◆中島飛行機 ダグラス(Douglas)DC-2旅客機
写真(上)1934年、アメリカ、リンドバーグ飛行場( Lindbergh Field)、現在のサンディエゴ空港(San Diego Airport)、ジェネラル航空(General Air Lines)の2機のダグラス(Douglas)DC-2-112 輸送機(登録コード:NC13731)(製造番号:c/n 1257):右も同じジェネラル航空(General Air Lines)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機。1936年にイースタン航空(Eastern Air Lines:EAL)で使用された。DC2は、アメリカ陸軍にC-39輸送機、海軍にR2D輸送機として徴用された。
Morrow_0052 Two Douglas DC-2s on Lindbergh Field, 1934.
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(上)1934年、アメリカ、リンドバーグ飛行場( Lindbergh Field)、現在のサンディエゴ空港(San Diego Airport)、ジェネラル航空(General Air Lines)ダグラス(Douglas)Douglas DC-2-112 輸送機(登録コード:NC13731)(製造番号:c/n 1257):1936年にイースタン航空(Eastern Air Lines:EAL)で使用された。DC2は、アメリカ陸軍にC-39輸送機、海軍にR2D輸送機として徴用された。
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
1.ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機
図(右)1934-1936年、ダグラス社が作成したダグラスDC-2輸送機14人乗りの売り込み用内部図解(手前):DC-1もの後継機としてDC-2と命名される前の図解で、事実上DC-1とDC-2は同型機であることが窺われる。スイス航空が開示した図解なので、ダグラスからスイス航空に送付された資料の一つであろう。
Title:
The new Douglas 14-passenger airliner (Douglas DC-2)
Photographer
Swissair
Dating
1934-1936
Categories:
Technical drawings + Plans, Product photography, Propeller-driven aircraft, Swissair, Swissair, Douglas DC-2, Swissair
Physical Description:
Photography : glass-plate negative
Colour:
black and white
Orientation:
Horizontal
Format:
13 x 18 cm
Technical drawings + Plans, Product photography, Propeller-driven aircraft, Swissair, Swissair, Douglas DC-2, Swissair Archive
写真は, ETH-Zürich Record Name: LBS_SR02-10778 引用。
写真(右)1934年、アメリカ、完成したばかりのTWAトランス・ワールド航空 (Trans World Airlines)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:NC14268)の客室キャビン(後方より撮影したので座席の後面が写っている):2列7席で合計14名の座席が配置されている。天井には手荷物収納用の網棚、換気用の通気ダクトが配備されている。
Douglas : DC-2
Catalog #: 00065525
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00065525引用。
ダグラス(Douglas)社が開発したDC-1は、ジェームス・キンデルバーガー、ジャック・ノースロップが設計した引き込み脚、全金属製、低翼の新技術を取り入れた双発輸送機で1933年6月1日に試作1号機のDC-1が初飛行した。発動機は、ライト・サイクロン空冷星形9気筒エンジン690hp2基で可変ピッチ金属プロペラを装備した乗客12座席の旅客輸送機であった
写真(右)1934年、アメリカ、完成したばかりのTWAトランス・ワールド航空 (Trans World Airlines)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:NC14268)の客室キャビンにおける機内食の宣伝写真:2列7席で合計14名の座席が配置され、天井には手荷物収納用の網棚、換気用の通気ダクトが配備されている。
Douglas : DC-2
Catalog #: 00065526
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00065526引用。
写真(右)1934年、アメリカ、完成したばかりのイースタン航空(Eastern Air Lines:EAL)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:NC13240):飛行場に待機中の機体で、左主翼にはEAL(Eastern Air Lines)の会社名、右主翼には登録コードのNC13240の記載されている機体であろう。
Title: Do:uglas, DC-2
Catalog #: 00065520
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:.
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00065520引用。
ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機 :主な製造工場:ダグラス航空社アメリカ・カリフォルニア州サンタモニカ工場
形式;低翼、全金属製、単葉
全幅25.91m、全長18.90m、全高4.95m
ライトサイクロンSGR-1820-F-2空冷星形エンジン2基搭載
巡行速力240km/h
写真(右)1934年、アメリカ、エンジンを駆動し離陸のために滑走路に向けて移動するイースタン航空(Eastern Air Lines:EAL)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:NC132の40):飛行場に待機中の機体で、左主翼にはEAL(Eastern Air Lines)の会社名、右主翼には登録コードのNC13240を記載している。
ouglas : DC-2
Catalog #: 00065522
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00065522引用。
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、DC-1の改良型で1934年5月11日に初飛行し、その直後の5月18日にTWAトランスコンチネンタル(Transcontinental & Western Air)(後のトランスワールド)航空に採用された。そして、KLMオランダ航空とパンアメリカン航空(Pan American Airways)が採用を決めた。軍用仕様のC-39輸送機35機も含めて、1934年から1939年にかけて198機が生産された。
写真(右)1934年、アメリカ、完成したばかりのパンアメリカングレース航空(Pan American-Grace Airways INC.)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:NC14268):飛行場に待機中の機体で、主翼にはDOUGLASと会社名とDC-2と機種名を記載している。
Title: Douglas, DC-2
Corporation Name: Douglas Aircraft
Designation: DC-2
Tags: Douglas, DC-2
Additional Information: USA.
写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00091371引用。
パンアメリカングレース航空(Pan American-Grace Airways INC.)は、パンアメリカン航空(Pan American World Airways)とグレース商会(W. R. Grace and Co)の合弁企業で、グレース商会の取引先である中南米を運航した。
写真(右)1935年頃、アメリカ、ロッキー山脈と思われる山地上空を低空飛行するパンアメリカングレース航空(Pan American-Grace Airways INC.)ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード NC14268) :夜間飛行に従事するには、航法の厳格さだけではなく、昼夜にわたり就航空域の気象条件の把握も不可欠である。
Douglas : DC-2
Catalog #: 00065496
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00065496引用。
アメリカの航空会社トランス・ワールド航空 (Trans World Airlines: TWA) は、DC-1に満足したが、エンジン出力向上、機体延長による2座席増の14座席の確保を要求し、この仕様で20機を発注した。そこで、ダグラス(Douglas)社はDC-1を原型に若干の改修を施し、これを新鋭機ダグラス(Douglas)DC-2と命名して、生産した。
したがって、DC-2輸送機も、全金属製、低翼、引込み式脚の降着装置の旅客輸送機であり、胴体が延長され、発動機も同じライト・サイクロン Wright R-1820-F52 サイクロン(Cyclone) 710 hp (652 kW)搭載で、1934年5月11日に試作機が初飛行した。フィアット(Fiat)G. 18 Vは、その1年後の初飛行で、エンジン出力は向上されている。
wikipediaでは「DC-2は優秀で近代的な旅客機として世界各国の市場から高く評価されたが、これをベースに機体サイズを拡大した後続モデルのDC-3が輸送力の面でDC-2以上の大幅向上を達成し、市場のニーズがそちらに移行したため、DC-2の生産数は156機にとどまった。」とあるが、100機以上生産されれば、当時の航空産業ではベルトセラーに近い成功作である。
2.中島飛行機ダグラス(Douglas)DC 2 輸送機
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、日本航空輸送所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。大日本航空は、1938年12月に日本航空輸送株式会社を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
中国は、自由貿易港として国際的に認められたイギリス植民地の武漢攻略を中継に戦略物資の輸入が可能であり、日本は大陸封鎖、すなわち中国大陸の沿岸交通遮断は困難だったのである。
そこで、1938年9月、日本軍は、華中の香港と同時に、華南の廣東(広州)攻略を決め、1938年10月12日、日本海軍塩沢幸一海軍中将隷下の第五艦隊の支援を受けて、古荘幹郎中将隷下の日本陸軍第21軍(主力は、第18師団・と第104師団)が、白耶士(バイヤス)湾に奇襲上陸し、10月21日に廣東(広州)に突入した。そして、珠湾の海上交通を遮断するとともに、珠江を遡上して、12月までに廣東付近の要衝を確保した。
こうした中で、日本植民地の台湾の台北と、1938年末に新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2輸送機を就航させたのである。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の優秀さを評価した国策会社の日本航空輸送は、1934年にDC-2を採用することを決定し、中島飛行機に発注を出した。そこで、中島飛行機は、ダグラス社からライセンスを取得し、1936年2月にエンジンから機体構造まで部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で試作1号機を完成させ納入した。
日本では、民間旅客輸送用に、日本航空輸送が1934年12月にダグラス(Douglas) DC-2輸送機を輸入し、羽田で公開した。日本では、まれにみる巨大な銀色の飛行機だったので、「銀の巨鯨」と称された。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
国策会社の日本航空輸送は、ダグラスDC-2輸送機を採用することとし、1936年に国内航路、台湾航路に就役させた。日本が輸入したDC-2輸送機は8機で、機体固有名称として「富士」「新高」「霧島」「愛宕」「阿蘇」「金剛」「筑波」「伊吹」という山の名前が与えられた。DC-2は、新鋭の大型長距離輸送機として、福岡=台北など内地と外地(植民地の朝鮮・満州・台湾)を結ぶ長距離航路に導入された。
第一次世界大戦後、1920年代の日本航空揺籃期には、日本の民間航空会社はあっても、運行数も乗客数も少なく、日本陸軍の立川飛行場を併用しているだけだったが、民間旅客需要の高まりを背景に、東京中心部に飛行場を開港することとなり、羽田の干拓地に空港の建設が決まった。
当時の飛行機は軽量であり、未舗装の数百メートルの長さの滑走路で十分であり、1930年1月に新たな東京での陸上機離着陸用飛行場の建設が始まり、翌年の1931年8月25日、逓信省航空局の管轄になる羽田飛行場(東京飛行場)が開港した。干拓地であり、降雨の影響を考慮して、コンクリート舗装の全長300メートル全幅15メートルの滑走路と未舗装の飛行機待機・駐機場が作られた。当時の日本では、無線による管制は実用化されておらず、夜間飛行も想定されていないために、誘導灯や夜間照明もなかったようだ。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 (霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
