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◆三菱九六式陸攻(G3M)ニッポン号三菱双発輸送機
写真(上)1935-1937年頃、待機する三菱 G3M2 九六式陸上攻撃機二一型
:1935年7月初飛行し「中攻」と呼ばれた。本来は、洋上で雷撃・爆撃による対艦戦攻撃を企図した攻撃機だが、1937年8月20日、日中戦争の初めに南京を空襲に投入された。
SDASM Archives Follow Mitsubishi, G3M2, Nell Title: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085758引用。


写真(上)1935-1937年頃、待機中の三菱 G3M2 九六式陸上攻撃機二一型
:三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)、3翅可変ピッチプロペラ装備。連合国軍のコードネームはNell(ネル)、輸送機はTina(ティナ)と命名された。
SDASM Archives Follow Mitsubishi, G3M2, Nell Title: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085759引用。

1.1937年第二次上海事変を契機とした日中戦争

1−A. 軍隊七万戦闘機五百上海近くに集結す : 一方北支作戦に対処する : 軍事行動も頗る活溌大阪毎日新聞 Vol: 第 42巻 Page: 122 出版年 1936-10-01

 上海本社特電【三十日発】蒋介石氏の北上を契機とし日支交渉の再開近きにありとする日本側の期待を裏切って支那側はいよいよ積極的に対日戦備を固めつつある、三十日上海某方面への情報を綜合すると上海から近々十里の上海停戦協定区域線近くより南京にわたってすでに集中された支那軍は蒋介石氏直系の精鋭第一、二、三、四、三六、五七、八七の各師その他計七万を算し殊に上海に最も近い杭州飛行場にはかつて上海事変にわが空軍を悩ましたボーイング[P-26ピーシューター]級の戦闘機約五百が集結され、また首都南京にも最新精鋭の福州重爆撃機をはじめ多数の戦闘機を集結中で最近長江上流から上海に帰った邦人旅行者は数回にわたり南京に向け空輸中の編隊飛行を見たと語っている、

また一方北支作戦に対する支那側軍事行動も両三日前から極めて活溌となり京漢線一帯の中央軍は山西方面を目ざして頻に動きつつあり広西軍討伐のため広東方面に出動中だった中央軍も急令を受け広東から急遽北上中で各鉄道、航路は軍隊、軍需品輸送に忙しい

多田駿 各国から盛に武器購入 南京退却の準備まで整備

馬公要港部に達した情報によればその後の北海には広東の一五九師が駐屯し、治安維持に当り中野氏の遺産も保管の任に当っている、翁照桓は欽州に後退して相変らず抗日救国を唱えているが積極的には動いていない、どうも一五九師との間にある黙契があるようで一二ヶ月ののちにはまた北海に舞戻るのではないかと見られている

 海口には従来広東軍の一個旅がいたが最近二個旅にした、市内は極めて平静、また汕頭も爆弾投入事件以後は全く平穏だ、廈門は新聞の論調もよく福州は排日貨事件が二、三あったが現在はさしたることはない

支那の海軍は九江と南京に集中しているようで揚子江一帯は河岸に無数の砲台のごときものを築造、戦備を急いでいる、とにかく日本と一戦交えねばという心は十分あるらしい、各国より軍器の購入を盛んにやっている、また南京の西方の某地点には南京退却ののち直に行政事務がとれるよう準備を整えている、一面党部より密令を出し日本の大官暗殺を計画している模様である(馬公発)(軍隊七万戦闘機五百上海近くに集結す : 一方北支作戦に対処する : 軍事行動も頗る活溌引用終わり)

写真(右)1937−1938年、中国東北部、満州国(日本の傀儡国家)、満州航空のドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 Z輸送機「黄龍号」(登録コード: M-223):1934年11月4日初飛行のJu86は、固定脚、双発の10人乗り民間旅客輸送機輸出仕様が、スイス航空のほか、満州航空でも採用された。Ju86 Zは、BMW 132空冷星型9気筒エンジン装備。コックッピト上方にアンテナマストを立てて、無線アンテナは尾翼まで張って碍子を介して繋いでいる。コックピット後上方には環状ループアンテナが装着されているが、これは方位測定用である。
Description PictionID:38236234 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002323.TIF - -----Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.------SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Date 30 June 2014, 14:38 Source Junkers Ju 86 Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album Author SDASM Archives
写真 Wikimedia Commons, Category:Junkers Ju 86 File:Ju86 Manchukuo.jpg引用。


溥儀 1931年9月26日に日本が満州事変を起こし占領下に置いた日本は、中国東北地方占領すると、その航空輸送を担うために関東軍軍用定期航空事務所を、1932年(大同元年)3月9日に設置した。

1932年、満州国が、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀Aixinjueluo Puyi)を執政とする日本の傀儡国家、属国として樹立されると、国策会社の満州航空となり、ユンカース(Junkers)Ju 86 輸送機などを主に外国機を装備した。

奉天は、満州最大の都市、長春は後に満州国の首都となり新京と改名した。満州国は、五族協和すなわち漢族、満州族、モンゴル族、朝鮮族、日本民族が居住し、日本を盟主とする新生国家のとして誕生した。すなわち、軍事、外交権から土地所有、法人設立、租税負担など日本と関東軍が支配する日本の属国的植民地である。

中華民国蒋介石政権(国民政府)は、ドイツ、ナチ党ヒトラー政権からI号戦車メッサーシュミットBf109戦闘機など最新兵器の輸入とタングステン等の輸出によるバーター協定(現物交換協定)である。ヒトラー総統のドイツは、日本と、1936年11月の防共協定を締結したが、これは対ソ連牽制と反コミンテルンが目的だった。

Bf109 中国の国民党蒋介石総統が率いる中国国民政府は、剿共戦のためにドイツヒトラー政権から軍事顧問を招聘し、軍事組織・戦略・戦術の近代化を図ったが、兵器購入のために1936年4月、ドイツとの間に1億マルクの貿易協定を結んだばかりだった。

しかし、ソ連包囲の進む状況で、蔣介石は対日牽制のために、1932年12月に国交回復したソ連と連携し、軍事援助を得ることができた。中国の蒋介石総統は、中国国内では、共産主義者を弾圧しながら、外交的には共産党支配下のソビエト連邦と連携するという実利外交を展開する力量があった。

ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線Popular front)戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。

中華民国指導者蔣介石外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、五か年計画を強行して重化学工業化と経済の軍事化を進めたソ連の航空機、火砲など兵器を中国に導入しようとした。

西安事件は、1936年12月12日、剿共戦(共産軍包囲攻撃)の督戦のため西安を訪れた蔣介石を、内戦停止・抗日救国を訴える張学良と楊虎城が拘禁した事件である。事件発生の報を受けて延安から周恩来が飛来し、蒋介石夫人宋美齢も西安にやってきて蔣介石は釈放されたが、それは抗日のための国共合作が宣言されたためである。

蒋介石 満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、中国国民党蒋介石総統がこの最後の関頭の演説を公表すると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

長谷川清伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

宋美齢 1937年7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清(1883-1970)司令長官の率いる第三艦隊であり、盧溝橋事件勃発するや否や海軍航空隊の投入を陸軍と調整して決定、上海の中国軍飛行場に大山中尉を突入させ、その死亡を口実に第二次上海事変を引き起こした。そして、九州から中国本土を空爆する渡洋爆撃を実施した。

第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあったが、旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。そして、日本海軍は、三菱九六式陸上攻撃機を中核とする第一連合航空隊、艦上機を中核とする第二連合航空隊を組織して、華中の中国軍事施設、飛行場、工場、行政府などを攻撃目標とする戦術・戦略爆撃、戦術爆撃を開始した。


2.1936年制式の日本海軍三菱九六式陸上攻撃機(G3M)の日中戦争投入

写真(右):1938年、日中戦争初期、中国江蘇省南京、中山陵(辛亥革命の中心人物孫中山/孫文の陵墓)上空、日本海軍木更津航空隊の三菱G3M九六式陸上攻撃機:九六式陸上攻撃機は,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃を実施した。これは、スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月後でアジアでも戦略爆撃が開始されたのである。しかし、洋上を渡る長距離「渡洋爆撃」では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。
English: The Imperial Japanese Navy's G3M from Kisarazu Air Group over Sun Yat-sen Mausoleum, Nanking, 1938 Date 1938 Source Imperial japanese Navy via Warbirds site http://www.ijnafpics.com/jbwg3m1.htm Author Imperial Japanese Navy写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:G3M Type 96 Attack Bomber Nell G3M-24s.jpg引用。


三菱 G3M2 日本海軍は、三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)を駆使して,世界初の本格的な都市への長距離無差別爆撃を実施した。これは、1936年に始まったスペイン内戦にドイツから派遣されたコンドル軍団によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月後のことだった。アジアでも戦略爆撃が開始されたが、当初の洋上を渡る長距離「渡洋爆撃」では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。

リース・ロス(Frederick William Leith Rossは1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。中国を半植民地化していたイギリス、ブランスなど列強は、日本が中国に特殊権益と称して植民地化することを大いに警戒していたのである。

近衛文麿 大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。そしてて、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。

1937年6月4日 - 1939年1月5日に内閣総理大臣だった近衛文麿は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。中国国民党蒋介石総統の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、ソ連の軍事力、兵器を利用したかった。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機を開発し、制式した。I-15は、日中戦争緒戦で、日本海軍九六式艦上戦闘機と空戦している。また、I-15の大幅改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、九五式戦闘機、九七式戦闘機と日本陸軍機と戦った。

1937年7月19日、中華民国・中国国民党蒋介石総統が行った対日戦争開始宣言、すなわち最後の関頭の演説が公表され、中国国民の抗戦意識を沸き立たせた。

満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

水偵  中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。

そして、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。

近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。

大日本帝国は、国民党蒋介石の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの傀儡自治政権が日本の援助で作られたのである。

抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

 
写真(上):1937-1938年,ソビエト連邦、中国空軍にも供与されたポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機の戦列:少なくとも9機が写っている:1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、日本の軍事力を牽制した。
Polikarpov, I-15, Catalog #: 01_00086849
Manufacturer: Polikarpov、Designation: I-15
Notes: Russia、Repository: San Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives Catalog #: 01_00086849引用。

スターリン ◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年、第7回コミンテルン世界大会で、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明した。

その後、1937年7月(民国26年、昭和12年)の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まったが、蒋介石は、抗日戦線に、ソ連を巻き込むために、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

ソ連は,日本軍、特に陸軍参謀本部(参謀次長多田駿大将)、満州に駐留している関東軍の動向を警戒していた。中国共産党に共産主義者同盟コミンテルン(Comintern)では反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,1936年12月、督戦にきた蒋介石(蔣中正:1887-1975)を張学良(Chang Hsueh-liang:1901-2001)が国共内戦停止と抗日を求めて監禁した西安事件(Xi'an Incident)で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放を認めている。そして,中国国民党への軍用機供与など軍事援助を開始している。

