鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
マザー・テレサ伝記:Mother Teresa Biography 2005
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アグネスと学友たち


兄と姉とアグネス



生まれ故郷スコピエの教会祭壇
:1824年建設

 
My parents were Albanian. I was born before the First World War in a part of what was not yet, and is no longer, Yugoslavia. In many senses I know what it is like to be without a country.
I also know what is like to feel an adopted citizen of other lands. When I was still a young girl I traveled to India. I found my work among the poor and the sick of that nation, and I have lived there ever since.

Since 1950 I have worked with my many sisters from around the world as one of the Missionaries of Charity. Our congregation now has over four hundred foundations in more that one hundred countries, including the United States of America.

We have almost five thousand sisters.
We care for those who are often treated as outsiders in their own communities by their own neighbors—the starving, the crippled, the impoverished, and the diseased, from the old woman with a brain tumor in Calcutta to the young man with AIDS in New York City. A special focus of our care are mothers and their children.
(→Letter to the US Supreme Court.)

 
日本人でも何人もが1980年代から(ノーベル賞で有名になった)マザーテレサ(1910-1997 )のインドの福祉施設を訪れたり,ボランティアをしたりしている。実際に会ったり,写真を取ったり,話したりした人たちもいる。web上にも訪問した体験,撮影した写真などが公開されてもいる。マザーテレサは,人種,職業などにかかわらず,ボランティアに訪れていた各国の人々とも,短時間ながら,直接接していたし,(英語で)会話もしてくれた。貧困救済資金が集まるのであれば,商品や商売の宣伝に登場することも厭わなかったようだ(後の宣伝の項目参照)。

しかし,マザーテレサに関する証言の多くは,1979年のノーベル平和賞の受賞後のものであり,さらにインタビューするのが目的ではないので,残念ながら,マザーテレサの政治的認識を記録した使用は少ない。マザーテレサが,オスマン帝国,日本軍,社会主義をどのように認識しているかについて,明らかにしている資料も見当たらなかった。マザーテレサにとっては,より大きく重要な問題,すなわち神から授かった命が無為に失われ,神の恩寵があること知らない人が存在している,このような人々を救うことが優先されている。政治的認識は,さほど重要でないかもしれない。

1980年代マザーテレサの話しは,平凡で新味がなかったが,皆静かに聴講したという(→思い出)。ノーベル平和賞受賞者に直接会い,話しを窺い,一緒に写真撮影できるのは,一世一代の素晴らしい体験であろう。マザーテレサにはカリスマの魅力がある。


マザーテレサを聖女として,全人格的に信奉する,全人的に服従するだけの魅力がある。これは,神の恩寵を受けた聖女として,マザーテレサをカリスマ、ギリシャ語(新約聖書の原語)「Xαρισμα」,すなわち「神からの恩寵」として尊敬し,それに従う立場である。

クリスマスX'mas(X‘μαs) のXはキリスト(Xριστοs)を象徴する文字である。マスmasは 祝典という意で,カリスマ(Xαρισμα)もクリスマス(X’mas)も,イエス=キリストと関連のある表記である。

聖書では「命は神様からの恩寵」としており,これはマザーテレサの重視した信仰である。

「神はその独り子を賜ったほどにこの世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ:3;16)(→カリスマとイエス)。)

したがって,カリスマ(神の恩寵)とは救い主イエス・ キリストであり,その永遠の愛と命である。人は死ななければならないが,同時に神の恩寵,キリストの愛を受けることのできる。なによりも信仰によって,永遠の命を得ることも可能で,これをカリスマとして受け取ることが重要である。マザーテレサはこのような信仰に支えられて,貧困者への奉仕を行った。他方,人々は,マザーテレサ自身をカリスマに仕立て上げ,崇拝に近い尊敬を抱くようになった。

特定の人格の非凡な資質あるいは力をもつ,すなわちカリスマが指導者的人格となり恩寵によって、人を内面から支配するに至る。これが,マックス・ウェーバーのいうカリスマ的支配であり,既存の規則や思想を打ち壊し、それに対する従順の代わりに、神聖なものとして、内面的な服従を要求する。純粋に経験的そして価値自由の意味において、カリスマは、歴史を創造する革命的な力をもつともいわれる(→カリスマ的支配Charismatic Authority )。

したがって,「なぜマザーテレサがカリスマとなったか」といえば,カトリック教会を中心とした情報活動・動員もあるが,より基本的には,彼女の思想・行動によるものである。そこで,当サイトでは,カリスマ性自体よりも,「世界を動かした偉大な思想・行動」が生まれた背景,すなわちマザーテレサの生立ちや思想形成の社会的,政治的背景を検証したい。

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ノーベル平和賞の受賞:1979年


ベイルートのMissionaries of Charity :1982年8月15日


教皇ヨハネパウロ2世の祝福:1997年5月20日バチカン


ダイアナ皇太子妃とニューヨークで会う:1997年6月18日


ダイアナ妃とNYであった後:1997年6月18日


マザーテレサ
:1993年8月


砲車に乗せられた国葬:1997年9月13日


国葬:1997年9月13日


CharleskeatingMichele Duvalier


Charleskeating不正蓄財者Charles Keatingから120万ドルの寄付




























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本名はアグネス・ゴンジャ・ボアジュAgnes Gonxha Bojaxhiu。1910(明治43)年8月26日,オスマン(トルコ)帝国コソボ州ユスキュブUskubで生まれた(現在のコソボとは若干異なる)アルバニア人である。ここはマケドニア地域で,東ローマ帝国、ブルガリア帝国、セルビア王国などの支配を経てオスマン帝国の支配下に入った場所である。ユスキュブは,現在,マケドニアMacedonia共和国の首都スコピエSkopjeであるが,テレサの母方はアルバニア人(父方不詳)であり,アルバニア共和国出身と主張されることもある。

アブネスの父Nikollは裕福な商人,母Drandafilleは主婦で,アルバニア人であり,大きな庭のある邸宅に住んでいた。アグネスは,兄Lazarと姉Agaに次ぐ三番目の末子として生まれた。つまり,マザーテレサは,オスマン帝国のマケドニア生まれのアルバニア人である。しかし,オスマン帝国は支配下の人々の分類を所属宗教においたから,住民の帰属意識は,ギリシャ正教会(東方正教会),イスラム教などの信仰におかれた。さらに,スペインが1492年以降,ユダヤ人を追放した際,オスマン帝国は,(元ギリシャ領)マケドニア地域のテサロニケを中心に,たくさんのユダヤ人を受け入れていた。このような多民族居住地域マケドニアにあって,アグネスの一家は,アルバニア人でも少数派のカトリック教徒であったから,国籍意識よりも,宗教的な所属意識のほうが重要な意味を持っていたに違いない。アグネス自身は,誕生翌日(26日)に洗礼を受け,この日が真の誕生日と感じていた。

アグネスが2歳の1912年、第一次バルカン戦争が起こった。マケドニアの大部分はブルガリアに占領されるが、翌1913年の第二次バルカン戦争によりセルビア(のちのユーゴスラビア王国)が西北部を領有した(バルカンの歴史地図)。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦はこの地域にマケドニア共和国を置き、この地方の南スラヴ人は,新たにマケドニア人と呼ばれるようになる。1991年9月,ユーゴ解体に伴いマケドニアは独立を宣言。現在,マケドニアMacedonia共和国となった。首都は,マザーテレサの生まれ故郷スコピエSkopjeである。


