◆日本最大の航空機メーカー中島飛行機
写真(上)1945年8月19日以降、日本、終戦後に連絡機として使用を認められ緑十字を付けた日本海軍航空隊中島 B5N2 九七式艦上攻撃機一二型(3号):初飛行1941年3月14日初飛行のB5N1は、光エンジン搭載だったが、改良型の九七式三号艦上攻撃機(B5N2)は、三菱栄エンジンを搭載した。1942年4月からは九七式艦上攻撃機一二型に名称変更された。 Nakajima, B5N, Kate
Catalog #: 01_00086095
Title: Nakajima, B5N, Kate
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Kate
Additional Information: Japan
Designation: B5N
Tags: Nakajima, B5N, Kate
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(上)1945年8月19日以降、日本、終戦後に鹵獲された無塗装の態の日本海軍航空隊中島 B6N 天山艦上攻撃機(Jill)
:1941年3月14日初飛行の十四試艦上攻撃機は、中島の護空冷星型14気筒エンジン1800hpを搭載したが、この光空冷星型9気筒エンジンの複列強化型は失敗作だった。 Nakajima, B6N, Jill
Catalog #: 01_00086119
Title: Nakajima, B6N, Jill
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Jill
Additional Information: Japan
Designation: B6N
Tags: Nakajima, B6N, Jill
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
1.中島飛行機の新聞記事
写真(右)1928-1934年頃、日本、中島三式艦上戦闘機A1N:1925年2月22日初飛行のイギリスグロスター ゲームコック(Gloster Gamecock)を原型に中島飛行機が開発し1927年12月初飛行。乗員: 1 名
全長: 6.49 m
全幅: 9.71 m
全高: 3.27 m
自重: 950 kg
全備重量: 1450 kg
発動機: ブリストル ジュピター6 空冷星型9気筒エンジン420 馬力
最高速力: 239 km/h
航続距離: 200 マイル
兵装: 7.7mm機銃×2、爆弾30kg×2。 Nakajima, A1N, Type 3 Carrier Fighter
Catalog #: 01_00086068
Title: Nakajima, A1N, Type 3 Carrier Fighter
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Type 3 Carrier Fighter
Additional Information: Japan
Designation: A1N
Tags: Nakajima, A1N, Type 3 Carrier Fighter
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
学習院へ赤い誘惑 : 女大出の党員検挙 : 凄腕・二十余名獲得
東京朝日新聞
Vol: 第 7巻
Page: 170
出版年
1933-11-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100285895
学習院内並に同校出身者の赤化を企てた指導者が意外にも東京女子大出身の女党員とわかり、警視庁特高課では極秘のうちに活動中一両日前神田の三省堂店頭において同女を捕えた、これは東京女子大出身の宮崎哲(二四)で宮崎竜介氏の親戚関係者と称している
同人は昭和五年より共産党に関係し例の赤色ギャング事件当時には盛んに暗躍していたものである
学習院に手をつけたのは新生共産党検挙前で同院出身の田口一雄をまず獲得し、それを手蔓に漸次学問の組織及び同院出身者の間に資金網を拡大して来たもので、同女の手記より赤い運動に投じた同院関係者は二十余名に及んでいる
同人は大学時代その講師たる某教授に誘いかけ、教え子が教授を運動の渦中に抱き込んだという事実もあり又一時は中島飛行機製作所の女工にまぎれ込み職工の赤化に努めた事も判明した
同人の身柄は目下杉並署に留置警視庁の野中警部が取調べている(学習院へ赤い誘惑 : 女大出の党員検挙 : 凄腕・二十余名獲得)
写真(右)1928-1934年頃、日本、中島九一式戦闘機:中島飛行機がフランスから招聘したアンドレ・マリー技師を中心に開発し1928年6月初飛行。乗員: 1 名
全長: 7.27m
全幅: 11.00 m
主翼面積: 20.0m2
自重: 1075 kg
全備重量: 1530 kg
発動機: 中島ジュピター7型空冷星型9気筒エンジン 520HP
最高速力: 320 km/h
航続距離: 700 km(2 時間)
実用上昇限度: 9000 m
上昇率: 5000/9'00"
兵装 機関銃 7.7mm機銃 ×2 。 Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646805 - Catalog:16_006974 - Title:Nakajima Army Type 91 - Filename:16_006974.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1930-1935年頃、日本、中島九〇式艦上戦闘機A2N:中島飛行機が機体、発動機ともに独自に開発し1930年初飛行。乗員: 1 名
全幅 9.37 m
全長 6.18 m
全高 3.20 m
自重 1,000 kg
全備重量 1,450 kg
発動機 寿2型 空冷星型9気筒エンジン580hp
最高速力 292 km/h
航続距離 270 マイル
兵装 機関銃 7.7mm機銃 ×2 、30kg爆弾 ×2。 Nakajima, A2N, Type 90 Carrier Fighter
Catalog #: 01_00086072
Title: Nakajima, A2N, Type 90 Carrier Fighter
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Type 90 Carrier Fighter
Additional Information: Japan
Designation: A2N
Tags: Nakajima, A2N, Type 90 Carrier Fighter
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円
掲載誌
東京朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 171
出版年
1935-06-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100124208
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
先に三十余万円の巨費を投じてアメリカから輸入した高速度輸送飛行機ダグラス単葉は綿密なテストを経て某方面に納入されたが、其頃から噂されていた内地での作製がいよいよ本決りとなって中島飛行機製作所で莫大な権利金を張込んでその製作に着手、この九月中旬には早くも最初の二台の試験飛行を行って早速日本空輸会社の内台聯絡輸送飛行に使用する予定になっている
しかし内地では未だ金属材料の補給が十分でないのでスーパージュラルミンやアルクラッドなどという軽金属は外国から素材のまま輸入して加工し発動機(ライト・サイクローン七百馬力)もアメリカからの輸入い待つというのだが
それでいて製作の権利金は八十万円所謂『ダグラス流』という言葉も生れた程劃期的な設計だけに設計図面一切の購入費だけでも二十万円と噂され関係方面でも内地製の実現を待望しているが技術家方面では『これだけの金を出せば作って見せる』と残念がっている【写真はダグラス機】
[写真(ダグラス機)あり 省略](日本でも製作 ダグラス機の権利八十万円也 : 設計図は二十万円引用)
写真(右)1934年12月-1935年頃、東京、羽田飛行場、メディアに公開された日本航空輸送のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機:主輪は、エンジンナセル後方に引き込まれ、飛行中の空気抵抗を減少することができた。ただし、主輪の三分の一は機外に露出しているので完全な引き込み式ではない。しかし、当時は固定客が常識だったから、このような引き込み式は斬新な技術だった。日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 輸送機を就航させた。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1934/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
登録記号がないことから、昭和9(1934)年12月に輸入され、羽田で公開された際の様子と推察される。DC-2は、機首に照明灯2個を装備している。
写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機の優秀さを評価した国策会社の日本航空輸送は、1934年にダグラス(Douglas) DC-2を採用することを決定し、中島飛行機に発注を出した。そこで、中島飛行機は、ダグラス社からライセンスを取得し、1936年2月にエンジンから機体構造まで部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で試作1号機を完成させ納入した。
中島飛行機は、1934年にダグラス(Douglas)DC-2輸送機をノックダウン生産し、6機を国策会社の日本航空輸送に納入した。日本航空輸送は、購入したED-2輸送機6機を就役させたが、日中戦争が長期化することが明らかになった1938年に日本陸軍によって徴用された。そして、日本力陸軍は、銀色無塗装だったDC-2民間輸送機に迷彩塗装を施して、中国大陸と日本との定期連絡空路に使用した。
写真(右)1937年頃、日本航空輸送(後の大日本航空)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、1938年12月に設立。
ダグラスDC2型14人乗り旅客機
1937/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
台北航路に導入されました。 写真は, 郵政博物館文化財オンライン ダグラスDC2型14人乗り旅客機 引用。
国策会社の日本航空輸送は、DC-2輸送機を採用することとし、1936年に国内航路、台湾航路に就役させた。日本が輸入したDC-2輸送機は8機で、機体固有名称として「富士」「新高」「霧島」「愛宕」「阿蘇」「金剛」「筑波」「伊吹」という山の名前が与えられた。DC-2は、新鋭の大型長距離輸送機として、福岡=台北など内地と外地(植民地の朝鮮・満州・台湾)を結ぶ長距離航路に導入された。
ダグラス(Douglas) DC-2輸送機は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、発動機は、アメリカ製ライト サイクロンSGR-1820-F空冷星形9気筒エンジン750馬力2基搭載、速力320km/hで、搭乗員4名、乗客14名を運搬できた。
⇒写真集Album:1930年代中島飛行機 ダグラス(Douglas)DC-2旅客機を見る。
絵葉書(右)1939年以降、日本植民地の台湾の台北と中国南部の廣東を結ぶ定期航路を就航した大日本航空(旧日本航空輸送)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機「新高」:大日本航空は、日本航空輸送を中核に日本の航空会社の統合した独占的国策航空会社で、日本植民地の台湾の台北と、新たに占領した中国南部の廣東を結ぶ定期航路を開設し、日本航空輸送の時代に採用したダグラス(Douglas)DC-2 (霧島号、富士号、新高号、筑波号、愛宕号、阿蘇号、金剛号、伊吹号)を就航させた。
Aeroplanes on Lydda Air Port
Reproduction Number: LC-DIG-matpc-17833 (digital file from original)
写真は, Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room >Aeroplanes on Lydda Air Port LC-DIG-matpc-17833 引用及びWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:LOT DC-2 LOC matpc 17833u.jpg引用。
ダグラス(Douglas DC-2)の諸元
乗員Crew: 2-3名 搭載乗客数Capacity: 14名 全長Length: 61 ft 11.75 in (18.8913 m)
全幅Wingspan: 85 ft 0 in (25.91 m)
全高Height: 16 ft 3.75 in (4.9721 m)
主翼面積Wing area: 939 sq ft (87.2 m2)
空虚重量Empty weight: 12,408 lb (5,628 kg)
総重量Gross weight: 18,560 lb (8,419 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)GR-1820-F52 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基 プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ金属製プロペラ(3-bladed variable-pitch metal propellers)
ダグラス(Douglas DC-2)の性能
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m)
航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機の発動機は、信頼性の高いライト(Wright)R-1820 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン730 hp(540 kW)で、既に1931年にライト社が開発、実用化し1933年1月30日初飛行のカーチス T-32 コンドルII(Curtiss T-32 Condor II)、1935年3月20日初飛行のグラマンF3F (Grumman F3F)、1935年4月初飛行のダグラスB-18 ボロ(Bolo)爆撃機、1935年7月22日初飛行のボーイングB-17 フライングフォートレス(Boeing B-17 Flying Fortress)など多数の機体、特に爆撃機が装備している。
