鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
マリアナ沖海戦◇Battle of the Phillipine Sea 2006
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◆マリアナ沖海戦と本土空襲の危機◇The Battle of the Philippine Sea 1944

写真(上左):1943 年3月の米空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9)の飛行甲板
:南鳥島、ギルバート諸島、トラック諸島、パラオ諸島、そしてマリアナ諸島を空母艦載機で空襲した。艦上には、FF「ヘルキャット」戦闘機が翼を折りたたんで並び、後方にSB2C「ヘルダイバー」急降下爆撃機。左端は、艦橋に装備された40ミリ四連装機関砲。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。
写真(右):1943年春、竣工時の米空母「ヨークタウン」USS Yorktown (CV-10)
;基準排水量: 27,100 t; 満載排水量36,200 t、装甲: 4インチから2.5インチ(舷側); 1.5インチ(格納庫); 1.5インチ(搭乗員居住区の上部・側部)、8 ボイラー; 機関出力:15万馬力: 速力:32.7ノット、航続距離: 2万マイル @ 15ノット、兵装: 4基×連装 & 4基×単装 5インチ38口径対空砲; 8基×四連装 40ミリ56口径機関砲; 46丁× 20ミリ70口径対空機銃、搭載機: 91機 、艦載機用エレベーター 1 deck-edge, 2 centerline elevators; 2基× H4B 水蒸気カタパルト、乗員: 2,600+ (艦載機整備員・搭乗員を含む)。写真の甲板上には、F6F "Hellcat"戦闘機と SB2C "Helldiver" 急降下爆撃機. Note this carrier's unique longitudinal black flight deck stripe. NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。

写真(右):米軽空母「ベロウ・ウッド」のF6F「ヘルキャット」戦闘機搭乗員と整備員:1945年撮影。軽空母「ベロウ・ウッド」は基準排水量: 27,100 t、速力31ノット、艦載機30搭載の軽空母。タラワ環礁(1943年9月18日)、ウェーキ島(10月5-6日)を攻撃、ギルバート諸島攻略戦(1943年11月19日 - 12月4日)に参加。マーシャル諸島(1944年1月29日 - 2月3日)、トラック島攻撃(2月16-17日)、マリアナ諸島(2月21日、22日)、パラオ環礁・ ヤップ諸島(3月30日 - 4月1日)、ホーランディア(4月22-24日)トラック諸島(4月29日 - 5月1日)を攻撃。マリアナ沖海戦で艦載機が空母「飛鷹」を撃沈。

このように見てくると,当時の日本が軍部独裁であったとしても,国民のご機嫌を損なう米英との大戦争には,異常に機を配っていたことがわかる。米英への攻撃が大失敗すれば,開戦劈頭に負け戦をしでかした大ウツケ,弱い日本軍として,国民が政府高官・軍を軽んじてしまう。そうなれば,共産主義革命が起こるかもしれない,中堅将校のクーデター・叛乱が起こるかもしれない。非民主的な国家にとって,国民に戦争協力させる手段は,厳罰を持ってする統制(動員と思想統制を含む)であるが,戦勝なくしては,統制も行き届かない。

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サイパン島・テニアン島攻略戦:玉砕の真相
GoogleMapマリアナ諸島サイパン島・テニアン島の衛星画像
GoogleMapサイパン島の衛星画像
GoogleMapサイパン島南部アスリート(アイスレー)飛行場の衛星画像
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GoogleMapエニウェトク環礁・マーシャル諸島の衛星画像
GoogleMapトラックTruk諸島の衛星画像
第二次大戦中の米海軍戦死者3万6,950人、戦闘での負傷者3万7,778人、海兵隊戦死者 1万9,733人、戦闘での負傷者 6万8,207人。
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沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献

◆サイパン戦を生き残った 栗原茂夫さんの「 ドキュメント 少年の戦争体験」を「とうよこ沿線」主催者の岩田忠利さんが作成された。サイパンでの生活、米軍上陸前の空襲、逃避行、米兵による連行 ススペ捕虜収容所抑留から帰還後の慰霊まで、体験記が綴られていてる。

1.米軍は,1943年夏までにアリューシャン列島キスカ島、アッツ島を攻略し、航空基地を整備した。米軍は,奪還したアリューシャン列島から、日本本土の千島列島を空襲し、潜水艦による哨戒攻撃も実施した。しかし,米軍の戦果は,払った犠牲の割には少なかった。米国本土を奪還し,領土から敵を追い払うという政略のために大きな犠牲を払った。

1943年5月Attu Battlefield and U.S. Army and Navy Airfields on Attuからみたアッツ島での日米攻防戦の経緯
1942年6月7日,キスカKiskaとアッツAttuの両島を日本軍が占領したが,米軍も占領された固有の領土アリューシャン列島を手放すわけには行かない。

米軍のアッツ攻撃は1943年5月7日の予定であった。 GUARDING THE UNITED STATES AND ITS OUTPOSTS by Stetson Conn,Rose C. Engelman,Byron Fairchild:Clearing the Aleutiansによれば,アッツ攻防戦では,キンケード提督(少将)R. Adm. Thomas C. Kinkaid(北太平洋方面軍North Pacific Force)は,上陸部隊1万5,000人以上を投入し,アッツ島を「解放」した。損失は、死者549人,戦傷者 1,148人,病気・戦闘以外の負傷者2,100人であった。悪天候と低温に起因する負傷が多かった。 ブーツは不完全なものであった。日本軍の損失は,死者2,350人,捕虜29人。


写真(上左):1942年、アリューシャン列島に配備された第36爆撃隊所属のB-17E「フライング・フォートレス」重爆撃機
:B-17E, 36th Bomb Squadron, Aleutians, 1942. Elmendorf Air Force Base;Eleventh Air Force Photograph Gallery引用。対ドイツ爆撃で活躍したB-17だが、太平洋戦線では航続距離の不足のため、日本本土爆撃には参加していない。
写真(上右):1942年、アリューシャン列島に配備されたB-24D「リベレーター」重爆撃機
:B-24D, Being Prepared for flight, Aleutians, 1942. B-24は、太平洋戦線で広く使用されたが、やはり航続距離不足で、日本本土爆撃には参加していない。


1943年5月29日、アッツ守備隊(山崎部隊)残存兵力約150名は最後の突撃を敢行、全滅。最終的に生き残った40名は,手榴弾で自決。

1943年5月30日大本営発表「アッツ島玉砕」
一、アッツ島守備部隊は五月十二日以來極めて困難なる状況下寡兵よく優勢なる敵に對し血戰繼續中の處同二十九日夜敵主力部隊に對し最後の鐵槌を下し皇軍の?髄を發揮せんと決意し全力を擧げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは之に先ち悉く自決せり
我が守備部隊二千數百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり
敵は特殊優秀装備の約二萬にして五月二十八日までに與へたる損害六千を下らず
二、キスカ島はこれを確保しあり(引用終わり)
山崎保代(やすよ)大佐は,軍神となり二階級特進して陸軍中将任ぜられた。

写真(右):1942年6月、アメリカ海軍空母「ロングアイランド」格納庫のグラマンF4F-4「ワイルドキャット」艦上戦闘機;アメリカ海軍のグラマンF4F-4「ワイルドキャット」艦上戦闘機は、それまで固定翼だったF4F-3の主翼を折りたたみ式に改造した空母搭載機で、空母への搭載数が小型化されたことで増加した。F4F-4艦上戦闘機とは異なって、日本海軍の艦上機・艦載機(水上機)は、手動で翼を折りたたむものだった上に、工作機械の不備から金属の品質・規格が甘く、僅かしか小型化できなかった。また、F4F-3までの武装は、主翼にM2ブローニング12.7ミリ機関銃4丁の搭載だったが、F4F-4からは機銃2丁が増設されて、M2ブローニング12.7ミリ機銃を合計6丁搭載した。機体各部への防弾装備の追加されている。

日本の報道からは山崎保代部隊長が最期まで奮戦し,5月29日万歳突撃を敢行,5月30日に玉砕したと報道された。しかし,1943年5月23日、日本軍は山崎保代部隊長に最終決断として降伏することなく「玉砕」するように命じていた。大本営1943年5月23日発電「最後に到らば潔く玉砕し、皇国軍人の精華を発揮するの覚悟あるを望む」
山崎保代部隊長返電「その期至らば、在島将兵全員喜んで一丸となって死地につき、魂魄は永く祖国を守るものと信ず」


写真(右の左):アリューシャン列島シェムヤ島、第404部隊所属のB-24爆撃機1944年ごろ撮影。B-24D;発動機 Pratt & Whitney 1350馬力 R-1830-94 Twin Wasp engines 4基,最高速度: 237 mph,航続距離: 2,800 miles,重量: 空虚重量 37,485 lbs; 最大重量 (Take-off) 65,000 lbs,全幅: 110 ft 高さ 30 ft 1 inch,全長: 74 ft 7 in.

アッツ島を奪還した米軍は,設営部隊である陸軍工兵隊army engineersと海軍シービーズnaval seabeesを増強して,アッツ島に飛行場建設を開始した。戦闘機用滑走路を West Holtz (Addison Valley)とAlexai Pointに完成させた。後者はすぐに爆撃機用滑走路に拡張された。1943年6月10日,アッツ占領から1ヶ月も経過しないで,陸軍第11航空軍は日本本土を空襲した。8機のB25爆撃機がアッツ島を飛び立ち,千島列島の最北端パラムシロ島Paramushiroを攻撃した。これは,ドーリットル空襲(1942/4/18)以来第二回目の本土空襲である。1943年9月11日,B-25爆撃機12機,B-24重爆撃機8機は,アッツからパラムシロを攻撃したが,日本軍の反撃で爆撃機3機を失い,損傷した7機の重爆撃機はシベリアに不時着し乗員はソ連に抑留された。

図(上右):1945年冬、アッツ島に配備されたロッキード社P-38「ライトニング」戦闘機の事故:双発長距離戦闘機で、高速であった。しかし、それでも、気象条件の厳しいアッツ島では事故、故障など戦闘以外の理由で多数の損失を被った。長距離戦闘機として、アリューシャン列島、マリアナ諸島にも配備されたが、日本本土に護衛戦闘機として、侵攻したことはないようだ。The P-38 "Little Butch" had ventured over to Attu in the winter of 1945. During it's visit it skidded off the runway and landed in a ditch. George Villasenor, a Naval Aerial Photographer on Attu at the time, was sent to photograph the incident. Check the Shemya WWII pages for additional photos of "Little Butch." (George Villasenor:George Villasenor, enlisted at the age of 16, was stationed on Attu in 1945 as a Naval Aerial Photographer at the age of 17 (or 18).

 アッツ島の日本軍を壊滅させ,キスカ島を占領した米軍は,これらの基地に航空基地を整備して,日本の千島列島を空襲したが,実際の戦果は小さく,悪天候のために損害も大きかった。基地を整備したが、ここからの日本本土攻撃は困難であった。日米の国境が隣接する北方領土で,国境を維持する,領土を敵に渡さないという政治的意味は大きいが、そのために苦労させられたり,殺害されたりした人はどう思うか。自分の任務,義務を果たしたという達成感があるのか。

2.1944年6月19-20日、マリアナ諸島サイパン島防衛と来寇する米空母任務部隊を撃滅するため、サイパン島西部海域(フィリピン海)まで、米任務部隊を誘い出し、日本の基地航空隊と空母機動部隊とで、邀撃するZ計画が立てられた。この計画に基づいて、あ号作戦の準備が行われたが、その第一の要は、基地航空隊の整備であった。


写真(上左):1944年,サイパン島に配備された日本海軍の陸上急降下爆撃機「銀河」
:米軍第7航空軍第318戦隊ジャック・フラナガンが1944年6月21日(上陸6日目)にアスリート飛行場で鹵獲したネガを現像して入手した写真。Some of these images are from Japanese 35mm undeveloped film found at Aslito airfield on D-Day+6 (June 21, 1944) by Jack Flannagan, 318th Fighter Group, 7th AAF.American Memorial Park引用。写真(上右):サイパン島の日本海軍急降下艦上爆撃機「彗星」:1944年に「銀河」とともに配備された新鋭機だが、日本ではほとんど採用されなかった液冷式エンジンで、機体の電動機構も複雑であったため、故障、不調が頻発した。サイパン島攻防戦では、戦果は挙げられなかったようだ。



写真(右):サイパン島で鹵獲された日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機;1944年6月、上陸した米軍が鹵獲した写真。護衛空母によって,本国に13機輸送され、性能調査がされている。玉砕戦というには,多数の日本軍機が外見をそのままとどめて鹵獲されているのには,驚かされる。機密保持は,旧式機体とわかっていたために,行わなかったのか。キスカ島の特殊潜航艇,沖縄の人間爆弾「桜花」,特攻艇マルレを米軍の手に渡してしまっているが,これと同じく,情報戦の備えがないようにみえる。

日本陸海軍の大本営発表でサイパン島は「玉砕」したといわれる一方で、多数の日本軍機が無傷でアメリカ軍のよって鹵獲されているのには驚かされる。日本軍は、航空兵器の機密保持を,旧式機体とわかっていたために,行わなかったのか。キスカ島の特殊潜航艇,沖縄の人間爆弾「桜花」,特攻艇マルレ・「震洋上」も同様に、ほとんど無傷でアメリカ軍の手に渡してしまっている。日本軍は、精神力や攻撃力を重視した一方で、情報戦への備えが十分ではなかった。

写真(右):サイパン島に配備された日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機;機体の日の丸の記章は、本来は白色の縁取りがなされていたが、前線では目立ちすぎるために、白色を緑あるいは黒色のペンキで塗りつぶし、迷彩効果の向上を図っている。1944年6月、上陸した米軍が鹵獲した写真。護衛空母によって,本国に持ち帰られた機体も多い。

写真(右):グアム島からサイパン島に飛来し,鹵獲された零式艦上戦闘機
The airfield was recaptured by the 27th Infantry Division on the night on June 16-17, 1944. A6M Zero Fighters were captured intact at the airfield after the American attack. During the recapture, a Zero actually landed at Aslito from Guam. The pilot was unaware that the field had fallen to the Americans. As it landed it was fired upon and it crashed at the end of the strip. The pilot survived and the plane was captured.


