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◆奇跡の人ジョアンナ・サリバン先生伝記:Miracle Worker Johanna Sullivan

写真(上左)1895年、ニューヨークに引っ越した時、しばしば訪問した Wright-Humason Schoolのヘレンケラー(13歳)とアン・サリバン(29歳)
。前列左端に着席しているのが二人。When Helen was 13, Helen and Anne moved to New York City. There Helen attended the Wright-Humason school for the deaf. She was the only student who was deaf and blind. In class, Anne read everything and signed what she read into Helen's hand. Helen devoured information and became able to communicate with other adults and children. She was even learning how to speak. American Foundation for the Blind(AFB)引用。
写真(上右)1918年ハリウッドを訪問した通訳ポリートムソン、アン・サリバン、ヘレン・ケラー、チャーリー・チャップリン。Polly Thomson, Anne Sullivan, Helen Keller, and Charlie Chaplin。1914年からPolly ThomsonがAnneと並んでヘレンのために働き始め、彼女たち三人は,三羽烏"the three musketeers"と呼ばれた。ハリウッドで、ヘレンの人生を扱った無声映画「救出」Deliveranceが作成された。この映画ではヘレンとアンが自ら演じている。In 1914, Polly Thomson began working for Helen and Anne—they were known as "the three musketeers." In 1918 they traveled to Hollywood to make the movie Deliverance, a silent movie about Helen's life. In the film, Helen and Anne starred as themselves. Plus Helen met movie stars like Charlie Chaplin.This clip from the movie shows Helen Keller flying in an old biplane.American Foundation for the Blind(AFB)引用。

◆学習漫画 世界の伝記NEXT 『サリバン先生』(集英社)2011年2月刊行を監修しました。ヘレンケラーは、アン・サリバンについて、自分の思い出を書き残していますが、そこに出会う前のアンの様子が描かれているわけではありませんし、アン・サリバンは、自伝を書きませんでした。したがって、後の研究者や近くにいた者が書いた評伝が頼りになりますが、日本語訳は一冊もないのが現状です。翻訳もない状態で、日本人による人物伝も今まで一冊もありません。今回の学習漫画によって、アン・サリバンが日本で初登場となりました。その監修をできたのは望外の光栄です。
◆拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』(青弓社)では、1937年の日中戦争時期に来日したヘレン・ケラーと反戦,チャールズ・リンドバークも加盟したアメリカ第一協会(孤立主義)との関わりも扱いました。また、アメリカの陸海軍、海兵隊、沿岸警備隊に創設された婦人部隊(女性兵士)や従軍看護婦などジェンダーの視点からもたくさんの写真ポスターを扱っています。『写真・ポスターで学ぶ戦争の百年』の一部をご覧いただけます。

◆NHK2008年2月10日「わくわく授業〜わたしの教え方:小さな手と手で“ことば”をつかむ〜加藤小夜里先生の国語」が9月21日に再放送。加藤小夜里先生は,東海大学教養学部人間環境学科の卒業生です。

サリバン・ヘレン・アナグノス書簡:Sullivan / Keller / Anagnos correspondence, 1886-1895
サリバン書簡:Anne Sullivan's Correspondence with Michael Anagnos, 1887-1896
ヘレン・アナグノス書簡:Helen Keller and Michael Anagnos Correspondence, 1889-1891

ヘレン・アダムス・ケラーは、盲・聾・唖の三重苦を克服した奇跡の人として有名だ。彼女の活動や業績について知る大学生は少ないけれども、当時、女性が高等教育を受ける機会が閉ざされていた時代、障害を持つ女性が、大学教育を終え、博士号を2つも得たことを知れば、ヘレン・ケラーが、奇跡Miracleを起こした、といってもいい。実際に、ヘレンが学校で大学入試の勉強を始めたとき、すでに奇跡のようだと、アメリカの教育界でも注目されており、カリスマ(ドイツ語Charisma)を持っていた。

カリスマCharisma)とは、古代ギリシャ語で「恵み」を意味する語であり、キリスト教では「天からの授かった恩寵」という意味で使用されるもので、預言者もこれにあたる。

20世紀初頭、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、支配の一形態として、合法的支配と対極にある「カリスマ的支配」を示した。つまり、カリスマ的支配とは、説明しがたい超自然的な能力を誇示した特別な人物に依存して、大衆がその人物に従う形での支配であり、大衆を惹きつけてやまない特定の人物がもつ魅力が、カリスマ(Charisma)である。ヘレンケラーは、有名になった当初から、カリスマ性を備えていたが、ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンは、苦学の人であってもカリスマ的(charismatic)とは言えない。その意味で、サリバンは、奇跡の人とは言い難い。

つまり、19世紀末から20世紀初頭、アメリカのインテリは、カリスマを備えた「奇跡の人ヘレンケラー」と認識していた。このように100年以上前の「奇跡」を調べてくると、日本のフリー辞典wikipedia「アン・サリヴァン」で「奇跡の人という呼び名は、ヘレン・ケラーのことではなく、アン・サリヴァンのことである」と言い切っているのは正確な表現ではない。「奇跡の人は誰か」という質問に、インターネット検索のwikipediaに答えが出ている-----と短絡的に考えるべきではない。

現代の日本で「奇跡の人」がヘレンケラーであると認識されているのは、上記のような彼女の経歴を踏まえたものではないようだ。
日本では、1959年初演のウィリアム・ギブソンWilliam Gibson :1914-2008)作の戯曲 Miracle Worker、これを基に1962年に公開された同名の映画"The Miracle Worker"を「奇跡の人」と訳し、盲・聾・唖の三重苦を乗り越えたヘレンケラーの伝記として現在に至るまで演じられ、紹介され続けてきた。それ以前でも、障害を克服したヘレンケラーは、「奇跡の人」と紹介されていた。そこで、日本で、ギブソンの1959年の戯曲「奇跡の人」、それを脚本としてた映画「奇跡の人」The Miracle Worker)が1962年に公開されても、当然のように、ヘレンケラーが奇跡の人本人であるとみなされた。

他方、アメリカ合衆国では、1959年に初演された“ Miracle Worker”、それをベースに作成された1962年の映画「奇跡の人」The Miracle Worker)にあって、「奇跡の人」とは、ヘレン・ケラーを教育したジョアンナ・マンズフィールド・サリバン、通称アン・サリバンのことを指していた。「奇跡の人」は、ヘレンケラーを覚醒させ、障害を克服して、大学にまで進ませることができたアンであり、この彼女の仕事が奇跡と見做されたのである。

1959年初演のウィリアム・ギブソンの戯曲“ ミラクル・ワーカー”、1962年公開の同名の映画「奇跡の人」The Miracle Worker )において、「奇跡の人」はアン・サリバンを指すのであって、ヘレンケラーではない。しかし、だからと言って「奇跡の人」がヘレンケラーであるというのが間違いというわけでは決してない。奇跡の人=サリバン先生、というのは一つの解釈にすぎない。

ジョアンナ・マンズフィールド・サリバンがヘレンケラーを新しい世界に導いたとき、アメリカの教育界やパーキンス盲学の報告によって、ヘレンに奇跡のようなこと(miracle like)が起こったと述べられている。これらを踏まえれば、第一次大戦前から有名人だったヘレンが「奇跡の人」である。つまり、第二次大戦後、ヘレンケラーが晩年になって公開されたアン・サリバンを主役とする戯曲「奇跡の人」、そしてこれを脚本にした同名の映画のヒットし、そこで「奇跡の人」がジョアンナ・サリバンの代名詞であるとしても、ヘレンケラーが「奇跡の人」というのが誤りであるとは断定できない。

また、ギブソンの戯曲「奇跡の人」“ Miracle Worker”(奇跡の人)発表の22年前の1937年、日本の新聞は、ヘレンケラーのことを、「奇跡の聖女」と讃えていた。ヘレン・ケラーは、1937年4月の第1回目の来日は「奇跡の聖女」、第二次世界大戦終了後、1948年8月の第2回目の来日は「幸福の青い鳥」、1955年6月の第3回目来日は「古き良き友」として、歓迎されている。日本では「奇跡の人」はヘレンケラーを指していた。

ヘレンケラーは、教師であり、指導者であるサリバン女史の愛情と理解と根気で1904年、 ラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)を卒業できた。翌年、アンは、ハーバート大学講師のジョン・メイシーと結婚したが、アンは、ヘレンとの共同生活も続けた。

その後、しばらくしてアン・サリバンは、ジョン・メイシーと別居するが、引き続きヘレンとともに、米国各地及び海外に講演旅行を行った。アン・サリバンは1936年に亡くなったが、その前に、ヘレンケラーに日本を訪問するように促した。ヘレンケラーは、訪日をアンとの約束のように考え、翌1937年、初来日した。日本各地を回ったヘレンは、「奇跡の聖女」として、どこでも大歓迎を受けた。当時、ヘレン・ケラーの、通訳を介した英語スピーチに感動したというより、ヘレン・ケラー自身を直接この目で見ること自体が庶民の願いだったようだ。ヘレンには、カリスマCharisma)があった。

この訪日は、日本の障害者への支援、特に募金活動にあった。また、同時に日米和平の掛け橋となる目的もあった。しかし、1937年7月7日の 盧溝橋事件に端を発した日中戦争の勃発で、和平は頓挫してしまう。

実際、ヘレンケラーが来日した際、日本の 特高(特別高等警察:秘密警察)は、ヘレンが社会主義に傾倒していることを察知しており、労働者の基本権利の拡張、民主主義、赤化思想の蔓延につながることを警戒し、ヘレンたち一行をひそかに監視していた。

このように、ヘレンケラーとアンサリバンは、平和人権民主主義の思想とそれを広める活動に従事しているが、そのような思想、活動に至った大きな理由は、アンサリバンの出自と幼い頃の経験にあった。  

著作、名言集、思想、生家などは「ヘレンケラー研究リンク集」をご覧ください。
            1937年の日本訪問以降、後半生は「ヘレンケラーの後半生:visiting Japan」をご覧ください。
                 ヘレンの生い立ち、教育、思想は「三重苦ヘレンケラーの伝記」をご覧ください。

奇跡の人(Miracle Worker)ジョアンナ・サリバン伝

ヘレン・ケラー(Helen Keller)の先生としてジョアンナ(アン) ・マンズフィールド・サリバン(Johanna Mansfield Sullivan)は有名ですが、アンがどうしてヘレンの先生として生涯を共にするようになったのか、あるいはアンがどのような考えを持って行動したのかについては、あまり知られていません。それは、アンが自らの生立ちを語ることが少なく、日記も自伝も残さなかったからです。

