◆中華民国空軍のソ連ポリカルポフ戦闘機
写真(上):2011年7月,中華人民共和国、北京市郊外、中国空軍博物館、1937年頃ソビエト連邦空軍から供与された中華民国ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 戦闘機:青天白日の中華民国空軍の国籍マークを描いている。 English: Polikarpov I-16 (China Aviation Museum)
Date 16 July 2011
Source https://www.flickr.com/photos/ambbrescia/5943714067
Author Flavio Mucia (AMB Brescia) 写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-16 in service with ROCAF- File:Polikarpov I-15 bis (num 19) on the MAKS-2009 (01).jpg引用。
写真(上):2011年8月,ロシア連邦、国際航空宇宙ショーに登場したソビエト連邦空軍ポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機の後面:2011年のロシア、モスクワ郊外で開催された国際航空宇宙ショーは、MAKS (МАКС: Международный авиационно-космический салон;International Aviation and Space Salon)と表記される。 English: Polikarpov I-15 bis (The international aerospace salon MAKS-2009)
Русский: И-15 бис (Международный авиакосмический салон МАКС-2009)
Date 22 August 2009
Source Own work
Author Doomych 写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-15bis in Russian service- File:Polikarpov I-15 bis (num 19) on the MAKS-2009 (01).jpg引用。
序.中国空軍のボート(Vought)V-65 (O2U-1)コルセア(Corsair)戦闘爆撃機
写真(右):1935-1937年、アメリカ、主翼下面に小型爆弾用の爆弾懸架を装着したカーチス・ボート(Curtiss Vought)O2U-2複葉戦闘爆撃機(2-S-12):元来はアメリカ単座艦上戦闘機だが、偵察爆撃機の複座型を中国空軍が採用した。 Curtiss Vought O2U-1D.
Vought O2U-2
Notes: This image appears in Arcadia Publishing's "San Diego's North Island 1911-1941" Written by Katrina Pescador and Mark Aldrich of the San Diego Air and Space Museum. 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: NI-105引用。
中国の中央航空学校は、中国南京国民政府が1931年に首都南京大校飛行場に設立した空軍兵士養成のための軍事高等教育の軍学校である。中国空軍の揺籃期の1930年,国民党政府主席蒋介石は、中央軍学校の航空班を基にして、華中に杭州筧橋蚕校(現在の浙江理工大学),中央航空学校を建設することを決定した。1931年春,中央航空学校の校舍と併設飛行場が竣工し,航空機用発動機、飛行機機体の施設も建設し、優位な学生を呼び寄せた。そして、洛陽、広州にも分校を設立した。1937年の日中戦争の勃発前までに、こうして航空訓練生500余名を育成することができた。
中央航空学校の分校は、洛陽、広州のほかに、抗日戦争が始まってからは雲南省昆明にも分校が増設されている。
写真(右):1935-1937年、アメリカ、主翼下面に小型爆弾用の爆弾懸架を装着したカーチス・ボート(Curtiss Vought)O2U-2複葉戦闘爆撃機(2-S-12):元来はアメリカ単座艦上戦闘機だが、偵察爆撃機の複座型を中国空軍が採用した。 Vought O2U-4, A8341 in flight
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive. 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives 引用。
1931年秋,軍政部航空学校が南京に成立されたが、1937年12月,航空学校は、浙江省杭州筧橋に移転した。杭州筧橋移転後、筧橋中央航空校と呼ばれ、中国空軍士官学校を意味するようになった。筧橋中央航空校では、弾薬・爆弾・燃料の貯蔵、飛行機の修理と製造も可能で、訓練学生の生活区域には、宿舎、運動場なども完備していた。日中戦争初期、高志航は、筧橋中央航空校出身の代表的な戦闘機パイロットである。1937年8月14日、いわゆる“八·一四”筧橋空戦で、高志航率いる中国空軍戦闘機隊は、日本海軍機を一挙に6機撃墜破した。がこれで、彼の勇戦は、日本侵略軍の気焔に大打撃を与えた。
図(右):1930-1931年頃、中国、主翼下面に小型爆弾用の爆弾懸架を装着したカーチス・ボートVought V-65 (O2U-1)コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機「列寧」号:不時着した時点で国民政府空軍機として「列寧」号と記入されていたようだ。 1930年2月16日中午,位于鄂豫皖根据地的河南省罗山县宣化店陈家河(今属湖北省大悟县)上空,传来一阵轰鸣声,随即一架飞机摇摇晃晃地落在河滩上,滑出几十米后停了下来。飞机的机翼上印有青天白日机徽。 罗山县第一区第十乡赤卫队大队长陈国清,立即带领赤卫队员冲向河滩,红军第一师三团一营的钱均也带领手枪队员及时?到,把“庞然大物”包围起来。飞行员打开舱口,举着双手走了出来。这位飞行员叫龙文光,时任国民党军政部航空第四队中校队长,奉命驾驶美制“柯塞”式侦察轰炸机,由汉口飞往河南开封执行通信联络任务,返航途中遇大雾迷航,油料耗尽,只能迫降。 写真は中共湖北省委党史研究室, www.hbdsw.org.cn 红军在这里拥有了自己的第一架飞机引用。
1930年3月16日昼,中国四川省出身の龍文光搭乗のカーチス・ボート(Vought)V-65 (O2U-1)コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機が、南京から漢口に飛行する途上、航空燃料が尽きて、河南省罗山県宣化店西南35?の陳家河付近の河原に不時着した。ここは、第一区第十郷の哨戒地点で紅軍赤衛隊員発見し、直ちに合図して、付近の赤衛隊員が多数やってきて不時着した機体を包囲した。搭乗していた龍文光は紅軍の俘虜となった。これが中国共産党紅軍の第1号軍用機となった中国紅軍第一軍用機「列寧」号で、当初から主翼下面に小型爆弾用の爆弾懸架を装着したと思われる。
写真(右):1990年頃、中国、主翼下面に小型爆弾用の爆弾懸架を装着したカーチス・ボート(Vought)V-65 (O2U-1) コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機「列寧」号: Vought V-65 (O2U-1 Corsair) replica - In 1931 became first Red Army plane
PictionID:44466374 - Title:Vought V-65 (O2U-1 Corsair) replica - In 1931 became first Red Army plane - Catalog:16_005839 - Filename:16_005839.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0367引用。
アメリカから中が民国政府が購入した機体を、国共内戦の時期に中国共産党の紅軍が鹵獲して、1930-1931年頃、中国共産軍の初めての航空兵力として使用した中共紅軍第一軍用機「列寧」号で、練習機、連絡機として使用されたようだ。中国紅軍には、飛行機搭乗員がいなかったので、紅軍第一軍用機「列寧」号攻撃には使用できず、残されたのではないか。
写真(右):1930年3月16日、中国、河南省罗山県宣化店西南35km、陳家河付近の河原に不時着したカーチス・ボートVought V-65 (O2U-1) コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機「列寧」号復元機:アメリカから中が民国政府が購入したカーチス・ボートVought V-65 (O2U-1) コルセア(Corsair)のこの不時着機は、当初から「列寧」号と命名されていたようだ。1930-1931年頃、中国共産党紅軍にとって運用できる飛行機となり、「红军第一架飞机」として有名になった。 Vought V-65 (O2U-1 Corsair) replica - In 1931 became first Red Army plane
PictionID:44466374 - Title:Vought V-65 (O2U-1 Corsair) replica - In 1931 became first Red Army plane - Catalog:16_005839 - Filename:16_005839.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0367引用。
日本では南京事件が有名だが、その前の第二次上海事変では、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行って空襲・空中戦が戦われている。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。
カラー写真(右):1930-1931年頃、中国、中国紅軍第一号機「第一架飞机」カーチス・ボートVought V-65 (O2U-1) コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機「列寧」号復元機:不時着した時点で国民政府空軍機として「列寧」号と記入されていたが、それを引き継いだようだ。 中共鄂豫边特委和苏维埃政府接到报告后指示罗山县委和驻扎罗山的红军:要保证飞机驾驶员的安全,保护好飞机。为了避免飞机再次落入敌人手中,鄂豫皖军委立即指示将飞机运往卡房。在被俘飞行员龙文光的指点下,陈家河的赤卫队员和红军部队官兵一起,将飞机大卸六块,100多位宣化店老百姓在沿途工农民主政府组织的4000多人的协助下,用了半个多月的时间,终于将飞机运到卡房林家湾。徐向前接见并说服了飞行员龙文光参加红军,并协助将拆散的飞机重新组装起来。鄂豫皖苏维埃政府举行了隆重的命名仪式,将这架飞机命名为“列宁号”。1931年,新集(今河南新县)解放后成为鄂豫皖根据地的首府,“列宁”号飞机由卡房飞到新集,从此中国工农红军拥有了第一架飞机。 “列宁”号飞机后来在红军作战中发挥了巨大作用。它经常在大别山、固始、潢川及武汉一带执行空中侦察和投撒革命传单任务,给敌人以很大的震动,之后又在黄安战役和第四次反“围剿”战斗中立下汗马功劳。1932年6月,蒋介石调集30万兵力,亲自坐镇武汉,下令对鄂豫皖根据地发动第四次“围剿”。作战日益频繁,环境日趋恶劣,“列宁”号每次随军转移都十分费力,徐向前代表红军总部忍痛下令:就地埋藏“列宁”号飞机。不久,红军主力部队被迫撤出根据地,“列宁”号被拆散埋入大别山一条偏僻的山沟里。。 写真は中共湖北省委党史研究室, www.hbdsw.org.cn 红军在这里拥有了自己的第一架飞机引用。
1937年7月、日中戦争が勃発した直後の8月、中ソ不可侵条約が締結されたが、これは共産国ソビエト連邦・スターリンと反共産主義の中国南京国民政府・蒋介石の同盟であり、独ソ不可侵条約に比類すべき驚愕の軍事同盟である。中ソ不可侵条約によって、中国空軍は輸入してあった古いアメリカ製軍用機だけではなく、ソビエト連邦の兵器・人員の軍事支援を受けて、ソ連製の新鋭機ポリカルポフ(Polikarpov)I-15,I-152、I-16戦闘機、ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機を配備することができた。
1.ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152戦闘機(依‐15型)
写真(右):1934-35年頃,中国空軍に配備されたソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機(P-7180):中国名は、依—15型。上主翼が原型I-15では胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになっている。しかし、I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼はパラソル翼になっている。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対してポリカルポフI-15 戦闘機を供与した。 The aircraft is TsKB-3 No. 7 (W.No. 33907), prototype built in 1935 with a straight upper centre-plane section. The I-15bis design appeared in early 1937 and prototypes were built in the spring of 1937. Polikarpov, I-152
