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◆英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)と武器貸与法
写真(上):1943年9月,イラン北部、共謀してイラン侵攻を実施したイギリス軍とソ連赤軍の会合
:イギリス軍のユニオンジャック旗を掲げた防暑帽・半ズボンの将兵、ソ連軍はBA-10装甲車を装備。1941年6月22日の独ソ戦の勃発後、8月25日、イギリスはソ連と諮って、ペルシャ湾からカスピ海方面に繋がるイランに軍事進攻し、占領下に置いた。
English: British supply convoy in Iran, headed by Soviet BA-10 armored vehicle. "Union Jack" waving on the background. Date September 1941 Source topwar.ru Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British supply convoy in Iran, headed by Soviet BA-10 armored vehicle.jpg引用。


写真(上):1941年9月,イラン、テヘラン、イランに侵攻したソ連赤軍コーカサス軍団指揮官ヴァシリー・ノビコフ(Vasily Novikov)少将とイギリス陸軍第9装甲旅団指揮官ジョン・ゲルハルト・エドワード・ティアクス(John Gerhard Edward Tiarks:1896-1962)による英ソ合同軍の検閲

English: Maj. Gen. Vasily Novikov of the Caucasian Army (USSR,) and Brig. Gen. J. G. E. Tiarks of the 9th Armoured Brigade (UK,) inspect the troops, in course of preparations to the Joint Russo-British military parade in Tehran. Iran, September 1941. Русский: Англо-советский парад в Тегеране в сентябре 1941 года – первый контакт между британскими и русскими солдатами во время войны. Генерал В. В. Новиков (Кавказская армия) и бригадный генерал У. Тиркс (9-й бронетанковая бригада) инспектируют парадный строй советских войск. Сентябрь 1941 года.
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Preparations for the Joint Russo-British military parade in Tehran.jpg引用。


1.パフレヴィ朝イラン皇太子とエジプト王女の結婚

1−A. ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から 著者 篠原:テヘランにて
大阪朝日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 145 出版年 1935-02-16

ペルシア国政府は十五日広田外相宛「来る三月二十一日(ペルシア暦六日)より国名をイラン国と変更する」旨を通達し来きた

 現国名のペルシアの由来は往時ギリシア人がペルシア湾に面せる一地方をパルシアと呼称(現名パルシア県あり)したにはじまり以来諸外国よりペルシア国と称せられているのであるが、最近国家主義的運動熾烈となり外国人の附したしかも一地方の単なる呼称を断乎変更に決定したものである(ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から引用終わり)

1−B. 露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる 著者 篠原:テヘランにて
大阪毎日新聞 Vol: 第 7巻 Page: 31 出版年 1935-07-22

Stalin 露国政府の近東および中東方面に対する政策はスターリン[Joseph Stalin:1878–1953]氏の政権把握、「一国社会主義」への転向以来、各国における国家主義の新政府を確認し、これと政治および経済的接近をはかる方針に転じて来た、殊に露国政府のこの方針に向って、最も熱心に邁進しつつあるは、トルコおよびイラン(旧ペルシャ)との関係であって、イランとの関係は、同国における英国の勢力、今なお相当根強く、ためにトルコ対策ほどにはうまく行っていない模様であるが、しかし、由来、イランは、地理的関係において、経済上少くともその北半をあげて、露国によるほかない立場にある、露国政府が、イランに対し、先ず経済提携の確立に努力を傾倒したるは、たしかに右の点を考慮に入れたものと考えられる、本通信は這般の事情を実に明快に説明している

昨秋以来、露国とイランとの通商関係は大に好転し、露国から経済使節派遣を望んで来たので、今春四月末、イラン国商務長官アーラム氏を団長とし、各省の次官と局長級の若干軍人を網羅した大使節は四週間にわたってモスクワ、レニングラード、スターリングラードなどを歴訪し、露国産業の現状を視察して帰国した、これと前後してテヘラン駐剳露国大使の更迭が行われたが、最近に至って極秘裏に両国間の通商条約が締結されたとの噂がつたえられ、近く発表されることになっている一九三五−三六年度割当の内容にも従来に見なかったほどの大変化が示されるものと期待されている、

Reza Shah イラン政府としては、共産主義の侵入に対しては極力警戒するが、同国の地理的事情から、経済的にはどうしても露国の援助なしには国が立って行けないという点を十分認識しているので、多少の無理は通しても露国と手を握りたい方針である、また露国としても、イランに対し政治的に策動して、多年の宿願たる南下策を露骨に現してはイラン全国にわたって莫大の利権をもつ英国との抗争が避けられなくなるので、この方の活動は当分手控え、専ら経済的にイランを牛耳って行こうとする方針は明かに看取される、

露国と違い英国は極めて明かに政治的に行動しており、現国王リザ・シャーの最も苦手とする地方豪族の叛乱という無類の武器をもっているので、その立場は強く事英国の利権に関するかぎり断じて一歩も譲らない強硬な外交方針によっているものと見受けられる国王は英露両勢力の間に処して、いずれの勢力にも禍されぬよう殊に両勢力抗争の渦中にひき込まれぬよう警戒し、親英とか親露とかいう色彩は努めて政府の態度に出さぬようにしているが政治的には英に接近し経済的には露と提携し、両国の勢力を利用して自国の繁栄と安寧に資そうとしているのが真相かと思われる、