ヘレンの著作Teacher: Anne Sullivan Macy に、ヘレンとアンが、マサチューセッツ州のアンの故郷を訪ねたとき、あまり多くを求めなかったこと、アンの結婚直前、アンが書き溜めていた日記や手記を焼却する話が出てきます。そこで、ここではアンについて、わかってきたことを整理しておきましょう。

アンは、一八六六年四月十六日、アメリカ東部マサチューセッツ(Massachusetts)州フィーディングヒルズ(Feeding Hills)でアメリカに移住してきたアイルランド系移民の貧しい両親の娘として生まれました。そして、家族とともに九歳までアメリカ東部のマサチューセッツ州フットヒルで暮らしました。アンの父トーマスは、農民でしたが、自分の土地を持っていない農業労働者だったようで、仕事もあまりなく、家族を養うことを放棄していました。一八七四年、アンの母が亡くなった後、トーマスは娘アンと弟ジミーを、チュークスバリー(Tewksbury)のマサチューセッツ州立救貧院[孤児院](Massachusetts State Infirmary)に預けて姿を消します。こうして、サリバンの家族は離散してしまいます。


一八七六年三月三十一日、弟ジミーが亡くなった後、父トーマスは、親類に引き取られた妹マリー、救貧院を一度だけ尋ねてきてくれました。しかし、その後のアンの父トーマスの行方は分かっていません。アンも父の気持ちを察したのか、父を探すことをしなかったようです。

一八八〇年十月、アン・サリバンは、十四歳の時、州慈善委員会のフランク・サンボーン( Frank Sanborn、1831-1917)が救貧院を視察したとき、勉強をしたいとお願いしたようです。そこで、サンボーンは、ギリシャ系アナグノス(Michael Anagnos 、1837-1906)校長の パーキンス盲学校Perkins School for the Blind)にアンを移すように取り計らいました。パーキンス盲学校は、一八三二年創立の歴史はあるが、近代的な設備を持つ盲学校で、当時最も優れていたといってよい学校でした。しかし、出自に負い目のあるアンは、家庭や救貧院での暗い過去を、周囲の人に隠し通しました。アンは、生涯、自分の子供時代、少女時代のことを、ヘレンにも多くを語ってはいないのです。

アンが、かんしゃくもち(ミス・スピットファイア:Miss Spitfire)とも呼ばれ、先生や生徒にしばしば反抗した理由は、アンが自分や家族のことを話そうとしなかったこともありますが、当時の権威主義的な学校教育の在り方にも問題がありました。十八世紀、教師は絶対的な存在で、その権威に逆らうことは許されません。アンは、教師が生徒の好奇心や自由を求める気持ちを無視して一方的に勉強を押し付けることに反抗したのです。

アンは、アイルランド系アメリカ人(Irish American)ということで、キリスト教 カトリックに馴染んでいました。けれども、アメリカではカトリックは少数派で、プロテスタントが多数派だったため、宗教の上でも、アンは救貧院(孤児院)で孤立感を強く感じていたようです。

しかし、その一方で、アン・サリバンは、母を失い、父に捨てられ、弟と死別するという悲惨な過去を一人で生き抜いてきたという自信を持っていました。困窮生活に耐え忍んで、自分の道を新たに切り開いていこうとする強固な意志を持っていました。ハングリー精神が旺盛な勝気な女性だったのです。

写真(右):1881年のアン・サリバン Anne Sullivan :A portrait of Anne Sullivan in semi-profile, wearing a black dress with a white collar and a white bow at the neck. Her hair is pulled back from her face with a braided coil at the nape of her neck. Circa 1881. American Foundation for the Blind(AFB)引用

一八八二年八月までに、アン・サリバンは、不自由だった目を手術してもらって、なんとか文字が読めるほどに視力が回復し、アイルランド系アメリカ人の雑誌「パイロット」の政治記事を読んだり、一八八三年には新聞でマサチューセッツ州チュークスバリーの救貧院の従業員が収容者の持ち物や給食を盗んだ事件の裁判に出かけたりしました。救貧院にいるアンたちが裁判に行くことは、アナグノス校長に禁じられていました。ですから、命令に背いて裁判を傍聴したアン・サリバンは、危うく放校処分されるところでした。

この時、アン・サリバンを弁護してくれたのは、アンを評価していた歴史のコーラ・ニュートン先生、シェイクスピアなど英文学を教えたマリー・モーア先生だったようです。また、パーキンス盲学校の寮母ソフィア・ホプキンス(Sophia Hopkins)の優しさに心を許し、学校の休暇中、マサチューセッツ州ブリュスターのホプキンスの家に招かれるようになります。アンは、近くの砂浜で、、空、木々の緑に囲まれて、自然と親しむことが大好きになりました。さらに、パーキンス盲学校に身を寄せていた目・耳が不自由なローラ・ブリッジマン Laura Bridgman 、1829 -1889)とも出会い、指文字を覚えて、交流できるようになりました。こうして、アンは、積極的な態度で勉強に打ち込みつつ、体面を取り繕うのではなく、誠実な付き合いを望むようになります。

1886年6月1日パーキンソン盲学校卒業式におけるアン・サリバンの総代挨拶
Anne Sullivan Valedictory Address

Today we are standing face to face with the great problem of life.

We have spent years in the endeavor to acquire the moral and intellectual discipline, by which we are enabled to distinguish truth from falsehood, receive higher and broader views of duty, and apply general principles to the diversified details of life. And now we are going out into the busy world, to take our share in life’s burdens, and do our little to make that world better, wiser and happier.

We shall be most likely to succeed in this, if we obey the great law of our being. God has placed us here to grow, to expand, to progress. To a certain extent our growth is unconscious. We receive impressions and arrive at conclusions without any effort on our part; but we also have the power of controlling the course of our lives. We can educate ourselves; we can, by thought and perseverance, develop all the powers and capacities entrusted to us, and build for ourselves true and noble characters. Because we can, we must. It is a duty we owe to ourselves, to our country and to God.

All the wondrous physical, intellectual and moral endowments, with which man is blessed, will, by inevitable law, become useless, unless he uses and improves them. The muscles must be used, or they become unserviceable. The memory, understanding and judgment must be used, or they become feeble and inactive. If a love for truth and beauty and goodness is not cultivated, the mind loses the strength which comes from truth, the refinement which comes from beauty, and the happiness which comes from goodness.

Self-culture is a benefit, not only to the individual, but also to mankind. Every man who improves himself is aiding the progress of society, and every one who stands still, holds it back. The advancement of society always has its commencement in the individual soul. It is by battling with the circumstances, temptations and failures of the world, that the individual reaches his highest possibilities.

The search for knowledge, begun in school, must be continued through life in order to give symmetrical self-culture.

For the abundant opportunities which have been afforded to us for broad self-improvement we are deeply grateful.

We thank His Excellency, the Governor, and the legislature of Massachusetts, and the governors and legislatures of the several New England states, for the most generous and efficient aid they have given our school. We thank our trustees for the zeal and invariable interest which they have shown in all that concerns our well-being.

Directors, teachers and matrons: we enter life’s battle-field determined to prove our gratitude to you, by lives devoted to duty, true in thought and deed to the noble principles you have taught us.

Schoolmates: though the dear happy years we have spent together are over, yet the ties of friendship, and an enduring love and reverence for our school, and the sacred memory of her whom God has called from her labor of love to be an unseen but constant inspiration to us through life, are bonds of union that time and a and absence will only strengthen.

Fellow-graduates: duty bids us go forth into active life. Let us go cheerfully, hopefully, and earnestly, and set ourselves to find our especial part. When we have found it, willingly and faithfully perform it; for every obstacle we overcome, every success we achieve tends to bring man closer to God and make life more as he would have it.

June 1, 1886
   Perkins School for the Blind 掲載Anne Sullivan Valedictory Address引用終わり

パーキンソン盲学校卒業式でアン・サリバンは、総代挨拶を務め立派に卒業しました。けれども、高校の特殊学級を卒業した程度では、教員資格も専門技能も何も身につけていないので、アンは、当時、唯の親無し貧しい無学の少女に過ぎない、と社会から蔑まれて当然でした。卒業した者の、自立できるような職に就くことはできなかったのです。この事情を理解できないと、なぜアンがヘレンの邸宅に住み込み家政婦と同じような仕事をする決心をしたのかは理解できません。福祉の仕事のように、誰かの役に立ちたいとの思いはあったでしょうが、唯の親無し貧しい無学の少女に過ぎないアンンがそのような立派な職に就くことはまずできない相談だったのです。

電話の発明者アレクサンダー・グレアム・ベルAlexander Graham Bell、1847 – 1922)の仲介で、アナグノス校長は、一八八六年八月末、総代で卒業したアンに、アラバマ(Alabama)州タスカンビア(Tuscumbia)に住んでいたケラー家で「ガバネス」(governess)として住み込みで働かないかと誘います。ガバネスとは、家事を担ったり、子供の教育をいたりする 家政婦のことで、教員資格がないばかりか高校も卒業していないアン・サリバンでしたが、家政婦であれば彼女でもできる仕事だと考えたのでしょう。しかし、ケラー家は、大農園を持ち、黒人の使用人も抱えていましたから、家政婦がほしかったわけではなく、必要だったのは、ヘレンの教育係り兼世話係りでした。

アン・サリバンは、ケラー家に赴任すると決心した当初、障がい児を担当することに、不安を感じましたが、自らの身の上と、ローラ・ブリッジマンとの出会いを思い返し、さらに収入を得る必要からも、それを引き受けます。そして、パーキンス盲学校(Perkins School for the Blind)に戻り、ローラを教育したハウの報告を読むなど勉強しました。

耳も目も不自由なローラ・ブリッジマンは、パーキンス盲学校のサミュエル・ハウの支援を受けて、教養を身につけました。そこで、一八四二年にパーキンス盲学校を訪問したイギリス人作家チャールズ・ディケンスCharles Dickens)も感銘を受け、ハウとローラの話を旅行記『アメリカ覚書』(American Notes)に書いています。ローラは、アン・サリバンと、お互いの手のひらに指文字を書いて対話しましたが、後にヘレン・ケラーとあった時も、指文字でコミュニケーションをとりました。

