特攻基地「知覧」と知覧高女なでしこ隊・鳥浜トメ 鳥飼行博研究室
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特攻基地知覧なでしこ隊・鳥浜トメ 2005
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◆特攻基地「知覧」と知覧高女なでしこ隊・鳥浜トメ



写真(左):海軍婦人部隊WAVESの航空整備士
;ノースアメリカン社SNJ練習機のPratt & Whitney R-1340 "Wasp" 星型エンジンを整備中。1944-45年撮影。乗員, 2人. 全長, 8.84m. 全幅, 12.18m. 全高, 3.80m. 全備重量, 2,400kg. 巡航速度,287km/h、 エンジン出力 600馬力。アメリカ軍の主力練習機で、陸軍航空隊ではT-6テキサン練習機と呼称した。日本の自衛隊にもアメリカ海軍から1954〜1958年に合計52機が供与され、1966年まで使用された。Naval History and Heritage Command:80-G-K-15003 Naval Auxiliary Air Station, Whiting Field, Pensacola, Florida 引用。
写真(右):1945年9月、終戦直後の日本に進駐してきたアメリカ人の宴会で獅子舞を披露する日本女性;トルーマン図書館掲載の同様写真の解説では、彼女たちは芸者ではないが、マット(茣蓙)の上で、和服の晴れ着(キモノ)をきて、「白いソックス」(足袋)を履いているとある。日本軍の将校も戦時下でこのような持て成しを受けていたようだ。Japanese entertainers, supported by wailing string quartet, perform famed "Lion Dance," at a dinner party. Japanese entertainers, supported by wailing string quartet, perform famed "Lion Dance," at a dinner party. Description: Japanese entertainers, supported by wailing string quartet, perform famed "Lion Dance," at a dinner party. From a scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946. Date: ca. September 1945 Related Collection: ARC Keywords: Dance; Entertainers HST Keywords: Japan - General File - Dancers 写真はTruman Library Photographs;Accession Number: 98-2507引用。


写真(右):海軍婦人[緊急]部隊WAVES(Women Accepted for Volunteer Emergency Service)の航空整備士;Seaman 1st Class Billy Ikard (left) and Seaman 1st Class Barbara A.バッテリー車を海軍輸送機 R5D-1 (ダグラス DC-4 :Douglas海軍版) の所定の位置につける海軍婦人部隊整備士。1945年中頃撮影。日米戦争の最中、米軍の婦人部隊員たちと高等女学校から勤労奉仕に赴いた日本の女学生は、お互いを憎むべき敵であると意識したのであろうか。米国の公的機関は、ここで写真を引用したNaval Historical Centerのように、見きれないほど大量の戦時中の写真を保管し、それをweb上で公開している。翻って、愛国心を大切にすべきだという歴代の日本の政治指導者はいたが、誰一人として、記録写真を全て整理し、将来のために公開するシステムを作っていない。web記録写真館の設立には、大型施設は不要であり、予算も僅かで済むはずだ。Naval History and Heritage Command:80-G-K-5659 Naval Air Station, Oakland, California引用。

【石原慎太郎脚本/製作『俺は、君のためにこそ死ににいく』中国論評】に鳥飼研究室の議論が紹介された。日本だけでなく、世界でも特攻作戦に関心が高いことが窺われる。
◆2008年9月20-22日の3日間で本研究室へのアクセスが1500件を越えた。知覧特攻機地への関心の高まりに驚かされた。

特攻は、学徒動員があって初めて可能になった。動員された特攻隊員たちを世話した女性たちも、多くが勤労女子学生であった。彼女たちは、軍隊組織の中では見せることができなかった特攻隊員たちの内面を垣間見ることができた。世話をした女性たちは、彼らの犠牲的精神に感激した。それを肌身で知った若者たちは、彼女たちの思いを裏切るような行動をとれなかった。
他方、戦争は学徒たちの思いを押しつぶすように進んでゆく。
冷徹な政治家・軍事指導者たちは、戦争が大量破壊、大量殺戮を意味することを冷静に受け入れていた。(戦争で死ぬのは当たり前、焼かれるのは当然。)個人の思いが戦争の支障に、反戦思想に結びついたり、倦厭気分が高まったりしないように、敵を憎悪するプロパガンダ、情報操作を行った。(いいジャップは死んだジャップだけだ。鬼畜米英を撃滅せよ。)


「君が代の 只やすかれと ひたすらに いざやうちなむ 醜が戦を」
「天皇陛下のご安泰を一途に思います いざ、醜い敵を陛下の下僕である私が打ち払いましょう」
陸軍特別攻撃隊「第62振武隊」込茶章少尉(1945/4/6戦死)

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版 「本書に収録しました特攻隊員の遺稿も私たちの手記も,戦争一色にぬりつぶされた当時の心のうずきをそのまま書きとめたものですから,今の時代とはずいぶんかけ離れていると思います。しかし,それもまた,いつわらぬ事実なのですから,明らかな誤記だけを訂正して掲載しました。------数ある太平洋戦争の大河の流れの一しずくとして,心ある方がもし拾いあげてくださるならば,これにこした喜びはございません。」(永崎[旧姓前田]笙子のまえがきより)知覧高女の校章は,なでしこの花だった。そこで,特攻隊に奉仕する勤労奉仕女学生の集団は「なでしこ部隊」(なでしこ学徒隊)とよばれた。


◆毎日新聞2008年8月24日「今週の本棚」に,22日刊行の拙著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年』青弓社)が紹介されました。ここでは,沖縄特攻についても分析しています。
女性と戦争:労働力・兵士として動員
石原慎太郎新電影 美化「神風特攻隊」2007-03-01 中國時報:黃菁菁/東京二月廿七日電
神風特別攻撃隊:特攻第一号・特攻生みの親

1. 1944年11月から日本本土はマリアナ諸島からの米軍重爆撃機B-29の都市無差別爆撃を受け,焦土と化した。特攻作戦は、本土空襲前、フィリピンのレイテ決戦で1944年10月から開始され、1945年3月以降の沖縄戦でも大規模に発動された。

1944年7月、米軍はマリアナ諸島を占領、11月以降、ボーイングB-29による本土空襲を開始、1945年3月10日,東京大空襲となった。沖縄戦が開始された45年4月は,本土大空襲の時期で,沖縄防衛戦よりも本土防衛が優先された。

大本営陸軍部作戦課参謀瀬島龍三中佐は,自伝(1995)『幾山河−瀬島龍三 回顧録』p.167では、連合艦隊の戦力低下を指摘した後、特攻の自然発生説を主張したが,次のような疑問が沸く。
?直ぐに死ぬべき状況にはない人間が、国に殉ずるために,残されるもの、家族のことを無視することはできない。
?特攻兵器を開発,生産することが、第一線の将兵にはできない。
?第一線将兵が命令なくして、天皇陛下から頂いた航空機を無断自爆させることはできない。
?軍隊という階級組織で、下級将兵が「特攻作戦」を計画,組織,実行できる権限,人員,機材はもっていない。

1944年10月20日,フィリピンレイテ沖海戦で第一航空艦隊の「神風特攻」が実施されたが,この作戦の採用を巡っては,大西瀧治郎中将が「特攻の生みの親」であるとの俗説がある。
しかし、神風特攻隊初出撃の3ヶ月前、1944年7月21日,大本営海軍部(軍令部)は「大海指第431号」を発し,人間魚雷「回天」人間爆弾「桜花」特攻艇「震洋」「マルレ艇」による特攻を計画した。そして、特殊潜航艇「甲標的」「海龍」特攻専用機キ-115「剣」も開発した。軍が設計、製造し、部隊編成をした特攻隊を見れば,特攻が自然発生的に継続されたのではなく、軍の積極的な関与の下に、組織的に進められたことは明らかである。

「大海機密第261917番電」は,大西中将のフィリピン到着前の1944年10月13日起案,特攻隊戦果を確認した10月26日発信で,特攻の発表は,戦意高揚のため,攻撃隊名称も併せて発表すべきことを指示していた。これは,海軍上層部が,特攻を組織的,計画的に進めていた証拠である。


写真(右):大西瀧治郎中将;第一航空艦隊司令長官として神風特攻隊をフィリピンのルソン島・セブ島から出撃させた。大西瀧治郎(1891年6月2日 - 1945年8月16日)は,1942年3月 海軍航空本部総務部長。1943年11月、軍需省航空兵器総務局長。大西中将の一航艦司令としてのフィリピン赴任(1944年10月)3ヶ月前,1944年7月21日,人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」など自爆特攻兵器の開発が海軍上層部で決定。

特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(名誉会長 瀬島龍三)は会報第45号で、大西瀧治郎の思想を承けてとして、次のようにのべた。
 「命令によって初めて航空特攻を出したのは、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎である。彼が神風特攻隊を発進させた目的は、捷一号作戦の要をなす栗田艦隊レイテ湾突入を成功させる為、敵空母の甲板を使用不能にしようとするにあった。零戦に250キロ爆弾を載んで体当たりしたとて、空母を撃沈できる筈はない。一時的に飛行甲板を使用不能にするのが狙いだった。極めて合理的な考である。」(引用終わり)

海軍の軍令部は,陸軍の参謀本部に相当する軍上層部である。日本海軍の統帥部が,軍令部で,作戦について天皇を輔弼する機関。軍令部総長は、天皇の命令を各部隊に伝達するが,実際には命令は軍令部が立案する。

軍司令官の下に、部隊が編成され,隊名・隊長が任命され,正規の作戦が採用される。自然発生的な部隊,統帥が及ばない部隊は、(敗走中の兵士集団以外)存在しない。つまり、現地将兵が勝手に特攻隊を編成することありえない。

軍上層部から「体当たり自爆せよ、自殺攻撃をかけよ」といった直截的命令はないが、1944年7月21日大海指第431号には「奇襲」の名の下に、特攻作戦を展開する意図が読み取れる。

1944年6月19-20日,マリアナ沖海戦大敗北、7-8月サイパン・テニアン島陥落と、マリアナ諸島の航空基地からB-29戦略爆撃機による日本本土空襲が危惧された。日本軍は,米空母任務部隊に打撃を与え、日本本土に接近を食い止めなくてはならない。

1944年7月21日の大海指第431号で、?敵艦隊を前進根拠地において奇襲攻撃する,?潜水艦、飛行機、奇襲特殊兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に努める,?局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める,とした。

◆フィリピン方面の捷一号作戦(カミカゼ特攻)が発動される3ヶ月前1944年7月21日の大海指第431号で,奇襲特殊兵器・局地奇襲兵力を基盤とした事実上の特攻作戦を採用した。


1945年10月25日,軍令部総長 及川古志郎大将が,本日,関行男大尉らがフィリピン戦で特攻し,護衛空母「セントロー」撃沈など大戦果を上奏したとき,大元帥昭和天皇は「そのようにまでせねばならなかったが。しかしよくやった。」とお言葉を発した。保阪正康(2005)『「特攻」と日本人』pp.51-52の引用する侍従武官吉橋の日記によれば,体当たり機の上奏を受けた大元帥昭和天皇は,最敬礼され,戦果を賞賛された。
軍統帥権を持つ大元帥昭和天皇に,特攻作戦を知らせないのであれば、天皇の赤子である兵士を勝手に死に至らしめ,天皇の軍隊を私兵として勝手に運用したことになる。これは、軍法違反(専権罪・叛乱罪)であり、軍令部総長,参謀総長は,処罰対象である。そうならないのは,日本軍司令官たちが忠誠を尽くし、特攻を大元帥に上奏していたからである。

写真右:1942年8月,米軍機の標識を塗装するMrs. Irma Lee McElroy。大西中将は航空機量産の部署を担い、日本の勤労女子学生を、工場で働かせる動員に関与した。米国は,1944年に14万機の航空機を量産したが,女子労働者は、航空機工場で47万5000人,造船所で50万人も働いていた。リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると認識された。女子学生は、航空輸送搭乗員、航空機整備員、海軍婦人部隊WAVESなど軍専門職にも登用された。大西が言った「危機」は,このような女子労働者によってもたらされたとも言える。Title Painting the American insignia on airplane wings is a job that Mrs. Irma Lee McElroy, a former office worker, does with precision and patriotic zeal. Mrs. McElroy is a civil service employee at the Naval Air Base, Corpus Christi, Texas. Her husband is a flight instructorContributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 August
Library of Congress Control Number 2017878261引用。


1945年10月20日以降,神風特攻隊に出撃を命じた第一航空艦隊司令官大西瀧次郎中将の出陣挨拶:
「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。
従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。
自分は皆の努力を最後まで見届けて、(大元帥昭和天皇の)上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。しっかり頼む。」

死にきれなかった軍上層部の将官や佐官以上の高級将校にも,戦後,ひそかに慰霊したり,謹慎して過ごした人たちもいる。自決,自殺など容易にできることではない。自決しないからといって非難することはできない。しかし,特攻隊を編成した軍人が,参議院議員,大会社の幹部、政治顧問に就任して,堂々としていたら,面食らう。

「自発的に体当たり攻撃を始めた」と軍上層部司令官・参謀たちが唱えるのは,特攻隊員の名誉と犠牲的精神に共感するためだけではない。要職にあった自分たちが,特攻しか有効な作戦を提供できないという,戦術的・戦略的な無力さ(無能さ)を認めないからである。特攻を作戦として採用した責任回避ともいえる。1945年1月、全軍特攻化が軍の最高戦略として決定。

軍令部からフィリピンの第一航空艦隊長官(寺岡謹平中将から10月20日に大西中将が引継ぎ)宛(→「大海機密第261917番電」は,1944年10月13日起案,10月26日発信である。電文は「神風隊攻撃の発表は全軍の士気昂揚並に国民戦意の振作に至大の関係ある処、各隊攻撃実施の都度純忠の至誠に報い攻撃隊名<敷島隊、朝日隊等>をも併せ適当の時機に発表のことに取計い度処、貴意至急承知致度」。軍中央で神風特攻隊の編成や部隊名称が策定されていた。

「大海機密第261917番電」は軍令部作戦課(第一課)航空担当源田実中佐(海兵52期)が10月13日起案、上司の承認を得て発信。(→戦史のウソ引用)

神風特攻隊の部隊命名は、1942年11月20日発表『愛国百人一首』からの引用である。『愛国百人一首』選定顧問は、内閣情報局第五部長、大政翼賛会実践局長、文部省社会教育局長、陸海軍省報道部長(平出英夫など)、日本放送協会業務局長、東京帝国大学教授(平泉澄など)、日本文学報国会会長徳富蘇峰、日本文学報国会理事など。(⇒文化人の戦争・特攻参照)

2.沖縄戦では,日本海軍による菊水作戦,陸軍による航空総攻撃が行われた。「神風特攻隊」は、本来、海軍の名称であるが、現在、内外で特攻隊の総称として使用されている。沖縄への特攻は、九州南部の航空基地を拠点に実施された。日本陸軍の特攻前進基地が、知覧、万世である。日本海軍の特攻前進基地は、串良、鹿屋であった。知覧で、特攻おばさん、特攻の母として、若い特攻隊員の世話をやいたのが、軍用食堂「富屋」鳥濱トメである。 

知覧町観光は,次のように紹介している。
 知覧は「薩摩の小京都」といわれ、生け垣と石垣が美しい武家屋敷が今も残っている。他の地域の武家屋敷の石垣は野石乱積みが多いが知覧の石垣はきれいな切石整層積みが中心で石垣の上の見事な生け垣と共に清潔感あふれる風景をつくっている。武家屋敷の門を入るとすぐの所に庭園があるのが普通であったらしく、今も7つの庭園が昔ながらの姿で良く残っており国の名勝に指定されている。

 太平洋戦争時代は本土最南端の知覧飛行場より、陸軍の特攻隊員約千名が飛び立って行き、帰らぬ人となった。知覧特攻平和会館は人類史上類のない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示している。(引用終わり)

この知覧には,日米開戦直後の1941年12月24日,大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開設された。そして,1942年1月30日、第十期陸軍少年飛行兵78名が航空教育のために入校した。
そして,1945年春,沖縄戦の時期に、知覧基地は,特攻隊の基地となった。(→知覧町観光参照)

知覧町商工会/観光・イベントには,「観光みどころ」の第一番に,「知覧特攻平和会館:知覧特攻基地跡に建設され、太平洋戦争末期の特攻関係資料等を展示しています。隣接して特攻平和観音像が安置されている特攻平和観音堂があります。」と紹介している。

写真(右):知覧の富屋食堂;鳥浜トメと特攻隊員との交流や悲話のあった軍指定食堂「富屋食堂」が、2001年10月に外観は当時のまま、内部は資料館として復元。

陸軍特攻基地「知覧」(ちらん)
1941年12月の日米開戦直後、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教所が開校。1942年に陸軍の陸軍少年飛行兵10期生受け入れ。学徒出身の特別操縦見習士官を含む操縦訓練学校となった。

特別操縦見習士官制度(1943年創設)は、航空機搭乗員を急速養成する制度。師範学校、専門学校、高校、大学に在学した者を入隊させ、曹長の階級を与え幹部候補とした。「特操一期生史」によると、合計四期の特操入隊者8000人。一期生任官者2386人のうち、668人が特攻などで戦死。

陸軍特攻隊員の遺書:靖国神社編(1995)『散華の心と鎮魂の誠』展転社 引用
「指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る 千尋の海に散るぞ楽しき」伊舎堂用久大尉(陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」1945/3/26戦死)

