特攻機による戦果:カミカゼ特攻機命中率56%の虚報: 鳥飼行博研究室
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◆特攻機による戦果:カミカゼ特攻機命中率56%の虚報
絵画(上左))「パリでの自殺」(Suicide in Pairs):1944年10月20日、アメリカ軍は、フィリピン中部レイテ島に中型戦車揚陸艦(Landing Ship Tank:LST)を使って上陸したが、日本軍による空襲を受けた。/ジェームズ・タンブル(James Turnbull)1945年頃作
:Painting, Oil on Canvas; by James Turnbull; 1945; Framed Dimensions 32H X 40W Accession #:88-159-KI as a Gift of Abbott Laboratories Streaking down from a sullen flak-pocked sky, a Japanese kamikaze suicide plane heads towards its target an Landing Ship Tank (LST), already smoking and in wreckage from another enemy plane that crashed on its deck a few seconds before. This action occurred during the Philippines campaign.
絵画はNaval History and Heritage Command:Suicide in Pairs 引用。
絵画(上右)「空襲」(Air Attack ):1945年1月9日、フィリピン、ルソン島リンガンエン湾上陸作戦、特攻機の空襲を受けるアメリカ軍の中型戦車揚陸艦(LST)と車輛歩兵揚陸舟艇(LCVP:Landing Craft, Vehicle, Personnel)/ジェームズ・タンブル(James Turnbull)1945年作:1944年10月20日、フィリピン中部レイテ島に上陸したアメリカ軍は、1945年1月9日、ルソン島リンガンエン湾に上陸し、フィリピン全土の解放を進めた。
Painting, Watercolor on Paper; by James Turnbull; 1945; Unframed Dimensions 23H X 31W Accession #:88-159-KM as a Gift of Abbott Laboratories Related Content
LCVP's are laying a smoke screen around the ships anchored in Lingayen Gulf. Bomber and kamikaze attacks usually came in the few minutes of twilight either before sunrise or after sunset (especially suicide attacks). The men are elated over the downing of an enemy plane by our ack- ack fire.
絵画はNHHC: Air Attack 引用。


写真(右):1944年10月21日、フィリピン、ルソン島中部マバラカット基地、出撃前の別れの水杯を酌み交わす日本海軍第一航空艦隊第201航空隊第一神風特別攻撃隊の特攻隊員と第一航空艦隊司令長官大西滝治郎中将(1891-1945/8/16自刃);マバラカット基地には、第201航空隊(201空)指令山本栄中佐、副長玉井浅一中佐、第一航空艦隊(一航艦)首席参謀猪口力平中佐、第26航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らがいた。
Title:Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. Caption:A group of the earliest Japanese KAMIKAZE special attack pilots receives a ceremonial cup of sake from Vice Admiral Takijiro Ohnishi, IJN, the sponsor of the corps, 1944.
写真はNaval History and Heritage Command: NH 73097 Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. 引用。


写真(右):1944年10月21日、フィリピン、ルソン島中部マバラカット基地鵜を発進するアメリカ海軍空母の攻撃に出撃する日本海軍第一航空艦隊第201航空隊第一神風特別攻撃隊所属と思われるゼロ戦特攻機(爆装戦闘機);敷島隊4機と朝日隊3機は、胴体下面には250キロの二五番通常爆弾(対艦船用)を搭載、レイテ沖の空母の攻撃に向かったが、戦果は報告されず、「大和隊」指揮官久納好孚中尉が帰投しなかった。その後、10月25日6時半、ミンダナオ島ダバオ基地から菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機のゼロ戦が出撃、次いで7時半、「敷島隊」関幸雄大尉率いる5機がマバラカット基地から出撃し、戦果を挙げた。
Title:Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. Caption:A Japanese Kamikaze pilot taxies his bomb-laden Mitsubishi "ZERO" Fighter on a Philippine air field in preparation for take off during the Leyte Operation, October-November 1944. His comrades cheer as the plane passes between them.
写真はNaval History and Heritage Command: NH 73098 Japanese Kamikaze pilots prepare for battle. 引用。


写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ沖、アメリカ海軍護衛空母「キトカンベイ」USS Kitkun Bay (CVE-71)に向かう日本海軍第一航空艦隊第201航空隊第一神風特別攻撃隊所属と思われるゼロ戦特攻機(爆装戦闘機);飛行甲板前方より撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。米軍でも軍艦の被害については、資料が整備され、民間商船についてもwebで被害状況が概観できる。
80-G-287465: USS Kitkun Bay (CVE-71), October 25, 1944. A Japanese fighter makes suicide dive on USS Kitkun Bay (CVE-71) during Battle of Leyte Gulf. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-287465: USS Kitkun Bay (CVE-71), October 25, 1944 引用。

第二次大戦の太平洋戦線末期の1944年10月、日本海軍は、250キロ爆弾を搭載したゼロ戦や彗星艦上爆撃機を使った航空特攻部隊を編成した。これが、特別攻撃隊、略称は特攻隊である。特攻機には、直接掩護と戦果確認を担当する援護用のゼロ戦が同伴した。特攻機の最優先攻撃目標は、アメリカ海軍の正規空母であり、アメリカ戦時標準船リバティー船Liberty ship)その他の艦船には自爆する企図はなかった。

写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ沖、アメリカ海軍護衛空母「キトカンベイ」USS Kitkun Bay (CVE-71)に向かってくる日本海軍第一航空艦隊第201航空隊第一神風特別攻撃隊のゼロ戦特攻機;空母のマスト越しにゼロ戦が接近してくるが、数機が一周のスキをついて突入してきた。特攻が発動された1944年10月段階では、少数敵機に対する十分な対空警戒ができていなかった。その後、広い範囲を警戒するために、駆逐艦をピケット艦として分散させ、哨戒範囲を拡大した。
80-G-287536: USS Kitkun Bay (CVE-71), October 25, 1944. A Japanese fighter makes suicide dive on USS Kitkun Bay (CVE-71) during Battle of Leyte Gulf. Note smoke trails from guns of fighter anti-aircraft fire. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives.
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-287536: USS Kitkun Bay (CVE-71), October 25, 1944引用。


1944年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、かねてから計画通り「捷一号作戦」が発動された。そして、日本海軍は、戦艦を中核とする水上部隊をレイテ沖に進撃させ、それを支援する目的でレイテ沖に遊弋するでアメリカ海軍の空母を特攻機で攻撃した。1944年10月25日、アメリカ海軍護衛空母部隊を襲ったのは、ルソン島・前進基地セブ島を拠点にしていた特攻隊で、特攻機は日本海軍第201航空隊の零式艦上戦闘機に250キロの二五番爆弾を搭載していた。これを、爆装戦闘機・爆装ゼロ戦とも呼称する。そして、特攻機を警護する直援機としてやはり零式艦上戦闘機も同数程度が同伴し、戦果確認にあたった。

写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ沖、アメリカ海軍護衛空母「キトカンベイ」USS Kitkun Bay (CVE-71)と護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63)に向かって行く3機の日本海軍第一航空艦隊第201航空隊第一神風特別攻撃隊ゼロ戦特攻隊;雲海を背景に、少なくとも3機のゼロ戦が見える。特攻隊は、特攻機と直掩機とから編成されていた。
80-G-287431: USS Kitkun Bay (CVE-71) and St. Lo (CVE-63), October 25, 1944. Japanese aircraft group ready to make suicide dive on USS Kitkin Bay (CVE-71) and USS St. Lo (CVE-63) during Battle of Leyte Gulf. Photographed from abeam of CVE. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-287431: USS Kitkun Bay (CVE-71) and St. Lo (CVE-63), October 25, 1944引用。


アメリカ海軍護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63)は、1944年10月12日、ニューギニア北沖、マヌス島ゼーアドラー湾を出撃、レイテ沖に10月18日に到着し、クリフトン・スプレイグ(Clifton Sprague)少将隷下の任務部隊(Task Unit)77.4.3に編入され、レイテ攻略作戦では上空支援・地上支援に活躍した。任務部隊(Task Unit)77.4.3のコールサインが「タフィー3 」"Taffy 3"である。しかし、10月25日早朝、任務部隊(Task Unit)77.4.3の護衛空母は、戦艦、巡洋艦、駆逐艦から成る日本の栗田艦隊に突如遭遇し、艦砲射撃を受けた。これが、サマール沖海戦である。この時は、護衛駆逐艦と護衛空母の艦載機の果敢な攻撃によって、栗田艦隊を撃退することに成功した。

写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ湾、サマール沖海戦で、第一航空艦隊第一神風特別攻撃隊「敷島隊」特攻機の命中を受けて黒煙を上げるアメリカ海軍護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63);飛行格納庫の航空機燃料、爆弾、魚雷が誘爆して大きな黒煙を上げている。
80-G-287510: USS St. Lo (CVE-63), October 25, 1944. St. Lo burning after Japanese fighter makes suicide dive onto the flight deck during the Battle of Leyte Gulf. As seen from USS Kitkun Bay (CVE-71). Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-287510: USS St. Lo (CVE-63), October 25, 1944引用。


しかし、1944年10月25日、10時半過ぎに、任務部隊(Task Unit)77.4.3は、第一神風特別攻撃隊「敷島隊」の特攻を受け、護衛空母軍は大半が損傷し、護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63)には一機が体当たりし、右舷格納庫に火災が発生、搭載していた航空機用揮発油、爆弾・魚雷に引火誘爆し、大炎上して撃沈した。護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63)乗員889名のうち、撃沈によって143名が死亡または行方不明となった。生存者は、護衛していた駆逐艦に救助された。

写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ湾、炎上し黒煙を上げるアメリカ海軍護衛空母護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63);第一航空艦隊第一神風特別攻撃隊「敷島隊」の体当たり攻撃によって、飛行格納庫の航空機燃料、爆弾、魚雷が誘爆して大きな黒煙を上げている。
80-G-287511: USS St. Lo (CVE-63), October 25, 1944. St. Lo burning after Japanese fighter makes suicide dive onto the flight deck during the Battle of Leyte Gulf. As seen from USS Kitkun Bay (CVE-71). Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. .
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-287511: USS St. Lo (CVE-63), October 25, 1944 引用。


