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米内光政と阿南惟幾との比較:終戦 2007
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◆米内光政と阿南惟幾との比較:終戦
写真(上左):1945年7月23日,ドイツ降伏後のベルリン郊外、ポツダム会談のためのイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)の宿舎玄関に集まったビッグスリー、チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、 : イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)が表明された。Description: British Prime Minister Winston Churchill (left), President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin on the steps of Mr. Churchill's house during the Potsdam Conference in Germany. Mr. Churchill has just given a dinner for Mr. Truman and Mr. Stalin. Others in photo are unidentified. From Potsdam Album, 1945 Date: July 23, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-58引用。
写真(上右):1945年7月19日、ポツダム会談時の三首脳。左からアメリカ大統領ハリー・トルーマン、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, その右にイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)、イギリス首相クレメント・アトリー、ソ連元首ヨシフ・スターリン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談Potsdam Conference)には、それまでのビッグ・スリーと異なり、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンに、イギリス首相は会談途中からウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに交代した。それ以前の主導会議から継続して参加したのは、ソ連のヨシフ・スターリンだけだった。 Description: Delegates seated for Potsdam Conference at the conference table at Cecilienhof Palace. President Harry S. Truman, left foreground (facing the American flag on the table), James F. Byrnes and Admiral William Leahy to his right; British Prime Minister Winston Churchill, upper left (facing the British flag on the table) with Clement Attlee two to the right of Mr. Churchill. Premier Josef Stalin (facing the Russian flag on the table, gesturing with his right arm) and Vyascheslav Molotov at right. Averell Harriman at extreme left. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Harriman, W. Averell (William Averell), 1891-1986; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は、 Naval History and Heritage Command Accession Number: 63-1456-42引用。

フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt : FDR;1882-1945/4/12)民主党出身の第32代アメリカ大統領を1933年3月4日から1945年4月12日まで務めるが、これはドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの任期とほぼ等しい。世界恐慌の失業対策として、積極財政のニューディール政策を採用し、テネシー渓谷開発公社、公共工事局 などを設けて公共事業を拡大した。マスメディアを活用し、ラジオ演説「炉辺談話 fireside chats」を毎週放送した。1937年10月5日、世界中で行われている侵略行為を憂慮し、このような侵略国は病人と同じく隔離すべきとしたが、これはドイツ、日本を指していた。第二次大戦が始まっても中立を保ったが、1940年7月にスティムソンを陸軍長官に復帰させ、9月に選抜徴兵制を採用し動員を開始した。1941年3月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、イギリス、中国に大量の軍事物資を貸与した。のちに、1941年6月に独ソ戦が始まると、ソビエト連邦へも武器貸与を行った。


◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日青弓社刊行,368頁,2100円)が紹介されました。

沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献

1.1945年,海軍大臣米内光政は、ウェブもりおか>先人記念館によれば「1937年には林銑十郎内閣の海軍大臣に就任し,三国同盟に反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚く,1940年には岩手県出身者としては3人目の内閣総理大臣に就任,しかし陸軍の反対に会い半年後に退任。太平洋戦争末期には小磯内閣で4期目の海軍大臣に入閣,終戦のために尽力する」と米国での正反対の評価を考慮していない。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、米内光政は,「小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内光政は、必死で戦争終結の道を探った。----あの時代に、戦争への流れをささやかでも抵抗した良識派軍人の居たことは特記されねばならない」と中国戦線拡大にも特攻にも触れていない。

しかし,1936年12月,米内光政は,連合艦隊司令長官に就任し,1937年2月には海軍大臣になり、巨大戦艦「大和」「武蔵」建艦計画を決定(起工は1937-38年)。1937年7月7日の盧溝橋事件とそれに続く第二次上海事変で,海軍艦艇による砲撃・中国大陸海上封鎖,さらに南京など中国の都市への戦略爆撃を実施した。

米内光政大将は,日米戦争を開戦阻止の行動はとっていない。サイパン島陥落後の1944年7月22日,小磯国昭内閣の海軍大臣に就任しても,和平交渉を提議していない。米内大臣は,人間魚雷「回天」,人間爆弾「桜花」,特攻艇「震洋」など特攻兵器を開発・量産し(1944年3-7月),特別攻撃隊を送り出した(1944年10月)。1945年4月7日,鈴木内閣で再び海軍大臣に就任,沖縄戦「菊水作戦」として,特攻機を連日出撃させた。

写真(右):1945年7月15日、北海道の空襲に向かうアメリカ海軍空母任務部隊、空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9) から発進したTBMアベンジャー艦上雷撃機とSB2Cヘルダイバー艦上急降下爆撃機の編隊。:1945年7月14、15日に、北海道の渡島(函館)、石狩、十勝、網走などがアメリカ海軍艦上機による空襲を受けた。特に根室、釧路は大きな被害を受け、製鉄所のあった室蘭、連絡船で本州青森と結ばれている交通の要衝 函館、小樽も攻撃された。北海道の空襲による犠牲者は2000人以上、本州と道内を結び人員・石炭などを運ぶ青函連絡船も沈められた。この丁度1カ月後、天皇は降伏の聖断を下した。
Title: Raids on Japan, 1945
Description: TBMs and SB2Cs from USS ESSEX (CV-9) dropping bombs on Hokadate, Japan, 15 July 1945.
Catalog #: 80-G-490232 Copyright Owner: National Archives Original Date: Sat, Jul 14, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490232 Raids on Japan, 1945 引用。


写真(右):1945年7月15日、北海道、アメリカ海軍第三艦隊の空母艦上機による空襲を受ける青函連絡船:空母「エセックス」USS ESSEX (CV-9) 艦上機より撮影。1945年7月14、15日、北海道の各地をアメリカ海軍艦上機が攻撃した。アメリカ海軍戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦9隻も、7月15日、室蘭を艦砲射撃した。
Title: Raids on Japan, 1945 Caption: Japanese railway ferry under air attack during 3rd fleet raids on the Hakodate-Amori ferry link between Hokkaido and Honshu, 14 July 1945. Photographed from a USS ESSEX (CV-9) plane. Catalog #: 80-G-490113 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Jul 14, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490113 Raids on Japan, 1945引用。


1945年7月14日〜15日、アメリカ軍空母艦上機による空襲によって、本州青森と北海道函館を結ぶ生命線「青函連絡船」が攻撃され、函館ドックも空襲で壊滅的な被害を受けた。この空襲で沈没したのは、翔鳳丸・飛鸞丸・津軽丸・第一青函丸・第二青函丸・第三青函丸・第四青函丸・第十青函丸・松前丸・第六青函丸で、第七青函丸・第八青函丸は行動不能となった。死者・行方不明者は352人という。

写真(右):1945年7月15日、北海道、アメリカ海軍第38空母任務部隊の空母艦上機による空襲を受ける根室:1945年7月14、15日に北海道の渡島(函館)、石狩、十勝、網走などがアメリカ海軍艦上機による空襲を受けた。高速戦艦「アイオア」・「ミズーリ」など戦艦3隻、巡洋艦2隻、駆逐艦9隻は、7月15日朝、室蘭沖28キロから日本製鋼所室蘭製作所、日鉄輪西製鉄所を目標に艦砲射撃を行った。戦艦群は、砲弾860発を発射、9時36分から10時30分まで約1時間にわたり砲撃した。
Title: Carrier Strikes on Japan, July 1945 Caption: Fires burning in the town of Nemuru, Hokkaido, after attacks by planes from task force 38, 15 July 1945. Catalog #: 80-G-490149 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sun, Jul 15, 1945
写真はNaval History and Heritage Command https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/80-G-490000/80-G-490149.html引用。


北海道東部、根室市は、1945年7月14日・15日の両日に、アメリカ海軍空母機動部隊の艦上機による空襲を受けた。根室空襲では、根室住民210人が死亡、船舶関係の軍属・民間人106人が死亡・行方不明になったという。この他、軍徴傭船の乗組員の死亡者・行方不明者を加えると、根室空襲全体の犠牲者は400人を超えると推定される。この根室空襲では、浦河丸(東邦水産、343総トン)と東裕丸(飯野海運、1256総トン)の2隻が撃沈され、浦河丸では合計109人が死亡・行方不明となった。東裕丸では40人程度が犠牲になったという。

写真(右):1945年7月15日、九州、天草でアメリカ海軍空母任務部隊、空母「クーペンス」USS COWPENS (CVL-25)から発進した艦上機の襲撃を受ける日本の小型貨物輸送船:熊本方面に限っても、1945年7月だけで次のような空襲を受けている。
7月1日 B29、154機が、翌2日未明にかけて熊本市を空襲、新市街・下通町・大江町・水道町など市内の大部分焼失、各種デマ流布。 7月3日 小型機約100機、九州各地飛行場へ。 7月4日 B29戦爆連合九州へ、熊本郵便局焼失。 7月5日 熊本市花岡山の蓬莱閣に第30戦闘飛行集団司令部が進出。 7月6日 戦爆連合約160機九州へ 。 7月10日 小型機の戦爆連合約140機、熊本市及び県東北部へ。 7月11日 戦爆連合約200機九州へ 。 7月14日 戦爆連合150機、県下各地を空襲。 7月15日 B29、小型機107機の戦爆連合県下へ。 7月16日 B24、30機、B25・P38・P47・P51など90機県下各地へ来襲、午後、小型機130機天草方面へ来襲 。 7月17日 B29、10機、小型機約50機県下各地へ。 7月24日 P51など小型機約1500機県下各地へ、熊本駅も機銃掃射。 7月25日 小型機多数各地へ 。 7月27日 小型機多数各地へ 。 7月29日 戦爆連合約500機来襲。 7月30日 小型機約400機来襲。 7月31日 戦爆連合約400機来襲。
Title: Raids on Japan, 1945
Description: Small Japanese freighter under air attack near Amakasu, Japan, on 15 July 1945. Photo by USS COWPENS (CVL-25).
Catalog #: 80-G-490161 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sun, Jul 15, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490161 Raids on Japan, 1945 引用。


写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県沖を釜石への艦砲射撃に向かう、アメリカ海軍の高速戦艦「インディアナ」(USS Indiana :BB-58)、高速戦艦「マサチューセッツ」(USS Massachusetts :BB-59)、巡洋艦「シカゴ」 Chicago (CA-136)、巡洋艦「クインシー」 Quincy (CA-71)の戦列:先頭を航行する高速戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota:BB-57)から撮影。
釜石は、天然の良港があり、水産業も興っていたが、江戸時代末期、安政4年(1857年)に大島高任が日本初の洋式高炉を建設、出銑に成功して以来、近郊に産出する鉄鉱石を活かした製鉄業が盛んになった。1945年の太平洋戦争末期、関東、関西など全国主要都市はB29爆撃機による空襲を受けていたが、釜石は、被害がなかった。しかし、大橋地区に鉄鉱資源を有し、国内では唯一自給のできる製鉄所を持つ釜石では、市民がいつかは空襲を受けるであろうという覚悟をしていたという。
Title: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945 Description: Battleships and heavy cruisers steam in column off Kamaishi, at the time they bombarded the iron works there, as seen from USS South Dakota (BB-57). USS Indiana (BB-58) is the nearest ship, followed by USS Massachusetts (BB-59). Cruisers Chicago (CA-136) and Quincy (CA-71) bring up the rear. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490143 Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945引用。


写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県釜石沖、アメリカ海軍サウスダコタ級戦艦2番艦「インディアナ」(USS Indiana :BB-58)の45口径16インチ(40.6cm)三連装砲塔9門による釜石製鉄所への艦砲射撃
戦艦「インディアナ」は、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で起工 1939年11月20日、進水 1941年11月21日、就役 1942年4月30日。
基準排水量:3万5,000トン
満載排水量:4万4,374トン
全長 207.36m、全幅 32.95m、吃水 10.35m
機関 蒸気タービン4機4軸 13万馬力
最高速力 27.8ノット、乗員 2,300名
兵装: 45口径16インチ(40.6cm)砲9門、38口径5インチ(12.7cm)砲16門、56口径40ミリ対空機関砲24門、70口径20ミリ対空機銃16門。
Title: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945 Description: USS Indiana (BB-58) fires a salvo from her forward 16/45 guns at the Kamaishi plant of the Japan Iron Company, 250 miles north of Tokyo. A second before, USS South Dakota (BB-57), from which this photograph was taken, fired the initial salvo of the first naval gunfire bombardment of the Japanese Home Islands. The superstructure of USS Massachusetts (BB-59) is visible directly behind Indiana. The heavy cruiser in the left center distance is either USS Quincy (CA-71) or USS Chicago (CA-136) . Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6035 Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945引用。


岩手県釜石市は、1945年7月14日に三隻の高速戦艦、二隻の重巡、九隻の駆逐艦により艦砲射撃を受け、さらに、同年8月9日に三隻の高速戦艦、四隻の重巡、十隻の駆逐艦により、二度目の艦砲射撃を受けた。二度にわたる艦砲射撃と艦上機による空爆のために、釜石市街地は焦土と化し、釜石製鉄所も破壊された。

写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県釜石沖、アメリカ海軍の高速戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota:BB-57)の45口径16インチ(40.6cm)三連装砲塔9門による釜石製鉄所への艦砲射撃:戦艦「サウスダコタ」は、ニューヨーク造船所起工 1939年7月5日、進水 1941年6月7日 就役 1942年3月20日
基準排水量:3万5,000トン
満載排水量:4万4,374トン
全長 207.36m、全幅 32.95m、吃水 10.35m
機関 蒸気タービン4機4軸 13万馬力
最高速力 27.8ノット、乗員 2,300名
兵装: 45口径16インチ(40.6cm)砲9門、38口径5インチ(12.7cm)砲16門、56口径40ミリ対空機関砲68門、70口径20ミリ対空機銃76門。
Title: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945 Description: USS South Dakota (BB-57) fires her forward 16/45 guns at Kamaishi targets during the bombardment. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #: 80-G-490175
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490175 Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945引用。


写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県釜石沖、アメリカ海軍サウスダコタ級戦艦2番艦「インディアナ」(USS Indiana :BB-58)の45口径16インチ(40.6cm)三連装砲塔9門による釜石製鉄所への艦砲射撃:中央には12.7センチ連装高角砲砲塔が上空を警戒している。岩手県釜石市は、1945年7月14日に三隻の高速戦艦、二隻の重巡、九隻の駆逐艦により艦砲射撃を受け、さらに、同年8月9日に三隻の高速戦艦、四隻の重巡、十隻の駆逐艦により、二度目の艦砲射撃を受けた。二度にわたる艦砲射撃と艦上機による空爆のために、釜石市街地は焦土と化し、釜石製鉄所も破壊された。

Title: USS INDIANA (BB-58) Caption: Bombarding Kamaishi, Honshu, Japan, with her forward 16" guns, 9 August 1945. This was the last salvo of the bombardment. Note 16" projectile in air at left. Catalog #: 80-G-339340 Copyright Owner: National Archives Original Date: Thu, Aug 09, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-339340 USS INDIANA (BB-58)引用。


釜石は東北地方で唯一の製鉄所をもつ軍需都市であり、大規模空襲を受けることが予期されたため、各地に監視硝が配置され、高射砲連隊を駐屯させ、対空防備を固めていた。そして、市街地に不必要な燃焼しやすい建築物や戦時に役に立たない子供を置かない目的で建物疎開・学童疎開も行われ、公共防空壕・防火用水の整備、防火体制の強化がなされ、官民一体の防空訓練も実施された。実際の空襲前の日本では、各家庭では窓ガラスに飛散防止の紙テープを張り、防火水槽、火たたきなど消化用具を備えていた。これは他の都市と同様の事前の備えだったが、実際の大規模空襲には、ほとんど役に立たなかった。

1945年3月10日の東京大空襲、盛岡空襲を受け、岩手県は釜石市の国民学校初等科(現在の小学校)の児童の集団疎開を勧告し、1945年4月と5月に集団疎開を実施した。同時に、一般家庭の縁故疎開や家財道具の疎開も行なわれるようになった。

写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県釜石沖、アメリカ海軍の戦艦と巡洋艦の艦砲射撃を受けている釜石製鉄所。この艦砲射撃で、朝鮮から連行され働かされていた韓国人労務者も多数死傷した。写真は、高速戦艦「サウスダコタ」から撮影。
Title: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July
Description: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945. Smoke rises from the target area, during the bombardment by cruisers and battleships. Photographed from USS SOUTH DAKOTA. .
Catalog #: 80-G-K-6036 Copyright Owner: National Archives Original Date: Sat, Jul 14, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6036 Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945引用。


1945年7月14日午前11時、艦上機の偵察飛行、機銃掃射が行われた後で、釜石製鉄所と市街地を目標にして、2時間に渡る艦砲射撃が行われた。特に高速戦艦「サウスダコタ」の16インチ(40cm)砲は大きな威力があった。各種砲弾2,600発の命中が数えられたという。釜石製鉄所の施設は完全に破壊され、倒壊や火災等により従業員100余名が死亡した。

他方、市街地の住民は艦砲射撃と艦上機の空襲に怯えて、山中に避難したが、アメリカ軍の上陸を危惧していた。下山しようにも何の情報も得られず、身動きが取れなかったのである。市街地の火災、上空を舞う艦上機、さらに艦砲の砲撃音など、火災消火活動もできずに大混乱となった。焼失家屋1,460戸。16時半、火災はようやく鎮火した。

