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中島G5N「深山」G8N「連山」 2020
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◆中島G5N「深山」/G8N「連山」大型陸上攻撃機
写真(上)1942年、日本、日本海軍の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機「深山」試作機G5N1「リズ」"LIZ"
;中島「深山」輸送機の諸元は、全長:29.46m、全幅:42.14m、主翼面積:201.8平方メートル、全備重量:32,500kg、過荷重量:36,800kg、最高速力:392km/h 、航続距離:3,528km。
Description Nakajima G5N bomber prototype Date 1942 Source R. J. Francillon. Japanese aircraft of the Pacific War. Putnam & Company Ltd, 1970. ISBN 0-37000-033-1 Author Unknown Second World War, 1939-1945.
写真はWikimedia Commons、Nakajima G5N Shinzan・File:G5N.jpg引用。

写真(上)1945−1946年、日本、群馬県邑楽郡小泉町(戦後の大泉町)、中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場、アメリカ進駐軍が接取し日の丸の国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;;少なくとも3台のアメリカ軍のジープが機体の近くに駐車しているが、修理、技術的検討をするチームなのであろう。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086136引用。

1. 日本海軍は、ダグラスDC-4E試作旅客機を流用して、大型陸上攻撃機を開発しようと、1937年、日中戦争勃発の時に、大日本航空にDC-4Eを輸入させ、民間用と偽って製造権を入手した。そして、日本海軍は、中島飛行身に対して、ダグラスDC-4Eを流用して十三試大型陸上攻撃機を試作することを命じた。これが、日本初の四発陸上攻撃機「深山」G5N1 "LIZ"である。

1935年、ダグラス社は、大型で長距離飛行が可能な四発旅客輸送機を開発し、大西洋、太平洋を越える民間航路も開拓しようとした。これが、DC-4E旅客輸送機で、乗客42名、航続距離3000km以上を目指した。日本海軍は、このDC-4E旅客輸送機の航続距離と搭載量を活かした大型陸上攻撃機の開発を目指し、1937年、日中戦争勃発の時に、この機体を大日本航空に輸入させ、民間用と偽って製造権を入手した。日本海軍は、この機体を流用して「十三試大型陸上攻撃機」を試作することを、中島飛行機に命じた。


写真(右)1944年、日本、日本海軍の中島飛行機「深山」輸送機G5N1 "LIZ"とその前を通る三菱「零式艦上戦闘機」五二型

Place Asia: Japan
Accession Number 129725
Collection type Photograph
Object type Black & white
Conflict Second World War, 1939-1945.
Description : JAPAN. 1945. JAPANESE AIRCRAFT, MITSUBISHI A6M5 "ZEKE" (ZERO) FIGHTER, AT AN AIRFIELD. SINGLE ENGINE, SINGLE SEATER, LOW WING MONOPLANE. IN BACKGROUND ARE NAKAJIMA G5N1 "LIZ" HEAVY BOMBER, TRANSPORT, FOUR ENGINE, MID WING MONOPLANE. (DONOR: MR PETER SELINGER).
写真は, Australian War Memorial・Accession Number 129725 引用。


1940年9月27日締結の日独伊三国同盟は、第1条・第2条でドイツとイタリアがヨーロッパで、日本が「大東亜」における「新秩序建設」「指導的地位」を相互承認した。第3条で、日独伊三国のうち一国が「現に欧州戦争又は日支紛争に参入しおらざる一国」に攻撃されたときに三国が相互に援助すべきことを規定した。これは、アメリカとソ連との戦争を想定したものであるが、第5条で独ソ不可侵条約など当面の戦争回避を認めている。つまり、三国同盟は、主にアメリカ参戦を阻止するための軍事同盟である。

中島飛行機が十三試大型陸上攻撃機を開発していた時期は、日中戦争、第二次欧州大戦の時期であり、そこに中立国アメリカが参戦しないような枢軸国の外交がとられた時期だったのである。換言すれば、アメリカの参戦があった場合にも、南洋で艦隊決戦に参加し艦艇攻撃を行い、南方の敵港湾や飛行場を爆撃するが、日本海軍の中島飛行機への十三試大型陸上攻撃機の開発要求に見て取れる。

写真(右)1944年11月以降、1945年8月以前、日本、群馬県太田市、中島飛行機小泉飛行場(太田飛行場)、日本海軍の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」試作機"LIZ"(右)と日本海軍の中島飛行機十八試陸上攻撃機G8N「連山」(左);機首を揃えて滑走路脇に駐機している。この2機は、ともに中島飛行機が作成した日本海軍向けの四発大型陸上攻撃機の試作機である。「深山」は、1944年に日本本土とマリアナ諸島の間の空輸任務に就いたこともあるが、稼働率が悪く、実用的ではなかった。つまり、日本の四発陸上機は、実用化・量産化されずに終わっている。写真は、マリアナ諸島(1944年夏アメリカ占領)から飛来したB-29/F-13高高度偵察機が撮影した偵察用写真。
Description ja: 日本海軍 13試陸上攻撃機『深山』(右)および18試陸上攻撃機『連山』(左)、中島飛行機小泉飛行場、撮影時期不明
en: Imperial Japanese Navy bomber G5N1 Shinzan (right) and G8N1 Renzan (left), unknown date, Koizumi Airfield,
Source photo by United States Army Air Forces B-29 or F-13
写真はWikimedia Commons、Nakajima G5N Shinzan File:IJN G5N1 Shinzan and G8N1 Renzan.jpg引用。


中島十三試大型陸上攻撃機試作第1号機が完成したのは、1941年2月で、初飛行は4月である。垂直尾翼は、DC-4Eは3枚だったが、これを2枚の双尾翼式に改修、低翼式だった主翼を中翼式に変更し、胴体内には爆弾倉を設けて、尾部銃座を装備した。搭載した発動機は、中島「」空冷星型14気筒エンジンの予定だったが、完成していなかったため、三菱「火星」空冷星型14気筒エンジンに変更された。

1943年、中島十三試大型陸上攻撃機は「深山」と名付けられたが、降着装置、油圧装置、エンジンの故障や不具合が多く、エンジン出力も不足していたため、攻撃機としては採用にならず、試作輸送機として扱われた。

写真(右)1944年-1945年初頭、日本、日本海軍・中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」輸送機"LIZ"のコックピット;発動機4基を調整するスロットル・レバーが中央にならんでおり、複式操縦装置が備わっている。メーター類も並んでいるが、これは原型となったダグラスDC-4Eを踏襲したのであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N Shinzan ’03’ of the 1021 Kokutai引用。


中島飛行機の四発陸上攻撃機(日本海軍島十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」は、全長:29.46m、全幅:42.14m、主翼面積:201.8平方メートル、全備重量:32,500kgだった。
他方、同じ中島飛行機の四発陸上攻撃機(日本海軍十八試陸上攻撃機)G8N「連山」は、初飛行1944年10月23日、全長:22.93 m、全幅:32.54 m、全高:7.20 m、主翼面積:112.00 平方メートル、自重量:17.4 t、全備重量:26.8 tである。

つまり、G5N「深山」は、G8N「連山」よりも一回り大きいが、重量は軽い。しかし、ともに実用化できず、量産されていない試作機だったことは、原型のダグラスDC-4E輸送機と同じであり、傑作機というにはほど遠い駄作機だった。

図(右)1944年、日日本海軍・中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」の三面図;発動機は当初は三菱「火星」エンジン4基だったが、増加試作機ではより強力な、しかし試作段階で実用性の低い中島「護」エンジン4基に変換された。原型となったダグラスDC-4Eは民間輸送機だったが、それを流用した「深山」は陸上攻撃機として、陸上飛行場から発進して、海上にある敵艦戦を雷撃、爆撃で攻撃することを任務としていた。そのために、魚雷を搭載できる長大な爆弾倉、防御用の銃座(機首、胴体後上方、胴体後下方、胴体後左右、尾部)に旋回機銃が装備されることになっていた。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N Shinzan ’03’ of the 1021 Kokutai引用。


中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N(のちの深山)の試作第1号機は、ダグラスDC-4E輸送機の主翼、降着装置、油圧・電気系統を取り入れて設計されたために、太平洋戦争開戦10カ月前の1941年2月に完成し、1941年4月8日に初飛行することができた。2年というのは大型機としては非常に短い開発期間である。主翼の取り付け位置は、DC-4Eは低翼式だったが、G5N「深山」は中翼式に変更され、航続力延長のために主翼内部の燃料タンクは拡張された。新設計の胴体は、攻撃用に細く再設計され、胴体中央部下面の爆弾倉、尾部銃座が設けられた。


写真(上)1945年8月20日以降、日本、神奈川県厚木、海軍厚木飛行場、日本海軍の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」輸送機"LIZ"
;初飛行は1944年10月。生産数は4機でしたが日本を占領したアメリカ進駐軍が発見、鹵獲した機体だが、技術的に全く学ぶことのない駄作機と判断されたであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos. info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05引用。


中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」が装備した発動機は、当時の最強出力だった三菱「火星」空冷星形14気筒エンジン4基であったが、増加試作4号機以降の合計4機は、中島試作エンジン「護」空冷複星型14気筒エンジン4基に変換されている。この護エンジン装備の増加試作機を「深山改」と呼称することもある。しかし、中島の護エンジンは、試作的な発動機であり、出力不足、信頼性の欠如のために、適切な発動機とは言えなかった。また、電気系統の装置・配線も未熟だったために、故障が多く、エンジン不調と相まって、「深山」の稼働率は低かった。

1943年に中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5Nは、「深山」と命名されたが、総重量が計画より大幅に超過し過重量となり、発動機の不調・出力不足のために、飛行性能も低く、攻撃機としての使用は不可能であると判断された。そこで、試製G5N「深山」は、試作機6機だけで生産は中止となった。これは、原型としたダグラスDC-4E試作旅客輸送機が試作1基の身で終わった失敗作だったことを踏まえれば、無理もないことだった。全部で6機試作されたG5N「深山」は、実戦では、1944年2月からサイパン島への空輸に投入されたほかは、戦局に寄与できずに終わった。

写真(右)1945年8月20日以降、日本、神奈川県厚木、海軍厚木飛行場、日本海軍の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機改造のG5N「深山」輸送機"LIZ"と破損した九五式水上偵察機(左);日本を占領したアメリカ進駐軍が発見、鹵獲した機体だが、技術的に全く学ぶことのない駄作機と判断されたであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N at Atsugi Air Base Japan 1945引用。


1943年後半、「絶対国防圏」死守のために、太平洋上の島々に設けられた海軍基地に対する緊急輸送に試製G5N「深山」を貨物輸送機として活用する案が検討され、実施に移されることになった。まず、稼働率を高めるために、増加試作機4機について、操縦系統から油圧システムを撤去し、人力の鋼索操作に変更し、武装をすべて撤去して、爆弾倉を貨物倉庫に変更、胴体下面にハッチを設けて、装着した滑車式手動クレーンを使って貨物を積載できるように改造された。また、胴体には客席を設けて8名分の座席を確保した。こうして、1944年2月、試作機4機は、G5N2-L「深山改」輸送機となり、第1021輸送航空隊に配属された。そして、日本本土(木更津など)からマリアナ諸島(テニアン島など)、パラオ諸島への飛行機用増加タンク、プロペラ、航空機用発動機など貨物の空輸輸送に用いられた。旧爆弾倉に航空用魚雷2本を搭載・運搬したこともあったようだ。しかし、エンジン・操縦系統などの整備に手間がかかり、予備部品も制限されえいたために、稼働率は悪かった。


中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」の諸元
全 長: 31.015m
全 幅: 42.135m
全 高: 6.130m
主翼面積: 201.800?
自 重: 20,100kg
航続距離 : 3,528km
発動機: 三菱「火星」一二型空冷複列星型14気筒エンジン1,380hp4基
最高速力: 392km/h
兵 装: 7.7mm機銃4挺、20mmエリコン機関銃2挺
爆弾搭載量: 60kg爆弾24発、250kg爆弾12発、800kg爆弾4発
連合国コードネーム: Liz(リズ)

写真(右)1945年8月20日以降、日本、神奈川県厚木、海軍厚木飛行場、日本海軍第1021輸送飛行隊の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」輸送機"LIZ"とアメリカ将兵が乗ってきたジープ(右:無人);日本を占領したアメリカ進駐軍が発見、鹵獲した機体だが、技術的に全く学ぶことのない駄作機と判断されたであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N Shinzan of the 1021 Kōkutai at Atsugi air base
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N Shinzan of the 1021 Kōkutai at Atsugi air base引用。


日本海軍は、日中戦争勃発の翌1938年、帝都東京の防空のために、神奈川県厚木に飛行場を建設することにしたが、建設工事用機械の不足、防空への不熱心さのためか、厚木飛行場が完成したのは4年後の1942年になってからのことだった。この時期、アメリカ軍将校ジェームズ・ドーリットル (James Doolittle)による東京初空襲も行われるなど、帝都防空が優先されてきており、厚木飛行場に置かれた厚木海軍航空隊は、戦闘機、特に陸上局地戦闘機が配備されることとなった。これが、局地戦J2「雷電」を中心とした防空戦闘隊の第302海軍航空隊(302空)である。


写真(上)1945年8月20日以降、日本、神奈川県厚木、海軍厚木飛行場、日本海軍第1021輸送飛行隊の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N2-L「深山」輸送機"LIZ"側面(登録コード:02-03?)
;胴体下面にハッチがあって開封されているが、貨物搭載用としては大きいとは言えない。貨物の積み下ろしには、不十分な大きさであろう。発動機は、当初中島の新型「護」空冷エンジンだったが、欠陥が多いために三菱「火星」空冷星形エンジンに変換された。「深山」は戦利品としては大きかったが、時代遅れの技術や低品質の素材、粗雑な工作には驚いたであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N Shinzan ’03’ of the 1021 Kokutai引用。