第一神風特別攻撃隊「敷島隊」は、特攻機5機で搭乗員は、唯一の海軍兵学校出身の海軍大尉・関幸男、海軍一等飛行兵曹・中野磐英雄、海軍一等飛行兵曹・谷暢夫、海軍飛行兵長・永峰肇、海軍上等飛行兵・大黒繁男である。日本で大本営・海軍が公表した時には、敷島隊五人は戦死後に二階級特進し、その階級で呼ばれた。

写真(右):1944年10月25日、フィリピン、レイテ湾、炎上し黒煙を上げるアメリカ海軍護衛空母護衛空母「セントロー」 USS St. Lo (CVE-63);第一神風特別攻撃隊「敷島隊」の体当たり攻撃によって、飛行格納庫の航空機燃料、爆弾、魚雷が誘爆して大きな黒煙を上げ撃沈した。
Title:Battle of Leyte Gulf, October 1944. Caption:USS ST. LO (CV-63) burning and being abandoned off Samar, after a Kamikaze hit on 25 October 1944. .
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-270511 Battle of Leyte Gulf, October 1944.引用。


特攻開始当初から、日本は新聞・ラジオ・ニュース映画のメディアを使って「神風特別攻撃隊」として喧伝した。これがアメリカ軍にも広まって「カミカゼ」が特攻隊を総称する呼び名となった。wikipedia日本語版は、「神風」の語句を、アメリカ軍「シンプウ」を読み間違えて「カミガゼ」と呼んでだために、この呼び名が広まったというが、誤解である、日本の一般人(当時は地方人といわれた)でも「かみかぜ」と呼んでいた。これは、鎌倉時代、九州に侵攻した元・高麗の水軍が、台風で壊滅したという言い伝え(神話)、すなわち元寇の神風(かみかぜ)に由来するとされたためである。

【アジア太平洋戦争インデックス】戦史一覧
自爆テロと特攻:特攻隊員は9.11同時テロリストと同じか?/ 特攻兵器(1):人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ」/特攻兵器(2):特殊潜航艇「海龍」・特殊攻撃機キ115「剣」
USS GUEST DD472 OKINAWA CAMPAIGN UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY:SUMMARY REPORTU.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945

<特攻に関する統計>
日本海軍の特攻機(1944年10月から沖縄戦まで) 1
特攻機と掩護機の数  

 

出撃数 2,314
帰還数 1,086
損失 1,228
 
米海軍艦艇の特攻による被害2

撃沈Sunk

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

損傷Damaged

 

艦種

隻数

艦種

隻数

護衛空母CVE

  3

正規空母CV

  16

駆逐艦DD

13

軽空母CVL

    3

護衛駆逐艦DE

  1

護衛空母CVE

  17

高速掃海艦DMS

  2

戦艦BB

  15

潜水艦母艦SC

  1

重巡洋艦CA

    5

掃海艇AM

  1

軽巡洋艦CL

  10

高速輸送艦APD

  3

駆逐艦DD

  87

戦車揚陸艦LST

  5

護衛駆逐艦DE

  24

海洋タグ船ATO

  1

潜水艦SS

    1

雑役艦Auxiliary 

  1

機雷敷設艇DM

  13

潜水母艦/魚雷艇PC/PT

  3

高速掃海艦DMS

  15

合計

34

魚雷艇母艦AGP/AGS

    3

 

 

 

 

病院船AH

    1

貨物輸送艦AK/AKA/AKN

    6

掃海艇AM

  10

タンカーAO

    2

輸送艦APA/APD/APH

  30

修理艦ARL

    2

艦隊タグ船ATF

    1

水上機母艦AV/AVP

    4

機雷敷設艦CM

    1

戦車揚陸艦LST

  11

潜水艦母艦PC/PT

    3

YDG/YMS

    7

合計

288

Kamikaze Damage to US and British Carriers by Tony DiGiulian (http://www.navweaps.com/index_tech/tech-042.htm)より作成。
注1. 日本陸軍航空隊の特攻機と掩護機を含まない。US Strategic Bombing Survey reporでは、 2,550機の特攻機・掩護機が出撃したと推計している。しかし、これには掩護機が含まれていないと思われる。約475機、すなわち18.6 percentが敵艦に命中したかあるいは至近距離に突入し被害を加えた。ただし、英国艦への突入も合算されているかどうかは明記されていない。含まれていないようだ。 
注2. 特攻とそれ以外の要因が複合した損傷も含むが、特攻でない損傷は含まない。USS Ticonderoga、USS Franklinはともに2機特攻され、USS Intrepidは5機の特攻を受けている。複数回数の命中しても1回と数えている。主な米海軍艦艇への延べ特攻命中機数は、正規空母 9機、軽空母 2機、護衛空母 16機、戦艦 15機に達する。
注3. 降伏時、日本軍は本土に 9,000機を保有し、これらは特攻に投入可能だった。5,000機以上が実際に特攻用に準備されていた。


『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、沖縄戦における米軍の艦船撃沈 は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機である。他方、日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機に及んでいる。
The Naval Technical Board

「特攻機の命中率が56%」という新資料が米国で見つかった、と誤解を招く報道がなされた。

「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果−米軍機密文書
米軍が至近自爆を含む特攻機の命中効果率を半年間で56%と算定し、日本側推定を大幅に上回っていたことが、米国立公文書館に保管されている米軍機密資料で分かった。日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定していた。」

この虚報の真相は、米軍が戦場で視認した特攻機の来襲機数のうち、被害を与えた特攻機の機数である。
戦時中、米軍は特攻機の出撃数を把握していないので、視界に入った特攻機を(推測で)数えたに過ぎないことが理解できる。そして、米軍が、1944年10月以降、来襲してきた特攻機(と思われる航空機)を推測し記録したとしても、そこには視界にたどり着けなかった多数の特攻機があったはずで、それは分母の中から全て抜け落ちてしまっている。したがって、旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%」とは、至近距離にまで到達できた特攻機の成果が大きかった可能性を示す資料ではあるが、この特攻機の命中率の表現は誤解を招く。

米軍の被害が大きいのは、船体に近距離に撃墜・墜落した特攻機が僅かに軽傷を与えても、それらをすべて被害(命中・至近弾)と扱い過大報告したことによる。優勢な米軍は、損傷を受けたことを自らが勇戦した証拠のようにことっていた。危険を冒して困難な任務を遂行したという誇りをもって、敵の特攻機の攻撃を高く評価した。これは、弱い敵に打ち勝っても勇者とはならないからである。米軍将兵にとって、自らの勇気を誇示するためには、特攻機の危険な攻撃は必須であり、特攻機の命中率が高いことは、自らが危険な困難な任務を成し遂げたことを意味している。つまり、米軍が、自らの優先した証拠として、特攻機の命中率56%との推計をしたのである。このような特攻機命中率56%という米軍の優先の証拠のような数値を、米軍の意図した目的に思い至ることなく受け入れては、米軍の思惑に騙されたも同じである。米軍が特攻を高く評価する真の目的、米軍の英雄的行動を喧伝することに思い至れば、「特攻機は米軍を恐怖させた」といった単純な発想はでてこないはずだ。

米軍の隠された自画自賛の企図も理解せず、特攻の実態を覆い隠したまま「特攻機の命中率56%という米軍の新資料発見」との虚報は、当時の大本営発表のような報道姿勢であり、事実の確認を怠った行為である。特攻を自画自賛するのは、いかなる目的が隠されているのであろうか。特攻機の効果をことさらに誇張する喧伝は、特攻隊員たちの心情に反する行為である。特攻隊の心情に寄り添うことなく、自分勝手な主張を続けていては、それは似非愛国者とみなされてしまう。


出撃した特攻機は、敵戦闘機に迎撃され,対空砲火に砲撃され、目標を冷静に選択する余裕はなかった。
正規空母を攻撃したかったが、そこまで辿り着くのは困難であるようだ。空母の位置も不明である。敵戦闘機も迎撃してくる。こうなれば、撃墜される前に、発見した敵艦艇に突入するのが、特攻で成果をあげる唯一の道のように思える。

特攻機の隊員は、本来は自らの命と引き換えで、敵正規空母を轟沈したかった。しかし、米海軍空母任務部隊は、中心に正規空母2隻,軽空母2隻を、その周囲を巡洋艦4隻、外側を駆逐艦16隻で護衛する輪陣形を組んでいる。したがって、中心部の空母に辿り着くまでには、熾烈な対空砲火をくぐらなくてはならない。
空母からは、F6F「ヘルキャット」、F4U「コルセア」など戦闘機がレーダー誘導されて、遥か100km手前から特攻機を迎撃してくる。また、任務部隊のさらに外側には、駆逐艦、護衛駆逐艦、掃海艦、敷設艦、揚陸艦が、レーダー・ピケ(警戒網)を張っている。米国のレーダーは、200km以上先の敵機(単機でも)捉えることができる。その、進行方向、高度も把握されている。つまり、特攻機が発見されることなく、空母に接近することは非常に困難である。
したがって、特攻機が撃沈した正規空母,軽空母は1隻もない。


特攻機が損傷させた米海軍空母(延べ隻数)は、正規空母16隻、軽空母3隻で、合計18隻で、損傷艦の7%に過ぎない。小型の護衛空母17隻を含めても、13%である。他方、空母を護衛する駆逐艦は87隻で31%、護衛駆逐艦も24隻、9%もある。機雷敷設艦、高速掃海艦はともに駆逐艦を改造したもので,駆逐艦同様、レーダー警戒網を形成していたから,空母の護衛艦艇とレーダー警戒艦艇が、特攻による被害艦艇の半数以上を占めていることになる。ただし、上陸部隊や艦艇への補給を任務とする輸送艦は、40隻、14%とあまり多くはない。本来は、警戒が手薄で、上陸部隊や艦艇の生命線ともいえる輸送艦・輸送船を目標にした攻撃が行われるべきであった。しかし、特攻隊員も。艦隊至上主義の影響を受けていたから、輸送艦のような目標は体当たりにふさわしいとは考えなかった。結局、通常攻撃によって、米輸送船団を攻撃することをしなかったのは、特攻隊を編成し、米軍艦艇に目を奪われた特攻作戦を展開した日本軍の失敗であったと考えられる。

