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ヘレンケラー研究リンク集: Helen Keller Studies OnLine Japanese
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◆ヘレンケラー研究リンク集: Helen Keller Studies OnLine

障害者でありながら学問,社会活動に励んだヘレンケラー関するリンク集と写真解説を作成しました。ヘレンの深い学識や当時としては豊富な写真に,彼女の克己心や整っていた生活基盤,社会的評価の高さが窺われます。今の教育制度や障害者の状況にはもちろん,障害者に対する政治家,NGO,市民の対応にも参考になるところが多いです。

ヘレン・アダムス・ケラーは、盲・聾・唖の三重苦を克服した奇跡の人として有名だ。彼女の活動や業績について知る大学生は少ないけれども、当時、女性が高等教育を受ける機会が閉ざされていた時代、障害を持つ女性が、大学教育を終え、博士号を2つも得たことを知れば、ヘレン・ケラーが、奇跡Miracleを起こした、といってもいい。実際に、ヘレンが学校で大学入試の勉強を始めたとき、すでに奇跡のようだと、アメリカの教育界でも注目されており、カリスマ(ドイツ語Charisma)を持ち始めていた。

カリスマCharisma)とは、古代ギリシャ語で「恵み」を意味する語であり、キリスト教では「天からの授かった恩寵」という意味で使用されるもので、預言者もこれにあたる。

20世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、支配の一形態として、合法的支配と対極にある「カリスマ的支配」を示した。つまり、カリスマ的支配とは、説明しがたい超自然的な能力を誇示した特別な人物に依存して、大衆がその人物に従う形での支配であり、大衆を惹きつけてやまない特定の人物がもつ魅力が、カリスマ(Charisma)である。ヘレンケラーは、有名になった当初から、カリスマ性を備えていたが、ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンは、苦学の人であってもカリスマ的(charismatic)とは言えない。その意味で、サリバンは、奇跡の人とは言い難い。

つまり、19世紀末から20世紀初頭、アメリカのインテリは、カリスマを備えた「奇跡の人ヘレンケラー」と認識していた。このように100年以上前の「奇跡」を調べてくると、日本のフリー辞典「アン・サリヴァン」で「奇跡の人という呼び名は、ヘレン・ケラーのことではなく、アン・サリヴァンのことである」と言い切っているのは正確な表現ではないことが理解できる。「奇跡の人は誰か」という質問に、インターネット検索で答えが出ている-----と単純に考えるべきではない。

現代の日本で「奇跡の人」がヘレンケラーであると認識されているのは、上記のような彼女の経歴を踏まえたものではないようだ。

◆1934年8月15日、日本ライトハウスの創設者岩橋武夫は、カナダからメキシコに至る講演に出帆した。この途上、1934年12月、アメリカのニューヨーク郊外フォレストヒルにあるヘレンケラー宅を訪問した。目的は、ヘレンケラーに日本を訪問してもらい、盲人への支援を訴えるためであった。当時、ヘレンの先生であるアン・サリバンが病に臥せっており、来日は叶わなかった。しかし、サリバンは、ヘレンに対して日本に出かけて盲人支援のために活動することを望み、これがアンとヘレンの約束になった。この時、ヘレンは、岩橋武夫に、日本で再開することを伝えたという。(ヘレン・ケラーと日本ライトハウス参照)

アンの死後、しばらくして、1937年にヘレンは岩橋武夫・アンとの約束を果たすために、日本を訪問する。この第1回目のヘレン訪日では「奇跡の聖女」として歓迎されたのである。したがって、「奇跡の人ヘレンケラー」というのは1937年の日本人の認識といえる。

戦後、1959年初演のウィリアム・ギブソンWilliam Gibson :1914-2008)作の戯曲 Miracle Worker、これを基に1962年に公開された同名の映画"The Miracle Worker"は日本でも評判になった。そこで、日本では戦前の記憶から「奇跡の人」と訳し、盲・聾・唖の三重苦を乗り越えたヘレンケラーの伝記として長く演じられた。ヘレンケラーが障害を克服したことで、「奇跡の人」と紹介されていたのである。

◆日本では、ギブソンの1959年の戯曲「奇跡の人」、それを脚本として作成された1962年公開の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)は、ヘレンケラーが奇跡の人本人であると考えられた。日本人の演出になる「奇跡の人」の戯曲でも、奇跡の人は、ヘレンケラーとみなされていた。

◆アメリカでは、1959年に初演された“ Miracle Worker”、それをベースに作成された1962年の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)であ、「奇跡の人」とは、ヘレン・ケラーを教育したジョアンナ・マンズフィールド・サリバン、通称アン・サリバンのことを指していた。「奇跡の人」は、ヘレンケラーを覚醒させ、障害を克服して、大学にまで進ませることができたアンであり、この彼女の仕事が奇跡と見做していたのである。

