鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
西南聨合大學の雲南抗日戦争史 2007
Search the TorikaiLab Network

Googleサイト内

『雲南抗日戦争史』孫代興・呉宝璋主編 抄訳 中村昭司、雲南大学出版社
写真(左):1937年8月第二次上海事変のとき爆撃で破壊された上海「南京路」
;外国から多数の船が寄航した国際都市。人口300万人。江南地方の大都市上海は、米,英、日など共同租界,フランス租界があった。租界とは,中国の主権が及ばない「治外法権」の地である。8月14日の爆撃は,中国爆撃機の誤爆だったようだが,上海の飛行場を日本海軍航空隊も爆撃している。
写真(右):現在の雲南師範大学に残る国立西南聯大(National Southwest Associated University)の校門。1937年の盧溝橋事件以降、日中全面戦争が開始されると、華北や華南の大学が雲南省に疎開してきた。『雲南抗日戦争史』より引用。

写真(右):1942年4月のアメリカ義勇部隊AVG「フライング・タイガーズ」LIFE Magazineに掲載されたGeorge RodgerあるいはClare Boothe Luce撮影。中国空軍に所属し,昆明など南西部を拠点にして、日本軍と交戦した。米国製カーチスP-40「トマホーク」戦闘機を装備し,パイロットは米国人である。1940年夏から12月8日までは,対日宣戦布告なき米国の秘密戦争となった。しかし、当初の規模は小さく、中国は、事実上、独力で日本との全面戦争を戦うことになる。中国民衆の抗戦意志は高く、日本に占領された地域の高等教育機関は、中国国民党政府支配地域へと大挙移転・疎開した。南西連合大学もそうした大学の一つで、北京にあった北京大学・清華大学、天津にあった南開大学が雲南省昆明で組織した中国随一の大学だった。

◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
中国の地図:日経の中国地図一覧
中国地図リンク集:現代の中国地図
【アジア太平洋戦争インデックス】:オリジナルwebリンク一覧
資本進出と経済介入に関する一考察 : 日本の朝鮮経営,ODA,海外直接投資,コンディショナリティーの功罪を巡って『東海大学紀要 教養学部』第25輯,1994年


当web研究室には、2007年5月2日以降、Counter名の訪問者があります。写真・文章を非営利のweb等に引用する際は、出所を明示するかリンクを張ってください。ご意見・ご要望をお寄せくださる場合には、ご氏名、ご連絡先などを明記してくださいますようお願い申し上げます。(鳥飼行博研究室)

孫代興・呉宝璋主編(2005年6月)『雲南抗日戦争史』雲南大学出版社刊(253頁)抄訳 中村昭司を基にした、 国立西南联合大学の戦い

中村昭司氏が独自に収集・翻訳された資料を、鳥飼研究室の判断を加えて、中村昭司氏の原文翻訳を公開しています。ただし、孫代興・呉宝璋主編(2005年6月)『雲南抗日戦争史』雲南大学出版社刊の意見を忠実に伝えたものではありません。『雲南抗日戦争史』は全面的に中村昭司氏に依存していますが、それを解釈した文章は、すべて鳥飼行博研究室の責任となります。

1. 1937年7月7日,盧溝橋事件以降、8月15日,近衛文麿首相の「暴支膺懲」声明以降、日中全面戦争が始まり、華北、華中の大学が、中国南西部の内陸に移転、疎開しはじめた。

写真(左):中国国民党政府の国民革命軍第29軍宋哲元(1885年—1940年4月5日:维基百科引用);宋哲元は、1933年3月第29軍(長城要衝喜峰口などを守備)を指揮し、日本軍に抗戦した。日本軍に6000余人の損害を与え,大捷し、全国を震撼させた。1937年,喜峰口血戦を背景にした《大刀进行曲》が創作され、全中国で歌われた。1935年陸軍二级上将,平津衛戍司令、冀察绥靖主任および冀察政務委員会委員長・河北省政府主席。1937年の盧溝橋事件(芦沟桥事变)勃発に際しては、平和的解決が可能であると幻想を抱いたために準備不足となり、北平、天津を陥落させてしまう。1938年春,一戦区副司令に任命。しかし,病のため1940年3月辞職。夫人長淑青の故郷四川省綿陽绵にて静養。4月5日病没。抗日戦争を開始した将軍として、中国では評価されている。宋哲元 :维基百科引用。百度百科 Baidu :宋哲元には、次のようにある。宋哲元(1885-1940),乳名宋室,字明轩,汉族,山东乐陵县赵洪都村(今属乐陵市)人。酷爱读书,敦厚沉毅、不苟言笑、处世谨慎,生活简朴、作风朴实,尊重文化,爱护人才,他治军严谨,作战勇敢,为西北军五虎之一,冯玉祥对他十分赏识,称赞他“勇猛沉着”,“忠实勤勉”,“遇事不苟”,“练兵有方”。

1937年7月7日,盧溝橋事件(七・七事変)以降、日中全面戦争が開始された。これは、中国から見れば、「日本帝国主義による中国侵略戦争」である。「中華民族の教育の精華が毀損され潰滅されるのを免れため」,日本軍の侵攻した華北および沿海の大都市の高等教育機関は、日本軍の侵攻の及ばない南西部内陸へと疎開していった。この時期,中国歴史上空前の文教大移動が行われた。少なくとも60-70の大学,高専が西南の大後方(国民党勢力地区)へ移動、疎開したといわれる。

雲南には十余校が疎開した。国立西南聯合大学(北京大学,清華大学,南開大学が聯合したもの、国立国術体育専科学校,国立中山大学,国立芸専,国立同済大学,私立華中大学,国立中正医学院,国立上海医学院,私立中法学院,中央政治学校分校,さらに省外の文教機関が昆明で創立した新校,雲南省立英語専科学校に,元々あった雲南大学を加え,抗戦時期の昆明は中国の教育中心地の一つとなった。

学校は同時に雲南に入ってきたのではない。最も早かったのは、1938年4月の西南聯合大学で,その他は1938年末から1939年であった。雲南にあった期間も長短があり,短いものは数ヶ月,長いものは数年であった。最長は西南聯合大学(National Southwest Associated University)の8年である。西南聯大は国内でもっとも有名な三校が聯合してつくられ,雲南に存在した期間も最長だったので、雲南移転の大学の象徴的存在であった。

2. 1937年のに中全面戦争勃発後、盧山会議で、中国の華北の大学(北京大学、清華大学、南開大学)を合同で、中国南西部に移転、疎開することが検討された。1937年11月1日、長沙臨時大学が創立された。この日が、西南連合大学( 国立西南联合大学)の創立記念日とされたのは、両者が同一の目的・組織を継承したためである。

 西南聯大は北平(現北京)の国立北京大学,国立清華大学および天津の私立南開大学が聯合してつくった大学である。北京大学は中国第一の総合大学で,その前身は1898年の京師大学堂に始まる。新文化運動以前は封建的性格の学校であった。1917年,蔡元培が北大校長に任ぜられ,このときから北大の歴史的変化が始まった。

写真左:陳独秀。1901年から清朝政府による日本留学に応じ、民族主義革命の思潮に影響される。1911年の辛亥革命による中華民国の成立後には安徽省政の要職に就くが、大総統袁世凱の革命派弾圧に際し、日本に亡命。1921年ソ連コミンテルンの指導で、上海で李大?らと中国共産党を結成、初代総書記に選出。孫文率いる国民党との合作を模索し、軍閥と国外の帝国主義を打倒する「国民革命」を提唱。 陳独秀-Wikipedia引用。

蔡元培北京大校長は、北大が清末に民間から初めて募集した老爺式学生の官僚の習慣を一掃し,兼容併色の精神をもって,陳独秀李大、魯迅,銭玄等中国内の学術の精鋭を招聘した。1915年9月15日、陳独秀は、《新青年》(もとは《青年雑誌》、第2巻より改名)を編集し、上海で創刊したが、そのときの同志たちである。

 
写真(右):清華大学の旧校門
;義和団事件の対米賠償金から資金拠出されて1911年米国留学予備校・清華学堂として始まり、1928年国立清華大学となった。 抗日戦争時期には北京から離れて長沙、昆明と移り、西南連合大学を組織した。戦後北京に復帰し、中華人民共和国成立後に文科系の学部を北京大学に移管、代わりに理科系の学部を北京大から移管させて理科系に特化した大学となった。現在、北京の清華大学のほかに、蒋介石台湾移転後、1955年台湾新竹市移転した国立清華大学がある。(wikipedia引用)。

清華大学の前身は米国の“退庚款”(義和団事件の賠償払い戻し金)で1911年創立された留美(米国留学)予備学校が発展した大学であった。

1900年6月17日中国清政府は、義和団を当てにして、列强八カ国を相手に戦争を開始。慈禧は召集した御前会議”で,《宣戦詔書》を布告した。これは「投降売国的的形象」ともされるが、国力は伴わず,列强に首都北京を占領されてしまう。朝廷は逃亡したが、これを史上“庚子事变”と呼ぶ。清政府は八カ国と“講和条約”を締結し,賠償約款の要求を受け入れた。この賠償額は中国人口四億五千万として、一人当たり一两,総計4.5億两と決まった。この資金を払い戻す形で、清華大学の前身である米国留学予備学校が創立された。そして、ここに、1925年8月大学部が設立された。

1928年には国立清華大学と改名,その後は米国の通才教育(リベラルアーツ教育,総合教育)を教育方針とし,教授による学校管理等一連の制度を確立した。1931年,梅貽?(メイ・イーチ)が清華大学校長に任ぜられ,教授自治制度を確立した。声望のある多くの教授を招聘し,学校教育と学術業績に空前の発展をもたらした。

南開大学は優良伝統校であって創業者は張伯苓である。この人は中国近代教育界でもっとも傑出した人物の1人であった。1904年,張伯苓は私立敬業学堂を設立、1907年には南開中学堂と改名,梅貽?は南開学堂の第1期の逸材であった。1917年41才の張伯苓は米国コロンビア大学教育学部に留学,米国私立教育の状況を考察の後、1919年,南開中学堂を基礎として天津に私立南開大学を創立した。

写真右:周恩来と婦人。1917年、日本の東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)で学んだ後、1919年まで明治大学政治経済科に学ぶ。1919年帰国。南開学校(南開大学)に戻るも五・四運動に参加、逮捕。1920年パリ留学、中国共産党フランス支部を組織。留学時代の仲間には、李立三、?小平、陳毅、朱徳などがいる。第一次国共合作が成立した1924年、帰国。孫文創立の黄埔軍官学校政治部主任に就任。周恩来:维基百科引用。長征最中の周恩来

周恩来,馬駿は南開大学第一期生である。南開大学は米国式教育を推し進めた。張伯苓は非常に厳格に教師を選んで招聘した。国内各著名大学の優秀卒業生を引っ張ってきただけでなく,米国から留学者を招くことにも留意した。南開大学は能力の養成,知識の拡大,試験の厳格,真摯な教学を強調した。張伯苓は血のにじむような努力を行い,科学的精神に基づく教育を行うことにより,ついにわが国の著名大学に列することになり,彼自身も教育界に於いてその名を高からしめた。

1937年,蘆溝橋事変後,7月13日から20日の間に国民党は中共など各党派の団体および著名な学者など有名人150余人に呼びかけ盧山で国家的課題について暑期談話会を開催した。北京大校長蒋夢麟,清華大学校長梅貽?(1889-1962:著名な教育学者。1909年留学仲介機関「遊美学務処」留学選抜試験に合格、第1期留学生として米国へ留学。1931年10月-1948年12月清華大学学長。),南開大学校長張伯苓(1876年4月5日—1951年2月23日):南開大学生周恩来を南開学校創始者厳修とともに欧州留学させるよう提案。)および,陳岱孫(1900-1997年:福州出身の経済学者。26才で博士学位,27才で清華大学経済系主任,後北京大学経済主任。),顧毓?(1902年−2002年:江蘇無錫出身,14歲北京清華學校就学,20歲米国留学。)など著名教授がこの盧山会議に参加した。

陳岱孫:中国経済学者,教育家。原名陳総(陈总)。福建出身。1920年清華学校高等科。1924年・1926年に文学・哲学博士学位。清華学校大学部経済系教授、法学院院長,西南联合大学経済系教授、系主任を歴任。中華人民共和国建国後,中央財政経済学院第一副院長,北京大学教授、経済系主任,校務委員会副主任委員,あわせて中国外国経済学説研究会理事長、《中国大百科百科·経済学》編集委員会副主任等。著作は《政治経済史》(主編)、《从古典经济学派到马克思——若干主要学说发展论略》、《陈岱孙文集》など。