⇒写真集Album:アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機を見る。
写真(右)1934年4月以降、日本、格納庫前に並べられた日本陸軍中島キ4九四式偵察機:1933年の日本陸軍の新型偵察機の試作要求に応じて中島飛行機が1934年3月に初飛行させた羽布張り複葉偵察機。乗員 2名
全長: 7.73m
全幅: 12.00 m
全高: 3.50 m
主翼面積: 29.70m2
自重: 1,615 kg
全備重量: 2,616 kg
発動機: ハ8空冷星型9気筒エンジン550hp
最高速力: 300 km/h
航続距離: 1,200 km
兵装:
7.7mm機関銃×3挺
爆弾50kg
生産: 383機 Nakajima, Ki-4, Army Type 94 recon
Catalog #: 01_00086145
Title: Nakajima, Ki-4, Army Type 94 recon
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Army Type 94 recon
Additional Information: Japan
Designation: Ki-4
Tags: Nakajima, Ki-4, Army Type 94 recon
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
下請制度の改善機械工業から着手 : 市が官民懇談会を開く
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 3巻
Page: 95
出版年
1935-08-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100133292
東京市産業局では今春来市立商工相談所をして市内中小工場の経営改善に関する相談指導に当らしめているが、これと共に右目的達成上の一方法として下請制改善に着目、これが実現を期して種々計画を進めていたところ、今回先ずその第一次的対象として、所謂非常時の最も切実なる影響下にあり、かつ各種産業の基礎的工業ともいうべき機械部門を選び、来る十四日午前十時半丸ノ内会館において官民合同の懇談会を開くこととなった
元来中小工場が大工場の下請作業に経営的基礎を置くことは汎ゆる工業において見られる常例であるが、機械工業においてはこの傾向が殊に顕著であり、従って下請制の改善を図るには大工場の協力に俟つこと多大なものがある
ここにおいて今回の懇談会においては左記の如く都下大工場の代表者を招待、各官庁の関係官列席の裏に発注の方針と方法、下請工場に対する材料の供給、工賃の支払納期、規格等に就き元請大工場より隔意なき希望を聴取し、これを不日開催の予定なる下請工場座談会に伝達、同時にまたこれが指導方針となさんとするもので、軈て来るべき当局の中小工場統制策の前提として、右懇談会の成行は刮目に価しよう、しかして当日の出席者は左の如くである
▽官庁側=陸軍整備局統制課長大村大佐、海軍省艦政本部第一課長原大佐、資源局厚東事務官、警視庁鈴木工場課長、商工省牧工務課長、協調会町田学務課長
▽工場側=池貝鉄工所、瓦斯電工、三菱重工業、東京機械製作所、中島飛行機、日本電気、日本光学工業、新潟鉄工所、自動車工業、大島製鋼所、日本特殊鋼、明電社、日立製作所、芝浦製作所、昭和製作所▽主催者側=荒木市産業局長、三村商工課長、海老沢勧業課長、沖塩商工相談所長(下請制度の改善機械工業から着手 : 市が官民懇談会を開く引用終わり)
写真(右)1935年9月以降、日本、飛行中の日本海軍中島E8N九五式水上偵察機:後退角のついた上翼と、全く後退角のついていない下翼を取り入れた設計が特徴で、木金混成のフレームに羽布張り構造1935年9月制式、日本海軍の戦艦、巡洋艦の艦上偵察機として太平洋戦争前半まで第一線で使用された。 Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Catalog #: 01_00086130
Title: Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Additional Information: Japan
Designation: E8N
Tags: Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(右)1935年9月以降、日本、デリックで海上から艦船に引き上げられる日本海軍中島E8N九五式水上偵察機:乗員: 2名
全長: 8.81m
全高: 3.84m (12ft 7in)
翼幅: 10.98m(36ft 0in)
空虚重量: 1,370kg
最大離陸重量: 1,900kg (4,180lb)
発動機: 中島寿二型改二空冷星型9気筒エンジン630hp
最高速力: 299km/h
航続距離: 898km
実用上昇限度: 7,270m
上昇時間: 3,000m/6分31秒
兵装: 7.7mm前方固定機関銃2挺、爆弾: 30kg爆弾2発 Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Catalog #: 01_00086126
Title: Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Additional Information: Japan
Designation: E8N
Tags: Nakajima, E8N, Dave Navy Type 95 Recon Seaplane
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
航空工業界 新鋭会社が続出!黄金時代来る : 世界一の風洞建設も計画 : 軍用・民間の大飛躍
東京朝日新聞
Vol: 第 3巻
Page: 182
出版年
1935-09-16 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100184271
軍用機の著るしい進歩、これに伴う新陳代謝率の増加、民間航空の大飛躍を前にして我国の航空工業界は近来非常な活況を呈し
三菱重工業、中島飛行機、石川島飛行機、川西航空機、川崎造船、愛知時計電機、東京瓦斯電気工業、渡辺鉄工所等の各社工場は戦場の如き繁劇を極め
年々巨額の生産高は更に増す一方というさながら黄金時代を現出しているが、最近新たに住友、古河、渋沢を資本系統とする[1934年に海軍機の生産を目的に創業された]日本飛行機株式会社が実現し先般来横浜市外杉田埋立地二万坪の敷地に三千余坪の大工場を建築中であったが、既に竣工して諸機械の据付けも殆ど終りいよいよ近日中に業務開始の運びとなった
同社の資本金は二百万円、社長は元海軍省経理局長の加藤亮一氏で取締役には西野恵之助、古仁所豊氏等の有力者がなり、製作技術方面は先頃まで川崎造船所の飛行機部長として鳴らした竹崎友吉氏が当り優秀国産機の創作生産に努める事は時節柄特に注目されている
なお同[日本飛行機株式]会社とは全然別個のもので我海運航空草分けの一人金子養三少将、元飛行大五聯隊長鈴木越郎大佐等の発起によって今一つの飛行機製作会社が計画されて設立準備を急いで居り、同会社は大抵の大型機でもそのまま実験し得る世界一の大風洞の建設を第一目標とするものであるといわれ、この外にも海軍機関大佐正田十吉氏も個人ではあるが東京市外三鷹村に飛行機製作工場を建設して着々業界に乗り出しつつあり、之等新進気鋭の出現によって我航空工業界は俄然色めき立って来た(航空工業界 新鋭会社が続出!黄金時代来る : 世界一の風洞建設も計画 : 軍用・民間の大飛躍引用終わり)
写真(右)1927年後半以降、アメリカ東岸カリフォルニア州オークランド(Oakland)からハワイ諸島までの東太平洋横断飛行に成功したアメリカ製フォッカー(Fokker)C-2三発輸送機トライモーター"Bird of Paradise":アメリカ海軍ミットランド(Lester Maitland)中尉とハーゲンバーガー(Albert Hegenberger)中尉は1927年6月9日にアメリカ大陸からハワイまでの飛行を成功させた。 Historic Flight Trans Pacific
Catalog #: 10_0015747
Title: Historic Flight Trans Pacific
Date: 1927
Additional Information: Oakland to Hawaii flight Fokker C-2 Hegenberger Maitland
Tags: Historic Flight Trans Pacific, Oakland to Hawaii flight Fokker C-2 Hegenberger Maitland , 1927
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1928年後半以降、アメリカ、飛行機格納庫に展示されているアメリカのアトランティック・エアクラフト製フォッカー(Fokker)ユニバーサル(Universal)単発輸送機:1928年3月初飛行のアメリカ製フォッカー・ユニバーサルは、日本航空輸送株式会社が、国内線用にフォッカー・スーパーユニバーサル(単発機)を採用し、内地と満州国・台湾の外地の連絡路線には、フォッカーF.VIIb-3mトライモーター三発機を採用した。 Fokker (USA) : Universal
Catalog #: 00066782
Manufacturer: Fokker (USA)
Designation:
Official Nickname: Universal
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!
掲載誌
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 3巻
Page: 185
出版年
1935-10-07 ID
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168571
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
内地台湾間の交通連絡に一新紀元を劃する内[地]台[湾]定期飛行は愈々来る八日から先ず郵便貨物取扱いを以て実施されることになった、逓信省航空局を始め日本航空輸送会社は二日後に迫ったこの大事業開始第一日に備えるため異常の緊張を示し諸般の準備に忙殺されている
既に途中寄航の那覇飛行場には会社から鵜野、黒木の両氏が派遣され地上勤務員四名を督励して格納庫や修理工場、ガソリンタンク等の整備に努めているが福岡から一千六百十キロを十時間で連絡する航空機の飛来を待って台湾の飛行場台北では浅香支所長と武田営業所主任とが五名の地上勤務員と共に離着陸各般の設備を急いでいるが、逓信省航空局を始め台湾総督府はまたあらゆる便宜を提供して、これを応援している
このほか途中海洋上の不時着陸揚鹿ノ屋島にも二名の地上勤務員が配され、それぞれ部署を固めた、またこの航空路線下に当る富江、厳原、鹿児島、那覇、台北の各測候所では航空無線の諸手配を既に終り洋上の気象観測を刻々に航空中の飛行機へ無電で通知する係員の配置を終り何時の飛来にも対応する用意は出来た、この劃期的な内台飛行の皮切りは大森操縦士、阿辺副操縦士、田代機関士、森通信士が乗務するフォッカー三発動機[Fokker F.VIIb‐3m]BJOBで同機は去る三日に東京から福岡飛行場へ空輸され入念な手入れを受けて晴れの飛行の日を待っている
同機には児玉拓務大臣と望月逓信大臣から中川台湾総督に宛てたメッセージを始め日本航空輸送会社社長から台湾の要路十四名に宛てたメッセージを積み、貨物としては既に予約されている松茸の籠詰や浅草海苔その他を始め大阪からは雀寿司百五十人分が今のうちから初乗り飛行に受けつけられている
かくて内台飛行第一回の飛行機は午前七時福岡を離陸し零時十分那覇に着陸、午後一時同地発で午後五時台北飛行場へ到着する、この間十時間で汽船が四日間を要するのと比較すると夢のような現実である、これが毎週一往復ずつ来る十二月まで行われる、来春一月からは大空の超特急ダグラス[DC-2]機によって旅客輸送が開始されることになる、この内[地]台[湾]連絡飛行は台湾文化の振興と産業開発に資するばかりではなく一方には南洋方面への交通伸展を助成する国際航空路の第一階梯ともなるもので各国からも注目されている(待望の台内間空路 あす処女大飛行 : 明春一月からダグラス機就航 : 空の新時代来る!引用終わり)
カラー絵葉書(右)1931年開業の満州航空株式会社「開業記念絵葉書」・1932年11月8日「日満航空郵便連絡記念」消印スタンプ、満州、新京(長春)飛行場、未舗装の草原滑走路に待機する満州航空株式会社所属の中島スーパー・ユニバーサル旅客機(M-105)の左前方・左後方側面・正面の3枚の絵葉書:アメリカ製フォッカー・スパー・ユニバーサル単発輸送機を輸入し、中島飛行機が国産化したのが中島スパー・ユニバーサル旅客である。壽(コトブキ)空冷星型9気筒エンジン480hp装備、乗組員(操縦士・機関士)2名、乗客6人座席、最大速力時速250km、巡行速力時速190kmとある。空気抵抗減少のための固定車輪カバーを設け、尾部は尾橇を装備。垂直尾翼に五色満州国旗を描いているので、満州国建国後の絵葉書とわかる。満州の建国理念は、日・韓・満・蒙・漢の五族協和であり、その民族を五色で象徴した五色旗が国旗とされた。1928年10月に、国家支援の下に設立された日本航空輸送株式会社は、日本国内、内地と外地(台湾、朝鮮、関東州)、満州国、中華民国との連絡路線を運営した民間航空会社で、事務所を設けて満州・内地の航路も設定した。1931年の満州事変終了後、満州航空株式が設立された。 『貴重 古い絵葉書 満洲航空 開業記念 繪葉書 絵はがき 飛行機 戦前 エンタイヤ 切手 大日本帝国 満州 記念スタンプ 写真は,aucfan 引用。
絵葉書(右)1937年頃、日本、東京、羽田飛行場、日本航空輸送株式会社所属のフォッカー(Fokker)スーパー・ユニバーサル(Super Universal)単発輸送機(民間登録コード:J-BCVO):1928年3月初飛行のアメリカ製フォッカー・スーパーユニバーサルは、日本航空輸送が購入して運行に使用しただけではなく、中島飛行機による国産化がなされ、日本陸軍が中島キ6九五式二型機上作業練習機として1935年8月に制式した。 English: Commemorative postcard showing Japan Air Transport (JAT) Nakajima Ki-6 transport.
