◆1936/11/25 日独防共協定: Anti-Comintern Pact
図(上):1919年、第一次大戦敗戦後、ドイツ・ワイマール共和国の反共主義のポスター :ドイツの勤労者に纏わりつき害をなす毒蛇のようなボルシュビズムは、戦争、破壊、飢餓、死をもたらすので、叩き落すことを訴える。 English: Title: Nieder mit dem Bolschewismus. Bolschewismus bringt Krieg und Verderben, Hunger und Tod
Abstract: Poster showing man struggling with a snake. Text: Down with Bolshevism. Bolshevism brings war and destruction, hunger and death. Physical description: 1 print (poster) : lithograph, color ; 67 x 101 cm.
Notes: O.K. : R.S.P.R.; Title from item.
Date 1919
Source
Library of Congress. 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda File:Nieder mit dem Bolschewismus. Bolschewismus bringt Krieg und Verderben, Hunger und Tod LCCN2004665807.jpg引用。
図(上):1924年刊行、ソビエト・ロシア、レニングラード、タヴリーダ宮殿、1920年の第二回大会コミンテルン第2回世界大会レーニンの演説 :レーニンは1919年に第2インターナショナルに代わる各国共産党国際組織としてコミンテルンを創設、1922年にはソビエト連邦の成立を指導。1924年1月21日に死去。 Russian: «Торжественное открытие II конгресса Коминтерна во дворце Урицкого в Ленинграде »
Description
English: Isaak Brodsky. Lenin's speech on the 2nd World Congress of the Comintern. 1924. State Historical Museum.
Date 1924
Dimensions height: 320 cm (10.4 ft) Edit this at Wikidata; width: 532 cm (17.4 ft) Edit this at Wikidata
Collection
State Historical Museum . 写真はWikimedia Commons, Category:Comintern File:Второй конгресс Коминтерна.jpg引用。
VIDEO Речь Сталина: Stalin (1936 год)
VIDEO 松岡洋右 国際連盟脱退演説 "我が代表堂々退場す"
1.コミンテルンに対抗する日独防共協定
1ー1.世界の情勢と協和会運動
著者
満洲国協和会中央事務局次長 平島敏夫
満州日日新聞
日付
1936-01-05
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100287389
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
[写真あり 省略]
[1931年9月18日の柳条湖事件を契機に]満洲事変 [九一八事變 ]が起って既に四年の歳月が流れ、当時非常時の最頂上と目された一九三六年を茲に迎えることとなったが、誠に感慨深きものがある。回顧すれば三四年前吾人は一九三六年を如何に緊張した気持を以て期待して居たか、一抹の不安無しにこれを考えた人は識者中極めて僅少であろう、曰く対外情勢の緊迫、海軍々縮会議、委任統治地の問題、曰く経済界の行詰り、曰く財政難、曰く農村の窮迫等々。
内田[康哉] (こうさい)外相が帝国会議において、満洲国の承認と国際連盟 の関係に就いて演説を為し所謂焦土外交を叫んだ当時の情況を追想すると、自ら血湧き、五体の緊張を覚ゆると共に、当時の農村の窮状を見ては慄然たらざるを得ない。追随外交が皇道外交に更り、連盟脱退後の経済封鎖が単に徒らなる恫喝に終わり、満洲国は帝国と為って、隆々たる発展を為し、国産品は世界の市場に非常な勢を以て進出し、所謂ソーシアルダンピングと云う新熟語を以て誤まれる非難攻撃さえ蒙るに至り、産業の一部に過ぎないが所謂軍需インフレなる好景気に恵まれ、農村亦連年の天災にも拘らず時局匡救事業等の為めに一時的でも破綻を免れ自力更生の軌道に乗らんとするものすら現われて来た。
目下ロンドンに於いて永野全権が折衝中の海軍々縮会議の結果が何うなろうとも、今や殆ど怖るるに足らぬ程今日の対外状勢は、差当り不安無きに至った、事外交に関する限りに於いては、断じて行えば鬼人もこれを避くる感無きを得ない、否、天道に基き、人道を行い、正義を貫かんとする皇道の前にはこれを遮る何物も無い事を感得せしめらるる。斯く観じ来れば或は危懼した一九一六年の頂上とする非常時の峠は既に已に越えて了ったかに思われないでも無いが、吾人の謂う、非常時は未だ解消せられざるのみか、却て是より上り坂に差掛るものと思うものである。
或人は云う、真の非常時は一九三九年であると、北支問題の進展と、蘇連極東対策の充実並に重工業の完成後における活動期の故を以て、或は欧米諸国の政治的経済的立て直り期の故を以て之を強調し、或は米国海軍補充計画完成期の故を以てこれを裏書する。何れにせよ此等の事項は現実の計画又は問題となって着々進捗せしめられて居るのであるから、軈ては何かの力となり、何れかに発動して来るであろう事は否定出来ない、而してその圧力を第一に感ぜねばならぬのは日満両国である事も言を俟たない。
連盟脱退 後欧米が宛かも拱手傍観的態度を執ったのは決して泣寝入りに終ったのではない、歯ぎしりしながら口惜しがって居る姿は笑止々々で片づける訳には行かぬ、北鉄移譲後の蘇連の態度だって油断はならぬ。但し此等対外状勢に就いては、吾人は過ぎし四年の、国を賭しての試練において、皇国の実力と、皇道の絶対的力と、国民の圧迫とを知り得たので、一九三九年であろうと一九三八年であろうと、又それが、幾国、幾億の敵であろうと、敢て怖るることなき確信を得たのである、只事前に備うるの用意は寸刻も忘れてはならぬのは勿論である
対外関係における非常時は前述の如く、油断はならぬが怖るるの要なしとするも、吾人のいう非常時は単に之のみでないことは過言を要しない、一例を挙ぐれば、農村の窮乏は匡救事業や負債整理組合法や米価維持法によって一時的の救済は得られたが、ジリ貧的に即ち[石川]啄木 の歌に咏める「働けど働けどなおわがくらし、楽にならざりじっと手を見る」此式に歳を重ねて沁み込んだ貧窮の現状は、恰も老衰の病人の如く、頓服薬や一時の治療では治癒されない、自力更生元より結構であるがその火種となる力すらない者が多数である、此に農村更生の為めには根幹に触れる対策を必要とするが未だその曙光すら認められぬ実情に在る。
前議会に提案された米穀対策、蚕糸対策の如きすら、仮に政府案に欠陥が多かったにせよ、其狙い所は農民救済の対策であったのは争われぬが、両案とも、政党政派を問わず無理解なる、或は得票本位の議院等に依って葬り去られたのは、政府の無誠意と共に寔に遺憾であった、今議会が解散になれば、農民は更に又一ヶ年、都合二ヶ年余を空しく待たねばならぬかも知れぬ。 近頃の流行に「船頭多くして船進まず」の語がある、以前は「山に登る」といった、非常時には両方共困るが故に、余り衆議に依るのも考慮を要する、況んや衆智に非ずして衆利であったら修理に骨が折れる許りである。
敢て帝国議会と云わず、凡て投票に依って代表者を定め、多数決に依って事を決める自由主義的、デモクラシイの制度は、少くとも非常時には寧ろ厄介な代物と断言出来るが、満州国の如き、建国草創の際は勿論、其構成から見て、平常時に復した後でも斯くの如き制度は避けねばならぬと感ずる、[満州]協和会 の全国連合協議会、地方連合協議会は其根本に於いて此等のものとは全然異って居る事を序ながら附言す。
茲に吾人の看過し得ざる力強き動きは、昭和維新の運動である、非常時に出現した各種の国民的運動は、其組織構成と手段に於いて多種多様であって、遺憾乍ら一時流行した共産運動に対して右翼運動として取締の対象となり、中にはインチキも相当多かったが、その真正なるものは、皇道日本の再認識、祖国の日本的再建に在る、国体の明徴、日本精神の宣明、しかして皇道日本 の再建に啻らず、更に進んで東西全局に対する飛躍的維新であり、亜細亜の復興である、東洋文化の発揚による欧米文化の是正である、精神文明による物質文明の修理である、家族主義(仁愛)による個人主義(我利)の排撃であり、民族協和主義 による民族自決主義の打倒である、協和共栄主義 による搾取的資本主義 の排除である、
しかしてこれ等の精神が一体となって具現したのが即ち吾が満洲国 である、満洲国の建国は皇道維新 の顕現であり、亜細亜復興の第一着手である、しかして全く新しき意義を有する文字通りの新興国家である。
斯くの如く新らしいものが創成され、新らしい精神が躍動するが故に、旧態に執着する者より見て異状時であり非常時である外圧に対する警戒を意味する非常時であるならば、そこに何等の生命も無い、新なる創造、維新あればこそ重大なる意義がある。 然らば此意義に於ける非常時の頂上は何時か、一九三六年即ち今年がその頂上であらねばならぬ、その創造と建設は不断の努力に俟たねばならぬ、今や昭和維新皇道革新 の行進中である、オンパレードである。
わが満洲 においては基礎的大工作は既に行われ、則ち民族協和の精神に依る満州王道国家 の建国より、帝政実施等着々として進捗し今やその内容の充実に努力中である、その内容となるべき諸制度諸施設は建国の精神と指導原理に拠らねばならぬと信ずる、自由主義の模倣であったり、帝国主義的又は搾取的資本主義に堕してはならない、寧ろ皇道維新を実現し日本自体に対しても新進の範を示すものであり、而して北支、中南支に対しても指導的模範を示すものでなくてはならぬ、 若し夫れ旧態依然たらば、満洲 建国の意義皇道維新の目的の大半は喪われるであろう、わが満洲国協和会 は政府及び日満各機関に協力してその目的の達成のために創建せられたる満洲国独得の機関である、これを精神的建国団体 と称ぶ所以実に茲に存する、非常時一九三六年を迎え所感を述ぶるに当り吾人の重責を痛感するものである。(カットは平島氏)
VIDEO
1934年、松岡洋右外務大臣の満州国擁護演説
VIDEO Иосиф Виссарионович Сталин, документальные хроники 1922-1945. Редкие кадры кинохроники.
図(右):1919年、ドイツ、ベルリン、反共産主ポスター「反ボリシャビキ同盟に参加せよ」 ;労働者服にブーツの赤の髑髏巨人が町を破壊し燃やしている。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)は、1928年5月20日の総選挙では、10,127票(投票率2.6%)12議席 (全491議席)第9党だった。しかし、第一次世界大戦にドイツが敗北した理由は、国内の共産主義者やユダヤ人が裏切ったせいで戦争に負けたとする「背後からの匕首の一突き説」が流布された。 English: A giant socialist skeleton walks on a ruined city with civilians hanged nearby. The caption says, ‘Join the anti‐Bolshevik League.’
Español: Un esqueleto socialista gigante camina sobre una ciudad destruida que tiene civiles colgados cerca. El mensaje dice «Únete a la liga antibolchevista.»
Date 1919
Author Stephan Samuel Krotowski (Berlin 1881-1948 London). 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Deutschlands ideale Zukunft unter der Herrschaft des Bolschewisten Propagandaplakat (1919).jpg引用。
1ー2.上海仏租界中心に共産、排日運動激化 : 北支共産軍に呼応して 時事新報
日付
1936-03-29
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
確実なる筋からの情報によれば、最近上海仏租界を中心とする共産分子の跳梁は目にあまるものがあるが、これは先般の仏露相互援助条約成立を機とし同租界に於ける共産党運動の取締りが緩和されたのに起因するものと見られている、特にその傾向はロシヤ系の共産分子に於て著しく従って此処に本部を置いてロシヤ共産党と外部の中国共産党との連絡から上海を中心とする全支の共産分子の活動を促さんとする兆あり、その一つの現れとして最近各地に再発しつつある学生運動の如きが、何れも従前に比べて左傾的色彩を増し、加えうるに何れも排日運動に合流せんとする傾向があるので我国としても警戒を要するといわれている、
学生運動以外にも最近上海方面に於ける雑誌刊行物が何れも共産主義的色彩を増し日本人経営の紡績工場に於ける悪性ストライキ、国際婦人運動の伝単等に見る共産的、排日的傾向の著増等日本として戒心を許さぬものが多い事は一方に於て北支共産軍 の活動と相俟って注目すべき現象とされている
共匪 を撃滅 朱山西参謀長談
(太原電通二十八日発)山西軍参謀長朱緩光氏は共産軍の山西侵入状況、今後の討伐方針並に山西軍の立場等につき比較的楽観的態度をもって遠からず共匪 は剿滅し得るとて左の如く述べた
現在山西に侵入した共匪の総数は約一万二、三千と推定されるが北方に逃亡した匪賊に対しては陜西省境に挟圧するよう孫楚が攻撃に当り湯恩伯は本日中央軍第二十五師と商農の第三十二軍に対し臨汾、趙城方面から南方に向け攻撃すべき旨命令し、また運城、聞喜方面からは山西軍が挟撃することとなっているからいづれ旬日を出でずして南北とも残滅し得ると思う、冀察側とは連絡しているが、現在のところ、宋哲元軍の来援は必要としない、宋軍は必要に応じて娘子関その他河北察哈爾の要所を防禦するそうであるがいづれにしても河北や河南等の省外へ
旬日を出でず共匪 を追込むような事は責任をもってせぬつもりである、討伐に関し中央との連絡はうまく行っている、軍費も幾分支給して呉れるようになった、掃匪がすめば中央軍は当然山西を離れて元の駐屯地に帰るものと思う、北支の防共最前線である山西を突破されては日本や満洲国に対して申訳がない、東洋平和のため責任をもって残滅する覚悟だ
VIDEO 国連脱退演説から横浜に帰国した松岡洋右の英語演説(1933年5月29日) Matsuoka Hailed In Japan(29 May 1933) Yokohama awards great welcome to delegate who led colleagues out of League of Nations.
