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◆第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達
写真(上)1941年7月21日、ソ連バルト海沿岸、ドイツ軍に鹵獲されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev) TB-3(ANT-6)大型爆撃機
;ツポレフTB-3重爆撃機は、1930年12月22日に初飛行、1937年までに818機量産された。乗員8名、全幅 39.5m、全長 24.4m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 17,200kg 発動機 :ミクーリン(Mikulin)M-17F液冷12気筒V型 715hp4基、最高速力 197 km/h、航続距離1,350km、兵装 7.62mm機関銃6-8丁、爆弾2,000kg。
English: Tupolev TB-3 heavy bomber destroyed at the Balti airfield. Picture taken after taking over of Balti by JG-77 Date 21 July 1941 Source http://aviadejavu.ru/Site/Arts/Art9581.htm Author Luftwaffe 3rd Reich
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev TB-3 File:Tupolev TB-3 heavy bomber destroyed at the Balti airfield. Picture taken after taking over of Balti by JG-77.jpg引用。


写真(上)1938年12月以降、フランス、フランス空軍アミオ(Amiot)370双発爆撃機
;原型のアミオ(Amiot)3541937年12月6日にイスパノスイザ12Y28エンジンを搭載して初飛行。アミオ370は、1939年11月初飛行。アミオ(Amiot)354の諸元;全幅 22.83 m、全長14.50 m、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、全備重量 11,285 kg)、発動機 発動機をノームローン 14N38空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)2基、最高速力479 km/h、航続距離 2,500 km、乗員4名。20 mm (0.79 in)イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)HS.404機関砲1門、7.5 mm (.295 in) MAC1934機関銃2丁、爆弾 1200kg。生産機数86機。
Description English: Amiot 370 photo from L'Aerophile December 1938 Date 1 December 1938 Source gallica.bnf.fr/ark Author L'Aerophile magazine
写真はCategory:Amiot 351 File:Amiot 370 photo L'Aerophile December 1938.jpg引用。

1.飛行機の今昔 防空思想講座 (上)著者 武宮豊次:満洲航空会社総務部長

満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 5巻 Page: 22 出版年 1937-06-24/1937-06-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100224636

航空奨励序文に”羽化登仙の思い” 想えば隔世の感

二〇世紀の文明の中で最も華々しいものは飛行機の出現であり又その発達も目醒しいものである発動機を使用しない飛行機の始まりは、欧洲では既に十五世紀のころ有名な画家リオナルド・ダウインチ[Leonardo da Vinci]の創案に始まっているといわれている、日本に於ても管茶山の著した筆のスサビに記されている岡山の表具師幸吉の空中滑翔であって今から三百年の昔に行われたといわれている

発動機を取付けた飛行機は有名なライト兄弟[Wright Brothers]に依って一九〇六年、丁度二十世紀の初め僅か十六馬力の自動車のエンジンを取付けた複葉機で五九秒間二百六十米の飛行に成功したその年は日本では丁度日露戦争の風雲急を告げんとする前の年であった、

その後間もなくルイ・ブレリオ[Louis Bleriot]が[1909年7月25日]ドウバーの海峡を横断したので、飛行機が将来実用に供し得るということを世界に知らしめた、その翌年一九一〇年日本陸軍は徳川好敏[Yoshitoshi Tokugawa](現在の航空兵団長)日野熊雄両大尉を仏国に派遣し飛行機の操縦を練習せしめ、早くも同年の十二月十九日には代々木練兵場で飛行時間四分間高度七十米突、距離三千米突の日本における処女航空に成功したのである、その当時の飛行機に対する一般人の観念というものは極めて覚束ないものであって、飛行機は飛ぶものか飛ばぬものかということが興味の中心であった、

徳川大尉が初めて飛行した時には田中館博士は時の陸軍次官石本中将に向って”飛行機は飛ぶものである”という報告をされたナンセンスがある位である、当時のモーリス・ファルマン飛行機[Maurice Farman MF.7]は一時間の速力九十粁であって、満鉄のあじあにも及ばない速力であった、それが今日では、優秀な競争用飛行機は時速六五〇粁乃至七〇〇粁に達しており、その当時の飛行機の速力の八倍となっている

写真(右)1930年頃,ブルガリア空軍のアラド(Arado)Ar 65複葉戦闘機:2翅プロペラを装着し、最高速力300 km/h。ドイツは、軍用機を輸出品とし、外貨獲得の手段とした。
Deutsch: Bulgarisches Jagdflugzeug Arado AR65 Български изтребител Арадо АР65 (Arado Ar65) Date 1937 Source www.lostbulgaria.com Author unknown bulgarian official
写真は、Wikimedia Commons, Category:Arado Ar 65File:Arado Ar65.jpg引用。


写真絵葉書(右)1935年頃、ドイツ、海上を滑走するドイツ海軍ハインケル(Heinkel)He 59 双発水上偵察機;1931年9月初飛行の多目的偵察水上機。ドイツ海軍は、第二次大戦中に旧式化していた本機をイギリス本土航空決戦のため投入した。すなわち北フランスから、ベルギー、オランダンの沿岸部に航空兵力を展開し、北海、大西洋で、海上哨戒、偵察、不時着した飛行兵などの救助任務に投入された。
ハインケルHeinkel He 59双発水上救難機諸元
乗員: 4名 全長: 17.40 m、全幅: 23.70 m 全高: 7.10 m、全備重量: 9,100 kg
発動機: BMW VI水冷V型12気筒エンジン660hp2基
最高速力: 209 km/h、実用上限高度: 3,500 m、航続距離: 1,750 km
兵装 7.92ミリ旋回機銃 2丁、爆弾搭載量:700 kg
Postcard Heinkel He 59, multipurpose seaplane No 4.015.662 Condition, see Scan, postally unused ca 14 cm X 9 cm
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


写真(右)1935年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 23 爆撃機:1934年初飛行、生産機数は282機。全長: 18.80 m 全幅: 25.50 m 全高: 5.40 m 全備重量: 9,200 kg 発動機: BMW ?d液冷エンジン750 hp2基 最高速力: 259 km/h 上限高度: 4,200 m 航続距離: 1,352 km 兵装 7.92mm機銃 × 3 爆弾 1,000 kg 乗員: 4名
ドイツ機の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年以降、再軍備宣言がなされ、ドイツ空軍が創立されると、赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国章が決まった。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。そこで、黒色のハーケンクロイツのみが小さく描かれるように変更された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46170203 - Catalog:16_007473 - Title:Dornier Do 23 1935 Dornier photo - Filename:16_007473.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation ---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSan Diego Air and Space Museum引用。


写真(右)1936年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 19V-1重爆撃機試作1号機(D-AGAI):1936年10月28日に初飛行し1938年には輸送機に改造されたドルニエ(Dornier)Do 19は、3機のみの生産で終わった。全幅35.0m、全長 25.4 m、翼面積 162 m2、自重 11,865kg、全備重量 18,500 kg、発動機 BMW 132空冷倒立9気筒エンジン604 kW (810 hp)4基、最高速力 315 km/h、航続距離1,600 km、乗員10名。初代ドイツ空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever)中将の推進した長距離戦略爆撃機「ウラル爆撃機」として開発され、1936年10月28日に初飛行した。しかし、ヴェーファー空軍参謀長は、1936年6月3日、ハインケルHe 70高速輸送機の操縦中に墜落死したため、ドイツ空軍は、従来の第一線で活躍する戦術爆撃機の開発に専念することになった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46170077 - Catalog:16_007463 - Title:Dornier Do 19V-1 Nowarra Collection - Filename:16_007463.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
引用。



写真(上)1934年、南アフリカ航空(South African Airways)のドイツ製ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機(ZS-AFC,ZS-AFB,ZS-AFA)三機の編隊飛行
:He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン240 PS (177 kW) 排気量7.97L 4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km、乗員4名。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
English: Three Junkers Ju 52/3m aircraft built for the South African Airways. Français : Trois Junkers Ju 52/3m, avions allemands trimoteurs, prennent le d épart pour l'Afrique du Sud, pays où ils seront mis en service et dont ils portent déjà les letters conventionnelles d'immatrulation. Deutsch: Drei für die South African Airways gebaute Junkers Ju 52/3m. Date 1934 Source L'Illustration, volume 92, issue 4785, page 374, 1934-11-17 Author Anonymous
写真はWikimedia Commons Category:ZS-AFA (aircraft) File:Junkers Ju 52 ZS.jpg引用。


写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、飛行場の未舗装滑走路で待機する2機のドイツ・ルフトハンザ航空(Lufthansa)ハインケル(Heinkel)He 116郵便輸送機(J−B--):He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
Postcard Deutsche Luftwaffe, Heinkel He 116 fighter aircraft, long-haul aircraftNo 3.957.233Condition, see Scan, postally unused ca 14 cm X 9 cm
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


写真絵葉書(右)1940年消印、ドイツ、戦前のドイツ・ルフトハンザ航空(Lufthansa)ハインケル(Heinkel)He 116 V1郵便輸送機 (D-AJIE :製造番号 c/n 545)「シュレジエン」 "Schlesien" (D−AJIE):全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン (177 kW)240 PS(排気量7.97L)4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km。シュレジエンは、第一次大戦に敗北したドイツがポーランドに割譲した領土である。
Postcard Heinkel He 116, Passagierflugzeug, D-AJIENo 10.164.715postally used 1940, Briefstempel Sch. Flg. Ausb. Regt 41 Technische Kompanie, leicht fleckig, otherwise good condition
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


其頃の航空奨励の序文に書かれた文句の中に次のようなことが書かれている、「飛行機に較べては文明の利器たる汽車汽船も玩具のようで天然の大きい河も大きな城もただ一面の絵を見るが如く羽化登仙[羽が生えた仙人となり飛ぶ]の思いがする、若し夫れ地上の事業に齷齪するよりも飛行機に乗り俗気を払い見識を拡大するに如かず」と某閣下が序文しているほど航空というものが仙人的な仕事であった、

一九一三[1914]年に起った欧洲大戦[WW1]で、ドイツの飛行機が仏国の飛行機と国境線上に華々しき一騎打をやったり、 例のツェッペリン飛行船が倫敦[ロンドン]の上空に現われて爆弾を投下したりして、戦争に飛行機が極めて重大な役割を演ずるものであることを知らしめた、欧洲各国は競って小型戦闘機の製作に熱中し飛行機工業は長足の進歩を遂げたのである、

世界大戦が終ってから国際聯盟(League of Nations)が生れ国際の平和が保たれたので、飛行機を商業飛行機として使用することを考えるに至った、殊にドイツの如きは[1919年]ベルサイユ条約(Treaty of Versailles)によって空軍の保有を禁止せられたために民間航空に全力を傾注し、ルフト・ハンザ(Lufthansa)会社をして商業航空に専念し併せて将来の空軍に転換せしめんことを考えた、

このドイツにおける民間航空の積極的活動は英仏の民間航空を刺戟し欧洲到るところに航空路は開設せられた、又資力の充実せるアメリカにおいては民間航空は全空軍の二分の一即ち半分の実力を保有せねばならぬとして、[1929年開始の]航空郵便を基本とする英断的航空の助成を謀った

写真(右)イギリス(?)、デハビラント(De Havilland)DH 84 ドラゴン(Dragon)複葉輸送機(水上機仕様):1934年4月17日初飛行 陸上機仕様は、乗客:8名、全長10.5 m、全幅14.6 m、高さ3.1 m、翼面積32 m²、空虚重量1,460 kg、全備重量2,490 kg、発動機ジプシークインエンジン 200 hp(150 kW)2基、最高速力253 km/h、航続距離920 km、上昇限界5,090 m。1938年6月製造のようだが、第二次大戦後も使用された。1934-1946年に727機が量産された。
De Havilland DH-84 Manufacturer: De Havilland Designation: DH-84 Official Nickname: Sea Farer Dragon
写真はSDASM Archives Catalog #: 00078097 引用。



写真(右)1938年6月15日、フランス、フランス空軍アミオ(Amiot)143 双発爆撃機
:1931年4月11日初飛行、乗員:5名 全長:18.26 m 全幅:24.51 m 全高:5.68 m 全備重量:9,700 kg 発動機:ノームローンGR14Kirs 空冷14気筒 870 hp 最高速力:310 km/h 航続距離:1,200 km 武装 爆弾1,600kg 7.5mm機銃×4丁、。生産機数は、1935-19378年に298機。
Čeština: Amiot 143 a Walter Mistral K 14 Date 15 June 1938 Source Letecké vzduchem chlazené motory Walter (Walter air cooled aircraft engines). Bulletin Walter. 1938, Katalog, p. 60. , Publisher: Akciová společnost Walter, továrna na automobily a letecké motory, Praha XVII - Jinonice in Státní oblastní archiv v Praze (State Regional Archives in Prague), Archivní 4, 149 00 Praha 4, Fond Walter, a.s., No. NAD 1914 Author neznámý (unknown)
写真はWikimedia Commons Category:Amiot 143 File:Amiot 143 a Walter Mistral K 14.jpg引用。


