◆宇垣纒司令官による最後の特攻 1945/08/15
写真(上左):1944年11月25日,空母「エセックス」に突入する艦爆「彗星」:Photographed by Lt. Comdr. Earl Colgrove, USNR. U. S. Navy Photo. 艦上爆撃機「彗星」は、爆弾搭載量500キロで、全備重量4.5トンの急降下爆撃機。大和の46センチ砲弾は1.5トンで、2倍の重量があるが、飛行機の機体は、衝撃にもろく、艦船に衝突した場合、壊れてしまう。沖縄以前からフィリピンや硫黄島の攻防戦でも特攻出撃したが、命中しても艦船撃沈が少ない。航空機のつくりがもろく、衝突速度も650km/h以下(砲弾は2800km/h)と遅く威力不足だった。搭載燃料引火の以外,航空機特攻の破壊力は大きくはない。 写真(上右):1945年4月11日、アメリカ海軍アイオワ級戦艦「ミズーリ」Missouri BB63の40ミリ四連装対空機銃に残る特攻機の12.7ミリ機銃の残骸;被害の一部を撮影。A 40mm barrel is seen impaled by a machine gun from the kamikaze hit at Okinawa on 11 April 1945.
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。
沖縄戦の住民:軍政と集団自決
沖縄戦の戦艦「大和」:海上特攻の真相
神風特別攻撃隊:1944年10月レイテ戦
特攻奇襲兵器:人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」自爆艇「震洋」
日本海軍特攻艇「震洋」水上挺進隊・陸軍「マルレ」海上挺進隊
人間爆弾「桜花」海軍航空技術廠 MXY-7
甲標的丁型(蛟龍)「海龍」特殊攻撃機 キ115「剣」
特攻出撃一覧神風特別攻撃隊 戦史
1945年の沖縄方面の米軍損傷艦船
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
真珠湾攻撃の真相:騙し討ち
東京初空襲と山本五十六暗殺:真珠湾攻撃の仇討ち・報復
写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強
USS GUEST DD472
OKINAWA CAMPAIGN :
UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORT:
U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945
【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】 【戦争論・平和論の文献】
1.
1944年11月24日以来、日本本土はマリアナ諸島からのアメリカ陸軍航空隊の重爆撃機ボーイングB-29スーパーフォートレス(超空の要塞)による都市無差別爆撃を受け,焦土と化していった。本土空襲の状況の中,米軍は1945年3月26日には慶良間列島に上陸した。沖縄は,日本海軍にとって,特攻による決戦の場として位置付けられた。本土決戦では,陸軍が主流で海軍は補助役だったからである。軍と政治指導部は、大元帥昭和天皇を含めて,沖縄戦で戦果を挙げてから,和平交渉を進めることが可能になると判断した。
写真(右):1944年7月10日、マリアナ諸島サイパン島チャランカノアの上陸部隊指揮所で、サイパン陥落勝利の式典最中のアメリカ海軍第五艦隊司令長官レイモンド・エイムズ・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance)提督とサイパン島上陸部隊(軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団)を指揮したホーランド・スミス(Holland M. Smith)中将; Title: Admiral Raymond A. Spruance, USN, Commander, Fifth Fleet (left), and Lieutenant General Holland M. Smith, USMC Commander, Fifth Amphibious Corps
Description: Photo #: 80-G-287225 Admiral Raymond A. Spruance, USN, Commander, Fifth Fleet (left), and Commander, Fifth Amphibious Corps Attend flag raising ceremonies at Smith's headquarters, Charan Kanoa, Saipan, marking the end of organized Japanese resistance on the island, 10 July 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives.
Catalog #: 80-G-287225 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-287225 Admiral Raymond A. Spruance, USN, Commander, Fifth Fleet (left), and Lieutenant General Holland M. Smith, USMC Commander, Fifth Amphibious Corps引用。
1944年3月、アメリカ海軍第五艦隊は、ウィリアム・ハルゼー司令官の第三艦隊と交代で空母任務部隊を指揮したが、旗艦には巡洋艦「インディアナポリス」があてられることが多かった。1944年4月にパラオ諸島・ペリリュー島を攻略、1944年6月、マリアナ諸島のサイパン島・テニアン島、グアム島攻略に着手し、マリアナ沖海戦では、小沢治三郎中将指揮の日本海軍第一機動部隊を敗退させた。そして、7月9日、サイパン島、8月8日、テニアン島、8月10日、グアム島を占領した。これらのマリアナ諸島に大規模な航空基地を整備し、11月からB-29爆撃機による日本本土空襲を開始した。
アメリカ陸軍航空隊ボーイング B-29A スーパーフォートレス :全幅:43.1m、全長:30.2m、全高:8.5m、主翼面積:161.5m2、エンジン:R-3350 2200馬力4基、自重:33800kg、全装備重量:54400kg、最大速度:550km/h(高度7600m)、航続距離:5230km上昇限度:10250m、武装:12.7mm50口径機銃12挺(+20mm機銃1丁)、爆弾搭載量:4500kg-9100kg、乗員:11名。
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アメリカ軍は、ボーイングB-29爆撃機を基幹とする第20爆撃兵団(XX Bomber Command)を編成し、対日戦略爆撃のために、1944年4月に欧州経由でインド、西ベンガル州コルカタ(カルカッタ)に集結し、1944年6月5日、成都からバンコクに対して最初の爆撃を行った。1944年6月15日、成都を飛び立ったB-29爆撃機75機のうちの47機が北九州の八幡製鉄所を爆撃した。こうして、成都基地から、九州・満州・東南アジア方面を爆撃が開始されたが、長距離補給の難点があり、マリアナ諸島が占領されると、B-29爆撃機は、そこの第21爆撃集団(司令官ヘイウッド・ハンセル准将)に集中配備されるようになった。
1944年10月28日、マリアナ諸島からB-29爆撃機18機が初出撃して、トラック諸島の日本海軍基地を攻撃した。マリアナ諸島からの日本本土の初爆撃は、1944年11月24日。サイパン島アイスレー(旧アスリート)飛行場を発進した第73航空団所属のB29爆撃機111機は、東京都武蔵野の中島飛行機工場に対する精密爆撃を実施した。しかし、精密爆撃の命中率は低く、1945年2月以降、ボーイングB-29”スーパーフォートレス”は、カーチス・ルメイ将軍の下で、日本本土の諸都市を主に夜間無差別爆撃をするように戦略を変更した。民間人の犠牲は、やむをえないどころか,労働力を減少させ,生産力を弱めるものとして推奨されたのである。
写真(右):1944年8月10日、グアム島オロテ半島を訪問したアメリカ海軍第5艦隊司令長官レイモンド・エイムズ・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance)提督、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ(Chester W. Nimitz)提督、太平洋域艦隊司令部参謀副長(作戦参謀)フォレスト・パーシヴァル・シャーマン(Forrest Percival Sherman)提督; Title: ADM R.A. Spruance; ADM C.W. Nimitz and RADM Forrest Sherman,
Caption: Visit the Orote Peninsula, Guam, 10 August 1944.
Description:
Catalog #: 80-G-287313
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Thu, Aug 10, 1944 写真はNaval History and Heritage Command NH 49705 Admiral Raymond A. Spruance, Vice Admiral Marc A. Mitscher, Fleet Admiral Chester W. Nimitz and Vice Admiral Willis A. Lee, Jr. (listed from left to right) 引用。
1945年2月19日、アメリカ海兵隊は、艦載機と艦砲射撃を支援の下に硫黄島に上陸、栗林忠道陸軍大将隷下の日本軍2万名の硫黄島守備隊との激しい戦いの後、3月17日、硫黄島守備隊は壊滅した。アメリカ軍の次の攻略目標は、沖縄だった。
写真(右):1945年2月、アメリカ海軍巡洋艦「インディアナポリス」艦上のアメリカ海軍第5艦隊司令長官レイモンド・エイムズ・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance)提督、第58任務部隊指揮官マーク・ミッチャー(Marc A. Mitscher)提督、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ(Chester W. Nimitz)提督、太平洋艦隊戦艦戦隊司令官ウィリス・リー(Willis A. Lee)提督;
Description: Photographed on board USS Indianapolis (CA-35) in February 1945. The original photograph has been autographed by Admiral Spruance and Fleet Admiral Nimitz. Collection of Fleet Admiral Chester W. Nimitz, USN. NHHC Collection 写真はNaval History and Heritage Command NH 49705 Admiral Raymond A. Spruance, Vice Admiral Marc A. Mitscher, Fleet Admiral Chester W. Nimitz and Vice Admiral Willis A. Lee, Jr. (listed from left to right) 引用。
1945年1月、アメリカ海軍レイモンド・スプルーアンス(Raymond Ames Spruance)提督隷下、アメリカ海軍第五艦隊は、第58空母任務部隊の指揮官マーク・ミッチャー(Marc A. Mitscher)提督を、硫黄島攻略に向かわせ、支援作戦として、日本本土、関東地方への空襲を実施した。小規模なドーリットル空襲以来約2年ぶりの艦載機の空襲では、軍飛行場、中島飛行機工場、沿岸部の艦船を攻撃した。その後、第58空母任務部隊は、次期の「沖縄攻略作戦の準備のために、ウルシー環礁基地にあったが、1945年3月11日夜、マーク・ミッチャー(Marc A. Mitscher)提督は旗艦空母「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-17)に座乗中に、僚艦空母「ランドルフ」(USS Randolph, CV-15)が宇垣纒中将隷下、日本海軍第五航空艦隊の梓特別攻撃隊「銀河」陸爆の体当たりに直面することになる。マーク・ミッチャー(Marc A. Mitscher)提督は、第58空母任務部隊を率いて沖縄・九州を空襲した際の3月19日、空母「フランクリン」(USS Franklin, CV-8)が爆弾で大破したのに直面している。
写真(上左):1944年,サイパン島に配備された日本海軍の陸上急降下爆撃機「銀河」:米軍第7航空軍第318戦隊ジャック・フラナガンが1944年6月21日(上陸6日目)にアスリート飛行場で鹵獲したネガを現像して入手した写真。Some of these images are from Japanese 35mm undeveloped film found at Aslito airfield on D-Day+6 (June 21, 1944) by Jack Flannagan, 318th Fighter Group, 7th AAF.American Memorial Park引用。写真(上右):サイパン島の日本海軍急降下艦上爆撃機「彗星」:1944年に「銀河」とともに配備された新鋭機だが、日本ではほとんど採用されなかった液冷式エンジンで、機体の電動機構も複雑であったため、故障、不調が頻発した。サイパン島攻防戦では、戦果は挙げられなかったようだ。
1944年6月のマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、サイパン島も陥落した状況で、次は硫黄島、沖縄、日本本土へのアメリカ軍の攻撃が危惧された。しかし、日本海軍の空母機動部隊は壊滅状態にあり、航空隊乗員の熟練度も高くない状況で、基地航空隊による防衛構想の成功はおぼつかなかった。
写真(右):1944年3月31日、パラオ諸島から連合艦隊司令部を空輸した川西二式大型飛行艇と同型機。それから1年後、1945年3月11日には、ウルシー環礁に特攻攻撃を仕掛ける宇垣纒司令官の第五航空艦隊・梓特攻隊の陸爆「銀河」24機を誘導する役割を担った。;22型 H8k3; 全幅38.328m
全長28.12m、自重18,570kg、発動機 三菱火星22型 1850馬力4基、最高速度 470km/h 航続距離 偵察時 7153km(一二型) 8223km(二二型)。二式大艇は開戦直後の1942年3月、大航続力を生かして3機が真珠湾を爆撃(K作戦)。日本が量産した戦前・戦時中の最大級の航空機。連合軍のコードネームは「エミリー」。1942年3月2日、二式大型飛行艇(二式大艇)2機はK作戦として、マーシャル群島ウオッゼ島に進出、フレンチフリゲート礁に進出した潜水艦伊15、伊19から3月4日に燃料補給を受けハワイへ向かった。そして、ハワイのオアフ島に各機250キロ爆弾4発を投下、無事帰還した。5月30日、第二次K作戦が開始されたが、フレンチフリゲート礁はアメリカ艦艇の警戒下にあったため、第二次K作戦は中止された。戦後、米軍に鹵獲されていた二式大艇が返還され、1980年代から東京湾の「船の科学館」に展示された。その後2004年4月末からここ鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され保管・展示されている。
そこで、アメリカ海軍空母任務部隊が、太平洋上の基地に停泊しているところを航空攻撃する「丹作戦」が立案された。これは、停泊中の空母を奇襲する計画で、長距離攻撃可能な陸上爆撃機「銀河」と誘導のための二式大型飛行艇を投入することとなった。また、事前に攻撃目標近くに偵察・誘導のための伊号潜水艦を先行させることになった。そして、1944年10月初めに丹作戦を実施する予定で進めたが、潜水艦が撃沈され、敵空母の所在も確かでないために、計画は実行に移すことができなかった。
写真(右):1945年からアメリカ海軍の高速空母任務部隊に配備され太平洋で戦ったエセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15);1945年3月11日夕暮、日本海軍の第五航空艦隊(宇垣纒司令官)の梓特攻隊「銀河」陸上爆撃機1機に突入され、飛行甲板を損傷した。 Title: USS RANDOLPH (CV-15) Admiral A. Burke was assigned to First Carrier Task Force, Pacific, from March 1944 -- May 1945
Caption: USS RANDOLPH (CV-15) Admiral A. Burke was assigned to First Carrier Task Force, Pacific, from March 1944 -- May 1945. Autographed.
Description: ADM A. Burke Collection
Catalog #: NH 124509
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command NH 124509 USS RANDOLPH (CV-15) Admiral A. Burke was assigned to First Carrier Task Force, Pacific, from March 1944 -- May 1945 引用。
1945年2月17日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、アメリカ空母がウルシー環礁基地に停泊中に奇襲を断行することとし、九州法眼に位に遭った海軍基地航空兵力の主力部隊、第五航空艦隊長官宇垣纏中将に、陸上爆撃機「銀河」24機を基幹とする長距離特攻隊の編成を命じた。これが、「丹作戦(第二次)」と呼称される。
写真(右):1945年、アリカ海軍の高速空母任務部隊に配属され太平洋で戦ったエセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15)の飛行甲板管制用版でグラマンF6F艦上戦闘機, ジェネラルモータースTBM艦上雷撃機、カーチスSB2C艦上急降下爆撃機の模型を配備する1等水兵レオナルド・キャシディ Title: USS Randolph (CV-15)
Description: USS Randolph (CV-15) Seaman 1st Class Leonard A. Cassidy spots model aircraft on the ship's ouija board hangar and flight deck planning boards, in response to the telephoned orders of air officers. The nearer board represents the flight deck, with the hangar deck board behind it. Aircraft types represented include F6F, TBM and SB2C. The original color transparency was received by the Naval Photographic Science Laboratory on 15 June 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-K-5395 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5395 USS Randolph (CV-15) 引用。
写真(右):1945年、アリカ海軍の高速空母任務部隊に配属され太平洋で戦ったエセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15)の金属加工用の旋盤とそれを操作する整備工作兵:旋盤(lathe)によって、金属を回転させ、固定されたバイトによって切削加工をする。外丸削り(円筒外側をバイトで切削)、中ぐり(円筒内側をバイトでボーリング加工)、穴あけ、ねじ切り(ネジ山を切削して工作)などの工作が可能なので、飛行機の整備・修理や艦内部品の補修などに活躍した。現在では、デジタル式に数値制御(Numerical Control)可能なNC旋盤が普及しているので精度の高い工作が可能となった。 Title: USS Randolph (CV-15)
Title: USS RANDOLPH -CV-15-
Caption: Machinist works with a lathe, in the ship's machine shop
Description:
Catalog #: 80-G-K-5341
Copyright Owner: NARA
Original Date: Fri, Jun 15, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5341 USS RANDOLPH -CV-15-引用。
写真(右):1945年、アリカ海軍の高速空母任務部隊に配属され太平洋で戦ったエセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15)に設置された電気洗濯機とそれを操作する兵士:電気駆動の回転式洗濯機は、第一次大戦前の1908年にアメリカで開発されており、日本でも1928年に東京電気株式会社(東芝)がアメリカ製電気洗濯機の輸入販売を始めている。日本の国産電機洗濯機第1号は、1930年に芝浦製作所(東芝)が開発した攪拌式洗濯機であるが、一般家庭には高価であり、少数の手動式洗濯機が使われた程度だった。 Title: USS Randolph (CV-15)
Title: USS RANDOLPH -CV-15-
Caption: Crewman removes is laundry from a small washer on board, all personnel of the ship use these laundry facilities.
Catalog #: 80-G-K-5338
Tags: navy_life/hygiene_laundry
Copyright Owner: National Archives & Records Administration 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5338 USS Randolph (CV-15) 引用。
写真(右):1945年3月、アメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15)の飛行甲板、油圧カタパルト(正規空母には2基装備)発進の準備の整ったグラマンF6F艦上戦闘機:飛行甲板は木製でイギリス海軍の空母のような装甲は施されておらず、重量軽減とトップヘビー回避を優先している。但し、飛行格納庫床面となる上甲板には装甲が施されていた。装甲は、格納庫の床面(上甲板)63mm、機関室上部38mm、舷側63 - 102mmであり、対空用と対艦船砲撃用の防御装甲がある。F6F艦上戦闘機の機体尾翼に空母「ランドルフ」固有の縞模様マークが描かれている。 Title: USS RANDOLPH (CV-15)
Caption: Hole in flight deck resulting from Kamikaze hit on 11 March 1945.
Description: USS Randolph (CV-15) Grumman F6F Hellcat fighter parked on the port catapult, March 1945. Note the plane's tail markings, unique to this ship. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-K-5339 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5339 USS Randolph (CV-15) 引用。
写真(右):1945年3月11日(日曜)、カロリン諸島ウルシー環礁基地、日本海軍第五航空艦隊(宇垣纒司令官)梓特攻隊の新鋭陸上爆撃機「銀河」1機が体当たりし穴が開いたアメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15) の飛行甲板後端:艦尾方向を海上から撮影。
Title: USS RANDOLPH (CV-15)
Caption: Damage received from a Kamikaze hit on 11 March 1945. Photographed the following day.
Description:
Catalog #: 80-G-274122
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Sun, Mar 11, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274122 USS RANDOLPH (CV-15) 引用。
アメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph: CV-15)は、起工 1943年5月10日、進水 1944年6月28日、就役 1944年10月9日で、訓練の後、1945年1月20日にサンフランシスコ港を出撃、ウルシー環礁に向かった。2月10日、第58空母任務部隊に配属され、2月16日、17日と関東地方の首都圏の飛行場攻撃、日立航空機立川発動機製作所への空襲を実施した。2月18日、父島空襲、2月20日から、硫黄島空襲を4日間にわたり実施。2月25日、再度、関東地方の飛行場を空襲した。そして、ウルシー環礁に帰投し、休養・整備中の1945年3月11日夕暮、日本海軍第五航空艦隊隷下梓特攻隊の陸爆銀河に突入され、飛行甲板を損傷した。
写真(右):1945年3月11日、カロリン諸島ウルシー環礁基地、日本海軍宇垣纒中将指揮する第五航空艦隊・梓特攻隊の陸爆「銀河」1機が命中し飛行甲板後端に大きな損傷を負ったアメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15) :西太平洋カロリン諸島東北端、ヤップ島の100km北東にあるウルシー環礁は、1944年9月23日、アメリカ陸軍第81歩兵師団の一部が派遣され無血占領した。そして、海軍設営部隊によって、数百隻の艦艇が停泊可能な泊地として海軍基地とすることとなっか。沖縄攻略戦の準備中は、各種艦艇・船舶600隻がウルシー環礁に集結した。 Title: USS RANDOLPH (CV-15)
Caption: Hole in flight deck resulting from Kamikaze hit on 11 March 1945.