1959年初演のウィリアム・ギブソンの戯曲“ ミラクル・ワーカー”、1962年公開の同名の映画「奇跡の人」The Miracle Worker )において、「奇跡の人」はアン・サリバンを指すのであって、ヘレンケラーではない。しかし、だからと言って「奇跡の人」がヘレンケラーであるというのが間違いというわけでは決してない。奇跡の人=サリバン先生、とは、一つの解釈にすぎないのである。

ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンがヘレンケラーを新しい世界に導いたとき、アメリカの教育界やパーキンス盲学の報告によって、ヘレンに奇跡のようなこと(miracle like)が起こったと述べられている。これらを踏まえれば、第一次大戦前から有名人だったヘレンが、第二次大戦後、晩年になってアン・サリバンを主役とする戯曲「奇跡の人」、そしてこれを脚本にした同名の映画のヒットによって、「奇跡の人」の代名詞を奪われた、とは言えないであろう。

また、ギブソンの戯曲「奇跡の人」“ Miracle Worker”(奇跡の人)発表の22年前の1937年、日本の新聞は、ヘレンケラーのことを、「奇跡の聖女」と讃えていた。ヘレン・ケラーは、1937年4月の第1回目の来日は「奇跡の聖女」、第二次世界大戦終了後、1948年8月の第2回目の来日は「幸福の青い鳥」、1955年6月の第3回目来日は「古き良き友」として、歓迎されている。日本では「奇跡の人」はヘレンケラーを指していた。

◆学習漫画 世界の伝記NEXT『サリバン先生』(集英社)が2011年2月に刊行され、その解説を書きました。
毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に紹介された,拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』青弓社)では,ヘレン・ケラーと反戦運動も扱いました。また、アメリカの婦人部隊(女性兵士)や従軍看護婦などジェンダーも扱っています。『写真・ポスターで学ぶ戦争の百年』からご覧いただけます。
NHK2008年2月10日「わくわく授業〜わたしの教え方:小さな手と手で“ことば”をつかむ〜加藤小夜里先生の国語」が,9月21日に再放送。加藤小夜里先生は東海大学教養学部人間環境学科の卒業生です。
本館には,2005年1月31日以来Counter名の訪問者があります。本サイトを引用する際は,URL出所を明記してください。
1937年の日本訪問以降、後半生は「ヘレンケラーの後半生:visiting Japan」をご覧ください。
                    ヘレンの生い立ち、教育、思想は「三重苦ヘレンケラーの伝記」をご覧ください。
                          ヘレンを教育したサリバンの伝記、思想などは「奇跡の人ジョアンナ・マンズフィールド・サリバン伝記」をご覧ください。




日本のヘレンケラー関連リンク(1)
リンク 『ウィキペディア(Wikipedia)』掲載のヘレンの項目 ヘレン・ケラー物語 アイバンクコラム−ライオンズクラブでのスピーチ- ヘレンケラー『わが人生』(翻訳)
解説
耳,目,口が不自由なヘレン・ケラーは,逆境から家族,教師,周囲の人々の支援を得て立ち直り,ハーバード大を卒業する。その後は,AFB(米国盲人協会)に参加し,障害者など人々のために尽くした。
しかし,同時にヘレンは,男女同権論者として婦人参政権を主張し、また人種差別反対論者であり、また過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮に反対した。
Free-Definitionヘレン・ケラー
AFB動画:1948年日本訪問時のヘレン・ケラー;東京での歓迎だけでなく,原爆爆心地を訪れた様子,顕花などの映像もある。
社会福祉法人 日本ヘレンケラー財団作成のサイト。「アメリカ・アラバマ州の北部、メキシコ湾から快い暖風の吹きよせるタスカンビヤの町近くで、ヘレンケラーは1880年6月27日誕生した。父アーサーケラーはスイス人の血をひく南北戦争当時の大尉、母のケイト・アダムスは父より20歳も若い妻だった。」しかし,ヘレンは,生後19ヶ月で病気のために耳,目,口が不自由になった。⇒AFB動画:ケラーの文字・会話の習得;ヘレンも頓登場するが,初めて"it"を覚えたときの様子を,恩師のサリヴァン女史が語ってくれる。
ライオンズのサイト。「皆さんは「好機」ということを、ある移り気な婦人になぞらえた言い伝えを、お聞きになったことがあると存じます。その婦人は、各戸の扉を唯一度だけしか叩かず、もし叩いた扉がすぐ開かれないと、どんどん行ってしまって、帰っては来ないのです。」障害者だけでなく,労働者,女子,貧困者の人権擁護のために活動した。⇒AFB動画:ケラーが「指で会話ができる装置」をテスト;AFB(米国盲人財団)の考案した装置をテストする。
小原二三夫の部屋。視覚障害者の手記。日本の点字。ヘレンケラー・塙保己一の思想紹介も充実。→Story of My Life by Helen Keller (原典) 『わが人生の物語』ヘレン・ケラー著
→ 写真:1957年のストックホルム;盲人学校The Manilla School for the Deafで鳩を放すところ。ヘレンの腕を同行通訳のポリー(Polly Thomson)が支えている。
しかし,ヘレンは,戦前に既に複葉機に同乗して空を飛んだことがある。⇒AFB動画:1918年複葉機に乗るヘレン・ケラー;飛行の様子の映像のなかで,飛行後の感想が語られる。