Manufacturer: Polikarpov
Designation: I-152
Notes: Russia Repository: San Diego Air and Space Museum 写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00086852引用。
ソ連空軍ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)複葉戦闘機は、固定式主輪の複葉機ではあるが、上主翼をガル型に配置し、胴体上面には主翼がない状態にして、コックピット前面ガラス風防からパイロットの上方の視界を確保してた。しかし、陸上滑走中と飛行中のパイロットの視界が狭いとの批判が出たために、視界工場のために設計が変更され、上主翼を胴体上部にパラソル式配置するように変更された。しかし、I-152戦闘機は、エンジン換装による出力向上、火力強化が図られたために、性能は向上し、1937年から1939年初期までに2408機が大量生産されることになった。
写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-152(И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:原型I-15と同じく固定式主輪の複葉機ではあるが、上は主翼を胴体上部にパラソル式配置に変更し、下主翼との接合部分の構造も変更している。
Polikarpov, I-152
Manufacturer: Polikarpov
Designation: I-15
Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086858引用。
ソ連のポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の上主翼は、胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになった斬新な設計で、操縦席前面部分だけは上主翼がなく、前方視界を確保している。しかし、改良型の(Polikarpov)I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼は保守的なパラソル翼に変更されている。
写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:原型I-15と同じく固定式主輪の複葉機ではあるが、上は主翼を胴体上部にパラソル式配置に変更し、下主翼との接合部分の構造も変更している。右端の自動車は、負傷したパイロットを救助・運搬しに来たのであろうか。
Polikarpov, I-152
Manufacturer: Polikarpov
Designation: I-152
Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086859引用。
ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-5複葉戦闘機は、発動機にシュベツォフ(Shvetsov)M-22空冷星形エンジン(排気量28,64 L)480ph1基を搭載、全幅9.56m、全長6.81m、全高3m、主翼面積21m2、空虚重量943kg、総重量1355kg、最高速力278km/h、着速力95km/h、上昇時間1000m/1.6分、上昇限度7500m、7.62mmPV-1機関銃2丁(携行弾数各600発)。I-5試作機は、1930年4月29日に初飛行し、ソ連軍では1941年まで部隊配備されていた。
ソ連空軍のI-15シリーズは同系列の複葉戦闘機だが、次のような差異がある。I-15は、ガル翼でエンジンカウリングが短い。I-15bis (I-152)は、直線翼で、エンジンカウリングが長め。I-153は、ガル翼でエンジンカウリングが長く、引込み脚。
写真(右):1938-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:垂直尾翼方向舵には青白ストライプの中華民国国籍マークが描かれている。
Polikarpov, I-15,
Manufacturer: Polikarpov
Designation: I-15
Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086857引用。
写真(右):1937-1938年頃、中華民国に供与されたソ連製ポリカルポフI-152(Polikarpov И-152)戦闘機。着陸に失敗したためか、上下逆さまになってしまった。:右奥にある破損した機体は、低翼単葉のカーチスP-36戦闘機のように見える。垂直尾翼方向舵には青白ストライプの中華民国国籍マークが描かれている。
Polikarpov, I-15,
Manufacturer: Polikarpov
Designation: I-15
Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086856引用。
写真(右):1934-35年頃,中国空軍に配備されたソ連空軍のポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機と中国軍パイロット:垂直尾翼の方向舵は、中華民国の国旗「青天白日」の青と白のストライプの国籍マークが描かれている。上主翼が原型I-15では胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになっている。しかし、I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼はパラソル翼になっている。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対して旧式となったポリカルポフI-15bis 戦闘機を供与した。 Ray Wagner Collection Image
PictionID: 45939075 - Title:Polikarpov I-15 in China - Filename: 16_007254.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation Repository: San Diego Air and Space Museum 写真はSDASM Archives - Catalog:16_007254 引用。
1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。
中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。
「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。
近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。
かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。
しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。
かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり
かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」
したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日傀儡政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。
その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。
写真(右):1935-1938年,中国、中国空軍のソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis 複葉戦闘機とアメリカ製バルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(手前)の戦列:1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製のツポレフSB-2高速双発爆撃機などが供与された。 Unknown Chinese Air Field Catalog #: 1601
Subject: The Flying Tigers - China Title: Unknown Chinese Air Field 、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。
◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズムPopular front)の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。
こうして、1937年8月の中ソ不可侵条約によって、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からも軍事援助も受けて、抗日戦争を戦うことができるようになった。国際的支援を受けた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信した。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。
1937年7月、盧溝橋事件が勃発、その後、中国の経済中枢の江南地方でも、第二次上海事変が起こり、日中全面戦争に発展した。この1937年8月、ソ連共産党書記長スターリンが中華民国の反共産主義国民党総統蒋介石と締結したのが、中ソ不可侵条約である。ソ連は、日本の軍事力をけん制するために中国に対する軍事援助を開始した。
西方のドイツの軍備拡張、極東における日本の侵略は、ソ連を西と東から挟撃することになり、そのファシストの軍事力に脅威に感じたソ連は、ポリカルポフI-152(I-15bis)戦闘機、さらにI-153、I-16のような引込み式降着装置の戦闘機、全金属製のツポレフSB-2高速爆撃機など新鋭機も供与して、ソ連空軍パイロットを義勇兵の名目で派遣して、中国空軍が日本の空軍力に対抗できるよう強化した。
図(右):ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis(I-152)複葉戦闘機の三面図:ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis単座戦闘機に前後タンデム式に複座操縦席を設け、ク訓練生と教官が同乗するた高等練習機が開発された。 A three-view drawing (1280 x 830) 図は, Polikarpov I-152引用。
ポリカルポフ I-15と発展型I-15(I-152)複葉戦闘機の比較
全長: 6.10 m(6.28 m)
全幅: 9.75 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 23,55 平方メートル (22.53 平方メートル)
空虚重量: 1,080 kg (1310 kg)
全備重量: 1,783 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(770 km)
実用上昇限度: 9000 m (9800 m) 乗員: 1名
兵装: 7.62mmPV-1機関銃4挺 (7.62mmShKAS機関銃4挺)
爆弾搭載量:50kg爆弾2個 (50kg爆弾2個またはRS-82ロケット弾6個
初飛行:1933年10月23日 (1937年8月2日) 生産機数:1934-1936年ソ連384機+1937年以降スペイン237機 (1937-1939年 2408機;1939年だけで1302機)
しかし、国民党蒋介石総統が率いる中国国民政府は、剿共戦のためにドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図ったが、兵器購入のために1936年4月、ドイツとの間に1億マルクの貿易協定を結んだばかりだった。ドイツからI号戦車、8.8cmFlaK 18高射砲など最新兵器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定(現物交換協定)である。
ヒトラー総統のドイツは、日本と、1936年11月の防共協定を締結したが、これは対ソ連牽制と反コミンテルンが目的だった。しかし、ソ連包囲の進む状況で、蔣介石は対日牽制のために、1932年12月に国交回復したソ連と連携し、軍事援助を得ることができた。中国の蒋介石総統は、中国国内では、共産主義者を弾圧しながら、外交的には共産党支配下のソビエト連邦と連携するという実利外交を展開する力量があった。
ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線(Popular front)戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。
中華民国指導者蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、五か年計画を強行して重化学工業化と経済の軍事化を進めたソ連の航空機、火砲など兵器を中国に導入しようとした。
西安事件は、1936年12月12日、剿共戦(共産軍包囲攻撃)の督戦のため西安を訪れた蔣介石を、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城が拘禁した事件である。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、蒋介石夫人宋美齢も西安にやってきて蔣介石は釈放されたが、それは抗日のための国共合作が宣言されたためである。
満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。
「満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。」
そして翌日7月19日、中国国民党蒋介石総統がこの最後の関頭の演説を公表すると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。
長谷川清伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。
日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。
1937年7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。
北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。
久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり。
中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清(1883-1970)司令長官の率いる第三艦隊であり、盧溝橋事件勃発するや否や海軍航空隊の投入を陸軍と調整して決定、上海の中国軍飛行場に大山中尉を突入させ、その死亡を口実に第二次上海事変を引き起こした。そして、九州から中国本土を空爆する渡洋爆撃を実施した。
第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあったが、旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。そして、日本海軍は、三菱九六式陸上攻撃機を中核とする第一連合航空隊、艦上機を中核とする第二連合航空隊を組織して、華中の中国軍事施設、飛行場、工場、行政府などを攻撃目標とする戦術・戦略爆撃、戦術爆撃を開始した。
写真(右):1938年、日中戦争初期、中国江蘇省南京、中山陵(辛亥革命の中心人物孫中山/孫文の陵墓)上空、日本海軍木更津航空隊の三菱G3M九六式陸上攻撃機:九六式陸上攻撃機は,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃を実施した。これは、スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月後でアジアでも戦略爆撃が開始されたのである。しかし、洋上を渡る長距離「渡洋爆撃」では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。 English: The Imperial Japanese Navy's G3M from Kisarazu Air Group over Sun Yat-sen Mausoleum, Nanking, 1938
Date 1938
Source Imperial japanese Navy via Warbirds site http://www.ijnafpics.com/jbwg3m1.htm
Author Imperial Japanese Navy写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:G3M Type 96 Attack Bomber Nell G3M-24s.jpg引用。
日本海軍は、三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)を駆使して,世界初の本格的な都市への長距離無差別爆撃を実施した。これは、1936年に始まったスペイン内戦にドイツから派遣されたコンドル軍団によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月後のことだった。アジアでも戦略爆撃が開始されたが、当初の洋上を渡る長距離「渡洋爆撃」では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。
リース・ロス(Frederick William Leith Rossは1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。中国を半植民地化していたイギリス、ブランスなど列強は、日本が中国に特殊権益と称して植民地化することを大いに警戒していたのである。
大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。そしてて、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。中国国民党蒋介石総統の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。
ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、ソ連の軍事力、兵器を利用したかった。
1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)戦闘機を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、九五式戦闘機、九七式戦闘機と日本陸軍機と戦った。
1937年7月19日、中華民国・中国国民党蒋介石総統が行った対日戦争開始宣言、すなわち最後の関頭の演説が公表され、中国国民の抗戦意識を沸き立たせた。
「満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。」
中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。
大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。
そして、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。
近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。
大日本帝国は、国民党蒋介石の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。
抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。
◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明した。
その後、1937年7月(民国26年、昭和12年)の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まったが、蒋介石は、抗日戦線に、ソ連を巻き込むために、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。
写真(上):1937-1938年,ソビエト連邦、中国空軍にも供与されたポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機の戦列:少なくとも9機が写っている:1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、日本の軍事力を牽制した。 Polikarpov, I-15, Catalog #: 01_00086849 Manufacturer: Polikarpov、Designation: I-15
Notes: Russia、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。
1937年7月、盧溝橋事件が勃発、その後、中国の経済中枢の江南地方でも、第二次上海事変が起こり、日中全面戦争に発展した。この1937年8月、ソ連共産党書記長スターリンが中華民国の反共産主義国民党総統蒋介石と締結したのが、中ソ不可侵条約である。ソ連は、日本の軍事力をけん制するために中国に対する軍事援助を開始した。
西方のドイツの軍備拡張、極東における日本の侵略は、ソ連を西と東から挟撃することになり、そのファシストの軍事力に脅威に感じたソ連は、ポリカルポフI-152(I-15bis)戦闘機、さらにI-153、I-16のような引込み式降着装置(主輪引込み式)の戦闘機、全金属製のツポレフSB-2高速双発爆撃機など新鋭機も供与して、ソ連空軍パイロットを義勇兵の名目で派遣して、中国空軍を増強し日本の空軍力に対抗させたのである。
ソ連は,中国共産党に共産主義者同盟コミンテルン(Comintern)では反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,1936年12月、督戦にきた蒋介石(蔣中正:1887-1975)を張学良(Chang Hsueh-liang:1901-2001)が国共内戦停止と抗日を求めて監禁した西安事件(Xi'an Incident)で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放を認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)、さらにポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。
1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。
ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
初飛行:1933年10月
生産期間:1934-1937年 生産機数:3,313機 (I-153は、3,437機)
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル 自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m 乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁 爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個
写真(上):2009年8月,ロシア連邦、国際航空宇宙ショーに登場したソビエト連邦空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis 複葉戦闘機の右側面:シュベツォフ(Shvetsov)M-25空冷星形9気筒エンジン570 kW (760 hp; 770 PS)と2翅プロペラ。 English: Polikarpov I-15 bis (The international aerospace salon MAKS-2009)
Русский: И-15 бис (Международный авиакосмический салон МАКС-2009)
Date 23 August 2009
Source Нирваньчик
Author Нирваньчик 写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-15bis in Russian service- File:Polikarpov I-15 bis (num 19) on the MAKS-2009 (04).jpg引用。
中国空軍は、ポリカルポフ I-15bis(Polikarpov И-152)戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。I-15bis戦闘機のシュベツォフ(Shvetsov)M-25空冷星形9気筒エンジン570 kW (760 hp; 770 PS)には、エンジンカウル正面に、9気筒を冷却する空気取入れ開閉式シャッター18枚がある。これは、降雪寒冷の地で運用する際に、外気でエンジンが過冷却されるのを防止する仕切である。したがって、中国空軍で使用されたI-15bis戦闘機には、エンジン正面カウル(覆いカバー)は装着されていない
。
⇒写真集Album:ポリカルポフ (Polikarpov)I-15複葉戦闘機を見る。