1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)、さらにポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

ポリカルポフI-16 ポリカルポフI-16諸元
乗員: 1名
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m、全幅: 9 m
翼面積: 14.5 m2
空虚重量: 1,382.5 kg
運用時重量: 1,882 kg
発動機: シュベツォフ M-63過給機付き空冷星形エンジン(1,100 hp
最高速力: 462 km/h (高度4,700 m)
航続距離: 440 km
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 高度5000mまで5.2分
離陸滑走距離: 260 m、着陸滑走距離: 300 m
翼面荷重: 129 kg/m2
兵装:7.62 mm ShKAS機関銃 4丁(カウリング上部、翼内)

イ153 ポリカルポフ I-15bisPolikarpov I-15bis)戦闘機(bis)とI-153の諸元
初飛行:1933年10月
生産期間:1934-1937年
生産機数:3,313機 (I-153は、3,437機)
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: シュベツォフ(Shvetsov)M-25空冷星形9気筒エンジン570 kW (760 hp; 770 PS)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m
乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

⇒写真集Album:ポリカルポフ (Polikarpov)I-15複葉戦闘機を見る。

 ポリカルポフI-153戦闘機 1937年8月の中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)、中国国民政府の反共主義者の蔣介石とソ連共産党書記長のスターリンの間で締結された軍事同盟である。日中戦争が勃発したことで、日本からソ連への軍事的圧力が弛緩したk徐とに喜んだスターリンは、反共産主義者の蒋介石を説いて日本と中国の本格的な戦争を臨んだともいえる。

他方、中国共産党は、長征の最中で、毛沢東の指導力は、長征によって疲弊した中国共産党の内部にのみ及んでいる状況で、中国全土に対する中国共産党の指導力は低落していた。

コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化すれば、蒋介石にとって中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義者の蒋介石は、スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切ったのである。スターリンのソ連からの軍事援助があればこそ、蒋介石のは、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。

2−A.特別徴収は一切せぬ : 出征将兵の生命保険
国民新聞 Vol: 第 6巻 Page: 132 出版年 1937-08-05

九二式重装甲車 北支事変勃発するや政界、財界を初め社会各層は挙げて非常時局突□に協力し国民は一団となって銃後の護りに涙ぐましい努力を払っているが、二十七の生命保険会社も□国一致を標榜、去る二十六日生命保険会社協会は今次事変に対しては約款条項にある戦時特別金の施行を行わず、出征軍人に負担を与えぬ方針をとることになった、従って今後出征する可能性ある者も生命保険の申込みをすることが出来るわけだ、全国の生命保険加入者は約一千万人、この中三分の二が男子、この保険契約高平均は一千五百円となっているが、出征軍人にして出征直前に保険契約をしようという場合は会社の実力によって多少相異はあるが大体この平均額程度迄に制限を受けるが、全生命保険会社の基礎を危くするような事態が生じない限り契約後一箇年以内に戦死を遂げた場合も保険金総額を受けることが出来ることになった、右につき保険会社協会専務理事玉木為三郎氏は語る

 そう云う問合せは相当あるようですがあの約款は日露戦争当時に適用され保険料の百分の□を特別にとったようですがその当時とは時世も変り満洲事変、上海事変とも取らず今次事変でも取らぬよう申合せて居ります、又今後とも余程のことがない限り取ることはありません、又国の為に戦死された方々には仮令契約直後と雖も大体払うことになっていますから安心して戴きたい、又新契約も断ることはありません(特別徴収は一切せぬ : 出征将兵の生命保険引用終わり)

写真(右)1938年3月17日ごろ、日本、東京、羽田飛行場の未舗装滑走路に待機する民間献納機の日本海軍航空隊三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型(報國205號)左側面:この報国205号は、大日本青年團が献納した「第二青年團號」で、1938年3月に献納し、羽田飛行場で献納式が行われた。胴体後上方に環状ループアンテナも銃座も設けられていない。献納機は、日本陸軍では「愛国」、海軍では「報国」の文字を冠した機体番号を付けた。左前の九六式艦上戦闘機も、報国号のようだ。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085781引用。


2−B.英国 日支関係発展にいずれも重大関心
大阪朝日新聞 Vol: 第 22巻 Page: 171 出版年 1937-08-16

九四式装甲車 【ロンドン特電十四日発】当地経済界は署休月で取引は閑散だがそれ自体としては依然好調を続けている、しかし株式市場は過去二、三週間の好調を持続し得ず人気やや落目であるが、その原因は上海における日支時局の発展である、すなわち一部経済界はいまだ直接には影響を受けていないが上海における事態悪化が多大の衝撃を興えたことは否み難く、これが人気に響いていることも否定し得ないさらに事件が日本関係におよぼしたる影響を見るに公債相場に現われたるほか金融市場その他商取引に対しては従来と何ら変るところはない

すなわち公債相場は上海事変を入れて急落し六分利債が七八ポンドとなりアトやや引返し七八ポンド1/2で引けた、これを前週末の相場に比すれば四ポンドの下落である、もちろん支那公債も大打撃を受けこの一週間に四ポンドから九ポンドの下落を見せている

日本公債についていうならばもし日本の銀行筋が買向えばかかる下げは見ずに済むだろうが為替管理法の規定により自由に買出動に出ることができないので相場は全然一方的に動かされている、為替相場は政府の維持策により依然一シリング二ペンスを維持している、当地一般財界も政府と同じく上海における今後の事態に対しては重大なる関心をもっているが、いまのところ近き将来において日本に対し差別的取引をなすが如きことは予想されていない(英国 日支関係発展にいずれも重大関心引用終わり)

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、日本、舗装滑走路に待機する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:コックピット操縦席の左右の天蓋が開放され、折りたたまれている。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085783引用。


2−C.上海の税関事務邦人の手で開始 : 臨時代行委員会組織 大阪毎日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 3 出版年 1937-09-18
情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

上海事変勃発とともに中絶した上海税関事務を邦人の手によって開始することになり、在上海海運業者は荷主団体と協議の結果、去る十日邦船に対する徴税事務臨時代行委員会を組織十二日以後トン税、軍需品を除く他の一般貨物の検査および所定の輸出入税の徴収を開始した旨各船会社に通知があった

 なお同委員長には日本郵船上海支店長山本武夫氏が就任、大阪商船、大連汽船、日清汽船、上海商工会議所等の各代表者を委員とし、執行委員十五名を選び日本郵船支店が事務所に当てられていると(上海の税関事務邦人の手で開始 : 臨時代行委員会組織引用終わり)

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、日本、飛行中の日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:主翼と主翼後縁の動翼の形状は、ユンカースJu−86爆撃機と類似している。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_ 01_00085786引用。


日本海軍は、1930年のロンドン海軍軍縮会議London Naval Conference of 1930)で補助艦保有制限が検討された時期に、三菱に乗員 3名、巡航速度 120ノット(222.2km/h)以上、航続距離 1800マイル(3333.6km)の海上遠距離偵察機として八試特殊偵察機(G1M1)の試作を指示し、八試特偵は1934年4月に初飛行した。この八試特殊偵察機を原型にして、海上長距離攻撃用の九試陸上攻撃機が計画された。

1935年7月に初飛行した三菱八試中型攻撃機は、海上で敵艦船を雷撃あるいは爆撃する攻撃機である。1936年(皇紀2596年)6月2日、九六式陸上攻撃機(G3M)として制式された。

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう日本海軍美帆航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体後上方に環状ループ方位測定アンテナ、7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基を備えている。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085776引用。


2−D.支那の対外貿易事変前より五割減 : 殆ど杜絶状態とならん
東京日日新聞 Vol: 第a補巻 Page: 75 出版年 1937-10-09

【上海にて七日安池本社特派員発】支那の貿易は過去一年間増加の一途をたどり去る六月の如きは近年にない激増振りであったが七月七日北支事変中国抗日战争)が勃発するや支那の対外貿易は漸次停頓となり更に八月十三日上海事変Battle of Shanghai)発生と共にまたまた不振に陥り、事変拡大によって八月二十五日九月五日の二回にわたるわが海軍の支那沿岸航行遮断声明実施によって全支の対外貿易は全く杜絶に等しき有様となった

 即ち八月の貿易総額は七月に比し輸入五割強、輸出五割の激減であり昨年八月に比しても同様輸出入とも約五割方の激減である、いま昨年及び本年七、八月の貿易状態を海関発表の貿易統計により比較してみると左の如くである

本年七月全支貿易重要国別(単位千元)

FDR 輸入
ドイツ 二〇、六〇三
英国 一四、一七八
日本 二一、三二〇
米国 二三、三〇七

輸出
ドイツ 七、七七四
英国 一四、三〇九
日本 八、四二〇
米国 二五、五〇九

同八月輸入
ドイツ 七、六五一
英国 四、九五二
日本 七、二八三
米国 一三、〇二〇
同輸出
ドイツ 三、四三五
英国 二、〇六二
日本 四、二六〇
イタリー 九、〇九四

昨年八月輸入
ドイツ 一〇、二〇四
英国 八、六四八
日本 一〇、二〇七
米国 二〇、五七八

同輸出
ドイツ 二、九二三
英国 八、〇七一
日本 六、四四〇
米国 一一、五八七

 八月は事変発生まで十三日間ありまた沿岸航行遮断が発表されたのが八月二十五日であり殆ど八月の半ば以上の貿易は自由であったに拘らずすでに五割の減少をみ、更に九月においては極度の減少を見るものと非常に注目されている

なお支那側はこの輸入杜絶の上にわが空軍の大活躍によって後方連絡の破壊、主要都市における軍事施設の爆破によって交通金融が杜絶したため本年の農村は昨年以上の豊作でここ数十年来の豊作であるにも拘らず作物の運搬も完全に出来ず非常に困り果てているがこれ以上に鉄製品、化学製品及び武器弾薬の輸入不可能のため軍需品は欠乏し長期抵抗は事実上不可能とされている(支那の対外貿易事変前より五割減 : 殆ど杜絶状態とならん引用終わり

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体後上方に7.7mm旋回機関銃1丁を装備する隠顕式銃座2基を備えている。九二式七粍七機銃は、イギリスのルイス式7.7mm空冷機関銃で、リムドの.303ブリティッシュ(7.7mmx56R)弾を使用するが、弾倉式で、ベルト給弾式でない上に、第一次大戦時の機関銃だったために、30年以上経過した第二次大戦時には旧式化し威力不足だった。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085773引用。


日本海軍は、1937年7月7日の盧溝橋事件Marco Polo Bridge incident)を契機に日中戦争がはじまると、華北の陸軍の軍事行動に後れを取らないように、華中での戦線を自ら開いた。これが1937年8月13日の第二次上海事変淞沪会战)で、これを契機に、九六式陸上攻撃機(G3M)による、九州・台湾から中国本土の「渡洋爆撃」を実施し、上海周辺を主張に収めると、中国本土の航空基地から、内陸の南京方面を空爆した。この長距離陸上爆撃に用いられた九六式陸上攻撃機(G3M)は、太平洋戦争の初戦、マレー沖海戦でも大活躍した。

