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中華民国空軍へのアメリカの軍事援助 2005
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◆日中戦争の中国空軍と軍事援助 ◇ Sino-Japanese War 1937-1940
写真(上):1935-1938年,ソビエト連邦、中国空軍にも供与されたポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機の戦列(少なくとも9機が写っている):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。
Polikarpov, I-15, Catalog #: 01_00086849
Manufacturer: Polikarpov、Designation: I-15
Notes: Russia、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。

◆リース・ロス(Frederick William Leith Ross:1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。


写真(右):中国にある国際租界の上海バンド:上海には日本海軍陸戦隊が(国際的にも認めれられ)駐留していた。4ヶ月の戦闘後,日本は中国軍を撤退させ上海を事実上支配。この戦術的成功が、列国の反発を買う。

◆日中戦争は、1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に、本格的な戦争として開始されるが、その前から、日中は衝突を繰り返していた。以下では、その一端を、日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一引用しながら解説する。

西安事件は、1936年12月12日、剿共戦(共産軍包囲攻撃)の督戦のため西安を訪れた蔣介石を、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城が拘禁した事件である。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、蒋介石夫人宋美齢も西安にやってきて蔣介石は釈放されたが、それは抗日のための国共合作が宣言されたためである。

しかし、国民政府は、剿共戦のためにドイツから軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図ったが、兵器購入のために1936 年4月、ドイツとの間に1億マルクの貿易協定を結んだばかりだった。ドイツからの武器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定(現物交換協定)である。ドイツと日本は、1936年11月の防共協定を締結したが、蔣介石は対日牽制のために、1932年12月に国交回復したソ連と連携した。

ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、ソ連の軍事力、兵器を利用したかった。

写真(右):1941年、中国、雲南省、中国国民政府の蒋介石(左)と雲南省政府主席の龍雲(Lung Yuen:1884-1962):1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中戦争がはじまると龍雲は、抗日戦争を指導し、国民革命軍第60軍を擁し、省都の昆明とフランス領インドシナ(北部仏印)から軍事物資を搬入した。その後、蒋介石が、戦時首都を重慶に設けた時期、アメリカ義勇隊(AVG)を受け入れるために、昆明航空基地を整備した。しかし、軍事化に伴う中央集権化によって、小主席の権限は弱体化した。そこで、龍雲は、国民党の蒋介石に対抗するために、中国共産党に密かに接近した。1945年8月の日本降伏後、国共合作が破綻に向かう中、龍雲の内通を理由に、10月、蒋介石は直径軍を派遣して、省政府主席の龍雲を軟禁させた。その後、1948年12月、クレア・シェンノートらが蒋介石に働きかけ、龍雲はイギリス領香港に亡命した。
Chaing Kai Sheck and Governor Lung Yuen of Yunnan Province in 1941
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 0151
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Chaing Kai Sheck and Governor Lung Yuen of Yunnan Province in 1941
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0151<引用。

西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林内閣は総辞職した。後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。(日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一引用終わり)

満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

写真(右)民国34年. 1946年6月20日,対日戦争に勝利した中国国民党政府 蒋介石総統;民国暦とは、中華民国が辛亥革命で成立した1912年を紀元とする暦法で、中華民国暦ともいう。 西暦1911年が民国元年(1年)。日本によって、満州を占領され,さらに北京も上海も攻撃され,中国軍民の反日感情は極度に高まった。このまま,中国の世論を無視して、対日宥和を続ければ、中国の最高指導者蒋介石ば,中国国民からも中国軍からも支持を失い,失脚させられるのは確実だった。1937年7月17日廬山の最後の関頭の演説では,戦争の覚悟を示し、8月、第二次上海事変に際しては、日中全面戦争に突入する。
Chiang Kai-Shek. Description: Formal portrait of Chiang Kai-Shek. Date: Date Unknown Related Collection: ARC Keywords: Heads of state HST Keywords: People Pictured: Chiang, Kai-shek, 1887-1975
写真はHarry S. Truman Presidential Library & Museum Accession Number: 58-709引用。


満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

日中双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになった,あるいは仕向けられた。愛国心に駆られた国民世論を背景に,日中戦争が開始されたのであれば,盧溝橋事件でどちらが咲きに発砲したかなどという陰謀説など取るに足らない契機に過ぎない。敵対的だった二つの軍隊が隣接して、北京にあったことが、問題だった。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなすのは,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っている。友好関係にあれば、誤射で済ませられた。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮したためである。

写真(右):1937年5月、上海事変前、中国、上海、アメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31)艦上、アジア艦隊司令長官ハリー・ヤーネル提督と日本海軍第三艦隊司令長官長谷川清(1883ー1970)提督:福井中学校退学後、正則英語学校を経て海軍兵学校(第31期)入学。席次は入学時196名中7番、卒業時173名中6番。戦艦「三笠」乗員として、日本海海戦に参戦、アメリカで海軍駐在武官として勤務を山本五十六に譲った後、中国駐留の第三艦隊司令長官に就任した。1937年8月の第二次上海事変では、長江の海上交通を保護するだけでなく、南京、重慶の海軍機による空襲も実施した。これが、九六式中攻を主力とする海軍航空隊による都市戦略爆撃である。また、海軍艦上機によるがアメリカ砲艦「パナイ」誤爆、撃沈に際しては、アメリカの反日世論と日本の対米世論の硬化を防ぐために、支那方面艦隊司令長官としてアメリカに謝罪し、補償することを認めた。
Title: Admiral Harry E. Yarnell, USN
Caption: Right, with Vice Admiral Kiyoshi Hasegawa, IJN, aboard USS AUGUSTA (CA-31) at Shanghai, China, in May 1937. Hasegawa was commanding the Japanese 3rd fleet while Yarnell was CINCAF. Note paravane in right background.
Description: Courtesy of Mr. and Mrs. Philip Yarnell, 1975
Catalog #: NH 81617
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真は Naval History and Heritage Command NH 81617 Admiral Harry E. Yarnell, USN引用。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」(『創価大学大学院紀要 』第32号, pp.385-397)に依拠して、上海を中心とした日本海軍の対応をまとめると次のようになる。

中国駐屯の長谷川清司令長官の率いる第三艦隊の役割について、草鹿龍之介第三艦隊参謀副長は以下のように回想している

「軍艦出雲が第三艦隊の時からの旗艦であり、遊船埠頭に横付けしており、上海という土地柄もあり、海軍以外の人の出入りも多く艦隊司令部も、見様によって、陸上の役所の如き有様であったと言っても、過言ではない。」

1936年12月1日、第三艦隊司令長官として任命されたのは、長谷川清である。彼は、ジュネーブ一般軍縮会議全権委員、無条約時代の海軍次官などを歴任しており、列国の権益が錯綜し各国の艦船が行動している上海における第三艦隊司令官の地位は適任であった。

また、第五水雷戦隊首席参謀の横山一郎によれば、盧溝橋事件勃発以前、華北担当の第十戦隊、長江担当の第十一戦隊の参謀が上海に集められ、「万一の場合」に対する作戦打合せがあったという。

「昭和十二年、私が第五水雷戦隊首席参謀で南支警備の任にあった時、在上海の第三艦隊旗艦出雲に、第十戦隊(北支)、第十一戦隊(長江)の首席参謀と共に召集せられ、長谷川長官の激励を受けた後万一の場合に対する作戦打合せがなされました。」

第三艦隊は7月11日未明には、海軍省・海軍軍令部に航空隊、陸戦隊の派遣準備を要請し、隷下の部隊に次のような出動準備を命じた。

一 十日夕方来盧溝橋方面情勢逆転の兆あり。又中国空軍は秘かに戦備を整えつつあること確かにして情勢真に逆賭を許さざるものあり。各艦は万一に処するの準備を整え、特に飛行機に対し警戒を厳にすべし
二 各級指揮官は極秘裏に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし

杉山元陸軍大臣は中国派兵を要望したが、海軍省を中心とする海軍中央部は派兵に強く反対したが、米内光政海軍大臣は以下のように発言した。

海相ヨリ只今迄ノ情報ニテハ出兵ヲ決スル事ニハ不同意ナリ。内地ヨリ出兵トナレハ、事重大ニシテ全面戦争ニナル事モ覚悟ノ要アリ。国際上ヨリモ重大ノ結果ヲ生ジ、日本ガ好ンデ事ヲ起シタルノ疑惑ナカラシムル為、更ニ事態逼迫シタル上ニテ決シタシ。海軍トシテハ全支ニ対スル居留民保護ノ必要ヲ生シ充分覚悟ト準備ヲ要ス

米内海軍大臣は中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、中国在留日本人(居留民)の保護は、海軍にとって重要であると考えた。

7月11日、杉山元陸軍大臣は派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。

中国の死命を制するためには、上海、南京を制するを最重要とし、日本陸軍からの上海派遣軍は五コ師団を要する。

海軍省にとって派兵の目的は日本人居留民保護を名目にしたが、そおうであれば、華北だけでなく、華中・華南と中国全土の日本人居留民が問題となる。

長谷川清 伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

1937年7月21日、第十一戦隊は、居留民の引揚を第三艦隊ならびに外務省へ要求している。この要求事項については引揚に関係する各地域から外務省本省にも連絡が行われており、特に上海においては第十一戦隊が第三艦隊にも引揚許可を求めていた。

7月28日、華北駐留の日本の天津軍は、中国の第二十九軍を総攻撃し、これを受けて海軍省は第三艦隊に漢口上流居留民の引揚に関して指示を下す。

「今後、日支全面作戦迄進展することあるへきを予期する次第にして、此の際差当り、漢口より上流各地居留日本人は、之を引揚くるの要ありと認めらるるに付、外務側と連絡の上現地の状況に応し、機宜引揚を開始せしむる様、取計はれ度き」旨指令ありたる趣にて、右は冒頭貴電と相当開きある処、元来長江筋に於ける海軍側の態度は、中央の指令に基づき当地第三艦隊にて具体的に決定し、各地に訓令する建前にて、部内問題の処理に付、常に当方に相談し来る事情なるを以て前記の如き食違ありては甚だ困却する次第なり」