図(右):1919年、ドイツ、ベルリン、反共産主義ポスター「反ボリシェビキ同盟に参加せよ」 ;労働者服にブーツの赤の共産党員が炎の赤旗で工場や街を燃やし踏みつけている。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)は、1928年5月20日の総選挙では、10,127票(投票率2.6%)12議席 (全491議席)第9党だった。しかし、第一次世界大戦にドイツが敗北した理由は、国内の共産主義者やユダヤ人が裏切ったせいで戦争に負けたとする「背後からの匕首の一突き説」が流布された。 English: A giant socialist skeleton walks on a ruined city with civilians hanged nearby. The caption says, ‘Join the anti‐Bolshevik League.’
Español: Un esqueleto socialista gigante camina sobre una ciudad destruida que tiene civiles colgados cerca. El mensaje dice «Únete a la liga antibolchevista.»
Date 1919
Author Stephan Samuel Krotowski (Berlin 1881-1948 London). 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Tretet der Antibolschewistischen Liga bei.png引用。
1ー3.防共、民利のため満冀協定を提議 : 殷長官の書翰発表 大阪朝日新聞
日付
1936-04-17
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335244
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
【新京特電十七日発】冀東防共自治政府 遣満使節池宗墨氏は十六日張外交部大臣と会見の際冀東政府長官殷汝耕氏より張大臣宛の書翰を手交し、満冀両政府間に正式に外交関係を樹立したが、外交部は十七日午前十一時右書翰を公表した、その全文は左の如くである
拝啓 曩に貴満洲国は暴虐軍閥の悪政を排撃し五族協和 の実現、王道楽土の建設を標榜して独立を宣言し外は友邦と団結し内は帝制の実施を完了し今や国基益々強固に、国運愈々隆盛なるは真に感佩に堪えざるところにして東亜の先覚国と称するも決して恥ずるところなし、我夷東は民衆久しく政党の害毒に苦しみ、また共禍の侵犯に戦い来たるが、客歳敢然として蹶起し党治より離脱して[冀東]防共自治政府 を組織し、不肖民意に従い政務長官の職に就き、全区の軍政事宜を総撹す
その期するところは永く党治共禍の毒炎を防止し、民衆全般の福祉を増進し、範を塗炭に苦しむ中華民国各地の国民に示し、その覚悟を促さんとするにあり思うに貴国と我冀東 とはもとより接壌し、その密接関係は唇歯もただならず、殊に東亜における平和確立、民族繁栄の大計は日満支三国の協力を必要としこれが実行はまさに貴国と我冀東において魁けたるべし、よってここに収聘のため本政府より秘書長兼外交処々長池宗墨らを蒋介石 新京に派し、貴大臣に面謁して本政府の貴国に対する懇篤なる友好の情を披瀝せしむると共に、貴我の協和の方法を協議せしむ
冀くは貴大臣これと接洽の上誘掖指導を与え、進んで将来或は防共の必要に応じ、或は民生の利益のため相互協定の道を開かれんことを切望す、ここに特に書翰をもって申進し貴大臣の閲覧答復を冀う
中華民国冀東防共自治政府
政務長官 殷 汝 耕
大満洲帝国張外交部大臣閣下
VIDEO
Joseph Stalin, part 5, documentary
図(上):1921年、ソビエト・ロシア、レニングラード、ロシア・サンクトペテルブルク冬宮前広場、1920年の第二回大会コミンテルン第2回世界大会 :レーニンは1919年に第2インターナショナルに代わる各国共産党国際組織としてコミンテルンを創設、1922年にはソビエト連邦の成立を指導。1924年1月21日に死去。 Author
Boris Kustodiev (1878–1927) Blue pencil.svg wikidata:Q313275
Object type painting
Description
English: Boris Kustodiyev. Festival of the II Congress of Comintern on the Uritsky Square (former Palace square) in Petrograd
Русский: «Праздник в честь 2-го конгресса Коминтерна на площади Урицкого» (1921, Русский музей)
Date 1921. 写真はWikimedia Commons, Category:Comintern
File:Kustodiev - Congress of Comintern.JPG引用。
1ー4.第三国を警戒す : ソ連、欧米派の策動を注視 我政府、不動の決意 大阪朝日新聞
日付
1936-10-08
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336349
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
日支交渉の分岐点をなすものとして最も注目された川越大使と蒋介石 氏との会見はいよいよ八日南京で行われることとなったので、わが政府はこの機こそわが主張を全面的に展開して日支国交調整の実現を期すべきものなりとして、排日抗日の根絶、北支特殊地位、懸案解決、日支経済提携、防共協定 日本人顧問招聘などに関し大綱的にその承認を求めあくまでわが提案貫徹の方途に出でんとしている しかして七日までに外務省において得た情報によれば国民政府部内の対日感情および情勢はなかなか複雑微妙なものがあり、この間に乗じて欧米派、親ソ派は盛んに活躍して日支の根本的国交調整を妨害せんとする挙に出ており殊にわが国交調整に関する提案中防共協定 の事項があるため事態はさらにデリケートとなり、支那駐在のソ連大使ボゴモロフ氏はじめ在支ソ連官憲は暗に国民政府部内の親ソ派と往来しつつある形跡が見えて来たのでわが政府としてはかかる事態に対しては最大の関心を払って対処することに決定した
これと同時に支那共産党および共産軍の背後にあるコミンテルン は虎視耽々として活躍の時機を待ちつつある状態にあり、わが政府として十分警戒を払い、第三国の乗ずる何らの間隙なきよう蒋介石 氏の固き決意を促す方針であるが、今回の日支交渉こそ国交調整による日支の真の提携と親善を実現することがその主眼をなしているので、今後の交渉ごとにこの点を特に強調することとなった
図(右):1931年、ドイツ、ヒトラー政権以前のナチ党反共産主ポスター「マルクス主義の偽りに死を」 ;勤労者の腕を締め上げる共産主義の大蛇の意味の根を止めろ。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)は、1928年5月20日の総選挙では、10,127票(投票率2.6%)12議席 (全491議席)第9党だった。1930年2月23日、青年党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員アルブレヒト・ヘーラーに殺害されると、ゲッベルスはヴェッセルをナチ党殉教者として持ち上げ、ヴェッセル作詞の「旗を高く掲げよ」を党歌として大々的に喧伝した。1930年9月14日6,379,672票(18.3%)107議席 (全577議席)第2党、
1932年7月31日13,745,680票(37.3%)230議席 (全608議席)第1党となった。1932年11月6日11,737,021票(33.1%)196議席 (全584議席)第1党で若干退潮している。1929年の世界恐慌で不安になったドイツ国民を煽情して勢力を伸ばした政党だった。 English: Early fascist poster which reads ‘Death to Lies’, with ‘Marxism’ on the bottom and ‘High finance’ on the top of the snake.
Date 1931
Source Germany.
Author German fascists. 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Tod der Lüge.jpg引用。
1ー5.共同防共に備えて抗日人民戦線を拡大 : 駐支ソ連大使指導に躍起 英も積極策愈よ露骨 大阪朝日新聞
日付
1936-10-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/01003378509
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
[写真あり 省略]
【上海特電十五日発】安定か混乱か東亜の局面に重大な影響を投げる今回の日支交渉は支那に多くの利害を持つ英、米、仏、ソ連などもこの成行に深甚の注意を払い、各自国の権益擁護のみならず、その発展策について陰に陽に対策を講じつつあり、殊に最近における対支政策に目覚ましいものは英、ソの両国を筆頭とする、すなわち日支交渉の進展に密接な関連を有するのはソ連ならびにイギリスで、この両国の出先官憲の活躍は極めて注視されているが、その他の諸国も日支交渉の現段階において多少積極的ゼスチュアを試みてはいるが、今後の進展次第でその対策を決せんとするのが真相のようである
他方国民政府部内にあって対日交渉を阻害せんとする親露派およびいわゆる欧米派は日支国交整調派とならんでそれそれ各国と相呼応して日支交渉の裏面に策動しつつあることは明白で、これらの親露派、欧米派が極東に至大の利害関係を有するソ連およびイギリスに働きかけ、日支交渉に列国の関心を集中し、もって列国の助力と干渉を求めんとするに対し、これら列国がいかに対応するかが日支交渉の進展上最も重大視されるところである=写真上からヒューゲッセン英大使、ボゴモロフ露大使、カルデコット香港総督
イギリス側
新任イギリス大使ナッチバル・ヒューゲッセン氏は日支交渉の直前支那に赴任したものであるが、近年とかく退嬰消極に陥らんとするイギリス対支政策に活をいれ南京政府の政治的安定とともに強靭なる進出を試みんとするものの如く、往年のランブソン公使時代の再現を思わしむるものである、すなわちさきに蒋介石 氏が両広問題解決のため南下するや香港総督と大々的な交歓を行う一方両広の反中央運動に一顧を与えなかったイギリスは南支における積極策と同時に南よりする南京政府との親善政策を強化する手段をとったものである
香港総督の広東訪問は珍しきことではないが蒋介石 氏の南下中に大々的に行われたことについては一部では蒋[介石] 氏が対日交渉を牽制する意味で暗に総督の来訪を求めたものとさえ伝っているこれに前後してイギリスの対支借款説も伝わり、イギリスは香港を中心として対岸の租界地九竜方面の防備を強化せんとするとともに、支那に対しては沿岸防備の物的、人的援助及び広九鉄道粤漢鉄道の連絡を実現せしめんとするものであるとされる
しかして支那側は密輸防止のためしばしば香港政庁と交渉中であった海関の香港設置と、支那と香港の幣制の単一化もイギリス側が十分の考慮を払って英、支間の諒解次第では解決せんとする情勢にある
ナッチバル・ヒューゲッセン大使も先月十八日国書奉呈を行ったのち直ちに北上し、本月五日には南京に帰ったが同大使の北上は着任早々とはいえ冀察政権に対しても相当の作用を与えたもののごとく、中南支では貿易促進に、鉄道建設に、通貨の安定に、あらゆる経済部門に積極政策をとり着実なる地歩を踏出さんとするもので今回の英支借款もこれらの意義を包含しているものである
ソウェート側
さらに今次の日支交渉の開始に当り支那側の親露派と連絡して活躍しているのはソ連大使ボゴモロフ氏である、ボゴモロフ大使は上海および南京をたえず往復して日支交渉の情報を入手するとともに上海においては共産党極東支部に指令して共産党を枢軸とする抗日人民戦線 の強化拡大に努力し、知識階級および左翼的団体に対する文化的政策をますます強固にしている、かつこの文化政策は北平ソ連大使館を通じて北支の学生層にも向けられ、中国抗日人民戦線結成の風潮を利用していよいよその文化的侵略の機運を助長している
他方日支交渉における最も主要な問題が防共問題にありとされているのでボゴモロフ大使は本国政府の訓令により日支間の防共協定成立を阻止すべく、あらゆる手段をとりつつあり、先ず国民政府部内のいわゆる親露派と目される馮玉祥、陳立夫両氏ら一派との密接なる連絡により親露派を動かして国民政府部内における反防共協定の勢力を獲得してもって日支交渉の進展を牽制せんとしつつありといわれ日支交渉の全貌も大部分はソ連側につつぬけに伝わっているとさえ見る向がある
最近ボゴモロフ大使は張外交部長に対してソ連を共同日標とする日支防共協定はソ連と中国の友好関係に反するものでソ連政府としては防共問題に多大の関心を有するものであると口頭をもって警告を発したと伝えられる
かくてソ連政府の対支政策は中国共産党を中心として抗日連合戦線の結成を指導する文化政策ならびに今次日支交渉における防共問題の打壊わしにその主力が注がれているものとみられている
写真(右):1936年5月8日、ドイツ、ダッハウ強制収容所を訪問したSS親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー ;共産主義者、ユダヤ人などナチ党政府に反抗的な潜在的適正分子を収容した。当初は、更生収容所の形式を喧伝していたが、実際は虐待などによるテロ施設である。Description
Dachau, Konzentrationslager, Besuch Himmlers Schutzhaftlager Dachau.- Stab Himmlers bei der Besichtigung eines Kasernenbaus der SS in Dachau.
