◆マニラ市イントラムロス世界遺産ゼミ研修:Intramuros 1.フィリピン共和国の面積は30万平方キロ(日本の80%)、
人口 9900万人、
GDP 2000億ドルで、
1人当たりGDP は2,100ドルと日本の5%です。
2.2009年フィリピンの地域別一人当たり所得(1985年基準価格)をみると、全国平均は1万5528ペソに対して、
メトロマニラ (Metro Manila:マニラ市と周辺市区)は4万838ペソと全国平均の2.6倍の高水準であるのに対して、ムスリム自治区3572ペソ(全国平均の23%)、ルソン島南部ビコール地方7650ペソ(同49%)、中部ルソン地方1万1636ペソ(75%)と低水準です。
3.2016年8月に社会環境課程鳥飼ゼミの外国研修で訪れたマニラ市イントラムロス
世界遺産 を解説します。
4.フィリピンについては、
2014年マニラのスラム街 /
トンド貧困地区 /
2013パヤタス廃棄物処理場ゼミ研修 /
スモーキーマウンテン廃棄物処分場 /
スラム街NGO訪問 /
箒づくりの内職 /
山村の小学校 も見てください。5.
写真解説一覧 も参照。
〇東海大学
新教養学部 の文系と理系を融合した新人間環境学科では、社会環境課程が廃止され、鳥飼ゼミの海外研修・フィールド調査・国際社会ゼミナールの授業はありません。
マニラ首都圏
Metro Manila
マニラ市フィリピン諸島銀行 Bank of the Philippine Islands
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市フィリピン諸島銀行 (Bank of the Philippine Islands )。
マニラ市フィリピン諸島銀行 (Bank of the Philippine Islands )前のジプニー。
マニラ市サンタ・クルール教会 Sta. Cruz Church
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )前の物乞い。
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )の日曜礼拝に参加した鳥飼ゼミナール。
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )玄関の大きな敷石。
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )正面外観。
メトロマニラ(マニラ首都圏 )マニラ市サンタ・クルース教会 (Sta. Cruz Church )正面とカリエド噴水(Carriedo Fountain)。
マニラ首都圏 マニラ市サンタ・クルール教会 (Sta. Cruz Church )とカリエド噴水(Carriedo Fountain)をバックにした鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 マニラ市サンタ・クルール教会 (Sta. Cruz Church )とカリエド噴水(Carriedo Fountain)をバックにした鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 マニラ市サンタ・クルール教会 (Sta. Cruz Church )とカリエド噴水(Carriedo Fountain)をバックにした鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 マニラ市サンタ・クルール教会 (Sta. Cruz Church )とカリエド噴水(Carriedo Fountain)をバックにした鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 マニラ市のカリエド噴水 (Carriedo Fountain)の鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 マニラ市のカリエド噴水 (Carriedo Fountain)前には、中国人街オンビン通に通じるウェルカムゲートがある。
アドゥアーナ/インテンデンシア
Aduana/Intendencia Building
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロス(Intramuros )は、第二次大戦 中に戦禍を被ったが、その跡が保存されている。第二次大戦の1945年、日本軍が籠城し、米軍と攻防戦が繰り広げられた。1942年の日本軍フィリピン上陸の時、米軍はマニラをオープンシティ(無防備都市)とした。その後、米軍はバターン半島に籠城したが、苦戦の末、これを降伏させた日本軍は「バターン死の行進 」と呼ばれるPOW(戦争捕虜)虐待 事件を起こした。1945年、日本軍は海軍を中心にマニラに残留し、マニラを死守しようとした。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロス(Intramuros )には、1945年、太平洋戦争 末期、日本軍の海軍部隊などが籠城し、米軍と戦った。その跡が、ところどころに保存されている。
マニラ市イントラムロスの税関/銀行建築物は、アドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)ともよばれる。1823年に税関として建設が開始された1829年に新古典主義(ネオ・クラシック:Neo-Classical tradition)の石造りの大型建築物として完成した。20世紀に入ると、中央銀行(Central Bank)としても使用さた時期もある。しかし、第二次大戦での戦禍を受けた。戦後、1979年には大火災に見舞われ放置された。しかし、1997年にイントラムスの復元の一環で、Aduana(アドゥアーナ)も整備、保管されることになった。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building )あるいはインテンデンシア(Intendencia Building )。
マニラ市 イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building )あるいはインテンデンシア(Intendencia Building )。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building )あるいはインテンデンシア(Intendencia Building )。第二次大戦の戦禍で破壊されている。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)。第二次大戦の戦禍も残る。鳥飼ゼミナールは、スペイン衛兵の服装をしたフィリピン警察と一緒に記念撮影させていただいた。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)。第二次大戦の戦禍が残されている。第二次大戦時の砲弾跡(弾痕)のある個所を確認した鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)。第二次大戦の戦禍、弾痕が残されている。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)には、第二次大戦の砲撃・爆撃の戦禍の跡が残っている。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)前でスペイン衛兵姿のフィリピン警察と記念撮影していただいた鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building )あるいはインテンデンシア(Intendencia Building )前でスペイン衛兵姿のフィリピン警察と記念撮影していただいた鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)前でスペイン衛兵姿のフィリピン警察と記念撮影していただいた鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスのマニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)には、第二次大戦の砲撃・爆撃の戦禍の跡が残っている。
マニラ市イントラムロスのマニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)には、第二次大戦の砲撃・爆撃の戦禍の跡が残っている。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building )あるいはインテンデンシア(Intendencia Building )の案内板。
マニラ市イントラムロスに残されている税関/銀行建築物のアドゥアーナ(Aduana Building)あるいはインテンデンシア(Intendencia Building)窓や扉には、鉄格子が取り付けられている。
マニラ市イントラムロスの地図
イントラムロスの戦禍
Altar
マニラ首都圏 マニラ市にある第二次大戦のマニラ市街戦追悼碑。
サンチアゴ要塞(Fort Santiago )、その周囲にあった壕は埋め立てられて、名門ゴルフクラブ「クラブ イントラムロス 」になっている。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロス(Intramuros )にある第二次大戦のマニラ市街戦追悼碑。
メトロレール (Manila Metro Rail Transit :MRT)、ジプニー(Jeepney )を乗り継いで、カリエドから行くことができる。フィリピンの自家用車 は日本ほど多くはない。公共交通機関が発達しているので、自家用車がなくとも不便はない。
マニラ市イントラムロス(Intramuros )の第二次大戦のマニラ市街戦追悼碑。
マニラ市イントラムロス 2013年8月の鳥飼ゼミ外国研修では、マニラ首都圏(Metro Manila )にある第二次大戦のマニラ市街戦追悼碑を訪れた。
マニラ大聖堂(カテドラル) Catedral
マニラ首都圏(Metro Manila )イントラムロス(Intramuros )にあるマニラ大聖堂( Manila Cathedral )。
ucanews.com(Manila Cathedral to reopen after two years )によれば、マニラ大聖堂の大改修には2年間かかるといっていた。
Cardinal Luis Antonio Tagle, archbishop of Manila, said restoration work on the prime basilica of the Philippines will continue until next year, but the church will reopen by December.
“The workers said they will try to finish it by December, at least the interior, but restoration work to the exterior will continue,” Tagle said. “Let us pray that it will be fulfilled,” he added.
The Manila Cathedral, known formally as the Cathedral Basilica of the Immaculate Conception, closed its doors in February 2012 for major repairs. A detailed survey showed the cathedral was unstable due to soil liquefaction, causing cracks in the walls and ceilings.
Construction experts sounded the alarm and warned of a possible collapse should a strong tremor strike Manila.
The survey also showed signs that groundwater was seeping into the church flooring, which darkened the marble in some places.
Having also found other problems, including damaged pipes, more than P64 million ($US1.5 million) was raised for repairs to the historic church, located in the heart of Manila’s old Intramuros district. Last December, Tagle himself staged a concert that raised P14 million ($325,000) for renovation work on the 54-year old structure.
“Other problems were also found as the renovation was ongoing and so we decided to just have them all fixed,” Tagle said.
“It’s hard if you just fix some parts and then close it again later for repair,” he added.
Since the renovation started, the cathedral had been closed to Masses, baptisms, weddings and other services. The cathedral was originally built in 1581 but has been destroyed and rebuilt several times due to fire, quakes, typhoons and bombings in World War II.