写真(右)1929年、ソ連、市街地広場に展示公開中のソ連ツポレフ(Tupolev)ANT-9大型輸送機:初飛行は、1929年5月5日。1930年5月1日メーデー、ソ連、モスクワ赤の広場で披露された。初飛行は、1929年5月5日。全幅 23.80 m、全長 16.65 m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 5.690 kg、発動機:ライト(Wright)ワールウィンド(Whirlwind)空冷星形9気筒エンジン300 hp (224 kW)3基、最高速力 205 km/h、航続距離 700 km、乗員2名、乗客9名。
Description Русский: АНТ-9 на Красной площади Date 1929 Source http://crimso.msk.ru/ Author Unknown author
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:ANT9.jpg引用。


然るに我が日本においては隣国に空軍がなく空襲は安全であると思っていたために一部の先覚者が声を大にして防空の必要を説くも国民は極めて冷淡であった、

亦政府当局も僅かに十ケ年二千万円程度の補助金を与えるという日本航空輸送会社を[1928年]設立し漫然と今日に至ったのであるが、飛行機の発達は一九三〇年を境として劃期的躍進を遂げて来た、そして機体は全金属に作られ、発動機の馬力は星型空冷式でも七百馬力から千馬力、今日では千二百馬力の発動機がどんどん作られ、亦小型飛行機から大型飛行機になっている、

ソウェート聯邦[Soviet Union]でさえ三年も前に七十人乗のマキシムゴルキー号[ANT-20]が試作された


写真(上)1934年5月以降、ソ連、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)ANT-20「マクシム・ゴーリキー号」"Максим Горький"(CCCP-L760 )
:1934年5月19日初飛行、全幅9m、全長6.13 m、翼面積 14.5 m2、総重量 1,941 kgあったので、胴体に印刷機、撮影機、映写機などプロパガンダの展開に必要な機材を搭載し、ソ連各地を巡行した。全長: 32.46 m 全幅: 63.00 m 全高: 11.25 m 空虚重量:28,500 kg 総重量: 42,000 kg kg 最高速力: 220 km/h 航続距離: 1,200 km 実用上昇限度: 4,500 m 発動機: ミクーリン(Mikulin)AM-34 FRN液冷V12気筒エンジン671 kW (900 hp) (2翅可変ピッチプロペラ)8基 乗員: 8 - 10 名 乗客: 72 名
English: An Aeroflot ANT-20 bis at an unknown location in the Soviet Union Date late 1939s Source http://www.dkvnukovo.ru/photos/museum/photos/35.jpg Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons,Category:CCCP-L760 (aircraft) File:Aeroflot ANT-20bis.jpg引用。


飛行機上から撒く赤い宣伝ビラ : あらゆる用具を満載する新手の露[ソビエト・ロシア]の赤化策
国民新聞 Vol: 第 8巻 Page: 7 出版年 1934-01-27
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100286500

【ロンドン発連合】不可侵定議条約やフランスとの通商条約、米国との復交等で暫く赤の本体を隠して居たソヴィエト連邦が平和工作も一通り済んだ此の頃又そろ奥の手を出し始めた、というよりは一層効果的な世界赤化宣伝に大がかりな準備を進めて居る、とはロンドンのイヴニングスタンダードの報道、その記事を紹介すれば左の通り

 ソヴィエト・ロシアは赤化宣伝専用に特別仕立ての大型飛行機[ツポレフ(Tupolev)ANT-20 マクシム・ゴーリキー]を製造中であるがその装備としては一寸した印刷器、電話交換器から活動写真、ラヂオ・ステーション及びテレヴィジョン装置まで万端備わらぬものはない普通の乗組員の外相当数のタイピスト、電話交換手、活動写真技師等を乗せ、飛行機一台の積載量は優に六噸から七噸に上るという物凄サ、宣伝目標とする或る市の上空に達した時此の怪物飛行機[ANT-20 Maxim Gorky]は突如低空飛行を行い飛行機内に装備の各種宣伝用具を適宜動員して地上の群衆に呼びかける

無論ラウド・スピーカーによって演説もすればリーフレットを撒布したり空中に浮出し文字を書いて二哩の先からでも判読が出来る位の芸当は朝めし前、爆弾の投下には地下室逃避という方法もあるが此の種軟かな宣伝にはどう対抗したものか(飛行機上から撒く赤い宣伝ビラ : あらゆる用具を満載する新手の露の赤化策引用終わり)

写真(右)1936年11月7日、ソ連、ツポレフ(Tupolev)ANT-14 Pravda五発輸送機(CCCP[ソ連共産党]:N1001):1931年8月14日に初飛行したANT-14(АНТ-14)は、モスクワから極東ウラジオストクの長距離飛行に対応可能な旅客機として開発された。試作1機のみで終わったが、ソ連の航空技術の向上に大いに貢献した。アンドレイ・ツポレフは、モスクワ高等工業大学卒業後,1918年に中央航空力学研究所創設にかかわり、1935年まで次長を務めた。しかし、スターリンの大粛清にあい、アメリカとドイツのスパイとして、1938年に収容所送りになったが、そこで飛行機開発に従事させられた。戦時中に釈放された。
Tupolev ANT-14 :Source:Published in former USSR prior 1950, own scan
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev TB-3 File:Tupolev ANT-14.JPG引用。


写真(右)1930年以降、ソ連、ツポレフ(Tupolev)ANT-14(АНТ-14)五発輸送機:1930年12月22日に初飛行したTB-3は、ユンカースG 38四発輸送機と同じく波板コルゲート構造の外板を使用した。1931年8月14日に初飛行したANT-14(АНТ-14)は、モスクワから極東ウラジオストクの長距離飛行に対応可能な旅客機として開発された。乗員: 3名 定員: 36 全長: 26.46 m 全高: 5.02 m 翼幅: 40.40 m 翼面積: 240 m2 空虚重量: 10,828 kg 最大離陸重量: 17,530 kg 発動機: ノーム ジュピター (480 hp x 5) × 5 最高速力: 195 km/h(地表近く) 236 km/h(高度) 航続距離: 800 km 実用上昇限度: 5,620 m。br>Tupolev, ANT-14 Catalog #: 01_00088946 Manufacturer: Tupolev Designation: ANT-14 Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, ANT-14, USSR
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1930年以降、ソ連、ツポレフ(Tupolev)TB-3 (ANT-6)(SSSR-N-170)民間輸送機:1930年12月22日に初飛行のTB-3は、ユンカースG 38四発輸送機と同じく波板コルゲート構造の外板を使用した。1930年12月日に初飛行したTB-3 (ANT-6)は、1932–1937年にかけて818機が生産された。乗員: 8-10名 全幅:39.5 m 全長:24.4 m 全高:8.47 m 最大離陸重量:17,200kg 発動機: ミクーリン(Mikulin)M-17F (B.M.W)液冷12気筒エンジン715hp4基 最高速力:212 km/h 実用上昇限度:3,800 m 航続距離:2,000 km 武装: 7.62mm機関銃 6–8挺, 爆弾 5,000 kg
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937505 - Catalog:16_007135 - Title:Tupolev TB-3 (Polar Aircraft) - Filename:16_007135.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1936年11月7日、ソ連、モスクワ、赤の広場の軍事パレードで更新するT-26軽戦車とツポレフ TB-3四発爆撃機/輸送機:1930年12月22日に初飛行したTB-3は、ユンカースG 38四発輸送機と同じく波板コルゲート構造の外板を使用した。TB-3 は大祖国戦争の緒戦で、親子爆撃機および輸送機として使用された。1938年までに818機が量産された。
Т-26 и ТБ-3 на военном параде на Красной площади 7 ноября 1936 года Date 7 November 1936 Source russiainphoto.ru/ Author Прехнер Михаил Григорьевич
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev TB-3 File:Т-26 и ТБ-3 на военном параде на Красной площади 7 ноября 1936 года.jpg引用。


親子飛行機ズヴェノーZ-6は、1935年8月に初飛行。子機ポリカルポフI-16戦闘機は、1933年12月30日初飛行、全幅9m、全長6.13 m、翼面積 14.5 m2、総重量 1,941 kgあった。親子飛行機ズヴェノーZ-6の子機となるI-16戦闘機の両翼には爆弾が搭載されている。もしもI-16戦闘機が陸上で両翼に爆弾を搭載すれば、地面とのクリアランスは過少になり、重量過大のために滑走路から離陸することは不可能である。そこで、親子飛行機ズヴェノーZ-6親機となるツポレフTB-3四発機に懸架して離陸し、空中飛行中に揚力を得ながら、I-16戦闘爆撃機を発進するのである。

ソ連空軍ツポレフTB-3四発重爆撃機は、爆弾搭載量2,000kgなので、両翼に2機のI-16戦闘機を懸架すると子機の揚力はあるとはいっても、過重量になったはずで、離陸のための滑走も、空中飛行中の切り離しも安全な作業ではなかった。しかし、ソ連空軍では、搭乗者の安全性は、作戦上の要求の前に等閑視された。そして、1941年6月に独ソ戦が勃発すると、部隊配備されていた親子飛行機ズヴェノーZ-6は、ルーマニア爆撃、ドニエプル川架橋爆破に出撃し戦果を挙げたという。


写真(上)1935年以降、ソ連、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)TB-3(ANT-6)大型爆撃機と両翼に懸架されたポリカルポフ(Polikarpov)I-16-5戦闘機(250キロ爆弾2発搭載)の親子飛行機ズヴェノー(Zveno)Z-6の正面

Tupolev, TB-3 Catalog #: 01_00088932 Manufacturer: Tupolev Designation: TB-3 Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, TB-3, USSR
写真はSDASM Archives引用。


写真(右)1939年頃、ソ連、着陸態勢に入ったのか、引込み式脚を出して飛行するソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB 2M双発爆撃機:1934年10月7日に初飛行、乗客:8名、全長12,27m、全幅20,33 m、翼面積51,95m²、空虚重量4,768kg、全備重量6,308 kgkg、発動機クリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12気筒エンジン960 hp (716 kW)2基、最高速力450 km、航続距離2,300km、上昇限度9500 m、7.62mm ShKAS機関銃4丁、爆弾搭載量500 kg。1936年 - 1941年に6,945機製造。独ソ戦の初期の主力爆撃機だったが、1942年には退役。中国空軍が1937年の日中戦争勃発時にSB-2M爆撃機60機を貸与し、その後の中国空軍主力爆撃機となった。チェコスロバキア空軍は、ドイツとの戦争を意識し1938年にSB爆撃機60機を購入した。フィンランド空軍は、1939-1940年の対ソ連冬戦争でSB爆撃機8機を鹵獲し使用した。
Tupolev, SB Catalog #: 01_00089055 Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR
写真はSDASM Archives 引用。


DC-3 米国では十四人乗ダグラス[DC-2]型から二十六人乗ダグラスD・C三型に三十六人乗[ダグラス]D・C四型を作り目下五十人以上の大型機を建造中であるといわれている、

実に一九三三年から一九三六年までの三ケ年は昔の十年にも比すべき躍進を続けている、

今や世界一周の航空定期も此処一、二年間に実現されることは疑いのないところである、

斯くの如く飛行機器材の発達は日満国民をして空の脅威を感ぜしめるに至った、

然らば世界の民間航空界における日本の地位はどうかというに、残念ながら一等国としては最低位にあるという外ない

朝日新聞の神風号 世界の航空公認レコードは百五十四種類にも上っているか、その中で日本の有するレコードは唯一つであると思う、それは最近行われた朝日新聞の神風号[三菱キ15]が作った東京−倫敦[ロンドン]の記録である、

先般行われた伯林のオリンピックでさえも、マラソンに三段跳に又水泳に日章旗をメインマストに十数本も掲げた世界的日本であるのに、こと飛行機に関しては唯一つの記録であるということを考える時に、吾人は如何に日本における国民の航空に対する熱意が尠く又航空事業に携わる私等の責任の如何に重且つ大なるかを思わしめるのである


写真(右)写真(上)1936-1940年頃、アメリカ、編隊飛行するアメリカ陸軍航空隊第19爆撃集団所属のダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機
:初飛行は、1936年4月。全幅 89 ft 6 in (27.28 m)、全長 57 ft 10 in (17.63 m)、翼面積 89.1 m2、自重 16,320 lb (7,403 kg)、総重量 24,000 lb (10,886 kg)、 発動機 ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基、最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)、航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)、乗員6名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。
Description English: Douglas B-18 of the 19th Bombardment Group Source US Goverment
写真はWikimedia Commons Category:Douglas B-18 Bolo File:Douglas B-18 061128-F-1234S-020.jpg引用。


写真(右)1936-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機の右側面:初飛行は、1936年4月。全幅 89 ft 6 in (27.28 m)、全長 57 ft 10 in (17.63 m)、翼面積 89.1 m2、自重 16,320 lb (7,403 kg)、総重量 24,000 lb (10,886 kg)、 発動機 ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基、最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)、航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)、乗員6名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。1939年までに351機量産。
Douglas : B-18 Catalog #: 00046917 Manufacturer: Douglas Designation: B-18 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1937年10月以降、アメリカ、飛行場で待機中のアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機: XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46701960 - Catalog:16_007745 - Title:Boeing XB-15 35-277 [via Peter Bowers] - Filename:16_007745.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。



