◆日本の原爆開発:核兵器使用の可能性◇Japan's Atomic Bomb 写真(上左)日本海軍の九六式陸上攻撃機による都市無差別爆撃の画像:(1937-40年頃):1937年の日中戦争の勃発(支那事変)直後,南京,上海,杭州を長距離飛行後,無差別爆撃した。航続距離の長さ、(出現当初の爆撃機としては)高速のために、三菱の世界的傑作機といわれる。 写真(上右):1945年8月、原爆投下後、路面電車の石畳を避難する人々の画像:Survivors moving along the road after the atomic bombing of Nagasaki, Japan. (August 1945) 写真はともに20th century history:The New York Times Company引用。
1938年6月5日,日本機の重慶爆撃に「十八梯防空壕入り口」で窒息死した市民の画像:重慶空襲後の防空壕の入口に横たわる700余体の女性と子供の死体。人民網日本語版2005年6月6日によれば、「6月5日は、『6・5重慶防空壕大爆撃』から64周年目にあたる。1941年6月5日、旧日本軍が重慶の防空壕を爆撃し、防空壕に避難していた2500人が死亡し、世界を驚愕させた。旧日本軍は重慶で1938年から5年間にわたる空爆を行ったが、それは『重慶大爆撃』と呼ばれている」とある。重慶爆撃の画像で、避難民が混乱で圧死したともいうが、防空壕内で窒息して亡くなった人々を外の階段引き出したのかもしれない。空爆のもたらす虐殺、大量殺戮、大量破壊は「空からは見えにくい」が、地上での死傷者、犠牲者の視点も忘れられない。 Casualties of a mass panic; during Japanese air raid, 4,000 people were trampled or suffocated to death trying to return to shelters. Chungking, China, June 5, 1941. The U.S. National Archives and Records Administration(アメリカ公文書館). Local ID: 208-AA-132N(4) Creator: Office for Emergency Management. Office of War Information. Overseas Operations Branch. New York Office. News and Features Bureau.
1939年ドイツで核分裂現象が発見されると、原子爆弾の開発可能性が話題となった。ドイツのアイゼンバーグ Werner Karl Heisenberg(1901-1976:1932年ノーベル物理学賞受賞)は,ウラン235の核分裂のエネルギーが、原子爆弾に応用できることに気づいていた。そこで、ナチス・ドイツに対抗するために,シラードLeó Szilárdらは、当時から世界的な著名人であったアインシュタインAlbert Einstein に働きかけ、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)にアメリカがドイツよりも先に原爆を開発すべきことを促した。このアインシュタイン・シラード原爆開発提案手稿が書かれたのは、1939年8月2日、第二次大戦が始まる1ヶ月前のことであった。
1939年9月に始まった第二次世界大戦には、1941年12月まで中立国として参戦していなかったアメリカだったが、原爆開発は、徐々に加速されてた。参戦前の1941年、全米科学アカデミー(National Academy of Sciences)は、ドイツに対抗すべく原子爆弾を全精力を傾けてall-out effort 開発することを求めたが、これはドイツのヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)らが開始した原爆開発に先んじることが、その目的だった。
アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、1941年に原爆開発を進めることを決定していたが、その本格的な始動は、1942年のマンハッタン計画が実施されてからである。1943年、原子爆弾に不可欠なウラニウムやプルトニウムを生成し、原子爆弾を完成させるために、1043年、ニューメキシコ州ロスアラモスに、ロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory:LANL)が設立された。この初代所長に任命されたのが、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer :1904-1967) である。マンハッタン計画には、21名のノーベル賞受賞歴のある科学者を始め、世界の最高の頭脳と技術者が集められた。それを率いるものの力量・学識も問われ、指導者に最適とされたのがオッペンハイマーである。
写真(右):1944年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所のK-25(濃縮ウラン生成所)航空写真:オークリッジ国立研究所には、4つの施設(コード名X-10、Y-12、K-25、S-50)が建設された。X-10 は、黒鉛減速空気冷却炉でウランからプルトニウムを生成、沈殿法によりプルトニウムを精製する。Y-12は、ウラン235をウラン238から電磁気分離する。K-25は、ガス拡散法で、S-50は液体熱拡散法で、ウラン235とウラン238の分離濃縮を行う。 Aerial View Of K-25:
This aerial photograph depicts K-25 and the surrounding area. K-25 was one of the uranium enrichment facilities at Oak Ridge that produced uranium for the Manhattan Project. K-25 was horseshoe shaped and covered an area of 44-acres. In the upper part of the photograph can be seen "Happy Valley," which was the residential area where construction workers and plant laborers lived.
Subject :
Manhattan Project | Uranium enrichment | Calutron
Creator :
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source :
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date :
ca. 1944
Rights :
National Archives at Atlanta
Identifier :
https://www.archives.gov/atlanta/exhibits/item153.html
Coverage :
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format :
Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690引用。
写真(右):1940年代、アメリカ西部、ワシントン州リッチランド (Richland) 、ハンフォードB原子炉(サイト:Hanford B Site):マンハッタン計画の一環として、エンリコフェルミらの指導によって、原子爆弾の原料となるプルトニウムを製造するために建設された原子炉。ウラン238を注入した炉内で核分裂の連鎖反応を起こさせて、プルトニウムを含むスラグを回収する。そこから、プルトニウムを濃縮、抽出する。こうして得られたプルトニウムは原子爆弾「ファットマン」の製造に使用された。ワシントン州ハンフォードB原子炉はプルトニウムを使用する長崎型原爆だが、これ以外にも、ニューメキシコ州ロスアラモス研究所(原爆の設計・組み立て)、テネシー州オークリッジ(原子爆弾「リトルボーイ」用のウラン濃縮)もマンハッタン計画で整備された施設である。 Description
English: Hanford B Site
Date 1940s
Author
Public domain This image is a work of a United States Department of Energy (or predecessor organization) employee, taken or made as part of that person's official duties. As a work of the U.S. federal government, the image is in the public domain.
写真は Wikimedia Commons, Category: Hanford B Reactor File:B Reactor High Def.jpg引用。
写真(右):1940年代、アメリカ西部、ワシントン州リッチランド (Richland) 、ハンフォードB原子炉(サイト:Hanford B Site)の内部:マンハッタン計画の一環として、プルトニウムを製造する原子炉だが、原子炉の構造は、黒鉛炉で、炉の前面には、多数の穴が開いている。ここに、材料のウラン238を注入する。そして、原子炉内でウラニウムを連鎖反応 (核分裂)させる。そして、背面にある穴からプルトニウムを含むウラニウムのスラグを取り出す。それをプールにためて、収集する。その後、プルトニウムを抽出する。2015年11月、内務省、エネルギー省が共同して、国立歴史公園に指定された。ハンフォード原子炉では、シカゴ大学の亡命核物理学者エンリコ・フェルミらがウランを核分裂させてプルトニウムの量産に成功している。1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードでの世界初の核爆発「トリニティ」が成功し、8月9日、長崎にプルトニウム原爆「ファットマン」が投下された。 Title Workers laying up the graphite core of the 105-B file. In the lower-left can be seen a portion of the rear face of the pile, the top of its shielding wall, and the gun barrels protruding through it. The inside of the front face of the pile and its gun barrels can be seen toward the upper-right side. The angled top of the front shielding wall can be seen in the picture. All four walls were "stepped" in this manner where they joined with another wall or the ceiling to form a "labyrinth" joint, so that radiation would not have a straight route through any gaps in the joints. (D-3045) - B Reactor, Richland, Benton County, WA
Description B Reactor Museum Association, contractor; Weisskopf, Gene, project manager
Depicted place Washington; Benton County; Richland
Date Documentation compiled after 1968
Dimensions 4 x 5 in.