1937年8月の中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)、中国国民政府の反共主義者の蔣介石とソ連共産党書記長のスターリンの間で締結された軍事同盟である。日中戦争が勃発したことで、日本からソ連への軍事的圧力が弛緩したk徐とに喜んだスターリンは、反共産主義者の蒋介石を説いて日本と中国の本格的な戦争を臨んだともいえる。
他方、中国共産党は、長征の最中で、毛沢東の指導力は、長征によって疲弊した中国共産党の内部にのみ及んでいる状況で、中国全土に対する中国共産党の指導力は低落していた。
コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化すれば、蒋介石に取っ手中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義者の蒋介石は、スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切ったのである。スターリンのソ連からの軍事援助があればこそ、蒋介石のは、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。
2.中国空軍抗戦画
写真(右):「中國空軍抗戦史畫」Air Combat Illustrated Chinese Air Force 1947年1月刊行:中国空軍の対日戦争の勝利を記念して、「中華民国三十五年勝利紀念日」に「同志中國空軍抗戦史畫題」として、筆頭は「国民政府主席兼航空委員會総委員長 蒋中正」とある。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」のカバー。 Chinese AF 071
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
図(右):国民政府主席兼航空委員會総委員長 蒋中正:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 009
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
蒋中正の略譜
1887年、奉化県(寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。
1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
1907年(明治40年)、東京振武学校へ留学。
1909年、日本陸軍十三師団高田野砲兵第19連隊の士官候補生として勤務( - 1911年)
1911年 辛亥革命に参加。
1923年、孫文の指示により、ソ連軍視察。
1924年、広州の黄埔軍官学校校長に就任。
1926年7月1日、中国国民革命軍を率いて北伐を開始。
1927年 4・12上海反共クーデター、南京国民政府に対し,容共の汪兆銘の武漢国民政府が分裂、蒋介石は下野し国民革命軍総司令に専念。東方会議後の9月、山東出兵した田中義一首相と密会、北伐を中断。12月浙江財閥の宋美齢と結婚。
1928年、北伐再開、5月の日本の第2次山東出兵で済南事件。6月、張作霖爆殺後、張学良が国民政府に参加、北伐完了、南京国民政府の全国統一。
1931年、柳条湖事件、満州事変
1933年、塘沽停戦協定
1934年、瑞金の中華ソビエト壊滅、長征し1936年延安に脱出。
1936年、中国共産党包囲殲滅を督戦中、張学良により西安で監禁(西安事件)、国共合作へ転換。
1937年 7.7盧溝橋事件の抗日世論に答え「最後の関頭」演説、抗日戦決意。年末に、南京から四川省重慶へ遷都。
1941年、12月に太平洋戦争勃発、連合国共同宣言に署名、主要連合国の地位を確立。
1942年、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェル将軍が中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任。
1943年、11月のカイロ会談に宋美齢と参加。
1944年、10月、国民党を蔑ろにするスティルウェルを参謀長から解任。
1945年、日中戦争に勝利に終戦。毛沢東と平和建国の双十協定。
1946年、国共内戦の勃発。 1947年、台湾民衆弾圧の二・二八事件。
1948年、中華民国の初代総統に就任。
1949年、国共内戦で敗北。首都南京を放棄、成都を経由して台湾へ脱出。
図(右):前航空委員會秘書長 蒋宋美齢:民国25年(1936年)2月就任、親中国空軍を建設に尽力し民国26年(1937年)3月辞任。蒋介石夫人で一般的には「宋美齢」と表記される。しかし、アメリカでの閲覧を意識して、蒋介石夫人宋美齢ではなく、蒋宋美齢と異例の表記をしている。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 011
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
宋美齢の略譜
1898年:父・客家の実業家・浙江財閥の宋嘉澍の宋靄齢(国民政府財政部長を継いだ孔祥熙の妻)・宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国副主席)・宋子文(国民政府財政部長)に次ぐ三女として上海県に誕生。
1908年:アメリカ留学。
1917年:ウェルズリー大学(Wellesley College)卒業。
1927年:国民党指導者の蔣介石と結婚。
1930年:国民党中央委員会委員に就任。
1937年:国民党航空委員会秘書長に就任。
1943年:カイロ会談(Cairo Conference)に蒋介石に同伴、通訳の役割も果たす。
1949年:国共内戦に敗れ、蒋介石と台湾に脱出。
1975年:蒋介石逝去後、アメリカに移住。
2003年:ニューヨークの自宅で105歳で逝去。
図(右):1937年(民国26年、昭和12年)8月14日、中国華中、江蘇(こうそ)省、中華民国首都南京「八・一四」空襲で、木更津航空隊の精鋭日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を迎撃、撃破した中国空軍高大隊長率いるポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:中国空軍兵士は「保衛祖国的決心」で臨み、「精神的及技術的方面均遠優於敵」で「奮勇戴殺」によって勝利第一幕を開けたとされる。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 023
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
米内光政は、海軍大臣として、中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、広田弘毅(1878‐1948)外務大臣と同様に、中国在留日本人(居留民)の保護は、重要であると考えた。これは、中国にある日本人居留民を保護を口実に、日本海軍が中国における武力介入が可能になるためである。
1937年7月11日、杉山元は、陸軍大臣として派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。
海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。
他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。
武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。
図(右):1937年(民国26年、昭和12年)8月15日、中国華中、江蘇(こうそ)省、首都南京「八・一五」空襲で、爆撃に飛来した日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を迎撃、撃破したソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:首都南京は、そのご日本陸軍の侵攻に直面し、戦時首都が重慶に移転した。しかし、1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、I-152やI-153など複葉戦闘機が中国空軍に供与され、日本軍機を迎撃している。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 025
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
中華民国の採用した民国紀元とは、1912年の辛亥革命によって成立した中華民国が建国年次の1912年を紀元(元年)とする中華民国暦である。西暦(キリスト紀元)の1911年が、民国元年に相当するので、西暦年から1911を減ずると民国年となる。日中全面戦争の始まった西暦1937年は、民国紀元で民国26年、昭和12年(日本の紀元2597年)である。
東西を日本とドイツという好戦的な軍事国家に挟まれたソ連ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin:1878-1953)は、アジア方面の主敵日本に対抗するため,中国共産党にコミンテルンを通じて国共合作を促し、中国国民党蒋介石主席の反共的性格を知りつつも、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んだ。
そして、ソ連指導者ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は、日本とドイツという東西ファシストの挟撃を避けるために、日本と戦う中華民国に軍事援助をし,
ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)複葉機、引込み脚・単葉の新鋭機ポリカルポフ I-16(Polikarpov И-16)など軍用機を供与した。
図(右):1937年(民国26年、昭和12年)8-12月頃、上海上空に来襲した日本海軍航空隊を迎撃、空中衝突して日本機を追撃中に、左下翼と左上翼が衝突で破壊されたまま生還した中国空軍哀葆康操縦のソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:残った三分の一の左上翼と右上下翼を使って、中国軍の防衛線内に「隻翼栄帰」(片翼栄光帰還)することができたという。期日は「抗戦争初期的一天」として特定されていない。これは、日本が樫村機の片翼帰還を大宣伝したことに対抗して、中国空軍でも同様の「片翼安全栄帰」の「我空軍勇士」をプロパガンダしたことを示している。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 035
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
三菱A5M九六艦戦のパイロットが樫村寛一(1913-1943.3.6)で、彼は1937年12月9日、九六式艦上戦闘機に搭乗して、南昌空爆に護衛機として加わった。そして、迎撃してきた中国空軍戦闘機と空中接触し、左翼1/3を失ったが、600km以上飛行し南京基地に帰還した。功五級金鵄勲章を授与された。
太平洋戦争中に練習航空隊の教官を務めた樫村寛一は、その後、五八二航空隊(582空)のゼロ戦隊に配属され、南東方面の激戦地ラバウル基地に派遣された。1943年3月6日、樫村寛一はソロモン諸島ルッセル島上空にゼロ戦で搭乗中、グラマンF4Fワイルドキャットと交戦し撃墜された戦死。戦死後、飛行兵曹長から少尉に進級。
図(右):1937年(民国26年、昭和12年)9-11月頃、中国、華北、山西省、雁門関、日本軍を爆撃する中国空軍ヴォート(Vought)O2U コルセア(Corsair)(中国仕様: V-65C)偵察爆撃機と迎撃する日本海軍三菱九六式艦上戦闘機:1929年から1933年に中国はアメリカから1926年初飛行のヴォートO2U コルセアの輸出仕様V-65Cを42機輸入している。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 038
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
写真(右):1937年頃、中国、主翼下面に小型爆弾を搭載したカーチス・ボートVought V-65 (O2U-1)コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機:元来はアメリカで単座複葉の艦上戦闘機として開発されたが、複座型は偵察爆撃機として、あるいは練習機として生産、使用された。中国空軍では「オールド・コルセア」と呼ばれた。 Curtiss Vought O2U-1D.
Subject: The Flying Tigers - China Title: Curtiss It was called "Old Corsair" in China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0367引用。
写真(右):1937年、中央航空学校、中国空軍カーチス・ボートVought V-65 (O2U-1)コルセア(Corsair)複葉戦闘爆撃機とパイロットの沈崇誨:複座型で偵察員用後席には7.62mm旋回機関銃1挺が取り付けられている。複座なので、練習機として使用されているようだ。 Curtiss Vought O2U-1D.