写真右:張伯苓。愛国教育家の張伯苓は一生を教育に注ぎ,南開中学、南開大学、南開女中及重慶南開中学を,中国有数の私人教育機関とした。周恩來は、南開大学張伯苓の学生であり,南開中学,後に南開大学に入学した。1920年11月に南開范孫奨学金を受け、張伯苓から“南開最好的学生”と呼ばれた。国共合作が敗れた白色テロの時代,張伯苓は周恩來と音信普通であった。“九一八”事変の後,張伯苓は天津学会で抗日救国会の主席として、積極的に抗日救亡愛国運動を進め,内戦停止、一致対外を訴えた。周恩来は、1936年5月15日、張伯苓に“不親先生教益,垂廿載矣。曾聞師言,中國不患有共產黨,而患假共產黨。自幸革命十余年,所成就者,尚足為共產黨之証,未曾以假共產黨之行敗師訓也。”と述べた。抗戰中的周恩來與張伯苓引用。

会場では北京大,清華大,南開大が聯合して臨時大学を組織するという問題が提出された。盧山会議後、3校の校長は南京に赴き,教育部(教育省)と連合の方法を討議した。
このとき教育部は同時に「臨時大学設立計画綱要」を立案し,国民政府は「抗戦期間中,戦区内の優良教師が力を発揮できないところがなく,各学生が学問を継続できるよう併せて非常の時期のための専門的人材を国家の需要に応じて訓練するべく「特別に適当な場所を選定し,臨時大学を若干の地点に設置する」という計画を提出した。その中で、北京大,清華大,南開大は第1地区の臨時大学を組織し,長沙に置くということであった。臨時大学という名称を定めたのは当時の当局では戦争が3ヶ月,長くても1年ぐらいと認識していたことによるものだった。

3. 1937年7月末、北京、天津が陥落し、抗日活動が盛んだった南開大学が日本軍に破壊された。これを契機に、華北の大学の南西部への移転が急速に進んだ。このような大学の移転・疎開は、日本軍の近隣にあって、反日根拠地を維持し、ゲリラ戦を行う中国共産党の戦術には反している。ビジネス界、アカデミズムのエリートは、高等教育を大後方で継続することを徹底抗戦と考えた。したがって、中国共産党の支配地域・根拠地ではなく、国民党の支配地域の湖南省に、北京大学、清华大学、南开大学の三校が移転し、1937年10月25日、長沙臨時大學を創立した。開校は11月1日である。

満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

写真(右):中国国民党政府総統蒋介石(中山);満州を占領され,さらに北京も攻撃されるなか,中国軍民の反日感情は高まっていた。このまま,中国の世論を無視することは,中国の最高指導者蒋介石にはできなかった。抗日戦争を開始しなければ,中国軍・国民の支持を失って,失脚したであろう。こうして,1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説をして,事実上の対日宣戦布告をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

7月19日、最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲がますます高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がほとんどなくなってしまう。日中対決が日中両首相(最高級の指導者)によって決定され,世界に公表されたのであるから,自らの声明を覆す停戦申し込みは,敗北を意味する。この日中両首相の宣言は、日中全面戦争の開始と受け取られた。

日本と中国との双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになっていた,あるいは仕向けられていた。愛国心に駆られた国民世論を背景にして,日中前面戦争が開始されたのであれば,日中双方は戦うべくして戦争に突入したのであって,陰謀説など取るに足らないきっかけに過ぎない。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなす者は,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っているとしか言いようがない。

1932年の満州国成立から5年経過しており,中国政府・国民の忍耐の限度を超えて,依然として日本軍が中国に居座り、満州を奪った上に,新たに華北にも日本の軍隊を増援したことがが,戦争の原因になった。中国の領土内で、中国軍が自国の軍隊を擁しているのは、当然である。日本の駐屯軍が北京近くで夜間軍事演習を行い,兵隊が行方不明になったから,市内を夜間捜索するというのは,まさに暴虐な振る舞いである。もとをただせば,華北の中心都市北京(正式には北平)郊外に,満州を占領した日本軍が駐屯していること自体,高まってきた中国の民族意識を大いに刺激することだったのである。「中国人としての民族意識など無かった」と日本人が認識していたのであれば,そのこと自体,愛国心が沸き立ってきた中国人(漢民族)には許しがたい侮辱だったであろう。満州事変以降,「中国人」による日本製品排斥(ボイコット),反日活動,反日デモ,反日ストライキは,しばしば起こっていたのであって,それが日本人の中国人への反感を高めていたのであるから。

写真(右):上海駐屯の米海兵隊(1930年代中頃):「国際都市」上海では中心街は,英米日などの共同租界で占められていた。左隅には,店主の孫氏の贈とある。金払いのいい外国人を(半植民地化していると批判したり,外国商品をボイコットしたりするのではなく),顧客として歓迎する中国人商店やビジネスマンも多数いたに違いない。友好的関係が結べるかどうかは,政策だけではなく,個々人の意識,金銭感覚の問題でもある。 

敵が弱体なうちに殲滅するのは軍事常識である。1937年7月25日には,北京-天津間でも新たに戦闘が始じまり,日本軍の増援部隊の到着後、7月26日には,支那駐屯軍(日本軍)が北京市内(城内)に突入しようとした。北京城内に立て籠もる中国軍に鉄槌を加えて,日本軍の強さを見せつけようとしたのである。

1937年7月28日,支那駐屯軍は,航空機の協力も得て,北京を攻撃した。中国軍は,日本の猛攻に会い,歴史ある北京の街を戦火で焼き尽くすのを避ける目的もあって,北京から撤退。こうして,日本軍は北京を1日で制圧した。軍の撤退を敗北と同一視している日本軍は,敵中国兵力の10分の1で勝利した,中国軍の士気、戦意は低く弱いと錯覚する。撤退は,「転進」でもあり,新たな軍事行動のための準備かもしれない,とは思わなかった。

写真(左):1938年3月出征する兵士(京都東山区);出典に「番頭さんの出征を、主家にて見送った時の記念撮影です。店の間の奥に、昭和天皇の写真(御真影)を中心に祭壇を拵えています」とある。 

7月29日には日本の反中国感情を一気に高める日本人虐殺事件が通州で起こった。これは、日本に協力的なはずの中国傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊(軍隊)が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260名を殺害した事件で、「通州事件」と呼ばれる。

盧溝橋事件後、親日(日本の傀儡)政権「冀東防共自治政府」に所属する保安隊は、中国国民党政府「冀察政務委員会」の第29軍(司令官宋哲元)と戦闘状態にあった。しかし,日本機が、冀東防共自治政府の保安隊を誤爆した。また、7月28日には日本軍は北京周辺を占領し、中国全土で反日感情が高まり、抗日戦争も始まっていた。こうした事態に直面し,日本軍に協力すべき保安隊は,日本に反旗を翻した。これが、通州事件である。

冀東保安隊の第一総隊長張慶餘は,1937年7月の盧溝橋事件で第 37 師の師長馮治安(河北省主席)に連絡したが、師長馮治安は第29軍の日本軍攻撃に呼応し、通州でも決起するように言ったともいう。中国国民党政府(南京政府)は、兵員数で日本軍の10倍以上優位である。7月17日の廬山における最後の関頭演説にみるように、蒋介石の抗日戦争への意思、中国人の戦意も高まっている。
こうした愛国的な感情の高まりが作用し、張慶餘ら通州の中国人保安隊は,日本への反抗、国民党政府への寝返りを決意した。この愛国心と南京政府への忠誠を証明するために,通州で日本人を殺害したのではないか。
日本人に残虐行為を犯せば、日本軍とは決別し、中国国民党の下に降るか、協力するかできると期待した中国人保安隊(本来は日本軍の協力部隊)が,中国軍に受け入れてもらうには,日本人虐殺という後戻りできない証拠を示す必要があった。

 
写真(右):上海のバンドを示威更新する日本軍の九五式軽戦車
37ミリ砲と7.7ミリ機銃を搭載した対歩兵用戦車。偵察・捜索と歩兵部隊への攻撃が任務であり、対戦車戦闘は考慮されていない。しかし、上海の街中を行進すれば、占領下に暮らす中国民間人への威圧する治安維持に有効である。

通州事件は、日本で大々的取り上げられ、暴虐な支那を懲らしめよ(暴支膺懲)という世論を盛り上げた。中国軍の残虐性を訴え、日本軍の華北侵攻を正当化する反中プロパガンダも行なわれる。しかし,局所的な非正規軍による日本人虐殺事件を持って,中国政府と全面戦争を始めるとしたら,筋違いであろう。通州事件の報復であれば,この保安隊を攻撃殲滅するか,保安隊をかくまう組織(国民党政府?)に対して,その引渡しを要求すべきである。しかし,通州事件に対処する外交的対策は一切採用していない。日本軍の対応は、中国国民党政府への武力攻撃であった。

義和団事件とそれを継承する北清事変でも同じような虐殺事件が通州で起こったが,この惨事を目撃した奥村五百子女史は、寺院で仏教の陶冶を受けていただけに、兵士が命がけの任務をこなしてくれているからこそ、日本の家庭生活の安定があると覚醒した。そして、生死をかけて戦ってくれる兵隊さんのために「私たち日本の女子にもできることをすべきである」と、帰国後,日本全国で訴えた。1901年、貴族院議長近衛篤麿(近衛文麿の父)が後援し,愛国婦人会が創立された。上流婦人のみを対象とした構成で、兵士の見送り,留守家庭や戦死者を出した軍人遺族の支援を行った。1937年には会員数380万人である。

写真(左):京都市の国防婦人会の不要品供出活動(1935-38年京都市中京区烏丸一条);張り紙には「力を合わせて愉しく生活御奉公・これまでのやうに、一軒づつバラバラの生活では、ずゐぶん無駄や間違ひが多かった。みんなが協同してやれば、まだまだ物も力も生まれて来るし、明るい愉しい気持ちで,もっとお国のお役に立つことができる。…」と書かれている。女子も戦争の一翼を担っているとしたら,それを攻撃する無差別爆撃も正当化されるのか。日本は米国に,中国は日本に無差別爆撃される。(但し,京都は爆撃されていない)

1934年,陸軍・海軍大臣など現役の将官夫人が幹部を務め,陸軍の監督・後援を受けた国防婦人会が結成された。1934年の会員数は750万人。兵士・兵営を支える家族、社会も戦争に参加しているのだと、彼女は理解できた。日本軍が中国で戦っており、「戦場(軍事衝突の起きる場所)」は中国にあるが、「戦争」には戦闘に加えて、資源採掘、生産、流通、消費、輸送などの局面があり、日本国内でも戦われている。

戦争とは、銃火を交える戦闘、住民虐待行為だけではなく、兵士を送り出す家族、会社員、兵士の食料・軍服・兵器を生産する労働者、軍事費の財源を徴税する行政官、兵士を運送する輸送船乗員によっても、戦われている。戦争に参加しているのは、全国民、植民地の住民すべてである。

1937年7月29日、30日,北京,天津は相次いで陥落,3校の中では南開大学が日本に蹂躙された。満州事変後,南開大学は継続して天津抗日運動の前線に立つなど,日本の侵攻に抵抗した。そこで、日本軍の天津占領に際し,南開大学は爆撃と砲撃を受けた。そして,軍による焼き討ちと破壊に遭遇した。

南開大学は、抗戦後,中国第一の罹災高等学府とされたのは、このような事情からである。南開大学の財産損失は,当時,全国高等教育機関がうけた損害の10分の1に及んだ。当時,南京にあった張伯苓は「敵人はこのたび南開大学を爆撃したが,南開大学の精神は破壊されなかった」と談話を発表した。

写真(左):1937年天津で捕まった中国人兵(当時の毎日新聞社撮影の軍検閲不許可写)

1937年7月12日,日本軍は天津を攻撃。7月30日,天津の南開大学が砲撃された。中央通訊社の天津報道によれば、「30日午後2時、日本軍砲兵隊により海光寺から南大へ射撃がされた。そのいち四弾が,図書館に命中し,火災を生じさせた。」「日本機の空襲により市内は炎上し,南開大学も炎上。29九日の砲撃によって、大学の三箇所の大型建築物は全て破壊、灰燼にきした。30日昼過ぎ、日本軍騎兵百余名が派遣された。火災によって、秀山堂、思源堂,図書館、教授宿舍、民房などが全て焼け落ちた。30日以降,日本軍は学校を占領し、学校門外に,兵士を数名を歩哨に立たせた。」「こうして南開大学校の日本侵略者による八年間の蹂躙が開始された。」

 南開大学は、抗戦以来、中国最大の高等学府の損失である。初期の統計によれば、財産損失300万元(法弊),当時全国高等学校の10分の1に達した。30日午後,校長の张伯苓は《中央日报》记者に談話を発表した。「敵は南開大学を空襲した。被害は物心両面に及んだ。しかし南開の精神は不滅であり,挫折することなく,奮励努力せよ。」

1937年7月31日,蒋介石は张伯苓らに会ったが、张校長はすぐに「南開は日本軍の攻撃にされされた。我ら10年の努力が灰燼に帰そうとしている。皆抗戦には賛成している。ただ、南開はどうなるかだ。抗戦終了後、南開大学を再建しなくてはならない。」蒋介石は誠意を持って答え、校長の张を慰めた。「南開は即中国の牺牲であり,中国に南開あり!」南开大学被毁引用。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップをとろうとした。息子は米国スタンフォード大学に留学、ソ連抑留で死亡。