マニラ首都圏 マニラ市イントラムロス(Intramuros )にあるマニラ大聖堂(Manila Metropolitan Cathedral-Basilica)。
周囲は、住宅街 ではなく、行政・商業・高等教育地区で、落ち着いた雰囲気で、観光客も多い。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロス の大聖堂内部。カトリックの日曜礼拝が行われていた。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス(Intramuros )のにあるマニラ大聖堂(Manila Metropolitan Cathedral-Basilica)内部。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス にある1581年創建のマニラ大聖堂( Manila Cathedral )。現在、2年間かけて修復作業が行われた。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス(Intramuros )の大聖堂前の鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス(Intramuros )の大聖堂前の鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏 のマニラ市イントラムロス (Intramuros)のにあるマニラ大聖堂( Manila Cathedral )前の鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスの大聖堂(カテドラル)。
マニラ市イントラムロスの大聖堂(カテドラル)から自動車で運び出される聖像。修理・修復のために、カテドラルから工房に運搬されていた。
マニラ市イントラムロスの大聖堂(カテドラル)から自動車で運び出される聖像。修理・修復のために、カテドラルから工房に運搬されていた。
カサ・マニラ博物館
Casa Manila Museum
マニラ市イントラムロス(Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラは、スペイン統治下の16世紀頃に建てられたバロック建築の石造のマンションである。
2016年8月、マニラ首都圏 マニラ市イントラムロス (Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラ博物館」(Casa Manila Museum :カサは家の意味)
マニラ市イントラムロス(Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラ博物館の中庭。
キアポ(Quiapo )地区は庶民的だが、ここは高級である。
マニラ市イントラムロス(Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラ。LRT1号線メトロレール(Light Rail Transit )のカリエド駅を降りるとすぐに市場通りがある。ここをまっすぐに行くとキアッポ教会に至る。ここから北へ行くと、デパートやや土産物屋もあり、日本人にも人気なデビソリア(Divisoria)市場 がある。
マニラ市イントラムロス(Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラ博物館のある中庭で、竹製フレームのレンタサイクルが並んでいた。
マニラ市イントラムロス(Intramuros)のスペイン風邸宅のカサ・マニラ博物館のある中庭で、竹製フレームのレンタサイクルが並んでいた。
サン・アウグスチン教会
San Agustin Church
マニラ首都圏 マニラ市のバロックBaroque様式 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )教会は、ユネスコ世界文化遺産 (Cultural property )。本来は、左右に鐘楼(ベルタワー)があったが、1880年の地震で、左側の鐘楼は破損し撤去された。
スラムバラック とは違って、外国人もひっきりなしに観光にやってくる。
この地区の住宅 には水道がひかれている。政府による社会保障も医療保障 を受けられるような高級公務員、高級軍人・将校も通ってくる。
マニラ首都圏 マニラ市世界文化遺産 (Cultural property )のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の落ちた釣鐘(bell :1829年製造)が教会に展示してあった。2014年8月には、教会の博物館玄関に展示してあったが、移動していた。
マニラ首都圏 マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )に展示してある鋳造された鐘 。重量3.4トン。教会入場は無料だが、隣の教会博物館に入場料が求められる。ミサの時間帯には、正面玄関が解放され、無料で聖堂に入場できる。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の玄関木製彫刻。 マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)は、スペイン統治下、1587年から1606年に建設、マニラのバロック様式教会群 (Baroque Churches of the Philippines )として、世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)で登録されている。フィリピン最古の教会建築である。
マニラ首都圏 マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の玄関木製彫刻。
マニラ市をはじめとする17の行政地域の集合がメトロマニラ(マニラ首都圏)。マニラ市世界遺産 (Cultural property )サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の玄関の両脇に置かれた狛犬。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の玄関の両脇に置かれた狛犬。教会は、ユネスコの世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に登録されている。
サン・アグスチン教会
San Agustin Church
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の玄関から礼拝堂内部へ。日曜礼拝・ミサの最中だった。
ミランダ広場(Plaza Miranda )のキアポ(Quiapo )教会は、新しく庶民的だが、ここは格調高い装飾である。
マニラ市世界遺産 (Cultural property )((San Agustin Church)の礼拝堂。 スペイン統治下の1587年〜1606年に建てられたバロック建築の石造の教会で、世界遺産に登録されたマニラのバロック様式教会群(Baroque Churches of the Philippines)4教会の一つ。 サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )は現存するキリスト教会としては、フィリピン最古の教会建築である。
マニラ市 でバロック様式教会群 (Baroque Churches of the Philippines )として登録されているサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の玄関から礼拝堂中央のドーム。
マニラ市http://www.phtourguide.com/san-agustin-church-in-intramuros-manila/">サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の礼拝堂のドーム天井。
マニラ市 世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の玄関から礼拝堂内部。中庭のある回廊に続くゲートには、鉄格子があり1866年の記章が入っている。
マニラ市サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の礼拝堂奥の主祭壇。ユネスコの世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年登録された。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の礼拝堂内部に入った鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)はユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)に登録されている。その礼拝堂内部の鳥飼ゼミナール。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の礼拝堂。
世界遺産条約は、普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを、人類のための次世代まで遺産として保全し、そのための国際協力をすることを目的としている。世界遺産は、観光化、経済振興、いわんや商店街やホテル業・旅行業の活性化のためのものではない。1972年にユネスコ総会で採択されが、日本は、この条約の保全の趣旨を理解できす、企業も観光による営利、商業化を優先してきた。世界遺産として保全すべきだとの認識を以って、世界の文化遺産及び自然遺産の保護の分野における国際協力に寄与する決意をしたのは遅かった。日本が世界遺産条約を批准したのは、なんと1992年になってである。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)は、1993年に世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に登録された。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)主祭壇。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)。
マニラ首都圏 (Metro Manila )中央部のマニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )主祭壇聖堂。
マニラ首都圏マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )礼拝堂の1866年製造の鉄格子。
マニラ首都圏マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )。処刑されるために十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうイエス・キリスト。
キアポ市場 ミランダ広場(Plaza Miranda )には、カトリックのブラックナザレ聖堂(The Minor Basilica of the Black Nazarene )のモダンな様式とは異なったバロック様式である。
教会内部の墓所
Cemeteries
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の墓所。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の墓所。
教会の博物館 San Agustin Church Museum
マニラ首都圏マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の聖母子像。聖堂脇の博物館には歴史ある聖像、宝物、陶器、家具、絵画などが展示されている。
マニラ首都圏 (Metro Manila )中央部のマニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )に展示してある帆船ガレオン船 (Galleon )の模型。スペインは、メキシコのアカプルコの港を拠点に、フィリピンとの間で交易をしていた。これは、季節風を利用した帆船のガレオン船 (Galleon )で物資を箱ぷ物で、ガレオン貿易とも呼ばれる。季節風を利用するので、半年以上かかる場合が多く、年1回程度しか、マニラ=アカプルコ間を交易できなかった。ガレオン船 (Galleon の交易品は、中国からマニラにもたらされた陶磁器(セラミック)、生糸・絹織物などである。その代金は、メキシコ産の銀(メキシコ銀)でアカプルコからマニラに搬送された。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館の展示を眺める鳥飼ゼミナール。
サンアウグスチン教会図書館
Library
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の図書館。サン・アグスチン教会(San Agustin Church)は、1993年に世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に登録されている。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の図書館。世界遺産条約は、普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを、人類のための次世代まで遺産として保全し、そのための国際協力をすることを目的としている。世界遺産は、観光化、経済振興、商店街やホテル業・旅行業の活性化のためのものではない。1972年にユネスコ総会で採択されが、日本は、この条約の保全の趣旨を理解できす、企業も観光による営利、商業化を優先してきた。世界遺産として保全すべきだとの認識を以って、世界の文化遺産及び自然遺産の保護の分野における国際協力に寄与する決意をしたのは遅かった。日本が世界遺産条約を批准したのは、1992年と遅い。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の図書館。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の図書館。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の図書館。
サンアウグスチン教会の医療
Medical Care
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の薬草の標本。薬草の形状が具体的に描写されている。薄暗い中で原色図が退色しないように保管されている。教会は、世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年登録されている。
マニラ市世界文化遺産スペイン風バロック様式のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の図書館。世界遺産条約は、普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを、人類のための次世代まで遺産として保全し、そのための国際協力をすることを目的としている。世界遺産は、観光化、経済振興、商店街やホテル業・旅行業の活性化のためのものではない。1972年にユネスコ総会で採択されが、日本は、この条約の保全の趣旨を理解できす、企業も観光による営利、商業化を優先してきた。世界遺産として保全すべきだとの認識を以って、世界の文化遺産及び自然遺産の保護の分野における国際協力に寄与する決意をしたのは遅かった。日本が世界遺産条約を批准したのは、1992年と遅い。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の薬草を保管するビン。神聖ローマ帝国 (Holy Roman Empire )の双頭の鷲の紋章が入っている。
マニラ市世界文化遺産スペイン風バロック様式のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の薬草を粉末処理する乳鉢 (Mortar )と乳棒 (Pestle )。
教会内部の石階段
Stone Steps
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。 スペイン統治下の1587年〜1606年に建設されたサン・アグスチン教会は、バロック様式のカトリック教会で、マニラのバロック様式教会群(Baroque Churches of the Philippines)として、世界遺産に登録されている。現存するキリスト教会としては、フィリピン最古。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。世界遺産条約は、普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを、人類のための次世代まで遺産として保全し、そのための国際協力をすることを目的としている。世界遺産は、観光化、経済振興、商店街やホテル業・旅行業の活性化のためのものではない。1972年にユネスコ総会で採択されが、日本は、この条約の保全の趣旨を理解できす、企業も観光による営利、商業化を優先してきた。世界遺産として保全すべきだとの認識を以って、世界の文化遺産及び自然遺産の保護の分野における国際協力に寄与する決意をしたのは遅かった。日本が世界遺産条約を批准したのは、1992年と遅い。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産、スペイン風バロック様式のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の階段。 この教会は、ユネスコ世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年登録されている。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の階段。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産スペイン風バロック様式のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の階段。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市世界文化遺産スペイン風バロック様式のサン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の階段。
教会の博物館 Ceramics
マニラ首都圏マニラ市マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会 (San Agustin Church )の柿右衛門様式 の輸出用陶磁器 (フィリピン輸入品)。教会入場ではなく教会博物館に入場料が求められる。ミサの時間帯に、ミサの時間帯には、正面玄関が解放され、無料で聖堂に入場できる。 Some of the things worth taking a look at are the pottery and jar collection which were donated to the church and porcelain room containing excavated artifacts from the San Agustin complex .