日本語: 中央航空学校在学中の沈崇誨。
Date circa 1934
Source 這些1937年犧牲的中國飛行員,用生命詮釋瞭何為“無問西東”
Author Unknown author 写真はWikimedia Commons, Category:Vought O2U Corsair Catalog #: 0367引用。
ヴォート(Vought)O2U コルセア(Corsair) 偵察爆撃機の諸元 搭乗員: 2人
全長: 27フィート5.5インチ(8.37 m)
全幅: 36フィート0インチ(10.97 m)
全高: 11 ft 4 in(3.45 m )
主翼面積: 337平方フィート(31.31 m 2)
空虚重量: 3,312ポンド(1,502 kg)
最大離昇重量: 4,765ポンド(2,161 kg)
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン(排気量27.7 L)600 hp(447 kW)
最高速力:海面で167 mph(269 km / h、145 kn)
航続距離: 680マイル(1,094 km、591 nmi)
上昇限度: 18,600フィート(5,670 m)
出力重量比: 0.13lb / hp(0.21 kW / kg)
兵装: 0.30口径7.62 mmブローニング機関銃、上翼の前方固定1挺、後部コックピット旋回機関銃1挺
爆弾:下翼下面116ポンド(53 kg)爆弾4発あるいは30ポンド(14 kg)爆弾10発
日本軍は北支那方面軍寺内寿一司令官に華北から平漢線・津浦線に沿って南進させたが、その側面援護として、板垣征四郎中将指揮する第五師団を察哈爾(チャハル)に侵攻させ、1937年9月には長城の外側の大同を占領した。しかし、第5師団長板垣征四郎中将・参謀辻政信大尉は、長城を越えて、関東軍察哈爾(チャハル)派遣兵団東條英機中将らと合同して、戦線を拡大し内蒙古、山西省の攻略をもくろんでいた。これに対して、参謀本部閑院宮載仁親王参謀総長の下の武藤章作戦課長は、参謀次長多田駿中将、参謀本部第一部長(作戦部長)石原莞爾少将らの不拡大派を抑えて、戦線の拡大を強行した。
1937年9月、事変不拡大派の石原莞爾参謀本部第一部長(作戦部長)は、参謀本部の改革で関東軍へ参謀副長に左遷された。そして、1937年10月、参謀本部は、太原攻略を命令した。太原の郊外の忻口鎮と五台山は、中国第14集団軍衛立煌司令が防衛する太原の要衝で、1937年11月3日まで中国軍は抵抗を続けた。山東省東部の防衛線は娘子関にあったが、娘子関を防衛する中国軍も頑強な抵抗を見せ、11月3日まで退却しなかった。
1937年11月8日、第五師団は太原攻略の総攻撃を開始し城内に突入した。守備軍の抵抗で市街戦が起こったが、翌11月9日、守備軍は撤退して太原は陥落した。第五師団・第20師団など日本軍の損害は死傷1万1,000人以上だった
図(右):1937年(民国26年)11月11日、中国東方沖、東シナ海(東海)、海上の日本海軍航空母艦「龍驤」を爆撃した中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2EC爆撃機:迅速な爆撃が行われたために、空母艦上戦闘機は発進できないうちに爆弾が空母「龍驤」に命中し大損害を与えたという。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 040
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1937年(昭和12年)8月12日、日本海軍は空母3隻、すなわち1928年3月竣工、基準排水量2万7000トンの大型空母「加賀」、1922年12月竣工、7,500トン「鳳翔」、1933年5月竣工1万トンの「龍驤」を投入した。当時の空母には、九五式艦上戦闘機、九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機が搭載された時期だったが、空母艦上機による航空支援によって、港湾のある青島、厦門(アモイ)の攻略が容易になった。空母「赤城」「加賀」の改装整備の時期には、艦上機を第一航空戦隊と第二航空戦隊に編入し、陸上基地で運用することも試みられた。
1937年(民国26年)11月11日午前6時、中国東方沖、東シナ海(東海)、海上の日本海軍航空母艦「龍驤」を爆撃した中国空軍徐卓元大尉搭乗のノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2EC爆撃機は、迅速な爆撃を実施したために、空母の九五式艦上戦闘機は迎撃に発進する時間がなかった。爆弾が命中した空母「龍驤」は損傷したという。
空母「龍驤」の損傷について、日本の戦史では記載がないようだが、空母の日中戦争への投入は、1938年までで、それ以降は、戦地には投入されていないようだ。これは、空母艦上機を陸上基地に派遣して使用する、空母を中国軍機の空襲の危険から遠ざける、という2つの目的がある。そうであれば、空母「龍驤」への中国機の空襲可能性は十分あったと推測できる。
ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。
写真(右):1938-1940年,中国、中国空軍ノースロップ2E軽爆撃機・カーチスBE2F複葉戦闘機などでポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機との戦列(少なくとも9機が写っている):最上級の「ファーストホテルバー」を気取ったアメリカ人の義勇兵たち。 PRO
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Follow "Piltsker, Ricks,Sweeney, Van Timmeren, Schraman, Mchenry at 1st Hotel Bar" Catalog #: 0090
Subject: The Flying Tigers - China 写真はSDASM Archives Catalog #: 0090引用。
中国空軍は、ノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。
図(右):1938年(民国27年、昭和12年)2月18日、中国、華中、湖北省、武漢、日本海軍三菱A5M九六式艦上戦闘機を攻撃する中国空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 042
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年(民国27年、昭和12年)2月18日、長江の要衝武漢を爆撃に来た日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を中国空軍機が迎撃することを予期していた日本軍は、三菱A5M九六式艦上戦闘機を護衛として送った。侵入した日本機38機を迎撃した中国空軍李桂丹大隊長は、12分の空戦で、日本機12機を撃破した。しかし、李桂丹大隊長の戦闘機は帰らず、犠牲になった。
三菱A5M九六式艦上戦闘機の諸元
全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.20m
翼面積 17.80m2
自重 1075kg
正規全備重量 1500kg
発動機 中島 寿二型改一 空冷星型9気筒エンジン 460hp
最高速度 219kt (405.6km/h)
航続距離 1200km
武装 7.7 mm機銃 ×2挺、30キロ爆弾2発あるいは50キロ爆弾1発
海軍最初の全金属製低翼単葉機の三菱A5M九六式艦上戦闘機は、堀越二郎の設計になり、九試単座戦闘機として、1935年2月4日に初飛行した。主翼形状は、輸入したハインケルHe70と類似した楕円翼で、国産機として初めて沈頭鋲を採用、フラップを取り付けた。
しかし、低翼単葉の九六式艦上戦闘機の問題点は、火力で、7.7ミリ機関銃2丁で火力は第一次大戦期と同等で、日本の航空兵力の火力は弱かった。wikipedia日本語版は「当時日中戦争中であった中国に送られた機体は、空中戦で当時のボーイング281やカーチスホークIIIなど中国軍戦闘機を圧倒した」というが、これは日本軍の評価をそのまま鵜呑みにした表現である。
図(右):1938年(民国27年)3月、中国、華北、山東省南部、魯南、台児荘、地上襲撃をする中国空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:ソ連空軍でも、爆弾を搭載したI-15bisを地上襲撃に使用した。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 044
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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日中戦争中の緒戦の1938年3月、日本陸軍第十師団(台児荘北方に進出、瀬谷支隊が台児荘を攻撃したが、中国軍李宗仁司令官隷下の守備隊の頑強な抵抗をけた。そこで、3月28日、福栄真平連隊長指揮の下、1個大隊が救援に向かったが、それでも苦戦した日本軍は、歩兵第10連隊と歩兵第63連隊とで大攻勢をかけた。しかし、中国軍の士気は高く、日本軍には死傷者が続出した。
1938年4月5日、第五師団板垣征四郎中将は、台児荘が苦戦しているにもかかわらず、中国軍の抗戦力を誤認して、台児荘近くにあった第五師団の坂本支隊に転進を命じたため、残った第十師団瀬谷支隊も、翌4月6日、台児荘から転身した。第十師団磯谷中将は、転進した瀬谷支隊に再度、台児荘の攻略を命じたが、大損害を受けていた瀬谷支隊は、戦線を離脱するしかなかった。他方、第五師団の坂本支隊は、転進を中止してたが、撤退した瀬谷支隊と合流できるはずはなく、4月7日に再び反転した。
こうして、台児荘を守り切った李宗仁司令官は、日本軍の撃破をしたことを誇り、日本軍の損害を、死傷2万、鹵獲小銃1万余挺、重機関銃931挺、歩兵砲77門、戦車40台、大砲50余門、捕虜無数、と大々的に喧伝した。
台児荘の戦いにおける日本軍の損害は、第五師団では、戦死1,281、戦傷5,478、第十師団では戦死1,088、戦傷4,137で、合計戦死2,369名、負傷9,615名、総計1万1,984名の大損害だった。また、瀬谷支隊の撤退が戦意不足と判断され、瀬谷啓少将は予備役に編入された。
しかし、台児荘の戦いでは、坂本支隊に転進を命じた板垣征四郎中将、瀬谷支隊の損害を無視して再攻撃を命じた磯谷廉介中将に、軍司令官としての資質に問題があったはずである。それが、無責任となったのは、高級指揮官相互のなれ合いの気風があったからで、日中戦争から太平洋戦争に掛けて、この日本軍司令部の弱点は一層顕在化することになり、部下の命がけの勇戦にもかかわらず、戦術的、戦略的敗北の組織的一員となった。
図(右):1938年(民国27年)4月29日「天長節」、湖北省にある武昌・漢口・漢陽、いわゆる武漢の上空で、空襲に飛来した第二航空隊(佐世保)日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機、それを護衛した日本海軍三菱A5M九六式艦上戦闘機に体当たり「肉弾」で主翼をもぎ取った中国空軍陳儴民(Chen Huai Min)中尉搭乗のポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 048
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年(民国27年)4月29日「天長節(昭和天皇誕生日)」に、湖北省の武漢(武昌・漢口・漢陽の総称)に日本海軍第二航空隊の三菱G3M2九六攻撃機が佐世保から飛来したが、これには1935年2月4日に初飛行した日本海軍三菱A5M九六式艦上戦闘機が護衛についていた。