日本語: 記念はがき、九五式二型練習機[写真は民間機で軍用仕様ではないのでフォッカー・スーパー・ユニバーサルの誤り]
日付 1937年頃
原典 historical postcard, personal collection
作者 不明. 写真は, Wikimedia Commons Category:Nakajima Ki-6 File:Shusuishi Aerodrome 1930s.jpg[→Haneda]引用。
1928年3月初飛行のアメリカのアトランティック・エアクラフト製フォッカー スーパーユニバーサル(Fokker Super Universal)は、中島飛行機がライセンス生産し、日本航空輸送株式会社で短距離の国内線路線で使用された。このフォッカー スーパーユニバーサル(Fokker Super Universal)民間旅客機としてれが好評だったために、日本陸軍は中島飛行機に対して、航法・偵察・機関などの訓練に用いる機上作業練習機仕様のキ6の試作を命じた。中島キ6九五式二型機上作業練習機の試作1号機は1934年3月に完成し、日本陸軍は中島キ6九五式二型練習機として、1935年8月に制式した。
中島飛行機がフォッカー・スーパーユニバーサルを原型に開発した中島キ6九五式二型機上作業練習機は、合計20機が生産された。生産機数20機のみなので、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式であろう。これら日本のフォッカー(Fokker)スーパーユニバーサル(Super Universal)、中島キ6九五式二型練習機は、発動機として、当初は輸入したブリストル ジュピター(Bristol Jupiter)空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)を搭載したが、後期型は中島ハ1寿二型)空冷星型9気筒エンジン(排気量24.1L)を搭載している。
⇒写真集Album:1930年代中島スーパー・ユニバーサル単発輸送機旅客機を見る。
カラー絵葉書(右):1937年、日本、機首に日本航空輸送のマークを付けた中島AT-2輸送機;大日本帝国郵便2+2円愛国のDC2切手に1937年(昭和12年)7月12日、航空ページェント
記念、盛岡の消印が押されている。中島AT-2は1936年9月12日初飛行。 Nakajima AT-2 (Ki 34), 1937. The postcard is stamped to commemorate a July 1937 “air pageant”. The Nakajima Aircraft Company, which had acquired the license-production rights to the American-made Douglas DC-2, began design work of their own in 1935 building a smaller twin-engine airliner for routes which did not have the capacity to justify use of the larger DC-2. The initial design was designated AT-1. After numerous design iterations, a prototype designated AT-2 first flew on 12 September 1936. The aircraft design was all metal except for the flight control surfaces, which were made of plywood. 写真は , OldTokyo Aircraft, Airline, Nakajima aircraf引用。
最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 67
出版年
1936-09-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100111384
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
【太田発】わが国航空界の一大躍進、国際航空路計画に伴いこれに備える使用飛行機が問題視されている折柄中島飛行機会社太田工場では米国のダグラス機を凌ぐ優秀な十人乗(飛行士一名、機関士一名、乗客八名)の[中島AT-2・九七式]純国産旅客輸送機の建造に成功した、同社明川、西村技師の設計によるもので十一日午後二時から尾島飛行場で逓信省南波、木目田両航空間立会、同所テストパイロット末松、高橋両飛行士によって試験飛行を行った結果極めて好成績を示した
純国産中島式[AT-2・九七式]高速度旅客輸送機は同社自慢の発動機『寿』二型六百馬力最新装備を誇る十人乗り旅客機 : 中島製作所で完成引用)
中島AT-2旅客機の諸元 1936年9月12日初飛行。 乗員: 2名、乗客: 8〜10名
全長:15.30 m
全幅:19.95 m
全高:3.90 m
翼面積:49.20 m2、翼面荷重:95.5 kg / m2
空虚重量: 3,500 kg、全備重量: 5,250 kg
発動機: 中島「寿」二型改(580馬力/試作機) / 中島「寿」八型(620馬力/量産機)
最高速力: 360 km/h
巡航速力: 300 km/h
航続距離: 1,200 km
上昇限度: 7,000 m
写真(右):1935−1938年頃、日本、中島キ34 九七式輸送機;日本陸軍が1937年4月に中島AT-2輸送機を原型に改修を指示、11月に審査完了。原型中島AT-2は1936年9月12日初飛行。 Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Catalog #: 01_00086158
Title: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Thora (Army Type 97 Transport)
Additional Information: Japan
Designation: Ki-34
Tags: Nakajima, Ki-34, Thora (Army Type 97 Transport)
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は、SDASM Archives 引用。
中島AT-2旅客機は、1936年9月12日初飛行、14人乗りダグラスDC-2輸送機の小型版で、コックピット形状はボーイング(Boeing)247輸送機に似ている。つまり、中島AT-2旅客機は、中島飛行機が独自に開発した8人乗り双発輸送機である。設計者はダグラスDC-2のライセンス生産を担当した明川清技師で、その名に因んでAkegawa Transport(AT)と命名された。
中島飛行機は、DC-2を小型化して、ボーイング(Boeing)247を参考にして、民間仕様中島AT-2輸送機、軍用仕様のキ34 九七式輸送機を開発した。中島AT-2輸送機は中島飛行機の独自開発の民間旅客機で、量産にまで至ったのは、まさに中島飛行機が日本最有力の飛行機メーカだった証しである。
中島飛行機は、中島AT-2旅客機を開発し、1936年9月12日に初飛行させている。そして、日本航空輸送、満州航空、大日本航空で採用され、合計33機が完成している。その後、日本陸軍が制式しキ34 九七式輸送機として中島で19機、立川飛行機で299機が量産された。
写真(右):1935−1938年頃、イギリス、飛行するエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy);初飛行は1934年6月で、引込脚を持つ当時としては近代的な航空機。乗員: 1名
乗客: 6名
全幅: 15.9 m
全長: 10.50 m
全高: 2.8m
機体重量: 2,930 kg
エンジン: アームストロング・シドレー チーターIX 空冷7気筒 350hp × 2
最高速力: 338 km/h
巡航速力: 309 km/h(高度2,230mでエンジン出力75%)
航続距離: 1,046 km(高度3,050mでエンジン出力62.5%)
上限高度: 6,858 m
Airspeed Catalog #: 00074643
Manufacturer: Airspeed
Official Nickname: Envoy 写真は、SDASM Archives 引用。
カラー絵葉書(右)1931年頃、日本航空輸送株式会社のエアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)輸送機と日本航空輸送株式会社格納所NO.1とNO.2:日本航空輸送株式会社はイギリスからエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy)を輸入して使用した。エアスピード AS.6 エンボイの初飛行は、1934年6月26日で、1939年までに52機が生産された。イギリス、オーストラリア、スペイン、フィンランドでも使用された。日本は1935年6月に2機を購入し、日本海軍がエンボイ輸送機(LXM1)と命名し使用、三菱飛行機は「ひなづる型旅客輸送機」として1936年から1938年に8機ライセンス生産した。 ■発行:日本航空輸送株式会社「旅客機絵葉書」
■刊行年:戦前
■解説:6枚(ビーチクラフトC17-E、中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル旅客機ほか)袋付 写真は,あかつき書房 絵葉書>日本航空輸送株式会社 旅客機絵葉書引用。
”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路
掲載誌
報知新聞
Vol: 第 4巻
Page: 101
出版年
1936-11-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100161306
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今秋から東京、大阪を中心に新しく国内四線を加えた我空の陣は一方航空国策による内容の充実と相待って更に十二年度に新線を増加優秀機の就航となり、名実ともに”航空日本”実現へ突き進む、来年度新線としてあげられるのは
一、東京−仙台−青森−札幌線
二、東京−静岡−名古屋−大阪線
三、福岡−長崎−熊本−鹿児島−宮崎−大分−福岡(九州一周)線
の三ローカル線並びに
四、東京−新京[長春]間急行線
の四つ、このうち東京−札幌線は来年三月を試験飛行に、四月から実施の予定である、この航空網充実と併行して来年度中に新しく建造される旅客機は
ダグラスDC二型機十四人乗六台、エンヴォイ[Envoy]機八人乗九台、ビーチクラフト[Beechcraft]機三人乗二十台、中島[AT-2]双発動快速機八人乗五台、合計四十台
の予定で、ダグラス[DC-2]機は現在内台聯絡に使用の二台と合せて八台、エンヴォイ[Envoy]機は合計十五台となるこれ等精鋭機の整備に従い現在第一線に活躍のスーパー機は予備機となり、各ローカル線にはビーチクラフト[Beechcraft]機が就航、東京−名古屋−大阪−福岡の幹線並びに内鮮聯絡にはエンヴォイ[Envoy]機を使用、
この結果各線ともいちじるしくスピード化され現在六時間を要する東京−福岡間は四時間に短縮、福岡−台北間はダグラス[DC-2]機四時間四十分であり、東京−台北間を一日に飛ぶことも可能となるわけである、東京−新京[長春]急行聯絡計画は来年六月から実施を目標に進められており、これには中島快速機が就航、東京を出発して米子(大阪飛行場の完備するまで)から日本海を横切り一気に京城に飛び奉天、新京とむすぶもので、この間約二千キロを八時間でしょう破しようというのだ
[図表(我空の陣)あり 省略]
以上のほか東海道ローカル線の延長として大阪−岡山−広島−福岡線、満洲への最捷路となる米子−清津(朝鮮)線等が明後年度予定線に上って居り、北海道−樺太線、日本海岸の東北線が加われば国内航空路はほとんど完備するわけである(凸版は我空の陣)(”航空日本”実現へ : 東京新京間二千キロを八時間 : 来年実施の快速路引用)
写真(右):1932−1938年頃、アメリカ、ビーチクラフト モデル17 スタッガーウィング (Beechcraft Model 17 Staggerwing)複葉輸送機 ;初飛行は1932年11月4日で、引込式降着装置を備え、食い違い式主翼2枚を持つ複葉輸送機。乗員: 1名
乗客: 3名
全長:8.15 m
全幅:9.75 m
全高:2.44 m
翼面積:27.54 m2
空虚重量:1,270 kg
最大離陸重量:1,928 kg
発動機:プラット・アンド・ホイットニーP&W R-985ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星型9気筒(排気量16.1 L)エンジン450hp
最高速力:341 km/h
実用上昇限度:6,095 m
航続距離:1,609 km
Beechcraft
Catalog #: 00060010
Manufacturer: Beechcraft
Designation:
Official Nickname:
Notes: Unidentified versions 写真は、SDASM Archives 引用。
カラー絵葉書(右)1931年頃、日本航空輸送株式会社のビーチクラフト モデル17 スタッガーウィング (Beechcraft Model 17 Staggerwing)複葉輸送機と日本航空輸送株式会社格納所NO.1とNO.2:日本航空輸送株式会社は、アメリカからビーチクラフト モデル17 スタッガーウィングを輸入して使用した。日本航空輸送株式会社は、1938年12月に国策として、特殊法人大日本航空株式会社へ改組された。 ■発行:日本航空輸送株式会社「旅客機絵葉書」
■刊行年:戦前
■解説:6枚(ビーチクラフトC17-E、中島フォッカー・スーパー・ユニバーサル旅客機ほか)袋付 写真は,あかつき書房 絵葉書>日本航空輸送株式会社 旅客機絵葉書引用。
東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進
掲載誌
東京日日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 133
出版年
1937-03-05 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100108337
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
今年の民間航空はわが国航空史上空前の飛躍をする、十二年度[日本興業銀行]の予算は六百五十万円であるが前年度から継続の既定事業費として約三百万円、更に三日衆議院予算第六分科会で四十万円追加予算として計上されここに航空予算は一千万円に達した勿論航空局としては決してこれで満足はしていない、けれども過去十数年間の航空予算が二、三百万円台に過ぎぬのを顧みれば驚くべき躍進が期待されてよいわけだ
現在友邦満洲国との航空連絡は東京−新京[長春]即日連絡が使用機の性能上不可能であったが本年六月から別に東京−新京[長春]間二千キロメートルを八時間で連絡する新京急行線が実施される、使用機はダグラスDC二型十四人乗、または中島AT[輸送機]八人乗の順航時速三百キロメートルの快速旅客機で東京を出発後大阪、京城、奉天の途中三ケ所に著陸するだけで新京[長春]に直行する予定であるが、本年内には大阪第二飛行場が完成せぬので大阪寄航は不可能のため福岡飛行場に著陸することに便宜上なるものと見られている、このため約三百キロメートル迂回コースとなるため約一時間多く東京−新京[長春]間は九時間の予定である
一方北支の航空路は恵通航空公司の旅客機が北平から山海関を経て大連で満洲航空会社の旅客機と連絡し、従ってわが国の日本航空輸送株式会社の旅客機にも連絡はしているが東京−北平間が二千六百キロメートルあるため即日連絡が行えずこのスピード・アップはわが国にとって頗る重要な問題とされていた、三日の衆議院予算第六分科会で追加予算として四十万円を急速連絡飛行実施経費として計上するに至ったのもこうした重要航空連絡であればこそだった
