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◆支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢
写真(上)1937年夏、アメリカ、アメリカ海兵隊第2飛行隊グラマン(Grumman)F2F-1(Skyrocket)艦上戦闘機(2-FM-9)の右側面
:1933年10月31日、全長:6.53 m 全幅:8.69 m 全高:2.77 m 空虚重量:1,221 kg 発動機:ライト(Wright)R-1535空冷星型9気筒エンジン650 hp 最高速力:383 km/h 航続距離:1,585 km 武装:7.62mm機銃 2丁。国籍マークは、アメリカの第二次大戦参戦前に制定されたもの。ただし、方向舵の青白赤の国籍マークは第一次大戦時の形式。
A rare item because only two of these were used by the Marine Corps. When VMF-2 was formed in 1937 they used F3F-1's and F2F-1's while awaiting delivery of the new F3F-2's.This one was visiting NRAB Oakland in the summer of 1937. Date 11 November 2011, 19:50 Source Grumman F2F-1 (9663) Author Bill Larkins
写真は Wikimedia Commons, SDASM Archives・File:Ray Wagner Collection Image (16158029209).jpg 引用。


写真(上)1940年末、アメリカ、アメリカ海軍航空隊第35追撃飛行隊を支援したマーチン(Martin)B-10BM ボロ(Bolo)爆撃機
:1932年2月16日初飛行、生産機数348機。全長: 13.63 m 乗員 4名 全幅: 21.60 m 全高: 3.48 m 翼面積: 63.4 m2 全備重量: 7,460 kg 発動機:ライト R-1820 空冷星型9気筒エンジン775hp2基 最高速力: 343 km/h 実用上限高度:7,365 m 航続距離: 1,996 km 兵装 爆弾1,050 kg 7.62mm機銃 3挺。
The rare late markings for a B-10 that is usually seen in blue and yellow. This was an aircraft assigned to the 35th Pursuit Group visiting Oakland Airport in late 1940. Date 13 December 2008, 10:49 Source Martin B-10BM Author Bill Larkins
写真は Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM (6439669867).jpg引用。


1.米国の指揮下に一千機を建造 : 支那の航空三年計画
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 4巻 Page: 122 出版年 1937-02-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100096102

 民国の独裁官蒋介石が”航空救国”を高調してから目標空軍一千機にスタートを切ったのは上海事変直後のことである、多事多難な「地震の殿堂」[蒋介石]南京政府ではあったが、この大航空建設の念願は年一歩と進展し到頭「一つの空の偉力」をアジアの一角に出現させてしまった、そして新陣容を整えた青天白日旗下のこの民国空軍の華やかな光芒の蔭には実に”アメリカ”と云う黒幕が隠然と存在していたのだ、そして今も尚おアメリカの指導下にあって、民国は更にその空軍を倍加せんと画策している

 先ず[蒋介石]国民政府に属している現在の空軍を観れば、上海事変当時は陸上七隊水上一隊に過ぎなかったが、アメリカの積極的指導を得て空軍の内容刷新と、その兵力の増加を策し一方国民の航空熱熾盛化と相俟って空軍拡充の気運を醸成し来った

例えば米国と航空密約を締結して空軍の根本的刷新を図るためその一時的方便として先ず陸上七隊を三隊に縮小し、残りを杭州飛行学校に集中してアメリカ飛行士を招聘、根本的に空軍勤務者を訓練した

 かくして支那空軍は”尋常一年生”にかえって根本的にやり直しを行い、その為に内容は漸次充実性を帯びて来たが、所謂「支那航空三年計画」は昭和十一年末を以て略完成をみたと伝えられているが、それに依ると

一、偵察機 三五〇機
一、駆逐機 三〇〇
一、軽爆撃機 二〇〇
一、重爆撃機 一〇〇
一、水上機 五〇  計 一、〇〇〇
に及び、近くこれは七乃至八聯隊に編成され更に茲数年後には一層優勢な空軍を保有するだろうと観られ、その背後に指導者アメリカが存在しているだけに「単なる支那空軍」として決して軽視出来ない情勢に到来した事は確である、一方、地方軍閥によって育成され、中央空軍とは別個に取扱われているものに四川の二十機、山西の十五機などその他貴州、雲南にも若干機あるが、支那協賛軍にも「朱毛空軍」といわれるものが数台あるといわれ、これはソ聯空軍の支給によるものと伝えられている、面白いのは地方空軍の飛行機操縦者が殆ど外人飛行士であることであろう

 さて支那空軍の発達をみる場合、われわれはアメリカの根強い支援を決して忘れることは出来ない、アメリカの援助は中央空軍の拡張を企図したのであるが、その裏面には支那政府が米国に軍事上重要な利権を提供していることである、更に各地方空軍は名義上支那軍閥に属しているが、実権は殆ど米国の手に帰している、そしてアメリカの教官は現在百名を超えている、飛行機とガソリンは全部アメリカによって制せられている、

例のリースロス[Frederick Leith-Ross]の国幣改革案に基く銀国有の断行で支那の財政は愁眉を開いたというが、ここでも巨利をせしめたものはアメリカの飛行機会社だった、何しろ一年に三百機も売り込むアメリカである、ただその蔭にもう一つのたくらみが潜んでいることをわれわれは知ることが出来る、それは抗日の熱病に憑かれた支那の官民を煽りたてて、空軍を拡張させれば一つは対岸の強敵”日本”を牽制し得るというアメリカ式考えからであろう、これは米国としては一石二鳥の名策として自負するに充分なものがあろう

 最後に、最近の支那民間航空状態に一瞥触れてみよう

 現に民間航空機といわれているものは四十機程ある、そして支那の民用航空は大体次の三系統に分れている

中国航空公司(米国系)

昭和四年四月創立、同年七月米支航空新契約の締結により米支合弁となる、しかし実権は米国人の手中にある
第一線 上海、南京、漢口、重慶、成都を結ぶ
第二線 南京、徐州、済南、天津、北平を結ぶ
第三線 上海、寧波、温州、福州、広州を結ぶ、

このほか重慶−雲南線を最近完成し、昭和十一年十月より香港において太平洋横断定期航空路と完全に連絡、更に計画中のものもある

欧亜航空公司(独逸系)

ドイツ「ハンザ」航空会社により昭和五年より開始された独支合弁

第一線 上海、南京、北平、満洲里(西伯利亜経由伯林)
第二線 上海、南京、北平、庫倫(同右)
第三線 上海、南京、甘粛、新疆(同右)
更に昭和十年には北平−広東線西安−雲南線の諸線完成し、就航をみている

西南航空公司−西南五省官民公弁事業

昭和十年より事業を開始し、目下広東−南寧−竜州の定期航空を実施している、使用機及び操縦士は米国に仰いでいる(米国の指揮下に一千機を建造 : 支那の航空三年計画引用終わり)


2.支那事変と欧州戦を繞る日米の関係 (1〜4) : 条約・中立法・東洋策・軍備拡張
著者 桑港本社特置員 川島伊佐美
 
掲載誌 大阪時事新報 Vol: 第151巻 Page: 60 出版年 1939-12-24/1939-12-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100170249

(1) 米国の底意は東洋の番犬 日米会談妥結前途遠し

米国から観た支那問題を繞る日米両国の折衝

日本の膳立で近く出来ようと云う汪兆銘の支那新中央政権の出現を控えて野村[吉三郎]外相グルー[Joseph Grew]米国大使との会談はいずれもこの際に日米間に蟠まる各種の支那問題を片付け両国の関係を整調しようと云うのに在るらしいがその目指すところは可成相隔っている、

日本はこの際アメリカに日本の支那事変に対し軍を動かした所以と目的を告げ支那の現状を知得せしめ、その再建の要を諒解させ、しかして向後成る可く協調させようと云うのであろうし、又米国はこの際出来るだけ日本の対支策に極度の反感を持っている米国民の真情を日本国民に知らしめこれに依って米人一般の肚を知得せしめ、更に事変以来支那で蒙った米国の文化事業の損害及び米人の蒙った支那における利権の損害などを並べて日本に反省せしめその態度を竣めさせよう、

しかして若し改めなければ実力を行使してもこれを強行しよう……と謂ったような多少威嚇的態度を以てし、この機に遮二無二日本を抑制し東洋で日本が余り覇権を揮わぬように仕様という所謂「英国に代り東洋の番犬を務める」と云うのがその底意であるそれには四十年前に米国の時の国務卿ジョン、ヘー[John Hay]の主唱した「支那の門戸開放機会均等主義」や今より十八年前に締結された「九箇国協商」などを引き出して日本を制肘し、日本が米国に倣って東亜に唱道せんとする「亜細亜モンロー主義[Monroe Doctrine]」を拒もうとするのであるから、双方の見地は可成懸隔甚だしく、今度の野村・グルー氏の会談もその最後の目的達成には余ほどの相互の隠忍妥譲を要し、成功を見る迄には多くの時日を要するであろうと在米の邦人は最早覚悟している

日米条約の廃棄は米国の唯一の武器

米国が過去少くとも八十五年の光輝ある歴史的日米の国史と一箇年十五億円の貿易を賭し去月二十七日に寝耳に水の如く日本に対して二十八年間持続して来た日米条約の廃棄を通告したのにはナカナカ深い理由がある、

一見すると彼の薮から棒の非友誼的通告は例のルーズヴェルト式で以前の彼の有名となった[1937年10月5日]シカゴの日独伊三国粛清の[隔離]演説[Roosevelt’s “Quarantine Speech”]同様偶発的のように見えてナカナカそうではない、ハル国務長官の日米条約通告の理由は「支那における米国政府及び米国民の利権が両国の互恵条約約款に違反して侵犯されている数が数百件に上ぼっている、その上現存の日米条約は余り古過ぎて時代に適せない」と云うのであるがそれはただ表面の理由で、実は米国の肚では「この上支那に於て日本に自由行動を採らせてはならぬ。

これを抑止するには経済封鎖に過ぎるものはない、日本は今対支戦争の継続と対ソ連の防備を保持するにはドウしても米国よりの原料資材を購入せねばならぬ、故に米国が若し鉄や油や棉花の供給をしなかったら向後戦争は六ヶ月間も継続出来ぬ」という考えでいるので米国民の大多数も然か信じている。

故に従来も再々米国の議会にはピットマン上院議員やその他対日硬派に依って所謂「日本の支那行動を抑制するための対日経済封鎖」が提唱されたのであるが其都度通商貿易関係や国際関係などで種々考慮す可き点があるというので反対が勝ってその実現に至らなかったのである。

且つ第一現在は日米両国間には最恵国条款付きの通商航海条約がありこれがある以上ソンナ突飛なことも出来ず、と云うのでツイその儘になって居たのであるところが此夏になって日本軍の支那進撃が愈々猛烈となりそこへ一方米国人の好まぬ所謂支那の新秩序建設と云うことが着々と具体化の方へ進んで来たので国内の輿論は急に悪化し愈々対日行動を要求する声が段々と激しくなって来たので、その二箇月後にマサカ欧州に大戦が勃発しようとは想像せず、一方は支那より哀訴され一方は英国よりツツかれ他面にはソ連あたりより間接に使嗾を受けてトウトウ思い切って七月二十六日にアンナ薮棒的の通告したのであると思われる

廃棄の動機と米国の日本膨張防止策

一九三七年の七月七日[盧溝橋事件]支那事変の勃発以来米国民の反日感情は日に日に悪化の一路を辿り、日本の連続的親米ジェスチュアー、各種各方面の所謂「日米親善使節」の派遣、この非常時に我が国庫から二百四十万円の巨費を支出して紐育[ニューヨーク]桑港[サンフランシスコ]二大都市の万国大博参加等引切りなしに対米親和工作が行われたにも拘らず米国民がなぜ斯く反日になったかというに第一は事変勃発当初以来の英国の大規模のシステマチック反日宣伝工作それから支那の間断なき哀訴的と日本呪詛的の対日悪宣伝と、大部分英国系から糸を曳き居る新聞通信の反日報道の頻発や、ドイツに深怨を有する米国政界財界に重勢力を有し殆んど米国経済界のキーを握っていると云われる猶太[ユダヤ]民族が「坊主が憎けりゃ袈裟迄憎い」という日本憎悪感の深刻化や更に在支英国系の資本家及び猶太[ユダヤ]人系資本家等の反日暗躍も加わり、その上ソ連より糸を曳き居る米国内の赤化分子の不断の反日排日運動等が相重なって今日の米国の全般的反日となりこの反日センチメント[Anti-Japanese sentiment]が竟に今回の日米条約廃棄を作ったものであろう

米国民の今日の如き一般的反日感情深刻化の主因は前記の通りであるが他に米国当路として抱いて居る対日懐疑感の軽視出来ぬものがあるそれは目下欧州には東洋殊に支那に最も関係あり利権を有している国には皆戦争をして居って到底支那に手を及ぼす余裕がないソ連のような国でも英仏独戦争の隙を窺って漁夫の利を占めんがために北欧の群小国を制圧して自家の翼下に収めんとする多忙の際に到底東洋で日本と事を構えているようなことは出来ない、

故にこの機に米国のような国が日本を監視していなければ日本は東洋でドンナことをするか知れない、啻だに支那を自由自在にして仕舞うのみならずこれを抑制せずんばさらに南進して比島を侵略し仏印から西進して英領新嘉波[Singapore]に手を伸ばし海峡地帯さては蘭領印度[オランダ領東インド]、豪州、ニュージーランドその他南洋諸島までも侵略して仕舞、支那に新秩序が建設されると同時に啻だに英仏の在支利権のみならず米国の支那における利権までも剥奪して仕舞米国が過去数十年来施設して来た凡ての文化事業は皆破壊して仕舞うに違いない。

