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◆特攻隊と学徒動員:知覧高等女学校勤労女子学生「なでしこ隊」
写真(上左):1944年12月以前、アメリカ、ルイジアナ州ニューオーリンズ、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)と水兵のダブルデート;左から2等信号士 Harold Howey、2等航空整備士Evalyne Olsen、3等パラシュート整備士Anna Welsh、1等パラシュート整備士Jackie Welsh。特攻隊員が轟沈しようとした敵艦船には、このようなアメリカの若者が乗っていた。特攻隊員は、彼らが祖国を蹂躙し、家族を苦しめる存在として憎悪していたのであろうか。前の撮影。
Title: "A Sunny Afternoon Stroll" Description: A Sunny Afternoon Stroll Personnel from Naval Air Station, New Orleans, Louisiana, on liberty in a Public Park. They are (from left to right): Signalman 2nd Class Harold Howey; Aviation Machinist's Mate 2nd Class Evalyne Olsen; Pharmacist's Mate 3rd Class Anna Welsh; and Pharmacist's Mate 1st Class Jackie Welsh. Photographed prior to December 1944. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-14393
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14393 "A Sunny Afternoon Stroll" 引用。
写真(上右):山口県下関市、小月飛行場にいた特攻隊員と女子学生Life掲載写真。山口県下関市の小月飛行場には、1944年7月、第十二飛行師団司令部が置かれ、西部地区防衛を担当。挺身隊として将兵の身の回りの世話(洗濯,裁縫,宿舎の掃除)や飛行機の整備、出撃の見送りに勤労動員された若者は、祖国と国民を愛し、犠牲的精神を持つ特攻隊員を尊敬し、英雄と見なしていた。純真な乙女と若者であったと思う。しかし、「敵」から見れば、特攻は、自爆攻撃であり、勤労学徒は、特攻隊を幇助するシンパとされてしまう。


写真(右)、アメリカ、ワシントンDCのジェファーソン記念堂を正装して訪れた左からアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の写真専科隊員とワシントンの桜;ジェファーソン記念堂は、1943年12月にジェファーソン生誕200年の4年間をかけて落成。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領。青銅製のジェファーソンの像が1階にあったが、今は堂内に移転。周囲に1912年に日本から送られた「ワシントンの桜」がある。日米戦争の最中、米軍の婦人部隊員たちと高等女学校から勤労奉仕に赴いた日本の女学生は、お互いを憎むべき敵であると意識したのであろうか。
Title: WAVE Specialist (Photographer) 3rd Class Description: Saluting, as she stands among the springtime cherry blossoms near the Jefferson Memorial, Washington, D.C., during World War II. Note her Specialist P rating badge. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-13754
写真はNaval History and Heritage Command80-G-K-13754 WAVE Specialist (Photographer) 3rd Class引用。

◆2015年11月21日,横浜市栄公会堂にて市民公開講座「戦後70年、あの戦争を語る」で「沖縄戦の実相−今に続くオキナワの課題はここに始まった」と題して講演。
◆2013年8月15日の一日間で835名のアクセスがあった。
◆2011年8月13日ヤフーニュース「元隊員が語る特攻艇『震洋』」に当研究室が掲載されました。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦の兵士・民間人の話を伺いました。
【石原慎太郎脚本/製作『俺は、君のためにこそ死ににいく』中国論評】に鳥飼研究室の議論が紹介された。日本だけでなく、世界でも特攻作戦に関心が高いことが窺われる。

特攻は、学徒動員があって初めて可能になった。未熟なパイロット(操縦者)や搭乗員を大量養成して,事実上,忠実な特攻隊に編成したのである。動員された特攻隊員たちの航空機や兵器を生産したのも,勤労奉仕の学生たちであった。
他方、戦争は学徒たち個々人の思いや夢を押しつぶすように進んでゆく。
冷徹な政治家・軍事指導者たちは、戦争が大量破壊、大量殺戮を意味することを冷静に受け入れていた。
個人の思いが戦争の支障に、反戦思想に結びついたり、倦厭気分が高まったりしないように、敵を憎悪するプロパガンダ、情報操作を行った。

「君が代の 只やすかれと ひたすらに いざやうちなむ 醜が戦を」
「天皇陛下のご安泰を一途に思います いざ、醜い敵を陛下の下僕である私が打ち払いましょう」
陸軍特別攻撃隊「第62振武隊」込茶章少尉(1945/4/6戦死)

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版「本書に収録しました特攻隊員の遺稿も私たちの手記も,戦争一色にぬりつぶされた当時の心のうずきをそのまま書きとめたものですから,今の時代とはずいぶんかけ離れていると思います。しかし,それもまた,いつわらぬ事実なのですから,明らかな誤記だけを訂正して掲載しました。------数ある太平洋戦争の大河の流れの一しずくとして,心ある方がもし拾いあげてくださるならば,これにこした喜びはございません。」(永崎[旧姓前田]笙子のまえがきより)知覧高女の校章は,なでしこの花だった。そこで,特攻隊に奉仕する勤労奉仕女学生の集団は「なでしこ部隊」(なでしこ学徒隊)とよばれた。
◆2011年8月6日,その1日だけで819人のアクセスがあり、戦後66年たっても特攻への関心が衰えていないことに感銘を受けた。
◆2008年9月20-21日の三日間で,本研究室へのアクセスが6100件を越えました。特攻・勤労女子学生への関心の高まりに驚かされました。
女性と戦争:労働力・兵士として動員
石原慎太郎新電影 美化「神風特攻隊」2007-03-01 中國時報:黃菁菁/東京二月廿七日電
神風特別攻撃隊:特攻第一号・特攻生みの親
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論

1. 1944年11月24日以来、日本本土はマリアナ諸島からの米軍重爆撃機B-29の都市無差別爆撃を受け,焦土と化した。特攻作戦は、本土空襲前、フィリピンのレイテ決戦で1944年10月から開始され、1945年3月以降の沖縄戦でも大規模に発動された。

図(右):1945年2月16-17日、アメリカ海軍第58空母任務部隊のエセックス級正規航空母艦「レキシントン」(USS LEXINGTON :CV-16)とそのカーチスSB2C-3ヘルダイバー"Helldiver"艦上爆撃機:ニューオーリーンズ"New Orleans"級巡洋艦と駆逐艦を随伴して、東京方面の攻撃に向かう途中の撮影。上空には、潜水艦、空襲を警戒するためか、ヘルダイバーを哨戒機として使っているようだ。
Title: Title: Carrier raids on Japan, 16-17 February 1945. Caption: Two USS LEXINGTON (CV-16) SB2C-3 "Helldiver" bombers fly over task force 58, enroute to Tokyo for their first raid on that city, circa 16 February 1945. Ships below include an "Essex" class carrier, a "New Orleans" class cruiser and a destroyer. Description: Catalog #: 80-G-397938 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Fri, Nov 16, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 397938 Carrier raids on Japan, 16-17 February 1945.引用。


1944年7月、米軍はマリアナ諸島を占領、11月24日以降、爆撃機ボーイングB-29による本土空襲を開始。第21爆撃機集団司令官にカーチス・ルメイCurtis LeMay少将は、1945年3月10日、東京大空襲を行った。沖縄戦が開始されたのは,本土大空襲の時期で,沖縄防衛戦よりも本土防衛が優先された。

写真(右):1944年7-8月頃、マリアナ諸島、グアム島に初めて飛来したアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-29 爆撃機の前に立つアメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ(Chester Nimitz)提督。後方の影は、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル (Haywood Hansell)准将:B-29 はそれまでの尾輪付き飛行機とは異なって、胴体機首下面に膠着装置を付けた前輪式である。乗員は、全員が与圧室に搭乗するために、防御用12.7ミリ機銃は、遠隔操作式の銃座だった。
Title: Fleet Admiral Nimitz Shakes Hands with the Crew of a B-29 Superfortress Caption: That was assigned to him as his personal World War II plane, and which carries his name on it, Guam, early 1945. Description: Courtesy of Fleet Admiral Nimitz Catalog #: NH 62982 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 62605 Admiral Nimitz Stands by One of the First B-29 Superfortresses 引用。


大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、特攻の自然発生説を主張した。しかし,「特攻自然発生説」には、次のような疑問が沸く。
?直ぐに死ぬべき状況にはない人間が、国に殉ずるために,残されるもの、家族のことを無視することはできない。
?特攻兵器を開発,生産することが、第一線の将兵にはできない。
?第一線将兵が命令なくして、天皇陛下から頂いた航空機を無断自爆させることはできない。
?軍隊という階級組織で、下級将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行できる権限,人員,機材はもっていない。

1944年10月20日,フィリピンレイテ沖海戦で第一航空艦隊の「神風特攻」が実施されたが,この作戦の採用を巡っては,第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの神話(俗説)がある。
しかし、神風特攻隊初出撃の3ヶ月前、1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ艇」による特攻を計画した。そして、特殊潜航艇「甲標的」「海龍」特攻専用機キ-115「剣」も開発した。軍が設計、製造し、部隊編成をした特攻隊を見れば,特攻が自然発生的に継続されたのではなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことは明らかである。

「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,特攻隊戦果を確認した10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これは,海軍上層部が,特攻を組織的,計画的に進めていた証拠である。

写真(右):大西瀧治郎中将;第一航空艦隊司令長官として神風特攻隊をフィリピンのルソン島から出撃させた。大西瀧治郎(1891年6月2日 - 1945年8月16日)は,1935年、海軍航空本部長山本から教育部長に指名。1942年3月 海軍航空本部総務部長。1943年11月、軍需省航空兵器総務局長。大西中将の一航艦司令としてのフィリピン赴任(1944年10月)3ヶ月前,1944年7月21日,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」など自爆特攻兵器の開発が海軍上層部で決定している。

特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(名誉会長 瀬島龍三)は会報第45号で、大西瀧治郎の思想を承けてとして、次のようにのべた。
 「命令によって初めて航空特攻を出したのは、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎である。彼が神風特攻隊を発進させた目的は、捷一号作戦の要をなす栗田艦隊レイテ湾突入を成功させる為、敵空母の甲板を使用不能にしようとするにあった。零戦に250キロ爆弾を載んで体当たりしたとて、空母を撃沈できる筈はない。一時的に飛行甲板を使用不能にするのが狙いだった。極めて合理的な考である。」(引用終わり)

軍司令官の下に、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦が採用される。自然発生的な部隊,統帥が及ばない部隊は、(敗走中の兵士集団以外)存在しない。つまり、現地将兵が勝手に特攻隊を編成することありえない。

軍上層部から「体当たり自爆せよ、自殺攻撃をかけよ」といった直截的命令はないが、1944年7月21日大海指第431号には「奇襲」の名の下に、特攻作戦を展開する意図が読み取れる。

1944年6月19-20日,マリアナ沖海戦大敗北、7-8月マリアナ諸島陥落と、マリアナ諸島の航空基地からB-29戦略爆撃機による日本本土空襲が危惧された。日本軍は,米空母任務部隊に打撃を与え、日本本土に接近を食い止めなくてはならない。

1944年7月21日の大海指第431号で、?敵艦隊を前進根拠地において奇襲攻撃する,?潜水艦、飛行機、奇襲特殊兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める,?局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める,とした。

◆フィリピン方面の捷一号作戦(カミカゼ特攻)が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲特殊兵器・局地奇襲兵力を基盤とした事実上の特攻作戦を採用した。

1945年10月25日,軍令部総長 及川古志郎大将が,本日,関行男大尉らがフィリピン戦で特攻し,護衛空母「セントロー」撃沈など大戦果を上奏したとき,大元帥昭和天皇は「そのようにまでせねばならなかったが。しかしよくやった。」とお言葉を発した。保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.51-52の引用する侍従武官吉橋の日記によれば,体当たり機の上奏を受けた大元帥昭和天皇は,最敬礼され,戦果を賞賛された。
軍統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないのであれば、天皇の赤子である兵士を勝手に死に至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に運用したことになる。これは、軍法違反(専権罪・叛乱罪)であり、軍令部総長,参謀総長は,処罰対象である。そうならないのは,日本軍司令官たちが忠誠を尽くし、特攻を大元帥に上奏していたからである。

写真右:1942年8月、アメリカの航空機製造工場で監査任務に就くアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員:大西中将も航空機量産の部署を担い、日本の勤労女子学生を、工場で働かせる動員に関与した。米国は,1944年に14万機の航空機を量産したが,女子労働者は、航空機工場で47万5000人,造船所で50万人も働いていた。リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると認識された。女子学生は、航空輸送搭乗員、航空機整備員、海軍婦人部隊WAVESなど軍専門職にも登用された。Formerly a sociology major at the University of Southern California, Mrs. Eloise J. Ellis (right) now "keeps 'em flyin'" at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas. She is a supervisor under civil service in the Assembly and Repair Department. It is her job to maintain morale among the women to help them solve housing and other personal problems. With her is Jo Ann Whittington, an NYA trainee at the plantContributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 August

1945年10月20日以降,神風特攻隊に出撃を命じた第一航空艦隊司令官大西瀧次郎中将の出陣挨拶:
「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。
従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。
自分は皆の努力を最後まで見届けて、(大元帥昭和天皇の)上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。しっかり頼む。」

死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決,自殺など容易にできることではない。自決しないからといって非難することはできない。しかし,特攻隊を編成した軍司令官・参謀が,参議院議員,大会社の幹部、政治顧問に就任して,堂々としていたら,面食らう。

「自発的に体当たり攻撃を始めた」と軍上層部司令官・参謀たちが唱えるのは,特攻隊員の名誉と犠牲的精神に共感するためだけではない。要職にあった自分たちが,特攻しか有効な作戦を提供できないという,戦術的・戦略的な無力さ(無能さ)を認めないからである。特攻を作戦として採用した責任回避ともいえる。


軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」。軍中央で神風特攻隊の編成や部隊名称が策定されていた。

「大海機密第261917番電」は軍令部作戦課(第一課)航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案、上司の承認を得て発信。(→戦史のウソ引用)

神風特攻隊の部隊命名は、1942年11月20日発表『愛国百人一首』からの引用である。『愛国百人一首』選定顧問は、内閣情報局第五部長、大政翼賛会実践局長、文部省社会教育局長、陸海軍省報道部長(平出英夫など)、日本放送協会業務局長、東京帝国大学教授(平泉澄など)、日本文学報国会会長徳富蘇峰、日本文学報国会理事など。(⇒文化人の戦争・特攻参照)

2.アメリカ軍は、1945年3月26日、南西諸島慶良間列島に上陸し、4月1日には、沖縄本島に上陸した。この時、,日本海軍による菊水作戦,陸軍による航空総攻撃が始まった。「神風特攻隊」は、本来、海軍の名称であるが、現在、内外で特攻隊の総称として使用されている。沖縄への特攻は、九州南部の航空基地を拠点に実施された。日本陸軍の特攻前進基地が、知覧、万世である。日本海軍の特攻前進基地は、串良、鹿屋であった。知覧で、特攻おばさん、特攻の母として、若い特攻隊員の世話をやいたのが、軍用食堂「富屋」鳥濱トメである。

  写真(右):1945年3-5月、沖縄を砲撃するアメリカ海軍ニューメキシコ級戦艦「アイダホ」(USS IDAHO (BB-42))と巡洋艦「ソルトレイクシティー」(USS SALT LAKE CITY)(右遠方) :3月25日に沖縄本島沖に到着した戦艦「アイダホ」は、沿岸の日本軍陣地を艦砲射撃した。沖縄本島への上陸は4月1日。4月12日、多数の日本軍特攻機の攻撃を受け、損傷し、戦線離脱、応急修理。修理を終えた後、5月22日から沖縄本戦線に復帰。歩兵揚陸艇(ロケット砲艦)USS LCI(G)や駆逐艦も沖縄の沿岸部を支援砲撃し、沖縄の日本軍兵士・民間人から見れば雨のような砲弾が降った。日本では「鉄の暴風」と呼んで恐れた。
戦艦「アイダホ」(USS IDAHO (BB-42))は、1919年 3月24日就役の旧式戦艦だが、1931年9月30日からノーフォーク海軍工廠で近代化改修に着手、1934年10月9日に完了。基準排水量3万3,400t、満載排水量3万6000トン、全長 190.20m、全幅32.39m 最高速力21kts、兵装:50口径14インチ(35.6cm)三連装砲4基12門、38口径5インチ(12.7cm)砲10門、40ミリ機関砲40門、20ミリ機銃40門。
Title: Okinawa Invasion, March - May 1945. USS IDAHO (BB-42) fires on Japanese positions Caption: Okinawa Invasion, March - May 1945. USS IDAHO (BB-42) fires on Japanese positions, during the Okinawa Operation. Among the others bombarding ships is USS SALT LAKE CITY, in right distance. Description: color Catalog #: 80-G-K-5751 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command 5751 Okinawa Invasion, March - May 1945. USS IDAHO (BB-42) fires on Japanese positions 引用。


◆沖縄タイムス2017年9月20日「チビチリガマ荒らし:「悪ふざけ」反省と後悔の弁 歴史知らない少年も」 08:19には、次の記事がある。
72年前の沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」が起き、85人が犠牲になった沖縄県読谷村波平のチビチリガマが荒らされた事件で、少年らは「悪ふざけだった」とした上で、「大変なことをした。反省と後悔でいっぱいです」などと供述していることが19日、嘉手納署への取材で分かった。同署によると、チビチリガマの歴史を知らない少年もいたという。少年らは「肝試し」でガマに入り、その様子を動画で撮影していたという。現在までに動画の流出は確認されていない。
 同署は少年らが関与したとの情報提供を基に、本島中部に住む16〜19歳の無職と型枠解体工の少年4人を特定し、15日に器物損壊の容疑で逮捕した。チビチリガマの看板2枚や額1枚、千羽鶴4束を損壊した疑い。(「チビチリガマ荒らし:「悪ふざけ」反省と後悔の弁 歴史知らない少年も」引用終わり)

写真(右):1945年4月1日、沖縄本島、読谷村の西海岸Hagushi Bearchに上陸作戦を展開するのアメリカ海軍歩兵揚陸艇(ロケット砲艦)USS LCI(G) Landing Craft Infantry -809と海岸に殺到する水陸両用装軌式トラクターLVT(Landing Vehicle Tracked)の群れ :歩兵揚陸艇(ロケット砲艦)USS LCI(G)とは、本来、歩兵を乗せ上陸作戦に使う舟艇だが、歩兵搭載スペースを改造して、ロケットランチャーを搭載、上陸前などに海岸にロケット弾を浴びせる支援艦としたもの。
歩兵揚陸艇(ロケット砲艦)USS LCI(G)-809諸元
1944年9月12日就役
排水量 246 t.(軽量), 264 t. (上陸時), 419 t.(満載時)
全長 158' 5"、ビーム23' 3"
最高速力16 kts
兵装:40ミリ機関砲2門、20ミリ機銃4門、12.7ミリ機銃6丁
MK7ロケットランチャー10基。
Title: Okinawa Invasion, April 1945 Description: LVT amphibious tractors move past USS LCI(G)-809 (center), bound for the Okinawa landing beaches, 1 April 1945. Photographed from USS West Virginia (BB-48). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-3850
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-3850 Okinawa Invasion, April 1945引用。


1945年4月1日、沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、大きな抵抗を受けることなしに、内陸部へ侵攻し、直ぐに読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)と嘉手納飛行場(陸軍沖縄中飛行場)を戦勝してしまった。1945年3月26日、慶良間列島に上陸した時、アメリカ海軍軍政府布告第1号(ニミッツ布告)がでたが、これによってアメリカ軍の沖縄占領地は、軍政の下に置かれることになった。アメリカ軍は、沖縄で日本軍に敗退するとは想定しておらず、占領後の軍政の準備までしていた。日本軍は、ここで米軍に打撃を与え、それを契機に和平交渉しようとした。あるいは、本土決戦の戦備を整える時間稼ぎをしようとしていた。

写真(右):1945年4月3日、沖縄、読谷村に上陸したアメリカ軍の戦車揚陸艦LST、中型揚陸艦SM。左は戦車揚陸艦USS LST-552。中央はLCT-1270とLSM-31、右から2番目は LST-776
Title: Okinawa Operation, 1945 Caption: LSTs and LSMs on an Okinawa beach with a crowd of other amphibious shipping offshore, 3 April 1945. USS LST-552 is at left. In center are LCT-1270 and LSM-31. LST-776 is second from right. Photographed from a USS TULAGI (CVE-72) plane. Catalog #: 80-G-339236 Copyright Owner: National Archives Original Creator: Original Date: Tue, Apr 03, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5092 Fleet Admiral Chester W. Nimitz, Cincpac/cincpoa -cntr-.引用。


1945年4月6日、日本の連合艦隊は「菊水一号作戦」と称し、大規模な特攻を開始。一部の特攻機は,商船にも特攻したがし,米国商船の被害一覧によれば、沖縄方面での特攻による商船撃沈・全損は3隻。沖縄戦の米国の損傷商船数は24隻,うち死者が出た船は10隻。

写真(右):知覧の富屋食堂;鳥浜トメと特攻隊員との交流や悲話のあった軍指定食堂「富屋食堂」が、2001年10月に外観は当時のまま、内部は資料館として復元。

陸軍特攻基地「知覧」(ちらん)
1941年12月の日米開戦直後、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教所が開校。1942年に陸軍の陸軍少年飛行兵10期生受け入れ。学徒出身の特別操縦見習士官を含む操縦訓練学校となった。

特別操縦見習士官制度(1943年創設)は、航空機搭乗員を急速養成する制度。師範学校、専門学校、高校、大学に在学した者を入隊させ、曹長の階級を与え幹部候補とした。「特操一期生史」によると、合計四期の特操入隊者8000人。一期生任官者2386人のうち、668人が特攻などで戦死。

陸軍特攻隊員の遺書:靖国神社編(1995)『散華の心と鎮魂の誠』展転社 引用
「指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞ楽しき」伊舎堂用久大尉(陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」1945/3/26戦死)。

「生まれ出る子 お父様は特攻隊長として敵艦に飛行機と共に衝突命中米英ともに打ち滅ぼします。年少にして父と別れたがお母様は本当により母でありお父様と同じ心なのだからよくお母様の教えを守りよい子になるんですよ。病気をせずにお父様の幸福の裡にお前たちと別れます さようなら」片岡喜作中尉(陸軍特別攻撃隊「第81振武隊」1945/4/22戦死)。

「我行カム 唯ダ一途ニ誠心ニ 散リテ花咲ク 学鷲ノ魂」坂内隆夫大尉(陸軍特別攻撃隊「第54振武隊」1945/5/25戦死)


特攻隊員の遺書には、敵撃滅の意思を表明したものが多い。しかし、死ぬ運命にある特攻隊員たちは、何も恐れることなく、心のうちを全てさらけ出したと単純に割り切ることはできない。大切な家族、友人たちに、一切の迷惑、心配をかけてはいけない。彼らを悲しませ、失望させるわけにはいかない。このように熟考した真摯な特攻隊員たちは、家族、友人が、遺書の行間に思い汲み取ってくれることを切に願ったであろう。

私の8・15<12>陸軍特別操縦見習士官制度 船木英示さん 「何で僕だけが生き残ったのか」西日本新聞2005/8/4付 朝刊掲載
僕は特攻の出撃命令を三回受けた。でも、出撃できなかった。一回目は離陸体勢にまで入っていたのに、トラックが滑走路に飛び出してきて、叫ぶんだ。「本日の攻撃は中止だ」って。
 最後の命令は一九四五年八月十四日、熊本・菊池飛行場で「十七日の沖縄特別総攻撃に参加せよ」と言われた。でも、翌日に玉音放送。言葉が難しくて、ほとんど意味が分からなかったけど、「戦争が終わった。負けたんだ」とは伝わった。おったまがったよ。今さら降伏なんか、って気持ちだった。一人で出撃しようと、急いで特攻服に着替え、愛機に走った。ところが、もう操縦かんが引き抜かれていたんだ。やりきれなくてねぇ。竹やぶに入って軍刀を振り回したよ。
 ---学徒動員で福岡高商(現在の福岡大)を繰り上げ卒業し、四三年十月一日に大刀洗陸軍飛行学校・目達原分校に入校した。同期の五十人のうち四十数人は戦死し、生き残りもみんな亡くなり、もう僕だけになった。
 何で僕だけが生き残ったんだろう?って今も考えることがあるね。一つ思うのは、たまたま飛行機乗りとしての素質が認められ、操縦を指導する側に回ってしまったことだ。三回も出撃命令を受けたのに、実際の出撃は後回しにされてしまったんじゃないか、と。
 終戦後は、魚市場、造船所、と職場を転々としたけど、「亡くなった連中の分も」と思って頑張ってきた。みんな前途のある連中ばかりだったんだよ。代弁して僕から一つだけ言いたい。戦争は要するに人と人が殺し合うこと。二度とやっちゃだめだ。そして、命を大切にしてほしい(引用終わり)。

沖縄方面の米軍を迎撃するには,九州南端に航空基地を整備する必要がある。こうして,鹿児島県に整備されたのが,陸軍の(川辺郡知覧町)知覧飛行場,(加世田市)萬世基地,海軍の鹿屋飛行場,串良飛行場など,九州南部の航空基地である。南西諸島の徳之島飛行場もつくられた。

知覧の富屋食堂は,1929年(昭和4年)、鳥濱トメ27才の時に開かれた。普段は、うどん・そば・どんぶりもの、夏場は、かき氷なども出し、繁盛する。トメの気さくな性格と食堂の家庭的な雰囲気に惹かれ、後1942年に最初の少年飛行兵10期生が到着したとき、鳥浜トメは隊員を我が子のように面倒をみた。隊員達も「お母さん」と呼ぶようになった。戦況は悪化し、1945年、知覧からも特攻機が出撃。

写真(左):特攻隊員宮川三郎軍曹(19歳);宮川は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃。その夜富屋食堂にいたトメと娘たち、出撃前の隊員たちは一匹のホタルを見て「同期の桜」を歌い、涙を流した。幽霊になって還ってきても中に入れてね,といった隊員もいた。

写真(右):赤羽礼子・石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』;宮川軍曹出撃の話がのっている。軍の指定食堂の鳥濱トメ、長女鳥濱美阿子、次女鳥濱礼子と特攻出撃する少年飛行兵との交流、戦後のアメリカ兵の母の話など、特攻の内面が伝えられる。

知覧富屋食堂には,若い特攻隊員から母のように慕われた鳥浜トメの次の話が残っている。

新潟県出身、長岡工業学校卒業の宮川三郎が特攻隊出撃後に蛍になって,世話になった鳥浜トメの元に戻ってくる話は,鹿児島県の知覧陸軍飛行場近くの富屋食堂でのことある。

知覧飛行場で出撃を待つ特攻隊員は,富屋食堂に出入りし、42歳の女主人鳥浜トメを母のように慕っていた。トメは,死に行く特攻隊員のために優しく甘えさせたようだ。1945年6月5日,宮川三郎軍曹20歳の誕生日を鳥浜トメは心づくしの料理で誕生日を祝い,明日に控えた特攻出撃の餞(はなむけ)とした。

途中、空襲警報が鳴り、みなで防空壕に避難し,そこから出てきたときにいった。「母さんお世話になりました。お国の為に、見事に散ってまいります。そして、私はホタルとなって、母さんのもとに帰ってまいります。ホタルを見たら私だと思ってください。」といったという。

6月6日の宵になって,特攻隊員で賑わう富屋食堂に一匹のホタルが舞いこんで来た。それを見つけたトメは「宮川さんが帰ってきた」と叫び,泣いた。(→赤羽礼子[トメ次女]石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』