写真(上)1937年10月以降、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)とボーイング(Boeing)P-26ピーシューター(Peashooter)戦闘機
: XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。ボーイングP-26の初飛行は1932年3月20日、プラット・アンド・ホイットニー P&W R1340空冷星形9気筒エンジン542 hp (404 kW)、最高速力377 km/h、7.62 mm ブローニング M1918機関銃2丁、生産数162機。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46701985 - Catalog:16_007747 - Title:Boeing XB-15 35-277 [via GS Williams - Filename:16_007747.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog:15_002709 -引用。


写真(右)1937年10月以降、アメリカ、1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277): 全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46701972 - Catalog:16_007746 - Title:Boeing XB-15 35-277 - Filename:16_007746.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。


世界空界の進展は日に月に新た ”空の征服”こそ日本の使命

然らば現在における列強の航空勢力の現状はどうであるか、まず空軍に就て見るに、米国の一万三千機を筆頭としソ聯及びフランスの約一万機、ドイツ、英国の四千機イタリーの三千五百機に対し、吾国は一千六百機と外国は推定している、又民間航空の機数を見るに、アメリカの九千機、フランスの二千二百機、ソ聯の二千機、英国の一千八百機に対して日本は僅かに二百三十余機、而もその質においても極めて貧弱で、これを以てしても吾国の航空が如何に列強より取残されているということに国民が自覚せねばならぬ、

ワシントン条約における海軍比率の五・五・三に対してすら吾帝国は海軍条約を廃棄するに到ったにもかかわらず、飛行機においては軍用機は米国七、ソ聯及びフランス六、ドイツ三、英国二に対し日本は僅かに一、又民間航空機の比率においてはアメリカ三八、ソ聯、仏国九、英国七に対し日本は僅に一である

航空路の総距離を比較すればアメリカの十万二千粁、英国の七万三千粁、ドイツの五万粁ソ聯の四万八千粁に対し、日本、満洲合せて二万粁に満たない、前述の如き統計的比較をして見る時は如何にも日本の航空は貧弱であるが、私は二十年間も航空に携わっておって決して吾が大和民族は飛行機の操縦技能においては、孰れの国民にも優るとも劣ることなき素質を有していることを確く信ずるものである、又航空工業においても最も精密を要する工業であるという点においても、日本人は世界で最もよい飛行機を将来作り出すものであるということを確く信じている

飛行機の人類に貢献するものは単に戦争に使用される軍用のみではない、アメリカの如きは既に鉄道輸送の最も力ある競争者として現われ年々旅客は激増している、又郵便物の如きに到っては両大洋間に至る郵便物は総郵便物の半数に近いものが飛行郵便で送られている、

今や飛行機は二十世紀の最も進歩した交通機関として、且つ又重大なる経済使命を有するものであるということを御承知願いたいのである、現今世界の視聴を集めている問題といえば、太平洋と大西洋の両洋上における航空路の目醒しい進出である、

写真(右)1935-1940年頃、アメリカ、港湾上空を低空飛行するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper":複葉機全盛だった1934年12月、アメリカのマーチンM-130が初飛行した。この飛行艇は、パン・アメリカン航空の要請を受けて、空の「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)として、太平洋横断可能な四発旅客飛行艇として開発された。全長27.6メートル、全幅39.7メートルの片翼式単葉機で、胴体両側の張り出しは浮舟と燃料タンクを兼ねていた。発動機はプラット・アンド・ホイットニー (Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ空冷星形エンジン840馬力4基を搭載、巡航速力は266km/h、乗客12-14名を5150km運ぶことができる。また、短距離であれば、乗客48名が搭乗可能。マーチンM-130は合計3機しか生産されていないが、パンナム、パン・アメリカン航空(Pan American Airways:PAA)が大々的に宣伝し有名になった。
Catalog #: 00068825 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons Category:Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589907269).jpg引用。


太平洋は汎アメリカ航空会社[Pan American Airways]クリッパー型飛行艇[マーチン(Martin)M-130]によって香港に至る大圏コースの実現を見、此処に世界を一周する定期航空路の試験時代は既に完了している、大西洋においてはドイツのツェッペリン会社による飛行船を以て南大西洋経由南米に至る定期航空が実施され、最近英国のインペリアルエアーウェーズ会社[Imperial Airways]の北大西洋横断計画は少くも本年末までにはショート大型飛行艇によって実現せられるものと見られる、

この北大西洋横断実現の暁は英米両国の協定によって北半球を一周する定期航空の実現は間違いないその結果、汽船汽車連絡により半球一周の時間は五十日より直に二週間に短縮せられる斯くの如く空界の進展は日に日に新なるものがあり、日満の民間空界も遅ればせながら最近国産新鋭機で新京−東京間を一日連絡する急行便ができた、

新京を朝七時半に出発するとその日の午後五時過ぎには東京に到着する、機上で煙草を喫いながら紅茶やサンドイッチのサービスを受けながら愉快な而も経済的な空中旅行ができる、然し未だ天候に支配せらるることが尠くない、之を打破する為め目下研究されているのが成層圏飛行である、

只今の飛行機が大抵高度四千米以内を飛行するものであるが、将来は九千米乃至一万米の高い空を飛ぶことになろう、上空は空気が稀薄であるから発動機の爆発が不充分となる為めに色々の困難が伴うが、此等に耐え得る適当な航空用発動機が研究せられ近く実用に供せられようとしている一万米の上空には一点の雲もなく天体の観測が自由であり暴風等の悪気流はない、目下各国で成圏層飛行に熱中しているから、遠からず一万米の上空を飛ぶ飛行機で東京−ロンドン一昼夜位で、而も安全に飛行できる時代も来るものと思わねばならぬ

次ぎは夜間飛行である全て地球の気象は昼間より夜間が良く、又夜間航空によって郵便物、旅客等が睡眠中に目的地に到着し得るから時間的にも極めて経済である(米国、欧洲メインラインは凡て夜間飛行を行っており此の線上には航空灯台やラジオビーコン、方向探知機等が完備されている

写真(右)1940年以降、イギリス航空(British Overseas Airways Corporation:BOAC)ショート・エンパイアー(Short Empire)四発旅客飛行艇(G-ADHM):複葉機全盛だった1936年7月3日初飛行のショート・エンパイアー飛行艇は、1936-1940年に42機が生産され、イギリス連邦諸国で使用された。全長26.82メートル、全幅34.75メートルの片翼式単葉機で、発動機はブリストル・ペガサス(Bristol Pegasus)Xc 空冷星型エンジン920 hp (690 kW)4基を搭載、最高速力は320 km/h、巡航速力は266km/h、乗客24名を1,220 km運ぶことができる。
English: Short S.23 Empire (G-ADHM), Imperial Airways, Felixstowe, September 1936 Date September 1936 Source This photograph ATP8906B comes from the collections of the Imperial War Museums
写真はWikimedia Commons Category:G-ADHM (aircraft) File:IWM-ATP8906B Short Empire ADHM 205127435.jpg引用。


航空機の発達に伴って飛行の安全性を保たしむるには無線の使用が一層重要となる、何千粁という長距離飛行も無線電信電話によって各地の気象を知ることができ、又ラジオビーコンによる航路指示、無線方向探知機による航行濃霧、暗夜時の無線による盲目着陸又は無線の電波による高度測定等広く之が利用せられて来た飛行機については計器のごときショートエンパイヤ号[Short Empire]は其の数約五十個に達するといわれている、

今日の飛行機の操縦は計器操縦といわれる位に計器によって凡ての安定及び操作が行われており、又自動安定器の如きものができて計器を合せることによって完全なる水平飛行ができるようになり、其他大型の飛行機に自動操縦機を取付け長途飛行等に実用せられている

Short Empire交通の発達が文明の母であるということはよく云われることである、鉄道、汽船は既に充分な発達を遂げてその将来性はあまりないが、飛行機の将来は未知数であり、豪華なる設備を有し而も快速力の大型飛行機が出現し、世界交通網に一大変化を来たすの時期は遠くないと思う、

要するに飛行機の使命は二つある、一つは平和的使命であり民間航空による経済的交通機関としての発達であり、一つは戦時的使命を帯びて国防の見地に立つ航空即ち軍事航空であるが、この二者は二つに分ち得ないもので、一朝有事の際は民間機も戦闘に参加する、或る政治学者は「空を支配するものは世界を支配す」と論断している、吾人は徒なる領土の拡大、海の支配権よりも自由に航行し得る「空の征服」こそ日本の使命ではないかと思うのである(完)(飛行機の今昔 防空思想講座 (上)引用終わり)


写真(右)1940年7月25日、イギリス西岸、サフォーク州、マートルシャム ヒース(Martlesham Heath)、イギリスの第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.IF戦闘爆撃機:ブリストル・ブレニム Mk.Iは、1935年4月12日に初飛行。Mk.Iの機首に7.7mm機関銃4丁を搭載したのがFMk.IF戦闘爆撃機仕様。ブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.I爆撃機の諸元: 全幅 17.17 m、全長 12.12m、翼面積 84.0 m2、自重4,441 kg、総重量 6,532 kg 発動機ブリストル(Bristol) マーキュリー (Mercury)空冷星形9気筒エンジン840 hp2基、 最高速力 418 km/h、航続距離 1810 km、乗員3名、兵装 7.7 mm 機関銃2丁、爆弾搭載量1,000 ポンド (450 kg) 。1,552 機生産。
English: RAF Fighter Command 1940 Blenheim Mk IFs of No. 25 Squadron at Martlesham Heath, 25 July 1940. The foreground aircraft is equipped with AI Mk III radar. The squadron was used for night fighter operations. Date 25 July 1940 (Second World War) Source  HU 104651 comes from the collections of the Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.I of the Royal Air Force File:Bristol Blenheim - Martlesham - RAF Fighter Command 1940 HU104651.jpg引用。


写真(右)1940年、イギリス、第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mark IV型爆撃機(WR-B):初飛行は、1935年4月12日。1938年9月からブレニム Mk. IV爆撃機が部隊に配備になった。乗員: 3名 全幅: 17.17 m、全長: 12.98 m、全高: 2.99m、空虚重量: 5670 kg、発動機ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)Mk. 15 空冷9気筒空冷星形エンジン995馬力2基、最高速力: 428 km/h、航続距離: 2350 km、7.7 mm(0.303 in)機関銃 5挺(左翼付根1丁、胴体後上方回転銃塔2丁、機首下後方遠隔操作機銃2丁)、爆弾 1,000 ポンド (450 kg)。3,307機生産。
English: IWM caption : Blenheim Mark IV, 'WR-B', of No. 248 Squadron RAF based at North Coates, Lincolnshire, in flight over the North Sea. Date 1940 .
Source IWMLondonThumbnail.jpg This is photograph MH 140 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg Author Royal Air Force Official Photographer.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.IV File:248 Squadron RAF Blenheim 1940 IWM MH 140.jpg引用。


写真(右)11940前半頃、フランス北部、シャンパーニュ地方ランス均衡を低空飛行するイギリス空軍第226爆撃飛行隊フェアリー (Fairey)バトル(Battle)Mk.I 軽爆撃機:初飛行は1936年3月10日、全長: 12.90 m、全幅:16.46 m、翼面積: 39.2m2、空虚重量: 3,015 kg、最大離昇重量: 4,895kg、ロールスロイス(Rolls-Royce)マーリン(Merlin) II V-12 )液令V12気筒1,030 hp (770 kW)1基、最高速力:414 km/h、航続距離:1,600 km、7.7mm機関銃2丁、爆弾搭載量は最大4,000 lb (1,800 kg)、1937-1940年に2,201機量産、乗員 3名。
Royal Air Force- France, 1939-1940. Fairey Battles of No. 226 Squadron RAF undergoing servicing on the flight line at Reims-Champagne. The aircraft on the right, K9183 'MQ-R', was shot down by ground aircraft fire while attacking enemy columns south-west of Luxembourg on 10 May 1940. Its pilot died of his wounds, but the other two crew members survived. Date between 1939 and 1940 Source C 1115 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Stanley Arthur Devon (1907–1995) .
写真はWikimedia Commons Category:Fairey Battle File:Fairey Battle - Reims-Champagne - Royal Air Force- France, 1939-1940. C1115.jpg引用。


写真(右)1940年8月、イギリス、飛行するイギリス空軍第149爆撃飛行隊ビッカース(Vickers)ウェリントン(Wellington)爆撃機:初飛行は1936年6月15日、全長: 19.68 m、全幅: 25.26 m、翼面積: 、空虚重量: 19,278 kg、最大離昇重量: 29,484 kg、ブリストル(Bristol)ブリストル・ペガサス17 空冷9気筒 1000 hp2基、最高速力:378km/h、航続距離:2,000km、爆弾搭載量は最大 2.041kg。
English: British Aircraft in Royal Air Force Service, 1939-1945- Vickers Wellington. Wellington Mark IC, Z9099 ‘C’, of No. 38 Squadron RAF, in flight over the Western Desert, probably while based at Shallufa, Egypt. Z9099 was one of several Wellingtons specially converted for use as torpedo bomber/minelayers by the Squadron. It was shot down by enemy fighters near Fort Maddalena, Libya, on 9 March 1942. Date between 1939 and 1945 This photograph ME(RAF) 3699 comes from the collections of the Imperial War Museumss.
写真はWikimedia Commons Category:Handley Page Halifax File:British Aircraft in Royal Air Force Service, 1939-1945- Vickers Wellington. ME(RAF)3699.jpg引用。