写真(右):1945年7月16日、本州の岩手県釜石沖、アメリカ海軍の戦艦の16インチ砲の艦砲射撃を受けている釜石製鉄所。砲弾が命中した場所に命中した柱が立ち上っている。写真は、高速戦艦「サウスダコタ」から撮影。
Title: Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July
Description: Bombardment of Japan, 14 July 1945. 16" shells exploding at Kamaishi, 250 miles north of Tokyo and the site of a Japanese iron works, during the bombardment by battleships and cruisers. Photographed from USS SOUTH DAKOTA.
Catalog #: 80-G-K-6034
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-K-6034 Bombardment of Kamaishi, Japan, 14 July 1945引用。


1945年8月9日、釜石は2回目の艦砲射撃を受けた。午前8時43分に岩手県に空襲警報が発令、午前11時5分頃、艦上機が釜石市上空に姿を見せた。空襲を恐れた住民は防空壕や付近の山中に避難したが、12時50分頃から激しい艦砲射撃が始まった。前回同様、2時間にわたり高速軍戦艦「サウスダコタ」などから2,800発の砲弾が射撃された。主な目標は、釜石の全市街地、製鉄所の全施設、社宅街だった。艦砲射撃によって、釜石製鉄所は全機能が停止、前回は、全く被害を受けなかった製鉄所の社宅街(3地区)では、火災は発生しなかったものの、甚大な被害を受け、多数の死傷者が出た。市街地では火災が多数発生、火勢が強かったが、消火活動の結果、17時30分頃鎮火した。釜石は、2度にわたる艦砲射撃により、市街地のほとんどの地域が被災し、被災世帯4,543世帯、被災人員16,992人のうち750余名の尊い命が奪われた。

写真(右):1945年7月24日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受ける日本海軍の戦艦「日向」あるいは「伊勢」:船尾に平面的な飛行甲板が見えるが、ここに水上爆撃機「瑞雲」あるいは艦上爆撃機「彗星」を搭載する計画だった。しかし、実際に航空戦艦として艦載機を搭載して戦ったことはない。
Title: Air Raids on Japan, 1945 Caption: Japanese battleship ISE under air attack at Kure, 24 July 1945. Catalog #: 80-G-490153 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Tue, Jul 24, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490153 Air Raids on Japan, 1945 引用。


広島市への空襲は、1945年3月18、19日に空母艦上機による空襲があり、1945年4月30日、1機のB29により小町の中国配電株式会社等に10発の爆弾が投下され、死者10人、負傷者16人、罹災者200人が出た。その他には、広島も隣の栗面自立った空襲もななかった。広島は、(1)都市の大きさや地形が原爆の破壊力を実験するのに適当だったこと、(2)軍隊、軍事施設・工場が集中し、しかも無傷であったこと、などから1945年8月6日、世界最初の原子爆弾で攻撃されたが、それまでは平穏だった。呉軍港も、太平洋戦争末期までは平穏であったが、1945年3月19日、7月24日、7月25日、7月28日、7月29日とアメリカ空母任務部隊航空部隊の艦上機の空襲を受けた。

写真(右):1945年7月24日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受け大破着底した日本海軍の航空戦艦「日向」:船体後方には飛行甲板となっているが、船尾近くには飛行甲板と格納庫との間を飛行機を運搬するエレベーター(昇降機)があり、その輪郭がはっきり識別できる。船体周辺には、破損孔から漏れた重油が漂っている。
戦艦「日向」起工1915年5月6日、進水1917年1月27日、就役1918年4月30日
航空戦艦時の諸元
公試排水量:3万8,872トン
全長219.62 m、全幅33.83 m、吃水9.03 m
ロ号艦本式缶8基タービン4基4軸
出力:8万馬力、最高速力25.1 ノット
航続距離:9,500マイル/16ノット
乗員:1,669名
兵装:四一式45口径36センチ連装砲4基
八九式12.7センチ連装高角砲8基16門、九六式25ミリ三連装機銃19基
搭載機:常用22機(カタパルト2基・エレベーター1基)
Title: Raids on Japan, 1945 Caption: Japanese battleship HYUGA rests on the bottom near Kure after being sunk by 3rd fleet planes on 24 July 1945. Catalog #: 80-G-490239 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Tue, Jul 24, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490239 Raids on Japan, 1945引用。


写真(右):1945年7月24日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受け大破した日本海軍の航空戦艦「日向」:戦後1945年10月9日の撮影。後方の第2艦橋上のマストには、対空偽装を施した迷彩ネットの破片がかかったままになっている。船尾の36センチ14インチ連装砲2基を撤去して、飛行甲板と格納庫が設けたられている。航空戦艦となったが、飛行甲板に着陸することはできなかった。搭載機は、カタパルトで射出することになっていたが、実際に航空戦艦として使用されたことはなく、格納庫は物資輸送に使われた程度だった。実戦としては、レイテ沖海戦に、小沢艦隊に加わり、強化された対空兵装を活かして、囮艦隊の役目を果たし、帰還することができた。
Title: Japanese Battleship HYUGA Caption: Lies off Kure where she had been sunk by air attack on 24 July 1945. Photographed on 9 October 1945. Catalog #: 80-G-351729 Copyright Owner: National Archives Original Date: Tue, Oct 09, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-351729 Japanese Battleship HYUGA 引用。


写真(右):1945年7月28日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受け大破着底した日本海軍の重巡洋艦「青葉」:戦後1945年10月12日の撮影。後方の第2艦橋上のマストを先端を切断して短くなり、対空偽装を施しやすくしている。迷彩ネットをかけて、艦船でないように見せかけた。
1944年10月のフィリピン決戦の捷号作戦(レイテ沖海戦)では栗田艦隊から抽出され、第十六戦隊旗艦として兵員輸送に従事。10月21日、スマトラ島沖リンガ泊地を出港するも、10月23日 ルソン島西方でアメリカ海軍潜水艦「ブリム」 (USS Bream:SS-243) の魚雷を受けて大破、マニラ湾に着く。マニラで応急修理により、11月6日、巡洋艦「熊野」のともにマタ31船団とともに本土回航。しかし、11月25日、「熊野」はサンタクルーズ沖で沈没、12月12日、青葉は呉軍港に帰投。しかし、大損傷を受けていた青葉は、修理を放棄し、繋留されるだけの存在となった。
Title: Aoba Description: (Japanese Heavy Cruiser, 1927) Resting on the bottom near the Kure Navy Yard, Japan, 12 October 1945. She had been sunk in air attacks in July 1945. The original photograph came from Rear Admiral Samuel Eliot Morison's World War II history project working files. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 97737
写真はNaval History and Heritage Command NH 97737 Aoba引用。


写真(右):1945年7月28日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の空襲を受け大破着底した日本海軍の重巡洋艦「青葉」:戦後1945年10月12日の撮影。
大正12年度艦艇補充計画で起工1924年2月4日、進水1926年9月25日、就役1927年9月20日
基準排水量9,000トン
全長:185.17 m、全幅:17.56 m、吃水:5.66 m
出力102,000馬力、最高速力33.43ノット
重油:2,040トン
航続距離:8,223マイル/14ノット
兵装:50口径20.3センチ連装砲3基6門
45口径12センチ単装高角砲4門
61センチ4連装魚雷発射管2基(九三式魚雷16本)
装甲:舷側76mm、主砲25mm
搭載機: 2機 (カタパルト1基)
Title: Aoba Description: (Japanese Heavy Cruiser, 1927) View looking aft from the bow, as the ship was resting on the bottom near the Kure Navy Yard, Japan, 12 October 1945. She had been sunk in air attacks in July 1945. Note her twin 20cm gun turrets and other details of deck and superstructure. Small tree branches around the deck edge are the remains of an attempt to camouflage the ship. The original photograph came from Rear Admiral Samuel Eliot Morison's World War II history project working files. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. Catalog #: NH 97738
写真はNaval History and Heritage Command NH 97738 Aoba引用。


写真(右):1945年7月28日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母「イントレピット」の艦上機の空襲を受ける日本海軍の戦艦「榛名」:原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでに重爆撃機ボーイングB-29による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。
Title: Third Fleet Raids on Japan, July 1945
Description: U.S. Navy carrier aircraft attack the Japanese battleship Haruna at her moorings near Kure, Japan, 28 July 1945. Photographed from a USS Intrepid (CV-11) plane. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-490226
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490226 Third Fleet Raids on Japan, July 1945引用。


第一回目の1945年3月19日、第58任務部隊は、沖縄攻略の前哨戦として、九州、西日本に空襲を掛けたが、この時は松山に基地を置く第三四三海軍航空隊の紫電改なども反撃し、高知県沖にあったアメリカ海軍エセックス級正規空母「フランクリン」を攻撃した日本海軍機が爆弾を命中させ、大破させるなど戦果を挙げた。

写真(右):1945年7月28日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の航空母艦の艦上機から爆撃を受けている日本海軍の戦艦「榛名」
Title: Third Fleet Raids on Japan, July 1945
Description: Japanese battleship Haruna under intense attack by U.S. Navy carrier-based aircraft, near Kure, Japan, 28 July 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-490224
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490224 Third Fleet Raids on Japan, July 1945引用。


1945年7月24日、28日、アメリカ海軍空母任務部隊による呉軍港空襲が再び行われたが、この時は日本軍は沖縄戦で敗北し、本土決戦のために戦力温存を図っており、完全に劣勢だった。そのため、戦艦「榛名」「伊勢」「日向」、空母「天城」「葛城」大破着底し沈没し、大損害を受けた。さらに呉海軍工廠の造船関連施設が破壊されたたため、呉は軍港の機能を失った。当時は、関門海峡や瀬戸内海、日本海側にも空襲やB-29爆撃機による機雷敷設(空中投下式の機雷)がなされ、日本の艦船にとって安全な海域はなくなった。

1945年3月19日、第58任務部隊による呉軍港空襲の被害は、軽巡洋艦「大淀」大破、戦艦「榛名」、戦艦「日向」、空母「天城」、重巡洋艦「利根」が小破した程度で、艦船の被害は少なかった。九州沖航空戦では、日本軍の航空兵力が敢闘したおかげで、しばらく呉軍港への空襲はなかった。

写真(右):1945年7月28日、本州の広島県呉軍港、アメリカ海軍空母任務部隊の空母艦上機の攻撃を受けて、大破した日本海軍の航空母艦「葛城」:戦前に完成した空母「飛竜」の改良型空母として量産された雲龍級航空母艦3番艦が「葛城」で、日本海軍最後の航空母艦となった。
開発は、1943年改マル5計画で始まり、起工1942年12月8日、進水1944年1月19日、竣工1944年10月15日。
基準排水量1万7,150トン、公試排水量 2万0,100トン
全長227.35m、水線長223.00m、全幅22.00m、喫水7.76m、全高(飛行甲板) 20.50m
飛行甲板:216.9m x 27.0m、昇降機(エレベーター)2基
主機 艦本式高中低圧タービン4基4軸、出力10万4,000馬力、最高速力 32.0ノット、航続距離8,000マイル/ 18ノット、乗員1,500名
兵器搭載能力 航空魚雷36本、800キロ爆弾72個、250キロ爆弾288個、60爆弾456個、飛行機用揮発油 360トン
兵装:40口径12.7センチ連装高角砲6基、25ミリ3連装機銃20基、同単装機銃25挺、12センチ28連装噴進砲6基。装甲:舷側25ミリDS鋼板2枚、甲板25mmCNC鋼板、搭載機:常用:戦闘機18機、艦爆27機、偵察機6機+補用2機、合計53機
Title: Raids on Japan, 1945 Caption: Third fleet planes attack the Japanese carrier KATSURAGI (upper left) at Kure, 28 July 1945. In the center is the carrier AMAGI, burned out as a result of raids four days before. Photo by USS IOWA (BB-61). Catalog #: 80-G-344680 Copyright Owner: National Archives Original Date: Sat, Jul 28, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-344680 Raids on Japan, 1945引用。


写真(右):1945年7月28日、北海道、アメリカ海軍第三艦隊の空母艦上機の空襲を受け、炎上する釧路市(青森市?):右下方には、炎上している蒸気機関車が写っている。原爆投下による大量破壊と大量殺戮は、すでに重爆撃機ボーイングB-29による無差別爆撃で、日本全土に広まっていた。その意味で,無差別爆撃の延長線上に原爆投下がある。
Title: Raids on Japan, 1945 Caption: Fires in Kushiro, Hokkaido, resulting from attacks by 3rd fleet planes on 28 July 1945. Note burning locomotive in lower right. Catalog #: 80-G-490160 Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Jul 28, 1945
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-490160 Raids on Japan, 1945引用。


釧路市は7月14・15日の両日に空襲を受け、192人ないし194人の死者が出た。
1945年7月28日、青森大空襲では、青函連絡船の第2青函丸、第3青函丸、第6青函丸、翔鳳丸、飛鸞丸が航行中撃沈された。

写真(右):1945年8月、本州沖に接近したアメリカ海軍空母任務部隊の航空母艦「ワスプ」USS Wasp (CV-18),を襲撃した日本海軍艦上爆撃機 愛知 B7A「流星」(連合軍のコードネームはグレーズ[Grace]が撃墜される瞬間:手前は、空母を護衛するフィレッチャー級駆逐艦。この写真は、1944年11月に就役したアメリカ海軍エセックス級航空母艦「ボノム・リシャール 」USS Bon Homme Richard (CV-31)から撮影された。
Title: Carrier Operations off Japan, August 1945
Description: (right) A Japanese aircraft is shot down just off the starboard bow of USS Wasp (CV-18), during operations off Honshu, Japan, 9 August 1945. Two Fletcher class destroyers are in the foreground. Photographed from USS Bon Homme Richard (CV-31), the image includes two frames, showing the scene just before and after the crash. The original caption identifies the aircraft as a Grace (Aichi B7A2). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-455702
写真はNaval History and Heritage Command 80-G-455702 Carrier Operations off Japan, August 1945引用。


ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月18日、グルジア生まれ、1953年3月5日没)ソビエト連邦は,1938年の満ソ国境での張鼓峰事件,1939年のモンゴル・満州国境のノモンハン事件に際しては,T-26軽戦車が投入され,日本軍を攻撃した。他方、スターリンの承諾の下、1939年8月23日、ドイツと独ソ不可侵条約秘密議定書が締結した。この独ソ不可侵条約(THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT)は, ?相互に相手の領土の不可侵, ?一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない ?相互間の紛争の平和的解決 を骨子とした,期限10年の条約である。 1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していたイギリス,アメリカは即座にソ連支援を公言した。1939年には日ソ中立条約を締結したが、1945年には延長せずと破棄通告(日ソ中立条約は半年は有効)。ヤルタ会談では、スターリンはドイツ敗北2-3カ月後に対日参戦することをルーズベルト大統領、チャーチル首相に約束した。ドイツ降伏3か月後の1945年8月9日、アメリカが長崎に原爆を投下した昼、スターリンは、ヤルタ密約と符合するように、佐藤駐ソ日本大使に対日宣戦布告をしたが、その理由は、日本がポツダム宣言を拒否して世界平和を乱しているということだった。

連合軍は、1945年5月8日、ドイツを無条件降伏に追い込み、戦後世界の構築を目指すために、1945年7月17日から8月2日、ソ連が占領したベルリン郊外ポツダムで会談した。アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(会議中、新首相クレメント・アトリー(Clement Attlee)に交替)、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)の3カ国の首脳、すなわちビッグスリーが集まって、第二次世界大戦後の世界を構想したのである。第二次世界大戦の最中、ビッグスリーの参集した連合国首脳会談は、1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談、1945年2月4日から11日のヤルタ会談に続き、この1945年7月17日から8月2日のポツダム会談で3回目だった。会議とは別に、1945年7月26日、日本に対して無条件降伏を要求するポツダム宣言が公表された。

 しかし、世界情勢に鈍感な鈴木貫太郎内閣,日本の政治家、軍首脳陣は、ドイツ無条件降伏にかかわらず、聖戦遂行、徹底抗戦を当然のように主張した。降伏するということを一切考慮することなしに、無謀ともいえる全軍特攻、一億玉砕の覚悟で戦い続け、本土決戦を準備していた。そのための時間稼ぎとして、1945年3月からの沖縄方面での戦いで、戦果をあげることを期待していた。このような戦備状況を見れば、鈴木内閣が終戦内閣だったとか,米内大臣が終戦に尽力したという俗説は,戦後に作られた話である。唯一実行した終戦工作といえるものは、ソ連首相ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)にアメリカ、イギリスとの和平の仲介を依頼するという、全くとんでもない国際情勢の読み違えだけである。

鈴木貫太郎内閣の終戦工作、和平交渉といっても、それは事実上、降伏の申出以外に有効な外交はなく、大日本帝国に降伏はない、敗北主義は許されないとすれば、徹底抗戦を続けるしかない。鈴木貫太郎内閣も、大元帥昭和天皇も、終戦工作、和平交渉に本気で取り組みのであれば、「降伏」以外に道はなかった。彼らが試みたソ連への仲介、バチカンや中立国スイスを通じての交渉など日本の最高指導者たちの思い付きの終戦工作・外交は、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンJoseph Stalin)というビッグスリーの揃ったヤルタ会談での高度に政治的な議論や各国の軍指揮官がそろっての討議に比較すれば、小手先の捻くりまわし、子どもの遊戯に過ぎない。

 鈴木内閣が当初、和平交渉の土台にしようとしていた国体(天皇制)護持、無条件降伏を避ける、日本軍の武装解除と戦争責任者・戦争犯罪者の裁判は日本側が独自に実施する、こんなとんでもない申し出を、ビッグスリーが認めるはずはなった。理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で決したのであり、もはや条件付交渉といえるほどの余地は無かったのである。