一八八七年三月三日、アン・サリバンは、アラバマ州タスカンビアのアーサー・ケラーArthur Henley Keller、ヘレンの父)のに着きましたが、その時、彼女は二十二歳でした。ちょうど、今の日本の大学卒業時同じ歳だったのです。アンは、それまで主に、孤児院と救貧院で過ごしていたために、就職した経験はなく、教師になるための資格も持ってはいませんでした。

一八八七年三月二十日、アン・サリバンは、ヘレンに会ってから十七日後、ホプキンスに宛てた手紙で「ヘレンに奇跡が起こりました。小さな生徒の心に、知性の光が差し込みました」と書きましたが、これは、「怪物」(ファントム: phantom)と呼ばれていた野生児ヘレン・ケラーが、「かんしゃくもち」(ミス・スピットファイア)アンにキスすることを許してくれた日でした。

こうして、信頼して心を開いて、従うようになったヘレン・ケラーは、一八八七年四月五日、 井戸水の流れからインスピレーションを得て、ものには名前があることを理解します。そして、ヘレンがアンは何者か尋ねたとき、アンは自らを「先生」(ティーチャー:Teacher)だと名乗ります。この一連の話は、ヘレンケラーの初の著作『自伝』に出てきます。実際には、黒人のメイドが水を井戸で水を汲んでいたことが切っ掛けだったのかもしれませんが、ヘレンは視覚・聴覚が不自由なので、彼女の『自伝』では、アン・サリバンしか登場してきません。結局、ヘレンケラーが先生と呼んだのは、生涯でアン・サリバン一人だけであり、後にヘレンを助けるポリー・トムソンなどは、通訳、助手の地位でしかありませんでした。

アン・サリバンは、ケラー家でも、不正だと思うことに反抗しています。ヘレンの両親が、ヘレンのわがままを許していることに抗議し、離れの家に移ったことは有名です。この離れの家には、黒人少年の小間使い・料理係がいたために、アンは、ヘレンの教育に集中することができましたが、ヘレンの両親がヘレンに接触することは戒めていました。

一八六五年に終わった南北戦争奴隷がアメリカ全土で解放された後も、名門のケラー家の一族が、黒人を同じ人間として平等に扱おうとしなかったり、自分の道を進もうとする女性を差別したりしたために、アン・サリバンは、講義し、雇い主一家と口論になりました。この時、一度は、タスカンビアを去ろうかとも考えます。アイルランド系移民の貧しい孤児として蔑まれてきたアンにとって、人種差別や女性差別は、我慢できないものだったのです。しかし、アンは、ヘレンとの絆(きずな)を大切にし、教えることに全力を傾ける決意をします。

アナグノス校長は、アン・サリバンにヘレンの詳細を書いてよこすように依頼し、その手記をもとに、 パーキンス盲学校の一八八八年の報告書で、「第二のローラ・ブリッジマン」のヘレンに「奇跡に近いこと」が起こったのは、パーキンス創設者ハウの開発した教育の素晴らしさにあると述べました。そして、障がい者を特別扱いする必要があると主張しましたが、アンは障がい者でも健常者と同じに生活できるようにすることが重要だとの立場をとりました。こうして、ヘレンの奇跡をめぐって、論争が起きましたが、サンボーンも、救貧院出身のアンが「先生」になれるはずがないと考えました。

当時、大学に進む女子学生は例外的存在でしたし、職業にしても、女性は男性の補助的存在に甘んじていました。男女の社会的役割の差異をジェンダー(gender)といいますが、十八世紀のアメリカは、ジェンダー不平等の時代でした。アナグノスもサンボーンも立派な教育を受け、社会的地位の高い人物でしたから、ジェンダー不平等の時代、アンの主張には、誰も耳を貸さない恐れが高かったのです。ヘレンに奇跡が起きたのは、パーキンスの教育方法あるいはヘレンの天才のためだというわけです。

横山美和(2007)19世紀後半アメリカにおける「科学的」女子高等教育論争の展開」『F-GENSジャーナル』No.9によれば、 ハーバード・メディカル・スクール(Harvard Medical School )教授エドワード・ハモンド・クラーク医師の『教育における性別、あるいは、女子のための公平な機会』(Edward Hammond Clarke(1873)Sex in education, or, A fair chance for the girls)は、女子高等教育や共学教育は、生理学的観点(女史の身体的特徴・母性)からみて健康に有害であると主張していました。そして、この説が受け入れられ、科学的に女子高等教育の機会が狭められていたのです。女子高等教育有害論が否定されるようになったのは、女医メアリ・ジャコービ(Mary Jacobi:1842-1906)、大学女子卒業生協会(Association of Collegiate Alumnae)が、社会調査に基づく女性の健康アンケートを行い、その報告書を出版してからでした。なお、現在では大学ごとの女子学生卒業団体が普通ですが、当時は大卒女子が少なかったため、大学ごとの団体では、所属人数が足りなかったようです。

写真(右):1893年5月、ヘレン・ケラーHelen Keller(左)とアン・サリバン Anne Sullivan(右):Date Created/Published: [1893 May 10, printed later]Reproduction Number: LC-USZ6-2244 (b&w film copy neg.) LC-B5-39969-A (b&w glass neg.) Call Number: LOT 12261-2 [P&P]Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA 引用。ヘレン・ケラーの実家は、裕福だったので、母ケイトが主導したのか、幼い時からたくさんの写真を撮っている。サリバンが来てからは、二人の写真も多い。ヘレンは、口が不自由だったから、自己表現を写真を通じて間接的に行おうとしたようだ。目は見えなくとも、写真も持つインパクトをよく理解していたに違いない。舞台や映画でも活躍している。

アン・サリバンのような無学な女性が、ヘレン・ケラーの教育に多大の貢献をなしたということは認められなかったでしょう。また、アンが、障がい者も健常者とともに教育を受け、働く場が確保されてしかるべきだと主張しても、この「ノーマライゼーション」の発想が、無学な女子から唱えられたというだけで、当時の男性中心の教育界、福祉施設は、それを受け入れなかったと思われるのです。女子差別、女性への偏見が強い男性中心の社会では、ジェンダー不平等のために、発想、考え方の論理性よりも、それが女性から唱えられたというだけで、大きなマイナス評価となったのです。

実はアン・サリバンの主張は、障がい者と健常者とを区別することなく、共に平等に生活し、仕事に就く「ノーマライゼーション」の考え方で、現在の障がい者福祉の基本となっています。一八九四年六月、聾者話し方推進協会の会合でアンが、スピーチを、直前になって、アレクサンダー・グラハム・ベルAlexander Graham Bell)に代読してもらったのは、自己主張への躊躇もあったでしょうが、同時に、権威もカリスマCharisma)も備えているベルに発表してもらって、ノーマライゼーションnormalization)の考えを少しでも社会に受け入れてもらおうと思ったからかもしれません。アンは、協会で自らスピーチして、教育者としての地位を確立し、名誉を得るのではなく、障がい者の利益を優先したのです。

アレクサンダー・グラハム・ベルAlexander Graham Bell)ベルは、ボストン大学教授で、エリザベス(Eliza Grace Symonds Bell)は聴覚障がい者でした。そこで、音声生理学の立場で、家族のためにも鼓膜を研究し、薄い金属板を振動させることで、人工鼓膜や電話の開発に至った人物です。アンは、ベルの仲介で、ヘレンの家庭教師になったのであり、ベルは聾唖学校も開設したほどですから、アンとヘレンを信頼し、親しくしていました。

写真(右):1894年、アレキサンダー・グラハム・ベルの邸宅,アン・サリバン Anne Sullivan(右)とヘレンケラー:A portrait of Helen Keller and Anne Sullivan seated on the lawn of Alexander Graham Bell's house. Both Ms. Keller and Ms. Sullivan are wearing long white summer dresses. Their hands are joined and resting on Ms. Keller's lap. Circa 1894. American Foundation for the Blind(AFB)引用。

この時期、アンとヘレンは、アメリカ文学界で活躍するジョセフ・チェンバリン、作家マーク・トウェインとも知り合い、ヘレンの文章が雑誌に掲載されるようになりました。また、チェンバリンにマサチューセッツ州レンサム(Wrentham)の別荘「赤い農家」(レッド・ファーム:Red Farm)に滞在を許され、文学の集いに参加しています。こうして、アンとへレンが会話と読唇術を学ぶことを、有力者が支援してくれるようになったのです。

一八九七年、ヘレンが学んでいたマサチューセッツ州ケンブリッジ女子学院(Cambridge School for Young Ladies)のアサー・ギルマン(Arthur Gilman, 1837- 1909)校長は、大学教育に必要な学識を持っておらず、視力も弱って教え方も知らないアンに、ヘレンが完全に依存・服従していることを問題視します。アンは「唯の親無しの貧しい無学な女」として軽んじられてしまったのです。

アン・サリバンは、高等教育を受けたこともなく、教員資格もない救貧院出の女性にすぎません。彼女が、アメリカの教育最高峰に挑むことはもちろん、目が不自由で耳も聞こえないヘレンの適切な指導者・先生になれるとは思えなかったのです。そこで、ヘレンの母ケイト、妹ミルトレッド(Mildred)、ホプキンスも巻き込んで、ヘレンからアンを引き離すべきだと主張します。ギルマンは全面的にヘレンを援助すると申し出て、前年に夫アサー・ケラーを亡くし心細くなっていたヘレンの母ケイト・ケラーもそれに賛成します。この時、アンは周囲の反対のために、ヘレン・ケラーと別れる一歩手前まで行きました。

落胆したアンは、一八九七年四月に、スペイン植民地キューバやフィリピンを巡って勃発したスペイン=アメリカ戦争に、看護婦として志願します(日本でも女性は「看護婦」男性は「看護士」でしたが、2002年3月の看護師法の改正で、男女同じく「看護師」とされました)。戦争に際して、看護婦として人の役に立ちたいとの思いは、イギリスのフローレンス・ナイチンゲールを思い出させます。

フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale:1820-1910)は、北イタリアの古都フローレンス(フィレンツェ)生まれ、イギリスの富裕な地方名望家(ジェントリ)の出自で、貧しい移民の孤児アン・サリバンとは、生まれ育ちは対照的です。

名家に育ったフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)は、幼い時から教養を身に着けさせられました。しかし、家族の反対を押し切って、看護・衛生学を学び、働き始めます。そして、一八五四年のロシアとイギリス・フランスとの戦争、すなわちクリミア戦争の勃発に際して、ナイチンゲールは、仲間の看護婦たちを率いて、ロシアの黒海北方クリミアに出立し、負傷した兵士たちの看護しました。フローレンス・ナイチンゲールは、ボランティアの看護婦として、同志たちとともにイギリス遠征軍に従軍したのです。