1931年8月25日、開港した羽田飛行場(東京飛行場)には、日本航空輸送の東京発大連行の定期便が就航したが、運賃が高額すぎたために、乗客はほとんどなかったという。国策会社でなければ、日本航空輸送の経営は成り立たないのは常識だったのであり、このような政府の補助金依存の傾向は、戦前から戦後の日本航空にまで引き継がれており、「親方日の丸」と別称される稚拙な経営戦略、非効率な経営は改められなかった。島国とその植民地における排他的で、独占的な国策経営方針は、競争下の革新と挑戦を重んじるヨーロッパの航空界の経営とは格段の差があったのである。
ダグラス(Douglas) DC-2輸送機は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、発動機は、アメリカ製ライト サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載、速力320km/hで、搭乗員4名、乗客14名を運搬できた。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:の降着装置と主輪:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
中島飛行機は、1934年にダグラス(Douglas)DC-2輸送機をノックダウン生産し、6機を国策会社の日本航空輸送に納入した。日本航空輸送は、購入したED-2輸送機6機を就役させたが、日中戦争が長期化することが明らかになった1938年に日本陸軍によって徴用された。そして、日本力陸軍は、銀色無塗装だったDC-2民間輸送機に迷彩塗装を色を施して、中国大陸と日本との定期連絡空路に使用した。
飛行機主翼後縁下面に設けられた平たいフラップは、揚力を高めるために、主翼から開いて空気の流れを主翼の上下で調整する動翼である。主翼後縁のフラップを下げることで揚力が高まる。主翼には、エルロン、フラップ、スポイラーといった動翼が取り付けられている。また、水平尾翼には昇降舵(エレベーター)が取り付けられている。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の左側面:舗装滑走路の脇にある未舗装駐機場に待機している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機の発動機は、信頼性の高いライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン730 hp(540 kW)で、既に1931年にライト社が開発、実用化し1933年1月30日初飛行のカーチス T-32 コンドルII(Curtiss T-32 Condor II)、1935年3月20日初飛行のグラマンF3F (Grumman F3F)、1935年4月初飛行のダグラスB-18 ボロ(Bolo)爆撃機、1935年7月22日初飛行のボーイングB-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)など多数の機体、特に爆撃機が装備している。
DC-2のライトR-1820 サイクロン1931年から実用化されたエンジンで、カーチス・ライトは、サイクロン空冷星形9気筒エンジンを複列して18気筒化し排気量を2倍の3350立方インチの大型エンジンの開発を始めた。これがライト R-3350 サイクロン 18(Wright R-3350 Cyclone)である。
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、エンジンを駆動している日本航空輸送株式会社[1938年12月に特殊法人大日本航空に改組]のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
中島AT-2旅客機は、14人乗りダグラスDC-2輸送機の小型版で、ボーイング(Boeing)247輸送機を参考に中島が独自に設計した8人乗り双発輸送機である。設計者はダグラスDC-2のライセンス生産を担当した明川清技師で、その名に因んでAkegawa Transport(AT)と命名された。
初代AT-1輸送機は、ダグラスDC-2に劣ったために試作されずに終わり、DC-2を小型化して、中島飛行機の、すなわち日本最先端の飛行機製造技術で対応できる小型双発企図したのが、民間仕様の中島AT-2輸送機、軍用仕様のキ34 九七式輸送機である。AT-2は中島飛行機の独自開発の民間旅客機で、量産にまで至ったのは、まさに中島飛行機が日本最有力の飛行機メーカだったことを証している。
日本航空輸送株式会社は、1938年(昭和13年)11月に会社を解散し、国際航空が合併して新たに独占的な日本の国策航空会社として、大日本航空株式会社となった。そして、日本の地方航空を担っていた日本海航空株式会社、東京航空株式会社などもすべての航空輸送は、大日本航空が担うこととなった。大日本航空は、「株式会社」とはいっても、日本政府が丸抱えの国策会社であり、独占的国営企業である。
ダグラス(Douglas)DC-2を導入した日本航空輸送、その後の大日本航空の設立の背景には、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中全面戦争の長期化が指摘できる。当初は、華北限定の「北支事変」と呼称されたが、8月には第二次上海事変が拡大し、1937年9月2日には「支那事変」と呼称が変化した。
事変というのは、戦争状態にあるとアメリカとの貿易・投資が制約を受けるための方便であって、事実上の戦争である。日本軍は、1938年初頭に中華民国(中国)の首都南京を陥落させたが、中国は奥地の重慶に遷都して徹底抗戦をした。中国は、イギリス、アメリカ、さらにはドイツ、イタリア、ソ連からも兵器を含む軍事物資を購入・輸入し、軍事顧問も迎えて、日本と戦った。そこで、日本は、中国大陸を海上封鎖する必要があると新たに戦線を仏印など東南アジアにまで拡張した。これが「泥沼の長期戦」に繋がった。
写真(右)1937年頃、日本航空輸送株式会社[1938年以降は大日本航空]所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1937/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
台北航路に導入されました。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
カラー絵葉書(右):1937−1938年頃発行、日本、羽田空港、草地の未舗装滑走路に待機する日本航空航空輸送株式会社のダグラス(Douglas)DC 2輸送機「新高」;新高とは、日本が日清戦争に勝利した後、台湾を領有し、内地の富士山よりも高い標高3,952 mの「雪山」、現在の玉山が台湾にあったため、日本の新たな最高峰という意味で、「新高山」と改名した。引込み式降着装置を装備した全金属製の大型高速双発輸送機とて、日本では民間航空だけではなく、日本陸軍に徴用され使用されている。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
”航空日本”の快報−空の架橋・縦横無尽 : 東京から南洋へ、福岡から台湾へ 完成を急ぐ国際空路
掲載誌
大阪時事新報
Vol: 第 3巻
Page: 146
出版年
1935-01-03
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100128803
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
[写真(新鋭を誇るダグラス機)あり 省略]
国際危局を如実に反映する三五年はついにきた、怒濤さかまく太平洋上にあがるかくしゃくたる太陽の光輝にも以て東洋平和の重大使命を双翼に大空を天翔けるわが民間航空は三五年の新春を迎え、いよいよ太平洋上四千キロの鵬程を一飛び、一線は東京から南洋に一線は福岡から台湾にその翼を伸ばし、茲に揺籃期と呼ばれたわが航空界は国際空路の一大幹線を完成して航空日本のため万丈の気を吐くこととなった、
特に福岡−台北をつなぐわが航空路には過般英濠飛行でお馴染のダグラス機と同型の優秀機ダグラスDC2号機を迎えることとなり中島飛行機製作所の註文によって客年十一月十六日横浜入港のプレジデントフーヴァー号でアメリカから到着、早くも組立てを終って今や最高時速二百十七哩、航続距離千百哩という素晴らしい性能を南方の蒼空に示さんと雄飛するの日を待ち構えているが、これが商業航空路として活躍する場合には、更にわが国からシンガポール及び蘭印に伸びんとする空の要望が台北を中心にたちまちこの線に連接せんとするのは明白で、これらの意味からしても福岡、台北を繋ぐわが国航空幹線の重大性が認められるのである、
更にわが航空史上特筆すべきは今次の航空予算より危く抹殺されんとしてその難を免れたわが海の生命線日本より南洋パラオ島にかけられた空のかけ橋で、東京南洋をつなぐこの一線、予算こそ僅か十六万円であれわが民間航空の威力を示すに足る航空史上実に一大エポックを劃する飛躍と言えよう、
この点床次逓相の努力を大いに買うべきでこれによって逓信省では本春四月からその航空路に当る寄航地父島及び八丈島に新に水上飛行場及び大格納庫を建設することとなり目下着々準備中であるが父島以南の施設を行うべき南洋庁でもサイパン、パラオ両島に水上飛行場及びこれが格納庫その他の設備に意気込み、
これが実現の暁は従来東京パラオ間を七日乃至十日を要したものが僅々二三日で事足りることとなり、彼我の距離は著るしく短縮、将来は更にアメリカ方面と結びついて、わが国からアメリカへの旅行も南洋を踏み台に太平洋をワンステップという気軽なものとなり、春秋にはスーツケース一つをさげた花見の観光客が空からやって来ようという素晴らしいルートが開けることになるのもそう遠い将来では、なくなろう=写真は新鋭を誇るダグラス機
(”航空日本”の快報−空の架橋・縦横無尽 : 東京から南洋へ、福岡から台湾へ 完成を急ぐ国際空路引用終わり)
図(右)1939年以降、「台北−廣東 定期航路開始 大日本航空」のチラシ:大日本航空は、1938年12月、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port
Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg 引用。
ダグラス(Douglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名
搭載乗客数Capacity: 14名
全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820-F52 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ金属製プロペラ(3-bladed variable-pitch metal propellers)
ダグラス(Douglas DC-2)の性能
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)
絵葉書(右)1939年以降、日本植民地の台湾の台北と中国南部の廣東を結ぶ定期航路を就航した大日本航空(1938年末までの日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 (霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port
Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg引用。
写真(右)1937年頃、飛行中の大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1937/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
台北航路に導入されました。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスD2型機 引用。
日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 171
出版年
1935-06-17
hdl.handle.net/ 20.500.14094/
0100124208
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
先に三十余万円の巨費を投じてアメリカから輸入した高速度輸送飛行機ダグラス単葉は綿密なテストを経て某方面に納入されたが、其頃から噂されていた内地での作製がいよいよ本決りとなって中島飛行機製作所で莫大な権利金を張込んでその製作に着手、この九月中旬には早くも最初の二台の試験飛行を行って早速日本空輸会社の内台聯絡輸送飛行に使用する予定になっている
しかし内地では未だ金属材料の補給が十分でないのでスーパージュラルミンやアルクラッドなどという軽金属は外国から素材のまま輸入して加工し発動機(ライト・サイクローン七百馬力)もアメリカからの輸入い待つというのだが
それでいて製作の権利金は八十万円所謂『ダグラス流』という言葉も生れた程劃期的な設計だけに設計図面一切の購入費だけでも二十万円と噂され関係方面でも内地製の実現を待望しているが技術家方面では『これだけの金を出せば作って見せる』と残念がっている【写真はダグラス機】
[写真(ダグラス機)あり 省略](日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円引用)
写真(右):1928年、日本植民地台湾、台北、台湾総督府裏通り;明治28年(1895年)4月17日、日清戦争後の下関条約によって、台湾、澎湖列島は清国から日本へ割譲された。日本は、台北に台湾総督府を置き、
初代総督に樺山資紀を置いた。日中戦争後は、皇民化政策が強化され、日本語強要、改姓名、志願兵導入、神道強要が進んだ。
日本語: 總督府裏通リ
Date 1928
Source 臺北高等農林學校. 臺北高等農林學校林學科第一回卒業記念アルバム1928. 臺北: 臺北高等農林學校. 1928: 27.
