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ポツダム会談 Potsdam Conference 2017
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◆1945年7月17日-8月2日 ポツダム会談 Potsdam Conference
写真(上左):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)に乗船しヨーロッパに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマンと先輩議員で国務大臣に就任したジャームズ・バーンズ
:水平になるように置かれたコンパスを試している。President Harry S. Truman (right) and Secretary of State James Byrnes (left) work at taking a bearing while they are traveling on board the USS Augusta. They are headed to Germany to attend the Potsdam Conference. Date: July 11, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 64-379-02引用。
写真(上右):1945年7月15日、ポツダム会談に出席するトルーマン大統領一行を大西洋を横断してベルギー、アントワープ沖まで運んだアメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」USS Augusta (CA-31) :写真は、アメリカ海軍軽巡洋艦「フィラデルフィア」USS Philadelphia (CL-41)から撮影したもので、手前の艦載機のフロートは、ボートOS2Uキングフィッシャー水上観測機(Vought OS2U Kingfisher)のもの。Title: USS Augusta (CA-31) Description: Steaming toward Antwerp, Belgium, 15 July 1945, as she carried President Harry S. Truman on his way to take part in the Potsdam conference. Photographed from USS Philadelphia (CL-41), which escorted Augusta during the trip. The port wing of one of Philadelphia's OS2U floatplanes is at left. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: SC 209538 写真は、 Naval History and Heritage Command SC 209538 USS Augusta (CA-31) 引用。

1. 太平洋戦争開戦前、中国との全面戦争に突入した近衛文麿元首相は、1945年2月14日、降伏しないまま戦い続ければ、日本国内で共産主義的な革命が、日本陸軍の統制派によって引き起こされる危機感を昭和天皇に訴えていた。日本は、国内外の危機に直面していると、昭和天皇を中心とする宮中の政治的指導者は考えていた。1945年5月になって、ドイツが無条件降伏し、沖縄方面の戦局も絶望的になる中で、日本の政治的指導者にも、戦争遂行の自信が揺らぎ始めた。しかし、1943年のカイロ宣言では、枢軸国には、無条件降伏以外は認めないとする連合国に対して、日本は降伏の申出をするつもりはなかった。本土決戦によって、条件付の講和に持ち込みたいと願っていた。

日本の昭和天皇を中心とする宮中の側近は、沖縄戦で決定的な一戦を交え、有効な交渉手段を手に入れてから和平交渉を進めようと画策していた。しかし、沖縄戦は1945年5月になると、敗北は明らかだった。残る挽回の手段は、本土決戦しかなかった。これで何とか西側連合軍に大打撃を与えれば、無条件ではなく、有利な条件を以って和平交渉が可能になると考えた。このような背景で、7月にポツダム宣言Potsdam Declaration)が出されても、それを受諾することは考えられなかった。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺発言について,鈴木貫太郎自身は,戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし,鈴木首相のポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺発言について、高木惣吉海軍少将が米内光政大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内自らは沈黙したままで、鈴木貫太郎首相のみが責をとった形となった。米内大臣も、徹底抗戦やむなしと考えていた。

日本側は,米国,連合国とは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。鈴木貫太郎も、無条件降伏といい歴史的大敗北、日本と皇祖への最大の恥辱を昭和天皇の治世の時代に決断することはできなかった。

アジア太平洋戦争の連戦連破を背景に,軍上層部や国民の間に,共産革命を許容する動きがあり,国体が変革される可能性があった。1945年2月14日「近衛上奏文」が,国体護持のために,終戦の聖断を求めたのも,同様の趣旨からである。天皇の権威は,天孫降臨を象徴する三種の神器によっているから,米軍によって,伊勢神宮,三種の神器が鹵獲されることが危惧された。原爆投下よりも、国体護持の観点から、ソ連参戦の政治的影響が大きかった。
当時,原子爆弾は機密の最先端技術であり,日本の軍人・政治家の理解を超えていた。一夜にして、都市が破壊され、数万人が殺戮された事例は、1945年3月10日東京大空襲などいくつもあった。本土が焦土とされても徹底抗戦を主張していた指導者が、理解不能の原爆の威力に恐れおののき、降伏を決断することはありえない。
他方,ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり,ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば,日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして,米国への降伏、国体護持を請うたのが,終戦の聖断である。

近衛文麿(このえ ふみまろ:1891年10月12日生まれ、1945年12月16日自殺):五摂家の筆頭・近衞家に生まれ、東京帝国大学哲学科と京都帝国大学法科大学に学び、さらに貴族院議長、内閣総理大臣、外務大臣)、拓務大臣、司法大臣を務める。1934年、アメリカを訪問、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、国務長官コーデル・ハルと会見した。
 1937年6月4日第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1938年11月3日には「東亜新秩序声明:第二次近衛声明」を発した。1940年7月22日に、第2次近衛内閣を組閣、松岡洋祐を外相から排除して、1941年7月18日から10月18第3次近衛内閣で、日米和平交渉を続けたが、成果を上げられず、辞任。
終戦2か月後の1945年10月4日、近衞文麿は、GHQ(連合国軍総司令部)司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問し、日本の赤化防止、憲法改正について話し合った。しかし、1945年12月6日、GHQからの逮捕命令が出て、近衛はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることが決定すると、出頭期限の12月16日未明、荻外荘で青酸カリで服毒自殺。54歳だった。「近衛公の自殺」によれば,「支那事変の過誤は数え切れぬ程ある。この支那事変の過誤を是正し訂正せんがため日米会談が起こったのである。-----しかし、結果においてわれわれの力が足りなかったのだ。第三次近衛内閣がバトンを東条大将に渡すといふことは日本を戦争に導くための更迭ではなく、東条をして更に和平に努力せしめんとするにあり、また東条によって軍閥を抑へ得るものと思ったところに運命的重大な錯誤がある。」「戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ戦争が終われば戦争犯罪者だと指弾される、僕は運命の子だ」といった。

元首相近衛文麿は,日中全面戦争を開始した首相であるが,日米開戦を回避しようとした。1945年2月14日に「近衛上奏文」で「敗戦ハ遣憾ナカラ最早必至ナリト存候」として,次のように昭和天皇に上奏した。

----英米ノ世論ハ今日マテノ所国体ノ変革トマテハ進ミ居ラス。---敗戦ダケナラハ 国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持ノ建前ヨリ最モ憂フルベキハ 敗戦ヨリモ 敗戦ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ニ御座候。

----ソ連ハヤガテ日本ノ内政ニ干渉シ來ル危險十分アリト存セラレ候。---右ノ内特ニ憂慮スヘキハ軍部内一味ノ革新運動ニ有之候。
----勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候、随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速ニ戦争終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候。
戦争終結ニ対スル最大ノ障害ハ 滿洲事變以來 今日ノ事態ニマテ時局ヲ推進シ来タリシ軍部内ノカノ一味ノ存在ナリト存候。

---此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直シヲ實行スルコトハ、共産革命ヨリ日本ヲ救フ前提先決條件ナレハ、非常ノ御勇斷ヲコソ願ハシク奉存候。」(「近衛上奏文」引用)。

昭和天皇は、上奏文を提出した近衛文麿に,次のように御下問された。(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)
天皇「我が国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
近衛「軍部は国民の戦意を昂揚させる為に、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我が皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

天皇「先程の話に軍部の粛清が必要だといったが、何を目標として粛軍せよというのか。」
近衛「一つの思想がございます。これを目標と致します。」
天皇「人事の問題に、結局なるが、近衛はどう考えておるか。」
近衛「それは、陛下のお考え…。」
天皇「近衛にも判らないようでは、なかなか難しいと思う。」
近衛「従来、軍は永く一つの思想[統制派]によって推進し来ったのでありますが、これに対しては又常に反対の立場をとってきた者[皇道派]もありますので、この方を起用して粛軍せしむるのも一方策と考えられます。これには宇垣、香月、真崎、小畑、石原の流れがございます。これらを起用すれば、当然摩擦を増大いたします。----この際これを避くることなく断行するのも一つでございますが、もし敵前にこれを断行する危険を考えれば、阿南、山下両大将のうちから起用するも一案でございましょう。賀陽宮は[皇道派による]軍の立て直しには山下大将が最適任との御考えのようでございます。」
天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと[皇道派によって軍を立て直し終戦に持ち込むのは]なかなか話は難しいと思う。

近衛「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

1945年2月14日の昭和天皇への上奏文によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。そして,軍部の統制派が戦争終結の障害になっているので,彼らを一掃しすれば,米英中と和平交渉ができると考えた。軍部を建直し,共産革命より日本を救うために,昭和天皇に終戦の聖断を仰いだ。しかし,戦闘での勝利によって,国体護持を認めさる和平交渉を画策した。終戦の決断はできなかったのである。

イギリス戦時内閣首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874年11月30日-1965年1月24日)1939年9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。この時、ウィンストン・チャーチルは海軍大臣(First Lord of the Admiralty:海軍卿)として戦時内閣の閣僚に復帰したが、緒戦のノルウェー侵攻に失敗し、さらにチェンバレン首相の後任として1940年5月に首相に就任するも、ドイツ軍のフランス侵攻、フランス敗北、イギリス遠征軍の本土撤退と敗退を重ねた。その後、1940年夏のイギリス本土航空決戦で何とかドイツ空軍を撃退した。1942年には、ソ連への軍事援助を続けながら、北アフリカでドイツ軍に手痛い敗北を負わせた。1943年1月、アメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルはモロッコのカサブランカ会談で、地中海域での反攻作戦を協議し、イタリアのシチリア島上陸を決定した。1943年11月、イタリアを降伏させ、エジプトのカイロ会談で、ルーズヴェルト・蒋介石と対日戦と対日戦後処理の方針について話し合った。1943年12月に発表されたカイロ宣言では、日本に対する無条件降伏、降伏後の日本領は第一次世界大戦以前に戻すこと、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮独立が公表された。ルーズヴェルトとチャーチルは、カイロ会談後にイランのテヘランに飛び、1943年11月からヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)とのテヘラン会談に臨んだ。テヘラン会談では、主にヨーロッパ第二戦線の問題について協議が行われた。


1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。1945年6月8日の御前会議では,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

1945年7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)が通告されても,終戦を即断できなかった。

2. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への無条件降伏の勧告となるポツダム宣言Potsdam Declaration)が公表された。しかし、連合国は、日本に勝利することを確信しており、問題はその時期だけだった。日本の降伏よりも、戦後世界の構想について、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦は、関心があった。これを話し合ったのが、ソ連が占領したベルリン郊外で1945年7月17日から8月2日に開催されたポツダム会談だった。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺発言が原爆投下をもたらしたとする説=1945年7月26日に出されたポツダム宣言Potsdam Declaration)を、翌27日、日本の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と返答し、"ignore"という英訳が、原爆投下を招いたとするポツダム宣言黙殺説

 鈴木貫太郎首相が、1945年7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺を世界に発表し、日本が降伏する意図がないと判断された。しかし、鈴木貫太郎首相は当初から和平交渉を拒否し、徹底抗戦すると公言していた。この徹底抗戦という組閣当初からの方針を述べただけである。鈴木貫太郎首相は、世界に向かって降伏の呼びかけを拒否したのであるから、鈴木内閣が終戦のために組閣されたという俗説は、これで誤りであると証明される。

 しかし、鈴木貫太郎内閣総理大臣のポツダム宣言黙殺発言をする以前に、米国は日本への原爆投下を決定していた。(後述するが)これは、マンハッタン計画Manhattan Project)指揮官のレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の作成した原爆投下命令書によってである。したがって、ポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺説は成り立たない。

写真(右):1945年7月3日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンによって、国務長官に任命されたジェームズ・バーンズが聖書に手を置き宣誓した。:中央の夫人は、ミセス・バーンズ、その右後方はルーズベルト元大統領の顧問で前国務長官のエドワード・ステティニアス(Edward Stettinius)、左後方の夫人は、ミセス・ヴァージニア・アンダーソン、夫は農務長官クリントン・アンダーソン(トルーマンの後方)
Description: President Harry S. Truman (right) stands with others as James Byrnes (center, holding Bible) is sworn in as Secretary of State. Visible in the background are outgoing Secretary of State Edward Stettinius (between Mr. and Mrs. Byrnes), and Secretary of Agriculture Clinton Anderson (to the left of Mr. Truman). All others are unidentified.
Date: July 3, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Anderson, Clinton Presba, 1895-1975; Stettinius, Edward R. (Edward Reilly), 1900-1949
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-18引用。


ポツダムでの会談が決まっていた1945年7月3日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンは、コーデル・ハルに代えて、先輩の上院議員であるジェームズ・バーンズ(James Byrnes )を国務長官に任命した。バーンズは、聖書に手を置き宣誓し、国務長官として外交を主導することになった。

広島・長崎への原子爆弾の投下により、大量破壊・大量殺戮を実行したことに関して、連合国市民、連合軍の退役軍人協会などが、正義の戦いのための「当然の犠牲」であるとか、戦争継続によって失われるはずだった命を救ったとか、強弁するのは、死者遺族にとっては納得できないであろう。人命の犠牲の上に、現在の平和と繁栄がある、と主張するのも、違和感が残る。殺害された市民にとって、「言い訳」は、受け入れがたい。

しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes)国務長官のように国民を選挙民として常に意識していた老齢な政治家は、敵による民間人,市民の犠牲を非難し、敵愾心を煽るプロパガンダを展開しつつ、残された家族には、遺族年金、勲章・功労賞、慰めの言葉を贈る必要性を十分認識し、戦争と外交を展開していた。

アメリカ軍による日本本土空襲による殺害率(キルレート)は、米国人3000人対日本人30万〜50万人であり、100-180倍もあり、破壊家屋・工場を含めれば,B-29爆撃機500機弱の損失に比べて、大戦果をあげた。対日戦争に勝利をもたらした最大の要因は,米軍によれば,日本本土空襲、原爆投下、無制限潜水艦作戦による交通破壊とされ、日本の政治家・軍人に衝撃を与えたソ連の対日参戦、満州侵攻は無視している。

