「懸賞論文優秀作品となった空将の戦争論」
◆正義と自由のための聖戦、自存自衛を目的とした祖国防衛戦争が主張されてきた。戦争は、理想世界建設のために、勇ましい英雄と戦士が活躍し、人類の叡智と技術の粋を集めた行為だったと信じられてきた。20世紀,戦争とは祖国防衛のための戦い,民族・家族のための戦いとして,戦争の大儀・正義,聖戦が語られてきたことに気づかされる。 戦争を望まなかった人々も、女性も子供も,戦争に巻き込まれた。にもかかわらず,いまだに,戦争は必要悪であり、戦争は必然的に繰り返されるものだとする戦争必然説が唱えられている。過去の戦争を誤解し,粉飾したりしながら,戦争の百年を完全否定あるいは完全肯定する単純明快な戦争俗説がもてはやされている。
◆田母神俊雄航空幕僚長は,浜田防衛大臣に軽率な行為を咎められ,更迭,2003年11月3日,定年退職とされたが,自衛隊最高級頭脳中枢の作成になる戦略論は,国家レベルの軍機で,表現の自由を名目に懸賞論文目当てに投稿,漏洩することは許されないのではないか。空将は,国家指導者・要人に対する発言の機会をもっていた。
◆空将補は,『月刊アップルタウン』(1999年4月号) ビック・トークで「日本の場合は、戦後の教育の問題もあると思いますが、第二次大戦に負けて、東京裁判以降、まず日本が悪い、もう一つは、国家、国が悪い、国民は常に善良だ、日本の国以外は、みんな、いい人ばかりで、いい国ばかりだという教え方をずっとしてきたのではないかと思います。-----現在のところ、大人の腕力(すなわち軍事力)が悪ガキの腕力より強いので国際社会の秩序が維持されていると思います。これが抑止ということなのです」と述べた。その上で「アメリカ自体が十九世紀の後半から第二次大戦が終わるまで、執拗に日本をいじめ続けた」と批判した。
◆田母神俊雄(2008)「日本は侵略国家であったのか」では,「大東亜亜戦争を----「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。」しかし,戦争の百年を振り返れば,戦争の本質は大量破壊・大量殺戮であり,正義の戦い,聖戦は正当化できない。「戦争は必然だった」というほど経緯は簡単ではない。
⇒自衛隊幕僚長田母神空将の戦争論
◆戦争の百年を見れば、戦争の大義が如何なるものであろうとも、破壊と殺戮を繰り返す戦争は、人類が自ら同胞に対して犯してきた愚行であった。戦争の写真・ポスターや新聞記事は、聖戦の認識を広めようとしたが,同時に愚行の表象ともいえる。戦争の百年、20世紀が辿り着いた先は、戦争は人類の生存と人間性に対する脅威であるという認識である。戦争は起こってしまったのではなく、人類自らが戦争を引き起こした。産業に支えられ,破壊と殺戮を行った。戦争の百年には、目を背けてはいけないもの、知っておくべきことが、見て取れる。ただし、我々の祖先も、私たち自身も加担した戦争を見つめるには、勇気と内省が求められる。
「沖縄戦ノート」
◆文部科学省2007年3月30日公表「2006年度の教科書検定」で、高校の地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決が「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついた。日本史では、沖縄戦の集団自決に関して「日本軍に強いられた」とした教科書7点が「命令したかどうかは明らかと言えない」と指摘された。
判断基準変更の理由 ?「軍の命令があった」とする資料と否定する資料の双方がある ?慶良間諸島で自決を命じたと言われた元軍人やその遺族が2005年に名誉棄損の訴訟を起こした ?自決命令の有無より住民の精神状況が重視されている。
岩波書店と大江健三郎氏は2007年4月4日に「元少佐側の主張のみを取り上げて教科書の記述を修正させる理由としたことは誠に遺憾で、強く抗議する」との文章を伊吹文部科学相に送付した。文科省は,12月26日「日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいる」とし教科書の訂正申請を承認した。
◆大江健三郎氏は,『沖縄ノート