バルカン戦争時のマケドニア
:左が,14世紀末から1912年以前のオスマン(トルコ)の支配(520年間),右が1913年からのセルビア(黄色),ブルガリア(緑),ギリシャ(青)に三分割される。西側の灰色はアルバニア。

なじみもなく,聞いたこともない地名スコピエは,東欧の片田舎として簡単に片付けられてしまう。しかし,マケドニア共和国の首都となる以前から,ヴァルダVardar川沿いの交通の要衝であった。現在でもオスマン帝国時代の15世紀の大きな石橋,美しいイコンのある東方教会建築が残っている(Skopjeの歴史およびSkopjeの文化参照)。ナポレオンも中東からの撤退時にスコピエを通るルートを選択している。19世紀中にスコピエは有数の手工芸品の中心地となり,アグネスの両親もこのような物資流通の盛んな都市で裕福な商人として生計を立てていたのである。1913年,アグネス3歳のときに,バルカン戦争にとなり,スコピエはセルビアの支配下に置かれたが,他の地域は,ブルガリア,ギリシャに分割されてしまう。


web検索したマザー^テレサの伝記では,子供時代は次のように簡単に紹介される。

一家はカトリックで,ほぼ毎日のように夕方,礼拝に行っていたし,隣人にも親切であった。子供時代を回想して,テレサは次のようの述べている。 'We were a united and very happy family.'しかし,アグネスが8歳のときに父がなくなった。そこで,母が子供たちを育てるために働いた。母はアグネスに神を愛し,隣人を愛するように教えた。?my mother taught us to love God and to love our neighbours."アグネスと姉のアガは教会活動に積極的に関わった。そして,伝道や聖人伝を読むのが好きだった。兄が後に語ったところでは,母も妹たちも家にいるよりも協会にいるときのほうが長かった。アグネスは押さないときからカトリックが生活の中核であり,教会活動にかかりっきりであったようだ。こうした中で,アグネスはインド伝道活動を知り,自ら伝道に赴きたいと思うようになった。


1999年のマケドニアの民族分布
:北部のスコピエには,アルバニア人,セルビア人が隣接しているが,カトリックも見られる(仏語)。

アルバニア人の多くはムスリムで,少数のキリスト教徒もギリシャ正教会Orthodoxであったから,一家は得意な宗教環境にあったマージナル・マンで,カトリックの代表として立ち振る舞い,精神的修養を積む必要性を痛感していたに違いない。また,マザーテレサがヒンズー教徒あるいはイスラム教が多いインドを活動の場とできたのも,幼い時から異なる宗教を持つ人々と接していたと言う環境が生きていたものと考えられる。そして,テレサの一家は,カトリックを信仰し,教会活動の中で,貧しい人や恵まれない人の面倒を見るやさしい一族であったが,これがアグネスの一生を捧げることになるインドでの伝道を決意させた背景にあるといえる。テレサが12歳のとき,一生を貧困者に捧げようと考えた。


しかし,スコビエのあるマケドニアの情勢は,簡単には言い表せない。セビリアで皇太子フェルディナンドを暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国は,セルビアに宣戦する。しかし,セルビアの南部にはアルバニア人居住地域が広がっており,セルビアに併合前代から,コソボ Kosovoと呼ばれていた。マザーテレサの生まれた当時,現在のマケドニア共和国の北部は,オスマン帝国コソボ州であった。しかし,マザーテレサの一族はアルバニア人で,彼らの多くは,セルビアの支配からの脱却を希求していた。そこで,コソボでは,セルビア軍とアルバニア人との間でゲリラ戦が戦われた。その中で,セルビアの弾圧で多数のアルバニア人が殺され,コソボのアルバニア人は,南のアルバニアに難民として逃げ出さざるをえなかった。

1915年に同盟軍のオーストリアとブルガリアが,コソボに侵攻してきた。独墺軍はプリスチーナ、ミトロビッツァで、ブルガリア軍は黒鳥原でセビリアを退廃させた。そこで,敗戦後、セルビア軍はセルビア人住民とともにコソボから退却を開始した。これは,国家を占領地から移すし,亡命国家を作る試みともいえ,政府閣僚や国家資産はもとより,2万4000人の捕虜,初代国王の遺体も含めての大逃避行であった。この逃避行は,アルバニアの海岸から,協商側のイタリア軍やギリシャ軍の勢力圏,すなわち西のコルフ島,そして南の元ギリシャ領東部のサロニカに向かった。しかし,そのためには,セルビア人に敵対的なアルバニア人が居住するコソボを通っていかなくてはならない。追撃するオーストリア軍だけでなく,アルバニア人からの襲撃や病気により,10万人以上は確実とされる多数のセルビア人が命を失った。他方,アルバニア人たちは,セルビア国内に住んでいながら,オーストリアを解放軍として歓迎し,自らオーストリア軍に志願,対セルビア戦争に参加した。アルバニア人が力をつけていく中で,今までは禁止されていたアルバニア語の学校も再開された。1915年のロンドン密約で,英仏は,アルバニアの大半をギリシャとイタリアに二分する密約を結んでいた。そして,1918年にセルビアは逆襲に成功し,コソボでアルバニア人に対して報復行為を激化させた。

第一次大戦が協商側の勝利に終わると,1919年にユーゴスラビアYugoslavが成立した。当初は "The Kingdom of Slovenes, Croats and Serbs"と呼ばれていた立憲君主国で, Bosnia- Herzegovina, Montenegro ,Macedoniaを含んでいたが,コソボはセルビアの一部分とされた。この王国の人口は1200万人で,その内40万人がアルバニア人であるに過ぎないが,コソボでは64%がアルバニア人で多数派であった。彼らの4分の3はムスリムMuslimである。しかし,大逃避行の最中に,アルバニア人に虐待された報復の意味もあって,アルバニア人はユーゴスラビアでは抑圧されることになる。1921年までにアルバニア人たちはアルバニア語の使用を認め,アルバニア人の多いコソボは,アルバニアに統一されるべきであると主張した。しかし,民族対立,内紛のために,第一次大戦の終結した1918年以降でも,セルビア人によって,1万2000人のアルバニア人が殺され,2万2000人が投獄されたという。

アグネスの一家の住むスコピエもユーゴスラビアの領有になったが,セルビアのコソボ Kosovoでは多数派のアルバニア人(セルビアでは少数派)も,マケドニアでは少数派であったことには代わりはない。現在のスコピエは,近代的な都市で人口50万人のマケドニア共和国の首都である。

マケドニアも混乱し。1920年代のバルカンの政治情勢は,複雑である。彼女の一家は,アルバニア人だが,マケドニアに住んでいた。マケドニアの支配者も,アグネスが故郷にいた18年間の間に,オスマン帝国,セルビア,オーストリア・ハンガリー,ブルガリア,ユーゴスラビアとめまぐるしく交代し,あるいは分割統治されてきた。そのなかで,民族対立,宗教対立が「引き金となって双方で虐殺が行われてきた。アグネスの一家にとっては,国家の永続性はもちろん,一民族の興隆が永遠に続くなど全く信じていなかったに違いない。そのような不安定な時代の中で,確固として変わらず,永遠なるものを求めたであろう。それが,カトリックである。(鳥飼行博)