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Government-General of Taiwan
File:At the back street of the office building of Governor-General of Taiwan.jpg引用。
待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 3巻
Page: 185
出版年
1935-10-07
ID
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168571
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
内地台湾間の交通連絡に一新紀元を劃する内[地]台[湾]定期飛行は愈々来る八日から先ず郵便貨物取扱いを以て実施されることになった、逓信省航空局を始め日本航空輸送会社は二日後に迫ったこの大事業開始第一日に備えるため異常の緊張を示し諸般の準備に忙殺されている
既に途中寄航の那覇飛行場には会社から鵜野、黒木の両氏が派遣され地上勤務員四名を督励して格納庫や修理工場、ガソリンタンク等の整備に努めているが福岡から一千六百十キロを十時間で連絡する航空機の飛来を待って台湾の飛行場台北では浅香支所長と武田営業所主任とが五名の地上勤務員と共に離着陸各般の設備を急いでいるが、逓信省航空局を始め台湾総督府はまたあらゆる便宜を提供して、これを応援している
写真(右):1935−1938年頃、日本、立川飛行場(?)、日本航空輸送株式会社のフォッカーFVII-b型旅客機(Fokker FVIIb-3M)とその奥にある飛行機格納庫;ライト・ホワール・ウインド225馬力3台、巡行速力160km/h、旅客8名、乗務員2名。1927年、同型機のアメリカ製フォッカー C-2(F.VII/3m)トライモーター輸送機「アメリカ」は、1927年6月29日、アメリカ人リチャード・バードの操縦で、大西洋を横断し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。
J飛行機絵葉書 カラー写真版6枚袋付美品 日本航空輸送株式会社 戦前
2022年 09月 23日
飛行機絵葉書 カラー写真版6枚袋付美品 日本航空輸送株式会社 戦前 \10,000
中島AT型旅客機/三菱エアスピードエンボイ旅客機/フォッカーF?-b型旅客機
中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル旅客機/中島ダグラスDC-2型旅客機
ビーチクラフトC17-E型旅客機
写真は、あかつき書房 絵葉書>日本航空輸送株式会社 旅客機絵葉書引用。
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社のフォッカーFVIIb/3m八人乗旅客機とその奥にある飛行機格納庫;1927年、同型機のアメリカ製フォッカー C-2(F.VII/3m)トライモーター輸送機「アメリカ」は、1927年6月29日、アメリカ人リチャード・バードの操縦で、大西洋を横断し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。
J.A.T.日本航空輸送株式會社使用飛行機絵葉書6枚
写真は、aucfan 絵はがき、ポストカード 航空機引用。
このほか途中海洋上の不時着陸揚鹿ノ屋島にも二名の地上勤務員が配され、それぞれ部署を固めた、またこの航空路線下に当る富江、厳原、鹿児島、那覇、台北の各測候所では航空無線の諸手配を既に終り洋上の気象観測を刻々に航空中の飛行機へ無電で通知する係員の配置を終り何時の飛来にも対応する用意は出来た、この劃期的な内台飛行の皮切りは大森操縦士、阿辺副操縦士、田代機関士、森通信士が乗務するフォッカー三発動機[Fokker F.VIIb‐3m]BJOBで同機は去る三日に東京から福岡飛行場へ空輸され入念な手入れを受けて晴れの飛行の日を待っている
同機には児玉拓務大臣と望月逓信大臣から中川台湾総督に宛てたメッセージを始め日本航空輸送会社社長から台湾の要路十四名に宛てたメッセージを積み、貨物としては既に予約されている松茸の籠詰や浅草海苔その他を始め大阪からは雀寿司百五十人分が今のうちから初乗り飛行に受けつけられている
かくて内台飛行第一回の飛行機は午前七時福岡を離陸し零時十分那覇に着陸、午後一時同地発で午後五時台北飛行場へ到着する、この間十時間で汽船が四日間を要するのと比較すると夢のような現実である、これが毎週一往復ずつ来る十二月まで行われる、来春一月からは大空の超特急ダグラス機によって旅客輸送が開始されることになる、この内[地]台[湾]連絡飛行は台湾文化の振興と産業開発に資するばかりではなく一方には南洋方面への交通伸展を助成する国際航空路の第一階梯ともなるもので各国からも注目されている(待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!引用終わり)
写真(右)1937年頃、飛行中の大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1937/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
台北航路に導入されました。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスD2型機 引用。
内台の空を新春から 旅客も輸送の快報 : 毎週三往復・交通上に革命
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 205
出版年
1935-12-07
hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100160623
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
航空日本の誇をかかげて南方の空へと進出するわが国際幹線航空路の先駆として去る十月八日台湾始政四十年の記念日を期して開始された福岡−台北間一、六〇〇キロ内台間定期航空はいわば海洋航空の試練として回数も一週一往復、郵便物のみの輸送にすぎなかったが、いよいよ来る新春より毎週三往復、旅客輸送をも行って本格的定期航空を実施し堂々たる空の幹線を実現することになった
この結果内地−台湾間の交通は汽船による神戸より基隆への四日、基隆より神戸への五日の所要日数が少なくとも三分の一に短縮され郵便物の如きも何日何時に投函してもいかなる船便よりも速達されるというまさに内台交通の革命をもたらすものである
日本空輸会社ではいよいよダイヤを編成することになったが、取敢ず現在までのフォッカー3M機を使用し福岡、台北双方より毎週火、木、土に出発、新春第一便は二日の火曜日となる見込で内地よりの往航は一日聯絡また台湾からの復航は那覇中継の二日聯絡とし目下内台の空を新春から 旅客も輸送の快報 : 毎週三往復・交通上に革命引用終わり)
カラー絵葉書(右):1937年、日本、機首に日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]のマークを付けた中島AT-2輸送機;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。原型中島AT-2は1936年9月12日初飛行。
Japanese postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima AT-2 aircraft
Commemorative postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima AT-2 transport
Date circa 1937
Source historical postcard, personal collection
Author Unknown authore
写真は Wikimedia Commons, Category:Nakajima AT-2/Ki-34/L1N1
File:Nakajima AT-2.jpg引用。
中島AT-2旅客機は、14人乗りダグラスDC-2輸送機の小型版で、コックピット形状はボーイング(Boeing)247輸送機に似ている。つまり、中島AT-2旅客機は、中島飛行機が独自に開発した8人乗り双発輸送機である。設計者はダグラスDC-2のライセンス生産を担当した明川清技師で、その名に因んでAkegawa Transport(AT)と命名された。
カラー絵葉書(右):1937年、日本、機首に日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]のマークを付けた中島AT-2輸送機;大日本帝国郵便2+2円愛国のDC2切手に1937年(昭和12年)7月12日、航空ページェント
記念、盛岡の消印が押されている。中島AT-2は1936年9月12日初飛行。
Nakajima AT-2 (Ki 34), 1937. The postcard is stamped to commemorate a July 1937 “air pageant”. The Nakajima Aircraft Company, which had acquired the license-production rights to the American-made Douglas DC-2, began design work of their own in 1935 building a smaller twin-engine airliner for routes which did not have the capacity to justify use of the larger DC-2. The initial design was designated AT-1. After numerous design iterations, a prototype designated AT-2 first flew on 12 September 1936. The aircraft design was all metal except for the flight control surfaces, which were made of plywood.
写真は , OldTokyo Aircraft, Airline, Nakajima aircraf引用。
中島AT-1輸送機は、ダグラスDC-2に劣ったために試作されずに終わり、DC-2を小型化して、ボーイング(Boeing)247を参考にして、中島飛行機は、民間仕様中島AT-2輸送機、軍用仕様のキ34 九七式輸送機を開発した。中島AT-2輸送機は中島飛行機の独自開発の民間旅客機で、量産にまで至ったのは、まさに中島飛行機が日本最有力の飛行機メーカだった証しである。
中島飛行機は、中島AT-2旅客機を開発し、1936年9月12日に初飛行させている。そして、日本航空輸送、満州航空、大日本航空で採用され、合計33機が完成している。その後、日本陸軍が制式しキ34 九七式輸送機として中島で19機、立川飛行機で299機が量産産された。中島AT-2旅客機全幅:19.92m 、全長:15.30m、 総重量5,250kg、 最高速力360km/h、発動機は、中島の空冷星形9気筒「寿」2型改460馬力2基、乗員3名/乗客8名。
写真(右):1935−1938年頃、日本、日本航空輸送株式会社(Japan Air Transport)[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]中島AT-2輸送機;原型の中島AT-2は1936年9月12日初飛行。乗員: 2名
乗客: 8〜10名
全長:15.30 m
全幅:19.95 m
全高:3.90 m
翼面積:49.20 m2
翼面荷重:95.5 kg / m2
空虚重量: 3,500 kg
全備重量: 5,250 kg
発動機: 中島「寿」二型改(580馬力/試作機) / 中島「寿」八型(620馬力/量産機)
最高速力: 360 km/h
巡航速力: 310 km/h(上記絵葉書では300 km/h)
航続距離: 1,200 km
上昇限度: 7,000 m
Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Catalog #: 01_00086155
Title: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Thora (Army Type 97 Transport)
Additional Information: Japan
Designation: Ki-34
Tags: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 67
出版年
1936-09-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100111384
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
【太田発】わが国航空界の一大躍進、国際航空路計画に伴いこれに備える使用飛行機が問題視されている折柄中島飛行機会社太田工場では米国のダグラス機を凌ぐ優秀な十人乗(飛行士一名、機関士一名、乗客八名)の[中島AT-2・九七式]純国産旅客輸送機の建造に成功した、同社明川、西村技師の設計によるもので十一日午後二時から尾島飛行場で逓信省南波、木目田両航空間立会、同所テストパイロット末松、高橋両飛行士によって試験飛行を行った結果極めて好成績を示した
純国産中島式[AT-2・九七式]高速度旅客輸送機は同社自慢の発動機『寿』二型六百馬力最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成引用)
写真(右):1935−1938年頃、日本、中島キ34 九七式輸送機に乗込む日本陸軍挺進連隊の落下傘降下部隊の隊員たち;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。パラシュート降下をする落下傘部隊は、1940年春のドイツ軍のノルウェー、フランスでの実戦使用で注目され、1940年末に日本陸海軍も小規模だが導入し、1941年12月に部隊編成が完了した。
Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Catalog #: 01_00086157
Title: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Thora (Army Type 97 Transport)
Additional Information: Japan