Description:
Catalog #: 80-G-273768
Copyright Owner: National Archives
Original Creator:
Original Date: Sun, Mar 11, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274099 USS Randolph (CV-15) 引用。
アメリカ海軍エセックス級空母「ランドルフ」 (USS Randolph: CV-15)は、ウルシー停泊中の1945年3月11日夕刻、第五艦隊(司令官宇垣纏中将)隷下の梓特別攻撃隊の陸上爆撃機「銀河」が九州鹿屋基地を発進し、空母「ランドルフ」 (USS Randolph: CV-15)の飛行甲板後部端へ体当たりし、戦死25名、負傷106名の被害を与えた。しかし、「ランドルフ」はウルシー環礁基地で修復を終えて、4月7日には沖縄攻略に参加している。
写真(右):1945年3月13日夕刻、カロリン諸島ウルシー環礁基地、日本海軍宇垣纒中将指揮する第五航空艦隊・梓特攻隊の陸爆「銀河」の体当たりで損傷した飛行甲板を修理するアメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15) 。飛行甲板の後端に大きな穴がいている。:軽巡洋艦「マイアミ」USS Miami (CL-89) の搭載する水上機から撮影。高速大型空母「ランドルフ」は、1944年10月9日 就役、基準排水量 2万7,100トン、全長 888 ft(270.6m)、船体全幅 93 ft(28.4 m)、飛行甲板全幅 147.5 ft(45 m)、吃水 28.7 ft(8.8 m)、4軸、15万馬力、最高速力 33 ノット、乗員3,448名、搭載機 90 - 100 機。
Title: USS Randolph (CV-15)
Description: Alongside a repair ship at Ulithi Atoll, Caroline Islands, 13 March 1945, showing damage to her after flight deck resulting from a Kamikaze hit on 11 March. Photographed from a USS Miami (CL-89) floatplane. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-344531 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-344531 USS Randolph (CV-15)引用。
第五航空艦隊長官宇垣纏中将は、長距離ウルシー特攻隊を、2月20日に菊水部隊「梓特別攻撃隊」と命名した。これは、特攻隊として762空「銀河」陸上爆撃機24機、それを誘導する801空二式飛行艇5機から編成された。「銀河」80番通常爆弾(800?)1個を胴体に搭載、正規空母を目標に突入することを目指した。1945年3月10日決行予定だったが、準備不足で11日に発進した。
しかし、梓特別攻撃隊の双発陸上爆撃機「銀河」の発進も予定よりも遅れ、特攻機がウルシー環礁に到着したころには、日没近くなり、目標発見が困難になっていた。1945年3月11日、鹿屋基地を発った梓特別攻撃隊ら「銀河」24機のうち、ウルシー環礁に到着したのは15機だった。しかし、日没以後になり目標空母を発見できず、実際に空母に突入したのは空母「ランドルフ」 (USS Randolph: CV-15)飛行甲板後端に体体当たり自爆した 陸爆「銀河」1機のみである。
写真(右):1945年3月13日、カロリン諸島ウルシー環礁基地、日本海軍宇垣纒中将指揮の第五航空艦隊・梓特攻隊の「銀河」陸上爆撃機の特攻で大きく損傷したアメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph, CV-15) の飛行機格納庫。:日本海軍の第五航空艦隊は、1945年3月11日に、九州の鹿屋基地から双発陸上爆撃機「銀河」24機による梓特別攻撃隊を出撃させ、銀河15機がウルシー環礁に到達し、奇襲攻撃をかけた。
Title: USS Randolph (CV-15)
Description: Alongside a repair ship at Ulithi Atoll, Caroline Islands, 13 March 1945, showing damage to her after flight deck resulting from a Kamikaze hit on 11 March. Photographed from a USS Miami (CL-89) floatplane. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-344531 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274099 USS Randolph (CV-15) 引用。
アメリカ海軍エセックス級航空母艦13番艦「ランドルフ」 (USS Randolph: CV-15) は、1945年2月20日から硫黄島攻略を支援し、2月25日には関東地方への空襲を実施してから、ウルシー環礁基地へ帰投。3月11日夕刻、ウルシー環礁基地に停泊中、鹿屋基地を発進した第五航空艦隊長官宇垣纏中将隷下の梓特別攻撃隊「銀河」に飛行甲板に突入され、その下の格納庫に被害を受けた。戦死25名、負傷106名の被害があったが、ウルシー基地で修復が終わり、4月7日からは、沖縄攻略戦に加わっている。
写真(右):1945年3月20日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」直前、特攻機に突入されたアメリカ海軍ヨークタウン級航空母艦2番艦「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)、飛行甲板上で炎上するグラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機:空母「エンタープライズ」は、起工 1934年7月16日、進水 1936年10月3日、就役 1938年5月12日、基準排水量 2万1,000トン、満載排水量:3万2,060トン、飛行甲板 813ft 10.81in × 97ft 6.36in (248.07m × 29.73m)、 蒸気タービン4機4軸、12万馬力、最高速力 33ノット、航続距離 1万2,500万マイル/15ノット、乗員 2,919名、兵装:単装38口径5インチ対空砲 8門、40ミリ対空機銃 40門 (4連装6基 連装8基)、単装20ミリ機銃 50門、搭載機 80〜90機、エレベーター 中央2基、舷側1基。装甲 舷側:122mm、格納庫甲板:38mm。 Title: Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6).
Caption: Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6), after a Kamikaze hit off Japan, 20 March 1945. Burning planes are F6F "Hellcats".
Catalog #: 80-G-274216
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Tue, Mar 20, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274216 Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6). 引用。
写真(右):1945年3月18日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受ける煙を上げる呉市:アメリカ海軍正規空母「ホーネット」 USS HORNET (CV-12)の艦上機から撮影。
Title: Carrier Raids on Japan, March 1945
Caption: Flak bursts fill the sky over the Japanese Naval base at Kure, as US Navy carrier planes attack ships and installations there, 18 March 1945. Photographed from a USS HORNET (CV-12) plane. At least one Japanese battleship and one heavy cruiser are visible in center. Note bombs falling near ship at right.
Catalog #: 80-G-309655
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sun, Mar 18, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-309655 Carrier Raids on Japan, March 1945引用。
神戸市域に対する無差別都市爆撃は、1945年2月4日が第一回目である。マリアナ諸島からの戦略爆撃が、軍事施設や軍需工場への精密爆撃ではなく、焼夷弾による都市爆撃へ転換された時期で、神戸がその初めの対象となった。3月10日の東京大空襲、その後の名古屋、大阪空襲に引き続き、3月17日未明、神戸大空襲があった。これによって、兵庫区、林田区、葺合区など神戸市の西半分が壊滅した。
また、5月11日の神戸空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、精密爆撃も行われたが、灘区・東灘区も被害を受けた。6月5日の神戸空襲では、垂水区から西宮までの広範囲が被弾した。神戸は、1945年3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ壊滅した。
写真(右):艦上爆撃機D4Y 「彗星」;アメリカ軍はJudyのコードネームで呼んだ。最高速度520km,爆弾250kg-500kgと性能は優秀だったが,水冷エンジン(ドイツのダイムラーベンツエンジンDB601のコピー)や電気系統の故障が多く,実用性が低かった。通常攻撃によって,軽空母「プリンストン」を撃沈し,救助に当たっていた巡洋艦「バーミンガム」乗員を多数死傷させたこともある。しかし,日本の特攻隊の記録では,零式艦上戦闘機による護衛空母の撃沈が最初の戦果とされている。その後,エンジンを空冷式「金星」に変換し,量産が続けられた。宇垣長官の特攻機は,空冷型の彗星艦上爆撃機だったが,空冷型が空母に搭載され,艦上機として使用されたことは一度もない。事実上,陸上急降下爆撃機たった。 1944年10月のフィリピン戦の第六基地航空部隊は,1944年10月27・29日,艦上爆撃機「彗星」8機で特攻隊を編成。第五基地航空部隊の特攻隊を「第一神風特別攻撃隊」、第六基地航空部隊のものを「第二神風特別攻撃隊」と称することになった。零戦と並んで,彗星はと特攻作戦の当初から特攻機として使用された。特攻機は,速度が速く,敵機の追撃をかわすことが求められたためであろう。
1945年3月17日から21日まで連続5日間の「九州沖海戦」では、第五航空艦隊は、日本本土、九州東方に接近したアメリカ海軍空母任務部隊を攻撃し、大きな被害を受けつつも、それに見合った大損害を敵に与えたと考えた。宇垣纒中将『戦藻録』によれば、1945年3月17日から21日までの5日間の九州沖海戦の「総合戦果、
(イ)搭乗員が確認せるもの:空母5.戦艦2、大巡[大型巡洋艦]1、巡洋艦2、不詳1、轟撃沈。
(ロ)3月21日の全猊下偵察により残存:空母7(内1巡改[巡洋艦改造高速空母])、戦艦8、駆[逐艦]35、計61隻
以上に「吾空母に突入す」を報じたる昼間特攻撃多数ある点より判断し、空母8隻は少なくとも戦列を離脱し沈没の損害を受け、確認以前、尚相当の損傷あるを疑わず。
作戦装軌数 (イ)攻撃193 (ロ)索敵偵察53 損害 161(地上損害を含まず) 以上を総合し本戦闘は及第点を取り得たりと信ず。」と楽観視していた。 第五航空艦隊は、5日間の九州沖海戦で、航空機出撃244機のうち161機の損害、すなわち損傷率65.4%という壊滅的被害を受けたものの、空母8隻以上を撃沈あるい大破させたのは確実であると考えた。
写真(右):1944年3月2日、ペンシルベニア州フィラデルフィア造船所沖、アメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「バターン」 (USS Bataan :CVL-29) :飛行甲板には、ジェルラルモーターズ社製のTBMアベンジャー雷撃機が翼を折りたたんで並んでいる。アメリカ海軍インディペンデンス級航軽空母「バターン」 (USS Bataan :CVL-29)は、基準排水量 1万1,000 t 、全長 189.7m、船体全幅 21.7m、飛行甲板全幅 33.3m、吃水 7.9 m、最高速力 32 ノット、乗員 1,569名、兵装 40ミリ対空機関砲26基、20ミリ対空機銃18基、搭載機 45機。
Title: USS Bataan (CVL-29)
Description: Off the Philadelphia Navy Yard, Pennsylvania, 2 March 1944. Aircraft parked on her flight deck, forward, are TBM Avenger torpedo planes. Official U.S. Navy Photograph, from the Collections of the Naval History and Heritage Command.
Catalog #: NH 92287 写真はNaval History and Heritage Command NH 92287 USS Bataan (CVL-29) 引用。
アメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「バターン」 (USS Bataan :CVL-29)は、慣熟訓練の終了後、1944年4月21日から、ニューギニア島ホーランディアを攻撃し、トラック諸島、ポナペ島を空襲し、6月11日からはサイパン島などマリアナ諸島と小笠原諸島への攻撃を実施。6月15日・16日、マリアナ沖海戦に参加し、日本海軍の第一機動部隊を壊滅させた。
その後、軽空母「バターン」 (USS Bataan :CVL-29)は、修理・整備のために、アメリカ本土へ帰還した。戦線復帰後、1945年3月17日から5月30日まで、第58空母任務部隊(司令官マーク・ミッチャー中将)の1隻として沖縄攻略「アイスバーク作戦」に参加する。4月7日には戦艦「大和」以下、第一遊撃部隊の攻撃にも加わっている。7月10日から8月15日には、ウィリアム・ハルゼー提督隷下第三艦隊第38.3任務群の一艦艇として、日本本土攻撃に従事した。7月14日・15日には、び青函連絡船を攻撃し、函館を空襲している。
写真(右):1945年3月17日、本州、広島県、アメリカ海軍第58空母任務部隊のインディペンデンス級高速軽空母「バターン」(USS Bataan: CVL-29) へ急降下する日本海軍機。:写真は、エセックス級高速大型空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9)から撮影 。インディペンデンス級高速軽空母8番艦「バターン」(USS Bataan: CVL-29) は、軽巡洋艦の船体を流用した基準排水量 1万1,000 t、全長 189.7mの小型空母で、起工 1942年8月31日、進水 1943年8月1日、就役 1943年11月17日、退役 1954年4月9日。軽空母「バターンは、1944年6月、マリアナ沖海戦に従事した後、マーク・ミッチャー中将隷下の第58任務部隊に一隻として、沖縄攻略の前段階として、呉軍港を空襲した。
Title: Carrier raids on Japan, March 1945.
Caption: A Japanese Kamikaze plane dives toward USS BATAAN (CVL-29), on 17 March 1945. Task force 58 was then en route to raid targets in the Japanese home islands. Photographed from USS ESSEX (CV-9). Note: light cruiser firing vigorously just beyond BATAAN's bow. The suicide plane missed the carrier.
Catalog #: 80-G-373773
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Sat, Mar 17, 1945 写真はNaval History and Heritage Command80-G-373773 Carrier raids on Japan, March 1945. 引用。
写真(右):1945年3月17日、本州、広島県、アメリカ海軍第58空母任務部隊のインディペンデンス級高速軽空母「バターン」(USS Bataan: CVL-29) 近くに墜落した日本海軍機。:写真は、エセックス級高速大型空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9)から撮影 。 インディペンデンス級高速軽空母8番艦「バターン」(USS Bataan: CVL-29) の諸元 基準排水量 1万1,000トン 全長 189.7m、全幅 33.3m、吃水 7.9 m 最高速力 32 ノット、乗員1,569名 兵装: 40ミリ機銃26門、20ミリ機銃18丁 搭載機 45機。
Title: Carrier raids on Japan, March 1945.
Caption: A Kamikaze plane crashes near USS BATAAN (CVL-29) as task force 58 was en route to raid the Japanese home islands, 17 March 1945. Photographed from USS ESSEX (CV-9).
Catalog #: 80-G-373774
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Sat, Mar 17, 1945 写真はNaval History and Heritage Command80-G-373774 Carrier raids on Japan, March 1945. 引用。
写真(右):1945年3月,沖縄攻略、九州沖、特攻機の攻撃を迎撃するアメリカ艦隊。右手前は、エセックス級正規空母「フランクリン」で550ポンド爆弾2発が命中し大損害を蒙った。:JAPANESE KAMIKAZE ATTACKS were a constant menace to the American fleet. Here a Kamikaze plane, falling short of its target, plunges into the sea after being riddled by antiaircraft fire from an American cruiser . But the aircraft carrier Franklin (below) was not as fortunate. Hit off Kyushu by two 550-pound armor-piercing bombs, the Franklin's fuel, aircraft, and ammunition went up in flame; more than a thousand of her crew were lost. Gutted and listing badly, the carrier limped back to New York for repairs.写真はUnited States Army in World War II: The War in the Pacific;Okinawa: The Last Battle p.48参照。
写真(右):1945年3月,沖縄攻略、九州沖、特攻機の命中を受け黒煙を上げるエセックス級空母5番艦「フランクリン」(USS Franklin :CV-13)に550ポンド爆弾2発が命中し大損害を与えた。:JAPANESE KAMIKAZE ATTACKS were a constant menace to the American fleet. Here a Kamikaze plane, falling short of its target, plunges into the sea after being riddled by antiaircraft fire from an American cruiser . But the aircraft carrier Franklin (below) was not as fortunate. Hit off Kyushu by two 550-pound armor-piercing bombs, the Franklin's fuel, aircraft, and ammunition went up in flame; more than a thousand of her crew were lost. Gutted and listing badly, the carrier limped back to New York for repairs.写真はUnited States Army in World War II: The War in the Pacific;Okinawa: The Last Battle p.48参照。
1945年3月19日の黎明、九州沖を作戦行動中だったエセックス級空母5番艦「フランクリン」(USS Franklin :CV-13)は、神戸攻撃を企図して、出撃準備中だった。そこへ、0708、日本軍機1機が雲を飛び出して低空で接近、緩降下で爆撃2発を命中させた。この日本軍機は、爆弾投下後に撃墜されたが、命中した一発は飛行甲板中央部を貫通し格納庫で炸裂、大火災を引き起こした。また、他の一発も飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂し弾薬に引火し誘爆させた。こうして、大損害を受けた空母「フランクリン」は浸水し、右舷に13度も傾き、大火災のために、館を脱出する将兵も見られた。この被爆によって、空母「フランクリン」では戦死724名、負傷265名の大損害が出た。しかし、消火作業や復旧作業が功を奏し、軽巡洋艦「サンタフェ」(USS Santa Fe, CL-60)が空母「フランクリン」の救援活動を行った。エセックス級空母8番艦「フランクリン」(USS Franklin :CV-13)は、重巡「ピッツバーグ」(USS Pittsburgh, CA-72)に曳航され、ウルシー環礁基地に到着した。応急修理によって自力航行可能になった「フランクリン」は、ハワイ真珠湾に向かい、そこで修理をし、本格的な修理のために、ニューヨーク州ブルックリン海軍工廠へ向かい、4月28日到着した。
1945年3月18日,アメリカ海軍第58空母任務部隊(TF 58)は,鹿児島,出水など九州南部を艦上機によって,攻撃したが、同時に日本機による攻撃も受けることになった。空母を攻撃した特攻機によれば,九州沖海戦で、沖縄方面への航空攻撃(特攻だけでなく通常の攻撃も含む)は、正規空母に対しても、次のような戦果を挙げた。
1945年3月18日1507,正規空母「ヨークタウン」(USS Yorktown:CV-10)は、艦爆「彗星」投下の爆撃が艦橋下の至近弾となり、戦死3名、負傷18名の 損害を与えた。
3月18日、正規空母「エンタープライズ」(Enterprise:CV-6)は、艦爆「彗星」投下の爆撃したが250キロ爆弾で艦橋が小破、エレベータ近くに小火災が発生した。3月20日1613、艦爆「彗星」の投下した爆弾が左舷50フィート(16m)至近弾となり、1626別の日本機からも右舷至近弾を受けた。この際、対空砲火の破片により、空母のF6F艦上戦闘機の燃料に引火し、火災が発生した。
3月18日、正規空母「イントレピット」(Intrepid:CV-11) は、特攻機が至近距離に命中した。この被害は小さかったが、僚艦の巡洋艦からの誤射で負傷者が出た。
写真(右):1945年3月18日、日本軍の特攻機の攻撃を受けて大損害を受け傾いたアメリカ海軍エセックス級航空母艦8番艦「フランクリン」(USS Franklin, CV-13):手前に移っているクリーブランド級軽巡洋艦「サンタフェ」(USS Santa Fe:CL-60)から撮影。1945年3月18日,命中した爆弾により大損傷を受け,ウルシー泊地に退避し応急修理し、自力高校でハワイ真珠湾に帰投して修理をした。その後、本格的な復旧作業のためにニューヨクまで回航された。 Title: USS Franklin (CV-13)
Description: Afire and listing after she was hit by a Japanese air attack while operating off the coast of Japan, 19 March 1945. Photographed from USS Santa Fe (CL-60), which was alongside assisting with firefighting and rescue work. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-273880 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-273880 USS Franklin (CV-13) 引用。
1945年3月19日明け方,エセックス級正規空母「フランクリン」(USS Franklin:CV13)は今まででもっとも日本本土に「近づいた空母になったが,本州と神戸の船舶を攻撃した。突然,1機の敵機が雲に隠れて低空で接近し,2発の爆弾を投下した。爆弾は飛行甲板を突き破って爆発し,閃光が光った。艦内通信網は麻痺してしまった。空母「フランクリン」の多数の乗員は,特攻機命中による火災で殺されたり,負傷したりした。将校106名と下士官・兵 604名は,消火作業にかかったが死者 724名,負傷 265名という最大級の損害を被った。搭載していた戦闘機F4Uコルセアなど艦上機15機も完全に破壊された。
3月19日、空母「ワスプ」 も, 空母「フランクリン」が被害を受けた後,数分で同じように爆弾が破裂した。正規空母「ワスプ」(USS Wasp:CV-18) は、日本機の250キロ爆弾が命中、飛行甲板(木製)を貫通し装甲のある上甲板で破裂した。空母「ワスプ」の死者は101名,負傷者269名である。 しかし,回航修理する直前まで,作戦任務についていた。
3月19日、正規空母「エセックス」(USS Wasp:CV-9)の右舷に特攻機が突入、甲板の艦上機が破壊された。
3月20日、再び正規空母「イントレピット」(Intrepid:CV-11) が損傷した。
写真(右):1945年3月18日、九州沖、アメリカ海軍第58空母任務部隊のエセックス級正規空母「ホーネット」USS HORNET (CV-12)近くに墜落した日本軍特攻機:写真は、エセックス級正規空母「ワスプ」USS WASPから撮影 。1945年1月3日、台湾高雄沖で、レイテ島への軍隊輸送から帰還中の日本船団を攻撃、「神州丸」を大破させた。1月22日、沖縄への写真偵察を実施後、ウルシー環礁基地に帰投。2月10日、ウルシー環礁基地を出撃、東京を空襲、2月19日・20日、硫黄島攻略を支援。 Title: Japanese Kamikaze Plane
Caption: Crashes near USS HORNET (CV-12), off Kyushu, Japan, 18 March 1945. Photographed from USS WASP.
Catalog #: 80-G-310039
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sun, Mar 18, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-310039 Japanese Kamikaze Plane引用。
写真(右):1945年3月20日(火曜)、日本本土を空襲するために本州に接近し、アメリカ海軍第58空母任務部隊のエセックス級航空母艦4番艦「ハンコック」(USS Hancock, CV-19)から洋上給油中に特攻機に体当たりされ黒煙を上げるフレッチャー級駆艦隊逐艦「ハルゼー・ポーウェル」 USS Halsey Powell :DD-686、基準排水量2000トン):高速大型空母「ハンコック」は、1944年4月15日就役、基準排水量 2万7,100トン、全長 888 ft(270.6m)、船体全幅 93 ft(28.4 m)、飛行甲板全幅 147.5 ft(45 m)、吃水 28.7 ft(8.8 m)、4軸、15万馬力、最高速力 33 ノット、乗員:3,448名。
Title: Carrier strikes on Japan, March 1945.
Caption: USS HALSEY POWELL (DD-686) is hit aft by a Kamikaze, while refueling from USS HANCOCK (CV-19) off Japan, 20 March 1945.