戦死した特攻隊の若者も、体当たりされ戦死した米海軍の若者も、平和な時代であったなら、よき友人、ライバルになったかもしれない。敵国となり戦争となったために、お互いが殺しあう羽目に陥った。特攻隊員も、米国の若者を殺害するといった意識はなかったであろう。米海軍の若者も、若い特攻隊員と交歓し、話し合う機会があれば、テロリストとは感じなかったであろう。

 鳥浜トメは,古いアルバムを持っていたが,ほとんどの写真がはがされている。これは,戦後になった知覧を訪れた特攻隊員の遺族が写真を乞うたためである。
特攻隊員は,自分の写真をもっていたり,撮ったりしたが,出撃に当たって,トメに預けたのであろう。隊員が,写真を故郷に送ることも,出撃基地も家族にも知らせること軍事秘密として禁じられていたからである。
残っている写真は韓園と台湾出身者のものが多い。遺族の手に届かない写真があることを,鳥浜トメは気にかけていたという。

現在,陸軍特攻隊の出撃の地には,知覧特攻平和会館,鳥濱トメ・長女鳥濱美阿子・次女鳥浜礼子 のいた富屋食堂(ホタル館)がある。

写真(左):知覧の富屋食堂の鳥濱トメと特攻隊員;鳥浜トメ・礼子のいる軍指定食堂「富屋食堂」で,知覧の特攻隊員は,一人の若者として最後のときを過ごした。礼子さんは、2005年に亡くなった。

第32回江戸東京博物館友の会セミナー2005/7/20 戦後60年「ホタル帰る」鳥濱トメと知覧特攻隊員の物語―講師 赤羽礼子さん
当時、赤羽さんは14歳、女学校の3年生でした。赤羽さんは「冨屋」という軍指定の食堂を営んでいた鳥濱トメさんの二女です。トメさんは片道の燃料と50キロ爆弾を飛行機の底に積んで敵の航空母艦に体当たりしていく若き兵士たちの母親のような存在でした。まだ17歳くらいの兵士たちは「おばちゃん」と呼んでトメさんを慕い、出撃前夜には「おばちゃん、明日、見送りにきて」と頼み、トメさんは見送りに行ったりもしていました。
 「ホタル帰る」は、特攻前夜に20歳の誕生日を迎えた宮川軍曹の話です。宮川軍曹の誕生日を知ったトメさんは、 彼の親友の滝本軍曹を呼んで、赤飯と煮しめでお祝いをしてあげました。明日は二人とも飛び立つのです。宮川軍曹は何時までも故郷の話しをしていたそうです。帰る前に宮川軍曹は「明日の夜9時に二人でホタルになって帰ってくるから戸を開けておいてね」と頼んだのです。翌日は大雨で視界はゼロ。滝本軍曹だけは生還してきましたが、宮川軍曹は開聞岳の向こうへ飛び去ったままでした。
 その夜9時に、赤羽さんたちが入口を開けると1匹のホタルが入ってきたのです。「冨屋」に居合わせた隊員たちは皆で「同期の桜」を歌っていました。終戦後、滝本軍曹は2週間かけて宮川軍曹の墓参りをした後、自宅で命を絶たれました。
 特攻隊員たちは、もっともっと生きたかったでしょう。やりたいこともたくさんあったはずです。2度と戦争という悲劇を起こしてはなりません。トメさんは、死を目前にした何人もの人たちに安らぎの手を差しのべて、90歳で世を去りました。

写真(右)1944-1945年、アメリカ、アイオワ州オタムワ、海軍航空基地、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)のパラシュート3等整備士Lorna Petersonがボーイング(Boeing)N2Sステアマン(Stearman)海軍練習機の飛行オリエンテーションに臨む。前席に座ったパイロットは、Keith W. Sharer中尉。:1934年に初飛行のボーイングPT-13ステアマン、ボーイングPT-17ステアマンを海軍仕様に改修したのが、ボーイングN2Sステアマン海軍練習機。陸海軍あわせて、1万機以上が生産され、長らく初級練習機として使用された。アメリカ陸軍航空軍の採用したボーイング・ステアマン初級練習機は、エンジンの種類により概ね3区分され、6000機以上生産された。アメリカ海軍航空隊の採用したボーイングN2Sステアマン初級練習機も同様で、4000機以上生産された。特攻隊に奉仕した知覧高女の女学生は、誰一人として、飛行体験などしたことがなかった当時、アメリカ軍航空部隊では、パラシュート整備士に飛行体験までさせていた。
Title: Parachute Rigger 3rd Class Lorna Peterson, USNR(W) Description: Climbs out of the after cockpit of a Stearman N2S training plane, following an orientation flight at Naval Air Station, Ottumwa, Iowa, circa 1944-45. The pilot is Lieutenant (Junior Grade) Keith W. Sharer, USNR, a flight instructor at the Station. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-14309
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14309 Parachute Rigger 3rd Class Lorna Peterson, USNR(W) 引用。

写真(右):1944年4月-1945年夏、茨城県、陸軍鉾田飛行場、九九襲撃機の前に並んだ女子挺身隊の女性補助整備員よもやま日記:「古い本棚を整理していたら平成6年に発刊された農協の合併30周年記写真集の中から、珍しい しかも貴重な写真を発見した。このまま本棚に埋もれてしまっては勿体無いのでUPします。表題と写真だけでしたので、私が解説を付け加えました」とある。「この女子挺身隊員は、太平洋戦争末期、昭和19年4月頃から翌20年の終戦のときまで、銚子陸軍飛行場に学徒動員をされ、飛行機の整備をされていた方々で、市内の女学校の生徒さんですが。現在生存されている方ですと79歳?、 あ! 家のお婆さんだ! お母さんだ!私だ! と言われる方もあると思います。銚子陸軍飛行場では、整備工員と兵員は、99軍偵察機を、女子挺身隊は、98直協、3式指揮連絡機の整備にたずさわっていたと、言われています。 夏は灼熱の飛行場,冬は痺れるような寒気と闘い、オイルに塗れ奉仕されていた皆さんご苦労様でした。」「銚子陸軍飛行場は、銚子市春日台にあり 600m×800m位の小さな飛行場で、昭和11年に下志津陸軍飛行学校分校として造られたもので、昭和19年中頃より教導飛行団と改変され、必要があれば作戦行動をするようになり、昭和19年11月初旬、特別攻撃隊、八紘石腸隊が出撃しております。 (特攻隊は、海軍ですと神風特別攻撃隊、陸軍は特別攻撃隊と言いました。)このうち1機が 超低空で市内に別れを告げたとき、銚子飯沼観音の銀杏の木にぶつかり墜落炎上すると言うハプニングもありました。」
写真はよもやま日記:貴重な写真を発見(2006/4/23(日) 午後 0:30)「銚子陸軍飛行場 女子挺身隊」引用。


『特攻』第29号14頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」鳥濱礼子の手記では、知覧飛行場の特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている。

「皆さんさようなら。僅かな時間で急いでかいています。
私たちは何時までも知覧にいたいのですが上からの命令でいたし方ありません。私達の事は死んでも忘れないで居てね。花の都の靖国神社に先に行っております。席も私達の横にちゃんと空いておりますよ。皆さんも死んだら靖国神社だね。いいなあ。敵を徹底的に撃滅するまでは死んでも死ねないからね。
皆さんたちとこの知覧で愉快に過ごしたことは一生忘れません。

吾身はたとえ此の世を去らんとも、乙女心で咲いてくれ。
---かわいいマスコット、見れば忘れはせぬよ、知覧の町。
まずい文ね。頭がいたくて文なんてつくれないよ。
愈愈明日は出発です。お元気でね。皆さんたちの御健康をお祈りしています。出撃のときは知覧の上空を飛んで行きますから送ってね。私たちもいざという時は喜んで死んで行きます。
ではさようなら。くれぐれも御身大切に。
  光男より」
稲田光男(18歳)は、1945年5月10日戦死。

水口文乃 (2007)『知覧からの手紙』 結婚直前に知覧に派遣された穴沢利夫少尉から、婚約者の伊達智恵子さんへ手紙を収録。「智恵子 会いたい、話したい、無性に」これは,知覧高女なでしこ隊の勤労奉仕女子学生に密かに託され,婚約者の手元に届いた手紙であり,公式発表された検閲済みの「遺書」や最後の言葉とは,異なる側面を持っている。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(こうさか じろう)(1985)『今日われ生きてあり』新潮社
(1927年和歌山県生。昭和57年日本文藝大賞受賞)

 昭和五十七年の夏、その開聞岳をふたたび眺め、知覧を訪ねた。三十七年ぶりの知覧への旅であった。 戦後、いままでも幾度か訪ねたいと、渇くような思いをもっていた。その思いをもちながら、なぜか心の裡に躊躇うものがあった。戦争で死ななかった者の、後ろめたさ、悔恨の念なのであろうか。

 知覧。薩南の涯の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過した町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。

 ----鹿児島市内から---と旧谷山街道に車を走らせながら福元は、訥々(とつとつ)とした話ぶりで彼自身の終戦を語る。
 「あれァ敗戦のときの九月ンじゃった。これでもう日本軍の飛行は終りという日、済南の飛行場の上空で、先輩の少飛[少年飛行兵]四期の飯田中隊長が九九双軽で、宙返りから何からみんなやってみせた。それァ見事なもンじゃった。私ゃそれを、いまでもようく覚えちょる」。

 ----町の表情は明るくなっていた。往還は舗装され、左右に建ち並ぶ家々も新しく装いを変えていた。橋の袂にあった軍用旅館の永久旅館はコンクリート造りのモダンな、自動ドアのついた食堂 「味処えいきゅう」になり、内村旅館は木造モルタル造りになり、当時の女主人たちの姿はすでになかった。所有者も変っていた。飛行兵たちが外出のたびに通 った軍用食堂の「富屋」も、大きな富屋旅館も新築されていた。飛行兵たちがよく利用した私鉄、南薩鉄道は廃線になり、知覧駅の古ぼけた駅舎だけがぽつねんと立ちつくしていた。

 知覧の町で、当時の面影をのこしているのは、旧鹿児島街道に建ち並ぶ-----武家屋敷群と、それを縦横に結んだ小路----のたたずまいと、軍用旅館を発って出撃する隊員たちのために、知覧高女の少女たちが、おりから満開の八重桜の枝を折りとり、折りとりして駈けつけたという永久橋畔の桜の古木。そして飛行兵たちから慈母のように慕われた特攻おばさん、鳥浜とめさんだけであった。

 とめさんは健在であった。八十一歳。でっぷりと肥って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖をついて奥座敷まできてくれた。
 「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。

 「僕が死んだら、 きっと蛍になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹が、翌晩、一匹の"蛍"に化って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉が、出発の前夜、 とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。

 「僕の生命の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてくセさい」
そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。

 この知覧にわたしがいたのは、きわめて短い日数であった。と号要員でもなかったわたしは、やがて名古屋郊外、小牧第二十三飛行団司令部の通 信飛行班に移っていく。わたしの知覧とのかかわりは、ただそれだけであった。が、なぜかわたしの知覧への思いはふかい。それを言うと、とめさんは、
 「生き残りの特攻隊員さんがおじゃるようになったのも、戦後十年目ぐらいからのこつでごあんぞ」
 元隊員たちが、ながらく知覧に姿を見せなかったのは、いちどそこで死を覚悟したものにとって、多くの先輩や同志を失った痛恨きわまりないこの地には、訪れがたいなにかがあったのであろう。

 富屋旅館で昼食をすませて発つとき、杖をついて玄関まで見送ってくれたとめさんは、飛び立っていく特攻機を描いた富屋旅館の日本手拭に署名して、一首の和歌を書き添えてくれた。
  散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり
(電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(1985)『今日われ生きてあり』<引用終わり)

写真(左):アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士;Seaman 1st Class Billy Ikard (left) and Seaman 1st Class Barbara A.バッテリー車を海軍輸送機 R5D-1 の所定の位置につける海軍婦人部隊整備士。1945年中頃撮影。米国の公的機関は、ここで写真を引用したNaval Historical Centerのように、見きれないほど大量の戦時中の写真を保管し、それをweb上で公開している。翻って、愛国心を大切にすべきだという歴代の日本の政治指導者はいたが、記録写真を全て整理し、将来のために公開するシステムは作られていない。web記録写真館の設立には、大型施設は不要であり、予算も僅かで済むはずだが。

◆日本陸軍特攻基地であった知覧には、知覧特攻平和館がある。そこでは、「特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念」で、遺品や資料を展示している。
特攻基地「知覧」と知覧高女・鳥浜トメ参照

3.沖縄への陸軍特攻作戦は、九州南部の知覧を前進基地として出撃した。知覧高等女学校の三年生は、勤労動員され、特攻隊員たちの身の回りの世話を奉仕するようになった。これが,勤労女子学生から成る「なでしこ隊」である。勤労奉仕した知覧高女「なでしこ隊」の中で、「富屋」鳥濱トメの娘鳥濱礼子、前田笙子の記録が広く知られている。

1945年3月27日、知覧高等女学校の二年生(14-15歳)は、三年生の進級直前に勤労動員され、知覧基地で、特攻隊員の洗濯、裁縫、食事、宿舎の掃除など身の回りの世話をすることとなった。彼女たちの多くは、「なでしこ部隊」となり,祖国・家族を命がけで守ってくれる特攻隊員を尊敬し、最善と思われるお世話をしようと誓った。

戦後かなりたってから、知覧高等女学校の女学生「なでしこ部隊」の方々が,当時の日記や思い出を編集したのが,『知覧特攻機地』(1979年)である。しばらく品切れになっていたが,現在は『群青』の書名で入手できる。

著作によれば,知覧高等女学校勤労女子学生の集団は,みずからを「なでしこ部隊」と称していた。しかし,「部隊」というのは,軍人の集団(部隊)であり,民間人ではないような印象を与える。また,民間人を法に則って徴用した「軍属」のようにも思える。沖縄の女子学生たちが作った看護補助員のグループも,「ひめゆり部隊」といえば,従軍看護婦か軍属として位置づけられることになる。しかし,女子学生の「勤労奉仕」であれば,部隊ではなく,「学生勤労奉仕隊」を意味する「ひめゆり学徒隊」である。
 知覧高等女学校の勤労奉仕隊も,軍隊に重きを置いて軍を尊敬していた時代,「なでしこ部隊」と称していたとしても不思議ではない。勤労女子学生は,半強制的な徴用に似た勤務でもあったが,軍の指揮の下にある軍人ではなく,部隊とは異なる。民間人の奉仕であることを示すには,「なでしこ隊」あるいは「なでしこ学徒隊」といったほうが,わかりやすい。

知覧高女なでしこ会編(1996,初版1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版

『群青』128-149ページに,当時、特攻隊員に奉仕した女学生の一人である前田笙子(知覧高女三年15歳)の日記,すなわち永崎笙子さんの当時の貴重な記録が,掲載されている。まえがきも,永崎笙子さんが書かれている。このような個人的な記録をあえて公開されたのは,強い思いがあったからであろう。

前田笙子(知覧高女三年15歳:勤労女子学生「なでしこ隊」)の日記( 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」を引用
昭和二十年三月二十七日
作業準備をして学校へ行く。[知覧高女の]先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びっくりして制服にきかえ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思ったと私達はぶくぶくした布団に休むのが恥かしい位だった。
わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかえらぬお兄様方が明日の出撃の日を待って休まれるのだと思うと感激で一杯だった。
五時半かえる。

昭和二十年三月二十八日
今日は特攻隊の方のいらっしゃるお部屋へまわされたが、初めてのことで恥かしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥じた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおっしゃることをおききして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やろうと思う。

昭和二十年三月三十日
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいただいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差上げる。無邪気に喜ばれる。貨物で飛行機のところまで行って食料等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言われて愛機に飛び乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるように風にゆられている。出発なさったが天気の都合でかえられる。大変残念がっていらっしゃった。

1945年4月1日の特攻戦果
写真(右):戦車揚陸艦LST-884号に突入した特攻機残骸と遺骸;1945年4月1日、沖縄上陸当日の特攻機による被害。特攻機の搭乗員の遺体周囲に白線がマークされている。Damage to LST-884 from Japanese kamikaze attack at Okinawa on 1 April 1945. Note twisted remains of aircraft and charred outline of Japanese pilot in the damaged area.

昭和二十年四月一日
今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話をする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけずられ「伍長グラマン」と書かれる。何時までも何時までもお二人のことを物語るように。そして妹さんに笑って出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたそうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

昭和二十年四月二日
今日出撃とのこと、横田少尉殿、襦袢のホックを付けてくれとお願いされ一人兵舎に行くのもなんだが恥かしく森さんと二人で行く。晴れの門出と言うので横多少尉殿、チョビ髭をきれいにそっていらっしゃる。
午後三時半出撃 日の丸の旗を打ち振ってお送りしたが宮崎少尉がすぐ引返して着陸なさる。続いて大櫃中尉機、次々へと。宮崎機は「ウ、、、」と調子が悪く火を吐きそうになった。残念だったが、自分一人ならそのまま行くのだが整備兵を乗せていたので引き返していらっしゃったとのこと。隊長機は左右大へん振動がはげしく、福家機は爆弾を落としてしまい、後藤機故障でゆかれずして今日は隊長さん二度とも出撃出来得ず兵舎で一人歯ぎしりしていらっしゃった。
兵舎でみんなして特攻隊の方々と唄をうたう。「夕日は落ちて」「校歌」。宮崎少尉さんより哲学のお話をおききしたけれども、よくのみこめないで頭がぼうっとなる。
敵が上陸したらどうするかとという話を承る。私達も立派にお兄様方の後につづき日本の女性のということを忘れず一人でも殺して死ぬつもりです。自分達は敵艦もろともなくなられる身ながら朗らかに談笑され、それに私達の将来のことまで心配され、いたずらに死んではいけないとさとされ、私達は只々頭が下がるのみだった。

昭和二十年四月三日
今日は四回目の出撃、まさに四時であった。最後の基地知覧を後に大櫃機以下十機は遠い遠い南へと飛び去っていった。只一人病床にある河崎伍長さんを残して。出撃前、飛行機の擬装をとってあげると「こんなにお手々きたくなるよ」と今井さん。皮のよごれた手袋を見せなさる。無理にお願いしてとってあげる。
横尾伍長さんたいへん喜んで「後に何も思い残すことはないが、只一つ病床に残した河崎のことが気にかかる」と。そうでしょう、横尾さんと河崎さんとは本当に睦まじい戦友だったんですもの。自分は今日とは知れぬ身ながら病気の戦友を思いやる横尾さん実に立派な方だと思う。
部下の骨を背に出撃なさった隊長さんと言い、チョビ髭の横田少尉さんと言い、私達を妹の如く、また子の如くかわいがって下さったし私達は本当に幸福だったと思う。岩間さんの書置、何も出来得なかった私共にこんなにまでにお礼の言葉を戴いたと思うと有難さで胸が一杯だった。
私達は只三十振武隊の方々が無事敵艦に体当たりなさって立派に御大任をお果たしにならんことをお祈りするのみです。

昭和二十年四月四日
病気の河崎さんと整備の方々だけでひっそりと兵舎はしていた。昨日まではああだった、こうだった、とみんなで兵舎での思い出を繰り返す。河崎さんの看病のかたわらちょっと警備中隊へ布団を取りに行く。新聞記者に捕まり特攻隊につかえての感想、覚悟等話す。幾人もの新聞記者に取り巻かれほとほとした。

昭和二十年四月五日
特攻の方がいらっしゃらぬので整備の方々のお洗濯をこちらからお願いしてやってあげる。終日飛行機と取り組み疲れていらっしゃるでしょうと慰めてあげる。特攻機を無事に故障なく飛ばすのは整備の方なのだ。私達はこの御苦労をおさっしして毎日でもお洗濯をしてあげなくてはと思った。

昭和二十年四月六日
自分が整備された愛機はもう体当たりしただろう、「今日は隊長殿の命日としてみんなで拝もう」と整備の方がおっしゃって森さんと私、たばこを一本もらってバラバラにして火にお香がわりにたいて拝む。遥か南の方へ----ニ、三日前までは元気でいらっしゃった方々が今は敵艦へ体当たりなさってこの世へはいらっしゃらぬのだと思うと仕事も手がつかず食事の準備をしただけ。
整備の方の吹く尺八をきいていると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受持ちだったのだが、兵舎が離れていて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろいをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のものも」と言ってつくろい物で午後からは精一杯だった。

第7部 戦艦大和の特攻出撃によれば、1945年4月6日の特攻隊の出撃は次の通り。
神風特攻忠誠隊:彗星3機:台湾新竹発:一飛曹 南義雄指揮官
神風特攻勇武隊:銀河4機:直掩、零戦4機:台南発:中尉 根元道雄指揮官
神風特攻第三建武隊:爆装戦闘機19機:鹿屋発:中尉 森忠司指揮官
神風特攻第一筑波隊:爆装戦闘機48機:鹿屋発:中尉 福寺薫指揮官
神風特攻第17神剣隊:中尉 松林平吉
神風特攻第一筑波隊:大尉 宮武信夫
神風特攻第三御楯252隊:爆装戦闘機20機:第一国分発:中尉 宮本十三指揮官
神風特攻第三御楯252隊:彗星24機:第一国分発:中尉 荒木武指揮官
神風特攻第三御楯601隊:中尉 百瀬甚吉指揮官
神風特攻第201彗星隊:大尉 児玉光雄指揮官
神風特攻菊水天山隊:天山16機:串良発:中尉 斉藤禄郎指揮官
神風特攻菊水天山隊:少尉 熊沢康夫指揮官
神風特攻第三御楯天山隊:少尉 吉田信太郎指揮官
神風特攻第一八幡隊:九七艦攻30機:串良発:大尉 山下博指揮官
神風特攻第一護皇白鷺隊:大尉 佐藤清指揮官
神風特攻第一正統隊:九九艦爆49機:第二国分発:大尉 桑原知指揮官
神風特攻第一八幡護皇隊:中尉 寺内博指揮官
神風特攻第一草薙隊:中尉 高橋義郎指揮官


写真(右):立川キ-36九八式直接協力機(九八直協);低速の地上偵察機だが「誠」飛行隊の特攻機として使用された。最高速度340km。爆弾搭載量250kg。

1945年4月6日の出撃
陸軍特攻誠第36飛行隊:九八式直協10機:新田原発:中尉 住田乾太郎指揮官
陸軍特攻誠第37飛行隊:九八式直協9機:新田原発:中尉 柏木誠一指揮官
陸軍特攻誠第38飛行隊:九八式直協7機:新田原発:少尉 喜浦義雄指揮官
陸軍特攻第22振武隊:一式戦2機:知覧発:少尉 西長武指揮官
陸軍特攻第44振武隊:一式戦4機:知覧発:少尉 小原幸雄指揮官
陸軍特攻第62振武隊:九九襲撃機5機:万世発:少尉 富沢健児指揮官
陸軍特攻第73振武隊:九九襲撃機12機:万世発:少尉 高田鉦三指揮官
陸軍特攻第一特別振武隊:四式戦8機:都城西発:少尉 林弘指揮官

写真(右):1942年、アメリカ海軍高速掃海艇(グリーブス級駆逐艦改造)「エモンズ」USS Emmons ;1945年4月6日特攻機の命中を受け引火して,沈没した。Title:USS Emmons Description:(DD-457) At anchor, circa 1942. The ship is painted in Camouflage Measure 12 (Modified) U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. 写真は、Naval History and Heritage Command NH 107417 USS Emmons 引用。

1945年4月6日(金曜日)沖縄方面のアメリカ軍の沈没艦艇
沈没:フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ 」(USS Bush, DD-529),特攻による
沈没:フレッチャー級駆逐艦 「コルホーン」 (USS Colhoun, DD-801) , 特攻による
沈没:高速掃海艇(グリーブス級駆逐艦改造)「エモンズ 」(USS Emmons, DD-457→DMS-22), 特攻による. 
沈没:戦車揚陸艦LST 447,特攻による

写真(右):1945年4月6日に特攻機の命中により大破したアメリカ海軍バックレイ級護衛駆逐艦「ウイッター」USS Witter (DE-636) ;排水量: 1,673 tons、全長: 306'、全幅: 36'10" 、深さ: 13'6"
最高速力: 23 knots、兵装:3インチ50口径砲3門、1x2 40mm, 4x1 40mm, 10× 20mm, 爆雷投射軌条2本,投射機 8基。21インチ魚雷三連装発射管1基。乗員: 士官15名,下士官・兵 198名。Turbo-electric drive, 2軸, 1万2,000馬力
Caption:USS Rodman (DMS-21) and USS Witter (DE-636) receiving repairs at Kerama Retto on April 9, 1945. Both had been hit by kamikaze attacks on April 6 off Okinawa. Catalog #:NH 69111 Built at Bethlehem Steel, San Francisco, and commissioned 29 December 1943 docked off Okinawa May 1945 After being hit by "Kamikaze" on 6 April 1945, Engineering Officer Bruno Naczkowski inspects damage
写真は、Naval History and Heritage Command NH 65822 Japanese suicide attack on USS LEUTZE (DD-481). 引用。


1945年4月6日(金曜日)沖縄方面の米軍損傷艦艇
ノースカロライナ級戦艦ネームシップ「ノースカロライナ 」(USS North Carolina, BB-55), accidentally by United States naval gunfire(友軍による誤射)
インディペンデンス級軽空母「サン・ジャシント」USS San Jacinto, CVL-30), by suicide plane(自爆機)
クリーブランド級軽巡洋艦「パサデナ」 (USS Pasadena, CL-65) accidentally by United States naval gunfire
シムス級駆逐艦「モリス」USS Morris (DD-417), by suicide plane,
フレッチャー級駆逐艦「ベネット」USS Bennett (DD-473), by suicide plane,
フレッチャー級駆逐艦「フッチン」USS Hutchins (DD-476), by suicide planeBR>フレッチャー級駆逐艦「ロイツェ」 (USS Leutze, DD-481) , by suicide plane,
フレッチャー級駆逐艦「ミュラニー」USS Mullany (DD-528), by suicide plane
フレッチャー級駆逐艦「ハリソン(USS Harrison ), by suicide plane
フレッチャー級駆逐艦「ニューコム」 (USS Newcomb, DD-586)), by suicide plane
フレッチャー級駆逐艦「ホワース」 USS Howorth (DD-592), by suicide plane
アレン・M・サムナー級駆逐艦「ハインスワース」USS Haynsworth (DD-700), by suicide plane
アレン・M・サムナー級駆逐艦「ヘイマン」 USS Hyman (DD-732), by suicide plane
アレン・M・サムナー級駆逐艦「タウシグ」USS Taussig (DD-746), by horizontal bomber(水平爆撃)
バックレイ級護衛駆逐艦Destroyer escort「ウィッター」USS Witter (DE-636), ), by suicide plane
バックレイ級護衛駆逐艦「フィベリング」USS Fieberling (DE-640), by suicide plane
高速掃海艦(High-speed minesweeper)「ロッドマン」Rodman (DMS-21):グリーブス級駆逐艦DD-456改造, by suicide plane
高速掃海艦「ハーディン」 Harding (DMS-28):グリーブス級駆逐艦DD-625改造, by horizontal bomber
掃海艦 FACILITY (AM-133), by suicide plane
掃海艦RANSOM (AM-283), by suicide plane
掃海艦EFENSE (AM-317), by suicide plane
掃海艦DEVASTOR (AM-318), by suicide plane
掃海艇(Motor minesweeper)YMS 311, by suicide plane
掃海艇YMS 321, by suicide plane
潜水艦支援艦 Submarine chaser PCS-1390, accidentally by United States naval gunfire
輸送艦 Attack transport BARNETT (APA-5), accidentally by United States naval gunfire
高速輸送艦 High-speed transport DANIEL T. GRIFFIN (APD-38), by collision(衝突)
運搬艦 Attack cargo ship LEO (AKA-60),accidentally by United States naval gunfire
戦車揚陸艦 LST 241, accidentally by United States naval gunfire
戦車揚陸艦LST 1000, accidentally by United States naval gunfire