北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘が華北,華中に戦火拡大した。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。


写真(右):現代中国の省別地図
「中国まるごと百科事典の中国各種地図の無料ダウンロードサービス」引用。北京・天津の三大学は、湖南省長沙に移転し、長沙臨時大学を組織した。毛沢東、劉少奇、胡耀邦は湖南省出身である。しかし、日本軍によって、南京が陥落し武漢も攻撃に遭った。長沙方面に戦禍が及んできたために、さらに南西方向に移転することとなった。多くの教員と学生は、貴州省を通って、雲南省に移動した。四川省(当時は重慶を含む)に移動した大学も多数あった。

1937年8月28日,教育部は張伯苓,梅貽?,蒋夢麟を,長沙臨時大学準備委員会の委員に指名し,教育部代表,楊振声を準備委員会秘書主任(事務局長)とした。臨時大学は戦時の要請の考えに基づき三校の院系統を合体するための調整を行い,文,理,工,商法の4学院,17系を設立した(学院とは総合大学下における単科大学)。校舎は長沙城東の韭采園米国教会の?経学院と涵徳女院に加え,湖南省政府は,もと清軍兵営を明け渡した。さらに長沙から百余里にある湖南省南岳衡山(最高峰1290m)に臨時大学の分校を設立,文学院を衡山に設置した。このような国民党支配地域への大学移転・再開が、国立西南联合大学の事実上の創立となる。

米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手した。

写真(右):ドイツ式装備の中国国民党軍:蒸気機関車で前線に向かう中国軍が,見送りの中国人を前に歓声を上げている。

1937年,日独伊三国防共協定が成立すると,ソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めた。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促す。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。また,1940年8月中国共産党は、100コ師団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入し,華北の日本軍守備隊陣地,主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。これには,国民党軍の抗日戦意を高める,抗日戦争に共産党も寄与していることを国民に示す,そして,日本の対ソ兵力を牽制する目的がある。

蒋介石は,中国軍民の支持,国際世論,列国の軍事支援をも当てにして「最後の関頭」によって抗日戦の覚悟を,世界に公言した。

華中の江南地方は,首都南京,国際都市上海,豊かな穀倉地帯と政治経済の中枢部である。そこにも,日本の駐屯部隊があり,盧溝橋事件に引き続き,現地中国軍と衝突する。きっかけは,1937年8月9日に(攻撃目標の)上海の飛行場をスパイ中の日本軍人が殺害されたことである。8月13日に日本の海軍陸戦隊(上海租界駐屯)が上海で中国軍と大規模に戦火を交えた。

写真(右):上海事変の日本海軍陸戦隊(1937年7-8月?):ヴィッカース社Vickers Crossley装甲車10台以上を保有していたが,兵力は3000名程度で、中国軍よりも遥かに劣勢であった。これは、駐屯軍は、警備,居留民保護の警察力しか認められなかったからである。そこで,上海事変の際も、日本陸軍の増援部隊の派遣が決定された。

?日本は、江南地方が中国の政治経済の中心であることを認識しており,上海共同租界の利権も、居留民の生活基盤も手放すことはできないと考えた。(これは、単なる経済進出ではなく、中国の主権侵害を厭わないということである。) 
?上海に駐屯する海軍陸戦隊を「撤収」することは,軍人の名誉(面子)にかけてできない。列国の眼前で,アジア最強を誇る日本軍が,退却しては,沽券にかかわる。さらに,弱い中国軍,反日行動を煽動する中国政府を増長させてしまう、と日本は考えた。 
?日本軍は,軍事的切り札として,長距離爆撃機隊を保有していた。台湾,朝鮮の済州島、九州の日本軍航空基地から,江南地方を往復して爆撃可能であり、これによって,陸上兵力の劣勢を補うことができる。上海には海軍特別陸戦隊も駐屯しており,海軍航空隊に所属する長距離爆撃機との攻撃目標に関する空地連携にも都合が良い。

写真(左):江南地方を爆撃した九六式陸上攻撃機:皇紀2496年(1936年)の下二桁の96年に制式となった新鋭「攻撃機」(日本海軍では雷撃と爆撃をする機種をこう呼ぶ)。あまり指摘されないが,この高性能爆撃機を実用化していたことが,日本・満州から遠くはなれた江南地方で戦闘を行う自信となっていた。なにしろ,敵戦闘機より高速の時速185ノット(340km)を出し,戦闘の援護は不要である(と思われていた)。

弱い中国軍は,日本軍の高い戦意,優秀な経験をつんだ指揮官・兵士と強力な兵器(戦車,爆撃機,軍艦の艦載砲)の前に屈服するであろう。このように日本軍は考えていたために、江南地方に増援部隊を派遣し、兵力を集中して,短期で中国を降伏させるつもりでいた。

現地の松井石根陸軍大将は,日本軍の兵力増強の上、「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心した。その間、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大する日本軍に反感を抱き、中国側に便宜を図る。列国は 「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった。列国市民の多数居住する上海での戦闘の終了を求めたのである。しかし,日本軍は、中国軍の味方をして,敵対的行動をとる英米仏を憎悪した。

写真(右):中支那方面軍司令官として国民党政府の首都南京を攻略した松井石根大将(1945年東京裁判当時);日中戦争勃発前は予備役。第二次上海事変勃発後に軍務復帰、上海派遣軍司令官に就任。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んだが、上海近辺に限定されていた戦闘権限を拡大解釈し、南京を攻撃。南京虐殺事件の報を聞いたとき、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。その後、中支那方面軍司令官を解任、本国召還。松井石根:Wikipedia引用。

『松井大将陣中日誌』1937年10月10日には、次のようにある。
予ハ三十余年日支提携ノ事ニ尽力シ来リタルモノニテ 今ニ於テモ支那ヲ膺懲スルト云フヨリモ 如何ニシテ四億万民衆ヲ救済シ得ヘキ平ト云フ考ニテ一杯ナリ
 支那ハ今共産主義勢力ヨリ之ヲ救脱スルコト緊急ニシテ 是レ支那自身ノ為ノミナラス東亜ノ為メ真ニ喫急ノ事項ナリト確信ス
 於此予ハ日本固有ノ国民精神ト東洋伝来ノ道徳ノ根基ニ立チ 日本人得意ノ犠牲的行動ヲ発揮スヘキノ時ナリト信シアリ
 東洋ノ諺ニ 自反而縮 雖千万人吾往矣 之レコソ目下我等ノ信念ナリ
 全世界ハ暫ク日本ノ為ス所ヲ静観センコトヲ望ム
 尚両人ノ質問ニ言ヘテ
 上海ノ地方ニ於ケル此種ノ事件ハ最早之ヲ繰返ササル様 此度コソ完全ナル善処スルコト緊要ナリト考フ 殊ニ上海ノ特殊性質ニ鑑ミ予ハ出発前ニ於テ 列国ノ協力ニヨリ之ヲ遂行センコトヲ期シアリシカ 共役ノ一般状勢及現地ノ状況ヲ見タル今日ニ於テハ 聊カ其従来ノ希望ヲ変更セサルヘカラサルノ感アリ----凡テ予ヲ以テ列国ノ協力ノ上ニ自信ヲ失ハシメタルヲ遺憾トスト述へタリシニ フレザアハ敢テ之ヲ論難セス
 ----右ハ列国ハ日本ノ行動ヲ侵略的カ 救済的ナルカノ根本ノ観察ヲ改ムルコト先決要件ナリト答ヘタルニ彼辞ナシ 又アベントハ右ハ米国ニ関シテモ同様ナリヤト問ヘルニ依リ 米本国殊ニ最近大統領ノ演説ノ如キハ予ノ頗ル不満足ニ考フル所ナルモ 上海地方ノ米国官民ノ態度ニ就テハ今特別ニ指摘スヘキ所感ヲ有セスト答フ
 概シテ両人共予ノ率直ノ談話ニ満足ノ意ヲ表シテ帰レリ


写真(上):日本軍占領後の南京で日本軍を万歳で歓迎する南京市民と南京の市場
(1937年12月17日と1938年頃):日本の平和的統治によって、駐屯する日本軍兵士と住民が仲良く共存しているというプロパガンダ。真偽は別にして、このように共存共栄できれば、大学が南西部奥地の国民党支配地域に移転することはなかったであろう。 金虎论坛 » 灌水闲聊 » 百态奇趣 » 看日本小学教科书上的日军侵华是怎样颠倒是非的!引用。

松井大将は、南京虐殺事件に関して、次のように「松井石根大将支那事変日誌」で記している。
「上海附近作戦の経過に鑑み南京攻略戦開始に当り、我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め各部隊に対し再三の留意を促せしこと前記の如し。図らさりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならさるに至れるや。
 是れ思ふに
 一、上海上陸以来の悪戦苦闘か著く我将兵の敵愾心を強烈ならしめたること。
 二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと。
等に起因するも亦予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能はす。
 因て予は南京入城翌日(十二月十七日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るへき旨を厳命せり。然れとも戦闘の混雑中惹起せる是等の不祥事件を尽く充分に処断し能はさりし実情は已むなきことなり。

 
写真(右):1938年夏、武漢の周恩来と夫人

英米が日本の上海における中国軍への攻撃を快く思っておらず,日本軍に妨害まで加えてきたのは,権益を守るためでもある。経済的繁栄、平和な生活を望んだのである。上海や南京には、米,英,仏,独、伊などの租界があり、多数の外国人が暮らし,駐屯していた。地上戦、空爆、艦砲射撃によって、上海は破壊され,中国地区と隣接する外国租界も大きな被害を受けた。

上海の金融,商業の中心である租界は,中国の経済中枢でもあり,その市街地破壊,交通途絶などの戦禍と並んで,紛争に伴う資本逃避,ビジジネスの衰退,行政の停滞,教育機関の閉鎖などは,中国,英米に大きな損害をもたらした。アジアビジネスと並んで、アカデミズムでも,中国は大きな危機に直面した。中国側からの和平交渉を期待していた日本であったが、中国も列国も、日本への徹底抗戦を決意した。アカデミズムにおける徹底抗戦の姿勢が、北京大学、清華大学、南海大学などの長沙移転であり、雲南移転である。 これが、国立西南联合大学の建学につながる。

北京は中国の首都ではなく、正式には北平と呼ばれていた。首都は上海西方の南京である。その中国の政治経済の中枢である江南地方を攻撃する日本軍は、中国はもちろん、英米仏の反感を買った。米国は1937年8月29日にカリフォルニア州サンディエゴから輸送艦Chaumontで、海兵隊の増援部隊を上海に派遣した。これは、租界の自国居留民を保護することを第一の目的とするもので、日本軍と戦う意図をもつものではない。

写真(右):日本海軍の九六式陸上攻撃機(1937-40年頃):1937年に南京,上海,杭州を長距離飛行後に無差別爆撃した。三菱設計・製造の長距離雷撃・爆撃機。

当時の米国大統領ルーズベルトも兵士は日本軍の中国侵攻を非難をした。中立は維持しつつも,中国に好意的であった。しかし,米国連邦議会は,孤立主義による平和と繁栄を優先して,日本に宣戦布告をするつもりはなかった。戦争で若者を殺させるような危険を冒す議員は,息子を持った父母からは支持されない。大統領も,日本への戦争を議会に求めれば,好戦的な危険人物として,世論から叩かれる。米国では,大統領も議員も,対日参戦することは,世論への配慮からできなかった。

国際世論と国際的支援を期待していた中国国民党であったが、米英列国は、上海や南京が日本軍に占領されても、対日戦争を始めなかった。極東地域での軍事バランスは、日本に有利だったためである。中国の赤化(共産主義の蔓延)に、神経を尖らせていたのかもしれない。中国は、当面単独で日本に対抗するしかなかった。

軍事的には、江南での決戦に敗れた中国国民党政府・蒋介石ではあるが、徹底抗戦を決心をして、首都を四川省重慶(現在は特別市)に遷都した。日本軍占領地の華北・華南にあった大学は、日本軍侵攻を避けるために、当初は、湖南省に、後に雲南省・貴州省・四川省など中国南西部に移転、疎開した。

写真(左):1938年武漢防衛戦を前に倭寇を掃蕩するために男子動員:急遽動員されたにわか作りの新兵を組織して日本軍に対抗するのは難しい。中国軍の兵員数は日本軍よりも多かったが、戦闘能力は相対的に低かったようだ。

1937年9月初め,北京大,清華大,南開大は、長沙に移転し,長沙臨時大を組織した。これは、一部の教授が南下したからであるが、三校は各地の教員・学生にも、長沙に移転、集結するように通知した。学生部隊によるゲリラ戦の指示、残置諜報のような戦術は採用しなかったようだ。

中国共産党であれば、敵後方地域における根拠地維持、敵へのゲリラ戦を重視していた。三校の南方移転は、このような中国共産党の根拠地維持、ゲリラ戦とはまったく異なる。やはり、大学に進学できる上層師弟、エリート層は、敵後方での活動ではなく、疎開あるいは学習継続を希望していたのであろう。