写真(右)1940年7月23日、イギリス東部、リンカン州ワディントン田園地帯を低空編隊飛行するイギリス空軍第14練習飛行隊ハンドレページ (Handley Page)ハンプデン(Hampden)爆撃機:初飛行は1936年7月21日、全長: 17.32 m、全幅:21.08 m、翼面積: 63.9 m2、空虚重量: 5,790 kgkg、最大離昇重量: 10,206 kg、ブリストル(Bristol)ブリストル・ペガサス17 空冷9気筒1,000 hp (750 kW) 2基、最高速力:398 km/h、航続距離:2,770 km、爆弾搭載量は最大4,000 lb (1,800 kg)。
English: Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command A gunner's view of a formation of Hampdens of No 14 Operational Training Unit (OTU), based at Cottesmore, 23 July 1940. Date 23 July 1940 CH 709 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Daventry B J (F/O), Royal Air Force official photographer.
写真はWikimedia Commons Category:Handley Page Hampden File:Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command CH709.jpg引用。


写真(右)1934年、イギリス、イギリス空軍第38爆撃飛行隊所属フェアリー(Fairey)ヘンドン(Hendon)爆撃機:初飛行は、1930年11月25日。全長:18.52 m、 全幅:31.02 m、 全高:5.69 m、 全備重量:9,091 kg(2万ポンド)、 エンジン:ロールス・ロイス ケストレル6 水冷12気筒 600 hp 2基 最高速力:245 km/h(155マイル)、実用上限高度:6,524m(21500フィート)、 航続距離:2,190 km(1360マイル)、爆弾搭載量1660ポンド(750kg)、7.7mmルイス旋回機銃 3挺(機首・胴体後上方・尾部)、乗員 5名
当初は「フェアリー夜間爆撃機」と呼称されていたが、1934年11月以降「ヘイドン」と命名された。生産機数は、14機のみで、1939年7月までに後継機ウェリントン双発爆撃機と置き換えられた。
English: Heavy bomber Fairey Hendon. The prototype K1695 with two Rolls-Royce Kestrel 600 HP engines. Français : Le plus récent des bombardiers britanniques à grand rayon d'action: le Farley à deux moteurs Rolls-Royce "Kestrel" 600 CV. Date circa 1934 Source L'Illustration, volume 92, issue 4785, page 380, 1934-11-17 Author Anonymous.
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:Fairey Hendon K1695.jpg引用。



2. 支那と飛行機 各国競って売込みに奔走 : 米国を筆頭に英、仏、伊等から : 最近判明せる台数
大阪時事新報 Vol: 第 3巻 Page: 91 出版年 1934-06-04
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100207893

わが国は支那問題解決の第一条件が支那に自己統一の自覚を促すと共に支那の内乱を助長するが如き外部からの対支武器供給を中止するにありとして先月十七日の外務当局非公式声明と迄なったが、最近その筋の調査によると昨年十一月より本年三月末日迄に至る五箇月間における欧米列国の対支飛行機売込み状況は左の如くである

一、積出国別輸入額(支那海関統計月報に拠ると、単位金、邦貨約二円)

フランス −

ドイツ 二三九、〇八三

イギリス 四九九、八一四

アメリカ 八七二、〇二八

イタリー 四六、〇六〇

その他 合計 一、六五七、〇三六

各国別概況

フランス
一、在上海仏国商人が最近ジュスター機七台、ラサム水上飛行機四台を南京政府に売込んだ由(二月下旬)
二、広西派が仏国より価格五百万元の武器(主として飛行機その他鉄砲、機関銃を含む)を購入することとなり、又南寧附近には仏人援助の下に大規模の兵工廠及六百畝余りの大飛行場を建設中であるが、大体支那側の手に渡ったものとみられる台数十一

写真(右)1929年、イギリス中部、ヨークシャー、トップクリフェ(Topcliffe)、イギリス空軍第102爆撃飛行隊アームストロング・ホイットワース ホイットレー(Armstrong Whitworth Whitley Mark V):全長:21.48 m 乗員 5名 全幅:25.60 m 全高:4.57 m 翼面積:114.3 m2 機体重量:8,710 kg 全備重量:12,790 kg 発動機:ロールス・ロイス マーリン5 液冷12気筒 1,145 hp ×2 最高速力:357 km/h 実用上限高度:5,370m 航続距離:2,660 km 兵装 爆弾3,170kg 7.7mmブローニング機銃 ×5(機首x1、尾部4連装銃塔x1)
English: IWM caption : Whitley Mark V, T4162 'DY-S' "Ceylon", of No. 102 Squadron RAF, on the ground at Topcliffe, Yorkshire. It failed to return from a bombing raid on Cologne on the night of 1/2 March 1941. Date between circa 1939 and circa 1941 Source CH 2052 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Royal Air Force official photographer
写真はWikimedia Commons Category:Armstrong Whitworth Whitley File:102 Squadron Whitley at RAF Topcliffe WWII IWM CH 2052.jpg引用。


イギリス
一、広西空軍が英国「ファー・イースタン・アビエーション・コーポレーション」飛行機三台一月香港より竜州着
二、河南省政府献納の「アームストロング」機[Armstrong Whitworth Aircraft]二台二月上海着の由、大体支那側の手に亘ったものとみられる台数五

写真(右)1935年、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機:初飛行は、1932年2月16日。全幅 70 ft 6 in (21.49 m)、全長 44 ft 9 in (13.64 m)、翼面積 70 ft 6 in (21.49 m) m2、自重 9,681 lb (4,391 kg)、離昇重量 14,700 lb (6,668 kg)、 発動機ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒775 hp (578 kW)2基、最高速力 213 mph (343 km/h, 185 kn)、航続距離 1,240 mi (2,000 km, 1,080 nmi)、乗員3名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。1940年までに348機量産され、中国空軍も採用し、日本の九州爆撃に投入している。
Martin : B-10 : Catalog #: 00005620 Manufacturer: Martin Designation: B-10 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


カラー写真(右)1942年、カナダ、オンタリオ州、リトル ノルウェー、ノルウェー軍のアメリカ製カーチス・ライト(Curtiss-Wright)P-36 ホーク(Hawk)戦闘機の戦列:リトル ノルウェー(Flyvåpnenets Treningsleir) は、第二次世界大戦中にオンタリオ州南部にあったノルウェー陸軍航空隊/ノルウェー王立空軍の訓練キャンプ。初飛行は1935年5月6日、生産数は1,115機。乗員:1名 全長:8.78m 全幅:11.35m 全高:2.89m 主翼面積:21.92m2 空虚重量:2,060kg 最大離陸重量:2,608kg 発動機:ライト(Wright)R-1820 サイクロン9(Cyclone 9 )空冷星型9気筒エンジン1,200hp 最高速力:518km/h 航続距離:1,046km 実用上昇限度:9,967m 兵装:12,7mm機銃 2丁、7,62mm機銃 4丁
Description English: リトル ノルウェー and Douglas aircraft lined up at Little Norway Date circa 1942 Source via europeana.eu Author Unknown author
写真はWikimedia Commons Category:Curtiss_P-36 File:Curtiss og douglas fly LittleNorwayCC0.jpg引用。


アメリカ

B-18 一、米国予備海軍少尉ゼー・アール・フリンク(汎太平洋アメリカ航空会社飛行士)はデンマーク汽船にてシコルスキー式旅客輸送機[Sikorsky S-42]一台を上海に携行した

二、広東空軍用戦闘機カーチス・フォーク[Curtiss P-36 Hawk]六台一月広東に到着せる由

三、広東空軍より米国に註文中の高級練習機二十四台及駆逐爆撃機各々若干二月中旬広東着

四、西南航空司より米国スチムソン会社に註文済みの飛行機二台昭和八年夏香港着

五、退役米国海軍中佐フランク・アール・フォークスはカーチスライト[Curtiss-Wright CW-12]一台を携行三月上海着

六、三月九日広東航空司令黄光鋭とユナイテッド・エアークラフト会社[United Aircraft Corporation]代表、ダブリュ・デイ・パウレイとの間に調印せりと伝えられる広東飛行機製造計画によれば同工廠は毎年カーチス・フォークス駆逐機又はこれと同型の飛行機六十台の製造能力を有する由

七、支那はコンソリデット・エアクラストコーポレーションに対し三十台の飛行機を註文せる由

八、在ニューヨーク・ユナイテッドエアクラフトアンド・トランスポート・コンパニー[United Aircraft and Transport Corporation]の小会社である、ユナイテッドエヤークラフト・コーポレーションは支那政府との間に十六日飛行機売込み契約を締結した(四月十七日ヘラルド・トリビューン紙所裁、十六日上海発キーン通信)

九、ユナイテッド・エアクラフトコーポレーションは南京政府に十八台乃至二十五台のボート・コルセーヤー式偵察および軽爆撃機[Vought O2U Corsair]を売込み、南京政府のコルセーヤー機[Vought O2U Corsair]は合計凡そ五十台となれる由(四月十八日上海イヴニングポスト)

十、新コルセーヤー機十五台最近杭州着

十一、四月二十日中国航空公司、党事会は、滬蓉線用飛行機四台、滬平線用二台をアメリカより購入方決議せる由、大体支那側の手に渡ったと認められる台数約五十

写真(右)1935年、アメリカ、アメリカ海軍航空隊ボート(Vought)O2U コルセア(Corsair)偵察爆撃機:初飛行は、1926年、搭乗員Crew: 2名、搭載量Capacity: 500 lb (227 kg)、全長Length: 27 ft 5.5 in (8.37 m)、全幅Wingspan: 36 ft 0 in (10.97 m)、全高Height: 11 ft 4 in (3.45 m)、主翼面積Wing area: 337 sq ft (31.31 m2)、空虚重量Empty weight: 3,312 lb (1,502 kg)、最大離陸重量Max takeoff weight: 4,765 lb (2,161 kg) 発動機Powerplant: Pratt & Whitney R-1690-42 Hornet空冷星型エンジン600 hp (447 kW)、最高速力Maximum speed: 167 mph (269 km/h, 145 kn) /海面上、航続距離Range: 680 mi (1,094 km, 591 nmi)、実用上昇限度Service ceiling: 18,600 ft (5,670 m)、兵装Guns: 3x0.30 in (7.62 mm) ブローニング(Browning)機関銃、爆弾Bombs: 4発 116 lb (53 kg) あるいは 10発 30 lb (14 kg)(主翼下面)。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45241322 - Catalog:16_006392 - Title:Vought O2U-2 Corsair Hasse photo - Filename:16_006392.TIF - - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1937年、スペイン、スペイン内戦に派遣されたイタリア空軍フィアット(Fiat)CR.32複葉戦闘機の編隊飛行:スペイン国民戦線フランコ将軍率いる反乱軍の国籍マークとして、垂直尾翼に白地に黒のXを、胴体と主翼に黒丸●に描いている。フィアット CR.32複葉戦闘機は、1933年4月28日に初飛行、最高速力360km/hと当時としては優れた飛行性能を発揮したために、すぐにイタリア王国空軍に制式された。そして、1936年2月までにCR.32bis、CR.32tris、CR.32quarterなど改良が積図けられ1053機もが量産された。1936年7月に、スペイン内戦が勃発し、スペイン共和国軍とファシスト反乱軍(国民戦線)の戦いが始まると、イタリアはファシストを軍事援助するためにイタリア軍を「義勇兵」の名目で派兵し、CR.32も実戦投入された。
フィアット(Fiat)CR.32の諸元
乗員Crew: one
全長Length: 7.88 m、全幅Wingspan: 9.5 m 、全高Height: 2.78 m
翼面積Wing area: 22.1 m2 (238 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,455 kg、総重量Gross weight: 1,975 kg
発動機Powerplant: 1 × Fiat A.30 R.A. 12-cylinder Vee piston engine , 447 kW (600 hp)
最高速力Maximum speed: 360 km/h (220 mph, 190 kn)
航続距離Range: 781 km (485 mi, 422 nmi)
実用上昇限度Service ceiling:8,800 m (28,900 ft)
兵装Armament:2 ×7.7 mmあるいは12.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃
爆弾Bombs: 100 kg (220 lb)
English: A pair of Fiat C.R.32 of the X Gruppo "Baleari". The foreground aircraft is flown by D'Agostini Date 1937 Source http://www.finn.it/regia
写真はWikimedia Commons,Category:Fiat CR.32 (Aviazione Legionaria) File:Fiat C.R.32-Baleari.jpg引用。


イタリー

一、伊団団匪賠償金担保の銀行借欸額中凡そ百万元はイタリーよりの飛行機購入費に充当せられている趣である

以上最近五箇月間に仏、独、英、米、伊の諸国より大体支那側の手に渡ったものと観られる飛行機の総数は凡そ七十九台である

現有航空勢力

なお支那の飛行機数に関しては詳細判明しないが概数左の通り
中央約 二百五十
広東約 百十一
広西約 三十三
其他約 九十
計約 四百八十四
中国航空公司約 二十五台
欧亜航空公司約 九台
西南航空公司約 三台
計約 三十七台
総計約 五百二十一台