この時、九六艦戦に体当たり「肉弾」し主翼をもぎ取ったのが、中国空軍陳儴民(Chen Huai Min)中尉搭乗のポリカルポフI-15bis/I-152 複葉戦闘機で、陳儴民(Chen Huai Minは、墜落戦死した。陳中尉の撃墜数は、カーチス・ホークIII複葉戦闘機で1937年に1機、I-15bis複葉戦闘機1938年に3機、合計4機である。
図(右):1938年(民国27年)5月10日、中国南方沖、南シナ海、海上の日本軍艦船に急降下爆撃を敢行する中国空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機(?):ポリカルポフI-15bis/I-152 複葉戦闘機と同じN型パラソル式上主翼だが、引込み脚のように見える。つまり、I-15/I-15bis/I-152の特徴である固定主輪が胴体下面に見えないが、引込み脚の複葉単座戦闘機I-153の初の実戦参加は、ソ連空軍が1939年の対日ノモンハン事件の時だった。つまり、1938年に中国空軍は、I-153複葉戦闘機を使用していないので、固定脚でないのは、I-15角型の区分を誤認した作画上の誤りであろう。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 048
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年(民国27年)5月、中国空軍は、武漢「四・二九」、広東「四・一三」などの迎撃戦で勝利し、その余勢をかって、中国南方沖、南シナ海、海上哨戒飛行に飛行機を派遣した。5月10日、海上に日本軍艦船を発見した中国空軍I-15戦闘機は、500km/hでダイブして、爆弾懸架に搭載していた爆弾を急降下爆撃で投下した。爆弾懸架がなかった時期、中国空軍機は、飛行機自体が爆弾とみなされていたが、爆弾懸架が導入されて、艦船に対する空爆も可能になった。
図(右):1938年5月19日、中国中部沿岸、寧波から日本の九州に飛来し反戦ビラを散布した中国空軍アメリカ製マーチンB10双発爆撃機2機:中国中部沿岸、寧波から出撃した中国空軍アメリカ製マーチンB10双発爆撃機2機は、南シナ海を越え、午前3時40分頃、日本の九州西岸に到着し、反戦ビラの散布という「人道的遠征」作戦を実施した。この反戦ビラは、日中戦争で中国側に寝返った日本人民反戦同盟、その指導者鹿地亘らが作成した日本語で書かれた反戦ビラである。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 052
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年5月19日、中国中部沿岸、寧波を出撃した中国空軍アメリカ製マーチンB10双発爆撃機2機による九州での反戦ビラ散布では、爆弾投下はなく、日本側の被害は皆無だったため、政府・軍は「日本本土発空襲」の成功自体を抹殺しようとした。ギラの回収だけでなく、ビラ散布自体を口にすることも禁止し、空襲をなかったことにしようとした。他方、中国国民政府総統蒋介石は、首都南京を攻略され、徐州作戦で大損害を受け、中国主要都市も日本機の空爆を受けていたため、中国軍の抗戦力を内外に示す必要があった。そこで、この「日本本土初空襲」を大いに中国と世界に喧伝した。
マーチンB-10双発爆撃機は、全金属製低翼単葉・引込み脚の近代的爆撃機で、最高速力340km/h、航続距離約2000kmは日本陸海の爆撃機に劣っていた。そこで、中国空軍は燃料タンクを増設し、日本本土空襲を夜間空襲することを計画した。この空襲計画は、中国を軍事援助していたアメリカ人義勇航空兵にも隠されていた。
写真(右):1937年2月、中国に到着した組み立ての終ったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。 Martin B-12 and unknown Catalog #: 1609 Subject: The Flying Tigers - China Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 1609引用。
マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。
マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m 全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル 全備重量: 7,460 kg 発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基 最高速力: 343 km/h 実用上限高度:7,365 m 航続距離: 1,996 km 爆弾搭載量 1,050 kg 兵装:7.62ミリ機銃3丁 乗員 4名。
図(右):1938年(民国27年)6月16日、中国南部、広東省南雄、鉄道を爆撃に来た木更津航空隊日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を攻撃する中国空軍黄泮揚(Chen Huai Min)大隊長搭乗のポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 054
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年(民国27年)6月16日、中国南部、広東省南雄上空で、広東=漢口(Hankou)間の鉄道を破壊に来た日本海軍木更津航空隊の精鋭三菱G3M九六式陸上攻撃機6機を、中国空軍黄泮揚(Chen Huai Min)大隊長率いるポリカルポフI-15bis/I-152 複葉戦闘機が果敢に迎撃した。
日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の胴体下面の爆弾懸架には、60キロ爆弾あるいは250キロ爆弾を搭載することができる。しかし、中攻には胴体下面にむき出しの爆弾懸架があるが、扉の付いた爆弾倉は設けられていない。そこで、1938年6月16日、広東省南雄で、中攻が中国空軍I-152戦闘機から7.62mm機関弾の射撃を受けた時に、胴体下面の爆弾に気腔が命中し、1機の中攻は、空中で爆発し飛散してしまったようだ。残りの中攻も中国戦闘機の迎撃を受けて、全て撃墜されたという。
図(右):1938年(民国27年)夏、中国中部、華中、湖南省武漢近郊長江の上空で、日本軍を空襲した中国空軍ツポレフ(Tupolev : Ту́полев)SB-2双発高速爆撃機の編隊:日本海軍三菱九六式艦上戦闘機が中国空軍のSB爆撃機を迎撃しているが、SB胴体後上方の回転銃塔の7.62mm旋回機関銃の応射を受けて破損している。当時、武漢攻略作戦の真っ最中だったが、この日本軍の進撃ルートは長江両岸と、長江の水運を利用していた。そこで、その進軍を阻止しようと、中国空軍SB-2爆撃機が出撃したのである。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 060
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
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1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋事件が発端となった日中全面戦争のことを、当初、日本政府は「北支事変」と呼称したが、上海など華中に戦火を拡大した後、1937年9月2日に「支那事変」と命名し直した。しかし、華南のイギリス領香港、広東など、蒋介石の国民政府は外国からの軍事援助や貿易によって、抗戦力を維持していた。そこで、中国蒋介石への補給ルート、すなわち「援蒋ルート」を遮断しようとした日本軍は、中国大陸沿岸を封鎖するために、武漢作戦と同時に、広東(広州)攻略を企図した。1938年9月19日、大陸命第200号と第201号を発動し、広東攻略作戦を開始した。
1938年10月12日、日本海軍塩沢幸一海軍中将隷下の海軍艦艇に護衛され、古荘幹郎中将隷下の第二十一軍(第18師団・第104師団など)は、広州白耶士(バイヤス)湾に上陸、10月21日には広東(広州)に達し、珠湾を封鎖し、海軍陸戦隊とともに珠江を遡上して、11月には広東周辺の要衝を占領した。
さらに、日本海軍は、フランス領インドシナに侵攻する目的で、1939年2月10日に海南島攻略作戦を開始し海南島南の三亜、北の海口を占領し、海南島のタングステンなど鉱物資源の開発も推進しようとした。
中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機(Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)(Tupolev SB)の供与も受けた。
ツポレフSB(Tupolev AHT-40)爆撃機諸元 乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m 翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m)
翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg 発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m 航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m 兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁 搭載爆弾量: 爆弾倉・翼下爆弾架 1トン
1937年7月、日中戦争が勃発した直後の8月、中ソ不可侵条約が締結されたが、これは共産国ソビエト連邦・スターリンと反共産主義の中国南京国民政府・蒋介石の同盟であり、独ソ不可侵条約に比類すべき驚愕の軍事同盟である。中ソ不可侵条約によって、中国空軍は輸入してあった古いアメリカ製軍用機だけではなく、ソビエト連邦の兵器・人員の軍事支援を受けて、ソ連製の新鋭機ポリカルポフ(Polikarpov)I-15,I-152、I-16戦闘機、ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機を配備することができた。
⇒写真集Album:ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機を見る。
図(右):1938年(民国27年)8月3日、中国中部、華中、湖北省武漢上空、「八・三」空戦、侵攻してきた日本海軍三菱A5M九六式艦上戦闘機を撃破しているソビエト連邦供与の中国空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:戦時首都重慶に1939年5月3日と4日にわたり「五・三」「五・四」の大空襲が行われるが、1937年7月勃発の日中戦争では、初戦から空中戦が激しく戦われている。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
日本の統帥部である大本営は、1938年(昭和13年)6月18日、武漢攻略を決め、8月22日に湖北省の長江沿い武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮の攻略を命令した。兵力は、新編成の第十一軍が長江を遡上し、北支から転用された第二軍が徐州の北方から南下、進軍した。しかし、徐州から退却する中国軍が黄河の堤防を決壊させ洪水を引き起こしたために、第二軍の進撃は迂回させられた。また、中国軍の抵抗も強く、10月25日まで、中国軍は漢口で抵抗し、日本陸軍第六師団が漢口を占領したのは、1938年10月26日だった。
