鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
Helen Keller OnLine Biography 2007
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◆HELLEN KELLER Biography ?■1880-1937年 ヘレン・ケラーの生い立ち
当館では障害者でありながら学問,社会活動に励んだヘレン・ケラーの伝記を写真解説しました。ヘレンの深い学識や当時としては豊富な写真に,彼女の克己心や整っていた生活基盤,社会的評価の高さが窺われます。
ヘレン・アダムス・ケラーは、盲・聾・唖の三重苦を克服した奇跡の人として有名だ。彼女の活動や業績について知る大学生は少ないけれども、当時、女性が高等教育を受ける機会が閉ざされていた時代、障害を持つ女性が、大学教育を終え、博士号を2つも得たことを知れば、ヘレン・ケラーが、奇跡Miracleを起こした、といってもいい。実際に、ヘレンが学校で大学入試の勉強を始めたとき、すでに奇跡のようだと、アメリカの教育界でも注目されており、カリスマ(ドイツ語Charisma)を持ち始めていた。

カリスマCharisma)とは、古代ギリシャ語で「恵み」を意味する語であり、キリスト教では「天からの授かった恩寵」という意味で使用されるもので、預言者もこれにあたる。

20世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、支配の一形態として、合法的支配と対極にある「カリスマ的支配」を示した。つまり、カリスマ的支配とは、説明しがたい超自然的な能力を誇示した特別な人物に依存して、大衆がその人物に従う形での支配であり、大衆を惹きつけてやまない特定の人物がもつ魅力が、カリスマ(Charisma)である。ヘレンケラーは、有名になった当初から、カリスマ性を備えていたが、ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンは、苦学の人であってもカリスマ的(charismatic)とは言えない。その意味で、サリバンは、奇跡の人とは言い難い。

つまり、19世紀末から20世紀初頭、アメリカのインテリは、カリスマを備えた「奇跡の人ヘレンケラー」と認識していた。このように100年以上前の「奇跡」を調べてくると、日本のフリー辞典「アン・サリヴァン」で「奇跡の人という呼び名は、ヘレン・ケラーのことではなく、アン・サリヴァンのことである」と言い切っているのは正確な表現ではないことが理解できる。「奇跡の人は誰か」という質問に、インターネット検索で答えが出ている-----と単純に考えるべきではない。

現代の日本で「奇跡の人」がヘレンケラーであると認識されているのは、上記のような彼女の経歴を踏まえたものではないようだ。

◆1934年8月15日、日本ライトハウスの創設者岩橋武夫は、カナダからメキシコに至る講演に出帆した。この途上、1934年12月、アメリカのニューヨーク郊外フォレストヒルにあるヘレンケラー宅を訪問した。目的は、ヘレンケラーに日本を訪問してもらい、盲人への支援を訴えるためであった。当時、ヘレンの先生であるアン・サリバンが病に臥せっており、来日は叶わなかった。しかし、サリバンは、ヘレンに対して日本に出かけて盲人支援のために活動することを望み、これがアンとヘレンの約束になった。この時、ヘレンは、岩橋武夫に、日本で再開することを伝えたという。(ヘレン・ケラーと日本ライトハウス参照)

アンの死後、しばらくして、1937年にヘレンは岩橋武夫・アンとの約束を果たすために、日本を訪問する。この第1回目のヘレン訪日では「奇跡の聖女」として歓迎されたのである。したがって、「奇跡の人ヘレンケラー」というのは1937年の日本人の認識といえる。

戦後、1959年初演のウィリアム・ギブソンWilliam Gibson :1914-2008)作の戯曲 Miracle Worker、これを基に1962年に公開された同名の映画"The Miracle Worker"は日本でも評判になった。そこで、日本では戦前の記憶から「奇跡の人」と訳し、盲・聾・唖の三重苦を乗り越えたヘレンケラーの伝記として長く演じられた。ヘレンケラーが障害を克服したことで、「奇跡の人」と紹介されていたのである。

◆日本では、ギブソンの1959年の戯曲「奇跡の人」、それを脚本として作成された1962年公開の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)は、ヘレンケラーが奇跡の人本人であると考えられた。日本人の演出になる「奇跡の人」の戯曲でも、奇跡の人は、ヘレンケラーとみなされていた。

◆アメリカでは、1959年に初演された“ Miracle Worker”、それをベースに作成された1962年の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)であ、「奇跡の人」とは、ヘレン・ケラーを教育したジョアンナ・マンズフィールド・サリバン、通称アン・サリバンのことを指していた。「奇跡の人」は、ヘレンケラーを覚醒させ、障害を克服して、大学にまで進ませることができたアンであり、この彼女の仕事が奇跡と見做していたのである。

1959年初演のウィリアム・ギブソンの戯曲“ ミラクル・ワーカー”、1962年公開の同名の映画「奇跡の人」The Miracle Worker )において、「奇跡の人」はアン・サリバンを指すのであって、ヘレンケラーではない。しかし、だからと言って「奇跡の人」がヘレンケラーであるというのが間違いというわけでは決してない。奇跡の人=サリバン先生、とは、一つの解釈にすぎないのである。

ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンがヘレンケラーを新しい世界に導いたとき、アメリカの教育界やパーキンス盲学の報告によって、ヘレンに奇跡のようなこと(miracle like)が起こったと述べられている。これらを踏まえれば、第一次大戦前から有名人だったヘレンが、第二次大戦後、晩年になってアン・サリバンを主役とする戯曲「奇跡の人」、そしてこれを脚本にした同名の映画のヒットによって、「奇跡の人」の代名詞を奪われた、とは言えないであろう。