Designation: Ki-34
Tags: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1935−1938年頃、日本、中島キ34 九七式輸送機;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。原型中島AT-2は1936年9月12日初飛行。
Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Catalog #: 01_00086158
Title: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Thora (Army Type 97 Transport)
Additional Information: Japan
Designation: Ki-34
Tags: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
わが民間航空の世界的地位は? : 内鮮航路の開始と共に明年度に一万キロ : 躍進日本
京城日報
Vol: 第 4巻
Page: 87
出版年
1936-10-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100061186
躍進日本を象徴するものとして我が日の丸の銀翼は目覚しい発展を遂げ、実る秋とともに我国民間空路の総距離は実に八千キロに躍進、更に明年度中に開始される予定の東京、新京[長春]を結ぶ内鮮航路及び九州環状線を加えると、総延長一万キロに飛躍することになっているが、本邦民間航空の現状を世界各国に比較して見ると未だ未だ幼稚なもので、筝型に地域を占めている狭隘な我国では、その空路も将来は必然的に制限され、加うるに六大都市の部分地域的な集中発展を遂げたのが禍して、そのエアネットも殆ど予想がつくというものだが、世界から見た我国民間空路の現状はどんなものか考察してみよう
[図表(本邦民間航空機数)あり 省略]転記
制限なきもの 陸上機 132、水上機0、合計132機
曲技飛行に使用出来ないもの 陸上機177、水上機25、合計202機
合計 陸上機210機、遂行機25機、合計235機
各国民間飛行機数
(国名) (機数)
▲英吉利[英国] 一、二九七
▲仏蘭西[フランス] 一、九三三
▲独逸 一、五七八
▲亜米利加 六、三三九
▲伊太利 四四三
▲和蘭[オランダ] 七九
▲白耳義[ベルギー] 一七二
▲瑞西[スイス] 八八
▲加奈陀 三六八
▲濠洲 二二三
▲印度 一〇二
▲南阿聯邦 七三
▲新西蘭[ニュージーランド] 七五
[図表(本邦民間航空機乗員数(乗員数ではなく操縦士数、が原文)あり]
各国民間機操縦士数
(国名) (員数)
▲英吉利 三、四七七
▲仏蘭西 一、四七五
▲独逸 二、五〇〇
▲亜米利加 一三、九四九
▲伊太利 七〇八
▲和蘭[オランダ] 八七
▲加奈陀 八三二
▲濠洲 七〇八
▲印度 二四八
▲南阿聯邦 一三四
▲新西蘭[ニュージーランド] 四〇五
各国航空線路総延長距離
(国名) (総延距離)
▲日本 八、〇〇〇粁
▲英吉利 七三、四九九
▲濠洲 九、一四〇
▲加奈陀 七、一四八
▲独逸 五〇、〇〇六
▲仏蘭西 四九、〇六九
▲伊太利 一五、五六一
▲和蘭 二四、六〇七
▲瑞西 四、八八五
▲蘇聯邦 四八、九一二
▲亜米利加 一〇二、二九〇
▲支那 一二、二五六
▲満洲国 五、八四〇
[図表(輸送成績)あり]
(経営者) (飛行回数)(飛行総距離)
日本航空輸送株式會社 5648 1,683,652キロ
日本航空輸送研究 1092 158,330
東京航空株式会社 90 13,500
計 6830 1,855,482キロ
(経営者) (輸送乗客数)(送貨物量)(輸送郵便物量)
日本航空輸送株式会社 12187人 57024トン 197,199トン
日本航空輸送研究 924 1755 2012
東京航空株式会社 100 0 22
計 13211 58779 199,233トン
[図表(民間機事故一覧)あり]
(経営者) (飛行時間)(飛行総距離) (事故回数)
日本航空輸送株式會社 10091時09分 1,682,199キロ 1回
日本航空輸送研究 1266・02 158,440 4
東京航空株式会社 94・45 13,500 0
計 11451・56 1,854,139キロ 5回
(経営者) (乗員) (旅客)(機体破損)(発動機破損)
死 傷 死 傷
日本航空輸送研究 0 2 0 0 1 1
日本航空輸送研究 0 2 0 0 2 1
東京航空株式会社 0 0 0 0 0 0
計 0 4 0 0 3 2
民間航空機発動機製作所
[図表((一)飛行機機体)あり 省略]
[図表(本邦航空路及ビ予定線(十月現在))あり 省略](わが民間航空の世界的地位は? : 内鮮航路の開始と共に明年度に一万キロ : 躍進日本引用終わり)
写真(右):1935−1938年頃、イギリス、エアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy);初飛行は1934年6月で、引込脚を持つ当時としては近代的な航空機。乗員: 1名
乗客: 6名全幅: 15.9 m
全長: 10.50 m
全高: 2.8m
機体重量: 2,930 kg
エンジン: アームストロング・シドレー チーターIX 空冷7気筒 350hp × 2
最高速力: 338 km/h
巡航速力: 309 km/h(高度2,230mでエンジン出力75%)
航続距離: 1,046 km(高度3,050mでエンジン出力62.5%)
上限高度: 6,858 m
AirspeedCatalog #: 00074642
Manufacturer: Airspeed
Official Nickname: Envoy
写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社の三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機とその飛行機格納庫NO.2;リンクス4C240馬力2ダウ、巡行速力249km/h、旅客8名、乗務員1名。日本は1935年6月にイギリスからエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy)2機を購入、輸入し、日本海軍もエンボイ輸送機(LXM1)と命名し使用した。三菱飛行機は「ひなづる型旅客輸送機」として1936年から1938年に8機ライセンス生産した。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路
掲載誌
報知新聞
Vol: 第 4巻
Page: 101
出版年
1936-11-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100161306
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今秋から東京、大阪を中心に新しく国内四線を加えた我空の陣は一方航空国策による内容の充実と相待って更に十二年度に新線を増加優秀機の就航となり、名実ともに”航空日本”実現へ突き進む、来年度新線としてあげられるのは
一、東京−仙台−青森−札幌線
二、東京−静岡−名古屋−大阪線
三、福岡−長崎−熊本−鹿児島−宮崎−大分−福岡(九州一周)線
の三ローカル線並びに
四、東京−新京[長春]間急行線
の四つ、このうち東京−札幌線は来年三月を試験飛行に、四月から実施の予定である、この航空網充実と併行して来年度中に新しく建造される旅客機は
ダグラスDC二型機十四人乗六台、エンヴォイ[Envoy]機八人乗九台、ビーチクラフト[Beechcraft]機三人乗二十台中島双発動快速機八人乗五台、合計四十台
の予定で、ダグラス[DC-2]機は現在内台聯絡に使用の二台と合せて八台、エンヴォイ[Envoy]機は合計十五台となるこれ等精鋭機の整備に従い現在第一線に活躍のスーパー機は予備機となり、各ローカル線にはビーチクラフト[Beechcraft]機が就航、東京−名古屋−大阪−福岡の幹線並びに内鮮聯絡にはエンヴォイ[Envoy]機を使用、
この結果各線ともいちじるしくスピード化され現在六時間を要する東京−福岡間は四時間に短縮、福岡−台北間はダグラス[DC-2]機四時間四十分であり、東京−台北間を一日に飛ぶことも可能となるわけである、東京−新京[長春]急行聯絡計画は来年六月から実施を目標に進められており、これには中島快速機が就航、東京を出発して米子(大阪飛行場の完備するまで)から日本海を横切り一気に京城に飛び奉天、新京とむすぶもので、この間約二千キロを八時間でしょう破しようというのだ
[図表(我空の陣)あり 省略]
以上のほか東海道ローカル線の延長として大阪−岡山−広島−福岡線、満洲への最捷路となる米子−清津 (朝鮮)線等が明後年度予定線に上って居り、北海道−樺太線、日本海岸の東北線が加われば国内航空路はほとんど完備するわけである(凸版は我空の陣)(”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路引用)
カラー絵葉書(上)1938年(満州歴:康徳5年、昭和13年)、満州航空株式会社所属の旅客機4種:上段左:満州国の国籍マークを付けた固定脚の隼式一型6人乗旅客機(M-304)、右:引込み脚のユンカース(Junkers )Ju160、下段左:満州国の国籍マークを付けた満州航空式三型プスモス2人乗旅客機、右:満州国の国籍マークを付けた中島スーパー・ユニバーサル旅客機(M-105)の左前方・左後方側面・正面の3枚の絵葉書:
満州航空 MT-1隼一型は、 中島 寿2型改空冷星型9気筒エンジン460 hp搭載、手動式引込み脚が不調で固定脚に変更された。最高速力240km/h、航続距離900km、生産は、満州航空35機、日本国際航空工業20機。
ユンカース Ju 160は初飛行1934年1月30日の引込み式降着装置を備えた高速旅客機で、乗員 2名、乗客定員 6人、全幅 14.32 m、全長 12.0 m、空虚重量 2,320 kg、運用時重量 3,450 kg、BMW 132空冷星型9気筒エンジン490 kW(657 hp)装備、最高速力 340 km/h、巡航速力 315 km/h。
イギリスのデ・ハビランド(de Havilland)DH.80A プス・モス(Puss Moth)は、初飛行1929年9月9日、ジプシー・メジャー空冷直列4気筒エンジン130 hp (97 kW)を装備で、1933年までに284機もが生産された。
中島スパー・ユニバーサル旅客は、アメリカ製フォッカー・スパー・ユニバーサル単発輸送機を輸入し中島飛行機が国産化した単発機で、壽(コトブキ)空冷星型9気筒エンジン480hp装備、乗組員(操縦士・機関士)2名、乗客6人座席、最高速力250km/h、巡行速力190km/h。空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。
いずれも左右主翼に五色ラウンデル、垂直尾翼に五色旗の満州国籍マークを描いている。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。
満洲航空株式会社「空の旅 記念絵葉書」、発行:満洲航空株式会社
■刊行年:康徳5年(昭和13年)
■解説:4枚(スーパー機(満航式一型)、プスモス機(満航式三型)ほか)袋付、国光機就航記念スタンプ、哈爾濱スタンプ
■状態:ヤケ、シミ、経年劣化
写真は,古書 古群洞kogundou60@me.com 絵葉書
満洲航空株式会社 空の旅 記念絵葉書引用。
東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 133
出版年
1937-03-05
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100108337
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今年の民間航空はわが国航空史上空前の飛躍をする、十二年度逓信省航空局の予算は六百五十万円であるが前年度から継続の既定事業費として約三百万円、更に三日衆議院予算第六分科会で四十万円追加予算として計上されここに航空予算は一千万円に達した勿論[逓信省]航空局としては決してこれで満足はしていない、けれども過去十数年間の航空予算が二、三百万円台に過ぎぬのを顧みれば驚くべき躍進が期待されてよいわけだ
現在友邦満洲国との航空連絡は東京−新京[長春]即日連絡が使用機の性能上不可能であったが本年六月から別に東京−新京[長春]間二千キロメートルを八時間で連絡する新京急行線が実施される、使用機はダグラスDC二型十四人乗、または中島AT[輸送機]八人乗の順航時速三百キロメートルの快速旅客機で東京を出発後大阪、京城、奉天[瀋陽]の途中三ケ所に著陸するだけで新京[長春]に直行する予定であるが、本年内には大阪第二飛行場が完成せぬので大阪寄航は不可能のため福岡飛行場に著陸することに便宜上なるものと見られている、このため約三百キロメートル迂回コースとなるため約一時間多く東京−新京[長春]間は九時間の予定である
一方北支の航空路は恵通航空公司の旅客機が北平から山海関を経て大連で満洲航空会社の旅客機と連絡し、従ってわが国の日本航空輸送株式会社[1938年12月に大日本航空株式会社へ改組]の旅客機にも連絡はしているが東京−北平間が二千六百キロメートルあるため即日連絡が行えずこのスピード・アップはわが国にとって頗る重要な問題とされていた、三日の衆議院予算第六分科会で追加予算として四十万円を急速連絡飛行実施経費として計上するに至ったのもこうした重要航空連絡であればこそだった
カラー絵葉書(右):1937年、日本傀儡国家、満州国、国務院の偉容;日本が1932年に建国した満州国では、1934年の組織法で日本が行政権を掌理する規定(第27条)、国務院に国務総理大臣と各部大臣を置く(第28条)、国務に関する詔書・法律・勅令に国務総理大臣や各部大臣が副署する、とし、次官の日本人の輔弼・顧問が置かれた。満洲国の国会はなく、立法院は行政をつかさどる国務院が定めた。国務院総理の鄭孝胥にも、1934年(康徳元年)に満州帝国皇帝に即位した溥儀にも行政権はなかった。
Description Postcard of Manchukuo State Council Building, Hsinking, Manchukuo
Date before 1945
Source own collection
Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Postcards of Manchukuo
File:Nakajima AT-2.jpg引用。