 日本が1930年代の中国との戦いで、終戦工作、和平交渉をまともに行ってこなかったことあって、日本の外交・軍事・政治の指導者には、国際的に通用するような政治・軍事・外交の方針を打ち出す能力が、もはや朽ち果てていた。国家組織として、日本はシステム不全に陥っていた。世界は、日本に対して信頼を置かなかった。国家がシステム不全となれば、もはや日本の終戦の決断は、大元帥昭和天皇個人によるほかない。

1945年7月、ビッグスリーがポツダム会談で戦後世界を構想し討議している時期になっても、昭和天皇が終戦の聖断を下すかどうかなど、誰にも分からなかった。分かっていれば,議論が起こるはずがない。

1945年7月17日から8月2日のポツダム会談の様子を見ると、日本側が最も関心を寄せていた国体(天皇制)護持、無条件降伏の回避、日本軍の武装解除と戦争責任者・戦争犯罪者の裁判は日本側が独自に実施する、このような和平交渉は、当時の世界状況からみて、全く独善的で身勝手なものに映ったに違いない。圧倒的な軍事力、経済力、国際世論を背景に、ビッグスリーは、日本の無条件降伏による戦争の勝利を確信しており、議論の余地など全くなかったことが理解できる。問題は、日本の最高政治指導者も軍事指導者も、そのことを理解できず、内輪の理屈に拘泥し、世界の動向を見損なっていたことだった。

唯一の希望は、大元帥昭和天皇だった。終戦の決断は、大元帥昭和天皇によるほかない。1945年7月になっても、昭和天皇が終戦の聖断を下すかどうかなど、誰にも分からなかった。分かっていれば,議論が起こるはずがない。臣は、叡慮に従うのみ。

写真(右):1945年7月11日、ドイツ、ベルリン郊外のポツダム会談出席のためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):説明しているのはアメリカ海軍ジェームズ・フォスケット大尉(1898-1961)アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動し、ベルリンに向かった。
Description: Left to right: Captain James Foskett spins a yarn to Secretary of State James Byrnes and President Harry S. Truman on the U. S. S. Augusta as they travel to the Potsdam Conference. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Naval officers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships HST Keywords: Potsdam - U. S. S. Augusta; Ships - Augusta - Truman aboard; Truman - Potsdam - U. S. S. Augusta; Truman - Ships - Augusta (aboard) People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Truman, Harry S., 1884-1972 1950
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-08引用。


写真(右):1945年7月11日、ポツダム会談に出席するのためにベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」艦首のアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):写真と動画の撮影をし、アメリカ国内外でのプロパガンダに活用した。これらの映像を見ると、トルーマン大統領が、先輩の上院議員バーンズ国務長官に遠慮しすぎている、あるいはバーンズが先輩風を吹かせているように見えてくる。たしかに、日本へのポツダム宣言での国体護持条項を削り、日本絵の原爆投下を率先して主導したのは、バーンズ国務長官であり、ルーズベルト大統領の急死で急遽大統領に就任したトルーマンでは、情報も政治的力量も不足であると感じられた。
Description: President Harry S. Truman (left) and Secretary of State James Byrnes (right) pose for two unidentified press photographers on board the USS Augusta. They are on board the USS Augusta to travel to the Potsdam Conference in Germany. Date: July 11, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Photographers; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-04引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)食堂で将校たちと一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: Description: President Harry S. Truman (at the head of the table, in civilian clothes) is eating lunch with unidentified Chief Petty Officers aboard the USS Augusta. President Truman traveled to Germany on board the USS Augusta for the Potsdam Conference. Date: ca. July 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Luncheons; Presidential trips; Presidents; Sailors; Ships
写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-18引用。


写真(右):1945年7月11日ごろ、ポツダム会談に出席するために、アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)に乗艦、アントワープに向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン。乗員と同じ食事をカンティーンでとる大統領。:軽巡「オーガスタ」の新造時の排水量: 9,050 トン 全長: 600 ft 3 in (182.96 m) 全幅: 66 ft 1 in (20.14 m) 吃水: 16 ft 4 in (4.98 m) 最高速力: 32.7 ノット 乗員: 735名 兵装: 8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門 7.62mm機銃8基 21インチ魚雷発射管6門Description: President Harry S. Truman (front line, second from left) answers mess call with the crew of the USS Augusta, as he travels to the Potsdam Conference. All other sailors are unidentified. Date: ca. July 1945 Related Collection: William Rigdon Papers ARC Keywords: Dinners and dining; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Presidents; Sailors; Ships HST Keywords: Truman - Potsdam - USS Augusta People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: Accession Number: 70-5871引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)食堂で水兵と一緒に食事をとるアメリカ大統領ハリー・トルーマン(中央):ドイツ、ポツダム会談に出席するため、アントワープから、ベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で移動。
Description: President Harry S. Truman (second from left) shares a meal with unidentified United States Navy crewman on board the USS Augusta. President Truman is on board the USS Augusta to travel to Germany for the Potsdam Conference. Date: July 12, 1945
写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-13引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍軽巡洋艦「オーガスタ」の食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):サウスカロライナ州の貧しい母子家庭出身のバーンズは、独学で法律を学び、上院議員に当選。インフラ整備や教育に力を入れ、州知事に当選。その後、第二次大戦が勃発すると、フランクリン・ルーズベルト大統領の下で、戦時動員局長に就任し、当初から原爆開発、マンハッタン計画に深く関与した。
Description: Secretary of State James Byrnes (seated, second from right) eating with unidentified United States Navy crewmen on board the USS Augusta. Secretary Byrnes was traveling to the Potsdam Conference on board the USS Augusta with President Harry S. Truman. Date: July 12, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers ARC Keywords: Cabinet officers; Luncheons; Potsdam Conference, 1945; Presidential trips; Sailors; Ships
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-16引用。


写真(右):1945年7月12日、ベルギー、アントワープ港に向かうアメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)食堂で乗員と一緒に食事をとるアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(中央):ルーズベルトの死後、弟子のハリー・トルーマンが大統領に就任すると、1945年7月には、ハルの跡を継いで、先輩の上院議員バーンズが国務長官に抜擢された。外交では冷徹な反共産主義者だったが、故郷では教育や福祉に尽力していまだに高名な政治家である。
Description: Secretary of State James Byrnes (right side of table, third from right, in civilian clothing) eating with unidentified crewmen of the USS Augusta. Secretary Byrnes traveled with President Harry S. Truman aboard the USS Augusta to Germany for the Potsdam Conference. Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-17引用。


写真(右):1945年7月14日、イギリス海峡、アントワープに向かうアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督の乗艦アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」を護衛するイギリス海軍艦艇:1945年7月、重巡洋艦「オーガスタ」にはポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領らが乗艦しているが、もはやドイツは降伏しており、攻撃される心配は全くなかった。しかし、イギリスは、戦勝を助けた同盟国アメリカに最大限の敬意を払って、イギリス艦隊を護衛に差し向けた。
Description: A unit of the British fleet escorts the U. S. S. Augusta across the English channel. President Harry S. Truman in on board the U. S. S. Augusta, en route to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-20引用。


写真(右):1945年7月、ベルギー、アントワープ港、ポツダム会談に出席するアメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督を、アントワープ港に送り届けたアメリカ海軍巡洋艦「オーガスタ」:アメリカ海軍ノーザンプトン級重巡洋艦「オーガスタ」 (USS Augusta: CA-31)は、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に出席するハリー・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官、海軍参謀総長ウィリアム・リーヒ元帥を乗せアントワープに向かった。The U. S. S. Augusta moored at the Municipal Pier, Antwerp, Belgium. The ship has just carried President Truman and his party to attend the Potsdam Conference. Sailors are visible in foreground. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: ca. July 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-42引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ポツダム会談に参加するためにガトー飛行場に到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と娘のマリー(Mary:15 September 1922-31 May 2014):乗機は、イギリスの記章をつけているが、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」。チャーチル夫妻には5子ある。1909年生まれ長女ダイアナ、1911年生まれ長男ランドルフ、1914年生まれ二女サラ、1918年生まれ三女マリーゴールド、1922年生まれ四女メアリー である。メアリーは、1941年からロンドンの対空部隊に配属されたが、後にベルギー、ドイツでも任務に就いている。ポツダム会談には、父に同行し、トルーマン大統領、スターリン首相とも会っている。夫は、保守党政治家クリストファー・ゾームズ(Christopher Soames)男爵で、彼は最後の南ローデシア総督となった。Prime Minister Winston Churchill, surrounded by cameramen and dignitaries, leaves the airplane which brought him to Gatow Airport in Berlin, Germany for the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965 Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission.
写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-21引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場、ポツダム会談に参加するイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と出迎えるバーナード・モントゴメリー元帥(Bernard Law Montgomery):Description: British Prime Minister Winston Churchill (center) is greeted by Field Marshall Bernard Montgomery at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Churchill has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Montgomery of Alamein, Bernard Law Montgomery, Viscount, 1887-1976
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1456-58引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)が出迎えのガトー空港警備のイギリス陸海空軍将兵を閲兵している。
Description: Distance view of British Prime Minister Winston Churchill inspecting the honor guard at Gatow Airport in Berlin, Germany. The Guard was composed of men from the Royal Navy, Canadians, Royal Air Force, and a battalion of Grenadier Guards. Prime Minister Churchill has just arrived in Berlin to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir,
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-63引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場にアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したアメリカのヘンリー・スチムソン陸軍長官とアメリカ陸軍フロイド・パークス中将(前列右端):フロイド・パークス中将は、 イェール大学、 アメリカ陸軍戦略大学で学び、9月からはベルリン地区の軍政長官に就任する。
Description: Secretary of War Henry L. Stimson (foreground, second from right) walks with General Floyd L. Parks at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Stimson has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Parks, Floyd Lavinius, 1896-1959; Stimson, Henry Lewis, 1867-1950
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-12引用。


写真(右):1945年7月15日,ドイツ、ベルリン飛行場、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」:ポツダム会談に参加するアメリカ首脳陣は、ダグラスC-54輸送機に乗り、イギリス首脳陣も、アメリカが貸与したダグラスC-54に乗ってベルリンに到着した。
ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」は、プラット&ホイットニー空冷星形エンジンR-2000(1,290馬力)4基搭載、1942年に開発され1947年までに1200機生産。
最高速度:450 km/h
巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m
全高:8.38 m、座席数:50名
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg。
Description: C-54 transport planes line up after their arrival at Gatow Airport in Berlin, Germany. These planes brought President Harry S. Truman and other dignitaries to the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-14引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、出迎えたアメリカ陸軍第二機甲師団を閲兵する。大統領のジープには、後方を警戒する護衛隊員がいる。この後、大統領は、国務長官ジェームズ・バーンズとともにポツダムに向かった。遠方のアメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」は、1942年に開発され、1947年までに1200機生産された。:1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンは、ポツダムに向かった。国務長官ジェームズ・バーンズは、トルーマン大統領と同じ軽巡「オーガスタ」でアントワープについたが、ベルリンに到着したのは大統領よりも1日遅い7月16日である。
Description: President Harry S. Truman stands at attention during the playing of the National Anthem as the honor guard from the 2nd Armored Division presents arms, after his arrival at Gatow Airport in Berlin. He is on the way to the Potsdam Conference. Secretary of State James Byrnes is at the President's left. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-04引用。


ダグラス C−54スカイマスター(Skymaster)四発大型輸送機 ダグラス DC-4 (Douglas DC-4) 輸送機ののアメリカ陸軍向けC−54で、ダグラス社が開発した四発大型輸送機。アメリカ海軍向けは、R5Dと呼ばれる。1942年初飛行。


ダグラスC-54Douglas C-54 Skymaster)諸元
プラット&ホイットニー空冷ラジアルエンジンR-2000(1,290馬力)4基
最高速度:450 km/h
巡航速度:365 km/h
航続距離:6,800 km
全長:28.6 m、全幅:35.8 m
全高:8.38 m、座席数:50名
翼面積:135.6 平方メートル
自重:16,783 kg、全備重量:28,123 kg

原型は1942年初飛行に成功したダグラスDC-4民間旅客輸送機で、ダグラスDC-4で、アメリカ陸軍仕様はダグラスC-54輸送機、アメリカ海軍仕様はダグラスR5D輸送機として制式された。
ダグラスC-54・R5D輸送機は、1,100機生産され、戦後になって半数が民間企業に譲渡され、DC-4旅客機に転用された。DC-4旅客機は、アメリカのパンアメリカン航空、オーストラリアのカンタス航空、日本の日本航空などで、長距離旅客路線として使用された。

写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
Description: Front of Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Left in the photo is the section used as the British quarters. The long windows in the center are those of the Conference Room, and on the right are the quarters of the American delegation and President Truman. In the center, just to the right of the Conference Room, are the windows of the offices of Soviet leader Josef Stalin. From Potsdam album, 1945. Date: July 13, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-13引用。


写真(右):1945年7月13日、ドイツ、ポツダム会談の開催されたツェツィーリエンホーフ宮殿の正面:1917年に皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンのために建設され、ポツダム宮殿とも呼ばれた。1990年、ツェツィーリエンホーフ宮殿と庭園が「ポツダム・ベルリン宮殿・公園群」の一角としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。
The Schloss Cecilienhof, Potsdam, Germany, site of the Potsdam Conference. Soviet officers are on guard at the entrance. Schloss Cecilienhof was formerly the palace of the wife of Wilhelm II, Crown Prince of Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 13, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-18引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談の時期、アメリカ側の宿舎を警備する第713憲兵大隊のチェックポストを通過するジープ(Jeep):ジープは、アメリカン・バンタム社が1940年から軽量2,000ポンド(1トン以下)級・簡易構造の整備しやすい四輪駆動車という軍の要求を受けて開発した。アメリカン・バンタム社は弱小メーカーだったために、ウィリス・オーバーランド社、フォード自動車もこのバンタム社の設計を活かして試作した。そして、軍からこの3社に各1,500台もの増加試作車が発注された。1941年には、武器貸与法によってイギリス軍やソ連軍に貸与されたジープが部隊配備され、実戦で使用されている。第二次世界大戦中にウィリス・オーバーランド社、フォード自動車を中心に65万台が量産されている。
Military Police of the 713 Military Police Battalion check vehicles and personnel at a road barrier in the American compound of the Potsdam conference area. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-48引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を調整するロバート・スコット曹長とグラディス・ベロン一等兵:グラディス・ベロン一女史の袖階級章には、E2 一等兵(プライベート:Private;PV2)がついているが、その上の袖章は、通信技術兵(スペシャリスト:Specialist)を表示している。陸軍の階級は、二等兵、一等兵、上等兵、伍長、軍曹、曹長(下士官は一等、上等など細分化されている)、准尉、少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐、准将、少将、中将、大将、元帥と続く。使用している電話機は、 現在と同じように、電話の受話器と送話器が一体になっている。
Description: Private First Class Gladys Bellon and Sergeant Robert Scott test phone lines in the frame room of the switchboard at the U. S. headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Bellon, Gladys; Scott, Robert, U.S. Army sergeant
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-80引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム、アメリカ軍司令部に接続された電話交換機を監督するロレイン・ロバタイユ軍曹:アメリカ陸軍の下士官の階級は、本部付最上級曹長(Sergeant Major of the Army)、部隊付上級曹長(Command Sergeant Major)、上級曹長(Sergeant Major)、一等曹長(First Sergeant)、曹長(Master Sergeant)、一等軍曹(Sergeant First Class)、二等曹長(Staff Sergeant)、軍曹(Sergeant)、伍長(Corporal)。
電話をかけるために2つの電話機の間の通信回線をつなげるのが、電話交換の仕事である。個々の電話間を電話交換機と接続し、電話交換手の手で、一時的に相手の電話とと接続する。現在では、送信側が受話器を取り上げて電話番号を押すと自動的に相手の電話に回線がつながる自動交換方式・ダイアル通話が普及しているが、電話交換機の場所が限定されていること、電話交換機手が通信内容を把握できることなど秘密確保の上から、自ら専用の電話交換台を持つことが望ましい。
Description: Staff Sergeant Lorraine Robitaille, switchboard supervisor at the United States headquarters at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Robitaille, Lorraine
写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-79引用。


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム皆伝で使用する電話機をテストするイサベラ・ハーデカ一等兵:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談(Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、イギリス総選挙で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。
Description: Women's Army Corps Private First Class Isabella Hardacre handles the information phones at the headquarters switchboard at the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Hardacre, Isabella
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-76引用。


写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、ツェツィーリエンホーフ宮殿を発つ直前のアメリカ大統領ハリー・トルーマンの乗用車と二輪車に乗ったアメリカ軍の警備兵:Description: President Harry S. Truman (not visible) in his car preparing to leave the Cecilienhof Palace, site of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. From Potsdam album, 1945. Date: July 17, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-32引用。


1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman:4月12日就任),イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)((後日、新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談Potsdam Conference)前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験に成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出た。日本に対する降伏勧告から国体護持を認める可能性は、一切排除された。