十九世紀半ば、負傷者や病人の面倒を見ることは、汚れた男女の裸体を扱う卑しい仕事とされ、看護婦は専門職とはみなされていませんでした。アンがアナグノスの要請に応じた家政婦のガバネスと同じく、フローレンス・ナイチンゲールの就いた看護婦も、貧しい低学歴者の仕事として蔑まれていたのです。

しかし、高貴なフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)率いる看護団のおかげで、看護婦の地位は「白衣の天使」へと高まっていってゆきました。これは、従軍看護婦の仕事は、国のために戦った兵士が負傷したり、病気にかかったりした場合、彼らを看護するという意味で、戦争のために民衆を動員し、世論を形成するという国家戦略にのっとった行動だったからです。

イギリスの陸軍省(戦争省)は、ナショナリズムにのっとった戦意を高揚するプロパガンダとして、ナイチンゲール(Florence Nightingale)たち看護婦の行動を称賛しました。ナイチンゲールは、ボランティア(volunteer)の白衣の天使としてカリスマCharisma)視されるようになります。この背景には、イギリス政府が、イギリス軍兵士の士気を高め、国民の戦争支持の世論を高めようと画策したプロパガンダの影響もあったのです。

国家のために戦った兵士が、負傷したのであれば、それは勇敢さの証であり、英雄として称賛するに値します。同様に、ナショナリズムを背景にした戦争にあって、負傷兵を救助する看護婦も、国家のために奉仕する「白衣の天使」とされるようになりました。戦争が契機となって、ナイチンゲールの感動的な奉仕の精神と、陸軍省の戦争プロパガンダが相まって、それまで卑しい補助の仕事だった看護婦を専門職とみなすようになり、女性の看護婦としての地位が確立したのです。

ナショナリズムが国民の間に広く興隆してきた十九世紀後半、負傷者や病人の世話係りとして、低い地位でしかなかった看護婦は、一八五四年のクリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)の活躍を契機に「白衣の天使」として、看護専門職となり、賞賛されるようになったのです。

一九一四年、第一次世界大戦が勃発すると、陸軍大臣ホレイショ・キッチナーは、のちにキッチナー軍(Kitchener's Army、キッチナー・アーミー)と呼ばれる陸軍志願兵を大規模に募集(募兵)し、既存の常備陸軍に加えて新軍を創設しました。当時、イギリスには徴兵制がありませんでしたから、世界戦争になって、急速に兵士をそろえるため、ボランティアを大募集したのです。この新軍に応募した志願兵は50万人もありましたし、さらに従軍看護婦に志願する女性ボランティアもありました。

このようなボランティアは、第一次世界大戦を契機に拡大しましたが、その始まりは、19世紀のクリミア戦争、スペイン=アメリカ戦争のときからだといえそうです。1859年、イタリアの独立を目指すフランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の戦闘に遭遇したことを契機に、スイス実業家アンリ・デュナン赤十字国際委員会・国際赤十字(International Committee of the Red Cross:ICRC)を提唱しましたが、これも従軍看護ボランティアが始まった時期にあたっています。

ボランティア(volunteer)とは、自発的に奉仕する意味ですが、最初の使い方は、志願兵(あるいは義勇兵)、すなわち、金で雇われた傭兵や徴兵による義務の召集ではなく、自主的に軍に志願した兵士、従軍看護婦のことでした。国難にあたって、自らの命を惜しんだり、家族や仕事に未練を残したりするのではなく、敢然と兵士や看護婦としての軍務に志願する、これこそが国家が認定する崇高なボランティア(volunteer)の始まりです。

このように、ボランティア(volunteer)は国家・政府と戦争の関連で、教養ある中間層の市民が志願兵、義勇兵、従軍看護師として、大義を追及するなかで評価されてきました。

ボランティア(volunteer)として戦地に赴き、軍務や市民としての義務に服すのであれば、残された家族のためにも、兵士や看護師としての給与が支払われてしかるべきです。ボランティアと国家資金・財政とは、当初より結びついていました。ボランティアが市民活動として独立して発展してきたのではなく、カネ、モノ、ヒト、ワザの点で国家・財政・戦争と並行しながら拡大してきたのです。

ボランティアでいくらもらえるか、志願兵になったら給与はいくらか、ということは、みんなの関心ごとではありますが、表立ってこのような質問をしては、元も子もないのです。

ナイチンゲールの志願した看護婦も、クリミア戦争で負傷した兵士たちの看護を第一とするものでした。現地に出向いてイギリス軍の保護の下での看護活動は、従軍看護婦というべきものです。そして、戦地に赴いく従軍志願看護婦(Volunteer Nurse)となることも、19世紀以来、主要なボランティア活動だったのです。

それまでは、医者の下にいる下女・下僕・奴婢のような存在だった看護婦が、良家の子女も参画する市民ボランティアとして公認されました。これは、イギリス政府が、従軍看護婦のボランティアに対して、国家資金を投入して、専門教育を施し、看護機材・医薬品・医療器具などを準備し、従軍看護婦を黒海北岸のクリミアまで輸送し、顕彰したことに由来します。ここにも、ボランティア(volunteer)に多額の政府資金が投じられ、国家の活動、戦争と結びついていることがわかります。

現在では、援助や福祉との関連で、看護ボランティアが注目され、特定非営利活動法人ジャパンハートは、外来診察介助、病棟看護ケア介助、OP室見学、医療器具の洗浄、滅菌手伝い、患者との交流、食事作り、清掃の慈善医院ボランティアへの志願を募集しています。
また、国際援助機関(JICAボランティア事業)は、次のように「看護師」の志願を募っています。

1. 要請では、主にどのような活動を求められますか。
看護職隊員の約40%は病院で活動しています。そこでは、外科系・小児科・ICU・産科(助産師の場合)や、手術室などでの専門的な臨床経験が求められますが、さらにそれら専門の知識や技術を活動先の看護職に伝えられる程度に体系的に理解して身に付けておくことが重要です。ただし日本のように高度な医療機器があるわけではありませんので、同じような機器がなくても状況に合わせて物品を工夫して活動できる柔軟さが期待されます。

2. 応募をする上で、どのような技術、経験、資質などが求められますか。
高度な専門技術よりも清潔操作や日常生活援助技術のような基礎看護技術の基本を押さえておくことが必要です。そのためには最低3年の経験が必要です。活動先で看護を改善しようと考えるなら、看護について言葉で説明できる、あるいは実際に行ってみて看護であると相手を納得させることが必要ですので、自分の考えを明確に表明できることも技術の一つといえます。

各国の看護師の仕事振りを見ていて感じることは日本人看護職の看護への思い入れの深さ、真面目さ、責任感の強さなどです。日本の看護を伝えることで、国際交流を図るとともに、ぜひ日本の看護と看護職のよさを伝えて下さい。隊員の皆さんの活動する姿が現地の方にとってのロールモデルとなります。(引用終わり)

一九一四年の第一次世界大戦勃発のとき、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイも、イタリアにおける救護ボランティア活動として、戦傷を負ったり、病気になった兵士患者を輸送するため、国際赤十字社の患者輸送車(救急車)の運転手となりました。当時、第一次世界大戦に中立を保っていたアメリカで、戦地における救急活動に参加すること、特に当時珍しかった救急車のドライバー(自動車の運転は高度な専門技術者でした)として人道的活躍をすることは、「紳士のボランティア」とみなされていました。

ジョアンナ・サリバンの目指したスペイン=アメリカ戦争のボランティアの在り方として、従軍看護婦としての戦地での女性ボランティア活動は、どのような意味を持っていたのでしょうか。

一八九七年、アン・サリバンが、従軍看護婦として赴こうとしたスペイン-アメリカ戦争(米西戦争:Spanish American War)は、アメリカの民主主義が、植民地帝国主義を推し進めるスペインと、キューバ、フィリピンで激突した戦争とみなされました。

アン・サリバンが従軍看護婦としてスペイン=アメリカ戦争(米西戦争)に向かうと決意表明したとき、それまで、アンとの指文字を媒介したコミュニケーションに依存していたヘレン・ケラーは困惑しました。そして、ヘレンは「誰も先生に代わる人はいない」として、アン・サリバン先生と一緒にいることを譲りませんでした。

ラドクリフ大学女子部長アグネス・イルウィン(Agnes Irwin、1841 –1914)もヘレンを支援すると約束します。ケンブリッジ女学院としては、アンをヘレンから引き離して、通学させたかったようですし、アンもヘレンのもとを去ろうかと考えたようです。しかし、肝心のヘレンにアンを慕う気持ちが強い以上、アンも従軍看護婦として離れようとしたことを悔い改めます。大学で講義をヘレンに伝え賢くなっていたアンのことですから、スペイン=アメリカ戦争を糾弾するマーク・トウェインの反戦論に触れたり、従軍看護婦のボランティアとはいっても、アメリカの植民地政策の一翼を担う存在なのかと疑問に思ったのかもしれません。こうして、アンは、ヘレンも元にとどまる決意を固め、アンととヘレンは、ケンブリッジ女子学院を去って、チェンバリンの「赤い農家」に長期滞在することになります。

レンサムにあった家は、森と湖に囲まれていて、アン・サリバンは、湖の小島に一人で泳いでいったり、乗馬で遠出をしたり、キャンプをしたりと、ヘレンと同様、自然を満喫しています。湖に綱を張って、それを伝わってヘレンは、水泳をしたのですが、泳ぎの得意なアンは、湖の沖のほうまで行って行方不明になり、周囲を心配させたほどでした。ヘレンとアンの二人は、大変な努力をして大学受験勉強をしました。けれども、これは、豊かな自然の中で楽しみながら、元気を得ていたから、持続できたことだったのです。

写真(右):1905年、ヘレン・ケラーに指文字で本を読み聞かせるアン・サリバン(右)Helen Keller and Anne Sullivan、American Foundation for the Blind(AFB)引用。

一九〇〇年、アン・サリバンは、ヘレンと一緒に一八七九年設立の女子大学ラドクリフ・カレッジRadcliffe College)の授業に出席し、盲ろう者通訳と教師の二役をこなすことになり、急速に知識を深めていきます。そして、卒業目前に、二人は、自然の豊かなレンサムに自宅を購入します。また、ハーバート大学の講師のジョン・アルバート・メイシーJohn Albert Macy、1877-1932)の支援を受けて、1903年『自伝』The Story of My Lifeを刊行しました。