写真(右)1935−1941年頃、アメリカ、農地の上空を飛翔するデルタ航空(Delta Airlines)ダグラスDC-2輸送機(製造番号 cn 1308 :登録コード NC14275):発動機には中島光空冷星型9気筒エンジンを搭載。 Bilstein_00099 Douglas DC-2 cn 1308 NC14275 Delta Airlines
Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
計画案は[朝鮮半島]京城までは前述の東京−新京[長春]間急行線のダグラスDC二型機を使用し、京城−大連間六百キロメートルを中島AT型快速機で二時間で翔破し、大連において恵通航空公司の快速旅客機と連絡し北平−山海関−大連間五百余キロメートルを約二時間足らずで連絡、京城−福岡−東京間は約五時間であるから北平−東京間は僅に九時間で連絡されることになり、朝食を東京で取り夕食は北平、新京でということが実現されることとなるのであるからわが航空輸送史上画期的なことである、
この快速航空連絡は勿論日本航空輸送会社の手で実施されるのであるが同社ではこの急行航空連絡のため中島AT[輸送機]八人乗を五機、ダグラスDC二型十四人乗を六機注文して中島太田工場でその建造を急いでいる、即ち[中島]AT機は三月末までに一機四、五月中に残る四機が全部竣工する予定でまたダグラスDC二型機は五月五日までに一機五月末までに一機、以後十月まで毎月一機宛竣工せしめる予定である、本年六月を期して東京から新京、北平の二都へこれ等全金属製の国産快速旅客機が銀翼を輝かしながら雄飛する壮観さは想うだに嬉しい限りではないか
[図表あり 省略]
飜って国内航空路はというと、先ず本年四月一日から東京−仙台−青森−札幌の東北幹線航空路が開始される、本年末には試験飛行も実施する予定である、朝札幌飛行場を出発するフォッカー・スーパーユニバーサル[Fokker Universal]六人乗旅客機に身を託せば午後には東京丸の内の事務所に現れて事務を見ることも出来、又更に大阪まで一飛して大阪で夕餉を楽しむことも出来るようになる、札幌−大阪は北陸線経由で三十九時間余を要したのがこの航空路開通によって僅々九時間にして連絡する、札幌−東京間は急行列車によっても二十四時間余であるが航空機によれば四分の一の六時間に短縮される
その他東京−静岡(当分不寄航)−名古屋−大阪のローカル線が四月一日から正式に行われる、九州の循環線福岡を起点として熊本−鹿児島−都城−大分のローカル線も七月から開始されて、わが国定期航空路は実に一万キロメートルを突破する
以上の如くわが航空輸送界は空前の活気を呈して伸展跳躍の期にある、南へ伸びんとするわが翼の搏きの一日も早からん事を読者と共に待望するとしよう(東京−新京・北平へ六月から即日連絡 : 内地新空路も縦横に : 民間航空の躍進引用終わり)
写真(右)1945年8月以降、中国、終戦後に進駐したアメリカ軍と日本軍の搭乗員を前にした日本海軍零式輸送機(L2D2):昭和飛行機工業は、ダグラスDC-3輸送機をライセンス生産し1941年7月15日初飛行させ、430機量産。中島飛行機も71機を生産。乗員 5名、乗客 21名
全長: 19.705 m
全幅: 28.964 m
全高: 7.400 m
主翼面積: 91.7 m2
自重: 7,540 kg
全備重量: 12,500 kg
発動機: 三菱「金星」五三型 空冷星型14気筒エンジン1,300 hp2基
最高速力: 393 km/h
着陸速度: 125 km/h
航続距離: 3,270 km
上昇限度: 7,280 m
武装: 7.9mm機関銃1挺 Delta Air Lines took delivery of this DC-2 from American Airlines on 4th February 1940. After only one year in service with Delta Air Lines it was sold to the British Purchasing Commission going to the RAF as DG473 in April 1941. On June 1942 it was damaged beyond repair after war service in India.CNAC Pilots
Catalog #: 01558
Subject: The Flying Tigers - China
Title: CNAC Pilots--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
飛行機製作の一大会社創立 : 財界巨頭連が発起
大阪毎日新聞
Vol: 第 4巻
Page: 139
出版年
1937-03-20 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100212222
わが国民間の飛行機製作業は各国に比し著しく低劣なので議会でも航空国策確立の必要が熱心に叫ばれているに鑑み今回前三井鉱山会長牧田環氏が中心となって
原邦造、井阪孝、藤原銀次郎、橋本圭三郎、矢野恒太、古川虎之助、門野重九郎氏などをはじめ関西側の小倉正恒氏など
財界の巨頭が発起人となり一大飛行機製作会社[昭和飛行機工業株式会社]を創立することとなった、今月末か遅くも来月はじめには創立発起人会を開き計画を進めることとなったが右計画は
住友金属工業、古河電気工業が製作に要する素材を供給して積極的に援助することを約したばかりでなく、資本的に関東、関西の有力者をはじめ全財界がタイアップして支援し、既設の三菱重工業、中島飛行機製作所に拮抗しかつ世界的に数えらるるに足る巨大な民間製作所として発足するものでわが飛行機製作工業に一大躍進をもたらすものとして注目されているが計画内容は
名称 昭和飛行機工業株式会社(仮称)▲資本金 三千万円▲株式割当発起人と賛成人が大部分を引受け、一部を公募する▲事業内容 発動機ならびに飛行機の製作▲工場所在地 東京近郊
で当初資本は三千万円とするが今後基礎の完成を待ち巨額の増資をする予定である(飛行機製作の一大会社創立 : 財界巨頭連が発起引用終わり)
写真(右)1937年9月14日、日本、東京、羽田飛行場、東京帝国大学航空研究所設計の航空研究所長距離機(航研機):主翼は真紅に塗装されている。コックピットは埋め込み式で、飛行中に正面を見ることはできないが、離着陸時には仮設ガラス風防を立てて前方視界を確保する。
English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author:東京帝国大学(現・東京大学)附置航空研究所が独自に開発し1937年5月25日初飛行。1938年5月13日、第二次周回飛行のため、午前4時55分に木更津飛行場を離陸。5月15日までに周回飛行コースを62時間22分49秒で29周し、11,651.011kmと1万kmコース平均速度186.197km/hの世界記録を樹立した。 Description
日本語: 羽田で準備中の航空研究所長距離機(航研機)
English: Kōken Long Range Mono-plane preparing at Haneda
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author. 写真はWikimedia Commons Category:Gasuden Koken
File:Kōken Long Range Mono-plane 01.png引用。
写真(右)1937年9月、航空研究所長距離機(航研機):東京帝国大学航空研究所が設計し主翼は真紅に塗装されている。コックピットは埋め込み式で、飛行中に正面を見ることはできないが、離着陸時には仮設ガラス風防を立てて前方視界を確保する。
English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author:乗員: 3名
全長:15.06 m
全幅:27.93 m
全高:3.6 m
主翼面積:87.3 平方メートル
自重:4,225 kg
全備重量:9,200 kg
発動機:川崎 BMW 液冷V型12気筒ガソリンエンジン 800 hp
燃料消費率:180 g/PS・h
燃料総容量:7,500 L
最大航続時間:80 時間
航続距離:13,000 km
最高速力:260 km/h
巡航速力:180-200 km/h。 Description
日本語: 東京帝国大学航空研究所が設計した航空研究所長距離機(航研機)
English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author. 写真はWikimedia Commons Category:Gasuden Koken
File:Kōken Long Range Mono-plane 01.png引用。
航研長距離機飛出す : けさ五時五十八分離陸 : 悠々周回飛行を続く
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 52
出版年
1937-11-14 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100066580
世界の王座を狙って木更津で待機中の航研長距離機は十三日午前四時航続六十時間に耐えるガソリン五千リットル(六トン半)オイル三百リットルその他飲、食糧の積込みを終了直に記録審査委員長、帝国飛行航海井上少将によって高度計、燃料タンクの封印を行ったのち一時間にわたる地上運転を好調裡に終了藤田、高橋両パイロットは和田航研所長、陸軍航空技術研究所仁村中佐、松方大森ガス電気社長らに送られて爆音物凄く約千メートルの滑走の後五時五十八分朝靄をついて木更津飛行場を離陸、同六時三十二分記録作成上のスタートラインの銚子上空千二百米を通過、いよいよ航続世界新記録を目指す周回試験飛行のスタートを切った、この日午前六時風速十メートル絶好の航空日和となる=図の黒線は周回コース
[図表あり 省略]
通過記録
銚子 午前六時三十二分スタートライン銚子上空を飛行した航研長距離機は同七時十九分太田上空を旋回、同七時五十八分平塚を経て同八時四十七分銚子上空を通過す
太田 晴れのスタートを切った航研長距離機の勇士は十三日午前七時十九分群馬県太田町の上空に現われ、中島飛行機太田製作所屋上の飛行観測所に通信筒を落して旋回、第一回の挨拶を告げた
監視所の聯絡員一同は手を振って祝福これに応えた、大鷲さながら町の中央を大きくカーヴして南方熊谷方面指して高く飛び去った、太田通過時刻左の如し午前七時十九分▲同九時三十七分▲同十一時四十五分
平塚 航研機は午前七時五十八分三角コースの頂点平塚市の上空へ悠々巨翼を張って飛来引続き順調に三角点を飛続けているが午後二時までの平塚上空通過時刻は左の三回である
午前七時五十六分▲同十時十二分▲午後零時十五分(航研長距離機飛出す : けさ五時五十八分離陸 : 悠々周回飛行を続く引用終わり)
写真(右)1939−1941年頃、日本、太平洋戦争勃発前と思われる日本海軍航空隊中島 B5N1 九七式艦上攻撃機一号(一一型):発動機には中島「光」空冷星型9気筒(排気量32.6 L)エンジンを搭載。 Nakajima, B5N, Kate
Catalog #: 01_00086090
Title: Nakajima, B5N, Kate
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Kate
Additional Information: Japan
Designation: B5N
Tags: Nakajima, B5N, Kate
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(上)1945年8月19日以降、日本、終戦後に連絡機として使用を認められ緑十字を付けた中島 B5N2 九七式艦上攻撃機一二型(三号):発動機を中島「栄」一一型 空冷複列星型14気筒(排気量27.86 L)エンジン970hpに換装した。終戦後もアジア各所に点在する日本軍への終戦連絡飛行用に1945年8月19日から10月10日まで日本機を白色に塗装し緑十字を描いた連絡機30機程度の飛行がアメリカGHQから許された。 Nakajima, B5N, Kate
Catalog #: 01_00086092
Title: Nakajima, B5N, Kate
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Kate
Additional Information: Japan
Designation: B5N
Tags: Nakajima, B5N, Kate
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
工場スポーツより“日向ぼっこ第一” : 中島製作所から提唱
東京朝日新聞
Vol: 第 12巻
Page: 129
出版年
1938-10-09 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100107901
[写真(芝生に日向ぼっこしている中島飛行機製作工場の職乞うさん達と浅野均一博士)あり 省略]
非常時下工場労働者の体位向上のためのスポーツ体操の奨励が叫ばれ商店法実施による小僧さんの余暇使用法について云々されている折柄中島飛行機製作所附属病院長でかつて慶応大学陸上競技部黄金時代の中距離選手として知られた浅野均一博士が機械的な工場スポーツ奨励に反旗を翻し工場労働者休憩時間のスポーツ全廃論をこの程東京で行われた産業衛生協会総会席上、全国工場医師代表百余名の前で発表し併せて工場に緑地帯設置を提唱、これに日本労働科学研究所長暉峻博士も賛成し、産業衛生学界に大きな問題を巻き起こしている
即ち同博士は事変以来、過重労働による患者激増に鑑みて何よりも労働者の休養という点に着眼し同[中島飛行機荻窪]工場構内の野球、テニス、蹴球等の運動場を全部つぶしてクローバの緑地帯となし昼間五十分間の休憩時間のスポーツを厳禁して『この緑地帯に寝ころべ』という休養方針をとったところ非常時下にも拘わらず昨年九月来本年九月までに過重労働による患者が二割の激減という好結果を得たもので
八日正午荻窪の同工場の休憩時間に同所を訪れると、全労働者はさんさんたる秋の陽をあびて、クローバーの緑の中にのんびりねころんでいた、その中で浅野均一博士は語る
非常時下過重労働に加えて疲労を強める休憩時間のスポーツを全廃、この好成績を得ましたが私は労働時間外のスポーツを厳禁したわけではなく、労働時間外の休養をとった後のスポーツは奨励の方針で工場内の運動場は全廃しましたが九日から十一月三日まで三鷹の会社所有地三万坪に、勤労奉仕の運動場を設け、十分休養の後の運動をするつもりです、又工場体操について種々作業労働の種類に応じた興味ある体操を研究中です、機械的な工場スポーツ奨励に対する一つの示唆となれば幸いです(工場スポーツより“日向ぼっこ第一” : 中島製作所から提唱引用終わり)
写真(右)1943-1941-1942年頃、南方に配備されたと思われる中島キ43九七式戦闘機:。 Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Catalog #: 01_00086151
Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Additional Information: Japan
Designation: KI-27
Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1941-1943年頃、中国戦線、中華民国空軍に鹵獲された日本陸軍航空隊中島キ43九七式戦闘機:青天白日の中国空軍の国籍マークを描いている。 Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Catalog #: 01_00086148
Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Additional Information: Japan