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃から帰還中の日本海軍美帆航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型(M-365)左側:胴体下面の爆弾懸架には、爆弾がないので爆弾投下後の帰還時の撮影である。後上方に環状ループ方位測定アンテナ、7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基を備えている。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085774引用。



中国空軍抗戦画


図(右):国民政府主席兼航空委員會総委員長 蒋中正:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」は、「中華民国三十五年勝利紀念日」に「同志中國空軍抗戦史畫題」として、筆頭には「国民政府主席兼航空委員會総委員長 蒋中正」とある。
Chinese AF 009 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

蒋中正の略譜
1887年、奉化県(寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。
1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
1907年(明治40年)、東京振武学校へ留学。
1909年、日本陸軍十三師団高田野砲兵第19連隊の士官候補生として勤務( - 1911年)
1911年 辛亥革命に参加。
1923年、孫文の指示により、ソ連軍視察。
1924年、広州の黄埔軍官学校校長に就任。
1926年7月1日、中国国民革命軍を率いて北伐を開始。
1927年 4・12上海反共クーデター、南京国民政府に対し,容共の汪兆銘の武漢国民政府が分裂、蒋介石は下野し国民革命軍総司令に専念。東方会議後の9月、山東出兵した田中義一首相と密会、北伐を中断。12月浙江財閥の宋美齢と結婚。

蒋中正 1928年、北伐再開、5月の日本の第2次山東出兵で済南事件。6月、張作霖爆殺後、張学良が国民政府に参加、北伐完了、南京国民政府の全国統一。
1931年、柳条湖事件、満州事変
1933年、塘沽停戦協定
1934年、瑞金の中華ソビエト壊滅、長征し1936年延安に脱出。
1936年、中国共産党包囲殲滅を督戦中、張学良により西安で監禁(西安事件)、国共合作へ転換。
1937年 7.7盧溝橋事件の抗日世論に答え「最後の関頭」演説、抗日戦決意。年末に、南京から四川省重慶へ遷都。
1941年、12月に太平洋戦争勃発、連合国共同宣言に署名、主要連合国の地位を確立。
1942年、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェル将軍が中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任。
1943年、11月のカイロ会談に宋美齢と参加。
1944年、10月、国民党を蔑ろにするスティルウェルを参謀長から解任。
1945年、日中戦争に勝利に終戦。毛沢東と平和建国の双十協定。
1946年、国共内戦の勃発。
1947年、台湾民衆弾圧の二・二八事件。 1948年、中華民国の初代総統に就任。
1949年、国共内戦で敗北。首都南京を放棄、成都を経由して台湾へ脱出。


図(右):前航空委員會秘書長 蒋宋美齢:民国25年(1936年)2月就任、親中国空軍を建設に尽力し民国26年(1937年)3月辞任。蒋介石夫人で一般的には「宋美齢」と表記される。しかし、アメリカでの閲覧を意識して、蒋介石夫人宋美齢ではなく、蒋宋美齢と異例の表記をしている。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 011 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。


宋美齢の略譜
1898年:父・客家の実業家・浙江財閥の宋嘉澍の宋靄齢(国民政府財政部長を継いだ孔祥熙の妻)・宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国副主席)・宋子文(国民政府財政部長)に次ぐ三女として上海県に誕生。
1908年:アメリカ留学。
1917年:ウェルズリー大学Wellesley College)卒業。
1927年:国民党指導者の蔣介石と結婚。
1930年:国民党中央委員会委員に就任。
1937年:国民党航空委員会秘書長に就任。
1943年:カイロ会談Cairo Conference)に蒋介石に同伴、通訳の役割も果たす。
1949年:国共内戦に敗れ、蒋介石と台湾に脱出。
1975年:蒋介石逝去後、アメリカに移住。
2003年:ニューヨークの自宅で105歳で逝去。


図(右):1937年(民国26年、昭和12年)8月14日、中国華中、江蘇(こうそ)省、中華民国首都南京「八・一四」空襲で、木更津航空隊の精鋭日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を迎撃、撃破した中国空軍高大隊長率いるポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:中国空軍兵士は「保衛祖国的決心」で臨み、「精神的及技術的方面均遠優於敵」で「奮勇戴殺」によって勝利第一幕を開けたとされる。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 023 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

広田外相 米内光政は、海軍大臣として、中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、広田弘毅(1878‐1948)外務大臣と同様に、中国在留日本人(居留民)の保護は、重要であると考えた。これは、中国にある日本人居留民を保護を口実に、日本海軍が中国における武力介入が可能になるためである。

1937年7月11日、杉山元は、陸軍大臣として派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。


図(右):1937年(民国26年、昭和12年)8月15日、中国華中、江蘇(こうそ)省、首都南京「八・一五」空襲で、爆撃に飛来した日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を迎撃、撃破したソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:首都南京は、そのご日本陸軍の侵攻に直面し、戦時首都が重慶に移転した。しかし、1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、I-152やI-153など複葉戦闘機が中国空軍に供与され、日本軍機を迎撃している。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 025 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

スターリン 中華民国の採用した民国紀元とは、1912年の辛亥革命によって成立した中華民国が建国年次の1912年を紀元(元年)とする中華民国暦である。西暦(キリスト紀元)の1911年が、民国元年に相当するので、西暦年から1911を減ずると民国年となる。日中全面戦争の始まった西暦1937年は、民国紀元で民国26年、昭和12年(日本の紀元2597年)である。

東西を日本とドイツという好戦的な軍事国家に挟まれたソ連ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin:1878-1953)は、アジア方面の主敵日本に対抗するため,中国共産党にコミンテルンを通じて国共合作を促し、中国国民党蒋介石主席の反共的性格を知りつつも、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んだ。

そして、ソ連指導者ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は、日本とドイツという東西ファシストの挟撃を避けるために、日本と戦う中華民国に軍事援助し,ソ連空軍主力戦闘機のポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)複葉機、引込み脚・単葉の新鋭機ポリカルポフ I-16(Polikarpov И-16)を供与した。

1938年(民国27年)6月16日、中国南部、広東省南雄上空で、広東=漢口(Hankou)間の鉄道を破壊に来た日本海軍木更津航空隊の精鋭三菱G3M九六式陸上攻撃機6機を、中国空軍黄泮揚(Chen Huai Min)大隊長率いるポリカルポフI-15bis/I-152 複葉戦闘機が果敢に迎撃した。


図(右):1938年(民国27年)6月16日、中国南部、広東省南雄、鉄道を爆撃に来た木更津航空隊日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を攻撃する中国空軍黄泮揚(Chen Huai Min)大隊長搭乗のポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 054 From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の胴体下面の爆弾懸架には、60キロ爆弾あるいは250キロ爆弾を搭載することができる。しかし、中攻には胴体下面にむき出しの爆弾懸架があるが、扉の付いた爆弾倉は設けられていない。

そこで、1938年6月16日、広東省南雄で、三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)が中国空軍I-152戦闘機から7.62mm機関弾の射撃を受けた時に、胴体下面の爆弾に気腔が命中し、1機の中攻は、空中で爆発し飛散してしまったようだ。残りの中攻も中国戦闘機の迎撃を受けて、全て撃墜されたという。

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋事件が発端となった日中全面戦争のことを、当初、日本政府は「北支事変」と呼称したが、上海など華中に戦火を拡大し、1937年9月2日に「支那事変」と命名し直した。さらに、華南のイギリス領香港、広東など、蒋介石の国民政府は外国からの軍事援助や貿易によって、抗戦力を維持していた。そこで、中国蒋介石への補給ルート、すなわち「援蒋ルート」を遮断しようとした日本軍は、中国大陸沿岸を封鎖するために、武漢作戦と同時に、広東(広州)攻略を企図した。1938年9月19日、大陸命第200号と第201号を発動し、広東攻略作戦を開始した。

図(右):1938年(民国27年)夏、中国中部、華中、湖南省武漢近郊長江の上空で、日本軍を空襲した中国空軍ツポレフ(Tupolev : Ту́полев)SB-2双発高速爆撃機の編隊:日本海軍三菱九六式艦上戦闘機が中国空軍のSB爆撃機を迎撃しているが、SB胴体後上方の回転銃塔の7.62mm旋回機関銃の応射を受けて破損している。当時、武漢攻略作戦の真っ最中だったが、この日本軍の進撃ルートは長江両岸と、長江の水運を利用していた。そこで、その進軍を阻止しようと、中国空軍SB-2爆撃機が出撃したのである。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 060 From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

  1938年10月12日、日本海軍塩沢幸一海軍中将隷下の海軍艦艇に護衛され、古荘幹郎中将隷下の第二十一軍(第18師団・第104師団など)は、広州白耶士(バイヤス)湾に上陸、10月21日には広東(広州)に達し、珠湾を封鎖し、海軍陸戦隊とともに珠江を遡上して、11月には広東周辺の要衝を占領した。

  さらに、日本海軍は、フランス領インドシナに侵攻する目的で、1939年2月10日に海南島攻略作戦を開始し海南島南の三亜、北の海口を占領し、海南島のタングステンなど鉱物資源の開発も推進しようとした。

三菱 日本の統帥部である大本営は、1938年(昭和13年)6月18日、武漢攻略を決め、8月22日に湖北省の長江沿い武昌・漢口・漢陽の武漢三鎮の攻略を命令した。兵力は、新編成の第十一軍が長江を遡上し、北支から転用された第二軍が徐州の北方から南下、進軍した。しかし、徐州から退却する中国軍が黄河の堤防を決壊させ洪水を引き起こしたために、第二軍の進撃は迂回させられた。また、中国軍の抵抗も強く、10月25日まで、中国軍は漢口で抵抗し、日本陸軍第六師団が漢口を占領したのは、1938年10月26日だった。

中国軍の主力は脱出し、撤退した蒋介石は、国民政府の戦時首都を長江上流の奥地の重慶に移転し、徹底抗戦を続けたために、日本軍はアメリカ、イギリスと戦う太平洋戦争を始まる前に、中国奥地に兵力を拘束され、日中戦争の泥沼にはまり込んだ形となった。


図(右):1938年(民国27年)8月18日「八・一八」空戦1対9、中国中部、華中、湖南省衡陽の上空で、空襲に飛来した27機の日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を降下攻撃する中国空軍湯卜生(Tang Pou San)大尉率いるポリカルポフIポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機:1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 060 From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

1938年(民国27年)8月18日「八・一八」空戦で、中国空軍湯卜生(Tang Pou San)大尉は、ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機3機で空襲に来た日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機27機を迎撃した。第2回目の攻撃で中攻1機に命中弾を与え、撃墜した。そして、第3回目の攻撃で中攻編隊の苛烈な防御銃火の中を降下突撃した。そして、勇戦むなしく戦死した。