Institution
Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print
Accession number HAER WA-164-6
写真は Wikimedia Commons, Category: Hanford B Reactor File:Workers laying up the graphite core of the 105-B file. In the lower-left can be seen a portion of the rear face of the pile, the top of its shielding wall, and the gun barrels protruding HAER WA-164-6.tif引用。
写真(右):1944年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所のY-12(濃縮ウラン)に設けられたカルトロンとその女子操作員:原爆の核心をなす核分裂連鎖反応には、ウラン235が必要だが、天然ウランの多くはウラン238なので、そこから分離する必要がある。そこで、カルトロンで、ウラン235とウラン238の僅かな質量差を利用したローレンツ力によりイオン化されたウラン同位体を分離する。マンハッタン計画の一環としてオークリッジ国立研究所が設置されたが、そのマンハッタン計画の指揮官はレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将である。ここでは、ウラン235をウラン238から電磁気分離する。Y-12 Calutron Operators
Calutron Operators monitored various components of the machine used to separate isotopes of uranium. Calutron operators were predominately female and worked in shifts 24 hours a day
Subject :
Manhattan Project | Uranium enrichment | Calutron
Creator :
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source :
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date :
ca. 1944
Rights :
National Archives at Atlanta
Identifier :
National Archives Identifier 1518690
Coverage :
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format :
Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690 引用。
写真(右):1944年、アメリカ、バージニア州オークリッジ、オークリッジ国立研究所のY-12(濃縮ウラン)に設けられたカルトロンを操作する女子操作員:原爆の核心をなす核分裂連鎖反応に必要なウラン235を濃縮する操作は、アトミックガールと呼ばれることになる女子作業員が多数かかわった。原爆の製造に従事していることは、このような女子従業員には一切知らされず、軍紀として扱われた。操作は、目盛りを合わせるようにレバーを調整する事であり、単調な作業だったようだ。しかし、原爆開発の作業には、7万人もの人員が投入されていた。
Cubicle Operator
This employee is monitoring gauges and adjusting various controls. Most of these employees knew only the details of their specific station and had little knowledge of how their actions contributed to the enrichment of nuclear fuel.
Subject :
Manhattan Project | Uranium enrichment | Calutron
Creator :
Records of the Atomic Energy Commission, Record Group 326
Source :
Formerly Classified Correspondence Files, 1942-1947
Date :
ca. 1944
Rights :
National Archives at Atlanta
Identifier :
National Archives Identifier 1518690
Coverage :
Oak Ridge (Tenn.)
Original Format :
Photograph Print 8" x 10"
写真は National Archives at Atlanta National Archives Identifier 1518690 引用。
写真(右):1942年9月、マンハッタン計画の指揮官に任命されたアメリカ陸軍工兵隊レスリー・グローブズ准将(Leslie R. Groves)と原爆開発の父ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)博士;レスリー・グローブズは、1896年8月17日生まれ、1970年7月13日没。ジュリアス・オッペンハイマーは、1904年4月22日生まれ、 1967年2月18日没。Leslie Groves
From Wikipedia引用。
1942年9月、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)の下で陸軍工兵隊(Army Corps of Engineers)レスリー・グローブズ(Leslie R. Groves准将が、マンハッタン工兵管区司令官に任命され、マンハッタン計画 (Manhattan Project.)と呼ばれる原爆の開発計画が本格的に始動した。
写真(右):1945年5月14日、洋上でアメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」USS Suttonに投降したドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234;手前はアメリカ軍艦艇の乗員たち。U-234には日本軍に譲渡する原爆開発研究用に酸化ウラン560kg、ジェットエンジン,誘導爆弾など260tの物資が搭載されていた。しかし、ドイツ敗北により、洋上でアメリカ軍艦艇に降伏した。同乗していた日本海軍士官2名は自決した。
Description :
Kapitänleutnant Johann-Heinrich Fehler(Mitte, mit weißer Kappe), Kapitän der U234 (dahinter), auf der USS Sutton
English: From USS Sutton. U-234 surrendering.
Italiano: L'arresa del U 234, all'USS Sutton.
写真(右):ドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234を拿捕したアメリカ海軍将校(右端と左二人目)と捕虜となったドイツ海軍将校;アメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」乗員がU-234に乗艦し、ポーツマス基地まで監視・誘導した。American and German officers relax aboard U-234Photos and Articles of Seaman Harry O'Brien引用。日本人将校2名は既に自決していた。降伏、投降していれば、原爆開発について厳しい尋問を受けたはずだ。しかし、戦後、日本に帰国できたであろう。
写真(右):ポーツマス基地で酸化ウランなど搭載物資を揚陸するドイツ海軍潜水艦UボートXB型U234(右);日本軍に譲渡するジェットエンジン,誘導爆弾など260tの秘密物資を搭載していた。原爆開発研究用に酸化ウラン560kgも含まれる。Cargo included three crated Messerschmidt aircraft (two Me-262 jet fighters, ME-163 rocket-propelled fighter), Henschel HS-293 glider-bomb, extra Junkers jet engines, 10 canisters of uranium oxide, a ton of diplomatic mail, and over 3 tons of technical drawings, plus other technology, torpedo, fuses, armour piercing shells, etc.(U-234引用) 写真はU-Boats in the Far East:German Transport Boats引用。拿捕された2隻のUボートが写っている。
写真(右):2007年7月、デンマークで引き揚げられたドイツ海軍潜水艦Uボート(U-Boat)IXC/40型U534 :U-534は1942年12月3日就役の遠洋作戦用の大型潜水艦で、日本に酸化ウランを運搬しようとしたUボートX型B(U-234)より若干小さく、機雷敷設の専用設備は設けていない。1945年5月5日、デンマークのアンホルト島沖20 km の地点で、イギリス空軍期の空襲を受けて撃沈された。1993年に引き揚げられ、2009年2月からバーケンヘッド(Birkenhead)U-boat Storyで展示されている。 Description
English: Wallasey: Mortar Mill Quay & U-Boat U534 So, just how did a German U-Boat end up on a quay in Wallasey? Well, the submarine was discovered in August 1986 on the seabed in the Kattegat between Denmark and Sweden, having been sunk by depth charges from an RAF aircraft on 5 May 1945, just hours before the German surrender. It was thought that she may have been carrying a fortune in gold, being transported to Japan or South America in the last days of the Reich. Because all the crew escaped, the submarine was not construed as a war grave, and a wealthy Danish publisher, Karsten Rae, funded a recovery operation. On 23 August 1993 the submarine was raised, but nothing of monetary value was found. Rae decided that Merseyside would be the ideal permanent home for the submarine, given that it was the main destination port for Atlantic convoys during the Second World War. It subsequently became part of the Historic Warships collection until the Trust running the exhibition went into liquidation in January 2006. Since the previous photographs of the submarine were posted on this site the boat has been moved some 200 metres to the east along the dock at Mortar Mill Quay, as it was in the way of the redevelopment of the former corn warehouses. Its fate remains uncertain.
Date 17 June 2007
Source From geograph.org.uk
Author Nigel Cox 写真はWikimedia Commons, Wikimedia Commons, File:Wallasey, Mortar Mill Quay and U-Boat U534 - geograph.org.uk - 474871.jpg引用。
写真(上左):テニアン島赤十字部隊とのキャンティーン(食事交歓会):1944-45年、婦人も含む赤十字と楽しいひと時を過ごすテニアン島航空部隊の隊員たち。写真(上右):グアム島第20航空軍B-29爆撃部隊第319部隊の宿舎:1944年8月に米軍が占領したグアム島の「ノースフィールド基地」。The 20th Air Force's five wings were divided into 20 Bomb Groups. This is the history of one of those Groups. The 39th - stationed on Guam, the southernmost island in the Marianas. The combat missions they flew against Japan ultimately brought them two prestigious Distinguished Unit Citations. to Keith Materi for the use of these photos from his father, Lawrence Materi's collection. His Father was with the 19th Bomb Group.39th Bomb Group Photos引用。
3.終戦後のアメリカによるソ連封じ込め説(対ソ外交説)・世界覇権掌握説:
ドイツ降伏までは、連合軍として共同歩調を取ってきたソ連であるが、ポーランド復活をはじめ、欧州の戦後処理では、すでに英国と激しく対立した。冷戦は既に始まっていたのである。アメリカでも、フランクリン・ルーズベルト大統領が死去すると、ハリー・トルーマン大統領の先輩議員である外交を担うジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)国務長官は、原爆をソ連に対する外交を有利に運ぶための手段として、使用することを強く求めた。アメリカ同盟国のソ連に事前に通知することなく、日本に原爆を投下し、日本を壊滅させることで、たとえソ連の参戦があっても、戦後の日本占領政策に、ソ連が深入りすることはできない。そのためには、原子爆弾が巨大な破壊力を持つことを世界に示し,原爆を保有する唯一の国家米国こそが、世界最強の軍事大国であることを証明することが有利である。よく、対ソ外交を有利に展開する手段として、原爆を投下したといわれるが、イギリス,フランス、中国も含めて,国連常任理事国の中で,傑出した兵器を持っていることを実際に使用して,世界に示す=世界の覇権掌握こそが、より高次元の原爆投下の理由であったと考えられる。
長崎原爆資料館「C-2 原爆投下への道」では、「1938年にドイツで発見された核分裂は、原爆に応用できることが示唆された。1942年、アメリカはマンハッタン計画(Manhattan Project)をレスリー・グローブズ(Leslie R. Groves)准将の下に発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆を開発した。原爆はドイツを対象に開発されたが、後に目標を日本に変更、京都など18ヶ所が候補に上がった。結局、1945年8月6日広島、同9日長崎に投下された。原爆投下の理由として、早期終戦のためと言われているが、20億ドルを投じたマンハッタン計画を誇示する目的もあった。また、ソ連との冷たい戦争の最初の作戦という性格も持っていた。」とする。
写真(右):1945年7月3日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンによって、国務長官に任命されたジェームズ・バーンズが聖書に手を置き宣誓した。:中央の夫人は、ミセス・バーンズ、その右後方はルーズベルト元大統領の顧問で前国務長官のエドワード・ステティニアス(Edward Stettinius)、左後方の夫人は、ミセス・ヴァージニア・アンダーソン、夫は農務長官クリントン・アンダーソン(トルーマンの後方)
Description: President Harry S. Truman (right) stands with others as James Byrnes (center, holding Bible) is sworn in as Secretary of State. Visible in the background are outgoing Secretary of State Edward Stettinius (between Mr. and Mrs. Byrnes), and Secretary of Agriculture Clinton Anderson (to the left of Mr. Truman). All others are unidentified.
