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◆1939年8月23日 独ソ不可侵条約: ヒトラー・スターリンの同盟 写真(上):1939年9月28日,独ソ不可侵条約付属の東欧領土分割秘密協定に署名するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop:1893年4月30日-1946年10月16日)とソ連指導者ヨセフ・スターリン(右後方):1939年8月23日にソ連外相モロトフと独ソ不可侵条約に署名する外相モロトフ;Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag ADN-ZB/Archiv Sowjetunion, September 1939 In Moskau wird am 28.9.1939 zwischen dem Deutschen Reich und der UdSSR ein Grenz- und Freundschaftsvertrag sowie eine gemeinsame politische Erklärung unterzeichnet. Der deutsche Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop während der Unterzeichnung; v.r. J. W. Stalin, der sowjetische Generalstabschef B. M. Schaposchnikow, Botschaftssekretär Perlow [gemeint ist Wladimir Pawlow] von der sowjetischen Botschaft in Berlin und der UdSSR-Botschafter in Berlin Schkwarzew. Abgebildete Personen: Ribbentrop, Joachim von: Außenminister, NSDAP, Deutschland Schaposchnikow, Boris: Marschall, Sowjetunion (GND 11882600X) Schkwarzew, Alexander: Botschafter in Deutschland, Sowjetunion Stalin, Josef W.: 1878-1953; Marschall, Vorsitzender des Ministerrates, Generalsekretär der KP, Sowjetunion (GND 118642499) Date 28 September 1939 Collection German Federal Archives Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-H27343
Source U.S. National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 540196.
写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty File:Bundesarchiv Bild 183-H27343, Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag.jpg引用。


写真(上):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ヨセフ・スターリンとソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)
English: This is the official state portrait of Stalin, which would be hung in schools and in factories, painted by Isaak Brodsky Date 1930s? Source Original publication: State portrait, so commissioned by the USSR. Immediate source: https://www.oceansbridge.com/shop/artists/b/bri-buy/brodsky-isaak/portrait-of-joseph-stalin-1 Author Isaak Brodsky (Life time: Died in 1939 in Leningrad.) Other versions File:Isaak Brodsky stalin02.jpg
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-1.jpg引用。



図(左):1939年10月刊行The Washington Star.掲載、ドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー総統とソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリン書記長の結婚というおぞましい独ソ不可侵条約を描いた風刺画
:反共産主義ナチスと反ファシストのボリシェビキの驚くべき同盟だが「このハネムーンはいつまで続くのか疑わしい」と評されている。  Title Wonder how long the honeymoon will last? Names Berryman, Clifford Kennedy, 1869-1949, artist Created / Published 1939 Oct. 9. Repository Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA
写真は、Library of Congress Online Catalog Reproduction Number LC-USZ62-42443 引用。

図(右):1989年修正版「1939年ソビエト=ナチ同盟の結果:バルト諸国独立を再興すべし」:1939年10月The Washington Star.独ソ不可侵条約の風刺画を踏まえた1989年のバルト諸国のポスター。ヒトラーは1939年版のタキシードでなく突撃隊の制服でバルト諸国(リトアニア・ラトビア・エストニア)をスターリンへプレゼントしている。花嫁スターリンは、ナチ党鍵十字ではなく共産党赤い星・槌鎌で飾っている。1989年版では反共産主義色を強めている。 Poster denouncing the Molotov–Ribbentrop Pact. Date 1989 Source Europeana 1989 Author Daugavas vanagi (based on 1939 cartoon by Clifford Berryman)
写真は Wikimedia Commons、Category:Molotov-Ribbentrop PactFile:Poster denouncing the Molotov–Ribbentrop Pact.jpeg 引用。

1.1939年8月の日ソ対決、ノモンハン事件の終結

1ー1.日ソ停戦独に関係なし : 米記者団へ堀内大使ステートメント
日付 1939-09-22URL URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335762
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ワシントン二十日発同盟】堀内駐米大使のアメリカ新聞記者団に対する日ソ停戦協定に関するステートメントの要旨はつぎの如くである

 満蒙国境、ノモンハン附近における日ソ停戦協定は九月十六日発表をされたが日本政府は欧洲戦争に介入せず専ら日支事変処理に邁進せんとするの根本方針に基いて戦闘停止ならびに国境劃定交渉開始に同意するものである、この独自的紛争停止に関する協定に何らかのより深き意義を付せんとすることは重大なる誤解を招く所以であるのみならず同協定をもって不侵略条約の締結或はさらに強度の日ソ接近の前提なりとなすのは全く根拠のないものである、而して同協定締結に際しドイツが仲介の労を執ったとの噂も又全く事実無根である

堀内大使は更に支那における日本軍占領地帯に戦火の波及するを阻止せんがための措置について左の如く説明した  我々はこの問題が外交々渉によって円満に解決せんことを心から希望しているが日本政府の要望は日本政府が既に声明した通り日本は欧洲戦争に介入することなく支那事変の解決に邁進するものなりとの根本方針の一部をなすものである

1ー2.ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説
1939-10-07 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339149
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


BT-7  ノモンハン事件の戦況に付ては地方長官会議の席上陸軍当局から説明があり既に是は報道された所だが、第一次ノモンハン事件発生以来四ヶ月、第三次事件に至る間の状況は一般に窺知するを得なかっただけに、この率直明快な公表によって国民は今後の覚悟を一層強固にし、国防国家体制の確立に向って全力を尽さねばならぬことを痛感したものと思う。

又その精神動員の上に与えた効果も蓋し多大なものがあったと信ずる。さて一国が予想する兵力に対して必勝を期せんとせば、数に於て優勢を占めることが第一の条件であるが一歩を譲ってその兵力量の劣勢を補うということになれば、精神の砥励、訓練の精到、統帥の卓越、戦法の選択、編制装備の優性等によって作戦能力の向上を図る外はない。然も斯かる作戦能力にも限度があり、或程度は数の比率を無視する訳にはゆかぬ。また近代戦に於ては軍の装備、就中空軍勢力及び機械化の優劣が勝敗に影響する事は極めて大であり、如何に勇敢にして訓練精到であっても、旧式装備の軍は到底近代装備の軍の数であり得ないという事は、陸軍当局の既に屡々指摘した所である。


九五式軽戦車  然るに一般には、ソ連軍の機械化、兵装備に関して認識する所も少ないようであるが、最近の急激にして大規模なソ連の軍備拡張に付ては之を疎かに看過することは出来ぬ。従来思想赤化に対してのみ警戒していた世界をして、更にその武力的脅威を感ぜしめつつある事を閑却してはならぬ。一九二九年の赤軍総兵力は五十六万と算定されていたのだが、八年後の一九三八年には実に二百万の常備軍を編制、七千五百の戦車を有するに至った。然も此等戦車と装甲自動車、乗車歩兵及び砲兵其他を以て独立機械化部隊約三十箇を編制師団の大部には固有の機械化部隊が配属しているということであり又その化学戦装備の徹底化と火力装備の上でも列国陸軍中優位を占めている様だ。

その砲火力に付いて云えば三百九十二箇中隊の軍団重砲兵と一千四百二十箇中隊の軽砲兵等を有する点から推しても、その尨大な編制を知ることが出来よう、軍の機械化は第二次五ヶ年計画の段階に於ける自動車及びトラクター工業の発展によって飛躍的に強化したもので、戦車の如きは一九三三年の二千台から三千台四千台六千七百台と増拡、三八年には七千五百台を数うるに至ったのである。


九七戦  空軍についていうも、第二次五ヶ年計画の階段に於て国産機を以て整備し得るようになり、一九三三年の二千五百機から逐年三千台、四千台、五千五百台と拡充し、六千五百台を整備するに至っている斯くの如き大陸軍の建設を茲数年間にやってのけたソ連は、今度はどんな方針に出んとするのであろうか。恐らくその質的強化と技術的向上を企図するものと見られているが、此間複雑怪奇な国際情勢に対処し、自主独往東亜の安定を期する上には相対的軍備の均衡に依って、防衛の実を保障せねばならぬ。そのためには兵力量の増強と共に火力装備、機械化装備、航空防空装備の増強など物的戦備の充実に邁進すべきことが極めて緊切であり、この点十分の工夫を要するであろう。

冠絶せる精神と訓練に加えて物的戦備の完壁を以てせば正に鬼に金捧であり、斯くてこそ多数の損傷をして無意義たらしむることなく、又尽忠報国の権化として国境線に華と散った英霊を慰めることを得るものと言わねばならぬ。

ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説 引用終わり。

写真(右):1930年代、ソビエト連邦、1928年初飛行、1930年に就役し長期間、広範に使用されたソ連空軍ポリカールポフR-5複葉偵察爆撃機(П-5):R-5の諸元: 乗員: 2名 全長: 10.56 m 全高: 3.25 m 翼幅: 15.5 m 翼面積: 50.2 m2 空虚重量: 1,969 kg 運用重量: 3,247 kg 発動機: ミクーリン M-17B液冷エンジン507 kW (680 hp) 最高速力: 228 km/h 航続距離: 800 km 実用上昇限度: 6,400 m 上昇率: 1,000 mまで2.1分 翼面荷重: 64.7 kg/m2 馬力荷重: 0.16 kW/kg 兵装 前方固定7.62mm PV-1機関銃 1丁、7.62mmDA後方旋回機関銃 1丁 爆弾搭載量: 250 kg 爆弾
Description Русский: Р-5. Date 1930s Source Уголок неба. Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov R-5 File:R-5-2-razvedchik.jpg引用。


◆モンゴルの草原では、降水量の少なさから川の両岸にある豊富な牧草を利用し、丘陵は、斜面も放牧地となるために、人為的な境界にならないのであって、1939年のノモンハン事件の原因は、遊牧民の境界線についての日本人の誤解が元だったという説がある。たしかにコモンズ利用形態としては、人為的な国境を引くことはできないが、「誤解」というのは誤りである。
ノモンハン事件の原因は、「誤解」という意図せざる過誤ではなく、日本が満州帝国を傀儡化し、モンゴル人民共和国との国境を住民を無視して策定したこと、ソ連がモンゴル人民共和国を傀儡化し、満州帝国との国境を住民を無視して策定したこと、すなわち「帝国主義」「支配者民族意識」「優生学的イデオロギー」という身勝手な思い上がりにある。

写真集:ノモンハン事件参照。

写真集:ノモンハン空中戦の実相参照。


2.第二次大戦の勃発直前の独ソ不可侵条約の締結ーファシズムとボリシェビキの勢力圏承認

I号戦車 ノモンハン事件の大規模な国境紛争は、1939年8月31日,第二次大戦勃発の直前に停戦となる。ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたし,その後,ソ連はドイツとの秘密協定に基づいて,ポーランドの東半分を軍事占領してしまう。英仏の参戦は9月3日で,これは英仏とポーランドとの相互援助条約に基づいたドイツに対する宣戦布告である。ただし,ソ連には宣戦布告していないのであって,外交の権謀術数を見る思いがする。

ノモンハン事件では,ソ連側は死傷者9284名の損害を出したとされていた。しかし,ソ連崩壊後明らかになったソ連側死傷者の数は,2万3,926名であり、その内、死者は6,831名、行方不明1,143名、重傷1万5,952名だった。つまり、日ソ両軍とも大損害を被っている。日本がソ連を恐れたように、ソ連も日本軍の強さを認めざるを得なかった。

図(右):1923年、第一次世界大戦後の講和条約で新たに独立が認められた東欧ポーランド、分割されたオーストリア=ハンガリー帝国のルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリー、バルト三国リトアニア・ラトビア・エストニア、北欧フィンランド;1939年9月の第二次世界大戦後、ポーランドは独ソに分割され、ソ連はバルト三国を併合し、1939年11月に対フィンランド侵攻「冬戦争」を始めた。いずれも1939年9月のノモンハン事件の停戦後、1939年11月までの動きである。Description English: Map of Europe in 1923. Français : Carte de l'Europe en 1923. Date 13 January 2009, 16:16 (UTC) Source Map_Europe_1923-fr.svg Author derivative work: Fluteflute (talk) Map_Europe_1923-fr.svg: Historicair
写真はWikimedia Commons, Category:Maps showing the aftermath of World War File:Map Europe 1923-en.svg引用。


写真(右):1939年8月23日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、独ソ不可侵条約の署名を終えたソ連共産党指導者ヨシフ・スターリン(右2人目)、外務人民委員モロトフ(右端)、ドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ(左2番目);1939年4月、日本陸軍満州駐屯軍の関東軍の参謀辻政信少佐は、満州国境紛争処理の基本方針を定めた「満ソ国境紛争処理要綱」を作成した。そして、1939年4月25日、関東軍司令官植田謙吉大将は、恒例の師団長会合で、この基本方針を関東軍作戦命令第1488として発令した。こうして、「満『ソ』国境ニ於ケル」『ソ』軍(外蒙軍ヲ含ム)ノ不法行為ニ対シテハ周到ナル準備ノ下ニ徹底的ニ之ヲ膺懲シ『ソ』軍を慴伏セシメ其ノ野望ヲ初動ニ於テ封殺破摧ス」という強硬な攻撃姿勢が基本となった。そして、「一時的ニ「ソ」兵ヲ満領内ニ誘致、滞留セシムル」「国境線明確ナラザル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定シテ之ヲ第一線部隊ニ明示シ」「断乎トシテ積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スベキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ジテ唯第一線現場ニ於ケル必勝ニ専任シ万全ヲ期ス」と旺盛な繊維のもとで強硬な姿勢をとることが命令された。つまり、対中国戦争と同様、ソ連・モンゴルにたいしても、越境行為を徹底的に「膺懲」するとしたのである。もちろんこの国境線は、日ソ間で乖離しており、「越境」の判断は日本側に拠ったのである。
Русский: На фото слева направо заведующий юридическим отделом МИД Германии Фридрих Гаусс, министр иностранных дел Германии Иоахим фон Риббентроп, секретарь ВКП(б) Иосиф Сталин, министр иностранных дел СССР Вячеслав Молотов Date 23 August 1939 Source http://mtdata.ru/u25/photo72FB/20634308905-0/original.jpg Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov
写真はWikimedia Commons, Category:Joseph Stalin in 1939 File:На заключении советско-германского договора о ненападении.jpg引用。


1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,
1)相互に相手の領土の不可侵,
2)一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
3)相互間の紛争の平和的解決
を骨子とした,期限10年の条約である.