Depicted place Dachau
Date 8 May 1936
Collection
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
Current location
Sammlung Berlin Document Center (Bild 152)
Accession number
Bild 152-08-05 写真はWikimedia Commons, Category:Heinrich Himmler in Dachau concentration camp in 1936
File:Bundesarchiv Bild 152-08-05, Dachau, Konzentrationslager, Besuch Himmlers.jpg引用。
1ー6.来る可きものは来た : 日独防共協定に就て
著者
蘇峰生 大阪朝日新聞
日付
1936-11-27
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335609
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
打明けて云えば、我等は早晩と云わんよりは、早急に此事が来らんことを待ちかねていた。今日世界に於て、赤化運動に尤も当惑しつつあるものは、西に独逸あり、東に日本ありだ。その両国が互いに其の防禦に提携するは、当然であるばかりでなく、正さに必然の理であり、勢である。
元来世界大戦に際して、独逸帝政が土崩瓦解したる所以の重なる一は、[ウラジーミル]レーニン [Vladimir Lenin ]の手が、独逸の海軍、陸軍に向って動いたからであった。当時の独逸皇帝は、露国を革命せしむ可く、レーニン を保護して、帰国せしめ、遂に其の目的を達成した。然もレーニンは之に酬いるに、更らに独逸の革命を以てした
世界大戦の血未だ乾かざる際、独逸は殆んど赤化の危機に迫った。但だ頼いにそれが防止せられ、今やナチスの政府によりて、積極的に、進攻的に、赤化の西侵を拒絶しつつあるは、我等が聊か意を強うする所だ。然も東方に於ける赤化運動は、今尚お猖厥を極めている。彼等の目指すところは、実に支那である。而して支那の周囲は中央亜細亜、新彊方面より、外蒙古の全面に亘りて、殆んど赤色に塗り潰されつつある。否な支那の内部さえも、即今それに侵蝕せられつつある。
然も彼等は決して支那の赤化のみに満足するものではない。彼等は否赤化の本陣に、斫り入りて、其の毒刃を揮わんとする者である。其処に我が大日本帝国の危険性が発生している。而してそれが同様の作法もて、独逸にも適用せられつつある。此れが日独防共協定の已む可らざる所以。
今や欧洲は所謂る人民戦線と、国民戦線と、両陣屹然対立して、宛も応仁の乱の如き姿をなしている。我等は赤化に対しては、独逸は固より、何人とも提携を否むものではない。けれども問題は決してそれ以外には出でない。国家の体制、国政の運用に就ては、我が大日本帝国には、本来の真面目がある。必らずしも他に附和し、雷同す可き理由は無い。我等には我が皇道がある。我が国体がある。我が欽定憲法 [Imperial Constitution ]がある。英国流の議会中心主義でもなければ、伊太利流の総統独裁政治でもない。我等は此の機会に於いて、特に之を言明する必要を感ずる。(昭和十一年十一月二十六日)
1−7.防共協定成立と日独両国の経済関係 大阪毎日新聞
日付1936-11-26/1936-11-27
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100089764
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
(上) 現在の状態は甚しい片貿易 日満独三角貿易はどうなる
日独防共協定は二十五日附をもって日独間に成立した日本が資本主義体制に依拠して進む以上は、その生命線たる東洋市場を脅かす赤化運動は断乎として排撃されねばならない。一九一八年のスパルタクス団 [Spartakusbund ]結成以来、国内では絶えず強力な左翼の組織に惱まされ、いままた露国の強大なる軍備と直接相対峙しているドイツとの対露政治協定結成は、好むと好まざるとに拘らずわが国にとっては体制擁護のための必然的な勢いといわねばなるまい。今回の協定は純政治的な意味のもので経済提携には何等触れてはいないが、両国の親善関係が濃厚となるにつれて相互の経済的交渉も一層深まるものと思われる。では現在両国の経済関係はどうなっているだろうか。
日独間の貿易はその総額からいえば微々たるものであるが、ナチス政権樹立以来は年々急激に増加して、昭和六年度と本年度とを比較すれば対独輸出は四倍に、輸入は二倍に達するだろうと見られるほどの躍進振りである。最近六ヶ年間の輸出入状態は次の通りである。(単位千円)
輸出 輸入
昭和六年 八、四二三 七五、二五〇
同七年 九、三四九 七一、七四一
同八年 一二、四一一 九五、七九七
同九年 一九、六七七 一〇九、五八三
同十年 二六、七六六 一二〇、八一七
同十一年 二五、一七〇 九一、一六〇
(十一年度は九月までの累計)
わが国から輸出する主要品は、昭和十年度においては、魚油および鯨油二百五十八万三千円、綿織物百三十六万円、豆類百十四万六千円、絹織物八十六万七千円、寒天八十三万四千円、薄荷油七十万二千円等そのすべてが消費資料である。これに対してドイツからの輸入品は、同じく昭和十年度においては、機械および部分品二千八百二十二万五千円、鉄類千八百七十五万四千円、化学肥料千二百九十八万五千円、染料五百七十一万六千円、電気機械百六十五万七千円とその全部が生産手段あるいは新興産業製品である鍵鑰産業の発達が十分でないわが国は、殊に非常時に入って軍事的にも産業的にも基礎工業強化の必要から多額の最新生産手段、軍器用機械が輸入される傾向を辿った。将来最悪の事態が生ずる場合はいうまでもなく、わが国が準戦時体制をとらねばならない期間中は、ドイツからの重工業製品、化学製品の輸入の累増は免れ難いことであろう。
一方ドイツにおいては、現在金融ならびに産業全般にわたって殆ど戦時と変らぬ統制が強行され、厳重なアウタルキー制度が実施されて、万やむを得さるものに限り輸入によって補われているために、わが国からの輸入品も輸入管理に引っかかって商品の自由な流入を妨げられ、軍事上ならびに国民生活上の最低必要限度の商品が辛うじて輸入されている状態である。従って現在まではとも角として、このままで進むならば将来には大した増加を望むことは困難と見なければならない。しかしながらわが国の方からは、他国に振り替えることの困難な製品が年々増加して需要されるために、輸入超過は昭和九年度には八千九百九十万円、同十年度には九千四百五万円、本年九月末までには六千六百四十四万円となっている。この著しい片貿易の調整が、一昨年あたりからわが国の関係各方面から唱えられているのは、わが貿易国策の遂行上当然のことといわねばならない。
ドイツはわが国ハは輸出超過となっているが、他方わが盟邦満洲国からは大豆、大豆油(人造バタ用)大豆粕(家畜飼料)等を国民生活の必需品として購入しているために、満洲国に対しては次のごとく輸入超過となっている。(単位千円)
対独輸出 輸入 出超
昭和八年 六六、五九四 一〇、五七七 五五、八一七
九年 五三、五一〇 一二、四八五 四〇、八二五
十年 三二、七八九 一四、七四一 一八、〇五七
十一年 五〇、六三七 七、二二三 二三、四一四
(十一年は九月までの累計)
過去二年間にわたってドイツは満洲大豆の極端なる輸入制限を試みたが、大豆類はドイツ国民の生活必需品であるため忽ち食物飢饉に陥り、安価満洲大豆の輸入を止めることが出来なくなってしまった。そこでドイツは今春キープ博士を団長とする東洋経済視察団を派遣し駐日満洲国大使謝介石氏との間に満独両国の貿易調整の交渉を進めて去る六月一日から満独通商協定が実施されるに至った。同協定によればドイツは満洲国物産を一ヶ年一億円に限って購入し、その支払いの一部はドイツ商品をもって、残部は外国為替をもって支払うことになっている。すなわち部分的なバーター制が実行されるわけだが、一方ドイツに対して著しい支払超過となっているわが国ではドイツがわが国と兄弟関係の満洲国に対する不利な立場をのみ取戻そうとする態度に対抗するために、日満ブロック対ドイツの三角貿易制が論議されていたのである。折も折、日独防共協定締結が発表された。
次に来る課題は対支貿易協定 植民地問題でも共鳴せん
去る六月一日から実施されている満独経済協定においても、部分的には日満独三角貿易が実行されている。すなわち同協定は、一ヶ年間の日独貿易の結果差引きドイツが日本から六千三百七十五万円以上の外国為替を取得した場合には、その超過額は外国為替をもって支払うべき満洲国からの輸入に追加して満洲国からの輸入を増加するように規定している。もちろんドイツに対するわが国の著しい買越しが、このような部分的補償によって相殺されるはずもなく、わが国貿易関係者の企図するところは、わが対独輸入超過と満洲国の対独輸出超過の総額を相殺するとであった。全部を相殺しても、なおまだ日満側が輸入超過となるのである。
だが今回の協定成立によって日独両国の親善関係が一層増進するなら、やがてはドイツも満洲国を正式に承認するであろうし、日満独三国間の全面的な三角貿易も近き将来には具体化されて、相互貿易関係はいよいよ改善されるであろう。
日独両国間の直接の貿易関係においては、かくのごとく解決の途が示されているが、問題は支那市場にある。
打ち続く恐慌と軍備拡張強行のためにドイツ国民は数年来一般的に貧窮へ貧窮へと追いつめられ、これがために国内の購買力は頓に減少した。しかも準戦時体制強化のためには、常時にもまして全産業、なかんずく重工業、化学工業の発展に努力しなければならない。これがためにはナチス・ドイツは貧弱な国内市場のみを頼りとすることが出来ないで、猛烈な勢いで海外市場への突進を開始した。
海外進出を容易ならしめるためにライヒス・マルクの対外価値を約五十パーセント引下げ加うるにダンピングをもってして中、南欧一帯を席卷し、さらにアフリカ、南米、南洋にまで手を延ばしたが、一昨年ごろから鉾先を転じてわが隣国支那市場へ向って来た。過去数年間わが国は支那民衆の排日貨を蒙っていたところである。現在は支那に何等の政治的利益を有しないドイツはその間隙に猛烈に食い込んで来た。南支を支配する英米両資本もまた相互抗争の隙をナチス・ドイツに窺われたのである。
かくしてドイツの対支輸出は昨春英国を追い抜き、本年五月にはついに日米両国をも抑えて第一位を占めてしまった。大戦後から昭和の中葉に至るまで、わが国にとってはアメリカに次ぐ重要な大市場であった支那は、ドイツを筆頭とする諸外国の急激な進出に圧せられて、昨年の支那に対するわが輸出は貿易総額の僅かに六パーセントと甚だしい凋落を呈するに至ったのである。本年上期における支那の輸入額では、次のごとく、米国はなお第一位を占めているが、下期においてドイツがこの王座を奪取することは免れ得ない勢いである。(単位万元、△印減)
本年上期計 前年同期比(%)
米より 八、二〇八 △二八・六
独より 七、九四〇 四七・〇
日より 七、〇一八 △一〇・〇
英より 五、四八四 四・六
遅れて発足していまなお綿製品を輸出品の大宗としている日本資本主義と異なり、ドイツが輸出工業の根幹としているのは重工業(生産手段生産工業)である。 しかしながら、いまドイツが猛烈に食い込みつつある支那においては、近代産業の発達は微々たるもので、産業が必要とする機械、器具等は問題とするほどのものではなく、その大部分は軍器ならびに軍事用の道路、橋梁、鉄道、建築等の材料および化学製品で、昨年中の輸入総額は一億三百余万元、本年は八月末までに早くも昨年の総額に達している。しかもこの外に今夏は一億円の対支材料借款が成立し、すでに支那市場に確たる地盤を得たドイツ今後の発展は恐るべきものがある。
わが国は支那におけるドイツの目覚しい発展に対して如何なる利害を蒙るかは明白であろう。支那市場こそ日本資本主義体制維持のための最後の足場である。一つにはその足場を守るためにこそ日独防共協定が締結されたのである。しかるに隣国市場は次第に□食されている上に、ドイツからは支那へ莫大なる新鋭武器が続々と輸入され、かつ中央軍にはドイツの軍事教官が多数人り込んでいる。やがて抗日人民戦線が立ち上る日、日本軍を狙撃するものはドイツ製の大砲と飛行機だというような矛盾を生ずる懼れはないだろうか。
ヒットラー現政権と世界的な軍器製造業者クルップとの関係に想到するならば、上等の顧客たる支那への武器輸出は簡単に阻止し得ないものであることは誰しも肯き得ることであろう。だが日独防共協定本来の使命を全うせしめるために、ドイツに対し支那への武器禁輸を約せしめ、かつ支那市場における日独貿易協定を締結するための方策が恐らくは近き将来において、わが当局者の緊要なる課題となるであろう。
日独間の政治経済問題としては、なお外に植民地返還要求がある。だがドイツ経済が植民地を欲するのと同程度に日本経済も植民地拡大の希望を切実に感じ、しかもわが南洋は太平洋作戦上重要な意義を持っているくらいは、ヒットラーも[ヨーゼフ・]ゲッベルス [
Paul Joseph Goebbels :1897-1945]も百も承知だろうから、いまさら野暮な要求は持ち出すまい。
1−8.防共協定の意義 : 軍備軽減を期待すべからず : 元駐独大使 本多熊太郎 東京日日新聞
日付
1936-11-27
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https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337547
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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
[写真あり 省略]
一昨年ヒットラー総統 の側近者の来朝を機会に予はドイツが欧洲赤化の防壁であると同様に日本も亦東洋赤化に対する防波堤であるゆえんを力説して日独両国は共同の使命を自覚して将来提携すべきことを強調しておいたのであった
ドイツが欧洲赤化の防壁であることは今日にはじまったのではない。パリ講和会議当時、ドイツは戦後の革命騒ぎに全独赤化の危機が迫っていた。ロシアの共産革命に驚いた全欧は、相つぐ赤色ドイツの出現に震愕した ドイツの赤化を防止することの急務と説いてロイド・ジョージ [Lloyd George ]がいやがるクレマンソー [Georges Clemenceau ]を口説き落して飢餓のドイツに食糧補給を敢行し、赤化に赴かんとするドイツ民衆の不安を緩和したのも、ドイツの赤化が直ちに全欧の赤化を意味するからであった。
かくして今日、ナチスドイツ の出現によって完全に欧洲赤化の防壁たる使命をドイツは果している。
ナチスドイツが目下最も苦心しつつあるところは国防自主権の確立であるが単にドイツ一国の国防のためにドイツの軍備 を容認するだけでなく、赤化防止を完全にする意味からもドイツの軍備は許容されなければならぬ。ヒットラー もその点を最近強調しつつあるがドイツの再軍備こそは全欧を赤化の危険から救うゆえんであるのである。
日本にも同じことがいい得る。支那の国民革命は赤露の派遣者ボロージンの設計によって行われた南京政府の掲げる不平等条約の撤廃の如きは、ソ連のスローガンをそのまま採用したものである。この支那の赤化を防ぎ、東洋の保全を完うすることは、わが日本に課せられたる使命でなければならない。日本また東洋赤化の防波堤であるのだ。
予は多年ロンドン条約に反対して軍備の平等化実現に努力し来ったが、この基調をなす思想は即ち上述の東洋赤化を防ぐ意味のものである。海国日本にして海軍力に不足あらば、アジア文明の擁護、東洋赤化の防波堤たる使命を全うし得ないのである。
かくして日独両国はその共通の使命のもとに当然いつかは結ばるべき運命にあったものである。日独両国民共に優秀なる民族であり、国家意識強く、常に飛躍向上を希うてやまない。しかも人口の膨張率は国土の狭小に反比例しかつ海外発展への出発において両国は列強の間に立ち遅れたがゆえにその発展は列強の阻止するところとなり、常に世界の現状を修正すべき苦境におかれている。従って日独両国民にあっては相互の苦悩が極めてよく諒解出来るのである。