図(右):1939年(民国28年、昭和14年)2月20日、蘭州上空で空襲してきた日本陸軍イタリア製イ式重爆撃機を迎撃するソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:戦時首都重慶に1939年5月「二・二〇空襲」を空襲してきた。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 062 From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

日本陸軍キ21三菱九七式重爆は、1937年(皇紀2597年)1月8日の制式だったが、この「制式」とは試作機が部隊配備されることが決まった状態であり、量産開始とも部隊配備開始よりも前の段階だった。

フィアットBR.20 つまり、日中戦争の第二次上海事変の空中戦が始まっていた1937年8月段階でも、キ21三菱九七式重爆は十分な数が部隊配備されてはいない状態だった。そこで、臨時の過渡的措置として、外国製爆撃機の輸入が考慮された。ドイツ製ハインケルHe111爆撃機の輸入交渉がまとまらなかったために、急遽、イタリアの新鋭フィアット(Fiat)B.R.20爆爆撃機の輸入が決まったのである。フィアット(Fiat)B.R.20爆撃機は、イタリアから輸入されたため、日本陸軍は「イタリア」の「イ」の字を頭文字にしてイ式重爆撃機と命名した。

1938年(昭和13年)に85機が輸入されたフィアット(Fiat)B.R.20爆撃機、イ式重爆は、ブレダ SAFAT12.7mm機関銃を旋回機関銃として搭載していおり、防御火力は強力であり、この12.7mm機銃弾薬は、日本の同口径12.7mmホ103機関銃の弾薬の原型となった。イ式重爆は、蘭州、重慶などの中国奥地の空爆に参加しただけでなく、第12戦隊のイ式重爆は1939年のノモンハン事件にも投入されている。しかし、BR.20爆撃機のカタログデータを下回っており、エンジン不調、高い巡航速度による航続距離の短さ、専用部品の欠乏などの問題があった。そこで、三菱九七式重爆が部隊配備されるとともに、イ式重爆は、空中勤務者から嫌厭されたこともあって、中国の第一戦線から引き上げられ、太平洋戦争時には、使用されていない。


図(右):1939年(民国28年、昭和14年)5月3日、中国内陸部、戦時首都重慶「五・三」空襲で、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を撃破したソビエト連邦が中国空軍に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152 複葉戦闘機:引込式降着装置I-153(I-15ter)のように見える機体だが、実際には新鋭I-153戦闘機は1939年のノモンハン事件でソ連空軍は初の実戦投入した。したがって、1939年前半には中国戦線に出現するはずがない。戦後の作画なので、I-15戦闘機の固定脚型I-15/I-152(I-15bis)と引込み脚型I-153(I-15ter)とを混同したのであろう。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 064 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。

ゲルニカ 日本海軍九六中攻、陸軍九七重爆などによる中国戦時首都重慶への空爆は、日中戦争中の全期間5年間、特に2年半の間に集中して実施された。国民の戦意喪失を目的とした「戦略爆撃」としては、既にスペイン内戦中の1937年4月に、ファシスト国民戦線を軍事援助したドイツ・コンドル軍団によるゲルニカ爆撃があったが、それから1年も経たないうちに1938年5月、ゲルニカ爆撃以上の規模で長期にわたった日本軍機による重慶爆撃が実施され、1万人に被害を与えた。

 中国、華中、湖北省の長江沿岸の要衝武漢は、4月29日「天長節」(昭和天皇誕生日)に日本機21機に空襲を受けたが、長江沿岸の天候不良なこともあって、日本軍は十分な戦果を挙げえなかった。そこで、天候回復、晴天を待って、再度5月3日に成都を中攻45機が空襲した。成都は大きな人的、物的な被害を受けたが、中国空軍機の活躍で10機を撃墜したといわれている。1939年11月4日に「一一・四空襲」も行われた。

1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を開始、I-153「チャイカ」(Chaika)など複葉戦闘機が中国空軍に供与され、日本軍機を迎撃したのである。


図(右):1939年(民国28年)11月4日、中国内陸部、四川省成都、「一一・四」空襲、飛来した日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機を撃破した中国空軍ソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 戦闘機::1938年初頭、南京が日本軍に占領された後、華南の戦局が重要になり、桂林・南寧(桂南)方面で、機械化部隊、航空部隊を投入する激戦が勃発した。1947年1月刊行「中國空軍抗戦史畫(画)」
Chinese AF 066 From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive From an illustrated aircombat history of the Chinese AirforceRepository: San Diego Air and Space Museum Archive From the Air Combat Illustrated History of the Chinese Air Force, printed in 1947. SDASM Archives 引用。


中国I-16戦闘機 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Тип 24諸元
乗員: 1名
全長: 6.13 m
全高: 3.25 m
全幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル
空虚重量: 1,490 kg
最大離陸重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形9気筒エンジン900馬力 (670 kW)
生産機数:1939年:155機
1940年:760機
1941年:19機
合計934機

ポリカルポフI-16 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Typ 24の性能
最高速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km
最大上昇限度:11,000m
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 14.7 m/min
高度5000mまで5.8分
兵装: 7.62-mm-SchKAS機関銃2丁、 20-mm SchWAK機関砲2門
爆弾搭載量:50−10キロ爆弾2発
あるいはRBS-82空対地ロケット弾 4-6発

写真(右)1941-1942年頃、海上を編隊飛行する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体後上方に7.7mm旋回機関銃銃座を設けてないように見える。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085770引用。


1939年11月4日,成都空戦では、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機54機(日本側出撃数63機)が中国内陸部、四川省成都を空爆した。第一波27機は密集編隊で飛来し、成都の中国空軍爆撃機基地の鳳凰飛行場に登壇した。第二波の九六式陸攻(中攻)27機は、品字型密集編隊で中国空軍戦闘機基地の温江飛行場に爆弾を投下した。その後、両編隊は成都市街中心地に投弾した。1939年11月4日,日本海軍中攻編隊に対して、中国空軍第五大隊の戦闘機が迎撃した。大隊所属の第一波は第17中隊と第27中隊のI-15戦闘機14機で、成都近郊の温江上空で待機し、第二波第26中隊のI-16戦闘機6機は、副大隊長王漢勲が率い、第29中隊のI-15戦闘機9機は馬国兼が率いて成都上空で待ち構えていた。

成都空戦で、日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機の第一波27機は、高度4 000メートルで侵入し、中国空軍第26中隊のI-16戦闘機が迎え撃った。第29中隊の邓従凱も、激烈な攻撃を加え、中攻1機を撃墜した。四川省防空司令部が、この撃墜、墜落した中攻の機体を調べたところ、機体の残骸の中に地図と3枚の図片を発見し、この機体は海軍第二連合航空隊司令官大西瀧治郎隷下の第十三航空隊司令奥田喜久司(1894-1939/11/4)大佐の機上机であることが判明した。

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体後上方に7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基を備えている。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085768引用。


美幌航空隊 九六式陸上攻撃機で出撃、45歳で戦死した奥田喜久司大佐は、第一航空戦隊参謀、横須賀鎮守府参謀、海軍大学校系系教官、第一航空戦隊参謀、水上機母艦「神威」(満載排水量2万トン)艦長を歴任し、日本海軍航空隊「爆撃王」とも呼べる存在だった。中国戦線で機上戦死した最高級の指揮官である。奥田喜久司司令の搭乗していた中攻を撃墜したI-16パイロット邓従凱副大隊長の総撃墜数は3.5機で未公認も含めて総計5機撃墜のエースともいわれている。

爆撃機 1939年11月4日の成都空戦では、まず日本海軍の三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)54機が成都に2回目の空爆に来襲、中国空軍第5大隊は、第17飛行隊と第27飛行隊のI-15戦闘機14機が成都から発進、第26飛行隊のI-16戦闘機6機も第29飛行隊のI-15戦闘機9機とともに迎撃した。日本の九六陸攻第一波27機は高度4,000メートルで成都上空に侵入を図った。このとき、中国空軍第26飛行隊I-16戦闘機パイロット段文宇が攻撃信号を発し、石幹純らが敵機の後方上から降下し、上下左右の激しい攻撃を行った。 成都の北東70kmまで中攻を追跡し1機を撃墜した。他方、九六陸攻(中攻)の防御放火も激しく、成都空戦では中国戦闘機パイロットも死傷者を出している。

 1939年(昭和14年)11月、日本軍は中国沿岸を封鎖し、広東を攻略した後、蒋介石への援助ルート「援蔣ルート」を完全に遮断しようと、華南の広西省に上陸して南寧を攻略した。そこで、中国軍は、柳州・貴陽の確保し、フランス領インドシナを経由した補給ルートを維持するために、1939年11月下旬に「冬季攻勢」を発令、南寧攻略を企図した。特に、南寧北東50キロの崑崙関の峠は、日本軍の重要な防衛拠点だったために、中国軍は約19個師(師は日本の連隊規模)、貴重な機械化部隊の第5軍、航空部隊も投入して攻勢をかけた。

三菱A5M 第五師団長今村均中将は、1939年12月17日から始まった崑崙関の日本軍陣地への中国軍の攻勢に対して、苦戦しつつも、抵抗を続けた。そして、1940年1月28日の陸軍第二十一軍による反攻まで持ちこたえて、南寧方面から中国軍を撃退することに成功した。

軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して 三菱A5M九六艦戦を配備していた日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるようになった。

2−E.列国の大軍拡に対処 帝国は依然二原則確保 : 米内海相不動決意を闡明
大阪時事新報 Vol: 第 44巻 Page: 47 出版年 1938-01-22

米内海相 杉山陸相及び米内海相は再開議会劈頭適当の機会を求めて登壇、事変その後における陸海軍の作戦行動、長期膺懲に対する根本態度に関し説明を行うことになっているが、米内海相発言の根本要旨は次の如きものと見られている

根本要旨

(一)海軍は陸軍と協力し暴支徹底的膺懲に邁進し各方面における陸軍上陸作戦に共同すると共に全支における重要軍事施設、軍事交通動脈の爆撃に従い、更に全支沿岸航行遮断を継続して蒋政権の所謂長期抵抗を粉砕することに努力し着々所期の効果を収めつつある

(一)帝国海軍は一面西太平洋に起さるべき英米ソ各国海軍の趨勢に対し深甚なる注視を続けつつあり、最近各国において尨大なる建艦計画が新たに進められつつある事態を重視する、

然しながら海軍としてはこれ等各国の態度に何等惑わされることなく従来の不脅威、不侵略海軍原則を確保しつつ自主的経済的軍備を進めつつ真に我国が占めつつある東亜の安定勢力たるの実を泰山の安きにおかんとするものである(列国の大軍拡に対処 帝国は依然二原則確保 : 米内海相不動決意を闡明引用終わり)

2−F.人を斬るのは引き切り : 真剣使術の研究 : 高山政吉教士 : スポーツ
大阪朝日新聞 Vol: 第 46巻 Page: 172 出版年 1939-06-14