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館 (San Agustin Church Museum )に展示された陶器類。 スペインの帆船ガレオン船 (Galleon )による交易の対象となった。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )のフィリピン製と思われる輸出用壺 。 コロンブスのサンタ・マリア号などでよく知られているカラック船は、マストの数は3〜4本、横帆と縦帆を備え、貨物の積載容量も大きいガレオン船 (Galleon )へと発展した。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された日本風の陶器類。 貿易に使われた帆船ガレオン船 (Galleon )は、日本も建造した。これがサン・ファン・バウティスタ号 (San Juan Bautista )で、仙台藩・伊達政宗が江戸時代にスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノの助けを得て建造した。総トン数500トンで、書初回航海は、月浦からメキシコのアカプルコへ向けた航海で、アカプルコからは、浦賀に到着している。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された日本風の陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された日本風の陶器類。 貨物の積載容量が大きいガレオン船 (Galleon )は、メキシコのアカプルコからメキシコ銀を運び、中国製や日本製の磁器(セラミック)と交易された。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された磁器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された極東の輸出用磁器。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された極東の輸出用磁器。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された陶器類。サン・ファン・バウティスタ号 (San Juan Bautista )のようなガレオン船 (Galleon )によって交易対象となった。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)では、中世中国の沈没船かガレオン船 (Galleon )の積み荷だった陶器を海底から派遣している。それをイメージさせる中国陶器の展示。大量の貨物を積み込むことのできるガレオン船 (Galleon )は、メキシコのアカプルコからメキシコ銀を運び、それを代金に中国製や日本製の陶器を購入、スペインに持ち帰った。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)では、中世中国の沈没船の積み荷だった磁器を海底から派遣している。それをイメージさせる中国陶器の展示。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された磁器。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館(San Agustin Church Museum)に展示された中国製磁器。 スペインの帆船ガレオン船 (Galleon )によって、メキシコのアカプルコに運ばれた磁器の代金は、メキシコ銀で支払われた。
教会の構造 Structure
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の構造。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の構造。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の建設に用いられた建設機材。高い位置に据え付けて、重い石やレンガを滑車を使って、上層部に引き上げる。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の建設に用いられた建設機材。高い位置に据え付けて、重い石やレンガを滑車を使って、上層部に引き上げる。この滑車が2台残され展示されていた。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の建設に用いられた建設機材。高い位置に据え付けて、重い石やレンガを滑車を使って、上層部に引き上げる。この滑車が2台残され展示されていた。
教会の中庭(パティオ) Patio
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の中庭(パティオ)と周囲の回廊(Ground Floor Hallway )。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会博物館 (San Agustin Church Museum )中庭。サン・アグスチン教会は、スペイン統治下、1587年から1606年に建設されたバロック様式のカトリック教会。マニラのバロック様式教会群(Baroque Churches of the Philippines)として、世界遺産に登録された、フィリピン最古の教会建築。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の中庭。 この教会は、ユネスコ世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年登録されている。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭。
マニラ市のユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage :Cultural Property)サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水maeno 鳥飼ゼミナール。
マニラ市ユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage :Cultural Property)サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水と鳥飼ゼミナール。
マニラ市中心部にあるユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水。この教会は、ユネスコ世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年登録されている。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)の噴水。
マニラ市マニラ市中心部にあるユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)指定のサン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)は周囲を回廊に囲まれている。
教会の回廊 Claustro(Cloister)
マニラ市マニラ市にあるユネスコ世界遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)周囲の回廊。スペイン統治下、1587年から1606年に建設されたサン・アグスチン教会は、バロック様式のカトリック教会で、フィリピン最古の教会建築である。マニラのバロック様式教会群(Baroque Churches of the Philippines)として、世界遺産に登録されている。
ユネスコ世界遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)に登録されているサン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)周囲の回廊。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)周囲の回廊。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)周囲のClaustro(Cloister)。この教会は、ユネスコ世界遺産条約 (Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage :「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」−1972年採択,1975年発効)に1993年バロック様式教会群 (Baroque Churches of the Philippines )として登録されている。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭(パティオ)周囲の回廊Claustro(Cloister)。世界遺産条約は、普遍的な価値を有する遺跡や自然地域などを、人類のための次世代まで遺産として保全し、そのための国際協力をすることを目的としている。世界遺産は、観光化、経済振興、いわんや商店街やホテル業・旅行業の活性化のためのものではない。1972年にユネスコ総会で採択されが、日本は、この条約の保全の趣旨を理解できす、企業も観光による営利、商業化を優先してきた。世界遺産として保全すべきだとの認識を以って、世界の文化遺産及び自然遺産の保護の分野における国際協力に寄与する決意をしたのは遅かった。日本が世界遺産条約を批准したのは、なんと1992年になってである。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲の回廊。
ユネスコ世界遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)に登録されているサン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲のClaustro(Cloister)。
スペイン統治下、1587年から1606年に建設された世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲の二階Claustro(Cloister)。サン・アグスチン教会は、バロック様式のカトリック教会で、フィリピン最古の教会建築である。マニラのバロック様式教会群 (Baroque Churches of the Philippines )として、世界遺産に登録されている。
マニラ市イントラムロスで、ユネスコ世界遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)にバロック様式教会群 (Baroque Churches of the Philippines )として登録されているサン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲の二階回廊。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲の二階回廊Claustro(Cloister)。 マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の中庭周囲の二階回廊Claustro(Cloister)。
サン・アグスチン教会博物館 Museum
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスのサンアウグスチン教会はユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)に登録されている。その併設する博物館には、スペインアンティーク (Antique )椅子があり、神聖ローマ帝国の双頭の鷲の紋章が入っている。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の椅子の背もたれ(双頭の鷲の紋章)。1496年カスティーリャ・レオン王国の女王イザベラとアラゴン王子フェルナンドの子供たちは、ハスプブルグ家王子マクシミリアン、ブルゴーニュ家公女マリーの家系に嫁いでいる。その血縁のため神聖ローマ帝国 (Holy Roman Empire )皇帝カール5世はスペイン王の地位を引き継ぎ、カルロス1世としてスペイン王に即位した。そこでスペインもハプスブルク家・神聖ローマ帝国 (Heiliges Römisches Reich )と同じ「双頭の鷲」も紋章を採用する。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )に保管されているアンティーク家具 (Antique Funiture )の木製ベンチ。背もたれには、双頭の鷲の紋章が入っている。神聖ローマ帝国 (Holy Roman Empire )・ハプスブルク帝国の皇帝が双頭の鷲を紋章としたが、神聖ローマ皇帝カール5世は統一スペインのカルロス1世も兼任し、トレドを最初の首都とした。そこで、トレドの紋章は神聖ローマ帝国の「双頭の鷲」となった。カルロス1世退位後スペイン王に即位したのが息子フェリペ2世で、彼が1561年にマドリードに遷都した。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )に展示されているスペイン統治時代のアンティーク家具 。椅子の背もたれ。
マニラ市サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館二階に展示されているスペイン統治時代のアンティーク家具 (Antique Funiture )。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の博物館を見学した鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館展示のアンティーク家具 (Antique Funiture )を見学した鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館二階。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館を見学した鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の博物館を見学した鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロス世界文化遺産 サン・アグスチン教会(San Agustin Church )の椅子とテーブル。象嵌細工が施されている。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館の棚。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。象嵌を施された箱。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。象嵌を施された箱。