』の中で次のように述べた。「新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、『命令された』集団自殺を引き起こす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長が、戦友ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく,沖縄におもむいたことを報じた。僕が肉体の奥深いところを、息もつまるような力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この守備隊長が、かつて『おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい』と語っていたという記事を思い出す時である。」
「沖縄ノート訴訟」ともいうが,沖縄の戦後を幅広く考察した1970年の著作は,ひめゆり学徒の生活,疎開,慶良間列島の海上挺進隊,チビチリガマ住民集団自決などの「沖縄戦ノート」ではない。が,ノーベル賞受賞作家の戦争判断は,著作発表後35年以上経って,政治問題化し,著作を読んでいない人の書評,所信表明も多数web掲載されている。
◆集団自決を命じたとの『沖縄ノート』の記述で名誉を毀損されたとして,集団自決訴訟(出版差止等請求事件,謝罪広告・損害賠償も含む)を起こした陸軍海上挺進隊第一戦隊長梅沢裕少佐(陸士52期),第三戦隊長赤松嘉次少佐(陸士53期)側は,2008年3月28日の大阪地方裁判所第9民事部の一審判決で棄却された。
判決「沖縄の座間味島および渡嘉敷島の各守備隊長であった元軍人が住民に集団自決を命じたという記述及びこれを前提とした意見,論評の記述のある書籍について,元軍人及び遺族が,同書籍を出版し又は執筆した被告らに対し,同記述は虚偽の事実を摘示したものであり,元軍人は名誉,人格的利益を侵害され,遺族は亡元軍人に対する敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を侵害されたと主張して,損害賠償及び謝罪広告の掲載を求めた事案において,上記書籍の記述どおりの元軍人の命令を認定することはできないが,同命令があったことを真実と信じるについての相当の理由があったものと認められるなどとして,上記請求が棄却された」。
◆2008年10月31日,沖縄集団自決訴訟の二審大阪高裁判決でも、一審・大阪地裁判決を支持,集団自決命令は捏造とした請求を退け、控訴を棄却した。 判決理由:集団自決に「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」。守備隊の最高指揮官の公言した言葉(放言)は,軍民に尊重され,命令と同じ効力があった。
◆沖縄戦の海上挺進隊の被害は,座間味島の第一戦隊は,第一中隊長伊達達也中尉(陸士57期)・第二中隊長阿部直勝中尉(陸士57期)・第三中隊長津村一之中尉(陸士57期)を含め戦死70名。梅澤隊長は捕虜になった。第二戦隊は,第一中隊長大下真男中尉(陸士57期)を含め戦死41名。野田義彦少佐(陸士52期)は捕虜となった。渡嘉敷島の第三戦隊は,戦死22名。赤松隊長は捕虜になった。 このような沖縄戦の戦死者・捕虜,歴史的背景は,集団自決を考える際に重要である。
◆1945年,沖縄本島の「学徒出陣壮行会」が,沖縄女子師範学校の女学生が参加して開催された。宮良英加の答辞:「私は,徴兵検査が繰り下げになって,19歳から入隊しなければならないということを聞かされた時,頭の先からつま先にかけて,鉄の棒を突き刺されたようで,非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには,一度は生徒を教えてみたかった。----しかし,いったん戦場に出たからには,生きのびて帰れるとは思えない。女の人は,男子より助かる機会が多いから,生き残ったら必ず伝えて欲しい。戦争は非常なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということを,のちのちの人に伝えて欲しい」(宮良ルリ『私のひめゆり戦記』pp.73-75引用)。
「いのちへの希求」
◆戦時中、日本軍の将官は、部下に対して一度も「降伏命令」を出したことがなかった。大元帥昭和天皇の聖断が、降伏命令として唯一のものである。太平洋戦争初期の米英軍は、現地司令官が、部下に降伏命令を出した。英領シンガポール、米領フィリピン、オランダ領インドネシアなど、みな現地の最高司令官が、部下に降伏命令を出したために、部下は「名誉の降伏」をすることができた。命令で投降、捕虜になったのであり、勝手に戦闘を放棄したのではない。戦場のビラ伝単も,日本兵の投降を呼びかけるものだった。