Description:
Catalog #: 80-G-325549
Copyright Owner: National Archives
Original Creator:
Original Date: Tue, Mar 20, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-325549 Carrier strikes on Japan, March 1945. 引用。
1945年3月24日、連合艦隊司令長官豊田副武大将は、宇垣纒中将の第五艦隊を基幹とする第一機動基地航空部隊に感状を授与し、敵機動部隊に対し3月18日より「4日間昼夜に亘り機略強靭なる作戦を以って殊死奮闘し敵正規空母5隻その他数隻を撃破せるは其の功績顕著なり」と讃えた。
実際、アメリカ艦隊では、3月18日、正規空母「ヨークタウン」(USS Yorktown:CV-10)、正規空母「エンタープライズ」(Enterprise:CV-6)、正規空母「イントレピット」(Intrepid:CV-11) が損傷した。
1945年3月19日、正規空母「フランクリン」(USS Franklin:CV13)が大破した。正規空母「ワスプ」(USS Wasp:CV-18) が特攻機で中破した。正規空母「エセックス」(USS Wasp:CV-9)が特攻機で大破した。
3月20日、正規空母「イントレピット」(Intrepid:CV-11) が損傷した。
写真(右):1945年3月19日、本州、広島県、呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊から発進した艦上機の攻撃を受ける日本海軍の雲龍級航空母艦「葛城」あるいは「天城」:1945年3月18日、九州沖航空戦は、日本海軍の拠点、呉軍港への空襲も含まれる。エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」( USS BUNKER HILL :CV-17)は基準排水量2万7,100トン、搭載機 90機で、起工 1941年9月15日、進水 1942年12月7日、就役 1943年5月24日、退役 1947年1月9日。
Title: Carrier Raids on Japan, March 1945
Description: A Japanese aircraft carrier under intense bombing attack by US Navy carrier planes, in the inland sea, 19 March 1945. A submarine is underway at left. Note bomb falling in center. Carrier is probably AMAGI or KATSURAGI. Photographed from a USS BUNKER HILL (CV-17) plane. Note camouflage paint on the carrier's flight deck.
Catalog #: 80-G-309661
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command NH 95778 Carrier Raids on Japan, March 1945引用。
写真(右):1945年3月19日、本州、広島県、呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊、空母「エセックスUSS Essex (CV-9)から発進したカーチスSB2Cヘルダイバー艦上急降下爆撃機の攻撃を受ける日本海軍の雲龍級航空母艦「葛城」(手前)と護送空母「海鷹」:1945年2月16日、17日、インディペンデンス級航空母艦9番艦「サン・ジャシント」艦上機は、関東地方を空襲し、間接的な硫黄島上陸支援を実施した。その後、ウルシー環礁に帰投。そして、1945年3月18日、九州沖航空戦に参加し、空母「フランクリン」(USS Franklin, CV-13)の大損傷を目の前に、戦い続け、沖縄攻略「アイスバーグ作戦」にも加わった。 Title: Carrier Raids on Japan, March 1945
Description: Carrier Raids on Japan, March 1945 USS Essex (CV-9) planes attack two Japanese aircraft carriers at Kure, 19 March 1945. An SB2C Helldiver scout bomber is visible in the upper right, painted in Essex markings. Ship at bottom is either Amagi or Katsuragi. The other carrier is Kaiyo. Copied from an original photograph in the USS Essex action report for this raid, 1986. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
Catalog #: NH 95778 写真はNaval History and Heritage Command NH 95778 Carrier Raids on Japan, March 1945引用。
1945年3月の日本の戦時動向
3月6日:国民徴用令など5勅令を廃止・統合して、新たに国民勤労動員令を公布
3月9日:学童疎開強化要綱を閣議決定 3月10日:東京大空襲、死傷12万人、焼失27万余戸、罹災100余万人 3月13-14日:大阪へ初の大空襲 3月15日:空襲に対処するため、大都市における疎開強化要綱を閣議決定(学童、母子など続々緊急疎開) 3月17日:神戸大空襲 3月19日:呉軍港空襲 3月26日:硫黄島陥落 3月18日:国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止とすることを閣議決定(18日)
3月20日:農商省、不正受配者の全国調査を実施 3月23日:国民義勇隊の結成を閣議決定
3月25日:名古屋大空襲
写真(右):1945年3月19日、本州、広島県、アメリカ海軍空母任務部隊の艦上機の空襲を受ける呉軍港。エセックス級航空母艦「イントレピッド」(USS INTREPID :CV-11) の艦上機10機、日本海軍雲龍型航空母艦「天城」と「葛城」、小型特設空母「海鷹」(中間)が見える。左上は進水したものの未完成に終わって放置されていた空母「阿蘇」:右下に、空襲を掛ける艦上機の視界を遮り妨害する煙幕が焚かれているのが見える。 Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: Japanese aircraft carriers under attack at Kure, 19 March 1945, seen from a carrier air group 10 plane from USS INTREPID (CV-11). The two larger carriers in center and at right are probably AMAGI and KATSURAGI. Smaller carrier between them is probably the CVE KAIYO. Large ship in top left may be the incomplete carrier ASO. Note anti-aircraft bursts in lower left.
Catalog #: 80-G-317146
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-317146 Carrier Raids on Japan, March 1945引用。
写真(右):1945年3月19日、本州、広島県、呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊、エセックス級航空母艦「ホーネット」(USS Hornet :CV-12) の艦上機が撮影した空襲を受ける日本海軍雲龍型航空母艦「天城」(手前)と「葛城」、「海鷹」(小型特設空母)と脱出を図る伊号潜水艦(左上):エセックス級正規空母7番艦「ホーネット」(USS Hornet :CV-12)は、起工 1942年8月3日、進水 1943年8月30日、就役 1943年11月29日、退役 1970年6月26日
除籍 1989年7月25日。太平洋戦争後、ジェット機の運用を可能とするアングルドデッキ改修(長大な飛行甲板を斜めに配置)、1970年まで部隊で使われた。月に着陸したアポロ11号の宇宙飛行士の回収にも就いた。現在は、カリフォルニア州サンフランシスコ郊外アラメダ、空母「ホーネット」博物館で一般公開されている。 Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: Three Japanese aircraft carriers and a submarine in Kure Bay, during strikes by U.S. Navy carrier planes, 19 March 1945. Carrier at the extreme right is Kaiyo. Those in the center top (barely visible) and at the bottom are probably Amagi and Katsuragi. The submarine is underway in the upper left. Photographed from a USS Hornet (CV-12) plane. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the U.S. National Archives.
Catalog #: 80-G-309660 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-309660 Carrier Raids on Japan, March 1945 引用。
写真(右):1945年3月19日、本州、兵庫県神戸、アメリカ海軍空母任務部隊の艦上機が雲龍級航空母艦6番艦「生駒」(未完成)を攻撃中:インディペンデンス級空母9番艦「サン・ジャシント」(USS San Jacinto:CV-30)の艦上機が上空より撮影。太平洋戦争勃発前、1941に大鳳型大型空母(排水量3万トン以上)3隻の建造を計画したが、その後、1942年のミッドウェー海戦で4隻の空母を喪失、敗北したことにより、急遽、空母を早急にそろえる必要が生まれた。こうして、改マル5計画で、建造経験のある飛龍型空母を改造して量産することが決まった。これが排水量1万7000トンの雲龍型中型空母である。改マル5計画では雲龍型中型空母14隻の建造予定だったが、資材・労働力の不足、ドックの軍艦修理などにより起工したのは6隻だけだった。 Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: Incomplete Japanese aircraft carrier IKOMA afire during attacks by U.S. Navy carrier planes, at Kobe, 19 March 1945. IKOMA's stern is clearly visible, while her bow is obscured by smoke. Note large "standard" type freighter off IKOMA's starboard bow. Photographed from a USS SAN JACINTO plane.
Catalog #: NH 95779
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command NH 95779 Carrier raids on Japan, March 1945 引用。
アメリカ軍による日本本土初空襲、いわゆるドーリットル空襲が、1942年4月18日に行われ、東京・名古屋・四日市・神戸などが被害に遭ったが、この時、神戸では、兵庫区中央市場付近が被害を受けた。ただし、この空襲は、空母「ホーネット」にB-25 陸上双発爆撃機16機を搭載、本州東方海上から発進させ、爆撃後は中国の航空基地に不時着を想定した一回限りの小規模爆撃だった。が、本格的なものではなかった。
写真(右):1945年3月19日、本州、兵庫県神戸、アメリカ海軍空母任務部隊、インディペンデンス級航空母艦の9番艦「サン・ジャシント」(USS San Jacinto:CV-30)から発進した艦上機から撮影した、攻撃にさらされる雲龍級空母6番艦「生駒」(未完成):
昭和18年度「改マル5計画」で計画され、1943年7月5日、神戸、川崎重工業艦船工場にて起工、進水1944年11月17日、その後、神戸港外に繋留されていたが、1945年3月19日に空襲を受け損傷、4月には小豆島の池田湾に疎開し、繋留、建造中止。 Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: The incomplete Japanese aircraft carrier IKOMA afire during attacks by U.S. Navy carrier planes, at Kobe, 19 March 1945. IKOMA's stern is clearly visible, while her bow is obscured by smoke. Note large "standard" type freighter off IKOMA's starboard bow. Photographed from a USS SAN JACINTO plane.
Catalog #: NH 95780
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command NH 95780 Carrier raids on Japan, March 1945引用。
呉軍港は、日本海軍の主要な軍港であり、1945年3月19日(アメリカ18日)から本格的な空襲が始まった。5月には広海軍工廠の航空機工場、6月には呉海軍工廠の造兵器工廠、7月には呉市街地への夜間無差別都市爆撃が実施されている。3月19日の呉軍港への空襲は、高知土佐沖に接近していたウィリアム・ハルゼー提督指揮下のアメリカ海軍第38空母任務部隊から発進した艦上機数百機による空襲で、午前7時20分から午前11時5分まで続いた。
日本海軍機も反撃し、土佐沖のアメリカ海軍正規空母「フランクリン」を空爆し、大損傷を与えることに成功した。大破した空母「フランクリン」は曳航され真珠湾に避難、応急処置を受け、後にアメリカ本土へ回航され本格的な修理がなされた。これが九州沖航空戦である。
写真(右):1945年3月19日、本州、兵庫県、神戸港、アメリカ海軍空母任務部隊の空襲を受ける日本の輸送艦。中央の艦船は、特設護送空母「島根丸」:特設護送空母「島根丸」は戦時標準船1TL型のタンカーを流用して、船体に飛行甲板を設置し、艦上機を搭載して、対潜哨戒や対空哨戒を企図した改造空母。搭載するのは、飛行甲板に露天係留した小型複葉機で、飛行甲板の下に格納庫はない。後に特1TL型と呼ばれる。竣工直後の3月17日、神戸空襲で、港内南18番浮標に係留中、爆撃され、損傷(船員6名戦死)。就役できないまま、1945年4月には、香川県志度湾に退避し、擬装して繋留された。1945年7月24日、艦上機の空襲によって、船体が裂け大破着底。インディペンデンス級空母9番艦「サン・ジャシント」(USS San Jacinto:CV-30)の艦上機が上空より撮影。 戦時標準戦特TL型護送空母「島根丸」諸元: 基準排水量 2万0,469トン
全長 160.5 m、全幅 20 m
重油ボイラー2基、蒸気タービン1基8500馬力
最高速力 18.5ノット 搭載機 12機(九三式中間練習機)
重油搭載量:1万トン
Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: U.S. Navy planes attack enemy shipping in Kobe Harbor, 19 March 1945. Escort carrier in center is probably the SHIMANE MARU, then nearly complete at Kobe. Note large and small merchant ships nearby, including one in a floating drydock near the edge of the photo. Photographed from a USS SAN JACINTO plane.
Catalog #: NH 95781
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command NH 95781 Carrier raids on Japan, March 1945 引用。
写真(右):1945年3月19日、本州、兵庫県神戸、アメリカ海軍空母任務部隊、インディペンデンス級航空母艦の9番艦「サン・ジャシント」(USS San Jacinto:CV-30)から発進したTBMアベンジャー艦上雷撃機とSB2Cヘルダイバー艦上急降下爆撃機などから攻撃される戦時標準戦特TL型特設護送空母「島根丸」:1945年2月16日、17日、インディペンデンス級航空母艦9番艦「サン・ジャシント」艦上機は、関東地方を空襲し、間接的な硫黄島上陸支援を実施した。その後、ウルシー環礁に帰投。そして、1945年3月18日、九州沖航空戦に参加し、空母「フランクリン」(USS Franklin, CV-13)の大損傷を目の前に、戦い続け、沖縄攻略「アイスバーグ作戦」にも加わった。 Title: Carrier raids on Japan, March 1945
Caption: Attack on a Japanese escort carrier in Kobe Harbor, 19 March 1945. She is probably the SHIMANE MARU, which was then nearly complete at Kobe. Note large cargo ship at top of photo. Taken from a USS SAN JACINTO plane.
Catalog #: NH 95782
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Mon, Mar 19, 1945 写真はNaval History and Heritage Command NH 95782 Carrier raids on Japan, March 1945 引用。
写真(右):1945年3月20日、日本海軍航空技術廠・愛知「彗星」艦上爆撃機三三型の特攻攻撃を受けるアメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「バターン」(USS Bataan, CVL-29):エセックス級空母「ハンコック」(USS Hancock:CV-19)より撮影。 Carrier Strikes on Japan, March 1945
Description: A Japanese Navy Judy (Yokosuka D4Y3) bomber passes near USS Bataan (CVL-29) during an unsuccessful dive bombing run on Task Force 58, while the U.S. ships were operating off Japan on 20 March 1945. The Japanese plane was soon brought down by anti-aircraft fire. Photographed from USS Hancock (CV-19). Bataan is the ship in the center of the view. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-319232 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-319232 Carrier Strikes on Japan, March 1945 引用。
写真(右):1945年3月20日、日本近海、神風特攻機の突入で損傷したアメリカ海軍ヨークタウン級航空母艦2番艦「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)) と炎上するF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機:エセックス級正規空母7番艦「ホーネット」(USS Hornet :CV-12)は、起工 1934年7月16日、進水 1936年10月3日、就役 1938年5月12日、飛行甲板 248.07m × 29.73m、基準排水量2万1,000t、満載排水量32,060t、4基4軸、12万馬力、最高速力33ノット、航続距離 1万2,500マイル/15kn、1943年10月の改装後の兵装:単装5インチ対空砲 8門、40ミリ対空機関砲 40門 (4連装6基、連装8基)、単装20ミリ対空機銃 50門、搭載機80-90機、装甲:舷側122mm、格納庫甲板38mm。 Title: Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6).
Caption: Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6), after a Kamikaze hit off Japan, 20 March 1945. Burning planes are F6F "Hellcats".
Description:
Catalog #: 80-G-274216
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Tue, Mar 20, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274216 Fire fighting aboard USS ENTERPRISE (CV-6). 引用。
◆1945年3月、第五航空艦隊長官宇垣纏中将が主導した九州沖海戦で、アメリカ海軍の正規空母は、1隻の空母が複数回、複数日で被害を受けた重複を含め、3月18日に3隻、3月19日に3隻、3月20日に1隻と合計延べ7隻が損害を受けている。したがって、連合艦隊の認めた「敵正規空母5隻その他数隻を撃破」という判定は概ね正確だったのであり、九州沖海戦は、1944年10月の台湾沖航空戦の虚報の再現ではない。
しかし、アメリカ正規空母の防御力は、上甲板(飛行格納庫下面)の装甲、格納庫側壁の開放性(爆風を逃がす)と日本空母にない装備のために高く、乗員や僚艦による適格なダメージコントロールにより、総協会副能力が高かった。そこで、損傷を受けた空母であっても、多くは戦線にとどまり、戦闘を続けることが可能だった。アメリカ正規空母にそこまでの強靭性があるとは想像できなかった日本軍は、空母への爆弾・特攻機の命中、炎上・煙を見て、撃沈確実と報告した。日本軍の搭乗員は、実戦経験が乏しく、誤報、過大な戦果報告もあったが、それを非難するのは酷である。日本軍上層部・技術者が、アメリカ空母の強靭性に思い至らなかったのも、当時の状況からみてやむをえない。アメリカ側の防御力に配慮した技術・訓練・戦略方針が、日本軍の殊死奮闘、特攻作戦を下したということであろう。決して、アメリカの物量だけが問題なのではない。
写真(右):1943年、アメリカ海軍空母艦上で燃料を補給するグラマン (Grumman) TBF-1アベンジャー艦上雷撃機(主翼は折り畳んでいる):燃料補給後、再び発艦する訓練を繰り返した。全長 12.48m 全幅 16.51m 全高 4.70m 運用重量 8,115kg エンジン ライト R-2600-20 馬力 1,900hp 最高速度 444km/h 実用上昇限度 9,170m 航続距離 1,610km 固定武装 前方 12.7mm重機関銃 2門 背面 12.7mm重機関銃 1門 腹部 7.62mm機関銃 1門 爆装 航空魚雷×1 または 爆弾 907kg 乗員 3名 。 Title: Aircraft Refueling Crew, Grumman TBF-1, circa 1943
Caption: Aircraft Refueling Crew in red caps and jerseys refuel a Grumman TBF-1 on the flight deck of a training escort carrier, circa Mid-1943. Note Team Man standing by with fire extinguisher. Planes are refueled as soon as possible after landing, and the "Smoking Lamp" is out throughout the ship during exercise.
Description: color
Catalog #: 80-G-K-2643
Copyright Owner: National Archives 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-2643 Aircraft Refueling Crew, Grumman TBF-1, circa 1943引用。
写真(右):
1943年中頃、アメリカ海軍空母艦上のグラマン (Grumman) TBFアベンジャー艦上雷撃機隊:TBFパイロットのレポートを読む雷撃中隊指揮官。その後、飛行甲板指揮官に報告がなされる。主奥を折りたたむのは、エンジン動力を活かした油圧で、人力は必要なく、機上で主翼折り畳みの操作をする。主翼を胴体に沿って折り畳むことで、空間を縮小し、狭い飛行格納庫に多数の機体を搭載することが可能になった。対照的に、日本海軍九七式艦上攻撃機や「天山」艦攻は多数の整備員が主翼を持ち上げて折りたたむ人力式だった上に、畳み方も中途半端で、収容空間をわずかに縮小できただけだった。 Title: Squadron Leading Chief awaits readiness report on board a training escort carrier, circa mid-1943
Caption: Squadron Leading Chief (in white cap and jersey) awaits readiness report from the pilot of a TBF, on board a training escort carrier, circa mid-1943. When he has reports from all pilots, he will report to the flight deck officer.
Description: color
Catalog #: 80-G-K-2629
Copyright Owner: National Archives 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-2629 Squadron Leading Chief awaits readiness report on board a training escort carrier, circa mid-1943 引用。
写真(右):1945年1月12日、アメリカ海軍空母任務部隊、正規空母「エセックス」USS Essex (CV-9)所属のゼネラルモーターズ (General Motors) TBMアベンジャー艦上雷撃機の編隊:主翼付け根で半回転式に機械駆動で油圧式に自動で主翼を折りたたむことができる。対照的に、日本海軍の艦上機は主翼を折り曲げ手動で畳むだけだった。グラマンTBFアベンジャー艦上雷撃機は、グラマン社が開発したアメリカ海軍の雷撃機で1942年から登場し主力雷撃機となった。当初、TBFはグラマン社が製造していたが、ゼネラルモーターズ (General Motors) 社でも量産されることとなったためTBMと呼称された。TBF/TBMは、製造した2会社を区分する表記である。 Title: Avengers flying in formation
Description: Four TBM Avengers flying in formation, January 12, 1945. Part of VT-4 from USS Essex (CV-9).
Catalog #: 80-G-373712 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-37312引用。
写真(右):1944年11月11日、アメリカ海軍エセックス級航空母艦6番艦「ワスプ」 (USS Wasp, CV-18) 飛行甲板上のカーチス(Curtiss)SB2c-3「ヘルダイバー」Helldiver 艦上爆撃:折れ曲がったプロペラ、外に出ているスラット、伸びた制動索からみて、着艦に失敗した機体である。 SB2C-4の諸元:全長:11.18m、全幅:15.17m、全高:4.0m、自重:4.784t、全備重量:7.537t、エンジン:ライト R-2600-20(1,900馬力)、乗員:2名、最高速度:475km/h(高度5,090m)、巡航速度:254km/h、航続距離:1876km(450?爆装時)、兵装:20ミリ機銃2門、7.62ミリ旋回機銃2挺、爆弾搭載量:爆弾900kg(2,000ポンド)
Title: USS WASP (CV-18)
Caption: Deck crash of SB2c #56, Bu# 19530 (a SB2c-3), 11 November 1944. Pilot was R.D. Romier. Note bent propeller, extended slats and retracted rear deck on plane.