マニラ市イントラムロスのサン・アグスチン教会(San Agustin Church)はユネスコ世界文化遺産 (UNESCO World Heritage Site :Cultural Property)に登録されている。その併設博物館にある象嵌を施された箱。材質は堅い木製で、マホガニーのようである。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。安楽椅子。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。アンティーク家具 (Antique Funiture )調度品。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。アンティーク家具 (Antique Funiture )調度品の展示室。
マニラ市サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館二階に展示されているスペイン統治時代の宗教画。聖母マリア。
マニラ市サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館二階に展示されているスペイン統治時代の宗教画。グアダルーペ (Guadalupe )。メキシコのものが有名。
マニラ市サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館二階に展示されているスペイン統治時代の聖人木像。
サン・アグスチン教会博物館 Museum
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。宗教画の展示室。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。十二使徒の一人 イスカリオテのユダ (Judas Iscariot )は、イエスをローマ帝国官憲に売った。当時、ユダヤ人はローマ帝国の版図にある植民地だった。ローマ帝国では、救世主を自称し皇帝の権威をないがしろにするもの、ユダヤの王のように民族独立運動を起こすものは「反逆者」/犯罪者とみなされる。イスカリオテのユダ (Judas Iscariot )は、大祭司の僕(しもべ:官憲)に、私が口づけしたものがイエスだ、と告げてイエスを逮捕させた。ペテロは剣をふるって抵抗し、大祭司のしもべ(僕)の耳を切り落としたが、イエスは弟子たちに抵抗しないように諭した。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。イスカリオテのユダ (Judas Iscariot )に銀貨30枚で裏切られたはイエスは、ローマ総督(代官)ポンティオ・ピラト (Pontius Pilate )による取り調べを受け、拷問を受け、頭に茨の冠をはめられ辱められた。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。ローマ総督(代官)ポンティオ・ピラト (Pontius Pilate )はイエスに罪を認めなかったが、パリサイ人の反感を買うことを恐れて、結局、イエスを特赦することもせず、処刑することに同意してしまう。処刑が決まったイエスは、磔のためにゴルゴダ (Golgotha )の丘まで、十字架を背負って歩くことを命じられる。聖母マリア (Mary the Mother of Jesus )たち、女性信徒はイエスを心配し悲嘆にくれて見守っている。しかし、十二使徒など男性信徒は、イエスに関わっていることが知れれば処罰されてしまうと恐れて、イエスを見放して、遁走した。一晩のうちに、弟子のペトロには、エルサレムの住民に、三回もイエスの弟子だったろう、と尋ねられたが、「自分はイエスなど知らない」と三回も嘘をついて逃げ切った。イエスは、イスカリオテのユダ (Judas Iscariot )の裏切りを予言しただけでなく、逮捕前、ペテロに「お前は三回私を知らないと言う」と予言していた。この時、ペテロは、そんなことは絶対ありません、あなたに従います、と信仰を誓ったのにもかかわらず。このペテロが、教会を立ち上げ、初代ローマ教皇(法王)とみなされる。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)博物館。周囲の男たちは、救世主なら自分を救ってみろ、ユダヤの王万歳、などと叫んで、ゴルゴダ (Golgotha )の丘に向かうイエスを冒涜して楽しんだ。憔悴していたイエスを見かねたヴェロニカ (Veronica )は、駆け寄ってイエスの顔をハンカカチーフで拭った。するとそのハンカチにイエスの顔が現れた。イエスが逮捕され、処刑されるとなると、使徒の男たちですら後難を恐れてイエスから離れてしまっていた。そんな時、イエスに従っていたのはヴェロニカ (Veronica )のようなか弱い女性たちだった。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。処刑が決まったイエスは、磔になるためにゴルゴダの丘 (Golgotha )まで、十字架を背負って歩いた。しかし、憔悴したイエスはもはや「ヴィア・ドロローサ (Via Dolorosa )(悲しみの道)」のすべてを自ら重い十字架を背負い歩くことはできなくなる。ローマの兵士は、イエスに代わって、見物していたクレネ人シモンに十字架を運ぶように命じた。シモンは「十字架を背負う」とは、自分には関係がない人のために重荷を負うことと悟った。イエスは人を救うために自ら死を選んだ。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。処刑場所はエルサレム城壁の外にあるカルバリの丘(ヘブル語ではゴルゴタの丘)。そこまでの道は現在「ヴィア・ドロローサ (Via Dolorosa )(悲しみの道)」と呼ばれている。ゴルゴダで十字架磔にされるイエスは着物を全てはぎとられ、籤(くじ)引きでローマ兵士たちがぶんどってしまう。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産 (Cultural property )サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。聖母マリア (Mary the Mother of Jesus )らが見守る中、ゴルゴダの丘で苦しんだ挙句、イエスは十字架の磔刑によって殺された。その時、真っ暗になり、雷鳴が轟いた。エルサレムの神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けた。それまで一般人が入れなかった至聖所を隔てる幕が裂けたことで、誰もが福音に与ることができるようになった。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。宗教画を見た鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。宗教画を描いた木製扉。
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。宗教画を描いた木製扉
マニラ市イントラムロス世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church )博物館。
サンアウグルチン教会博物館
Stone Steps
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)は、スペイン統治下、1587年から1606年に建設された。マニラのバロック様式教会群(Baroque Churches of the Philippines)として、世界遺産に登録され、フィリピン最古の教会建築である。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の鳥飼ゼミナール。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)。
マニラ市世界文化遺産サン・アグスチン教会(San Agustin Church)の鳥飼ゼミナール。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の博物館入口。
マニラ市イントラムロス世界遺産サンアウグスチン教会の博物館入口の鳥飼ゼミナール。
サンチアゴ要塞 Fort Santiago
マニラ首都圏 マニラ市イントラムロス (Intramuros )のサンチアゴ要塞 (Fort Santiago)の大手門。スペインによって、1589年から石垣の砦・要塞が建設され、1592年に竣工。その後、1606年に石垣で市街地(64ヘクタール)を囲ったイントラムロスとなった。
イントラムロスには、LRT(ライトレールトランジット) とジープニー (Jeepney )を乗り継いで行くことができる。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市 イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )大手門。サンチャゴ要塞は、旧市街イントラムロスの北端、パシグ河畔にある16世紀に作られたスペインの軍事施設である。その後、スペインを支配したアメリカ、日本もここを利用した。
スペインは、マニラに1589年から石垣で囲んだサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )の建設に着手。ここはその大手門にあたる。1592年竣工。その後、石垣は、市街地(64ヘクタール)を囲むように拡張され、イントラムロス(Intramuros)となった。
マニラ市イントラムロス 、サンチアゴ要塞(Fort Santiago )の城壁。
19世紀になると、大砲の威力が大きくなり、中世の城とは異なり、城壁は低く、厚みを増して、砲撃にも耐えられるようになった。また、城壁上に大砲を馬で曳き上げてすえつけられるように、城壁内側に、スロープを設けてある。スペイン時代の石垣には、第二次大戦末期のマニラ市街戦の戦禍の跡が残っている。
サンチアゴ要塞 Fort Santiago
マニラ首都圏(Metro Manila )、1589年建設のサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )の内部。ここには、観光用の馬車がある。中国人街(China Town )のビノド、オンビンの通り近くにも馬車(カレッサ )があるが、そこよりも観光地らしい豪華な形である。馬車はフィリピン語でカレッサ と呼ばれて、観光だけでなく、日常生活に使われている。
マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )。この監獄に幽閉されていたホセ・リサール(Jose Rizal )は、1896年12月、叛徒の首謀者として刑場で銃殺、処刑された。35歳だった。 ホセ・リサール (Jose Rizal )は、マドリード大学などヨーロッパで学び、医師となったが、スペインを批判した小説『ノリ・メ・タンゲレ 』(Noli me Tangere :私に触れるな、の意)を発表した。 そして、スペインからフィリピンに帰国し、フィリピン人の民族的独立を促そうとしたが、宗主国への反乱を心配するスペイン側に危険人物とみなされた。
マニラ首都圏 マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )に、ホセ・リサール(Jose Rizal )は監禁されていた。そのことを記念するプレート。
マニラ首都圏 (Metro Manila )イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago)の最奥、コアにあたる場所にホセ・リサール (Jose Rizal )祈念館がある。
サンチアゴ要塞(Fort Santiago)のホセ・リサール (José Rizal )祈念館付近からは、パシグ川が見渡せる。
サンチアゴ要塞(Fort Santiago)のホセ・リサール (José Rizal :1861-1896)祈念館付近からは、パシグ川が見渡せる。
サンチアゴ要塞(Fort Santiago)のホセ・リサール(Jose Rizal)祈念館付近からは、パシッグ川 (Pasig River )が見渡せる。
フィリピン Philippinesマニラ首都圏 のイントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago)の弾薬庫入口。牢獄ともなり第二次大戦中は、抗日活動容疑者が収監されていたという。
ホセ・リサール は、1888年2月、横浜を経由して、ヨーロッパに亡命。その後、1892年6月、ひそかに帰国し、翌月、フィリピン民族同盟 (ラ・リガ・フィリピナ:La Liga Filipina )を結成し、フィリピン人自身の民族的自覚を促しフィリピン自治を求めようとしたが、逮捕され、しばらくして処刑される。サンチアゴ要塞は、重要性自販の監獄として機能していた。ホセ・リサール (José Rizal :1861-1896)もここに囚われていたが、1896年12月30日、スペイン軍によって銃殺刑に処せられた。
マニラ首都圏(Metro Manila )イントラムロス 、サンチアゴ要塞(Fort Santiago )の地下牢獄。以前は入場できたが、危険なため、現在は立ち入り禁止。 Used by the Japanese military, after they captured Manila, numerous Filipino and American prisoners were tortured and executed in the infamous dungeons . Some reports estimate that as many as 2500-3000 Filipinos were executed in Intramuros and Fort Santiago during the last days of Japanese occupation.