Date: July 3, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Anderson, Clinton Presba, 1895-1975; Stettinius, Edward R. (Edward Reilly), 1900-1949
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-18引用。
しかし、総力戦にあって、市民といえども、労働力,食料増産,資源燃料の節約、世論形成の面で、戦争に参加している。つまり、総力戦は,敵味方双方にとって、大量殺戮,大量破壊が戦争の形態となる。戦略家は、人々の犠牲もやむをえないことを、当然、受け入れているはずだ。ジェームズ・バーンズ(James Francis Byrnes)国務長官のように国民を選挙民として常に意識していた老齢な政治家は、敵による民間人,市民の犠牲を非難し、敵愾心を煽るプロパガンダを展開しつつ、残された家族には、遺族年金、勲章・功労賞、慰めの言葉を贈る必要性を十分認識し、戦争と外交を展開していた。
5. 1945年7月25日、日本本土への原爆投下命令がだされた。その翌日26日、日本への降伏勧告のポツダム宣言が公表された。このポツダム宣言を黙殺したから、日本に原爆投下されたという俗説は、誤りである。原爆投下命令書に大統領の署名はなく、マンハッタン計画の指揮官のグローブズ准将が作成したものでハリー・トルーマン(Harry S. Truman)大統領の署名はなかった。原爆投下は、都市無差別爆撃の延長線上に、疑問の余地無く、遂行された。原爆投下の可否が議論されたのは,戦後になってからのことである。これは、原爆投下の非人道性が明らかになったためである。
欧州に戦禍が拡大し、難民が大量発生しても、彼らを救済することは、軍本来の職務である作戦行動に障害になる。そこで、英国軍と歩調を合わせて、難民を救援しないことを方針とした。Regarding the enclosed memorandum from the Office of the Chief of Staff dated 7 February 1944 on above subject, it appears highly desirable to communicate with the British Government offering assurance that military forces, units or individuals will not be used in rescuing refugees except insofar as these rescues may result from planned military operations conducted to defeat the Axis military. 米軍にとって,敵民間人への人道的配慮はもともと無かったのであり,原爆投下が終戦得和平に結びついたおかげで、米国将兵、日本将兵、戦渦に巻き込まれ犠牲となる民間人の生命をも救った、との原爆終戦和平説の真偽は、この難民非救援措置を見ても明らかであろう。
写真(右):1948年4月,アメリカ戦艦「テキサス」USS TEXAS (BB-35)の退役・記念展示セレモニーに参加した、アメリカ陸軍第四軍司令官トーマス・ハンディ(Thomas Handy)大将(Thomas T. Handy:手前)とアメリカ海軍チェスター・ニミッツ(Chester W. Nimitz)提督(左奥):1945年初頭、トーマス・ハンディ(Thomas Handy:1892- 1982)大将は陸軍参謀総長代理として、原爆投下命令に署名した。戦艦「テキサス」は、戦後しばらくメリーランド州ボルティモアに繋留されていたが、テキサス州サン・ジャシント州立公園に記念館として保存展示されることとなった。1948年4月21日に退役、4月30日に除籍。4月21日は1836年にサンジャシントの戦いが行われ、テキサス独立戦争の趨勢が決定づけられた記念すべき日でセレモニーが行われた。 Title: USS TEXAS (BB-35)
Caption: Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN, lands at Kelly Field San Antonio, Texas, on 5 April 1948 and salutes an honor guard along with General Thomas T. Handy, COMGEN of 4th U.S. Army, who welcomed the famous admiral. The occasion was the ceremony presenting USS TEXAS (BB-35) to the state of Texas for her enshrinement in the Houston ship channel.
Description: USAF photo
Catalog #: NH 58306
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Apr 05, 1948
写真は Naval History and Heritage Command NH 58306 USS TEXAS (BB-35) 引用。
ヘンリー・L・スティムソン (Henry Lewis Stimson,:1867-1950):1906年、セオドア・ルーズベルト大統領の下でニューヨーク連邦検事に任命され、反トラスト法違反訴訟の検察官を務め、1910年にニューヨーク州知事の共和党候補として立候補したが落選。しかし、1911年にタフト大統領によって陸軍長官に任命、1913年まで務めた。1927年から1929年までフィリピン総督、1929年から1933年まで、フーヴァー大統領の下で国務長官を務めた。第二次大戦が始まりアメリカが中立を維持していた1940年7月にスティムソンは陸軍長官に復帰した。
25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces
1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki. To carry military and civilian scientific personnel from the War Department to observe and record the effects of the explosion of the bomb, additional aircraft will accompany
the airplane carrying the bomb. The observing planes will stay several miles distant from the point of impact of the bomb.
2. Additional bombs will be delivered on the above targets as soon as made ready by the project staff. Further instructions will be issued concerning targets other than those listed above.
3. Discussion of any and all information concerning the use of the weapon against Japan is reserved to the Secretary of War and the President of the United States. No communiques on the subject or releases of information will be issued by Commanders in the field without specific prior authority. Any news stories will be sent to the War Department for specific clearance.
4. The foregoing directive is issued to you by direction and with the approval of the Secretary of War and of the Chief of Staff, USA. It is desired that you personally deliver one copy of this directive to General MacArthur and one copy to Admiral Nimitz for their information.
(Sgd) THOS. T. HANDY
THOS. T. HANDY
General, G.S.C.