中島飛行機十三試陸上攻撃機「深山」改の諸元
全 長: 31.015m
全 幅: 42.135m
全 高: 6.130m
主翼面積: 201.800m2
自 重:  24,000kg
航続距離 : 4,190km
発動機: 中島「護」一一型空冷複列星型18気筒エンジン1,720hp基
最高速力: 420km/h
兵 装: 7.7mm機銃4挺、20mmエリコン機関銃2挺
爆弾搭載量: 60kg爆弾24発、250kg爆弾12発、800kg爆弾4発
連合国コードネーム: Liz(リズ)

1944年4月、台湾から九州鹿児島県南部の海軍鹿屋基地に飛び立った試製G5N「深山」1機が着陸前に墜落し、1944年6月にはテニアン島に進出し故障整備中だった「深山」1機が艦載機の空襲で炎上した。そして、1944年8月のテニアン島歓楽に伴い、進出していた第1021輸送航空隊の隊員たちも全滅している。1944年後半には、日本本土に第1021輸送航空隊に深山2機が残されていたが、マリアナ諸島の失陥による空輸任務の消滅、稼働率の低さ、航空燃料不足から、9月にはG5N「深山」が停止され、海軍の神奈川県厚木基地で、飛ぶことのないまま資料機材として保管されることになった。こうして、アメリカ期の空襲で破損したものの、G5N「深山」は1945年8月の日本敗戦後まで海軍厚木飛行場に放置されたまま、進駐してきたアメリカ占領軍によって戦利品として鹵獲された。すでに旧式機であり、飛行不可能な状態で放置されていたために、厚木で焼却処分された。

写真(右)1945年8月20日以降、日本、神奈川県厚木、海軍厚木飛行場、日本海軍第1021輸送飛行隊の中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N2-L「深山」輸送機"LIZ"後部;大きく破損した機体だが、日本を占領したアメリカ進駐軍が捕虜とした日本軍将兵に後片付けをさせているのであろうか。アメリカ軍にとって、「深山」は戦利品としては大きかったが、時代遅れの技術や低品質の素材、粗雑な工作には驚いたであろう。
Published at 1894 × 1206 px. Link to full-size photo: Nakajima G5N2-L Shinzan Kai coded 21-05
写真はworldwarphotos .info、Nakajima G5N Shinzan Nakajima G5N Shinzan ’03’ of the 1021 Kokutai引用。


日本陸軍も、帝都の防空、対夜間空襲用に迎撃戦闘機を重視し、調布飛行場柏飛行場、松戸飛行場、成増飛行場に戦闘飛行隊を配備した。 陸軍柏飛行場は、日中戦争が勃発した時期の1937年に飛行場建設が決まり、太平洋戦争末期の1945年初期には二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」が配備された帝都防空のための飛行場だった。1945年夏の太平洋戦争末期には、ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されている。21世紀には、この柏飛行場跡地は、東京大学柏の葉キャンパス、国立がんセンター、科学警察研究所などの国立の研究機関が設置されている。

1945年8月11日、日本はポツダム宣言受諾について中立国スウェーデンを通じて連合国に問い合わせをし、ここに日本降伏への道筋が定まった。そして、8月15日の玉音放送、大元帥による停戦の命令が出されることになったが、厚木基地の302空司令小園安名大佐は、降伏拒否、徹底抗戦を主張し、部下も同調して、局地戦J2「雷電」を飛ばして、抗戦ビラをを巻き散らした。これが、厚木航空隊の反乱事件である。

1945年8月15日の正午に大元帥昭和天皇の玉音放送があり、日本人は敗戦を覚悟したが、小園安名司令官率いる厚木航空隊は反乱を起こした。8月16日、米内光政海軍大臣は、寺岡謹平海軍中将、大元帥の弟宮(宣仁親王)高松宮海軍大佐を厚木に派遣し、「雷電」戦闘機を装備した強力な反乱部隊への説得をさせたが、小園大佐は納得しなかった。アメリカ軍に対する攻撃に恐れ戦いた海軍上層部は、8月18日、小園安名大佐を病気、錯乱と判断し、拘束し、手錠をかて、久里浜の野比海軍病院の精神病棟に拘禁した。


2. 日本海軍十八試攻撃機 中島G8N「連山」"Rita"試作機


写真(右)1945年8∹9月、日本、群馬県邑楽郡小泉町(戦後、大川村と合併、大泉町)、中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場、進駐したアメリカ占領軍が鹵獲し日の丸の国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」の後継機として大戦末期に首綸式の試作機が完成した。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086132 引用。


中島「深山」は大型攻撃機としては失敗作だったので、1943年に日本海軍は、中島飛行機に「深山」後継機として「十八試陸上攻撃機」(十八試大攻)G8Nの開発を依頼した。これが略符号はG8N「連山」で、連合軍コードネームは「リタ」Ritaと名付けられている。1943年7月27日に兵器名称付与標準が改定され、「十八試陸上攻撃機」は「試製G8N 連山」と呼称されるようになった。

1938年(昭和13年) 群馬県邑楽郡小泉町で、中島飛行機株式会社小泉製作所の地鎮祭を挙行。
1939年(昭和14年) 東武鉄道仙石河岸線開通。(小泉町-仙石河岸・4キロメートル貨物専用線)
1940年(昭和15年) 中島飛行機株式会社小泉製作所は正式に太田製作所から分離し、独立工場となる。
1941年(昭和16年) 太田・小泉飛行場完成。東武小泉線の西小泉駅が新設される。東武鉄道小泉-太田間営業開始。
1942年(昭和17年) 中島飛行機株式会社小泉製作所の開所式、完成式典が挙行される。
1944年(昭和19年) G8N「連山」試作第1号が中島飛行機株式会社小泉製作所で完成する。
1957年(昭和32年)   小泉町と大川村とが合併し大泉町にる。


写真(右)1945年8∹9月、、日本、群馬県邑楽郡小泉町(戦後、大川村と合併、大泉町)、中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場、進駐してきたアメリカ占領軍が鹵獲し日の丸の国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;防御火力としては、動力回転式20ミリ連装機関銃塔2基、機首、尾部、左右胴体後方側方銃座設けている。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086133引用。


1942年、日本海軍は、十八試大攻に最高速力360ノット(666km/h)、航続距離6000マイル(11112km)、爆弾搭載量は最大4tを要求したが、これはアメリカのB-24爆撃機をはるかに上回る高速であり、実用化困難なことはわかっていたはずである。しかし、中島飛行機は、この高性能爆撃機G8N「連山」の実現に向けて資源、技術、生産設備を割くこととし、1943年9月14日に正式な発注を受けた。

中島飛行機の松村健一技師を主設計者として期待の開発が開始され、1944年10月に試作1号機が完成、10月23日初飛行を行った。しかし、重量の割には、発動機の出力が非力で、飛行格納庫に収納する際に主輪(前輪?)のブレーキが故障して、衝突事故を起こし損傷した。また、G8N「連山」は、誉エンジンに排気タービンを付加する予定だったものの、試作機用の排気タービンすら完成できなかった。そこで、中島飛行機は排気タービンなしの試作機として、1945年1月にG8N「連山」試作1号機を完成させ、艤装などの確認作業を始めることになった。

1945年になると、関東地方の防空能力は低下しており、サイパンなどマリアナ諸島を基地とした大型四発B-29重爆撃機の攻撃を受ける恐れも高く、硫黄島失陥後は、P-51やP-47など戦闘機も関東地方に来襲した。そこで、G8N「連山」試作1号機・2号機は、1945年3月、東北地方の三沢海軍飛行場へ避難し、そこで審査が続行された。


写真(右)1945−1946年、日本、群馬県邑楽郡小泉町(戦後、大川村と合併、大泉町)、中島飛行機小泉飛行場、アメリカ占領軍が接取し日の丸の国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;主翼前縁には、排気タービン付き誉エンジンが4基取り付けられている。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086137引用。


中島飛行機から日本海軍に引き渡された「試製連山」試作1号機と試作2号機は、横須賀北野にある追浜飛行場で審査が開始されたが、連山試作1号機は着陸時に後部胴体が折れる事故を起こしたが、これは首輪式(前輪式)飛行機がなくその設計にも運用に慣れていないため、胴体強度不足で、下降するモーメントが着陸で、主輪が接地したときに、胴体後方上部が大きく破損したのである。また、追浜飛行場は新造の狭く飛行滑走路しかなかったために、四発大型機G8N「連山」の審査には不適切な飛行場だった。


写真(右)1945−1946年、日本、群馬県邑楽郡小泉町(戦後、大川村と合併、大泉町)、中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場、進駐したアメリカ占領軍が鹵獲した日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機の複式操縦席
;中央にスロットル、操縦桿は右が主操縦手、左が副操縦手だが、アメリカでは左右の正副は反対である。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086135引用。


1945年になると、関東地方の防空能力は低下しており、サイパンなどマリアナ諸島を基地とした大型四発B-29重爆撃機の攻撃を受ける恐れも高く、硫黄島失陥後は、P-51やP-47など戦闘機も関東地方に来襲した。そこで、G8N「連山」試作1号機・2号機は、1945年3月、東北地方の三沢海軍飛行場へ避難し、そこで審査が続行された。




写真(右)1945年8ー9月、日本、群馬県邑楽郡小泉町、中島飛行機小泉製作所に隣接する小泉飛行場、、進駐したアメリカ占領軍が鹵獲し白星のアメリカ国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;アメリカ軍に鹵獲され、日の丸を白星に換えられた。機関銃は取り外されているが、日本海軍の動力銃座も機関銃自体もアメリカ軍にとって旧式であり、学ぶべきことはなかったはずだ。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086139引用。


1944年から燃料不足に陥っていた日本では、1945年に入ると、海上交通がアメリカ海軍潜水艦、空母任務部隊によって途絶され、飛行機燃料にも資源にも絶対的な欠乏状態に置かれた。そのうえ、アメリカ陸軍のB-29重爆撃機、アメリカ海軍の空母艦上機による生産設備・交通機関への空襲被害から、大型機の生産は中止は不可能な状態になった。そこで、1945年6月に新鋭機のG8N「連山」の開発も実現の見込みなしとして、中止された。結局、連山の排気タービン装備は試作も行われずに終了したのである。




写真(右)1945年8ー9月、日本、群馬県邑楽郡小泉町、中島飛行機小泉製作所隣接の小泉飛行場、進駐したアメリカ占領軍が接取し青丸白星のアメリカ国籍記章を描いた日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;アメリカ軍の整備兵が、胴体とエンジン部分に乗っているが、点検作業をしているようだ。この機体がアメリカに運搬されたのであろう。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086140引用。


中島飛行機は、太田工場近くの群馬県邑楽郡小泉町(戦後、大川村と合併、大泉町)に新設した小泉製作所でG8N「連山」試作5-8号機を製造中だったが、1945年6月の連山開発中止によって、生産作業も中止となった。ただし、小泉飛行場には完成した連山試作3号機と4号機の2機が海軍に引き渡されずに残っていた。その後、小泉飛行場のG8N「連山」1機は空襲で大破、もう1機も破損状態で残され、1945年8月の終戦時に残存していた。この連山試作4号機と思われる機体は、進駐してきたアメリカ占領軍が鹵獲し、三沢飛行場にあった連山試作1号機、2号機を流用して修理して、完成1機を組み立てた。


写真(右)1945年12月、日本、横須賀港沖、アメリカ海軍アメリカ海軍護衛空母「ボーグ」(USS BOGUE)飛行甲板上の日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"(後方)と日本陸軍キ-74高高度爆撃機試作機(手前)
;左のデリック前の水上機はチャンス・ヴォート(Chance Vought)OS2U-1 キングフィッシャー(Kingfisher) 水上観測機。中央奥は、単座水上機のSCシーホーク(Seahawk)水上観測機。アメリカ軍にとって、最新鋭の日本軍大型爆撃機も高高度爆撃機も、日本の技術水準を検討、計測するのに都合がよかった。ただし、日本の工業技術から学ぶべき点はなく、戦時中の日本の技術を評価するために送られたのであろう。
Yokosuka, December 1945. Photo NS0300921. Foreground: Japanese Army Ki-74 long-range reconnaissance bomber (allied code name Patsy), manufactured by Tachikawa Aircraft. Background: Japanese Navy 18-Shi G8N1 "Renzan" attack bomber (Rita), manufactured by Nakajima Aircraft. Photo NS0300921a. Japanese Army A26 (Ki-77) long-range experimental plane, manufactured by Tachikawa Aircraft. Note damaged Japanese battleship Nagato and several auxiliaries anchored just ahead of Bogue. .
写真はNavSource Online: Escort Carrier Photo Archive・ USS BOGUE (ACV-9) (later CVE-9 and CVHE-9)引用。


1945年12月、飛行可能な状態に修理・整備されたG8N「連山」1機は、中島飛行機小泉飛行場から追浜飛行場までアメリカ軍の誘導監視の下に空輸され、近くの横須賀港からアメリカ海軍護衛空母「ボーグ」(USS BOGUE)の飛行甲板後部に載せられて海上輸送によって、アメリカ東岸へ移送された。船積み輸送で、アメリカ東岸へ移送された。


写真(上)1946年、アメリカ、舗装滑走路上のアメリカ軍が鹵獲した日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機の尾翼整備作業
;アメリカ海軍護衛空母の飛行甲板に載せられ日本からアメリカに運搬された連山は、アメリカで再度整備され飛行した。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086141引用。