しかしながら、日独両国が相提携し援助し合うには地理的に余りに遠く相距ることがそれを邪魔していた。日本にとってはドイツの悩みに十分の同情をもっていながらこれを救援することが不可能であった。しかるに今やこれが部分的に可能となったのである。今回の日独防共協定の成立は以上の如き両国の立場を考慮に入れる時はじめてその自然の成行きであったことが首肯されるのである。
しかし日独協定の実現をもって日独両国の軍備が幾分でも軽減されるものと考えてはならぬ。一方が他に依頼し自己の使命遂行の負担を軽くすることは不可である。かつての日英同盟は当時日本が東洋第一の陸海軍を有していたから成立した。日英同盟の秘密条項には日英両国は極東の海面においては他の第三国のいづれにも劣らざる海軍力を保有すべきことという申し合わせがあった。即ち日英同盟はそのことの成立によって日英の軍備を縮小しなかったのである。ゆえに今回の協定が国防負担を軽減するものと思考してはならぬ。むしろ国民は政府を支援して国防能力の完全を期さなければならぬ。殊にソ連はこの日独協定を見て一層その軍備を充実するであろう。わが政府当局は果してよくそこまでの考慮を以てこの協定の締結に処したのであろうか。
も一つこの際、日本官辺からこの協定のニュースが公表に先立つて洩れていた点を指摘しておきたい。政府が洩らしたものとは必ずしも思わないがこの協定と内容において同じものが既に一ヶ月も前から巷間に放送されていたことは事実である。かかる重大機密が僅の期間においてさえ極秘のうちに守り得ることの出来ぬ政府なら国民としてたよりないこと夥しい。のみならず、相手国ドイツもそれには些かならず失望を禁じ得ないであろう。
かかる手ぬかりが政府の予期していた重大事項に障碍を及ぼして来たことにおいてなお更この感が深いのである。かの日露漁業条約が当方の期待を裏切って先方から一方的に無期限延期をたたきつけて来たことは、わが政府としては速かにその責任をとるべき問題と考える。いやしくもかかる失策をともなって生れた日独協定の成立をわが功績とばかり政府者流が誇るが如きは言語道断なことであらねばならぬ。(談)
1−9.ソ連の国際不信に厳重抗議 : 日独防共協定の我好意的内報を諸外国へ逆宣伝 満州日日新聞
日付1936-11-27
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https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335481
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今回成立せる日独協定に関してはソ連政府はあくまで釈然たらざる態度をとり、これをもって反ソ的政治協定でありソ連を目標とせるものと解釈して漁業条約の調印を渋り徹底的に反日反独的宣伝に乗出さんとしているが、わが政府はソ連側のかかる不合理なる態度をむしろ不可解とし、日独協定を勝手に反ソ的に解する独断については甚だしき矛盾を含んでいるものとしてソ連の徹底的反省を促すことに決定した
すなわち従来のソ連政府のいい分によれば政府とコミンテルン [Communist International ]とは全然別個の存在であって政府は何ら共産インターナショナル [Communist International ]の赤化工作に関係なきものとして従来の帝国政府のコミンテルン赤化工作に対する抗議を拒絶して来ているが、今回に限りソ連政府とコミンテルンとを恰も一体と看做すがごとき言辞を弄するは論理的に矛盾せるのみならず、去る十九日ユレネフ大使が本国政府の訓令に本づいて有田外相に齎したところの「日独両国はその国内で共産主義と闘う権利はあるが、国際協定の必要ありとは諒解し難い、防共は日独政治協定のカムフラージユにすぎない」との抗議は全然不可能であると解しソ連のあまりにも不合理なる態度に対し甚だ快からぬ感情を抱いている
殊に今回の協定問題に対し帝国政府が極端に憤慨しているのは我政府の協定の好意的内報に対するソ連側の不信的態度であって帝国政府の好意を裏切るかくのごとき措置に対しては徹底的にソ連政府を糾問せざるを得ず、また右に際しユレネフ大使のとれる処置も頗る不穏当であって近く強硬なる態度をもって警告を与える方針である
すなわち日独協定成立が国際外交界の話題となるにいたるや、去る十六日ユレネフ大使は本国政府の訓令に本づいて有田外相を訪問し、この事案の有無を質問せるため外相は外務首脳部と協議の結果に本づき「帝国政府は共産主義の脅威に対しては飽までこれを防止する方針である昨夏の第七回コミンテルン大会においては日本を特定の赤化目標として決議し支那においてはコミンテルンの暗躍により抗日運動がますます激烈となりつつある状態を目前に見ては帝国としてはこれに対し防衛策をとることは刻下の急務である、しかるにコミンテルンは国際的組織を有し、国際的に活躍しているからこれに対抗するためには国際的に考慮する必要があり支那とも防共交渉を進めるとともに他の第三国とも交渉進行中である、ただしこれについては同盟とか、相互援助条約とかを考慮しているのではない
帝国政府としてはますますソ連政府との親善関係増進に努力し懸案を解決し両国間の空気の好転に努力しているのである」旨を好意的に内報し厳重にその秘密厳守を確約せしめたるにもかかわらずソ連政府はユ大使の報告に接するや国際信義を蹂躪してこれに尾鰭を付して誇大かつ虚妄なる逆宣伝を全世界に流布し、帝国政府を不利な立場に導かんと狂奔した事実があるのでわが政府としては到底これを黙視し得ずとし、徹底的にソ連政府はもちろんユ大使の責任をあくまで追及することに決したわけである
これに対しユ大使は本国政府の発表上の手違なりと陳弁しているがわが政府としてはかかる重大問題は有耶無耶のうちに葬るべきにあらずとの強硬態度を決しているからソ連政府の誠意に関する根本問題として飽まで強硬なる態度をとることになろう
1−10.コミンテルンの中枢支柱はソ連邦 : 日独防共協定の目標は何? 満州日日新聞
日付1936-12-12
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337895
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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
日独両国間に締結された防共協定は"共産インターナショナル即ちコミンテルンの目的が、その執り得られる凡ゆる手段により現存国家の破壊及び暴圧にあることを認め"て"共産主義的破壊に対し相協力せんことを欲し"ている、では共産インターナショナルとは何か
共産インターナショナルとは、第三インターナショナル或は単にコミンテルンと称せられるものであって、世界革命を企図する革命的世界党である、これを歴史的に見ると、既に一八六四年より七六年に至る期間に第一インターナショナルと呼ばれる国際革命党が存在し、当時発生しつつあったプロレタリアートに対してその将来の目標が共産主義の具現にあることを指示する役目をつとめた、続いて十九世紀末より二十世紀初頭にかけて資本主義が隆盛期に入るや、世界各国のプロレタリアートの階級的組織を整える役割を演じたのが第二インターナショナルであって、世界大戦勃発当時、この社会民主主義的革命党は十七ヶ国約千二百万人の会員を有する大組織となった
然しながら第二インターナショナルは"日和見主義を以って少数労働者の一時的利益のために大衆の根本的利益を犠牲にするものであり、労働者大衆は斯くの如き分子より分離することによってのみ自己の利益を擁護し得べし"という批判を理論的根拠として、茲に第三インターナショナルが誕生したのである
第二インターナショナルが世界大戦に直面して、各自国資本家の主戦政策に追従加担するや、レーニンを主盟とするロシアのボルシェヴィ派(第二インターナショナル内部の左翼派)は活発なる活動を開始して、先ず、ロシア革命に着手し、一九一七年、その目的を達したのである
一九一九年に至って、ヨーロッパ各国の労働運動内においても大戦とロシア革命の甚だしき影響による左翼派の台頭が著しくなった結果、ロシア共産党(現在の連邦共産党)のイニシヤチヴにおいて同年三月二日より六日に至る五日間モスクワにおいて、第一回国際革命無産党大会の開催を見るに至った、これ即ち共産インターナショナルの誕生であって、カール・マルクスが第一インターナショナルに指示した共産主義による世界革命達成の伝統が組織的に行動化されたのである
爾来、第三インターナショナルは一九二〇年(ペテログラード)一九二一年(モスクワ)一九二二年(ペテログラード、及びモスクワ)一九二四年(モスクワ)一九二八年(モスクワ)と大会を開き、第七回大会は昨年七月二十五日モスクワにおいて開かれた
コミンテルンは、プロレタリアート解放の唯一有効手段をプロレタリアートの独裁におき、改良的漸進主義を排撃して、急進過激なる戦術によるべきことをその基本的綱領としている、従って、その手段として、煽動、逆宣伝、ロテは常用され、その終局目的である世界共産化達成の為には如何なる方法も敢行されつつあるのである
現在コミンテルンの組織は各国の共産党及び第三インターナショナルに同情を有する諸政党を糾合して、世界的単一共産党を結成せるものであって、各国共産党は、各支部(セクシヨン)の資格においてこれに参加し、中央部と各支部とは中央集権的統合関係を持っている
コミンテルンの中央最高機関は二年毎に開催される筈になっている世界大会であって、執行機関としては右大会の選挙する執行委員会と国際統制委員会がある、この組織によって明白である通りソ連邦共産党も亦コミンテルンの一支部を構成するものであるが、事実においては、ソ連邦共産党はコミンテルンの中枢を把握していることを熟知しておく必要があるソ連政府は、諸外国がコミンテルンの指令に基く赤化運動に対する抗議を突きつける度に、これを一蹴してコミンテルンの行動はソ連政府の関知する所にあらずというのが常である、然るにソ連政府はソ連邦共産党の一党専制政権であり、ソ連邦共産党はコミンテルンの核心そのものであるから、ソ連政府のこの態度は、全く意味をなさないのである
日独防共協定は、その目標を共産インターナショナルの破壊工作に対する防衛におき、外務省の声明は"ソウエート連邦その他如何なる特定国をも目標とするものではない"といっているが、コミンテルンの実際的組織、コミンテルンとソ連邦共産党との関係、ソ連邦共産党ソ連政府との関係を逐次検討する時は、結局、コミンテルン即ちソ連という観察を否定することはできない
コミンテルンという一つの国際的組織の共産主義的行動を防衛打倒することは人類の緊急使命である、然し、その組織の解体消滅は先ずその中枢支柱を崩壊せしめることを第一条件とするのではないか、日独防共協定の実際的運用は、この点を明白にしてこそ初めてその意義を発揚するものだと思う(一記者)
1−11.躍進満州国の”発展過程”に嘱目 : 日独両国の防共協定成立は世界防共協定の先駆 : 外人観光客は語る 満州日日新聞
日付1936-12-12
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https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100091739
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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
【安東】朝鮮経由安東より入満する外人は、年毎に増加する傾向にあるが、駐安東満州国外交部駅弁時処では過般来去る七月より十一月までの過安入満外人数に就き調査中のところ、この程右統計の完了を告げたその結果同統計により予想の如く果して入満外人数は昨年の七月より十一月までの五ケ月間に一千一百八名に比較し百九十七名の増加一千三百十五名の入満数を見た、これを内訳にすると次の通り
即ち一三一五名の中、男性は六二六名、女性は六八九名で国籍別にすれば、米国人の八一〇名(男三一〇名、女四九八名)を筆頭に、英国人の一五九名、ドイツ人の八六名(中六名はドイツ外交伝書使)無国籍(旧露)の五六名、その他二十六ケ国に亘っている(但し無国籍、英印、カナダを除いては二十三ケ国)更にこれを職業別に項目を分てばトップは無職の三二〇名、これは同伴の妻乃至未成年者の子供を同じパス・ポートに記載されている関係上無職と見做す故かくは多数に上るもので、事実上は教育者の二六九名が第一位を占めており、その全部が米国人で、しかも九割までが女教員が占めており、中には新京に赴き張国務総理に会見し親く満州国の躍進ぶりを聴取すると云う熱心な女教員もいるが、その多くは日本に来て始めて満州国に対する種々の知識を得明年度から是非スケジュールの中に満州国を入れようと云うもので、その理由としては米国ではあまり新聞紙上に満州国の紹介が見られず、これがため米国ビューロー方面では満州国視察をスケジュールの中に包含せず、然し渡日して見てこれ程満州国が近代国家として整備され進展しているとは知らなかったから明年度から必ず満州国視察の一項を入れようと云うのである
次に教育者に亜ぐ者はマーチャントの一〇五名であるが、これは主として旧露国人で第三位は宗教家の一一一名で教育者同様米国人が多数を占めており、殊に撫順に満州本部を置くカソリックのメリノール派(聖母マリアを祀るところの宗派)の牧師が多く、第四位は機械、電気等の技師で三四名、この技師は最近特に目立って多くなって来、ドイツ人が過半で英、米仏人がこれに次いでいる、しかしてこれらエンジニヤーの機械組立て等のため渡日した者が多く来満後は鞍山の昭和製鋼所を見学、視察する傾向にある、更に鉱山関係の技師も本年下半期に至り増加を見たが、これは満州国のみならず朝鮮の鉱山等を視察するものである、一方本年の新傾向としては舞踊家、画家、音楽家等の所謂芸術家の入満が増加して来たことで、本年上半期は僅かレオ・シロタ氏一名に過ぎなかったものが、七月以降は二十名に上っており、国籍別にすれば仏、旧露、米の順序でこの中にはモロッコのデレクターであるジョセフ・フォン・スタンバーク氏も包含されている
最後は新聞記者であるが、従来は単に安東より入満して奉天経由北支方面に赴く傾向にあったものが最近は満州国の近代国家として成立を明確に認識し、躍進満州の発展過程−を殊に民情の観察に中心点を置き、これを各紙上に読物として連載する目的で、長期間に亘って滞満するというように従来の入満目的は全然転換されている七月以降入満した新聞記者は八名でブルガリヤ・ベーリヤス紙、米国ユー・ピー特派員、米国ハースト系のワシントン・スター紙、フランク・フルタツァイング紙、ノース・チャイナ・デーリー・ニュース紙、ニューヨーク・タイムス紙、ジャパン・タイムス紙、シカゴ・トリビューン紙、ノース・アメリカのマナー紙等主として米国新聞記者である、殊にシカゴ・トリビューンの記者カズン・イヴのペンネームで通っている老女性は米国女性新聞記者のオーソリティと云われる老練な記者で外務省の紹介状を持ち入満した、以上は入満外人の主として個人であるが、団体としては七月以降は著名なものはなく、而もその多くは奉天経由北平へ赴くもので個人の観光客は北支より寧ろ北満ハルビン辺りを希望し、ハルビンに一、二泊するものが多い、これが理由としてはハルビンには外人をアトラクトするものが未だ残されている関係からでないかと観られている
尚おこれ等通過外人に過般成立を見た日独防共協定の率直なる意見を聴取するに、大多数は日本が共産思想と云う悪思想の侵入を防止する建前からこれは必然的のものと見ると語り、更にこれを米国人に聴くに日満独防共協定は将来全世界の防共協定の成立を見る最初のものとなるであろうとの感想を語り、更にデンマークの宗教家はスペインの革命にコンミンターンは完全に失敗したから、あれ以上欧洲の政局を攪乱することはないものと思う、即ち第三インターの策動は一頓挫を来したから防共協定は効を奏するであろう、殊に宗教家の立場からは平和を希求する意味合上大いに賛意を表するものであると「日本外交のよき打着」をはっきり表明している
2.1937年10月までの防共協定
2−1.ソ支不可侵協定と各国 : 裏面に密約存在 : ドイツは極めて不満 大阪朝日新聞
日付1937-08-31
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336303
