支配から解放したと自称できたマッカーサーは、自身に溢れており、このバルコニーでポーズを変えて何枚もの記念写真を撮影し、プロパガンダに利用した。
Douglas MacArthur
Keywords Soldiers ; Portraits
HST Keywords MacArthur, Douglas
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964
Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
General Douglas MacArthur, Commander in Chief, Far East.
Date(s) ca. 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 67-3939引用。


1945年8月16日、VEデー(対日東洋戦線戦勝記念日)の戦勝宣言(Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer)に、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが署名。

「対日東洋戦線戦勝記念日の戦勝宣言: 8年前(1937年の日中戦争)から、東洋を侵略し悲惨な戦争を引き起こした日本は、完全に敗北し、無条件降伏しました。これは、神のご加護で得られた輝かしい功績であります。神が我らを勝利に、平和に導いたことに感謝します。何百万の平和を欲する人々と兵士が、多大な努力で兵器と物資を動員し、戦うこと、死ぬことを恐れずに、無法な敵に立ち向かい勝利したのです。この勝利のために、自らの命をささげた人々の思いを祈念し、その証拠として、私はアメリカ合衆国の国章において、署名をしました。」

写真(右):1945年8月2日、フィリピン、マニラ、フィリピン帰還、日本軍殲滅という約束を果たしたアメリカ陸軍太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー元帥(MacArthur, Douglas, 1880-1964 ):1944年10月のレイテ島上陸で、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、フィリピン全土を日本軍の支配から解放した。1カ月もしないうちに日本は降伏、東京に飛来し、日本を占領統治できる最高主権者の立場にまで上り詰める。
Portrait of General Douglas MacArthur
Keywords Soldiers ; Portraits
HST Keywords MacArthur, Douglas
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964
Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
Portrait of General Douglas MacArthur. Original is oversize.
Date(s) ca. 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 58-61引用。


連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、最高司令官に直属する参謀長の下に参謀部と専門部が置かれた。参謀部には参謀第1部(軍司令部の参謀業務担当)から第4部までがあった。専門部には占領下の行政、経済、公衆衛生、教育、運輸、通信、資源などの専門分野別の部局が設置された。

しかし、参謀部、専門部の部局のいくつかのスタッフは、アメリカ太平洋陸軍総司令部、1947年1月以降の・極東軍総司令部のスタッフが兼務している。つまり、日本は、マッカーサを最高指揮官とする軍政によって統治された。

写真(右):1945年8月2日、フィリピン、マニラ、アメリカ陸軍太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー元帥(MacArthur, Douglas, 1880-1964 ):コーンパイプをくわえてポーズをとったり、腰に手をやったり、マッカーサーがいろいろなポーズをとっているが、笑顔ではなく、内面の自信を覗かせた将軍の容貌であるため、多量のタバコの葉を詰めることができる。フィリピンは、タバコの葉の生産国でもあるから、えり好みをしたのであろう。
Color portrait of Douglas A. MacArthur, Army General
Keywords Armed forces officers
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964
Rights The Library is unaware of any copyright claims to this item; use at your own risk.
Description: Color portrait of General of the Army Douglas A. MacArthur, (1880-1964), Commander-in-Chief, United Nations Command, Korea, 1950-1951.
Date(s) ca. 1945.
8x10 inches (21x26 cm) , Color
写真は、Naval History and Heritage Command-Accession Number: 98-101引用。


アメリカ陸軍太平洋方面司令官は、1944年10月、アメリカ軍レイテ島上陸を成功させ、自らフィリピンに上陸を果たした。そして、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、1945年12月のルソン島上陸以降、フィリピン全土を日本軍の支配から解放する戦いを続けた。

これは残敵掃討作戦だったが、かつて敗北の苦杯を嘗めさた的に対する復讐心に燃えるマッカーサーは、小部隊であっても、フィリピンに日本軍が拠点を保つことを許さなかった。日本軍を殲滅したマニラでは、自信に溢れており、このバルコニーでポーズを変えて何枚もの記念写真を撮影し、プロパガンダに利用した。

写真(右):1945年8月2日、フィリピン、マニラ、コーンパイプをくわえてポーズをとったアメリカ陸軍太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー元帥(MacArthur, Douglas, 1880-1964 ):マッカーサーが愛用した火皿の深いコーンパイプは、コーン軸の長さが15cmと長く、火皿が縦長であるため、多量のタバコの葉を詰めることができる。フィリピンは、タバコの葉の生産国でもあるから、えり好みをしたのであろう。しかし、長いパイプは、不完全燃焼になりやすいために、喫煙に慣れていることが使用する条件となる。アメリカの有名な漫画「ポパイ」でも船員のポパイが常にコーンパイプをくわえ、腕っぷしの強さを誇示している。
Douglas MacArthur
Keywords Soldiers ; Portraits HST Keywords MacArthur, Douglas People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 Rights Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
Description:Smoking his corncob pipe, probably at Manila, Philippine Islands, 2 August 1945. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
Date(s) ca. 1945.
写真は Official U.S. Navy web site 、Naval History and Heritage Command- USA C-2413 General of the Army Douglas MacArthur引用。


ダグラス・マッカーサー元帥(MacArthur, Douglas)は、第一次世界大戦に参戦した時、アメリカ遠征軍の将校として前線部隊を指揮し、フランスにおける対ドイツ戦に勲功を上げた。そこで、アメリカ陸軍の殊勲十字を受賞し、最年少の陸軍士官学校校長、次いで最年少のアメリカ陸軍参謀総長に昇進した。このような軍港によって、マッカーサーは、5つ星の記章を付けることを許された元帥にまで上り詰めたのである。

写真(右)1945年8月20日以降、沖縄本島、読谷飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機の胴体後方左側の昇降口から、ブローニング(Browning)M1919中型機関銃(Medium Machine Gun:MMG)を積み込む第188空挺部隊(US Army 188th Airborne)の隊員たち:パラシュートの紐が、ボタンや袖に引っかからないように、ボタン。ジッパー、繋ぎなどが露出しないオーバーオールの空挺部隊用軍服を着用している。キャビンは、貨物運搬に便利なように、昇降口は左右に観音開きになるが、小型の梱包した荷物のために、片側のドアしか開けていない。
口径7.62mmブローニングM1919空冷式機関銃は、250発ベルトリンクなので、積み込んでいる箱は弾倉であろう。銃身長609mm、重量14kg、発射速度400-600発/分、初速853m/s、有効射程1,370m
写真解説: 【原文】 No Caption 【和訳】 (日本本土に向けて発つAC-54に乗り込む第188パラシュート歩兵連隊の兵士)
撮影地: 撮影日: 1945年 備考: 資料コード: 0000112198 .
写真は, 沖縄県公文書館・写真番号: 03-79-4引用。


写真(右)1945年8月20日以降、沖縄本島、読谷飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機の胴体後方左側の昇降口から乗り込む重装備の第188空挺部隊の隊員たち:担いでいるのは、ハンモック・テント、衣類・医薬品、水筒、パラシュート(?)である。キャビンは、貨物運搬に便利なように、昇降口は左右に観音開きになるが、小型の梱包した荷物のために、片側のドアしか開けていない。
写真解説: 【原文】 No Caption 【和訳】 (日本本土に向けて発つAC-54に乗り込む第188パラシュート歩兵連隊の兵士)
撮影地: 撮影日: 1945年 備考: 資料コード: 0000112198.
写真は, 沖縄県公文書館・写真番号: 03-80-2 引用。


アメリカ陸軍第188空挺歩兵連隊188th Infantry Regiment)は、1942年11月設立で、連隊規模の攻撃用部隊で、第11空挺師団11th Airborne Division)の傘下にある。初の実戦投入は、1944年6月のニューギニア北岸の攻略戦で、1944年10月、太平洋戦線のフィリピン群島レイテ島攻略、1945年1月のルソン島攻略に参加している。

空挺部隊ではあるが、パラシュート降下というよりも、C47双発輸送機による空輸、グライダー利用が多く、任務は歩兵と変わりはない。その後1945年1月のルソン島侵攻、マニラ解放に投入された。1945年2月、マニラ南方のラグナ州ロスバーニョス収容所の囚人。捕虜の解放作戦に参加している。対日戦勝利の後、日本占領に派遣された第11空挺師団の一連隊として、1945年8月30日、日本本土厚木飛行場に1096名が降り立ったという。次いで、第187空挺歩兵連隊1257名、台511空冷歩兵連隊1165名が日本に空路到着した。

写真(右)1945年8月29日-30日、沖縄本島、読谷飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機の胴体後方左側の昇降口から乗り込む重装備の第188空挺部隊の隊員たち:扉から機内に梯子で上っている兵士は、口径7.62mmブローニングM1919空冷式機関銃(重量14キロ)を手にしているが、片手で扱うには重すぎるために、肘の上に乗せて、梯子を上がっている。兵士は、M1ガーラント(Garand)小銃、 ハンモック・テント、衣類・医薬品、水筒、パラシュート(?)などを担いでいる。キャビンは、貨物運搬に便利なように、昇降口は左右に観音開きになるが、小型の梱包した荷物のために、片側のドアしか開けていない。
写真解説: 【原文】 No Caption 【和訳】 (日本本土に向けて発つAC-54に乗り込む第188パラシュート歩兵連隊の兵士)
撮影地: 撮影日: 1945年 備考: 資料コード: 0000112198.
写真は, 沖縄県公文書館・写真番号: 03-80-1 引用。


