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Anne Sullivan Biography Japanese
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◆HELLEN KELLER Biography? JAPAN:1937-1968 ヘレン・ケラーの後半生と日本

障害者でありながら学問,社会に多大な功績を残したヘレン・ケラー。恩師アン・サリバン先生が1936年に亡くなった後、静養してから、翌年、日本に「浅間丸」で出帆しました。これは、サリバンと生前にした日本訪問の約束を果たすためでもありました。この1937年4月15日に横浜港に来日した時、ヘレンは56歳で、6月27日57歳の誕生日を日本で迎え、8月10日横浜港より「秩父丸」でアメリカに向けて日本を去しました。
実は、7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発、日米関係まで悪化しそうな雲行きだったのです。
このwebsiteでは、ヘレンの日本訪問以降の伝記を写真解説します。ヘレンの深い学識や世界を飛び回っての活動に,彼女の誠実さ、知名度の高さが窺われます。

サリバン・ヘレン・アナグノス書簡:Sullivan / Keller / Anagnos correspondence, 1886-1895
サリバン書簡:Anne Sullivan's Correspondence with Michael Anagnos, 1887-1896
ヘレン・アナグノス書簡:Helen Keller and Michael Anagnos Correspondence, 1889-1891

ヘレン・アダムス・ケラーは、盲・聾・唖の三重苦を克服した奇跡の人として有名だ。彼女の活動や業績について知る大学生は少ないけれども、当時、女性が高等教育を受ける機会が閉ざされていた時代、障害を持つ女性が、大学教育を終え、博士号を2つも得たことを知れば、ヘレン・ケラーが、奇跡Miracleを起こした、といってもいい。実際に、ヘレンが学校で大学入試の勉強を始めたとき、すでに奇跡のようだと、アメリカの教育界でも注目されており、カリスマ(ドイツ語Charisma)を持ち始めていた。

カリスマCharisma)とは、古代ギリシャ語で「恵み」を意味する語であり、キリスト教では「天からの授かった恩寵」という意味で使用されるもので、預言者もこれにあたる。

20世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、支配の一形態として、合法的支配と対極にある「カリスマ的支配」を示した。つまり、カリスマ的支配とは、説明しがたい超自然的な能力を誇示した特別な人物に依存して、大衆がその人物に従う形での支配であり、大衆を惹きつけてやまない特定の人物がもつ魅力が、カリスマ(Charisma)である。ヘレンケラーは、有名になった当初から、カリスマ性を備えていたが、ジョアンナ・サリバンは、苦学の人であってもカリスマ的(charismatic)とは言えない。その意味で、サリバンは、奇跡の人とは言い難い。

つまり、19世紀末から20世紀初頭、アメリカのインテリは、カリスマを備えた「奇跡の人ヘレンケラー」と認識していた。このように100年以上前の「奇跡」を調べてくると、日本のフリー辞典「アン・サリヴァン」で「奇跡の人という呼び名は、ヘレン・ケラーのことではなく、アン・サリヴァンのことである」と言い切っているのは正確な表現ではないことが理解できる。「奇跡の人は誰か」という質問に、インターネット検索で答えが出ている-----と単純に考えるべきではない。

現代の日本で「奇跡の人」がヘレンケラーであると認識されているのは、上記のような彼女の経歴を踏まえたものではないようだ。
日本では、1959年初演のウィリアム・ギブソンWilliam Gibson :1914-2008)作の戯曲 Miracle Worker、これを基に1962年に公開された同名の映画"The Miracle Worker"を「奇跡の人」と訳し、盲・聾・唖の三重苦を乗り越えたヘレンケラーの伝記として長く演じられ、紹介され続けてきた。また、それ以前から、ヘレンケラーが障害を克服したことで、「奇跡の人」と紹介されていた。そこで、日本では、ギブソンの1959年の戯曲「奇跡の人」、それを脚本として作成された1962年公開の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)でも、ヘレンケラーが奇跡の人本人であると考えられた。

しかし、アメリカでは、1959年に初演された“ Miracle Worker”、それをベースに作成された1962年の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)でも、「奇跡の人」とは、ヘレン・ケラーを教育したジョアンナ・マンズフィールド・サリバン、通称アン・サリバンのことを指していた。「奇跡の人」は、ヘレンケラーを覚醒させ、障害を克服して、大学にまで進ませることができたアンであり、この彼女の仕事が奇跡と見做されたのである。

1959年初演のウィリアム・ギブソンの戯曲“ ミラクル・ワーカー”、1962年公開の同名の映画「奇跡の人」The Miracle Worker )において、「奇跡の人」はアン・サリバンを指すのであって、ヘレンケラーではない。しかし、だからと言って「奇跡の人」がヘレンケラーであるというのが間違いというわけでは決してない。奇跡の人=サリバン先生、とは、一つの解釈にすぎないのである。

ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンがヘレンケラーを新しい世界に導いたとき、アメリカの教育界やパーキンス盲学の報告によって、ヘレンに奇跡のようなこと(miracle like)が起こったと述べられている。これらを踏まえれば、第一次大戦前から有名人だったヘレンが、第二次大戦後、晩年になってサリバンを主役とする戯曲「奇跡の人」、そしてこれを脚本にした同名の映画のヒットによって、「奇跡の人」の代名詞を奪われた、とは言えないであろう。

また、ギブソンの戯曲「奇跡の人」“ Miracle Worker”(奇跡の人)発表の22年前の1937年、日本の新聞は、ヘレンケラーのことを、「奇跡の聖女」と讃えていた。ヘレン・ケラーは、1937年4月の第1回目の来日は「奇跡の聖女」、第二次世界大戦終了後、1948年8月の第2回目の来日は「幸福の青い鳥」、1955年6月の第3回目来日は「古き良き友」として、歓迎されている。日本では「奇跡の人」はヘレンケラーを指していた。

◆学習漫画 世界の伝記NEXT『サリバン先生』集英社(2011年2月刊行)の解説を書きました。アン・サリバンは自伝を書かず、日本語による人物伝もありません。学習漫画で初登場となりました。
毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に紹介された,拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』青弓社)では、日露戦争,世界大戦,スペイン内戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争,国際テロ戦争を分析し,ヘレン・ケラーと反戦運動との関わりも扱いました。また、アメリカの陸海軍、海兵隊、沿岸警備隊に創設された婦人部隊(女性兵士)や従軍看護婦など女性あるいはジェンダーの視点からもたくさんの写真ポスターを扱っています。『写真・ポスターで学ぶ戦争の百年』の一部をご覧いただけます。
NHK2008年2月10日「わくわく授業〜わたしの教え方:小さな手と手で“ことば”をつかむ〜加藤小夜里先生の国語」が,9月21日に再放送されました。加藤小夜里先生は,東海大学教養学部人間環境学科の卒業生です。