Description:
Catalog #: 80-G-266376
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Sat, Nov 11, 1944 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-266376 USS WASP (CV-18) 引用。
写真(右):1945年2月頃、硫黄島攻略戦に従事するアメリカ海軍エセックス級正規空母「ハンコック」USS Hancock (CV-19) 所属のカーチス(Curtiss)SB2C-3「ヘルダイバー」Helldiver 艦上爆撃の編隊:ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の後継機で、試作機初飛行は1940年12月、胴体下面に爆弾を剥き出しに懸架したSBDと異なり、胴体爆弾倉を設けて、そこに爆弾を搭載し、空気抵抗を減らした。しかし、空母エレベーターの大きさに機体を収めるために全長を短縮したため、機体の安定性、操縦性、離着艦性能が犠牲になった。1929年の会社合併でカーチス・ライト(Curtiss-Wright)社が設立され、太平洋戦争で活躍したSB2Cヘルダイバー艦上爆撃機を7000機、P-40トマホーク戦闘機を1万3,000機、C-46コマンド輸送機も3000機を生産した。しかし、戦後は振るわず、航空機生産はP-51ムスタングを生んだノースアメリカンに売却された。 Title: Iwo Jima Operation, 1945
Description: Curtiss SB2C-3 Helldiver bomber from USS Hancock (CV-19) flies over two battleships of the invasion fleet, during strikes on Iwo Jima on 19 February 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-304721 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-304721 Iwo Jima Operation, 1945引用。
写真(左):神雷特別攻撃隊(桜花隊)の細川八郎中尉;軍令部総長及川古志郎大将が、宇佐の神雷部隊に視察にやってきたとき、「桜花」投下訓練でソリで着地を見事に成功させ、総長を感激させたのが、細川八郎少尉(当時)だった。しかし、細川少尉の次の「桜花」は、着地に失敗、搭乗員は殉職した。後日、連合艦隊司令長官豊田副武大将が視察に来たとき、細川八郎中尉に再度「桜花」の降下・着地の模範演技をするように命じられた。しかし、細川少尉は「あと桜花に乗るのは死ぬときだけです」と命令を拒否した。細川八郎中尉は、終戦まで生き残った。
大分県の海軍宇佐航空隊(宇佐空)の第721海軍航空隊で、人間爆弾「桜花」を装備する神雷桜花特別攻撃隊が編成された。神雷部隊の隊員は150名いたが、予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者が143名と大半を占め、海軍兵学校出身者は7名に過ぎなかった。隊長は、野中五郎少佐で二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟であった。
神雷部隊は、秘密兵器を使用する部隊として期待されており,軍令部総長及川古志郎大将が宇佐に視察にやってきたのに合わせて、「桜花」投下訓練が行われた。そのとき、上空の陸攻から切り離された「桜花」を操縦し、飛行場に胴体下のソリで見事に着地したのが、細川少尉(当時)である。次に投下された「桜花」搭乗員は、着地に失敗し殉職した。後日、連合艦隊司令長官豊田副武大将も視察に来たが、隊長は神雷特別攻撃隊(桜花隊)の細川八郎中尉に再度「桜花」の降下・着地訓練を模範演技として依頼した。しかし、細川少尉は「あと桜花に乗るのは死ぬときだけです」と断った。特攻隊員は、模範演技のような末節に命をかけるつもりはなく、上級者が命じたとしても断る勇気があった。細川八郎中尉は、終戦まで生き残った。
人間爆弾「桜花」は横須賀で生産され、呉へ回航される大型空母(戦艦「大和」級を改造)「信濃」に50機が搭載され、九州方面に運搬予定であった.しかし、空母「信濃」は、1944年11月29日、紀伊半島沖で、米潜水艦の雷撃によって、撃沈。結局、「桜花」が宇佐空に届いたのは、1945年2月になってからという。
写真(右):アメリカ、ワシントンDC、アメリカ海軍記念博物館に展示されていた戦利品の操縦訓練用単座型グライダー「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA )。:1972年3月下旬、撮影。胴体上面には、一座席が設けてあり、複座ではない。胴体下面には、実機にはない着陸用の橇(そり)を装着している。橇の支柱は、緩衝装置がついているようだ。主翼の補助翼(エルロン:Ailerron)下げた状態にしてあるが、水平尾翼の昇降舵(エレベーター: elevator)と垂直尾翼の方向舵(ラダー:rudder)は、作動させていない。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA
Caption: Piloted bomb training glider. Photographed at the U.S. Navy Memorial Museum in Washington, D.C., late March 1972.
Description:
Catalog #: NH 75680
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Creator: Lieutenant Junior Grade Thomas Pozarycki, USNR-R, photographer 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 75680 Japanese YOKOSUKA MXY-7 OHKA 引用。
写真(右):2009年、アメリカ、オハイオ州ライト・パターソン空軍基地、国立アメリカ空軍博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されている着陸用の橇(ソリ)を装備した人間爆弾「桜花」( Yokosuka MXY7-K1 Ohka )単座訓練型:国立アメリカ空軍博物館には、第二次大戦中のアメリカ機としては、戦闘機ベル P-39Q エアラコブラ、カーチス P-40E ウォーホーク、ノースアメリカン P-51D ムスタング、リパブリック P-47D サンダーボルト、ノースロップ P-61C ブラックウィドウ、攻撃機ノースロップ A-20G ハヴォック、爆撃機ボーイング B-17G フライングフォートレス、コンソリデーテッド B-24D リベレーター、ノースアメリカン B-25B ミッチェル、マーチン B-26G マローダー、艦上爆撃機ダグラス SBD ドーントレスが展示されている。
Description
SONY DSC
Date 25 September 2009, 14:49
Source Yokosuka_MXV7-K1_Trainer_LSide_Airpower_NMUSAF_25Sep09
Author Valder137
写真はWikimedia Commons,Yokosuka MXY 7 Ohka museum aircraft Yokosuka MXV7-K1 Trainer LSide Airpower NMUSAF 25Sep09 (14413184308).jpg引用。
写真(右):1945年6月、沖縄、読谷の陸軍北飛行場で鹵獲した「短距離飛行爆弾カミカゼ自殺機("kamikaze (suicide) plane")"BAKA"BOMB(バカ爆弾)」I-10:タイヤの付いた運搬用台車の上に「桜花」を乗せて、ヘルメットを被った兵士が牽引している。後方には、不安定な「桜花」を支える兵士が垂直尾翼を手で押さえている。桜花マークの先に「I-10」と記入されているが、これは、日本軍が記入したオリジナルのようで、現在保管されている「桜花」にも同じ形式の記号が付けられている。 Okinawa, Japan. 1945-06. A piloted short range flying bomb, known as a "kamikaze (suicide) plane" captured on Okinawa is pushed along a road or airfield on a trolley. On 1945-04-06 the Japanese Kamikaze Corps sent 350 suicide aircraft in a mass attack against the US Navy in which thirty US ships were sunk or damaged.Accession Number
P02018.393
Collection type
Photograph
Object type
Black & white - Film copy negative
Maker
US War V Japan
Conflict
Second World War
写真はAustralian War Memorial P02018.393 引用。
日本海軍 特別攻撃機 桜花一一型(Yokosuka MXY-7 Ohka):終戦までに755機生産,55機が特攻出撃した。一式陸攻24型丁の胴体下部に吊り下げて搭載し、敵艦近くで発進、滑空して体当たりする。搭載爆弾は1トンで、総重量2トンの桜花を搭載した場合、運動性能は極度に低下した。桜花はグライダーであり、滑空しかできない。そこで、高速を得るためには、4号1式噴進機(火薬ロケット)3本を尾部に装備し、爆発推進力を得ることで、最高速度600キロ以上に達することができた。
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日本海軍の秘密兵器だった人間爆弾「桜花」、I-10、I-13、I-18 は、1945年4月上旬、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷の陸軍北飛行場(読谷飛行場)で鹵獲した機体の一つ。陸軍沖縄北飛行場(読谷)に海軍の「桜花」が置かれたが、これは捷号作戦に関する陸海軍中央協定のためである。捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一指揮が急務となり、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。ここでは、陸海軍航空部隊の指揮一元化のために、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。沖縄で鹵獲された人間爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)の桜花のマークは、オリジナル。その後の「I-13」は、丁寧に描かれており、日本軍が記入したオリジナルのようだ。ただし、鹵獲したアメリカ軍が整理のために記入した記号かもしれない。桜花I-13は、状態が良かったためか、たくさんの写真が残っている。
海軍航空技術廠 Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") の桜花11型のデータ;
乗員1名,全長 6.10 m (20 ft 0 in),全幅 5.10 m (16 ft 8 in),全高 1.20 m (3 ft 11 in)
主翼面積 6 m² (65 ft²),重量 2,140 kg (4,708 lb)
ロケットエンジン 3基×800kg, 推力7.8 kN (1,760 lbf)
最高速度 630 km/h (394 mph),航続距離 36 km (23 miles)
翼面荷重 356 kg/m² (72 lb/ft²)。爆弾1,200 kg (2,640lb)
写真(右):1945年4月、沖縄本島、読谷飛行場でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")I-13をトラックを使って曳航している。 :陸軍沖縄北飛行場(読谷)における海軍「桜花」の鹵獲には、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が関連している。アメリカ空母任務部隊に対抗するには、陸海軍の航空戦力の統一指揮が必要であり、そのために、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。そして、南西諸島・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとなった。 Title: "Baka" bomb
Caption: Being towed behind a truck after its capture, circa April 1945. Note insignia and coding, I-13.
Description:
Catalog #: 80-G-192463
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Tue, Jun 26, 1945 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-192463 "Baka" bomb引用。
沖縄本島で、1945年4月にアメリカ軍が鹵獲した日本軍の最新秘密兵器・人間爆弾「桜花」には、I-10、I-13、I-18のような固有名称が付けられている。これらは、日本軍が記入したと思われるが、I-13とI-18の「桜花」 は状態は良好だったためか、同じ機体の写真が多数残っている。また、現在保管されている「桜花」にも同じ形式の記号が付けられている。
しかし、「桜花」I-10、I-13、I-18のような固有名称には、疑問も残る。第一に、日本軍が、英語(アイ)か日本語(イあるいは1)か判読しにくい「I」を記入したのか。「II」の記入はないのか。アメリカ軍は、日本の伊号潜水艦のイ(伊)を「I」で代用したが、これを踏まえると、日本側がI-10、I-13、I-18といった記号を付けたのではないかもしれない。第二に、日本海軍は、空母「雲竜」や空母「信濃」に「桜花」を乗せて、前線近くの航空基地に運搬しようと試みた。この2空母は「桜花」輸送途上、撃沈されたが、沖縄には「桜花」が到着した。沖縄到着時、すでに記号がついていたのか、それとも鹵獲後、アメリカ軍が記入したのか。沖縄で「桜花」が見つかったのは、海軍の小禄飛行場ではなく、陸軍の沖縄北飛行場(読谷)だった。ここに海軍部隊が駐留していなければ、陸軍部隊が、海軍の兵器にI-10、I-13などと勝手に記入するはずがない。
写真(右):1945年6月26日、沖縄、沖縄本島でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945
Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval
Description: color
Catalog #: 80-G-K-5885
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Tue, Jun 26, 1945 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5885 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。
「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日に沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷飛行場(陸軍の沖縄北飛行場)で鹵獲した機体。陸軍沖縄北飛行場(読谷)における海軍「桜花」の鹵獲には、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が関連している。アメリカ空母任務部隊に対抗するには、陸海軍の航空戦力の統一指揮が必要であり、そのために、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が結ばれた。そして、南西諸島・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとなった。
写真(右):1945年4月1日、沖縄でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13:「桜花」I-13は、I-18 と同じく、1945年4月1日、沖縄本島に初上陸したアメリカ軍が、読谷村に1944年に建設された陸軍北飛行場で鹵獲した機体。1945年6月26日に撮影。1944年7月24日捷号作戦に関する陸海軍中央協定が締結され、捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一指揮が図られた。つまり、航空部隊の指揮一元化を目的に、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945
Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval District
Description: color
Catalog #: 80-G-K-5888
Copyright Owner: National Archives
Original Creator:
Original Date: Tue, Jun 26, 1945 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5888 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945引用。
陸軍沖縄北飛行場(読谷)に海軍の「桜花」が置かれた理由は、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が締結されたことと関連している。アメリカ空母任務部隊を迎撃する捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一的指揮が急務となり、捷号作戦に関する陸海軍中央協定が結ばれた。ここでは、航空部隊の指揮一元化のために、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が司令部となって、陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。
写真(右):1945年6月(?)、沖縄、嘉手納基地の司令部前に展示された、鹵獲した自殺攻撃機「桜花」"BAKA" BOMB(バカ爆弾)I-18:胴体後方に円筒型のロケット推進機(噴進装置)が識別できる。桜花のマークの先に「I-18」と記入されている。ほかにI-13と記入された機体もある。これは、一見、日本軍が記入したオリジナルようで、現在保管されている「桜花」にも同じ記号を付けて展示している。しかし、第一に、日本軍が、英語か日本語かわかりにくい「I」を記入した点に疑問が残る。「II」の記入はないのか。アメリカ軍は、日本の伊号潜水艦のイ(伊)を「I」で代用したのを踏まえると、I-13、I-18といった記号は釈然としない。第二に、日本海軍は、空母「雲竜」や空母「信濃」に「桜花」を乗せて、前線近くの航空基地に運搬しようと試みた。この2隻の空母は「桜花」輸送途上で、ともにアメリカ潜水艦に撃沈されてしまったが。沖縄に送られた「桜花」も運搬されてきたものだが、アメリカ軍が鹵獲した基地は海軍の小禄飛行場ではなく、陸軍の沖縄北飛行場(読谷)だった。ここに海軍部隊はいなかったと思われるが、それでもI-13、I-18と陸軍兵士が記入したとは思えない。自分たちが搭乗しない「桜花」に手を入れることはしないはずだ。 Title: YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft, 1945
Caption: YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft on display in front of Eighth Air Force Headquarters, Kadena Air Base, Okinawa, Japan in 1945.
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Catalog #: NH 101690
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 101690 YOKOSUKA MXY "OHKA" Suicide Attack Aircraft, 1945 引用。
横須賀Yokosuka MXY-7 Ohka (桜花 "cherry blossom") 海軍航空技術廠 MXY-7「桜花」は,大田正一少尉が考案したとの俗説があるが,一下級士官が新兵器の試作を,暇な時間に自主的に行うことなど,軍隊という組織では考えられない。
横須賀の海軍航空技術廠の開発したMXY-7「桜花」は,増速用ロケット推進装置をつけた飛行爆弾で、全長6?ほどの胴体に幅5?ほどの小さな翼をつけた。体当たり自爆用なので,帰還・着陸するために必要な脚や車輪など降着装置はない。「桜花」胴体の頭部が 1.2?の大型爆弾、中央部がパイロットの座席、後部に推進用火薬ロケットが収納されている。全重量約2?。
母機の一式陸上攻撃機に懸吊(ちょう)して運ばれ、敵艦に接近して投下された人間爆弾「桜花」(Yokosuka MXY7 Ohka)は滑空を主に、ときにはロケットを噴射し、パイロットもろとも敵艦に突入する。
1945年3月21日、日本軍は人間爆弾「桜花」を初めて使用した。「桜花」とは全長6mの翼をつけた1.2トンの小型飛行爆弾で,体当たり自爆用なので車輪など降着装置はない。母機の一式陸上攻撃機に懸吊、目標に接近してから投下される。「桜花」の搭乗員は、滑空させて目標に接近し,ロケット噴射して時速600-680kmで敵艦に体当たりする。「人間棺おけ」と呼ぶ搭乗員もいたという。
1945年3月21日出撃した第五航空艦隊(司令官宇垣纒中将)の第一次神雷攻撃隊は、鹿屋基地を発進した桜花15機を吊るした母機の一式陸攻15機で、戦闘機50機が護衛する予定だった。しかし、戦闘機は、機体不調などの理由で30機の護衛にとどまった。神雷部隊は、多数の米戦闘機に迎撃され、敵艦艇近くの「桜花」投下地点まで到達できないうちに,攻撃隊は母機もろとも全滅する。陣頭指揮していた野中五郎少佐は戦死し、特攻隊として戦死した初めてで最後の佐官となった。(私兵特攻の宇賀機中将は除く。)
1945年3月21日、第五航空艦隊(司令官宇垣纒中将)第一次神雷攻撃隊の出撃当日、宇佐空の練習航空隊は廃止され,教官(士官)・教員(下士官以下)による特攻隊が編成された。これは、指名による特攻隊への転換であり、志願による特攻隊員募集ではない。ここでは、錬度・技量の高い搭乗員は、通常攻撃部隊にまわされたようだ。(城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』参照。)
1945年3月21日、日本軍は人間爆弾「桜花」を第五航空艦隊(司令官宇垣纒中将)式の下で初めて実戦投入した。「桜花」とは全長6mの翼をつけた1.2トンの小型飛行爆弾で,体当たり自爆用なので車輪など降着装置はない。母機の一式陸上攻撃機に懸吊、目標に接近してから投下される。「桜花」の搭乗員は、滑空させて目標に接近し,ロケット噴射して時速600-680kmで敵艦に体当たりする。「人間棺おけ」と呼ぶ搭乗員もいたという。
1945年2月、日本本土近海の防衛を考えた日本海軍は,九州方面に海軍の生成航空部隊を集めて、第五航空艦隊を設立した。五航艦司令官は宇垣纒中将で、ここに神雷部隊が配属され、戦うことになる。その経緯を、宇垣纒中将『戦藻録』から再現してみよう。
レイテ沖海戦の敗北から日本に帰っていた宇垣纒中将は、 1945年1月19日「保健第一として此の際 熱海方面に保養する事と決意し、1115自宅発 猟銃を肩に横浜より大垣行き列車に乗る。三等車に飛び込んだ儘身動きならず。立った儘にて熱海伊豆山水光荘に辿りつき」 2月9日、酒を楽しんでいると警察より電話で帰京を促してきた。海軍省人事局によれば、明日、天皇による親補式があることが判明。「最後の御奉公の時と覚悟す」。
1945年2月10日、熱海から帰宅、空襲警報で親補式は取り止めになり、新設の第五航空艦隊司令長官に補任された。1630「官邸に於ける大臣総長の招宴に赴く」
2月12日「吹上御苑内の防空殿に於いて拝謁」「此度は御苦労である の御言葉を拝するの光栄に浴す。恐縮感激の至りなり。終わって賢所参拝あり 任務達成を神前に誓ふ。」
2月14日1330厚木基地初、輸送機で1750鹿屋基地着。「疎開新建のバラック庁舎に入り将旗を掲ぐ。」
宇垣纒中将の五航艦(第五航空艦隊)は、次のような部隊を指揮下に置いた。
第203航空隊(零戦)
第343航空隊(戦闘機「紫電」)
第171航空隊(偵察機「彩雲」)
第801航空隊(二式大型飛行艇、元の横浜航空隊)
第701航空隊(艦上爆撃機「彗星」、艦上攻撃機「天山」)
第762航空隊(一式陸攻、陸上爆撃機「銀河」、陸軍四式重爆「飛龍」)
第721航空隊(桜花特攻神雷部隊)
1945年2月16日,「敵機動部隊は、本早朝より関東方面、北は原町より南は硫黄島、西は浜松方面まで艦載機を以って三次に亘り我が航空基地・軍事施設・艦船を攻撃せえり」連合艦隊司令長官は、台湾、南西諸島、九州での決戦を企図した捷三号作戦警戒基地航空部隊発動を下令したが、「遂に関東方面を奇襲せられ、陸海飛行機の地上損失150機に及ぶ。其の他、施設艦隊の被害も相当なるべし。」
2月17日,敵空母機動部隊がウルシー基地に帰投後に特攻をかける丹作戦が第五航空艦隊に下令された。
2月19日,「本朝8時、敵は硫黄島に遂に南岸より上陸を開始せり。-----南飛行場はあっ気なく悲鳴を万歳三唱に挙げ、敵は西岸に擂鉢山に向かう報ず。陸軍の自信ならばあてにはならざるも、海軍自体にて相当堅固を以って任じたる同島が此の仕末とは全くあきれ返らざるを得ず」連合艦隊司令長官「GFはアッサリかんと---指揮官の捷三号作戦部隊の指揮を解き」攻撃は尻切れトンボとなったが、宇垣長官は「戦力増強」戦力温存に努めた。
2月21日,「鹿屋のすき焼き屋あみ屋で司令部の夕食会を催す。----肉と酒に不足なし。」
2月27日2000前、「雷鳴の如き異常の音響に続いて爆弾の炸裂音を聞く。」これは九州南部へのB-29爆撃機による高高度偵察爆撃の始まりだった。 3月5日「0000、第一回総合訓練を開始し、目標隊たる第十七駆逐艦隊の2艦、大分より出航、土佐沖に進出。此れに対し飛行機の索敵接触を行ふ。」
3月6日,「哨戒には60機の哨戒機と多量の燃料を必要とし、此れ亦行きづまりなり。情けなき哉。」
3月8日,「夜半、桜花の装備を実視し又夜明後、神雷隊出発、敵機の来襲被害措置等を現場につき視察す。」
1945年3月9日,「第一回総合訓練の研究会を行ふ。本教練明らかに失敗し----各部隊擦り合わせ完からず、技量も亦甚だ稚拙なるに起因」の状況だった。しかし「彩雲」偵察機によるウルシー偵察の結果、正規空母6、特設空母9、さらに入港する空母4ほかを発見との報告があり、「明朝第二次丹作戦決行と決意す。」