既に欧州では専ら日本とソ連は欧州戦争を好機とし独伊両国の密諾を得て支那を二分し或は独ソと共に亜細亜を四分して仕舞わうとしている……」というような夢想と懐疑を抱き近来は愈々神経過敏になって来たのである [写真(川島桑港特置員)あり 省略]

条約廃棄の影響と日米貿易の運命

目下の情勢では現在の日米条約は来る一月二十六日満了期迄には恐らく再締の運びになる見込なく、剰え両国の親交関係と通商関係を正式に継続し得る暫定協定の如きものさえ出来るのは先ずむずかしく多分当分は「無条約国」のままで進み行くことの已むなきに至るであろう、扨てそうなったら日米通商貿易の運命はドウなろうか、米国に居住する十万の日本人にドウ云う影響を与えるであろうか是れはこの問題に直面して居る日米両国の輸出入業者及び在留邦人の最も心配して居るところである

最も仄かに聞くところによると日本も米国も今日に至っては実は条約の再締は充分希望して居るが互いに今更ら自分から折れて出るようなことは体面上決してしたくない、

しかし先方から何とか挨拶があればソレを契機に互いに接近して又条約国に復帰しようという意思も希望もあることは事実であろうト云うのは目下欧州の大戦は益々拡大して行ってその停止するところを知らず或は全欧が修羅場になるか知れぬという場合に今迄は幸いに遠隔のためその飛沫を受けずに居た太平洋の二大国も向後の世界の情勢進展如何に依ってはこの儘にウカとして居るとドウ云うことになるかも知れぬ、故に両国は一時も疾く再び握手せねばならぬ、若し握手せぬと飛んだことが生ぜぬとも限らぬ

米国は今一生懸命に欧州戦争に捲き込まれまいと官民一致中立厳守に大努力をして居るが、しかも運命の赴くところドウなるかも判らぬ、しかも今後中立法を改変して米国から武器軍需を欧州の交戦国[belligerency]へ供給し得ることになった以上例令それが所謂「現金取引買主国の持ち行き」条項が入って居ても何時それから欧州の紛争に絡まるようなことが無いとも限らぬ、斯かる危機に東洋唯一の強国日本と無条約国として隣接して居るのは不用心千万である

又我が国としても同様で我が国は目下支那事変の始末と東亜の新秩序建設に殆ど全力を傾注して居り欧州の戦乱などに関わっては居らぬ又幸い遠隔の地に在るから欧州の戦乱に捲き込まれるような憂いは遠いがしかも一方対米関係は現在の様な不安状態で居り一方対独、対蘇、対英仏関係等種々雑多の錯雑関係を有している際いつ迄も対米関係をこのままで行くのは寧ろ危険と思わざるを得ないであろう。

筆者紹介・川島氏は米国ペンシルヴァニヤ大学卒業後マサチュセッツ州マムハースト大学に学び、加州日本人商業会議所、日本人会等の書記長を歴任後桑港日米新聞主筆兼総務に就任、今回本紙桑港特置員に嘱託された

(2) 通商貿易楽観は禁物率直に謬見を匡せ!

さて通商貿易の方面から少し条約破棄を論じて見よう、先ず一考を要するのは此条約破棄に就て日本と米国が大分違った考えを有っていることである、我が国の一部では唯だ経済上の点からばかり此問題を観て比較的楽観的でいるようである、

仍わち日本は毎年米国から多額の輸入超過をしている、昨昭和十三年のみにても日本はアメリカより九億一千五百万円の物資を購入しているがこれに対しては日本は米国へ其半額に及ばぬ四億二千五百万円しか輸出して居らぬ即ち昨年だけでも我が国は米国から四億九千万円に上ぼる巨額の輸入超過をしている、故に米国は商売上から謂ってもこの儘黙止しては居られまい、必然来年一月の条約満了期迄には日本にその再締結の相談を持ち出すに相違無かろうと

この説は普通から観れば至極尤もであるが、米国人は然う考えていない、彼等一般の考えは支那事変に対して非は悉く日本に在りとしそれが今では国民のセンチメントとなって居るので彼等は総てこの考えから日本に対そうとして居る、則わち一般の米国民は未だに日支事変[Second Sino-Japanese War]の真相と日本の真意目的を諒解していず、只もう日本を悪いものとし日本は支那を侵略し九国協定[Nine-Power Treaty]に背反して支那の主権を侵害し、門戸開放主義と機会の均等協定を破り、在支の米国利権を侵害し、支那の市場独占を目論んで居る……と誤解し日本を覚醒せしめその態度を悛めしむるには先ず最恵国条款附きの通商条約を破棄ししかして経済封鎖の断行するに如くはなしと斯う考えているらしい

こんな風であるから我が国でもよくこの点に留意してこれを重視し、別段外交辞令の扮飾は要らない、率直に事実を提示して飽く迄もその謬見を匡だし彼れ等の徹底的善解を得るに外無かろうと思う、是れには日本の官民は一致し特に実業団体及び輸出向製業者、輸出入業等は団結して米国人実業団体其他商工業者に呼び掛けて協力を促がし而して日米関係の隔和を図るより外無いのである。

しかして斯為すことは謂うまでもなく啻だに両国の通商関係や経済関係若くは双方相手国在留の自国民の安全の保護となるのみならず目下欧州の戦乱が拡大してその禍害が兎もすれば全世界に波及せんとするの憂充分ある際にこれを堰き止める唯一の策となるのである

米国側から観た日米間の貿易

最近シカゴの「ジャパン・トレード・ビューロー」の刊行した「日米通商関係の実相」なる冊子に拠ると日本は米国の三大華客国の一で日本の毎年の米国品購入力は英国と加奈陀と肩を比べ日本は去る千九百三十一年以来毎年輸入超過をしていた、

仍わち極近い昨年の例を引くと昨年日本は米国から二億三千九百六十二万弗[$]の品を購入し、これに対して我が国は辛うじてその半額の一億二千六百八十二万しか米国に売っていなかった。即ち日本が米国から一弗[dollar]八十九仙[cent]の品を購う毎に米国は日本からただ一弗[ドル]しか購って居らぬわけになるのである しかも米国が日本から購入する[以下別記事のためテキストから省略]

写真(右)1938年9月29日,ミュンヘン会談のときの,英首相チェンバレン,仏首相ダラディエ,ドイツ総統ヒトラー,イタリア統領ムッソリーニ,イタリア外相(ムッソリーニ娘婿)チアノ:チェコスロバキアの代表を呼ばないまま,ドイツへのステーテンランド割譲を,チェコスロバキアに要請することが決まった。チェコスロバキアは,英仏と同盟関係を結んでいたから,このドイツへの「宥和政策」は裏切りともいえる措置だった。
Zentralbild Das Münchner Abkommen vom 29.9.1938. Das am 29.9.1938 in München zwischen dem britischen Ministerpräsidenten Neville Chamberlain, dem französischen Ministerpräsidenten Edouard Daladier, dem italienischen Staatschef Benito Mussolini und Adolf Hitler geschlossene Abkommen ermächtigte das faschistische Deutschland zur Annexion tschechoslowakischen Gebietes. UBz: von links: Chamberlain, Daladier, Hitler, Mussolini, und der italienische Außenminister Graf Galeazzo Ciano. Im Hintergrund von Ribbentrop und von Weizsäcker. 12 766-38 [Scherl Bilderdienst] Dating: 29. September 1938 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R69173引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)[右]と握手を交わす亡命チェコスロバキア政府代表エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Beneš , 1884–1948)[左]:1918−1935年外務大臣を務めたベネシュは、1935年からマサリクの後任の大統領となったが、1938年のミュンヘン会談でズデーテン地方のドイツ割譲を余儀なくされ、10月に辞任、ロンドンに亡命。1940年6月のフランス降伏、親独逸ヴィシー政権が成立後、ベネシュの亡命チェコスロバキア政府は、イギリスに承認された。他方、戦後ヨーロッパでのソ連優位を予測したベネシュは、1943年にソ連と相互友好援助条約を締結。ドイツ敗退で、ベルリン陥落前、1945年4月4日にはチェコスロバキア大統領に復帰している。ドイツ降伏で、ベネシュは、チェコスロバキアに居住していたドイツ系住民の財産を没収、国外追放した。1948年2月の共産党による政変、新憲法採択、総選挙で敗北し、1945年6月2日、ベネシュは大統領を辞任。
English: Secretary of State Cordell Hull greets President dr. E. Beneš upon his arrival in Washington, D. C. Date 1943 Source https://catalog.archives.gov/id/44267985 Author Bureau of Special Services
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Edvard Beneš in the USA 1943 (NARA 44267985) 01.jpg引用。


(3) 偏頗極まる中立法 英仏へ多量の武器供給

米国中立法改変対交戦国武器軍需売買輸出解禁

米国は去る一九三五年(昭和十一年)及び一九三七年に制定した「交戦国に武器軍需を供給販売輸出等禁止」の条項ある旧中立法[Neutrality Act of 1935]を改変してこの間の臨時議会で右禁輸を撤廃する新中立法[Neutrality Act of 1939]を制定して仕舞った、

その内容は左の通りである
(一)一九三五年及び一九三七年の制定にかかる武器軍需輸出禁止条項を廃除す
(二)武器軍需其他一般の貨物は現金取引とし凡て米国船以外の外国船にて搬出するの条件下に交戦国に売る事を許可す
(三)米国船は欧州の交戦地域海に出入を禁ず
(四)米国人の旅客は交戦国の船舶にて旅行することを禁ず
(五)米国人の出入を許さざる戦闘地帯設定の採択権を大統領に附与す
(六)米国にて交戦国のため基金募集を禁止す
(七)米国商社の対交戦国武器軍需売買に対し信用貸取引を許さず
(八)米国内にて交戦国の債権を売る事を禁ず、但し現行のものにして継続する分は此限に非ず
(九)大統領に交戦国軍艦(潜航艦艇を含む)の米国港湾に入ることを禁止する権を附与す
(十)米国船舶に対しバームダ以南(子午線三十五度以南の大西洋諸港、ジャマイカ、西印度諸島、南阿弗利加の英領諸港、又はノーヴァ、スコーシヤ地帯内海及びニュープランスウイック地帯の港湾へ自由航海通商を許す
(十一)太平洋、印度洋及び之に接続せる海洋に於ける交戦国の港湾に於て米国船舶は武器軍需にあらざる交戦国の一般貨物は其貨物が現金にて交戦国に売卸せられる迄其荷物の所有権を保持することを許す
(十二)米国船舶の武装を禁止す
(十三)米国の武器軍需品製造事業を凡て武器軍需管理局の監督下に置く
(十四)米国船にて中立国への武器軍需運搬を許す、但し南米諸国中交戦国と関係ある国へはこれを許さず
(十五)鉄道その他の陸上便及び内湖航通に依る加奈陀への通商を許す、但し武器軍需は積み込み前に現金にて売買しその所有権は買主に移譲するを要す
(十六)右違反者は五万弗以下の現金及び五箇年以内の重刑罰に処す

と云うのである、以上の新中立法はモトモト欧州の交戦国……と云うよりも寧ろ英仏の両国援助の意味と両国へ米国の軍器や飛行機やその他の軍需品を自由に現金で売らんがためであることは論を俟たぬが向後これがドウ日本に適用されるかは余ほど今より考究するの要があろうと思う、

米国は従来支那にあれだけの大戦役が二箇年有半も続けられていたにも拘らず之を交戦国と宣布せずして今日に至ったのであるから在来の中立法でも自由に武器軍需が買えることになって居た理屈であった、尤もその後日本行き軍用品輸出には可也厳しい手心を加えて今度の新中立法が成立する以前でも屑鉄、棉、重由等を除いて武器殊に軍用飛行機及附属品などは殆ど輸出の許可を与えていなかったのである、

それが今日解禁になったのであるから日本は自由に米国から武器軍需が購入輸出し得るようになったかと云うに必ずしもそうでないらしい、わけて日米の国交関係が今の状態で茲一二箇月のうちに互に無条約国になろうかという場合、米国は恐らく日本行き武器軍需の輸出禁止の手は緩めまいと観られている

武器軍需の解禁と殺到する英仏の註文

今回の対交戦国武器軍需解禁の目的は米国の諸工場に蓄積された飛行機その他の武器弾薬軍需品一切を米国が戦争に引込まれる憂いなしに売り附けて金を儲けようと云うので、表面上は交戦国と云うからには独逸も敵国の英仏両国同様この解禁の利益に均霑して欲するが儘に米国より軍需食糧の供給を受け得る筈であるがそれは唯形式上だけのことで実際は独逸は米国よりの通路大西洋全体を二百五十万トン近い英仏の連合艦隊で完全に封鎖されているから今のところ鉄砲一梃米国輸入は出来ないのである、

その代り英仏の両国は現金さえ払い、自国船または傭入の外国船で持ち行けば無限に米国から武器軍需資材及び食糧を入手することが出来るから今度の新中立法はたしかにドイツのために大害で英仏のためには助けの神であるのである。