日本のヘレンケラー関連リンク(2)
リンク 『聾・聴覚障害百科事典』
ヘレン・ケラーの項
岩橋武夫とヘレン・ケラー(2001年10月NHK放送) 生身のヘレン・ケラー ヘレン・ケラーの再評価−20世紀の終りとセクシャリティー
解説
フーバー大統領,ケネディ大統領,石油王ロックフェラー,自動車王ヘンリー・フォードとも会見したヘレンだが,男女同権論者として婦人参政権を主張し、また人種差別反対論者であり、また過酷な若年労働や死刑制度、そして第一次世界大戦の殺戮に反対した。写真は1937年に初来日した際,箱根の富士屋ホテルに滞在したときのもの。⇒富士屋ホテルの歴史
ヘレンケラー来日の影響で、日本に「障害者福祉法」が成立。ヘレンの姿は、多くの日本人に感動を与えた。募金など社会的運動が巻き起こり、GHQや政府を動かしていく。やがて成立した身体障害者福祉法の趣旨説明では、来日したヘレンケラーの影響によると唱われている。→ヘレンケラー概説(1)Glass Ceiling website
ヘレンケラー概説(2)HelenHome 
【?】社会主義者・急進論者・反戦 【?】性衝動と未婚の苦悩。
アメリカ社会党に入党し、第一次大戦の反戦運動をやり、ロシア革命を熱狂的に支持し、FBIからも監視され、人種差別を無くす会の論客でもあり、NAACPの黒人解放運動や、労働運動にも参加し、若年労働や死刑制度に反対し、筋金入りの婦人参政権論者で婦人参政権運動にも参加し、---。
写真は1959年のケラー
ヘレンケラー概説(3)the National Women's Hall of Fame
 映画原題は「奇跡を起こした人」という意味でサリバンを指している--。1916年に当時36歳のヘレン・ケラーは自分の助手をしていたピーター・フェイガンという青年と恋をして結婚しようとする。--「不平不満を活字にはしないものです」--結婚生活を送らせなかったものは何か。それは見えなかったことでも、聴こえなかったことでもない。家族をはじめとする周囲の思惑だった--。
ヘレンケラー伝:Helen Keller Services for the Blind
The Life of Helen Kellerヘレンの恋



外国のヘレンケラー関連リンク(1)
リンク Hellen Keller Services for the Blind
(HKSB)
Helen Keller International
1887年7歳のヘレン
The Helen Keller Foundation for Research and Education The Story of My Life
by Helen Keller
解説
The Helen Keller National Center for Deaf-Blind Youths & Adults (HKNC) offers intensive and comprehensive rehabilitation training to individuals who are deaf-blind. The rehabilitation and personal adjustment training program at HKNC's headquarters in Sands Point provides evaluation and training in communication skills, adaptive technology, orientation and mobility, independent living, work experience, and other support services. →「運命の井戸」The water pump where Helen made her miraculous breakthrough
HKIヘレンケラー・インターナショナルのはミレニアム開発目標(MDGs)を目指し、「見る権利」を擁護する活動を実施。開発途上国への援助活動では、世界の3600万人以上の視覚障害者preventable blindnessに配慮。栄養不良等が原因で8億人に、視覚、聴覚、発声に障害が生れる可能性を減少させ、世界で10億人以上の人々が1日当たり1?以下の生活をし、適切なヘルスケアを受けられない人々に配慮。
Foundation representatives have lectured around the globe. In the first decade of vision research, presentations have been made in countries from Norway to South Africa, from China to Austria—totaling over 500 scientific lectures in 21 countries on six continents.
初の著作『わが人生の物語』(1902年)第1〜13章。書簡集Letters (1887-1901)。ヘレンの人生と教育に関する解説を掲載。
『わが人生の物語』は,大学卒業前の22歳の時の著作。編集者は,在学しているハバート大学職員John Macy。献辞は恩師で電話発明者のベルに捧げている。この本は、初版にもかかわらず,50ヶ国語に翻訳された。  