アメリカ軍は、上陸に先立ってグアム島に対して艦砲射撃と空爆を繰り返した。上陸前の1944年7月8日から20日まで、艦砲射撃では戦艦の16インチ砲836発、14インチ砲5,422発、戦艦・巡洋艦・駆逐艦の8インチ砲3,862発、6インチ砲2,430発、5インチ砲1万6,214発、合計2万8,764発を撃ち込んだ。グアム島空襲には、空母10隻以上のい艦上機が参加し、7月18日から20日までに延べ4,283機が1,300トンの爆弾を投下した。

1944年7月20日、アメリカ軍はグアム島に上陸,直ぐに日本軍の飛行場を占領した。また、アメリカ軍のグアム上陸直前の1944年7月17日、グアム島を発進した日本軍戦闘機が,サイパン島に着陸し、アメリカ軍に鹵獲された。これは、戦闘機のエンジン不調など故障しての不時着,サイパン島とグアム島あるいはロタ島の飛行場を錯覚した不時着,さらには戦闘機を使っての投降とも考えられる。


写真(右):日本海軍航空隊の愛知航空機E13A1零式水上偵察機11型;偵察・哨戒機として活躍し、米軍ではコード名「Jake」と呼ばれた。レーダーや通信機器の不備・不調は避けられなかったろうが、日本機の中では、信頼性の高い機体だった。しかし、米海軍の空母任務部隊の航空兵力を前に、基地航空隊は壊滅してしまう。米軍第7航空軍第318戦隊ジャック・フラナガンJack Flannaganが1944年6月21日(上陸6日目)にアスリート飛行場で鹵獲したネガを現像して入手した写真。American Memorial Park引用。

1914年10月、第一次世界大戦に連合国として参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領した。1920年には国際連盟の委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点で,人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)2万9348人、チャモロ人、カナカ人3926人、外国人11人という。

日本陸軍は1943年2月25日,サイパン島に司令部を置く第三十一軍(軍司令官:小畑秀良中将)を編成し,これを海軍の中部太平洋方面艦隊司令部の指揮下に置いた。

サイパン島,テニアン島,グアム島,ロタ島,ヤップ諸島,パラオ諸島などには,基地航空隊が配備され,洋上で来寇する米空母任務部隊を迎撃する計画を立てた。そのために,第一航空艦隊が基地航空隊として編成された。定数は,1600機以上であったが,これは机上の計算であり,実際は500機程度であった。

第五基地航空部隊 (第一航空艦隊):司令長官 角田覚治海軍中将,参謀長 三輪義勇大佐
第六一航空戦隊 9個航空隊 定数696機 :第121航空隊(二式艦偵、彩雲)「雉」,第261航空隊(零戦)「虎」,第263航空隊(零戦)「豹」,第521航空隊(銀河)「鵬」,第523航空隊(彗星)「鷹」,第761航空隊(一式陸攻)「龍」,第1021航空隊「鳩」
このほか、第二二航空戦隊(定数552機)、第二六航空戦隊(定数240機)、第二三航空戦隊 (定数240機)、さらに、付属部隊 輸送機,水偵など60機が配備予定であったが、実際に配備されたのは、ごく少数であった。日本陸海軍とも、名目的な員数はあるが、それは過大な計画目標値であって、実際に配備された兵力は遥かに少ない。


写真(上左):テニアン島「ノースフィールド基地」(北飛行場)日本軍司令部(米軍も引き続き使用)Provost Marshall office used by Japs now used as Provost Marshall office.1階はコンクリート製で、2階、3階は木製のタワーとなっている。写真は444th Bomb Group;The Official 444th Bombardment Group Association引用。The Tinian Landing Beaches, Ushi Point Field, and North Fields, Tinian Islandにも、同じ指揮所見張り所の写真がある(1945年8月11日撮影)。B-29 bomber in front of the former Japanese air operations building at North Field, August 11, 1945. Photo courtesy of Smithsonian Institution and the U.S. Air Force, from National Historic Landmark collection.写真(上右):テニアン島で鹵獲された日本海軍艦上偵察機「彩雲」:日本海軍の新鋭高速偵察機で、敵地への強行偵察にも使用された。1944年9月に艦上偵察機「彩雲」(C6N1)として制式されるが、テニアン島野格納庫に残っているところを見ると、1944年6月初旬までには、テニアン島に実戦配備されていたようだ。それ以前にも、トラック諸島からメジュロ環礁を偵察、米空母任務部隊の不在、出撃を確認。全長:11.15m 全幅:12.50m 重量:2.908Kg 発動機:中島「誉」21型(出力1,990Hp) 最大速度:609Km/時 航続距離:5,308km(増槽装備時) 武装:7.92mm機銃×1。写真は。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-Post Invasion 引用。
 


図(右):日本海軍航空隊の零式輸送機;搭乗員(パイロット、航法士、機関士など)5名。ダグラスDC-3の製造権を購入して量産した。総生産500機。使いやすい輸送機であったが、日本軍では高級将校の赴任などに使用された。航空輸送を特別立派なものと認識していた上に、機数も少なかった。そこで、燃料、陸戦兵器の輸送にはほとんど使用されず、医薬品や緊急物資の空輸も十分にはできなかった。しかし、航空機用エンジン輸送のために改造された零式荷物輸送機も製造された。American Memorial Park引用。

以上、角田部隊には500機程度配備されたように記す資料が多い。けれども、500機というのは、本土の残留・訓練中の部隊、配備途中の部隊、故障修理中の機体も全て合わせた最大限の値であろう。あるいは、配備した期間を1944年初頭から末期までの累計とした値で,一時点で500機もの海軍機が揃ったことは無かったはずだ。なぜなら,最優先配備をした第一機動部隊ですら、未熟な搭乗員も含め、やっと350機をそろえたただけだったのだから。

写真(右):テニアン島でアメリカ軍に鹵獲されたと思われる日本海軍ゼロ戦52型:アメリカ本土で飛行試験中、1944-45年撮影。
English: PictionID:6499028 - Catalog:01_00085671 - Title:Mitsubishi, A6M, Zero - Filename:01_00085671.TIF - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Seversky, Republic and P-47"----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.----SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Date 21 January 2015, 15:02:45
写真は、Wikimedia Commons, Categories: Photographs by SDASM Archives File:Wagner Book (16335789412).jpg引用。


あ号作戦では,小沢治三郎中将の第一機動艦隊と角田覚治中将の第一航空艦隊という海陸を基地とする海軍航空兵力で,マリアナ諸島に来寇する米空母任務部隊迎撃する計画である。角田部隊はフィリピン南部ミンダナオ島,インドネシアのハルマヘラ島,パラオ諸島,マリアナ諸島,ヤップ諸島,トラック諸島などに展開して,米任務部隊を陸上航空基地から索敵攻撃する。小沢中将の第一機動部隊は、日本機の航続距離の長さを活かして,敵艦載機の攻撃圏外から先制攻撃をかけるアウトレンジ戦法を採用した。

写真(右):サイパン島で鹵獲された日本海軍航空隊の零式艦上戦闘機;1944年6月、上陸した米軍が鹵獲した写真。護衛空母によって,米本土に13機が輸送、調査された。「玉砕戦」でも,多数の日本軍兵器がほぼ無傷で鹵獲されている。キスカ島の特殊潜航艇,沖縄の人間爆弾「桜花」,特攻艇マルレも米軍の手に渡しているので,情報戦の備えがないようにみえる。

サイパン島,テニアン島,グアム島,ロタ島,ヤップ諸島,パラオ諸島には,第五基地航空部隊(第一航空艦隊)(角田覚治海軍中将)として500〜600機配備。

1944年初めのZ計画(あ号作戦)では,小沢治三郎中将の第一機動艦隊と角田覚治中将の第一航空艦隊という海陸を基地とする海軍航空兵力で,マリアナ諸島に来寇する米空母任務部隊迎撃する計画である。角田部隊はフィリピン南部ミンダナオ島,インドネシアのハルマヘラ島,パラオ諸島,マリアナ諸島,ヤップ諸島,トラック諸島などに展開して,米任務部隊を陸上航空基地から索敵攻撃する。小沢中将の第一機動部隊は、日本機の航続距離の長さを活かして,敵艦載機の攻撃圏外から先制攻撃をかけるアウトレンジ戦法を採用した。


写真(上左):1944年,テニアン島日本海軍航空隊;指揮所の見張り所における搭乗員
:1944年7月に米軍が鹵獲した写真。The pictures found on this page were taken by an unknown Japanese Airman or Soldier, sometime prior to the invasion of the island by the U. S. Forces.写真(上右):テニアン島の日本海軍夜間戦闘機「月光」搭乗員(右後方に数機の機影):同じパイロットが、「月光」の前で撮影した写真も残っている。「月光」は日本海軍の唯一の双発戦闘機で、夜間戦闘以外に偵察,哨戒に使用された。テニアン島、サイパン島には、米陸軍航空隊の重爆撃機は、来襲せず、小型艦載機の空襲が頻繁にあったから、鈍重な双発戦闘機の活躍の場は少なかったであろう。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-Post Invasion 引用。


写真(右):テニアン島のB-29発着飛行場「ノースフィールド基地」:1944-45年撮影。平坦なテニアン島では、面積の半分が航空基地となるほどであった。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-US Invasion 引用。

マリアナ諸島テニアン島などでは、対米戦争の際に、艦隊決戦が起こる戦場として想定されていたために、航空機の戦術的価値を重視した日本海軍は、マリアナ諸島に飛行場を建設した。日本軍は、1939年、対米艦隊決戦の漸減作戦として、航空機による艦船攻撃を企図した。そこで、テニアン島の北部に大規模な航空基地の建設を計画した。飛行場建設のためには、労務者として日本から約1000人の受刑者が送られた。そして、当時南洋最大といわれたハゴイ飛行場を完成させた。敵艦隊を偵察し、上空警戒と対潜水艦哨戒を行うために、そして、敵艦隊の航空攻撃を実施するために、1年10ヵ月かけて飛行場を建設したのである。

テニアン島では、ほかにも飛行場が造られた。1944年には、島民や子供たちも作業に動員された。マリアナ諸島は日本本土を守るための「海の生命線」として位置付けられた。絶対国防圏が定められ、陸軍守備隊も配備された。国民学校初等科三年になると、大阪府茨木市の主婦工藤恵美子さん(71)も旧海軍の飛行場づくりにかり出された。小さな手で草を抜く。土の滑走路にしつこく根を張る、熱帯の草。朝に抜いても夕方には生えてくる。暑さに負け、倒れたこともある。必死だった。「この飛行場ができれば日本は勝つんだ」。そう信じていたから。(中国新聞2006悲しみの島 テニアン 土の滑走路)引用)


写真(上左):1944年,サイパン島「アスリート飛行場」(アメリカ軍命名、1944年7月末からは「アイスレー飛行場」と改名)の日本海軍の零式艦上戦闘機
:損傷して使用不能の機体もあり、囮(デコイ)として利用したのかもしれない。2004/07/01 by David_Aiken引用。写真(上右):日本軍の使用したサイパン島アスリート飛行場の写真偵察に映し出された日本海軍零式戦闘機:saipan-aerial_03.bmp 投稿者 : David_Aiken、日付 : 2004/07/01引用。これらの機体のうち零戦13機と九七式艦上攻撃機(Kate)B5N2の1機が、1944年7月、アメリカ海軍護衛空母「コパイ」Copahee CVE-12によってサイパン島ガラパン港からアメリカ本土に13機運搬されている。このような基地航空隊は、日本海軍の空母機動部隊と共同して有効な邀撃をするはずだった。しかし、米空母任務部隊によって、各個撃破され、空母艦隊決戦「マリアナ沖海戦」の時には無力化されていた。


しかし、来寇する米艦隊を迎撃すべき基地航空隊は、空母艦載戦闘機、敵艦艇の対空砲火により、戦果をほとんどあげることなく、壊滅してしまう。

写真(右)1941年6月末、太平洋、アメリカ海軍航空母艦「エンタープライズ」USS Enterprise (CV-6) ;アメリカ海軍は,当初、空母を1隻ずつ分離して運用した。これに対して、日本海軍は、複数の空母を中核とした機動部隊を編成して、集中的に運用した。
Description: USS Enterprise (CV-6) Operating in the Pacific, circa late June 1941. She is turning into the wind to recover aircraft. Note her natural wood flight deck stain and dark Measure One camouflage paint scheme. The flight deck was stained blue in July 1941, during camouflage experiments that gave her a unique deck stripe pattern. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14254 USS Enterprise (CV-6)引用。


1914年10月、第一次世界大戦に連合国として参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領した。1920年には国際連盟の委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点で,人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)2万9348人、チャモロ人、カナカ人3926人、外国人11人という。

日本陸軍は1943年2月25日,サイパン島に司令部を置く第三十一軍(軍司令官:小畑秀良中将)を編成し,これを海軍の中部太平洋方面艦隊司令部の指揮下に置いた。

写真(右):空母艦上のグラマンF6F戦闘機「ヘルキャット」:大型空母は,特攻機迎撃用に搭載100機の半数は戦闘機だった。品質のよい材料,的確な工作技術のため,主翼の中ほどから折りたためる。米空母は,日本空母よりも1.5倍も艦載機を搭載できる。1943年11月23日マーシャル諸島攻撃中の「レキシントン」艦上で撮影。NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archivet引用。

1944年2月22日、角田部隊主力は,テニアン島に進出、同夜と翌日に米機動部隊へ攻撃を仕掛けた。しかし、米軍のサイパン・テニアン大空襲で94機を失ったという。1944年6月、角田部隊の兵力は300機程度であったようだ。しかし,米軍がニューギニア島西端のピアク島に上陸すると,海軍軍令部,連合艦隊司令長官豊田副武大将は,角田部隊から航空兵力をビアク島に転進させるように命令する。遠距離移動を伴う兵力の逐次投入は,基地の整備不良,搭乗員の練度低下,機材の故障などのために,大損害を被ったようだ。

写真(右):米空母「エセックス」の艦載機搭乗員;日本機を撃墜し、サイパン島の対地支援攻撃を行い、対潜水艦哨戒を行った。USS Essex CV-9 During WWII:USS Essex Association 引用。

米任務部隊がサイパン島を攻撃、米軍が上陸したとき,もはやサイパン島,テニアン島,グアム島,ロタ島など近隣の島々に展開していた第一航空艦隊は,壊滅的な状態だったようだ。

 1944年5月1日、米任務部隊はトラック諸島を空襲し,日本側は100機を損失したという。しかし,5月27日から6月9日まで,米軍基地のあるアドミラルティ諸島,マーシャル諸島メジュロ環礁などを,トラック諸島から発進した艦上偵察機「彩雲」によって長躯偵察した結果,米任務部隊の進出が確認できた。そこで,6月10日,臨戦態勢命令が下された。

1944年6月11日、哨戒機が米任務部隊を発見、しかし,その直後,マリアナ諸島は米艦載機の空襲を受け、基地航空兵力は大損害を被ったようだ。(→あ号作戦引用)

写真(右):1944年頃,テニアン島を離陸する日本海軍の三菱一式陸上攻撃機;帽振れで見送るのが3人だけなので、攻撃に発進するのではなく、哨戒・連絡飛行、油槽任務と思われる。1941年は、皇紀2601年で、末尾を取って「一式」と命名。最高速度:450km/h、航続距離: 2,176km(爆撃)/5,882km(偵察)、兵装:250kg爆弾4発あるいは500kg/800kg爆弾1発あるいは魚雷1本。The pictures found on this page were taken by an unknown Japanese Airman or Soldier, sometime prior to the invasion of the island by the U. S. Forces. Raymond L Martin :Timian Island;The Japanese引用。

