鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
白バラ抵抗運動 Die Weiße Rose 2007
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◆反ナチス・レジスタンス:ショル兄妹の白ばら通信 Die Weiße Rose
写真(上)1944年,アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊):警備兵としての勤務する都合上、射撃訓練は必須だったようだ。伏せ姿勢で射撃するときは、台座の上で射撃をする。
写真は親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈されたUnited States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。


写真(上)1942-1944年,アウシュビッツ(Auschwitz)・ビルケナウ収容所モノビッツ(アウシュビッツ第三収容所)に到着した貨物列車から建築資材・セメント袋を下ろす作業に従事する囚人たち:ここには大手化学メーカーIGファルベンの合成ゴム工場が建設されていた。親衛隊SSが警備兵として監視していた。Auschwitz prisoners unload railcars containing cement at the I.G. Farben factory in Auschwitz-Monowitz. This photograph was used as evidence at the I.G. Farben trial in Nuremberg. The original caption reads: "Ambros No. 10. An original photo made in Auschwitz representing the concrete factory I F 523, where the cement cars are being unloaded. Circa 1942 - 1945 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland
写真はUnited States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 78597 引用。ヒトラー総統の最も過酷な政策は,ユダヤ人絶滅(ホロコースト)を実行したことだった。

DIARY OF A YOUNG GIRL,THE(A) [ ANNE FRANK ] 中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

Traces of the Holocaust: Journeying in and Out of the Ghettos「アンネの日記破損:36歳男「心神喪失状態」で不起訴処分」(毎日新聞2014年6月20日)
 東京都内の図書館などで「アンネの日記」や関連本が相次いで破られた事件で、東京地検は20日、器物損壊容疑などで逮捕された東京都小平市の無職の男(36)を不起訴処分とした。約2カ月間の鑑定留置の結果、男は事件当時、心神喪失状態で刑事責任は問えないと判断した。都内では昨年2月以降、公立図書館38カ所などで「アンネの日記」など300冊以上が破られる被害を確認。警視庁は図書館で約40冊を破ったなどとして男を3回逮捕した。地検は「起訴は困難と判断した。人種差別的な思想に基づくとは認められなかった」とした。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、議会制民主主義の否定、非国民・外国人の人権剥奪、軍事・警察力を強化しての独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土)13時,9月15日(火)14時,12月15日20時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

◆「誰がため(Flammen & Citronen)」(2008年度デンマーク・アカデミー賞受賞作品)では、第二次世界大戦末期のデンマークのパルチザン、フラメンとシトロンによるゲシュタポやドイツ協力者暗殺を描いている。デンマーク人同士の殺戮が「売国奴」の名の下に行われた背景が分かる。

1.ポーランド侵攻とゲットーの設置:このドイツの犯罪的行為に気がついたドイツ人学生たちが,白バラWeisse Rose通信によって反ナチス抵抗運動を開始した。

1939年9月1日,ドイツは,ポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヘナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)勤務の警備員たちの狩猟と獲物のウサギ:警備兵としての勤務する都合上、射撃訓練は必須だったようだ。伏せ姿勢で射撃するときは、台座の上で射撃をする。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
Several SS officers stand with their shotguns during a winter hunting excursion. The original caption reads "Treibjagd bei Schnee" (going hunting in the snow). Karl Hoecker is on the far left and Karl Moeckel is third from the left. DateDecember 1944 - January 1945 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland? Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 34802 引用。


 ポーランド侵攻当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

新型の?号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と?号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は少なかった。

また,ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将の第八軍がウッチに,ヴィルヘルム・リスト大将の第十四軍がクラクフに進撃した。3個軍の兵力は34個師団である。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)勤務の警備員たちが射撃練習場に向かって行進している。:警備兵としての勤務する都合上、射撃訓練は必須だったようだ。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
SS officers and enlisted men march to shooting practice. Two civilians walk in the opposite direction. The original caption reads "Mit den Kdtr.-Stab auf dem Marsch zum Schiessstand" (on the march with the commandant's office staff to the firing range). 1944 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland? Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 34802 引用。


写真(右):1939年9月,ポーランド(東プロイセン)に侵攻したドイツ軍の前に整列させられた顎鬚のポーランドの民間人(ユダヤ人?)
Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?); Dating: September 1939 Photographer: Amphlett, Eduard撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入された。

アインザッツグルッペの任務は,現在ドイツに敵対あるいは将来敵対する恐れのある公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置することである。

1939年9月21日,ポーランド侵攻から3週間,SS保安警察長官ハイドリヒは,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,アインザッツグルッペ(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。

ユダヤ人は,ポーランド各地のゲットーの狭い区画の中に隔離,囲い込まれた。ウーチ(ウッジ)では,6万2000人のユダヤ人が住んでいた地区がゲットーとされ,近郊から10万人のユダヤ人が押し込まれた。市内交通確保のため,路面電車の通りは柵と鉄条網によって,ゲットーと仕切られた。

ラドム,ヘウムノなどのゲットーは,当初は,ポーランド人の出入りは自由で,ユダヤ人もゲットーの外に出ることが可能だったが,その後,出ることはできなくなった。

ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを作る法令が出された。

写真(右):1939年9月,ポーランド南部クラコウ,モンテ・ルピフ刑務所の修道女:クラコウのモンテルピフMontelupich Prisonには,ドイツ秘密警察ゲシュタポGestapo画使用した刑務所で,政治犯,英軍・ソ連軍捕虜,刑罰を受けた親衛隊SS,国家保安本部の隊員(SD),武装親衛隊Waffen-SS,国防軍兵士もいた。
第二次大戦後は,ソ連内務人民委員NKVDによって,反共産主義のポーランド国内軍Home Armyの兵士などが収監された。
現在のポーランドでも,クラコウのモンテルピフMontelupich刑務所は,使われている。
Die Klosterschwester, die einem Mönch zur Flucht verhalf im 'Gefängnis Montelupich' in Krakau Archive title: Polen, Krakau.- Häftlinge des Polizeigefängnisses Montelupich.- Ordensschwester in Klostertracht Dating: 1939 ca. 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツが占領したポーランドで警戒したのは,ポーランドの指導できるようなインテリである。すなわち,将校,高級官僚,高級警察官,教員,マスメディア関係者,精神的指導者でもある宗教関係だった。そして,パルチザンの予備軍であるユダヤ人だった。

ドイツは占領直後,ポーランドに、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設置、何万人ものユダヤ人を狭い空間に押し込めた。ドイツ本国のユダヤ人も追放された。1940年には,降伏させたフランス領マダガスカル島へのユダヤ人追放計画も検討された。

ユダヤ人迫害の理由は,ヨーロッパ・ユダヤ人が,ドイツに敵対する下等劣等人種であり,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与すると考えたためである。

ワルシャワでは,ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,1家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。

1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーから出ることはできなくなった。

写真(右):1939年11月,戦闘で破壊されたワルシャワ市街:Warschau Archive title: Polen, Warschau.- Ruinen zerstörter / beschädigter Gebäude, Trümmer auf Straßen, Nov. 1939 Dating: November 1939
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
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ポーランドに設置された最大のゲットーであるワルシャワ・ゲットーには,40万人が押し込まれたが,食糧不足,非衛生的な環境,強制労働によって,病死者が多かった。加えて,1942年夏には,ゲットーのユダヤ人30万人が,トレブリンカなど絶滅収容所に再移送され,殺害された。

東方ソ連は生存圏として,ドイツ人や民族ドイツ人が移住すべき場所であり,現地住民はその下僕として,処遇される。ユダヤ人を入植させる余地はない。ポーランド侵攻,ソ連侵攻には,すでにアインザッツグルッペのような特別部隊が編成され,ゲリラだけでなく,ユダヤ人,インテリなど敵性住民を虐殺していた。それを思えば,ゲットー・収容所に集めたユダヤ人を,再び分散して,ウラル山脈の東方に追放する可能性はない。

ポーランド主要都市に設置されたゲットーは、ユダヤ人を隔離するだけでなく、劣悪な居住環境、病気、食糧不足において、強制労働につかせることによって、ユダヤ人を迫害し殺害する場所だった。

写真(右)1941年5月,ワルシャワゲットーの市場:ゲットーは,周囲は壁で囲まれていたため,物資が極端に不足した。市場での売り買いは,自分の持ち物(中古)を取引した。ドイツ軍は,ゲットー内部をの共食いのような状況におき,ユダヤ人が団結することを阻んだ。ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察も,地位を確保しようと思えば,同胞を犠牲にして,ドイツに協力するしかなかった。
このような悲惨な状況にユダヤ人が置かれたのは,ドイツ民族の敵,ドイツ人を人種汚染する劣等民族,下等民族とした差別があったからである。優秀なアーリア民族は,冷徹な使命感を持って,このようなユダヤ人を排除しなければならず,かわいそうだなどと同情するのは,弱さのしるしとして,軽蔑された。
こうして,エセ科学で粉飾された人種差別観が,特定人種民族に対する迫害,虐殺に繋がっていった。
Polen, Warschau.- Ghetto, Abtransport junger Männer, z.T. mit Armbinde auf einem Lastkraftwagen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1943年中ごろまで,ゲットーのユダヤ人には,再移送が死を意味するとは思えなかった。親衛隊の下で,ゲットーの自治的管理を負かされたユダヤ人評議会は,ドイツに協力することで,ユダヤ人が生き残ることができると考えた。

そこで,ユダヤ人評議会は、親衛隊から再移送者の人数が指定されると,隷下のユダヤ人警察(自警団)に命じて,指定人数のユダヤ人をゲットーから集めさせた。再移送者も、ユダヤ人評議会が,仲間のユダヤ人を殺害の場に送るとは信じられなかったのである。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)勤務の親衛隊SSカール・ヘッカー(Karl Höcker)と警備に使用した軍用犬のシェパード:警備兵としての勤務する都合上、ペットとして飼っていた軍用犬も役に立てたのかもしれない。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
SS officer Karl Hoecker plays with his dog Favorit. Date1944 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland? Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 34802 引用。


ゲットーGhetto内部の物資は不足し,配給も少なかったために,餓死や病死が増え,1941年には,ワルシャワゲットー人口の10%以上の4万3000人が死亡した。

ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は与えられた宿命だったが,その障害は大きい。現在でも,その障害の大きさ故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する者もいる。これは,当時のドイツやドイツ占領の一般市民,連合国の一般市民についても当てはまる。

一般常識に即して考えれば,ユダヤ人絶滅に資源・国力を投入することは,無駄である。ヒトラーやヒムラーは,ユダヤ人絶滅を公言しているが,それは誇張されたプロパガンダだ,いくらなんでもユダヤ人絶滅を実施するはずがない,このように考えるのは,当時の常識だった。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)を視察した親衛隊SS経済管理本部長官オズワルド・ポール(Oswald Pohl)親衛隊大将とその一行:ヒトラーの妄想的な人種民族史観・人種衛生学・優生思想が,人種民族差別を正当化し,ユダヤ人を排除することがドイツの繁栄に不可欠であるとの「夢遊病者の確信」に繋がった。SS経済管理本部は、強制収容所の囚人を、奴隷労働者として使役し、ユダヤ人の財産を掠奪し、親衛隊の財務基盤を強化していた。つまり、親衛隊は、軍需産業に対して労働力を提供して対価を徴収し、直営工場で働かせて、煉瓦・石材など建設物資を生産していた。そして、収容所に到着したユダヤ人が持ち込んだ金銭、宝石、貴金属を掠奪して、ドイツの国富を積み上げた。
1933年9月9日、親衛隊上級大佐、 1935年6月1日、親衛隊少将、 1937年1月30日、親衛隊中将、 1942年4月20日、親衛隊大将
写真は、親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
SS General Oswald Pohl pays an official visit to Auschwitz.Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 789190 引用。


◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの人種民族差別が示されている。ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と国際金融資本が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けている,よってユダヤ人を殲滅するために世界戦争を戦うと公言している。1945年4月のヒトラーの政治的遺書でも,戦争に責任があるユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示して,自決した。

ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうか,知りたいとは思わなかった。知りたいのは,戦いに勝っているかどうかだった。ドイツ人は,ユダヤ人絶滅(ホロコーストHolocaust)について,知りたくはなかった。知っていれば処罰されることも,予測できたから,知らないふりをした。

当時の日本人は,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺も,噂話や敵のプロパガンダであって,決して知りたい情報ではなかった。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)を視察した親衛隊SS経済管理本部長官オズワルド・ポール(Oswald Pohl)親衛隊大将:第一次世界大戦ではドイツ海軍兵士として活躍、二級鉄十字章を授与される。敗戦後、キール大学で法学を学び、ヴァイマール・ドイツ海軍に入隊するも、1920年に反共義勇自由軍「レーヴェンフェルト」でも政治的活動に加わる。1926年にナチ党に入党し、突撃隊員として活躍。1933年1月にナチ党政権が樹立された跡、1933年5月、親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーと会い、親衛隊上級大佐として親衛隊に加わり、親衛隊本部の経済管理局の仕事を得、1934年2月に管理局局長に就任。この管理本部は、親衛隊管理下にある強制収容所も管轄していた。1942年2月、親衛隊の予算・建設本部と経済・行政本部が統合され設けられた経済管理本部 (Wirtschafts-Verwaltungshauptamt, WVHA)の長官に就任した。1942年4月20日にポールは親衛隊大将に昇進する。戦後戦争犯罪裁判にかけられ、1951年6月7日にランツベルク刑務所で処刑された。
この写真は、親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
SS General Oswald Pohl pays an official visit to Auschwitz.Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 789190 引用。


ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方治安維持作戦を支援したこともあった。

 多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。ワルシャワ・ゲットー蜂起は,鎮圧されたが,このことを私たちに気付かせてくれる。

虐殺という忌むべき情報は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。しかし,知りたくない事実を認めることで,忌まわしい過去を克服できる。忌まわしい過去を恐れる必要がなくなる。


2.ドイツ人によるユダヤ人救済・反戦運動(Resistance)

(1)ユダヤ人配偶者1500名を救ったドイツ婦人の勇気
 1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。親衛隊による武装排除はできなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放された。

ヒトラー総統は「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化する兆候に敏感になっていた。1942年に,知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された両親の発言を恐れたからである。ドイツ一般市民が従順である,世論が反対しないと確信できた場合にのみ,大量殺戮のような非人間的な犯罪を実行することができた。

1945年5月4日,米第82空挺師団によって占領されたヴォベッリン強制収容所から,救出された囚人たち:Wobbelin Concentration Camp, recently captured by troops of the 82nd Airborne Division. Many prisoners were found nearly starved to death. Here former prisoners are being taken to a hospital for medical attention. Germany, May 4, 1945. Pvt. Ralph Forney. (Army) NARA FILE #: 111-SC-206379 。Defense Visual Information Center アメリカ国防総省引用。

(2)親衛隊を処罰したドイツ人コンラート・モルゲン博士の勇気
 
親衛隊・どくろ部隊隊員でも,ユダヤ人を恣意的な裁量で個人的に虐待したり,ユダヤ人の資産を強奪したりすれば,厳重に処罰された。1933年ダッハウ強制収容所長ウェッケレは,抑留者を虐殺した新鋭隊員を擁護したために,解任された。後任は,テオドール・アイケだった。

アウシュビッツ収容所 1937-1941年のブーヘンワルト収容所長カール・オットー・コッホKarl Otto Koch (1897-1945)SS連隊長は,残虐なテロを行ったとして,1941年12月にSS親衛隊に逮捕された。その後釈放され,ルブリン収容所長になったが,再び,私腹を肥やし,不正を犯した。1943年,国家刑事警察本部SS判事補コンラート・モルゲンKonrad Morgen(1910-)博士は,SS警察法廷と協力し,ブーヘンワルト収容所の汚職(食料など物資横流し)と無許可殺人を捜査した。強制収容所の司法最高責任者(SS経済管理本部局長)オズワルド・ポ−ルSS上級師団長の管轄下にあり,SS警察法廷は収容所勤務者に手出しできなかったため,SS判事補モルゲンに協力を要請したのである。

1938年のクリスタル・ナハト以降,コッホは,収監したユダヤ人資産家を恐喝して財産を掠め取り,自分の口座に公金を着服した。その証拠を握る囚人少なくとも2名を恣意的に殺害した。ヒムラー長官は,コッホ所長たちの取調べを許し,モルゲン博士は謀殺,公金横領,軍事的損害を与えたことが明らかにした。

モルゲンGeorg Konrad Morgen博士の活躍によって,SS法廷では,コッホ所長,妻イルゼ,収容所医師など4名の共犯者も捕らえられた。コッホ元所長は,SS法廷で1943年10月死刑判決,1945年初頭処刑された。モルゲン博士によって,ルブリン収容所長ヘルマン・フロルシュテットは殺人により死刑,ルブリン保護拘禁担当ヘルマン・ハックマンは死刑判決(懲役刑に減刑),ダッハウ収容所長アレクセル・ピオルコースキーは殺人により死刑求刑(未決),フロッセンブルク収容所長カール・キュンストラーは飲酒放蕩により罷免,アウシュビッツ収容所政治部長マキシミリアン・グラープナーは殺人により死刑求刑(未決)に追い込まれた。そして,アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスも尋問されることとなった。

 強制収容所関係者を処罰したモルゲン博士は,たしかに,SSの規律の中で行動しただけであって,職務を尽くしたに過ぎないと見ることも可能である。しかし,SS親衛隊の上級者を犯罪者とすることは,自分への報復,昇進の影響,左遷による処罰の危険があった。その危険をあえて冒して,強制収容所関係者の犯罪を立件しようとしたのは,強制収容所で行われていたユダヤ人虐殺に気づき,それに嫌悪感を抱いていたためとも考えられる。

ナチスへの反感を表に出せば,自分が政治犯として強制収容所送りになってしまうから,自分のできる範囲の精一杯の行動として,収容所関係者の起訴に力を注いだのではないかと推測できる。


 しかし,1944年4月中旬,ヒムラー長官は,モルゲン博士に捜査対象は,コッホ所長事件飲みに限定することをことを命じた。

アウシュビッツ収容所長ヘスは,ビルケナウ収容所の拡張,ガス室・焼却炉の建設・稼動に尽力しており,アウシュビッツ収容所が三つの収容所に独立する際,所長からDI局に配置換えになるだけで済んだ。(ヘーネ(1981)『髑髏の結社 SSの歴史』373-377頁参照)

(3)ドイツの若者による白ばら抵抗運動 Die weisse Rose

写真(右)1939年9-10月,ワルシャワで倒壊した建築物の後片付けをさせられるユダヤ人と思われる。右二人は,ドイツ軍兵士。ドイツのポーランド侵攻の最中,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑。また,ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったドイツ,ポーランドでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人のゲットー押し込め,強制収容所移動に対して,反発はほとんど起きなかった。ユダヤ人を匿い,食料を支援する動きは,弱かった。しかし,白バラの学生たちは,このようなゲットーでの非人間的な扱い,ポーランド人虐殺に気づく。そして,ナチズムがドイツ人を精神的に破壊しつくしてしまうと危機感を募らせた。
Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumungsarbeiten; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Origin: Bundesarchiv Photographer: Schulze撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。


写真(右):1940年,ポーランド(総督領)、ジェシュフ(Rzeszów)、警察に捕まり、裁判所に引きたてられるポーランド囚人カール・ダニウスキー(Karl Daniskewski)(1893年9月13日生れ):4月23日に死刑判決を受け5月30日に処刑された。警備兵・警察などを統括したのがナチ親衛隊SSで、刑事犯・政治犯から捕虜やユダヤ人に対する捜索・拘束も行った。さらに自由な言論を統制し、反政府的言動、敗戦思想、親米英感情なども取り締まった。つまり、恐怖による支配を支えたのが親衛隊SSである。
The Polish prisoner Karl Daniskewski (b. September 13, 1893) is led down the hall of the county courthouse in Rzeszow. The special [SS] court sentenced him to death on April 23 and executed him on May 30. DateApril 1940 LocaleRzeszow, [Rzeszow] Poland Variant LocaleReichshof
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 26896 引用。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1939/10/10) :
ユダヤ人だけが強制労働に連行されている。筋骨たくましいポーランドの若者は,労苦の重荷にひざまづくユダヤ人を遠くからあざ笑う。敵はもっとも嫌われる仕事,たとえばトイレ掃除や床磨き,その他こういう類の仕事にユダヤ人だけを選んで就かせる。そして,次のような事件が起き,私は一人の若者からその話を聞かされた。------

彼らドイツ兵士は,仕事に就かせるために,その若者を捕らえ,不潔な場所を綺麗にするように命じたが,何の道具も与えなかった。彼が道具を求めると,彼らは素手で掃除をし,バケツの代わりに自分のコートを使うように命じた。それに抗議すると,彼らは彼を叩き打った。

その場に居合わせた兵士の中には,罪無き男が苦しむのを見るに耐えかねる者もいて,暴力漢に向かい,人間に対してそのような振る舞いをすべきではない,説いた。将校は,それに対して,ユダヤ人は戦争を望んだのだから,このような不幸が降りかかるのは当然である,と答えた。既に1万人以上のドイツ人が犠牲となったのに,ユダヤ人どもをこの戦争から利益を貪っている,と。
その後,彼らはその若者をさらに打ちすえた。そして,7時間にも及ぶ卑しい仕事の後,彼はパンも水も口にすることなく帰宅した。」

写真(右):1940年4月,ポーランド(総督領)、ジェシュフ(Rzeszów)、警察に捕まり、裁判所中庭に引きたてられたポーランド囚人へインリヒ・スコロ(Heinrich Skowron)(1912年2月生れ):特別法廷で4月23日に死刑判決を受け、1940ねん8月20日に処刑された。。ジェシュフ(Rzeszów)は現在のポーランド南東部、クラクフ西150キロにお位置する。さらに東に150キロ向かえば、ソ連ウクライナのリヴィウがある。地下資源と工業が栄えた都市である。
The Polish prisoner Heinrich Skowron (b. February 1912) poses in the courtyard of the county courthouse in Rzeszow. The special [SS] court sentenced him to death on April 23 and executed him on August 20, 1940. DateA pril 1940 LocaleRzeszow, [Rzeszow] Poland Variant LocaleReichshof
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 26896 引用。


ユダヤ人教師ハイム・カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan(1940/6/27) :
「----スターリンと総統との間に戦争が起こると,予言する者がいる。知識人の多くは否定するが,噂は絶えない。------

(ユダヤ人地区の)通りの往来は,日が暮れるころに,いっそう騒々しさを増す。そのころには,仕事で行き交う通行人に加え,黒を知らない若者が多数うろつき回る。今がどういう時なのか,彼らには分かっていない。公園は閉鎖され,劇場は開かれず,市を離れれば危険が大きいため,夏季キャンプ場には人影が無く,映画も禁じられている。そのため,人々はレシュノ街とカルメリツカ街に集中する。-----

彼ら(征服者ドイツ人)どもは,ユダヤ人評議会に対して,これら通りの交通を元の状態に戻すように,通告してきた。彼らは,非常に繊細なので,ドイツ国民が敵の刃に倒れた若者の死を嘆き悲しんでいるこのとき,ユダヤ人の若者が響かせる笑い声に耐えられない。
これが彼らの理由である。ユダヤ人の若者は生きる権利,それも静かに降伏に生きる権利を奪われたのである。

彼らは通行する一方で,次のような警告を付け加える。もしユダヤ人評議会が往来を鎮めることができなければ,自分たちが自分流のやり方で取り締まる,と。彼ら流のやり方とはどのようなものかは,われわれにはすぐに予測できる。」

白バラは散らず [ インゲ・ショル ] ◆ナチスによる人種民族差別,ユダヤ人迫害といわれるが,これはドイツ人の行為でもあった。しかし,すべてのドイツ人が,ユダヤ人迫害に賛成したわけではない。人道的見地,キリスト教,イデオロギーなどさまざまな立場で,ナチズムに反感を抱き,ユダヤ人迫害を嫌悪したドイツ人も少なくなかった。しかっし,彼らは,ユダヤ人が戦争をみ,ドイツ人を殺害した,とのナチス論理を受け入れざる得ない立場に置かれた。

ドイツ本土ウルムでは,ゾフィー・ショルの仲間内で思想,文学,哲学,進学に関するパンフレットが謄写版で少数部数印刷され,回覧されていた。この回覧パンフレット『風防燈火』は,1941年夏以降,国防軍兵士オトゥル・アイヒャー,ミュンヘンのハンス・ショルを含む友人たちには郵送され,繋がりをもっていた。

また,ナチスは,精神疾患のあるドイツ人を排除するために,T4計画として,精神病院に収監された患者を密かに安楽死させていた。これに気がついたカトリックのミュンスター司教クレメンス・フォン・ガーレン伯は,教会にあって,安楽死を非難する説教を行った。これが謄写版印刷され,白バラWeisse Roseのメンバーのところにも,郵送されてきた。

1941年5月,ワルシャワ・ゲットーの女性の行き倒れ(ルンペン;浮浪者):ドイツ占領下のゲットーは,隔離された場所だったので,外部からの食料,医薬品など日用品は,闇市で手に入れるしかなくなった。それが入手できないものは,生きて行けなかった。路上で倒れたままなくなることもあった。ミュンヘン大学(正式名称ルートヴィヒ・マクシミリアン大学)医学生だった白バラのメンバーは,学生中隊として東部戦線の実習に出かける前に,ワルシャワゲットーを目撃している。
Polen, Warschauer Ghetto.- Auf der Straße liegende, zusammengebrochene jüdische Frau (krank oder tot?) in Lumpen; PK 689 Dating: Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ連邦アーカイブは,自ら犯した歴史を示すような画像を多数保管している。鳥飼行博研究室は,アーカイブに登録,画像の公開を認められ残酷な画像を,人権,倫理に反しない形で,公開する必要があると考える。一方で,日本国内外で刊行されているドイツ連邦アーカイブを使った写真集には,兵器テクノロジー,軍装に関する写真集が多い。その多くは,ドイツ連邦アーカイブの所蔵写真を,商業的に利用している。