写真(右):1945年4月6日に特攻機の命中により大破したアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ロイツ」DD-481 USS LEUTZE;Displacement 2924 Tons (Full), Dimensions, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) Armament 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). Machinery, 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws Speed, 38 Knots, Range 6500 NM@ 15 Knots, Crew 273;1945年4月6日特攻機の命中を受けた。特攻機の燃料が引火して,大火災となった。Title:USS Bush Description:(DD-529) Off the Mare Island Navy Yard, California, 11 June 1944. Her camouflage is Measure 32, Design 1d. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Japanese suicide attack on USS LEUTZE (DD-481). Caption:Kamikaze attack on USS LEUTZE (DD-481); RYUKYU I. Description:Collection of Admiral H.W. Hill, USN, received June 1968. 写真は、Naval History and Heritage Command NH 65822 Japanese suicide attack on USS LEUTZE (DD-481). 引用。

写真(右):1945年4月6日に特攻機の命中により大破したアメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ロイツ」DD-481 USS LEUTZE;Displacement 2924 Tons (Full), Dimensions, 376' 5"(oa) x 39' 7" x 13' 9" (Max) Armament 5 x 5"/38AA, 4 x 1.1" AA, 4 x 20mm AA, 10 x 21" tt.(2x5). Machinery, 60,000 SHP; General Electric Geared Turbines, 2 screws Speed, 38 Knots, Range 6500 NM@ 15 Knots, Crew 273;1945年4月6日特攻機の命中を受けた。特攻機の燃料が引火して,大火災となった。Title:Kamikaze attack on USS LEUTZE (DD-481) Caption:Wreckage of Japanese suicide plane at Ryukyu Islands after crash on USS LEUTZE (DD-481), 6 April 1945. Description:Courtesy of Admiral H.W. Hill. Catalog #:NH 66259 Copyright Owner:Naval History and Heritage Command Original Date:Fri, Apr 06, 1945 写真は、Naval History and Heritage Command NH 66259 Kamikaze attack on USS LEUTZE (DD-481) 引用。

1945年4月6日の沖縄特攻作戦

写真(右):日本陸軍、立川キ-36九九式襲撃機(九九軍偵察機とほぼ同型);固定脚の旧式機が振武隊の特攻機として使用された。最高速度430km、爆弾搭載量250kg。1945年4月6日、陸軍特攻第62振武隊の富沢健児指揮官以下,九九襲5機が万世発,陸軍特攻第73振武隊の富沢健児指揮官以下,九九襲12機が万世発で出撃した。

丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。
4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき。通信隊は沖縄アメリカ艦船間の無線の交信を傍受。
通信隊情報係将校が通信用紙に「〇六四五 北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生、マタ爆発」「〇六五三 バーネット右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、慶良間ニ向ウ」などと書きこんでは作戦参謀に渡す。

ジュラルミンの軽い航空機が,600km程度の低速で艦艇に特攻自爆しても,燃料漏出や引火による大火災を引き起こさない限り,2000トン以下の小艦艇でも撃沈できなかった。「一機よく一艦を屠る」という事例は,ほとんどない。小艦艇を特攻で撃沈できなかった理由は、航空機は3トン以上はあるが、決して剛体ではなく、突入速度も時速500-600km程度と、爆弾の投下速度の四分の一にも満たず、衝撃力が小さかったためである。

写真(右):1944年4月11日、カリフォルニア州、メーアアイランド海軍基地、アメリカ海軍フレッチャー級駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529);1945年4月6日特攻機の命中を受けた。特攻機の燃料が引火して,大火災となった。Title:USS Bush Description:(DD-529) Off the Mare Island Navy Yard, California, 11 June 1944. Her camouflage is Measure 32, Design 1d. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. 写真は、Naval History and Heritage Command 80-G-187954 USS Bush引用。

U.S.S. BUSH(DD529)S-E-C-R-E-T ACTION REPORT(駆逐艦「ブッシュ」戦闘報告)を要約すると次のようになる。
4月6日1700, 2機の九九式艦上爆撃機"Vals"が米駆逐艦「ブッシュ」攻撃した。40mm対空機銃が火を噴いたが,特攻機は駆逐艦「ブッシュ」の3-4マイル先の「コルフン」の周囲を回ってから,「コルフン」に降下し,命中した。当時,15-20機が視界の中に見えた。1715に3機の敵機(零戦)が10マイル先で雲に入ったり,出たりして周回していた。1725に3機のうち1機が太陽を背にして「ブッシュ」に突っ込んできた。艦の前部にある40mm対空機銃で攻撃したが,ジャップの左翼が艦中部を横切って,1730に艦に命中した。大火災となり,艦はほぼ真っ二つに引き裂けそうになった。こうして艦の前後を行き来することは不可能になった。

10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下してきて,「ブッシュ」の甲板に激突した。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んできたのである。さらに別の1機が,1745に艦の前部に命中し,いっそうの大火災となった。艦内に運ばれていた負傷者も,そのまま焼死した。


写真:4月6日に特攻機に撃沈され「殺された」駆逐艦「ブッシュ」乗員アルバート・ブロディAlbert Brody ;アルバートは、三番目の敵機が向かってきた時に、艦の前部戦闘指揮所にいた。Along with other damage, this plane demolished the forward battle-dressing station killing and injuring a number of men. The plane was filled with gasoline or other flamable liquid and a great deal of fire was spread across the forward portions of the ship. Albert was severely burned and shipmates tried to help him. こういった努力にもかかわらず、アルバートは艦と命をともにした。その艦に向かっていった最後の言葉 "Thanks for trying to help me, fellows."
写真(右):ポール・トレ−ラPaul Trella(18歳);Seaman Trella was killed in action on April 6, 1945 with the sinking of DD-529 by Japanese suicide planes during the Battle for Okinawa.87名が駆逐艦「ブッシュ」で命を失ったが、ポールは、遺体が発見、回収された12名の一人である。特攻隊たちは、彼らを殺すことを意識していたのか。それとも、敵の若者が死ぬことを想像する特攻隊員など皆無だったのか。

 1730の特攻機命中から10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下,「ブッシュ」甲板に激突。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んだ。さらに別の1機が,1745に艦前部に命中、大火災。艦内に運ばれていた負傷者も焼死。

写真(右):1945年4月7日特攻で炎上したアメリカ海軍正規空母「ハンコックUSS HANCOCK (CV-19) );1945年4月6日特攻機の命中を受けた。特攻機の燃料が引火して,大火災となった。戦死者は4月9日に海葬された。Caption:USS HANCOCK (CV-19) afire after being hit by a kamikaze attack off Okinawa, 7 April 1945. Note fires burning fore and aft, and TBM "Avenger" flying over the carrier. Photographed from USS PASADENA (CL-65). Copyright Owner:National Archives Original Date:Sat, Apr 07, 1945 Casualties are buried at sea on 9 April 1945. They were killed when Hancock was hit by a "Kamikaze" while operating off Okinawa on 7 April. 写真は、Naval History and Heritage Command 80-G-344876 Okinawa Campaign, 1945引用。

知覧高女三年勤労女子学生「なでしこ隊」 前田笙子(15歳:特攻隊員に奉仕)の日記(『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」引用の続き
昭和二十年四月七日
今朝、食事の用意をしていると、どうも見馴れぬ方が四、五人あちこちなさるので「食事の準備ができました」と言って行くと、新しい方々だけだったので人違いをして恥をかく。少尉の方だけで、隊長さんが陸士出身、実に立派な無口でしっかりしたお方の様で「今度きた方みんなお年を召した方だけね、あんな年を召した方でも特攻隊なんでしょうか」とささやいたぐらい。みんな髭の濃い、年を召した様な感じだった。ひっそりした兵舎も又賑やかになる。

昭和二十年四月八日
本島さん、椿とつつじの花をくださる。今頃つつじの花がと皆で珍しがって松の木にさす。これが枯れたら本島さんが出撃なさって体当たりなさったときよと話し合ってさす。渡井さんより静岡の女学校で戴いたというマスコットを戴く。
穴沢少尉さん曰く、「何時も貴方達は俺達の兵舎へきてくれぬ。何故だ。洗濯物だってあるんだよ」と連れて行かれる。行ってみると何んの用事なしでポカンとなった。大平少尉さん、穴沢少尉さんのお話に答えるだけ。雨が降っていて洗濯にいったままの姿できてしまったのでみんな素足、さんざん冷やかされて兵舎を飛び出す。

写真(右):1943年11月27日、アメリカ海軍ベンハム級駆逐艦「スタレット」USS Sterett、DD-407(1939年8月就役);飛行機の増加燃料タンクを艦尾に積んでいる。空母「サラトガ」USS Sterett (DD-407) から撮影。1945年4月9日沖縄方面で、九九式艦上爆撃機の特攻を受けた。 Description:Photographed from USS Saratoga (CV-3) on 27 November 1943. Note aircraft drop tanks on her fantail. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真は、Naval History and Heritage Command 80-G-204459 USS Sterett (DD-407) 引用。


写真(右):1945年4月9日、沖縄諸島慶良間列島、九九式艦上爆撃機の特攻を受けたアメリカ海軍ベンハム級駆逐艦「スタレット」USS Sterett、DD-407;飛行機の増加燃料タンクを艦尾に積んでいる。Description:USS Sterett (DD-407) Description:Kamikaze damage to the ship's starboard side, received off Okinawa on 9 April 1945. Photographed at Kerama Retto, Ryukyu Islands, on 11 April 1945. Collection of Lieutenant David Longmaid, USNR. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. . .
写真は、Naval History and Heritage Command NH 98062 USS Sterett (DD-407) 引用。


アメリカ海軍ベンハム級駆逐艦「スタレット」(1939年8月就役)」USS Sterett、DD-407の諸元
基準排水量:1,500t、満載排水量:2,350t
全長 103.8 m (340ft 9in) 、全幅 10.8 m (35ft 6in)
吃水 4.0 m (13ft 3in)
主機:蒸気タービン2基2軸、出力 50,000馬力
最高速力 40.7ノット (75 km/h)
航続距離 6,500マイル (12,000 km)/12ノット
乗員 士官16名、兵員235名
兵装:38口径5インチ(12.7cm)砲4基
21インチ4連装魚雷発射管4基16門
爆雷投下軌条2基

昭和二十年四月九日
今日はお洗濯、お掃除をして兵舎へ用ききに行く。河崎さんも近頃よくなって兵舎の外へも出られる様になった。洗濯のついでに整備の方の魚取りを見に行く。小泉さんと河崎さん土手から川へすってんころりん。危うくぬれねずみになるところを木元さんが抱きとめる。
電気で水中に火花をちらして取るのだそうでピチピチ筒先から火花をちらすと一匹魚がぷっと白い腹をみせて浮かんだ。電熱が弱いため駄目で全部魚は逃げてしまった。福家兵長さんの妹さんへ最後を書いて出す。

写真(右):1945年4月11日、沖縄諸島、特攻を受け炎上するたアメリカ海軍駆逐艦「キッド」 KIDD (DD-661)と低空を飛ぶ日本軍の単発特攻機;駆逐艦「キッド」 に命中した特攻機で乗員38名が戦死。
Description:USS KIDD (DD-661) Caption:Japanese kamikaze plane about to crash into the ship, off Okinawa, 11 April 1945. The plane hit KIDD's side, killing 38 of her crew. Photographed from the KIDD. Note escorting destroyer in the background. Description:Courtesy of Mr. Lewis B. Jenkins, Jr., Beltsville, Maryland, 1972. Copyright Owner:Naval History and Heritage Command Original Date:Wed, Apr 11, 1945 .
写真は、Naval History and Heritage Command NH 75767 USS KIDD (DD-661) 引用。


写真(右):1945年4月11日、沖縄諸島、特攻を受け炎上するたアメリカ海軍正規空母「エンタープライズ」 USS ENTERPRISE (CV-6)と上空の対空砲火の弾幕;正規空母「バンカーヒル」USS BUNKER HILL (CV-17)から撮影。
Description:USS ENTERPRISE (CV-6) Caption:Kamikaze aircraft hits the water off the carrier's starboard quarter, during operations off Okinawa, 11 April 1945. Photographed from USS BUNKER HILL (CV-17). Copyright Owner:National Archives Original Date:Wed, Apr 11, 1945.
写真は、Naval History and Heritage Command NH 75767 USS KIDD (DD-661) 引用。


昭和二十年四月十一日
晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れの会が食堂であった。----みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありったけの声でうたったつもりだったが何故か声がつまって涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかったのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにっこりと笑って、酔って戯れていらっしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だったのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になった、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあって、また、泣いてしまった。

昭和二十年四月十二日
----隊長さんは私たちを[プロペラを回転させエンジンをかける]始動車にのせて、戦闘指揮所まで送ってくださった。出撃なさる直前のあわただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふっていらっしゃる。-----離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向ってゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜の枝を振ると、にっこり笑った八巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。----特攻機が全部飛びたったあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見上げてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあって、しゃがみこみ、みんなで泣いた。
(日記の引用終わり)

写真(右):1945年4月16日、沖縄諸島、特攻を受け炎上するたアメリカ海軍正規空母「イントレピッド」USS Intrepid (CV-11)と警戒するフレッチャー級艦隊型駆逐艦;大型巡洋艦「アラスカ」から撮影。1945年4月11日,戦艦「ミズーリ」BB63は,空母の護衛任務についていたが、特攻機によって小破した。
Description:USS Intrepid (CV-11) afire, after she was hit by a Kamikaze off Okinawa on 16 April 1945. Photographed from USS Alaska (CB-1), as a Fletcher class destroyer steams by in the foreground. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archive.
写真は、Naval History and Heritage Command 80-G-328441 Okinawa Campaign, March-June 1945引用。


日本軍の憲兵は,中野軍曹の噂話をしている知覧高女の勤労奉仕女学生たちを軍機を漏らしたとして怒り,家に帰れなくしてやると脅した。そして,特攻隊員は悪ふざけをしないか,何か特別な約束はしないかと尋問した。彼女たちが敵機の機銃掃射をうけて,隊員たちと松林に逃げ込んだ後,憲兵は,そこで何をしていたか再び尋問した。機械故障で二度引き返してきた特攻隊員の担当だった勤労女学生は,憲兵に尾行され,,特攻隊員と結婚の約束でもしているのかと取調べを受けた。

写真(左):1945年4月12日、知覧を出撃する第20振武隊穴沢利夫少尉(23歳)のキ43一式戦;知覧基地で、知覧高等女学校三年生勤労女子学生「なでしこ隊」が桜の枝を振って、特攻隊の出撃を見送る。搭乗する第20振武隊の隊長穴沢利夫少尉の遺書には、婚約者に宛てて「今更何を言うか、と自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい」として、1.読みたい本、2.観たい画、3.智恵子(婚約者)「会いたい。話したい。無性に。」とあった。(靖国神社編(1994)『いざさらば 我はみくにの 山桜』pp.67-68参照)この写真の桜の枝を取ったとき、出撃撮影の様子は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」前川笙子の日記に出ている。遺書は、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会ホームページ参照。

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版,pp.150-175,鳥浜礼子の記録(『特攻』第28号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」)(鳥濱トメ次女鳥浜礼子宛ての手紙)が記載されている。

「前略
礼子さん、度々無理なお願いお許しください。---
知覧の事は自分の短い一生ですがいい思い出になります。礼子さんの贈り物は自分の最后を見届けて呉れると思います。飛行機に乗るのは一人ですが自分の心には真心を乗せて征きます。薩摩乙女の奉仕を受けて散る私たちは幸福なのかもしれません。今の私達には親兄弟の事も無く唯敵撃滅の燃えるような心のみです。
礼子さんのお手紙に依り銃後の事は安心です。戦をするものにとって銃後の事ほど心に掛かる事はないと思います。
自分も安心して死ねます。
いざ征かん愛機とともに散華まで
---だが決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは断じてやります御安心ください。
最後に礼子さんの将来の幸福と御健康をお祈りすると共に無理なお願い何卒お許しください。
   [西庄]三郎拝[1945年5月4日戦死]。

1945年5-6月初旬,鳥浜礼子は,宮川軍曹に血染めの鉢巻を渡し,形見に万年筆をもらった。かれは,幽霊のまねろしていた。姉と同じ年の滝本伍長から形見に航空時計をもらった。


写真(上左):アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空管制官:Specialist (T) 3rd Class Dorothy KneeとSpecialist (T) Genevieve Closeが離着陸の支持を出す。District of Columbia, 1943年初期。滑走路には、F6F戦闘機がある。右には,SNJ練習機, F4F戦闘機、SBD急降下爆撃機などがみえる。 Title: WAVES Control Tower Operators Description: Specialist (T) 3rd Class Dorothy Knee and Specialist (T) Genevieve Close direct aircraft arrivals and departures from the control tower at Naval Air Station, Anacostia, District of Columbia, in early or mid-1943. Planes on the field at left include F6F, GB and GH types. Those in the center and at right include SNJ, F4F SBD and SB2A types. All have the circle and star insignia that was used until July 1943. The Control Tower Operator rating, Specialist (T), was changed to Specialist (Y) in October 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-13615
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-13615 WAVES Control Tower Operators 引用。
写真(上右):アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の2等航空士(Aerographer's Mate 2nd Class)Julia Murrayが気象観測気球を揚げる。;カリフォルニア州の海軍航空基地で、観測気球を揚げる。1945年中頃の撮影。高学歴の知覧高女の仕事は、特攻隊員の洗濯、掃除、裁縫など家政だけに限定されていた。それとは対照的に、米軍では、高学歴の女子を婦人部隊の専門的部署に配属し、将校にも登用した。 米国陸軍もWAC(Woman's Army Corps)という陸軍婦人部隊を創設していた。 Title: Aerographer's Mate 2nd Class Julia Murray, USNR(W) Description:Launches a weather balloon from a theodolite platform at Naval Air Station, Santa Ana, California, circa mid-1945. The balloon is used to check wind velocity. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color Catalog #:80-G-K-5797
写真はNaval History and Heritage Command80-G-K-5797 Aerographer's Mate 2nd Class Julia Murray, USNR(W) 引用。

九州南方の特攻基地としては、吹上浜近く加世田村萬世基地加世田市平和祈念館(別称万世特攻平和祈念館)がある。陸軍徳之島飛行場跡の滑走路北端には「特攻・平和慰霊塔」が立っている。海軍特攻隊の基地は,鹿屋に、鹿屋航空基地史料館がある。


兵庫県立柏原女学校の軍事演習
:『兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1943年撮影。銃後の士気を引締めのため,女子学生も分列行進や小銃射撃訓練をした。1944年以降,徹底した勤労奉仕が求められ,学業を省みる余裕がなくなった。戦争協力について、歴史と伝統ある学校の『校史』は触れない傾向がある。その中にあって、戦時中の活動も明らかにしたことは高く評価できる。
兵庫県立柏原高等女学校沿革
明治35. 5  柏原町立崇廣尋常高等小学校内に女子補習科設置
〃 36. 4  柏原町立柏原女学校設置 12日開校式
〃 41. 4  氷上郡立柏原高等女学校と改称
大正 3. 3  氷上郡立実科高等女学校と改称
〃 11. 4  兵庫県立柏原高等女学校に設立変更
昭和19. 9  学徒勤労動員、尼崎甲陽製作所成松工場へ出動
〃 23. 4  高等学校に昇格 兵庫県立氷上高等学校と改称
〃 23. 9  柏原高等学校と合併。

写真(右):1942年8月、テキサス州、コープス・クリスト海軍航空基地、カタリナPBY飛行艇を整備するアメリカ海軍徴用エロイス・エリス(Eloise J. Ellis) : Title: Mrs. Eloise J. Ellis has been appointed by civil service to be senior supervisor in the Assembly and Repairs Department at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas. She buoys up feminine morale in her department by arranging suitable living conditions for out-of-state employees and by helping them with their personal problems Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34891 (digital file from original transparency) LC-USW361-82 (color film copy slide) Rights Advisory: No known restrictions on publication.
写真はFarm Security Administration - Office of War Information color slides and transparencies collection (Library of Congress)  Call Number: LC-USW36-82 引用。

写真(右):1942年8月、テキサス州、コープス・クリスト海軍航空基地、カタリナPBY製工程を整備するアメリカ海軍徴用のコーラ・ボーウェン(Cora Ann Bowen)とエロイス・エリス(Eloise J. Ellis) : Title: Women are contributing their skills to the nation's needs by keeping our country's planes in top-notch fighting condition, Corpus Christi, Texas. Wife of a disabled World War I veteran, Mrs. Cora Ann Bowen (left) works as a cowler at the Naval Air Base. Mrs. Eloise J. Ellis is a senior supervisor in the Assembly and Repairs department Creator(s): Hollem, Howard R., photographer Date Created/Published: 1942 August Medium: 1 transparency : color. Reproduction Number: LC-DIG-fsac-1a34874
写真はLibrary of Congress Prints and Photographs Division  Call Number: LC-USW36-82 引用。

知覧高等女学校教諭の特攻隊遺族への手紙は、次のように述べている。

「沖縄が危うくなって参りました今日、本土の最南端のこの地が基地となりまして、私共生徒をつれて特攻の方々の御世話に参って居たのでございますが、その折前田少尉殿も三月二十八日この地に御着陸なさり、四月三日晴れの御征途に御つきになりました。

出発前日の夜、久し振りで最後の蒲団の上に寝せて頂こうかなとあばら屋に御泊り下さいました。ここの[知覧]基地は、野戦そのもので、安全で空襲よけの三角兵舎の実に粗末な所なのです。私共神様のお泊り下さるとの事、何のおもてなしも出来ませんでしたが、真心で御満足願う事でした。

----もう最後だという時、父を呼んだが何も知らぬ父を見て、だんだん老いゆく父を見て、自分は特攻隊でゆくのだという事はどうしても言う事が出来なかった。風呂に入って背をこすって上げ乍ら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟っていてくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。

又部下思いで、俺は嫁等貰おうとはしなかったが、部下の者には一週間ずつの暇をあたえて嫁探しに帰らせたよ等、面白い中にも情のこもった事をおっしゃる方でした。

----一つ一つの御話しを聞いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンピシャリ太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版 のまえがきは,戦後50年のものだが,永崎(前田)笙子は,次のように書いている。
「私たちの手記を公開することにつきましては,ためらいがありました。文章も幼なく,正しい判断力も持ち合わせていない14,15歳の少女の雑記ですし。また異常な雰囲気の中で感傷を断片的に綴ったものですから-----。でも,あの時のことは,いつかは何らかの形で知っていただかなければならないとは思っていました。-----本書は還らざる方々の魂の証と,ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが,数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして,心ある方がもしひろいあげてくださるならば,これにこした喜びはございません。」。

「俺は、君のためにこそ死ににいく」公式サイトは、一式戦闘機編隊が飛翔する勇壮なCGが第一の見所である。「男たちの大和」公式サイトは、登録すると階級章をくれたが、「俺は---」では、女子が公式ブログを毎日更新してくれる。
 2007年4月6日帝国ホテルでの映画製作発表会見では、製作・脚本の石原慎太郎、新城卓監督、出演者など総勢14名が登壇。「会見は特攻服をまとった特攻兵が、両親と鳥濱トメさんに宛てた遺書を読み上げ、その後特攻兵たちが退場すると、緞帳が桜の紙吹雪とともに開き、登壇者が現われるという凝った演出。実際に生前の鳥濱トメさんから話を聞き、8年前に本作を企画したという石原都知事は『平和であるということは素晴らしいことだが、その長い平和の中で失われつつあるものがある。今回は現代において希薄になりがちな受け継がれなくてはいけないものを取り戻すために、本作の製作に取りかかりました』とコメント。」という。(石原都知事プロデュース「俺は、君のためにこそ死ににいく」会見(エイガ.コム)引用)

新品の特攻服をまとった役者演出付きの華やかな映画作成発表会、この1ヶ月前、台湾四大新聞の一つ中國時報に、次の記事が出た。
石原慎太郎新電影 美化「神風特攻隊」2007-03-01 中國時報:黃菁菁/東京二月廿七日電(中國時報 2007.03.01)
石原新电影引争议 神风特攻队英勇赴死?美麗誤解(2007-03-01)中國時報。

日中戦争(アジア・太平洋戦争)に従軍体験を持つ男のホームページ:私の特攻論には、次のようにある。
「どの遺書も多少の例外はあるものの、だいたいパターンがきまっている。まず最初に『天皇陛下万歳!』とか『皇国のために良き死処を得たるは無上の光栄』とか『敵艦を見事撃沈してみせます』といった、特攻隊員としての『大義名分』や『抱負』に基づく文句をつらねている。そして、そのあとに『父上様、母上様、今まで育てていただいたご恩義になんら報いることなく、先立つ不幸をお許しください』とか『いつまでも御身大切に、自分の分まで長生きして下さい』といった、肉親を思う切なる情が述べられているのだ。
いま死ぬのはいやだとか、特攻隊に志願して後悔しているとか、自分を特攻隊員に指名した上官を恨むなんてことを書いた遺書は一つもない。それはなぜか。肉親といえども今更自分の本音を明かしたくないという『男の見栄と意地』があったからではないか。それに出撃後、遺書はすべて上官に検閲されることが分かり切っていたから、下手なことを書いて、遺族に迷惑をかけたくないという思惑もあったろう。
 もと知覧町立図書館長だった村永薫氏は編著『知覧特別攻撃隊』の中で『検閲を受ける軍隊の手紙や遺言は、真実が記されているはずもなく、なかには強制されて書いたのもあるかも知れないなどと思うことはおろかなことです。死を覚悟した勇士が、何で検閲をおそれましょう。死を前にして心情を吐露したいからこそ遺言を書き、辞世の歌をよんだのです』などと言っているが、私はこういう皮相な見解に賛成できない。
 遺書を書いたのはなにも特攻隊員だけではないのだ。私は支那派遣軍の歩兵部隊にいた時、初陣であるいのちがけの作戦に出る前に、上官の命令で遺書を書かされたことがある。これは人事係准尉が検閲することが分かっていたので、やはり特攻隊員の遺書と大同小異のことしか書けなかった。こうして兵士が前線で書いた遺書は、可能な限り部隊から出身市町村の役場に送られ、そこで厳重に保管した上、もしも遺言の主が戦死した場合、その遺書を戦死公報に添えて遺族に手渡すという仕組みになっていたのである。戦後になってから、私は寝屋川市史の編纂にたずさわったのだが、もと兵事係だった吏員が、いまだにこの種の遺書をたくさん抱えているのを見掛けたことがある。」

「戦後になってから、島浜トメさんや知覧高女の生徒たちは、自分が目撃し接触した特攻隊員やその家族の言動を証言したり、記録に残したりしている。こうしたところからも、特攻隊員とその家族の悲愁と苦悩と、彼らをむざむざ死地に追いやった指揮官らの非情さがありありと浮かび上がってくるのである。」(浪速の詩人工房九州センチメンタルジャーニー「私の特攻論」引用終わり)

4.知覧基地で、特攻隊員たちを世話をする知覧高等女学校の勤労女学生・女子挺身隊の女学生は、決して例外ではない。広島県呉第一高女の勤労女学生たちは、人間魚雷「回天」の特攻隊員たちと接し、血染めの鉢巻を贈った。

写真(右)福島県郡山高等女学校での生徒訓練運動の風景(大正13年頃):(1923年には、このような鍛錬が高女でも行われた。大和郡山市秘書広報課情報サービス係作成。