写真(右):1945年7月17日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。スターリンは、1924年のレーニン死後、ソ連共産党書記長として、権力を集中して、一国社会主義を標榜しつつ、コミンテルンを通じて、世界各国に共産主義革命を起こそうとした。独ソ戦が勃発し、アメリカから武器貸与法によって軍事援助を受け入れ、国際協調が必要となると、国内向けの「書記長」の地位に加えて1953年に死亡するまで「首相」に就任。国家元首としての肩書を明確にした。
Description: Joseph Stalin, Harry S. Truman and Winston Churchill are photographed together for the first time just before the opening of the Big Three Conference at Potsdam. Same as 63-1455-26. From: Papers of Charles G. Ross; 12x18 Metal album with letters CGR. Date: July 17, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 96-21引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時事、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンの宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。左右に、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフとアメリカ国務大臣ジェームズバーンズが控えている。Description: President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes visit Premier Josef Stalin of the Soviet Union at Stalin's residence during the Potsdam Conference in Germany. On the balcony in the foreground are, left to right: Secretary of State Byrnes, President Truman, Premier Stalin, and Vyacheslav Molotov, Soviet foreign minister General Harry H. Vaughan is in the background, second from the left. Soveit Ambassador to the United States Andrei Gromyko is in the background, behind James Byrnes. All others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 18, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-50引用。

写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)と話し合うために集まった、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: President Harry S. Truman (left) and British Prime MInister Winston Churchill have an informal chat, before lunch, during the Potsdam Conference. The lunch took place at Mr. Churchill's residence at Potsdam. From Potsdam album, 1945 Date: July 18, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。

写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談の開催時期、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリンの宿舎を訪問したアメリカ大統領ハリー・トルーマン。ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフと腕を組むアメリカ国務大臣ジェームズバーンズ。中央奥は、アメリカ駐在ソ連大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko):From left to right: Soviet Prime Minister Josef Stalin; interpreter Charles Bohlen (mostly obscured by Stalin); V. N. Pavlov, Stalin's interpreter; Captain James Vardaman; President Harry S. Truman; Press Secretary Charles Ross (background, partly obscured); Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko; Secretary of State James Byrnes; and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. This photo was taken during Truman's visit to Stalin's residence during the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 18, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble),
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-53引用。


写真(右):1945年7月17日から8月2日,ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、ソビエト連邦駐アメリカ大使アンドレイ・グロムイコ(Andrei Gromyko)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)も参加した。7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)が表明された。Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: Group photograph of the Big Three heads of government at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. Those present are (from left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861
写真は、 Harry S. Truman Library & Museumおよび Wikimedia Commons, Potsdam Conference Potsdam ConferencePotsdam conference 1945-4.jpg引用。


ポツダム会議の最中に、イギリス総選挙で保守党が大敗し、保守党チャーチルにかわって労働党クレメント・アトリーが新首相に就任。チャーチルは7月26日に帰国し、アトリーが首相として残りの会議に参加した。会議では、はポーランド国境問題、ドイツの戦争賠償問題、ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー政体の問題が合意され、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言が、対日参戦していないスターリンに代わって、蒋介石の名を加えて発せられた。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前(後ろ姿)クレメント・アトリー(Clement Attlee):第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談で、7月26日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ただし、中心的な話題は、ドイツ降伏後のヨーロッパの勢力圏の東西分割だった。:Delegates gathered around the conference table at the Potsdam Conference in Germany. Soviet Prime Minister Josef Stalin is on the left, seated opposite the Soviet flag on the table; Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is on Stalin's right. British Prime Minister Winston Churchill is seated on the right, opposite the the British flag on the table; Clement Attlee is seated two to the left of Churchill. President Harry S. Truman is near the center, opposite the United States flag, wearing a bow tie and gesturing with his hand. Secretary of State James Byrnes is on the left of Truman; Admiral William D. Leahy is to the left of Byrnes. Interpreter Charles Bohlen is to the right of Truman. Seated behind Bohlen is Captain James Vardaman. Averell Harriman is seated to the right of Vardaman (partly obscured). General Harry Vaughan is standing, fifth from the right. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-45引用。


写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前クレメント・アトリー(Clement Attlee)、:7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)で、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: View of the conference room at the opening of the third day's session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Soviet leader Josef Stalin is at left, leaning back in his chair. Clement Attlee, center, has back turned to the camera. President Harry S. Truman is at top of table, wearing bow tie. British Prime Minister Winston Churchill is at lower right side of table, back to camera. Vyacheslav Molotov is seated to the right of Josef Stalin. Admiral William Leahy is seated two to the left of President Truman; Secretary of State James Byrnes is seated to the immediate left of President Truman. General Harry Vaughan is standing at the bottom of the stairs, second from the right. Averell Harriman is seated on the extreme right, partly obscured. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 19, 1945
写真は Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1455-34引用。


写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)がソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)にあいさつし握手している。右隣は国務長官ジェームズ・バーンズ、左端はアメリカ海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:President Harry S. Truman (wearing bow tie) greeting Soviet Prime Minister Josef Stalin at the start of the third day of the Potsdam Conference in Germany. They are in the conference room at Cecilienhof Palace. Also present are Admiral William Leahy (left) and Secretary of State James Byrnes (to the right of Truman). Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 19, 1945 People Pictured: Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-37引用。


写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、イギリス新首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。1945年7月26日、原爆投下命令の出た翌日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ここでは、2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。---吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈することもある。Description: General view of the conference table at the Potsdam Conference. This photograph is autographed on the border by Admiral Leahy, Charles Bohlen, Joseph E. Davies, President Truman, and Winston Churchill. Photos 72-4673 and 67-7587 show Winston Churchill signing this photo. This is one of four original prints in existence, photographed in color by a United States Army Signal Corps photographer using a hand-held camera. The original autographed photograph, measuring 20x24, is in the Museum collection. Clockwise around the table, starting at President Truman, who is seated directly across from the American flag on the table: President Truman; Charles Bohlen; Joseph E. Davies; possibly Sir Alexander Cadogan; Anthony Eden; Winston Churchill; Major E. O. Lyne; Clement Attlee; Andre Vishinsky; Vyacheslav Molotov; Joseph Stalin; V. N. Pavlov; Nikolai Kuznetsov; Admiral William Leahy; James Byrnes. Andrei Gromyko is seated in the chairs behind the table, between Pavlov and Kuznetsov. Edwin Pauley is seated in the chairs behind the table, behind President Truman. Date: ca. July 1945 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 80-133引用。

写真(右):1945年7月17日から8月2日、ドイツ、ベルリン郊外ポツダム、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ(James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov):7月26日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言Potsdam Declaration)は、次のようなものだった。
1)合衆国大統領、中華民国政府主席及グレート・ブリテン国総理大臣は、数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり。
2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。
3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。
Description: Soviet Prime Minister Josef Stalin meets President Harry S. Truman for the first time at the Little White House during the Potsdam Conference. The Little White House is the residence of President Truman during the conference. Front row, from left to right: Vyacheslav Molotov, Soviet foreign minister; Secretary of State James Byrnes; President Harry S. Truman; and Prime Minister Josef Stalin. Back row, left to right: Charles Bohlen, assistant to Mr. Byrnes; Admiral William D. Leahy; and V. N. Pavlov, Russian interpreter. Standing at the top of the stairs are Major General Harry Vaughan (left) and Captain James Vardaman (second from the left of the pillar on the right). Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 17, 1945 People Pictured: Bohlen, Charles E. (Charles Eustis), 1904-1974; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Pavlov, V. N., interpreter for Joseph Stalin; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-75引用。


写真(右):1945年7月17日から8月2日,ポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談Potsdam Conference)開催の前、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトは死去、副大統領ハリー・トルーマンが継いだ。開催最中、イギリス総選挙で保守党がまさかの敗北、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは地位を失い、労働党クレメント・アトリーが後を継いだ。ソ連のヨシフ・スターリンだけが戦前から一貫して権力を握っている。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890- 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1380-75引用。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Participants in the Potsdam Conference in Germany stand mingling in the conference room at Cecilienhof Palace. British Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin pose for cameramen at the top of photo. Anthony Eden and Vyacheslav Molotov far right. Clement Attlee, far left. From Potsdam album, 1945. Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897- Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。

写真(上右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム、オープニングセッションの最中のポツダム会談:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談:Opening session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is seated foreground (back to camera). Soviet Prime Minister Josef Stalin is at right. British Prime Minister Winston Churchill is at left. Secretary of State James Byrnes is seated to the right of President Truman. Admiral William Leahy is seated two to the right of President Truman. British foreign minister Anthony Eden is to the left of Winston Churchill. Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is to the left of Prime Minister Stalin. From Potsdam album, 1945. Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-29引用。

写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill):Description: British Prime Minister Winston Churchill (left), President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin on the steps of Mr. Churchill's house during the Potsdam Conference in Germany. Mr. Churchill has just given a dinner for Mr. Truman and Mr. Stalin. Others in photo are unidentified. From Potsdam Album, 1945 Date: July 23, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-58引用。

写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルと娘マリー(Mary:15 September 1922 - 31 May 2014):チャーチル夫妻には、長女ダイアナ、長男ランドルフ、次女サラ、三女マリーゴールド、四女メアリーと五人の子供がいる。メアリーは、1941年から、ロンドンの対空部隊に所属し、本土防衛の任に当たった。その後、ベルギー、ドイツでも任務に就いた。父に同行した時は、ポツダムでアメリカ大統領トルーマン、ソ連首相スターリンとも会っている。夫は、保守党の政治家クリストファー・ ソームズ(Christopher Soames)で彼は最後の南ローデシア総督(Governor of Southern Rhodesia)となった。2014年91歳で死亡。
British Prime Minister Winston Churchill and his daughter, Mary, walk in the garden of their residence during the Potsdam Conference in Germany past a Guard of Honor formed by a detachment of Scots Guards. From Potsdam album, 1945. Date: July 23, 1945 People Pictured: Soames, Mary.; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-31引用。


1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したドイツをモスクワに踏みとどまって防いだスターリンは、アメリカ、イギリスの軍事援助を受けた。しかし、ドイツ軍の東部戦線で主力相手に戦ったことで、1943年のカイロ会談では、スターリンはイギリス・アメリカに第2戦線(西部戦線)の開設を要求した。他方、英米は、それをかわすためにスターリンに対日参戦を要求した。スターリンは、国際連合の設立に合意したが、ドイツ降伏後のヨーロッパでは、ポーランド、チェコ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど占領地を共産化し、勢力圏に取り込んだ。

写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。 Description: Left to right: Prime Minister Winston Churchill of Great Britain, President Harry S. Truman, and Generalissimo Joseph Stalin of Russia, sitting in the garden at Potsdam in front of a barrage of cameras. Fourth from the left of those standing is General Harry Vaughan, Military Aide to Truman. From: Kirke B. Lawton, Major General, United States Army. Date: ca. July 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 2006-341引用。

ポツダム宣言Potsdam Declaration)を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・トルーマンHarry S. Truman:61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Leonard Spencer-Churchill)も、総選挙で一時帰国している最中,選挙で敗北。7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には加わっていない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとされた。
 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長ウィリアム・ダニエル・レーヒWilliam Daniel Leahy)提督や陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Lewis Stimson)は,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えていた。


写真(右):1945年7月26日、ポツダム会談、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、ドイル・ヒッキー(Doyle O. Hickey)中将
:Description: President Harry S. Truman (left), accompanied by General Dwight D. Eisenhower (center), chats with Brigadier General Doyle O. Hickey, before reviewing troops at Neuisenburg, Germany. President Truman is in Germany to attend the Potsdam Conference. General Hickey is the Commanding General of the Third Armored Division, Seventh Army. From Potsdam album, 1945 Date: July 26, 1945 People Pictured: Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Hickey, Doyle O. (Doyle Overton), 1891-1961; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-79引用。

写真(右):1945年7月-8月、ポツダム会談に向かうアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、アメリカ陸軍ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)元帥、オマール・ネルソン・ブラッドレー(Omar Nelson Bradley:1893-1981)中将:President Truman is shown in an open car with General Dwight Eisenhower (center) and General Omar Bradley on their way to a Potsdam conference. From: Frank Gatteri, U.S. Army Photographer. Date: ca. 1945 People Pictured: Bradley, Omar Nelson, 1893-1981; Eisenhower, Dwight D. (Dwight David), 1890-1969; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Accession Number: 2000-3引用。

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日、中央の白軍服がソ連首相スターリン、右にアメリカ駐在ソ連大使グロムイコ、スターリンが話しているのはソ連外相モロトフ、右端アメリカ大統領ハリー・トルーマン、その右に国務長官ジェームズ・バーンズ、アメリカ海軍参謀総長レーヒ提督、左端下がイギリス新首相アトリー、その右にイギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin:1881-1951):Description: Last meeting of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. President Harry S. Truman is on the right, opposite the United States flag on the table. Seated to the right of President Truman are Secretary of Stats James Byrnes, Admiral William Leahy, and and Soviet Ambassador to the United States Andrei Gromyko. Soviet Prime Minister Josef Stalin is at the top, in the white uniform. Seated on the left of Stalin is Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. British Prime Minister Clement Attlee is seated in the left corner, opposite the British flag on the table. British Foreign Minister Ernest Bevin is seated on the right of Attlee. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: August 1, 1945 People Pictured: Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Gromyko, Andrei Andreevich, 1909-; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。

1945年7月のポツダム会談の後半には、ソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相クレメント・アトリー、ソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督らが参加した。

写真(右):1945年7月17日から8月2日、ポツダム会談時の三首脳。左から、イギリス首相クレメント・アトリー、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連元首ヨシフ・スターリン:第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談Potsdam Conference)には、それまでのビッグ・スリーと異なり、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンに、イギリス首相は会談途中からウィンストン・チャーチルからクレメント・アトリーに交代した。それ以前の主導会議から継続して参加したのは、ソ連のヨシフ・スターリンだけだった。 Photograph Title: (Color) Potsdam Conference, July-August 1945 Description: The Big Three pose with their principal advisors, at Potsdam, Germany, circa 28 July 1 August 1945. The three heads of government are (seated, left to right): British Prime Minister Clement Atlee; U.S. President Harry S. Truman; Soviet Premier Joseph Stalin. Standing behind them are (left ot right): Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff; British Foreign Minister Ernest Bevin; U.S. Secretary of State James F. Byrnes; Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1860 "Big Three" & Foreign Ministers at Potsdam, ca. July 1945。写真は、 Naval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1861 引用。

写真(右):1945年7月28日-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後列は、アメリカ海軍参謀総長レーヒ(William D. Leahy)提督, イギリス外務大臣アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ( James F. Byrnes)、ソビエト外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)。 海軍参謀長レーヒ提督は、日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人の一色女史のようなガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。国務長官バーンズは、対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩。ソ連外相モロトフは、独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結で枢軸国とも同盟的な関係を結んだ人物。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。 Potsdam, a meeting of the foreign ministers, including Vyacheslav Molotov, Anthony Eden, James Byrnes and aides. From the album: President's Trip to the Berlin Conference. Date: ca. July 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897-; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890- 写真は、 Naval History and Heritage Command Photograph from the Army Signal Corps Collection in the U.S. National Archives. Catalog #: USA C-1860 引用。

写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
Description: Leaders of the Big Three Allied nations pose for photographers at the Potsdam Conference. Front row, seated in wicker chairs, left to right: Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, General Joseph Stalin. Back row, left to right: Admiral William Leahy, Ernest Bevin, Secretary of State James F. Byrnes, and Vyacheslav Molotov. Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Bevin, Ernest, 1881-1951; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 64-398引用。


写真(右):1945年8月1日、ポツダム会談最終日のビッグスリー、前列右から白軍服のソ連首相スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、左端下がイギリス新首相クレメント・アトリー。後列で指導者の後ろに立つのが、右からソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ、アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズ、イギリス外相アーネスト・ベヴィン(Ernest Bevin)、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督:労働党員アーネスト・ベヴィンは、イギリスの労働組合の代表でTGWUの書記長を1922年から1940年まで務めた現場のベテラン政治家。戦時内閣ではチャーチル首相の下で労働大臣に就任。ストライキを抑え戦時動員に協力した。労働党アトリー首相の下で1951年まで外務大臣を歴任。アメリカのマーシャルプランの積極的受け入れを進める一方で、インド、中東などの植民地独立を認めた。反共産産主義者として、北大西洋条約機構(NATO)の創設に加わった。
The "Big Three" and their foreign ministers gather in the garden of Cecilienhof Palace during the last day of the Potsdam Conference. Seated, left to right: British Prime Minister Clement Attlee, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin. Standing, left to right: Admiral William Leahy, British Foreign Minister Ernest Bevin, Secretary of State James Byrnes, and Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov. From Potsdam album, 1945. Date: August 1, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Bevin, Ernest, 1881-1951 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1457-23引用。

イギリス戦時内閣首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874年11月30日-1965年1月24日)1939年9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が勃発した。この時、ウィンストン・チャーチルは海軍大臣(First Lord of the Admiralty:海軍卿)として戦時内閣の閣僚に復帰したが、緒戦のノルウェー侵攻に失敗し、さらにチェンバレン首相の後任として1940年5月に首相に就任するも、ドイツ軍のフランス侵攻、フランス敗北、イギリス遠征軍の本土撤退と敗退を重ねた。その後、1940年夏のイギリス本土航空決戦で何とかドイツ空軍を撃退した。1942年には、ソ連への軍事援助を続けながら、北アフリカでドイツ軍に手痛い敗北を負わせた。1943年1月、アメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルはモロッコのカサブランカ会談で、地中海域での反攻作戦を協議し、イタリアのシチリア島上陸を決定した。1943年11月、イタリアを降伏させ、エジプトのカイロ会談で、ルーズヴェルト・蒋介石と対日戦と対日戦後処理の方針について話し合った。1943年12月に発表されたカイロ宣言では、日本に対する無条件降伏、降伏後の日本領は第一次世界大戦以前に戻すこと、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮独立が公表された。ルーズヴェルトとチャーチルは、カイロ会談後にイランのテヘランに飛び、1943年11月からヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)とのテヘラン会談に臨んだ。テヘラン会談では、主にヨーロッパ第二戦線の問題について協議が行われた。