写真(右)1941年夏,ワルシャワ・ゲットーの病気のユダヤ人男性
Polen, Warschauer Ghetto, Kranker Mann an einer Hauswand liegend; PK 689 Dating: 1941 Sommer Photographer: Cusian, Albert撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


退役法務官僚ヨ−ゼフ・フルトマイヤー,占領下ポーランドで働く建築家マンフレート・アルケマイヤーとであったハンス・ショルは,ポーランドにおけるドイツの犯罪的行為を聞いて,ナチスに加担することに大いに疑問を持つようになった。

ハンス・ショルとロシア生まれのアレクサンダー・シュモーレの二人は,このような敬意から,帆船ビラを作成し郵送する決意をしたと考えられている。1942年の時点で,ハンス・ショルは,ウルムの友人ハンス・ヒルツェに「歴史の歯車に挑む」ことは許されるのであろうかと,苦悩を打ち明けている。いまだに,非政治的な集まりや読書会にとどまろうとする仲間も多かったが,二人はナチスへのレジスタンスの道に踏み込んだのである。

つまり,読書会,回覧パンフレットでつながっていた学生たちは,ナチスへの積極的な協力・賛意を示さないという非追従主義にとどまっていたが,その中から,ハンス・ショルとアレクサンダー・シュモーレの二人は,抵抗活動へと新しい段階に一歩踏み出したのである。

写真(左)1942年夏,反ナチスの白バラDie weisse Rose通信を発行したミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学) 医学部生ハンス・ショルHans Scholl,同大ゾフィー・ショルSophie Scholl (左二人)と同大学医学部生クリストフ・プロープストChristoph Probst:医学生だったが,一時期,東部戦線従軍の義務をこなした。キリスト教に基づく正義を重視,ゲーテ、シラーなどドイツ教養人を手本とした学生運動だった。
逮捕後,転向国粋主義者ローラント・フライスラー裁判長(1893-1945)の民族裁判によって,反逆罪の咎で死刑宣告。ゾフィー・ショルは,1921年5月9日生まれ,1940年に大学入学資格試験合格。1941年,帝国勤労奉仕と補充予備役勤務についた後,1941年夏からミュンヘン大学入学。1943年2月22日,21歳で断頭台で処刑された彼女は,ジャンヌダルクを髣髴とさせる。自由のシンボルとなり,2005年「白バラの祈り:ゾフィー・ショル、最期の日々」など映画化もされた。
ゾフィーは,理想を追求し,実践するクリスチャンで,アンネ・フランクのような親近感は沸いてこないかもしれない。普通のドイツ人とは距離を置いた気高きヒロインである。写真は,Spartacus Educational引用。


ドイツ軍はモスクワ前面で敗退したが,これは決して,ロシアの厳寒「冬将軍」のためではない。
1)ソ連軍が厖大な予備兵力を擁していたこと,
2)極東方面の第一線部隊をモスクワ前面に移送・配置したこと
3)ソ連侵攻中の虐殺事件にドイツ軍将兵の中に殲滅戦争継続への疑問がうまれたこと
4)ソ連住民の反ドイツ抵抗・パルチザン活動の興隆
が指摘できる。

白バラの祈り ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

白バラのゾフィーショル  戦争初期、1941年にドイツ本土バイエルン州ミュンヘン大学の男女学生を中心としたナチ党・ドイツ政府に対するレジスタンス活動として「白バラ」グループは著名である。この抵抗運動は、大学生以外に,大学教員、行政官などミュンヘン以外の都市市民とも関連が深まり、広範な反ナチのレジスタンスである。「白バラ」の反ナチ第1号ビラが配布されたのは、1942年の6月から7月にかけてで、丁度、ドイツ軍のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」が始まって1年後のことである。「白バラ」の反ナチビラは、郵送でミュンヘンの各家庭に投函されてきた。独ソ戦が始まって1年が経過した後、「白バラ」はドイツ政府による市民の自由剥奪・抑圧生活、人権無視・征服地での非道な行いなど人権侵害について報告し、反戦、国際協調、ナチ党政権打倒を訴えた。

「白バラ」のビラは,その後,1943年2月までに計6種類が作成され配布されたが、1943年2月18日、「白バラ」の中心メンバーのハンス・ショルと妹のゾフィ・ショルは、授業期間中にミュンヘン大学構内に第6号ビラを頒布したが、残ったビラを階上から吹き抜けホールに撒き散らした。その現場を目撃したミュンヘン大学大学の用務員がショル兄妹を捕まえたのである。二人は、抵抗することなく、言い逃れが可能と思ったのか、それとも緊急事態に退避行動がとれなかったのか、そのままミュンヘン大学総長の下に連行され、そこに駆けつけてきた親衛隊SS秘密警察ゲシュタポに引き渡された。

 その後,警察当局からハンス・ショルと妹のゾフィ・ショルの二人は尋問された。逮捕時に押収された二人の持ち物から、クリストフ・プロープストが書いたビラ草稿が見つかり、翌2月19日には,クリストフ・プロープストが逮捕された。

 白バラ関係者を裁く人民法廷がフライスラー裁判長の下で改定されたのは、1943年2月22日である。三人は裁判のあった22日、斬首による死刑を申し渡され、即日処刑された。その後、アレクサンダー・シュモレル、ミュンヘン大学クルト・フーバー教授が逮捕され,1943年7月13日に斬首処刑された。10月12日にはヴィリー・グラーフが処刑,1945年1月29日にはハンス・ライペルトが処刑された。

写真(右):1941-1943年,ドイツ、東プロシア、インステルブルク(Insterburg)、列車で移動中のドイツ国防軍兵士とドイツ赤十字社の看護婦の記念写真:ゾフィー・ショルも、戦時中に保育など社会奉仕活動に徴用されている。東プロシア、インステルブルク(Insterburg)は、現在、ロシアのカリーニングラード州のチェルニャホフスク(ロシア語:Chernyakhovsk, リトアニア語: Įsrūtis, ポーランド語: Wystruć)で、1946年まではドイツの東プロイセンに属していた。しかし、第二次世界大戦で、ソ連軍がこの地を占領し、東プロイセンからドイツ系住民は追放され、ソビエト連邦カリーニングラード州に編入された。都市名称も、ドイツ語インステルブルクから、当地占領に功績のあったソ連赤軍イワン・チェルニャホフスキー大将(戦死)に因んだ名称チャホフスクと改名された。
German and Hungarian military personnel pose with a German Red Cross nurse. Date1941 - 1943 Locale Insterburg, [East Prussia] Germany? Variant LocaleRussia Chernyakhovsk Asrutis Cerniachovsk [Kaliningrad]
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 74780 引用。


 ドイツ・バイエルン州ミュンヘンに位置する州立大学,ルートヴィヒ・マクシミリアン大学 (Ludwig-Maximilians-Universität),すなわち通称ミュンヘン大学の医学部生ハンス・ショルHans Scholl(1918-1944),妹のミュンヘン大学女学生ゾフィー・ショルSophie Scholl(1921-1944),ミュンヘン大学医学部生クリストフ・プロープストChristoph Propst たちは,白ばら通信と題する抵抗ビラを撒布,ペンキで壁に反戦スローガンを書くなどする反ナチスのレジスタンスを実行した。これが,白バラ抵抗運動で,平和人権の確保を訴えて,一部の人々の共感を得た。

白バラのメンバーは,ビラ「白バラWeisse Rose通信」を配布,「文明国の人間が,下劣な本能のままに行動する無責任な一派によって,支配され,何の抵抗もなく従うとすれば,その国民にとって,もっとも恥ずべきことである」とした。

白バラDie Weiße Roseの名称は,ハンス・ショルが逮捕されたときの尋問調書によれば,「ブレンターノの『白い薔薇』のスペイン的ロマンス」に感銘を受けたということになっている。しかし,ハンス・ショルが積極的にかかわっていた1920-30年代の青年同盟活動では,花はミューズ神の象徴で,剣の軍人と対比される存在だった。花と剣をモチーフにしたデザインは,青年同盟の雑誌にも登場している。実際,1938年8月,ハンス・ショルは,ドイツ青年団時代に知り合った版画家フリッツ・シュテルツァーに,花と剣をあしらったデザインのついた個人便箋を作成してくれるように依頼している。逮捕後の尋問は,ショルと青年団時代の友人たちとの繋がりを隠匿するための偽証だったと思われる。

 1943年2月,ショル兄妹は,ミュンヘンで反ナチスの行動を呼びかけるビラを配った。

1942年6月、ハンスとアレクサンダー・シュモレルAlexander Schmorellは,反ナチスの無記名のビラを印刷、友人,教師、医師などのインテリ,飲食店に郵送した。ビラでは,トート機関(軍需労働組織)・ナチ党行事への不参加、戦争目的の研究中止などの消極的抵抗を訴えた。1943年7月下旬までに,4種類のビラが配布された。(→白バラとは -Die Weiße Rose-参照)

写真(右)ミュンヘン,ショル兄妹広場にある噴水の夜景:ミュンヘン大学中央校舎前庭の広場はショル兄妹広場といい、道を挟んだ反対側はプロフェッサー・フーバー広場という。ミュンヘン大学には白バラに関する資料を展示した白バラ記念館やリヒトホーフに白バラ記念碑がある。またビラをまいた3階には白バラメンバーの名前が刻まれた碑があり、中央校舎正面入り口(地面)には彼らのまいたビラが展示されてある。それ以外にはバイエルン総理府横のルネサンス回廊入り口に平和の記念碑があり、そこに白バラDie Weiße Roseのビラからの引用がある。(散歩 白バラ 引用)

「白ばら」の周辺には,バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa(ソ連侵攻)が勃発1年後の1942年初夏,10-12人が集まっており,読書会あるいはビラ作成に関わっていた。白バラの女性メンバーは,ゾフィー・ショルのほか,ハンス・ショルの恋人トラウデル・ラフレンツがいた。

1942年7月上旬,白バラDie Weiße Roseのメンバーは,学生中隊として,東部戦線に実習に赴くことになった。この送別会で,白バラのアイメマイヤーは,SSがポーランド人,ロシア人を射殺しており,自分はそれを目撃したと語った。

写真(右)1941年9月,ウクライナ,ポルタワでドイツ軍兵士を歓迎する民族衣装で正装したウクライナ人:ドイツ陸軍の兵士が,民族衣装の男女と交歓し,楽しんでいる。このようなドイツ人は,ウクライナ人を下等劣等人種として軽蔑したわけではないだろう。
Die Einwohner entlausen sich gegenseitig Dorf am Don, August 1942 Dating: August 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ハンス・ショルやアレクサンデル・シュモーレたち医学生の予備部隊は、ロシア戦線の後方に実戦経験を積むと称して派遣されたが、実際には激しい戦闘を体験してはいない。それどころか、駐屯地近郊のロシア人たちの家庭を訪問したり、住民と交歓したりして交友を深めている。

対照的にヒトラーは,ウクライナを戦時中,訪れたが,住民との交歓などしたくもなかったし、当初から彼らを下等人種として見下していた。そこで、彼らをドイツのための農奴や奴隷労働者のように苦役に就かせ、ソ連をドイツの生存圏(レーベンラウム)とする計画だった。また、ドイツ人を人種汚染し、堕落させようとするユダヤ人は完全に排除するつもりでいた。

多文化に関心を持ちコミュニケーション能力を生かして,たくさんの人々と交流し,親切にされ,もてなさされば,差異は認めても,下等劣等人種として迫害することはないはずだ。また,特定の人種民族からひどい扱いを受けたとすれば,それは本人の接し方,コミュニケーション応力不足の問題かもしれない。

写真(右)1941年,ウクライナ,クリミアのホルストと二人のカメラマン:ドイツ海軍の宣伝班も一人加わっている。当時のソ連では,幹線道でも未舗装の道路が多かった。春から初秋はともかく,晩秋の雨季,冬の氷結時期は交通通信に仕様が生じ,軍隊の行動も制約された。
Sowjetunion, Krim.- Horst Grund und zwei Kameraden mit PKW einer Marine-Propagandakompanie bei Rast Dating: Dezember 1941 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年7月末,独ソ戦勃発から1年後,フーベルト・フルトヴェンクラー,ヴィリー・グラフ(1918年生まれ),アレクサンデル・シュモーレ(1917年ロシア生まれ),ハンス・ショル(1918年生まれ)は,学生中隊として,東部戦線の医療実習に派遣された。当初は空港近くの救護所で,その後,軍医見習いとして前線近くで働いた。ドイツ軍の快調な進撃の時期,前線勤務は自由時間もあって,ロシア旅行のような趣があった。