中島飛行機は太田工場ちかくの小泉製作所でG8N「連山」試作5-8号機を製造中だったが、1945年6月の連山開発中止によって、生産作業も中止となった。ただし、小泉飛行場には完成した連山試作3号機と4号機の2機が海軍に引き渡されずに残っていた。その後、小泉飛行場のG8N「連山」1機は空襲で大破、もう1機も破損状態で残され、1945年8月の終戦時に残存していた。この連山試作4号機と思われる機体は、進駐してきたアメリカ占領軍が鹵獲し、三沢飛行場にあったG8N「連山」試作1号機、2号機を流用して修理して、完成1機を組み立てた。


写真(右)1946年、アメリカ(?)、舗装滑走路上のアメリカ軍が鹵獲した日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機
;アメリカ軍にとって、最新鋭の日本軍大型爆撃機は、日本の技術水準を検討、計測するのに都合がよかったが、日本の工業生産力の低さは、当初から自明だったようだ。
Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Title: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita Additional Information: Japan Designation: G8N Tags: Nakajima, G8N, Renzan ""Mountain Range"" Navy 18-Shi bomber Rita .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog #: 01_00086141引用。


そして、アメリカに到着したG8N「連山」は、再整備の後、1946年6月、アメリカ東岸ニューアーク飛行場からオハイオ州パターソン飛行場までの480マイルを速力110マイル、3時間10分の飛行で空輸された。このパターソン基地では、G8N「連山」の試験飛行が行われたが、誉エンジンの不調のために、飛行試験は中止された。そして、パターソン基地の空軍博物館で一時展示されたものの、1950年頃にG8N「連山」は無用の長物として廃棄された。21世紀の視点で見れば、日本の技術・戦争史を代表するような記念物になったのは確実だが、当時、日本の未熟な産物にアメリカは興味がわかなかったのである。これは、ドイツのMe262 、Do335戦闘機のように、今日も保管、展示されている飛行機の運命とは大違いである。


写真(右)1946年、アメリカ(?)、舗装滑走路上の日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"の正面
;本来は、排気タービン付き中島誉空冷18気筒エンジン4基を搭載する計画だったが、排気タービン付き誉エンジンは完成せず、連山に搭載されたことはなかった。
Description 日本語: 中島飛行機 連山 English: Nakajima, G8N Date 26 July 2010 Author San Diego Air and Space Museum .
写真はWikimedia Commons, Category:Nakajima G8N Renzan・File:Nakajima, G8N, Renzan 01 00086131.jpg引用。


日本海軍十八試大型攻撃機中島G8N「連山」の諸元
構造: 全金属製、応力外皮構造、中翼、首輪式(前輪式)引込み脚 全長:22.93 m 全幅:32.54 m 全高:7.20 m
主翼面積:112.00 m2
発動機:中島「誉」24 — ル型(NK9K-L)空冷星型18気筒2,000馬力(1,490kW)4基
プロペラ:VDM定速、直径4.00m4翅
自重量:17.4 t
正規全備重量:26.8 t
攻撃過荷重量:32.14 t
最高速力:593 km/h(爆弾1トン搭載)/高度8,000 m
巡航速力:370 km/h/高度4000 m
失速:149 km/h
実用上昇限度:10,200 m
航続距離:3,700〜7,470 km
乗員:7人
武装:20 mm旋回機関銃6丁(胴体前上方連装動力銃塔・胴体後下方連装動力銃塔・尾部銃座)
13 mm旋回機関銃4挺(機首銃座2挺・胴体左右側方旋回各1挺)
爆弾搭載量:60 kg18発・250 kg8発・800 kg3発(最大4トンの計画だが、日本に1発1トン以上の大型爆弾は実用化されていなかった。)
連合国コードネーム:"リタ(Rita)"


写真(右)1945年8ー9月、アメリカ(?)、舗装滑走路上のアメリカ軍の鹵獲した日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"試作機と両脇のビーチクラフト(Beechcraft)C-45双発輸送機(CC-570)(奥)とノースアメリカンT-6 テキサン(Texan)練習機(手前)
;ビーチクラフト(Beechcraft)C-45輸送機は、1937年1月15日初飛行のモデル 18(Model 18)の軍用型。
Nakajima G8N Renzan 'Rita' Nakajima G8N Renzan has the allied reporting name of 'Rita'. This photo is of a captured G8N with a C-45 and T-6. particular aluminum. Only 7 in total examples could be manufactured that included prototypes. PictionID:43720935 - Title:Nakajima G8N Renzan 'Rita' Nakajima G8N Renzan has the allied reporting name of 'Rita'. This photo is of a captured G8N with a C-45 and T-6. particular aluminum. Only 7 in total examples could be manufactured that included prototypes. - - Filename:15_003831.tif - - - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Japanese Aircraft"----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.---- --Repository: San Diego Air and Space Museum.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive・Catalog:15_003831引用。



図(右)日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"三面図

Description Nakajima G8N1 Renzan 3D drawing Date 15 June 2006 Source Own work Author Voytek S .
写真はWikimedia Commons, Category:Nakajima G8N Renzan・File:Nakajima G8N1 Renzan - 3D drawing.svg引用。


日本海軍十八試大型攻撃機 中島飛行機G8N「連山」"リタ(Rita)"の防御火力は、胴体前上方動力銃塔に20 mm連装旋回機関銃2挺、胴体後下方動力銃塔に20mm連装機関銃2挺、尾部銃座に20mm旋回機関銃2挺、機首銃座に13 mm連装旋回機関銃2挺、胴体後方左右に13mm旋回機関銃各1挺と、日本機の中では最も強力だった。


3.中島飛行機製造ダグラス(Douglas)DC2 輸送機

写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、日本航空輸送所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機 1934/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。


ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の優秀さを評価した国策会社の日本航空輸送は、1934年にDC-2を採用することを決定し、中島飛行機に発注を出した。そこで、中島飛行機は、ダグラス社からライセンスを取得し、1936年2月にエンジンから機体構造まで部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で試作1号機を完成させ納入した。

国策会社の日本航空輸送は、ダグラスDC-2輸送機を採用することとし、1936年に国内航路、台湾航路に就役させた。日本が輸入したDC-2輸送機は8機で、機体固有名称として「富士」「新高」「霧島」「愛宕」「阿蘇」「金剛」「筑波」「伊吹」という山の名前が与えられた。DC-2は、新鋭の大型長距離輸送機として、福岡=台北など内地と外地(植民地の朝鮮・満州・台湾)を結ぶ長距離航路に導入された。

絵葉書(右)1939年以降、日本植民地の台湾の台北と中国南部の廣東を結ぶ定期航路を就航した大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg引用。


ダグラス(Douglas)DC-2を導入した日本航空輸送、その後の大日本航空の設立の背景には、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中全面戦争の長期化が指摘できる。当初は、華北限定の「北支事変」と呼称されたが、8月には第二次上海事変が拡大し、1937年9月2日には「支那事変」と呼称が変化した。

⇒写真集Album:中島飛行機ダグラス DC-2 輸送機を見る。

⇒写真集Album:アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機を見る。


4. 中島「深山」原型ダグラス(Douglas)DC-4E 試作機の製造


写真(右)1938年2月7日、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場、クレーンで吊り下げられたダグラスDC-4E旅客輸送機の主翼(上面)
;中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」に使われたDC-4E左右の主翼前縁には、エンジン取り付け部分が突出している。
Title Top surface of center, Douglas DC-4, being removed from the jig, February 7, 1938. Date 1938 Format 1 photographic print : b&w. Description Santa Monica Public Library Image Archives. I244 Digital object 5008 img0003 Museum of Flying Collection . Source Donated by the Museum of Flying. Subject Douglas Aircraft Company.; Aircraft industry--California--Santa Monica.; Airplanes--California--Santa Monica. .
写真はSanta Monica Image Archives・Top surface of center, Douglas DC-4, being removed from the jig, February 7, 1938. 引用。



写真(右)1938年2月7日、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場、クレーンで吊り下げられたダグラスDC-4E旅客輸送機の主翼(下面)
;中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」に流用された主翼下面には、降着装置の大型主輪を収める丸い格納部分が見える。右側の主翼前縁には、エンジン取り付け部分が突出している。
Title Lower surface of center wing being removed from jig, Douglas DC-4, February 7, 1938, Santa Monica, Calif. Date 1938 Format 1 photographic print : b&w. Description Santa Monica Public Library Image Archives. I235 Digital object 5007 img0019 Museum of Flying Collection. Source Donated by the Museum of Flying. Subject Douglas Aircraft Company.; Aircraft industry--California--Santa Monica.; Airplanes--California--Santa Monica. .
写真はSanta Monica Image Archives・Lower surface of center wing being removed from jig, Douglas DC-4, February 7, 1938, Santa Monica, Calif. 引用。


プラット・アンド・ホイットニーR-2180ツインホーネット空冷星形14気筒エンジン 1,450 hp (1,081 kW)を装備した飛行機は、DC-$Eも含め少数の試作機のみであり、エンジンの総生産台数も30基程度の少数にとどまった。つまり、DC-4E試作機は、機体もエンジンもともに「失敗作」といえるかもしれない。


写真(右)1938年3月頃、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場、製造中のダグラスDC-4E旅客輸送機の機首と胴体
;下に主翼(エンジン搭載済み)を固定し、その上に胴体をクレーンで吊り下げて、主翼と繋ぐ。中島飛行機十三試大型陸上攻撃機G5N「深山」は、機首と胴体は、爆撃・雷撃の軍用仕様なので、新たに設計されたが、DC-4Eの影響を受けている。
Installation of an inboard motor on a Douglas DC-4, Santa Monica, Calif., February 2, 1938. {3月か4月?} Date 1938 Format 1 photographic print : b&w. Description Santa Monica Public Library Image Archives. I242 Digital object 5008 img0001 Museum of Flying Collection. Source Donated by the Museum of Flying. Subject Douglas Aircraft Company.; Aircraft industry--California--Santa Monica.; Airplanes--California--Santa Monica. .
写真はSanta Monica Image Archives・Installation of an inboard motor on a Douglas DC-4, Santa Monica, Calif., February 2, 1938. 引用。


ダグラスDC-4E旅客輸送機の主翼(エンジン取り付け済み)を下に置いて、その上に胴体をクレーンで吊り下げて、胴体と主翼をリベットで繋ぐことで、胴体と主翼が一体となる。

1930年代初頭、航空機の降着装置は、機体に固定された着陸装置、すなわち地上にあっては固定脚であり、水上・海上にあっては浮舟(フロート)が用いられていたが、これは飛行中の空気抵抗を大きくし、高速化、旋回性能、上昇率向上にとって大きな障害うとなった。そこで、飛行機の飛行性能向上のために、空気抵抗を減少し、機動性、空力特性を高めるために、固定脚を引き込み式(格納式)に改める設計が生まれた。飛行機の引き込み式(格納式)脚は、主輪と支柱とを格納するスペースが必要で、それは主翼、胴体であるが、双発機の場合は、主翼に装備したエンジンの後方に余裕があり、ここにエンジンナセルを着降着装置の格納スペースとする発想が生まれた。

長距離を飛行する輸送機では、飛行時間長く、この時に固定脚をやめ、引込み脚とすることで、空気抵抗を減らして、飛行性能だけでなく、燃料消費の低減にもつなげることができる。つまり、引込み脚を採用すれば、経済効率も向上する。この引込み式降着装置の配置には、尾輪式と前輪式との2種類がある。1930年代までの飛行機の大半の降着装置は、機体後部・尾部に橇や小型車輪を備えた尾輪式(Tail-dragger)である。

写真(右)1938年3月26日、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場、俯瞰した製造中のダグラスDC-4E旅客輸送機の右主翼部分;前輪の取り付け部分には、降着装置の格納スペースがあり、扉で開閉することができる。
Title Douglas DC-4, right outer wing being prepared for tests, March 26, 1938. Date 1938 Format 1 photographic print : b&w. Description Santa Monica Public Library Image Archives. I251 Digital object 5008 img0010 Museum of Flying Collection..
Source Donated by the Museum of Flying.
Subject Douglas Aircraft Company.; Aircraft industry--California--Santa Monica.; Airplanes--California--Santa Monica.
Assembly-line methods--California--Santa Monica.
Rights Images are for personal research, scholarly and educational purposes. Contact the Santa Monica Public Library Image Archives for information about the reproduction of images. The Library assumes no responsibility for the improper use of any image from the Archives..
.
写真はSanta Monica Image Archives・ Douglas DC-4, right outer wing being prepared for tests, March 26, 1938. 引用。


ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機の左右主翼後縁にある昇降舵は、金属骨格に羽布を張ったもので、軽量化されている。また、金属骨格には、重量軽減のための丸い穴が随所にあけられており、その分、軽量化している。また、操縦系統には、油圧が使用されたが、これは大型機の場合、昇降舵も方向舵も大きく、上昇・下降あるいは左右進行方向の変更には大きな風圧が舵にかかり、人力での操作が困難になるためである。これは、油圧システムではなくとも、電動システムでも機械操作可能である。

写真(右)1938年5月23日、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場、ダグラスDC-4E旅客輸送機の胴体に据え付けれた発動機・航法・通信関係の諸装置の運用テスト;製造機数は1機のみ。
Flight test set-up, interior of a Douglas DC-4 looking aft, May 23, 1938. Date 1938 Format 1 photographic print : b&w. Description Santa Monica Public Library Image Archives. I237 Digital object 5007 img0021 Museum of Flying Collection. Source Donated by the Museum of Flying. Subject Douglas Aircraft Company.; Aircraft industry--California--Santa Monica.; Airplanes--California--Santa Monica. .
写真はSanta Monica Image Archives・Flight test set-up, interior of a Douglas DC-4 looking aft, May 23, 1938. 引用。


プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2180ツインホーネット(Twin Hornet)空冷星形14気筒エンジン 1,450 hp (1,081 kW)を実際に搭載した飛行機は、ダグラスDC-4E試作輸送機など少数生産にとどまった試作機ばかりである。この発動機の総生産台数30基程度の少数で、発動機自体も「失敗作」だった。

写真(右)1938年4月―5月、アメリカ、カリフォルニア州サンタモニカ、ダグラス(Douglas)社の飛行機製造工場で、製造最終段階に入ったダグラスDC-4E旅客輸送機;製造機数は1のみで、工場内にはDC-4Eの同型機体は存在しない。
SDASM Archives
Douglas : DC-4E
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-4E
Official Nickname: Notes: Original DC-4 - Triple verticals - exported to Japan – 1938
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はSDASM Archives・Catalog #: 00065808引用。


引込み式降着装置の配置には、尾輪式と前輪式との2種類がある。

1930年代までの飛行機の大半の降着装置は、機体後部・尾部に橇や小型車輪を備えた尾輪式(Tail-dragger)である。降着装置が尾輪式では機体重心が着地時には前方にかたよるために、エンジンの回転トルクも加わって、走行方向が安定せず、方向修正の制御困難、グラウンドループに陥りやすい。また、離着陸時に、3点姿勢となり、機首が上方に上がり、操縦士の地上視界が悪くなるために、離着陸が前輪式に比べて難しくなる。

  尾輪式の欠点を克服した前輪式だったが、出現当初は、ヨーロッパでは「アメリカ式」と揶揄し、腕前の低いパイロットが扱う幼稚な機体であるかのように扱われた。

現在の飛行機は、大半が前輪式降着装置nose-wheel landing gear)となった。これは、離着陸を容易にして、事故発生確率を低くするだけではなく、前輪式であれば、地上でも機体が地面に水兵となり、乗客や貨物の移動・積み下ろしが容易である、ジェット・エンジンの場合、尾輪式の3点姿勢であれば、噴流が地面を覆い、滑走路を損傷したり、地上勤務員の事故が発生するといった欠点があるためでもある。ただし、前輪式の降着装置は、機首の荷重を支えるため頑丈で大きな機構が求められ、重量が嵩む上に、その格納スペースも大きくならざるを得ない。つまり、首輪式降着装置nose-wheel landing gear)は、機体の軽量化を阻害し、航空機設計の制約を大きくする傾向がある。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機を見る。


5. 中島「深山」原型ダグラス(Douglas)DC-4Eの完成

写真(右)1938-1939年、アメリカ、カリフォルニア州(California)サンタモニカ(Santa Monica)のクローバーフィールド飛行場(Clover Field)(?)、ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機プロトタイプ(NX18100, s/n 1601);当時は機首前方の前輪(主輪)1個と左右主翼のエンジンナセルの主輪で地面に平行に機体を支える首輪式引込み脚は斬新だった。それまでの飛行機は、主翼の左右主輪2個と尾部の尾輪1個の3点姿勢で、機首が上を向いた姿勢で地表に止まっていた。
SDASM Archives
Douglas : DC-4E
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-4E
Official Nickname: Notes: Original DC-4 - Triple verticals - exported to Japan – 1938
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives・Catalog #: 00065777引用。


1935年にアメリカの航空運輸会社ユナイテッド航空(United Air Lines)から既存のダグラスDC-3双発輸送機を上回る、長距離大型旅客機の開発要請を受けたダグラス社は、アメリカン航空(American Airlines)、イースタン航空( Eastern Air Lines)など航空会社への売り込みも見込んで、ダグラス(Douglas)DC-4E四発旅客輸送機の設計を開始し、1938年6月7日に、試作1号機を初飛行させることに成功した。

1938-1939年、アメリカ、カリフォルニア州(California)サンタモニカ(Santa Monica)で作られたダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機プロトタイプ(NX18100, s/n 1601)は、クローバーフィールド飛行場(Clover Field)(?)で、1938年6月7日、初飛行した。DC-4Eは首輪式引込み脚を採用し、降着用のゴム車輪は、機首前方の前輪(主輪)1個と左右主翼のエンジンナセルから出た支柱の支える主輪2個であり、地面に平行に機体を支えることができた。首輪に牽引用のフックが取り付けられ、主輪には車輪止めが装着されている。

ダグラスのDC3双発輸送機は、実用性が高く性能も良かったためにアメリカの航空会社が競って採用したベストセラーとなった。しかし、実はDC-3が実用化される前の1935年、ダグラス社は、DC-3より大型で長距離飛行が可能な四発旅客輸送機を開発し、大西洋、太平洋を越える民間航路も開拓しようとした。これが、DC-4E旅客輸送機で、乗客42名、航続距離3000km以上を目指した。


DC 4E in 1938/Pan Am Historical Foundation
A film from the collection of the Pan Am Historical Foundation. This clip was shot by Richard Rhode, NACA engineer. Courtesy of the Rhode family.

ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機の諸元
搭乗員: 3名、乗客: 42名
全長: 29.83 m、全幅: 42.16 m
全高: 7.40 m、翼面積: 200.2 平方メートル
自重: 19,308 kg、最大離陸重量: 30,164 kg
発動機: プラット&ホイットニー R-2180ツインホーネット空冷星形エンジン(1,450馬力)4基
最高速力: 394 km/h
航続距離: 3,540 km
実用上昇限度: 6,980 m

ダグラスDC-2、DC-3輸送機は、双発で尾輪式降着装置だったのに対して、ダグラスDC-4E、DC-4輸送機は、四発で首輪式降着装置だった。飛行機の離着陸は、視界を確保する、揚げ角の微調整が不要であるという点で、尾輪式よりも主輪式のほうが操縦が容易である。ただし、降着装置を簡略化するには、首輪式よりも尾輪式のほうが軽量化できる。

ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(試作機で登録コ―ド:r/n NX 18100)は、胴体・主翼・尾翼の大半は無塗装で、銀色に輝いているが、機首にはダグラス社(Douglas)の地球儀ロゴを描いていた。そして、初飛行後しばらくしてから、機首のコックピット前面にパイロットへの反射除けの濃い塗装が施された。さらに、機体を宣伝するための全米オープンツアーの時期(1938年末から1939年初め)には、胴体側面に「スーパー・メインライナー」"Super MainLiner"とマーキングして、胴体後方側面にユナイテッド航空(United AirLines)の大きなロゴを記入している。
つまり、ダグラスDC-4E試作旅客機の塗装は、
(1)試作テスト飛行時:機首のダグラス社ロゴのみで全面無塗装、
(2)公開当初:ダグラス社のロゴと機首コックピット前の反射除け塗装、
(3)全米ツアー:胴体側面の「スーパー・メインライナー」」"Super MainLiner"のマーキングを追加
の3期間で3種類のデザインがあった。

1935年、アメリカのユナイテッド航空United Air Lines)は、ダグラス社に好評なダグラスDC-3双発輸送機を上回る、長距離大型旅客機の開発を要請した。これを受けたダグラス社が試作したのが、ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コ―ド:r/n NX 18100)で、アメリカン航空(American Airlines)、イースタン航空(Eastern Air Lines)などの航空運輸会社への売り込みも見込んで、ダグラス(Douglas)DC-4E四発旅客輸送機の設計を開始、1938年6月7日、試作1号機の初飛行に漕ぎつけた。

 1939年5月、ダグラス社サンタモニカ(Santa Monica)飛行機工場で完成したダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コ―ド:r/n NX 18100)は、工場に隣接したサンタモニカのクローバーフィールド飛行場(Clover Field)から飛び立ち、同州オークランド飛行場(Oakland Airport)に向かった。これが、DC-4E旅客機の開月を打診したユナイテッド航空United Air Lines)協賛全米公開ツアーの始まりである。

写真(右)1938年10月5日、アメリカ、雲海を飛行するダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コード:NX18100)の側面;プロペラが停止しているので、飛行中ではなく、地上にあった時に、飛行中であるかのように合成したかのようにも見える。垂直尾翼が3枚あり、胴体は曲線ラインで設計されている。
English: SI Neg. 2002-4243. Date: 10/5/1938..Douglas DC-4E (r/n NX 18100) in flight, written at the bottom of the image, "DC-4, 10-5-38 October 5, 1938, 14001". ..Credit: unknown (Smithsonian Institution)
Date 6 November 2004, 15:39
Source DOUGLAS DC-4E
Author Carl Malamud
写真はWikimedia Commons Category:Douglas DC-4E・File:Douglas DC-4E Oakland.jpg引用。


ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コ―ド:r/n NX 18100) は、太く収容力のあるキャビンを備えていたため、採光にも配慮して、座席側方の四角のガラス窓、上段部分の細長い採光用ガラス窓の上下に二段のガラス窓がついている。

現在では首輪式降着装置が常識となっているが、1930年代では尾輪式降着装置が一般的だった。したがって、アメリカの飛行機メーカーが、大型四発輸送機に首輪式降着装置を導入したのは、画期的なことであった。ドイツのフォッケウルフFW200輸送機もユンカースJu90輸送機も四発大型機でありながら、尾輪式降着装置を備えていたので、大型機のゆえに、離着陸の操縦が一層困難になった。

写真(右)1938-1939年、アメリカ、飛行場を離陸したダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コード:NX18100);フラップが閉じているので離陸した後、上昇している最中であることがわかる。写真カタログ連番から判断すると地上から撮影された写真のようだ。エンジンが4基とも起動しプロペラが回転している。
SDASM Archives
Douglas, DC-4E
Title: Douglas, DC-4E
Corporation Name: Douglas Aircraft
Designation: DC-4E
Tags: Douglas, DC-4E.
Additional Information: USA, Only one built. Sold to the Japanese in 1939.
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives・Catalog #: 00065782引用。


ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コード:NX18100)の装備した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2180ツインホーネット(Twin Hornet)空冷星形14気筒エンジン 1,450 hp (1,081 kW)4基であるが、この発動機は30基程度しか製造されなかった「失敗作」だったようだ。

プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2180-Aツインホーネット(Twin Hornet)空冷星形14気筒エンジンの諸元
シリンダー直径Bore: 5.75 in. (146 mm)
シリンダー行程Stroke: 6.00 in. (152 mm)
排気量Displacement: 2,181 立方インチ (35.7 L)
エンジン全長Length: 76.20 in (1.94 m)
エンジン直径Diameter: 54 in (1.37 m)
乾燥重量Dry weight: 1,565 から1,647 ポンド

プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2180-Aツインホーネット(Twin Hornet)空冷星形14気筒エンジンの発展型が、R-2180-E ツインワスプ(Twin Wasp E)空冷星形14気筒エンジンである。後者は、1946年11月初飛行のスウェーデン製サーブ 90 スカンディア (Saab 90 Scandia) 双発輸送機に使用されたが、飛行機の生産台数はわずか18機であり、エンジンも僅かに生産されただけであった。

ダグラスDC-4E旅客輸送機試作機(NX18100, s/n 1601)は、1938年6月7日、カリフォルニア州サンタモニカで初飛行した。そこで、ユナイテッド航空によるテストでは、乗客は最大52名が収容可能とされたが、総重量は29,484 kgと過大で、整備が困難であり、製造コストも高すぎるという評価だった。そのため、ダグラスDC-4Eは試作機1機の製造で開発は中止となり、新たなコンセプトのDC-4輸送機が開発されることになった。

ダグラスDC-4E旅客輸送機試作機(NX18100, s/n 1601)は、搭乗員は、正副パイロット、機関士2名・航法士の合計5名、キャビンには乗客42名分の座席を配備している。ダグラス社は、豪華な内装で、外見も巨大で人気が出ると考え、国内外の航空運輸会社(エアライン)に対する売り込みに力を入れた。新聞、雑誌などメディアやビジネスマン・市民への一般公開、都市上空の低空飛行などイベントを開催し、多数の写真を残している。たった1機しか製造されなかったのにもかかわらず、多数の写真が残っている。また、塗装についても、塗り替えたり、デザインを変えたりと外観にも配慮した宣伝活動を行っていた。


写真(右)1938年、アメリカ、ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(登録コ―ド:r/n NX 18100)の乗客席
;ゆったりとしたソファー、ヘアドライヤー形状の個人読書灯、モダンなひじ掛け、天井には開閉式の手荷物収納庫など、現代の旅客機の客室の原型といえる。
Inflight view of the Prototype Douglas DC-4E. This airplane was originally built to the specifications of American, Eastern, Pan American, TWA and United airlines. Before completion Pan American and TWA pulled out. First flight was June 7, 1938, this photo was taken July 9, 1938. United later flew this airplane on route proving flights. Considered to0 complex and expensive for the time, it was later sold to Japan. Douglas serial number 1601, registered NX18100, later NC18100 when it received group 2 approval 2-551 on May 5, 1939.
写真はPropeller Driven Transport: Aircraft Photo Page by Larry Westin・Interior Cabin view of the Douglas DC-4E引用。


ダグラス社の新鋭機DC-4E旅客機は、大々的に宣伝され、メディアでも頻繁に取り上げられた。それが功を奏したのか、大日本航空が本機とその製造権を95万ドル(200万円相当)で購入してくれた。他の航空運輸会社は、まったく考究しなかったし、DC-4E旅客機自体わずか1機の施策で終わってしまったことを考えると、大日本航空は失敗作・駄作をつかまされたといえる。それをもとに、中島飛行機が新型攻撃機「深山」を設計、試作したが、案の定、いい飛行機はできなかった。