日本刀真剣斬り 【漢口にて小山特派員発】世界に比類なきわが国伝来の日本武道は今次の支那事変を契機として単なる心身鍛錬時代から一歩踏みだし、いわゆる軍陣武道における実戦実用への真剣な研究題目となって登場した、京都府東舞鶴市五条剣道教士高山政吉氏は南京攻略戦以来、今次の江北作戦にいたるまで一年半にわたり鬼気惻々の白兵戦に参加、研究をつづけ、いま漢口○○防備隊の一室で貴重な研究資料の完成を急いでいる

 氏は元海軍機関学校剣道師範でさきの上海事変には近代戦用白兵抜刀術を発表して注目をひいた、今回の研究は武道の実戦実用で往時の武芸が相手方の武術に重点をおいて考案したのに引きかえて、現代戦の相手はなんら日本武道に心得ない外敵であるから短時間の中に多数の敵を仕留めることに重点をおくという実戦的の変遷と、武道の基本練習である剣道と、実戦上における真剣使術上の研究、さらに古刀、新刀、昭和刀にいたる日本刀の切れ味、耐久力などにいたる切実な現地研究である

『従来の剣道練習は斬るという信念のもとに打ち込んではいるものの当てることになっている実戦の場合は的確に斬らねばならぬので、刀の刃を長く使わねばならぬ、つまり刀を深く用いなければならないから打つ、斬るの要領は正反対になる、さらに物を切るには引いて切るか、押して切るかの二法があるが、押し切りの説は剣道練習上から生れたもので主婦たちが大根を千切りするときや肉屋の板場氏が肉を切るなどは、押切りの法で刺身の切り方が引き切りの法則にあたっている

 実戦の場合に日本刀をもって戦うにはその如何を問わず引き切りで、押し切りを使うのは組伏せた場合のみ有効であるから竹刀による剣道と日本刀の実戦実用とは全然異なっている、実戦伝習上の改革は大いに研究の余地がある

また一般に伝えられている銃剣で突き刺したら瞬間に引抜かぬと肉が巻いて抜けぬと信じられているのは、なんらの抵抗感もなく抜けまた名刀で首を斬れば直後一時はそのまま着いていると伝えられているがこれも実際は正反対で、名刀であろうが鈍刀であろうが首は血圧により押しあげられ、また神経のショックなどで四五尺は飛ぶ

 老人の頭は堅くて斬れぬといわれているが、明珍の兜でさえ斬り割れる日本刀だから老人の頭など造作はない』と高山[政吉]氏の話(人を斬るのは引き切り : 真剣使術の研究 : 高山政吉教士 : スポーツ引用終わり)

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう迷彩塗装を施した日本海軍美帆航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型(M-323)右側:胴体下面の爆弾懸架には、爆弾がある。後上方に環状ループ方位測定アンテナが装備されている。胴体後上方の7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基が下げ位置にある。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085762引用。


写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体後上方に7.7mm旋回機関銃1丁を装備する隠顕式銃座2基を備えている。九二式七粍七機銃は、イギリスのルイス式7.7mm空冷機関銃で、リムドの.303ブリティッシュ(7.7mmx56R)弾を使用するが、弾倉式で、ベルト給弾式でない上に、第一次大戦時の機関銃だったために、30年以上経過した第二次大戦時には旧式化し威力不足だった。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085777引用。


2−G.上海・忠魂碑に黙祷 : 日章旗翻える邦人区域 : 恐怖に戦く英仏租界の厳戒 : きょう感激の上海戦二周年
大阪朝日新聞 Vol: 第 48巻 Page: 5 出版年 1939-08-13

【上海特電十三日発】世界戦史にさんと輝く一ページを飾った想出深い上海事変二周年記念日の十三日を迎えた上海のこの日、共同、フランス両租界は連日の抗日分子のテロ行為に神経を尖らせ工部局当局では両租界境界戦や十字路にはトーチカを築き鉄条網を設け装甲自動車、機関銃隊や義勇隊など全機能を総動員して水も漏らさぬ警戒に当り繁華街では日躍日にもかかわらず大世界、新世界などの大衆娯楽場は全部営業を停止し堅く扉を閉して恐怖の色に包まれているが蘇州河を一つ距てたわが占拠地域は粛然として戸ごとに日章旗や五色旗が力づよくはためき新しい興亜の生気が漲っている

護国の花と散った英霊を祀る大場鎮の表忠塔をはじめ海軍の忠魂碑海軍合司墓地は早朝から女学生たちの可憐な手で清掃せられ碑前は軍官民、関係方面はじめ本社から贈られた花環で埋められ市民いずれも地下に眠る興亜の人柱に敬虔な祈りを捧げた、

上海神社では陸海軍戦死者並びに在留邦人殉難者慰霊祭が執行され日本倶楽部では事変奉仕者への総領事感謝状贈呈式や事変を偲ぶ野戦料理の午餐会が催された、新公園では各種公共団体および市民の八・一三記念式を挙行し戦歿ならびに出征将兵に対する感謝の黙祷を捧げ陸、海、外側の挨拶ののち市中音楽行進に移り建設の靴音高らかに当時の記憶を足下に刻んで豪壮に行われた、

この日市政府下の南市、浦東、滬西方面でも中国青年団主催で八・一三記念日行事として反英和平救国などの民衆大会を開催気勢を揚げた(上海・忠魂碑に黙祷 : 日章旗翻える邦人区域 : 恐怖に戦く英仏租界の厳戒 : きょう感激の上海戦二周年引用終わり)

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で爆弾投下中の迷彩塗装を施した日本海軍美帆航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型の密集編隊飛行:胴体下面の爆弾懸架には、爆弾が喧嘩されている。胴体下方に7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座が降ろされ、射撃準備状態にある。また後上方の7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座1基が上げ位置にあり、射撃準備状態にある。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085789引用。


写真(右)1943年頃、太平洋方面、飛行場で破壊された日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型(−305):胴体側面の国籍マーク日の丸に白縁が塗装されている。後上方の7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基が外されている。機首ドーム、エンジンカウリングもハブれており、尾翼も破損している。
Mitsubishi, G3M2, NellTitle: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085760引用。



3.20mm旋回機関銃搭載の日本海軍三菱九六式陸上攻撃機(G3M)二二型

写真(右)1941-1942年頃、離陸した日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型を見送る給油中の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型上の整備員たち:胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けている。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085780引用。


三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型の燃料搭載量は 3,874 L (1,023ガロン)で、航続距離は一一型では、爆撃状態で2,346km、偵察状態(過荷重状態)で 4,408km(過荷重)だったが、エンジン換装、防御力強化に伴う重量と空気抵抗の増加に伴い、二二型では偵察状態で4,379kmに低下している。

写真(右)1937年8月中旬-1939年頃、中華民国、中国戦線で陸上爆撃に向かう迷彩塗装を施した日本海軍美帆航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型(M-323)右側:胴体下面の爆弾懸架には、爆弾がないので爆弾投下後の帰還時の撮影である。後上方に環状ループ方位測定アンテナ、7.7mm旋回機関銃(九二式七粍七機銃)1丁装備の隠顕式銃座2基を備えている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45647279 - Title:Mitsubishi G3M2 - Filename:16_007014.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive  - Catalog:16_007014引用。


写真(右)1939-1942年頃、編隊飛行する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型:胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けている。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085769引用。


1936年(皇紀2596年)6月2日に制式された海軍の九六式陸上攻撃機は、発動機に、当初の11型では金星三型空冷星形14気筒エンジン(離昇910馬力)を装備していたが、次の21型では、「金星」四二型(離昇1,075馬力)に変更している。そして、九六式陸上攻撃機(G3M)22型では胴体後上方に20mm旋回機銃1挺を配置する大型銃座を設けた。

写真(右)1939-1942年頃、中国戦線、爆弾を一斉に投下する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型の編隊:胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けている。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085771引用。


日本の飛行機で20mm機関銃を搭載したのは、1938年からで、三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型を嚆矢とする。日本の20ミリ機関銃は、1935年頃、日本海軍航空本部長山本五十六中将の指示で、大型爆撃機の迎撃用の大口径機関銃を採用する意見があり、航空本部技術部首席部員の和田操が主導して世界の大口径機関銃の状況を検討した結果、スイスで開発されたエリコンFF20mm機関銃が注目され、実物を購入、輸入して調査が始まった。

日本では、エリコンFF20mm機関銃の輸入配備では、輸入数量から戦闘機の生産機数の情報が流出するといった建前が唱えられて、軍高官と会社の利益を重視して国産化が始まった。日本は、戦前・戦後と国産化によって自国企業の利益を財政負担の上で追及する傾向があったのである。もちろん、これは国産化による技術向上、国力増進という建前の下で行われた。

これは、本来は製造権を取得しての民間工場での国産化であるが、当時は部品の国産化は技術的に非常に困難だったために、実際は部品を輸入してのノックダウン生産であり、これでは完成品輸入同様、日本国内の製造数は容易に把握されてしまうのであって、完成品輸入と同じく情報は漏洩するのが当然である。

96式陸上攻撃機 こうして、1936年6月にエリコン社とライセンス契約によって、1937年から大日本兵器株式会社(当時は富岡兵器製作所)で、九九式一号二〇粍機銃(当時は「恵式二〇粍機銃一型」の名称を与えられた20mm機関銃の開発・生産が始まった。1938年3月、エリコンの技師6名が来日し、この指導の下で、ライセンス生産も準備された。

海軍は、完成した九九式一号二〇粍機銃を、最初に三菱九六式陸上攻撃機(中攻)の胴体後上方に旋回機銃として採用し、これが九六式中攻二二型となった。次に、新鋭の三菱零式艦上戦闘機(A6M)、三菱一式陸上攻撃機(G4M)に20mm機関銃を採用することも決まった。海軍の主力大口径機関銃として制式され、大日本兵器株式会社の他、豊川海軍工廠、多賀城海軍工廠でも生産が開始された。

写真(右)1939-1942年頃、編隊飛行する迷彩塗装を施した日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二:胴体下面の爆弾懸架にあった爆弾は投下済みである。胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けているほか、隠顕式7.7mm旋回機関銃座を胴体上方と下方に各1基設け、胴体後方左右にブリュスタ―式7.7mm旋回機関銃座各1基を設けている。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085787引用。


三菱九六式陸上攻撃機(中攻)の爆弾搭載量は、次のような選択肢があった。
60kg陸用爆弾12発
250kg通常爆弾2発
500kg又は800kg通常爆弾1発
800kg航空魚雷1発

写真(右)1941-1942年頃、南洋諸島、飛行場で破壊され放置された日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型(P-90):コックピット操縦席左右天蓋が開いている。胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けている。手前のジープと上半身裸の兵士は、アメリカ軍所属であろう。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085757引用。


