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◆人間学:日中全面戦争への道

写真(上)1937年,第二次上海事変の大火災(1937年10月27日);中国軍は陣地撤退の際,日本軍に利用されないよう,陣地(建築物)を焼き払った。特に、蘇州河の北側、租界対岸の川沿いにあった四行倉庫に立て籠ったドイツ装備・ドイツ式装備の蒋介石の中国軍将兵800名は死守を命じられた。蒋介石は、米英など国際世論の関心を惹きつけ、中国への支援、日本への制裁を取り付けようと考えていた。しかし、日本軍の猛攻の前に、四行倉庫での抗戦も4日間程度しか持たなかった。中国軍は、焦土作戦を覚悟し、撤退する地域にある軍需物資や陣地への転換が可能な建物が日本軍の手に渡らないように火をつけた。それが延焼して,上海各所で大火災が発生した。戦渦に巻き込まれれば、人命や物資の損失は計り知れないが、それは誰の責任とすべきなのか。戦争だから仕方がないのか。

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として忌避されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞などマスメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇っていたのである。中国兵を殲滅した日本軍の大戦果を捏造だと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したという放言は、日本軍への侮辱行為に当たる。こんな侮蔑を口にするには、治安維持法違反で処罰される覚悟が必要だった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知な「平和ボケ」が「日本人が敵を虐殺をするはずがない」との俗説を生んだ。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜

国連教育科学文化機関ユネスコ)は2015年10月9日、世界記憶遺産Memory of the World)に中国申請の「南京大虐殺」資料を(僅差で)登録したと発表した。中国による従軍慰安婦資料の登録申請は却下した。一方、日本が申請した第二次大戦後のシベリア抑留者の引き揚げ記録「舞鶴への生還」と京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」は登録された。南京大虐殺資料には、極東国際軍事裁判 Tokyo War Crimes Trials )(通称は東京裁判)と南京軍事法廷の記録が含まれている。しかし、東京裁判における記録には、虐殺犠牲者総数に「遺棄された遺体」が含まれていない。この件に関して、中国は南京軍事法廷で30万人が殺害されたことが裏付けられているとするが、これは、世界記憶遺産Memory of the World)とは関係ない。
 他方、日本政府の菅義偉官房長官は「中国はユネスコを政治的に利用している。過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調し、極めて遺憾だ」と批判し、中国に抗議し、国連教育科学文化機関ユネスコ)にも懸念を伝えた。ユネスコは10月4〜6日にアブダビで諮問委員会を開き、各国からの新規申請約90件を審査し専門家の勧告を受けてボコバ事務局長が登録案件を決定した。(毎日新聞 2015年10月10日参照)

習近平(习近平)主席「南京で30万人殺害」…国家哀悼日(国家追悼日)行事(2014年12月13日)
 【南京=鈴木隆弘、北京=五十嵐文】中国の習近平(シージンピン)政権は、旧日本軍による「南京事件」(1937年)が起きた12月13日を「国家哀悼日」に制定してから初めてとなる記念行事を、13日午前、中国江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で行った。
 習国家主席は演説し、「南京事件」で「30万人の同胞が殺害された」と主張した。さらに「侵略の歴史を顧みない態度や、美化する言論に強く警戒し、断固反対しなければならない」とも述べた。11月に約3年ぶりに日中首脳会談が実現し、経済交流や対話などが動き出したが、来年の「抗日戦争勝利70年」に向け、習政権(Xi Jinping Administration)が歴史問題を巡って対日圧力を維持する姿勢を示した形だ。
 その一方で、習氏は「中日の両国民は代々にわたり友好を続けなければならない」「少数の軍国主義者が起こした侵略戦争によって、その民族(全体)を敵視すべきでない」とも語り、日中関係を重視する方針も強調した。(YOMIURI ONLINE 引用終わり)
◆鳩山氏、南京大虐殺記念館を訪問 館長におわび伝える(2013年1月17日)
 【南京=金順姫】中国訪問中の鳩山由紀夫元首相は17日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪れ、「多くの中国の方、特に南京の民間の方、捕虜の方々を日本兵が殺してしまったことは大変申し訳ない。おわび申し上げたい」と朱成山館長に伝えた。鳩山氏が報道陣に明らかにした。
 鳩山氏は、沖縄県の尖閣諸島は日中の「係争地」だとの認識を菅義偉官房長官が批判したことについて、「(日本)政府もよく勉強されて、その中から早く答えを見いだすべきだ」と述べた。
 中国国営の新華社通信は「当時の日本兵が犯した罪を謝罪する」との鳩山氏の発言とともに、記念館を視察した詳細な様子を配信した。同記念館には首相経験者の村山富市氏、海部俊樹氏が訪問している。(朝日新聞デジタル引用終わり)