1937年10月末,長沙に到着した教職員は145名,そのうち清華大学は73人,北京大は55人,南開大学は20であった。出頭した学生とも1452人であった。11月1日,長沙臨時大学は正式に始業,この日は後に,西南聯合大学の校慶日とした。その後教師学生は陸続として到着、1938年1月,学生は1500余人に達した。

1937年12月13日,日本軍は南京を攻略,武漢も危殆に瀕した。南京陥落に際しては、便衣隊(私服ゲリラ)・逃亡兵狩り、敵性住民の抗日活動鎮圧などの目的で、捕虜や市民の虐殺が行われた。外国報道機関によっても、南京虐殺事件として、日本軍の非道性が喧伝された。長沙臨時大学も、日本軍の侵攻、首都南京陥落に震えた。そこで臨時大学は教育部の命を奉じて,昆明に西遷することになった。長沙臨時大学は僅か4ヶ月存在しただけで,名称通り「臨時」であった。

長沙臨時大学は、さらに昆明に西遷した。
長沙から南西部に移動した理由は、第一に、昆明が中国の奥地内陸にあり前線から離れ、日本軍の侵攻が及ばないと考えられたからである。第二に、“雲南に行くには,?越,?緬の2本の道路(援蒋ルート)があって,設備や儀器類が運搬輸入できたこと”による。しかし、日本軍の攻撃の激しさ、残虐性を前に、怯えて遁走したとも言える。


写真(右):南京攻略時の朝日新聞
(1937年12月);「凄絶 随所に白兵戦」とあるが,これは日中兵士の接近戦のことだが,事実上,日本軍兵士による中国兵の掃討戦および捕虜の処刑を意味しているようだ。戦意高揚に繋がる記事は書くことができるが,報道管制しかれており,自由な報道はできなかった。谷中将は、南京攻略の時の師団長。

 中国人に恐怖を与えた日本皇軍は、同時に、憎悪や反日感情を植えつた。中国側は、もはや日本との和平交渉を期待しなくなった。終戦まで、一度も和平交渉は無かった。日本軍、日本政府の強硬な姿勢、好戦的態度は、中国側の妥協あるいは和平交渉の道を塞いでしまった。中国の大学教員・学生など知識階級も、政治家・軍人たちも、徹底抗戦、一致抗日を決意した。多数の日本への留学者がいたにもかかわらずである。

中国に派遣された日本陸海軍は,敵首都南京を攻略し,最大級の名誉を賜っている。大元帥昭和天皇は,39名の将軍に恩賞を授けた。大元帥自らの親授式も開催された。したがって,名誉の勲章を汚すような残虐行為や破廉恥な行為は,隠蔽され,処罰の対象からも外された。軍や政府の公式報告・軍事裁判の記録だけを取り上げても,残虐行為の実態が見えてこない。

「百人斬り競争」をした2人の日本軍将校(少尉)の記事が,1937年から東京日日新聞に4回掲載された。軍刀で戦場の銃を持った敵兵を切り殺す白兵戦は不可能である,日本刀が損傷するので100人も斬り殺すことはできない,二人は郷里に自分の活躍が伝えられるのを願って手柄話を捏造した,としてこの百人斬り報道を虚報とみる識者もいる。


写真(右):百人斬り競争をした日本軍将校
(1937年12月13日東京日日新聞,現在の毎日新聞):二人の少尉がどちらが先に日本刀で敵を100人斬れるか競争をしたことを伝える新聞報道。白兵戦で敵兵を倒したような記事だが,敵兵が小銃で発砲してくれば,軍刀を構えて突撃できるはずがない。銃で抵抗する敵兵を斬り殺すことは無理である。

1938年1月25日『大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版』報道記事
二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願
 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奪戦快絶?百人斬り競争?に血しぶきとばして鎬を削つた向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一○六 ― 一○五、---その後----一挙?千人斬?をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬つた、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく?血刃行?はどこまで続く?……

 ---野田部隊長が友人の鹿児島県枕崎町中村碩郎氏宛てに次の書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまヽの痛快さがあふれてをり、?猛勇野田?の面目躍如----

 ----敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなか〜逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、---さすがに(軍刀の)波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、----戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
二、軍刀枕に露営の夢に、飢ゑて血に泣く聲がする
三、嵐吹け/\江南の地に、斬つて見せたや百人斬
四、長刀三尺鞘をはらへば、さつと飛ぴ散る血の吹雪
五、ついた血口を戎衣でふけば,きづも残らぬ腕の冴え
六、今日は口かよ昨日はお□、明日は試さん突きの味
七、國を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り……(中略)

 極楽や靖國神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われ/\は戦死することをかく呼んでゐます)を毎日念じてゐます----煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳。…

掲載記事で「敵も頑強でなかなか逃げずだから」とあるが,これは「敵が逃亡せず投降して捕虜となったから」百人斬りができたのか。「武運長久を毎日念じてゐます」とは,本当は無事帰郷を毎日念じている、という意味であろう。

兵士が100人以上の敵を斬殺した残虐記事が軍の検閲を通って大々的に掲載されたことに注目したい。敵斬殺は,勇猛果敢な精神の発露として尊重され,「飢えて血に泣く聲がする」「血の色黒光り」「さつと飛ぴ散る血の吹雪 明日は試さん突きの味」との残酷な表現も,不適切とはみなされない。勇猛果敢さを証明した百人斬りの記事は、検閲にかからず報じられた。報道管制の中で敵を斬殺する日本兵は,勇猛さ、敵愾心を称えるものとして,評価されていた。


南京で便衣隊・敗残兵を捜索する日本兵
;1937年12月撮影。平服を着たゲリラ兵・敗残兵・逃亡兵は,日本軍にとって潜在的な脅威である。そこで、捜索・拘束をした。南京で入場式典の挙行には,治安確保が不可欠である。捕虜を釈放する危険は犯さない。Japanese troops intensively searched for stragglers and plain-clothes soldiers. A scene from Nanking.

小銃を持っている中国兵やゲリラ兵に対して,刀剣・銃剣だけ白兵戦を戦うこと、ゲリラ兵を捜索することは、困難である。つまり、中国人を斬殺,刺殺したのであれば,無抵抗の捕虜を斬殺・刺殺したと考えるしかない。当時,日本国内には,多数の実戦経験を積んだ兵士や兵役を終えて除隊した兵士は,この記事の示す状況を理解したであろう。

敵を殲滅,屍の山を築くような内容の記事でも,当時は残虐行為とはみなされなかった。現在からみれば「残虐行為」の百人斬りも,当時の日本軍・日本国民は,日本軍兵士の強さ・勇敢さあるいは敵愾心・戦意を示すものとして,高く評価した。新聞社・記者も,軍の情報開示,紙配給(物資統制で資源は配給・割り当て制度の下にあった)を有利にしてもらえるように,軍に媚を売った記事を書きたかった。

当時,白兵戦で(降伏してきたり捕まえたりした)敵兵を斬り殺すことは,勇敢な兵士・敵を憎む臣民の証であり,賞賛に値する。暴虐な中国兵,日本に反抗した重罪人,大御心を及ぼす天皇に逆らう謀反人は、厳罰に処したのであり,検閲にかからずに記事にできた。日本では,重罪人を打ち首,斬首してきた。大日本帝国への叛乱,天皇陛下への謀反は,極刑に処して当然である。「百人斬り=処刑」である。記事の信憑性を論じる前に,この記事が何回も登場する時代背景を認識すべきであろう。

写真(左):1938年武漢防衛戦を前に抗日献金を呼びかける児童:武漢に留まり防衛線に児童まで参加しているが、大学教員・学生は南西部に移転していた。移動できるだけの資力があったからか。それとも兵士として戦うよりも、学との勤めを果たして長期持久戦を戦い抜こうとしたのか。(广州少年儿童图书馆引用)

しかし,後になって,米英列国から,日本軍が中国人の斬殺・民間人殺害のような残虐行為をしていると非難されると,反日プロパガンダを警戒して,斬殺の手柄話の記事は取り締まられてしまう。

兵士の差し出す軍事郵便にも,当時の「手柄話」(現在の残虐行為)が登場する。敵を殲滅した(=殺害)行為を,日本軍兵士・日本陸軍の検閲官は削除しない。『浅羽町史近現代資料編』に掲載された軍事郵便に,第三師団第二陸上輸卒隊の兵士が天津や南京攻略のときのゲリラ討伐・敗残兵狩りを記述した手紙がある(南京大虐殺と軍事郵便 参照)。

4. 長沙臨時大学は、日本軍侵攻の危機の前に、されに南西の雲南省昆明に移転することになった。北京大学、清華大学、南開大学の三大学は、1938年5月4日、国立西南聯合大学を開校したが、雲南省以外にも、貴州省、四川省、重慶など国民党支配地域に移転・疎開した華北・華中の大学が多数あった。このアカデミズムの大移動は、中国共産党の長征に因んで、「もう一つの長征」「大学の長征」と呼ばれている。

写真(右):武漢守備の国民党軍(1938年):武汉保卫战的国军?国装备部队。国共合作によって、盧溝橋事件後に、中国共産党軍も加えて、国民革命軍が組織された。しかし、両軍は連携作戦ができず、括弧に日本軍と戦うことが多かった。武漢防衛には、中国共産党の八路軍、新設の新四軍の寄与は小さかったようだ。

1938年7月、武漢会戦が始まった。日本軍は,中原を占領するつもりで、中華民国政府と国民革命軍(国共合作により共産軍も含む)へを圧迫しようとした。

蒋介石は、長江中流域の漢口、武昌、漢陽という武漢三鎮、いわゆる武漢で自ら軍を率いたが,第九戦区司令長官薛岳を前線総指揮官に任命した。この戦いには、1938年8月14日調印の中ソ相互不可侵条約と軍事技術援助協定に基づいて、ソ連航空志願隊も参加している。ソ連航空志願隊は、1941年4月の日ソ中立条約締結まで参戦し、合計1200機,2000人の搭乗員が参加、211名が死亡。

1937年8月15日、近衛文麿政権は、「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為」戦争を開始するとの声明を出したが、日本の対中国戦争の大義が「暴戻シナの膺懲」にあるという論理は、国際的な理解を得られるはずがない。中国共産党領袖の毛沢東も、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権も抗日戦争を戦ううえで、ソ連からも米英からも国際的な援助を得ることが容易になった。

写真(左):中ソ相互不可侵条約と軍事技術援助協定に基づいて参戦したソ連航空志願隊:SB爆撃機、I-15、I-16戦闘機などを投入したが、1941年の日ソ中立条約により引き揚げた。


日本軍は,岡村寧次中将が総指揮をとった。岡村寧次中将(1884年5月15日 -1966年9月2日)は、1938年6月新設の第11軍司令官に就任し、中支那派遣軍の下で7個師団1個独立混成旅団を統括。1940年2月に勲一等旭日大綬章を受章。1941年4月に陸軍大将に進級。7月北支那方面軍司令官に就任。1944年11月支那派遣軍総司令官に就任。
1938年10月25日,漢口陥落
1938年10月26日,武昌放棄
1938年10月27日,漢陽陥落
中国軍は,武漢三鎮を失ったが、日本軍14万を殺傷し、抗日戦争の今後に期待を持たせることになった。つまり,持久抗戦が基本方針となった。

写真(右):文夕大火/長沙大火(1937年11月):広島・長崎への原爆投下と並ぶ第二次世界大戦中の都市災害であるとされる。(文夕大火:維基百科引用)

1939年から1944年まで,長沙が抗日戦争の主戦場となった。日中が四次にわたる長沙会戦を戦った。1938年10月25日,武漢陥落により,武漢の政治機關、工廠,難民、傷兵が長沙に流入してきた。当初30万人だった人口が50万人以上に増加した。長沙は、上海,南京などの戦場後方であり、長沙には多数の戦略物資が集められた。商業も栄えたが、長沙の鉄道には限界があり、道路と水路だけでは、大量の物資・人員の計画的な配置は困難であった。

文夕大火/長沙大火CCTV>
1938年11月8日,日本軍が湖南北部に侵攻すると,長沙と衡陽は空襲に遭った。11月9日、11日,臨湘、岳陽が陥落し,両軍は新牆河で対峙した。長沙は十分険しい地形であるが,中華民国政府は長沙の守備について自信が無かった。蒋介石は「焦土抗戦」作戦を採用し,長沙に備蓄した物資を日本に獲得されないように指示した。湖南省政府主席張治中は、蒋介石の焦土作戦命令の電報に接し,11月10日(一説には12日)、会議を開いて蒋介石の考えを伝え,放火隊を組織した。市街の東南の天心閣が放火されたのを手始めに,全市が放火された。文夕大火/長沙大火と呼ぶ。

当時、周恩来、葉剣英が長沙にいたが、火事に際して重要文書を持って急遽避難し、13日午後には湘潭に到着している。また、郭沫若は、長沙大火を《郭沫若伝》に「---極目遠望,根本不見長沙蹤影,惟有衝天的火光和翻滾的濃煙,顯然火勢還在蔓延。」と描いている。
12日の焦土作戦の電報は「文」,大火発生の「夕」方の文字を取って,「文夕大火」という。(文夕大火:維基百科引用)