「生まれ出る子 お父様は特攻隊長として敵艦に飛行機と共に衝突命中米英ともに打ち滅ぼします。年少にして父と別れたがお母様は本当により母でありお父様と同じ心なのだからよくお母様の教えを守りよい子になるんですよ。病気をせずにお父様の幸福の裡にお前たちと別れます さようなら」片岡喜作中尉(陸軍特別攻撃隊「第81振武隊」1945/4/22戦死)

「我行カム 唯ダ一途ニ誠心ニ 散リテ花咲ク 学鷲ノ魂」坂内隆夫大尉(陸軍特別攻撃隊「第54振武隊」1945/5/25戦死)

特攻隊員の遺書には、敵撃滅の意思を表明したものが多い。しかし、死ぬ運命にある特攻隊員たちは、何も恐れることなく、心のうちを全てさらけ出したと単純に割り切ることはできない。大切な家族、友人たちに、一切の迷惑、心配をかけてはいけない。彼らを悲しませ、失望させるわけにはいかない。このように熟考した真摯な特攻隊員たちは、家族、友人が、遺書の行間に思い汲み取ってくれることを切に願ったであろう。

私の8・15<12>陸軍特別操縦見習士官制度 船木英示さん 「何で僕だけが生き残ったのか」西日本新聞2005/8/4付 朝刊掲載
僕は特攻の出撃命令を三回受けた。でも、出撃できなかった。一回目は離陸体勢にまで入っていたのに、トラックが滑走路に飛び出してきて、叫ぶんだ。「本日の攻撃は中止だ」って。
 最後の命令は一九四五年八月十四日、熊本・菊池飛行場で「十七日の沖縄特別総攻撃に参加せよ」と言われた。でも、翌日に玉音放送。言葉が難しくて、ほとんど意味が分からなかったけど、「戦争が終わった。負けたんだ」とは伝わった。おったまがったよ。今さら降伏なんか、って気持ちだった。一人で出撃しようと、急いで特攻服に着替え、愛機に走った。ところが、もう操縦かんが引き抜かれていたんだ。やりきれなくてねぇ。竹やぶに入って軍刀を振り回したよ。
 ---学徒動員で福岡高商(現在の福岡大)を繰り上げ卒業し、四三年十月一日に大刀洗陸軍飛行学校・目達原分校に入校した。同期の五十人のうち四十数人は戦死し、生き残りもみんな亡くなり、もう僕だけになった。
 何で僕だけが生き残ったんだろう?って今も考えることがあるね。一つ思うのは、たまたま飛行機乗りとしての素質が認められ、操縦を指導する側に回ってしまったことだ。三回も出撃命令を受けたのに、実際の出撃は後回しにされてしまったんじゃないか、と。
 終戦後は、魚市場、造船所、と職場を転々としたけど、「亡くなった連中の分も」と思って頑張ってきた。みんな前途のある連中ばかりだったんだよ。代弁して僕から一つだけ言いたい。戦争は要するに人と人が殺し合うこと。二度とやっちゃだめだ。そして、命を大切にしてほしい。(引用終わり)

沖縄方面の米軍を迎撃するには,九州南端に航空基地を整備する必要がある。こうして,鹿児島県に整備されたのが,陸軍の(川辺郡知覧町)知覧飛行場,(加世田市)萬世基地,海軍の鹿屋飛行場,串良飛行場など,九州南部の航空基地である。南西諸島の徳之島飛行場もつくられた。

知覧の富屋食堂は,1929年(昭和4年)、鳥濱トメ27才の時に開かれた。普段は、うどん・そば・どんぶりもの、夏場は、かき氷なども出し、繁盛する。トメの気さくな性格と食堂の家庭的な雰囲気に惹かれ、後1942年に最初の少年飛行兵10期生が到着したとき、鳥浜トメは隊員を我が子のように面倒をみた。隊員達も「お母さん」と呼ぶようになった。戦況は悪化し、1945年、知覧からも特攻機が出撃。

知覧の富屋食堂には,若い特攻隊員から母のように慕われた鳥浜トメの次の話が残っている。

写真(左):特攻隊員宮川三郎軍曹(19歳);宮川は「明日ホタルになって帰って来るよ」と言い残し出撃。その夜富屋食堂にいたトメと娘たち、出撃前の隊員たちは一匹のホタルを見て「同期の桜」を歌い、涙を流した。幽霊になって還ってきても中に入れてね,といった隊員もいた。

写真(右):赤羽礼子・石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』;宮川軍曹出撃の話がのっている。軍の指定食堂の鳥濱トメ、長女鳥濱美阿子、次女鳥濱礼子と特攻出撃する少年飛行兵との交流、戦後のアメリカ兵の母の話など、特攻の内面が伝えられる。

特攻隊員宮川三郎が蛍になって,鳥浜トメの元に戻ってくる話は,知覧飛行場近くの富屋食堂でのことある。

知覧で出撃を待つ特攻隊員は,富屋食堂に出入りし、42歳の女主人鳥浜トメ を母のように慕っていた。トメは,死に行く少年のために優しく甘えさせたようだ。1945年6月5日,宮川三郎軍曹は,20歳の誕生日をトメは心づくしの料理で誕生日を祝い,明日に控えた出撃のはなむけとした。

途中、空襲警報が鳴り、みなで防空壕に避難し,そこから出てきたときにいった。「母さんお世話になりました。お国の為に、見事に散ってまいります。そして、私はホタルとなって、母さんのもとに帰ってまいります。ホタルを見たら私だと思ってください。」といったという。

6月6日の宵になって,特攻隊員で賑わう富屋食堂に一匹のホタルが舞いこんで来た。それを見つけたトメは「宮川さんが帰ってきた」と叫び,泣いた。(→赤羽礼子[トメ次女]石井宏(2001)『ホタル帰る―特攻隊員と母トメと娘礼子』

戦死した特攻隊の若者も、体当たりされ戦死した米海軍の若者も、平和な時代であったなら、よき友人、ライバルになったかもしれない。敵国となり戦争となったために、お互いが殺しあう羽目に陥った。特攻隊員も、米国の若者を殺害するといった意識はなかったであろう。米海軍の若者も、若い特攻隊員と交歓し、話し合う機会があれば、テロリストとは感じなかったであろう。

写真(左):知覧の富屋食堂の鳥濱トメと特攻隊員;鳥浜トメ・礼子のいる軍指定食堂「富屋食堂」で,特攻隊員は,一人の若者として最後のときを過ごした。礼子さんは、2005年に亡くなった。

 鳥浜トメは,古いアルバムを持っていたが,ほとんどの写真がはがされている。これは,戦後になった知覧を訪れた特攻隊員の遺族が写真を乞うたためである。
特攻隊員は,自分の写真をもっていたり,撮ったりしたが,出撃に当たって,トメに預けたのであろう。隊員が,写真を故郷に送ることも,出撃基地も家族にも知らせること軍事秘密として禁じられていたからである。
残っている写真は韓園と台湾出身者のものが多い。遺族の手に届かない写真があることを,鳥浜トメは気にかけていたという。

現在,陸軍特攻隊の出撃の地には,知覧特攻平和会館,鳥濱トメ・長女鳥濱美阿子・次女鳥浜礼子 のいた富屋食堂(ホタル館)がある。

第32回江戸東京博物館友の会セミナー2005/7/20 戦後60年「ホタル帰る」鳥濱トメと知覧特攻隊員の物語―講師 赤羽礼子さん
当時、赤羽さんは14歳、女学校の3年生でした。赤羽さんは「冨屋」という軍指定の食堂を営んでいた鳥濱トメさんの二女です。トメさんは片道の燃料と50キロ爆弾を飛行機の底に積んで敵の航空母艦に体当たりしていく若き兵士たちの母親のような存在でした。まだ17歳くらいの兵士たちは「おばちゃん」と呼んでトメさんを慕い、出撃前夜には「おばちゃん、明日、見送りにきて」と頼み、トメさんは見送りに行ったりもしていました。
 「ホタル帰る」は、特攻前夜に20歳の誕生日を迎えた宮川軍曹の話です。宮川軍曹の誕生日を知ったトメさんは、 彼の親友の滝本軍曹を呼んで、赤飯と煮しめでお祝いをしてあげました。明日は二人とも飛び立つのです。宮川軍曹は何時までも故郷の話しをしていたそうです。帰る前に宮川軍曹は「明日の夜9時に二人でホタルになって帰ってくるから戸を開けておいてね」と頼んだのです。翌日は大雨で視界はゼロ。滝本軍曹だけは生還してきましたが、宮川軍曹は開聞岳の向こうへ飛び去ったままでした。
 その夜9時に、赤羽さんたちが入口を開けると1匹のホタルが入ってきたのです。「冨屋」に居合わせた隊員たちは皆で「同期の桜」を歌っていました。終戦後、滝本軍曹は2週間かけて宮川軍曹の墓参りをした後、自宅で命を絶たれました。
 特攻隊員たちは、もっともっと生きたかったでしょう。やりたいこともたくさんあったはずです。2度と戦争という悲劇を起こしてはなりません。トメさんは、死を目前にした何人もの人たちに安らぎの手を差しのべて、90歳で世を去りました。


海軍のパラシュート3等整備士Lorna PetersonN2S海軍練習機に乗り込み、飛行体験にでる。アイオワ州で1944-45年撮影。パイロットはKeith W. Sharer中尉。特攻隊に奉仕した知覧高女の女学生は、誰一人として、飛行体験などしたことがなかった当時、米航空部隊では、パラシュート整備士に飛行体験までさせていた。80-G-K-14309 Parachute Rigger 3rd Class Lorna Peterson, USNR(W)
Naval History and Heritage Command:80-G-K-14309 Parachute Rigger 3rd Class Lorna Peterson, USNR(W) 引用。


『特攻』第29号14頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特 攻基地」鳥濱礼子の手記では、特攻兵舎を去る特攻隊員の手紙が記載されている。

「皆さんさようなら。僅かな時間で急いでかいています。
私たちは何時までも知覧にいたいのですが上からの命令でいたし方ありません。私達の事は死んでも忘れないで居てね。花の都の靖国神社に先に行っております。席も私達の横にちゃんと空いておりますよ。皆さんも死んだら靖国神社だね。いいなあ。敵を徹底的に撃滅するまでは死んでも死ねないからね。
皆さんたちとこの知覧で愉快に過ごしたことは一生忘れません。

吾身はたとえ此の世を去らんとも、乙女心で咲いてくれ。
---かわいいマスコット、見れば忘れはせぬよ、知覧の町。
まずい文ね。頭がいたくて文なんてつくれないよ。
愈愈明日は出発です。お元気でね。皆さんたちの御健康をお祈りしています。出撃のときは知覧の上空を飛んで行きますから送ってね。私たちもいざという時は喜んで死んで行きます。
ではさようなら。くれぐれも御身大切に。
  光男より」

稲田光男(18歳)は、1945年5月10日戦死。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(こうさか じろう)(1985)『今日われ生きてあり』新潮社
(1927年和歌山県生。昭和57年日本文藝大賞受賞)

 昭和五十七年の夏、その開聞岳をふたたび眺め、知覧を訪ねた。三十七年ぶりの知覧への旅であった。 戦後、いままでも幾度か訪ねたいと、渇くような思いをもっていた。その思いをもちながら、なぜか心の裡に躊躇うものがあった。戦争で死ななかった者の、後ろめたさ、悔恨の念なのであろうか。

 知覧��。薩南の涯の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過した町。祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、二百五十キロの爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。----

 ----鹿児島市内から---と旧谷山街道に車を走らせながら福元は、訥々(とつとつ)とした話ぶりで彼自身の終戦を語る。
 「��あれァ敗戦のときの九月ンじゃった。これでもう日本軍の飛行は終りという日、済南の飛行場の上空で、先輩の少飛[少年飛行兵]四期の飯田中隊長が九九双軽で、宙返りから何からみんなやってみせた。それァ見事なもンじゃった。私ゃそれを、いまでもようく覚えちょる」

 ----町の表情は明るくなっていた。往還は舗装され、左右に建ち並ぶ家々も新しく装いを変えていた。橋の袂にあった軍用旅館の永久旅館はコンクリート造りのモダンな、自動ドアのついた食堂 「味処えいきゅう」になり、内村旅館は木造モルタル造りになり、当時の女主人たちの姿はすでになかった。所有者も変っていた。飛行兵たちが外出のたびに通 った軍用食堂の「富屋」も、大きな富屋旅館も新築されていた。飛行兵たちがよく利用した私鉄、南薩鉄道は廃線になり、知覧駅の古ぼけた駅舎だけがぽつねんと立ちつくしていた。---

 知覧の町で、当時の面影をのこしているのは、旧鹿児島街道に建ち並ぶ-----武家屋敷群と、それを縦横に結んだ小路----のたたずまいと、軍用旅館を発って出撃する隊員たちのために、知覧高女の少女たちが、おりから満開の八重桜の枝を折りとり、折りとりして駈けつけたという永久橋畔の桜の古木。そして飛行兵たちから慈母のように慕われた特攻おばさん、鳥浜とめさんだけであった。

 とめさんは健在であった。八十一歳。でっぷりと肥って、そのためか足の痛みがひどく歩行も不自由らしかった。それでもとめさんは、訪ねて行ったわたしたちのために、杖をついて奥座敷まできてくれた。
 「ゆう、おさいじゃしたなぁ」
 とめさんは、不作法を詫びながら畳の上に痛む足を投げだし、あのころの隊員たちの表情を、一つひとつなぞるように話してくれた。

 「僕が死んだら、 きっと蛍になって帰ってくるよ」
 そう言って出撃した宮川軍曹が、翌晩、一匹の"蛍"に化って飛んできたというのは、この左手の庭の泉水のほとりであった。第七次総攻撃に進発した朝鮮出身の光山少尉が、出発の前夜、 とめさんにねだられて低い声でアリランの歌を唄ったのは、次の間の柱のところであった。光山少尉はその柱にもたれ、軍帽をずりさげて顔をかくすようにして唄っていたという。

 「僕の生命の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてくセさい」
そう言って、うまそうに親子丼(おやこどんぶり)を食べて出撃していった一人の少年飛行兵のことを語ると、とめさんは、あの子のおかげで私ゃこんなにも長生きしてしもうた、と涙をにじませた。


 この知覧にわたしがいたのは、きわめて短い日数であった。と号要員でもなかったわたしは、やがて名古屋郊外、小牧第二十三飛行団司令部の通 信飛行班に移っていく。わたしの知覧とのかかわりは、ただそれだけであった。が、なぜかわたしの知覧への思いはふかい。それを言うと、とめさんは、
 「生き残りの特攻隊員さんがおじゃるようになったのも、戦後十年目ぐらいからのこつでごあんぞ」
 元隊員たちが、ながらく知覧に姿を見せなかったのは、いちどそこで死を覚悟したものにとって、多くの先輩や同志を失った痛恨きわまりないこの地には、訪れがたいなにかがあったのであろう。


 富屋旅館で昼食をすませて発つとき、杖をついて玄関まで見送ってくれたとめさんは、飛び立っていく特攻機を描いた富屋旅館の日本手拭に署名して、一首の和歌を書き添えてくれた。
  散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり
(電子文藝館編輯室掲載神坂次郎(1985)『今日われ生きてあり』<引用終わり)

3.沖縄への陸軍特攻作戦は、九州南部の知覧を前進基地として出撃した。知覧高等女学校の三年生は、勤労動員され、特攻隊員たちの身の回りの世話を奉仕するようになった。これが,勤労女子学生「なでしこ部隊」である。勤労奉仕した知覧高女「なでしこ隊」の中で、「富屋」鳥濱トメの娘鳥濱礼子、前田笙子の記録が広く知られている。

1945年3月27日、知覧高等女学校の二年生(14-15歳)は、三年生の進級直前に勤労動員され、知覧基地で、特攻隊員の洗濯、裁縫、食事、宿舎の掃除など身の回りの世話をすることとなった。彼女たちの多くは、祖国・家族を命がけで守ってくれる特攻隊員を尊敬し、最善と思われるお世話をしようと誓った。これが,知覧高女の勤労学生集団であり,知覧高女の標章から「なでしこ部隊」(なでしこ隊)と呼ばれた。

戦後かなりたってから,知覧高等女学校の女学生「なでしこ部隊」の方々が,当時の日記や思い出を編集したのが,『知覧特攻機地』(1979年)高城書房出版 である。しばらく品切れになっていたが,現在は『群青―知覧特攻基地より』の名称で入手できる。

著作によれば,勤労女子学生の集団は,自らを「なでしこ部隊」と称していた。しかし,「部隊」というのは,軍人の集団(部隊)であり,民間人ではない印象を与える。また,民間人を法に則って徴用した「軍属」(給与を受ける)のようにも思える。沖縄の女子学生たちが作った看護補助員のグループも,「ひめゆり部隊」といえば,従軍看護婦か軍属として位置づけられる。しかし,女子学生の「勤労奉仕」であれば,部隊でも賃金を受け取る徴用でもない。「学生勤労奉仕隊」を意味する「ひめゆり学徒隊」である。
したがって,軍隊に重きを置いて尊敬していた時代,「なでしこ部隊」と称していたが,この実態は無償・無給で働いた勤労女子学生の集団(半強制的な徴用に似た軍属的勤務でもあった)であり,現在は「なでしこ隊」あるいは「なでしこ学徒隊」といったほうが,適切であろう。


知覧高女なでしこ会編(1996,初版1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版 この著作の128-149ページに,当時、特攻隊員に奉仕した女学生の一人である前田笙子(知覧高女三年15歳)の日記,すなわち永崎笙子さんの当時の貴重な記録が,掲載されている。まえがきも,永崎笙子が書かれている。このような記録を公開したのは,強い思いがあったからであろう。