1937年7月30日、長谷川第三艦隊司令長官談

当地に於て発表の声明は居留民に対し軽率を戒むると共に、支那側に対し慎重対慮方注意を喚起せるものにして、右は直に事態の全面的悪化を暗示る趣旨のものにあらす、但し艦隊側に於ては将来事態進展し日支双方空軍の衝突ともならは其の影響至大なるへきを予想せらるるに付、斯る事態に立至る場合を予期し、全面的引揚を決意する時期もあるへく、之か為には上流居留民は現地の事態を考慮に入れつつも、早目に漢口迄引揚け置くこと然るへしと観察し居るも、漢口よりの引揚は未た其の時期に到達し居らさることは艦隊側にても同意見なり

8月1日、福留繁軍令部第一課長は、陸軍側に次ぎのように答えている。

海軍としては、極めて不愉快なる作戦振りなれど、政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり
居留民を上海付近に引揚げしめ、揚子江部隊を収容したる後か、又は海軍が反撃をせざるべからざる事態生起し、全面作戦開始となれば、直に動き得る兵力を動かして大にやる積りなり
それまでは濫りに手出しを許されざる状況なり

8月6日、漢口の日本人居留民代表は、情勢悪化を理由に松平恒雄総領事に引揚を迫り、田中宣昌領事も同時に引揚の不可避を説き、結果的には21時に全面引揚が発令された。漢口居留民は9日に上海への引揚が完了、同日、大山事件が勃発し、13日、上海における交戦、14日10時、中国空軍により第三艦隊旗艦「出雲」、海軍陸戦隊本部、総領事館への空襲となった。

これを受けて海軍省は、上海での戦闘を決意し、日本政府もそれを認める。こうして盧溝橋事件は、第二次上海事変へと拡大し、全面戦争へと拡大していく。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり。

写真(左):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機:1937年8月の第二次上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始。しかし、洋上を渡る長距離爆撃では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。写真は、旧鳥飼行博研究室「日中戦争の序章」を原資料とした Wikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Four Japanese Navy Type 96 Attack Bombers.jpg引用。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。そしてて、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

写真(右):1935-1937年頃、中国、中国が輸入したフランス製ファルマン(Farman)F 303三発輸送機:ファルマン F300は単発輸送機として1931年に開発され、その後、エンジンを増設した三発輸送機として20機が生産された。
全長 13.35 m、全幅19.12 m、全高 3.3 m
主翼面積 71.0平方メートル
空虚重量 2,610 kg
最大荷重 4,350 kg
発動機: グロー・ノーム(230馬力)3基
最高速力 230 km/h
航続距離 975 km
実用上昇限度4500m
乗員 2名、客数 8名
French Farman F303
Catalog #: 0394
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Farman
Catalog #: 0394
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0394引用。

写真(右):1937年頃、中国、中国が輸入したフォード・トライモーター(Ford Trimotor) NC 432H三発輸送機:1926年から1933年に200機生産。フォッカー VIIb-3M三発輸送機を参考にした実用性重視の機体で、アメリカ陸軍航空隊もアメリカ海軍航空隊も採用した。しかし、量産時期が世界大恐慌と重なったため、民間航空への販売数も輸出も伸びず、自動車メーカーのファオードは航空機製造から撤退することになった。
全長 15.1 m、全幅 23.7 m、全高 4.1 m
空虚重量 3,469 kg
最大荷重 5,736 kg
発動機:Pratt & Whitney R985 300馬力3基
巡行速力 182 km/h
航続距離 850 km
乗員 2名、客数 12名
Ford Trimotor NC 432H
Catalog #: 0370
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0370引用。

写真(右):1937年頃、中国、中国が輸入したイギリス製デハビランドDH-89「ドラゴン」(DeHavilland DH-89 Dragan)輸送機:デ・ハビランド社で1934年4月17日に試作機が初飛行したドラゴン・シリーズの輸送機で、木製羽布張りの複葉機で、降着装置もスパッツでカバーされている固定脚。しかし、実用性に富んでいたために、第二次世界大戦勃発前に205機も量産され、民間航空で旅客機として就航した。大戦中は、イギリス空軍の航法訓練機「ドミニエ」としても使用され、500機が量産された。
DeHavilland DH-89 Dragan
Catalog #: 0362
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss It was called "Old Corsair" in China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0362引用。

イギリス製デハビランドDH-89「ドラゴン」DeHavilland DH-89 Dragan)輸送機
全長:10.5 m、全幅:14.6 m、全高:3.1 m
翼面積:32平方メートル
空虚重量:1,460 kg、全備重量:2,490 kg
発動機:デハビランド(DeHavilland)「ジプシー」(Gipsy Six)200馬力2基
最高速力:253 km/h、航続距離:920 km
上昇限界:5,090 m
乗員 1名、客数 8名

写真(右):1935-1937年頃、中国、ドイツ製ユンカースJu-52/3m(Junkers Ju-52)三発輸送機とアメリカ製ダグラスDC-2(Douglas DC-2)双発輸送機:ダグラス DC-2(Douglas DC-2)は、アメリカのダグラス社が全金属製単葉・引込み脚の斬新な双発乗客12名の輸送機DC-1は、ボーイング247輸送機の対抗馬で、1933年6月に試作機が初飛行した。搭載したライト社空冷星形「サイクロン」エンジンと、プロペラブレードの角度を変更して効率的な運航を可能とする可変ピッチプロペラを搭載し、引き込み脚を装備した。DC-1のエンジンを強化、胴体を延長して乗客14名としたDC-2輸送機が民間航空会社から注文を受けた。
ドイツのユンカース社は、全金属製の単発固定脚輸送機Ju 52/1mを1930年に初飛行させたが、発動機が弱いために、三発としたJu 52/3mを1932年に完成させた。それまでのユンカース輸送機を引き継いで、鋼管骨格、波形ジュラルミンの外板のお馴染みの構造で、胴体は箱型で容積が大きく、大型開閉扉を装備して、貨物や乗客の出し入れも楽だった。1936年のスペイン内戦には、反乱軍側に立ったドイツ人義勇軍として編成された「コンドル軍団」の爆撃機として、ゲルニカ空襲にも参加している。
Junkers Ju-52 and Douglas DC-2
Catalog #: 0403
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #:0403引用。

写真(右):1937年頃、中国、主翼下面に小型爆弾を搭載したカーチス・ボート(Curtiss Vought)O2U-1D:中国空軍では「オールド・コルセア」と呼ばれた。1937年7月、日中戦争が勃発すると、中国空軍は輸入してあったアメリカの軍用機を中心に配備したが、直ぐにソビエト連邦の軍事支援を受けソ連製軍用機も配備されるようになった。
Curtiss Vought O2U-1D.
Catalog #: 0367
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Curtiss It was called "Old Corsair" in China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0367引用。


 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

 1938年1月14日,ドイツのトラウトマン駐華大使の仲介になるトラウトマン工作に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した。

写真(右):1935-1937年頃、中国、カーチス・コンドル(Curtiss Condor)BT-32爆撃機:木金混合の双発複葉12人乗りの輸送機だが、主輪は引き込み式だった。発動機は、信頼性のあるライトSCR-1820-F3空冷星形「サイクロン」エンジンを2基搭載。1933年1月30日に初飛行し、原型機は21機が製造された。イースタン航空とアメリカン航空で、夜間寝台旅客機として就航した。アメリカ陸軍、イギリス空軍も採用した。
Curtiss Condor
Catalog #: 0387
Subject: The Flying Tigers - China

Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0387引用。

カーチス・コンドル BT-32爆撃機(Curtiss Condor BT-32)の諸元
全長:15.09m、全幅 :24.99m、全高:4.98m
翼面積:118.54平方メートル
空虚重量:5,095 kg、全備重量:7,938 kg
発動機: ライト(Wright)SGR-1820-F3 サイクロン 空冷星型エンジン, 710 馬力2基
最高速力 :283 km/h、航続距離 :1,352 Km
武装:ブローニング0.30口径7.62ミリ旋回機銃5丁
爆弾搭載量:762 kg(1,680ポンド)

写真(右):1935-1937年頃、中国、カーチス・コンドル(Curtiss Condor)BT-32 爆撃機:木金混合の双発複葉12人乗りの輸送機だが、主輪は引き込み式だった。発動機は、信頼性のあるライトSCR-1820-F3空冷星形「サイクロン」エンジンを2基搭載。1933年1月30日に初飛行し、原型機は21機が製造された。イースタン航空とアメリカン航空で、夜間寝台旅客機として就航した。アメリカ陸軍、イギリス空軍も採用した。BT-32は、T-32の爆撃機仕様で8機製造、コロンビア空軍、チリ空軍、中国空軍で使用された。
Curtiss BT-32 Condor
Catalog #: 0375
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0375引用。

 1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。

中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。

 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。
 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。

 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。
 かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり

 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。

◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の砲身を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

写真(右):1935-1938年,中国、中国空軍のポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis 複葉戦闘機とバルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(手前)の戦列(少なくとも各6機が並んでいる):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。
Unknown Chinese Air Field
Catalog #: 1601
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Unknown Chinese Air Field 、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。


軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。

写真(右):1938-1940年,中国、中国空軍に配備されたソ連製ポリカルポフI-153複葉戦闘機:1937年8月の中ソ不可侵条約に基づいて、ソ連は日本軍に対抗できるように中国空軍に、ソ連空軍の制式軍用機を貸与した。ここには、I-153戦闘機、I-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが含まれ、日本の軍用機に十分対抗できた。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45939176 - Catalog:16_007262
Title:Polikarpov I-153 in China - Filename:16_007262.TIF
Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives PictionID:45939176 - Catalog:16_007262 引用。


1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対してポリカルポフI-15 戦闘機を供与した。

ソ連空軍のI-15シリーズは同系列の複葉戦闘機だが、次のような差異がある。I-15は、ガル翼でエンジンカウリングが短い。I-15bis (I-152)は、直線翼で、エンジンカウリングが長め。I-153は、ガル翼でエンジンカウリングが長く、引込み脚。

ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
全長: 6.29 m(6.33 m)、 全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)、 主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg、 全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m、乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

写真(右):中国空軍のポリカルポフI-152戦闘機(1937年頃):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できた。ソビエト連邦の航空機設計所の主任が、ニコラエヴィチ・ポリカルポフで、1944年7月30日に死去したが、設計局はラボーチキン設計局に吸収された。この他、ソ連にはミコヤン・グレヴィッチ設計局があった。長い間本拠地をモスクワの航空機工場#1(現Dux工場)においており、現在でもその建物を見ることができる。SDASM Archives Polikarpov, I-153 (I-15ter), Catalog #: 01_00086862 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter)

日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促し、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んで蒋介石に軍事援助をした。イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半からソ連機を輸入したが、当初はポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのか、練習機として使用していたのか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary2引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半から輸入したポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのであろうか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P.7250, China a引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。
Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

写真(右):1936年-1938年、ソ連、飛行中のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:大きな空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167883 - Catalog:16_007289
Title:Polikarpov I-16. T17 - Filename:16_007289.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:46167883 - Catalog:16_007289 引用。

写真(右):1936年-1938年、ソ連(?)中、木造の掩体壕から発信地点に地上勤務員に導かれて移動するソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:大きな空冷星形エンジンを搭載したために、地上での前方視界が悪く、地上勤務員による誘導が必要になった。エンジン前面にはシャッター式の空気取入れ口の切り欠きがある。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167922 - Catalog:16_007292
Title:Polikarpov I-16. T29 - Filename:16_007292.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:46167922 引用。

写真(右):1936年-1938年、スペイン共和国政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:スペイン市民戦争に際して、共和国政府軍側に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939251 - Catalog:16_007268 - Title:Polikarpov I-16 in Spanish Republic Markings US Air Force Photo SDASM photo - Filename:16_007268.TIF .
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary引用。

写真(右):1936年-1938年、中国国民政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機に掲げられた中華民国の国旗「青天白日」:日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46167846 - Catalog:16_007286
Title:Polikarpov I-16 - Filename:16_007286.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_007286引用。

写真(右):1936年-1938年、中国国民政府に供与されたソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機と中国空軍パイロットのリュウ・チー・スン大佐:カーチスホークIII(Hawk III)を駆って中国空軍第21飛行戦隊でトップエースとなったリュウ・チー・スン大佐は、ポリカルポフI-16戦闘機をも乗機とした。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Title: Col-Liu Chi-Sun by I-16
Catalog #: 01017
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01017引用。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

wikipediaでは、ポリカルポフ I-16戦闘機「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」との感想があるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であことを忘れている。1943年には、ソ連空軍は、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機を前線に配備している。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。

写真(右):中国空軍にも供与されたソ連製ツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。Ray Wagner Collection Image PictionID:45937758 - Catalog:16_007153 - Title:Tupolev SB-2 - Filename:16_007153.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):出現当初の1930年代、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れており、スペイン内戦でも日中戦争でも活躍した。合計で6500機も大量生産されている。
Description The Tupolev SB was a very successful bomber design which served with ten air forces and was in service during the Spanish Civil War and WW2. It's Tupolev designation was ANT-40. Of the 6,500 produced, this is the only known survivor. Recovered from the Yuzhne Muiski mountain range in the late 1970's, it was restored by a volunteer group of Tupolev employees and went on display, initially outside, in 1982.
Date 13 August 2012, 07:45
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A)
Description In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

⇒1937年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争とその背景は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略で詳述した。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変では、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行って空襲・空中戦が戦われ、いる。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。


◆1937年8月、第二次上海事変の中国空軍による空襲

中華民国空軍(中国空軍)の創設は、1932年で,ほとんどの機体は、諸外国から輸入したものだった。中国における飛行機の軍用利用は、中国国民党軍による軍閥の討伐、いわゆる「北伐」の時期だったが、空軍として戦争に加わったのは、1932年の上海事変の時だった。1930年代初頭、中国空軍は、イタリアから飛行機を輸入し、訓練を依頼しながら成長していったが、機材は少なく、部品も滞りがちで、稼働率も信頼性も低く、人材にも不足した。したがって、強大な日本の航空兵力に対抗するのは困難だった。そこで、宋美齡Soong Mei-ling)は蒋介石に自ら空軍の育成に乗り出したいとする意見を出した。そして、中国空軍を改善して、敵に勝つことのできる有效な武器を準備したいと希望を述べた。蒋介石はこれに同意し、こうして中国空軍の揺籃期が始まったのである。

1935年,宋美齡が督促したことで、中国はアメリカからの武器と飛行機を大規模に取り入れることが決まった。1937年,1936年,蒋介石夫人の宋美齡は、「軍事委員会航空秘書長」に就任したが、これは事実上、中国国民党空軍司令長官の地位と同じだった。この時期、宋美齡が掌握した空軍に彼女が招聘したアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault陳納徳)将軍が中国にやってきて、中国空軍を育成することになった。

1937年8月13日,第二次上海事変が勃発すると、中国航空委員会は、「空軍作戦第一号令」を出し、1938年5月20日には、中国空軍の双発爆撃機マーチン139WC(B-10の中国輸出仕様)爆撃機(両架轟炸機)によって、日本本土に飛来し、上空で伝単(ビラ)を散布することを命じた。

 宋美齡Soong Mei-ling)に従う副官だった夏公権の回想では、居所の客間には、抗日戦争初期、南京大校飛行場で、空軍飛行兵に論功行賞をしている巨大な写真が掲げてあったという。宋美齡は、1937年3月12日,「航空の統一」の一文を発表し文、その中で「中国統一を新展開し促進するために、飛行機の果たすべき役割が大きい」とした。

1938年春, 宋美齡Soong Mei-ling)は、健康上の理由で航空委員会秘書長の職務から離れ、兄の宋子文に任務を任せた。しかし、宋美齡は始終、空軍の人事に対して影響力を奮い、訓練、作戦などの大権を保持していた。宋美齡は、中国航空委員会秘会長として、当時の中国空軍の組織編制に尽力し,日後、空軍から栄誉をもって“中国空軍之母”と呼ばれるようになった。宋美齡による中国空軍への卓抜な功績に鑑み、青天白日勲章を授与されたが,これは女性では唯一の受賞である。

宋美齡Soong Mei-ling)は、空軍へのアメリカからの軍事援助に関わっており、英語も堪能でアメリカの軍事顧問とも交流を図っていたから、空軍の作戦を独自の見解で進める気概を持ち、それを誇りにしていたようだ。その後も長い間、胸に空軍飛行徽章を飾っていた。そして、自分が空軍の母であると考え、それを愛し、国民党空軍を「我的空軍」と呼んでいた。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた中国人が多数、国際共同租界に流入してきた。しかし、中国空軍は、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」などを攻撃しようとして、誤って共同租界内に爆弾を投下した。そのため、避難していた中国人が誤爆で多数死傷した。
Title:Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai
Caption: View of Nanking Road, Shanghai, as it looked after the bombing in the International Settlement by Chinese planes, on 14 August 1937. The Cathay Hotel is on the right.
Catalog #: NH 50892
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は NH 50892 Accidental bombing, Nanking Road, Shanghai 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路のキャセイ・パレスホテルに中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。実は、中国人の多くは、上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた。しかし、中国空軍がバンドの日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲したが、投下した爆弾は、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。
Title:Shanghai, China
Caption: Aftermath of Chinese bomb explosion at the Cathay and Palace Hotels, Nanking Road, Shanghai, on 14 August 1937.
Description: Courtesy of Vice Admiral M.L. Deyo, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77845
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は NH 77845 Shanghai, China 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路、キャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s53. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”. Side entrances to the Cathay Hotel are on the right. See AL-s59. Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s55
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

1937年8月13日、第二次上海事変Battle of Shanghai )で日中両軍の武力衝突が起こったが、実は、中国人の多くは、上海での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海国際共同租界には及ばないと考えた。しかし、1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国空軍がバンドの日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲し要としたとき、投下した爆弾は、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと上海国際共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。共同租界のグランドパレスホテルも誤爆され、投下された爆弾によって、上海の戦闘から逃れ避難していた中国人など400名が死傷してた。ニューワールド娯楽街でも1000名が死傷した。中国空軍機による上海国際共同租界の誤爆は、大惨事をもたらし、「血の土曜日」と呼ばれるようになった。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し大きな被害を受けたキャセイ・パレスホテルの脇出入口附近。 中国空軍がバンドに停泊していた日本海軍第三艦隊旗艦の装甲巡洋艦「出雲」を空襲したが、爆弾は目標を外れて、共同租界のグランドパレスホテルに落下、爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人など400名が誤爆で死傷して「血の土曜日」と呼ばれるようになった。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s59. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”. Side entrances to the Cathay Hotel are on the right. See AL-s53.
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s59
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。多くの中国人が上海事変での戦闘に巻き込まれるのを避けるために、列国の利権の錯綜した上海共同租界に退避した。しかし、中国空軍が日本海軍装甲巡洋艦「出雲」を空襲した時に、誤って投下した爆弾が、共同租界内に落下し、繁華街で爆発した。日中両軍の衝突の被害から逃れようと共同租界に避難していた中国人がこの誤爆で多数死傷した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s55. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”.
Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s55
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、南京路にあるキャセイ・パレスホテルに中国空軍機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。列国資本のホテルやビルが立ち並ぶ上海国際共同租界であれば、日本軍も中国軍も攻撃してこないと考え、多数の中国人が租界に避難してきた。しかし、国際共同租界は上海バンドの近くで、バンドには、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」など艦艇が停泊していたため、中国空軍機が攻撃してきた。中国空軍戦闘員にとって、実戦は初めてであり、艦船攻撃も初めてだった。そこで、投下した爆弾は目標を外れて、キャセイホテルで爆発した。
Title:Casualties and debris, Cathay Hotel bombing, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s57. Chinese bombers were apparently trying to bomb the Japanese cruiser Izumo (Idzumo), when two bombs fell between the Cathay and Palace Hotels in Nanking Road. Approximately 400 people were killed or wounded. Known as “Bloody Saturday”.
Cathay & Palace Hotels : Aug 14 1937
Location:Shanghai Date:Saturday 14 August 1937
Identifier:AL-s57
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時過ぎ、中国、上海国際共同租界、エドワード7世通り(Ave Edward VII)に中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。列国資本のホテルやビルが立ち並ぶ上海国際共同租界であれば、日本軍も中国軍も攻撃してこないと考え、多数の中国人が租界に避難してきた。しかし、国際共同租界は上海バンドの近くで、バンドには、日本海軍装甲巡洋艦「出雲」など艦艇が停泊していたため、中国空軍機が攻撃してきた。中国空軍搭乗員たちにとって、初の実戦経験で、目標とする艦船は識別も困難だったはずだ。そこで、投下した爆弾は目標を外れて、エドワード7世通り(Ave Edward VII)で爆発した。
Title:Victims of 'Bloody Saturday' bombing, Ave Edward VII, Shanghai
Notes:University of Bristol - Historical Photographs of China reference number: AL-s63. Carnage due to a bomb dropped from a Chinese aeroplane, on “Bloody Saturday”.
Location:Victims : Av. Edward VII. Aug 14 1937.
Identifier:AL-s63
写真はUniversity of Bristol Historical Photographs of China (HPC) 引用。

