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◆ナチスのジプシー/シンティ・ロマ迫害◇Gypsies and Romany 写真(上)1940年5月22日,居住地から強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー国家人種優生学研究センターの分析によって、下等人種・劣等民族に区分されたジプシー(シンティ・ロマ)の人々が,ドイツ警察の監視の中、集合させられた。ドイツではチゴイネルと称され、ロマニの放浪集団に分類されているが、定住者も少なくなかった。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-47:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

反ユダヤ人ポスター(右):1937年7月,「これは鉄のハンマーだ。」;8月2日から。狡賢い資本家で戦争屋のユダヤ人を打ちのめすことを訴える。
Ab 2. August Au wai! Es kommt der Eisenhammer Dating:Juli 1934 Designer:Pik Publisher:Pfalz-Verlag, Haßloch Occasion:Antisemitismus Editor:Pfalz-Verlag, Karl Wittmann
画像はPlak_003-020-014:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


NKHwebNewsによれば、2016年7月26日午前2時、相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員植松聖容疑者(26歳)が入所者19人を刺殺する悲惨な事件が起きた。
◆日本テレビニュース2016年7月28日17:39「「ヒトラーの思想が降りてきた」19人殺害」よれば、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で19人が殺害された事件で、植松容疑者が今年2月、精神科の病院に措置入院していた際、医師に対し「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と話していたことがわかった。さらに治療中、「重複障害者がいなくなることで、国家的に経済的な負担が軽くなる。自身が抹殺事件を起こせば、法律が変わるきっかけにもなる」とも話していたという(引用終り)。
植松聖容疑者が衆議院議長あての手紙では、総理大臣に相談してほしいと訴え、障害者のように社会に貢献できない役立たずの人間は、国家財政の無駄遣いだ、日本の恥だという人種衛生学や優生思想に基づく偏見をもち、抵抗できない入所者を殺害する「作戦」として実行したと述べている。
 ヒトラーの発想は、戦時下の不安、焦燥感を拭い去るために、兵士や労働者として民族共同体に尽くすことができない障害者を抹殺して、障害者支援の国家予算を、戦争に充当せよというものだが、「日本軍の設立」の訴える容疑者の犯行には、ヒトラーの人権無視、人命軽視の歪んだ国家主義、人種衛生学の発想がある。この点について2016年7月28日2300の日本テレビNEWS ZERO「19人刺殺「ヒトラー思想降りてきた」 心の闇ナゼ」、2016年7月30日0600フジテレビ「めざましどようび」「19人殺害「ヒトラー」影響か? 」に出演、解説をした。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、外国人排斥、独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2011年9月2日・9日(金)NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」の「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)、9/7(水)、9/11(日)、9/13(水)。
◆2009年9月8日(火),9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』にゲスト出演。

ナチス精神障害者抹殺T4作戦/⇒ナチス優生学と障害者・人種民族差別
キリスト教のハンセン病差別と救護/⇒日本のハンセン病患者の差別・断種・隔離

◆多様な文化や価値観を持った人々の共生・ノーマライゼーションが,持続可能な平和を構築するのに必要であり、多民族・多人種の共生の視点が重要になってきた。この概念は、人種民族差別,特定グループの迫害,優生学・人種衛生学とは,真っ向から対立する。つまり,戦争と平和の問題は,サステイナビリティー(持続可能性)の議論と重なり合う部分が多く、この複合的な分野を扱う学問が環境平和学である。


1.優生学に基づく差別−似非科学のまやかし

20世紀前半、イタリア・ドイツのファシズム(全体主義)の独裁政治、軍備拡張、領土拡張が進み、世界秩序の再編成が唱えるようになった。そして、ファシズムは、既存の領土保全を主張する米英仏と対立するようになった。ナチ党総統(党首)ヒトラーは、東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得し、ドイツ民族の入植を進めることを、1925年の著作『わが闘争』で公言していた。ドイツを弱体化させようとするユダヤ人は,共産主義者であり,ペストであると主張した。ドイツ人(アーリア人)を支配者民族とし、アンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人への憎悪を広めた。

写真(右)1933年3月10日,ミュンヘン、ナチス突撃隊SAに逮捕された共産党員:警察と親衛隊SSに裸足で引き回されるユダヤ人弁護士ミヒャエル・シーゲル博士、首から下げさせられた看板に「私は再び警察に文句を言うことは決してありません」とある。
München, Stachus.- Barfüßiger jüdischer Rechtsanwalt Dr. Michael Siegel unter SS-Bewachung mit einem Schild (Text unleserlich, nur Wort "Polizei" erkennbar, vgl. Text bei Bild 183-R99542: "Ich werde mich nie mehr bei der Polizei beschweren") über den Stachus laufend Dating:10. März 1933 Photographer:Sanden, Heinrich撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv:Bild 146-1971-006-02を基にしたWikimedia Commons引用。


1933年1月末にヒトラーがドイツ首相に任命され、ナチ党政権が誕生した。その直後、警察官に加えて,ナチ党の私兵だった突撃隊・親衛隊が補助警察官に任命されて,国会議事堂の放火し,さらに全国テロを共謀したとされた共産党員を逮捕した。社会民主党員も弾圧された。そして、ナチ党以外の政党は解党され、反ナチス勢力は抑圧され、ナチス独裁に繋がった。

◆ナチ党は、人種民族差別を正当化する優生学を信奉し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ高貴な優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきであり,ユダヤ人やスラブ陣は、ドイツ民族を人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとしているとした。ユダヤ人やスラブ人は、下等民族・劣等人種であり,排除されなけらばならないと訴えた。しかし,アーリア人という「人種」は,恣意的区分にしか過ぎず、実在しない。

ユダヤ人差別には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律・規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。

写真(右)1933年4月1日,ベルリン、ナチス突撃隊SAにユダヤ人商店へのボイコット:外国におけるドイツ民族同胞(民族ドイツ人)虐殺に対する国家社会主義ドイツ労働者党の防衛!ユダヤ人商店の窓に取り付けられた「ドイツ人よ、自分を守るために、ユダヤ人から購入するな」とある厳しいナチスの掲示板。
Die große Abwehraktion der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei gegen die Greuelpropaganda im Auslande! An den Fenstern jüdischer Geschäfte werden von Nationalsozialisten Plakate mit der Aufforderung "Deutsche, wehrt euch, kauft nicht bei Juden" angebracht. Archive title:[Berlin oder Oldenburg (?)].-, Boykott der Nationalsozialisten gegen jüdische Geschäfte in Deutschland, SA-Mitglieder beim Kleben eines Schilds mit der Aufschrift "Deutsche! Wehrt euch! Kauft nicht bei Juden!" an das Schaufenster eines jüdischen Geschäfts Dating:1. April 1933 Photographer:Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Bild 102-14468を基にしたWikimedia Commons引用。


ドイツの一連の反ユダヤ法(ユダヤ人排除のための法律)は,1933年のヒトラー首相任命直後から制定された。1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,第一次大戦後移住したのドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の定義と結婚制限),11月,ユダヤ人選挙権の剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。

1935年ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人と結婚することを禁止した。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)は、1933年,ナチス政権の警察を支配し,反ナチス政治犯を拘禁する強制収容所を,オラニエンブルク(ベルリンの北),ダッハウ(ミュンヘンの北)に設置,親衛隊髑髏部隊に管理させた。これは,反ナチス的な人物のための「保護拘禁施設」だったが,後の強制収容所,絶滅収容所へと発展した。

強制収容所としては、1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。1938年4月,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々出され,財産の登録義務を課し、登録証発行料を徴収するようになった。

写真(右):1925年7月-8月,トナカイの皮から自家製の縫いぐるみ人形をつくったラップ人。蒸気船「ミュンヘン」で極地旅行に出かけた。フィンランドに住むラップ人は、トナカイなどを遊牧して生活することで知られている。
Polarfahrt mit dem Dampfer "München".- Lappen bieten selbstgefertigte Puppen aus Renntierfellen an 17. Juli - 12. August 1925 Dating:1925 Juli - August Photographer:Fleischhut, Richard
写真はBild 183-1987-1002-504,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


社会的ダーヴィニズム(社会的進化論)では,下等人種・劣等民族は、自然淘汰されて当然だとした。植民地獲得の背景で,虐げられた人種・民族があっても,これは,社会進化の過程で当然起こる自然淘汰であるとされた。社会的ダーヴィニズムの上では,優勢な文明を誇る優秀な人種・民族が反映する一方で,役に立たない下等人種・劣等民族は,支配されてはじめて,社会に貢献できるようになると,人種民族差別が行われた。

写真(右):1929年10月,ドイツ東部、ポメラニアのハマー、ロシアから到着した移民たち。難民キャンプに収容されたロシアからの最初の移民たち。ドイツのハマー検疫所におけるロシア農民移住者。
Ein interessanter Rückblick auf des ereignisreiche Jahr 1929. Die Ankunft der ersten aus Russland ausgewanderten Deutsch-Russen im Sammellager Hammerstein in Pommern. Ausgewanderte deutsch-russische Bauern im Quarantäne-Lager in Hammerstein. Dating:Oktober 1929 Photographer:Pahl, Georg
写真はBild 102-08931,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


劣等な人間が繁殖力旺盛な場合,優秀な人間に障害となるので,人為的に排除する必要が生まれる、人類を品種改良するには,悪性遺伝子を淘汰して,優良な遺伝子を残さなくてはならない,と優生学は主張する。1883年,イギリス人フランシス・ゴルトンSir Francis Galton:1822-1911)らが提唱した優生学は,コーカソイド(白色人種)の優位性,植民地支配を正当化する論理として,帝国主義の中で,広まった。米国では,アジアからの移民排斥に,理論的根拠を与えた。

写真(右):1929年4月22日,「ジプシーに注意せよ。ジプシーや彼らのキャラバンを公式に締め出そうとしているが、多くの連中が、春の集会を開こうと画策している。エプソムのジプシーのキャンプは、エプソム競馬場では禁止されているにも拘わらず、立ち退こうとしない。」
The Gypsies Warning, 22.4.29 In spite of the official "boycotting" of the Gypsies and their caravans on Epsom Race Course, many manged to be present at the Spring meeting, which oepened today at Epsom. O.P.S. Gypsies in ca,p on the Downs at Epsom (with grand stand in bachground) ADN-ZB/Archiv/Großbritannien [April]1929 Einer Zigeunergruppe gelang es trotz offiziellen Verbots mit ihren Wohnwagen auf dem Rennplatz in Epsom zu campieren. Im Hintergrund ist die Renntribüne zu sehen. Dating:April 1929 Photographer:o.Ang.
写真はN 1572 Bild-1925-099,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


人種優生学研究センターは、ドイツの衛生・医療・福祉を扱う国家保健局の下にある人種衛生のための機関である。つまり、ヒト、人種、遺伝子には優劣があるという優生学に基づいて、ドイツ人(アーリア人)を人種汚染するユダヤ人、黒人、アラブ人、スラブ人、ジプシー(シンティ・ロマ)など下等民族・劣等人種を選別し、その排除を目指した。優生学に基づく人種民族の選別が、国家・国民の福祉に繋がると考えられていたのである。つまり、人種民族の共生ではなく、選別、差別、排除が福祉であった。

ポスター(右):1937年,ナチ党ヒトラー・ユーゲントの宣伝「君も総統に属す」;ドイツ人は支配者民族であるとはいっても、総統には無条件に服従しなければならなかった。
Auch Du gehörst dem Führer Dating:1937 Designer:o.Ang. Publisher:E. Heckendorff, Berlin Origin:Bundesarchiv Editor:Reichsjugendführung編集。
画像はPlak 003-011-009:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ人は、支配者民族アーリア人とされたから、健康で優秀でなくてはならなかった。そこで、ドイツの青少年を鍛え上げるプログラム「ヒトラーユーゲント」が全国的に導入された。これは、健康なドイツ人をメンバーとする青年団である。1936年12月、ヒトラーユーゲント法によって、国内の全ドイツ青少年がヒトラーユーゲントに加盟させられた。そして、人種民族差別を説く優生学を学び、肉体的、精神的道徳的に国家と共同体に奉仕する教育をうけることが決められた。

ナチ党では主導権争いもあったが,1931年10月,バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur von Schirach:1907-1974)が「ヒトラーユーゲント」の指導者となった。この時,シーラッハは24歳で,翌1932年7月,最年少の国会議員に当選している。

シーラッハ率いるヒトラーユーゲントHitler Jugendの1932年当時のヒトラーユーゲント団員は5万5365人に過ぎなかったが,1933年にナチス政権が成立すると,同年末,ヒトラーユーゲント団員は56万8288人と1年で10倍に増加した。これはヒトラーユーゲントが,財政資金を得て,活動範囲を拡大できたためであろう。

写真(右)1935年11月,ベルリン、シャミッソー校の女子フェンシング:ナチス政権後,党の下部組織だったヒトラー・ユーゲントHJは、政府組織となった。体力増強,規律の徹底,命令服従など,軍事訓練のような活動が多くなった。HJの女子は,ドイツ軍将兵の母となるべきであり、健康でなくてはならなかった。
Florett-Fecht-Unterricht der Mädchen der Chamisso-Schule in Berlin! Blick in den Turnsaal der Chamisso-Schule während des Fecht-Unterrichtes der Mädchen. Dating:November 1935 Photographer:Pahl, Georg
写真は,Bild 102-03184:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


優秀なアーリア人は,支配者民族となるために,ヒトラーユーゲントに加盟させられた。10歳以上の青少年男女に、勤労奉仕、小銃射撃・グライダー訓練などが施された。1939年9月の第二次世界大戦勃発以降は、ヒトラーユーゲントでは軍事教練がいっそう強化された。ただし、日本陸海軍にも15歳から17歳の少年兵の制度があり、アメリカ海兵隊も16歳から志願兵(ボランティア)を募っていた。

ポスター(右):1934/1939年,「歓喜力行団」:1933年11月、歓喜力行団が設立。これはドイツ労働戦線(DAF)、すなわち1933年5月の自由労働組合を解体して再編成されたナチ党の労働組織の一翼をなす。
N.S.G. Kraft durch Freude Dating:1934/1939 Designer:o.Ang.
画像はPlak 003-018-023:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランドの西側は、第一次大戦後、ポーランド領となり、ポーランド人がそれまでのドイツ人を追う形で、土地・財産を手に入れた。新生ポーランド東部の「民族ドイツ人」は、苦境に立たされた。民族ドイツ人とは、チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどドイツ以外の地域に分布するドイツ系民族の総称である。

 ドイツ労働戦線(DAF)が、1933年5月の自由労働組合を解体・再編成して作られた。これは、労働組合運動を弾圧する目的もあったが、同時に、11月、ナチ党の労働組織の一翼をなす歓喜力行団が設立された。歓喜力行団は、労働者と従業員にレジャーや休暇を計画、提供する組織で、労働者の懐柔政策だった。歓喜力行団では、ナチスのイデオロギーを教育し規律を維持するとともに、健康維持し、労働を支障なくこなし、勤労に励むことが義務になった。

第二次世界大戦が始まると、アーリア人男性は、兵士となり、ドイツに尽くすことが本務となった。ドイツ人は支配者民族であるが、厳しい自己鍛錬、自己犠牲の精神が求められた。

Yahoo知恵袋2010/8/5:「優生学が間違いだと証明して下さい。」

私は優生学を正しいと思っています。
何故なら自然界には、淘汰圧という物が存在するからです。 だから出来損ない(支援や補助を受けなくては、自立した生活が出来ない(と予測できる)者)は、間引きするべきだと思います。それと多様性の御蔭で↑に定義する人間だけが、ウイルスに打ち勝ったとしても、人類が絶滅した事に変わり有りません。自立しては生きられないのだから。 

それに私達が食べている牛や豚は、都合の良い個体を意図的に繁殖させているじゃないですか!! それってつまり、遺伝子がその個体の特性を左右することの証明じゃないですか? 似非科学とか言ってる人は何を根拠に否定しているのですか?