ドイツやその同情者等がこの新法案を「偏頗極まるもので中立の意義を蹂躪し米国は事実において英仏の同盟国同様となったのである」と絶叫攻撃したのも当然である、聞くところによるとこの解禁と共に英仏は既に十億弗以上の武器(飛行機共)軍需を米国に註文したと謂われ、その劈頭の大註文は軍用の飛行機であるとしてその一班を示している

軍用飛行機の既約註文は一万五千台

ロサンゼルスよりのプレス製造報に拠ると南加州の各飛行機製造会社は新中立法に依って武器軍需が解禁されると同時に忽ち有りッたけの既製品を積み出しそれから引き続き各社合せて毎月約七百台ずつの飛行機を建造続々と英仏の連合軍へ向け送り出す見込で、既にこれに着手し何万人と云う職工は昼夜兼行の大車輪で働いている模様であるこんな風で軍事消息通の観測では、英仏の両国は結局少くとも一万五千台の軍用機を購入積み出すつもりで既に契約が済んでいるとのことである

その一例を挙げると現にロックヒード会社[Lockheed Corporation]では英本国より二千七百万弗の大註文と、その外に豪州へ向けて出す六百万弗の飛行機の註文を受け居り、更に北米飛行機会社[North American Aviation]では英国から四百機の軍機伝習機と仏国から七百七十五台の各種練習機の註文を受け盛んに製作中である

またダググラス航空会社[Douglas Aircraft Company]ではフランスから註文の元米国陸軍用機とされていた時速三百五十哩の二連成発動機附精鋭無比と謂われている重爆機七百台を急造中で、これが出荷済みとなると又引き続き新註文を引き受けるという勢い、斯くして英仏両国は結局少くとも十億弗の飛行機を米国から購入するだろうと謂われているのである。

前にも言った通り目下米国西部地方の各飛行機会社の総製出能力は毎月七百台といわれ、その中羅府の北米飛行機会社[North American Aviation]は毎月三百台ずつ、ダグラス会社[Douglas Aircraft Company]は二百五十台ずつ、ロックヒード会社[Lockheed Corporation]は百五十台ずつという割になっているのである、

しかしてその機の種類も種々あるが英仏註文の分はカーチス逐撃機、ダグラス戦闘爆撃機、マーチン中型爆撃機、ヴォード、シコロスキー偵察降下爆撃機及び北米型練習機等である(つづく)

写真(右):1943年(?)、アメリカ、メリーランド州(Maryland)州、ボルチモア(Baltimore)、ベツレヘム=フェアフィールド造船所(Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc.)(?)、完成間近い戦時標準船リバティー・シップ:船台に竜骨キールを据え付けてから4日目、船体の底部が出来上がる。ブロック工法なので、部品をクレーンで運搬して繋ぎ合わせるようにして建造する。
Description Lot-3452-4: Biography of a Liberty Ship. In two months after her keel was laid this “Liberty Ship” hull is being cleaned up for her launching ceremony on the morrow. She has been built, from the keel up, of prefabricated sections with a minimum of riveting from prefabricated sections where were built in a specially designed plant. Much time is saved in this method of construction since fitting and fabricating are not done in the somewhat cramped space of the ways. U.S. Office of Emergency Management Photograph. Courtesy of the Library of Congress. (2015/05/06). Date 6 May 2016, 10:12 Source Lot-3452-4 Author National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King in 1938・File:Liberty Ship hull being cleaned up for launching ceremony, WWII (26248526764).jpg引用。


(4) わが聖業を妨害 米 亜細亜市場独占論

船籍移転問題政界で一時問題化

今度米国が中立法を改変して交戦国へ武器軍需の輸出を許可することについて一番頭痛の種となったのは米国の戦禍投入回避のために米国船舶が一切交戦国への貨物運輸及び交戦地域への出入航行を禁止する条項を挿入したことである、
これに依って米国は武器軍需を交戦国へ売ることは出来るが自国の船でこれを運ぶことが出来ずそのため米国の海運界は従来よりも遥に窮屈となり世界中の航海圏を縮小され大打撃を受けることとなったことである、

元来米国議会がこの米国船拘束の条項を挿入し、且つ大統領が指示した戦闘危険地帯へは米国船の出入も禁じ、米国人は一切欧州の交戦国へ旅行することも出来ず又交戦国の船に乗って旅行することも出来なくしたことは前記の如く今度こそは、米国は金輪奈落欧州戦に引き込まれぬという決意を示したもので、 これは前欧州大戦の時英巨船ルシタニヤ号[RMS Lusitania]が[1915年5月7日]独艇[U 20]に撃沈されて多数の米国人が溺死しその後引続きドイツの敵国たる英国の汽船に米国の貨物を積んだり米国人が乗客として英仏国船に乗込んだり、又米国船が連合軍行きの貨物を積載して航行し大西洋上でドイツ潜航艇[U-Boot]のために多数撃沈されてそれが原因となり米国民を激発させて結局米国を参戦せしむるの余儀なくするの先例があるからで、 今度こそはその手を喰わぬと斯く用心のために米国船舶を束縛したのであるが、凡て物事には両面があるものでそのため米国の海運界は前記の如く大打撃を受けなければならぬ様になり 大西洋側でも太平洋側でもその結果繋船するの已むなきに至るのが無数となるの結果となったので全米の船主側から大反対の声が出で一時は議会でも問題化したので遂に前記の如く除外例を設け、両洋の海港中比較的安全の地帯は米国船舶にある制限の下に自由航行を許すこととなったのである、

これが即ち大西洋では子午線以南の南米諸港と太平洋の方では香港新嘉坡その他の東洋及び南洋の英仏諸領へ行く貨物丈けは武器軍需品でないかぎり宜しいと云う除外例を作ったわけである。

しかし夫れでも米国の海運業は大打撃を受けると云うので遂に当路者で種々考慮した結果いよいよ一部米国の船舶を他の中立国に移籍すると云うことを考案しその第一着試験として先ず合衆国海事会社の所有汽船七艘をパナマ国に移籍して見ようと云うことになった。

 しかし、此事に就ては大統領と国務長官ハル氏との間に意見が衝突し大統領ル氏はこれを差支えなしとして一時承認しようとしたが国務長官ハル氏は反対しこれ米国中立法の精神に背反するものであり、法の精神を潜るものであると主張した、この双方の議論で華府の政界では可成賑わったが結局大統領ル氏はハル国務長官の意見に従うこととし右の米国船舶移籍問題は中止となるに至った

大統領第三期問題と新中立法

一九四〇にはいよいよ大統領の改選が行われるのであるがその候補者として共和党からは誰を出す、民主党からは誰を出すかということは今度の戦争勃発前より米国の政界でかなり喧しい問題であった、現大統領の人気は圧倒的で[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]がこの次ぎの大統領候補となれば第三回目であり、米国では国祖ワシントン以来未だ例の無いことでワシントンでさえ「大統領は二期で沢山である」と当時米国人の切望を押し除けてマウントヴァーノンへ引退したという好例もあり爾来歴代の大統領の国祖の遺訓を遵って決して第三回目の大統領には候補に立たなかったのである、

このことでは先代セオドー・ルーズヴェルト[Theodore Roosevelt]氏も試みて失敗した例がある現、故に第三期に、推そうと云う民主党の領袖達も今までは表面現大統領第三期推大統領を戴説を持ち出さずまたル氏自身もこれについてはさらにその意向を表白せず有耶無耶のうちに本年の秋になったが九月に欧州の形勢が急激に悪化しいよいよ大戦が始まったので急に国民の[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]現大統領に信頼する念篤くなり斯る危機に大統領を取り代えるのは「河中で馬を取り換えるのと同じ」だという意義から追々第三期問題という伝統的の妄信的執着心を放れて大部分の国民は今度も現大統領を推戴しようと云う気になって来た

そこへ持って来て今度の戦争で[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]氏は米国を絶対にその渦中に入らしめぬと誓ったので国民も一層安心してこの勢いで行くと一九四〇年の大統領選挙には恐らく現大統領が米国創ってから以来始めての第三期大統領に推されるであろうと云うことは先ず確である、しかし若し現大統領が再選さるれば欧州の戦局、世界の戦局がドウなるかは余ほど考えものである

米国の対日策と大軍備拡張計画

米国が日支事変における日本の行動に慊らず思っているのは、その後日本が着々成功して今や支那大陸平定事業の大半を成就し、これより愈よ東亜の新秩序建設を完成して東洋の覇権を握らんとしているのに少からず警戒疑懼の念を抱くに至った、それとなく所謂「番犬」の役を買ってかかり英国に代って日本抑制の役を務めんとしているのは事実でこれに対する自然必要の陸海軍備を大拡張しようとしているのは掩う可からざる事実である

米国は今米国側から盛んに宣伝されている「日本とロシヤはドイツの支援で英仏が欧州戦争で東洋にかまっている暇がないうちに支那を分割奪取して仕舞わうとしている日本は現在の占領地域と支那全土の海岸線諸港湾を全部我が有としソ連は四川省以西と西北一体の赤化地帯を領有して仕舞わんと云う約定を作り既に着々その実行に移らんとしている……」と云うデマを基礎に前記の軍備大拡張の計画を進めているのは事実と云って過言ではない

米国陸軍拡張と徴兵制度準備

米国民一般は「今度こそは如何なることがあるとも欧州戦争に混入してはならぬ」と言っているがその尻から政府は着々軍備を進めているの事実で過般ニューヨーク・ポースト紙が華府[ワシントンDC]通信員の知り得たところとして伝えたところによると米国はイザと云う場合は今日米国現在の二十一歳から三十歳までの壮丁一千万人のうちから三百万人を抽選で徴募し、その次ぎは十八歳から二十歳迄の壮丁三百万人のうちから二百万人を取り更に最後に三十一歳以上四十五歳迄のもの一千三百万人の内から二百五十万人を取り都合合計七百五十万人を徴集する計画を樹てて居ると。

上記の大計画は勿論米国が他国と開戦した場合とか欧州戦に再参加して交戦国の一となった場合の用意であるが更に近ごろ欧州の形勢日に悪化と共に陸海軍の常備勢力強化論が当路者間に高唱され米国の常備軍を六十万に増加すべしと云う説が可成強くなって来たことも注目に値する、

一方華府よりプレスが齎す報道によると大統領ルーズヴェルト[Franklin Delano Roosevelt]氏は来議会に十七億弗を支出して陸軍の大拡張を断行する案を提出すると云うことであるがその拡張案の内容は米国目下の正規常備軍二十一万を二十二万七千に、国営軍の現在数十九万を二十三万五千に増加し合計四十五万五千を有することとし、これに附随して陸軍空軍は勿論歩、騎、砲、工、機械科部隊の新装備及び要塞防備施設の大強化をはかるというのである

写真(右)1937年8月4日、アメリカ、バージニア州ニューポート(Newport)、就役したばかりのアメリカ海軍航空母艦ヨークタウン(USS Yorktown (CV-5)):起工 1934年5月21日 就役 1937年9月30日。基準排水量 19,800 トン 満載排水量:25,500 トン 全長 251.38 m 艦幅 25.32 m 全幅 33.37 m 吃水 7.90 m 出力 120,000 shp(90MW) 最高速力 32.5 ノット 航続距離 12,500 マイル(15ノット時) 乗員 士官、兵員2,217名 兵装 竣工時 Mk.12 38口径12.7cm単装両用砲8基 12.7mm単装機銃24挺          搭載機 90機
Description English: The U.S. Navy aircraft carrier USS Yorktown (CV-5) tied up at the Newport News Shipbuilding and Dry Dock Company, Newport News, Virginia (USA), 4 August 1937, following sea trials. Date 4 August 1937 Collection Naval History & Heritage Command wikidata:Q3250126 Accession number NH 61507 Source U.S. Navy photo NH 61507
写真はWikimedia Commons , Category:USS Yorktown (CV-5)・File:80-G-K-13972 (24936094135).jpg引用。


さらにまた海軍の人員も現在の十一万より十四万五千に増強しこの外陸戦隊一万八千を二万五千に増員し、現在の海軍力約百六十万トン空軍六千機を増大して海軍力を二百二十万トンの無敵海軍とし、空軍をも八千五百乃至一万機に増加せんとしていると伝えている、

目下米国ではヴインソン海軍拡張案に基く建造中の艦船数が総計一百三艘の多数に上ぼっているが、米国海軍省では来議会に新たに海軍拡張費十三億弗を要求して新計画の戦闘艦[ノースカロナイナ級[North Carolina-class]戦艦]六艘の外に[ヨークタウン級[Yorktown class]航空母艦各種、各型巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等合計九十六艘を建造し、更に二十一艘の補助艦艇と二千五百台の各種飛行機と二十六艘の軍用飛行船を建造するの計画を建てて居ると伝えているのである

写真(右)1941年5月、アメリカ、ニューヨーク沖、就役したばかりのアメリカ海軍戦艦ノースカロライナ(USS North Carolina (BB-55)):1937年8月1日起工、1941年4月9日就役。基準排水量 36,600 トン 満載排水量 44,800 トン 全長 222.11 m 最大幅 33.03 m 吃水 9.64 m 出力 121,000 hp (90,000 KW) 最高速力 28ノット (52 km/h) 航続距離 17,400 マイル (32,320 km) /15ノット 乗員 士官・兵員:1,880名 兵装 45口径40.6cm砲三連砲塔3基9門 38口径12.7cm砲連装砲塔10基20門 28mm対空機銃×60門 50口径機関砲×16門
Description 80-G-K-13972 (Color): USS North Carolina (BB-55). Photographed during her shakedown cruise, May 1941. The battleship is framed by an escorting destroyer's deck, 5"/38 gun barrel and a crewman. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. Date 29 January 2014, 13:45 Source 80-G-K-13972 Author National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons , Category:USS North Carolina (BB-55)・File:80-G-K-13972 (24936094135).jpg引用。