3月11日、第二次丹作戦決行、0800二式大型飛行艇1機、0820機械不調で遅れた二式大型飛行艇1機が誘導に先行出発、0900陸上爆撃機「銀河」24機が離陸した。ウルシー日没の1852になっても、エンジン故障の不時着電のほかなかった。「1858に到り、我奇襲に成功、1900全軍必中突撃せよ、1903我正規空母に命中せんとす、1905正規空母に命中、1906我突入せんとす、1908我奇襲に成功などの電文を傍受した。第二航空軍「神[重徳]参謀連絡の為来隊、丹作戦の最後の幕を作戦室に聞き喜ぶ。」
1945年3月12日、第二次丹作戦に出撃した陸上爆撃機「銀河」の「不時着機の報告次々と入電」鹿屋、沖縄、宮古に各1機、南大東島4機、ヤップ島4機、途中不時着2機、発動機故障1機。出撃した銀河24機中14機と58.3%が目標に自爆できずに、不時着したり墜落したりした。「ミストありて視界不良艦型識別不能なりしに因る。」また「誉」の不調・故障、航続距離の不足、攻撃時間が日没1時間以上となりこの遅延による目標発見の困難が指摘された。
1945年3月13日、丹作戦で3月11日に出撃、不時着していた陸爆「銀河」の「南大東島より輸送機にて搭乗員が帰着。----偵察写真の判読の詳細を電報し来る戦果皆無なるが如し。不時着による銀河10機分の搭乗員を残したるはせめてもの幸福なり。」
1945年3月17日、陸軍の第六航空軍司令官菅原道大中将が来訪。菅原道大中将は、1944年12月26日から終戦まで第六航空軍司令官で、この日の午後、鹿児島の海軍基地を視察をする予定だったが、敵機動部隊が14日ウルシーを出撃北上中の中央の判断がなされ、取りやめになった。そこで、菅原道大中将の部下が福岡より鹿屋に飛来し、通信施設の状況調査を行った。「将来提携を密にする必要あ相手として打合せを為す。」この記述から見れば、1945年3月の沖縄方面の危機が迫っている状況でも、九州の陸海軍航空部隊の通信連絡は不十分であり、陸海軍機の作戦連携など全く基盤ができていないことが分かる。
「2230頃より逐次、九州南東海上に敵の三群を探知するに至りる。之より壕内作戦室に入り、敵機動部隊迎撃戦に入る。」
連合艦隊司令部の置かれた「日吉よりの電話連絡は、中央にて機動部隊に対する方針を協議中にして中々決せず、大勢は、[戦力]温存主義に傾きたり。」
1945年3月18日、連合艦隊の電令作第564A号では、南西諸島(沖縄方面)に敵が上陸企図を持っており、「敵攻略部隊南西諸島方面に来攻せば、陸軍部隊と緊密なる協同を以ってGF全力を挙げて之を撃滅、南西諸島を確保せんとす。----本作戦を天一号作戦と呼称」とされた。 しかし、同時に連合艦隊の電令作第564B号では、「当分の間、敵攻略部隊来攻の時迄、敵機動部隊に対する航空作戦は左に準拠すべし。」 1.敵機動部隊が関東方面に来襲した場合、「積極作戦を避け沈着温存に努む。 2.「九州方面来攻の場合は、前項に準じ兵力の温存に努む。但し南西諸島攻略部隊、確実に至らば断固之が撃滅に努む。」
このような曖昧な作戦指導に対して、第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将は「東京の腹が定まらざる裡の準備にて数々苦心し判然たる攻撃準備命令を出し得ざりしなり。---敵の四群は遠慮なく進攻し来る、兵力を温存せんとして温存し得るの状況にあらず。地上に於いて喰われるに忍びず、加ふるに南勢方面に対する攻略の前提ならずと誰が判定し得ん。慎重考慮の結果、成否に対し全責任を負い、0205全力攻撃を決意、第一戦法発動を下令す。」
第一戦法とは、艦上攻撃機「天山」、陸軍四式重爆「キ67飛龍」による夜間雷撃攻撃、続いて陸上爆撃機「銀河」による雷撃・急降下爆撃の黎明攻撃、艦爆「彗星」や250キロ爆弾を搭載したゼロ戦特攻機による昼間全力強襲という波状攻撃である。
「敵機は0540より0950迄に連続来襲、其の数南九州に於いて375機に達せり。然れども其の来襲状初期に於いては極めて低調不揃いにして我が夜間攻撃の結果なりと認められたり。---敵の第一波攻撃を受けて以来、予期の如く各基地の通信系(陸上架線)切断し連絡不良、且つ各基地共数次の波状攻撃を受け履く爆攻撃不能となり夜間攻撃実施に転ず。神雷(桜花)部隊も使用の機を認め、攻撃準備を下令するも、配備機基地分散しあり、命令遅達と敵機の制圧の為、準備間に合わず。夜間及び黎明攻撃に備え飛行艇5機を以って夜間索敵を下令す。」
1945年3月20日、「夜間索敵は2300頃より敵を捕捉、0010及び0530頃、火柱1、炎上中のもの2、爆発1を認めるも、攻撃隊よりの報告なく、詳細不明なり。」「朝来、自軍飛行機状況不明にして、攻撃後、退避基地等に分散攻撃続行に不安あり。迅速に根拠基地作戦基地に帰投、兵力の整頓整備に全力を盡すべきを下令せるも、動きは極めて緩慢にして作戦可動数激減せり。」 「夜間索敵不能の為、動静不明---彩雲の黎明偵察により1030頃、都井岬東方120マイルを南下中の敵は6,4,1の空母を含む3群なる事判明」「一段二段三段の索敵に続き夜間陸攻4機は南下中の敵4群を探知し接触を持続したり。----その速力10−12ノットなるに鑑み、神雷攻撃の好機至るべく、準備を下令したり。」
1945年3月21日、「天山・銀河20機を以って早朝攻撃ーー巡1に雷撃、他に2機突撃を報ぜるも、効果不明なり。早朝索敵の結果、都井岬145度320マイル付近に2群空母を発見す。敵は相当大なる損害を蒙りたるものの如く、上空警戒も少し、加ふるに天候快晴視界30マイル、距離稍遠くなるも神雷には問題たらず。18日以来、特攻兵力の使用の機を窺い続け、何とかして本法に声明を与えんとしたり。今にして機を逸せば再び遠くウルシーに梓隊[銀河]の遠征を余儀なくせられ、而も成功の算大ならず。如かず今、神雷攻撃を行ふにはと決意し、待機中の桜花隊に決行を命ず。」
「神雷部隊は陸攻18(桜花搭載16)1135鹿屋基地を進発せり。桜花隊員の白鉢巻、滑走中の1機に瞭然と眼に入る。成功して呉れと祈る。然るに55も出る筈の援護戦闘機は整備完からずして30機に過ぎず---」「壕内作戦室に於いて敵発見、桜花部隊の電波を耳をそばだてて待つこと久しきも、杳として声無し。今や燃料を心配し来し「敵を見ざれば南大東島へ行け」と令したるも、此れ亦何等応答する無し。其の内、援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を到せり。即ち、1420頃、敵艦隊との推定50、60マイルに於いて敵グラマン約50機の迎撃を受け、空戦、撃墜数機なりしも、我も離散し、陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に会せりと。嗚呼。」
写真(右):1945年4月1日、沖縄の読谷飛行場(日本陸軍の沖縄北飛行場)でアメリカ海兵隊が鹵獲した人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") I-13の正面。:1945年6月26日撮影。陸軍沖縄北飛行場(読谷)で海軍の「桜花」が鹵獲された理由としては、1944年7月24日、捷号作戦に関する陸海軍中央協定があげられる。アメリカ空母任務部隊に対抗するために、陸海軍の航空戦力の指揮一元化が求められ、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。この結果、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊の隷下に、陸軍の第八飛行師団が編入されることになった。
Title: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured intact by Marines on Okinawa, 26 June 1945
Caption: Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") piloted flying bomb which had been captured intact by Marines on Okinawa. Photographed 26 June 1945, while under study by experts at N.A.M. Navy Air Material Unit. Photo by 4th Naval
Description: color
Catalog #: 80-G-K-5885
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Tue, Jun 26, 1945 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-K-5882 Japanese YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA") captured on Okinawa, 26 June 1945引用。
写真(右):1945年3月21日(?)、九州の鹿屋基地、沖縄攻防戦に投入された神雷部隊は、一式陸上攻撃機に人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載する特攻部隊だった。初出撃は、1945年3月21日の南西諸島での戦いである。一式陸攻が編隊を組んで、ゼロ戦の援護の下に出撃した。しかし、敵空母艦上戦闘機に攻撃され、一式陸攻は「桜花」もろとも、あるいは桜花を投棄し遁走したが、全機撃墜された。
: Title: Japanese bomber crews relax.
Caption: Japanese standby bomber crews relax on an airfield in Japan, 1945. The "BETTY" bomber in the background is carrying an "OHKA" (BAKA) piloted bomb beneath its fuselage.
Catalog #: NH 73100
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73100 Japanese bomber crews relax. 引用。
人間爆弾「桜花」は、奇襲特殊兵器「マルロク」の人無名称で呼ばれ、1944年3月、すなわちゼロ戦に250キロ爆弾を搭載して体当たりする神風特攻隊がフィリピンで活動する半年前から、日本海軍が開発していた。「桜花」は機首に1.2トンの弾頭を搭載し、滑空、敵艦船に体当たり自爆する人間爆弾である。自らの動力で飛行することはできないため、一式陸上攻撃機(G4M1)の胴体に吊るされ、目標近くまで運搬、そこから搭乗員が「桜花」に乗り、切り離す。陸攻から投下された人間爆弾「桜花」は、目標まで搭乗員が操縦し、目標まで操縦、突入するのである。
人間爆弾「桜花」を装備した初めての部隊が、第五航空艦隊司令官宇垣纒中将隷下の神雷部隊である。神雷部隊150名のうち予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者は143名、海軍兵学校出身者は7名。隊長 野中五郎少佐は、二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟である。
人間爆弾「桜花」を搭載した神雷部隊の野中五郎少佐は,特攻隊を陣頭指揮し戦死した佐官以上の高級将校の数少ない事例となった。海軍兵学校出身将校(卒業生1万1,182名)は,ほとんど特攻出撃しておらず、特攻隊の自爆要員は、未熟練な予科練の学徒兵と少年兵から集中して人選されている。「特攻は自然発生的な志願」であれば、なぜ(死後昇進ではなく)出撃時に佐官以上の高級将校,海軍兵学校出身のエリート士官は,ほとんど特攻しなかったのか。
写真(右):1945年3月21日、九州の鹿屋基地、沖縄攻防戦に投入される神雷部隊。一式陸上攻撃機に人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載する特攻部隊だった。初出撃に登場する人間爆弾「桜花」の搭乗員と思われる。「非理法権天」の旗は、「非は道理に劣り、道理は法に劣り、法は権威(権)に劣り、権威は天に劣る」すなわち価値観の順位を定めたものだが、軍国主義の日本では、「非理法権天」は、絶対天皇制、皇国史観を体現するものとして、特別攻撃隊が旗として使った。
: Title: "OHKA" (Baka) bombers.
Caption: Scene at Kanoya Airfield, Japan, Just prior to the departure of Lieutenant Commander Goro Nonaka's "OHKA" (Baka) bomb carrying bomber groups on a mission to attack U.S. Navy carrier forces operating off Japan, on 21 March 1945. Virtually all of these bombers were shot down by defending U.S. Navy fighters, and no "OHKA" hits were scored. Note the unit's distinctive "HI RI HO KEN TEN" banner.
Catalog #: NH 73101
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: NH 73101 "OHKA" (Baka) bombers. 引用。
写真(右):1945年3月21日、沖縄方面に初出撃した「桜花」特攻隊・神雷部隊の一式陸攻が撃墜される場面を移したガンカメラの静止画像。一式陸攻は胴体下部に、人間爆弾「桜花」( YOKOSUKA MXY7 OHKA ("BAKA")を搭載している。: Title: Gun camera photographs
Caption: Of a Japanese Mitsubishi G4M "Betty" bomber carrying a "Baka" piloted bomb.
Catalog #: 80-G-185585
Copyright Owner: National Archives 写真はNaval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-185585 Gun camera photographs引用。
1945年3月21日、「桜花」特攻隊員は一式陸攻に乗機し、ゼロ戦の援護の下に出撃し、敵発見後に母機から「桜花」(Yokosuka MXY-7 Ohka "BAKA") に乗り移ることになっていた。初出撃した一式陸攻搭載の「桜花」特攻隊・神雷部隊は、編隊を組んで、ゼロ戦の援護の下に出撃した。
しかし、編隊を組んで進撃中の「桜花」搭載の一式陸攻は、敵目標を発見する前に、レーダーと無線通信で誘導されたアメリカ海軍空母任務部隊の艦上戦闘機に襲撃された。多数の艦上戦闘機に攻撃されたため、一式陸攻での目標到達は不可能と判断、身軽になって退避し、再起を図るしかなかった。しかし、アメリカ海軍艦上戦闘機の攻撃は執拗であり「桜花」(Yokosuka MXY-7 Ohka "BAKA") 部隊は全機喪失の憂き目に遭った。
秘密兵器の人間爆弾「桜花」は、沖縄攻防戦の切り札となるように思えるが、実際に激しい航空特攻が始まるのは、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した1945年4月1日以降、日本海軍の菊水作戦、陸軍の航空総攻撃が発動されてからである。特に第二艦隊旗艦戦艦「大和」(艦長・有賀幸作大佐)の指揮する第一遊撃部隊の沖縄への「天一海上特攻」がかけられた4月6日からは、沖縄周辺で、激しい戦いが繰り広げられた。
写真(右):1945年4月3日(火曜)、沖縄本島西岸、読谷海岸に上陸する戦車揚陸艦LST(Landing Ship, Tank)・中型揚陸艦LSM (Landing Ship Medium)などのアメリカ海軍艦艇; 手前の地上里は水陸両用舟艇LVT(Landing Vehicle Tracked)が走行している。戦車揚陸艦LSTは、基準排水量:1,625t、満載排水量:4,050t 、搭載能力:M4シャーマン中戦車18両、揚陸部隊160名。中型揚陸艦LSMは基準排水量 743トン、満載排水量: 1,095トン、搭載能力:最大165トン、揚陸部隊48名。
Title: Okinawa Landings, April 1945
Caption: View of one of the beaches taken by CPhoM E.W. Peck, of USS TULAGI (CVE-72), 3 April 1945. Several LSTs and LSMs are on the beach with other shipping offshore. Note LVTs in fields on the foreground.
Description:
Catalog #: 80-G-339237
Copyright Owner: National Archives
Original Creator: CPhoM E.W. Peck
Original Date: Tue, Apr 03, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339237 Okinawa Landings, April 1945 引用。
写真(右):1945年4月6日(火曜)、沖縄攻略作戦、菊水第一号作戦、航空総攻撃による特攻攻撃を受けるアメリカ海軍第58.1任務群のクリーブランド級軽巡洋艦「ヴィンセンス」 (USS Vincennes, CL-64) ; ゼロ戦特攻機が軽巡洋艦「ヴィンセンス」近くに墜落した。写真は、 クリーブランド級軽巡洋艦「マイアミ 」(USS Miami, CL-89)から撮影。クリーブランド級軽巡洋艦「ヴィンセンス」は、起工: 1942年3月7日、進水: 1943年7月17日、就役: 1944年1月21日、基準排水量: 10,000 トン、全長: 610 ft 1 in、全幅: 66 ft 6 in、吃水: 20 ft、
最高速力: 33 ノット、乗員: 992名、兵装: 6インチ(15.2cm)砲12門、5インチ(12.7cm)対空砲12門。
Title: Okinawa Campaign, 1945
Description: A Japanese Zeke airplane splashes into the sea astern of USS Vincennes (CL-64), during an attack on Task Group 58.1 off Okinawa on 6 April 1945. The original caption states: Broadness of splash indicates plane either had no bomb, or that it did not explode, as tall, thin column, characteristic of bomb explosion, is missing. Photographed from USS Miami (CL-89). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-324533 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-324533 Okinawa Campaign, 1945引用。
1945年4月5日の午前、第五航空艦隊の宇垣纒中将は、各隊指揮官を集め、菊水第一号作戦の打合せを行ったが、GF(連合艦隊司令長官)豊田副武大将が九州鹿屋に将旗を委譲するとの電話連絡が入った。宇垣纒中将『戦藻録』の1945年4月5日(木曜:晴れ)には「天下分け目の関ケ原なれば当然とや云わん」沖縄地上守備隊第三十二軍の長勇参謀長も、今までの沖縄地上持久戦を改め、首里の陣地から「七日を期し北方に攻勢をとる事に決せり。而して航空攻撃を同日に繰り下ぐる要望を出せるが之も撤回したり。よくぞ翻意せる!」GFは大和及び二水戦(矢矧、駆逐艦6)を水上特攻隊とし六日豊後水道出撃八日沖縄島西方に進出敵を掃蕩すべき命令をだせり。決戦なれば之もよからん」とある。
写真(右):1945年4月7日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」、日本軍特攻機が突入、命中したアメリカ海軍エセックス級航空母艦9番艦「ハンコック」(USS Hancock, CV-19)。: 空母上空には、ジェネラルモーターズTBM「アベンジャー」"Avenger"雷撃機が旋回している。
Title: Okinawa Campaign, 1945
Caption: USS HANCOCK (CV-19) afire after being hit by a kamikaze attack off Okinawa, 7 April 1945. Note fires burning fore and aft, and TBM "Avenger" flying over the carrier. Photographed from USS PASADENA (CL-65).
Catalog #: 80-G-344876
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Sat, Apr 07, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-344876 Okinawa Campaign, 1945引用。
1945年4月6日、日本海軍は、第五航空艦隊司令官宇垣纒中将の部隊を中核に、沖縄特攻菊水作戦の一環として、次の特攻隊を出撃させた。
日本海軍D3A2愛知九九式艦上爆撃機二二型:全長 10.231 m 、全幅 14.360 m、全高 3.348 m
翼面積 34.97平方メートル、自重 2,750 kg、全備重量 3,800 kg、発動機 三菱 金星五四型
離昇出力 1,300馬力、最高速度 427 km/h(高度5,650 m)、上昇限度 10,500 m、航続距離 1,050 km、兵装 機首:7.7ミリ機銃2丁、後方:7.7ミリ旋回機銃1丁、搭載量:250キロ爆弾 1発、60キロ爆弾 2発、乗員 2名
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神風特攻忠誠隊:彗星D4Y 3機:台湾新竹発:一飛曹 南義雄指揮官
神風特攻勇武隊:銀河P1Y 4機:直掩、零戦4機:台南発:中尉 根元道雄指揮官
神風特攻第三建武隊:爆装戦闘機(ゼロ戦)19機:鹿屋発:中尉 森忠司指揮官
神風特攻第一筑波隊:爆装戦闘機48機:鹿屋発:中尉 福寺薫指揮官
神風特攻第17神剣隊:中尉 松林平吉
神風特攻第一筑波隊:大尉 宮武信夫
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機20機:第一国分発:中尉 宮本十三指揮官
神風特攻第三御楯252隊:彗星24機:第一国分発:中尉 荒木武指揮官
神風特攻第三御楯601隊:中尉 百瀬甚吉指揮官
神風特攻第201彗星隊:大尉 児玉光雄指揮官
神風特攻菊水天山隊:天山B6N 16機:串良発:中尉 斉藤禄郎指揮官
神風特攻菊水天山隊:少尉 熊沢康夫指揮官
神風特攻第三御楯天山隊:少尉 吉田信太郎指揮官
神風特攻第一八幡隊:九七艦攻B5N 30機:串良発:大尉 山下博指揮官
神風特攻第一護皇白鷺隊:大尉 佐藤清指揮官
神風特攻第一正統隊:九九艦爆D3A 49機:第二国分発:大尉 桑原知指揮官
神風特攻第一八幡護皇隊:中尉 寺内博指揮官
神風特攻第一草薙隊:中尉 高橋義郎指揮官
日本陸軍立川キ36 九八式直接協同偵察機 :全長: 8.0 m、全幅: 11.8 m、全高: 3.3 m、主翼面積: 18.1平方メートル、自重: 1,247 kg、全備重量: 1,649 kg、発動機: 日立 ハ13甲 空冷単列星型9気筒エンジン 510 hp/2300 rpm、最高速力: 349 km/h、航続距離: 1,100 km、兵装: 前方右側固定7.7ミリ八九式機関銃1丁、後方7.7ミリ旋回機関銃1丁、搭載量 胴体下250キロ爆弾あるいは 主翼下面12.5キロ爆弾10発、特攻時は胴体下500キロ爆弾搭載可能、
乗員: 2 名。
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1945年4月6日、日本陸軍は、沖縄特攻航空総攻撃の一環として、次の特攻隊を出撃させた。
陸軍特攻誠第36飛行隊:キ36九八式直協10機:新田原発:中尉 住田乾太郎指揮官
陸軍特攻誠第37飛行隊:九八式直協9機:新田原発:中尉 柏木誠一指揮官
陸軍特攻誠第38飛行隊:九八式直協7機:新田原発:少尉 喜浦義雄指揮官
陸軍特攻第22振武隊:キ43一式戦2機:知覧発:少尉 西長武指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦4機:知覧発:少尉 小原幸雄指揮官
陸軍特攻第62振武隊:キ51九九襲撃機5機:万世発:少尉 富沢健児指揮官
陸軍特攻第73振武隊:九九襲撃機12機:万世発:少尉 高田鉦三指揮官
陸軍特攻第一特別振武隊:キ84四式戦8機:都城西発:少尉 林弘指揮官
写真(右):1945年4月6日(金曜)、沖縄攻略作戦時に日本軍特攻機に体当たり攻撃を受けるアメリカ海軍戦車揚陸艦LST-447; LST-447は火災を起こし翌日沈没した。写真は カサブランカ級護衛空母「ツラギ 」(USS Tulagi, CVE-72)から撮影。 Title: Okinawa Operation, 1945
Caption: USS LST-447 is hit by a kamikaze while entering the Kerama Retto roadstead on 6 April 1945. Photographed from the deck of USS TULAGI (CVE-72) BY PhoM1c C.C. Gemmill. LST-447 was gutted by fire after this hit and sank the following day.
Catalog #: 80-G-339258
Copyright Owner: National Archives
Original Creator: PhoM1c C.C. Gemmill
Original Date: Fri, Apr 06, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339258 Okinawa Operation, 1945引用。
写真(右):1945年4月6日(金曜)夕刻、沖縄、慶良間列島泊地、日本軍特攻機の攻撃を受け対空砲火で応戦するアメリカ海軍艦艇; 写真は 機雷敷設艦「テロール 」(USS Terror :CM-5) から撮影。 Title: Okinawa Campaign, 1945
Caption: Kamikaze attack on shipping at Kerama Retto anchorage, at dusk, on 6 April 1945. Note heavy anti-aircraft fire. Photographed from USS CHANDELEUR (AV-10). USS TERROR (CM-5) is in the left center.