あらかじめ申し上げておきますが、哲学とか倫理学の考えは聞いていません。 【似非科学】と非難するって事は、【科学的に間違っている】と非難している事です。 だからどう科学的に間違っているのか?と、お聞きしているのです。

ベストアンサーに選ばれた回答

a_doahooさん
無理ですよ。
貴方の主張は正しいのだから。無理に回答しようとすれば、下の人達の様に無人島とかヒトラーとか話をそらすしかないです。科学的に優生学が正しいか?との質問で、その上哲学とか倫理学の考えは聞いていませんと注意書きが有るのにね。馬鹿ばっかw
慶應義塾大学の安藤寿康教授によって、性格、能力、学力が、【遺伝子】に左右される事が証明されました。
哲学とか倫理学は置いといて、優生学が科学的に正しい事が証明されています。

優生学は正しいよ。
病気の人の遺伝子増やしてどうすんの?まあそれを言ったらキリが無いけど、重度の障害は淘汰されるべきだと思います。人間同士の優劣が倫理的に問題だとしても、優生学的に事実に違いは有りません。(Yahoo知恵袋:「優生学が間違いだと証明して下さい。」引用終わり)

◆優生学を正しいと誤解する人の特徴は、優生学の中で、自分は優秀な遺伝子を受け継いでいる、優秀な人種・民族だと自負し過信していることだ。周りの連中は愚か者だと、生きるに値しないと人間以下の存在として見下していることだ。もしも自分が、脳、神経に損傷を受け障害者になっても、同じことを主張する?-----何も主張できない?

◆人権の確立と擁護の歴史、障害者、ハンセン病患者、ロマ(ジプシー)の断種・安楽死、さらにはユダヤ人ホロコースト、戦争中の大量殺戮(捕虜の殺戮、空襲、原爆)など人権侵害が繰り返された犯罪の歴史を学べば、優れた人種民族を興隆させ支配者とするために、下等な人種民族、生きるに値しない命は排除、抹殺すべきだという発想が、いかに危険なものかがわかる。

写真(右):1938-1939年,チベット、ドイツ人によるチベット人生物学的測定:人体、頭蓋測定による人種民族区分、劣等人種・下等民族の差別の基準。
Lachen, Beger als Zahnarzt (anthropologische Messung) Archive title:Tibet.- Tibetexpedition.- Bruno Beger mit Messschieber bei kraniometrischer Messung (Anthropometrie, Kraniometrie) an einem Tibeter Dating:1938/1939 Photographer:Krause, Ernst撮影.
写真はBild 135-KB-15-083:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人「種」はなく,たかだか「亜種」(Subspecies)を区分できるに過ぎない。人種・民族あるいは能力の差異は、遺伝子以上に、後天的な養育・教育に左右される。兄弟でも大きな違いがあるのはそのためだ。人種・民族を意図的に定義し,特定の人種民族を差別,迫害するのが,人種民族差別である。

◆優生学は、人種・民族を意図的に定義し,障害・性格を遺伝子と結び付けて恣意的に特定することであり、それによって、気に入らない、自分の利益を損なうとみなした人種民族・人物の人権・自由を剥奪し、差別,迫害することを正当化する似非科学である。

「人種」の概念は,「種」でない以上,生物学的実体をもたない。しかし,為政者の意図や自己主張の概念が,「人種」を社会的構築物にしてしまった。人種の概念は,20世紀には,ナショナリズム,イデオロギーと結びついて,確固たる社会概念として広められ,社会的リアリティをもつと信じられてしまった。

優秀な人種,支配者民族と下等人種 (Untermenschen) ,劣等民族との対比で,特定の価値観、すなわち偏見差別を人々に植え付けた。

「概念」は社会の抱く「現実感」と表裏一体の関係にある。肌・目・髪の色,顔面角,鼻の形,体形は,個体差,個人差が大きい。身体的能力・知能も、後天的な教育の効果が大きく影響する。にもかかわらず,優生学では、生まれながらに優劣があると、遺伝子・表象によって、人種民族が意図的に区分されてきた。このような優生学をもとに,支配者の白人と奴隷の黒人、優秀なアーリア人と下等なユダヤ人・スラブ人、アジア人を指導する秀でた大和民族、健康な人間と欠陥のあるハンセン病患者・精神障害者など勝手に人種民族を選別し,優劣をつけた。下位のものの人権を蹂躙し、自由を剥奪して排除した。

写真(右):1933/1943年,ドイツ、ヒトラーユーゲントの射撃訓練:ヒトラーユーゲント(青年団)の軍事訓練キャンプで、青年がライフルを横たわった姿勢で狙い、射撃する。
Wehrertüchtigungslager der Hitlerjugend.- Junge während einer Schießübung mit Gewehr auf einem Schießstand liegend Dating:1933/1943 ca. Photographer:o.Ang.
写真はBild 146-1979-099-14A:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


どこの国でも、若くて健康な肉体は、兵士に最適である。社会の裏表を知らない純真な青少年は、愛国心に訴えるプロパガンダに最も影響される存在である。先天的な特性,遺伝的人格,生まれながらの生物学的な能力よりも,後天的な教育の力が強い影響を与えたようだ。

人種民族差別の「世界新秩序」は,既に,オーストリア,チェコスロバキアにも軍事的威嚇・併合によって推し進められていた。それが,第二次大戦勃発で,ポーランドがドイツの生存圏へと改編された。

 第二次大戦勃発直前の1939年1月の国会演説において,ヒトラーは,次にユダヤ人によって戦争が仕掛けられれば,それはユダヤ人を殲滅する戦争となると予言した。ユダヤ人がアーリア人のドイツに攻撃を仕掛けてくる前に、先制攻撃をかけるというのが、ナチスの戦争正当化の論理だった。敵が攻撃してくるから、戦争にならざるを得なかったのだと。

反ユダヤ人ポスター(右):1940/1944年,「鞭打ち人」;無知を振り下ろそうとしているダぢでの星印を付けたユダヤ人。ドイツがポーランドを占領すると、反ユダヤ主義をポーランド人にも拡散するために、ポーランド語の反ユダヤポスターが作成された。
Bicz ludzkosci Dating:1940/1944 ca. Designer:o.Ang.
画像はPlak 003-039-002:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヴィクトール・クレンペラー(原著1995、訳1999年)『私は証言する―ナチ時代の日記 1933-1945年』大月書店には、ユダヤ人として大学教授職を追われ、年金も大幅に削減されたユダヤ人(妻はアーリア人)の次の記述がある。
 1937年9月12日、吐き気を催させる政治状況。外に出るといたるところに「ユダヤ人お断り」の看板。そして、第5回党大会開催中の今、ユダヤ憎悪の火が新たに掻き立てられる−ユダヤ人は(スペイン内戦で)スペイン人を殺しまくっている、ユダヤ民族は犯罪者集団だ、ユダヤ人はあらゆる犯罪の大元だ。これを全部信じるほど馬鹿なのが大衆だ。------確かに誰もが文句を言う。しかし、じっとして動き出す気配はない。そして大衆は結局全てを信じる。

 1939年9月3日(日曜午前)、神経の拷問がますます耐え難くなってきた。金曜の朝、中断なしの灯火管制。私と(妻)エファは地下室で窮屈に過ごしている。ひどくじめじめした暑さ-----
 圧倒的な、ほとんど戦いなしの勝利か、あるいは1918年(第一次大戦の敗戦)より何万倍もすさまじい破局に終わるのではないか。-----引っ張られるのは今晩か?射殺されるか?強制収容所送りになるか?-----(引用終わり)

 <ユダヤ人抹殺の理由>
1.中世以来,市民権を持っていないユダヤ人は,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,農民は少なく,都市の商業・教育・医療・金融などに就業せざるをえなかった。権利が制限されている人々が困難な状況を克服しようとする「マージナルマンの論理」を認めないナチスは,ユダヤ人の成功を卑怯な陰謀のためであると邪推した。

2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗が原因であり、事業の失敗は経営者の責任である。しかし,多数のドイツ人は,第一次大戦の敗北を、1918年ドイツ革命、それを仕組んだユダヤ人のせいにした。これは,少数派を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)の論理」である。

3.第一次大戦では、前線のドイツ軍兵士が勇戦していたのに,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が1918年ドイツ革命を起こし,ドイツを敗戦に陥れたと考えたドイツ人は,ドイツ敗戦のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(アイクチ)の一突き」、すなわち敗戦の原因は、ユダヤ人の陰謀・裏切りにあると信じ込んでいた。

4.ナチスは,自分たちを至高のアーリア人であると妄想し,人種汚染を引き起こすユダヤ人や知的障害者を迫害した。これがアーリア人優位の裏返しの「下等人種民族(ウンターメンシュ)排除論」である。

5.ナチスは,ユダヤ人は,?優秀なドイツ民族を人種汚染し,?共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,?ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こし、世界支配をたくらんでいると考えた。共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ヨーロッパから排除しなくてならない。ヒトラーは、1939年1月の開戦直前の国会演説から,1945年4月の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争の遂行を公言している。

6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・メディアの陰謀によって、第一次大戦のように「背後の裏切り」によってドイツが敗北しないように,ヨーロッパ・ユダヤ人を排除すべきである。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発で,アメリカ・ユダヤ人もドイツ人に戦争を仕掛けてくる。三国軍事同盟による参戦義務はなく、それまでポーランドやソ連に宣戦布告していないにも拘わらず、ヒトラーは国会で対米宣戦布告をした。その理由は、ユダヤ人殲滅の世界戦争開始という最終段階を知らせるためだった。

7.ヒトラーは,?ユダヤ人絶滅の崇高な使命をクリスチャンのドイツ人は理解できない、?ユダヤ人絶滅の実行が敵に知れ渡れば敵の攻撃力を高める、の2点に配慮し、ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したことは秘匿した。

8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持するためであり、労働力としてユダヤ人を活用する場合も,病死・過労死・虐待死するまで働かせた。

9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,名誉を重んじる軍の任務でも、キリスト教徒の仕事でもない。殺害は、親衛隊SSあるいは煽動されたウクライナやバルト諸国の反ユダヤ主義者に任された。

10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数100名が抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人反抗は,士気を乱すため、ヒトラーも武力排除はできなかった。1943年3月6日、啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。結局、混血結婚したユダヤ人は釈放された。ヒトラーはドイツの世論が反ナチスに変化することを恐れた。1942年、障害者安楽死(T4)を表向き中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順で,世論の反対がない場合,ユダヤ人殺戮は着実に遂行された。

写真(右):1936/1944年,ドイツ、ベルリン北、オラニエンブルク、ザクセンハウゼン収容所で土塁構築をさせられている囚人たち:ザクセンハウゼン強制収容所犠牲者追悼と記憶。ブーヘンヴァルトやラーベンスブリュックなど強制収容所はドイツにあった。オラニエンブルクのザクセンハウゼン収容所には73カ所の収容所支所があった。これら支所を含め、ザクセンハウゼン収容所では、1936年から1945年の終戦までに、ここザクセンハウ全強制収容所で20万人の死者がでている。支所では10万人が、処刑された奴隷労働につかされ亡くなった。親衛隊SSの殺人者は、政治犯の抵抗を皆無にすることはできなかった。そこで、ザクセンハウゼンはファシズムと戦争に反対する大規模な国際的な連帯と勇気闘争を象徴するものともなった。
Zur Einweihung der Mahn- und Gedenkstätte Sachsenhausen am 23. April 1961. - Vor den Toren Berlins, auf dem Gelände des ehemaligen faschistischen Konzentrationslagers Sachsenhausen bei Oranienburg, in das von 1936 bis Kriegsende 200.000 Menschen verschleppt wurden, entsteht - wie in Buchenwald und Ravensbrück - eine würdige Mahn- und Gedenkstätte. Jeder Quadratmeter Boden ist hier vom Blut der 100.000 Toten durchtränkt, die im KZ Sachsenhausen mit seinen 73 Aussenkommandos erschlagen, erhängt, erschossen, zu Tode geprügelt, durch erbarmunslose Sklavenarbeit zu Grunde gerichtet und vergast wurden. Doch gelang es den SS-Mördern nicht, den Widerstandswillen der politischen Häftlinge zu brechen. So wurde Sachsenhausen auch zur Stätte der großen internationalen Solidarität und des mutigen Kampfes gegen Faschismus und Krieg. UBz: Häftlinge bei schweren Erdarbeiten. Dating:1936/1944 ca. Photographer:o.Ang.
写真はBild 146-1979-099-14A:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅

 ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。多数の将兵も,虐殺の噂を聞いていたし,自ら後方の治安維持作戦を支援したこともあった。多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。不確実で,確かなことはわからないと,虐殺の責任を回避した。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。