本館には,2005年2月10日以来Counter名の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
⇒ヘレンの生い立ち、1937年までの活動は「ヘレンケラーの伝記」
⇒ヘレンの著作、名言集、思想は「ヘレンケラー研究リンク集」
⇒ヘレンを教えたサリバン先生の伝記は「奇跡の人サリバン伝記」をご覧ください。




1937年日本訪問(1)
リンク 1937年訪日。東京の三省堂書店前でのヘレン・ケラー女史の歓迎風景 1937年三省堂書店を訪れたヘレン・ケラー女史 1937年浅間丸船上のヘレン・ケラー (中央)ヘレンケラー女史 1929年12月に就航した「浅間丸」

解説
ヘレン・アダムス・ケラーといえば、盲・聾・唖の三重苦を克服し、大学教育を終え、博士号を2つも得た奇跡的な米国の女性。教師であり、指導者であるサリバン女子の愛情と理解と根気で1904年、ハーバード大学を卒業する。その後、米国各地及び海外に講演旅行を行い、日本にも3回ほど来訪。日本各地を回ったヘレンは、どこでも大歓迎を受けた。 その記念に設立されたヘレン・ケラー協会は盲人福祉事業に当っている。この訪日は、日本の障害者への支援、特に募金活動にあった。また、同時に日米和平の掛け橋となる目的もあった。しかし、日中戦争の勃発で、和平は頓挫してしまう。1939年、日本海軍陸戦隊は中国南部海南島上陸。ノモンハン事件。政府は欧州戦争不介入を声明。  
1935年の三省堂。
1937年訪日の各地リンク 1937年5月23日北海道私立小樽小樽盲唖学校を訪問
1937年近江西川邸を訪問
1937年福岡女学院を訪問
1937年同志社女子大を訪問
1937年横須賀市聾学校を訪問
本学三省堂とは出版の関係もあって、女史が三省堂書店を昭和12年4月(1937)に訪ね時、亀井社長らとなごやかな会談のひとときを過ごした記念写真。1939年9年には第二次大戦が欧州で勃発。三省堂書店では戦時となったことで、来店の顧客や従業員らに不測の事故が生ずる場合の生命擁護と合わせて、社屋の防護を目的に、その年七月、「全三省堂特設防護団」の結成に参加した。
 やがて諸般の準備も整ったので、近く当局より指令されるはずの防空演習の手始めに実際活動に掛かる。防護団服も出来た。帽子・ゲートル・手袋・腕章・階級章?も準備した。役員と班員の編成も済んだ。そして社長名で社内に正式に発表されたのが昭和十四年十月二十一日 である。  その時の特設防護団は、当時神田神保町一にあった本社(出版の(株)三省堂)と小売部((株)三省堂書店)及び学習社三社の合同団であった。」  
1939年の三省堂
 
1929年(昭和4年)10月11日、浅間丸がサンフランシスコへ向けて横浜港を旅立っていった。豪華客船時代の幕開けである。客船はその国の文化の伝え手といわれる。船自体の良さもさることながら、質の高いサービス、マナーを欠かすことができない。それだけきちんと培われた文化を持ち、優れた客船を持たなければ、欧州では名門船会社とは認められない。豪華客船は乗客にとっても船会社にとっても大きなロマンなのだ。浅間丸に続いて、サンフランシスコ航路に竜田丸と秩父丸、シアトル航路に氷川丸、日枝丸、平安丸を就航させ、日本郵船は豪華客船全盛期を築いていった。そのサービスは高く評価されたが、とりわけ食事は「帝国ホテルに優るとも劣らない」と評判で、ロックフェラーやチャップリンも、その食事に舌鼓を打ったひとりだった。こうして日本の海運は全盛期を迎え、1937年、日本郵船は就航船87隻、総t数63万5,000t余を所有し、戦前では最高の営業収益をあげた。しかし、時代は徐々に暗いほうへ動き始めていた。1941年、日本は太平洋戦争に突入した。  
本学第一次大戦後、ワシントン軍縮会議、経済恐慌などで、三菱重工長崎造船所も事業縮小を余儀なくされたが、純国産MSディ−ゼル機関を開発。当時、当所における商船建造高はわが国の50%前後を占めた。「浅間丸」は日本郵船向け豪華貨客船で、16,947トン、16,000馬力、20.713ノット 昭和4年(1929)9月竣工。サンフランシスコ航路に就航した当時世界最高水準の「太平洋の女王」。1944年11月南支那海で雷撃により沈没。
戦前の日本の海運業
:1929年浅間丸就航にあわせた観光ポスター



1937年日本訪問(2)関東地方
 
リンク 1937年訪日。箱根の富士屋ホテル 1937年福島県飯坂温泉「花水館」宿泊 1937年横須賀聾学校に来校ヘレンケラー女史講演会 (左)ヘレンケラー女史 天才盲人バイオリニスト和波孝禧少年に語りかけるヘレン