噂に上っている露イ新通商条約の内容は全く世に伝わらないが、もし事実とすれば早晩現れる時が来るであろう(六月十六日)(露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる引用終わり)

1−C.イラン輸入統制 : 自動車等に
大阪朝日新聞 Vol: 第a補巻 Page: 12 出版年 1936-09-01

岡本イラン公使よりの報告によると、イラン政府は八月二十七日以降乗用自動車、貨物自動車、同附属品、部分品、タイヤ類の輸入を国家の独占とする旨発表した(イラン輸入統制 : 自動車等に引用終わり)

写真(右):1938年,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳)
Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza Date between 1936 and 1941 Source mashruteh.org Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File: RezaShah001.jpg引用。

エジプト王族のファウズィーヤ・ビント・フアードは、フアード1世と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)の間の第2子(長女)で、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)でイラン皇太子モハンマド・レザーと結婚式を挙げた。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)19歳とエジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt:1921年9月5日)17歳:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
The wedding ceremony of Mohammad Reza Pahlavi (1919 - 1980, right ), Crown Prince of Iran, and Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013, with bouquet) at Abdeen Palace in Cairo, Egypt, 15th March 1939. With them are King Farouk of Egypt (1920 - 1965) and Queen Farida of Egypt. (Photo by Central Press/Hulton Archive/Getty Images)
写真は,Getty Images Egyptian Princess Marries Iranian Prince ・引用。


エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、1868年3月26日生まれで、1917年、49歳で即位したが、スンニ派イスラムだがイタリアのナポリ育ちだったために、イタリア語が堪能だった。しかし、長女ファウズィーヤ・ビント・フアードがイラン皇太子と結婚する3年前、1936年4月28日に死去している。その後継エジプト王が、フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とするファールーク1世である。つまり、エジプト王妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)は、エジプト王ファールーク1世(1920年 - 1965年)、エジプト王女ファウズィーヤ(1921年 - 2013年)の母である。エジプト王女ファウズィーヤは、イラン皇太子モハンマド・レザーの最初の妃で、1941年にイラン王妃になる。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)と結婚したエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)とエジプト王女の母ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王太后:カイロでの結婚式に花婿の父であるイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日は出席していないが、イラン皇后タジュ・オル・モルークは出席している。しかし、彼女の写真は、結婚式のあったカイロではあまり撮影されていないようだ。これは、イラン皇帝欠席なので首肯できる。しかし、テヘランでの結婚式でも、イラン皇后の写真は、あまり公開されていないようだ。
Description English: In 1938, the young Shah of Iran wed King Farouk's sister Princess Fawzia, first in a ceremony in Cairo and then in Teheran. Français : En 1938, le jeune shah d'Iran, vient d'épouser eu Caire, puis Teheran, la Princesse Fawzia, soeur du roi Farouk. The wedding was in 1939, but original caption says 1938 in both english and french. Date 1938 or 1939 Source Pica Pressfoto via IMS Vintage Photos Author Unknown photographer
写真は,Wikimedia Commons, the Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:King-Farouks-sister-Princess-Fawzia-married-Mohammad-Reza-Pahlavi-Crown-Prince-of-Persia-391771846514.jpg引用。


1939年3月16日、カイロでのイラン皇太子とエジプト王女の結婚式には、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)、皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)が出席しているが、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、欠席している。

イラン皇太子モハンマドの母は、バクー出身のイラン皇后タジュ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896−1982)で、1939年3月16日カイロでの結婚式に出席。カイロの結婚式にいイラン皇帝は欠席。その後、新郎新婦は、イランに向かい、1939年4月25日にテヘランでも結婚式を行ったが、エジプト王エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は欠席している。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)の結婚記念写真:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
English: Photograph of the wedding ceremony of Mohammad Reza Pahlavi (then Crown Prince of Iran) and Princess Fawzia of Egypt at Abdeen Palace in Cairo. From left to right: King Farouk of Egypt (the bride's brother), Princess Fawzia (the bride) and the Crown Prince of Iran (the groom). Date 16 March 1939 Source mideastimage.com/photo/ standard/Egypt-Farouk%20Shah%20 Wedding.jpg Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:Fawzia+Reza.jpg引用。


エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、エジプト保護国イギリス育ちだった。しかし、第二次世界大戦中の1941年にドイツ・アフリカ軍団がエジプトに迫ると、エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、世論を受けて、反イギリスの立場をとろうとした。しかし、イギリスの脅迫に屈してしまい、人気が落ちた。

イラン皇太子モハンマド・レザーは、エジプト王族のファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式は、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)で挙げた。その後、イランに向かい、4月25日にテヘランでも結婚式を行った。

日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の旅客輸送機仕様「そよかぜ号」は、細長い胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加した。九六中攻は、一一型と二一型の双方が輸送機仕様に改造された。海軍では、九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したのが、松井勝吾操縦のそよかぜ号(J-BEOA)である。


資料(上):1939年3月,日本、「イラン」親善往復飛行要領
:モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚につきイランに親善飛行した大日本航空三菱そよかぜ号の飛行計画
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)作成年月日昭和14年4月17日〜昭和17年4月16日
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


イラン國皇帝殿下御結婚に当り日本國政府は左記要領に依り航空機を派遣し之が奉祝の意を発するものとする。

1.目的 「イラン」國皇太子殿下御結婚奉祝 

2.実施期日 昭和14年4月上旬(ご結婚式は4月22日の予定) 