写真(右)1941年6月28日,リトアニア、カウナスでナチス親衛隊によって煽動されたリトアニア人によるユダヤ人公開処刑。
Lichtbildmappe Kowno. Zeugen: Gunsilius, Prof. Dr. Maurach, Oberst v. Bischoffshausen. Zu den nachstehenden Aufnahmen Auszug aus dem Bericht des SS-Brigadeführers Stahlecker (Stahleckerbericht) vom 15.10.1941 Doc. 180 L IMT XXXVII S. 670-703. Auslösung der Selbstreinigungsaktionen. Auf Grund der Erwägung, dass die Bevölkerung der baltischen Länder während der Zeit ihrer Eingliederung in die UdSSR unter der Herrschaft des Bolschewismus und des Judentums aufs Schwerste gelitten hatte, war anzunehmen, dass sie nach der Befreiung von dieser Fremdherrschaft die nach dem Rückzug der Roten Armee im Lande verbliebene Gegner in weitgehendem Masse selbst unschädlich machen würde. Aufgabe der Sicherheitspolizei musste es sein, die Selbstreinigungsbestrebungen in Gang zu setzen und in die richtigen Bahnen zu lenken, um das gesteckte Säuberungsziel so schnell wie möglich zu erreichen. Nicht minder wesentlich war es, für die spätere Zeit die feststehende und beweisbare Tatsache zu schaffen, dass die befreite Bevölkerung aus sich selbst heraus zu den härtesten Massnahmen gegen den bolschewistischen und jüdischen Gegner gegriffen hat, ohne dass eine Anweisung deutscher Stellen erkennbar ist. In Litauen gelang dies zum ersten mal in Kauen durch den Einsatz der Partisanen. Es war überraschenderweise zunächst nicht einfach, dort ein Judenprogrom grössten Ausmasses in gang zu setzen. Dem Führer der oben bereits erwähnten Partisanengruppe, Klimatis, der hierbei in erster Linie herangezogen wurde, gelang es, auf Grund der ihm von dem in Kauen eingesetzen kleinen Vorkommando gegebenen Hinweise ein Progrom einzuleiten, ohne dass nach aussen irgend ein deutscher Auftrag oder eine deutsche Anregung erkennbar wurde. Im Verlauf des ersten Progroms in der Nacht vom 25. zum 26.6. wurden über 1500 Juden von den lit. Partisanen beseitigt, mehrere Synagogen angezündet oder anderweitig zerstört, und ein jüdisches Wohnviertel mit rund 60 Häusern niedergebrannt. In den folgenden Nächten wurden in derselben Weise 2300 Juden unschädlich gemacht. In anderen Teilen Litauens fanden nach dem in Kauen gegebenen Beispiel ähnliche Aktionen, wenn auch in kleinerem Umfange statt, die sich auch auf zurückgebliebene Kommunisten erstreckten. Durch Unterrichtung der Wehrmachtsstellen, bei denen für dieses Vorgehen durchweg Verständnis vorhanden war, liefen die Selbstreinigungsaktionen reibungslos ab. Dabei war es von vornherein selbstverständlich, dass nur die ersten Tage nach der Besatzung die Möglichkeit zur Durchführung von Progrom bot. Nach der Entwaffnung der Partisanen hörten die Selbstreinigungsaktionen zwangsläufig auf. Archive title:Litauen, Kaunas.- Öffentliche Ermordung (Erschlagung) von Juden durch litauische Nationalisten nach dem Einmarsch der deutschen Wehrmacht (Pogrom).- Leichen ermordeter Juden. Im Hintergrund Zuschauer (Einzel- und Massenverbrechen in Kowno, Wilna (Ponary) u.a.O. in Litauen durch Angehörige des Einsatzkommandos 3 bzw. des KdS Litauen und anderer Einheiten) Dating:28. Juni 1941 Photographer:o.Ang.
写真はB 162 Bild-04128:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊のトラックによってリバウからこの処刑場に運ばれてきたユダヤ人。:旧海軍将校のドキュメンタリーから。証人は、ドイツ軍のリバウ港湾司令官がユダヤ人の銃殺を阻止しようとしたができなかったため、終日、特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)の行ったユダヤ人処刑の様子を撮影させた。ユダヤ人の犠牲者たちがトラックから降りようとしている。白腕章の男性は、ラトビア人のドイツ協力者、手前の軍装はSD(保安諜報部)。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafenkommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-04994:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人犠牲者の運搬。トラックでリバウからこの処刑場に運ばれてきたユダヤ人。:ユダヤ人の犠牲者たちがトラックから降りようとしている。白腕章の男性は、ラトビア人のドイツ協力者、手前の軍装はSD(保安諜報部)。
写真はB 162 Bild-04997:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ポーランド人によるポーランド在住ドイツ系住民の虐待,ポーランド軍によるドイツ側放送局の襲撃を理由に,1939年9月1日,ドイツはポーランドに侵攻した。こうして,ドイツ本国の50万人を数えるドイツ・ユダヤ人に加えて,何百万人もの「東方ユダヤ人」(Ostjuden)がドイツの支配下に入ることになった。

1939年10月6日、ヒトラーはヨーロッパにおける民族新秩序の創出を宣言し、その達成のために、ユダヤ人問題を挙げ、諸民族の再定住を進めることになった。そして、ヒトラーは、親衛隊国家長官ヒムラーに敵性民族(ユダヤ人、スラブ人など)の排除を求め、「ドイツ民族強化のための国家全権委員」に任命した。
民族再定住のために、親衛隊員以外にも、行政官、医師、看護婦、ソーシャルワーカー、大学教授、建築家などが動員された。

写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人銃殺処刑。巨大な壕の中に入って行くよう命じられ、そこで処刑されるユダヤ人の一群。:特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)がユダヤ人を銃殺した。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafenkommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-05003:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人処刑。巨大な壕の中に入で銃殺されるユダヤ人の一群。:親衛隊SSに所属する特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)がユダヤ人を銃殺したが、それを見物しているのは、ドイツ国防軍の兵士たちであろうか。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941
写真はB 162 Bild-05008:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラーの戦争の本質は、開戦当初から定まっていた。それは、エセ科学の優生学を信奉して、人種民族差別、下等人種・劣等民族の排除、人種汚染の防止に基づいてた。そして、財政負担を投じて、ユダヤ人、ジプシーと並んで、ドイツ人であっても、精神障害者を差別し、排除しはじめた。

1939年、第二次世界大戦が勃発し、ドイツはポーランドに侵攻,西部のシュレジエンをドイツ帝国領に併合した。そして、ポーランド東部は、総督領として,ドイツ人総督ハンス・フランクの支配下に置いた。ユダヤ人は,住んでいた場所を追われ,都市一角に作られたユダヤ人居住区「ゲットー」に囲い込まれた。

講談社現代新書『優生学と人間社会 ― 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(米本昌平、鰓島次郎、松原洋子、市野川容孝)によれば,優生学に対して,ナチスやファシズムの専売特許だったかのように扱うのは間違いであり,社会主義者,自由主義者も,優生学が革命や社会の改良に科学的な正当化をしてくれるように錯覚していた。

「"優生学"という言葉を聞いて、すぐにヒトラーとかナチスのことを思い浮かべる人は、読者の中にもきっと多いだろう。確かに、ナチス政府が1930年代に開始した優生政策は、その規模、その暴力性において、歴史上、例を見ないものだった。しかしながら、優生学をヒトラーとナチスにだけ閉じ込めて理解するならば、歴史的事実の多くを逆に見落とすことになる。」

「ドイツでは、ナチス以前のワイマール共和国の時代に、優生政策の素地が徐々に形成されていった。北欧のデンマークでは、ナチス・ドイツよりも早く断種法が制定され、またスウェーデンでも、最近の問題となったように、実質的には強制と言える、優生学的な不妊手術が1930年代以降、50年代に至るまで実施されていた。ワイマール期のドイツと30年代の北欧諸国に共通するものは、福祉国家の形成ということである。」

写真(右):1941年11月28日,ベルリン、空軍戦闘機エースのヴェルナー・メルダース大佐の国葬に参加したヒトラー総統:大佐は1941年11月22日に墜落。右端より、エアハルト・ミルヒ空軍元帥、ヒトラーの主治医SS-Sturmbannführerカール·ブラント博士、ヒトラー、ヒトラーの副官ユリウス・シャウプ、秘書マルティン・ボルマン。
Zentralbild Staatsbegräbnis für den am 22.11.1941 bei Breslau abgestürzten Inspekteur der Jagdflieger, Oberst Werner Mölders, am 28.11.1941 in Berlin. UBz: nach der Trauerfeier im Reichsluftfahrt-Ministerium verlassen (von rechts) Generalfeldmarschall Erhard Milch, Hitlers Begleitarzt SS-Sturmbannführer Dr. Karl Brandt, Adolf Hitler, Hitlers Adjutant SS-Gruppenführer Julius Schaub und Reichsminister und Chef der Reichskanzlei SS-Obergruppenführer Martin Bormann den Ehrenhof des RLM. 1941 Dating:28. November 1941 Photographer:o.Ang. Agency:Scherl発行。
写真はBild 183-H0422-0502-001:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

優生学と人種衛生学とは、エスノセンタリズム(自民族中心主義)、効率的な福祉、生物適者生存の論理に基づく淘汰を混ぜたもで、一見、科学的な装いをとっている。しかし、人種を定義し、区分することは困難であり、精神障害者の懐胎・出生を不可避であれば、遺伝子・生死の管理という人権侵害の強硬手段によっても、優秀で健康的な人種だけの完全福祉国家や民族共同体を形成することはできない。

カイザー・ヴィルヘルム財団を含め、ナチ党シンパの専門家は、優生学・人種衛生学を信奉して、アーリア人・ゲルマン民族を人種汚染するユダヤ人、精神障害者、ジプシーを排除しようとした。しかし、完全な選別はできなかった。

◆優生学・人種衛生学にもとづく人種民族差別は、福祉国家も強固な軍事国家を形成するためとして、正当化された。しかし、そこでもたらされたものは、ユダヤ人、シンティ・ロマ(ジプシー)、精神障害者の人権蹂躙であり、迫害だった。大量殺戮が引き起こされ、テロが支配する暴力独裁国家が出現した。


2.人種民族差別に基づくジプシー(シンティ・ロマ)の迫害

写真(右)1936-1940年,ドイツ人ロベルト・リッター(Robert Ritter)博士によるジプシー/ローマ(?)女性の調査;ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査の一環で,目的は,法医学的、優生学的に,下等人種・劣等民族を選別,排除する資料を作ることだった。当時はこの人種民族の選別が福祉につながると考えられていた。国家が、人種民族を選別することを財政上も推し進めていることからすると、人種民族の選別は福祉財政の一環ということになる。
Dr. Robert Ritter mit Aktenmappe und einer alten Frau (Sinti/Roma?), und Inspektor (?) der Ordnungspolizei Datierung: 1936/1940 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-71:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(上):1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターの法医学的・人種的な調査を行う-エヴァ・ユースティン:二人の女性と少年から聞き取りをしている彼女は,シンティ・ロマ/ジプシーの研究家で,ロマ語にも通じていた。ジプシーに犯罪的傾向があるのかどうかを調査し,彼らを排除することを提言した。このようなジプシー調査を基とした論文が認められ,博士号を授与された。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Eva Justin vor einem Gebäude sitzend, mit zwei alten Frauen und einem Jungen Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang.
写真はR 165 Bild-244-72: ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査 :スカーフの女性(ローマ/ジプシー?)と国家保健局人種優生学研究センターの研究者が会話しているが,法医学的、人種的な衛生学・優生学は,下等人種・劣等民族を選別,排除することが最終目的だった。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?) Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-65:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヨーロッパでは,移動生活を好む文化的集団を「ジプシー」と呼び習わしていた。ドイツでは,ナチ党政権下で、優生学が信奉され、ジプシーを下等人種、劣等民族として扱うようになった。現在、「ジプシー」は差別用語に当たるとして,言語の上,シンティ・ロマ,あるいはロマと呼ぶことが多くなった。

◆1936年、ドイツ国家保健局人種優生学研究センター(民族衛生住民病理研究所とも訳される)は、所長のロベルト・リッター(Robert Ritter)博士の下で、人種汚染を防ぐための人種衛生活動を開始した。ジプシーは、反社会的混血人種とされ、ドイツ民族共同体にとって、人種汚染を引き起こす危険な存在とみなされた。1939年『ドイツ医師報』の「反社会的集団としてのジプシー」の中で、ジプシーのような「人種が劣等遺伝子の素質を次世代へ伝えることが必要であるが、目標は、このような性格上欠陥のある住民分子を容赦なく始末することである」とされた。

写真(右):1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査:エヴァ・ユースティンらしい女性が、シンティ・ロマ/ジプシーの目の色を検査検査している。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Frau mit weißem Kittel (Krankenschwester Eva Justin?) bei Bestimmung der Augenfarbe einer jungen Frau (Sinti/Roma?) Dating:1936/1940 ca.
写真はR 165 Bild-244-64:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

エヴァ・ユースティン(Eva Justin:1909/08/23-1966/9/11)は,1909年にドイツ、ドレスデンに生まれ、1934年から看護訓練コースに出席し,ロベルト・リッター(Robert Ritter)の下で精神医学を学び、リッターがチューリンゲン大学に設置した人種衛生人口生物学研究所 "Rassenhygienische und Bevölkerungsbiologische Forschungsstelle" の助手として働いた。そして,国家保健局人種優生学研究センターの研究者として,ジプシー/ロマの調査を行った。課題は,ジプシーの子どもたちと,その子孫の繁殖に関してであった。

エヴァ・ユースティンは、ロマ/ジプシーに関する専門家のロベルト・リッター医師の助手を務めつつ、ジプシーの子供たちを研究対象として人種的特徴に関する博士論文を作成した。調査対象のジプシーの子供たちは、ドイツのムルフィンゲンにあるカトリック教会の孤児院「聖ヨーゼフの家」に収容されていた。エヴァ・ユースティンは、この孤児院のジプシーをカラー映像で撮影させている。

⇒エヴァ・ユースティンが撮影させたムルフィンゲン、カトリック教会の孤児院「聖ヨーゼフの家」に収容されていたジプシー・シンティ/ロマのカラー映像を見る。 Eva Justin:Romani children used in Nazi racial studies

写真(右)1936-1940年,ドイツ国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族のサンプル採取(裏焼きの写真):国家保健局人種優生学研究センターの白いコートを着たエバ・ユ−スティンEva Justin(?)がロマ/ジプシーの頭部成形模型を作っている。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?) Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-69:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

エヴァ・ユースティン(Eva Justin)は、ロマニー語を話し、彼らの信頼を得て博士論文作成のために、人種衛生学的な調査研究を行なった。これは、ジプシー混血"Gypsy Mischlinge"すなわちドイツ人とロマの混血の子供たちを両親から引き離して、ジプシーからアーリア化できるかどうかの人種衛生学的な試みでもあった。

エヴァ・ユースティンは、1944年、"Lebensschicksale artfremd erzogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen" (the life history of alien-raised Gypsy children and their descendants)で博士壕の学位を得た。
 エヴァ・ユースティンは、博士論文で、ジプシーたちは多かれ少なかれ反社会的傾向を持つ人種であり、社会適応性の低さのために,アーリア化はできず、アーリア人にとって有害な存在、すなわち人種汚染する存在であるとした。したがって、ほぼ全てジプシーとジプシーの混血は,排除すべきであるとの結論に達している。