解説
「レジスターブックの思い出 バックナンバー;ヘレン・ケラー 彼女の心に刻まれた馥郁たる花の香りと尾長鶏 「奇跡の人」と呼ばれたヘレン・ケラー。昭和12年の来日の際、富士屋ホテルに滞在されました。ホテルで飼育されていた尾長鶏をひざに乗せるヘレン・ケラー (右隣は秘書のポーター・タムスン)。」箱根の富士屋ホテルに同行通訳ポリーと宿泊したヘレン。着物を着て、尾長鶏を愛でている。富士屋ホテルには、尾長鶏の彫刻、ヘレンの手形も残されている。
1937年5月23日北海道私立小樽小樽盲唖学校を訪問したケラー
日本の学校やホテルで撮影されたヘレンの写真は、webでも公開されているが、学校の紹介や観光の目的もあるが「有名人が訪ねてきた」こと自体を持ち上げる必要なない(このような資本主義的行動はヘレンの好むところでない)。日本各地を回ったヘレンは、どこでも大歓迎を受けたのであるが。これは、リンドバーグもアインシュタインも同じ。ケラー女史の訪日は、日本の障害者への支援、特に募金活動と日米和平の掛け橋となることであった。しかし、日中戦争の勃発で、和平は頓挫してしまう。
当時の新聞記事によると「素晴らしい福島を連続しながら会釈、直ちに自動車を列ねてノートルダム修道院に至り、昼食を終へて小憩し、臭覚と味覚と感覚とを通して「福島」を感受した。(中略)午後四時半ころ一夜の宿舎飯坂温泉花水館にドライブ、「温泉日本」を満喫した。」次の日新聞には、 「飯坂の一夜の感想を叩くと、新鮮な若鮎の味はどんなに摺上の水が美しく澄んでゐるかを思いはせてくれました。浴衣がけで縁先に出でて居りますと、音色は耳に聞こえずとも河鹿の鳴く音が一つの雰囲気をつくって、全皮膚面に豊かな情緒を伝へてくれ、私は夜更けるまで起ち上れませんでした。床に就いてをると美しい自然に抱かれた心地よさから、ほんとに安眠出来ました。こんな美しい日本ですもの、また機会があったら遊びに来たいと思ひます。」
1929年(昭和4年)馬淵聾唖学校として横須賀市小矢部に開校 「耳の聞こえにくい子の学校です。  3歳から18歳までの子どもが学んでいます。  聴きとり、発語と話し方、ことばの勉強を基礎にしながら、幼稚園、小学校、中学校、高等学校と同じ勉強をしています。」
1922(大正11)年5月11日毎日新聞は”点字毎日”を創刊。日本最初の点字新聞で世界唯一の点字新聞として82年の歴史を誇る「点字毎日」のあゆみを紹介します。

戦前の点字毎日編集室の様子。右から2人目が初代編集長の中村京太郎。



1937年日本訪問(3)
Japan
   
リンク 1937年5月5日静岡聾唖学校訪問 同志社女子大学ヘレン・ケラー講演会(栄光館) 福岡女学院に来校
解説
大正6年6月25日 安倍群安東村に私立静岡盲唖学校創立(盲17名、聾唖生6名) 初代校長綾部関。後に県立移管で静岡県立盲唖学校となる。盲・聾唖二校に分離 静岡県立静岡聾唖学校開校。1937年ヘレンケラー女史来校。現在第22代校長鈴木信行。
静岡聾学校の歴史
本校は静岡市の南、日本の真ん中にある聾学校です。大正6年に私立静岡盲唖学校として創立し、昭和8年に県立移管、翌9年に盲・聾唖二校に分離され静岡県立静岡聾唖学校として独立しました。昭和23年の就学義務制の施行にあわせて、校名を「静岡県立静岡聾学校」と変更。(静岡聾学校)。

1937年12月18日には,2年前に出征した兵士が上海で戦死し,遺骨となって静岡連帯本部に帰還した。
1876(明治9)年10月、同志社女子大学の前身である女子塾が、京都の中心部、京都御苑内のJ.D.デイヴィス邸(旧柳原邸)に開設されました。教鞭をとったのは、同志社の創立者新島襄の妻・八重とアメリカ人女性A.J.スタークウェザー。20代半ばのスタークウェザーは、情熱を抱いて日本を訪れたプロテスタント・キリスト教の宣教師の一人でした。1875(明治8)年、自由・自立性・良心を尊重する人間を育てるため、同志社英学校を開校した新島襄。彼は、「社会の発展には女子教育を盛んにすることが不可欠」との考えから、女子塾の開設を主導。さらに女子塾を母体に1877(明治10)年4月開設された「同志社分校女紅場」では校長に就任し、「良心を手腕に運用する人物の養成」の教育理念を女子教育の分野で展開しました。  開設5カ月後の1877(明治10)年9月には、学校の名称を「同志社女学校」に変更。「女紅場」は読み書き・裁縫など生活に必要な技能を教えた当時の教育施設の名称で、「才芸知識」を育むことを目的とする学校が名乗るのは誤解を招く、というのが理由でした。このことは、新島の理念に基づいたリベラルアーツ志向の教育が、草創期から行われていたことを示しています。
同志社女子大の歴史
 
本学院は1885(明治18)年イエスを信じる人々により、当時最も立ち遅れていた「女子教育」を行うことを目的に設立され、118年を積み重ねてきました。 中学校・高等学校を通じて、イエス・キリストの教えを根幹とした全人教育を行っています。それにより、地域社会に生きるものとして、時代の持つ苦悩を他の人々と共に負うことのできるような勇気と知性と愛に富む女性を育てたいという熱い願いと祈りを持っています。ミス・ギールは米国メソジストキリスト教会の若い宣教師で、「日本の少女が新しい生き方を見つけるための学校」として本校を創立しました。⇒動画:日本訪問 ;東京での歓迎,原爆爆心地訪問,顕花の映像。ヘレン招待に大きな役割を果たした日本ライトハウスの岩崎武夫も映っている。



1937年日本訪問(4)
 
リンク 1937年北海道の小樽聾学校に来校 函館市ヘレンケラー大衆講演会ポスター 1937年滋賀県近江八幡市の西川吉之助邸


解説
1937年5月23日北海道私立
小樽盲唖学校を訪問したケラー。「明治39年、創立者小林運平先生により、道内2番目の障害児学校として、「小樽盲唖私塾」の名で開設され、今年で創立91周年を迎えます。昭和12年には、ヘレン・ケラー女史の来校もありました。  本校は、後志管内の聴覚に障害を持つ子どもに、障害を克服し、豊かな人間性を培うため、できるだけ早期からの聴覚活用と、幼小中学部一貫した口話法による指導を展開しています。」
全国ろう学校プロフィール 一覧

同志社訪問
ポスターの大きさ;縦52.6cm×横37.4cm(市立函館図書館蔵)昭和12年6月19日、ヘレン・ケラーが新川小学校にて行った講演会のポスター。  ケラーの肖像を日の丸に描き、星条族を上下のラインに用いた日米の「国旗」を合わせたデザインで、原色の色使いが鮮やかに人目を惹きつける。エスペラント語の“歓迎!”は、世界的な彼女の存在を示すかのよう。  「三重苦の聖女」ヘレン・ケラーは、この年4月15日、ライトハウス院長岩橋武夫との交流に端を発し、盲人激励と社会啓発を目的にアメリカより来日していた。そして6月18日、青函連絡船で来函し、翌日学生と一般市民に向けて2回の講演を行ったのである。神秘の声で語られた光あふれる言葉に聴衆は多大な感銘を受けたという。(市立函館博物館学芸員・霜村紀子)
ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年)に初来日以後,日本には合計3度訪れている。ヘレンは近江兄弟社のメレル・ヴォーリズの縁で滋賀県近江八幡市の西川吉之助邸を訪れ,吉之助・はま子と会っている。上の写真は,吉之助邸の庭を歩くヘレン・ケラー。