ポツダム宣言Potsdam Declaration)黙殺説に対応する米国の主張する俗説=米政府・米軍の公式見解といえる終戦和平説
 日本上陸作戦を実施した場合、戦後のスチムソン陸軍長官の回顧録では、100万人の死傷者がでると、過大に見積もっている。これには、軍事的根拠はないが、原爆投下の正当性を訴える目的で、戦後になって死傷者の存在に注目した後付けの説である。
これが本当であれば,日本上陸作戦の死傷者がどれくらい出るのか、原爆投下によって日本本土上陸作戦を行わなくても、直ぐに日本が降伏するのか、事前に何回も検討していたはずである。しかし、そのようなことはほとんど議論されていない。
 原爆投下されたために日本が降伏したと誤解している識者も多い。最新機密兵器である原爆の技術と威力について、日本の指導者たちは認識・理解できなかった。彼らが危惧したのは、日本国民、日本軍の一部が、すでに敗北続きの軍上層部・政治指導者に反感を持っていたことである。このままでは、国体を覆す革命が起きてしまうと危惧していたのである。

1942年8月13日、レスリー・グローブズ准将をマンハッタン管区最高司令官に、オッペンハイマー博士を原爆の設計・製造の総責任者として「マンハッタン計画Manhattan Project)」が始動。
1944年9月19日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間のハイド・パーク協定で、原爆の投下対象をドイツから日本へ変更。

1945年4月27日、第一回の目標委員会(Target Committee)では、京都、広島、横浜、小倉の4 都市が選定。
1945年5月4日,スチムソン陸軍長官は,陸・海・国務3省および原爆科学者の幹部からなる暫定委員会を設置。
1945年5月28日、原爆の効果を正確に測定できるよう、投下目標都市に対する空襲が禁止。

1945年6月1日、ジェームズ・バーンズ国務長官(トルーマンの先輩上院議員)など暫定委員会は「日本に対してすみやかに原爆を使用すべきこと。それは,労働者の住宅に囲まれた軍事施設あるいは軍需工場を目標とすべきこと。原爆投下の事前の警告なしに使用するべきこと。」とした。これは、原爆の威力実証、対ソ連圧力外交としての原爆示威、早期の日本降伏を意図した結果であろう。

1945年7月16日、ニューメキシコ州、アラモゴードで、世界初の原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功。ポツダム会談参加のためにドイツに出向いていたトルーマン大統領に伝えられる(「無事出産。結果は予想以上。」)。


写真(上左):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」が行われた。ポツダム会談の時期にアメリカはロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」に成功した。ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は優越感を持って、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと告げた。
:Description: The first successful test of an atomic bomb, Alamogordo, New Mexico, July 16, 1945. Date: July 16, 1945 Related Collection: Lansing Lamont Papers ARC Keywords: Atomic bomb; Nuclear weapons testing HST Keywords: Atom bomb; New Mexico, Alamogordo 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 72-4148引用。
写真(上右):1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、原子爆弾の爆発実験「トリニティ」:Atom Bomb Explosion, Test at Alamagordo, New Mexico. Date: ca. 1945 Related Collection: Robert A. Lovett Papers ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945 HST Keywords: Atom Bomb
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-53引用。


ポツダム宣言Potsdam Declaration)の前日、1945年7月16日、トリニティ(原爆実験)が成功した。米海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督のように、日本通の軍人は、国体護持を認めれば、日本は和平に応じることを見抜いていた。しかし、ルーズベルト大統領は、1943年1月のカサブランカ会談、11月のカイロ会談(チャーチル首相・蒋介石総統)で、枢軸国に無条件降伏を求めること、単独和平はありえないこと(米国にではなく、連合国への降伏)を、世界に公言していた。米国は国体護持を巡って単独で日本と和平交渉することはできなかった。

1945年2月のヤルタ協定では、ドイツ降伏(1945年5月8日)3ヶ月以内にソ連は対日戦に参戦すると確約した。米軍は、兵力が低下していた満州駐屯の関東軍の軍事力を過大評価しており、中国大陸の日本軍を壊滅するには、ソ連の軍事力が不可欠であると考えていた。そこで、日本領千島列島だけでなく、蒋介石に、日本が有していた中国・満州での権益をソ連に譲渡させることまでして,スターリンに対日参戦を約束させた。

第33代アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman: The Accidental President)1884年生まれ―1972年没;1934年にミズーリ州選出の上院議員として、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持した。1944年の大統領選には、トルーマンは副大統領候補となり、ルーズベルトが先例のない4選を果たすと、トルーマンは副大統領に就任した。しかし、体調を崩していたルーズベルトは、ヤルタ会談に参加したものの、1945年4月12日に急死し、トルーマンが大統領に昇格した。トルーマンには外交経験がなかった上に、ルーズベルト大統領とのコミュニケーションにも疎いままだったため、原子爆弾についても知らないままだった。そこで、上院議員の先輩ジェームズ・バーンズの指導を受けることになり、5月のドイツ降伏後には、ヨーロッパの戦後処理と並んで、太平洋戦争勝利後のアジアの戦後処理が、ソ連との関連で問題になった。1945年7月のポツダム会談で、そのことが話し合われた。


 しかし、暗号解読によって,日本がソ連を通じて和平交渉を求めていることを知る。(7月16日のスチムソン陸軍長官の日記:"I also received important paper in re Japanese maneuverings for peace. It seems to me that we are at the psychological moment to commence our warnings [to surrender] to Japan. ...the recent news of attempted approaches on the part of Japan to Russia impels me to urge prompt delivery of our warning. [マジックによる無線暗号解読通報the Magic Diplomatic Summariesによる日本のソ連への和平仲介依頼を察知していた])

1945年7月-8月のポツダム会談Potsdam Conference)では、スターリン自らが、ハリー・トルーマンHarry S. Truman)大統領に8月15日に対日参戦することを告げた。(7月17日のトルーマンの日記:He'll be in the Jap War on August 15th. Fini Japs when that comes about. ----I can deal with Stalin. He is honest--but smart as hell.)トルーマンも原爆完成をスターリンに告げることを決心する。さらに、日本が和平の仲介を頼んできたことをスターリンはトルーマンに直接,直ぐに伝え、なんとその回答まで教えた。もはやソ連の対日参戦前に日本は降伏してしまうと思われた。(7月18[19]日のトルーマンの日記:Discussed Manhattan (it is a success). Decided to tell Stalin about it. Stalin had told P.M. of telegram from Jap Emperor asking for peace. Stalin also read his answer to me. It was satisfactory. Believe Japs will fold up before Russia comes in. )しかし、日本がソ連の仲介で降伏してしまえば,戦後のソ連軍が日本に進駐し、ソ連封じ込めも水泡に帰す。

最強兵器の威力を実証しないうちに大戦が終了すれば、戦後、米議会は原爆の威力を理解できず、予算を縮小するであろう。さらに、世界最強の軍隊であることを証明をする機会も失えば、ソ連を抑えて世界の覇権を掌握することも困難になる。
 「マンハッタン計画Manhattan Project)」の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将も米軍も、日本が降伏する前に,原爆を投下し、実戦での実績を誇示したかった。

写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) でヨーロッパ、ベルギーに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマンと先輩議員でハルの後任の国務大臣に就任したジャームズ・バーンズ。重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) 艦長のジェームズ・フォスケット大尉が案内している。:水平になるように置かれたコンパスを試している。From left to right, President Harry S. Truman, Secretary of State James Byrnes and Captain James Foskett, commanding officer of the USS Augusta. Captain Foskett describes a pelorus to the others. They are aboard the Augusta en route to the Potsdam Conference in Germany.
Date: July 11, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-02引用。


写真(右):1945年7月11日、ドイツ、ポツダム会談出席のためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) 艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):説明しているのはアメリカ海軍ジェームズ・フォスケット大尉(1898-1961)アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動し、ベルリンに向かった。
Description: Left to right: Captain James Foskett spins a yarn to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman on the U. S. S. Augusta as they travel to the Potsdam Conference. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Naval officers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships HST Keywords: Potsdam - U. S. S. Augusta; Ships - Augusta - Truman aboard; Truman - Potsdam - U. S. S. Augusta; Truman - Ships - Augusta (aboard) People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972 1950
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-08引用。


写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するのためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31) 艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):写真と動画の撮影をし、アメリカ国内外でのプロパガンダに活用した。これらの映像を見ると、トルーマン大統領が、先輩の上院議員バーンズ国務長官に遠慮しすぎている、あるいはバーンズが先輩風を吹かせているように見えてくる。たしかに、日本への1945年7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)での国体護持条項を削り、日本絵の原爆投下を率先して主導したのは、バーンズ国務長官であり、ルーズベルト大統領の急死で急遽大統領に就任したトルーマンでは、情報も政治的力量も不足であると感じられた。
Description: President Harry S. Truman (left) and Secretary of State James Byrnes (right) pose for two unidentified press photographers on board the USS Augusta. They are on board the USS Augusta to travel to the Potsdam Conference in Germany. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Photographers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-04引用。


写真(右):1945年7月11日ごろ、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍巡「オーガスタ」に乗艦しヨーロッパに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン。乗員と同じ食事をカンティーンでとる大統領。:重巡「オーガスタ」の新造時の排水量: 9,050 トン 全長: 600 ft 3 in (182.96 m) 全幅: 66 ft 1 in (20.14 m) 吃水: 16 ft 4 in (4.98 m) 最高速力: 32.7 ノット 乗員: 735名 兵装: 8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門 7.62mm機銃8基 21インチ魚雷発射管6門Description: President Harry S. Truman (front line, second from left) answers mess call with the crew of the USS Augusta, as he travels to the Potsdam Conference. All other sailors are unidentified. Date: ca. July 1945 Related Collection: William Rigdon Papers ARC Keywords: Dinners and dining; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Sailors; Ships HST Keywords: Truman - Potsdam - USS Augusta People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: Accession Number: 70-5871引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)の食堂で将校たちと一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談Potsdam Conference)に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: Description: President Harry S. Truman (at the head of the table, in civilian clothes) is eating lunch with unidentified Chief Petty Officers aboard the USS Augusta. President Truman traveled to Germany on board the USS Augusta for the Potsdam Conference.
Date: ca. July 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Luncheons; Presidential trips; Presidents; Sailors; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-18引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)の食堂で水兵と一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談Potsdam Conference)に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: President Harry S. Truman (second from left) shares a meal with unidentified United States Navy crewman on board the USS Augusta. President Truman is on board the USS Augusta to travel to Germany for the Potsdam Conference. Date: July 12, 1945
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-13引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のバーンズは、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。
Description: Secretary of State James Byrnes (seated, second from right) eating with unidentified United States Navy crewmen on board the USS Augusta. Secretary Byrnes was traveling to the Potsdam Conference on board the USS Augusta with President Harry S. Truman. Date: July 12, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Luncheons; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Sailors; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-16引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)食堂で水兵と一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: President Harry S. Truman at mess with enlisted personnel and officers aboard the U. S. S. Augusta on his voyage to attend the Potsdam Conference in Germany, July 1945.
Date: ca. July 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 70-5875引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のバーンズは、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。
Description: Secretary of State James Byrnes (center) at lunch with the crew of the U. S. S. Augusta as he accompanies President Harry Truman to the Potsdam Conference in Germany.Others are unidentified. From the album, "The President's Trip to Potsdam, album number 1."
Date: July 12, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1454-18引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、先輩の上院議員バーンズが国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。
Description: Secretary of State James Byrnes (right side of table, third from right, in civilian clothing) eating with unidentified crewmen of the USS Augusta. Secretary Byrnes traveled with President Harry S. Truman aboard the USS Augusta to Germany for the Potsdam Conference. Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-17引用。


写真(右):1945年7月14日、イギリス海峡、アントワープに向かうアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズの乗艦アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)を護衛するイギリス海軍駆逐艦「ゾディアック」(HMS Zodiac:R-54?) :1945年7月、軽巡洋艦「オーガスタ」にはポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領らが乗艦しているが、もはやドイツは降伏しており、攻撃される心配は全くなかった。しかし、イギリスは、戦勝を助けた同盟国アメリカに最大限の敬意を払って、イギリス艦隊を護衛に差し向けた。
Description: A unit of the British fleet escorts the U. S. S. Augusta across the English channel. President Harry S. Truman in on board the U. S. S. Augusta, en route to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-42引用。


写真(右):1945年7月7-15日、ポツダム会談に出席するトルーマン大統領一行を大西洋を横断してベルギー、アントワープ港まで運んだアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」USS Augusta (CA-31) :巡洋艦「オーガスタ」艦長はジェームズ・バードマン大尉。1945年7月15日,ドイツ降伏後のベルリン郊外、ポツダム会談に向かうためにベルギー、アントワープ港に到着。乗船者は、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズである。アントワープでは、駐ベルギー大使チャールズ・ソーヤー、トルーマン大統領、連合国遠征軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー将軍が出迎えた。
Title: USS Augusta (CA-31) Description: Underway on 7-15 July 1945, as she was transporting President Harry S. Truman to Europe, where he participated in the Potsdam conference. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-603322
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-603322 USS Augusta (CA-31) 引用。


写真(右):1945年7月14日、イギリス海峡、アメリカ海軍軽巡洋艦「フィラデルフィア」USS Philadelphia (CL-41)から眺めた, アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」USS Augusta (CA-31) と出迎えに来たイギリス海軍駆逐艦「ゾディアック」(HMS Zodiac:R-54) :手前は、40ミリ連装対空機関砲の銃座で、左上は、艦載機ボートOS2Uキングフィッシャー水上観測機(Vought OS2U Kingfisher)のフロート(浮きの後尾に舵がついている)。重巡洋艦「オーガスタ」は、ポツダム会談に出席するトルーマン大統領一行を大西洋を横断してベルギー、アントワープ港まで運んだ。
Title: USS Augusta (CA-31) Description: (left center) Underway at the entrance to the North Sea, 14 July 1945, while transporting President Harry S. Truman to Antwerp, where he disembarked the following day to attend the Potsdam conference. British warships are steaming past after escorting Augusta through the English channel. Destroyer at right is HMS Zodiac (R-54). Photographed from USS Philadelphia (CL-41), which accompanied Augusta from the United States. The float of one of Philadelphia's OS2U planes is in the upper left. A 40mm twin gun mount is in the foreground. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: SC 209171
写真はNaval History and Heritage Command SC 209171 USS Augusta (CA-31) 引用。