Designation: KI-27
Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
航空機製造事業法で十四既設会社に許可
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 71
出版年
1938-12-27
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100190871
我国航空機工業の質的向上ならびに大量生産を目標として制定された航空機製造事業法は去る八月三十日をもって施行されたが、同法によれば既設会社といえども改めて事業経営の許可を逓信大臣に申請することとなっており、三菱、川崎その他の製造会社から続々許可の申請があったので逓信省では過般来陸海軍その他の関係方面と協議し
資本金三百万円以上、年産能力機体六トン以上、発動機およびプロペラー三百台を許可の標準として資格審査を行った結果、二十六日既設会社のうち左記十四社に対し許可を与うるに決定した
三菱重工業株式会社(斯波孝四郎)中島飛行機株式会社(中島喜代一)川崎航空機工業株式会社(鋳谷正輔)愛知時計電機株式会社(青木鎌太郎)立川飛行機株式会社(横山虎三郎)東京瓦斯電気工業株式会社(松方五郎)川西航空機株式会社(川西竜三)株式会社渡辺鉄工所(渡辺福雄)日本飛行機株式会社(堀俤吉)住友金属工業株式会社(春日弘)日本楽器株式会社(川上嘉市)昭和飛行機工業株式会社(牧田環)日本航空工業株式会社(寺田甚吉)株式会社石川島造船所(松村菊勇)(
航空機製造事業法で十四既設会社に許可引用終わり)
日本航空輸送株式会社は、1938年(昭和13年)11月に会社を解散し、国際航空が合併して新たに独占的な日本の国策航空会社として、大日本航空株式会社となった。そして、日本の地方航空を担っていた日本海航空株式会社、東京航空株式会社などもすべての航空輸送は、大日本航空が担うこととなった。大日本航空は、「株式会社」とはいっても、日本政府が丸抱えの国策会社であり、独占的国営企業である。
ダグラス(Douglas)DC-2を導入した日本航空輸送、その後の大日本航空の設立の背景には、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日中全面戦争の長期化が指摘できる。当初は、華北限定の「北支事変」と呼称されたが、8月には第二次上海事変が拡大し、1937年9月2日には「支那事変」と呼称が変化した。
事変というのは、戦争状態にあるとアメリカとの貿易・投資が制約を受けるための方便であって、事実上の戦争である。日本軍は、1938年初頭に中華民国(中国)の首都南京を陥落させたが、中国は奥地の重慶に遷都して徹底抗戦をした。中国は、イギリス、アメリカ、さらにはドイツ、イタリア、ソ連からも兵器を含む軍事物資を購入・輸入し、軍事顧問も迎えて、日本と戦った。そこで、日本は、中国大陸を海上封鎖する必要があると新たに戦線を拡張する戦略を採用した。これが、「泥沼の長期戦」に繋がったのである。
写真(右)1943-1945年頃、日本、中島キ43一式戦闘機「隼」II型:最新のジャイロ式照準器(Gyro computing gun sight)でも普及していた光像式照準器ではなく、旧式の筒型望遠鏡式の照準器を備えている。中島飛行機の小山悌技師を中心に開発し1938年12月12日初飛行1941年4月量産開始。生産数:5,751機。
Nakajima Ki43 II, P-5017, Chinese AF, China, c44-45 04340001
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1943-1945年頃、日本、中島キ43一式戦闘機「隼」II型:乗員: 1 名
全長: 10.837m
全長 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22m²
翼面荷重 117.7 kg/m²
自重 1,975kg
正規全備重量 2,590kg
発動機 ハ115 二式一一五〇馬力発動機(離昇1,150馬力)
プロペラ ハミルトン・スタンダード可変ピッチ3翅 直径2.80m
最高速力 536km/h/6,000m
上昇時間 高度5,000mまで4分48秒
実用上昇限度 10,500mないし11,215m
降下制限速度 600km/h
航続距離 3,000km(増加タンク装備)/1,620km(正規)
兵装 機首12.7mmホ103機関砲2門(携行弾数各270発)
爆装 翼下面30kg〜250kg爆弾2発。 Nakajima Ki43 II, P-5017, Chinese AF, China, c44-45 04340002
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
賃金統制に並行 : 労務需給にも対策 : 中央委員会きょう初の協議 掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 8巻
Page: 114
出版年
1939-05-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100146537
賃金統制令による初の中央賃金委員会は十五日午前十時から学士会館で開会、会長広瀬厚相以下各委員出席、劈頭広瀬厚相から
労働賃金の統制は極めて困難なる問題であり慎重なる態度をもって臨まねばならぬ難事であるが、軍需の充足、生産力の拡充を円滑に実行する上からもまた一般復興問題と不可分関係にあるところから考えてもぜひとも解決しなければならぬものである、また一面においては労働条件の需要なる要素たる賃金を統制することは労働界に至大の影響を齎し、ひいては国民生活とも重要なる関係があるのである、故にこれが運用には慎重の上にも慎重を期せねばならぬ
旨の挨拶があり、議事規則を決定後、藤原労働局長から賃金統制令ならびに賃金委員会官制の説明があって初給賃金に関する厚相諮問第一号「賃金統制令にもとづく未経験労働者の初給賃金決定のため適切なる基準を定むるに当り執るべき方針につきその会の意見を諮う」を提示、労働局長から諮問事項の主旨を説明して質疑応答に入り各委員から発言があったが特に
生産力拡充のためには労働賃金の統制も必要であるが同時に労務の需給統制に一段の努力を必要とする
旨の意見がもっとも有力に唱えられた、その他これに関連して従業者雇入制限令その他についての質疑があり、最後に参考として諮問第二号「時局下における賃金の現状および趨勢にかんがみ適正になる賃金統制の具体的方策につきその会の意見を諮う」を示して労働局長が主旨を説明、午後散会したが十九日午後一時半から厚生省会議室で第二回総会を開き引つづき諮問第一号を議題に討議することとなった
専門委員に十六氏
賃金統制令第十条による中央賃金委員会の専門委員は十五日左の十六氏が任命された
中西陸軍省整備局戦備課長、桑原海軍艦政本部総務部第四課長、佐藤日本製鉄株式会社労務課長、伊藤三菱鉱業株式会社労務部副長、伊藤日立製作所総務部長、砂野川崎造船所労務課長、西川産業連盟専門委員、富沢中島飛行機株式会社総務部次長、和田芝浦製作所厚生課長、渡辺株式会社住友本社労働課長、田坂東京自動車工業株式会社労務課長、中田日本石油株式会社考査課長、野田財団法人三菱経済研究所員、深川三井鉱山株式会社労務部長、近藤産業連盟常任幹事、森田全国産業団体連合会書記長
(賃金統制に並行 : 労務需給にも対策 : 中央委員会きょう初の協議引用終わり)
航空輸送振興へ国策会社設立手続開始
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 5巻
Page: 93
出版年
1939-05-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100076542
情報源/出処
新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)
第七十四議会を通過した大日本航空株式会社法に基づく資本金一億円の航空特殊会社設立についてはさきごろ来逓信省で諸般の凖備を進めたいたがいよいよ実際の設立手続きを開始する運びとなったので田辺逓相は二十五日正午陸海両相その他関係各省係官及び阪谷、池田、結城氏らに財界有力者約八十名の同会社設立委員および賛成人候補者を東京会館に招待し午後会を催し各方面の協力方を懇請した席上逓相より世界ならびに東亜におけるわが国の地位に鑑み航空輸送事業振興の急務なることおよびこれが実現のため政府の保護のもとに一大国策会社[大日本航空]を設立する必要を力説尽力を乞う旨の挨拶あり、これに対し来賓を代表して阪谷男から挨拶あり午後二時散会した(航空輸送振興へ国策会社設立手続開始引用終わり)
写真(右)1942‐1943年頃、日本、飛行する日本陸軍キ49中島一〇〇式陸上重爆撃機「呑龍」(" Helen "):1938年日本陸軍が、中島飛行機に戦闘機の護衛がなくても十分な防御力、速力を持つ重爆の試作を命じた。1939年8月ハ41を装備した一型試作機が初飛行、二型はハ109に換装。819機量産。尾部銃座に20ミリホ1機関砲を備え1941年3月に制式。 Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Catalog #: 01_00086200
Title: Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Additional Information: Japan
Designation: Ki-49
Tags: Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1942‐1943年頃、編隊飛行する日本陸軍キ49中島一〇〇式陸上重爆撃機「呑龍」("Helen"):乗員:8名
全長:16.81m
全幅:20.42m
全高:4.25m
主翼面積:69.05m2
重量:6,540kg
全備重量:10,680kg (過荷)11,090kg
発動機:中島ハ109空冷星形14気筒エンジン1,520hpx2
最高速力:492km/h(高度5,000m)
航続距離:2,000km (過荷)3,000km
上昇時間:5000mまで13分39秒
上昇限度:9,300m
兵装:20mm機関砲1門、7.92mm機関銃5挺、爆弾1,000kg Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Catalog #: 01_00086204
Title: Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Additional Information: Japan
Designation: Ki-49
Tags: Nakajima, Ki-49, Donryu ""Storm Dragon"" Helen ""Army Type 100 Heavy Bomber""
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
第十一条による融資近く実施の運び : 先ず飛行機・自動車業に 読売新聞
Vol: 第 19巻
Page: 102
出版年
1939-06-02 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100163223
国家総動員法第十一条中資金融通令の発動に照応して興銀内には既に臨時資金融通部の設置を見たが過般本年度物動計画も正式に決定し生産力拡充の促進は愈よ本軌道に乗るに至ったので近く右の資金融通令に基く融資を実施することとなる模様である、即ち資金融通令によれば「大蔵大臣は生産力拡充資金その他時局に緊要なる産業資金の供給を円滑ならしむるため必要ありと認むるときは日本興業銀行に対し資金の融通または有価証券の応募引受け若くは買入を命じることが出来る」こととなっているが差当りは大体左の如く主として軍需に依存する諸事業が融資の主たる対象となるものと見られ目下飛行機、自動車製造会社及びこれらの資材供給会社が考慮されているものの如くである、
興銀[日本興業銀行]当局としても右に関し詳細なる検討を加えとうへ目下満支視察中の入間野銀行局長が四月帰京するのを俟って打合せを行い近く資金融通審査委員会幹事会の開催を求め右融資の運用その他について万全の対策を樹立し資金審査委員会の承認を得たうえ大蔵大臣より正式命令を発することになる筈である、而して融資の主たる対象と見られる飛行機、自動車製造会社及びこれ等の資材会社としては
(一)先ず生産力拡充を最も効果的ならしむる見地よりしても三菱重工業、住友金属工業等財閥系軍需工業が考慮されているものの如く更にこれ等会社は一応その背景に該系統の金融機関乃至はシンヂケートを擁するとはいえ金融機関としての機能保持の立場からいえば現在までのところはともかく今後においてはこれら傘下の巨大軍需会社の拡張資金は寧ろこれを興銀の強制貸付に仰ぐ方が適当であるとされ又該財団でもこれを希望している
(二)たとえシンヂケート団があっても従来の関係から主として興銀[日本興業銀行]に資金供給を仰いでいる中島飛行機、昭和飛行機、東京自動車等は強制貸付の対象として最も適当と見られる
而して右の強制貸付を行う場合にしても物動計画との関係は最も重要であり資金は十分であっても資材、労働力を計画通り円滑に入手し得ない場合も起るものと予想されるのでこの点は関係当局も物動計画と睨み合せて慎重に検討することとなっているだけにこれが成功は甚だ注目される(第十一条による融資近く実施の運び : 先ず飛行機・自動車業に引用終わり)
写真(右)1978年頃、三菱零式艦上戦闘機五二型61-120号機:1944年3月、中島飛行機小泉工場の生産、製造番号5357。サイパン島の第261航空隊に配属されたが、1944年6月19日にサイパン島に上陸したアメリカ軍に鹵獲。アメリカ海軍護衛空母コパイでアメリカに送られた。その後、エドワード・マロニー氏が購入、創設したプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に展示。1970年代に飛行可能状態に整備。
1_00094653 Mitsubishi A6M5-52 N46770
Please tag this photo so information can be saved. .Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum. 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1939年9月2日、第二次欧州大戦勃発直後、中立国アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、三菱九六式陸上攻撃機改造の「ニッポン号」(G3M2):外翼内に容量1,400Lの燃料タンクが増設5,200L搭載。
English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university
Date 14 September 1937
Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売