1945年7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)は,米大統領ハリー・S・トルーマン,英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した(とされた),日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル。

2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。

5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

第33代アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman: The Accidental President)1884年生まれ―1972年没;1934年にミズーリ州選出の上院議員として、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持した。1944年の大統領選には、トルーマンは副大統領候補となり、ルーズベルトが先例のない4選を果たすと、トルーマンは副大統領に就任した。しかし、体調を崩していたルーズベルトは、ヤルタ会談に参加したものの、1945年4月12日に急死し、トルーマンが大統領に昇格した。トルーマンには外交経験がなかった上に、ルーズベルト大統領とのコミュニケーションにも疎いままだったため、原子爆弾についても知らないままだった。そこで、上院議員の先輩ジェームズ・バーンズの指導を受けることになり、5月のドイツ降伏後には、ヨーロッパの戦後処理と並んで、太平洋戦争勝利後のアジアの戦後処理が、ソ連との関連で問題になった。1945年7月のポツダム会談で、そのことが話し合われた。


9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)。

写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、飛行機でイギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ:周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー。President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes stand with members of the Women's Auxiliary Air Force (WAAF) at Harrowbeer Airport in Plymouth, England. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2." Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972; Bartlett, Audley; Buckland-Jones, Eira; Turner, Clarice 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1378-03引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談終了後、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」に乗って、イギリス南西ハロービアー飛行場(Harrowbeer Airport)に到着したアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズ。周囲にいる女性隊員は、アメリカ軍の女性補助空軍(WAAF) のメンバー
:C-54輸送機でイギリスに到着後、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」USS Augustaに乗艦して、8月7日、アメリカに帰国。Description: President Harry S. Truman and Secretary of State James Byrnes with three members of the Women's Auxiliary Air Force at Harrowbeer Field near Plymouth, England, where the President's airplane landed enroute to the ship USS Augusta. President Truman has just completed attending the Potsdam Conference in Germany. From left to right: Section Officer Eira Buckland-Jones, President Truman, Corporal Clarice Turner, Secretary of State Byrnes, and Leading Aircraft Woman Audley Bartlett. Others in the background are unidentified. From the album, number 2: "President Truman's Trip to Potsdam." Date: August 2, 1945 写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1453-31引用。

30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はチャーチル14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。
会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。
大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,米国主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。
戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言(Potsdam Declaration)の文言よりも、米国が暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,米軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。

写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、イギリス、プリマス港でアメリカ大統領ハリー・トルーマンを出迎え、アメリカに帰国するアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」USS Augusta:新造時の排水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
最高速力: 32.7 ノット
乗員: 735名
兵装: 8インチ(20.3?)砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
7.62mm機銃8基
21インチ魚雷発射管6門
President Harry S. Truman returns to the USS Augusta, anchored at Plymouth, England, which will return him to the United States from the Potsdam Conference. From the album "President's Trip to the Berlin Conference Vol. 2 of 2." Date: August 2, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-31引用。


写真(右):1945年8月2日、イギリス、プリマス港、ポツダム会談が終了し、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」USS Augustaに乗り込むアメリカ大統領ハリー・トルーマンと国務大臣ジェームズ・バーンズ:軽巡オーガスタは、1928年7月2日ニューポート・ニューズ造船所起工、1930年2月1日進水、1931年1月30日ノーフォーク海軍工廠で就役。1933年11月9日上海着、アジア艦隊旗艦となる。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ルーズベルト大統領の「御召艦」としての任務が加わり、近代化改装工事が行われる。
Description: President Harry S. Tuman (center, left) and James F. Byrnes (center, right)are saluted by Navy officers and crewmen aboard the USS Augusta. They are preparing to return to the United States from the Potsdam Conference. Date: August 2, 1945 People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1382-57引用。


写真(右):1945年8月2日、イギリス、プリマス港、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」の艦上でアメリカ大統領ハリー・トルーマンが、行幸してきたイギリス国王ジョージ6世を出迎える。
President Harry S. Truman (left) and King George VI (center, left) shake hands after the King's arrival on the USS Augusta. King George VI visited President Truman on board the Augusta before it returned to the United States after the Potsdam Conference. All other sailors and naval officers are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2. Date: August 2, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-31引用。


写真(右):1945年8月2日、ポツダム会談の終了後、アメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」の艦上でアメリカ国務長官ジェームズ・バーンズとアメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ提督が、行幸してきたイギリス国王ジョージ6世を出迎える:Secretary of State James F. Byrnes (foreground, second from left) and King George VI (center, right) shake hands during the King visit aboard the USS Augusta. Also present are Admiral William D. Leahy (left), President Harry S. Truman (foreground, third from left, mostly obscured by King George VI), Captain James Foskett (right), and Captain James K. Vardaman (just behind Captain Foskett). All others are unidentified. King George VI visited the Augusta before it left to return to the United States from the Potsdam Conference. Date: August 2, 1945 Related Collection: James H. Foskett Papers People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; George VI, King of Great Britain, 1895-1952; Truman, Harry S., 1884-1972; Foskett, James H. (James Hicks), 1898-1961; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972
写真は Harry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1382-66引用。


ロスアラモス国立研究所所長ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer):ロスアラモス国立研究所にはノーベル賞受賞者だけでも21名が参加し、1945年7月16日、世界初の原子爆弾爆発実験「トリニティ」を成功させたマンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves:1896-1970)准将などアメリカ陸軍と共同して、1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴードで世界初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆発実験「トリニティ」を成功させた。 


主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとしてポツダム宣言Potsdam Declaration)で日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。米国は,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。 1942年から本格始動したマンハッタン計画は、指揮官にレスリー・グローブズ(Leslie Richard Groves)准将をいただき、サイクロトロンなど各種施設を備えたロスアラモス国立研究所の所長には、物理学者ジュリアス・ロバート・オッペンハイマーRobert Oppenheimer)が就任し、ノーベル賞級の学者22名を擁し、最終的には20億ドルの膨大な予算を投入して、新兵器「原子爆弾」、それもウラン型とプルトニウム型の2種を開発した。そして、ポツダム会談の直前、1945年7月16日、アメリカ、ニューメキシコ州、アラモゴードで、世界初の核実験コードネーム「トリニティ」でプルトニウム型原爆の爆発実験に成功した。「トリニティ」の成功により、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)は、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)共産党書記長に優越感を持って、驚異的な破壊力の爆弾を開発したと告げた。驚異的な新兵器の実用化に成功し、アメリカの指導者たちは、原爆を使用するのは当然であると考えていた。

しかし、戦後になって,原爆投下の惨状が明らかになると,アメリカ軍兵士の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと,トルーマン大統領やヘンリー・スティムソンHenry L. Stimson)陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半のアメリカ軍の戦略において,味方の死傷者推計数は,日本本土上陸作戦には大きな問題とはなっていなかった。戦争を勝利に導くには、最低限の死傷者は覚悟していたのであり、戦時中、彼らに命を差し出させることを躊躇する指導者はいなかった。

写真(右):1945年8月7日、ポツダム会談が終了し、イギリス、プリマス港からワシントンDC東、チェサピーク湾に帰着したアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」8インチ(20.3センチ)三連装砲塔の前、アメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス(Charlie Ross:1885-1950)、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマン(James K. Vardaman Jr:1894-1972)海軍大尉ほかアメリカ代表団:アメリカ海軍重巡洋艦オーガスタは、1941年8月9日、大西洋会談に際して、イギリス首相チャーチルの御召艦・戦艦プリンス・オブ・ウェールズとニューファウンドランド島沖アルゼンチア海軍基地で会合。1943年10月、北アフリカへのアメリカ軍上陸「トーチ作戦」にアメリカ第34任務部隊旗艦として参加。1944年6月、ノルマンディー上陸作戦には、アメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将の乗艦となる。1945年7月、ポツダム会談に向かうトルーマン大統領らを乗せて、ベルギーに向けて出航、7月14日にアントワープ港に到着。1945年8月2日、イギリス、プリマス港でポツダム会談から帰ってきたトルーマン大統領を乗せ、8月7日、アメリカ東部、ワシントンDC東のチェサピーク湾に到着。President Harry S. Truman and members of his party aboard the USS Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Front row, left to right: unidentified man; two unidentified military personnel; Captain James Vardaman; Press Secretary Charles Ross; Secretary of State James Byrnes; President Truman; Admiral William D. Leahy. All others are unidentified. From the album President's trip to the Berlin Conference, vol. 2 of 2. Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1378-48引用。

写真(右):1945年8月7日、ポツダム会談が終了し、イギリス、プリマス港からワシントンDC東、チェサピーク湾に帰着したアメリカ海軍重巡洋艦「オーガスタ」8インチ(20.3センチ)三連装砲塔の前、アメリカ大統領トルーマン、国務大臣バーンズ、アメリカ海軍参謀総長ウィリアム・レーヒ、報道官・ジャーナリストのチャールズ・ロス、政治顧問・法律家ジェームズ・ワルドマンほか:アメリカ海軍重巡洋艦オーガスタの三連装砲塔は、55口径8インチ(20.3センチ)Mark 9で 、砲弾重量98 kg、仰角41度で射程29,100m、俯角10度、発射速度3発/分。対空用25口径5インチ(12.7センチ)高角砲8門、砲弾重量24kg、仰角85度で高度8,350m、仰角45度で射程13,250m。ボフォース40ミリ四連装機関砲6基24門、エリコン20ミリ機銃28丁、21インチ魚雷発射管6門搭載。
President Truman and members of his party aboard the U. S. S. Augusta as the ship entered Chesapeke Bay, returning President Truman from the Potsdam Conference in Germany. Captain James Vardaman is sixth from the left; to his left is Press Secretary Charles Ross; to his left is Secretary of State James Byrnes; to his left is President Truman; and to his left is Adm. William Leahy. Others are unidentified. From the album, Number 2: "President Truman's Trip to Potsdam." Date: August 7, 1945 People Pictured: Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Leahy, William D. (William Daniel), 1875-1959; Ross, Charles G. (Charles Griffith), 1885-1950; Vardaman, James K. (James Kimble), 1894-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1453-49引用。


枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。

1945年8月7日、『戦藻録』によれば宇垣纒長官は、別府海軍病院(現国立病院機構-別府医療センター )で歯科治療を受け、8月8日は「夕刻付近の川に雑魚釣りに行く」となる。
しかし、8月9日、別府海軍病院の院長室に電話があり、宇垣長官はソ連参戦の放送があったことを知らされ、直ちに帰隊した。「過般のポツダム声明には何の触るる處なかりしがスターリンの現実主義遂に敵たるに至れり。---帝国は之にて全世界を相手として戦うに至る。運命なる哉、今更泣き事[言]は云わず。敗れても悔いなき一戦に最後の御奉公を期するのみ。

写真(右):第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将;1890年(明治23年)2月15日−岡山県赤磐郡潟瀬村に誕生、 1909年(明治42年)3月、岡山県立第一中学校卒業、9月11日、海軍兵学校生徒(入校成績順位150名中第9位)、1912年(明治45年)7月17日−海軍兵学校卒業(40期:成績順位144名中第9位)、1913年(大正2年)12月 海軍少尉、1921年(大正11年)、海軍大学校甲種学生(大尉)、1928年(昭和3年)11月、ドイツ駐在海軍武官補(−30年)、1931年(昭和6年)12月、第二艦隊参謀、1932年(昭和7年)11月、海大教官(兼陸軍大学校教官:海軍中佐)、1935年(昭和10年)10月、連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)、1936年(昭和11年)12月、海防艦「八雲」艦長、1937年(昭和12年)12月、戦艦「日向」艦長、 1938年(昭和13年)11月、海軍少将、12月、軍令部第一部長、1941年(昭和16年)4月、第八戦隊司令官、8月、連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)、1942年(昭和17年)11月、海軍中将、1943年(昭和18年)4月18日、山本長官の僚機で被弾、1944年(昭和19年)2月、第一戦隊司令官 11月、軍令部出仕、1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官、 8月10日、第三航空艦隊司令長官に親補(着任せず)、8月15日、沖縄方面へ特攻戦死。これは終戦当日の,終戦を知らない部下を率いた「私兵特攻」ともいえる。

宇垣纒『戦藻録』1945年8月7日
「昨日6日0825頃B-29二、三機宛広島上空に侵入、落下傘付大型爆弾を投下(2-3個)地上50米位にて大閃光大爆発し瞬時にして家屋倒壊8割方焼失。死傷十数万に及びたり。本日7日午後桑港(サンフランシスコ)放送は17時間前広島市(陸軍基地)に対し有史未曽有の原子爆弾攻撃を実施せり。三万尺の密雲の為結果確認し得ざりしも同爆弾B-29の爆弾(グランドスラム)の2万倍、TNT2000頓に相当する効果を有する。7月16日ニューメキシコに於て実験の結果装置したる鉄塔は蒸発し250浬の地の硝子窓はガタガタ振ひ6浬の人間はたたき伏せられたりと。右に依れば豫て各国にて研究せられつつありしウラ二ウム原子の利用によるものなる事明瞭にして真に一驚異にして戦局の前途に一層の暗雲を加えるものなり。我方速に之が対策を講ずると共に同様爆弾の創始を望むものなり。」

8月15日、「昨今日を以て離別の印として各幕僚に1枚宛と考え揮毫中、度々総員退避を喰いたるも漸く完成するを得たり。
而して午後に及び最もいまわしきニュースを情報主任眼の色変えて持参せり。曰く
桑港[サンフランシスコ]放送-----日本は、裕仁を基儘とする条件の下にポツダム宣言に対して其の他無条件降伏を申し込めり。
時間若干後----戦略爆撃作戦司令部隊司令官(在マリアナ)は日本がポツダム宣言に対し回答する迄原子爆弾の使用を中止す。
嗚呼!何事ぞ火の無き處煙は立たざるべし。本早朝受信セルGB電令は結合作戦準備の如何を問はず敵の軌道兵力に対しては積極的攻勢を執り、又沖縄方面に向かっても攻撃を強化すべく下令あり。従来執り来れる決号に拘束せられたる覇制をかねて云うが如く已むなく脱却せるものにて一時式の昂揚を見たるが、前期ニュース受領御幕僚の日吉[連合艦隊司令部]に連絡せる處によれば敵の宣伝と思惟せる本件を朧気乍ら裏付ける如き言あり。斯る重大事項を何故に全責任を帯ぶる長官に一言とせざるや。小輩等に之を秘して半信半疑の前期放送は、余をして甚だしき驚愕を感じせしめたり。」(『戦藻録』引用終わり)

図(右):1940年3月4日号 TIME(March 4,1940)の表紙を飾った米内光政海軍大将(1880年3月2日〜1948年4月20日):1940年1月16日、第37代内閣総理大臣に就任したため、『タイム』1940年3月4日号の表紙を飾った。 Son of a Samurai:Admiral Mitsumasa Yonai was amazed and wildly happy. He had been aloft in giddy rigging before—had climbed to power (as Admiral of the Combined Fleet, beginning in 1936) and into politics (as Navy Minister in three crucial Cabinets, 1937-39). -----Is peace likely? As long as Japanese soldiers remain on South Chinese soil, no. As long as the Japanese refuse to discuss terms with Generalissimo Chiang Kai-shek himself—not the "Chungking Government"—no. A remote chance for peace (for a time) lies in the Japanese withdrawing to the five occupied northern provinces, the Chinese conceding them.