写真(右):1937年8月14日16時27分、中国、上海共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。実は、中国人の多くは、上海事変での戦闘は、列国の利権の錯綜した上海共同租界には及ばないと考えた。そこで、日中両軍の衝突の被害から避けるように、共同租界のニューワールド娯楽街に一時避難していた。そこを、中国空軍に誤爆され大きな被害を出してしまったのである。
Title:Shanghai, China
Caption: The New World amusement center, on Avenue Edward VII, in the international settlement of Shanghai, on 14 August 1937, after a Chinese aerial bomb explosion at 4:27 in the afternoon. The amusement center had been a temporary shelter for refugees fleeing the Sino-Japanese fighting.
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77940
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77940 Shanghai, China 引用。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。
Title:Shanghai, China
Caption: Devastation and carnage at Avenue Edward VII, in the international settlement, where a Chinese bomb exploded on 14 August 1937, at approximately 4:27 pm, killing nearly 1,000 people on the "Bloody Saturday."
Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973. Catalog #: NH 77837
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77836 Shanghai, China引用。

1937年8月13日、第二次上海事変淞滬會戰)での日中両軍の戦闘は、当初は一時的なものであり、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなど列国の利権が確立されている上海共同租界に、日中両軍が不法侵入することはないと考えられた。そこで、日中両軍の衝突の被害から避けるように、多数の中国人が、国際共同租界に避難し、ニューワールド娯楽街も避難民でいっぱいになった。しかし、1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海国際共同租界、南京路、キャセイ・パレスホテル、エドワード7世通り(Ave Edward VII)、ニューワールド娯楽街に中国空軍機所属のノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E2E爆撃機が飛来、誤爆した爆弾が爆発して、1000名近くの多数の死傷者を出す大惨事になった。

写真(右):1937年8月14日(土曜)16時27分、中国、上海国際共同租界、エドワード7世通り、ニューワールド娯楽街に中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E爆撃機の投下した爆弾が爆発し、多数の死傷者を出した。上海事変で二中両軍の戦闘が始まっても、列国の居留民が多く、利権も錯綜した上海共同租界なら安全だと考えた中国人が、ニューワールド娯楽街など共同租界に避難していたが、そこに中国空爆撃機が日本軍の拠点と錯覚して爆弾を投下した。
Title:Shanghai, China
Caption: Carnage on Avenue Edward VII, in the international settlement of Shanghai, 14 August 1937. Bomb dropped on the "New World" amusement center, where refugees had been housed, the resultant blast killed nearly 1,000 people. Description: Courtesy of Rear Admiral J.P. Walker, USN(Ret), 1973.
Catalog #: NH 77836
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77836 Shanghai, China引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界(International Settlement of Shanghai)、上海事変で中国空軍爆撃ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E2E爆撃機に誤爆され殺害された中国人避難民:中国空軍は、アメリカ製、ソ連製の軍用機を輸入し、軍事顧問も招聘して、空軍部隊の訓練を行った。特に、蒋介石夫人の宋美齢は、英語に堪能だったため、中国に対する国際的な軍事援助を引き出すために尽力し、空軍の創設にも関わった。しかし、その初めての本格的出撃で、誤爆による大惨事を招いたのは、空軍が血気にはやり、訓練不足・準備不足の中で、初の実戦攻撃を仕掛けたためであろう。
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption:View of four Chinese victims of an accidental bombing by Chinese Air Force Planes, in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937. Catalog #: NH 50880
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 50880 Shanghai, China引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界、上海事変で中国空軍のノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機に誤爆され殺害された遺体を片付ける作業
Title:Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: The intersection of Avenue Edouard VII and Thibet Road a few minutes after Chinese bombs dropped into the heart of Shanghai's International Settlement. Rescue efforts are attempting to identify the injured, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50888
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真はNaval History and Heritage Command NH 50888 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.引用。

日本の『ジヤパン・タイムズ』は、1937年8月16日、「支那の暴戻」として、「支那空軍租界爆撃の暴挙は世界を驚かせたり、支那が之によりて諸外国の干渉を招かんとしたりとせば甚しき近眼と云はざるべからず、此の罪悪に対して支那を罰し租界に於る各国人を守るは日本軍の義務なり」と非難した。

1937年8月16日の『東京朝日新聞』は「上海租界爆撃事件の反響」「世界・暴虐支那を怒る」として「支那飛行機の租界爆撃はイギリスにも非常なセンセイションを起して昨日の夕刊も今朝の各新聞にも大々的に報ぜられています、 イギリスに達した上海電報によればその支那飛行機の爆撃によって五百余名の死者と九百名の負傷者を出し、その中イギリス人の死亡者が四名、負傷者が七名であると報ぜられて居ります」と中国空軍機の誤爆を喧伝した。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海国際共同租界、上海事変で中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆された中国人の遺体を片付ける上海国際義勇隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.)
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: View of members of the Shanghai Volunteer Corps, working to clear the streets by loading corpses aboard trucks. Hundreds were killed and injured when an accidental bomb fell from Chinese planes, near the Palace and Cathay Hotels in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50891
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真はNaval History and Heritage Command NH 50891 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.引用。

写真(右):1937年8月14日、中国、上海事変で中国空軍のノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆された上海国際共同租界(上海公共租界)で遺体を運搬する上海国際義勇隊(Shanghai Volunteer Corps:S.V.C.):この誤爆で居留外国人には被害が出なかったのか。
Title: Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China.
Caption: View of members of the Shanghai Volunteer Corps, working to clear the streets by loading corpses aboard trucks. Hundreds were killed and injured when an accidental bomb fell from Chinese planes, near the Palace and Cathay Hotels in the International Settlement of Shanghai, 14 August 1937.
Catalog #: NH 50890
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 50890 Devastation after accidental bombing, in the International Settlement, Shanghai, China. 引用。

写真(右):1937年8月14日午後16時半、上海バンド、中国空軍ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機に誤爆されるアメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) :ノースロップ ガンマ2E爆撃機は、アメリカ重巡「オーガスタ」に2発の爆弾を投下し、爆片と爆風で損傷したが、負傷者はなかった。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: Shortly after two bombs fell off her starboard quarter from a Chinese Air Force Northrop 2E bomber. The incident took place shortly after 4:30pm on the afternoon of Saturday, 14 August 1937. There were no casualties but fragments showered the ship. The AUGUSTA was mistaken for a Japanese ship.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77705
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77705 USS AUGUSTA (CA-31) 引用。

大山事件を契機に、1937年8月13日、第二次上海事変淞滬會戰)が勃発した翌8月14日午後、中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機は、上海の日本軍装甲巡洋艦「出雲」あるいは付近の陣地を空襲するために、上海上空に飛来した。しかし、初陣で実戦での目標識別に慣れていなかったためか、16時30分、アメリカ重巡「オーガスタ」を誤爆した。中国機は、2発の爆弾を投下し、アメリカ重巡「オーガスタ」を爆片と爆風で損傷させたが、負傷者はなかった。

同日16時27分、中国空軍の別のノースロップ ガンマ2E爆撃機は、上海国際共同租界のキャセイ・パレスホテル、ニューワールド、エドワード7世通りも爆撃したが、これも目標を誤って誤爆であり、1000人近い中国民間人の死傷者が出たという。

写真(右):1937年8月14日午後16時半、上海バンド、中国空軍ノースロップ(Northrop)ガンマ(Gamma)2E軽爆撃機に誤爆されるアメリカ海軍アジア艦隊旗艦重巡洋艦「オーガスタ」USS AUGUSTA (CA-31) :ノースロップ ガンマ2E爆撃機は、アメリカ重巡「オーガスタ」に2発の爆弾を投下し、爆片と爆風で損傷したが、アメリカ人乗員に負傷者はなかった。
Title: USS AUGUSTA (CA-31)
Caption: View taken as two Chinese bombs are dropped off her starboard quarter by a Northrop 2E of the Chinese Air Force. The incident took place at 4:30pm on the afternoon of 14 August 1937, five miles downstream from Shanghai proper.
Description: Courtesy of Vice Admiral Morton L. Deyo, USN (retired)
Catalog #: NH 77687
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
Original Date: Sat, Aug 14, 1937
写真は Naval History and Heritage Command NH 77687 USS AUGUSTA (CA-31) 引用。


2015.10.11【台湾演義】百年空軍伝奇 | Taiwan History


◆日米の太平洋戦争勃発前のアメリカ義勇部隊と中国空軍による対日戦争 ◇ American Volunteer Group

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーンに海路輸送されたアメリカ「フライングタイガーズ」カーチスP-40 戦闘機。中国国民政府に供与されたのではなく、中国空軍パイロットとして、アメリカ義勇軍が参加祖いた。:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
Rangoon Subject: The Flying Tigers - China Title: Rangoon Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01552引用。