Lebensschicksale artfremd ersogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen(ジプシーの子どもたちとその子孫) Justin, Eva. - Berlin, (1943)
Lebensschicksale artfremd erzogener Zigeunerkinder und ihrer Nachkommen(ジプシーの子どもたちとその子孫) Justin, Eva. - Berlin : R. Schoetz, 1944

写真(右)1936-1940年,ハレ・ザーレ、シンティ/ロマ("ジプシー")の移動キャンプでの優生学的、人種衛生学的な調査。2人のシンティの女性との会話する国家保健局の職員あるいはエヴァ・ユースティン:Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- Frau mit weißem Kittel (Krankenschwester?) bei Entnahme einer Haarprobe von einer Frau (Sinti/Roma?) Dating: 1936/1940 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

エヴァ・ユースティン(Eva Justin:1909/08/23-1966/09/11) が人種民族調査を行ったカトリック教会の孤児院「聖ヨーゼフの家」に収容されていたロマの子供たちは、研究調査が終了すると、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所にに移送された。そして、大半が殺害された。

第二次大戦後,1948年3月,エヴァ・ユースティンは,児童心理学者としてフランクフルトアムマインで働いたが,上司は,戦時中と同じロベルト・リッター博士だった。

第二次大戦中(1939-45年)、ドイツのナチ党政権は、アーリア人の純血を守るとしょうして、主にヨーロッパのユダヤ人600万人を殺害し、さらにシンティ・ロマ・ジプシー50万人、精神障害者25万人以上、同性愛者、ソ連軍捕虜など多数を強制収容所で殺害した。

ナチス・ドイツの同盟国・傀儡国家クロアチアでは、ウスタシャ(クロアチア人の国家主義者団体)が、ユーゴスラビアのジプシー・ロマ/ジプシー5万人を殺害している。


写真(右)1940年5月22日,居住地から強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:優生学上、下等人種とみなされたジプシーは、ドイツから排除されることになった。整列させられ、歩かされている。これから、強制収容所へ移送される。移送される行列を、町の住民(右側)が何気なく見物している。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-42:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5月22日,ドイツ警察の指示に従って、移送されるシンティ・ロマ/ジプシーの行列:犯罪、スパイ行為など反社会的傾向が危惧されたジプシーは、優生学上、下等人種とみなされ、追放された。これから、強制収容所へ移送される。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-43、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1939年10月、第二次世界大戦勃発から1か月後、国家刑事警察局は、 シンティ・ロマ/ジプシー拘束を進め、国外追放するか、収容するかを検討した。そして、1940年5月には、シンティ・ロマ/ジプシーが放浪して敵のスパイとなり、窃盗をする危険を踏まえ、ドイツ西部国境地帯から離れた場所に移送することになった。

移送(追放)の対象となったのは、2500名のシンティ・ロマ/ジプシーである。西部国境地帯のジプシーが危険視されたのは、ドイツがフランスに侵攻するルートとなっていたためである。1940年5月15日の夜から、ドイツ警察がライン、ヘッセン、ファルツの500名のシンティ・ロマ/ジプシーを逮捕、移送(追放)した。

写真(右)1940年5月22日,小銃で武装したドイツ警察の監督下、移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:ドイツ帝国内であるためか、親衛隊SSやドイツ軍兵士ではなく、警察官が追放に参加している。しかし、警察は、親衛隊国家長官の指揮の下に置かれ、身分の上でも、親衛隊の階級を授けられている警官も少なくなかった。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-46 、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5月22日,ドイツ西部から強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:壁に囲まれて逃げ出せないような場所に集合させられているが、公共の大きな建築物の中庭のように見える。追放されるロマは、手荷物程度しか持ち運びを許されなかったようだ。集合した人々の荷物は、手に抱える程度に過ぎないようだ。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-48:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5月22日,ドイツ西部の居住地から強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:ドイツのジプシーに、定住者も少なくなかったから、大半の家財・家畜などは持ち出せなかったと思われる。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-49:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1940年には、既に国家保健局人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族の調査がなされていたため、作成されていた登録名簿にしたがってシンティ・ロマ/ジプシーが検挙され、年齢別・男女別に収容された。この時、専門家によって、22名が"非ジプシー"と判定され、帰宅を許されたという。

シンティ・ロマ/ジプシーは、優生学上の人種民族的差別からナチ党政権下で迫害の対象となった。シンティ・ロマ/ジプシーは、収容、移送、強制労働され、絶滅収容所にも送られた。また、アインザッツグルッペン(特別行動部隊)は、ソ連のドイツ占領地で、何万人ものシンティ・ロマ/ジプシーを銃殺、殺害した。 殺害されたシンティ・ロマ/ジプシー人数を確定することはできないが、戦前にヨーロッパに住んでいたシンティ・ロマ/ジプシー約100万人の内、20万人から50万人が殺害されたと推測される。

写真(右)1940年5月22日,ドイツ警察の監視の中、強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシーが中継地に集合させられた。:国家人種優生学研究センターにより下等人種・劣等民族とみなされたジプシーは,優生学上、人種汚染しないようにドイツとその占領地から排除されることになった。彼らは、自分たちが強制収容所で殺害されることになるとは予期していない。そこで、単なる収容所への移送であろうと思い込んでおり、比較的落ち着いている。ユダヤ人殺戮と同じく、移送者たちに殺戮の運命が待ち構えていると悟られないように秘密保持が図られた。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-52:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆ジプシー迫害の歴史に学ぶことなく、依然として、人種民族差別が当然であると誤解している日本人は、はてな匿名ダイアリー2012-08-14で次のように、憤懣を連ねている。 

「ロマ(ジプシー)の起源やら歴史やらは今回はどうでもいいんだよ。重要な事実はジプシーってのはヨーロッパ全土の各国で嫌われている連中で、ビザとか国籍とかお構いなしで勝手に自分たちの国に住み着いて、自分たちの子供にまともな教育も与えずに地元住人や観光客相手にスリやサギ行為ばっかして生計を立てている本当にヨーロッパの害虫のような連中だってことだよ。」

「我ながら酷い文章を書いているなwwレイシスト?そう呼びたかったら好きにしろよ。あのな、遠い日本にいて難しい本やらドキュメンタリー読みながら「ジプシーの人たちも辛い過去と歴史があって、仕方なくああいった生活を送っているんだ。」みたいな高尚なことを言い出す暇があったら2,3週間でいいからヨーロッパ旅行してみろよ。実際にヨーロッパで暮らしている連中や、俺みたいに仕事から四六時中ヨーロッパの都市に出張している人間にとったらウザい連中以外の何者でもないんだよ。しかもだ、日本とかでもヤクザやDQNヤンキーみたいに「お近づきになりたくない連中」はたくさんいるけど、基本自分たちが奴らのいる地区で暮らさなかったら大抵のトラブルは防げるだろ?だけどジプシーの場合はあいつらが都市の住民や観光客をカモにしているから、頼まれてもないのにあっちから近づいてくる。おまけに俺みたいな日本人なんて奴らからしたら最高のカモ認定だから一瞬のスキも許されない。本当にめんどくさい連中だよ。」

「実際に俺や俺の同僚、友人、家族があってきた被害を並べるとだな、
  ・美術館周りでアンケート募集してるとやってきて、不覚にも立ち止まって話を聞いたら周りに数人仲間が集まってきて、グダグダしているうちに貴重品を盗まれる。
・オープンテラスの店で食事をしてたらテーブル近くに勝手にやってきて下手くそな楽器の演奏を初めてお金を要求する。んで断ったり金額が少なかったらあからさまに「ケチ!」って目線を返してくる。
・満員電車やバスで油断していると後ろのカバンやズボンにカッターで穴を開けて財布を盗む
大衆食堂的な店で食事してたらいきなりテーブルにやってきて人の飯を食おうとして、そいつらを追っ払おうとしたらその横で違うやつが貴重品を盗む。
・上記ケースの大半は基本的に子供。地元警察が事前に規制しにくいから。」
「ざっと思い出しただけでもこんだけあるぜ。あと南イタリアとかギリシャとかにいくと路地の影で立ちションやらウンコとかしてるジプシーも簡単に出くわすぞ笑」

「せっかくの旅行先でこんなクソみたいな連中に絡まれて財布やらパスポートやら盗まれて最悪な気分にさせられたり、自分たちの大事に街にこういう害虫が住み着いてせっかくやってきてくれた観光客に迷惑かけているとことか想像してみ?奴らに比べたら数万倍は意思の疎通が図れそうなホームレス相手にも冷淡な態度をとる日本人にジプシーのことを理解するなんて無理だからマジで。」

「しかもこれって南米やアフリカじゃなくてヨーロッパの話なんだぜ?ちと経済的にやばいスペイン、イタリア、ギリシャだけじゃなくまだ余裕のあるフランスやドイツの都市にも大抵はいる連中。んでこういった国々って本人たちがその気にさえなれば国の社会保障制度を使って違法移民でも仮住まいや食料の申請やら子供の就学手続きなんかはできるはずだろ?でもジプシーの連中はそれすらしないんだよ。ヨーロッパの社会に溶け込まずに独自の社会にとどまったままで、おかけに子供の就学の機会も奪って、そのかわりに観光客相手にいかに騙すかとかスリのやり方とかそんなことばっか教えてるんだよ。住んでいる住民にしたら自分たちの政府に対してこんな連中さっさと自分の街から追い出してくれ!(not in my backyard!)って要請したくなるもんだろ?」

「ただ俺に言わせれば、そうやってバカ正直に「いつか分かり合えるはず」とか信じている奴のほうが怖いんだよ。そういった奴が善意のもとで必死にジプシーみたいな連中を俺らの社会に適応できるように「教育」しようとしても、奴らにとってはまた新しいカモが来たくらいのノリだから逆に搾取されるのがオチでさ、んでこうやって自分の善意が踏みにじられた先にある感情は「憎しみ」とかになるわけよ。ヒトラーとかポルポトのような連中は生まれてからああいう悪魔のような人間だったと考えるのは間違いで、本当は最初はピュアで本気で善意のもとで変革を望んでいた奴が、どこかのタイミングでダークサイドに落ちると一気に民族粛清とかはじめるんだよ。」(2012-08-14引用終わり) 

◆人種民族差別の憤懣を匿名でしか書き連ねることのできない理由は、倫理的直観に反していると内心で理解しているからであろう。盗みにあった、盗まれそうになったという恐れが先だった小心さ、コミュニケーションをとることができないという能力不足を認めたくないとの自信喪失も一役買っているかもしれない。ヨーロッパでは、自分が観光客として歓待される、歓迎されると思い込んでいたお客様気分が、思いもかけない貧困という現実に直面して、砕けたことも原因であろう。旅行費用をかけたのだからと、自分の快適さを何より優先した結果、それが裏切られたのであれば、誰かのせいにするしかない。路上や列車内でであったり、話したりして、面白い、興味深い経験をした、大道芸や習俗に感じ入ったりしたらよかったのだが。

カラー写真(右)1940年5月22日,ドイツ警察によって移送されるシンティ・ロマ/ジプシーが集合させられた。:1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、移動生活をしているジプシーは、敵のスパイとなる危険があったため、ドイツ国内での推定3万人と言われるジプシーが、ドイツが占領したポーランドへ移送された。 これは、「追放」ではあるが、収容所における食料・衛生・医療は劣悪であり、病死・餓死が蔓延していた。また、1941年終わりからは、ガス殺による大量殺戮も始まった。このような迫害を隠蔽するために、ドイツは、ポーランドの占領地に収容所を作り、密かに殺戮していた。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-54:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

シンティ・ロマ/ジプシーは、ヨーロッパに数百万人居住しているが、既に21世紀となり、「ジプシー」としての公式区分はなく、東欧諸国もEU(欧州連合)に加盟する中、シンティ・ロマはEU市民となっている。定住が当たり前になり、伝統的な放浪生活を営む集団は少なくなった。ルーマニアには、シンティ・ロマ/ジプシーは200万人が住んでいる。

EU市民権が認められるようになったシンティ・ロマ/ジプシーではあるが、依然として、貧困、差別に苦しみ、教育の機会も十分でない場合も多い。また、不況や将来への不安から、EU市民の中には、シンティ・ロマ/ジプシーを犯罪に手を染める反社会的人種と見做したり、怠惰で不謹慎な民族として蔑視したりしている者も残っている。国家主義者、ナショナリストの政治家・専門家の中には、ナチ党と同じく、シンティ・ロマ/ジプシーを追放すべきであると公言している者もいる。

2010年7月28日、サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領は、メルケル首相が彼に来週には違法なシンティ・ロマ/ジプシー居住区を排除したいと思っていると語ったと記者会見で述べた。しかし、フランスの外務大臣はサルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領がブリュッセルでメルケル首相と話をしたとは聞いたことがないと述べた。ドイツのメルケル首相は欧州委員会、ブリュッセルでのサルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領との首脳会談などで、シンティ・ロマ/ジプシーについて非難したことはない。

写真(右)1940年5月22日,居住地から列車で強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:移送されたジプシーは,強制収容所に収監され,大多数は、飢餓、病気、ガス殺によって殺される。子供たちも、同様の運命をたどった。移送を監視する警察も、ジプシーの運命を概ね予測できた。彼らを研究対象とし、断種、ドイツからの排除を提言した。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-56:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5月22日,ドイツ本土西部から列車で強制収容所に移送されるシンティ・ロマ/ジプシー:移送を監視する警察も、ジプシーの運命を概ね予測できた。彼らを研究対象とし、犯罪的傾向ゆえに排除すべきであると提言したリッター博士、ユースチン女史など専門家は、明らかに彼らが殺されることを知っていた。
Asperg.- Deportation von Sinti und Roma, Abfahrt mit dem Zug Dating: 22. Mai 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はR 165 Bild-244-57:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

2013 NY Times Co. :2010/08/20; France sends nearly 100 Gypsies back to Romania;「フランス、100名近いジプシーをルーマニアに送還」

Washington Post:2010/08/20; France sends nearly 100 Gypsies back to Romania「フランス、100名近くのジプシーをルーマニアに追放」

カラー写真(右)1936/1940年,優生学・人種衛生学に基づくシンティ・ロマ/ジプシーの調査:1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、移動生活をしているジプシーは、敵のスパイとなる危険があったため、ドイツ国内での推定3万人と言われるジプシーが、ドイツが占領したポーランドへ移送された。 これは、「追放」ではあるが、収容所における食料・衛生・医療は劣悪であり、病死・餓死が蔓延していた。また、1941年終わりからは、ガス殺による大量殺戮も始まった。このような迫害を隠蔽するために、ドイツは、ポーランドの占領地に収容所を作り、密かに殺戮していた。
Halle/Saale.- Sammellager für Sinti und Roma ("Zigeunerlager").- Eine Mitarbeiterin des Reichsgesundheitsamtes [Eva Justin?] im Gespräch mit zwei Sinti-Frauen, im Hintergrund ein Wohnwagen Dating:1936/1940 ca. Photographer: o.Ang.
写真はR 165 Bild-244-69:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