リサール祈念館 Rizal Shrine
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市のサンチアゴ要塞(Fort Santiago )にあるリサール祈念館 は改修中だったが、要塞内の見物が臨時祈念館として開館している。そこに展示してある瀟洒な椅子。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館に展示してある、ホセ・リサール (Jose Rizal )のタイプライター収納ケースと椅子。
ホセ・リサール (Jose Rizal )は、マニラのサントトマス大学(University of St. Thomas )を経て、1882年、マドリッド大学(University of Madrid)を卒業。5年間、ヨーロッパに滞在した。1886年、ハイデルベルク大学(University of Heidelberg)で医学を学び、小説『ノーリー・メー・タンゲレ 』(Noli me Tangere )を刊行し、フィリピンのカトリック教会を批評した。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市のサンチアゴ要塞のホセ・リサール (Jose Rizal )祈念館の「オセイさん 」肖像画。フィリピン宗主国スペインを批判したため危険人物とされた医師で作家のホセ・リサール (Jose Rizal )は、1888(明治21)年2月、ヨーロッパ亡命の途上、横浜に立ち寄った。そのとき「オセイサン」(臼井勢似子 )と会い、愛人とした。しかし、リサールは彼女を日本に残したまま、ヨーロッパに一人旅だった。
1892年、ホセ・リサール(Jose Rizal )は、ヨーロッパからひそかに帰国しホセ・リサール (ラ・リガ・フィリピナ:La Liga Filipina )を結成、フィリピン自治の基盤づくりを目指したが、逮捕、処刑される。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )、リサール祈念館 は改修中だったが、要塞内の見物が臨時祈念館として開館している。ホセ・リサール (Jose Rizal )所縁のテーブル。
ホセ・リサール (Jose Rizal )は、小説『ノーリー・メー・タンゲレ 』(Noli me Tangere )の作者でフィリピン独立のヒーロー。
マニラ首都圏のマニラ市 (Manila City )イントラムロスのサンチアゴ要塞 (Fort Santiago)のホセリサール(Jose Rizal )博物館にある時計。
パシグ川 Pasig River
マニラ のイントラムロス 、サンチアゴ要塞(Fort Santiago )からみたパシッグ川 (Pasig River )。
マニラ市イントラムロス のサンチアゴ要塞(Fort Santiago )
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール (Jose Rizal )祈念館前からみたパシッグ川 (Pasig River )。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール (José Rizal )祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール (José Rizal )祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川 (Pasig River )。
マニラ市のサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。1521年3月17日、マゼランがフィリピンに到達し、1565年には、スペイン領メキシコ総督府がミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いる
スペイン軍をセブに派遣した。レガスピは北進し、1571年にはマニラを支配する。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ市のサンチアゴ要塞 (Fort Santiago )、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川(The Pasig River)。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川 (Pasig River )。
マニラ首都圏マニラ市のサンチアゴ要塞、ホセ・リサール祈念館前からみたパシッグ川。
サンチアゴ要塞の大砲 Gun
マニラ首都圏(Metro Manila )サンチアゴ要塞に展示してある19世紀の大砲 (Gun )、砲弾(shell)、米軍の航空機用爆弾(右手前)。
マニラ首都圏(Metro Manila )サンチアゴ要塞に展示してある近世の大砲 (Gun )。砲弾は、近代の榴弾。
マニラ首都圏(Metro Manila )サンチアゴ要塞に展示してあるスペイン軍の大砲 (Gun )。
マニラ首都圏(Metro Manila )サンチアゴ要塞に展示してある19世紀の大砲 (Gun )Old Spanish guns, Philippines。
サンチャゴ要塞に展示してある大砲と砲弾を眺める鳥飼ゼミナール。
サンチャゴ要塞に展示してある大砲と砲弾の重量を体感する鳥飼ゼミナール。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の大手門を入ると19世紀の臼砲と砲弾が残っている。
サンチャゴ要塞に展示してある大砲。後方は、第二次大戦末期のマニラ市街戦による砲弾跡(弾痕)の残るコンクリートビル。
第二次大戦の戦禍
World War 2
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の建物。第二次大戦の1945年、日本軍が籠城し、米軍と攻防戦が繰り広げられた。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の建物。第二次大戦の1945年、日本軍が籠城し、米軍と攻防戦が繰り広げられた。
1942年、日本軍がフィリピン上陸の時、米軍はマニラをオープンシティ(無防備都市)としたが、バターン半島 に籠城したが、日本軍の激しい攻撃を受け降伏した。その後、1944年に米軍がフィリピンレイテ島 に、1945年にルソン島に上陸し、日本軍との激闘が始まった。
マニラ首都圏(Metro Manila )マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の建物。第二次大戦、1945年の日米攻防戦 の時の砲弾の跡が残っている。
サンチャゴ要塞に残る第二次大戦下、アメリカ軍の砲撃を受けたビル(日本軍が使用)の残骸。
サンチャゴ要塞に残る第二次大戦下、アメリカ軍の砲撃を受けたビル(日本軍が使用)の残骸。
サンチャゴ要塞に残る第二次大戦下、アメリカ軍の砲撃を受けたビル(日本軍が使用)の残骸。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の大手門を入ると19世紀の臼砲と第二次大戦中の弾痕を残すコンクリート建造物が残っている。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の大手門を入ると19世紀の臼砲と第二次大戦中の弾痕を残すコンクリート建造物が残っている。
サンチアゴ土産物屋
Souvenir Shop
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の土産物屋。
サンチアゴ要塞 Fort Santiago
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の再建された大手門。 マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の再建された大手門。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の大手門。第二次大戦中、大手門をアメリカ陸軍M$シャーマン戦車が突破する写真が残っているが、この城壁はそのまま残されている。現在でも、1945年3月のマニラ市街戦の弾痕が残っている。
マニラ首都圏(Metro Manila)マニラ市イントラムロスのサンチアゴ要塞の大手門。
マニラ市イントラムロス
Intramuros, Manila City
首都圏マニラ市イントラムロスには、観光客を待っている 馬車 (カレッサ:Kalesa ・Calesa)が来ている。キリスト教会(Christian Church )やスペイン風の館もある。
首都圏マニラ市イントラムロスには、観光客を待っている馬車 (カレッサ・Kalesa・Calesa )が走っている。
マニラ市 の馬車 (カレッサ・Kalesa・Calesa )。
トライシクル
Carriedo, Manila City
マニラ首都圏 ケソン市(Quezon City )リテックス、共和国通り(Commonwealth Ave )に沿って、貧困者 も含めて、庶民の市場 ができて賑わっている。色々な野菜、果物が売っていて、売り手と買い手が対面して取引する。