中国でAVGの指揮官となったクレア・リー・シェンノート:AGVはアメリカ陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。

1937年8月に、中国江南で第二次上海事件が起こり、日中全面戦争へと突入すると日本国内では、戦争勝利を目指して、戦争体制を確立しようと様々な政策が採用された。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(右):1941-1942年、ビルマ経由で中国国民政府の中国空軍パイロットとして参戦したアメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」カーチスP-40 戦闘機修理班:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
P-40 Repair Group Subject: The Flying Tigers - China Title: P-40 Repair Group Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01535 引用。

中国軍のマークをつけたリパブリック社製P-43は輸出中止となったため,カーチス社製のP-40がAVGの主力戦闘機となった。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」カーチスCurtiss ホークHawk 81A-2 戦闘機:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
Curtiss Hawk 81A-2 Subject: The Flying Tigers - China Title: Al Foag Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01555引用。

カーチス社製P-35は米国には配備されなかった。

1931年8月に米国は,中国は航空機80機とオパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

写真(右):1941-1942年、アメリカ軍セバルスキー(Seversky) P-35 戦闘機:アメリカ軍は、セバルスキー社製のP-35を制式採用しなかった。そこで,中国,スウェーデン,日本などに輸出された。 日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にも日本軍にもセバルスキー製P-35戦闘機を輸出しているのは、商魂のたくましさを感じる。このような「死の商人」的な武器輸出の企業行動に思いと、アメリカは中国に進出した日本をやっかんで、反日活動を強めたと単純な誤解に至ってしまう。
Title: Seversky, P-35 Corporation Name: Seversky Aircraft Corporation Designation: P-35 Additional Information: USA Color or B/W: Media: Glossy Photo
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091201引用。


1937年の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

AGVには,1941年夏に米国の最新戦闘機カーチスP-40トマホーク供与された。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」リパブリック(Republic) YP-43 「ランサー」Lancer 戦闘機:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にリパブリック社製P-43108機を日米開戦1年前に貸与している。
Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the PictionID:42002303 - Title:Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the - - Filename:15_002978.TIF
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:15_002978引用。

リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していたのである。1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。

写真(右):南京,杭州を爆撃した日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機;1937年8-12月に,長距離無差別爆撃を行った。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

写真(右):中国がにおけるドイツのJu52輸送機とアメリカ義勇部隊:1930年代、中国はドイツ軍事顧問を招聘しユンカースJu52輸送機を郵便機として採用した。中国はドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちにアメリカ陸軍航空隊は、アメリカ義勇部隊款を支援し準正規のアメリカ陸軍航空部隊として日本軍と戦った。

写真(右):中国が導入したドイツのユンカースJu52/3m輸送機:1930年代、中国はドイツ軍事顧問を招聘しユンカースJu52輸送機を郵便機として採用した。中国はドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちにアメリカ陸軍航空隊は、アメリカ義勇部隊款を支援し準正規のアメリカ陸軍航空部隊として日本軍と戦った。Junkers Trimotor in China PictionID:43264972 - Title:Junkers Trimotor in China - Catalog:16_003760 - Filename:16_003760.TIF - - - - - Image from the Ray Wagner Collection.

1937年11月6日 の日独伊防共協定日独伊三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B):1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Developed by the Boeing Aircraft Co. at its own expense, the P-12 was became one of the most successful American fighters produced between the World Wars. Flown by both the Army and the Navy (as the F4B), the P-12 series consisted of an initial version and five additional models, B through F. The early versions used fabric-covered fuselages of bolted aluminum tubing, but the P-12E and F fuselages employed an all-metal, semimonocoque (stressed skin) construction. However, the P-12 did not complete the evolution into an all-metal aircraft because all variants had wooden wings with fabric covering.
The U.S. Army Air Corps received its first P-12 in February 1929 and the last P-12F in May 1932. The last of the biplane fighters flown by the Army, some P-12s remained in service until 1941. Boeing produced 366 P-12s for the Army, with more P-12Es built (110) than any other series.
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B):1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機の P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。P-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
TECHNICAL NOTES:
Armament: Two .30-cal. or one .30-cal. and one .50-cal. machine guns; 244 lbs. of bombs carried externally
Engine: Pratt & Whitney R-1340-17 of 500 hp
Maximum speed: 189 mph, Cruising speed: 160 mph
Range: 570 miles
Ceiling: 26,300 ft.
Span: 30 ft. Length: 20 ft. 4 in. Height: 9 ft.
Weight: 2,690 lbs. loaded
Serial number: 31-559.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B)
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Developed by the Boeing Aircraft Co. at its own expense, the P-12 was became one of the most successful American fighters produced between the World Wars. Flown by both the Army and the Navy (as the F4B), the P-12 series consisted of an initial version and five additional models, B through F. The early versions used fabric-covered fuselages of bolted aluminum tubing, but the P-12E and F fuselages employed an all-metal, semimonocoque (stressed skin) construction. However, the P-12 did not complete the evolution into an all-metal aircraft because all variants had wooden wings with fabric covering.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。

写真(右):1929-1933年頃、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B)の操縦席と計器盤:中央のスティックは操縦桿で昇降舵を操作して上下に運動する。床面にはフッとペダルがあり、垂直尾翼と連動して左右に運動する。この上下と左右の運動を組み合わせて三次元を操縦するには、熟練が必要である。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E cockpit at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The U.S. Army Air Corps received its first P-12 in February 1929 and the last P-12F in May 1932. The last of the biplane fighters flown by the Army, some P-12s remained in service until 1941. Boeing produced 366 P-12s for the Army, with more P-12Es built (110) than any other series.
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
写真は, National Museum of the United States Air ForceBoeing P-12E cockpit at the National Museum of the United States Air Force引用。

1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期ボーイングP-12B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機のボーイング P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。ボーイングP-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12B戦闘機:Boeing : P-12B
Catalog #: 00029135
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029135引用。

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ、編隊飛行中のボーイング(Boeing)P-12B戦闘機
Boeing : P-12B
Catalog #: 00029125
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029125引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m
全幅:9.12 m
全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン
  出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)
巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

カーチスとの競作に応じていたボーイングは、当時は弱小メーカーだったが、1928 年にP-12 戦闘機を開発した。P-12は小型軽量化をはかり、主翼は木製骨格に羽布張り、胴体はアルミ合金骨格の羽布張り、水平・垂直尾翼と補助翼のみ金属波板外皮を採用した。P-12戦闘機は、アメリカ陸軍が制式し、アメリカ海軍もF-4として清拭した。つまり、独立空軍が存在していなかったアメリカ軍で陸海両軍が採用したのである。NACAカウリングも取り入れられ、胴体も全金属構造に改めたられたのが後期型 P-12E/Fである。P-12は、ボーイングの初の大量生産機となり、300機以上が量産された。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12 戦闘機
PictionID:41897737 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000762 Boeing P-12 29-355 - Filename:16_000762 Boeing P-12 29-355.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41897737 引用。

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12E 戦闘機
PictionID:41898653 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A - Filename:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A.C.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41898653 引用。

1932年2月、第一次上海事変に際して、日本海軍の航空母艦「加賀」から日本海軍十三式三号艦上攻撃機3機、三式艦上戦闘機3機が江南で、中国軍のボーイングP-12E戦闘機と空中戦を行った。ボーイングP-12E戦闘機の操縦士は、アメリカ義勇部隊のロバート・ショート(Robert Short)で、日本の三式艦攻搭乗員を死傷させたものの、三式艦戦によって撃墜された。

写真(右):1934-1936年頃、ボーイング(Boeing)P-12F戦闘機
PictionID:41899368 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282 - Filename:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41899368 引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m、全幅:9.12 m、全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン 出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)、巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

写真(右):2005年、タイ王国航空博物館(Royal Thai Air Museum)に保管されているタイ王国空軍が採用したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):Ray Wagner Collection Image
PictionID:44987900 - Catalog:16_006101 - Title:Royal Thai Air Museum 2005 - Filename:16_006101.tif - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:44987900引用。

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

写真(右):2005年、タイ王国航空博物館(Royal Thai Air Museum)に保管されているタイ王国空軍が採用したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):Ray Wagner Collection Image
PictionID:44987912 - Catalog:16_006102 - Title:Royal Thai Air Museum 2005 - Filename:16_006102.tif- - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:44987900引用。

カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss : BF2C : Goshawk):主車輪を胴体前方下に引き込むが、そのための円形空間が大きく開いている。機首のラインは、エンジンカウリングから後方が火砲に大きく膨らみ、空気抵抗が大きいようにも見える。
Catalog #: 00011636
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011636引用。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII(Curtiss BF2C)戦闘機の操縦席前の計器盤とガラス風防:風防前面には筒型の眼鏡式射撃照準器が装着されている。
Curtiss : BF2C : Goshawk
Catalog #: 00011641
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011641引用。

1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。

中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の移転の面では国産化しないことで不利を被った。

写真(右):1934-1936年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用されたカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)
PictionID:40961111 - Catalog:16_000064 Curtiss XBF2C-1 9269 - Filename:16_000064 Curtiss XBF2C-1 9269.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:40961111引用。

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk)
Curtiss : BF2C : Goshawk
Manufacturer: Curtiss
Designation: BF2C
Official Nickname: Goshawk
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011628引用。

Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)
Piction ID:40961087 - Catalog:16_000062 Curtiss XF11C-2 9269 USN - Filename:16_000062 Curtiss XF11C-2 9269 USN.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:40961087引用。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

写真(右):1935-1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用されたカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):操縦席前方の筒型照準眼鏡は、オイジー(O.G.)式照準器とも呼ばれるが、1940年代からは、光学式照準器が普及した。1931年に開発された固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)を引込み脚に改修したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、同じ複葉機で、搭載した発動機もライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだった。しかし、引込み脚として空力的に洗練させたために性能は向上した。
Piction ID:43099438 - Title:Curtiss BF2C-1 first flight Sept. 13, 1934 - Catalog:16_003749 - Filename:16_003749.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:4309943引用。

