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中華民国空軍のソ連機とアメリカ機 2022
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◆中華民国空軍の外国機
写真(上):1939年8月,モンゴル東部国境、満州国と境をなすノモンハン、日本軍との交戦で破壊されたと思われるソビエト連邦ポリカルポフI-15戦闘機の残骸:ソ連では、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機に続いて、I-153複葉戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機が開発された。
Description English: Destroyed Soviet plane, Khalkhyn Gol, 1939 Русский: Сбитый советский истребитель, Халхин-Гол Date August 1939 Source former image source [1]; current image source [2] Author soviet reporter
写真はWikimedia Commons, SDASM Archives- File:Khalkhin Gol Destroyed Soviet plane 1939.jpg引用。

写真(上):1940-1942年,中国、アメリカからビルマ経由で到着したアメリカ義勇軍(AVG)フライングタイガーズ所属と思われるカーチスP-40戦闘機の歓迎式:1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によるソ連からの軍用機援助を受けていた中国は、さらにアメリカからも軍用機の援助を受けて日本と戦った。ソ連yとアメリカは軍事援助を開始し、日本の軍事力を牽制した。
Tom Gunn (Tom Gym) 1913 Catalog #: 00465 Subject: The Flying Tigers - China Title: Tom Gunn (Tom Gym) 1913
Notes: Russia、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives 引用。

写真(上):1944-1945年,中国、アメリカからインド経由で到着したアメリカ陸軍在支航空隊フライングタイガーズ所属リパブリックP-47戦闘機の戦列:1942年2月、アメリカ陸軍航空隊は、極東中国方面に第5航空軍(Fifth Air Force)を設置した。しかし、中国大陸からの航空作戦は、燃料・爆弾など大量の軍需物資を長距離空輸しなければならず、日本進攻の主要経路とはならなかった。
TP-47s Catalog #: 00727 Subject: The Flying Tigers - China Title: P-47s Repository: San Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives 引用。


1.ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機

写真(右):1933年,ソビエト連邦、スキー式固定降着装置を取り付けたソ連TsKB-3試作機(ポリカルポフI-15の原型):1933年10月に飛行審査がなされている。上主翼が胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルという斬新な設計だが、主輪は固定脚である。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連が中国に供与したのは、このI-15後継機I-15bis(I-152)戦闘機である。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45938899 - Title: Polikarpov I-15 Prototype Petrov photo collection - Filename:16_007240.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007240 引用。


ソ連第39飛行機工場で製造されたTsKB-3試作機は、原型は前作ポリカルポフI-5(Polikarpov И-5)複葉戦闘機であるが、それまでのパラソル上主翼を変更して、上主翼を胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルという斬新な設計とした。ただし、降着装置の主輪は固定脚である。

ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-5複葉戦闘機は、1930年4月29日に初飛行し、量産型は、発動機にシュベツォフ(Shvetsov)M-22空冷星形エンジン(排気量28,64 L)480ph1基を搭載した。I-5発展型で1933年10月初飛行のI-15戦闘機は、当初、同じM-22エンジンを搭載していた。しかし、I-15戦闘機後期型は、出力を強化するために、アメリカ製ライト R-1820 サイクロン空冷星形9気筒エンジンをライセンス生産したシュベツォフ M-25エンジンに換装されている。

ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機は、1933年10月初飛行当初はポリカルポフ(Polikarpov)I-5複葉戦闘機と同じ発動機シュベツォフ(Shvetsov)M-22空冷星形9気筒エンジン(排気量28,64 L)480ph1基を搭載している。このM-22エンジンは、フランスのノームローン(Bristol Jupiter )空冷星形9気筒エンジンのソ連ライセンス生産型である。しかし、その後、I-15後期型は、発動機をM-25に換装した。このM-25エンジンは、アメリカ製ライト R-1820 サイクロン空冷星形9気筒エンジンソのライセンス生産盤である。

ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15戦闘機は、1937年までに284機が生産されているが、このように少量生産だったのは、I-15第2番目の改良型であるI-15bis、すなわちI-152戦闘機の量産に変更されたためである。

写真(右):1933年頃、ソ連、陸上用ゴム主輪式固定降着装置を取り付けたポリカルポフI-15(Polikarpov И-15)複葉戦闘機:原型I-15と同じく固定式主輪の複葉機ではあるが、上は主翼を胴体上部に配置し、操縦席前方ガラス風防の位置には主翼が来ないように、上翼を折り曲げてガルのように配置しら構造は斬セインである。下主翼との接合部分の構造も張線を少なくし、事実上、1本の支柱で上下翼を支えている。
Ray Wagner Collection Image PictionID :45938973 - Title: Polikarpov I-15 Real Photographs Broadstairs, Kent UK - Filename:16_007246.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_007246 -引用。

写真(右):1935年,ソ連、TsKB-3試作7号機(ポリカルポフI-15の実験機):I-15の上翼は胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼はガル式になっているが、上主翼はパラソル翼に変更した保守的な実験機を製造され、1935年3月に審査された。これが、後継機のI-15bis(I-152)に発展することになる。
The aircraft is TsKB-3 No. 7 (W.No. 33907), prototype built in 1935 with a straight upper centre-plane section. The I-15bis design appeared in early 1937 and prototypes were built in the spring of 1937.
ソ連空軍のI-15シリーズは同系列の複葉戦闘機だが、次のような差異がある。I-15は、ガル翼でエンジンカウリングが短い。I-15bis (I-152)は、直線翼で、エンジンカウリングが長め。I-153は、ガル翼でエンジンカウリングが長く、引込み脚。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 45938961 - Catalog: 16_007245
Title: Polikarpov I-15 - Filename: 16_007245.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives PictionID:45938961引用。


写真(右):1936-1937年,スペイン、スペイン内戦に派遣されたソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の右側面:上翼は胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼はガル式になっている。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45938985 - Title: Polikarpov I-15 in Spain - Filename: 16_007247.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007247 引用。


1936-1939年のスペイン内戦には、ソ連からスペイン共和国政府に対してI-15が派遣された。分解された機体がスペインで組立てられ、1936年11月3日に、試験飛行した。これらのI-15戦闘機は、マドリッドに配備され、戦闘機パイロットはソ連義人勇兵だった。このほか、1937年2月の段階で、I-15は、アルカサール、グダアダハラ、アルメリアにも配備されている

ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。 ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を引き込み脚に改良を加えたI-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機として ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたポリカルポフ(Polikarpov)I-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

写真(右):1936-1937年,ソビエト連邦、ソ連空軍ポリカルポフI-15複葉戦闘機の右側面:国籍マークは描かれていない。コックピットは半密閉式で、前面風防ガラスには望遠筒型射撃照準器が装備されている。車輪は、固定式だが、空気抵抗を減少させるように、スパッツ(整形カバー)で覆われている。上翼は胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼はガル式になっている。
RRay Wagner Collection Image PictionID: 45938936 Title: Polikarpov I-15 - Filename: 16_007243.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007243 -引用。