前田笙子(知覧高女三年15歳:勤労女子学生「なでしこ隊」)の日記( 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」を引用
昭和二十年三月二十七日
作業準備をして学校へ行く。[知覧高女の]先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びっくりして制服にきかえ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍しいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんなせま苦しい所で生活なさるのだと思ったと私達はぶくぶくした布団に休むのが恥かしい位だった。
わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかえらぬお兄様方が明日の出撃の日を待って休まれるのだと思うと感激で一杯だった。
五時半かえる。

昭和二十年三月二十八日
今日は特攻隊の方のいらっしゃるお部屋へまわされたが、初めてのことで恥かしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥じた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおっしゃることをおききして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やろうと思う。

昭和二十年三月三十日
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいただいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差上げる。無邪気に喜ばれる。貨物で飛行機のところまで行って食料等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言われて愛機に飛び乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるように風にゆられている。出発なさったが天気の都合でかえられる。大変残念がっていらっしゃった。

1945年4月1日の特攻戦果
写真(右):1945年4月1日、特攻機に突入されたアメリカの戦車揚陸艦LST-884号;1945年4月1日、沖縄上陸当日の特攻機による被害。Title:LST-884 Caption:On 1 April 1945 at Kerama Retto, following a kamikaze attack during moonlight that morning: "Plane nosed into a shallow dive and crashed into port side of the ship at frame 32, plunging through the shipfitters shop, and on into the tank deck where it exploded with intense flame." ​Damage to LST-884 from Japanese kamikaze attack at Okinawa on 1 April 1945. Note twisted remains of aircraft and charred outline of Japanese pilot in the damaged area.
Naval History and Heritage Command:NH 69108 LST-884引用。


昭和二十年四月一日
今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話をする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけずられ「伍長グラマン」と書かれる。何時までも何時までもお二人のことを物語るように。そして妹さんに笑って出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたそうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

昭和二十年四月二日
今日出撃とのこと、横田少尉殿、襦袢のホックを付けてくれとお願いされ一人兵舎に行くのもなんだが恥かしく森さんと二人で行く。晴れの門出と言うので横多少尉殿、チョビ髭をきれいにそっていらっしゃる。
午後三時半出撃 日の丸の旗を打ち振ってお送りしたが宮崎少尉がすぐ引返して着陸なさる。続いて大櫃中尉機、次々へと。宮崎機は「ウ、、、」と調子が悪く火を吐きそうになった。残念だったが、自分一人ならそのまま行くのだが整備兵を乗せていたので引き返していらっしゃったとのこと。隊長機は左右大へん振動がはげしく、福家機は爆弾を落としてしまい、後藤機故障でゆかれずして今日は隊長さん二度とも出撃出来得ず兵舎で一人歯ぎしりしていらっしゃった。
兵舎でみんなして特攻隊の方々と唄をうたう。「夕日は落ちて」「校歌」。宮崎少尉さんより哲学のお話をおききしたけれども、よくのみこめないで頭がぼうっとなる。
敵が上陸したらどうするかとという話を承る。私達も立派にお兄様方の後につづき日本の女性のということを忘れず一人でも殺して死ぬつもりです。自分達は敵艦もろともなくなられる身ながら朗らかに談笑され、それに私達の将来のことまで心配され、いたずらに死んではいけないとさとされ、私達は只々頭が下がるのみだった。

昭和二十年四月三日
今日は四回目の出撃、まさに四時であった。最後の基地知覧を後に大櫃機以下十機は遠い遠い南へと飛び去っていった。只一人病床にある河崎伍長さんを残して。出撃前、飛行機の擬装をとってあげると「こんなにお手々きたくなるよ」と今井さん。皮のよごれた手袋を見せなさる。無理にお願いしてとってあげる。
横尾伍長さんたいへん喜んで「後に何も思い残すことはないが、只一つ病床に残した河崎のことが気にかかる」と。そうでしょう、横尾さんと河崎さんとは本当に睦まじい戦友だったんですもの。自分は今日とは知れぬ身ながら病気の戦友を思いやる横尾さん実に立派な方だと思う。
部下の骨を背に出撃なさった隊長さんと言い、チョビ髭の横田少尉さんと言い、私達を妹の如く、また子の如くかわいがって下さったし私達は本当に幸福だったと思う。岩間さんの書置、何も出来得なかった私共にこんなにまでにお礼の言葉を戴いたと思うと有難さで胸が一杯だった。
私達は只三十振武隊の方々が無事敵艦に体当たりなさって立派に御大任をお果たしにならんことをお祈りするのみです。

昭和二十年四月四日
病気の河崎さんと整備の方々だけでひっそりと兵舎はしていた。昨日まではああだった、こうだった、とみんなで兵舎での思い出を繰り返す。河崎さんの看病のかたわらちょっと警備中隊へ布団を取りに行く。新聞記者に捕まり特攻隊につかえての感想、覚悟等話す。幾人もの新聞記者に取り巻かれほとほとした。

昭和二十年四月五日
特攻の方がいらっしゃらぬので整備の方々のお洗濯をこちらからお願いしてやってあげる。終日飛行機と取り組み疲れていらっしゃるでしょうと慰めてあげる。特攻機を無事に故障なく飛ばすのは整備の方なのだ。私達はこの御苦労をおさっしして毎日でもお洗濯をしてあげなくてはと思った。

昭和二十年四月六日
自分が整備された愛機はもう体当たりしただろう、「今日は隊長殿の命日としてみんなで拝もう」と整備の方がおっしゃって森さんと私、たばこを一本もらってバラバラにして火にお香がわりにたいて拝む。遥か南の方へ----ニ、三日前までは元気でいらっしゃった方々が今は敵艦へ体当たりなさってこの世へはいらっしゃらぬのだと思うと仕事も手がつかず食事の準備をしただけ。
整備の方の吹く尺八をきいていると二十振武隊の方々が洗濯物をおたのみになる。初めからの受持ちだったのだが、兵舎が離れていて飛行機故障で残られた方が三人なので行きにくい。ついでに靴下のつくろいをと穴沢少尉さん三足おたのみになる。他の方が「自分のものも」と言ってつくろい物で午後からは精一杯だった。

1945年4月6日の沖縄特攻作戦


写真(左):護衛駆逐艦「ウイッター」DE-636 USS Witter;1945年4月6日に特攻機の命中により大破。Anchored off Okinawa May 1945 After being hit by "Kamikaze" on 6 April 1945. Buckley class Destroyer Escort: 排水量: 1,673 tons、全長: 306'、全幅: 36'10" 、深さ: 13'6" 速度: 23 knots、兵装:3インチ50口径砲3門、1x2 40mm, 4x1 40mm, 10× 20mm, 爆雷投射軌条2本,投射機 8基。21インチ魚雷三連装発射管1基。乗員: 15 officers, 198 enlisted Turbo-electric drive, twin screws, 1万2,000馬力。
写真(右):立川キ-36九八式直接協力機(九八直協);低速偵察機が「誠」飛行隊の特攻機として使用された。最高速度340km、爆弾搭載量250kg。知覧特攻平和館の特攻隊員の描いた九八直協が印象的である。自分の乗る特攻機は旧式、低速の棺桶だが、絵は、航空機の機能美を描き、勇壮でもある。1945年4月6日、陸軍特攻誠第36/37/38の各飛行隊の九八式直協(合計26機)が新田原を出撃。


丸木政臣「沖縄無残なり」に次の記述がある。
4月6日。知覧の第二次特攻総攻撃の日。松田中尉が汚名挽回の出撃をしたとき。通信隊は沖縄アメリカ艦船間の無線の交信を傍受。
通信隊情報係将校が通信用紙に「〇六四五 北西、怪物接近中、自殺機命中、火災発生、マタ爆発」「〇六五三 バーネット右舷ニ自殺機、曳キ船タノム、慶良間ニ向ウ」などと書きこんでは作戦参謀に渡す。

ジュラルミンの軽い航空機が,600km程度の低速で艦艇に特攻自爆しても,燃料漏出や引火による大火災を引き起こさない限り,2000トン以下の小艦艇でも撃沈できなかった。「一機よく一艦を屠る」という事例は,ほとんどない。小艦艇を特攻で撃沈できなかった理由は、航空機は3トン以上はあるが、決して剛体ではなく、突入速度も時速500-600km程度と、爆弾の投下速度の四分の一にも満たず、衝撃力が小さかったためである。


写真(右):1945年4月6日、特攻機が命中し損傷した駆逐艦「ブッシュ」USS BUSH (DD 529);1945年4月6日特攻機が命中。特攻機の燃料が引火して,大火災。; Title:USS Bush
Description:(DD-529) Off the Mare Island Navy Yard, California, 11 June 1944. Her camouflage is Measure 32, Design 1d. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Naval History and Heritage Command:NH 69111 USS Rodman (DMS-21) and USS Witter (DE-636)

U.S.S. BUSH(DD529)S-E-C-R-E-T ACTION REPORT(駆逐艦「ブッシュ」戦闘報告)を要約すると次のようになる。
4月6日1700, 2機の九九式艦上爆撃機"Vals"が米駆逐艦「ブッシュ」攻撃した。40mm対空機銃が火を噴いたが,特攻機は駆逐艦「ブッシュ」の3-4マイル先の「コルフン」の周囲を回ってから,「コルフン」に降下し,命中した。当時,15-20機が視界の中に見えた。1715に3機の敵機(零戦)が10マイル先で雲に入ったり,出たりして周回していた。1725に3機のうち1機が太陽を背にして「ブッシュ」に突っ込んできた。艦の前部にある40mm対空機銃で攻撃したが,ジャップの左翼が艦中部を横切って,1730に艦に命中した。大火災となり,艦はほぼ真っ二つに引き裂けそうになった。


写真:1945年4月6日に特攻機に撃沈、「殺された」駆逐艦「ブッシュ」DD-529 乗員David S. Davey ;特攻機が命中したとき,デイビッドは,負傷者を助けようとした。しかし,暗闇の海にDavid S. Daveyは飲み込まれたようだ。87名が駆逐艦「ブッシュ」で命を失ったが,特攻隊たちは、彼らを殺すことを意識していたのか。それとも、敵の若者が死ぬことを想像する特攻隊員など皆無だったのか。


 1730の特攻機命中から10-15分後,3機のうち2番目の特攻機(零戦)が急降下,「ブッシュ」甲板に激突。20mm機銃と40mm機銃で応戦し,命中弾を与えたが,そのまま突っ込んだ。さらに別の1機が,1745に艦前部に命中、大火災。艦内に運ばれていた負傷者も焼死。

知覧高女三年勤労女子学生「なでしこ隊」 前田笙子(15歳:特攻隊員に奉仕)の日記(『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」引用の続き

昭和二十年四月七日
今朝、食事の用意をしていると、どうも見馴れぬ方が四、五人あちこちなさるので「食事の準備ができました」と言って行くと、新しい方々だけだったので人違いをして恥をかく。少尉の方だけで、隊長さんが陸士出身、実に立派な無口でしっかりしたお方の様で「今度きた方みんなお年を召した方だけね、あんな年を召した方でも特攻隊なんでしょうか」とささやいたぐらい。みんな髭の濃い、年を召した様な感じだった。ひっそりした兵舎も又賑やかになる。

昭和二十年四月八日
本島さん、椿とつつじの花をくださる。今頃つつじの花がと皆で珍しがって松の木にさす。これが枯れたら本島さんが出撃なさって体当たりなさったときよと話し合ってさす。渡井さんより静岡の女学校で戴いたというマスコットを戴く。
穴沢少尉さん曰く、「何時も貴方達は俺達の兵舎へきてくれぬ。何故だ。洗濯物だってあるんだよ」と連れて行かれる。行ってみると何んの用事なしでポカンとなった。大平少尉さん、穴沢少尉さんのお話に答えるだけ。雨が降っていて洗濯にいったままの姿できてしまったのでみんな素足、さんざん冷やかされて兵舎を飛び出す。

昭和二十年四月九日
今日はお洗濯、お掃除をして兵舎へ用ききに行く。河崎さんも近頃よくなって兵舎の外へも出られる様になった。洗濯のついでに整備の方の魚取りを見に行く。小泉さんと河崎さん土手から川へすってんころりん。危うくぬれねずみになるところを木元さんが抱きとめる。
電気で水中に火花をちらして取るのだそうでピチピチ筒先から火花をちらすと一匹魚がぷっと白い腹をみせて浮かんだ。電熱が弱いため駄目で全部魚は逃げてしまった。福家兵長さんの妹さんへ最後を書いて出す。

1945年4月11日,米戦艦「ミズーリ」に特攻する零式艦戦:零戦は、この後、海中に落下、甲板に軽い損傷を与えた。40mm四連装対空機銃には特攻機の残骸が付着した。高速戦艦は空母の護衛任務、低速旧式戦艦は上陸部隊への支援射撃を担当。戦艦「ミズーリ」で1945年9月3日、日本降伏調印式の舞台となる。

昭和二十年四月十一日
晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れの会が食堂であった。----みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありったけの声でうたったつもりだったが何故か声がつまって涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかったのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにっこりと笑って、酔って戯れていらっしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だったのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になった、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあって、また、泣いてしまった。

昭和二十年四月十二日
----隊長さんは私たちを[プロペラを回転させエンジンをかける]始動車にのせて、戦闘指揮所まで送ってくださった。出撃なさる直前のあわただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふっていらっしゃる。-----離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向ってゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜の枝を振ると、にっこり笑った八巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。----特攻機が全部飛びたったあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見上げてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあって、しゃがみこみ、みんなで泣いた。
(日記の引用終わり)

日本軍の憲兵は,中野軍曹の噂話をしている勤労奉仕女学生たちを軍機を漏らしたとして怒り,家に帰れなくしてやると脅した。そして,特攻隊員は悪ふざけをしないか,何か特別な約束はしないかと尋問した。彼女たちが敵機の機銃掃射をうけて,隊員たちと松林に逃げ込んだ後,憲兵は,そこで何をしていたか再び尋問した。機械故障で二度引き返してきた特攻隊員の担当だった勤労女学生は,憲兵に尾行され,,特攻隊員と結婚の約束でもしているのかと取調べを受けた。

写真(左):1945年4月12日、知覧を出撃する第二十振武隊の中島キ43一式戦;知覧基地で、知覧高等女学校三年生勤労女子学生「なでしこ隊」が桜の枝を振って、特攻隊の出撃を見送る。搭乗するのは第20振武隊の隊長穴沢利夫少尉(23歳)と思われる。彼の遺書には、婚約者に宛てて「今更何を言うか、と自分でも考えるが、ちょっぴり慾を言ってみたい」として、1.読みたい本、2.観たい画、3.智恵子(婚約者)「会いたい。話したい。無性に。」とあった。(靖国神社編(1994)『いざさらば 我はみくにの 山桜』pp.67-68参照)この写真の桜の枝を取ったとき、出撃撮影の様子は、 『特攻』第25号10頁掲載知覧高女なでしこ会編「知覧特攻基地」前川笙子の日記に出ている。遺書は、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会ホームページ参照。

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版,pp.150-175,鳥浜礼子の記録(鳥濱トメ次女鳥浜礼子宛ての手紙)

「前略
礼子さん、度々無理なお願いお許しください。---
知覧の事は自分の短い一生ですがいい思い出になります。礼子さんの贈り物は自分の最后を見届けて呉れると思います。飛行機に乗るのは一人ですが自分の心には真心を乗せて征きます。薩摩乙女の奉仕を受けて散る私たちは幸福なのかもしれません。今の私達には親兄弟の事も無く唯敵撃滅の燃えるような心のみです。
礼子さんのお手紙に依り銃後の事は安心です。戦をするものにとって銃後の事ほど心に掛かる事はないと思います。
自分も安心して死ねます。
いざ征かん愛機とともに散華まで
---だが決して死を早まらんつもりです。任務を完遂するまでは断じてやります御安心ください。
最後に礼子さんの将来の幸福と御健康をお祈りすると共に無理なお願い何卒お許しください。
   [西庄]三郎拝[1945年5月4日戦死]

1945年5-6月初旬,鳥浜礼子は,宮川軍曹に血染めの鉢巻を渡し,形見に万年筆をもらった。かれは,幽霊のまねろしていた。姉と同じ年の滝本伍長から形見に航空時計をもらった。


写真(上左):海軍航空管制官のWAVES
Specialist (T) 3rd Class Dorothy KneeとSpecialist (T) Genevieve Closeが離着陸の支持を出す。District of Columbia, 1943年初期。滑走路には、F6F戦闘機,右に,SNJ練習機, F4F戦闘機、SBD急降下爆撃機がみえる。WAVES Control Tower Operators Description:Specialist (T) 3rd Class Dorothy Knee and Specialist (T) Genevieve Close direct aircraft arrivals and departures from the control tower at Naval Air Station, Anacostia, District of Columbia, in early or mid-1943. Planes on the field at left include F6F, GB and GH types. Those in the center and at right include SNJ, F4F SBD and SB2A types. All have the circle and star insignia that was used until July 1943. The Control Tower Operator rating, Specialist (T), was changed to Specialist (Y) in October 1943. .
Naval Historical Center:80-G-K-13615 WAVES Control Tower Operators
写真(上右):海軍婦人部隊の2等航空士(Aerographer's Mate 2nd Class)Julia Murray;カリフォルニア州の海軍航空基地で、観測気球を揚げる。1945年中頃の撮影。高学歴の知覧高女の仕事は、特攻隊員の洗濯、掃除、裁縫など家政だけに限定されていた。それとは対照的に、米軍では、高学歴の女子を婦人部隊の専門的部署に配属し、将校にも登用した。 米国陸軍もWAC(Woman's Army Corps)という陸軍婦人部隊を創設していた。Title:Aerographer's Mate 2nd Class Julia Murray, USNR(W) Description:Launches a weather balloon from a theodolite platform at Naval Air Station, Santa Ana, California, circa mid-1945. The balloon is used to check wind velocity.
Naval Historical Center:80-G-K-5797 Aerographer's Mate 2nd Class Julia Murray, USNR(W) 引用。