写真(右):1945年7月15日、ベルギー、アントワープに到着したアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)艦上、手前に座っている報道官(Press Secretary)チャールズ・ロス(Charles Ross)、 アメリカ大統領ハリー・トルーマン、後方中央に立つ国務大臣ジェームズ・バーンズ、右にアメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:これから空路ベルリンを経由してポツダム会談に出席する。オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥を乗せアントワープに向かった。
President Harry S. Truman (seated, left) and Press Secretary Charles Ross (seated, right) are looking out over a river while on a boat approaching Antwerp, Belgium. President Truman is en route to the Potsdam Conference. Standing behind President Truman, from left to right, is Captain James Vardaman, Secretary of State James Byrnes, and Admiral William D. Leahy. Others are unidentified.
Date: July 15, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number:64-390引用。


写真(右):1945年7月14日、ベルギー、アントワープ、ポツダム会談に出席するアメリカ大統領トルーマン一行を運んだアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)艦上の連合国遠征軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、ベルギー駐在アメリカ大使衣チャールズ・ソーヤー(Charles Sawyer)、アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スターク(Harold R. Stark)、アメリカ海軍参謀総長[日本海軍の軍令部総長]ウィリアム・レーヒ提督
Title: General of the Army Dwight D. Eisenhower; U.S. Ambassador to Belgium Charles Sawyer; Admiral Harold R. Stark, USN; Fleet Admiral William D. Leahy, USN; Description: Photo #: NH 93315 General of the Army Dwight D. Eisenhower; U.S. Ambassador to Belgium Charles Sawyer; Admiral Harold R. Stark, USN; and (listed from left to right) On board USS Augusta (CA-31) at Antwerp, Belgium, on 15 July 1945. Leahy was accompanying President Harry S. Truman during his trip to the Potsdam Conference. The others welcomed the President upon his arrival at Antwerp after a trans-Atlantic voyage. Collection of Admiral Harold R. Stark. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 93315
写真はHarry S. Truman Library & Museum NH 93315 General of the Army Dwight D. Eisenhower; U.S. Ambassador to Belgium Charles Sawyer; Admiral Harold R. Stark, USN; Fleet Admiral William D. Leahy, USN; 引用。


写真(右):1945年7月14日、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)からアントワープに上陸するアメリカ大統領ハリー・トルーマン:1945年7月、ポツダムPotsdam)会談に出席するハリー・トルーマン大統領らが乗艦しているが、もはやドイツは降伏しており、攻撃される心配はほとんど全くなかった。しかし、イギリスの戦勝を助けた同盟国として最大限の経緯を払って、艦隊を護衛に差し向けた。
Description: President Harry S. Truman receives a salute from the officers and men of the U. S. S. Augusta as he debarks at the port of Antwerp. He is en route to the Potsdam Conference in Germany. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-16引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港、ポツダム会談に出席するアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督を、アントワープ港に送り届けたアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」:アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)は、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談Potsdam Conference)に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥を乗せアントワープに向かった。The U. S. S. Augusta moored at the Municipal Pier, Antwerp, Belgium. The ship has just carried President Truman and his party to attend the Potsdam Conference. Sailors are visible in foreground. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: ca. July 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-42引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ポツダム会談に参加するためにガトー飛行場に到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と娘のマリー(Mary:15 September 1922-31 May 2014):乗機のダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)は、イギリスの記章をつけているが、アメリカから貸与された機体。
ダグラスC-54四発大型輸送機(Douglas C-54 Skymaster)諸元
プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基
最高速度:450 km/h
巡航速度:365 km/h
座席数:50名
  航続距離:6,800 km
全長:28.6 m
全幅:35.8 m
全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg
全備重量:28,123 kg。
Prime Minister Winston Churchill, surrounded by cameramen and dignitaries, leaves the airplane which brought him to Gatow Airport in Berlin, Germany for the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965 Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-21引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ポツダム会談に参加するためにガトー飛行場に到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)。後ろに続くのは四女のマリー(Mary:15 September 1922-31 May 2014):ベルリンにチャーチルを運んだ輸送機は、イギリスの記章をつけているが、アメリカから貸与されたダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster)である。
Prime Minister Winston Churchill steps off his airplane at Gatow Airport in Berlin. He is en route to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Military aircraft; Potsdam Conference, 1945; Prime ministers HST Keywords: Airports - Gatow; Potsdam - General file; Truman - Potsdam - Berlin People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965
写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-14引用。


1945年5月のドイツ降伏後、それまでの挙国一致内閣で保守党チャーチル首相に協力してきた労働党が連立から脱退した。その後、7月の総選挙で、総選挙で保守党は敗北し、第二次大戦を勝利に導いた保守党のチャーチルは、首相の座から降りた。これがなんとポツダム会談の最中だった。

 こうして、チャーチルは野党党首の地位にとどまったが、ソビエトとの対立が表面化し、東西冷戦がはじまると、それまで主張してきた反共産主義色を再び鮮明にした。大戦後、イギリスはアメリカと同様戦勝国のはずだったが、労働党政権は、インドなど植民地の独立を認め、大英帝国は崩壊していた。イギリスは、完全に米ソの次となってしまった。

米ソ冷戦という二大大国の中で、大英帝国は衰退していたが、ぎょっ卿の中でもチャーチルの強気な外交姿勢が評価された。1951年にチャーチルは再び首相を務めた。そして、米ソに次いで三番目の核兵器保有国となることを宣言し、東南アジア条約機構(SEATO)などソ連・共産主義の封じ込めを目指した。戦争までの記録が評価され、1953年、ノーベル文学賞受賞。ノーベル平和賞は、戦争屋チャーチルには相応しくない。1955年、首相を辞め、次期首相には、1935-1938年、1940‐1945年に外務大臣を務めたアンソニー・イーデンが就任した。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場、ポツダム会談に参加するイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と出迎えるバーナード・モントゴメリー元帥(Bernard Law Montgomery)
Description: British Prime Minister Winston Churchill (center) is greeted by Field Marshall Bernard Montgomery at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Churchill has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Montgomery of Alamein, Bernard Law Montgomery, Viscount, 1887-1976
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1456-58引用。


チャーチル夫妻には5子ある。1909年生まれ長女ダイアナ、1911年生まれ長男ランドルフ、1914年生まれ二女サラ、1918年生まれ三女マリーゴールド、1922年生まれ四女メアリー である。メアリーは、1941年からロンドンの対空部隊に配属されたが、後にベルギー、ドイツでも任務に就いている。ポツダム会談には、父に同行し、トルーマン大統領、スターリン首相とも会っている。夫は、保守党政治家クリストファー・ゾームズ(Christopher Soames)男爵で、彼は最後の南ローデシア総督となった。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)が出迎えのガトー空港警備部隊のイギリス陸海空軍将兵を閲兵している。
Description: Distance view of British Prime Minister Winston Churchill inspecting the honor guard at Gatow Airport in Berlin, Germany. The Guard was composed of men from the Royal Navy, Canadians, Royal Air Force, and a battalion of Grenadier Guards. Prime Minister Churchill has just arrived in Berlin to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir,
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-63引用。


写真(右):1945年7月16日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場、ポツダム会談に参加するアメリカ国務大臣ジェームズ・バーンズとソビエト連邦アメリカ大使アントレイ・グロムイ、右端はソ連外務人民委員(外務次官)アンドレイビ・シンスキー(Vyshinsky, Andrey Yanuaryevich):ビシンスキーは、スターリンの腹心の検察官として、スターリンに反対する共産党幹部を粛清した。1949年 - 1953年、ソビエト連邦外務大臣(第4代)に就任。
Description: Secretary of State James Byrnes (left) is greeted at the airport en route to the Potsdam Conference by Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko (center) and Soveit Foreign Affairs Minister Andrey Vyshinsky(right). Date: July 16, 1945 People Pictured: Vyshinsky, Andrey Yanuaryevich, 1883-1954; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-44引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス労働党クレメント・アトリー(Clement Attlee:1883-1967) 。左から二人目。首相のウィンストン・チャーチル(1874-1965)も同じ日にガトー空港に到着しているが、別の機だったのか。
Description: Clement Attlee (fourth from left) arrives at Gatow Airport in Berlin en route to the Potsdam Conference. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 Related Collection: People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-25引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官とアメリカ陸軍フロイド・パークス中将(前列右端):フロイド・パークス中将は、 イェール大学、 米国陸軍戦略大学で学び、9月からはベルリン地区の軍政長官に就任する。
Description: Secretary of War Henry L. Stimson (foreground, second from right) walks with General Floyd L. Parks at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Stimson has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Parks, Floyd Lavinius, 1896-1959; Stimson, Henry Lewis, 1867-1950
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-12引用。


ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Lewis Stimson:1867年9月21日-1950年10月20日)は、1906年にアメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt)の下でニューヨーク連邦検事に任命され、反トラスト法違反訴訟の検察官を務めた。その後、政界入りを目指して、1910年のニューヨーク州知事選挙に、共和党候補として立候補したが落選した。しかし、1911年に、ウィリアム・タフト(William Taft)大統領によって、スチムソンは陸軍長官に任命されて、1913年まで務めた。1927年から1929年までは、フィリピン総督を務め、1929年から1933年までは、ハーバート・フーバー(Herbert Hoover)大統領の下で国務長官も務めている。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官とアメリカ国務大臣ジェームズ・バーンズ(前列右端):フロイド・パークス中将は、 イェール大学、 米国陸軍戦略大学で学び、9月からはベルリン地区の軍政長官に就任する。
Description: Secretary of War Henry L. Stimson (foreground, left) talks with Secretary of State James F. Byrnes (right), upon their arrival at Gatow airport, Berlin, Germany, to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945
Date: July 15, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Stimson, Henry Lewis, 1867-1950
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-1引用。


 1931年9月18日、中国奉天郊外で南満洲鉄道爆破という柳条湖事件が起こり、日本の関東軍は、それを契機に、中国の東北三省を占領する。これが、満洲事変(九一八事変)である。日本は、満州を自国勢力圏として、排他的に取り込もうとした。これに対して、1932年1月7日、アメリカの国務長官ヘンリー・スティムソンHenry Stimson)は、日本の満洲占領を中国の領土侵犯と見なし、パリ不戦条約違反となる領土変更を認めないとの勧告を行った。これが、スティムソン・ドクトリンStimson Doctrine)で、アメリカは、中国における条約上の権利侵害を認めず、中国の門戸開放政策・機会均等の方針を順守すべきであると主張した。1933年1月30日にドイツ首相にアドルフ・ヒトラーが就任したが、フーバー大統領の退任、ルーズベルト新大統領の就任により、スチムソンは1933年3月4日に国務長官の座を失った。第二次大戦が始まりアメリカが中立を維持していたが、ルーズベルト大統領は戦争準備を強力に進めるために、1940年7月、スティムソンに陸軍長官に復帰するよう要請した。ヘンリー・スティムソンHenry Stimson)は、1945年9月の日本降伏による第二次大戦の勝利の時まで、陸軍長官の地位を全うした。

写真(右):1945年7月15日,ドイツ、ベルリン飛行場、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」:ポツダム会談に参加するアメリカ首脳陣は、ダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)に乗り、イギリス首脳陣も、アメリカが貸与したダグラスC-54に乗ってベルリンに到着した。1951年になり、戦後の日本も航空輸送への参入が認められ、日本航空株式会社が設立された。日本航空が定期航路に投入したのは、6機のアメリカ機だけだったが、そのうちの1機はダグラスDC-4輸送機だった。このDC-4輸送機の固有名称は、「てんおう星」で、1951年年11月から、東京 - 札幌(千歳空港)路線に就航した。
Description: C-54 transport planes line up after their arrival at Gatow Airport in Berlin, Germany. These planes brought President Harry S. Truman and other dignitaries to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-14引用。


ダグラスC-54スカイマスター輸送機Douglas C-54 Skymaster:DC-4)諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
プラット&ホイットニー空冷星形エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載
座席数:50名

ダグラスC-54スカイマスター輸送機は、1942年から1947年までに1200機生産された。アメリカ海軍仕様C-54(DC-4)は、R5Dと呼ばれた。

アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーDouglas MacArthur)元帥の専用機もC-54 輸送機で、1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立った。マッカーサー専用機は、「バターン」で、これは太平洋戦争緒戦、1942年、フィリピンのバターン半島での戦いを記念しての固有名称である。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、出迎えたアメリカ陸軍第二機甲師団を閲兵する。大統領のジープには、後方を警戒する護衛隊員がいる。この後、大統領は、国務長官ジェームズ・バーンズとともにポツダムに向かった。遠方に1942年に開発され1947年までに1200機生産されたアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」が3機ある。
ダグラスC-54
Description: President Harry S. Truman stands at attention during the playing of the National Anthem as the honor guard from the 2nd Armored Division presents arms, after his arrival at Gatow Airport in Berlin. He is on the way to the Potsdam Conference. Secretary of State James Byrnes is at the President's left. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-04引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンは、国務長官ジェームズ・バーンズとともにポツダムに向かった。トルーマンの周囲には、ヨーロッパ遠征の終了後、ベルギーにいたアメリカ軍首脳。後方は、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」。
Description: A crowd gathers around a caravan of automobiles carrying the presidential party as it leaves an airport in the Potsdam, Germany area. The planes in the background brought President Harry S. Truman and members of his advisory staff from Belgium to Potsdam for the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-49引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。 Description: Front of Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Left in the photo is the section used as the British quarters. The long windows in the center are those of the Conference Room, and on the right are the quarters of the American delegation and President Truman. In the center, just to the right of the Conference Room, are the windows of the offices of Soviet leader Josef Stalin. From Potsdam album, 1945. Date: July 13, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-13引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿(ポツダム宮殿)の正面:1917年にドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世の皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設された。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
The Schloss Cecilienhof, Potsdam, Germany, site of the Potsdam Conference. Soviet officers are on guard at the entrance. Schloss Cecilienhof was formerly the palace of the wife of Wilhelm II, Crown Prince of Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 13, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-18引用。