ソ連空軍ポリカルポフ I-15複葉戦闘機は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1936-1937年,ソビエト連邦、ソ連空軍ポリカルポフI-15複葉戦闘機の右後面:操縦席の右側面に開閉扉が見えるが、実際は左側にも同様の開閉扉があるようだ。コックピット側面の折り畳み式の開閉扉は、パーロットがコックピットへの出入りがしやすいように出入り口を確保する配慮である。国籍マークは描かれていない。コックピットは半密閉式で、前面風防ガラスには望遠筒型射撃照準器が装備されている。車輪は、固定式だが、空気抵抗を減少させるように、スパッツ(整形カバー)で覆われている。上翼は胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼はガル式になっている。
RRay Wagner Collection Image PictionID: 45938949 - Title: Polikarpov I-15 - Filename: 16_007244.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007244 - 引用。


ソ連のポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の上主翼は、胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになった斬新な設計で、操縦席前面部分だけは上主翼がなく、前方視界を確保している。しかし、改良型の(Polikarpov)I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼は保守的なパラソル翼に変更されている。

図(右):ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 複葉戦闘機の三面図:固定脚のスパッツは装備していない。
Description English: Polikarpov I-15 Date 31 December 2012, 08:10:04 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-15 File:Polikarpov I-15.svg引用。

ポリカルポフPolikarpov I-15 戦闘機の諸元
搭乗員: 1名
全幅Длина: 6,1 м
全長Размах крыла:
水平状態верхнего: 9,75 м
地上3点姿勢нижнего: 7,5 м
全高Высота: 3,2 м
主翼面積Площадь крыла: 21,9 м² (обоих крыльев)
車輪間隔(トレッド)Колея шасси: 1,6 м
空虚重量Масса пустого: 965 kg
総重量Нормальная взлётная масса: 1374 kg
機内タンク燃料搭載量Масса топлива во внутренних баках: 177 kg
発動機Силовая установка: 1 × シュベツォフ(Швецов)М-25空冷星形9気エンジン(排気量:29.876L)
出力Мощность двигателей: 1 × 635 hp (1 × 467 kw)
エンジン直径Диаметр винта: 2,9 м
最高速力Максимальная скорость: 370 km/h
着陸速力Посадочная скорость: 90 km/h 航続距離Практическая дальность: 750 km
上昇限度Практический потолок: 9800 м
上昇時間Время набора высоты: 5000 м/6,1分
翼面荷重Нагрузка на крыло: 62,6 kg/м²
出力重量比Тяговооружённость: 383 w/kg 兵装: 4 × 7,62 мм ПВ-1(PV-1)機関銃(弾薬:3000発)
爆弾Бомбы: 40 kg


2.ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152複葉戦闘機

ソ連空軍ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)複葉戦闘機は、固定式主輪の複葉機ではあるが、上主翼をガル型に配置し、胴体上面には主翼がない状態にして、コックピット前面ガラス風防からパイロットの上方の視界を確保してた。しかし、陸上滑走中と飛行中のパイロットの視界が狭いとの批判が出たために、視界工場のために設計が変更され、上主翼を胴体上部にパラソル式配置するように変更された。しかし、I-152戦闘機は、エンジン換装による出力向上、火力強化が図られたために、性能は向上し、1937年から1939年初期までに2408機が大量生産されることになった。

写真(右):1934-35年頃,中国空軍に配備されたソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機(P-7180):上主翼が原型I-15では胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになっている。しかし、I-15bis(I-15第2型、すなわちI-152では上主翼はパラソル翼になっている。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対してポリカルポフI-15 戦闘機を供与した。
The aircraft is TsKB-3 No. 7 (W.No. 33907), prototype built in 1935 with a straight upper centre-plane section. The I-15bis design appeared in early 1937 and prototypes were built in the spring of 1937.
Polikarpov, I-152 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-152 Notes: Russia
Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00086852引用。


写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-152(И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:原型I-15と同じく固定式主輪の複葉機ではあるが、上は主翼を胴体上部にパラソル式配置に変更し、下主翼との接合部分の構造も変更している。
Polikarpov, I-152 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-15 Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086858引用。

写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:原型I-15と同じく固定式主輪の複葉機ではあるが、上は主翼を胴体上部にパラソル式配置に変更し、下主翼との接合部分の構造も変更している。右端の自動車は、負傷したパイロットを救助・運搬しに来たのであろうか。
Polikarpov, I-152 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-152 Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086859引用。

ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-5複葉戦闘機は、発動機にシュベツォフ(Shvetsov)M-22空冷星形エンジン(排気量28,64 L)480ph1基を搭載、全幅9.56m、全長6.81m、全高3m、主翼面積21m2、空虚重量943kg、総重量1355kg、最高速力278km/h、着速力95km/h、上昇時間1000m/1.6分、上昇限度7500m、7.62mmPV-1機関銃2丁(携行弾数各600発)。I-5試作機は、1930年4月29日に初飛行し、1941年まで部隊配備されていた。

写真(右):1938-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:垂直尾翼方向舵には青白ストライプの中華民国国籍マークが描かれている。
Polikarpov, I-15, Manufacturer: Polikarpov Designation: I-15 Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086857引用。

ソ連空軍のI-15シリーズは同系列の複葉戦闘機だが、次のような差異がある。I-15は、ガル翼でエンジンカウリングが短い。I-15bis (I-152)は、直線翼で、エンジンカウリングが長め。I-153は、ガル翼でエンジンカウリングが長く、引込み脚。

写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:右奥にある破損した機体は、低翼単葉のカーチスP-36戦闘機のように見える。垂直尾翼方向舵には青白ストライプの中華民国国籍マークが描かれている。
Polikarpov, I-15, Manufacturer: Polikarpov Designation: I-15 Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086856引用。

第一次近衛声明  1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。

中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。

写真(右):1934-35年頃,中国空軍に配備されたソ連空軍のポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機と中国軍パイロット:垂直尾翼の方向舵は、中華民国の国旗「青天白日」の青と白のストライプの国籍マークが描かれている。上主翼が原型I-15では胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになっている。しかし、I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼はパラソル翼になっている。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対して旧式となったポリカルポフI-15bis 戦闘機を供与した。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45939075 - Title:Polikarpov I-15 in China - Filename: 16_007254.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007254 引用。


ポリカルポフI-15bis戦闘機・初期型  近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。

 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。

 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。

ポリカルポフI-15bis戦闘機・後期型  かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり

 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。

その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。

写真(右):1935-1938年,中国、中国空軍のソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis 複葉戦闘機とアメリカ製バルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(手前)の戦列:1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製のツポレフSB-2高速双発爆撃機などが供与された。
Unknown Chinese Air Field
Catalog #: 1601
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Unknown Chinese Air Field 、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。


ポリカルポフI-15bis戦闘機・スキー装着型 ◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。

こうして、1937年8月の中ソ不可侵条約によって、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からも軍事援助も受けて、抗日戦争を戦うことができるようになった。国際的支援を受けた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信した。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

ポリカルポフI-15bis地上攻撃機 1937年7月、盧溝橋事件が勃発、その後、中国の経済中枢の江南地方でも、第二次上海事変が起こり、日中全面戦争に発展した。この1937年8月、ソ連共産党書記長スターリンが中華民国の反共産主義国民党総統蒋介石と締結したのが、中ソ不可侵条約である。ソ連は、日本の軍事力をけん制するために中国に対する軍事援助を開始した。