Acting Chief of Staff
copy for General Groves ( atomic bomb:
decision引用。)
写真(右):1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下しテニアン島に帰投したボーイングB-29 爆撃機「エノラ・ゲイ」:写真にある署名は、B-29「エノラ・ゲイ」の機長・操縦士ポール・ティベッツ(Col. Paul Tibbets, Jr., pilot; Capt. )大佐、航法士ヴァン・カーク大尉(Capt. Theodore Van Kirk, navigator)、レーダー手リチャード・ネルソン一等兵(PFC Richard Nelson, radar operator)、爆撃手トーマス・フェレビー少佐(Major Thomas Ferebee, bombardier)、機銃員ジョージ・キャロン軍曹(Staff Sgt. George Caron, gunner)、レーダー警戒要員ジャコビ・ベサー中尉(First Lieutenant Jacob Beser, radar countermeasure observer)。 Description: A photograph of the Enola Gay, the Airplane used to drop the first atomic bomb on Hiroshima on August 6, 1945, sitting on an airfield. The photograph bears six signature (copies) of the men who were aboard during its flight as follows: Col. Paul Tibbets, Jr., pilot; Capt. Theodore Van Kirk, navigator; PFC Richard Nelson, radar operator; Major Thomas Ferebee, bombardier; Staff Sgt. George Caron, gunner; and First Lieutenant Jacob Beser, radar countermeasure observer. The original picture with the original autographs is owned by the family of Inguanez. From: Dr. Marcel-Dingli-Attard-Inguanez. Date: ca. 1945
HST Keywords: Airplanes - Enola Gay; Atom Bomb; Autographs - Beser, Jacob; Autographs - Caron, George; Autographs - Ferebee, Thomas; Autographs - Nelson, Richard; Autographs - Tibbets, Paul, Jr.; Autographs - Van Kirk, Theodore; Enola Gay 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2003-150引用。
1945年7月26日,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)。 1945年8月6日、広島に原爆投下。原爆投下の可否など公に議論されたことなどない。原爆をどこにどのように投下するかが議論され、それがトルーマン大統領に報告されただけである。原爆投下の決定は、ハンディ参謀総長代理がマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将の作成した命令書で決定していた。
ハリー・トルーマン大統領の1945年7月25日の日記/Harry S. Truman, Diary, July 25, 1945 This weapon is to be used against Japan between now and August 10th. I have told the Sec. of War, Mr. Stimson, to use it so that military objectives and soldiers and sailors are the target and not women and children. Even if the Japs are savages, ruthless, merciless and fanatic, we as the leader of the world for the common welfare cannot drop that terrible bomb on the old capital or the new. (この兵器は8月10日までに日本に対して使用される。ヘンリー・スティムソン(Henry L. Stimson)陸軍長官には、女子供ではなく軍事目標と兵士・水兵を目標に狙えと言ってある。喩えジャップが野蛮人、無慈悲、冷酷で狂信的だったとしても、我々は世界のリーダーとして、共有すべき福利を尊ぶから、古都や東京に原爆を投下することはできない。)
He and I are in accord. The target will be a purely military one and we will issue a warning statement asking the Japs to surrender and save lives. I'm sure they will not do that, but we will have given them the chance. It is certainly a good thing for the world that Hitler's crowd or Stalin's did not discover this atomic bomb. It seems to be the most terrible thing ever discovered, but it can be made the most useful...(目標は純軍事的なものであり、日本に降伏するように勧告もしよう。彼らは降伏しないはずだが、我々は彼らに機会を与えてやったことにはなる。ヒトラーとスターリンが原爆を開発してないことは、世界にとって喜ばしい。これは、発見された中で最も悲惨なものであるが、最も役に立つものでもある-----)(引用終わり)
写真(右):1945年7月11日、ドイツ、ポツダム会談出席のためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):説明しているのはアメリカ海軍ジェームズ・フォスケット大尉(1898-1961)アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動し、ベルリンに向かった。 Description: Left to right: Captain James Foskett spins a yarn to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman on the U. S. S. Augusta as they travel to the Potsdam Conference. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: July 11, 1945
Related Collection: James H. Foskett Papers
ARC Keywords: Cabinet officers; Naval officers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships
HST Keywords: Potsdam - U. S. S. Augusta; Ships - Augusta - Truman aboard; Truman - Potsdam - U. S. S. Augusta; Truman - Ships - Augusta (aboard)
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972
1950 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-08引用。
写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するのためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):写真と動画の撮影をし、アメリカ国内外でのプロパガンダに活用した。これらの映像を見ると、トルーマン大統領が、先輩の上院議員バーンズ国務長官に遠慮しすぎている、あるいはバーンズが先輩風を吹かせているように見えてくる。たしかに、日本へのポツダム宣言での国体護持条項を削り、日本絵の原爆投下を率先して主導したのは、バーンズ国務長官であり、ルーズベルト大統領の急死で急遽大統領に就任したトルーマンでは、情報も政治的力量も不足であると感じられた。 Description: President Harry S. Truman (left) and Secretary of State James Byrnes (right) pose for two unidentified press photographers on board the USS Augusta. They are on board the USS Augusta to travel to the Potsdam Conference in Germany.
Date: July 11, 1945
Related Collection: James H. Foskett Papers
ARC Keywords: Cabinet officers; Photographers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-04引用。
写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のバーンズは、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。 Description: Secretary of State James Byrnes (center) at lunch with the crew of the U. S. S. Augusta as he accompanies President Harry Truman to the Potsdam Conference in Germany.Others are unidentified. From the album, "The President's Trip to Potsdam, album number 1."
Date: July 12, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1454-18引用。
写真(右):1945年7月15日、ベルギー、アントワープに到着したアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)艦上、手前に座っている報道官(Press Secretary)チャールズ・ロス(Charles Ross)、 アメリカ大統領ハリー・トルーマン、後方中央に立つ国務大臣ジェームズ・バーンズ(James Byrnes)、右にアメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:これから空路ベルリンを経由してポツダム会談に出席する。オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥を乗せアントワープに向かった。 President Harry S. Truman (seated, left) and Press Secretary Charles Ross (seated, right) are looking out over a river while on a boat approaching Antwerp, Belgium. President Truman is en route to the Potsdam Conference. Standing behind President Truman, from left to right, is Captain James Vardaman, Secretary of State James Byrnes, and Admiral William D. Leahy. Others are unidentified. Date: July 15, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number:64-390引用。
写真(右):1945年7月14日、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)からアントワープに上陸するアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman ):1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領らが乗艦しているが、もはやドイツは降伏しており、攻撃される心配はほとんど全くなかった。しかし、イギリスの戦勝を助けた同盟国として最大限の経緯を払って、艦隊を護衛に差し向けた。 Description: President Harry S. Truman receives a salute from the officers and men of the U. S. S. Augusta as he debarks at the port of Antwerp. He is en route to the Potsdam Conference in Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-16引用。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)が出迎えのガトー空港警備部隊のイギリス陸海空軍将兵を閲兵している。 :後方のアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」は1942年に開発され1947年までに1200機生産された。 ダグラスC-54(Douglas C-54 Skymaster)諸元
プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基 最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
座席数:50名 航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m
全高:8.38 m
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg。
Description: British Prime Minister Winston Churchill reviews an honor guard of the Royal Navy, Canadians, Royal Air Force, and a battalion of Grenadier guards at Gatow Airport in Berlin, Germany where he has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Military ceremonies, honors, and salutes; Potsdam Conference, 1945; Prime ministers; Soldiers
HST Keywords: Airports - Gatow; Potsdam - Military reviews; Truman - Potsdam - Military reviews
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-22引用。
写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。:ツェツィーリエンホーフ宮殿は、第一次大戦中の1917年、当時のドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために、皇帝ヴィルヘルム2世が建設した。宮殿の名前は、皇太子妃ツェツィーリエに因んでいる。しかし、第一次世界大戦末期、戦局悪化の名で、1918年、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命・退位した。1945年、ソ連軍に占領され、ここでアメリカ・イギリス・ソ連の首脳ビッグスリー一堂に会したポツダム会談が開かれた。宮殿の様式は、イギリスの別荘のようなスタイルで、豪華絢爛ではかく、落ち着いたただ住まいである。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」(Palaces and Parks of Potsdam and Berlin)の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。 General scene showing activity in front of the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945.