支那と飛行機 各国競って売込みに奔走 : 米国を筆頭に英、仏、伊等から : 最近判明せる台数引用おわり。

⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 


3.ハインケルHe70高速輸送機ブリッツ

ドイツ航空省は、1934年、見るからに精悍なHe 70(Heinkel He 70 "Blitz")単発高速輸送機を完成させていたハインケル社に爆弾搭載量1,000kg、航続距離1,000km、最大速度350km/hの性能の爆家機を密かに発注した。当時のドイツは、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)アドルフ・ヒトラー政権の下にあったが、1929年6月のヴェルサイユ条約の軍事制限条項の下にあり、空軍の保有はできなかった。

写真(右)1932年12月-1933年初め、ドイツ共和国、3機並んで待機するハインケル(Heinkel)He 70高速輸送機ブリッツ(登録コード:D-UGOR、D-UDAS、D-UBIN);第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、共和国時代の三色旗を模したもので、赤帯白丸に黒のスワスチカはないためか、写真では白色に修正されている。エンジン出力が低かった時代、プロペラは3翅ではなく、2翅のみだった。
Heinkel, He 70 Catalog #: 01_00081268 Title: Heinkel, He 70 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 70 Tags: Heinkel, He 70 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive-
写真は,Flickr, SDASM Archives 引用。


ハインケル He.70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機は、1930年代初め、ドイツ・ルフトハンザ航空の輸送機として開発された。運搬物は、当初の計画では郵便だったが、のちに高速旅客輸送機としても使用された。当時の高速単発輸送機は、アメリカのロッキード輸送機ベガ、ロッキード輸送機L-9 オリオンなどの小型輸送機である。ハインケルHe 70が、このロッキード輸送機と大きく異なるのは、主翼の形状で、楕円翼を採用している。この楕円翼はギュンター兄弟が発案したもので、併せて、皿リベットによって、機体表面の平滑性を高め、空気抵抗を小さくすることに成功していた。またそれまで、固定脚だった降着装置を、引込み式降着装置とした。

写真絵葉書(右)1935年消印、ドイツ、雲を背景に旋回中のドイツ・ルフトハンザ航空ハインケル(Heinkel)He-70高速輸送機「ブリッツ」(登録コード:D-UDAG)上面:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機だが、胴体が細く、居住性はよくなかったために、旅客輸送機としては経営面で難点があった。
Postcard Heinkel He 70, fighter plane, Luftwaffe, D UDAG No 2.622.789 postally used 1935, excellent condition
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


ハインケル He.70の機首に搭載した発動機は、BMW VI V型12気筒液冷ガソリンエンジンで、正面面積を抑えた代わりに、冷却力を維持するために、不凍液を混入した液冷ラジエターを装備した。旅客機として使用する場合、コックピットにパイロットと無線士が着席し、機体中央の客室に乗客4名分の座席を設けている。

ハインケル(Heinkel)He-70高速輸送機「ブリッツ」(電撃)の試作1号機は、1932年12月1日に初飛行した。そして、最高速力377 km/hと当時の戦闘機を上回る高速で、この高性能を活かして、高速飛行など世界新記録を樹立した。

 しかし、ハインケル社のジークフリート・ギュンターとヴァルター・ギュンターの兄弟は、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。の指導の下で、He 70の設計思想をもとに、He 111試作機にBMW VI.液冷エンジン(660馬力)2基を装備し、最高速力348km/hの当時としては高速の爆撃機を飛行させた。

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、ドイツ・ルフトハンザ航空ハインケル(Heinkel)He-70高速輸送機「ブリッツ」(登録コード:D-UBIN)左側面:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、1932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。1933年1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。
Photo Walter Hahn 9797, Heinkel He 70 aerobatic plane D-UBIN No 10.326.368 Foto, ca. 12 x 18 cm, excellent condition
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


帝政が崩壊し、第一次大戦敗戦後に成立したドイツ共和国(ワイマール共和国)では、ドイツの飛行機の国籍マークは、垂直尾翼に、上から黒白赤のドイツ共和国の三色旗を付けた。しかし、1933年1月にヒンデンブルク大統領が、ナチ党総統アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、全権委任法によって、ナチ党独裁政権が樹立される頃には、ナチ党卍カギ十字がドイツの国籍マークとなり、ドイツ機の垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカを付けた。ただし、再軍備宣言、その後のドイツ空軍設立までは、正規のドイツ軍用機はなかったので、全てのドイツ機は民間機だった。

1934年から1937年まで、ドイツ・ルフトハンザ航空のハインケル(Heinkel)He-70高速輸送機「ブリッツ」(電撃)は、ケルン=ハンブルク間に就航し、さらにベルリン、フランクフルト、ハンブルクなどドイツの大都市を結ぶ高速ビジネス路線を担当した。ルフトハンザ航空の国際線としては、He 70は1934年から1936年に、ヨーロッパ内のドイツ・シュトゥットガルトとスペインのセビリアの間に就航した。1932年12月1日初飛行のハインケルHe 70高速輸送機は、総生産機数324機で、1933年から使用が始まり、少数が終戦の1945年まで運用された。

ハインケル He 70輸送機の諸元
全長:11.70 m、全幅:14.78 m、全高:3.10 m
翼面積:36.50 平方メートル
空虚重量:2,300 kg、運用重量:3,420 kg
プロペラ:金属製2翅
発動機:BMW VI 7.3 z 液冷V型12気筒液冷エンジン 750馬力1基
最大速度:360 km/h
上昇限度:6000 m
航続距離:1400〜1820 km

ハインケルにとって、画期的な高速機となったHe-70は、斬新な楕円翼、空気抵抗の少ない胴体をもっていた。そして、それ以前に世界最速を誇っていたアメリカのロッキード、ダグラスなどの高性能輸送機と対抗できるようになった。ハインケルが1931年に開発を始めた時、ユンカースに代表されるドイツ輸送機の最高速力280km/hであり、これはアメリカのロッキード・オリオン輸送機最高速力360km/hを遥かに下回っていた。ハインケルは、アメリカ機に追いつくといった消極姿勢ではなく、はるかに引き離すような技術革新を追求していた。このような航空技術開発の促進は、ドイツ・ルフトハンザ航空社長エアハルト・ミルヒも求めているところでもあった。

ハインケル(Heinkel)He.70輸送機を民間機として輸入したのは、日本・満州国の1機、スイスの数機、イギリスの1機である。
ハインケル(Heinkel)He.70を軍用機として使用したのは、ドイツ空軍(Luftwaffe)、ハンガリー空軍(He 170A)の20機、スペイン空軍(Ejército del Aire)の11機である。

ハンガーリーのハインケル(Heinkel)He-70Kは、フランスの星形空冷エンジンのノーム・エ・ローヌGnome et Rhône)14K ミストラル・メジャーを国内ライセンス生産した WM-K-14 星型空冷エンジン746 kW (1,000馬力)を装備した。この機体を、ハンガリー空軍では、第二次世界大戦中の独ソ戦最中、1941年から1942年に使用した。

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、ドイツ・ルフトハンザ航空ハインケル(Heinkel)He-70高速輸送機「ブリッツ」正面:引込み式降着装置は、外側に折りたたんで主翼に収納されるが、これは後のBf109、スピットファイアでも採用された方式である。
Postcard Heinkel He 70, fighter plane, Luftwaffe No 2.622.787 postally unused, excellent condition
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


ドイツ空軍ハインケルHeinkel He 70F-2高速偵察機の諸元
乗員Crew: 3名 (操縦士, 無線士,銃手)
全長Length: 11.7 m (38 ft 5 in)
全幅Wingspan: 14.8 m (48 ft 7 in)
全高Height: 3.1 m (10 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 36.5 m2 (393 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,360 kg (5,203 lb)
全備重量Gross weight: 3,386 kg (7,465 lb)
最大離昇重量Max takeoff weight: 3,500 kg (7,716 lb)
発動機Powerplant: 1 × BMW VI 7.3 Z V-12液冷エンジン(liquid-cooled piston engine)750 PS (740 hp; 550 kW)
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)金属プロペラ(metal propeller)

性能Performance
最高速力Maximum speed: 360 km/h (220 mph, 190 kn) at sea level
巡航速力Cruise speed: 295 km/h (183 mph, 159 kn)
着陸速度Landing speed: 105 km/h (65 mph; 57 kn)
航続距離Range: 1,820 km (1,130 mi, 980 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 6,000 m (20,000 ft)
上昇時間Time to altitude:
1,000 m (3,281 ft)/2分30秒
4,000 m (13,123 ft)/15分
兵装Armament
機銃 1丁 × 7.92 mm (.312 in) MG 15旋回機関銃(コックピット後方 rear cockpit)
爆弾Bombs: 6 × 50 kg (110 lb) 又は 24 x 10 kg (22 lb) 爆弾bombs

ハインケルHeinkel He.70高速輸送機は、仮面を脱いだドイツ空軍に配備されることとなり、輸送機以外の用途も模索された。試作4号機を使って、軍用仕様の開発が始められ、爆撃機のE型、高速偵察機のF型が開発された。そして、既にルフトハンザに就役していたハインケルHe70輸送機は、民間機だったが、ドイツ空軍に譲渡された。しかし、He70は、ドイツ空軍幕僚の専用輸送機など、贅沢な用途に充当されている。他方、He70F高速偵察機は、スペイン内戦に派兵されたドイツ・コンドル軍団に配備され、実戦使用されている。

ハインケル(Heinkel)He.70輸送機を民間機として輸入したのは、日本・満州国の1機、スイスの数機、イギリスの1機である。
ハインケル(Heinkel)He.70を軍用機として使用したのは、ドイツ空軍(Luftwaffe)、ハンガリー空軍(He 170A)の20機、スペイン空軍(Ejército del Aire)の11機である。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

写真Album:ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機


4.爆撃機と欧洲政局
東京日日新聞 Vol: 第 51巻 Page: 141 東京日日新聞 1935.5.15-1935.5.17 (昭和10)

写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、2機編隊で飛行するハインケル(Heinkel)He 51複葉戦闘機:2翅プロペラを回転している水平飛行している状態を斜めにして、編隊で急降下しているかのような構図の絵葉書としている。
Postcard Heinkel fighter planes He 51, Luftwaffe No 10.378.461 Zustand siehe Scan
写真はonline shop for old postcards akpool引用。



[写真あり 省略] 軍拡から戦争へ…歴史は大体そんな径路をたどっている。極東の事態は暫く措くとして、湧き返る欧洲政局を前にしながら、戦争絶無と断じたら、いかな平和の神様でも、ホロ苦い顔をするだろう。ところで、第二の欧洲大戦が勃発したと仮定する。まず戦端の火蓋を切るものは、陸軍でもなければ海軍でもない。隼のような軽爆撃機の敵都市爆撃に相違あるまい。

敵は前線から攻めて来るのではなく、端的に頭上から爆弾を投下し、毒ガスを撒布するのだ。宣戦の布告なんか、ほんの申し訳みたいに、後日ゆるゆると放送されることだろう。ドイツ再軍備の疾風迅雷的な過程が、ぴったりこれに当てはまっている。


ドイツ再軍備トップを切ったのは空軍であった。「[1919年]ヴェルサイユ条約[Treaty of Versailles]の空軍禁止条項は依然として有効だが…」と白を切って置いて「しかし英仏両国政府がロンドン宣言に基き空軍ロカルノ条約案に参加を求めたことは、事実上ドイツ政府に対し空軍整備の権能を容認したものだ」と結論づけて、愈々空軍復活の宣言を発した時はドイツの空軍は既に素晴らしい威容を整いていたのである。

ドイツの空軍の威容に対して、列強がたやすく挑戦し得ない事態を見て取ったヒットラー[Adolf Hitler]総統は、空軍復活[再軍備]宣言の日から四日しか経っていない三月十六日に、今度は大上段からヴェルサイユ条約[Treaty of Versailles]軍事条項の廃棄と、一般的再軍備断行の爆弾宣言を発したのであった。爆弾宣言の可否を法理的に論議する余地はあるかも知れないが、法理論を抜きにした強力雄偉なドイツの空軍が、欧洲の空を睥睨している以上、今更条約違反の非を鳴らしても追いつかない。

英仏を初め爾余の各国はドイツ問責の決議は決議として、ドイツの再軍備は、これを既成事実と認めざるを得なかった。春秋の筆法をもってすれば、ドイツの空軍は欧洲政局の動向を現実に制約したことになる。

写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、旋回飛行するアラド(Arado)Ar 68複葉戦闘機
Postcard Arado AR 68 single seater fighter, LuftwaffeNo 10.398.097Condition, see Scan
写真はonline shop for old postcards akpool引用。



ドイツの空軍にして、取るに足らぬ微力なものなら、まずフランスがその空軍の勢威をもって、ドイツ空軍の復活宣言を遮二無二、押し潰してしまったことであろう。が、ありようは押し潰すどころか、逆に英仏が空軍ロカルノ条約案に、ドイツの参加を求めなければ、欧洲の空の平和—空の平和はまた陸上、海上の平和だ—を保ち難しとした。