3.実施者 大日本航空株式会社 

4.使用機 (1)三菱式双発輸送機 (2)機名「そよかぜ」號 (3)登録記号 登録記号J−BEOA 語。

5.搭載無線機 (1)T式超短波兼用送受信機 (2)A式方向探知機

6.乗員及同乗者 機長 一等飛行操縦士権一等航空士 松井勝吾 操縦士 一等飛行操縦士権二等航空士 岩堀庄次郎、機関士 清本虎男 技術員 楠木健次郎 無線通信士 清都誠一 日本国政府代表航空局書記官 大久保武雄 大日本航空総務部長 永淵三郎 外務次区間 鶴岡千仞 海軍少佐 江口穂積

新聞記事(右):1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」:「畏き邊りから御手箱」「世界に誇る純国産機」
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」では、イラン皇太子モハンマド・レザー(Mohammad Reza:1919-1980)とエジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia of Egypt:1921-2013)ご成婚奉祝使節テヘラン派遣の新聞記事の初めに次のようにある。

「朗報、近東の友邦イラン帝国ではこの度皇太子もハメット・レザ・パーラヴィ殿下がエジプト國皇妹フアウヂア内親王殿下と御結婚遊ばされるについてわが国でも祝意を披瀝すべく奉祝使節を派遣するが、これを機会に最近躍進的に発達を遂げつつあるわが航空技術の粋を盡して「日本ーイラン間往復奉祝大飛行」を決行することとなり具体案を練っていたが、このほど成案全くなり、三十一日の閣議にて藍野逓相[逓信大臣]から計画内容を報告、来る八日(或いは十日)新装の東京羽田国際飛行場を出発、アジアの二友邦を繋ぐ鵬程一万二千九十キロの壮途に上ることになった。(イランは1935年旧名ペルシアを改称されたものである)」

写真(右)1939年4月8日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸した。後方の紅白垂れ幕の奥の機体は、三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機の機首。
三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節の出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。
概要 「そよかぜ号」の出発式 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


1−D.帝国とイラン国間に修好条約調印さる
大阪朝日新聞 Vol: 第149巻 Page: 110 出版年 1939-10-20

テヘラン特電十九日発】イラン政府十九日発表=日本、イラン両国修好条約は十八日夜調印された(帝国とイラン国間に修好条約調印さる引用終わり)

1−E.日泰イラン条約枢府本会議で決定
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第155巻 Page: 134 出版年 1940-12-12

十一日の枢府[枢密院]定例本会議は午前十時より宮中において天皇陛下親臨のもとに開催、枢府[枢密院]側から原、鈴木正副議長以下各顧問官、政府側から近衛首相以下関係各閣僚および村瀬法制局長官出席

一、日本国と泰国との間の条約御批准の件
一、日本国とイラン国との間の修交条約御批准の件
一、奏任文官特別任用令中改正の件(新たに地方消防司令設置に伴う特別任用の途を開き大阪、京都、神奈川、兵庫、愛知、福岡の各府県にこれを設置すること)

の三件を上程堀江書記官長より審査経過並に結果の報告あり審議の結果満場一致これを可決し同十時四十分散会した(日泰イラン条約枢府本会議で決定引用終わり)

⇒写真集Alubm:三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行(Mitsubishi G3M "Soyokaze")


写真(上):1913年7月1日,イラン、ペルシャ湾岸、アバダン、イギリス系アングロ=イラアニアン社の石油の製油所
:1919年設立のイラン初のイギリスの石油大企業で1914年にはイランの石油の51%を独占した。1954年12月にモハンマド・モサデク政権が国営化した。イラクは、戦後にクウェートは、イラク領であり、イギリスによって不当に分離されたと批判している。
Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama) Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama), Kuwait. (Photo by W.H.I. Shakespear /Royal Geographical Society via Getty Images)コレクション: Royal Geographical Society (with IBG) 作成日: 1913年07月01日(火) アップロード日: 2018年12月21日(金) ライセンスタイプ: ライツマネージ
写真は,www.gettyimages.co.jp Category:Fawzia Fuad・Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama)引用。



2.1941年6月の独ソ戦後のイギリス・ソ連のイラン侵攻

写真(右):1941年8月25日以降,イラン南部、ペルシャ湾に近いアバダン、イランに侵攻したイギリス軍所属のインド兵の行進:イギリス軍は、植民地のインド(パキスタン、ネパールを含む)現地採用兵士を中東、北アフリカを中心に利用した。イラン侵攻でも、ソ連への補給経路、油田、港湾の占領・警備につかせた。
English Indian soldiers enter the world's largest oil refinery on Abadan Island, Iran. They overcame defending Iranian forces during 'Operation Countenance'. Aug. 25, 1941. Summary Description فارسی: ورود سربازان ارتش بریتانیا به پالایشگاه آبادان در جهان اشغال ایران در جنگ جهانی دوم، شهریور ۱۳۲۰ Date 25 August 1941 Source farsi.khamenei.ir/ndata/news Author مؤسسه پژوهشی فرهنگی انقلاب اسلامی
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Abadan invasion of Iran.jpg引用。