 アメリカ陸軍第188空挺歩兵連隊(188th Infantry Regiment)上位部隊である第11空挺師団11th Airborne Division)歴史
1943.2.25動員
1944.5.5〜5.25ニューギニアに移動
1944.5.26〜11.10訓練
1944.11.11〜11.20フィリピン群島レイテ島に移動
1944.11.21〜1945.1.14レイテ戦
1945.1.27〜31フィリピン群島ルソンに移動
1945.1.31〜6.30ルソン島マニラ南部のナスグブ(Nasgbu)に上陸し北進、ルソン南部で戦闘
1945.8.29沖縄本島読谷飛行場経由で厚木飛行場にC-54スカイマスター輸送機で到着、宮城県、秋田県、山形県を占領(司令部は仙台陸軍工廠)
1946.1.10第81歩兵師団から青森県占領の任務を引き継ぐ
1946.2.15第77歩兵師団から北海道占領の任務を引き継ぐ
1946.4.1第1騎兵師団から福島県占領の任務を引き継ぐ。

写真(右)1945年8月29日-30日、沖縄本島、読谷飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機の胴体後方左側の昇降口から乗り込む重装備の第188空挺部隊の隊員たち:パラシュートの紐が、ボタンや袖に引っかからないように、ボタン。ジッパー、繋ぎなどが露出しないオーバーオールの空挺部隊用軍服を着用している。キャビンは、貨物運搬に便利なように、昇降口は左右に観音開きになるが、小型の梱包した荷物のために、片側のドアしか開けていない。M1ガーラント(Garand)小銃は、口径7.62mm、全長1,108mm、重量4.3?、初速848m/秒、有効射程500ヤード (457 m)、装弾数8発、ガス圧利用の自動小銃である。
写真解説: 【原文】 No Caption 【和訳】 (日本本土に向けて発つAC-54に乗り込む第188パラシュート歩兵連隊の兵士)
撮影地: 撮影日: 1945年 備考: 資料コード: 0000112198.
写真は, 沖縄県公文書館・写真番号: 03-80-3 引用。


第11空挺師団上位部隊
1944.9.28第6軍、1944.12.26第8軍、1945.2.9第6軍、1945.2.10第14軍団、1945.6.15第6軍、1945.8.15第8軍、1945.9.22第14軍団、1945.12.1第9軍団

アメリカなど西側連合軍は、占領した沖縄を足場にして、1945年11月には、日本本土九州へ上陸する「オリンピック作戦」を準備していた。これは、九州南部の志布志湾や吹上浜への上陸作戦である。このために、事前に沖縄方面に嘉手納、読谷、伊江島と大規模な航空基地を整備し、十分な攻撃用航空兵力を配備している。

対する日本軍は、「決号作戦」と称して、日本各地に方面軍を設け、万が一、東京あるいは松代の新大本営と連絡が取れなくなっても、独自に徹底抗戦をする体制を作り、特攻を中核として軍民一体の戦闘をする「一億玉砕」を決めていた。連合軍は、九州制圧後、関東平野に上陸する「コロネット作戦」を進めていた。

しかし、西側連合軍よりも早く、1945年8月9日未明、ソビエト連邦が対日参戦し、中国東北地方の満州、南樺太、千島列島への攻撃を仕掛けてきた。対米戦の準備に大わらわであった日本軍は、対ソ戦用の兵力を整えておらず、敗戦は必至だった。


写真(上):1945年8月29日、沖縄本島嘉手納飛行場、アメリカ軍第187降下部隊C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機
:アメリカ軍の嘉手納基地は、1944年9月完成の旧日本陸軍の中飛行場を拡張した飛行場で、1945年6月には、全長2,200mの舗装滑走路が完成している。この機体は、日本本土への物資の空輸を担っていた。10年後、ニュージーランドのクライストチャーチから南極マクマード(McMurdo)基地氷河飛行場までの飛行をすることになる。
Douglas C-54 at Kadena Field preparing to transfer 187th Para-glider troops to Japan Aug. 29, 1945 NARA A This Douglas C-54D transport plane was used to ferry USA Occupation Forces and equipment to mainland Japan. Ten years later she was the first freighter to make regular flights from Christchurch NZ to the McMurdo Ice Runway on Antarctica. In 1958 the VX-6 Deep Freeze Squadron was formed and this aircraft O-272569 was one of two Skymasters allocated.
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


ダグラス(Douglas)DC-4 スカイマスター(Skymaster)輸送機の特徴は、降着装置が主輪式なことである。それまでの輸送機は、左右主翼のエンジンカウリングに設けた主輪2個と胴体尾部の下方に設けた尾輪によって、地上では3点姿勢で離着陸・待機していたのに対して、胴体前下方に機首に首輪を設けて、左右主翼のエンジンカウリングに設けた主輪2個と合わせて、離着陸・待機するように変更になったとである。首輪を設けたことで、待機中も機体は水平になり、貨物や旅客の移動や積み込みは容易になった。ただし、重量は若干増加し、離着陸に必要な滑走距離も長くなったが、これは飛行場整備によって対処できることだった。


写真(上):1945年8月30日、沖縄本島嘉手納飛行場(?)、パイパー カブ(Piper Cub)連絡機を分解して日本に運搬しようとしているアメリカ軍ダグラスC-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機
:パイパー カブ(Piper Cub)連絡機の胴体から主翼が切り離されて手前に置かれている。アメリカ軍の嘉手納基地は、1944年9月完成の旧日本陸軍の中飛行場を拡張した飛行場で、1945年6月には、全長2,200mの舗装滑走路が完成している。この機体は、日本本土への物資の空輸を担っていた。
Piper Cub getting ready to ride a C-54 Aug 30, 1945 NARA
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


ダグラスDC-4輸送機は、民間仕様であり、アメリカ陸軍航空隊ではC-54、アメリカ海軍航空隊ではR5D輸送機の名称で制式している。ダグラスC-54/R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機は、1942年から1947年までに1200機生産され、アメリカ本土、ハワイ、マリアナ諸島、フィリピン、沖縄を結ぶ空中輸送に使用された。

アメリカ軍の嘉手納基地は、1944年9月完成の旧日本陸軍の中飛行場を拡張した飛行場で、1945年6月には、全長2,200mの舗装滑走路が完成している。この機体は、日本本土への物資の空輸を担っていた。

アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥の専用機もC-54 輸送機で、1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサー専用機は、「バターン」で、これは太平洋戦争緒戦、1942年、フィリピンのバターン半島での戦いを記念しての固有名称である。

写真(右):1945年8月30日、沖縄本島嘉手納飛行場(?)、パイパー カブ(Piper Cub)連絡機を分解して日本に運搬しようとしているアメリカ軍ダグラスC-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機:主翼を取り外したパイパー カブ(Piper Cub)連絡機の胴体を、胴体後方左側の大型貨物ドアを開けて積み込もうとしている。パイパー カブは、1938年初飛行の軽飛行機で、1947年までに2万機が生産された。パイパーJ3カブは、乗員 2名、全長 6,83 m、全幅 10,76 m、重量 345 kg 、最高速力142 km/h、発動機コンチネンタル(Continenta)O-17048 kW (65 PS)1基装備。
Loading a Piper L-4 into a C-54 for the trip to Japan Summer 1945 NARA A
写真は, George Lane www.fold3.com引用。


 宮崎中将が一人出迎えに来ていてくれた。同氏から東京では昨夜以来総理殿下以下大いに心配していたこと、現在総理官邸に関係者多数集まって報告を待っていることなどを伝えられた。そこでともかくさっそく総理官邸に行こうと、払は、岡崎、天野、横山三氏とともに永田町に走った。

総理官邸には、総理殿下以下、外務(重光)・海軍(米内)両大臣、近衛国務相、梅津・豊田両総長のほか関係省部の課長級まで多数参集して私たちを待ち受けていた。  総理および両総長に申告、ついで参集諸君一同の前で復命報告を終えたのがおおむね十一時であった。  午後一時十五分から総理侍立のもとに、私だけ拝謁し、簡単に復命上奏を終わった。  そのあと更に要求され、木戸内大臣および蓮沼侍従武官長に対し、やや詳細にわたって報告をした。

 降伏文書を受領した日本降伏使節団は、1945年8月20日1300,マニラを出発、伊江島飛行場でダグラスC-54輸送機から一式陸攻に乗り換えて、東京に向かった。しかし、この一式陸攻は帰路途上に故障し、浜松海岸に不時着水した。使節団一行は、そこで住民に救助され浜松飛行場に着き、故障中の陸軍四式重爆を深夜に修理し、翌朝8月21日0700に浜松飛行場を離陸、0830に調布飛行場に着陸した。そこから、東久邇宮首相の待つ総理官邸に急行し、任務完了を報告した。