阿川弘之『米内光政』は,「米内はこの(8月14日の)時も十日の御前会議の時も、ほとんど発言しなかった。のち、小泉信三に『もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした』と語っているが、それが米内の流儀らしかった。…(8月15日正午の玉音)放送が終ると、米内は左隣に汗をうかべて立っている豊田軍令部総長に、『よかった』と握手を求め、真昼の夏空を見上げながら首を二、三度振って、別に重い足取りという風でもなく大臣室の方に帰って行った」という(昭和史を歩く4(終戦)引用)。

米内光政海軍大将は,長らく海軍大臣として,戦争を指導し,特攻作戦を展開した。1945年8月にも海軍大臣として終戦を積極的に公言したわけではない。終戦を他人事のように受け流したとすれば,海軍大臣としての敗戦の責任も回避しているように思われる。

写真(右):大日本帝国陸軍大臣阿南惟幾大将 (あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日) :大分県竹田市出身。東京府に生れ。鈴木貫太郎総理大臣とは、以前に侍従長と侍従武官の関係だった。梅津美治郎参謀総長とともに本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の聖断に従う。軍事クーデターを戒め、8月14日夜、ポツダム宣言受諾の直前に陸相官邸で自刃。

2. 1945年8月14日の御前会議前に,陸軍大臣阿南惟幾大将(8月14日自決)は,昭和天皇に第二総軍司令官の畑俊六陸軍元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍元帥、海軍軍令部総長の永野修身海軍元帥に,意見を聴取することを提案した。開戦時の参謀総長杉山元帥は,開戦時の軍令部総長永野元帥は,昭和天皇に対して「国軍は尚余力を有し志気も旺盛なれば、なおも抗戦してアメリカ軍を断乎撃攘すべき」と徹底抗戦を奏上したという。

「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」昭和二十年八月十四日夜 陸軍大将惟幾という辞世を紹介したwebに次のようにある。「阿南の望むこと、それはただ一つ、親愛なる天皇の身の安全、国体護持であった。---阿南は割腹の前に一枚のYシャツを出してこう語った。『これはな、自分が侍従武官をしていたころ、陛下から拝領したもので、お上が肌に付けておられたものだ。これを着用して自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ。自分が死んだら、これを身体にかけてくれ。』」


1945年7月26日に発表されたポツダム宣言の受諾をめぐって,閣内の意見がわかれた。阿南惟幾陸相は、「一億玉砕を覚悟で、本土決戦をすべきである」として徹底抗戦を主張した。広島への原爆投下の3日後,8月9日の御前会議でも、8月14日の最後の御前会議でも,阿南惟幾陸相は一貫して,徹底抗戦を主張する主戦派であった。しかし,阿南惟幾大将は、侍従武官長も経験しており,皇道派として、天皇に対する忠誠心がある(近衛上奏文の述べた皇道派による軍の一新が思い起こされる)。

写真(右):2012年7月、アメリカ、ワシントンDC、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:1995年の戦勝50周年の時には、ボーイングB-29エノラ・ゲイ」は、機首部分のみ復元・展示された。当時のエノラ・ゲイ展では、博物館側は、エノラ・ゲイとその投下した原子爆弾の威力だけでなく、原爆被害も同時に展示しようとしたため、退役軍人から大きな反対を受け、議会からも圧力がかかり、被害展示はなされなかった。2003年12月15日、ワシントンDCのスミソニアンにある航空宇宙博物館別館ウドヴァール・ヘージーセンターにてエノラ・ゲイ展のオープニングセレモニーが開催された。、完全に復元された広島原爆投下機ボーイングB-29爆撃機「エノラ・ゲイEnola Gay」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
Description : English: Boeing B-29 Superfortress Enola Gay. At the Steven F. Udvar-Hazy Center, Washington, D.C. Date 15 July 2012 Source Own work Author Photograph by Mike Peel (www.mikepeel.net). Permission (Reusing this file) CC-BY-SA-4.0.
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: Boeing B-29 Superfortress Enola Gay 3.jpg引用。


写真(右):2011年11月、アメリカ、バージニア州フェアファックス、スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センター、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の復元・展示:スミソニアン国立航空宇宙博物館別館スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センターはワシントンDC郊外にあるワシントン・ダレス国際空港に隣接しており、2003年12月15日にオープニングセレモニーが行われた。航空機や宇宙船300機が展示保管されており、世界屈指の規模を誇る。このセンターは、ハンガリー系アメリカ人スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーの寄贈した6500万ドルの基金をもとに建設された。
Deutsch: Die B-29 Superfortress Enola Gay im Steven F. Udvar-Házy, die am 6. August 1945 die erste Atombombe, die je in einem Konflikt eingesetzt wurde, auf die japanische Stadt Hiroshima abwarf. Date 20 December 2011 Source Own work Author Wikifan75
写真はWikimedia Commons, Category: Enola Gay in Steven F. Udvar-Hazy Center File: Enola Gay 116.JPG引用。


写真(右):2015年7月、アメリカ、オハイオ州デイトン郊外、ライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB-29爆撃機「ボックスカー」の復元・展示:機長チャールズ・スウィーニー少佐の指揮で、第509混成部隊B-29「ボックスカー」は、テニアン島を離陸、小倉に原爆を落とす予定だったが、雲にさえぎられて有視界照準爆撃の条件を満たすことができす、長崎に目標を変更。長崎でも雲にさえぎられたが、原爆投下の栄誉を担いたかったスウィニーは少佐は、雲の切れ間を見つけたことにして、レーダー照準で長崎を爆撃。燃料不足でテニアン島ではなく沖縄に帰還した。1961年9月26日にオハイオ州デイトンの国立アメリカ空軍博物館に運ばれ、復元された「ボックスカー」は正義の戦争を勝利に導き、終戦を早めて、多数の若者の命を救ったとして堂々と展示されている。
Description Boeing B-29 / National Museum of the U.S. Air Force / 2015年7月26日撮影 Date 26 July 2015 Source Own work Author Goshimini
写真はWikimedia Commons, Category: B-29 Bockscar at National Museum USAF File: Boeing B-29 Superfortress "Bockscar" (27992885491).jpg引用。


ボーイングB-29 爆撃機「スーパーフォートレス」(Boeing B-29 Superfortress)諸元
全長:30.2 m、全幅:43.1 m、全高:8.5 m
翼面積:151平方メートル
自重:32.4 t、全備重量:62.0 t
動力:ライト R-3350エンジン2,200馬力 4基
最大速度:576 km/h、巡航速度:350 km/h
航続距離:6,600 km(爆弾7t)
実用上昇限度:9,720 m
上昇時間:6,100 m/38分
最大爆弾搭載量:9 t
武装:12.7ミリ機銃12丁、20ミリ機関砲 1門
乗員:10名

最後の陸軍大臣阿南惟幾: 徹底抗戦を呼号するも自決(1887年2月21日生まれ、1945年8月15日自決):大分県竹田市出身、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(18期:920名中席次24位)、陸軍大学校(30期)を経て侍従長鈴木貫太郎の下で侍従武官を務める。日中戦争の勃発した1937年に陸軍省人事局長、1939年10月から1941年4月まで陸軍次官を務める。その後、第十一軍司令官として中国で長沙作戦を指揮するも失敗。1943年、陸軍大将に進級、1945年4月、鈴木貫太郎内閣の下で陸軍大臣に就任。参謀総長梅津美治郎大将と同じく本土決戦による徹底抗戦を最後まで主張するも、大元帥昭和天皇によって終戦の聖断が下るとそれに従い、終戦の8月15日早朝に自決。


「原爆2発を投下され、ソ連も対日参戦してきた状況で、阿南陸相が最後まで終戦に反対し,徹底抗戦を主張し続けたのはなぜか。」という設問がよくなされている。これに対して,「彼が,徹底交戦を主張したのは,天皇の終戦にかける堅い意思は、分かりすぎるほどわかっていたはずである。そこで疑問が生じる。」というのは,早計である。大元帥昭和天皇は,神勅と大日本帝国憲法の条文に照らしても,統治権の総覧者として,宣戦布告と和平の決定権と陸海軍の統帥権を保持する大元帥として,終戦を一人で決断できた。政府首脳(陸軍大臣と海軍大臣を含む)や軍高官(参謀総長や軍令部総長)の輔弼を受けて,天皇が統治を総覧するとはいうが,輔弼は統治の根幹には必ずしも不可欠ではない。しかし,大元帥昭和天皇は,終戦・和平というよりも,事実上の降伏を決断しなくてはならない状況に置かれていた。天皇が外国に降伏したことなど,日本の歴史始まって以来,ただの一度もない。したがって,皇祖,国体護持のためと理由をあげても,昭和天皇にとって,降伏とは恥辱そのものである。したがって,日本降伏の聖断の背景に,天皇の赤子・臣民・国民を思う大御心があるとする伝統的な保守派の理解はもっともである。

阿南惟幾陸相は、悠久の日本の歴史のなかで,初めての降伏という恥辱の決断を大元帥昭和天皇にさせるつもりはなかった,昭和天皇は,萬世一系の栄えある(降伏をしたことのない)天皇家の名誉を保持すべきであり,「終戦=降伏の聖断」を下し汚名を被るに忍びない。阿南惟幾大将は,その天皇の苦衷を察して,徹底抗戦を主張した。天皇への忠誠心の篤い皇道派の陸軍大将,元侍従武官長であるからこそ,大元帥昭和天皇の名誉のために,本土決戦を戦う覚悟だったのであろう。

それを,「本心では本土決戦を否定しながらも、陸軍の暴発(内乱、暴動など)による国家の致命傷を防ぐため、部内の強硬派に対するジェスチュアとして本土決戦を主張し続け、無血終戦をなしとげた」という阿南惟幾大将による腹芸を主張する識者がいるのには理解に苦しむ。天皇への忠誠一徹の阿南惟幾陸相が,昭和天皇の面前で,姑息とも思える交渉術や腹芸を行ってまで,終戦にこぎつけようとしたというのは,後から創作された俗説であろう。

終戦の聖断下った最後の御前会議の後(8月14日夜),阿南惟幾陸相は,他の参加者とともに終戦の詔書に副書(署名)した。「全閣僚の副書がなければ、閣議の決定は法的に成立せず,その決定は国家意思とはならない」という識者もあるが,そうではない。宣戦布告と和平の大権と陸海軍の統帥権は大元帥天皇のみが保持しており,輔弼者の意向や閣僚の副署の有無によって,掣肘されることはない。

大義に死す 最後の武人・陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将【阿南惟幾(あなみ・これちか)】 明治20年生まれ。陸軍士官学校・陸大卒。侍従武官、陸軍次官、第2方面軍司令官などを経て昭和20年4月7日、鈴木貫太郎内閣の陸相に就任。「内剛外柔」「公正無私」とも評されるが、ポツダム宣言の受諾をめぐって、戦争継続を強固に主張。最終的には昭和天皇の聖断を受け入れ、鈴木首相に一連の態度をわびた上で自決した。阿南の自決で陸軍内部に強かった戦争続行論は沈静化し、暴発を回避したとされる。【産経オンライン2015.5.23 「すまんね、頼むよ」 最強硬派“最後の陸相”阿南の意外な一言 阿南陸相との思い出 笠井正隆さん】引用。


大任を果たしたからではなく,終戦の聖断が下ったために阿南惟幾陸相は、8月15日早朝、「一死、大罪を謝し奉る」として割腹自殺した。阿南惟幾陸相の自決は、陸軍が終戦を受け入れるためではなく,天皇の苦衷の大御心を思って,敗戦という最大の汚点=戦争敗北責任を全て引き受け,国体護持の忠誠心に殉じた。阿南惟幾陸軍大将は,最も不名誉な日本の敗戦責任を引き受け,大元帥昭和天皇に対して,日本敗北という大罪を死をもって謝したのである。戦争責任を認めて引き受けたという点で,阿南惟幾陸軍大臣は,評価される。

「阿南陸相は、まさに自分の命をかけて終戦を実現させ、日本を破滅から救った立役者の一人なのである」という評価は,完全に的外れである。天皇への忠誠と戦争敗北の責任を引き受けた結果が自決となった。(⇒阿波陸相の自決については,阿南陸相と終戦【修親原稿】藤岡信勝参照)

本庄繁陸軍大将は,枢密院顧問であり,元関東軍司令官として,活躍したため,1945年11月20日,割腹自殺した。享年68であった。また,陸軍の梅津美治郎陸軍参謀総長は東京裁判で戦争責任を引き受けた。

しかし,日本海軍の米内光政海軍大臣、豊田副武海軍軍令部総長は,戦争責任を引き受けなかったのであり,敗北の責任を謝すこともなかった。もちろん,降伏調印式への出席も理由をこじつけ断っている。彼ら海軍の戦争指導者は,戦犯追及を逃れるだけでなく,敗戦の責任も認めない。敗戦の責任を事実上,大元帥一人に負わせた。戦争の大権,軍の統帥権を文字する最高司令官に責任転嫁するのは,敗北後のドイツの将軍たちと変わらない。戦争責任を回避して,保身に勤める高級軍人たちは,大元帥昭和天皇への忠誠心,敗戦の責任・悔恨があるのかどうかも怪しくなってくる。

杉山元陸軍元帥は,1940〜1944年参謀総長,教育総監をへて1944年7月小磯内閣で陸軍大臣,1945年鈴木内閣では第一総軍司令官。1941年に対米戦争の成算を昭和天皇から「汝は支那事変勃発当時の陸相であるが、あのとき事変は3ヶ月で終わると申したのに今になっても終わっていないではないか」と詰問され,杉山が「支那は広うございますので」と釈明した。すると、昭和天皇は「太平洋は支那より広いではないか」と逆鱗に触れた逸話がある。
杉山元陸軍元帥は,敗戦後1945年9月12日拳銃自決し、夫人もそれに殉じた。戦争責任を理解していた所作であろう。参謀総長時代に会議の内容などを記した「大本営政府連絡会議議事録(杉山メモ)」を残している。杉山メモは,杉山元参謀総長が職にあった1940-1944年の「大本営政府連絡会議」「御前会議」他の筆記記録および上奏時の御下問奉答の記録である。

天皇に政策や戦略の裁可を求める「上奏」は,内閣と軍部(参謀本部と軍令部)の二通りがある。日清・日露戦争においては、当時の首脳陣が内閣と軍部を取りまとめて一括して上奏した。しかし1930年代になると軍部は統帥権の独立を理由として、単独上奏するようになった。そこで,統帥権の独立によって、議会と内閣は,軍部に制約を加えられなくなったのである。したがって,統帥権を保持する大元帥天皇のみが,軍部と直接に,軍事作戦について討議することになる。大元帥昭和天皇は,陸軍参謀総長と海軍軍令部総長に輔弼されてはいるが,議会,内閣の輔弼を受けられないまま,軍事作戦に関与せざるをえない。

1945年8月6日に広島への原爆投下、8月9日に長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告があった。この危機に直面し,海軍大臣米内光政大将は,1945年8月12日,次のように語った。
 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。
(『海軍大将米内光政覚書』;ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

1945年2月14日の昭和天皇への「近衛上奏文」によって,近衛文麿は,敗戦が日本に共産革命を引き起こし,国体変革をもたらすとの危惧を表明していた。近衛公秘書官細川護貞は,ソ連の宣戦布告は終戦の「絶好の機会」とし,近衛文麿公爵自身もソ連参戦を「天佑」とするなど,宮中グループは,終戦の形式的な理由が与えられたことを嗅ぎ取った。そして,不穏な国内情勢,すなわち国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感が,日本を混乱させ,国体の変革にもつながると敏感に感じ取っていた。海軍大臣米内光政大将は,鋭い政治感覚の持ち主である。

写真(右):1945年8月13日、アメリカ大統領ハリー・トルーマンが国務大臣ジェームズ・バーンズに陸軍功労賞の勲章を授与する。夫人はバーンズ国務長官夫人(Maude Byrnes)。左からアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall )元帥、陸軍航空隊ハップ・アーノルド(Henry "Hap" Arnold)将軍:この叙勲は、事実上、対日戦争勝利に向けた功績を称えるものだった。1945年9月17日発行”TIME”の表紙を飾ったジェームズ・バーンズ国務長官は,ハリー・トルーマンHarry S.Truman)大統領の先輩上院議員として振る舞い,反ソ連、反共産主義の立場を優先し,原爆投下により戦後アメリカの覇権確立を企図した。
Description: President Harry S. Truman awarding the Distinguished Service Medal to Secretary of State James Byrnes in the Rose Garden at the White House. From left to right: General George C. Marshall; General Henry "Hap" Arnold; the President; Secretary Byrnes; his wife, Maude Byrnes; John Snyder of the Office of War Mobilization and Reconversion; and General Harry Vaughan, the President's Military Aide. Date: August 13, 1945 People Pictured: Arnold, Henry Harley, 1886-1950; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Marshall, George C. (George Catlett), 1880-1959; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Byrnes, Maude, 1882-1976 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2027引用。


1945年8月14日の最後の御前会議では,陸軍(梅津・阿南),内閣(豊田)らの主戦派の意見を聴取した後,昭和天皇が「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ。内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ。 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ。----戦争ヲ継続スレバ 国体モ国家ノ将来モナクナル 即チモトモコモナクナル。今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ。速ニ詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ。」と終戦の聖断を下したという(御前会議引用)。

写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC、日本のポツダム宣言受諾、降伏を発表するアメリカ大統領ハリー・トルーマン、後方にはバーンズ国務長官、中央奥右の夫人は大統領夫人ブレス・トルーマン(First Lady Bess W. Truman):写真には、ハリー・トルーマンの署名がなされている。1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎に原爆投下、同日、ソ連軍が日本・満州を攻撃、8月10日、ポツダム宣言につき国体護持の条件を照会、8月12日、アメリカ国務長官バーンズより回答、「日本の政体は日本国民の意思による。統治権は、連合国軍最高司令官の下に置かれる」。8月14日(アメリカでは8月13日)午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達。このときが実際の日本の無条件降伏で、そのニュースが世界に伝えられた。8月15日(アメリカでは8月14日)正午になって、ラジオの玉音放送で日本の降伏が国民に知らされた。この日本国民への終戦の通告は、国際的には丸一日以上の遅れである。
Description: President Harry S. Truman (standing at desk) reads the announcement of the Japanese surrender ending World War II to various reporters and officials in the Oval Office. Seated on the sofa in the background are (left to right): Reathel Odum, Mrs. Bess W. Truman, Samuel Rosenman, and John Snyder. Seated behind President Truman is Secretary of State James Byrnes. Standing behind President Truman at the window is Attorney General Tom Clark (left) and Senator Arthur Vandenberg (right). Others are unidentified. Date: August 14, 1945 People Pictured: Truman, Bess Wallace, 1885-1982; Truman, Harry S., 1884-1972; Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Clark, Tom C. (Tom Campbell), 1899-1977; Odum, Reathel M.; Rosenman, Samuel I. (Samuel Irving), 1896-1973; Snyder, John W. (John Wesley), 1895-1985; Vandenberg, Arthur H. (Arthur Hendrick), 1884-1951
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 73-2017引用。


