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◆人間学:満州事変・第一次上海事変・日中戦争と魯迅

1932年1月に勃発した第一次上海事変で,日本陸軍は、「爆弾三勇士」という美談を拡散した。1932年2月22日,中国の上海近郊に派遣された日本陸軍第24旅団(久留米)は、中国軍十九路軍の陣地を攻撃したが、その際に,中国軍陣地前面に設けられた鉄条網を破壊するために、兵士が破壊筒(4mの筒に爆薬20キロを装填)を運搬し、突撃したが、これが,日本軍兵士による犠牲的精神の発露であると賞賛された。

長崎県出身の北川丞一等兵,佐賀県出身の江下武次一等兵、長崎県出身の作江伊之助一等兵は,第24旅団の下級兵士であり,名前は膾炙したわけではないが,三軍神あるいは三勇士と讃えられた。

写真(右):靖国神社大灯篭基盤のレリーフ「爆弾三勇士」;第二鳥居と神門の参道両脇に,日本陸軍と日本海軍の物語を彫った大燈籠(富国生命保険の寄進)がある。灯篭の基壇に,戦争の名場面の青銅レリーフがある。太平洋戦争時,大鳥居は金属供出されたが,このレリーフは供出されずに,残された。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致 三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、実にこの神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

北川丞一等兵,江下武次一等兵、作江伊之助一等兵という下級兵士は,『爆弾三勇士』として,荒木貞夫陸相、鳩山一郎文相、薄田泣董など有名人からも絶賛された。

1932年2月22日,第一次上海事変で,中国軍陣地の鉄条網を爆破するために,破壊筒をもって突撃した「爆弾三勇士」の行動は,犠牲的精神の発露であるとされた。三名の一等兵は,三軍神と賞賛され,マスメディア,教科書,軍歌でも頻繁に取り上げられた。


写真(左):「爆弾三勇士」の歌を作詞した歌人与謝野鉄幹;(1873年2月26日 - 1935年3月26日)京都府岡崎の生まれ。山口県徳山女学校で国語教師を4年間勤めるも女生徒と問題を起こし、退職。20歳で上京。1899年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊した。3度目の妻の与謝野晶子と浪漫主義運動を展開。

写真(右):「君しにしにたもうことなかれ」「みだれ髪」を残した歌人与謝野晶子;(1878〜1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」との評価がある。


「三勇士の歌」は,『朝日新聞』『毎日新聞』が公募し,三勇士の突撃から1ヵ月後の1932年3月25日に入選作が発表された。『毎日』の「爆弾三勇士の歌」には、総数8万4177編の応募があり、この中から、与謝鉄幹の作品が選ばれた。

「爆弾三勇士」与謝野寛作詞・辻順治作曲
 一、廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 われの友隊すでに攻む 折から凍る二月(きさらぎ)の 二十二日の午前五時
 二、命令下る正面に 開け歩兵の突撃路 待ちかねたりと工兵の 誰か後れをとるべきや
 三、中にも進む一組の 江下北川作江たち 凛たる心かねてより 思うことこそ一つなれ
 四、我らが上に載くは 天皇陛下の大御稜戚(おおみいつ) うしろに負うは国民(くにたみ)の 意志に代われる重き任
 五、いざ此の時ぞ堂々と 父祖の歴史に鍛えたる 鉄より剛(かた)き「忠勇」の 日本男子を顕すは
 六、大地を蹴りて走り行く 顔に決死の微笑あり 他の戦友にのこせるも 軽く「さらば」と唯一語

 七、時なきままに点火して 抱き合いたる破壊筒 鉄条網に到り着き 我が身もろとも前に投ぐ
 十、 忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士


写真(上):上海でダンスに興じるアメリカ駐屯軍の兵士と中国民間人
:1937年頃。米国アジア極東艦隊旗艦は軽巡洋艦オーガスタで,上海に根拠地としている。その将兵たちと中国婦人との交歓が盛んに行われた。