九州南方の特攻基地としては、吹上浜近く加世田村萬世基地加世田市平和祈念館(別称万世特攻平和祈念館)がある。陸軍徳之島飛行場跡の滑走路北端には「特攻・平和慰霊塔」が立っている。海軍特攻隊の基地は,鹿屋に、鹿屋航空基地史料館がある。


兵庫県立柏原女学校の軍事演習
:『兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1943年撮影。銃後の士気を引締めのため,女子学生も分列行進や小銃射撃訓練をした。1944年以降,徹底した勤労奉仕が求められ,学業を省みる余裕がなくなった。戦争協力について、歴史と伝統ある学校の『校史』は触れない傾向がある。その中にあって、戦時中の活動も明らかにしたことは高く評価できる。
兵庫県立柏原高等女学校沿革
明治35. 5  柏原町立崇廣尋常高等小学校内に女子補習科設置
〃 36. 4  柏原町立柏原女学校設置 12日開校式
〃 41. 4  氷上郡立柏原高等女学校と改称
大正 3. 3  氷上郡立実科高等女学校と改称
〃 11. 4  兵庫県立柏原高等女学校に設立変更
昭和19. 9  学徒勤労動員、尼崎甲陽製作所成松工場へ出動
〃 23. 4  高等学校に昇格 兵庫県立氷上高等学校と改称
〃 23. 9  柏原高等学校と合併


写真右:1942年8月、アメリカ海軍コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇の整備点検をする海軍婦人部隊WAVES;日本の勤労女子学生は、工場、農地などで働いたが、兵器の整備のような専門的な仕事には従事させられなかった。しかし、米国では婦人部隊として、航空輸送搭乗員、航空機整備員などが養成、採用された。Title Women are contributing their skills to the nation's needs by keeping our country's planes in top-notch fighting condition, Corpus Christi, Texas. Wife of a disabled World War I veteran, Mrs. Cora Ann Bowen (left) works as a cowler at the Naval Air Base. Mrs. Eloise J. Ellis is a senior supervisor in the Assembly and Repairs departmentContributor Names Hollem, Howard R., photographer Created / Published 1942 August 米国会図書館Library of Congress Control Number 2017878236引用。

知覧高等女学校教諭の特攻隊遺族への手紙は、次のように述べている。

「沖縄が危うくなって参りました今日、本土の最南端のこの地が基地となりまして、私共生徒をつれて特攻の方々の御世話に参って居たのでございますが、その折前田少尉殿も三月二十八日この地に御着陸なさり、四月三日晴れの御征途に御つきになりました。

出発前日の夜、久し振りで最後の蒲団の上に寝せて頂こうかなとあばら屋に御泊り下さいました。ここの[知覧]基地は、野戦そのもので、安全で空襲よけの三角兵舎の実に粗末な所なのです。私共神様のお泊り下さるとの事、何のおもてなしも出来ませんでしたが、真心で御満足願う事でした。

----もう最後だという時、父を呼んだが何も知らぬ父を見て、だんだん老いゆく父を見て、自分は特攻隊でゆくのだという事はどうしても言う事が出来なかった。風呂に入って背をこすって上げ乍ら、やせた肩を見ては口に出して云えるものではなかった。然し今頃は遺品が帰ってくるから、それと悟っていてくれる事だろう等云って御写真等拝見させて頂きました。

又部下思いで、俺は嫁等貰おうとはしなかったが、部下の者には一週間ずつの暇をあたえて嫁探しに帰らせたよ等、面白い中にも情のこもった事をおっしゃる方でした。----

一つ一つの御話しを聞いて居りますと、ほんとに神様の御心に自分も仲間入りさせて頂ける位な有難い感じが致しました。明日はやるぞ、午後六時頃だ、一機一艦轟沈だ。轟沈させた途端はドンピシャリ太平洋の鱶の餌だ。明後日頃の魚は少し人間臭いぞ等淡々たるものでした。六時が来たら線香でも灯して下さいと云って出てゆかれましたが、ほんとになんと御答えの言葉も見つかりませんでした。 ----

知覧高女なでしこ会編(1979)『群青−知覧特攻機地より』高城書房出版 のまえがきは,戦後50年のものだが,永崎(前田)笙子は,次のように書いている。
「私たちの手記を公開することにつきましては,ためらいがありました。文章も幼なく,正しい判断力も持ち合わせていない14,15歳の少女の雑記ですし。また異常な雰囲気の中で感傷を断片的に綴ったものですから-----。でも,あの時のことは,いつかは何らかの形で知っていただかなければならないとは思っていました。-----本書は還らざる方々の魂の証と,ささやかながら私たちの心の軌跡をまとめたものです。特攻隊に関する本は少なからず出版されていますが,数ある太平洋戦争史の大河の流れの一しずくとして,心ある方がもしひろいあげてくださるならば,これにこした喜びはございません。」

「俺は、君のためにこそ死ににいく」公式サイトは、一式戦闘機編隊が飛翔する勇壮なCGが第一の見所である。「男たちの大和」公式サイトは、登録すると階級章をくれたが、「俺は---」では、女子が公式ブログを毎日更新してくれる。
 2007年4月6日帝国ホテルでの映画製作発表会見では、製作・脚本の石原慎太郎、新城卓監督、出演者など総勢14名が登壇。「会見は特攻服をまとった特攻兵が、両親と鳥濱トメさんに宛てた遺書を読み上げ、その後特攻兵たちが退場すると、緞帳が桜の紙吹雪とともに開き、登壇者が現われるという凝った演出。実際に生前の鳥濱トメさんから話を聞き、8年前に本作を企画したという石原都知事は『平和であるということは素晴らしいことだが、その長い平和の中で失われつつあるものがある。今回は現代において希薄になりがちな受け継がれなくてはいけないものを取り戻すために、本作の製作に取りかかりました』とコメント。」という。(石原都知事プロデュース「俺は、君のためにこそ死ににいく」会見(エイガ.コム)引用)

新品の特攻服をまとった役者演出付きの華やかな映画作成発表会、この1ヶ月前、台湾四大新聞の一つ中國時報に、次の記事が出た。
石原慎太郎新電影 美化「神風特攻隊」2007-03-01 中國時報:黃菁菁/東京二月廿七日電(中國時報 2007.03.01)
石原新电影引争议 神风特攻队英勇赴死?美麗誤解(2007-03-01)中國時報

水口文乃 (2007)『知覧からの手紙』結婚直前に知覧に派遣された穴沢利夫少尉から、婚約者の伊達智恵子さんへ手紙を収録。「智恵子 会いたい、話したい、無性に」これは,知覧高女なでしこ隊の勤労奉仕女子学生に密かに託され,婚約者の手元に届いた手紙であり,公式発表された「遺書」や最後の言葉とは,異なる側面を持っている。

日中戦争(アジア・太平洋戦争)に従軍体験を持つ男のホームページ:私の特攻論には、次のようにある。
「(公表を前提とした軍の検閲を通した)どの遺書も多少の例外はあるものの、だいたいパターンがきまっている。まず最初に『天皇陛下万歳!』とか『皇国のために良き死処を得たるは無上の光栄』とか『敵艦を見事撃沈してみせます』といった、特攻隊員としての『大義名分』や『抱負』に基づく文句をつらねている。そして、そのあとに『父上様、母上様、今まで育てていただいたご恩義になんら報いることなく、先立つ不幸をお許しください』とか『いつまでも御身大切に、自分の分まで長生きして下さい』といった、肉親を思う切なる情が述べられているのだ。
いま死ぬのはいやだとか、特攻隊に志願して後悔しているとか、自分を特攻隊員に指名した上官を恨むなんてことを書いた遺書は一つもない。それはなぜか。肉親といえども今更自分の本音を明かしたくないという『男の見栄と意地』があったからではないか。それに出撃後、遺書はすべて上官に検閲されることが分かり切っていたから、下手なことを書いて、遺族に迷惑をかけたくないという思惑もあったろう。
 もと知覧町立図書館長だった村永薫氏は編著『知覧特別攻撃隊』の中で『検閲を受ける軍隊の手紙や遺言は、真実が記されているはずもなく、なかには強制されて書いたのもあるかも知れないなどと思うことはおろかなことです。死を覚悟した勇士が、何で検閲をおそれましょう。死を前にして心情を吐露したいからこそ遺言を書き、辞世の歌をよんだのです』などと言っているが、私はこういう皮相な見解に賛成できない。
 遺書を書いたのはなにも特攻隊員だけではないのだ。私は支那派遣軍の歩兵部隊にいた時、初陣であるいのちがけの作戦に出る前に、上官の命令で遺書を書かされたことがある。これは人事係准尉が検閲することが分かっていたので、やはり特攻隊員の遺書と大同小異のことしか書けなかった。こうして兵士が前線で書いた遺書は、可能な限り部隊から出身市町村の役場に送られ、そこで厳重に保管した上、もしも遺言の主が戦死した場合、その遺書を戦死公報に添えて遺族に手渡すという仕組みになっていたのである。
戦後になってから、私は寝屋川市史の編纂にたずさわったのだが、もと兵事係だった吏員が、いまだにこの種の遺書をたくさん抱えているのを見掛けたことがある。」

「戦後になってから、島浜トメさんや知覧高女の生徒たちは、自分が目撃し接触した特攻隊員やその家族の言動を証言したり、記録に残したりしている。こうしたところからも、特攻隊員とその家族の悲愁と苦悩と、彼らをむざむざ死地に追いやった指揮官らの非情さがありありと浮かび上がってくるのである。」(浪速の詩人工房九州センチメンタルジャーニー「私の特攻論」引用終わり)

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17);僚艦の正規空母「エセックス」USS Essex (CV-9)の 飛行機甲板に並ぶF4Uコルセア艦上戦闘機越しに撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。
Title:USS Bunker Hill (CV-17) Description:Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945. Columns of smoke rise from the aircraft carrier after being hit by two kamikaze planes, as seen from USS Essex (CV-9). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2014/5/8).
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-373789: Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945 引用。


アメリカ海軍正規空母「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9) は、エセックス級航空母艦4番艦で、太平洋戦争では1944年6月のマリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)、10月のレイテ沖海戦、1945年4月の沖縄戦に参加した。

1945年5月11日、アメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17)は、1945年5月11日の沖縄侵攻を支援していた最中、日本軍特攻機が2機突入し、飛行甲板に大損傷を受けた。これは、日本海軍零式艦上戦闘機(250キロ爆弾搭載)による爆撃と体当たりで、火災が発生したために、黒煙を上げた。しかし、機関は保持されていたために、自力で航行し後退することができた。この損害は、戦死346名、行方不明43名、負傷者264名の大きなものだった。

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17) ;飛行機格納庫より損壊したエレベーターを撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。
Title:USS Bunker Hill (CV-17)
Caption:Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945. Columns of smoke rise from the aircraft carrier after being hit by two kamikaze planes, as seen from USS Essex (CV-9). Destroyer alongside is USS Charles S. Sperry (DD 697). Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2014/5/8).
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-373792: Operation Ten-Go, USS Bunker Hill (CV-17), May 11, 1945 引用。


アメリカ海軍空母「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill (CV-17))の諸元
基準排水量2万7,100トン
満載排水量3万6,380トン
全長 水線長820 ft、全長872 ft
全幅 水線長93 ft、全幅147 ft 6 in
吃水 満載:34 ft 2 in
機関 ボイラー8基15万hp、蒸気タービン4基4軸推進
最高速力 33ノット
航続距離 20,000マイル(15ノット)
乗員 士官、兵員 2,600名
兵装 連装38口径5インチ砲4基
単装38口径5インチ砲4基
56口径ボフォース40mm4連装機関砲8基32門
単装78口径エリコン20mm機関砲46門
搭載機 90 - 100機

写真(右):1945年5月11日、沖縄、特攻機が命中したアメリカ海軍正規空母「バンカーヒル」USS Bunker Hill (CV-17) ;飛行甲板前方より撮影。1945年5月11日,2機の特攻機の命中を受けた。米軍でも軍艦の被害については、資料が整備され、民間商船についてもwebで被害状況が概観できる。
Title:USS Bunker Hill (CV-17)
Description:Aircraft wreckage on the flight deck, after most fires were out following hits by two Kamikazes off Okinawa, 11 May 1945. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #:80-G-259904
写真はNaval History and Heritage Command: 80-G-259904 USS Bunker Hill (CV-17) 引用。


空母「バンカーヒル」はウルシー基地で応急修理をした後、真珠湾経由でワシントン州ブレマートン基地に帰還し、損傷修理に当たった。 特攻によって大破した空母「バンカーヒル」は、終戦までに修理が終わらなかった。戦後は、海外のアメリカ兵を本土に帰還させる「マジック・カーペット作戦」に投入された。1966年11月1日に退役・除籍となり、1973年にスクラップとして売却、解体された。


4.知覧基地で、特攻隊員たちを世話をする知覧高等女学校の勤労女学生は、決して例外ではない。広島県呉第一高女の勤労女学生たちは、人間魚雷「回天」の特攻隊員たちと接し、血染めの鉢巻を贈った。


郡山高等女学校での生徒訓練運動の風景(大正13年頃):
(1923年には、このような鍛錬が高女でも行われた。大和郡山市秘書広報課情報サービス係作成。

<高等女学校(wikipedia引用)>
1872年(明治5年)公布の学制では、官立女学校の入学資格は「小学校卒業の女子で年齢14歳以上」の者で、修業年限は6年である。1883年(明治15年)、東京女子師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)が開校し、「高女」が制度化された。付属高等女学校の修業年限は下等3年、上等2年と定めた。入学資格は「小学校6年次の修了以上の学力がある者」と規定され、男子の旧制中学に相当する教育機関となった。

1891年「中学校令」改正によって、高等女学校は尋常中学校とされた。1895年に「高等女学校規程」で、修業年限を6年、入学資格を「修業年限4年の尋常小学校を卒業した者」と定めた。高等女学校には、女子固有の科目として裁縫など家政を学ぶ「技芸専修科」の設置を認めた。


写真(上左):新発田高等女学校の校舎写真(上右):岩船郡立村上実科高等女学校裁縫室;2枚とも新潟県立歴史博物館笹川勇吉氏旧蔵絵はがきコレクション引用。

「高等女学校令」は、1908年改定で、修業年限を4-5年、入学資格を12歳以上、尋常小学校卒とした。これで、旧制中学と同等の制度となった。修了後の課程として「専攻科」「補習科」が設置され、高等学校(大学予科)に相当する教育機関となった。1911年「実科」を設置し、実科高等女学校は、尋常小学校卒対象で4年、高等小学校1年次修了で3年、同2年次修了で2年とした。1920年、高等女学校令の改定で、道府県に限定されていた公立の高等女学校の設置権限を、市町村学校組合においても許可した。

1943年「中等学校令」公布とともに「高等女学校規程」が制定。修業年限は4年を上限とし、「補習科」課程の廃止、国民学校高等科卒を入学資格とする2年制の高等女学校の設置、「実科高女」の名称廃止のうえ高女に一本化。戦時勤労動員・国家総動員への順応が進んだ。(wikipedia引用)

写真(右):伊53潜で出撃する「回天」多聞隊;1945年7月14日に発進した伊53潜には7月24日米駆逐艦「アンダーヒル」を体当たり撃沈した勝山淳中尉(海兵73期)も乗艦している。これら隊員たちの締めた鉢巻が,勤労女子学徒の手になる「血染めの鉢巻」と思われる。

人間魚雷「回天」搭乗員の勝山少佐は、大津島で通信隊の担当。呉へ出かけた時に,呉第一高女の女学生が血書で「日の丸」を書いた鉢巻と写真を、大津島回天隊の海兵同期全員に貰ってきてくれた。

勝山淳海軍少佐に贈られた血染の鉢巻は,「回天」の部品製造にあった呉第一高女生たちが作った。勤労動員された女学生たちは、呉海軍工廠水雷部操舵機工場で働いていた。その体験談が載っている。

「マルロク(回天)の仕事にも大分なれたころ、五人の中のだれの発案だったのか、ある案が示されたのです。みんな賛成して次の日曜日にTさんの家に集まってそのことを実行しました。そのある案とは、本当に純粋な乙女の願いとして、回天の突撃が成功しますようにと血染めの鉢巻を作ることでした。
物資の統制下のこととて新しい布はなく、私は母に昔の着物の袖裏の白いもみの布をもらい、それで丁寧に鉢巻を縫いました。鉢巻の中心に日の丸を血で染めました。自分で自分の小指を剃刀で切って、したたり出た血で丸く布を染めて日の丸にしたのです。
自分の血で染めた鉢巻は、自分が調整した操舵機を操縦して出撃する搭乗員にしめてもらうように指導員を通じて送りました。
」(引用終わり)

人間魚雷「回天」操舵工場に勤労動員されていた呉第一高女の学生たちから「回天」搭乗員に贈られた血染めの鉢巻:受け取った峯眞佐雄氏は,搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に[血染めの鉢巻を]出せなかった」。大切に保管されていた血染めの鉢巻が,2002年に、回天記念館に寄贈された。