    表1 ジプシー/シンティ・ロマの国別居住人口

居住国(country)

地域シンティ・ロマの人口集団
アフカ゛ニスタン アジア 13,000 Zargari
アルバニア 南欧・バルカン 8301 (0.3%) (official 2011 census) Gabel (Vlax Roma)  · Jevgs  ·
アルゼンチン 海外 300,000 Kalderash, Boyash, Kale
オーストラリア 海外 5,000+ Romanichal, Boyash
オーストリア 中央欧州 20,000–50,000 Burgenland-Roma, Sinti, Lovari, Arlije from Macedonia, Kalderash from Serbia, Gurbeti from Serbia and Macedonia
アゼルバイジャン アジア 2,000 Garachi
ベラルーシ 東欧 10,000 (census data)
or 50,000–60,000
(estimated data)
ベルギー 西欧 10,000–15,000 Romungro
ボスニア・ヘルツェゴビナ 南欧・バルカン 60,000 or 80,000
and 400,000 Vlax Roma
ブラジル 海外 678,000–1,000,000 Kale, Kalderash, Machvaya, Xoraxane, Boyash
ブルガリア 東欧・バルカン 370,908 (official census)
to 800,000
Yerli, Gurbeti, Kalderash, Boyash, Ursari
カナダ 海外 80,000 Kalderash, Romanichal
チリ 海外 15,000–20,000 Xoraxane
コロンビア 海外 79,000 Kalderash
クロアチア 中央欧州、バルカン 9,463 (census results)
Estimated: 30,000-40,000
Lovari, Boyash
チェコ 中央欧州 13,000 Romungro; Bohemian Roma
デンマーク 北欧 1,500–2,000
エクアドル 海外 2,000 Kalderash
エストニア 北欧 700 (official)
to 1,000–1,500 (estimated)
フィンランド 北欧 10,000+ Kàlo
フランス 西欧 500,000 (official estimation)
1,200,000–1,300,000 (unofficial estimation)
Manush, Kalderash, Lovari, Sinti
ドイツ 西欧・中央 210,000 mostly Sinti, but also Balkan Roma, Vlax Roma
ギリシャ 南欧・バルカン 200,000
or 300,000
Erlides, Xoraxane,
ハンガリー 中央・東欧
394,000-1,000,000 (estimated)
Romungro, Boyash, Lovari
イラク アジア ? Qawliya, Kalderash, Xoraxane
アイルランド 北欧 3,000
イタリア 南欧 90,000–180,000 Sinti, Abruzzesi Roma, Ursari, Kalderash, Xoraxane
カザフスタン アジア 7,000 Sinti
ラトビア 東欧・北欧 8,482 (2012 est.) or 13,000–15,000 Lofitka Roma (in same Baltic Romani dialect family as Polska Roma and Ruska Roma)
レバノン アジア 12,000 Dom people
リトアニア 東欧・北欧 3,000–4,000
ルクセンブルク 西欧 100–150
マケドニア 南欧・バルカン 53,879 Roma and 3,843 Balkan Egyptians
to 260,000
Yerli, Gurbeti, Cergari, Egyptians
メキシコ 海外 unknown Kale, Boyash, Machwaya, Lovari, Kalderash
モルドヴァ 東欧 12,900 (census) to 20,000–25,000 Rusurja, Ursari, Kalderash
モンテネグロ 南欧・バルカン 2,601
to 20,000,
additionally 8,000 registered Roma refugees from Kosovo, the entire number of IDP Kosovarian Roma in Montenegro is twice as large.
オランダ 西欧 35,000–40,000
ノルウェー 北欧 6,500 or more Norwegian and Swedish Travellers (Romanoar, Tavringer), Vlax
ペルー 海外 8,400 Kalderash, Calo
ポーランド 中央・東欧 15,000–60,000 Polska Roma
ポルトガル 南欧・西欧 40,000
ルーマニア 南欧・中央・東欧 535,140 (census)
2,500,000 (estimated)
Kalderash, Ursari, Lovari, Vlax, Romungro
ロシア 東欧 182,766 (census 2002)
or
450,000–1,000,000 (estimated)
Ruska Roma (descended from Polska Roma, from Poland), Kalderash (from Moldova), Servy (from Ukraine and Balkans), Ursari (from Bulgaria) Lovare, Vlax Roma (from Walachia).
セルビア 南欧・バルカン 108,193
or 400,000–800,000
Ursari, Machvaya, Egyptians
スロバキア 中央・東欧 92,500 or 550,000 Romungro
スロベニア 中央・南欧 3,246–10,000
南アフリカ共和国 海外 7,900 Romanichal
スペイン 南欧・西欧 600,000–650,000 (official estimation)
600,000–800,000
or 1,500,000
Gitanos, Kalderash, Boyash
スウェーデン 北欧 30,000-65,000 Swedish Travellers (Tavringer), Vlax (Kalderash, Lovara), Kàlo (Finnish Roma)
スイス 中央・西欧 30,000–35,000
タイ アジア 10,000-50,000
トルコ アジア 35,000 to 5,000,000 Bosha, Yerli
ウクライナ 東欧 47,587 (census 2001)
or 400,000 (estimated)
Kelderare (Hungarian name for Kotlyary; Zakarpattia), Kotlyary (other Ukrainian regions), Ruska Roma (northern Ukraine), Servy (Serby, southern and central Ukraine, from Serbia), Lovare (central Ukraine), Kelmysh, Crymy (in Crimea), Servica Roma (in Zakarpattia from Slovakia), Ungriko Roma (in Zakarpattia from Hungary)
イギリス 北欧・西欧 44,000–94,000+ Romanichal, Welsh Kale
アメリカ合衆国 海外 1,000,000 (Romani organizations' estimations)
ウルグアイ 海外 2,000–5,000

BBC News:2010/08/20;France sends Roma Gypsies back to Romania:「フランス、ロマ・ジプシーをルーマニアに送還」

Dozens of Roma (Gypsies) have arrived back in Romania after being repatriated by France under a controversial policy backed by President Nicolas Sarkozy. Some 86 Roma left France and hundreds more will follow in the coming weeks after their camps were shut down.

フランス政府が、ロマ(ジプシー)をルーマニアに送還したため、数十人のロマ(ジプシー)が、ルーマニアに到着した。ロマ86人がフランスを去り、さらに何百人ものロマが、ここ数週間で、キャンプを引き払いフランスを去ることになっている。

The French government says it is a "decent and humane" policy of removing people from deplorable conditions.
But rights groups say the Roma are being demonised, and Romania has warned France against "xenophobic reactions".

"We understand the position of the French government. At the same time, we support unconditionally the right of every Romanian citizen to travel without restrictions within the EU," Romanian President Traian Basescu said.
ルーマニア大統領トラヤン・バセスクは、フランス政府の状況は理解している、ルーマニア人の旅行者の権利を制限しないことを望む、と述べた。 

However, Mr Basescu added that he was prepared to send police to France to help implement the repatriation scheme.
A deportee named Gabriel told the AFP news agency in Bucharest that life had been "very tough" in France, but he would not rule out returning because there was no work in Romania.
Another man said that in Romania "we don't have any chance, no jobs, nothing".退去させられるロマは、ルーマニアには、機会も仕事も何もない、と述べた。

写真(右)1936年―1944年日,ベルリン、ティアガルテンのドイツ国家保健局(公衆衛生庁の本社)の庭で撮影されたロマ/ジプシーの一家:1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ジプシーは、反社会的分子として排除されはじめた。このカラー写真が撮影された場所は、ドイツ国家保健局の庭だが、国家保健局は、ドイツ人の精神障害者を安楽死させるT4作戦にも関与していた。優生学の福祉政策は、人種衛生学に結び付き、人種汚染、反社会的分子の遺伝子を排除する、すなわち隔離・追放、断種、抹殺を促すものであった。現在でも、その優生学的・人種衛生学的「福祉政策」=人種民族差別、は根強く残っている。
Berlin-Tiergarten.- Familie von Roma / Sinti im Garten des Reichsgesundheitsamtes (Hauptdienststelle des Reichsgesundheitsamtes, Klopstockstraße 18).- Personenaufnahmen Dating:1936/1944 Photographer:o.Ang.
写真はR 165 Bild-244-59、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

"Today, 86 people left France on the basis of what are called 'voluntary returns', 61 from Lyon on a special flight charted by the French Immigration and Integration Office, then 10 and 15 on two separate commercial flights from Roissy," said Immigration Minister Eric Besson on Thursday.
Another 139 were due to be flown out on Friday, he said, and hundreds more by the end of the month.
「本日、86人は自主的に帰国した。61人はリヨン空港からフランス出入国管理事務所の手配した特別機に乗せられ、10人と15人はロワシー=シャルル・ド・ゴール国際空港から二機の民間機によって送り返された、とベソン局長は述べた。

The Roma are EU citizens, mostly from Romania or Bulgaria, but French law requires them to have a work permit and prove they have the means to support themselves if they intend to stay for more than three months.
They complain that the permits are difficult to get, and so they are often forced to live illegally.
ロマは、EU市民であり、多くはルーマニアかブルガリアの出身であるが、フランスの法律では、就労許可がない限り、3か月以上、フランスに滞在することはできない。就労許可を取得するのは難しいため、ロマの多くは、自動的に不法滞在者とみなされてしまうのである。

Roma who agree to leave have each receive 300 euros (£246; $384) and an additional 100 euros for each child.
送還に合意したロマには、300ユーロが支払われ、子供には一人当たり100ユーロ追加される。
The French government says it plans to shut down 300 illegal Roma camps in the next three months.
フランス政府は、違法なロマのキャンプ300カ所を、今後3か月以内に閉鎖する計画であると述べた。
The controversial plan was put in place after clashes last month between police and travellers in the southern city of Grenoble and the central town of Saint-Aignan.

The Roma were not involved in all of the trouble, but the government said travellers' camps were sources of "illegal trafficking" and "exploitation of children for begging, of prostitution and crime".

Some 51 camps have already been demolished by police and the residents have been moved into temporary shelters or accommodation.
ロマの51カ所のキャンプが警察によって撤去され、居住者たちは、一時避難所に移送され、収容された。


3.ドイツの精神障害者安楽死「T4作戦」:人種衛生学に基づく福祉政策

精神障害者とは、精神を病んでいる気の違った人、狂人と呼ばれてきたが、現在では、精神病も病気の一種であり、治療対象となっている。鬱病、ストレス性障害など様々な精神病にかかった人でも、会社勤めをしていることもあるし、一般市民の生活に順応していることもある。しかし、態度が急変したり、他人に危害を及ぼしたりする危険人物とみなされたり、子孫に遺伝する危険があるとされたり、排除の対象とされてきた。

写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区, ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設(サナトリウム)に隔離されている精神障害者;親衛隊SSの記録写真。ナチ党政権では、ドイツの州は解体され、自治権はなくなり、ナチ党から派遣された指導者を長とする「大党管区」が設置された。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934 Aufnahmen von Idioten verschiedenen Alters zum Gesetz für Verhütung erbkranken Nachwuchses Archive title:Heilanstalt Schönbrunn bei Dachau.- Gruppe geistig behinderter Kinder Dating:16. Februar 1934 Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-29: ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

  websiteYahoo上には、次のように障害者保護を非難する見解もある。
障害者って何で健常者よりいい暮らしが出来るのですか?路駐し放題だし。

websiteYahoo上には、次のように優生学に基づき障害者を断種すべきとの見解もある。
障害者でも子供をつくってる人たちいますけど、、、 正直な話、障害って遺伝する可能性が高いわけですよね。それなのに子供をつくるとか何を考えているんでしょうか。 同じ苦しみを子供に背負わせる可能性があるなら 私だったら子供をつくろうとは絶対思わないんですが、、、

websiteYahoo上には、次のように優生学に基づき障害者を抹殺すべきとの見解もある。
「なぜ重度の知的障害者・自閉症を安楽死させる所がないんでしょうか?
軽度ならともかく・・・重度だと人に迷惑かけるし犯罪だって犯しかねない。中には電車で痴漢や線路に突き飛ばしたりして殺害したなど、すべての重度自閉・知的がそうするとは限りませんが。大変なのは本人ではなく親ですよ。同じ質問を繰り返したり、物を壊したり人を叩いたりおかしいという自覚そのものがないからなおさら迷惑です。」

精神病の原因は、外傷など外因性、メンタルな心因性とに区分されるが、その原因は不明確である場合が多い。分類上は。精神病の半分が分裂病躁うつ病であり、脳炎・頭部損傷・高熱による脳障害から、アルコール、一酸化炭素、有機水銀など毒物による中毒も精神病を引き起こす。

優生学は,人間の性格,能力が生まれながらの遺伝子的特性に支配されているという前提に立っている。そこで,人間の性格,能力に差異があれば,それは生物学的なもので,教育や生活環境など,後天的な影響はほとんど受けないことになる。

 優生学の立場では,人間の価値自体が,生まれながらにして,生物学的基礎によって決まっていることになる。生存競争に勝ち残った,社会的優位性を保っている人間・人種民族が,指導者,支配者となって,劣った人間・人種民族を指導し,服従させることを,正当化する。この人間の優位・劣位の段階的枠組みの中では,人種,民族のほかに,女性,障害者,病弱者なども劣位に置かれる。つまり,遺伝性疾患子孫防止法のように、社会的な弱者,少数民族に対する差別が,科学の名の下に正当化される。これはエセ(似非)科学である。

生命倫理学資料関西医科大学法医学講座/関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室「優生学の錯綜」によれば,第二次大戦前、優生学思想に基づく精神障害者の排除、そのための断種など優生手術は,ドイツ、スウェーデンなどの西欧、アメリカ、日本でなど世界各地で行なわれている。 

1907年アメリカ合衆国インディアナ州で断種法が制定。1923年までに優生手術(断種・妊娠中絶・堕胎)を実施する断種法は、全米32州で制定 された。カリフォルニア州などでは梅毒患者、性犯罪者も、反社会的人物として、優生手術(断種・妊娠中絶・堕胎)の対象とされた。

ナチスドイツは政権を得た1933年にカリフォルニア州を参考にした遺伝性疾患子孫予防法(遺伝病子孫予防法:Prevention of Progeny with Hereditary Diseases)を公布。これは、精神障害者を支援するための経済・国家財政の負担軽減が目的だった。