一九〇四年、ヘレンケラーは、ラドクリフ大学女子部を卒業します。そして、その名声を生かして、作家、講演者として、アン・サリバンとともに収入を得て暮らすようになります。二人は、障がい者でしたが、経済的に自立できるようになったのです。そして、生徒だったヘレンは、アンにとって信頼できる家族になったのです。

一九〇五年五月、アン・サリバンは、ハーバート大学講師ジョン・アルバート・メイシーJohn Albert Macy、1877-1932)と結婚し、生涯アン・メーシーとして、社会に登場します。アン・サリバン・メーシーは、夫ジョン・メイシーの影響で、団結権、団体交渉権など労働者の働く権利、すなわち労働基本権を擁護する運動にかかわります。メイシーは、しかし、既にヘレンと家族となっていたアンにとって、妻の役目は大変で、ジョン・メイシーも結婚生活よりも政治運動を優先します。ヘレンとアンが組んで活動しその名声が高まるほど、ハーバード大学で講師をしていたメイシーにとって、自分の存在意義を強く打ち出したいとの思いが強まったのかもしれません。

他方、アン・サリバン・メーシーは、ヘレン・ケラーと生活の上でも、対外的な活動の上でも、以前にもまして強く結び付いていていました。そこで、アンはジョンとの夫婦関係を全うできず、ジョンを傷つけてしまったようです。アンも、自分を必要としているのは、ジョンよりもヘレンであるとの思いを抱くようになったのかもしれません。

写真(右):1910年頃、レンサムの自宅のアン・サリバン・メーシー(Anne Sullivan)(右)、アンの夫ジョン・メーシー、ヘレンケラー(左):Helen, Anne, and Anne's husband, John Macy at their home in Wrentham. Helen and her friends were very interested in political ideas. In 1909, Helen joined the suffragist movement. Suffragists wanted equal treatment for women, including the right to vote—which was granted in 1920. In the same year, she also became a socialist. Helen believed that society should be based on people's needs, not on their power or money. Over the years, Helen would be criticized for her political opinions. American Foundation for the Blind(AFB)引用。

一九一四年、アン・サリバンは、ジョン・メイシーと離婚にこそ至りませんでしたが、ジョンは、レンサムを去ってしまします。 そして、入れ替わりにイギリスのスコットランド出身のポリー・トムソン(Polly Thomson)がヘレンを助けるために、雇われました。一九一七年、二人は、ジョンの思い出のあるレンサムの自宅を売り払って、ニューヨーク郊外のフォットヒルに引っ越しています。それから十七年後の十二月、フォレストヒルにあるヘレン・ケラーの家を岩橋武夫が訪問し、ヘレン来日を要請することになります。

写真(右):1920年、アン・サリバン Anne Sullivan(左)、ヘレン・ケラー(中央下)、ポリー・トムソン(右)A portrait (from left to right) of Anne Sullivan, Helen Keller, and Polly Thomson, all with marcelled hair. Helen is in profile. The photo is cropped in an oval shape. Circa 1920. American Foundation for the Blind(AFB)引用。

一九一七年四月には、ついにアメリカも第一次世界大戦に参戦し、ドイツと闘うことになりました。この時、アン・サリバンは、ウッドロー・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856 – 1924)大統領に「この戦争のために、世界は、野蛮さと巨大な金権政治の不快さに覆われてしまった」と平和回復を訴えました。一九一九年、ヘレンを題材にしたハリウッド映画の“Deliverance”についもて、映画製作者が、興行収入目当てに事実を歪曲して面白い物語にしようと捏造を加えたため、製作者と対立しています。

アン・サリバンとヘレン・ケラーは、セオドア・ルーズベルト(Theodore "Teddy" Roosevelt、1858 – 1919)大統領、ジョン・カルビン・クーリッジ(John Calvin Coolidge, 1872 – 1933)大統領、資産家の石油財閥アンドリュー・カネギー(Andrew Carnegie, 1835 - 1919)、自動車製造会社フォード・モーターの創設者ヘンリー・フォード(Henry Ford, 1863 - 1947)など有力者とも親交を結びました。

アンやヘレンは、アメリカ大統領や大企業経営トップとも直接話ができるほど名声を得ていたのですから、彼らの好意を得て、ますます自らの社会的地位を高め、収入を得る道を確保することもできたのです。しかし、アンもヘレンも、権力者の横暴には断固反対しました。そして、それが二人に対する有力者の離反や非難を引き起こし、経済的な苦しさの原因ともなりました。

さらに、アメリカ連邦捜査局(FBI:Federal Bureau of Investigation)は、ヘレンケラーとサリバンの思想が、当時赤化思想として危険視された社会主義的なものであったため、彼らの行動を監視しヘレンケラーに関するFBI秘密ファイルを残しています。

ヘレンケラーの言動や行動は、当時、ロシア革命によって成立した社会主義国ソビエト連邦、その指導者レーニンを支持するものであり、社会的な影響力が強かったのです。実際、ヘレンケラーは、ロシア革命後の1912年, " I love the red flag and what it symbolizes to me and other Socialists. I have a red flag hanging in my study..."として、ソビエト連邦の赤旗、すなわち社会主義を支持することを著作で表明していたのです。

写真(右):1920年、ヘレンケラーと指文字で会話するアン・サリバン・メイシー Anne Sullivan Macy(右):Helen Keller and Anne Sullivan seated on a living room couch, using the manual alphabet. Anne wears a dark dress with lace sleeves while Helen wears a dress with a floral pattern. On the wall behind them are a window, a picture and a ceramic plate. Circa 1920. 、American Foundation for the Blind引用。

そこで、このような社会主義思想や労働者・貧困者の地位向上の運動が激化することを恐れた政治家、官僚・行政マン、企業家・資本家は、ヘレンとアンを警戒していました。労働者や貧困者の人権に配慮するには、財政や企業負担が増えることにもなり、自由な競争の下で勝者となり、裕福な生活をしている権力者にとって、好ましいことではありませんでした。

社会主義を危険視したアメリカのFBI長官エドガー・フバー(J. Edgar Hoover)は、ヘレンとアンの「危険思想」が広まらないように、FBI(Federal Bureau of Investigation)を使って、彼女たちの行動を監視しました。現在、ヘレンケラーに関するFBIファイルは公開されていますが、当時は、極秘でした。

FBI長官エドガー・フーバー(J. Edgar Hoover)は、1925年1月2日、アメリカ盲人協会に、もっとも有名な盲目の婦人 "the Well Known Blind girl" すなわちヘレンケラーの情報を要求しています。そして、ヘレンケラーに関するFBI秘密ファイルの最終巻は、1964年6月24日付のものです。

写真(右):1924年、アン・サリバン Anne Sullivan(左)とヘレンケラー:ハンガリー出身の写真家ムーレイ・ニコラス撮影、George Eastman House.所蔵の写真。Muray, Nickolas American (b. Hungary, 1892-1965) TITLE ON OBJECT: Helen Keller & Unid ca. 1922-1961 negative, gelatin on nitrocellulose sheet film 10x8 in Gift of the Muray family 77:0189:1600/Nickolas Muray - Strip 18/George Eastman House.引用。

ここで重要なことは、アン・サリバンとヘレン・ケラーにとって、障がいとは、身体的なものだけではなく、良い世界をつくるために乗り越えるべき、貧困、差別戦争など社会的制約でもあったのです。現実と妥協して名声を求めるのではなく、社会的制約によって縛られることのないノーマライゼーションnormalization)を実現した理想の平等・公正な社会をつくるために、精一杯の努力をすることが、生涯の目標になりました。

アン・サリバンは、ヘレン・ケラーとの経験をふまえて、アメリカ盲人協会(American Council of the Blind: ACB)の活動を資金的に助けるなど、障がい者教育に熱心でしたが、活動を世界的に展開する努力もしました。一九三〇年から、アンは体調を崩しますが、イギリス、アイルランド、フランス、ユーゴスラビアを訪問して、障がい者教育を支援しノーマライゼーションnormalization)を目指しました。

一九三四年八月、盲目の社会事業家で日本ライトハウス創立者岩橋武夫(1898 – 1954)は、カナダから渡米し、十二月には、ニューヨーク郊外フォレストヒルズに住むヘレン・ケラーを訪問しました。この岩橋の渡米は、カリフォルニア州日本人キリスト教徒の連盟の招聘に応じたものでしたが、この機会に、岩橋はアメリカ人キリスト教徒の支援も得て、アメリカ東部での講演会を行いました。

岩橋武夫は、ヘレンケラーとの一九三四年十二月のニューヨーク州における会談で、ヘレンが来日して日本の視覚障害者を支援してほしいと要請しました。

ヘレン・ケラーが岩橋から日本訪問の依頼を受けた時、アン・サリバンは病の床にあり、彼女の眼も再び不自由になっていました。そこで、ヘレンは日本に渡航することはできませんでした。しかし、アンはヘレンに「日本の障がい者のために光をかかげる人になること」を約束させます。そして、一九三六年十月二十日、ニューヨーク州フォレストヒルズで七十歳の生涯を閉じました。こうして、ヘレンにとって、訪日は、亡きサリバン先生との約束として、必ず果たすべきものとなったのです。

近代の日本の障害者福祉が本格化したのは、第二次世界大戦が終了してからだと勘違いしてはいけません。たしかに障害を持った全ての市民の人権を認め、そのベーシックヒューマンニーズを充足すべきであるとの見解は、日本では戦後になって普及しました。

しかし、佐賀の乱台湾出兵を背景に、一八七五年四月、陸軍軍人を対象とした恩給制度が発足し、八月には海軍にも同様の恩給制度ができます。公務員の恩給制度の発足は、一八八四年ですから、軍人のほうが文官よりも先に恩給法という形で社会保障が整備されたのです。

一九〇四年に日露戦争が勃発し、大量の日本軍兵士が負傷し、疾病に苦しみました。そこで、招集解除された負傷兵、傷病兵あるいは障害者となった元兵士、すなわち傷痍軍人が復員すると、市民生活にどのように復帰させるかという国家的課題が意識されるようになりました。

傷病兵は、国家的要請に応じて、命を懸けた戦った勇士であり、負傷し障害を持っても、これは立派に戦った証であり「名誉の負傷」とされました。傷痍軍人が、市民生活から排除されれば、国家的要請に応じても末路は、悲惨なものとなってしまいます。これでは誰も兵士に志願しませんし、傷痍軍人とその家族に福祉措置が取られなければ、大黒柱を失った家族は路頭に迷ってしまいます。徴兵された兵士も、無傷で帰郷することばかり考える臆病者になってしまうかもしれません。