また、ギブソンの戯曲「奇跡の人」“ Miracle Worker”(奇跡の人)発表の22年前の1937年、日本の新聞は、ヘレンケラーのことを、「奇跡の聖女」と讃えていた。ヘレン・ケラーは、1937年4月の第1回目の来日は「奇跡の聖女」、第二次世界大戦終了後、1948年8月の第2回目の来日は「幸福の青い鳥」、1955年6月の第3回目来日は「古き良き友」として、歓迎されている。日本では「奇跡の人」はヘレンケラーを指していた。

◆学習漫画 世界の伝記NEXT『サリバン先生』集英社(2011年2月刊行)の解説を書きました。アン・サリバンは自伝を書かず、日本語による人物伝もありません。学習漫画で初登場となりました。
毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に紹介された,拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』青弓社)では、日露戦争,世界大戦,スペイン内戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争,国際テロ戦争を分析し,ヘレン・ケラーと反戦運動との関わりも扱いました。また、アメリカの陸海軍、海兵隊、沿岸警備隊に創設された婦人部隊(女性兵士)や従軍看護婦など女性あるいはジェンダーの視点からもたくさんの写真ポスターを扱っています。『写真・ポスターで学ぶ戦争の百年』の一部をご覧いただけます。
NHK2008年2月10日「わくわく授業〜わたしの教え方:小さな手と手で“ことば”をつかむ〜加藤小夜里先生の国語」が,9月21日に再放送されました。加藤小夜里先生は,東海大学教養学部人間環境学科の卒業生です。
著作、名言集、思想、生家などは「ヘレンケラー研究リンク集」をご覧ください。
1937年の日本訪問以降、後半生は「ヘレンケラーの後半生:visiting Japan」をご覧ください。
ヘレンを教えたサリバン先生の伝記、思想は「奇跡の人ジョアンナ・マンズフィールド・サリバン伝記」をご覧ください。



ヘレンケラーの誕生

リンク ヘレンケラーの生家Ivy Green
Tuscumbia, Alabama.
父ARTHUR HENLEY
KELLER
ヘレンの母
Kate Adams Keller,1900年
Anne Sullivan
アン・サリヴァン(1887年)

解説
父コーネルアーサーケラーColonel Arthur Kellerは地方紙The North Alabamian編集者。母はケイト・アダムズ・ケラーKate Adams Keller。ヘレンケラーは、米国アラバマ州Tuscumbia で1880年6月27日誕生。1882年2月(生後19ヶ月)に重病により聴覚と視力を失った。 ヘレンは規範も習うことも嫌いで「野生児"wild child"」と呼ばれた。
ヘレンケラー高校の教育リンク集;LEARNING RESOURCES AND TECHNOLOGY ON-LINE DATABASES.
ARTHUR HENLEY KELLER, was born February 5, 1836, near Tuscumbia, and is a son of David and Mary Fairfax (Moore) Keller.  Captain Keller and wife are members of the Presbyterian Church, and he is a member of the Knights of Honor and the A. O. U. W. The Captain has never solicited political preferment, but represented his party as a delegate to the St. Louis Convention in 1876, and also as a delegate at large to the Cincinnati Convention in 1880. 祖先はスイス出身。
1886年, ヘレンの母ケイト・アダムズ・ケラーは、ボストンの盲学校Perkins School for the Blindについて電話発明者でもあるグラハム・ベルAlexander Graham Bellから聞いた。ヘレンは、ベルのところにもう一人の盲目で聾唖の少女Laura Bridgmanとともにおかれた。母ケイトはPerkins Schoolの校長に、ヘレンによい教師を充ててくれるように手紙を書いた。
ヘレンの母から手紙をもらったパーキンス盲学校の校長は、ヘレンの先生として優等生(star student)のアン・サリヴァン(Anne Sullivan)を派遣した。サリヴァンもトラコーマで視覚障害者でであった。ベルの仲介もあって、こうして49年間もヘレンから「先生」と呼ばれる20歳のアンが派遣されたのである。Her hair is pulled back from her face with a braided coil at the nape of her neck. Circa 1881



1880年代

リンク 1880年代 1887年Photograph by Deane, 1877(87 ?)
HELEN KELLER AND JUMBO
ヘレンが文字を知った「運命の井戸」
解説
Anne was making Helen behave. She wouldn't let her eat off anyone's plate. Helen didn't want to behave and she threw a fit.Anne would take Helen's hand and spell into it. She was trying to show Helen how to talk. Helen didn't understand. Then one day Anne held Helen's hand under water and spelled W A T E R. Helen understood.
By David Head 4th Grade
The deaf and the blind find it very difficult to acquire the amenities of conversation. How much more this difficulty must be augmented in the case of those who are both deaf and blind! They cannot distinguish the tone of the voice or, without assistance, go up and down the gamut of tones that give significance to words; nor can they watch the expression of the speaker's face, and a look is often the very soul of what one says.
サリヴァン女史はへレンに単語,文字を教えようと努力した。1ヶ月たって,ヘレンは物に名称があることを理解した。サリヴァンは,井戸に行き水を触らせ," W-A-T-E-R"と手に書いた。ヘレンは顔を上げた。文字かあることを知った。この日に30語を覚えてしまった。⇔障害者の娘に個人教師の派遣を依頼できるだけの資産のあったケラー家は恵まれていた。日本における聾唖者、盲人の特殊教育の歴史と比較すれば(たぶん米国の特殊教育と比較しても),恵まれていたといえる。