英仏が窃かに探りを入れて、ドイツ空軍の事実上の復活ぶりを調べた時は、すでに如何とも手の下しようのないほど、強力新鋭の大空軍を整備したのである。だから問題は、その復活を認容するかどうかではなくて、ドイツ空軍は事実、どれだけの実勢力を備えているか。将来、果してどの程度まで拡大強化されるかの点にあった。

英国の[スタンリー]ボールドウィン[Stanley Baldwin]枢相が「ドイツは今や六百乃至一千台の軍用飛行機を持っている—英国の国境線はライン河畔に移動した」と聳動的な声明を発したのは昨年夏のことである。

続いてチェッコ・スロヴァキアのベネシュ[Edvard Beneš]外相は「ドイツは一九三五年の春までに四千台の軍用飛行機を有するに至るだろう」と指摘した。が、英国のロザミア卿に至っては「ドイツは優に一万台を突破する欧洲最大最強の空軍を整備している」と喝破して、空中防備の急務を提唱したのである。

ロザミア卿にいわせると「ドイツは一九一八年十月、僅一ヶ月の間に千九百台の軍用機を製造している。ヒットラー[Adolf Hitler]総統[Führer]が政権を掌握してから二十二ヶ月(昨年十二月当時)になる。しかもドイツの飛行機工場はいずれも英国の飛行機工場より大規模だ。国内に散在する三百の格納庫に平均三、四十台ずつ備えるとして、その総数は優に一万台を突破している筈ではないか」というのである。


内輪に見積ってもドイツの現有軍用飛行機は二千四百台に達し、一方、軍用機一ヶ月の製造高は二千五百台に及ぶ、だからドイツは年内に少くとも五千台の軍用飛行機を整備するだろうとは、昨年九月初めデーリ・メール紙が報じたところである。何れにしても、ドイツの空軍は、優に英国を凌ぎ、欧洲に覇を唱えて来たフランス空軍と拮抗するに足る威力を持つものの如くである。

要するにドイツとしては、何よりもまず空軍を充実すれば、これを背景として欧洲の政局に対し、他の列強と対等の発言権を獲得して、ナチス年来のスローガンたるドイツ国家の名誉を恢復し、国防の安全を期することが出来ると信じたのであろう。それにヒットラー[Adolf Hitler]総統の帷幕に参画するナチスの領袖中に飛行家出身が少からずあったことは、空軍の充実にさらに一段と好都合であったようだ。(写真はベルリン、テンペルホーフ飛行場に勢揃いした百七台のドイツ飛行機の一部)


写真(右)1934年、ドイツ東部、ザクセン州(Sachsen)、ドレスデン(Dresden)飛行場、ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)
:He.70「ブリッツ」輸送機は、工作に手間のかかる楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発された。初飛行は、1932年12月1日で、まだヒトラーが首相に任命される1年前だった。第一次世界大戦に敗北し、ベルサイユ条約の軍備制限の下に置かれたドイツ共和国では、軍用機の保有を禁じられており、空軍兵力は持つことができなかった。しかし、ドイツの航空機メーカーは、ユンカース、ハインケル、ドルニエともに、輸送機やスポーツ機といった民間機を開発しており、それを軍事転用することも可能だった。
Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309795
Negativ Eigentümer: SLUB / Deutsche Fotothek
Location: Dresden-Heller Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland
Foto: Hahn, Walter, 1934
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309795引用。


[(中)] 一
「空襲」の同義語は「爆撃」だ。空軍の主力は爆撃機である。欧洲の列強をしてドイツの押し廻す横車を傍観させているドイツ空軍の中心勢力は、[ハインケル(Heinkel)He 70]ブリック軽爆撃機[Blitz:電撃]だと伝えられる。[ハインケル He 70]ブリック軽爆撃機は発動機が一つで機関銃さえ備えていない。その代り時速百八十マイル、最高時速二百五十マイルで一千マイルの航続力を有し、一千ポンドの爆弾を搭載し得るというのだ。これだけでも怖るべき威力である。

しかもブリック軽爆はその構造が簡単で、大量生産に適するように造られている。自然、その単価も一台六千円乃至八千円程度の馬鹿安いものだという。アメリカのフォード自動車会社では、位置に五千台の自動車を大量生産した記録を持っているが、ドイツの飛行機製造工場でも、いざとなれば日に一千台の[ハインケル(Heinkel)He 70]ブリック軽爆[Blitz:電撃]を、大量的に製造し得るだろうと見られている。


単価が安くて、大量生産に適ししかも驚くべき威力を持っている[ハインケル He 70]ブリック軽爆が、いざ戦争という場合に、群をなして敵国を襲撃したらその結果はどうなるか。仮にフランスの場合を例にとってみると、ドイツの国境からパリまで約三百マイル。これは[ハインケル He 70]ブリック軽爆にとって僅か一時間余の行程に過ぎない。

フランスの空軍が中途で首尾よくこれを撃退し了せれば問題はないが、昨年の八月下旬に行われたパリ中心の空中演習の結果によると、大規模の空襲を防禦し、撃退することは相当困難だと報ぜられている。右の空中演習に際し、パリ攻撃軍として参加した飛行機は百七十六台であった、これに対し防禦軍の飛行機は三百台、その中九十台の偵察機が警戒の任に当り、時速二百五十マイルのドヲワタン[Dewoitine D.500]戦闘機も十余台交っていた。が、それにも拘らず、「敵軍」はこの厳重な警戒網を潜って、百四十機は見事攻撃地点に達し、約七十トンの爆弾を投下して多大の損害を与え、全然、防禦軍の眼に触れずに根拠地に引揚げたというのである。


尤も、これは演習なのだから、いざ実戦となれば、こうまでうまく行くかどうかは自ら別個の問題であるかも知れない。が、それはそれとして、到るところ国境が背中合せになっている欧洲の場合では、一旦、開戦ということになれば、まず第一に考えられることは空襲の脅威であるに相違ない。ドイツは近代戦争におけるこの勘どころをしかとつかんで、まず第一に空軍を整備し、[1935年]空軍の復活を宣言[Rearmament]したのであろう。

ドイツの条約違反を理由として、少くとも英仏伊の三国がその武力を協同的に行使すれば、ドイツの空軍如何に精鋭なればとて、所詮は敗北を免れ得ないだろう。が、英国にせよ、イタリーにせよそこまで深入りすることを欲しない政治的理由があると同時に、よし三国が協力してドイツに挑戦するにしても、武力をもってドイツを屈服させるまでには、三国側でも甚大な損害を蒙るであろうことを覚悟してかからねばならない。これは空襲から受ける損害、わけてもドイツ空軍の威力を考える時、迂闊には打てない芝居である。すでに三十一個師団の整備を完了したと伝えられるドイツ陸軍力も、勿論、怖るべきものに違いあるまい。けれどもその海軍はまだあるかなしかの微弱な存在だ。

ドイツの武力の総量が、単に三十一個師団の陸軍力に過ぎないとしたならば、フランスはただ一国でも頑張って、その強大な陸軍と空軍と、そしてドイツよりは遥に優勢な海軍力をもって、ドイツの再軍備を言下に否定し去ったことと思われる。それが出来ないからストレーザ会議[Stresa Front]の宣言となり、連盟理事会の対独問責決議案となり、仏露相互援助協約[Franco-Soviet Treaty of Mutual Assistance]となった訳だ。こう見て来ると、ドイツ空軍の欧洲政局に働きかけた偉大な威力が今さらのように歴然とするではないか。

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111輸送機A型V-4試作4号(製造番号 W.Nr. 1968、登録コード D-AHAO):プロペラは、2翅から3翅となった。
1935年末に,ハインケル(Heinkel)He 111輸送機試作2号機V2と試作4号機V4が製造され、民間登録コードのD-ALIX, D-ALESおよびD-AHAOが与えられた。これが、He 111 A-1輸送機の初めての試作機で、1936年1月10日に完成した。当時は、世界最速の高速輸送機とされ、最高速力は時速402 km/h (250 mph)以上を発揮した。He 111は、当初は1,000 馬力ダイムラー・ベンツ DB 600液冷倒立V12気筒エンジン2基を装備したが、これはメッサーシュミット(Messerschitt)Bf 109戦闘機の試作10号機から13号機が搭載したのと同じエンジンである。ハインケル社は、戦闘機用のダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジンをHe111に装備することは認められず、より非力な 650馬力BMW VI "upright"液冷倒立V12気筒エンジンを装備することを強いられた。民間輸送機よりも戦闘機に優秀なエンジンを優先して搭載するのは、ドイツ再軍備(German Rearmament)・空軍の創設を進めたヒトラーとしては当然の帰結だった。He-111 V-1試作機は、1929年6月のヴェルサイユ条約の軍備制限条項の下で爆撃機として1934年に密かに開発
乗員員(Crew): 5名
発動機(Engine): BMW VI 6.0Z 液冷12気筒エンジン(600 馬力)
全長(Length): 16.40 m | 全幅(Width): 22.60 m | 全高(Height): 4 m
最高速力(Max. Speed): 310 km/h
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081302 Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


[(下)] 一
北海とドーヴァ海峡は英国にとって天与自然の強靭な国防線を形成していた。英国艦隊がその辺一体の制海権を確保している限り英本国は敵国からの侵入に対して絶対安全であったのだ。だから英国は大陸諸国の紛争にまき込まれるのが厭だと思えばいうところの「光栄ある孤立」を守り得たし、都合がよければ大陸に乗り出して、英国の利益のために、欧洲政局の調停役を買って出た。が各国空軍の飛躍的な発達と、それに伴うであろう怖るべき空襲爆撃の蓋然性は、英国の国防線に画期的な変化をもたらしたようだ。フランスの空軍は英国艦隊を尻目にかけて、一時間そこそこでロンドンを襲撃し得るからである。英仏戦争をもって、あり得べからざる想像だというならば、例をドイツの場合にとってみてもよい。


ベルギーは東西の幅員約百三十マイル、ベルギーのオステンドから英国の心臓ロンドンまでは百四十マイル弱である。だから仮にドイツのブリック軽爆がドイツの西端からベルギーの上空を翔破し、一気にロンドンに向うものとすればその総距離二百七十マイルは、最高時速二百五十マイルの同機にとって、一時間十分ほどの行程に過ぎない。一千マイルの航続力を有するブリック軽爆が一段と慎重な作戦を凝らして、英国空軍の虚を衝くとすれば、ロンドン空襲の成功率は更に高まることであろう。空軍の揺籃時代たる欧洲大戦の時でさえ、ドイツ空軍のロンドン襲撃[Battle of Britain]はすでに或る程度の成功を収めていた。

その速力を倍加し、その破壊力を何倍も増大した今日の爆撃機によるロンドン襲撃[Battle of Britain]は、これを想像してみただけでも優にジョン・ブル[John Bull]の心胆を脅かすに足るだろう。海国イギリスがその優越と伝統を誇る海軍力に国防の安全を委ねることが出来なくなったということは、ただに英国国防の革命を意味するばかりでなく、必然的に英国の大陸政策に一大転換を招来せずには置かぬであろう。

写真(右)1935年、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機V-23試作23号(D-ACBH):ハインケルHe 111V-23(D-ADUM)は、試作最終機体で、軍用型に発展する。ハインケル(Heinkel)He111の軍用爆撃機は、A型として完成したが、爆撃機としての飛行性能が不十分だった。これは、搭載したエンジンの馬力不足のためだった。そこで、He111Aは、中国に民間機として中華民国に売却された。爆撃機として、実用化されたのは、He111Bが初めてである。新生ドイツ空軍の新鋭爆撃機ハインケルHe111爆撃機B型は、新鋭ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン2基を装備し、1936年に勃発したスペイン内戦に送られ、1937年4月26日、市民への無差別空襲として悪名高いゲルニカ空襲Bombing of Guernica)にも投入された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935056 - Catalog:16_005216 - Title:Heinkel He 111V-23 Pete Bowers photo - Filename:16_005216. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005216 引用。



英国の一部で主張されている主力艦廃棄論なども、出来るものなら主力艦に食われる金を、空軍の拡充に廻したい腹からではないだろうか。現に昨年物故したスタンレー提督などは、あけすけにそうした意味の主力艦廃棄論を提唱していた。「新たなる危険—空中からの爆撃に対して、主力艦の存在は無意味じゃないか」というのであった。またある英国の軍事評論家は、英国よろしくベルギー永世中立保障条約[Treaty of London (1839)]から脱退すべきだとまで極論している。

戦争が陸上部隊と艦隊とによって行われていた時代こそ、ベルギー中立の確保は英国の国防に必要であった。が、欧洲大陸から苦もなく英国の重要都市を空襲し得る今日となっては、ベルギーを何国か占領しようと、英国国防の関する限り軍事的には無意味である。英国の国防上無価値なベルギーの中立のために、肝腎の英本国を敵の空軍の爆撃下にさらすよりは、寧ろベルギーと手を切って欧大陸の戦争には、絶対に参加しないがよいというのである。如何にも打算的な議論だが、背に腹は替えられぬというところだ。何処まで猛威を揮うことか、その見透しさえも容易でない空中戦の将来を想えば、ベルギーには気の毒な次第だが、英国としてみれば無理のない話だともいえる。