ダグラス(Douglas)DC-4E旅客輸送機(試作機で登録コ―ド:r/n NX 18100)は、胴体・主翼・尾翼の大半は無塗装で、銀色に輝いているが、機首にはダグラス社(Douglas)の地球儀ロゴを描いていた。そして、初飛行後しばらくしてから、機首のコックピット前面にパイロットへの反射除けの濃い塗装が施された。さらに、機体を宣伝するための全米オープンツアーの時期(1938年末から1939年初め)には、胴体側面に「スーパー・メインライナー」"Super MainLiner"とマーキングして、胴体後方側面にユナイテッド航空(United AirLines)の大きなロゴを記入している。つまり、ダグラスDC-4E試作旅客機の塗装は、(1)試作テスト飛行時、(2)公開当初、(3)全米ツアーの3期間で3種類のデザインがあった。

世界最大級の最新鋭大型輸送機を見物し、その記念に写真撮影をしたが、このような広報活動が、ダグラスDC-4E試作機の実際の性能の低さや不具合を覆い隠して、評判やマーケットでの評価を高めることとなった。

DC-4E旅客輸送機 プロトタイプ(NX18100, s/n 1601)は開発中止になったものの、1939年10月、大日本航空が購入した。これは、民間航空用途という名目だったが、実際は日本海軍が、長距離飛行可能な対艦船用哨戒攻撃機を考案中で、その原型としてDCV-4Eを選んだのである。大日本高空が購入したDC-4Eは、中島飛行機において日本海軍向け十三試大型陸上攻撃機「深山」の原型となった。



まさに空中楼閣だ”飛ぶホテル”の感触 : 新旅客機に試乗の記
掲載誌『東京日日新聞』Vol: 第 6巻 Page: 68 出版年 1939-11-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100087362

大日本航空会社が米国から購入していま羽田[飛行場]で試験飛行をやっている『飛ぶホテル』ともいうべき超大型旅客機ダグラスDC4[Douglas DC-4E]で十六日、日航[大日本航空]幹部と航空記者会が東京−横浜の上空を飛行した

 同機は既報の如く旅客機としてのあらゆる近代的施設を備え四十五人の乗客を載せて最大時速三八四キロを出すという本場のアメリカでもまだ定期航空には使われていない新鋭機だ

午後二時十六分、千四百馬力四基の発動機[Pratt & Whitney R-2180]が咆哮すると三百米足らずの滑走距離で手軽に離陸し機首を横浜に向けてモリモリ高度をとって行く、秋空は斑な断雲を浮かべているが視界茫々、鶴見臨港あたりのガスタンクがほんのり都塵に霞んでいる、安楽椅子を立って後部のステートルームに入ると版画の額が掛けてあり、ゴム椅子深く腰を降すと脚下に横浜港が展けて来た

 クリーム色の天井に海面からの陽光が反射して雪明りのように仄明るい、ステートルームを中央通路に出ようとすると電話がある、スイッチ一つで機体内九つの部屋と自由に話が出来るのだ

贅沢な洗面所を通り抜けると突き当りがトイレット、これも一等車の便所より贅沢で広さも相当ある機はゆるやかに左旋回したと思うと右舷の窓に房総の山々が墨絵のように浮んで来た

 うっとりとみとれていると窓外に突き出している主翼のフラップがガタンと降りオヤ着陸かと思ったらもう脚下百五十メートルが羽田飛行場

なだらかな左旋回を終って滑走路に滑り込んだとき同乗者は顔見合せ『あと一時間ばかり乗っていたいね』というのが聞えた(まさに空中楼閣だ”飛ぶホテル”の感触 : 新旅客機に試乗の記引用終わり)

ダグラス(Douglas)DC-4E試作機"Super MainLiner"は、アメリカ各地を飛び回って、メディアや市民に大歓迎された。アメリカが最高の航空技術を駆使して開発した巨人輸送機だったからである。日本海軍もこの高性能の大型四発機に注目し、DC4-Eを原型にして、艦隊決戦を補助する陸上攻撃機・雷撃機として開発することを思いついた。そこで、軍事利用を悟られないように、大日本航空に輸入させた。しかし、ダグラス社の技術者は、このDC-4Eが技術的には失敗であり、マーケットや市民から、過剰な評価を受けていること、日本に試作機を売りつけ、ライセンス生産の製造権も売却した。ダグラス社幹部はみなこの詐欺まがいの取引を知っていたに違いない。


6. ドイツの四発/六発大型飛行機


1)1929年初飛行のユンカース(Junkers)G.38 大型輸送機

世界最大の巨人機・ユンカースG.38旅客輸送機は、試作1号機(登録コードD-2000)が、L55型 V型12気筒エンジン2基とL8型 6気筒エンジン2基の合計4基(1970馬力)を搭載して、1929年11月6日に初飛行した。ドイツ航空省がこのG.38旅客輸送機は、試作1号機(登録コードD-2000)1機を購入し、飛行性能をテストした。そして、このユンカースG.38輸送機で、ペイロード5トンの飛行を行い、高性能を確認した。そこで、1930年5月2日、ドイツ・ルフトハンザ航空で、ユンカースG.38旅客輸送機(D-2000)が使用されることとなった。日本陸軍は、このユンカースG38に着目して三菱に爆撃型を発注した。これが、1931年に開発された九二式重爆撃機である。

写真(右)1932年9月4日、航空記念日(NS-Flugtag)、ドイツ中部、ザクセン州ドレスデン飛行場、ユンカース(Junkers)G38 旅客輸送機(登録コード:D-2500)後の「ヒンデンブルク」:G38巨人輸送機は、D-2000は1号機、D-2500 は2号機で、合計2機のみ生産された。1933年の命名式には飛行場には、航空大臣のヘルマン・ゲーリングも含めたくさんの人々が式典に参列している。このような絶好の機会に、空撮をして、巨人機G28、ユンカース社、ドイツ第三帝国を喧伝した。
Flugplatz Dresden-Heller, Junkers G 38 Datensatz 70058753 Location: Dresden-Heller SLUB / Deutsche Fotothek License: Free access - rights reserved.
写真はEuropeana Collections, SLUB / Deutsche Fotothek Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_ 0310193引用。


ユンカースG.38旅客輸送機は出力不足だったために、エンジンを強化することとなり、1931年2月、D-2000のエンジンをL8型エンジン2基とL88型 エンジン2基の合計2360馬力に換装された。1931年7月1日、ルフトハンザ航空のユンカースG.38旅客輸送機は、乗客13名のベルリン=ロンドン間の定期便を就航させた。
 その後、乗客数増加のために胴体の客室が拡張され、乗客は最大30名までに増員された。重量の増加に対しては、エンジンをL88型4基に変更、強化して、合計3150馬力となった。

写真(右)1932年以降、日本、ドイツ・ユンカース(Junkers)G38 大型旅客輸送機を原型として開発された日本陸軍キ20 九二式重爆撃機
Description This is a Mitsubishi Ki-20 which was a japanese heavy bomber before WW2. Date between 1931 and 1945 Author Imperial Japanese Army
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-20 ・File:Mitsubishi Ki-20.jpg引用。


G38巨人輸送機は、D-2000は1号機、D-2500 は2号機で、合計2機のみ生産された。日本陸軍は、その巨人機に注目し、1930年に三菱にユンカースから G.38大型旅客機のライセンス生産権を取得させた。そして、三菱は、G38旅客機を原型として、キ20九二式重爆撃機を開発した。

写真(右)1932年以降、日本、静岡県、浜松基地、ドイツ・ユンカース(Junkers)G38 大型旅客輸送機を原型として開発された日本陸軍キ20 九二式重爆撃機;浜松基地は1925年(大正14年)5月、飛行第7連隊練習部が設置、これを基幹にして1933年8月、浜松陸軍飛行学校が創立され、重爆撃機の開発・訓練が行われた。
English: Mitsubishi Ki-20 heavy bomber at Hamamatsu Air Base. 日本語: 浜松基地の九二式重爆撃機。 Date before 1945 Author 浜松市千歳町「アケミ写真館」。 "Akemi Shashinkan" at Chitose-cho, Hamamatsu, Shizuoka.
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-20 ・File:92juubaku.jpg引用。


ユンカース(Junkers)G38 旅客輸送機の諸元
;D-2000は1号機、D-2500は2号機、総生産数2機。
乗員:7名
乗客:30名(D-2000/D-AZUR)/34名(D-2500/D-APIS)
全長:23.21 m、全幅:44 m
全高:7.2 m、翼面積:290 平方メートル
空虚重量:14,920 kg
全備重量:24,000 kg
最高速力:225 km/h、巡航速力:175 km/h
航続距離:3,460 km、巡航高度:3,690 m

⇒写真集Album:1930年代ドイツのユンカースG38輸送機の詳細を見る。


2)ドルニエ(Dornier)Do 19V 試作重爆撃機

写真(右)1936年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 19V-1重爆撃機試作1号機:1936年10月28日に初飛行し1938年には輸送機に改造された。生産機数3機のみ。全幅35.0m、全長 25.4 m、翼面積 162 m2、自重 11,865kg、全備重量 18,500 kg、発動機 BMW 132空冷倒立9気筒エンジン604 kW (810 hp)4基、最高速力 315 km/h、航続距離1,600 km、乗員10名。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46170090 - Title:Dornier Do 19V-1 with 4 BMW 132 1936 Nowarra Collection - Filename:16_007464.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog:16_007464 -引用。


写真(右)1938年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 19V-1重爆撃機試作1号機:初代ドイツ空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever)中将の推進した長距離戦略爆撃機「ウラル爆撃機」として開発され、1936年10月28日に初飛行した。しかし、ヴェーファー空軍参謀長は、1936年6月3日、ハインケルHe 70高速輸送機の操縦中に墜落死したため、ドイツ空軍は、従来の第一線で活躍する戦術爆撃機の開発に専念することになった。生産機数3機み。
The German Dornier Do 19 bomber prototype in flight, circa in 1938. Date circa 1938 Source Strategy for Defeat: The Luftwaffe 1933-1945 photo [1] Author Unknown author
写真はCategory:Dornier Do 19He 70の設計を流用し File:Dornier Do 19 bomber in flight c1938.jpg引用。




3)フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機

写真(右)1937-1938年,フォッケウルフFw 200旅客輸送機試作1号機 V1 D-AERE「ザールラント」(Saarland) :試作1号機は、1938年8月10日、ベルリンからニューヨークまで無着陸飛行した。後にFw 200 S-1 (S:sonder= special) D-ACON「ブランデンブルク」(Brandenburg)として再登録された。ドイツの国籍識別マークは、戦前は垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)だった。戦時中は黒のスワスチカだけになった。
SDASM Archives -Wulf Fw 200 Catalog #: 00079350 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 200 Official Nickname: Condor Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, Catalog #: 00079350引用。


フォッケウルフFw200コンドルの初飛行は、1937年7月27日で、量産機が民間航路に就航するのは、早くても1年後の1938年後半から、実際には、1939年からだった。したがって、Fw200の性能が、DC-3と同等であっては、二番煎じで、多数の販売は期待できない。 ドイツ・ルフトハンザ航空、クルト・タンク技師の目指したのは、大西洋を横断し、南北アメリカとヨーロッパとの間を結ぶ大西洋路線に使用できる長距離大型四発旅客輸送機だった。

ドイツの国籍識別マークは、1933年1月のナチ党政権以降、垂直尾翼の赤帯に白丸を背景にしたスワスチカ(ナチ党のカギ十字)になった。 ベルリンからニューヨークまでは、4,075 マイル (6,558 km)で逆風の中を 24時間55分、平均速力164 マイル (264 kmh)で飛行した。帰路は、順風なので 19時間47分、平均速力205 mph (330 kmh)で、8月13日にベルリンに到着した。

⇒写真集Album:フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機 を見る。


4)ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

写真(右)1938年,ドイツ、デッサウのユンカース航空機工場で生産中のユンカースJu-90四発大型旅客輸送機:全備重量23トンもの大型機で、このような大型長距離輸送機を民間航空で使用するだけの技術力と、旅客輸送の需要があったことに驚かされる。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1980-003-31 Original title: info In den Dessauer-Junkers-Werken entsteht das grösste deutsche viermotorige Grossraum-Schnellverkehrs-Flugzeug für 40 Fluggäste. Fluggewicht-23 Tonnen. Reisegeschwindigkeit-rund 350 Std. -km. Bild zeigt Blick in eine der grossen Montagehallen, in der zwei Grossraum- Schnellverkehrs-Flugzeuge Junkers Ju 90 ihrer Fertigstellung entgegengehen. Dating: 1938 Photographer: o.Ang. Agency: Presse-Bericht Berlin Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


アメリカのダグラス(Douglas)DC-4E 試作旅客機と形状的にも年代的にも飛行性能の上でも類似しているのは、ドイツのユンカース(Junkers)Ju90輸送機である。 重量過大で鈍重ではあるが、大きな搭載量と長い航続距離が魅力だった。しかし、DC-4Eが首輪式(前輪式)降着装置だったのに対して、Ju-90は尾輪式の3点姿勢だった。他方、貨物の積載方法は、DC-4Eは胴体左後方の両開きドアだったが、Ju-90は、現代の貨物輸送機と同じ胴体後方にランプ式の大型ドアを設けていた。

写真(右)1938-1940年頃,ユンカースJu90輸送機試作1号機V1「大デッサウアー」"Der Grosse Dessauer" (Wk-Nr 4913)D-AALU:1937年4月に、ドイツ航空省がキャンセルした「ウラルボンバー」ユンカース Ju 89長距離大型爆撃機は8月28日に初飛行した。ドイツ・ルフトハンザ航空(Deutsche Lufthansa)に輸送機として売り込む可能性が追及されたためである。Ju90試作1号機 V1(Wk-Nr 4913)"Der Grosse Dessauer" D-AALUは、エンジンをダイムラーベンツ(Daimler-Benz) DB 600C液冷倒立Vエンジン(1,100 hp)4基とし、Ju89爆撃機よりも高出力だった。
SDASM Archives Junkers Ju 90 PictionID:38237395 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002355.TIF - -------Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.-----------
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38237395引用。