ヘレンケラー研究(1)
リンク American Foundation for the Blind米国盲人財団
(米国人権擁護協会)
Helen Keller FBI File
連邦検察局「ヘレンケラー調査報告書」
Helen Keller Reference Archive
The Socialist Legacy of Helen Keller
AFB;Helen Keller>Photographs
ヘレン・ケラー写真集
解説
During her life, Helen Keller was one of the world’s great heroes. Her remarkable story was well known throughout the world. Born in 1880, she contracted an illness when she was less than 2 years old that left her unable to hear or see. →Encyclopædia Britannica;Helen Keller『ブリタニカ』ヘレン・ケラー
ヘレンの反戦思想,社会主義的言動などを反米活動として認識していたFBI(連邦検察局)のファイル。「聖女」の意外な,あるいは盲人協会では黙殺されるべき側面が窺われる。しかい、AFBの懇願があったためか、1920年代から公式の場では「過激な言動」とされる意見表明は慎んでいる。第二次大戦を指導した英国首相チャーチルは米国フルトンで「鉄のカーテン」とソ連を非難する反共主義者だが、ヘレンは彼とはもちろん、アイゼンハワー大統領(元陸将)、アデナウアー西ドイツ首相とも会っている。→写真:1955年チャーチルとケラー
ヘレンの急進的な政治思想。Marxists Internet Archiveが掲載しているヘレンの社会主義的な言動。
Text Index ;Writers Archive Cross-Language Index History Archive Reference Archive Subject Archive Encyclopedia of Marxism
American Foundation for the Blind(ABF;米国盲人財団)作成の年代別写真集。 →AFB写真:;Portrait of Miss Keller with William Nelson Cromwell and M.C. Migel, circa 1937.
ケラーの著作'The Story of My Life'・手紙;FamilyLearn



ヘレンケラー研究(2)
リンク ヘレンケラー物語
Perkins School for Blind
ヘレンケラー関連リンク集
Perkins School for Blind
Hiroine Worship; The New York Times Helen Keller Quotes
ヘレン・ケラー名言集
解説
写真は、サリヴァンの学んだ盲学校パーキンスで彫刻に触るヘレン。ここの初代理事Dr. Samuel Gridley Howeは米国で初の盲学校の理事としてか活動した。 欧州に3週間赴き、盲人の置かれた状況を視察した。そこで、盲人用の図書が費用が高く、不足していることを痛感した。He devoted his life's work to making sure that blind and visually impaired people throughout the world could read and enjoy books. 1835年までに, Howeはパーキンス印刷局で学生たちや視覚障害者に対して図書を作り提供し始めた。50年以上も学校はこの制度を続け、その後、盲人のための革新的なコミュニケーション手段としてパーキンス点字を導入した。
ヘレンケラー概説(4);kirjasto
1888年にヘレンとアンはボストンにあるパーキンス盲人財団the Perkins Institute for the Blindに行った。その後、1894年に二人はニューヨークにあるWright-Humason School for the Deafに行った。
ヘレンケラー概説(5);Rethinking Schools
1929年撮影。What country was Helen Keller from? People felt she hailed from Heaven - which was a mixed blessing. Idolized for her angelic temperament, her courage and joy and generosity, she played unwittingly into the hands of those who would sentimentalize all women as better than men, too saintly to be shown the whole picture. Even her great friend, the unsentimental Mark Twain, said he was certain Keller's inner visions were more beautiful than reality.
ヘレンケラー概説(6);WHAT HELEN KELLER SAW
Many persons have a wrong idea of what constitutes true happiness. It is not attained through self-gratification but through fidelity to a worthy purpose. →写真;APH
ヘレンケラー概説(7);spartacus.schoolnet



ヘレンケラーの活動
リンク Helen's Speeches Helen Keller Foundation Helen's Essays 秋田犬を米国にもたらしたヘレン
解説
Strike Against War, delivered before the Women's Peace Party at New York, New York (January 5, 1916)
Much like Helen Keller herself, Foundation representatives have lectured around the globe. In the first decade of vision research, presentations have been made in countries from Norway to South Africa, from China to Austria—totaling over 500 scientific lectures in 21 countries on six continents.
ヘレンケラー概説(8);Mayer Shevin
Much Helen was a prolific writer; her personal correspondance alone makes up an enormous archive, without going into public writings. Here though, the main focus is on journalistic pieces and columns she wrote.
ヘレンケラーは1937年に「忠犬ハチコー」の話を聞き及び、秋田県に行った。この秋田公演は人々に感銘を与えた。そこで、警察官の小笠原一郎が秋田犬「神風号」をプレゼントした。これが米国にもたらされた初めての秋田犬である。神風号とは同年に東京(立川飛行場)〜ロンドン(クロイドン飛行場)間で全飛行距離1万5,357kmを実飛行時間51時間19分23秒で飛行した日本国産機の朝日新聞社通信機(元は陸軍九七式司令部偵察機)と同名である。この犬はジステンバーで8ヶ月後に死んだため,ヘレンはもう一匹の秋田犬「ケンザン号」を1939年にリクエストし、もらうことができた。この犬は神風号の兄弟犬で,ヘレンから "Go-Go"と呼ばれ、8歳(あるいは9歳)で死ぬまで彼女の元にあった。→写真:Helen Keller and Kenzan-Go(1939年)