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
独 【ベルリン特電三十日発】[1937年8月]ソ支不可侵条約 [中ソ不可侵条約 ]の裏には南京政府が共産主義を容認する主旨でソ支両国間に秘密協定があり得ると考えられ、共産主義を排撃して世界平和をもたらそうとするドイツの努力に対し大きな反対気勢を作ったものとしてドイツは支那に対し大きな不満を持つのは事実だ、ソ支条約に関する三十日朝刊各紙の論調は左の如くである
フェルキッシャー・ベオバハター紙 [Völkischer Beobachter : 民族的監視] ソ支不可侵条約 [中ソ不可侵条約 ]の成立は南京政府が日支事変によって非常に緊迫した状態に陥った結果であるとはいえ支那の政治家は十分共産主義の侵略的な事実を熟知し、かつモスコーとの協力が何を語るかは十分知り抜いているはずである、吾人は蒋介石がモスコーとの共同の危険が何であるかを十分に自覚せんことを切望する
モンターゲ紙 共産主義が過去において支那をいかに毒したかということは歴史に明らかである、この点から見て今回の条約は支那にとって極めて危険である、共産主義の極東進出に脅かされた南京政府は日本との対立に圧迫されて背後の安全を望むというが、しかし侵略的な共産主義は防禦的な協定を結ばない、共産主義は目的のため手段を選ばない積極的に捌け口を求めるのみだ、ソウエートと国境を接しない国さえソウエートのために甚だしい犠牲を払わねばならぬ、スペイン、フランス両国がそれだ、ソウエートと国境を接しソウエートの好い餌食となっている支那がどれだけ犠牲を払わねばならぬか分るはずである、支那はソ支の不可侵条約により国内では共産主義を蔓らせ国外では現在の日支の対立をさらに激化し、日支妥協の途を塞ぐものである、今回の条約成立によってソウエートは北叟笑んでいよう、なんとなれば戦争と不安のあるところにソウエートの乗ずる隙があるからである
伊
【ローマ特電二十九日発】ソ連支那間の不可侵条約締結に関しイタリー政界ではスペイン動乱に対するソ連の手口から見て北支事変を契機として支那との間に右不可侵条約に付帯して一の密約が締結されたことは大体疑ないところとしている
米
【ニューヨーク特電二十九日発】ソ支不可侵条約 [Sino-Soviet Non-Aggression Pact ]に関し、アメリカでは右条約以外にソ支間に密約が存在するものとは一般に信じられていない
アメリカでは今回のソ支不可侵条約をさまで重大視せず、ソ連は今日の支那の苦境を利用して多年希望せるソ支不可侵条約 [Sino-Soviet Non-Aggression Pact ]締結を提唱し、支那側は日支事変中ソ連から軍需品その他の供給を受けると同時に、ソ支国境の安全を計る意味でソ連の要望に応じたものであるが
これによって日本の対支および対ソ連悪感情は昂進すべく蒋介石 は危険なる政治的行動を取ったものと見ている。
英
【ロンドン特電二十九日発】ソ支不可侵条約 [Sino-Soviet Non-Aggression Pact ]の締結に関してはロンドンにおいてもかなり注目をひいているが、その内容については発表以外不明で果して秘密協定の存在するか否かは不明であるが、一般には積極的な意味を持つものでなくソ連が他の諸国と締結せる程度のものだと見ている
しかし日支事件の真只中にあってソ支間にかかる条約が締結されたことは少くとも日本牽制の意味を持つものと見ている
仏
【パリ特電三十日発】フランスはソ支不可侵条約 [Treaty of non-aggression between the USSR and the Republic of China ]をあまり重大視せず大体次の如き観測をなしている
ソウエートが支那に実質的援助を与えているのは周知の事実であり条約の有無に拘らない、不可侵条約は日本を焦慮させる以外に大して役に立つものでない、この条約の背後にはソウエートと支那との間に種々な密約のあることを明かに想像させる
写真(右):1937年9月、日独伊防共協定(1936年11月)後、ナチ党大会に呼ばれた二荒芳徳(ふたら よしのり:左)とヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ(Baldur Benedikt von Schirach, 1907-1974) ;1931年、党の青少年全国組織ヒトラーユーゲントの指導者に任命されたシーラッハだったが、ヒトラーユーゲントが拡大したのは1933年のヒトラー政権後、特に1934年キリストやボーイスカウトの青年団を吸収してからである。1936年12月には「ヒトラーユーゲント法」が成立し、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた。シーラッハ指導の下に1938年8月から11月にかけてヒトラーユーゲントが日本を訪問し各地で大歓迎された。1937年ナチ党ニュルンベルク大会は「労働の大会」と題して1937年9月6日-13日に開催、日本から秩父宮雍仁親王が来賓として臨席した。1921年、皇太子裕仁親王の欧州訪問(半年間)の随行したた二荒芳徳(1886-1967)は、1922年、少年団(ボーイスカウト)日本連盟初代理事長に就任、1925年に貴族院議員、日本体育大学校長と戦後も活躍している。 English: w:Reichsjugendführer w:Baldur von Schirach with Japanese Boy Scout leaders (German text caption reads "Jugendführer" youth leader) as spectators at fight games of the w:Hitlerjugend in w:Bremen, Germany August 15, 1937. A Japanese youth/Scout delegation visited Germany in 1937. left Earl w:Yoshinori Futara (二荒芳徳) center w:Baldur von Schirach right unnamed Scout leader
Deutsch: Reichsjugendführer Baldur von Schirach mit dem Jugendführer Japans Yoshinori Futara
Date
15 August 1937
Source
image at forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=101635
Author
Dōmei Kokusai Shashin Shimbun international news photo newspaper published by Dōmei Tsushin Shashin/Ullsteinbild archive no. 00805135 (German text caption reads Ullsteinbild archive no. 00805135 January 1, 1937 [sic-August 15, 1937]) 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Yoshinori Futara Baldur von Schirach Hitlerjugend Bremen 1937.jpg引用。
1929年の世界大恐慌で社会不安が増し、議会政治の混乱が起きたのは、ドイツ・日本だけではなく、フランス・アメリカにもその兆候があった。また、ナチ党の勢力拡大の中で、対抗すべきドイツの社会民主党については、コミンテルンによる「社会ファシズム論」、すなわち社会民主主義に対する敵視を指摘することもできる。ドイツをはじめとして世界革命を起こすには、議会制民主主義の枠組みを破壊すべきであるが、社会民主主義は議会制民主主義の枠組みで行動していたからである。
こうして、共産主義を奉じるコミンテルンは、ファシズム以上に社会民主主義者を最も危険な敵として位置づけた。ドイツでは、この方針によって、共産党とナチ党との間で社会民主党を攻撃する共闘も生まれたのである。つまり、反議会勢力という点で、共産党は、同様に反議会勢力のファシスト、ナチ党と類似した革新的破壊政党だったのである。
したがって、反コミンテルン防共協定がドイツと日本で結ばれたといっても、それは体制側となったファシズム全体主義国家と反体制の共産主義、社会民主主義との対立ということであり、イデオロギーの対立というより与党か革命党かという政治的主導権争いを反映していたと考えられる。
2ー2.伊の防共協定参加説 大阪朝日新聞
日付
1937-10-25
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337945
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一
昨年十一月二十五日ベルリンで調印された日独両国の共産インターナショナル いわゆるコミンテルン に対する協定にイタリーが参加することは、かねて日伊両国政府間で内交渉中であったところ、最近本交渉の段階に移り、同協定第二条すなわち『コミンテルン の破壊工作によって国内の安寧を脅かさるる第三国に対し本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし』というに則り、イタリーが参加することとなったと報ぜられる。
あたかも日独協定の調印者たるわが駐独大使武者小路子と、ドイツの駐英大使にしてまた外交上のヒットラー総統の懐刀であるリッベントロップ氏とがたまたま日を同じゅうしてローマにいたり、殊に後者がムソリーニ首相 、チアノ外相と重要会見を行えることが世上重要視せらるるのは無理からぬことである。但し、リ氏訪伊の用向きは防共協定の件についてのみならず、スペイン内乱に対する独伊の協同政策打合せにもあるらしく、昨今独伊両国首脳者の考えが支那事変とスペイン内乱とを結びつくるにあることは想像に難からぬところである。リ氏は過日ロンドンの不干渉委員会で『スペイン内乱を始めたのはソ連である』と断じたが、支那事変の関連性がソ連の支那援助により支那赤化の虞あるところにあることも叙説を要しないであろう。
二
吾人は支那事変以来特に深厚を加えた日伊の友好関係がイタリーの日独協定参加の形式において具体化し来ったことを別して歓迎するのである。ムソリーニ首相 も去月二十八日ベルリンのマイフェルトで、ヒットラー総統と並び立って演説を行い、『第三インターナショナル は嘘に生きる人道堕落の形相である。ファシズムは大戦後全力を挙げてこれと闘った、我らは言葉と武力とによりこれを討つ、我らは現にスペインにおいてそうしているのだ。同地で数千のイタリー義勇兵は斃れたではないか』といった。その武力行使論は卒かに首肯し難いにしても、イタリーの日独防共協定参加がコミンテルン の世界平和と人道に対する破壊工作を防遏する上に非常の力たるはいうまでもない。この意味で今日イタリーの参加説を喜び、将来またポーランドその他コミンテルン の破壊工作によって国内の安寧を脅かさるる諸国の来り投じて人類の進歩に貢献せんことを期待してやまないのである。
3.1937年11月6日、日独伊防共協定
3ー1.日独伊防共協定の反響 : 中南米への影響を米国は懸念す 大阪朝日新聞 日付
1937-11-08
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336862
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【ワシントン特電六日発】日、独、伊三国防共協定 に関しアメリカ官辺は沈黙を守っているが、反デモクラチックの風潮が仲南米に波及し第二のスペインとなることなきか早くも懸念されはじめている、即ち極く最近までブラジルは戒厳令下にあったが、そのほか中、南米諸国中には共産主義圧迫の名の下に独裁政治が行われんとする傾向が現われておりその上スペインのフランコ[Francisco Franco ]将軍への同情は圧倒的なものであってまたウルグワイ、キューバがアメリカにスペイン内乱につき調停方を勧めて来たという事実もあり、もしフランコ将軍が勝利を得た暁は防共協定に参加するは疑いなしとされ、これが中南米に如何なる影響を与えるが注目されている
衆院各派声明
衆議院各派では日独伊三国防共協定 の成立に対し七日左の如き共同声明を決定発表した
声明 昨日「イタリーの日独防共協定参加に関する議定書 」が調印せられ防共事業の強化を見るに至りしは吾々の欣快とするところである、由来共産主義は我が国体と絶対に相容れないものにして国家の安寧秩序、世界の平和を脅かすのみならず国際共産党の破壊工作の害毒に至りては実に戦慄すべきものがある、
今回の支那事変にしてもまた国際共産党の露骨なる援助が支那をして長期抗日を決意せしめ東洋の平和を攪乱するに至ったことは明白である、この際に当り日独防共協定に伊国の参加を見たるは誠に心強く感ずる次第で吾々は更に志を同じゅうする各国が協約に参加し文明の敵たる共産党の害毒を防遏して世界永遠の平和に貢献せんことを希望する
武器を整えた二億の国民の団結 ジョルナーレ・ディタリヤ紙ガイダ主筆論ず
【ローマ特電六日発】ジョルナーレ・ディタリヤ紙主筆ガイダ氏は六日夕刊紙上日独伊防共協定に関する三段にわたる大論文を発表したが、右はイタリー政府の最高方針を裏書する権威ある論評として注目されている、概要左の如し
『今回の議定書は国際政治機構に重大な影響をおよぼす文化史的重要な基礎である共産主義の宣伝工作に対する日独伊三国の共同戦線を表現する、この戦線はその力と能力とをヨーロッパからアジヤへ、地中海から大西洋を包含し太平洋へ発展せしめるその行動は公開的だ、六日発表された全文によって明かなる如く共産主義の陰謀的なるに反しこれはまたいかにも開放的だ、共産主義が宣伝から金銭へ、金銭から武器へとその運動を発展せしめているのは明かに世界の政治組織に対する宣戦だ、
これは一九三五年一月一日付のイズヴェスチャ紙に発表したカール・ラデック
[Karl Berngardovich Radek ]の論文で明瞭である、
かかる挑戦はすでにアジヤ、ヨーロッパに蔓延しつつある、特に支那政府はかかる赤色の進出に堪え切れず、その魔手は抗日運動と変った、すなわちこの脅威に対し、手遅れとならぬうちにこれを阻止しこれを克服する能力を有する強力な国家が結合することとなった、これがローマ議定書だ、そしてこれはイタリーにとっては反共産戦線を張ってから最初の歴史的事実だこの議定書は単に締盟国国民の利益を防衛するのみならず破壊的革命の溷濁に陥ることを欲しないすべての他の国民の共通な利益を防衛するものだ武器を整えた二億の国民が団結した、 地中海が脅かされてもその背後には二百万トンの艦隊がある、平和は大砲によっても守られるものだ、この意味において日独伊三国の軍備は現下各種の問題に重大な意義をもつことになる』
カール・ラデック
(Karl Berngardovich Radek )は、1904年にポーランド・リトアニア王国社会民主主義党に入党、1905年のワルシャワ革命を企て失敗、ドイツに亡命し社会民主党(SPD)に入党、党機関紙の仕事をした。その経験から、1917年、ロシア二月革命後、レーニンに付き従って、ロシア行きを希望したが、危険人物として入国を拒否、スウェーデンでロシア革命の報道をした。ラデックは1919年2月12日のドイツ、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス(Spartacus )蜂起に参加したが、逮捕された。釈放後、カール・ラデック
(Karl Berngardovich Radek )はコミンテルン
(Comintern )の書記として活躍した。
図(上左):1937年、ドイツ、反共産主義者「ボルシュビズムの仮面を剥ぐ」のポスター ;地球を支配する槌鎌のユダヤの五芒星とソ連の巨大なボリシェビキ髑髏兵士が出現し、世界が炎に包まれている。 Cover of the booklet 'Great Anti-Bolshevist Exhibition' (Große anti-bolschewistiche Ausstellung) produced by the German Ministry of Propaganda.