写真(右):1945年8月14日、ワシントンDC、日本のポツダム宣言受諾、降伏の申出がなされたことを知って、ホワイトハウスに押し寄せたアメリカ人: ポツダム宣言を受諾したことで、日本の無条件降伏が決まった。これを国ではなく軍隊の降伏だ、国体護持の条件は認められたから条件付講和だというのは、小手先の理屈であり、大局を見失っている。当時の日本、世界の国民はそんなことを考えなかった。口に出せば、負け惜しみと嘲笑されたはずだ。萬世一系昭和天皇の終戦の宣言は、建国神話以来初めての降伏、日本の敗戦である。だからこそ昭和天皇も皇祖に申し訳ない、建国神話に汚点を残したと苦悩した。まさに日本そのものの降伏、敗北であると悲しんだのである。天皇の終戦の聖断に逆らう者は、反逆者と見なされ、終戦の妨害は、天皇の意思は徹底抗戦であり、周囲の逆賊が勝手に降伏を宣言したとの理屈でおこされた。天皇への忠誠心あるいは罰せられる恐怖で、大半の軍人・政治家、そして国民は反論せず、日本の降伏を受け入れた。日本の主権は、敗戦、統治権者昭和天皇の降伏の申出によって、完全に敵の手にゆだねられた。一億総懺悔が唱えられるほどだった。これが大戦争における敗北の末路である。戦争に負ける苦渋を当時の日本国民は噛みしめ耐えた。
Description: Crowd of spectators in Lafayette Park, north of the White House (those in uniform saluting) on the date of the announcement of the Japanese surrender ending World War II. Date: August 14, 1945
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 59-1037引用。


杉山元陸軍元帥は,明確に徹底抗戦を徹頭徹尾貫いた点で,「意志強固な軍人」である。敗戦の責任をとっての自決することは,元帥・大将には当然であったろう。他方,米内光政海軍大将は,東京裁判(極東国際軍事裁判)の戦犯に指名されないために,東京裁判では証人席に立った。

戦後の東京裁判において,日本陸軍は大将5人、中将1人が絞首刑になったが、海軍の将官はひとりも処刑されなかった。こうして,陸軍を強硬派,主戦派とし,海軍をリベラル,反戦派・良識ある軍人とするいう伝説,すなわち「陸軍悪玉・海軍善玉神話」が創作されたようだ。(今日のぼやき:副島隆彦を囲む会三村文男(2002)『米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉説」の虚妄を糺す』参照)

「いったい海軍というのはわたしが古巣だが、そういった点では、ずるいところがあった。たとえば陸軍は横暴で困るなどと口ではいう。で、その陸軍が、何かいいことをするときには、どうも陸軍がね、といいながら、すっかり陸軍のせいにしておいて、自分らも便乗してしまう。」(岡田啓介(1950)『岡田啓介回顧録』;日本海軍を検証する 引用)同じように「海軍はずるいところがある」と,1944年12月5日に軍令部作戦(正式には第一)部長に就任した富岡定俊少将も述べている。降伏調印式という「無残な敗北の席」に,軍令部総長も海軍大臣も出席を拒み,軍令部作戦部長という格下の部下を出席させている。

写真(左):1945年8月30日、日本本土の神奈川県、厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官マッカーサー元帥:ダグラスDouglasC54輸送機「バターン」から厚木飛行場に降り立ったMajor General Joseph M. Swing, Commanding General, 11th Airborne Division, (left); Lieutenant General Richard K. Sutherland (3rd from right); General Robert L. Eichelberger (right).実は8月28日,厚木飛行場では海軍保安部隊からの派遣隊が守る日本軍将校(有末精三中将、鎌田金宣一中将、山澄忠三郎大佐)らが米先遣部隊の到着を受け入れている。C-46輸送機16機が8時28分に到着し,先遣隊(直属の部下のC.B.ジョーンズ海軍大佐、E.K.ウォーバートン第5航空軍大佐、民間技師のC.R.ハッチンソンとD.M.Dunne、SigC(通信隊)のS.S.オーチンクロス大佐とL.パーク大佐、ATISの通訳のF.バウアー少佐)を率いるチャールズ・P.テンチ大佐(GSC, of the G-3 section of GHQ)が降り立った。9時35分、15機のC-54、C-46、C-47の2番目のグループが到着,11時、15機のC-54の3番目のグループ到着。これらの飛行機は,総勢30名の将校と120名の通常装備の兵士を運んでいた。(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:マッカーサーレポートVol.2について参照)

近衛文麿は、1937年第1次近衛内閣を組閣,1937年7月に日中全面戦争を開始し、1938年1月16日、蒋介石の「国民政府を対手(あいて)とせず」の発言と宣言して、戦争を泥沼に引き入れた。近衛は三次にわたり首相を務め、政権を担っことになるが、?1937年7月の日中全面戦争の開始、?1938年11月3日の東亜新秩序建設・新体制の提唱、?1940年9月23日の北部仏印進駐、?1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟の締結、?1941年4月13日の日ソ中立条約、?1941年7月の関特演と東軍南部仏印進駐、?1941年9月6日の帝国国策遂行要領(対米要求が10月上旬までに貫徹できなければ対米英蘭の開戦)の決定、など重要な国策が決まったのは、近衛文麿政権での出来事である。

 しかし、近衛文麿は、「近衛日記」昭和十九年七月二日・十四日)(【国民のための大東亜戦争正統抄史;近衛上奏文解説】引用)で、次のように述べている。
 「当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しており、又第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、いずれも来るべき敗戦を機会に革命を煽動しつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動にいづるや想像に難からず。」

「此において予は、敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖るべし。現段階は、まさに此の方向に歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。外に対しては支那事変を拡大し、さらに大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり、政戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を強行し、遂に今日の内外ともに逼迫せる皇国未曾有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り、陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々説明せるも、二・二六以来、真崎、荒木両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。」(引用終わり)

写真(右):1945年9月2日 、アメリカ海軍新鋭戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上の日本降伏調印団:前列;外相重光葵Foreign Minister Mamoru Shigemitsu (wearing top hat),参謀総長梅津美治郎陸軍大将General Yoshijiro Umezu, Chief of the Army General Staff. 中列; 大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将Major General Yatsuji Nagai, Army; 終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男Katsuo Okazaki; 大本営海軍部(軍令部)第一部長富岡定俊海軍少Rear Admiral Tadatoshi Tomioka, Navy; 内閣情報部第三部長加瀬俊一Toshikazu Kase; 大本営陸軍部(参謀本部)第一部長宮崎周一陸軍中将Lieutenant General Suichi Miyakazi, Army. 後列(左から右に): 海軍省副官横山一郎海軍少将Rear Admiral Ichiro Yokoyama, Navy; 終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎Saburo Ota; 大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐Captain Katsuo Shiba, Navy, 大本営陸軍参謀・東久邇宮総理大臣秘書官杉田一次陸軍大佐Colonel Kaziyi Sugita, Army. Naval Historical Center(現代文化学基礎演習2(2001年度:永井)映像で見る占領期の日本:ミズーリ号艦上の降伏調印式参照)。

降伏文書調印にあたっての詔書:1945年9月2日降伏調印とともに交付された詔書「映像で見る占領期の日本」引用
朕は昭和二十年七月二十六日米英支各国政府の首班がポツダムに於て発し後にソ連邦が参加したる宣言の掲ぐる諸条項を受諾し、帝国政府及び大本営に対し連合国最高司令官が提示したる降伏文言に朕に代り署名し且連合国最高司令官の指示に基き陸海軍に対する一般命令を発すベきことを命じたり、
朕は朕が臣民に対し敵対行為を直に止め武器を措き且降伏文書の一切の条項並に帝国政府及び大本営の発する一般命令を誠実に履行せんことを命ず
               御名御璽

3.Japan Surrenders

降伏文書:1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印された文書「映像で見る占領期の日本」引用
下名ハ茲二合衆國、中華民國及「グレート・ブリテン」國ノ政府ノ首班力千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和國聯邦力参加シタル宣言ノ條項ヲ日本国天皇、日本國政府及日本帝國大本営ノ命二依り且之二代り受諾ス右四國ハ以下之ヲ連合國卜称ス。

下名ハ茲ニ日本帝國大本営並ニ何レノ位置二在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ連合国二対スル無條件降伏ヲ布告ス。

下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ワス一切ノ日本國軍隊及日本國臣民二対シ敵対行為ヲ直二終止スルコト、一切ノ船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之カ毀揖ヲ防止スルコト及連合國最高司令官又ハ其ノ指示二基キ日本國政府ノ諸機関ノ課スヘキ一切ノ要求二應スルコトヲ命ス。

下名ハ茲ニ日本帝國大本営力何レノ位置ニ在ルヲ問ハス一切ノ日本國軍隊及日本國ノ支配下二在ル一切ノ軍隊ノ指揮官ニ対シ自身及其ノ支配下二在ル一切ノ軍隊カ無條件二降伏スヘキ旨ノ命令ヲ直二發スルコトヲ命ス。

> 下名ハ茲二一切ノ官 、陸軍及海軍ノ職員二対シ連合國最高司令官カ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ發シ又ハ其ノ委任二基キ發セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命シ並ニ右職員カ連合國最高司令官ニ依リ又ハ其ノ委任二基キ特ニ任務ヲ解カレサル限リ各自ノ地位ニ留リ且引績キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行ウコトヲ命ス。

下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ條項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スルタメ連合國最高司令官又ハ其ノ他特定ノ連合国代表者カ要求スルコトアルヘキ一切ノ命令ヲ發シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本國政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

下名ハ茲ニ日本帝國政府及日本帝國大本営二対シ現ニ日本國ノ支配下二在ル一切ノ連合國俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所へノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ス。

天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ実施スル為適当卜認ムル措置ヲ執ル連合國最高司令官ノ制限ノ下二置カルルモノトス。

千九百四十五年九月二日午前九時四分日本國東京湾上二於テ署名ス
大日本帝國天皇陛下及日本國政府ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
        重光 葵
日本帝國大本営ノ命ニ依リ且其ノ名二於テ
       梅津 美治郎

千九百四十五年九月二日午前九時八分日本國東京湾上二於テ合衆國、中華民國、連合王國及「ソヴィエト」社曾主義共和囲連邦ノ為ニ並ニ日本國ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸國家ノ利益ノ為ニ受諾ス

連合國最高司令官 ダグラス・マッカーサー,合衆國代表 シー・ダブリュー・ニミッツ,中華民國代表者 徐永昌,連合王國代表者 ブルース・フレーザ,「ソヴィエト」社会主義共和國連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ,「オーストラリア」連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー,「カナダ」代表者 エル・コスグレーブ,「フランス」國代表者 ジァック・ル・クレルク,「オランダ」國代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ,「ニュージーランド」代表者 エス・エム・イシット。

加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』(下)pp.80-94は,降伏文書調印の日を次のように描写する。(「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用)
---上甲板は黒山の人だった。----色とりどりの服装に、肩章・徽章・勲章が眩しく輝く。周囲には褐色の軍服を着た米軍の将官が立ち並び、燃えるような憎悪の眼―と私は思った―を光らせている。後日知ったことだが、ハルゼイ提督などは、日本全権の顔のどまんなかを泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動をかろうじて抑えていたのである。
甲板ばかりではない。マストの上に、砲塔の上に、煙突の上に、実に、ありとあらゆるところに、さながら曲芸の猿のように、“観衆”は鈴なりになって、我々を凝視していた。---日本全権団の動作を、その一挙一動を、追っていたのである―露骨な敵意と無限の好奇心とをもって-----生れていまだかつて、人間の視線がこれほどの苦痛を与えるものだとは知らなかった。私は歯を食いしばって屈辱感と戦いながら、冷静を失うまいと必死に努力した。
ふと見ると、傍らの壁に小さな日章旗が描かれている。幾つもある。多分、ミズリー号が撃墜・撃沈した日本の飛行機・艦船の数に相当するのではあるまいか。----花と散り急いだ特攻隊の青年たち、彼らの霊がこの旗にこもっているとすれば、今日この調印式の光景を、そも、なんと見るであろうか...。

写真(右):1945年9月2日,東京湾上で日本降伏調印式Formal Surrender of Japanを宣言する連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥General of the Army Douglas MacArthur:戦艦「ミズーリ」USS Missouri (BB-63)艦上で ,英国Admiral Sir Bruce Fraser; ソ連Lieutenant General Kuzma Derevyanko; 豪General Sir Thomas Blamey; 加Colonel Lawrence Moore Cosgrave; 仏General Jacques LeClerc; オランダAdmiral Conrad E.L. Helfrich; ニュージーランドAir Vice Marshall Leonard M. Isitt. 米国陸軍Lieutenant General Richard K. Sutherland; 中華民国General Hsu Yung-chang; 米海軍Fleet Admiral Chester W. Nimitz. 掲げられている星条旗はペリー提督 Commodore Matthew C. Perryが,1853年に東京湾に来航した時のもの。

足早にマッカーサー元帥がテーブルに向かって歩いて来たのである。マイクの前に立ち止まると、演説を始めた。演説はないはずだったから、意外だった。----元帥はこの演説において、理想や理念の紛争はすでに戦場において解決されたから、改めて議論する必要はない、といって、我々は猜疑や悪意や憎悪の気持に促されて今日ここに相会するのではなく、過去の流血と破壊のなかから信頼と理解にもとづく新しい世界を招来しようと切に念ずるものであると説き、自由と寛容と正義の精神を強調したのである。そして、最後に、占領軍総司令官の義務を「寛容と正義によって」履行する決意であると結んだ。私は、“tolerance and justice”という言葉が反復されるのを聞いて、我れと我が耳を疑った。
意外である。刀折れ矢尽きて無条件降伏をした敗敵を前にして、今日の場合、よもや、このような広量かつ寛厚な態度をとろうとは、まったく予期していなかった。----自制して静かに、自由と覚容と正義を説くのは、まことに立派だと思った。勇気に富むクリスチャンだと思った。そして、日本はこれで救われたと思った。そう信じた。私のみならず、艦上のすべての人は、ことごとく元帥に魅了されていた。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上のサザーランド中将が重光葵外務大臣の降伏調印を見守る。右は,随員の外務省情報部長加瀬俊一。:Lieutentant General Richard K. Sutherland, U.S. Army, watches from the opposite side of the table. Foreign Ministry representative Toshikazu Kase(加瀬俊一) is assisting Mr. Shigemitsu(重光葵). Naval Historical Center.加瀬俊一の手記を読むと,彼ら宮中グループが,マッカーサー元帥を日本再建,国体護持の道筋を与えた人物とて,過剰といえるほどに,高く評価していることに驚かされる。東京裁判についても,同じ趣旨で,うまくいったと考えたはずだ。後になって,東京裁判は無効だというような自称保守派の意見を聞いたとき,内心,その浅はかさを感じたのであろう。

重光全権が進み出た。----「重光葵」と署名した。---続いて、梅津全権が署名し、次にマッカーサー元帥が署名した。---あとは、アメリカ、中国、イギリス、ソ連邦、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順番で戦勝国代表が次々に署名した。
これを見ながら、東海の孤島日本がよくもこれだけ多数の強国を相手にして、大戦争をしたものだと、いまさらのように、その無謀に驚く思いがした。それと同時に、これだけの政治家、外交官がいるのに、連合国側としても、なぜに日本を自暴自棄的な戦争に追いこんだのだろうか、と疑わざるを得なかった。
また、赤い軍服を着たソ連代表が胸を張って傲然と構えた際には、終戦に先だって日本政府がクレムリンに和平の仲介を依頼したにもかかわらず、中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦した経緯を想起して、一種の不潔感を禁じ得なかった。そのようなソ連を対日参戦に誘導したアメリカ外交も愚かであるが、対日戦争と対独戦争の終了は、やがて米ソ関係を冷却せしめるに相違ないと思われた。----VJデーの乾杯が期せずして米ソ反目の開始となる。とすれば、戦勝国の祝杯も必ずしも甘露ではなかったろう。


写真(右):1945年9月2日,東京湾の戦艦「ミズーリ」艦上の日本降伏調印式の終了;降伏文書の回収を行うKatsuo Okazaki 加瀬俊一は,日米開戦時には東郷茂徳外務大臣の秘書官兼政策局六課(北米担当)課長。加瀬俊一は,Lieutenant General Richard K. Sutherlandとやり取りをして,国名と代表者氏名の一致しないことを訴えた。

----これで式は滞りなく終了し、我々一行は、往路を逆に、再びランスダウン号に乗って、横浜港に向かった。---この時、----VJデーを慶祝して、四百のB29と一千五百機の艦載機が一大ページェントを展開した。その轟音の問から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流れる。これが、また、流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して、「日本民族の精力が平面的でなく立体的に発動し、その才能が建設的に活用されれば、必ずや現在の悲境から脱出して、尊敬に値する国際的地位を回復するであろう」と大胆に予言したのである。

私は---急いで調印式の経過、とくにマッカーサー元帥の態度と演説の意味を詳説した報告書を認めた。重光全権はこれをもって直ちに参内した。----私はこの報告書を、「もし日本が勝っていたら、果して今日マッカーサー元帥がとった態度をアメリカに対して示し得たでありましょうか」という疑問で結んだ。これには陛下も暗然たる表情で同感の意を表されたのである。