西方のドイツの軍備拡張、極東における日本の侵略は、ソ連を西と東から挟撃することになり、そのファシストの軍事力に脅威に感じたソ連は、ポリカルポフI-152(I-15bis)戦闘機、さらにI-153、I-16のような引込み式降着装置(主輪引込み式)の戦闘機、全金属製のツポレフSB-2高速双発爆撃機など新鋭機も供与して、ソ連空軍パイロットを義勇兵の名目で派遣して、中国空軍が日本の空軍力に対抗できるよう強化したのである。

図(右):ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis(I-152)複葉戦闘機の三面図:ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis単座戦闘機に前後タンデム式に複座操縦席を設け、ク訓練生と教官が同乗するた高等練習機が開発された。
A three-view drawing (1280 x 830)
図は, Polikarpov I-152引用。


ポリカルポフ I-15と発展型I-15(I-152)複葉戦闘機の比較
全長: 6.10 m(6.28 m)
全幅: 9.75 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 23,55 平方メートル (22.53 平方メートル)
空虚重量: 1,080 kg (1310 kg)
全備重量: 1,783 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(770 km)
実用上昇限度: 9000 m (9800 m)
乗員: 1名
兵装: 7.62mmPV-1機関銃4挺 (7.62mmShKAS機関銃4挺)
爆弾搭載量:50kg爆弾2個  (50kg爆弾2個またはRS-82ロケット弾6個
初飛行:1933年10月23日  (1937年8月2日)
生産機数:1934-1936年ソ連384機+1937年以降スペイン237機 (1937-1939年 2408機;1939年だけで1302機)

西安事件は、1936年12月12日、剿共戦(共産軍包囲攻撃)の督戦のため西安を訪れた蔣介石を、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城が拘禁した事件である。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、蒋介石夫人宋美齢も西安にやってきて蔣介石は釈放されたが、それは抗日のための国共合作が宣言されたためである。

しかし、国民党蒋介石総統が率いる中国国民政府は、剿共戦のためにドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図ったが、兵器購入のために1936 年4月、ドイツとの間に1億マルクの貿易協定を結んだばかりだった。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定(現物交換協定)である。

ヒトラー総統のドイツは、日本と、1936年11月の防共協定を締結したが、これは対ソ連牽制と反コミンテルンが目的だった。しかし、ソ連包囲の進む状況で、蔣介石は対日牽制のために、1932年12月に国交回復したソ連と連携し、軍事援助を得ることができた。中国の蒋介石総統は、中国国内では、共産主義者を弾圧しながら、外交的には共産党支配下のソビエト連邦と連携するという実利外交を展開する力量があった。

ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。

蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、五か年計画を強行して重化学工業化と経済の軍事化を進めたソ連の航空機、火砲など兵器を中国に導入しようとした。

蒋介石 満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。そして、日本海軍は、陸上攻撃機を中核とする第一連合航空隊、艦上機を中核とする第二連合航空隊を組織して、華中の中国軍事施設、飛行場、工場、行政府などを攻撃目標とする戦略爆撃、戦術爆撃を開始した。

写真(左):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機:1937年8月の第二次上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始。しかし、洋上を渡る長距離爆撃では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。写真は、旧鳥飼行博研究室「日中戦争の序章」を原資料とした Wikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Four Japanese Navy Type 96 Attack Bombers.jpg引用。

近衛文麿 リース・ロス(Frederick William Leith Rossは1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。中国を半植民地化していたイギリス、ブランスなど列強は、日本が中国に特殊権益と称して植民地化することを大いに警戒していたのである。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。そしてて、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、ソ連の軍事力、兵器を利用したかった。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

三菱 1937年7月19日、中華民国総統・国民党政府の蒋介石が行った対日戦争開始宣言、すなわち最後の関頭の演説が公表され、中国国民の抗戦意識を沸き立たせた。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

三菱 中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。

そして、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。

水偵 近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。

大日本帝国は、国民党蒋介石の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

  三菱 G3M2 ◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明した。

その後、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まったが、蒋介石は、抗日戦線に、ソ連を巻き込むために、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

  中島 軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるようになった。

1/48 ポリカルポフI-15bis戦闘機・初期型・ ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。

ポリカルポフI-15bis後期型 ポリカルポフ I-15Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
初飛行:1933年10月
生産期間:1934-1937年
生産機数:3,313機 (I-153は、3,437機)
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m
乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

中国空軍は、ポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機と並んで1937年後半から、ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。

⇒写真集Album:ポリカルポフ (Polikarpov)I-15複葉戦闘機を見る。


1/72 ポリカルポフ I-15 bis

1937年8月の中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)、中国国民政府の反共主義者の蔣介石とソ連共産党書記長のスターリンの間で締結された軍事同盟である。日中戦争が勃発したことで、日本からソ連への軍事的圧力が弛緩したk徐とに喜んだスターリンは、反共産主義者の蒋介石を説いて日本と中国の本格的な戦争を臨んだともいえる。

他方、中国共産党は、長征の最中で、毛沢東の指導力は、長征によって疲弊した中国共産党の内部にのみ及んでいる状況で、中国全土に対する中国共産党の指導力は低落していた。

コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化すれば、蒋介石に取っ手中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義者の蒋介石は、スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切ったのである。

 スターリンのソ連からの軍事援助があればこそ、蒋介石のは、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。


4.I-152後継ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機

ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放を認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)、さらにポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

ポリカルポフI-153チャイカ戦闘機・中期型 日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促し、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んで蒋介石に軍事援助をし, ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)、それを引き込み脚化した後継機ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)など軍用機も供与した。イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

米内海軍大臣は中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、中国在留日本人(居留民)の保護は、海軍にとって重要であると考えた。

ポリカルポフ I-153 1937年7月11日、杉山元陸軍大臣は派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。

中国の死命を制するためには、上海、南京を制するを最重要とし、日本陸軍からの上海派遣軍は五コ師団を要する。

海軍省にとって派兵の目的は日本人居留民保護を名目にしたが、そうであれば、華北だけでなく、華中・華南と中国全土の日本人居留民が問題となる。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P.7250, China a引用。

長谷川清伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

1937年7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

1937年7月21日、第十一戦隊は、居留民の引揚を第三艦隊ならびに外務省へ要求している。この要求事項については引揚に関係する各地域から外務省本省にも連絡が行われており、特に上海においては第十一戦隊が第三艦隊にも引揚許可を求めていた。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり。

ソ連空軍ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、全幅 10.00 m、全長: 6.17 m、全高: 2.80 m、主翼面積: 22.14 平方メートル、空虚重量 1348 kg、離陸重量 1859 kg、過重重量 2009 kg、発動機空冷9気筒 M-62 (588 kW)、最高速力 366 km/h 海面上、444 km/h/高度 4600 m、上昇時間3000 mまで 3分、上昇限度 11000 m、航続距離 470 km、兵装 7.62ミリShKAS機銃4丁、82ミリロケット弾6発あるいは50キロ爆弾2発。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、原形の複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機の発動機を換装し出力を強化し、エンジンを高馬力化したうえで、固定脚を引き込み脚に変更し、複葉の支柱を少なくして、空気抵抗を減少させ、さらに翼の付け根部分も斬新な形に変更した性能向上型である。