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し,ポーランドと相互援助条約(軍事同盟)を締結していた英仏が9月3日に,対独宣戦布告をしている。そのような状況で,ソ連軍は,ポーランドの東半分を軍事占領し,ドイツとポーランドを分割する。

ポーランド分割占領は,ヒトラーとスターリンであらかじめ合意された独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいていた。ポーランド攻撃は,ポーランド在住のドイツ人(民族ドイツ人)が,ポーランド政府に迫害されていること,離れドイツ領である東プロイセンとの回廊を領土として要求し,拒否されたこと,ポーランド軍によるドイツ放送局の襲撃事件(実際は自作自演)などである。ヒトラーは,生存圏の確保のために,勢力を拡大したいだけであったのか。

1939年9月に,ソ連は,ポーランド占領をしたのは、ドイツが盾となり,英仏の干渉を受けないと考えたからであろう。バルト三国の併合の後,1939年11月には,フィンランドへも「冬戦争」を仕掛けている。



Molotov-Ribbentrop: The Pact That Changed Europe's Borders


写真(左):1939年8月23日,独ソ不可侵条約に署名する外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
(Joachim von Ribbentrop:1893年4月30日-1946年10月16日));後方には,スターリン,ソ連外相モロトフ。写真(右):独ソ不可侵条約に署名する外相モロトフ;後方には,スターリン,ドイツ外相リンベントロップがみえる。独ソ不可侵条約は,第一次大戦の途中にドイツとの和平条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結し,戦争から抜け出たレーニンの精神に沿っているのかRecord creator General Services Administration. National Archives and Records Service. Office of the National Archives. (ca. 1949 - 1985) Title Soviet Foreign Minister Molotov signs the German-Soviet Boundary and Friendship Treaty; Joachim von Ribbentrop and Josef Stalin stand behind him, Moscow, September 28. 1939. Von Ribbentrop Collection., ca. 1946 - ca. 1946
Source U.S. National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 540196.
写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty 引用。


独ソ不可侵条約で最も重要だったのは、秘密議定書の部分である。これは,東欧における独ソの勢力圏を定めた。ソ連の勢力圏は,フィンランド、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアのソ連隣接地域ベッサラビアである。ドイツの勢力圏は,バルト三国のリトアニアのごく一部である。そして,ポーランドは分割され,ナレフ川、ビスワ川、サン川を境界として,東西がソ連とドイツに分割されることになった。

ドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約は期限10年であるが,1週間後には,ドイツがポーランド侵攻を開始し,遅れて,ソ連もポーランドを占領した。

写真(右):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、ソ連共産党指導者ヨシフ・スターリンの下で独ソ不可侵条約付属の独ソ秘密国境協定に署名する外務人民委員モロトフとドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ(後列左端の影)、外務省通訳官V.N. パブロフ(V.N. Pavlov):1939年9月1日、ドイツのソ連侵攻でポーランドが壊滅、ソ連はポーランド政府が崩壊して危機に陥ったウクライナ人、ベラルーシ人の保護を名目に、ポーランド西部に進駐した。さらに、バルト諸国、フィンランドなど独ソの勢力範囲を分割した。ファシズムと共産主義の共謀したヨーロッパ分割が決まったのである。
Русский: Нарком иностранных дел СССР В.М. Молотов подписывает договор о дружбе и границе между СССР и Германией. Среди присутствующих: И.В. Сталин, переводчик МИД В.Н. Павлов Date 28 September 1939 Source Победа. Фотодокументы Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov (1906–1944) Alternative names English: Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov Русский: Михаил Михайлович
写真は Wikimedia Commons、Category:Joseph Stalin in 1939 Category:Joseph Stalin in 1939引用。


第二次世界大戦の勃発によって,世界情勢は大きく変化してきており,今後のソ連,米国の動向が注目されていた。そのような時期に,日本としては,好き好んで,独ソ不可侵条約を締結したソ連に攻勢を掛ける必要はない。それどころか,ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されている。ということは,東欧方面,バルト諸国,フィンランド,極東方面に兵力を集中し,攻撃できるというイニシアチブを握っている。


Подписание пакта Молотова-Риббентропа. (1939) Stalin 1939 Molotov Ribbentrop Pakt Pact


3.第二次大戦の勃発後のソ連によるバルト海・フィンランド侵攻ーファシズムとボリシェビキの勢力圏承認(2)


写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、西レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1936年式76.2ミリ(3インチ)起動野砲(76 K 36)を検分している。
;ソ連赤軍は76mm師団砲M1936(F-22)と称した。ソ連では機械化自動車化部隊を育成していたので、火砲を牽引するのも自動車や装軌式トラクターあるいは専用の牽引車を使用していた。自動車化に対応できるように、野砲の砲車にはゴムタイヤを装備している。
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa 76 mm:n kanuuna vuodelta 1936 (76 K 36).
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-02-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113747引用。


1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

1939年11月30日,ソ連はフィンランドとの「冬戦争」を始める。これは,1918年にソ連に脱出したフィンランドのソ連傀儡O.W. Kuusinenを政府首班とするように要求し,断られると,フィンランドの倍以上の兵力で攻撃を仕掛ける。しかし,フィンランドは,国内での頑強な抵抗に直面する。

写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車: ソ連赤軍のBT-5快速戦車は1932年10月21日に試作車が完成、1933年から生産された第二次大戦当初のソ連軍主力戦車である。主砲の42口径45ミリ戦車(M1932 20K)は、原型が対戦車砲であり、砲弾の貫通力が高く、対戦車戦闘能力は十分あった。しかし、重量11.5トンと軽量化して、M-5 V型12気筒液冷ガソリン400馬力を搭載して、最高速力52km/hの快速を発揮できた反面、装甲は、主砲防盾 20ミリ、砲塔前面・側面13ミリと薄かったため、3.7センチ対戦車砲によっても撃破された。BT-5快速戦車の装甲は車体前面 13ミリ、側面 13ミリ、後面 10ミリ、上面13ミリ、底面 6ミリ、である。
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunuja.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165399引用。


BT-5快速戦車は、騎兵を念頭に、縦深浸透攻撃のために開発された快速戦車で、1932年10月21日に試作が完成し、1933年から1万両が量産された。キャタピラーを外して、路面を快速装甲することも可能だったが、これはヨーロッパの道路以上を念頭に置いていたようだ。

写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車と折り重なるソ連兵士の死体:ソ連軍側は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。頑強な抵抗にあったフィンランド軍は3回目の夜襲で包囲陣を二分することに成功した。
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunu..
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165401引用。


BT-7 ソ連赤軍BT-5快速戦車の諸元
乗員3名
全長 5.50m
車体長 5.50m
全幅 2.23m
全高 2.20m
重量 11.5t
最高速力 装軌52km/h・装輪72km/h
航続距離 装軌120-150km・装輪200-250km
主砲 45mm20K戦車砲(携行弾数115発)
副兵装 7.62mmDT機関銃1挺(携行弾薬2,709発)
装甲 防盾 20mm 砲塔: 全周 13mm 上面10mm
車体: 前面 13mm 前端40mm 側面 13+4mm 後面 10-13mm 上面 10-13mm 底面 6mm
発動機 M-5 V型12気筒水冷ガソリンエンジン400hp


写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いで勝利したフィンランド国防軍の鹵獲したソ連赤軍BT‐5快速戦車
;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Lemetti Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa BT-5 panssarivaunu.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114276引用。


冬戦争の1940年2月2日、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西にソ連軍を包囲した。しかし、ソ連軍はBT-25快速戦車と有効な機関銃部隊があったため、包囲されたソ連軍は頑強な抵抗をつづけた。テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘のソ連軍に対して、フィンランド軍は、3夜連続で夜襲を仕掛けた。ソ連赤軍第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。フィンランド軍は3日目の夜襲によって、ソ連赤軍の包囲陣を二分し撃破できた。そして、BTT-5快速戦車の多くを撃破し、折り重なるソ連兵士の死体も発見した。

3−1.ソ連外相[モロトフ]の演説 : 社説
大阪朝日新聞 日付 1940-03-31 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336503
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 去る三月十三日、ソ芬間に停戦成立し、ソ連の北欧工作が一段落を告げるや、それによって再び余力を生ずべきソ連が、次にいかなる方面に積極的行動に出づるであろうか、その向うところはバルカンか近東か、はたまた極東か、このいずれかの方面に対するソ連の侵攻は恰も定説の如くに喧伝されたところであるが、果してソ連の真意如何。この時に当って二十九日のソ連最高会議に対して行ったソ連モロトフ外相の対外方針に関する演説が世界の注目を浴びているのは蓋し当然であろう。ただ右演説に関するモスコー電報は、いささか詳細を欠いている憾みはあるが、なおソ連今後の動向を示唆するに十分である。

しかして、右演説の中から特に指摘せねばならぬことは、ソ連はその独自の外交政策を遂行し、英仏対独の戦争に参加せず、依然中立の態度を取ることを声明した点である。

写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら、家族・友人を守るためなら頑強に抗戦した。「大祖国戦争」のためなら、兵士の士気も上がった。しかし、隣国フィンランドに対する侵攻には、その正当な理由が見いだせず、士気は低かったようだ。赤軍レニングラードが、青軍フィンランドに近すぎるとはいっても、小国フィンランドのレニングラード攻撃など恐れるロシア人はほとんどいなかったはずだ。
Organisation Military Museum Photo info: 1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104865引用。



 抑もソ連がソ芬戦において多大の犠牲を顧みず無理矢理フィンランド最後の守りともいうべきマンネルハイム線を突破し、同要塞線突破を契機として急遽、フィンランドとの和平を講ずるに至った所以はどこにあったか。ソ連の対芬戦におけるフィンランドの武力及び社会情勢の誤算もさることながら、それよりも芬戦を長引かせこれに深入りすることは、ソ連が最も警戒し恐怖しているところの世界の反ソ戦線結成に機縁を与え、これを促進せしめることとなり或は、ソ連をして英仏対独の大事に直接介入せしむる危険を生ずると見たためであったことは、その後のソ連の言動に徴してもほぼ明白である。

ソ連がフィンランドに対い武力行使を敢えてしてまでその目的貫遂を期したのも、フィンランドが地理的に世界の中心から隔絶せる地位にあり、ソ芬戦は地方化されて大戦に直接巻き込まれる危険なしとの見通しの下に行ったと解せられるのであって、ソ連外交は依然として、資本主義国家間の闘争には直接介入せず、これを利用することをその要諦としてきていることであって、この中にこそソ連外交の性格があることを茲に再び明らかにした点に、モロトフ外相今次の演説は注目されていいのである。

即ちソ連はその老獪なる外交戦術を駆使し、英仏対独戦の間隙を巧に利用し、その西北隣に勢力を伸張し、東部バルチック海を完全に制圧し、その国際的地位を強化し、かくして、取り得べきものを凡て取ったのちに、依然として中立を声明し英仏対独戦に関与しないことをもってその外交方針となしているのである。

モロトフ外相は英仏との関係の悪化を報告し、もって一方にドイツの好意を迎えつつ、同時に合従連衡の道具に利用されずとて英仏との関係改善の用意を暗に示しているのである。ソ連のこの態度こそ吾人が最も戒心すべきところであって、ソ連外交の本質を見失っては甚だ危険なりといわねばならぬ。


 かかる態度をソ連が取る以上、一部に伝えられるが如く、ソ連がソ芬和平後に直にバルカン乃至近東方面に冒険的な行動に出づることはまずないといわねばならぬ。モロトフ外相がバルカン、近東方面の事態に殆ど言及を避けているのも、この間の消息を語るもので、ただベッサラビヤ問題に言及し、同地方のルーマニヤ隷属不承認態度を再び確言したことは一応の注目に値するが、これとてソ連がフィンランドに対せるが如く直に武力行使によって接収することを意味しはしないであろう。なぜならバルカンの利害は極めて複雑多岐であって不用意なる行動は、直にソ連をしてソ連が警戒している大戦の禍中に投ぜずにはおかないからである。

 近東方面の緊張もしきりに伝えられるところであるが、トルコに対するソ連の態度の極めて慎重なることも注意すべきであり、この方面の紛糾は必ずや英仏との正面衝突を惹起せしめるであろう。フィンランドでの鼎の軽重を問われた英仏は今度こそは立たざるを得まい。要は西欧戦争の発展如何に懸っているのであって、重大なる危険なくして、その周辺への伸張が約束される条件の具備される時を、ソ連はおもむろに待機するものと見てよいであろう。ソ連がその表玄関として最も重視しているバルチック海方面の固めを堅固にした今日においてはなおさらである。


 最後にモロトフ外相が日ソ関係に言及し、目下円満なる進展を遂げていると見做した点は、日ソ関係調整の立場に立つ吾人もこれを諒とするものであるが、しかし実際的な日ソ関係の進展ぶりは、予期されたものより多分に遅々たる憾みなしとしないのである。日ソ関係のはかばかしからぬ理由の主なるものは、ソ連の駆引的態度に求められねばならぬ。たとえばソ芬戦にソ連が手を焼いているころの、諸般の日ソ交渉は却って渋滞勝ちであって、むしろソ連は非協調的態度を提示さえしたのである。

ソ芬戦という弱味を持つソ連は、対日交渉に強がりを示すことによって、その弱味を隠蔽せんとするが如き態度を弄したと做さねばならぬ節のあったのは、ソ連のためにも取らないのである。ソ連が右の如き駆引きをなしていたとすれば、ソ芬の和平成る今日においては、一部に期待されたるが如く、ソ芬の和平成立がソ連の対日攻勢に転ずる契機となるのではなく、却って円満なる日ソ関係の進展が期待されるのであって、モロトフ外相の演説はその反映とも見受けるのである。もし日ソ国交の調整に意あらば、徒らなる強がり的態度乃至駆引きを一擲することが第一の要諦であろう。(引用終わり)

写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja venäläisiä nousemassa junaan.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110041引用。


1940年3月13日、冬戦争は終結し、事実上、ソ連の勝利、フィンランドの敗北で終わった。その戦争終結から1か月後、ソ連とフィンランドで捕虜の交換が、カレリア地峡の国境にあるヴァイニッカラ鉄道駅で実施された。ソ連に帰って行く囚人は疲弊しているが、帰国後の処遇を心配しているようだ。ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン共産党書記長が、捕虜となって共産主義者の恥をさらした元ソ連軍兵士を処罰するのではないかと不安だったのだ。

日本が中国との全面戦争に突入している以上,大国(英独仏,中国,米国)との戦争に巻き込まれていないソ連は,日本に対して,有利な立場にあった。しかし,ヨーロッパに於ける戦乱の予測と,対ファシズム宥和・ドイツとの軍事的対立回避を優先し,ポーランドの独ソ分割を密約していた。
日本にも,ソ連にも,局所的な戦闘だったノモンハン事件よりも,第二次大戦開始後の世界の動きのほうが,より大きな影響を与えたことは間違いない。両国とも,ノモンハン,モンゴルを巡って,大規模な軍事的対立を続けることは,日本にとっては,対中国戦争,ソ連にとっては,対ヨーロッパ戦争準備にとって,大きな負担となってしまう。日ソ両国とも,ノモンハンでの軍事衝突を,はやく解消したいという動機があった。