<高等女学校(wikipedia引用)>
1872年(明治5年)公布の学制では、官立女学校の入学資格は「小学校卒業の女子で年齢14歳以上」の者で、修業年限は6年である。1883年(明治15年)、東京女子師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)が開校し、「高女」が制度化された。付属高等女学校の修業年限は下等3年、上等2年と定めた。入学資格は「小学校6年次の修了以上の学力がある者」と規定され、男子の旧制中学に相当する教育機関となった。

1891年「中学校令」改正によって、高等女学校は尋常中学校とされた。1895年に「高等女学校規程」で、修業年限を6年、入学資格を「修業年限4年の尋常小学校を卒業した者」と定めた。高等女学校には、女子固有の科目として裁縫など家政を学ぶ「技芸専修科」の設置を認めた。


写真(上左):新潟県新発田高等女学校の校舎写真(上右):岩船郡立村上実科高等女学校裁縫室;2枚とも新潟県立歴史博物館笹川勇吉氏旧蔵絵はがきコレクション引用。

「高等女学校令」は、1908年改定で、修業年限を4-5年、入学資格を12歳以上、尋常小学校卒とした。これで、旧制中学と同等の制度となった。修了後の課程として「専攻科」「補習科」が設置され、高等学校(大学予科)に相当する教育機関となった。1911年「実科」を設置し、実科高等女学校は、尋常小学校卒対象で4年、高等小学校1年次修了で3年、同2年次修了で2年とした。1920年、高等女学校令の改定で、道府県に限定されていた公立の高等女学校の設置権限を、市町村学校組合においても許可した。

1943年「中等学校令」公布とともに「高等女学校規程」が制定。修業年限は4年を上限とし、「補習科」課程の廃止、国民学校高等科卒を入学資格とする2年制の高等女学校の設置、「実科高女」の名称廃止のうえ高女に一本化。戦時勤労動員・国家総動員への順応が進んだ(wikipedia引用)。

写真(右):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜の回天搭乗員たち。短刀を受ける回天特攻「多聞隊」隊員たち。1945年8月10日に「回天」で出撃。戦死した水井淑夫少尉(九大出身の学徒兵)とされる。回天特攻隊は、航空機の出撃とは違って、事前に定められた計画に従っているので、報道班(ライター)の取材が行いやすく、写真・資料が残っている。内外の出版物やweb資料にも、回天を多数掲載している。7月24日米駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる「血染めの鉢巻」と思われる。

人間魚雷「回天」搭乗員の勝山少佐は、大津島で通信隊の担当。呉へ出かけた時に,呉第一高女の女学生が血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島回天隊の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

勝山淳海軍少佐に贈られた血染の鉢巻は,「回天」の部品製造にあった呉第一高女生たちが作った。勤労動員された女子挺身隊の女学生たちは、呉海軍工廠水雷部操舵機工場で働いていた。その体験談が載っている。

「マルロク(回天)の仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたのです。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案とは、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ることでした。
物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をもらい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。
自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらうように指導員を通じて送りました
。」(引用終わり)

人間魚雷「回天」操舵工場に勤労動員されていた呉第一高女の学生たちから「回天」搭乗員に贈られた血染めの鉢巻:受け取った峯眞佐雄氏は,搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に[血染めの鉢巻を]出せなかった」。大切に保管されていた血染めの鉢巻が,2002年に、回天記念館に寄贈された。

保存されていた血染の鉢巻の寄書
峯少尉 「日の丸」赤心 祈御成功
広島県呉第一高女 四年い組
見もやせぬ君のみすがた 目にうかべ 神々しさに頭さがりぬ  紀美子
一発必中  泰子
萬朶の花と咲き咲かん  典子
轟沈  登美子
生ける志るしあり  芳恵
誠心  千代子
萬古仰天皇  和子
昭和二十年一月二十一日
呉海軍工廠水雷部 縦舵機工場調整班 動員学徒佐光登美子

写真(右):1942年10月、テキサス州、フォートワース、コンソリデーデット飛行機工場、機体にドリルで鋲打ち用の穴をあけるアメリカ軍徴用工: 正規の作業服が支給されている。
Title: Drilling a wing bulkhead for a transport plane at the Consolidated Aircraft Corporation plant, Fort Worth, Texas 
Contributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 Oct.
写真はFarm Security Administration - Office of War Information color slides and transparencies collection (Library of Congress)  Call Number/Physical Location LC-USW36-967 [P&P]引用。

平成16年9月2日中國新聞に記載された血染の鉢巻の保存の経緯は,次のとおり。
体当たりで敵艦を攻撃した人間魚雷「回天」に乗り込む寸前に終戦を迎えた、千葉県本埜村の峯眞佐雄さん(80歳)が、当時の女学生から受け取った血染めの鉢巻きを、周南市大津島の回天記念館に寄贈した。

峯さんは1945年8月、出撃を控えて千葉県大原町に移動。しかし、搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。

峯さんは毎年11月、回天の遺族らが大津島で開く慰霊祭に参列。偶然、鉢巻きが話題になり、遺族からも寄贈を勧められて「当時の状況を考えてもらえるなら」と決めた。長男の会社員峯一央さん(48)から鉢巻きを受け取った、記念館の小川宣館長(74)は「多くの人を巻き込んだ戦争だったことを示す証拠。大切に展示したい」と話している。(引用終わり)

写真(右):1942年10月、テキサス州、フォートワース、コンソリデーデット飛行機工場、コンソリデーデットC-87大型四発輸送機を組み立てるアメリカ軍徴用工: C-87大型四発輸送機はB-24四発重爆撃機の主翼を活かし、胴体を大型化した輸送機である。
Title: Helen Bray, who left school to become a mechanic at a western aircraft plant, is making an emplanage section on a new Consolidated transport, Consolidated Aircraft Corp., Fort Worth, Texas. This new ship, adapted from the B-24 bomber, is known as the C-87, carries one of the greatest human and cargo loads of any plane now in mass production
Contributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 Oct. .
写真はFarm Security Administration - Office of War Information color slides and transparencies collection (Library of Congress)  Call Number/Physical Location LC-USW36-289 [P&P]引用。



写真(上):1942年8月、アメリカ海軍基地で整備の仕事に就く徴用女性工場労働者:Mrs. Doris Duke, who is 26 and a mother of one child, Corpus Christi, Texas. Mrs. Duke is a civil service worker in the A[ssembly] and R[epair] dept. at the Navy Air Base (shot - reconditioning spark plugs)Contributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 August
Mrs. Virginia Davis, a riveter in the assembly and repair department of the Naval air base, supervises Chas. Potter, a NYA trainee from Michigan, Corpus Christi, Texas. After eight weeks of training he will go into civil service. Should he be inducted or enlist in the armed service, he will be valuable to mechanized units of the Army or Navy
Women in white" doctor Navy planes (motors) at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas. Mildred Webb, an NYA trainee at the base, is learning to operate a cutting machine in the Assembly and Repair Department. After about eight weeks as an apprentice she will be eligible for a civil service job in the capacity for which she has been trained
アメリカ合衆国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機。写真(下):1942年8月、アメリカ海軍基地で整備の仕事に就く徴用女性工場労働者:日本の勤労女子学生は、工場、農地などで、女子挺身隊とも呼ばれて働いたが、使用していた工作機械は、アメリカと比較すれば技術的に劣位にあった。また、日本では兵器の整備のような専門的な仕事には従事させられなかったが、アメリカでは婦人部隊として、航空輸送搭乗員、航空機整備員などが養成、採用された。
写真はFarm Security Administration - Office of War Information color slides and transparencies collection (Library of Congress)  Call Number: LC-USW36-82 引用。

写真(右):1942年8月、テキサス州、コープス・クリスト海軍航空基地、飛行機の機体にドリルで鋲打ち用の穴をあけるアメリカ海軍徴用工: Title: Working in the Assembly and Repair Dept. of the Naval Air Base, Corpus Christi, TexasContributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 August
写真はFarm Security Administration - Office of War Information color slides and transparencies collection (Library of Congress)  Call Number/Physical Location LC-USW36-967 [P&P]引用。

1944年に米国は,14万機の航空機を製造。航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にしていた。

 
写真(右):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;特攻機が撃沈しようとした米軍艦船の乗員も若者である。轟沈の響きの中で、米国人の命も失われる。特攻隊員や特攻兵器生産に従事した勤労学徒は、このような米国の若者の命を奪いたかったわけではないであろう。相手への憎しみがあったのか。なぜ、日米の若者が、殺しあうことになったのか。
輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦で1945年4月沖縄攻略に参加。グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運んだ。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)。Learning to work a cutting machine, these two NYA employees receive training to fit them for important work, Corpus Christi, Texas. After eight weeks they will be eligible for civil service jobs at the Naval Air Base


故勝山淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

5.特攻作戦の背景には、1943年6月の「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定に基づく徴兵、さらに学生を労働力として集める勤労動員など、総力戦の下で、学生たちが戦争協力する姿、させられる姿があった。学生たちには、祖国の危機に馳せ参じる気概と苦悩・悲哀が共にあった。

1943年6月の学徒動員
学徒動員は、1943年に行われた大学・専門学校・師範学校の文系学生を対象とした徴兵である。従来は,大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校の文科系学生が徴兵を猶予されていたが,これは高度の専門性を有するエリートとして自他共に認められた存在だったからである。

米国では大学進学率が高かったが,日本の大学進学率は,同年齢人口の5%程度と少ない。したがって,米国が即座に学徒動員をしたのに日本は遅れてたという批判は当たらない。


写真:1943年4月松江高校の鳥飼欣一。宍道湖畔にて撮影。

しかし,戦局の悪化に伴って,徴兵猶予者に対する批判が,農村や都市庶民から生まれた。戦意向上,総力戦体制強化、挙国一致を図るために,東条内閣は,学徒動員を決意する。

1943年(昭和18年)6月 「学徒戦時動員体制確立要綱」閣議決定。在学徴集延期臨時特例を公布し、それまで兵員徴集を免除されていた学生を召集。

陸海軍に入隊した学生は、陸軍甲種・乙種幹部候補生や、海軍予備学生・海軍予備生徒として、不足していた下士官や下級将校の充足に当てられた。そして,全国で開催された文部省主催「学徒出陣式」が開催された。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3参照。

実は,学徒動員の対象は,当初は文系学生のみで,理科系学生は、兵器開発など、戦争継続に不可欠とされ徴兵されなかった。しかし,理科系学生も徴兵猶予が停止され,航空関係の学科の徴兵猶予だけが残った。

学徒戦時動員体制確立要綱 1943年6月25日 閣議決定
第一 方針
 大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育練成内容ノ一環トシテ 学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ 学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ 之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス

第二 要領
 一 有事即応態勢ノ確立
  学徒ヲシテ将来ノ軍務ニ備へ国防能力増強ヲ図ラシムルト共ニ 必要ニ当リテハ直接国土防衛ニ全面的ニ協力セシムルモノトシ之ガ為 概ネ左記各項ノ方途ヲ講ズ
 (一)学校報国団ノ隊組織ヲ直チニ国土防衛ニ有効ニ動員シ得ル如ク強化ス
 (二)「戦時学徒体育訓練実施要綱」ニ基ク体育訓練ヲ強化シ特ニ大学、高等専門学校、中等学校第三学年程度以上ノ男子学徒ニ付戦技訓練ヲ徹底ス
 (三)前項ノ学徒ニ付航空、海洋、機甲、馬事、通信等ノ特技訓練ノ強化ヲ図ル為学徒ノ適性登録制度ヲ確立シ本人ノ適性ニ従ヒ特技訓練ヲ実施ス
 (四)基本訓練種目、戦技訓練種目及特技訓練種目ニ付中等学校ヨリ大学ニ至ル訓練教程ヲ総合的且各学校ノ段階ニ適応スル如ク制定シ以テ訓練ノ適正ト徹底ヲ図ル
 (五)学徒全員ニ対スル防空訓練ヲ徹底スルト共ニ防空勤務補助員トシテノ訓練ヲ強化スルモノトシ特ニ特技隊及特別警備隊トシテノ訓練ヲ強化ス
 (六)中等学校以上ノ女子学徒ニ対シ看護其ノ他保健衛生ニ関スル訓練ヲ強化シ必要ニ際シ戦時救護ニ従事セシメルモノトシ之ガ為必要ナル施設ヲ整備ス。

学徒戦時動員体制確立要綱(2) 1943年6月25日 閣議決定
二 勤労動員ノ強化
 学徒ヲシテ挺身国家緊要ノ業務ニ従事セシメ 其ノ心身ノ錬成ヲ全カラシムモノトシ 左記各項ニ依リ 食糧増産、国防施設建設、緊要物資生産、輸送力増強等ニ其ノ重点ヲ指向シ之ガ積極強力ナル動員ヲ図ル
 (一) 勤労動員ハ国民動員ノ要請ニ即応シ 学校ノ種類程度ニ応ズル作業種目ノ適正ナル選択ニ依リ 作業効率ノ向上、作業量ノ増嵩ヲ図ル
 (二)勤労動員ノ期間ハ学校ノ種類程度ト作業種目ヲ勘案ノ上国家ノ要請ニ即応セシム
 (三)作業ト学校トノ臨時且分散的ナル関係ヲ可及的改メ力メテ 之ヲ常時且集注的ナラシム
 (四)勤労作業ノ対象タル事業ノ管理者ニ対シ 学徒勤労作業ノ意義ヲ徹底セシムルト共ニ 学徒ニ対シ事業ノ性質ヲ十分理解セシメ 尚学校当事者ト事業管理者トノ緊密ナル連繋ニ依リ 作業場ニ於ケル学徒ノ取扱ヲ一層適正ナラシム
 (五)員数及期間ガ相当多数且長期ニ亘ル学徒ノ動員ニ付テハ 学校移駐ノ考ヘ方等ニ依リ之ヲ実施セシム
 (六)学徒ノ養護ニ一層周到ナル注意ヲ払ヒ作業ノ種類性質ニ即応スル学徒ノ配置ヲ行ヒ作業ニ因ル傷痍其ノ他ノ事故ノ予防救護ニ遺憾ナカラシム。

(七)食糧増産作業ニ付テハ食糧増産応急対策(閣議決定)ニ即応シ従来実施シ来レル農科応援作業等ヲ強化スルノ外左記各項ノ方途ヲ講ズ
   (イ) 耕作廃止畑、伐戈跡地、河川敷、工場建業予定地等空閑地ニ付 極力学校直営ノ学校報国農場ヲ創設セシメ 米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシム
   (ロ) 既設ノ学校報国農場其ノ他ノ付属農園ニ付テハ米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシメ学校附属ノ農業実習地及一般学校用地ニ付テモ主要食糧及雑穀ヲ栽培セシム
   (ハ) 収穫物ノ運搬、害虫駆除、除草、緑肥刈取等ニ付学校ノ種類、程度、所在地等ヲ勘案シ特定ノ学校ヲシテ可及的一定地域ノ作業ヲ担当セシメ以テ学校ト作業地トノ緊結ヲ図ル
   (二) 可耕荒廃地、開墾可能地ノ簡易開墾、湿地埋立、排水施設ノ整備、耕地整理、牧野改良等ニ付テハ一校又ハ数校ヲ特定シテ力メテ一貫作業ヲ目途トシテ之ガ完成ニ協力セシム
(八)各種ノ工場事業場等ニ於ケル勤労動員ニ付テハ特ニ左記各項ヲ考慮シ之ガ実効ヲ収メシム
  (イ)学校ノ種類、程度及土地ノ情況ヲ勘案シ適当ナル計画ヲ得タル場合ハ通年常時循環シテ計画的ニ一定要員ヲ出動セシム
  (ロ)学徒ノ専門技能ハ力メテ之ヲ活用ス
  (ハ)学校ノ実習場等ニ於テモ工場ト連繋ヲ密ニシ其ノ委託作業ニ従事セシム
(九)女子ニ在リテハ前各項ニ依ルノ外 特ニ中等学校以上ノ学校ニ付 工場地域、農村等ニ簡易又ハ季節的幼稚園保育所及共同炊事場ヲ設置セシメ 又ハ他ノ経営スル斯種施設ニ於テ保育等ニ従事セシム。

第三 措置
一、学徒動員ノ運営ヲ適正ナラシメ且其ノ効率ノ向上ヲ図ル為文部省ハ学徒動員ニ関スル機構ヲ整備スルト共ニ関係ノ各庁及諸団体ノ連絡協議会ヲ設置ス
二、学校報国団中央及地方本部ノ組織及機能ノ整備強化ヲ図ル
三、本件実施ニ要スル経費ニ付テハ既ニ成立セル予算ノ活用ヲ図ルノ外要スレバ必要ナル予算的措置ヲ講ズ


写真(上):聖心女子学院生徒による薙刀と木刀の鍛錬および射撃訓練:武道・軍事訓練が奨励され、女子の戦意高揚が図られた。日本軍は女子部隊を組織しなかった。「ひめゆり部隊」といえば、軍に服する婦人部隊(郷土防衛義勇軍)あるいは軍属を意味する。そこで、沖縄戦の高等女学校の生徒による看護奉仕は、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる。<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のとき引用。十六七歳の高等女学校の生徒ですら、小銃射撃など軍事訓練が強化される状況で、二十歳の男子大学生が徴兵を猶予され、銃後で勉強を続けることができた。これは差別待遇であると、徴兵される庶民の怨嗟の声なき声もあった。
1943年6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定され、文系大学生の徴兵猶予の取り消し、「学徒動員」(狭い意味で)が行われた。

出陣学徒壮行会
1943年10月、学徒動員が決定し、徴兵選抜を猶予されていた大学生が徴兵される。「出陣学徒壮行会」が全国各地で開催。1943年10月21日の明治神宮外苑競技場における文部省・学校報国団本部主催関東地区壮行会が有名である。入隊予定学徒・見送りの女学生など7万人が集まり、雨の会場で分列行進が行われた。
出陣学徒代表の東京大学文学部江橋慎四郎は、東条英機首相の激励に、次のような答辞を述べた。

「生等今や見敵必殺の銃剣を掲げ積年忍苦の精神研鑚を挙げて悉、此の光栄ある重任に奉げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず」

「海ゆかば」「ああくれないの血は燃ゆる」合唱の中、学徒はそのまま鉄道で入営先に向かった。学徒代表の江橋慎四郎は生き残り、東京大学教育部教授になった。

壮行会に出席していた慶応大学の上原良治の遺稿は、『きけわだつみの声』の頭に掲載されている。彼は、軍国主義・全体主義に抵抗して自由主義の勝利を主張した。

自由の勝利は明白なことだと思います。----人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、クローチェも言っているごとく真理であると思います。」
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。---真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態には追い込まれなかったと思います。
「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言ったことは確かです。一器械である吾人には何も言う権利もありませんが、--ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。---後姿はさみしいですが、心中満足でいっぱいです。」

上原良治は1945年5月11日戦死、戦果不詳。

1943年、旧制小樽高商を繰り上げ卒業し、一旦は民間企業に就職が決定していた菊水雷桜隊の栗村正教少尉[永末千里サイト]も、海軍の特攻隊としてこの時期に出撃、戦死している。栗村正教は1943年9月三重航空隊に仮入隊、同年10月4日入隊式が執り行われ「第十三期飛行専修予備学生」として厳しい訓練に励むことになった。その後、無事訓練を終え、1944年夏に帰省を許され、家族と最後の別れの時間を過ごした。この時の様子を実妹の千恵子さんが追悼集に書き記している。

●家族との別れ
 家族は皆、帰省した理由を「最後の別れに帰された。」という一言で、分かりきる程分っていた。それでも会えた事は、うれしかった。会えた喜びと、もう飛び立って行くのだという悲しみと淋しさが微妙にからみ合って、いいようのない複雑な心境であった。 皆、表面で笑って、心で泣いていたのかも知れない。
 その後は、母の手料理で、郷里の家で過した。一夜語りつくしたのかも知れない。何時に休んだのかも覚えていない。ほんとうに限られた貴重な夜だったのである。
 母が後になって、ぽつり、ぽつりと話してくれた事だが、正教さんはその夜、母にきっぱりと言ったそうだ。
 「この戦争は、どんな事をしても、もう勝つ見込みはないんです。それでも僕は、行かねばならないんです。」


写真(右):海軍艦上攻撃機「天山」;1250機生産された海軍の後期主力雷撃機。時速450キロ,800キロ航空魚雷1本を搭載できたが,米軍戦闘機の迎撃にあえばひとたまりもなかった。しかし,夜間雷撃だけでなく,昼間雷撃も命じられた。特攻機として500キロ爆弾を搭載し,出撃したものもある。

会津若松日吉館の庭先にて
一時帰省したときに,必死で、ここまで育ててくださったのに、何の親孝行もできずに行く事は、つらいし、僕は戦争なんかきらいですが、でも、今の日本の現状から考えるとしかたないんです。」と。兄の目は、赤かったという。母は只、うなずいてあげるだけで何も言えなかったと言っていた。

 二泊の休暇のうち二日目はお母さんの叔父さんが経営していた旅館「日吉館」に家族で宿泊した。 ここでの記念写真は家族の大切な宝物になっている。

そしてこの日の朝は家族との永遠の別れの朝であった。千恵子さんは次のように記している。
 朝が来た。みんな静かに起き出していた。私もうつらうつらしながら、どうしようかな、と思っていた。その時、私の顔に、ポタリ、ポタリと熱い涙が落ちてきた。それは、正教さんの涙だったのだ。自分は起き、まだ起きない私の寝顔を見つめているうちに、つい涙がこぼれてしまったのだろう、と私は思った。でもほんとうは、「母を頼むよ。」と心の中で言っていたのかも知れない。 
 私は寝たふりをしながら、涙が止まるのを待った。しかし、私も悲しくなり、目頭に涙が丸くなって溜まるのを覚えた。それが、兄妹の別れだった。
(引用終わり)

6.兵士としての学徒動員と並んで、銃後の兵器生産、資源節約、食糧増産などを目的とした学徒動員も行われた。戦争は、前線だけでなく、後方、銃後でも戦われた。総力戦では、軍民が総動員される。特攻隊員や前線の将兵だけではなく、勤労学徒、勤労女子学生、女子挺身隊も戦争をしていた。1943年、太平洋上、中国戦線だけではなく、日本本土でも戦争は戦われていた。


写真(上左):聖心女子学院生徒による傷病軍人の慰問・写真(上右):聖心女子学院生徒による勤労奉仕;2枚とも<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のとき引用。そこには次のようにある。「小林聖心国民学校となった小学校の児童たちは、学習のかたわらその小さな身体で食料の増産に励んでいた。いまの運動場は芋畑、小学校校舎の前は南瓜畑となり、そこで土.を耕し種を蒔き、校舎外に特設した手洗所から肥料を運んでこれを育てたのである。学童疎開はしなかったが、家族と一緒に疎開した者もあって、クラスの人数は戦前の3分の2程度に減っていた。
---警戒警報が鳴りわたると、全校生徒はいっせいに勉強や作業を中断、綿入れの防空頭巾をかぶり、姓名・住所と血液型を記入しためいめいのカバンを肩から斜めにさげて駆け足で中庭に集合する。整列、点呼の後、学年ごとに先生が引率して本館の地下室、および松林(現ゴルフ場)の中に自力で掘った防空壕に退避する。そして警戒警報解除のサイレンとともに--帰宅させる。班別に隊を組んで帰宅するのであるが、電車が動かないときは教師が引率して、空襲の後の独特の黒い雨の中を線路づたいに歩いて夙川、芦屋あたりの家庭まで送り届ける--。
しかし、こうした難渋の時期でさえむしろ、だからこそというべきかもしれないが、初代院長の時代に始まった小林の慈善活動はつづけられた。---毎年のクリスマスに、これらの収益と合わせて、夏休み中に女学生が1人3枚ずつ縫った袷の着物、先生方の縫ったふとん、各家庭より供出の正月用餅などを、大阪セツルメントその他の恵まれない子どもたちの施股に贈ったのである。」

写真(右):聖心女子学院生徒による担架競技:空襲や戦場で負傷者出た場合に備えて、担架で搬送訓練をする。聖心女子学院の沿革「聖マグダレナ・ソフィア・バラの思いを今に」によれば、1801年、北フランス、パリ北方140キロのアミアンで、カトリックの女子寄宿学校として創立された聖心女子学院は、キリスト教に基づく魂と知性と行動を重んじるカトリック女子教育を行った。そして、1818年にはアメリカにも聖心女子学院が設立され、1908年、日本にもオーストラリアから聖心会修道女が来日、語学校を開設し、財団法人聖心女子学院が設立されている。1910年、日本の聖心女子学院に高等女学校、小学校が開港された。現在、日本では7つの聖心女子学院姉妹校があり、幼稚園から大学院までの教育を担っている。また、世界では30カ国で147の聖心女子学院の姉妹校が教育を担っている。

<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のときには次のようにある。「マザー・シェルドンをはじめとする多くの連合国側国籍の修道女にとっては、受難の時代が始まろうとしていた。日本を愛し、日本の子どもたちのために 献身的に働きながら、ただその国籍---だけの理由で、大きな迫害をこうむらねばならなかった。

1938年には国家総動員法が制定された。国ぐるみの戦争突入である。つづいて1939年には国民徴用令が実施され---1941年3月、臨戦体制は教育の場にも踏み込んできた。「国民学校令」によって小学校が国民学校と名を変えるとともに、教科ならびに教科書にも根本的な改革が行なわれた。----軍国主義の強調、国家主義思想の涵養を目的としたものである。

聖心会の「キリスト教的な人間観に基づく」全人的な教育も、いまや危機にさらされつつあった。加えて、外国人排斥の風潮は必然的に強まり、外国の宗教とみなされたキリスト教は反皇道スパイの嫌疑をかけられ、軍部の弾圧が始まった。学院の特色のひとつである英語も課外随意課目として後退させられ、かわって園芸その他の勤労奉仕が課されるようになった。」


写真(上左):聖心女子学院女学生の組立工場での勤労奉仕・写真(上右):聖心女子学院女学生による西部作業;2枚とも<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のときに、次のようにある。「戦局の悪化にともない、昭和18年から学徒勤労動員体制がしかれた。やがて当学院にも19年4月1日、学校工場(神武秋津社第一製作所)が設置された。現在の図書室、寄宿舎食堂、講堂、校長室、事務室が陸軍の飛行機部品を製作する川西工場、一方、2階、3階の旧寝室が海軍の製図工場にあてられ、女学校の生徒は終日写図・成形・組立の作業に動員された」とある。

大戦中、海軍機の九七式大型飛行艇、二式大型飛行艇、紫電を生産した川西航空機製作所:戦時下の神戸、飛行機軍需村の記憶 (2006年08月31日)引用
1928年、川西航空機株式会社が設立、直後に海軍指定工場となった。発足と同時に、鳴尾村への本拠地移転計画、193012月に、工場を神戸から鳴尾村に移した。川西航空機は鳴尾村および県に対して、工場敷地用の武庫川の土砂採取、土砂運搬用の軽便軌道布設、水上飛行機の滑水台設置、護岸工事施工のための公有水面使用などの許可を出願した。
1938年9月、海軍管理工場となる。生産増強資金の調達についても、政府による斡旋・命令によって銀行から融資を受けた。
国民徴用令が発令。全国での適用第一号は、開戦直前の1941年8月から行われた川西航空機の従業員徴用。鳴尾村は、生産基地としての位置づけが与えられ、社外から実務未経験者が多数入社する。統制令により、従来の職業から無理やり転職させられた人も多かった。
増産体制が強化され、工場も増設されるなかで、川西航空機全体の総従業員数は、1930年の鳴尾移転時の352名から、1932年には、1148名となり、太平洋戦争開戦の1941年には、1万803名と急増し、1944年には、6万人を超える。(渡辺 直子【兵庫県】引用終わり)