ポリカルポフI-153チャイカ冬季仕様 ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika) 複葉戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m
全長: 6.17 m
全高: 2.80 m
翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg
全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-153戦闘機を見る。

写真(右):1935-1937年頃、中国、中国が輸入したフランス製ファルマン(Farman)F 303三発輸送機:ファルマン F300は単発輸送機として1931年に開発され、その後、エンジンを増設した三発輸送機として20機が生産された。
全長 13.35 m、全幅19.12 m、全高 3.3 m
主翼面積 71.0平方メートル
空虚重量 2,610 kg
最大荷重 4,350 kg
発動機: グロー・ノーム(230馬力)3基
最高速力 230 km/h
航続距離 975 km
実用上昇限度4500m
乗員 2名、客数 8名
French Farman F303
Catalog #: 0394
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Farman
Catalog #: 0394
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0394引用。

写真(右):1937年頃、中国、中国が輸入したフォード・トライモーター(Ford Trimotor) NC 432H三発輸送機:1926年から1933年に200機生産。フォッカー VIIb-3M三発輸送機を参考にした実用性重視の機体で、アメリカ陸軍航空隊もアメリカ海軍航空隊も採用した。しかし、量産時期が世界大恐慌と重なったため、民間航空への販売数も輸出も伸びず、自動車メーカーのファオードは航空機製造から撤退することになった。
全長 15.1 m、全幅 23.7 m、全高 4.1 m
空虚重量 3,469 kg
最大荷重 5,736 kg
発動機:Pratt & Whitney R985 300馬力3基
巡行速力 182 km/h
航続距離 850 km
乗員 2名、客数 12名
Ford Trimotor NC 432H
Catalog #: 0370
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0370引用。

日中戦争は、1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に、本格的な戦争として開始されるが、その前から、日中は衝突を繰り返していた。日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一参照。

写真(右):1937年頃、中国、中国が輸入したイギリス製デハビランドDH-89「ドラゴン」(DeHavilland DH-89 Dragan)輸送機:デ・ハビランド社で1934年4月17日に試作機が初飛行したドラゴン・シリーズの輸送機で、木製羽布張りの複葉機で、降着装置もスパッツでカバーされている固定脚。しかし、実用性に富んでいたために、第二次世界大戦勃発前に205機も量産され、民間航空で旅客機として就航した。大戦中は、イギリス空軍の航法訓練機「ドミニエ」としても使用され、500機が量産された。
DeHavilland DH-89 Dragan
Catalog #: 0362
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss It was called "Old Corsair" in China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0362引用。

イギリス製デハビランドDH-89「ドラゴン」DeHavilland DH-89 Dragan)輸送機
全長:10.5 m、全幅:14.6 m、全高:3.1 m
翼面積:32平方メートル
空虚重量:1,460 kg、全備重量:2,490 kg
発動機:デハビランド(DeHavilland)「ジプシー」(Gipsy Six)200馬力2基
最高速力:253 km/h、航続距離:920 km
上昇限界:5,090 m
乗員 1名、客数 8名

写真(右):1935-1937年頃、中国、ドイツ製ユンカースJu-52/3m(Junkers Ju-52)三発輸送機とアメリカ製ダグラスDC-2(Douglas DC-2)双発輸送機:ダグラス DC-2(Douglas DC-2)は、アメリカのダグラス社が全金属製単葉・引込み脚の斬新な双発乗客12名の輸送機DC-1は、ボーイング247輸送機の対抗馬で、1933年6月に試作機が初飛行した。搭載したライト社空冷星形「サイクロン」エンジンと、プロペラブレードの角度を変更して効率的な運航を可能とする可変ピッチプロペラを搭載し、引き込み脚を装備した。DC-1のエンジンを強化、胴体を延長して乗客14名としたDC-2輸送機が民間航空会社から注文を受けた。
ドイツのユンカース社は、全金属製の単発固定脚輸送機Ju 52/1mを1930年に初飛行させたが、発動機が弱いために、三発としたJu 52/3mを1932年に完成させた。それまでのユンカース輸送機を引き継いで、鋼管骨格、波形ジュラルミンの外板のお馴染みの構造で、胴体は箱型で容積が大きく、大型開閉扉を装備して、貨物や乗客の出し入れも楽だった。1936年のスペイン内戦には、反乱軍側に立ったドイツ人義勇軍として編成された「コンドル軍団」の爆撃機として、ゲルニカ空襲にも参加している。
Junkers Ju-52 and Douglas DC-2
Catalog #: 0403
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #:0403引用。

写真(右):1937年頃、中国、主翼下面に小型爆弾を搭載したカーチス・ボート(Curtiss Vought)O2U-1D複葉偵察機:中国空軍では「オールド・コルセア」と呼ばれた。1937年7月、日中戦争が勃発すると、中国空軍は輸入してあったアメリカの軍用機を中心に配備したが、直ぐにソビエト連邦の軍事支援を受けソ連製軍用機も配備されるようになった。
Curtiss Vought O2U-1D.
Catalog #: 0367
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss It was called "Old Corsair" in China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0367引用。


 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

 1938年1月14日,ドイツのトラウトマン駐華大使の仲介になるトラウトマン工作に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した。

写真(右):1935-1937年頃、中国、カーチス・コンドル(Curtiss Condor)BT-32爆撃機:木金混合の双発複葉12人乗りの輸送機だが、主輪は引き込み式だった。発動機は、信頼性のあるライトSCR-1820-F3空冷星形「サイクロン」エンジンを2基搭載。1933年1月30日に初飛行し、原型機は21機が製造された。イースタン航空とアメリカン航空で、夜間寝台旅客機として就航した。アメリカ陸軍、イギリス空軍も採用した。
Curtiss Condor
Catalog #: 0387
Subject: The Flying Tigers - China

Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0387引用。

カーチス・コンドル BT-32爆撃機(Curtiss Condor BT-32)の諸元
全長:15.09m、全幅 :24.99m、全高:4.98m
翼面積:118.54平方メートル
空虚重量:5,095 kg、全備重量:7,938 kg
発動機: ライト(Wright)SGR-1820-F3 サイクロン 空冷星型エンジン, 710 馬力2基
最高速力 :283 km/h、航続距離 :1,352 Km
武装:ブローニング0.30口径7.62ミリ旋回機銃5丁
爆弾搭載量:762 kg(1,680ポンド)

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

ツポレフSB(Tupolev SB) ツポレフSBTupolev AHT-40)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾倉・翼下爆弾架 1トン

ソ連空軍ツポレフSBTupolev SB)爆撃機は、1936年勃発のスペイン内戦にポリカルポフ (Polikarpov)I-15、I-153複葉戦闘機、I-16低翼単葉戦闘機とともに投入され、ファシスト軍のドイツのハインケルHe-51複葉戦闘機、ユンカースJu-52/3m爆撃機などと戦った。当初、ソ連機は飛行性能上で上回っており、善戦した。