写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区, ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設に隔離されている精神障害者の若者遺伝性疾患子孫防止法の制定された1934年、親衛隊SSは、精神障害者の頭部、全身など特徴を把握するために記録写真を撮影した。
写真はBild 152-04-36:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 ドイツでは、1939年の子供の安楽死を家族がナチ党政府に要望したことを契機に、精神障害者、身体障害者、末期重症患者といった将来的に回復の見込みがなく、社会貢献ができない無能な命を安楽死させる計画が立てられた。この安楽死計画の本部は、ドイツの首都ベルリンのティアガルテン4番地に位置していたため、秘匿名称「T4作戦」と呼ばれている。

◆1939年10月、ヒトラーは、精神障害者安楽死計画の実行を指示したが、この文書の日付は(開戦と同時、9月1日付とされた。1936年に総統官房長官フィリプ・ボーラー(Philippp Bouhler)は、国家健康保険局の連絡担当官にヴィクトル・ブラック(Viktor Brack )を任命した。ブラックは、1939年12月、自分のベルリン、ティアガルテン4番地にある事務所を、精神障害者安楽死計画の本部とした。国家保健局本庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、政府が精神障害者を抹殺していることを秘匿するためである。

障害者安楽死計画は、「T4作戦」の秘匿名称でようになり、終戦までに、27万5,000人の障害者をガス殺、投薬注射などによって殺害した。

スウェーデン では福祉国家の確立を訴えたハンソン社民党政権下で優生学 基づいて、1935年に「特定の精神病患者、精神薄弱者、その他の精神的無能力者の不妊化に関する法律」、すなわち断種法が制定された。第一条では、精神疾患、精神薄弱、その他の精神機能の障害によって、子どもを養育する能力がない場合、もしくはその遺伝的資質によって精神疾患ないし精神薄弱が次世代に伝達されると判断される場合、その者に対し不妊手術を実施できる、とした。

断種法の制定理由は、生まれてくる「生きるに値しない命」を淘汰することによって、そこに投入されることになる福祉財政の負担を軽減し、健康な児童の福祉・社会貢献した老人の年金などに充当し、国力向上、福祉国家の形成を図るためである。つまり、福祉国家を形成する財政基盤を強化するために、財政支援の対象となる「不要な人間」を減らすという優生学的発想に基づいて、国家の福祉を充実するのである。

◆断種手術(優生手術)は、「生きるに値しない命」を排除するという優生学的な出生の差別化・選別によって、福祉国家を作ろうとする国家的戦略の一環だった。

 スウェーデンでは、1941年に断種手術の同意を必要とするが対象者を反社会的生活者まで拡大したが、実情は半強制的な優生手術(断種、場合によっては妊娠中絶・堕胎)だった。
 スウェーデンの断種法は、1935年から1975年まで施行され、合計計6万2,888件の優生手術(断種)が実施された。手術対象は、米独と異なり女性が多い。1990年代後半に賠償問題に発展した。 

日本では東京帝国大学教授・日本性学会会長永井潜医学博士がスウェーデン を視察後、1930年に日本民俗衛生學會を設立。永井潜を委員長とする委員会が建議案を内閣に提出し、1940年に国民優生法が成立、任意申請による断種が合法化。1941〜1945年で435件実施。ただし優生学が本格化するのは戦後の優生保護法成立後。(「優生学の錯綜」引用終わり)

写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区, ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害者たち;親衛隊SSの記録写真。
Heilanstalt Schönbrunn b./ Dachau. - SS-Foto, 16.2.1934 Photographer:Bauer, Friedrich Franz
写真はBild 152-04-44:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

日本では、第二次大戦直後、現人神天皇陛下の治める神国日本、優秀な大和民族という優生学が否定された。これが、天皇の人間宣言である。

『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』昭和天皇による人間宣言;昭和21年(1946年)1月1日

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、 
 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋ナリ

惟フニ長キニ亙レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ

然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ

朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス

我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ

一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ(『年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)』引用終わり)

松原洋子(2000)「優生学」『現代思想』(臨時増刊:現代思想のキーワード)によれば,優生学とは次のようなものである。 

 優生学は、きわめて政治的な概念である。

 優生学で行われることは、繁殖が望ましい人間とそうではない人間の区別。あるいは、出生が望ましい人間とそうではない人間の恣意的な区別であり、基本的に特定の性質が子孫に伝達されることが望ましいか否かで判断される。それは遺伝子を媒介とした伝達とみなされ、「遺伝性」の疾患、障害、犯罪性向、体質から、感染症(梅毒、ハンセン病など)、中毒(アルコール、麻薬など)、生育環境(貧困など)におよぶ。ジプシー、ユダヤ人、黒人といった定義困難な人種民族も優生学では、子孫の適否の判断基準となりえた。

 しかし、1960年代末から1970年代になって、人種差別反対の運動、女性解放運動、患者の権利運動、性革命が起こり、新たな人権意識が喚起された。そして、リプロダクティブ・ヘルスの概念も登場した。ナチスによるユダヤ人絶滅、ジプシー迫害、障害者の安楽死といったの負の歴史的教訓によって、優生学の信奉者は少なくなった。しかし、依然として、優生学を「エセ科学」、「国家による人権の制限」、「人種民族差別」を正当化する議論が残っている。

八藤後忠夫・水谷徹(2005)「障害者の生存権と優生思想―障害児教育への示唆と展望」(『教育学部紀要』文教大学教育学部、第39集)に依拠すれば、ナチ党が政権獲得直後の1933年7月14日に公布した断種法(遺伝病子孫予防法)は,次のような優生学が背景にある。

当時のドイツで優生学は人種衛生学とも呼ばれ、生物種の生存闘争と淘汰が、人種・社会にも当てはまる原則であると考えられた。人種民族の生存は、一人の人間の生存よりも価値がある、すなわち国家は個人を超える思考の存在である。アーリア人の優秀さを引き継いだドイツ民族共同体は、個人を超えた存在であり、個人主義・民主主義にとって代わって、全体主義・指導者原理が信奉された。これは、優秀なアーリア人だからこそ機能するというわけである。

したがって、ドイツ民族共同体にあって、精神障害者はアーリア人の恥であり、排除すべき存在である。そこで、精神障害者を排除するために、遺伝性疾患子孫防止法Prevention of Progeny with Hereditary Diseases)を制定し、個々人が劣等遺伝子を保有することがないように、人種民族とその生殖を管理しようとした。

たとえアーリア人(ゲルマン人)であっても、生まれながらの精神障害者の劣等遺伝子は排除しなければならない。精神障害者は、生殖不能にするために、不妊手術=断種を強要されたのである。

写真(右)1934年2月16日,バイエルン大党管区, ミュンヘン北、ダッハウ近郊シェーンブルン療養施設の精神障害の少女;親衛隊SSの記録写真。
写真はBild 152-04-03:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

第一次世界大戦に敗北したドイツでは、戦争賠償支払、世界恐慌と困難に直面したが、このような逼迫した財政状況の下で、社会に貢献できないような生きるに値しない命を、財政負担の養い続けることは、国家財政上の無駄である。したがって、精神障碍者の生命維持に配分する予算は無駄であり、その無駄を省くためには、障害者を抹殺することが望ましい。少なくと、そのような精神障害者が増えないようにすべきである。

ヒトラーが政権を握った1933年の遺伝病子孫予防法は、本人の同意内に障害者への不妊手術を実施することを認めるものであり、ドイツ国家保健局の下で、専門家・行政官・医師の協力によって、財政支援を受けて進められた。その主な対象は,先天性精神薄弱・精神分裂病・躁鬱病・遺伝性てんかん・遺伝性舞踏病を患っている精神障害者である。不妊手術は、40万件に達すると推測される。

同じ時期、大日本帝国でも人種民族と兵士としての健康維持を背景に、優生学が信奉されており、1940年に国民優生法が成立し、優生学に基づいて、国家奉仕、社会貢献できないような精神障害者・ハンセン病患者の断種を強制するようになった。国民優生法は、日中戦争が続く中で、戦争遂行のために国家の資源、財政が必要とされているのに、国家奉仕できない精神障害者を養っておくことはできないという、冷徹な国家判断の反映である。

日本の1940年国民優生法

第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス

第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ処置ニシテ命令ヲ以テ定ムルモノヲ謂フ

第三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ハ其ノ子又ハ孫医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ本法ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得但シ其ノ者特ニ優秀ナル素質ヲ併セ有スト認メラルルトキハ此ノ限ニ在ラズ

 一 遺伝性精神病
 二 遺伝性精神薄弱
 三 強度且悪質ナル遺伝性病的性格
 四 強度且悪質ナル遺伝性身体疾患
 五 強度ナル遺伝性畸形
2 四親等以内ノ血族中ニ前項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ヲ各自有シ又ハ有シタル者ハ相互ニ婚姻シタル場合(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル場合ヲ含ム)ニ於テ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキ亦前項ニ同ジ
3 第一項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル子ヲ有シ又ハ有シタル者ハ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハ亦第一項ニ同ジ

◆1933年7月14日公布の断種法(遺伝病子孫予防法)の背景は、?優生学に基づく差別、?財政負担の軽減、の2点があげられる。
優秀であるはずのアーリア人・ドイツ民族にとって、精神障害者は恥であり、同時に、健常者を人種汚染する恐怖の存在である。
また、世界恐慌の中で、1932年1月、プロシア州議会で「遺伝による身体的もしくは精神的な障害をもつ者のために財政が圧迫されているとの認識から、福祉コストを削減できる何らかの措置を早急に講ずることが必要」と決議されたが、福祉予算を充実するためにも、無駄な障害者治療・養護の予算は削減するという意図もあった。


 第一次世界大戦後の1920年、法学者カール・ビンディング(Karl Binding)と精神科医アルフレート・ホッヘ(Alfred Hoche)は生きるに値しない命の抹消の解禁という著書で、優生学に基づいて「?病気や負傷などで救済の見込みのない者、?不治の白痴、?重い病が原因で無意識状態に陥っているか快復してもその不幸に悩む者に対する安楽死」を求めているがこの当時は、まだそこまで実施できる状況にはなかった。

◆1933年遺伝病子孫予防法「断種法」の制定後、1937年、遺伝病患者に対する鑑定審査をする秘密組織として、帝国委員会が組織された。その後、1939年、子供の安楽死計画が開始されるとともに、断種から安楽死へと措置権限が強化・拡充された。

精神障害者安楽死計画は、総統官房の「重度遺伝性・先天性患者の学問的把握のための国家委員会」が担当したが、これは学問的な研究を装いつつ、障害者大量殺戮を進める部署である。

写真(右)1939年9月1日付,ヒトラーが国家長官ボーラーと医師ブラントの二人に、精神障害者を安楽死させる医師の選定を認めた命令書
Adolf Hitler      1.Sept.1939
Reichsleiter Bouhler und Dr. med. Brandt
 sind unter Verantwortung beauftragt, die Befugnisse namentlich zu bestimmender Ärzte so zu erweitern, dass nach menschlichem Ermessen unheilbar Kranken bei kritischster Beurteilung ihres Krankheitszustandes der Gnadentod gewährt werden kann.
-- A. Hitler
"given to me by Bouhler on 27.8. [August] [19]40; Dr. Gürtner".
写真はFile:Aktion brand.jpg:Wikimedia Commons引用

「1939年9月1日付  総統指令
国家長官ボーラーと医師ブラントに、
治癒の見込みがないほど病状が重い(不治の病の)と判断される場合、その患者に病状に関して厳格に鑑定をした上で、特別に指名した医者に、恩寵の死(Gnadentod:安楽死)の措置を許可する権限を与える。
       A.ヒトラー 39年10月[自署]
[メモ]1940年8月27日にボーラーから手交、[法務大臣]ギュルトナー([Franz] Gürtner)博士」

◆T4作戦の運用については、全国保健局長官フィリップ・ボーラー(Philipp Bouhler)の連絡担当官ヴィクトル・ブラックViktor Brack)の事務所が使われた。この事務所が、ベルリンのティアガルテン4番地(Tiergartenstr.4)にあったため、精神障害者安楽死計画は、T4作戦と呼ばれた。

「安楽死」とは、慢性的な苦しみや末期症状の症状の患者に、苦痛のない死をもたらすことを意味する。しかし、ナチ党政権下のドイツでは、「安楽死」とは、ドイツおよびドイツに併合された領土(オーストリア、ズテーテンラント、チェコなど)における精神障害者を政府が組織的に殺害する極秘殺人プログラムの隠語であった。

安楽死計画は、ホロコースト、ショアーと呼ばれるヨーロッパのユダヤ人の殺戮が本格化する約2年前、実施された。そのガス殺、秘密保持の在り方は、従事した専門家たちを通じて、ユダヤ人殺戮ホロコーストに引き継がれてゆく。ドイツ帝国のアーリア人(ゲルマン人、ドイツ人)を世界で最も優れた人種民族とすれば、精神障害を負ったアーリア人は、国家的恥、民族の敵であり、排除すべきである。アーリア人の純血を守るためには、精神障害者の遺伝子を取り除くべきであるとの優生学が作用した。ナチ党が政権を獲得する1933年以前から、優生学者とそれを支持した医師・学者・行政官は、重度の精神障害者、身体障害者を、「生きるに値しない命」をと考えた。障害者排除は、国家財政にとって余分な経済的負担となり、人種汚染を引き起こす害毒であり、障害者の排除は、国民福祉にとって正しいこととされた。

アメリカホロコースト記念博物館United States Holocaust Memorial Museum)のホロコースト百科事典によれば、「安楽死プログラム」は次のように解説されている。
「1939年の春と夏、ヒトラーの官邸長官であったフィリップ・ボーラーPhilipp Bouhler,と、ヒトラーの主治医カール・ブラントKarl Brandtが率いる多くの立案者が、障害を持つ子供を対象とする秘密の虐殺作戦の準備を開始しました。 1939年8月18日、国家内務省は、すべての医師、看護婦、助産婦に対し、重度の精神的または身体的障害の兆候がある新生児および3歳未満の子供の報告を強制する布告を出しました。 1939年10月からは、公衆衛生当局は障害を持つ子供たちの保護者に対し、ドイツとオーストリア国内に特別指定された小児診療所に子供を入院させることを奨励し始めました。 実際には、これらの診療所は特別に採用された医療担当員が子供たちに致死量の薬剤を過剰投与したり、子供たちを餓死させたりした子供の虐殺病棟でした。」  

「当初、医療専門家や臨床管理者は乳児と幼児だけをこの作戦の対象にしていましたが、この政策の範囲が広がるにつれ、17歳までの年少者が含まれるようになりました。 控えめに見積もっても最低5,000人の心身障害を持つドイツの子供たちが、戦争中の子供「安楽死」プログラムの結果として殺害されました。」 