1944年6月15日、米軍のサイパン島上陸を迎えるが,角田部隊は残存100機程度で,15日と18日に攻撃を実施するも,31機を失ったという。

いずれにせよ,大規模な基地航空隊を編成・配備したものの,攻撃の実態も,戦果もほとんどわかっていない。戦闘記録とともに,司令部も部隊も壊滅した。

中部太平洋の島々を不沈空母に見立てて、大いに期待されていた角田覚治海軍中将の第五基地航空部隊 (第一航空艦隊)であるが、戦果をほとんど挙げられないままに、各個撃破されてしまった。これは、日本航空機の性能の低さ、レーダーや無線通信装置などの西方の低さと運用の不備、熟練搭乗員の不足、燃料不足など様々な要因があるが、日本海軍の計画が、事前に米軍に漏れていたという情報管理の失策も影響している。

3.日本軍は,侵攻してくる米空母任務部隊を邀撃する計画を立てており,それをZ作戦計画として準備した。しかし、米軍は、1943年8月のギルバート諸島タラワ環礁攻略を手始めに、空母任務部隊を使って,中部太平洋方面の要衝を攻撃し、陥落させてゆく。マーシャル諸島のクエジェリン環礁、エニウェトク環礁、トラック諸島、パラオ諸島など、日本軍の海軍艦艇と陸上航空兵力のあった航空基地が、占領されあるいは、壊滅、無力化された。

写真(左):1944年2月、トラック諸島を空襲した空母「イントレピッド」Intrepid (CV-11);1944年11月、 フィリピン海を作戦行動中に撮影。F6F Hellcat戦闘機が、艦橋前の飛行甲板外側に係留されている。 In this picture Intrepid is camouflaged to Measure 32, Design 3A. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command(Catalog #: NH 97468 )引用。

米軍は、1943年11月にはギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島、マキン環礁を占領し、1944年2月には太平洋の日本海軍の根拠地トラック諸島を大規模空襲した。1944年1-2月アメリカ軍はマーシャル諸島クェゼリン環礁 Kwajalein AtollのロイRoi島、ナムールNamur島へ侵攻し、占領し、次の目標をエニウェトク環礁とした。

1944年2月4日、トラック諸島に、米軍軍偵察機が出現したことを知った日本海軍は,トラック諸島攻撃の危機を察知し、2月10日、連合艦隊の主力艦艇をパラオ環礁へ退避させた。しかし、トラック諸島の輸送船の退避は後回しにしておいる。

米海軍は、1944年2月12日マーシャル諸島メジュロ環礁を出撃し、エニウェトク環礁攻略に向かった。そこで、レイモンド・スプルーアンス海軍中将率いる第58空母任務部隊は、正規空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」「イントレピッド」「エセックス」「バンカーヒル」、高速軽空母「ベローウッド」「キャボット」「カウペンス」「モンテレー」、戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」など6隻の大艦隊で、上陸支援もかねて、日本海軍の根拠地をたたくべく、トラック諸島攻撃に向かった。

高速軽空母とは、1万トン級の小型空母であるが,速力31ノットを発揮する。護衛空母は、1万トンであるが、速力は20ノット未満で、正規空母と行動を共にすることはできない。船団護衛や陸上機輸送にも使用されたが、護衛空母だけで、艦隊・輸送船団の上空掩護や対潜水艦攻撃、対地上支援攻撃なども行っている。

写真(左):1944年2月、トラック諸島を空襲して空母「エンタープライズ」に着艦したF6F「ヘルキャット」戦闘機;エンジンに連動しているので、自動で主翼を後方に折りたたむことができる。

1944年2月17日と18日、第58任務部隊はトラック諸島を空襲した。Night Strikes on Trukによれば、1944/2/17/0410, 空母「エンタープライズ」Enterpriseからは、カタパルトによって12機のTBF-1C雷撃機が、発進した。日本の艦船は、大きな島の杉近くに停泊して,レーダーに確認しにくくしていた。パイロットは、目標到達時間の30分前から目標を探した。各機は、500ポンド爆弾4発を搭載し、それには4秒間の遅滞信管がついていた。爆弾投下高度は、250フィートである。48発の500ポンド爆弾のうち13発が命中し、タンカー2隻、貨物船6隻を撃沈し, その他の船舶6隻に損傷を与えた。初めての夜間攻撃は成功した。

翌2月17日も、米軍機の空襲が続き、軽巡洋艦「阿賀野」「香取」、駆逐艦「舞風」「野分」や陸月型二等駆逐艦も撃沈された。そして、特設艦・輸送船も「夕映丸」3129トン、「国丸」10020トン、「花川丸」4739トン、「麗洋丸」12123トン、「天城山丸」7620トン,「山鬼山丸」(さんきさん)4776トン,「りおでじゃねいろ丸」9629トンなど多数が撃沈された。後方補給、輸送船,海上交通護衛をおろそかにする連合艦隊第一主義の誤りの犠牲である。

写真(左):1944年2月、トラック諸島で撃沈された「りおでじゃねいろ丸」;排水量9629トンの大型客船で起工:1929.5.16 進水:1929.11.19 竣工:1930.5.15。1944.2.17トラック諸島冬島(現ウマン島)沖2,500mで撃沈。大阪商船の南米移民船であったが、海軍に徴用。第五潜水戦隊第28〜第30潜水隊の6隻のイ号潜水艦の特設潜水艦母艦(第五潜水戦隊旗艦)となる。大阪商船の南米航路就航船舶 - 昭和初期によれば、1924年から大阪商船は、西航南米線に「ぶゑのすあいれす型」貨客船2隻を新造投入、大型ディーゼル船5隻により年11航海した。1930年末の寄港地は、往航は四日市/横濱/神戸/香港/サイゴン/シンガポール/コロンボ/ダーバン/ポートエリザベス/ケープタウン/リオデジャネイロ/サントス/モンテビデオ/ブエノスアイレス、復航はサントス/リオデジャネイロ/ニューオーリンズ/ガルベストン/パナマ/ロサンゼルス/横濱。1940年に新造船「あるぜんちな丸型」2隻が南アフリカ経由世界一周航路に就航。「あるぜんちな丸」は1943年11月特設空母「海鷹」に改装。写真は,Jack Connick Creative Services, Inc引用。

トラック諸島(Truk Islands)は、現在、ミクロネシア連邦チューク環礁(Chuuk Atoll)と名づけられている。海域は、海底博物館として国から保護され、ダイビングするには、1年間有効の許可証を購入する必要がある。

写真(左):ミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)に沈む日本輸送船「第6雲海丸」とダイバー;英国W.Gray & Co, W.Harlepoolで、1905年竣工。総トン数:3220t、「ウマン島の北に沈む古いタイプの船で、水深44mの砂地の海底に沈んでいる。本船も最近発見された船で比較的傷んでいない様子が伺える。船首には大砲が1門、船倉内部には防毒マスクや靴などが山積みとなっている。」Chuuk-Wreck引用。写真(右):トラック諸島に沈む日本輸送船「第6雲海丸」艦首にある6インチ砲;旧式の15.2センチを対潜水艦防御用に装備したので、対空砲としては使用できない。50口径四一式/三年式十五糎砲か。Chuuk-Wreck引用。

日本の観光客のwebにつぎの記事があった。
「リゾート内にはダイビング・ショップがあり、専用桟橋からダイビング・ボートが出る。ダイビングはすべてボートで、ランチを持って行き、お昼は無人島に上陸して食べるので、朝出ると帰りは午後だ。ラグーン内は、比較的天候の影響を受けないようなので、よほどのことがない限り海は穏やかだろう。
ただ、個人的には沈船ダイビングは、あまり好きではないので、チャンネルや、ラグーンの外側の方が、はるかにキレイでカラフルだ。ただし、外人さん(日本人以外)はどうしてあんなに沈船とか好きなのだろう。ガイドも一生懸命ホネやら遺品やら見せようとするが、趣味思考がまるで合わなかった。リクエストしても、外人さんがいっしょだと、どうしても沈船ダイビングになってしまう。」(トラック諸島ブルーラグーン引用)


写真(左):ミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)に沈む日本輸送船「第6雲海丸」(1905年建造、排水量7200t)船内の調理道具;Unkai Maru 305’. Dive 1, Log #281. Built 1905, lies upright decks at 100’, older freighter, fairly intact. We descend amidships and move towards the bow. Artillery casings and gas masks litter the deck. I take photos of the 6” deck gun and plaque (BOC, British Ordinance Corporation, 1897, must of been captured).写真(左):1トラック諸島に沈む日本輸送船「さんふらんしすこ丸」甲板上の九五式軽戦車;Jack Connick Creative Services, Inc引用。


写真(左):ミクロネシア連邦チューク諸島(トラック諸島)に沈む特設給油船「神国丸」遺物のガラス瓶;川崎重工神戸1938年10月25日起工、1940年2月28日竣工。総トン数:10020t.「トラックにおいてもはや観光ダイブ・スポットとなり、多くのダイバーが訪れる本船はブリッジ付近で水深12m、甲板で20m前後である。船体は多くの水中動植物によって飾られ、ナイト・ダイブの名所としても有名である。以前はこの船で遺骨を見せ物にしたガイディングが行われ、遺骨が観光資源となっていたことが報道され厚生省が遺骨収集を行うきっかけになったと聞き及んでいる。現在は遺骨こそ見掛けないが、甲板に散乱する機銃弾や朽ち果てた小型通信機、船室内部には食器類が散らばっていて当時を偲ばせる思いがする。 」Chuuk-Wreck引用。写真(右):トラック諸島に沈む日本海軍特設輸送艦「愛国丸」乗員の遺骨;デュプロン島の東沖に沈むこの船はブリッジから前方が無い。大量の火薬類を積載していたのであろうか、米軍の攻撃によって一瞬にして大爆発。当初、特設巡洋艦から特設輸送船に改装。三井造船玉造船所1938年12月29日起工、1941年8月30日竣工。総トン数:10438t。Chuuk-Wreck引用。


真珠湾で日本海軍航空隊によって撃沈された戦艦「アリゾナ」は、ナショナル・メモリアルであり、ダイビングスポットではない。悪の枢軸、敵であれば,観光資源としてもよいのか。それとも,「アリゾナ・メモリアム」も、暗黙のうちに観光資源とみなしうるのか。

現在、トラック諸島の日本沈没艦船は、ダイバー観光で有名で、これは遺骨や戦死者に対する冒涜であるとする意見もある。たしかに、戦艦「アリゾナ」メモリアルが観光スポットであるというには抵抗がある。しかし、トラック諸島は、日本領ではなく、ミクロネシア連邦チューク諸島である。「住民の同意を得ることなく、日本軍が進駐し、被害を受けた」「沈没艦船の引き揚げ・保存に、日本政府は、今も昔も誠意を持って取り組んではいない」と反論されてしまう(遺骨収集には熱意を持って取り組んでいるが)。公開しつつ、観光ダイブで得た収益を、保存に充当する措置が望ましいと思われる。

写真(右)1944年4月4日,ブーゲンビル島の米軍第93師団所属の下士官が小銃を分解整備中:太平洋方面の日本軍はソロモン諸島,ニューギニア島,スンダ諸島などに孤立し補給を受けられなかった。連合軍は,このような孤立した日本軍に対して掃討を続け,日本軍は,制空権・制海権を失い,反撃できなかった。そこで,アジア大陸において,地上戦力を中核とした積極的な攻撃が企図された。これが,インド・ビルマのインパール作戦と,中国の大陸打通作戦である。"Sgt. John C. Clark...and S/Sgt. Ford M. Shaw...(left to right) clean their rifles in bivouac area alongside the East West Trail, Bougainville. They are members of Co. E, 25th Combat Team, 93rd Division...": 04/04/1944 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

サムエル・モリソン(Samuel Eliot Morison)『第二次大戦の海軍作戦史』History of US Naval Operations in World War II, Volume VIIによれば、当時トラック諸島には365機の日本機があったが、第一日目(2/16)の攻撃の後には僅か100機しか稼動状態に無かった。Joel Shepherd:USS Enterprise CV-6よれば、日本機341機があったが,250-275機が破壊された。そして、 日本の艦船を総トン数で22万トンも撃沈した。これには、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、潜水艦母艦など特設艦7隻、商船24隻、その他4隻が含まれる。米軍の損害は、航空機25機、魚雷を受けた正規空母「イントレピッド」(USS Intrepid (CV-11))の中破、乗員11名死亡である。

写真(左):トラック諸島に残されている日本軍のコンクリート製司令部;1942年8月28日、連合艦隊司令部、トッラク島に進出。現在、トラック諸島の日本沈没艦船は、ダイバー観光で有名であるが、陸上施設は人気が無いため、手入れされていない。Jack Connick Creative Services, Inc引用。

真珠湾攻撃を受けた後、米海軍太平洋方面司令長官のキンメル提督は、罷免され、ニミッツ提督に取って代わられた。しかし、真珠湾攻撃と同島の損害を受けたトラック諸島空襲の責任は、誰が取ったのであろうか。

階級序列と,陸軍大学や海軍大学の卒業序列が,昇進や就任の第一条件だった日本軍では、軍高官の責任追及がされたことが無い。トッラク諸島奇襲は、索敵の手抜かりが原因とも言え,さらに、艦船の退避はさせていたが、輸送船は放置したままで、失策を犯した。失敗続きだったとはいえ、日本海軍上層部の連合艦隊司令長官古賀峯一大将、参謀長草鹿龍之介中将、軍令部で作戦を練っていた源田實中佐など誰一人として、失敗の責任をとらされていない。米軍にあれば、即刻、罷免/交代される高級将校たちは、賞罰の厳格化よりも、和の統帥=無責任体制、を選択してしまった。Z作戦計画の情報漏洩という海軍乙事件についても、無責任体制の問題が深刻化した。

写真(右):1944年2月17日、トッラク環礁で日本機の夜間雷撃で損傷した空母「イントレピッド」Intrepid (CV-11);水線下15フィートの所を損傷。The night of 17 February 1944 an aerial torpedo struck Intrepid's starboard quarter, 15 feet below her waterline, flooding several compartments and jamming her rudder hard to port. By racing her port screw and idling her starboard engine, Captain Thomas L. Sprague kept her on course until two days later strong winds swung her back and forth and tended to weathercock her with her bow pointed toward Tokyo. Sprague later confessed: "Right then I wasn't interested in going in that direction." At this point the crew fashioned a jury-rig sail of hatch covers and scrap canvas which swung Intrepid about and held her on course. Decorated by her crazy-quilt sail, the carrier stood into Pearl Harbor 24 February 1944. National Archives (photo # 80-G-227134)引用。

1944年3月、米軍はフィリピンに近いパラオ諸島ペリリゥー島なども大規模空襲した。これらの、島々には、航空基地が整備されていたが,地上の航空機ともども、基地は破壊された。また、重油タンク、港湾施設など海軍基地でもあったが、その機能も喪失した。在泊艦艇だけでなく、輸送任務途上の輸送船、航空基地施設は甚大な被害を受けた。