写真(右):1944年4月、鳥取県松江高校の理科5組の鳥飼欣一。

緊急学徒勤労動員方策要網 1944年1月18日 閣議決定。

 第一 方針
学徒勤労動員ニ関シテハ先ニ決定セル「学徒戦時動員体制確立要綱」及「教育ニ関スル戦時非常措置方策」ノ趣旨ヲ更ニ徹底シ勤労即教育ノ本旨ニ徴シ総合的且計画的ナル学徒勤労動員ヲ強力ニ実施シ戦力増強ニ挺身セシムルト共ニ戦局ノ現段階ニ処スベキ学徒ノ教育錬成ヲ完カラシムルモノトス。

第二 要領
 一、動員学徒ヲ勤労セシムベキ工場事業場ヲ特定シ通勤距離、学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別等ヲ考慮シ学校ト工場事業場トヲ緊結シ其ノ特定部署ニ対シ通年恒常循環的ニ学徒ヲ動員スル如ク計画ヲ樹立スルコト
 二、学徒ノ動員ハ学校ヲ基本トスル団体組織ニ依ルモノトシ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ之ヲ組織スルコト
 三、学徒ノ従事スベキ工場事業場ニ於ケル作業ハ学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別ヲ勘案シテ之ヲ適正ナラシムルコト
 四、同一学徒ヲ勤労ニ動員スル期間ハ 差当リ一年ニ付概ネ四ケ月ヲ標準トシ 且継続シテ之ヲ行フヲ立前トスルコト
  尚学校又ハ学科ノ種類ニ依リテハ其ノ期間ヲ更ニ長期ナラシムルコトヲ考慮スルコト
 五、状況ニ依リ 工場事業場ヲシテ学校ノ校地、校舎内ニ設備ヲ講ジ 又ハ材料ヲ供給セシメ 学校内ニ於テ学徒ヲシテ生産ニ従事セシムルコトニ付テモ 方途ヲ講ズルコト
 六、前各項ノ外 学徒ノ動員ニ関シテハ「学徒戦時動員体制確立要綱」(昭和十八年六月二十五日閣議決定)ニ依ルコト
 七、特ニ学徒動員ノ運営ヲ円滑ニシ 且其ノ教育実践ノ完璧ヲ期スル為 文部省(又ハ地方長官)ノ推薦ニ係ル)教職員又ハ関係官吏ヲシテ軍需監理官又ハ労務監理官ヲ兼任セシムルト共ニ 関係工場事業場ニ学徒専門ノ勤労係員ヲ設置セシメ 之ヲ文部省(又ハ地方庁)ノ嘱託トシ 工場事業場ニ於ケル学徒勤労管理ノ徹底的刷新ヲ図ルコト
 八、学徒動員ノ方法其ノ他必要ナル事項ニ付更ニ国家総動員法ニ基キ法的措置ヲ講ズルコト
 九、学徒勤労管理関係者ノ識見向上ノ為 速ニ講習其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルコト。

備考
 一、学徒ニ対シテハ 其ノ動員セラレテ従事シタル工場事業場ノ作業ニ即応シ短期技術教育訓練ヲ実施スルト共ニ 右教育訓練ヲ経タル学校卒業者ノ所遇ノ向上 並ニ資格検定ニ付考慮スルコト
 二、学徒勤労ニ対スル報酬方法ニ関シ別途考究スルモノトスルコト。

写真(右):1942年10月、カリフォルニア州ロングビーチ、アメリカ、ダグラス輸送機C47のエンジン取り付けを行うアメリカの女子労働者;日本の勤労女子学生と同じく、米国でも工場に大量の女子労働者が動員された。日本では、男子工員の補助として働いたが、米国では、偏見をもたれながらも、兵器生産に大いに寄与した。ただし、米国の女子労働者は、日本のような無償奉仕ではなく、賃金を支給された。1944年に米国は,14万機の航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。政府は、リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると考えた。他方、働くことに生きがいを感じ、自分名義の銀行口座に給与を振り込まれたアメリカ女性は、誇らしげに小切手をきった。The careful hands of women are trained in precise aircraft engine installation duties at Douglas Aircraft Company, Long Beach, Calif.Contributor Names Palmer, Alfred T., photographer Created / Published 1942 Oct.
写真はLibrary of Congress Prints and Photographs Division Call Number/Physical Location LC-USW36-60引用。

1939年の米陸軍総兵力は40万人に過ぎなかったが,1939年9月に欧州大戦が勃発すると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要された。そして、ルーズベルト大統領は、現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決めた。

1940年5月、ルーズベルト大統領は、年5万機の航空機を要求した。陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。

1942年1月,1942年中に6万機の航空機を,1943年には12万5000機の航空機と12万以上の戦車を生産することが目標とされた。

米国は大戦で1860億ドルを負担し,次の成果をあげた。戦車86,000台 航空機29万6,000機 銃器1500万丁 弾丸400億発 砲弾400万発 艦載機6400機 商船5400隻 海軍艦船6500隻。

総力戦は、兵器・燃料・食料の生産、世論形成など、後方でも戦われるのであって、前線と銃後の区別はない。裏を返せば、戦場で戦う兵士も、工場で働く勤労女子学生・労働者も、ともに総力戦を戦っている。軍民の区別はない。

相模陸軍造兵廠に動員された学徒の記録からみた学徒勤労動員>
1943年(昭和18),「この頃、小さな地方都市の旧制中学4年生でしたが、勉強の傍ら毎日が陸軍配属将校による厳しい軍事教練と、農作業や重労働、過酷な開墾作業に従事しておりました。」−−盛岡市岩山開墾作業
「成績優秀で健康な学友は陸軍士官学校、甲種予科練、通信、戦車等々軍隊の学校に行きました。」

1944年(昭和19)夏,「日本国内の地方都市は、表向き平穏で静かな佇まいであったが町並みは人通りも少なく若者の姿は見あたらなかった。『撃ちてし止まん』『勝つまでは』戦争のため全てが失われ果て、多くの若者は軍隊や工場へと徴用そして動員され、故郷を後にした。」

残された生徒に課せられた次の試練は学徒勤労動員で軍需工場で働く事でした。軍需工場の優秀な熟練工も応召になり、工場の要員も足りなくなった事と兵器の増産に拍車が掛かって来たのです。

 1944年7月17日 県公会堂前で岩手県主催壮行式、分列行進を行い盛岡駅に向かいました。
出動校:県立盛岡中学 県立盛岡商業 県立盛岡工業 県立福岡中学 岩手中学 岩手商業

歓呼の声で送った同友や兄弟、親、今度は送られる立場になりました。駅頭で下級生や学校に残る者、親や親戚、そして女子生徒の盛大な見送りを受け、餞別まで貰い特別臨時列車は憧れも希望もなく粛々と上野に向かいました。-----決死の覚悟で二度と故郷に戻らない気持ちを持っておりました。京浜地区は国内の最前線です。

 時に12時3分勇躍出発した。この臨時列車は各地に停車し、今なら新幹線で4時間足らずですが20時間位掛かった記憶があります。男女生徒が1000名以上乗っておりました。上野に着きますと各単位で各工場に分散し目的工場向かいました。---
  我々の行き先は神奈川県にある陸軍の相模造兵廠です。---相模陸軍造兵廠に動員された学徒は下記の通り
岩手県関係:盛岡商業・盛岡工業・岩手高女・釜石高女挺身隊
4区工場の他府県の学校:甲府中学・平塚工業・新発田工業等々

1944年4月に桜咲く松江高校理科に入学した鳥飼欣一だったが,山根先生の下での勉強は,十分には行えなかったようだ。農村勤労奉仕と称して,学力ではなく,労働力を活用するように迫られる。食糧増産の掛け声の下に,肥料不足,労働力不足の中で,額とも勤労奉仕に動員された。

写真(右):1944年4月,松江高校 自習寮 北二寮の寮生の集合写真。右端が鳥飼欣一。

 東北の片田舎から出てきて、国内最大級の兵器工場で数千人規模の広大な工場に驚くだけでした。完備された最も近代的な陸軍第三病院(現国立相模原病院)もあり新しい施設であったと思います。
私たちは徴用学徒と云われ最初はハンマーとタガネによる徹底した精神教育で、手を真っ赤な血に染まりました。工場の機械を修理する工場に配属されましたが、工場内を勝手に歩く事も出来なく詳しい事は不明です。
この工作工場は6工場ありその4区の工場で働く事になりました。機械の大半はアメリカ・ドイツ製の自動工作機械、旋盤・フライス盤・国産は大阪機工等々を使いましたが、5区工場はベルト式の古い機械を使っていました。1区工場は労働の激しい鍛造部門で体の大きい丈夫な人が配属されました。作業時間は午前7時から午後7時まで12時間拘束で、1週間毎に夜勤です。

1944(昭和19)年11月東京初空襲と記憶してますが、不思議にも相模原は大空襲に会いません。然し神奈川県下、川崎方面に配属された勤労学徒のなかに多数の犠牲者が出ました。----警戒警報、空襲警報が発令されても作業は継続し飛行機が上空に来て初めて「待避」そして自分の蛸壺防空壕に入ります。物資も極端に不足し材料も無くなり作業も中断するようになりましたが、機械から離れる事は出来ません。工員の80%は少年少女養成工と女子挺身隊そして動員学徒、6トン牽引車(九八式六トン牽引車)のテスト運転も学徒がやりました。その他、風船爆弾を造っている女子挺身隊の人達や陸軍兵器学校の生徒もおりました。

太平洋戦争末期になると、中高等学校、国民学校の四年生以上の生徒も全部、共同作業隊の一員として動員された。農村へ集団疎開した学童も援農の一部隊とされた。

1945年3月 本来ならば卒業式で勤労動員も終了なのですが、青空の下で野外卒業式です。卒業証書は貰いましたが勤労動員は継続となり、そのまま就職と云う事です。進学する者も沢山おりましたが、文科系大学・専門校合格者は入学延期でこのまま残る事になりました。 元々昭和18年文科系学生の徴兵延期も廃止となり大学生・専門校生も出陣、所謂「学徒出陣」です。

一般の徴兵年齢も1年繰り下がりになりました。徴兵まではこの工場に残らなければなりません。空襲で倒れることを覚悟で諦めておりました。この厳しい牢獄のような工場から抜け出すには病気になるか、軍隊の学校に入るか、医学部・工学部・農学部の学校に入る方法もありましたが、この時代どう変わるか誰も期待や希望を持つ人はおりません。外地就職も優先されましたが、誰も8月の終戦は想像出来ない時代です。

1945(昭和20)年3月 幸いにも農学部に合格し、入学式の通知を先生から聞いたとき、更に証明書を持って「淵野辺駅」から盛岡迄の切符を購入した事は朧気に覚えてる程度です。現地で青空合同卒業式に出席し記憶は定かではありませんが、相模陸軍造兵廠長、原乙松陸軍中将からの表彰状、報奨金が郵便貯金で壱百数十円を貰った記憶があります。

さて、朝お握り2個を貰いリュックを背負い相模陸軍造兵廠の寮を後にしました。 省線から見た首都東京は一面焼ヶ野原で、上野から漸く列車に乗る事が出来ました。列車の混雑は想像を絶する超満員です。

当時は(中学)卒業後の勝手な就職は出来なく動員計画に縛られ、割り当ての内容は次の通り。
総員110名:故郷県内に就職出来る者15名,代用教員割り当て16名,上級校進学(10%以内)16名,差し引き63名(?外地就職 ?軍隊志願 ?動員工場に残る 何れかの選択)


進学者は,小樽高商・弘前高校・盛岡高農・岩手医専・岩手師範・岩手青年師範・仙台工高・福島高商・茨城滑空専・早大・慶大・美校・東洋大・大倉高商・その他官立講習所。途中軍隊学校24名 総計140名。就職先は国内を除き 満州国官吏・朝鮮銀行・満州国際運輸・満州製鉄・満州瓦斯・その他

 厳正な入学式、厳格な速成専門教育約2ヶ月で再び学徒勤労動員で、今度は「味噌醤油工場」に行く事になりました。
1944(昭和19)年徴兵適齢が1才引き下げられ,満19才となり,兵役法施行規則を改正し,満17才以上の者とすると同時に,満17才未満の志願も可能となりました。当時大学予科・専門学校1年から特別幹部候補生の募集が記憶にあります。然し、7月仮徴兵検査、甲種合格、9月仮入隊が決定したのですが!8月15日終戦となり兵役は免れました。
(→「学徒勤労動員」引用終わり)

写真(右):下田高女の学徒;海軍航空技術廠支廠内川分工場にて(1945年4月撮影)ぶらり金沢散歩:楠山永雄著NO.41 ある高等女学校の学徒勤労動員 (2001年8月30日入力)によれば、「昭和19年8月16日、同校の4年生110名は東海バスの下田駅に集合した。見送りの父兄や下級生の前に整列し、『ああ 紅の血は燃える』の合唱に思わずすすり泣く。万歳の声に送られてバスで伊東へ、熱海・大船・逗子を経て金沢八景駅に到着した。そして土埃りの道を約20分、重い荷物と疲れた足を引きずりながら夕暮れ迫る内川橋寮に着いた。
 そこは、現在の関東学院大学キャンパスの場所で、海軍工員養成所内に設けられた女子寮であった。配属先は海軍航空技術廠支廠・雷撃部の内川橋分工場で、旋盤を使って「魚雷」の部品を作る仕事である。錨マークの鉢巻きを締めた15〜6歳の少女たちは、兵器生産の戦士としてひたすら旋盤に向かった。負ける戦争など考えもせず一心に働いたのである。」とある。海軍航空技術廠は従業員が1万人余、航空機やその搭載兵器の研究や試作をした。


「勤労学徒動員の記」沼津中学三年/四年の体験回顧
昭和19年に補充のため大学・高等学校・専門学校と中学三・四・五年生の勤労学徒動員法が執行された。特に軍需工場の生産面に終戦まで従事した。県立沼津中学三年動員数は、疎開転入学の90名を含め約340名。三・四・五年の動員合計約850名。

県立沼津中学校(現・沼津東高等学校)は静岡県の進学校。救国・殉国の士たらんと、優秀な五年生は陸軍士官学校、海軍兵学校等に。三、四年生は航空予科練習生に、二年生は陸軍幼年学校などに進学。

県立沼津中学校三年生の動員先は、名古屋の軍需工場に内定していた。学校側の希望と努力にて、沼津海軍工廠に変更となり、終戦までの一年間、海軍工廠の環境の中、勤労学徒の一員として、 <必勝>のため、命令絶対厳守にて終戦まで頑張り抜いた。

沼津海軍工廠は対空の電波探知機、電波通信機の生産を主として居ました。昭和十九年にはいり、本土決戦関連の兵器が作られる様になり、配属された先は特殊潜水艇・回天専用のモータの作成の回転機班でした。回天専用のモータの作成であることを知らされたのは後日のことでした。 回転機班の作業員は、工廠・十五名、沼津中学・二十名、熱海女学校・二十名程度の編成と記憶しています。

・工廠員の作業はモーター組み立てと検査。
・中学生は回転子に組み込む棒状銅体の削り出し。
・女学生は固定子の六角コイルの巻き取り
所詮・中学三年生、モーターの回転するのが不思議で理解できない集団の作業。棒状銅体の削り出し六角コイルの巻き取り、極めて単純な仕事でした。削りだしは単純とはいえ力仕事でした。支持された棒状寸法に対し、廃品として回収された銅板を選び出し、幅・約15糎の万力に力限りにに固定。それから慣れない内は残酷の弐文字。鏨にハンマーの力一杯の切り出し。振り下ろしハンマが時たま外れ、左の親指と人指し指は紫に腫れて、外れが重なり、傷となり血が流れます。手拭いを巻き付け削り出し続行。

棒状仕上げが思いのほか大変な仕事。荒目・中目・細目のヤスリで削り、ノギスで測りながら仕上げます。そして提出、合否の判定を受けました。始めは合格は日に2、3本、その後5、6本になったことを記憶して居ます。帰り際の血染めの手拭いの自慢も、最早や六十年前の思い出となりました。

我々の仕事は此処まで。組み立て・検査は工廠工員の専門分野。特に高電圧の瞬時の検査は大関心事でした。仕様電圧で問題なく回転するのに。高電圧試験では大半がショートで、白い煙を出す始末。原因は耐電圧のニスの品質不良と聞かされた。何で過酷な試験を行うか聞いたところ。特殊潜水艇・回天専用のモータと知らされ納得と名誉を感じました。

-----回天のモータの製造は突如中止となり、他の配属となり、自分等の数名は本土決戦の機関銃弾製造に配属され、旋盤の簡単な手ほどき とバイトの研磨を教わり、その日から、ゲージとノギスの頼りの弾作り、想像していたより簡単な工作にして、大半が合格したことを記憶しています。簡単な工作だけに機関銃の先から弾が出るかなと心配しきり。上司から一発でも多くの命令。昼の給食そこそこで頑張り抜いた次第です。

-----疎開先の主人の提案で、ラヂオを庭に持ち出して全員で、玉音(天皇陛下の録音放送)を拝聴することにことになった。親戚も参加し、子供を含め十五人は集まりました。大人の話では、玉音は<本土決戦の訓令>と思われて居た。

正午・丁度に玉音の放送が始まった。残念にも電波が悪いのか、録音が悪いのか、雑音にて聞きずらく、大半の人は内容を聞き取ることが出来なかった。中にはポッダム宣言受託による、国民えの終戦通達だ人によっては、イヤイヤ、本土決戦の通達だと。その後の放送を聞き。終戦を確認したと記憶して居ます。
(→ 終戦六十周年記念 勤労学徒動員の記 中学三年/四年の体験回顧引用終わり)

写真(左):坊主頭、丸刈りの鳥飼欣一(17歳);戦時中の男子学生は、入営する兵士と同じく、丸刈りであり、長髪の学生はいなかった。ただし、軍体内では、長髪が黙認されることもあった。

Links
銃後
「学徒勤労動員」
学徒勤労動員と川崎航空明石工場
戦時下の盛岡中学 浅沼俊典(盛中60期)
京都師範学校 学徒動員の記録
青森県学徒勤労動員抄史
第三章 戦時経済崩壊期の労働統制
薄れゆく戦争の記憶 引き継がれる戦争の記録
学徒動員の前 専門学校(女子大)の4年生の私も動員された。
回天隊員に「血染の鉢巻」を送った広島県立呉第一高女の動員学徒たち
16歳、勤労学徒の戦争
学徒動員(新保氏のアルハ゛ム)
学徒動員で砲台陣地造り
かながわの学徒勤労動員
日詰町立日詰農学校・日詰実科高等女学校
【学徒動員】

写真(右):1944年春,農村に勤労奉仕に動員された松江高校理科の鳥飼欣一

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社。

学徒の通年農業動員の強化
1944年9月に決定された「農村労力非常対策要綱」によって学徒の援農活動は画期的に強化された。1945年3月、学徒の授業停止を閣議決定、4月「国民学校児童など中等学校学徒の農繁期作業協力に関する件」、5月「農繁期学徒動員に関する件」と通牒を発し、正規の教育を放棄して青少年を食糧増産の無償労働に動員した。

1944年5月21日、次官会議決定の「農業に関する学徒勤労の強化刷新に関する件」は、268万人の学徒の通年動員を図るもの。内容は次のとおり。

(1) 農村の国民学校高等科生徒、中等学校生徒は原則として農業に通年動員する。
(2) 学童疎開指定甲地域内の国民学校高等科および中等学校低学年生徒は、工場動員をのぞき必要に応じ通年動員する。
(3) 大学専門学校の学生も必要に応じ通年動員する。
(4) 工場出勤中の学徒も農繁期一ヵ月は援農に動員する。

 学徒動員はこのほか、農機具修理、甘藷畑開墾、南瓜・大豆・そば増産等の特定作業について大々的に行なわれた。農機具修理は工業学校と農業学校の生徒を旧農機具の修理作業に動員した。

工場労働者の帰農
 1945年5月18日、「緊急主要食糧等確保労務対策」を決定し、「工場事業場等に於ける農業出身労務者にして農業要員たるべき者」は原則として帰農させる。農業出身労働者だけでなく、前年国民学校をおえて工場等に就労している農家の子弟や農家出身の女子挺身隊員までも帰農させる措置をとった。

1945年5月31日には全国工場従業者の20%削減を目標に整理を行ない、遊離した労働力を農業・燃料・運輸通信の各部門に重点的に移動させることを決めた(「工場従業者整理活用に関する件」次官会議決定)。

6月6日には農業要員の資格のあるなしにかかわらず工場従業員を「一層広汎かつ強力に」帰農させる措置を講じ(「工場従業者の帰農等に関する件」)、工場に動員されていた学徒も農業部面に振りむけられるようになった。

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社
極限に達した農業労働力不足
 1944-45年、全国的な農業労働力数は調査されなかった。全国20府県20ヵ町村の標準農村調査をもとにした推計によれば、1944年2月-同年末、農業従事者の減少88万2000人(内男子71万3000人、女子16万9000人)。男子減少のうち最大の原因は軍動員(73万人)であった。

1944年末の農業従事者総数は男子430万7000人、女子750万7000人、計1181万5000人。 農商省推計によると、1945年度の農業労働力総供給量は延22億200万人、需要量に対し延7億人余の不足した。これに本年度の転出見込数20万人を考慮すると、実人員で約240万人の不足と推定された。

戦争がつくる女性像 教育ニ関スル戦時非常措置方策 1943年10月12日 閣議決定
第一 方針
 現時局ニ対処スル国内態勢強化方策ノ一環トシテ学校教育ニ関スル戦時非常措置ヲ講ジ施策ノ目標ヲ悠久ナル国運ノ発展ヲ考ヘツツ当面ノ戦争遂行力ノ増強ヲ図ルノ一事ニ集中スルモノトス。

第二 措置
 一 学校教育ノ全般ニ渡リ決戦下ニ対処スヘキ行学一体ノ本義ニ徹シ教育内容ノ徹底的刷新ト能率化トヲ図リ国防訓練ノ強化勤労動員ノ積極且ツ徹底的実施ノ為学校ニ関シ左ノ措置ヲ講ス
 (一)国民学校 義務教育八年制ノ実施ハ当分ノ内之ヲ延期ス
 (二)青年学校 工場事業場ニ於テ生産ニ従事スル生徒ニ付テハ教室内ニ於ケル授業ハ極力之ヲ縮減スルト共ニ職場ノ実情ニ即シテ生産ノ増強、戦力ノ増進ニ資スル如ク刷新改善ス
 (三)中等学校
 (イ)昭和十九年ヨリ四学年修了者ニモ上級学校入学ノ資格ヲ付与シ昭和二十年三月ヨリ中等学校四年制施行期ヲ繰上ゲ実施ス
  (ロ)昭和十九年度ニ於ケル中学校及高等女学校ノ入学定員ハ全国ヲ通シ概ネ前年度ノ入学定員ヲ超エシメズ工業学校、農業学校、女子商業学校ハ之ヲ拡充ス
  (ハ)男子商業学校ニ就テハ昭和十九年度ニ於テ工業学校、農業学校、女子商業学校ニ転換スルモノヲ除キ之ヲ整理縮小ス
 (四)高等学校 (イ)高等学校ニ付テハ徴兵適齢ニ達セサル者ノ入営延期ノ措置ヲ受クル者等ニ対スル授業ハ之ヲ継続ス
  (ロ)昭和十九年度ノ入学定員ハ文科ニ在リテハ全国ヲ通シ概ネ従前ノ三分ノーヲ超エシメス、理科ニ在リテハ所要ノ拡充ヲ行フ
 (五)大学及専門学校 (イ〉大学及専門学校ニ付テハ徴兵適齢ニ達セザル者、入営延期ノ措置ヲ受クル者等ニ対スル授業ハ之ヲ継続ス
  (ロ)理科系大学及専門学校ハ之ヲ整備拡充スルト共ニ文科系大学及専門学校ノ理科系ヘノ転換ヲ図ル
  (ハ)文科系大学及専門学校ニ付テハ徴集猶予ノ停止ニ伴フ授業上ノ関係並ニ防空上ノ見地ニ基キ必要アルトキハ適当ナル箇所へ移転整理ヲ行フ私立ノ文科系大学及専門学校ニ対シテハ其ノ教育内容ノ整備改善ヲ図ルト共ニ相当数ノ大学ハ之ヲ専門学校ニ転換セシメ専門学校今後ノ入学定員ハ概ネ従前ノ二分ノ一程度タラシムルヤウ之カ統合整理ヲ行フ
  (ニ)女子専門学校ハ前項ノ整理ノ目標ノ外トシ其ノ教育内容ニ付テハ男子ノ職場ニ代ルヘキ職業教育ヲ施スカ為ニ所要ノ改正ヲ行フ。

 (六)各種学校
 (イ)男子ニ付テハ専検指定学校及特ニ指定スルモノノ外 之ヲ整埋ス
  (ロ)女子ニ付テハ専検指定学校ノ外戦時国民生活確保上緊要ナルモノ及職業輔導上必要ナルモノヲ除キ之ヲ整理ス。

二 教員ノ確保ヲ図ル為概ネ左ノ措置ヲ講ズ
  (イ)教員養成諸学校ニ付テハ其ノ授業ヲ継続ス
  (ロ)教員養成諸学校卒業者ニ付テハ従前別段ノ定ナキ者ニ在リテモ一定年限ノ就職義務ヲ課ス
  (ハ)現役ノ軍人及嘗テ官吏タリシ者其ノ他学識アル者ヲ教育者トシテ採用スルノ方途ヲ講ズルト共ニ技術者其ノ他実務担当者ニ付広クソノ協力ヲ得ル如ク措置ス
  (ニ)教員養成諸学校ニ所要ノ拡充ヲ図ル。

三 教育実践ノ一環トシテ学徒ノ戦時勤労動員ヲ高度ニ強化シ在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間ニ於テ之ヲ実施ス
四 在学中徴集セラレタル者ノ卒業資格賦与ニ付テハ、特別ノ取扱ヲ考慮ス
五 在学中徴集セラレタル者ノ除隊後ノ復学ニ付テハ、特別ノ便宜ヲ図ルト共ニ統合整理セラレタル学校ノ旧在学者アル場合ニ於テハ臨時ニ必要ナル施設ヲ講ズ
六 学校ノ統合整理ニ伴フ教職員ノ措置ニ関シテハ総合的ニ之ガ再配置ヲ図リ転換スル学校其ノ他必要ナル部面ノ所要ニ充当シ特ニ大学、専門学校教職員ニ付テハ可及的其ノ研究ヲ継続シ得ル如ク措置ス
七 本要綱実施ノ為必要アルトキハ学校及学科ノ廃止、授業ノ停止、定員ノ減少、学校ノ移転等ヲ命シ得ル如ク法制上必要ナル措置ヲ講ズ
八 学校ノ整理、転換、移転等ヲ命ジタル場合ハ政府ニ於テ之ガ補助其ノ他必要ナル方途ヲ講ズ
 尚特ニ私立ノ理科系大学及専門学校ノ場合ニ在リテハ其ノ学校ノ経理上必要アリト認メタルトキハ政府ニ於テ経常費ニ付適当ナル補助ヲ為スモノトス

写真(右):1944年4月(アルバムには。S19.4とある),鳥飼欣一の在学した松江高等学校理科5組;中央前が山根薫先生,左端が鳥飼欣一。

緊急学徒動員方策要綱 1944年1月8日 閣議決定
1944年2月 「決戦非常措置要綱」閣議決定(学徒の勤労動員は原則通年動員)
1944年3月 決戦非常措置要綱ニ依ル国民学校児童学校給食、空地利用徹底等ニ関スル件
同3月 決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件
同3月「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定(大学・高専の学生生徒と中等学校第 3 学年以上の生徒は継続動員、農学校は食糧増産、国民学校高等科、青年学校普通科、中等学校低学年は随時動員) 