特攻隊員とそれを送り出した指揮官たちの問題とも関連するが,日本軍は、攻撃目標の選定について、軍事科学的な検討を十分にせず、戦術的にも誤った「正規空母」という目標を第一優先した。これも、特攻作戦を失敗させる=特攻という大きな犠牲に見合った戦果をあげられなかった大きな要因であろう。


<特攻の検証;フィリピン・沖縄方面での米国商船の損害一覧 1944-45年>

フィリピン方面の米国商船の撃沈・損傷((1944年10月1日-12月31日):50隻

日付 船名 形式 撃沈・損傷原因 損傷の程度 死亡者数
10/24/44 Augustus Thomas Liberty Kamikaze Damaged None
10/24/44 David Dudley Field Liberty Kamikaze Damaged None
10/25/44 Adoniram Judson (GSA) Liberty 爆撃 Damaged None
10/25/44 John W. Foster Liberty 機銃掃射 Damaged None
10/26/44 Leonidas Merritt Liberty Kamikaze Damaged None [AG wounded]
10/26/44 Benjamin Ide Wheeler Liberty 爆撃 Damaged None
10/27/44 Alexander Majors Liberty Kamikaze Damaged None
10/27/44 Cape Romano Freighter Bombed Damaged None
11/02/44 Matthew P. Deady Liberty Kamikazeと爆撃 Damaged AG 4; Army 26
11/04/44 Cape Constance Freighter 爆撃とKamikaze Damaged None
11/04/44 Frank J. Cuhel Liberty 砲撃 Damaged None
11/12/44 Alexander Majors Liberty Kamikaze Damaged Crew 2
11/12/44 Jeremiah M. Daily Liberty Kamikaze Damaged Crew 4; AG 2; Army 100Unknown
11/12/44 Leonidas Merritt Liberty Kamikaze Damaged Crew 1; AG 1
11/12/44 Morrison R. Waite Liberty Kamikaze Damaged Army 21
11/12/44 Thomas Nelson Liberty Kamikaze Damaged AG 4; Army 164
11/12/44 Carlos Carrillo Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
11/12/44 William A. Coulter Liberty Kamikaze Damaged None
11/14/44 Floyd B. Olson Liberty 爆撃 Damaged None
11/16/44 Leonidas Merritt Liberty Kamikaze Damaged None [AG wounded]
11/17/44 Benjamin Ide Wheeler Liberty 爆撃 Total loss Crew 1; AG 1
11/17/44 Augustus Thomas Liberty 爆撃 撃沈 None
11/17/44 Gilbert Stuart Liberty Kamikaze Damaged Crew 5; AG 1; Army 5
11/18/44 Cape Romano Freighter 爆撃 Damaged None
11/18/44 Amerigo Vespucci Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
11/18/44 Robert Louis Stevenson Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
11/18/44 Nicholas J. Sinnott Liberty Kamikaze Damaged None
11/19/44 Cape Romano Freighter Kamikaze Damaged None
11/19/44 Alcoa Pioneer Freighter Kamikaze Damaged AG 6
11/23/44 Gus W. Darnell Liberty 航空魚雷 全損 None
11/24/44 William C. C. Claiborne Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
11/26/44 Anson Burlingame Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
11/26/44 Howell Lykes Troopship 爆撃 Damaged None
11/29/44 William C. C. Claiborne Liberty 砲撃 Damaged None
12/05/44 Antoine Saugrain Liberty 航空魚雷 Damaged None
12/05/44 John Evans Liberty Kamikaze Damaged None
12/05/44 Marcus Daly (GSA) Liberty Kamikaze Damaged None
12/06/44 Marcus Daly (GSA) Liberty Kamikaze Damaged None [AG wounded]
12/06/44 Antoine Saugrain Liberty 航空魚雷 撃沈 None
12/10/44 Marcus Daly (GSA) Liberty Kamikaze Damaged Crew 2; AG 1; Army over 200
12/10/44 William S. Ladd Liberty Kamikaze 撃沈 None
12/21/44 Juan de Fuca Liberty Kamikaze Damaged None
12/26/44 James H. Breasted Liberty Bombed 全損 None
12/27/44 Francisco Morazan Liberty Kamikaze Damaged None
12/28/44 John Burke Liberty Kamikaze 撃沈 Crew 40; AG 29
12/28/44 William Sharon Liberty Kamikaze Damaged Crew 6; AG 4; Army 1
12/29/44 Hobart Baker Liberty 爆撃 撃沈 Crew 1
12/30/44 Francisco Morazan Liberty Kamikaze Damaged None
12/30/44 Juan de Fuca Liberty 航空魚雷 Split & 修理 Army 2
12/31/44 Simeon G. Reed Liberty 爆撃と地上砲撃 Unknown Unknown

注)Crewとは,商船の乗員で民間人。AGとは,Naval Armed Guard(海軍武装警備隊)で軍人。

写真(右):1945年3月17日、沖縄近海、沖縄直前、特攻機の襲撃を受けて対空砲火で応戦するアメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下インディペンデンス級軽空母8番艦「バターン」USS Bataan (CVL-29)と上空の特攻機が見える。;インディペンデンス級軽空母8番艦「バターン」USS Bataan (CVL-29)は、起工 1942年8月31日、進水 1943年8月1日、就役 1943年11月17日、退役 1954年4月9日。アメリカ海軍正規空母「エセックス」USS Essex (CV-9)より撮影。「エセックス」級空母は、基準排水量2万7100t、全長265.8 m、全幅45 m、機関15万馬力、最高速力33 ノット、兵装127ミリ連装対空砲4基、127ミリ対空砲4門、40ミリ四連装機関砲8基、20ミリ対空機関銃46丁、搭載機数80 -100機。
Okinawa Campaign, Pre-Landing Bombardment, Japanese Kamikaze, March 1945. Near miss by Japanese plane on USS Bataan (CVL-29), unit of Task Force off Okinawa in the Ryukyu Islands. As seen from USS Essex (CV-9), March 17, 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collection of the National Archives. (2014/5/8).
写真はNaval History and Heritage Command:: Okinawa Campaign, Pre-Landing Bombardment, Japanese Kamikaze, March 1945引用。


インディペンデンス級軽空母8番艦「バターン」USS Bataan (CVL-29)の諸元
排水量 11,000 t
全長 189.7m 、全幅 21.7m、全幅 33.3m
吃水 7.9 m
最大速 32 ノット
乗員 1,569名
兵装 40ミリ機関砲26基、20ミリ機関銃18基
搭載機 45機

写真(右):1945年4月6日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」で来襲した特攻機を撃墜しようと対空砲火を浴びせるアメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下の護衛艦艇;エセックス級正規母艦7番艦「ホーネット」USS Hornet (CV-12)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese suicide plane climbing then making a spectacular fall after being hit by anti-aircraft fire from Task Force 58. Image taken from USS Hornet (CV-12), April 6, 1945, while off Okinawa. During the invasion, Hornet’s planes provided support. Official U.S. Navy Photograph, now in the collection of the National Archives. (2013/08/21).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-331602: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945 引用。


1945年4月16日、沖縄の地上戦は、アメリカ軍による本部半島の八重岳に対する攻撃と並んで、伊江島侵攻が開始された。伊江島は、平坦な高台にある小島であり、日本軍も大規模な航空基地を建設していた。しかし、配備する航空機が亡くなってしまったために、せっかく作った飛行場を再び破壊する愚行をするしかなかった。

写真(右):1945年4月16日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」で特攻機の襲撃を受けるアメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下エセックス級正規空母艦11番艦「ベニントン」USS Bennington (CV-20)とサウスダコタ級新鋭戦艦3番艦「マサチューセッツ」USS Massachusetts (BB-59);エセックス級正規母艦7番艦「ホーネット」USS Hornet (CV-12)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese plane exploding from anti-aircraft fire while off Okinawa, Ryukyu Islands, April 16, 1945. US Navy ships shown are USS Bennington (CV-20) and USS Massachusetts (BB-59). Photographed from USS Hornet (CV-12). Official U.S. Navy Photograph, now in the collection of the National Archives. (2013/08/21).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-331610: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945 引用。


1945年4月16日、アメリカ軍は伊江島侵攻に航空基地を設けるために、アメリカ海軍旧式戦艦「ウエスト・バージニア」USS WEST VIRGINIA (BB 48)護衛空母「マキン・アイランド」USS Makin Island, CVE-93)、護衛空母「スワニー」(CVE-27) も投入して、侵攻してきた。午前7時58分、第305連隊第1大隊が伊江島飛行場の南の海岸に上陸したのである。

写真(右):1945年4月16日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」で特攻機の襲撃を受けるアメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下の護衛艦艇(巡洋艦クラス);エセックス級正規母艦7番艦「ホーネット」USS Hornet (CV-12)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese kamikaze splashes off Task Force 58 ships on 16 April 1945. Photographed by USS Hornet (CV-12). Official U.S. Navy Photograph, now in the collection of the National Archives. (2013/08/21).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-331613: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945 引用。


1945年4月16日、沖縄の地上戦は、アメリカ軍による本部半島の八重岳に対する攻撃で始まった。アメリカ軍海兵第4連隊、海兵第29連隊による攻撃である。この時、沖縄近海には、九州方面から日本陸海軍の特攻機が出撃していた。アメリカ第4海兵連隊の1個大隊は、飛行機、野砲、艦砲の援護射撃の下、八重岳の急坂を上って、頂上を占領しようとした。

写真(右):1945年4月3日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」でゼロ戦特攻機の襲撃を受けて対空砲火で応戦するアメリカ海軍アメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下カサブランカ級護衛空母11番艦「ウェーク・アイランド」 USS Wake Island (CVE-65) の至近弾となった炎上する特攻機; カサブランカ級護衛空母18番艦「ツラギ」USS Tulagi (CVE-72)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese suicide plane goes down off Okinawa while attempting to attack USS Wake Island (CVE-65) during the Okinawa Campaign, April 3, 1945. This Japanese Zero is possibly one of the 4 that attacked her on that date. Second in a series of four.
Photograph taken by USS Tulagi (CVE-72). Photographed by Photographer’s Mate First Class C.G. Gemmil. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2013/08/14).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-339260: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945 引用。