中国軍の主力は脱出し、撤退した蒋介石は、国民政府の戦時首都を長江上流の奥地の重慶に移転し、徹底抗戦を続けたために、日本軍はアメリカ、イギリスと戦う太平洋戦争を始まる前に、中国奥地に兵力を拘束され、日中戦争の泥沼にはまり込んだ形となった。
図(右):1938年(民国27年)8月18日「八・一八」空戦1対9、中国中部、華中、湖南省衡陽の上空で、空襲に飛来した27機の日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を降下攻撃する中国空軍湯卜生(Tang Pou San)大尉率いるポリカルポフIポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 060
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1938年(民国27年)8月18日「八・一八」空戦で、中国空軍湯卜生(Tang Pou San)大尉は、ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機3機で空襲に来た日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機27機を迎撃した。第2回目の攻撃で中攻1機に命中弾を与え、撃墜した。そして、第3回目の攻撃で中攻編隊の苛烈な防御銃火の中を降下突撃した。そして、勇戦むなしく戦死した。
図(右):1939年(民国28年、昭和14年)2月20日、蘭州上空で空襲してきた日本陸軍イタリア製イ式重爆撃機を迎撃するソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:戦時首都重慶に1939年5月「二・二〇空襲」を空襲してきた。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 062
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
日本陸軍キ21三菱九七式重爆は、1937年(皇紀2597年)1月8日の制式だったが、この「制式」とは試作機が部隊配備されることが決まった状態であり、量産開始とも部隊配備開始よりも前の段階だった。つまり、日中戦争の第二次上海事変の空中戦が始まっていた1937年8月段階でも、キ21三菱九七式重爆は十分な数が部隊配備されてはいない状態だった。そこで、臨時の過渡的措置として、外国製爆撃機の輸入が考慮された。ドイツ製ハインケルHe111爆撃機の輸入交渉がまとまらなかったために、急遽、イタリアの新鋭フィアット(Fiat)B.R.20爆爆撃機の輸入が決まったのである。フィアット(Fiat)B.R.20爆撃機は、イタリアから輸入されたため、日本陸軍は「イタリア」の「イ」の字を頭文字にしてイ式重爆撃機と命名した。
1938年(昭和13年)に85機が輸入されたフィアット(Fiat)B.R.20爆撃機、イ式重爆は、ブレダ SAFAT12.7mm機関銃を旋回機関銃として搭載していおり、防御火力は強力であり、この12.7mm機銃弾薬は、日本の同口径12.7mmホ103機関銃の弾薬の原型となった。イ式重爆は、蘭州、重慶などの中国奥地の空爆に参加しただけでなく、第12戦隊のイ式重爆は1939年のノモンハン事件にも投入されている。しかし、BR.20爆撃機のカタログデータを下回っており、エンジン不調、高い巡航速度による航続距離の短さ、専用部品の欠乏などの問題があった。そこで、三菱九七式重爆が部隊配備されるとともに、イ式重爆は、空中勤務者から嫌厭されたこともあって、中国の第一戦線から引き上げられ、太平洋戦争時には、使用されていない。
図(右):1939年(民国28年、昭和14年)5月3日、中国内陸部、戦時首都重慶「五・三」空襲で、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を撃破したソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:引込式降着装置I-153(I-15ter)のように見える機体だが、実際には新鋭I-153戦闘機は1939年のノモンハン事件でソ連空軍は初の実戦投入した。したがって、1939年前半には中国戦線に出現するはずがない。戦後の作画なので、I-15戦闘機の固定脚型I-15/I-152(I-15bis)と引込み脚型I-153(I-15ter)とを混同したのであろう。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 064
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
日本海軍九六中攻、陸軍九七重爆などによる中国戦時首都重慶への空爆は、日中戦争中の全期間5年間、特に2年半の間に集中して実施された。国民の戦意喪失を目的とした「戦略爆撃」としては、既にスペイン内戦中の1937年4月に、ファシスト国民戦線を軍事援助したドイツ・コンドル軍団によるゲルニカ爆撃があったが、それから1年も経たないうちに1938年5月、ゲルニカ爆撃以上の規模で長期にわたった日本軍機による重慶爆撃が実施され、1万人に被害を与えた。
中国、華中、湖北省の長江沿岸の要衝武漢は、4月29日「天長節」(昭和天皇誕生日)に日本機21機に空襲を受けたが、長江沿岸の天候不良なこともあって、日本軍は十分な戦果を挙げえなかった。そこで、天候回復、晴天を待って、再度5月3日に成都を中攻45機が空襲した。成都は大きな人的、物的な被害を受けたが、中国空軍機の活躍で10機を撃墜したといわれている。1939年11月4日に「一一・四空襲」も行われた。
1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、I-153「チャイカ」(Chaika)など複葉戦闘機が中国空軍に供与され、日本軍機を迎撃したのである。
図(右):1939年(民国28年)11月4日、中国内陸部、四川省成都、「一一・四」空襲、飛来した日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を撃破した中国空軍ソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 戦闘機::1938年初頭、南京が日本軍に占領された後、華南の戦局が重要になり、桂林・南寧(桂南)方面で、機械化部隊、航空部隊を投入する激戦が勃発した。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 066
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Тип 24諸元
乗員: 1名 全長: 6.13 m
全高: 3.25 m
全幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル 空虚重量: 1,490 kg
最大離陸重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形9気筒エンジン900馬力 (670 kW) 生産機数:1939年:155機 1940年:760機 1941年:19機 合計934機
1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Typ 24の性能
最高速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km 最大上昇限度:11,000m
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 14.7 m/min 高度5000mまで5.8分 兵装: 7.62-mm-SchKAS機関銃2丁、 20-mm SchWAK機関砲2門 爆弾搭載量:50−10キロ爆弾2発 あるいはRBS-82空対地ロケット弾 4-6発
1939年11月4日,成都空戦では、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機54機(日本側出撃数63機)が中国内陸部、四川省成都を空爆した。第一波27機は密集編隊で飛来し、成都の中国空軍爆撃機基地の鳳凰飛行場に登壇した。第二波の九六式陸攻(中攻)27機は、品字型密集編隊で中国空軍戦闘機基地の温江飛行場に爆弾を投下した。その後、両編隊は成都市街中心地に投弾した。1939年11月4日,日本海軍中攻編隊に対して、中国空軍第五大隊の戦闘機が迎撃した。大隊所属の第一波は第17中隊と第27中隊のI-15戦闘機14機で、成都近郊の温江上空で待機し、第二波第26中隊のI-16戦闘機6機は、副大隊長王漢勲が率い、第29中隊のI-15戦闘機9機は馬国兼が率いて成都上空で待ち構えていた。
成都空戦で、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機の第一波27機は、高度4 000メートルで侵入し、中国空軍第26中隊のI-16戦闘機が迎え撃った。第29中隊の邓従凱も、激烈な攻撃を加え、中攻1機を撃墜した。四川省防空司令部が、この撃墜、墜落した中攻の機体を調べたところ、機体の残骸の中に地図と3枚の図片を発見し、この機体は海軍第二連合航空隊司令官大西瀧治郎隷下の第十三航空隊司令奥田喜久司(1894-1939/11/4)大佐の機上机であることが判明した。
九六式陸上攻撃機で出撃、45歳で戦死した奥田喜久司大佐は、第一航空戦隊参謀、横須賀鎮守府参謀、海軍大学校系系教官、第一航空戦隊参謀、水上機母艦「神威」(満載排水量2万トン)艦長を歴任し、日本海軍航空隊「爆撃王」とも呼べる存在だった。中国戦線で機上戦死した最高級の指揮官である。奥田喜久司司令の搭乗していた中攻を撃墜したI-16パイロット邓従凱副大隊長の総撃墜数は3.5機で未公認も含めて総計5機撃墜のエースともいわれている。
1939年11月4日の成都空戦では、まず日本海軍の三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)54機が成都に2回目の空爆に来襲、中国空軍第5大隊は、第17飛行隊と第27飛行隊のI-15戦闘機14機が成都から発進、第26飛行隊のI-16戦闘機6機も第29飛行隊のI-15戦闘機9機とともに迎撃した。日本の九六陸攻第一波27機は高度4,000メートルで成都上空に侵入を図った。このとき、中国空軍第26飛行隊I-16戦闘機パイロット段文宇が攻撃信号を発し、石幹純らが敵機の後方上から降下し、上下左右の激しい攻撃を行った。 成都の北東70kmまで中攻を追跡し1機を撃墜した。他方、九六陸攻(中攻)の防御放火も激しく、成都空戦では中国戦闘機パイロットも死傷者を出している。
図(右):1939年(民国28年)12月25-26日、中国南部、華南、崑崙関防衛のため、桂林・南寧(桂南)に出撃し、敵の堅牢な陣地、機械化部隊、精鋭部隊を壊滅した中国空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機による地上襲撃:1938年初頭、南京が日本軍に占領された後、華南の戦局が重要になり、桂林・南寧(桂南)方面で、機械化部隊、航空部隊を投入する激戦が勃発した。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」 Chinese AF 068
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive
From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947.