1931年9月18日の柳条湖事件以来,日本は満州国を建国し,東北地方(東三省:清代の黒竜江省・吉林省・奉天省[現在は遼寧省]の三省)を支配下に置いた。
1933年1月,日本陸軍の満州防衛の任に当たった関東軍山海関を占領。2月23日,西方の熱河省へ侵攻。翌24日には満州での日本の軍事行動に対する国際連盟の非難に反発した日本は,国際連盟を脱退。

写真(右):中国、天津(てんしん)のアメリカ陸軍駐屯部隊:1937年8月23日の第15歩兵大隊。7月7日に北京郊外で盧溝橋事件がおきると,天津も戦火に巻き込まれた。米英など列国は、1900年の義和団事件の鎮圧後、警備任務に就く中国駐屯軍を認めさせていたが、北支事変に際しては武装中立を表明した。Members of the U.S. Army's 15th Infantry Regiment reinforce the defenses of the American Barracks in Tientsen, China. Note the Springfield 1903 rifles and the Browning Automatic Rifle brandished by the soldier at the center of the photo. World Wide Press photo is dated August 23, 1937. The World War II Picture of the Day引用。

鉄幹の妻で,歌人としての評価が高い与謝野晶子は,『君死にたまふことなかれ』によって反戦歌人とされる。しかし,1932年『支那の近き将来』では「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」と,『日支国民の親和』では「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」と述べた。夫鉄幹が,第一次上海事変「爆弾三勇士の歌」をつくったのは,同じ1932年である。芸術家,文人とは,その作品に宿る心情を本質としており,実生活の行動はもちろん戦争観には拘泥しなくてもいいのかもしれない。ドラマチックな戦争が,芸術家の才能をきらめかせ,プロパガンダが芸術家に活躍の場を提供することが多い。

1932年2月27日に『大阪朝日』社説「日本精神の極致―三勇士の忠烈」
 「鉄条網破壊の作業に従事したる決死隊の大胆不敵なる働きは日露戦争当時の旅順閉塞隊のそれに比べても、勝るとも決して劣るものでなく、3工兵が-----鉄条網もろとも全身を微塵に粉砕して戦死を遂げ、軍人の本分を完うしたるに至っては、真に生きながらの軍神、大和魂の権化、鬼神として感動せ懦夫をして起たしむる超人的行動といわなければならぬ。
 内憂にせよ、外患にせよ、国家の重大なる危機に臨んで、これに堪え、これを切り開いてゆく欠くべからざる最高の道徳的要素は訓練された勇気である。訓練された勇気が充実振作されてはじめて、上に指導するものと、下に追随するものとが同心一体となって、協同的活動の威力を発揮し、挙国一致、義勇奉公の実をあぐることが出来るのである。
 ----わが大和民族は選民といっていいほどに、他のいかなる民族よりも優れたる特質を具備している。それは皇室と国民との関係に現れ、軍隊の指揮者と部下との間に現れ、国初以来の光輝ある国史は、一にこれを動力として進展して来たのである。肉弾三勇士の壮烈なる行動も、神ながらの民族精神の発露によるはいうまでもない。」(『大阪毎日』引用)

写真(左):上海事変に出動した日本海軍陸戦隊(1932年1-3月か1937年7-8月?):2000名程度の兵力では中国軍に正面から対抗はできないので,日本は増援部隊を派遣する。

第五期国定教科書「アサヒ読本」初等科国語二の二十一に「三勇士」が記載されるようになり,次の美談が子供たちにも広められた。(津久井郡郷土資料館引用)
 敵の弾は、ますますはげしく、突撃の時間は、いよいよせまって来ました。今となっては、破壊筒を持って行って、鉄条網にさし入れてから、火をつけるといったやり方では、とてもまにあひません。そこで班長は、まづ破壊筒の火なはに、火をつけることを命じました。
 作江伊之助、江下武二、北川丞、三人の工兵は、火をつけた破壊筒をしっかりとかかへ、鉄条網めがけて突進しました。-----すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人はぐっとふみこたへました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただ、その間にも、無心の火は、火なはを伝はって、ずんずんもえて行きました。
 北川は、決死の勇気をふるって、すっくと立ちあがりました。江下、作江は、北川をはげますやうに、破壊筒に力を入れて、進めとばかり、あとから押して行きました。
 三人の心は、持った破壊筒を通じて、一つになってゐました。しかも、数秒ののちには、その破壊筒が、恐しい勢で爆発するのです。
 もう死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」作江は答えました。「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、「そら、大隊は、おまへたちの破ったところから、突撃して行ってゐるぞ。」とさけびました。
「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。