チャン・イーモウZhang Yimou:2011)"The Flowers of War "(金陵十三钗)は、南京安全区のミッションの金陵女子文理学院とその礼拝堂をイメージした映画で、中国人男女の英雄的行為、Christian Bale演じるアメリカ人の人道的行為が描かれる。ドイツ式装備の少数精鋭の中国兵が、多数の日本将兵を倒し、九四式装甲車(豆タンク)に、自爆挺身攻撃を仕掛ける。キリスト教会に避難した中国人を救うために、狙撃兵として最後を飾った中国兵士は英雄として描かれる。中国兵が、軍服を脱いで遁走したり、集団投降し捕虜になったりする場面は描かれない。中国兵は死ぬまで戦ったとの俗説は、南京事件の考察には問題となる。
金陵女子文理学院教員のアメリカ人ミニー・ヴォートリンMinnie Vautrin)らは、身を挺して中国人女性を守ったが、映画ではアメリカ人男性(Christian Bale)の活躍が描かれる。当時、日本軍兵士はアメリカとの国際関係の悪化を恐れ、彼らへの粗暴な振る舞いを抑えており、外国人が中国人を守ったともいえるのだが、映画では、勇敢な中国人女性・少年が、中国人少女たちを守ったとされる。映画「金陵十三钗」は作り話だが、チャン・イーモウ監督の映像にはインパクトがある。

◆2009年4月、エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》(City of Life And Death)が華々しく公開された。豪華なwebsite宣伝は商業的、芸術文化的成功を目指している。日本で企図を誤解してか、2011年8月21日、東京で一日上映会が行われただけ。 
◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
毎日新聞2009年9月15日によれば,名古屋市河村たかし市長は,市議会9月定例会の一般質問で、「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定し、「一般的な戦闘行為はあったが、誤解されて伝わっているのではないか」と述べた。
 「おやじは終戦を南京で迎えた。南京の人に本当に優しくしてもらい、名古屋に帰ることができたと言っていた。30万人の虐殺があったら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか」と疑問視。「一般的な戦闘行為で市民が亡くなったことはあった。捕虜収容所で放火があって市民が亡くなったり、残っている日本人を逃がそうとして銃撃戦になり、市民が亡くなった。そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。事件そのものについて日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」と述べた。
毎日新聞2009年9月19日によると,河村たかし市長は「(犠牲者)30万人は絶対真実と違いますわ。30万人以下でしたから、人口は。一般的な戦闘行為は残念ながらあった。誤解されて伝わっておるんではないかということを今感じておりまして。きちっともう一回検証し直す必要がある。
 南京の記念館に私も行ってきましたけど、30万人、30万人と、どわーっと書いておりますよ。そこにすごい数の中国の小学生が来て、日本軍は大変残虐なことをしたということを見て帰っていく。今のままの展示だと、中国の皆さんがやはり日本人に対して大きな誤解をするのではないかというふうに危惧しております」とのこと。検証した事のないものを再検証すべきといはおかしな話だ。
◆2007年4月、日本メディアに中国「南京事件」映画続々製作許可の記事が出た。70周年にむけて、国家ラジオ映画テレビ総局が、南京事件を題材にした中国映画3作の制作許可を出した。しかし、その三ヶ月も前、英国メディアはChina angered by Nanjing massacre filmとして南京虐殺事件の映画作成許可を報じていた。