ハンス・ショルは,1942年9月の手紙で「知り合いに,年老いた白髪の漁師がいます。僕の友達です」「僕はここで,ソ連軍捕虜とロシア娘数人と一緒に合唱団を作りました」と家族に書き送っている。

グラフは日記に「努力すればロシアへの道は実際は易しいようです。僕はロシア人と一緒にいるのが楽しい。」と記している。他方,ワルシャワゲットーを目撃したグラフは,「悲惨さが僕たちの目を直撃した。僕らは目を背けた」とも書いている。当時,ドイツ占領下ポーランドのトレブリンカに,ユダヤ人絶滅収容所が作られ,ゲットーのユダヤ人が贈られて始めた時期だった。

写真(右):1941年12月,クリミアのシミフェロポル:ドイツ連邦アーカイブには,ホルストの撮影したカラー写真が数十枚保管されている。ホルストは,独ソ戦に宣伝班として参加,映画や写真撮影を行っていたが,人物写真とともに,風景写真を多数残している。戦争従軍宣伝班というより,個人的にロシア・ウクライナ旅行を楽しんでいるようだ。これは,独ソ戦初期,ドイツ軍が優勢だった戦線後方だから可能な「旅行」だった。
東部戦線に出征したドイツの若者たちも,ショルのように,戦争をロシア旅行として楽しんだ側面もあった。しかし,ユダヤ人やソ連軍捕虜の過酷な取り扱いを知るに及んで,戦争の愚かさ,悲惨さを憂うようになった。ナチ党による戦争指導は,ドイツの伝統や自由を破壊するものだと理解した。
Sowjetunion, Krim, Simferopol.- Soldaten vor deutschen Wegweisern Dating: Dezember 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用。(他引用不許可)。


写真(右)1941-42年,ソ連,ドイツ軍の2センチ対空機銃を搭載した装軌式対空装甲車(ハーフトラック):装甲車の人員収容スペースを撤去して,対空機銃を搭載した。
大戦中,4人乗りの小型装甲車Sd.Kfz 250は6000台,10人乗りの半装軌式の中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251が1万5000台以上生産された。
ロケット砲,対空機銃,榴弾砲,対戦車砲などを装備した装甲車も多数作られている。また,ドイツ軍でも,軍用トラック,装甲車のほかに,馬,馬車の輸送部隊も多かった。
独ソ戦では大戦果を挙げたが,1941-42年には大きな人的損害を受けた。ドイツ人が多数死傷している状況で,ヒトラーは,後方のユダヤ人がぬくぬくと生きることを苦々しく思った。このような東部での過酷な戦場体験がなければ,白バラのメンバーたちが,抵抗ビラを散布するまで先鋭化することはなかったであろう。
Russlandfeldzug.- deutsche 2-cm-Flak 38 auf Zugkraftwagen Sd.Kfz. 10/5 feuert auf Flugzeuge Dating: 1941/1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブ登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年6-7月,ソ連中部あるいは北部,ハノマーク社の半装軌式装甲車Sd.Kfz.251:路外でも兵員を迅速に輸送できるハーフトラック。1942年初夏,ソ連南部のカフカス侵攻「ブラウ」作戦を開始したが,カフカスを占領することはできず,かわりにスターリングラードを攻略しようとした。しかし,ここでドイツ軍はソ連軍に逆包囲され,1943年2月に降伏,大敗北を喫した。大損害を被ったことに衝撃を受けたヒトラーは,ドイツを戦争に巻き込んだユダヤ人に報復として,大量殺戮を滞りなく進めることを求めた。ゲットーのユダヤ人が生きているのが許せなかった。
Sowjetunion-Mitte/Nord.- Zwei mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6) mit Besatzung in freiem Gelände nebeneinander stehend; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年7月,ソ連中部,ベラルーシ(白ロシア)モギリョフで拘束されたユダヤ人捕虜:ユダヤ人は,巨大なユダヤの星(ダビデの星)の白布をつけさせられた。ドニエプル川Dnieper河畔のモギリョフ(モギレフ)は,は,ミンスクMinskから東に190キロのところにある。
1933年のナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)政権獲得直後にダッハウ強制収容所を開設,反ナチス的な人物を保護拘禁した。反ナチスを弾圧する方針を見せ付ける恐怖による威嚇,テロである。このようなロシア人への取り扱いや捕虜の処刑に,白バラのメンバーたちは衝撃を受けた。それまで共産主義,ボリシェビキに反対していた学生たちは,共産主義,ボリシェビキにより先に,ナチズムがドイツを滅ぼしてしまうと考えるようになった。
Rußland-Mitte, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Jude mit aufgenähtem Judenstern, sitzend; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年7月上旬のビラ「白バラ通信Die Weiße Rose」では,「今日のわれわれの国家は,悪が独裁的に支配するものとなっている。----ここの権力者達が,次々に君たちの権利の領域を奪っていゆくのに,どうして許しているのか。このままでは,犯罪者と酔漢に命令される機械化された国会外の何物かしか,残らなくなってしまう。-----この体制の排除は,君たちの権利であるのみならず,君たちの道徳的義務でもあることを忘れてはならない。しかし,自らの権利の要求のために,力を奮い起こすことがなければ,人間は絶対的に破滅せざるを得ない。

----君たちの臆病さを,賢明さというマントの下に覆い隠すな。-----攻撃可能なあらゆる地点で,ナチズムを攻撃しなければならない。怪物のようなこの国家に,かのな限り速やかに終止符を打たなくてはならない。この戦争でファシズムドイツが勝利を収めるなら,予想もできないほど恐ろしいことになってします。全ドイツ人が第一に心に留めるべきことは,ボルシェビズムに対する軍事的勝利ではなく,ナチスの打倒である.

兵器産業や重要な軍需産業におけるサボタージュ,ナチ党の集会・デモ・祭典・組織すべてのサボタージュ,戦争マシーンの----戦争継続のためのすべての学問的精神的分野におけるサボタージュ,-----戦争継続の無意味さ,この戦争の見込みのなさ,ナチスによる精神的経済的隷属化,道徳的宗教的価値すべてのナチスによる破壊をすべての知識人に確信させよ。----これを複写し配布することをお願いする。」

1943年2月18日までに,ルートヴィヒ・マクシミリアン大学の学生1000人に抵抗運動を「訴えるビラが送付された。そこで,ハンス・ショルの提案によって,残りのビラを学内に散布することが計画された。この大学内の抵抗ビラの産婦を実行したのが,ショル兄妹である。これは白バラ通信の抵抗ビラ第6番目のもので,校舎の吹き抜けの上からビラを撒いているのを,用務員ヤーコブ・シュミットに見つけられ,二人を捕らえた。大学の弁護士(法律顧問)ヘフナーは,秘密警察ゲシュタポに通報,二人は取り調べのために連行された。

ゲシュタポによる尋問では,ショル兄妹はビラの内容を知らないとしていたが,ハンス・ショルを逮捕するとき,ゲシュタポは抵抗ビラの草稿を発見していた。そして,ハンスの住居からは,クリストフ・プロープストの手紙,ビラ送付に私用する切手(8ペニッヒ)多数も発見された。

その夜,ヴィリー・グラフ,彼の妹アンネリーゼが逮捕され,二日後にはクリストフ・プロープストもインスブルックで逮捕された。

ゲシュタポ取調官に対して,ゾフィーは「私はもう一度、すっかり同じことをやるでしょう。考え方のまちがっているのは私ではなく、あなたがたの方なのですから。」と述べた。

写真(右)1941年7月,ドイツ軍ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の時期、ベッサラビアでドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士と監視のドイツ兵:ドイツ軍が占領したソ連軍の塹壕にいる捕虜は負傷している。
Der einzige Entkommene am Panzerwerk nach 3-tägiger Sprengung und Belagerung, Juli 1941 am Dnjestr Archive title: Sowjetunion, Kämpfe in Bessarabien.- Verwundeter, kriegsgefangener sowjetischer Soldat nach der Sprengung eines Bunkers am Dnjestr Dating: Juli 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1943年2月22日,白バラDie Weiße Roseのレジスタンスは,ベルリンの人民裁判(民族裁判)にかけられた。人民裁判の裁判長は,のちにヒトラー暗殺未遂事件を裁くことになるローラント・フライスラーである。かれは,完全にヒトラー体制に取り込まれ,ナチスの法を正義の拠り所とした。フライスラーは,白バラレジスタンスを罵倒し,レジスタンスを不正な反逆,反乱であると決め付けた。

2月22日,フライスラーの人民法廷で,白バラのミュンヘン大学学生ハンス・ショル,妹のゾフィー・ショル,クリストフ・プロープストの3人は,国家反逆罪により死刑判決を受け、即日,シュターデルハイム刑務所斬首された。シュターデルハイム刑務所は,ミュンヘン一揆に失敗した犯罪者ヒトラーが,1922年6月24日から7月27日まで,収監されたミュンヘン郊外の刑務所である。

  ショル兄妹とクリストフ・プロープストの3人の処刑から二日後,逃亡していたアレクサンダー・シュモレールは,防空壕で女子学生に発見されゲシュタポに引き渡された。その「三日後,ミュンヘン大学哲学教授のクルト・フーバー(Kurt Huber1893-1944)教授も逮捕された。他の白バラ活動家も,1943年3-4月までに逮捕された。

ミュンヘン大学哲学教授クルト・フーバーはエマミュエル・カントの「世界の規範となるく行動せよ」,そして,目的達成のために,人間を手段として利用してはならない,と説いていた。逮捕されたフーバー教授も1943年7月,処刑された。

對馬 達雄「反ナチス抵抗運動とドイツ戦後教育史 : 占領期研究のための論点整理およびMシュナイダー・W.ズュース(1995)『白バラを生きる』未知谷 参照

 ナチ党による人権弾圧の中では,ドイツ青年による白ばらDie Weiße Roseは,例外的な抵抗の試みだったが,ドイツの若者,知識人の良心を示した点で,高く評価されている。

焚書を行ったミュンヘン大学だったが,学内には白ばら抵抗運動記念碑 Denkmäler für die "Weiße Roseが建立された。ミュンヘン大学第315講義室ホールの壁にレリーフがあり,さらにショル兄妹広場のビラ記念碑がある。そこには,「人間性を抱いた者たちが非人間性によって滅ぼされた----’このように見知らぬ支配に決して屈しないあの精神が,その真価を示す。’(セネカ)」とある。

ヒトラーの個人秘書で最も若いトラウデル・ユンゲ(1921年生まれ)は,『私はヒトラーの秘書だった』のなかで,戦争は,ドイツに仕掛けられたというヒトラーの言葉を信じていた,当時は仕方なかったと考えていたと述べたが,戦後よく通っていたミュンヘンで,ゾフィー・ショル(Sophia Scholl)の記念碑を見て考えを変えた。「私と同じ年(1921-22年)に生まれ、私が総統秘書になった年(1943年)、処刑された-----その時、私は気づきました。若かったというのは,言い訳にならない,目を見開いていれば,気づくことができたはずだと」と自分の戦時中の行動を内省した。

ショルの白バラ ゾフィー・ショルたちは,1942年7月初旬に配布したビラDie Weiße Roseで,「正義」「個人の自由」「受動的な抵抗」「サボタージュ」「ナチスの打倒」「戦争継続の無意味さ」「ナチスによる精神的経済的隷属化」を訴えた。匿名の郵便を郵送した。1943年1月28-29日のビラでは,「スターリングラード!一人のほら吹き軍人の面子のために,20万のドイツ人同胞が犠牲にされた」「殺戮者ヒトラーを告発する」「ユダヤ人を責め殺し,半数のポーランド人を根絶し,ロシアを踏みにじらんとした男」「ドイツ存続のためにはヒトラーおよびヒトラー政権は崩壊せねばならぬ」とあったが,これはナチス当局に押収された。

白バラ運動のゾフィー・ショル(Sophia Scholl)ら学生たちは,逮捕され,処刑された。が,その行動は,戦時中でも少なからぬドイツ人の共感を呼んでいた。印刷物を読んだ誰もが,ビラ作成者・配布者を密告しようとはしなかった。スターリングラード敗北後のドイツにあって,戦争をやめる必要があると考えた人々は少なくなかった。しかし,逮捕,処罰を恐れた多数のドイツ人は,積極的にレジスタンスには加わることがなかった。

1943年2月21日,ルートヴィヒ・マクシミリアン大学長ヴァルター・ヴェストは,「国家反逆的活動の咎で,学生ハンス・ショルをドイツの全大学から永久追放する」と伝えた。

1943年2月22日,ハンスとゾフィー・ショル兄弟,クリストフ・ポロープストに死刑判決が下されたその日に,ミュンヘン工科大学の学生たちは,大学内のデモを呼びかけた。
「工科大学の学友たちよ,ミュンヘンの学生たちの評判を貶める出来事が起きてしまった。木曜日の朝,反逆者どもが大学の吹き抜けで破廉恥なビラをまいたのである。まさに,スターリングラードで愛国的な犠牲が捧げられている瞬間に,ビラの作成者どもはパンフレットの中で,総統と同胞をこれ以上ないような卑劣な方法で冒涜した。----彼らへの嫌悪感を,我々は公衆の面前で明らかにしよう。学生たちよ,判決が下される今日ゴゴ6時,大学内のデモに来たれ。総統万歳,大ドイツ万歳。」

ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべき戦争の惨事よりも,戦いに勝っているかに関心があった。ユダヤ人絶滅,捕虜殺戮について,知っているドイツ人は,処罰されることを恐れ,虐殺の事実を語らなかった。
当時の日本人も,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺の噂話やプロパガンダも,忌むべき情報だった。

写真(右)1941年10月26日、ソ連西部、ミンスク、ドイツ陸軍第707歩兵師団によって敵対活動の罪で絞首刑される直前、罪状を書いたプラカードを掛けさせられミンスク市内を引き回される3人の死刑囚、ベラルーシ・ユダヤ人マーシャ・ブルスキナ(Masha Bruskina)、ボロダヤ・セバチェビッチ(Volodya Sherbateyvich)(右)と他1名(左):マーシャ・ブルスキナは、看護婦だったが、ソ連赤軍の呼びかけに応じてパルチザン活動に従事した。内容は、ドイツ軍を逃れて隠れていた元ソ連軍兵士をソ連軍の元に脱出させる活動である。彼女は1924年生まれなので、まだ17歳だったが、これは1921年5月9日生まれのゾフィー・ショルよりも3歳若い。
Rußland, Minsk.- Öffentliche Hinrichtung von Partisanen. Umzug mit zwei Männern und einer Frau (mit umgehängtem Schild "Wir sind Partisanen und haben auf deutsche Soldaten geschossen", Text auch in russisch) unter Bewachung deutscher Soldaten durch die Stadt. Title :Minsk, Widerstandskämpfer vor Hinrichtung Info non-talk.svg
写真は、Wikimedia Commons, Bundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 146-1972-026-43, Minsk, Widerstandskämpfer vor Hinrichtung.jpg引用。


1941年夏にソ連西部、ベラルーシ(白ロシア)ミンスクを占領したドイツ軍は、近郊も含めユダヤ人を集めて、10万人を収容するゲットを設置した。この時のベラルーシ・ユダヤ人マーシャ・ブルスキナ(Masha Bruskina)も捕らえられてしまったが、数週間後にゲットーを脱出し、アーリア人地区に身を隠した。彼女は、アーリア人敵容貌だったために、ロシア人少女アーニャ(Anya)として、住民の一員として暮らし始めたのである。そして、地元のパルチザン抵抗運動に参加して、手始めに15名の負傷したソ連軍将校捕虜を刑務所病院から脱出させる手伝いをした。彼女は、自発的に看護婦として、捕虜に民間人の複と医薬品を届け、フラッシュ付きのカメラを持ち込んで、ニセの身分証明書を作成するのを助けた。1941年10月中旬に、ソ連軍捕虜は脱出に成功した。しかし、2日後に、脱走ソ連軍捕虜のは、ドイツ軍のパトロールに発見され、逮捕されてしまう。そして、ドイツ軍は彼らを処刑しようとしたが、その直前に逮捕された脱走者の一人が処刑を免れようとして、脱走を手引きしたパルチザンの情報を渡してしまった。この捕虜の裏切り行為によって、ベラルーシ・ユダヤ人マーシャ・ブルスキナ(Masha Bruskina)は親衛隊秘密警察(Gestapo)によって捕まってしまった。

写真(右)1941年10月26日、ソ連西部、ミンスク、ドイツ陸軍第707歩兵師団によって敵対活動の罪で絞首刑されたベラルーシ・ユダヤ人マーシャ・ブルスキナ(Masha Bruskina)と処刑直前のボロダヤ・セバチェビッチ(Volodya Sherbateyvich):反ドイツ活動、スパイ罪などの理由で住民を公開処刑したが、このような残虐行為が住民の間に反ドイツの感情を湧き立たせ、抵抗運動を活発化させた。
The execution by hanging of Masha Bruskina and Volodya Sherbateyvich by an officer with the 707th Infantry Division. Date1941 October 26 LocaleMinsk, [Belarus] USSR
写真は、United States Holocaust Memorial Museum, courtesy of Ada Dekhtyar ・Photograph Number: 25136 引用(他引用不許可)。


ベラルーシ・ユダヤ人看護婦マーシャ・ブルスキナ(Masha Bruskina)は、ソ連赤軍の呼びかけに応じてパルチザン活動に従事、ドイツ軍に捕まって病院に送られていた元ソ連軍将校15名を脱走させた。しかし、彼らが捕まった時に、このパルチザン活動の情報がドイツ軍に打ち明けられてしまったために、ゲシュタポに逮捕された。そして、1941年10月26日、ミンスクで彼女はドイツ陸軍第707歩兵師団の将兵の手で、公開絞首刑に処せられた。彼女は1924年生まれなので、職位されたときはまだ16-17歳でしかなかったが、残虐なドイツのユダヤ人・ミンスク住民への仕打ちに憤り、自ら抵抗運動に身を捧げたのである。マーシャは1924年生まれで、1921年5月9日生まれのゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl)より3歳も若かった。

自らがかかわる惨事の情報は,人々にとって,歓迎されない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものだからである。当時の人々は,虐殺の事実を認めようとしなかったし,認めたくなかった。ドイツ人は,虐殺の責任を回避しかった。

◆「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と不当なナチス支配の現実を受け入れるニヒリズムに陥った人々がいた。

◆ニヒリズムが蔓延する一方,白バラのレジスタンスは,冷静に事実を見つめ,ナチスによる人種民族差別の不当,戦争の非人間性を糾弾した。そして,戦争の事実をビラを使って公開し,ナチ党による戦争指導を崩壊させようとした。学生や末端兵士だった若者にとっては,白バラレジスタンスは,できる最大限のことだった。これを思うと,現代の自由なわれわれには,何ができるのかを考えさせられる。


翻って,なぜゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl)たち白バラのドイツの若者たちは,自由に慣れたのか,レジスタンスを行ったのか,なぜ多くのドイツ人はヒトラーに縛られ,抵抗できなかったのか。個人と社会,国家との関わりを考えさせられる。


3.ヒトラーの最期

写真(右)1945年4月初め,アドルフ・ヒトラー総統,空軍ヘルマン・ゲーリング元帥,参謀総長カイテル元帥がベルリンの国民突撃隊を閲兵する。ヒトラー暗殺未遂未遂事件によって,ヒトラーは,ドイツ国防軍に裏切り者が多数あり,信頼に耐えないと判断した。そこで,従来の親衛隊SSに加えて,ふたたび突撃隊を編成する構想を示した。9月末には,西部戦線でもドイツアーヘン近郊に連合軍地上部隊が迫っていた。そこで,ドイツ本土防衛のために,16歳から60歳のドイツ人男性を基幹とする国民突撃隊が編成されたのである。これは,国防軍とは別の国民義勇軍組織であり,党の主導になる軍隊だった。しかし,戦車はなく,火砲は少なかったため,小銃,パンツァーファウスト対戦車弾のような歩兵携行兵器のみの部隊で,訓練不足のために,戦闘能力は低かった。
ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939 - 1945 Hitler (r. ) besucht Anfang April 1945 in Begleitung von Göring (m.) und dem Chef des OKW, Generalfeldmarschall Keitel (halbverdeckt), eine Truppeneinheit der faschistischen deutschen Wehrmacht. Dating: April 1945 Photographer: Hoffmann, Heinrich撮影。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


総統の25歳の秘書トラウデル・ユンゲTraudl Junge(1920/3/16-2002/2/10)は,速記用紙に,ヒトラーの言葉を書き取った。「世の政治的遺言」この最初の言葉を聞いたとき,ユンゲの手が一瞬震えた.

彼女は,罪状認知,弁明が始まるものと,真実の告白の前に緊張した。しかし,期待はかなえられなかった。総統が述べたことは,すでにドイツ国民が,世界が何度も聞かされたことだった。

1945年4月29日 ヒトラー総統の政治的遺書Adolf Hitler's Final Political Testament)の末尾に「最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。」と書いた。

◆政治的遺書の中で,ヒトラー総統の後継者は,実は存在しない。ナチ党首・首相・大統領・国防軍総司令官をすべて兼ねる「総統」は一人アドルフ・ヒトラーのみであり,総統=ヒトラーとなった。ナチスの後継者は,複数の首脳に分割された。海軍総司令官カール・デーニッツ提督が大統領・国防軍総司令官に任命され,ヨーゼフ・ゲッペルスが首相に,総統の個人秘書で官房長官だったマルチン・ボルマンMartin Bormannがナチ党首に任命された。

総統は,口述が終わった後,ユンゲが清書,タイプしている最中に,彼女の部屋に来て,アドルフ・ヒトラーのレターヘッド付き用紙の遺書がどこまでタイプできたのかを点検した。この最中,ゲッペルス宣伝相も,ユンゲに総統と命を共にすることを話し,自分の遺書を総統の遺書に添えるようにと要求した。

ヒトラー総統は,何度もタイプが終わったかどうかを確かめに入ってきた。タイプし終わった遺書三部(同じもの)を,タイプライターからはぎとるようにして,会議室にもって行き,三部とも署名した。総統の遺書は,カイテル元帥あるいは新任の陸軍司令官シェルナー元帥,党本部,デーニッツ元帥(ヒトラー総統後継者)に急使が届けることになった。後継者の引きつくものは,廃墟と混乱の中で,ユダヤ人絶滅戦を戦うことだったが,これは黙殺された。

ヒトラー総統の政治的遺書Adolf Hitler's Final Political Testament

More than thirty years have now passed since I in 1914 made my modest contribution as a volunteer in the first world war that was forced upon the Reich.
In these three decades I have been actuated solely by love and loyalty to my people in all my thoughts, acts, and life. They gave me the strength to make the most difficult decisions which have ever confronted mortal man. I have spent my time, my working strength, and my health in these three decades.

わたしが1914年、帝国に仕掛けられた第一次世界大戦に、一人の志願兵として力をつくして以来、30年以上が過ぎ去った。この30年の間、わたしの一切の思考、行動、生活をわが民への愛と忠誠に従って,生きてきた。それら故に,わたしは、何人も比較できない最も困難な決断を下すことになった。わたしは、自らの時間、労力、健康を,この30年間費やしてきた。

It is untrue that I or anyone else in Germany wanted the war in 1939. It was desired and instigated exclusively by those international statesmen who were either of Jewish descent or worked for Jewish interests. I have made too many offers for the control and limitation of armaments, which posterity will not for all time be able to disregard for the responsibility for the outbreak of this war to be laid on me. I have further never wished that after the first fatal world war a second against England, or even against America, should break out. Centuries will pass away, but out of the ruins of our towns and monuments the hatred against those finally responsible whom we have to thank for everything, international Jewry and its helpers, will grow.

わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。わたしは,軍備の制限と縮小をいくつも提案したが、この善意は,私に降りかかった戦争のために無為になってしまった。戦争勃発の責任をわたしに押し付けることもできないし,わたしは,第一次世界大戦後、イギリスやアメリカに対して,第二の戦争を欲したことは一度もなかった。数世紀たてば,町や記念物の廃墟の中から、われわれを貶めたユダヤ人とその支援者たちに対して,すなわち全ての最終責任を負っている連中に対して,憎悪が蒸し返されるであろう。

Three days before the outbreak of the German-Polish war I again proposed to the British ambassador in Berlin a solution to the German-Polish problem—similar to that in the case of the Saar district, under international control. This offer also cannot be denied. It was only rejected because the leading circles in English politics wanted the war, partly on account of the business hoped for and partly under influence of propaganda organized by international Jewry.

ドイツ・ポーランド戦争勃発のつい三日前、わたしはベルリン駐在英大使にドイツ・ポーランド関係の解決を提案した。ザール地方の場合と同様,国際的監視の下に置くおく提案である。この提案は否定することはできない。和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人によるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

I have also made it quite plain that, if the nations of Europe are again to be regarded as mere shares to be bought and sold by these international conspirators in money and finance, then that race, Jewry, which is the real criminal of this murderous struggle, will be saddled with the responsibility. I further left no one in doubt that this time not only would millions of children of Europe's Aryan peoples die of hunger, not only would millions of grown men suffer death, and not only hundreds of thousands of women and children be burnt and bombed to death in the towns, without the real criminal having to atone for this guilt, even if by more humane means.

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段でよってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

------ユダヤ人によって引き起こされ、扇動された連中を喜ばすため,見世物として,敵の手中に落ちるつもりはない。わたしはベルリンに留まり、総統・首相の座が,維持できないと判断した瞬間に、自由意志で死を選ぶ決心をした。-----偉大なクラウセヴィッツの教えに忠実に則って、祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。---

Finally, let them be conscious of the fact that our task, that of continuing the building of a National Socialist State, represents the work of the coming centuries, which places every single person under an obligation always to serve the common interest and to subordinate his own advantage to this end. I demand of all Germans, all National Socialists, men, women, and all the men of the Armed Forces, that they be faithful and obedient unto death to the new government and its President.