Author Unknown author:東京帝国大学(現・東京大学)附置航空研究所が独自に開発し1937年5月25日初飛行。1938年5月13日、第二次周回飛行のため、午前4時55分に木更津飛行場を離陸。5月15日までに周回飛行コースを62時間22分49秒で29周し、11,651.011kmと1万kmコース平均速度186.197km/hの世界記録を樹立した。 Description As I have commented before I don't have time to write a text for all the photos that I post but this one does deserve an explanation. It is shown arriving at Oakland Airport, California, on September 2, 1939. A Mitsubishi G3M2 bomber converted for a long range world peace flight it was named "Nippon". When England declared war on Germany the next day the globe circling flight was almost canceled but by changing the route they did arrive back in Japan on October 20th after flying 32,846 miles in 55 days. I will post another photo of it being taxied into one of the hangars that shows the excellent construction at a time when we were being told by the press that the Japanese couldn't build anything good and that their pilots were born with a lack of balance so couldn't fly well
Date 12 September 2007, 20:08
Source Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939
Author Bill Larkins 写真はWikimedia Commons Category:Gasuden Koken
File:Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939 (4808938058).jpg引用。
研鑽に誉れあり空の技術者五人 : ニッポン記念長尾奨励金受賞者
大阪毎日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 121
出版年
1940-10-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100208680
[三菱96陸攻改造長距離輸送機]ニッポンによる世界一周飛行の完成を記念して制定された本社の「ニッポン記念航空賞」ならびに「ニッポン記念長尾航空技術奨励金」の光栄ある本年度受賞者は去る十六日に開かれた審査会で審査完了し既報のごとく本年度の「ニッポン航空賞」は該当者なく、長尾航空技術奨励金受賞者は[1934年設置]三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所服部譲次、久保富夫、中島裕、鬼頭秀三の四氏、中島飛行機株式会社東京製作所関根隆一郎氏で、受賞の栄を荷う人々は航空技術者として経験深き服部、関根両氏あり、新進気鋭の中島、鬼頭、久保の三氏あることは航空技術界に大きな示唆を与えるものがあるが、この授賞式は二十一日午後三時から東日五階大会議室で高石本社会長、奥村本社社長以下本社首脳部、奨励金提供の長尾欽弥氏、審査顧問委員諸氏、三菱重工業、中島飛行機両社代表列席の上挙行される
関根隆一郎氏
[写真(関根氏)あり 省略]
ニッポン記念長尾航空技術奨励金受賞者の一人中島飛行機製作所技師長関根隆一郎氏(四四)は
大正九年早大理工科卒業後直に海軍航空機試験所に入り間もなく同所からフランスに出張を命ぜられ約一ケ年半航空機に関する研鑽を積み同十五年中島飛行機会社に入社設計部長を経て最近技師長に昇進わが航空工業の躍進時代に当って若きエンジニヤ達を指導しつつ航空発動機の発明改善に努力している
[中島飛行機]東京荻窪の工場を訪れて喜びの報をもたらすと「全く予想もしておりませんでした、別にお褒めに預かるような功績もないと思っておりますが」と謙遜しながらつぎの如く語った
今後の航空界のどこから考えましてもより周到な計画に基づき単なる模倣や改良程度のものでなく日本独自の立派な発動機をつくり上げたいと思っております、老人めいたいい方ですが幸いに後進の若きエンジニヤたちも真剣な研究に精進しておりますから将来を期待していただけると思います
服部譲次氏
三菱重工業名古屋航空機製作所技術部長服部譲次氏は名古屋出身、本年四十八歳、大正七年東京帝大工科卒業後三菱神戸造船所に入り同十二年同名古屋航空機製作所設計課長、研究課長を兼ねている、授賞の報に語る
航空関係には二十数年携わって来ましたが私には何らの功労もなく常に優秀な同僚や課員とともにやって来たので私が授賞の選に当ったことは私の会社の設計課のティームが優秀だというわけです、私はこのティームのキャプテンとしてまあ優勝旗を貰いに行くようなもので光栄は私のものでなく私の課のものです
[写真(服部氏)あり 省略]
中島裕氏
三菱重工業名古屋発動機製作所技師名古屋昭和区御器所町北市場四七東郊園アパート止宿、中島裕氏(二九)は茨城県鹿島郡夏海村の生れ昭和七年神戸高工卒業後、三菱発動機に入社、まだ独身である、中島氏は語る
意外な名誉に驚きましたが現在各種補機装置の実験、特に飛行機故障の大部分を占めるといわれる気化器の完全研究に精進しています、今後飛行機の補機装置はますます複雑化して来るが一方操縦者は簡単な操作を要望しますから補機コントロールの簡易化はわれわれとして重要な問題である、一般人はとかく遠ざかりがちの科学に対し親しみをもって近代精密工業の認識を深めて航空日本建設に協力していただきたいと思います
[写真(中島氏)あり 省略]
鬼頭秀三氏
三菱重工業名古屋発動機製作所技師鬼頭秀三氏(二九)は名古屋市出身愛知工業を経て昭和九年名古屋高工機械科卒業後直に三菱発動機に入り同十年二月技師となった設計専門家である
同氏を名古屋市東区舟付町一ノ四三の自宅に訪うと「単に補機類の設計に当ったくらいの私としては表彰されるなど全く意外で面はゆいものがあります」
と嬉しそうに語った
[写真(鬼頭氏)あり 省略]
久保富夫氏
三菱重工業名古屋航空機製作所技師久保富夫氏は長崎市出身、昭和六年東大航空科卒業、直に三菱重工業に入社、設計課に勤める本年三十三歳の新進技術家で三菱で試作した数種の航空機の設計に従事した、同氏は語る
飛行機の設計は三菱入社以来十年近くなりますのでいろんなものをやりましたがこれといってお話するようなものも作りませんのに受賞とは全く恐縮です、この光栄を機会に今後一層御国のため航空界のために励みたいと思います
[写真(久保氏)あり 省略](研鑽に誉れあり空の技術者五人 : ニッポン記念長尾奨励金受賞者引用おわり)
写真(右)1942‐1945年、アメリカ軍が発見した日本海軍十三試双発陸上戦闘機を改造した中島二式陸上偵察機(J1N1-C:J1N1-R)):1941年5月2日初飛行。遠隔操作式銃塔が実用化できず、重量過大で長距離護衛戦闘機として不採用。1942年7月6日に二式陸上偵察機(J1N1-C:J1N1-R)として制式。 Nakajima, J1N, Gekko ""moonlight"" Irving ""Navy Night Fighter""
Catalog #: 01_00086144
Title: Nakajima, J1N, Gekko ""moonlight"" Irving ""Navy Night Fighter""
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Gekko ""moonlight"" Irving ""Navy Night Fighter""
Additional Information: Japan
Designation: J1N
Tags: Nakajima, J1N, Gekko ""moonlight"" Irving ""Navy Night Fighter""
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(上)1945年8月以降、アメリカ軍が鹵獲した日本海軍中島「月光」11型夜間戦闘機(J1N1-Sa):1943年5月に斜銃を搭載し、夜間戦闘機としてソロモン群島ニューブリテン島ラバウルに配備。その後、本土防空戦で活躍。全長:12.13m
全幅:17.00m
全高:4.56m
翼面積:40.0m2
自重:4,562kg
全備重量:7,527kg
最高速力:507.4km/h
航続距離:3,778km(過荷)
兵装:上向き20mm斜銃2挺、下向き20mm斜銃2挺。機首にレーダーを試験的に装備。 Nakajima J1N1 Gekko 'Irving' Nakajima J1N1 Gekko has the allied reporting name of 'Irving'
PictionID:43720989 - Title:Nakajima J1N1 Gekko 'Irving' Nakajima J1N1 Gekko has the allied reporting name of 'Irving' - Catalog:15_003835 - Filename:15_003835.tif - - - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Japanese Aircraft"----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
航空技術の誇り : 五氏に輝く長尾奨励金
東京日日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 120
出版年
1940-10-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100175140
[三菱九六陸攻改造]「ニッポン」による世界一周飛行の完成を記念して制定された本社の『ニッポン記念航空賞』並に『ニッポン記念長尾航空技術奨励金』の本年度受賞者は去る十六日の審査会の結果第一面社告発表の如く、本年度の『ニッポン航空賞』は該当者なく、長尾航空技術奨励金受賞者は三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所服部譲次、久保冨夫、中島裕、鬼頭秀三の四氏及び中島飛行機株式会社東京製作所関根隆一郎氏と決定した航空技術者として経験深い服部、関根両氏新進気鋭の中島、鬼頭、久保の三氏が受賞の栄を担ったことは航空技術界に大なる示唆を与えるものがあろう、この授与式は二十一日午後三時から本社五階大会議室において高石本社会長、奥村社長以下本社首脳部奨励金提供の長尾欽弥氏、審査顧問、委員諸氏、三菱重工業、中島飛行機両社代表列席の上挙行される
念願!日本独自の発動機 抱負を語る関根隆一郎氏
[写真あり 省略]
ニッポン記念長尾航空技術奨励金受賞者の一人中島飛行機製作所技師長関根隆一郎氏(四四)は大正九年早大理工科出身、卒業後直ちに海軍航空機試験所に入り間もなく同所からフランス出張を命ぜられ約一ケ年半航空機に関する研鑽を積み、同十五年正月中島飛行機会社に入社、設計部長を経て最近技師長に昇進、わが航空工業の躍進時代に当って若きエンジニアたちを指導しつつ航空発動機の発明改善に努力している、荻窪の工場を訪れて喜びをもたらすと
『全く予想もしておりませんでした別にお褒めにあずかるような功績もないと思っておりますが』
と謙遜しながら次の如く語った
『私たちの仕事は全くチームワークによるもので決して私個人の働きによるものではありません、私は野球チームでいえば監督のようなものです、功績がありとすれば、それはチームそのものの力によるものです、今回の受賞は誠に光栄に存ずると共に技術者としての責任のますます重大なことを痛感しております、今後の航空界の動向から考えましてもより周到な計画に基き単なる模倣や改良程度のものでなく日本独自の立派な発動機を造りあげたいと思っております、老人めいたいい方ですが幸いに後進の若きエンジニアたちも真剣な研究に精進しておりますから将来を期待して戴けると思います』
チームの功績 服部譲次氏談
[写真あり 省略]
三菱重工業名古屋航空機製作所技術部長服部譲次氏は名古屋市出身、本年四十八歳、大正七年東京帝大工科卒業後三菱神戸造船所に入り同十二年名古屋航空機製作所に転じ昨年六月技術部長となったもので現に同製作所設計課長、研究課長を兼ねている、受賞の報に語る
航空関係には二十数年携って来ましたが私には何らの功労もなく常に優秀な同僚や課員とともにやって来たので私が受賞の選に当ったということは私の会社の設計課のチームが優秀だというわけです、私はこのチームのキャプテンとしてまあ優勝旗を貰いに行くようなもので光栄は私のものではなく私の課のものです
”意外の栄誉” 鬼頭秀三氏謙遜して語る
[写真あり 省略]
三菱重工業名古屋発動機製作所技師鬼頭秀三氏(二九)は名古屋市出身愛知工業を経て昭和九年名古屋高工機械科卒業後直ちに三菱発動機に入り、同十年二月技師となった設計専門家である、家族は妻あい子さんとの間に順三君(六ツ)なお子ちゃん(四ツ)がある、同氏を名古屋東区舟附町一の四三の自宅に訪うと
『単に補機類の設計に当った位の私としては表彰される等全く意外で面映いものがあります』
と謙遜して語った
気化器の研究に精進 中島裕氏談
[写真あり 省略]
三菱重工業名古屋発動機製作所技師名古屋市昭和区御器所町北市場四七、東郊園アパート止宿中島裕氏(二九)は茨城県鹿島郡夏海村の産、昭和七年神戸高工卒業後三菱発動機に入社まだ独身である、氏は語る
意外な名誉に驚きましたが現在各種補機装置の設計、特に飛行機故障の大部分をしめるといわれる気化器の完全研究に精進しています、今後飛行機の補機装置はますます複雑化してくるが一方操縦者は簡単な操作を要望しますから補機コントロールの簡易化はわれわれとして重要な問題であり、また民間航空機の高度飛行は燃料節減や航続距離を延ばす上からもますますいろいろな補機研究が必要となって来ますが、一般人は兎角遠ざかり勝ちな科学に対し親しみを持って近代精密工業の認識を深めて航空日本建設に協力して戴きたいと思います
新進の技術科 久保富夫氏
[写真あり 省略]
三菱重工業名古屋航空機製作所技師久保冨夫氏は長崎市出身、昭和六年東大航空科卒業直ちに三菱重工業に入社、設計課に勤める本年三十三歳の新進技術家で今月はじめから台湾方面へ出張中である(航空技術の誇り : 五氏に輝く長尾奨励金引用終わり)
写真(右)1942年、日本、日本陸軍航空隊の中島 キ44 二式戦闘機「鍾馗」II甲型(Tojo)の右前方側面:高速で一撃離脱攻撃に使用する迎撃戦闘機として小山悌設計で1940年10月初飛行。二型は、ハ109(1,450 hp)搭載。 Nakajima, Ki-44, Shoki ""Devil Queller"" Tojo ""John"" Army Type 2 Single seat Fighter""
Catalog #: 01_00086192
Title: Nakajima, Ki-44, Shoki ""Devil Queller"" Tojo ""John"" Army Type 2 Single seat Fighter""
Corporation Name: Nakajima甲
Official Nickname: Shoki ""Devil Queller"" Tojo ""John"" Army Type 2 Single seat Fighter""
Additional Information: Japan
Designation: Ki-44
Tags: Nakajima, Ki-44, Shoki ""Devil Queller"" Tojo ""John"" Army Type 2 Single seat Fighter""
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1942年、日本、日本陸軍中島 キ44 二式戦闘機「鍾馗」II型(Tojo)の左側面:全長 8.84m
全高 3.25m
翼幅 9.45m
翼面積 15m2
空虚重量 2,106kg
全備重量 2,764kg
最大離陸重量 2,993kg
発動機 中島 ハ109空冷星型複列14気筒1,519馬力(1,117kW)
最高速力 605km/h(高度5,200m)
巡航速力 400km/h(高度4,000m)
失速度 150km/h
航続距離 1,200km
フェリー航続距離 1,600km
上昇限度 11,200m
翼面荷重 184kg/?