Date: July 18, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Soldiers
写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談でアメリカ軍司令部となった「リトル・ホワイトハウス」で電話機を操作するテストする女性陸軍部隊(WAC: Women's Army Corps)アルマ・ブラッドレー伍長:アルマ・ブラッドレー女史は、袖階級章に伍長(Corporal: CPL)の記章を付けているが、この下のT文字は、特技兵で通信部隊の記章と思われる。 アメリカ陸軍の下士官の階級は、上位から、陸軍上級曹長(Sergeant Major of the Army)、最上級曹長(Command Sergeant Major, CSM)、上級曹長(Sergeant Major, SMG)、一等曹長(First Sergeant, 1SG)、曹長(Master Sergeant, MSG)、一等軍曹(Sergeant First Class, SFC)、二等軍曹(Staff Sergeant, SSG)、軍曹(Sergeant, SGT)、伍長(Corporal, CPL)である。
Description: Women's Army Corps Corporal Alma Bradley operates switchboard at the Little White House, President Truman's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 13, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Presidential residences; Women soldiers
HST Keywords: Potsdam - General file; Truman - Potsdam - Conference area; White House - Little White House - Germany, Potsdam
People Pictured: Bradley, Alma
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number:63-1455-59引用。
女性陸軍部隊(WAC: Women's Army Corps)は、それまでの従軍看護婦とは異なり、アメリカ陸軍の補助部隊として1942年5月に創設された。初代指揮官オヴィータ・カルプ・ホビーは、テキサス州の政治家夫人で法律家、ジャーナリスト。第2次世界大戦中に、女性陸軍部隊や女性陸軍補助部隊には合計15万名が任務に就いた。
写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を調整するロバート・スコット曹長とグラディス・ベロン一等兵:グラディス・ベロン一女史の袖階級章には、E2 一等兵(プライベート:Private;PV2)がついているが、その上の袖章は、通信特技兵(スペシャリスト:Specialist)を表示していると思われる。使用している電話機は、 現在と同じように、電話の受話器と送話器が一体になっている。受話器・送信器一体型の電話が使われるようになったのは、1930年代からで、それ以前は、壁掛電話機が多かった。壁掛電話機の送話器は、電話機本体にあり、手で持つのではなく、口を近づけて話をした。受話器は、本体からコードで延長され、手で耳元に近づけた。つまり、電話機本体とコードで繋がれた受話器のみを手に持って耳に当て、電話機本体の送話器に口を近づけて声を出した。日本で、手に持つ受話器・送信器は、現在でも「受話器」と呼ばれている。 Description: Private First Class Gladys Bellon and Sergeant Robert Scott test phone lines in the frame room of the switchboard at the U. S. headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 15, 1945
People Pictured: Bellon, Gladys; Scott, Robert, U.S. Army sergeant
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-80引用。
写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンがアメリカ代表団の宿舎「リトル・ホワイトハウス」を訪問しアメリカ大統領ハリー・トルーマンが出迎えた。左からソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフとアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ:ポツダムは、ドイツの首都ベルリン西南20キロ、1933年3月5日のナチスドイツの国会開会式はポツダム衛戍教会で開かれた。この日はナチス・ドイツの記念日となり「ポツダムの日」と呼ばれるようになった。 Description: First visit of Soviet Prime Minister Josef Stalin with President Harry S. Truman during the Potsdam Conference. They are at the "Little White House," the residence of President Truman during the conference. Foreground, left to right: Soviet Foreign Minister Vyascheslav Molotov; Secretary of State James F. Byrnes; Charles Bohlen, President Truman's interpreter; President Truman; Admiral William D. Leahy; V. N. Pavlov, Stalin's interpreter (partly obscured by Stalin); Prime Minister Stalin. In the background, at the top of the stairs are Major General Harry Vaughan (left), Press Secretary Charles Ross (third from left), and Captain James Vardaman (right). Others are unidentified. From Potsdam Album, 1945
Date: July 17, 1945
People Pictured: Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-30引用。
写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時期、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(左端)の宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフ(右端)と腕を組むアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ。中央奥は、アメリカ駐在ソ連大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko):Left to right: General Harry Vaughan, Soviet Prime Minister Josef Stalin, President Harry S. Truman, Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov during Truman's visit at Premier Stalin's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945.
Date: July 18, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-52引用。
写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたメモが、この写真の裏にある。:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティ(TRINITY TEST)が成功した。
Crowded Meeting Room at The Potsdam Conference
Description: Prior to start of "Big Three" conference in an elaborate estate in the Potsdam area, U. S. Army Signal Corps and Russian Army photographers record the historic moment for the world to see. In top center can be seen the "Big Three", President Harry S. Truman, Josef Stalin, and Winston Churchi1l, all with backs to camera. Inscribed on back of photo: "This is the place I told Stalin about the Atom bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST"
Date: July 17, 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; Potsdam Conference, 1945; Presidents; Prime ministers; United States-Soviet relations; World War, 1939-1945
People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769引用。
写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティ(THE TRINITY TEST)が成功した。
Description: On the back of the photo of President Harry S. Truman, Winston Churchill, and Joseph Stalin at the Potsdam Conference, Truman wrote the following: "This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about! HST".
Date: July 17, 1945
ARC Keywords: Atomic bomb; Autographs; Potsdam Conference, 1945
HST Keywords: Atom Bomb - Reference To; Truman - Autograph - Actual Handwriting
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-769a引用。
1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティ(TRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。ポツダム会談は、アメリカがロスアラモスで開発した原子爆弾の爆発実験「トリニティ」をまって開催されのである。アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に、原爆実験成功を、次のようにさり気なく伝えた。
"This is the place I told Stalin about the Atom Bomb, which was exploded July 16, 1945 in New Mexico. He didn't realize what I was talking about。HST”
この(ポツダムの)場で、私(トルーマン大統領)は、7月16日、ニューメキシコ州で爆発に成功した原子爆弾について、スターリン(ソ連首相)に話した。彼は、私が何について話したのか、理解できなかったようだ!ハリー・S・トルーマン。
写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿(第一次大戦中ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために皇帝ヴィルヘルム2世が皇太子妃ツェツィーリエに因んで建設)、ソ連首相ヨシフ・スターリンがアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ大統領ハリー・トルーマンに話しかけている。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフも見えている。:英首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。トルーマンは、スターリンに原爆実験成功を伝えた。そのメモがこの写真の裏にある。写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティ(TRINITY TEST)が成功した。
Stalin shaking hands with Byrnes at Potsdam Conference.
Description: Delegates of the Potsdam Conference in Germany prepare to leave the conference room at Cecilienhof Palace, as photographers and newsreel cameramen gather on staircase. Soviet Prime Minister Josef Stalin talks to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman (back to camera). Vyacheslav Molotov, V. N. Pavlov are also present. British Prime Minister is standing behind Stalin, partly obscured. General Harry Vaughan is standing, third from the right. See also 62-769 and 62-769A for negatives. From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46引用。
写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし原爆実験成功を伝えたことのメモ:ポツダム会談の写真の裏に書き込まれているので、写真の現像・印刷が済んでからの記入である。ポツダム会談の始まる直前、ニューメキシコ州のアラモゴード(Alamogordo)でプルトニウム型原子爆弾の爆発実験トリニティ(THE TRINITY TEST)が成功した。
Truman's handwriting on the back of a Potsdam photograph describing telling Stalin about the atomic bomb.
Description: Harry S. Truman's handwriting on the back of a photograph of the Potsdam Conference area, accession number 63-1456-46: "In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST". See also 62-769 and 769A for negatives." From Potsdam album, 1945
Date: July 19, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-46A引用。
1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴード、世界初の核実験コードネームトリニティ(TRINITY)が行われ、爆発実験は大成功だった。このアメリカによるロスアラモスでの原子爆弾の爆発実験「トリニティ」の成功まで、アメリカはポツダム会談の開催を引き延ばしていた。翌7月17日(この写真では19日となるがトルーマンはこの場所であって日付は17日)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連指導者ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと、次のように告げ、スターリン相手に優越感を楽しんだ。
"In which I tell Stalin we expect to drop the most powerful explosive ever made on the Japanese. He smiled and said he appreciated my telling him--but he did not know what I was talking about--the Atomic Bomb! HST”
写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日、中央の白軍服がソ連首相スターリン、右にアメリカ駐在ソ連大使グロムイコ、スターリンが話しているのはソ連外相モロトフ、右端アメリカ大統領ハリー・トルーマン、その右にコーデル・ハルから変わった新国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ海軍参謀総長レーヒ提督、左端下がイギリス新首相アトリー、その右にイギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin:1881-1951):Description: Last meeting of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is on the right, opposite the United States flag on the table. Seated to the right of President Truman are Secretary of Stats James Byrnes, Admiral William Leahy, and and Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko. Soviet Prime Minister Josef Stalin is at the top, in the white uniform. Seated on the left of Stalin is Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. British Prime Minister Clement Attlee is seated in the left corner, opposite the British flag on the table. British Foreign Minister Ernest Bevin is seated on the right of Attlee. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945.
Date: August 1, 1945
People Pictured: Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S.,
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。
写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。 The "Big Three" and their foreign ministers gather in the garden of Cecilienhof Palace during the last day of the Potsdam Conference. Seated, left to right: British Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin. Standing, left to right: Admiral William Leahy, British Foreign Minister Ernest Bevin, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. From Potsdam album, 1945.
Date: August 1, 1945
People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bevin, Ernest, 1881-1951
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。
写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、飛行機でイギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ:周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー。President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes stand with members of the Women's Auxiliary Air Force (WAAF) at Harrowbeer Airport in Plymouth, England. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2."
Date: August 2, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Bartlett, Audley; Buckland-Jones, Eira; Turner, Clarice
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。
写真(右):1945年8月、イギリス、プリマス港(?)、ポツダムを発ったアメリカ大統領ハリー・トルーマンを出迎え、アメリカに帰国するアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)諸元
排水水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m) 最高速力: 32.7 ノット 乗員: 735名
兵装: 55口径8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)Mark 9 、砲弾重量98 kg、仰角41度で射程29,100m、俯角10度、発射速度3発/分 対空用25口径5インチ(12.7センチ)高角砲8門(当初4門)、砲弾重量24kg、仰角85度で高度8,350m、仰角45度で射程13,250m ボフォース40ミリ四連装機関砲6基24門(改装後) エリコン20ミリ機銃28丁(当初7.62mm機銃8丁) 21インチ魚雷発射管6門 View of the USS Augusta at sea as the ship returns to the United States after the Potsdam Conference.