計画案は京城までは前述の東京−新京間急行線のダグラスDC二型機を使用し、京城−大連間六百キロメートルを中島AT型快速機で二時間で翔破し、大連において恵通航空公司の快速旅客機と連絡し北平−山海関−大連間五百余キロメートルを約二時間足らずで連絡、京城−福岡−東京間は約五時間であるから北平−東京間は僅に九時間で連絡されることになり、朝食を東京で取り夕食は北平、新京でということが実現されることとなるのであるからわが航空輸送史上画期的なことである、
この快速航空連絡は勿論中島飛行株式会社へ
中島AT[輸送機]八人乗を五機、ダグラスDC二型十四人乗を六機注文して中島太田工場でその建造を急いでいる、即ち[中島]AT機は三月末までに一機四、五月中に残る四機が全部竣工する予定でまたダグラスDC二型機は五月五日までに一機五月末までに一機、以後十月まで毎月一機宛竣工せしめる予定である、本年六月を期して東京から新京、北平の二都へこれ等全金属製の国産快速旅客機が銀翼を輝かしながら雄飛する壮観さは想うだに嬉しい限りではないか
[図表あり 省略]
飜って国内航空路はというと、先ず本年四月一日から東京−仙台−青森−札幌の東北幹線航空路が開始される、本年末には試験飛行も実施する予定である、朝札幌飛行場を出発するフォッカー・スーパーユニバーサル[ Fokker Universal]六人乗旅客機に身を託せば午後には東京丸の内の事務所に現れて事務を見ることも出来、又更に大阪まで一飛して大阪で夕餉を楽しむことも出来るようになる、札幌−大阪は北陸線経由で三十九時間余を要したのがこの航空路開通によって僅々九時間にして連絡する、札幌−東京間は急行列車によっても二十四時間余であるが航空機によれば四分の一の六時間に短縮される
その他東京−静岡(当分不寄航)−名古屋−大阪のローカル線が四月一日から正式に行われる、九州の循環線福岡を起点として熊本−鹿児島−都城−大分のローカル線も七月から開始されて、わが国定期航空路は実に一万キロメートルを突破する
以上の如くわが航空輸送界は空前の活気を呈して伸展跳躍の期にある、南へ伸びんとするわが翼の搏きの一日も早からん事を読者と共に待望するとしよう(
東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進引用終わり)
写真(右):1927‐1930年頃、フォッカー(Fokker)ユニバーサル(Universal)単発輸送機:1926年初飛行のユニバーサルは、乗員:1名、乗客4名、全長: 33 ft 3 in (10.13 m)
全幅: 47 ft 9 in (14.56 m)
全高: 8 ft 9 in (2.7 m)
翼面積: 341 sq ft (31.68 m2)
空虚重量: 2,192 lb (996 kg)
総重量: 4,000 lb (1,818 kg)
発動機: 1 × Wright J-5 空冷星形エンジン 220 hp (164 kW)
プロペラ: ハミルトンスタンダード(Hamilton-Standard)固定ピッチ(fixed-pitch)
最高速力: 118 mph (189 km/h, 103 kn)
巡航速力: 98 mph (158 km/h, 86 kn)
航続距離: 500 mi (805 km, 439 nmi)
上昇限度: 12,000 ft (3,658 m)。
Fokker (USA) : Universal
Catalog #: 00066783
Manufacturer: Fokker (USA)
Designation:
Official Nickname: Universal
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives引用。
中間都市をつなぐ空の短距離急行 : 新鋭機相ついで配備さる : 飛行場も大拡張
東京朝日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 163
出版年
1937-04-14
神風機の輝く亜欧空路征服、世界新記録樹立によって漸く世界航空界に頭角を現した民間航空界も、先頃終了した第七十議会によって総額一千三百万円に近い膨大な逓信省航空関係予算が成立し昭和十二年度にはいよいよ世界に誇る航空施設を完備すべく未曾有の大躍進を遂げることになった
この予算は一般予算として九百五十万円、台湾総督府特別会計として八十六万円、更に定期航空補助金として特別会計が負担する六十七万円、別に航空無線関係として百七十三万円、合計約一千二百七十六万円に達する尨大なもの
この大予算をかかえて先ず第一に注目されるのは定期航空路の拡充と長年不備の不満を嘆じれられていた飛行場の増設充実等である、航空路は東京、大阪、福岡、京城、大連、新京の最も主要な幹線を始め数年前富山定期、近くは東京、札幌間の定期も開通したが、十二年には東京と新京とを約八時間でつなぐ空の超特急を始めこれと併行して京城、大連の超特急が計画されているがこの超特急が大都市の急速連絡を目的としているのと共にして別に地方都市を便利に連絡する幾つかのローカル線も開始される
この中には九州の各都市を結ぶ九州循環線、東京から福岡までの幹線沿線都市をもっと細かく連絡する意味の東京、福岡ローカル線などもあり、このローカル線によって静岡沼津、広島、岡山、その他の中間都市市民が蒙る便益は極めて大きなものであろう
一方斯うした定期航空の拡充によって発着の飛行場はいよいよ狭隘不足を告げるので沿線中最も重要な東京飛行場では予算成立まだ間もないのに既に敷地の買収を開始し今まで約六百メートル位しか使えなかった滑走路が二方に九百五十メートル、最大のところでは千二百メートルまでも使える様に堂々たる大飛行場に変る筈で、同時に兵庫県神津村の大阪第二飛行場も今秋までに完成、別に山口県に小月飛行場東京附近に教育専用の飛行場新設等も予定されている
現在東京福岡間に使用されているフォッカー機はローカル線に廻し、主要線には最新鋭機を整備する筈で既にダグラス[DC-2]全金属旅客機六機、中島式AT高速国産旅客機七機の注文が出て居り五月には最初のAT一機も完工、更にローカル線に使う高速の小型旅客機ビーチクラフト[C17-E]も最近第一期の竣工をみることになっている(中間都市をつなぐ空の短距離急行 : 新鋭機相ついで配備さる : 飛行場も大拡張引用終わり)
写真(右):1937‐1939年、オランダ、KLMオランダ航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:PH-AJU):;垂直尾翼には、1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に出場した場した時のレースナンバー44番が書かれている。この時、イギリスからオーストラリアのメルボルンまでの飛行時間は90時間13分で輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。
English: KLM Douglas Dc-2 op vliegveld Waalhaven
Date 1930s
Source 1930s picture (found online at www.inoudeansichten.nl)
Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Uiver (aircraft)
File:KLM Douglas Dc-2 op vliegveld Waalhaven.jpg引用。
飛行機へ、はい電報 : まず内台航路のダグラス機に十八日ごろから無電設備
大阪朝日新聞
Vol: 第 8巻
Page: 180
出版年
1937-05-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100192679
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
大空を飛行中の飛行機から地上へ、そしてまた地上から飛行中の飛行機へ電報が打てる−逓信省では新時代航空の実現と空の旅行者の利便のためにかねてから地上と飛行機間の電報取扱について調査中であったが、この度内地、台湾間の定期航空に就航中のダグラスDC二型優秀機『ふじ号』および『にいたか号』の無線電信設備を利用して空中電報取扱所を設置、いよいよ十八、九日ごろから開始することになった
この結果によって内地主要線、内鮮満線も使用機の優秀化を待って実施するはずであるが、この飛行機電報[radiotelegraphy]は料金や差出方などは大体船舶宛のものとほとんど同様である
この飛行機電報の取扱はわが国としては勿論最初のことであるが、外国でもドイツを除いてはあまり例のない新しい試みである(東京)(飛行機へ、はい電報 : まず内台航路のダグラス機に十八日ごろから無電設備引用終わり)
写真(右)1937年頃、飛行中の大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1937/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
台北航路に導入されました。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン 飛翔中のダグラス機 引用。
内台空路・毎日飛ぶぞ : 来月からダグラス六機就航
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 184
出版年
1938-03-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100188891
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
逓信省航空局では現在ダグラス[DC-2]機三台(内一台予備)を使用して一週に三往復している内台聯絡飛行を強化して毎日就航させようと追加予算二十六万円を提出して大蔵省と折衝中であったが、このほどその諒解を得、議会通過も確実視されているのでいよいよ来る四月の陽春から待望の内台間毎日就航を断行することになった、このために今まで就航していたダグラス三台のほかに同型三台が新たに凖備されるはずで南方生命線へ伸びる商業交通路の充実としてその開始を待たれている(東京)(内台空路・毎日飛ぶぞ : 来月からダグラス六機就航引用終わり)
写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、舗装滑走路に待機する日本航空航空輸送株式会社のダグラス(Douglas)DC2双発輸送機(乗客用14座席);機首に照明ランプ2個が付いているので、ランプのないDC-3輸送機(乗客用21座席)との判別は容易である。機体名称の記載も登録記号も描かれていない未塗装のみたいなので、1934年12月に輸入され、羽田飛行場で公開されたときに撮影した写真をもとに作成された絵葉書なのかもしれない。日本航空輸送(株)は、1938年末に政府の完全管理の国策会社「大日本航空」と名称を変更しているが、これは1937年7月7日の盧溝橋事件を発端として勃発した日中戦争が長期化し、より強力な国家総力戦体制を整備するためだった。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。
躍進の民間航空五年計画遂行へ航空輸送、陣容を整備
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 210
出版年
1938-06-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100135108
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
[写真(大谷登氏)あり 省略]
わが民間航空はいま新しき黎明期にある。そのわけは、日に月に進歩改良されつつある航空機に対し、従来の技術、設備及び人員が殆ど役に立たなくなったからである。即ち飛行機製造技術の発達が地上の諸設備の改良を遥に負い越してしまったからである。
第一に飛行場が狭い。空の港として最大を誇る羽田飛行場も僅に十六万坪で、目下二十二万坪に拡張計画中であるが、ここの滑走距離は八百メートルで、ダグラス三型[DC-3]やハインケル[He111]は殆ど八百メートル一杯に滑走する。
従って滑走距離は最小千メートルを必要とする航研機は世界記録樹立にあたって千メートル以上を滑走した、ダグラス機の発着不可能なため大阪飛行場は航空幹線からオミットされた。
更に、滑走路のある飛行場が一つとしてない。幅五十メートル、長さ八百米の滑走路を一本つくるには十二、三万円を要する。飛行機製作費を大体五十万円とすると、滑走路の十二、三万円を節約している為にいつも五十万円を危険にさらしているわけである。
夜間の照明設備は福岡にない従来の航空灯台の如きは余り役に立たなくなった、満洲にある盲目着陸設備は内地にない、甚だしきは飛行場にローラ一つない。
ないないづくしを挙げているわけではないが、従来の設備が全然役に立たなくなったことはこれで明らかであろう。
支那事変におけるわが空軍の活躍は必然的に航空予備軍としての民間航空の拡大強化を要請する。だが、現状のままではどうにもならぬ弱体ぶりである。
陸海軍をはじめ、民間航空の元締である航空局が躍起となって量と質の拡充を目論んでいるのはまことに無理からぬことであるが地上設備の改良増設といい、乗員の養成或は内外航空路の開設等何れも少からざる経費を伴うのみでなく、これに要する資材なども相当窮屈になって来ている今日、民間航空の進路は決して容易ではないと思われる。
永井逓相は先般の第七十三議会に航空機製造事業法と所謂永井航空五ケ年計画の所要経費を提出して、航空国策の辿るべき方向を明かにした
航空機製造事業法の目的はいうまでもなく、質の拡充にあるが、まず航空機製造事業を許可制とし、資本金三百万円以上年産能力小型機三百台以上、中型機五十台以上、発動機及びプロペラ三百台以上を許可条件として、最近における製造会社の濫立濫画傾向を制限し、許可事業に対しては一、土地収用法の適用二、所得税及び営業収益税の免除三、器具、機械及び材料の輸入税免除四、試作奨励金の交付、五、増資及び社債発行につき商法上の特例を認める等の保護助長をなすと共に、その反面において、販売価格その他につき統制的命令をなし、軍事上又は公益上の特別負担として、設備の拡張改良軍用機の製造、技術者の養成等に関し必要なつ命令をなし得ることになっている。右の[航空機製造]事業法は来る八月より実施せられる予定である。
航空五ケ年計画は総額二億数千万円に達する尨大なる計画で、中央航空研究所、航空機乗員養成所及び飛行場、航空路の増新設を目標とするものであるが、中央研究機関は別格として、その中心は飛行場の増設と人の養成に置かれている。
右五ケ年計画の第一歩は人の養成から開始されたが、それに附随して、ラジオビーコンの二百万円二ケ年計画も着々具体化され、本年度予算として百九十万円頭をだしている国際航空路の開設は東京−北京、東京−南京の二航空路が既報の通り開設される事になった