1939年9月に勃発した第二次世界大戦では、1941年6月にドイツがソ連に侵攻し、第二局面に入った。当時、フランスは降伏し、西欧ではイギリスだけがドイツ・イタリアの数菊国軍と戦っていたが、それはイギリス本土、北アフリカ、エジプト、大西洋など広範囲にわたっていた。

写真(右):1941年8月25日以降,イラン南部、ペルシャ湾頭、シャット・アルアラブ川沿岸、アバダン、イランの油田を占領したイギリス軍所属のインド兵たち:シャット・アルアラブ川は、イギリス保護国イラクのバスラ、イランのホラムシャハル、アバダンと港湾都市・油田の近くを流れており、重要な海上船舶航路となっている。
Artist No 1 Army Film & Photographic Unit, Keating (Capt) Description English: Pictures From Iran British troops attacked the island of Aradian on the River Shatt-el-Arab, at the head of the Persian Gulf, in order to gain control of a large oil refinery, belonging to the Anglo-Iranian Oil Company. Indian troops were landed from assault ships from the quayside and they attacked the Iranian strong points in the refinery. This image shows a view of the Indian riflemen seen at various points in the refinery on guard. Date between 1939 and 1945 Source/Photographer E 5329 from the Imperial War Museums
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Pictures From Iran E5329.jpg引用。


しかし、独ソ戦の勃発で、イギリス首相チャーチルは狂喜し、ドイツを倒すためなら悪魔とも手を結ぶとして、共産主義ソ連のスターリンを軍事援助することを即断し、アメリカの武器援助法に基づく支援をソ連に伝えた。この軍事援助のためのルートが、中東経路で、イギリス保護國・植民地のある中東からソ連のコーカサスへの陸路/空路である。

武器貸与法によるドイツと戦うソ連への軍事援助のために中東は重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍隊を侵攻させた。これは、イギリスでは、カウンタナンス作戦Operation Countenance)と呼ばれる中立国イランの主権を蹂躙する侵略行為である。

写真(右):1941年8月,イラン北西部、中立国イランの国家主権を蹂躙してイランを侵略したイギリス軍とソ連赤軍の兵士の握手:イギリス軍とソ連軍は、相計って8月25日にイランに侵攻したが、この中立国への一方的な侵略は、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ状態である。第二次大戦にイランを宣言したイランは、独立国の主権を蹂躙され、軍事占領されてしまった。
Description English: Soviet and British infantrymen walks shoulder to shoulder in Iran, 1941. Date August 1941 Source ziva777.files.wordpress.com Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet and British soldiers in Iran.jpg引用。


写真(右):1941年8-9月,イラン北西部、中立国イランの国家主権を蹂躙してイランを侵略したイギリス軍とソ連赤軍の歩兵がともに歩んでいるという喧伝写真:イギリス軍とソ連軍は、第二次大戦に中立を宣言したイランの国家主権を蹂躙し、イランを軍事占領下に置いた。
Description English: Soviet and British soldiers in Iran. Українська: Радянські та британські війська спільно діють у Ірані. Date circa 1941 Source uarmy.com.ua The file has been initially uploaded at uk.wikipedia.org Author The work has been uploaded by User:Shao, 01:53, 17 March 2009
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet and British infantrymen in Iran.jpg引用。


2−A.英のイラン進攻へ土、先手を打つ : 独と大経済協定を交渉
大阪毎日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 28 出版年 1941-07-24

De Gaulle et Churchill 【ソフィヤ本社特電二十二日榎本特派員発】シリヤ来電によれば仏英停戦協定に基づく英国軍のシリヤ占領は着々進行し十九日アレッポから北上した部隊はトルコ国境のアレキサンドレッタ地方を占領、ほぼ今週中に全シリヤの重要地点の占拠を終る見込みである、英国占領軍の勢力は英人部隊は歩兵騎兵各一師、濠洲部隊一師、インド部隊一師にド・ゴール[Charles de Gaulle]派仏国部隊一師を加えて約五師、空軍は停戦協定により接収した仏国機百数十機を加えても三百幾機かに過ぎないと報ぜられ、海軍はアレキサンドリヤを根拠地とする地中海艦隊の一部戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦八隻をもってアレキサンドリヤからパレスチナ、シリヤ海岸を経てキプロスにいたる東地中海の海面を示威、ドイツ軍のクレタ作戦以来中絶していた英商船のアレキサンドリヤ寄港を最近復活するにいたった

 占領地行政はウィルソン英国軍司令官の名で軍政を布きすでに反英分子の弾圧、土民所有武器の没収などを開始、一方前仏印総督カトルー将軍はド・ゴール[Charles de Gaulle]派、自由仏国政権の名で十九日シリヤ高級委員に任命され同将軍の権限は停戦協定後のシリヤの治安のためド・ゴール[Charles de Gaulle]派合流を志願した仏将兵管理に関する事務に限定されている、将来ヴィシー政府シリヤ高等弁務官によって信任されていた外国領事館では英占領軍およびド・ゴール派政権と折衝せざるを得ない微妙な立場に置かれわが国をはじめド・ゴール政権不承認の建前をとる枢軸諸国の領事館は結局引揚のやむなきに至るのではないかと見られている