SDASM Archives 引用。
1939年(昭和14年)11月、日本軍は中国沿岸を封鎖し、広東を攻略した後、蒋介石への援助ルート「援蔣ルート」を完全に遮断しようと、華南の広西省に上陸して南寧を攻略した。そこで、中国軍は、柳州・貴陽の確保し、フランス領インドシナを経由した補給ルートを維持するために、1939年11月下旬に「冬季攻勢」を発令、南寧攻略を企図した。特に、南寧北東50キロの崑崙関の峠は、日本軍の重要な防衛拠点だったために、中国軍は約19個師(師は日本の連隊規模)、貴重な機械化部隊の第5軍、航空部隊も投入して攻勢をかけた。
第五師団長今村均中将は、1939年12月17日から始まった崑崙関の日本軍陣地への中国軍の攻勢に対して、苦戦しつつも、抵抗を続けた。そして、1940年1月28日の陸軍第二十一軍による反攻まで持ちこたえて、南寧方面から中国軍を撃退することに成功した。
軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるようになった。
3.ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機
カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機の右側面:垂直尾翼の方向舵ラダーの青白のストライプは、中華民国の青天白日の国旗から採用された中国空軍の国籍マークである。ゴム首輪は引込み式で、引込んだ後収納部分のカバーが、胴体下面の車輪の間、脚の内側に開いている。
Jack D. Canary Special Collection Photo. Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary2引用。
1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153を開発した。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。
ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を引き込み脚に改良を加えたI-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
ソ連空軍ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)は、1936年、スペイン内戦に投入されているが、1937年の日中戦争には、I-15bisとそれを引込み脚としたポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機が投入されている。
カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機が1944年になっても残っていた。:カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦のI-153を記念に保存していたのか、引込み脚なので、高等練習機として使用していたのか、どちらかであろう。
Jack D. Canary Special Collection Photo. Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive 写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。
1930年代中旬に、ソ連空軍は運動性能の良い複葉戦闘機を保持し、ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を引き込み脚に改良を加えたI-153複葉戦闘機を開発した。その初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件だった。
ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、原形の複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機の発動機を換装し出力を強化したうえで、固定脚を引き込み脚に変更し、複葉の支柱を少なくして、空気抵抗を減少させ、さらに翼の付け根部分も斬新な形に変更した性能向上型である。
中国空軍は、1937年後半から、ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を使用したが、これは複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊も引き込み脚のポリカルポフ (Polikarpov)I-152戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。
1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機として ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式した。しかし、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたソ連空軍ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機も輸入されたが、1941年6月に独ソ戦が勃発したために、ソ連から中国に届いたI-153戦闘機は沖は内容だ。I-153が登場した時点では、より高速の単葉戦闘機が主流となり、I-153の活躍できる戦場はなくなっていた。
中国空軍は、1937年後半から、ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)、ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊とともに、日本軍機と空中戦を戦った。
ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)
複葉戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m 全長: 6.17 m
全高: 2.80 m 翼面積: 22.14平方メートル 自量: 1348 kg 全備重量: 1859 kg 発動機: 空冷9気筒 M-62 最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分 最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km 兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁 82mmロケット弾6発あるいは50キロ爆弾2発。
⇒写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-153戦闘機を見る。
4.ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 単葉戦闘機
写真(上):2012 年10月,中華人民共和国、北京市郊外、中国空軍博物館、1937年頃ソビエト連邦空軍から供与された中華民国ポリカルポフI-16 戦闘機:青天白日の中華民国空軍の国籍マークを描いている。ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)戦闘機は、主翼全幅よりも短い太い機体胴体で、アブのようなイメージであり、ソ連軍ではイシャク(Ishak:ロバ)、スペイン内戦ではモスカ(Mosca:ハエ)あるいはラタ(Rata:ネズミ)という愛称を付けられている。 Description CHINA AVIATION MUSEUM AT DATANSHAN CHINA OCT 2012
Date 19 October 2012, 06:27
Source
CHINA AVIATION MUSEUM AT DATANSHAN CHINA OCT 2012
Uploaded by MainFrame
Author calflier001 写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-16 in service with ROCAF- File:CHINA AVIATION MUSEUM AT DATANSHAN CHINA OCT 2012 (8916504278).jpg引用。
ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機4型(Type 4)はイギリス製ブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter)空冷星形エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-22空冷星形エンジン(двигатель М-22 мощностью)480馬力を装備した初の量産型である。1934年41機、1935年464機、合計505機が量産された。兵装は陸戦用のM1910マキシム(Maxim)水冷式機関銃を空冷化した7.62ミリ口径PV-1 (Pulemet Vozdushny)機関銃2丁。
ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機5型(Type 5)は、I-153複葉戦闘機と同じアメリカ製ライと・サイクロン(Wright Cyclone)R-1820をソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-25空冷星形エンジン(двигатель М-25 мощностью)730馬力を装備、1932年に開発された7.62ミリ口径ShKAS(Shpitalny-Komaritski Aviatsionny Skorostrelny)機関銃2丁を搭載。生産機数は、1936年861機、1937年1665機、1938年169機、合計2695機が量産された。
ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、複葉機戦闘機が配備されていた時期の1933年12月30日初飛行、片持式低翼単葉、モノコックの胴体、引込式降着装置、スライド式ガラス風防コックピット、エンジンカウリングに沿って配置された推力式単排気管など、後年の航空機が採用することになる新設計を取り込んでいる。初期型はシュベツォフ M-25(Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力を搭載していた。しかし、後期型は、アメリカのカーチス・ライト社(Curtiss-Wright)が開発したライト R-1820「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ(Shvetsov)M-62を装備した。
初飛行が1933年12月30日のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ソ連空軍のほか、スペイン共和国、中華民国、フィンランドで使用された。ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、1933年11月生産開始、1934年3月から部隊配備され最終的には8,644機も大量生産された。
⇒写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機を見る。
ソ連は、1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償)譲渡し中国空軍の主力航空機となった。スペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じく,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであるとしたのである。その後、アメリカが、日中戦争にアメリカ義勇部隊(American Volunteer Group)AVGを通じて「参戦」し、1941年12月に太平洋戦争が勃発、アメリカは日本に宣戦布告した。こうして、ドイツとの大祖国戦争(Великая Отечественная война)に苦戦していたソ連にとって代わって、中国に対する軍事援助は、「援蒋ルート」を開いてアメリカが担うようになる。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。 【目次】
ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで/アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦/ドイツ革命とその反動/ドイツ・ワイマール共和国の混乱/共和国安定期から世界大恐慌へ/ナチ党ヒトラー独裁の始まり/ナチスの再軍備・対外膨張/第二次ヨーロッパ大戦の勃発/対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争/ユダヤ人殲滅のための世界戦争/ヒトラー第三帝国の崩壊/ナチ・プロパガンダ神話の真実
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
コースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo ⇒ホロ
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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