写真(上):長沙会戦で殲滅された日本軍兵士と捕虜となった日本の将兵
(1942年2月の第二次会戦後):日本軍は中国では負けていなかったというのは、全面的敗走に追い込まれたわけではないという意味では正しい。しかし、局所的な小規模戦闘だけではなく、長沙会戦のような主戦場で、中国軍を殲滅するとは最後までできなかった。

日本軍の南京攻略後、日本軍の侵攻と残虐行為を恐れた大学人や学生は、生き残るためにも、より安全な南西部に撤退することを考えるようになる。『雲南抗日戦争史』は、徹底抗戦「闘争」のために、大後方に移転・疎開したというが、実は、生命の危険から守る「逃走」の側面も指摘できる。1938年の武漢保衛戰、1939年から1942年に、長沙保衛戰が戦われているが、三校の大学教員も学生も、兵士としては参加していない。長沙から撤退し、別のかたちで抗日戦に参加していたとはいえるが。

薛岳(1896年12月27日—1998年5月3日):長沙会戦で日本軍の侵攻を阻止した英雄として評価されている。百度百科 Baidu :薛岳には、次のようにある。薛岳,广东韶关市乐昌县九峰镇小坪石村客家人,早年参加粤军,逐步成为国民党的高级将领,土地革命战争时期曾与红军多次作战,抗日战争时期,参加淞沪会战,指挥了武汉会战、徐州会战、长沙会战等著名会战。1952年晋升陆军一级上将,“总统府”战略顾问。 后病逝于台湾,享年103岁。

1938年6月-10月の武汉、安徽、江西、河南、湖北での武漢会戦は、中国軍は、白崇禧(1893年3月18日—1966年12月1日:国軍副参謀総長兼軍訓練部長)、薛岳(1896年12月27日—1998年5月3日)に率いられた47コ軍130コ师,艦艇30隻,航空機200機,総兵力100万人近くが参加。日本軍は、岡村寧次大将に率いられた9個師団、1コ旅団、2コ支隊、2コ野戦重砲旅団、2コ戦車団,艦艇120隻,航空機300機,総兵力25万人である。日本軍は武漢を占領したが,死傷者4万人を出した。中国軍は日本の中国屈服の意図を打破した。武漢会戦後,抗日戦争は戦略的自給段階に入ったとされる。(広州少年児童図書館>武汉会战引用)

長沙会戦は、1939年9月から1942年1月の三次の戦いと1944年5月の第四次会戦がある。湖南長沙地区で、日本軍66万人,中国軍100余万人(主要指揮官薛岳)が参加した。長沙会戦は八年抗戦期間中、中日双方が最大限の兵力を投入した戦いであった。中国は、長沙会戦四次の大規模防衛戦で,第一から三次の会戦に勝利したと主張する。日本軍の死傷者は10万7000余人,中国軍の死傷者13万人。1944年5月27日,日本軍は36万余人の大兵力で長沙を攻撃(第四次長沙会戦)、中国軍の「指挥失当」のため,1944年6月17日,「长沙陷落」。(広州少年児童図書館>长沙会战引用)

長沙臨時大学の教師学生の西遷は、日本軍の追撃をかわすように、海陸両路線に分かれて行われた。このような長距離移動は、1934年10月から1936年10月の中国共産党長征にちなんで、「もう一つの長征」「大学の長征」とも呼ばれている。陸路の経路は,湖南省西から貴州省を経て昆明に直行するというものだった。参加者は身体検査合格者250余人で,湘黔?旅行団を組織した(湘は湖南省,黔は貴州省,?は雲南省)。沿路は軍隊管理を行うので軍事委員会が中将参議黄師岳黄師岳を団長に任じた。教師の11人は補導団を組織し,そのうち4名で指導委員会をつくり,黄?生(フアン・ユシャン)が主席となった。

写真左:国立西南聯大((National Southwest Associated University)正門とその奥の新校舎。写真原典は西南聯大誌。『雲南抗日戦争史』より引用。

大学は炊事員と医務官を配備し,2台のトラックで荷物を運んだ。学生は一律に草緑色の軍服を着用し,ゲートルを付け,食糧袋を背負い,水筒と雨傘を身につけた。旅行団は1938年2月20日出発,4月29日に昆明に到着した。教師学生は道中風雨にさらされ,山河を跋渉し,体力の試練と意志の鍛錬を受け,風土・人情を理解し,人民の苦難に満ちた生活を目の当たりにし,名勝旧跡および祖国の山河を観覧し,書物や教室では学べない多くの事象を学ぶことができた。これは中国教育史上空前の壮挙で元聯大文学院臨時院長で後に,駐米大使となった胡適(1989-1962)がいうには「臨大の昆明移転を決行したことは,当時のもっとも悲愴な事件で,私は感動し注目するものである。教師学生は徒歩で68日の長きを経て整然として三千里の旅程を踏破した。後に私はこの写真を拡大して全米に配った。この光栄ある歴史は聯大で記念すべきことのみならず,全世界の教育史上で記念すべきことである」と。

写真(左):胡適(1891年12月17日 - 1962年2月24日):1917年(民国6年)、米国留学から帰国。『新青年』で白話文学を提唱、北京大学蔡元培に招かれて帰国。北京大学教授に就任。1919年『新青年』が共産主義へ傾斜すると袂を分かち、1922年『努力週報』を創刊し改良主義を主張。蒋介石に接近し、1938年駐米大使。1942年帰国、1946年北京大学学校長に就任。1949年米国亡命、1958年台湾に移住。(Wikipedia参照)但開風氣不為師引用。

胡適は、上海の梅渓学堂、中国公学などで学び、1910年官費留学生試験に合格して、米国コーネル・コロンビア両大学へ留学。1917年にはコロンビア大学に転校、教育学者デューイに師事。1917年『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、口語文学を主張。1918年に「建設的文学革命論」を書いて「国語の文学・文学の国語」を主張し、言語・文字・文体改革の理論を展開。五四運動以降は李大鞘らの左派と対立、文学運動から身を引く。1920年『水滸伝考証』、1921年『紅楼夢考証』、1928年『白話文学史』。1930年代以降は儒教批判も薄れ、次第に国民党の文化政策の代弁者となる。1938年駐米大使、1942年行政院最高政治顧問、1946年北京大学学長。

海路組は,まず汽車に乗って粤漢路を経て広州を通り,香港に転じた。乗船して越南のハイフォンに到着,再び汽車に乗って?越鉄道に乗り,河口を経て雲南に入り,昆明に到った。パスポートを処理する必要があった。この経路の人員は女性や体が弱く「病気の男性や教職員およびその家族で800人」であった。

1938年2月中旬,長沙を分かれて出発した移転組が,続々と昆明に到達。このほか,陳岱孫、友蘭,朱自清など10余名の教師は自動車を貸し切り,長沙を出発,桂林を経て,柳州,南寧,竜州を通り,鎮南関(今の誼関)を出て,越南に入り,再び汽車に乗り、昆明に転じた。

長沙臨大が昆明に来てから教育部の命により,国立西南联合大学 (国立西南聯合大學)と改称した。聯大は1938年5月4日,授業を開始,それ以来,戦後に聯合大学が終了するまで、聯合大学は,丸8年昆明にあった。昆明では、後日、アメリカ義勇軍「フライングタイガース」も活動した。昆明にあった聯大は初期には,文学院,法学院,理学院,工学院の4学院(総合大学下の単科大学)を設置した。

写真(右):武漢大学で閲兵する蒋介石総統(1937年12月):大学生は、国力維持のための技術者や行政マンになるが、下級将校としても役に立つ。学業に集中させるか、兵士として動員するかについては、時代、為政者によって大いに異なる。学生本人の兵役志願の可否も重要な要素である。(写真は軍服wikipedia引用)

【国立情報研究所】所収の楠原俊代論文一覧
楠原俊代(1990)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(一)」『同志社外国文学研究』57号(論文PDF縦書):西南聨合大学
楠原俊代(1990)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(二)」『同志社外国文学研究』58号長沙臨時大学
楠原俊代(1991)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(三)」『同志社外国文学研究』60号大学疎開:列車移動と空襲
楠原俊代(1995)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(八)」『同志社外国文学研究』70号「長征日記」「西南三千五百里」1938/2/19-3/17
楠原俊代(1995)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(九)」『同志社外国文学研究』71号当時の日記に見る貴州省内の移動
楠原俊代(1996)「もうひとつの長征 : 大後方への旅(十一)」『同志社外国文学研究』74号山東大学・北平師範大学・武漢大学・東北大学・国立中央大学・国立音楽院・金稜大学・市立復旦大学・国立中山大学・広西大学など、昆明・重慶などに移転した大学一覧

写真右:雲南師範大学に保存された西南聯大の紀念エリア。『雲南抗日戦争史』より引用。

1938年8月,雲南省当局の要請に基づき,雲南の教師の質の問題を解決するため,教員養成のための師範学院を増設せよという教育部の命令を受け入れた。1939年1月,通信専修科を新設,また在職教員の普修班(1年)を設け,同時に先修班を開始した。1941年には師範専修科を増設した。

聯大は、5学院26系統,1普修班,1先修班を持つことになり,これは当時,国内最大規模の高等学府であった。聯大は,昆明に8年あったが,その間2つの分校を開設した。一つは聯大が昆明に移転した初期に,校舎がなかったので,文法両学院を蒙自に設けたことで,これを蒙自分校とした。

1学期後,文法学院は蒙自から昆明に移転し,蒙自分校はなくなった。その2は、敍永分校である。1940年9月23日、フランスがドイツに敗れたのを幸いに、日本軍は北部仏印進駐、すなわちフランス領北部インドシナ(ベトナム)を行い、さらに1941年7月28日,日本軍は、南部仏印進駐すなわちフランス領南部インドシナ(ベトナム)を占領した。そこで,万一のために四川省敍永に分校を設置した。その年,聯大入試を受けて入った学生は全部の新1年生と先修班の学生は敍永で授業を受けた1941年秋,戦況が安定したので敍永に分校の学生は昆明に移り分校はなくなった。

5. 雲南省昆明に移転した北京大学、清華大学、南開大学の三大学は、1938年5月4日、国立西南聯合大学を開校した。校舎は急増だったが、各大学に元からいた教員、学生が多数移転したために、中国随一の大学となった。ただし、国立長沙臨時(长沙临时)大学が正式に上課した1937年11月1日を、国立西南联合大学の開校日としている。

西南联合大学 の校務は長沙大学と同じで三校の校長,蒋夢麟,梅貽?,張伯苓が常務会を主管し,梅貽?が主席となった。

写真右:梅貽?(1889年12月29日—1962年5月19日);1916年清華大学物理教授。1933年清華大学校長。对日八年抗戦期間中,清華大学北京大学、南開大学の開合組である国立西南聨合大学の校務委員会常委兼主席身分主持校務。1953年中華人民共和国教育部在米国文化事業顧問委員会主任委員。梅貽?:维基百科引用。百度百科 Baidu :梅貽?には、次のようにある。梅贻?,(1889-1962),字月涵,为梅曾臣长子。自1914年由美国吴士脱大学学成归国,即到清华担任教学和教务长等多种职务。1931年,梅贻?出任清华校长,自此后一直到他在台湾去世,一直服务于清华,因此被誉为清华的“终身校长”。在他的领导下,清华才得以在十年之间从一所颇有名气但无学术地位的学校一跃而跻身于国内名牌大学之列。他的一生仅仅做成了一件事,就是成功的出长清华并奠定了清华的校格。一是师资人才的严格遴选和延聘,二是推行一种集体领导的制度。清华百年的历史上,四大哲人之一。另外三位是叶企孙、潘光旦、陈寅恪。

梅貽?(Mei I-ch'i、清華大学校長40余年,科学技術教育に尽力した河北省天津出身者。號は月涵)は、現在の台湾でも「清華永遠的校長」といわれるほど人望がある。

三校の主な部分は聯合して実行,5学院を共同して運営し,同時になお各自もともとの行政および教学,科研組織の系統を留保し,おのおのの各自事務を処理する事務所を設けた。三校の研究員と研究所は各々独立しており,当時、三校は5カ所を共有し,17学部を設けていた。その他,聯大が組織される以前に入学した三校の学生は各校の系統番号により,原校の学籍を保留した。

西南聯大を組織したあと入学した学生には統一番号をつくった。当時の聯大の学籍はP(北京大),T(清華大),N(南開大),A(聯合大)の4種類あった。さらに三校が参加した聯大が辞令を発給した教職員があった。聯大が辞令を発給した教職員を除き,三校は各自辞令を発給した。しかしながらこれはそれぞれ独立していて,三校の親密で懸け隔てのない聯合のための妨害にはならなかった。梅貽?は聯合大の第9回校慶日の際,次のように述べた。

9年という時間を想起すると,長沙にあり昆明にあり,三校の聯合の結果は甚だ良好で,同僚はことごとく満足を感じていた。教育当局がいうには“抗戦中多くの学校の聯合がうまくいかず,聯大が唯一最後まで聯合が徹底して行われた”」と。