陸上における堡塁、海上における艦隊の如く、空中においても何等かの方法によって防備の完璧を期することの出来ない限り、英国はもはや欧大陸の政局を英国だけのそろばん玉で割り切ることは出来ないわけだ。空軍ロカルノ条約案は、転換期における英国国防の悩みを如実に物語るものではないか。[ラムゼイ]マクドナルド[James Ramsay MacDonald]や[ジョン・オールスブルック・]サイモン[John Allsebrook Simon]やエデンなどが、大陸の葛藤を英本国の一大事であるかに思いなして大陸を飛び廻っているのも、われ関せず焉と極めこんでいるのでは、とかく爆撃機の爆音が耳について仕方がないからだろう。或は少くとも欧洲の天地から爆撃機をとり除けば、欧洲の国際政局が現在のそれと多分に趣を異にするだろうといい切っても間違いではるまい。

(筆者は本社論説委員) (爆撃機と欧洲政局 (上・[中]・[下])引用終わり)データ作成:2011.4 神戸大学附属図書館


5.ハインケル(Heinkel)He 51複葉戦闘機

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、ドイツ空軍リヒトフォーヘン飛行隊、開放式コックピットのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機(21):発動機は、BMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備。1933年5月に初飛行。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。
Postcard Heinkel He 51, single seater fighter of the Richthofen Squadron, LuftwaffeNo 10.162.880postally unused, back described, excellent condition »Satisfaction Guarantee«
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


第一次世界大戦に敗北し、ベルサイユ条約の軍備制限の下に置かれたドイツ共和国では、軍用機の保有を禁じられており、空軍兵力は持つことができなかった。しかし、ドイツの航空機メーカーは、ユンカース、ハインケル、ドルニエともに、輸送機やスポーツ機といった民間機を開発しており、それを軍事転用することも可能だった。ハインケル(Heinkel)He-51も宙返りやアクロバット飛行するスポーツ機として航空省に採用されている。

第一次世界大戦が敗北した時点で、ハインケルは飛行機の研究・開発・製造・運用経験を積んでおり、戦後も、ベルサイユ条約の制限をかいくぐるように、航空機開発に邁進した。1922年、ハインケルは、ドイツ北部バルト海沿岸ヴァルネミュンデにエルンスト・ハインケル飛行機工場(Ernst Heinkel Flugzeugwerke AG)を設立し、ここを本拠地として航空機開発と生産に乗り出し、1943年には従業員5万人の大企業となっていた。

  写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、飛行中のドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機(C11)正面下方:1933年1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。
Postcard Heinkel He 51, fighter plane, biplane, Luftwaffe, II. WW No 3.255.915 Condition, see Scan ca 14 cm X 9 cm
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は戦時需要に拡張を続け、ベルリン近くに位置するロストック(マリーエンエーエ)、オラーニエンブルク、ヴァルタースドルフに飛行機工場を、またオストマルク(オーストリア)にも、ウィーンに工場を設けた。ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は、イェンバッハの鉱業・製錬所、シュツットガルトのヒルト発動機、て合同東部工場(Vereinigte Ostwerke)を保有する大企業コングロマリットとなったのである。

こうして、ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は、第二次大戦に敗北する1945年までに、軍用機を中心に飛行機100種類以上を開発している。

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、BMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を駆動して飛行中のドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機(D-IHAO)下面:1933年1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。
Postcard Heinkel He 51, D-IHAO, single-seater fighter, Luftwaffe No 10.436.322 Foto, keine Ak, ca 24 cm x 18 cm, Condition, see Scan
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


1919年のヴェルサイユ条約Treaty of Versailles)の軍備制限条項のために、敗戦後のドイツは、軍用機の開発・保有が禁止されたが、輸送やスポーツを目的とした民間機で、軍用機に転換できないのであれば、開発・保有も可能だった。そこで、ドイツでは民間機の開発が、ユンカース、ハインケル、ドルニエDornier)など有力な航空機メーカーの下で行われた。しかし、1933年1月にドイツの政権を握ったナチ党は、アドルフ・ヒトラーの独裁体制を確立し、軍事力を今まで以上に強化しようと、密かに画策していた。ナチ党政権樹立前から、外国における兵器開発や軍事訓練は行われていたが、ナチ党ヒトラーの下では、この軍事化の動きが強力に推進された。

ヒトラーの再軍備宣言
1)義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
2)軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。
3)国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。
4)陸軍参謀本部の復活。

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、エンジン・カウリングを開けてBMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を整備をしているドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機(55):ハインケル(Heinkel)He 51戦闘機陸上型は1933年5月に初飛行したが、ハインケルHe 51戦闘機水上機型も33機が生産されている。
Postcard Jagdeinsitzer Heinkel He 51, preparation for takeoff, Luftwaffe No 10.403.345 Condition, see Scan
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


ハインケルHe51B.1複葉戦闘機 ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機の諸元
乗員:1名
全高: 3.20 m
全幅: 11.00 m
全長: 8.40 m
自重: 1,460 kg
総重量: 1,900 kg
発動機: BMW VI 73Z 液冷V型12気筒エンジン (750馬力)
プロペラ: 2翅可変ピッチ(variable-pitch)
主翼面積: 27.2 平方メートル
翼面過重: 69.9 kg/m2

最高速力: 330 km/h
巡航速度: 280 km/h
航続距離: 570 km
実用上昇限度: 7,700 m
兵装: 7.92 mm MG 17 機関銃2丁(携行弾数各500発)
爆弾:10キロ爆弾6発

ハインケルの飛行機が、高性能、高速機、高技術として讃えられるようになったのは、
1)He70輸送機の開発にみられるような優秀なギュンター兄弟のような技師の入社と斬新な設計の導入、
2)ヒトラー政権下の影の国防軍の軍用機開発促進、
3)1935年の再軍備宣言、それに続くドイツ空軍の創設に伴う軍需の増大、
が契機になっている。

1935年3月1日、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーが、再軍備宣言をし、その直後、ドイツ空軍の設立が決まった。このドイツ空軍の最初の制式戦闘機が、ハインケルHe 51Aである。ハインケルHe 51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産された。このような大量生産は、ハインケルにとって初めてのことであり、軍需によってハインケル航空機工場は規模を拡大することができた。

ドイツ帝国軍は、第一次大戦の敗戦後、ベルサイユ条約によって、陸軍は10万人規模に大幅に縮小され、参謀本部も廃止、戦争遺憾の保有禁止、航空兵力の開発・保有禁止と軍備には厳しい制限が加えられた。

しかし、ドイツ帝国軍人は、プロシア伝統の軍人精神を引き継いで、ドイツ共和国軍の下でも、密かにフライコール(義勇軍)を擁立して陸軍勢力の拡充を図り、火砲や戦車を外国子会社や外国企業と連携して開発した。また、共和国時代に経済成長が進むと、民間需要も取り込んで、ルフトハンザ航空のような民間用の輸送機、郵便・通信用の飛行機を開発して、これを軍用機に転換する準備をしていた。換言すれば、民間機開発を隠れ蓑にして軍用機開発のための資本・技術を蓄積していた。

ハインケルHe 51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機生産されたが、この他に水上機型が33機生産されている。したがって、He51の各型式合計の生産機数は506機となる。

ヘルマン・ゲーリング ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、1935年3月16日、ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄して、ドイツ再軍備宣言した。その直後の1933年5月、ドイツ国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、第一次大戦と同様だった陸軍航空隊を1933年4月設立の航空省に移管し、それまで民間スポーツ機などの名目で保有していた航空機も併せてドイツ空軍(Luftwaffe)を設立し,ヘルマン・ゲーリング[Hermann Wilhelm Göring]を総司令官とした。

1935年3月16日のドイツ再軍備宣言から半年以上経過した1935年11月7日、第一次大戦勃発の時1914年生まれの成人男子に徴兵が開始され、それまで10万人だった共和国軍(ライヒスヴェア)は、50万人の国防軍(ヴェアマハト)へ拡張された。

1935年にドイツ再軍備宣言をして、軍備増強を公言したヒトラーは、新たにドイツ空軍を創設し、初代空軍大臣にヘルマン・ゲーリング[Hermann Wilhelm Göring]を任命した。彼は、第一次大戦の陸軍航空隊のエース・パイロットである。この新生ドイツ空軍の初の制式戦闘機がハインケルHe51戦闘機である。

ドイツ空軍第134戦闘航空団(JG134)の創立は、1936年1月4日で、再軍備宣言1年半後のことである。第3飛行隊、第2飛行隊も創設され、2個飛行隊で戦闘航空団が設立された。1936年3月24日には、ナチ党歌で有名なナチ殉教者ホルスト・ヴェッセルの名を冠され、JG134ホルスト・ヴェッセルとして喧伝された。4月1日には第1飛行隊が創設され、第134戦闘航空団(JG134)ホルスト・ヴェッセルは、3個飛行隊の正規編成となった。

ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産されている。これは、第二次世界大戦前の戦闘機の量産機数として、世界的に見れば多くはない。しかし、ベルサイユ条約の軍事条項破棄の後、1935年からドイツ空軍が整備されたことを思えば、十分な数だったともいえる。後継機のアラドAr 68単葉パラソル翼戦闘機は、1934年初飛行で、1936年4月から1938年1月までに514機が生産されている。

ソビエトではハインケル(Heinkel)He-51のBMW VI液冷V型12気筒エンジンをミクーリン M-17としてライセンス国内生産をし、1930年から1941年にかけて2万7,000台を生産し、ツポレフ TB-3四発大型爆撃機のような航空機だけではなく、T-28多砲塔戦車など戦闘車両の発動機としても生産台数の半数近くを搭載している。日本陸軍もライセンスを取得し、川崎が「ベ式四五〇馬力発動機」(BMW-6)として制式した。BMW-6液冷エンジンを搭載したのは、川崎の八八式偵察機、八八式軽爆撃機、九二式戦闘機である。しかし、日本では、零細企業・下請けに頼る航空機の部品の品質管理、工作の精度に問題があり、整備士の取り扱いも未熟であったため、液冷エンジンの稼働率は、空冷エンジンよりも低くなる傾向にあった。

写真(右)1936年5月以降、スペイン(?)、スペイン内戦でドイツが派遣したコンドル軍団のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機;ファシスト反乱軍の国籍マークは、胴体に黒丸、垂直尾翼に白地に黒のX印である。1936年7月〜1939年3月にスペイン人民戦線政府と反乱軍の内戦が続いた。ヒトラーとムッソリーニは、ファシスト反乱軍のフランシスコ・フランコを援助するために義従軍を派遣した。ソ連は人民戦線内閣に義勇軍を派遣した。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007352 - Title:Heinkel He 51c in Spain - Filename: 16_ 007352 .TIF- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168680引用。


スペイン内戦(Heinkel)He-51 ドイツ空軍は、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの下、航空省次官エアハルト・ミルヒが編成・生産の実務を担当したが、航空省とドイツ空軍は事実上、一体化することになった。エルンスト・ウーデットが航空省技術局長に就任したのは、翌年1936年6月である。

1936年には、ラインラントの無武装地帯に武力進駐を強行し、同年に勃発したスペイン内戦に反乱側フランコ将軍支援の陸・空軍兵力を義勇軍のドイツ・コンドル軍団と称して派兵している。

1936年7月、スペインでは、人民戦線政府に対して、モロッコ植民地に駐留していたフランシスコ・フランコらの反乱軍が蜂起した。このスペイン内乱に際して、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、即座に支援を命令し、ドイツ・コンドル軍団をスペインに派遣することが決定した。

ドイツは、形式上は、スペイン市民戦争に不干渉の立場にあると表明しながらも、義勇軍の形式をとったドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)を編成して、ドイツ正規軍の派兵を実装した。

スペイン内戦に派遣されたドイツ・コンドル軍団(Legión Cóndor)には、ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機、He111爆撃機、He70輸送機、ユンカース Ju-87メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109などが配備され、反乱軍を支援したが、同時に実戦での試験が行われた。1937年4月26日のゲルニカ(Guernica)空襲は、無差別爆撃として名高い。

1935年にドイツ再軍備宣言が出され、その直後にドイツ空軍が設立されてからは、ハインケルは、He 59複葉戦闘機、ハインケルHe-115双発水上偵察攻撃機、ハインケルHe111双発爆撃機などを開発し量産した。そして、これらの飛行機は、スウェーデン、スペインなどでも採用され、輸出や外国製造ライセンス料の収入をもたらした。

スペイン市民戦争で、敵の人民戦線政府にソ連製のポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機、ポリカルポフ(Polikarpov)I-16単葉戦闘機、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機(引込み式降着装置)が配備され、反乱軍・国民戦線側のハインケル(Heinkel)He-51は制空戦闘機として活躍できなくなった。そこで、He51は、地上支援・地上襲撃用に陸軍と協力する作戦に使用されるようになった。

スペイン内戦に投入されたドイツのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機は、135機で、1939年4月1日、スペイン内戦に勝利した国民戦線は、残っていたHe51戦闘機46機をドイツから譲渡され、自国スペイン空軍機として使用した。

1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、ドイツはモロッコ植民地に駐屯していた反乱軍(国民戦線)を支援するためにコンドル軍団を編成し、空軍兵力として、ユンカースJu輸送機を即座に投入し、モロッコからスペイン本土への兵員輸送を行った。また、1936年11月にはハインケルHe 51A戦闘機の第88戦闘機大隊が編成された。

