My parents were Albanian. I was born before the First World War in a part of what was not yet, and is no longer, Yugoslavia. In many senses I know what it is like to be without a country.
I also know what is like to feel an adopted citizen of other lands. When I was still a young girl I traveled to India.
I found my work among the poor and the sick of that nation, and I have lived there ever since.
Since 1950 I have worked with my many sisters from around the world as one of the Missionaries of Charity. Our congregation now has over four hundred foundations in more that one hundred countries, including the United States of America.
We have almost five thousand sisters.
We care for those who are often treated as outsiders in their own communities by their own neighbors—the starving, the crippled, the impoverished, and the diseased, from the old woman with a brain tumor in Calcutta to the young man with AIDS in New York City.
A special focus of our care are mothers and their children.
(→Letter to the US Supreme Court.)
一家はカトリックで,ほぼ毎日のように夕方,礼拝に行っていたし,隣人にも親切であった。子供時代を回想して,テレサは次のようの述べている。 'We were a united and very happy family.'しかし,アグネスが8歳のときに父がなくなった。そこで,母が子供たちを育てるために働いた。母はアグネスに神を愛し,隣人を愛するように教えた。?my mother taught us to love God and to love our neighbours."アグネスと姉のアガは教会活動に積極的に関わった。そして,伝道や聖人伝を読むのが好きだった。兄が後に語ったところでは,母も妹たちも家にいるよりも協会にいるときのほうが長かった。アグネスは押さないときからカトリックが生活の中核であり,教会活動にかかりっきりであったようだ。こうした中で,アグネスはインド伝道活動を知り,自ら伝道に赴きたいと思うようになった。
第一次大戦が協商側の勝利に終わると,1919年にユーゴスラビアYugoslavが成立した。当初は "The Kingdom of Slovenes, Croats and Serbs"と呼ばれていた立憲君主国で, Bosnia- Herzegovina, Montenegro ,Macedoniaを含んでいたが,コソボはセルビアの一部分とされた。この王国の人口は1200万人で,その内40万人がアルバニア人であるに過ぎないが,コソボでは64%がアルバニア人で多数派であった。彼らの4分の3はムスリムMuslimである。しかし,大逃避行の最中に,アルバニア人に虐待された報復の意味もあって,アルバニア人はユーゴスラビアでは抑圧されることになる。1921年までにアルバニア人たちはアルバニア語の使用を認め,アルバニア人の多いコソボは,アルバニアに統一されるべきであると主張した。しかし,民族対立,内紛のために,第一次大戦の終結した1918年以降でも,セルビア人によって,1万2000人のアルバニア人が殺され,2万2000人が投獄されたという。
2000年バルカン諸国:緑マケドニア人,紫アルバニア人,桃セルビア人,灰褐色ブルガリア人,海老茶トルコ人,薄緑ルーマニア人,肌色ハンガリー人,茶モンテネグロ人,黄緑ムスリム,黄クロアチア人,青スロベニア人。
1928年,18歳の時に尼となろうと決心し,アイルランドのダブリンに行き,ロレット修道女会Sisters of Lorettoに加わった。当時,アイルランドは,英国領である。しかし,英国本土は,キリスト教といっても新教の英国国教会であり,アイルランドはカトリック教会中心であり,アイルランド住民からは,英国人から差別待遇を受けている感じていた。
英領ともいえるアイルランド自由国から,同じく英領インドに,カトリックの伝道師として派遣されることになるのは興味深い。1929年1月6日で,ロレットの伝道師メンバーとして,インドに派遣され,カルカッタCalcuttaにあるカトリック高校St.Mary's high schoolの教師となった。そして,1948年まで地理とカトリック教義を女学生に教えた。1931年に初の誓願をしSister Mary Teresaと名乗り,1937年5月の最終誓願でMother Teresaという宗教タイトルを得た。1944年には高校の校長に就任した。結局,1929-1948年の18年間を 教員として過ごすことになる。教えたのは,地理とカトリック教義であり,1944年には校長になった(→
Wikipedia:Mother Teresa)。テレサが帰国するつもりがなかったことが窺われるが,ひとつの使命を全うしようとする強い意志の持ち主であったに違いない。つまり,マザーテレサは,オスマン帝国のマケドニアのアルバニア人であり,ブルガリア,セルビア,オーストリアなどの支配も経験し,そのなかで,アルバニア人,セルビア人の虐待も眼にしていたであろう。アイルランドにしても,自治権をえるために英国と武力紛争を引き起こしている。さらに,インドにしても,ヒンズー,イスラム,シークなど宗教的に分裂しいるだけでなく,言葉も慣習も異なる国であり,さらに英国の植民地として,抑圧されている。マザーテレサの生涯にわたる活動は,このような恵まれない人々に注がれているが,これはマザーテレサの生立ち,子供時代の経験がそのまま体に埋め込まれており,彼女としては宿命を感じていたのではないか。一見すると,何でわざわざインドへ伝道したのかとも感じられるが,彼女の生立ち,境遇からみて,もっとも貧しく抑圧された人々に関わりたかったのであろう。
"I realized that I had the call to take care of the sick and the dying, the hungry, the naked, the homeless - to be God's Love in action to the poorest of the poor. That was the beginning of the Missionaries of Charity."