決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱年  1944年3月7日 閣議決定
決戦ノ現段階ニ即応シ 学徒ノ動員ハ原則トシテ 中等学校程度以上ニ付 今後一年常時之ヲ勤労其ノ他非常任務ニ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置キ 左ノ要領ニ依リ必要ニ応ジ随時活発ナル動員ヲ実施ス。

一 学徒ノ勤労動員ハ 其ノ受入体制ヲ整備スルト共ニ 学徒ノ受クル教育ノ種類程度ニ適応セシメ 其ノ効率ヲ発揮スルヲ旨トシ 概ネ左ニ依リ之ヲ実施ス但シ必要ニ応ジ機ニ臨ミ他ノ作業ニ従事セシム。

 イ 国民学校高等科(尋常小学校を改名)
  国民学校高等科児童ノ動員ニ付テハ 土地ノ情況、心身ノ発達ヲ考慮シ 適当ナル作業種目ヲ選ビ之ヲ実施ス

 ロ 中等学校
 (一)工業学校生徒ハ概ネ軍関係其ノ他重要工場事業場ニ動員ス
 (二)商業学校ヨリ転換セル工業学校ノ生徒ガ特定工場ニ於テ現地作業ヲ行フ場合又ハ学校ヲ軍需工場化シタル場合ニハ概ネ夫々当該工場又ハ関係工場ニ動員ス
 (三)農業学校生徒ノ動員ハ食糧増産、国防建設事業等ニ重点ヲ指向ス
 (四)中学校、商業学校及高等女学校生徒ノ動員ハ 土地ノ状況、勤労需給ノ情況ヲ勘案シ 糧増産、国防建設事業 又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員ス
    尚女子ノ動員ニ付テハ 可及的学校設備ノ工場化ニ依リ勤労ノ実ヲ挙グル如ク併セ考慮ス

    大都市ニ於ケル中学校、商業学校生徒ハ必要ニ応ジ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス
 (五)特ニ第一、二学年生徒ノ動員ニ付テハ国民学校高等科児童ニ準ズ。

写真:1944年4月,鳥飼欣一の在学した松江高等学校理科5組。中央前が山根薫先生,左端が鳥飼欣一。松江高等学校理科の卒業は1945年3月なので,最終学年の記念撮影であろう。

 ハ 大学高等専門諸学校
 (一)理科系学生生徒ニ付テハ左ニ依ル

   工学及理学
  (イ) 工学及理学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ニ関シテハ 第三学年及第二学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ 低学年ノ学生生徒モ 之ヲ動員ス
  (ロ) 現在ノ第三学年ノ学生生徒ハ原則トシテ其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ最モ適当ナル工場事業場等ニ動員シ其ノ技術的指導面ニ活用スル如ク措置ス
   第二学年学生生徒ニ付テモ可及的右ニ準ズ。

   医学
  (イ) 医学関係学生生徒ノ実習勤務ハ 第四学年及第三学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ低学年ノ学生生徒モ之ヲ動員ス
  (ロ) 現在第四学年及第三学年ノ学生生徒ハ 軍病院、学校附属病院工場事業場附属病院、其ノ他一般病院等ニ於テ 専ラ実習勤務ニ服セシム
  (ハ) 現在第四学年ノ学生生徒ハ本年七月以降現在第三学年ノ学生生徒ハ明年四月以降夫々軍務其ノ他ノ実務ニ服セシメ得ル様措置。

       農学
   農学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ハ原則トシテ 其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ 其ノ専門ヲ最モ能率的ニ発揮シ得ベキ食糧増産、工場事業場等ニ動員シ特ニ食糧増産作業等ニ付テハ其ノ指導者トシテ活用スル如ク措置ス。

 (二)前項以外ノ学生生徒ニ付テハ土地ノ状況、勤労需給ノ情況等ヲ勘案シ食糧増産、国防建設事業又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員シ力メテ特能ヲ発揮シ得ル如ク措置ス
   大都市ニ於テハ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス。

 (三)教員養成諸学校
  (イ) 工業□□実業学校教員養成所及青年師範学校ノ工業科ノ生徒ニ関シテハ(一)ニ準ズ
  (ロ) 高等師範学校、女子高等師範学校、青年師範学校(前項ノモノヲ除ク)臨時教員養成所、実業学校教員養成所及師範学校ノ生徒ニ関シテハ(二)ニ準ズ
 備考 大学高等専門諸学校理科系学徒ノ動員ニ関シテハ特ニ学校教育ト密接ニ連関セシメ且ツ可及的将来ノ就職配置トモ睨ミ合セ適正ナル計画配置ヲ考慮ス。

二 学生生徒ノ勤労動員ハ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ学校ヲ基本トスル隊組織ニ依リ之ヲ行フ
  尚学徒ノ出動ニ際シテハ教職員ヲ多数活発ニ動員シ 其ノ指導監督ニ当ラシム
(松江高校の鳥飼欣一の恩師 山根薫先生も,軍服姿で写真に納まっているが,動員された学徒を指導監督する教職員として,やはり動員された側であった)。

三 学校報国隊ノ整備強化ヲ図ル
四 学校校舎ノ軍需工場化ニ付テハ 各種学校 特ニ女子ノ学校ヲ主流シテ急速ニ之ガ具体化ヲ図ル
五 学徒ノ勤労動員ニ際シ速ニ法令上ノ措置ヲ講ズ
六 曜日ヲ変更シ日曜日ニ於テモ授業ヲ為シ得ル如ク法令上ノ措置ヲ講ズ
七 教育関係教職員等ニシテ 軍需監理官又ハ労務官ヲ兼任スル者ニ対シ 速カニ必要ナル錬成ヲ行フ
八 学徒ノ動員ニ関連シ軍幹部、技術要員、科学研究要員タルノ教育錬成トノ調整ヲ図ル
九 学徒ノ防空、防衛等ノ非常任務ニ関シ急速ニ動員体制ヲ一層整備シ之ガ演練ヲ強化実施ス
十 勤労従事中ノ学徒ニ対シテハ 当該作業場ノ勤労者ニ準ジ 食糧其ノ他ノ物資ノ配給ヲ行フ如ク考慮ス

写真(右)兵庫県立柏原女学校の勤労動員:兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1944年撮影。校庭を農地に開墾し,農作業に従事したようだ。
兵庫県立柏原高等女学校沿革

1944年7月閣議決定に基づき文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」(国民学校児童の継続動員、教育訓練時間の停止、1 日10時間の勤務、交替制深夜業の実施)
同8月「学徒勤労令」公布(学徒勤労は学校報国隊の組織をもって実施)
1945年3月 「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科を除きすべての学校の授業は原則停止全学徒は決戦体制下に総動員)
同5月「戦時教育令」公布(学徒隊の組織編成)
8月 終戦後、学徒勤労動員は解除されたが、食糧増産のための勤労作業はしばらく継続。

学徒動員の対象中等学校以上(国民学校高等科を含む)の学生・生徒
愛知県教育史第4巻による。

愛知県内の学徒勤労出動工場調教学課工場 名所 在 地動 員 学 校 名(生徒数:人)生徒数計(人)
豊川海軍工廠;豊川市豊橋二中(170)、豊橋商(430)、成章中(69)豊橋女(300)、蒲郡女(90)、国府女(222)、新城女(105)、豊川女(200)、豊橋女商政(210)、豊橋実践女(130)、鳳来寺女(54)、福江裁(100)、愛商実修(124)2,204 名古屋陸軍造兵廠熱田、高蔵 千種、鳥居松県一中(397)、名第一工(297)、熱田中(236)、小牧中(255)県一女(440)、椙山一女(430)、小牧女(30)2,085 三菱航空機 港区大江町市機械工(334)、中川中(106)、熱田中(433)、県商(437)、東海中(219)、名中(67)市二女 (473) 、市一 女 (490) 、名女商(423)、名商女(320)、淑徳女(213)3,515 。

三菱発動機;東区大幸町八高(1,050)、県工(180)、中川工(190)、市一工(150)、東邦商(439)、名航空工(149)2,168 三菱電気 東区矢田町一師予(155)、一師本(353)椙山女専(418)、椙山附女(380)、市三女(480)1,786。

三菱金属; 大曽根町、岩塚町、枇杷島町東海中(300)、名中(420)、中川中(300)県二女(330)、愛女商(170)1,520。

愛知航空機;稲永新田県高工 (200) 、名高 商 (150) 、惟信中(390)、中京商(480)、県工(40)、中川工(50)、名第一工化(100)金城女専(700)、金城附女(450)、県一高等科(80)2,640。

住友金属;名古屋南区千町尾張中(390)、金城商(310)、市一工(50)、南山中(250)名二女商(320)、椙山女商(40)1,360 。

大同製鋼;星崎南区星崎町大同工(108)、名商(500)、享栄商(219)827。

大同製鋼熱田;熱田区花表町大同工(172)、名古屋鉄道(300)、県工(25)497 。

豊和重工業新川西;春日井郡新川町名電気(400)、名高理工(604)1,004 。

愛知化学工業;熱田区熱田西前田名二女商(270)、愛女商(177)、愛商女工芸(163)、中京女(75)685 。

日本碍子;瑞穂区堀田町県窯業(140)、常滑工(35)中京裁(165)340 。

愛知時計本社;熱田区千年町船方市二商(300)、中京商(275)、名第一工(60)中京女(225)、中京専(200)1,060 。

神戸製鋼;西区光音寺町東邦商(200)、名一工(50)一師女本(100)350 。

名古屋市電気局;栄区名古屋市 享栄商(215)、一師本(145)市一女(250)610。

川崎航空一宮;一宮市一宮中(558)、起工(208)一宮女(370)1,136 。

中島航空半田;半田市乙川半田中(383)、半田商(255)、半田女(155)、横須賀女(215)1,008 。

豊田自動織機;碧海郡刈谷町刈谷中(230)刈谷高女(222)452 日清紡不 明岡崎中(260)岡女(519)779
*愛知県教育史第4巻「学徒勤労出動工場調(昭 19.6.20)」による。

写真(右)「昭和20年2月」住友金属に勤労奉仕した学帽姿の鳥飼欣一(19歳);尼崎 研究部の屋上で撮影。

東京帝大が敗れた日」からみた勤労動員。

新潟で農作業
 文系では文学部の入営率が一番低いが、勤労動員に学部単位で駆り出されていた。昭和19年3月には全員が静岡県へ土木工事など、6月から8月には3年以上が横須賀海軍工廠へ派遣された。昭和20年に入ると、1月から3月まで1年生は中島飛行機群馬県小泉工場に、2、3年生は中島飛行機三鷹研究所に動員された。5月に入ると新潟県岩船郡関谷村に送られて農作業などに従事した。

身体虚弱者は動員を免除されたが、事前の身体検査を受けない者や不参加の者には懲戒処分をくだす警告が主任教授からなされた。勤労成績の悪いものは単位不合格となった。

「私は8月15日を勤労奉仕先の新潟県の関谷村で迎えました。20年4月に入学すると、5月の終りから6月はじめ頃にはかり出されたのです。すでに学徒出陣のニュースは何度も見ていましたので、大学入学前から学業を中断しての勤労奉仕はあるものだと覚悟していました。

  新潟へは文学部全体で行っています。当時、社会学をやっていた教室の助手が関谷村の村長の息子さんだった。そんな縁があって、関谷村へ行くことになったように聞いています」(藤岡忠美/昭和女子大学名誉教授・神戸大学名誉教授/文学部国文学科/昭和23年3月卒)。

「2年生の夏、新潟県の国鉄米坂線沿線にある関谷村で終戦を迎えました。勤労動員で、農作業の手伝いをしていたのです。

 その年の5月の初めに村についたときは、山かげには残雪も見られ、桃や桜が満開で、ようやく田植えの準備が始まろうとしていました。鍬を担いで連日田畑に通いましたが、その間にも召集令状が来て、仲間がひとり、またひとりと戦地に去っていきました。
 8月7日はお盆の入りで仕事が休みでした。広島で新型爆弾が使われたらしいという話が伝わってきましたが、新潟にいる我々には遠いところの出来事のように思われました。むしろ、9日のソ連参戦のニュースのほうが切実で、村の人も不安を募らせていました。

 8月15日に『甚九郎』という家に集まるようお触れがまわってきました。近くではここにしかラジオがなかったのです。村人たちと私を含めた学生3、4人が板張りの床のむしろのうえに座って、かしこまって終戦の大詔を聞きました」。

ソ連軍が攻めてくる
「茫然自失とはこのことをいうのでしょうか。戦争に敗けたとはどういうことなのか、これから何が起るのか、まったく考えることができませんでした。そのうちどこからともなく、『男は殺され、女はみな暴行されるだろう』『新潟はソ連に近いから真っ先に襲われるだろう』といった噂が広がり、不安な気持ちで過ごしました。16日に大学職員が村の各集落を廻って歩きましたが、我々の見通しは立ちませんでした。

しかしその翌日、文学部長である西洋史学の今井登志喜先生がきて、村の中央にある大蔵神社で次のような話をされました。

『今、日本は有史以来かつて経験したことのない敗戦という事態に直面している。君たちは決して軽挙妄動してはならない。聞けば敵軍が上陸して日本の男を皆殺しにし、女には手当たり次第暴行を加えるという流言が乱れ飛んでいるようだが、決してそういうことはない。戦争終結の処理は軍が勝手にやるものではなく、まず相手国の代表と互いに文書に調印して初めて、それに従って敗戦国に手を着けるのである。これは国際法の定めるところであって、それ以外の勝手な暴虐はいわばリンチである。そんなことをしたら世界の世論が許さない』。

 温顔をもって語る口調のなかに毅然としたものがあり、私は深く感動しました。

軍や警察などの強い者は、弱い国民に対していかなる横暴もまかり通る――それが日本の常識でした。それだけに、敵軍が法に従うなどというのは、到底考えられないことでした。また 『世界の世論』という概念も初めて耳にするもので、大変新鮮でした。

 先生の言が過たなかったことは、その後のミズーリ号上の降伏文書調印、軍隊の武装解除・施設の接収、東京裁判の開始に照らして、明らかであったと思います。
 我々は稲刈りが終るまで手伝いを続け、9月に東京に戻りました。そのときは、当初100名の仲間が50名に減っていました」(松田登/元教員/文学部国文学科/昭和23年3月卒(引用終わり)。

鳥飼欣一は,1945年3月に松江高等学校理科(5組)を卒業後,1945年4月に東京大学工学部航空原動機科に入学。徴兵猶予される大学の専門学科であり,難関の選抜試験があった。

1945年4月の東京大学工学部航空原動機科入学から4ヶ月,鳥飼欣一は,8月15日の終戦を迎える。19歳の夏であった。

大学の授業は夏休みなし,日曜休みなしに続けられていたので,授業に出席するために大学にいった。しかし,授業を担当すべき教官がいつまでたっても教室に来ない。
明治維新のとき,上野の山に彰義隊が立て篭って政府軍との戦闘になった。そのとき,慶応義塾の福沢諭吉は,平然として授業を続けた。しかし,1945年8月15日の東京大学では,戦火が収まったというのに授業がない。その落差に,今回の敗戦の重大さを感じるとともに,大学と大学教授に少々落胆した。

7.沖縄特攻作戦は、1945年3月から6月まで続く。当初の特攻機は、第一線機が多かったが、次第に機数も減少し、練習機や水上機など低速機や故障機も投入された。特攻隊員への扱いも、次第に粗雑あるいは粗悪になってしまったようだ。

1944年3月、南西諸島、特に沖縄防衛のため、大本営直轄として編成された日本陸軍第三十二軍は、1944年7月、絶対国防圏の要となるサイパン島が陥落したため、沖縄周辺の航空基地、港湾の防備を強化することになった。そのために、従来の混成旅団2個、混成連隊1個という不安のある地上兵力を、4個師団、5個混成旅団へと大幅に増強し、1944年8月、軍司令官として牛島満中将が赴任した。しかし、10月、フィリピンのレイテ決戦に即応するために、主力の第9師団が台湾に抽出されていまう。

日本陸軍第三十二軍は、持久戦を計画していた。しかし、陸軍参謀本部・大本営陸軍部は、大元帥昭和天皇から、沖縄の有力な航空基地を早々に占領され、問題はないのか、反撃はしないのかとご下問を受けた。そこで、大本営は、第32軍に上陸したアメリカ地上軍への犯行を命じる。反撃開始は、4月7日と決まり、その支援のため、戦艦「大和」,軽巡洋艦「矢矧」,駆逐艦8隻からなる第一遊撃隊(伊藤整一中将)は沖縄に海上特攻をかける。つまり,日本陸・海軍は,航空隊と水上艦隊の共同作戦によって、4月6日・7日と米軍の地上部隊・艦隊に総攻撃を実施した。大和の海上特攻は「一億総特攻のさきがけ」という俗説は、艦隊水兵への説得の意味と、戦後になって海上特攻の無謀さを隠蔽する二つの意味があった。新聞記事、大本営発表でも、戦艦「大和」撃沈は「大和」の名称を使わず、小さな記事で終わっている。知覧高女の勤労奉仕女学生も、海上特攻にまったく気づいていない。こんな「特攻のさきがけ」はありえない。海上特攻は、菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日)の航空特攻の囮(おとり)であった。

写真(右):陸軍九七式戦闘機;九七戦(きゅうななせん)は1937年生産開始、1943年生産中止の旧式戦闘機。3300機以上が生産された。エンジン出力(600馬力)を低下させた二式高等練習機も生産された。中古機、練習機として多数が残存していたために,特攻機として多用された。残存していた機体に250キロ爆弾を装備したため、超過重状態となり、2丁装備していた7.7ミリ機銃も取り外したが、時速は300km以下。古い機体には、故障、欠陥も多かったようだ。2000馬力、時速600km以上の米軍戦闘機が、レーダー誘導されて、12.7ミリ機銃6丁をもって迎撃してきたら敵わない。

沖縄戦では、戦艦、空母のような大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦など小型艦艇への特攻攻撃が多い。これは、沖縄に来航した米軍艦隊が、空母を中核とする任務部隊の周囲を、小型艦艇で幾重にも護衛したため、それをまず発見した特攻機が、攻撃したためである。

また、特攻機パイロットや航法員・偵察員たちの技量は低く、出撃・実線経験もほとんどなかったため、初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤って特攻の目標としたとも考えられる。

写真(右):1945年5月27日に鹿児島県万世基地を出撃した陸軍特攻第72振武隊;現在の鹿児島県万世(現在の加治町)飛行場から,1945年5月27日に特攻した少年兵荒木幸雄仔犬を抱いた特攻少年兵」として有名な写真。萬世飛行場から旧式低速中古の九七戦9機の特攻隊として出撃した荒木幸雄(17歳2ヶ月)たち。屈託のない幼さの残る笑顔が印象的。体当たり攻撃を命じられた若者とは思えない。特攻隊員は、祖国,家族を愛する純真な若者である。それでは、佐官クラスの高級将校の特攻隊員はいないのはなぜか。さらに、命を狙われる米軍の若者から見れば、日本の特攻機を操縦し,体当たり攻撃を行う「自爆テロリスト」ということになるのか。それとも,自爆する若者たちが,テロリストではないのか。戦争であれば,軍人でも民間人でも,重要な戦力として,攻撃対象となる。祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があれば、攻撃目標は,敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・国防省など敵経済・軍事中枢でもかまわない。効果的な攻撃目標の選定が重要であり、そこに民間人が含まれるかどうかは問題にされなくなってしまう。

1945年5月27日出撃の特攻隊
神風特攻菊水白菊隊:機上作業練習機「白菊」20機:鹿屋発:中尉 川田茂指揮官
陸軍特攻第72振武隊:九七式戦闘機(九七戦:旧式固定脚の低速中古機)9機:万世発:中尉 佐藤睦男指揮官
陸軍特攻第431振武隊:九七戦5機:知覧発:伍長 紺野孝指揮官。

1945年5月27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
沈没:駆逐艦 DREXLER (DD-741), 特攻機によるby suicide plane
護衛駆逐艦GILLIGAN (DE-508), 航空魚雷による
高速掃海艦SOUTHARD (DMS-10), 特攻機による
掃海艇GAYETY (AM-239), 水平爆撃による
高速輸送艦LOY (APD-56), 特攻機による
高速輸送艦REDNOUR (APD-102), 特攻機による;排水量 1,400 t.速力23.6 kts. 乗員200名、輸送人員162名、搭載舟艇 4 LCVP上陸用舟艇、搭載物資 6×1/4トントラック, 2× 1トントラック, 4×舟艇, 榴弾砲4門。
輸送艦 SANDOVAL (APA-194), 特攻機による
洋上浮標 PAKANA (ATF-108), 砲撃による
磁気消去艇YDG-10, 特攻機による。

8.沖縄への特攻出撃から生還した特攻隊員たちがいた。彼ら特攻隊の帰還者のなかには、第六航空軍の下にある福岡の「振武寮」に収容された若者があった。士気低下を回復あるいは精神不安を治癒し、軍事秘密を明かさないための措置だったと思われる。他方、特攻作戦の司令官や高級将校の多くは、個人的希望はともかく、自ら特攻出撃することなく、若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。戦後、生き残り、ビジネス界・政界で活躍し、祖国復興に尽力することが罪滅ぼしと考えた者もいた。

1945年4月8日、特攻隊が知覧に到着、飛行機の誘導、擬装などで騒然となったが、その様子は、丸木政臣「沖縄無残なり」次のように記されている。

  陸軍の部隊には「命令受領」という形式がある。部隊長が副官を通じて、隷下の各中隊に状勢を分析し、諸要の任務を伝達するもので、各中隊からは指揮班の責任者が本部に受領に集まってくる。知覧の基地では朝8時に基地本部で指令副官の福島中尉が命令伝達をやり、教育隊、警備隊、整備隊、保安隊、工作隊などが伝達をうける。

8日の命令伝達は異常で、今津司令、中田作戦参謀、福島中尉が顔をそろえ、今津司令から「7日の攻撃において、第二二振武隊5機、第二九振武隊6機、第四四振武隊4機、第四六振武隊5機、第七四振武隊7機、第七五振武隊7機を出撃させたが、この34機のうち不時着3機、エンジン不調で帰還したもの8機をかぞえる。じつに三分の一が攻撃を中断している。
飛行機の不良もあろうが、攻撃隊員の志気の低下もあげなければならない。臆病風にふかれて出撃以前に体の不調をあげつらうものもある状態である。沖縄の防衛のためにわれらの任務がいかに重大であるかを考え、隊員の志気を昂揚するようにつとめてほしい。福岡の第六航軍菅原中将よりも昨夜とくにこの点について注意があったことを伝えておく
」という異例の話があった。

そういえば出撃にあたって故障する特攻機がふえており、途中から引き返す機も途中から引き返す機もあって、なんとなく沖縄戦の展開と相俟って、特攻作戦そのものにかげりを感じていたところである。そうしたなかでも、4月は出撃がなかった日は5、6日で連日若者たちは死地に赴いた。私の記憶するかぎりとくに16日、28日の総攻撃はすさまじく各50機以上が出撃した。しかし実戦機が不足して、練習機や旧型機にも爆装して出撃する有様で、特攻隊員の中に「あれでは目的地までいきつけない、まるで自殺とおなじじゃないか」と語られていた。

<特攻隊の帰還者が収容された振武寮>
振武寮は、陸軍第六航空軍司令部におかれた特攻隊員帰還者の収容施設。特攻出撃し帰還した理由は、体当たりしなかったからであるが、これは、敵が発見できないこと、敵地にまで至らなかったことであれば、悪天候、機体の故障であろう。しかし、特攻隊員の士気が低下し、帰還した場合もあったと考えられる。特攻指揮官たちは、これらの生き残り特攻隊員を別途、再教育・精神鍛錬しようと考えたか、あるいは他の特攻隊員・民間人に与える悪影響を抑制しようと考えたようだ。

振武寮に関する公的資料は明らかにされていないが、NHKのETV特集『許されなかった帰還−福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争』(2006年10月21日2200放送)では、収監された元特攻隊員と第六航空軍元参謀の証言が紹介された。

振武寮の生き残り
私の特攻論:特攻平和館感
許されなかった帰還〜福岡 陸軍振武寮
振武寮の虚構。

写真(右):1945年3月11日、陸上爆撃機「銀河」の菊水部隊梓特攻隊;鹿児島県鹿屋基地を飛び立ち、ウルシー基地に特攻出撃する第三番隊の高久健一少尉の乗機。海軍の長距離陸上爆撃機だが,雷撃機としても使用された。最高速度560km。爆弾搭載量800kg。24機が出撃。半数が不時着したり,故障で引き返した。

古小路裕によると,特攻出撃は次のようだった。
1945年4月27日、攻撃四〇六飛行隊は出水基地から美保基地に移動して訓練を実施することになった。----5月10日、私はいつものように急降下爆撃の訓練を終えて指揮所で休憩していた。すると、飛行隊長の壱岐少佐が、「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を出して、搭乗割が示された。私たちは単なる飛行機の空輸だと思っていたので、宮崎基地に着陸しても、なんら普段と変わらない気分で指揮所に入った。美保基地へ帰る便はどんな手配になっているのか、それとも今夜はここで一泊することになるのか、などと思いながら待機していた。すると、とんでもない命令が伝達された。

「翌朝四時に発進し、沖縄周辺の敵艦船に対して『体当たり攻撃』を実施せよ」。との命令である。まさに晴天の霹靂であった。「爆撃せよ」や「雷撃せよ」ならまだしも「体当たり攻撃」を実施せよとの命令である。つまり、「死ね!」という命令である。

「壱岐の奴、俺たちを騙しやがって!」「人の命をなんだと思っているんだ!」「最初からそう言えば、心の準備だってできたのに、 俺たちを信用していないんだ!」「畜生! 今夜限りの命か!」だが、なんと言っても後の祭りである。命令には絶対に服従しなければならない。
攻撃計画の打ち合わせを済ませ、遺書を書いたりしていると、もう午前二時であった。洞窟の中の木製ベッドに、シラミのわいた毛布を被って、少しウトウトとしたと思ったら番兵に起こされた。

 指揮所前で行われた出撃前のセレモニーが終わった出撃隊員は、小型三輪トラックに乗せられそれぞれの飛行機まで送り付けられた。----見ると私たちの飛行機は右エンジンのカバーを外し、大勢の整備員が作業をしている。----修理が手間取ったらしくて、まだ出来上がっていなかった--。これで出撃は不可能となった。私たちペアの三人は、修理が終わるまで仕方なく飛行機のそばで待機した。---この出撃で「第九銀河隊」は8機が出撃し、6機が未帰還となった。(引用終わり)

「特攻自然発生説」が妥当するのであれば、祖国を愛した将軍・大臣、参謀、佐官中堅士官が、特攻死しなかった理由を説明する必要がある。

特攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐で、彼は人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。
有馬正文少将込んだとされる。しかし,これは神風特攻のはじまる前の時期で,日本軍はその後も一式陸攻による特攻をしたことはない。つまり,有馬少将は決死の覚悟で攻撃を率いたが,特攻とは異なるなる。有馬少将は死後,中将に昇進した。

 志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵から編成された。そこで,予科練(乙種・甲種),予備学生が特攻隊員の大半を占めている。事実上、生前、佐官クラス以上の士官・将官で、自ら特攻した軍人は、日本陸海軍にほとんどいないのである。(「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍はいた。)

軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
----このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避し、若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。この冷徹、無責任な特攻作戦には、軍国主義教育を施し,促進した軍上層部の別の本心が秘められているように見える。