保存されていた血染の鉢巻の寄書
峯少尉 「日の丸」赤心 祈御成功
広島県呉第一高女 四年い組
見もやせぬ君のみすがた 目にうかべ 神々しさに頭さがりぬ  紀美子
一発必中  泰子
萬朶の花と咲き咲かん  典子
轟沈  登美子
生ける志るしあり  芳恵
誠心  千代子
萬古仰天皇  和子
昭和二十年一月二十一日
呉海軍工廠水雷部 縦舵機工場調整班 動員学徒佐光登美子


平成16年9月2日中國新聞に記載された血染の鉢巻の保存の経緯は,次のとおり。
体当たりで敵艦を攻撃した人間魚雷「回天」に乗り込む寸前に終戦を迎えた、千葉県本埜村の峯眞佐雄さん(80歳)が、当時の女学生から受け取った血染めの鉢巻きを、周南市大津島の回天記念館に寄贈した。

峯さんは1945年8月、出撃を控えて千葉県大原町に移動。しかし、搭乗予定の回天が輸送中に潜水艦の雷撃を受け、そのまま終戦を迎えた。鉢巻きは半紙に包み、海軍時代の書類などともに机の引き出しに保存。家族にも打ち明けなかったという。「生き残っているのが申し訳ない気がして、人前に出せなかった」。

峯さんは毎年11月、回天の遺族らが大津島で開く慰霊祭に参列。偶然、鉢巻きが話題になり、遺族からも寄贈を勧められて「当時の状況を考えてもらえるなら」と決めた。長男の会社員峯一央さん(48)から鉢巻きを受け取った、記念館の小川宣館長(74)は「多くの人を巻き込んだ戦争だったことを示す証拠。大切に展示したい」と話している。(引用終わり)


ポスター(上):1942-45年の米国の女性動員ポスター:女性の戦争協力は,日本だけではない。アメリカでも,多数の女性労働者,婦人部隊が動員された。米国航空機生産計画によると,生産数は1957機(前月実数1811機)で,これは英国の生産数1688機,カナダの生産数98機を上回る。外国への供与予定機数は,ロシア275機,オーストラリア106機,インド40機。米国会図書館引用。


1944年に米国は,14万機の航空機を製造。航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。日本で学徒勤労動員された女子と間接的に殺しあうことになった。双方とも祖国,家族を守ることを大義名分にしていた。

 
写真(右):輸送艦「ネソーバ」NESHOBA APA 216(排水量14,833t)乗員のSwede Larson-Ray Allen(写真左)とWavrin-Ray Allen-Sullivan-Klein-Reiger(写真右)
;特攻機が撃沈しようとした米軍艦船の乗員も若者である。轟沈の響きの中で、米国人の命も失われる。特攻隊員や特攻兵器生産に従事した勤労学徒は、このような米国の若者の命を奪いたかったわけではないであろう。相手への憎しみがあったのか。なぜ、日米の若者が、殺しあうことになったのか。
輸送艦「ネショーバ」は速力18ノット、貨物積載量2,900 tの大型輸送艦で1945年4月沖縄攻略に参加。グアム、真珠湾、グアム、沖縄、サイパンと輸送任務に従事。サンフランシスコに帰還後、日本占領軍を東京湾に運んだ。NESHOBA PICTURES FROM RAY ALLEN( Amphibious Forces of WWIIより許可を得て写真掲載)


故勝山淳海軍少佐「最後の書簡」 
 拝啓、御両親様はじめ皆様益々御元気に御過しの事と拝察致し居り候。
降て不肖淳相変らず頑健、一意専心本務に邁進致し居り候間、御休心遊ばされ度く候。
戦局正に逼迫、真に神国興廃の決す秋、不肖、唯不撓の精神、旺盛なる体力、体得せる技を以って醜敵を撃滅致し、大御心を安んじ奉らんと期し居り候。右取急ぎ一筆相認め候。
末筆乍ら皆様の御健康を祈り上げ候。
                   敬具
                   淳拝

5.特攻作戦の背景には、1943年6月の「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定に基づく徴兵、さらに学生を労働力として集める勤労動員など、総力戦の下で、学生たちが戦争協力する姿、させられる姿があった。学生たちには、祖国の危機に馳せ参じる気概と苦悩・悲哀が共にあった。

1943年6月の学徒動員
学徒動員は、1943年に行われた大学・専門学校・師範学校の文系学生を対象とした徴兵である。従来は,大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校の文科系学生が徴兵を猶予されていたが,これは高度の専門性を有するエリートとして自他共に認められた存在だったからである。

米国では大学進学率が高かったが,日本の大学進学率は,同年齢人口の5%程度と少ない。したがって,米国が即座に学徒動員をしたのに日本は遅れてたという批判は当たらない。


写真:1943年4月、松江高校の鳥飼欣一。宍道湖畔にて撮影。

しかし,戦局の悪化に伴って,徴兵猶予者に対する批判が,農村や都市庶民から生まれた。戦意向上,総力戦体制強化、挙国一致を図るために,東条内閣は,学徒動員を決意する。

1943年(昭和18年)6月 「学徒戦時動員体制確立要綱」閣議決定。在学徴集延期臨時特例を公布し、それまで兵員徴集を免除されていた学生を召集。

陸海軍に入隊した学生は、陸軍甲種・乙種幹部候補生や、海軍予備学生・海軍予備生徒として、不足していた下士官や下級将校の充足に当てられた。そして,全国で開催された文部省主催「学徒出陣式」が開催された。

実は,学徒動員の対象は,当初は文系学生のみで,理科系学生は、兵器開発など、戦争継続に不可欠とされ徴兵されなかった。しかし,理科系学生も徴兵猶予が停止され,航空関係の学科の徴兵猶予だけが残った。

学徒戦時動員体制確立要綱 1943年6月25日 閣議決定
第一 方針
 大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育練成内容ノ一環トシテ 学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ 学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ 之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス

第二 要領
 一 有事即応態勢ノ確立
  学徒ヲシテ将来ノ軍務ニ備へ国防能力増強ヲ図ラシムルト共ニ 必要ニ当リテハ直接国土防衛ニ全面的ニ協力セシムルモノトシ之ガ為 概ネ左記各項ノ方途ヲ講ズ
 (一)学校報国団ノ隊組織ヲ直チニ国土防衛ニ有効ニ動員シ得ル如ク強化ス
 (二)「戦時学徒体育訓練実施要綱」ニ基ク体育訓練ヲ強化シ特ニ大学、高等専門学校、中等学校第三学年程度以上ノ男子学徒ニ付戦技訓練ヲ徹底ス
 (三)前項ノ学徒ニ付航空、海洋、機甲、馬事、通信等ノ特技訓練ノ強化ヲ図ル為学徒ノ適性登録制度ヲ確立シ本人ノ適性ニ従ヒ特技訓練ヲ実施ス
 (四)基本訓練種目、戦技訓練種目及特技訓練種目ニ付中等学校ヨリ大学ニ至ル訓練教程ヲ総合的且各学校ノ段階ニ適応スル如ク制定シ以テ訓練ノ適正ト徹底ヲ図ル
 (五)学徒全員ニ対スル防空訓練ヲ徹底スルト共ニ防空勤務補助員トシテノ訓練ヲ強化スルモノトシ特ニ特技隊及特別警備隊トシテノ訓練ヲ強化ス
 (六)中等学校以上ノ女子学徒ニ対シ看護其ノ他保健衛生ニ関スル訓練ヲ強化シ必要ニ際シ戦時救護ニ従事セシメルモノトシ之ガ為必要ナル施設ヲ整備ス

学徒戦時動員体制確立要綱(2) 1943年6月25日 閣議決定
二 勤労動員ノ強化
 学徒ヲシテ挺身国家緊要ノ業務ニ従事セシメ 其ノ心身ノ錬成ヲ全カラシムモノトシ 左記各項ニ依リ 食糧増産、国防施設建設、緊要物資生産、輸送力増強等ニ其ノ重点ヲ指向シ之ガ積極強力ナル動員ヲ図ル
 (一) 勤労動員ハ国民動員ノ要請ニ即応シ 学校ノ種類程度ニ応ズル作業種目ノ適正ナル選択ニ依リ 作業効率ノ向上、作業量ノ増嵩ヲ図ル
 (二)勤労動員ノ期間ハ学校ノ種類程度ト作業種目ヲ勘案ノ上国家ノ要請ニ即応セシム
 (三)作業ト学校トノ臨時且分散的ナル関係ヲ可及的改メ力メテ 之ヲ常時且集注的ナラシム
 (四)勤労作業ノ対象タル事業ノ管理者ニ対シ 学徒勤労作業ノ意義ヲ徹底セシムルト共ニ 学徒ニ対シ事業ノ性質ヲ十分理解セシメ 尚学校当事者ト事業管理者トノ緊密ナル連繋ニ依リ 作業場ニ於ケル学徒ノ取扱ヲ一層適正ナラシム
 (五)員数及期間ガ相当多数且長期ニ亘ル学徒ノ動員ニ付テハ 学校移駐ノ考ヘ方等ニ依リ之ヲ実施セシム
 (六)学徒ノ養護ニ一層周到ナル注意ヲ払ヒ作業ノ種類性質ニ即応スル学徒ノ配置ヲ行ヒ作業ニ因ル傷痍其ノ他ノ事故ノ予防救護ニ遺憾ナカラシム

(七)食糧増産作業ニ付テハ食糧増産応急対策(閣議決定)ニ即応シ従来実施シ来レル農科応援作業等ヲ強化スルノ外左記各項ノ方途ヲ講ズ
   (イ) 耕作廃止畑、伐戈跡地、河川敷、工場建業予定地等空閑地ニ付 極力学校直営ノ学校報国農場ヲ創設セシメ 米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシム
   (ロ) 既設ノ学校報国農場其ノ他ノ付属農園ニ付テハ米、麦、大豆、馬鈴薯、甘藷等ヲ栽培セシメ学校附属ノ農業実習地及一般学校用地ニ付テモ主要食糧及雑穀ヲ栽培セシム
   (ハ) 収穫物ノ運搬、害虫駆除、除草、緑肥刈取等ニ付学校ノ種類、程度、所在地等ヲ勘案シ特定ノ学校ヲシテ可及的一定地域ノ作業ヲ担当セシメ以テ学校ト作業地トノ緊結ヲ図ル
   (二) 可耕荒廃地、開墾可能地ノ簡易開墾、湿地埋立、排水施設ノ整備、耕地整理、牧野改良等ニ付テハ一校又ハ数校ヲ特定シテ力メテ一貫作業ヲ目途トシテ之ガ完成ニ協力セシム
(八)各種ノ工場事業場等ニ於ケル勤労動員ニ付テハ特ニ左記各項ヲ考慮シ之ガ実効ヲ収メシム
  (イ)学校ノ種類、程度及土地ノ情況ヲ勘案シ適当ナル計画ヲ得タル場合ハ通年常時循環シテ計画的ニ一定要員ヲ出動セシム
  (ロ)学徒ノ専門技能ハ力メテ之ヲ活用ス
  (ハ)学校ノ実習場等ニ於テモ工場ト連繋ヲ密ニシ其ノ委託作業ニ従事セシム
(九)女子ニ在リテハ前各項ニ依ルノ外 特ニ中等学校以上ノ学校ニ付 工場地域、農村等ニ簡易又ハ季節的幼稚園保育所及共同炊事場ヲ設置セシメ 又ハ他ノ経営スル斯種施設ニ於テ保育等ニ従事セシム

第三 措置
一、学徒動員ノ運営ヲ適正ナラシメ且其ノ効率ノ向上ヲ図ル為文部省ハ学徒動員ニ関スル機構ヲ整備スルト共ニ関係ノ各庁及諸団体ノ連絡協議会ヲ設置ス
二、学校報国団中央及地方本部ノ組織及機能ノ整備強化ヲ図ル
三、本件実施ニ要スル経費ニ付テハ既ニ成立セル予算ノ活用ヲ図ルノ外要スレバ必要ナル予算的措置ヲ講ズ


写真(上):聖心女子学院生徒による薙刀と木刀の鍛錬および射撃訓練:武道・軍事訓練が奨励され、女子の戦意高揚が図られた。日本軍は女子婦人部隊を組織しなかった。「ひめゆり部隊」といえば、軍に服する婦人部隊(郷土防衛義勇軍)あるいは軍属を意味する。そこで、沖縄戦の高等女学校の生徒による看護奉仕は、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる。<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のとき引用。十六七歳の高等女学校の生徒ですら、小銃射撃など軍事訓練が強化される状況で、二十歳の男子大学生が徴兵を猶予され、銃後で勉強を続けることができた。これは差別待遇であると、徴兵される庶民の怨嗟の声なき声もあった。
1943年6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定され、文系大学生の徴兵猶予の取り消し、「学徒動員」(狭い意味で)が行われた。


出陣学徒壮行会
1943年10月、学徒動員が決定し、徴兵選抜を猶予されていた大学生が徴兵される。「出陣学徒壮行会」が全国各地で開催。1943年10月21日の明治神宮外苑競技場における文部省・学校報国団本部主催関東地区壮行会が有名である。入隊予定学徒・見送りの女学生など7万人が集まり、雨の会場で分列行進が行われた。
出陣学徒代表の東京大学文学部江橋慎四郎は、東条英機首相の激励に、次のような答辞を述べた。

「生等今や見敵必殺の銃剣を掲げ積年忍苦の精神研鑚を挙げて悉、此の光栄ある重任に奉げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず」

「海ゆかば」「ああくれないの血は燃ゆる」合唱の中、学徒はそのまま鉄道で入営先に向かった。学徒代表の江橋慎四郎は生き残り、東京大学教育部教授になった。

壮行会に出席していた慶応大学の上原良治の遺稿は、『きけわだつみの声』の頭に掲載されている。彼は、軍国主義・全体主義に抵抗して自由主義の勝利を主張した。

自由の勝利は明白なことだと思います。----人間の本性たる自由を滅ぼす事は絶対に出来なく、たとえそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つということは、クローチェも言っているごとく真理であると思います。」
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。---真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態には追い込まれなかったと思います。
「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言ったことは確かです。一器械である吾人には何も言う権利もありませんが、--ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
「明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。---後姿はさみしいですが、心中満足でいっぱいです。」

上原良治は1945年5月11日戦死、戦果不詳。

1943年、旧制小樽高商を繰り上げ卒業し、一旦は民間企業に就職が決定していた菊水雷桜隊の栗村正教少尉[永末千里サイト]も、海軍の特攻隊としてこの時期に出撃、戦死している。栗村正教は1943年9月三重航空隊に仮入隊、同年10月4日入隊式が執り行われ「第十三期飛行専修予備学生」(予科練)として厳しい訓練に励むことになった。その後、無事訓練を終え、1944年夏に帰省を許され、家族と最後の別れの時間を過ごした。この時の様子を実妹の千恵子さんが追悼集に書き記している。

●家族との別れ
 家族は皆、帰省した理由を「最後の別れに帰された。」という一言で、分かりきる程分っていた。それでも会えた事は、うれしかった。会えた喜びと、もう飛び立って行くのだという悲しみと淋しさが微妙にからみ合って、いいようのない複雑な心境であった。 皆、表面で笑って、心で泣いていたのかも知れない。
 その後は、母の手料理で、郷里の家で過した。一夜語りつくしたのかも知れない。何時に休んだのかも覚えていない。ほんとうに限られた貴重な夜だったのである。
 母が後になって、ぽつり、ぽつりと話してくれた事だが、正教さんはその夜、母にきっぱりと言ったそうだ。
 「この戦争は、どんな事をしても、もう勝つ見込みはないんです。それでも僕は、行かねばならないんです。」
(引用終わり)

6.兵士としての学徒動員と並んで、銃後の兵器生産、資源節約、食糧増産などを目的とした学徒動員も行われた。戦争は、前線だけでなく、後方、銃後でも戦われた。総力戦では、軍民が総動員される。特攻隊員や前線の将兵だけではなく、勤労学徒、勤労女子学生も戦争をしていた。1943年、太平洋上、中国戦線だけではなく、日本本土でも戦争は戦われていた。


写真(左):聖心女子学院生徒による担架競技:空襲や戦場で負傷者出た場合に備えて、担架で搬送訓練をする。

<小林聖心女子学院50年史>[?]試練のときには次のようにある。「マザー・シェルドンをはじめとする多くの連合国側国籍の修道女にとっては、受難の時代が始まろうとしていた。日本を愛し、日本の子どもたちのために 献身的に働きながら、ただその国籍---だけの理由で、大きな迫害をこうむらねばならなかった---

1938年には国家総動員法が制定された。国ぐるみの戦争突入である。つづいて1939年には国民徴用令が実施され---1941年3月、臨戦体制は教育の場にも踏み込んできた。「国民学校令」によって小学校が国民学校と名を変えるとともに、教科ならびに教科書にも根本的な改革が行なわれた。----軍国主義の強調、国家主義思想の涵養を目的としたものである。

聖心会の「キリスト教的な人間観に基づく」全人的な教育も、いまや危機にさらされつつあった。加えて、外国人排斥の風潮は必然的に強まり、外国の宗教とみなされたキリスト教は反皇道スパイの嫌疑をかけられ、軍部の弾圧が始まった。学院の特色のひとつである英語も課外随意課目として後退させられ、かわって園芸その他の勤労奉仕が課されるようになった。」