1941年12月7日(日本時間8日)、日本海軍航空隊の実施したハワイ真珠湾攻撃では,陸上にあった関連施設への攻撃は、飛行場を除き、実施ていない。第一撃を、停泊中の軍艦に仕掛けた後、重油タンク、造船施設、陸上部隊施設などは全く攻撃しないまま、早急に撤退した。これは、反撃を受ける危険を冒したくなかったからであるが、米海軍は、日本機の邀撃の危険をおかして、輸送船撃沈、基地機能喪失に力を注いだ。その結果、日本の雷撃木の反撃を受けて、正規空母「イントレピッド」の右舷艦尾付近に魚雷が命中、乗員11名が死亡している。しかし、米軍はこの程度の損害を意に介さず、徹底的に攻撃した。危険な海域に2日間もとどまって、トラック諸島を2回大規模に空襲したのである。

1944年4月、ニューギニア島北岸の要衝ホーランジア、アイタペに上陸し、その日本軍守備隊を殲滅すると共に,海軍と基地航空隊の基地として、整備した。

写真(左):1944年1月27日、クェジェリン環礁を空襲する空母「イントレピッド」Intrepid (CV-11)格納庫のTBM「アベンジャー」TBM "Avenger";搭載する合計500ポンド通常爆弾には、魚雷整備員フランコの書いた「ホン・ヒロヒト、宮城、東京」の落書きが記されている。合計4発、2000ポンドの爆弾を搭載した。日本機の2倍以上の搭載能力があったが、これほどの重量の艦載機が、空母から発艦できたのは、大型の蒸気カタパルト(航空機加速投射装置)が実用化されていたからである。日本海軍の空母には、カタパルトは無かった。Note inscriptions on the bomb, from Torpedoman 3rd Class R.A. Franco, addressed to "Hon. Hirohito, Imperial Palace, Tokyo". Also note flame reducer on the plane's exhaust port, and landing gear details. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives (photo # 80-G-227134)引用。

このように、米軍が中部太平洋を侵攻してくる中、マリアナ諸島サイパン島、グアム島、テニアン島が、次の米軍攻略目標であることは,容易に想像できた。日本軍は,すでにB-29「スーパーフォートレス」爆撃機が整備されていることを探知しており、中国大陸からだけでなく、マリアナ諸島を米軍が占領し、そこから東京、宮城が日常的に爆撃されることを大いに危惧していた。

日本海軍の連合艦隊は、北千島、マリアナ諸島、ニューギニア(南東)方面など、米海軍の来寇拠点を予期し,それそれの地点に応じた邀撃計画を策定していた。これが、帝国海軍のZ作戦計画である。Z作戦計画の中核は、マリアナ諸島あるいはパラオ諸島に来寇するであろう米海軍空母任務部隊に対する、基地航空部隊と空母機動部隊による邀撃作戦である。

1944年5月から6月にマリアナ諸島、あるいはパラウ諸島へ米軍が大挙侵攻すると予期したが、燃料供給地は、スマトラ島パレンバンなど、遠方であり,本国への海上輸送にも配慮すれば,、輸送船舶は決定的に不足していた。そこで、航続距離に余裕のある海面、すなわちフィリピン諸島ミンダナオ島とパラオ環礁の中間、フィリピン海での空母艦隊決戦を想定して計画を準備した。サイパン島、テニアン島の基地航空兵力と空母機動部隊とによって、米空母任務部隊を邀撃する「あ号作戦」が、Z作戦計画のマリアナ諸島方面への対策案そのままに、準備されたのである。

写真(右):1943年11月,タラワ諸島に隣接するマキン環礁を攻略した米軍:ラグーンの二式大型飛行艇は修理中だったが,米軍上陸時には機銃陣地として使われた。U.S. Army troops pause for a look at a Japanese seaplane during the battle of Makin. The plane was under repair in the lagoon when the invasion started. The Japanese used it as a machine gun nest until American fliers took care of it.: 11/1943アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

4.日本軍は,侵攻してくる米空母任務部隊を邀撃する計画を立てており,それをZ作戦計画として準備した。しかし、フィリピン人ゲリラ部隊は、1944年3月末、連合艦隊司令部の将官など主要メンバーを捕虜にし、そこから機密情報を得た(海軍乙事件)。そして、最終的には、米軍の手に、連合艦隊司令部の「Z作戦計画」が渡ることになった。1944年6月に発動されることになるフィリピン海での「あ号作戦」は、米軍に察知されていた。

1944年3月30日、米空母任務部隊は、トラック諸島から移転していた連合艦隊司令部と海軍艦艇を、パラオ諸島に奇襲攻撃する。パラオ諸島の日本海軍機は、壊滅させられ,艦艇12隻ほかを損傷してしまう。そこで、連合艦隊司令部は、米軍上陸による殲滅を避けるために、予定を繰り上げて、フィリピン群島ミンダナオ島ダバオ基地に移転することを決める。

連合艦隊司令長官は、米軍の攻撃を前にして、怖気づいて脱出したのではなく、事前に計画されていた司令部の移転を、米軍の攻撃を前に、早めただけである。

写真(右):1944年3月31日、パラオ諸島から連合艦隊司令部を空輸した二式大型飛行艇;22型 H8k3; 全幅38.328m 全長28.12m、自重18,570kg、発動機 三菱火星22型 1850馬力4基、最高速度 470km/h 航続距離 偵察時 7153km(一二型) 8223km(二二型)。二式大艇は開戦直後の1942年3月、大航続力を生かして3機が真珠湾を爆撃(K作戦)。2004年4月末からここ鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館で保管されている。

古賀峰一大将は、前年山本五十六大将がアメリカ陸軍航空隊の襲撃で戦死した後を継いで、1943年4月に連合艦隊司令長官に就任しており、アメリカ機動部隊のパラオ空襲を受けて、怖気づいて脱出したわけではない。しかし、1944年3月31日、事前に計画されていた司令部の移転を、米軍の攻撃を前に、あわてて実行したために、悲劇を生んだ。連合艦隊司令長官古賀峰一大将の乗機(一番機)の乗員の全員が死亡、参謀長福留繁中将の乗機(二番機)の乗員救出は、1年前のブーゲンビル島における連合艦隊司令長官山本五十六提督と参謀長宇垣纏中将の「海軍甲事件」の時と全く同じである。

写真(右):航続力を生かして、偵察・爆撃に活躍した川西二式大型飛行艇H8K;1942年3月2日、二式大艇2機はK作戦として、マーシャル群島ウオッゼ島に進出、フレンチフリゲート礁に進出した潜水艦伊15、伊19から3月4日に燃料補給を受けハワイへ向かった。そして、ハワイのオアフ島に各機250キロ爆弾4発を投下、無事帰還した。5月30日、第二次K作戦が開始されたが、フレンチフリゲート礁はアメリカ艦艇の警戒下にあったため、第二次K作戦は中止された。戦後、米軍に鹵獲されていた二式大艇が返還され、1980年代から東京湾の「船の科学館」に展示された。その後2004年4月末からここ鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され保管・展示されている。

出発後、激しい風雨に見舞われ、二式大艇1番機は行方不明、2番機はフィリピン群島ビサヤ地方セブ島に不時着。二式大艇は2機とも遭難、連合艦隊司令長官古賀峰一提督の乗機(一番機)は行方不明、連合艦隊参謀長福留繁海軍中将の乗機(二番機)は不時着し、福留参謀長たちはフィリピンゲリラの捕虜となる。

写真(右):日本海軍川西・二式大型飛行艇(H8K);川西飛行機が、前作の九七式大型飛行艇(九七式大艇)の経験をもとに設計、量産した。日本が量産した戦前・戦時中の最大級の航空機。連合軍のコードネームは「エミリー」。1942年3月2日、二式大型飛行艇(二式大艇)2機はK作戦として、マーシャル群島ウオッゼ島に進出、フレンチフリゲート礁に進出した潜水艦伊15、伊19から3月4日に燃料補給を受けハワイへ向かった。そして、ハワイのオアフ島に各機250キロ爆弾4発を投下、無事帰還した。5月30日、第二次K作戦が開始されたが、フレンチフリゲート礁はアメリカ艦艇の警戒下にあったため、第二次K作戦は中止された。戦後、米軍に鹵獲されていた二式大艇が返還され、1980年代から東京湾の「船の科学館」に展示された。その後2004年4月末からここ鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され保管・展示されている。

連合艦隊参謀長福留繁海軍中将、作戦参謀山本祐二中佐は、Z作戦計画の関連書類と艦隊司令部用信号書(暗号書)を携行していたから、証言はどうであれ、Z作戦計画書は敵に奪取され、高級将校は厳しい尋問を受けたと考えられる。連合艦隊将官を含む最高級の捕虜9名は,フィリピンゲリラのマルセリーノ・エレディアノ大尉は、日本語で尋問をし、セブ市西方トパス山中のクッシング中佐の根拠地に収容された。一連の事件を「海軍乙事件」と称し秘匿した。

写真(右):川西二式大型飛行艇H8Kの尾部銃座九七式大型飛行艇と同じく尾部銃座があり、20ミリ機銃1門が装備されていた。二式大艇は、終戦時までに131機が製造され、輸送飛行艇に改造した「晴空」も36機が製造されている。したがって、二式飛行艇の総生産数は167機となる。この2004年4月末からここ鹿児島県の海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され野外保管されている二式大艇は「第426号機」とあるから、1943年に製造された第26号機と推察されている。

しかし、フィリピンでゲリラ討伐を行っていた大西中佐率いる陸軍独立混成第31旅団独立歩兵第173大隊は、クッシング中佐らゲリラ幹部を包囲した。そこで、クッシング中佐は、捕虜にしていた岡村中尉を派遣し、日本軍の包囲網を解けば、捕虜交換に応じて,高級将校たちを引き渡すと約束した。取引の合意がなり福留繁中将たち日本軍捕虜全員が引き渡された。こうして「海軍乙事件」は終わったようにもみえるが、実は、その後のZ作戦機密漏えいの審理がいっそう重要である。

福留中将は、本名を名乗らず、将官であることも隠していたが、捕虜交換後も、本名は隠しとおしていた。そして、ゲリラ討伐の陸軍部隊から、海軍のセブ派遣隊に引き取られた。

海軍では連行艦隊司令長官古賀峰一遭難、連合艦隊中枢の拉致、機密書類の紛ということの重大さを認識しており、「海軍乙事件」として、第三南遣艦隊は、参謀山本繁一少佐を派遣し、捕虜から解放された連合艦隊参謀長福留繁中将に対して、Z作戦計画に関して問いただした。福留中将は、第三南遣艦隊参謀山本繁一少佐に対して、機密書類を納めた書類カバンを軍服を現地人に奪われたが、ゲリラは書類内容には関心を抱いていなかったようだと答えた。(吉村昭『海軍乙事件』引用)

しかし、連合艦隊より格下の第三南遣艦隊参謀山本繁一少佐が、連合隊参謀長福留繁中将を「尋問」できるわけがない。一介の少佐による中将にたいする厳格な調査は不可能である。

福留中将、山本中佐はセブから羽田へ空輸され、海軍大臣官邸で海軍次官沢本頼雄中将らが事情を聴取する。しかし、連合艦隊参謀長という実戦部隊の最高の要職の海軍中将を同じ海軍中将が事情聴取しても、組織内の庇い立てに終始してしまう。

福留中将、山本中佐はセブから東京の羽田へ空輸され、海軍大臣官邸で海軍次官沢本中将などが、事情聴取をするが、連合艦隊参謀長という実戦部隊の最高の要職(司令長官の古賀大将は行方不明)の中将を同じ中将が事情聴取しても、組織内のかばい立てに終始してしまったようだ。

名誉ある連合隊参謀長福留中将らが、Z作戦計画の遺漏は無いと証言すれば、それを信じるしかない。また、国内にいた日本軍指導部の軍人(俗に言うお偉方)は、フィリピン人ゲリラの有能さを最後まで理解できなかったから、文盲のゲリラは、Z作戦計画が重要であることが認識できず、米軍の手に渡すほど、機転も利かないと誤解していた。

連合隊参謀長福留繁中将が、Z作戦計画の遺漏は無いと宣誓すれば、それを信じるしかない。また、日本軍高級指揮官は、フィリピン人ゲリラの有能さを最後まで理解できなかったから、Z作戦計画を手にしたとしても、何もわからず、捨ててしまったはずだと甘く考えた。

海軍乙事件で、フィリピンゲリラを通じてアメリカ軍にわたった「Z作戦計画」は、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の下で作成され、軍令部により承認された作戦計画である。当初、1943年のZ計画では、クエジェリン基地、ルオット基地などが点在するマーシャル諸島を決戦海面としていたが、マーシャル諸島が陥落した1944年には、サイパン島などマリアナ諸島・トラック諸島・ビアク島など西部ニューギニアを絶対国防圏として、その線で海軍の艦隊と基地航空兵力の総力を挙げて来寇するアメリカ艦隊の撃滅する作戦を立てた。しかし、艦隊決戦の思想に囚われてしたため、優先するのは敵空母艦隊(高速空母任務部隊)とされ、ついで輸送船団や敵上陸部隊に対して攻撃することになっていた。

Z作戦要領関係」書類を入手したアメリカ軍は、1)日本軍による積極的攻撃のリスクは低く、ニューギニアやマーシャル諸島に高速空母を配置する必要がない、2)マリアナ諸島攻略に高速空母任務部隊位を集中し、出撃してくる日本の機動部隊を迎撃できる、3)上陸したサイパン島への日本の空襲をあまり危惧せず、日本の空母機動部隊の捜索と迎撃に専念できる、という有利な状況を手に入れた。

日本軍は、海軍乙事件に関して,Z作戦計画の遺漏よりも、高級将校が捕虜となり、生還したことを問題にしていたのである。虜囚の辱めを受けた将官をどのように処遇するかという問題である。

<乙事件関係者に対する処遇の件>(新・東洋思想引用)
1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む
理由
(1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや否やの判定は困難なるも少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
(2)相手は必ずしも敵兵と見なし得ず 特に土民は敵に非ざること明瞭なり。又クッシング中佐が果たして米国政府の命を受け戦闘行為をなしつつあるものなりや否や不明にして正規の敵兵として断定しえず。
(3)何等相手の訊問等を受け又は自己の意志を拘束せられたる事実を認め得られざるを以て相手に降伏せるものと認め得ず
(4)仮に広義的に一時俘虜の経路を辿られるものとするも海軍大臣に於て其事実を知り、かつ何等利敵行為等なく責任を調査するの要を認めざるを以て査問会にて更に調査の要なし

2、関係者を軍法会議に附する要なしと認む
  法律上の罪を犯したりと認むべきものなし 即ち
(1)事件発生は操縦者以外は不可抗力なりしこと
(2)「敵に降り」たる事実を認め得ず
(3)利敵行為なし
(4)軍機保護法に触るるが如きことを為しあらず

3、処置
前諸号に依り関係者を問ふべき筋なきものと認むる所、従来敵国の俘虜となりたる者に対しては其の理由の如何を問わず極端なる処置を必要とするが如き理外の信念的観念を以て対処したれる事実あり。
故に今次の処置は 右の根本的観念を破壊せざること肝要にして(従来の観念を変更せんとせば重大問題を惹起すべく、かつ変更すべきにあらずと信ず)之が解決の途は一つなり即ち海軍当局の方針を明確にならしむる点之なり(新・東洋思想 戦争責任の探求−日本兵捕虜;帝国海軍最大の失態「海軍乙事件」引用)。