傷痍軍人に対して、明治政府は、一九〇六年に廃兵院法を成立させ、傷痍軍人のための国家施設を作ります。廃兵院とは、戦争で負傷・病気が原因で、起居不自由・生活困難な傷病兵を収容して、国家財政によって扶養することを目的とした国家施設です。そこでは、治療、手工芸の訓練、雇用機会の斡旋も行います。

廃兵院は、日本発の国立の障害者施設で、日露戦争を契機に、戦場で負傷したり病にかかったりした兵士を対象に創設されのです。日露戦争によって帰還・復員した負傷兵は数万人に達し、失明・四肢の不自由など重度の傷害で障害者となった元兵士の処遇は、重大な国家問題でしたから、財政の上でもっ元兵士の障害者の救済が求められました。

一九○六年、日本政府はフランスの廃兵院をモデルにした「廃兵院法」を施行します。廃兵院は、当初は東京の陸軍病院の一環として設けられますが、のちに重度の負傷兵をまとめて収容する単独の施設となり、全国各地に設置されるようにります。

 一九〇六年の廃兵院法は、次のように定めています。 
本法は、陸海軍人にして戦争又は公務の為めに傷痍を受け或は疾病に罹りて不具となりたる者に対し、国家は恩給を支給する外に、然かも此功勲ある者を充分に待遇保護する結果として、廃兵院を設けて以上の軍人を茲に収容し、以て扶養ふの必要上起りたるものなり。其組織及び入退院手続は、以下説得する所に依って了解すべし

第一条
戦闘の為傷痍を受け、軍人恩給法に依り増加恩給を受くる者にして救護を要するものは命令の定むる所にて依て廃兵院に収容す、廃兵院に収容したる者は国費を以て終身之を扶養す

第二条
公務の為傷痍を受け又は疾病に罹り、軍人恩給法に依り増加恩給を受くる者にして救護を要するものは特に廃兵院に収容することを得

第三条
廃兵院に収容したる者には其の間恩給の支給を停止す

フランスは、一七〇六年に、パリに廃兵院(オテル・デ・ザンヴァリッド;アンバリッド)を建設し、傷痍軍人を収容していました。日本陸軍は、近代化の過程でフランスの流儀を取り入れましたから、「廃兵院」の発想も、フランスの事例を参考にしたものです。

パリのアンバリッドには、英雄ナポレオン・ボナパルトの墓所もありますし、軍事博物館も併設されています。このナポレオンの墓所は有名観光地ですが、なぜ国家的英雄の墓が、傷痍軍人の「廃兵院」という一見暗い場所にあるのかと考えてみましょう。実は、廃兵こそ戦場で勇敢にたたかった兵士であり、国家が讃える相応しい障害者だったのです。

日本の廃兵院は、一九二二年に陸軍の管理下から外されて内務省に、一九三四年には「傷兵院」と名称を変更し、一九三八年には新設された厚生省の「傷兵保護院」の所管となります。

一九二三年、ILO(国際労働機関)は、戦争で負傷した兵士、すなわち傷痍軍人の雇用促進を勧告しています。また、日本では一九二三年九月一日、関東大震災によって、負傷した障害者が問題となり、財団法人同潤会が設立され、翌一九二四年から身体障害者の職業訓練が実施されています。

しかし、二十世紀初頭の日本では、障害者福祉の対象は、障害者全体のごく一部に過ぎませんでした。この状況が変化し、多数の障害者に対して福祉が考慮されるようになったのは、満州事変が勃発した一九三一年からです。これは、招集された兵士が招集解除され市民生活に復帰するのを支援する事業、戦闘で負傷した元兵士の障害者を支援する事業の二つがあります。

一九三一年、兵士が招集解除後に雇用機会が確保できるように、入営者職業保護法が制定された。ここで、雇用主は、軍隊に招集され入営した(軍隊に入った)労働者が招集解除された場合、職場復帰を認めることが義務付けられました。一九三四年、廃兵院法は、廃兵院法改正されます。

一九三七年七月七日の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争が勃発すると、内務省の社会局に軍事援護部が設置され、さらに一九三八年一月に陸軍大臣の提唱を受けて厚生省が設置されます。また同年の国家総動員法の制定によって、厚生省の下に軍事保護院が設置されました。これらの部局は、戦争で負傷し障害を負った元兵士、すなわち傷痍軍人に雇用機会を与え、銃後の世論の安定、戦争支持を目的にしたものです。これによって、市町村役場など公務員に積極的に傷痍軍人を採用する方針が定められました。

 戦前の日本における障害者福祉は、傷痍軍人を中心に、国家への義務を果たした代償あるいは社会貢献をした見返りとして、実施されました。したがって、精神障害者や生まれつきの障害者など、国家に奉仕できない者、社会に寄与できない者は福祉から排除される傾向にありました。それどころか、国家に奉公できず、国家財政の負担になる者、福祉の恩恵ばかり一方的に受けようとする「障害者」は生きるに値しない命として排除されることがありました。 

ところで、国家財政の中で戦争や軍備が中心だった時代、福祉は、戦争と軍事に不可分の存在でした。国立病院のなかでも、軍の病院が最も設備の整った施設だったのです。西 律子(2008)[書評] 「戦争が創り出す「精神障害」者−清水寛編著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』へのオマージュ−」『お茶の水地理』Vol.48,pp.116-121によれば、千葉県市川市の国府台陸軍病院は、精神障害のある兵士を診断・治療する軍の病院でした。一九三八年に、国府台陸軍病院で精神障害兵士の診療が始まり、国府台陸軍病院で作成された「病床日誌」には一九四五年までの入院兵士8002名のカルテが残っています。

国府台陸軍病院に収容された精神神経疾患患者数は1万453名で、中国、満州、台湾、朝鮮など「外地」と日本本土「内地」からの患者がありました。精神神経疾患患者は7割が外地からで、中でもに中戦争の時代を反映して、中国大陸からの患者が最も多かったのです。

国府台陸軍病院の精神性疾患は、「精神分裂症」(全体の41.9%),「ヒステリー」(11.5%),「頭部戦傷による外傷性てんかん」(10.4%),「神経衰弱」(7.1%),「精神薄弱」(5.9%)の准でした。

 戦闘時の緊張感、兵営での私的制裁の恐怖、戦闘ストレスが原因と思われる症状が多いようですが、中には「精神発育制止症」「精神薄弱」「白痴」「痴愚」「魯鈍」など知的障害者も484名含まれています。つまり入営前から障害,疾病による精神障害と診断 されているのです。(西 律子(2008)[書評] 「戦争が創り出す「精神障害」者−清水寛編著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』へのオマージュ−」『お茶の水地理』Vol.48,pp.116-121参照)

精神障害兵士は、日本軍兵士たり得ないと判断され、退院させられ、兵役免除、除役となったものが大半ですが、国家への奉公をしていないため、軍人恩給は受けられませんでした。軍国主義の時代、兵役の義務を果たせないような精神障碍者、半人前の人間は、福祉や社会保障を期待することはできなかったのです。国家のために命を懸けて戦って、名誉の負傷をした傷痍軍人と、精神障害者・身体障害者という兵役不合格者は、完全に分離されていました。後者は、国家の負担を増すだけの無駄な存在として貶められていたのです。

写真(右)1936-1940年,ドイツ帝国人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族のサンプル採取:帝国人種優生学研究センターの白いコートを着たエヴァ・ユ−スティン(Eva Justin:1909/08/23-1966/9/11)博士がジプシー/ロマの顔の成形模型を作っている。エヴァ・ユースティンは,ドレスデン生まれで,1934年から看護訓練コースに出席し,ロベルト・リッター(Robert Ritter)の下で精神医学を学ぶ。そして,帝国人種優生研究センターの研究者として,ジプシー/ロマの調査を行った。課題は,ジプシーの子どもたちと,その子孫の繁殖に関してだった。そして、彼女の博士号学位論文Lebensschicksale artfremd ersogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen(ジプシーの子どもたちとその子孫)- Berlin (1943) で,エヴァ・ユースティン(Eva Justin)は、ジプシーたちは多かれ少なかれ反社会的傾向を持つ人種であるとして、社会適応性の低さのために,アーリア人にとって,有害な存在であるとした。そして、ほぼ全てジプシーとジプシーの混血は,排除すべきであるとの結論に達している。同時代のヘレンケラーやアンサリバンとは対照的に、障がい者、ユダヤ人、ジプシー(ロマ)などを特定集団を社会に害をなす人種民族とみなして排除する政策が、ドイツでは採用されていた。これは、ノーマライゼーションとは全く正反対の人種民族差別で、これに積極的に関わったユースティンのような女性科学者もいたのである。(→ナチスの優生学と人種民族差別参照。)
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?) Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

    ヘレンケラーの来日:サリバン先生との約束

ヘレンは、一九三七年十月、サリバンが亡くなったことでショックを受けましたが、ポリーに励まされ、一九三七年四月、日本郵船の豪華客船「浅間丸」(総トン数1万6千トン)で来日しました。この時、ヘレンは、浅間丸の船上から春の陽光の下に浮かぶ富士山を感じて、「寂しかった自分の心の空間を内なる光が明るく照らし出した」と述べています。

ヘレンが述べた心の光は、サリバン先生の強固な意志を源にして照らされたものだったのです。ヘレンケラーは、障がい者でありながら学問,社会的に多大な功績を残しましたが、アン・サリバンと、ポリーの故郷スコットランドでしばらく静養したこともありました。このようなことを思い出しながら、アンの死から半年ほどたってから、日本に「浅間丸」で出帆しました。これは、サリバンと生前にした日本訪問の約束を果たすためでもありました。この一九三七年四月十五日、横浜港に来日した時、ヘレンは五十六歳でした。六月二十七日に五十七歳の誕生日を迎えますが、七月七日に盧溝橋事件が勃発し、日中武力衝突を治めることができずに、日中全面戦争へと拡大してしまいます。そのため、八月十日、横浜港から「秩父丸」に乗船しアメリカに帰国しました。

ヘレンは、第二次大戦終結から3年たった一九四八年八月再来日し、岩橋武夫とも再会し、身体障害者福祉法の制定に力を尽くしました。

身体障害者福祉法は、一九四九(昭和二十四年十二月二十六日に制定され、そこでは、改正後、次のように述べられています。

 法の目的
第一条  この法律は、障害者自立支援法(平成十七年法律第百二十三号)と相まつて、身体障害者の自立と社会経済活動への参加を促進するため、身体障害者を援助し、及び必要に応じて保護し、もつて身体障害者の福祉の増進を図ることを目的とする。