2002年、経営コンサルタントC.K.プラハラード (2002)『ネクスト・マーケット 』で、40億人以上の以上の人々が1日2ドル以下(世帯年収1500ドル以下)で暮らしている貧困者 を対象としたBOP(Bottom of The Pyramid )の概念を提唱し、貧困者 を救済すべき社会的弱者としてではなく、自助努力を続ける意欲的な個人経営体 や起業家 として、あるいは顧客や消費者として認識すべきでると提唱した。
BOPビジネス は、それまで貧困者 に目を向けてこなかった経営者やビジネスマン には革新的な提言だった。開発途上国 の貧困者を、援助対象やソーシャルセイフティネット の対象とする政策的アプローチではなく、ビジネスパートナー あるいは顧客として、互いに経済発展を目指すことを提唱したからである。
マニラ首都圏 マニラ市イントラムロスからカリエドまで、サイドカー付き三輪バイク(Tricycle)に乗った鳥飼ゼミナール。1台に10人乗車。
グリーンツーリズム振興とは、財政負担をして観光客を誘致して、農作物の販売祖促進することだが、庶民の市場では、様々なたくさん商品が安く売られている。なぜ、増税して公的経費負担 をして、都市インフォーマル部門 から農産物の市場や露天商 を遊離させ、正規の観光客を呼び寄せなくてはならないのか。
マニラ首都圏(NCR ) マニラ市では路上の民活、都市インフォーマル部門 の活気を見ることができる。このサイドカー付き三輪バイクのトライシクル(Tricycle)も値段交渉をしながら、売り手と買い手が対等の立場で対峙する庶民の乗り物である。
マニラ首都圏 の庶民の市場 にはサイドカー付き三輪バイクのトライシクル(Tricycle)が走っている。庶民の市場 は、キアッポ、バクラランもそうだが、露天商が中核となる。露天商 とは、道路や歩道上に簡易な店を出す零細商人で、常設的に店を出すもの,定期市や縁日に出店するものがある。日本でもフィリピンでも、本来は、露天であっても営業許可 が必要である。しかし、世界、特に開発途上国では、営業許可を得ず、不正規に露天 を営む者の都市インフォーマル部門が主流である。
マニラ首都圏マニラ市イントラムロスからカリエドまでサイドカー付き三輪バイクのトライシクル(Tricycle) に乗ってきた鳥飼ゼミナール。
露天 で、小魚を販売する露天商 。表示してある15 1/2 KALAHATEとは、小魚0.5kg(1/2キログラム)当たり15ペソ(60円)。 マニラ首都圏の庶民的な大規模市場キアッポ 、バクララン と比較して、より安価なものが多く、外国人もまず来ないのが、ここリテックスの市場である。
マニラ市 カリエドにサイドカー付き三輪バイクのトライシクル(Tricycle) で到着した鳥飼ゼミナール。
マニラ市カリエドのサイドカー付き三輪バイクのトライシクル(Tricycle) 。1台に鳥飼ゼミナール10名が乗車して到着した。1人10ペソ。露天 と同じく都市インフォーマル部門 、個人営業なので、売り手と買い手(消費者)が、対等に取引できる。
21世紀に入って、SNS (ソーシャルネットワーキングサービス )などソーシャルメディアが普及し、その利用が盛んになる中で、若者から働き盛りのものまで、コミュニケーション行動が単純化し、従前の対面コミュニケーション や礼儀 を伴わない非人的コミュニケーションが選択される傾向が強まった。これは、機械親和的なコミュニケーションであるが、SNSを通じた絆 が新たに強化されることも意味している。コミュニケーションの幅を著しく狭まった半面、SNSによりその頻度は膨大になった。これは、市場における需要者と供給者の取引についてもあてはまる。ソーシャルネットワーキングサービス による取引が盛んになったために、コミュニケーション行動と密接な関係を持つサービスの形態も変化した。
マニラ首都圏 ケソン市(Quezon City )リテックス、庶民の市場 のココナツの殻。果肉のコプラを削って絞れば、ココナツオイル を採油できる。ココナツの殻は、油を含んでいるので燃えやすく、薪の焚き 付けに重宝する。
マニラ首都圏 ケソン市(Quezon City )リテックスの裏通りは住宅地。パヤタスのごみ集積場からは遠いが、市場のごみから有価物のPET、段ボール 、ガラス瓶 、プラスチックを集めている世帯にお話を伺った。
マニラ首都圏 ケソン市(Quezon City )リテックスの裏通りは住宅地。パヤタスのごみ集積場からは遠いが、市場のごみから有価物のPET,段ボール、ガラス瓶、プラスチック を集めている世帯にお話を伺った。
マニラ首都圏ケソン市(Quezon City )リテックス市場 。お金を稼ぐために都市インフォーマル部門 (urban informal sector )に雇用機会を見つけるしかない。
マニラ首都圏 (Metro Manila ),ケソン市リテック公設市場 。パヤタスからジプニーで10分離れているリテック市場 の肉類販売 コーナー。貧困者が多いが、ジプニーやトラックが行き交っているので、公共交通機関 には不自由しない。
マニラ首都圏 (Metro Manila ),ケソン市リテック公設市場 の肉販売。公設市場 で指定場所で売る商人は、都市インフォーマル部門の露天商 とは異なる。
東海大学 University
2016年8月、マニラ首都圏マニラ市のサンチアゴ要塞 の鳥飼ゼミナール。マニラ市のバランガイキャプテン、フィリヘルスの診療所、ケソン市 のジャンクショップ店主、労働者、ごみを回収するスカベンジャーへの聞き取り調査も行った。
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◆大学での講義「開発経済学」「環境協力論」「環境政策I」「環境政策II」は、持続可能な開発を、開発途上国、地域コミュニティの視点も含めて、分析する授業です。俗説とは異なる議論も展開しています。持続可能な開発、特に、熱帯林減少、森林適正管理、バイオマスエネルギーについて専門的に知りたい場合は次の著作を参考にしてください。
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『アジア地域コミュニティ経済学 フィリピンの棚田とローカルコモンズ』 (東海大学出版部2015年):政府開発援助、フィリピン財政、棚田の有機農業、バイオマスエネルギーを分析しました。 持続可能な開発、特に、熱帯林減少、森林適正管理、再生可能エネルギーについて専門的に知りたい場合は次の著作を参考にしてください。
『開発と環境の経済学―人間開発論の視点から』 (東海大学出版会):「環境協力論」「開発経済学」「環境政策」のテキストで,難民,軍縮も扱っています。
『環境ネットワークの再構築−環境経済学の新展開』 田中廣滋編(中央大学出版部)の一章を担当しました。
『地球環境政策』 宇沢弘文他編著(中央大学出版部)の一章を担当しました。
『ポスト福祉国家の総合政策−経済・福祉・環境への対応』 丸尾直美編著(ミネルヴァ書房)の一章を担当しました。
『学習漫画 サリバン先生』 (集英社2011年刊行)を監修し解説を書きました。
『写真ポスターから学ぶ戦争の百年−二十世紀初頭から現在』 (青弓社2008年刊行)では、二十世紀の戦争を扱い大量破壊、大量殺戮からプロパガンダまで扱いました。
『写真ポスターから見るナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国』 (青弓社2011年刊行)では、暴力、テロによるナチ党政権奪取と戦争動員を解説しました。
『地域コミュニティの環境経済学−開発途上国の草の根民活論と持続可能な開発』 (多賀出版2007年):少子高齢化・ジェンダー,再生可能エネルギー,熱帯林,廃棄物輸出を分析しました。
『社会開発と環境保全―開発途上国の地域コミュニティを対象とした人間環境論』 (東海大学出版会2002年)と『CRUGE研究叢書 環境ネットワークの再構築 環境経済学の新展開』田中廣滋編 (中央大学出版部2001年)は「草の根民活論」の嚆矢です。
Wikipedia(http://ja.wikipedia.org)の引用
ルソン
I – イロコス地方
北イロコス | 南イロコス | ラウニオン | パンガシナン
II – カガヤン・バレー地方
バタネス | カガヤン | イサベラ | ヌエヴァ・ヴィスカヤ | キリノ
III – 中部ルソン地方
アウロラ | バターン | ブラカン | ヌエヴァ・エシハ | パンパンガ | タルラック | サンバレス
IV-A – カラバルソン地方 バタンガス | カヴィテ | ラグナ | ケソン | リサール
IV-B – ミマロパ地方
西ミンドロ | 東ミンドロ | マリンドゥク | ロンブロン | パラワン
V – ビコール地方
アルバイ | 北カマリネス | 南カマリネス | カタンドゥアネス | マスバテ | ソルソゴン
コルディリェラ行政地域
アブラ | アパヤオ | ベンゲット | イフガオ | カリンガ | マウンテン
マニラ首都圏
マニラ首都圏の行政区画