いま、敗戦によって、国民がこの事実に思い至れば、それが、とりも直さず、再起の大道に連なるのである。マッカーサー元帥は、いみじくも、この大道を展望したのであってその意味で、我々に新たな勇気をふるい起させたのだった。元帥の演説は暗黒をつらぬく一条の光明だったといってもよかろう。加瀬俊一(1981)『加瀬俊一回想録』「映像で見る占領期の日本−占領軍撮影フィルムを見る−降伏調印式関係史料集」引用終わり)

現在の保守派には,「米国への従属はけしからん」「独自外交を展開すべきだ」「戦後日本の個人主義教育が人身の荒廃をもたらした」と主張する政治家・指導者が多い。しかし,終戦後の保守派(宮中グループ)の政治家・指導者たちは,従来まで戦っていた敵国の温情を受け,親米派を主流とし,マッカーサー元帥の恩恵を肌身に感じて,彼を個人的に尊敬した。まさに,日本人を殺害してきた敵に,媚をうり追従していると錯覚してしまうほどの耽溺である。彼ら保守派の大先輩(宮中グループ)こそが,自らの身の処し方こそが,米国への従属,親米の立場を選択したのであり,それが日本再建の道であると確信していた。決して,米国の占領政策を押し付けられたとか,マッカーサー司令官の下で強要されたものではなく,日本の保守は自らの企図,すなわち国体護持と日本再建を実現してくれる政府が占領軍総司令部であり,マッカーサー元帥だったのである。

保守の中の短絡派は,占領軍総司令部を利用して,国体護持と日本再建を図ったのである。このような米国従属を企図した親米保守派の政治的末裔が,反米,独自外交を唱えるのは,大先輩の深謀遠慮をないがしろにする行為のようにみえる。
それとも,当時とは状況が変わって,国体は完全に護持された現状では,再び対米独立路線を歩むのが国威発揚につながると考えているのであろうか。

いずれにせよ,今の日本を作った,今の親米,米国追従路線を選択したのは,キュウチュウグループに代表される保守派である。その後に,大きな禍根を残したというのであれば,それは占領軍総司令部という外圧ではなく,新米保守は自らが引き起こした禍いであり,彼らがその責任を追うべきである。

大本営海軍部/軍令部作戦部長富岡定俊少将の回想(映像で見る占領期の日本:降伏調印式関係史料集引用)によれば、降伏式の全権選定がまた一騒ぎだった。連合軍の指令で政府を代表する全権と大本営を代表する全権各一名と随員数名ということであったが、誰が行くかということになると皆いやだいやだで引き受け手がない。
重光外相の代表はまず動かんところだが、大本営はもめたあげく、梅津参謀総長が無理矢理に押しつけられた。海軍の代表の段になると、「梅津代表となれば総長だ」という者があったが、豊田総長は猪首を横に振った。「それじゃ次長(自決した大西中将の後任の高柳儀八中将)だ」と言えば「いやだ」という。とうとう「作戦に負けたのだから作戦部長行け」とのっぴきならぬ無理往生で私が海軍の主席随員にされてしまった。こういうところに、たしかに海軍はずるいところがあった。何しろ“降伏するぐらいなら死ね”と十八、九歳のころから五十歳近いその年まで長の年月たたきこまれた観念では、今から考えればおかしいぐらいだが本当に死ぬより辛かった。


写真(右):1945年9月2日(日本3日),東京湾の戦艦「ミズーリ」での降伏調印式に出席した日本代表団;重光葵(外務大臣),梅津美冶郎参謀総長(海軍の豊田副武軍令部総長は欠席) and 梅津美治郎(陸軍大将・参謀総長)Chief of the Army General Staff. 後方は,左から右に:永井八津次(陸軍少将、大本営陸軍参謀);岡崎勝男(終戦連絡中央事務局長官);富岡定俊(海軍少将、大本営海軍部第一部長);加瀬俊一(内閣情報部第三部長), 宮崎周一(陸軍中将、大本営陸軍部第一部長)。さらに,後方は左から右に:横山一郎(海軍少将、海軍省出仕);太田三郎(終戦連絡中央事務局第三部長);柴勝男(海軍大佐、大本営海軍参謀(軍令部第一部), 杉田一次(陸軍大佐、大本営陸軍参謀、東久邇宮総理大臣秘書官)。「東久邇日記」九月二日によれば,「重光代表は政府代表は近衛公がよいと申し出てきたが、私は考慮中だといって確かな返事をしなかった。梅津参謀長も大本営代表は、参謀総長と軍令部総長と二人でなければいけないと再三いって来たが、私は返事をしなかった。しまいに、梅津は、『もし参謀長一人を代表とする時には自決する覚悟である』とまでいって来たが、私はなおも返事をしなかった。梅津は私に直接交渉はしなかった。私は近衛、木戸、緒方三大臣と相談して、重光、梅津を代表とすることにし、天皇陛下のお許しを経て、終戦処理委員会で発表し、三十一日の閣議で決定してしまった。これが国政をあずかる最高責任者の態度というものであろうか。」とある。

迎えのランチででミズーリ号に向かったが、隻脚の重光全権は大兵肥満の米水兵にまるで子供でも抱くように軽々と舷梯に抱きおろされた。案内の士官も兵隊のいたわり方も昨日まで必死の戦いを続けた憎たらしい敵国人だという様子がいささかもない。周囲に集まった水兵が皆カメラでこの情景を写そうとする。大の男が赤ん坊のように抱かれている姿はあまりみっともよくはない。外務省の随員が案内将校に「済みませんが、ここの写真はやめさせてもらえませんか」と頼めば、「オーライ」と気軽に引きうけて大声で号令すると皆カメラを引っ込めてしまった。

どんな取扱いを受けるか侮辱を受けるかと心ひそかに覚悟していた私は「オヤッ、これは大分見当が違ったぞ」と、ちょっと心を打たれた。
定めの席につく間、だれ一人予期していた侮蔑的態度を示したものがない。八月十九日マニラに派遣された我が軍使が比島人から受けた非常な侮辱的取り扱いに比べてこれはまた何という違いだろう。式場の側壁には1852年、ペルリ提督来航の際の古い星条旗が掲げられていた。

どんな過酷な義務と懲罰を加せられるか、もしもの時にはと心配もし、心ひそかに覚悟するところのあった私は周囲の風物もあまり心にとまらなかった。目についたのは米軍将星の列の中で一人だけ戦闘帽をかぶったハルゼー将軍の姿であった。ブルと仇名されただけに精悍な面構え、この人ばかりは許すまじき面持でわれわれをにらみつけていた。

マッカーサー連合軍最高司令官が、マイクの前に立った。無造作な軍服姿だが堂々たる態度、声量豊かな声。「…戦は終わった、恩讐は去った。神よ!この平和を永遠に続けさせ給え!」最後の言葉を述べるとき元帥の目は空の一角に向けられその敬虔な態度と声音は、人に対して語る姿ではなかった。日に見えぬ神に捧ぐる誓いと祈りのほかの何物でもなかった。----しかし元帥のこの言葉と態度には心の底から組伏せられてしまった。恩讐の彼方にあるおおらかな気持、キリストの愛があの大きな胸に包まれている。それに引替え何と小さな島国根性であったかと心の底から打ちのめされた気持であった。不覚の涙で目尻が熱くなる。

日本の降伏が定まってから在日の外国の論調は無電で聴取していたが、峻厳そのもので、ただただ実力で押えつけて管理し変革するという線を越えたものは一つもなかった。然るにそのようなことは元帥の言葉にも態度にも微塵もうかがわれなかったのである。「ペルリ」提督の星条旗をかざったマッカーサー元帥の心が初めてわかった。

写真(右):1945年9月2日 戦艦「ミズーリ」Missouri(BB-63)艦上で日本降伏文書に署名するSupreme Commander Allied Powers (SCAP)マッカーサーDouglas MacArthur 元帥;連合軍最高司令官マッカーサー元帥の後方には,1942年にフィリピン コレヒドール島で日本軍に降伏した米国陸軍Lieutenant GeneralウェンライトJonathan M. Wainwright, とシンガポールで日本軍に降伏した英国陸軍Lieutenant General Sir パーシバルArthur E. Percivalがいる。二人とも,日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりだった。署名に使用した金ペン軸(5本使用)は,ウェンライト中将とパーシバル中将に各1本プレゼントされた。

----次に米国代表のニミッツ提督が第三十八機動部隊司令長官マッケーン中将等を従えて米軍代表の列から出てきた。----いつも彼の写真を作戦室に掲げて今度はどういう手に出るか、どんな戦略で来るかと明暮れ睨めっこして頭を悩ました相手であった。---終始合理的な強靭無比な戦いぶりを見せた猛将で、どんな凄い風貌かと思えば、これはまた意外にも最もレファインされた紳士である。態度は鄭重謹厳で地味な様子、いつも日本海軍を馬鹿にするなと戒めていたというのももっともだと思われた。-----彼は恐らくは自分が全滅させた日本海軍の屍を踏みにじりはしないであろう。静かに花輪を置く人ではあるまいか。

ついてきたマッケーン将軍も瀟洒たる紳士でこれが日本全土を荒らし回った第三十八機動部隊の指揮官だったかと意外に思うような人柄であった。いつもこの機動部隊を目の敵にして狙っていたがついにその目的を達し得なかった私は、余人にはわからぬ感慨を覚えた。

各国代表が式場を去ったあとで、日本側が降伏文書を点検したところが、カナダ代表が署名欄を間違えていた。岡崎外務随員の要求にサザーラソド参謀長はいとも無造作に手ぎわよく訂正処理して、もし立場が逆だったらやるであろう「このまま持って帰れ、敗戦国が生意気言うな」といったようなところが微塵もないのがうれしかった。

また駆逐艦で横浜へ送られて東京へ帰る途中、行きも帰りも瓦轢の道は同じ、景色も同じ景色だが、今こそ完全に打ちひしがれた気持であった。「国亡びて山河あり」の無限の悲しみに、心はしめつけられるように苦しかった。

これなら「レジスタンスはやらないで済むな」と思い、帰ってから米内さんに報告したら「うんわかった。お前死ぬなよ」と言われた。ある先輩からも懇々とさとされて、私は古巣の海軍大学校の片すみに、みなさんのお骨折りで史料調査会を設け、今日まで戦史の研究をしている(降伏調印式関係史料集 ・『文藝春秋』1950年9月号引用終わり)。

1945年9月2日(日本3日)戦艦「ミズーリ」での降伏調印式におけるマッカーサー元帥の演説
MacArthur's Speeches: Surrender ceremony on the U.S.S. Missouri
降伏調印前
We are gathered here, representatives of the major warring powers, to conclude a solemn agreement whereby peace may be restored. The issues, involving divergent ideals and ideologies, have been determined on the battlefields of the world and hence are not for our discussion or debate. (理想とイデオロギーを巻き込んだ問題は,戦場で片がついたのであり,もはや議論の余地は無い。)Nor is it for us here to meet, representing as we do a majority of the people of the earth, in a spirit of distrust, malice or hatred. But rather it is for us, both victors and vanquished, to rise to that higher dignity which alone befits the sacred purposes we are about to serve, committing all our people unreservedly to faithful compliance with the understanding they are here formally to assume.

It is my earnest hope, and indeed the hope of all mankind, that from this solemn occasion a better world shall emerge out of the blood and carnage of the past ---a world dedicated to the dignity of man and the fulfillment of his most cherished wish for freedom, tolerance and justice.(過去の流血と大量殺戮の後に,自由,寛容,正義を重んじる威厳ある人々の前に,よりよい世界が現れることを希望する。)

降伏調印署名後の演説
Today the guns are silent. A great tragedy has ended. A great victory has been won....(今日,銃声がやんだ。大いなる悲劇が終わり,偉大な勝利が勝ち取られた。)

As I look back upon the long, tortuous trail from those grim days of Bataan and Corregidor, when an entire world lived in fear, when democracy was on the defensive everywhere, when modern civilization trembled in the balance, I thank a merciful God that he has given us the faith, the courage and the power from which to mold victory. ----We must go forward to preserve in peace what we won in war.(我々は,戦争で勝ち取った平和を,将来まで,保持しなくてはならない。)

A new era is upon us. Even the lesson of victory itself brings with it profound concern, both for our future security and the survival of civilization. The destructiveness of the war potential, through progressive advances in scientific discovery, has in fact now reached a point which revises the traditional concepts of war.(勝利の教訓は,我々の今後の安全保障,文明の生存への強い関心を引き起こす。)

----We have had our last chance. If we do not now devise some greater and more equitable system, Armageddon will be at our door. The problem basically is theological and involves a spiritual recrudescence and improvement of human character that will synchronize with our almost matchless advances in science, art, literature and all material and cultural development of the past two thousand years. It must be of the spirit if we are to save the flesh. (もしも,我々がより適切なシステムを構築できないのであれば,最終戦争ハルマゲドンはすぐやって来るであろう。問題は,基本的には,技術的ではあるが,同時に精神的再燃と人類の持つる性向の改善にも関連している。)

1945年9月3日(米国2日)の日本降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説は,内容を吟味しても,日本の戦争責任,戦後処理,兵士の復員,政治体制,国体,占領政策の具体像は述べられていない。にもかかわらず,多くの日本政府首脳陣や軍高官に感銘を与えたようだが,これはひとつには,降伏調印式の演出と日本代表段への丁寧な応対にあった。そして,降伏調印式でのマッカーサー元帥の演説には,敵国日本とその軍隊への侮蔑的態度,政府首脳・大元帥昭和天皇への非難が無かったが,このことが,日本政府首脳陣や軍高官に,戦後日本の再建の期待を抱かせるものだったのである。

第二次大戦中,頻繁に連合国首脳会議が開催され,米英ソ仏中の対ドイツ・日本戦略が話し合われた。会談は,戦略重点の対立もあったが,無条件降伏という基本方針を貫いた。また,ドイツと日本の戦後占領統治についても議論されたが,欧州に比してアジアの戦後計画には,対日戦を担ってきた米国の影響力が強く,日本の戦後は米国に委託された形になった。

国体護持の可能性に期待して、昭和天皇は降伏の聖断を下したのである。ポツダム会談に見られたように、戦後世界の再編成の動きの中で、日本の統治は、アメリカ次第であり、イギリスもソビエト連邦も、日本に対する影響力が弱いことを知っていた。そのために、天皇制の維持、国体護持は、アメリカの決断で選択された。

写真(右):1945年8月16日、VEデー(対日東洋戦線戦勝記念日)の戦勝宣言(Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer)に署名するアメリカ大統領トルーマンと見守る国務大臣ジェームス・バーンズ
Description: President Harry S. Truman (left) signing Proclamation 2660: Victory in the East-Day of Prayer. James Byrnes, Secretary of State, looks on. Date: August 16, 1945 HST Keywords: Truman - Signing-Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
People Pictured: Byrnes, James F. (James Francis), 1882-1972; Truman, Harry S., 1884-1972 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 59-1037引用。


Proclamation 2660-Victory in the East-Day of Prayer
August 16, 1945 By the President of the United States of America

The war lords of Japan and the Japanese armed forces have surrendered. They have surrendered unconditionally. Three months after victory in Europe victory has come in the East.
The cruel war of aggression which Japan started eight years ago to spread the forces of evil over the Pacific has resulted in her total defeat.
This is the end of the grandiose schemes of the dictators to enslave the peoples of the world, destroy their civilization, and institute a new era of darkness and degradation. This day is a new beginning in the history of freedom on this earth.
Our global victory has come from the courage and stamina and spirit of free men and women united in determination to fight.
It has come from the massive strength of arms and materials created by peace-loving peoples who knew that unless they won decency in the world would end.
It has come from millions of peaceful citizens all over the worldturned soldiers almost overnightwho showed a ruthless enemy that they were not afraid to fight and to die, and that they knew how to win.
It has come with the help of God, Who was with us in the early days of adversity and disaster, and Who has now brought us to this glorious day of triumph.
Let us give thanks to Him, and remember that we have now dedicated ourselves to follow in His ways to a lasting and just peace and to a better world.
Now, Therefore, I, Harry S. Truman, President of the United States of America, do hereby appoint Sunday, August 19, 1945, to be a day of prayer.
I call upon the people of the United States, of all faiths, to unite in offering their thanks to God for the victory we have won, and in praying that He will support and guide us into the paths of peace.
I also call upon my countrymen to dedicate this day of prayer to the memory of those who have given their lives to make possible our victory.
In Witness Whereof, I have hereunto set my hand and caused the seal of the United States of America to be affixed.
Done at the City of Washington this sixteenth day of August, in the year of our Lord nineteen hundred and forty-five, and of the Independence of the United States of America the one hundred and seventieth.

対日東洋戦線戦勝記念日の戦勝宣言: 8年前(1937年の日中戦争)から、東洋を侵略し悲惨な戦争を引き起こした日本は、完全に敗北し、無条件降伏しました。これは、神のご加護で得られた輝かしい功績であります。神が我らを勝利に、平和に導いたことに感謝します。何百万の平和を欲する人々と兵士が、多大な努力で兵器と物資を動員し、戦うこと、死ぬことを恐れずに、無法な敵に立ち向かい勝利したのです。この勝利のために、自らの命をささげた人々の思いを祈念し、その証拠として、私はアメリカ合衆国の国章において、署名をしました。

連合国首脳会談で,日本の戦後処理が明示されていない以上,戦後日本の戦争責任や政治体制は,米国の意向を具体化する占領軍総司令官マッカーサー元帥にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,マッカーサー元帥の権威の大きさを熟知して,それに積極的に協力することによって,戦後日本の再建,国体護持に尽力したようだ。つまり,敗戦後の日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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