写真(右):1945年4月3日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」でゼロ戦特攻機の襲撃を受けて対空砲火で応戦するアメリカ海軍アメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下カサブランカ級護衛空母11番艦「ウェーク・アイランド」 USS Wake Island (CVE-65) の至近弾となった炎上する特攻機; カサブランカ級護衛空母18番艦「ツラギ」USS Tulagi (CVE-72)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese suicide plane goes down off Okinawa while attempting to attack USS Wake Island (CVE-65) during the Okinawa Campaign, April 3, 1945. This Japanese Zero is possibly one of the 4 that attacked her on that date. Second in a series of four.
Photograph taken by USS Tulagi (CVE-72). Photographed by Photographer’s Mate First Class C.G. Gemmil. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2013/08/14).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-339260: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945 引用。


写真(右):1945年4月3日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」でゼロ戦特攻機の襲撃を受けたアメリカ海軍カサブランカ級護衛空母11番艦「ウェーク・アイランド」 USS Wake Island (CVE-65) の至近弾となった炎上する特攻機;カサブランカ級護衛空母18番艦「ツラギ」USS Tulagi (CVE-72)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese suicide plane goes down off Okinawa while attempting to attack USS Wake Island (CVE-65) during the Okinawa Campaign, April 3, 1945. This Japanese Zero is possibly one of the 4 that attacked her on that date. Third in a series of four.
Photograph taken by USS Tulagi (CVE-72). Photographed by Photographer’s Mate First Class C.G. Gemmil. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2013/08/14).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-339261: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945引用。


カサブランカ級護衛空母11番艦「ウェーク・アイランド」USS Wake Island (CVE-65)は、起工 1943年2月6日、進水 1943年9月15日、就役 1943年11月7日、排水量7,800トンで、1945年4月3日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦にアメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下で参加中、「天一号作戦」のゼロ戦特攻機の襲撃を受けた。退役 1946年4月5日、 1946年4月19日にスクラップとして売却された。

写真(右):1945年4月3日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」でゼロ戦特攻機の襲撃を受けて対空砲火で応戦するアメリカ海軍第52任務部隊(Task Group 52)、カサブランカ級護衛空母11番艦「ウェーク・アイランド」 USS Wake Island (CVE-65) の至近弾となった炎上する特攻機;カサブランカ級護衛空母18番艦「ツラギ」USS Tulagi (CVE-72)から撮影。
Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945. Japanese suicide plane goes down off Okinawa while attempting to attack USS Wake Island (CVE-65) during the Okinawa Campaign, April 3, 1945. This Japanese Zero is possibly one of the 4 that attacked her on that date. Fourth in a series of four. Photograph taken by USS Tulagi (CVE-72).
Photographed by Photographer’s Mate First Class C.G. Gemmil. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2013/08/14). .
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-339262: Operation Ten-Go, Japanese Kamikaze, April-June 1945引用。


カサブランカ級護衛空母「ウェーク・アイランド」USS Wake Island (CVE-65)の諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)、全幅 108.1 ft (33 m) 、吃水 22.5 ft (6.9 m)
蒸気タービン2基2軸、9,000馬力
最高速力 19ノット
航続距離 10,240マイル/15ノット
乗員 860名
兵装 38口径5インチ両用砲1門、40ミリ機関砲8基、20ミリ機関銃12丁
搭載機 27機。

写真(右):1945年5月14日、沖縄近海、沖縄侵攻作戦中、「天号作戦」でアメリカ海軍アメリカ海軍第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)隷下サウスダコタ級戦艦の4番艦「アラバマ」USS Alabama (BB-60),に突入するゼロ戦特攻機;カサブランカ級護衛空母18番艦「ツラギ」。
Operation Ten-Go, USS Alabama (BB-60), April-June 1945. Japanese kamikaze plane bursting into flames after direct hit by USS Alabama (BB-60) as it is making glide run on a ship of Task Group 58.3 off Okinawa in the Ryukyus Islands, May 14, 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2014/7/16).
写真はNaval History and Heritage Command:80-G-331013: Operation Ten-Go, USS Alabama (BB-60), April-June 1945 引用。


USS Tulagi (CVE-72)の諸元
起工 1940年2月1日
進水 1942年2月16日
就役 1942年8月16日
基準排水量 35,000トン
満載排水量 44,374トン
全長 207m、全幅 108 ft 2 in (32.97 m) 、 吃水 35 ft 1 in (10.69 m)
機関 蒸気タービン4基4軸 13万馬力(97 MW)
最高速力力 27.5ノット
乗員 1,793名
兵装:
45口径16インチ(40.6cm)三連装砲塔3基9門
38口径5インチ(12.7cm)連装両用砲10基20門
56口径40ミリボフォース四連装機関砲6基24門
70口径20ミリエリコン単装対空砲22丁

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17) ;飛行甲板前方より撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。米軍でも軍艦の被害については、資料が整備され、民間商船についてもwebで被害状況が概観できる。
Title:USS Bunker Hill (CV-17) Description:Scene on the carrier's flight deck, looking aft, while her crew was fighting fires caused by Kamikaze hits, off Okinawa on 11 May 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #:80-G-323712
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-323712 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。


アメリカ海軍エセックス級正規攻撃空母4番艦「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17))の諸元
起工 1941年9月15日
進水 1942年12月7日
就役 1943年5月24日
基準排水量:2万7100t
満載排水量:3万6,380トン
全長:265.8 m、全幅:45 m、吃水:7 m(満載時8.4m)
機関:蒸気タービン37,500 hp4基15万馬力、4軸4スクリュー
最高速力33 ノット
乗員: 3,200名(艦員:2,170名、航空兵:870名
兵装:5インチ(127ミリ)連装両用砲4基8門、5インチ(127ミリ)単装両用砲4門、40ミリ四連装機関砲8基32門
20ミリ対空機関銃46丁
エレベーター 3基
蒸気カタパルト 2基
搭載機数:80 -100機

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17);僚艦の正規空母「エセックス」USS Essex (CV-9)の 飛行機甲板に並ぶF4Uコルセア艦上戦闘機越しに撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。
Title:USS Bunker Hill (CV-17) Description:Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945. Columns of smoke rise from the aircraft carrier after being hit by two kamikaze planes, as seen from USS Essex (CV-9). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2014/5/8).
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-373789: Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945 引用。


アメリカ海軍エセックス級正規攻撃空母4番艦「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17))は、1945年5月11日の沖縄侵攻を支援していた最中、「天号作戦」の日本軍特攻機が2機突入し、飛行甲板に大損傷を受けた。これは、日本海軍零式艦上戦闘機(250キロ爆弾搭載)による爆撃と体当たりで、火災が発生したために、黒煙を上げた。しかし、機関は保持されていたために、自力で航行し後退することができた。この損害は、戦死346名、行方不明43名、負傷者264名と甚大だった。空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17))ははウルシー基地で応急修理をした後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートン基地に帰還し、損傷修理に当たった。

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍エセックス級正規母艦4番艦「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17) ;飛行機格納庫より損壊したエレベーターを撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。
Title:USS Bunker Hill (CV-17)
Caption:Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945. Columns of smoke rise from the aircraft carrier after being hit by two kamikaze planes, as seen from USS Essex (CV-9). Destroyer alongside is USS Charles S. Sperry (DD 697). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2014/5/8).
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-373792: Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945 引用。


アメリカ海軍エセックス級正規母艦4番艦「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)は、沖縄侵攻作戦に参加中の1945年5月11日、第五航空艦隊の菊水6号作戦60機を迎え撃ったが、2機の体当たり突入によって大破した。大破した空母「バンカーヒル」は、ウルシー環礁 (Ulithi Atoll)で応急修理をした後、5月25日に真珠湾に帰投した。しかし、本格的修理のためにアメリカ本土に帰還することとなり、アメリカ西岸、ワシントン州ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍工廠のドックで、1945年6月4日から7月22日まで修理を受けた。出渠した後も桟橋で修理が続行されたが、終戦後の9月中まで修理は終わらなかった。終戦後は、外地のアメリカ兵の復員輸送に従事した。

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17) :飛行甲板前方より撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。米軍でも軍艦の被害については、資料が整備され、民間商船についてもwebで被害状況が概観できる。
Title:USS Bunker Hill (CV-17) Description:Aircraft wreckage on the flight deck, after most fires were out following hits by two Kamikazes off Okinawa, 11 May 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Catalog #:80-G-259904
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-259904 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。


アメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)、1945年5月11日の沖縄侵攻を支援していた最中、日本軍特攻機が2機突入し、飛行甲板に大損傷を受けた。これは、日本海軍零式艦上戦闘機(250キロ爆弾搭載)による爆撃と体当たりで、火災が発生したために、黒煙を上げた。しかし、機関は保持されていたために、自力で航行し後退することができた。この損害は、戦死346名、行方不明43名、負傷者264名の大きなもので、「バンカーヒル」はウルシー環礁 (Ulithi Atoll)で応急修理をした後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートン基地に帰還し、損傷修理に当たった。 結局、「バンカーヒル」は、終戦までに修理は終わらなかった。戦後は、海外のアメリカ兵を本土に帰還させる「マジック・カーペット作戦 (Operation Magic Carpet)」に投入された。

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)の飛行機用エレベーター ;飛行機格納庫より損壊したエレベーターを撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。
Title:USS Bunker Hill (CV-17) Description:Elevator wrecked by Kamikaze hits received off Okinawa on 11 May 1945. Description: Catalog #:80-G-323719 Copyright Owner:National Archives Original Creator: Original Date:Fri, May 11, 1945
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-323719 USS BUNKER HILL (CV-17) 引用。


「バンカーヒル」は、終戦までに修理は終わらなかった。戦後は、海外のアメリカ兵を本土に帰還させる「マジック・カーペット作戦 (Operation Magic Carpet)」に投入された。1966年11月1日に退役・除籍となり、1973年にスクラップとして売却、解体された。