写真右:急設の国立西南聯合大学の校舎群。『雲南抗日戦争史』より引用。百度百科 Baidu :国立西南联合大学には、次のようにある。国立西南联合大学中国抗日战争期间设于昆明的一所综合性大学。卢沟桥事变后,日本帝国主义全面发动侵华战争。为保存中华民族教育精华免遭毁灭,华北及沿海许多大城市的高等学校纷纷内迁。抗战八年间,迁入云南的高校有10余所,其中最著名的是国立西南联合大学。 西南联大是由国立北京大学、国立清华大学和私立南开大学联合而成。

国立西南聯合大学の抗戦8年の期間中,教師は常時350人前後保持し,教授および副教授が半分以上を占めていた。記録によれば、1939年の聯大教授,副教授は177人前後で,1945年には210人であった。8年間の在校生は一般3000人前後,聯大の8年で教育し,卒業した学生は4000人(内本科生3700人,研究生74人)であった。筆をなげうって,従軍をした者および各種の原因で中途退学をした者をふくめて,聯大にあって教育を受け学生は8000人に及んだ。

1945年8月15日,日本は投降し,国立西南联合大学の使命は完成し,北帰復員の準備をした。9月20日から26日,梅贻?は重慶に赴き,“全国教育善後復員会議”に参加した。25日,蒋介石は参加者を宴席に招き,国内移転した学校は復帰にむけて急ぎすぎだ,ということに力点を置いた考え方を強調した。「準備は充実すればするほどよく,帰るのは遅ければ遅いほどよい。政府は遷都を急がないし各校も急いで戻る必要はない」。さらに「移転は明年の課業が終わった後」と時期を明示し,「西北,西南各校は少数を除いて原処に止まるよう」指示した。これに基づき十分な準備を行い半年余ののち聯大はようやっと北返の帰途に取りかかり始めた。同時に雲南省当局の要求に応じて聯大師範学院を昆明に残し,独立して教育事業を継続することを決定した。

写真(右):中国空軍の米国製戦闘機で日本軍と戦うアメリカ義勇軍AVG(1941年頃):カーチスP-40戦闘機には,シャーク・マウスが描かれている。AVGは,フライング・タイガーズとして有名になる。百度百科 Baidu :飞虎队 には、次のようにある。飞虎队,正式名称为美籍志愿大队(英文:American Volunteer Group,简称AVG ),又称中国空军美国志愿援华航空队,是第二次世界大战期间在中华民国成立,由美国飞行人员组成的空军部队,在中国、缅甸等地对抗日本。

1946年5月4日,全校教師学生は図書館で結業式を挙行,その後キャンパスの後山(現雲南師範大学東北角)に集まり,“国立西南聯合大学紀念碑”の除幕式を行った。紀念碑は中文教授,聞一多が篆額し,中文系主任羅庸が碑文を撰した。

西南大学交友で米国シカゴ大学歴史学教授,何炳棣は現代の“三絶碑”を絶賛した。祈念碑は勇壮で,筆法は力強く,文才は飛揚し,意味は蘊蓄を有し,深厚であり,気勢は恢弘(大きく広い)である。歴史的,文学的,芸術的価値がとても高い。碑文は以下の通りである。(Page258)

中華民国34年(1945)9月9日,わが国は日本の降伏を南京に於いて受け入れた。それを遡る民国26年(1937)7月7日,蘆溝橋事変が始まり,以来8年たった。民国20年(1931)9月18日,瀋陽(奉天)事件があり,14年が経過している。さらに故きをたどれば甲午戦争(日清戦争)があり,それ以来51年経った。およそ50年の長きにわたり,日本はわが国を鯨呑蚕食したが,ついに図籍(国家の基本的公文書)をことごとく備えて返上した。(敵軍に)全勝の局面に至ったのは秦漢以来のことである。

国立北京大学,国立清華大学は,本来北京に設けられたものであり,私立西南大学は天津に設置されていた。瀋陽の変以来,私が国の権威は逐次南に移転し,文化力を持ってしては北京天津で日本と争うのはこの3校がその中堅を為すのみであった。

1937年(民国26年),北京,天津が日本軍に奪われたため,三校は命を奉じて,湖南省に移転することにし,長沙臨時大学を共同で組織し,三校の校長,蒋,梅,張が常務委員として,校務を担当すすることになった。北京,上海を失うに至って,武漢も危険となった。そこで、長沙臨時大学はさらに奉命,雲南省昆明に移動した。教師学生は徒歩により貴州省を経て,27年(1938)4月26日,雲南省の昆明に到着した。命により国立西南聯合大学と改名し,理,工学院を昆明に,文,法学院を蒙自に設置,5月4日授業を開始した。1学期後,文,法学院は昆明に移った。1937年,師範学院を増設,1940年,四川敍永に分校を設置し,1学年を学んだ後,本校に合流することにした。昆明は元来,後方(国民党勢力地)の有名都市であったが,日本軍がベトナムに入りビルマを占領して以来,後方の主要都市となった。

写真右:西南連合大学校舎の近景;写真原典は西南聯大誌。『雲南抗日戦争史』より引用。百度百科 Baidu :国立西南联合大学には、次のようにある。西南联合大学是由北京大学、清华大学和天津南开大学联合组建而成的。三校一开始是迁至湖南合组为长江临时大学,并于1937年11月17日开始上课。这个日子后来被定为联大校庆。随着日寇的进逼,长沙危急,三校又迁往云南昆明。
後に,昆明ではアメリカ義勇軍「フライングタイガース」が義勇兵と称して、対日秘密戦争を仕掛けることになる。

西南聯合大学はその間を支え,学生2000余人が卒業,軍旅に投じた者800余人であった。祖国の山河は既に回復し,日月は経過し,聯合大学の戦時の使命は既に達成,命により1946年(民国35年)5月4日,収束するに至った。元来の3校は直ちに旧居に戻り旧に復した。延々,8年,これを維持することの苦心,3校合作の調和等,紀念すべきものはけだし4項目ある。

わが国は世界的な古い国であり,東亜の天府の地にあり,元来,漢等の遺業を継ぎ,併せて世の先進となった。

将来,建国の業が完成すれば,必ずや世界歴史上で独特の地位を占めることになる。世界列強は新なりとも古からず,ギリシャ,ローマは古けれども,今はない。ただ,わが国は古代から現代にわたり,古く且つ新しい。これすなわち,“古い国ではあるがその生命をたえず更新している”ものである。古に照らしても並ぶ事なき偉業,8年の抗戦をへて既にその規模を開き,その基礎を確立した。今日の勝利はわが国に於いて天地を逆転させるというほどの功があり,聯合大学はその使命と抗戦に終始したことが,第一に紀念すべき事である。

写真右:西南連合大学寄宿舎は茅葺きだった。写真原典は西南聯大誌。『雲南抗日戦争史』より引用。

古より文人が軽んじるのは確かである。昔人のいうところは今日も同感である。3校の歴史は同じからず,校風も相異なり,8年の久しきにわたり,共同して隔てがない。同じからずして異なく,異あって同じきを害することなく,五色は輝き合い,欠点を補って長所を発揮し,八音は調和し,常に平穏であった。これが紀念すべき第二の点である。万物並び育って相害することなく,道を行くにもとるところなく,小徳は川をながし,大徳は敦化し,これ天地の大なる所以である。これはふうい古人の常に言うところであるが実は民主主義の要諦でもある。聯合大学はその寛容の精神をもってそのときの気風を移転し,内に学術の自由の規模を樹立し,外に向かっては民主堡塁の名を受け,千人の唯々諾々に反し,一士の諤々を育てた。これが記念すべき第三点である。

歴史に照らせばわが民族は中原に立脚すること能わず,長江以南に蟄居したことを南渡と称した。南渡の人は中原には戻ることがなかった。晋人の南渡はその一例である。宋人の南渡はその二例であり,明人の南渡はその三例である。この光景は特殊なことではなく,晋人は深く悲しんだ。わが山河を帰せと虚しく願った。吾人は第四回目の南渡を為し,十年成らずしてよく全き回復の功を納めた。?信(南北朝時代の文人)は江南を哀れまず、杜甫は薊北を喜ぶ。これは紀念すべきものの第四である。

写真右:西南聨合大學校歌(推荐文章, 忆西南联大校歌的创作)国立西南联合大学引用。

国立西南联合大学校歌
  万里长征,辞却了五史宫阙,暂驻足衡山湘水,又成别离,绝檄移栽桢干质,九州遍洒黎元血。尽笳吹弦诵在春城,情弥切。千秋耻,终当雪,中兴业须人杰。便一成三户,壮怀难折。多难殷忧新国运,动心忍性希前哲,待驱除仇寇复神京,还燕碣。

聯合大学は初めて,西南聯大校歌を定めたがその歌詞の始まりは南遷流離の辛苦の嘆きであった。その中途に於いて教師学生の不屈の壮志を頌たえ,最後の勝利を期して締めくくった。それを今日の成功と照合すれば違わないこと歴々としており,ピッタリと符合している。聯合大学の顛末のすべてが一代の盛事であるのみか,百世にわたっても遇いがたき壮挙ではないか!

写真右:中文,聞一多教授(1988年湖北省生-1946年暗殺)が篆額し,中文系主任羅庸教授が書丹した「国立西南聯合大学紀念碑」表面の碑文。写真原典は西南聯大誌。『雲南抗日戦争史』より引用。

百度百科 Baidu :西南联合大学纪念碑には、次のようにある。
1937年7月7日芦沟桥事变爆发,日军南侵,平津危急。原在北平的北京大学、清华大学,天津的南开大学,奉命迁于湖南,合组为长沙临时大学。以三校校长蒋梦麟、梅贻?、张伯苓为常务委员,主持校务,于当年11月1日上课。继而上海、南京陷落,武汉震动,1938年1月20日,临大正式宣布迁云南。数百名师生徒步3000余里,经过两个多月的艰苦跋涉,于4月26日抵昆明,设理工学院于昆明,设文法学院于蒙自,改名为“西南联合大学”,于5月4日上课。同年冬,?设师范学院。一学期后,文法学院亦回昆明。直到1946年“五四”,联大结束,三校分别迁回平津,历时整整8年。 八年间,西南联大几乎囊括了当时中国最有成就的学者,写出中国教育史上最绚烂的一页。在联大招收的8000余名学生中,已走出了2位诺贝尔奖获得者杨振宁、李政道,3位国家最高科技奖获得者黄昆、刘东生、叶笃正,6位两弹一星元勋屠守锷、郭永怀、陈芳允、王希季、朱光亚、邓稼先,以及80位中国科学院院士、12位中国工程院院士。

《国立西南联合大学纪念碑碑文》
中华民国三十四年九月九日,我国家受日本之降于南京。上距二十六年七月七日芦沟桥之变,为时八年;再上距二十年九月十八日沈阳之变,为时十四年;再上距清甲午之役,为时五十一年。举凡五十年间,日本所鲸吞蚕食于我国家者,至是悉备图籍献还。全胜之局,秦汉以来所未有也。

国立北京大学、国立清华大学原设北平,私立南开大学原设天津。自沈阳之变,我国家之威权逐渐南移,惟以文化力量与日本争持于平、津,此三校实为其中坚。二十六年平津失守,三校奉命迁移湖南,合组为国立长沙临时大学,以三校校长蒋梦麟、梅贻?、张伯苓为常务委员主持校务,设法、理、工学院于长沙,文学院于南岳,于十一月一日开始上课。迨京沪失守,武汉震动,临时大学又奉命迁云南。师生徒步经贵州,于二十七年四月二十六日抵昆明。旋奉命改名为国立西南联合大学,设理工学院于昆明,文法学院于蒙自,于五月四日开始上课。一学期后,文法学院亦迁昆明。二十七年,?设师范学院。二十九年,设分校于四川叙永,一学年后并于本校。

昆明本为后方名城,自日军入安南,陷缅甸,乃成后方重镇。联合大学支持其间,先后毕业学生二千余人,从军旅者八百余人。河山既复,日月重光,联合大学之使命既成,奉命于三十五年五月四日结束。原有三校,即将返故居,复旧业 缅维八年支持之苦辛,与夫三校合作之协和,可纪念者,盖有四焉:

我国家以世界之古国,居东亚之天府,本应绍汉唐之遗烈,作并世之先进,将来建国完成,必于世界历史居独特之地位。盖并世列强,虽新而不古;希腊罗马,有古而无今。惟我国家,亘古亘今,亦新亦旧,斯所谓“周虽旧邦,其命维新”者也!旷代之伟业,八年之抗战已开其规模、立其基础。今日之胜利,于我国家有旋乾转坤之功,而联合大学之使命,与抗战相终如,此其可纪念者一也。

文人相轻,自古而然,昔人所言,今有同慨。三校有不同之历史,各异之学风,八年之久,合作无间,同无妨异,异不害同,五色交辉,相得益彰,八音合奏,终和且平,此其可纪念者二也。