秋田犬とヘレンケラー
リンク FIRST AKITAS IN THE USA 秋田犬ハチコー Helen's Essays 秋田犬を米国にもたらしたヘレン
解説
慶長年間に水戸から秋田に移封された佐竹藩では、築城や武力の向上が厳しく規制されたため、武士の闘争心を養うために、闘犬を奨励したと言われる。  明治に入ってからも闘犬がさかんに行われていた。当時、秋田犬は地元の名をとって大館犬と呼ばれていた。明治30年頃、二大闘犬開催地であった高知から土佐闘犬が秋田にも入って来た。土佐闘犬との戦いでは大館犬の方が強かった。が、次第に土佐闘犬の方は洋犬と交配を行い、立場が逆転していった。  日清戦争勝利以降、樺太の半分が日本に割譲され、ニシン漁などで、東北から出稼ぎに樺太に渡る人が多く、彼らとともに樺太犬や北海道犬など、大型犬が入ってきた。  明治から大正になると、やや大型で立ち耳、差し尾の和犬型、闘犬向きの洋犬混血の型と大別できる。 昭和に入ると、大館犬の種の混濁を憂い、当時の大館町長、泉茂家氏により昭和2年、秋田犬保存会が設立された。一方、闘犬は時代を反映して、次第に衰退して行った。当時の犬の写真が非常に少ないが、牡では同氏の「栃2号」 (虎毛)、牝では一ノ関国朗氏の「ババゴマ号」の血が、現代の主な秋田犬に影響を与えている。他にも血統の上から重要な存在価値があった犬がいると思われるが、余り写真が残っていない。
秋田犬の変遷
昭和7年10月4日の朝日新聞に、ハチ公が報道され秋田犬の名声は全国的に高まった。そして昭和9年に渋谷駅前に銅像が建てられた。ハチ公は、大正 12年11月に大館で生まれ、東京大学農学部教授上野博士の元で飼われた。しかし、上野博士はハチ公が1才半の時に急逝された。その後、ずっと駅前で帰らない主人を待ち続けた。そして昭和10年3月8日に11才4ケ月で亡くなった。 ヘレンケラーは1937年に大館市の秋田犬「忠犬ハチコー」の話を聞き及び、秋田県に行った。この秋田公演は人々に感銘を与えた。
 第2次世界大戦では、犬は軍用犬や防寒用に毛皮を供出させられ、ごく一部の人達が隠れて飼っていたと言う。昭和12年(1937年)に始めて日本を訪れ、秋田にも立ち寄った。その折り、動物好きのヘレンケラーが秋田犬を希望され、秋田市の小笠原一郎氏が、大館の高橋多吉氏の神風号を贈った。この時、始めて秋田犬がアメリカに渡った。が、ジステンパーで亡くなり、昭和14年(1939年)、神風号の兄犬、剣山号を送った。 ヘレンケラーは、「秋田犬ほど主人の気持ちがわかる犬はいない」と言ったという。そこで、ヘレンケラーの書いた原書を探したが、国会図書館やヘレンケラー協会にもなく、引き続き調査している。  写真の下部には,読みづらいが,ヘレンケラー本人自筆の名前が認められる。
ヘレンケラーと秋田犬
秋田県の警察官の小笠原一郎が秋田犬「神風号」をプレゼントした。これが米国にもたらされた初めての秋田犬である。神風号とは同年に東京(立川飛行場)〜ロンドン(クロイドン飛行場)間で全飛行距離1万5,357kmを実飛行時間51時間19分23秒で飛行した日本国産機の朝日新聞社通信機(元は陸軍九七式司令部偵察機)と同名である。この犬はジステンバーで8ヶ月後に死んだため,ヘレンはもう一匹の秋田犬「剣山(ケンザン)号」を1939年にリクエストし、もらうことができた。この犬は神風号の兄弟犬で,ヘレンから "Go-Go"と呼ばれ、8歳(あるいは9歳)で死ぬまで彼女の元にあった。→写真:Helen Keller and Kenzan-Go(1939年)



1940年代
   
リンク 1937年訪日 1938年Helen with a little girl listening to the radio, 1938 1938年頃点字本を読むケラー


解説
日本各地を回ったヘレンは、どこでも大歓迎を受けた。 この訪日は、日本の障害者への支援、特に募金活動にあった。しかし、同時に日米和平の掛け橋となる目的もあった。しかし、日中戦争の勃発で、和平は頓挫してしまう。
1937年福島県飯坂温泉「花水館」に宿泊したケラー
1937年北海道私立小樽小樽盲唖学校を訪問
1937年近江西川邸を訪問
1937年福岡女学院を訪問ー
1937年同志社女子大を訪問
1937年横須賀市聾学校を訪問
Helen also convinced a major radio manufacturer to donate 250 radios to people who were blind or visually impaired. This was part of a 1929 AFB campaign that distributed over 3,750 radios. Did you know that "Talking Books" were the very first audio versions of books? They were developed at AFB in 1932. People who are blind can still get them for free from the Library of Congress. In 1935, Helen went to a Senate hearing in Washington, D.C., to make sure that government funds were put aside for this and other programs. Even though Helen couldn't hear, she knew that sound could help educate other people.