日本のヘレン関連リンク(3)
リンク  日本ライトハウスとヘレン・ケラー  ヘレンケラーの恩師サリヴァン 【資料】 急進論者ヘレン・ケラー―スーパーヒロインの秘話
解説
ヘレン・ケラーと日本ライトハウス創設者岩橋武夫のコンビによるわが国障害者福祉・教育への影響と国際交流。「自立と社会参加のためのパートナーシップ」を目標に,障害のある個人が尊厳をもってその人らしい自立した生活ができ、積極的に楽しく社会参加することを目標とする。岩橋は、1937年4月15日 ヘレンケラー来日を実現させたが、第一次近衛文麿内閣が6月6日に成立した中で、7月7日慮構橋事件が勃発、8月11日に日本軍は北京に進駐した。
「ケラーは障害者福祉法成立に関わったか」
手作りの和風人形をプレゼント
両手、両足を失いながらたくましく生きた岐阜県出身の女性  
アン・サリヴァンとはジョアンナ(アン)・マンスフィールド・サリヴァン・マーシー(Anne Sullivan、またはAnnie Sullivan Macy、Johanna Mansfield Sullivan Macy、1866年4月14日 – 1936年10月20日)通称アニ-という名で、ヘレン・ケラーの家庭教師して知られる人。
サリヴァンWOMEN IN HISTORY
サリヴァンAmanda-Lynn Baskwill Grade 5
サリヴァンAFB
サリヴァンMY Hero
サリヴァンAnnie Mansfield Sullivan Foundation
サリヴァンHK Foundation
ヘレンは婦人参政権を主張し、若年労働や死刑制度に反対し,1916年にNAACPに100ドルの義捐金を添えてその活動を支持する書簡を送り家族の怒りを買った。しかし「社会の不平等と様々な不幸の根は貧困に他ならない」との信念から社会党入党も辞さなかった。WW2最中に友人に当てた書簡で彼女は「慈善は社会悪に対する悲劇的免罪符にすぎない」と言い切った。AFB(米国盲人財団)に参加した後に左翼的言動は差し控えた。AFBの寄金調達係,映画『我が生涯』で自ら演出したヘレン役でアカデミー賞を受賞。→写真:ヘレンの愛用品HKBF
ヘレンの思考:ヨハネ研究の森



へレンケラー研究(3)

リンク
Helen Keller Kids Museum
ヘレンケラー子供博物館
Helen Keller Reference Archive
ヘレンケラー・アーカイブ
Brainy Encyclopedia Helen Keller
『人物名鑑』ヘレン・ケラー


解説
「子供」と銘打っているが,日本の高校生以上対象。写真・解説が充実。→写真:1948年訪日時のヘレンと同行通訳のポリー。広島を訪ねた翌日,次のように述べた。「今でもつらい経験をして心が痛みます。今までに知った以上の恐ろしさを感じました。ポリーと私は広島にTakeo T(I)wahashi(岩橋武夫)と一緒に行き,アピールをしましたが,すぐに大きな悲壮感にとらわれ,話すのが非常に困難になりました。....かつて舗装されていた通りから墓場に--灰でいっぱいの--を訪ねました。そこは,1945年8月6日8:30に7万人の男,女,子供が簡単に殺され, そして15万人が傷つきました。彼らは2機の飛行機は,いつものように偵察機だと思っていました。そこで,爆弾が投下されたとき,大量死をもたらす閃光に準備ができていなかったのです。---原爆の被害は計り知れません。(私は見えませんが通訳の)Pollyは,ひどい顔面の妬けどの人を見て,ショックを受けました。彼は私に顔を触らせてくれましたが,あとは沈黙でした。人々は,一生続く痛みと闘い続けます。」( →出所:「ヘレンの広島アピール」) 
ヘレンの社会主義,反戦,人権重視の思想(→写真:1933年三匹の犬とヘレン
1929年に公表されたヘレンによるレーニンの精神と革命への評価は次のようなものである。 「革命は--一部の者によって行われるのではありません。人々は,他のどんな夢も潰えてしまった時にだけ革命を起こします。ロシア革命はLeninによって組織されたものではありません。それは何世紀もの間,ロシアの愛国者たちの夢でした。しかし,レーニンの遺体がクレムリンに横たえられたとき,ロシアの人々は皆悲しみに涙しました。飢えた敵の口には,新しい希望が与えられました。レーニンの精神は人々に熱く伝えられ,人々はもはや恐れてはいません。-- they said, "let us rather gird ourselves for the task he has left us. Where our dull eyes see only ruin, his clearer sight discovers the road by which we shall gain our liberty. Revolution he sees, yea, and even disintegration which symbolizes disorder is in truth the working of God's undeviating order; and the manner of our government shall be no less wonderful than the manner of our deliverance. --"
1955年点字本を読むヘレン・ケラー。ヘレンは1880年生れ。両親が聾唖教育に熱心だったベル(電話の発明者)に相談し,マサチューセッツの盲人財団Perkins Institute for the Blind に相談するようにアドバイスした。そこから派遣された教師Anne Sullivan(当時20歳)が,ヘレンの心を開いた。二人は49年間も親交を深め,ともに活動することになる。社会党socialist partyには1909年から1921年まで積極的に関わり,労働組合Industrial Workers of the World (IWW)にも1912年から参加している。彼女は,議会主義的改良をすすめる社会主義を「政治の犬」sinking in the political bogと酷評した。評論"Why I Became an IWW"では,「当初,目の見えないことは,人知の及ばない,制御不可能なことと考えていました。しかし、今では、雇用主の利己心と横暴が,社会的悪徳と並んで産業上の問題を引き起こしていることに気づきました。貧困が,何も見えない暗闇に陥るような恥じ入る人生に陥れています。」---彼女は,ロシア革命に際して共産主義を擁護し,共産主義者とも親交を持ったために,FBIによる調査も受けている。