Date: ca. August 1945
Related Collection: James H. Foskett Papers
ARC Keywords: Potsdam Conference, 1945; Ships
HST Keywords: Ships - U.S.S. Augusta
People Pictured:
Rights: As far as the Library is aware, 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-52引用。
写真(右):1945年8月2日、イギリス、プリマス港、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)の艦上でアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズが行幸してきたイギリス国王ジョージ6世と握手する。中央は、トルーマン大統領。:Secretary of State James F. Byrnes (left) and King George VI (right) shake hands during the King's visit aboard the USS Augusta. Also present are President Harry S. Truman (background, center) and Captain James Foskett (second from right, slightly behind Truman). All others are unidentified. King George VI visited the Augusta before it left to return to the United States from the Potsdam Conference. Date: August 2, 1945
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1382-66引用。
写真(右):1945年8月7日、プリマス港からチョサピーク湾に到着したアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦6番艦「オーガスタ」 USS Augusta (CA-31)55口径8インチ(20.3センチ)三連装砲塔、アメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:1945年7月、オーガスタはポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥の乗艦として、アメリカからベルギー、アントワープに出航、7月14日に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ、ニューポートに到着。 President Truman and members of his party aboard the U. S. S. Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Captain James Vardaman is sixth from the left; to his left is Press Secretary Charles Ross; to his left is Secretary of State James Byrnes; to his left is President Truman; and to his left is Adm. William Leahy. Others are unidentified. From the album, Number 2: "President Truman's Trip to Potsdam." Date: August 7, 1945
People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1453-49引用。
写真(上):2007年7月、アメリカ、バージニア州フェアファックス、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受けた。また連邦議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
English: B-29 Superfortress Enola Gay in the Steven F. Udvar-Hazy Center, Chantilly, VA near Washington DC.
Date 26 July 2007
Source Own work by uploader of an object in the National Air and Space Museum, Steven F. Udvar-Hazy Center, Washington DC
Author Ad Meskens 写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: Enola gay 102.JPG引用。
写真(右):1945年8月頃、原爆を投下する広島の爆心地を中心に同心円を描き、範囲内の被害効果を検証するアメリカ軍の空中偵察写真。四角い堀に囲まれたや太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが識別できる。広島城には、中国軍管区司令部(防空作戦室)があった。1945年1月、広島の留守第五師団は福岡の西部軍管に組みこまれ、中国軍管区司令部と改称され、広島城の第五師団司令部は無くなっていた。しかし、戦争末期のことであり、広島県民にとって、広島城では、依然として第五師団司令部の名称で認識されている。旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)は、原爆の爆風圧と熱線であとかたもなく消滅してしまったが、その一角の半地下式壕の防衛司令室 (通信室) は焼失をまぬがれた。この通信壕にあった情報室には当時、学徒動員の比治山高等女学校三年の生徒90人が24時間三交代制で勤務していた。ここには半地下式の防空作戦室で軍人、軍属に混じって学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。原爆が投下され、市内の電信電話が破壊されたものの、旧第五師団司令部(中国軍管区司令部)の軍事専用電話は残っており、それを使って女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
Description: Area of devastation by the atomic bombing of Hiroshima, Japan.
Date: ca. 1945
Related Collection: Robert A. Lovett Papers
ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
HST Keywords: Atomic Bomb- Hiroshima
People Pictured:
Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 61-54引用。
写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。:広島市内には、太田川・元安川・猿猴(えんこう)川などが幾筋もの川が流れている。原爆ドームは、広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣。その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館に名称変更。1944年3月からは、内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材・日本木材広島支社などの物資統制・業界統制のための事務所となる。原爆投下時、館にいた30名余は全員死亡と思われる。爆心地に近く真上からの爆風だったため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠も燃え残った。占領後に「原爆ドーム」という名称が定着した。
Description:Aerial view of Hiroshima depicts the terrific destructive force of the atomic bomb. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Aerial photographs; Atomic bomb; World War, 1939-1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2459引用。
写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。ロバート・ヘイガン(Robert Emmet Hannegan :1903-1949) は、アメリカのミズーリ州の政治家で1943年10月から1944年1月まで国内徴税の担当で、1944年から1947年には民主党国務委員会、郵政長官として活躍した。戦後の1946年7月、彼は東京にあったアメリカ陸軍司令部を訪問した。その時にこの写真スクラップが、彼に手渡された。
Description: Hiroshima on Honshu Island lies in ruins as a result of August, 1945 atomic bombing that hastened Japanese capitulation. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945; Hiroshima-shi (Japan) bombardment, 1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Hiroshima
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2460引用。
写真(右):1945年8月、原爆を投下された直後の広島。:原爆ドームは平和公園とは元安川で分かれており、灯篭流しなど原爆の日に関するイベントは、元安川を中心に開催される。
東岸の土手も平和大通まで整備され、春は花見客が両岸にあふれ、夏はストリートアクターで賑わう。この中心が、元安橋の袂、東岸である。 Description: Another view of Hiroshima, showing devastation caused by first atomic bomb dropped on Japan in August, 1945. This includes a duplicate photo and negative. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946.
Date: ca. August 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Atomic bomb; World War, 1939-1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2461引用。
写真(上左):1945年8月6日午前11時ごろ、原爆投下から3時間後、広島爆心地2.3kmの御幸橋(みゆきばし)付近を避難する人々:連合国軍総司令部(GHQ)が新聞用紙の割り当てなどで新興紙育成を図る中「夕刊ひろしま」は1946年6月1日、中国新聞を親会社とする独立経営の夕刊紙として創刊された。当時の部数は三万部。7月6日号に御幸橋の写真を新聞に初めて掲載した。1952年9月29日発行の『ライフ』にスクープとして公開された。アメリカ軍は、戦後進駐してきてから、日本側が撮影した原爆被害の写真を探し出して没収していた。こうして、冷戦の中で、核抑止力が強調され多数の核兵器が製造されるようになる。撮影者:松重美人氏。三角襟のセーラー服の後ろ姿は、広島商業学校2年生13歳の女子学生、貯金局で勤労動員中に被爆。閃光、爆風で気を失った。その後、友達を庇って、400メートル南の御幸橋まで避難してきた。細かなガラスの破片が体に刺さっていたが、目の前の重症の友人が気がかりで痛みは感じなかった。人々は、熱線や火災でやけどを負った体に順番に食用油(足元の缶)を塗った。しかし、多数の負傷者がいたために、食用油はすぐに空になった。負傷者たちは、治療してもらえる場所を求めて彷徨った。後方には、力尽きて倒れたままの重傷者も映っている。黒こげになった赤ちゃんを抱えて声を上げる女性、「ここで死ぬ」と寂しく情けない思いで自分の名前を書いた20歳の広島工業専門学校男子学生もいた。爆心地は3000度の高温となり、熱線による原爆特有のやけど、腫れができたが、これが主な死因になった。右の女性は、服が破れたように見えるが、実は、やけどで剥がれた皮膚である。これが、皮膚の水分が一瞬で蒸発してできたフラッシュ・バーンという特殊な原爆やけどで、後日、アメリカ軍の現地調査で明らかになった。広島商業学校の女性が父親に声をかけて、腕をつかんだとき、皮膚の皮が剥がれ、父親は声を上げて「痛い、触るな」と叫んだ。フラッシュ・バーンによって、人々は痛みや渇きに苦しんでいた。皮膚が擦れると痛みがはしるので、腕が擦れないように、手を上げるようにして歩いていた。皮膚が垂れ下がっていた。やけどで苦しんだ人の中には、川の中に飛び込んだ者も少なくない。御幸橋より北の爆心地周辺は、火災のために立ち入ることはできなかった。軍のトラックがやってきて、救助活動が行われたが、負傷者が多すぎたために、労働力となる若い男性、戦争に役に立つ人材を優先して救助していたという。この写真に写っているのは、セーラー服姿の中学生が多数ある。勤労動員された13歳程度の女子・男子は、爆心地から2キロ以内にも8000人もあった。爆心地から1キロの広島第一中学校の中学生は、勤労動員中に校舎で被爆した。倒壊した建物の下敷きになった学生たちは、校歌を合唱したが、火災のため生き残りは、そのまま立ち去るしかなかった。第三国民学校(小学校)高等科2年生13歳の女子学生は、爆心地から800メートルの屋外で作業していた。大やけどを負っても歩けた者は避難を始めたが、途中で動けなくなってしまう女子学生もいた。座り込んで、水が欲しいと訴える友達に水を捜してきたが、口を自分で開けることができなかった。膨れた唇を手で開けて水を飲ませた。自分の体を引き摺って歩くのが精いっぱいの女子学生は、動けなくなった友人を、連れて行きたかった。しかし、「連絡してあげるから」と言って、置き去りにせざるを得なかった。勤労動員されていた若者8000人のうち7割が亡くなった。原爆投下の当日(8/6)の死亡者の年齢階層は、12歳が1600人、13歳が1800人で最も多い。写真に写っている同級生の少女は、原爆症で差別されることを恐れて、名乗り出ていない。生かされた人は、原爆のことを伝えるために生かされたとも考えている。20歳の時に被爆して、自らの体験を、若者に語り伝えている男性もいる。炎で焼かれて深く抉られた背中を背負って語り続けている。現在の御幸橋の袂には、この写真が展示されている。(出所は、NHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」2015年8月6日放送)中国新聞 2001被爆者の伝言引用。A-bomb sufferers who have escaped to Miyuki Bridge (about 2km. from the explosion center).