1941-42年
   
リンク オペラ鑑賞(1941年) 太平洋戦争(1941年12月真珠湾攻撃) 米国海軍への女子大卒者入隊

解説
オペラ歌手Lauitz Melchioを触って、音声を確かめるヘレンケラー。欧州では1939年9月に大戦がはじまっているが、米国は中立の立場にあった。実際には、武器貸与法により英国に生活物資だけでなく軍需品を供与していたし、英国・カナダの輸送船団を護衛したりしていた。
1941年12月7日(日本では8日)に日本海軍が真珠湾を攻撃すると直ぐに米国は日本に参戦布告した。その後、ドイツが米国に参戦したため、米国は欧州戦線にも参戦することになる。このような大戦争をヘレンは見ることはなかったが,心を痛めていいた。
Smith graduates in the first group of WAVES being served tea by Florence Snow '04, Nov. 1942. Photo by Fred G. Chase, Northampton.
Smith College;米国の名門女子大からも卒業生が海軍婦人部隊に入隊した。写真のスミス校は,へレンの卒業したラドクリフ校と同じ女子大7姉妹校のひとつ。



第二次大戦期
 
リンク 練習飛行隊の訪問(1944年) 1945年第二次大戦負傷兵士の慰問

解説
1941年12月7日に日本海軍に真珠湾を攻撃されると直ぐに米国は日本に参戦した。その後、ドイツが米国に参戦したため、米国は欧州戦線にも参戦することになる。写真は傷痍軍人を慰問する。
 2nd Lt. Edwin H Peters meets famed blind / deaf author Helen Keller。Ed Peters from Oakdale, Ca was 22 when he was accepted for pilot training with the USAAF. He trained as a fighter pilot in the Gulf region and joined the 350th on 4th May 1944. Prior to D-Day he flew ten missions. He had a lucky escape on the 18th May when he was forced to bail out of his flaming P-47 while on a training mission over Raydon. Leaving the aircraft at 550ft his chute opened, swung once, and then he hit the ground yards from where his plane had crashed.

In the five days after 6th June he flew 18 missions. Then came the fateful June 12th mission. Bounced by a numerically superior Luftwaffe force, the Squadron lost six pilots. Peters, badly hit, bailed out over the Channel. Indoing so he lost his left leg at the knee. With great pressence of mind and courage, he used his belt to form a tourniquet and so stemed the loss of blood, while he waited an hour in the water for Air Sea Rescue. Ed was flown back to the United States by C-54 and within a few months was well enough to be discharged and go back to civilian life.
 
During World War II, Helen and Polly went all over the United States giving support to blind and wounded veterans. Everywhere Helen went, barriers and obstacles that faced the blind came tumbling down. Her boundless determination and her example of what a person with disabilities could accomplish helped change laws and create programs for people who were visually impaired.
 
第二次大戦中の軍病院慰問(1943年)
動画:日本訪問



大戦後の外国訪問
   
リンク 1946年ローマ訪問 1948年9月または10月仙台 1948年の日本訪問
解説
Try naming 39 countries—that's how many nations Helen and Polly visited! This world tour was funded largely by the American Foundation for the Overseas Blind (now called Helen Keller Worldwide). Everywhere she went, Helen was greeted by throngs of children, as well as famous personalities such as the British leader Winston Churchill and the Indian Premier Jawaharlal Nehru. Centers were established in her name in countries such as India, the Soviet Union, and Egypt.
第二次大戦直後の1940年代後半に,ヘレンとポリーは,負傷した退役軍人を支援する目的もあって,欧州,アジアを訪れた。ヘレンは,1937年の初来日から10年ぶり,1948年に再来日した。
After World War II, Helen and Polly went to Europe and Asia to show support for war veterans abroad. This film footage is from their 1948 trip to Japan. They visited Hiroshima and Nagasaki to experience firsthand the aftermath of the only atomic bombs ever dropped.⇒写真:日本フォトグラフィックス株式会社;白黒写真を「メモリアルカラー」によってカラー化
東京での生徒たちの大歓迎。広島,長崎への巡礼。⇒動画:日本訪問 ;東京での歓迎,原爆爆心地訪問,顕花の映像。ヘレン招待に大きな役割を果たした日本ライトハウスの岩崎武夫も映っている。



1948年再訪日(1)Japan

リンク
1948年ケラー女史来日歓迎 Brainy Encyclopedia Helen Keller
『人物名鑑』ヘレン・ケラー


解説
広島を訪ねた翌日,次のように述べた。「今でもつらい経験をして心が痛みます。今までに知った以上の恐ろしさを感じました。ポリーと私は広島にTakeo T(I)wahashi(岩橋武夫)と一緒に行き,アピールをしましたが,すぐに大きな悲壮感にとらわれ,話すのが非常に困難になりました。....かつて舗装されていた通りから墓場に--灰でいっぱいの--を訪ねました。そこは,1945年8月6日8:30に7万人の男,女,子供が簡単に殺され, そして15万人が傷つきました。彼らは2機の飛行機は,いつものように偵察機だと思っていました。そこで,爆弾が投下されたとき,大量死をもたらす閃光に準備ができていなかったのです。---原爆の被害は計り知れません。(私は見えませんが通訳の)Pollyは,ひどい顔面の妬けどの人を見て,ショックを受けました。彼は私に顔を触らせてくれましたが,あとは沈黙でした。人々は,一生続く痛みと闘い続けます。」( →出所:「ヘレンの広島アピール」
ヘレンケラー博物館  
1955年点字本を読むヘレン・ケラー。ヘレンは1880年生れ。両親が聾唖教育に熱心だったベル(電話の発明者)に相談し,マサチューセッツの盲人財団Perkins Institute for the Blind に相談するようにアドバイスした。そこから派遣された教師Anne Sullivan(当時20歳)が,ヘレンの心を開いた。二人は49年間も親交を深め,ともに活動することになる。社会党socialist partyには1909年から1921年まで積極的に関わり,労働組合Industrial Workers of the World (IWW)にも1912年から参加している。彼女は,議会主義的改良をすすめる社会主義を「政治の犬」sinking in the political bogと酷評した。評論"Why I Became an IWW"では,「当初,目の見えないことは,人知の及ばない,制御不可能なことと考えていました。しかし、今では、雇用主の利己心と横暴が,社会的悪徳と並んで産業上の問題を引き起こしていることに気づきました。貧困が,何も見えない暗闇に陥るような恥じ入る人生に陥れています。」---彼女は,ロシア革命に際して共産主義を擁護し,共産主義者とも親交を持ったために,FBIによる調査も受けている。
⇒1929年に公表されたヘレンによるレーニンの精神と革命への評価 br>⇒ヘレンケラー・アーカイブ



1948年日本訪問(2)
   