Catalog #: 80-G-311870
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Fri, Apr 06, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-311870 Okinawa Campaign, 1945引用。
1945年4月6日午後、日本海軍の菊水一号作戦で発進した特攻機1機が、17時頃、フレッチャー級駆逐艦「ニューコム」 (USS Newcomb, DD-586) の二番煙突に突入し、2機目が砲塔に、3機目が船体中央部に突入し、「ニューコム」船体中央は火災となり、大きく損傷した。そこに、4機目の特攻機が来襲、船体中央部に突入した。僚艦フレッチャー級駆逐艦「ロイツェ」(USS Leutze, DD-481)が消火、救援に当たったものの、さらに5機目の特攻機が中央部に命中し、「ニューコム」動けなくなった。被害は戦死18名、行方不明25名、負傷64名にとどまった。駆逐艦「ニューコム」 (USS Newcomb, DD-586) は、曳航されて沖縄本島西方の慶良間諸島の泊地に退避した。
写真(右):1945年4月6日(金曜)、沖縄攻略戦に参加した際、特攻機の命中を受けたアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ニューコム」 (USS Newcomb, DD-586) ; 起工 1943年3月19日、進水 1943年7月4日、就役 1943年11月10日、基準排水量 2,050トン、全長 376 ft 5 in (114.7 m) 、全幅 39 ft 7 in (12.1 m)、吃水 17 ft 9 in (5.4 m)、機関 2軸6万馬力、最高速力 35ノット、航続距離 6,500マイル (12,000 km)/15ノット、乗員 329名、
兵装 38口径5インチ砲5門、40mm対空砲10門、20mm対空砲7門、21インチ魚雷発射管10門。 写真は 4月11日撮影。 Title: USS NEWCOMB (DD-586)
Caption: Damage received from kamikaze hits off Okinawa on 6 April 1945. Photographed on 11 April.
Catalog #: 80-G-330100
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Wed, Apr 11, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-330100 USS NEWCOMB (DD-586) 引用。
宇垣纒中将『戦藻録』1945年4月6日(金曜、半晴) 菊水一號作戦 「沖縄周辺の敵に対し夜間攻撃を実施し早朝広範囲の索敵を行う。奄美大島の南方に敵機動部隊2群(空母6)を発見控置兵力を攻撃に指向す。午後に至りさらに2群(6隻の空母)を発見空母は食われずして尚12隻を存したり。」 「『我空母に体当たりす』と云う外成果不明なるも敵電話の狼狽振り及び救助要求等より空母4隻を撃沈破せる事概ね確実なり。海上視界の状況余り良好ならず雲量10にして敵発見得ざりしものは沖縄周辺の敵に向かって特攻するを以って無駄は無きなり。 一方正午過第一波戦闘機(27機)隊は敵機の釣り上げを行い、第二、三、四(各第一波と同機数)波は沖縄島を制空し、陸軍戦闘機隊(約40機)は奄美大島線にバリカン運動を行い何れも特攻隊の進出を容易ならしむ。又陸軍司偵を以って東方に欺瞞紙(レーダ欺瞞用の錫箔テープ)を散布す。」
「此の虚に乗じ海軍特攻隊は(十航艦の分)110余機西方に迂回航路をとり沖縄の敵艦船に体当たり攻撃を行う。六航軍陸軍特攻90機も亦概ね同時刻突入し、八航軍、一航艦の分も亦之に策応したるを以って、沖縄島周辺は全く修羅場となり偵察機の報告は黒煙150本とも云いよく視認し得ざる状況なるが如し。通信可能の特攻隊は何れも敵戦闘機の攻撃を受くる事なく敵を発見突入せるより見て殆んど大部が成功せるものと認む。」
写真(右):1944年6月16日、カリフォルニア州メーアアイランド海軍工廠、フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ 」(USS Bush, DD-529)上部右端に巡洋艦「ソルトレーク」USS Salt Lake City (CA-25)が見える。:
Title: USS Bush
Description: (DD-529) Plan view aft, taken from a pierside crane at the Mare Island Navy Yard, California, 16 June 1944. USS Salt Lake City (CA-25) is partially visible in the upper right. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command.
Catalog #: NH 98931 写真はNaval History and Heritage Command NH 98931 USS Bush引用。
1945年4月の沖縄攻略戦で、フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ」(USS Bush, DD-529)は、沖縄周辺に来襲してくる特攻機を警戒するレーダーピケットの任に着いた。4月6日、特攻機3機の襲撃を受け、1515に最初の1機煙突の間、右舷上甲板に命中し、機関室前方で爆発し、魚雷が誘爆したため、大きな損傷を受けた。フレッチャー級駆逐艦「コルホーン」 (USS Colhoun, DD-801) が救援に駆け付けたが、同じく特攻機の襲撃を受けた。1725、さらに1機の特攻機が駆逐艦「ブッシュ」(USS Bush)左舷上甲板、煙突の間に突入し、船体を切断した。1745、3機目の特攻機が左舷上甲板に突入し、弾薬が誘爆し、中央部が大破した。戦死・行方不明87名の損害を出し、「ブッシュ」は沈没した。
宇垣纒中将『戦藻録』1945年4月7日(土曜、曇)
「昨日発見の機動部隊は12隻の空母を含み相当の打撃を与えたるも、彼が積極企図を有せば算無しとせず。昨夜250海里の夜間索敵を実施し本日の迎撃に備えたるが敵を見ずして終れり。」
「本早朝索敵に於て昨日の戦場近くエセックス型2、特空母1の多量の油を引きつつ南西に4−5ノットにて徐航するを発見す。正に昨日の損傷艦にして南下して沖縄南東方に空母2及1戦艦を含む部隊を発見し、又沖縄島よりに特空母4隻を発見す。」
「嘉手納西方海面、糸満南西海面、沖縄南方海面を合して本朝來の合計
轟沈 戦艦2、艦種不詳2、大型3、小型2、計9隻
撃沈 T[輸送船]5、艦首不詳1
撃破 戦艦1、炎上 駆逐艦1、輸送船6、小型2、艦種不詳9、合計19。 総計34隻 海軍艦船2、火柱14本、爆発3あり。」(『戦藻録』1945年4月7日引用終わり)
第五航空艦隊司令官宇垣纒中将は、戦艦2隻の轟沈を確信しているが、実際には戦艦「ノースカロライナ 」(USS North Carolina, BB-55)が友軍の誤射で損傷しただけだった。他方、長官か空母撃沈を記していないのは正確で、アメリカ海軍では、インディペンデンス級軽空母「サン・ジャシント」USS San Jacinto, CVL-30)に特攻機が命中したものの、中破だった。
実際の沈没艦艇は、アメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ 」(USS Bush, DD-529),「コルホーン」 (USS Colhoun, DD-801) で、これらは甲板前後に複数の連装砲塔を構えた大型艦隊駆逐艦で、艦橋・マストも電子装置を搭載して大型だったために、初見だった日本軍搭乗員は、これを戦艦と見誤ったのではないか。短時間の間に、1隻の駆逐艦に5機もの特攻機が立て続けに突入、体当たりしているが、これは、目標を大物の戦艦と見なしたからに違いない。普段、空母も戦艦も視認したこともなく、大型艦艇への接近訓練もなかった特攻隊員たちには、目標確認は困難だった。さらに、特攻機が艦艇に命中したり、その近くで墜落、炎上したり、上空に援護戦闘機や偵察機があったとしても、自ら死地に入っての危険な状況で、衝撃的な仲間の自爆を見て、正確な戦果確認も戦果報告もできなかったと考えられる。
1945年4月6日(金曜日)沖縄方面のアメリカ軍の沈没艦艇(1945年4月6日の実際のアメリカ艦艇被害)
沈没:フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ 」(USS Bush, DD-529),特攻による
沈没:フレッチャー級駆逐艦 「コルホーン」 (USS Colhoun, DD-801) , 特攻による 沈没:高速掃海艇(グリーブス級駆逐艦改造)「エモンズ 」(USS Emmons, DD-457→DMS-22), 特攻による. 沈没:戦車揚陸艦LST 447,特攻による
写真(右):1944年1月23日、アメリカ東海岸で航行中のアメリカ海軍インディペンデンス級軽空母「サン・ジャシント」(USS San Jacinto, CVL-30), 迷彩塗装を施している。アメリカ海軍気球部隊所属のZP-14飛行船から撮影。:インディペンデンス級軽空母「サン・ジャシント」は、起工 1942年10月26日、進水 1943年9月26日、就役 1943年11月15日、基準排水量 1万1,000 t、全長 189.7m、船体全幅 21.8m(水線)、飛行甲板全幅 33.3m、吃水 7.9m、最高速力 31.6 ノット、乗員1,549名、兵装 40ミリ対空機関砲 28基、20ミリ対空機関銃 40基、搭載機 45機。 Title: USS San Jacinto (CVL-30)
Description: Underway off the U.S. east coast (position 36 55'N, 75 07'W) on 23 January 1944, with an SNJ training plane parked on her flight deck. Photographed from a Squadron ZP-14 blimp. The ship is painted in camouflage Measure 33, Design 7A. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-212798 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-212798 USS San Jacinto (CVL-30)引用。
1945年4月6日(金曜日)沖縄方面の米軍損傷艦艇
ノースカロライナ級戦艦ネームシップ「ノースカロライナ 」(USS North Carolina, BB-55), accidentally by United States naval gunfire(友軍による誤射)
インディペンデンス級軽空母「サン・ジャシント」USS San Jacinto, CVL-30), by suicide plane(自爆機) クリーブランド級軽巡洋艦「パサデナ」 (USS Pasadena, CL-65) accidentally by United States naval gunfire
シムス級駆逐艦「モリス」USS Morris (DD-417), by suicide plane, フレッチャー級駆逐艦「ベネット」USS Bennett (DD-473), by suicide plane, フレッチャー級駆逐艦「フッチン」USS Hutchins (DD-476), by suicide planeBR>フレッチャー級駆逐艦「ロイツェ」 (USS Leutze, DD-481) , by suicide plane, フレッチャー級駆逐艦「ミュラニー」USS Mullany (DD-528), by suicide plane フレッチャー級駆逐艦「ハリソン(USS Harrison ), by suicide plane フレッチャー級駆逐艦「ニューコム」 (USS Newcomb, DD-586)), by suicide plane フレッチャー級駆逐艦「ホワース」 USS Howorth (DD-592), by suicide plane アレン・M・サムナー級駆逐艦「ハインスワース」USS Haynsworth (DD-700), by suicide plane アレン・M・サムナー級駆逐艦「ヘイマン」 USS Hyman (DD-732), by suicide plane アレン・M・サムナー級駆逐艦「タウシグ」USS Taussig (DD-746), by horizontal bomber(水平爆撃)
バックレイ級護衛駆逐艦Destroyer escort「ウィッター」USS Witter (DE-636), ), by suicide plane バックレイ級護衛駆逐艦「フィベリング」USS Fieberling (DE-640), by suicide plane 高速掃海艦(High-speed minesweeper)「ロッドマン」Rodman (DMS-21):グリーブス級駆逐艦DD-456改造, by suicide plane 高速掃海艦「ハーディン」 Harding (DMS-28):グリーブス級駆逐艦DD-625改造, by horizontal bomber 掃海艦 FACILITY (AM-133), by suicide plane 掃海艦RANSOM (AM-283), by suicide plane 掃海艦EFENSE (AM-317), by suicide plane 掃海艦DEVASTOR (AM-318), by suicide plane 掃海艇(Motor minesweeper)YMS 311, by suicide plane 掃海艇YMS 321, by suicide plane 潜水艦支援艦 Submarine chaser PCS-1390, accidentally by United States naval gunfire 輸送艦 Attack transport BARNETT (APA-5), accidentally by United States naval gunfire 高速輸送艦 High-speed transport DANIEL T. GRIFFIN (APD-38), by collision(衝突) 運搬艦 Attack cargo ship LEO (AKA-60),accidentally by United States naval gunfire 戦車揚陸艦 LST 241, accidentally by United States naval gunfire 戦車揚陸艦LST 1000, accidentally by United States naval gunfire
写真(右):1945年4月9日、沖縄攻略作戦時に日本軍特攻機に体当たりされたアメリカ海軍エセックス級正規空母「ハンコック」USS Hancock (CV-19)における葬儀(水葬・海葬・Burial at sea);Title: USS Hancock (CV-19)
Description: Casualties are buried at sea on 9 April 1945. They were killed when Hancock was hit by a Kamikaze while operating off Okinawa on 7 April. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-328574. 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-328574 USS Hancock (CV-19)引用。
1945年4月7日、アメリカ海軍エセックス級航空母艦9番艦「ハンコック」(USS Hancock, CV-19)は、戦艦「大和」以下の日本海軍第一遊撃部隊の沖縄突入を阻止するために、第58空母任務部隊TG58.3群の一艦として参戦し、艦艇への航空攻撃を実施した。しかし、1機の特攻機が投下した爆弾によってカタパルトを損傷、戦死62名、負傷71名の大損害を被った。火災は1時間以内に消し止められ、そのまま作戦を続行した。4月9日には、修理のためハワイ真珠湾に帰投、その途上、戦死者を水葬した。修理後、日本軍に占領されているウェーク島にビラを撒き、6月13日に戦線に復帰した。7月1日、東京方面を空襲した。
写真(右):1945年4月11日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」、日本軍特攻機が水線部に突入ししたアメリカ海軍ヨークタウン級航空母艦2番艦「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6))。エセックス級空母「バンカーヒル」から撮影。:
Title: USS ENTERPRISE (CV-6)
Caption: Kamikaze aircraft hits the water off the carrier's starboard quarter, during operations off Okinawa, 11 April 1945. Photographed from USS BUNKER HILL (CV-17).
Catalog #: 80-G-317421
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Wed, Apr 11, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-317421 USS ENTERPRISE (CV-6) 引用。
ヨークタウン級航空母艦2番艦「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)は、1945年4月5日になって沖縄攻略戦に参加するためにUlithi Atoll)を出撃。4月11日に特攻機の襲撃を受け、突入直前に特攻機を撃墜したが、左舷水線部に突入し爆弾が破裂し損傷した。
空母「エンタープライズ」(USS Enterprise, CV-6)は、この特攻機のもたらした爆発によって、レーダー、砲座も損傷し、さらにカタパルト上で発艦準備中のF6Fヘルキャット戦闘機が炎上した。その後、応急処置により現地に2日間と留まり、4月14日に修理のためにウルシー環礁基地に帰還した。4月16日までに喫水線下の損傷修理を完了し、再びは沖縄方面に出撃した。
1945年5月11日、第58任務部隊旗艦エセックス級空母「バンカーヒル」が、神風特攻の突入を受け大破するとヨークタウン級空母「USS Enterprise, CV-6)は、第58任務部隊旗艦を継承し、日本本土空襲を指揮した。「エンタープライズ」から発艦したアベンジャー艦上雷撃機16機は、九州の日本軍航空基地や港湾を夜間攻撃した。
写真(右):1945年4月16日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」の最中、特攻機に突入されたアメリカ海軍エセックス級航空母艦5番艦「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)。手前は、フレッチャー級駆逐艦:エセックス級航空母艦5番艦「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)は、起工 1941年12月1日、進水 1943年4月26日、就役 1943年8月16日、基準排水量 2万7,100トン、満載排水量:3万6,380トン、蒸気タービン4機、4軸、15万馬力、最高速力 33ノット、航続距離 2万マイル/15ノット、乗員 2,600名、兵装:二連装38口径5インチ対空砲4基8門、 単装38口径5インチ砲4門、搭載機 90 - 100機、エレベーター 中央2基、舷側1基。 Title: Okinawa Campaign, March-June 1945
Description: USS Intrepid (CV-11) afire, after she was hit by a Kamikaze off Okinawa on 16 April 1945. Photographed from USS Alaska (CB-1), as a Fletcher class destroyer steams by in the foreground. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-328441 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-328441 Okinawa Campaign, March-June 1945引用。
アメリカ海軍エセックス級航空母艦5番艦「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)は、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で建造され、1943年8月16日、トーマス・L・スプレイグ艦長の下に就役し、カリブ海で慣熟訓練に従事した。1944年2月17日にトラック島の日本海軍基地を空襲した際に、日本機の雷撃で損傷した。1944年10月のレイテ沖海戦に参加した際、10月30日、日本海軍特攻機が突入、12名が死亡、6名が負傷した。11月25日には、2機の特攻機が突入、69名が死亡した。
写真(右):1945年4月16日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」の最中、特攻機に突入されたアメリカ海軍エセックス級航空母艦5番艦「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)の残骸が散乱した 飛行甲板で、乗員2名が走っている。:空母「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)は、2008年から、ニューヨーク州マンハッタンにあるイントレピッド海上航空宇宙博物館において、空母時代の艦載機、SR-71ブラックバード高空偵察機、ソ連製MIG戦闘機、スペースシャトル「エンタープライズ」、超音速旅客機「コンコルド」とともにで展示されている。 Title: Okinawa Campaign, March-June 1945
Description: USS INTREPID (CV-11)
Caption: Two crewmen run up the carrier's debris-strewn flight deck, just after she was hit by a kamikaze, while operating off Okinawa, 16 April 1945.
Catalog #: 80-G-273923
Copyright Owner: National Archives
Original Date: Mon, Apr 16, 1945 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-273923 USS INTREPID (CV-11)引用。
アメリカ海軍エセックス級航空母艦5番艦「イントレピッド」(USS Intrepid:CV-11)は、1945年になって、硫黄黄島攻略戦を支援した後、沖縄攻略「アイスバーグ作戦」に参加し、日本本土を空襲し、沖縄水上特攻天号作戦に参加した日本海軍戦艦「大和」など第二艦隊(第一遊撃部隊)を攻撃した。その祭、3月18日、4月16日の二度にわたり神風特攻機の体当たりを受け、損傷した。
写真(右):1945年4月29日、沖縄攻略作戦時に日本軍特攻機に体当たりされたアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ヘイゼルウッド」 USS Hazelwood (DD-531):1943年6月就役 フレッチャー級駆逐艦の諸元:基準排水量2,050トン、
満載排水量2,500トン、全長
114.8m (376.5 ft) 、最大幅
12m (39.5 ft) 、吃水
3.8m (12.5 ft) 、ボイラー4缶・蒸気タービン2基2軸、
出力6万馬力、最高速力36.5 ノット、航続距離6,500マイル(15kt)、乗員:329人。 Title: USS Hazelwood (DD-531)
Description: USS Hazelwood (DD-531) after being hit by a kamikaze off Okinawa, 29 April 1945.