カーチス社のアメリカ海軍艦上戦闘機の最後を飾ったのがカーチスホークII戦闘機だった。カーチス社は、1933年から固定脚だったF11C戦闘機の改修を始め、カーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)では、車輪を手動油圧ポンプで引き込むようにし、最高速力を30Km向上させた。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1):1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。
Curtiss : BF2C : Goshawk
PictionID:40961135 - Catalog:16_000066 Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1 - Filename:16_000066 Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:40961135 引用。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外グランデール(Glendale)、アメリカ海軍カーチスBF2C-1ホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1, 9596, VB-5B):中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の習得という面では自国生産しないことは不利だった。
Catalog Number: Mitchell028
Collection : Robert Mitchell Collection
Repository : San Diego Air and Space Museum Archive
Title : 28. Curtiss BF2C-1, 9596, VB-5B, Glendale
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog Number:Mitchell028 引用。

写真(右):1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):胴体下面に流線型(涙滴型)の増加燃料タンクを装備している。1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

写真(右):1937年頃、中国空軍第21戦闘飛行中隊トップエースのリュウ・チー・スン大佐(Liu Chi-Sun:劉志純?)のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk:鷹三型戦轟):1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発・ホークIII(Hawk III )艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行、胴体下面に流線型(涙滴型)の増加燃料タンクを装備している。中国空軍撃墜王となったリュウ・チー・スンは、ソ連製I-153戦闘機 、I-16戦闘機も乗機として空中戦に出動した。
Catalog #: 01014 .
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01014引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング281戦闘機P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 20th Pursuit Group):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。スパッツ付きの固定脚、開放式コックピット(操縦席)、張線で支える主翼など、従来の保守的構造も残しているが、スマートで空力的に優れた設計であるように見える。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味するが、機動性がある軽快な高速戦闘機をイメージさせる。
Description English: Boeing P-26As of the US Air Corps 20th Pursuit Group Source: United States National Archives
Source USAF
Author USAF
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:20th-p26as.jpg引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング P-26A (Boeing P-26)No 101 ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 17th Pursuit Group):ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Description P-26A No 101 assigned to headquarters, 17th Pursuit Group
Date 15 March 2009, 16:21
Source P-26Ano101
Author Bill Larkins
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:P-26Ano101 (4526389411).jpg引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年頃、アメリカ陸軍航空隊ボーイング281戦闘機P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。固定脚、開放式コックピット、張線式主翼と従来の保守的構造も残している。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味する。第20追撃集団に配備された。
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029533
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029533引用。

写真(右):1938年頃、ボーイング P-26A (Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)に乗り込むアメリカ陸軍航空隊の操縦士:ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029539
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029539引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイングP-26Boeing P-26)8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年頃、飛行中のボーイング P-26A (Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029528
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: :00069777引用。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ(カバー)付き固定脚で、斬新な設計のボーイングP-26Boeing P-26)P-26戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1938年8月27日のポストに掲載された、中国空軍のバルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(上)と、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(下): ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機I-153は、1939年から実戦使用されている。ソ連最後の複葉戦闘機で、操縦席からの視界を良好にするために、上翼はガル型で折れまげて胴体に連結されている。そこで、英語のガル(かもめ)と同じく、ロシア語でチャイカ(かもめ)の明用が付けられた。
Vultee V-11 and Polikarpov I-15.
Catalog #: 0406
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0406引用。

バルティー(Vultee) V-11軽爆撃機の諸元
初飛行: 1935年9月17日、制式: 1937年
最高速力: 370 km/h
全長: 12 m、全幅: 15 m

写真(右):1938-1940年,中国、最上級の「ファーストホテルバー」を気取ったアメリカ人の義勇兵たちは、中国空軍としてノースロップ2E軽爆撃機やカーチスBE2F複葉戦闘機などでポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機との戦列(少なくとも9機が写っている):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。
PRO SDASM Archives Follow
"Piltsker, Ricks,Sweeney, Van Timmeren, Schraman, Mchenry at 1st Hotel Bar"
Catalog #: 0090
Subject: The Flying Tigers - China
写真はSDASM Archives Catalog #: 0090引用。


ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ付き固定脚で、斬新な設計のP-26(Boeing P-26)戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1935-1936年頃、アメリカ陸軍に加えて中国・イギリス・ソビエト連邦への輸出販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069775
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069775引用。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

写真(右):1935-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2A軽爆撃機(Northrop Gamma 2A )のカーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069771
Manufacturer: Northrop
Designation: 2E
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069771引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かった。しかし、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体で、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。しかし、無粋な感じの車輪収納用スパッツは巨大であり、主翼下面の空気の流れを乱し、空力的には問題が多いように思われる。また、膠着装置の整備の簡易性から言っても、巨大なスパッツは不便である。中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の主力爆撃機として採用し、45機を輸入した。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2A軽爆撃機(Northrop Gamma 2A )のカーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW):全金属製・単葉は斬新な機体で、胴体には斬新な矢印のマーキングがある。ノースロップ・ガンマ2A(Gamma 2A)は、最初の生産型で、テキサコ(Texaco)に売却されて、飛行家フランク・ホークス(Fank Hawks)、別名スカイチーフ"Sky Chief"によって飛行した。カーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW)装備。この後のガンマ2BT(Gamma 2BT)は複座仕様(二人席)で操縦装置もタンデム式だった。プラット・ホイットニー (Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)空冷星形エンジン 500馬力 (373 kW)装備。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646342 - Catalog:16_006937 - Title:Northrop Gamma 2A - Filename:16_006937.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646342引用。

写真(右):1933-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069777
Manufacturer: Northrop
Designation: 2E
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: :00069777引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646428 - Catalog:16_006944 - Title:Northrop 2E N11-VVS M.>. Gallai - Filename:16_006944.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646428引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646367 - Catalog:16_006939 - Title:Northrop 2E - Filename:16_006939.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

写真(右):1935年11月28日、アメリカ陸軍への販売を企図して実機を飛行させたノースロップ社。着陸態勢に入ったノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍もソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646391 - Catalog:16_006941 - Title:Northrop 2E Sales Tour sold to Army 11/28/1935 - Filename:16_006941.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

写真(右):1934年、中国、アメリカのノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機を完成させた。ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、アメリカ陸軍に加えて中国・イギリス・ソビエト連邦への輸出販売を企図して開発された。
Northrops in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00032
SDASM.TITLE: Northrops in Factory
SDASM.DATE: 1934
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Northrops in [illegible] 1934"
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069775引用。

写真(右):1935年3月14日、アメリカ製ノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E)を完成させる。全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。
Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00033
SDASM.TITLE: Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.DATE: 3/14/1935
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Bulb-[illegible]"" ""25ft"" ""f:8"" ""3-14-35"" ""60""
SDASM.COLLECTION: George Arnold Collection
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

写真(右):1935-36年頃、ソビエト連邦に輸出するために撮影されたアメリカ製ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。しかし、無粋な感じの車輪収納用スパッツは巨大であり、主翼下面の空気の流れを乱し、空力的には問題が多いように思われる。また、膠着装置の整備の簡易性から言っても、巨大なスパッツは不便である。中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の主力爆撃機として採用し、45機を輸入した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45646404 - Catalog:16_006942 - Title:Northrop 2E for the USSR Northrop photo - Filename:16_006942.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646404引用。

写真(右):1935-1936年頃、中国空軍がアメリカから購入したノースロップ社製造のノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):胴体後方と主翼下面両端には「青天白日」の中華人民共和国の記章が描かれている。前金属製、単葉の新型爆撃機は、国防空軍力の急速な増強を図っていた中国、イギリス、ソビエト連邦に輸出、売却された。ノースロップ爆撃機前期シリーズの特徴となる主翼下面の車輪収納用の巨大なスパッツが物々しく、これではかえって空気抵抗が増えたり、空中機動性が低下しないかと心配になる。このようなスパッツは、整備する上でも、タイヤ交換や点検に不便である。
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma Catalog #: 00069781
Manufacturer: Northrop
Official Nickname: Gamma
Designation: 2E
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives By: SDASM Archives Follow Friend Family
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069781引用。

写真(右):1937-1942年頃、アメリカのノースロップ2EC軽爆撃機(Northrop 2EC Light Bomber)とフランス製ブレゲー(Breguet)27-5 偵察爆撃機(左):ブレゲー 27は、フランス軍が1928年の仕様書を出し試作を要請した戦闘機で、ブレゲーは、全金属製の一葉半(セスキプラン)、複座の戦闘機を試作した。胴体は短く、重量軽減を図り、胴体後方にブームを伸ばしてその先に尾翼を付けた。1930年、フランス軍はブレゲー 27偵察爆撃機を85機、1932年に45機を発注した。 中国は6機のブレゲー27偵察爆撃機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Catalog #: 0223
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646342引用。

ブレゲー(Breguet)27偵察爆撃機
乗員:2名(操縦士・偵察員)
全長:9.76 m、全幅:17.01 m、全高:3.55 m
翼面積:50.0平方メートル
自重:1,756 kg、全備重量:2,393 kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Hb1基500馬力
最高速度:236 km/h
航続距離:1,000 km
実用上昇限:7,900 m
兵装:前方固定:7.7 mm(.303 in)ヴィッカース機銃1丁
後方旋回:7.7 mm(.303 in)ルイス機銃2丁
爆弾:120 kg

写真(右):1938年、アメリカ陸軍ノースロップ (Northrop)BT-1爆撃機の急降下
Title: NORTHROP BT-1 (Bu# 0614)
Caption: Coded 5-B-18, seen in a dive, circa 1938. Note "Winged Satan" insignia of "Bombing 5".
Description: Original in Aviation History Branch, 1980.
Catalog #: NH 91165
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 91165 NORTHROP BT-1 (Bu# 0614) 引用。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機 の発展型が、ノースロップ社のBT爆撃機である。ノースロップ BT爆撃機 (BT‐2ができた時点でBT-1)は、全金属製・単葉・引込脚で、当時の新しい攻撃方法である「急降下爆撃」を取り入れた。開発の契機は、アメリカ軍が国内各社に急降下爆撃機の開発を要求したことである。ノースロップ社の開発した試作機は1935年8月に初飛行に成功し、アメリカ海軍に感情急降下爆撃機として採用された。その後、アメリカ海軍が改良型の開発を指示したのがXBT-2である。ノースロップ社はダグラス社に吸収され、改良型XBT-2は、SBDドーントレスの原型機として完成した。