兵装 ホ103 12.7mm機関砲×2門(携行弾数各250発)。 Wagner Book
PictionID:6485608 - Catalog:01_00086189 - Title:Nakajima, Ki-44, Shoki 'Devil Queller' Tojo 'John' Army Type 2 Single seat Fighter' - Filename:01_00086189.TIF - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Seversky, Republic and P-47"----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.----SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
日中戦争が勃発した1937年、日本陸軍は、ソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機のような高速戦闘機に直面し、以前からあった対戦闘機の格闘性能を重視した軽戦闘機に加えて、重武装の高速迎撃機として、重戦闘機の必要性も認めつつあった。そこで、1938年に、陸軍は中島・川崎・三菱に軽戦と重戦の開発要求を出したものの、仕様については明確にされなかった。そこで、中島飛行機は、軽戦のキ43、重戦のキ44を同じ小山悌技師長の下に開発することとした。1939年の陸軍は、重戦闘機の仕様を、最高速力600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600kmと明示した。
キ44試作1号機の初飛行は、1940年10月で、580km/h/3700mの高速を発揮したが、旋回性能の悪さ、地上での前方視界の悪さ、失速度の速さのために、戦闘部隊から低い評価しか得られなかった。しかし、1941年12月に勃発した太平洋戦争では、マレー方面で試験的に実戦参加し、その高速と12.7mm機関砲の威力を評価され、1942年2月に二式単座戦闘機として制式された。その後、発動機をハ41(1,250hp)からハ109(1,500hp)に換装した二型が開発された。
フランスを敗北させたドイツを1941年1月に訪問した陸軍航空総監の山下奉文中将ら軍事視察団は、ドイツ空軍メッサーシュミット(Messerschmitt)Bf 109戦闘機を評価し、同機を購入した。1941年6月に日本に到着した3機のメッサーシュミット(Messerschmitt)Bf 109 E-7戦闘機3機は、各務原飛行場で審査され、中島キ44二式単座戦闘機とも模擬空戦を行った。その結果、キ44は、速力・加速・上昇力、格闘戦闘でBf109と同等以上と評価されている。
写真(右)1943年−1944年6月、日本近海あるいはマリアナ沖、魚雷を搭載した日本海軍航空隊中島 B6N 天山艦上攻撃機(Jill)
:手前に空母甲板の着艦制御索が張られている。 Nakajima, B6N, Jill
Catalog #: 01_00086106
Title: Nakajima, B6N, Jill
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Jill
Additional Information: Japan
Designation: B6N
Tags: Nakajima, B6N, Jill
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(上)1945年8月19日以降、日本、終戦後に鹵獲された主翼を折りたたんだ状態の日本海軍航空隊中島 B6N 天山艦上攻撃機(Jill)
:1941年3月14日初飛行の十四試艦上攻撃機は、中島の護空冷星型14気筒エンジン1800hpを搭載したが、この光空冷星型9気筒エンジンの複列強化型は失敗作だった。 Nakajima, B6N, Jill
Catalog #: 01_00086121
Title: Nakajima, B6N, Jill
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Jill
Additional Information: Japan
Designation: B6N
Tags: Nakajima, B6N, Jill
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
航空総監山下奉文中将 : 畑大将は軍事参議官へ
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 49巻
Page: 220
出版年
1940-07-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339071
東条[英機]陸相の後任たる[陸軍]航空総監には山下奉文中将が二十二日親補発令せられ、同時に畑前陸相は軍事参議官に親補せられた旨同日午後十時左の通り陸軍省から発表された
補軍事参議官 陸軍大将畑俊六
補陸軍航空総監兼陸軍航空本部長 陸軍中将山下奉文
補鎮海湾要塞司令官 陸軍少将大津和郎
[写真(軍事参議官畑大将)あり 省略]
[写真(航空総監山下中将)あり 省略]
東条[英機]中将の後任には寺内、杉山両大将のもとで北支現地軍の参謀長として大きな足跡を残した山下奉文中将が新に空軍錬成の最高責任の地位についた
山下[奉文]中将は東条[英機]陸相より一期下の十八期で、阿南[惟幾]陸軍次官、沢田参謀次長、稲葉東部防衛司令官、藤江陸大校長および山脇前陸軍次官、中島前参謀次長などと同期で本年五十六歳、土佐の出身、陸大を卒業、陸大兵学教官、オーストリヤ・ハンガリー公使館附武官(昭和二年二月—四年八月)第三連隊長を経て満洲事変後の建設時代に荒木[貞夫]陸相、柳川[平助]次官、山岡軍務局長の下で軍事課長(昭和七年四月—九年八月)として縦横の活躍をなした、
その後東条中将の後任として軍事調査部長(十年三月—十一年三月)となったがその後は中央部から転じてずっと第一線にあり、歩兵第四十旅団長(十一年三月—十二年八月)に転じ支那事変の初期には現地部隊長として郎坊、房山の戦闘で偉勲を樹て同年十二月中将に進級十三年七月から昨年九月まで現地軍参謀長として北支の戦局に活躍、続いて現地部隊長となり再び東条中将の後任として奇しくも二代目の航空総監の地位に親補せられた
軍事調査部長以来中央部から遠ざかっていた同[山下奉文]中将が五年振りに中央部に復活して第二次修正軍備充実計画のもとで飛躍時代にある陸空軍錬成の総元締となったことはその活躍が十分期待せられるであろう(
航空総監山下奉文中将 : 畑大将は軍事参議官へ引用終わり)
写真(右)1945年8月19日以降、日本、終戦後に鹵獲された日本海軍中島 B6N 天山艦上攻撃機12型(Jill)
:中島の護空冷星型14気筒エンジンを三菱火星空冷星形14気筒エンジンに換装した12型。小型の尾輪には、移動用のドリーをそう略している。 Nakajima, B6N, Jill
Catalog #: 01_00086114
Title: Nakajima, B6N, Jill
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Jill
Additional Information: Japan
Designation: B6N
Tags: Nakajima, B6N, Jill
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真はSDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive引用。
写真(右)1942年、日本、日本海軍十七試艦上偵察機、中島「彩雲」艦上偵察機(C6N):天山艦上攻撃機を参考に1943年初飛行、1944年前半に制式。乗員 3名、全幅 12.50m、全長 11.15m、全高 3.96m、翼面積 25.50m2、翼面荷重 176kg/m2、自重 2,908kg、全備重量 4,500kg、(過重)5,260kg、発動機 誉二一型空冷星形18気筒エンジン1,990hp、最高速力 609km/h(高度6,100m)、
上昇時間 6,000m/8分09秒、実用上昇限度 10,740m、航続距離 5,308km(増槽時)、兵装 7.92mm機銃1挺 Nakajima, C6N, Salun ""Painted Cloud"" Myrt
Catalog #: 01_00086122
Title: Nakajima, C6N, Salun ""Painted Cloud"" Myrt
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Salun ""Painted Cloud"" Myrt
Additional Information: Japan
Designation: C6N
Tags: Nakajima, C6N, Salun ""Painted Cloud"" Myrt
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は, SDASM Archives San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
2.中島飛行機太田工場
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。 09_03240 Pete Padilla Collection nakajima aircraft plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
1945年(昭和20年)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。中島知久平が起こした中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)は,創業以来、機体25,935機、発動機46,726機を生産した。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ軍機の空襲によって大破した中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。 09_03239 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(上):1945年9月以降、アメリカ、日本本土で鹵獲されアメリカに運搬された日本陸軍中島キ84四式戦闘機「疾風」(Frank);1943年4月初飛行、3500機量産。戦後に再塗装し主翼の20mm機関砲は撤去されている。4翅プロペラ直径が短いのは、主輪の脚が短いため。全長 9.92 m
全幅 11.24 m
全高 3.38 m
翼面積 21 m2
翼面荷重 185.24 kg/m2
自重 2,698 kg
全備重量 3,890 kg
発動機 ハ45-21空冷星形18気筒エンジン2,000hp
最高速力 624 km/h(高度5,000 m)
640 km/h(高度6,000 m)
航続距離 1,400 km(正規)、2,500 km(増加タンク)
兵装、20mmホ5機関砲2門(携行弾数各120発)、12.7mmホ103機関砲2門(携行弾数各250発) Nakajima Ki-84 Hayate 'Frank' Nakajima Ki-84 Hayate has the allied reporting name of 'Frank'.