アメリカ、イギリス、ソ連の首脳(ビッグスリー)が一堂に会した初めての会談は、1943年11月28日から12月1日にかけてイランの首都テヘランで開かれたテヘラン会談である。その時の議題は、ヨーロッパ大陸でドイツと地上戦を戦っているソ連に対する支援として、ヨーロッパ大陸に第二戦線として西部戦線を開く時期についてであり、これは西側連合軍の上陸作戦が求められた。

写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿、イギリス代表団の宿舎に割り当てられた一角:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
The members of the British delegation occupy this section of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany.
Date: July 13, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Historic buildings; Palaces; Potsdam Conference, 1945 HST Keywords: Cecilienhof Palace; Potsdam - Conference area; Truman - Potsdam - Conference area
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-64引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。:ツェツィーリエンホーフ宮殿は、第一次大戦中の1917年、当時のドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために、皇帝ヴィルヘルム2世が建設した。宮殿の名前は、皇太子妃ツェツィーリエに因んでいる。しかし、第一次世界大戦末期、戦局悪化の名で、1918年、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命・退位した。1945年、ソ連軍に占領され、ここでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳ビッグスリー一堂に会したポツダムPotsdam)会談が開かれた。宮殿の様式は、イギリスの別荘のようなスタイルで、豪華絢爛ではかく、落ち着いたただ住まいである。
General scene showing activity in front of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945.
Date: July 18, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Soldiers
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-15引用。


写真(右):1945年7月、ドイツ、ベルリン郊外、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿
Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: View into the courtyard of Cecilienhof Palace, where the Potsdam Big Three meetings were held. Photographed during the conference from inside the palace entranceway. The large red floral star in the courtyard had been planted by the Soviets. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives. Catalog #: 80-G-K-14537
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14537 (Color) Potsdam Conference, July-August 1945引用。


 1945年7月、アメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリンという米英ソのビッグスリーがツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhoff)に勢揃いし、ポツダムPotsdam)会談が始まったが、この時はすでにドイツ総統アドルフ・ヒトラーは自殺し、ドイツは降伏していた。ドイツに勝利した連合軍は、ポーランドの国境画定、ドイツの占領統治などヨーロッパの戦後処理を話し合ったが、対日戦についてもソ連の参戦が話題になった。

ポツダム会談の場所は、ドイツ第三帝国降伏後のベルリン郊外ポツダムである。ここには、ドイツ第二帝国皇帝ヴィリヘルム2世が1917年に建設させたツェツィーリエンホーフ宮殿Cecilienhof)がある。この宮殿がポツダム宮殿とも呼ばれたが、本来は、皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのためのものである。

写真(右):1945年7月、ドイツ、ベルリン郊外、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿:手前には、ソ連軍の設けた共産党の「赤い星」がデザインされた庭がある。ベルリン攻防戦に勝利して、ベルリンを戦勝したのはソ連赤軍であり、ポツダム会談の場となったツェツィーリエンホーフもソ連分が整備したものだった。
Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: View into the courtyard of Cecilienhof Palace, where the Potsdam Big Three meetings were held. Photographed during the conference from inside the palace entranceway. The large red floral star in the courtyard had been planted by the Soviets. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives. Catalog #: 80-G-K-14538
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14538 (Color) Potsdam Conference, July-August 1945引用。


ベルリン郊外、湖と森に囲まれたポツダムは、広大な地域に、宮殿群と広大な庭園のある世界遺産の町である。第2次欧州大戦の戦後処理を話し合うポツダム会談が行なわれた、歴史的舞台ツェツィリエンホーフ宮殿、ドイツ・ロココ建築の最高傑作サンスーシー宮殿、広大なフランス式のサンスーシー庭園など、18世紀、19世紀のプロイセン王国の栄華を今に伝えている。これら宮殿や公園は、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。一部は、ホテルとして利用されているが、世界遺産の宮殿は、プロイセン王国時代に創建されたものである。「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)には、フリードリヒ大王の離宮となったサンスーシ宮殿、ポツダム会談の舞台となったツィーリエンホーフ宮殿などがある。全体で30カ所近くの遺跡が登録されており、その歴史的な価値は高く評価されている。

写真(右):1945年7月、ドイツ、ベルリン郊外、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面
Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: View into the courtyard of Cecilienhof Palace, where the Potsdam Big Three meetings were held. Photographed during the conference from inside the palace entranceway. The large red floral star in the courtyard had been planted by the Soviets. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives. Catalog #: 80-G-K-14537
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K- (Color) Potsdam Conference, July-August 1945引用。


第一次大戦に敗北したドイツ第二帝国は、大戦末期に、皇帝ヴィリヘルム2世が退位、亡命したため崩壊した。ヴェルサイユ条約で講和したドイツは、共和制となり、憲法制定の場所に因んでワイマール共和国と呼ばれた。そして、1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領によって首相に任命されたナチ党総統アドルフ・ヒトラーは、憲法をない崩しにして、全権委任法の下で独裁的権能を奮った。大統領の死後は、大統領首相の権限を併せ持つドイツの「総統」となった。これが、ドイツ第三帝国である。

 ドイツ第三帝国は、1939年9月に第二次大戦をポーランド侵攻で始めたが、1945年5月にアメリカ、イギリスなど西側連合軍に、次いでソ連など東側連合軍に降伏した。その首都ベルリン郊外のポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿Schloss Cecilienhoff)で、1945年7月、米英ソのビッグスリーが勢揃いしてポツダム会談が始まった。

写真(右):1945年7月、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿でアメリカ一行の本部となった「リトル・ホワイトハウス」前に駐車するイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)のリムジンカー:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設されたポツダム宮殿で、米英ソのビッグスリーが勢ぞろいしたが、チャーチルは会談中に総選挙で敗北、首相の座を労働党のアトリーに譲った。
Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: British Prime Minister Winston Churchill's automobile parked in front of the Little White House, where President Harry S. Truman lived during the conference. This house was located at Number 2, Kaiserstrasse, in Babelsberg, between Berlin and Potsdam. Photographed circa 16 July, when Churchill and Truman first met during the conference, and 25 July, when Churchill left Potsdam. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives. Catalog #: 80-G-K-14541
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14541 (Color) Potsdam Conference, July-August 1945引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談の時期、アメリカ側の宿舎を警備する第713憲兵大隊のチェックポストを通過するジープ(Jeep):ジープは、アメリカン・バンタム社が1940年から軽量2,000ポンド(1トン以下)級・簡易構造の整備しやすい四輪駆動車という軍の要求を受けて開発した。アメリカン・バンタム社は弱小メーカーだったために、ウィリス・オーバーランド社、フォード自動車もこのバンタム社の設計を活かして試作した。そして、軍からこの3社に各1,500台もの増加試作車が発注された。1941年には、武器貸与法によってイギリス軍やソ連軍に貸与されたジープが部隊配備され、実戦で使用されている。第二次世界大戦中にウィリス・オーバーランド社、フォード自動車を中心に65万台が量産されている。
Military Police of the 713 Military Police Battalion check vehicles and personnel at a road barrier in the American compound of the Potsdam conference area. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-48引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談でアメリカ軍司令部となった「リトル・ホワイトハウス」で電話機を操作するテストする女性陸軍部隊(WAC: Women's Army Corps)アルマ・ブラッドレー伍長:アルマ・ブラッドレー女史の袖階級章は、伍長(E4Corporal, CPL)、その下のT文字は特技兵で通信専門員を意味しているようだ。アメリカ陸軍の下士官の階級は、本部付最上級曹長(Sergeant Major of the Army)、部隊付上級曹長(Command Sergeant Major)、上級曹長(Sergeant Major)、一等曹長(First Sergeant)、曹長(Master Sergeant)、一等軍曹(Sergeant First Class)、二等曹長(Staff Sergeant)、軍曹(Sergeant)、伍長(Corporal)。
Description: Women's Army Corps Corporal Alma Bradley operates switchboard at the Little White House, President Truman's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 13, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Presidential residences; Women soldiers HST Keywords: Potsdam - General file; Truman - Potsdam - Conference area; White House - Little White House - Germany, Potsdam People Pictured: Bradley, Alma
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number:63-1455-59引用。


女性陸軍部隊(WAC: Women's Army Corps)は、それまでの従軍看護婦とは異なり、アメリカ陸軍の補助部隊として1942年5月に創設された。初代指揮官オヴィータ・カルプ・ホビーは、テキサス州の政治家夫人で法律家、ジャーナリスト。第2次世界大戦中に、女性陸軍部隊や女性陸軍補助部隊には合計15万名が任務に就いた。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談で使用する電話交換台の主任エディス・ロイヤー曹長:トルーマン大統領の司令部を担当する大半の電話交換手は女性だった。話交換台の主任(chief telephone operator)エディス・ロイヤーの袖階級章は、E6 スタッフ・サージャント(Staff Sergeant:SSG)で軍曹である。陸軍の階級は、二等兵、一等兵、上等兵、伍長、軍曹、曹長(下士官は一等、上等など細分化されている)、准尉、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、准将、少将、中将、大将、元帥と続く。
Description: Staff Sergeant Edith Royer, chief telephone operator of the switchboard at U. S. headquarters in Babelsburg, Germany during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945 People Pictured: Royer, Edith
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-78引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を監督するロレイン・ロバタイユ曹長
Description: Staff Sergeant Lorraine Robitaille, switchboard supervisor at the United States headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945 People Pictured: Robitaille, Lorraine
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-79引用。


電話をかけるために2つの電話機の間の通信回線をつなげるのが、電話交換の仕事である。個々の電話間を電話交換機と接続し、電話交換手の手で、一時的に相手の電話とと接続する。現在では、送信側が受話器を取り上げて電話番号を押すと自動的に相手の電話に回線がつながる自動交換方式・ダイアル通話が普及しているが、電話交換機の場所が限定されていること、電話交換機手が通信内容を把握できることなど秘密確保の上から、自ら専用の電話交換台を持つことが望ましい。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を調整するロバート・スコット曹長とグラディス・ベロン一等兵:グラディス・ベロン一女史の袖階級章には、E2 一等兵(プライベート:Private;PV2)がついているが、その上の袖章は、通信技術兵(スペシャリスト:Specialist)を表示していると思われる。使用している電話機は、 現在と同じように、電話の受話器と送話器が一体になっている。
Description: Private First Class Gladys Bellon and Sergeant Robert Scott test phone lines in the frame room of the switchboard at the U. S. headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Bellon, Gladys; Scott, Robert, U.S. Army sergeant
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-80引用。


受話器・送信器一体型の電話が使われるようになったのは、1930年代からで、それ以前は、壁掛電話機が多かった。壁掛電話機の送話器は、電話機本体にあり、手で持つのではなく、口を近づけて話をした。受話器は、本体からコードで延長され、手で耳元に近づけた。つまり、電話機本体とコードで繋がれた受話器のみを手に持って耳に当て、電話機本体の送話器に口を近づけて声を出した。日本で、手に持つ受話器・送信器は、現在でも「受話器」と呼ばれている。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム皆伝で使用する電話機をテストするイサベラ・ハーデカ一等兵:アメリカ陸軍の兵の階級は、上等兵(Private First Class:E-3)、一等兵(Private: E-2)、二等兵(Private:E-3)。第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談(Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、1945年イギリス総選挙1945 UK General Election )で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。
Description: Women's Army Corps Private First Class Isabella Hardacre handles the information phones at the headquarters switchboard at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945 People Pictured: Hardacre, Isabella
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-76引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、ツェツィーリエンホーフ宮殿を発つ直前のアメリカ大統領ハリー・トルーマンの乗用車と二輪車に乗ったアメリカ軍の警備兵
:Description: President Harry S. Truman (not visible) in his car preparing to leave the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-32引用。


1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman:4月12日就任),イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)((後日、新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談Potsdam Conference)前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験に成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出た。日本に対する降伏勧告から国体護持を認める可能性は、一切排除された。

写真(右):1945年7月17日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。
Description: Joseph Stalin, Harry S. Truman and Winston Churchill are photographed together for the first time just before the opening of the Big Three Conference at Potsdam. Same as 63-1455-26. From: Papers of Charles G. Ross; 12x18 Metal album with letters CGR.
Date: July 17, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 96-21引用。


スターリンは、1924年のレーニン死後、ソ連共産党書記長として、権力を集中して、一国社会主義を標榜しつつ、コミンテルンを通じて、世界各国に共産主義革命を起こそうとした。独ソ戦が勃発し、アメリカから武器貸与法によって軍事援助を受け入れ、国際協調が必要となると、国内向けの「書記長」の地位に加えて1941年5月6日にモロトフを下ろして自ら「首相」に就任、1953年に死亡するまで国家元首としての肩書を明確にした。

 1898年結成のロシア社会民主労働党は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂し、ボリシェヴィキが1918年にロシア共産党となった。ロシア崩壊後は、1925年に連邦共産党 (ボリシェヴィキ)を名乗ったが、スターリン時代の始まる1934年頃から「ソビエト連邦共産党」と呼ばれるようになった。 共産党の指導的地位にある中央執行委員会議長には、カリーニンが就き、1938年1月からは中央執行委員会議長は、最高会議幹部会議長と名称が変わった。しかし、党の最高指導者は、人民委員会議議長のレーニンで、事実上のソ連の首相の地位についていた。レーニン死後、首相にはルイコフが1930年12月まで就任し、後任は外交官(外務人員委員)として有名になるモロトフで、1941年5月6日まで首相の座にあった。

写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時事、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンの宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。左右に、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフとアメリカ国務大臣ジェームズバーンズが控えている。Description: President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes visit Premier Josef Stalin of the Soviet Union at Stalin's residence during the Potsdam Conference in Germany. On the balcony in the foreground are, left to right: Secretary of State Byrnes, President Truman, Premier Stalin, and Vyacheslav Molotov, Soviet foreign minister General Harry H. Vaughan is in the background, second from the left. Soveit Ambassador to the United States Andrei Gromyko is in the background, behind James Byrnes. All others are unidentified. From Potsdam album, 1945.
Date: July 18, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-50引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)と話し合うために集まった、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: President Harry S. Truman (left) and British Prime MInister Winston Churchill have an informal chat, before lunch, during the Potsdam Conference. The lunch took place at Mr. Churchill's residence at Potsdam. From Potsdam album, 1945
Date: July 18, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時期、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンの宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフと腕を組むアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ。中央奥は、アメリカ駐在ソ連大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko):From left to right: Soviet Prime Minister Josef Stalin; interpreter Charles Bohlen (mostly obscured by Stalin); V. N. Pavlov, Stalin's interpreter; Captain James Vardaman; President Harry S. Truman; Press Secretary Charles Ross (background, partly obscured); Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko; Secretary of State James Byrnes; and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. This photo was taken during Truman's visit to Stalin's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 18, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble),
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-53引用。