写真(右):1934-1935年頃、アメリカ、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、YB-10の名称で48機の発注がなされた。
Description Martin B-10 Long Beach 1938 Date 25 July 2008, 13:24
Source Martin B-10 Long Beach 1938
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Long Beach 1938 (4800374631).jpg引用。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
AL61A-515 Martin B-10 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL-61 A and B Album Photo Images引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、飛行中のマーチン(Martin)B-10B爆撃機:マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
AL61A-460 Martin B-10B
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL61A-460 引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその奥に整列したノースアメリカン(North American) O-47A偵察機:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ。
Martin, B-12A
Catalog #: 01_00091081
Additional Information: USA, North American O-47A observation aircraft in background
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091081引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、格納庫の中でアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその手前に整列したノースロップ(Northrop )A-17A軽爆撃機:。
Northrop, A-17A
Additional Information: USA, With a Martin B-10 bomber behind Tags: Northrop , A-17A
Catalog #: 01_00091115
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091115引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091079
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091079引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機
Title: Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091078
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091078引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、主輪を引き込まないまま安全飛行をするマーチン(Martin)B-10爆撃機:試験飛行中のようだ。マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
Martin B-10B
Catalog #: 00005627
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005627引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1940年、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊マーチン B-10爆撃機
pictionid56896245 - catalogbd martin b-10 12 14 13.jpg - title--bd martin b-10 12 14 -- - filenamebd martin b-10 12 14 13.jpg--Born digital image that was acquired by the San Diego Air and Space Museum--------Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives pictionid56896245引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139W爆撃機の後上方の機銃座: マーチン139W爆撃機はB-10爆撃機の輸出型で中国やオランダに手出された。金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Martin : 139-W
Catalog #: 00068793
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068793引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1940年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ東20キロ、オークランド飛行場、アメリカ陸軍航空隊第91偵察中隊のマーチン B-10B偵察爆撃機
Description This is a rare and unusual photo taken with two of the large GE #21 flash bulbs on a time exposure. It really shows the underwing detail and all of the rivets that you don't see in a normal daytime photo. B-10 of the 91st Observation Squadron at Oakland Airport 1940
Date 13 December 2008, 10:48
Source Martin B-10BM Night flash photo
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員が整列し、自動車でやってきた将校の検閲を受けている。:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005729
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005729引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いているアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員:海上に不時着した場合に備えて、ライフジャケットを着て、航空用に酸素吸入装置を付けている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005714
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005714引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Catalog #: 00068795 Manufacturer: Martin Designation: 139-W
Notes: As B-10 for export, 1936-39
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1937年2月(?)、中国に到着した分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機(胴体後方が見えている)とその前に勢ぞろいした中国人とアメリカ人のスタッフ: つなぎ作業服を着こんだ技師・整備士8人(3人は略帽)、軍帽の中国軍将兵4人は黒の革靴を履いている。右端に黒の長靴を履いて帽子を被ったアメリカ軍人が勢揃いしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
Martin : 139
Catalog #: 00068838
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

しかし、アメリカ陸軍としては、各国の軍隊がアメリカ軍と同じ優秀な飛行機を装備する事には警戒心が強かった。そこで、友好国のみに輸出するとして、居改正を取っている。オランダ、中国はこの許可を得ることができ、トルコなどマーチンB-10爆撃機は輸出されている。マーチンB-10 爆撃機の初の実戦参加は、1937年8月、第二次上海事変・日中戦争の時、中国空軍に配備されていたマーチン139WC爆撃機が日本軍を攻撃したときである。その後、オランダ空軍が蘭印(インドネシア)に配備したマーチン139WH爆撃機も日本軍を攻撃している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:主翼の断面(左)、半球形機銃座の付いた機首(中央)が、棕櫚製ゴザと竹棒で囲まれた臨時組み立て作業場の中に見える。中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01082引用。

中国に船積みされた輸出仕様マーチン(Martin)139WC爆撃機は、上海に到着し、大型木製箱に梱包されたまま、上海、虹橋飛行場で組み立てられたようだ。飛行場の片隅に、現地で調達した棕櫚ゴザ・筵、竹で囲い込み式、屋根を葺いた作業用の小屋が作られたが、これは臨時の大きな掘立小屋である。一つの作業小屋での組み立て作業は、つなぎ作業服を着た中国人技師・整備士8人以上で、ここに、中国軍将兵やアメリカ軍人も随時、参加、協力したようだ。主翼を取り付けると、作業小屋には入らなくなるの、臨時の掘立小屋を撤去して、マーチン(Martin)139WC爆撃機の最終組み立てを行ったと考えられる。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:風雨をしのぐ、敵(日本)の目から隠す目的で、棕櫚製ゴザで覆われた簡易小屋の中で、アメリカと中国の技師が、主翼、胴体、膠着装置、エンジンなどを取り付け組み立てる。 中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、分解されていた機体の最終組み立て作業中のアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: 技師・整備士が機体の胴体上に乗り点検作業をしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真から推測して、飛行場の場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。飛行場の使用頻度も、繋留飛行機数も少ないために、飛行場滑走路は転圧のみで舗装はされていない。
Martin : 139
Catalog #: 00068834
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068834引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

写真(右):1937年2月、中国に到着した組み立ての終ったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。
Martin B-12 and unknown
Catalog #: 1609
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 1609引用。

マーチン社はマーチンB-10爆撃機の中国史用マーチン139WCを輸出し、1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、6機が上海虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようで、1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
AL61A-459 Martin B-10B
Catalog #: 00068795
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068795引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:手前には250キロ級の爆弾が専用運搬台車に載せられて待機している。雨でぬれた未舗装の滑走路、自転車で飛行機の周りに集まっている飛行兵や整備員。分解されアメリカから運ばれてきたマーチン(Martin)139WC爆撃機の胴体、主翼などを上海の飛行場で組み立てたようだ。場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。
Martin : 139
Catalog #: 00068833
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

中国が輸入したマーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。この大山事件を契機に、8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:胴体下面の爆弾槽に設けられた爆弾懸架に250キロ級の爆弾を搭載している。マーチン(Martin)139WC爆撃機の爆弾槽が開いているが、扉は軽量化と堅牢さを兼ねるように、波板構造となっている。爆弾は、木製台に車輪を付けた荷台で、爆弾を置く場所を木片で調整している。専用の爆弾懸架用運搬車は使われていないようだ。作業場所は、コンクリートで舗装されているように見える。
Martin : B-10
Catalog #: 00005688
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005688引用。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

写真(右):1937年以降、中国空軍の爆撃機に用意された模造250キロ級の爆弾と飛行帽・飛行眼鏡を着用した中国空軍の将兵:250キロ級の爆弾は、人間一人で持ち上げることはできない重量があるが、写真では将兵が1個ずつの爆弾を抱えている。爆弾を吊り下げる検潮用金具の輪が、爆弾1個につき2個ついているが、このことからも爆弾が本物ではないことが分かる。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01030
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01030引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されているマーチン B-139爆撃機:胴体下方に爆弾槽があり、爆弾を搭載していても空気抵抗が増えない。その爆弾槽扉が開いている状態で展示されている。アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。右上の複葉機は、ダグラス(Douglas) O-38F偵察機で、アメリカ陸軍航空隊のために、1931年から1934年にかけてダグラス社が156機を生産し、8機がO-38Fだった。太平洋戦争勃発時点でも、南紀課は部隊配備されていた。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The B-10, the first "modern" all-metal monoplane bomber produced in quantity, featured such innovations as retractable landing gear, a rotating gun turret and enclosed cockpits. Powered by two 775-hp Wright R-1820 Cyclone engines, Martin's advanced design made the B-10 50 percent faster than contemporary biplane bombers and as fast as most of the fighters. This capability convinced many U.S. Army Air Corps planners that bombers could successfully attack strategic targets without long-range fighter escort.
In the largest procurement of bomber aircraft since World War I, the Air Corps ordered 121 B-10s from 1933-1936. The Air Corps also ordered an additional 32 of these aircraft with 700-hp with Pratt & Whitney R-1690 Hornet engines and designated them B-12s.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

現在、マーチンB-10爆撃機は、オハイオ州、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されている。このマーチン爆撃機はB-10輸出仕様の139Wで、1938年にアルゼンチンに売却された機体の1機である。アルゼンチン政府はアメリカからの要請に応じ、親睦のために、1970年にマーチン139W爆撃機をアメリカ空軍国立博物館に展示用にアメリカ政府に贈与した。この機体は、テキサス州の第96修理中隊(96th Maintenance Squadron)で1973-1976年の間、修復、復元され、現在はオハイオ州デートン(Dayton)市スパーツ(Spaatz)通りにあるライト・パターソン空軍基地(Wright-Patterson Air Force Base)のアメリカ空軍国立博物館の格納庫の一角に展示されている。

写真(右):デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているマーチン B-139爆撃機の機首(下面に爆撃照準器の装着される爆撃手窓、上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔:アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Gen. Henry H. "Hap" Arnold, who called the B-10 "the air power wonder of its day," led 10 B-10s on a 8,290-mile flight from Washington, D.C., to Fairbanks, Alaska, and back in 1934. By the late 1930s, B-17s and B-18s had replaced the Air Corps' B-10s and B-12s, but the Chinese and Dutch air forces flew export versions in combat against Japan at the start of World War II.
TECHNICAL NOTES:
Crew: Four
Armament: Three .30-cal. machine guns and 2,200 lbs. of bombs
Maximum speed: 215 mph Cruising speed: 183 mph
Range: 1,370 miles
Ceiling: 24,000 ft.
Span: 70 ft. 6 in. Length: 44 ft. 9 in. Height: 15 ft. 5 in.
Weight: 14,700 lbs. loaded
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