De Gaulle et Churchill シリヤ土民の行政は英占領軍当局がシリヤ、レバノン両土民政府を指導する建前をとっている、アレッポ政府の緊迫せる状態に関しトルコ政界の一部には英軍は対トルコ関係を改善して若干の余裕を残すのではないかと見る向もあったが英側がトルコの関心を無視してトルコ、シリヤ国境に兵を進めたことはいたくトルコ側を刺戟しつつありトルコ新聞は一斉に英のシリヤ軍政府を論難し英がシリヤ、レバノンの独立開放を口実に侵略戦を行い停戦協定の成立を見るや独立を公約したのを忘れてシリヤ、レバノンを軍事占領したことを指摘しトルコはシリヤの現状変更に無関心たり得ない旨強調している、これに対し在トルコ英国側当局は当面の応酬を避けているがシリヤ占領地対策の一段落を待ってイラン占領に進み近東、インド防衛線の構成に引続きトルコの東南両国境を包囲した余勢を駆って対土圧迫に転ずるものと観測される

 イラク来電によれば東イラク英軍は目下アマラ、エルビル間にインド兵を主力とする約五万の兵を集中してイラン進攻態勢をとっている、数日来イラク東北部のクルド人住居地帯には反英暴動が勃発、英軍が鎮圧に出動したと伝えられ右は英国側がまずトルコの東部国境よりイラクイランにまたがるクルド人地帯の不安を宣伝しこれが鎮圧に名をかりてイラン進駐対トルコ圧迫に出でんとする謀略宣伝と見られる節もあるが

いずれにせよトルコ側では英軍のイラン進攻は不可避と見透し同国占領後の英国側はイラン、バクーの油田地帯確保によりドイツ軍の対ソ作戦目的の達成妨害につとめるだろう、さらに一転してトルコに対しては対枢軸態度の闡明を迫ってくるものと予想これが対策としてトルコ軍はアレキサンドレッタ地区国境に約五師団、トルコ国境に約十五師団を終結し英国軍に備える一方ボスフォラス、ダーダネルス両海峡に面する防備を強化独ソ戦終結期におけるソ連黒海艦隊ことに潜水艦の海峡突破企図に対応して黒海に面するボスフォラス海峡入口には機雷原敷設、監視船の配置、潜水艦拏捕網の二重敷設を行い厳重に警戒すると共に政治機構方面においては独土不可侵条約に引続き大規模な独土経済協定を交渉中で来月初旬までには妥結にいたるべくトルコをして対枢軸態度の強化をもって独ソ戦後の新情勢に備えしめんとする兆候を示している(英のイラン進攻へ土、先手を打つ : 独と大経済協定を交渉引用終わり)

写真(右):1941年8月31日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車と検分するイギリス軍将兵:イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じで、独立国の主権蹂躙、暴力的な侵略である。
Description English: British soldiers curiously inspecting a T-26 battle tank of the Soviet occupation forces after their rendezvous in Iran. Sunday, August 31, 1941. Date Taken on 31 August 1941 Source ww2total.com Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British soldiers on top of a Soviet T-26 in Iran.jpg引用。


写真(右):1941年8月27−28日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車:T-26は、乗員3名、重量9.4t、45mmM1932戦車砲装備で、ドイツのソ連侵攻のあった1941年6月の主力戦車の一つだった。
Description English: Soviet tankmen of the 6th Armoured Division drive through the streets of Tabriz on their T-26 battle tank. Date 27-28 August 1941 Source topwar.ru Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Soviet_tankmen_of_the_6th_Armoured_Division_drive_through_the_streets_of_Tabriz_(2).jpg引用。


1939年9月1日、ドイツはポーランドに軍事侵攻し、その撤退を求めた勧告を無視された英仏は、9月1日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。そして、ドイツと秘密協定を結んでいたソ連は、1939年9月17日、ポーランド政府が瓦解したので、ポーランド東部に住むウクライナ人、ベラルーシ人を保護するという名目で、ポーランドにソ連軍を進駐させた。これは、ドイツとソ連によるポーランド侵攻であり、中立国ポーランドの国家主権を蹂躙する侵略である。

写真(右):1941年8月31日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車と検分するイギリス軍将兵:イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じで、独立国の主権蹂躙、暴力的な侵略である。
Description English: British soldiers curiously inspecting a T-26 battle tank of the Soviet occupation forces after their rendezvous in Iran. Sunday, August 31, 1941. Date Taken on 31 August 1941 Source ww2total.com Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British soldiers on top of a Soviet T-26 in Iran.jpg引用。


T-26軽戦車 T-26軽戦車 1933年式の諸元
全長:    4.62m
全幅:    2.44m
全高:    2.33m
全備重量: 9.4t
乗員:    3名
エンジン:  GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
出力: 90hp/2,200rpm
最高速力: 30km/h
航続距離: 130km
兵装: 46口径45mm戦車砲20K×1門(100発)
    7.62mm機関銃DT×1〜3丁(2,848発)
装甲:  6〜25mm

写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)に進駐したソ連赤軍T-26戦車:T-26軽戦車は,全長 4.9メートル,重量 9.4トン,航続距離 175キロ,45 ミリ砲装備で,車体前装甲15ミリ,乗員3 名だった。
ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドを分割したが,ポーランドと相互条約を結んでいた英仏は,9月3日,ドイツにだけ宣戦布告し,ソ連には宣戦しなかった。
Polen, Brześć Litewski (heute Brest in Weißrussland).- deutsch-russische Siegesparade, russischer Panzer (T-26 TU ?) neben deutscher Motorrad-Abteilung ; PK [?] Dating: 22. September 1939撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-121-0012-30引用(他引用不許可)。