写真(右)1945年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)飛行機工場で製造されるダグラス・マッカーサー将軍専用のダグラスVC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253 )のコックピットに収まった工員のグレッグ・ワズマン(Greg Wasmann)と整備台の上に立った若い女性:マッカーサーの乗機になるので機首に「Bataan」とある。これは、1942年にマッカーサーが守備していたフィリピンのルソン島バターン半島を失陥し、オーストラリアにまで追いやられた復讐戦の記念した命名である。並列複座操縦席のあるコックピットの側面ガラス窓は開閉可能だった。
SDASM Archives
Douglas C-54 Bataan factory 1945
Photos belonging to a Special Collection belonging to Greg Wasmann who worked at Douglas Aircraft
Douglas VC-54E (C-54E-1-DO) Skymaster, USAAF Ser. No. 44-9027 (c/n 27253), "Bataan," Gen. Douglas MacArthur's (USA) personal aircraft. .
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00013422引用。


1944年には、C-54は、アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトの専用機となり、「セイクリッド・カウ」の固有名詞が与えられた。FDRは、1943年のカイロ会談・テヘラン会談、1945年のヤルタ会談の2回の外国出張に使用した。また、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥の専用機もC-54 輸送機で、1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサー専用機は、「バターン」で、これは太平洋戦争緒戦、1942年、フィリピンのバターン半島での戦いを記念しての固有名称である。

大東亜戦争終結ノ詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ 万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ 皇祖皇宗ノ遺範ニシテ 朕ノ拳々措カサル所。 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ 亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ 朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦我ニ利アラス。 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所----

朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。----

朕ハ 帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ 遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ 職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者 及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ 五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ 朕ノ深ク軫念スル所ナリ。

----朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ。----宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民 其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ。
              御名御璽
             昭和二十年八月十四日

写真(右)1945年、連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)ダグラス・マッカーサー将軍と乗機となったダグラスVC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253 ):コックピットの外側には、星5個が並んでいるが、これは元帥の記章である。BATAANの文字は、フィリピン最大のルソン島の上に書かれているが、バターン半島の位置にあるわけではない。
In April, 1945, General MacArthur adopted a new transport, a Douglas C-54 (converted to VC-54E) Skymaster transport, which he named “Bataan II.” Bataan I was flown to Wright Field, Ohio for repairs and left there. In 1945, 1st Lt. Bob Normile and Lt. Col. Wheldon “Dusty” Rhodes, Gen. MacArthur’s chief pilot, were checked out on Gen. MacArthur’s new C-54 personal transport at the Douglas Aircraft plant in Santa Monica, CA. The five stars in line on the nose that denoted MacArthur’s rank; the stars were later displayed in a circle pattern. (Courtesy Don Moore’s War tales.com)
写真はAustralian War Memorial・Accession Number P00633.001 引用。


1945年8月28日、日本占領のアメリカ軍先遣隊150名がフィリピンから神奈川県厚木飛行場に到着した。日本占領統治を任された連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥は、新たな専用機ダグラス(Douglas)C-54 (VC-54E)スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターンII」“Bataan II"に乗って、8月29日、マニラから沖縄読谷飛行場に飛来し、8月30日、厚木基地に降り立った。

1941年12月22日、日本陸軍の本間雅晴中将隷下第十四軍主力が、ルソン島中部西岸リンガエン湾に上陸した。日本軍は、マニラ占領を目指して進撃したが、アメリカ軍はマニラをオープンシティーとし、ジャングルや丘陵に覆われたバターン島に引き籠って持久戦を戦った。日本軍は苦戦し、バターン半島攻略は、1942年4月上旬にずれ込み、さらに、バターン半島先端のコレヒドール島に逃げてアメリカ軍は、ウェインライト中将の下で5月6日まで抵抗を続けることができた。ところが、マッカーサー将軍は、フィリピン最高指揮官だったにもかかわらず、部下のウェインライト少将を残して、ミンダナオ島経由で3月20日、B-17爆撃機に搭乗してオーストラリアに脱出していたのである。

写真(右):1945年8月30日 フィリピン、ルソン島マニラから、沖縄読谷飛行場を神奈川県厚木飛行場にダグラス(Douglas)VC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(Bataan)(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253)で到着したGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:1945年8月19日,日本降伏使節団16名は沖縄諸島伊江島からマニラに飛び、8月21日に沖縄経由で調布飛行場に何とか帰り着いていた。進駐はそれから9日後だった。
General MacArthur arrives at Atsugi Airfield Description GeneralDouglas MacArthur, Supreme Commander, arrives at Atsugi Airfield in Japan. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. (These photographs have also been reproduced in 8x10 and are in the regular photo boxes). Date(s) August 30, 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 98-2445引用。


1941年12月から1942年初頭、フィリピンで日本軍と戦ったダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)は、コレヒドール島に避難し、バターン半島での抵抗にも失敗し、抵抗を諦めてた。そして、大統領命令とはいえ、部下をフィリピンに置いたまま、オーストラリアまで逃げ出した。したがって、フィリピン、バターン半島での敗北という雪辱のためにも、1945年2月のフィリピン、ルソン島への上陸、フィリピン全土の解放は、マッカーサーの復讐のために不可欠だったといえる。

写真(右)1945年8月30日、神奈川県厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)ダグラス・マッカーサー将軍と乗機となったダグラスVC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253 ):マッカーサーの乗機になるので機首に「Bataan」とある。これは、1942年にマッカーサーが守備していたフィリピンのルソン島バターン半島を失陥し、オーストラリアにまで追いやられた復讐戦の記念した命名である。マッカーサーが只一人悠然と降りて、ゆっくりと日本を歩き始めるまで、昇降口に待たされている同乗者らしき人物が写っている。マッカーサーが、日本の統治者であることをわからせる演出の邪魔をすることは、同乗者には禁じられており、一緒に写ることはできなかったはずだ。
Unit Headquarters Units Places • Asia: Japan, Kanto, Kanagawa Prefecture, Yokohama • Asia: Japan, Tokyo Conflict Second World War, 1939-1945 Copyright Item copyright: Copyright expired - public domain
Description YOKOHAMA, JAPAN, 1945-08-30. GENERAL DOUGLAS MACARTHUR LEAVING HIS C-54 AIRCRAFT "BATAAN" AT THE ATSUGI AIRSTRIP NEAR YOKOHAMA, ON HIS ARRIVAL IN JAPAN AS SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS (SCAP). AFTER THE JAPANESE SURRENDER CEREMONIES ON 1945-09-02, MACARTHUR ENTERED TOKYO AND SET UP HIS GENERAL HEADQUARTERS FOR THE DURATION OF THE OCCUPATION. (DONOR: E. WILLIAMS)
写真はAustralian War Memorial・Accession Number P00633.001 引用。


 1880年生まれダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の個人輸送機となった愛機ボーイングB-17Eフォートレス(シリアルナンバー 41-2593)四発爆撃機だが、機首はB-17F型と同じで「バターン」“Bataan”と命名された。 乗機に「バターン」と命名したのは、フィリピン奪回、日本軍の撃滅という復讐・報復を誓ったからである。演出を好むマッカーサーが乗機B-17爆撃機に「バターン」の愛称を付けたのもむべなるかなである。

 1945年4月、マッカーサーは新たな専用機ダグラス(Douglas)C-54 (VC-54E)スカイマスター(Skymaster)輸送機を採用し、これが「バターンII」“Bataan II”となった。ボーイングB-17バターンI (Bataan I)は、アメリカ本土オハイオ州ライトフィールド(Wright Field)基地で修理・整備がなされ、そのまま基地に留め置かれた。

 マニラで降伏文書を受領した日本降伏使節団は、1945年8月20日1300,マニラを出発、伊江島飛行場でダグラスC-54輸送機から一式陸攻に乗り換えて、東京に向かった。しかし、乗機一式陸攻に故障が発生、浜松海岸に不時着水した。使節団は、住民の漁師に救助されて浜松飛行場に案内され、深夜、故障機を修理して、翌朝(8月21日0800)、浜松飛行場を飛び立って、0830調布飛行場に到着。すぐに、東久邇宮首相の待つ総理官邸に向かい降伏任務の完了を報告した。

写真(右)1945年8月30日、日本に進駐するために厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥と乗機となったダグラス(Douglas)VC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(Bataan)(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253):マッカーサーの乗機になるので機首に「Bataan」とある。これは、1942年にマッカーサーが守備していたフィリピンのルソン島バターン半島を失陥し、オーストラリアにまで追いやられた復讐戦の記念した命名である。コックピットの窓ガラスを開けて、搭乗員らしき人物2名が写っている。
In April, 1945, General MacArthur adopted a new transport, a Douglas C-54 (converted to VC-54E) Skymaster transport, which he named “Bataan II.” Bataan I was flown to Wright Field, Ohio for repairs and left there.
General MacArthur flew aboard this VC-54E aircraft, serial number 44-9027, “Bataan II” when he arrived in Japan on 30 August 1945.
General Douglas MacArthur deplanes from VC-54E 44-9027, “Bataan II,” at Atsugi Airfield, Japan, on 30 August 1945. (Courtesy Cordia-farms.com).
General MacArthur continued to use a VC-54 as personal transport in his role as Supreme Commander for the Allied Powers (SCAP) (as well as his other responsibilities as Commander-in-Chief, Far East; and Commanding General, U.S. Army, Far East) during the Japanese occupation, and into the early part of the Korean War (in his added role as Commander-in-Chief, United Nations Command).
写真はThe Bataan Campaign・An Aerial Echo of Bataan引用。