 自立への努力及び機会の確保
第二条  すべて身体障害者は、自ら進んでその障害を克服し、その有する能力を活用することにより、社会経済活動に参加することができるように努めなければならない。
2  すべて身体障害者は、社会を構成する一員として社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする。

一九五〇年、社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会が発足し、ヘレン・ケラー学院が開校されました。ここでは、視覚障害者の社会進出を助けるために、あんまはりきゅうの職業訓練を担い、さらに点字の充実を図りました。


ヘレンは、三度目、一九五五年の最後の来日では、6月3日、ライトハウスを訪れ岩橋武夫(1954年10月28日死去)に花を手向けています。一九九六年建立の岩橋武夫の碑には、ヘレン・ケラーの言葉として、"Takeo Iwahashi whose liberating mind shines upon the blind of Nippon" 「その解き放つ心 日本盲界に光り輝く タケオ・イワハシ」とあります。

社会福祉法人日本ライトハウスは、目の見えない方の自立と社会参加に、日本で最初に取り組んだパイオニアとして、「自立と社会参加のためのパートナーシップ」を基本理念とし、視覚などに障害のある個人が、尊厳をもってその人らしい自立した生活ができ、積極的に楽しく社会参加することを共通の目標として、パートナーシップの心で協働作業を行っています。


<ノーマライゼーションの概念の普及>
1970年代から、デンマークのバンク・ミケルセン(Bank-Mikkelsen)ら北欧における知的障害者の待遇改善をめざ運動がNormalizationの語句を用いました。そこで、当初はデーン語風に「ノーマリゼーション」と呼ばれました。

1971年12月20日、国連で「知的障害者の権利宣言」が次のように宣言されました。

総会は、国際連合憲章のもとにおいて、一層高い生活水準完全雇用及び経済的、社会的進歩および発展の条件を促進するためこの機構と協力して共同および個別の行動をとるとの加盟国の誓約に留意し、この憲章で宣言された人権と基本的自由並びに平和.人間の尊厳と価値および社会的正義の諸原則に対する信念を再確認し、世界人権宣言、国際人権規約、児童の権利に関する宣言の諸原則並びに国際労働機関、国連教育科学文化機関(ユネスコ)、世界保健機関、国連児童基金(ユニセフ)およびその他の関係機関の憲章、条約、勧告および決議においてすでに設定された社会の進歩のための基準を想起し、社会の進歩と発展に関する宣言が心身障害者の権利を保護し、かつそれらの福祉およびリハビリテーションを確保する必要性を宣言したことを強調し、知的障害者が多くの活動分野においてその能力を発揮し得るよう援助し、かつ可能な限り通常の生活にかれらを受け入れることを促進する必要性に留意し、若干の国は、その現在の発展段階においてはこの目的のために限られた努力しか払い得ないことを認識し、この知的障害者の権利宣言を宣言し、かっこれらの権利の保護のための共通の基礎および指針として使用されることを確保するための国内的および国際的行動を要請する。

1. 知的障害者は、実際上可能な限りにおいて、他の人間と同等の権利を有する。
2. 知的障害者は、適当な医学的管理及び物理療法並びにその能力と最大限の可能性を発揮せしめ得るような教育、訓練リハビリテーション及び指導を受ける権利を有する。
3. 知的障害者は経済的保障及び相当な生活水準を享有する権利を有する。また、生産的仕事を遂行し、又は自己の能力が許す最大限の範囲においてその他の有意義な職業に就く権利を有する。
4. 可能な場合はいつでも、知的障害者はその家族又は里親と同居し、各種の社会生活に参加すべきである。知的障害者が同居する家族は扶助を受けるべきである。施設における処遇が必要とされる場合は、できるだけ通常の生活に近い環境においてこれを行なうべきである。
5.自己の個人的福祉及び利益を保護するために必要とされる場合は、知的障害者は資格を有する後見人を与えられる権利を有する。
6.知的障害者は、搾取、乱用及び虐待から保護される権利を有する。犯罪行為のため訴追される場合は、知的障害者は正当な司法手続に対する権利を有する。ただし、その心身上の責任能力は十分認識されなければならない。
7.重障害のため、知的障害者がそのすべての権利を有意義に行使し得ない場合、又はこれらの権利の若干又は全部を制限又は排除することが必要とされる場合は、その権利の制限又は排除のために援用された手続はあらゆる形態の乱用防止のための適当な法的保障措置を含まなければならない。この手続は資格を有する専門家による知的障害者の社会的能力についての評価に基づくものであり、かつ、定期的な再検討及び上級機関に対する不服申立の権利に従うべきものでなければならない。

これは、明らかにノーマリゼーションの考えを受け継いだもので、ドイツ人の学者ヴォルフ・ヴォルフェンスベルクWolf Wolfensberger(1972)The principle of normalisation in human services, Toronto, NIMR(National Institute on Mental Retardation)も刊行され、北欧の「ノーマリゼーション」は、国際化の過程で「ノーマライゼーション」と英語風に呼称されるようになりました。

1975年12月9日、国連総会採択の「障害者の権利宣言」も「知的障害者の権利宣言」を受けて、次のように謳っています。

総会は、国連憲章の下において、国連と協力しつつより高い生活水準、完全雇用、経済的・社会的進歩および発展の諸条件を促進するための共同行動および個別の行動をとるという加盟諸国の制約を心に留め、 国連憲章において宣言された人権と基本的自由に対する信念、ならびに平和、人間の尊厳と価値および社会正義の諸原則に対する信念を再確認し、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利宣言、知的障害者の権利宣言の諸原則、ならびにILO、ユネスコ、WHO、ユニセフおよびその他の関係諸機関の憲章、条約、勧告、決議において社会進歩のためにすでに設定された諸基準を想起し、 障害の予防と障害者のリハビリテーションについての1975年5月6日の経済社会理事会決議1921(L)もまた想起し、社会進歩と発展に関する宣言が身体的、精神的に不利な立場にある者の諸権利を保護し、その福祉とリハビリテーションを確保する必要性を宣言したことを強調し、身体的・精神的障害を予防し、障害者が最大限に多様な活動分野において、その諸能力を発達させることを援助し、できる限り通常の生活への彼らの統合を促進する必要性に留意し、若干の諸国では、現在の発展段階においては、この目的のために限られた努力しか払うことができないことを自覚し、この障害者権利宣言を発布し、その諸権利を保護するための共通の基礎および指針としてこの宣言が用いられることを確保するための国内的、国際的行動を要請する。

1 「障害者」という用語は、先天的か否かにかかわらず、身体的ないし精神的な能力における損傷の結果として、通常の個人的生活と社会的生活の両方かもしくは一方の必要を満たすことが、自分自身で完全にまたは部分的にできない者を意味する。
2 障害者は、この宣言に掲げられるすべての諸権利を享受するものとする。この諸権利は、いかなる例外もなく、かつ、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上もしくはその他の意見、国民的もしくは社会的出身、貧富、出生または障害者自身もしくはその家族のおかれている他のいかなる状況に基づく区別ないし差別もなく、すべての障害者に与えられるものとする。
3 障害者は、その人間としての尊厳が尊重される生まれながらの権利を有する。障害者は、そのハンディキャップと障害の原因、性質、程度のいかんにかかわらず、同年齢の市民と同一の基本的権利を有する。このことは、まず第一に、可能な限り通常のかつ十分に満たされた相当の生活を享受する権利を意味する。
5 障害者は、可能な限り自立できるよう企図された措置を受ける資格を有する。
6 障害者は、義肢・補装具を含む医学的・心理学的・機能的治療を受ける権利を有し、医学的・社会的リハビリテーション、教育、職業教育、訓練とリハビリテーション、援助、カウンセリング、職業あっ旋、ならびに、その能力や技術を最大限に発達させ、彼らの社会への統合または再統合を行う過程を促進するようなその他のサービスを受ける権利を有する。
8 障害者は、経済的、社会的計画のすべての段階において、その特別のニーズが考慮される権利を有する。
9 障害者は、その家族または里親と共に生活し、すべての社会的活動、創造的活動またはレクリエーション活動に参加する権利を有する。いかなる障害者も、その居住に関する限り、その者の状態のため必要であるかまたはその者がそれによってなしうる改善に必要である場合以外、差別的な扱いを受けないものとする。障害者が専門施設に入所することが絶対に必要であっても、そこでの環境および生活条件は、同年齢の人の通常の生活に可能な限り近づけられなければならない。

日本では、それから10年たった昭和56年(1981年)度版厚生白書において「ノーマライゼーション」の理念が次のように取り上げられました。

「近年、障害者福祉の理念として注目を集めているのが、「ノーマライゼーション(normalization)」の考え方であり、今日では福祉に関する新しい理念全体を表す言葉として、世界的に用いられるようになってきている。この言葉は歴史的にみると、スカンジナビア諸国を発祥の地として、「常態化すること」すなわち、障害者をできる限り通常の人々と同様な生活をおくれるようにするという意味で使われ始めたとされている。」

2012年6月11日現在の厚生労働省の障害者福祉のホームページには、「障害のある人も地域で安心して暮らせる社会の実現を目指して 障害のある人も普通に暮らし、地域の一員としてともに生きる社会作りを目指して、障害者福祉サービスをはじめとする障害保健福祉施策を推進します。また、障害者制度の改革にも取り組んでいます」とあります。

そして、厚生労働省ホームページの障害者福祉 には、次のようなノーマライゼーションの説明があります。

<障害者の自立と社会参加を目指して>
障害のある人もない人も、互いに支え合い、地域で生き生きと明るく豊かに暮らしていける社会を目指す「ノーマライゼーション」の理念に基づき、障害者の自立と社会参加の促進を図っています。

◇ノーマライゼーションの推進のために
ノーマライゼーション推進のために、サービス提供体制の充実に取り組んでいます。また、障害者の主体性が尊重されるよう、利用者自らが福祉サービスを選択できる新しいサービス利用の仕組みを導入しています。

◇新しい障害者福祉サービスの利用の仕組み
ノーマライゼーションの理念の下、障害者の自己決定を尊重し、サービス事業者との対等な関係を確立するため、行政が福祉施設やホームヘルパー(訪問介護員)などのサービスを決定する従来の仕組み(措置制度)を改め、利用者自らがサービスを選択し、事業者と直接に契約する新しい利用制度(支援費制度)に平成15年度から移行しました。