ノモンハン事件は,ソ連と日本双方が,国境を境にして,武力衝突を起こし,お互いの軍事力を高く評価したことが,第一の意義として認められるであろう。そして,ソ連も日本も,国境から大きく外れて地上軍を侵攻させることはなく,武力が抑止力となると改めて再認識したといえる。

写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110051引用。


1940年3月13日、冬戦争が終結した。フィンランドは国際的孤立の中で善戦むなしく後退し、結局は、ソ連に降伏する道を選択した。フィンランドは、戦争前にソ連が要求したカレリア地方を割譲した。

 冬戦争に敗れたフィンランドは、国土防衛の愛国的な戦いをし、多数のソ連軍兵器を鹵獲し、その上、多数のソ連軍捕虜を得た。冬戦争の終結1か月後、1940年4月20日、カレリア地峡のソ連・フィンランド国境で、両国の捕虜交換が行われた。列車で国境のヴァイニッカラ駅に運ばれてきた、ソ連が捕まえたフィンランド軍・夫人を含む民間人捕虜と、フィンランド軍が捕まえたソ連軍捕虜が好感されたのである。フィンランド人の元捕虜は、開放されフィンランド側ゲートに入ると、フィンランド民間人の出迎えを受け、そこに用意されたパンやスープなどの食事の提供を受けた。

囚人となったソ連軍捕虜ロシア人が列車に乗って国境に到着し、列車を下ろされた。そして、フィンランド軍から解放され、線路を歩いて、フィンランド側からソ連側に国境を越えて帰国する。しかし、自分の家に帰れたものは少数で、大変は、敵に投降した裏切り者、洗脳されたスパイとみて、強制収容所送りになった。

写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。


1939年12月28日,「対外施策方針要綱」でソ連に対しては関係の平静化を計り,国境紛争に武力に訴えることなく平和的折衝によって解決を図ることを決めた。この方針は,ソ連への宥和政策のように認識されているが,作成に関与したのは,外相野村吉三郎,陸相畑修六,海相吉田善吾という政府首脳陣であり,陸軍参謀本部や関東軍の意向とは相容れない可能性があった。もともと,ノモンハン事件以前から,政府はソ連との戦争はもちろん,武力衝突も望んでいなかったのだから。1937年以来,中国との全面戦争に突入しており,中国に加えて,ソ連と二面戦争をする国力など,日本にないことは自明だった。

日本軍は,ノモンハン事件で負けたとは思っていない。また,勝利できなかった闘いには,再起をかけた復讐戦が準備されるものである。


4.1940年フランス敗北後の日独伊三国同盟から日ソ中立条約

写真(右):1940年7月、フランス、パリ、エッフェル塔を見物したフランス征服者ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統;1914-1918年の第一次大戦の西部戦線でヒトラーは,英仏軍相手に最前線で勇戦したが,ドイツ国内の裏切りで敗北したと感じる。しかし,復讐戦に勝利した。1940年6月にフランスを降伏させ,エッフェル塔,ナポレオンの墓も見学した。右は、国防軍総長ウィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel), 後の軍需大臣・建築顧問アルベルト・シュペーア(Albert Speer)、彫刻家アルノ・ブレーカー(Arno Breker)、ナチ党官房長官・ヒトラー秘書マルチン・ボルマン(Martin Bormann), 報道局長オットー・ディートリヒ(Otto Dietrich:1897-1952)。
Frankreich, Paris, Eiffelturm.- Besuch Adolf Hitler. Vlnr: Karl Wolff, Hermann Giesler, Wilhelm Keitel, Wilhelm Brückner, Albert Speer, Adolf Hitler, Martin Bormann, Arno Breker, Otto Dietrich; vermutlich 23.6.1940 Title Paris, Eiffelturm, Besuch Adolf Hitler Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Zentralbild / II. Weltkrieg 1939 - 45 Nach der Besetzung Frankreichs durch die faschistische deutsche Wehrmacht im Juni 1940 besucht Adolf Hitler Paris. UBz: Adolf Hitler mit seiner Begleitung nach der Besichtigung des Eiffelturms. vlnr: SS-Gruppenführer Wolff, dahinter Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel, SA-Gruppenführer Wilhelm Brückner, Reichsminister Albert Speer, Adolf Hitler, dahinter Reichsminister Martin Bormann, Reichspressechef Staatssekretär Otto Dietrich. Photographer Heinrich Hoffmann (1885–1957) Depicted place Eiffel Tower Date 23 June 1940 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-H28708
写真はWikimedia Commons, Category:Adolf Hitler in 1940 File:Bundesarchiv Bild 183-H28708, Paris, Eiffelturm, Besuch Adolf Hitler.jpg引用。


4−1.日独伊三国同盟成立 : 大詔を渙発あらせらる : 昨日、ベルリンで条約調印
大阪朝日新聞 日付 大阪朝日新聞 1940-09-28 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336250
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

日独伊三国政府間にはかねて三国同盟に関する条約交渉について東京、ベルリン、ローマにおいてそれぞれ折衝が進められ、とくにドイツ政府は[ハインリヒ・ゲオルク・]スターマー{Heinrich Georg Stahmer}氏を特派公使として帝国に派遣するにいたって東京交渉は異常の進展を見せ、一方ドイツ外相フォン・リッベントロップ氏の訪伊によって三国交渉は急速に進捗してこのほど三国間に完全に意見一致し妥結を見た、よって三国政府はそれぞれ所定の国内手続を了し、いよいよ二十七日午後八時十五分(ベルリン時刻同一時十五分)ドイツ総統官邸において帝国代表来栖[三郎]駐独大使、リッベントロップ独外相、チアノ伊外相の三代表間に調印を終った

この歴史的調印による三国同盟条約は日独伊三ヶ国語で記載されたもので、その画期的使命と意義は六ヶ条の条文に盛られている、畏くも天皇陛下には三国同盟成立に当り詔書を渙発あらせられ国民の向うところを御示しあそばされた、帝国政府は独伊両国と打合せの上同日午後九時十五分右条約要旨を三国同時に発表するとともに近衛首相は大詔を排して内閣告諭を発し同時に松岡外相謹話のほか河田蔵相兼商相代理、石黒農相談を発表して帝国不動の使命と方針ならびに国民の毅然たる態度を要望した

また独伊両国に対しては近衛首相からヒットラー独総統およびムソリーニ伊首相宛祝電を発し松岡外相また独伊外相に祝電を発し、同夜国際電話によって重ねて祝詞の交換をなし三国同盟条約調印によるすべての三国同盟態勢は同日中に完了した、かくてここに近衛内閣によって標榜された外交方針の転換は実現し世界平和の確立を目指す三国同盟の成立により日独伊三国の枢軸は格段の強化を見、ソ連は本条約によって影響を受けるところなしと明記して三国対ソ連の新外交方策を明らかにし、世界新秩序の建設完成は一段と促進されるであろうが帝国の大東亜における指導者としての立場はこれとともにますます重きを加えるであろう=写真(上から)近衛首相、ヒットラー総統、ムソリーニ伊首相

詔書

大義ヲ八紘ニ宣揚シ抻輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス朕ハ禍乱ノ戡定平和ノ克服ノ一日モ速ナランコトニ●念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌ブ所ナリ

惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ昿古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ

御名御璽    昭和十五年九月二十七日 各国務大臣副署

外務省発表(昭和十五年九月二十七日午後九時十五分)

日独伊三国間に本二十七日ベルリンにおいて左記要旨の三国条約締結せられたり

日本国、独逸国及伊太利国間三国条約要旨

大日本帝国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は万邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜および欧州の地域に於て各其の地域における当該民族の共存共栄の実をあぐるに足るべき新秩序を建設しかつこれを維持せんことを根本義となし右地域においてこの趣旨に拠れる努力に付き相互に提携しかつ協力することに決意せり、しかして三国政府はさらに世界到る所において同様の努力をなさんとする諸国に対し協力を吝まざるものにしてかくして世界平和に対する三国窮極の抱負を実現せんことを欲す、依って日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府は左の通り協定せり

相互援助を規定 期限十年混合委員会設置 条約全文
第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつ之を尊重す

第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に本づく努力につき相互に協力すべきことを約すさらに三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助すべきことを約す

第四条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府により任命せらるべき委員よりなる混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす

第五条 日本国、独逸国、伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴエト連邦との間に現存する政治的状態になんらの影響をもおよぼさざるものなることを確認す

第六条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす

右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に本づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし

近衛首相から告諭

近衛首相は日独伊三国同盟成立に当り渙発あらせられた詔書を排し二十七日官報号外をもって内閣告諭を発した、首相は右告諭において三国同盟の本旨を明らかにし帝国は独伊両国と相提携しそれぞれ大東亜及び欧州において新秩序を建設し進んで世界平和の克復に協力せんことを期する旨帝国不動の方針を述べ国民の毅然たる態度を要望した

告諭

日独伊三国条約ノ締結ニ当リ、畏クモ 大詔ヲ渙発セラレ、帝国ノ向ウ所ヲ明ニシ、国民ノ進ムベキ道ヲ示サセ給エリ。 聖慮宏遠洵ニ恐懼感激ニ堪エザルナリ。

恭シク惟ウニ世界ノ平和ヲ保持シ、大東亜ノ安定ヲ確立スルハ、我ガ肇国ノ精神ニ淵源シ、正ニ不動ノ国是タリ。昨秋欧州戦争ノ発生ヲ見、世界ノ騒乱益々拡大シ、底止スルトコロヲ知ラズ。是ニ於テカ速ニ禍乱ヲ戡定シ、平和克服ノ方途ヲ講ズルハ、現下喫繋ノ要務タリ。適々独伊両国ハ帝国ト志向ヲ同ジウスルモノアリ。

因リテ帝国ハ之ト相提携シ、夫々大東亜及欧州ノ地域ニ於テ新秩序ヲ建設シ、進ンデ世界平和ノ克復ニ協力センコトヲ期シ、今般三国間ニ条約ノ締結ヲ見ルニ至レリ。今ヤ帝国ハ愈々決意ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設ニ邁進スルノ秋ナリ。

然レドモ帝国ノ所信ヲ貫徹スルハ前途尚遼遠ニシテ、幾多ノ障碍ニ遭遇スルコトアルベキヲ覚悟セザルベカラズ。全国民ハ謹デ 聖旨ヲ奉体シ、非常時局ノ克服ノ為益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ、協心戮力、如何ナル難関ヲモ突破シ、以テ 聖慮ヲ安ンジ奉ランコトヲ期セザルベカラズ。是レ本大臣ノ全国民ニ望ム所ナリ。

昭和十五年九月二十七日 内閣総理大臣
公爵 近衛 文麿

相互援助条約よりは緊密 軍事同盟とは異る 須磨[弥吉郎]情報部長語る

日独伊同盟条約発表後外務省須磨情報部長は記者団の質問に答え左の一問一答をなした

問 条約締結にいたるまでの経過如何?
答 この三国条約の話は九月初旬からはじまって正確にいえば今日——二十七日に終っている
問 条約文第四条にいう混合専門委員会は何処に設置されるか?
答 今後の問題で、まだきまっていないが、置かれる場所は一箇所ではないだろう
問 その組織と任務は?
答 今のところ具体的にはいえぬ
問 日独伊防共協定とこの条約との関係は?
答 二つの条約間には何ら関係はない
問 防共協定はこれで解消されたと解してよいか
答 すこぶるデリケートな問題で「関係なし」という以上は答えられない
問 しかし第五条には特に「ソウエート連邦との間に現存する政治的状態に何らの影響をもおよぼさず」と書いてあるがソ連を特に取上げている理由如何?
答 ソ連はドイツと今では特殊の関係にあり、また日本ともソ連は隣接国家としての関係にあるからである 問 第三条に「現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたる時三国は政治経済軍事的に相互に援助する」とあるがこの「攻撃」という言葉はどういう範囲を指しているか、たとえば禁輸などという経済圧迫が非常に強度なものとして現れて来る場合、これも「攻撃」の一種であると見るか
答 それは解釈の問題だろう、しかし締約国間にはこの解釈についても諒解があるだろう
問 同じ第三条に「一国によって」とあるのは特定の一国か、また特に単数としてある理由如何
答 特定の一国を指すものではない、また条文には単数になっているが二国が一緒になって攻撃して来た場合ももちろん同様である
問 この条約は国際法上の通念から見る時は軍事同盟といえるのか、または相互援助条約といえるのか
答 相互援助条約という言葉ではちょいといい足りない、もっと緊密な度が強いだろう、また軍事同盟といえば大概はある特定の国家を敵国として想定しているが今度の場合はこの仮想敵国はない、まあ三国条約と呼ぶことにしたい
問 期間十年というのはどういうところから割出されたか
答 三国ともに新秩序建設のために真剣に提携しあう考えで、期間も二年とか五年とか短いものでなく特に十年と長期条約になったものと思う
問 アメリカに対してこの条約はどういう風に運用されるか
答 アメリカ関係も従来通りである、われわれはこれで日米関係がとくに悪化するとも考えないし日米国交調整の希望も従来通り持っている、繰返していうが特定の一国を指したものではない、この条約の精神は決して戦争を挑発するようなものではなく一日も早く世界平和を将来したいという気持から出ている
問 昨年九月阿部内閣によって声明された不介入方針はどうなるか
答 不介入方針はあのまま生きていると解釈している
問 相互に指導的地位を認めるとはどういうことか
答 お互の地域では一切を委せるという意味である

トントン拍子で進む 三国条約の締結まで

今回の三国同盟の交渉経過は全く順調の一語につきる、松岡外相が[オイゲン・]オット{Eugen Ott}大使にそれとなくドイツ側の意向を質したのが八月一日のこと、またヒットラー独総統が[ハインリヒ・ゲオルク・]スターマー{Heinrich Georg Stahmer}氏を特派公使としてモスコー経由帝国に派遣したのも八月中旬のことで、世界新秩序建設をめざす日独両国の間には期せずして琴線相触れるものがあったのである、

こうした接触で日独両国の気持がお互にはっきりして来ると欧州では独伊両国間に、東京ではオット大使、スターマー公使がドイツ側の代表者となって話はトントン拍子に進捗した、すなわちリッペントロップ独外相は九月十八日ローマを訪問しヴェネチヤ宮でムソリーニ首相、チアノ外相と膝を交えて懇談し、また東京では九月七日に入京したスターマー公使がオット大使を扶けて松岡外相、白鳥敏夫氏、大島浩氏らとしばしば私邸で会談し具体的折衝が進められた