日中戦争では三菱九六式陸上攻撃機(中攻)は、高速と航続性能を生かし、台湾や九州の基地を発進し「渡洋爆撃」と称する軍事施設・都市への空爆に用いられることになったが、これは海軍の想定していた洋上の艦船攻撃とは異なっていた。

特に、中国空軍のアメリカ製P-26ピーシューター戦闘機、ソ連製I-153、I-16戦闘機の迎撃によって、日中戦争の初戦から中国戦線で敵機による損害に悩まされた。中国の南京、漢口、さらに奥地の重慶の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)による爆撃では、護衛戦闘機なしの爆撃機のみの攻撃だったために、中国空軍戦闘機の迎撃によって大きな損害を受けることになった。

そこで、日本海軍は、長距離侵攻・爆撃機護衛の任務を担当できる当時世界で流行していた双発重戦闘機の開発を始めた。ただし、この長距離護衛双発戦闘機の登場の繋ぎとして、長距離飛行可能な艦上戦闘機ゼロ戦が、中国戦線の護衛戦闘機、長距離侵攻戦闘機として流用されるようになった。また双発長距離戦闘機は、十三試双発陸上戦闘機の試作名称が与えられたが、長距離護衛の任務には役立たず失敗作となったが、双発・複座を生かして夜間戦闘機「月光」として流用された。

写真(右)1942年頃、飛行場を離陸したばかりの日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二三型:胴体後上方に、20mm旋回機関銃を装備した大型ブリュスタ―型銃座の前方が見える。引込み式主輪だが、離陸したばかりなので、車輪は降ろされたままである。ただし、尾輪は固定式である。胴体下面に250キロ爆弾2発を搭載している。戦時映画の東宝『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した機体なので、実際のマレー沖海戦の時期の撮影とは断言できない。 Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語:九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Hawai Mare oki kaisen (28 - Mitsubishi G3M 01) PDVD 068.JPG引用。


写真(右)1942年頃、飛行場を離陸する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二三型:胴体下面に250キロ爆弾2発を搭載している。戦時映画の東宝『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した機体なので、実際のマレー沖海戦の時期の撮影とは断言できない。 Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語:九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Hawai Mare oki kaisen (29 - Mitsubishi G3M 02) PDVD 069.JPG引用。


写真(右)1942年頃、飛行場を離陸した日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二三型の後方:胴体下面に250キロ爆弾2発を搭載している。胴体後右側面に、九二式 7.7mm 旋回機銃(ルイス[留]式7.7mm旋回機関銃)1丁を装備したブリュスタ―型側方銃座が見える。戦時映画の東宝『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した機体なので、実際のマレー沖海戦の時期の撮影とは断言できない。 Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語:九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Hawai Mare oki kaisen (30 - Mitsubishi G3M 03) PDVD 070.JPG引用。


雷撃 1941年12月に勃発した太平洋戦争緒戦、ハワイ奇襲攻撃より1時間前にマレー半島東岸に日本軍は上陸した。その時、マレー半島東沖を紹介していたイギリス・オーストラリア軍の哨戒機は、日本の輸送船団を発見した。そして、日本軍のマレー侵攻を阻止しようとしたイギリスは、旧式戦艦レパルス、新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズを基幹とするイギリス極東艦隊Z部隊を派遣した。

日本軍もマレー半島東沖を哨戒していたが、その索敵機が、このZ部隊を発見し、航空部隊が攻撃に向かった。1941年12月10日昼、第一波として、美幌航空隊の九六式陸攻8機が水平爆撃を行い、各機250キロ爆弾2発を投下した。命中したのは、レパルスに1発である。次いで、元山航空隊の九六陸攻隊16機が、各機航空魚雷1本を投下し、プリンス・オブ・ウェールズに魚雷2本を命中させた。

写真(右)1942年頃、海上を飛行する日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二三型:胴体下面に250キロ爆弾2発を搭載しているようだが、800キロ航空魚雷を搭載した中攻もあった。戦時映画の東宝『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した機体なので、実際のマレー沖海戦の時期の撮影とは断言できない。 Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語:九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Mitsubishi G3M - Hawai Mare oki kaisen 1942 (01) wmplayer 2013-07-17.jpg引用。


さらに、美幌航空隊の九六式陸攻8機が雷撃をしたが、は命中はなかった。続く鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機はプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに向かい、雷撃、成果をあげた。最後に、美幌航空隊の九六式陸上攻撃機17機が500キロ爆弾を投下し、命中弾を得た。

こうして、日本海軍航空隊は、九六式陸攻59機、一式陸攻26機を動員して、旧式戦艦レパルス、新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した。損害は、九六式陸攻撃墜1機、一式陸攻撃墜2機、大破2機である。

写真(右)1945年頃、飛行場で破壊された日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二二型:胴体下面の爆弾懸架にあった爆弾は投下済みである。胴体後上方に20mm旋回機関銃1丁装備の大型銃座を設けているほか、隠顕式7.7mm旋回機関銃座を胴体上方と下方に各1基設け、胴体後方左右にブリュスタ―式7.7mm旋回機関銃座各1基を設けている。 Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085778引用。


最終型の九六式陸上攻撃機23型では、発動機を「金星」五一型(離昇1,300馬力)に大幅に強化し、胴体後上方に20mm旋回機銃搭載の大型銃座を設けたが、生産は三菱ではなく中島飛行機が担当した。


4.1939年の三菱双発輸送機「そよかぜ号」イラン訪問

Iran イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、第一次大戦で敗北したオスマン帝国を復興させたケマル・パシャを手本として、国内の軍事力、特に陸軍を手中に収めて、軍事独裁政権のような権威的な手法で、イランを立て直した。これは、第一次大戦で少数民族のナショナリズムが復興し、オーストリア、ロシア、ドイツ、オスマンのような大帝国が解体された時期だった。その反動として、大国意識に基づく復興がトルコ、イラン、次いでドイツにも起こることになる。

エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードは、エジプト王フアード1世と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)の間の第2子(長女)で、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)でイラン皇太子モハンマド・レザーと結婚式を挙げた。

1939年3月16日カイロでの結婚式、その後、1939年4月25日にテヘランでも結婚式を行った。

日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の旅客輸送機仕様三菱式双発輸送機は、細長い胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加した。九六中攻は、一一型と二一型の双方が輸送機仕様九六式陸上輸送機に改造された。海軍では、九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したのが、三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(J-BEOA)である。


写真(上):1939年4月25日,イラン、テヘラン、イラン皇帝(花婿の父)レザー・シャー・パフラヴィーとエジプト王妃(花嫁の母)ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)と右の皇太子(花婿)のモハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)、左のエジプト王女(花嫁)ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)結婚式
:左端は、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896-1982)、皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)
Français : Banquet à l'ambassade d'Egypte à Téhéran lors du mariage de Fawzia Fuad et de Mohammad Reza Pahlavi, le 25 avril 1939 Date 25 April 1939 Source http://putnik1.livejournal.com/4606568.html Author Inconnu, peut-être " Sako "
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaShah001.jpg引用。


三菱九六式陸上攻撃機の軍用輸送機仕様九六式陸上輸送機は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したそ三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功した三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)がある。

写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚祝賀出発式、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)正面
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


日本海軍の長距離艦船攻撃機として開発された三菱九六式陸上攻撃機(中攻)は、軍用輸送機仕様九六式陸上輸送機も生産された。これは円筒状の胴体に座席8〜10人分を二列に配置し、胴体側面にガラス窓を設置した旅客使用である。胴体が細かったために、貨物輸送には適していなかった。

三菱九六式陸上攻撃機(中攻)一一型と二一型の双方に輸送用の改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間輸送機特別仕様が、三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(J-BEOA)で、1939年4〜5月、イラン帝国、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節をテヘランまで、空輸した。

写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節の出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型改造の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(J-BEOA)と同様に、「ニッポン号」(J-BACI)は、1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功した。

写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


4−A.帝国とイラン国間に修好条約調印さる
大阪朝日新聞 Vol: 第149巻 Page: 110 出版年 1939-10-20

【テヘラン特電十九日発】イラン政府十九日発表=日本、イラン両国修好条約は十八日夜調印された(帝国とイラン国間に修好条約調印さる引用終わり)

写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚慶祝使節出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸した。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


4−B.日泰イラン条約枢府本会議で決定
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第155巻 Page: 134 出版年 1940-12-12

十一日の枢府[枢密院]定例本会議は午前十時より宮中において天皇陛下親臨のもとに開催、枢府側から原、鈴木正副議長以下各顧問官、政府側から近衛[文麿]首相以下関係各閣僚および村瀬法制局長官出席

一、日本国と泰国との間の条約御批准の件
一、日本国とイラン国との間の修交条約御批准の件
一、奏任文官特別任用令中改正の件(新たに地方消防司令設置に伴う特別任用の途を開き大阪、京都、神奈川、兵庫、愛知、福岡の各府県にこれを設置すること)

の三件を上程堀江書記官長より審査経過並に結果の報告あり審議の結果満場一致これを可決し同十時四十分散会した(日泰イラン条約枢府本会議で決定引用終わり)

写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚祝賀出発式
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


⇒写真集Album:三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行を見る。 

写真(右)1943年頃、九六式陸上攻撃機(旧ニッポン号)双尾翼(GF-1)前の毎日新聞航空部の島本真飛行士ら:方向舵が動かないように木枠で固定している。
English: A Japanese Mitsubishi G3M / Navy Type 96 Attack Bomber in use as a glider tug Note: a google translation of the japanese text = "Japanese Mainichi organic [1] Nippon[2] was one round the world, changed its name to the issue of Venus. Shimamoto commemorative photo shoot crew", but this does not seem to refer directly to the aircraft in the photo and Myojo (Venus) was the name of a different aircraft type (Yokosuka D3Y1-K / Yokosuka D3Y2-K training bombers or to the Myojo Kai Yokosuka D5Y1 Navy Special Attacker[3] ).
日本語:世界1周したニッポン号毎日新聞社有機が、明星号に名前を変えた。乗組員島本記念撮影の写真 Date 撮影1943年頃、トリミング・デジタル処理2009/12/30 Source 記念写真被撮影者島本真より投稿許可を受けて滑空史保存協会が譲り受けた Author 撮影者不詳、トリミング・デジタル処理大山剛文
写真は, Wikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:A G3M Type 96 Attack Bomber - glider tug.jpg引用。