ドイツのポーランド侵攻の最中,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,1939年9ガル18日ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官を,カチンの森で処刑。

写真真(右)1939年9月,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連軍BA-20装甲車のパレード:1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力保障占領した。ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドをブーク川を境界として,二分したのである。英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻したが,ソ連にはしなかった。
Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Höllenthal撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-013-0068-33引用(他引用不許可)。


1939年9月17日、ドイツ軍のポーランド侵攻に呼応して,ソ連軍はポーランドに武力進駐を開始した。これは,同年締結した独ソ不可侵条約秘密議定書に基づいて,東欧を分割するためである。東西から挟み撃ちにされたポーランド政府は,まだ中立国だった隣国ルーマニア,ハンガリーに脱出を図った。

写真(右):1939年12月,ポーランド,ルブリンでソ連軍とドイツ軍が握手する:1939年8月23日の独ソ不可侵条約では,ポーランドを,ブーク川の線で独ソ二分割することが密約されていた。ドイツのポーランド侵攻後,ソ連もポーランドに進駐した。独ソの握手は,偽りであり,独ソの平和は2年と続かなかった。
Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Deutsche und sowjetische Offiziere begrüßen sich; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Höllenthal 撮影。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・Bild_101I-013-0068-33A引用。(他引用不許可)。


結局,ポーランドは,ドイツとソ連に分割占領され,ドイツ軍とソ連軍は,1939年9月28日,独ソ不可侵条約の秘密議定書を改め,ブーク川の線で東西分割することが決められた。そして,国境となるソ連領ブレスト=リトフスクで,ドイツ軍とソ連赤軍が,軍事行進を行い,その緊密振りを内外に誇示した。

写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連赤軍BA-6/BA-10装甲車::BA-6装甲車は,全長4.9メートル,重量5トン,40馬力エンジン,最高速度43キロ,航続距離200キロ,兵装は42口径45ミリ砲(60発),7.62ミリ機関銃2丁,装甲 3〜8ミリだった。BA-6/BA-10装甲車は、1939年7-8月ノモンハン事件、1941年8月イラン侵攻でも投入されたが、不整地での行動は車輪駆動なので制限された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-013-0068-18A Old signature: Bild 183-E11261 Original title: info Russischer Offiziersbesuch in Lublin. Die sowjetrussischen Offiziere, die zu Verhandlungen mit den deutschen Militärbehörden über die Festsetzung der Grenze zwischen den beiderseitigen Interessengebieten im besetzten Polen in Lublin eintrafen, waren von zwei Panzerspähwagen der russischen Armee begleitet. Wie unser Bild zeigt, fand[en] diese Fahrzeuge bei unseren Soldaten verständliches Interesse. Urhebervermerk: PK-Scherl 3.10.39 [Herausgabedatum] 12026-39 ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939 - 45; Der Feldzug in Polen, September 1939 Deutsche Soldaten besichtigen zwei sowjetische Panzerspähwagen, mit denen Offiziere der Roten Armee am 22.9. nach Lublin zu Verhandlungen über die Demarkationslinie zwischen Deutschland und der UdSSR gekommen sind. 12026-39 [Fotograf: Höllenthal] Archive title: Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost) Dating: 22. September 1939 Photographer: Höllenthal Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-013-0068-18A引用(他引用不許可)。


BA-10 装甲車 ポーランド分割は,1772年の第一次分割で,プロイセン王国フリードリヒ2世,オーストリア(神聖ローマ)帝国ヨーゼフ2世,ロシア帝国エカチェリーナ2世の間で行われ,1795年の第二次分割で,プロイセン,オーストリア,ロシアによってポーランドは完全に消滅した。その後,第一次世界大戦後の1919年に民族自決が認められポーランドは主権国家として再興されたが,20年後の1939年9月にドイツとソ連にニ分割されてしまった。ポーランド政府は,英国に亡命した。

1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領した。第二次大戦勃発1週間前の1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約では,ポーランドをヴィスワ川の線で独ソ二分割することが密約されていた。
ブレスト=リトフスクは,1939年9月17日にハインツ・グデーリアン将軍の第19装甲軍団が占領したが,町は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連に譲渡,併合されベラルーシ(白ロシア)の一部となった。
リッベントロップ外相とモロトフ外相の二人が署名した独ソ不可侵条約によって,独ソ連両軍は友好関係にあったが,これは2年と続かなかった。

2−B.英、イランを侵せば土、独側に投ぜん : 近東に再び戦火近し
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 43 出版年 1941-08-17

【イスタンブールにて石山特派員十六日発】現下西アジア(近東)の情勢は一にイギリスが近くイランを侵す作戦に出るか、それともドイツのコーカサス進撃がいつ行われるかの問題を中心として再び戦乱の渦中に投ぜられる運命にある

イラン問題

まずもっとも大きな問題はイラク、シリアを確保したイギリスがさらにイランに兵を進めるかどうかの問題から取りあげよう、イギリスのイラン進軍は二つの意味をもっている

 すなわち一つはここを突破してコーカサス[Caucasus]にあるソ連軍と握手し西アジアの防衛陣地を一歩進めるとともにバクー石油地帯をドイツの手から確保すること、第二はイラン南部にあるイギリスの石油利権「アングロ・イラニアン石油会社」[Anglo-Persian Oil Company]の石油タンク石油製造場を自らの軍隊によって守備することの二つである