◆枢軸国のドイツ軍、イタリア軍も集団投降したが、これも現地司令官が連合軍に降伏し、部下に降伏命令を出したためである。つまり、軍司令官・指揮官の降伏命令とは、部下に戦闘終了、武装解除に従って捕虜となることを命じることであり,司令官が降伏の全責任を負うという、きわめて勇気のいる行為である。ソ連軍では,投降命令を出した指揮官だけでなく,それに従って捕虜となった兵士まで,罰せられた。昭和天皇による終戦の聖断も投降命令であり,勇気の要る行動だった。
◆日本軍の捕虜POWは、前線の将兵が個々に投降したり、収容されたりしたことで、個別に生じたものである。一般将兵は、最前線で戦い、やむを得ず捕虜となった。しかし、軍司令官たちは、作戦指導の失敗、敗戦責任を認めず、降伏命令を出さなかった。徹底抗戦を命じてから自決した。これは、任務に忠実に尽くした後に,敵に破れた自らを処すことであり,忠義の臣のような印象を与える。しかし、司令官として,配下の部下に対して,自決の道連れにする行為で,あるいは事実上の玉砕命令である。
◆1943年5月,玉砕第一号とされたアリューシャン列島アッツ(熱田)島守備隊(山崎部隊)の場合,北海道札幌の軍司令官からアッツ守備隊長山崎大佐への玉砕命令が出ていた。これは,大本営の意向だったが,山崎隊長は,部下に最後の突撃を命じ,自らも玉砕した。山崎隊長は,援軍・補給を要請し,守備隊は援軍・補給を期待して戦っていたのであるが,軍はこれに応えるに,玉砕を命じたのである。
◆現地司令官を指導する本土の参謀本部、軍令部は、作戦の指導の失敗を、現地司令官の自決、玉砕命令によって、現地部隊に押し付けた。軍上層部の作戦指導の失敗は覆い隠された。「玉砕」した将兵・民間人を賞賛し、彼らの立派な忠勇を無為にするなと訴えることで、軍上層部の作戦の失敗、敗戦の責任は追及されなかった。遺族は、無謀な作戦で肉親が犬死したなどとは考えたくなかった。立派に義務を果たし、死んだのだから。
◆玉砕して立派に義務を果たしたという評価が定着すると,この犠牲者を盾にとった指導者に対して,作戦失敗・敗北の責任を追及できなくなった。軍指導者は、捕虜の存在、投降の事実を黙殺し、「玉砕戦」だけを喧伝した。そして,戦死者を英霊とし,彼らへの冒涜を,許さなかった。しかし,これは同時に,作戦を指導した自分たちに対する「人の盾」だった。戦没者は犬死ではないのであるから,指揮官たちの失策・無責任さ・無能さを責める理由はなくなった(ように思われた)。日本は、1945年1月18日、「一億総特攻」、本土玉砕戦を最高戦略として決定した。国民が特攻して守るものは,国体である。
◆1945年沖縄戦の集団自決について、軍命令の存在が裁判で争われた。確かに、民間人がなぜ手榴弾を配布されたのかを思えば、兵器を管理している日本軍の関与は明らかである。日本の将兵は「捕虜となれば虐待、処刑される。それよりも自ら死んだほうがましだ」ということを、自らの経験・伝聞から、住民に伝えた。捕虜となった場合に受ける残虐行為を恐れる余りの忠告だったようだ。しかし、配下の将兵に対してでなく、民間人・軍属に対し「捕虜となるくらいなら自決せよ」と軍人が言い放ったことは、どのように認識すべきか。軍人の放言は,形式上は「軍の命令」ではない。しかし,軍人の言うことを信じていた住民は,軍人の放言ではあっても,口に出された言霊である以上,「自決すべき」命令として忠実に尊重した。
◆沖縄で自決命令を出したとされた日本軍将校は、特攻艇の部隊の戦隊長で捕虜となって生き残った。死が目前にあった特攻隊の将兵は、自決をどのように考えたのか。統帥上,軍民共死がとなえられたが、自らもそれを信じていたのか。しかし、住民、将兵は、捕虜になり、生き残ることができた。中には、手榴弾を起爆しようとしたが、中古不良品だったために爆発せず、生き残った住民もいた。
◆陸軍特攻艇マルレを配備された海上挺進隊(整備)の戦隊長たち,慶良間列島・沖縄本島の日本軍の将兵は,投降命令もなく,米軍に投降したり,捕まったりした。彼らが,徹底抗戦の命令あるいは玉砕命令に忠実だったといえるかどうかは、軽々しくは判断できない。しかし、投降して,捕虜になって,生き残ったことは、結果として,良かったことだと思う。捕虜になることを,自決するには及ばない。が,生き残り同士がいがみ合い争うことになっては悲しい。そう思っての謝罪だったのであろう。その心情をイデオロギーの立場で曲解したり,命惜しさ・金銭欲しさの行動だったと批判してはならない。
◆フィリピンのルソン島近くルバング島で、終戦後も投降しなかった中野学校(軍諜報員養成機関)出身者は、終戦を信じずに、戦争を戦い続けたと主張する。それが処罰されないための方便だったことは、当時の生き残り将兵は,知っていた。本来、大元帥昭和天皇から降伏命令を信じずに戦っていたのであれば、軍律違反である。戦後、フィリピン住民の生命、財産を奪ったのであれば、殺人、強盗で刑罰の対象である。彼は,戦争,戦闘行為の継続という名目が無ければ、処罰を受けずに日本に帰国することはできなかった。