スターリンは、1924年1月、レーニンの死後、「党書記長」という目立たない名称の地位にあったが、1930年代に党幹部を粛正する中で、権力を集中させてゆき、事実上の最高指導者の地位を手に入れた。スターリンは、名目よりも実施を尊び、首相ではなく党書記長の名称で満足だった。しかし、第二次大戦が長期化し、ドイツ、イギリス、アメリカとの国際交渉を進め、世界のメディアに取り上げられるためには、党書記長のままでは、一国を代表する地位とは言えず、不都合だった。そこで、スターリンは、1941年5月6日にモロトフに次いで首相となった。そして、1953年3月5日に死亡するまで、スターリンは国内的には党書記長として、国際的には首相として、ソ連の最高指導者の地位を保ち続けた。

写真(右):1945年7月17日から8月2日,ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦駐アメリカ大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。
Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: Group photograph of the Big Three heads of government at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. Those present are (from left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861
写真はHarry S. Truman Library & Museumおよび Wikimedia Commons, Potsdam Conference Potsdam ConferencePotsdam conference 1945-4.jpg引用。


1945年7月23日,ドイツ降伏後のベルリン郊外でのポツダム会談Potsdam Conference)のために、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)が集まった。イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。このポツダム会談Potsdam Conference)の参加者は、1943年11月に開催されたテヘラン会談の時のビッグ・スリーと異なった。つまり、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンに、イギリス首相はポツダム会談Potsdam Conference)途中からウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに交代した。それ以前の主導会議から継続して参加したのは、ソ連のヨシフ・スターリンだけだった。

写真(右):1945年7月19日、ポツダム会談時の三首脳。左からアメリカ大統領ハリー・トルーマン、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, その右にイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)、イギリス首相クレメント・アトリー、ソ連元首ヨシフ・スターリン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)が表明された。 Description: Delegates seated for Potsdam Conference at the conference table at Cecilienhof Palace. President Harry S. Truman, left foreground (facing the American flag on the table), James F. Byrnes and Admiral William Leahy to his right; British Prime Minister Winston Churchill, upper left (facing the British flag on the table) with Clement Attlee two to the right of Mr. Churchill. Premier Josef Stalin (facing the Russian flag on the table, gesturing with his right arm) and Vyascheslav Molotov at right. Averell Harriman at extreme left. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はNaval History and Heritage Command Accession Number: 63-1456-42引用。


写真(右):1945年7月19日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフ(スターリン後方):スターリンが1941年5月に党書記長と首相を兼任したのは、差し迫った戦争という緊急事態に共産党の最高指導者が直接対応するとともに、イギリス首相チャーチル首相、アメリカ大統領ローズヴェルトと直接交渉するさいに、スターリンが共産党書記長という一政党の指導者という肩書きだけしか持っていないことが外交交渉を進める上で障害となっていたという事情もあった。
Description: Soviet leader Josef Stalin and Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov (in striped suit behind Stalin) standing near the conference table at Cecilienhof Palace during a pause in the Potsdam Conference, Potsdam, Germany. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945 People Pictured: Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-44引用。


ポツダム会談Potsdam Conference)の最中に行われた1945年7月イギリス総選挙UK general election)は、前回の1935年の総選挙以来、10年ぶりだった。第二次大戦で、対ドイツ戦に勝利したチャーチル首相の保守党は、国民から大きな支持を得ていたため、この総選挙でも保守党の優位が伝えられていた。しかし、1945年7月5日から19日のイギリス総選挙1945 UK General Election)の投票結果は、投票総数3324万391票、投票率72.8%で、労働党 1155万7,821票、投票率48.0%、保守党 871万6,211票、投票率 36.2%、 自由党 217万7,938票、投票率 9.0% という結果で、戦後復興、福祉充実を訴えた労働党が勝利を収めた。ここにイギリス史上初の労働党単独内閣が誕生した。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前(後ろ姿)クレメント・アトリー(Clement Attlee):第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談で、7月26日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ただし、中心的な話題は、ドイツ降伏後のヨーロッパの勢力圏の東西分割だった。:Delegates gathered around the conference table at the Potsdam Conference in Germany. Soviet Prime Minister Josef Stalin is on the left, seated opposite the Soviet flag on the table; Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is on Stalin's right. British Prime Minister Winston Churchill is seated on the right, opposite the the British flag on the table; Clement Attlee is seated two to the left of Churchill. President Harry S. Truman is near the center, opposite the United States flag, wearing a bow tie and gesturing with his hand. Secretary of State James Byrnes is on the left of Truman; Admiral William D. Leahy is to the left of Byrnes. Interpreter Charles Bohlen is to the right of Truman. Seated behind Bohlen is Captain James Vardaman. Averell Harriman is seated to the right of Vardaman (partly obscured). General Harry Vaughan is standing, fifth from the right. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-45引用。


1945年7月イギリス総選挙British General Election)の結果、議会ではイギリス首相に、労働党党首クレメント・アトリーが選出され、保守党チャーチルにかわって労働党クレメント・アトリー政権が樹立された。新首相にアトリーが就任したことで、元イギリス首相チャーチルは、1945年7月26日にポツダム会談から外れて、帰国することになった。かわって、当初からポツダム会談に出席していたアトリーが首相として正規のイギリス代表としてポツダム会議に参加した。会議では、ポーランド国境問題、ドイツの戦争賠償問題、ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー政体の問題が話し合われた。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたメモが、この写真の裏にある。:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。
Crowded Meeting Room at The Potsdam Conference Description: Prior to start of "Big Three" conference in an elaborate estate in the Potsdam area, U. S. Army Signal Corps and Russian Army photographers record the historic moment for the world to see. In top center can be seen the "Big Three", President Harry S. Truman, Josef Stalin, and Winston Churchi1l, all with backs to camera. Inscribed on back of photo: "This is the place I told Stalin about the Atom bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST"
Date: July 17, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Atomic bomb; Potsdam Conference, 1945; Presidents; Prime ministers; United States-Soviet relations; World War, 1939-1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769引用。


アメリカは、原子爆弾の完成が確実なものとなるまで、スターリンとの会談を先延ばしにしようと画策した。そして、ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTRINITY TEST)が成功した。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTHE TRINITY TEST)が成功した。
Description: On the back of the photo of President Harry S. Truman, Winston Churchill, and Joseph Stalin at the Potsdam Conference, Truman wrote the following: "This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST".
Date: July 17, 1945 ARC Keywords: Atomic bomb; Autographs; Potsdam Conference, 1945 HST Keywords: Atom Bomb - Reference To; Truman - Autograph - Actual Handwriting
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769a引用。


1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティTRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。ポツダム会談Potsdam Conference)は、アメリカがロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」をまって開催されのである。アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連首相ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)に、原爆実験成功を、次のようにさり気なく伝えた。

"This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about。HST”
この(ポツダムの)場で、私(トルーマン大統領)は、7月16日、ニューメキシコ州で爆発に成功した原子爆弾について、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、私が何について話したのか、理解できなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿(第一次大戦中ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために皇帝ヴィルヘルム2世が皇太子妃ツェツィーリエに因んで建設)、ソ連首相ヨシフ・スターリンがアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ大統領ハリー・トルーマンに話しかけている。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフも見えている。:英首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。トルーマンは、スターリンに原爆実験成功を伝えた。そのメモがこの写真の裏にある。写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTRINITY TEST)が成功した。
Stalin shaking hands with Byrnes at Potsdam Conference. Description: Delegates of the Potsdam Conference in Germany prepare to leave the conference room at Cecilienhof Palace, as photographers and newsreel cameramen gather on staircase. Soviet Prime Minister Josef Stalin talks to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman (back to camera). Vyacheslav Molotov, V. N. Pavlov are also present. British Prime Minister is standing behind Stalin, partly obscured. General Harry Vaughan is standing, third from the right. See also 62-769 and 62-769A for negatives. From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46引用。


写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴードAlamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティTHE TRINITY TEST)が成功した。
Truman's handwriting on the back of a Potsdam photograph describing telling Stalin about the atomic bomb. Description: Harry S. Truman's handwriting on the back of a photograph of the Potsdam Conference area, accession number 63-1456-46: "In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST". See also 62-769 and 769A for negatives." From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46A引用。


1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティTRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。このアメリカによるロスアラモスでの原子爆弾の爆発実験「トリニティ」の成功まで、アメリカはポツダム会談Potsdam Conference)の開催を引き延ばしていた。翌7月17日(この写真では19日となるがトルーマンはこの場所であって日付は17日)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連指導者ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)に、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと、次のように告げ、スターリン相手に優越感を楽しんだ。

"In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST”

この(ポツダム会場)の中で、私(トルーマン大統領)は、(7月17日)日本に対して最大級の爆発力を持つ爆弾を投下するだろうと、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、笑って私が隠さず言ってくれて感謝するといった------しかし彼は何について話したのか、それは原子爆弾なのだが、分からなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。

 しかし、ソ連首相ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は、ロスアラモスやイギリスにいたソ連のスパイから、アメリカ軍の原爆開発が完成まじかなことを知っていたし、原爆の破壊力についても聞いていた。実際、ソ連でも原爆も開発が徐々に進んでいたのである。ポツダム会談Potsdam Conference)の際に、原爆について、関心ないそぶりを見せたのは、ソ連が原爆を恐れる、アメリカの軍事力に対抗できないといった懸念を一切表に出さないためであろう。スターリンは、このトルーマンの言葉をポーカーフェイスで聞いたが、内心ではソ連も原子爆弾を早急に完成させなければならないと決意したであろう。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前クレメント・アトリー(Clement Attlee)、:7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)で、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: View of the conference room at the opening of the third day's session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Soviet leader Josef Stalin is at left, leaning back in his chair. Clement Attlee, center, has back turned to the camera. President Harry S. Truman is at top of table, wearing bow tie. British Prime Minister Winston Churchill is at lower right side of table, back to camera. Vyacheslav Molotov is seated to the right of Josef Stalin. Admiral William Leahy is seated two to the left of President Truman; Secretary of State James Byrnes is seated to the immediate left of President Truman. General Harry Vaughan is standing at the bottom of the stairs, second from the right. Averell Harriman is seated on the extreme right, partly obscured. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 19, 1945
写真は Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1455-34引用。


写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし握手している。右隣は国務長官ジェームズ・バーンズ、左端はアメリカ海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:President Harry S. Truman (wearing bow tie) greeting Soviet Prime Minister Josef Stalin at the start of the third day of the Potsdam Conference in Germany. They are in the conference room at Cecilienhof Palace. Also present are Admiral William Leahy (left) and Secretary of State James Byrnes (to the right of Truman). Others are unidentified. From Potsdam album, 1945.
Date: July 19, 1945 People Pictured: Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-29引用。


1945年7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)が表明された。ポツダム宣言では、対日参戦していないスターリンに代わって、1937年から日本と戦い続けている中国の蒋介石の名を加えて発せられている。

写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。1945年7月26日、原爆投下命令の出た翌日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ここでは、2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。---吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈することもある。Description: General view of the conference table at the Potsdam Conference. This photograph is autographed on the border by Admiral Leahy, Charles Bohlen, Joseph E. Davies, President Truman, and Winston Churchill. Photos 72-4673 and 67-7587 show Winston Churchill signing this photo. This is one of four original prints in existence, photographed in color by a United States Army Signal Corps photographer using a hand-held camera. The original autographed photograph, measuring 20x24, is in the Museum collection. Clockwise around the table, starting at President Truman, who is seated directly across from the American flag on the table: President Truman; Charles Bohlen; Joseph E. Davies; possibly Sir Alexander Cadogan; Anthony Eden; Winston Churchill; Major E. O. Lyne; Clement Attlee; Andre Vishinsky; Vyacheslav Molotov; Joseph Stalin; V. N. Pavlov; Nikolai Kuznetsov; Admiral William Leahy; James Byrnes. Andrei Gromyko is seated in the chairs behind the table, between Pavlov and Kuznetsov. Edwin Pauley is seated in the chairs behind the table, behind President Truman. Date: ca. July 1945
写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 80-133引用。

写真(右):1945年7月17日から8月2日,ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)は、次のようなものだった。
1)合衆国大統領、中華民国政府主席及グレート・ブリテン国総理大臣は、数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり。
2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。
3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。-----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈されることもある。
Description: Soviet Prime Minister Josef Stalin meets President Harry S. Truman for the first time at the Little White House during the Potsdam Conference. The Little White House is the residence of President Truman during the conference. Front row, from left to right: Vyacheslav Molotov, Soviet foreign minister; Secretary of State James Byrnes; President Harry S. Truman; and Prime Minister Josef Stalin. Back row, left to right: Charles Bohlen, assistant to Mr. Byrnes; Admiral William D. Leahy; and V. N. Pavlov, Russian interpreter. Standing at the top of the stairs are Major General Harry Vaughan (left) and Captain James Vardaman (second from the left of the pillar on the right). Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 17, 1945 People Pictured: Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-75引用。


写真(右):1945年7月17日から8月2日,ポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、イギリス総選挙で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-75引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Participants in the Potsdam Conference in Germany stand mingling in the conference room at Cecilienhof Palace. British Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin pose for cameramen at the top of photo. Anthony Eden and Vyacheslav Molotov far right. Clement Attlee, far left. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897- Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission
写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、オープニングセッションの最中のポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:Opening session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is seated foreground (back to camera). Soviet Prime Minister Josef Stalin is at right. British Prime Minister Winston Churchill is at left. Secretary of State James Byrnes is seated to the right of President Truman. Admiral William Leahy is seated two to the right of President Truman. British foreign minister Anthony Eden is to the left of Winston Churchill. Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is to the left of Prime Minister Stalin. From Potsdam album, 1945.
Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov,