万物并育不相害,道并行而不相悖,小?川流,大?敦化,此天地之所以为大。斯虽先民之恒言,实为民主之真谛。联合大学以其兼容并包之精神,转移社会一时之风气,内树学术自由之规模,外获民主堡垒之称号,违千夫之诺诺,作一士之谔谔,此其可纪念者三也。

稽之往史,我民族若不能立足于中原、偏安江表,称曰南渡。南渡之人,未有能北返者。晋人南渡,其例一也;宋人南渡;其例二也;明人南渡,其例三也。风景不殊,晋人之深悲;还我河山,宋人之虚愿。吾人为第四次之南渡,乃能于不十年间,收恢复之全功,庚信不哀江南,杜甫喜收蓟北,此其可纪念者四也。

联合大学初定校歌,其辞始叹南迁流难之苦辛,中颂师生不屈之壮志,终寄最后胜利之期望;校以今日之成功,历历不爽,若合符契。联合大学之始终,岂非一代之盛事、旷百世而难遇者哉!爰就歌辞,勒为碑铭。铭日:

痛南渡,辞官阙。驻衡湘,又离别。更长征,经峣嵲。望中原,遍洒血。抵绝徼,继讲说。诗书器,犹有舌。尽笳吹,情弥切。千秋耻,终已雪。见倭寇,如烟灭。起朔北,迄南越,视金瓯,已无缺。大一统,无倾折,中兴业,继往烈。维三校,兄弟列,为一体,如胶结。同艰难,共欢悦,联合竟,使命彻。神京复,还燕碣,以此石,象坚节,纪嘉庆,告来哲。

そこで詩を刻んで碑銘となす。

以下三文字の詩

南渡を痛み,都を辞する

湘に遷れど,またそを離る

さらに長征し,高山を巡る

中原を望めば,血潮にまみる

激しく抗い,講を続く

詩書は失へど なお言論あり

胡笛吹き尽し 情は切なり

千秋の恥 ついには雪ぐ

仇冦をみれば すでに霧消す

朔北に始まり 南越に達す

金瓶をみるに なお無欠なり

この第一統(大中国)は 傾折するなし

中興の業は 激しく継げり

三校を連ねて 兄弟に列す

一体となること 膠結のごとし

難を同じくし 喜びを共にす

聯合を極め 使命を貫く

神京回復し 燕碣を戻す

この石をもて 堅き節を刻む

喜びを紀るし 諸賢に告がん

写真右:聞一多(Wen Yiduo、1899年11月24日-1946年7月15日)。湖北省出身。清華大学で学んだ後、1922年米国留学。1925年帰国。清華大学で教鞭を執った。日中戦争中、雲南省昆明の西南連合大学文学部長。1942年『伏犠考』で、三皇五帝の伏羲と女媧が中国少数民族の苗(ミャオ)族の祖先であると論証。 戦後、中国民主同盟会委員。中国国民党の政治腐敗に抗議するも1946年に暗殺。聞一多:wikipedia引用。

特に言及すべき事は,碑が聯大の歴史見証を成しているということで,ここ半世紀近く継続して三校および国内海外にいる聯大交友が大切にし,意を託し,夢と魂のよりどころとなってきた。1988年,西南大学五十周年を記念し,北京大学および西南聯大校友会は昆明の雲南師範大学にある記念碑を複製して北京大学に建てることを決めた。翌年5月4日,複製された碑が落成,碑文を撰した94才の高齢である馮友蘭教授が手ずから複製碑の除幕を行い,さらに45年前の自撰の文を引用して記者に次のように述べた。

「西南聯合大学の顛末は,一代の盛事であるのみか,百世にわたっても遇いがたき壮挙であり,今日なお聯大精神は発揚せしむべきである」

2002年11月1日には、北京大学で清華大学で、抗日战争时期位于昆明的西南联合大学建校65周年を記念する祝会が挙行された。

艱難の歳月

聯大が昆明に移転したばかりの頃,校舎は全くの寄せ集めであった。家賃が決まるや各地にばらばらに設置した。理学院は大西門外の昆華農学校に,工学院は拓東路旋西,江西,全蜀の3会館(科挙受験用の寄宿舎)に,文法両学院は昆明には全く場所がなく,蒙自にあった旧税関,フランス銀行およびギリシャの臚士洋行等の休閑建物を借り,何とか分校設立に漕ぎつけた。

写真右:南西連合大学寄宿舎内部;写真原典は西南聯大誌だが、『雲南抗日戦争史』より引用。

一学期の後,航空学校が蒙自の税関付近の家屋および土地を接収することになり,文法学院はついに昆明に帰ることになった。このとき昆明は日本の航空隊の爆撃により,中等専門学校および中学が専県に疎開した。そこで文法学院は昆明工学校および中学跡を賃借し,昆明師範学校の校舎を教室と宿舎にした。新設の師範学院は昆華中学の南院と北院とを借りた。聯大の事務局は崇仁街46号にあり,後に財盛巷2号に移り,そのあと業務の便のため竜翔街にまた移転した。これ以来,聯大はなお“居候”(寄人篭下)の状態で全く自己所有の校舎はないといってよかった。

聯大は一途に自己の校舎をつくろうと考えていたとき,昆明西北の三分寺付近の荒れ地8.3ヘクタール:今の雲南師範大学の土地)を買収,自前の校舎を建てた。しかしながら中国の戦時困難,経費の不足という制限のため建築学の大家,梁思成,林徽因がいて建築顧問となったがない袖は振れなかった。1939年,春夏には校舎が竣工し,みんなは“新校舎”と呼んだ。全く多層階の建物はなく一律に平屋建てだった。図書館と2つの食堂は比較的大きかったので,磚木構造を用い瓦葺きとした。その他の校舎はすべて土壁,むき出しの鉄板葺きとした。学生の宿舎は茅葺きであった。文法理の三学院は新校舎に移り,工学院はなお拓東に,師範学院は昆華工高を借りて移転,依然として居候を続けた。
1944年4月,学校経営が赤字のため新校舎の教室と事務棟の屋根の鉄板を売却,茅葺きとなった。聯大の辛苦と経済逼迫はこれを見ても分かるだろう。

6. 雲南省昆明に急造された国立西南聯合大学は、設備は不十分で、日本軍の空襲も受けたが、教員と学生の向学心は旺盛であった。

写真右:国立雲南師範大学には今も聯合大学時代の校舎が保存されている。『雲南抗日戦争史』より引用。

1938-1942年までの間,昆明は常に日本空軍の空襲を受けた。聯大の教師学生はほとんど毎日,警報を聞いて飛び出した。聯大が昆明で借りていた建物は何度も爆撃にあった。

新校舎の教室の中は暑い日には蒸し風呂のようであり,冬には寒風が人を襲った。雨の日は屋根がバタバタと耳を聾する音を立てるので教師は大声で叫ばなければならず,いわゆる“風音も雨音も読書の声も耳に入る”という状況だった。教室には机がなく“火腿(赤色をしたハム)椅子”が机・椅子兼用の機能を発揮した。図書館の蔵書は少なすぎて哀れだった。聯大8年間の累計で内外の図書は4万8千冊にしか過ぎなかった。実験用具も欠乏し,多くの実験はやりようがなかった。測定儀設備は少ない上に陋朽化していた。

物理系の呉大猷教授はプリズムを簡易な木の架台に置いてもっとも原始的な間に合わせの分光儀をつくり,“ラマン効果”の研究を行った。物質に特定波長の光を当てると、同じ波長の光が「レイリー散乱」するが、一部の散乱光は、その物質を構成する分子の振動に応じて、波長が変化する。これらがラマン効果である。地質地理気象学系では新工夫をして附近の壊れかけたトーチカを気象台に改装した。航空系の学生の実習観察用に供した風洞実験室は土作りの平屋を改装したものだった。実験を行うといつもモーターの振動で土壁がぼろぼろ落ちた。

写真(右):西南聨合大学の校門:華北の三校が組織した中国随一の大学だったが、設備は貧弱だった。

図書館の席は混んでいたし,寄宿舎は机も椅子もなかったので学校近くの文林街や竜翔街の茶館(喫茶店)は学生達が討論する格好の場所となり,少なからぬ人の論文や読書のリポートはこの茶館のダベリから生まれたものだ。現在の著名な小説家,王曾祺はいう。“茶館は人材を生み出した”と。“聯大史を研究すると,聯大附近の茶館を理解せずして「人材学」は成り立たない”“われわれのような小説家は昆明の茶館のダベリから生まれたものなのだ”と。

教師学生の生活にはさらに差があった。学生の宿舎は大広間で40人が一部屋に住んでいた。窓は四角い穴に木の格子がはめてあっただけだった。雨が斜めに降りかかるときには傘を差して遮らねばならず,屋内に雨水が入って水浸しになった。雨が降ると校庭内の道は泥濘となった。学生の大多数は戦闘地区から来ていたので仕送りは途絶え,少しばかりの借金で日を過ごすより他はなかった。食べるものは砂混じりのヒエもネズミの糞もみなはいった“八宝飯”であった。生活を維持し,学習を堅持すするため,半分以上の学生は校外で兼業し,半労半学で各種各様の職業に従事した。過半数は家庭教師,あるいは中小学校教師を兼業し,あるものは新聞社の編集,銀行員,駅員,電気工,ペンキ屋,広告員,店員,新聞売りなどをした。聯大西門楼で昼の時報が鳴ると,労働に出る聯大生でごった返した。

アルバイトは学生の精力と時間を少なからず消耗し,聯大で切れ切れに在学したため何年もかかった学生もいた。しかし彼らは生活体験から,社会を理解し,意志を錬磨し,自己を鍛錬し,同時に社会のために多くの有益な仕事を行い人民大衆に深い感謝の気持ちを培ったようだ。

写真右:往時のまま保存された西南連合大学校舎内の教室。机兼用の火腿椅子。『雲南抗日戦争史』より引用。

日本機の空襲を避けるために多くの教授は郊外に住んだ。竜頭村,司家営,東家壁,黄土坡,王家橋,陳家営,竜院村、呈貢などであった。最も遠いところは60キロも離れていた。授業に出るには汽車に乗ったり,小馬車に乗ったり,あるいは徒歩で,あるいは前日,市内に出て学校の単身宿舎に泊まったりした。

華羅康はまず農民の役畜の厩の2階に住んだ。彼は次のように書いている。

「昆明市外20kmの所に小村があって,家人は小さな母屋の階上に住んでいた。夜になるとたった一つの豆の如き灯火が照らした。牛が痒がって体をこするがそのたびに建物が大揺れして倒れそうになった。馬の囲いに豚も同居しているため馬が豚を踏みつけると豚は悲鳴を上げた」。「清にして高なる教授とは,ああかくなるか!清はすなわちここにあり。清湯(具のないスープのこと)の“清”であっても,“高”はまだお目にかかっていない」と。聞一多は北の郊外,陳家営に引っ越したが,華羅康一家は引っ越す場所がなかった。聞先生は華家の家族が他の家族と一緒に住むようすすめて招き,聞家の8人と,華家の6人とを中間に簾で区切った。

写真(右):フライング・タイガーズのカーチスP-40戦闘機(1940-42年頃):1940年に本格的に組織されたAVGは,フライング・タイガーズとして,太平洋戦争でも日本軍と戦闘する。

華羅康は4行から成る詩を作って忘れがたい生活を記述した。

布を掛けて家を分かち,ともに膝を容れる
両家の不遇はこれで止まるや
布の東は古きを考え,布の西は数を学ぶ
専門は同じからざるも,こころには同じ仇敵を憎む

物価が急騰し,教師の生活は悪化した。1938年,1939年,教授の月給は3週間を維持するだけで、後には半月の用にたりる程度となってしまった。“飯を炊くコシキにはゴミがへばりついており,腹は五分腹“で ,”請け出してはすぐ質に入れる。書物を質に入れる“ 生活だったともいう。多くの教授は家族の糊口を凌ぐために奔走し,兼業,兼課をした。聞一多のような有名教授も兼課以外に印章を刻むことで生計を維持した。1944年,彼は手紙の中で辛酸を述べている。”2年前,断炊の脅威の中で生活し,中学で兼課を始めたが,なお不足であった。友人がけしかけたので,ハンコ屋の看板を出し収入を補った。そのうちに収入の三分の二はこの道に頼ることになった。

呉大猷教授は常々,大膏薬を貼ったような継ぎ接ぎズボンをはいて西南聯大に通った。曾昭?教授の靴は、前後に穴が空いていた“ という。

朱自清教授は冬でも綿入れ外套をつくることができず,馬匹用フエルトのマントを着て寒さを防いだ。生計に困って多くの教授夫人もみなやり方を考えて生きようとした。聯大常務委員の梅貽?夫人は潘旦教授夫人といっしょに米の餅をつくり,市内の冠生園で委託販売を行わざるを得なかった。