◆スラム (Slum ) とは、交通・エネルギー・衛生・教育などのインフラが不十分で、都市貧困層の暮らす居住区である。しかし、外見にもかかわらず、そこは、生半可な知識や偏見を抱いた識者が言うように「公共サービスが受けられない」のではないし、「荒廃状態にある状況」とは言い難い。開発途上国の大都市には、どこでもスラム街といっていい地区があるが、そこは貧しいけれども、住民が必死に苦労して生きている場所であり、草の根の民間活力の感じられる場所である。
◆開発途上国 の人口増加と都市化 の進展に伴って、スラム人口 (Slum population )人口は増加傾向にあり、2007年時点で、10億人はスラム居住者であると推測され、国別では、中国 1.7億人、インド 1.1億人、パキスタン2750万人、インドネシア2680万人、フィリピン 2390万人、ブラジル4570万人、メキシコ1180万人、ナイジェリア4530万人、スーダン1550万人などされる。
スラムの特徴として高失業率 があげられるが、これは正確な表現ではない。なぜならスラム住民で、正規の工場労働者、サラリーマン はきわめて少なく、多くは自らが仕事を作り出している状況にあるからである。
スラム街の居住者を中心に貧困者が、少ない元手で自営的に零細な仕事を起こしているのが、都市インフォーマル部門 である。具体的には、食品など材料を安く買って加工したり、小さな袋に分けたりして、露店で売る転売、路上で客を待つ靴磨きや荷物運び、商店やタクシーやバスの客引き、駐車する車の番人など、さまざまな職を自ら生み出している。この特徴は、小規模な元手で行う自営的サービス業という点であり、高失業率 といった主に会社の正規雇用を念頭に置いた概念で図ることはできない。
スラム街の特徴は、都市インフォーマル部門 程度しか雇用機会を提供できないという貧困であるが、だからといって「犯罪や麻薬 、アルコール依存症や自殺などが多発する」というのも誤解である。開発途上国でなくとも、非衛生的な環境であれば、病気、伝染病が蔓延するが、だからと言って、スラム住民が強盗や盗人 に成り下がるということは言えない。
◆開発途上国 のスラム居住者は、農村から押し出され、あるいは都市に惹きつけられた出稼ぎ者や移住者が多く、貧しいながらも貧困から抜け出そうと、都市インフォーマル部門 において、厳しい低報酬の労働にいそしんでいる。また教育に熱心になる傾向も指摘できる。彼らは、農村という地域コミュニティ を引き継いで、都市のスラムにあっても一定の自治的な秩序をもって生活している。環境の悪い町外れなどの未開発の地域に住み着いたとしても、住民相互には、暗黙の了解・契約があり「無秩序 」ではない。
2016鳥飼ゼミ研修報告
大聖堂と戦争の記憶 川 8月7日に行ったのはフィリピンに世界遺産として複数あるカトリック教の大聖堂と戦時中の傷跡が残っている跡地を見学しに行った。自分はフィリピンに大聖堂があること自体知らなかった。さらに世界遺産に登録されていることも知らなかった。日本にも大聖堂はあるが、あまりメジャーに知られていない気がする。日本はやはりキリスト教、カトリック教よりも仏教のほうがメジャーであると思う。だから今回の研修で大聖堂に行けたことは良かったと思う。その後、昼食をはさみ、戦時中の傷跡が残る跡地を見学しに行った。フィリピンは太平洋戦争で日米の戦場になったことで知られているので驚きはしなかったが、規模が大きいことに驚いた。
最初に見学した大聖堂は1つずつ装飾や慣習が違っていた。そのために、各々聖堂内に流れている空気や厳格さに違いがあって、おもしろかった。聖堂ではその聖堂ならではの賛歌があり、決められた礼拝時間に参加者みんなで歌うことになっている。歌っている最中に参加者は聖堂に必ず1人いる司教から白くて薄いせんべいのような食べ物を頂くことができた。これはカトリック教の教会では、聖餐会で使うキリストの体を表している。これを「ホスティア」と言う。ラテン語で「犠牲」を意味する。イエス・キリストが人間の罪を一身に担って十字架にかかって犠牲となった、という意味を毎回思い起こすために、この犠牲(ホスティア)を口に入れる。教会でも美術展のように芸術品が陳列されていた。芸術品にはヨーロッパ系のものからアジア系のものもあった。 戦時中に多数の国が入り乱れたことが理由になっていると思う。教会の中庭は緑に囲まれており、きれいな場所だった。全部を見ることで1時間弱は見てたと思う。それだけ中身が濃い教会だった。教会の次に戦争の傷跡が残る跡地を見学しに行った。そこは跡地というより公園みたいな広さだった。建物や門に銃弾の痕が生々しく残っており、これだけでも戦争の怖さが伝わる。ここは1946年にフィリピン政府に使われた場所でもあり、アメリカの上官やGHQに関係する人物が訪れていることがわかる資料もあった。ここの跡地は多くの観光客が来ており、アメリカ人っぽい観光客もたくさんいた。 日米の戦場となったフィリピンに来ていることは複雑な感情もあるだろうけど、自国の人が戦争という罪を犯したことを知っている上でこのような場所に来ていることは日本とは違うと思う。日本は過去の事をないがしろにしているところがあると思う。戦争を知っている人が少なくなってきているから後世にどう伝えていくのかがこれからの課題であると思う。
鳥飼ゼミのマニラ研修報告 田勇
3日目は世界遺産であるイントラムロスへ訪問した。元々はスペイン領であったことを聞き、どんな経緯で現在のフィリピンの文化へ発展していったのか興味深く感じた。
また、訪問した時は日曜日であったこともあり教会にはたくさんの市民が礼拝へ来ていた。」そこへ私たちも参加し伝統的な儀式などを堪能した。そこはサンタ・クルース教会というところで教会の前には噴水がありその銅像にはスペインの文化を感じさせるようなものでもあった。そして噴水の近くに中国人街がありそこは雰囲気が少し違う感じでとても印象的だった。
またイントラムロスでは第二次世界大戦で崩壊した建築物がいくつか建っていた。日本でいえば広島の原爆ドームのような建物だ。崩壊してしまったが現在は記念として保存されているようだ。第二次世界大戦中に日本軍が龍城し米軍との攻防戦をしていた。しかし1942年に日本軍フィリピン上陸時、米軍がマニラを無防備都市としてしまった。それ以降、米軍はバターン半島に龍城したが苦戦し日本軍は虐待事件を起こした。日本軍は海軍を中心にマニラに残り、マニラを死守しようとしたそうだ。これら建築物には太平洋戦争中に米軍と戦った痕跡として保存されている。いくつか建築物がある中で一番印象に残っているのが銀行建築物で、こちらは当時税関としても使われていたようだ。だが、第二次世界大戦後に大火災に見舞われそのまま放置された。またこの建物の壁に当時の砲弾の跡がしっかり残されており実際に私達はそれに触れて確認することができた。そして至る所に鉄格子が取つかれており当時に面影も感じることができた。
またマニラ大聖堂にも訪問しそこでも礼拝を観察した。そこは観光客も多い地域で洋風で上品な建物が多かった。マニラの中では落ち着いた場所だと思う。
そしてこの日一番滞在時間が多かったサン・アグスチン教会ではカトリックの礼拝堂や図書館、博物館へ訪問した。こちらの博物館にはフィリピン輸入品である陶芸品などが保管されていて中には日本・中国製の物もあった。また博物館は庭園みたいになっていてこの教会を建築で使われていた建設機材が保存されていた。またこの教会自体がユネスコ世界遺産条約に登録されているそうだ。教会内の回廊はカトリック教会でフィリピン最古の教会建築であるらしくバロック様式教会群として世界遺産に登録されているよう。
この日は自分が想像していたものとは違う雰囲気を味わうことができた。
そして他国との関連性も理解した上で記念物や保管物も実際に目で確認することができたので自分の中では充実した研修の締めくくりであった。
マニラの世界遺産・歴史的建築物 坂里
マニラ首都圏には教会や世界遺産といった歴史的建築物がたくさんあった。日曜日だったので日曜礼拝が教会で行われていた。私は初めて礼拝に参加したので何もかも新鮮で周りの人の見よう見まねで礼拝に参加した。サンタ・クルーク教会の前にはカリエド噴水があった。カリエド噴水の前には中国人街に通じるゲートがあって横浜の中華街のようだった。その後、ジープに乗ってマニラ市イントラムロスに向かった。イントラムロスの銀行建築物アドゥアーナは石造りの大型建築物として1829年に建てられた。第二次世界大戦戦の戦禍で砲撃の跡が残っていた。建築物には鉄格子が取り付けられているが中には犬や鶏がいた。アドゥアーナの前にいたフィリピン警察の人は快く写真を撮ってくださった。フィリピンでは自家用車は多くないがジープやバイク、電車など交通機関が発達しているので行きたいところに行ける。次にマニラ大聖堂を訪問した。周りには行政・高等教育地区で静かな感じで外国人観光客もたくさんいた。マニラ大聖堂の前には帽子売りや周辺案内の人がいてずっと話しかけてきた。ゼミの一人が帽子売りの帽子を被せられていて、はっきり断らないと買わされてしまうと思った。スペイン風後邸宅の博物館の中庭で竹製フレームの自転車があってペダルとタイヤ以外のところが竹でできていてとても面白いものだった。次にバロック様式のサン・アグスチン教会を訪れた。ここはユネスコ世界文化遺産に登録されていて、フィリピン最古の教会建築である。私たちが訪れた時は日曜礼拝・ミサの最中だった。 サン・アグスチン教会は天井がとても高く今まで見たものと比べるととても立派な建物だった。教会の隣には博物館があり入ると中にあった階段は外国の昔の映画にでてきそうな立派な階段で印象に残っている。博物館の中は図書館、中世の中国陶器の展示があったり中庭は綺麗で静かな場所だった。宗教画の展示室でイエスについて描かれていた。私は今までイエスについて全く知らなかったが宗教画を見てから興味を持ち日本に帰ってから自分でも調べてみた。 お昼はJollibeeという日本でいうマクドナルドのようなファーストフードを食べた。フィリピンにも手頃で食べられるファーストフード店があって親近感が湧き、ハンバーガーの他にスパゲッティも売っていた。その後、サンチアゴ要塞を訪れた。サンチアゴ要塞は旧市街イントラムロスの北端、パシグ河畔にある16世紀につくられたスペインの軍事施設である。城壁には戦禍の後が残っていた。サンチアゴ要塞ではフィリピン人の民族的独立を促そうとしたホセ・リサールが1896年処刑された。ホセ・リサール祈念館にはホセ・リサールについて展示で詳しく学ぶことができた。