東京・北京のコースは東京、福岡、青島、天津、北京で、南京航路は東京、福岡、上海、南京の何れも命令航路で平年度は三百万円の補助金を計上する予定である。
その他新に予定せられている線は樺太線、南洋群島線等であるが、南洋群島線はわが南方政策の生命線ともいうべきもので、補助金予定額は三百七、八十万円である
さて、航空路の拡張、前進につれて航空輸送の独占会社である日本航空輸送がますますその独占を強化して国際に併行するか、或は又従来とかくの批評のあった日航の独占が破れて、新しき輸送会社が出現するか否かは、今後の興味ある問題であるが、突如として断行された日[本]航[空輸送]の陣容変更はこの問題に重要なる示唆を与えるものとして極めて注目されるのである。三十日の日航定時総会において社長原邦造氏が平取締役に引退し、新会長に大谷郵船社長、新社長に郵船ロンドン支店長斎藤武夫氏が就任することに決定した。
海と空、一応の聯絡は考えられることであるが、今回の寧ろ突飛とも思われる人事の経緯は、原前社長が健康の理由で辞任するに先立ち、後任推薦に関し、池田、郷両氏の意嚮を打診し併せて日航現在の行き詰りを詳述してその援助方を求めた。原氏は後任者として金融方面に相当顔のきく人を欲していた関係から大谷登氏の登場となったが、大谷氏はその腹心として斎藤氏の社長就任を要求し、遂に今回の如き大改革が行われるに至ったのである。
航空路線が将来益遠心的に拡充されんとしている時、しかも目前には東京・北京、東京・南京の両線が開設の機運に際会しているのに対し、現在の日[本]航[空輸送]の陣容は人的にも物的にもまことに貧弱を極めたもので、一千万円の資本金を以てしては到底将来の尨大なる拡充計画に対応することは不可能である。しかもこの時にあたってややもすれば日航独占の夢が破られんとしている形勢にあるので、急遽陣容を強化する必要に迫られたというのが真相のようだ
だが、既に有力なる一部では、腐った家を改造するよりも、新しい家を建てた方が得策であるとの意見が出ている位であるから改組後の日航と雖もその行手は多難を予想せられる。何れにせよ子会社の東京飛行機製作所の六倍増資(三百万円)を決行して、近く日航自体も大増資を敢行せねばならぬときに直面し、迎えられた大谷新会長が如何なる手腕を発揮するか、近ごろの見物ではある。【写真は大谷登氏】(躍進の民間航空五年計画遂行へ航空輸送、陣容を整備引用終わり)
写真(右):1939‐1941年、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス、サンタモニカを拠点としたアメリカン航空(American Airlines)ダグラス(Douglas)DC-3輸送機;胴体後方側面にアメリカン航空(American Airlines)の翼のロゴが描かれている。日本海軍も昭和飛行機にライセンス生産させ、「零式輸送機」として制式した。原型は1936年9月12日初飛行。
Douglas : DC-3
Catalog #: 00065540
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-3
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives引用。
⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-3輸送機を見る。
写真(右)1937年頃、沖縄本島、那覇飛行場、日本航空の格納庫前に駐機しているの大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「霧島」:日本航空会社は、ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を使って、沖縄本島那覇飛行場を中継地として、日台連絡(福岡・太刀洗−那覇−台北)旅客飛行が開始されたのは1936年11年1月1日からであった。を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
資料コード 02000324
ファイル番号 001-04
撮影時期 戦前
撮影対象地 那覇空港
備考 写真集那覇百年のあゆみ/写真番号333/P92/日本航空会社の手で那覇を中継とする日台連絡(福岡・太刀洗−那覇−台北)旅客飛行が開始されたのは昭和11年1月1日からであった。
配架コード 055-A-01
写真は, 郵政博物館文化財オンライン 日航機/ダグラスDC-2型引用。
ダグラス機(富士号)遭難 : 乗客ら十二名絶望か : 那覇西方の海上に不時着
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 64
出版年
1938-12-09
hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100084434
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
大日本航空会社[1938年までは日本航空輸送株式会社]の内台聯絡上り便ダグラスDC二型富士号(操縦士漆原滋、航空士堀四光機関士富樫彦三、通信士石原益雄)は乗客八名、貨物三百キロを搭載、八日午前六時三十六分分台北を出発、那覇に向う途中魚釣島附近で右エンジンに故障を生じたので機上SOSを発しつつ片舷飛行を続けたがついに及ばず、九時十四分那覇の西方二五〇キロ慶良間列島の久場島西方十キロの海上に不時着した、この富士号からの救援無電を接受した那覇無電局では直に救援の手配
をなし同地から寳運丸が十一時十五分現場五マイルの地点に達しついで寳山丸も現場に到着し附近海上を捜索したが、何物も発見せずとの報告あり、那覇無電局からは富士号に対し救助船が急航ししたから発見しやすいよう目標を作って置け、乗員、乗客ちりじりになるななどしきりに無電を発したが、[ダグラスDC-2]富士号からは何ら応答なく、機体はすでに海中に沈没したものではないかと見られ乗員ならびに乗客の安否は極度に憂慮されている(福岡)
機影を認めず
那覇からダグラス機遭難現場に急航した那覇水産試験場所属立花丸から午後一時半那覇無電経由大日本航空会社に次の入電があった「午後零時二十分現場に至るも機影を認めず」、なお航空会社では台北から空中捜査に出動したダグラス[DC-2]機筑波号から、午後時二寳山丸から同二十分何れも機影を認めずとの報告あり遂に絶望視きれるに至った(東京)
[図表あり 省略]
ダグラス富士号とは純国産の豪華機
遭難したダグラスDC二型「富士号」は昭和十一年春躍進航空日本のホープとして内台聯絡にデビューした純国産の快速巨人機で中島飛行機会社太田工場で建造された、発動機をアメリカから輸入しただけで他は全部純国産流線型オール金属製で、低翼単葉スーパーチャージャー付ライトテイクローン[Wright R-1820 Cyclone]七百十馬力空冷星型エンジン二基および可変ピッチプロペラを備えている、
客室は長さ八・三〇メートル、幅一・六五メートル、高さ一・一九メートル、容積は二四・三〇立方メートル、十四人分の座席があり、窓カーテン、刺激光線を避ける照明電飾、通風器、保温、防音装置など完備し安全率も乗心地も一〇〇パーセント、乗組員四名、旅客十四名で最高時速三四〇キロ、巡航時速三〇七キロ、飛行時間二千六百時間、飛行距離六十五万キロという素晴らしい性能をもつ豪華機である
[写真(遭難したダグラス富士号[DC-2])あり 省略](
ダグラス機(富士号)遭難 : 乗客ら十二名絶望か : 那覇西方の海上に不時着引用終わり)
⇒写真集Album:1930年代アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機を見る。
図(右):1930年代、英国航空インペリアルエアウェイズのハンドレページ(Handley Page)H.P.42大型輸送機のポスター;1930年11月14日初飛行のH.P.42大型輸送機は、運用開始は1931年6月、乗員: 4
定員: 旅客 24
全長: 28.09 m (92 ft 2 in)
全高: 8.23 m (27 ft)
翼幅: 39.62 m(130 ft)
翼面積: 278 m2 (2,989 ft2)
翼型: RAF 28
空虚重量: 8,047 kg (17,740 lb)
運用時重量: 12,700 kg (28,000 lb)
発動機: ブリストル ジュピター XIF 星型エンジン、365 kW (490 hp) × 4
最高速力: 195 km/h (120 mph)
巡航速力: 150-170 km/h (95-105 mph)
航続距離: 805 km。生産数は8機で、
第二次大戦初期の1940年には全機喪失した。
Imperial Airways Poster
Poster from the Don Thomas Collection. Mr. Thomas was a collector of aircraft memorabilia who donated several posters to the San Diego Air and Space Museum.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives 引用。
わが航空輸送陣愈よせ界の檜舞台へ : 国際協会へ加盟の見透し
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 5巻
Page: 89
出版年
1939-05-11
hdl.handle.net/ 20.500.14094 /010021420
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今議会を通過した大日本航空会社法案によってこの八月資本金一億円の国策会社として米国のパン・アメリカン社>[Pan American]、英国のインピリヤル・エヤウェーズ社[Imperial Airways]、ドイツのルフト・ハンザ社[Lufthansa]、イタリーのアラー・リットリオ社などとともに世界一流の航空輸送会社に飛躍する大日本航空会社では将来の発展のためには不可欠ともいうべきI・A・T・A(国際航空輸送協会[International Air Transport Association])加盟の手続きにつき昨年来フランスのエール・フランス航空会社>[Air France]を紹介社として猛運動を開始したところ本年三月取あえず仮入会許可の通知を獲得したが時局下各国の神経が昂ぶっている際なので同社の正式入会の可否を決議する今秋九月のニューヨーク総会の成行きは各方面で憂慮されていたが大日本航空が去る四月I・A・T・A加盟各国の航空会社に出した「ニューヨーク総会における支持を懇請す」との依頼状に対し早くも八ケ国の加盟会社から「支持引受けた」との返事が到達、乃木号の訪暹飛行、そよかぜ号のイラン親善飛行などの国際飛行の成果がここに見事に現れ、航空日本の世界的地位が一躍浮き出て来た
このI・A・T・Aの現在の加盟国は二十三ケ国、二十七会社で、欧洲では同協会に加盟していることが一つの信用条件となり、旅客もなるべくI・A・T・A加盟会社を選ぶといった現状で、わが大日本航空としてもその加盟が緊要のものであったが正式加盟には九月のニューヨーク総会で二十七社中の三分の二の賛成が必要だが、かくのごとく続々承諾の返事があり予定の三分の二たる「十八社の承諾獲得」も存外早く実現するものと見られ
ここに名実ともにわが国航空輸送事業は世界的水準に飛び上る訳である
斎藤日空社長談
最初は可なり心配していましたが、この分ならどうやら一、二ケ月以内に目的を達成出来そうです、現在の八社以外にイタリーのイタリー航空とドイツのルフト・ハンザは勿論大丈夫賛成してくれますし、ブラジルのコンドール社はルフト・ハンザ系会社ですし欧洲方面の各社中にも防共締盟国の勢力拡大とともに数社が好意を寄せてくれましょうからまず心配はありません(東京発)(わが航空輸送陣愈よせ界の檜舞台へ : 国際協会へ加盟の見透し引用終わり)
写真(右):1938年、イギリス、ロンドン郊外、クロイドン飛行場、英国航空インペリアルエアウェイズのハンドレページ(Handley Page)H.P.42大型輸送機とデ・ハビランド(de Havilland) DH.91 アルバトロス(Albatross)輸送機;1937年5月20日初飛行のデ・ハビランド(de Havilland) DH.91 は
生産数:7機(試作2機)
乗員:4 名(機長、副操縦士、通信士、客室乗務員)
乗客:22 名
全長: 21.8 m
全幅: 32.0 m
高さ: 6.8 m
翼面積:100.15 m2
空虚重量:9,630 kg
全備重量:13,380 kg
発動機:デ・ハビランド ジプシー・トゥエルブ 空冷レシプロ12気筒エンジン4発
馬力:525 hp(7,500 ft)
最高速力:362 km/h
巡航速力:338 km/h
航続距離:1,675 km
最大限界上昇高度:17,900 ft(5,455 m)。
Perma_001191 Permann Collection Image
DH91 and Handley Page HP42E Croydon--Permann Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1944年、カンタス・エンパイア航空(Qantas Empire Airways)のロッキード(Lockheed)モデル Model 14H-2 スーパー・エレクトラ(Super Electra)輸送機;アメリカのノースウェスト航空の発注で1938年に製造された機体だが、1941年からオーストラリアのカンタス・エンパイヤ航空でオーストラリア委任統治領の西部ニューギニア、ラエを中心に1944年まで、地方路線で使用された。
Creator: Unidentified.
Location: Queensland.
Description: This aircraft was built for Northwest Airlines in 1938. It was acquired by W R Carpenter for their New Guinea service in 1941. QANTAS took over the service and the aircraft in 1944. (www.edcoatescollection.com)
View the original image at the State Library of Queensland: hdl.handle.net/10462/deriv/137092
Information about State Library of Queensland’s collection: www.slq.qld.gov.au/research-collections
You are free to use this image without permission. Please attribute State Library of Queensland.