生活はこのように苦難に満ちていたが,聯大の教師はかえって貧に安んじ道を楽しみ,厳しく学問を修めることに励み,心から研鑽を積み,書を著し,学説を立て,人を教え導いて倦むことなく,民族のため,人材の育成に貢献した。学生達は天下をもって自らの責任とし,書を読んで救国を忘れず,救国を思って読書を忘れず,ふるって努め,学を新たにし,刻苦研鑽した。聯大の教師学生のこのような精神状態は,抗日戦必勝の信念に充ち満ちていたことに由来するものである。このような信念は聯大のキャンパスいっぱいに反映していた。羅庸作詞,張清常作曲の校歌は,民族の英雄,岳飛の千古の絶唱,満江紅詞の牌名と似た慷慨激越の悲歌であった。“その辞は南遷流離の辛苦に始まり,中程では教師学生の不屈の壮志を讃え,最後には勝利の期待を寄せたもの”である。今なおその歌は全世界にいる聯大校友の心を励ましている。

写真右:昆明西郊の陳家営。写真原典は西南聯大誌。『雲南抗日戦争史』より引用。

万里長征 五朝の宮闕を退去す

高山湘水に駐し,また離別となる

絶移裁鰺干質 九州あまねく元血を撒く

鼓笛を吹き尽くして 弦謠山城にあり,情いよよ切なり

千秋の恥,ついには雪ぐべし

中興の業は 傑人を必要なり

一は三戸をなし,壮志は折れること難し

新しき国運の多難を憂ふ

心を躍らせ耐えつ先哲を希む

仇冦を駆除し,神京,燕竭を復するを待つ

大学者が雲のように集まる

聯大の常務委員,梅貽?の名言がある。「いわゆる大学者とは大建設物を指すのではない。優れた先生のことである」。この言葉はあたかも西南聯合大学を言っているようだ。全く西南大学は大きな建物はなし,筆者が「国立西南聯合大学史」および「西南大学資料」に基づき整理したところ,西南大学8年間に300名の教授がいた。西南大学が“国立西南大学聯合教授名録」として名を刻んだ碑が校庭に建てられているが,その名録によれば下のようである。

教授名簿中,“”とある院系兼任教授を除くと305名の教授陣であった。聯大のこれら教授はみな著名な科学者,文壇の泰斗,大家であった。このほか著名な英国の学者,李約瑟や米国の学者,費正清等も聯大で講義をした。

写真(右):延安の中国共産党根拠地で開かれた文芸工作者座談会(1942年5月):毛沢東の支配の下には、有名大学は移転してこなかった。そこで、自らプロパガンダにも活用できる文芸運動を計画した。当時の大学人や学生・その両親たちは、資産家であったためか、国民党支配地域の南西部に移転した。1942年2月1日,中共中央党校開学典礼上作《整顿党的作風》的報告。2月8日,中共中央宣伝部召集幹部会議《反对党八股》的談話。5月,延安で文芸工作者座談会座談会で訓話。9月7日,延安《解放日報》社説で精兵簡政が重要であると論説。12月,《経済問題と財政問題》長編書面報告,“发展经济,保障供给”という財政方針を論説。共産党中央の指導を徹底させようとしていたから、大学の自由な学風には合わなかったのかもしれない。

「聯大教授陣容のすばらしかったことは古今,内外の大学で全くないほどであった。これは根拠のあることであって,1939年,聯大は177人の教授(少数の副教授を含む)は全校教職員総数の22.3%となっており,これに対し1940年の米国のマサチューセッツ工科大学の比率は22%であった。民国時期の国立中央研究員は81名の院士がいたが,そのうち西南大学は26名32.1%を占めていた。聯大の教授陣の能力は豊富で厚く,各種の学派を含んでおり,聯大内に学術自由の規模を樹立せしめた」。

聯大8年間に開かれた科目は合計1600以上(重複は数えず)に上った。抗戦前の三校に較べ,どの科も,完全で充実し,完備していた。“毎学年の始まりには教務部事務所の前に全科目が発表され,無数の科目が壁いっぱいに張り出され実に壮観だった!学生達は,何日も科目表のまえにごったかえしながら去来し,自分が聞きたいと思う科目を書き込んでいた。これすなわち,知識の海洋であり,学術の群峰であった”。

「大勢の学生は幸せに小躍りしながら,霧にかすむ海洋に入り込み高峰に導く径をよじ登る幸せに心を躍らせ,その一方では4年の青春の華が散らぬうちに大海の彼岸に,あるいは高峰の径の頂点に立ちたいという望みが達せられないのを深く恐れている」と。

これらの講義はすべてその専門部門の教授によって担任された。講義の内容はすべて教授自身の研究成果であった。たとえば聞一多の“楚辞”は彼の多年の研究を講義したもので四易其稿の「天問疏証」,華羅庚の開いた“解析数論”“連続群論”“行列式”等の科目,すなわち彼らは自己の研究成果をまとめて授業を行っているものであり1940年代の中国最高学術の成果を反映するものであった。

聯大の教師は教育と科学研究が緊密に結びついており,多くの教師は確実な研究成果を多数挙げ,少なからぬ研究は世界的なものであった。1941年から1946年の間に教育省では6次の学術奨励を行ったが,西南大学の受奨は非常に多かった。統計によれば聯大教師で報奨を受けたものは30余人で,そのうち国家第一等の報奨を受けたものは・友蘭(新理学)1941年,華羅庚(堆塁索数論)1941年,周培源(湍流論)1942年,呉大猷(多元分子振動スペクトルと構造)1942年,湯用?(漢魏両晋南北仏教史)1943年,陳寅洛(唐代政治史述論稿)1943年,楊鐘健(許氏禄豊竜)1943年などであった。

教師の力に余裕があったので多くの科目は常に何人かの教授が同時に開講した。態度や視点はいろいろ,各派各様で政治的立場も同じではなかった。この点は中国通史の講義が目立っていた。この科目は当時の聯大各員共通の必修科目であり,呉鮑,雷海宗,銭穆則が授業を行い,その内容や観点の差は特別に大きく,それぞれ特色を持っていた。呉鮑は制度変化史を主に講義し,「縦法」を使って系統立っていた。雷海宗の主な視点は歴史循環論で「横法」を用いて講義し,物語性が比較的強かった。銭穆則は彼の「歴史大綱」を講じ,いつも満席になり,ドアの前,窓外も人であふれていた。

聯大はこのように多くの科目があったので,学生は自由に科目を選択できた。講義がすばらしいと,門前市を成すがごとくなり,さもないと門前雀羅を張るが如き有様となった。

これは実際上,一種の学術コンテストであり,民主的学習を保証したものであった。

写真右:現在の国立昆明雲南師範大学の風景。聯大の一学部が残された。『雲南抗日戦争史』より引用。

1987年の創立50周年には、西南联合大学纪念碑が建設された。

聯大の学風と三校の伝統

西南聯大は三校の優良な伝統を融合した。つまり北京大学の“民主自由”の風,清華大学の“謹厳にして実を求める”の風,南開大学の“活発,新しきを創造する”の風が聯大の優良な学風を形成した。

人々は通常“山海雲”と形容した。聯大の最初の校舎の中に,次のような一対の聯(入り口の上,左右などに垂らした文字を書いた布)があった。“雲の如く,山の如く,海の如く,自然自由自在”と。この聯は聯大の三校の同じからざるものを組み合わせて,気風を形づくったものである。その意味は,清華大学の智慧は雲の如く,北京大学の海の如き寛容,南開大学の山の如く,堅固にして一定であるということだ。

校訓は,北京大が“博学審問,慎思明辨”,清華大は“自強不息,厚徳載物”,南開大は“允公允能(公平有能),日新月異”であった。海には百川が注ぎ,それを容れて大である。西南聯大はまさに三校の校訓を融合し“剛毅堅卓”の校訓を生み出し,聯大の教師学生が“科学民主愛国”の発揚を受け継ぐよう指導し,鼓舞し,その結果,世が嘱目するような業績を挙げた。

7. 雲南省昆明に疎開した三大学が集まって組織された国立西南联合大学は、対日戦争8年間の間存在し、戦後、1946年5月4日に正式に解散した。しかし、優秀な卒業生は、現在でも各界で活躍している。

写真右:現在の国立雲南師範大学キャンパスと学生達。現在は日本からの留学生を迎え入れている。出迎え空港 (片道):昆明巫家国際空港:10,000円。 ●1レッスンの時間:45分:1週10レッスン(1日2レッスン)6万7000円。1週15レッスン(1日3レッスン)7万3000円。雲南師範大学:おまかせ中国留学引用。中国の新任大学教員の月給は2500元(4万円)以下である。

聯大は三校の優れた伝統の発揚を継承した。教授は主に教授会を通じて大学を運営した。教授会は全校教授,副教授によって構成され,教授達は教授会で校務に対し十分意見を発表し,諮問だけではなく決定も行った。これに加えて聯大の各院は,部長がみな教授を兼任し,そのため教授が直接学校管理のいろいろの業務の職責を直接に負った。聯大の教授は基本的にみな多くの教師学生と緊密な連絡を保っていたので,多くの教師学生の意見を聞き,学校の重大決定は一般的には民主的に行われた。特に効を発揮したのは,“一二.一”愛国民主運動中,教授会は9回にわたる会議の開催に力を尽くし,何回も討論し,意見を統一,進歩的教師学生が立ち上り,反動的当局に対する闘争の遂行を支持した。

次に,聯大は“通才教育(リベラル教育)”を教育目標とした。当時の教育部が強調した“専才教育”に対し梅??は“大学の重心は広く知るということに置くべきで専門性ではない”といった。聯大の通才教育は基礎課程教育に重きを置き,学生に広範な知識を習得させるを旨とし,寛く厚い,科学的基礎を打ち立て,強い適応能力を養成することにあった。これによって聯大の基礎科目はすべて高い学術水準を保つよう配慮し,教学経験の豊富な教授に担任させた。これらの課程は,学生達に深い印象を残した。楊振寧博士は1983年12月,国内中国科学研究生院で講義をしたとき“西南大学の教学の雰囲気は非常にまじめだった。したがって大学の4年間,その後の2年間の研究期間,私は非常に多くのことを学んだ”と。

さらに,国立西南联合大学は非常に注意して素質のある学生を募集した。同時に聯大は中外の学校に名を馳せ,無数の志のある青年の向学心を吸引した。このような状況にあったので大学は才能のある学生を選抜する機会を広範に提供したのだった。この結果,“聯大は当時の秀才を多く集めた”。“一般にかれらはみな成績優秀,本来,礼儀正しく,誠実であったが,特に英語の水準が他に比して高く,自学能力も高かった“。

学生が,国立西南联合大学に入学した後,学校の要求は非常に厳格で淘汰制を実行した。大学の履修単位制に従い,選択科目と必修科目を決め,学生は卒業には132単位(30科目)を履修することが必要で,再試験ではなく補講再修が必要だった。体育の不合格者もまた補講再修を要した。このため,聯大生は一般に刻苦努力型が多かった。大学には出入りが緩やかで,教室は社会に開放されていて,校外の青年も自由に来校して授業を聞くことができた。多くの青年がこのようにして非常に多くの知識を学んだ。

李政道(Lee Tsung-Dao / Li Zhengdao:1926年11月25日 - )は、江西聨合中等学校卒業後、1943年、当時貴州省に移転していた浙江大學に進学後、1944年、雲南省の西南聨合大学へ転入。1946年、米シカゴ大学留学。原爆開発に携わったイタリア亡命物理学者エンリコ・フェルミの下で博士号取得。1953年、コロンビア大学助教授、1956年には29歳で教授。素粒子間の弱い相互作用においてはパリティ(対称性)が保存されないというパリティ対称性の破れについて研究し、1957年ノーベル物理学賞を共同受賞。中国系の初の受賞者。(wikipedia引用)

浙江大學は、1897年創建で,中国近代史上近代的学制の最早の新式高等学校の一つである。1927年国立第三中山大学となった。1928年4月1日に浙江大学と改名,1928年7月1日起,“国立”の二文字をつけ「国立浙江大学」となった。工学、農業、文理の学院(学部)がある。戦争勃発後、浙江大学は貴州省に移転した。中国で著名な気象地理学者の竺可桢校長の下,研究教育に優れた業績を残した。1946年秋に学校は杭州に帰還。1948年3月,浙江大学に文、理、工、農、師範、法、医7学院、25系(学科)、9研究所ができた。中国教育部も「浙江大学是一所具有悠久历史的全国重点大学」としている。

写真右:現在の国立昆明雲南師範大学にある1987年の西南聨合大学創立50周年記念碑。

1987年の創立50周年には、西南联合大学纪念碑が建設された。

英才輩出

国立西南联合大学の学生8000人中,絶対多数は大陸に住んだが,台湾省および海外に居住する者は1000人であった。

台湾の国際的有名工学者8人のうち7人は聯大卒業者である。

国立西南联合大学の教授陣

西南聯合大学の文型教授陣一覧(『雲南抗日戦争史』より引用。)

西南聯合大学の機械工学系教授陣1

西南聯合大学の機械工学系教授陣2

西南聯合大学の電気工学系教授陣

清華大学の教育研究統計

清華大学の風物

抗日戦の作戦地図一覧

抗日教師人民網

◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
鳥飼行博研究室当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
連絡先: torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
Flag Counter

Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © 2007 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.