1945年8月28日、日本占領のアメリカ軍先遣隊150名がフィリピンから神奈川県厚木海軍基地に到着した。日本占領統治を任された連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥は、新たな専用機ダグラス(Douglas)C-54 (VC-54E)スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターンII」“Bataan II"に乗って、8月29日、マニラから沖縄読谷飛行場に飛来し、8月30日に厚木飛行場に降り立った。

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

Japan Surrenders

写真(右):1945年8月30日 日本の厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers:SCAP)マッカーサー元帥:後方に駐機しているダグラス(Douglas)VC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(Bataan)(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253)から日本に飛来したMajor General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right).実は8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)
With other senior Army officers, upon his arrival at Atsugi airdrome, near Tokyo, Japan, 30 August 1945. Among those present are: Major General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right). Aircraft in the background is a Douglas C-54. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
写真は、Naval History and Heritage Command USA C-1732 General of the Army Douglas MacArthur, U.S. Army (second from right) 引用。

ダグラス(Douglas)DC-4 スカイマスター(Skymaster)輸送機の試作機は、戦時中の1942年2月14日に初飛行した輸送機だったために、民間航空向けには74機生産されただけで、軍用には1134機が生産された四発大型輸送機である。最終的には、1947年8月に生産中止になっているが、これは後継機として、ダグラス(Douglas)DC-6四発輸送機が実用化されたためである。

写真(右):1945年8月30日 フィリピン、ルソン島マニラから、沖縄読谷飛行場を神奈川県厚木飛行場にダグラス(Douglas)VC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(Bataan)(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253)で到着したGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥、参謀長リチャード・サザーランド中将、アメリカ陸軍第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー (Robert L. Eichelberger)中将、通信参謀スペンサー・B・アキン(Spencer B. Akin)少将ら一行:1945年8月19日,日本降伏使節団16名は沖縄諸島伊江島からマニラに飛び、8月21日に沖縄経由で調布飛行場に何とか帰り着いていた。進駐はそれから9日後だった。
General Douglas MacArthur At Atsugi Airdrome Airfield, Near Tokyo, Japan Description General Douglas MacArthur (center) is standing outside Atsugi Airdrome Airfield near Tokyo, Japan, with Lieutneant General Richard K. Sutherland, Chief of Staff (left) and General Robert L. Eichelberger, Commanding General of the 8th Army (right). At the extreme left with glasses is Major General Spencer B. Akin, Chief Signal Officer. All others are unidentified. Date(s) August 20, 1945.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3338 引用。


ダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
プラット&ホイットニー空冷星形エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載
座席数:50名

写真(右)1950年8月以前、韓国、仁川上陸作戦を成功させたダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)将軍と乗機となったダグラス(Douglas)VC-54E (C-54E-1-DO) スカイマスター(Skymaster)輸送機「バターン」(Bataan)(シリアルナンバー:Ser. No. 44-9027;製造番号 c/n 27253):マッカーサーの乗機になるので機首に「Bataan」とある。これは、1942年にマッカーサーが守備していたフィリピンのルソン島バターン半島を失陥し、オーストラリアにまで追いやられた復讐戦の記念した命名である。コックピットの窓ガラスを開けて、搭乗員らしき人物2名が写っている。1950年9月から、マッカーサー将軍は乗機を更新し、ロッキードVC-121Aコンステレーション(Constellation)(シリアルナンバー:48-613)があらな「バターン」となった。
Douglas C-54 Bataan factory 1945
Gen MacArthur with his C-54 plane - Over 2500 views - Korea (NMP)
This image borrowed from flickr: US Army Korea - IMCOM / IMCOM Korea Region GENERAL MACARTHUR INSPECTS KOREAN WAR FRONT: General of the Army Douglas MacArthur, Commander in-Chief, Far East Command, on an inspection tour of the South Korean Forces after the surprise attack by the North Koreans. Cleared for public release. This image is generally considered in the public domain - Not for commercial use. More Info: C-54E, staff transports, 1 (44-9027), used in 1945 by General MacArthur and named "Bataan".
写真はSDASM Archives・NARA FILE#: 111-SC-343024引用。


実は、マッカーサーの厚着到着前、1945年8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)

写真(右):1945年9月2日 、横浜、捕虜から解放した部下のジョナサン・ウェインライト(Jonathan Mayhew "Skinny" Wainwright)を迎えるGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:1942年にフィリピンからマッカーサーが逃亡し、置き去りにされ日本軍に降伏をよぎなくされたウェイラントにとって、解放者マッカーサーに対する感情は、複雑であろう。
General MacArthur arrives at Atsugi Airfield
HST Keywords Hotels - Grand Hotel (Yokohama); Japan - General file - Yokohoma
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Wainwright, Jonathan Mayhew, 1883-1953
Description: General Douglas MacArthur greets General Jonathan Wainwright in Yokohama's new Grand Hotel. This is their first meeting since they parted in embattled Corregidor, in the Philippines, in 1942. From a Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific, in Tokyo, Japan, July 1946. (These photographs were also reproduced in 8x10 and placed in the regular photo boxes).
Date(s) September 2, 1945
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 98-2445引用。


ジョナサン・メイヒュー・"スキニー"・ウェインライト(Jonathan Mayhew "Skinny" Wainwright :1883-1953)は、太平洋戦争勃発を駐屯先のフィリピンのアメリカ極東域陸軍(アメリカ=フィリピン軍)のダグラス・マッカーサー大将を補佐する将校として迎えた。日本軍上陸後は、バターン半島に籠城して抵抗を続け、最後には半島先端に浮かぶコレヒドール要塞に移って戦った。1942年3月、上級指揮官マッカーサー大将がフィリピンを脱出し、オーストラリアに逃亡することが決まると、たため、マッカーサー大将の権限を委譲された。しかし、1945年5月、コレヒドール要塞に上陸した日本軍に降伏、捕虜となった。日本敗戦後に解放され、1945年9月2日、アメリカ戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印式に出席した。

ジョナサン・メイヒュー・"スキニー"・ウェインライト(Jonathan Mayhew "Skinny" Wainwright :1883-1953)は、長年の日本軍捕虜の囚人生活の慰労を込めて、1945年9月5日、大将に昇進した。1946年1月、テキサス州フォート・サム・ヒューストンの第四軍司令官に就任、1947年8月に退役となった。

写真(右):1945年9月2日 アメリカ戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団を見物するアメリカ海軍水兵たち:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)
Title:Surrender of Japan, Tokyo Bay, 2 September 1945 Description:View of the surrender ceremonies, looking forward from USS Missouri's superstructure, as Admiral Conrad E.L. Helfrich signs the Instrument of Surrender on behalf of The Netherlands. General of the Army Douglas MacArthur is standing beside him. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
写真は、Naval History and Heritage Command USA C-1189 Surrender of Japan, Tokyo Bay, 2 September 1945引用。


降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
---「ポツダム」---宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス

----一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト----一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス

----「ポツダム」宣言---ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

---日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎


写真(右):1945年9月2日(日本3日),東京湾のアイオワ級新鋭戦艦「ミズーリ」での降伏調印式に出席した日本代表団;重光葵(外務大臣),梅津美冶郎参謀総長(海軍の豊田副武軍令部総長は欠席) and 梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)Chief of the Army General Staff. 後方は,左から右に:永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀);岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官);富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長);加瀬俊一(内閣情報部第三部長), 宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)。さらに,後方は左から右に:横山一郎(海軍少将、海軍省出仕);太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長);柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部), 杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)。「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」とある。
Japanese representatives on board USS Missouri (BB-63) during the surrender ceremonies, 2 September 1945. Standing in front are: Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat) and General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. Behind them are three representatives each of the Foreign Ministry, the Army and the Navy. They include, in middle row, left to right: Major General Yatsuji Nagai, Army; Katsuo Okazaki, Foreign Ministry; Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; Toshikazu Kase, Foreign Ministry, and Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. In the the back row, left to right: Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; Saburo Ota, Foreign Ministry; Captain Katsuo Shiba, Navy, and Colonel Kaziyi Sugita, Army. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真は、Naval History and Heritage Command NH 96808 Surrender of Japan, Tokyo Bay, 2 September 1945引用。


加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を次のように描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)

私の瞑想は靴音で破られた。足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。----
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。----演説を終ると、元帥は厳しい口調で日本全権に降伏文書の調和を促した。

----戦勝国代表が次々に署名した。これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。国民政府代表が進み出た時には、アジアの二大国として親善たるべき日華両国が長く抗争し、いま、勝者と敗者に分かれて相対する悲劇を、形容に絶する哀感をもって味わった。

また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。----VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。

----私は---急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。----私はこの報告書を、「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」という疑問で結んだ。これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。

いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。

---私は首相官邸から議事堂へ急いだ。衆参両院議員が私の帰るのを待ちわびていた----調印式の経過を説明したうえ、「占領は厳格だと思う。だが、マッカーサー元帥は、“寛容と正義”を力説しているから、我が国の前途は必ずしも悲観するに当るまい。正しい主張ならば、元帥も快く耳を傾けるのではあるまいか。ただ、それには、今日を再出発の日として、全国民が一億一心となって祖国の再建に猛然と全力を結集せねばならぬと信ずる」という趣旨を訴えた。----盛んな拍手をあとにして辞去する時、私は、これこそ愛国心の爆発だと思った。マッカーサーにこの愛国の拍手をきかせたいと思った---。
加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)


写真(右):1945年9月3日 アイオワ級戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の連合軍最高司令官マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthurとサザーランド中将Lieutenant General Richard K. Sutherlandが参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)大将の降伏調印を見守る。:梅津美治郎(1882年1月4日 - 1949年1月8日)は,二・二六事件後に陸軍次官として陸軍内を粛正した。また,ノモンハン事件後、関東軍総司令官に就任し,関東軍の粛正にも関わった。終戦時の御前会議では本土決戦を主張し,降伏調印式への出席も最後まで拒んでいた。加瀬,富岡など宮中グループは,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価している。彼らは,東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう
General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff, signs the Instrument of Surrender on behalf of Japanese Imperial General Headquarters, on board USS Missouri (BB-63), 2 September 1945. Watching from across the table are Lieutenant General Richard K. Sutherland and General of the Army Douglas MacArthur. Representatives of the Allied powers are behind General MacArthur. Photographed from atop Missouri's 16-inch gun turret # 2. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真は、Naval History and Heritage Command 80-G-332701 Surrender of Japan, Tokyo Bay, 2 September 1945 引用。


敗戦国の降伏調印使節が,戦勝国の司令官に感服して,日本人の愛国心の表れが,敵将演説への拍手であり,それを敵将に聞かせてやりたいと述べている。今からみると,まるで,敗者が勝者に媚びへつらっているか,勝者に洗脳されたような文章であるが,当時はどうだったのか。

大本営海軍部/軍令部作戦部長富岡定俊少将の回想(映像で見る占領期の日本:降伏調印式関係史料集引用)

どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。---九時前後になって式が始まった。マッカーサー連合軍最高司令官が、マイクの前に立った。---「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、人に対して語る姿ではなかった。日に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。----しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。不覚の涙で目尻が熱くなる。

日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。

これなら「レジスタンスはやらないで済むな」と思い、帰ってから米内さんに報告したら「うんわかった。お前死ぬなよ」と言われた。ある先輩からも懇々とさとされて、私は古巣の海軍大学校の片すみに、みなさんのお骨折りで史料調査会を設け、今日まで戦史の研究をしている。(降伏調印式関係史料集 ・『文藝春秋』1950年9月号引用終わり)。

写真(右):1945年9月2日,東京湾上で日本降伏調印式Formal Surrender of Japanを宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthur):戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。
General of the Army Douglas MacArthur, Supreme Allied Commander, speaking at the opening of the surrender ceremonies, on board USS Missouri (BB-63). The representatives of the Allied Powers are behind him, including (from left to right): Admiral Sir Bruce Fraser, RN, United Kingdom; Lieutenant General Kuzma Derevyanko, Soviet Union; General Sir Thomas Blamey, Australia; Colonel Lawrence Moore Cosgrave, Canada; General Jacques LeClerc, France; Admiral Conrad E.L. Helfrich, The Netherlands and Air Vice Marshall Leonard M. Isitt, New Zealand. Lieutenant General Richard K. Sutherland, U.S. Army, is just to the right of Air Vice Marshall Isitt. Off camera, to left, are the representative of China, General Hsu Yung-chang, and the U.S. representative, Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN. Framed flag in upper left is that flown by Commodore Matthew C. Perry's flagship when she entered Tokyo Bay in 1853. It was borrowed from the U.S. Naval Academy Museum for the occasion. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
写真は、Naval History and Heritage Command USA C-2716 Surrender of Japan, Tokyo Bay, 2 September 1945引用。


1945年9月2日(日本3日)アイオワ級戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前 (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。 我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。新時代の到来である。勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていないが、演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。


3. 1945年9月、ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)司令官の下、連合軍総司令部(GHQ)による日本占領統治・軍政が開始された。アメリカ軍は、第二次世界大戦で使用していた軍用機ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター輸送機を使って、沖縄諸島に展開していた部隊を日本本土に派遣し、首都圏では入間川基地を拠点として使用した。

敗戦国日本を占領統治したのは、1945年10月2日に設けられた、連合国軍最高司令官総司令部で、これは太平洋方面のアメリカ陸軍部隊を統括するアメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/AFPAC)と併設して設置された。ここで、この連合国最高司令官(SCAP)は、ダグラス・マッカーサー陸軍元帥で、1951年4月11日の解任以降は、占領統治終了の1952年4月28日まで、マシュー・リッジウェイ陸軍中将が就任している。連合国軍最高司令官総司令部は、発足当初、SCAP下にある参謀長、副参謀長、参謀長直属の物資調達部(GPA)と参謀第1部(G1)から第4部(G4)までの参謀部、副参謀長の下に、天然資源局(NRS)・民間通信局(CCS)・経済科学局(ESS)・法務局(LS)・民政局(GS)・統計資料局(SRS)・民間諜報局(CIS)・民間情報教育局(CIE)・公衆衛生福祉局(PHW)の9個の幕僚部が設けられた。

その後、占領統治体制の中で、参謀長の官房と幕僚部の部局の変更が行われた。参謀長の官房部局には、国際検事局(IPS)・外交局(DS)・渉外局(PRS)、幕僚部の部局には、民間財産管理局(CPC)・高級服幹部(AG)・一般会計局(GAS)・民間運輸局(CTS)・賠償局(RS)・民事局(CAS)が新設された。特に、日本国憲法の制定に関わり、民主化を推進した民政局、財閥解体・労働改革など経済民主化を推進した経済科学局、地主解体・自作農創設のための農地改革を推進した天然資源局、教育の民主化を推進した民間情報教育局、公職追放・政治犯釈放を担当した民間諜報局など戦後日本の民主化に大きな役割を担った期間は重要である。

連合国軍最高司令官総司令部の人員構成は、1948年の最盛期、民政局・経済科学局・外交局など12部局に4739名、全体では文官3850名を含む6000名に達していたという。連合国軍最高司令官総司令部は、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により、日本が独立したために廃止された。

写真(右):1945年9月27日、東京、連合軍総司令部に昭和天皇を呼出し、会見したGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:昭和天皇とマッカーサーの歴史的会見であるが、身長差が大きい、服装に軽重があるといった対比は、まさに勝者と敗者の格差である。この写真は、公開され日本人に衝撃を与えた。今まで現人神として挙げめていた天皇とはこれだ。He is the one.この写真を掲載し会談の模様の記者会見記事を掲載した9月29日の朝日新聞・毎日新聞・読売報知は、日本の内務省(まだ解体されてなかった)によって発禁処分にされた。これに対しGHQは、内務省による発禁処分を直ちに取り消させた。日本政府・官僚の国際感覚、民主主義への無理解は凄まじい。敏感な日本国民は、日本政府は信頼するに足らず、GHQこそ信頼できると判断し始めた。日本国民が洗脳されたからではなく、旧態依然たる日本政府・官僚が体たらくだったのである。
Emperor Hirohito pays a precedent shattering visit to Supreme Commander MacArthur
HST Keywords Hirohito; Japan - General file - Tokyo; MacArthur, Douglas - Ref. to
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989
Rights The Library is unaware of any copyright claims to this item; use at your own risk.
Description Emperor Hirohito, in formal morning attire, pays precedent shattering visit to Supreme Commander Douglas MacArthur at headquarters in Tokyo. From a Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific, in Tokyo, Japan, July 1946. (These photographs have also been reproduced in 8x10 and placed in the regular photo boxes)..
Date(s) July 1946.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2014-3338 引用。


1945年9月27日、東京で行われた連合軍総司令部ダグラス・マッカーサーと敗戦国日本の昭和天皇との歴史的会談は東京駅近く、皇居・宮城の真向かいで、戦災を受けなかった第一相互ピルに置かれたGHQで開催されたが、GHQがここに設けられたのは、1945年9月20日で、会談一週間前だった。会談の内容は、日米両国政府によって公表されないまま現在に至っている。これは、両人の男の約束だなどという仁義がまことしやかに語られているが、秘密議定書に相当する重要な事項(戦争責任・領土問題・日米関係・日本の独立など)にかかわる基本方針が定まったと考えられる。会談には一人の通訳外務省参事官奥村勝蔵が付き従った。他方、1961年、藤田尚徳『侍従長の百想』(講談社)によって、秘密のはずの会談内容が公表され、「昭和天皇が、戦争の全責任を負うことを明言し、自分の一身はどうなってもよいから国民を救ってほしい」と訴えたという美談がのこっている。