日本軍上層部は、不正規兵であるフィリピンゲリラを見くびっていたとしか思えない。中国大陸における中年の戦闘で、支配地域の住民の反抗、ゲリラ兵(共産党軍)の跳梁に悩まされていたにもかかわらず、フィリピンに形だけの独立を与えれば、日本の威光に服して従うと錯覚してしまった。

表1 米軍に公認されたフィリピンゲリラ部隊と部隊指揮官

部隊名称

指揮官

編成人員

死傷者数

公認期間

Anderson's Command* アンダーソン部隊 Anderson

  6,668

    435

1945/1/9-1945/6/30
Bulacan Military Area* ブラカン軍区 Santos

  7,566

    889

1945/1/9-1945/6/13
Fil-AM Irregular Troops フィリアム不正規軍 Straughn

  4,898

      93

1945/1/9-1945/6/ 25
Hunters ROTC* ハンターROTC Adevoso

  7,802

 1,059

1945/1/9-1945/6/27
Luzon Guerilla Army Forces ルソンゲリラ軍 Laphan

14,224

    813

1945/1/9-1945/6/24
Magirog Unit マギログ部隊 Iruguin

  1,196

 

1945/2/2
Marking's Fil-AM Troops マーキングフィルアム軍 Marking

11,667

    556

1945/1/9-1945/6/11
Pres. Quezon's Guerillas プレスケソンゲリラ Umali

  6,592

    819

1945/1/9-1945/4/5
South Tarlac Mil. Dist. 南タルラック軍管区 Bruce

  2,706

    212

45/1/1-4/225
USAFIP, NL* 米比解放軍 Volckmann

22,167

 3,861

1945/1/9
Zambales Mil. Dist. ザンブレス軍管区 Magsaysay

10,441

    392

1945/1/29-5/26
III Army Corps* 第三軍 David

  4,014

    585

1945/1/9- 6/9
Bohol Area Command* ボホール地区部隊 Ingeniero

  5,429

      59

1943/10/21
Cebu Area Command* セブ地区部隊 Cushing

  9,159

 1,240

1944/2/12
Leyte Area Command* レイテ地区部隊 Kangleon

  4,053

   475

1943/10/21

Marinduque Guerilla Forcesマリンドゥーケゲリラ軍

Untalan

     256

 

1944/2/15
Masbate Guerilla Regiment*マスバテゲリラ連隊 Donato

     894

     58

1945/4/3
Mindoro Prov. Battalion ミンドロ州大隊 Raffy

     619 

     76

1944/12/15
Palawan Special Battalion ミンドロ州特別大隊 Muyco

  1,150

     48

1944/2/28
Samar Area Commandサマール区域部隊 Smith

  3,381

     53

1944/10/4
Sulu Area Command* スルー区域部隊 Suarez

  3,468

   246

1944/2/11
6th Military Dist. 第6地域 Peralta

21,268

 2,188

1943/2/13
East Cent. Luzon Guerilla 東中部ルソンゲリラ Ramsey

13,308

 2,246

1945/2/35-7/18

7th Military Dist.第7地域 Abcede

10,007

 1,438

1943/7/8
10th Military Dist. 第10地域 Fertig

29,264

 2,810

1943/2/13
Independent Unit その他の独立部隊  

35,332

 1,168

1942/5/10-1945/8/15
 

合計

237,529

21,819

 


  注)(*)公認された当時の名称

  出所)http://www.angelfire.com/on4/zambalesforum/recognizedphilguerilla.htm より引用。

1944年10月の米軍レイテ島上陸以来、フィリピンゲリラの活動は、盛んになり,現地部隊は、その対策に終われるようになる。しかし、1944年3月の時点で,フィリピンゲリラは、米軍のフィリピン解放を完全には信じルことはできず、日本軍の軍事力に押さえ込まれていた。米軍が、このようなゲリラ部隊を公認するのは、多くの場合、ゲリラ部隊が駐留している地区に上陸して以降である(表1参照)。

しかし、正面切手の武力闘争ではなく、情報戦を戦っていたのであり,情報収集,スパイ活動、民衆宣撫工作は、盛んだった。日本軍は、中国での失敗に学ぶことが少なく、フィリピンでの情報戦で、Z作戦計画の情報遺漏という過ちを犯した。それに気がつけばよかったが,三号艦隊参謀長が捕虜になり、その携帯していたZ作戦計画の書類を、ゲリラに奪われたと知っていた。にも拘わらず、情報遺漏が無かったとして、対策を講じないままに放置したのは,連合艦隊の大失敗であった。その失敗の責任をとる上級司令官はおらず、手の内を読まれている部下たちが、次々に殺害されることになる。情報戦の失策が、中部太平洋方面での基地航空隊の壊滅、空母決戦での艦載機壊滅「マリアナの七面鳥撃ち」に繋がったと考えられる。


写真(上左):1944年10月25日、レイテ沖海戦時のアメリカ海軍正規空母「レキシントン」USS LEXINGTON (CV-16) 艦上の急降下爆撃機SB2Cヘルダイバー 急降下爆撃機「ヘルダイバー」は,全幅15.16m、全長11.20m。最大速度452km/h、爆弾227〜726kg×1、Mk.18航空魚雷×1、20mm×2、7.62mm×1. 油圧で自動的に翼を折りたたむ。日本機は翼を折りたたむのは,全て人力だった。Title: Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption: Loading drop tanks on SB2Cs aboard USS LEXINGTON (CV-16) before a search mission, on 25 October 1944. Catalog #: 80-G-284381 Copyright Owner: National Archives Original Date: Wed, Oct 25, 1944.アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-284381 引用。
写真(上右):艦上爆撃機カーチス「ヘルダイバー」Curtiss SB2C-3 "Helldiver" とアメリカ海軍正規空母「ホーネット」USS HORNET (CV-12);1945年1月中頃南シナ海、空母「ホーネット」(第2代)USS HORNET (CV-12)に所属する艦上機。艦載機、搭載機とも呼ばれるが、カタパルトを備えた巡洋艦や戦艦は、水上機型の偵察機や観測機を搭載している。Title: USS Hornet (CV-12). Description: Curtiss SB2C-3 Helldiver aircraft bank over the carrier before landing, following strikes on Japanese shipping in the China Sea, circa mid-January 1945. Photographed by Lieutenant Commander Charles Kerlee, USNR. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. アメリカ海軍歴史遺産司令部Naval History and Heritage Command Catalog #: 80-G-469319 引用。


5.米軍は1944年6月に日本への戦略爆撃機の基地を確保する目的で,サイパン島,テニアン島などマリアナ諸島に上陸してきた。これを迎撃したするために、1944年6月19-20日、マリアナ諸島サイパン島西方海域(フィリピン海)で、太平洋戦争最大の日米の空母艦隊決戦が行われた。これが、マリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)である。

写真(左):マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦で日本空母機動部隊を率いた小沢治三郎提督;1944年6月19日,マリアナ沖海戦で「アウトレンジ」戦法を採り先制攻撃に成功したが,惨敗した。しかし,これに懲りず,レイテ沖海戦でも,囮として日本海軍空母部隊を率いて,ハルゼー提督の米海軍任務部隊を北方にひきつける役を果たした。

 1944年6月にマリアナ海域に侵攻してくる米軍任務部隊を,日本海軍は空母機動部隊,基地航空隊で迎撃しようとして,「あ」号作戦を準備した。これおは,Z作戦として計画されていた。しかし,パラオ諸島からフィリピンに撤退するとき,連合艦隊司令長官古賀大将は遭難死し,参謀長の福留中将は不時着,フィリピン人ゲリラに捕虜にされた。この時、Z作戦計画を奪われ,作戦計画は米軍の知るところとなった。

マリアナ沖海戦は,米国のマリアナ諸島攻略作戦Campaign In the Marianasの最中に起こった海戦で,米軍はBattle of the Philippine Sea(フィリピン海の戦い)と呼ぶ。

日本海軍は,結成以来最大限の空母を集中し、基地航空隊の定数も1600機もあったから、米海軍空母任務部隊と互角の戦いができるように準備をした。1942年の珊瑚海海戦以来、1943年にはただの一度も、空母体空母の艦隊血戦を企図していないし、実際,空母血戦は無かった。これは、乾坤一擲の大勝負をかけるために、機動部隊とその空母艦載機を養成していたためである。
艦隊の戦艦,巡洋艦などの艦長たちは、こんどは、敵空母を撃滅できると信じていたようだ。


図(右):マリアナ沖海戦に参加した日本海軍の特設航空母艦「隼鷹」(商船改造の低速空母);1945年秋撮影。1942年5月3日竣工後はアリューシャン列島への攻撃、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などに参加した。1944年6月20日、煙突付近に直撃弾二発を受け発着艦不能の被害を受ける。1944年12月9日、マニラへの輸送任務から佐世保への帰投中、女島付近で米潜水艦「シーデビル」及び「レッドフィッシュ」による雷撃で魚雷2本が艦首および右舷機械室に命中、死者19名、浸水5000トンの被害を受けたものの、片舷航行が可能だったため13ノットの速力でかろうじて佐世保に帰投した。その損傷のため佐世保で修理・繋留されたまま終戦を迎えた。1945年秋、戦後の佐世保で米軍が撮影。Moored at Sasebo, Japan, circa Fall 1945.NAVAL HISTORICAL CENTER引用。

 真珠湾攻撃を受けた責任をとらされ,10日後には太平洋艦隊司令長官にあったキンメル提督は罷免された。その代わりに,1941年12月16日,新たな太平洋艦隊司令長官としてチェスター・ニミッツ(Nimitz,Chester William)大将が任命された。高速空母部隊の主力となり任務部隊も第3艦隊に配備された。第3艦隊司令官はハルゼー提督であり,太平洋艦隊司令長官ニミッツは彼を指揮する上官の立場にある。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥(1885年2月24日生−1966年2月20日没);1905年 アナポリス海軍兵学校卒。1907年1月31日 砲艦「パナイ」艦長(1937年中国で日本海軍機により撃沈)。1934年 米アジア艦隊旗重巡洋艦「オーガスタ」艦長として東郷平八郎元帥の国葬に参列(オーガスタは、1937年日中全面戦争の時も、上海にあった)。 1941年12月16日 真珠湾攻撃直後に、キンメル大将に代わって、太平洋艦隊司令長官に就任。1944年12月 元帥に昇進(海軍に新た最上位の階級が設定されその第一号となる)。

日本を降伏させるために、ダグラス・マッカーサー陸軍大将は、フィリピン奪回を不可欠と主張していたが、チェスター ・ニミッツ海軍大将は、マリアナ諸島サイパン島などを占領し、そこを基地として、B-29爆撃機や空母艦載機で、日本本土を空襲することをより重視し、中部太平洋方面に攻撃重点を置くことを望んだ。

それぞれ侵攻計画は、ルーズベルト大統領と統合参謀本部(統合幕僚会議)の前で検討され,新たな二本立ての計画が承認された。

中部太平洋の総司令官ニミッツは、第5艦隊司令長官のレイモンド・A・スプルアンス海軍中将にマリアナ攻略を指示し、リッチモンド ・ケリー・ターナー海軍中将を上陸攻撃段階の前線指揮官とした。そして、上陸部隊は、ホーランド・H・スミス海兵隊中将に担当させた。

写真(右):アメリカ海軍高速軽空母「ベロウ・ウッド」USS BELLEAU WOOD(CV-24)の艦載機誘導管制官;1945年撮影。軽空母「ベロウ・ウッド」は、1943年3月31日就役の高速軽空母。サイパン島の対地支援攻撃を行い、対潜水艦哨戒を行った。基準排水量 11,000 t; 満載排水量15,100 t、飛行甲板 189.7 x 33.3 m 装甲: 5インチ-3.25インチ (舷側); 2インチ(防御甲板); 0.38インチ(艦橋)、機関出力; 10万馬力、速力: 31ノット、 航続距離: 12,500マイル @ 15 ノット、兵装: 2基×四連装 40-mm/56口径対空機関砲; 9基×連装40-mm/56口径機関砲; 16丁×単装 20-mm/70口径機銃、搭載機: 30機以上、艦載機用エレベ−ター2基; 1基×水蒸気カタパルト、乗員: 1,560名。
Landing Signal Officer, Lieutenant (Junior Grade) Walter F. Wujcik, bringing in a plane, circa 1945.NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive引用。


小沢治三郎中将麾下の第一機動艦隊は、主力を東南アジアのスマトラ島東部北岸リアウ諸島リンガ泊地におき、豊富な燃料を使って、艦隊行動訓練、艦載機の飛行訓練などを行った。夜襲など、対水上艦艇戦闘も重視した。

しかし、ここは、予想決戦海面のパラオ諸島西方海域からは、遠く隔たっている。そこで、米空母任務部隊の動向をにらんで、1944年5月16日、スマトラ島東部北岸のリアウ諸島リンガ泊地にあったフィリピン群島ミンダナオ島西部のタウィタウィ泊地へ進出した。タウィタウィ泊地では米海軍潜水艦が索敵,攻撃をかけて来たため,日本海軍は駆逐艦4隻(6月6日「水無月」、6月7日「早波」、6月8日「風雲」、6月9日「谷風」)を撃沈される。対潜水艦戦闘に自信の無い第一機動部隊は、外洋での空母艦載機発進・着艦練習ができず、もともと新米の多かった航空機搭乗員は、ますます練度向上が困難になった。

写真(右):1944年1月、空母上のグラマンF6F「ヘルキャット」戦闘機:最高速度650-700km/hを誇った米軍の陸上戦闘機やF4Uと比較すると速力は600km/hと低速である。しかし、日本の戦闘機に対しては、速度、兵装、防弾、技術的信頼性で圧倒した。また、艦上機として、主翼を折りたためること、狭い空母艦上での発着艦が容易なことも特徴である。The Grumman F6F Hellcatも参照。

5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」開始を発令した。
5月27日、連合軍はビアク島へ上陸を開始した。日本軍は、ニューギニア島西部のビアク島への救援作戦、すなわち渾作戦を行った。 しかし、6月11日、アメリカ軍がマリアナ方面に来襲し、渾作戦は中止された。
6月15日、米軍のサイパン島上陸を迎えるが,角田部隊は残存100機程度で,15日と18日に攻撃を実施するも,31機を失ったという。

いずれにせよ,大規模な基地航空隊を編成・配備したものの,攻撃の実態も,戦果もほとんどわかっていない。戦闘記録とともに,司令部も部隊も壊滅した。「あ号作戦」に基づく「マリアナ沖海戦」は、本来、日本海軍が予定した戦場で、マリアナ諸島・トラック諸島の地上配備航空兵力と、艦載機を擁する機動部隊を連動させた「決戦」のだったはずだが、この連携は、各個撃破されてしまい、ほとんどとることができず終わった。

マリアナ沖海戦(米軍側のフィリピン海の戦い)は、米軍の第5艦隊の第38空母任務部隊は、航空母艦15、戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦12に対して、日本の第一機動部隊は、航空母艦9、戦艦5、重巡洋艦11、軽巡洋艦3の空母艦隊決戦であった。

写真(右):マリアナ沖海戦、アメリカ艦隊上空の飛行機雲;1944年6月19日,アメリカ海軍軽巡洋艦「バーミンガム」USS Birmingham (CL-62),より撮影。Fighter plane contrails mark the sky over Task Force 58.