7.1931年の満州事変,1932年の第一次上海事変,1937年7月7日の盧溝橋事件,8月13日の第二次上海事変,それに続く日中戦争では、ナショナリズムが強調され、日中双方で文化人が戦争協力した。与謝野晶子も、壮大な戦争、戦争の大儀、敵中国国民革命軍第十九路軍司令官蔡廷鍇の無知蒙昧を文学で表現した。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年(1932年第一次上海事変

一人の兵士が斃れた、
前から来た弾丸(たま)のために。
しかし、兵士自身は知つてゐる、
背嚢が重過ぎたのだ、
後ろの重味に斃れたのだ。

与謝野晶子 〔無題〕 昭和七年(1932年第一次上海事変[爆弾三勇士])

ところが、繋がつてゐるのです、
一つを切ると
一つが死ぬのです、
いや、皆が死ぬのです、
人間と草木とはちがひます。

与謝野晶子 「紅顔の死」 1932年第一次上海事変の犠牲となった中国青年への同情と排日活動を煽動した中国指導者への非難の歌

江湾鎮の西のかた
かの塹壕に何を見る。
行けど行けども敵の死屍、
折れ重なれる敵の死屍。

中に一きは哀しきは
学生隊の二百人。
十七八の若さなり、
二十歳はたちを出たる顔も無し。


彼等、やさしき母あらん、
その母如何に是れを見ん。
支那の習ひに、美くしき
許嫁いひなづけさへあるならん。

彼等すこしく書を読めり、
世界の事も知りたらん。
国の和平をねがひたる
孫中山そんちゆうざんの名も知らん。

誰れぞ、彼等を欺きて、
そのうら若き純情に、
善き隣なる日本をば
侮るべしと教へしは。

誰れぞ、彼等をそそのかし、
筆をつるぎに代へしめて、
若き命を、此春の
梅に先だち散らせるは。

十九路軍の総司令
蔡廷鍇さいていかいの愚かさよ、
今日のうちにも亡ぶべき
己れの軍を知らざりき。


江湾鎮の西の方
かの塹壕に何を見る。
泥と血を浴び斃れたる
紅顔の子の二百人。

(右、読売新聞記者安藤覺氏の上海通信を読み感動して作る。)

写真(右):南寧の軍事訓練中学校の女子(2) (1937年1月17日):Six girls and wall posters, (2). ;The Harrison Brown Collection引用。 中国国民党は,民間人や学生を動員して,兵士として促成訓練して前線に送った。女子でも軍属として戦線後方任務に従事したようだ。日中戦争では,中国の女性兵士,女子スパイ,女子ゲリラ兵士(便衣隊)を捕虜とした日本の新聞記事が何回か登場している。

1937年5月7日,関東軍は、万里の長城を超えて,華北に侵攻。北京(首都は南京なので正式には北平),天津を攻撃。

1)南京を首都とする中国国民政府(国民党政府)は,共産主義勢力の排除,内政優先の「安内攘外」を基本方針として採用した。
2)米英列国は,ドイツやソ連への対応を優先し,中国問題に介入しなかった。
3)満州事変は,1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定で終結。中国国民政府(中国国民党)は,長城以南に非武装地帯の設定,満州国への通車・通郵手続きの承認など,日本に大幅に譲歩。