最後に,ナチス国家の建国という継続すべき任務は、個人が常に共同利益に奉仕し、ただ一人の利益をあとまわしにすることであると自覚してほしい。全ドイツ人、全ナチ党員、男女、全国防軍の将兵にわたしは望みたいことは、新政権とその代表者たちに、死に至るまで忠実かつ従順なることである。 

Above all I charge the leaders of the nation and those under them to scrupulous observance of the laws of race and to merciless opposition to the universal poisoner of all peoples, international Jewry.

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

         ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

◆ヒトラー総統の政治的遺書には,ドイツ人を抹殺しようと戦争を仕掛けてきたユダヤ人を殲滅すべきであるとの極端な人種民族差別が,示されている。ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1914年12月の対米宣戦布告の国会演説でも,ユダヤ人の共産主義者と資本家が,ソ連と米英政治家を操ってユダヤ人世界支配のための戦争をドイツに仕掛けているので,ユダヤ人を排除・絶滅するために,ユダヤ人殲滅戦争を戦うと公言している。ヒトラー総統は,1945年4月の政治的遺書でも,戦争に責任がある殺人者ユダヤ人に対する絶滅戦争を継続するように指示し,自決した。つまり,ナチスの暴政の根幹には,人種民族差別,迫害があり,差別撤廃,人権擁護を求める運動が,反ナチス抵抗運動であるということができる。

エヴァ・ブラウン 1945年4月30日,ベルリン総統大本営の地下壕で,ヒトラーは従兵のオットー・ギュンシェOtto Günsche(1917-2003)に自分と妻はこれから自決すると伝えた。

前日,長年付き添ってきたエバ・ブラウンEva Braun(1912.2.61945.4.30)は,ヒトラーと結婚したのである。死んだ後で,ロシア人に見世物にされないように,死体は完全に焼却するように命じた。200リットルのガソリンを調達させた。ヒトラーは拳銃自殺,エバは服毒自殺した。従兵は,遺体を外に運び出し,総統官邸の窪地に並べた。そこに,ガソリンを流し,火をかけた。黒焦げの遺骸は,キャンバスに包まれ,砲撃の穴に投げ込まれ,瓦礫の中に埋められた。

ゲッペルス首相とボルマン党首は,ソ連軍との「講和」を決め,クレープス将軍を交渉に派遣したが,ソ連軍は,3年前からの公約通り,無条件降伏を要求した。1945年5月1日,ゲッペルス博士は,デーニッツ提督にヒトラー死亡を知らせた後,6名の子供たち(マグダと先夫の長男ハラルトは同席せず,戦後も生存)を毒殺させた。そして,ゲッペルス夫妻も自決した。

後に,ソ連軍は,ゲッペルス夫妻の形状をとどめた黒こげの遺体と白のワンピースを着た子供たちの遺体を発見した。また,総統大本営にいたドイツ人の証言によって,埋葬してあったヒトラーの遺骸を掘り起こし,ヒトラー本人と確認した。しかし,このことは機密にされ,西側の米英には決して明かされなかった。末期的状況で,ドイツ人たちは,ヒトラーやゲッペルスの遺体に関心を払わなくなっていた。


4.大戦末期と戦後のドイツ人難民の大量発生

写真(右)1945年5月,解放後のアウシュビッツAuschwitz強制収容所バラック:1945年1月27日,ポーランドにあった強制収容所(KZラーゲル)アウシュビッツが,ソ連軍によって解放さた。アンネとマルゴーは,1944年11月ごろソ連軍到着前に,西方の強制収容所に,強制移送された。これは,「死の行進」と呼ばれるほど,多数の囚人が犠牲になった過酷なものだった。脱落者は,射殺された。しかし,アウシュビッツに残った少数の囚人が,ソ連軍によって救出された。米軍が解放したダッハウなど西方の収容所は,写真も含めて,多数の解放時の記録が残っている。他方,ソ連軍が解放,占領した東方(ポーランド)のガス室を完備した絶滅(強制)収容所(ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネック)について,完全に親衛隊が破壊した施設もあり,記録は少ないようだ。現在でも公開資料は多くはない。Corpses of murdered victims in Auschwitz. DateJanuary 1945 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland 写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

連合軍は兵力補充が可能だったが,ドイツ軍は予備兵力も枯渇し,ドイツ郷土防衛軍やゲリラ部隊であるヴェアヴォルフWerwolf(人狼)部隊を増強しようとした。しかし,ドイツ本土空襲と米英軍・ソ連軍の二正面からの攻勢を押しとどめることは不可能だった。そこで,西方の米英には降伏し,東方のソ連とは戦争を継続するという東西対立を見込んだ和平交渉が打診された。


写真(右)1945年1月27日,解放後のアウシュビッツAuschwitz強制収容所バラック、ソ連軍に解放されたアウシュビッツ強制収容所の囚人たち:強制収容所の金網の「止まれ」の標識のある柵ゲートに近寄って解放者たちを迎えた囚人たち。監視していた親衛隊SSの部隊は、多数の囚人を連れて西方に撤退した後だった。その後にやってきたソ連赤軍は、ドイツ軍が放棄していた収容所を解放した。
Inmates at the gate to the Auschwitz concentration camp. DateAfter 1945 January 27 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland
LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland
写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 85600 引用。


しかし,1942年1月1日、ワシントンで、米英ソなど26カ国の署名した国連宣言で,既に,徹底的な戦争遂行と、単独不講和・不休戦を誓約していたから,ドイツの打診は相手にされなかった。1945年5月7日,連合軍総司令官アイゼンハワーとドイツ国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル将軍は,ドイツの無条件降伏に調印し,独ソの降伏調印も5月9日に行われた。

欧州戦末期,ソ連軍のドイツ侵攻に直面した多数のドイツ住民や捕虜が,西方へ移動する途中だった。ドイツはポーランド,ソ連にドイツ人とドイツ系民族の移住を促進し,スラブ系民族の犠牲の上に,東方領土を支配することを望んだ。しかし,末期になると,ソ連軍の侵攻を恐れて,ドイツ本土,バルト海に面した東プロシャから,ドイツ人が,避難民として西方に脱出,逆流現象が起こった。


写真(右)1945年1月27日,解放後のアウシュビッツAuschwitz強制収容所バラック、ソ連軍に解放されたアウシュビッツ強制収容所に放置された囚人:1945年1月27日,ポーランドにあった強制収容所(KZラーゲル)アウシュビッツを解放したソ連赤軍は、多数の放置されていた囚人を解放した。アンネの父オットー・フランクは,アウシュビッツ収容所で生き残り,ソ連軍に解放された。そして,1945年6月3日に,オデッサ経由でアムステルダムに帰国することができた。しかし,隠れ家の他の七名は死亡。
Prisoners of Auschwitz greet their liberators. DateAfter 1945 January 27
LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland
写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 85600 引用。


1945年1月30日ドイツ船「ヴィルヘルム・グロストロフ」(2万5千トン)は,バルト海でソ連潜水艦に雷撃され,撃沈,難民・兵士9千名が遭難した。1945年5月3日の客船「カップ・アルコナ」(2万7千トン)は,強制収容所からのロシア人捕虜など移送者6千5百名,親衛隊などの警備員6百名が乗船していたが,バルト海で英空軍戦闘爆撃機に空襲され,撃沈,5千名が犠牲となった。

戦後,1945年8月,ポツダム会談で,米英ソは,ドイツ本国以外に居住するドイツ人の本国帰還と称して,ドイツ占領地からドイツ人とドイツ系民族を追放,移送することに合意した。こうして,終戦後も,ドイツ人1千万人以上が強制移送あるいは難民として故郷・居住地を後にした。


写真(右)1945年1月,解放後のアウシュビッツAuschwitz強制収容所バラックでソ連軍が発見した囚人の遺体:1945年1月27日,ポーランドにあった強制収容所(KZラーゲル)アウシュビッツを解放したソ連赤軍は、多数の放置されていた囚人を解放したが、同時に放置された多数の遺体も発見している。Corpses of murdered victims in Auschwitz. DateJanuary 1945
LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland
写真は,United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。



5.ホロコーストの戦後

(1)2008年1月のブッシュ米大統領の発言「アウシュビッツを空襲すべきだった」

ブッシュ大統領 The Associated Press 2008年1月11日に以下の記事がある。
President Bush had tears in his eyes during an hour-long tour of Israel's Holocaust memorial Friday and told Secretary of State Condoleezza Rice that the U.S. should have bombed Auschwitz to halt the killing, the memorial's chairman said. ブッシュ大統領は,目に涙を浮かべながら,イスラエルのホロコースト記念館を回り,同伴したライス国務長官に,殺戮を阻止するために,アウシュビッツを爆撃すべきだったと語った。

Bush emerged from a tour of the Yad Vashem memorial calling it a "sobering reminder" that evil must be resisted, and praising victims for not losing their faith.

Bush was visibly moved as he toured the site, said Yad Vashem's chairman, Avner Shalev.
"Twice, I saw tears well up in his eyes," Shalev said. ブッシュ大統領が,二回,涙を浮かべているのを見た,とヤド・バシムのシャレフ館長は語った。

At one point, Bush viewed aerial photos of the Auschwitz camp taken during the war by U.S. forces and called Rice over to discuss why the American government had decided against bombing the site, Shalev said. ブッシュ大統領が,米軍が撮影したアウシュビッツの航空写真を見たときに(これは米国立公文書館が出典!),ライス長官を呼んで,なぜアメリカ政府は,収容所を爆撃するのに反対したのかを,話し合った。

The Allies had detailed reports about Auschwitz during the war from Polish partisans and escaped prisoners. But they chose not to bomb the camp, the rail lines leading to it, or any of the other Nazi death camps, preferring instead to focus all resources on the broader military effort
, a decision that became the subject of intense controversy years later. 連合軍は,ポーランドのパルチザンから,戦時中,アウシュビッツに関する詳細な報告を受けていた。しかし,連合軍は,収容所の爆撃を選択しなかったし,収容所へ続く鉄道も攻撃しなかった。その上,ナチスの死の収容所をまったく爆撃していない。これに換えて,全資源・物資を,軍事作戦に集中したのである。

アウシュビッツでは110万-150万名が殺害された。"We should have bombed it," Bush said, according to Shalev.ヤドヴェシム館長によれば,ブッシュ大統領は「われわれは,収容所を爆撃すべきだった」と発言した。
ライス国務長官は,米軍が収容所を爆撃しなかった理由を語らなかったが,収容所を爆撃すべきだといったのは,米大統領としては,初めてのことだった。

写真(右):1944年4月4日,アメリカ陸軍偵察機が上空から撮影したポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所(アウシュビッツ第一収容所:Auschwitz I):西側連合軍は、1942年の段階で、スパイや工作員の上方から、アウシュビッツ強制収容所の存在を知り、そこでユダヤ人虐殺が実施されていることを伝えられていた。しかし、その解放を目的とした空中攻撃も解放工作も実施しなかった。戦争に勝つことが、このような虐殺を停止させるとして、強制収容所における人権侵害や虐殺にたいして、軍事作戦を発動しなかった。
An aerial reconnaissance photograph of the Auschwitz concentration camp showing the Auschwitz I camp. Date1944 April 04
LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 789190 引用。


写真(右):1944年9月14日,アメリカ陸軍偵察機が上空から撮影したポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所:Auschwitz II):西側連合軍は、1942年の段階で、スパイや工作員の上方から、アウシュビッツ強制収容所の存在を知り、そこでユダヤ人虐殺が実施されていることを伝えられていた。しかし、その解放を目的とした空中攻撃も解放工作も実施しなかった。戦争に勝つことが、このような虐殺を停止させるとして、強制収容所における人権侵害や虐殺にたいして、軍事作戦を発動しなかった。
An aerial reconnaissance photograph of the Auschwitz concentration camp showing the Auschwitz I camp. Date1944 April 04
LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 789190 引用。


もしも,ハンガリーから収容所への鉄道を攻撃すれば,多数のユダヤ人の命を救うことになったはずだ。多数の市民は,収容所の実態を明確には知らなかったが,連合国首脳は,収容所で何が起きているかを把握していたのだから。

But Segev said the question of a bombing is not so clear cut, noting that "it wasn't clear that the United States had the ability to carry out such an operation."
Eliezer Schweid, a professor of Jewish Thought at Israel's Hebrew University, said the question of a bombing is irrelevant in retrospect.
"World Jewish leadership was afraid to ask publicly for the Allies to bomb the death camps, believing that would turn the conflict into a war for the Jews," Schweid said.

In the memorial's visitors' book, the president wrote simply, "God bless Israel, George Bush."
ホロコーストメモリアルは,厳重に警戒され,当日の一般訪問者の出入りは禁止された。警察とヘリコプターの警戒する中での,米大統領訪問だった。

"I was most impressed that people in the face of horror and evil would not forsake their God. In the face of unspeakable crimes against humanity, brave souls - young and old - stood strong for what they believe," Bush said.