南京虐殺事件慰安婦に関するプロパガンダにより、日本に誤った歴史観が植え付けられたというのは、日本人を愚弄する扇動者である。歴史は、イデオロギー、愛国心など世界観、価値観と結びつき、歴史的事実を単純化することはできない。忌まわしい過去、思い出したくない過去の歴史でも、そこに亡霊が存在すると怯える必要はない。過去の亡霊は現代の扇動者が作り出した。亡霊はプロパガンダ上の虚構の存在である。
◆戦争では、敵を殺害すれば、賞賛される。住民を大量に殺戮した爆撃機の搭乗員、その指揮官は国家英雄として叙勲される。世界各地で殺し合い,奪い合いが行われる中,敵はテロを非難するが、味方からは勇敢な戦士として賞賛される。敵の殲滅は残虐行為とは認識されていなかった。殲滅戦は、メディアでも賞賛されていた。このような「英雄的行為と残虐行為の対称性」に思い至る。
◆残虐行為の目的の一つは,テロの恐怖で人々を服従させることだ。しかし,恐怖で支配され、恨みを抱いた人々は報復にでる。残虐行為をし世間の注目を集め、問題意識を起こさせようとする。「目には目を」「テロにはテロを」の報復を呼ぶ。報復の連鎖を拡大して、戦争を引き起こそうとするのが扇動者である。
◆残虐行為の蔓延は、社会的無関心も影響している。総力戦の本質が、大量破壊、大量殺戮であれば、戦争では残虐行為、テロは頻発するが、だからといって,残虐行為、テロを蔓延させてはならない。残虐行為、テロが行われる背景を理解し,それらを正当化する理由を否定することが重要ではないか。

◆南京虐殺(南京大屠殺)については,当初、日本の新聞などメディアは、敵殲滅、日本大勝利という報道を進めた。日本陸軍士官(少尉)の「敵百人斬り競争」の記事も、勇猛果敢な日本軍が敵中国軍をを蹴散らし快進撃を続けるという状況を活写したものである。敵を斬るのは残虐行為ではなく正当な裁きであると多くの国民が思っていた。これに反対して、多数の敵を軍刀で斬ったなど捏造記事だ、というのは非国民的態度である。日本兵の勇敢さにも敵殲滅・惨殺にも公然と異を唱える者はいなかった。しかし、虐殺事件直後から,外国メディアは、日本軍の残虐行為として,国際的に非難した。外交専門家を任じる各地の日本領事館も南京事件の反響、日本への批判を本省に通報し注意を喚起していた。日本軍部内部にも「行き過ぎ」を、皇軍兵士にあるまじき行為、軍紀紊乱であるとして憂慮するものがあった。

◆1900年に勃発した義和団の乱Boxer Rebellion)を鎮圧するために出動した八カ国連合軍Eight-Nation Alliance)の英米独仏伊墺露日の将兵は、斬首や拷問など敵処刑execution)・処罰Punishment)を見物したり,自ら行ったりした。反徒を処刑し処罰することは正当な正義の裁きであり、それは残虐行為ではない、というのが当時の常識だった。

 19世紀末から20世紀初頭、敵殲滅は、英雄的な戦いであり、斬首・刺殺による敵処刑は正義の制裁であると考えられていた。現在の人権重視の感覚で、斬首や拷問など、残虐な民族のみが行うものだ、まっとうな国民や軍隊は、そんなことをするはずがない、という「平和ボケ」の誤解は、当時の状況・信条を理解していないためにに起こる。本webでは,「中国・朝鮮における敵の殲滅・処刑は、勇敢な振る舞いであり、残虐行為として非難されることはない」という点を理解しない「平和ボケ」を見直して,戦争の中では,誰もが残虐行為を起こしえたこと明らかにしたい。残虐行為は,民族性や国民性という単純なカテゴリー分けで説明できるものではない。

1.中国では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰が横行していた。米英仏日など列国の駐屯軍も,中国であるいは,植民地で残虐行為に及ぶこともあった。しかし、犯罪者の逮捕・処罰、反乱を起こす民族への弾圧は、治安維持・平和創設のための措置であり、決して悪行ではない。重罪者の処刑は当然であり、敵を鎮圧した勇敢な戦闘は、英雄的行為とみなされた。