写真(右):上海駐屯の米海兵隊(1930年代中頃):1927年から1941年11月まで駐留した第4海兵隊。国際都市上海の中心街は,共同租界とフランス租界だった。Fourth Marines Band: "Last China Band" Additional Photos and Information About the Fourth Marines引用。

英国は,上海郊外に競馬場をつくり,市街地を結ぶ道路も租界扱いすることを認めさせた。中国には,関税自主権がなく,関税を課す権利は賠償の担保として取り上げられていた。そこで,租界のある都市,上海,天津,重慶(内陸港)には,外国資本が進出,摩天楼が立ち並び,英語看板があふれた。
米英仏日独伊など列国は,中国を半植民地化した。中国革命をへた中国は、列国の主権侵害に屈辱と怒りを覚えた。したがって,日本と列国の差異は,軍事行動の拡大,戦禍,人権侵害,残虐行為など,さらなる惨禍を及ぼしたかどうかにある。

第一次大戦中、1917年の石井-ランシング協定では、日米は中国における機会均等を合意した。これは、中国の主権を無視した外国同士の中国分割協定である。心ある中国人は、日本人に国土と主権を侵されたことに屈辱を感じた。

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したと言い放ったりする行為は、日本軍を侮辱するに等しい。こんな侮蔑を放言する日本人は当時いなかった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知であれば、「平和ボケ」に陥り、「日本人が敵を虐殺をするはずがない」と誤解してしまう。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜

南京攻略についても,中国に派遣された日本陸海軍は,敵の首都を攻略したとして,最大級の名誉を賜っている。大元帥昭和天皇から,39名もの将軍が栄光の恩賞を授けられた。大元帥自らの親授式も盛大に開催された。したがって,せっかく名誉の勲章を受けたのに,それを汚すような残虐行為や破廉恥な行為は,隠蔽され,処罰の対象からも外されてしまったと考えられる。軍や政府の公式報告・軍事裁判の記録だけを取り上げても,残虐行為の実態が見えてこないのは当然といえよう。

百人斬り競争をした2人の日本軍将校(少尉)の記事が,1937年から東京日日新聞に4回ほど登場した。しかし,白兵戦とはいっても,軍刀で戦場の銃を持った敵兵を切り殺すことは不可能である,日本刀が損傷するので100人も斬り殺すことは物理的に不可能である,二人は郷里に自分の活躍が伝えられるのを願って手柄話を新聞記者に捏造した,と考えてこの報道は事実ではないとみる識者も多い。


写真(右):百人斬り競争をした日本軍将校
(1937年12月13日東京日日新聞,現在の毎日新聞):二人の少尉がどちらが先に日本刀で敵を100人斬れるか競争をしたことを伝える新聞報道。いかにも白兵戦で敵兵を倒したような記事だが,敵兵が小銃を持って発砲してくるのに,軍刀を構えて突撃したとでも言うのであろうか。銃を持って抵抗している敵兵を斬り殺すことができるはずがない。

1938年1月25日『大阪毎日新聞 鹿児島沖縄版』報道記事
二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願
 南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立つて、壮烈無比、阿修羅のごとく奪戦快絶百人斬り競争に血しぶきとばして鎬を削つた向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたがその血染の秋水に刻んだスコアは一○六 ― 一○五、いづれが先きに百人斬つたか判らずドロンゲームとなつたが、その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙千人斬をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬つた、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく血刃行はどこまで続く?……

 このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島県枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまヽの痛快さがあふれてをり、猛勇野田の面目躍如たるものがある――

 目下中支にゐます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた、極楽に行きかヽつたのは五回や十回ぢやないです、敵も頑強でなか〜逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました

百人斬日本刀切味の歌(豪傑節)
一、今宵別れて故郷の月に、冴えて輝くわが剣
二、軍刀枕に露営の夢に、飢ゑて血に泣く聲がする
三、嵐吹け/\江南の地に、斬つて見せたや百人斬
四、長刀三尺鞘をはらへば、さつと飛ぴ散る血の吹雪
五、ついた血口を戎衣でふけば,きづも残らぬ腕の冴え
六、今日は口かよ昨日はお□、明日は試さん突きの味
七、國を出るときや鏡の肌よ、今ぢや血の色黒光り……(中略)