フィリピン方面の米国商船の撃沈・損傷 (1945年1月1日-8月15日):16隻

日付 船名 形式 撃沈・損傷原因 損傷の程度 死亡者数
01/01/45 John M. Clayton Liberty Bombed Damaged Crew 2; AG 4
01/04/45 Kyle V. Johnson Liberty Kamikaze Damaged None
01/04/45 Lewis L. Dyche Liberty Kamikaze 撃沈 Crew 41; AG 30
01/12/45 David Dudley Field Liberty Kamikaze Damaged None
01/12/45 Edward N. Westcott Liberty Kamikaze Damaged None
01/12/45 Elmira Victory Victory Kamikaze と米軍艦艇の砲撃 Damaged None
01/12/45 Kyle V. Johnson Liberty Kamikaze Damaged Crew 1; Army 128
01/12/45 Otis Skinner Liberty Kamikaze Damaged None
01/27/45 Katherine L. Bates Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
03/17/45 Oliver Kelley Liberty 魚雷 Damaged None
03/22/45 Ransom A. Moore Liberty 連合国艦船の砲撃 Damaged None
03/31/45 John C. Fremont Liberty 機雷 全損 None
04/13/45 Harrington Emerson Liberty 米軍機の爆撃 Damaged None
04/_/45 Juan de Fuca Liberty 爆撃 Damaged Unknown
05/02/45 Edmund F. Dickens Liberty 機雷 全損 None
05/02/45 Henry L. Abbott Liberty 機雷 全損 Crew 2

注)Crewとは,商船の乗員で民間人。AGとは,アメリカ海軍武装警備隊US Naval Armed Guard)で軍人。

 

 




写真(左):アメリカ戦時標準量産型輸送船リバティ船「パトリック・ヘンリー」SS Patrick Henry;1941年9月の竣工時に撮影。マストにあるクレーンで貨物を積みおろしする。
写真(右):量産されるアメリカ戦時標準輸送船リバティ船;1945年5月13日War Shipping Administration Washington, D.C.発表。米国の商戦造船所は,戦前に持っていた船舶の4倍の船舶を建造した。こうして,3500隻以上の貨物船と900隻の高速タンカーが就航し,1944年には船舶が運んだ貨物7850万トンの72%を,この戦時標準船の船団が運搬した。欧州や太平洋への航海距離は,1万2000マイルから1万8000マイルに達する。

写真(右):量産中のビクトリー船;戦時大量生産型のリバティー船を引き継いだ改良型がビクトリー船であるが、既に交通破壊の可能性は低くなっており、ビクトリー船の大量産は控えめになった。1945年5月20日。
War Shipping Administration Washington, D.C.発表。Not done with mirrors: Victory ships almost as far as the eye can reach line up at a West Coast shipyard for final outfitting before joining our vast merchant fleet. On Maritime Day, May 22, we shall have nearly 300 of these crack cargo type in service, and 300 more will be delivered before the year is out.

リバティ船Liberty Ship)を発展させたのが、次のビクトリー船である。ビクトリー船Victory Ship)はリバティ船を若干大型化し、全長は14フィート(4.3メートル)延長され、455フィート(139メートル)となり、全幅は6フィート(1.8メートル)拡大され、62フィート(19メートル)になり、積載時の吃水は1フィート深い28フィート(8.5メートル)と一回り大きくなった。他方、ビクトリー船の総トン数は、1,000トンの増加にとどまったため、総トン数は1万5,200トンであった。構造的には、艦橋を大型化し、船殻設計を改めで、リバティ船より4ノットから6ノット速い、15ノットから17ノットに向上させている。これは、潜水艦からの攻撃を防ぐには有効である。

リバティ船Liberty Ship)の機関は、2,500馬力(1,900キロワット)蒸気機関だけが搭載されていたが、ビクトリー船では蒸気タービが主流だが、そのほかレシプロ蒸気機関、ディーゼル機関のどれでも搭載できるように汎用性を向上させた。出力は6,000馬力から8,500馬力(4,500キロワットから6,300キロワット)を出した。ビクトリー船は、大半が石油燃焼ボイラーを装備したが、少数のカナダでの建造船は、石炭と石油の双方のボイラーを搭載している。

ビクトリー船Victory Ship)は、アメリカ国内6か所の造船所で、戦争末期の1944年から戦勝終結翌年の1946年まで建造され、計画数615隻中、534隻が竣工している。

沖縄方面における米国商船の撃沈・損傷(1945年4月1日-8月15日) :24隻

日時 船舶名称 形式 撃沈・損傷原因 損傷の程度 死亡者数
04/06/45 Hobbs Victory Victory Kamikaze 撃沈 Crew 11; AG 2
04/06/45 Logan Victory Victory Kamikaze 撃沈 Crew 12; AG 3
04/12/45 Minot Victory Victory Kamikaze Damaged None
04/16/45 United Victory Victory Unknown Unknown None [AG wounded]
04/27/45 Canada Victory Victory Kamikaze 撃沈 Crew 1; AG 2
04/28/45 Sioux Falls Victory Victory Unknown Unknown None [AG wounded]
04/28/45 Bozeman Victory Victory 爆雷,「回天」,小型潜水艦 Damaged None
04/30/45 S. Hall Young Liberty Kamikaze Damaged None
05/01/45 Silverbow Victory Victory Unknown Unknown None [AG wounded]
05/03/45 Sea Flasher Troopship 米艦艇の砲撃 Damaged Army 7
05/09/45 Bucknell Victory Victory Kamikaze Damaged Unknown
5/10/45
to 5/22/45
Donald MacLeay Liberty Kamikaze Damaged None
05/18/45 Cornelius Vanderbilt Liberty 爆撃 Damaged Crew 1
05/24/45 Jubal A. Early Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
05/24/45 William B. Allison Liberty 魚雷 全損 Crew 6
05/27/45 Brown Victory Victory Kamikaze Damaged Crew 1; AG 3
05/27/45 Josiah Snelling Liberty Kamikaze Damaged None
05/27/45 Mary A. Livermore Liberty Kamikaze Damaged Crew 7; AG 4
06/11/45 Michael Pupin Liberty Unknown Unknown None [AG wounded]
06/11/45 Walter Colton Liberty Kamikazeと連合国艦艇の砲撃 Damaged None
06/29/45 Abner Doubleday Liberty Collision Unknown damage Unknown
07/27/45 John A. Rawlins Liberty 航空魚雷 Damaged None
07/27/45 Pratt Victory Victory 魚雷 Damaged None

注)Crewとは,商船の乗員で民間人。AGとは,アメリカ海軍武装警備隊 NAG(Naval Armed Guard) で軍人。




写真(上):リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の側面基本図面



リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の側面内部図;船倉は、船首から第1、第2、艦橋を挟んで、後方に第3、第4、第5の5室が設けられている。クレーン(デリック)は、前方2基、後方1基である。居住区角は、船体中央上部の艦橋周囲に集中している。


リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の上面内部図;船倉は、船首から第1、第2、艦橋を挟んで、後方に第3、第4、第5の5室が設けられていて、それに貨物を積み込むためのクレーン(デリック)は、前方2基、後方1基設けられている。
The Liberty ships were slightly over 441 feet long and 57 feet wide. They used a 2,500 horsepower steam engine to push them through the water at 11 knots (approximately 12.5 miles per hour). The ships had a range of 17,000 miles. Liberty ships had five cargo holds, three forward of the engine room and two aft (in the rear portion of the ship). Each could carry 10,800 deadweight tons (the weight of cargo a ship can carry) or 4,380 net tons (the amount of space available for cargo and passengers). The crew quarters were located amidships (the middle portion of the ship).

アメリカのリバティ船/ビクトリー船の特攻機による損害を見る。

沖縄戦の日本陸海軍特攻機の出撃数

海軍機

陸軍機

合計

出撃集中率

4月6-7日

230

125

355

24.2%

4月12-13日

125

60

185

12.6%

4月15日

120

45

165

11.3%

4月27-28日

65

50

115

7.8%

5月3-4日

75

50

125

8.5%

5月10-11日

70

80

150

10.2%

5月24-25日

65

100

165

11.3%

5月27-28日

60

50

110

7.5%

6月3-7日

20

30

50

3.4%

6月21-22日

30

15

42

2.9%

合計

860

605

1465

100.0%

注)集中率とは,沖縄戦での特攻機1465機の当該期間別出撃数の分布

出所)UNITED STATES ARMY IN WORLD WAR II  The War in the Pacific OKINAWA THE LAST BATTLE http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/okinawa/chapter14.htm




写真(左):アメリカ海軍輸送艦「ネソーバ」USS Neshoba (APA-216)の20ミリ対空機銃;最上甲板に搭載された。写真(右):輸送艦「ネソーバ」;軍艦は輸送任務についていたとしても「民間商船」ではない。ただし、乗員に軍人があり、その指揮の下に行動していれば、話は複雑になる。

戦時船舶管理局(War Shipping Administration)によると,第二次大戦中の米国商船の撃沈は 1,554隻で,そのうち733隻は,排水量1000トン以上の船舶の撃沈である。また,外国船 Foreign flag shipsでも海軍武装警備隊 AG(Naval Armed Guard) が乗船し,警備している船舶も,米国の戦域U.S. territories,例えばフィリピンにあるようなときは,この損失に含めている。

写真(右):1942年8月16日、アメリカ東部、メイン州 、ポートランド(Portland Maine)、トッド造船所(Todd shipbuilding )で量産されるリバティ船(Liberty Ships), 1942年8月16日撮影;米国の輸送船(商船)造船所は,戦前に持っていた船舶の4倍の船舶を建造した。こうして,3500隻以上の貨物船と900隻の高速タンカーが就航し,1944年には船舶が運んだ貨物7850万トンの72%を,この戦時標準船の船団が運搬した。欧州や太平洋への航海距離は,1万2000マイルから1万8000マイルに達する。
During the push to build merchant ships the Todd shipbuilding of Portland Maine launched five ocean class, one liberty class, and two destroyers all on the same day. The two pictures enclosed are of launching 16 August 1942. What is the real kicker is the fact two years before the ship yard had six employees, and no shipyard. Two years latter they had 26,000 people


 1945年(昭和20年)3月23日,米艦隊が沖縄本島に艦砲射撃を開始し,3月26日に沖縄の慶良間列島に米軍が上陸すると,日本軍は「天一号作戦」を発動した。これは,日本陸軍機・海軍機による米輸送船団と艦艇に対する迎撃戦,上陸した米軍に対する持久戦である。

写真(右):1942年8月16日、アメリカ東部、メイン州 、ポートランド(Portland)で建造されたリバティ船(Liberty Ships);米国の輸送船(商船)造船所は,戦前に持っていた船舶の4倍の船舶を建造した。こうして,3500隻以上の貨物船と900隻の高速タンカーが就航し,1944年には船舶が運んだ貨物7850万トンの72%を,この戦時標準船の船団が運搬した。欧州や太平洋への航海距離は,1万2000マイルから1万8000マイルに達する。
An archival photo shows a Liberty ship under construction. SOUTH PORTLAND — Workmen are dismantling the rusted steel skeleton of the last remaining industrial shed where Liberty ships were built here during World War II.
It’s one of two structures that P.K. Contracting Inc. of Randolph, Mass., is removing for the property’s owner, John Cacoulidis, who once wanted to build a towering convention center on the 22-acre site, with cable cars spanning Portland Harbor.