写真:1944年4月松江高校の理科5組の鳥飼欣一。

緊急学徒勤労動員方策要網 1944年1月18日 閣議決定

 第一 方針
学徒勤労動員ニ関シテハ先ニ決定セル「学徒戦時動員体制確立要綱」及「教育ニ関スル戦時非常措置方策」ノ趣旨ヲ更ニ徹底シ勤労即教育ノ本旨ニ徴シ総合的且計画的ナル学徒勤労動員ヲ強力ニ実施シ戦力増強ニ挺身セシムルト共ニ戦局ノ現段階ニ処スベキ学徒ノ教育錬成ヲ完カラシムルモノトス

第二 要領
 一、動員学徒ヲ勤労セシムベキ工場事業場ヲ特定シ通勤距離、学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別等ヲ考慮シ学校ト工場事業場トヲ緊結シ其ノ特定部署ニ対シ通年恒常循環的ニ学徒ヲ動員スル如ク計画ヲ樹立スルコト
 二、学徒ノ動員ハ学校ヲ基本トスル団体組織ニ依ルモノトシ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ之ヲ組織スルコト
 三、学徒ノ従事スベキ工場事業場ニ於ケル作業ハ学校又ハ学科ノ種類、学徒ノ年齢及性別ヲ勘案シテ之ヲ適正ナラシムルコト
 四、同一学徒ヲ勤労ニ動員スル期間ハ 差当リ一年ニ付概ネ四ケ月ヲ標準トシ 且継続シテ之ヲ行フヲ立前トスルコト
  尚学校又ハ学科ノ種類ニ依リテハ其ノ期間ヲ更ニ長期ナラシムルコトヲ考慮スルコト
 五、状況ニ依リ 工場事業場ヲシテ学校ノ校地、校舎内ニ設備ヲ講ジ 又ハ材料ヲ供給セシメ 学校内ニ於テ学徒ヲシテ生産ニ従事セシムルコトニ付テモ 方途ヲ講ズルコト
 六、前各項ノ外 学徒ノ動員ニ関シテハ「学徒戦時動員体制確立要綱」(昭和十八年六月二十五日閣議決定)ニ依ルコト
 七、特ニ学徒動員ノ運営ヲ円滑ニシ 且其ノ教育実践ノ完璧ヲ期スル為 文部省(又ハ地方長官)ノ推薦ニ係ル)教職員又ハ関係官吏ヲシテ軍需監理官又ハ労務監理官ヲ兼任セシムルト共ニ 関係工場事業場ニ学徒専門ノ勤労係員ヲ設置セシメ 之ヲ文部省(又ハ地方庁)ノ嘱託トシ 工場事業場ニ於ケル学徒勤労管理ノ徹底的刷新ヲ図ルコト
 八、学徒動員ノ方法其ノ他必要ナル事項ニ付更ニ国家総動員法ニ基キ法的措置ヲ講ズルコト
 九、学徒勤労管理関係者ノ識見向上ノ為 速ニ講習其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルコト

備考
 一、学徒ニ対シテハ 其ノ動員セラレテ従事シタル工場事業場ノ作業ニ即応シ短期技術教育訓練ヲ実施スルト共ニ 右教育訓練ヲ経タル学校卒業者ノ所遇ノ向上 並ニ資格検定ニ付考慮スルコト
 二、学徒勤労ニ対スル報酬方法ニ関シ別途考究スルモノトスルコト


1942年10月,A-20攻撃機のリベットを打つ女子労働者。賃金を支払われるので,勤労奉仕ボランティアではない。ダグラス社(Douglas Aircraft Company)のカリフォルニア州Long Beach工場。
日本の勤労女子学生と同じく、米国でも工場に大量の女子労働者が動員された。日本では、男子工員の補助として働いたが、米国では、偏見をもたれながらも、兵器生産に大いに寄与した。ただし、米国の女子労働者は、日本のような無償奉仕ではなく、賃金を支給された。1944年に米国は,14万機の航空機を製造したが,航空機工場で47万5000人,造船所で50万人もの女性が働いていた。政府は、リベット打ちは金属に刺繍するようなもので,女性に向いた仕事であると考えた。他方、働くことに生きがいを感じ、自分名義の銀行口座に給与を振り込まれたアメリカ女性は、誇らしげに小切手をきった。Title An A-20 bomber being riveted by a woman worker at the Douglas Aircraft Company plant at Long Beach, Calif.Contributor Names Palmer, Alfred T., photographer Created / Published 1942 Oct. 米国会図書館Library of Congress Control Number 2017878920引用。


1939年の米陸軍総兵力は40万人に過ぎなかったが,1939年9月に欧州大戦が勃発すると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要された。そして、ルーズベルト大統領は、現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決めた。

1940年5月、ルーズベルト大統領は、年5万機の航空機を要求した。陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。

1942年1月,1942年中に6万機の航空機を,1943年には12万5000機の航空機と12万以上の戦車を生産することが目標とされた。

米国は大戦で1860億ドルを負担し,次の成果をあげた。戦車86,000台 航空機29万6,000機 銃器1500万丁 弾丸400億発 砲弾400万発 艦載機6400機 商船5400隻 海軍艦船6500隻。

総力戦は、兵器・燃料・食料の生産、世論形成など、後方でも戦われるのであって、前線と銃後の区別はない。裏を返せば、戦場で戦う兵士も、工場で働く勤労女子学生・労働者も、ともに総力戦を戦っている。軍民の区別はない。


写真(上):1944年4月松江高校 自習寮 北二寮の寮生の集合写真。右端が鳥飼欣一。


1944年4月に桜咲く松江高校理科に入学した鳥飼欣一だったが,山根先生の下での勉強は,十分には行えなかったようだ。農村勤労奉仕と称して,学力ではなく,労働力を活用するように迫られる。食糧増産の掛け声の下に,肥料不足,労働力不足の中で,額とも勤労奉仕に動員された。

「学徒勤労動員」

終戦六十周年記念 勤労学徒動員の記 中学三年/四年の体験回顧

「勤労学徒動員の記」沼津中学三年/四年の体験回顧


写真(右):下田高女の学徒;海軍航空技術廠支廠内川分工場にて(1945年4月撮影)ぶらり金沢散歩:楠山永雄著NO.41 ある高等女学校の学徒勤労動員 (2001年8月30日入力)によれば、「昭和19年8月16日、同校の4年生110名は東海バスの下田駅に集合した。見送りの父兄や下級生の前に整列し、『ああ 紅の血は燃える』の合唱に思わずすすり泣く。万歳の声に送られてバスで伊東へ、熱海・大船・逗子を経て金沢八景駅に到着した。そして土埃りの道を約20分、重い荷物と疲れた足を引きずりながら夕暮れ迫る内川橋寮に着いた。
 そこは、現在の関東学院大学キャンパスの場所で、海軍工員養成所内に設けられた女子寮であった。配属先は海軍航空技術廠支廠・雷撃部の内川橋分工場で、旋盤を使って「魚雷」の部品を作る仕事である。錨マークの鉢巻きを締めた15〜6歳の少女たちは、兵器生産の戦士としてひたすら旋盤に向かった。負ける戦争など考えもせず一心に働いたのである。」とある。海軍航空技術廠は従業員が1万人余、航空機やその搭載兵器の研究や試作をした。



写真(左):坊主頭、丸刈りの鳥飼欣一(17歳)
;戦時中の男子学生は、入営する兵士と同じく、丸刈りであり、長髪の学生はいなかった。ただし、軍体内では、長髪が黙認されることもあった。

Links
銃後
「学徒勤労動員」
学徒勤労動員と川崎航空明石工場
戦時下の盛岡中学 浅沼俊典(盛中60期)
京都師範学校 学徒動員の記録
青森県学徒勤労動員抄史
第三章 戦時経済崩壊期の労働統制
薄れゆく戦争の記憶 引き継がれる戦争の記録
学徒動員の前 専門学校(女子大)の4年生の私も動員された。
回天隊員に「血染の鉢巻」を送った広島県立呉第一高女の動員学徒たち
16歳、勤労学徒の戦争
学徒動員(新保氏のアルハ゛ム)
学徒動員で砲台陣地造り
かながわの学徒勤労動員
日詰町立日詰農学校・日詰実科高等女学校
【学徒動員】


写真(右):1944年春,農村に勤労奉仕に動員された松江高校理科の鳥飼欣一

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社

学徒の通年農業動員の強化
1944年9月に決定された「農村労力非常対策要綱」によって学徒の援農活動は画期的に強化された。1945年3月、学徒の授業停止を閣議決定、4月「国民学校児童など中等学校学徒の農繁期作業協力に関する件」、5月「農繁期学徒動員に関する件」と通牒を発し、正規の教育を放棄して青少年を食糧増産の無償労働に動員した。

工場労働者の帰農
 1945年5月18日、「緊急主要食糧等確保労務対策」を決定し、「工場事業場等に於ける農業出身労務者にして農業要員たるべき者」は原則として帰農させる。農業出身労働者だけでなく、前年国民学校をおえて工場等に就労している農家の子弟や農家出身の女子挺身隊員までも帰農させる措置をとった。

1945年5月31日には全国工場従業者の20%削減を目標に整理を行ない、遊離した労働力を農業・燃料・運輸通信の各部門に重点的に移動させることを決めた(「工場従業者整理活用に関する件」次官会議決定)。

6月6日には農業要員の資格のあるなしにかかわらず工場従業員を「一層広汎かつ強力に」帰農させる措置を講じ(「工場従業者の帰農等に関する件」)、工場に動員されていた学徒も農業部面に振りむけられるようになった。

1945年の農村での動員:『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』1964年,編著法政大学大原社会問題研究所,東洋経済新報社


写真(右):1943-1944年,150センチ対空用探照灯(150 cm Flak floodlight)を整備するドイツ空軍女子補助部隊;ドイツの少女も本土防衛のための対空監視部隊に動員され配備に付いた。ドイツ連邦アーカイブ 101I-674-7797-30引用

緊急学徒動員方策要綱 1944年1月8日 閣議決定
1944年2月 「決戦非常措置要綱」閣議決定(学徒の勤労動員は原則通年動員)
1944年3月 決戦非常措置要綱ニ依ル国民学校児童学校給食、空地利用徹底等ニ関スル件
同3月 決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件
同3月「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定(大学・高専の学生生徒と中等学校第 3 学年以上の生徒は継続動員、農学校は食糧増産、国民学校高等科、青年学校普通科、中等学校低学年は随時動員) 


写真(右):1943-1944年,150センチ対空用探照灯(150 cm Flak floodlight)を整備するドイツ空軍女子補助部隊;ドイツの少女も本土防衛のための対空監視部隊に動員され配備に付いた。ドイツ連邦アーカイブ 引用

決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱年  1944年3月7日 閣議決定
決戦ノ現段階ニ即応シ 学徒ノ動員ハ原則トシテ 中等学校程度以上ニ付 今後一年常時之ヲ勤労其ノ他非常任務ニ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置キ 左ノ要領ニ依リ必要ニ応ジ随時活発ナル動員ヲ実施ス

一 学徒ノ勤労動員ハ 其ノ受入体制ヲ整備スルト共ニ 学徒ノ受クル教育ノ種類程度ニ適応セシメ 其ノ効率ヲ発揮スルヲ旨トシ 概ネ左ニ依リ之ヲ実施ス但シ必要ニ応ジ機ニ臨ミ他ノ作業ニ従事セシム

 イ 国民学校高等科(尋常小学校を改名)
  国民学校高等科児童ノ動員ニ付テハ 土地ノ情況、心身ノ発達ヲ考慮シ 適当ナル作業種目ヲ選ビ之ヲ実施ス

 ロ 中等学校
 (一)工業学校生徒ハ概ネ軍関係其ノ他重要工場事業場ニ動員ス
 (二)商業学校ヨリ転換セル工業学校ノ生徒ガ特定工場ニ於テ現地作業ヲ行フ場合又ハ学校ヲ軍需工場化シタル場合ニハ概ネ夫々当該工場又ハ関係工場ニ動員ス
 (三)農業学校生徒ノ動員ハ食糧増産、国防建設事業等ニ重点ヲ指向ス
 (四)中学校、商業学校及高等女学校生徒ノ動員ハ 土地ノ状況、勤労需給ノ情況ヲ勘案シ 糧増産、国防建設事業 又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員ス
    尚女子ノ動員ニ付テハ 可及的学校設備ノ工場化ニ依リ勤労ノ実ヲ挙グル如ク併セ考慮ス

    大都市ニ於ケル中学校、商業学校生徒ハ必要ニ応ジ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス
 (五)特ニ第一、二学年生徒ノ動員ニ付テハ国民学校高等科児童ニ準ズ


写真:1944年4月,鳥飼欣一の在学した松江高等学校理科5組。中央前が山根薫先生,左端が鳥飼欣一。松江高等学校理科の卒業は1945年3月なので,最終学年の記念撮影であろう。

 ハ 大学高等専門諸学校
 (一)理科系学生生徒ニ付テハ左ニ依ル

   工学及理学
  (イ) 工学及理学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ニ関シテハ 第三学年及第二学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ 低学年ノ学生生徒モ 之ヲ動員ス
  (ロ) 現在ノ第三学年ノ学生生徒ハ原則トシテ其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ最モ適当ナル工場事業場等ニ動員シ其ノ技術的指導面ニ活用スル如ク措置ス
   第二学年学生生徒ニ付テモ可及的右ニ準ズ

   医学
  (イ) 医学関係学生生徒ノ実習勤務ハ 第四学年及第三学年ニ重点ヲ置クモ 必要ニ応シ低学年ノ学生生徒モ之ヲ動員ス
  (ロ) 現在第四学年及第三学年ノ学生生徒ハ 軍病院、学校附属病院工場事業場附属病院、其ノ他一般病院等ニ於テ 専ラ実習勤務ニ服セシム
  (ハ) 現在第四学年ノ学生生徒ハ本年七月以降現在第三学年ノ学生生徒ハ明年四月以降夫々軍務其ノ他ノ実務ニ服セシメ得ル様措置ス

       農学
   農学関係ノ学生生徒ノ勤労動員ハ原則トシテ 其ノ履修スル学科ノ種別ニ応シ 其ノ専門ヲ最モ能率的ニ発揮シ得ベキ食糧増産、工場事業場等ニ動員シ特ニ食糧増産作業等ニ付テハ其ノ指導者トシテ活用スル如ク措置ス

 (二)前項以外ノ学生生徒ニ付テハ土地ノ状況、勤労需給ノ情況等ヲ勘案シ食糧増産、国防建設事業又ハ工場事業場(輸送ヲ含ム)等ノ作業ニ動員シ力メテ特能ヲ発揮シ得ル如ク措置ス
   大都市ニ於テハ疎開及防空建設事業ニモ之ヲ動員ス

 (三)教員養成諸学校
  (イ) 工業□□実業学校教員養成所及青年師範学校ノ工業科ノ生徒ニ関シテハ(一)ニ準ズ
  (ロ) 高等師範学校、女子高等師範学校、青年師範学校(前項ノモノヲ除ク)臨時教員養成所、実業学校教員養成所及師範学校ノ生徒ニ関シテハ(二)ニ準ズ
 備考 大学高等専門諸学校理科系学徒ノ動員ニ関シテハ特ニ学校教育ト密接ニ連関セシメ且ツ可及的将来ノ就職配置トモ睨ミ合セ適正ナル計画配置ヲ考慮ス

二 学生生徒ノ勤労動員ハ当該学校ノ教職員ヲ中心トシテ学校ヲ基本トスル隊組織ニ依リ之ヲ行フ
  尚学徒ノ出動ニ際シテハ教職員ヲ多数活発ニ動員シ 其ノ指導監督ニ当ラシム
(松江高校の鳥飼欣一の恩師 山根薫先生も,軍服姿で写真に納まっているが,動員された学徒を指導監督する教職員として,やはり動員された側であった)

三 学校報国隊ノ整備強化ヲ図ル
四 学校校舎ノ軍需工場化ニ付テハ 各種学校 特ニ女子ノ学校ヲ主流シテ急速ニ之ガ具体化ヲ図ル
五 学徒ノ勤労動員ニ際シ速ニ法令上ノ措置ヲ講ズ
六 曜日ヲ変更シ日曜日ニ於テモ授業ヲ為シ得ル如ク法令上ノ措置ヲ講ズ
七 教育関係教職員等ニシテ 軍需監理官又ハ労務官ヲ兼任スル者ニ対シ 速カニ必要ナル錬成ヲ行フ
八 学徒ノ動員ニ関連シ軍幹部、技術要員、科学研究要員タルノ教育錬成トノ調整ヲ図ル
九 学徒ノ防空、防衛等ノ非常任務ニ関シ急速ニ動員体制ヲ一層整備シ之ガ演練ヲ強化実施ス
十 勤労従事中ノ学徒ニ対シテハ 当該作業場ノ勤労者ニ準ジ 食糧其ノ他ノ物資ノ配給ヲ行フ如ク考慮ス


兵庫県立柏原女学校の勤労動員
:兵庫県立柏原高等学校 創立百年記念誌』引用。1944年撮影。校庭を農地に開墾し,農作業に従事したようだ。
兵庫県立柏原高等女学校沿革


1944年7月閣議決定に基づき文部・厚生・軍需3省次官指令「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」(国民学校児童の継続動員、教育訓練時間の停止、1 日10時間の勤務、交替制深夜業の実施)
同8月「学徒勤労令」公布(学徒勤労は学校報国隊の組織をもって実施)
1945年3月 「決戦教育措置要綱」閣議決定(国民学校初等科を除きすべての学校の授業は原則停止全学徒は決戦体制下に総動員)
同5月「戦時教育令」公布(学徒隊の組織編成)
8月 終戦後、学徒勤労動員は解除されたが、食糧増産のための勤労作業はしばらく継続