写真(右)1944年頃、九六式陸上攻撃機(旧ニッポン号)双尾翼(GF-1)コックピット操縦席の左右天蓋をあけて記念撮影した毎日新聞航空部の島本真飛行士ら:尾部の双尾翼がみえるので、旧式化し塗装の剥げている九六式陸攻を輸送機・練習機あるいは地上駐機飛行機教材として使用しているのかもしれない。
English: A Japanese Mitsubishi G3M / Navy Type 96 Attack Bomber in use as a glider tug Note: a google translation of the japanese text = "Japanese Mainichi organic [1] Nippon[2] was one round the world, changed its name to the issue of Venus. Shimamoto commemorative photo shoot crew", but this does not seem to refer directly to the aircraft in the photo and Myojo (Venus) was the name of a different aircraft type (Yokosuka D3Y1-K / Yokosuka D3Y2-K training bombers or to the Myojo Kai Yokosuka D5Y1 Navy Special Attacker[3] ).
English: Cockpit upper part window airplane Myoujyo 日本語:島本、中攻機型輸送機明星号の天蓋開く珍しい写真 Date 初期撮影1944年頃、トリミング・デジタル処理2009/12/31 Source 1944年頃乗り組んでいた島本真の写真を投稿の許可を受けて滑空史保存協会が提供を受けた Author 初期撮影者不詳、トリミング・デジタル処理大山剛文
写真は, Wikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:Cockpit upper part window airplane Myoujyo.jpg引用。



5.1939年の三菱双発輸送機「ニッポン号」世界一周飛行

写真(右)1939年頃、日本、富士山を背景に滑走路を離陸する三菱式双発輸送機「天津風」號(J-BFOE)(Mitsubishi G3M2 :Navy type 96 'Amatsukaze':三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)、3翅可変ピッチプロペラ装備の三菱 G3M2 九六式陸上攻撃機二一型が長距離輸送機に改造された。
SDASM Archives Mitsubishi, G3M2, Nell Title: Mitsubishi, G3M2, Nell Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nell Additional Information: Japan Designation: G3M2 Tags: Mitsubishi, G3M2, Nell
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00085788引用。


三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)は、日本海軍から毎日新聞社に貸与された九六式中攻を長距離輸送用に改造した輸送機である。三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)900 hp、3翅可変ピッチプロペラ装備の三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)は、胴体7席を設置、燃料タンク増設し搭載量1万4000リットルの長距離仕様に特別改造された。

写真(右)1941-42年、日本、駐機している日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃機二一型改造の特殊輸送機仕様九六式輸送機(L1Y)/三菱式双発輸送機ニッポン号(J-BACI):ニッポン号は、1939年に日本機として最初にアジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカの四大陸を周遊し、大西洋と太平洋の二大洋を横断して、世界一周をした双発機。原型は、日本海軍の中攻撃で、陸上基地から発進し、海上で敵艦戦を水平爆撃あるいは雷撃する攻撃機である。1935年7月に初飛行し、皇紀2596年に日本海軍が制式し九六式陸上攻撃機と命名された。日中戦争の緒戦で、中国の杭州、南京、武漢などを都市空襲した。生産数:1,048機。
Mitsubishi "Nippon" J-BACI Date 6 September 2007, 19:17 Source Mitsubishi "Nippon" J-BACI
写真は,Category:J-BACI (aircraft) File:Mitsubishi "Nippon" J-BACI (4806265340).jpg引用。


三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)は、1939年8月26日に羽田飛行場を飛び立ち、アメリカを横断した。しかし、9月1日の第二次世界大戦の勃発で、フランス、イギリス、ドイツへの飛行は中止となった。北米に続いて、南米ブラジルのリオデジェイロ、ナタールに向かい、そこから、大西洋横断し、アフリカ大陸東端のセネガルのダカールから、モロッコのカサブランカを経由しスペイン、イタリアを訪問した。その後、ギリシャのロードス島、イラク、インド、タイ、台湾の台北を経て10月20日に羽田に帰着し三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)による世界一周飛行は終わった。

写真(右)1938-1939年頃、海上を低空飛行中の日本海軍三菱九六式陸上攻撃機二一型(G3M2)改造の特殊輸送機仕様九六式輸送機(L1Y)/三菱式双発輸送機ニッポン号(J-BACI):三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)、3翅可変ピッチプロペラ装備の三菱 G3M2 九六式陸上攻撃機二一型が長距離輸送機に改造された。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:45647230 -Title:Mitsubishi G3M1 - Filename:16_007010.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive  Catalog:16_007010 - 引用。


写真(右)1939年9月、アメリカ、飛行機格納庫の前で歓迎される日本から飛来した毎日新聞社の三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI):毎日新聞社による世界一周飛行の途上である、格納庫奥にはダグラスDC-3双発輸送機、手前にロッキードL-14輸送機が格納されている。
SDASM Archives Mitsubishi, Nippon Title: Mitsubishi, Nippon Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Nippon Additional Information: Japan, converted from G3M2 bomber for long range ""peace"" flight. Tags: Mitsubishi, Nippon
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00091059引用。


写真(右)1939年9月、アメリカ、飛行機格納庫内で整備中の日本から飛来した毎日新聞社の特殊輸送機仕様九六式輸送機(L1Y)/三菱式双発輸送機ニッポン号(J-BACI)
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:45647218 - Title:Mitsubishi G3M1 September 1939 - Filename:16_007009.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:16_007009 -引用。



三菱「金星」空冷星型14気筒エンジン(排気量32.34 L)900 hp、3翅可変ピッチプロペラ装備の三菱式双発輸送機「ニッポン号」(J-BACI)は、胴体7席を設置、燃料タンク増設し搭載量1万4000リットルの長距離仕様とされた。

写真(右)1939年9月2日、第二次欧州大戦勃発直後、中立国アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、日本海軍(G3M2)三菱九六式陸上攻撃機二一型改造の特殊輸送機仕様九六式輸送機(L1Y)/三菱式双発輸送機ニッポン号(J-BACI):外翼内に容量1,400Lの燃料タンクが増設5,200L搭載。 English: Kōken Long Range Mono-plane designed by Tokyo university Date 14 September 1937 Source 富塚 清「航研機―世界記録樹立への軌跡」三樹書房 2010年2月1日発売 Author Unknown author:東京帝国大学(現・東京大学)附置航空研究所が独自に開発し1937年5月25日初飛行。1938年5月13日、第二次周回飛行のため、午前4時55分に木更津飛行場を離陸。5月15日までに周回飛行コースを62時間22分49秒で29周し、11,651.011kmと1万kmコース平均速度186.197km/hの世界記録を樹立した。
Description As I have commented before I don't have time to write a text for all the photos that I post but this one does deserve an explanation. It is shown arriving at Oakland Airport, California, on September 2, 1939. A Mitsubishi G3M2 bomber converted for a long range world peace flight it was named "Nippon". When England declared war on Germany the next day the globe circling flight was almost canceled but by changing the route they did arrive back in Japan on October 20th after flying 32,846 miles in 55 days. I will post another photo of it being taxied into one of the hangars that shows the excellent construction at a time when we were being told by the press that the Japanese couldn't build anything good and that their pilots were born with a lack of balance so couldn't fly well Date 12 September 2007, 20:08 Source Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939 Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons Category:Gasuden Koken File:Mitsubishi "Nippon" Oakland Airport 1939 (4808938058).jpg引用。


5−A.研鑽に誉れあり空の技術者五人 : ニッポン記念長尾奨励金受賞者
大阪毎日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 121 出版年 1940-10-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100208680

[三菱96陸攻改造長距離輸送機]ニッポンによる世界一周飛行の完成を記念して制定された本社の「ニッポン記念航空賞」ならびに「ニッポン記念長尾航空技術奨励金」の光栄ある本年度受賞者は去る十六日に開かれた審査会で審査完了し既報のごとく本年度の「ニッポン航空賞」は該当者なく、長尾航空技術奨励金受賞者は[1934年設置]三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所服部譲次、久保富夫、中島裕、鬼頭秀三の四氏、中島飛行機株式会社東京製作所関根隆一郎氏で、受賞の栄を荷う人々は航空技術者として経験深き服部、関根両氏あり、新進気鋭の中島、鬼頭、久保の三氏あることは航空技術界に大きな示唆を与えるものがあるが、この授賞式は二十一日午後三時から東日五階大会議室で高石本社会長、奥村本社社長以下本社首脳部、奨励金提供の長尾欽弥氏、審査顧問委員諸氏、三菱重工業、中島飛行機両社代表列席の上挙行される

関根隆一郎氏 [写真(関根氏)あり 省略]

ニッポン記念長尾航空技術奨励金受賞者の一人中島飛行機製作所技師長関根隆一郎氏(四四)は
 大正九年早大理工科卒業後直に海軍航空機試験所に入り間もなく同所からフランスに出張を命ぜられ約一ケ年半航空機に関する研鑽を積み同十五年中島飛行機会社に入社設計部長を経て最近技師長に昇進わが航空工業の躍進時代に当って若きエンジニヤ達を指導しつつ航空発動機の発明改善に努力している

[中島飛行機]東京荻窪の工場を訪れて喜びの報をもたらすと「全く予想もしておりませんでした、別にお褒めに預かるような功績もないと思っておりますが」と謙遜しながらつぎの如く語った

 今後の航空界のどこから考えましてもより周到な計画に基づき単なる模倣や改良程度のものでなく日本独自の立派な発動機をつくり上げたいと思っております、老人めいたいい方ですが幸いに後進の若きエンジニヤたちも真剣な研究に精進しておりますから将来を期待していただけると思います

服部譲次

三菱重工業名古屋航空機製作所技術部長服部譲次氏は名古屋出身、本年四十八歳、大正七年東京帝大工科卒業後三菱神戸造船所に入り同十二年同名古屋航空機製作所設計課長、研究課長を兼ねている、授賞の報に語る

 航空関係には二十数年携わって来ましたが私には何らの功労もなく常に優秀な同僚や課員とともにやって来たので私が授賞の選に当ったことは私の会社の設計課のティームが優秀だというわけです、私はこのティームのキャプテンとしてまあ優勝旗を貰いに行くようなもので光栄は私のものでなく私の課のものです [写真(服部氏)あり 省略]

中島裕氏

三菱重工業名古屋発動機製作所技師名古屋昭和区御器所町北市場四七東郊園アパート止宿、中島裕氏(二九)は茨城県鹿島郡夏海村の生れ昭和七年神戸高工卒業後、三菱発動機に入社、まだ独身である、中島氏は語る

 意外な名誉に驚きましたが現在各種補機装置の実験、特に飛行機故障の大部分を占めるといわれる気化器の完全研究に精進しています、今後飛行機の補機装置はますます複雑化して来るが一方操縦者は簡単な操作を要望しますから補機コントロールの簡易化はわれわれとして重要な問題である、一般人はとかく遠ざかりがちの科学に対し親しみをもって近代精密工業の認識を深めて航空日本建設に協力していただきたいと思います [写真(中島氏)あり 省略]

鬼頭秀三氏

三菱重工業名古屋発動機製作所技師鬼頭秀三氏(二九)は名古屋市出身愛知工業を経て昭和九年名古屋高工機械科卒業後直に三菱発動機に入り同十年二月技師となった設計専門家である

 同氏を名古屋市東区舟付町一ノ四三の自宅に訪うと「単に補機類の設計に当ったくらいの私としては表彰されるなど全く意外で面はゆいものがあります」 と嬉しそうに語った [写真(鬼頭氏)あり 省略]