Accession #: 80-G
Catalog #: 80-G-187592
Tags: kamikaze, world_war_ii
Copyright Owner: National Archives
Original Date: 1945-04-29 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-187592 USS Hazelwood (DD-531)引用。
1945年4月29日、フレッチャー級駆逐艦「ヘイゼルウッド」( USS Hazelwood :DD-531)は、2機のゼロ戦特攻機をかわしたものの、3機目のゼロ戦が艦尾から突入し、将校10名、兵67名が戦死し、36名が行方不明になる大損害を被った。
写真(右):1945年5月3日、沖縄攻略「アイスバーク作戦」中の慶良間列島、アメリカ海軍カサブランカ級航空母艦29番艦「サージャント・ベイ」 (USS Sargent Bay, CVE-83)の TBM艦上雷撃機とFM-2艦上戦闘機越しに見た特攻機欺瞞用の煙幕:カサブランカ級空母「サージャント・ベイ」は、起工: 1943年11月8日、進水: 1944年1月31日、就役: 1944年3月9日、基準排水量 7,800 トン、全長: 512.3 ft (156 m)、全幅: 108.1 ft (33 m)、吃水: 22.5 ft (6.9 m)、蒸気タービン2基2軸、9,000馬力、最高速力: 19ノット、航続距離: 1万0,240マイル(15ノット/時)、乗員:860名、兵装: 38口径5インチ対空砲1基、40ミリ対空機関砲16門、
搭載機: 28機。中央左は、4月28日に特攻機による損傷を受けた退避艦「ピンクニー」USS Pinkney (APH-2)。 Title: Okinawa Campaign, 1945
Description: Ships in Kerama Retto anchorage spread an anti-kamikaze smoke screen, 3 May 1945, seen from USS Sargent Bay (CVE-83). TBM and FM-2 aircraft are on her flight deck. Ship in left center is USS Pinkney (APH-2), which had been damaged by a Kamikaze on 28 April. Photographed by Photographer's Mate 1st Class Oliver E. Pfeiffer. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-342629 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-342629 Okinawa Campaign, 1945引用。
写真(右):1945年5月11日、沖縄沖で特攻機の命中を受け黒煙を噴き上げて炎上するアメリカ海軍エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) :近くを航行している1943年11月17日就役のアメリカ海軍インディペンデンス級航軽空母「バターン」 (USS Bataan :CVL-29)から撮影。
Title: USS Bunker Hill (CV-17)
Description: Afire after being hit by two Kamikaze suicide planes off Okinawa, 11 May 1945. Photographed from USS Bataan (CVL-29). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-274266 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-274266 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。
写真(右):1945年5月11日、沖縄沖で特攻機の命中を受け炎上するアメリカ海軍エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) :写真は、アメリカ海軍クリーブランド級軽巡洋艦25番艦「ウィルクスバリ」 (USS Wilkes-Barre, CL-103) から撮影。軽巡「ウィルクスバリ」は、起工: 1942年12月14日、進水: 1943年12月24日、就役: 1944年7月1日、基準排水量:1万トン、乗員:992名、6インチ砲12門、5インチ砲12門。 Title: USS Bunker Hill (CV-17)
Description: Burning after being hit by a Kamikaze attack while operating off Okinawa on 11 May 1945. Photographed from USS Wilkes Barre (CL-103), which appears to have received fire damage herself helping to fight the blaze from alongside the carrier. A destroyer is off Bunker Hill's port side. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-328618 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-328618 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。
写真(右):1945年5月11日、沖縄沖で特攻機の命中を受け炎上するアメリカ海軍エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) :近くを航行しているアメリカ海軍クリーブランド級軽巡洋艦は、25番艦「ウィルクスバリ」 (USS Wilkes-Barre, CL-103)と思われる。軽巡「ウィルクスバリ」は、起工: 1942年12月14日、進水: 1943年12月24日、就役: 1944年7月1日、基準排水量:1万トン、乗員:992名、6インチ砲12門、5インチ砲12門。 Title: USS Bunker Hill (CV-17)
Description: USS Bunker Hill (CV-17) Burning after being hit by Kamikaze suicide planes during the Okinawa operation, 11 May 1945. A Cleveland class light cruiser is steaming nearby, at left. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-K-5274 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5274 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。
写真(右):1945年5月11日、沖縄沖で特攻機の命中を受け飛行甲板から黒煙を噴き上げているアメリカ海軍エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) :空母「バンカーヒル 」は、起工: 起工 1941年9月15日、進水 1942年12月7日、就役 1943年5月24日、基準排水量:27,100トン、最高速力:33ノット 、航続距離 15ノットで2万マイル、乗員:2,600名、38口径5インチ(12.7cm)連装対空砲4基8門、38口径5インチ単装砲4基4門、搭載機 90〜100機、エレベーター 中央2基、舷側1基 。 Title: USS Bunker Hill (CV-17)
Description: Scene on the carrier's flight deck, looking aft, while her crew was fighting fires caused by Kamikaze hits, off Okinawa on 11 May 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-323712 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-323712 USS Bunker Hill (CV-17)引用。
1945年5月11日、沖縄攻略「アイスバーグ作戦」の行動中だったアメリカ海軍エセックス級空母4番艦「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) は、日本海軍特攻機2機の突入を受けた。これは、低空を飛行してきたゼロ戦による飛行甲板の被害と2機目のゼロ戦の舷側への被害で、爆弾の爆発によって、後部エレベーター付近で、ガソリンに引火し大火災となった。被害は戦死346名、行方不明43名、負傷264名と大きく、「バンカーヒル」はウルシー環礁に帰投後、ハワイ真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰国し、修理を受けたが、日本の敗戦を修理中に迎えることになった。
写真(右):1945年5月12日、沖縄沖で特攻機の命中を受けたアメリカ海軍ニューメキシコ級戦艦ネームシップ「ニューメキシコ 」(USS New Mexico, BB-40) :写真は、アメリカ海軍ニューオーリンズ級重巡洋艦「ウィチタ」(USS Wichita, CA-45)から撮影。旧式戦艦「ニューメキシコ 」は、起工 1915年 10月14日、進水 1917年 4月13日、就役 1918年 5月20日、基準基準:3万3,400トン、満載排水量:3万6,000トン、全長 190.20m、全幅 32.39m、吃水 9.44m、最高速力 21ノット、乗員 1,084名、兵装 50口径14インチ(35.6cm)砲12門、25口径5インチ(12.7cm)砲8門。 Title: USS New Mexico (BB-40)
Description: Is hit by a Kamikaze at dusk on 12 May 1945, while off Okinawa. Photographed from USS Wichita (CA-45). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-328653 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-328653 USS New Mexico (BB-40) 引用。
写真(右):1945年5月14日、沖縄沖、アメリカ海軍クリーブランド級軽巡洋艦16番艦「ヴィックスバーグ」(USS Vicksburg, CL-86)の上空を飛行する日本の特攻機 (海軍九七し式艦攻?):重巡「ヴィックスバーグ」(USS Vicksburg, CL-86)は、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で起工: 1942年10月26日、進水: 1943年12月14日、就役: 1944年6月12日、基準基準:1万トン、最高速力 : 33 ノット、乗員: 992名、兵装: 6インチ(15.2cm)砲12門、5インチ(12.7cm)対空砲12門、40ミリ機関砲28基、20ミリ機関銃10基、艦載機: 2機、カタパルト2基。 Title: Japanese "Kamikaze" aircraft
Description: Photo #: 80-G-490019 Japanese Kamikaze aircraft Burning after it was hit by gunfire while attempting to crash into USS Vicksburg (CL-86) off Okinawa, 14 May 1945. Photographed from Vicksburg's forward superstructure, with the ship's foremast yardarm in the foreground. Note weather reporting instrument on the yardarm, and the antenna for an SK-1 air search radar partially visible at right. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-490019 写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490019 Japanese "Kamikaze" aircraft 引用。
2.沖縄特攻作戦が功を奏さず、九州全土がアメリカ空母任務部隊や沖縄・マリアナ諸島からの空襲に晒されるようになった。しかし、燃料不足、兵力不足、兵器の故障などで迎撃もできず、第五航空艦隊司令官だった宇垣纒中将にも8月3日、近く第三航空艦隊司令長官に転補することが海軍総隊参謀長矢野志加三少将から電話連絡された。原爆投下、ソ連参戦、そして8月11日には、サンフランシスコ放送によって、日本がポツダム宣言に応じて降伏を申し込んだことを知る。最後特攻として,第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとむ)中将は、玉音放送後に、特攻隊の出撃を命じたが、これは放送直前に決意した自ら「直卒の下沖縄艦船に特攻突入」である。これは,中津留達雄大尉以下11機22名もの部下を道連れにした「私兵特攻」ともなった。
沖縄の菊水特攻作戦が不首尾に終わった後、第五航空艦隊司令官だった宇垣纒の日記『戦藻録』1945年7月1日(日曜、曇後晴)には、次のようにある。
「朝食事より小型機の攻撃ありてうるさき事也。遂に終日に亙る。米は5月11日沖縄戦に於て空母バンカーヒルが我特攻2機の体当たりの為大損害を蒙りプレマートン海軍工廠に入り、座乗中の58KdB[機動部隊]司令官ミッチャーは危く爆死を免れたる由報ぜり。-----50番[500キロ爆弾]搭載の2機を以ても猶仕止め得ざりし実績は今後特攻の用法上一層の集中を必要とするなり。
1430発今村参謀の案内にて高須より古江海岸を見る。此の辺的上陸予期し難し。古江街道を高橋迄引返し乗馬来るを待つ間F4U10機基地上空を旋回を見る。疎散なる隊形にて大きく3回も廻りたる後2機笠ノ原に突入す。味方戦闘機も無ければ高角砲も打たず、全く傍若無人の態口惜しき沙汰なり。燃料不足の為小型機の戦闘機迎撃は停止し高角砲亦不十分の為射撃を控うとせば彼は全く思う儘に跳梁し其の結果は看過し得ざるに至るべし。」
宇垣纒『戦藻録』1945年7月2日 月曜 曇後晴 「決号作戦[本土決戦]の幕僚図演[図上演習]を行う。----昨日呉市被爆。焼失家屋2万6000、罹災者約18万、死亡者約600名、部内戦死者約20名。市内外の被害僅少。」
1945年7月3日 火曜 晴 「幕僚研究図演の研究を行う。朝より少数出現せるが昼食時頃よりB-25、P-47等数十機来襲せり。」
この後、7月上旬、敵が昼食時に頻繁に来襲することが記され、航空基地近くの飛行機を移動し隠蔽し、防御態勢を固めたり、索敵に出る偵察機「彩雲」[
の故障が相変わらずで実働率向上ができない、一式陸攻4機電探故障[3式空6号無線電信儀 H-6?]で夜間索敵ができないとボヤいたりしている。7月5日には「昼食時頃最も来襲多し。石原佐鎮[佐世保鎮守府]参謀副長来隊同地の戦災を伝う。山も川も焼けたり。山河残らず国滅びざれば可なり」とある。
1945年7月6日
「4,5両日福岡に於て行われたる航空総軍、海軍総隊の共同図演の説明を聞く、まだまだ準備出来居らず。一層奮励を要す。今日はお休かと云う間も無く矢張り来襲あり。 大分の西方を北上して北九州攻撃に向う。呉の市街中平地の部分は全焼し高知、徳島、高松亦やられたり。[長崎県海軍]大村[基地]は、B-24、P-57[P-47?]数十機の攻撃を受け紫電機の多数と特攻機迄も地上に於て焼失損害を受く。南九州を避け北[九州に航空部隊を移動・待避]集中すれば影を追う尚来る。無為に損傷せんよりは空に迎撃するに如かざるも燃料之を許さず。
網屋のすき焼きにて司令部の元気をつけたり。」
1945年7月には、九州全土がアメリカ空母任務部隊や沖縄・マリアナ諸島から空襲されており、特攻艇「震洋」、特殊潜航艇「蛟龍」も被害を受けており、本土決戦の準備も不十分なままだった。燃料不足、兵力不足、兵器の故障などで迎撃もできない状況で、士気も沈滞気味だったようだ。
7月11日、「『最後の御奉公』の覚悟徹底せば又何をか懼れん。夜大佐以上は網屋にて以下は水交社に招待して労を慰し士気の鼓舞を計れり。」
1945年8月6日にも、宇垣纒長官は、大分県別府市観音寺温泉で歓待を受け「戦塵を洗浄し得たり。懌[喜]ぶことは神気滋養の基なり」と満足している。 8月7日、宇垣纒長官は、別府海軍病院(現国立病院機構-別府医療センター )で歯科治療を受け、8月8日は「夕刻付近の川に雑魚釣りに行く」となる。 しかし、8月9日、別府海軍病院の院長室に電話があり、宇垣長官はソ連参戦の放送があったことを知らされ、直ちに帰隊した。「過般のポツダム声明には何の触るる處なかりしがスターリンの現実主義遂に敵たるに至れり。---帝国は之にて全世界を相手として戦うに至る。運命なる哉、今更泣き事[言]は云わず。敗れても悔いなき一戦に最後の御奉公を期するのみ。」
写真(右):第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将;1890年(明治23年)2月15日−岡山県赤磐郡潟瀬村に誕生、
1909年(明治42年)3月、岡山県立第一中学校卒業、9月11日、海軍兵学校生徒(入校成績順位150名中第9位)、1912年(明治45年)7月17日−海軍兵学校卒業(40期:成績順位144名中第9位)、1913年(大正2年)12月 海軍少尉、1921年(大正11年)、海軍大学校甲種学生(大尉)、1928年(昭和3年)11月、ドイツ駐在海軍武官補(−30年)、1931年(昭和6年)12月、第二艦隊参謀、1932年(昭和7年)11月、海大教官(兼陸軍大学校教官:海軍中佐)、1935年(昭和10年)10月、連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)、1936年(昭和11年)12月、海防艦「八雲」艦長、1937年(昭和12年)12月、戦艦「日向」艦長、
1938年(昭和13年)11月、海軍少将、12月、軍令部第一部長、1941年(昭和16年)4月、第八戦隊司令官、8月、連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)、1942年(昭和17年)11月、海軍中将、1943年(昭和18年)4月18日、山本長官の僚機で被弾、1944年(昭和19年)2月、第一戦隊司令官 11月、軍令部出仕、1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官、 8月10日、第三航空艦隊司令長官に親補(着任せず)、8月15日、沖縄方面へ特攻戦死。これは終戦当日の,終戦を知らない部下を率いた「私兵特攻」ともいえる。
宇垣纒『戦藻録』1945年8月7日
「昨日6日0825頃B-29二、三機宛広島上空に侵入、落下傘付大型爆弾を投下(2-3個)地上50米位にて大閃光大爆発し瞬時にして家屋倒壊8割方焼失。死傷十数万に及びたり。本日7日午後桑港(サンフランシスコ)放送は17時間前広島市(陸軍基地)に対し有史未曽有の原子爆弾攻撃を実施せり。三万尺の密雲の為結果確認し得ざりしも同爆弾B-29の爆弾(グランドスラム)の2万倍、TNT2000頓に相当する効果を有する。7月16日ニューメキシコに於て実験の結果装置したる鉄塔は蒸発し250浬の地の硝子窓はガタガタ振ひ6浬の人間はたたき伏せられたりと。右に依れば豫て各国にて研究せられつつありしウラ二ウム原子の利用によるものなる事明瞭にして真に一驚異にして戦局の前途に一層の暗雲を加えるものなり。我方速に之が対策を講ずると共に同様爆弾の創始を望むものなり。」
8月15日、「昨今日を以て離別の印として各幕僚に1枚宛と考え揮毫中、度々総員退避を喰いたるも漸く完成するを得たり。 而して午後に及び最もいまわしきニュースを情報主任眼の色変えて持参せり。曰く
桑港[サンフランシスコ]放送-----日本は、裕仁を基儘とする条件の下にポツダム宣言に対して其の他無条件降伏を申し込めり。
時間若干後----戦略爆撃作戦司令部隊司令官(在マリアナ)は日本がポツダム宣言に対し回答する迄原子爆弾の使用を中止す。 嗚呼!何事ぞ火の無き處煙は立たざるべし。本早朝受信セルGB電令は結合作戦準備の如何を問はず敵の軌道兵力に対しては積極的攻勢を執り、又沖縄方面に向かっても攻撃を強化すべく下令あり。従来執り来れる決号に拘束せられたる覇制をかねて云うが如く已むなく脱却せるものにて一時式の昂揚を見たるが、前期ニュース受領御幕僚の日吉[連合艦隊司令部]に連絡せる處によれば敵の宣伝と思惟せる本件を朧気乍ら裏付ける如き言あり。斯る重大事項を何故に全責任を帯ぶる長官に一言とせざるや。小輩等に之を秘して半信半疑の前期放送は、余をして甚だしき驚愕を感じせしめたり。」(『戦藻録』引用終わり)
8月15日玉音放送後、宇垣纒中将は,「最後の特攻」として,出撃する旨を伝え(=命令し)た。しかし,九州方面海軍航空隊の第五航空艦隊司令長官中将が少数機で(パイロット・偵察員を道連れに)特攻するのは申し訳ないとして,お供をするということで,艦上爆撃機「彗星」6-11機が自発的に特攻に参加したと『戦藻録』p.552の編集者追記に記されている。
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送で大日本帝国の降伏を知った宇垣中将は、最後の特攻出撃をかけ、自決しようとした。出撃を取り止めるよう進言する幕僚に対し、中将は言い切った。
「いまだ停戦命令に接せず。多数の純忠の将士のあとを追い、特攻の精神に生きんとするにおいて、考慮の余地はない」
第五航空艦隊宇垣纒司令官隷下の中津留達雄大尉以下22名の搭乗員も加わり、11機の艦上爆撃機「彗星」は大分飛行場を出撃した。特攻第一号として「悠久の大義に殉ず」と全軍に布告された関行男大尉と中津留達雄大尉は、戦死したのは同じ23歳で兵学校70期の同期生である。
1945年8月15日,宇垣纒中将は第三航空艦隊司令長官に任じられ,着任を果たしていないまま、中津留達雄大尉操縦の「彗星」の後席に偵察員の遠藤秋章飛曹長とともに同乗し、合計11機で分散して沖縄方面に出撃した。とすれば,部下でもない彗星部隊に専権的に特攻出撃を命じたことになり,軍法会議の処罰対象者である。
写真(右):日本海軍 第五航空艦隊司令長官 宇垣纏 中将;1941年4月、第八戦隊司令官、8月、連合艦隊参謀長(兼第一艦隊参謀長)、1942年11月、海軍中将、1943年4月18日、山本長官の僚機で被弾、1944年2月、第一戦隊司令官 11月、軍令部出仕、1945年2月、第五航空艦隊司令長官、 8月10日、第三航空艦隊司令長官に親補(着任せず)、8月15日、沖縄方面へ艦爆「彗星」で特攻、戦死。これは終戦当日,終戦を知らない部下を率いて「私兵特攻」ともいえる。
機上より、宇垣纒中将は最期の電文を送信。
お
「過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは、本職不敏の致すところなり。本職は皇国無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、皇国武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。指揮下各部隊は本職の意を体し、来るべき凡ゆる苦難を克服し、精強なる国軍を再建し、皇国を万世無窮ならしめよ。天皇陛下万歳。」(⇒軍人列伝:日本に殉じた英霊引用)
8月15日1700
大分基地から特攻機(彗星艦爆 操縦・中津留達雄大尉 偵察員・遠藤秋章飛曹長 11機編隊)で沖縄へ特攻出撃。 攻撃隊のうち3機がエンジン不調等で不時着
1924 前もって作成した訣別電を全軍に発信せよと指示
2025 突入を示す長符を発信
写真(右):第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将と最後の特攻機「彗星」33型;終戦当日の1945年8月15日,終戦を知らない部下に急降下爆撃機「彗星」を操縦させ,11機の特攻機による「私兵特攻」を行った。ただし、少なくとも3機の「彗星」が不時着している。
8月16日早朝 沖縄伊平屋島の砂州に突っ込んでいる彗星艦爆を米軍が発見。機体から3人の遺体を収容した。飛行服を着ていない遺体があり、所持品の中から短刀が発見された。(⇒宇垣纒および城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』引用)
第五航空艦隊司令官宇垣纒中将は正確に戦況を知りうる立場にあった。敗戦前日の8月14日には「対ソ及び対沖縄積極攻撃中止」命令も受け取っていた。宇垣纏中将は,戦争終結直前に特攻を決意していたいたようだ。海軍でも苦慮した模様で、宇垣特攻に関しては特攻隊員に与えられる栄誉である二階級特進は行っていない(普通の戦死による一階級特進?)。(⇒最後の特攻(宇垣特攻)引用)
宇垣纏中将は、最高位の海軍将官として、最後の特攻を自ら実施した。宇垣纏中将は,日本の敗戦を知りながら,敗戦を伝えられていない有意の若者を特攻の道連れに自決した。この私兵特攻は、若者に高貴な将軍との殉死の機会を与え,戦後の国民に誇りをもたせるための行為だったのか。
写真(右):1942年呉海軍工廠竹添氏に贈った宇垣纏中将の書(1942年):将官として軍職を全うするにあたりその決意や心境が率直に書かれている。呉海軍工廠において設計の仕事に携わった竹添氏の寄書き帖には、高柳儀八海軍中将(戦艦大和初代艦長)、砂川兼雄海軍中将(呉海軍工廠長)、宮里秀徳海軍中将(呉鎮守府人事長)、板垣 盛海軍少将(呉海兵団長)、佐藤 勉海軍少将(呉海兵団長)、松田千秋海軍少将(戦艦大和二代目艦長)も書をしたためている。この寄書きからは、竹添氏が、当時どのような人とのかかわりを持っていたのかの一端が窺われる。ご家族、ご遺族、海軍兵学校の関係者等で、寄書きに関心のある方は、ご連絡をお願いいたします。竹添家のご承諾を得て書を掲載。
しかし、特攻を命じている最中、部下に「後に続く」として「散る桜残る桜も散る桜」を実践した将官はほとんどいない。終戦後に日本再建に尽くすという名目、大元帥の命令を最も尊ぶとしても、多数の若者を死に追いやった、死なせてしまう作戦しか実行できなかった責任は残る。第五航空艦隊司令官宇垣纒中将は潔く責任を取ったが、これは自分の戦争責任を自覚していたからであろう。
戦の最中に平常心を保てば、死ぬことが受け入れられるかもしれないが、平和な時、逃げる時の平常心は、命を惜しむ気持ちが強くなるであろう。終戦になったとき、冷静に考えれば、とても自決することはできなくなる。そんな時、特攻死した将官が第五航空艦隊司令官宇垣纒中将である。残された書からは、丁寧だが力強い司令官の平常心が伝わってくる思いがする。
写真(右):戦後,横須賀で撮影された零戦などの海軍機:手前は零戦52型で爆装戦闘機として特攻機としても使用された。後方は陸上爆撃機「銀河」と夜間戦闘機「月光」。沖縄戦の時の特攻機もこのような濃緑色の迷彩塗装を施されていたと思われる。
中津留大尉(兵71)ご尊父の回想
「私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ」
「軍の方でもその点を考えてくれるじゃろうち思うちょりましたが」
「やっぱあ非常なもんですな、そこまでは考えてくれんじゃったですなあ」
「とうとう特攻に連れて行ってしもうてですなあ」
「それも戦争が終わった放送の後でっしょうが」
「宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ」
「私はそのことで、ずうっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ」
「戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな」
私兵特攻/宇垣纒中将の特攻攻撃に関する法律上の問題点
海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)第二編罪、第二章、第三十一条
「指揮官、休戦又は講和の告知を受けたる後、故なく戦闘を為したるときは、死刑に処す」
しかし敗戦の混乱と海軍の崩壊により、裁かれることなく不問に付されている。しかし宇垣中将の特攻は正式な命令に基づくものでは無いとして、二階級特進は認められていない。現在、宇垣中将が生前に--強く望んでいた靖国神社に、護国の英霊として祀られているかどうかは明らかにされていない。(⇒宇垣纏)
3.日本軍は,本土決戦に当たっては全軍特攻化して,来襲する敵艦隊,輸送船,上陸部隊を迎撃するつもりでいた。そのために,兵器開発でも特攻が優先された。特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められ,かれらの犠牲を前提とした非道な作戦が立てられた。
写真(右):零式艦上戦闘機;250キロ爆弾を搭載して特攻に多用された。知覧特攻平和館に展示されている機体で,九州西部の甑島沖合水深約35メートルに沈んでいた機体を,1980年に引き揚げたもの。腐食が進んでいるが,軽量のジュラルミンの機体は,剛体ではなく寄せ木細工のような構造である。体当たりしても,頑丈な鋼鉄の船体には大きな被害を与えることは困難である。
正攻法では,量,質の両面で連合軍にまったく太刀打ちできなくなっており,このことを戦争末期になってやっと認識した軍高官は,精神主義を振りかざして「断じて行えば鬼神もこれを避く」として,特攻を唯一の対抗手段としようとした。
人間魚雷「回天」「海龍」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」「マルレ」,特殊攻撃機キ115「剣」、このほかにも潜水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」,体当たり自爆改造戦車,対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵,爆薬を持って海中に潜み自爆する「伏龍」という特攻兵器も存在する。
特攻兵器には,それを使用する人間が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,祖国,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。 しかし,兵士たちの自己犠牲や祖国への忠誠,家族への愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状況とは裏腹に,特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。これにあわせて自己犠牲精神を量産しようとすれば,個人の自由や選択の余地は命もろとも押しつぶすしかない。
特攻兵器の開発,量産は,祖国愛や家族愛を持っている人間を,血液の詰まった皮袋として扱う状況に落としいれてしまった。
しかし、宇垣纒中将は、1943年4月18日、連合艦隊参謀長時代に「い」号作戦の前線視察を行った際に乗機を撃墜され、九死に一生を得ている。これは、連合艦隊司令長官山本五十六司令長官に随行し、一式陸攻2機に分乗して、ニューブリテン島ラバウル基地からボーゲンビル島ブイン基地に移動中の出来事で、暗号解読情報に基づき、山本長官暗殺のためのアメリカ陸軍航空隊ロッキードP-38ライトニング戦闘機の襲撃を受けて、海上に撃墜され、負傷した経験である。この海軍甲事件から1年後、戦艦を率いる第一戦隊司令官時代、『戦藻録』「本記」として、追憶した次のような記事を書いている。撃墜され一命をとりとめた宇垣纒将軍は、戦いに命を懸ける特攻は当然であると鉄面皮に思っていたようだが、これは自分の絶体絶命の体験から見ても、その通りだった。
山本五十六:ハワイの米艦隊を撃滅し,米国の戦意喪失を狙ったという。1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。ラバウル基地で、山本長官など連合艦隊司令部の高官は,白の軍服を着用し続けた。しかし、ラバウル基地に滞在していたのは,1943年4月3日-4月18日の15日間のみ。それでも雲の上の人,連合艦隊司令長官を拝見できた現地兵士の感激は大きかったようだ。指揮の鼓舞に有効だったのであろう。1943年4月18日,アメリカ軍陸軍航空隊は,暗号解読により,ロッキードP-38「ライトニング」戦闘機で待ち伏せ攻撃し,山本五十六大将の搭乗機を撃墜,暗殺に成功する。真珠湾の仇討ちである。
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一号機 長官[山本五十六]、副官[福崎昇中佐]、軍医長[高田六郎軍医少将]、航空甲参謀 [樋端(といばな)久利雄中佐]
二号機 参謀長[宇垣纒]、主計長[北村元治少将]、通信参謀[中薫海軍中佐]、航空乙参謀[室井捨治少佐]、気象長[友野林治海軍中佐]
搭乗すると通信参謀、気象長は機中に於て挨拶せり。余は指揮官席に進みて腰掛け、帯剣バンドは其儘 長剣のみお脱して、 室井参謀[航空乙参謀室井捨治少佐]に渡す。同参謀邪魔にならぬ後方へ立てかけたり。吾人の搭乗するや、両機は直ちに発動、滑走路の端に至り次で一番機、二番機の順序に離陸、湾口の火山を眼下に見て編隊針路を南 南東とす。天気晴朗、視界良好の上々飛行日和なり。左右後上方に戦闘機3機宛警戒掩護するも時々眼に入る。我高度は1500程度と記憶するなり。
二番機は一番機の左斜後編隊見事にして翼端相燭るるなきやを時々危む位にして、一番機の指揮官席に在る長官の横姿も、中を移動する人の姿もありありと認めらる。航空用図につき地物の説明を聴き乍ら気持よき飛行を味ふ。
ボーゲンビル島の西側にかかるに及び高度を七、八百に下げジャングルの平地上を一直線に航過す時、機長紙片を手渡し来る。「0745バラレ着の予定」腕時計を見るに正に0730にしてあと15分と覚えたり。この時、機は不意に一番機に倣ひ急降下を開始し、50米の高度に降れり。何事?一同の心に感じたる処、通路に在りし機長(飛行兵曹長?)に「如何したのか」と尋ねたるに「間違いでしょう」と答えたり。斯く云う事が大なる間違いにて迂闊の至なりしなり。即ち上空戦闘機は之より先敵戦闘機の一群二十四機が南航の途中より引返来るを発見し、降下中攻機に警告せんとする時、一番機も敵を認め何等の余裕なく急降下ジャング ルすれすれに下りたるものなる事後より判明す。茲に於て初めて搭乗員は戦闘配置に就き、砲門を開き射撃 準備をなす。吹き入る風操縦する機銃等一時雑音交る。
機がジャングルすれすれに高度を下げたる時、既に敵機の我護衛戦闘機との空中戦は展開せられ、数に於て4倍の敵は容赦なく大物たる中攻機に迫る。之に対して機は急速90度以上の大回避を行う。機長は上空を凝視し、敵機の突込まんとするを見るや、主操縦者の肩を敲きて左右を指示せり。一番機は右に 二番機は左に分離し、其の距離を増せり。2回程回避の後一番機や如何と右側を眺むるに何たる事ぞ、約四千米の距離にジャングルすれすれに黒煙と火を吐きたる一番機が速力も落ちて南下しつつあらんとは、しまった!の考えの外なく余の斜後通路に立ちありし室井航空参謀の肩を引き寄せて「長官機を見よ」と指示 せり。此の間僅かに20秒位、敵の来襲に機は又急転して長官機を見失ふ、水平に帰るももどかしく如何な り行きたらんと心は憂に満つ、当然の結果は予想しある所なるも― 次の一暼に機影既に無く、ジャングル中より黒煙の天に沖するを認むるのみ。噫万事休す!