戦局はますます悪化の一途をたどる中,日本海軍は、サイパン島、グアム島、テニアン島などマリアナ諸島の東方海上に米軍艦隊,特に高速正規空母を基幹とする任務部隊を誘致し、撃滅する「あ」号作戦(当初はZ計画と呼ばれた)を立てた。

この「あ」号作戦(Z計画)は、実はフィリピンのゲリラに捕まった海軍の福留中将たち(後に陸軍部隊によって救出される)の所持していた文書から、米軍側に漏れていた。日本海軍もこの機密漏えいを心配し、調査したが、結果は、暗号解読も計画漏えいもないとの結論で終わっている。しかし、日本軍は劣勢な上に作戦計画まで米軍に伝わっていたとすれば,日本海軍の第一機動部隊の司令長官小沢治三郎提督に勝ち目はない航空決戦であった。

写真(右):1944年6月19日,マリアナ沖海戦で日本機の攻撃を受ける米護衛空母「キトカン・ベイ」USS KALININ BAY (CVE 68);フィリピン海の戦いで日本機を撃墜したが,この4ヵ月後に,レイテ島沖で特攻機に突入されることになる。

1944年6月20日1600大本営発表「サイパンに来襲せる敵は6月15日午後同島の一角に地歩を占むるに至り、午後逐次兵力増強中にして、我が守備隊は之を邀撃し、多大の損害を与えつつあり
-----我が航空部隊は、連日右の敵機動部隊に対し攻撃を加えたり。
6月20日以降本日まで判明せる戦果左の如し
撃沈 戦艦1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、潜水艦1隻
撃破 航空母艦4隻以上、戦艦2隻、巡洋艦4隻、輸送船6隻、艦種未詳1隻
撃墜 300機以上。

これが、マリアナ沖海戦(米軍側のフィリピン海の戦い)である。
米軍の第5艦隊の第38空母任務部隊は、航空母艦15、戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦12に対して、日本の第一機動部隊は、航空母艦9、戦艦5、重巡洋艦11、軽巡洋艦3であった。

日本軍は、海軍の基地航空隊が大戦果をあげたとの報道を行ったが、実際にはほとんど戦果はあげられなかった。結果は、完敗である。

したがって、これ以降の航空兵力の使用方法は、正規の攻撃ではなく、特別攻撃、すなわち体当たり自爆攻撃を採用するようになったと考えられる。

写真(右):1944年6月19日、フィリピン海の戦い(マリアナ沖海戦)の時の米空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)。日本機による至近弾を受けた。;日本機は尾翼を撃たれて墜落。1944年6月19日、僚艦の軽空母「モンテレー」より撮影。USS Bunker Hill (CV-17) is near-missed by a Japanese bomb, during the air attacks of 19 June 1944. The Japanese plane, with its tail shot off, is about to crash, at left.Photographed from USS Monterey (CVL-26). Official U.S. Navy Photograph:Naval Historical Center引用。

米軍の記録World War II Resources:The Pearl Harbor Working Group ;Index of /pha/chr June 1944「フィリピン海の戦い」 Battle of the Philippine Sea
06/19 Mon. Battle of the Philippine Sea (19-20 June):日本海軍艦載機が、米海軍第5艦隊Fifth Fleet (スプールアンス提督[大将]Adm. R. A. Spruance)を攻撃.
米海軍 戦艦battleships2隻, 空母carriers2隻,重巡洋艦heavy cruiser1隻が被害を受ける。
日本側は、航空機300機以上を失い、空母2隻が米海軍潜水艦によって撃沈。[the Marianas Turkey-Shoot]
米海軍艦艇の被害:
戦艦「サウスダコダ」SOUTH DAKOTA (BB-57), 急降下爆撃により損傷
戦艦「インディアナ」INDIANA (BB-58), 自爆撃により損傷by by suicide plane
正規空母「バンカーヒル」BUNKER HILL (CV-17),急降下爆撃により損傷 by dive bomber
正規空母「ワスプ」WASP (CV-18), 急降下爆撃により損傷
重巡洋艦「ミネアポリス」MINNEAPOLIS (CA-36), 水平爆撃により損傷by horizontal bomber
駆逐艦Destroyer「ハドソン」HUDSON (DD-475), accidentally by United States naval gunfire
掃海艇Motor minesweeper YMS-323, by coastal defense gun, Saipan.
日本艦の撃沈;
空母「翔鶴」 潜水艦CAVALLA (SS-244)により撃沈
空母「大鳳」潜水艦 ALBACORE (SS-218)により撃沈.
伊184号潜水艦 護衛空母SUWANNEE (CVE-27)艦載機(vt-60) により中部太平洋方面で撃沈。

図(右):1944年6月20日、マリアナ沖海戦を描いた絵画。第58空母任務部隊のエセックス級高速空母とアベンジャーTBF艦上雷撃機:航空戦に出撃したグラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機を救助するために道案内した艦上機を描いている。このような人命救助は、艦上機搭乗員にとって、たとえ不時着水しても必ず助けてもらえるとの確信を与え、士気を高めた。日本機の場合は、救助の見込みはなく、不時着水しても、苦しんで死ぬか、捕虜とあって虐待されるか、の選択しかなかった。そうであれば、潔く自爆するしかない。このような発想が、自爆体当たりする特攻の発想を育んだ。
Title: Turn on the Lights Caption: Gouache by Ed Valigursky, depicting the Battle of Philippine Sea, 20 June 1944, when ships of Task Force 58 were ordered to light the way for their aircraft to find their floating airfields. Description: Courtesy of "Popular Mechanics" Magazine. Catalog #: NH 69788-KN Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Creator: Painting by Ed Valigursky.
写真はNaval History and Heritage Command NH 69788-KN Turn on the Lights 引用。


アメリカ軍は、人命救助は、士気を高めるのに効果があると考え、人命救助に資金、設備、人員、技術を投入した。航空機の搭乗員は、敵機の襲撃、機械故障、航法ミス、悪天候など様々な理由で、不時着水する恐れがあった。不時着が死を意味するのであれば、助かりたいという思いが過剰に膨らみ、勇敢な行動、危険な行為を避け、様々な理由をつけて、出撃しなかったり、途中で引き返してきたりする傾向が生まれてしまう。しかし、不時着しても必ず助けてもらえるのであれば、いざとなって不時着水しても、命は助かり、再出撃することもできる。不時着が、勇敢な行動の証となり、経験を積んだ証明ともなるかもしれない。このように、人命救助の態勢が整備されれば、航空機搭乗員の士気は高まる。対照的に、日本の場合は、救助の見込みはなく、不時着水しても、苦しんで死ぬか、捕虜とあって虐待されるか、の選択しかなかった。そうであれば、潔く自爆するしかない。あるいは、機械故障や悪天候など理由をつけて、帰投したり、戦場から逃避してしまえばよい。このように、日本軍では人命救助がなおざりにされていたために、戦闘員の士気に悪影響を与えたていた。

写真(右):1945年6月20日、アメリカ軍艦上機の空襲を受ける日本海軍の航空母艦「瑞鶴」(空母「翔鶴」の同型艦);マリアナ沖海戦で主力空母として参加したが、戦果をあげることはできなかった。NAVAL HISTORICAL CENTER引用。

06/20 Tue. Battle of the Philippine Sea (19-20 June) continues.
第5艦隊Fifth Fleetのミッチャー中将(Vice Adm. M. A. Mitscher)の空母任務部隊が、日本艦隊を攻撃、空母1隻撃沈.
In the 2-day Battle of the Philippine Sea the engaged Japanese Fleet loses 395 (92%) of its carrier planes, and 31 (72%) of 31 (72%) of its float planes. Only 35 carrier planes and 12 float planes remain operational. Besides the losses afloat, an estimated 50 land-ased Japanese aircraft from Guam are destroyed.
アメリカ艦隊は、2日間で航空機130機、搭乗員76人を失った。スプールアンス提督とミッチャー中将の大勝利である。

Submarine NARWHAL (SS-167) and NAUTILUS (SS-168) land supplies and evacuate certain personnel from Negros and Panay, P. I.
United States naval vessel damaged:
Destroyer PHELPS (DD-360), by coastal defense gun, Marianas Islands area.

写真(左):マリアナ沖で空襲を回避運動をする日本艦隊;1944年6月20日,マリアナ沖海戦。Ships in Ozawa's Mobile Fleet turn sharply to evade US dive-bombing attacks the evening of 20 June. Japanese aircraft carrier Zuikaku (top) and destroyer maneuvering, while under attack by U.S. Navy carrier aircraft. Zuikaku was hit by several bombs during these attacks, but survived. Naval Historical Center引用

日本海軍の艦艇損失:米艦載機により空母「飛鷹」撃沈

1944年6月23日1530大本営発表「我が連合艦隊の一部は、6月19日マリアナ諸島西方海面において---敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い---敵航空母艦5席、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず。我が方航空母艦1隻、付属油槽船2隻および飛行機50機を失えり」。

マリアナ沖海戦(フィリピン海の戦い)で、日本海軍の正規空母3隻、特設空母6隻、艦載機360機を中核とする第一機動部隊は、正規空母2隻、特設空母1隻を撃沈され、航空機300機を失った。大敗北である。
小沢治三郎中将は、敗北にもかかわらず残存艦隊による夜戦を準備したが、20日1940、連合艦隊長官豊田副武大将から離脱が命じられ、21日、小沢中将は「あ号作戦」を中止し撤退した。こうして、マリアナ諸島サイパン島日本守備隊は見放され、救援・増援も放棄されるに至る。

6.1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島「玉砕戦」では,日本軍4万人が死亡した。しかし,軍人・軍属の捕虜、朝鮮人(飛行場設営部隊労働者)捕虜について、軍は言及しなかった。他方、日本の民間人約2万人の民間人のうち,約8000人が米軍によって殺害されたり、自殺に追い込まれたりした。

 サイパン島には第43師団(師団長:斎藤義次中将),独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)があったが,第三十一軍司令官小畑中将が5月28日からパラオ環礁出張中の6月15日,米軍の攻勢が始まった。小畑軍司令官は,サイパン島に帰還できず,隣のグアム島から指揮を執ることになった。

1944年6月15日0700、米軍はサイパン島に上陸開始。9時ごろまでに300両以上の上陸用装軌車LVT(Landing Vehicle Tracked)が海兵隊8000名を運搬した。その夜、日本軍は,戦車を含み反撃したが,夜襲は失敗した。
6月16日、第27歩兵師団が上陸し,アスリート飛行場に向け進撃し,翌日には飛行場を占領した。

1944年6月16日1700大本営発表「マリアナ諸島に来襲せる敵は、15日朝に至りサイパンに上陸を企図せしも前後2回之を水際に撃退せり。敵は同日正午頃3度来襲し今なお激戦中なり}

日本海軍の連合艦隊司令長官豊田副武大将は,1944年6月15日、「あ号作戦」を発動、マリアナ沖海戦(フィリピン海の海戦)が開始された。
機動部隊司令官小沢治三郎中将は,遠距離攻撃「アウトレンジ戦法」を採用したが,日本の搭乗員は未熟であり,レーダー・無線に誘導された米軍戦闘機による迎撃,近接TV信管の威力の前に大敗に終わった。米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と嘲笑した。


写真(上左):1944年7月,サイパン島で米軍に鹵獲された零式艦上戦闘機(ゼロ戦)
:機体を水平にして、機銃などの弾道調整を行っていたらしい。写真(上右):サイパン島アスリート飛行場で鹵獲された日本のゼロ戦:本国に持ち帰り、飛行可能にして性能調査をした機体もある。


サイパン島では、米軍の攻勢の前に,7月6日深夜から翌7日、斉藤義次陸軍中将は残存部隊約3000名に総攻撃「万歳突撃」を命じた後、司令部要人は自決した。中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一海軍中将、海軍第五特別根拠地隊・辻村海軍少将など海軍司令部も自決した。7日「万歳突撃」を敢行した日本軍は玉砕した。7月9日、北部のマッピ岬(バンザイクリフ)やタポチョ山の断崖(スーサイドクリフ)に避難してきた日本民間人は、投身自殺した。この日、米軍はサイパン島の占領を宣言。 (⇒wikipediaサイパンの戦いおよびサイパン島玉砕参照)

サイパン在住の民間日本人 開戦当時、サイパンには製糖業で栄えた「南洋興発」関係者ら約2万人の日本人が在住し、うち約1万2000人が死亡したとされる。バンザイクリフ、スーサイドクリフでの自殺者の数は不詳だが、1000人以上ともいわれる。サイパン陥落を伝える大本営発表は「在留邦人は終始軍に協力し、およそ戦い得るものは敢然戦闘に参加し、おおむね将兵と運命を共にせるもののごとし」とした。


写真(右):サイパン島アスリート飛行場で鹵獲した日本機を搭載しガラパン港を出港した護衛空母「コパイ」;日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)13機と九七式艦上攻撃機1機、エンジン部品などを鹵獲した米軍は,情報収集・分析のために、機材を本国に送った。

サイパン陥落 命捨てるの間違い、語り継がねば引用
「軍の玉砕命令が出た。これから参加する」という日本兵の合唱だった。その傍らで、兵士に「うるさい」と怒られた男の子を父親が海に放り込んだ。「父ちゃんも後で行く」と叫びながら。
 さらに北へ。行き止まりのマッピ岬は、大勢の日本人でごった返していた。海から投降を促す米軍の呼び掛けが聞こえてきたが、佐藤さんは「捕虜になるなら、持参した青酸カリで自殺した方がまし」と思った。
 父は「八月八日ごろ、連合艦隊がやってくる。日本がサイパンを見捨てるはずがない」と言った。次にたどり着いたスーサイドクリフの断崖。そこで見たものは「天皇陛下万歳」と叫びながら飛び降りる日本兵の姿だった。---(東京新聞2005年6月20日引用)

1944年6-7月のマリアナ諸島サイパン島などでの「玉砕」には、玉砕命令、鬼畜米英のプロパガンダ、捕虜となった場合の処刑の恐怖が、戦陣訓の捕虜となり、投降を戒める教え、国体への忠義殉死の思想、熱狂的な愛国心と一体となった結果である。

捕虜になれば処刑される,辱めを受ける,このような戦争プロパガンダによって,日本は敵将兵への恐怖を植え付け,徹底抗戦させ,降伏して捕虜となる逃げ道を断った。サイパン島の日本軍将兵も民間人も,本土防衛の捨石となる覚悟ではあったが,捕虜となり処刑され,辱められることを思うと,恐怖を感じた。臣節をまっとうしたといわれるが,実際の自決・集団死の心理は,粛然たる死、殉教とは異なり,苦悶に満ちたものだったと考えられる。