写真(右):1937年以降、中国空軍も採用したアメリカ陸軍リパプリックP-43戦闘機::中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。
SDASM Archives
AVG Personnel Catalog #: 0136 Subject: The Flying Tigers - China Title: AVG Personnel
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0136引用。

ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):1941年以降、中国空軍の下で日本軍と戦ったアメリカ義勇部隊(AGV)カーチスP-40戦闘機とAGV部隊員:中国駐留のアメリカ義勇軍は、新鋭戦闘機を装備されており、日本機を撃墜すれば中国軍から褒賞が授与された。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image PictionID:48645782 - Catalog:16_008590 - Title:Republic P-43A 41-6687 near Esler Airfield 9Mar42 USAF 36137 A.C. - Filename:16_008590.tif
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_008590引用。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

2.米国は,1940年代から,軍備拡張・動員を行って,対日独への戦争準備をした。

1939年の米国陸軍総兵力は40万人であるが,同年9月に欧州大戦が開始されると,航空兵力の増強を中心に5億7500万ドルの陸軍予算が必要とされた。ルーズベルト大統領は現役の軍人を22万7000名に,郷土防衛軍を23万5000名に増強することを決め、1940年5月には(エンジン)四発大型戦略爆撃機B-17を含む5万機の航空機を要求した。米陸軍の予算は,1940年80億ドル,1941年260億ドルに急増した。そして,1941年6月までに150万名の兵力が動員されることになる。このよう戦備増強が日本はもちろん,米国でも行われている。戦争に備えてきたのは、日本ばかりでなく、米国もそうである。日本委任統治領の南洋諸島に大艦隊をもって侵攻する「オレンジ」作戦、すなわち後の「レインボー」計画も、周到に準備された。航空兵力の大拡充も、対ドイツ戦、英国への軍事支援が第一の目的であろうが、中国、英国植民地ビルマ(現ミャンマー)やインドに対する軍事支援にも結びつけられている。

3.アメリカは、第二次世界大戦に自ら参戦する以前から、イギリスへの輸送船団を護衛し、軍需物資を貸与していた。そして、1941年から,本格的に中国に対する軍事援助も開始した。アメリカ人の軍事顧問を派遣し、アメリカ義勇部隊(AVG)を創設して,中国側の空軍として、主に中国駐留の日本軍に対して航空攻撃を仕掛けた。これは、アメリカ義勇部隊(AVG)やフライングタイガーズによる、アメリカの宣戦布告なき対日戦とみなすこともできる。

1937年8月、上海事変が始まると、中国にいた米陸軍退役軍人Claire Lee Chennaultは、「もし中国に100機のまっとうな航空機と100人の腕の立つパイロットがいれば、ジャップの航空兵力を一掃できるのに」と言った。

"Boy, if the Chinese only had 100 good pursuit planes and 100 fair pilots, they'd exterminate the Jap air force!"

写真(右):1941年頃、アメリカ軍クレア・シェンノート中国空軍大佐・蒋介石夫人の宋美麗・中国最高指導者の蒋介石:クレア・リー・シェンノート( Claire Lee Chennault, 1893ー1958:中国名;陳納徳)は、アメリカ陸軍航空隊の将校として日中戦争では、中国空軍の参謀長として活躍した。中国でAVGを編成できたのは,クレア・リー・シェンノートの要請を承認した米国陸軍航空隊・大統領だけでなく,蒋介石とその夫人宋美麗の米国への協力姿勢も大きく影響している。

クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault :1893-1958)は、1937年4月にアメリカ陸軍航空隊を退役して、蒋介石とその夫人・宋美麗(浙江財閥出身でアメリカ留学、英語に堪能なクリスチャン)の支援と給与を得て、中国が購入した戦闘機を操縦して、中国空軍パイロットとなった。そして、中国空軍の顧問となり、自ら日本機を迎え撃った。その傍ら、アメリカ軍にも連絡を取り、義勇部隊を組織するように、パイロットと優秀な航空機を送ってくれるように要請したのである。クレア・リー・シェンノート(Claire Chennault)は、中国空軍大佐として、年1万5000ドルで雇われた。中国空軍を増強して、日本を攻撃すべきであると考えた。

クレア・シェンノート(Claire Chennault)がアメリカに中国支援を訴えのため,1940年11月にシェンノートの案が財務長官ヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)に示され、受け入れられたという。しかし,これは現在の米国の一般的見解であって,退役軍人の意見が大きく反映されたというよりも,中国政府高官,特に宋美麗など一流の外交術を備えた中国人の支援要請も,ルーズベルト大統領や軍に大きな影響を与えたに違いない。中国への特別航空隊創設は,1940年11月30日にソーンT.V.Soong が財務省モーゲンソーに働きかけた結果,1億ドルものローンが認められ,武器貸与法による兵器購入が促された。シェンノートは、航空機500機を配備した特別航空部隊Special Air Unitを編成すれば、中国の日本軍を壊滅させるだけでなく、東京をも爆撃できるとの意見が注目されたのであろう。これが、アメリカ義勇部隊American Volunteer Groupの始まりである。

AVGの給与は月500ドル-700ドルで、上級指揮官ほど高い給与が設定されている。また,日本機を1機撃墜(確認要)するごとに、500ドルのボーナスがでた。これは現在の月給で1万ドル以上に相当する。米国で募集されたAVG第一陣は1941年7月10日にサンフランシスコを出発した。そして、1941年夏にはAVG、後の「空飛ぶトラ」 Flying Tigersが中国とビルマで活躍することになる。

AVGパイロットは,アメリカ陸軍所属の航空隊パイロットで志願したものである。つまり,陸軍航空隊がリクルートしたパイロットが,同意の上で,AVGとして,中国空軍に所属して,日本軍と闘うのである。AVGに参加するには,誓約書Loyalty chitに署名しなくてはならない。その内容な次のようなものである。

写真(右):AVG誓約書:1941年7月29日ビルマの首都ラングーンで署名されたもの。日米戦争の開始は1941年12月8日であるから、その4か月前には、アメリカ人の義勇兵が参戦に馳せ参じたことになる。

署名場所
署名期日
私は,ボランティア(義勇軍)として,中国空軍に------日から---日まで勤務いたします。
この期間の間,私は中国に忠誠を誓い,指揮官の命令に服従し,さらに中国の軍法・規則に従うすることを誓います。
任務終了後は,この任務に関するいかなる軍事的事項も秘匿し洩らすことはありません。
本人署名
証人署名

この誓約書にAVGのメンバー全員が署名するように求められたしたのである。

日本の攻撃に苦しめられている中国は、中立国米国の支援を受けていたが、これはつつもフランクリン・ルーズベルト大統領を初め、多数の米国軍人市民が、日本の対アジア戦略を脅威と感じていたからである。そこで、米国は、世界の兵器庫として、中国に対しても、英国にしたのと同様、軍需物資の提供をした。日本が広東、海南島など中国南岸を占領した後は、物資の運搬は、ビルマから中国雲南省・四川省に抜ける道路(ビルマ公路)が中心になった。ビルマは英国植民地であり、英国への軍需物資といっしょに、中国にも、険しい山道をうねるようなビルマ公路によって運ばれた。そして、日米開戦後の1942年からは ハンプ(こぶ)と 呼ばれた山岳域空路も加わって、支援の手が差し伸べられたのである。

ルーズベルト大統領は、1940年末から1941年初頭に、リパブリックRepublic社の戦闘機P-43「ランサーLancer」108機を武器貸与Lend-Leasedし、特別部隊"Special Air Unit"創設するように指示している。そして、これらの戦闘機がアメリカ義勇部隊American Volunteer Groupに配備された。日本も英国植民地のビスマのラングーンから中国への補給路ビルマルートを遮断しようと、航空兵力による爆撃、偵察も行った。フランス領インドシナへの進駐もこの中国への援助ルート「援蒋ルート」の遮断が大きな目的である。そこで、米国も日本軍に対抗して、中国南西部とビルマで、中国と英国の協力のもとで、米国義勇部隊American Volunteer Groupが組織した。これは、米国軍人や退役軍人が、個人の資格の義勇部隊として、日本軍と戦うのであるが、歩兵であれば(スペイン内戦の国際旅団のように)ともかく、個人で戦闘機を購入、運搬、整備、燃料・弾薬補給できるわけがない。中国軍だけではなく、米軍の支援が不可欠である。

1941年12月2日付AVG報告書では、AVGは3コ中隊(飛行隊)、パイロット82名、航空機79機(稼動機62機)を保有していた。 武装した航空機は60機、通信装置を装備した航空機は60機あった。トマホーク発送資料によれば、1941年1月〜3月の3ヶ月間に中国支援のために、戦闘機カーチスP-40「トマホーク」100機が送られたが、これらの機体は同年5〜7月に月々約30機ずつビルマのラングーン港に到着している。分解されて運ばれた機体はここで組み立てられ、テストされた後、AVGに引き渡された。この戦闘機組み立てには、中国南西部から航空機組み立てになれた中国人熟練労働者175名がつれてこられている。AVGの戦闘機は、ビルマ北部あるいは中国南西部の基地からビルマルートの護衛や中国の日本軍攻撃を行った。ただし、1941年11月7日付けのラングーンからの手紙には、友人が3機も友軍の飛行機を壊したことが述べられ、雇用条件、勤務管理体制が不備なことが改善点として述べられている。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。
【目次】 ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで/アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦/ドイツ革命とその反動/ドイツ・ワイマール共和国の混乱/共和国安定期から世界大恐慌へ/ナチ党ヒトラー独裁の始まり/ナチスの再軍備・対外膨張/第二次ヨーロッパ大戦の勃発/対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争/ユダヤ人殲滅のための世界戦争/ヒトラー第三帝国の崩壊/ナチ・プロパガンダ神話の真実

◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、伝統的な家族観を重視し、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。普段から国防重視の発言をしていても、それは人気取りのポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであり、本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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