この間白鳥、大島両氏とスターマー公使との会談が具体的折衝を進めるに非常に役立ったことは見逃せないが事の起りは日独伊三国間に独伊の対英作戦や帝国の東亜共栄圏の確立など手を握りあう機運が全く熟していたという点である

そこで帝国政府では十六日に臨時閣議を開いて帝国の最高方針を決定し十八日には御前会議が開かれ二十六日には枢密院会議が開かれて国内手続を完了しいよいよ二十七日の正式調印となったものである

世界史に新時代 駐日独大使声明

[オイゲン・]オット{Eugen Ott}駐日独大使は二十七日夜日独伊三国同盟成立の当り左の声明を発した

本日締結せられた条約は有史以来最初の画期的重要なるものであるけだし本条約の目的とするところは締約国各自の相互利益をはかるにあるのみならず世界の三大圏の福祉協力共栄を期するものであるからである、従前の諸条約があまりにもしばしば侵略手段に過ぎざりしことを暴露せるに反し本条約は世界主要構成部分の各自が平和的に発展することにより全世界の恒久平和と繁栄とを保証すべき新秩序及び均衡を樹立する推進力たるべきものである、

三盟約国の結合勢力、連環的努力はこの大目的遂行のために今日までに払われた大犠牲を無にせぬための最善の方法である、

余は本日成立した協約が世界史上に新時代を画しかつ本条約が広大な自然の生活圏の形式とその自由なる発展を促進する事実にかんがみ独日伊三国自身のためのみならず三国の勢力圏内に居住する諸民族延いては全世界の平和、幸福、繁栄への新しき道をも拓くものなることを確信するものである

駐日伊大使の声明

日本、イタリヤ、ドイツ間の三国同盟は最近数年間我ら三国間に結ばれつつあった関係の論理的帰結である、三国の政治的基礎たる国際正義原理の類似性と世界をしてついに真の恒久的平和を達成せしめんがために日本、イタリヤ、ドイツが直面しつつある諸問題の相似性とが今回の協定をもたらしたゆえんであって、これにより三列強の協力は万一の干渉も威嚇もうくることなく各自の圏内においてその強固なる行動方面たる新秩序を確保するのである

近衛首相の祝電

独総統宛 世界新秩序建設の崇高なる共同の目的達成のために日独伊三国がさらに緊密かつ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下に依り率いらるる偉大なる独逸国民がそのすでに獲得せる赫々たる戦果を将来に拡大し、その光輝ある目的を完遂するの日の速ならんことを祈念す

伊首相宛 世界新秩序建設に崇高なる共同目的達成のため日独伊三国がさらに緊密に且つ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともにファシストの愛国心に燃ゆる貴国国民がその双肩に担う重大任務を完遂するの日の近からんことを祈念す

松岡外相の祝電

独外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づき新しき世界秩序の建設と世界恒久平和の確立に貢献するところ大なるべきを確信し余は茲に閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なる独逸国とともにその共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり

伊外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づく新しき世界秩序の建設に不動の礎石を築くものなることを確信し余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下と余の旧情を新にしつつ皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なるファシスト伊太利国とともに共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり。(引用終わり)

4−2.防共協定と抵触せず : ドイツの見解
大阪朝日新聞 日付 1940-09-30 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337475
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

資本論 【ベルリン特電二十八日発】日独伊同盟の締結とともにかつての防共協定はなお存続するや否やがベルリンの中立国筋で論議されているが、ドイツ側の意向は左のごとく諒解される、すなわち日独伊同盟は三国のそれぞれの地域における指導的立場を規定した政治外交的な確約であり防共協定とは何ら抵触するものではなく日本が依然として国内の主義として反共的でありソ連が同様に反ナチス的あるいは反ファシスト的であることは何ら差支えなく、いまだ廃棄されざる防共協定はしたがってなお現存せることはもちろんである

国内の指導の問題と国際的な外交関係の問題とは判然と区別すべきであり独ソ不可侵条約によって防共協定は影響を受けなかったごとく今回のこの間の事情は同様であるとの見解をもっている

なおソ連の援蒋行為と三国同盟条約第三条との関係についてドイツ側では「いわゆるソ連の蒋介石政権への援助が何を意味するかは承知しないが広汎な政治的意義をもつ今回の三国同盟に関連する本質的な問題とは思われない、

独ソ関係は極めて友好的であり、さらに密接な連絡を保っているから今回の三国同盟条約がソ連にとって意外な驚きであろうと想像するのは当らざるの甚だしきものといわざるを得ない新任のモスコー駐在日本大使建川中将はこの機会に日ソの関係を正常化し両国の懸案解決に積極的な貢献をされるものと期待する」
との見解をとっている(引用終わり)


4−3.建川大使着任で日ソ関係大展開か : あすスターリン氏と会見
日付 1940-10-25 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335603
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真((上)建川大使(下)スターリン氏)あり 省略]

スターリン  モスクワ本社特電【二十四日発】三国同盟結成後の日ソ関係は独伊の欧洲新秩序建設ならびに日本の大東亜共栄圏確立と関連して世界注視の的となっているがモスクワ外交界では新駐ソ大使建川中将のモスクワ着任早々日ソ間に外交的進展を予期し遠からず日ソ協定の成立をみるだろうと観測している

 モスクワ【二十四日】前芝本社特派員発 建川新大使は西公使、宮川参事官らを帯同二十三日午後十一時半モスクワ着、直に官邸に入ったがすこぶる元気に語る

 シベリヤはもう雪で非常に寒かったが愉快な旅を続けて来た、モスクワは七、八年ぶりだが瞥見したところ大変立派になったように思う
二十四日朝のソ連紙は一斉に大使の到着を報じたが外人記者も新大使着任に非常な関心を示し駅頭に多数詰めかけた

【ロンドン二十三日発同盟】二十三日ロンドンで傍受したドイツ放送は「スターリン書記長は二十六日クレムリン宮で建川新駐ソ大使を迎え会見することになった、近く極東における日ソ両国相互の利益を擁護すべき日ソ協定が成立を見るであろう」と報じ英国政界の多大の注目を惹いた、右に関し当地消息通筋ではスターリン書記長が日本外交官と直接会見することはかつてなかった点を指摘するとともに右の放送は恐らく正鵠を得たものであろうと左の如く述べている

一、日本はソ連の脅威から免れ南方アジヤで米国と争うべく地位を強化することを希望している
一、ソ連もまた近東に力を集中すべく極東における安全の獲得を希求している、一方目下懸案となっている英ソ紛争には多少緩和の可能性はあるが結局英ソ、米ソの両関係の根本的改善は期待されない状況にある

因にスターリン書記長と過去に直接会見した日本使節は外交官および民間人をひっくるめて昭和四年田中内閣当時、対独ソ経済使節として入ソした久原房之助氏ただ一人である

各方面で重視

二十三日露都入りをした建川新駐ソ大使は二十六日ソ連の最高実力者スターリン氏と会見すべしとのロンドン報道に関しては勿論現在までのところわが官辺筋へは何らの報告も入っていない、したがって右が果して真実なりや否や、また日ソいずれの方から発議せるものかも一切判明せず、これが今後日ソ両国関係ひいては目下の微妙なる国際関係に如何なる波紋を投ずるかも今のところわが官辺としては全然言明し得ない実情にある、しかしながら建川大使がソ連人民会議議長カリーニン氏へ信任状捧呈の時日決定前にスターリン氏と会見の事実が報道されるのは真偽いずれにせよ英米側が日ソ関係の推移に異常な関心を払っている証左で初会見の成行は各方面から頗る注目されている(引用終わり)


4−4.ソ連紙対日論調の変貌(ソ連紙の対日変貌) (上・下) 著者 モスクワにて本社特派員 前芝確三
東京日日新聞 第155巻 記事番号 45 出版日 1940-10-27/1940-10-28 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338153
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(上) 支那事変の報道消ゆ 花形・新体制と南進政策

現在の日ソ関係はまことに微妙である、わが東郷大使は満蒙国境確定交渉成立を置土産とし、懸案の漁業条約改訂については準備的折衝をなしたままでモスクワを去り日ソ国交開始以来最も異色ある建川新大使の着任は更に広汎な両国国交調整のための新たなる展開を期待されている。

ソ連側においてもさる三月末の第六回最高会議におけるモロトフ首外相の演説に現れたような日本に対する恫喝的、嘲弄的な態度はやや緩和され、八月初めの第七回最高会議では『一般的にいって日本側に対ソ関係を改善しようとする希望の徴候が若干認められる。双方が各々の利益を認め、双方がすでに意義を失った若干の障害を除去する必要を了解するならば、日ソ関係の改善は可能である』という示唆的な言い廻しをしている。『すでに意義を失った若干の障害』とはまことに不明瞭な漠然たる表現であるが、それは客観的、主観的条件の変化に適応してその内容を変化させることが出来、その意味で極めて便利な表現であるといえる。

 具体的にいえば、日ソ国交調整の前提たるべき条件は両国の力関係、その時の双方の第三国関係の如何によって融通自在であり、そこに非常な含みを持たせられているのである。従ってこれをもって単純にソ連から国交調整交渉につき誘いをかけたと見ることは出来ない。また独伊枢軸対英米の戦争の長期化については、モロトフ首外相はこれを指摘し、その後ソ連の言論機関も同様な希望的見透しをしばしば表明しているが、一方日支関係についてもソ連紙ばかりを見ていると、日本軍は長期にわたる消耗戦によって結局最後の勝利を失うようにも見えるが、コミンテルン機関紙に現われる中国共産党領袖の論文は、口を揃えて抗日戦線内における敗北王者の擡頭、戦線分裂の危機を伝え、即刻これを克服すべき必要を力説している始末で、国の東西に起った戦争によって相対的に昂まったソ連の政治経済的、軍事的優越性の永続を漫然と頼む訳にはゆかないという事情にある。ここにおいてもソ連としても眼まぐるしいまでの外交的駆引が必要となってくるのであるが、さらにこの駆引を繞って或いは利用して放送される英米製のニュースが、殊に三国成立以後盛んにソ連対外政策の動向の「複雑怪奇性」に輪に輪をかけている。

 しかもこの複雑怪奇性は独ソ離間を策するための英ソ接近説、バルカン、近東における独伊ソ衝突不可避説、また日ソ国交調整妨害を目的とする米ソ対日密約説乃至は米ソ共同対日工作説のデマによっていよいよ晦渋ならしめているのである。

 従ってこの複雑怪奇性の底に真相を把握するためにはソ連外交の特殊性の線に沿って錯綜した現象を整理してゆくほかはない。  近年しばしばソ連の言論に使用される『世界の革命的プロレタリアート最大の陣地としてのソ連の拡大強化』と言うレーニンの遺訓を手っとり早く所謂る『赤色帝国主義的侵略』の偽装的口実と見なすべきではなく、むしろこれこそソ連対外政策の基本的方向でありその実現のために情勢に即応した微妙な外交的駆引、時にはマキアベリスト的な駆引が十分な柔軟性をもって遂行されつつあると見るべきであろう。

 かかる観点からすれば、ソ連の言論機関に現れた対外問題に関する論文その他も決してソ連の対外政策を正当化しようとする御用言論とのみ見るのは危険であり、むしろその中に真相把握に寄与するところ豊富な示唆がくみとられる。殊にソ連の権威ある新聞雑誌に現れる論文はすべて十分討議された上確定された党および政府の方針に沿い展開されているからその指導的価値は大きいものがある。ここに視野をソ連の対日関係に限り今後における日ソ関係展開の指標となるべきソ連極東問題評論家の最近における論調を紹介してみよう。

 さる七月七日にはソ連の一流紙をあげて相当の紙面を費し日支事変の経過ならびに見透しに関する論文を掲載した。まずカ・ペトロフスキーがプラウダ紙に『日本は支那でどれだけ費消したか』と題して戦費を中心とする経済的立場から戦果を取扱い日本にとって極度に悲観的な見透しをのべ、遥かに重慶に声援を送ったのを初めとしヴェ・マグラム(イズヴェスチア紙)ゲ・ミハイロフ及びエム・ステパノフ(赤星紙)ゲ・グレーボフ(赤色艦隊紙)等それぞれ「支那における戦争の三ヶ年」につき政治、経済、軍事各方面から長々と所見を述べた。

殊に赤星紙のごときは四段(一面の約三分の二)を費して戦闘の経過を詳細に述べこの戦闘のうちに支那の抗日対戦はいよいよ強固なものになったと断じている。

 掲載した地図を見れば『支那における軍事行動』という見出しの下に全新聞に掲げられる中央通訊社あたりの威勢のいい報道にも拘らず支那軍の敗退は歴然たるものがあるが、殊に興味深いのは、共産軍担当戦区において日本軍の占拠地域が事実よりも遥かに小さく描出されていることである。

 これはいわゆる遊撃戦区を被占拠地域と見るか否かという見解の相違に基づくものであろうが、必ずしもそれのみではなく相当の政治的意図が含まれているとも見られるのである。

 八月発行の共産インターナショナル誌にも中国共産党側で書いた『支那戦争の三年』が現れたが、これはかつて周恩来が書いたものと同様、抗日戦線分裂の危険を訴え、いささかも楽観的な見透しは述べていない。

 要するに七月七日を頂上としてソ連言論機関の日支問題に関する報道はばったり下火となり、八月末の日支交渉成立についても、二、三行の記事のみで、ただ八月八日のプラウダ紙上にスペイン経済使節団の汪精衛氏訪問を弥次ったくすぐり的断片が現れただけである。

 この事実は八月一日のモロトフ演説が支那についてはただ『ソ支不可侵条約の線に沿って善隣有好関係にある』と至極あっさり片づけたのとちゃんと平仄が合っている。

 それに引換え七月中旬すぎ米内内閣総辞職を境にして日本の南進政策、内閣更迭と日本の新政治体制を主題とする論文が応接に遑のないほど頻繁に現れはじめた。英独関係やバルカン問題に関する論文よりも遥かに莫大な語数と紙面がこれに関して費され、日本を中心とするこの二つの主題は最近のソ連における外国問題評論の花形たるかの観があった。  まず眼ぼしいところを拾ってゆけば、内閣更迭については七月十九日にウエ・ケルリ(プラウダ紙)ペ・クライノフ(赤星紙)ウエ・ウェラック(赤色艦隊紙)が、日本の内政と題して同二十六日にエ・ジューコフ(赤星紙)が、新体制については八月十日ケルリ(プラウダ紙)同二十三日ケルリ(赤色艦隊紙)三十一日クライノフ(赤色艦隊紙)九月七日ケルリ(プラウダ紙)同日エム・ラサーレフ(コムソモルスカヤ・プラウダ紙)九月十九日定期刊行物の淘汰についてデ・ザスウスキー(プラウダ紙)氏等のほか、共産インターナショナル紙七号にはヤマダの『日本内閣の更迭』同八号には同じくヤマダの『日本労働階級の状態』が掲載されている。