ユンカースJu90輸送機V1試作機1号機は、ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz) DB 600C 倒立V型12気筒液冷エンジン1000馬力4基装備しており、「グロース・デッサウアー(Grosse Dessauer)」と命名された。Ju90輸送機V1試作機1号機は、ダイムラー・ベンツ DB 600C 倒立V型12気筒液冷エンジン1000馬力4基装備しており、「グロース・デッサウアー(Grosse Dessauer)」は1937年8月28日に初飛行し、ドイツ・ルフトハンザ航空でテストされた。しかし、1938年2月6日、この試作機は試験飛行中に墜落、失われた。

ユンカースJu90輸送機V2試作2号機は、試作1号機の9か月後の1938年5月、テストのためにルフトハンザ航空に納入された。全ての民間型生産機のJu 90と同様に、この機には620 kW (830 hp) のBMW 132 星型エンジンが装着された。

⇒写真集Album:ドイツユンカース(Junkers)Ju90輸送機 を見る。


5)長距離哨戒偵察機ユンカースJu-290

写真(右)1945年暮れ-1946年,アメリカ、オハイオ州上空を飛行するアメリカ軍が鹵獲し、ドイツ空軍仕様に復元したユンカースJu-290長距離偵察爆撃機A-7型(アメリカ軍コート:FE 3400):1945年9月にはイギリスにあったが、その後、アメリカに運ばれた。1946年、オハイオ州ライトフィールド飛行場で開催されたアメリカ陸軍航空隊祭に出展された。四発輸送機のJu-90を改造して,装甲,武装を施して,偵察爆撃機とした。機首,後上方,機首下方ゴンドラ,尾部に20ミリMG151/20機関銃を装備。
大西洋方面の哨戒,ドイツ潜水艦Uボートとの協力に投入が計画されたが,投入時期が遅く,活躍できなかった。燃料不足のため,大型の長期距離偵察機の運用は制限された。
Flugzeug ユンカースJu-290A-7 (Leitwerkskennung FE 3400) im Flug Dating: 1941/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_141-2472引用(他引用不許可)。


ユンカースJu-290 ユンカースJu-290A-7諸元
全長: 28.6メートル
全幅:42.0メートル
翼面積: 203.6平方メートル
空虚重量: 33,005 kg
最大重量(Ju 290A-5): 44,970kg、(Ju 290A-7): 45,400kg
エンジン: BMW 801D 空冷14気筒 1700馬力4基
最大時速:420キロ
航続距離:5950 km
上昇限度:6500メートル
防御火器(290A-2):5× 20mm MG 151/20、6× 13mm MG 131
原型Ju90輸送機は1938年8月初飛行,Ju-290試作機1942年7月初飛行,就役1942年8月
総生産数:52機

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju-290哨戒偵察機を見る。


6)四発重爆撃機ハインケルHe-177グライフ

写真(右)1944年秋,四発重爆撃機ハインケルHe-177:フランスの基地に展開するハインケルの部隊。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-676-7969A-24, Archive title: Reichsgebiet.- Bomber Heinkel He 177 auf Flugplatz mit Besatzung; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 Herbst Photographer: Schroeder Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild 101I-676-7969A-24引用(他引用不許可)。


ハインケルHe-177 ハインケルHe 177は、1936年ドイツ航空省(RLM)が提案した重爆撃機構想に沿って設計された。ハインケルプロジェクト(P.1041)は、ウラル爆撃機(爆弾1トン搭載、航続距離6000キロ以上)の仕様で、ドルニエDo 19、ユンカースJu 89よりも遥かに高性能を求められた。

He 177の降着装置は、巨大な車輪が特徴で、これを飛行時には主翼の内側と外側の2カ所に分離・収納する。これは、降着装置の構造部分が大きく重くなり、主翼の強度や空力特性にとって支障をきたす。巨大なタイヤは、大重量の重爆撃機を支えるためであるが、それであれば小型車輪を複数重ねたダブルタイヤのほうが有利だった。脚を一本とし、主翼の開口部も最小限にとどめることができる。

ハインケル社は、他社に先駆けて首輪のついた軍用機、たとえばHe-219夜間戦闘機ウーフー、He280ジェット戦闘機を設計、試作している。ドイツ空軍は、首輪をもつ機体を「アメリカ式」と揶揄したが、離着陸は尾輪式よりもはるかに容易だった。現在の飛行機は、小型機でさえも尾輪式を排して、首輪しきになっている。しかし、降着装置の重量軽減、抵抗減少に効果的なダブルタイヤを使えなかったのは、大きなマイナスだった。

ハインケルHe 177 ハインケルHe-177(Heinkel)グライフ諸元
全長: 22.00 m、全幅: 31.44 m、全高: 6.7 m
全備重量: 31,000 kg
エンジン: ダイムラー・ベンツ DB 610 液冷24気筒 2,950 hp × 2
最大速度: 565 km/h (6,100m)
上限高度: 9,400 m
航続距離: 5,600 km (最大)
武装 20mm MG 151/20機関砲 × 2 (尾部・下部前方)、13mm MG 131機関銃 × 3 (背部)、7.92 MG 81機関銃 × 3 (機首に1、下部後方)
爆弾 6,000 kg もしくは ミサイル×3(ヘンシェル Hs 293 又は フリッツX)
乗員: 5名

ハインケルHe177には、最高速度540km、急降下爆撃が可能であることが求められたため、2基のエンジンを連結して1軸の大型プロペラを駆動する連結エンジンが採用された。しかし、エンジン冷却が不十分であったために加熱によるエンジン不調が頻発した。 He 177は、エンジンナセルに2台のエンジンを収納したために、エンジン冷却能力が低下し、エンジン加熱で不調になりやすかった。

⇒写真集Album:ハインケルHe-177重爆撃機を見る。


7.イギリス空軍四発重爆撃機

写真(右)1939年-1944年、イギリス、イギリス空軍第7爆撃飛行隊ショート(Short)S.29 スターリング (Stirling)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1939年5月14日、1945年までに2,371機生産。全幅 30.20 m 、全長26.59 、翼面積 136m2、自重22,498 kg、総重量26,943 kg、発動機ハーキュリーズ Mk.XI空冷星型14気筒1,500hp4基、 最高速力 454 km/h、航続距離 3.755 km 、乗員7名、兵装 7.7 mm M1919機関銃8丁、爆弾搭載量6,350kg。
English: Aircraft of the Royal Air Force 1939-1945- Short S.29 Stirling. Stirling Mark I, N3641 ‘MG-D’, of No. 7 Squadron RAF, running up its engines on the ground at Oakington, Cambridgeshire. Date between 1939 and 1945 CH 3138 Imperial War Museums Royal Air Force official photographer Part of Air Ministry Second World War Official Collection Subjects Associated people and organisations Royal Air Force, 7 Squadron.
写真はWikimedia Commons Category:Short Stirling File:Aircraft of the Royal Air Force 1939-1945- Short S.29 Stirling. CH3138.jpg引用。


写真(右)1943-1944年頃、イギリス、イギリス空軍ハンドレページ(Handley Page)ハリファックス(Halifax)重爆撃機:初飛行は1939年9月24日、全長: 29.59 m、全高: 8.0 m、翼面積: 330.2 m2、空虚重量: 19,278 kg、最大離昇重量: 29,484 kg、ブリストル(Bristol)ハーキュリーズ(Hercules )Mk VI 空冷星形14気筒ロエンジン1204 kW (1615 hp)4基、最高速力:454 km/h、航続距離:爆弾搭載量は最大5897 kg(13,000ポンド)、生産機数6,176機。
English: Halifax Bomber Source Canadian Forces Expired crown copyright. All images made by canadian forces more than 50 years ago.
写真はWikimedia Commons Category:Handley Page Halifax File:Halifax Bomber 7 ExCC.jpg引用。


イギリス空軍アブロ(Short)ランカスター (Lancaster)爆撃機は、1941年1月9日、1945年までに7,377機生産。全幅 31.09m 、全長21.18m 、翼面積 120m2、自重16,783 kg、総重量28,576 kg、発動機 ロールス・ロイス マーリン XX V型12気筒レシプロエンジン 1,280hp(954 kW)4基、 最高速力 450 km/h、航続距離 4,300 km、乗員7名、兵装 7.62mm ブローニング(Browning)M1919機関銃8丁、爆弾搭載量6,400 kg、生産機数7,377機。


写真(右)1945年2月9日、イギリス南東部、ロンドン北90キロ、ケンブリッジ(Cambridgeshire)、メパール (Mepal)、エンジン整備中のイギリス空軍第75ニュージーランド爆撃飛行隊アブロ(Short)ランカスター (Lancaster)Mk.I型爆撃機
:胴体下面の爆弾倉は長大で爆弾倉扉は開放状態にある。爆弾搭載量は最大6,400 kg、。
Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command Mechanics working on the port-outer Merlin engine of a No 75 (New Zealand) Squadron Lancaster at Mepal, Cambridgeshire, 9 February 1945. Date 9 February 1945 Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command Mechanics working on the port-outer Merlin engine of a No 75 (New Zealand) Squadron Lancaster at Date 9 February 1945
写真はWikimedia Commons Category:Avro Lancaster File:Avro Lancaster - Mepal - Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command CH14681.jpg引用。



8.アメリカ陸軍航空隊試作四発重爆撃機


写真(上)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)
:試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。 XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。
Boeing XB-15 PictionID:40972057 - Title:Boeing XB-15 - Filename:15_002710.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM ArchivesSDASM Archives - Catalog:15_002710 引用。


1933年にアメリカ陸軍航空司令部(USAAC)は、航続距離5000マイル(約8000Km)の長距離戦略爆撃機“XBLR-1”(eXperimental Bomber Long Range)を指示し、それにボーイング社ではボーイング(Boeing)XB-15で答えた。XB-15は、自動操縦装置、居住性のいいコックピットを備えており、1937年10月15日と日中戦争勃発直後に初飛行した。

写真(右)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場(?)、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277):試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。 XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46701960 - Title:Boeing XB-15 35-277 [via Peter Bowers] - Filename:16_007745.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM ArchivesSDASM Archives  - Catalog:16_007745 引用。


ボーイング(Boeing)XB-15は、速力・上昇力の不足のために試作のみに終わっている。高性能の大型飛行機に必要な大出力の発動機がなく、従来型のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830空冷星形14気筒エンジン(850馬力)4基を搭載するしかなかったためである。


写真(上)1937年10月、アメリカ、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)飛行場、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)とボーイング(Boeing)P-26ピーシューター(Peashooter)戦闘機
:ボーイングXB-15は全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。
Boeing XB-15 Title: Boeing XB-15 ADDITIONAL INFORMATION: Delivered to the USAAC in December of 1937. Developed as the largest bomber of its era, only one was built. Later converted into a transport (XC-105). Dismantled and dumped in somewhere in the Canal Zone, 1945. Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Tags: Boeing XB-15 PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は  Catalog:16_007751 引用。


写真(右)1937年10月以降、アメリカ、1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)と随伴するボーイングP-26: ボーイングP-26の初飛行は1932年3月20日、プラット・アンド・ホイットニー P&W R1340空冷星形9気筒エンジン542 hp (404 kW)、最高速力377 km/h、7.62 mm ブローニング M1918機関銃2丁、生産数162機。
Boeing XB-15 with Boeing P-26 From the Paul Fedelchak Collection. Fedelchak was born in Brownsville PA, June 22, 1917, served as an aerial photographer in the USAAC from 1939. His duties included service at Chanute Field, Washington and Alaska where he was involved in the aerial surveys that made the Alcan Highway possible. These photos were loaned to the museum for copy by the family. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives Catalog #: 15_001626引用。


1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊 ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)は、 全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。

写真(右)1941年6月以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、クローバー飛行場を離陸した無塗装のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19:アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Douglas : XB-19 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00047280引用。


8−A.航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工
読売新聞 Vol: 第 49巻 Page: 83 出版年 1940-03-24

【ワシントン本社特電】(二十二日発) アメリカ陸軍省ではここ数日中に重量七十トン、航続距離六千マイルという性能を備えた世界最大の爆撃機をダグラス航空機会社サンタ・モニカ工場(カリフォルニア州)で竣工予定である旨二十二日発表した、

右超重爆撃機は十八ヶ月前に建造に着手以来工を急いだ劃期的な軍用機で翼長二百十フィート、四発動機装備で時速二百マイル以上の快速を出し得るといわれている、陸軍省の説明によると同機は十名の乗組員と共に二十八トンの搭載物を積んで亜成層圏までの上昇力を有し且つ六千マイル以上の無着陸飛行を行い得る驚異的性能を有しているとのことである、

而して同機は爆撃機としての大きさ、速力、航続力、重量、積載力等を最も理想的に綜合するには如何にすべきかとの従来の懸案に一つの解決を与えたものとして陸軍当局ではこれを重視している、なお右超重爆撃機の発表とともに現在の三インチ標準高射砲よりも優秀な最新高射砲と百五ミリ野戦榴弾砲が発表されたが後者は対戦車砲として極めて強力なものであると伝えられる (航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工引用終わり)

