企画特集 3   【戦争と画家  小川原脩の生涯】

(4)「玉砕」美化  【2006年08月17日朝日新聞 北海道版】

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陸軍大臣賞を受けた「バタン上空における小川部隊の記録」(小川原脩記念美術館提供)

■負け戦でも描きよう

 陸上自衛隊旭川駐屯地にある北鎮記念館。ここに、小川原脩が描いた戦争画「アッツ島爆撃」(42年)の絵はがきが展示してある。

 2万人の日本兵が死んだガダルカナル島の戦い(42〜43年)など、軍都・旭川は数々の激戦地に兵士を送り出し、多くの戦死者を出した。

 アリューシャン群島西端のアッツ島でも旧第7師団が主力の部隊が壊滅。20日足らずで約2500人が戦死した。最初の「玉砕」例となり、その後の作戦や国民に与えた影響も大きかった。戦争画が、その美化を担った。

 小川原の絵はがきのそばには、藤田嗣治(1886〜1968)が描いた「アッツ島玉砕」(43年)の関連資料もある。

 早稲田大非常勤講師で、戦争画に詳しい河田明久(40)は解説する。

 「負け戦でも描きようでプロパガンダになる。藤田は『制作中、夜中に絵の兵隊が笑った』という逸話も紹介した。藤田の絵の前にさい銭箱が置かれたそうです」

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 小川原が描いたのは、主に戦闘機や空襲の様子だった。95年8月号の雑誌「芸術新潮」では「殺し合いや撃ち合いといった、人間を主題とした絵はやりたくなかった」と振り返っている。

 東京のアトリエで、軍部から渡される航空写真や戦闘機の写真を見ながら場面を思い浮かべた。

 河田は「小川原は見ていない場面をありありと描く戦争画に、うってつけの技量と描写力を持っていた」と言う。

 43年には決戦美術展で陸軍大臣賞を受賞する。東条英機の名が書かれた賞状と軍刀が贈られた。

「動員」「総力戦」の視点で戦争を研究する東海大助教授の鳥飼行博(47)は戦争画の役割を、こう説明する。

 「写真なら余分な情報も写るが、絵は軍が伝えて欲しい部分だけを取り出して強調できる」

 戦争画は100号(縦130センチ横160センチ)以上の大画面に描かれた。時には200号、300号の大作もあったという。(敬称略)