リンク 1948年(昭和23年)8月29日,広島原爆ドームの前に立つヘレン・ケラー 1948年9月北海道訪問 1948年日本訪問(直筆サインあり)
解説
日本障害者リハビリテーション協会HP引用。 ヘレンケラーは39カ国もPollyとともに訪問している。この世界ツアーは、主に海外盲人アメリカ財団the American Foundation for the Overseas Blind (現へレンケラー世界財団)が支援した。障害別の団体では,盲・聾の全国的組織が,戦後すぐに結成された。これは明治以来の盲・聾教育の長い歴史があったためである。  戦後最初に組織されたのは日本盲人会連合(1948年)であった。この年にはヘレン・ケラーが来日し,盲人福祉法の立法化の動きが高まったが,大勢は身体障害者福祉法の制定に向ったため実現はしなかった。  しかし,ヘレン・ケラーの来日は,障害者雇用促進週間の実現など,戦後の障害者運動に大きなインパクトを与えた。  次いで全日本聾唖連盟が再建され(1949年),刑法,民法の差別条項の改正などを要求した。  この二つの団体は1958年(結成)と日本身体障害者団体連合会を組織している。  肢体障害者の運動では,1946年(昭和21年)に鉄道弘済会の助成で国鉄傷痍者団体連合会が結成され,年金打切り反対運動などが行われた。
三重苦の聖女といわれたヘレン・ケラー女史(米)が9月13日、道内講演のため北海道を訪れ各地で大歓迎を受けた。札幌に立ち寄つた同女史は記者団の「もし突然目が見えるようになったら・・・」の問いに「そそり立つ山、広い空、それからクマの子です」と答えていた。1937年の初来日から10年ぶり,1948年に再来日した。
1948年の北海道の出来事;Hokkaido Shimbun Press

1948年京都
社会福祉法人ほくてん、北海点字図書館HP。女史の来道を記念し、帯広市・後藤寅市宅において全国で三番目の点字図書館として発足(蔵書700冊)。初代館長後藤寅市 ⇒動画:日本訪問 ;東京での歓迎,原爆爆心地訪問,顕花の映像。ヘレン招待に大きな役割を果たした日本ライトハウスの岩崎武夫も映っている。

1948年9月6日の日本



1948-1950年
リンク HELEN KELLER and POLLY THOMPSON. 1948年 1949年シドニーのヘレンケラー 1940年代末(?)点字を教えるヘレン(Things I'd forget if I didn't write them down引用)

解説
Matte finish 8x10 portrait of Helen Keller and her teacher/companion, Polly Thompson, jointly signed. Thompson signs in black fountain pen, while Keller, as usual, inscribes in pencil, "To dear Grace Hammon/with affectionate greetings/from her two friends/Helen Keller/December 7th, 1948."
The immediate post-war era saw a further consolidation of the Society's role in the community. While maintaining many attitudes of the past, services were expanded and staff increased. Highlights of the time were Helen Keller's visit to Sydney and the opening of the Gordon Davis House Youth Hostel at Stanmore in 1949.
Going through some old family pictures at home, found this one of my Mom being taught Braille by Helen Keller.



1948-1950年代
リンク 1948年 1949年 1950年頃
解説
Portraits by Fred Stein:Fred Stein's well known portrait of Albert Einstein is one of over 1200 images of the most brilliant personalities of the 20th century: artists, politicians, scientists... men and women who influenced events profoundly. Well read and intellectually curious, Fred Stein was a fascinating conversationalist.
Fünf Bücher schreibt sie und zahlreiche Berühmtheiten gehören zu ihrem Freundeskreis, darunter Alexander Graham Bell, Mark Twain, Albert Einstein und Charlie Chaplin. Im Alter von fünfundsiebzig Jahren ist sie die erste Frau, der die Harvard-Universität einen Ehrentitel verleiht. Wenige Wochen vor ihrem 88. Geburtstag stirbt Helen Keller am 1. Juni 1968.
Army Pictorial Center from the air, the heart of Long Island City, Queens, New York. Just visible in the upper edge of the photo is the East River and Manhattan.



1950年代
 
リンク 1951年ポリーとヘレン 1952年
解説
Helen Keller has removed the glove of her right hand to examine some plants and flowers outside of a building with large white columns. Polly Thomson spells into Ms. Keller's gloved left hand, describing what Ms. Keller is touching. Circa 1951.
Miss Keller standing outdoors and wearing a print dress and a hat, circa 1952.



1950年代
 
リンク Helen at AFB, testing a communication device for the deaf-blind, around 1950 Helen receiving a shield from Zulus, 1952 1953年ブラジル大使から叙勲。
解説
In 1924, Helen joined the American Foundation for the Blind (AFB), the country's leading advocate for people who are blind or visually impaired. For the next 44 years, she was an ambassador for AFB. She toured the United States, developing support for programs that help blind people. In the video here, Helen tests a device that will help people who are deaf and blind communicate with those who can see and hear. Helen is at the AFB headquarters in New York City. She sits between M. Robert Barnett, AFB's executive director, and Polly Thomson, her companion.
⇒ヘレンのAFB活動のビデオ映像
Helen received incredible gifts on her travels around the globe—the Queen of Jordan once gave her a wooden box that was packed with candy! She also received this beautiful shield from Zulus in South Africa. In fact her entire house—which was called Arcan Ridge, in Westport, CT—was filled with gifts and souvenirs from her travels. Today those objects can be seen at the AFB headquarters in New York City.
ワシントンDCの大使館で、でブラジル大使Walter Moreira SallesからSouthern Crossを授与される。写真中央は、同行通訳Polly Thomson。1953年撮影。



1950年代前半
リンク 1950年点字本を読むケラー 1950年頃 1950年頃Brown Brothers Photography 1954年ダンスに興じるヘレン

解説
In 1924, Keller joined the staff of the American Foundation for the Blind as a counselor on national and international relations. On June 30, 1925, Keller addressed the Lions Clubs International Convention in Cedar Point, Ohio, USA. She challenged Lions to become "knights of the blind in this crusade against darkness." She said, "I am your opportunity. I am knocking at your door."
In 1946, Keller became a counselor on international relations for the American Foundation for Overseas Blind (a sister organization to the American Foundation for the Blind). She traveled to 35 countries. A movie was made of Keller's life. "Helen Keller in Her Story" received the "Oscar" award from the Academy of Motion Picture Arts and Sciences for best feature-length documentary film in 1955.
Keller died on June 1, 1968 at age 87. Her request to the Lions 43 years earlier inspired the international organization to adopt the Sight Conservation and Work with the Blind Program as a major service initiative.
A still from the motion picture, "Helen Keller in Her Story," showing an animated Helen Keller in a dance studio with her arms raised, standing beside Martha Graham. The two are encircled by six black clad, barefoot female dancers. Circa 1954.  