写真(右)1941年6月以降、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19:1930年代後半に、アメリカ陸軍航空隊は、長距離重爆撃機XBLR (Experimental Bomber, Long Range)の開発を各社に依頼し、ボーイング社のXBLR-1(後のXB-15)、ダグラス社のXBLR-2が試作された。この後者の後継機が、1941年6月27日に初飛行に成功したXB-19試作四発重爆撃機である。アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Douglas : XB-19 Manufacturer: Douglas Designation: XB-19 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00047281引用。


8−B.格納庫に入れぬ巨体 : 大西洋を無着陸で往復出来る : 米陸軍に超々重爆撃機
大阪朝日新聞 Vol: 第 49巻 Page: 145 出版年 1940-05-04

写真は最近米国陸軍に出現した超超弩級大型爆撃機B一九型の翼の大きさを示したものでこの飛行機は従来の超大型飛行機を断然尻目にかけ現代航空機製作技術の最大限を発揮して製作された

 全備重量は少くとも七〇トン、翼幅二一二フィート、機長一三五フィート、着陸用三輪車の各の車輪の重さだけでも半トン、その性能はといえば無着陸で六千マイルを翔破し、二十八トンの積載能力を有している換言すればアメリカの東海岸から一気に欧洲大陸へ飛んで行って目的地に爆弾の雨を降らし、そのまま悠々アメリカに帰還することができることになるというのである、装備された四個の発動機はそれぞれ最小限千五百馬力のもので時速二百マイル

この空の大怪物の製作費は一百万ドル、邦貨に換算してざっと四百万円、米陸軍はこれを昨年一台だけ極秘裏にサンタ・モニカ(カリフォルニヤ)のダグラス飛行機製作所に注文したが、昨年中その秘密製図が何者かに盗まれて大騒ぎを演じたものである、その後盗まれた製図も見つかり、これにさらに新工夫を加味したものが最近竣工を見たB一九型で、何分従来の大型機と比較にならぬどえらい超大型なもので、入れて置くだけの大きな格納庫がなく陸軍当局もでき上った機体はとうとう格納庫外に持出すことに決し、たちまち大評判となったという

 米陸軍の当面の目的は右B一九型を飛行機の各部分品、特に大型機械の性能試験の実験室に使用するにありというが、この種超大型渡洋飛行機出現の暁はアメリカは逆に他大陸からの空襲の脅威をうけることともなるので、いまからアメリカ軍当局の頭痛の種となりかけている、それにもかかわらずダグラス飛行機会社ではこのB一九型の成功に力を得てつぎには大西洋の女王と謳われたクィーン・メリー号やノルマンヂー号くらいの大型飛行機を製作してそのお株を空から奪おうと力んでいるそうだ【写真のなかで階段の如く見えるのは翼を作る足場、右上の写真はダグラスB一九型とダグラスDC三型との比較】 [図表あり 省略] [写真あり 省略](航続力六千マイル : 世界一の米重爆撃機近く竣工引用終わり)

写真(右)1941年6月以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、飛行中の無塗装のアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19右下側面:アメリカが参戦する1942年12月前の国籍マークを描いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46703486 - Title:Douglas XB-19 38-471 - Filename:16_007865.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive - Catalog:16_007865引用。


8−C.世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 155 出版年 1941-06-29

【ロサンゼルス特電二十七日発】世界最大のB一九型アメリカ陸軍試作機は二十七日正午当地郊外サンタモニカのダグラス工場附属飛行場より試験飛行に飛出し、七十九トンの巨体は澄みきった青空にフワリと浮いて空冷式二千馬力発動機四基の奏でる爆音のメロディに門出を祝福しながらサンタモニカ海岸を悠々一周して南カリフォルニア・リヴァーサイド・マーチフィールドの陸軍飛行隊飛行場に着陸した、アメリカ陸軍当局では今回の試作機を基調に超重爆撃機、軍隊輸送機を製作する準備を進めている

[写真(製作中の同機)あり 省略] 【ロサンゼルス二十七日発同盟】ダグラス飛行機製作会社で製作中であった世界最大の四発爆撃機B一九型は二十七日当地飛行場で陸軍の至宝パイロット、スタンレー・アームステッド少佐によって試験飛行が行われたが五十六分飛行ののち無事着陸に成功した

 B一九型はこの試作に三百五十万ドルの大金を投じたもので、機長百三十二フィート、機翼二十二フィート従来アメリカ陸軍の有する大型重爆機ボーイングB一七B型機いわゆる「空飛ぶ要塞」の機長六十七フィート、機翼百三フィートに比し機長、機翼ともほとんど二倍である(世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行引用終わり)

写真(右)1942年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、ハマー飛行場(?)、迷彩塗装を施したアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46703523 - Title:Douglas XB-19 38-471 - Filename:16_007868.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive- Catalog:16_007868引用。


8−D.護送制の新方法 : 米空軍の哨戒に主眼
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 76 出版年 1941-09-18

【ニューヨーク特電十六日発】ニューヨーク・タイムス紙ワシントン特電によるとアメリカ海軍は英米船舶護衛の新方式を案出、ルーズヴェルト大統領も十六日の新聞会見でこの旨を暗示したが、ロンドン駐在のアメリカ海軍将官がイギリス海軍省と協力して「発砲哨戒」方法の詳細を取極めたといわれる、米国軍艦が商船団を護衛して行く従来の方法とは異なり新方法では米国爆撃機および偵察機は数ヶ所の主要地点を基点として休みなく哨戒をつづけることになっている、過般ロンドンへ派遣された米海軍将官は今日までの商船護衛記録からつぎのごとき結論に達した

 すなわち速力の大きな商戦を遅い船と一緒にして護送船団を組織しこれを護衛しつつ航行するよりも速力のはやい船だけを単独で航行させ航路の妨害を絶えず排除する方がはるかに効果的であるというのである

なお米海軍の哨戒範囲については正確なことは発表されていないが信ずべき情報によるとアイスランドまで延長されていることは確実であり、さらに北アイルランドへも延長される予定ともあるいはまたすでに延長されているともいわれる(世界最大の爆撃機 : 愈々米国陸軍で試験飛行引用終わり)


写真(上)1942年以降、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、ハマー飛行場、迷彩塗装を施したアメリカ陸軍試作重爆撃機ダグラス(Douglas)XB-19

SDASM Archives Follow Douglas XB-19, 38-471, at Hammer Fld_3 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真 flickr, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1941年6月27日に初飛行したダグラス(Douglas) XB-19試作機は、ライト(Wright)R-3350空冷二重星型エンジン(2,000hp)を搭載していたが、1943年にP-39/P-38と同じアリソン V-1710を2台並列させたアリソンV-3420液冷W24気筒エンジン(2,600hp)に換装された。しかし、XB-19は採用されず1949年まで輸送機として使われるだけに終わった。

写真(右)1943年以降、アメリカ、飛行中のダグラス(Douglas)XB-19A(Skyrocket)爆撃機(38-471)の右側面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦後に制定されたもの。XB-19のライト R-3350空冷星型エンジン(2,000hp)を1943年にP-39/P-38と同じアリソン V-1710を2台並列させたアリソンV-3420液冷W24気筒エンジン(2,600hp)に換装した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46703535 - Catalog:16_007869 - Title:Douglas XB-19A 38-471 - Filename:16_007869.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は flickr, SDASM Archives Catalog:16_007869 - 引用。


ダグラス(Douglas) XB-19爆撃機諸元
初飛行1941年6月27日のエンジン強化発展型
乗員:18名
全長:132 ft 4 in (40.34 m)
全幅:212 ft 0 in (64.62 m)
全高:42 ft 0 in (12.80 m)
翼面積:4,285 sq ft (398.1 m2)
自重:86,000 lb (39,009 kg)
総重量:140,000 lb (63,503 kg)
燃料搭載量:10,350 US gal (39,200 L)
発動機: ライト(Wright)R-3350ダブルサイクロン(Duplex Cyclone)空冷18気筒エンジン2,000 hp (1,500 kW)4基
最高速力:224 mph (360 km/h, 195 kn) at 15,700 ft (4,800 m)
航続距離:5,200 mi (8,400 km, 4,500 nmi)
実用上昇限度:23,000 ft (7,000 m)
兵装: 37 mmブローニング M4自動砲2門、12.7 mmブローニングM2機関銃5挺・7.62mmブローニングM1919機関銃6挺
爆弾搭載量:8,840kg

写真(右)1939年12月26日、アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ郊外、リンドバーグ・フィールド(Lindbergh Field)、試験飛行を準備するアメリカのコンソリデーテッド(Consolidated)XB-24爆撃機
Consolidated XB-24 Details: Liberator Tests Date: 12/26/1939 PictionID:44400746 - Title:Consolidated XB-24 Details: Liberator Tests Date: 12/26/1939 - Catalog:14_011310 - Filename:14_011310.TIF - - - - - - Image from the Convair/General Dynamics Astronautics Atlas Negative Collection. The processing, cataloging and digitization of these images has been made possible by a generous National Historical Publications and Records grant from the National Archives and Records Administration---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。


1938年、アメリカ陸軍航空隊からボーイングB-17の委託生産を依頼されたコンソリデーテッド社は、それを断り、既存のモデル31飛行艇(XP4Y)を原型にした爆撃機モデル32を開発を提案し、アメリカ陸軍航空隊は、1939年2月に試作型XB-24を1機を発注し、さらに4月に増加試作機YB-24を7機、8月には先行量産型B-24Aを38機発注した。

コンソリデーテッド試作1号機XB-24の初飛行は、その後の1939年12月29日である。1941年12月には、高空性能向上のためにB-17同様に発動機にターボチャージャーを搭載したB-24C爆撃機9機が生産され、1942年にはB-24D爆撃機が開発され、大量生産が開始された。

コンソリデーテッド(Consolidated)の四発重爆撃機試作1号機のXB-24は、1939年12月29日にリンドバーグ・フィールド(現在のサンフランシスコ国際空港)で初飛行し、アメリカ陸軍航空隊に、B-24リベレーター(Liberator)として制式された。1943年、B-24リベレーター爆撃機は、ルーマニアの首都ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田を空襲した。

写真(右)1939年12月29日以降、アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ郊外、リンドバーグ・フィールド(Lindbergh Field)、試験飛行するアメリカのコンソリデーテッド(Consolidated)XB-24爆撃機
Consolidated XB-24 SDASM.CATALOG: 01_00093019 SDASM.TITLE: Consolidated XB-24 SDASM.CORPORATION NAME: Consolidated SDASM.DESIGNATION: B-24SDASM.OFFICIAL NICKNAME: Liberator SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: Consolidated XB-24 SDASM.TAGS: Consolidated XB-24 PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。


ルーマニアの首都ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田の原油は、ドイツの航空機、車両の燃料として重要な資源だった。1942年6月11日にアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッドB-24リベレーター(Liberator)爆撃機13機でプロエシュチ(Ploesti)油田を初空襲した。しかし戦果が乏しかったため、1943年8月1日、B-24リベレーター179機でプロエシュチ(Ploesti)油田を再度空襲した。これが戦略爆撃作戦タイダルウェーブ(Operation Tidal Wave)である。

ドイツはプロエシュチ(Ploesti)油田の原油不足分を、1941年6月のソ連侵攻以前は、ソ連から調達していた。1939年8月の独ソ不可侵条約のなかで、ドイツの技術提供とソ連の資源・食料提供の相互協定が結ばれたためである。
しかし、1941年6月22日、独ソ開戦後、ドイツはソ連のバクー油田を占領することまでできず、原油不足分を、ドイツ国内石炭の液化技術によって精製した合成燃料によって補うしかなかった。ただし、石炭液化には、石炭を加熱するために燃料となる石炭が必要であり、合成燃料の生産の効率は著しく低く、十分なガソリンを供給することはできなかった。

アメリカ・イギリス連合国軍は、ドイツの石油液化施設のある化学プラントを優先的な戦略爆撃の目標とした。また、ドイツ頼りにしていたルーマニアのプロエシュチ油田を空襲した。これが、1943年8月1日、アメリカ陸軍第8航空軍・第9航空軍のコンソリデーテッド B-24 リベレーター(Liberator)爆撃機179機を投入した「タイダルウェーブ(津波)作戦」によるプロエシュチ油断空襲である。
アメリカ軍爆撃部隊のプロエシュチ空爆の経路は、北アフリカのイタリア植民地リビア北岸のベンガジから地中海を北上してギリシャのコルフ(ケルキラ)島から、ユーゴスラビア経由でルーマニア上空に入り、レーダーを避けるために低空飛行でプロイェシュティ油田を爆撃した。こうして、ドイツは、石油の絶対的な欠乏状態に陥った。

⇒写真集Album:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。


9. 1942年2月、ダグラス(Douglas)DC-4輸送機が初飛行した。これは、DC-3双発輸送機を大型化し、エンジンを4基に増やし、前輪式を採用した斬新な設計の大型機である。ダグラス社の前作DC-4E試作輸送機と名称は酷似しているが、設計は全くの別物である。当時、第二次世界大戦が勃発し、アメリカは参戦していたから、ダグラスDC-4輸送機は、民間商業航空ではなく、アメリカ陸軍でC-54輸送機、アメリカ海軍でR5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機として使用されることになった。

ダグラスの前作 DC-4E (Douglas DC-4E)四発輸送機は、1935年から設計が始まり、1938年6月7日に初飛行した。しかし、鈍重で、飛行安定性も悪く、輸送機として実用化されずに終わった。結局、試作機1機のみで開発計画は中止になったが、日本海軍は四発大型攻撃機の実用化のために、密かに本機を中島飛行機に民間機として製造権を購入させ、軍用仕様の開発を命じた。これが十三試大型陸上攻撃機「深山」である。 DC-4EとDC-4と名称は似ているが、全くの別設計である。