教会や歴史的建築物をみてフィリピンはスラムの印象が強く、こういった場所があるとは想像していなかったので予想外であった。普段、礼拝をする機会がないのでとても貴重な経験ができ、それぞれの教会は外装や内装が違い特徴があった。海外にあまり行かないのでマニラ研修で人々の暮らしの他に建築物にも触れることができたので良かった。
フィリピン研修 3日目 武 歩
3日目は、世界遺産や教会を中心に、カリエドやイントラムロスを訪れました。カリエド駅から少し歩いたとことにはフィリピン諸島銀行や噴水、サンタ・クルーズ教会がありました。対面にはチャイナタウン入り口の親善門があり、前日チャイナタウンのオンビンという場所へ夕食を食べに行きましたが、交通も人通りも多く、賑わっていた印象を持ちました。まずサンタ・クルーズ教会を訪れ、礼拝に参加しました。教会の前には物乞いをしている人や、露店が見受けられました。教会の入り口には大きな敷石もありました。
次にアドゥアーナ、別名インテンデンシアという税関局跡を見て巡りました。スペイン統治時代の税関及び中央管轄局で、1823年に建設が開始され、1829年に完成されました。大きな地震や第2次世界大戦の砲弾や爆撃などたくさんの被害を受けつつも、修復や復元などを繰り返されつつ、今は歴史的建造物として残っています。外壁には爆弾の跡が残されていたり、中は草木が生い茂ったり、野生の動物がくつろいでいたりと廃墟化していました。地震で壊れた際には再建されましたが、日本軍の爆弾によって壊されました。当時はこのような建物に立てこもり、砦として利用し、市街戦を繰り広げていたそうです。今は、イントラムロス復興運動によって外観保全されています。アドゥアーナの近くには第2次世界大戦のマニラ市街戦追悼碑が建てられていました。そこから歩いてマニラ大聖堂へ向かいました。マニラ大聖堂でもミサが行われており、少し様子を見学させて頂きました。大聖堂の周囲は行政や商業などがあり、落ち着いた雰囲気で、観光客や現地の方もたくさんいました。
サン アウガスティン教会は、イントラムロス唯一の世界遺産で、16世紀後半イエズス会の宣教師の指揮によってマニラの植民地化が進められ、多くの教会が建てられ、その中の一つにこのサン アウガスッティン教会があります。最も古い教会の一つと言われており、観光地として人気の高いスポットです。私たちが訪れたときも現地の方はもちろん、外国から来た人たちがたくさんいました。数々の大きな地震や世界大戦を乗り越えてきた、貴重な建物です。中は、シャンデリアやステンドグラス、壁画、祭壇があったり、インテリアなどがバロック風であったりと、今までフィリピンで見てきた教会よりも明るく華やかなイメージを持ちました。今も所々修復が行われています。また、地震によって左右の釣鐘が落ちたため、右側のみ教会内に展示されており、左側は破損したため撤去されています。外観はシックなグレーで、2013年に改装されました。それまでは鮮やかな黄色に塗られていたそうです。十字架を背負ったイエス・キリスト像も中に展示されていました。教会の正面には狛犬が2体設置されており、それぞれ口があいているものと閉まっているものとで、少し違いがありました。教会の隣には博物館があり、入館料を払って入りました。古い修道院を利用した博物館で、聖母子像や貴重な宗教画、司祭の礼服、陶器やインテリアが展示されていました。図書館や中庭もあり、博物館を見て回っているだけであっという間に時間が経っていました。
最後にサンチアゴ要塞へ行きました。サンチアゴ要塞は、16世紀に作られたスペインの軍事施設で、アメリカや日本も後にこの要塞を利用しました。イントラムロスの城壁には、砲撃などの跡がたくさん残されていましたが、城壁は厚く低く砲撃にも耐えられる作りになっていました。要塞の内部に入ると、観光用のカレッサと呼ばれる馬車がありました。馬車は、観光にも使われますが、日常生活にも取り入れられています。日本では、限られた場所でしか見ないため、車などと同じように道路を走っている姿に驚きました。監獄では、ホセ・リサールという医師が幽閉されていたそうで、謀反を起こしたために35歳の時に刑場で銃殺、処刑されました。弾薬庫は牢獄としても使われ、第2次世界大戦中に抗日活動容疑者が収監されていたそうです。ホセ・リサール祈念館ではリサールの使用していたタイプライターや自身や愛人の肖像画、所縁のテーブルなど様々なものが展示されていました。他にも当時使用されていた大砲や建物の跡地、などたくさんの建築物や展示品等を見てまわりました。
3日間を通した移動は全て電車(LRT)やジープと呼ばれるバスなどの公共機関を利用しました。始めは、交通整備があまり整っていない道を好き勝手に進んでいる車やバイク、歩行者を見ていつ事故が起こってもおかしくない状況にとまどいを隠せませんでした。小さい子どもがそのような道を横断したり、運転手に物乞いや押し売りをしていたりと衝撃を受けました。電車はICチップ式のカードで、窓口で行きたい駅を伝えて購入します。持ち物検査もあり、警備員にカバンの中を見せたり機械に通したりしました。車両も女性専用車両があったり、共用の車両でも男性が女性に席を譲っている姿を多く見かけました。ジープは行きたい場所へ行くものを探し、それに見合った料金を払います。いくら払うのか、どの様に払うのかは見よう見まねでやっていました。窓ガラスなどは無く、開放的な作りで扉もないため、少しの危険性を伴いますが、しっかり捕まっていれば問題ありませんでした。少しの失敗もありましたが貴重な体験でした。
フィリピン研修を通して新たに学んだこと、経験したこと、刺激を受けたことはたくさんありました。日本ではすることの出来なかった体験や経験、得られなかった知識や考えが習得出来ました。また、フィリピンの人柄にも触れられ、自分の思い描いていたフィリピンへのイメージが大きく変わりました。貧困の格差について学べたことは、自分の生活を見つめ直すきっかけにもなりました。私たちにとって当たり前なことが実はとても贅沢で幸せであることを忘れてはならないと思います。日本で当たり前に捨てている食糧や衣類、まだ使える家具などを必要としている人が世界中にたくさんいます。学校に通わせてもらえて誰にでも働けるチャンスがあって遊ぶ余裕もある私たちは、豊かな生活を知らない子ども達がいること、明日の生活もままならない人たちのことを頭の片隅に置いて生活することが大切だと思います。そうすることで自分自身の生活にも影響が出るかもしれません。今回、初めて訪れる土地で不安や心配もありましたが、気さくに話しかけてくれる人や子ども達の笑顔、フィリピンという土地と関わっていく中でそのような気持ちは吹き飛ばされました。学生の女性組は4日のお昼に到着したため、マニラを見て回りました。そこでは子ども達がインターネットやゲームが出来る場所で遊んでいたり、外で運動したりくつろいでいたり、大人は麻雀やビリヤードなどの娯楽を楽しんだり、忙しく仕事をしていたりと現地の方の生活感を見ることが出来ました。食事もすべて美味しく、ジョリビーというフィリピンのファーストフードチェーン店へ行けたのは嬉しかったです。デパートでも日本でもよく見るブランドやメーカーなどが入っていて、親近感がわきました。見るものすること全てが新鮮で、興味や関心が沸き、楽しかったです。フィリピンの貧しさなど感じさせないくらい明るく、温かく、心が豊かな人柄には感じるものがありました。もちろん全ての人がそうだとは限りませんが、私たちの出会ったほとんどの方が気さくでフレンドリーでした。トラブルや辛いこともありましたが、自分の中でこの経験は大きな糧となりました。この研修を活かしてこれから自分がすべきことや出来ることをしていけたらと思います。
◆注意!!パヤタスやリテックに行く方法が現地で探し出せないのであれば、「スタディーツアー」や団体旅行としても行くべきではないでしょう。高くつきます。治安や病気が心配だという場合も行くべきではありません。日本の生活感覚、お金や安全の感覚、旅行気分を保って出かけるところではないのです。フィリピン政府にとってもパヤタス貧困観光は好ましいはずがありません。望遠レンズを使ったり、カメラマン・ジャーナリスト気取りで、写真を撮り、被写体に嫌悪感を抱かれる人もたくさんいます。了解を得ない写真撮影は、すべきではありません。リテックスやパヤタスに行けば、何が起きても、何を起こしてもおかしくないということを自覚してください。
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