"I wish as many people as possible would come to this place. It is a sobering reminder that evil exists, and a call that when evil exists we must resist it," he said.

産経ニュース2008.1.12 10:13は,2008年1月11日,中東歴訪中のブッシュGeorge Bush米大統領は,エルサレムのヤド・バシェム(ホロコースト記念館)を訪れ,館長によると、大統領は目に時折涙を浮かべながら見学。第二次世界大戦中のアウシュビッツ収容所の空撮写真の前に立った際、随行していたライス国務長官に、随行していたライス国務長官に「アウシュビッツを爆撃すべきだった」と語った。米大統領は,「(ホロコーストの歴史は)悪と遭遇した時には抵抗しなければならないということを教えている」と報じたが,これが日本のマスメディアによる最も詳細な報告である。

現在,アウシュビッツ強制収容所にあるガス室は,復元である。ビルケナウ収容所にあった大規模なガス室は,ソ連軍が迫ってきた時,証拠隠滅のために親衛隊が自らが破壊した。1944年11月以来,使用はされていなかったが,1945年1月26日,最後まで残っていた第五ガス室・焼却炉を親衛隊は爆破したのである。

(2)戦後の戦犯裁判

アンネマルゴーMargot Frankが亡くなったベルゲン・ベルゼン強制収容所ヨーゼフ・クラマーは,それ以前の1944年5月-12月はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所ガス室管理者だった。戦後逮捕され,1945年9月17日,英軍によるベルゼン裁判で裁かれた。
公開されているベルゲン裁判記録や日本語訳の起訴状などを閲覧できる。

ベルゼン裁判では,虐殺行為の咎で,クラマー所長以下親衛隊員16名,女子看守16名、カポKapo(囚人長)12名(うち5名が女子)が起訴された。ベルゼン裁判では,クラマー所長ほか男子8名、女子3名が死刑となった。

軍事裁判によって,完全なる「正義」「公正」を確保することはできないし,裁判だけで歴史的事実を明らかにすることも無理である。これは,ひとつには,イデオロギーの上,自国や自分が所属する(と思っている)人種民族の栄光の歴史を取り戻すためであり,もうひとつは,プロパガンダとメディアリテラシーの問題でもある。

(3)ドイツ人はユダヤ人絶滅を知っていたのか

アウシュビッツなど絶滅収容所が稼動し始めた時期,ドイツの一般市民は,東方での大殺戮について,具体的には知らなかったであろう。 

反ヒトラー派のヘルムート・フォン・モルトケ伯爵は,1943年3月25日に「国民の少なくとも10人に9人はわれわれが何十万名というユダヤ人を殺戮したことを知らないでいる。ユダヤ人は隔離されただけで,前と同じように暮らしている。だた,元の出身地である春か東方へ行っただけで,多少は貧しいかもしれないが,空襲を受けることはない,などと今も考えている」と書いた。独ソ戦の当初,ヒトラー総統が,ユダヤ人を遥か東方,たとえばシベリアにでも追放するつもりだったと考える識者は多い。たしかに,ドイツ,オランダのような西欧だけでなく,ポーランドなど東欧のユダヤ人を,ポーランドのゲットーや強制収容所に拘束してていたのであるから,その行き先を予定していた可能性は残る。

しかし,ウラル山脈の西方は,ドイツの生存圏として,ドイツ人や民族ドイツ人が移住すべき場所であり,現地住民はその下僕として,処遇される。ユダヤ人を入植させる余地はないのである。ゲットー・収容所のユダヤ人を,ウラル山脈の東方に追放する計画があったのであろうか。いずれにせよ,ソ連がドイツに降伏するまで,ユダヤ人の追放は実行できない。また,ポーランド侵攻,ソ連侵攻には,すでにアインザッツグルッペのような特別部隊が編成され,ゲリラだけでなく,ユダヤ人,インテリなど敵性住民を虐殺していた。それを思えば,ゲットー・収容所に集めたユダヤ人たちを,再び分散して,ウラル山脈の東方に追放する可能性は,低い。シベリアに分散して入植させたとしても,ユダヤ人がそこに永住するとはいえない。監視の目がゆるくなれば,ふたたびヨーロッパに潜入してくるリスクもある。

◆分散したユダヤ人を監視できない点に注目すれば,ユダヤ人をウラル山脈の遥か東方に追放することは,ユダヤ人による人種汚染,戦争に対する予防には不十分である。つまり,労働可能なユダヤ人を東方に移住する計画は,戦時にも,対ソ戦勝利後にもありえないと考えられる。したがって,ゲントーに集合させ,強制収容所に拘束したユダヤ人は,労働力としてりようするが,労働不能になれば,殺戮することが予定されていたと考えるべきであろう。


写真(左)1944年,アウシュビッツAuschwitz強制収容所の親衛隊と女子補助部隊:病院勤務・事務職の親衛隊SSの乗車したバス。親衛隊カール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。写真(左)アウシュビッツ収容所勤務の親衛隊SSによる葬儀。棺にSSの旗がかけてある。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。他方,フランク一家の写真,動画も残っているのは,フランク家の資産とそのメディアへの関心を示している。

ユダヤ人大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人などの抵抗勢力の増大とユダヤ人の武力蜂起
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,ユダヤ人殺戮が事実上行われていた。労働に適しないユダヤ人は,ガス室が完備する前から,処分の対象だった。

ヒトラー総統や親衛隊にとって,ユダヤ人絶滅は事項すべき宿命であったが,その障害はとてつもなく大きい。現在でも,その障害の大きさ故に,ユダヤ人絶滅が実施されたはずがないと誤解する識者もいる。これは,同時のドイツやドイツ占領の一般市民,されに連合国首脳や米英の一般市民についても当てはまる。一般常識にとどまって考えれば,ユダヤ人絶滅の利益はなく,それに資源・国力を投入することは,理解できない。ヒトラー総統や親衛隊は,ユダヤ人絶滅を公言しているし,連合国の一部のメディアもそれを伝えているが,あれはプロパガンダで,誇張されている。いくらなんでもユダヤ人絶滅が実施されるはずがない。このように考えたのは,当時のドイツ市民だけではなく,連合国も含めた大多数の人々だった。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所を解放したソ連軍が発見した囚人の遺体の山
Corpses of Auschwitz prisoners in block 11 of the main camp (Auschwitz I), as discovered by Soviet war crimes investigators. PhotographerStanislaw Mucha DateFebruary 1945 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland? Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 34815 引用。


ドイツの市民も連合国の市民は,人間性を無視する忌むべきユダヤ人絶滅が行われているかどうか,知りたいとは思わなかった。知りたいのは,戦いに勝っているかどうかだった。ドイツ人は,ユダヤ人絶滅について,知りたくはなかった。知っていれば処罰されることも,予測できたから,知らないふりをしたかった。当時の日本人は,ユダヤ人絶滅が同盟国で行われているとは,思いもしなかった。日本軍による虐殺も,噂話や敵のプロパガンダであって,決して知りたい情報ではなかった。
虐殺という忌むべき情報は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。

ただし,ドイツ人であれば,ヒトラー総統,親衛隊国家長官ヒムラーが,ユダヤ人殲滅を公言していること,ユダヤ人が迫害され,連れ去られていることは確実に知っていた。ラジオや新聞で全国に情報が伝播されていた。

写真(右):1944年,ポーランド(総督領)、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所・ビルケナウ絶滅収容所(アウシュビッツ第二収容所の親衛隊)勤務の親衛隊SS将校たち:親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)を寄贈された。
Two SS officers meet during the dedication of the new SS hospital in Auschwitz. Pictured on the far left is Dr. Enno Lolling and on the right is Dr. Eduard Wirths. Dr. Wirths also received his promotion to Sturmbannfuehrer and decorated with the War Service Cross 1st Class at the same time and this might be what is being portrayed here. 1944 LocaleAuschwitz, [Upper Silesia] Poland? Variant LocaleBrzezinka Birkenau Auschwitz III Monowitz Auschwitz II
写真は、United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)Photograph Number: 34815 引用。


 強制収容所・絶滅収容所の焼却場の建設にかかわった労働者,ガス室・焼却炉の設計をした技師クルト・プリューファー,チクロンBを大量生産したテッシュ&シュタベノウ社,デゲッシュ社の首脳陣は,明らかに,アウシュビッツ=ビルケナウ収容所におけるユダヤ人虐殺を知っていた。IGファルベンも合成ゴム工場,合成燃料工場に安価な(奴隷)労働力を数万名も投入しており,その待遇が苛酷であることを熟知していた。多数の労働者を次々に動員しながら,動員を解除し帰郷した労働者が皆無だったを知っていたはずだ。多数の奴隷労働者が死亡していることは知りたくなかったであろうが,容易に知ることができた。

 ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方治安維持作戦を支援したこともあった。

 多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。このニヒリズムを打ち破ったのがゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl)たち白バラの戦士だった。

ANNE FRANK & CHILDREN OF HOLOCAUST 独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、ヂュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。

1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。

ナチ党大会が開催されたニュルンベルクから強制収容所に送られたユダヤ人が多数いた。1941年11月25-26日、ニュルンベルクのユダヤ人512名が集められた。戦後1951年の戦犯裁判において、ニュルンベルクから移送されたユダヤ人の死者は4854名である。また、ニュルンベルク市内に限っても、移送されたユダヤ人1931名のうち、生き残ったのは72名であり、生還率は4.4%に過ぎなかった。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

ドイツ市民たちの中には、ユダヤ人に同情を感じたものも少なくなく、移送した警察・親衛隊が、暴力的だったわけでもないようだ。しかし、彼らは、ユダヤ人移送は仕方がないとのニヒリズムに陥っていた。

ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1943年に入って,戦局が悪化する中,ユダヤ人が外国やドイツ軍占領地に追放されているのではない,収容所に収監されていることも,明白だった。ドイツ軍が後退している以上,ソ連の独軍占領地であるはずがなく,ユダヤ人は強制収容所から外に出ることはできないと予測できた。

次々に,ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,東方に送られていることは,ドイツの鉄道職員には,常識だった。フランス,オランダ,ドイツなどのユダヤ人を満載した貨車や客車が,ドイツを通って,東方に移送されていることは,沿線の住民も知っていた。噂話から,ヨーロッパ中のユダヤ人は,強制収容所に移送され,そこから外に出られないことは,みなが知っていた。

ダッハウ強制収容所 ユダヤ人問題の「最終解決」は,戦前は,ユダヤ人のドイツからの追放だったが,戦時中は,強制収容所に拘束し奴隷労働に従事させ,疲弊し病気になった労働不能者を処分することだった。アーリア人を人種汚染し,ユダヤ人共産主義者がソ連を,ユダヤ人金融資本家・マスメディアがアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域もない。このような状況で,ヨーロッパのユダヤ人排除とは,ユダヤ人殺戮・処分,すなわち絶滅に至ってしまう。

ナチス指導者,一般市民は,収容所に送り込まれたユダヤ人の運命を察することができた。しかし,誰もその「責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズムである。

ユダヤ人絶滅は,国会演説,ラジオ放送でも公言されていたが,これは過激なプロパガンダに過ぎないと考えたドイツ人,占領下の住民,ユダヤ人が多かった。しかし,ナチス指導者の中には,東方の強制収容所に移送されたユダヤ人が殺戮されていることを知っているものもいたが,知っているものは,知らないふりをした。

ポーランド総督になったハンス・フランクは,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(トーランド『アドルフ・ヒトラー 4』122-123頁)

(4)強制収容所の囚人と解放者による報復


写真(上)ダッハウDachau強制収容所の焼却炉
:劣悪な収容環境のため,多数の囚人が骨と皮ばかりになって衰弱死した。遺体は収容所にある焼却炉で火葬された。最後の焼却場(火葬場)の写真は,解放したアメリカ軍が撮影したもので,焼却場の外には,死体が山積みになっている。もしも,このようなユダヤ人や政治犯に対する虐待・虐殺が1944年のヒトラー暗殺の動機になったのであれば,(飛行機爆破未遂などはあったが)その実施は,もっと早めるべきだった。The Wiener Library Institute of Contemporary History引用。


写真(左)1945年4月14日,アメリカ軍第3機甲師団に解放された後,強制収容所で,ソ連軍捕虜の元囚人に糾弾される親衛隊看守。:Russian slave laborer among prisoners liberated by 3rd Armored Division points out fromer Nazi guard who brutally beat prisoners. Germany, April 14, 1945. T4c. Harold M. Roberts. (Army) NARA FILE #: 111-SC-203466 。写真(右)1945年4月29日,米第三軍の命令によって,ナチス親衛隊が虐殺した囚人遺体掘り出し,再埋葬させられるドイツ市民:Civilians of Neunburg bear victims of SS killings to burial ground, after bodies were exhumed from mass grave where their murderers had dumped them. Chaplains of U.S. Third Army will conduct burial services. April 29, 1945. Pfc. Wendell N. Hustead. (Army) NARA FILE #: 111-SC-266656 。Defense Visual Information Center 米国防総省引用。