2000年バルカン諸国:緑マケドニア人,紫アルバニア人,桃セルビア人,灰褐色ブルガリア人,海老茶トルコ人,薄緑ルーマニア人,肌色ハンガリー人,茶モンテネグロ人,黄緑ムスリム,黄クロアチア人,青スロベニア人。


1928年,18歳の時に尼となろうと決心し,アイルランドのダブリンに行き,ロレット修道女会Sisters of Lorettoに加わった。当時,アイルランドは,英国領である。しかし,英国本土は,キリスト教といっても新教の英国国教会であり,アイルランドはカトリック教会中心であり,アイルランド住民からは,英国人から差別待遇を受けている感じていた。

アイルランドでは,新教対旧教,植民地支配によって,紛争が生じでいたが,1912年、アイルランド自治法案がイギリス下院に提出され、1914年9月に成立した。しかし,1914年の第一次世界大戦の開始で自治は凍結。大戦中の1916年の復活祭に独立派が武装蜂起して共和国樹立を図った。この蜂起は失敗したが,1918年の総選挙でシン・フェイン党が勝利し、独立戦争が起こった。大戦後の1921年、イギリスとアイルランドは条約を結び、南部アイルランド自由国として自治権を獲得。アグネスが,マケドニアからアイルランドにやってきたのは,まさにアイルランドが自治を進めていた時期である。憲法が公布され、アイルランド共和国(エール共和国)として独立したのは,15年以上たった1937年である。

トルコはイスラム教,ロシアはギリシャ正教,ドイツはプロテスタント,英国は国教会が主流である。カトリック教徒は,イタリア,スペイン,フランスに多いが,アイルランドを選択したのは,アルバニアのカトリック教会,家族などとのつながりがあったためと思われる。

また,アイルランドもアグネスの故郷マケドニア,あるいはアルバニア人の故郷コソボと同じく,他民族の支配を受ける地域として認識されていたことは想像できる。この抑圧された地域では,独立運動に加わる可能性もあるわけだが,カトリックの教義を最優先する家族にとっては,政治的な独立要求はあまり重視されなかったようだ。キリスト者として,世界中のカトリック教徒が団結することに比すれば,一地域の民族自決の要求は,スケールの小さな運動に見えたのであろう。貧しいもの,隣人を助けるというに使命は,一見するとミクロの出来事にとらわれているようであるが,宗教的な心理からいえば,世界に通用するグローバルな規範として意味を持ってくる。

実際,アグネスのアイルランド滞在はカトリックの教義を勉強したり,高等教育を身につけたりするためではなかった。一時的な中継地であり,1年もたたない1928年12月には,ロレットの伝道師メンバーとして,インドに派遣されることになる。これは,彼女が故郷マケドニアを旅立つ以前からインド伝道を決めていたためであろう。(鳥飼行博)


英領ともいえるアイルランド自由国から,同じく英領インドに,カトリックの伝道師として派遣されることになるのは興味深い。1929年1月6日で,ロレットの伝道師メンバーとして,インドに派遣され,カルカッタCalcuttaにあるカトリック高校St.Mary's high schoolの教師となった。そして,1948年まで地理とカトリック教義を女学生に教えた。1931年に初の誓願をしSister Mary Teresaと名乗り,1937年5月の最終誓願でMother Teresaという宗教タイトルを得た。1944年には高校の校長に就任した。結局,1929-1948年の18年間を 教員として過ごすことになる。教えたのは,地理とカトリック教義であり,1944年には校長になった(→ Wikipedia:Mother Teresa)。テレサが帰国するつもりがなかったことが窺われるが,ひとつの使命を全うしようとする強い意志の持ち主であったに違いない。つまり,マザーテレサは,オスマン帝国のマケドニアのアルバニア人であり,ブルガリア,セルビア,オーストリアなどの支配も経験し,そのなかで,アルバニア人,セルビア人の虐待も眼にしていたであろう。アイルランドにしても,自治権をえるために英国と武力紛争を引き起こしている。さらに,インドにしても,ヒンズー,イスラム,シークなど宗教的に分裂しいるだけでなく,言葉も慣習も異なる国であり,さらに英国の植民地として,抑圧されている。マザーテレサの生涯にわたる活動は,このような恵まれない人々に注がれているが,これはマザーテレサの生立ち,子供時代の経験がそのまま体に埋め込まれており,彼女としては宿命を感じていたのではないか。一見すると,何でわざわざインドへ伝道したのかとも感じられるが,彼女の生立ち,境遇からみて,もっとも貧しく抑圧された人々に関わりたかったのであろう。

本国でも,貧困者の救済する伝道師となるの可能性はあったが,マケドニアでは,独立,革命など政治的な思想や活動に巻き込まれたくなかったのかもしれない。マケドニアのアルバニア人で,アルバニア人では少数派のカトリック。これでは,故郷にいては,狭い範囲の活動しかできないし,宗教,民族の激しい対立にあって,貧困者の救済,カトリックの伝道は,大きな成果を持ち得ないと判断されたのではないだろうか。その意味で,インドは,故郷に安住できないアルバニア人カトリックのアグネスとしては,夢の持てる場所であり,仕事であったことは容易に想像できる。(鳥飼行博)


第一次世界大戦の後,オスマン帝国が崩壊し,オールとリア=ハンガリー帝国が分解してしまい,マザーテレサの故郷マケドニアはユーゴスラビアに組み込まれて独立し,王政も復活した。カトリック教会は,また,植民地や帝国主義に関して,ナショナリズムの視点から批判しているわけではないが,これは,当時の欧米,日本の為政者と同じである。このような革命と独立の時代背景の中で,英国の植民地インドにおける伝道や教育には,どのような方針が教皇から出ていたのであろうか。テレサはどのような考えで活動していたのであろうか。1940年代中頃(第二次大戦終焉は1945年)までのテレサの書簡やスピーチは,見当たらなかったので,実態は良くわからない。しかし,革命や独立などと関連した政治的解決には,カトリックとして否定的であり,保守的な考え方をしていたと考えられる。しかし,このような保守性はあっても,神から与えられた命を粗末にしたり,体を損なったりすることが当たり前になっていた極度貧困者を見ていたテレサは,政治的な解決が視野にない分,奉仕を進める方向と深さが急進的になっていったと考えられる。(鳥飼行博)


1939年にドイツがポーランドに侵攻すると,英仏はドイツに宣戦布告した。こうして,第二次世界大戦が始まったが,インドも英国植民地として無関係ではいられない。戦争と言うと,陸・海・空での会戦(決戦)が思い浮かぶが,その兵器を生産し,燃料・食糧・弾薬を補給するのも戦争の重要な一部である。これが,総力戦の考えで,戦線の後方,すなわち銃後の市民も農民も労働力,物資供給,兵力予備として,戦争に参加している。そこで,国民や植民地の持てる力を絞るとるために「動員Mobilization」が行われる。

インドは英国の植民地として,綿花,手鉱石など原材料の生産を担っていた上に,膨大な労働力を擁していた。また,英国本土では,兵員として徴兵された市民が増えるにつれて,労働力も不足してくる。そこで,資源,労働力,兵員を補充するためにも,インドでも英国による大規模な動員が行われた。イギリス軍には,多数のインド人将兵・物資運搬・建設労働者が参加していたのである。