写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-29引用。


写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill):Description: British Prime Minister Winston Churchill (left), President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin on the steps of Mr. Churchill's house during the Potsdam Conference in Germany. Mr. Churchill has just given a dinner for Mr. Truman and Mr. Stalin. Others in photo are unidentified. From Potsdam Album, 1945
Date: July 23, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-58引用。


写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルと娘マリー(Mary:15 September 1922 - 31 May 2014):チャーチル夫妻には、長女ダイアナ、長男ランドルフ、次女サラ、三女マリーゴールド、四女メアリーと五人の子供がいる。メアリーは、1941年から、ロンドンの対空部隊に所属し、本土防衛の任に当たった。その後、ベルギー、ドイツでも任務に就いた。父に同行した時は、ポツダムでアメリカ大統領トルーマン、ソ連首相スターリンとも会っている。夫は、保守党の政治家クリストファー・ ソームズ(Christopher Soames)で彼は最後の南ローデシア総督(Governor of Southern Rhodesia)となった。2014年91歳で死亡。
British Prime Minister Winston Churchill and his daughter, Mary, walk in the garden of their residence during the Potsdam Conference in Germany past a Guard of Honor formed by a detachment of Scots Guards. From Potsdam album, 1945. Date: July 23, 1945 People Pictured: Soames, Mary.; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-31引用。


1945年7月25日、陸軍参謀総長代理トーマス・ハンディThomas T. Handy)大将発・宛合衆国陸軍戦略航空団司令カール・スパーツCarl "Tooey" Spaatz)大将への原爆投下の命令書ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB(スパーツ大将は、太平洋戦略航空軍の指揮官として、7月にグアムの本部に赴任中。)

1.第20航空軍第509混成部隊は1945年8月3日以降、広島・小倉・新潟・長崎のいずれかに原爆を投下すること。原爆効果確認のため、(レーダー爆撃ではなく)必ず目視爆撃をし、観測用航空機を随伴させること。
⇒筆者注:現地指揮官に、原爆の実戦効果を明確に記録することを指示したのは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説を裏付ける。

2.追加爆弾は準備完了後すみやかに上記目標に投下。
⇒筆者注:現地指揮官の判断で随時、原爆の連続投下が可能。米大統領や統合参謀本部は、米軍の威力を見せつける原爆連続使用を望んだ。このことは、原爆投下が、米世界覇権説、米陸軍世界最強立証説、戦略爆撃延長説を裏付ける。

3.原爆使用について、情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
⇒筆者注:秘密兵器の原爆について、情報管理を行い、原爆投下方法も含め,原爆技術を秘匿し、他国への漏洩を防いだ。これは、原爆投下の理由として、米新兵器実験説、対ソ封じ込め説を裏付ける。原爆投下の可否ではなく、原爆の技術に注目している点で、戦略爆撃延長説をも支持する。 1945年7月25日、原爆投下命令書;ORDER TO DROP THE ATOMIC BOMB Handy to Spaatz, National Archives (July 25, 1945)

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.

2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.

3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.

4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.

(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( Truman and the Bomb, a Documentary History引用。)

写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。 Description: Left to right: Prime Minister Winston Churchill of Great Britain, President Harry S. Truman, and Generalissimo Joseph Stalin of Russia, sitting in the garden at Potsdam in front of a barrage of cameras. Fourth from the left of those standing is General Harry Vaughan, Military Aide to Truman. From: Kirke B. Lawton, Major General, United States Army. Date: ca. July 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は、 Naval History and Heritage Command Accession Number: 2006-341引用。

写真(右):1945年7月25日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したドイツをモスクワに踏みとどまって防いだスターリンは、アメリカ、イギリスの軍事援助を受けた。しかし、ドイツ軍の東部戦線で主力相手に戦ったことで、1943年のカイロ会談では、スターリンはイギリス・アメリカに第2戦線(西部戦線)の開設を要求した。他方、英米は、それをかわすためにスターリンに対日参戦を要求した。スターリンは、国際連合の設立に合意したが、ドイツ降伏後のヨーロッパでは、ポーランド、チェコ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど占領地を共産化し、勢力圏に取り込んだ。
From left to right: Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Marshall Joseph Stalin at a meeting of the Allies at Potsdam.
Date: July 25, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-716引用。


ポツダム宣言Potsdam Declaration)を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman:61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Leonard Spencer-Churchill)も、総選挙で一時帰国している最中,選挙で敗北。7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加していない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長ウィリアム・ダニエル・レーヒWilliam Daniel Leahy)提督や陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Lewis Stimson)は,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えていた。


写真(右):1945年7月26日、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、ドイル・ヒッキー(Doyle O. Hickey)中将
:Description: President Harry S. Truman (left), accompanied by General Dwight D. Eisenhower (center), chats with Brigadier General Doyle O. Hickey, before reviewing troops at Neuisenburg, Germany. President Truman is in Germany to attend the Potsdam Conference. General Hickey is the Commanding General of the Third Armored Division, Seventh Army. From Potsdam album, 1945
Date: July 26, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Armed forces officers; Potsdam Conference, 1945; Presidents HST Keywords: Germany - Cities and towns - Neuisenberg; Potsdam - Military reviews; Truman - Potsdam - Military reviews People Pictured: Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Hickey, Doyle O. (Doyle Overton), 1891-1961; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-79引用。


写真(右):1945年7月-8月、ポツダム会談に向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、オマール・ネルソン・ブラッドレー(Omar Nelson Bradley:1893-1981)中将:President Truman is shown in an open car with General Dwight Eisenhower (center) and General Omar Bradley on their way to a Potsdam conference. From: Frank Gatteri, U.S. Army Photographer. Date: ca. 1945 Related Collection: ARC Keywords: Armed forces officers; Automobiles; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents HST Keywords: Automobile - Truman in; Potsdam - General File; Truman - Dignitaries - Military - Bradley, Omar; Truman - Dignitaries - Military - Eisenhower, Dwight D.; Truman - Potsdam - Berlin People Pictured: Bradley, Omar Nelson, 1893-1981; Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Accession Number: 2000-3引用。


ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月18日、グルジア生まれ、1953年3月5日没)ソビエト連邦は,1938年の満ソ国境での張鼓峰事件,1939年のモンゴル・満州国境のノモンハン事件に際しては,T-26軽戦車が投入され,日本軍を攻撃した。他方、スターリンの承諾の下、1939年8月23日、ドイツと独ソ不可侵条約秘密議定書が締結した。この独ソ不可侵条約(THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT)は, ?相互に相手の領土の不可侵, ?一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない ?相互間の紛争の平和的解決 を骨子とした,期限10年の条約である。 1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していたイギリス,アメリカは即座にソ連支援を公言した。1939年には日ソ中立条約を締結したが、1945年には延長せずと破棄通告(日ソ中立条約は半年は有効)。ヤルタ会談では、スターリンはドイツ敗北2-3カ月後に対日参戦することをルーズベルト大統領、チャーチル首相に約束した。ドイツ降伏3か月後の1945年8月9日、アメリカが長崎に原爆を投下した昼、スターリンは、ヤルタ密約と符合するように、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告をしたが、その理由は、日本がポツダム宣言を拒否して世界平和を乱しているということだった。


ポツダム宣言Potsdam Declaration)は,アメリカ大統領ハリー・S・トルーマン,イギリス首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した(とされた),日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル。

2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。

5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)。

写真(右):1945年7月28日、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相クレメント・アトリー、ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督らが参加した。
Description: Josef Stalin, and President Harry S. Truman, and Prime Minister Clement Attlee assemble in the conference room for photographers (they are at right side of photograph, Stalin in White jacket). Delegates, photographers, and observers are gathered around the conference table at Potsdam. From the album, number 2: "President Truman's Trip to Potsdam."
Date: July 28, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。


写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日、中央の白軍服がソ連首相スターリン、右にアメリカ駐在ソ連大使グロムイコ、スターリンが話しているのはソ連外相モロトフ、右端アメリカ大統領ハリー・トルーマン、その右に国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ海軍参謀総長レーヒ提督、左端下がイギリス新首相アトリー、その右にイギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin:1881-1951):Description: Last meeting of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is on the right, opposite the United States flag on the table. Seated to the right of President Truman are Secretary of Stats James Byrnes, Admiral William Leahy, and and Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko. Soviet Prime Minister Josef Stalin is at the top, in the white uniform. Seated on the left of Stalin is Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. British Prime Minister Clement Attlee is seated in the left corner, opposite the British flag on the table. British Foreign Minister Ernest Bevin is seated on the right of Attlee. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945.
Date: August 1, 1945 People Pictured: Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S.,
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。


写真(右):1945年7月17日から8月2日,ポツダム会談時の三首脳。左から、イギリス首相クレメント・アトリー、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連元首ヨシフ・スターリン:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談Potsdam Conference)には、それまでのビッグ・スリーと異なり、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンに、イギリス首相は会談途中からウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに交代した。それ以前の主導会議から継続して参加したのは、ソ連のヨシフ・スターリンだけだった。 Photograph Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: The Big Three pose with their principal advisors, at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. The three heads of government are (seated, left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Standing behind them are (left ot right): Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff; British Foreign Minister Ernest Bevin; U.S. Secretary of State James F. Byrnes; Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives.
Catalog #: USA C-1860 "Big Three" & Foreign Ministers at Potsdam, ca. July 1945。
写真は Naval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861 引用。


表 第二次大戦中の主な連合国首脳会議

名 称
(コードネーム)
期 日 参加首脳 内 容
大西洋会談
Atlantic Conference

アルゼンチアNewfoundland Argentia
1941/8/9-12 Winston Churchill, Franklin Roosevelt 大西洋憲章 Atlantic Charter
アルカディア会談
Arcadia Conference

ワシントン

1941/12/22-42/1/14

チャーチル,ルーズベルト 欧州戦線優先Europe first, 連合国共同宣言
カサブランカ会談
Casablanca Conference

(SYMBOL & ANFA)
1943/1/14-24 チャーチル,ルーズベルト, ドゴール, ジロードGiraud イタリア侵攻計画, 1944年の大陸侵攻計画, 枢軸国の無条件降伏unconditional surrender要求,ロンドン亡命仏政府とアルジェリア仏政府の統合
ケベック会談
Quebec Conference

(QUADRANT)
1943/8/17-24 チャーチル,ルーズベルト, カナダ首相Mackenzie King 大陸侵攻上陸日 D-Dayを1944年と決定。 東南アジア司令部設置,ケベック秘密協定:核兵器情報の秘匿
カイロ会談
Cairo Conference

(SEXTANT)
1943/11/23-26 チャーチル,ルーズベルト,蒋介石 戦後アジアに関するカイロ宣言Cairo Declaration
テヘラン会談
Tehran Conference
(EUREKA)
1943/11/28-12/1 チャーチル,ルーズベルト,スターリンJoseph Stalin 米英ソ3巨頭初会談, ドイツに対する最終戦略と大陸侵攻Operation Overlordの日程決定
ブレトンウッズ会談
Bretton Woods conference
1944/1/1-15 44カ国代表 国際通貨基金IMF,世界銀行 IBRDの創設合意
ダンバートンオーク会談Dumbarton Oaks Conference 1944/8/21-29 39カ国代表, 米国務長官Edward Stettinius, 英外務次官Alexander Cadogan, ソ連駐米大使グロムイコAndrei Gromyko 国連United Nations創設の合意
ヤルタ会談
Yalta Conference
(ARGONAUT & MAGNETO)
1945/2/4-11 チャーチル,ルーズベルト,スターリン ドイツ敗戦後の計画,戦後欧州計画,国連総会準備,ソ連の対日戦の条件
サンフランシスコ国連会議 UN Conference on International Organization 1945/4/25-6/26 50カ国代表 国連憲章 United Nations Charter
ポツダム会談
Potsdam Conference
(TERMINAL)
1945/7/17-8/2 チャーチル, スターリン, 米大統領トルーマンHarry S. Truman,英新首相アトリーClement Attlee1945/7/27就任 ポツダム宣言 (日本への無条件降伏勧告),戦後ドイツ占領に関するポツダム合意 Potsdam Agreement
出所)Wikipedia/ http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_conferencesよリ作成。

写真(右):1945年7月28日-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後列は、アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ( James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)。 海軍参謀長レーヒ提督は、日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。国務長官バーンズは、対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩。ソ連外相モロトフは、独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結で枢軸国とも同盟的な関係を結んだ人物。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference.
Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-
写真は Naval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1860 引用。

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
Description: Leaders of the Big Three Allied nations pose for photographers at the Potsdam Conference. Front row, seated in wicker chairs, left to right: Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, General Joseph Stalin. Back row, left to right: Admiral William Leahy, Ernest Bevin, Secretary of State James F. Byrnes, and Vyacheslav Molotov.
Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 64-398引用。


写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督
The "Big Three" and their foreign ministers gather in the garden of Cecilienhof Palace during the last day of the Potsdam Conference. Seated, left to right: British Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin. Standing, left to right: Admiral William Leahy, British Foreign Minister Ernest Bevin, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. From Potsdam album, 1945.
Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bevin, Ernest, 1881-1951
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。


労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。

写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、飛行機でイギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ:周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー。President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes stand with members of the Women's Auxiliary Air Force (WAAF) at Harrowbeer Airport in Plymouth, England. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2."
Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Bartlett, Audley; Buckland-Jones, Eira; Turner, Clarice
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」に乗って、イギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ。周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー:C-54輸送機でイギリスに到着後、アメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」に乗艦して、8月7日、アメリカに帰国。Description: President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes with three members of the Women's Auxiliary Air Force at Harrowbeer Field near Plymouth, England, where the President's airplane landed enroute to the ship USS Augusta. President Truman has just completed attending the Potsdam Conference in Germany. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album, number 2: "President Truman's Trip to Potsdam."
Date: August 2, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Cabinet officers; Potsdam Conference, 1945; Presidents; Women soldiers
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1453-31引用。