先般来イギリス、ソ連共同で在留ドイツ人約千五百名の退去を要求しさかんにイラン政府を威嚇していることは単なる口実にすぎずしたがってイギリス軍のイラン進入は目睫の間に迫っていると見るものがある、また一部にはドイツ人の撤退要求をしたのちイギリスは改めてイランに対しソ連向けの武器の通過を要求し、もし聴従しなければ進駐するのではないかと見るものもある  イランはすでに平常軍備約十一個師団を最近は十四個師団にまで拡大し万一に備えているがこれに対してイラクにあるイギリス軍は十個師団ともいわれまた最近はとみに膨脹して二十個師団に達したともいわれている

コーカサス[Caucasus]にあるソ連兵力は一部を西部戦線に送ったためこの方面からのイラン突破はほとんど期待しがたい、しかし機械化部隊をもつイギリス軍がイラクから進入すればイランは相当の苦戦を免れないであろう、しかしこのイギリス軍の進入説に対して疑問をもつものはイギリスがイラン進入をひかえているのは一にトルコの感情を害することを恐れるためである、もしイギリスがここに進入すればトルコはその自衛上からも旗幟を明らかにしてドイツ側につくことは必然である、

また一般イラン国民は政府の意向如何に拘らずイギリスに対する反感がきわめて強いしたがってもしイギリス軍がここに進入し、更にコーカサス[Caucasus]からくるドイツ軍に撃退された場合イランの全土を挙げて反英陣営に参加させることになるからであると説く、いずれにせよこの国の危機は依然として去らない

 たとい期待されるがごときイギリス軍の進入がなくともコーカサスからイラクに向けて南下して来るドイツ軍の進路にも当りかつその場合イギリス資本より成るアングロ・イラニアン石油会社[Anglo-Persian Oil Company]は当然俎上にのぼるべき運命にあるからだ、イラン皇帝リザシアは近世不世出の英傑といわれ、ソ連の勢力をも排除することに成功した、しかしていまはドイツとの貿易はこの国の第一位を占めドイツ人の在留するもの千五百名、他の外国人に比して圧倒的に多数を占めている

イラク問題

Eden イラクにおけるイギリス軍の行動は活溌を極めている、インド兵はバスラ[Basra]を経由しまたエチオピア軍の一部はシリア経由で続々と入り込み、イギリス軍の現有勢力は十師団以上といわれている、戦前四個師団であったイラクの軍隊は一師団を縮減され、軍事基地、軍事進路その他ほとんどイギリス軍の手に確保されている、かくて軽戦車約五十台をもつイギリス軍はモスール油田[Mosul Oil field]附近を中心として集結する一方、バスラには潜水艦と駆逐艦が数隻待機しているといわれる、イギリス軍の戒厳令はいよいよ強化されこれに比例して国民の一般生活は次第に窮迫しつつある、殊に貿易路を失って生活必需物価は暴騰し国民のイギリスに対する反感は募るばかりである

 この反感の現れとして数回に及ぶマドファイ総理大臣暗殺事件があり、また日本船と日本綿布のバスラ入港に対する執拗なる要求ともなっている [写真(リザシア・イラン皇帝)あり 省略]

シリア問題

シリアスエズ[Suez]の防衛線として重要な地位を占めるのみならず、イギリスのトルコ牽制の役割を果すものとして新しい意義を生じて来た、ダンツ将軍麾下のフランス将校の大半を監禁し一切の軍事基地を確保したイギリスは最近アレッポを中心として軍隊を集中している、現にここにあるイギリス軍の兵力は三個師団にすぎないが、エチオピアの兵力の一部がここに移るであろうといわれている、

Petain しかしてもしトルコがドイツに靡けば直ちにトルコに突入せんとの気勢を示し、トルコが枢軸参加を行い得ないのもこれに脅威を感ずるからであろう

 しかしシリアが再び戦場と化するのはそんなに遠い将来ではあるまい、ドイツ軍のコーカサス南下が開始される時こそシリア攻撃が開始される時と見て差支えあるまい
何故ならばドイツ軍のコーカサス南下はスエズ[Suez]の後方遮断を意味しシリア攻撃も当然その作戦の一部をなすからである、かくて九月下旬乃至十月上旬にはスエズをめざしてコーカサス、シリアおよびリビアの三方面からドイツ軍の行動が開始されることはほとんど疑いないところであろう、イラクおよびシリアの運命はまた直ちにパレスチナトランスヨルダンの運命でもあり、さらにまたサウジ・アラビアをはじめアラビヤ諸国の興廃をも決すべきものであろう、アラビア諸国の反英感情は掩いがたい事実であるが如何せん武力はほとんど零に等しい国である、しかしスエズ攻防戦の展開は直ちにまたこれら諸国の反英蜂起をも約束するものであると見られる

アフガニスタン問題

アフガンはイギリス、ソ連両国間に介在して独立を完うする国である、英ソ提携する今日、外部的にはさして不安は感じていない国である、また先般イギリスがアフガン在住のドイツ人約三百名の去就について警告を発したこともさしたる意味をもつものでもないただイギリスがこの国のドイツ人に対し懸念することはソ連領トルキスタンに対するドイツの働きかけであろう