1941年12月8日,マレー半島(英領植民地のマレーと中立国タイ)への上陸で,太平洋戦争が始まった。真珠湾攻撃の2時間前に既に,シンガポール占領を目指す日本軍の侵攻が行われたのである。マレー半島を防衛するのは,主に英軍だが,植民地で徴用されたり,志願したりしたインド人,特にシーク教徒がインド兵として,英軍に加わっていた。つまり,英印軍(イギリス・インド軍)は,太平洋戦争で真珠湾空襲に直面した米軍よりも先(日付は後)に本格的戦闘に参加した。現在のミャンマーは,やはり元英領植民地で,当時はインドの一部として扱われていた。ここを防衛するのも,ビルマ人(ミャンマー人ではなくカレン人など少数民族)を含む英印軍である。しかし,1942年2月のシンガポール陥落に続き,ビルマも占領されと,日本軍はインド本土に迫ってくる。インド領のニコバル諸島,アンダマン諸島も日本軍に占領されている。1942年4月には,日本海軍の空母機動部隊が,インド南のセイロン島の軍港を攻撃する。

日本軍の侵攻を,当時のインドの人々あるいはマザーテレサはどう思っていたのか。テレサの日本に関する書簡など意見表明は見当たらないが,インド人には,反ファシズムを唱えるものの他に,日本軍に協力して,英領植民地のインドを独立させようとする動きも起きてくる。シンガポールで降伏したインド兵(英印軍)のなかから,日本軍に寝返って,インド国民軍を創設する動きがこれである。マザーテレサの活動したカルカッタに「チャンドラ・ボース通り」があるが,日本軍とともにインド解放を目指したインド国民軍の最高司令官が,チャンドラ・ボースであった。彼は国民会議派の元議長(1930年代末),ナチスドイツ亡命という経歴も持っている。


日本軍は,インドを占領するつもりはなかった。兵力も物資も,その運送手段も欠いていたからである。しかし,大東亜共栄圏の盟主として解放者を演ずる日本は,チャンドラ・ボースが首班となって1943年10月に樹立した自由インド仮政府を承認,支援する。もちろん,英米中など連合軍(多国籍軍)は,仮政府を,日本軍の傀儡として承認しない。惨敗続きの日本軍ではあったが,1944年3月,新たにインド方面へ侵攻ウ号作戦を開始し,インド東部の町インパールの占領を目指す。この作戦に先立って,インドにおける英印軍への軍需物資の供給を滞らせ,インド住民を反英活動に誘導するために,1943年12月,数度にわたってテレサの住むカルカッタ爆撃も実施された。これは,日本陸軍航空隊に海軍航空隊が若干協力するかたちで行われた。目的は,カルカッタの港湾機能を麻痺させることである。

もともと,カルカッタのあるベンガル州は人口緻密地域であり,その食糧供給はビルマの米にも依存していた。州内で食糧自給ができない以上,他の州や海外からの食糧移送に頼らざるをえない。ベンガル州は,大飢饉に見舞われた。ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア センAmartya Senも著作『貧困と飢餓』の中で,ビルマを日本軍が占領し、ビルマ米の輸入途絶にインド国内の投機的行動が重なって,大飢饉を引き起こしたと分析している。飢饉の原因は、食糧の総供給量の減少,すなわちマクロの食糧不足ではないという。売り惜しみが行われる中,英国政府はインドの現状に関心を示さず、ますます食糧価格は高騰する。それが,農村におけるアウトカースス(不可接賎民)から、食糧に対するエンタイトルメント(権源)を奪ったとセンはいう。

つまり,日本軍の攻撃や軍需優先で交通機関が円滑に民需物資を運搬できなくなったこと,ビルマからの食糧供給が断たれたこと,不作に見舞われたこと,投機的行為が頻発したことなどの要因が指摘できる。こうして,多数の極度貧困者が餓死に追い込まれた。マザーテレサは,後に貧しい人の中でもとりわけ貧しいものへの支援を志し,飢えに苦しむ人々に食糧配給を実施し,医療手当てを志した。1943年のベンガル飢饉は,日本軍のインド進行の危機感,ビルマ占領,総力戦の下で,貧困者が高騰した食糧を購入できなくなったこと,そのような状況を英国政府が放置したことによっている。そして,そのような貧困者救済の必要性を認識させた背景に,太平洋戦争があった。

マザーテレサは食糧の運搬,配給によって貧困者の命,神から与えられた命を救う必要がある。この仕事は大切であるにもかかわらず,国家,政府,大国(英国)には関心が薄い事柄である。この仕事は,小さなことからできるのに,富裕な市民の奉仕は敬遠され,あるいは貧困者が自ら招いたものであると,見放されている,と考えたのであろう。

飢饉の根本的な原因は,食糧配給では解決しない。このことは,マザーテレサも理解していると思われる。極度貧困者に食糧を与えても,それは飢饉が発生した後の事後的対応であり,飢饉をなくす根本解決ではない。そのためには,食糧生産と配分の仕組みを整え,極度貧困者に食糧を購入できるだけの収入を確保させる必要がある。つまり,事前の対応として,社会開発を進めて,貧困を解消しなくてはならない。マザーテレサもそれはわかっていたが,この根本的解決のためには,英国とインドの政治を貧困者を配慮できるように変えるか,貧困者にも政治的な権利を付与する民主化を進めるしかない。

しかし,教皇を頂点とする組織に身をおくカトリック教徒としては,このような政治的活動は考慮の外であった。マザーテレサの故郷マケドニア,同じ民族のアルバニア人の被った悲劇と同じように,政治や軍による解決ではなく,ひたすら貧困者に尽くすという姿勢を貫くことが,多数の人々の共感をえ,いずれは政府をも衝き動かすことになると確信していたのではないだろうか。飢餓のような緊急事態では,飢えた人々にとって,食糧を増産しても,戦争を停止するように求めて,インドの独立を要求しても,「今」の解決にはならない。宗主国の英国,インドに迫ってきた日本軍もマザーテレサの眼中にはなく,ひたすら目前の個々の人々を対象に救済活動する,奉仕をするとい信念が,神のために仕えるという信仰によって支えられて,確固たる信念になったのであろう。

マザーテレサは,幼い時から,差別,民族や宗教の紛争,国家の政治的思惑,数度にわたるバルカンでの戦闘,二度の世界大戦戦争,そしてそれらに起因する飢餓,貧困者の生活難,市民生活の破壊などの悲惨な状況,これらを見続け,自らもオスマン帝国マケドニア出身のアルバニア人少数派カトリック教徒として,30年間以上,体感してきた。大国の介入や国際的な取り決めがいかに当てにならないかをよく知っていた。このような状況では,政治的な解決は一時しのぎでしかない。また,国家による解決も,個々人の不幸な状況を変える力はあまりない。多数の人々を救うために,国際的合意をして----という解決方法は,多くの場合,一時しのぎか,計画倒れに終わってしまうなってしまう。

国家による取組みが当てにならないのに対して,目前の一人の貧困者を保護し,神から授けられた命の大切さを理解してもらうことは,一人の人間を救うことであり,神の恩寵を感じることである。これは,重たい命を生かすことであり,たとえ一人であるとしても,確固たる成果である。人名は地球より重いということは,人間の尊厳だけでなく,神の恩寵を感じるものにこそ当てはまるのであろう。1946年に神の啓示を受ける前年の人生観とは,「神から授けられた一つの生命を,神の恩寵のままに生かすという個人主義」と整理することができる。この個人主義に基盤を置く博愛的行動が,カトリックに囚われず普遍性を持ち,カリスマとなって世界の人々を惹きつけたのであろう。


第二次大戦後,インドの独立の前年の1946年9月10日,ダージリンに向かう列車に乗車しているとき,神のお召し(啓示)を受けた。とテレサは言う。「最も貧しい人のために人生を捧げるように--」と。ダージリンDarjeelingに向かう。このときのことを次のように述べている。

"I realized that I had the call to take care of the sick and the dying, the hungry, the naked, the homeless - to be God's Love in action to the poorest of the poor. That was the beginning of the Missionaries of Charity."