へレンケラーの思想
リンク 人口抑制政策の思想
反戦思想
社会主義思想
解説  
インドが行なおうとしている人口管理計画、すなわち人口抑制に対して、過剰人口による生活悪化、地球環境の悪化を理由に、賛意を示している。子供を適切に育てることは親の義務である、女史が人類生存の重要な役割を担っている、とも。
Indeed you will both agree that India is much in need of birth control and perhaps my last news letter quoting a part of that wonderful address of Dr. Radhakrishna shows how advanced the thinking of the intelligencia of India really is. Lady Rama Rau is one of the most wonderful women that I have met anywhere, and it gives me such pleasure to know that she is taking up the torch and carrying on the work of birth control for her country.( 出典:1953年インド宛て書簡
1952年インド宛て書簡
写真は1953年インド首相のネルーとの会談
We are not free unless the men who frame and execute the laws represent the interests of the lives of the people and no other interest. The ballot does not make a free man out of a wage slave. There has never existed a truly free and democratic nation in the world. From time immemorial men have followed with blind loyalty the strong men who had the power of money and of armies. Even while battlefields were piled high with their own dead they have tilled the lands of the rulers and have been robbed of the fruits of their labor. They have built palaces and pyramids, temples and cathedrals that held no real shrine of liberty.( 原典:1916年「戦争に反対しよう」
写真は1955年アイゼンハワー大統領との会見
写真は1954年"Helen Keller in Her Story"のプレミア。ウィスコンシンの テンプル劇場で、ヘレンは障害を克服し、社会福祉に尽くす聖女として描かれ、翌年アカデミー賞受賞。
しかし、ヘレンは、障害とは身体的なものだけでなく、社会的な制約としても捉えていた。劣悪な労働条件、ジェンダー不平等、民族差別なども社会的障害として克服すべき対象となる。「ロシアソビエト共和国は、真実・正義の原則に則っており、この思想が人々を長い間、閉ざしていた闇から救い出しました。ロシアのスーパーマンは、世界の盲目の人々のために戦っています。この思想は,--閉鎖的で、そして愚かで不正直な報道機関のために、誤って伝えられていますが、ソビエトは今日大いなる門出をむかえています。一方、旧態依然とした社会的規範は、ソビエトの前に崩壊しつつあります。なぜ、労働者はロシアで起こったことの原因を見ることができないのか?ロシアにおける経済的自由のための闘争(struggle for economic freedom)は、労働者の闘争です。---私たちがみな団結していることが見えない人は、なんと精神的に盲目なことでしょう(How spiritually blind are men, that they fail to see that we are all bound together! )我々は、昇るか落ちるか、悪魔のようか神のようか、自由か鎖で縛られるかのどちらかです。」 (原典:1921年「ソビエトを助けましょう」

外国のヘレン関連リンク(2)

ヘレンケラーの生家Tuscumbia, AL USA
リンク Helen Keller Birthplace Foundation ヘレンケラー関連リンク集
Helen Keller Birthplace Foundation作成
Royal National Institute of the Blind Tragedy to Triumph: An Adventure with Helen Keller
RNIB
解説
米国南部アラバマ州トゥスクビア「平原の中の小さな町 Tuscumbia(アラバマ州)は,世界的に有名な奇跡の起こった場所。それは、1887年の春のある晴れた日に起こった。青空の中に浮かぶ白い雲を背景にして、オークと楓の樹木の間を鳥が飛びまわり、豊かな土地に花が咲く。それらを、7歳の少女は聞くことも見ることもできないままでいる。」村の人口は2002年現在7900人。
ヘレンの生れたコテージcottage
屋敷の敷地見取り図Map
生家では伝記映画、ドラマが作成されるなど観光名所である。
生家の見取り図
The life of Helen Keller Helen falls ill / Anne Sullivan / Helen meets Anne/ The Frost King / Helen enters Radcliffe College / Helen tours the World / The Miracle Worker / Helen retires from public life / Helen’s legacy / Further reading / →ヘレンケラー概説Harcourt Learning Site) 
Search of the Heroes video series
→上AFB写真:振動で音楽を聴くヘレン,1944年。