写真(右):九州飛行機K11W機上作業練習機「白菊」;11型(K11W1)と21型(K11W2)を合わせて798機製造。 最高速度 143 mph (230 km/h) (1700 m); 巡航速度 109 mph (175 km/h) (1000 m) 上昇限度 (5620 m); 上昇速度 3000 m/19分35秒. 航続距離 1,094 miles (1760 km). 自量1677 kg 標準全備重量(2,640 kg) 最大全備重量 (2800 kg).
1945年5月28日、沖縄航空特攻「菊水作戦」琴平水心隊は、零式観測機など水上機を使用した。爆弾なしで最高時速220-370kmの機体は、特攻状態では、150-300kmとなり、米国戦闘機(600km)に襲撃されれば容易く撃墜された。

城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』では,エリート軍人(海軍兵学校[陸軍でいう士官学校]出身者)と学徒兵(予備学生)・少年兵(予科練)の特攻出撃を比較し,練習機「白菊」,水上機による特攻では,兵学校出身者よりも学徒兵・少年兵が圧倒的に多い。

1945年5月24日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃のうち、戦死した搭乗員39名戦死。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、予備学生出身者・予科練出身者35名(うち、17歳4名、16歳1名)。
5月27日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、残りは予備学生出身者・予科練出身者(うち17歳3名)。
水上機特攻では、予備学生(学徒兵)出身者42名、予科練(少年兵)出身者38名が死亡している。予科練出身者は、17歳8名、16歳3名。職業軍人のエリートである海軍兵学校出身者は一人もいない。

日本軍で特攻隊に選ばれた搭乗員(陸軍では「空中勤務者」。パイロットと偵察・航法・通信員)の特徴は次の3点である。
?海軍兵学校出身などエリート職業軍人は少なく、予科練習生(予科練;少年兵)出身の兵・下士官と予備学生(学徒兵)出身の最下級将校など新参者が特攻の中心である。
?軍歴が浅く実戦経験のない10代から20代の若者が特攻の中心である。
?上記の理由から、未熟な若い搭乗員が特攻の中心である。

軍上層部は、特攻隊の人選について、次のように冷徹に考えたようだ。 ?特攻させるのは、未熟練の軍隊経歴の浅い人間で、彼らに頼み込んだり、煽ったり、命令したりして特攻出撃させるべきである、 ?軍隊経験を積んだ有能な人間は本土決戦に温存しておくべきである、と。



9.特攻の戦果は、日本軍が予期したよりも小さかった。大型空母、巡洋艦など主要艦艇は撃沈できず、駆逐艦以下の小艦艇に特攻機が命中しても、撃沈できない場合が多かった。航空機は、剛体ではなく、鋼鉄の艦船に低速で衝突しても、打撃力は小さかったこと、爆弾の不発が多かったことが、その原因かもしれない。

特攻では,航空機2000機,搭乗員3000名を失った。特攻機の戦果は,艦船・商船撃沈30隻,撃破80隻程度で,大半の特攻隊員は,戦果を挙げることなく死亡した。戦果に比して損害が大きすぎた。

   80日余りに及んだ沖縄戦で、米軍は,駆逐艦16隻など艦船36隻を特攻・通常攻撃などで失い,368隻が損傷(大破50隻以上)。米海軍航空隊は,航空機 763機,水兵の死者4,907名、負傷者4,824名。
陸戦では,米軍兵士 7,373名が死亡,3万2,056名が負傷。
日本側は, 10万7,000名が殺され, 7,400名が捕虜になった。ほかに2万名が戦闘に巻き込まれて死亡。
日本軍艦船の沈没は 16隻で,沖縄・台湾、九州など内地において、地上撃破も含め、航空機4,000機以上を喪失。
沖縄戦の統計:兵力,砲弾数,損失。

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。
沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻で,米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名に達した。


特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻で,撃沈を含め損傷を受けた商船は合計23隻である。

日本軍の特攻は、空母,戦艦はもちろん,巡洋艦すら1隻も撃沈していない。特攻機が撃沈したのは,駆逐艦12隻,護衛駆逐艦1隻,高速輸送艦(駆逐艦改造)など3隻であり,その他は戦車揚陸艦,掃海艇,輸送船であった。特攻機の命中率の低さと命中したときの威力不足のために,特攻の戦果は損失に見合わなかった。

⇒◇特攻作戦の評価参照。

「特攻機の命中率が56%」という新資料が米国で見つかった、と誤解を招く報道がされた。この虚報の真相は、米軍が戦場で視認した特攻機の来襲機数のうち、被害を与えた特攻機の機数である。

戦時中、米軍は特攻機出撃は把握していない。米軍は、来襲してきた特攻機を記録しただけで、至近距離に達した特攻機の成果は大きかった可能性を示す資料ではある。米軍の被害が大きいのは、船体に近距離に撃墜した特攻機が僅かに軽傷を与えてもすべて被害ありと報告したことによる。優勢な米軍は、損傷を受けたことを勇戦した証拠のように誇りにしていた。そこで、特攻機の効果を高めに見積もることは、米軍将兵にとっても、自らの勇気を誇示することになる。強い敵に打ち勝ってこそ英雄である。

特攻の実態を覆い隠した「特攻機の命中率56%という米軍の新資料発見」との虚報は、当時の大本営発表のような報道姿勢である。特攻機の効果を誇張する喧伝は、特攻隊員たちの心情に反する。

特攻の威力を見ると,艦艇1隻に1機の特攻機が命中するだけでは撃沈できることは少なく,複数の特攻機が命中しても撃沈できない場合も珍しくはない。特攻機の命中がどれほどあったのかは,不明瞭であるが,仮に撃沈した26隻の艦船に2機が命中で52機命中,損傷した艦船164隻に1機が命中あるいは至近突入として164機命中となる。つまり、この仮定の下では、撃沈艦艇に52機命中,損傷艦艇に164機命中であるから,日本の特攻機は沖縄戦に1900機が突入して合計216機命中したことになる。つまり,沖縄戦での特攻機の命中率は11%である。

10.第二次世界大戦中、アメリカでもドイツでも、若い女性を軍務に起用した。例えば、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)やドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinnen)は、事実上、正規の兵士と同様の勤務で、装備も正式なものだった。日本人の知覧高女のような軍務の勤労奉仕は、不正規扱いで、アメリカのWAVESやドイツの防空補助員よりも装備や待遇は劣悪だった。

写真(右):1939年、ドイツ西部、敵機の防空監視の任務に就いたドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:記念写真に応じて、笑顔を見せて、並んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7758-11A Archive title: Westdeutschland.- Gruppenbild von Flakhelferinnen; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1939 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


ドイツ空軍は、1935年の創設時から女性を事務員、電話交換手、食事など後方勤務に補助員として勤務させていた。これは正規雇用として、給与の支払いを伴うから。日本の高等女学校の生徒を利用する勤労奉仕とは異なっている。知覧高等女学校の生徒は、陸軍知覧基地に展開する特攻隊員たちの衣類の洗濯、宿舎の掃除など身の回りの世話を無償で行ったが、ドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)は、防空監視のための部隊に配属され、そこで対空監視用双眼鏡、光学兵器、音響兵器などを操作して、国防任務に就いた。

写真(右):1940年後半、フランス降伏後のパリに進駐したドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)が女性兵士の制服で更新している。1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、撤退しなかったために、9月3日、フランスはイギリスとともにドイツに宣戦布告した。しかし、ドイツ西部では、フランス軍は攻勢に出ることなく、両軍が大事したまま「座り込み戦争」が続いた。ドイツは、当方攻撃に集中しており、西部戦線では守勢を守ったのである。しかし、ポーランドをソ連と分割し、東部戦線が安定すると、西部戦線の攻勢をはじめる機会を狙っていた
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-768-0147-19 Old signature: Bild 183-L22723 Original title: info Scherl Frankreich.- Im besetzten Frankreich: Weibliche deutsche Nachrichtenformation in Paris; OKW PK- Friedrich Scherl Bilderdienst 1694-41 "Fr.OKW" Aug. 1940 Archive title: Frankreich, Paris.- Kolonnen marschierender Nachrichtenhelferinnen auf einer Straße; PK OKW Dating: August 1940 Photographer: Friedrich
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-768-0147-19引用。


写真(右):1940年後半、フランス降伏後のパリに進駐したドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)が女性兵士の制服で更新している。秘匿作戦「黄色の事例」に基づいて、ドイツ軍は、ベルギーに侵攻するB軍集団、アルデンヌ森林地帯を突破して攻勢をかける装甲部隊中心のA軍集団に分かれ、1940年5月10日一斉に攻撃を開始した。ドイツ軍は、英仏連合軍をダンケルクに包囲し、フランス6月10日にはパリを無防備都市と宣言して放棄し、ボルドーに政府を移転した。6月14日、ドイツはパリに無血入城、6月21日、フィリップ・ペタンを首班とするフランスは、降伏した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-768-0147-20 Archive title: Frankreich, Paris.- Kolonnen marschierender Nachrichtenhelferinnen auf einer Straße; PK OKW Dating: August 1940 Photographer: Friedrich Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-768-0147-20引用。


写真(右):1940年、ルーマニア国境、ベッサラビア(ベラルーシ)、ドイツ外地に住むドイツ系住民・民族ドイツ人の婦人・少女からなる特別補助部隊を編成した。:1941年6月に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まると、外地に住むドイツ系住民・民族ドイツ人の中でも、若い男性は、武装親衛隊に志願したり、半強制的に徴兵されたりして、前線兵士として戦うようになる。
Inventory: Bild 137 - Deutsches Ausland-Institut Signature: Bild 137-071179 Original title: info Bessarabien Umsiedlung. Volksdt. Frauen und Mädchne im Einsatz bei der Umsiedlung 1940 L. Purper durch Museum Orig. Liselotte Purper, Berlin / Charlottenburg Umsiedlung im Südosten, Ausstellung der Reichsfrauenschaft Stuttgart, Oktober 1941 Dating: 1940 Photographer: Purper, Liselotte Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1940-1941年、フランス南西、スペイン国境、サン=ジャン=ド=リュズの海岸、ドイツ軍の砲兵部隊将校・下士官(軍曹)とドイツ空軍の野戦通信補助員(Luftwaffenhelferin):フランス降伏後、会館のリゾート地に休暇で訪問したようで、寛いでいる。
Inventory: Bild 234 - Nachlass Helmuth Schütze Signature: Bild 234-06 Original title: info Frankreich 41 - Russland 42 11./212/216 Archive title: Frankreich, Saint-Jean-de-Luz.- Gruppenbild auf der Strandpromenade. V.l.n.r.: Artillerieoffizier , weibliche Angehörige der Wehrmacht / Luftwaffenhelferin, Feldwebel (?) mit Orden und Ärmelstreifen (für Dienststellung Hauptfeldwebel) auf Mauer sitzend Dating: 1940/1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942年5月、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の野戦司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、記帳して、その情報を指揮官に伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートと付けている。左腕にある記章は、電磁波の飛び散る様子を示した通信隊のもの。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-616-2524-08A Archive title: Im Westen, Frankreich.- Feldwebel der Luftwaffe und drei Wehrmachtshelferinnen im Freien an Funkgerät; KBK Lw zbV Dating: Mai 1942 Photographer: Zwirner Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942年、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍通信兵が受話器を通じて出す指示を書き取る女子通信事務補助員(Nachrichtenhelferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握した指揮官が相手に情報を伝え、支持を出す。それを確認のため筆記するのが女子通信補助員の役目だったようだ。通信機の上奥にも、もう一つの受話器が置いてある。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2499-11 Archive title: Frankreich.- Offizier und Nachrichtenhelferin in einer Funkstelle / Nachrichtenstelle; KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Lysiak, Bruno Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flugleitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffenhelferinnen)たちがタイプライターで作業している。英文タイプライターは、19世紀からQWERTY(クウォーティー)配列が一般的で、タイプの文字版(キーボード)最上段が、左からQ,W,E,R,T,Yの順番で並んでいる。これは、文字使用頻度や両手を使って文字を早く打つ、すなわち打鍵速度を上げるために勧化出され定着したもの。しかし、ドイツ語の場合は、英語と異なりQWERTZ配列になり、フランス語の場合はAZERTY(アザーティ)配列 が慣例。他方、日本では、ひらがな、カタカナだけでは文章が通りにくいので、幹事を混用する和文タイプが生まれた。但し、これは文字探し・植字に時間がかかり、聞き取ってすぐに文章化することはできない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-18A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Luftwaffenhelferinnen im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-18A引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flugleitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffenhelferinnen):通信機には、無線電話、有線電話、送受信機、テレタイプ通信など様々だが、日本軍の使用した通信機、特に小型通信機は、信頼性、性能の安定性がなかったようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-11A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Nachrichten-Helferinnen (?) im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-11A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:飛行機のエンジン音を巨大聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-09 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldaten am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-09 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:飛行機のエンジン音を巨大な聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-18 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferin am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


1939年9月に、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツでは、第一線に派遣される男性兵士が増加し、後方勤務を女性補助員で代替する傾向が強まった。こうして、戦争の拡大とともに、ドイツ軍の女性補助員は増加し、従来は男性兵士が勤務していた対空監視、防空警報、高射砲・高射機関砲など、後方とは言え、戦闘部隊に配備された。つまり、空襲から軍事施設、工場、交通機関、都市などを防空するための、戦闘部隊への配属が始まったのである。

1943年に入ると、イギリス本土や地中海の航空基地を飛び立ったアメリカ陸軍航空隊、イギリス空軍の爆撃機が、ドイツ本土を大規模に空襲し恥前田。アメリカはボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機・コンソリデーデットB-24リベレーター爆撃機がドイツの軍事施設や工場を昼間空襲し、イギリスのァブロ・ランカスター重爆撃機が都市を夜間空襲した。これら大型四発重爆撃機は、時には、援護の戦闘機を引き連れてくることもあったが、当時は全行程を援護できる長距離飛行可能な戦闘機はなかったため、ドイツ空軍は、援護戦闘機か帰還した爆撃機編隊を迎撃した。しかし、ドイツ本土の産業中枢、軍事施設への大規模空襲は、軍需工場の生産能力を減退させ、ドイツの国力は、弱体化した。


写真(上左):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-10 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。
写真(上右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-11 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-11 引用。

写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回天、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-29 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-29引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回転、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-30 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-30 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯を操作するドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:探照灯を水平方向に旋回させるには、梃子の原理を使って長い支柱を地表に平行に回転させる。探照灯の角度を上下させ、仰角を取るには、歯車を利用する回転ハンドルを回す。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-25 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-25引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の操作説明を受けるドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7758-10A Archive title: Westdeutschland.- Soldat mit Flakhelferinnen bei Erklärung eines Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯のカバーガラスを外して磨き上げ、再び探照灯に装着するドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-11 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-11 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ、飛行機を探す対空双眼鏡(Flakrichtgerät )の配置についたドイツ空軍の防空補助員(Flakhelferinne)の女性兵士:日本海軍には、水平見張用双眼望遠鏡の口径は、8cmから18cmまで、対空見張用双眼望遠鏡の口径は6cmから12cmまでがあった。高角双眼望遠鏡は、俯視角は20度から70度である。太平洋戦争中に対空監視に活躍した日本軍の十二糎高角双眼望遠鏡は、口径12cm、倍率20倍、視界3度の45度対空双眼鏡で、光学兵器として生産された。野外で使用するために、堅牢かつ防水であり、海軍艦艇でも対空監視用のために艦橋に配備された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-677-8040-06A Archive title: Reichsgebiet.- Flakhelferinnen am Flakrichtgerät 40 A; PK Eins. Kp. Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Linden Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-677-8040-06A 引用。


写真(右):フランス(?)、ドイツ空軍夜間戦闘機を誘導する戦闘管制室で働くイヤホーンレシーバーとマイクをつけたドイツ空軍将兵とドイツ空軍の補助員(Helferinnen)の女性管制官:敵爆撃機をレーダーと地上監視哨の情報で捕らえ、そこにドイツ空軍の夜間戦闘機を無線誘導し、会敵、迎撃させる指示をマイクを使って夜間戦闘機搭乗員に伝える。テーブル上のカードで情報を整理する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-680-8274A-15A Archive title: Frankreich?.- Flugleitstelle für Nachtjäger, Luftwaffensoldaten und Helferinnen mit Kopfhörern über Karte auf Tisch gebeugt; PK Einskp Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Faupel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


写真(右):1944年、フランス、ドイツ空軍の司令部で長距離電話・調整パネルを扱うドイツ空軍の通信補助員(Nachrichtenhelferinnen)の女性管制官:敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報を伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートとマイクを使っている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2486-14A Archive title: Frankreich.- Nachrichtenhelferinnen an Vermittlungspult / Telefonanlage; PK KBK Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Eisenhart Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の管理事務作業の一環として長距離電話の受信装置に聞き耳を立て、伝えられた情報を筆記するドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrichtenhelferinnen:signal-communication woman auxiliary ):。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-07A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin beim Abh&oauml;ren einer Nachricht (?); PK Lfl 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の事務作業の一環としてタイプライターを打つドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrichtenhelferinnen:signal-communication woman auxiliary ):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報をタイプライターで伝えると、これが自動的にテレックス()として送信される。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートを使っている。 テレックス(telex)とは、テレプリンター交換機(teleprinter exchange)の省略語で、電話回線で接続した通信装置で、活字を変換して送信し、受信者はそれを受けて、再び文字に変換して活字印刷できる。テレプリンターについている”Triumph”とは、勝利、成功の意味で、商標として相応しい。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-03A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin am Funkgerät und Schreibmaschine; PK Lfl. 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-490-3259-03A 引用。


写真(右):1943年2月、アメリカ、オクラホマ州、ノーマン、アメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の食事風景:金属プレートをプレス器でプレスして、1枚の金属板に幾つかの受け皿が押されている。日本でも戦後もしばらく学校給食の食器はこんな感じのアルマイトプレス食器だった。マグカップに入っているのは、本物のコーヒーであろう。日本の同時代の食事や兵士の待遇と比較すれば、格段に余裕を感じさせるプロパガンダ用カラー写真である。
Title: WAVES trainees at "chow" Description: WAVES trainees at chow At Naval Training Center, Norman, Oklahoma, in February 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-14976.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-14976 WAVES trainees at "chow" 引用。


写真(右):1943年2月11日、アメリカ、カリフォルニア州、トレジャーアイランドの室内射撃訓練場でハイスタンダードモデルB型の試し打ちをするアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち:ハイスタンダードモデルB型は、1941年から製造された口径0.22インチ(5.6 mm)の小型簡易式自動拳銃。口径が小さく小型弾を発射するので、射撃時の反動は小さく、女性でも射撃しやすい。戦時では拳銃は実用性の低い兵器で、実際に敵を倒すためというより、護身用に持っていて安心感を当たり、階級・地位を誇示したり、かっこをつけるための小道具だった。カメラマン撮影用なので、全ての拳銃は空砲で、カタを決めているだけであろう。
Title: WAVES practice marksmanship Description: At an indoor range at Treasure Island Naval Base, California, 11 February 1943. Their pistols are High Standard Model B types. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-40594
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-40594 WAVES practice marksmanship 引用。


写真(右):1943年7月24日、ダグラス・ドーントレス(Dauntless)SBD艦上爆撃機の修理作業に従事するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士
ドーントレスSBD艦上爆撃機 Douglas SBD Dauntless)の諸元
乗員:2名
全長:10.08 m (33 ft 1 in)、全幅:12.65 m (41 ft 6 in)、全高:4.14 m (13 ft 7 in)
翼面積:30.19 平方メート
ル (325 平方フィート)
自重:2,905 kg (6,404 lb)
全備重量:4,843 kg (10,676 lb)
動力:ライト R-1820-60 サイクロン 1,200 hp
最高速度:410 km/h (255 mph)
航続距離:773マイル(1243.8 km)
上昇限度:7,780 m (25,530 ft)
兵装:前方固定 12.7ミリ機銃2丁、後方旋回 7.62ミリ連装機銃1基
搭載爆弾:545 kg (1,200 lb)
Description: WAVES Aviation Metalsmiths and Aviation Machinist's Mates (AMM) working on an SBD Dauntless aircraft in the air station's Assembly and Repair Department, 24 July 1943. Working on the wing, at left, are Seaman 1st Class (AMM) Annia Marie Garman and Seaman 1st Class Frances O. Culpepper. On and inside the plane are (left to right) AMM 3rd Class Audrey Anderson, AMM 3rd Class Jane Carlisle, AMM 3rd Class Betty Jo Visson, Seaman 1st Class Mary Jane Boring and Seaman 1st Class (AMM) Clara R. Bumgarner. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-88211 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年7月24日、ノースアメリカン社SNJ練習機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340 ワスプ"Wasp" 星型エンジンを整備作業に従事するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士
プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney社)は、アメリカの航空機用エンジンメーカーで機体は製造しておらず、日本の三菱、中島、愛知のような航空機メーカーとは異なる。1925年、プラット・アンド・ホイットニーは、最初のエンジンとしてワスプ(Wasp)を開発、ワスプは425馬力(317kW)を発揮したが、これは当時としては最大出力だった。アメリカ海軍は、喜び、1926年にワスプエンジン200台をプラット・アンド・ホイットニー社に発注した。R-1340 ワスプ空冷星形9気筒エンジンは、排気量21.96L, 馬力は410から600hpに達した。ワスプのシリンダーを若干大型化し高出力化を図ったのが、R-1860 ホーネット 空冷星型9気筒エンジンで、排気量30.48L,馬力は575から860hpに向上している。第二次大戦中の最高峰空冷エンジンがR-2800 ダブルワスプ 空冷二重星型18気筒エンジンで、排気量45.96L, 出力2500hp以上で、P-47 サンダーボルト戦闘機、F4Uコルセア、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機などに採用されている。
Description: WAVES Aviation Machinist's Mates (AMM) working on a SNJ training plane and its Pratt & Whitney R-1340 radial engine, circa 24 July 1943. They are (from left to right) Seaman 1st Class (AMM) Inez Waits, Seaman 1st Class (AMM) Lucille H. Henderson, Seaman 1st Class (AMM) Mary Anne Gasser, AMM 3rd Class Helen Adams, and Seaman 1st Class (AMM) Leona Curry. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-88213 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943-1945年、アメリカ南部、フロリダ州ペンサコーラ(Pensacola)、ホワイティング・フィールド(Whiting Field)のアメリカ海軍補助航空基地(Naval Auxiliary Air Station)で、ノースアメリカン社SNJ練習機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340 ワスプ"Wasp" 星型エンジンを整備する婦人補助部隊WAVES(Women Accepted for Volunteer Emergency Service)航空整備士;ノースアメリカンT-6/SNJテキサン(陸軍航空隊用)の海軍版がSNJ練習機。1943-45年撮影。
ノースアメリカンT-6 テキサン North American T-6 Texan)練習機の諸元
乗員:2名
全幅:12.80m、全長:8.84m、全高:3.58m
翼面積:23.6平方メートル
自重:1,770kg、総重量:2,340kg
エンジン:P&W R-1340 600 hp (450 kW)
最大速度:338km/h
上昇限度:7,380m
航続距離:1,012km
武装: 0.30インチ(7.62 mm)機銃3丁
総生産機数:15,500機
Title: Naval Auxiliary Air Station, Whiting Field, Pensacola, Florida Description: WAVES aircraft mechanics working on a North American SNJ training plane, circa 1943-45. Note their dungaree uniforms, and the plane's Pratt & Whitney R-1340 Wasp radial engine. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-15003
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-15003 Naval Auxiliary Air Station, Whiting Field, Pensacola, Florida 引用。


写真(右):1943-1945年、アメリカ南部、フロリダ州ジャクソンビル、アメリカ海軍婦人補助部隊WAVES(Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士がノースアメリカンSNJ練習機を洗っている。1943年撮影。米海軍婦人部隊WAVESは、軍人扱いされる。しかし、彼女たちが、もしも日本軍に殺害されれば、両親、恋人、友人は、戦争だから仕方がないと諦めるだろうか。日本の将兵が、祖国と家族を守るために、やむを得ず戦ったとしても、許すアメリカ人はいないであろう。こうして、報復が正当化される。軍民を区別するなら、男女も区別される。女子、子供が傷つけられれば、敵に対する憎しみは倍増する。卑劣な軍事指揮官は、婦女子や民間人を戦いに巻き込み、敵愾心を煽り、憎むべき敵を殲滅するまで戦いを続けさせようとするかもしれない。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: Two WAVES washing a North American SNJ training plane, circa 1943-45. This aircraft is assigned to the Naval Air Operational Training Command. Note Beech SNB aircraft in the background. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-15001
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-15001 Naval Air Station, Jacksonville, Florida 引用。


写真(右):1943年7月30日、アメリカ、オクラホマ州、海軍航空技術訓練センター(Naval Air Technical Training Center)の航空金属学校(Aviation Metalsmith School)を卒業したばかりのWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ陸軍でも女子補助部隊として1942年5月、女子陸軍部隊(Women's Army Corps, WAC)の設立が決まった。彼女たちは、日本陸軍航空兵たちに奉仕活動を行った知覧高女たちの敵となる。
Description: Members of the first class of WAVES to graduate from the Aviation Metalsmith School, at the Naval Air Technical Training Center, Norman, Oklahoma, 30 July 1943. Those present are identified in Photo # NH 95359 (complete caption), which also provides additional information provided by the donor. Donation of Shirley Feldstein Bell. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command NH 95359 WAVES Aviation Metalsmiths引用。


写真(右):1943年9月14日、アメリカ、コネチカット州ニューロンドンの地下にある潜水艦訓練基地、気圧変化に耐える訓練を受けるアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ海軍は、特に艦船は、男性の世界で、乗員は女子禁制だった。しかし、救助活動などで潜水艦などに乗り込んだ時の気圧変化になれる必要があったため、訓練を行った。知覧高女は、勤労動員で事実上軍務をこなしたが」、専門的な訓練は一切受けていなかった。全てボランティア、自発的な行動だった。
Title: "WAVES, Nurses, 'Go Below"" Description: Photo #: NH 97525 WAVES, Nurses, 'Go Below The submarine branch of the U.S. Navy is strictly marked 'Men Only', but there is a group of women in uniform who now have some idea of just what 'sub duty' entails. The group is comprised of a number of WAVES who visited the sub base at New London, Conn., and the Navy nurses who are assigned to duty there. The WAVES went through parts of the training routine for the experience, but the nurses underwent the drill as a matter of business, in order to aid them in treating casualties. The Pressure is on Going through parts of the regular routine undergone by students at the New London sub base, visiting WAVES spend some minutes in the pressure tank. Quoted from the original caption released with this photograph on 14 September 1943. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97525
写真はNaval History and Heritage Command NH 97525 "WAVES, Nurses, 'Go Below"" 引用。


写真(右):1943年10月14日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練を行うアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :WAVESの海軍少尉(右)の頭の上の丸窓から監視員の顔がのぞいている。地上に低気圧に引き下げることが可能な低気圧室を設置し、そこで高空における体験をする。空気が薄い高高度では、酸欠にならないように酸素マスクを着用する。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES in the low pressure chamber at the Station's main dispensary, during a special run, 14 October 1943. Simulated altitude for this test is between 18,000 and 30,000 feet. Note observer behind the porthole, just above the WAVE Ensign's head. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206023
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206023 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年10月15日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練もブリーフィングを受けるアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :酸素マスクを手にしたWAVESの訓練生(右)は、革製厚手のオーバーオールの飛行服を着用、飛行ゴーグルもつけて、高高度の低温に備えている。左に立つ男性インストラクターが、計器の説明をしているようだ。この男性も、飛行服を着用し酸素マスクをし、WAVES訓練生と一緒に、この低圧室で指導をするのであろう。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES receive a briefing in preparation for an indoctrination flight in the chill chamber at the Station's main dispensary, 15 October 1943. Note leather flight gear worn by all. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206029
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206029 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右):1943年10月15日、アメリカ、フロリダ州ジャクソンビル、海軍飛行基地で高空1万8000から3万フィート、低気圧室における酸素マスクの実習訓練を行うアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :酸素マスクをしたWAVESの訓練生(左)は、革製の厚手の飛行服を着用、飛行ゴーグルもつけて、高高度の低温に備えているようだ。右に立つ男性も、飛行服を着用し酸素マスクをし、WAVES訓練生の酸素マスクにつながるパイプを右手で支えている。これらの飛行服や酸素マスクが男性用の大型であるため、小柄な女性にはサイズが合わなかったのかもしれない。高高度では、空気が薄いために酸素マスクを着用し、気温も下がるために厚手の飛行服・電熱服が不可欠である。
Title: Naval Air Station, Jacksonville, Florida Description: WAVES in the chill chamber at the Station's main dispensary, for an indoctrination flight, 15 October 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-206025
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-206025 Naval Air Station, Jacksonville, Florida引用。