写真(上):2016年7月、アメリカ、オハイオ州デイトン郊外、ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
Boeing B-29 Superfortress "Bockscar"
Date 3 July 2016, 15:09
Source Boeing B-29 Superfortress "Bockscar"
Author Clemens Vasters from Viersen, Germany, Germany
写真はWikimedia Commons, Category: B-29 Bockscar at National Museum USAF File: Boeing B-29 Superfortress "Bockscar" (27992883731).jpg引用。
写真(右):1945年8月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:ロバート・ヘイガン(Robert Emmet Hannegan :June 30, 1903-October 6, 1949) は、アメリカのミズーリ州の政治家で1943年10月から1944年1月まで国内徴税の担当で、1944年から1947年には民主党国務委員会、郵政長官として活躍した。戦後の1946年7月、彼は東京にあったアメリカ陸軍司令部を訪問した。その時にこの写真スクラップが、彼に手渡された。
Description: Nagasaki's Mitsubishi Torpedo Plant, said to be the world's largest, following the atomic bomb explosion. From: Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquaters U.S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2463引用。
写真(右):1945年9月、1945年8月9日午前11時2分に原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:原爆投下直前、長崎の浦上では、戦闘帽、巻脚はん、防空頭巾を肩にした女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に乗車し続々と集結していたが、そこに空襲警報が発令された。しかし、B-29 の飛行は市民から「定期便」と呼ばれるほど一般化しており、揶揄して「時報」ともみなさる場合もあった。警報解除となり、防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、女たちも家事に取り掛かったころ、ラジオで“B29,島原半島上空を北進中”が伝えられた。香焼島(爆心地から南10キロ)の高射砲隊は、B29補足し、金比羅山(爆心地から南東1.7キロ)高射砲隊も射撃準備をしものの、装備していた90式測高機によるとB-29 の飛行高度は、9500〜10000メートルで射程圏外だった。「戦闘態勢乙」と警戒度が下げられたが、落下傘(測定器が吊るしてあった)を目にした人々も少なくなかった。午前11時2分、閃光が走り、すさまじい爆風が来襲し、ごう音、衝撃波、熱線が照射され、火事嵐となった。
Description: Photograph taken in Nagasaki, Japan after the atomic bombing on August 9, 1945. The image shows only a few structures standing surrounded by rubble.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3122引用。
写真(右):1945年9月、原爆を投下され破壊された長崎の三菱魚雷製造工場:上の写真と同じ工場と思われる。工場を支えていた鉄骨が残っている。 B-29 原爆搭載機ボックス・カー号(機長チャールス・スウィーニー少佐25歳)は、高度9,600メートルの上空からプルトニウム型原爆を長崎に投下した。チャールス・スウィーニー少佐によると、長崎の市街も、第一爆撃目標都市小倉と同じく雲におおわれていた。スウィーニーはレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。沖縄基地に緊急着陸する燃料しかなく、目視するまで爆撃航路を伸ばすことはもはや不可能だった。そこで彼は、原爆投下の栄誉を得るために、あるいは重い原爆を持ち帰って燃料不足や事故のリスクを冒さないために、公式的には目視爆撃したと称したが、レーダー爆撃で原爆を投下した。
Description: Photograph of a destroyed building's interior caused by the dropping of the atomic bomb in Nagasaki, Japan on August 9, 1945. Rubble covers the floor of the building and metal beams from the roof still hang over the walls.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3117引用。
写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下、破壊された長崎に残った建築物。蔵とキリスト教会が見えるが、後者は戦後復旧したものであろう。爆発と同時に空中の一点に摂氏数千万度の火球が発生、爆発から一万分の一秒で、直径は約30メートル、温度は摂氏30万度に上昇、その後、火球は一秒の間に直径100〜280メートルに達した。火球からの放射熱線は、爆発から3秒間続き、人体に熱傷を与えた。原爆の直下では恐らく3,000〜4,000度にも達したと推定されている。爆発で生じた気圧変化は、衝撃波となって広がり、建物を破壊し、押し潰し、同時に爆風で大きな被害が発生した。
Description: Seven unidentified Japanese survivors walk down a street in Nagasaki, Japan after the atomic bomb was dropped on August 9, 1945. In the background are rubble and the remains of two buildings. Two of the women in the photograph are carrying children on their backs.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3116引用。
写真(右):1945年、原爆を投下された長崎で暮らす被災者の避難所。爆心地よりの距離による被害状況は、1キロ以内の区域では人畜は爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より火災が発生。墓石倒壊。草木は爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。2キロ以内の区域では人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負った。家屋その他の建物、木柱は約80パーセント倒壊、各所より次第に火災を発生し大部分が焼失。コンクリート柱、鉄柱は倒壊しなかった。草木は一部炎上枯死。
Description: Japanese family camps in ruins of Nagasaki, having built temporary shelter from bits of metal and wood debris on the terraced hill that was once row on row of houses. From scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters, U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July, 1946.
Date: ca. 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; World War, 1939-1945
HST Keywords: Atom Bomb; Japan - Cities - Nagasaki
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 98-2462引用。
写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎。橋にはアメリカ軍兵士がもたれている。後方のサークルはアメリカ軍の設置した通信用のアンテナ。 爆心より放出した爆風は放射状に地上の物体を傾け倒し、爆心より1キロまでは立木はことごとく爆風の方向へ薙ぎ倒され、2キロの鉄筋コンクリート建物は屈曲した。
Description: Photograph of a man pulling a car loaded with items across a bridge that was damaged during the bombing of Nagasaki, Japan on August 9, 1945. American soldiers stand and sit along the sides of the bridge during the occupation period. In the background, two large cylinder forms appear along with electrical wire poles. All people are unidentified.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3118引用。
写真(右):1945年9月、8月9日の原爆投下により破壊された長崎:左側にはアメリカ軍の設置した通信用の電柱と電線が写っている。 長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の長崎原爆の被害状況は、死者 73,884人、重軽傷者 74,909人、合計 148,793人 、罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)、罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)。 全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)、全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの) 、半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)
Description: Steam from a train can be seen as it goes by the destruction of Nagasaki, Japan with mountains in the background. In the photograph, new wire poles have been erected along the damaged brick road. .
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3114引用。
写真(右):1945年9月、8月9日に原爆を投下され破壊された長崎に残った山王神社の一の鳥居と石灯籠。一の鳥居だけでなく、片柱となった二の鳥居(一本柱鳥居)も残った。一の鳥居は1962年3月までは現存していたが、交通事故で倒壊、行方不明になった。2016年10月3日、山王神社二の鳥居を含む長崎原爆遺跡は、国の史跡に指定された。昭和20年(1945)9月1日現在の長崎県知事の報告書(第11報)には、屍体検視済のもの19,743人とある。検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場でなされたため、即死状態の氏名不詳、性別不詳など身元不明の死体も約2,000体に及んでいる。行方不明として届出のあった者は1,927名あり、何れも死亡したものと思われる。
Description: A Japanese Torii gate survives the atomic bombing of Nagasaki, Japan. Surrounding the torii is destruction. Two unidentified people can been seen walking under the torii.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3113引用。
写真(右):1945年9月、8月9日の原爆投下によって破壊された長崎の焼け野原長崎消防署の『原子爆弾記録』に「閃光に次いで物体の破壊音と共に砂ぼこりを巻き上げ夕やみのようになった」とある。砂ぼこりは「黒ぼこり」ともいわれ瞬間燃焼の黒い灰、紙片、布切れなどの多様な微軽量物も含まれる。落下紙片――三菱兵器製作所大橋工場の文書と三菱製鋼所の伝票――から推すると、その範囲は、爆心地から半径1,500メートルに及ぶ。地上約500メートルの空中で炸裂した原爆は、直径3,000メートルに及ぶ巨大な竜巻を現出した。
Description: A scene of destruction in the aftermath of the atomic bomb that was dropped on Nagasaki, Japan on August 9, 1945.