ヘレンの生まれ故郷
リンク 米国アラバマ州Tuscumbiaの位置 アラバマ州Tuscumbia Tuscumbiaの人工衛星写真

ヘレンケラーの住居

ヘレンケラーの住居
リンク
解説
ヘレンの生家は,観光名所にもなって有名であるが,彼女の広範な活動が,南部の田舎町を基点に行えるはずがない。身障者の彼女が,不便な田舎から世界中を駆け回るのは不可能である。モータリゼーション進んだ米国では,車の利用が不可欠である。住居には車のガレージもある
生家は伝記映画、ドラマが作成されるなど「奇跡の起こった聖地」として有名である。しかし,ヘレンが活動の拠点とした住居については,僅かな資料しか見つからなかった。
 

ヘレンの愛用品
リンク ケラーの使用した時計(文字盤)
同じ時計の機械部分 友人へのヘレンの手紙
解説
Hellen Keller's pocket watch featured a hand on the back surface; time was read by feeling how far the hand had moved between the rim knobs.">ヘレンの愛用した点字タイプライター
ヘレンの点字タイプライターと点字本
In May, 1896, at the home in New York of editor-essayist Laurence Hutton, Rogers and Mark Twain first saw Ms. Keller, who was then fourteen. She had profited under the tutelage of her gifted teacher-companion, Ann Sullivan, and when she was sixteen, passed with distinction the entrance examination to Radcliffe College. In a letter to Mrs. Rogers, Twain praised "this marvelous child" and hoped that Helen would not be forced to retire from her studies because of poverty. He urged Mrs. Rogers to speak to Rogers himself, to remind him of their first sight of Ms. Keller at Hutton's home and to speak also "to the other Standard Oil chiefs" to see what could be done for the meritorious Ms. Keller. Rogers was generously responsive. In fact, he financed Ms. Keller's education at Radcliffe and even provided her, for many years after, with a monthly stipend. That she was grateful is obvious in the dedication of her book, The World I Live In, which reads, "To Henry H. Rogers, my Dear Friend of Many Years." On the fly leaf of Rogers' own copy of the book, she wrote, "To Mr. Rogers - the best of the world I live in is the kindness of friends like you and Mrs. Rogers."

◆HELLEN KELLER Photo Gallery



へレンと有名人(1)
リンク  Helen Keller with John F. Kennedy, 1961  Polly Thomson, Anne Sullivan, Helen Keller, and Charlie Chaplin, 1918 Helen Keller, President Herbert Hoover, and international delegates outside the White House, 1932
解説
When Helen was seven years old, she was introduced to President Grover Cleveland. Cleveland was just one of many presidents that Helen met in her lifetime. This picture shows her meeting President John F. Kennedy in 1961. She received letters from eight U.S. presidents—from Theodore Roosevelt in 1903 to Lyndon B. Johnson in 1965. Her fame resulted in many awards in her lifetime, including the French Legion of Honor and the U.S. Presidential Medal of Freedom. 
1918年にハリウッドに行き,無声映画を作成したが,その際に,チャップリンとも合った。思想傾向が似た二人は友人となった。
In 1914, Polly Thomson began working for Helen and Anne—they were known as "the three musketeers." In 1918 they traveled to Hollywood to make the movie Deliverance, a silent movie about Helen's life. In the film, Helen and Anne starred as themselves. Plus Helen met movie stars like Charlie Chaplin.
フーバー大統領と会見。In 1932, Helen and two leaders from the American Foundation for the Blind—M. C. Migel and Robert B. Irwin—persuaded the U.S. government to hold an international conference of workers for the blind. Thirty-two countries sent their representatives to Washington, D.C., for a special meeting at the White House. Not only did President Herbert Hoover greet the delegates, so did Helen! She held a reception for them and attended all of the meetings.