写真(右)1945年5月4日,アメリカ第9軍に解放されたヴォッベリン(Wobbelin)強制収容所の囚人。これから,米軍によって病院に搬送される。:Pvt. Ralph Forney. (Army) NARA FILE #: 111-SC-206391。
写真は、Defense Visual Information Center アメリカ国防総省引用。


<ダッハウ収容所解放と看守の処刑>

 米兵たちには,正義と自由の戦いを信じて,ナチスの野蛮行為を処断しようと果敢に戦っていたものが多かった。報復,復讐の機会があれば,それを逃さず行使したものもいた。「捕虜はとらない」である。

1933年設立のダッハウ強制収容所は,連合軍将兵の間でも悪名をはせていたが,連合軍首脳が,強制収容所を解放する作戦を立案したことはなかった。1944年2月にすでに「敵によく抑圧されている犠牲者の救出に,戦闘部隊を投入することは考えられない」と,戦闘部隊はあくまで敵軍に対決するために動員したことを明示していた。

 しかし,前線の将兵は,ダッハウ収容所近くで,ブーヘンワルト収容所から数千名の囚人が強制移送された「残骸」を目にした。囚人たちは,何の補給もないまま,貨車に押し込められて,窮屈な状態で死ぬに任されていた。悲しみ,次に怒りに駆られた第157連隊の米兵たちは,これからは「捕虜をとらない」と決めた。ダッハウ収容所につくと,収容所バラックから囚人が飛び出してきて,鉄条網を押し倒した。みなが歓声をあげた。

 ダッハウ収容所を解放した米兵たちは,収容所看守から武力抵抗をほとんど受けなかったようだが。しかし,収容所にはしばらく銃声が響いたという。目撃証言によれば,ダッハウ強制収容所親衛隊看守たち数十名から500名が,米兵によって銃殺され,あるいは,囚人によるリンチによって殺害された。解放者・収容者中には,報復,復讐に走ったものがいた。収容者や米兵の仲には,このような報復,復讐が無意味に思えて,証言したものがいたのである。米兵の中には,親衛隊将校を囚人に引渡し,気の済むまで報復させたり,看守をいきなり銃殺してしまったりするものがあった。降伏した捕虜を,軍事裁判にかけることなく,即刻処刑,リンチしてしまったのである。

写真(右)1945年5月7日,アメリカ軍第71歩兵師団によって解放されたオーストリアのランバッハLambach収容所のユダヤ人の子供たち。飢餓などの原因で,毎日200-300名が死亡していたという。:Sgt. Robert Holliway. (Army) NARA FILE #: 111-SC-266491 。Defense Visual Information Center アメリカ国防総省引用。

 解放当時,ダッハウ強制収容所の看守は,大半が強制収容所勤務に就いたばかりの若者だった。裁判抜きの収容所看守の即刻処刑やリンチ殺害は,明白な戦争犯罪であるが,看守を処刑した米兵たちの犯罪捜査は,パットン将軍の介入によって中止された。パットン将軍は,ブーヘンワルトBuchenwald収容所を解放した後,近くのワイマールの土市一般市民を,正装させ丘上にある収容所にくるように命じた。将軍は,ドイツ市民に,自らの親衛隊が行った残虐行為を見せて,反省させようとした。

5.プロパガンダとメディアリテラシー

<差別と戦争プロパガンダの特徴>

1.プロパガンダとは、プロパガンダの送り手(主体)のもつ特定の価値観を、プロパガンダ受け手(受容者)の中で、短期間のうちに移転・増殖させようとする情報に関する行為。⇒特定の方向に大きな力を与える「情報の管理・操作」 

2.プロパガンダの内容は、プロパガンダ主体に都合のいい情報は過大に、都合の悪い情報は歪曲する一方で、敵対集団に都合のいい情報は歪曲し、都合の悪い情報は過大に喧伝する。⇒情報の非対象性

3.プロパガンダの情報伝達は,プロパガンダ受け手のもっている感情・価値観に接合・移植して,その共感と同調を得ながら進行する。⇒受け手にとって受け入れ易い内容という「情報の受容性」

4.プロパガンダ受け手は、メディアによる情報に衝撃を受けつつ、送り手への一体感あるいは憧憬から、自分の影響力が誇示できたように錯覚する。⇒有力な代弁者として振る舞う「情報共有の一体感」

5.組織的に行われるプロパガンダに対して、受け手である個人、大衆は専門知識がなく、発言力も低いために、受動的存在でしかない。プロパガンダを批判し、反論することは、個人には困難である。⇒情報の迎合性・無批判性


第二次大戦時のアメリカの反日人種民族差別ポスター(右):「軍務についている人への贈答」「もしも日本兵に会ってしまったら---。ロープをそいつの首に巻け。ロープの端を握って,引っ張れ。ヒック!」このような反日プロパガンダが展開された。ドイツや日本への嫌悪感を煽るアメリカのブラックプロパガンダ。しかし,絵をユダヤ人風に変更するだけで,アンチセミティズムの人種民族差別プロパガンダとなる。

ドイツのクラウゼビッツの著作『戦争論』は高く評価されているが,戦争を目標達成の手段として認識する立場では、特定時点において、一方の当事者の利益に配慮することになる。国家目的の追求に、戦争は有効な手段である。政府や軍あるいは軍需産業がスポンサーとなった戦争研究が肥大化する中で、学術的にも政治の延長としての戦争の価値が認められている。社会主義の階級闘争理論では、国家間の戦争を階級間の戦争に転化して、社会主義革命につなげることが関心ごとだった。しかし、政治家や革命家の意図にもかかわらず、人種民族差別が行われつつ,戦闘員も非戦闘員も、大量破壊、大量殺戮の被害を受けた。国際テロ戦争も,人種民族差別の延長線上に,文明の衝突を「させられた」結果のように思われる。

平和研究に欠陥があるとすれば、それは、惨禍を及ぼした戦争を戦いながらも、依然として、人類が虐殺や戦争を回避する方法を見出せない,人種民族差別が克服できないでいることである。だれも戦争を望まないが、それでも戦争が起こるのが現実である、という現実主義、ニヒリズムが成り立っていることである。人種民族が平和に共生することはできない,戦争は繰り返されるものだ,文明は衝突を繰り返してきた,このような世界観、すなわち戦争必然説が払拭できないでいる。そこで,平和を望むといいながら,軍需生産・国防予算の維持、人種民族差別のプロパガンダが経常化し、戦争を準備し、人種民族的偏見を助長し,戦争を戦う社会が常態化してしまった。

写真(右):1945年ガルデレーゲン収容所で焼き殺されたソ連軍捕虜;納屋に火を掛け焼き殺したが,逃げ出そうとした囚人は撃ち殺された。米軍が占領したときの撮影。他方,親衛隊・ドイツ国防軍も,西側すなわち米英仏の捕虜POWを大虐殺することはほとんどなかった。(バルジの戦いでのマルメディ虐殺は有名だが。)Scrapbookpages.com 引用。米軍が解放したときの様子は,Gardelegen:United States Holocaust Memorial Museumに掲載された。1945年4月13-14日,殺害された囚人たちの埋葬場所が墓地となり,現在もメモリアルとして維持されている様子は,Gardelegen市公式ページ参照。

人種民族差別を社会の不安はけ口として利用し,戦争を目的追及の政治の延長と見なしている政治家・軍人がいる限り、迫害や戦争を根絶することはできない。人類を卑下して,迫害や戦争を繰り返す愚かな生き物だとする戦争必然説が信奉される限り、迫害や戦争をなくすことはできない。

人種民族差別を仕方がないとするニヒリズムに陥りやすいのが,自己責任を認めたくない,人間である。そして,人種民族差別に陥るようなプロパガンダも盛んに行われる。体制側の強力な戦争プロパガンダは,洗脳,心理戦,情報戦の名の下に,人々の心と脳に,特定の思考を植え込んだ。

メディアリテラシーとは、マスメディア(TV・新聞・雑誌、インターネットなど)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われる。情報を媒介する手段とその管理者の意図を推し量って、情報は事実とは必ずしも一致しないことを踏まえ、情報を批判的に検討することでもある。

社会、個人のメディアリテラシーに対峙するのが、プロパガンダである。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、思考・世論を誘導する戦争情報の管理であり、第二次大戦では,人種民族差別を推し進める目的でも使われた。戦争を政治の延長と捉えて、特定目標を達成する手段として戦争を遂行しようとする者は、プロパガンダにより,人種民族差別を巧みに煽動する。

写真(右)ガルデレーゲン収容所者虐殺墓地の米軍による追悼式Scrapbookpages.com 引用。米軍が解放したときの様子は,Gardelegen:United States Holocaust Memorial Museumに掲載された。1945年4月13-14日,殺害された囚人たちの埋葬場所が墓地となり,現在もメモリアルとして維持されている。Gardelegen市公式ページは,記念碑の写真が掲載されている。

『アンネの日記』を読むと、彼女の澄んだ瞳,明晰な頭脳が,早くも戦後,平和な世の中をどのように構築するかを考えていたことがわかる。アンネは,十五歳にして,ユダヤ人であるという人種民族の特性を保持しながら,いかにして世界の人々とともに暮らすことができるのかを模索し,「人種民族の共生」を考えていた。

『アンネの日記』の行間・余白を埋める試みを通じて、平和の大切さが身にしみてわかってきた。十五歳の少女でも,平和のために行きたいと願っていたことに感銘を受ける。それを思えば,政府,メディア,学会を通じた人種民族差別,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争を助長することはできない。人種民族差別を煽動,利用したり,政治の延長として戦争を公然と賛美したりすることも,許せないと思う。

アンネ・フランクの日記人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。


アンネ・フランクは,隠れ家生活を通じて,差別と戦争の悲惨さと愚かさを実感していた。人種民族に基づく差別が,いかに不条理で,人間を貶めた存在にするかを理解していた。もう一度『アンネの日記』を読み直して,少女の考えたことを,自分の中で,反芻してみたい。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
 「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。                        じゃあまたね,アンネ・M・フランク」

人種民族差別と戦争がもたらした惨状に向き合うことなく、戦争の大義,人種民族の優秀性,祖国の栄光を説いても,平和の本質はつかめない。人種民族的イデオロギー,まがい国益,利権の前に,俗説を捏造したり,人種民族差別を煽動したりする者もいる。しかし,第二次大戦中でも,人間性を保とうと,ユダヤ人を支援した人々がいた。迫害に怯えながらも,懸命に生きようとした少女は,レスキュアーに感謝して,人種民族が共生できる平和を夢見ていた。そのような記録を読めば,戦争が、大義やイデオロギーの当否,あるいは人種民族にかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすだけであり,平和人権の確立がいかに大切かが,暖かい心持で,冷静に理解できる。

1993年2月15日 ドイツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領による
     「白バラ」処刑50年執念追悼記念講演


 「多くの人々が自分たちと同じように考え,その呼びかけに応じてくれるであろうというミュン ヘンの学生たちの期待は満たされませんでした。命運を賭した彼らの行いは挫折したものと感じ られました。「白バラ」は,本当に今日の私たちにも関わりのある始まり(Beginn)であったのであろうかという疑問が繰り返し浮上しました。彼女らは,そもそも政治的伝統の出発点になり 得たのだろうか? 

 彼女らは実際には,宗教的に根を下ろした,素朴なドイツの教養的中産階級 (Bildungsbürgertum)の理想主義を単に表明したに過ぎなかったのでは? 彼女らの道徳的な行 いは私たちの歴史にとって忘れ難いものになりましたが,それにひきかえ,この道徳的な完全無 欠さを政治的合理性と結びつけることが必要なのに,それをなす力が彼女らには欠けていたと言 われました。したがって,疑い深い人たちは,彼女らの中に格別新しい政治的始まり(Anfang)を見ること はなく,1848年,自分たちの理想もろとも剥き出しの権力に屈し,それ以来もはや有効な政治的 推進力を生み出していなかったドイツ中産階級の非政治的な振る舞いの延長線上に彼女らを見た のでした。これにより,我が国に特徴的な精神と権力の溝も深まったというのです。政治は今や 汚らしく,非道徳的であると見なされるというのです。悪に対する「白バラ」の抵抗は,単に愛 に発する改心への呼びかけとしてのみ理解され,実際には政治や歴史からの離反を意味している ということになりました。」

 ゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl)は、1943年2月、人民法廷(Volksgerichtshof)に立たされた時に、人民法廷裁判長ローランド・フライスラー(Roland Freisler)から、ヒトラーの下で恩恵を被りながらも、なぜこのような犯行に及んだのかと詰問され、「誰かが始めなければならない」と間違いを正す決意を供述した。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)大統領もこのゾフィー・ショルと同じく、白バラによるレジスタンスに民主主義政体の基本方針を示すべきだと考えたのであろう。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別


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