降伏調印をしたばかりの東久遷宮内閣の外務大臣重光葵は、「皇室擁護」を当然のこととしながらも、開戦時の東條首相の大命、真珠湾攻撃などの具体的事象を踏まえ、天皇には「過去の指導者は全部積極、消極の意義に於て多少の責任を負担し、皇室及国民の責任なきを立証せんと決意」していた。「若し過去の指導者にして単に責を他に嫁し、自ら責を免れんことに汲々たるに於ては、国内は分裂し、感情は激化するに至るべく、若し夫れ、陛下御自身真珠湾攻撃に責なきことを公然言明せらるるに至=りば、国体[天皇制]の擁護は国内より崩壊をみるに至らんことを恐るるに至れり。蓋し軍部の玉砕派は降伏、終戦に対し、今日尚陛下の御聖断に対し内心平ならざるもの多きものあればなり」と判断していたのである。

つまり、昭和天皇がGHQマッカーサー司令官を自ら訪問するのは、戦争責任を免罪してもらう、日本占領に手心を加えてもらうための「娼態」とみなされるのであり、これは外務大臣重光だけではなく、は戦争に敗北し、無条件降伏をした日本の高級軍人、成否的指導者から国民にまで、明確に感じるところがあったのである。重光葵後任の外相吉田茂、侍従長[天皇補佐]藤田尚徳のような下僚がマッカーサーの下に挨拶に行って、そこで何を話し合っても、それほどの国際的重要性を持たない。こんな人物を世界は、国際世論は知らないからである。しかし、天皇Hirohitoは、ヒトラー、ムッソリーニと並び称される有名人であり、世界の人々が知っていた。

写真(右):1946年6月日、フィリピン、マニラ、フィリピン共和国マニュエル・ロハス大統領にフィリピン独立を祝福するGHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥:1944年10月のレイテ島上陸で、1942年に脱出したフィリピンに「帰ってきたと」と宣言し、フィリピン全土を日本軍の支配から解放したと自称できたマッカーサーは、満面の笑みを浮かべている。自分がフィリピンを日本の弾圧的支配から解放し、独立させてやったのだ、ということであろう。週に、マッカーサーの支援を当てにしてきたロハス大統領は、マッカーサーに媚態を示しているように見える。しかし、内心は誇り高く、正面切ってマッカーサーに反抗しなくとも、戦後のフィリピン人の対日協力に関しては、フィリピンの独自の意向、すなわち日本に協力したフィリピン人たちは、日本の抑圧や略奪を少しでも食い止めようとした消極的抵抗者だった、との立場をとった。旧態依然たる日本政府・官僚がマッカーサーに媚びたことを見れば、フィリピン政府の態度のほう真っ当だった。
General MacArthur greets President Manuel Roxas on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies
Related Collection Robert E. Hannegan Papers
Keywords Armed forces officers ; Generals ; Presidents HST Keywords Philippines - Manila People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Roxas, Manuel A., 1892-1948
General Douglas MacArthur (right) greets President Manuel Roxas of the Philippines on his arrival in Manila for the Independence Ceremonies. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946
Date(s) July 1946.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 98-2425 引用。



写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊の兵舎
:埼玉県豊岡町(現在の入間市)には、陸軍航空士官学校が開設されており、当時の飛行場、兵舎が残っていた。アメリカ軍はそれを摂取して、航空基地として1960年代まで使用していた。入間川が近くを流れているので、発音しやすいこの地名を採用し、正式にはジョンソン基地と命名した。
SDASM Archives 15 Daniels Album Irumagawa Johnson AFB (2) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa Johnson AFB (2)引用。


埼玉県陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として、1937年10月1日、陸軍士官学校分校が開校した。そして、1938年5月、陸軍士官学校分校は埼玉県豊岡町(現在の入間市)に移転し、12月10日、陸軍航空士官学校として独立、設立された。1945年8月の敗戦当時も、豊岡には飛行場、兵舎が残っていた。アメリカ軍はそれを摂取して、航空基地として1960年代まで使用していた。ここで"Irumagawa Johnson”と命名したのは、上空から基地の近くを入間川が流れていたからだ。ジョンソンは、アメリカ陸軍航空隊パイロットのジェラルド・R・ジョンソン大佐のことで、彼は太平洋戦争で日本機で22機を撃墜したエースで、第49戦闘飛行隊指揮官で大佐だった。しかし、1945年10月7日、ノースアメリカンB-25 爆撃機で沖縄から帰還途上で、悪天候で事故死した。

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊のノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機、P-51ムスタング戦闘機;右側に飛行機格納庫が並んでいる。
15 Daniels Album Irumagawa AFB 1946 (7) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa AFB 1946 (7)引用。


1940年1月に、豊岡陸軍飛行場として作られたが、1945年9月、日本敗戦により、アメリカ陸軍航空軍第五航空軍が進駐してきた。そして、1946年に陸軍のエース・ジェラルド・R・ジョンソン陸軍中佐に因んで「ジョンソン基地」と命名された。1954年に日本再軍備、航空自衛隊が発足、1958年8月に中部航空方面隊司令部が設置され、入間基地が発足した。そして、日本独立後に創設された航空自衛隊は、入間基地として、1961年から 日米共同使用が始まった。

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機;首輪式で機体が水平なために貨物の出し入れを行いやすい。トラックと黒塗り乗用車が大型貨物扉の近くに駐車している。手前の右にガソリンのドラム缶(55ガロン:204L)、左に給油自動車が写っている。石油1バレルは42ガロン、159Lなので、ドラム缶はそれよりも一回り大きい。
SDASM Archives 15 Daniels Album C-54 Irumagwa AFB (4) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00065796引用。


1963年11月に、飛行場地区管理運用がアメリカ駐屯軍から日本の航空自衛隊に移管された。基地が日本に全面返還されたのは、1978年である。入間航空ショーでは、航空自衛隊F86スーパーセイバー戦闘機の編隊によるブルーインパルスが舞っていた。

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機;首輪式で機体が水平なために貨物の出し入れを行いやすい。トラックと黒塗り乗用車が大型貨物扉の近くに駐車している。手前の右にガソリンのドラム缶(55ガロン:204L)、左に給油自動車が写っている。石油1バレルは42ガロン、159Lなので、ドラム缶はそれよりも一回り大きい。
SDASM Archives 15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (2) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (2)引用。


プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000ツインワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1300馬力は、1932年に開発されたプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830 ツインワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン1000馬力の排気量を増加、出力を向上させた発展型で、1942年に開発された。

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機"City of San Francisco";首輪式で機体が水平なために貨物の出し入れを行いやすい。トラックと黒塗り乗用車が大型貨物扉の近くに駐車している。手前の右にガソリンのドラム缶(55ガロン:204L)、左に給油自動車が写っている。石油1バレルは42ガロン、159Lなので、ドラム缶はそれよりも一回り大きい。
SDASM Archives 15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (3) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (3)引用。


写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊第54空輸中隊のダグラス(Douglas)C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機と部隊員;首輪式で機体が水平なために貨物の出し入れを行いやすい。トラックと黒塗り乗用車が大型貨物扉の近くに駐車している。手前の右にガソリンのドラム缶(55ガロン:204L)、左に給油自動車が写っている。石油1バレルは42ガロン、159Lなので、ドラム缶はそれよりも一回り大きい。
SDASM Archives 15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (4)/15 Daniels Album 54th Troop Carrier Sq Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two. .
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa Japan 1946 (4)引用。


 1945年8月30日、連合軍司令官マッカーサー元帥が、厚木基地に進駐してきたときの乗機パターンもC-54だったが、実は軍用輸送機C-54、DC-4の生産は1946年までで終了している。陸・海軍に納入されたDC-4四発輸送機は、1,165機に達しているが、民間機としてのダグラスDC-4の生産は、僅か79機に過ぎない。しかし、終戦によって多くの軍用C-54輸送機が、民間に払い下げられ、旅客機としての設備を備えて、民間輸送機ダグラスDC-4として再利用された。

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54D スカイマスター(Skymaster)輸送機"City of San Francisco";首輪式で機体が水平なために貨物の出し入れを行いやすい。
SDASM Archives Douglas C-54 Skymaster Title: Douglas C-54 Skymaster Date: 1946 Creation Place: Irumagawa Air Base, Japan ADDITIONAL INFORMATION: 317224, CMD Photo Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: US Manufacturers III D - K Page #: 33 Tags: Douglas C-54 Skymaster , 317224, CMD Photo PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION.
写真はSDASM Archives・Catalog #: 15_000920引用。


写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊第54空輸中隊のダグラス(Douglas)C-54D Skymasterスカイマスター(Skymaster)輸送機:エンジンナセルを開けて、エンジンを整備員が点検している。尾部には、支柱が取り付けられていて、水平安定性を確保している。胴体後方の扉には、昇降用のラダーが掛けられている。
SDASM Archives 15 Daniels Album Irumagawa AFB, Honshu Japan 1946 (1) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album Irumagawa AFB, Honshu Japan 1946 (1)引用。


アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)四発輸送機は、戦後も30年以上使用された輸送機であるが、その嚆矢は、1941年6月、アメリカ陸軍航空隊(ハップ・アーノルド指揮官)が、ダグラスの新鋭四発旅客機DC−4をすべて軍が徴発し、軍用輸送機として使用することを決めた時だった。この時、アメリカ陸軍機のDC-4はC-54と、海軍機のDC-4はR5Dと命名され、「スカイマスター」の愛称が与えられた。ダグラスDC-4は、長大なキャビン、前輪(首輪)式降着装置、マニホールド式静圧客室、燃焼式暖房装置付き客室など長時間の飛行にも疲れを軽減する設備も取り入れられていた。安全性とプラット&ホイットニーR2000エンジンの高い信頼性によって、陸上機による大洋横断飛行を定着させ、また大量輸送の管制方式を定着させることに大きく貢献した。 

写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊第54空輸中隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機”City of San Francisco”とパイパー J-3「カブ」(Piper J-3 Cub)連絡機:1938年に開発されたJ-3は、全長:6.78 m、全幅:10.73 m、全高:2.03 m、主翼面積:16.54 平方メートル、空虚重量:290 kg、最大離陸重量:499 kg、発動機:コンチネンタル A65 水平4気筒エンジン65hp 1基、最高速力:148 km/h、実用上昇限度:3,660 m、航続距離:402 km、乗員:2名。
SDASM Archives 15 Daniels Album 1946 Johnson AFB C-54 (1) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album 1946 Johnson AFB C-54 (1)引用。


写真(右)1946年、埼玉県狭山市稲荷山、入間川飛行場(ジョンソン基地)、アメリカ陸軍航空隊第54空輸中隊のダグラス(Douglas)C-54Dスカイマスター(Skymaster)輸送機”City of San Francisco”
SDASM Archives 15 Daniels Album 1946 Johnson AFB C-54 (2) Photo from Charles Daniels Collection Large Album of images taken in Japan after World War Two.
写真はSDASM Archives・15 Daniels Album 1946 Johnson AFB C-54 (2)引用。


連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。


4. 1945年の日本降伏後、解放された朝鮮半島、中国では、新政権が樹立されたが、日本は、これらの諸国との連携を図ることなく、アメリカ占領軍との関係だけを強化していった。1950年6月、北朝鮮が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まったが、9月にアメリカのマッカーサー元帥隷下の国連軍が仁川に上陸、北朝鮮軍を敗走させた。10月15日、太平洋上、ウェーキ島会談でアメリカ大統領トルーマンは、マッカーサーに戦功を祝し殊勲勲章を授与した。しかし、10月25日、中国義勇軍が北朝鮮軍に援軍として参戦すると、マッカーサーは中国本土攻撃を主張した。これは、朝鮮戦争を地域限定戦争にとどめようとしたしたトルーマン大統領の意に反していた。

写真(右):1949年10月11日、インド、飛行場で報道陣とアメリカ大統領ハリー・トルーマンを迎えて演説をするインド首相ジャワハルラール・ネルー(Nehru, Jawaharlal, 1889-1964):後方は、ダグラス(Douglas)DC-6を流用したVC-118 「インディペンデンス」 "The Independence" (シリアルナンバー:s/n 46-505)四発大統領専用機。
Prime Minister Nehru Addressing Reporters
Keywords Airports ; Journalists ; Presidential aircraft ; Presidents ; Prime ministers ; Speeches, addresses, etc. ; Visitors, Foreign ; Visits of state HST Keywords Airplanes - Independence; Truman - Dignitaries - Foreign - India People Pictured Nehru, Jawaharlal, 1889-1964 ; Truman, Harry S., 1884-1972
Description: Prime Minister Jawaharlal Nehru of India is addressing reporters after landing in Washington, D.C. for an official visit. President Harry S. Truman is to his right. The presidential plane "Independence" is in the background. Others are unidentified.
October 11, 1949
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 73-3163 引用。


イギリス植民地だったインドは、第二次大戦後、ヒンドゥー教徒のヒンドゥスタン、イスラム教徒のパキスタン、藩王国から成るインド連邦の独立構想が持ち上がったがイギリス人インド総督ルイス・マウントバッテンは、宗教・民族対立から、統一インドではなく、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に二分する分離独立を決めた。そして、1947年8月14日にパキスタン独立、8月15日にインド独立となり、パキスタン総督ジンナー、インド首相ジャワハルラール・ネルーが誕生した。

インド初代首相ネルー(1889年11月14日 - 1964年5月27日)は、マハトマ・ガンディーとともにインド独立の最大の功労者で、インド国民会議議長で、だった。独立後のインドを、非同盟諸国、第三世界の指導的政治家として、中国と並ぶ大国に押し上げようとした。民主主義政治と社会主義経済の混合を目指した。

1947年8月15日のインド独立に際して、ヒンドゥー教徒中心のインド連邦とイスラム教徒中心のパキスタンとが分離独立したが、藩王国は、藩主の意向で帰属が決まった。しかし、ジャンムー・カシミール藩王国では、藩王ハリ・シングがヒンドゥー教徒でインドへの帰属を、住民の大半がイスラム教徒でパキスタンへの帰属を望み、それにインド・パキスタンからの軍事介入が加わって、1947年10月には、パキスタンとインドの武力衝突、すなわち第一次印パ戦争が勃発してしまった。

写真(右):1948年8月14日(アメリカ時間)、韓国、ソウル、大韓民国成立記念式典、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と大韓民国初代大統領の李承晩(り しょうばん:イ・スンマン:이승만):キリスト教ミッションスクール培材学堂の在学中、韓国皇帝高宗の退位を要求、投獄されるも教団の力で特赦による出獄。1904年、渡米しし、1907年、ジョージ・ワシントン大学卒業、1908年、ハーバード大学で修士号取得。その後もアメリカで亡命生活を送り、1945年10月、日本降伏後に解放された朝鮮半島に帰国。朝鮮駐留アメリカ軍による軍政下、 1946年に大韓独立促進国民会の総裁に就任。1948年8月15日、大韓民国樹立に伴い初代大統領に就任。
Syngman Rhee and General Douglas MacArthur
HST Keywords Korea - Cities - Seoul People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Rhee, Syngman, 1875-1965
Description Syngman Rhee (right), first President of Korea, sits beside General Douglas MacArthur, Supreme Allied Commander in Japan, as they attend the August 14, 1948 ceremony in Seoul inaugurating the new Republic of Korea. From: Pershing Touseley, Reorganized Church of Jesus Christ of Latter Day Saints.
Date(s) August 14, 1948.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2002-106 引用。


大韓民国初代大統領李承晩(イ・スンマン:이승만)は、キリスト教ミッションスクール培材学堂の在学中、韓国皇帝高宗の退位を要求、投獄されるも教団の力で特赦による出獄。1904年、渡米し、1907年、ジョージ・ワシントン大学卒業、1908年、ハーバード大学で修士号取得。その後もアメリカで亡命生活を送り、1945年10月、日本降伏後に解放された朝鮮半島に帰国。朝鮮駐留アメリカ軍による軍政下、1946年に大韓独立促進国民会の総裁に就任。1948年8月15日、大韓民国樹立に伴い初代大統領に就任。

写真(右):1949年10月1日、中国、北京、天安門広場前で中華人民共和国の成立を宣言する共産党書記長毛沢東(Mao Zedong):毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した時期、実際には、中国各地で、国民党の抵抗が続いていた。これが、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が武力をもって対峙する国共内戦である。しかし、共産党の紅軍は、1949年11月30日に中華民国の首都重慶を攻略、その後蒋介石の国民党政府は台湾に逃亡した。国共内戦は、1950年6月には共産党の勝利で終わる。
Mao Zedong Makes Announcement
HST Keywords China - Peiping People Pictured Mao, Zedong, 1893-1976
People Pictured MacArthur, Douglas, 1880-1964 ; Hirohito, Emperor of Japan, 1901-1989
Mao Tse Tung (now called Mao Zedong) proclaims the People's Republic of China in Peking. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit.
Date(s) October 1, 1949.
5x7 inches (13x18 cm) , Black & White
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3732 引用。


中国共産党書記長毛沢東は、1949年10月1日、北京の天安門壇上の上から、中国支配者の立ち振る舞いで、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この時点では、未だに中国各地で、蒋介石率いる国民党(中華民国派)が武力抵抗をしており、国民党と共産党との国共内戦が続いていた。

しかし、共産党の紅軍は、1949年11月30日に中華民国の首都重慶を攻略した。そして、中国大陸で戦闘の不利を悟った国民党総統後蒋介石は、中華民国の軍隊を引き連れて、台湾に逃亡した。そのため、中国大陸に残存していた国民党軍は、随時降伏するか、あるいはインドシナ方面に亡命するかし、国共内戦は、1950年6月、毛沢東率いる共産党の勝利で幕を閉じた。