ヘレンケラーの子供時代
リンク Childhood 1887 Anne Sullivan, reclining on a divan Miss Keller 1893. A portrait of Anne Sullivan,1881
解説
目が見えなくとも文字を書くことを習った。
Quickly, she learned words and then sentences. Soon she was able to communicate by signing the manual alphabet. But Helen wasn't satisfied with signing alone. She wanted to learn to write. In addition to learning to write in braille, Helen placed a ruler on the page as a guide and drew very square block letters.
サリヴァン女史がヘレンに文字を教えた。Anne Sullivan は1866年生れ。Perkins Institutionに1880年に入学。トラコーマのために視力が低いが、文字を習った。ヘレンの元に1887年に派遣された。
AFB写真:Anne Sullivan, reclining on a divan, uses the manual alphabet with Helen Keller, perched on a stool at her feet. Circa 1893.
裕福なヘケラー家は、たくさんのヘレンの肖像写真を撮っている。
Portrait of Miss Keller with her hair parted in the center and her eyes cast downward, circa 1893.
A portrait of Anne Sullivan in semi-profile, wearing a black dress with a white collar and a white bow at the neck. Her hair is pulled back from her face with a braided coil at the nape of her neck. Circa 1881



ヘレンケラーの教育
リンク Helen's early writing ヘレンの先生アン・サリヴァン
Anne Sullivan, 1887年
Wright-Humason School class picture, 1895年
ヘレンとアンが前列左に着席
解説
すぐにヘレンは文字と文とを覚えたので、手話で会話できるようになった。しかし、ヘレンはそれだけは満足せず,文章を書きたいと思った。ライティングと並行して, ヘレンは四角いブロック体の文字を並べて書くことを始めた。

日本の日光金谷ホテルの宿帳のサイン(1937年)
Anne Sullivan was born on April 14, 1866, in Agawam, Massachusetts. Her family had very little money and could not take care of her. When she was 10 years old she was sent to live in a home for poor people. Anne also had very poor vision. At the age of 14, she was sent to the Perkins School for the Blind to receive training to be a teacher for children who were blind.
When Helen was 13, Helen and Anne moved to New York City. There Helen attended the Wright-Humason school for the deaf. She was the only student who was deaf and blind. In class, Anne read everything and signed what she read into Helen's hand. Helen devoured information and became able to communicate with other adults and children. She was even learning how to speak. 



1890年代
リンク ヘレン(1896年) 1893年 ナイアガラ滝のヘレン
とアン(1893年)
ヘレンとアン(1894年) 
解説
象牙の黒いヘアバンドと指輪をしたヘレン。Portrait of Miss Keller holding a book. She is wearing a black ivory headband and a ring on her right ring finger, circa 1896. Helen Keller was born in a small town called Tuscumbia, Alabama, on an estate called Ivy Green.
Anne had taught Helen many things outside of the classroom. She taught her to touch, smell, and experience nature. She wanted Helen to be curious, ask questions, and to discover the world around her. And Helen loved to smell and touch flowers, to feel the wind on her face...she was curious about everything!
ナイアガラの滝のヘレンケラーPhotograph of Miss Keller, Anne Sullivan, Edmund Lyon, and Polly Prate in front of Niagara Falls, circa 1893.
1893年のヘレンの詩「秋」
Autumn
Oh, what a glory doth the world put on
These peerless, perfect autumn days
There is a beautiful spirit of gladness everywhere....
Autumn was written by Helen Keller at the age of thirteen, in 1893, for her friend and mentor, Alexander Graham Bell, inventor of the telephone and a teacher of the deaf.
ベルの家を訪ねたヘレンとアン。
"Read my poem. Do you see autumn as I do? I wrote this poem when I was thirteen for my friend, Mr. A. G. Bell. Who am I? What colors do I see?"
Helen Keller,1893
Alexander Graham Bell Family Papers



1900年前後少女時代
リンク Helen, Anne and
Alexander Graham Bell,1901年
1902年ベルとケラー
1899年の作家トウェインとケラー
1902年マーク・トウェインとヘレン
解説
ヘレンは電話発明者Alexander Grahamのと友人で,ベルは難聴者の教育に関心があった。ベルの妻も聾唖者であった。1888年にベルはthe Volta Bureau for the Deaf(現the Alexander Graham Bell Association for the Deaf)を設立した。ベルは1922年に亡くなるまでヘレンとアン・サリヴァンの友人であり続けた。写真で,ベルはヘレンと手話(手で書くアルファベット)で会話している。

凧を揚げるベルとケラー
大学卒業2年前の1902年に, ヘレンは初の著書「わが人生の物語The Story of My Life」を出版した。編集者John MacyはHarvard Universityのインストラクターで,ヘレンはこの本をAlexander Graham Bellに捧げている。これはベルが彼女の教育を大いに助けたためである。ベルはヘレンの母とペーキンス盲学校の仲介をするなど労を惜しまなかった。ここのベルのletter(Oct 13,1900)「ヘレンに関する手紙」では、「ヘレンを盲学校に通わせることは最上ではないが、ヘレンが盲人や聾唖者を助けるだろう」と述べている。
ヘレンが受け取った手紙にはマーク・トウェインのサインが実名でSam Clemensと署名されていた。
トウェインLinks
トウェインのリンク集(日本語)