学徒動員の対象中等学校以上(国民学校高等科を含む)の学生・生徒


「昭和20年2月」住友金属に勤労奉仕した学帽姿の鳥飼欣一(19歳);尼崎 研究部の屋上で撮影。

東京帝大が敗れた日」からみた勤労動員

鳥飼欣一は,1945年3月に松江高等学校理科(5組)を卒業後,1945年4月に東京大学工学部航空原動機科に入学。徴兵猶予される大学の専門学科であり,難関の選抜試験があった。

1945年4月の東京大学工学部航空原動機科入学から4ヶ月,鳥飼欣一は,8月15日の終戦を迎える。19歳の夏であった。

大学の授業は夏休みなし,日曜休みなしに続けられていたので,授業に出席するために大学にいった。しかし,授業を担当すべき教官がいつまでたっても教室に来ない。

明治維新のとき,上野の山に彰義隊が立て篭って政府軍との戦闘になった。そのとき,慶応義塾の福沢諭吉は,平然として授業を続けた。しかし,1945年8月15日の東京大学では,戦火が収まったというのに授業がない。その落差に,今回の敗戦の重大さを感じるとともに,大学と大学教授に少々落胆した。

7.沖縄特攻作戦は、1945年3月から6月まで続く。当初の特攻機は、第一線機が多かったが、次第に機数も減少し、練習機や水上機など低速機や故障機も投入された。特攻隊員への扱いも、次第に粗雑あるいは粗悪になってしまったようだ。

沖縄三十二軍は反撃開始を4月7日とし、その支援のため、戦艦「大和」,軽巡洋艦「矢矧」,駆逐艦8隻からなる第一遊撃隊(伊藤整一中将)は沖縄に 海上特攻をかける。つまり,日本陸・海軍は,航空隊と水上艦隊の共同作戦によって、4月6日・7日と米軍の地上部隊・艦隊に総攻撃を実施した。大和の海上特攻は「一億総特攻のさきがけ」という俗説は、艦隊水兵への説得の意味と、戦後になって海上特攻の無謀さを隠蔽する二つの意味があった。新聞記事、大本営発表でも、戦艦「大和」撃沈は「大和」の名称を使わず、小さな記事で終わっている。知覧高女の勤労奉仕女学生も、海上特攻にまったく気づいていない。こんな「特攻のさきがけ」はありえない。海上特攻は、A HREF="http://www.geocities.jp/torikai007/1945/okinawa-kamikaze.html">菊水一号作戦・第一次航空総攻撃(4月6日〜4月9日)の航空特攻の囮(おとり)であった。

1945年4月6日、日本の連合艦隊は「菊水一号作戦」と称し、大規模な特攻を開始。一部の特攻機は,商船にも特攻した。米国商船の被害一覧によれば、沖縄方面での特攻による商船撃沈・全損は3隻。沖縄戦の米国の損傷商船数は24隻,うち死者が出た船は10隻。


写真(右):陸軍九七式戦闘機(特攻機)
;九七戦は1937年生産開始、1943年生産中止の旧式戦闘機。3300機以上が生産された。エンジン出力(600馬力)を低下させた二式高等練習機も生産された。中古機、練習機として多数が残存していたために,特攻機として多用された。残存していた機体に250キロ爆弾を装備したため、超過重状態となり、2丁装備していた7.7ミリ機銃も取り外したが、時速は300km以下。古い機体には、故障、欠陥も多かったようだ。2000馬力、時速600km以上の米軍戦闘機が、レーダー誘導されて、12.7ミリ機銃6丁をもって迎撃してきたら敵わない。

沖縄戦では、戦艦、空母のような大型艦船よりも、駆逐艦、掃海艇、揚陸艦など小型艦艇への特攻攻撃が多い。これは、沖縄に来航した米軍艦隊が、空母を中核とする任務部隊の周囲を、小型艦艇で幾重にも護衛したため、それをまず発見した特攻機が、攻撃したためである。

また、特攻機パイロットや航法員・偵察員たちの技量は低く、出撃・実線経験もほとんどなかったため、初めて目にした米軍小型艦艇を大型艦艇と見誤って特攻の目標としたとも考えられる。

写真(左):1945年5月27日に鹿児島県万世基地を出撃した陸軍特攻第72振武隊;現在の鹿児島県万世(現在の加治町)飛行場から,1945年5月27日に特攻した少年兵荒木幸雄仔犬を抱いた特攻少年兵」として有名な写真。萬世飛行場から旧式低速中古の九七戦9機の特攻隊として出撃した荒木幸雄(17歳2ヶ月)たち。屈託のない幼さの残る笑顔が印象的。体当たり攻撃を命じられた若者とは思えない。特攻隊員は、祖国,家族を愛する純真な若者である。それでは、佐官クラスの高級将校の特攻隊員はいないのはなぜか。さらに、命を狙われる米軍の若者から見れば、日本の特攻機を操縦し,体当たり攻撃を行う「自爆テロリスト」ということになるのか。それとも,自爆する若者たちが,テロリストではないのか。戦争であれば,軍人でも民間人でも,重要な戦力として,攻撃対象となる。祖国,家族を守るために,敵に打撃を与える必要があれば、攻撃目標は,敵艦艇,輸送船,あるいは金融センター・国防省など敵経済・軍事中枢でもかまわない。効果的な攻撃目標の選定が重要であり、そこに民間人が含まれるかどうかは問題にされなくなってしまう。

1945年5月27日出撃の特攻隊
神風特攻菊水白菊隊:機上作業練習機「白菊」20機:鹿屋発:中尉 川田茂指揮官
陸軍特攻第72振武隊:九七式戦闘機(九七戦:旧式固定脚の低速中古機)9機:万世発:中尉 佐藤睦男指揮官
陸軍特攻第431振武隊:九七戦5機:知覧発:伍長 紺野孝指揮官

1945年5月27日(日曜)沖縄方面の米軍損傷艦船
沈没:駆逐艦 DREXLER (DD-741), 特攻機によるby suicide plane
護衛駆逐艦GILLIGAN (DE-508), 航空魚雷による
高速掃海艦SOUTHARD (DMS-10), 特攻機による
掃海艇GAYETY (AM-239), 水平爆撃による
高速輸送艦LOY (APD-56), 特攻機による
高速輸送艦REDNOUR (APD-102), 特攻機による;排水量 1,400 t.速力23.6 kts. 乗員200名、輸送人員162名、搭載舟艇 4 LCVP上陸用舟艇、搭載物資 6×1/4トントラック, 2× 1トントラック, 4×舟艇, 榴弾砲4門。
輸送艦 SANDOVAL (APA-194), 特攻機による
洋上浮標 PAKANA (ATF-108), 砲撃による
磁気消去艇YDG-10, 特攻機による

8.沖縄への特攻出撃から生還した特攻隊員たちがいた。彼ら特攻隊の帰還者のなかには、第六航空軍の下にある福岡の「振武寮」に収容された若者があった。士気低下を回復あるいは精神不安を治癒し、軍事秘密を明かさないための措置だったと思われる。他方、特攻作戦の司令官や高級将校の多くは、個人的希望はともかく、自ら特攻出撃することなく、若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。戦後、生き残り、ビジネス界・政界で活躍し、祖国復興に尽力することが罪滅ぼしと考えた者もいた。

1945年4月8日、特攻隊が知覧に到着、飛行機の誘導、擬装などで騒然となったが、その様子は、丸木政臣「沖縄無残なり」次のように記されている。

  陸軍の部隊には「命令受領」という形式がある。部隊長が副官を通じて、隷下の各中隊に状勢を分析し、諸要の任務を伝達するもので、各中隊からは指揮班の責任者が本部に受領に集まってくる。知覧の基地では朝8時に基地本部で指令副官の福島中尉が命令伝達をやり、教育隊、警備隊、整備隊、保安隊、工作隊などが伝達をうける。 

8日の命令伝達は異常で、今津司令、中田作戦参謀、福島中尉が顔をそろえ、今津司令から「7日の攻撃において、第二二振武隊5機、第二九振武隊6機、第四四振武隊4機、第四六振武隊5機、第七四振武隊7機、第七五振武隊7機を出撃させたが、この34機のうち不時着3機、エンジン不調で帰還したもの8機をかぞえる。じつに三分の一が攻撃を中断している。
飛行機の不良もあろうが、攻撃隊員の志気の低下もあげなければならない。臆病風にふかれて出撃以前に体の不調をあげつらうものもある状態である。沖縄の防衛のためにわれらの任務がいかに重大であるかを考え、隊員の志気を昂揚するようにつとめてほしい。福岡の第六航軍菅原中将よりも昨夜とくにこの点について注意があったことを伝えておく
」という異例の話があった。 

そういえば出撃にあたって故障する特攻機がふえており、途中から引き返す機も途中から引き返す機もあって、なんとなく沖縄戦の展開と相俟って、特攻作戦そのものにかげりを感じていたところである。そうしたなかでも、4月は出撃がなかった日は5、6日で連日若者たちは死地に赴いた。私の記憶するかぎりとくに16日、28日の総攻撃はすさまじく各50機以上が出撃した。しかし実戦機が不足して、練習機や旧型機にも爆装して出撃する有様で、特攻隊員の中に「あれでは目的地までいきつけない、まるで自殺とおなじじゃないか」と語られていた。 

<特攻隊の帰還者が収容された振武寮>
振武寮は、陸軍第六航空軍司令部におかれた特攻隊員帰還者の収容施設。特攻出撃し帰還した理由は、体当たりしなかったからであるが、これは、敵が発見できないこと、敵地にまで至らなかったことであれば、悪天候、機体の故障であろう。しかし、特攻隊員の士気が低下し、帰還した場合もあったと考えられる。特攻指揮官たちは、これらの生き残り特攻隊員を別途、再教育・精神鍛錬しようと考えたか、あるいは他の特攻隊員・民間人に与える悪影響を抑制しようと考えたようだ。

振武寮に関する公的資料は明らかにされていないが、NHKのETV特集『許されなかった帰還−福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争』(2006年10月21日2200放送)では、収監された元特攻隊員と第六航空軍元参謀の証言が紹介された。 

振武寮の生き残り
私の特攻論:特攻平和館感
許されなかった帰還〜福岡 陸軍振武寮
振武寮の虚構  


写真(左):1945年3月11日、陸上爆撃機「銀河」の菊水部隊梓特攻隊
;鹿児島県鹿屋基地を飛び立ち、ウルシー基地に特攻出撃する第三番隊の高久健一少尉の乗機。海軍の長距離陸上爆撃機だが,雷撃機としても使用された。最高速度560km。爆弾搭載量800kg。24機が出撃。半数が不時着したり,故障で引き返した。


古小路裕によると,特攻出撃は次のようだった。
1945年4月27日、攻撃四〇六飛行隊は出水基地から美保基地に移動して訓練を実施することになった。----5月10日、私はいつものように急降下爆撃の訓練を終えて指揮所で休憩していた。すると、飛行隊長の壱岐少佐が、「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を出して、搭乗割が示された。私たちは単なる飛行機の空輸だと思っていたので、宮崎基地に着陸しても、なんら普段と変わらない気分で指揮所に入った。美保基地へ帰る便はどんな手配になっているのか、それとも今夜はここで一泊することになるのか、などと思いながら待機していた。すると、とんでもない命令が伝達された。 

「翌朝四時に発進し、沖縄周辺の敵艦船に対して『体当たり攻撃』を実施せよ」。との命令である。まさに晴天の霹靂であった。「爆撃せよ」や「雷撃せよ」ならまだしも「体当たり攻撃」を実施せよとの命令である。つまり、「死ね!」という命令である。

「壱岐の奴、俺たちを騙しやがって!」「人の命をなんだと思っているんだ!」「最初からそう言えば、心の準備だってできたのに、 俺たちを信用していないんだ!」「畜生! 今夜限りの命か!」だが、なんと言っても後の祭りである。命令には絶対に服従しなければならない。

 指揮所前で行われた出撃前のセレモニーが終わった出撃隊員は、小型三輪トラックに乗せられそれぞれの飛行機まで送り付けられた。----見ると私たちの飛行機は右エンジンのカバーを外し、大勢の整備員が作業をしている。----修理が手間取ったらしくて、まだ出来上がっていなかった--。これで出撃は不可能となった。私たちペアの三人は、修理が終わるまで仕方なく飛行機のそばで待機した。---この出撃で「第九銀河隊」は8機が出撃し、6機が未帰還となった。(引用終わり)

「特攻自然発生説」が妥当するのであれば、祖国を愛した将軍・大臣、参謀、佐官中堅士官が、特攻死しなかった理由を説明する必要がある。

特攻で戦死した佐官以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐で、彼は人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。
有馬正文少将込んだとされる。しかし,これは神風特攻のはじまる前の時期で,日本軍はその後も一式陸攻による特攻をしたことはない。つまり,有馬少将は決死の覚悟で攻撃を率いたが,特攻とは異なるなる。有馬少将は死後,中将に昇進した。

 志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵から編成された。そこで,予科練(乙種・甲種),予備学生が特攻隊員の大半を占めている。事実上、生前、佐官クラス以上の士官・将官で、自ら特攻した軍人は、日本陸海軍にほとんどいないのである。(「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍はいた。)
軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
----このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避し、若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。この冷徹、無責任な特攻作戦には、軍国主義教育を施し,促進した軍上層部の別の本心が秘められているように見える。

『米国戦略爆撃報告 太平洋戦争方面の作戦』によれば、沖縄戦の損失(1945/04/01-1945/06/30) は、米軍の艦船撃沈は36隻、損傷368隻。航空機喪失合計は763機、内訳は戦闘による損失458機、作戦に伴う事故などの損失305機。
日本軍の航空機喪失合計は 7,830機、内訳は戦闘による損失4,155機、作戦に伴う損失2,655機、地上撃破1,020機。

写真(右):九州飛行機K11W機上作業練習機「白菊」;1945年5月28日、沖縄航空特攻「菊水作戦」琴平水心隊は、零式観測機など水上機を使用した。爆弾なしで最高時速220-370kmの機体は、特攻状態では、150-300kmとなり、米国戦闘機(600km)に襲撃されれば容易く撃墜された。

城山三郎(2001)『指揮官たちの特攻』では,エリート軍人(海軍兵学校[陸軍でいう士官学校]出身者)と学徒兵(予備学生)・少年兵(予科練)の特攻出撃を比較し,練習機「白菊」,水上機による特攻では,兵学校出身者よりも学徒兵・少年兵が圧倒的に多い。

1945年5月24日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃のうち、戦死した搭乗員39名戦死。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、予備学生出身者・予科練出身者35名(うち、17歳4名、16歳1名)。
5月27日の白菊特攻隊;練習機「白菊」20機出撃。戦死者は、海軍兵学校出身者1名、残りは予備学生出身者・予科練出身者(うち17歳3名)。
水上機特攻では、予備学生(学徒兵)出身者42名、予科練(少年兵)出身者38名が死亡している。予科練出身者は、17歳8名、16歳3名。職業軍人のエリートである海軍兵学校出身者は一人もいない。

日本軍で特攻隊に選ばれた搭乗員(陸軍では「空中勤務者」。パイロットと偵察・航法・通信員)の特徴は次の3点である。
?海軍兵学校出身などエリート職業軍人は少なく、予科練習生(予科練;少年兵)出身の兵・下士官と予備学生(学徒兵)出身の最下級将校など新参者が特攻の中心である。
?軍歴が浅く実戦経験のない10代から20代の若者が特攻の中心である。
?上記の理由から、未熟な若い搭乗員が特攻の中心である。

軍上層部は、特攻隊の人選について、次のように冷徹に考えたようだ。 ?特攻させるのは、未熟練の軍隊経歴の浅い人間で、彼らに頼み込んだり、煽ったり、命令したりして特攻出撃させるべきである、 ?軍隊経験を積んだ有能な人間は本土決戦に温存しておくべきである、と。

9.特攻の戦果は、日本軍が予期したよりも小さかった。大型空母、巡洋艦など主要艦艇は撃沈できず、駆逐艦以下の小艦艇に特攻機が命中しても、撃沈できない場合が多かった。航空機は、剛体ではなく、鋼鉄の艦船に低速で衝突しても、打撃力は小さかったこと、爆弾の不発が多かったことが、その原因かもしれない。

特攻では,航空機2000機,搭乗員3000名を失った。特攻機の戦果は,艦船・商船撃沈30隻,撃破80隻程度で,大半の特攻隊員は,戦果を挙げることなく死亡した。戦果に比して損害が大きすぎた。  

80日余りに及んだ沖縄戦で、米軍は,駆逐艦16隻など艦船36隻を特攻・通常攻撃などで失い,368隻が損傷(大破50隻以上)。米海軍航空隊は,航空機 763機,水兵の死者4,907名、負傷者4,824名。
陸戦では,米軍兵士 7,373名が死亡,3万2,056名が負傷。
日本側は, 10万7,000名が殺され, 7,400名が捕虜になった。ほかに2万名が戦闘に巻き込まれて死亡。
日本軍艦船の沈没は 16隻で,沖縄・台湾、九州など内地において、地上撃破も含め、航空機4,000機以上を喪失。

沖縄戦において、日本軍は、航空機約1,900機(海軍1,000機、陸軍900機)とその搭乗員約3000名(海軍2,000名、陸軍1,000名)を特攻作戦に出動させた。
沖縄特攻の戦果は、艦船の撃沈26隻,損傷164隻で,米海軍の人的損失損害は、1945年4月から6月末で,沖縄方面の全作戦を含めて死者4,907名、負傷者4,824名に達した。