へレンケラーの思想
リンク 人口抑制政策の思想
反戦思想
社会主義思想
解説
インドが行なおうとしている人口管理計画、すなわち人口抑制に対して、過剰人口による生活悪化、地球環境の悪化を理由に、賛意を示している。子供を適切に育てることは親の義務である、女史が人類生存の重要な役割を担っている、とも。
Indeed you will both agree that India is much in need of birth control and perhaps my last news letter quoting a part of that wonderful address of Dr. Radhakrishna shows how advanced the thinking of the intelligencia of India really is. Lady Rama Rau is one of the most wonderful women that I have met anywhere, and it gives me such pleasure to know that she is taking up the torch and carrying on the work of birth control for her country.( 原典:1953年インド宛て書簡
1952年インド宛て書簡
写真は1953年インド首相のネルーとの会談
We are not free unless the men who frame and execute the laws represent the interests of the lives of the people and no other interest. The ballot does not make a free man out of a wage slave. There has never existed a truly free and democratic nation in the world. From time immemorial men have followed with blind loyalty the strong men who had the power of money and of armies. Even while battlefields were piled high with their own dead they have tilled the lands of the rulers and have been robbed of the fruits of their labor. They have built palaces and pyramids, temples and cathedrals that held no real shrine of liberty.( 原典:1916年「戦争に反対しよう」
写真は1953年アイゼンハワー大統領との会見
写真は1954年"Helen Keller in Her Story"のプレミア。ウィスコンシンの テンプル劇場で、ヘレンは障害を克服し、社会福祉に尽くす聖女として描かれ、翌年アカデミー賞受賞。
しかし、ヘレンは、障害とは身体的なものだけでなく、社会的な制約としても捉えていた。劣悪な労働条件、ジェンダー不平等、民族差別なども社会的障害として克服すべき対象となる。「ロシアソビエト共和国は、真実・正義の原則に則っており、この思想が人々を長い間、閉ざしていた闇から救い出しました。ロシアのスーパーマンは、世界の盲目の人々のために戦っています。この思想は,--閉鎖的で、そして愚かで不正直な報道機関のために、誤って伝えられていますが、ソビエトは今日大いなる門出をむかえています。一方、旧態依然とした社会的規範は、ソビエトの前に崩壊しつつあります。なぜ、労働者はロシアで起こったことの原因を見ることができないのか?ロシアにおける経済的自由のための闘争(struggle for economic freedom)は、労働者の闘争です。---私たちがみな団結していることが見えない人は、なんと精神的に盲目なことでしょう(How spiritually blind are men, that they fail to see that we are all bound together! )我々は、昇るか落ちるか、悪魔のようか神のようか、自由か鎖で縛られるかのどちらかです。」 (原典:1921年「ソビエトを助けましょう」



1950年代中頃
 
リンク 1955年頃 1955年同行通訳ポリーと 1956年同行通訳ポリーと
解説
1936年に49年間も一緒だったアン・サリヴァン女史がなくなった。それからは、ポリー・トムソン女史がヘレンケラーの第一の同行通訳となった。日本を始めとして、ヘレンの行くところには常にポリーがあった。  
AFB Photo ID: HK940249;Helen Keller, Polly Thomson, and an unidentified man seated at a dinner table. Ms. Keller and Ms. Thomson are both wearing dark dresses and formal hats. Polly Thomson is spelling into Helen Keller's right hand while Ms. Keller is using her left hand to read Ms. Thomson's lips. The man and Ms. Thomson are laughing. The man is wearing a suit and tie. Circa 1955.
AFB Photo ID: HK940073;Helen Keller, seated at a desk with a braillewriter to her left. Polly Thomson stands beside her using the manual alphabet. There are striped curtains in the background. Circa 1956.



1955年
リンク 1955年アカデミー賞を受賞 1955年西ドイツ首相アデナウアー、
ハーバート大学学長Puseとケラー
1955年アイゼンハワー大統領とケラー
解説
Helen's life has been the subject of movies, books, and plays for many decades. In 1955, Helen received an Academy Award for the documentary about her life, Helen Keller in Her Story (originally called The Unconquered). In 1959, Anne Bancroft and Patty Duke starred in the Broadway play The Miracle Worker. The play, written by William Gibson, was based on Anne's earliest efforts to teach Helen how to communicate. Three years later, Anne Bancroft and Patty Duke starred in a movie version of the play. Both women won Academy Awards for their performances.



1955年(2)
 
リンク 1955年ポリーと75歳の誕生日を迎えたヘレン 1955年ニューヨーク市ギルド劇場での誕生日 1955年
解説
AFB Photo ID: HK50031 Miss Keller being presented with a bouquet of roses as she stands at the microphone in the Guild Theatre, New York, NY. Polly Thompson is guiding Miss Keller's hand over the blossoms. The occasion is Miss Keller's 75th birthday, circa 1955.
Miss Keller being presented with a rainbow and pot of gold birthday cake, as Polly Thomson guides her hand, circa 1955.



1950年代
 
リンク 1955年障害者雇用大統領委員会
会長とヘレンケラー
1956年ポリーとチェッカーをする
解説
障害者雇用に関する大統領委員会の会長から海外盲人米国基金40周年のお祝いを受けるヘレンケラー。Miss Keller accepts the President's Committee on Employment of the Physically Handicapped award, marking the 40th Anniversary of the American Foundation for Overseas Blind (now Helen Keller International), circa 1955.
AFB Photo ID: HK40096;Helen Keller seated in an armchair in front of a fireplace playing checkers with Polly Thomson. The checkerboard rests on Ms. Thomson's lap. Circa 1956.



1950年代後半
リンク 1955年点字を読む 1955年にAFBで音読レコードを調べるヘレン 1955年
解説
Helen's life has been the subject of movies, books, and plays for many decades. In 1955, Helen received an Academy Award for the documentary about her life, Helen Keller in Her Story (originally called The Unconquered). In 1959, Anne Bancroft and Patty Duke starred in the Broadway play The Miracle Worker. The play, written by William Gibson, was based on Anne's earliest efforts to teach Helen how to communicate. Three years later, Anne Bancroft and Patty Duke starred in a movie version of the play. Both women won Academy Awards for their performances.
Helen Keller and M. Robert Barnett, executive director of AFB, examining records that go with a talking book machine for President Dwight D. Eisenhower at the Fitzsimons Army Hospital. Polly Thomson is at Miss Keller's side, circa 1955.
Helen was a very spiritual woman. She believed that everyone from all races and cultures deserved the same rights. After Polly's death in 1961, Helen lived quietly at Arcan Ridge. She died in her sleep in 1968.