写真(右)1942年8月27日,精神障害者安楽死計画の中心人物の二人、左は国家保険局長官レオナルド・コンティ博士(Leonardo Conti:1900/8/24-1945/10/6収監中に自殺)、右はヒトラーの侍医カール・ブラント(Karl Brandt:1904/1/8-1948/6/2処刑 )博士:コンティは、フンボルト大学で医学を学び1923年、ナチ党突撃隊SA入隊、1927年にナチ党医師協会を組織。
Dr. [Leonardo] Conti und Professor Dr. [Karl] Brandt
Durch den Erlaß des Führers über das Sanitäts- und Gesundheitswesen wurde der Staatssekretär im Reichsministerium des Innern, Reichsgesundheitsführer Dr. Conti, für alle einheitlich zu treffenden Maßnahmen im Bereich des zivilen Gesundheitswesens verantwortlich gemacht und ihm hierfür die zuständigen Abteilungen der obersten Reichsbehörden und ihre nachgeordneten Dienststellen zur Verfügung gestellt.
Für Sonderaufgaben und Verhandlungen zum Ausgleich des Bedarfs an Aerzten, Krankenhäusern, Medikamenten usw. zwischen dem militärischen und zivilen Sektor des Sanitäts- und Gesundheitswesens hat der Führer nach demselben Erlaß Professor Dr. Karl Brandt bevollmächtigt. Er ist dem Führer persönlich unterstellt und erhält von ihm unmittelbar Weisungen.- Unser Bild zeigt Dr. Conti (links) und Professor Dr. Brandt (rechts) im Gespräch.
Scherl-Bilderdienst (Reichsgesundheitsverlag) 27.8.42 [Herausgabedatum]
Dr. Leonardo Conti, Staatssekretär im Reichsministerium des Innern und Reichsgesundheitsführer (links) Professor Dr. Karl Brandt, Leibarzt Adolf Hitlers (rechts) Dating:August 1942 Photographer:o.Ang.
写真はBild 183-B21967:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

「安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。

ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官(総統官房長官)のフィリップ・ボーラーPhilipp Bouhlerと医師のカール・ブラント(Karl Brandt)が虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。」

「質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。」

「これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。」 (ホロコースト百科事典安楽死プログラム」 引用終わり)

佐野 誠(1998)「ナチス「安楽死」計画への道程 − 法史的・思想史的一考察」浜松医大、および佐野 誠(2001)「ドイツ・ナチズム期のユダヤ人立法と安楽死法草案の研究」奈良教育大学、によれば、障害者安楽死計画は、次のように検証されている。

ナチスの障害者安楽死計画(Euthanasia in Nazi Germany - The T4 Programme)は、1939年、ライブツイッヒ大学の児童病院の身体と精神に障害のある子供の殺害から始まった。1939年7月(第二次大戦勃発直前)、ヒトラーは、障害児の安楽死を同様に遂行することを総統官房長官フィリップ・ボーラー(Philipp Bouhler)と自分の主治医カール・プラント(Karl Brandt)博士とに次のように命令した。

「1939年9月1日付  総統指令
国家長官ボーラーと医師ブラントに、
治癒の見込みがないほど病状が重い(不治の病の)と判断される場合、その患者に病状に関して厳格に鑑定をした上で、特別に指名した医者に、恩寵の死(Gnadentod:安楽死)の措置を許可する権限を与える。
       A.ヒトラー 39年10月[自署]
[メモ]1940年8月27日にボーラーから手交、[法務大臣]ギュルトナー([Franz] Gürtner)博士」

このアドルフ・ヒトラーによる口頭での障害者安楽死命令を受けて、国家的事業として「安楽死計画」が発動し、1939年8月18日、手始めに「奇形児などの新生児に対する申告義務」が課され、障害者の氏名・生年月日・住所などの情報が集められた。そして、その障害者情報をもとに安楽死対象を選定するために、ドイツの小児科医や精神科医を中心に「重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための国家委員会」が設置された。

「重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための国家委員会」の任務は、障害者登録に基づき安楽死させるべき子供の選別することであり、後年のユダヤ人絶滅収容所における労働不可能な移送者(主に障害者、老人、子供、は乳呑児を抱えた母親)を選別し、ガス殺した方法の先駆・さきがけとなった。

1939年9月1日、ドイツがポーランド侵攻し、イギリス・フランスが同盟国ポーランドのために、ドイツに宣戦布告して、第二次欧州大戦がはじまった。その中で、治癒の見込みのない障害児の安楽死、さらに成人障害者の安楽死が実行されることになったが、その理由は、
?優秀なアーリア人が兵士として出征し血を流しているのに、国家に貢献しない障害者を無益に生きながらえさせれば、アーリア人が遺伝子汚染され、国力が低下する、
?障害者が国防上に必要なカネ・モノ・ヒト・ワザ、すなわち物資・資金・人材・技術を食いつぶしており、これは、戦時中の無駄な行為である、
という2つの優生学的な判断である。

◆総力戦の遂行に必要な資源エネルギーや資金を、障害者のために投入することをいっさい拒否し、無駄をなくすために、障害者を優生学の上、「生きるに値しない命」とみなし、ガス殺、致死注射により抹殺・排除した。この精神障害者安楽死計画は、障害者に対する財政負担を軽減し、それによって戦争遂行に寄与する立派な兵士を養育するという国防上の目的もあった。

◆第二次世界大戦は、総力戦であり、ドイツが勝利するために、カネ・モノ・ヒト・ワザを円滑に総動員しようとし、さらに戦時の財政基盤を安定化させるために、障害者安楽死計画T4作戦を採用して、財政負担を切り詰めた。この秘密作戦は、財政の最優先順位を戦争遂行、国防とし、戦争遂行に寄与できない障害者の福祉をガス殺、致死注射により完全に切り捨てた。
それと同時に、優生学に基づいて、精神障害者を、優秀なアーリア人・ドイツ民族の恥部とみなし、抹殺することで、人種汚染を防止しようとした。これは、人種民族差別の延長線上にある非人道的措置である。

◆1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発するが、その直前、成人障害者に対する「安楽死」がヒトラーの命令により検討され始める。ナチスの安楽死は「優生思想と経済負担の軽減」をモットーに計画された。これは「国家が、(障害者という)無能な人々を余計な苦労をしてまで生かしておくために莫大な費用を投下し、そのため健康者の医療が貧弱になりかえって多くの犠牲者が生まれている」との考えがはたらいていた。

写真(右)1935年,「世界的に有名なベルリンのホルスト・ヴェッセル病院で治療する患者は「歓喜力行団」の訪問を喜んでいる。笑いは、みなさんを健康にする!」(写真オリジナル解説):「歓喜力行団」の道化師ミュージシャンが入院患者たちを慰問し楽しませている。ホルスト・ヴェッセルは、ベルリンの突撃隊SAで、ナチ党歌「旗を高く掲げよ」の作詞者。1930年に共産党員との戦いで死亡し、ナチ党は英雄扱いした。
Die Weltberühmten drei Fratellinis geben eine "Kraft durch Freude" Vorstellung vor den Kranken im Horst-Wessel-Krankenhaus in Berlin. Lachen macht gesund! Kranke des Horst-Wessel-Krankenhauses während der Vorstellung der drei Fratellinis. Dating:August 1935 Photographer:Pahl, Georg.
写真はBild 102-04671:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆国家、善意の市民、キリスト教会が持つカネ・モノ・ワザを、生きるに値しない命の精神障害者に投じることは非効率な無駄遣いであり、そのカネ、モノ、ワザを治癒の見込みのある病人・負傷者、健康児童の教育、公共事業、国防に充てるべきである。このように人権・基本的権利の平等を認めず国家主義的、全体主義的に考えれば、精神障害者も身体障害者も、無用の存在であり、戦時であればなおさら、彼らへの物資・資金・人材の投入は無駄使いとみなされる。

写真(右)1937年,ベルリン、献血者、医師による採血:専門医が患者に静脈穿刺する。国家貢献できず国家予算の無駄遣いでしかない精神障害者を排除し、それにかわって健康で優良なアーリア人の人口を増やすべきだとされた。これは、現在の少子高齢化への中で労働者が減少し社会保障を維持するために人口増加(出生率回復)が国策とされている日本と類似した枠組みである。
Berlin, Blutspender, Blutabnahme durch einen Arzt Archive title:Berlin.- Arzt bei der Blutabnahme bei einer Patientin. Dating:1937 ca. Photographer:Weinrother, Carl
写真はB 145 Bild-P056062:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

国家財政の余分な負担として、「5000人の痴呆者は一人当たり年間2000ライヒスマルクの経費負担となる。経費は合計すれば、年間1000万マルクとなり、これは2億マルクの貯蓄の5パーセントの利息収入に相当する」と計算された。財政上の非人道的な効率主義によって、国家に貢献できず、物資・資金・人材・技術を食いつぶすだけの障害者は排除すべきだとの結論に至った。換言すれば、生きるに値しない、財政上も無駄な障害者は、安楽死、抹殺されるべきであり、それが福祉財政上も合理的な措置であると極論された。

ナチ犠牲者はユダヤ人に加え、スラブ人、ポーランド人、ジプシー(シンティ・ロマ)、精神障害者、さらに同性愛者など反ドイツ的みなされた人々にも及んでいる。戦後もこれらの犠牲を出したことは、国家の恥であり、国民も忘れたいとの気持ちも強かった。しかし、1980年代以降、「忘れ去られた犠牲者」の記憶が公の場にも登場している。第二次大戦が1945年に終戦して40年ほどたってから、忘れ去られたナチ犠牲者の記憶として、ドイツの安楽死・ジプシー殺戮の歴史追悼記念碑が建設されるようになった。「忘れようとし忘れかかった記憶の記念碑」ともいえよう。

ナチス優生学に依拠した安楽死計画は、まさに第二次世界大戦と同日(1939年9月1日)、秘密裏に開始された。精神障害者安楽死には、国家保健局がかかわっていたが、作戦本部は、ベルリンの国家保健局本庁舎内ではなく、ベルリン・ティアガルテン通り(Tiergartenstraße)4番地に置かれた。そこで、精神障害者計画は、秘匿名称で「T4作戦」と呼ばれた。

 1941年8月3日、グラフ・フォン・ガーレン司教は、生きるに値しない命の安楽死を批判し、後に逮捕されるがT4作戦にも同月24日中止命令が出される。しかしこれも表向きに過ぎず、T4作戦は戦争末期まで続けられた。戦後のニュールンベルグ国際軍事裁判によればT4作戦(Action T4 [Aktion T4] )によって虐殺された人々の数は27万5千人とされている。(「優生学とは何か」引用)

◆精神障害者安楽死T4作戦は、優生学的は発想に、医師、行政官が賛同し、国家戦略の一環として国家保健局を中心に進められたが、これは決してナチス、ヒトラーの時代にしか起こらない不祥事である、と短絡化することは危険である。優秀な民族、誇りある国家、優れた人種のような優生学を過度に主張すれば、障害者、特に精神障害者は、その範疇に収まらず、国家の恥、下等人種として隠すべき存在である。このような者たちが増えないように、断種(生殖能力を絶つ)べきである。さらに、治癒する見込みがなく、国家に奉仕し、社会貢献できないガス殺を養うことは、財政上の無駄である。福祉財政を進めるためには、かえって生きるに値しない命致死量の薬剤注射・投与によって、障害者の安楽死を促進すべきである、との極論になりかねない。

クリスチアン・クリスチアン・プロス/ゲッツ・アリ(1989)『人間の価値−1918年から1945年までのドイツの医学』によれば、重度の遺伝性および先天性疾患の患者の学問上の把握のための帝国委員会には、医師のハインツェ、ヴェンツラーが名を連ね、民族衛生学(ナチス優生学)の権威フリッツ・レンツ、安楽死障害者の脳神経実験を行ったハイデルベルク大学精神医学教授カール・シュナイダー、親衛隊SS保安諜報部長官ラインハルト・ハイドリヒも参加している。国家政策として、優秀な医学・警察の頭脳が、障害者安楽死のために動員されたのである。

第二次世界大戦勃発とともに本格化した障害者安楽死「T4作戦」(The T-4 Euthanasia Program)は、ポーランド・ユダヤ人、フランス・ユダヤ人、オランダ・ユダヤ人、ソ連在住ユダヤ人、ソ連赤軍捕虜、ジプシーの大量殺戮、絶滅収容所のガス殺につながってゆく。

つまり、障害者・ユダヤ人・ジプシーの殺害は、同一論理に則っており、人種民族差別の行き着く先は、排除・殺戮であるといえる。

◆1942年、「個々の施設で措置もしくは消毒されたもの」との表題の報告書が出された。そこでは、精神障害者安楽死計画の下で、ハダマール精神病院ハルトハイム城ブランデンブルク刑務所、グラーフェンエック、ピルナ、ベルンブルクのガス室などで、殺害された「生きるに値しない命」が、国家財政にどの程度寄与したかが計算されている。

写真(右)1935年3月,ベルリン、カイザーダム、「生命の奇跡」大博覧会のパネル;「そうやって、終わることになる! 生命の奇跡について興味深い統計がある」「優秀性の弱い遺伝によってに、劣等者の人口が定常的に増加する。(優秀な子と劣等な子が同数いたとすれば、劣等な人間の繁殖力は強いので、年がたつにつれて、劣等な人間の人口が、優秀な人間の人口を遥かに上回るようになる。)劣る4人の子供と、優秀な2人の子供を持っているとき、そういうことが起こる。」
優生学の立場から、障害児がいれば、その繁殖力が旺盛なために、優秀な人間が呑み込まれてしまうと、危機感を煽っている。
Die große Ausstellung "Das Wunder des Lebens" am Kaiserdamm in Berlin! So würde es enden! Ein interessantes statistisches Anschauungsobjekt auf der Ausstellung "Wunder des Lebens". Archive title:Berlin.- Ausstellung "Wunder des Lebens". Ausstellungstafel mit Grafik und Text "Qualitativer Bevölkerungsanstieg bei zu schwacher Fortpflanzung der Höherwertigen. So wird es kommen, wenn Minderwertige 4 Kinder und Höherwertige 2 Kinder haben." Dating:März 1935 Photographer:Pahl, Georg
写真はBild 102-16748:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆T4作戦の第一段階が終了した1941年8月までに、精神病患者7万273人を消毒(=殺戮)することで、ジャガイモ、肉、パン、バター、チーズ、パスタ、コーヒー、砂糖など食費が1日当たり24万5955.5ライヒスマルク節約でき、これは1年で8854万3980ライヒスマルク、10年で8億8543万9800ライヒスマルクの財政負担軽減になると推計している。