(下) 我南進北守を希望 掴み切れぬ「新体制」

太平洋問題については更に汗牛充棟、去る五月六日日本問題にくわしいジューコフが『太平洋における帝国主義的対立の激化』と題して日本の主として蘭印を含む南進政策をめぐる日英米の対立が英国の敗勢によって日米のみの対立に置きかえられんとする傾向だと述べ、ここに戦争の結び目ありとなしつつなお東亜新秩序は支那事変の解決を第一義とすると断じた論文を赤星紙に発表して以来暫く中断していたが、七月の政変以後近衛内閣が南進政策の遂行をその使命の一つとするを見て、再びこの問題は新聞雑誌を賑わしはじめたのである。

そのうちの主なものを拾って見れば、七月十八日ウエ・モトウイレフの「太平洋における対立の新段階」(赤色艦隊紙)同日ウエ・ドミトリエワ「日米対立」(モスコーフスキ・ボリシェヴィク紙)八月二十二日ケルリの「日本の南進」(プラウダ紙)同日ジューコフの「太平洋における闘争」(赤星紙)九月五日ア・シュメレフ「仏印をめぐる闘争」(モスコーフスキ・ボリシェヴィク紙)同十八日ジューコフの「日本と印度支那」(赤星紙)「太平洋における覇権のための闘争」(プラウダ紙)このほか共産インターナショナル誌の第七号にウエ・レイトネルの「太平洋における対立」第八号にはダン・フンの「仏印をめぐる闘争」が現れた。

以上の諸論文の内容を一々ここに紹介するまでもなく、これ等の論文が大部分前述したような方法で「生産」され一定の方向を辿っている以上その必要もない訳である。勿論なかには一定の方針によりながら脱線しているものもある。

 例えばドミトリエワという女がモスコーフスキ・ボリシェヴィク紙上に書いた「日米対立」のごとき親米的傾向著しく公式に従って論旨を進めてゆくうち何時の間にか米国の人道主義的扮装にごま化され米国の本質を見失い、ヒステリックな調子で日本だけを悪者扱いにしている。こんなものは寧ろ御愛嬌で歯牙にかける必要もないが、次にこれらの主題について権威ありと見られる論文の内容を総括し、間接にソ連当局の見解を窺うことにする。目下慎重なソ連当局、その要人はモロトフ首外相の外交演説のごとき場合のほか決して直接その見解を発表しないからそれを窺うについてはこの方法が最も近道であるといえよう。

 ソ連側の見る日本の新体制であるが、大部分は公式的に片づけながら、新体制の目指す方向、殊にどの程度まで政治経済機構が改革されるかという点については、率直に『不明である』となしている。仄聞するところによると、モロトフ首外相自身も、東郷大使との会見の席上『日本の新体制とはどんなものか』と、しきりにその内容を知りたがっていた由である。

打ち割っていえば、日本の世界に比類なき国体より発出するところの政治の特殊性、従ってその法律体系、政治機構の特殊性をそれ自体として十分に把握せず、それを主として経済的部面からソ連式な方法を適用しつつ、いくら分析を重ねてきたところで、そこに割切れぬものが残るのは当然である。現在のソ連評論家は、依然として過去の日本解剖の線に沿い日本を把握せんとし、日本のいわゆる特殊性については深く検討せず、機械的公式的に頭からこれを否定しかかっている以上、新体制の問題もおそらく永遠に不可解な謎であろう。従ってこれに関する通称日本通のジューコフやケルリの論文にしても、ソ連的見地から事態の推移の描写、諸種の事象のソ連的解釈が大部分を占め、甚だしく精彩を欠いている。

グルー駐日米大使  しかし例の斉藤演説の反響が大きかったためか、民政党を以て旧コンツェルンを中心とするブルジョアジーの大部分の新体制に抵抗する最大の政治的堡塁を見るごとき点も含んでいる。しかし全体を通じて特徴的な点は、右翼団体の動きについて非常に注意深く、また従来の論調を以てすれば新体制の動向を簡単に公式づけたのであるが、かつては公式化した見解が些かも見られないこと等であろう。

 次に南進政策に関しては、ジューコフの見解が基本的な線となっている。しかも南進政策は常に新体制問題との関係を以て考察されているのである。

 例えばケルリの「日本の南進」のごとき、近衛内閣の登場によって南進政策が実践への第一歩を踏み出したことを指摘し、従来からの日本における南進論を歴史的に回顧しつつ、英仏の敗退と、米国の帝国主義的プランが日本の南進の実現を日程に上せたと見ている。しかし太平洋西南部における日本に好都合な力関係の変化も、日本の政策遂行にとって主体的条件に非ずして外部的な条件に過ぎず、その南進実現の途上には幾多の難嶮あり、結局日米の対立は激化すると述べている。

 一方ジューコフは、英仏の敗退によって太平洋の帝国主義的対立は、完全に日米対立に要約されるに至ったと断定し、従来米国は日本の消耗を期待し日支双方に武器を供給しつつ侵略の毒手を平和主義の衣にかくして、おもむろに熟柿の落つるを待っていたが、今や米国帝国主義はその正体を暴露し、大西洋岸における英領を譲りうけて防禦陣地を築くとともに東洋においても英国の権益をそっくりそのまま継承せんとしている。あまつさえ米国は日本の原料源泉を断たんとして、比島から蘭印に触手を伸ばし、シンガポール獲得の野望を逞しくしている。これに対して日本にとり仏印の政治経済的、軍事的重要性を強調し、米国新聞が日本の仏印進出を神経質に報道していることを挙げている。

グルー駐日大使  ジューコフはさらにグルー[Joseph Grew]駐日米大使が東京における公式の宴会で試みた演説から『技術的発展により世界各国は物理的に接近した』という言葉を引用し、従来不可能視された日米戦争が、海軍の現技術的水準では可能となった旨を示唆した。皮肉にもこの論文がプラウダ紙に現れる直前、主なソ連紙は日米海軍力を比較して、米国海軍の実力は日本に及ばずとなすニューヨーク発のタス通信を掲載していたのである。

要するにこの問題に関する論調を総括してみれば、ドミトリエワの調子はずれの親米的な論調を例外として、日本の企図をソ連的立場から解釈すると同時に、米国の帝国主義的本質を痛烈に暴露しており、その目的について問わずとするも、とにかく当面日本の南進北守を希望するかのごとき調子すら仄見し得るのである。しかも一方共産インターナショナル誌掲載のダン・フンの論文のごときは、明瞭に安南共産党の任務は従来フランス帝国主義への闘争にあったが、今や直に日本との闘争を準備すべきであると高唱している。  なおさきに日本の新政治体制と南洋問題に関する主な論文と筆者を一々掲げたが、いうまでもなくこれはソ連が最近において如何にこの問題について関心を有するかを裏書するとともに、一方現在のソ連において主として日本問題を取扱う評論家の顔触れを示さんためであった。

 以上述べたところで、現在日本にとって切実な二つの問題について、ソ連がどう考えているかはほぼ窺われるが、三国同盟後に生じた新しい空気は、未だはっきりした形となって現れていない。ここに結論として蛇足を加えるまでもなく、これだけで読者によって、そこから若干の示唆が酌みとられるであろうと信ずる。(引用終わり)


4−5.独ソ新友好協定成立 : 国境確定、懸案を解決
日付 1941-01-12 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336389
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ベルリン本社特電十日発】昨年十月以来モスクワで行われていた独ソ経済協定交渉は今回成立し十日ドイツ側代表シュヌーレ博士、ソ連側代表ミコヤン貿易相の間に正式調印を了した、新協定は昨年二月十一日の独ソ通商協定にもとづき、かつ一九三九年の独ソ通商協定内容を実行するもので一九四二年八月まで両国物資交換を行うと規定されている
【ベルリン本社特電十日発】ドイツ当局筋の発表によれば独ソ両国は過去一年間に起った諸問題を解決する独ソ新友好協定の調印を十日モスクワで行った、右協定は左の諸項目を含むものと解される
一、昨年末満期となった通商協定の公式更新
二、ソ連のバルティック三国占領に関連する諸問題の解決(同地方から引揚げを行ったドイツ人の所有財産の賠償問題をも含む)
三、ポーランドの独ソ国境劃定に関する諸問題の最後的解決
四、独ソ両国の通商促進
以上に関し権威筋は次の如く論じている
独ソ両国の関係が悪化の途をたどっているという風説が流布されているが、われわれは両国の友好関係を一層強固にするため鋭意努力を続けてきた、同協定の成立は[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]英首相英首相を多分に失望させることであろうがドイツにとっては実に大きな成功というべきである
なお同協定の公報に関しては十日午後八時に発表が行われる予定

リスアニヤ[リトアニア:Lithuania]国境も確定
【モスクワ本社特電十日発】ソ連政府は十日タス通信を通じリスアニヤ[リトアニア:Lithuania]のソ連領編入による独ソ新国境確定に関する条約が成立した旨左のごとく発表した
イゴルカ河からバルティック海にいたる独ソ国境確定条約はソ連首外相[ヴャチェスラフ・]モロトフ氏と駐ソ独大使[アドルフ・フリードリヒ・]シューレンブルグ氏の間に一月十日モスクワで調印を了し、これによってドイツはリスアニヤのソ連領編入承認を実現した。(引用終わり)

ノモンハン事件によって,ソ連の兵力を再評価し1939年12月の「対外施策方針要綱」では強硬姿勢を若干緩和させたが、日本がソ連を恐れていたとの見解は,
1)日本は,中国とソ連と同時に戦うだけの兵力はないと以前から認識していた,
2)第二次大戦の勃発で欧州の動向が不確実になった
3)ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されており,極東方面に兵力を集中できた,
という3点を軽視しており、誤りであろう。つまり、その後も1941年4月に日ソ不可侵条約には至らず日ソ中立条約でしかなかったが、これは南方に進出して、石油、ゴムなどの資源確保が第二次大戦の勃発で容易になったとの判断からであろう。

1940年5月には,ドイツ軍はベルギー,オランダを攻撃し,6月22日には,フランスも降伏させてしまう。この電撃戦の成果のおこぼれを期待した日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに大規模な日本軍を派遣することを考え始める。産業界もオランダ植民地のインドネシア(蘭印)石油,石炭,スズなど地下資源に注目しはじめる。日本の関心は現在の東南アジア地域に向いてきたのであり,日本は南方熱にうかされたように,東南アジアへの進出・進駐を期待するようになる。

ここにおける重要事項は,日独関係である。日本は自力でフランス,オランダを攻撃,降伏させたわけではないし,仏印,蘭印には,植民地政府,軍も残存している。したがって,植民地を治める本国政府,それを降伏させたドイツとの関係を無視して,植民地に軍を派遣したり,経済的支配を目論んだりすることは,ドイツとの関係悪化を招来する。

1940年後半、ドイツの欧州支配の状況で、グローバルな視野から日本でも、ソ連との不可侵条約締結の動きは、北方の防備を固めて、南方に進出(南進)し資源を確保し大東亜共栄圏を樹立する構想が表面化したからであろう。
そこで,1940年9月27日に,近衛文麿内閣は日独伊三国軍事同盟を締結する。この同盟締結の目算がついていた9月23日には,フランス領インドシナ北部(北部仏印)に日本軍を派遣している(北部仏印進駐)。

1940月,米内光政内閣のソ連への中立条約の検討要請を引き継いで,1940年7月には東郷茂徳駐ソ大使が,日ソ中立条約を提議した。また,次の近衛文麿内閣では,独ソ不可侵条約,日独伊三国軍事同盟の存在を踏まえて,日ソ不可侵条約を提議している。
しかし,ソ連の外相(ソ連では外務人民委員)モロトフは,日露戦争の失地回復を放棄した不可侵条約はありえないとする。ソ連は,独ソ不可侵条約の締結によって,日本との同盟関係を必ずしも必要としなくなっていたのである。

4−6.日蘇通商交渉開始 : 意見一致十七日第一回会見
日付 1941-02-21 権利 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100232279
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

漁業交渉に引続き日蘇国交の上に更に一段の光明を投ずべき日蘇通商交渉開始については十四日の衆議院予算総会における松岡[洋右]外相の答弁で明かにされたが、同交渉はわが建川[美次]大使と蘇連モロトフ外務人民委員との合意の上で愈々十七日モスクワにおいて帝国側建川[美次]大使、宮川参事官、大江書記官、蘇連側からミコヤン外国貿易人民委員カガノウィッチ外国貿易人民委員代理、クムイキン外国貿易人民委員部東方部長他一名出席第一回交渉の幕を切って落した旨二十日午後零時半情報局から左の如く発表した日蘇間の通商交渉は両国数年来の懸案であり一昨秋はわが松嶋公使がスェーデンに赴任の途次、モスクワに於て蘇側ミコヤン外国貿易人民委員との間に話合を進めたが成功に至らず、今春以来中絶の形にあったものである【写真(上)建川大使(下)ミコヤン氏】

日蘇通商交渉に関する情報局発表 (二月二十日午後零時半)

日蘇通商交渉開始に関して曩に駐蘇帝国大使建川美次中将と蘇連外務人民委員モロトフ氏との間に意見の一致を見たが、同交渉は愈々本月十七日モスクワにおいて開始された、日本側から建川大使を始め宮川参事官、大江書記官、蘇連側からミコヤン外国貿易人民委員カガノウィッチ外国貿易人民委員代理、クムイキン外国貿易人民委員部東方部長他一名これに出席した。(引用終わり)

写真(右):1940年(昭和15年)7月22日、日本、東京、内閣総理大臣官邸、第二次近衛文麿内閣;外務大臣   豐田貞次郎 内務大臣   田邊治通、 大蔵大臣   小倉正恒、 陸軍大臣   東條英機、 海軍大臣   及川古志郎、 司法大臣   近衞文麿(兼)、 文部大臣   橋田邦彦、 農林大臣   井野碩哉、 商工大臣   左近司政三、 逓信大臣   村田省藏、 鉄道大臣   村田省藏(兼)、 拓務大臣   豐田貞次郎(兼)、 厚生大臣   小泉親彦、 国務大臣   平沼騏一郎、 国務大臣   鈴木貞一、 国務大臣   柳川平助、 内閣書記官長   富田健治、 法制局長官   村瀬直養
Cabinet ministers of Cabinet of Hideki Tojo(東條内閣). They finished the first cabinet meeting and took a souvenir picture in Kantei. Date 18 October 1941 Author Asahi Shimbun
写真はWikimedia Commons, Finnish Defence Forces・File:Fumimaro Konoe Cabinet 19410718.jpg 引用。