Promotional poster illustration for the 1937 Anticommunist Nazi propaganda exhibition "Bolschewismus ohne Maske" ('Bolshevism without a mask') held by the Nazi Party in Berlin, 1937.
Original exhibition illustration design from 1937
Eröffnungsveranstaltung einer antibolschewistischen Ausstellung im Berliner Reichstag mit dem Titel "Bolschewismus ohne Maske".
Date ca. 1937–1939
Author Reich Ministry for Public Enlightenment and Propaganda (Reichsministerium für Volksaufklärung und Propaganda), Nazi Germany 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Bolschewismus ohne Maske Postkarte Nazi propaganda anti-Semitic anti-Bolshevik postcard of Bolshevism unmasked exhibition poster Wien 1939 UWDC UW-Madison Libraries Anonymous artist No known copyright.jpg引用。
図(上右):1937年、ドイツ、反共産主義者「反ボリシェヴィスト大規模展覧会」のポスター ;ユーラシア大陸を支配するソ連の巨大なボリシェビキ髑髏兵士がアフリカ、ヨーロッパを燃やし尽くそうと襲ってくる。ソ連のコミンテルンのような世界を巻き込む共産主義者の陰謀、赤化を防ぐ必要性が強調された。これは、スペイン内戦、中国共産党の武力闘争の影響も強かったのであろう。11936年11月25日、の日独防共協定には、1937年11月、イタリアも参加、日独伊三国防共協定となったが、1939年、ハンガリー、満州国、スペインも参加している。しかし、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が成立すると、日本ではドイツの裏切りに衝撃を受け、ドイツへの不信感が強まった。これが日独伊三国軍事同盟の締結が、1940年9月27日とドイツのフランス戦料理まで遅れた理由である。 Русский: Обложка буклета выставки "GROSSE ANTIBOLSCHEWISTISCHE AUSSTELLUNG", 1937, Германия, Бавария, Нюрнберг. Подготовлен Министерством Пропаганды
Date 1937
Source Собственная работа. Скан и реконструкция изображения, помещенного в сборнике документов < Der II.Weltkrieg /Dokumentation Das III.Reich.Mohndruck Graphische Betriebe GmbH, Gütersloch. 1989 ISBN 3-88199-536-6 >
Author Собственное фото. Автор рисунка не известен 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Great Anti-Bolshevist Exhibition leaflet cover.jpg引用。
3−2.文明擁護の堅陣 : 日独伊防共協定の意義 : 論説 報知新聞
日付
1937-11-07
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337151 情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
一
赤化防止 を目的とする日伊間の協定はいよいよ成立の運びとなり、その旨が公式に発表された。世界平和のバチルスである共産主義的破壊に対する共同防衛を約束し、それに必要な協力の措置を規定したものである。この協定としては、先に昨年十一月二十五日日本とドイツとの間に正式調印を了した日独防共協定 が厳存する故、日伊防共協定の成立によって、今や日本を中心に、ドイツとイタリアとを両翼とする防共の条約網が張りめぐらされ、共産主義のバチルスに対する防疫壁が築かれた訳である。我等は日本が現に支那を中心とする防共を一つの目標として、支那に対する軍事行動を進めている際、日独防共協定と並んで日伊防共協定の成立したことに、衷心から祝福の念を禁じ得ないのである。
思うに第三インターナショナル 、さらに突きつめていえば、ソヴィエト・ロシアを基地とする共産主義が、人類全体の敵であることは今さら多言を要するまでもないことであろう。共産主義の狙うところは、人類進化の現段階を超越した理想社会であり、現代の文明から飛躍した彼岸にある。従って共産主義思想は、現代文明の破壊者であり、世界人類の敵であることは否定すべからざる事実である。
しかるにソヴィエト・ロシアを源泉とする赤色思想の流れが、抵抗の少いところを狙って押出すべく虎視耽々たるものある以上、世界の平和と人類文明の擁護者を以て任ずる国民同士が、互に提携して防共策を講ずることは、確かに天意に添うた神聖なる行動といわなければならない。
三
もっとも昨今のソヴィエト・ロシアは、一時露骨に表現した世界赤化政策を断念し、人民戦線政策 を以てそれに置き代えた。その結果ソ連邦の赤化運動は一時に比較して余程積極性を緩和したとはいえ、人民戦線政策が現実的効果を狙って居るものであるだけ、その禍害は決して疎かにならぬものがある。フランスやスペインにおける人民戦線政府 の存在、支那における国共妥協政治など、いずれにしても今日におけるソヴィエト・ロシアの赤化宣伝工作 が着々世界の着色を変えて居る実証を提供するものということが出来よう。
かかる形勢を自然の成行にまかせておく場合、やがて世界の状態を根本から覆没し、第三インターナショナル をして現代文明の墓掘りに成功させるばかりのことである。日伊両国が、防共協定を結んで日独の防共措置を強化する工作に出たについては、英米等の第三国といえども、全幅の感謝を表明してしかるべきであり、これに向ってとやかく非難をさしはさむいわれはないと断言するに憚らない。
四
イタリアも過去においては、共産主義の本拠地と遠く距たっているのに多少楽観的であった傾向がある。しかしながら最初がフランスにおける人民戦線の結成に成功した余勢を以てスペインの内乱に干渉し、ついにバロセロナの赤色政権も樹立させた、しかもオデッサを基地とする赤色潜水艦の跳梁は、今なお変幻出没捕捉すべからざるものがある。他方極東においてはソ連邦が支那の背後から干渉の手を差し伸べ、日支の戦局をいやが上にも悪化させたことは疑うべからざる事実である。しかも赤化路線の進むところ、外蒙は既に赤の一色で塗り潰され、次で新疆から甘粛、陜西の飛石伝いに支那の心臓部及び極東を狙って居ることは明瞭に看取されるところである。日、独、伊三国がモスコーから来るこの共通の脅威に対抗して防共国防壁を築いたことは、極めて時宜を得た外交措置というべきであろう。
勿論日伊間にこの種の新協定が成立したからとて、今直にこれが現実的効果の現れる筈はあり得ない。しかしその見えざる効果が、決して軽からぬものあることは、日独協定におけると同様である。今度の事変に際し、日本が反日諸国の包囲態形の中に立って、いかに日独協定の存在に感激すべきものあるかは極めて明瞭である。
従って日伊の接触が、日本の国際的地位の上に如何に大なる寄与をなすかは喋々を要するまでもないであろう。世界の赤化を狙うソ連邦が、この際先ず第一に反省の要するはもちろんのことであるが、英米仏等の列国も、日、独、伊の三国が防共を看板として国際間における一グループを作るに至った事情に広汎な考慮を払い、差し当り極東における日本の立場を虚心坦懐の境地から考察して、支那事変に対する彼等の態度を再検討してしかるべきであろう。否この際彼等も進んで日、独、伊の防共網に参加し、世界平和、人類文明の擁護者としての当然の責務を果すべきではなかろうか。
図(右):1938年、日独伊防共協定を反映した三国友好「仲よし三國」の絵葉書ポストカード ;1936年11月25日、ソ連を中心にした共産主義者、コミンテルンによる赤化を防ぐために、情報交換、破壊工作壊滅を企図して、日独防共協定(共産「インターナショナル」ニ対スル協定)が締結された。これは、1937年にコミンテルン第7回大会で、人民戦線(民族統一戦線)を各国に結成し、反ファシズム活動を強化することが唱えられたこと、1936年以来のスペイン内戦、中国での反日活動などが念頭にあった。 ただし、1936年(昭和11年)3月9日〜1937年(昭和12年)2月2日の首相廣田弘毅 は、1935年の梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を引き継いで、着実に中国大陸への日本勢力拡大を中国国民政府に認めさせ、満州の権益確立を黙認させていたので、中国における共産党の赤化は食い止められると考えていたようだ。とすれば、日本にとっては、ソ連が主たる仮想敵ということになる。 1937年11月、イタリアが加盟し、日独伊防共協定となった。三国防共協定となった。1939年、ハンガリー、満州国、スペインも加盟した。しかし、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたために、防共協定は空文化し、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻によって、ふたたび反共十字軍が唱えられ、1941年11月25日、防共協定の強化が図られた。対ソ戦に義勇兵を派遣するために、ブルガリア、フィンランド、ルーマニア、ドイツ傀儡スロバキア、ドイツ傀儡クロアチア、ドイツ占領下デンマーク、日本傀儡中華民国汪兆銘政権も加盟した。 Description
日本語: 1938年のプロパガンダ葉書”仲よし三國
Date 1938
Source アップロード者所蔵の葉書 写真はWikimedia Commons, Category:Anti-communist propaganda
File:Naka yoshi sangoku.jpg引用。
コミンテルン
(Коммунистический Интернационал
:共産主義インターナショナル
)は、1919年3月にボルシェビキ創立の各国共産党の国際連携組織で、本部はモスクワに置かれた。各国の共産党は支部の位置づけになり、ソ連の指導が行われたが、第二次世界大戦でアメリカ、イギリスと胃の連携を重視するために、1943年6月に解散された。
日本との関係では、1921-1922年、堺利彦、山川均、近藤栄蔵、高津正道らの日本共産党が設立を支援したが、1924年には解党されている。そこで、コミンテルン
(共産主義インターナショナル
)は、日本共産党の再建を支援し、1926年12月に佐野学、徳田球一、鍋山貞親、福本和夫、佐野文夫らが再結党している。1927年、君主制廃止、ブルジョア民主主義革命をめざすブハーリンの「27年テーゼ」が採択された。1932年にはこれが否定され、社会主義革命の一挙達成をめざす「32年テーゼ」が採択された。日本共産党は、官憲の弾圧により日中戦争の始まった1937年以降は日本国内での活動を休止し、野坂参三らのモスクワ、延安での活動が続けられた。
3−3.日独伊防共協定に洪国[洪牙利:ハンガリー]も参加を声明 : 十六日、伯林で正式手続 大阪朝日新聞
日付
1939-01-15
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337536
情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
[写真(チャーキー洪[ハンガリー]外相)あり 省略]
【ブダペスト特電十三日発】ブダペスト駐在日本、ドイツ、イタリー三国公使は十三日朝外相チャーキー氏を訪問、ハンガリー政府に対し防共協定参加を勧誘する本国政府の正式招請を通告したが、同外相は右三国に対し正式招請を受諾すべきことを回答した、尚同外相は十六日ベルリンを訪問し防共協定参加の正式手続を執るはずである
【同盟ブタペスト十三日発】ハンガリー政府は十三日日独伊防共協定に参加する旨正式に声明した、ハンガリー今回の挙は民主主義国と全体主義国とが東南欧洲において激しい制覇戦を演じている現在、ハンガリーが全体主義国に対する共感を堂々示唆したものとして注目される、なおハンガリーは大戦直後一九一八年秋に革命勃発、同一九年春にはハンガリー共産党のベラクンの指導の下に一時共産政治が樹立されたが遂に挙国一致してこれを排撃、二〇年ホルディ提督 [L'amiral Horthy ]の摂政就任以来引続き防共の巨歩を進めていたもので、共産党は合法的存在を禁止され最近では共産主義者が一人でも逮捕されると忽ち大ニュースになるほど微々たる勢力となっている
3−4.日独伊防共協定に満洲国も正式参加 : 堂々・中外へ声明す 大阪朝日新聞 日付
1939-01-17
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100334979 情報源/出処:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)
【新京特電十六日発】防共協定正式加盟の方針を決定した満洲国では即日右の方針を内外に声明するとともにわが植田大使、ワグナー独、コルテーゼ伊両国公使に同様の意向を通達した、正式加入の手続は日独伊三国の招請によって開始されることとなるが、その時期は極めて近きものと観測される
【同盟新京十六日発】満洲国 政府は十六日国務院会議後張総理談の形式をもって政府の所信を堂々内外に闡明した=写真は張国務総理
我国は建国以来日本帝国との協同防衛の盟約により不撓の決意をもって防共の第一線に立って活躍し来れるところ更に排共の完璧を期するため防共協定に正式に参加するを適当と認めこれが機運の醸成に努め来れるが、今回いよいよ現防共協定締約国側の勧誘に応じこれら諸国との間に具体的交渉を行い右実現を期することとせり
欧亜に亙る防共陣強化 外務省情報部長談
日独伊三国はかねてハンガリー政府および満洲国政府に対し防共協定参加の件につき共同勧説をなしていたところハンガリー政府は十三日、満洲国政府は十六日相ついで防共協定参加の意を声明し日独伊枢軸はここに一挙にして洪、満両国を加えた五ヶ国の防共枢軸に拡大強化された洪、満両国ともにそれそれ近日中に正式調印の運びに至るものと見られるが、満洲国の参加は極東の新秩序建設途上における布石ともなり、ハンガリーの参加は今後欧洲の小協商国及びバルカン諸国の間に一段と親独伊の傾向を助長するものと見られる満洲国およびハンガリー国の防共協定参加に関し河相外務省情報部長は十六日午後五時左の情報部長談を発表した