特攻による米国商船の被害一覧でも,フィリピン戦と沖縄戦の特攻で撃沈できた米国の商船は6隻で,撃沈を含め損傷を受けた商船は合計23隻である。

日本軍の特攻は、空母,戦艦はもちろん,巡洋艦すら1隻も撃沈していない。特攻機が撃沈したのは,駆逐艦12隻,護衛駆逐艦1隻,高速輸送艦(駆逐艦改造)など3隻であり,その他は戦車揚陸艦,掃海艇,輸送船であった。特攻機の命中率の低さと命中したときの威力不足のために,特攻の戦果は損失に見合わなかった。

⇒◇特攻作戦の評価参照。

「特攻機の命中率が56%」という新資料が米国で見つかった、と誤解を招く報道がされた。この虚報の真相は、米軍が戦場で視認した特攻機の来襲機数のうち、被害を与えた特攻機の機数である。

戦時中、米軍は特攻機出撃は把握していない。米軍は、来襲してきた特攻機を記録しただけで、至近距離に達した特攻機の成果は大きかった可能性を示す資料ではある。米軍の被害が大きいのは、船体に近距離に撃墜した特攻機が僅かに軽傷を与えてもすべて被害ありと報告したことによる。優勢な米軍は、損傷を受けたことを勇戦した証拠のように誇りにしていた。そこで、特攻機の効果を高めに見積もることは、米軍将兵にとっても、自らの勇気を誇示することになる。強い敵に打ち勝ってこそ英雄である。

特攻の実態を覆い隠した「特攻機の命中率56%という米軍の新資料発見」との虚報は、当時の大本営発表のような報道姿勢である。特攻機の効果を誇張する喧伝は、特攻隊員たちの心情に反する。 日本の特攻機は沖縄戦に1900機が突入して合計216機命中したことになる。つまり,沖縄戦での特攻機の命中率は11%である。

10.陸軍特攻基地であった知覧には、知覧特攻平和館がある。そこでは、「特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念」で、遺品や資料を展示している。

<知覧特攻平和会館>
 ここには、特攻隊員の遺書・遺影・遺品、資料などが保管、展示されれている。若き特攻隊員の英霊コーナーに、1000名以上の特攻隊員の写真が出撃順に掲示されている。戦争末期の日本陸海軍の特攻に関して、訪れたもの圧倒するすぐれた展示館である。ただし、攻撃された米国の見解、殺害された米国の若者を想起することはできない。燃える落ちるキ43「隼」から搭乗員の魂を救い上げる天女の姿を描いた 「知覧鎮魂の賦」がある。

知覧特攻平和会館公式ページには次のようにある。
「私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
 特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊に努め、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。 」

知覧特攻平和会館展示物の中で、当時の特攻機を想起させるためか、軍用機が展示されている。

写真:四式戦闘機「疾風」;3400機生産された陸軍の後期主力戦闘機だが,エンジンの不調のために米軍戦闘機には対抗できなかった。少数が、特攻機として250キロ爆弾を搭載,出撃した。

知覧特攻平和会館の陸軍キ84 四式戦闘機「疾風」:都城基地などから特攻あるいは特攻作戦の支援に出撃。知覧特攻平和会館HPには「宮崎県都城東・西両基地を中心に出撃し、118機が未帰還となっています。うち知覧基地から4機出撃し2機未帰還となっています。」とある。キ84(連合軍のコード名称はFrank)は、3400機以上生産されたが、残された唯一の機体であって、米国人マロニー氏が保管し、飛行可能状態に復元した。1973年10月木更津で飛行。日本の富士重工関係者(製造した中島飛行機の後身)が1983年に引き取ったが、保管状態が悪化し、すぐに飛行不可能になった。その機体が、特攻平和館内に大切に保管されている。

写真(右):川崎三式戦闘機「飛燕」;2000機生産された陸軍の後期主力戦闘機だが,ドイツのダイムラー社から製造権を購入して生産した液冷エンジンが不調で,米軍戦闘機には苦戦した。対艦船特攻機としては,主翼の片方に250キロ爆弾,もう片方に200リットル入増加タンクを搭載し,特攻した。爆弾と菊水のマークがついている。対爆撃機B-29に対する特攻にも使用された。

知覧特攻平和会館の陸軍キ61 三式戦闘機「飛燕」?型改:知覧基地からは1945年5月11日、40機以上が出撃。塗装は、当時の「空対空特攻」震天制空隊の塗装を模している。しかし、この機体は、三式戦飛燕の?型のエンジン出力を増強した?型である。沖縄戦に参加していない三式戦?型であるが、この機体は、戦後、進駐軍が横田基地に展示していたもの。平和条約発効後の1953年、米軍が航空協会に譲渡し、日比谷公園で展示された。
川崎キ61三式戦?改飛燕の戦後史によれば、審査部の試作的な機体である。知覧特攻平和会館は、実機の塗装を復元せずに、?型を使用したことのない第244戦隊「震天制空隊」(B29への特攻機)の迷彩に塗りなおした。「特攻隊の鎮魂の象徴としてここに展示保存」(知覧特攻平和館)というが、審査部の機体が、特攻隊の塗装にされた。試作機審査や防空に命を懸けた空中勤務者の心情はどうか。川崎キ61三式戦?改飛燕の戦後史が述べるように、「館の性格上、知覧から飛び立った特攻機をイメージ」する心情は理解でき、「屋内に安住の場所を得て、機体そのものの管理については心配ない」ことは評価できる。しかし、「1962年の修復の際に考証されたであろう本機の来歴が全く無視された形になっており」残念である。 もし?型の特攻機を想起させるなら、第百十振武隊(1945年5月26日出撃)の田中少尉に率いられたキ61戦闘機(6機)に似せることもできた。


写真(右):250キロ爆弾と200リットル落下式増加タンクを装備した特攻一式戦「隼」;ソ連軍に対抗するために満州駐屯部隊も南方・沖縄方面の戦いに転用された。5000機生産された陸軍の主力戦闘機。戦争後期には旧式化、知覧基地から多数が特攻出撃。

知覧特攻平和会館の海軍の零式艦上戦闘機52型:1945年5月甑島島沖に沈んだものを、知覧町が1980年6月に引き揚げた機体。零戦は特攻に多用されたが、この機体は特攻機ではない。「機体は35年間海中にあり、無残な姿です」とある。まさに、特攻機は、このように腐食してしまうほどもろい軽量構造だった。華奢な骨組みの機体が、時速600kmの低速で、鋼鉄の軍艦に衝突しても、大きな被害を与えることは(燃料引火以外)できないことがわかる。機体の脆弱性が、特攻機が艦艇に命中しても、敵艦を轟沈できなかった理由である。(超高層ビルは超軽量構造であるが。)

旧知覧飛行場跡の特攻平和観音堂(1955年建立)に観音像が安置されている。この観音像は、大和法隆寺の夢殿の「夢ちがい観音像」を謹鋳した金銅像で、特攻出撃を命じた陸軍将軍の航空総軍司令官河辺正三大将、第六航空軍司令官菅原道大中将が持参されたという。観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されているという。

将軍たちが奉納した特攻観音は、知覧が最初ではない。1952年5月 軍令部総長及川古志郎海軍大将、連合艦隊司令長官高橋三吉海軍大将、航空総軍司令官河辺正三陸軍大将、九州方面の航空部隊の第六航空軍司令官菅原道大陸軍中将、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平海軍中将などが太平洋戦争末期の最高級司令官たちが発起人となり,特攻平和観音像が造立され、護国寺で首相もつとめた東久邇元宮ご臨席もと開眼供養。1953年世田谷山観音寺に奉遷、特攻平和観音奉賛会を設立。

11.日本人の多くは,特攻と現在の自爆テロとは,違うとするが、世界では、同一の攻撃として論じられる場合が多い。

世界では,日本の特攻隊は,自爆殉教と同じように認識されているようだ。つまり,狂信的な天皇への忠誠心があり,国体護持のためには自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、破壊行為を行う「自爆テロリスト」とみなされてしまう。特攻隊の心情は必ずしも世界には理解されていない。

"War Okinawa and Us" New York Sun;April 27, 2007
The district attorney of New York County, Robert Morgenthau, called the other day to say that he'd appreciated the editorial about the Copperheads. It wasn't just the substance of the editorial that had caught his eye, he said, but the historical tone, and he suggested we take a similar look at the battle of Okinawa.

We perked up because Mr. Morgenthau is an old salt himself, having had a destroyer torpedoed out from under him and sunk in the Mediterranean and then, in the Pacific, had another destroyer torpedoed, but not sunk, and later, when he was still on it, hit by a Kamikaze plane.

"There were 1,900 kamikaze pilots that attacked us at Okinawa," he said. He said he didn't want to belittle the significance of the suicide attacks that our side has been taking in Iraq. But neither did he want to forget the scale of the suicide bombers in World War II — not only their scale but their fanaticism.

----It was sometime after the battle of the Philippine Sea, where the Japanese lost more than 400 carrier-based aircraft and pilots, that Vice Admiral Onishi decided to form the Kamikaze Special Attack Force composed of suicide bombers. ---

The Japanese, Mr. Spector reports, had expended about 1,900 suicide planes at Okinawa alone, sinking 57 of our warships and damaging more than 100 so extensively as to take them out of the war for extended periods. Another 300 ships had some damage. It's illuminating perspective. Mr. Spector's report puts at 5,000 the number of our sailors killed, with another 5,000 wounded, in the Okinawa campaign.

They were the heaviest losses of any naval campaign of the war, he notes, and about 30% greater than those at Pearl Harbor. Mr. Spector quotes a postwar analysis as showing that at Okinawa, an astounding 32% of all kamikazes that were able to leave their bases succeeded in hitting one of our vessels, which was what Mr. Spector called seven to 10 times the success rate of conventional sorties. He then offers this paragraph:

"It is ironic that the last and greatest naval encounter of World War II should have become not a contest of technology but a contest of wills. Admiral Onishi and other Japanese leaders believed that Allied fighting men would be shocked and disheartened by the Kamikazes' determination and disdain for death. Americans were shocked and fearful of the new weapon, but they were not discouraged. One ship followed another on the radar picket stations. The Allies never considered abandoning their conquest of Okinawa or their plans for the subsequent invasion of Japan."

---The current war is not the first in which we have been met with a wave of the most barbaric kind of suicide attacks. The current attacks being launched against us by our Islamist foes are greater than the kamikazes in neither scale nor barbarity, save for the fact that the Islamist enemy has so often aimed not only at uniformed military personnel but at women and children.

The Japanese were every bit as extremist and crazed as the suicide bombers of today seem to us. Yet we eventually fought off and defeated the suicide bombers of World War II. And even, we don't mind pointing out, went on to have a peaceful and productive relationship with a democratic Japan, while Americans came to enjoy sushi and haiku and Toyotas and the Sony Playstation.

『ニューヨーク・サン』2007年4月27日「沖縄と我々」では、イラク戦の自爆攻撃を沖縄戦の日本軍の特攻にたとえ、再び撃退せよと訴えた。ロバート・モーゲンソー検事は「沖縄で1900機のカミカゼが猛攻した」「特攻によって米国の艦船57隻が沈められ、100隻以上が戦闘不能、300隻以上が損傷」「米海軍兵の死者、負傷者はそれぞれ5000人に上った」とし、「特攻機の命中率は32%、米国側の被害規模は真珠湾攻撃より30%大きい」と過大な評価をしている。そして、神経戦を挑んだ大西中将たちを撃退し、「日本人がイラクの自爆攻撃よりも熱狂的だったが、最終的に勝利を収め、民主化後の日本と同盟関係を結んで寿司、俳句、トヨタの自動車、ソニープレイステーションを楽しんでいる」と結んだ。 NewsDaily2007年04月30日(http://www.usfl.com/Daily/News/07/04/0430_016.asp?id=53395)参照。
つまり、1944-45年の日本軍の特攻を過大評価し、それに打ち勝った勇敢な米国人は、現在のテロ攻撃も撃退し、敵を征服できるはずだ、というわけである。

◆自爆テロと,特攻が同じであるという含意には,?予期しえない卑劣な対米攻撃,奇襲攻撃とみなし、?攻撃を狂信的テロと同一視し,攻撃者を狂信的な,理解しがたいテロリストとみなす点がある。

特攻=究極の天皇崇拝の狂信・軍国主義がもたらした自殺攻撃・自爆テロ(米軍の視点)
自爆テロ/特攻=狂信と洗脳が生み出したもの(多国籍軍の視点)
自爆テロ/特攻=殉教精神・祖国愛・家族愛が生み出したもの(反米過激派・日本軍の視点)
自爆テロ/特攻=若者の持つ殉教精神・祖国愛・家族愛に依存した,あるいはそれらを利用した非情な非人間的な軍事作戦(当研究室の視点)

 当事者片方の立場から分析すれば,特攻も自爆テロも善悪の価値観や正当性の観念から,対極的に論じられてしまう。これが現状である。愛国心や敵愾心をむき出しにすれば,当事者双方とも傷つけあう結果に陥ってしまう。

◇祖国,民族のためであれば,テロも許されるのか。民族自立,国家独立,反植民地,暴政打倒,民主主義の確立,家族の保護,財産の保全,国防のためであれば,市民を含む敵の命を奪う大量殺戮,軍事目標・経済基盤の大量破壊は,正当化されるのか。総力戦が開始されて以降,軍事目標と民間人は区別しにくくなった。「軍事目標だから戦闘行為だ」「民間人も殺した犯罪行為だ」という正当化や非難を,戦術・戦略の専門家は内心では信じていない。

自爆テロと特攻の関連は,結局,戦争の本質である大量殺戮,大量破壊を肯定し,正当化できる大義があるかという問題に行き着く。

現代の「テロとの戦い」は決して短期決戦ではない。生産、流通、金融、輸送、エネルギー基盤を巻き込み、世論を誘導して戦われる総力戦である。総力戦では,一般市民も世論の支持による戦争継続,ビジネス,納税・国債購入による軍資金提供,労働力,個人消費節約による軍需への資源の移転など,戦争協力している。こうなれば「無辜の市民」はありえない。


1942年7月,パラシュートのハーネスを縫製するアメリカ婦人。コネチカット州マンテスターPioneer Parachute Company Mills。特攻隊員やその世話をした勤労女学生たちの思いと同じく,アメリカ女性も米軍将兵の武運長久を願っていた。

自爆テロと日本の特攻の異なる点として、
?自爆テロは無辜の民間人を標的にする卑劣な行為が、特攻は軍事目標に行われた英雄的行為である、
?自爆テロは狂信的な宗教的妄信が生み出したが、特攻は祖国愛・家族愛が生み出した、
?自爆テロは世界を混乱させる平和を乱す行為であるが、特攻は祖国と家族を守る平和のための行為である、
と主張される。

自分の命を犠牲にしてまで、叩き潰したい敵愾心・怨念ががあったのであろうか。あるいは、敵愾心・怨念ではなく、直面させられた状況の中で、民族や家族を守るための冷静な判断の下に、あるいは自分が特攻自爆するのを納得するための悠久の大儀を認識して、自己犠牲的に行われる破壊行為でなのであろうか。

特攻について、世界ではさまざまに解釈されるのと同じく、日本人が現代の自爆攻撃を理解するのは難しい。「敵」の文化、言語、歴史、国際関係、現在の生活を的確に把握できていないからである。

◆我々が現代の自爆攻撃=テロ=悪としているのであれば、攻撃を受けた側では、常に特攻=体当たり攻撃=テロ、と解釈されてしまう。特攻=家族・民族を守る捨て身の攻撃、というのであれば、現代の自爆攻撃も同様のものと主張される。

敵に対して、怨念がないのに特攻をするのであれば、家族・民族を守るために特攻するということであり、自分を特攻、納得させる出撃させる崇高な大儀、精神といえるのかも知れない。

写真(右):1945年9月、終戦直後の日本に進駐してきたアメリカ人の宴会で獅子舞を披露する日本女性;彼女たちは芸者ではないが、マット(茣蓙)の上で、和服の晴れ着(キモノ)をきて、「白いソックス」(足袋)を履いているとある。日本軍の将校も戦時下でこのような持て成しを受けていたようだ。Dancers complete intricate pantomine in Japan. Description: Japanese dancers complete intricate pantomine. These are not Geisha girls, who serve guests and dance...these are professional dancers whose kimonas are worth a small fortune. They dance on mats with white socks for slippers. From a Scrapbook presented to Postmaster General Robert E. Hannegan on the occasion of his visit to General Headquarters U. S. Army Forces, Pacific in Tokyo, Japan, July 1946 Date: ca. September 1945 HST Keywords: Japan - General File - Dancers 写真はTruman Library Photographs;Accession Number: 98-2508引用。

特攻は、現地将兵の自発的攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動である。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが課題となる。特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、戦果が最優先された。

 日本軍は,1945年1月に全軍特攻化を決定していた。しかし、特攻には,純情な兵士が必要不可欠であり,犠牲的精神を発揮して,国体の護持,家族を守るために,命を投げ出す若者が求められた。兵士は、祖国への忠誠,家族愛を貫こうとして,自分の死を納得させようと悩み,苦しんだ。このような心情とは裏腹に,特攻兵器にあわせて作戦を進めたことで,特攻隊員個人の自由や選択の余地は、物理的に押しつぶされた。若者の犠牲を前提とした非道な作戦が立てられたのである。崇高な精神を持った若者は、特攻作戦によって、生命を失ったが、その精神を生かす道があるのではないか。


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