へレンと有名人(2)
リンク  Henry Ford,1920  Helen Keller and Graham Bell,1894 Helen Keller and Mark Twain,1910
解説
自動車王ヘンリーフォードとも1920年に会見しているが,社会主義的思想,民族平等思想を持ち,労働組合運動にも賛同したヘレンと,反ユダヤ主義,反組合の経営者フォードが理解しえた部分はどこにあったか興味深い。All sorts of people wanted to meet Helen, including Henry Ford, the man who invented the Model-T Ford automobile. Helen also met three generations of the Rockefeller family, who formed the Standard Oil Company. The Rockefellers donated a fortune to the arts, culture, science, politics, and national parks.  
電話発明者のグラハム・ベル(Dr. Alexander Graham Bell)は1988年にボルタ聾唖者会(現在のベル聾唖者協会)を設立したが,1922年になくなるまで友人関係にあった。1986年にベルは、ヘレンにパーキンス盲人財団(Perkins Institution for the Blind)コンタクトをとることを勧めた。そして、Anne Sullivan (their valedictorian)がヘレンの元に派遣された。
Portrait of Miss Keller with Anne Sullivan and Alexander Graham Bell in a garden. They are simultaneously using three modes of communication: spoken language between Miss Sullivan and Dr. Bell, the manual alphabet between Miss Keller and Dr. Bell, and lip reading between Miss Keller and Miss Sullivan, circa 1894.
作家マーク・トゥエインは1902年のヘレン22歳のときの著作『わが人生の物語』にも好意的な書評を寄せ,文通もしていた。写真は1910年に会見したときのもの。トゥエインはヘレン宛てにサムエル・クレメンスの実名で手を書いている。アン・サリヴァンも同席している。
Helen met a lot of famous people, including Mark Twain, the author of Tom Sawyer and The Adventures of Huckleberry Finn. Twain was great friends with Helen, and he signed his letters to Helen with his real name, Samuel L. Clemens.



ヘレンと有名人(3)
リンク フランクリン・ルーズベルト大統領婦人エレノア(1955年) 哲学者バナード・ショー(George Bernard Shaw)とLady Astor(1932年) 俳優フェアバンクス(Douglas Fairbanks)とMary Pickford,(1925年)
解説
エレノアは、社会活動に熱心で、進歩的な思想の持ち主。第二次戦中には、戦線近くにまで飛行機で慰問している。ルーズベルト大統領は車椅子生活だったために、外向きの活動も担っている。大統領の浮気に苦しめられたこともあって、女性の人権擁護、社会進出にも理解があった。対戦中、今まで家庭に引きこもらざるを得なかった米国人女子を労働者として大量に動員するのみ寄与した。 →検索写真集Eleanor Roosevelt人物名鑑wikipedia
Miss Keller is wearing a fur trimmed coat.
1932年バナード・ショー(George Bernard Shaw,1856年7月26日生れ,1950年11月2日没)とともに。ショーは劇作家、小説家、批評家。ダブリン出身。皮肉な警世家で菜食主義者。1925年ノーベル文学賞受賞。)劇作家、小説家、批評家。ダブリン出身。戯曲、書評、音楽評論、美術批評、社会批評、劇評など多岐に渡って活躍。皮肉な警世家。菜食主義者。1925年ノーベル文学賞受賞。
ハリウッド俳優ダグラス・フェアバンクスは,ヘレンよりも8歳年下。1988年5月23日にDouglas Elton Thomas Ulmanを父にデンバー(コロラド州)で生まれ,特に無声映画時代に活躍し,アカデミー賞も設立した。当時の主演映画としては,1924年「バクダットの盗賊;The Thief of Bagdad ,1925年「怪傑ゼロの息子ドンQ;Don Q., Son of Zorro 」,1926年「黒い海賊;The Black Pirate」 がある。→The Douglas Fairbanks Museum
Miss Keller with George Bernard Shaw and Lady Astor, circa 1932

◆HELLEN KELLER Photo Gallery ?



1892年のヘレンケラー
は裕福な家の出身。母は電話発明者ベルとも交際があり,その紹介でヘレンの教師を派遣してもらう。19世紀末以来、写真もたくさん残っている。


1880年のパ−キンス盲学校
:14人の生徒がU字型の机に座っている。ただし、絵葉葉書なので、見栄えがいいようにセットしているかもしれない。


1920年頃のヘレンケラー



1950年頃のヘレンケラー
:National Women's Hall


米国切手のヘレンケラー



ブラジル切手のヘレンケラー



スペイン切手のヘレンケラー


日本の切手「ヘレンケラー初来日(1937年)」
2000年700万枚発行


日本の切手「1937年神風号・ニッポン号世界飛行成功」
2000年発行700万枚



著作『ヘレン・ケラー』:ヘレンについては、たくさんの著作がかかれている。同様に、ケラーの先生のサリヴァンについての著作も多い。


ドラマThe Mirakle Workerとは、アン・サリヴァン先生が、奇跡を起こした人である。ヘレンケラーを「奇跡の人」といっても間違いではないが。



1937年三省堂亀井社長と会談


1937年4月三省堂を訪れたヘレンケラー
2007年9月22日土曜日13時-16時に,「ヘレンケラー女史に再び学ぶ」と題して,講演会(神奈川新聞後援・高齢パワー活用の会主催)を行いました。場所は,横浜市青葉区民活動支援センター(東急田園都市線田奈駅構内)会議室でした。たくさんの高齢者、障害者の方にご参加いただけましたことは、望外の喜びです。

掲載写真の主な引用は、
Helen Keller Foundation
とAFB(Helen Keller Kids Museum)に拠っています。(鳥飼行博)

連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Tel: 0463-50-2122, Fax: 0463-50-2078
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