Date: ca. September 1945
Related Collection:
ARC Keywords: Nagasaki-shi (Japan) bombardment, 1945; Nuclear warfare; World War, 1939-1945; War damage
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2015-3111引用。
写真(右):アメリカが「マンハッタン計画」で開発したプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」;1945年8月9日、ボーイングB-29爆撃機「ボックスカー」によって、長崎に投下された原爆「ファットマン」は、長さ3.2m、直径1.5m、重さ4.5t。7月26日のポツダム宣言(Potsdam Declaration)の前日に、二発目以降速やかに投下すべしとの原子爆弾投下命令が出ていた。ポツダム宣言で「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と恫喝したのは、1発で高性能爆薬2万トンの破壊力を持つ原爆の威力を踏まえてのことであろう。 Nuclear Weapon of the "Fat Man" type, the kind detonated over Nagasaki, Japan, in World War II. he-bomb is 60-inches in diameter and 128- inches long'. The second nuclear weapon to be detonated. it weighed about 10,000 pounds and had a yield of equivalent to approximately 20,000 tons of high explosive.
Date: ca. 1945
Related Collection: Robert A. Lovett Papers
ARC Keywords: Atomic bomb; Nuclear weapons
写真は Harry S. Truman Library & Museum・Fat Man, the atomic bomb detonated over Nagasaki.引用。
写真(右):原子爆弾「ファットマン」が投下された長崎の被害;1945年8月9日、テニアン島を出発した長距離重爆撃機ボーイングB-29”Bockscar”は、第一目標の小倉上空に達したが、雲のため目視爆撃できず投下を断念。(指令書にはレーダー爆撃ではなく、効果を視認・撮影できるように目視爆撃を要請。)目標を第二目標の長崎に変更。長崎市の中心部は、雲のため投
下できなかったが、北部の浦上地区、松山町上空の雲の切れ間から(といわれる)、高度9600mで投下。Damage Photos
Courtesy of Marvin Demanzuk, Radar Operator, P-02 (39th Bomb Group (VH) Association)Air Raid against Cities引用。
1945年8月9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下したアメリカ陸軍第20航空軍第509混成部隊ボーイングB-29”Bockscar”機長チャールズ・スウィニー(Charles Sweeney)少佐は、戦後、退役軍人教会の会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館(The Smithsonian's National Air and Space Museum)での原爆50周年展示計画について、原爆投下に疑問を抱かせることを容赦しなかった。米国議会も、原爆投下の正当性を主張し、投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。
写真(右):2016年1月、アメリカ、ワシントンDC、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受け、議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。 Description
English: View of the Enola Gay within the Steven F. Udvar-Hazy Center of the Smithsonian in Chantilly, Fairfax County, Virginia
Date 2 January 2016, 14:53:04
Source Own work
Author Famartin 写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File:2016-01-02 14 53 04 View of the Enola Gay within the Steven F. Udvar-Hazy Center of the Smithsonian in Chantilly, Fairfax County, Virginia.jpg引用。
スミソニアン航空宇宙博物館ウドヴァール・ヘージーセンター(展示103)原爆投下第一号機「エノラ・ゲイ」の解説は、次の通り。 Statement on Exhibition:Boeing B-29 Superfortress Enola Gay
Boeing's B-29 Superfortress was the most sophisticated propeller-driven bomber of World War II, and the first bomber to house its crew in pressurized compartments. Although designed to fight in the European theater, the B-29 found its niche on the other side of the globe. In the Pacific, B-29s delivered a variety of aerial weapons: conventional bombs, incendiary bombs, mines, and two nuclear weapons.
On August 6, 1945, this Martin-built B-29-45-MO dropped the first atomic weapon used in combat on Hiroshima, Japan. Three days later, Bockscar (on display at the U.S. Air Force Museum near Dayton, Ohio) dropped a second atomic bomb on Nagasaki, Japan. Enola Gay flew as the advance weather reconnaissance aircraft that day. A third B-29, The Great Artiste, flew as an observation aircraft on both missions.
Transferred from the U.S. Air Force(アメリカ空軍のデータ)
全幅 Wingspan: 43 m (141 ft 3 in)
全長 Length: 30.2 m (99 ft)
全高 Height: 9 m (27 ft 9 in)
空虚重量 Weight, empty: 32,580 kg (71,826 lb)
総重量 Weight, gross: 63,504 kg (140,000 lb)
最高速度 Top speed: 546 km/h (339 mph)
エンジン Engines: 4 Wright R-3350-57 Cyclone turbo-supercharged radials, 2,200 hp
乗員 Crew: 12 (Hiroshima mission)
武装 Armament: two .50 caliber machine guns
兵装 Ordnance: "Little Boy" atomic bomb
製造 Manufacturer: Martin Co., Omaha, Nebr., 1945
A19500100000
1945年8月10日,日本は,スイス政府を通じて,アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズに降伏を申し出た。スイスのMAX GRSLIからバーンズへの書簡(1945年8月10日付)は,「日本は1945年6月30日,7月11日に中立国のソ連に和平仲介を依頼したが,それは失敗した。天皇が,戦争継続によって,世界平和が遠のき,人類がこれ以上惨禍を被ることを憂慮し,平和のために,すみやかに終戦したい希望がある」"The Japanese Government are ready to accept the terms enumerated in the joint declaration which was issued at Potsdam on July 26th, 1945, ---(日本政府は,ポツダム宣言の受諾準備よし。)
写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC,日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに押し寄せたアメリカ人: ポツダム宣言を受諾したことで、日本の無条件降伏が決まった。これを国ではなく軍隊の降伏だ、国体護持の条件は認められたから条件付講和だというのは、屁理屈で本質を見失っている。当時の人々は、そんなことを考えなかったし、理屈屋が反論をしても負け惜しみだと嘲笑された。萬世一系昭和天皇の終戦の宣言は、建国神話以来初めての降伏、日本の敗戦であると考えられた。だからこそ昭和天皇も皇祖に申し訳ない、建国神話に汚点を残したと苦悩した。まさに日本そのものの降伏、敗北であると悲しんだのである。天皇の終戦の聖断に逆らう者は、反逆者と見なされ、実際、終戦を妨害しようとする試みは、反逆と同様に扱われた。なにより天皇への忠誠心あるいは罰せられる恐怖で、大半の軍人・政治家、そして国民は反論せず、日本の聖断にしたがった。日本の主権は、統治権者昭和天皇の降伏の申出によって、完全に敵の手にゆだねられた。一億総懺悔が唱えられた。大戦争における敗北の末路は悲惨である。戦争に負ける苦渋を日本国民は噛みしめ、耐えがたきを耐えた。 Description: Scenes around the White House showing crowds and reporters receiving news of the surrender of Japan, ending World War II.
Date: August 14, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2022引用。
写真(右):1945年8月、テニアン島、原子爆弾「リトルボーイ」L-11を点検するラムゼー博士(右)。飛行場に掘ったピットからボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭載した。;原子爆弾をボーイングB-29「エノラ・ゲイ:Enola Gay」に搭載するには、胴体下と滑走路との間(クリアランス)が狭いので,穴(ピット)に原子爆弾を入れ,そこから持ち上げてB-29の胴体に搭載した。これとは別に、2発目のプルトニウム型原子爆弾「ファトマン」用のピットもある。2004年6月のサイパン攻略50周年・原爆49周年セレモニーは、ピットの近くで開催された。 Comdr. A.F. Birch, numbering LB (Little Boy) unit L-11, before loading on trailer in Assembly Bldg. #1. Unit L-11 was the one dropped on Hiroshima. Dr. Ramsey standing nearby
National Archives Identifier: 519395
Local Identifier: 77-BT-172
Creator(s): War Department. Office of the Chief of Engineers. Manhattan Engineer District. 8/16/1942-8/15/1947 (Most Recent)
From: Series: Photographic Prints of Atomic Bomb Preparations at Tinian Island, 1945 - 1945
Record Group 77: Records of the Office of the Chief of Engineers, 1789 - 1999
This item was produced or created:8/1945
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG National Archives Identifier: 519395引用。
連絡先:
torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 東海大学社会環境課程HK 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,1117 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.