写真(右)1934年3月,ドイツ帝国の精神障害者による劣等遺伝子蔓延防止・人種汚染阻止を訴えるプロパガンダ写真「遺伝!遺伝的に健康な子孫について教育するために興味深い展示会がベルリンの公衆衛生サービス国家委員会で開催!精神病患者を養護すれば、恐ろしい遺伝病を蔓延させる」(写真のオリジナル解説)
Erbkrank! Eine interessante Ausstellung zur Aufklärung des Volkes über erbgesunden Nachwuchs wurde vom Reichsausschuss für Volksgesundheitsdienst in Berlin eröffnet! Ein erschreckendes Bild von Erbkranken in einer Idioten-Anstalt. Dating:März 1934 Photographer:o.Ang.
写真はBild 102-15663:ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

当時のドイツでは、巨大な児童施設はあったが、そこでは治療の中で、児童の心理・教育的看護が軽視されおり、それを改めることが、主張されている。専門医師が、児童に実際に面談するためには、児童が来院するのを待つのではなく、自ら児童のところへ出かけるべきであるとした。「指導的医師は、個々の児童の全人格に責任を負わなければならない」とされたのである。(クリスチアン・クリスチアン・プロス/ゲッツ・アリ(1989)『人間の価値−1918年から1945年までのドイツの医学』pp.75-95参照)

ナチ党政権下のドイツでは、戦時中、画期的な児童福祉の取り組みが行われたが、その裏では、精神障害者、特に精神障害児童が何万人も安楽死させられていた。ドイツの財政を健全化するために「生きるに値しない命」とされた精神障害者の福祉的、医療的措置が削減・停止される一方で、そこで余裕の生じた資金・資源・人材・技術を、将来、兵士となり、ドイツに奉仕できる健康な児童に充填することが企図された。精神障害者への無駄な財政支出を、障害者をガス殺、致死注射により切り詰め、代わりに健康なアーリア人を兵士と労働者に養育することが選択されたのである。

ブランデンブルグの安楽死施設では、9,772人がガス殺されたというが、殺害された障害者の公式記録には、「急性統合失調症の発作」により部屋で死亡した、というように真相は隠されていた。障害者の安楽死は、障害者の苦しみや社会的な介護負担を取り除くという意味でガス殺、致死注射による「恩寵の死」(安楽死)とみなされたが、優生学の上の「生きるに値しない命」を国家政策として、施設・資金・人材・技術を投じて抹殺した「正反対の福祉政策」を意味していた。

障害者安楽死計画は、ドイツのヒトラー総統の下で、法的根拠なしに秘密裏にガス殺、致死注射が実施されたのであるが、この計画が実施できた理由は、総統官房の行政官、一流の精神科医、優生学者(民族遺伝学者)の協力、国家財政の負担と施設の設置、物資の投入があったためである。

遺伝的な病気の子孫を排除し、健康で優秀なアーリア人に対する福祉を充実させることで、ドイツの人口増加、国力向上を図った。決して、個人の幸福を追求する目的ではなく、ドイツ民族共同体という全体に奉仕するためである。個人主義・民主主義は、弱者の安楽追求として放棄され、国家の強化を図る全体主義・ファシズムが信奉された。

日本は、戦後1948年の優生保護法においても、優生学の立場を堅持し、第一条で「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性 の生命健康を保護することを目的とする」としている。
そして、優生保護法第三条「医師の認定による優生手術」では優生手術、すなわち生殖腺を除去せず生殖を不能にする手術で、精管あるいは卵管の結紮(けつさつ)による断種・避妊手術を、次の場合に行うとした。
第一号 本人若しくは配偶者が遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患若しくは遺伝性奇形を有し、又は配偶者が精神病若しくは精神薄弱を有しているもの
第二号 本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患又は遺伝性畸形を有しているもの
第三号 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの 第四号 妊娠又は分娩が、母体の生命に危険を及ぼす虞れのあるもの
第五号 現に数人の子を有し、且つ、分娩ごとに、母体の健康度を著しく低下する虞れのあるもの

第十一条 前条の規定によつて行う優生手術に関する費用は、政令の定めるところによつて、国庫の負担とする。 

1996年(平成8年)6月26日「法律第105号 優生保護法の一部を改正する法律」によって、優生保護法(昭和二十三年法律第百五十六号)は、母体保護法と改称され、らい予防法廃止と同時に、優生保護法から優生学的条項を除き、次のように条文を変更した。

 第一条中「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに」を「不妊手術及び人工妊娠中絶に関する事項を定めること等により」に改める。
 第二条第一項中「優生手術」を「不妊手術」に改める。
 「第二章 優生手術」を「第二章 不妊手術」に改める。
 第三条の見出しを削り、「優生手術」を「不妊手術」に改め、「精神病者又は精神薄弱者」を削り、同項第一号及び第二号を削除した。

◆1993年11月30日、オランダで、世界初の安楽死を許容する法律改正遺体埋葬法)が成立した。

病院以外の場所で変死した人が出た場合、遺体埋葬法の改正に基づいて、医師は死亡証明書を発行、検視官の承認を経て埋葬を許可することになった。つまり、医師が患者を安楽死させた後、?検視官への届け出・報告書提出、?検視官から検察への所見提出、?検察による医師の不起訴 という手続きで、末期患者安楽死が認められる。この改正遺体埋葬法によって、安楽死は刑法犯罪ではあるが、この手続きを経れば違法性がないとされ、検察は起訴をせず、「安楽死」が公認されることになる。 

◆1994年、アメリカ合衆国オレゴン州で尊厳死法 (Death with Dignity Act)が住民投票により、法制化された。

オレゴン州尊厳死法でも、末期患者が苦しんでいるために医師が注射などによって積極的に安楽死をさせたり、患者が要請もしないのに「苦しんでいるのを見るに堪えられない」と第三者が判断して末期患者を死に至らしめる「慈悲殺」は、禁じられている。しかし、死にたいと思う患者が自発的に医師に懇請して、致死量の薬物の処方箋を書いてもらうことを法的に認めている。つまり、末期患者が、その致死量の薬物を服用する自由を認め、医師が処方箋を与えたことを処罰しないのである。

そこで、オレゴン州尊厳死法の下で、薬剤師が、自殺幇助のための薬剤の処方箋で薬剤を出すときには「この薬剤は、生命を終焉させる」と明記する決議をしている。これは、末期患者の死亡について、オレゴン州尊厳死法による免責を確実にするための措置である。

◆2001年、オランダで医師による安楽死を認める刑法改正を盛り込んだ終末期自殺幇助法Termination of Life on Request and Assisted Suicide)、2002年、ベルギーで安楽死法、2008年、ルクセンブルクで安楽死法、1994年、アメリカ合衆国ワシントン州で尊厳死法 (Death with Dignity Act)が成立している。

◆精神障害者の排除については、人権を認める必要のない胎児の段階で排除することが一般化しつつある。妊婦子宮内の胎児のダウン症候群については、妊婦の血液検査をすることによって、胎児がダウン症候群があるかどうかを診断できる。このダウン症の検査によって、胎児がダウン症候群である確率が高ければ、出産ではなく堕胎を選択することができる。こうして、比較的簡単な血液検査を通して、ダウン症候群患者を人工妊娠中絶という「命の選別」によって、社会に出さない、排除すること家族も増えてきた。

ヒトゲノム解析研究というバイオテクノロジーは,疾病の診断、予防、治療法の開発を目指すが、これも優生学に通じるものがある。生物学的に人間の全遺伝子構造を調べるヒトゲノム研究は、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センターなどで推進されているが、ここは「医学・生物学研究の将来にとって欠くべからざるプロジェクトを推進していくためのわが国の中心拠点」であるという。ヒト悪性腫瘍治療、乳癌・腎癌・膀胱癌・軟部組織腫瘍の発癌メカニズムの解明、ワクチン療法・抗体療法のための標的遺伝子のスクリーニングは、健康増進につながるものの、同時に、悪性遺伝子を排除することになる。

◆ドイツのT4安楽死計画(The T-4 Euthanasia Program)は、家族の出産の意思決定、福祉財政負担の許容範囲医療負担の許容範囲、障害者の人権・ベーシックニューマンニーズの充足、生死の自己決定権(尊厳死)、遺伝子研究、断種、人工妊娠中絶の正当化という点で、現代的な課題も内包している。法律上、医学上の問題だけでなく、教養ある市民としてどのように障害者の人権、安楽死を捉えるかが問われている。

◆厚生労働省『障害者白書』によれば、2005-2008年現在、日本には、知的障害者は合計54.7万人(人口比0.4%)、うち在宅が41.9万人(0.3%)、施設入所が12.8万人(0.1%)おり、精神障害者は合計323.3万人(2.5%)、在宅が290.0万人(2.3%)、入院が33.3万人(0.3%)いる。これに老人を中心とした身体障害者351.6万人を加えると、複数の障害者も含め、日本人の5%は障害者である。
 ただし、精神障害者は、身体障害者や知的障害者とは異なり、実態調査がなされておらず、厚生労働省の統計は、病院利用者から精神障害者人数を推計しており、一時的な患者も含んでいる。

◆障害者が安穏として生きながらえている、それも生産的な活動することなしに、福祉財政の負担によって遊んでいるという状況に、憤りを感じる人がいるかもしれない。戦時であれば、負傷し、身体障害を負ったり、戦死したりした命と比べて「生きるに値しない命」とみなしてしまうかもしれない。礼儀知らずで治安を悪化させる繁殖力旺盛な外国人が祖国を跋扈しているのをみて、外国人は排除すべきだ、自分の国に帰れと憤る人もいる。

安定した定職に就けず、福祉予算が削減される中で、働く気もない怠け者を生活保護で賄い、フリーターやすぐ転職するようなやる気のない若者の職業訓練を行い、出社できない引きこもりに医療・治療を行う、勉強もしない学生・留学生に奨学金を給付するなど、財政負担がかかり過ぎる、税金の無駄遣いだ、と憤りを感じるものも少なくない。

他人を自分よりも劣った存在と見做している点で、このような発想は、優生学に通じるものがある。自分は優秀で勤勉で学力もあるが、それに比べて、あいつらはダメな連中だ、このような差別・偏見が、優生学を受け入れる背景として指摘できる。

◆精神障害者や特定の人種民族を差別・排除しようとする思想は、?優生学的偏見、?財政負担軽減、?治安回復、などを正当化の根拠としている。そして、現在、人間を生殖細胞、遺伝子レベルで詳細に分析し、生命力や治癒力の優劣を区分するという恣意的な研究も進んでいる。ヒトゲノムの解読、バイオテクノロジーの進化は、再び先端技術を装って、似非(えせ)科学の優生学を蔓延させる危険がある。 「生きるに値しない命」を選別するような優生学思想は、特定グループが自分たちの利益を損なうと考える都合の悪いグループを選別するために、恣意的に用いられるに違いない。科学的な装いの下に、自分勝手な傲慢な意図を隠して、気に入らない人間を排除することを許してはならない。

◆現段階で、末期患者の安楽死は、優生学的発想に基づいて、行われているわけではない。高齢社会にあって、苦しみ、家族に迷惑をかけるのであれば、自ら安楽死を願う、といった「尊厳死」である。しかし、安楽死を尊厳死として公認すれば、医療費、社会保障など福祉財政負担を軽減することにつながる。老人・患者など意見表明が困難な人間にとって、専門家の医師が「肉体的な激しい苦痛の連続」「不治の病」といった恫喝をしているように思うかもしれない。安楽死=尊厳死、と簡単に見做すことはできない。

優生学の側面から下等人種・劣等民族の排除、経済的側面から国家財政負担の軽減、福祉国家の側面から、優良な人間への国家財政の一層の充当、富国強兵の側面から人口増加による国力向上という発送は、現在でも放棄されたわけではない。再び「生きるに値しない命」の選別が正当化される危険が残っている。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

◆ J-CASTテレビウォッチヒトラーに傾倒していた植松聖・・・「T4作戦」を真似た?障害者を大虐殺(2016/7/29)によれば、「神奈川・相模原市の「津久井やまゆり園」を襲って45人を殺傷した元職員・植松聖容疑者は犯行前から「ヒトラーの思想が降りてきた」と話していたというが、ナチスを研究している東海大・鳥飼行博教授は植松の犯行とヒトラーの思想には「類似点がある」という。
“「一番気になるのは(植松が衆院議長に届けた手紙にある)『安楽死できる世界』という部分です。この言葉はまさにヒトラーが使った言葉です。ヒトラーは障害者に税金を使うことを無駄遣いと考えていたんです」
大学でも「ヒトラー研究の講座」受講: ヒトラーは「T4作戦」と称し、知的障害者や精神障害者を安楽死と称して虐殺した。これをマネたのか、植松の手紙にも「作戦」の文字が出てくる。大学時代の友人によると、植松はヒトラーを取り上げた講義を受けていた。講義では障害者や人種差別を取り上げたディスカッションも行われた。そうしたことを通じて、植松はヒトラーの思想に傾倒していったのだろうか」
日本テレビNEWS ZERO(2016年7月28日放送23:00)と日本テレビ「スッキリ!!」(同年7月29日8:00放送)
19人が刺殺された津久井やまゆり園の前に設置された献花台には多くの花が手向けられ、訪れた人は哀悼の意を表す一方、事件への怒りを示した。また発達障害のある元利用者は悲嘆に暮れ、犠牲者へ涙を流していた。殺人などの疑いで逮捕された同施設の元職員は今年に入ってから言動の異常さがエスカレートし、2月19日には他人を傷つける恐れがあるとして措置入院させられた。その際に独裁者・ヒトラーに傾倒する発言をし、友人には障害者を殺害すると口にしていたという。ナチスを研究する東海大学の鳥飼行博教授は容疑者が今年2月に衆議院議長に宛てた手紙に着目し、安楽死という言葉がヒトラーの思想に通ずると指摘。容疑者は障害者に税金を使うことは無駄遣いで、国にとっては無用な存在と考え、ヒトラーもT4作戦において知的障害者、精神障害者を安楽死と称して虐殺したとされる。弱者は無用という考えは戦争中に広がりやすいといい、今月上旬に配信された動画内で容疑者は今は戦時下にあるなどと力説していた。容疑者は大学時代にヒトラーを取り入れた講義を受講したことがあり、障害者や人種差別のディスカッションを通してヒトラーを崇めるようになっていったという。津久井やまゆり園の園長は容疑者の口ぶりから、ナチス・ドイツの考え方を感じたという。また措置入院の際に容疑者からは大麻の陽性反応が出て、昨日の家宅捜索によって植物片が発見された(NEWS ZERO引用終り)。

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