スチムソン 対日経済封鎖? 鉄、油、棉禁輸か

前米国国務長官ステムソン[Henry L. Stimson]に次で現下の米国上院に反日闘将としてその人ありと知られた上院外交委員長キー・ピットマン氏は未だに盛んに日米条約の満期後新議会で対日経済封鎖を宣言し、日本の支那戦役を中止せしめんがために日本の最も要求している重油、鉄、屑鉄、棉花の供給を遮断すべく、同時に生糸その他の日本重要生産品の輸入を禁止す可しなどと主張しているがピットマン氏の外に目下米国の政界及び知識階級のうちには米国はこの際日本と従来の関係を持続して一箇年に三億弗や四億弗の品を売らなくても可いそれよりも米国に取ってモット大切なのは支那の市場である、

米国はこの際東洋における勢権の保持と支那の市場保留のため思い切って日本と断交するに至るほどの犠牲を払ってもよい、この際どこまでも日本に対抗し日本の膨脹とその亜細亜市場の独占を防止せざる可からずと主張する論者が可成多く国民中にこれに賛同しているものが少くないことも大いに留意す可きであろうと思う(完)(支那事変と欧州戦を繞る日米の関係 (1〜4) : 条約・中立法・東洋策・軍備拡張引用終わり)


3.日本のロッキード機

3−1.日本航空輸送株式会社人員徴用の件

写真(右)1938年頃、アメリカ、低空飛行中のアメリカのロッキード14スーパーエレクトラ輸送機(Lockheed : 14 : Super Electra):日本陸軍は高速輸送機が好みで、ロッキード L-14 スーパーエレクトラを1938年に30機輸入した。そして、ロ式輸送機と命名し制式するとともに、立川飛行機に国産化を命じた。ただし、発動機は国産のハ26空冷星型14気筒エンジン(海軍「瑞星」)に換装されている。
Lockheed : 14 : Super Electra Catalog #: 00068240 Manufacturer: LockheedDesignation: 14 Official Nickname: Super Electra Notes:Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


防衛省防衛研究所陸軍省大日記陸支機密・密・普大日記陸支密大日記陸支密大日記昭和13年支受大日記(密)其55 73冊の内 昭和13年自10月5日至10月11日

レファレンスコード C04120570200
陸軍省-陸支密大日記-S13-24-133(防衛省防衛研究所)
作成者名称 陸軍航空本部
資料作成年月日 昭和13年8月15日
組織歴/履歴(日本語) 陸軍省

内容 「空監五九〇」ニテ回答アリ 所還スミ 本件照合ニ対シ回答ナキモ事実ハ@河ニナリアルヤ@了ノ部局アリ承@@@ @@ 航空本部御中 陸軍省受領 陸支密受第八八〇七号 日本航空輸送株式会社人員徴用ノ件

八月十五日 陸支密 照会 次官ヨリ航空局長官ヘ 大本営用トシテ「ロックヒード」[Lockheed L-14 Super Electra]一機日本航空輸送株式会社ニ貸与スルニ付之カ乗務員ヲ同社ヨリ差出相成度照会ス 追テ該人員ハ大本営ノ嘱託ト致スヘキニ付申添フ(アジア歴史資料センター引用終わり)

3−2.「ロックヒード」配属の件回答

防衛省防衛研究所陸軍省大日記陸支機密・密・普大日記陸支密大日記陸支密大日記昭和14年陸支受大日記(密)第17号 1/3 昭和14年自4月15日至4月20日

レファレンスコード C04120822600
陸軍省-陸支密大日記-S14-17-106(防衛省防衛研究所)
作成者名称 陸軍省次官//伊集団参謀長
資料作成年月日 昭和14年2月28日
組織歴/履歴(日本語) 陸軍省

内容 第五五頁 支密第一六七九号
伊集団 「ロックヒード」[L14 スーパーエレクトラ輸送機]配属ノ件回答 (暗電) 陸支密電 次官ヨリ中支派遣軍参謀長ヘ 吉野号代機トシテ大日航「ロックヒード」阿武隈号(BCOY)二十八日空輸ス

陸軍省送達 陸支密電八三 昭和十四年二月二十八日 476 陸軍省受領 陸支密受第一六七九号 至急 昭和一四、二、二一 秘電報 二、二〇、一五、四五発 一七、四五着

伊集参一電五〇八号 次官 次長宛 伊集団参謀長
二月十日頃当軍方面大日航ヨリ新ニ充当セラレタル「ロ」式ブルノ号ハ機体定期検査ノ時機迫リ且脚及発動機ニ欠陥アリテ(アジア歴史資料センター引用終わり)

写真(右)1938年頃、アメリカ、エンジン整備作業中のアメリカのロッキード14スーパーエレクトラ(Lockheed : 14 : Super Electra)輸送機:乗員: 3 乗客: 12 全長: 13.52 m 全幅: 19.97 m 高さ: 3.48 m 翼面積: 51.2 m2 空虚重量: 4,886 kg 全備重量: 7,114 kg 最大離陸重量: 7,955 kg エンジン: Wright SGR-1820-F62 空冷星型レシプロエンジン 760 hp (567 kW) 双発 最大速度: 250 mph (402 km/h) 航続距離: 2,125 mi (3,420 km) 最大上昇高度 24,500 ft (7,649 m) 翼面荷量: 28 lb/ft2 (139 kg/m2)
Lockheed : 14 : Super Electra Catalog #: 00068242 Manufacturer: LockheedDesignation: 14 Official Nickname: Super Electra Notes:Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


3−3.ロックヒード2機帰還の件

防衛省防衛研究所2陸軍省大日記陸支機密・密・普大日記陸支密大日記陸支密大日記昭和15年陸支密大日記 第31号 2/3 昭和15年 レファレンスコード C0412422700 陸軍省-陸支密大日記-S15-93-188(防衛省防衛研究所) 作成者名称 甲集団参謀長 資料作成年月日 昭和15年9月12日
組織歴/履歴(日本語) 陸軍省

内容 陸支密第八六〇二号 「ロックヒード」[L14 スーパーエレクトラ輸送機]二機帰還ノ件 昭和十五年九月十二日 陸支密電 回答 次官ヨリ甲集団参謀長ヘ 方参一電第九九七号返「ロックヒード」[Lockheed L-14 Super Electra]二機九月十一日以降天候ノ快復次第帰還セシム

陸支密電 三四六 970 昭和十五年九月十二日 陸軍省受領
陸支密受第八六〇二号 秘 電報 北京 次官宛 発信者 甲集団参謀長 方参一電第九九七号
北白川宮殿下御帰還ノ為貴地ニ空輸セシ 「ロックヒード」[L14 スーパーエレクトラ輸送機]二機当方機材不足ノ為至急帰還セシル如ク配慮相煩シ度 (終)(アジア歴史資料センター引用終わり)

3−4.第3飛行集団戦闘要報南第1号

写真(右)1944年公開、東宝『加藤隼戦闘隊』に登場した落下傘部隊を空輸する日本陸軍航空隊中島キ34九七式輸送機:中島キ34九七式輸送機は、中島飛行機が開発したAT輸送機の軍用仕様である。
English: Nakajima Ki-34, Airbrne Scene from "Kato hayabusa sento-tai (Colonel Kato's Falcon Squadron)". 日本語: 東宝『加藤隼戦闘隊』(落下傘部隊シーン、九七式輸送機) Date 1944 Source Screenshot Author 東宝 (Toho)
写真はWikimedia Commons , Category:Nakajima AT-2/Ki-34/L1N1・File:Airborne Scene - Kato hayabusa sento-tai 1944 (01) wmplayer 2013-07-17.jpg引用。


防衛省防衛研究所陸軍省大日記陸支機密・密・普大日記陸支密大日記陸支密大日記昭和15年陸支密大日記 第35号 1/2 昭和15年 レファレンスコード C04122453200 陸軍省-陸支密大日記-S15-101-196(防衛省防衛研究所) 資料作成年月日 9月20日 組織歴/履歴(日本語) 陸軍省

内容 軍事極秘 陸軍省受領 陸支密受第九二九三号 第三飛行集団戦闘要報第一号
九月二十日二四〇〇 海口 九月二十日〔晴〕
一、 気象 中支方面ハ概ネ雨所々曇 南支ハ広東方面晴海口ハ晴一時雨

二、集団ノ作戦指導
1、集団司令部ハ本二十日ヨリ海口ニ全身セントシ独立飛行第十八中隊ヲシテ同隊ニ配属中ノ「ロックヒード」[L14 スーパーエレクトラ輸送機]「ダクラス」[DC-2輸送機]各一機ヲ同部隊先発員主力ノ海口前進後集団長ノ直轄タラシムベク部署セリ 又右輸送及紫垣機(集団[中島]AT[輸送機])ヲシテ本二十日以後所定ノ輸送計画ニ基キ集団司令部及び独立飛行第十八中隊先発員ノ一部ノ空輸ニ任ゼシムベク部署セヨ

2、第一飛行団長ヲシテ在広東戦闘隊中6機及所要ノ人員ヲ明9月21日夕迄二海口飛行場二派遣シ同地ノ防空ニ似ンゼシムル共ニ(該隊ハ海口到着後集団長の直轄トス)残余ノ兵力ヲ広東ニ残置シ依然広東ノ防空二任ゼシムべく部署ス
出動延機数−−−直轄60FR広東延出動機数38機−−明日出動可能機数35 明日企図 海口ニ前進

五.損害  独[立]飛[行隊]第84中隊ノ九七式戦闘機(柿崎中尉搭乗)ハ昨[9月]19日 南寧方面ニ於テ敵弾ヲ受ケ柿崎中尉ハ戦死セリ(アジア歴史資料センター引用終わり)

写真(右)1938年頃、アメリカ東部、1934-1936年前半、アメリカのニューヨーク州とカナダのオンタリオ州の国境、ナイアガラ滝(Niagara Falls)の上空を飛行するアメリカン航空(American Airways)所属のダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(製造番号 NC14278):ナイアガラの滝は、三つの滝の総称で、カナダ滝 (落差56m、幅675m、滝壺の深さ55m)、アメリカ滝 (落差58m、幅330m)、 ブライダルベール滝 (落差55m、幅15m)からなっている巨大な滝である。ダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、DC-1の改良型で1934年5月11日に初飛行し、その直後の5月18日にTWAトランスコンチネンタル(Transcontinental & Western Air)(後のトランスワールド)航空に採用された。そして、KLMオランダ航空とパンアメリカン航空(Pan American Airways)が採用を決めた。軍用仕様のC-39輸送機35機も含めて、1934年から1939年にかけて198機が生産された
ダグラス(Douglas DC-2)は、全幅:25.78m 、全長:18.88m、 総重量:8,160kg、ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒エンジン2基搭載、 最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn) at 8,000 ft (2,400 m) 巡行速力Cruise speed: 190 mph (310 km/h, 170 kn) at 8,000 ft (2,400 m) 航続距離Range: 1,000 mi (1,600 km, 870 nmi) 実用上昇限度Service ceiling: 22,450 ft (6,840 m) 上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s) 翼面荷重Wing loading: 19.8 lb/sq ft (97 kg/m2) 出力重量比Power/mass: 0.082 hp/lb (0.135 kW/kg)
Douglas : DC-2 Catalog #: 00065467 Manufacturer: Douglas Designation: DC-2 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1938年8月18日、カナダ、オンタリオ州キングストン、会合した車上のアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)とカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相(1874年12月17日ー1950年7月22日)):後方には、列車の客車が見える。オンタリオ湖の北岸キングストンの鉄道駅は、トロントとオタワの中間にあり、オンタリオ湖南岸はアメリカのニューヨーク州である。
Rt. Hon. W.L. Mackenzie King and President Franklin D. Roosevelt in Kingston, Ontario, Canada Date 18 August 1938 Source Library and Archives Canada under the reproduction reference number PA-052499 and under the MIKAN ID number 3193144
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King and Franklin Delano Roosevelt・File:KingRoosevelt1938.jpg引用。


4.米加共同防衛に見るアメリカの焦躁 : 欧洲大戦第三期の姿
国民新聞 Vol: 第153巻 Page: 51 出版年 1940-08-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336997 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

 独軍の攻撃が愈々猛烈の度を加え、英国がその本土に於て刀折れ矢尽きるようなことになった場合、大英帝国の「抗戦機構」はどこに逃避するだろうか—この問題はすでに憶測を越えて、早晩考えられねばならないことになって来た、その意味に於て世界の眼は等しくカナダに注がれている、殊に欧羅巴の大動揺が大西洋を越えて米大陸に波及し、アメリカ合衆国が上下をあげて自己防衛に異常な焦燥をみせ、最近「米加共同防衛」の手をうつに至ってカナダの存在は俄に大きくなった、その好むと好まざるに拘らず、アメリカ合衆国とともに戦争に巻込まれる方向へ一歩進んだカナダの実状をみよう