久保富夫氏

三菱重工業名古屋航空機製作所技師久保富夫氏は長崎市出身、昭和六年東大航空科卒業、直に三菱重工業に入社、設計課に勤める本年三十三歳の新進技術家で三菱で試作した数種の航空機の設計に従事した、同氏は語る

 飛行機の設計は三菱入社以来十年近くなりますのでいろんなものをやりましたがこれといってお話するようなものも作りませんのに受賞とは全く恐縮です、この光栄を機会に今後一層御国のため航空界のために励みたいと思います [写真(久保氏)あり 省略](研鑽に誉れあり空の技術者五人 : ニッポン記念長尾奨励金受賞者引用おわり)


6.九六陸攻同期1935年7月初飛行のボーイング(Boeing)B-17 爆撃機

写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイング・モデル 299(Boeing Model 299):機首と胴体後上方には銃座があり、後方下部にも部首スター式銃座が設けられているようだ。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives boeing b-17 fortress image pictionid59698368 - catalog35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg - title35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623 - filename35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17 試作爆撃機YB-17(Y1B-17)の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)と胴体下方銃座はブリュスタ―状である。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。レーニエ山(Mount Rainier)は、ワシントン州北部、カスケード山脈の最高峰で(標高4,392m)。現在では、先住民に因んだタコマ山(Tacoma)とも呼ばれる。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044758引用。


写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイングB-17C爆撃機の右側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下に後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044741引用。


1939年9月に第二次大戦が勃発し、イギリスが危機に陥ったすると、アメリカは、イギリスに軍事援助するために1941年3月11日、武器貸与法(Lend-Lease Act)を制定し、1940年7月初飛行のボーイングB-17Cを武器貸与した。このB-17Cはイギリス空軍ではフォートレス(Fortress)Mk.Iと命名され生産機数38機のうち30機が貸与されている。

写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17C爆撃機の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。
SDASM Archives Boeing : B-17 Manufacturer: Boeing Designation: B-17 Official Nickname: Notes: Includes Japanese Version Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044765引用。


イギリス空軍では、ボーイングB-17Cは、1941年7月8日に、ドイツ軍港ウィルヘルムスハーフェン空襲に向かったが失敗し、7月24日のフランス北岸ブレスト軍港に在伯する巡洋戦艦クナイゼナウ、重順プリンツオイゲンの高高度空襲が初空襲である。1941年9月初飛行のB-17Eはフォートレス(Fortress)Mk.II、1942年5月初飛行で3400機量産され主力生産型になった武装強化型B-17Fは、フォートレス(Fortress)Mk.II、1943年8月初飛行の8600機量産のB-17GはフォートレスMk.IIIと命名された。1942年までは、四発大型爆撃機の運用は、守勢に回っていたイギリス空軍にとって、人材、物資、燃焼の上で制約が強かったために、イギリス貸与のB-17爆撃機は大きな活躍はできなかった。


7.九六陸攻翌年1936年4月初飛行のダグラス(Douglas)B-18爆撃機

写真(右)1937年頃、アメリカ、編隊飛行するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機初期型の左側面:機首と胴体後上方には銃座があるが、後方銃座は隠顕式で九六式陸攻と同じであるが、より大型で、空気抵抗は大きいが、銃手の操作性は優れているようだ。取り付けられている。この前期型は、第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。胴体後方左の昇降扉が開放されている。
SDASM ArchivesFollow Douglas B-18 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflikr, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ダグラスB-18 ボロは1936年制式で、ダグラスDC2旅客機の主翼を流用した設計で、開発期間を短縮できたものの、速力不足(357km/h)、爆弾搭載量(2000lbs/908kg)は十分ではなかった。ダグラス(Douglas) B-18A の発動機は、ライト(Wright)R-1820-53空冷星形9気筒エンジンである。


7−A.布哇(ハワイ)に五百機集結 : 十七ヶ所に空軍基地
掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 50巻 Page: 187 出版年 1940-12-30

グラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo) 【ワシントン二十八日発同盟】二十八日ハワイより帰任した駐米ハワイ代表キング氏は最近ハワイ島における飛行基地建設状況につき次の如く語った

 ハワイ陸海軍当局はオアフ島を中心にハワイのみならず附近島嶼に十七ヶ所の飛行基地建設を急いでいる、工事開始は約一ヶ年前であるが予定より六ヶ月以上も工事が進捗している

【ホノルル二十八日発同盟】当地陸軍当局は二十八日ハワイ空軍拡張計画に関し次のごとく語った  ハワイ陸軍は少くとも五百機以上の軍用機をハワイに集中すべく計画しており、当地にあるボーイングB十八型重爆撃機をさらに大型の四発重爆機と交換すべく考慮している、ただしこれは現在の対英飛行機供給状況からみて多少遅延するかも知れないが新鋭重爆機到着の上は[ボーイング]B十八型重爆撃機はフィリッピンに根拠地を移す予定である(布哇(ハワイ)に五百機集結 : 十七ヶ所に空軍基地引用終わり)

写真(右)1942年以前、アメリカ、オハイオ州ライトフィールド基地、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機初期型:3翅プロペラ装備の無塗装で、方向舵の赤白ストライプも描かれている。現在の名称は、ライトパターソン空軍基地(Wright-Patterson Air Force Base)。
Douglas B-18 Wright Field PictionID:40972849 - Title:Douglas B-18 Wright Field - Filename:15_002772.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.
写真はflikr San Diego Air and Space Museum Archive - Catalog:15_002772引用。


7−B.爆撃四十台米更に泰へ供与 : 英と呼応・躍起の誘引策『読売新聞』Vol: 第 9巻 Page: 53 出版年 1941-11-20
【サイゴン本社特電】(十九日発)アメリカの対泰[タイ]国武器援助はその後愈々積極化しているが、当地に達した確報によれば最近また泰[タイ]国政府とアメリカ政府との間にボーイング[Boeing B-18]爆撃機約四十台の購入契約成立し、同じく泰[タイ]がアメリカより購入することになった五千トン級の商船に右のうち三十台を積載既にアメリカ本土を出帆した模様で本月中にバンコクに到着するが、右は英米の泰[タイ]国野望[インドシナ周併合]をいよいよ露骨化したものとして注目される(爆撃四十台米更に泰へ供与 : 英と呼応・躍起の誘引策引用終わり)

写真(右)1942年頃、アメリカ、舗装滑走路に駐機しているアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18A ボロ“Bolo”爆撃機(11-32AB)初期型の右側面:機首上部の突出部下に平面ガラス風防を設け、爆撃照準器を備えた。機首下部には半球形の銃座が取り付けられている。この中期型は、第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。コックピット後上方に方位測定用環状ループアンテナを装備している。固定式尾輪の支柱が長いのは、胴体下面が山刀(ボロ:タガログ語)のように湾曲しているため。
SDASM ArchivesFollow Douglas B-18, 32AB Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflikr、San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリカ軍の国籍マーク変遷
第二次世界大戦初期・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

写真(右)1942年頃、アメリカ、舗装滑走路上のアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機中期長機首型の前左面:ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機は、前期型の段なし機首が、中期型では二段式機首に変更になった。機首銃座も機首の上部から下部に移されている。0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。
Douglas : B-18 : Bolo Manufacturer: Douglas Designation: B-18 Official Nickname: Bolo Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives Catalog #: 00005781引用。


ダグラス(Douglas) B-18A ボロ“Bolo”双発爆撃機の諸元
初飛行:1936年4月
乗員6名
全幅 89 ft 6 in (27.28 m)
全長 57 ft 10 in (17.63 m)
翼面積 89.1 m2
自重 16,320 lb (7,403 kg)
総重量 24,000 lb (10,886 kg)
発動機:ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基
最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)
航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)
M1919ブローニング(Browning).30cal(7.62mm)機関銃3丁
爆弾 2,000 lb (910 kg)
生産機数:1939年までに351機量産。

図(右)1940年頃、アメリカ、ニューヨーク州ロングアイランド、ミッチェル飛行場上空を飛翔するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機中期長機首型の右側面:ダグラス(Douglas) B-18 ボロ“Bolo”爆撃機は、前期型の段なし機首が、中期型では機首上部が突出した二段式機首に変更になった。0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。
106-10_0029770 SDASM Image Piction ID: 86119793 Mitchel Field, NY 1940--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum Piction ID: 86119793 Mitchel Field, NY 1940--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog #: 00005781引用。


写真(右)1943−1944年、オーストラリア、アメリカ陸軍航空隊第21輸送飛行隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)輸送機と奥のダグラスDC-3輸送機の軍用仕様C-47輸送機スカイトレイン:B-18の機首銃座はソリッド化され、武装は撤去されている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46702911 - Title:Douglas B-18 36-343 21TCS Australia 1943 - Filename:16_007821.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: .
写真は flickr , San Diego Air and Space Museum  Catalog:16_007821 -引用。


図(右)1942年9月刊行のハンドブックの掲載、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機三面図上面:全幅89フィート6インチ、全長56フィート8インチ。
English: A 3-view silhouette of the Douglas B-18A Bolo. Head on view has been moved from prior position on page. Date September 1942 Source http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112061968001&seq=10 Author Chief, Field Services, Air Service Command, United States Army Air Forces
写真はWikimedia Commons Category:Douglas B-18 Bolo File:Douglas B-18A Bolo 3-view silhouette.png引用。


ダグラス B-18 ボロ(Douglas B-18 Bolo)双発爆撃機の諸元
乗員Crew: 6名
全長Length: 57 ft 10 in (17.63 m)
全幅Wingspan: 89 ft 6 in (27.28 m)
全高Height: 15 ft 2 in (4.62 m)
主翼面積Wing area: 959 sq ft (89.1 m2)
空虚重量Empty weight: 16,320 lb (7,403 kg)
総重量Gross weight: 24,000 lb (10,886 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 27,673 lb (12,552 kg)
発動機: 2 × Wright R-1820-53 Cyclone 9-cylinder air-cooled radial piston engines, 1,000 hp (750 kW)
プロペラPropellers: 3-羽フルフェザリング(fully-feathering)ハミルトン(Hamilton Standard)可変ピッチ
最高速力: 216 mph (348 km/h, 188 kn) /10,000 ft (3,000 m)
巡行速力Cruise speed: 167 mph (269 km/h, 145 kn)
航続距離Range: 900 mi (1,400 km, 780 nmi)
フェリー距離Ferry range: 2,100 mi (3,400 km, 1,800 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 23,900 ft (7,300 m)
上昇時間Time to altitude: 10,000 ft (3,000 m) / 9 分 54 秒
翼面荷重Wing loading: 25 lb/sq ft (120 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.0833 hp/lb (0.1369 kW/kg)
兵装Guns: 3 × M1919ブローニング(Browning).30cal(7.62mm)旋回機関銃
爆弾Bombs: 2,000 lb (910 kg) 通常; 4,400 lb (2,000 kg) 最大

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。 



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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