 まだ極楽や靖國神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、武運長久(われ/\は戦死することをかく呼んでゐます)を毎日念じてゐます、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を捨ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳。……

掲載記事は,兵士の本心に読み替えて,解読する必要があろう。記事における「敵も頑強でなかなか逃げずだから」百人斬りができたとあるが,これは「敵が逃亡せず投降して捕虜となったから」百人斬りができたと読める。「武運長久(われわれは戦死すること)を毎日念じてゐます」とは,「武運長久=無事帰郷を毎日念じている」という意味である。

この兵士が100人以上の敵を斬ったという残虐と思われる記事が軍の検閲を通って平然と掲載されていることに注目したい。

百人斬りを千人斬り競争にするというのも,勇猛果敢な精神の発露として尊重され,「飢えて血に泣く聲がする」「血の色黒光り」「さつと飛ぴ散る血の吹雪 明日は試さん突きの味」のような表現も,決して大言壮語,事実無根とはみなされない。だからこそ,過剰に勇猛果敢さを表徴した新聞記事が検閲にかからず報じられた。報道管制の中で敵の斬殺する日本兵という「建て前」記事は,日本軍の勇猛さを称えるものとして,掲載されている。

写真(右):三十年式銃剣を装着した三八年式歩兵銃:日本軍の主要小銃は,明治38年に制式された三八式歩兵銃で,銃の先(銃口)に,明治30年に制式された三十年式銃剣をつけることができる。

銃剣とは,小銃の銃口に装着する刀剣であり,世界の軍隊で採用されていた。これは,現在の国体における銃剣道と同じく,相手を銃剣で刺突して倒す武器である。しかし,発砲してくる敵兵に対して,銃剣だけを構えて戦うことはできない。したがって,実際の戦闘で敵を刺殺することはまず不可能である。突撃精神を鍛えるために,銃剣訓練を行う程度であった。

小銃を持っている中国兵に対して,刀剣・銃剣だけでは白兵戦を戦うことはできないから,実際に中国人を斬った,刺殺したのであれば,格闘ではなくて,無抵抗の捕虜を斬殺・刺殺したと考えるしかない。百人斬りが,完全に捏造であれば,日本軍は戦意向上のために4回も全国紙に虚偽の報道を許したことになる。当時,日本国内には,多数の実戦経験を積んだ兵士や兵役を終えて除隊した兵士がいた。彼らは,この記事の示す状況を明確に理解できたであろう。

敵を殲滅,屍の山を築くような内容の記事でも,当時は残虐行為とはみなされなかった。現在からみれば「残虐行為」の百人斬りも,当時の日本軍・日本国民は,日本軍兵士の強さ・勇敢さあるいは敵の弱さを示すものとして,高く評価していた。その意味では,百人斬りに近い状況があれば,軍としても積極的に報道させたかったであろう。あるいは,新聞社・記者が,軍の情報開示,紙配給(物資統制で資源は配給・割り当て制度の下にあった)を有利にしてもらえるように,軍に媚を売って書いた記事なのであろうか。

当時の状況では,白兵戦で(降伏してきたり捕まえたりした)敵兵を斬り殺すことは,勇敢な兵士の証であり,賞賛に値する。たとえ無抵抗な捕虜であっても,暴虐な中国兵,日本に反抗した重罪人,大御心を及ぼす天皇に逆らう謀反人として,処罰したのであり,検閲にかからずに記事にできた。日本では,重罪人を打ち首,斬首してきた刑罰の伝統もあり,敵兵の暴虐な振る舞い(武力闘争)は,大日本帝国への叛乱,天皇陛下への謀反であり,極刑に処して当然である。当時の認識では「百人斬り=処刑」である。百人斬りの記事の信憑性を論じる識者は多いが,なぜこのような過激な記事が何回も登場するのかという時代背景を認識すべきであろう。