1941年2月,日本の外相松岡洋右は,南方に侵攻する際の障害となる英国を打倒するために,ソ連を日独伊三国軍事同盟に加盟させる四国同盟案の可能性を模索する。これによって,日本は極東方面のソ連兵力の脅威を取り除き,中国との戦争を続けつつ,英国の植民地であるマレー,ビルマを攻撃し,資源を手にいれ,中国への援助物資を遮断できる。

外相松岡洋右は訪独し,外相リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)と交渉するが,ヒトラーは既にソ連攻撃を決意しており,四国同盟には関心がない。しかし,松岡外相が,ドイツからの帰途,モスクワに立ち寄った際,スターリンとの直接交渉によって,なんと「日ソ中立条約」の締結に成功する。

写真(右):1941年4月初め、ドイツ、べリリン、ドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)と日本外務大臣松岡洋右(1880-1946):1939年8月27日に独ソ不可侵条約が締結され、8月30日に平沼騏一郎内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。しかし、1940年6月に、ドイツがフランスを降伏させ、欧州大陸支配を決定的にすると、バスに乗り遅れるなとして、日本でも独伊同盟に参加すべきであるとの意見が強くなった、1940年9月7日、ドイツは、ハインリヒ・スターマー特使を日本に派遣し、松岡外務大臣と三国同盟の交渉を本格化した。スターマーは、日本の軍事力でアメリカを太平洋方面に拘束し、ヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止する意図があった。1940年9月27日、東京とベルリンで同時に三国同盟が調印された。1941年4月4日、松岡外務大臣は、ベルリンでヒトラーと会談、ヒトラーは、対ソ侵攻を決定していたが、それを告げずに、松岡にソ連との距離をとることを求めた。しかし、松岡は、ベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄って、日ソ中立条約を締結した。松岡はヒトラーとスターリンの二人に会い,日独伊三国軍事同盟にソ連を加える四国同盟案を構想し、アメリカ・イギリスに対抗することを企図していた。

日本外務大臣松岡洋右は、1941年3−4月のベルリン訪問の後、モスクワに赴き,1941年4月13日、日ソ中立条約の締結に成功する。ソ連と日本の間で締結された「日ソ中立条約」は、日本がドイツ・イタリアとの同盟にソ連を参加させ、四語句同盟に発展させる糸口ともされる。しかし、天皇制ファシズム国家大日本帝国が、ノモンハン事件のハルハ河の対ソ連戦に敗北したことが、共産主義・ボリシェビキのソ連との中立条約を締結させる契機になったことは重要である。「ハルハ河戦争」では、ソ連・モンゴル連合軍の統一式の下で、装甲車・戦車の機甲部隊が、地上支援航空兵力と連携する縦深浸透攻撃を実施し、「電撃戦」の走りともいえる戦果を挙げた。これによって、日本はソ連軍の兵力、戦術を軽んじることはできなくなり、攻勢から守勢に回った。それが、日ソ中立条約である。

松岡洋右は、1904年に外務省登用試験に合格、入賞し、中華民国の領事官補、満州の関東都督府などに赴任し、その時に、満鉄総裁の後藤新平、三井物産の山本条太郎らと知り合った。そして、寺内内閣の外務大臣後藤新平の下で、総理大臣秘書官兼外務書記官として外交舞台で活躍し、1919年の第一次大戦後の講和会議であるパリ講和会議にも随員として近衛文麿らとともに参加している。これは、外国仕込みの英語能力を買われたためでもあるが、日本外交のスポークスマンとしての活躍を見せた。その後、中国総領事に就任したが、1921年、41歳の時に外務省を退官した。そして、山本条太郎の招きによって、南満州鉄道の理事に就任し、1927年に副総裁となった。しかし、1930年には満鉄を退職して、2月の第17回衆議院議員総選挙に政友会から郷里山口2区で立候補し、当選し、議会では強硬外交を主張した。1932年、国際連盟がリットン調査団報告書で、満州国を認めず不当な対日勧告をしたとして、1933年2月24日、国際連盟脱退の演説をした。


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名するソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)
:真後ろに立っているのは、外務大臣松岡洋右、その奥にヨセフ・スターリン、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Нарком иностранных дел СССР В. Молотов подписывает Пакт о нейтралитете между СССР и Японией (1941). Присутствуют: И.В.Сталин, министр иностранных дел Японии И.Мацуока, зам. наркома иностранных дел СССР С.А.Лозовский, А.Я.Вышинский. Date 13 April 1941 Source http://victory.rusarchives.ru/index.php?p=31&photo_id=995 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Molotov signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact.jpg引用。


1940年7月20日、第二次近衛文麿内閣で外務大臣に就任した松岡洋右は、アメリカ・イギリスと対抗し、日本による中国満州支配を貫徹するために、ドイツ・イタリアと同盟するための外交を唱えた。そして、三国同盟の参加の条件として、松岡は、日本陸海軍と交渉し、
1)アメリカ・イギリス・フランス中心の既存の世界体制に対抗する国際連盟脱退国として、世界新秩序・東亜新秩序の建設、
2)軍事同盟・外交協議・武力行使という第二次世界大戦への参加を日中戦争(支那ヲ事変)の解決後にすることをドイツ・イタリアに承諾させる自動参戦義務の無効化、
3)欧州ブロックと東亜共栄国との相互の提携、
を原則にして、1940年9月9日から、日独伊三国同盟の交渉を始めた。

日本における三国同盟の難点は、すでに第二次世界大戦を始めていたドイツ・イタリアとの同盟すると、日本も枢軸国として自動参戦する義務があり、戦争に巻き込まれるという危惧だった。日本政府には、「本条約締結ニ伴フ政府ノ施策万全ヲ期スルコト対英米関係ニ於テ無用ノ刺戦ヲ避クルコト等ノ希望ヲ付加シタル審査報告ヲ朗読ス 石井顧問官 本案ニ賛成ナルモ近代ノ同盟ハ古代ノ同盟トハ異リ利実関係ノ結合ニ過ギザルモノナリ歴史ノ教ワル所ニ依レバ同盟国間ノ関係ハ頗ル難シキモノナリ殊ニ独逸ハ最モ悪キ同盟国ニシテ独逸ト同盟ヲ結ビタル国ハ凡テ不慮ノ災難ヲ被リ居レリ」との反論もあったのである。

しかし、松岡洋右は、ドイツとの交渉によって、自動参戦義務はないとをドイツに譲歩させ、それをもって日本陸海軍、政府の賛同を得て、昭和天皇の裁可の下に、1940年9月27日、日独伊三国同盟の調印を行った。

さらに、松岡洋右は、似つ独伊三国同盟にソ連を加えた四国同盟の構想を抱き、1941年3月12日、ソ連経由シベリア鉄道でドイツ・イタリア訪問の途についた。1941年3−4月初旬、ドイツとイタリアで日独伊三国同盟にソ連を加える案を提議した外務大臣松岡洋右は、ドイツからはソ連への不信、さらには独ソの対決を仄めかされるほどだった。しかし、帰路にソ連モスクワに立ち寄り、懸案だった日ソ中立条約で調印することに成功した。これは、日本とソ連が相互に領土の保全および不可侵を約束したもので、締約国の一方が第三国から攻撃された場合には他方は中立を維持することも約束している。有効期限は5年で、満期1年前に破棄通告がなされなければ、さらに5年間自動延長される。

 1941年4月13日、日ソ中立条約調印に合わせてソ連と日本が共同声明を発表し、ソ連は日本傀儡の満州国の領土保全と不可侵の尊重し、日本はソ連傀儡のモンゴル人民共和国の領土保全と不可侵を約束した。つまり、ソ連本土・日本本土だけではなく、1939年のノモンハン事件で戦ったモンゴル・満州国境についても、相互の不可侵を約束したもので、ノモンハン事件後の講和条約の性格を持っている。これは互いの領土だけでなく、日本の傀儡国家である満州国と、ソ連の強い影響下にあるモンゴル人民共和国にたいしてもそれぞれ領土保全、不可侵を宣言したことである。


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ヨセフ・スターリンとソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Министр иностранных дел Японии И. Мацуока подписывает Пакт о нейтралитете между СССР и Японией. Присутствуют: И.В.Сталин, нарком иностранных дел СССР В. Молотов, зам. наркома иностранных дел СССР С.А.Лозовский Date 13 April 1941 Source http://victory.rusarchives.ru/index.php?p=31&photo_id=997 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-2.jpg引用。


大日本帝國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約

第一條
両締約國ハ両國間ニ平和及友好ノ關係ヲ維持シ且相互ニ他方締約國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二條
締約國ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三國ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約國ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三條
本條約ハ両締約國ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約國ノ何レノ一方モ右期間滿了ノ一年前ニ本條約ノ廢棄ヲ通告セサルトキハ本條約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

第四條
本條約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

右證據トシテ各全權委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本條約二通ニ署名調印セリ

昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス
松岡洋右(印)
建川美次(印)
ヴェー、モロトフ(印)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本國皇帝(御名)此書ヲ見ル有衆ニ宣示ス

朕昭和十六年四月十三日「モスコー」ニ於テ帝國全權委員ガ「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約ヲ閲覧點檢シ之ヲ嘉納批准ス
神武天皇即位紀元二千六百一年昭和十六年四月二十五日東京宮城ニ於テ親ラ名ヲ署シ璽ヲ?セシム
< 御名國璽


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ヨセフ・スターリンとソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Signing of Soviet-Japanese Neutrality Pact Date 25 April 1941 Source [1] - The US-Japan War Talks as seen in official documents Author Domei Tsushinsha
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Soviet-Japanese Neutrality Pact.jpg引用。


1940年6月にドイツがフランスを降伏させると、日本は、アジアにおけるイギリス・フランス勢力の弱体化の中で、日独伊三国同盟によるソ連の封じ込めを企図した。しかし、1941年4月に日ソ中立条約を締結した第二次近衛文麿内閣では、三国同盟にソ連を加えて、四語句同盟として、アメリカに対抗することを計画するようになった。近衛文麿は、その手記『三国同盟に就て』で、
1)アメリカの参戦を防止し戦禍の拡大を防ぐ
2)対ソ親善関係の確立し独ソ不可侵条約と日ソ中立条約を結合して、日独ソの連携によって、英米に対する日本の地歩を強化する
3)日独ソの連携の下に、日中戦争(支那事変)を継続する中国蒋介石政権への独ソの援助を停止し、蒋介石の屈服を企図する
という3点を示した。そして、「元来余は熱心なる日米国交調整論者であった。……然しながら事志と違い、今後日米の国交は只ゝ悪化の一路を辿り、殊に支那事変以来は両国の国交は極度の行詰りを呈するに至った。かゝる形勢となりし以上は、松岡外相のいえる如く最早礼譲とか親善希求とかいう態度のみでは国交改善の余地はない。」と考え、権謀術数を頼む日本外交を展開し、東亜新秩序の確立を図った。

4−7.米の政策不変を強弁 : 日ソ条約にハル長官声明
日付 1941-04-16 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336190
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真(ハル長官)あり 省略] 【ワシントン本社特電】(十四日発)ハル国務長官は十四日日ソ中立条約成立に対するアメリカ政府の見解を発表、アメリカ政府の外交政策は、日ソ中立条約によって何等変更を蒙るものでない旨次の如く声明した

『日ソ中立条約の意義は一般にやや過大評価されている傾きがある、この条約は従来より日ソ両国間に事実上存在していた状態を単に文書において表現したものと解されよう、両国政府がこの状態を文書において確認することに意見の一致を見るや否やについては若干の疑問もあったがそれが成立を見るに至ったとしても何等驚くに当らない、従ってアメリカ政府の諸政策はこれによって何等変更を蒙るものではない』

【ワシントン十四日発同盟】ハル国務長官は十四日の定例会見で日ソ中立条約に関する公式声明後、記者団と一問一答を行ったが『ソ連が満洲国を承認したことをどう考えるか』との質問には『公式声明以外には付加する必要はない』と答え『日ソ両国に対して圧迫手段を考慮しているか』と質せば『今までのところ本問題は何等討議された事がない、条約を十分検討した上でなくてはこれが米ソ関係及び目下継続中の米ソ通商交渉に何等かの影響を持つかどうか言明出来ない』旨をのべた。(引用終わり)

4−8.米北京駐屯軍 : 来月上旬、第二次引揚げ
大阪毎日新聞 日付 1941-04-17 大阪毎日新聞
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【北京十六日発同盟】米国北京駐屯軍百五十名はターフジ司令官指揮のもとに来る五月上旬北京を引揚げ秦皇島より上海経由マニラ方面に向うこととなった、この結果北京米国駐屯軍は去る二月第一次引揚げ四十名を合してほとんど全部が引揚げ、あとはわずかに大使館護衛の十余名が残留することとなるが日ソ中立条約成立直後のことでありその動向は非常に注目される

なお北京米国駐屯軍は一九〇一年北京における義和団事件議定書の規定にもとづき約四十年の久しきにわたり駐屯していたものである。(引用終わり)

4−9.対蒋援助を継続 : ソ連、重慶へ通告説
大阪毎日新聞日付 1941-04-17 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336524
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ニューヨーク特電十六日発】十六日重慶より当地に達した報道によると重慶においては信ずべき筋よりの情報としソ連政府は十六日正午重慶政権に対し日ソ中立条約成立後もソ連の対蒋援助は依然継続せらるべき旨を通告し来ったと伝えられる

【ニューヨーク特電 十七日発】日ソ中立条約の成立は英米陣営とそれに依存する重慶政権に深刻なる衝動を与えたが重慶側ではいまだにソ連の援助に一縷の希望を繋いでいるもののごとく十六日重慶発のニューヨーク・タイムス紙特電はつぎのように重慶側の今後の立場を報道している

重慶政権は十六日モスクワより日ソ中立条約により従来のソ連の対支政策は少しも変更されるものではないとの公式の確約を受けたる旨発表した、それにより今後も武器弾薬、飛行機その他の軍需品供給の形式によるソ連の対支援助が継続されるものと解される、それらの軍需品は茶、タングステンなどの支那の産物と交換取引されているようだが一昨年締結されたソ支バーター通商協定によって成立したソ連の対支借款は本年ソ連より重慶に送られたる軍需品の価格が莫大なる額に上るにもかかわらず重慶は未だに借款の大部分を費消していないので、それだけソ連に対して軍需品の供給を仰ぐことができるわけであるしかしモスクワ政府の確約を得たとはいえ今後重慶はいつまでソ連の援助を期待できるかにつき疑惑を有するものが甚だ多い重慶当局では十六日同時に満洲攪乱の工作をさらに強化する方針を進めている旨発表した