1948年に教皇ピウス12世から許可をもらって,高校を辞め,独立した修道女となり,短期間医療ミッションMedical Mission Sisters in Patnaで訓練を受けた。そして,カルカッタCalcuttaに戻って,一時的な宿舎「貧しい者の小さなシスター」Little Sisters of the Poorを建てた。また,野外学校open-air schoolをホームレスの子供たちに開いた。すぐにホ゛ランティアが集まり,教会と自治体から資金援助を受けることができた。
インドで教皇ピウス12世の承認を得て,チャリティー・ミッションMissionaries of Charity(当初はDiocesan Congregation of the Calcutta Dioceseと呼ばれた)を1950年10月7日に創立し,この日をfeast of the Holy Rosaryとして祝った。テレサは白のサリー(青のふち,左肩に十字架プリントをつけた)を着た。この奉仕は,ノーベル平和賞を受賞したときのテレサの言葉に従えば,"to care for the hungry, the naked, the homeless, the crippled, the blind, the lepers, all those people who feel unwanted, unloved, uncared for throughout society, people that have become a burden to the society and are shunned by everyone."
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Mother Teresa's Biography
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マザーテレサの設立したMissionaries of Charity は1952年に本格的に活動を始めた。そこには次のような施設がある。 ?Kalighat Home for the Dying---貧困者が尊厳を持って死ぬことができるような施設。ここは,もとは,死と再生に関わり,悪魔を滅ぼすヒンズーの女神カリの巡礼に来る人々の休憩施設であったが,今はほとんど使われていない建物で,管理者がテレサに提供してくれたため使えるようになった。 ?Nirmal Hriday ("Pure Heart")--死を迎える施設 ?Shanti Nagar (Town of Peace), a leper colony and later her first orphanage.
マザーテレサは,初めて路上から女子を救ったときのことを次のように述べている。
"The woman was half eaten up by rats and ants. I took her to the hospital, but they could do nothing for her. They only took her because I refused to go home unless something was done for her. After they cared for her, I went straight to the townhall and asked for a place where I could take these people, because that day I found more people dying in the street. The employee of health services brought me to the temple of Kali and showed me the "dormashalah" where the pilgrims used to rest after they worshipped the goddess Kali. The building was empty and he asked me if I wanted it. I was very glad with the offer for many reasons, but especially because it was the center of prayer for Hindus. Within 24 hours we brought our sick and suffering and started the Home for the Dying Destitutes."
このとき以来,4万2,000名以上の人々が,カルカッタの路上からNirmal Hridayに運ばれた。この内約1万9,000名が尊厳を持って死ぬ機会を与えられた。臨終のとき,神の恩寵を受け,神の子と感じながら死ぬことができた。助かったものは,Missionaries of Charityが仕事を見つけてくれたり,自宅に帰って生活に復帰したりできた。1952年から孤児院を,1957年からレイプされた女子の保護を始めた。
彼女の家"tabernacles"は,世界数百ヵ所に設けられ たとえば米国では: Missionaries of Charity, 335 East 145th Street, Bronx, New York 10451で, インドのカルカッタでは: Missionaries of Charity, 54A, Acharya Jagadish Chandra Bose Road, Calcutta 700 016, Indiaでコンタクトをとる事ができる。
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Heaven has gained another Star
1965年に教皇パウロ4世が,マザーテレサを祝福し,その使命を世界に広めるべきであるとしてから,テレサの仕事は世界的に認知された。エチオピアの飢餓,南アフリカ共和国の黒人隔離地区(ゲットー)の場にも,聖女the living saintマザーテレサがいた。 1987年にベイルートで,パレスチナ紛争の停止を呼びかけ,閉じ込められていた37名の子供を救出した。
1962: She received the Pandma Shri prize for "extraordinary services"
1971: ヨハネ23世平和賞---教皇パウロPaul VIより受賞
1972: Jawaharlal Nehru Award for International Understanding.---インド政府より受賞
1979: Nobel Peace Prize---ノーベル賞委員会より受賞
1985: 自由メダルMedal of Freedom---レーガンReagan大統領より受賞(米国では最高位の市民勲章)→Medal of Freedom
1996: 米国名誉市民権honorary U.S. citizenship--米国政府より授与(世界で4番目)
2003:福者Beatus----教皇ヨハネ・パウロ2世によりカトリック教会における聖人に準じる福者に列せられる。
ノーベル平和賞授賞式に際しては,1ドルのサリーを着て出席した。受賞理由は,「平和の脅威となる貧困を解消のために奮闘した」こと。"for work undertaken in the struggle to overcome poverty and distress, which also constitute a threat to peace." 晩餐会はキャンセルしたが,代わりに,その費用6000ドルでカルカッタの貧しい子供を救ってほしいと述べた。また,「世界平和のために,我々はなにをしたらよいか」という質問に対して,「家に帰って家族を愛しなさい」と答えた。