新春劈頭防共協定原署名国たる日独伊三国の共同勧誘に従い満洲国およびハンガリー国が相次いで新に本協定に参加の意向を表明したことは特筆すべき国際情勢の一発展である、そもそもコミンテルン は各国の歴史と文化とを抹殺し秩序の破壊を企図する人類共同の敵というべくそれゆえに世界のいずれの地域においてもその存在を許容されざるものであって各国が相携えてその絶滅を期するのは当然のことである、コミンテルン はさきにスペインおよび中部ヨーロッパの赤化を企てたが独伊のため撃壌せられ、また英仏などにおいても民主主義を擬装し国内の左翼分子を煽動して全国的赤化を陰謀したるため最近これら国家の強き嫌悪を買い今や反共機運は全欧に鬱然として起り、ここにハンガリー国が率先防共の一翼として参加を見ることとなった次第である、
また一方東亜における赤化の脅威に対してはわが国はまず起って防止の任に当っているこというまでもなく、今や満洲国の加盟を迎えんとし欧亜にわたる防共陣営は新に強化されたのである、東亜新秩序建設 の巨歩を歩み出したわが国としてはコミンテルン 掃蕩のため防共の両翼を東西に加えたことを深く慶賀する次第であってこれを第一段階として今後世界各地域において続々志を同じゅうする参加国の現わるることを信じて疑わない
第二期建国 満洲国の成育ぶり
【新京特電十六日発】日独伊三国の防共協定に正式加盟を表明した満洲国 [Manchukuo]は反共を最高国是として生きた新国家でソ連とは蜿蜒三千キロにわたって接壌し、建国以来国境全線に配備された三十万の赤軍によって直接の脅威下に曝され、一方コミンテルンが企図する東洋平和破壊のための国内共産匪ならびに反満分子の援助、国内治安の攪乱など悪辣極まりないあらゆる策謀に悩まされながらも盟邦日本の協力を得てよくこれを反撃、国勢の育成に力を致して今日にいたった、
最近における満洲国建設の進展、国力の充実は実に目覚しいものがあり、ことに独、伊、西、洪など各国の正式承認によって国際的地位は躍進し名実ともに有力なメンバーとして防共協定に加入することとなったわけである、満洲国の正式加入は東亜、中欧を貫く世界の反響防衛陣に一段の強化を与えるものであるが満洲国自体としても対内的に極めて重要な意義をもっている、すなわち満洲国の健全なる建設を東亜新秩序 達成の基調と確信している満洲国としては防共協定正式加盟によって防共諸国との協力を緊密にして共産主義の攻勢を防遏し内には友邦日本の援助によって産業開発の遂行、国防国家の建設など国力の発展に邁進して東亜協同体の実現を期し延いては世界平和に貢献せんとするもので物心両方面にわたって第二期建国ともいうべきかつてなき重要時期を迎えたものとして注目に価する
3−5.輝く東亜新秩序建設へ : 防共と平和に邁進 : 昨夜首相、全東亜へ放送 大阪朝日新聞
日付
1939-03-05
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100058010
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日満支各地で三日から行われている『東亜新秩序運動週間 』を一層意義づけるため平沼[騏一郎] 首相は四日午後七時半から首相官邸に備えつけたマイクを通じ『東亜新秩序建設』と題する左の如き講演を行った、この放送は内地はもちろん満洲国、北中南支大陸に中継され支那民衆の警醒、指導に努めている張季行氏がこれを支那語に通訳した、日満支の永遠の平和の理想境—新東亜体制完成の大業を諄々と説く首相の声は力強く全東亜に響いた=写真は官邸から放送中の平沼[騏一郎] 首相(東朝社電送)
今や新東亜建設 の機運がいかなる力をもってするも対抗するを得ざる勢いをもって擡頭しております、この重大なる更新の時期におきまして所信の一端を述ぶるの機会を得ましたことは私のもっとも欣幸とするところであります、凡そ東亜の平和は世界共通の理想でありまして日本帝国が今次支那事変 を契機として東亜の天地をして永遠に平和の理想郷たらしめんとして努力しつつある所以のものも畢竟全東亜民衆の要望に副うべき天業完成のためにほかなりません、 申すまでもなく日本、満洲、支那の三国はアジヤにおける同文同種の国家とて地理的にも歴史的にも共存共栄の必然的関係に結ばれております、互いに相倚り相扶けて東亜の繁栄をはかるべき運命に置かれておるのであります、日満支三国がこの離るべからざる関連を明白に認識することがもっとも重要なことであります、
東亜新秩序 の建設に関する帝国の方針は先に近衛[文麿] 前内閣総理大臣が中外に声明した通りでありまして、日満支三国が相携えて東亜永遠の安定を確保することを終極の目標とするものであります、これがためには日満支三国は政治、経済、文化など各般にわたって互助連環の関係を樹立し東亜における国際正義の確立共同防共の達成、新文化の創造経済結合の実現を期せねばなりません、御承知のように満洲国はいよいよ新興国家体制を整備強化いたしまして現に新東亜建設 の一翼として重要なる責務を果しつつあるのであります、隣邦支那においても更生の機運が澎湃として漲りつつあるのを感ずるのでありますが、帝国としては帝国と提携するに足る新興支那中央政権の成立発展を期待しておる次第であります、由来帝国と支那とが共存共栄の必然的関係に置かれまして共通の文化の中に互いに成長発展して参りましたことは歴史の示す明白なる事実であります、
したがって帝国と支那とが共同して東亜の新秩序建設 に専心努力するにあらざればこの東亜の天地に永遠の平和と繁栄とを招来することは不可能であります、この平和と繁栄とは永く虐政に苦しんで来た支那民衆自身が何よりも望んでいるところであろうと存じます、かくのごとく永く苦悩の歴史をつづけて来た支那民衆に対しましては帝国の深く同情するところでありまして新秩序の建設によりかかる苦悩から支那民衆を脱却せしめ明朗なる東亜を建設することこそ帝国の念願であり目的とするところであります、事変発生以来帝国が戦場に幾多の尊き生霊を失い多数の国帑を費してしかもなお目的貫行に一路邁進する所以のものは支那をして真の支那たらしめ東亜をして真の東亜たらしめもって同種同文の民族が血で血を洗うがごとき不祥事を将来永遠に絶滅せんがためであります、
帝国と支那との共存共栄は互いに独立国たるの面目を保持することもちろんでありまして帝国はこれがために今次の事変に忍び得ざる犠牲を忍んでおります、かくの如く大犠牲をも耐え忍んでただただ支那の更生を望む所以のものは前にも申述べました通り支那をして真に東亜の支那たらしむるにあるのでありますから帝国と更生支那とは政治、経済、文化など総てにわたり固き固き互助連環の関係を結び互いに足らざるものを相補わねばならぬのであります、それには支那を他国の植民地化する如き欧米依存の唯物思想は支那全土から絶対に放逐せねばなりません、それにつきまして重要なのはアジヤ共通の思想対策、つまり東洋道徳の復興、防共陣営の強化が何よりも切実に必要であります、
コミンテルンが世界に向って宣伝する共産主義思想の害毒の大なること、該思想が東洋の思想と絶対に相容れざる兇悪思想なることは説くまでもないことであります、支那民衆を忘れた国民政府は今日においては支那共産党 の圧力に押されて遂に容共政策をとり次第々々に共産党に圧倒されつつある実情であります、かくてはコミンテルンの思いのままとなり、ひいては支那全土を赤化する虞れが生ずるのであります、支那の同憂具眼の士もまた深くこの点を憂慮して支那良民を赤化の魔手より救うの必要なることを痛感していることと信ずるのであります、
土匪、軍閥の下に経験したる惨澹たる生活と帝国の意図する東亜新秩序の建設 の意義とを十分に比較検討すれば帝国の公正なる意図は極めて明瞭であります、現に日本国内に多数の支那人が平和な生活を営んでいる事実は何よりも雄弁にこれを実証しております、支那全民衆を誤らしめた国民政府はすでに奥地に逃避して一地方政権と化したるにも拘らずいまもなお表面頑強に抗日を継続しております、彼らは現在においては戦力を失い見込みなき抗戦を続けておるのでありますが、これは一面において国民政府 の誤れる指導者が自己の地位失墜を恐れるとともに第三国の援助に期待しているからでありましょう、
しかしこれら国民政府 のなかにも日本の真意に共感しているものも少くないとのことであります、しかして第三国も帝国の真意を諒解してその誤れる反日政策を放棄するの余儀なきにいたることは想像に難くありません、それにしてももし国民政府が澎湃として大陸を圧する現下の東亜新秩序建設 運動の真価を認識せずして単に自己保存の見地から第三国の援助にすがり抗日を叫びつつあるものとすれば、その短見やむしろ憐むべきで、溺れるもの藁をも掴むの類であります、しかしながら焦士抗戦によって善良な支那民衆の生活を破壊し第三国を利用せんとして却って国を売りつつある国民政府に対しては東亜新秩序建設の敵としてこれが絶滅をみるまでは将来どこまでも追撃の手をゆるめるものではありません、苛斂誅求の軍閥の悪政から共産主義の暴政に置き換えられるがごときことがあってはもはや支那民衆は永久に幸福をかち得ることが出来ません、共産主義の防衛に帝国がとくに力を注ぐゆえんもまたここに存するのであります、
しかして東亜新秩序の建設 に当りましては東亜への共産主義侵入を防遏するため日満支が一体となって格段の強固なる結合をせねばならぬのであります、帝国といたしましては前途に如何なる難関が押し寄せようともこれを排除し、あくまでも新東亜建設 の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設 のため目下対内外にわたる諸般の国家体制を整備しつつあります、これは万難を突破するの準備でありまして新東亜建設 の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設 に今後いかに永き年月を費すとも何ら屈するところなくこれを完成すべき強固なる国家体制を建設しつつあるのであります、
今次事変の収拾こそは日本国民の偉大なる力を発揮する絶好の機会でありまして、肇国以来持ち続けて来た固有の精神は必ずこの大事業を完成するに足ることを固く信じております、支那民衆諸君が日本帝国の熱意を理解しこの精神に共感せられ、勇躍蹶起して日本、満洲、支那三国が相携えて世界に類例を見ない新東亜体制を完成するの大業に参加し、われわれとともにふるって東亜安定の礎石とならんことを切望する次第であります
3ー6.日独伊同盟締結せば恐るる敵なし : 米の参戦何のその 大阪時事新報
日付
1939-05-27
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338228
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ソビエットロシヤはその好むと好まざるに拘らず共に天を戴かざる宿命にある、そこでわが大陸作戦が生れるのである、平沼首相も当面の問題は東亜[新秩序]建設 で日本は共産主義を撲滅することが出来る、欧洲にもソ連と結ぶものがあるがその結果はどうもよくない、覚醒すべきであるとその道義外交のうちに語っているがソ連に対する場合は日独伊の軍事同盟は極めて有効である即ちわが大陸作戦に求むるところの仮装敵国は支那及びソビエット連邦で支那に対しては既に有史以来の大軍事行動を開始しまた、ソ連に対しても所謂「ソ支二面同時武力作戦」が強化されているのであるから万一の場合これを日本一国で撃つより独伊と共にこれを東西より挟撃することの方が如何に有利であるかは説明するまでもない今回漸く締結をみるに至った英仏ソ三国軍事同盟は、極東問題を除外しているとあるがそんなことに遠慮する必要はない、
以上の三国が支那事変 以来続けている援蒋工作をハッキリ打切るならば多少考え直す余地もあるがそんなことは痴人の夢に等しい、ソ連の場合は独伊とことを起さなくても、わが国との関係は常に危険線にある従って西方—つまり欧洲に戦果が発し英仏ソと独伊が干戈を交えた場合日本が東方からソ連を撃つことは負担には異いないが大陸作戦としては今日以上任務が拡大するわけでないから日独伊の相互軍事援助ということはまず絶対必要で世界的戦争が発生せぬとしてもソ連を牽制することが出来、支那事変 の処理なぞも極めて有効に転廻する、ところが欧洲に戦争が発生した場合当然考えられるのは英仏ソの陣営にアメリカが参戦するであろうということである
この場合、日本の海軍は英、米、仏、ソの四国海軍力のほかに情勢によっては蘭領印度の関係から和蘭の海軍をも向うに廻さねばならない満洲事変 の際全世界を相手に焦土相交の決意をした日本のことであり今議会における米内海相の答弁にも帝国の海軍軍備は最大軍備国を目標にしたものであるから御安心願いたいとあったから太平洋の安全感には別に危懼するところもいらないが海軍の任務というものは実に重大となるまして場合によって軍艦の一部を地中海方面に分派しなければならぬような事態になればその負担は愈々大きなものとなる一方日本としては海の方面において独伊からうくる援助というものは皆無であるからだいぶ割が悪い割が悪いなぞというとこれは目先の利割に捉われたものであるという非難を受けるかも知れないがこれは事実である、しかし恐らく斯かることは杞憂となろう何故なら独伊の海軍力は英米仏三国に比し劣勢ではあるがこれを補うに優勢なる空軍と潜水艦を保有している、
英米仏三国艦隊の現有勢力は現在二・九五一・九五一トンとみればまず間違いはない、これに対し独伊の海軍力は大体において五六七、九二九トン程度である、つまり独伊海軍力は英米仏海軍力の約五分の一である五対一の劣勢である上、ソ連がこれに加わるとすれば、更に二四万トンばかりのものが増大するわけであるから軍艦を並べた帳面づらでゆくとこの相撲は独伊にとって相当大きな負担であるが英国艦隊はその構成組織というものが比較的旧式であるに比し独伊の海軍は近代的作戦のもとに整備されている加うるに独伊の空軍整備は将に世界に冠たるものであるから制空権なくして制海権なき今日はこの相撲は十分五分以上にとり得るとみてよい、
陸において独伊が優勢を誇り得ることは世界悉知の事実であり海において五分の相撲がとれるとすれば勝敗の帰趨は自ら判然するこの場合問題なのはアメリカの海軍であるが日本の海軍太平洋に頑張っているとそう思い切った行動はとれない。そうすると海面上の戦闘区域の分担も自から画然とするわけである、問題がここまでつきつめられれば既に考慮の余地はないソ連が、中立を守る場合、一応考慮する必要はあったが既に英仏ソの同盟が確実化したとすればこれも考える必要が無くなった、問題はそれこそただ断の一字が残されているのみである
3ー7.防共精神の蹂躪 : 社説 大阪時事新報
日付
1939-08-24
URL
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337931
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一
独ソ不侵略条約 は未だ成文化されたわけではない。が、締結することに決定したという両国政府の発表は、雄弁に両国間の新しき政治関係の樹立を物語るものである。すなわち、経済協定にしてからが、それ自体は政治的でないとしてもこれを結ぶということは有力な政治行動であり、やがては政治的協定に到達するに相違なしと見通されていたことを顧みれば、ことは一層はっきりして来るであろう。従って、官僚風に第一、第二、或いは第三の公文書を待つまでもなく、この新事態が東亜に対しいかなる影響を及ぼすか、またこれに対し興亜外交がいかに対処すべきやについては、予め決するところあるべきはいうまでもないのである。