Mark Twain in His Times:マーク・トウェインの時代
ヘレン22歳の時の初著作『わが人生の物語』にはたくさんの好意的な書評があるが,マーク・トウェインMark Twainも書評を寄せた一人である。 (In a letter to Helen, Twain also referred to the plagiarism scandal that took place 12 years before.) 初版にもかかわらず,50ヶ国語に翻訳された。しかし、世界的作家マーク・トウェインは、8年後に死亡してしまう(→
1910年4月Reports of His Death:トウェインの死亡記事)。
→? マーク・トウェインの写真集(サム・クレメンスとして誕生したときに写真はなかった)
→ ?マーク・トウェインの世界(日本語)



ヘレンの肖像
  

リンク
1900年アンとチェスをするヘレン
Helen and Anne playing chess, 1900
1902年の肖像写真
Miss Keller, circa 1903 1904年の肖像


解説
Anne Sullivan (Helen always called her "Teacher") was very dedicated to Helen. And Helen loved to learn about everything. She studied French, German, and Latin. She learned to play chess and to horseback ride. Since many books were not available in braille at that time, Anne would sign what she read into Helen's hand.
大学卒業2年前の1902年に, ヘレンは初の著書「わが人生の物語The Story of My Life」を出版した。編集者メイシーJohn MacyはHarvard Universityのインストラクターで,ヘレンはこの本をAlexander Graham Bellに捧げている。これはベルが彼女の教育を大いに助けたためである。この本にはたくさんの好意的な書評があるが,マーク・トウェインMark Twainも書評を寄せた一人である。 (In a letter to Helen, Twain also referred to the plagiarism scandal that took place 12 years before.) 初版にもかかわらず,50ヶ国語に翻訳された。
Portrait of Miss Keller with her head tilted downward, holding a rose in her right hand, circa 1903.
 
Miss Keller photographed from the back with her face turned sideways, circa 1904.
アンとサリヴァン



少女時代1900年初頭
リンク 1899年 Helen touching the branch of a tree Helen's certificate of admission
to Radcliffe College, 1899
1901,Aug.29の付けの
ベルとケラーの写真
解説
Anne had taught Helen many things outside of the classroom. She taught her to touch, smell, and experience nature. She wanted Helen to be curious, ask questions, and to discover the world around her. And Helen loved to smell and touch flowers, to feel the wind on her face...she was curious about everything!
Anne Sullivan (Helen always called her "Teacher") was very dedicated to Helen. And Helen loved to learn about everything. She studied French, German, and Latin. She learned to play chess and to horseback ride. Since many books were not available in braille at that time, Anne would sign what she read into Helen's hand.
1901年以降、電話発明者グラハム・ベルと一緒の写真が何枚も残っている。Bell was, above all, a teacher of the deaf, and it was this very subject and the professional expertise he developed on the nature of sound that enabled him to invent the telephone. His friendship with the deaf and blind Helen Keller, a frequent guest with the Bell family, spilled over into science. Bell described what Annie Sullivan had done in teaching the young Helen to communicate by means of finger spelling as "not a miracle but a brilliantly successful experiment." Here Bell is "talking" to Helen Keller surrounded by family and friends. Gilbert H. Grosvenor Collection, Prints and Photographs Division, Library of Congress.



1903年
リンク 1903年 1903年 1903年 1903年頃
解説
Anne Sullivan (Helen always called her "Teacher") was very dedicated to Helen. And Helen loved to learn about everything. She studied French, German, and Latin. She learned to play chess and to horseback ride. Since many books were not available in braille at that time, Anne would sign what she read into Helen's hand.
大学卒業2年前の1902年に, ヘレンケラーは初の著書「わが人生の物語The Story of My Life」を出版した。編集者メイシーJohn MacyはHarvard Universityのインストラクターで,ヘレンケラーはこの本をAlexander Graham Bellに捧げている。ケラーの出版を助けたメイシーは、後にケラーの先生であるサリヴァンと結婚する。これはベルが彼女の教育を大いに助けたためである。この本にはたくさんの好意的な書評があるが,マーク・トウェインMark Twainも書評を寄せた一人である。 (In a letter to Helen, Twain also referred to the plagiarism scandal that took place 12 years before.) 初版にもかかわらず,50ヶ国語に翻訳された。
AFB Photo ID: HK10013;Photograph of Miss Keller standing with her foot on the first step of a staircase, circa 1903.
AFB Photo ID: HK10014; Photograph of Miss Keller standing on a staircase, circa 1903.



1904年
   
リンク 1904年左手で点字本を読むヘレン Helen with her Boston Terrier,
reading a braille book, 1904
1904年アンとヘレン 1905年ヘレン


解説
Photo ID: HK40016:Helen Keller seated in a chair in front of a window, while reading a braille book on her lap with her left hand. Ms. Keller is wearing a long, white dress. Circa 1904.
Helen was amazing! Her actions led the way for so many women, as well as people with disabilities. In 1904, she was the first deaf-blind person to receive a college degree. She graduated from Radcliffe College cum laude, which means with very high honors.
AFBPhoto ID: HK10105;Portrait of Miss Keller with a Boston Terrier. She is crouching and reading a braille book, circa 1904.
A portrait of Helen Keller sitting on a stone wall with Anne Sullivan standing next to her, looking off into the distance. Their hands are clasped over an open braille book that rests by Ms. Keller's side. There are trees and a field in the background. Circa 1904.