写真(右):中国官憲による斬首(1900年頃);CHINA - Beheading a native (Real photo, Unused Postcard). $80.00 このような絵葉書が世界に出回っていたのが20世紀前半の状況である。人権を無視した行為も、敵・悪・罪とされれば、当然のように晒されたのである。世界各地の極刑は死刑であり、なかには死に至らしめるまで、苦しめたり,晒したりする処刑もあった。

1898年義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦した。しかし、北京の大使館を包囲したが清朝軍は、7万名(うち日本軍は1万3000名)の八カ国連合軍の反撃にあい、1901年に降伏。

清朝を敗北させた列強八カ国は,賠償金,公使館区域、防衛のために軍駐屯権を獲得した。

1900-1901年の北清事変では,八カ国連合軍が,北京など中国各地を占領。中国の地方政府や官憲の協力を得て,義和団加盟者、反政府的人物、罪人を処刑し,治安を安定化しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本がナショナリズムや社会主義思想を徐々に警戒し始めた頃の話である。ロシア革命前で,反共白色テロではないが,中国や朝鮮の排外主義者,民族主義者は、暴徒、邪教崇拝者、反逆者として,処刑された。

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪で,公開処刑された。1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,切り刻んで殺害したりする。

処刑執行者も好んで残虐な殺害したわけではないが,組織の中で,残虐な処刑を執行を明示されれば、逆らうことはできない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行された。軍隊や処刑部隊に配属された人間が、自分の意思で処刑することを拒否することはできない。決して、民族性から残虐な処刑を好んだと単純化することはできない。日本人だろうとアメリカ人だろうと残虐な人間は,残念ながら,どこにでもいる。

清朝は,八カ国連合軍に宣戦布告したのを後悔し,取り繕うために義和団関係者に残虐な処刑を執行した。「君子は豹変す」である。捕らえられた容疑者は,適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。

写真(右):1900年頃の中国での処刑;フランス領インドシナで使用された絵葉書。フランス領インドシナに派遣されてたフランス官憲や軍人、その家族も残虐行為に見慣れていたわけではないだろう。珍しい「凄い見もの」だから「蛮行」の写真絵葉書を購入し、知人に郵送した。CHINA - Execution of a Chinese man at Nam Quan (Postally Used Postcard in French Indochina). $80.00

公開処刑は,罪人の更生を期待するのではなく,反抗する民衆を抑圧する目的がある。しかし,残虐な処刑を公認すれば,アジア人は「野蛮人」であるとして,中国政府と中国人を軽蔑する外国人も増える。他方,野蛮なアジアを,平和な文明国に作り変えるのが,列国の役割,キリスト者の義務であるという驕りも生まれた。

罪人に対する処刑も残虐であったが,革命家や民族主義者も反社会的で惨禍を招く犯罪者として認識されており,残虐な刑罰も正当化された。人権意識がなく,人権が擁護されていなかった時期,犯罪者は厳罰に処された。この厳罰主義は,1937年の南京事件にも関連してくる。


写真(上):1898-1901年義和団事件の容疑者処刑
;北京1900-1901年頃撮影。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。しかし,自ら処刑したり,中国官憲の処刑を見物したりして楽しんでいた。ジョナサンスペンス『中国の世紀』大月書店によるキャプションは「即刻処刑 救援軍の外国の軍人と清朝の兵士が処刑された義和団の首のない死体の横に立っている。日本の軍人は刀の血をぬぐっている。」

中国人の残虐性を通州事件を例に挙げて指摘する人もいる。しかし,義和団事件とそれを継承する北清事変における米英仏日など列国は, 義和団参加者への処刑,朝鮮半島での反日活動や朝鮮独立運動を武力鎮圧した。これらの植民地での弾圧をみれば,米英仏日など列国も残虐である。

2.日本では,反乱者・重罪人に対する斬首など残虐な刑罰も残っていた上に,特別高等警察が組織され,治安維持法違反に対する拷問・過酷な処罰が横行していた。また,重臣暗殺,皇族暗殺未遂,叛乱も起こっており,思想犯,重罪人には厳罰をもって臨んでいた。治安維持や平和創設のために、厳罰。処刑は必要不可欠と考えられていた。