5.ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 単葉戦闘機

1/32ポリカルポフ I-16U.S.S.R.エーセス[ハセガワ] ソ連空軍ポリカルポフ I-16戦闘機4型(Polikarpov I-16 Type 4)はイギリス製ブリストル・ジュピターBristol Jupiter)空冷星形エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-22空冷星形エンジン(двигатель М-22 мощностью)480馬力を装備した初の量産型である。1934年41機、1935年464機、合計505機が量産された。兵装は陸戦用のM1910マキシム(Maxim)水冷式機関銃を空冷化した7.62ミリ口径PV-1 (Pulemet Vozdushny)機関銃2丁。

ソ連空軍ポリカルポフ I-16戦闘機5型(Polikarpov I-16 Type 5)は、I-153複葉戦闘機と同じアメリカ製ライと・サイクロンWright Cyclone)R-1820をソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-25空冷星形エンジン(двигатель М-25 мощностью)730馬力を装備し、1932年に開発された7.62ミリ口径ShKAS((Shpitalny-Komaritski Aviatsionny Skorostrelny)機関銃2丁を搭載した。生産機数は、1936年861機、1937年1665機、1938年169機、合計2695機が量産された。

ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)と同じ発動機、すなわちアメリカのライト(Wright)SGR-1820サイクロン空冷星形エンジンを国産化し搭載したが、大直径のエンジンを収めるカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナー、橇式固定尾輪は、1930年代半ばの飛行機では当たり前だが、尾翼や機尾の処理は、絞り込んでおり空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加している。

ソ連空軍ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、複葉機戦闘機が配備されていた時期の1933年12月30日初飛行、片持式低翼単葉、モノコックの胴体、引込式降着装置、スライド式ガラス風防コックピット、エンジンカウリングに沿って配置された推力式単排気管など、後年の航空機が採用することになる新設計を取り込んでいる。特にアメリカのカーチス・ライト社(Curtiss-Wright)が開発したライト R-1820「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ(Shvetsov)M-62を装備したが、これはポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)と同じ発動機と同じである。ただし、エンジンカウリングの処理は、後年のフォッケウルフFw-190戦闘機と同じように、単排気管から噴出する排気ジェットを推力と乱気流の排除に活用した先進的な構造となっている。ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。

ソ連空軍ポリカルポフ I-153複葉戦闘機と同じく、ポリカルポフ I-16.T5(Polikarpov I-16.T5)戦闘機はシュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力(522 kW)を装備し、それまでの角張ったエンジンカウリングに曲面を取り入れM-62エンジンを搭載して試験され量産された。

シュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力は、アメリカのライト R-1820-F3「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したエンジンの名称である。アメリカではフィート・インチが使用されているが、それをメートル・ミリで合わせた設計となっている。

ポリカルポフI-16 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Тип 24諸元
乗員: 1名
全長: 6.13 m
全高: 3.25 m
全幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル
空虚重量: 1,490 kg
最大離陸重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形9気筒エンジン900馬力 (670 kW)
生産機数:1939年155機
1940年760機
1941年19機
合計934機

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機24型は,最高速力525キロに達する強力な兵装・防御力の最終量産型だが、ソ連軍は後継機を1938年から開発し、1939-1940年には、ラボーチキン、ヤコブレフ、ミコヤン、グレビッチらが設計した新鋭軍用機を登場させている。

ポリカルポフ I-16 タイプ18 (ノモンハン) 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Typ 24の性能
最高速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km
最大上昇限度:11,000m
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 14.7 m/min
高度5000mまで5.8分
兵装: 7.62-mm-SchKAS機関銃2丁、 20-mm SchWAK機関砲2門
爆弾搭載量:50−10キロ爆弾2発
あるいはRBS-82空対地ロケット弾 4-6発

ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機は、主翼全幅よりも短い太い機体胴体で、アブのようなイメージであり、ソ連軍ではイシャク(Ishak:ロバ)、スペイン内戦ではモスカ(Mosca:ハエ)あるいはラタ(Rata:ネズミ)という愛称を付けられている。

初飛行が1933年12月30日のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ソ連空軍のほか、スペイン共和国、中華民国、フィンランドで使用された。ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、1933年11月生産開始、1934年3月から部隊配備され最終的には8,644機も大量生産された。

写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機を見る。

Claire Lee Chennault 中華民国空軍(中国空軍)の創設は、1932年で,ほとんどの機体は、諸外国から輸入したものだった。中国における飛行機の軍用利用は、中国国民党軍による軍閥の討伐、いわゆる「北伐」の時期だったが、空軍として戦争に加わったのは、1932年の上海事変の時だった。1930年代初頭、中国空軍は、イタリアから飛行機を輸入し、訓練を依頼しながら成長していったが、機材は少なく、部品も滞りがちで、稼働率も信頼性も低く、人材にも不足した。したがって、強大な日本の航空兵力に対抗するのは困難だった。そこで、宋美齡Soong Mei-ling)は蒋介石に自ら空軍の育成に乗り出したいとする意見を出した。そして、中国空軍を改善して、敵に勝つことのできる有效な武器を準備したいと希望を述べた。蒋介石はこれに同意し、こうして中国空軍の揺籃期が始まったのである。

1935年,宋美齡が督促したことで、中国はアメリカからの武器と飛行機を大規模に取り入れることが決まった。1937年,1936年,蒋介石夫人の宋美齡は、「軍事委員会航空秘書長」に就任したが、これは事実上、中国国民党空軍司令長官の地位と同じだった。この時期、宋美齡が掌握した空軍に彼女が招聘したアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault陳納徳)将軍が中国にやってきて、中国空軍を育成することになった。

1937年8月13日,第二次上海事変が勃発すると、中国航空委員会は、「空軍作戦第一号令」を出し、1938年5月20日には、中国空軍の双発爆撃機マーチン139WC(B-10の中国輸出仕様)爆撃機(両架轟炸機)によって、日本本土に飛来し、上空で伝単(ビラ)を散布することを命じた。

宋美齡  宋美齡Soong Mei-ling)に従う副官だった夏公権の回想では、居所の客間には、抗日戦争初期、南京大校飛行場で、空軍飛行兵に論功行賞をしている巨大な写真が掲げてあったという。宋美齡は、1937年3月12日,「航空の統一」の一文を発表し文、その中で「中国統一を新展開し促進するために、飛行機の果たすべき役割が大きい」とした。

1938年春, 宋美齡Soong Mei-ling)は、健康上の理由で航空委員会秘書長の職務から離れ、兄の宋子文に任務を任せた。しかし、宋美齡は始終、空軍の人事に対して影響力を奮い、訓練、作戦などの大権を保持していた。宋美齡は、中国航空委員会秘会長として、当時の中国空軍の組織編制に尽力し,日後、空軍から栄誉をもって“中国空軍之母”と呼ばれるようになった。宋美齡による中国空軍への卓抜な功績に鑑み、青天白日勲章を授与されたが,これは女性では唯一の受賞である。

宋美齡Soong Mei-ling)は、空軍へのアメリカからの軍事援助に関わっており、英語も堪能でアメリカの軍事顧問とも交流を図っていたから、空軍の作戦を独自の見解で進める気概を持ち、それを誇りにしていたようだ。その後も長い間、胸に空軍飛行徽章を飾っていた。そして、自分が空軍の母であると考え、それを愛し、国民党空軍を「我的空軍」と呼んでいた。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた中国人が多数、国際共同租界に流入してきた。しかし、中国空軍は、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」などを攻撃しようとして、誤って共同租界内に爆弾を投下した。そのため、避難していた中国人が誤爆で多数死傷した。
Title:Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai
Caption: View of Nanking Road, Shanghai, as it looked after the bombing in the International Settlement by Chinese planes, on 14 August 1937. The Cathay Hotel is on the right.
Catalog #: NH 50892
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は NH 50892 Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai 引用。