3. 1945年7月26日、ポツダム宣言以降、日本は終戦工作、和平交渉を本気で進めようと考える。特に原子爆弾の投下、ソビエト連邦の対日参戦によって、決定的な兵力の格差を認識し、世界で孤立した日本が、このまま戦争を戦い続ければ、日本国民は日本の政治指導者から離反し、革命が起き、国体は崩壊すると危惧された。こうして、国体護持を唯一の希望に、大元帥昭和天皇は終戦(降伏)の聖断を下す。

30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はチャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。
会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。
大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,米国主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。
戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)の文言よりも、米国が暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,米軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。

主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとしてポツダム宣言Potsdam Declaration)で日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。米国は,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将は、原爆の破壊力が大きいのであれば,使用するのが当然であると考えていた。
戦後,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領,ヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半の米国の戦略において,味方の死傷者推計数は,本土上陸作戦には問題とはなっていなかった。

写真(右):1945年8月、イギリス、プリマス港、ポツダムを発ったアメリカ大統領ハリー・トルーマンを出迎え、アメリカに帰国するアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)諸元
排水水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
最高速力: 32.7 ノット
乗員: 735名
兵装: 55口径8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)Mark 9 、砲弾重量98 kg、仰角41度で射程29,100m、俯角10度、発射速度3発/分
対空用25口径5インチ(12.7センチ)高角砲8門(当初4門)、砲弾重量24kg、仰角85度で高度8,350m、仰角45度で射程13,250m
ボフォース40ミリ四連装機関砲6基24門(改装後)
エリコン20ミリ機銃28丁(当初7.62mm機銃8丁)
21インチ魚雷発射管6門
View of the USS Augusta at sea as the ship returns to the United States after the Potsdam Conference. Date: ca. August 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Ships HST Keywords: Ships - U.S.S. Augusta People Pictured: Rights: As far as the Library is aware,
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-52引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、イギリス、ポーツマス港でアメリカ大統領ハリー・トルーマンを出迎え、アメリカに帰国するアメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」:新造時の排水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
最高速力: 32.7 ノット
乗員: 735名
兵装: 8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
7.62mm機銃8基
21インチ魚雷発射管6門
President Harry S. Truman returns to the USS Augusta, anchored at Plymouth, England, which will return him to the United States from the Potsdam Conference. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2."
Date: August 2, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-31引用。


写真(右):1945年8月2日、イギリス、ポーツマス港、ポツダム会談が終了し、アメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」に乗り込むアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務大臣ジェームズ・バーンズ:軽巡オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。
Description: President Harry S. Tuman (center, left) and James F. Byrnes (center, right)are saluted by Navy officers and crewmen aboard the USS Augusta. They are preparing to return to the United States from the Potsdam Conference.
Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-57引用。


写真(右):1945年8月2日,ポツダム会談の終了後、アメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」の艦上でアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、行幸してきたイギリス国王ジョージ6世を出迎える。
President Harry S. Truman (left) and King George VI (center, left) shake hands after the King's arrival on the USS Augusta. King George VI visited President Truman on board the Augusta before it returned to the United States after the Potsdam Conference. All other sailors and naval officers are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2. Date: August 2, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-31引用。


イギリス第8代国王ジョージ6世George VI:1895-1952)は、元ヨーク公だったが、兄のエドワード8世Edward VIII)が退位したため、兄のウェールズ公エドワードは、国王ジョージ5世の長男として、1936年1月20日に41歳でエドワード8世Edward VIII:1894-1972)として即位した。しかし、離婚経験のあるアメリカ人ウォリス・シンプソンWallis Simpson)夫人(1896-1986)と結婚しようとし、威厳を失ったとして、1936年12月11日に退位させられ、直ぐに国外に退去してしまう。退位後、エドワードはウィンザー公となり、ウィンザー公夫人ウォリス(ウォリス・シンプソンWallis Simpson)とともに、ドイツを訪問し、アドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッペルスらと信仰を持ったため、第二次大戦が始まると帰国を命じられ、1940年にはカリブ地域のバハマ総督を任じられ、ヨーロッパから追放されてしまう。

写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、イギリス南部プリマス港でアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)艦上でアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、行幸してきたイギリス国王アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ(Albert Frederick Arthur George)6世を出迎える。:ジョージ6世(1895年12月14日生)は、イギリスと海外自治領(Dominion)の元首。兄エドワードは、エドワード8世としてイギリス国王に即位したが、離婚歴のあるアメリカ人ウォリス・シンプソンとの結婚を選択し、退位したため、弟のジョージがジョージ6世としてイギリス国王に即位した。1952年2月6日崩御、長女エリザベスがイギリス女王となった。
President Harry S. Truman (foreground, left) is welcoming King George VI of England on board the USS Augusta. He visited President Harry S. Truman on the Augusta as President Truman prepared to return to the United States after the Potsdam Conference. On the left is the background is Captain James K. Vardaman. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2.
Date: August 2, 1945 People Pictured: George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-32引用。


1936年に即位したジョージ6世George VI)は、先々代の国王ジョージ5世の次男、先代の弟で、次代女王エリザベス2世の父である。ジョージ6世は子供時代、アルバートと呼ばれていたときは、病弱体調も悪く、吃音のために、人前で話すことを避けるようになった。しかし、兄がいたため、王位継承は期待されておらず、家庭生活を重んじた。1926年、長女エリザベス、1930年、次女マーガレットが生まれている。しかし、1936年兄の退位により、急遽、ジョージ6世George VI)として即位することになった。

写真(右):1945年8月2日、イギリス、プリマス港、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)の艦上でアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズが行幸してきたイギリス国王ジョージ6世と握手する。中央は、トルーマン大統領。
Secretary of State James F. Byrnes (left) and King George VI (right) shake hands during the King's visit aboard the USS Augusta. Also present are President Harry S. Truman (background, center) and Captain James Foskett (second from right, slightly behind Truman). All others are unidentified. King George VI visited the Augusta before it left to return to the United States from the Potsdam Conference.
Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1382-66引用。


1937年5月、アルバートがジョージ6世George VI)として戴冠したが、この戴冠式は、元来、エドワード8世Edward VIII)の戴冠式として準備されていた。新国王と王妃は、カナダ、次いでアメリカを訪問し、イギリスへの支援を引き出す皇室外交を成功させた。1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻を受けて、9月3日にボーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス、次いでフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が始まった。この同日、ジョージ6世は、カナダ、オーストラリア、南アフリカ連邦などドミニオンも含む大英帝国の全域を念頭に、士気を高揚し国民を鼓舞する演説をおこなった。これが「英国王のスピーチKing's Speech)」で、ラジオでも世界に向けて放送された。ジョージ6世は、吃音が心配されていたが、見事に克服して、原稿を読みこなした。そして、宮殿のバルコニーに出て、待ち構える大衆を前に、エリザベス妃、エリザベス王女、マーガレット王女とともに手を振って応えた。

写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、アメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」の艦上でアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズとアメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督が、行幸してきたイギリス国王ジョージ6世を出迎える:Secretary of State James F. Byrnes (foreground, second from left) and King George VI (center, right) shake hands during the King visit aboard the USS Augusta. Also present are Admiral William D. Leahy (left), President Harry S. Truman (foreground, third from left, mostly obscured by King George VI), Captain James Foskett (right), and Captain James K. Vardaman (just behind Captain Foskett). All others are unidentified. King George VI visited the Augusta before it left to return to the United States from the Potsdam Conference.
Date: August 2, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Kings and rulers; Naval officers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships HST Keywords: Truman - Ships - U.S.S. Augusta [aboard]; Truman - Potsdam - King George VI People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1382-66引用。


第二次大戦緒戦、イギリス本土がドイツ空軍の空襲を受けた時期でも、ジョージ6世George VI)、エリザベス・バウズ・ライアン王妃、長女エリザベスは、ロンドンに踏みとどまり、国民の士気を維持した。さらに、ジョージ6世George VI)は、イギリス本国を離れて、外地の戦地をも行幸している。1939年12月、フランス、1943年6月、北アフリカとマルタ島、1944年6月、北フランスのノルマンディー、1944年7月、南イタリア、1944年10月オランダ、に行幸し、前線兵士を激励した。大元帥昭和天皇は、戦時中、日本本土を離れたことも、外国訪問をしたことも一度もない。

写真(右):1945年8月7日、ワシントンDC東、チェサピーク湾、ポツダム会談が終了し、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)でに帰国したアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:主砲の8インチ (20.3cm)55口径砲9門(三連装3基)を装備。
President Harry S. Truman and members of his party aboard the USS Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Front row, left to right: unidentified man; two unidentified military personnel; Captain James Vardaman; Press Secretary Charles Ross; Secretary of State James Byrnes; President Truman; Admiral William D. Leahy. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2.
Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-48引用。


8インチ (20.3cm)55口径砲9門(三連装3基)を搭載したアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)は、1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」とニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。

1945年7月、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)は、ドイツのポツダム会談に向かうトルーマン大統領らを乗せて、ベルギーに向けて出航、大西洋を横断して、7月14日にアントワープ港に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ東部、ワシントンDC東のチェサピーク湾に到着。

写真(右):1945年8月7日、ポツダム会談を終えて、アメリカ東岸、首都ワシントンD.C.東、チョサピーク湾に帰還したたアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)の主砲8インチ (20.3cm)55口径三連装砲塔の前のアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ヴァルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:1945年7月、重巡洋艦「オーガスタ」はポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥の乗艦として、アメリカからベルギー、アントワープに出航、7月14日に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマスでポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ、ニューポートに到着。
President Truman and members of his party aboard the U. S. S. Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Captain James Vardaman is sixth from the left; to his left is Press Secretary Charles Ross; to his left is Secretary of State James Byrnes; to his left is President Truman; and to his left is Adm. William Leahy. Others are unidentified. From the album, Number 2: "President Truman's Trip to Potsdam."
Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1453-49引用。


枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。

1945年8月7日、『戦藻録』によれば、宇垣纒長官は、別府海軍病院(現国立病院機構-別府医療センター )で歯科治療を受け、8月8日は「夕刻付近の川に雑魚釣りに行く」となる。
しかし、8月9日、別府海軍病院の院長室に電話があり、宇垣長官はソ連参戦の放送があったことを知らされ、直ちに帰隊した。「過般のポツダム声明には何の触るる處なかりしがスターリンの現実主義遂に敵たるに至れり。---帝国は之にて全世界を相手として戦うに至る。運命なる哉、今更泣き事[言]は云わず。敗れても悔いなき一戦に最後の御奉公を期するのみ。

写真(右):第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将;1890年(明治23年)2月15日−岡山県赤磐郡潟瀬村に誕生、 1909年(明治42年)3月、岡山県立第一中学校卒業、9月11日、海軍兵学校生徒(入校成績順位150名中第9位)、1912年(明治45年)7月17日−海軍兵学校卒業(40期:成績順位144名中第9位)、1913年(大正2年)12月 海軍少尉、1921年(大正11年)、海軍大学校甲種学生(大尉)、1928年(昭和3年)11月、ドイツ駐在海軍武官補(−30年)、1931年(昭和6年)12月、第二艦隊参謀、1932年(昭和7年)11月、海大教官(兼陸軍大学校教官:海軍中佐)、1935年(昭和10年)10月、連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)、1936年(昭和11年)12月、海防艦「八雲」艦長、1937年(昭和12年)12月、戦艦「日向」艦長、 1938年(昭和13年)11月、海軍少将、12月、軍令部第一部長、1941年(昭和16年)4月、第八戦隊司令官、8月、連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)、1942年(昭和17年)11月、海軍中将、1943年(昭和18年)4月18日、山本長官の僚機で被弾、1944年(昭和19年)2月、第一戦隊司令官 11月、軍令部出仕、1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官、 8月10日、第三航空艦隊司令長官に親補(着任せず)、8月15日、沖縄方面へ特攻戦死。これは終戦当日の,終戦を知らない部下を率いた「私兵特攻」ともいえる。

宇垣纒『戦藻録』1945年8月7日
「昨日6日0825頃B-29二、三機宛広島上空に侵入、落下傘付大型爆弾を投下(2-3個)地上50米位にて大閃光大爆発し瞬時にして家屋倒壊8割方焼失。死傷十数万に及びたり。本日7日午後桑港(サンフランシスコ)放送は17時間前広島市(陸軍基地)に対し有史未曽有の原子爆弾攻撃を実施せり。三万尺の密雲の為結果確認し得ざりしも同爆弾B-29の爆弾(グランドスラム)の2万倍、TNT2000頓に相当する効果を有する。7月16日ニューメキシコに於て実験の結果装置したる鉄塔は蒸発し250浬の地の硝子窓はガタガタ振ひ6浬の人間はたたき伏せられたりと。右に依れば豫て各国にて研究せられつつありしウラ二ウム原子の利用によるものなる事明瞭にして真に一驚異にして戦局の前途に一層の暗雲を加えるものなり。我方速に之が対策を講ずると共に同様爆弾の創始を望むものなり。」

8月15日、「昨今日を以て離別の印として各幕僚に1枚宛と考え揮毫中、度々総員退避を喰いたるも漸く完成するを得たり。
而して午後に及び最もいまわしきニュースを情報主任眼の色変えて持参せり。曰く
桑港[サンフランシスコ]放送-----日本は、裕仁を基儘とする条件の下にポツダム宣言に対して其の他無条件降伏を申し込めり。
時間若干後----戦略爆撃作戦司令部隊司令官(在マリアナ)は日本がポツダム宣言に対し回答する迄原子爆弾の使用を中止す。
嗚呼!何事ぞ火の無き處煙は立たざるべし。本早朝受信セルGB電令は結合作戦準備の如何を問はず敵の軌道兵力に対しては積極的攻勢を執り、又沖縄方面に向かっても攻撃を強化すべく下令あり。従来執り来れる決号に拘束せられたる覇制をかねて云うが如く已むなく脱却せるものにて一時式の昂揚を見たるが、前期ニュース受領御幕僚の日吉[連合艦隊司令部]に連絡せる處によれば敵の宣伝と思惟せる本件を朧気乍ら裏付ける如き言あり。斯る重大事項を何故に全責任を帯ぶる長官に一言とせざるや。小輩等に之を秘して半信半疑の前期放送は、余をして甚だしき驚愕を感じせしめたり。」(『戦藻録』引用終わり)

平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸は,宮中グループの日記や手記の次のような文書を紹介している。