大学教育を終えて
リンク 1904年6月28日ハーバード大学
ラドクリフ校卒業式
1904年6月28日大学卒業 1905年


解説
アン・サリヴァンの通訳をへて大学卒業。卒業したラドクリフ校 は、マサチューセッツにハーバード女子部として1879年に設立された名門。名称は Lady Ann (Radcliffe) Mowlson(1643年にハーバーとに初めて奨学金を設けた)に由来する。1927年に女子の大学教育を進めるために設立されたThe Seven Sisters schoolsのひとつ。1904年の卒業式では伝統的なガウンを着た。Miss Keller wearing her academic attire upon her graduation from Radcliffe College.ヘレンは多数の女性のために,そして障害者people with disabilitiesのために道を開いた。1904年に聾唖盲人deaf-blind person として初の大卒資格を取得した。
へレンは大学卒業後,1909年に社会党に加盟した。これは,彼女が、障害を身体的なものだけでなく、社会的制約として認識したことが背景にある。劣悪な労働条件、ジェンダー不平等、民族差別なども社会的障害として克服すべき対象となる。女性参政権獲得運動にも参加した。
Radcliffeでの勉学は,障害のあるHelenとAnneにとって困難であったが,アンがヘレンをよく導いた。この時から自伝『わが人生の物語』(1903年出版)が書き始められた。彼女は点字と普通のタイプライターで書いている。この著作の編集を助けることになるJohn Albert Macyにも二人は会うことになる。It was at this time that Helen and Anne met with who was to help edit Helen's first book "The Story of My Life" which was published in 1903 and although it sold poorly at first it has since become a classic.
On June 28, 1904 Helen graduated from Radcliffe College, becoming the first deaf-blind person to earn a Bachelor of Arts degree.
John Macy became good friends with Helen and Anne, and in May 1905 John and Anne were married. Anne's name changed to Anne Sullivan Macy. The three lived together in Wrentham, Massachusetts, and during this time Helen wrote "The World I Live In", revealing for the first time her thoughts on her world. It was also during this time that John Macy introduced her to a new and revolutionary way of viewing the world. In 1909 Helen became a member of the Socialist Party of Massachusetts.
アン・サリヴァンはヘレンケラー卒業の翌年,1905年に39歳でメイシーJohn Macyと結婚した。彼は,独身時代に,ケラーの出版を手助けしたこともあり,そのとき以来,サリヴァンを知っていたはずだ。メイシーは,男女平等主義で,女性参政権獲得運動Women's Suffrage にも加わるなど政治活動にも熱心であった。In 1909, Helen joined the suffragist movement. Suffragists
The Library of Congress. Reproduction number: LC-USZ62-78987.



1905年(?)
リンク 1905/1920年Haleとヘレン 1905年ジェファーソンとヘレン
1905年アン・サリヴァンとヘレン
1905年犬とヘレン
解説
AFBでは,Portrait of Miss Keller, Anne Sullivan, and Edward Everett Hale, circa 1905 となっており,撮影時期を1905年としているが,別の出所では1920年としているものがある。
 



1912/14年
急進主義者
リンク 1912年 1912年 1914年のヘレン


解説
AFB Photo ID: HK10009
赤(社会主義者)のケラー:Red Keller
ケラーは社会改革を志し,革命ろ目指した。1909年に米国社会党に加わり,無政府主義団体の「世界産業労働者」にも入った。第一次大戦に米国が参戦するのに反対し,米国が中立に戻るように呼びかけた。婦人参政権運動には批判的であり,「自由を勝ち取るのは労働者しかない。政治的行動からは良い成果は生まれない」と主張していた。しかし,1909年には婦人参政権運動に参加するようになった。 Keller was not simply a high-minded reformer – she was also a revolutionary. She joined the Socialist Party of the USA in 1909 and the anarcho-syndicalist union Industrial Workers of the World (IWW) in 1912. Keller opposed US entry into the First World War and toured the country calling for American neutrality. She was critical of the Suffragettes ('What good can votes do when ten-elevenths of the land of Great Britain belongs to 200,000?') and dismissed the prospect of reform: 'It is the workers themselves who must secure freedom for themselves. Nothing can be gained by political action.'In 1909, Helen joined the suffragist movement.
ヘレンは女性参政権論者Suffragists,社会主義者として政治活動にも熱心であった。
1910年代には女性参政権運動Suffrageも盛んになった。それと並んで社会主義の思想も広まった。AFB Photo ID: HK10010 Portrait of Miss Keller in front of a door. Next to the door is a window with iron bars, and light is streaming in from behind, circa 1912.

女性参政権要求デモ:New York City, May 6,1912

そして,下の写真のように1917年にはワシントンDCでピケを張るまでになった。
Portrait of Miss Keller sitting on a park bench wearing a dark satin and chiffon gown, circa 1914.
1910年Hitzとヘレン
...My studies are more interesting than ever. In Latin, I am reading Horace's odes. Although I find them difficult to translate, yet I think they are the loveliest pieces of Latin poetry I have read or shall ever read. In French we have finished "Colomba," and I am reading "Horace" by Corneille and La Fontaine's fables, both of which are in braille.→ヘレンからヒッツへの手紙(1900年)



1910年代前半
リンク 1910年頃アン・サリヴァン,夫のジョンメイシーMacy Helen, Anne, and Anne's husband,
John Macy at their home
in Wrenthamcirca 1914
アン・サリヴァンの夫ジョン・メイシー