1937年8月13日、第二次上海事変Battle of Shanghai )で日中両軍の武力衝突が起こったが、実は、中国人の多くは、上海での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海国際共同租界には及ばないと考えた。しかし、1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国空軍がバンドの日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲し要としたとき、投下した爆弾は、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと上海国際共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。共同租界のグランドパレスホテルも誤爆され、投下された爆弾によって、上海の戦闘から逃れ避難していた中国人など400名が死傷してた。ニューワールド娯楽街でも1000名が死傷した。中国空軍機による上海国際共同租界の誤爆は、大惨事をもたらし、「血の土曜日」と呼ばれるようになった。

写真集Album:ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機を見る。


6.日中戦争に投入された中国空軍のアメリカ製軍用機

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変では、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行って空襲・空中戦が戦われ、いる。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。

中国でアメリカ義勇部隊(American Volunteer Group)は、クレア・リー・シェンノートの指揮を受け、アメリカ陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。
⇒日米の太平洋戦争勃発前のアメリカ義勇部隊(American Volunteer Group)の対日戦争参照。

1937年8月、中国江南で第二次上海事件が起こり、日中全面戦争へと突入すると日本国内では、戦争勝利を目指して、戦争体制を確立しようと様々な政策が採用された。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」カーチスCurtiss ホークHawk 81A-2 戦闘機:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。カーチス社製P-35は米国には配備されなかった。
Curtiss Hawk 81A-2 Subject: The Flying Tigers - China Title: Al Foag Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01555引用。


1931年8月に米国は,中国は航空機80機とパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

写真(右):1941-1942年、アメリカ軍セバルスキー(Seversky) P-35 戦闘機:アメリカ軍は、セバルスキー社製のP-35を制式採用しなかった。そこで,中国,スウェーデン,日本などに輸出された。 日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にも日本軍にもセバルスキー製P-35戦闘機を輸出しているのは、商魂のたくましさを感じる。このような「死の商人」的な武器輸出の企業行動に思いと、アメリカは中国に進出した日本をやっかんで、反日活動を強めたと単純な誤解に至ってしまう。
Title: Seversky, P-35 Corporation Name: Seversky Aircraft Corporation Designation: P-35 Additional Information: USA Color or B/W: Media: Glossy Photo
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091201引用。


1937年7月7日の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B):1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Developed by the Boeing Aircraft Co. at its own expense, the P-12 was became one of the most successful American fighters produced between the World Wars. Flown by both the Army and the Navy (as the F4B), the P-12 series consisted of an initial version and five additional models, B through F. The early versions used fabric-covered fuselages of bolted aluminum tubing, but the P-12E and F fuselages employed an all-metal, semimonocoque (stressed skin) construction. However, the P-12 did not complete the evolution into an all-metal aircraft because all variants had wooden wings with fabric covering.
The U.S. Army Air Corps received its first P-12 in February 1929 and the last P-12F in May 1932. The last of the biplane fighters flown by the Army, some P-12s remained in service until 1941. Boeing produced 366 P-12s for the Army, with more P-12Es built (110) than any other series.
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

1937年11月6日 の日独伊防共協定日独伊三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機の P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。P-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。

1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ、編隊飛行中のボーイング(Boeing)P-12B戦闘機
Boeing : P-12B
Catalog #: 00029125
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029125引用。


他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m
全幅:9.12 m
全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン
  出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)
巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

カーチスとの競作に応じていたボーイングは、当時は弱小メーカーだったが、1928 年にP-12 戦闘機を開発した。P-12は小型軽量化をはかり、主翼は木製骨格に羽布張り、胴体はアルミ合金骨格の羽布張り、水平・垂直尾翼と補助翼のみ金属波板外皮を採用した。P-12戦闘機は、アメリカ陸軍が制式し、アメリカ海軍もF-4として清拭した。つまり、独立空軍が存在していなかったアメリカ軍で陸海両軍が採用したのである。NACAカウリングも取り入れられ、胴体も全金属構造に改めたられたのが後期型 P-12E/Fである。P-12は、ボーイングの初の大量生産機となり、300機以上が量産された。

写真(右):2005年、タイ王国航空博物館(Royal Thai Air Museum)に保管されているタイ王国空軍が採用したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):Ray Wagner Collection Image
PictionID:44987900 - Catalog:16_006101 - Title:Royal Thai Air Museum 2005 - Filename:16_006101.tif - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:44987900引用。

1932年2月、第一次上海事変に際して、日本海軍の航空母艦「加賀」から日本海軍十三式三号艦上攻撃機3機、三式艦上戦闘機3機が江南で、中国軍のボーイングP-12E戦闘機と空中戦を行った。ボーイングP-12E戦闘機の操縦士は、アメリカ義勇部隊のロバート・ショート(Robert Short)で、日本の三式艦攻搭乗員を死傷させたものの、三式艦戦によって撃墜された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss : BF2C : Goshawk):主車輪を胴体前方下に引き込むが、そのための円形空間が大きく開いている。機首のラインは、エンジンカウリングから後方が火砲に大きく膨らみ、空気抵抗が大きいようにも見える。
Catalog #: 00011636
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011636引用。

この1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)発展型がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機である。同じ複葉戦闘機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

宋美齢 カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。

中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。

Claire Lee Chennault And The Flying Tigers 中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。

日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の移転の面では国産化しないことで不利を被った。


カーチスBF2C-1戦闘機(
Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):胴体下面に流線型(涙滴型)の増加燃料タンクを装備している。1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

The Flying Tigers ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイングP-26Boeing P-26)8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ(カバー)付き固定脚で、斬新な設計のボーイングP-26Boeing P-26)P-26戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1938年8月27日のポストに掲載された、中国空軍のバルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(上)と、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(下): ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機I-153は、1939年から実戦使用されている。ソ連最後の複葉戦闘機で、操縦席からの視界を良好にするために、上翼はガル型で折れまげて胴体に連結されている。そこで、英語のガル(かもめ)と同じく、ロシア語でチャイカ(かもめ)の名が付けられた。
Vultee V-11 and Polikarpov I-15.
Catalog #: 0406
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0406引用。

バルティー(Vultee) V-11軽爆撃機の諸元
初飛行: 1935年9月17日、制式: 1937年
最高速力: 370 km/h
全長: 12 m、全幅: 15 m

1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ付き固定脚で、斬新な設計のP-26(Boeing P-26)戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1938-1940年,中国、中国空軍ノースロップ2E軽爆撃機・カーチスBE2F複葉戦闘機などでポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機との戦列(少なくとも9機が写っている):最上級の「ファーストホテルバー」を気取ったアメリカ人の義勇兵たち。
PRO SDASM Archives Follow
"Piltsker, Ricks,Sweeney, Van Timmeren, Schraman, Mchenry at 1st Hotel Bar"
Catalog #: 0090
Subject: The Flying Tigers - China
写真はSDASM Archives Catalog #: 0090引用。


ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」リパブリック(Republic) YP-43 「ランサー」Lancer 戦闘機
Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the PictionID:42002303 - Title:Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the - - Filename:15_002978.TIF
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:15_002978引用。

リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していた。1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

中国への輸出仕様リパプリック(Republic)P-43A戦闘機は、パイロット防弾板、燃料タンクの防御を強化、胴体前部に12.7ミリ機関銃を追加装備した。アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にリパブリック社製P-43戦闘機108機を日米開戦1年前に貸与することになった。P-43A戦闘機は、125機生産され、100機以上が中国に送らることになった。中国軍のマークをつけたリパブリック社製P-43は輸出中止となったため,カーチス社製のP-40がAVGの主力戦闘機となった。今日,リパプリック(Republic)P-43A戦闘機も後継機のカーチスP-40戦闘機も、日本では二流機に見なされることが多いが、ツインワスプR-1830空冷星型14気筒エンジン 1,200hpを搭載し、最高速力573 km/hの優秀な機体だった。このエンジン・攻撃力強化型がP-47戦闘機に発展する。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

写真(右):1940年、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊マーチン B-10爆撃機
pictionid56896245 - catalogbd martin b-10 12 14 13.jpg - title--bd martin b-10 12 14 -- - filenamebd martin b-10 12 14 13.jpg--Born digital image that was acquired by the San Diego Air and Space Museum--------Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives pictionid56896245引用。


マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。


7.米の極東対日攻勢 (上・下)
大阪毎日新聞 Vol: 第155巻 Page: 49 出版年 1940-11-01/1940-11-02
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337102 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

ハル国務長官 (上) 大東亜共栄圏の我指導的地位に挑戦 強いて強調"事態切迫"

[写真あり 省略] 【上海本社特電三十一日発】ブルーの擬装色に塗りあげられた米国汽船があわただしい風雲を孕んで近く上海に入港する、国務省の指令をうけて極東在留婦女子を本国に避難せしめんとする戦時御用船だ、英米両国艦隊の極東共同防備についての秘密会談が上海で行われた、米国軍需品が援蒋物資にカムフラージュされ太平洋の波を蹴ってマニラに、ラングーンに、今や東洋の英米植民地には武器が、ガソリンが、飛行機がうず高く積まれた、シンガポール、香港にも米国軍将校が乗りこんだ等々、挙げれば限りなき奇怪な事実が米国の対日戦備に多大の疑惑を持たせつつ極東の天地に、あるいはひそかにあるいは公然と展開されつつある、日独伊三国条約締結後僅か一ヶ月にして米国の極東政策が、あらゆる刺戟的大勢のもとに極度に悪化したことは国務省の発言をまつまでもなくこれ等事実が歴然と証明しているのである、

[コーデル・]ハル国務長官の東洋政策が果して何を求めんとするのか、極東においてかつてなき積極的態度は重慶政権を露骨に支持し日本の東亜共栄圏における指導的地位にあくまで挑戦妨害せんために外交、政治、経済、軍事などそのことごとくの部門を集約してとられつつあるやに感ぜられる、対日恐怖心からか独自の優越感が許さぬのか、とも角表現された事実がすべての威嚇の度がすぎて戦争への奔騰の勢いを示している。

 極端に見るならば大統領選挙を目睫に控えた米国政府が輿論の刺戟に狂奔し三国条約は対米攻勢のスタートであり極東における日本の軍事政治行動が対米挑戦であるかの如く幻想し、米国を挙げて戦争の渦中に引入れんとしているのだというものもある

 その証拠に米国の在支居留民が果して本国政府の引揚げ勧告を現実感をもって受取ったであろうか、上海在住の米国商社が日本の大陸政策に対してそれほど逼迫感をもっているであろうか、事実は米国政府の想定を否定するものばかりである、

日本が日独伊[三国同盟]条約の締結に論なく支那事変処理と極東における生存権の確保を国策の最大目標としているのが米国の生存権とどこが抵触するのであるか、日米間には政治的手段によって解決されないものが毫もないはずである、しかし極東の事態は米国政府の作戦を前提とするかの如き極めて周密な政策の下に立つ英米共同の対日歩調がより否応なく激化の一路を辿らんととしているのである

以下極東における米国が現にとりつつある対日作戦準備として否定し得ざる事実を指摘して誤れる米国の極東政策の動向を厳正に検討しよう。

一、[日独伊]三国同盟成立後米国政府は英国に対してビルマ援蒋路の再開を強要するとともに在支米人の一部引揚げ勧告を発して極東への積極的関心を対日攻勢に示した、十月中旬政府の命により米本国およびハワイを出帆したマンハッタン、モントレー、マリポサ、ワシントンの四隻大型船舶は在支米人引揚げ用として一路上海に急航しつつあり、その第一船は二日上海到着の予定である、二十万の在米居留民を有する日本政府が何らの具体的対米策を講ぜざるに先立ち極東在住者一万名に達せざる米国政府がかかる刺戟的手段を敢えてしたことは、引揚げの直接米国の対日禁輸を強化せんとすることにあるはもちろん、さらに進んで米当局の対日外交の恫喝政策が今や(戦争にならざる)範囲を逸脱し対日戦争を挑発しつつあるものといわねばならぬ、

米国政府の極東居留民引揚げ勧告は一時米国居留民に興奮を与えたが実業家の間には権益保存の立場からこの際むしろ出来得る限り踏み止まるべしとの空気が濃くなって来た、また英国側においては上海の英国商業会議所会頭コルダー・マーシャル氏の如き英国経済人は極東における敵国との経済戦を通じて祖国を援助せよとラヂオ放送をしている

 この趨勢は英米が東亜において有する貿易機構と海運力を最後まで維持しつつ万一の場合これにものをいわせようとする両国の政策を強く反映せらしめられているものである

現在のところ上海の英米側財界は日米戦の可能性については多分の疑惑をもちもし起るとしてもまだ近き将来にあらずと見る向きが多く、一部事変のため事業の停頓したものは強硬論を唱えているが現地全般の空気は決して積極的ではない、しかるに米当局は立ち渋る居留民を鞭撻するため引揚げの再勧告を行い政府の意をうけた上海米国商業会議所は三週間以上の長期にわたる商取引をなさざるよう警告を発するなど強いて対日空気の切迫を強調しつつある、かかる空気を反映して上海為替市場をはじめ商取引の上に日米戦の危機が織り込まれつつある、法幣の対米相場が遂に六ドルを突破して強調を示しているのは支那側財界に米ドル不安が昂まりつつある証左であり、感受性の鋭い支那商人は最近とみに対米国商取引契約に対して警戒を払いこれを漸次短期化する傾向が強く、支那財界における最近の換物運動の再燃、わが軍票買いなどもこれを物語るものである