米国商船の被害一覧によれば,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈した米国の商船は6隻。沖縄方面で被害を受けた米国の商船は,特攻,爆撃,魚雷,機雷,友軍の誤射など合計24隻,撃沈は4隻である。天号作戦では輸送船団やアメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)を主要攻撃目標とする適切な判断をしていたが,いつの間にか,敵艦船,特に米任務部隊の空母に集中してしまった。たしかに,自爆特攻の目標を,輸送船とするのは,海軍上層部でもできなかったのかもしれない。
Source:U.S. Merchant Ships Sunk or Damaged in World War II


写真(左):現在残っている2隻のリバティ船Liberty Shipのうち1隻「ジェレミアス・オブライエン」;Right now, only two of these amazing ships still survive, one, SS Jeremiah O'Brien, faithfully restored, is berthed in San Francisco. This Liberty Ship carries the name of the Commander of the First American Flying Squadron of the War of the Revolution, Jeremiah O'Brien, a Military Commander, a Privateer, and a Naval Officer. The second, SS John Brown is in Baltimore, and Project Liberty Ship is dedicated to preserving this last such ship on the east coast of America.
写真(右):リバティー船「ジョセフ・ヘンリー」;The SS Joseph Henry was a Liberty ship built in 1942-1943 by the Kaiser Company in Vancouver, Washington, and completed by the Oregon Ship-Building Corporation of Portland. The launch date was January 23, 1943. A total of 2,710 Liberty ships were constructed during World War II

アメリカ海軍武装警備隊USNAG)は、銃手のほかにも、コックスウェイン、ボートウェイン、通信士(ラジオマン)、信号員(シグナルマン)、薬剤師などもいた。特に、戦争後期には、商船に装備した対空、対水上用の探信儀要員レーダーマンも配置されている。


写真(左):1943年2月6日、米国から英国に向かうリバティー船「チェッカーボード」上の黒人水夫たち。;Members of a `CHECKERBOARD' crew that brought a Liberty Ship from the U.S. to England, fondle their mascot `BOOKER.' (L-R) R. C. Woods, A. M. Mulzac, W. B. Shepard, and S. O'Neil."
写真(右):リバティー船で働く黒人水夫A seaman with the U.S. Maritime Service. N.d. 208-NP-3ZZ-4.

第二次世界大戦中に設立された商戦に乗り込む武装要員が アメリカ海軍武装警備隊((US Naval Armed Guard)である。

その警備員の目的は、商船の甲板に装備した機関銃や火砲の操作のための要員を配置することで、敵潜水艦、敵航空機、敵水上艦艇からの攻撃に対する商船防御の役割があった。当時のアメリカ商船の海上交通は、潜水艦、戦闘機、偵察爆撃機、補助巡洋艦などによって攻撃される可能性が高かったので、そのリスクを踏まえた措置である。本来は、商船に保護ための護衛艦を派遣すればよいが、護衛艦の数にも艦船要員にも制約があるために、商船に海軍武装警備隊を乗船させた。


写真(左):リバティー船Patrick Henryの黒人水夫クリフォード・ジェンキンス;米商船学校で料理を学び、輸送船で働いた。
写真(右):リバティー船で働く黒人水夫アーノルド・フェッサー(17歳)1944年10月14日撮影。機械操作員として勤務した。

坂口 安吾『特攻隊に捧ぐ』 青空文庫(『ホープ』1947年2月1日(第2巻第2号)占領軍総司令部GHQの検閲により発禁処分。)

 数百万の血をささげたこの戦争に、我々の心を真に高めてくれるような本当の美談が少いということは、なんとしても切ないことだ。それは一に軍部の指導方針が、その根本に於(おい)て、たとえば「お母さん」と叫んで死ぬ兵隊に、是が非でも「天皇陛下万歳」と叫ばせようというような非人間的なものであるから、真に人間の魂に訴える美しい話が乏しいのは仕方がないことであろう。

 けれども敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。

 たとえば戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、敗戦後は専(もっぱ)ら「死にたくない」特攻隊員で、近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、自己自らを愚弄(ぐろう)することにほかならない。もとより死にたくないのは人の本能で、自殺ですら多くは生きるためのあがきの変形であり、死にたい兵隊のあろう筈(はず)はないけれども、若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。

 私はだいたい、戦法としても特攻隊というものが好きであった。人は特攻隊を残酷だというが、残酷なのは戦争自体で、戦争となった以上はあらゆる智能(ちのう)方策を傾けて戦う以外に仕方がない。特攻隊よりも遥(はるか)にみじめに、あの平野、あの海辺、あのジャングルに、まるで泥人形のようにバタバタ死んだ何百万の兵隊があるのだ。戦争は呪(のろ)うべし、憎むべし。再び犯すべからず。その戦争の中で、然(しか)し、特攻隊はともかく可憐(かれん)な花であったと私は思う。

 戦法としても、日本としては上乗のものだった。ケタの違う工業力でまともに戦える筈はないので、追いつめられて窮余の策でやるような無計画なことをせず、戦争の始めから、航空工業を特攻専門にきりかえ、重爆などは作らぬやり方で片道飛行機専門に組織を立てて立案すれば、工業力の劣勢を相当おぎなうことが出来たと思う。人の子を死へ馳かりたてることは怖(おそ)るべき罪悪であるが、これも戦争である以上は、死ぬるは同じ、やむを得ぬ。日本軍の作戦の幼稚さは言語同断で、工業力と作戦との結び方すら組織的に計画されてはおらず、有力なる新兵器もなく、ともかく最も独創的な新兵器といえば、それが特攻隊であった。特攻隊は兵隊ではなく、兵器である。工業力をおぎなうための最も簡便な工程の操縦器であり計器であった。

 私は文学者であり、生れついての懐疑家であり、人間を人性を死に至るまで疑いつづける者であるが、然し、特攻隊員の心情だけは疑らぬ方がいいと思っている。なぜなら、疑ったところで、タカが知れており、分りきっているからだ。要するに、死にたくない本能との格闘、それだけのことだ。疑るな。そッとしておけ。そして、卑怯(ひきょう)だの女々しいだの、又はあべこべに人間的であったなどと言うなかれ。

 彼らは自ら爆弾となって敵艦にぶつかった。否(いな)、その大部分が途中に射ち落されてしまったであろうけれども、敵艦に突入したその何機かを彼等全部の栄誉ある姿と見てやりたい。母も思ったであろう。恋人のまぼろしも見たであろう。自ら飛び散る火の粉となり、火の粉の中に彼等の二十何歳かの悲しい歴史が花咲き消えた。彼等は基地では酒飲みで、ゴロツキで、バクチ打ちで、女たらしであったかも知れぬ。やむを得ぬ。死へ向って歩むのだもの、聖人ならぬ二十前後の若者が、酒をのまずにいられようか。せめても女と時のまの火を遊ばずにいられようか。ゴロツキで、バクチ打ちで、死を怖れ、生に恋々とし、世の誰よりも恋々とし、けれども彼等は愛国の詩人であった。いのちを人にささげる者を詩人という。唄うたう必要はないのである。詩人純粋なりといえ、迷わずにいのちをささげ得る筈はない。そんな化物はあり得ない。その迷う姿をあばいて何になるのさ何かの役に立つのかね?

 我々愚かな人間も、時にはかかる至高の姿に達し得るということ、それを必死に愛し、まもろうではないか。軍部の偽懣(ぎまん)とカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。

 私は無償の行為というものを最高の人の姿と見るのであるが、日本流にはまぎれもなく例の滅私奉公で、戦争中は合言葉に至極簡単に言いすてていたが、こんなことが百万人の一人もできるものではないのである。他のためにいのちをすてる、戦争は凡人を駈(か)って至極簡単に奇蹟(きせき)を行わせた。

 私は然しいささか美に惑溺(わくでき)しているのである。そして根柢こんてい的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき偽懣の言葉で、奇蹟の正体は、国のためにいのちを捨てることを「強要した」というところにある。奇蹟でもなんでもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮(しょせん)兵隊は人間ではなく人形なのだ。

 人間が戦争を呪うのは当然だ。呪わぬ者は人間ではない。否応なく、いのちを強要される。私は無償の行為と云いったが、それが至高の人の姿であるにしても多くの人はむしろ平凡を愛しており、小さな家庭の小さな平和を愛しているのだ。かかる人々を強要して体当りをさせる。暴力の極であり、私とて、最大の怒りをもってこれを呪うものである。そして恐らく大部分の兵隊が戦争を呪ったにきまっている。

 けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。なぜなら彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応(いやおう)なく強要せられた。だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶(せいぜつ)な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。

 強要せられたる結果とは云え、凡人も亦(また)かかる崇高な偉業を成就(じょうじゅ)しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

 私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩(おうのう)苦悶(くもん)とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。先ごろ浅草の本願寺だかで浮浪者の救護に挺身(ていしん)し、浮浪者の敬慕を一身にあつめて救護所の所長におされていた学生が発疹(はっしん)チフスのために殉職したという話をきいた。