ロッキードP-38G ライトニング戦闘機 (山本五十六 司令長官・襲撃機) :乗員: 1名、全長: 11.53 m (37 ft 10 in)、全高: 3.00 m (9 ft 10 in)、全幅: 15.85 m(52 ft 0 in)、翼面積: 30.43平方メートル、アリソンV-1710-51/55、離昇出力1,325馬力2基、最高速力: 高度 7,620 mで時 667 km/h (高度 25,000 ft / 415 mph)、航続距離:3,800 km、兵装:イスパノ M2(C) 20ミリ機関砲 1門 弾数150発、ブローニング50口径 12.7ミリ機関銃 4門 弾数各500発。
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この時、我機は全速力を以ってモイラ岬方向に向ひ間もなく海上に出でたり。空中戦闘は最初一番機の方面に於いて盛にして、右後方を眺むれば両者の格斗を遠見し得。胴体H型のP38が上昇ハーフターン、急旋回して我機に迫る。来た!我機銃は後方より追躡する敵機に向け喰ふか喰われるかの戦闘となる。発砲音見事なるも我射線尚近にして命中せざるか、彼は其の優速を利して急速に近接其の射弾は敵ながら見事に我の右側左側に平行集中し、時々機体に命中するを感ず。最早や如何ともなし難く「最後」近しを覚悟す。此の時機我機銃発射の音も減じ、指揮官の声もなし。相当に機上戦死を遂げたるものと判ず。室井参謀は卓上に手を広げうつ伏せになり居たるを以って、早くも敵弾命中機上戦死したるものの如し。 (後より主計長の目視談)
余の前に座せる主操縦者は右翼に命中弾を感じ、不時着用意の為下舵をとり高度を海面近くに下げんとせり。自らは気付かざりしも、上空に在りたる味方戦闘機は此の時二番機も黒煙を曳きたるを目視せりと云う。主操縦者は高度を下げ終りて水平に復さんとせるが、此の時既に操縦の自由を失ひ、直に全スロットルを絞りしも如何ともすべからず、機は全速を以って俯角の儘水中に突入すると同時に左に90度以上転覆せり。
墜落か不時着かは当然覚悟し、幾分突張り気味の構に在りしを以て突入の際は別に異常無かりしが如きも、瞬間的転覆の為余は指揮官席よりもんどり打って機内の通路に転覆せり。負傷の大部は蓋し此の時なるべしと考ふ。転覆と同時に四囲暗黒、海水の相当の勢いを以て全身を襲ふを感ず。処置全く無し。之を以て宇垣の最期と自ら引導を渡したり。凡て終れる心境にて何も頭に浮ばず、焦りも足掻きもせぎりし様覚ゆるが確実を欠く。自ら引導を渡して観念せる直後、眼前にパッと明るくなれるに驚き眺むれば身体は奇しくも水面に浮びあり。何たる奇蹟ぞや!機体は既に没し右翼は我直後に逆立して炎々と燃えつつあり。附近人影無し。あゝ我助かりて未死せずとせば此の儘に在るは危険至極なり。海岸迄は二百米足らず、全身何となく変に覚ゆるも尚泳ぎつく自信あり。よし泳げと決意す。但し老骨なれば無理をして精力を消耗する事あるべからずと自を教へたり。
此の時戦闘帽は頭上にあらず、右半長靴も自然に脱しあり。残る左足の靴邪魔なり。仍て水中に蹴飛ばす見事に脱げたり。日頃左足はよく痙攣を起し、上甲板上のデッキビリアードにせよ、陸上の出獵時にせよ、時々困惑したる事ありしも此の時幸なる哉何等の異常を来さざりしは後より考え幸運と申す外無し。邪魔物は既に全部脱したり。悠々平泳を以て海岸を目標に進み、時に後を顧みて、機は尚炎上を続くるも人影更に無きを進む。生存を余輩一人のみと感じたり。
約七、八十米進みたる頃眼前に箱相次で流れ来るに会す。2個は荒削りにて小型なるも1個は鼠色に塗装せる確に要具箱なり。(何れも機体中より流出せるもの)天与の助舟!同じ捉ふるならば可成大型に如かずと其の鼠色の一つに右手を掛けたり。然るに力一向に這入らず如何したと右手を眺むるに手首はだらりと下りて鮮血したたる。ハハア右手は折れて居るなと此の時始めて気付く。右手のみにては不安心なれば左手をも添へたり。茲に於いて推進力は足のみとなる。此の時に至り我前方を飛行帽子を冠りたる搭乗員一名が元気に泳ぎ行くを発見し、中声を以て「オーイ」と呼びたるに彼後を振り向き余に気付たるも其の儘陸岸に向って前進せり。箱につかまりて余裕あり。後を見るに翼は尚燃えつつありと感ず。
海岸に近寄るに従い潮流益々強く2節以上もある様に見ゆ。箱を押して足のみの水掻きにては横流れのみ多くして目標とせる前面の大木徒らに横に過ぐるのみ。騒ぐ要なし。潮あらば潮を利用し何時しか達岸の目的を達すべく至極落着きたる気分鼻歌の一も歌ひ度心地なり。此の時モイラ岬方面より兵員らしき者4名駆け出しジャングルと砂浜との境を当方に近より、時に小銃発射の銃声2発を聞く。眼はかすみかかりたる様にて充分判別し難きも、我占領地なれば我友軍に相異無き筈敵ならば捕へられざる様自沈の外無しと注視す。
丁度此の時我より先に遊泳し行きたる搭乗員海岸に到着し彼等と会し沖を指し又我存在を教へたるが如し。 (之等兵員の最初の行動に就き兵舎に収容の後問ひ訊せるに口を緘して一言も発せず。恐らく敵機を撃墜し其の搭乗員の上陸を警戒し、要すれば射殺か捕虜にせんとしたる様子なり。味方重要機と知らざれば当然の処置とも見るべし)
兵員の一名徐に着衣を脱し水に入りて我に近寄る。十米附近となりたる頃余の参謀飾緒を発見したるものか陸に向ひ「ア参謀だ、参謀だ」と頓狂の声を発したり。それ迄オッカナビックリにて近寄れる彼急に勢を得て我体を押す。「待て俺は負傷しているから此の箱を推せ」と命じ彼之に従えり。其の内他の一名も海中に入り助力して海岸に到達せり。
両機共悲惨の結果に終り、長官以下多数有為の幕僚を失ふ。生けるは我のみ。速やかに爾後の処置を講ぜざるべからずと痛感せるも、渚に上がり尻をつき一休みするの外無かりき。此所より兵舎迄15分行程と聞きいざ行かんと立ち、兵員に支えられてカンカンと照り付く砂浜を無帽濡れ鼠にて歩を運ぶ。暑さと疲労にて眼グラグラす。丁度よし、戸板を持ち来り呉れたれば之に乗り、担がれて樹陰に在るトタン張りの兵舎に着く。(『戦藻録』引用終わり)
4.日本軍は,特攻作戦を推進し,若者を集めて特攻隊を編成したが,その際,司令官・高級指揮官は,特攻隊員の後に続くと誓った。しかし,司令官・高級指揮官のほとんど全ては,終戦後,日本復興,日本軍再建を理由に生き残った。最後の特攻で死んだ宇垣纒中将の海軍兵学校同期生である大西瀧治郎中将は自決したが,福留繫中将は敗戦後生きて捕虜となった。同じく海軍の軍令部総長・連合艦隊司令長官の豊田副武や小沢治三郎も,捕虜となった。中沢,神重徳,源田実など有名な参謀連も捕虜になった。陸軍の菅原・富永など指揮官はもちろん,辻,瀬島など有名は参謀連も捕虜になった。元総理大臣の近江文麿は,逮捕直前に,自決したが,東条英機は逮捕直前の自決に失敗し,小磯国昭,鈴木貫太郎も,みな生き残った。
もしも特攻隊は,自発的に志願者が現れ、その志願者から特攻隊が編成されたという「特攻自然発生説」が少しでも妥当するのであれば、なぜ将軍・大臣・皇族はもちろん、軍令部総長,連合艦隊司令長官,参謀総長など高級軍人や佐官クラスの中堅参謀が、特攻を志願しなかったのか,戦後もほとんど生き残ったままだったのかを説明する必要がある。
写真(右):特攻機を迎撃したグラマンF6F艦上戦闘機:1944年11月空母「タイコンデロガ」の艦上にて撮影,左翼にレーダーを装備した夜間戦闘機型。最高速度595kmだったが,防弾,武装,信頼性に優れていた。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用.
高級将校が、航空機を操縦できないのであれば,予備学生と同じく100時間の速成訓練を受けて練習機で突っ込めばよい。
複座以上の特攻機では、電信機を降ろして、後方見張りのためにか、偵察員を乗せていた。操縦できなくとも、パイロットではなくとも、同乗者として、特攻機に乗り込むことは、経験の浅い将兵にも可能である。それであれば、操縦はもちろん航法・通信ができなくとも、将軍・大臣・皇族、佐官クラスの中堅士官でも、特攻出撃できる。自ら志願すれば、誰でも特攻、戦死できたのである。
しかし、特攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐1名のみで、かれは人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。つまり、結果として,志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵からのみ編成されたのであり、未熟練な搭乗員であった。
写真(左):出撃前の水杯を手渡す第二航空艦隊長官福留繁中将(1891〜1971);第ニ航空艦隊は, 1944年6月,基地航空部隊として新編成され,台湾・比島方面を作戦海域とした。1945年1月解隊。250kg爆弾を積んだ爆装戦闘機を特攻機とした。1944年末に毎日新聞社撮影。福留繁中将は,1943年5月連合艦隊参謀長,1944年3月連合艦隊司令部移動のため古賀司令長官らとダバオへ向かう途中遭難。不時着して抗日ゲリラの捕虜となり,「あ」号作戦(Z計画)の機密書類を奪われた(海軍乙事件)。福留長官たちは第31警備隊に救助され、事件については不問とされた。1944年6月,第二航空艦隊司令長官に就任。
海軍兵学校第40期の宇垣纒は,福留繫と大西瀧治郎と海兵同期生。同期の指揮官二人は,自決・特攻したが,福留中将は,敗戦後も,日本再建に尽くすためか,生き残った。
第26航空戦隊司令官・有馬正文少将(1895−1944)は,1945年10月15日,台湾沖航空戦で陣頭指揮をし戦死(49歳)したが,特攻死ではない。「有馬自ら一式陸攻に搭乗し敵艦に突っ込み神風攻撃を前に特攻の先駆けとされた」というのは俗説である。日本海軍は,有馬正文が特攻したと認めてはいないので,戦死後すぐに全軍布告したわけでも,特進させたわけでもない。
特攻長官大西瀧治郎 (光人社NF文庫)生出寿著:日本海軍の大西中将は、日中戦争のはじまった1937年8月からの中国本土空襲を主導した。これは、上海、杭州、南京、重慶への爆撃であり、陣地、兵舎、飛行場、鉄道・港湾など交通インフラを目標としてはいたが、命中精度の上からは、周辺への被爆も当然のこととされた。その意味で、事実上の都市爆撃である。当時の日本は、敵地に対して爆撃し、非戦闘員、民間人、市民、女子どもを殺戮しても犯罪であるとは思わなかった。しかし、日本本土が空襲される頃には、無差別爆撃が犯罪的な悲惨さを招くことを知ることになる。ゲルニカ爆撃の直後に、九六式陸攻(中攻)による敵首都空襲を主導した大西瀧治郎大佐は、1943年11月1日、軍需省航空兵器総局総務局長に就任。1944年10月5日、フィリピン方面の第一航空艦隊長官に内定。1944年10月9日に出発し、上海経由で、4月11日、台湾高雄に到着、10月17日になって、フィリピン方面の第一航空艦隊司令長官として、マニラに赴任している。終戦後に自刃した潔さもあって,特攻隊の創設者のように祭り上げられている。実際は,「特攻は,統率の外道」と称していたから,米国の軍事力・生産力の高さの前に,劣勢の日本軍が効果的な作戦を遂行することが困難であることは承知していた。しかし,敗退を,軍上層部や天皇の責任に帰すわけにはいかず,起死回生の策として,特攻隊を編成する先導者としての地位を引き受けたようだ。 |
1939(昭和14)年11月、大西瀧治郎は少将に昇進、1940(昭和15)年11月 第1連合航空隊司令官
1941年1月 第11航空艦隊参謀長として、連合艦隊司令長官山本五十六大将から真珠湾奇襲の作戦立案を命じられ,源田実参謀、黒島亀人参謀と立案
太平洋戦争開戦後、第11航空艦隊はフィリピン、蘭印攻略戦等を支援
1942年3月 航空本部総務部長 内地帰還
1943年5月 中将,11月 軍需省航空兵器総務局長
1944年10月 第一航空艦隊司令長官就任 フィリピンに赴任 航空戦の指揮をとる
最初の神風特別攻撃隊を出撃させる
1945(昭和20)年5月10日 軍令部次長発令内示、5月13日 1式陸攻で新竹を出発,内地帰還
5月19日 軍令部次長、終戦に際し、徹底抗戦を主張するも8月16日 自刃
日本海軍の航空特攻で,一式陸上攻撃機が自ら特攻したことは,一度もない。1945年3月以降,人間爆弾「桜花」の母機として,事実上の特攻をかけたが,これは,一式陸攻による体当たり攻撃とは異なる。特攻兵器「桜花」の最初の攻撃は、兵学校出身の野中五郎海軍大佐(死後昇進)が指揮した。彼は、二・二六事件の野中四郎の弟だが、特攻死したのではなく、一式陸攻に搭乗し、桜花を目標近くまで運搬する任務を指揮し、その途上、「桜花」もろとも撃墜された。兵器の事情を知らないと,航空機攻撃で戦死,被害を受けての体当たりを,神風特攻と誤解しやすい。
ただし,有馬正文少将を,特攻死としなかったのには,別の理由もある。将官が自ら進んで特攻したのであれば,生きている多数の将官の中からも,特攻志願者があり,自ら特攻隊に参加し,特攻し,戦死しなくてはならなくなる。これだけの覚悟を,実際取ることのできた高級将校は,ほとんどいなかった。その意味で,死を決意し,最後の特攻を命じた宇垣長官は,卑怯者ではない。
事実上、佐官クラス以上の士官で、特攻隊に自ら志願した将校は、日本陸海軍にはない。「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍も多数いたのであるが。
彼ら高級将校は、特攻とは、その他に愛国の情を示す方法がない未熟練な末端の勇士が行うべきことと考えていた。軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
----このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避しつつ、要領よく若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。この無責任な特攻作戦にこそ、軍国主義教育を施し,促進してきたエリート軍人たちの「愛国心」の本性・本音が現れているのではないか。
『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機。
⇒沖縄戦の特攻(続き)として特攻作戦の崩壊を読む
写真(右):2006年1月、アメリカ、ワシントンDC、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29「エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受け、議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。、完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイ:Enola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
English: View of the Enola Gay within the Steven F. Udvar-Hazy Center of the Smithsonian in Chantilly, Fairfax County, Virginia
Date 2 January 2016, 14:50:46
Source Own work
Author Famartin
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: 2016-01-02 14 50 46 View of the Enola Gay within the Steven F. Udvar-Hazy Center of the Smithsonian in Chantilly, Fairfax County, Virginia.jpg引用。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
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