写真(右): アメリカ西部、ワシントン州シアトル、海軍基地、海軍リンク航法操作維持学校で、航法訓練に使用する天球ドームを点検するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員3名と指導員の男性。1944年7月23日公開。:海上や曇天の中を飛ぶには、太陽や星を使った天測、波の波形や大きさを使った風向・風力の把握、正確な時間、正確な方位が必要不可欠である。数学的処理もこなせなければ、推測航法を習得することはできない。
Title: WAVES study Link Celestial Navigation Description: At the Navy Link Celestial Naviation Trainer Operators and Maintenance School, Naval Air Station, Seattle, Washington. They are members of a group of 70 Specialists (Teacher) taking the ten-weeks' course at NAS Seattle and NAS Quonset Point, Rhode Island. In this photograph, Aviation Machinist's Mate 2nd Class Robert K. Rice provides instruction in celestial theory with a three-dimensional celestial sphere demonstrator. Students are (from left to right) Specialists (Teacher) 2nd Class Hilda Olson, Dorist Propst and Joanna Bailey. Information is from the original caption released with this photograph effective 23 July 1944. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97522
写真はNaval History and Heritage Command NH 97522 WAVES study Link Celestial Navigation 引用。


写真(右):1944年1月、アメリカ、オクラホマ州、アメリカ海軍ジョージ・ブライアン少将(中央)の前で、航空写真を並べて作戦を再現しているWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員2人。後方では、制服を着用したWAVES指揮官ミルトレッド・マカフィー大尉(左)が監督し、その前にオリーブ・ピューレン2等兵が立って2人の作業を見つめている。 :ミルトレッド・マカフィー(Mildred Helen McAfee Horton)は、1900年5月-1994年9月)は、第二次大戦中、アメリカ海軍WAVES (Women Accepted for Volunteer Emergency Service)初代指揮官で、女性で初の海軍殊勲賞(Navy Distinguished Service Medal)を授与された。彼女は、有名大ウェルズレー女子大学(Wellesley College)の第7大学長でもある。また、アメリカのユネスコ(United Nations Education, Scientific, and Cultural Organization:UNESCO)代表も務めた。 ニューヨーク生命保険New York Life Insuranceの評議員、ニューヨーク公立図書館New York Public Libraryの評議員も務めている。
Description: Captain Mildred H. McAfee, Director of the WAVES, Captain Charles Slayton, and Rear Admiral George S. Bryan watch as Frances Bochner, PH3, and Lillian Boscher, PH3, construct a slotted template layout of aerial photographs used in the construction of charts, January 1944. Looking on is Olive Pullen, Seaman 2nd Class. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command NH 95359 WAVES Aviation Metalsmiths引用。


写真(右):1944年11月13日、アメリカ、カンザス州オレイサの海軍航空基地にダグラスR4D-6(海軍使用のダグラスDC-3)輸送機に乗り込むWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の8名の隊員たち :オレイサ海軍航空隊訓練センター で飛行訓練をするために、付き添いのヘレン・メリル海軍中尉が、航空輸送員となる婦人補助部隊WAVES(Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の2等兵を引率している。彼女たちの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理だけでなく、飛行訓練教員、飛行機輸送隊員など専門的な仕事も担っていた。正規の軍人として、手当や年金などの処遇も安定し、制服や衣食住も支給されていた。
Title: Transporting WAVES by air, November 1944 Description: WAVEs board a Douglas R4D-6 transport plane (Bureau # 50741), while en route to Naval Air Station, Olathe, Kansas, 13 November 1944. The enlisted WAVES, most of them strikers for the rate of Specialist (Transport Airman), are accompanied by their instructor, Lieutenant (Junior Grade) Helen J. Merrill. Those present are (from left to right): LtJG Merrill, Seaman 2nd Class Helen Ranlett, Seaman 2nd Class Gloria Marx, Seaman 2nd Class Margaret Chapman, Yeoman 2nd Class Carolyn Fish, Seaman 2nd Class Gale Collier, Seaman 2nd Class Marilyn Wheeler and Yeoman 2nd Class Helen Niravelli. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-272752
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-272752 Transporting WAVES by air, November 1944 引用。


写真(右):1944年11月13日、アメリカ、カンザス州オレイサの海軍航空基地にダグラスR4D-6(海軍使用のダグラスDC-3)輸送機で移動するWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち (1945年1月8日公開):オレイサ海軍航空隊訓練センター で飛行訓練をするために、付き添いのヘレン・メリル海軍中尉(左)が、航空輸送員となるWAVEsの2等兵を引率している。他方、日本の高女たちは、無償奉仕であり、全くのタダ働きで、手当も活動資金もなかった。軍は、彼女たちを能率的に働かせるシステムを作っておらず、尊敬・愛に依拠した熱心な活動、心のこもった応対こそ彼女たち奉仕者の信条だった。日本軍は、彼女たちの活動を組織化したり、支援したりするシステムを作ることがなかった。現地の奉仕者の自主性に任せていたようだが、これは彼女たちを尊重したのではなく、その能力を過小評価し、認めていなかったからであろう。
Title: Transporting WAVES by air, November 1944 Description: WAVEs en route to Naval Air Station, Olathe, Kansas, in a Douglas R4D-6 transport plane, accompanied by their instructor, Lieutenant (Junior Grade) Helen J. Merrill. Most of the enlisted WAVES are strikers for the rate of Specialist (Transport Airman). Those present are (from left to right): LtJG Merrill; Yeoman 2nd Class Carolyn Fish; Seaman 2nd Class Gale Collier; Seaman 2nd Class Margaret Chapman; Seaman 2nd Class Gloria Marx; Yeoman 2nd Class Helen Niravelli; Seaman 2nd Class Marilyn Wheeler; and Seaman 2nd Class Helen Ranlett. Note cargo track in the plane's deck. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-272753
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-272753 Transporting WAVES by air, November 1944引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に向かう船上のWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たちの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理など、前線で火器を手にした任務ではないが、海軍の後方勤務として重要な役割を担った。緊急任務女子志願兵の「緊急」とは、第二次大戦という未曽有の緊急事態に対応するものであり、女子の永続的な兵役を認めるものではないといった内容を醸し出している。ジェンダー府病のの時代、軍隊に勤務した男子兵士が、女子の上官に命令されたり、同じ勤務地・同じ部隊・同じ艦船で、戦友・恋人になったりすることは、自由の国アメリカでも認められなかったであろう。
Description: Storekeeper 2nd Class Francella Leigh, Yeoman 2nd Class Patricia McRae and Pharmacist's Mate 3rd Class Suzanne Hosmer (listed left to right) in their stateroom on board a transport, while they and other WAVES were en route to their new duty stations at Pearl Harbor, Hawaii, 8 January 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-47595 WAVES en route to Hawaii, 1945 引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に輸送船の三段ベットの船室で移動したWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たち三人の任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理。WAVESは、第二次大戦中に人手不足に悩んだアメリカ海軍が急遽採用したともいわれるが、実際には、有能な女子を部下に迎えたいとの男性将校たちの意向があったと考えられる。また、婦人の権利保護や権利獲得などジェンダー平等を求めたアメリカ婦人の意向も強く働いている。つまり、女子の兵役について、需要と供給の双方を調整し、WAVESが誕の生したといえる。1942年の段階で、アメリカ連邦議会は、大統領の後押しもあって、アメリカ海軍は、波(WAVES:Women Accepted for Volunteer Emergency Service;緊急任務女子志願兵)というカッコいい略称で、女子の兵役を後方勤務全般に受け入れ始めた。
Description: Storekeeper 2nd Class Francella Leigh, Yeoman 2nd Class Patricia McRae and Pharmacist's Mate 3rd Class Suzanne Hosmer (listed left to right) remove knapsacks in their stateroom after arriving on board a transport. They and other WAVES were en route to their new duty stations at Pearl Harbor, Hawaii, circa early January 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-47597 WAVES en route to Hawaii, 1945引用。


写真(右):1945年1月8日、アメリカ、ハワイ諸島真珠湾に到着したWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :彼女たちこそ、WAVES初の海外勤務である。ハワイ島は、海外扱いで、その宿舎は、清潔そうで、二段ベッドが並んでいる。WAVEsの任務は、補給物資の管理、管理事務、薬剤管理など後方勤務。緊急任務女子志願兵の「緊急」とは、第二次大戦という未曽有の緊急事態に対応するものであり、女子の永続的な兵役を認めるものではないといった内容を醸し出している。
Title: "First Contingent of WAVES goes Overseas" Description: Photo #: NH 97532 First Contingent of WAVES goes Overseas Everything shipshape for their last inspection! WAVES about to go overseas put their barracks in perfect order at the distribution center on the west coast. The first contingent of WAVES assigned to duty in Hawaii arrived in Pearl Harbor, January 6, 1945. Quoted from the original caption released with this photograph on 8 January 1945. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97532
写真はNaval History and Heritage Command NH 97532 "First Contingent of WAVES goes Overseas"引用。


写真(右): 1944-1945年、アメリカ、バージニア州ノーフォーク、アメリカ海軍航空基地の飛行管制塔で無線電話の送受信装置で指示を出すアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員と双眼鏡で監視する管制官の男性。:日本では「電話」というと有線通信をさすが、世界では送信・受信が同時にできる無線送受信装置、マイク・レシーバー付きの通信機も電話である。
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: Control tower operators, including a WAVE, at work, circa 1944-45. Note what appears to be snow on the window ledge. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-2923
写真はNaval History and Heritage Command NH 97522 WAVES study Link Celestial Navigation 引用。


写真(右): 1945年3月、アメリカ海軍航空基地の管制塔、ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の二人のアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の飛行管制官Lovel LeedsとBryn Mawrが無線電話を使って支持を出している。:飛行場には、ノースアメリカンT-6「テキサン」(あるいは海軍仕様のSNJ練習機)10機が並んでいるのが見える。
Title: Catherine S. Pinzhoffer, Specialist (Y) Third Class of Philadelphia, Pennsylvania, and Lovel Leeds, Specialist (Y) Third Class of Bryn Mawr, Pennsylvania Caption: On duty in the control tower at Naval Air Station, Anacostia, D.C., give directions to pilots coming in for a landing, March 1945. Description: Catalog #: 80-G-44787 Copyright Owner: National Archives
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-44787 Catherine S. Pinzhoffer, Specialist (Y) Third Class of Philadelphia, Pennsylvania, and Lovel Leeds, Specialist (Y) Third Class of Bryn Mawr, Pennsylvania 引用。


写真(右):1945年春、アメリカ、カリフォルニア州南、チャールストン、飛行場の管制塔で勤務するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の隊員たち :無線通信装置の性能も信頼性も高いために、管制塔と飛行機との間の通信は十分通じたであろう。航空専門用語、天候、緯度・経度、数学的思考など、管制官としてたくさん覚えることがあったであろう。航空機の安全航行のために、操縦をするパイロットとは別に、安全を確認して飛行を決める管制官の仕事は重要で、航空機は管制官の指示に従って飛ぶ。飛行には「計器飛行方式(IFR)」と視界がいい昼間に、管制官の指示によらずに飛ぶ「有視界飛行方式(VFR)」がある。航空管制官は、空港の航空管制塔からレーダーや無線電話を使い、フライト中のパイロットに対して飛行ルート、天候の指示や情報を提供する。航空機は、他の航空機との衝突や悪天候を避けられるよう、航空管制官が常に飛行状況を確認し、誘導する。一人の管制官がいくつもの航空機に次々と指示を出しており、業務中は常に緊張していたであろう。
Description: Specialist 3rd Class Nora Scott (left) and Specialist 3rd Class Virginia Chenoweth at work in the air station's control tower, circa spring 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5470 (Color) Naval Air Station, Charleston, South Carolina 引用。


写真(右):1945年7月28日、アメリカ、海外・艦船勤務の海軍兵士と家族や司令部との連絡と伝言を効率的に交換するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の通信兵 :テレグラフを操作し読み解くWAVESの隊員。オリジナル解説では「世界を繋ぐWAVES」とある。
Title: "WAVES pass the Word" Description: Photo #: NH 97518 WAVES pass the Word ... Both speedy and accurate are the WAVES who 'man' Naval Communications at Washington, D.C. heart of the Navy's far-flung communications network. Through their hands flow the unending stream of messages attendant upon a Navy at war. Replacing male experts needed at sea or distant bases, these alert, competent members of the Women's Reserve are 'passing the word' for the men behind the guns. Telegrapher Third Class Ida May Rowley ... checks monitor tape. Quoted from the original caption released with this photograph effective 28 July 1945. Official U.S. Navy Photograph, from the collections of the Naval History and Heritage Command. Catalog #: NH 97518
写真はNaval History and Heritage Command NH 97518 "WAVES pass the Word" 引用。


写真(右):アメリカ海軍司令部から通信を前線部隊や艦船に指示するためにディクタフォンを操作するアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の通信兵 : ディクタフォン とは、本来、口述録音器だが、部隊に司令を伝える通信装置として使用されてきた。現在のものは、デバイスで音声を録音できるオーディオレコーダー・アプリケーションが付属しており、録音を他のメディアに移転・保存することもできる。
Title: WAVE Yeoman Description: WAVE Yeoman transcribing dictation from Dictaphone. Catalog #: USN 1000110 Tags: NHHC_Tags:people/communities/waves, NHHC_Tags:people/diversity/women Copyright Owner: National Archives & Records Administration
写真はNaval History and Heritage Command NH 97518 "WAVES pass the Word" 引用。


写真(右):1945年7月24日、アメリカ東部、ロードアイランド州、コンセット・ポイントの海軍航空基地、飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の第一期生たち :アメリカ東北部、ニューイングランド地方のロードアイランド州は、州都がプロビデンスで、アメリカ諸州の中で最小の州。彼女たちは、日本陸軍航空兵たちに奉仕活動を行った知覧高女たちの敵となる。
Title: Air Transport Squadron 12 (VR-12) Description: First group of WAVES to report for duty with VR-12, 24 July 1945. They are in the Link trainer building, a Quonset hut at Naval Air Station, Quonset Point, Rhode Island. They are identified as Frances Jacobs, Janice Angle, Evelyn M. Gifford, Mary van Velzer (seated in Link trainer, center), Dorothy Drawbert, Jeanne Euettl, Janet B. Greenwood, Joan de Vore, Fay Mildred Marlette and Priscilla C. Morrison. Identifiable rating badges are Specialist (Teacher), indicating that these WAVES operated the squadron's Link training unit. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-326212 .
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-326212 Air Transport Squadron 12 (VR-12) 引用。


写真(右):1944-1945年、アメリカ南部、バージニア州ノーフォークの海軍航空基地で整列して格納庫に向かう女子海兵隊(Women Marines)とそれに続くアメリカ海軍WAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)と;右手前には艦上雷撃機TBMアベンジャー、右奥にはボート(Vought)OS2Uキングフィッシャー (Kingfisher:カワセミ)水上偵察機、左奥にはマーチン(Martin)PBM マリナー(Mariner)飛行艇が見える。立ち並ぶ飛行機の中を腕を振って行進してゆくWAVES隊員は誇らしげである。
PBM-3Dマリナー飛行艇の諸元 全長:24.33m、全幅:35.97m
全高:8.38m、主翼面積:130.8平方メートル
全装備重量:26,308kg、乗員:8名
発動機:ライト R-2600-22 空冷星型14気筒 1,900hp2基
最高速度:325km/h(4,840m)
巡行速度:217km/h
航続距離:4,800km
実用上昇限度:6,350m
兵装 0.5インチ(12.7mm)機関銃8丁
爆弾搭載量 3,630kg
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: Women mechanics march to their work area, circa 1944-45. This group appears to include both Navy WAVES and Women Marines. Planes present include PBM-3D flying boats, OS2U floatplanes (right distance) and a TBM torpedo plane (right foreground). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-2920
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-2920 Naval Air Station, Norfolk, Virginia 引用。


写真(右):飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service):海軍航空基地(Norfolk,ヴァージニア州)のWAVEリンク訓練士が将校を指導。フライトシュミレーター(FTD)飛行訓練装置は、地上で飛行機に乗って体験をしながら操縦を覚える訓練装置である。現在では、飛行機の操縦にはコンピューターが多用されているが、当時の飛行機は、パワーステアリングが装備されておらず、制御機器を操作する感覚や実際の操縦方法、その際の手足など筋肉の使い方、力の入れ具合など、経験・体験しないとわからないことが多い。
Title: Naval Air Station, Norfolk, Virginia Description: A WAVE Link Trainer Instructor gives pointers to an officer, who is checking out in a Link aircraft control simulator, during World War II. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-K-3205
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-3205 Naval Air Station, Norfolk, Virginia 引用。

写真(右):1945年中頃、アメリカ東部、カリフォルニア州サンタアナ、海軍航空基地で飛行訓練シュミレータを使った地上飛行訓練士として勤務するWAVES(女子緊急志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)と訓練を受ける男子操縦練習生 :飛行機の操縦訓練は、実機では危険があるために、実機での搭乗飛行訓練をする以前に、地上訓練で操作を体で覚えておく必要がある。そして、実機で飛行訓練する場合、少なくとも基本レベルは完全に理解していることを実際に体験し、自信をもって、安全にスキルを磨くことに努めるべきである。飛行機の操縦は、知的作業で成り立っている。制御機器や計器を見て状況を把握し、何をすべきかわかるようにならなければ、実際にそれらを効果的かつ適切に扱うことはできない。しかし、知識としてだけでなく、飛行中は体で覚えておかないと迅速に行動することができなくなる。
Description: Runs ground support for Ensign Victor L. McCallen, who is receiving aviation training in a Link flight simulator at Naval Air Station, Santa Ana, California, circa mid-1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5796 Specialist (Teacher) 1st Class Marjorie Kane, USNR(W) 引用。


写真(右):1945年中頃、アメリカ、海軍航空基地でアメリカ海軍ダグラスR5D(海軍使用のダグラス DC-4)四発大型輸送機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000(1290馬力)第1エンジンを整備する3名のWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)vice)の整備士:アメリカ陸軍航空隊の四発大型輸送機ダグラス DC-4をアメリカ海軍も採用し、名称だけをダグラスR5Dと異なった命名とした。他方、日本軍は、陸軍と海軍が似たような機体を別々に開発し、生産した。一式戦と零式艦上戦闘機、九七式重爆撃機と九六式陸上攻撃機、九九式襲撃機と九九式艦上爆撃機、100式輸送機と零式輸送機など同時期に陸海軍が別個の開発、量産と無駄が多すぎた。
Title: Naval Air Station, Oakland, California Description: WAVES aircraft mechanics working on the port outboard engine (a Pratt & Whitney R-2000) of a Naval Air Transport Service R5D, circa mid-1945. They are (left to right): Seaman 1st Class Gene Reinhold, Seaman 1st Class Lorraine Taylor and Seaman 1st Class Mary Harrison. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color Catalog #: 80-G-K-5663
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-5663 Naval Air Station, Oakland, California 引用。

写真(右):1945年中頃、アメリカ、海軍航空基地でアメリカ海軍ダグラスR5D(海軍使用のダグラス DC-4)四発大型輸送機のプラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2000第1エンジンを分解し整備するWAVES(緊急任務女子志願兵:Women Accepted for Volunteer Emergency Service)のロレイン・テーラー1等兵(右)とマルタ・ハリソン1等兵 :アメリカ陸軍航空隊の四発大型輸送機ダグラス DC-4をアメリカ海軍も採用した。ただし、名称はダグラスR5Dと異なった命名である。日本陸海軍は、同一の機種を採用したことは一度もない。それどころか、エンジン、部品まで陸軍と海軍は全て異なっていた。飛行機内の計器類も陸軍と海軍ではもちろん、会社ごとに別規格だった。機体に搭載した戦闘機前方固定器中の発射レバー・ボタンも、日本海軍ではスロットルレバー頂頭部のスライドスイッチが7.7ミリ機銃の発射スイッチ、スロットルレバー前のレバーが20ミリ機銃の発射スイッチだったが、陸軍戦闘機は操縦桿の頂頭部ボタンが発射スイッチだった。
ダグラスR5Dスカイマスター輸送機Douglas R5D Skymaster)の諸元
最高速度:450 km/h、巡航速度:365 km/h
座席数:86席(兵員50名)
航続距離:4250マイル(6,839 km)
全長:28.6 m、全幅:35.8 m、全高:8.38 m
主翼面積:135.6平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg
発動機:プラット&ホイットニーR-2000
  1,290馬力エンジン4基。
Description: Seaman 1st Class Lorrain Taylor (right) and Seaman 1st Class Martha Harrison working on the # 1 engine (a Pratt & Whitney R-2000) of a Naval Air Transport Service R5D, circa mid-1945. Both WAVES are assigned to Naval Air Transport Squadron Four. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.color
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6095 (Color) Naval Air Station, Oakland, California 引用。


写真(右):1945年4月、沖縄本島、アメリカ海軍のR5D輸送機の上でポーズをとるアメリカ軍従軍看護婦 ジェーン・キャディ・ケーディス(Jane -Candy- Kendeigh):沖縄と硫黄島の間を患者輸送する輸送機に勤務する初めての女性看護師である。
Title: Navy Flight Nurse Jane -Candy- Kendeigh Caption: Photographed on the wing of a Naval air transport service evacuation aircraft, on Okinawa, April 1945. Plane appears to be an R5D. According to original caption, she was the first flight nurse to land on both Iwo Jima and Okinawa. Catalog #: 80-G-K-5277 Copyright Owner: NARA
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #:80-G-K-5277 Navy Flight Nurse Jane -Candy- Kendeigh引用。


11.日本人の多くは,特攻と現在の自爆テロとは,違うとするが、世界では、同一の攻撃として論じられる場合が多い。

世界では,日本の特攻隊は,自爆殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、破壊行為を行う「自爆テロリスト」とみなされてしまう。特攻隊の心情は必ずしも世界には理解されていない。

『ニューヨーク・サン』2007年4月27日「沖縄と我々」"War Okinawa and Us" New York Sun;April 27, 2007では、イラク戦の自爆攻撃を沖縄戦の日本軍の特攻にたとえ、再び撃退せよと訴えた。ロバート・モーゲンソー検事は「沖縄で1900機のカミカゼが猛攻した」「特攻によって米国の艦船57隻が沈められ、100隻以上が戦闘不能、300隻以上が損傷」「米海軍兵の死者、負傷者はそれぞれ5000人に上った」とし、「特攻機の命中率は32%、米国側の被害規模は真珠湾攻撃より30%大きい」と過大な評価をしている。そして、神経戦を挑んだ大西中将たちを撃退し、「日本人がイラクの自爆攻撃よりも熱狂的だったが、最終的に勝利を収め、民主化後の日本と同盟関係を結んで寿司、俳句、トヨタの自動車、ソニープレイステーションを楽しんでいる」と結んだ。 NewsDaily2007年04月30日(http://www.usfl.com/Daily/News/07/04/0430_016.asp?id=53395)参照。
つまり、1944-45年の日本軍の特攻を過大評価し、それに打ち勝った勇敢な米国人は、現在のテロ攻撃も撃退し、敵を征服できるはずだ、というわけである。

◆自爆テロと,特攻が同じであるという含意には,?予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃とみなし、?攻撃を狂信的テロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなす点がある。

特攻=究極の天皇崇拝の狂信・軍国主義がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点)
自爆テロ/特攻=狂信と洗脳が生み出したもの(多国籍軍の視点)
自爆テロ/特攻=殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したもの(反米過激派・日本軍の視点)
自爆テロ/特攻=若者の持つ殉教精神・祖国愛・家族愛に依存した,あるいはそれらを利用した非情な非人間的な軍事作戦(当研究室の視点)。

 当事者片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。愛国心や敵愾心をむき出しにすれば,当事者双方とも傷つけあう結果に陥ってしまう。

◇祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれば,市民を含む敵の命を奪う大量殺戮,軍事目標・経済基盤の大量破壊は,正当化されるのか。総力戦が開始されて以降,軍事目標と民間人は区別しにくくなった。
「軍事目標だから戦闘行為だ」「民間人も殺した犯罪行為だ」という正当化や非難を,戦術・戦略の専門家は内心では信じていない。

自爆テロと特攻の関連は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるかという問題に行き着く。

現代の「テロとの戦い」は決して短期決戦ではない。生産、流通、金融、輸送、エネルギー基盤を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス,納税・国債購入による軍資金提供,労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなれば「無辜の市民」はありえない。


写真:1944年8月、アメリカ海軍新鋭戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63) 後前甲板アメリカ海軍女子補助部隊WAVES
;日本の特攻隊員やその世話をした勤労女学生たちの思いとは裏腹に,アメリカ軍将兵を励まし、補助するアメリカ女性たちがいた。アメリカ海軍は第二次世界大戦では多くの男性が兵士として前線で勤務していたため後方の勤務に多くの女性をWAVES (Women Accepted for Volunteer Emergency Service)として動員し、戦力化した。
Description:WAVES visiting the ship in an east coast port, during her shakedown period, circa August 1944. They are standing on the main deck at the bow, with the Navy Jack flying behind them. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真は、Naval History and Heritage Command: 80-G-K-4563 (Color) USS Missouri (BB-63) 引用。

自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
?自爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為が、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
?自爆テロは狂信的な宗教的妄信が生み出したが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した、
?自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための行為である、
と主張される。

自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したい敵愾心・怨念ががあったのであろうか。あるいは、敵愾心・怨念ではなく、直面させられた状況の中で、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、あるいは自分が特攻自爆するのを納得するための悠久の大儀を認識して、自己犠牲的に行われる破壊行為でなのであろうか。
特攻について、世界ではさまざまに解釈されるのと同じく、日本人が現代の自爆攻撃を理解するのは難しい。「敵」の文化、言語、歴史、国際関係、現在の生活を的確に把握できていないからである。

◆我々が現代の自爆攻撃=テロ=悪としているのであれば、攻撃を受けた側では、常に特攻=体当たり攻撃=テロ、と解釈されてしまう。特攻=家族・民族を守る捨て身の攻撃、というのであれば、現代の自爆攻撃も同様のものと主張される。

敵に対して、怨念がないのに特攻をするのであれば、家族・民族を守るために特攻するということであり、自分を特攻、納得させる出撃させる崇高な大儀、精神といえるのかも知れない。


特攻は、現地将兵の自発的攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが課題となる。特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、戦果が最優先される。

 日本軍は,1945年1月に全軍特攻化を決定していた。しかし、特攻には,純情な兵士が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。兵士は、祖国への忠誠,家族愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんだ。このような心情とは裏腹に,特攻兵器にあわせて作戦を進めたことで,特攻隊員個人の自由や選択の余地は、物理的に押しつぶされた。若者の犠牲を前提とした非道な作戦が立てられたのである。
 崇高な精神を持った若者は、特攻作戦によって、生命を失ったが、その精神を生かす道があるのではないか。


◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、ポーランド侵攻、ゲットー設置、ホロコースト、レジスタンス弾圧、東方生存圏、ソ連侵攻バルバロッサ作戦も解説しました。

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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