支援費制度の施行により、新たにサービスの利用者が増えるなど、障害者が、地域生活を進める上での支援が大きく前進しましたが、新たな利用者の急増に伴い、今後も利用者の増加が見込まれる中で、支援費制度の対象に含まれていない精神障害者の方も含め、障害者が必要なサービスを安定的な制度の下で利用できるよう、障害保健福祉施策の各種の抜本的な改革を行う障害者自立支援法を国会に提出し、可決成立しました。
平成18年4月からは、障害者自立支援法に基づく新しい制度へと移行(一部は18年10月から)します。

◇精神障害者の人権に配慮した<精神医療の確保、自立と社会復帰の促進>
我が国の障害者約656万人のうち、精神障害者の総数は約258万人と推計されています。
障害者数は、身体障害者 351.6万人、うち在宅者332.7万人、施設入所者18.9万人、知的障害者 45.9万人、うち在宅者 32.9万人、施設入所者13.0万人、精神障害者 258.4万人、うち在宅者223.9万人、施設入所者34.5万人です。

精神障害者に対する医療・保健・福祉施策は、ノーマライゼーションの理念の下、「精神障害者の人権に配慮した精神医療の確保」と「精神障害者の方々の社会復帰の促進、自立と社会経済活動への参加の促進」という2つのテーマを中心に、入院患者の処遇の改善、地域で生活する精神障害者の支援などに積極的に取り組んでいます。

◇社会参加の推進
障害者の社会参加を推進するため、様々な支援を行っております。例えば、情報伝達(コミュニケーション)手段の確保のため、障害者への情報提供の充実、手話・点訳に従事する奉仕員の養成・派遣などを行っています。また、在宅の障害者やその家族に対して、福祉サービスを利用するための援助や社会生活力を高めるための支援を行うなど、幅広い施策を推進しています。また、全国障害者スポーツ大会の開催等にも取り組んでいます。

以上の引用は、障害保健福祉部:障害者の自立と社会参加を目指してと同じものです。これらの説明によれば、「ノーマライゼーション」とは、「障害のある人もない人も、互いに支え合い、地域で生き生きと明るく豊かに暮らしていける社会を目指す」ことですが、「生き生きと明るく豊かに」とは、どのようなことなのでしょう。障害のあるなしだけで、年齢、人種民族、教育、所得などの格差は、含まないのでしょうか。地域の範囲で、グローバルには成り立たなくても構わないのでしょうか。

2012年6月11日現在、厚生労働省のサイトには、ノーマライゼーションの項目を筆頭にした解説はありませんが、ノーマライゼーションをどのように位置づけているかはわかります。

【福祉の考え方・ノーマライゼーション】に「ノーマライゼーション(normalization)の理念が広がりを見せる中、いろいろな問題も発生しています。一方では実体の伴わない空疎なお題目あるいは枕詞として、ノーマライゼーションという言葉だけが頻繁に使われるようになりました」とありました。

障害者雇用 率制度
障害者雇用率制度の下で、すべての事業主は、法定雇用率以上の割合で障害者を雇用する義務があります。この法定雇用率が、2013年(平成25年)4月1日から以下のように、引き上げられます。現行⇒2013年4月1日以降、 民間企業 1.8% ⇒ 2.0%
国、地方公共団体等 2.1% ⇒ 2.3%
都道府県等の教育委員会 2.0% ⇒ 2.2%

◆「精神障害者の雇用義務化へ 厚労省方針、社会進出促す」 朝日新聞デジタルライフ就職・転職ニュース記事2012年6月14日引用

 厚生労働省は、新たに精神障害者の採用を企業に義務づける方針を固めた。身体障害者に加え、知的障害者の雇用を義務化した1997年以来の対象拡大になる。障害者の社会進出をさらに促す狙いだ。企業に達成が義務づけられている障害者雇用率は、上がることになりそうだ。

 専門家による研究会で、近く報告書をまとめる。今秋から労働政策審議会で議論し、来年にも障害者雇用促進法の改正案を通常国会に提出する。企業だけでなく、国や地方公共団体などにも義務づける。

 障害者雇用促進法は企業などに、全従業員にしめる障害者の割合を国が定める障害者雇用率以上にするよう義務づけている。障害者の範囲は身体、知的に限られていたが、そううつ病や統合失調症などの精神障害者を加える。

 障害者雇用率は、働いたり、働く意思があったりする障害者の全労働者にしめる割合と同程度になるよう計算して定められている。現在、1.8%で、来年4月から2.0%になることがすでに決まっている。対象拡大で、この計算にも新たに精神障害者が加わるため、率は上がりそうだ。

 働いたり、働く意思があったりする精神障害者の人数の正確な統計は今のところない。ただ、統計がある「ハローワークを通じて仕事を探す精神障害者」の推移をみると年々増えており、2011年度は約4万8千人。この数字で単純計算すると、雇用率は少なくとも2.2%になる。

 精神障害者の定義は、精神障害者保健福祉手帳を持つ人とする案が有力だ。手帳は10年度は59万人に交付されている。

 精神障害者の雇用義務づけは、働く障害者の増加にともない、障害者団体からの要望も強まっていた。(石山英明)

〈障害者雇用率〉 義務づけの対象は従業員56人以上の企業(来年4月からは50人以上)。達成できないと、従業員201人以上の企業の場合は、不足する1人につき月5万円を国に納付しなければならない。昨年6月時点では、対象の約7万5千社のうち、達成企業は45.3%。率は法律で少なくとも5年に1回、見直すことになっている。(朝日新聞デジタルライフ2012年6月14日引用 終わり)
   ヘレンケラー・サリバン賞
 「ヘレンケラー・サリバン賞」は、視覚障害者の福祉・教育・文化・スポーツの分野で、視覚障害者を支援している「晴眼者」を対象とした賞で東京ヘレンケラー協会が1993年に創設しました。選考は、視覚障害者が推薦した候補から、東京ヘレンケラー協会委嘱の視覚障害者選考委員によって、検討・決定されます。

2011年度ヘレンケラー・サリバン賞の贈賞者は、全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲老連)常務理事・事務局長酒井久江女史。

東京都青梅市在住の酒井久江女史は、国内外の視覚障害福祉の調査・研究、全国盲老人施設職員研修の企画と開催、施設間の国際交流等を通じてわが国の盲老人の福祉向上に尽力された。賞状と副賞のヘレン・ケラー女史直筆入りクリスタルトロフィーが贈呈されました。

 全国盲老人福祉施設連絡協議会(全盲老連)常務理事・事務局長、酒井久江女史(69歳)さんは、点字と出合って51年、聖明園に勤めて44年である。都市銀行の地方支店に8年間勤務の後、1968年、盲老人ホーム聖明園を運営する社会福祉法人聖明福祉協会に就職。それから10年間は聖明園の寮に泊まり込んで、全国各都道府県に盲老人ホームを建設することを目指しました。そして、現在79施設(51法人)が加盟するまで発展しました。

在所者アンケートなど調査を繰り返しながら、行政にも訴えた結果、盲老人ホームにおける寮母、生活相談員、看護師など職員定員の増員が認められました。1976年には、米国、カナダ、英国、ドイツ、デンマークを3カ月半かけて視察し、オーストラリアのメルボルンの盲老人福祉協会にも2カ月滞在しました。

しかし、1997年の介護保険法成立、その後の2000年の介護保険制度実施で、特別養護老人ホーム(特養)から、全盲老連の職員研修会への参加者が激減してしまいます。なぜなら、行政としては、視覚障害者には介護認定をとって特別養護老人ホームを勧めるために、特別養護老人ホームの職員は忙しくなり、研修の時間がとれなくなったのです。

他方、盲老人ホーム(養護老人ホーム)は、特別養護老人ホームと違い、介護保険施設ではないため、行政が措置をとらない傾向が強まります。養護老人ホームの入居の申し込みは、行政(市町村)に行うため、ホームの利用が図られなくなる傾向が強まっています。現在の日本でも、障がい者にとって、ノーマライゼーションが達成されているとは言えないのです。

◆アン・サリバンやヘレン・ケラーが目指したように、障害者だけではなく、外国人、老人、子供、さらに貧困者と、すべての人々がベーシックヒューマンニーズ(衣食住、教育、医療・衛生)を満たす生活ができるように配慮することは、福祉でいうノーマライゼーションに通じるものです。そして、ベーシックヒューマンニーズの普遍化というノーマライゼーションを実現する一つの手段が、すべての人々が社会に出てゆけるようにするユニバーサルデザインなのです。

◆鳥飼研究室では、障がい者福祉の狭い範囲に限定したノーマライゼーションの議論ではなく、現代文明、人権獲得の歴史から、広義のノーマライゼーションユニバーサルデザインを検討しています。高校生のみなさんで興味を持った方は、ぜひ東海大学人間環境学科社会環境課程のオープンキャンパス「ヘレンケラーから見る社会環境」に参加したり、「財政学」の授業に出て勉強したりしてはいかがですか。新たな世界が広がります。

◆本サイトでは、ヘレンケラーの日本訪問以降を扱っていませんが、1937年以降の彼女については、ヘレン来日を参照してください。

参考文献
Helen Keller (1956)Teacher : Anne Sullivan Macy, A Tribute By the Foster Child of Her Mind. Doubleday & Company
Joseph P. Lash(1960)Helen And Teacher: The Story Of Helen Keller And Anne Sullivan Macy. Discover Books
Kim E. Nielsen (2009) Beyond the Miracle Worker: The Remarkable Life of Anne Sullivan Macy and Her Extraordinary Friendship with Helen Keller. Beacon Press
アン・サリバン(1995)槙恭子/訳)『ヘレン・ケラーはどう教育されたか―サリバン先生の記録』明治図書出版
鳥飼行博監修(2011)『学習漫画 サリバン先生』集英社
ヘレン・ケラー(2004)小倉慶郎/訳『奇跡の人ヘレン・ケラー自伝』新潮文庫



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

◆2007年9月22日土曜日13時-16時,「ヘレンケラー女史に再び学ぶ」と題して,講演会(神奈川新聞後援・高齢パワー活用の会主催)を行いました。場所は,横浜市青葉区民活動支援センター(東急田園都市線田奈駅構内)会議室でした。たくさんの高齢者、障害者の方にご参加いただけましたことは、望外の喜びです。
◆ヘレンケラーやアン・サリバンにまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
◆ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。


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