PictionID:43720976 - Title:Nakajima Ki-84 Hayate 'Frank' Nakajima Ki-84 Hayate has the allied reporting name of 'Frank'. - Catalog:15_003834 - Filename:15_003834.tif - - - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Japanese Aircraft"----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1946‐1960年頃、東京都、アメリカ軍立川基地に展示されていた中島キ115特殊攻撃機「剣」;1945年1月20日試作開始、3月5日試作1号機完成。
全長:8.55 m
全幅:8.60 m
全高:3.30 m
重量:1,690 kg
発動機:ハ一一五/『栄』1基
出力:1,150馬力
500kg爆弾搭載時の最高速力は450km/h以下、航続距離は800 km以下と推測される。 Nakajima Ki115, Tachikawa AB, Japan, c48-50 03920003
Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
キ-115「剣」誕生秘話(1):青木邦弘技師の回想
私は、「キ-115 剣(つるぎ)」の主任設計者である。この飛行機は、その設計の真意が理解されないまま、始めから特攻を意図して制作された飛行機として、戦後いろいろと批判を受けている。したがって、この飛行機が問題にされる点は、技術上の極端な省略と見掛けの粗末さもさることながら、これを造った動機にあった。本機は一部の人がいうように、最初から特攻用として造った飛行機では決して無かった。----(1985年)
写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ機の空襲で大破した中島飛行機太田工場;鉄骨の骨組みは残っているが、外板は高熱で溶けたり、爆風で破損したりして外れてしまっている。 SDASM ArchivesFollow
09_03238 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、中島飛行機武蔵製作所、日本陸軍中島キ87戦闘機試作1号機;排気タービン過給機を備えた高高度戦闘機として1942年に開発が始まったが、開始1945年4月初飛行したが、エンジンと排気タービンの不調で試作1機のみ。
全長:11.82 m
全幅:13.423 m
全高:4.49 m
主翼面積:26.0 m2
自重:4,387 kg
全備重量:6,100 kg
発動機:中島 ハ44-12ル 空冷星型18気筒エンジン2,450 hp
計画最高速力:689 km/h
実用上昇限度:12,855 m
航続時間:2時間(行動半径800 km + 空戦0.5時間 + 余裕1時間) NakajimA Ki-87
Catalog #: 01_00085927
Title: NakajimA Ki-87
Corporation Name: Nakajim Ki-87
Additional Information: Japan
Designation: Ki-87
Tags: Mitsubishi, Ki-87
Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
中島知久平が起こした中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)に属した三鷹研究所の発足:青木邦弘技師の回想
戦局が次第に険しさを加えてきた昭和18年の秋、われわれ「[高高度迎撃機]キ-87」の設計チームは、[中島飛行機]太田製作所設計部の先遣部隊として、当時建設の始まって間もない三鷹研究所に転出した。この研究所は、将来中島の総合技術センターとする意図の下に建設されたと聞いていたが、とりあえずは試作工場として使用されることになった。
西は多摩霊園、南は調布飛行場に隣接し、面積約60万坪の広大な用地が充てられていた。偶然にも、昭和16年12月8日日米開戦と同じ日に鍬入れの式が行なわれ、約2年を経た昭和18年秋には、まだ武蔵野の名残りを止どめ人家が四、五軒点在する中に、 木造2階建ての建設事務所が一棟ポツリと建っているだけであった。
いつのころからか勤労動員による学生が配属されるようになり、設計室も次第に賑やかになってきた。中学生ぐらいの少年、少女たちから、高等学校級の男性や女性もいた。男子学徒は、すべて理工系の人たちで、女子学生でも上級生徒は部品図を引くのに役立った。また、[中島飛行機]太田製作所から転出の際、女子はすべて残してきたので、図面の複写、保管、その他の管理業務には、女子学徒が当ってくれた。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲で破壊された中島飛行機太田工場と燃料タンク車;工場の屋根は爆風のためか、吹き飛んでしまっている。 09_03236 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲で破壊された中島飛行機太田工場と焼けて破損した電柱;工場の残骸か、あるいは復旧しようとした跡か、手前には丸太が積まれている。 09_03234 Pete Padilla Collection nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、アメリカ機空襲で大破した中島飛行機太田工場;ここの量産ラインでは、中島キ115特殊攻撃機、四式戦闘機「疾風」が製造されていた。戦勝国アメリカの占領軍がこの太田工場を見分にやってきたときの撮影。 09_03237 Pete Padilla Collection nakajima plant layo worker ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場と玄関前のアメリカ軍のジープ;戦後に工場接取に進駐してたアメリカ軍の撮影になる。 09_03233 Pete Padilla Collection looking east nakajima plant ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、戦争末期に空襲で破壊された中島飛行機太田工場;戦後に工場接取に進駐してたアメリカ軍の撮影になる。 09_03235 Pete Padilla Collection tair of nakajima plant. Areas in foreground completely caged
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市のメインストリート;アメリカ軍のキャンプの東方に当たる太田市のメインストリートの様子。工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。 09_03225 Pete Padilla Collection Main street Ota Japan looking east towards Camp Bernard
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の市街地;太田市の裏通りには、木造住宅が残っている。工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。 09_03226 Pete Padilla Collection Look out tower in the background
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の赤ちゃんを背負った婦人;工場など軍事施設が第一の標的だったためか、太田市街の多くは空襲の被害を免れている。 09_03230 Pete Padilla Collection Typical Japanese women with kids atrapped to there back Ota Japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、空襲を免れた太田市の国鉄駅から荷物を運搬する馬車;太田市街の多くは空襲の被害を免れたが、燃料不足と徴発によって、自動車はほとんど使用できなかったために、荷馬車が活躍したようだ。 09_03249 Pete Padilla Collection Honey Cast at ota horse
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
資源,労働力の不足と航空機製造工場の被爆という厳しい状況にあって,簡単に量産できる航空機が必要となった。これが,侵攻してくる米軍を撃破できる航空機として中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で設計・生産された中島キ-115「剣」特殊攻撃機である。直線型の主翼と尾翼とを,円筒形の胴体に装着し,エンジンとプロペラを装備して,降着装置は離着後には,投下する。降着装置は、緩衝装置を含む支柱はあるが,車輪の引き揚げ装置は不要とされ,装備されなかった。出撃後は,飛行場上空で降着装置を投下して回収・再使用するつもりだった。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ115特殊攻撃機と中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、出撃できないように占領軍は、武装解除とともに日本航空機のプロペラを外すことを命じた。 09_03243 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
キ-115は1945年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が下った。中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で設計され、大手航空機メーカーで大量生産されえる予定だった特攻専用機中島キ-115「剣」は、トタン板のように簡素なつくりの飛行機で、離陸に使用した車輪は、飛行中に投下して別の機体に再使用する。これは、資材の節約と重量軽減のためである。エンジンは零式艦上戦闘機と同じ三菱「栄」1100馬力である。
中島キ-115「剣」の試作が命じられた1945年、日本は全軍特攻化が方針として決定され、中島キ-115「剣」は特攻専用機として位置づけられた。終戦までに115機生産されたが,実戦に使用されたことはない。
日本陸軍中島キ115特殊攻撃機「剣」は、尾輪は、橇式の簡易なもので固定式だが、主翼下面の主輪は、離陸後に切り離す投下式である。したがって、キ115は離陸後に主輪を投下したら、そのまま体当たり自爆することが前提になっており、帰投することは例外である。しかし、キ115が敵目標が発見できずに帰投・帰還するときは、爆弾を投棄し、胴体着陸をするしかない。その時のために、簡易な針金を使った人力の緊急の爆弾投下装置が設けられていたようだ。しかし、針金の素材も悪く、投下装置が機能しなければ、爆弾は投下できなくなり、爆弾を抱えたままの不時着は非常に危険である。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの中島キ115特殊攻撃機と進駐したアメリカ軍将兵の記念写真;降着装置の主輪は、着脱式だったが、写真では片方が外れているようだ。 09_03244 Pete Padilla Collection nakajima plant. Kamikaze plane L. to R. val lex and obien ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
中島知久平の中島飛行機製作所(後身の富士重工業、現スバル)で開発・量産されたキ115「剣」のデータ;
全長 : 8.55m,全幅 : 8.60m,全高 : 3.30m,主翼面積 : 12.40m2
全備重量: 2,630Kg,自量 : 1,640Kg,発動機 : 中島 ハ115 (1,150hp) X 1
最高速力 : 550Km/h,航続距離: 1,200Km,乗員 : 1名,武装 :なし,爆弾 : 250Kg X 1 or 500Kg X 1 キ−115は,特攻専用と考えられたため,迷彩塗装を一切施しておらず,簡素化,重量軽減を徹底していた。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ115特殊攻撃機と中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、出撃できないように占領軍は、武装解除とともに日本航空機のプロペラを外すことを命じた。 09_03242 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
キ-115「剣」誕生秘話(3):1944年末のB-29の来襲以降;青木邦弘技師の回想 太田では、すでに設計部門は解散したという知らせが入ってきている。[中島飛行機]太田工場は[キ84]疾風の、隣の[中島飛行機]小泉工場は[三菱A6M]零戦の主生産工場である。設計部を解散しても、部員の働く職場はいくらでもある。
それに比べて、三鷹研究所はキ-87の試作以外に仕事を持っていない。設計部門を解散すれば部員のみならず、全工場の仕事が事実上ストップすることになる。当時、この工場には勤労学徒のほか動労動員で召集された人々を加えると、二千人以上の人が働いているのである。いまは、だれもが何かをしなければならない非常時である。----いろいろ考え抜いたあげく、行き着いた先はやはり飛行機を造ることであった。
チームのメンバーは、いずれも戦闘機を専門にしてきた連中である。[キ27]97戦以来、中島代々の戦闘機製作によって継承されてきた伝統技術は、いやというほど頭にたたきこまれている。その基本だけを生かして、細かい技巧を一切省いたならば、いまからでも戦争に間に合う飛行機を設計できるのではなかろうか。[高高度戦闘機]キ-87が間に合わないなら、間に合う飛行機を造ってみようじやないか。「[キ115]つるぎ」発想の原点はこんなところにあった。
それにしても、ただ飛ぶだけでは意味をなさない。何か役に立つものでなければならない。[ボーイング]B-29の爆撃は相変わらず続いている。連日定期便のように、日本のどこかに現われ多くの都市が焼かれ、人々が殺傷されている。これを阻止できるものであれば最高であるが、それは技術の枠を尽した第一線戦闘機の仕事で、速成の飛行機の手に負える仕事ではない。このままで推移すれば、米軍はこの次に上陸作戦を試みてくることは必定である。すでにあちこちの海辺地域では、上陸に備えて陣地構築を始めているらしい。速成の飛行機が役に立つとすれば、そのときこそ最後の機会となるだろう。
われわれは、戦闘機の設計を専門にしてきた者の集団である。戦闘機の座標を離れて飛行機を考えることはできない。持ち時間からいっても小型機でなければならない。たとえ、戦闘機や軍艦には歯が立たなくても、仮にも飛行機と名がつく以上、輸送船団や上陸用舟艇を攻撃するくらいのことはできるはずだ。海岸に群がり奇せる[LST]上陸用舟艇のどまん中に、瞬発信管付きの大型爆弾を放り込むだけでいい。照準も何も要らない。命中させる必要はない。[LST]上陸用舟艇を転覆させたり衝突させる効果をあげて、大混乱を引き起こすことができればよい。あとは野となれ山となれ、トンボ返りに引き返してくるならば、操縦者の生還率も高いだろうし、機体の回収もできて反復して使用可能となる。
写真(右):1945年9月以降、群馬県、中島飛行機太田工場量産ラインの日本陸軍中島キ84四式戦闘機「疾風」;戦後なので、主輪はパンクしてへこんでおり、出撃できないように、武装解除されたために、プロペラも外されている。 09_03241 Pete Padilla Collection nakajima plant kamikayze Nakajima Ki-115 and KI-84 Ota japan
Pedro “Pete” Padilla was known as the dean of photography in his hometown of Calexico. At the end of World War Two her served under Douglas MacArthur in Japan, working in counterintelligence.
Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
空戦能力を除き、航続距離を短かくすれば、構造も装備も簡単になり、重量は軽く機体は小型で済む。身を守る手段はスピードだけとし、余力はすべてスピードの向上に充てる。それは---戦闘機から剥ぎ取れるものはすべて剥ぎ取り、構造も装備も極限まで簡素化した小型機ということに帰結した。そうなると、設計上も製作上にも面倒な問題は一切無くなる。そんな飛行機だったら、いまからでも間に合わせて造ることができるかもしれない。それをやるとすれば、戦闘機の構造を知り尽しているわれわれこそ最適なはずだ。やってみようしやないか。失敗しても元々である。ただし、このような話を皆が集まって論じ合ったわけではなかったが、同じ技術を持った若者たちが、同じ環境に置き去りにされ、何かしなけれぱならないと必死になって考えたとき、以心伝心だれいうとなしに、そこに一つの小型機のイメ‐ジが浮かんできたのである。(引用終わり)
⇒写真集Album:中島キ115「剣」特殊攻撃機(Ki-115)を見る。
写真(右):1945年8月7−12日、千葉県木更津基地、滑走路に移動中と思われる、海軍航空技術廠の設計、中島飛行機の開発になる日本海軍「橘花」特殊攻撃機;石川島重工業の開発したターボジェットエンジンネ20燃焼噴射推進装置2基を装備し、1945年8月7日、木更津基地で初飛行した。機関銃装備は想定せず、艦爆で部隊訓練をしていたのは、特攻機として生産される計画だったため。 Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""
Catalog #: 01_00086229
Title: Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Kikka ""Orange Blossom""
Additional Information: Japan
Tags: Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
写真(右):1945年8月7−12日、千葉県木更津基地、日本海軍中島「橘花」特殊攻撃機;全幅 10.00m
全長 9.25m
翼面積 13.20m2
自重 2,300kg
全備重量 3,500kg
最高速力 676km/h (高度6,000m)
上昇力 10,000m/26分
航続距離 680km (正規)
試作 2機
Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""
Catalog #: 01_00086231
Title: Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""
Corporation Name: Nakajima
Official Nickname: Kikka ""Orange Blossom""
Additional Information: Japan
Tags: Nakajima, Kikka ""Orange Blossom""--Repository: San Diego Air and Space Museum 写真は、SDASM Archives 引用。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機 ⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
◆当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
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