写真(右):1949年 、ソビエト連邦、モスクワ、儀仗兵を閲兵する北朝鮮の労働党書記長金日成(キム・イルソン)指導者と外務大臣アンドレイ・グロムイコ:1912年4月15日生まれの金日成(キム・イルソン:きん・にっせい:김일성)は、1930年代から1945年まで、共産主義を報じる革命闘士だったが、1940年には、日本軍の掃討作戦に耐えきれず、ソ連に亡命している。1950年6月25日、ソ連と中国の支援を受けて、大韓民国を攻撃し、朝鮮半島を起こした。
Andrei Gromyko and North Korean Premier Il Song
People Pictured Gromyko, Andrei Andreevich, 1909- ; Kim Il-song, 1912-1994
Description: Andrei Gromyko (in dark military cap) was delegated to guide Kim Il Song (hatless, at left, of official party reviewing troops), the North Korean Premier, during Kim's visit to Moscow. From: Photos used in the 1984 Truman Centennial Exhibit. Library of Congress Photo Number: LC-USZ62-80619.
Date(s) 1949
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2013-3703 引用。


金日成(キム・イルソン:きん・にっせい:김일성)は、1930年代に中国共産党員として反日武装闘争に参加した。しかし、1940年には、日本軍の掃討作戦に耐えきれず、ソ連に亡命し、ソ連赤軍の傘下に入るとともに、コミンテルン式のイデオロギー教育、スパイ訓練を受けたようだ。1945年8月、日本の降伏によって、ソ連赤軍が北緯38度線以北の朝鮮半島を占領すると、金日成は9月19日に、ウラジ₌オストークから、ソ連艦で北朝鮮東岸の元山港に上陸し、共産党員として指導的役割を与えられた。1946年、金日成は、成立した北朝鮮労働党の指導者となり、1950年6月25日、ソ連と中国の援助を受けた先制奇襲攻撃によって、朝鮮半島の統一を目指し、朝鮮戦争を起こした。

朝鮮、中国の新政権の成立を、多くの国民が解放と平和の裡に祝いたかったであろうが、1950年の朝鮮戦争に至って、大きな惨禍がもたらされることになり、日本は、対照的に、戦後復興を進める足掛かりを得る。

写真(右):1950年6月21日、日本、東京羽田空港、来日したアメリカ国務長官ディーン・アチソンの国務長官顧問ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)を出迎えたダグラス・マッカーサー元帥:反共産主義者ダレスは、日本を韓国訪問の途上、日本に立ち寄った。その後、朝鮮半島の南北分断境界38度線を視察したが、その直後の1950年6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が始まった。
General MacArthur and John Foster Dulles
HST Keywords MacArthur, Douglas; Dulles, John Foster; Tokyo, Japan; Haneda AFB; Korea
People Pictured Dulles, John Foster, 1888-1959 ; MacArthur, Douglas, 1880-1964
People Pictured Acheson, Dean, 1893-1971 ; Pace, Frank, 1912-1988 ; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985 ; Truman, Harry S., 1884-1972 ; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959
General Douglas MacArthur greets John Foster Dulles upon his arrival at Haneda Air Force Base, Tokyo, Japan from Korea. Mr. Dulles visited Syngman Rhee, and confered with General MacArthur. From: European Picture Service.
Date(s) June 21, 1950br>写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 67-7376引用。


ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles, 1888年2月25日 - 1959年5月24日)は、1940年代後半、西側陣営に日本を加え、再軍備させる方針を打ち出し、1951年、ダレスはサンフランシスコ平和条約において、日米安全保障条約による日本のアメリカ従属同盟国かと国際社会への復帰を手伝った。また、1950年10月下旬、朝鮮戦争で、中国が人民志願軍の形式で派兵した後も、トルーマンの意向を受けて、中国本土への武力侵攻を押さえ、台湾(中華民国)と中立を維持することに努めた。こうした外交姿勢が評価され、1953年から1959年までドワイト・D・アイゼンハワー政権で国務長官を務めることになる。

 その後のベトナム戦争では、フランスを軍事援助し、中国と対立を深め、反共産主義勢力を封じ込めることを主張し、インドシナ戦争へと拡大させている。

写真(右):1950年9月17日、朝鮮半島仁川(インチョン)上陸作戦を指揮した揚陸指揮艦「マウント・マッキンリー」(USS. Mount McKinley):排水量1万2000tの上陸作戦用の指揮艦艇で、大韓民国(韓国)ソウル西20キロの仁川(インチョン)に、アメリカ軍を中核とする国連軍の上陸を成功させ、北朝鮮軍に対する大反攻に導き、中国国境付近まで共産軍を追い詰めた。
The U. S. S. Mount McKinley during the Korean War
Keywords Korean War, 1950-1953 ; Ships HST Keywords Korean War - General File; MacArthur, Douglas - Ref. to; Ships - U. S. S. Mount McKinley
Sideview of the U.S.S. Mount McKinley, flagship of General Douglas MacArthur, enroute to Wolmi Do Island during Korean War.
Date(s) September 17, 1950.
写真は、Harry S. Truman Library & Museum- Accession Number: 2007-690引用。


朝鮮戦争が1950年の北朝鮮の韓国侵攻で始まり、アメリカ大統領トルーマンは、即座に反撃する必要性を認めた。これは、1938年のチェコスロバキアのズテーテン危機に際して、英仏がドイツ首相アドルフ・ヒトラーに妥協して、チェコスロバキアに相談なくズデーテン割譲を認めたというミュンヘン協定を悪しき事例として認識していたからである。ドイツの侵略的振る舞いをイギリス・フランスが黙認したことが、ドイツの侵略を一層助長させ、それが第二次世界大戦に至る原因となった。つまり、戦争を大きくしないためには、独裁国の侵略的行為を当初から叩いておく必要があると考えた。1938年のミュンヘン会談を反省し、朝鮮半島に即座にアメリカ軍を派遣することを決めたのである。

⇒写真集Album:朝鮮戦争のアメリカ大統領トルーマン(Truman)とGHQ司令官マッカーサー(MacArthur)を見る。


5. 1945年、第二次世界大戦が連合国の勝利のうちに終わったことで、軍用機ダグラス(Douglas)C-54 四発輸送機は、一部は軍用に残されたが、多くは民間に払い下げられ、ダグラスDC-4四発輸送機として、世界中を飛び回った。戦時中、ダグラスDC-4輸送機は、民間機DC-4としてはほとんど使用されず、主に軍用輸送機アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54輸送機スカイマスターとして採用され、1947年8月までに、DC-4として80機、C-54として 1000機以上が製造された。しかし、戦後には、民間航空で大活躍したのである。

写真(右)1945年3月、アメリカ海軍航空隊のダグラス(Douglas)R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機のキャビンで、硫黄島から海軍将兵・海兵隊員の空輸救護に当たる海軍飛行看護婦(Navy Flight Nurse)ジェーン・キャディー・ケンデイ(Jane -Candy- Kendeigh ):キャビンは、貨物輸送型なので、座席は折り畳み式ベンチが並んでいる。傷病兵は、胴体側面の三段式担架と、床に担架で並べられているが、彼らを飛行看護婦が世話をしている。後方のベンチには、腕を負傷した兵士が座っている。
Description English: Navy Flight Nurse Jane Kendiegh, trip from Iwo Jima, March 1945 .
Date 1945 Source US Department of the Navy, Bureau of Medicine and Surgery.
Author US Navy .
写真はWikimedia Commons, Category:Jane Kendeigh・File:Jane Kendeigh USN Flight Nurse 1945 c.jpg引用。


ダグラス社のカリフオルニア州サンタモニカ飛行機工場(Douglas Aircraft Santa Monica)で試作されたアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54スカイマスター(Skymaster)輸送機は、 プラット&ホイットニーR-2000ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン1300馬力4基を装備し、時速440km 以上の高速を誇る大型輸送機である。第二次世界大戦中の1942年2月14日に初飛行し、アメリカ軍陸軍航空隊ではダグラスC-54 スカイマスターとして、アメリカ海軍航空隊ではR5Dスカイマスター輸送機として制式された。

⇒写真集Album:アメリカ海軍R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機を見る。

写真(右)1946年から1954年頃、アメリカ合衆国イリノイ州、シカゴ・ミッドウェー飛行場、ユナイテッド航空(United Airlines)所属のダグラス(Douglas) DC-4旅客輸送機(登録コード:NC30047):1946年にアメリカ陸軍C-54軍用輸送機の払い下げを受けて、民間航空で利用。その後、1954年にカナダに売却されたが、1957年に墜落し79名の死者を出した。
Midway Airport (Pat B.)
Chicago Municipal Airport - United Airlines DC-4
(1946) (NC30047) C-54B

写真はSmugMug+Flickr, Midway Airport (Pat B.)・File:DC-4UnitedLandingSide (4412489390).jpg引用。


⇒写真集Album:民間航空のダグラス(Douglas)DC-4旅客輸送機を見る。



◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

日本の「保守」であれば、大切な家族を差し置いて、選挙戦に勝つことばかり願っている平和ボケ防衛大臣など追放すべきである。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。国防重視というのも人気取りのポピュリズム的発想のプロパガンダに過ぎず、そんなエセ保守政治家の本心は、利己的な打算が支配しているにちがいない。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

二十世紀初頭から現在まで

人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

2020年4月7日作成の当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。

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〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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