写真(右):1944年サイパン島の日本軍トーチカ(米軍撮影)
:1944年。このような場所で,1944年,サイパン島で鹵獲された日章旗,日本軍の軍刀のような戦利品が収集されたのであろう。日章旗は,現地で販売され,1枚100-200ドルもした。小隊で見つけ出したのであっても,個人の所有になったのであろう。発見したした兵士の個人的な戦利品になった思われる。"Organized resistance on Saipan ceased"The Wartime History of the U.S.S. ROCKY MOUNT (AGC-3)引用。


「サイパン島玉砕」は,次のように述べる。
清沢洌『暗黒日記』
1944年7月19日「米英が鬼畜であるとの宣伝が行き渡っている。浦河から苫小牧までの汽車で挺身隊が乗った。その隊長が曰く『大西洋憲章というものをチャーチルとルーズベルトが作ったが日本人を皆殺しにすると決議した。男も女も殺してしまうのだと声明した。きゃつ等に殺されてなるものか」、これが汽車中の演説である。また日本人に子を生ませないように、睾丸をとるとか、或は孤島に追いやるとかいうことも、一般人の間には信じられている」
 菅野静子「サイパン島の最期」;降伏を勧めるビラをみて、兵士は「こんなのにつられてウカウカでていこうものなら、男はみんな戦車の下敷きさ」と語る。そのことばを聞いて菅野は、「そんな場合、女の運命はわかりきっている。もしそうなったら、私はりっぱに自決しよう‥・と心にちかった。」と。----そしてこの意識は、日本軍が中国など各地で捕虜・民間人を問わず、虐殺や強姦、掠奪等を行ってきたことの裏返しである。(「サイパン島玉砕」引用終わり)

写真(右):1944-45年、サイパン島のチャモロ人用のチューロ収容所Camp Churo where native refugees lived:米軍は、日本将兵、朝鮮人、日本民間人、現地民間人を分けて、収容所に保護した。保護は、居住場所を与え、食料、水などを配給することである。しかし、日本人、特に日本の民間人は、飛行場整備、洗濯等米軍のための労務提供を要請されたようだ。2nd Lieutenant Charles J. Stoltz Jr.撮影。444th Bomb Group The Official 444th Bombardment Group Associationinnyou引用。

1944年6-8月のマリアナ諸島サイパン島などでの「玉砕」といわれたが、実は多数の捕虜が出ている。サイパン島「玉砕戦」では、軍人捕虜1000人,朝鮮人(飛行場設営部隊)捕虜1300人もあった。日本軍将兵(設営部隊を含む)の捕虜率は8%。日本の民間人約2万人の民間人のうち,約1万2000人が米軍によって収容され、生き残った。民間人の捕虜率は60%。玉砕した日本の軍民は少なくなかったが、生き残った日本の軍民捕虜・投降者を黙殺することはできない。サイパン「玉砕戦」は日本軍指導者の賞賛と責任回避の表現であり、われわれが受け入れるのは不適切なのかもしれない。

7.1944年に、日本軍は、テニアン島の航空基地を整備し、米軍を基地航空隊によって邀撃しようとしたが、米軍の攻撃により、壊滅してしまった。1945年8月10日までには、米軍はテニアン島を攻略、グアム(大宮)島を解放した。特に、テニアン島には、大規模な「ノースフィールド基地」(北飛行場)を整備し、B-29爆撃機による日本本土空襲を行った。1945年8月中旬、広島、長崎への原爆投下機も、ノースフィールド基地を発進した。

1923年、南洋興発株式会社に砂糖製造業を開始。原料採取地域はサイパン島一円。1928年、南洋興発株式会社、テニアン島に製糖工場設置。
1935年第四回島勢調査実施(群島人口総数 102,537人;日本人51,861人(朝鮮人、台湾人含)、 島民50,573人、外国人103人 )(→南洋群島・日本関係略年表(琉球大学HP)引用)

テニアン島は、第1次大戦に日本が占領、その後、サトウキビ栽培と製糖工場により栄え、1940年には約1万5000人の日本人が住んでいた。多くは仕事を求めて渡った沖縄県出身者である。

テニアン島日本海軍
 第一航空艦隊:司令長官角田覚治中将、参謀長三和義勇大佐
 第1021航空隊司令官粟野原仁志大佐、第121航空隊司令岩尾正次中佐 設営部隊を含め3000人
 第56警備隊司令大家吾一大佐 1400人
12.7糎高角砲14門、25粍機銃24丁、14糎海岸砲9門、3年式12糎砲4門。

テニアン島日本陸軍
 第五十連隊長緒方敬志大佐、歩兵4個大隊、砲兵1個大隊、九五式軽戦車9両など合計4000人(→戦史 中部太平洋作戦「テニアン島作戦ほか」引用)


写真(右):日本軍民の遺体
:爆発で上半身だけとなった死体の脇に、爆風で吹き飛ばされたのか,ちぎれた木の枝が骨のように見える。後方には,うつ伏せになった,黒焦げの死体がある。このような日本人の姿をどのような思いで撮影したのであろうか。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-US Invasion 引用。


1944年7月23日朝、テニアン町は、上陸前に艦砲射撃を受けた。砲撃は、 5インチから16インチまでの艦砲3000発。米軍の航空機350機は、対地支援銃爆撃を行い、 爆弾500発、ロケット弾200発、 クラスター集束爆弾42発、ナパームnapalm 弾34発を、日本軍の陣地に叩き込んだ。(→ CLOSE ENCOUNTER: The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用))。

1944年7月24日 0820、米軍はFORAGER作戦のPhase III(Phases Iはサイパン攻略、 IIはグアム解放)として、既にガダルカナル、タラワ、サイパンで戦った歴戦の第2海兵師団を主力とする上陸部隊と米軍第4海兵師団は、LVT(水陸両用装軌車)など上陸用舟艇によって、テニアン島に上陸した。(→ CLOSE ENCOUNTER: The Marine Landing on Tinian;by Richard Harwood引用))

1944年7月24日深夜、日本軍の夜襲は失敗。米軍は翌25日、残りの第2海兵師団を上陸させ、南下進撃した。日本軍は、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させたが、7月30日までに米軍はテニアン町を占領。

写真(右):<テニアン島日本民間人収容所With the Japanese being the enemy, all civilians one the island fell into that category as well. Therefore, all were considered Prisoners or War, and were held in interment camps. However, because we signed the Geneva Convention Pact, our treatment of POWs was more humane then that of our enemies. Below are some pictures from the POW camps. Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-Post Invasion 引用。

8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊約1,000名が、米軍に突撃敢行、緒方連隊長も戦死。基地航空隊司令官の角田中将も攻撃に参加したのか行方不明、第56警備隊司令大家大佐も戦死。三和参謀長以下海軍幕僚は自決。テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結(→戦史 中部太平洋作戦「テニアン島作戦ほか」引用)

日本軍の戦死者 約8100名、軍将兵捕虜 313名、設営部隊約2500名、テニアン島在島住民1万3000-1万5000名中3500-4000名が死亡。
米軍の戦死者 389名、負傷者 1816名。

アメリカ軍は,1945年7月中旬に、マリアナ諸島サイパン島攻略が確実になると、7月21日グアム(大宮)島、7月23日テニアン島に上陸してきた。ここでも、大多数の日本軍将兵は殲滅され、日本民間人が犠牲になった。上陸から20日とたたない8月初旬のうちに、両島の攻略は完了した。しかし、日本軍は、1944年9月30日大本営発表で、テニアン島とグアム島日本軍守備隊は「一兵に到るまで、勇敢力闘したる後、遂に9月27日までに全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む」「両島在住同胞また終始軍の作戦に協力し全員輪が将兵と運命を共にせるもの如し」と発表した。1ヶ月範囲上も組織的抵抗を続けたような発表には、戦略的な深謀遠慮というより、参謀本部の体面を取り繕っているようにすら思えてくる。


写真(上):テニアン島米陸軍航空隊将校用居住区画(テント)と航空機搭載用の救命ボートの倉庫
:Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-US Invasion 引用。


米軍は、1944年7月23日にテニアン島に上陸を開始し、直ぐに飛行場を占領してしまう。飛行機格納庫は、破壊されていたが、滑走路、司令監視塔、いくつかのコンクリート製建物を接取した米軍は、再使用している。まるで、米軍のために航空基地を整備したようなものである。

米軍は、接収から1週間後にはB29の試験的運用を開始している。
テニアン島北部の飛行場を接収した後、大幅に拡張し、「ノースフィールド基地」(北飛行場)となった。これが、日本本土を空襲したB-29爆撃機の使用した航空基地である。1945年8月には、ここから広島と長崎に原爆搭載機が飛び立った。

グアム島にも海軍シービーズ建設部隊が進出して,B-29爆撃機が使用できる大滑走路を備えた「ノースフィールド基地」(北飛行場)を完成させている。


写真(左):テニアン島市街の本通り
:1944年までは、日本の民間人、現地チャモロ人も空襲も受けず、生活することができた。Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-US Invasion 引用。


平坦なテニアン島全体が、米軍の大規模航空基地に生まれ変わった。平坦な島は、航空基地の島となり、日本本土空襲を行うB-29「スパーフォートレス」重爆撃機の発進基地となった。原子爆弾を投下した二機のB-29もテニアン島北飛行場を飛び立っている。

現在、米軍管理地はテニアン島北部と中央部一帯を含み、島の三分の二を占める。管理地は米軍基地ではなく、原爆搭載機も発進した「ノースフィールド基地」跡地である。米軍が軍事演習に来ていない時は、出入りは自由であるが、管理地の開墾、建物の設置などは、許されない。米軍基地準備用地あるいは戦跡記念として、リザーブされていると思われる。

現在米国領のグアム島「ノースフィールド基地」(北飛行場)とならんで、テニアン島「ノースフィールド基地」が復活すれば、中部太平洋で、米軍は沖縄と同じ規模の航空基地を手に入れることになる。

B-29は偵察機として、1944年11月1日、初めて東京に進出した。これは、1942年4月のドーリットル空襲(Doolittle raid :空母にB-25爆撃機を搭載しての日本本土空襲攻撃)以来、2年半ぶりのことである。


写真(右):テニアン島の「フォトショップ」(航空部隊写真部)
1944年8月ごろ撮影。米国退役軍人とその家族のwebには、貴重な写真が多数掲載されている。このような写真情報部があって、日本空襲の成果や米軍部隊の活躍を記録していた。それが、個人所蔵をへて世界に公開されている。:Ray Martin Family Hages-Tinian Island WW?-US Invasion 引用。


現在でも、テニアン島の米軍上陸海岸White 2には、日本軍のトーチカpillboxがあり、ウシ岬飛行場Ushi Point Fieldには、海軍航空隊作戦司令部、防空壕が残っている。また、北飛行場North Field には、B-29用の滑走路と誘導路が残っている。

8.マリアナ沖海戦での空母艦隊決戦代敗北、マリアナ諸島陥落の第一の意味は,日本本土への空襲が本格化したことである
 1945年4月には、米陸軍航空隊第20爆撃兵団のB-29爆撃機は、中華民国四川省成都、インドベンガル州カルカッタ近郊の航空基地を整備し、1944年6月15日には、成都を飛び立ったB-29爆撃機75機のうち47機が北九州八幡製鉄所を爆撃した。しかし、出撃に要する燃料や爆弾をインドから中国にまで空輸する「ハンプ越え」をしなければならず、爆撃継続は困難であった。そこで、より日本本土に接近しており,海上輸送も容易なマリアナ諸島が攻略されると、そこがB-29爆撃機の主要基地となり、日本本土空襲が本格化した。


写真(右):1944年7月14日,ビルマ方面で日本軍陣地を占領したアメリカ軍兵士:インパール作戦の開始直前,1944年3月,北ビルマを英軍チンディッツ特殊部隊が挺進攻撃した。インパール方面で日本軍が敗退した7月には,ビルマのミイトキーナを陥落している。Pfc. Hugo J. Wagner (left), Ferdernan, Indiana, and Pfc. Albert W. Weaver, Mt. Vernon, N.Y., in a pillow which had been occupied by Japs a few hours earlier.: 07/14/1944 ARC Identifier 195922 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

1943年5月アリューシャン列島アッツ島玉砕以来,日本軍は守備隊全滅の大敗北が続く。それは,全て「玉砕」として,勇猛果敢な忠臣が,降伏することなく戦い抜いたとして,賞賛された。マリアナ沖海戦の大敗北とそれに続く1944年7月サイパン島陥落によって、B29による日本本土無差別爆撃が開始される。同じころ,インド侵攻インパール作戦も大敗した。戦場はいよいよ本土間近である。このような緊急事態に直面して,玉砕の延長線上に、神風特別攻撃隊が、正式に編成された。

写真(右):1944年8月11日、グアム島を奪還した太陽艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督。脇に立つのは、日本軍がグアム島のアウルト山頂に建てた木製の大詔奉戴記念柱(1942年7月8日)大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)は、戦争完遂を掲げて、日米開戦の日(1941年12月8日)の8日に因んで、宣戦の詔勅を記念するもので、毎月8日に設定された。大政翼賛が主導して、1942年1月2日に閣議決定、1月8日から実行された。大詔奉戴日の趣旨は「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」ということである。大詔奉戴日の式典として、国旗掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、詔勅や勅語の奉読などが行われた。グアム最高峰はラムラム山(標高406m)で、スペイン統治時代には山頂で火を燃やし、灯台として船の航行を助けたという。ラムラムとはチャモロ語で稲妻の意味。
Title: Admiral Chester W. Nimitz, CinCPac, Caption: Admiral Chester W. Nimitz, CinCPac, poses with a Japanese monument atop Mt. Aulton, Guam, on 11 August 1944, after the island's recapture. Inscription reads: "In commemoration of receipt of the imperial rescript, July 1942". Description: Catalog #: 80-G-248047 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Fri, Aug 11, 1944
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-248047 Admiral Chester W. Nimitz, CinCPac, 引用。


1944年11月以降、第21爆撃兵団XXI Bomber Commandを設置し,B-29爆撃機は、カリフォルニア州、ハワイ諸島を経由してマリアナ諸島サイパン島に終結し、日本本土に対する戦略爆撃を開始した。航空機工場などへの精密爆撃、都市無差別爆撃、日本各地の港湾・航路への機雷敷設まで、各種の戦略爆撃が行われた。日本本土空襲は、長距離出撃のために、高高度精密爆撃では2〜3トン、都市無差別低空爆撃では5〜6トンである。日本爆撃を実施した第21爆撃兵団にルメイCurtis LeMay司令官が就任すると、「戦争を早期終結させ、有意な米国の若者の命を救うために」都市無差別爆撃に拍車がかかった。1945年8月には、広島・長崎への原子爆弾投下の任務も完遂した。B-29爆撃機は大戦中の1943年9月から、ボーイング社、マーチン社などで、約2400機製造された。