写真(右)1942年春以降、アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノ郊外、ハンマー・フィールド空港(?)、アメリカ陸軍航空隊のダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機(シリアルナンバー: 42-32936):青丸白星の中央に赤丸を付けたアメリカ軍の国籍マークは、1942年前半で、白星中央の赤丸を削除された。
SDASM Title:Douglas R5D-1 Skymaster Transport
Caption:BUNO 50865 warms up its engines at Hickam Field, Honolulu, Hawaii, circa 1944-45. Note ground power cart hooked to the plane's electrical system by the nose landing gear. The plane wears the insignia of the Naval Air Transport Service (NATS). A Martin JM target tug, painted yellow, speeds by in the background.
Description: Catalog #:80-G-K-15995
Copyright Owner:National Archives .
写真はNaval History and Heritage Command・80-G-K-15995 Douglas R5D-1 Skymaster Transport 引用。


アメリカ機の国籍マークの変遷
1939年9月の第二次世界大戦勃発時から1941年12月の太平洋戦争勃発・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

ダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
プラット&ホイットニー空冷星形エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載
座席数:50名

ダグラス(Douglas)C-54輸送機の諸元
搭乗員Crew: 4名
乗客Capacity: 座席44 名(寝台 22名)
軍用簡易ベンチ座席: 86名

⇒写真集Album:アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54スカイマスター輸送機を見る。

写真(右)1944年11月25日、アメリカ、マリアナ諸島グアム島、アメリカ海軍航空隊のダグラス(Douglas)R5D-1スカイマスター(Skymaster)輸送機:アメリカ本土とハワイを結ぶ定期便。青丸白星の中央に赤丸を付けたアメリカ軍の国籍マークは、1942年前半で、白星中央の赤丸を削除された。そして、1943年春からは、白袖を追加し「スターアンドストライプ」の国籍マークとなった。周囲は当初は赤で縁取りされていたが、目立ちすぎると判断され、すぐに青色で縁取りするように変更された。
Douglas R5D-1 Transport (Bu# 39180)
Caption:Takes off from a Guam airfield for an eastbound flight, 25 November 1944. Note R4D in background
Description: Catalog #:80-G-302439
Copyright Owner:National Archives
Original Creator: Original Date:Sat, Nov 25,1944.
写真はNaval History and Heritage Command・80-G-302439 Douglas R5D-1 Transport (Bu# 39180) 引用。


ダグラス(Douglas)R5D-5 スカイマスター(Skymaster)四発輸送機の発動機
プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney) R-2000-3ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン諸元
気筒直径ボアBore: 5.75 in (146 mm)
気筒行程Stroke: 5.5 in (140 mm)
排気量Displacement: 2,004 in3 (32.84 L)
エンジン全長Length: 61.02 in (1,550 mm)
エンジン直径Diameter: 49.49 in (1,257 mm)
乾燥重量Dry weight: 1,570 lb (710 kg)

アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)四発輸送機は、戦後も30年以上使用された輸送機であるが、その嚆矢は、1941年6月、アメリカ陸軍航空隊(ハップ・アーノルド指揮官)が、ダグラスの新鋭四発旅客機DC−4をすべて軍が徴発し、軍用輸送機として使用することを決めた時だった。この時、アメリカ陸軍機のDC-4はC-54と、海軍機のDC-4はR5Dと命名され、「スカイマスター」の愛称が与えられた。ダグラスDC-4は、長大なキャビン、前輪(首輪)式降着装置、マニホールド式静圧客室、燃焼式暖房装置付き客室など長時間の飛行にも疲れを軽減する設備も取り入れられていた。安全性とプラット&ホイットニーR2000エンジンの高い信頼性によって、陸上機による大洋横断飛行を定着させ、また大量輸送の管制方式を定着させることに大きく貢献した。 

写真(右)1945年3月、アメリカ海軍航空隊のダグラス(Douglas)R5Dスカイマスター(Skymaster)輸送機のキャビンで、硫黄島から海軍将兵・海兵隊員の空輸救護に当たる海軍飛行看護婦(Navy Flight Nurse)ジェーン・キャディー・ケンデイ(Jane -Candy- Kendeigh )が休息している。
Description English: Navy Flight Nurse Jane Kendiegh, trip from Iwo Jima, March 1945 .
Date 1945 Source US Department of the Navy, Bureau of Medicine and Surgery.
Author US Navy .
写真はWikimedia Commons, Category:Jane Kendeigh・File:Jane Kendeigh USN Flight Nurse 1945 c.jpg引用。


1945年にアメリカ海軍航空隊は、太平洋戦域で海軍・海兵隊の傷病兵の救護空輸にダグラスR5D スカイマスター(Skymaster)輸送機を使用した。この機体のキャビンキャビンは、ソファー式座席の旅客型ではなく、折りたたみ式ベンチの並んだ貨物型輸送機であり、傷病兵用の担架を胴体側面に三段に並べることができた。傷病兵は、この胴体側面三段式担架、床の担架に収容され、空輸されることになる。

空輸中の看護業務には、飛行看護師も参加した。初めて、硫黄島と沖縄で飛行看護に活躍した女性看護師が、ジェーン・キャディー・ケンデイ(Jane -Candy- Kendeigh )である。22歳の彼女は、硫黄島・沖縄と戦闘地域で活躍した初めての女性飛行看護婦だったので、ダグラスR5D スカイマスター(Skymaster)輸送機で任務に赴いたとき、メディアで喧伝された。

アメリカ海軍は、本土西岸カリフォルニア州オークランド(Oakland)基地から本土東岸ニューヨーク州ブルックリン海軍病院(Brooklyn Naval Hospital)に患者を輸送する高速患者輸送機として、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000-3ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン4基を装備したアメリカ海軍R5Dスカイマスター輸送機を使用した。R5Dスカイマスター輸送機は、最高速力450 km/h、巡航速力365 km/hで、50名を6800km空輸可能である。したがって、R5Dスカイマスター輸送機は、5000kmの大陸横断する高速救急飛行便 (Hospital Express Flight)というにふさわしかった。

1945年中頃、アメリカ、カリフォルニア州オークランド(Oakland)海軍基地、アメリカ海軍航空隊の海軍空輸第4飛行中隊(Naval Air Transport Squadron Four)ダグラス(Douglas)R5D-4スカイマスター(Skymaster)輸送機:支援するのは、海軍女子補助部隊WAVESの隊員たち。
Description:Seaman 1st Class Billy Ikard (left) and Seaman 1st Class Barbara A. Patterson move a battery cart into position next to a Naval Air Transport Service R5D-1 (Bureau # 39170), circa mid-1945. Both WAVES are assigned to Naval Air Transport Squadron Four. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color .
Description: Catalog #:80-G-K-15992
Copyright Owner:National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command・80-G-K-5659 Naval Air Station, Oakland, California引用。


ダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
プラット&ホイットニー空冷星形エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載
座席数:50名

ダグラス(Douglas)C-54輸送機の諸元
搭乗員Crew: 4名
乗客Capacity: 座席44 名(寝台 22名)
軍用簡易ベンチ座席: 86名

⇒写真集Album:アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D-4スカイマスター(Skymaster)輸送機を見る。


写真(右)1946年12月、オランダ領インドネシナ(インドネシア)、ジャワ島(?)、日本軍捕虜による貨物搭載作業中のKLMオランダ航空(Delta Air Lines)のダグラス(Douglas)DC-4輸送機(登録コード:PH-DBS)
: 1945年アメリカで製造された機体。当時、インドネシアはオランダからの独立戦争の時期であり、同時にハーグ円卓会議で、オランダとインドネシアによる交渉が行われていた。
Nederlands: Collectie / Archief : Fotocollectie Dienst voor Legercontacten Indonesië
Reportage / Serie : [DLC] Aankomst van pakketten met toestellen van de KLM
Beschrijving : Japanse krijgsgevangen halen de zakken uit het vliegtuig onder toezicht van Militaire Politie
Datum : december 1946
Locatie : Indonesië, Nederlands-Indië
Fotograaf : Fotograaf Onbekend / DLC Auteursrechthebbende : Nationaal Archief
Materiaalsoort : Negatief (zwart/wit) Nummer archiefinventaris : bekijk toegang 2.24.04.03
Bestanddeelnummer : 115-3-3
Date December 1946
Author Fotograaf Onbekend / DLC .
写真は Wikimedia Commons, Category:Douglas DC-4 of KLM・File:Japanse krijgsgevangen halen de zakken uit het vliegtuig, Bestanddeelnr 115-3-3.jpg引用。


太平洋戦争に勝利したオランダは、インドネシア、昔のオランダ領インドシナに帰ってきたが、そこではスカルノらの独立運動が起きていた。当初、オランダは植民地東インドを保持しようと派兵し、現地で捕虜とした日本軍兵士も使役した。しかし、1949年12月、オランダはジャワ島、スマトラ島に限定しインドネシアの独立を認めた。その後、インドネシアでは、全国統一の動きが続き、1950年8月15日に1万以上の島々を含むインドネシア共和国が誕生した。

第二次世界大戦はアメリカのダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Company)に軍需景気を呼び起こし大きな成功をもたらした。飛行機工場は、カリフォルニア州サンタモニカのほか、ロングビーチにも拡張され、トーランス、タルサ、シカゴにも工場を増設している。第二次世界大戦のアメリカ参戦期間中の1942年から1945年には、飛行機3万機を製造し、従業員は16万人の規模に達している。

⇒写真集Album:世界大戦後インドネシアのKLMオランダ航空ダグラス(Douglas)DC-4輸送機を見る。


10.ソ連のツポレフ(Tupolev)四発大型飛行機


写真(上)1930年5月1日メーデー、ソ連、モスクワ赤の広場で披露されたソ連ツポレフ(Tupolev)ANT-9大型輸送機
:初飛行は、1929年5月5日。全幅 23.80 m、全長 16.65 m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 5.690 kg、発動機:ライト(Wright)ワールウィンド(Whirlwind)空冷星形9気筒エンジン300 hp (224 kW)3基、最高速力 205 km/h、航続距離 700 km、乗員2名、乗客9名。
Description English: Tupolev ANT-9 photo from Aero Digest May,1930 Date 1 May 1930 Source https://archive.org/details/aerodigest1617unse/page/n147 Author Aero Digest magazine
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:Tupolev ANT-9 Aero Digest May,1930.jpg引用。


航空工業は重工業省の統轄するところで、航空技術は昭和三年(一九二八年)までは漸く外国製に模倣する程度であったが、第一次五ケ年計画の遂行に依り急速なる進展を遂げ、その製造工場も百数十に達し、更に第二次五年計画の実行過程にあるので、その製造能力は飛躍的進展をなすものと思われる従来航空技術方面に於ては創造的特色に乏しいようであったが、航空技術研究機関として大規模の施設を有する中央飛行科学研究所を設け、世界的に有名なるア・エヌ・トボレフ技師をその長とし多くの優秀技術者を集中して、統一せる研究を行うとともに、高級技術者の養成を企図し、又技術大学を多数設立して技術員の養成に努力しているので、その将来は刮目して睹るべきものがあると思う。


写真(上)1930年12月以降、ソ連、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev) TB-3(ANT-6)大型爆撃機
:胴体に共産党(CCCP)H-の符号を記入している。ツポレフTB-3重爆撃機は、1930年12月22日に初飛行、1937年までに818機量産された。全幅 39.5m、全長 24.4m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 17,200kg 発動機 :ドイツのB.M.Wを国産化したミクーリン(Mikulin)M-17F液冷12気筒V型 715hp4基、最高速力 197 km/h、航続距離1,350km、乗員8名、兵装 7.62mm機関銃6-8丁、爆弾2,000kg。
Tupolev, TB-3 Manufacturer: Tupolev Designation: TB-3 Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, TB-3, USSR
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00088930引用。



写真(上)1935年以降、ソ連、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev) TB-3(ANT-6)大型爆撃機と両翼に懸架されたポリカルポフ(Polikarpov)I-16-5戦闘機(250キロ爆弾2発搭載)の親子飛行機ズヴェノー(Zveno)Z-6
:親子飛行機ズヴェノーZ-6は、1935年8月に初飛行。子機ポリカルポフI-16戦闘機は、1933年12月30日初飛行、全幅9m、全長6.13 m、翼面積 14.5 m2、総重量 1,941 kgあったので、ツポレフTB-3重爆撃機(爆弾2,000kg)に2機懸架すると子機の揚力はあるとはいっても、過重量だったはずだ。しかし、1941年の独ソ戦では、ルーマニア爆撃、ドニエプル川架橋爆破に出撃し戦果を挙げたという。
Tupolev, TB-3 Manufacturer: Tupolev Designation: TB-3 Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, TB-3, USSR
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00088935引用。



11.イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108重爆撃機

写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョP.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第3図・ ピアッジョP.108B爆撃機の斜め正面
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione. The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第3図
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。


イタリア空軍P108 ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 重爆撃機の諸元
初飛行:1939年11月24日
実戦投入:1942年

乗員 6名
全長:22.92 m
全幅:32.00 m
全高:7.70 m
主翼面積:135.54 m2
全備重量:29,885 kg
エンジン:ピアッジョ(Piaggio) P.XII RC.35 空冷星型18気筒空冷エンジン 1,350 hp 4基
プロペラ:3翅 定速回転プロペラ
生産機数:37機

ピアッジョ(Piaggio) P.108 B 重爆撃機の性能
最高速力:420 km/h/高度3,900m
航続距離:3,520 km
実用上限高度:6,000 m
上昇率:2,000 m/10'00”
武装 12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃6丁
7.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁
爆弾搭載量 3,500 kg

⇒写真集Album:ピアッジョ(Piaggio)P.108重爆撃機を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機


◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。

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