岳父近衛文麿公爵秘書官細川護貞『細川日記』
1945年8月8日
「(水谷川)男は「去る六日、敵が広島に新型爆弾を投下し、一切の通信−内務省得意の無電も−途絶し居り、六里離れたる処の者が負傷したることが、漸く判明したのみである」と内務河原田氏の報告をもたらす。然もその時西部軍司令部は、殆ど全滅したらしいとのことで、[近衛文麿]公と二人、----是の為戦争は早期に終結するかも知れぬと語り合った。-----木戸[幸一]内府も一日の速かに終結すべきを述べ、御上も非常の御決心なる由を伝ふと。又、内府の話によれば、広島は人口四十七万人中、十二三万が死傷、大塚総監は一家死亡、西部軍司令部は畑元帥を除き全滅、午前八時B29一機にて一個を投下せりと。

1945年8月9日
「----[高松宮]殿下は電話に御出まし遊ばさるるや『ソ連が宣戦を布告したのを知っているか』と仰せあり、すぐ来る様にとの仰せであつたので、十時軍令部に到着、拝謁。余は『是又実に絶好の機会なるを以て、要すれば殿下御躬ら内閣の首班となられ、急速に英米と和を講ぜらるるの途あり。---」と言上、十一時半荻窪に[近衛文麿]公を訪ねたる所、---ソ連参戦のことを聞き(陸軍を抑へるには)「天佑であるかもしれん」とて、直に用意し、余も同乗して木戸内大臣を訪問す。---宮中にては最高六人会議---を終へた鈴木総理が内府の処に来り、今の会議にて決定せる意見を伝へて、ポツダム宣言に四箇条を附して受諾することに決したと語つた。

侍従入江相政『入江相政日記第一巻』
1945年8月9日
「この頃日ソ国交断絶、満ソ国境で交戦が始まった由、この頃容易な事では驚かなくなてつて来てゐるものの、これには驚いた。前途の光明も一時にけし飛んで了つた。御宸念如何ばかりであらう、拝するだけでも畏き極みである。---」 

1945年8月10日
「日ソ関係はモロトフが佐藤大使を呼んで国交断絶を通告して満ソ国境で発表してきたといふのだ。----結局は五、一五、二、二六以来の一連の動きが祖国の犠牲に於て終末に近づきつつあるといふ外ない。一億特攻を強ふるはよいが国民に果してそれだけの気力ありや、いかんともし得ずしてただ荏苒日を過ごしてゐるだけであらう。実に深憂に堪へない。---」

芦田均『芦田均日記』
1945年8月6日
2B29 dorroped over 広島 3 atomic bombs.

1945年8月8日
午後三時のニュースを聞くと「蘇満国境に於てロシアは攻撃を加へて来た。今朝の零時から」と放送した。愈日蘇開戦である!!----これで万事は清算だ。これ以上戦争がやれるとは思はない。平和問題ゼミナール:「1945.8.10−終戦が決まった日」鹿児島大学大学院 久保栄比幸引用。

本土決戦兵士:特攻専用機「剣」人間魚雷「海龍」:実現しなかった一億総特攻。

木戸幸一:学習院に入学し、京都帝大では近衛文麿、原田熊雄を学友とする。商工省をへて内大臣牧野伸顕の秘書官長となる。宗秩寮総裁をへて,1930年内大臣府秘書官長。1937年第1次近衛文麿内閣で文部大臣・厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940-1945年に内大臣を務める。

木戸幸一『木戸幸一日記』(「カマヤンの虚業日記」引用)
昭和二十年七月二十五日(水)晴
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、------真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず(引用終わり)。

原爆投下によって終戦の聖断が下ったという俗説は誤りである。原爆投下は、口実であり、本質は、国体を護持するためである。国体護持への危機感は、連敗続きの軍部への反感、国難を救済できない天皇への不満、共産主義国ソ連の対日参戦に由来する。民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の総力戦にあって、国民の離反が確実になる前に、終戦が決断された。日本の大多数の政治家・軍部は、核兵器と核戦略を認識していなかった。国民に被害状況のわからない原爆投下は、終戦決定=聖断に大きな影響力をもっていない。

敵の連合国,連敗続きの国軍(日本陸海軍),困窮に陥れられた国民は,いずれも天皇の権威を認めるとはかぎらない。日本軍の統制派とソ連,中国共産党とが共謀して,国民を煽動して,共産革命を引き起こすかもしれない。昭和天皇は、国体護持に関する巨大な不安に襲われた。国体護持への不安が、大元帥昭和天皇に,終戦の聖断を下させた。

1945年8月9日の御前会議:ポツダム宣言受諾の可否について,閣僚,軍指導者たちの意見が述べた。終了後,昭和天皇は木戸幸一に次のように語った。
本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。----(『木戸幸一日記』[御前会議 引用])。

1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,米国務長官ジェームズ・バーンズJames F. Byrnes)に降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)

写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal:陸軍傑出服役勲章)を授与する。隣の女性はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。しかし、後にバーンズ国務長官はトルーマン大統領から煙たがられ、マーシャル元帥が後任の国務長官となる。
President Harry S. Truman awarding Secretary of State James F. Byrnes the Distinguished Service Medal in the Rose Garden at the White House. From left to right are: General George Marshall, General Henry Arnold, President Truman, Secretary Byrnes, Mrs. Maude Byrnes, John Snyder, and General Harry Vaughan.
Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Byrnes, Maude, 1882-1976
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2028引用。


写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍功労賞の勲章を授与する。夫人はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。
Description: President Harry S. Truman awarding the Distinguished Service Medal to Secretary of State James Byrnes in the Rose Garden at the White House. From left to right: General George C. Marshall; General Henry "Hap" Arnold; the President; Secretary Byrnes; his wife, Maude Byrnes; John Snyder of the Office of War Mobilization and Reconversion; and General Harry Vaughan, the President's Military Aide. Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Byrnes, Maude, 1882-1976 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2027引用。


写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(右端)が国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍最高功労勲章(Distinguished Service Medal)を授与し握手する。バーンズの左にアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、右に陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。
From left to right: President Harry S. Truman, General George C. Marshall, Secretary of State James F. Byrnes, and General Henry "Hap" Arnold after President Truman awarded Byrnes a Distinguished Service Medal.
Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2026引用。


 1945年8月11日,米国務長官バーンズの返答
  米英ソ中を代表して,ポツダム宣言は,天皇統治権(国体)に関して言及していないが,天皇が全軍を降伏させるべきこと、天皇の軍隊が連合国最高司令官の下に置かれるべきこと、を要請し、暗に国体護持を認めた。
"The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration,-----

国体護持の可能性に期待して、昭和天皇は降伏の聖断を下したのである。ポツダム会談Potsdam Conference)に見られたように、戦後世界の再編成の動きの中で、日本の統治は、アメリカ次第であり、イギリスもソビエト連邦も、日本に対する影響力が弱いことを知っていた。そのために、天皇制の維持、国体護持は、アメリカの決断で選択された。

写真(右):1945年8月12日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言への問い合があり、日本降伏の期待からホワイトハウスに集まってきたアメリカ人:8月10日、アメリカに対して、日本政府からポツダム宣言受諾についての問い合わせがあった。このニュースが世界に伝えられると、対日戦争がすぐにも勝利で終わるのではとメディアもその確報に懸命となった
Description: A crowd of people outside the White House around 7:09 P.M., the time President Harry S. Truman was sworn into office. Date: April 12, 1945 Related Collection: ARC Keywords: Crowds; Presidential residences HST Keywords: Roosevelt, Franklin D. - Ref. To; White House - Exterior
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-1913引用。


1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆投下、同日、ソ連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき日本から、中立国スイスを通じた問い合わせがあり、8月12日に、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズが「日本の政体は日本国民の意思により決定される。統治権は、連合国軍最高司令官の制約下に置かれる」と回答した。このニュースが世界に伝えられると、対日戦争がすぐにも勝利で終わるのでと考えられた。

写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC、日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに押し寄せたアメリカ人: Description: Crowd pressing against the gates of the White House on the date of announcement of the Japanese surrender ending World War II. Date: August 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number:73-2024 引用。


1945年8月9日、長崎に原爆が投下された日に、ソビエト連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき国体護持の条件を照会、8月12日、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズより回答、「日本の政体は日本国民の意思による。統治権は、連合国軍最高司令官の下に置かれる」。8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達。このときが実際の日本の無条件降伏で、そのニュースが世界に伝えられた。8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に知らされたが、これは国際的には丸一日以上の遅れである。

写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに押し寄せたアメリカ人: Description: Scenes around the White House showing crowds and reporters receiving news of the surrender of Japan, ending World War II. Date: August 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2022引用。


ポツダム宣言を受諾したことで、日本の無条件降伏が決まった。これを国ではなく軍隊の降伏だ、国体護持の条件は認められたから条件付講和だというのは、屁理屈で本質を見失っている。当時の人々は、そんなことを考えなかったし、理屈屋が反論をしても負け惜しみだと嘲笑された。萬世一系昭和天皇の終戦の宣言は、建国神話以来初めての降伏、日本の敗戦であると考えられた。だからこそ昭和天皇も皇祖に申し訳ない、建国神話に汚点を残したと苦悩した。まさに日本そのものの降伏、敗北であると悲しんだのである。天皇の終戦の聖断に逆らう者は、反逆者と見なされ、実際、終戦を妨害しようとする試みは、反逆と同様に扱われた。なにより天皇への忠誠心あるいは罰せられる恐怖で、大半の軍人・政治家、そして国民は反論せず、日本の聖断にしたがった。日本の主権は、統治権者昭和天皇の降伏の申出によって、完全に敵の手にゆだねられた。一億総懺悔が唱えられた。大戦争における敗北の末路は悲惨である。戦争に負ける苦渋を日本国民は噛みしめ、耐えがたきを耐えた。

写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC、日本のポツダム宣言受諾、降伏を発表するアメリカ大統領ハリー・トルーマン、後方にはバーンズ国務長官、中央奥右の夫人は大統領夫人ブレス・トルーマン(First Lady Bess W. Truman):写真には、ハリー・トルーマンの署名がなされている。1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆投下、同日、ソ連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき国体護持の条件を照会、8月12日、アメリカ国務長官バーンズより回答、「日本の政体は日本国民の意思による。統治権は、連合国軍最高司令官の下に置かれる」。8月14日(アメリカでは8月13日)午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達。このときが実際の日本の無条件降伏で、そのニュースが世界に伝えられた。8月15日(アメリカでは8月14日)正午になって、ラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に知らされた。この日本国民への終戦の通告は、国際的には丸一日以上の遅れである。
Description: President Harry S. Truman (standing at desk) reads the announcement of the Japanese surrender ending World War II to various reporters and officials in the Oval Office. Seated on the sofa in the background are (left to right): Reathel Odum, Mrs. Bess W. Truman, Samuel Rosenman, and John Snyder. Seated behind President Truman is Secretary of State James Byrnes. Standing behind President Truman at the window is Attorney General Tom Clark (left) and Senator Arthur Vandenberg (right). Others are unidentified. Date: August 14, 1945 People Pictured: Truman, Bess Wallace, 1885-1982; Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Clark, Tom C. (Tom Campbell), 1899-1977; Odum, Reathel M.; Rosenman, Samuel I. (Samuel Irving), 1896-1973; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Vandenberg, Arthur H. (Arthur Hendrick), 1884-1951
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2017引用。


写真(右):1945年8月16日、VEデー(対日東洋戦線戦勝記念日)の戦勝宣言(Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer)に署名するアメリカ大統領トルーマンと見守る国務大臣ジェームス・バーンズ
Description: President Harry S. Truman (left) signing Proclamation 2660: Victory in the East-Day of Prayer. James Byrnes, Secretary of State, looks on. Date: August 16, 1945 HST Keywords: Truman - Signing-Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 59-1037引用。


Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
August 16, 1945 By the President of the United States of America

The war lords of Japan and the Japanese armed forces have surrendered. They have surrendered unconditionally. Three months after victory in Europe victory has come in the East.
The cruel war of aggression which Japan started eight years ago to spread the forces of evil over the Pacific has resulted in her total defeat.
This is the end of the grandiose schemes of the dictators to enslave the peoples of the world, destroy their civilization, and institute a new era of darkness and degradation. This day is a new beginning in the history of freedom on this earth.
Our global victory has come from the courage and stamina and spirit of free men and women united in determination to fight.
It has come from the massive strength of arms and materials created by peace-loving peoples who knew that unless they won decency in the world would end.
It has come from millions of peaceful citizens all over the worldturned soldiers almost overnightwho showed a ruthless enemy that they were not afraid to fight and to die, and that they knew how to win.
It has come with the help of God, Who was with us in the early days of adversity and disaster, and Who has now brought us to this glorious day of triumph.
Let us give thanks to Him, and remember that we have now dedicated ourselves to follow in His ways to a lasting and just peace and to a better world.
Now, Therefore, I, Harry S. Truman, President of the United States of America, do hereby appoint Sunday, August 19, 1945, to be a day of prayer.
I call upon the people of the United States, of all faiths, to unite in offering their thanks to God for the victory we have won, and in praying that He will support and guide us into the paths of peace.
I also call upon my countrymen to dedicate this day of prayer to the memory of those who have given their lives to make possible our victory.
In Witness Whereof, I have hereunto set my hand and caused the seal of the United States of America to be affixed.
Done at the City of Washington this sixteenth day of August, in the year of our Lord nineteen hundred and forty-five, and of the Independence of the United States of America the one hundred and seventieth.

対日東洋戦線戦勝記念日の戦勝宣言: 8年前(1937年の日中戦争)から、東洋を侵略し悲惨な戦争を引き起こした日本は、完全に敗北し、無条件降伏しました。これは、神のご加護で得られた輝かしい功績であります。神が我らを勝利に、平和に導いたことに感謝します。何百万の平和を欲する人々と兵士が、多大な努力で兵器と物資を動員し、戦うこと、死ぬことを恐れずに、無法な敵に立ち向かい勝利したのです。この勝利のために、自らの命をささげた人々の思いを祈念し、その証拠として、私はアメリカ合衆国の国章において、署名をしました。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。


二十世紀初頭から現在まで

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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