写真(右)1939年5月10日、カナダ、オタワ、パーラメントヒル上の国会議事堂、イギリス国王ジョージ6世(King George VI)と王妃エリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン(Queen Elizabeth:Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon)、随伴するカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相:1900年生まれのエリザベスは、1923年にヨーク公アルバートと結婚、1936年にヨーク公アルバートは、ジョージ6世として国王に即位したため王妃となる。1952年に夫が癌で崩御、長女がエリザベス2世 (HM Queen Elizabeth II)として女王に即位したために、エリザベス王太后(HM Queen Elizabeth The Queen Mother) を名乗る。2002年101歳で死去。
Description English: King George VI and Queen Elizabeth at the Centre Block of Parliament during their first visit to Canada, 1939
Date 10 May 1939
Source Library and Archives Canada under the MIKAN ID number 3238945
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King by year・File:King George VI and Queen Elizabeth in Canada 1939.jpg引用。


莫大な戦時物資

 カナダが英国に属しその自治領となったのは一七六三年、それ以来英資本によって着々経済開発が行われて来た、即ち農業にはアメリカと同じ資本主義的大農経営が行われ、その穀物のみでも一九三九年度の小麦生産高は四億八千九百六十二万三千プッシェル、輸出高一億六千万プッシェルを示し、生産高ではアメリカに次ぐ世界第二、輸出高では世界第一位という豪勢ぶりをみせ、英国の食糧庫として重きをなしている

 工鉱業も一九二〇年頃から急速に発度を遂げ、殊にアメリカ系資本の旺盛な活躍によって製粉、製材、製紙の発達目覚しく、特に電力利用の発展はこれを助長した、カナダ工業の最も大きな地位を占めるものは製紙業で一九二八—三九年度における新聞紙輸出高は一億七百三十六万弗(輸出品目中第一位)加うるに最近北欧諸国のパルプ及紙類の連合国及び中立国向け輸出は杜絶状態に陥り、一方アメリカ並びにイギリス本国より続々大量注文があって、カナダ本年度の新聞用紙輸出額はさらに激増するものと予想される

次に鉱山物をみると第一は金で世界産金高の一一・八%を示しまた銅はその産出高において世界第四位、世界生産高の一〇%を供給している、ニッケルは世界生産高の九〇%を産して勿論第一位、亜鉛は世界生産の一〇%鉛は同じく一一%、石油は一九一四年には千三百六十三万八千パレルの産出高が、その後三七年には千五百八十三万六千パレルに増しているなど、英国が戦争を遂行するに必要な物資のかなりの部分は実にカナダに仰ぐというも過言ではないのである [写真(チャーチル英首相)あり 省略]

軍備の現状

UボートVII カナダ政府が独逸に宣戦したのは本国が戦争状態の存在を闡明した一週間後であった、同時にカナダ議会は戦時予算を可決し一日平均百万弗の戦費を支出し陸軍は昨年末救援軍二万人を本国へ送ったのを手始めに、二陣三陣と相次いで欧洲の戦野に送り、他方海軍は戦前駆逐艦七隻掃海艇五隻、その他四隻という微々たるものであったが、昨年十月には駆逐艦六隻、掃海艇四隻を補強し、四十隻に上る商船を徴発、又新規三十八隻に上る 潜水艦防御艇及び飛行機救助艇を注文した事実がある、

更に空軍には最も力瘤を入れ、今や母国空軍の劣勢を補うべくカナダ各地の飛行場には日夜飛行士養成の猛訓練が行われ、次から次へと新航空機製造工場が建設されつつあり、向う三年間に大量の飛行士を養成すべく六億弗の予算を計上したが、これら飛行士養成及び航空機製造のスピード化を計らんがため国防省より空軍省が分離せられるに至った航空機製作の方も活発で、その製造高は本年度に一千二十八台四一年度は一千五百八十五台と予想されている [写真(ルーズヴェルト米大統領)あり 省略]

写真(右)1941年、アメリカ参戦前、イギリス、ロンドンで会合したイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill)とカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相の握手:イギリス・ドミニオンのカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦は、イギリスと同時にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。イギリス・ドミニオンとは、イギリス国王を抱くイギリスの自治領という意味である。 Rt. Hon. Winston Churchill welcoming Rt. Hon. W.L. Mackenzie King to London Date 1941 Source Library and Archives Canada reference number C-047565 and under the MIKAN ID number 3624640
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King in 1941 ・File:ChurchillKing1941.jpg引用。


カナダの米依存

 次にカナダの国際地位だが、カナダは英国植民地中でも一、二を争う大自治領であるとは言い条、アメリカ合衆国と地続きに隣接しているため、経済的には英本国よりもアメリカに密接不可離な関係を有し、カナダの外国貿易に於てアメリカはイギリスを圧えて断然第一位を示している、而して最近のカナダ工業の発達は寧ろアメリカ資本の援助によって成されたことが明瞭で、一九三七年現在アメリカのカナダに於ける投下資本は三十八億三千二百四十万弗と見積られ、イギリス資本を遥に凌駕し而もその大部分が直接投資である、

かくてカナダ主要生産部面の大部分が米系会社によって支配せられているため、カナダの経済はある程度までアメリカの掌中に収められていると言ってよいばかりか、大部分米系資本によって経営されているカナダ自動車工場の中には今や航空機製造、戦車製造工場に変らんとするものもあり、アメリカはカナダの戦時経済に全面的協力を行っている [写真(マッケンジー・キング[Mackenzie King]加首相)あり 省略]

米の下風に立つ

従ってアメリカはカナダの安全に就ては寧ろ英国以上に神経を尖らし、一九三八年[フランクリン]ルーズヴェルト大統領はカナダの領土保安に関して「アメリカはこれを保護する義務がある」と声明している、今回の米加共同防衛策はその実践であり、強化であると見ることも出来よう、今後の問題としてイギリス政府が対独戦に惨敗を喫して万一カナダに遁入するようになれば、アメリカとしてはその時こそ好むと好まざるとに拘らず参戦を余議なくせられるであろうし、また英国としては、カナダ遁入こそ事実に於いて欧洲で独に降伏したことになり、然も大陸ではアメリカの下風に立ち、その支配を受けざるを得ないことになるのである(米加共同防衛に見るアメリカの焦躁 : 欧洲大戦第三期の姿


写真(右)1939年1月、イタリア王国、ローマ、オペラに招待されたイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)、招待したイタリア統領ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)。隣は、イギリス外務大臣ハリファックス卿(Lord Halifax)、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ伯(Count Gian Galeazzo Ciano):前年1938年にミュンヘン会談で顔を合わせており、当時は世界戦争から欧州を救った立役者とみなされていた。
English: Neville Chamberlain, Benito Mussolini, Lord Halifax, and Count Ciano at the Opera of Rome, January 1939. Date 7 April 2014, 00:46:04 Source Unknown source Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Edward Wood, 1st Earl of Halifax File:Mussolini and Chamberlain in Rome 1939.jpg引用。


5.米国の反省なくば最悪の事態へ驀進 : 三国同盟と米国の動向 : ビルマ援蒋路再開が問題
神戸新聞 Vol: 第154巻 Page: 176 出版年 1940-10-04
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335438 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

Ribbentrop [1940年9月27日近衛文麿首相時、]日独伊三国同盟[Tripartite Pact]の日米国交に及ぼした影響については大体二通りの見方があるようである。

その一つは対日戦備が未だ不十分であるアメリカは[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の結果、対日攻勢を執る場合の条件を著るしく悪くしたから遠き将来は別として目下のところ急に起つようなことはないだろうという楽観的な見方であり、他の一つの見解は米国は日本に対して直接軍事的攻勢を執ることはないにしても経済的、外交的その他あらゆる手段によって、対日圧迫を強化することは必至の勢にある。而してこれに対する我国の忍耐にも限度があるから近き将来において日米関係は極度に緊張するだろうという注目すべき意見である。

この一週間に於ける米国輿論の動向を分析すると右の二つの観測はともに一面の真相を掴んでおり、現在の所米国の対日態度緩和の可能性が五分、日米国交が最悪の事態に陥る可能性が五分というのが、最も正しい見方であるといえよう。併しながらこのバランスは米国の出方一つで何れの方向にも傾くが、最近の動向は米国民間輿論の平静化に似ず最悪の道程を急ぎつつある事実は否めない。即ち当面の事態に於て米国の対日圧迫の手段として数えられるものは

一、英濠と提携しシンガポール軍港の共同使用によって蘭印に対する睨みを利かせ、日本の蘭印進出を抑える
二、経済圧迫を強化し鉄、石油等の禁輸を拡張する反面、援蒋を強化して日本に対する経済封鎖を行う
三、ソ連と握手し日本に対する挟撃態勢をつくる

等であるが、このうち第三のソ連との提携は通商関係の改善工作など頻に策動を続けているが、[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の締結は寧ろ日独伊枢軸とソ連とを接近せしめる結果となり、米国の対日圧迫陣の一角は先ずこの方面で崩れている。だが、第一と、第二の方法は一層強化促進される形勢にある。

即ちシンガポールの共同使用についてはロシアン駐米英大使の画策によって、殆ど英米間に諒解が成立した模様であり、濠洲空軍勢力のシンガポール移駐の事実と対比してもはや必至の情勢にある。

何故ならば米国が対日圧迫の第三手段として採るべき援蒋行為を有効ならしめる為にはシ軍港の強化確保が絶対必要であるからである。併しながら現段階に於て英米がかくの如き手段を採ることは明かに対日挑戦を意味するものであり、我国としては断じて承服し得ざる所である次に対日経済圧迫手段として米国は過日屑鉄の禁輸を行ったが、これは[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の締結を予知した上での行動で今後更にこれを強化し石油にも及ばんとしている若しこれが実現する場合事実上の対日国交断絶を意味するものであるが、より以上注目すべき事実はビルマ・ルート再開の画策である。

これに対しては米国が英国に向って特に強く要求し英国また米国をして欧洲戦争に参加せしめんがためにこれに応ぜんとする形勢は最早避け難い情勢である。而して国を賭して戦いつつあるわが国の面前においてかくの如き露骨なる適性行為を繰返すことは我国の絶対許容し難いところであり、若し敢て行わんとするに於ては事態は急速度に最悪の段階へ突進する。要するに日米国交が最も不幸なる状態に置かるるか否かは一に今後における米国の出方如何にあるが、その運命を卜する時期はビルマ・ルート禁絶期間満了の十月十八日前後であろう。 (米国の反省なくば最悪の事態へ驀進 : 三国同盟と米国の動向 : ビルマ援蒋路再開が問題引用終わり)

Ciano 詔書
大義ヲ八紘ニ宣揚シ抻輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス朕ハ禍乱ノ戡定平和ノ克服ノ一日モ速ナランコトニ●念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌ブ所ナリ

惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ昿古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ

御名御璽    昭和十五年九月二十七日 各国務大臣副署

外務省発表(昭和十五年九月二十七日午後九時十五分) 日独伊三国間に本二十七日ベルリンにおいて左記要旨の三国条約締結せられたり

國(右):1938年、日独伊防共協定を反映した三国友好「仲よし三國」の絵葉書ポストカード;1936年11月25日、ソ連を中心にした共産主義者、コミンテルンによる赤化を防ぐために、情報交換、破壊工作壊滅を企図して、日独防共協定(共産「インターナショナル」ニ対スル協定)が締結された。これは、1937年にコミンテルン第7回大会で、人民戦線(民族統一戦線)を各国に結成し、反ファシズム活動を強化することが唱えられたこと、1936年以来のスペイン内戦、中国での反日活動などが念頭にあった。
ただし、1936年(昭和11年)3月9日〜1937年(昭和12年)2月2日の首相廣田弘毅は、1935年の梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を引き継いで、着実に中国大陸への日本勢力拡大を中国国民政府に認めさせ、満州の権益確立を黙認させていたので、中国における共産党の赤化は食い止められると考えていたようだ。とすれば、日本にとっては、ソ連が主たる仮想敵ということになる。
1937年11月、イタリアが加盟し、日独伊防共協定となった。三国防共協定となった。1939年、ハンガリー、満州国、スペインも加盟した。しかし、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたために、防共協定は空文化し、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻によって、ふたたび反共十字軍が唱えられ、1941年11月25日、防共協定の強化が図られた。対ソ戦に義勇兵を派遣するために、ブルガリア、フィンランド、ルーマニア、ドイツ傀儡スロバキア、ドイツ傀儡クロアチア、ドイツ占領下デンマーク、日本傀儡中華民国汪兆銘政権も加盟した。
Description 日本語: 1938年のプロパガンダ葉書”仲よし三國 Date 1938 Source アップロード者所蔵の葉書
写真はWikimedia Commons, Category:Maps showing the aftermath of World War File:Naka yoshi sangoku.jpg引用。


日本国、独逸国及伊太利国間三国条約要旨

大日本帝国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は万邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜および欧州の地域に於て各其の地域における当該民族の共存共栄の実をあぐるに足るべき新秩序を建設しかつこれを維持せんことを根本義となし右地域においてこの趣旨に拠れる努力に付き相互に提携しかつ協力することに決意せり、しかして三国政府はさらに世界到る所において同様の努力をなさんとする諸国に対し協力を吝まざるものにしてかくして世界平和に対する三国窮極の抱負を実現せんことを欲す、依って日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府は左の通り協定せり

近衛文麿 相互援助を規定 期限十年混合委員会設置 条約全文

第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつ之を尊重す

第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に本づく努力につき相互に協力すべきことを約すさらに三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助すべきことを約す

第四条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府により任命せらるべき委員よりなる混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす

第五条 日本国、独逸国、伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴエト連邦との間に現存する政治的状態になんらの影響をもおよぼさざるものなることを確認す

第六条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす

右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に本づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし


写真(上):1940年9月27日、ドイツ、ベルリン、日独伊三国[軍事]同盟条約(Tripartite Pact)調印式に参加した日本特命全権来栖三郎大使、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー、演説するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)
:来栖三郎(くるす さぶろう:188日 -1954)は駐ドイツ特命全権大使として三国同盟に調印したが、翌1941年にはアメリカに特命全権大使として派遣され、野村大使とともに日米交渉を取り仕切った。アメリカの嫌悪する三国同盟調印者を日米交渉全権に任命する日本外務省の「とんでも外交」は、ソ連に太平洋戦争講和仲介を依頼することで繰り返される。もし三国同盟に外務省が反対していたと抗弁するなら、平和・天皇のために命がけで阻止した人物は皆無ということだ。
Description Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact; seated at front left (left to right) are Japan's Ambassador Saburō Kurusu (leaning forward), Italy's Minister of Foreign Affairs Galeazzo Ciano and Germany's Führer Adolf Hitler (slumping in his chair). Date 1940 Author Heinrich Hoffman
写真はWikimedia Commons, Category:Heinrich Hoffmann in NARA public domain images File:Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact;.jpg引用。



写真(右)1938年7月12日、アメリカ、ワシントンDC、スウェーデン王族のグスタフ・アドルフ[56歳](Gustaf Adolf :1882-1973)王太子を迎えたアメリカ国務長官コーデル・ハル[67歳](Cordell Hull:1871-1955):グスタフ王大子の妻は、コノート公アーサー(ヴィクトリア女王三男)の娘マルガレータでともにイギリス名家の出身。だが、1920年に死去。である。2人の間にはグスタフ・アドルフをはじめ5児が生まれるが、1920年にマルガレータは薨去した。後妻は1923年結婚のミルフォード=ヘイブン侯ルイス・アレグザンダー・マウントバッテンの娘で、ルイス・フランシス・マウントバッテン卿の姉並びにエディンバラ公フィリップの叔母に当たるルイーズと再婚する。1950年10月にグスタフ6世アドルフ(Gustaf VI Adolf)として王位に就いた。
English: nglish: Title: Crown Prince meets Sec. of State Hull. Washington, D.C., July 12. Sec. of State Cordell Hull, left; with Crown Prince Gustaf Adolf of Sweden, snapped as the left the dining room of the Carlton Hotel, where Mrs. Hull entertained for the royal couple, the Prince is traveling incognito while in this country, 7/12/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 12 July 1938 Source Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Crown Prince Gustaf Adolf meets Sec. of State Cordell Hull. LCCN2016873797.jpg引用。


6.米の極東対日攻勢 (上・下)
大阪毎日新聞 Vol: 第155巻 Page: 49 出版年 1940-11-01/1940-11-02
Claire Lee Chennault https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337102 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

(上) 大東亜共栄圏の我指導的地位に挑戦 強いて強調"事態切迫"

[写真あり 省略] 【上海本社特電三十一日発】ブルーの擬装色に塗りあげられた米国汽船があわただしい風雲を孕んで近く上海に入港する、国務省の指令をうけて極東在留婦女子を本国に避難せしめんとする戦時御用船だ、英米両国艦隊の極東共同防備についての秘密会談が上海で行われた、

米国軍需品が援蒋物資[蔣介石支援物資]にカムフラージュされ太平洋の波を蹴ってマニラに、ラングーンに、今や東洋の英米植民地には武器が、ガソリンが、 [カーチスP 40など]飛行機がうず高く積まれた、シンガポール、香港にも米国軍将校が乗りこんだ等々、挙げれば限りなき奇怪な事実が米国の対日戦備に多大の疑惑を持たせつつ極東の天地に、あるいはひそかにあるいは公然と展開されつつある、

日独伊三国条約[Tripartite Pact]締結後僅か一ヶ月にして米国の極東政策が、あらゆる刺戟的大勢のもとに極度に悪化したことは国務省の発言をまつまでもなくこれ等事実が歴然と証明しているのである、

写真(右)1940年、アメリカ国務長官コーデル・ハル;1933年から1944年までアメリカ合衆国国務長官を11年9ヶ月務めた。1944年11月に健康問題で国務長官を辞任した。1945年、国連創設など国際平和への貢献でノーベル平和賞の受賞した「国際連合の父」。
[Cordell Hull]Contributor Names Harris & Ewing, photographer Created / Published [ca. 1940] Subject Headings - United States--District of Columbia--Washington (D.C.) Format Headings Glass negatives.
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-H22-D- 8495 [P&P]引用。


[コーデル・]ハル[Cordell Hull]国務長官の東洋政策が果して何を求めんとするのか、極東においてかつてなき積極的態度は重慶[蒋介石]政権[Chong-qing zheng-fu]を露骨に支持し日本の東亜共栄圏における指導的地位にあくまで挑戦妨害せんために外交、政治、経済、軍事などそのことごとくの部門を集約してとられつつあるやに感ぜられる、対日恐怖心からか独自の優越感が許さぬのか、とも角表現された事実がすべての威嚇の度がすぎて戦争への奔騰の勢いを示している。

 極端に見るならば大統領選挙を目睫に控えた米国政府が輿論の刺戟に狂奔し[日独伊]三国条約は対米攻勢のスタートであり極東における日本の軍事政治行動が対米挑戦であるかの如く幻想し、米国を挙げて戦争の渦中に引入れんとしているのだというものもある

 その証拠に米国の在支居留民が果して本国政府の引揚げ勧告を現実感をもって受取ったであろうか、上海在住の米国商社が日本の大陸政策に対してそれほど逼迫感をもっているであろうか、事実は米国政府の想定を否定するものばかりである、

日本が日独伊[三国同盟]条約の締結に論なく対日作戦準備と極東における生存権の確保を国策の最大目標としているのが米国の生存権とどこが抵触するのであるか、日米間には政治的手段によって解決されないものが毫もないはずである、しかし極東の事態は米国政府の作戦を前提とするかの如き極めて周密な政策の下に立つ英米共同の対日歩調がより否応なく激化の一路を辿らんととしているのである

以下極東における米国が現にとりつつある対日作戦準備として否定し得ざる事実を指摘して誤れる米国の極東政策の動向を厳正に検討しよう。

蒋介石 一、[日独伊]三国同盟成立後米国政府は英国に対してビルマ援蒋路の再開を強要するとともに在支米人の一部引揚げ勧告を発して極東への積極的関心を対日攻勢に示した、十月中旬政府の命により米本国およびハワイを出帆したマンハッタン、モントレー、マリポサ、ワシントンの四隻大型船舶は在支米人引揚げ用として一路上海に急航しつつあり、その第一船は二日上海到着の予定である、二十万の在米居留民を有する日本政府が何らの具体的対米策を講ぜざるに先立ち極東在住者一万名に達せざる米国政府がかかる刺戟的手段を敢えてしたことは、引揚げの直接米国の対日禁輸を強化せんとすることにあるはもちろん、さらに進んで米当局の対日外交の恫喝政策が今や(戦争にならざる)範囲を逸脱し対日戦争を挑発しつつあるものといわねばならぬ、

米国政府の極東居留民引揚げ勧告は一時米国居留民に興奮を与えたが実業家の間には権益保存の立場からこの際むしろ出来得る限り踏み止まるべしとの空気が濃くなって来た、また英国側においては上海の英国商業会議所会頭コルダー・マーシャル氏の如き英国経済人は極東における敵国との経済戦を通じて祖国を援助せよとラヂオ放送をしている

 この趨勢は英米が東亜において有する貿易機構と海運力を最後まで維持しつつ万一の場合これにものをいわせようとする両国の政策を強く反映せらしめられているものである

現在のところ上海の英米側財界は日米戦の可能性については多分の疑惑をもちもし起るとしてもまだ近き将来にあらずと見る向きが多く、一部事変のため事業の停頓したものは強硬論を唱えているが現地全般の空気は決して積極的ではない、しかるに米当局は立ち渋る居留民を鞭撻するため引揚げの再勧告を行い政府の意をうけた上海米国商業会議所は三週間以上の長期にわたる商取引をなさざるよう警告を発するなど強いて対日空気の切迫を強調しつつある、かかる空気を反映して上海為替市場をはじめ商取引の上に日米戦の危機が織り込まれつつある、法幣[Fa pi]の対米相場が遂に六ドルを突破して強調を示しているのは支那側財界に米ドル不安が昂まりつつある証左であり、感受性の鋭い支那商人は最近とみに対米国商取引契約に対して警戒を払いこれを漸次短期化する傾向が強く、支那財界における最近の換物運動の再燃、わが軍票買いなどもこれを物語るものである

図(右)1938年頃、中国、中華民国空軍を創設した中華民国総統蒋介石と夫人の宋美齢:複葉戦闘機のアクロバット飛行で「寿」の祝いの文字を空中に描き、その下を新生中国空軍機が大編隊で飛行している。宋美齢は、祝いの花束を手にしご満喫である。空軍創設には、アメリカの大学教育を受け、英語に堪能で外交にも秀でていた宋美齢の力によるところが大きかった。
chinese characters in celebration of gen chiang kai-shek birthday pre-wwii artist yssato see notes section pictionid61935752 - titlechinese characters in celebration of gen Chiang Kai-Shek birthday pre-WWII artist Yssato see notes section - catalog041504 say 001cropped - filenamechinese characters in celebration of gen chiang kai-shek birthday pre-wwii artist yssato see notes section - chinese characters in celebration of gen chiang kai-shek birthday pre-wwii artist yssato see notes section -Image from the SDASM Curatorial Collection.Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


二、さらに在支米国駐屯軍の動向も蔑視すべからざるものがある、すなわち在支駐屯軍に対してはすでに極秘裏に引揚げ準備の指令が発せられたものの如くその実証として去る十三日には急速に在支駐屯地より引揚げ得るようあらかじめ船会社との連絡をとるべしという命令が到達したといわれており、すでに輸送船ゴールド・スター号が上海に入港、待機している事実が挙げられる、また在上海第四マリンの将校中[上海]仏租界居住者は同租界を引揚げ、膠州路、西摩路、ハイフォン路に囲まれた地区に移転すべき指令が発せられた

 一方においてマリン[United States Marine Corps]の戦闘訓練も猛烈に行われ、米アジヤ艦隊[United States Asiatic Fleet]主力はマニラに集結を完了した今や極東米海軍は完全に開戦気構えに入っているのである

三、米国はビルマ路線[援蒋ルート]再開とともに対蒋二千五百万米ドル借款を発表したが、その後続々追加新借款を供与するとの報が伝えられている、従来米国の[1941年武器貸与法による]対蒋借款の内容は支那土産と軍需資材のバーターによる商業借款といわれているが、わが徹底的援蒋路の遮断のため早くよりこの種バーターは事実上評価不可能に陥っており、またビルマ路再開ぐらいではほとんど問題にならぬことは明かである、いわんや同路線はわが海鷲の爆撃によって早くも半身不随の状態に陥っているのである、しかもなお[対蒋介石]新借款を与えんとする米国の政策は奇怪極まるものというべくその狙うところは援蒋にあらずしてほかにある(続く)=カット写真は上海租界バンド

写真(右)1937-1939年、中国、浙江省杭州、中華民国空軍用に建設された中央杭州飛機製造廠(Central Aircraft Manufacturing Company)を視察する中華民国総統蒋介石と航空機生産を指導したアメリカ人技師のジョージ・アーノルド(George Arnold)
AL23 George Arnold Photo_000042 George B. Arnold (1893 – 1956) served as vice president and general manager of Central Aircraft Manufacturing Company in China, then as an associate with Curtiss-Wright in Buffalo and in China. Photograph dates range from 1934-1939. In 1937, George Arnold was in Shien Chaio, China to build the aircraft factory.
写真は、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


(下) 米支同盟の締結へ 援蒋政策強化に盲進

【上海本社特電一日発】米国が援蒋借款を与えることによって真に狙っているものは何であるか、伝えられるところによればソ連の対蒋軍需品借款によってもたらされた対重慶貸越しの決済とソ連の米国機材ならびに石油輸入資金の増大を機とし米ソ支三角的資金関係の設定を通じて対日牽制を主要目的とするとの見解が行われている、他方援蒋借款資材に名を藉りて米国からラングーン、マニラあるいは香港に続々陸揚げされている軍需資材は援蒋に擬装せる米国自身の極東資材である、しかもこれら武器、ガソリン、飛行機はビルマ路再開の数ヶ月前から輸送量が加速度的に増大している事実は注目に値する、援蒋物資の堆積地は米国対日作戦地だ

四、最近宋子文が米国において輸入せりという大型戦闘機百台をはじめ戦車、自動車、装甲自動車が千百台、高射砲、大砲数百門がラングーンに直送されず、マニラに山積しており、また米国がスウェーデンと契約せる[セバスキー(Seversky)P-35]単座追撃機六十機、[ノースロップ(Northrop)A-17]単座爆撃機五十機はその契約を破毀してマニラに集結された、さらにマニラ飛行機修理工場を拡大して四工場とし、秘かに工作機械を持ちこんで組立工場、製作工場をも新設するに至りマニラ飛行隊の独立性が確立された、これとともに米国飛行将校が大部隊増遣されている模様だ。