日本は今回日ソ条約によりソ連をして日本の満洲に対する支配権を承認せしめたがもし日本が今後在満兵力を減少することがあればそれだけ重慶側の活動の機会が増大することになるので重慶は今後満洲辺境の攪乱工作をとるものと見られる、但し重慶としては今回のソ連政府の確約にあきたらず、引続き日ソ条約の詳細なる内容ならびに適用につきソ連政府の説明を期待している。(引用終わり)

4−10.日ソ条約に対抗 : 英、米、濠、蘭の密約説 : 太平洋軍事基地を共用
日付 1941-05-01 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336365
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ワシントン本社特電】(二十九日発)英米合作の進展につれ太平洋においても右両国及び濠洲、蘭印を含めた諸国の間に日本を対象とする何等かの協定乃至諒解が存在するに非ずやとの問題は各方面関心の的となっているが、確実な筋より得た情報によれば最近英、米、濠、蘭印各国政府は日ソ中立条約成立後における日本の南進政策を危懼し同四ヶ国紳士協定を締結、右締結諸国中何れか一国が日本の攻撃を受けた場合四ヶ国海空軍は太平洋における軍事基地を四ヶ国共通の使用に供すべき取極めを行ったといわれる

右に関し消息筋でもアメリカが武器貸与法の精神に則って英、濠及び蘭印に対し太平洋にあるアメリカ海空軍基地の使用を許可することは当然考えられることで、そうなれば各国海空軍はアメリカの基地において自由に燃料補給及び修理を受けると共にアメリカ海空軍もまた右三国の基地を自由に使用することが出来るわけだと述べている。(引用終わり)


4−11.伝統の南下政策達成の機会を窺う : 近東情勢とソ連の動き
日付 1941-05-20 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335452
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

ソ連の最近の動きは他の諸列強に比し、その外観は花々しいものはないが、この世界の変局、特に英帝国の崩壊という最早仮想でなく現実的様相を前にして、ソ連は独得の大きな動きを見せているのである。

 特に本年四月以降におけるソ連の動きを数えて見ても四月六日のソ連・ユーゴ友好不侵略協定、四月十一日独ソ間鉱油取引協定、四月十三日の日ソ中立条約の成立、五月六日のスターリン氏のソ連内閣首班就任、五月八日のノルウエー、ベルギー、ユーゴー三国の公使館撤収要求五月十二日のソ連、イラク間外交関係設定等々表面的にはすこぶる地味である。 この中にスターリン政策の画期的発展とソ連の布石がひめられつつあるのである。

スターリン首相 スターリン首相登場

ソ連の動きとして、劈頭に取上げらるべき問題は、スターリン氏の登場である。なにがゆえにスターリン氏がスターリン憲法発布当時でさえつかなかった椅子に、今日になって坐る必要が生じたか。これには三つの理由が想定される。

一、世界の情勢が既にソ連をして党と政府との二元主義政策の採用を許さず、梶原式逆櫓の余地を与えなくなったこと
二、枢軸接近というより、むしろ枢軸利用によって、ソ連独自の膨脹政策を進展せしめるため、ここにソ連は対外政策に一貫性を附し対外信用を強化する必要があったこと
三、第二次世界大戦に対するスターリン氏の見通しが的中し、世界再分割戦により多くの収穫を得るためにスターリン氏が馬を陣頭に乗出したこと
これである

これを戦時外交に入って以来のソ連の遣口に見るに、かの一昨年の独ソ提携によるソ連の対外政策の一大転換は、実にソ連が党と政府の二元性に基づいて敢行したものであって、黒幕のスターリン氏が政府外交当局の更迭によって、簡単に決行されたのである、しかしかかるソ連の外交政策の転換は一部外交においてソ連政府の政策、言動に非常なソ連政府の言動よりも、むしろその背後にあるソ連共産党の動向、端的にいえばスターリン氏の意図如何を窺うに至らしめた。これがためにそれ以後の対外重要折衝乃至重要外交文書の交換にあたっては、モロトフ首相兼外相とともにスターリン氏の立会を必要とさるるに至った。しかし今日に至って、スターリン氏は逆櫓式な対外政策の転換を必要としなくなった。それよりも寧ろ対外政策の信用を強化して、世界の変局に対処することの必要を感じた所に、スターリンの首相就任の意義があり、ソ連の枢軸接近の大きな動きが見られるのである。以下ソ連の最近政策によって、ソ連の動向を窺って見よう。

ソ連バルカン放棄

独ソ関係の微妙なる複雑性については、英米側の離間策乃至離間期待を全然別個の問題として否定されないものがある。独ソ不侵略条約によって結ばれた独ソ両国の戦争回避の態度、政策には一貫したものがあるが、ソ連が厳然たる中立政策を標榜し、独自の政策を遂行している以上、勢力圏の問題については、時々摩擦があり、政策の食違いは免れ難い。しかしてこれら勢力圏問題についてポーランドならびにバルチック沿岸諸国に関する限り、独ソ間に円満なる諒解が成立して、その摩擦の原因は除去されて行ったが、事一度バルカン問題に移って、独ソ間に政策上の摩擦があったことは事実である。

 しかるにドイツの電撃作戦はソ連の期待を裏切り、ユーゴ—ギリシアは独軍に蹂躪され、ソ連のバルカン政策は一蹴されてしまったのである。このドイツの偉大なる戦果に驚愕したソ連はあっさりとバルカンを放棄した。ソ連がノルウエー、ベルギー、ユーゴー三国の主権否認の行動をとったことはこれを証明している。

西南亜細亜へ南下

スターリン首相 このソ連の対バルカン政策失敗の直後に日ソ中立条約が成立しスターリン氏の首相就任が実現したことは、ソ連の枢軸接近という大きな動きの標柱である。ソ連が反枢軸的政策を執って、得るところはなにものもなく、枢軸国を利用して初めてソ連は勢力圏の拡張に進み得るという現実の教訓をバルカン政策によって味わった。ソ連の狙うところはアフガニスタン、イラン(ペルシア)を南下してペルシア湾に達し、枢軸国の手の届き難きインドをも赤色勢力圏に包含することである。このソ連の南下態勢は帝政ロシア時代からの伝統的政策であって、英帝国の勢力に阻まれて今日に至った、しかしていまや枢軸国の前に英帝国は崩壊の前夜にあり、枢軸国の勢力がここまでに伸びるまでにソ連は重要点に布石する必要に直面した。五月十二日ソ連がイラクと国交を開始したのは、ソ連の一つの布石であるといえる。スターリン氏が松岡外相との会談で  自分もコーカサス生れのアジア人の一人である。欧洲人には自分の政策は理解できないかもしれぬが、アジア人には理解されよう。 という言葉は、意味深長であるがスターリン首相の肚の中に、その南下政策と同教諸民族に対する政策が具体化しつつあることを語るものと見られないこともない。近東における独ソ間の勢力圏が如何に固まるか、東亜から南進する大東亜圏がどの地域にまで到達するか今後の政局の発展に俟って知る事柄であるが、ソ連が規定の政策の下に西南アジアに南下し、世界再分割戦に参与すべく、枢軸接近政策に一歩を進め、近東に着々布石しつつある事実は見逃し得ない大きな動きであろう。(引用終わり)


4−12.ソ連最近の経済事情 (一〜三) 著者 野口芳雄談:外務省欧亜局
日付 1941-06-13

(一) 蒲公英の乳液からゴム 不足資材確保に科学、技術総動員で躍起

大体現在のソヴエト連邦の動態をみますと、如何にも非常時体制というものを濃厚にして来ております、これは西欧における戦霊が益々濃くなりドイツの西側からの圧迫を非常に感じて来たからであります、従来はボーランドという国がありましてそれが一つの緩衝地帯になっておりましたものが、今次の大戦でドイツの占領下に置かれて直接に国境を接するということになりますと、何時如何なることから不測の事態が起らないとも限らないというのでソ連としましても十分その辺のことを考へておるのであります、

殊にドイツが西の方に進んで行き今やバルカンをその手中に収め、そして段々東の方に出て来てトルコイラン、シリヤ、イラクなどの中東地方にまで手を延ばすような形勢になって来ます、と黒海を繞る諸地域‐殊にソ連にとっては食糧問題の根本的解決策としてのウクライナの確保および鉄、石炭の出るドニエツ炭田地方延いては黒海の東コーカサスの油田というものがドイツの手に入るというような形になって来ますからソ連と致しましてはどうしてもここに最後の力を振り絞ってでも一応ドイツに対抗しなければならないという形になるのではないかと思うのであります

現在までの情勢をみますとスターリン氏が首相になって出て来まして以来今までバルカン辺りで嫌がらせをやっておったのももうやらないようになり、ドイツと大体提携して行くという形になっておりまして、或は石油とか穀物類というものをもう少し多くドイツに渡してドイツのこの方面における要望に応ずるということで以て段々とドイツに歩調を合せて行くという方針でありましょうが、その間にドイツに取られてしまうというようなことになりはしないかと、そういうような非常に憂ふべき状態にあるというとは事実でありまして斯ういう風な情勢に際して経済方面、政治方面におきましても対抗するような種々の施策を採っているということも疑いのない所であります

内政方面に対しても今まで共産党内で非常に羽振りを利しておりました党員を抑えて国内一致の体制で行く‐党と人民とが遊離しないで全体が一つの塊りになって国難に処して行く、そのためにはソヴエト・デモクラシーというものを唱えてそして民心をして安んじて業に就かしめ生活を愉快にしてスターリン政権に対する神聖を維持して行くというようにやっておりまして多年これまでつくって来たソヴエトの組織の力にさらにもう一つ精神的結合とでもいいますか、この二つが両々相俟って国力整備の歩を進めて行くということに向って努力が続けられておるものと考えます

経済方面に就きましては要するに有事の場合における所の必要資材の自給自足ということが生となっておりまして戦時に必要な重要資材の内現在のロシヤに足りないものはゴム、ニッケル、銅、錫、ウォルフラムというものでありましてこれが確保に今躍起となっておる、つまりこの五つのものの自給策を樹てておる訳であります、従来それらの足りない所は今までイギリスとかアメリカ辺りから輸入しておったのでありますがまだまだ斯ういうようなものでは自給の域に達していないのでありまして現在のところ国内で生産出来るものは半分位であります

最近ソ連では天然ゴムの採取をやっておりましてこれに関した植物の文献などを集めたりして盛んに研究をやっております、現在その内でも一番有望なものは一種の蒲公英に属する植物でこれは別に学名はありますがその蒲公英の根っこから乳液を採るのでありまして乳液の約二〇%位がゴムになっております

[写真(スターリン氏)あり 省略]

今それを盛んに栽培しておりまして栽培に当っても根っこを太くするという風に凡ゆる部門に亘って非常な苦心研究が払われております、蒲公英からゴム乳液が出るなら日本でも山芋からゴムが出来ない筈はないと思いますが……斯ういった訳でソ連政府では今年になってゴム省というものを特につくったのをみてもゴムの産出に非常に努力しておることが判る訳であります、

またニッケルとか錫、銅、ウォルフラム斯ういう鉱産物に就ても相当増産計画をやっておりまして去年と比べてみましても約その倍に達する予定でありまして錫、銅など大体三割から四割も増加するという状態であります、これらの鉱物は徐徐に発見されておりますが殊に中央アジヤからアルタイ方面にかけての一帯は今迄余り探査が行届いていないので最近では年々何億留比という調査費を出して連邦科学院から調査隊を沢山派遣してどんどん探鉱調査をやらしておるという状態であります

[写真(モロトフ氏)あり 省略]

そこで経済方面における新体制というものをみますとそれは先ず労働方面に一番強く現われております、大体ロシヤの労働者というものの労働能率は非常に低いもので一時はアメリカ辺りの三分一位で三人掛ってアメリカの労働者一人に匹敵するというような時もありました、之がために政府は生産力を引上げるために凡ゆる運動殊にスタハーノフ運動を各方面に向ってどんどん普及奨励させておるのでありましてこの運動はもうかれこれ七、八年来伝っております

そして優秀な労働者には勲章をやったり代議士にしてやったりして物質的にも社会的にも高い地位を与えて優遇しております、それかといってい最高会議へ出て来ても手を上げたり下げたりするスターリンの顔が見えるかモロトフの演説が聞ける位でロボットと変らないのでありますが多くは国へ帰ったら大きな顔が出来る、まあ陣笠程度のもので一種の労働貴族のようなものであります

とにかくそういう風な区別を附けまして色々奨励方法を講じて能率増進運動をやって来ておるのでありますがなかなかそれでも思うような効果が挙らないのであります、一般の労働者の能率というものが余りに低いため今度は労働者の規律をもっと改善するというような方法に出まして労働法も憲法ではソ連の労働者の地位というものは世界にその比を見ない程非常に合法化されたものであるということを自慢にしておるものでありますがそれにも拘らず最近に至りましては段々労働者の特権というものを奪っております(つづく)

(二) 製油技術未だし 尨大な工業生産高に比して極めて微々たる貿易

即ち今まで七時間労働制であったものを八時間にした七時間労働はそれは憲法にも書いてある所でありますがそれを去年辺りから八時間労働に又引戻しております、労働時間は殖えたけれども金賃殖やさない、然も少年工辺りで今まで六時間であったものを八時間にするという調子で非常な労働の強化を強いております、斯ういう点は従来彼らの唱えて来た所と非常に相反するものでありまして恰も労働者の天国であるかのように思われておりますと大□な間違いであります、そういう無理をしましてもこの時局に堪えて今後どうしても一流の先進国追つかなければならないという様な決意を持っております

今年の二月におきましては、さらに今度の第三次五ケ年計画で十五年間掛ってもよいからもっと産業体制を固めるということを発表しております、それによりますと今後益々労働者の出来高払賃金制を確立強化するのであってこの結果は労働者の過労を非常に誘い労働の搾取を伴うということになると思うのでありまして一寸今まで予想出来なかった点であります工業に就きましては主要物資をどの程度生産しているかと申しますと今年の二月の党の会議で発表されておるのでありますが昨年から一大准戦時体制になりまして数字などは厳重に秘しております、これはどこの国でも同じてありますがなかなかはっきりしない所があります