1年たたないうちに,テレサはロレットを離れ,新たな修道会を創設する許しを求めた。そして,教皇ピウス12世から許し得ることができたので,カルカッタのスラムに学校を開くことにした。このとき修道女シスター・アグネス"Sister Agnes"が マザー・テレサMother Teresaとなった。これ以降,社会活動を通じて,マザーテレサは,カリスマとなっていく。

1946年という年は,インド独立の前年であるが,実は大変な混乱期である。第二次大戦の戦勝国の英国が,欧州船も終わり,日本も降伏すると,植民地インドに大挙乗り込んできたわけではなかった。インドは,パキスタン地域も含めて,英国に多大な戦争協力をしてきた。兵士を送るだけでなく,労働力や資源を供給し,防衛拠点の構築にも場所と労力を提供した。そこで,レッドフォート裁判に見られるように,日本軍とともに英印軍と戦ったインド国民軍の将兵に対して,もはや処罰することは,インド人の感情を逆なでしないためにもできなかった。この裁判では,被告となったインド国民軍側の主張は,インド国民軍,自由インド仮政府は日本に隷属するものではなく,植民地の人民は搾取する本国に対して独立自由を獲得すべき天与の権利を有する,隷属民族は闘う権利があると主張した。インド国民軍裁判は,インド人のイギリスに対する怒りを爆発させ、裁判の進展とともに国民軍は英雄として位置づけられていった。宗教,民族、階級や,党派を越えた反英運動も起こっていた。

一方,宗主国(本国)の英国は,戦争による惨禍だけだなく,多大な米国からの借金(貸与された武器・順重物資の代金未払いを含む),反ファシズム戦争という「正義の戦争」で台頭した自由主義と人権重視の考え方のために,戦後の植民地インドの経営に消極的になった。また,インド国内では,宿命的ともいわれる宗教的対立,ヒンズーとイスラムの武力闘争が生じていた。これは,統一インド一国の独立か,インドとパキスタンの分離独立か,という問題,ガンジー,ネルー,ジンナーという政治的ライバルに反映される独立の仕方をめぐる争いを激化させた。多数の人々がお互いに殺しあう状況が生まれてしまったのである。

1943年のベンガル飢饉のときにたくさんの人々,特に極度貧困者が亡くなったことは,マザーテレサも見たり,耳にしていたであろう。このような悲惨な状況を,第二次大戦が終わっても,引き続き目の当たりにしたことが,マザーテレサが神の啓示を受けたことに関連していると思われる。神の啓示は人知の及ばないものであるから,web上でも議論されていないが,人間テレサの感性は,このようなインドの宗教の関連した紛争に相当に傷ついていたに違いない。人間的な覚醒が起き易い状況であったといえよう。(鳥飼行博)


1948年に教皇ピウス12世から許可をもらって,高校を辞め,独立した修道女となり,短期間医療ミッションMedical Mission Sisters in Patnaで訓練を受けた。そして,カルカッタCalcuttaに戻って,一時的な宿舎「貧しい者の小さなシスター」Little Sisters of the Poorを建てた。また,野外学校open-air schoolをホームレスの子供たちに開いた。すぐにホ゛ランティアが集まり,教会と自治体から資金援助を受けることができた。

インドで教皇ピウス12世の承認を得て,チャリティー・ミッションMissionaries of Charity(当初はDiocesan Congregation of the Calcutta Dioceseと呼ばれた)を1950年10月7日に創立し,この日をfeast of the Holy Rosaryとして祝った。テレサは白のサリー(青のふち,左肩に十字架プリントをつけた)を着た。この奉仕は,ノーベル平和賞を受賞したときのテレサの言葉に従えば,"to care for the hungry, the naked, the homeless, the crippled, the blind, the lepers, all those people who feel unwanted, unloved, uncared for throughout society, people that have become a burden to the society and are shunned by everyone."
Mother Teresa's Biography

> マザーテレサの設立したMissionaries of Charity は1952年に本格的に活動を始めた。そこには次のような施設がある。
?Kalighat Home for the Dying---貧困者が尊厳を持って死ぬことができるような施設。ここは,もとは,死と再生に関わり,悪魔を滅ぼすヒンズーの女神カリの巡礼に来る人々の休憩施設であったが,今はほとんど使われていない建物で,管理者がテレサに提供してくれたため使えるようになった。
?Nirmal Hriday ("Pure Heart")--死を迎える施設
?Shanti Nagar (Town of Peace), a leper colony and later her first orphanage.

マザーテレサは,初めて路上から女子を救ったときのことを次のように述べている。

"The woman was half eaten up by rats and ants. I took her to the hospital, but they could do nothing for her. They only took her because I refused to go home unless something was done for her. After they cared for her, I went straight to the townhall and asked for a place where I could take these people, because that day I found more people dying in the street. The employee of health services brought me to the temple of Kali and showed me the "dormashalah" where the pilgrims used to rest after they worshipped the goddess Kali. The building was empty and he asked me if I wanted it. I was very glad with the offer for many reasons, but especially because it was the center of prayer for Hindus. Within 24 hours we brought our sick and suffering and started the Home for the Dying Destitutes."

このとき以来,4万2,000名以上の人々が,カルカッタの路上からNirmal Hridayに運ばれた。この内約1万9,000名が尊厳を持って死ぬ機会を与えられた。臨終のとき,神の恩寵を受け,神の子と感じながら死ぬことができた。助かったものは,Missionaries of Charityが仕事を見つけてくれたり,自宅に帰って生活に復帰したりできた。1952年から孤児院を,1957年からレイプされた女子の保護を始めた。


食糧配給活動に従事するマザーテレサ:1971年インド


彼女の家"tabernacles"は,世界数百ヵ所に設けられ たとえば米国では: Missionaries of Charity, 335 East 145th Street, Bronx, New York 10451で, インドのカルカッタでは: Missionaries of Charity, 54A, Acharya Jagadish Chandra Bose Road, Calcutta 700 016, Indiaでコンタクトをとる事ができる。
Heaven has gained another Star

1965年に教皇パウロ4世が,マザーテレサを祝福し,その使命を世界に広めるべきであるとしてから,テレサの仕事は世界的に認知された。エチオピアの飢餓,南アフリカ共和国の黒人隔離地区(ゲットー)の場にも,聖女the living saintマザーテレサがいた。 1987年にベイルートで,パレスチナ紛争の停止を呼びかけ,閉じ込められていた37名の子供を救出した。


1962: She received the Pandma Shri prize for "extraordinary services"
1971: ヨハネ23世平和賞---教皇パウロPaul VIより受賞 
1972: Jawaharlal Nehru Award for International Understanding.---インド政府より受賞
1979: Nobel Peace Prize---ノーベル賞委員会より受賞
1985: 自由メダルMedal of Freedom---レーガンReagan大統領より受賞(米国では最高位の市民勲章)→Medal of Freedom
1996: 米国名誉市民権honorary U.S. citizenship--米国政府より授与(世界で4番目)
2003:福者Beatus----教皇ヨハネ・パウロ2世によりカトリック教会における聖人に準じる福者に列せられる。