しかし、スペイン共和政府の人民戦線を支援するソ連は、ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis複葉戦闘機、ポリカールポフ I-16単葉戦闘機を派遣したため、性能の劣る国民戦線側のハインケルHe 51複葉戦闘機は苦戦した。そこで、ドイツは、新鋭機Bf109戦闘機を派遣した。

すでにソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機は引込み式降着装置を装備、ポリカルポフI-16戦闘機は単葉・引込み脚で、ドイツのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機より100km/h近く速い高速戦闘機だった。


6.アラド(Arado)Ar 68 戦闘機

第一次世界大戦で敗北したドイツは、ベルサイユ条約で軍上記の開発と保有は禁止されていたが、民間機・スポーツ機などの名目で、将来の蒼空部隊の編成や外国軍への輸出を目的に、秘かに軍用機開発に着手していた。第一次大戦のドイツのフォッカー D.XIII戦闘機の後継機として、アラドAr 64は、既存のアラド SD II、アラド SD IIIの発展型として、ドイツ航空省の要請にこたえる形で開発された。

写真(右)1934年,ドイツ空軍創立前年、BMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載して初飛行したアラド(Arado)Ar 68V-1複葉戦闘機試作1号機(登録コード:D-IKIN):前作の1931 初飛行のアラドAr 65戦闘機を引き継いで、同一エンジンを装備して1934年に初飛行した。1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、ゲーリングを空軍大臣としたが、この新生ドイツ空軍の初の制式戦闘機がHe51である。
Arado Ar 68V-1 Nowarra photo - Title:Arado Ar 68V-1 Nowarra photo - Catalog:16_004971 - Filename:16_004971.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932086引用。


アラド社は、BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備したアラド(Arado)Ar 68V-1を1934年に初飛行させた。本来搭載予定のユンカースJumo210液冷倒立V型12気筒エンジンが間に合わなかったためである。したがって、アラドAr 68戦闘機の初期量産型アラド(Arado)Ar 68 Fは、BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備している。

写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、未舗装滑走路に戦列をなした2翅プロペラのアラド(Arado)Ar 68複葉戦闘機:BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備
Postcard German Air Force, fighter aircraft Arado Ar 68 single-seater fighterNo 3.611.734Condition, see Scan, postally unused ca 14 cm X 9 cm »Satisfaction Guarantee«
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アラドAr65は、1931年に初飛行し、ドイツのBMW VI液冷V型12気筒エンジン750馬力 (552 kW) を搭載、総重量1950 kg、最高速力 300 km/h、7.92ミリMG17機関銃2丁装備。 アラドAr 64戦闘機のBMW VI液冷V型12気筒エンジンは、その後、He51戦闘機、Ar68F戦闘機にも装備された。エンジンが同一で性能向上は期待できないが、信頼性のあるエンジンで使いやすかったのであろう。アラドAr 64は、1933年から1936年に193機が生産された。

アラドAr 64 Dは、1930年に初飛行し、ジュピター (Jupiter)VI空冷星型エンジン(530馬力)4翅プロペラ、アラドAr 64Eは、同じジュピターVIエンジンに2翅プロペラを装着していた。アラドAr 64戦闘機は、1932年から20機のみが生産された。

アラド(Arado)Ar 68 Eは、ハインケルHe-51戦闘機の後継機として開発された複葉戦闘機で、 以前のAr 65の発展型である。アラドAr 68V-1複葉戦闘機試作1号機(登録コード:D-IKIN)は、当初、ハインケルHe-51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載して1934年に初飛行している。

この後、アラド Ar 68bは、発動機をユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン(610馬力)に換装している。

1935年3月16日にアドルフ・ヒトラーによるドイツ再軍備宣言、すなわちドイツ敗北後のベェルサイユ条約軍備制限や軍用機開発・保有禁止の破棄がなされた。そして、兵役を復活して、10万人に制限されていた兵力を50万人までの増強し、ドイツ空軍を創立して、民間機を転用した軍用機を配備することが決まった。アラドAr 68E戦闘機は、1936年にドイツ空軍に部隊配備がなされた。

写真絵葉書(右)1940年消印、ドイツ、飛行中のアラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機:E型は、ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載する予定だったが、このユモJumo210エンジンが間に合わないために、臨時応急的にF型として、BMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備することになった。
Postcard Deutsche Luftwaffe, Arado Ar 68 F single-seater fighterNo 10.817.637Condition, see Scan, postally used, 1940 ca 14 cm X 9 cm
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


1936年7月17日から1939年4月1日まで3年近く続いたスペイン内戦に際し、ドイツは反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。ハインケルHe-51戦闘機も投入されたが、敵人民戦線側が新たに投入してきたソ連ポリカルポフI-16戦闘機に圧倒されてしまった。後継機のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機もあったが、臨時中継ぎであり、He51と飛行性は大差なかった。

そこで、ドイツは、1935年5月28日に初飛行していた次の近代的戦闘機としてメッサーシュミット(Messerschmitt)Bf-109戦闘機がスペイン内戦に派遣されていたコンドル軍団に配備された。

ドイツ空軍の航空団(Geschwader)の定数は、戦闘隊160機・輸送機その他120機とされた。航空団は3コ飛行隊からなり、飛行隊(大隊:Gruppen)は3コ飛行中隊(Staffel)からなる。飛行中隊の定数は12機である。ただし、スペイン内戦における戦訓から、戦闘機は、それまでの3機編隊(Kette)が、2機編隊はロッテ(Rotte)、4機編隊(小隊:Schwarm)に変更されている。

写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、未舗装滑走路で、整備士が2翅プロペラを回転しているアラド(Arado)Ar 68F複葉戦闘機:ハインケル(Heinkel)He 51と同じBMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備。
Postcard Deutsche Luftwaffe, Arado Ar 68, fighter plane, the engine is turned to compressionNo 10.788.216Condition, see Scan, postally used ca 14 cm X 9 cm
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アラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機は、予定していたユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載しているので、機首はプロペラスピナまでエンジンナセルが流線型になっている。他方、アラド(Arado)Ar 68 Fは、ユモJumo210エンジンが間に合わないために、急遽、ハインケルHe-51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載し、量産された最初の形式となった。そのため、He51とAr68Fとは機首が箱型のエンジンナセルとなり、同一機種かと間違いやすい。

アラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機は、生産準備のなったユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン455 kW (610馬力)を搭載したが、これが当初の生産型だったために、F型よりE型のほうが新しい機体となった。ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンは、高度3,800 mで、500 kW (671馬力)を発揮することができた。

ヒトラーによる1935年3月16日ドイツ再軍備宣言は、ベルサイユ条約の軍事制限条項を無視するものであるが、実際には、ドイツ・ワイマール共和国時代から、闇の国防軍として、再軍備が進められていた。再軍備宣言前から、民間航空、スポーツ機などの名目で純軍用機が開発生産され、外国軍隊向けに輸出されていたのである。

再軍備宣言後、陸軍から航空隊を分離して、民間航空と合わせて、ドイツ空軍を創設した。初の空軍大臣は、第一次大戦のエースパイロット,航空大臣ゲーリングで、ルフルトハンザ航空出身のエルハルト・ミルヒ(Erhard Milch)中将が実務を担った。翌年1936年に勃発したスペイン内戦には、ヒトラーは反乱将軍フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)側の国民戦線にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。この時派遣されたハインケルHe-51戦闘機は,敵人民戦線側のソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-16単葉戦闘機に圧倒されてしまった。

そして、He 51後継機のアラド(Arado)Ar 68 複葉戦闘機も、臨時中継ぎであり、次期の近代的戦闘機としてメッサーシュミットBf-109戦闘機がスペインに投入された。

写真絵葉書(右)1937年頃、ドイツ、3機編隊(Kette)で飛行中のアラド(Arado)Ar 68 複葉戦闘機E型あるいはF型:スペイン内戦の空戦経験から、戦闘機の編隊は、3機編隊(Kette)をやめて、2機編隊ロッテ(Rotte)とし、2機編隊2組で、4機編隊(小隊:Schwarm)とするように変更になった。E型は、ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載した。F型は、ユモJumo210エンジンが間に合わないために、臨時応急的にとして、He 51と同じBMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備した。
Postcard Arado Ar 68, Fighters, Staggered FlightNo 2.638.873postally unused, excellent condition
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アラド(Arado)Ar 68 E型は、F型よりも先の形式だが、実際には搭載予定のユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンが間に合わない状態となった。そこで、旧式ではあるが、He51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)搭載のアラド(Arado)Ar 68 F型が量産された。その後、ユモJumo210液冷エンジンが順調に生産されるようになり、当初のアラド(Arado)Ar 68 E型の量産が始まった。

アラド(Arado)Ar 68 Eの後継機がF型のように見えるが、実はF型の後継機がE型である。アルファベットが逆になったのは、実際には搭載予定のユモJumo210液冷エンジンが間に合わない状態で、急遽、旧式ではあるが、He51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)搭載のアラド(Arado)Ar 68 F型が量産されたためである。その後、ユモJumo210液冷エンジンが順調に生産されるようになり、当初の予定通り、FからEに逆に戻って、アラド(Arado)Ar 68 E型の量産が開始された。

写真絵葉書(右)1940年消印、ドイツ、飛行中のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機:E型は、ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載したの。F型は、ユモJumo210エンジンが間に合わないために、臨時応急的にとして、He 51と同じBMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備したので機首形状が異なる。
Postcard Arado Ar 68, fighter plane, jack 13482No 2.638.872postally unused, excellent condition
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アラド(Arado)Ar 68 Eは、ユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン(610馬力)を装備し、ドイツ空軍の制式戦闘機となった。1936年はスペイン内戦が勃発した年で、アラドAr68戦闘機もスペイン内戦に投入され、国民戦線側のコンドル軍団に配備され、共和国政府人民戦線側のソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機と戦った。ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機は、1933年12月30日初飛行、低翼単葉で全長 6.13 m、全高 3.25 m、全幅 9 m、翼面積 14.5平方メートル、空虚重量 1,490 kg、全備重量 1,941 kg の小型戦闘機で、兵装は7.62ミリShKAS機関銃2丁(エンジン上面)、20ミリShVAK機関砲 2門(翼内)という大きな火力で、最高速力520 km/hを発揮した。

アラド(Arado)Ar 68 E戦闘機は、空力学的に洗練されており、ハインケルHe-51戦闘機を若干上回る性能だったが、ソ連空軍I-16戦闘機に劣っていた。そこで、1935年5月28日に試作機が初飛行していたメッサーシュミット(Messerschmitt)Bf109が高性能を発揮していたため、アラド Ar 68 (Arado Ar 68) 戦闘機は、ハインケルHe51戦闘機と並行的に使用され、生産機数も同程度の511機の量産にとどまった。

アラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke )は、ハインケルと同じくドイツ空軍初期の制式戦闘機アラド(Arado)Ar 68 Eとして大量生産に移されたが、これがアラド初めての量産機だといってより。アラドは、Ar-96練習機、Ar-232輸送機、Ar-95水上偵察機、Ar-196水上偵察機などを量産するが、いずれも第二次世界大戦時期のナチ党政権で、軍需に支えられた飛行機製造だったのは、ハインケルと同じである。このように軍需に支えられて拡大し、技術を習得したアラドは、第二次大戦末期には、Ar-234ジェット爆撃機を開発し、量産するまでに発展した。
アラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke )の発展は、
1)ヒトラー政権下の影の国防軍の軍用機開発促進、
2)1935年の再軍備宣言、それに続くドイツ空軍の創設に伴う軍需の増大、
3)第二次大戦激化にともなう他社開発の機体の生産請負
が契機になっている。

1935年3月1日、ドイツ首相ヒトラーが再軍備宣言をし、その直後に、ドイツ空軍の設立が決まった。このドイツ空軍の最初の制式戦闘機は、ハインケルHe 51複葉戦闘機(1933年初飛行)で、次いで新参のアラドAr-68複葉戦闘機(1934初飛行)である。アラドAr-68複葉戦闘機は、1936年4月から1938年1月に514機が量産されている。このような大量生産は、アラドにとって初めてのことであり、軍需によってアラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke)は潤い、規模を拡大することができた。

1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、ゲーリングを空軍大臣とし,1936年に勃発したスペイン内戦に、反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。この時派遣されたハインケルHe-51戦闘機は,敵人民戦線側のソ連ポリカルポフI-16戦闘機に圧倒されてしまったものの、このような実戦投入によって、ドイツ空軍の運用・戦術には大きな進歩があった。

 しかし、ハインケルHe51戦闘機の後継機として、アラド(Arado)Ar 68 は同じ複葉戦闘機であり、性能も若干上回る程度であり、ドイツ空軍の制式戦闘機としては、力不足だった。

1933年1月末に、ヒトラー政権が成立したが、ドイツ機の国籍マークは、1935年の再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものになった。

アラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機の外観は、ハインケルHe-51と類似しているが、1930年代にアラドが設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して評価されておらず、輸出もできていない。これは、量産能力が低かったためでもあるが、機体の性能も高くなかったことが、飛行機メーカーとしての歴史が浅くブランド力がなかったことが原因であろう。


⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ハンセン病Leprosy差別

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