二、さらに在支米国駐屯軍の動向も蔑視すべからざるものがある、すなわち在支駐屯軍に対してはすでに極秘裏に引揚げ準備の指令が発せられたものの如くその実証として去る十三日には急速に在支駐屯地より引揚げ得るようあらかじめ船会社との連絡をとるべしという命令が到達したといわれており、すでに輸送船ゴールド・スター号が上海に入港、待機している事実が挙げられる、また在上海第四マリンの将校中[上海]仏租界居住者は同租界を引揚げ、膠州路、西摩路、ハイフォン路に囲まれた地区に移転すべき指令が発せられた

 一方においてマリン[United States Marine Corps]の戦闘訓練も猛烈に行われ、米アジヤ艦隊[United States Asiatic Fleet]主力はマニラに集結を完了した今や極東米海軍は完全に開戦気構えに入っているのである

三、米国はビルマ路線[援蒋ルート]再開とともに対蒋二千五百万米ドル借款を発表したが、その後続々追加新借款を供与するとの報が伝えられている、従来米国の対蒋借款の内容は支那土産と軍需資材のバーターによる商業借款といわれているが、わが徹底的援蒋路の遮断のため早くよりこの種バーターは事実上評価不可能に陥っており、またビルマ路再開ぐらいではほとんど問題にならぬことは明かである、いわんや同路線はわが海鷲の爆撃によって早くも半身不随の状態に陥っているのである、しかもなお新借款を与えんとする米国の政策は奇怪極まるものというべくその狙うところは援蒋にあらずしてほかにある(続く)=カット写真は上海租界バンド

(下) 米支同盟の締結へ 援蒋政策強化に盲進

【上海本社特電一日発】米国が援蒋借款を与えることによって真に狙っているものは何であるか、伝えられるところによればソ連の対蒋軍需品借款によってもたらされた対重慶貸越しの決済とソ連の米国機材ならびに石油輸入資金の増大を機とし米ソ支三角的資金関係の設定を通じて対日牽制を主要目的とするとの見解が行われている、他方援蒋借款資材に名を藉りて米国からラングーン、マニラあるいは香港に続々陸揚げされている軍需資材は援蒋に擬装せる米国自身の極東資材である、しかもこれら武器、ガソリン、飛行機はビルマ路再開の数ヶ月前から輸送量が加速度的に増大している事実は注目に値する、援蒋物資の堆積地は米国対日作戦地だ

四、最近宋子文が米国において輸入せりという大型戦闘機百台をはじめ戦車、自動車、装甲自動車が千百台、高射砲、大砲数百門がラングーンに直送されず、マニラに山積しており、また米国がスウェーデンと契約せる[セバスキー(Seversky)P-35]単座追撃機六十機、単座爆撃機五十機はその契約を破毀してマニラに集結された、さらにマニラ飛行機修理工場を拡大して四工場とし、秘かに工作機械を持ちこんで組立工場、製作工場をも新設するに至りマニラ飛行隊の独立性が確立された、これとともに米国飛行将校が大部隊増遣されている模様だ。

 すでにミシガン州セルフリッジおよびカリフォルニヤ州ハミルトンにあった陸軍追撃機隊二個中隊がフィリッピンに移駐し武器弾薬の輸送量も増大した、今やフィリッピンは一億七千万ペソに達する厖大予算を編成して完全に戦時態勢に入った観がある、かかる動きに呼応して最近フィリッピン東海岸のレガスピ[Legazpi]港が注目されはじめた、同港は極東における軍事物資の蒐集の基点たるものの如くシンガポールより南洋一帯から購入された多数の船舶は同港に集り、改修擬装の上軍事輸送に使用されている模様で各国から購入された船舶は百五十隻に達している、

一方シンガポールにおいても同様軍需品倉庫を増設して米国より機関銃、高射砲などを送っているが、殊に注目すべきは濠洲方面よりの動きである、すなわち過般濠洲政府およびニュージーランド政庁が軍需品生産増進令を布告して戦時態勢を強化し空軍の一部動員をしてシンガポールに移動せしめた事実があり、近くラングーンにも濠洲の空軍部隊が到着の予定だといわれており、英米協同作戦の態勢は着々進行しつつありといわざるを得ない

また注目されるのは援蒋物資輸送路と称してシンガポールからケープタウン経由ニューヨーク航路が開設されたことで、米国の南洋基地が如何に周密な計画の下に本国に連絡されつつあるかが窺われる南太平洋航路が遮断されてもシンガポールの存立性をこれによって確保しようというのだ、ビルマ路が英国によって再開された

 裏面には英米間に極東防衛に関する緊密な取極めが出来ている、その最も大なるものはシンガポール、香港の軍事的基地を米国に提供していることである

蒋介石 五、米国がその奇怪なる軍事計画とともに外交的に対日包囲計画[ABCD line]をとっていることは南洋一帯における英国およびオランダ植民地に対して自由行動をとり得る事実に見ても明かであるが、最近の日蘭印交渉の如きは如実にこれを物語るものである、同交渉が必ずしも円滑に運ばざるは蘭印当局に対する英米の使嗾によるもので、蘭印の態度が米国の対日決意の如何によって左右されているものともいわねばならない

 すなわち実力的に英米が共同防衛に出ることによって東亜共栄圏における蘭印本来の地位が蹂躪され、その英米依存性が強化されるのである、また経済的には日本の求めんとするガソリンを英国が購入の保証を与えることによって日本の合理的経済交渉を無視することが出来る、かかる英米の巧妙な外交戦術は一方において南洋一円の空気をあくまで旧秩序圏内に巻き込まんとしているが地方において重要視されるのは米国がその援蒋政策を米支同盟の成立にまで強化せんとしていることである、

ジョンソン[Alexis Johnson]駐支大使が今年夏ワシントンの秘密命令を受けて帰任以来重慶に止まって蒋介石と折衝しつつあるのは主として米支同盟についてであり、日米開戦の直前においてこれが調印を行い重慶をしてあくまで対日抗戦の意図を強化せしめんというのが米国の狙いである。

かかる動きは援蒋物資は名目にすぎず実は対日開戦を目ざしてシンガポール、マニラ、ラングーン、香港を連ねる東南アジヤの防衛線を要塞化しアラスカ、サンディエゴ、ハワイ、ミッドウェーより南方に連なる対日封鎖線を強化せんとするにある、しかしてその対日攻撃の空軍前進基地をマニラ[Nichols Field]におかんとするもののごとく、マニラに現在米空軍の誇りとする長距離ボーイング[B-17]機を百五十機乃至百七十機を備え、またハワイには同型機が百機待機しており、マニラまで二日間で飛翔することが出来る、また右ボーイング[B-17]機の性能は極秘とされているがマニラ、東京間往復は完全に可能なりといわれている、

しかして艦隊の動きとしては昨年初期より間断なく本国サンディエゴ軍港[Naval Base San Diego]ハワイ真珠湾附近よりマニラ方面に航空母艦[aircraft carrier]、巡洋艦、潜水艦を輸送しており、フィリッピンを中心に集結せる艦隊は相当の数にのぼるものと推定され右艦隊ならびにホノルルに集結中の主力艦隊を合するならば米国連合艦隊の三分の二が対日攻撃の態勢に入りつつあるものと見るべきであろう、かくして米国政府は対内政策と対日恫喝政策に没入した結果自ら「予期せざる危険区域」に踏みこまんとしているのである(米の極東対日攻勢 (上・下)引用終わり)



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相

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