 すでにミシガン州セルフリッジおよびカリフォルニヤ州ハミルトンにあった陸軍追撃機隊二個中隊がフィリッピンに移駐し武器弾薬の輸送量も増大した、今やフィリッピンは一億七千万ペソに達する厖大予算を編成して完全に戦時態勢に入った観がある、かかる動きに呼応して最近フィリッピン東海岸のレガスピ[Legazpi]港が注目されはじめた、同港は極東における軍事物資の蒐集の基点たるものの如くシンガポールより南洋一帯から購入された多数の船舶は同港に集り、改修擬装の上軍事輸送に使用されている模様で各国から購入された船舶は百五十隻に達している、

一方シンガポールにおいても同様軍需品倉庫を増設して米国より機関銃、高射砲などを送っているが、殊に注目すべきは濠洲方面よりの動きである、すなわち過般濠洲政府およびニュージーランド政庁が軍需品生産増進令を布告して戦時態勢を強化し空軍の一部動員をしてシンガポールに移動せしめた事実があり、近くラングーンにも濠洲の空軍部隊が到着の予定だといわれており、英米協同作戦の態勢は着々進行しつつありといわざるを得ない

また注目されるのは援蒋物資輸送路と称してシンガポールからケープタウン経由ニューヨーク航路が開設されたことで、米国の南洋基地が如何に周密な計画の下に本国に連絡されつつあるかが窺われる南太平洋航路が遮断されてもシンガポールの存立性をこれによって確保しようというのだ、ビルマ路が英国によって再開された

 裏面には英米間に極東防衛に関する緊密な取極めが出来ている、その最も大なるものはシンガポール、香港の軍事的基地を米国に提供していることである

写真(右)1943年8月19日、カナダ、ケベックのシタデル(La Citadelle)、第1回ケベック会談(コードネーム“QUADRANT”)で歓談するアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)と第16代カナダ総督初代アスローン伯アレキサンダー・ケンブリッジ(Alexander Cambridge)中将、後方はカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相(1874年12月17日ー1950年7月22日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill):フランス侵攻「オーバーロード作戦」、ドイツ本土空襲、イタリア本土侵攻、中華民国へのビルマ公路・ヒマラヤ山脈ハンプ越え空路による援蒋ルート確保が決定されたの実施決定された。
English: Political leaders gather for a portrait atop the Citadel of Quebec during the second Quebec Conference in Quebec, Canada, on August 19, 1943. Clockwise, from top-left are: Canadian Prime Minister Mackenzie King; Prime Minister Winston Churchill; the Earl of Athlone, Governor General of Canada; and President Franklin D. Roosevelt. (AP Photo/stf) Date 19 August 1943 Author Montreal Gazette
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King and Franklin Delano Roosevelt・File:KingRooseveltChurchill.jpg引用。


五、米国がその奇怪なる軍事計画とともに外交的に対日包囲計画[ABCD line]をとっていることは南洋一帯における英国およびオランダ植民地に対して自由行動をとり得る事実に見ても明かであるが、最近の日蘭印交渉の如きは如実にこれを物語るものである、同交渉が必ずしも円滑に運ばざるは蘭印当局に対する英米の使嗾によるもので、蘭印の態度が米国の対日決意の如何によって左右されているものともいわねばならない

 すなわち実力的に英米が共同防衛に出ることによって東亜共栄圏における蘭印本来の地位が蹂躪され、その英米依存性が強化されるのである、また経済的には日本の求めんとするガソリンを英国が購入の保証を与えることによって日本の合理的経済交渉を無視することが出来る、かかる英米の巧妙な外交戦術は一方において南洋一円の空気をあくまで旧秩序圏内に巻き込まんとしているが地方において重要視されるのは米国がその援蒋政策米支同盟の成立にまで強化せんとしていることである、

ジョンソン[Alexis Johnson]駐支大使が今年夏ワシントンの秘密命令を受けて帰任以来重慶に止まって蒋介石と折衝しつつあるのは主として米支同盟についてであり、日米開戦の直前においてこれが調印を行い重慶[政府]をしてあくまで対日抗戦の意図を強化せしめんというのが米国の狙いである。

かかる動きは援蒋物資は名目にすぎず実は対日開戦を目ざしてシンガポール、マニラ、ラングーン[ビルマ]、香港を連ねる東南アジヤの防衛線を要塞化しアラスカ、サンディエゴ、ハワイ[真珠湾]ミッドウェー[Midway]より南方に連なる対日封鎖線を強化せんとするにある、しかしてその対日攻撃の空軍前進基地をマニラ[Nichols Field]におかんとするもののごとく、マニラに現在米空軍の誇りとする長距離ボーイング[B-17]機を百五十機乃至百七十機を備え、またハワイには同型機が百機待機しており、マニラまで二日間で飛翔することが出来る、また右ボーイング[B-17]機の性能は極秘とされているがマニラ、東京間往復は完全に可能なりといわれている、

しかして艦隊の動きとしては昨年初期より間断なく本国サンディエゴ軍港[Naval Base San Diego]ハワイ真珠湾附近よりマニラ方面に航空母艦[aircraft carrier]、巡洋艦、潜水艦を輸送しており、フィリッピンを中心に集結せる艦隊は相当の数にのぼるものと推定され右艦隊ならびにホノルルに集結中の主力艦隊を合するならば[米国連合艦隊(United States Navy Fleets)]の三分の二が対日攻撃の態勢に入りつつあるものと見るべきであろう、かくして米国政府は対内政策と対日恫喝政策に没入した結果自ら「予期せざる危険区域」に踏みこまんとしているのである(米の極東対日攻勢 (上・下)引用終わり)

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。


7.蒋介石国民党重慶政権への列国支援

写真(右)1937年以前、中国、閻錫山(Yan Xishan:えん しゃくざん;1883-1960)字伯川:山西省代州五台県地主の出身で1907年(光緒30年)7月に日本留学、東京振武学校(士官学校の予備校)、て陸軍士官学校で学ぶ。日本留学中に孫文の知遇を得て中国同盟会に加盟。、1911年(宣統3年)の辛亥革命で山西省で挙兵、袁世凱を擁く中華民国が樹立され、1912年(民国元年)、山西都督に就任。1925年に張作霖・呉佩孚と連合して馮玉祥を裏切った。1927年、国民党政権から国民革命軍第3集団軍総司令に任命された。1941年、日中戦争の激化に伴い、日本軍と停戦し自己保身を図った。1946年の国共内戦で、共産軍に攻撃され、山西省を脱出、台湾に逃亡。
Description 中文:阎锡山 Date before 1937 Source blog.sina.com.cn Author Unknown author.
写真はWikimedia Commons,Category:Yan Xishan File:Yan Xishan8.jpg引用。


7−1.欧米の参謀本部 : 重慶、益々他力本願
大阪毎日新聞 Vol: 第 51巻 Page: 55 出版年 1941-02-26
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100339511

【香港本社特電二十五日発】昨今の重慶は民主主義国の極東における戦線の総参謀本部と化した観があり、さきには英国側はカー大使、テニュース少将らがわざわざ香港からスミス長官を呼寄せて重慶政府と何ごとかを密議し、昨今では米国側はジョンソン大使を中心にカリー特使、デスプレス経済専門家その他が集合して単に支那の経済問題のみならず、今後極東の危機に備えるため重慶側より重要対策を提議し殊に過日ワシントン誕生日における米支両国の親交関係はいやがうえにも高潮され、カリー特使は帰米後重慶政府のためにさらに積極的に援助を惜まざることを暗々裏に誓約した

 またソ連との関係も二十三日ソ連の赤軍建軍記念日にはパニューシキン大使、大使館駐在武官チューヨフ中将を中心に大々的に記念祝賀会がソ連大使館側で開催され、蒋介石も出席、約一時間にわたりソ連側の高官らと歓をつくして孫科は中ソ文化協会の名でスターリンに宛てて「貴国赤軍創立二十三年記念日にあたって余は謹んで支那全国会員を代表して祝賀の敬意を表すると同時に、貴国が世界の平和のために努力され、日本の侵略に対してわが民族の反抗と提携、邁進されんことを乞う」と打電しさらに確聞するところによれば重慶は今後ビルマ路を通じてビルマ、マレー各方面に対してもともに重要な対策とることに決定したと伝えられ、英米ソ三国にとり囲まれた重慶政府の太平洋問題に関する今後の態度は極度に注目を惹いている

駐支英大使近く上海へ

【上海二十五日発同盟】重慶UP電によれば重慶滞在中のカー駐支英大使は二十五日空路香港に向い今月未ごろ香港より来滬することとなった

重慶八中全会 来月十八日開く

【香港二十五日発同盟】確報によれば重慶側国民党は三月十八日八中全会開催に決し各地委員に重慶集合方を通達した、この会議で現下の内外情勢に対処する重慶側各重要方策を決定するが特に国共関係に関する処置は注目されている

新四軍の復活拒否 国共妥協完全に失敗

【香港二十五日発同盟】重慶よりの情報によれば軍事委員会は委員長蒋介石の名で第一戦区衛立煌、第二戦区閻錫山、第三戦区顧祝同各司令長官および蒋鼎文、朱紹良、李品仙、于学忠らの中北支前線将領に対し今後新四軍の復活は絶対に認めず、その名称を用いる部隊は抗命部隊と看做し敵軍同様の取扱をなすべき旨を通令した

 重慶側がかかる命令を発したのはさきに蒋介石が第十八集団軍参謀長葉剣英を通じて延安側に妥協提案をしたが延安側はこれを拒否し、さらに中支で公然と新四軍の再建をはかり安徽省では項英、陳毅、羅炳輝、張鼎●らの新四軍部隊は李品仙の重慶軍に対し盛んに挑戦行動に出でることによるものである

今回の重慶側の処置によって国共妥協の前提として新四軍復活を要求しつつある中共との折衝は完全に失敗に帰したことが明白となった、延安側は重慶よりの妥協申込を一蹴すると同時に今後国共両軍間の長期にわたる対峙状態が来るものと予想し各措置を進めつつある結果各地で大小の衝突が頻発している

韓徳勤の部下帰順

【蘇北○○二十五日発同盟】蘇北地区における韓徳勤の圧制に塗炭の苦を嘗める住民の困憊を見るに忍びず第八十九軍の連長孫大尉は部下五百名を率い興化入城のわが林田部隊に投降して来た(欧米の参謀本部 : 重慶、益々他力本願引用終わり)


写真(右)1937年、中国、浙江省杭州、筧橋中央航校(のちの中央空軍軍官学校)上空を飛行する中華民国空軍カーチス・ホークII(Curtiss Hawk II)戦闘機:青天白日の中国国籍マークを描いている。
English: Curtiss Hawk II in Chinese service 中文:霍克II戰鬥機於筧橋中央航校上空 Date 1937 Source tushu.junshishu.com Author Unknown author
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Curtiss Hawk II in Chinese service.jpg引用。


カーチス(Curtiss)P-6 ホーク(Hawk)II 戦闘機の諸元
初飛行:1935年5月6日
乗員:パイロット 1名
全長:22 ft 7 in (6.88 m)
全幅:31 ft 6 in (9.60 m)
全高:8 ft 11 in (2.72 m)
主翼面積:252 sq ft (23.4 m2)
空虚重量:2,715 lb (1,232 kg)
最大離陸重量:3,436 lb (1,559 kg)
発動機: カーチス(Curtiss)V-1750C液冷V-12気筒エンジン 700 hp (520 kW)エンジン
最高速力:193 mph (311 km/h, 168 kn)
巡航速度:165 mph (266 km/h, 143 kn)
航続距離:244 mi (393 km, 212 nmi)
実用上昇限度:23,900 ft (7,300 m)
上昇率:1,036m/minカーチス(Curtiss)P-6 ホーク 武装:0.30 in (7.6 mm) 機銃 2挺
生産数:70機

写真(右)1943年9月、中国、成都(?)、1943年9月以降のアメリカ国籍マークを描いた燃料補給中のアメリカ陸軍航空隊(North American)B-25J ミッチェル(Mitchell)爆撃機の右側面:1940年8月19日に初飛行、B-25Jの諸元は、乗員6名、 全長 53.5ft (16.31m)、全幅 67.6ft (20.60m)、全高 16.3ft (4.97m)、翼面積 610ft2 (56.67m2)、空虚重量 19,530lbs (8,859kg)、総重量:35,000lbs (15,876kg)、発動機ライト(Wright)R-2600空冷星型エンジン (1,700Bhp) ×2 最高速力 255kn/15,000ft (472km/h 高度4,572m)、爆弾搭載量:4,000lbs (1,814kg)、航続距離 1,350 mi (2,170 km)、兵装AN/M2 12.7mm機関銃×12 (弾数計4,600発)。1941-1945年に9817機も生産された。
North American B-25J, 43-3968, China, 1944-45 04340025 Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
写真は, San Diego Air and Space Museum ArchiveFile:Douglas B-18 061128-F-1234S-020.jpg引用。



7−2.重慶、期待外れか : カリー米特使の報告 : 借款が成立しても三億弗程度
大阪毎日新聞 Vol: 第 51巻 Page: 100 出版年 1941-03-14
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339218 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

ルーズヴェルト[Franklin Delano Roosevelt]大統領の密使として渡支したカリー米特使は去る二十七日重慶発香港を経てサンフランシスコ着、ワシントンに帰任したが同特使の重慶報告は米国の新対蒋援助の基礎となるものであり注目されているが、わが権威ある方面への情報によれば同氏の報告内容は左のごとくであると信ぜられている、すなわち