◆当時の日本には、終戦、投降、武装解除、捕虜収容、復員の経験者が多かった。戦い続けた勇士として賞賛するものもいたが、フィリピンの戦いの最中,長期「集団自活」を、物資略奪抜きに長期継続するのは不可能である。1944-45年、フィリピン山中に逃げ込んだ日本軍将兵は、補給物資が枯渇すれば、山中での自活が不可能なことを、身をもって体験していた。徹底抗戦、持久戦、敵兵力拘束を目的に、山中で生活し、地獄を見た生き残り日本軍将兵は、ルバング島での長期「戦闘継続」の理由と(生き残るためのやむをえない)方便を理解した。
◆米国領グアム島で、終戦を知らずに、27年以上、山中に隠れ住んでいた日本兵がいた。日本兵だった彼は、物資輸送・調理係だった。彼は、人には見つからないように、隠れて暮らしていた。住民の物資を奪って暮らしたのではなく、存在を知られないようにサバイバル技術・精神を身に着けていた。発見され帰国できたとき、「恥ずかしながら生き永らえて帰って参りました」と述べた。日本政府が、終戦の不徹底さを恥じるべきだったかもしれない。彼の場合、本当に終戦を知らなかったのであるから、敵を殺傷しても、やむをえなかった。万が一、傷つけていたのであれば、日本政府が補償するべきであった。
◆グアム島の片隅で本当に終戦を知らず28年間も耐乏生活を続けた横井庄一さんは,戦闘を回避して,ひっそり暮らしていた。彼は、誰も傷つけなかった。意思と技術のなせる真のサバイバルだった。盗みや強盗を繰り返して物資を調達していたわけでなかった。グアム島で、秘匿生活を送った元日本兵の記念館が,2006年6月に開設された。妻美保子さんが元兵士7回忌後、自ら開いたものである。自宅を名古屋市に寄贈し、記念館とする計画は、実らなかった。
◆若いころ、グアム島の輜重兵は軟弱だ、ルバング島の諜報将校は勇敢だ、と感じていた。今にして思えば、この浅はかな思い違いはとても恥ずかしい。今は,終戦後の生き方として、どちらも感ずるところがある。いまさら投降できず、山中を部下とともに「残留諜報戦」を続けるのは苦闘である。他人の生命と財産を侵すことなく山中で一人で暮らすのも困難で孤独である。略奪を働くことなく,真のサバイバルを続けたことに驚嘆を感じ得ない。フィリピンの山中ですら,自活,自給自足など不可能だったのに。二人に共通しているのは、日本軍将兵として、捕虜になれば、投降すればどうなるかを、軍の伝統・経験の中で思い描いて、恐れていたことである。
◆突撃せよと命令する司令官,特に後方にいた軍上層部にとって、死は他人事であり、死を恐れないのは当然である。しかし、前線に立った兵士は、戦意の高い勇士であっても、やはり死を恐れたという。死の恐怖を乗り越えようと、ひたすら思いつめた将兵もあった。死を忘れようとする将兵もあった。しかし、勇士たち皆は、死そのものからは、容易に逃れられないのを知っていた。死は避けられないと覚悟したこともあったが,勇士にも死を恐れる理由があった。
◆戦争は、祖国、家族あるいは正義、民主主義を守るための戦いなのか。聖戦として,悪を倒すために戦うものなのか。しかし、戦争には破壊と殺戮が付きまとう。大量破壊と大量殺戮を伴う総力戦は恐ろしい。自らの破壊と殺戮を回避しようとして、敵を壊し殺すことを正当化する。憎悪と報復を煽るプロパガンダが展開される。ひとたび始まった総力戦を止めるのは、敵の徹底的な破壊と殺戮が実現した後でしかない。
◆生き延びようとした前線の将兵は、戦い続けたり、逃避生活を送ったりした。負傷し、病にかかり、投降し、捕虜になった。部下や戦友の命を救うため投降したものもあった。皆、大東亜共栄圏の確立だとか、国威発揚のためとかいう「国家の大儀に滅す」ために「聖戦」を戦ったのであろうか。日本軍は,一億総特攻を,戦略の最高方針として,公式に決定したが,国民はそれに疑問を抱かず従ったであろうか。
◆戦時中も,皆,自らの生命を、戦友の命を守るために、生き続けようとした。家族に会うために、家族を支えるために生き延びようとした。諜報将校も、炊事係りの兵も、ともに、生への渇望が見て取れる。兵士は,死にたくないとは口に出さないが,根底に流れる「いのちへの希求」は、肯定できる。とにかく、生き残れるだけで助かった、生き残ってよかったと思えるときがある。
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