1950年代後半から1960年代
リンク 1948年 1950年 1960年頃
解説
Helen Keller School 3730 E. Montebello Drive, W. Colorado Springs, CO . Helen Keller, a woman who overcame her physical challenges, is the inspiration for our students and faculty. "Life is either a daring adventure or nothing at all."
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The New York Times reported it this way: ESTPORT, Conn., June 1 -- Helen Keller, who overcame blindness and deafness to become a symbol of the indomitable human spirit, died this afternoon in her home here. She was 87 years old." Trouble was Keller lived in Easton, not Westport, and had been a resident there for many years. Easton proudly celebrated the life of its legendary resident by naming a middle school after her. Why biographies and news clippings still refer to her as a Westport resident is unclear. But it probably stemmed from the fact that Westport was better known than Easton and her home, known as Arcan Ridge, was not far from Westport.



1959年
リンク 1959年 1959年 Helen Keller at 78 years old, 1959
解説
Helen's life has been the subject of movies, books, and plays for many decades. In 1955, Helen received an Academy Award for the documentary about her life, Helen Keller in Her Story (originally called The Unconquered). In 1959, Anne Bancroft and Patty Duke starred in the Broadway play The Miracle Worker. The play, written by William Gibson, was based on Anne's earliest efforts to teach Helen how to communicate. Three years later, Anne Bancroft and Patty Duke starred in a movie version of the play. Both women won Academy Awards for their performances.
Photo ID: HK940252:A smiling Helen Keller wearing a dark formal suit and hat with white gloves stands with an unidentified man. The man is wearing a dark suit with tie and dark glasses. Helen Keller is finger spelling with both hands into the man's right hand. Circa 1959.
Helen was a very spiritual woman. She believed that everyone from all races and cultures deserved the same rights. After Polly's death in 1961, Helen lived quietly at Arcan Ridge. She died in her sleep in 1968.


「社会事業法の制定」大阪朝日新聞 1937.4.22(昭和12)

一  盲、聾、唖の三重苦をみごとに克服して、普通以上に才能に富んだ正常人さえも及ばぬ教養の最高峰に抜でつつあるヘレン・ケラー女史の来朝は、朝野をあげて歓迎の大渦をまき起したが、この十分の一、百分の一の注意が、平素わが国において、盲聾唖者の特殊教育や、その保護に向って払われ、関係教育施設、社会事業などがもっと盛んに行われていたならば、大臣宰相をはじめその他いかなる人の歓迎辞よりも遥に女史を喜ばす無言の言葉となっていたであろう。とに角女史の来朝は、盲聾唖者の教育保護のみならず、国民生活の安定をはからんとする一般社会事業の現状に対する痛切なる反省を促す絶好の機会となったことを見遁せない。

二  一九一九年に制定されたドイツの憲法は、社会事業に関する立法の根拠を明かにし、母性、児童、家庭、特に子供の多い家庭の保護を重んじ、所有権を制限して公共の福祉をはかり、人の人たるに価する生活を保障する目的をもって経済生活の秩序を整え、土地の分配や利用を監督して住宅問題を解決することまでも規定しているが、国家がかく社会事業に深甚の関心をもつに至らない我が国のごとき場合においては、民間における私設社会事業は、社会不安の解決、国民生活安定の上に重大なる役割を受けもっているものといわなければならぬ。例えば、救護法が実施されてはいても、全部の被救護者がその恩恵に浴し得るのではなく、まず隣保互助の精神による救護に委任され、最後の処置として該法規の適用を見ることになっているので、むしろその大部分は私設社会事業の活動にまたねばならないのである。

三  かくて私設社会事業が、国家に代りて重要な役割を引受けているに拘わらず、今なおこれを助成奨励する国家の方針が制度的に確立していないのは、社会立法上の一つの根本的欠陥である。尤も現在とても、多少その方法は講ぜられてはいるが、中央、地方ともに一定の原則というものはなく、単に一時的、部分的、即興的で、その割合に効果があがらぬというのが真相である。これは是非ともその経常費の幾分を国庫から補助するとか、事業所に使用する土地建物に対しては租税その他の公課を課せぬとか、官公署に対する照会や手続については手数料を免除するとかの一般的規定を設け、これを全国的に体系づけて根本方針を確立する必要があるのである。しかしてこの助成奨励の先決条件として、各種社会事業団体の連絡、分野、分布に関する統制が問題になるが、この外に統制の一つの重要要素と見られているのは、事業団体に対する取締または監督である。現に多くの社会事業団体のうちには、いかがわしき内容をもったものもあるので、インチキ団体の征伐を目的とする監督に重点をおいた統制法の制定を説くものもないではないが、これらの怪しげな団体も要するに助成奨励や統制法規の不備なるがために発生しまたはやむなく堕落したものであり、完全なる法規の実施とともに自然に消滅するべきはずのものであるがゆえに、あまり取締や監督に重きをおかず、強制法規にすることをやめ、全部認可制などとせず、一部の熱心家たちによる真の事業が、一定の程度や条件にまで至らずとも、不認可のままにやってゆけることにするのが当を得ているのではないかと思われる。

四  一昨年十月第八回全国社会事業大会が東京に開かれた際、統制法や助成法制定の必要についての論議が盛んであったが、過般の第七十議会に提出された「社会事業助成法制定に関する建議案」は、それらの論議と要望とを綜合的にとり容れたものに外ならない。目下当局においてはこの建議案の主旨に随い、成案の研究と作成とを急ぎつつあるとのことだが、なるべく速かにこれを完了し、来るべき特別議会に提案の運びにいたらんことを望む。かかる社会立法上の根本的一大欠陥の除去は、国民生活の安定を強調する林内閣の使命としても、第一にとり上げられなければならぬ重要問題であるはずである。

( 神戸大学附属図書館引用)

⇒ヘレンの著作、名言集、思想などはヘレンケラー研究をご覧ください。(鳥飼行博)

2007年9月22日土曜日13時-16時に,「ヘレンケラー女史に再び学ぶ」と題して,講演会(神奈川新聞後援・高齢パワー活用の会主催)を行いました。場所は,横浜市青葉区民活動支援センター(東急田園都市線田奈駅構内)会議室でした。たくさんの高齢者、障害者の方にご参加いただけましたことは、望外の喜びです。

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