解説
アン・サリヴァンは1905年39歳で10歳年下のメイシーと結婚しミセス・メイシーと呼ばれるようになったた。アン・サリヴァンの夫ジョン・メイシーJohn Macyと手で会話するヘレン。彼女は男女平等主義で,女性参政権獲得運動Women's Suffrage にも加わった。彼らは政治活動にも熱心であった。1909年にヘレンは,女性参政権獲得運動the suffragist movementに参加する。 Suffragists とは,男女平等を求める人々で,1920年には女性投票権の獲得にもつながった。1920年にヘレンケラーは,社会主義者にもなった。 In the same year, she also became a socialist. Helen believed that society should be based on people's needs, not on their power or money. ヘレンはその政治的見解ゆえに、非難されることになる。
ABF Photo ID: HK960098;John Macy :1877年デトロイトDetroit生まれ。1899年Harvard卒業; did editorial service on the Youth’s Companion and the Boston Herald; and nowadays lives pensively in Greenwich Village, writing a good deal for The Freeman and The Literary Review. (→BIO)  
へレンが社会党に加盟していた1910年代は、大企業を背景にした財団から疎まれたらしい。AFB(米国盲人財団)も急進的な言動を公にされては、「哀れな障害者」への寄付が減少する危惧したためであろう。ヘレンは、障害とは身体的なものだけでなく、社会的な制約としても捉えていた。劣悪な労働条件、ジェンダー不平等、民族差別なども社会的障害として克服すべき対象となる。女性参政権獲得運動にも参加した。



1910年代後半
 
リンク 1910年代後半 1918年のアン・サリヴァンとヘレン・ケラー 1919年Jascha Heifez

解説
ヘレンは次のように公演している。「ロシアソビエト共和国は、真実・正義の原則に則っており、この思想が人々を長い間、閉ざしていた闇から救い出しました。ロシアのスーパーマンは、世界の盲目の人々のために戦っています。--一方、旧態依然とした社会的規範は、ソビエトの前に崩壊しつつあります。---ロシアにおける経済的自由のための闘争は、労働者の闘争です。---私たちがみな団結していることが見えない人は、なんと精神的に盲目なことでしょう。」 (原典:1921年「ソビエトを助けよう」
Photo ID: HK20205 Anne Sullivan finger spells into Ms. Keller's right hand as they sit together on the porch of a house with white columns. Both women wear ornate white blouses with black ribbons at the neck. Circa 1918.
世界的なバイオリニストJascha Heifetz (1901-87)のバイオリンを手で聞く。彼は第二次世界大戦前に世界中で公演し,現在でも多数の音楽CD(Jascha Heifetz)が販売されている。



1919年
Charlie
Chaplin
リンク 1918年ハリウッドでチャップリンに会う
Polly Thomson, Anne Sullivan,
Helen Keller, and Charlie Chaplin
1919年俳優チャップリンとケラー 1919年(?)チャップリンとケラー

解説
1914年からPolly ThomsonがAnneと並んでヘレンのために働き始め、彼女たち三人は,三羽烏"the three musketeers"と呼ばれた。 1918年にハリウッドHollywoodに行った。そこでDeliverance(ヘレンの人生を扱った無声映画「救出」)を作った。映画ではヘレンとアンが自ら演じている。彼女たちはチャップリンCharlie Chaplinのような映画スターとも会っている。また,ヘレンは複葉機にも乗った。⇒ 動画Helen Keller flying in an old biplane.
ハリウッドのスターのチャップリンもその政治的思想性ゆえに、ヘレンケラーと同じく、連邦検察局FBIからマークされていた。⇒ Charlie Chaplin FBI File
チャップリンについては以下のリンクを参照。
チャーリー・チャップリン
Charlie Chaplin:www.ac.wwu.edu
David Gerstein's Charlie Chaplin Home Page




第一次大戦後
リンク ヘレンケラーと第一大戦の負傷兵
1919年
1919年のヘレン ドレッシィングルームのヘレン
1920年

解説
Helen was continually drawn to the cause of the underdog. As a pacifist, she protested against the First World War and was one of the early members of the American Civil Liberties Union. In the early 1930s, as America was dealing with the Depression, Helen got on the radio in New York to discuss the needs and rights of the unemployed and the poor.  
A formal portrait of Miss Keller sitting on a couch and holding a book upright. The couch is in front of a bookcase, circa 1919.
 Helen's acting career continued on the vaudeville stage. She went on tour with Anne, giving lectures and performing in shows that featured drama, comedy, and music. Helen enjoyed the glamorous lifestyle, unlike Anne. Eventually the performances became too tiring for Anne and they stopped their tour in 1922.



1920年前後
リンク 1918年ヘレンと母ケイト・ケラー(右) 1920年アン・サリヴァン,トムソンとケラー

解説
軍服を着たPhillips Brooksとヘレンの母Kate Keller,へレンが握手をしている。
AFB Photo ID: HK30276;A still from the motion picture "Deliverance" showing Helen Keller, her mother, Kate Keller, and her brother, Phillips Brooks Keller, with their hands affectionately joined. They are standing outside, with trees and a bush in the background. Phillps Brooks is dressed in a military uniform. Circa 1918.
トリオは1920年代から親密な関係にあった。
 



1924年
   
リンク 1920年アン・サリヴァンとヘレン・ケラー ヘレン ヘレン
解説
AFB:Photo ID: HK20058,Helen Keller and Anne Sullivan seated on a living room couch, using the manual alphabet. Anne wears a dark dress with lace sleeves while Helen wears a dress with a floral pattern. On the wall behind them are a window, a picture and a ceramic plate. Circa 1920.
バイオリンの絃の振動を指で触って奏でられた音を聞くヘレン・ケラー。
少女と指文字で話をするヘレン。ケラー。



1924年Muray, Nickolas撮影(1)
     