ノーベル平和賞授賞式に際しては,1ドルのサリーを着て出席した。受賞理由は,「平和の脅威となる貧困を解消のために奮闘した」こと。"for work undertaken in the struggle to overcome poverty and distress, which also constitute a threat to peace." 晩餐会はキャンセルしたが,代わりに,その費用6000ドルでカルカッタの貧しい子供を救ってほしいと述べた。また,「世界平和のために,我々はなにをしたらよいか」という質問に対して,「家に帰って家族を愛しなさい」と答えた。


1985:ローマで教皇ヨハネパウロ2世訪問中に,心臓を患う。
1989: 心臓病で,ペースメーカーを移植。
1991: メキシコのティファナで,pneumoniaに罹り,心不全に陥る。
1996: マラリアmalariaに罹る。chest infection。心臓の手術。
1997年3月13日: Sister Nirmalaがマザーテレサの後継者に指名される。
1997年9月5日:"Angel Of Mercy"死亡(→CNN)。87歳。

 
ヘレンケラーとマザーテレサを比較すると,生まれが裕福なこと,理解のある家族に恵まれたことは共通している。しかし,ヘレンがハーバード大学を卒業し,後にテンプル大学,グラスゴー大学から博士号を授与されるなど,高等教育を身につけて社会活動に入っていくのに対して,マザーテレサの場合は,カトリックと言う宗教の影響がとりわけ大きい。これは,神の創造した人間を無差別に労わる気持ちを持ち続けたこと,そして教皇を頂点とする教会組織の枠組み,カトリックの教義の枠組みの範疇で活動したことに現れている。ヘレンは,障害というものを身体的なものだけではなく,社会的な制約,例えば過酷な労働条件,搾取される労働者,女性への無理解によるジェンダー不平等(参政権のないこと,職場進出が困難なこと)を克服しようとした。同じように,テレサは,貧困の中にあってもっとも貧しいものを救う,孤児やホームレスなど社会的弱者を労わる,といった経済的支援だけでなく,臨終にあって神の恩寵を感じるような尊厳ある死を迎えることが可能な施設(ホスピス)を作ることで,精神的な貧困を断ち切ることも視野に入れている。このように,急進的ともいえる思想を持ち,それに基づいて,グローバルに,そしてローカルに活動したと言う点で,両者には共通点があるようだ。(鳥飼行博)

2007年9月22日土曜日13時-17時,横浜市青葉区民活動支援センター(東急田園都市線田奈駅構内)において,「ヘレンケラー女史に学ぶ-マザーテレサとの比較」と題して,講演会(神奈川新聞後援・高齢パワー活用の会主催)を行いました。障害者の方もいらっしゃってくださりました。お話を聞いていただけた皆様に御礼申し上げます。皆さんのご健康をお祈りいたします。

当サイトでは,オスマン帝国コソボ州(マケドニア地方)出身のアルバニア人で,後にインドに帰化したマザーテレサを検討しました。カトリック修道女として,貧困者のために,臨終を看取ったり,看護・保護をしたり,仕事を世話したりと,人道的な活動が評価されています。ノーベル平和賞や米国名誉市民権も授与され,ローマ教皇によって聖人に準じる者とも認められたカリスマです。しかし,人工妊娠中絶や避妊に反対し,非民主的な政治家や不正蓄財がうわさされる人物から膨大な寄付を受けるなど,批判もあります。ここでは,故郷マケドニアと活動の場インドの歴史を踏まえて,伝記を検討し,客観的にマザーテレサの思想や活動を考える資料を提供することに努めています。
当サイトへのご訪問ありがとうございます。2005年2月20日以来,Counter名の訪問者があります。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
 ⇒自ら障害者でありながら,障害者の救済,労働者の生活改善に力を尽くしたヘレンケラーについては,ヘレンケラー伝記ヘレンケラー研究リンク集をご覧ください。

 
 
マザーテレサは東欧出身として紹介され,webでも誕生地が旧ユーゴスラビア,マケドニア共和国などさまざまである。東欧として,故国が指定されない事も珍しくない。たしかに,ギリシャ,ブルガリア,トルコといったお馴染み国であればよいが,ユーゴスラビア,セルビア,アルバニア,マケドニアとなると,独立国か,州か。地域名かも怪しくなる。しかも,これは国境,歴史的領土の正当性を巡る政治的問題でもある。多民族国家で民族分布が複雑なことに加えて民族自立のナショナリズムが意識され,支配された時期の歴史,地理的境界,地名を認めない傾向がある。

ヨーロッパではオスマン帝国を非ヨーロッパの「トルコ」と意識しており,オスマントスコ支配が過酷で残虐であったことを,現在のバルカンの独立国でも強調し,そのアジア的影響を排除したがる。残念ながら,日本でも,オスマン帝国を明示してあるものはなく,ユーゴスラビア,マケドニア,アルバニア(人)が使用されている。マザーテレサ自身,マケドニア生まれ,アルバニア人と認識しているのであれば,問題ないようにも思える。しかし,彼女の思想,行動を読み解くには,バルカン半島の複雑な民族,国家,支配の歴史抜きには語れない----,というのがこのサイトの立場である。


マケドニア共和国:1991年に成立

アグネス(後のマザーテレサ)の生まれたマケドニアは,当時は国名でも,自治州でもなく,地域名に過ぎない。歴史的なマケドニア地域は,現在のマケドニア共和国と一致するわけではない。この国以外にも「マケドニア」地域はあり,ギリシア、ブルガリアに分割されている。マケドニア共和国は,1991年に成立。首都スコピエ、一院制議会主義で,1993年に国連加盟。マケドニア共和国はバルカン半島南東部に位置し、総面積2万5000km2(四国の1.4倍)。周囲をギリシャ,ブルガリア,セルビアモンテネグロ,アルバニアに囲まれた内陸国。マザーテレサは,マケドニア人と主張し,アルバニアと係争中(→maマザーテレサの民族的判定)。


テレサの生まれ故郷スコビエ(1909年撮影):オスマン帝国時代


1912-1927年スコビエ劇場:500年間の「トルコ」支配の後,1912年にセルビア領となったとき建てられた旧劇場。


1940年発行のスコビエ劇場の絵葉書:1927年に旧劇場を建替えた。

ギリシャは,アレクサンダー大王を生んだ国名「マケドニア」を,現在のマケドニア共和国が僭称していると主張している。そのため,マケドニア共和国の国連加盟は,成立から2年後の1993年に遅れるほどであった。また,マケドニア地域には,歴史的にも新しい「マケドニア人」かの概念だけでは包含できない人々が住んでいる。ギリシャ人,セルビア人,スラブ人,あるいはムスリムとされる人々,そして,マザーテレサの一家(母方)と同じアルバニア人である。彼女自身,「マケドニア人」であるとは思っていない。他方,現在のマケドニア政府は,アルバニア語を公用語として認めようとはしない。