Date 1944
Source https://www.flickr.com/photos/statelibraryqueensland/46843725774/
Author State Library of Queensland
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 14 Super Electra File:Lockheed Model 14H-2 operated by Qantas Empire Airways.jpg引用。
航空局へ非難の声 : 相次ぐロックヒード機の椿事に非日本向性能問題化
中外商業新報
日本産業経済新聞
1939-05
やがて資本金一億円の国策会社として国際航空界に雄飛せんとしている大日本航空会社の大型旅客機ロックヒード球磨号の福岡における[1939年5月17日離陸失敗]墜落惨事は同社のダグラス富士号が昨冬台湾航路で遭難して以来僅半年の間に発生した二回目の事故のこととて各方面に深刻な衝動を与え同社ではかかる不祥事の再発を防止するため原因の調査に当っても特に厳重な態度で臨んでいるが、この[京城行L-14の]椿事をきっかけに大日本航空会社及び監督官庁たる逓信省航空局の責任追及の声が高まり注目を惹いている
その意見の主なるものを挙げるとロックヒード[L-14]機は空中性能は良好なだけに離着陸には非常にデリケートな所謂操縦上のコツがあり本年一月にも今回の墜落で惨死した池田操縦士が青島に於て離陸の際、同様の事故を惹起し飛行場建物の屋根に脚車を引かけて機体を大破した事件があった、
これは何れも離陸の最短距離を狙って急上昇を企てた為に浮力が乏しく失速状態となったという同様性質の事故と見られ従って日本の土地や気流に適した飛行機の製作が出来ないものか、また癖のある操縦士には再教育の必要はないか、飛行場[福岡雁ノ巣飛行場]拡張に本気で乗出すことは出来ないかというのが監督官庁である航空局に対する非難である
また大日本航空会社に対しては操縦士の少いために疲労が過ぎはしないか、現在の大日本航空会社の操縦士は自分と運命を共にする飛行機の点検を地上勤務員に任せきりにして置くが之は感心出来ないまた操縦士の将来を保証して不安なく仕事に従事せしめるようにしなくてはならないという飛行士の責任論と優遇案とである
(航空局へ非難の声 : 相次ぐロックヒード機の椿事に非日本向性能問題化引用終わり)
大日本航空ロックヒード(Lockheed)14-WG3B 球磨号(J-BCOZ)スーパーエレクトラ(Super Electra)は、アメリカから輸入した部品を組み立てたノックダウン方式の機体だったようだが、日本はこれを国産化として誇っていた。東京から福岡雁ノ巣飛行場に到着し、そこから1939年5月17日に日本領朝鮮の京城(ソウル)は、離陸する際に墜落事故を起こした。当時の機上の乗員は3名、乗客は8名で、自己の死者は、乗員2名、乗客4名の合計6名が犠牲となった。
福岡第1飛行場、すなわち雁ノ巣飛行場は、1936年に開港した「東洋一の規模」を誇った第飛行場である。極東の朝鮮、満州、台湾、中国方面への国際空港である。第二次世界大戦後は、アメリカ軍に接収された1977年までアメリカ軍が使用した。全面返還後の現在は、雁の巣レクリエーションセンターとして整備されている。
航空輸送振興へ国策会社設立手続開始
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 93
出版年
1939-05-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100076542
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
第七十四議会を通過した大日本航空株式会社法に基づく資本金一億円の航空特殊会社設立についてはさきごろ来逓信省で諸般の凖備を進めたいたがいよいよ実際の設立手続きを開始する運びとなったので田辺逓相は二十五日正午陸海両相その他関係各省係官及び阪谷、池田、結城氏らに財界有力者約八十名の同会社設立委員および賛成人候補者を東京会館に招待し午後会を催し各方面の協力方を懇請した席上逓相より世界ならびに東亜におけるわが国の地位に鑑み航空輸送事業振興の急務なることおよびこれが実現のため政府の保護のもとに一大国策会社[大日本航空]を設立する必要を力説尽力を乞う旨の挨拶あり、これに対し来賓を代表して阪谷男から挨拶あり午後二時散会した(航空輸送振興へ国策会社設立手続開始引用終わり)
3.中島飛行機太田工場
写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ軍機の空襲によって大破した中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。
09_03239 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。
1945年(昭和20年)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。中島知久平が起こした中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)は,創業以来、機体25,935機、発動機46,726基を生産した。
資源,労働力の不足、1944年後半からのと航空機製造工場の被爆という厳しい状況にあって,中島飛行機は、日本陸軍の新鋭戦闘機、四式戦「疾風」を3000機も量産した。一式戦「隼」の口径の制空戦闘機として、強力なエンジンを搭載した新鋭機が中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で設計・生産されたのである。
対照的に、中島キ-115「剣」特殊攻撃機は直線型の主翼と尾翼とを,円筒形の胴体に装着し,エンジンとプロペラを装備し,降着装置は離着後には,投下する簡易な体当り機だった。降着装置は、緩衝装置を含む支柱はあるが,車輪の引き揚げ装置は不要とされ,装備されなかった。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場の日本陸軍中島キ115特殊攻撃機と中島キ84四式戦闘機「疾風」の生産ライン;戦後、二度と出撃できないように占領軍は、武装解除とともに日本航空機のプロペラを外すことを命じた。日本軍はそれに従って、プロペラを外し、主輪をパンクさせた。火砲には白旗を掲げることも命じられた。
09_03243 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。
キ-115は1945年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が下った。中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で設計され、大手航空機メーカーで大量生産されえる予定だった特攻専用機中島キ-115「剣」は、トタン板のように簡素なつくりの飛行機で、離陸に使用した車輪は、飛行中に投下して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためである。エンジンは零式艦上戦闘機と同じ三菱「栄」1100馬力である。
中島キ-115「剣」の試作が命じられた1945年、日本は全軍特攻化が方針として決定され、中島キ-115「剣」は特攻専用機として位置づけられた。終戦までに115機生産されたが,実戦に使用されたことはない。
日本陸軍中島キ115特殊攻撃機「剣」は、尾輪は、橇式の簡易なもので固定式だが、主翼下面の主輪は、離陸後に切り離す投下式である。したがって、キ115は離陸後に主輪を投下したら、そのまま体当たり自爆することが前提になっており、帰投することは例外である。
⇒写真集Album:中島飛行機を見る。
4.中国のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機
写真(右)1935-1937年7月以前、中国、上海、黄浦江に面した外灘(バンド:埠頭)上空を低空飛行する中国航空CNAC(中國航空公司:China National Aviation Corporation) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の右側面:1843年、アヘン戦争終結後の南京条約で上海が開港され、1845年から中国の主権の及ばない租界が設けられた。そして、外灘には、1920年代から30年代にかけて列国の資本が進出して時計塔のある江海関(税関は外国支配下)など大規模な建築物が立ち並ぶようになった。郵便輸送に使用されたのか胴体後方側面に「郵」と記入されている。
China National Aviation Corporation: CNAC Douglas DC 2 flying over Shanghai
Creator: Sowerby, Arthur de Carle 1885-1954
Subject: China National Aviation Corporation
Type: Black-and-white photographs
Topic: Douglas DC-2
Local number: SIA RU007263 [SIA2008-2870]
Summary: On verso: "Compliments of China National Aviation Corporation, 51 Canton Road, Shanghai. Wings over Shanghai"
Cite as: RU 7263 - Arthur de Carle Sowerby Papers, 1904-1954 and undated, Smithsonian Institution Archives
Place: Shanghai (China)
Persistent URL:Link to data base record
Repository:Smithsonian Institution Archives
写真はSmugMug+Flickr, Smithsonian Institution 引用。
写真(右)1935-1945年頃、中国、未舗装飛行場で待機する中国航空CNAC(中國航空公司:China National Aviation Corporation) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「中山」の右側面:航空郵便輸送に使用されたのか胴体後方側面に「郵」と記入されている。
Douglas DC-2
Catalog #: 0399
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Douglas DC-2
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives 引用。
中国航空は、北京、上海、重慶、広州などの路線を運航していたが、1937年7月に日中戦争がはじまると、北京、上海、そして広州は日本に占領されてしまった。しかし、アメリカからの軍事援助を得て、重慶を戦時首都として、1945年8月まで日本と粘り強く戦い、勝利した。
写真(右)1941-1945年頃、中国、未舗装飛行場で待機する中国航空CNAC(中國航空公司:China National Aviation Corporation) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の右後方側面:航空郵便輸送に使用されたのか胴体後方側面に「郵」と記入されている。
Douglas DC-2
Catalog #: 0382
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Douglas DC-2
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives 引用。
写真(右)1942-1945年頃、中国、未舗装飛行場で待機する中国航空(中國航空公司:China National Aviation Corporation) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の右側面:航空郵便輸送に使用されたのか胴体後方側面に「郵」と記入されている。
Douglas DC-2
Catalog #: 0402
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Douglas DC-2
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives 引用。
写真(右)1935-1945年頃、中国、未舗装飛行場で待機する中国航空(中國航空公司:China National Aviation Corporation) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「中山」の右側面:航空郵便輸送に使用されたのか胴体後方側面に「郵」と記入されている。
Douglas : DC-2
Catalog #: 00065506
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives 引用。
写真(右)1941年、中国、舗装飛行場で待機する中国航空(中國航空公司:China National Aviation Corporation;CNAC) ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の右側面:航空郵便輸送に使用された。主翼左に「中國航空公司」、付け根に上面に「郵」、胴体上面に「CNAC」と記入されている。大きく記入されているのが、味方から敵機と誤解されて攻撃を受けないようにするためであろう。この中国のDC-2は日本軍機の攻撃によって、損傷し、破損した。そこで、外板を補修し、主翼の重大な損傷部分では、破棄されていた別のダグラスDC-3輸送機の主翼を切り離して、このDC-2輸送機に補強・接合して修理された。そこで、この機体は半分がDC3ということで、DC2-1/2・DC3と記載されている。
Catalog #: 00065530
Manufacturer: Douglas
Designation: DC-2
Official Nickname:
Notes:
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr, SDASM Archives 引用。
5.オランダのダグラス(Douglas)DC-2輸送機「ウイバー」Uiver(PH-AJU)
写真(上)2009年5月10日、ドイツ連邦、ブレーメン飛行場、駐機しているKLMオランダ航空のダグラスDC-2旅客輸送機「ウイバー」Uiver(PH-AJU):垂直尾翼には、1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に出場した場した時のレースナンバー44番が書かれている。この時、イギリスからオーストラリアのメルボルンまでの飛行時間は90時間13分で輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。照明灯2個を装備した機首はDC-2の特徴である。
English: A Douglas DC-2 with the registration PH-AJU at the airport of Bremen
Date 10 May 2009
Source Own work
Author Garitzko
写真は Wikimedia Commons, Category:Uiver (aircraft)
File:DC-2 PH-AJU.jpg引用。
1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)で、KLMオランダ航空ダグラス(Douglas)DC-2輸送機「ウイバー」Uiver(登録コード:PH-AJU)は、イギリスのミルデンホールから、指定寄港地バグダッド、アラハバード、シンガポール、ダーウィン、チャールビルを経由して、メルボルンまでの1万1,300マイル(1万8,200 km)を飛行時間90時間13分で飛翔した。そして、ダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。
写真(右)2009年5月、ドイツ、ブレーメン空港、着陸態勢に入ったKLMオランダ航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(登録コード:PH-AJU)復元機:1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に出出場した場したKLMオランダ航空所属のアメリカ製ダグラスDC-2輸送機(PH-AJU)は、レースナンバー44番、飛行時間90時間13分で、レース結果は、92時間 55分で輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。
English: Douglas DC-2 (PH-AJU) in flight at the Bremen Airport Flugtag
Date 10 May 2009, 12:41
Source _MG_4824 X
Author Björn Strey
写真は, Wikimedia Commons, Category:Douglas DC-2 "PH-AJU" at Aviodrome Lelystad File:Douglas DC-2 (PH-AJU) in flight at the Bremen Airport Flugtag (3519224016).jpg引用。
1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に出場した場したKLMオランダ航空所属のアメリカ製ダグラスDC-2輸送機「ウイバー」Uiver(登録コード:PH-AJU)は、レースナンバー44番、飛行時間90時間13分で、レース結果は、92時間 55分で輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。
写真(右)2017年8月31日、オランダ中部、アムステルダム北東70km、フレヴォラント州レリスタット(Lelystad)、アヴィオドローム(Aviodrome)航空博物館に保管されている KLMオランダ航空ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「ウイバー」Uiver(登録コード:PH-AJU)復元機:レリスタットは、1957年に造成されたフレヴォラント干拓地に建設された都市である。垂直尾翼には、1934年10月のマックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に出場した場した時のレースナンバー44番が書かれている。この時、イギリスからオーストラリアのメルボルンまでの飛行時間は90時間13分で輸送機部門で第1位で、総合部門では第2位となった。照明灯2個を装備した機首はDC-2の特徴である。
Description 20170831 025 Lelystad Aviodrome
Date 31 August 2017, 13:14
Source 20170831 025 Lelystad Aviodrome
Author Jac. Janssen from Baarlo lb, NL
写真は, Wikimedia Commons, Category:Douglas DC-2 "PH-AJU" at Aviodrome Lelystad File:20170831 025 Lelystad Aviodrome (36112115794).jpg引用。
ダグラスのライバル、ボーイングは、1957年12月20日にボーイング707を初飛行させ、1957年から1982年までに1,010機も生産したが、ダグラス社は1967年にマクダネル社に買収されて、そのマクダネル・ダグラスも、1997年にボーイング社と吸収合併されている。ボーイングは、1969年にボーイング747「ジャンボジェット」(500人乗り)を完成させ、1994年6月12日にボーイング777を初飛行させ、1445機も量産して大いに興隆したのである。
⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-3輸送機「ウイバー」Uiverを見る。
6.スイス山岳観光地のダグラス(Douglas)DC-2 旅客機
写真(右)1937-1938年、スイス南東部、エンガディン(Engadin)渓谷、標高1700メートルに位置するサメーダン (Samedan) 空港の氷上滑走路に着陸しタキシングするスイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-D, 登録コード:HB-ITA)と乗客たち:着陸したばかりなので、まだプロペラは回転している。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
Photographer:
Swissair
Zuschauer vor der Douglas DC-2 115-B, HB-ITA in Samedan
Caption:
Erste Landung einer Swissair DC-2 auf dem Flugplatz Samedan
Dating:
1937-1938
Is Part Of:
Winterbetrieb in Samedan, Winter 1937/38. Reportage mit ca. 110 Bildern (Auswahl digitalisiert, keine zusätzlichen Motive vorhanden) .
Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Reportage photography, Samedan, Snow, Aerodrome Samedan, Spectators
Impressum:
Physical Description:
Photography : nitrate-negative
Colour:
black and white
Format:
6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00843 引用。
サメダン(Samedan)の飛行場は、山岳地標高1,707mに位置するエンガディン渓谷、自然の中の河川沿い河川敷と氷結した湖沼の氷結した滑走路である。当時の大型輸送機ダグラスDC-2は、乗客14名・燃料を満載した全備重量18,560ポンド (8,419 kg)だったので、湖水氷結滑走路を利用できた。
サメダン(Samedan)には、山岳地と湖沼に面して、ゴルフ場、スキー場があり、四季を通じて楽しめる観光地だった。高級ホテルもあって、1935年には、ロンドン=サメダン間のダグラスDC-2輸送機による直行便が就航していた。
⇒写真集Album:スイス山岳観光地のダグラス(Douglas)DC-2 旅客機を見る。
7.アメリカ軍用仕様ダグラス(Douglas)C-39輸送機
写真(右)1939-1941年頃、アメリカ、カリフォルニア州オークランド(Oakland)飛行場、着陸態勢に入ったアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の軍用仕様C-39輸送機:主翼後縁のフラップが下がっている。引込み式脚を下し着地準備がなっている。オークランドは、サンフランシスコ対岸にある。
Description C-39 of the
Date 28 June 2007, 16:21
Source C-39landingOak
Author Bill Larkins
写真は,Wikimedia Commons, Category:Douglas C-39 File:Douglas DC2 Kyeema 1937 (nla.obj-144682466-1).jpg引用。
アメリカ陸軍航空隊が採用したダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機は、全部で35機が生産されただけだったが、DC-2とDC-3のハイブリッド型輸送機であり、のちのダグラス(Douglas)C-47軍用輸送機の先行生産型といえる設計だった。
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機は、DC-2民間輸送機よりも悪条件での戦場での使用を想定し、降着装置の強化、貨物室の強化と内装簡易化を図った。
民間旅客機DC-2は機首に照明灯2個を装備し、夜間着陸や夜間の運用の便を図っていた。しかし、DC-2軍用仕様のC-39輸送機は、照明灯を撤去している。その理由は、
1)敵から発見されやすいため、
2)量産性向上のため、
という2つの理由である。
⇒写真集Album:アメリカ陸軍C-39輸送機を見る。
8.DC2を手本にしたフィアット(Fiat)G. 18 輸送機
写真(右)1939年6月,ポーランド、ワルシャワ、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍フィアットB.50戦闘機(右上):フィアット(Fiat)G. 18 双発輸送機は、1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。ポーランド北部、自由市グディニア=ローマ航路の開設前。ワルシャワの空港で試験飛行中のイタリア機。
Polski: Przed otwarciem linii lotniczej Gdynia-Rzym. Samolot włoski podczas lotu próbnego na lotnisku w Warszawie
Date June 1939
Source
Ilustrowany Kuryer Codzienny. 1939, nr 162 (14 VI), s.
Narodowe Archiwum Cyfrowe (Sygnatura: 1-G-4143-10) (Polish National Digital Archive)
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Samolot włoski na lotnisku w Warszawie (1939).jpg引用。
フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)技師の設計で1935年3月18日に初飛行した。フィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを装備した原型3機が製造された。全金属製低翼機、引込み式降着装置を装備し、ダグラスDC-2に匹敵する斬新なデザインだった。
G.18は1937年2月26日に初飛行したが、発動機の出力が低かったため、換装してフィアットA.80空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基を搭載した発展型G.16Vが作られた。しかし、初期型G.16は3機、発展型G.16Vも6機が製造されただけだった。
フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機の空冷星形9気筒エンジンから18気筒エンジンに強化・換装した発展型が、フィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。G.18Vは、最高速力400 km/h (250 mph)、乗客用18席、航続距離:1,675 km (1,041 マイル)の高性能機で、アメリカのダグラスDC-2輸送機と比較しても遜色のない性能だった。
アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、全金属製、引込み脚式降着装置を備え低翼式で、1934年5月11日に初飛行した。1年後、1935年3月11日初飛行のイタリアフィアット(Fiat)G. 18は、アメリカで1年前に開発されたDC-2と前後反対の低翼形状(空力学的には同様の効果がある)、同じ構造の引込み式降着装置と尾翼を備え、スケールも似ている。フィアットG.18は、このダグラスDC-2輸送機の技術を取り込んで開発されたイタリア機であると考えられる。
ダグラス(Douglas)DC-2とフィアット(Fiat)G. 18 Vの比較
初飛行 1934年5月11日 1935年3月11日
全長: 19.1 m 18.81 m
全幅: 25.9 m 25.00 m
全高: 4.8 m 5.01 m
主翼面積: 87.3m2 88.3 m2
空虚重量: 5,650 kg 7,200 kg
総重量: 8,420 kg 10,800 kg
発動機:ライトR-1820サイクロン空冷星型9気筒(29.88 L) フィアットA.80空冷星型18気筒(45.72 L)
出力: 730 hp (540 kW) 1,000 hp(750 kW)
最高速力: 338km/h 400 km/h
実用上昇限度: 6,930 m 8,700 m
航続距離: 1,750 km 1,675 km
乗客座席数: 14人 18人
生産機数: 198機 9機
⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G. 18 輸送機を見る。
9.中島AT-2の手本ボーイング(Boeing)247輸送機
写真(右)1934-1938年頃、アメリカ、駐機しているボーイング(Boeing)247 輸送機の機首扉を開けて貨物を積み込む直前:ガラス風防は、内側に屈折しているタイプである。乗客は2列5名で各自にガラス窓がついている。2翅プロペラ装備の初期型。
Boeing : 247
Catalog #: 00061552
Manufacturer: Boeing
Designation: 247
Official Nickname:
Notes: On the ground
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1934-1938年頃、1935-1939年頃、アメリカ、アメリカ、オハイオ州クリーブランド空港の空港ビル前に駐機しているユナイテッド近くに駐機しているボーイング(Boeing)247 輸送機:ガラス風防は、内側に屈折しているタイプである。乗客は2列5名で各自にガラス窓がついている。乗客は、合計10名乗せることができる。
Boeing : 247
Catalog #: 00061571
Manufacturer: Boeing
Designation: 247
Official Nickname:
Notes: On the ground
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
ボーイング(Boeing)247輸送機は、全金属構造、引き込み脚の降着装置、低翼の最新技術を実用化した高速輸送機で1933年2月8日に初飛行した。当時は、金属骨格に木製あるいは羽布張、複葉、固定脚の飛行機が多かったことを思うと、民間旅客輸送機で、このような最新技術を実用化したのは、驚異的だった。
写真(右)1934-1938年頃、アメリカ、ユナイテッド航空ボーイング(Boeing)247 輸送機(NC13336)の右側:ガラス風防は、内側に屈折しているタイプである。胴体後方側面のロゴは、ボーイング社の名を入れたユーナイテッド航空のもの。
Boeing : 247
Catalog #: 00061566
Manufacturer: Boeing
Designation: 247
Official Nickname:
Notes: On the ground
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
ボーイング(Boeing)247輸送機は75機が生産された。ボーイング航空輸送(Boeing Air Transport)は、60機を採用し、ユナイテッド航空(United Aircraft Corp.)は10機を採用した。残りは、オランダ、ルフトハンザ、中国(個人)がが使用した。 ボーイング(Boeing)247 輸送機は、第二次世界大戦時でも少数がC-73軍用輸送機として、あるいは練習機として使用され、1960年代まで飛行可能な機体も残っていた。
写真(右)1933-1939年頃、アメリカ、ボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビン:宣伝用の撮影であろうが、乗客1名ずつに日除けカーテン付きのガラス窓が設けられている。座席には、ひじ掛けがついている。キャビンは狭いので、上部天井に荷物棚はないが、上部に小型荷物用のネット、側面に帽子掛けはついている。短時間、少人数の乗客のであっても、一流のサービスを好む金持ち用に若い美人女性のホステス(スチュワーデス)がついている。
Boeing : 247
Manufacturer: Boeing
Designation: 247
Official Nickname:
Notes: On the ground
Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00061578引用。
ボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビンには、乗客1名ずつに日除けカーテン付きのガラス窓が設けられている。客室キャビンの座席は、2列5行の10席が確保され、クッションとひじ掛けがあり、座席ベルトも備わっている。上部に小型荷物用のネット、側面に帽子掛けがついている。
⇒写真集Album:ボーイング(Boeing)247輸送機を見る。
10.イタリアのサヴォイア・マルケッティSM.83輸送機
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83三発輸送機:イタリアのセクターのさまざまなスタンドが設けられている。右から左へ、サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)、イタリアの水上飛行機会社(SIAI)、その奥にSM 79(Sparviero)三発爆撃機が展示されている。アドリア海の造船所。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Da destra a sinistra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), con in mostra l'aereo SM 79 Sparviero; Aeronautica Lombarda; Cantieri Riuniti dell'Adriatico.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_230引用。
サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79は、乗客席8席の高速旅客輸送機で、第二次大戦前から爆撃機として量産されていた。そこで、このSM.79を原型に、再度、乗客10席の高速旅客機としたのが、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83旅客輸送機で、1937年10月2-17日に開催された,ミラノ・航空展示会で展示され、世界に向けてイタリアの航空技術の優秀性を誇示した。しかし、実際に、SM.83が初飛行したのは、ミラノ航空展示会終了後の1937年11月19日である。
⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-79爆撃機を詳しく見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機
⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒ハインケル(Heinkel)He111輸送機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
⇒カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
⇒カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
⇒サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
⇒サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.18V輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
◆当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
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