江戸時代の斬首磔刑,拷問は、明治になって,廃止された。しかし,佐賀の乱など士族の叛乱を鎮圧した後には,江藤新平など多数の謀反人が,晒し首に処せられた。

 当時は,過酷な刑罰は,権力や国家に反抗する謀反人には当然で、残忍な処刑をしないと,政府の権力保持が困難になると思われた。犯罪者の矯正には関心がなく厳罰主義が横行していた。

1904年の日露戦争後,ロシアに遠慮なく、日本軍は,朝鮮軍を無力化した。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,これに抵抗して朝鮮軍は,日本軍と衝突し,1907年には民衆も巻き込んで大規模な義兵闘争が起こった。朝鮮側も日本側も,お互いをしばしばテロ・処刑の対象にした。



第一次大戦は、アフリカ・中東・アジアの植民地での戦い、大西洋・地中海の海の戦いなど世界戦争となった総力戦だった。この人類史上最大級の大戦争は、国家が財政・産業・農業・交通・労働力・技術力の総力を挙げて戦った結果、大量破壊・大量殺戮をもたらした。しかし、この総力戦は、国民や植民地の支持がないと戦えないことは明らかだったため、国民と植民地の支援を得るためのプロパガンダ行われた。これは、戦争は国家・国民を守るための正義の戦いであり、敵は残虐非道な悪であるとの煽動であった。

日露戦争、その10年後の第一次大戦、その13年後の1931年に満州事変と、日本は戦争を続けている、1932年には第一次上海事変を起こし、1937年には北支事変・第二次上海事変を起こした。こうした日中間の総力戦が始まった。 このような戦争の時代、当時の日本の新聞報道、文芸活動、ポスターなど戦争プロパガンダの方針について、鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「第5章 日中戦争」(pp.144-123)から理解してもらいたい。 1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件と、日本と中国の戦争でも、鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社に掲載されたような戦時ポスターをつかって、ホワイト・プロパガンダとブラック・プロパガンダが展開された。これは、戦争支持の世論形成が、総力戦を進めるために不可欠だったからである。そして、このような形で形成された各国の世論は、相互に敵対視する度合いを強め、人々の共生からは遠のいていった。

これに対して、与謝野晶子、石川啄木、魯迅らがどのように正面から向き合ったかを考えれば、北東アジアの共生についても大いに役に立つはずだ。

Virtual Lecture Series鳥飼行博研究室アジア写真集やVirtual Classバーチャルクラス掲示もご覧ください。

「人間学1」課題レポートサンプル

Report Writing

鳥飼行博著『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年―二十世紀初頭から現在まで』青弓社「第5章 日中戦争」(pp.144-123)と鳥飼研究室の戦争写真集
左段 日中戦争「上海事件と爆弾三勇士」
左段 日中戦争「盧溝橋事件/日中戦争 br>右段「魯迅日本留学:Lu Xun 阿Q正伝・狂人日記」

左段 「第二次上海事変Battle of Shanghai 1937」
左段 「米中接近・蒋介石 US & Chiang Kai-shek」 の5本のサイトを見て、戦争の時代、日本に留学し多くのことを学んで中国に帰国した魯迅についても考えてもらいたい。

<課題レポートA2>
上記3サイトを引用しながら、 満州事変・第一次上海事変から盧溝橋事件を契機とした日中戦争まで、どのように日本と中国が対立するようになったのか、その経緯と原因を、日本留学をし、経験と思索により批判的な見方ができるようになった魯迅を、プロパガンダに扇動され続けた無批判な大衆と対比して、考察しなさい。レポートには、魯迅の経験や作品についても、言及すること。

<課題レポートB2>
盧溝橋事件から日中全面戦争に至る戦争の指導と報道の在り方、プロパガンダ、世論形成の関係を鳥飼行博研究室上記2サイトを参照にまとめなさい。

1)課題レポートは、ワード(word)で作成。
2)レポート文字数は、各々500文字以上、2400文字以下。他サイトの引用は不可。
3)レポートには,ふさわしい題名,学番,学生氏名を明記。
4)この課題は、サンプルですので提出不要です。正式な課題レポートはLMSに掲載し、そこから提出します。

東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程

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