1950年代のスコビエ:ユーゴスラビア


1990年代の首都スコビエ
:マケドニア共和国

スコビエのトルコバザール:古い建築物の並ぶ観光名所

 
マザーテレサの出身国,故国は,生まれた当時1910年はオスマントルコ帝国の支配地域である。しかし,アルバニア人としては,アルバニアの民族名称を,マケドニア人としては,マケドニアの地域名称を出したがる。ユーゴスラビアを支持する立場では,旧ユーゴが使用できるし,ブルガリアセルビア,ギリシャも隣接し,領有していた過去の歴史がある。汎ヨーロッパ主義やEU成立を踏まえれば,「東欧」が当たり障りのない名称だろう。

このオスマン帝国のバルカン領を侵したのが帝政ロシアである。ロシアは,トルコ領内のキリスト教徒,スラブ系住民への介入を認めさせようとしたが,英仏はオスマン帝国崩壊によるロシア拡大を危惧し,オスマン帝国を支援する。1854年のクリミア戦争では,英国人ナイチンゲール(生まれはイタリアのフローレンス)が活躍したが,英仏軍は,ロシア領内のクリミア半島に侵攻したからである。ロシアは敗北し,1856年パリ条約によって黒海の非軍事化とならんで,トルコへの内政干渉を禁止された。

 
英国は,保護国エジプトや中東の利権を保持するために,ロシアの南下を防ぐ必要があった。そこで,オスマン帝国の存続を望んだが,オーストリアとロシアはキリスト教徒の保護を名目に,あるいは,領土拡張,勢力圏拡大のために,オスマン帝国への攻撃を企てた。1877年,ブルガリア地域の内紛に介入し,ロシア対トルコの戦争,露土戦争が始まった。露土戦争(1876-78)でも,ロシアは,ブルガリアなどスラブ人が住む地域を含む多民族国家オスマン帝国を認めず,「トルコ」を敵視したのである。ロシア軍はアルメニアとブルガリアを占領し,トルコは降伏して1878年3月にサン・ステファノ条約に調印した。この条約でバルカン半島にあるオスマン帝国の支配地域(反独立的な地域でもあった)が完全な独立を得た。セルビア、ルーマニア,モンテネグロである。またブルガリアが独立した。そしてセルビア、ルーマニアは僅かに領土を増やした。またロシアはコーカサスの一部とベッサラビア(ルーマニア東部ともいえる)を得た。そしてオーストリアはロシアとの秘密協約によりボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を得た。(→マケドニア問題

 
しかし,日清戦争後の遼東半島返還(三国干渉)と同じく,ロシアとブルガリアというスラブ勢力のバルカン拡大に危機感を持った英国は,首相ディズレリがサン・ステファノ条約の破棄を主張し、1878年6月ベルリン会議を開催した。この目的は,ロシアのバルカン進出を牽制しブルガリアにマケドニアをオスマン帝国に返還させることである。ドイツの宰相ビスマルクの調停もあって,英独国の共同の圧力にロシアは屈しサン・ステファノ条約の破棄に合意し、セルビアはニシュを含む南部、モンテネグロはアンティバリ港を除く獲得領土を手放した。

べルリン条約では,サン・ステファノ条約は大幅に修正され,ブルガリアはトルコに対して貢納する半独立国として認められたが,マケドニアを放棄させられ,領土は半分以下となった。セルビア,モンテネグロ,ルーマニアの独立はそのまま認められたが,みな領土を縮小された。その後,1882年にミラン・オブレノビッチが国王となるセルビア王国が成立した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナはイギリスの支援を得て,トルコ主権下に置かれながら,行政権はオーストリアがもつことになった。またブルガリアは細分化された。このベルリン会議では,オーストリアがロシアとの密約を反故にしたため,ロシアもバルカン諸国もオーストリアもトルコと同じく報復の対象とみなすようになった。またトルコは英国の対ロシア干渉の見返りにキプロスを英領とし割譲させられた。

ブルガリア,セルビア,ギリシャとも,文化,民族,中世以来の支配経歴を持ち出して,マケドニアを自国の領土であると主張する。さらに,マケドニア人の概念が広まる中で,住民自身の独立構想,オスマントルコの復権運動,ロシアのスラブ支配,英仏独の干渉,オーストリアの弱体化も加わって,マケドニア領有問題は混沌とした状態であった。これが,マザーテレサの幼少期の故国の実態である。


第一次大戦前のバルカン半島:上はロンドン会議,下はブカレスト条約の国境線;第二次バルカン戦争の講和は,1913年のブカレスト条約。敗れたブルガリアはドブルジャをルーマニアに,マケドニアをセルビアに,マケドニアの一部とサロニカをギリシアに割譲した。そこで,失地回復を悲願に,ブルガリアはドイツ,オーストリアとともに,第一次世界大戦で同盟国側について戦うことになる。


1991年以降の旧ユーゴの独立国:南からマケドニア(紫),ユーゴスラビア(桃),ボスニア・ヘルツェゴビナ(緑),クロアチア(黄),スロベニア(青)。


コソボmaps.e-pages:赤枠で囲まれたコソボ以外にも,赤斜線の地域にはアルバニア人が多数居住している。ユーゴにおける紛争地でもある。→コソボ紛争の写真

 
イタリアが,当時オスマン帝国の支配していた北アフリカのリビアに侵攻し,1911年,伊土戦争(1911-1912年)が始まった。アグネス1歳の時である。トルコは,敗れイタリアはトリポリを占領し,リビア植民地を成立させる。英仏独露がオスマン帝国支配の「解放」を認めるのであれば,バルカン諸国も被支配地域の民族が,オスマン帝国から分離し,領土をもつ,あるいは独立することが認められるべきであろう。

セルビア王国と皇太子を殺されたオーストリアの戦争にとどまらず,領土獲得をもくろむバルカン諸国が,次々参戦した。ブルリアは,セルビアに参戦し,オスマン帝国は領土回復を求めて,ロシアと戦った。ギリシャは,国王が同盟側,首相が協商側で対立していたが,国王が退位させられて,トルコと戦う。ルーマニアは,日和見でハンガリーの領有するトランシルバニアを獲得する目論見で,同盟国と戦った。
1917年にロシアは戦争を離脱し,バルカンからも撤兵するが,1918年に協商側は攻勢に出て,ブルガリアを降伏させる。続いてオスマン帝国も降伏すると、同盟側についてベッサラビアを占領していたルーマニアが寝返りをうち、協商側についた。(→ユーゴスラビア主義

 
アグネスの生まれた当時のカトリック教徒の最高指導者たる教皇はピウス10世(Pio X;在位1903年8月-1914年8月20日)である。19世紀後半まで,カトリックは宗教的権威だけではなく,一国に匹敵する領土も持っていた。しかし,1861年に成立したイタリア王国は,教皇領を暫時併合しはじめる。1866年教皇領のヴェネチアを,1870年教皇領のローマを併合し,教皇は狭いバチカンに幽閉されたも同然となってしまう。さらに,市民革命を経て近代化が進み,教会の教育権に対抗するように公立学区が整備され,キリスト教が軽んじられるようになったことに危機感を持っていた。また,当時,バルカン半島では,ロシア,セルビア,ブルガリア,オーストリア,オスマン帝国などが領土をめぐる戦争を開始しており,その延長線上で,セルビアを訪問していたオーストリア皇太子が暗殺され,第一次世界大戦が始まってしまう。ピウス10世は,この大戦争が勃発した直後、死亡する。アグネス4歳の誕生日の6日前である。 ピウス10世は,1954年5月、ピウス12世によって聖人とされた。