けれども大体工業の総生産高は一千六百二十億留で銑鉄が一千八百万瓲鋼塊が二千二百四十万瓲、圧延鋼材が一千五百八十万瓲、石炭が一億九千百万瓲、石油が約三千八百万瓲という所でありまして大体これによってみましてもなかなか近時のソヴエトの経済というものは侮り得ないものがあるということがいえるのであります、他方一般の国民の生活に直接関係ある所の消費材というものは、はじめ第三次五ケ年計画に当り今年当り特に殖やすつもりであったのでありますが最近の時勢に鑑みて予定通り殖やしておらないのであります

去年の生産材の生産高は八百三十九億留ということになっており、消費材は五百三十六億留となっておりますが今年の予定をみますと生産材の方は一躍一千三十六億留ということになっており約二七%を増し消費材の方は五百八十四億留僅かに九%位しか殖えてをらないという状態で今後益々国民の生活というのは勢い犠牲を強いられるという形になって来ると思います

先程ソ連が徐々に生活状態をよくしておると申しましたのも実はソ連だけについてみるから目立つものでありましてつまり他の国には今戦火に投じて切詰めた生活をしておりますためソ連だけが浮上って見えるということは無理もない所でありましてこれは全体の国力についてみましてもそういうことはいえると思うのであります

永い間戦争をしております日本とか、ドイツ、イタリー或はバルカンの諸国というものは相当消粍しておりましてソ連だけは大した消耗もなしに比較的順調に発展しておるという所にソ連が持っておったハンディキャップも大体解消して行くんじゃないかと思います、ドイツ辺りにみましても今後非常に長期に亘りまして英米に対する抗戦を続けるとするとしまいにはソ連と国力のレベルが合って来ますとそこで危険も有り得ると思うのでありましてどの程度においてソ連とドイツとが話合をつけるかということは興味ある問題であります

次に貿易方面をみますとこのソ連の大きな経済における貿易の位置というものは極めて小さいもので自給自足経済を先ず目標としておりますから貿易というものは主として自国に全然ないものと海外から仰ぐ位で消費材の如きはもう殆んど輸入する余地がないというような状態でありまして大体貿易額は逐年減退の傾向を□りつつあります

経済の情勢が年々非常な大きなテンポでもって伸びて行くのに貿易だけは萎縮して行くといった具合で一九三八年の後半期から殆ど貿易に関する統計なども発表しないのであります、所で三八年の統計をとってみますと輸出が十一億九千万留、輸入が十億五千万留、合計二十二億四千万留という小さいもので工業生産高が約一千億留、国庫予算が一千三百億留を以って経済を動かしておりながら貿易額が小さいということは自給自足経済というものを基調としているから出て来るんだろうと思います、凡そ従来のソ連の貿易は輸入超過ということになっておりまして一九一八年から二十年間に亘っての統計を見ますと輸入が四百十三億留、輸出が三百八十九億留ということで二十四億留程入超になっておるけれども大体これでバランスはとれておるのでありますが最近戦争になりましてから貿易の状態というものは非常に変って来ております

MiG3 この戦争直前の状態を見ますとやはりイギリスが第一でアメリカ、ベルギー、オランダ、ドイツという順序で大体普通の時代ならば四、五十万留から六、七千万留程度の貿易はあっていいはずでありますが一九三八年辺りの統計をみますと二千数百万留という小さいものであります一方イギリスは従来はともかく現在は欧洲大戦の影響を受けまして余り入らなくなったため非常に減少しております、

又ソ連は油田国であって生産高も三千八百万瓲も産しておりますがどうも生産技術の水準が非常に低いためにアメリカから相当多くの良質ガソリンを輸入して補っておりますし工作機なども随分買っておりますがソインランド戦争を境に一時アメリカ政府では輸出を許可しないことになっておりました所丁度昨年の三月になりまして三国同盟に対する色々の関係からアメリカはソ連を自分の方に引入れようとしてその許可を亦元のようにすらすらと戻した時もありますが最近におきましてはまたまた膠着し悪化しているらしいです(つづく)

(三) 東漸する発展力 黒竜江下流に生産基地 北氷洋廻りの航路開拓

ソ連としては特殊の工作機とガソリンというものはアメリカの供給に俟ちそれから南洋方面のゴムとか錫というものは第三国を通じてでもどこからか手に入れたいというのが今の希望であります、ロシヤの経済方面の発展におきまして最も我我の注意しなければならないことは最近の経済発展の進路が東の方に向って進んで来ているということで、ヨーロッパ・ロシヤの国境に近い所では色々の危険があるという所からだんだん東の方に生産基地を動かしております

即ちウラルの山から東の方の石炭錫、穀物などの多い産地に基地を設け延いてはずっと極東の方面におきましてもバイカルから黒竜江の下流地方にかけて生産基地をつくるということに努力しておりまして大体ヨーロッパ・ロシヤにおける種々の生産組織のみに依頼せす専ら極東方面に主力を注いでいるようであります、

これは西の方からドイツ人に押されるため自然その足場が東の方へ進んで行くような形になっておりましてそれは歴史にみても明らかであります、それだけに我々極東に位しているものにとりましてロシヤの東漸ということは注意しなければならないことでありまして今後近い将来ではないかと思いますがだんだんとその勢力を我々が感じるようになるだろうと考えるのであります

大体第三次五ケ年計画の実施前につくられた計画によりましてもその約三割というものはウラルの東方に注がれており殊にバイカル以東の極東地方この辺において将来工業の飛躍的建設が行われるというような情勢でありまして極東地方の人口だけをもってしてはどうしても賄うことが出来ないのでどんどんヨーロッパ方面から移民を奨励しております

MiG3 現にハバロフスクから黒竜江の下流の方にあるゴムソモリスクの街なんかは製鉄所や自動車の組立工場があり一つの生産基地をなしておる位でありましてヨーロッパ・ロシヤの北の方とずっと極東の背後の方で緊ぐためにムルコンスク‐北緯七十度の所に位しておりますがここは大西洋からの暖流の影響でロシヤの有っている唯一の不凍港であります‐大体此処を拠点としましてずっと北氷洋を廻ってベーリング海へ出てカムチャッカから浦潮へ達するという一つの航路を開拓しておりますが然しこの航路は御承知の通りとても通ることの出来ない氷の魔海でありまして大体夏一航海位しか出来ないのであります、大部分はベーリング海よりもっと西のコリマ河の河岸までやって来てそれから河船に積替えて上流の方へ必要物資をどんどん運ぶのであります、

これは全然日本から脅かされない裏口の通路からどんどん資材を持って来れば万一戦争でもあった場合其処処が一つの配給基地になり西の方から緊迫されても大した痛痒も感じないという仕組になっておりまして何時でも浦潮の北方へ持って来るという形になっております

この間の中立条約に致しましてもこれは西欧における危険が一つの力となった観方も勿論出来ますし大体ロシヤというものは日本と事を構えることを欲しないのでありまして約十年間に亘って七、八回も不侵略条約を日本に申込んで来ておりますがその都度うまく行かなかったのであります、政治的な協定をつくろうという意図は常から持っておりましてこれは何時まで経っても変らない希望であると思います

まあ日ソ関係はノモンハン事件を契機と致しまして‐あれが一番最悪の事態に立至って実際上の非常な大戦争でありましたが‐何時までも斯ういうことをしておっては大変なことになるというのでなんとか日ソ間の関係を調整したいという気持が最近特に動いて来ましてだんだん国交調整の交渉が進んで来たのでありまして偶然松岡さんの渡欧を機会に今度のような中立条約の話合が出来たとは誠に結構だと思いますが決して斯ういう条約が出来たからといって永久に安心出来るというわけにはいかないロシヤの東漸というものは我々今後見逃すことは出来ないと思うのでありましてこれに対する十分の備えをしておくということが絶対必要でありまして未だ通商協定や漁業協定という問題も残っております

これも早晩解決つく問題だと思いますが、そういうものが出来ても急に日ソの関係がよくなったという風に考えるのは之れ亦非常に危険であります、大体ロシヤ辺りの外交をみますと変々自在にやっております一時はドイツと仲が悪く噛みつき合うような宣伝戦をやっておるかと思うと何時の間にかそんな経緯をさらりと棄てて手を握るというような手段に出ますから決して日本人が一般に考えるように一度和を結んだからといってもそれは永続するものであるか或は又他の色々の客観的情勢の動きによってそれが力を失うものであるかということについては常によく考えなければなりません

何れにしましても私達は今後ソ連の実際の姿というものを常に見究めて荒唐無稽の憶測や感情的な観方は避けたいのでありまして色々国策を樹てる意味において是非ともロシヤの正体というものを掴むということが必要だと思います、繰返して申しますが今ソ連の必然的な動きというものはだんだん東の方に向って来て侮り難い勢力を持って来ておりましてそれはやがて我々の肩の上まで達するものであるということを常に考えて置かなければならないのであります(於関西工業倶楽部、大阪経済倶楽部主催講演会にて)=完=(引用終わり)


4−13.国交開始以来十六年目 : 遂に実を結んだ交渉
日付 1941-06-13 This collections need you to make an application to reuse images URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100230176
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

貿易進路を明示 業界、頗る歓迎す

今回妥結を見た日ソ通商交渉のはじまりは一昨年の暮貿易省問題で男をあげた当時の通商局長松島鹿夫氏がスゥエーデン公使として赴任する途次モスクワに立寄りミコヤン貿易相との間に話を交わしたに起る、もっともこの交渉はまだ両国間の意思合致の時機いたらず、他面国境紛争その他の理由などもあって自然立消えとなっていた、ところが建川大使の赴任前後から両国間の雰囲気は漸次好転しそれが、本年二月両者の正式会談となってついに今日の妥結へと進行したものである

 もちろんこの間における松岡外相の訪ソならびに中立条約の締結が異常なる作用を与えたものといえよう

そもそも両国が通商条約を締結せんとの意思は一九二五年の日ソ基本条約の末尾に記載させているところであるが、今回ソヴィエト連邦との国交開始以来実に十六年目に妥結を見るにいたったことは日ソ国交上まことに画期的なことともいうべく、政治的な中立条条約はこの経済協定によって裏づけられ両国にもたらす利益ははかり知れぬものがある。かかる友好的雰囲気は漁業基本条約をはじめ両国間に横わる自余の未解決案件を解決する端緒を開くものと期待される。(引用終わり)


5.1941年6月22日ドイツのソ連侵攻

写真(右)1941年夏,ソ連、東部戦線,ドイツ軍IV号戦車E型(Panzer IV Ausf. E)と軍用車輛 PK Lw 3 :24口径7,5センチ砲を搭載したIV号戦車だったが、のちに攻撃力を強化するために43口径7,5センチ戦車砲に変換された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-351-1427-21A Archive title: Sowjetunion, Witebsk.- Panzer IV Ausf. E mit Fahrzeugkolonne auf einer unbefestigten Straße; PK Lw 3 Dating: 1941 Juli - August Photographer: Jacobsen撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-351-1427-21A 引用(他引用不可)。


5−1.[1941年6月勃発の独ソ戦は]日ソ関係に影響なし:英ソ協 :ソ連当局言明
大阪朝日新聞 1941-07-15 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336447
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【モスクワにて畑中特派員十三日発】ロゾフスキー・ソ連情報局次長は十三日外国記者団と会見したが話題は主として同日成立の英ソ軍事協定に集中され、ロゾフスキー次長は
 今回の英ソ協定はドイツに対する諸強国の連合を意味する、またイギリスはパートナーとして世界最大の産業を擁するアメリカを味方に持っている、ゆえにドイツおよびその隷属国家は自由のために戦う諸国民の強力な連合に直面しているのである
と英ソ協定の価値を力説、つづいて一問一答に入った、記者(畑中特派員)の英ソ軍事協定の日本におよぼす影響如何?との質問に対し
ロゾフスキー次長 自分の考えるところによるとそれは協定そのものからして明瞭である、この協定は第三国との関係におけるソ連の義務ならびに協定に何ら牴触するものではない、従って日ソ関係も中立条約が結ばれた時の状態と少しも変らないことは単に理論的結論というばかりでなく政治的結論でもある

ついでAP、ロイター両特派員との間に左の如き問答が交された
AP特派員 今回の英ソ軍事協定に関しアメリカをその暗黙のパートナーと解してよいか?
次長 アメリカは暗黙というべくあまりに強大である、アメリカは現在公然とイギリスを授けているではないか
ロイター特派員 英ソ軍事協定はドイツのみを対象とするものでイタリアを含まずと解すべきや?
次長 イタリアは強国であるが現在はドイツに隷属している、したがって今回の軍事協定はイタリアおよびその他のドイツ隷属国家も目標とするものと解すべきである。(引用終わり)

ソ連にとって,ドイツが共産主義ソ連を憎悪し,東方生存圏を提供できるソ連を,いずれ攻撃してくることは確かであった。スターリンは,ソ連西方からの脅威を意識して,急遽,極東方面の安全保障,すなわち日本との中立条約を有用と判断したのである。第二次大戦の勃発で,日本が南方熱に浮かされており,北方のソ連へ攻撃してくる可能性は低い。

しかし,日独伊三国軍事道目を重視すれば,ドイツのソ連侵攻とともに,日本もソ連に攻撃を仕掛けてくる可能性がある。そこで,日本を,中国と東南アジアに侵攻させるために,北方の安全保障を約束したのである。ソ連の優先事項は,ドイツ,欧州方面であり,極東方面は二次的でしかなかった。日本にとっても,優先されるのは南方侵攻であり,満州以北ではなかった。共産主義国家とファシズム天皇制国家との国益は一致した。

しかし、1941年6月22日、独ソ戦が勃発すると、日本は軍部大本営と政府の連絡懇談会を、6月25日から28日に開催した。この連絡懇談会で松岡洋右外相は、対ソ即時開戦を主張し、近衛文麿首相は三国同盟を破棄したが、陸軍の意向を重視して、「北辺に於ける憂慮を芟除せんが為、世界情勢、特に独ソ戦の推移に応じ、適時北方問題を解決することは、帝国国防上は勿論、東亜全局の安定上極めて肝要である」として、対ソ連戦争の準備をすることを決定した。

これには、原嘉道枢府議長も「独ソ開戦が日本の為真に千載一遇の好機」であるとし、「日ソ中立条約の為に、日本がソ連を打てば背信なりと云うものもあろうが、ソ連は背信行為の常習者である。日本がソ連を打って不信呼ばりするものはない」と断言した。こうして、大元帥昭和天皇の御前会議でこの『要綱』が承認され、対ソ戦準備のための大動員計画「関東軍特別演」(関特演)が始まったのである。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャ
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

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東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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