 重慶[蒋介石政権]側は同使節に対し自己の対日抗戦力を誇大化して説明、日本の南進政策を曲解せる観察により歪曲して強調し米国を支那に引きつけるべく工作して七億余米ドルの借款要求を出したが財政専門家たるカリー特使は重慶側の提出した統計資料すなわち政府予算、通貨流通額、地租、内外債、海関収入、塩税、統税等が一夜作りのものであることを看破し、米国は民主国への援助は惜まないが重慶政府は蒋政権一派の個人的独裁制であり、ビルマ[ラングーン=昆明}援蒋路[他に北部仏印から粤漢(えつかん)鉄道に至る仏印ルート、ソ連アルマータから西安に至る西北ルートがある]でさえ蒋一派の個人的利益のための密輸路として悪用されている事実を指摘した結局カリー特使の報告の重慶側の宣伝するほどの効果をあげ得なかったものと推察され三億米ドル程度の借款が成立するものとみられ重慶の期待と米国の援助方針との間にも懸隔があることを示している(重慶、期待外れか : カリー米特使の報告 : 借款が成立しても三億弗程度引用終わり )



写真(右)1947年1月8日、中華民国、首都南京、明故宮飛行場(1927年開港1956年7月廃止)、アメリカ国務長官ジョージ・キャトレット・マーシャル(George Catlett Marshall:1880ー1959)元帥を見送る中華民国蒋介石と夫人の宋美齢 (奥) :1945年9月の戦勝後、マーシャルは陸軍参謀総長を辞して退役した。第二次大戦後、東西対立が激化したため、マーシャルは、共産党の勢力が伸長する中国で国民党蒋介石政権を支援し、国共合作の新生中国の樹立のために、1945年12月にトルーマン大統領から中国全権特使に任命された。しかし蔣介石の国民党と毛沢東の共産党は内戦を起こし、マーシャルは本国に召喚された。1947年1月に国務長官に就任したマーシャルは、6月5日のハーバード大学学位授与式の講演でヨーロッパ復興「マーシャル・プラン」を発表した。1949年1月、国務長官を退任したが、1950年9月ー1951年9月まで国防長官の地位にあった。1953年12月、ノーベル平和賞を受賞。
English: Secretary of State Cordell Hull (1887–1955) brought Japanese Ambassador Kichisaburō Nomura (1877–1964, left) and Special Envoy Saburō Kurusu (1886–1954, right) to the White House for a meeting with President Franklin Roosevelt (1882-1945) on 17 November 1941.
中文:1947年1月8日,马歇尔将军返回美国出任国务卿,蒋介石夫妇亲往南京明故宮机场送行。 Date Taken in 1947 Source 宋美龄画传/师永刚,林博文编著.-北京:作家出版社,2003.9 ISBN 7-5063-2733-3
.写真はWikimedia Commons, Category:George Marshall File:1947年1月8日马歇尔将军返回美国出任国务卿,蒋介石夫妇亲往南京明故宫机场送行.jpg引用。


コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化した時期、蒋介石にとって中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義の蒋介石は、スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切った。スターリンのソ連からの軍事援助があればこそ、蒋介石は、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。

蒋介石(蔣中正)の略歴
1936年、中国共産党包囲殲滅を督戦中、張学良により西安で監禁(西安事件)、国共合作へ転換。
1937年 7.7盧溝橋事件の抗日世論に答え「最後の関頭」演説、抗日戦決意。年末に、南京から四川省重慶へ遷都。
1941年、12月に太平洋戦争勃発、連合国共同宣言に署名、主要連合国の地位を確立。
1942年、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェル将軍が中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任。
1943年、11月のカイロ会談に宋美齢と参加。
1944年、10月、国民党を蔑ろにするスティルウェルを参謀長から解任。
1945年、日中戦争に勝利に終戦。毛沢東と平和建国の双十協定。
1946年、国共内戦の勃発。
1947年、台湾民衆弾圧の二・二八事件。 1948年、中華民国の初代総統に就任。
1949年、国共内戦で敗北。首都南京を放棄、成都を経由して台湾へ脱出。

宋美齢(Soong Mei-ling)の略譜
1898年:父・客家の実業家・浙江財閥の宋嘉澍の宋靄齢(国民政府財政部長を継いだ孔祥熙の妻)・宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国副主席)・宋子文(国民政府財政部長)に次ぐ三女として上海県に誕生。
1908年:アメリカ留学。
1917年:ウェルズリー大学Wellesley College)卒業。
1927年:国民党指導者の蔣介石と結婚。
1930年:国民党中央委員会委員に就任。
1937年:国民党航空委員会秘書長に就任。
1943年:カイロ会談Cairo Conference)に蒋介石に同伴、通訳の役割も果たす。
1949年:国共内戦に敗れ、蒋介石と台湾に脱出。
1975年:蒋介石逝去後、アメリカに移住。
2003年:ニューヨークの自宅で105歳で逝去。


7−3.必死、英米に縋る : 探る、起死回生の途 : 重慶外交陣の再編成 大阪朝日新聞 Vol: 第 51巻 Page: 119 出版年 1941-04-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339455

西においてはバルカンを席巻したドイツ軍がさらに躍進してスエズを脅かそうとしており東においては皇軍の浙東作戦が偉大なる戦果をおさめつつあり、加うるに日ソ中立条約の締結は衡を一方に傾けて、宙に浮いた反枢軸陣営を当惑させることばかりである、英米は日本の兵力を出来るだけ長く支那大陸に釘づけにして国力を消耗させようという考えからつぎつぎに重慶援助の強化を策し一方重慶は中共問題に絡んでソ連から見離されても、英米に頼れば起死回生の途ありとして必死に縋りついている、駐英大使郭泰祺の外交部長任命や、駐仏大使顧維鈞の駐英転任などについで、行政院秘書長魏道明の駐仏大使抜擢、前上海市長代理兪鴻鈞の外交部次長抜擢説などは、かかる観点から見られねばならない、そこでこの機会に重慶側の外交陣容を一瞥してみよう

外交部長郭泰祺

[写真あり 省略] 親英派主要人物の一人、いま帰国の途アメリカに立寄り[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Delano Roosevelt]大統領と会談している、ペンシルヴァニア大学の卒業だから米国には友人も多い

 黎元洪[Li Yuanhong]の秘密を振出しに官界生活に入り、のち広東軍政府[Constitutional Protection Junta]孫文[孫中山]に参加、一九一九年のパリ議和会議には専門委員として出席のち北伐軍に参加、南京政府樹立後はいつの間にやら外交部次長にまでのしあがり、[1932年1月28日]第一次上海事変に際しては、日支停戦会議の主席として日本側と折衝中対日硬派のテロに遭った、その後国際連盟の支那代表としてジュネーヴに現れ、[1931年9月18日柳条湖事件を契機とした]満洲事変上海事変の論争に際し英仏代表の間を泳ぎ廻って泣訴これつとめたことはまだ記憶に新しい、まさに典型的の欧米依存主義者である、本年五十二歳

外交部次長兪鴻鈞(内定)

[写真あり 省略] 現外交部政務次長の徐謨が行政院秘書長に転じ、その後任に擬せられている兪は事変当初の上海市長代理だ、彼ははじめ戦禍の上海への波及を食いとめようとしたが抗日気分が日に昂まるにつれてその激流に押され、かつは、支那人独得の保身術から「一面交渉、一面抗戦」の二面外交策をとり、停戦協定線を無視して便衣隊を潜入させるなど卑劣な手段を弄したこともある

 一八九六年広東省に生れ、上海ガゼットの記者をしばらくしたのち、武漢政府の外交部秘書となり、武漢、南京の合体後は上海市政府に入り秘書長として実務を司った、その間、持ち前の才子肌から浙江財閥に食い入り、その御用を勤め、市長の呉鉄城が広東省政府主席に転出したのち代理市長になったのである

駐ソ大使邵力子

[写真あり 省略] 日ソ中立条約で泡を食っている在モスクワの重慶代表たる邵が、かつての中共の創立者の一人だから皮肉である、彼の共産党脱退は蒋介石[蔣中正]の勧告によるといわれるほどだから、蒋[Chiang Kai-shek]との関係は極めて密接で、北伐の陣中も総司令部秘書長として、常に蒋の相談相手となった、西安事件では蒋と一緒に監禁されて負傷した、昨年四月駐ソ大使に任命されて以来、赤色ルートの拡充に狂奔して来た彼が、怪しくなったクレムリンの雲行と、母国における国共相剋の深刻化にどんなに気を揉んでいることか

駐米大使胡適[Hu Shi]

[写真あり 省略] 白話運動[口語]の提唱者として余りにも有名である、一九一九年の五・四運動[May Fourth Movement]を中心として、彼[胡適(Hu Shi)]と陳独秀らが発刊した雑誌「新青年」の現代支那文化に与えた影響は相当に大きく評価されていいしかし同じ文学革命家でも魯迅[Lu Xun]などのようなつきつめたところはなく、何といってもコロンビア大学仕込みといった感じである、一九三八年十月以来の駐米大使で、宋子文らと共に米国の援蒋強化に奔走している

写真(右)1905年、中華民国の外交官 顧維鈞(こ いきん、1888年1月29日-1985年11月14日)Wellington Koo:江蘇省名家出身、1901年キリスト教聖公会の上海聖約翰書院に入学、英語に親しみ、1905年にアメリカのコロンビア大学に入学、1908年文学士、1909年政治学修士、1912年国際法・外交博士を取得。袁世凱の英文秘書、国務院秘書を経て、1914年外交部参事、1915年7月駐メキシコ公使、1915年10月駐アメリカ公使、第一次世界大戦の中国参戦を進めた。戦後、1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月〜1922年5月駐英公使、1920年国際連盟中国首席代表、1921年ワシントン会議全権代表、1922年外交総長。中国国民党革命軍による逮捕を逃れ亡命。1931年張学良の保護を受け、外交部長に就任。1932年国際連盟リットン調査団の中華民国側代表、国民党中央政治会議外交委員に就任。1936年駐仏大使、1941年駐英大使、1945年サンフランシスコ会議の中華民国代表、国際連合の創設に参加。1946年駐米中華民国大使に就任。
Description English: Title: KOO, WELLINGTON. DOCTOR Abstract/medium: 1 negative : glass ; 8 x 10 in. or smaller Date 1905 Source Library of Congress lccn.loc.gov Author Harris & Ewing, photographer Permission United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.18324. Collection Harris & Ewing Collection Notes Title from unverified caption data received with the Harris & Ewing Collection. Gift; Harris & Ewing, Inc. 1955. Subject glass negatives
写真はWikimedia Commons , Category:Wellington Koo・File:KingRoosevelt1938.jpg引用。


駐英大使顧維鈞

[写真あり 省略] さきの満洲事変でも、今度の支那事変でも、あのジュネーヴの舞台で特異な泣き落し演説をやったので、日本人にもお馴染みの人物である、元来が反国民党の男で、袁世凱段祺瑞らに可愛がられてトントン拍子に出世、一九二四年、二七年と二回にわたり北京で内閣を組織したこともある、二八年国民革命軍が京津に馬をすすめたときは「北方十兇」の一人として逮捕令を出されたほどである

 しかし如才ない彼は張学良にとり入って、張[学良]を介してまんまと国民政府と妥協し、爾来もっぱら在外使節となって蒋[介石]の走狗をつとめている、昨日の「兇」今日の「大使」—まさにこれ「君子豹変」の尤なるものであろう

駐独大使陳介

二十四日のベルリン電報は「日ソ中立条約締結後における欧洲情勢の新動向につき重要献策を行うために」陳大使が帰国の途についたことを報じている、彼は一九三八年来の駐独大使だがとにかく蒋の陣営では目さきの利く方である、昨年六月欧洲大戦が枢軸側の大勝利に帰することを見通して、駐仏顧維鈞[Gu Weijun]、駐伊劉文島の両大使をかたらって外交方策の根本的建直しを蒋に進言したこともある、その後も在重慶の親独派朱家●らと計って、明躍暗躍を続けたが、昨秋九月日独伊三国同盟が締結されてからは全く影が薄くなってしまっていた、今後の「重要献策」の内容はどんなものか、彼としてもここらで新生面を拓かなくては島流し同然となるであろう [写真あり 省略]

駐仏大使魏道明

顧維鈞の後を承けてヴィシーへ赴く魏道明はかつての南京市長である、元来が法律家育ちで、市長時代にも小心翼々、可もなし不可もなしの庸吏だった、フランスの国際的地位が顛落した今日、所詮彼は駐独大使陳介のワキ役として地味に勤めるだけのことであろう、本年四十四歳、九江の生れ [写真あり 省略]

駐伊大使劉文島

[写真あり 省略] 兪次長は前上海市長、魏大使は前南京市長、この劉大使が前漢口市長と、外交陣に三人の「前市長」がいるのは面白い、半植民地の悲しさ、市長となれば外国権益保護の任があるので、列強に叩頭せねばならない、叩頭の裏に「外交官」的素質が養われるのかも知れぬ

 劉は日本およびフランスに留学法律を専攻した、顧維鈞などとは違って生え抜きの国民党員で現に中央監察候補委員、一九三三年以来ローマに駐箚するが、最近は全く鳴かず飛ばずである(必死、英米に縋る : 探る、起死回生の途 : 重慶外交陣の再編成引用終わり)



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


2023年10月31日公開の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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