 私のごとく卑小な大人が蛇足する言葉は不要であろう。私の卑小さにも拘かかわらず偉大なる魂は実在する。私はそれを信じうるだけで幸せだと思う。

 青年諸君よ、この戦争は馬鹿(ばか)げた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。

 要求せられた「殉国の情熱」を、自発的な、人間自らの生き方の中に見出(みいだ)すことが不可能であろうか。それを思う私が間違っているのであろうか。

坂口 安吾『特攻隊に捧ぐ』 青空文庫Kindle 版. 引用終わり。

◆>戦後2年目の坂口安吾の作品だが堕落論の作者らしく、堕落する精神を食い止める意識が感じられる。しかし、自らが特攻隊員になる可能性を排除した中で、(発禁処分になっても投獄すらされない)安全な場所からの思索である。特攻隊員に寄り添ったなら、こんな上から目線の突き放すような表現はできないであろう。特攻隊員自らが、特攻を賛美することはなかったのはなぜなの。所詮、残った元特攻隊員は、死に行った特攻隊員と隔絶してしまったことを理解していたのではないか。


写真(上):リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の側面基本図面



リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の側面内部図;船倉は、船首から第1、第2、艦橋を挟んで、後方に第3、第4、第5の5室が設けられている。クレーン(デリック)は、前方2基、後方1基である。居住区角は、船体中央上部の艦橋周囲に集中している。


リバティ船(戦時標準船EC2-S-C1)の上面内部図;船倉は、船首から第1、第2、艦橋を挟んで、後方に第3、第4、第5の5室が設けられていて、それに貨物を積み込むためのクレーン(デリック)は、前方2基、後方1基設けられている。
The Liberty ships were slightly over 441 feet long and 57 feet wide. They used a 2,500 horsepower steam engine to push them through the water at 11 knots (approximately 12.5 miles per hour). The ships had a range of 17,000 miles. Liberty ships had five cargo holds, three forward of the engine room and two aft (in the rear portion of the ship). Each could carry 10,800 deadweight tons (the weight of cargo a ship can carry) or 4,380 net tons (the amount of space available for cargo and passengers). The crew quarters were located amidships (the middle portion of the ship).

1万トン級のアメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)は、1943-1944年には、1隻当たり船台上で105日間で完成させたこともある。1941年から1945年までの短期間のうちに戦時標準商船リバティー船(Liberty Ship)は、2,710隻もが急速建造された。このリバティー船の発展型が高速化したビクトリー船である。しかし、戦争が終結したために、建造数は1944年-1946年に534隻とリベティー船の建造数の20%にとどまった。

写真(右):1945年4月以降、沖縄本島、バックナー湾(中城湾)、初めて沖縄本島接岸したアメリカの戦時標準商船リバティー船(Liberty Ship)「シルベスター・パティ―」(SS Sylvester Pattie):Sylvester Pattie (1782-1828)は、初期のメキシコを探検したアメリカ人。アメリカ陸軍サイモン・B・バックナー中将は、沖縄方面連合軍最高指揮官として、第10軍司令官に就任、沖縄攻略「アイスバーグ作戦」を指揮した。 1945年6月18日 喜屋武半島で善戦視察中に、日本軍の砲撃を受け戦死。享年58歳。1945年10月22日公開の写真。
Caption: Okinawa Campaign, Landing, April 1945. SS Sylvester Pattie, Liberty Ship, was the first large American vessel docked at Okinawa since the April 1st invasion. It was docked at a new fire proof fuel pier which had just been completed by the 7th Seabees in Buckner Bay, off Katchin Hanto, Okinawa. Shown: Navy Seabees in the right foreground were about to secure a line to the three-pile mooring ballard immediately in front of them. Aft, a similar line was secured to 19-pile dolphin (mooring post) just off the outer end of the pier. In the background, across the pier from the ship, a pile driver may be seen. It had finished its final work, for this pier, in driving the piles for the dolphin. Note USS YTB 229. Photograph released October 22, 1945. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. (2015/12/22)
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-349316: Okinawa Campaign, Landing, April 1945 引用。



 <日本陸海軍の特攻兵器>

写真(右):1945年9月、横須賀海軍基地、鹵獲した日本海軍の自爆艇「震洋」を検分するオーストラリア海軍N級駆逐艦(N class)「ネーピア」(HMAS Napier)の乗員。:「震洋」の船首には半月状の爆薬収納庫、左舷には切れ込み損傷跡がある。1940年就役のN級駆逐艦( N class)「ネーピア」(HMAS Napier)は、基準排水量Displacement1,801 t、満載排水量2,422 t、全長Length: 108.7 m、ビームBeam: 10.9 m、吃水Draught: 3.8 m、搭載機関Installed power: 40,000 shp (30,000 kW)、蒸気タービン2軸、最高速力Speed: 36 knots (67 km/h; 41 mph) 、航続距離Range: 5,500 マイル (10,200 km)/ 15 knots、乗員Complement: 183名、射撃用Type 285レーダー、 見張り用Type 286レーダー、兵装Armament: 4.7インチQF 4.7-inch (120 mm) Mk XII 連装砲塔3基4インチ QF 4-inch Mk V (102 mm)対空砲1基、 20 mm エリコン(Oerlikon)対空機銃(AA gun)4基、12.7ミリQF 0.5-inch (12.7 mm) Mk III連装機銃2基、五連装21-inch (533 mm) 魚雷発射管(torpedo tube)1基。
Description : Yokosuka Naval Base, Japan. September 1945. Able Seaman (AB) Les Coad of Ballarat, Vic; AB Ian Cox of South Yarra, Vic, and AB Kevin Sorrenson of Coorparoo, Qld, all RAN and members of the crew of HMAS Napier, inspecting a Japanese suicide launch (boat) surrendered in the Yokosuka Naval Base. A similar boat is in the collection of the Australian War Memorial.
Accession Number 019161 Collection type Photograph Object type Black & white - Film copy negative acetate Date made September 1945
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial P08424.022引用。


1917年に横浜生れの島尾敏雄は、1943年に九州帝国大学を卒業後、海軍予備学生として横須賀の海軍水雷学校第一期魚雷艇学生となった。戦後の作品『魚雷艇学生』には「特攻隊などはるかな他人事であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。急に入江の海や周囲の山の姿、そして雑草や迷彩を施した学生舎の粗造りの木造の建物にまでへんないとしさを覚えた。」とある。 1944年10ー11月、第十八震洋特攻隊180名の指揮官となり奄美諸島加計呂麻島に赴任した島尾敏雄は、待機したまま8月15日を迎え、「出発は遂に訪れず」となった。

写真(右):1945年9月、ボルネオ島(現在、カリマンタン島:マレーシアのサバ州)北西岸、サンダカンに配備された日本海軍の自爆艇「震洋」に試乗するオーストラリア海軍バサースト級コルベット(Bathurst-class corvette)「デロレーヌ」(HMAS Deloraine)の乗員。
Description : A Japanese Shinyo suicide launch which was captured by the crew of HMAS Deloraine, brought back to Australia and presented to the Australian War Memorial. Six of the 24 captured boats were in operational readiness. This image is from the collection of Lieutenant Paul Merrick (Mick) Dexter, who enlisted in the Royal Australian Naval Volunteer Reserve (RANV) in 1943, and was a watchkeeper and anti-submarine specialist on Corvettes between 1944 and 1946. He continued to serve in the RANV after the Second World War, resigning his commission in 1964.
Unit Royal Australian Naval Volunteer Reserve Accession Number P08424.021 Collection type Photograph Object type Black & white - Digital file TIFF Maker Unknown Place made Borneo: North Borneo, Sandakan Date made c September 1945
写真は、オーストラリア海軍に1943年入隊、1964年退役したポール・メリック・デクスター(Paul Merrick Dexter)中尉が寄託したコレクリョンの一枚で、Australian War Memorial P08424.021 引用。


日本陸軍の突撃艇マルレは、船尾にドラム缶上の爆薬を搭載するが、日本海軍マル四「震洋」は、船首に半月状の爆薬収納庫がついており、そこに金属ケースに入れた600ポンド(250?)爆薬ケースを収める。この「震洋」の搭載する爆薬ケースは、特攻艇の船首形状・収納庫形状に合わせて曲線加工されている。日本の製造工場には、学徒動員、女子挺身隊など未熟練労働者が多かったため、特攻艇の形状も機関も欠点が多かったようだ。

オーストラリア軍が検分した「震洋」は、1929年型シボレー直列6気筒自動車エンジン(Chevrolet straight-6 engine)を搭載していた。

自爆特攻艇「震洋」「マルレ」連絡艇を見る。

写真(右):1945年、アメリカ軍が作図した日本海軍特攻兵器人間魚雷「回天」 ;上が1型、したが2型というが、2型はドイツ海軍の試作した過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とするワルター機関を搭載する予定だったが、日本では試作が完成する前に敗戦を迎えた。
Title:Japanese Human Torpedoes: "Kaiten" Type 1 "Kaiten" Type 2
Description:Photo #: NH 78668 Japanese Human Torpedoes: Kaiten Type 1 (top) and Kaiten Type 2 (bottom) Sketch inboard profile plans, 1945. Copied from Extracts from Small Battle Units of Foreign Powers, Appendix III: Japanese Midget Submarines and Explosive Motor Boats, page 40 (top). U.S. Naval History and Heritage Command Photograph. .
写真はNaval History and Heritage Command: NH 78668 Japanese Human Torpedoes: "Kaiten" Type 1 "Kaiten" Type 2 引用。


人間魚雷「回天」の諸元
排水量:8.3 t
全長:14.75 m、直径:1.00 m
機関:電動モーター
航続距離:12ノット/78,000 m
20ノット/ 43,000 m
30ノット/ 23,000 m
乗員:1 名

炸薬:1.5 t、潜航限度:80 m。日本海軍は酸素魚雷を実用化していたが、「回天」は、扱いが多少は容易な空気タンクで駆動するので、酸素魚雷とは構造が異なる。

1944年11月20日、日本海軍潜水艦の伊47,36,37の3隻は,米軍基地のあるウルシー環礁を攻撃した。これは,人間魚雷「回天」による「初の攻撃であり,の給油艦AO-59「ミシシネワ」を撃沈することに成功した。