写真(右):1945年,横浜空襲の被災者が集められた黄金町
;1944年11月24日の東京都武蔵野市の中島飛行機空襲以来,サイパン島やテニアン島から出撃したB29爆撃機が,連日のように本土を空襲した。1945年3月10日,米B29爆撃機340機が東京を大空襲し,死者10万人、負傷者11万人、家を失った者100万人に達した。B29爆撃機は,5月24日250機、翌25日250機が東京を再び大空襲した。写真は,Air Raid against Cities引用。


都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、あわせて家屋を破壊する。こうして,厭戦気分を高めて、戦意を挫き、政治的にも,戦争主導に支障をきたすことを企図していた。軍爆撃機搭乗員たちは,戦争を早く終わらせ、米国人の命を少しでも救うことができると考え、空襲している自分たちを大いに誇りにしていたようだ。

都市無差別爆撃では、労働者の住宅の密集する住宅地を標的に、軍需生産を担う労働者を殺害し、あわせて家屋を破壊し、家族を殺すことで、戦意を挫き、厭戦気分を高めることで、世論、政治的にも,戦争主導に支障をきたすことを期待した。留守宅を守るはずの家族の安否が気になるのであれば、出征している兵士たちも、戦争継続の意思が挫けてくるかもしれない。

写真(右):アメリカ軍陸軍航空隊(U.S. Army Air Forces)司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド(Henry Harold "Hap" Arnold)元帥(1886年7月25日 – 1950年1月15日)1938年陸軍少将、1941年7月、新編成された陸軍航空軍の司令官に着任。1943年3月19日陸軍大将、1944年12月21日史上5番目の陸軍元帥 General of the Army。National Leadership Foundation.org:VirtualMuseum引用。
1943年8月、アーノルド将軍は、日本空襲計画を立案し、都市への戦略爆撃を続けて、産業を破壊し、士気を砕くことを企図した。日本の木造家屋に対して、焼夷弾攻撃が有効であると考えた。1944年8月、マリアナ諸島に基地を置く日本本土空襲部隊の第21爆撃集団司令官にヘイウッド・ハンセル准将を任命した。それまで、アメリカ陸軍航空隊は、中国内陸の成都からボーイングB-29爆撃機によるタイ、満州、九州への爆撃をしていた。それは、インドから中国の成都近郊の航空基地に燃料、爆弾を空輸するハンプ越えという補給に難点があった。そこで、成都からの日本空襲をやめ、マリアナ諸島からの日本本国羽州に一本化を図った。ボーイングB-29爆撃機は、マリアナ諸島に集結し、本格的な日本本土空襲を1944年11月23日から開始した。しかし、マリアナ諸島から日本本土までの長距離爆撃は、途中の天候・気象条件の変化に即応することが難しく、高高度からの航空機工場などへの精密爆撃は、命中精度が低かった。1945年1月20日、第21爆撃集団司令官をヘイウッド・ハンセル准将をカーチス・ルメイ少将に交代させた。ルメイは、1942年9月から1943年5月までイギリスで、対ドイツ戦略爆撃に参加した爆撃屋で、対日爆撃では、低高度からの都市無差別夜間爆撃を開始した。

都市には婦女子、児童・乳幼児まで住んでおり、彼らも爆撃によって殺される。上空にいる米軍爆撃機搭乗員は、爆撃されて殺されり、負傷させられたりした日本の市民を見ていない。

 しかし,米国の爆撃機搭乗員やその指揮官たちは、真珠湾をだまし討ちにして、戦争を仕掛けてきた日本人、米軍捕虜を虐待、殺害し、アジアの人々の財産を奪い、恐怖で支配した日本人との認識から、都市無差別爆撃を報復と考えた。

戦争を早く終わらせ、米国兵士の命を少しでも救うことが使命、任務であると認識し、爆撃をすることを大いに誇りにしていたかもしれない。

長崎に原爆を投下したB-29「ボックスカー」号スウィニー機長は、戦後、退役軍人教会の会長にもなり、1995年のスミソニアン航空宇宙博物館The Smithsonian's National Air and Space Museumでの原爆50周年展示計画について、被爆者の写真など原爆の投下に疑問を抱かせる展示を認めなかった。米国議会も、原爆投下の正当性、投下した米国が加害者であるとの「誤解」を認めなかった。

⇒●B-29爆撃機による日本本土空襲と原爆投下を詠む。

表2 日本本土空襲による死者数の推計(空襲死者数全国調査)

推計機関

空襲による死者総計

通常爆撃による死者

原爆による死者

死者合計

構成比

東京区部

東京以外

広島死者

長崎死者

死者合計

構成比

経済安定本部(1949)

299,485

197,583

66.0%

95,374

102,209

78,150

23,752

101,902

34.0%

建設省戦災復興史(1957)

336,738

184,575

54.8%

91,444

93,131

78,150

74,013

152,163

45.2%

戦災都市連盟(1956)

509,734

175,130

34.4%

94,225

80,905

260,000

74,604

334,604

65.6%

第一復員[陸軍]省(1957)

238,549

182,692

76.6%

93,056

89,636

42,561

13,296

55,857

23.4%

米国戦略爆撃調査団(1947)

252,769

168,096

66.5%

93,056

75,040

71,379

13,294

84,673

33.5%

東京新聞(1994)

558,863

224,635

40.2%

115,000

109,635

260,000

74,228

334,228

59.8%

出所)激しい空襲(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub59kuushyu.htm)より作成。

本土空襲の死者数は、推計機関により大きな差異がある。これは、調査期日、推計方法、原爆による死者数などについて、正確な把握が困難なため生じたものと指摘されている ⇒●マリアナ諸島からの都市無差別爆撃:B-29爆撃機による大量破壊と大量殺戮を詠む。

9.マリアナ沖海戦の敗北、マリアナ諸島島陥落の第二の意味は,体当たり自爆攻撃、「神風特攻隊」など特攻作戦の開始である。
 日本海軍は、空母機動部隊を再編成して、正面から米空母任務部隊に対抗することを諦めた。そこで、Z作戦計画を根本から見直して,特攻作戦が計画された。1944年10月20日,フィリピン レイテ戦で第一航空艦隊の「神風特攻」作戦が開始された。


特攻作戦の採用を巡っては,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話(俗説)が流布されている。しかし、神風特攻隊初出撃の3ヶ月前、マリアナ沖海戦の敗北,マリアナ諸島陥落を受けて、1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,特殊奇襲攻撃として各種の特攻兵器を開発し,特攻作戦を展開する計画を立てた。

また,「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,特攻隊戦果を確認した10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これらは,海軍上層部が,特攻を組織的,計画的に進めていた証拠である。大西瀧治郎中将は、神風特攻隊の上級司令官であるが、特攻作戦を計画・準備した「特攻隊生みの親」ではない。しかし、大西瀧治郎中将は「特攻隊生みの親」と祭り上げられ,事実上,特攻を行った軍人の責任を全て背負うことになった。

   ⇒▲「特攻の生みの親」大西瀧治郎の俗説を詠む。

写真(左):1944年10月30日、特攻機により損傷した空母「フランクリン」USS Franklin (CV-13)(右)と軽空母「ベローウッド」USS Belleau Wood (CVL-24);空母「フランクリン」は、排水量27,100トンのエセックスEssex級空母。第三艦隊の空母としてフィリピン攻略に参加し、10月15日に通常攻撃で軽微な損傷を受けた。10月30日、特攻機1機が体当たりし、乗員56名が戦死。修理のため米本土に回航。1945年3月に戦列に復帰したが、3月19日に再び特攻機の体当たりを受け乗員724名が戦死。パナマ運河を越えてニューヨークに回航され、そのまま終戦。1966年まで現役にあった。 Naval Historical Center

大西瀧治郎中将は,内地から第一線のフィリピンに来たばかりであり,それまで部隊を率いていない軍行政職である。大西瀧治郎中将は,神風特攻隊を発案したわけでも,特攻隊を時間をかけて編成,準備したわけでもない。そもそも,フィリピンで特攻作戦が開始されるよりも3ヶ月前,1944年7月21日には,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」を整備することが決定している。これらの特攻兵器の開発は,「神風特攻隊」出撃のはるか以前から行われていた。

軍隊の特徴として、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦の一環として体当たり特攻が採用されていく。そこには、体当たり自爆せよ、自殺攻撃をかけよといった直截的表現はないが、「奇襲」の名の下に、特攻作戦を展開しようとする意図が読み取れる。1944年7月21日、神風特別攻撃隊敷島隊、大和隊などが編成される3ヶ月前に、日本海軍の軍令部は、大海指第431号を発して、特攻作戦の準備を正式に開始する。
たとえ、大西瀧治郎中将が特攻作戦を個人的に発意,発案しても、特攻作戦を準備することは絶対にできない。軍の組織的,計画的な取り組みが不可欠である。

写真(右):軽空母「プリンストン」USS Princeton (CVL-23);1944/10/24,USS Princeton on fire east of Luzon, 24 October 1944。通常攻撃による撃沈であったため,翌日の関行男大尉たちの神風特攻の(護衛)空母「セントロー」撃沈という戦果の影に隠され,取り上げられていない。「大西中将の第一航空艦隊は特攻で大戦果を揚げたが,福留中将の第二航空艦隊は通常攻撃を行ったため,戦果を揚げられなかった」とも酷評されている。

1944年7月21日大海指第431号
作戦方針の要点は,次の通り。
1.自ら戦機を作為し好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
2.陸軍と協力して、国防要域の確保し、攻撃を準備。
3.本土と南方資源要域間の海上交通の確保。

作戦要領は次の通り。
1.各種作戦
?基地航空部隊の作戦;敵艦隊および進攻兵力の捕捉撃滅。
?空母機動部隊など海上部隊の作戦;主力は南西方面に配備し、フィリピン方面で基地航空部隊に策応して、敵艦隊および進攻兵力の撃滅。
?潜水艦作戦;書力は邀撃作戦あるいは奇襲作戦。一部で敵情偵知、敵後方補給路の遮断および前線基地への補給輸送。

2.奇襲作戦
?奇襲作戦に努める。敵艦隊を前進根拠地において奇襲する。
?潜水艦、飛行機、奇襲特殊兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める。
?局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める。


以上,フィリピン方面の捷一号作戦が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲作戦、奇襲特殊兵器・局地奇襲兵力による作戦という,事実上の体当たり特別攻撃を採用している。つまり,日本海軍の軍令部(大本営海軍部)という軍最上層部が特攻作戦を企画,編成したのである。
大元帥昭和天皇が奇襲作戦を命じたという形式はとっていないが,統帥権を侵犯するような特攻はありえない。日本軍(国軍)最高司令官の大元帥には,特攻作戦とその大戦果を知らされていた。

1944年10月、トーマス・キンケードThomas C. Kinkaid)中将(Vice Admiral)指揮下の第7艦隊に援護されアメリカ軍はフィリピン侵攻(Philippines Campaign (June 1944 - Aug 1945) を開始。第7艦隊は、戦艦6隻,重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦29隻に加え、スプレーグ(Thomas L. Sprague)少将隷下第77任務部隊に,軽空母・低速護衛空母18隻,駆逐艦22隻があった。さらに,フィリピン攻略のためのの陸軍地上部隊を輸送,揚陸する戦車揚陸艦LSTs (landing ships, tank) 151隻,輸送艦58隻,戦車揚陸艇LCTs (landing craft, tank) 221隻,上陸用舟艇LCIs (landing craft, infantry)79隻が配備されていた。

米軍は、まず10月17日、レイテ湾口のスルアン島に上陸。10月20日、艦砲射撃支援のもとに、Douglas MacArthur)将軍指揮下の米地上軍は、第6軍The U.S. Sixth Armyを主力、レイテ島東岸タクロバンとドラッグに上陸を開始。

写真(右):特攻隊員に訓示する第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将;1944年10月20日の初出撃から訓示や見送りが行われている。しかし,特攻隊員は3回出撃して,帰還している。

日本軍は、1944年10月19日、日本軍は捷一号作戦を発動し、その直後に、航空機に250キロ以上の爆弾を搭載して体当たり自爆する特攻作戦が始まった。

⇒◇海軍乙事件とレイテ沖海戦の神風特攻◇The Leyte Attacked & Kamikazeを読む。

生き続けてしまった,死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決,自殺など容易にできることではない。指揮官,司令官が終戦に際して自決していないからといって非難することはできない。しかし,特攻隊を編成した軍人が,参議院議員,大会社の顧問、政治顧問などに就任して,日本の戦後復興に尽くし,堂々としていたら,面食らう。

「自発的に体当たり攻撃を始めた」と軍上層部司令官・参謀たちが唱えるのは,特攻隊員の名誉と自己犠牲の精神に共感するためだけではない。軍上層部の要職にあった自分たちが,特攻しか有効な作戦を提供できないという,戦術的・戦略的な無力さ(無能さ)を認めることはできなかった。さらに,特攻を作戦として採用した責任をも回避したかったのかもしれない。

⇒◇特攻作戦の崩壊「沖縄戦の菊水作戦と航空総攻撃」を読む。

10.アジア太平洋戦争は,前線での戦闘だけではなく民間人の労働,兵器生産など後方・銃後も含めた軍民の戦いであった。

1944年7月,サイパン島を失った日本陸海軍は,米軍による本土空襲に恐れおののき,特攻兵器の開発・生産,特攻隊の編成を本格的に進めた。1945年4月末,沖縄戦の敗退が明らかになると,本土決戦を目指した全軍特攻化,「一億総特攻」を決定。死を賭して,守るべきは日本の国体である。

1945年1月25日、最高戦争指導会議で決定された「決戦非常措置要綱 」では、「物心一切ヲ結集シテ国家総動員----必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スル」とした。そして「作戦上ノ中核戦力トシテ--航空機並限定セル特攻」とした。

日本軍は,降伏・投降することを禁じていた。火力,航空兵力ともに米軍よりも遥かに劣っており,兵員数でも劣勢な日本軍は,「最後の一兵まで戦う」という鉄の規律を維持しなければ,優勢な敵に対して消極的になってしまう。捕虜になって生き残り,戦後の日本復興に尽くす道がある,ということは,降伏・投降を許すことであり,それは戦意を低下させ,軍を崩壊させる。つまり,捕虜となることは許されないのである。

1945年6月8日の御前会議出席者は,内閣総理大臣鈴木貫太郎,枢密院議長平沼騏一郎,海軍大臣米内光政,陸軍大臣阿南惟幾,軍需大臣豊田貞次郎,農商大臣石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣東郷茂徳,軍令部総長豊田副武,参謀総長代表参謀次長河辺虎四郎である。ここでは,「今後採るべき戦争指導の基本大綱」として,戦争完遂,本土決戦準備を決定した。

米軍によって,日本本土の諸都市が次々に焦土とされ,大量殺戮が繰り返された。他方,日本の軍部も政治家も,本土決戦,一億総特攻を叫んだ。終戦=日本降伏という認識から,誰一人として,連合国と和平交渉をすべきであるとは公言しなかった。国家・天皇への忠誠心が厚いのか,無責任なのか,鈴木貫太郎総理以下,みな徹底抗戦を当然のように主張した。


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