アグネスが,故郷スコビエで過ごした少女時代の教皇は,まずベネディクトゥス15世( Benedetto XV:在位1914年9月-1922年1月)である。大戦勃発直後に教皇に選出され,戦争には協商側にも同盟側にも距離を置く中立を宣言した。そして、大戦終結のために仲介者となる外交努力を行ったが,キリスト教の影響力は,教皇というカトリックの頂点から及ぼすものではなくなりつつあった。教皇が亡くなったのはアグネス11歳のときである。

アグネスが子供時代,そして,アイルランドを経てインドに至る時代の教皇は,教皇ピウス11世(在位1922年2月-1939年2月)で,この教皇がテレサのインド伝道の道を開いた。1870年教皇領ローマ併合以降,イタアリアとは断行していたが,教皇は1922年にイタリア頭領でファシスト党主ムッソリーニと交渉し、1929年ラテラノ条約を締結し,イタリア政府とバチカン市国を相互承認した。つまり,国交正常化である。このことは,イタリアに併合された伝統ある教皇領の返還を放棄することであり,その代償として資金を得たという。さらに,各国のカトリック教徒とカトリック学校を保護するために,政教条約をむすんだが,これにはナチスドイツも含まれる。

1936年にスペイン内乱が勃発すると,教皇ピウス11世は,フランコ将軍に率いられた反乱軍を支持したが,これは共和国側が社会主義の思想に染まり,カトリックの学校,風習を排除しようとしているというのが理由である。反乱軍は,ファシストのイタリア,ナチスドイツが軍隊を派遣しており,ドイツ軍によるゲルニカ爆撃のような空襲が共和国側に行われた。同じくナチズムが台頭するドイツでカトリックの中央党を含む大半の政党が,全権委任法に賛成票を投じ,ナチスへの政党一本化(ナチス独裁)を認めたし,カトリック学校のナチ化(ヒトラー少年団への加盟推進)にすら表立って反対しなかった。ナチスのユダヤ人迫害も始まっていたが,これも非難しなかった。

教皇も多くのカトリック教徒も,ファシズム以上に,ソ連を中心とした社会主義,共産主義が広まることを懸念していようだ。教皇は,バチカンの絵画館、ラジオ局、科学アカデミーを作るなど,文化事業に熱心であったが,保守的であったといえる。スペイン内戦でも,共和国支持のカトリック神父もあったが,ピウス11世のこの保守性が,カトリック教会を通しても,アグネス,インド伝道師シスターテレサに及んでいたと考えられる。教皇は,中世以来のバチカンの世俗国家的姿勢を捨てて、現代世界におけるカトリック教会のありかたを模索したといわれる。マザーテレサが,法律整備など政治的な要求,戦争における各国の主張などに,自分から関らなかったのは,非世俗的な立場を重視したためと思われる。ピウス11世は第二次世界大戦勃発の7ヶ月前,1939年2月に死亡。当時,テレサは28歳でインドにいた。

教皇ピウス12世は,第二次大戦勃発時から冷戦時代にかけて在位した教皇である。大戦中は,ユダヤ人大量虐殺が行われ,その情報ももたらされていたようだが,これを非難したことはなかった。しかし,バチカンは多数のユダヤ人をかくまっているし,日本への原爆投下に対して,遺憾の意を表明している。カトリック教会は,ナチス親衛隊など戦犯に指名された人物を,アルゼンチンなど海外に逃亡させる手助けもした。悔い改めたものに対する人道的配慮というよりは,個々人の神父の思想を反映しているのかもしれない。しかし,英米仏露中など大国の政府が,教皇よりも人道的配慮をしていたということはできない。英米政府も大戦中,ユダヤ人の絶滅収容所を解放するために,空爆や特殊作戦を行ったりしていない。これは,作戦の失敗による非難,作戦に巻き込まれるユダヤ人の死傷,作戦が成功しても報復措置としていっそうの虐殺が行われる危険などを勘案したためであろう。

しかし,英米政府も人道的な配慮よりも,戦後世界の覇権を意識して,ファシズムの後には,ソ連を中心とした社会主義,共産主義が広まることを危惧していた。ソ連も戦後欧州における社会主義圏をできるだけ拡張することに熱心で,ワルシャワでドイツ支配に蜂起したポーランド人を見殺しにしている。多くの政府は,平和,繁栄,正義,国家・民族の安泰,特定のイデオロギー,家族生活の維持などを理由に,殺しあうか,軍備を確保しようと躍起になっていたのである。今まで中立だった小国も,国際連合に加盟するには,連合国の一因でなければならないとして,ドイツ,日本に参戦する有様だった。

第二次大戦が終了しても,東西対立となり,核兵器を整備しての冷たい戦争が始まった。このように,国際連合を組織しても,世界は平和になることはなく,政治的な手段によって,平和を達成するのは困難な状況が続いている。また,経済活動も,競争や規制にさらされ,個人よりも企業の経済活動が重視されるにつれて,仕事の持つ意味が失われる疎外が広まっている。国籍,職業,民族,イデオロギー,経済的格差,身体的障害を越えてたものとして,宗教が注目されるようになった。カトリックも世俗的な権威を失いはしたが,精神的な基盤を提供し,個々人が安寧(安らぎ)を得ることができるように,導く機能がある。信仰こそがカトリックの核であるが,現代人にとって,(そこに至る前の)安寧が魅力になっているのかもしれない。

 
インド本土を部隊とした「太平洋戦争」の最大規模のものは,1944年のインパール作戦である。しかし,1943年の日本航空部隊のカルカッタ爆撃も飢饉の原因として取り上げられることがある。これは,空襲がインド本土爆撃として最大規模だったたこと,カルカッタという大都市を攻撃目標としており,多数のインド人が経験したことが要因であると思われる。しかし,カルカッタ爆撃が行われたのは1943年12月で,ベンガル飢饉とは直接関連はない。確かに,インド東部のチッタゴン,インパールなども空襲していたが,小規模であり,軍事的に大きな損害を与えることはできなかった。英軍爆撃機の半分以下という少ない爆弾搭載,航法・通信の未熟による命中率の低さ,そして何よりも爆撃機数の少なさと護衛戦闘機の低性能,英軍の迎撃体制の完備の前に,爆撃を数回行った程度では,インドに軍事上の大損害を与えるのは無理である。1944年以降の連合軍爆撃機によるドイツ空襲は1回当たり千機以上,日本空襲は数百機の規模であるが,カルカッタ爆撃は数十機に過ぎない(日本軍にしてみれば大編隊であるが)。マザーテレサがカルカッタにいたとしても,日本の爆撃機を実際に見た公算も,爆撃後の惨状を見た公算も,実は小さい。


教皇パウロ6世より平和賞授与:1971年ローマ


エリザベス女王よりOrder of Merit 叙勲:1983年カルカッタ,インド


1985年自由メダルを授与するレーガン大統領


1985年自由メダル授与式





幼児とテレサ














カルカッタで瞑想


マザーテレサの施設:Home for the Dying in Calcutta


1995年ボランティアたちと:ノーベル平和賞受賞以来,世界中から日本からもカルカッタの「マザーテレサの家」のホ゛ランティアがやってくる。寄付集めのために,マザーは旅行者であろう,写真を撮りたがる者であろうと,誰とでも会ってくれたし,写真撮影にも応じてくれた。

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