写真(上左):人間魚雷の命中を受けた給油艦AO-59「ミシシネワ」Mississinewaからあがる黒煙
;1944年11月20日ウルシー環礁基地を攻撃した潜水艦は伊47,36の2隻で,伊37は途中で撃沈された。
写真(右2コマ):沈没直前の給油艦AO-59;1944年11月20日にウルシー基地では,多数の米兵が給油艦の大火災を目撃している。


写真(上):アメリカ、ワシントン州、シアトル沖30キロ、キーポート(Keyport)のアメリカ海軍海底博物館(U.S. Naval Undersea Museum )の保管する日本海軍の人間魚雷マル六金物「回天」一型;魚雷頭部の炸薬は撤去されている。酸素魚雷を利用しているので、酸素ボンベが並んでいる。操縦室の空間は狭く、この中で数時間も三次元操作を行うのは非常な困難が伴う。
Photos by Retired CWO4 Tom Hodgins Volunteer at Naval Undersea Warfare Center Tom is an experienced Navy Diver
写真はU.S. Naval Undersea Museum/Naval Undersea Warfare Center Kaiten Type I One Man Submarine引用。


日本海軍の特攻専用人間魚雷「回天」は、実用化されたものの、戦果は駆逐艦、輸送艦など小艦艇数隻だけであることを考慮すると、回天は兵器として成功したものとはいえない。若者の死は、命を懸けて家族、祖国を守ったという点で、無駄であったとはいえないが、犠牲としては大きすぎた。

人間魚雷「回天」Kaiten; manned torpedoを見る。

写真(右):1945年4月17日、沖縄本島中部、読谷飛行場、アメリカ軍が鹵獲したばかりの日本海軍の特攻兵器・横須賀空技廠人間爆弾「桜花」(移動用台車に乗せられている):日本軍は、手前の大きな木箱に桜花を梱包して本土から沖縄に海路送ったようだ。「桜花」機首の桜花マークは、「桜花」特攻隊のオリジナルであろう。その後、アメリカ軍は「桜花」の個別機体に「I-18」のように異なったの登録記号を記入した。奥には、アメリカ軍のジープが、さらに奥には、日本軍の爆弾が並んでいる。
【原文】 Right elevation of a Jap Baka plane on Okinawa Ryukyu Island. The insignia that appears on the nose of the ship is that of the Cherry Blossom Unit of the Kamikaze or suicide squadron. 【和訳】 右側面から見た日本軍特攻機。機首のマークは神風特攻隊または自爆中隊「桜花」を表す。沖縄。
撮影日: 1945年 資料コード: 0000112235 アルバム名: アルバム名: 米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 02
写真は, 沖縄県公文書館 写真番号:14-16-3引用。


沖縄方面では、陸軍沖縄北飛行場(読谷)に海軍の「桜花」が置かれたが、これは捷号作戦に関する陸海軍中央協定のためである。捷号作戦を進める上で、陸海軍の航空戦力の統一指揮が急務となり、1944年7月24日、陸海軍中央協定が結ばれた。ここでは、陸海軍航空部隊の指揮一元化のために、沖縄・台湾方面の航空戦は、海軍の第二航空艦隊が陸軍の第八飛行師団を指揮するとしたのである。沖縄で鹵獲された人間爆弾「桜花」Yokosuka MXY7 Ohka)の桜花のマークは、オリジナル。その後の「I-13」は、アメリカが丁寧に描いたもので、オリジナルではない。鹵獲したアメリカ軍が整理のために記入した記号である。桜花I-13は、状態が良かったためか、たくさんの写真が残っている。

写真(右):横須賀の飛行機格納庫で鹵獲されたと思われる日本海軍の有人自爆兵器・「桜花」( Yokosuka MXY7 Mark 11 K-1 OHKA 'Baka')操縦訓練用単座型。:胴体上面には、一人用座席があり複座ではない。胴体下面には、着陸用の橇(そり)を装着している。「桜花」の胴体を乗せている台車は、日本軍の制作したもので、ゴムタイヤではなく、木製滑車を使っており、加工精度も低い粗雑なつくりである。
Object description: Air Launched Weapons: A Yokosuka MXY7 Mark 11 K-1 OHKA 'Baka' piloted suicide weapon. This rocket powered flying bomb was slung underneath a bomber and released over the target. The pilot of the 'Baka' then guided the machine to destruction Catalogue number:NYP 77198 Department Photographs Part of AMERICAN (US) EMBASSY SECOND WORLD WAR PHOTOGRAPH LIBRARY: CLASSIFIED PRINT COLLECTION
写真はImperial War MuseumCatalogue number:NYP 77198引用。


人間爆弾「桜花」MXY-7を見る。

写真(右):呉海軍工廠で量産された日本海軍の特殊潜航艇 甲標的丁型「蛟龍」;全長:26.3m ,全幅:2.0m ,排水量:水中60t,最大速度:水上8kt、水中16kt ,水中航続距離:231km(125マイル)/2.5kt ,水上航続距離:1850km(1,000マイル)/8kt ,兵装:45cm魚雷発射管×2、魚雷×2 潜航限度100m.
1932年の研究が開始された甲標的は,1940年に搭乗員訓練が開始,1943年7月、乙型試作、9月に丙型の生産が始まった。甲標的丁型蛟龍」は1944年5月に試作された。


甲標的丁型「蛟龍」の諸元
全長:26.3m ,全幅:2.0m
排水量:水中60t
最高速力:水上8kt、水中16kt
水中航続距離:231km(125マイル)/2.5kt
水上航続距離:1850km(1,000マイル)/8kt
兵装:45センチ魚雷発射管×2、魚雷×2(但し末期には魚雷不足で体当たり用爆薬を装備する予定だった)
潜航限度100m.

写真(右):横須賀海軍工廠で量産された「海龍」;1945年9月、戦後に進駐したアメリカ軍が撮影。優勢な米海軍艦隊に正攻法が通じなくなった日本海軍の連合艦隊は、海空からの体当たり特攻を主戦法とするようになった。
Title:Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines
Description:Photo #: 80-G-338384 Japanese Kairyu Type Midget Submarines At the Yokosuka Naval Base, Japan, September 1945. Boat bearing numbers 4016 (at right) and 4018 (3rd from right) are training versions, with a second periscope mounted behind the main periscope's fairing. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives .
写真はU.S. Naval History and Heritage Command 80-G-338384 Japanese "Kairyu" Type Midget Submarines 引用。


特殊潜航艇甲標的丁型「蛟龍」の部隊は、魚雷を装備され,その調整をしていた(予備魚雷はなし)所もあったが,低性能の「海龍」の場合は,魚雷を装備し,訓練していた形跡が見られない。やはり、数百本の魚雷を準備することができず、低性能の「海龍」には装備しないで、軍艦ではなく輸送船に体当たり自爆する作戦を決めていた。

水中特攻兵器「海龍」「蛟龍」を見る。

写真(左):日本陸軍の特攻専用機キ-115「剣」特殊攻撃機;戦後になってアメリカ軍が鹵獲して撮影。日本は、海上封鎖されて、資源の輸入が途絶え、航空機の生産にも支障をきたしていた。そこで、省資源・工作節約型の簡易攻撃機キー115「剣」が考案された。しかし、攻撃の精度を上げるためには、爆弾を投下するのではなく、体当たり自爆するしかなかった。当初の意図は別に、大戦末期の陸海軍の方針は、「全軍特攻」「本土死守」だった。

体当たり特攻専用機キ115「剣」の諸元
全長 : 8.55m,全幅 : 8.60m,全高 : 3.30m,主翼面積 : 12.40m2
全備重量: 2,630Kg,自量 : 1,640Kg,発動機 : 中島 ハ115 (1,150hp) X 1
最高速度 : 550Km/h,航続距離: 1,200Km,乗員 : 1名,武装 :なし,爆弾 : 250Kg X 1 or 500Kg X 1 or 800Kg X 1
キ−115は,特攻専用と考えられたため,迷彩塗装を一切施しておらず,簡素化,重量軽減を徹底していた。

特殊攻撃機キ115「剣」を見る。


◆ 日中戦争勃発30年前,日本軍は,日露戦争劈頭の「旅順港閉塞作戦」を美化して,軍神廣瀬中佐を顕彰した。この廣瀬中佐の勇気は讃えられる反面、軍による軍神プロパガンダは,夏目漱石にとっても,胡散臭い卑劣なものであった。そのことは,次の「東京朝日新聞 文芸欄」1910(明治43)年7月20日「艇長の遺書と中佐の詩」に現れている。

昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人《ごじん》の脳裏に一種痛ましい対照を印《いん》した。

 露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套《ちんたう》を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥《ぶんてんしやう》の正気《せいき》の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨《かうがい》家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄《できばえ》である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又|如何に高等な翫賞《くわんしやう》家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉《く》れたならと思ふだらう。

 まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手《まづ》いに違ない。けれども佐久間大尉のは已《やむ》を得ずして拙《まづ》く出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈《だけ》文字を連らねるのは超凡の努力を要する訳《わけ》である。従つて書かなくては済まない、遺《のこ》さなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖《いへど》も漫《みだ》りに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の衒気《げんき》は殆ど意識に上る権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤《もつと》も苦しき声である。又|尤《もつと》も拙《せつ》な声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑婆気を離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私《わたくし》の少い声である。そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其一言一句を真の影の如く読みながら、今の世にわが欺かれざるを難有く思ふのである。さうして其文の拙なれば拙なる丈|真の反射として意を安んずるのである。

 其上艇長の書いた事には嘘を吐《つ》く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己広告は平時と雖ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他《ひと》によく思はれるがために、徒《いたづ》らな言句《げんく》を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又|其報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他《ひと》の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。

 広瀬中佐の詩に至つては毫も以上の条件を具《そな》へてゐない。已《やむ》を得ずして拙な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已《やむ》を得るにも拘《かゝ》はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真似《まね》の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。(其外徒然《とぜん》であつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが)中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼《あ》の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期を遂げた。さうして銅像|迄建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影《おもかげ》がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。

 道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其《その》言辞を実現し得たるとき始めて他《た》をして其誠実を肯《うけが》はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且《なほかつ》其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微《かす》かなる陥欠《かんけつ》は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟《さしはさ》むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁《か》するのである。
(→インターネットの電子図書館、青空文庫引用)


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