リンク Helen Keller Helen Keller Helen Keller Helen Keller
解説



1924年Muray, Nickolas撮影(2)
     
リンク Helen Keller ヘレン、ミセス・メイシー(アン・サリヴァン)、ポリー・トムソンのトリオ Helen Keller & Unid ヘレンケラーとミセス・メイシー(アン・サリヴァン)
解説
解説全文:Muray, Nickolas American (b. Hungary, 1892-1965) TITLE ON OBJECT: Helen Keller & Unid ca. 1922-1961 negative, gelatin on nitrocellulose sheet film 10x8 in Gift of the Muray family 77:0189:1607 NON-GEH NUMBER: 4205/12 NOTES: Catalogued 1/87, KR & JB. GEH has no vintage print from this negative. SUBJECT: personage, educator / Keller, Helen
これとまったく同じ写真がAFBの「ヘレン子供博物館」に掲載されている。そこでの撮影月日は1924年となっている。そので、このハンガリー出身の写真家Muray, Nickolas(1892-1965) の撮影した一連のヘレンの肖像は、同じく1924年のものと考えられる。(→Helen Keller and Anne Sullivan Macy, 1924
しかし,同じAFBでも1920年撮影と明らかに誤った記述も記載されている。(→Helen stands while Anne sits in a chair, reading from a book and spelling into Helen's hand. Circa 1920.
上の写真の出典George Eastman Houseには、撮影月日は1922-1961年とあるのみ。 つまり,撮影時期は出展によって異なっており,厳格に特定することは困難であるといえる。
展示の本を読むヘレンケラーと見守るミセス・メイシー



1924年Muray, Nickolas撮影(3)
     
リンク 犬とヘレンケラー 犬とヘレン 犬とヘレン 犬とヘレン
解説



1926年クーリッジ大統領との写真
   
リンク クーリッジ大統領とケラー クーリッジ大統領とケラー 1926年クーリッジ大統領夫人とケラー
解説
1926年Helen Keller with Calvin Coolidge。第30代大統領(1872年7月4日生れ,1933年1月5日没)(任期1923年-1929年)1924年に大統領として初めてラジオスピーチをした。市場への介入を避けて,景気循環に任せた自由主義者。減税はしなかったが、財政赤字を削減した。任期中は好景気で"Roaring Twenties"と呼ばれた。 →検索クーリッジ財団人物名鑑wikipedia
Miss Keller is wearing a fur trimmed coat.
 
裏焼きのクーリッジ大統領とケラー



1920年代のカラー写真
リンク Portrait of Helen Keller March 23, 1926 color plate, screen (Autochrome) process 1926年3月26日Charles Zoller撮影(George Eastman House) 1929年Children in costumes with flags Charles Zoller撮影(George Eastman House)

解説
color plate, screen (Autochrome) process 3 1/4 x 4 in. Gift of Mr. & Mrs. Lucius A. Dickerson Photography Collections Online: :A steadily growing digital image sampler and browsing resource for the vast photography holdings of George Eastman House.
color plate, screen (Autochrome) process 3 1/4 x 4 in. Gift of Mr. & Mrs. Lucius A. Dickerson
Photography Collections Online: :A steadily growing digital image sampler and browsing resource for the vast photography holdings of George Eastman House. Copyright © 2002 George Eastman House, Rochester, NY The contents of this site, including all images and text, are for personal, educational, non-commercial use only.



1920年代後半
リンク 1932年船上のヘレンケラー

愛犬シークリッドとヘレンケラー
ラジオに手を翳し聞くヘレンケラー(1927年) 1929年(The New York Times)
解説
AFBPhoto ID: HK10089;Portrait of Miss Keller on board a ship near Orkney Islands with gulls circling overhead, circa 1932.
The radical connection At Radcliffe, she met John Macy, a young lecturer and journalist. Macy assisted Keller and became a close friend to her and Sullivan. In 1905, after Keller graduated, Macy married Sullivan; the three lived together until the marriage broke up in 1913. The couple never divorced; Annie lived with Keller until her death in 1936. For her part, Keller had an affair with a radical journalist, Peter Fagan, in 1916; plans to marry were thwarted by the opposition of Sullivan and Keller's family.
Macy, a socialist, introduced Keller to radical books by authors such as Henry David Thoreau, William James, HG Wells and Karl Marx. Following her success in the Ladies' Home Journal, Keller became a campaigning journalist. She wrote about childhood blindness and its associations with poverty and venereal disease – a taboo subject. She spoke in favour of contraception; Margaret Sanger, founder of the Planned Parenthood movement, was a personal friend. Keller was a founder member of the American Civil Liberties Union in 1920; in 1916 she sent a donation to the recently founded National Association for the Advancement of Colored People, a bold act for a white Southern lady. She also studied Swedenborg and joined the Swedenborgian New Church
AFB写真
Photo ID: HK10057;Photograph of Miss Keller with a dog named Sieglinde. They are outside and Miss Keller is touching an evergreen tree, circa 1935.
Helen Keller seated next to a radio, with her left hand on its speaker. A bookcase and a vase of flowers are in the background, and a rug made from the skin of an animal is in the foreground, at her feet. Circa 1927.
After 1913, Keller and Sullivan devoted themselves to journalism and public speaking. They made a – disastrous – film in 1918, and spent four years in vaudeville, presenting a potted version of Keller's story and taking questions from the audience: 'Who are the three greatest men of our time?' 'Lenin, Edison and Charlie Chaplin.'  