ところが、ベルリン・ローマよりの頻々たる情報によると、この不侵略条約は防共協定 に悖るものでなく、それは今なお立派に存在するもので、ともかく日本としては、その世界政策を再検討して、ドイツと共同の目標に進み、ソ連と不侵略条約を締結して、英国打倒に共同戦線を張るべきだとの慫慂的態度を官辺において示しつつあるものの如くであるが、そんな人を馬鹿にした得手勝手な注文が通るものではない。
二
というのは、世界周知の如くドイツの示唆に俟つまでもなく所見合わずして日英会談は決裂しているのである。これは東亜新秩序建設 途上、必至の一段階をなすべきもので、国共合体によって東亜攪乱を目ざすソウェートと謀略的に提携する下心のもとに、やまをかけているのでも何んでもない。
すなわち、我国は防共の建前に立って、興亜政策を展開しつつあることを、寸刻なりとも忘却するほど健忘性ではあり得ないのである。とすれば、独ソ不侵略が[日独]防共協定 違反なりや否やの解釈は、我方独自の信念に本づくべきは勿論、かつまた、同協定の文面によらず、その精神に則った客観的な標準によるべきことまたいうを俟たないのである。
日独防共協定 の前文に共産インターは「世界平和全般を脅かすものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛のため協力せんことを欲し」とあり、その後の日独伊議定書にも「ドイツ国政府は」、「平和及び秩序の維持を念とする一切の国家間における密接なる協力のみが、右危険を減殺し且つ除去し得ることを確信」し、とさらに語気の強められているのを見ると、文字解釈としても、協定相手国の不利になるような取極めを、突如として締結したことは、同協定の違反と解すべきはもとより、事前に諒解を求むることなしに、「減殺」し「除去」すべき危険の本家本元との間に、一種の友好関係を結びたることは、同協定の精神を殆ど空文に帰せしめたものなることは余りに明々白々の事実といわなければならぬ。余事はさて措き、この点は、ドイツの深甚なる反省を促さざるを得ないところである。
三
いわんや、日ソ不侵略条約の能否、可否については、多く論ずるまでもないほど理義明瞭であろう。我建軍の目標、並に満洲事変以来の経緯を云為せずとも、また漁業問題、石油、石炭問題等はこと権益に関し、副次的要素なるがゆえにここに喋々せずとしても、およそ日支事変そのものが国共合作 勢力を正面の敵としていること張鼓峰事件 [朝鮮近く満ソ連国境で1938年7月、日本軍がソ連への威力偵察して撤退]、ノムンハン の露骨極まる牽制消耗軍事作戦に考え及んだならば、恐らく疑義を挿むの余地がないであろう。
我方として、新興ドイツが不公正なるヴェルサイユ条約を破摧し、平和裏に国家的発展を全うせんことを望み、かつ、それに必要なる国際政策を採用することも頗る至当のこととして、これを容認するに吝かではない。その意味においては、不侵略条約をとやかく内政干渉がましく論う意思を有するものではないのである。けれども、それが反防共協定たる性質を有する点だけは、率直にこれを指摘して、日本の立場を尊重せんことを要求してやまざるものである。
四
と同時に、今後の我皇道外交の独自なる方途についても、能否を計らず、可否を弁ぜざるていの妄動を敢てするものでないことを、ここに端的に表明し置くことを、友誼に本づく義務なりと確信するものである。
皇道外交の真姿は、古来自ら存するあり。神州不滅の信念もまた、昔に今に不退転なるものがある。その現代における内容については、再び提唱するの機会に待つが、ともかく我方としては、東亜建設の手段を権略的に外に求めてはならないことだけは一言して置き度いのである。換言すれば、内に省み、一に帰し、国体は明徴に、責任感において不惜身命なるに及んでこそ、はじめて国家総力体制は堅く、自ら信ずるものの強さが発揮されるゆえんを指摘して置きたいのである。外廻りのことは、然る後にはじめて、自然に打開の途を見出すであろう。
新自主外交とは、およそかくの如き、絶対帰一の国内整備によってのみ生れるとの根本観念に立てば、その発程がまず責任感の徹底によってなさるべきことと、利害打算に汲々乎として徒労なる摸索に、これ以上奔命せざらんことを冀求し置く必要を感ずる次第である。
4.第二次大戦の勃発直前の独ソ不可侵条約ーファシズムとボリシェビキの欧州分割
1939年4月、日本陸軍満州駐屯軍の関東軍の参謀辻政信少佐は、満州国境紛争処理の基本方針を定めた「満ソ国境紛争処理要綱」を作成した。そして、1939年4月25日、関東軍司令官植田謙吉大将は、恒例の師団長会合で、この基本方針を関東軍作戦命令第1488として発令した。こうして、「満『ソ』国境ニ於ケル」『ソ』軍(外蒙軍ヲ含ム)ノ不法行為ニ対シテハ周到ナル準備ノ下ニ徹底的ニ之ヲ膺懲シ『ソ』軍を慴伏セシメ其ノ野望ヲ初動ニ於テ封殺破摧ス」という強硬な攻撃姿勢が基本となった。そして、「一時的ニ「ソ」兵ヲ満領内ニ誘致、滞留セシムル」「国境線明確ナラザル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定シテ之ヲ第一線部隊ニ明示シ」「断乎トシテ積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スベキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ジテ唯第一線現場ニ於ケル必勝ニ専任シ万全ヲ期ス」と旺盛な繊維のもとで強硬な姿勢をとることが命令された。 つまり、対中国戦争と同様、ソ連・モンゴルにたいしても、越境行為を徹底的に「膺懲」するとしたのである。もちろんこの国境線は、日ソ間で乖離しており、「越境」の判断は日本側に拠ったのである。共産党軍といえる赤軍(Red Army)は,ロシア革命の成果を守る人民軍として組織されたが,その後、反ファシズム,反帝国主義を掲げて,対外的にも影響力をもった。ノモンハン事件は,モンゴルと満州国との国境紛争だが、モンゴル派遣・駐屯ソ連軍と満州国派遣・駐屯日本軍の戦いだった。
ノモンハンの大規模な国境紛争は、1939年8月31日,第二次大戦勃発 の直前に停戦となる。ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたし,その後,ソ連はドイツとの秘密協定に基づいて,ポーランドの東半分を軍事占領してしまう。英仏はドイツ軍撤退を要求したが、ドイツが無視したために、1939年9月3日,英仏はポーランドとの相互援助条約に基づいてドイツに対して宣戦布告をした。ただし,英仏は、ソ連には宣戦布告していないのであって,外交の権謀術数を見る思いがする。
1939年8月23日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリンでソ不可侵条約が経穴された。ソ連共産党指導者ヨシフ・スターリン、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)は、ドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップをもてなした。
1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,
1)相互に相手の領土の不可侵, 2)一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない 3)相互間の紛争の平和的解決 を骨子とした,期限10年の条約である.
1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し,ポーランドと相互援助条約(軍事同盟)を締結していた英仏が9月3日に,対独宣戦布告をしている。そのような状況で,ソ連軍は,ポーランドの東半分を軍事占領し,ドイツとポーランドを分割する。 ポーランド分割占領は,ヒトラーとスターリンであらかじめ合意された独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいていた。ポーランド攻撃は,ポーランド在住のドイツ人(民族ドイツ人)が,ポーランド政府に迫害されていること,離れドイツ領である東プロイセンとの回廊を領土として要求し,拒否されたこと,ポーランド軍によるドイツ放送局の襲撃事件(実際は自作自演)などである。ヒトラーは,生存圏の確保のために,勢力を拡大したいだけであったのか。
写真(右):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン(Kremlin)、独ソ不可侵条約の秘密議定書を踏まえて、独ソ友好国境協定に署名するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)とソ連指導者ヨセフ・スターリン (右後方)、その右手はソ連赤軍参謀総長ボリス・ミハイロヴィチ・シャポシニコフ(Boris Mikhailovitch Shaposhnikov)大将。ソ連の署名は、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)が独ソ不可侵条約に署名した。国家元首スターリンの肩書は党書記長で、対外的な代表の「首相」、軍事司令官「元帥」などの職位は、第二次大戦勃発1年半以上経過した1941年5月、独ソ戦開始の1カ月前になってスターリンの肩書となった。 Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag
ADN-ZB/Archiv Sowjetunion, September 1939 In Moskau wird am 28.9.1939 zwischen dem Deutschen Reich und der UdSSR ein Grenz- und Freundschaftsvertrag sowie eine gemeinsame politische Erklärung unterzeichnet. Der deutsche Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop während der Unterzeichnung; v.r. J. W. Stalin, der sowjetische Generalstabschef B. M. Schaposchnikow, Botschaftssekretär Perlow [gemeint ist Wladimir Pawlow] von der sowjetischen Botschaft in Berlin und der UdSSR-Botschafter in Berlin Schkwarzew.
Abgebildete Personen:
Ribbentrop, Joachim von: Außenminister, NSDAP, Deutschland
Schaposchnikow, Boris: Marschall, Sowjetunion (GND 11882600X)
Schkwarzew, Alexander: Botschafter in Deutschland, Sowjetunion
Stalin, Josef W.: 1878-1953; Marschall, Vorsitzender des Ministerrates, Generalsekretär der KP, Sowjetunion (GND 118642499)
Date 28 September 1939
Collection
German Federal Archives Current location
Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183)
Accession number
Bild 183-H27343 Source U.S. National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 540196. 写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty File:Bundesarchiv Bild 183-H27343, Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag.jpg引用。
◆ノモンハン事件 の原因は、「誤解」という意図せざる過誤ではなく、日本が満州帝国を傀儡化し、モンゴル人民共和国 との国境を住民を無視して策定したこと、ソ連がモンゴル人民共和国を傀儡化し、満州帝国との国境を住民を無視して策定したこと、すなわち「帝国主義」「支配者民族意識」「優生学的イデオロギー」という身勝手な思い上がりにある。
⇒写真集:ノモンハン事件 参照。
⇒写真集Album:1940年 日独伊三国同盟 を見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』 青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi) ;ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland ;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust ;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign ;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa ;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
⇒ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
⇒フィンランド内戦:Finnish Civil War
⇒フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota ⇒ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
⇒フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」 ⇒第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
⇒第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935) ⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
◆当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
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