しかし,後になって,米英列国から,日本軍が中国人の斬殺・民間人殺害のような残虐行為をしていると非難されると,反日プロパガンダを警戒して,斬殺の手柄話の記事は見当たらなくなる。しかし,太平洋戦争に突入すると,外国メディアへの遠慮はなくなり,鬼畜米英を殲滅せよという過激な記事が再び登場する。

兵士の差し出す軍事郵便にも,当時の「手柄話」(現在の残虐行為)が登場する。敵を殲滅した(=殺害)行為は,日本軍兵士・日本陸軍の検閲官にとって,検閲で削除すべき不利な情報とはみなされなかったからである。

日本は、中国大陸で1931年に満州事変を1932年に第一次上海事変を起こし、1937年には北支事変・第二次上海事変を起こした。こうした中国大陸における日中戦争という総力戦を戦うために、1938年4月に、日本では国家総動員法が公布され、経済統制と戦争へのモノ・カネ・ヒト・ワザの動員が本格的に始まった。

第一次大戦は、アフリカ・中東・アジアの植民地での戦い、大西洋・地中海の海の戦いなど世界戦争となった総力戦だった。この人類史上最大級の大戦争は、国家が財政・産業・農業・交通・労働力・技術力の総力を挙げて戦った結果、大量破壊・大量殺戮をもたらした。しかし、この総力戦は、国民や植民地の支持がないと戦えないことは明らかだったため、国民と植民地の支援を得るためのプロパガンダ行われた。これは、戦争は国家・国民を守るための正義の戦いであり、敵は残虐非道な悪であるとの煽動であった。

日露戦争、その10年後の第一次大戦、その13年後の1931年に満州事変と、日本は戦争を続けている、1932年には第一次上海事変を起こし、1937年には北支事変・第二次上海事変を起こした。こうした日中間の総力戦が始まった。 このような戦争の時代、当時の日本の新聞報道、文芸活動、ポスターなど戦争プロパガンダの方針について、鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「第5章 日中戦争」(pp.144-123)から理解してもらいたい。 1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件と、日本と中国の戦争でも、鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社に掲載されたような戦時ポスターをつかって、ホワイト・プロパガンダとブラック・プロパガンダが展開された。これは、戦争支持の世論形成が、総力戦を進めるために不可欠だったからである。そして、このような形で形成された各国の世論は、相互に敵対視する度合いを強め、人々の共生からは遠のいていった。

これに対して、与謝野晶子、石川啄木、魯迅らがどのように正面から向き合ったかを考えれば、北東アジアの共生についても大いに役に立つはずだ。

「人間学1」課題サンプル

Report Writing

鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「第5章 日中戦争」(pp.144-123)と鳥飼研究室の戦争写真集
左段 日中戦争「上海事件と爆弾三勇士」
左段 日中戦争「盧溝橋事件/日中戦争」
右段「魯迅日本留学:Lu Xun 阿Q正伝・狂人日記」
の3本のサイトを見て、戦争の時代の与謝野晶子、石川啄木についで、日本に留学し多くのことを学んで中国に帰国した魯迅についても考えてもらいたい。

<課題レポート>
満州事変・第一次上海事変から盧溝橋事件を契機とした日中戦争まで、どのように日本と中国が対立するようになったのか、その経緯と原因を上記3サイトを引用しながら、簡単に述べなさい。そして、日本留学をし、経験と思索により批判的な見方ができるようになった魯迅を、プロパガンダに扇動され続けた無批判な大衆と対比して、考察しなさい。レポートには、魯迅の経験や作品についても、言及すること。

1)課題レポートをワード(word)で作成。
2)レポート文字数は、400-800文字以上、2400文字以下。他サイトの引用は不可。
3)レポートには,ふさわしい題名,学番,学生氏名を明記。
4)この課題は、サンプルですので提出不要です。正式な課題レポートはLMSに掲載し、そこから提出します。したがって、オープンLSMで開示する課題レポートを随時、各自で確認し、提出のこと。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程

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