1930年代前半
    
リンク 同行通訳のAnne SullivanとPolly Thomsonとともに(1932年) 1932年テンプル大学の名誉博士号取得
Keller receiving an honorary Doctor, circa 1932.
1932年グラスゴー大学で博士号取得 タイプライターに向かうヘレン。たっているのはポリートムソン(Polly Thomson)。1933年
解説
A studio portrait (from left to right) of Helen Keller, Anne Sullivan, and Polly Thomson, seated on a divan. Helen Keller's Great Dane and Anne Sullivan's Scottish Terrier are seated at the women's feet. Circa 1932.
Portrait of Miss Keller wearing her University of Glasgow doctoral gown, circa 1932.
Anne Sullivan receiving an 'Honoris Causa' degree and Helen Keller receiving an honorary Doctor of Letters from Temple University, circa 1932.  
49年間もともにいたアン・サリヴァン女史が1936年になくなった。その後は,ポリー・トムソンがヘレンの第一の同行通訳となった。In 1936, Helen's beloved teacher Anne Sullivan died. Polly Thomson now became Helen's primary companion, and a whole new chapter of her life was beginning.
⇒ヘレンの1937年の日本訪問以降、後半生は「ヘレンケラーの後半生」Miss Keller Biography 1937-1968; visiting Japanをご覧ください。

「社会事業法の制定」大阪朝日新聞 1937.4.22(昭和12)

一  盲、聾、唖の三重苦をみごとに克服して、普通以上に才能に富んだ正常人さえも及ばぬ教養の最高峰に抜でつつあるヘレン・ケラー女史の来朝は、朝野をあげて歓迎の大渦をまき起したが、この十分の一、百分の一の注意が、平素わが国において、盲聾唖者の特殊教育や、その保護に向って払われ、関係教育施設、社会事業などがもっと盛んに行われていたならば、大臣宰相をはじめその他いかなる人の歓迎辞よりも遥に女史を喜ばす無言の言葉となっていたであろう。とに角女史の来朝は、盲聾唖者の教育保護のみならず、国民生活の安定をはからんとする一般社会事業の現状に対する痛切なる反省を促す絶好の機会となったことを見遁せない。

二  一九一九年に制定されたドイツの憲法は、社会事業に関する立法の根拠を明かにし、母性、児童、家庭、特に子供の多い家庭の保護を重んじ、所有権を制限して公共の福祉をはかり、人の人たるに価する生活を保障する目的をもって経済生活の秩序を整え、土地の分配や利用を監督して住宅問題を解決することまでも規定しているが、国家がかく社会事業に深甚の関心をもつに至らない我が国のごとき場合においては、民間における私設社会事業は、社会不安の解決、国民生活安定の上に重大なる役割を受けもっているものといわなければならぬ。例えば、救護法が実施されてはいても、全部の被救護者がその恩恵に浴し得るのではなく、まず隣保互助の精神による救護に委任され、最後の処置として該法規の適用を見ることになっているので、むしろその大部分は私設社会事業の活動にまたねばならないのである。

三  かくて私設社会事業が、国家に代りて重要な役割を引受けているに拘わらず、今なおこれを助成奨励する国家の方針が制度的に確立していないのは、社会立法上の一つの根本的欠陥である。尤も現在とても、多少その方法は講ぜられてはいるが、中央、地方ともに一定の原則というものはなく、単に一時的、部分的、即興的で、その割合に効果があがらぬというのが真相である。これは是非ともその経常費の幾分を国庫から補助するとか、事業所に使用する土地建物に対しては租税その他の公課を課せぬとか、官公署に対する照会や手続については手数料を免除するとかの一般的規定を設け、これを全国的に体系づけて根本方針を確立する必要があるのである。しかしてこの助成奨励の先決条件として、各種社会事業団体の連絡、分野、分布に関する統制が問題になるが、この外に統制の一つの重要要素と見られているのは、事業団体に対する取締または監督である。現に多くの社会事業団体のうちには、いかがわしき内容をもったものもあるので、インチキ団体の征伐を目的とする監督に重点をおいた統制法の制定を説くものもないではないが、これらの怪しげな団体も要するに助成奨励や統制法規の不備なるがために発生しまたはやむなく堕落したものであり、完全なる法規の実施とともに自然に消滅するべきはずのものであるがゆえに、あまり取締や監督に重きをおかず、強制法規にすることをやめ、全部認可制などとせず、一部の熱心家たちによる真の事業が、一定の程度や条件にまで至らずとも、不認可のままにやってゆけることにするのが当を得ているのではないかと思われる。

四  一昨年十月第八回全国社会事業大会が東京に開かれた際、統制法や助成法制定の必要についての論議が盛んであったが、過般の第七十議会に提出された「社会事業助成法制定に関する建議案」は、それらの論議と要望とを綜合的にとり容れたものに外ならない。目下当局においてはこの建議案の主旨に随い、成案の研究と作成とを急ぎつつあるとのことだが、なるべく速かにこれを完了し、来るべき特別議会に提案の運びにいたらんことを望む。かかる社会立法上の根本的一大欠陥の除去は、国民生活の安定を強調する林内閣の使命としても、第一にとり上げられなければならぬ重要問題であるはずである。

( 神戸大学附属図書館引用)


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2007年9月22日土曜日13時-16時に,「ヘレンケラー女史に再び学ぶ」と題して,講演会(神奈川新聞後援・高齢パワー活用の会主催)を行いました。場所は,横浜市青葉区民活動支援センター(東急田園都市線田奈駅構内)会議室でした。たくさんの高齢者、障害者の方にご参加いただけましたことは、望外の喜びです。
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