 ソ連崩潰の手段としてもし各地の暴動一揆がドイツによって目論まれているとすればアフガン在住のドイツ人が一応英ソのブラックリストにのることは当然考えられることである、またもしドイツの勢力がトルキスタンに達せんとすればイギリスはその既定の方針によってアフガンに進入しアフガンの中央にあるヒンヅークッシュ山脈によってインドの第一線とし、またドイツがイランに入ればベルチスタン[Baluchistan]からアフガン西部に進入してこれを守ることは考えられるがすべてはソ連の完全なる崩潰後の問題であろう(英、イランを侵せば土、独側に投ぜん : 近東に再び戦火近し引用終わり)

写真(右):1941年8月,イラン北西部、ガズヴィーン、イランからソ連までの軍事物資援助ルートを確保するためにイランを占領したイギリス軍の兵士と軽装甲車ユニバーサル・キャリア(Universal Carrier):ブレン機関銃を搭載できる軽装甲車ユニバーサル・キャリアは、ブレンキャリアー(Bren Carrier)とも呼ばれた。全長3.6m、全幅2.1m、全高1.6m、重量3.8t、 乗員数 2-5名、装甲7〜10mm。
Description Русский: Части советской и английской армии встретились у Кавзина. Date August 1941 Source magnumphotos.com Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Assembly plant in Iran for American fighter warplanes destined for Russia, 1943 (27167675840).jpg引用。


写真(右):1941年8月以降,イラン、イランに侵攻したソ連赤軍BA-10装甲車(デグチャレフ=シュパーギン)12.7mm重機関銃:重量5.14 t、全長4.65 m、全幅2.00 m、全高2.20 m、1939–1941年に3291台量産された。45mm戦車砲(搭載弾薬49発)、7.62mmDT機関銃2丁(搭載弾薬2079発)装備。原型はアメリカ製フォード・トラックをソ連でライセンス生産したGAZ-AAで、後輪2輪駆動。BA-3/6の発展型。
English: Soviet military officer raises a flare pistol, while standing somewhere in the Iranian desert. Behind him is a BA-10 armored vehicle. Date circa 1941 Source oboznik.ru Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of the Soviet Union in Iran ・File:Soviet military officer raises a flare gun in the Iranian desert.jpg引用。


写真(右):1941年9月17日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍の馬匹の曳く砲兵部隊のM1909/37 122mm榴弾砲:M1909/37 122mm榴弾砲は、第一次世界大戦当時の旧式砲M1909榴弾砲を、1937年に炸薬増量、砲強化、照準器改良をし、近代化し改良性能向上型である。重量2,480 kg、最大射程8,910 m。イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ独立国に対する暴力的な侵略である。
English: Soviet six horse foot artillery team drags a cannon across Iranian street. Date August 1941 Source rnns.ru Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Iran in World War II・File:Soviet six horse foot artillery team on the streets of Tabriz.jpg引用。


写真(右):1941年8月,イラン、イランに侵攻したソ連赤軍の馬匹の曳くDShK38(デグチャレフ=シュパーギン)12.7mm重機関銃:12.7mmDShK38重機関銃は、銃身長1,070mm、弾薬12.7x108mm弾、ベルト給弾式50発、全長1,625mm、重量 銃本体34kg、車輪付き銃架付157kg、発射速度600発/分、銃口初速850m/s。
Description English: Mounted artillery units of the Red Army on the streets of Tabriz. The Iranian operation, September 17, 1941. Date 17 September 1941 Source albumwar2.com Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet six horse foot artillery team in Iran.jpg引用。


2−C.浦潮[ウラジオストーク]アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 146 出版年 1941-08-22

ハボック 【ニューヨーク特電二十日発】ルーズヴェルト[FDR]チャーチル[Winston Churchill]会談の結果近くモスクワで開催さえる英米ソ三国軍事会議にはアメリカ側首席代表としてホプキンス武器貸与計画局長官が内定し再びロンドン経由モスクワに急行、スタインハート米大使および駐在武官と協力、世界注目の会談に臨むことになったといわれる、

すでにアメリカ政府はソ聯に対するもっとも迅速かつ有効なる武器援助の非常措置を決定して既報のごとくすでにアメリカ油槽船数隻は飛行機用ガソリンを満載してロサンゼルスを出発、ウラジオストック[Vladivostok]アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充に向け航行中であるが、さらに米ソ間の武器輸送路を確立するため次のごとき対策を至急実現することになった

一、アメリカ製最新式爆撃機ならびに戦闘機を多数ソ聯の東部戦線に輸送するため従来のシベリア・ルートのほかに南大西洋および西アフリカ経由のイギリス近東軍に対する輸送路をさらにソ聯まで延長する新ルートを開く

二、従来のシベリア・ルートは太平洋またはアラスカ経由の海上ならびに空中輸送を併用して最大能力を発揮するが、その門戸はウラジオストックとなし、爆撃機は陸揚げまたは到着後直に空路シベリアを横断して東部戦線に向うがウラジオストック[Vladivostok]モスクワ間に多数の特別中継飛行場を昼夜兼行にて建設中である、したがって今後アメリカよりソ聯に供給される軍用機は続々シベリアを横断してソ聯空軍の再建を助けることになった

三、アメリカ政府はソ聯に対する武器輸送ルートの能率を発揮するため現在の英米間の大西洋横断の定期連絡に倣って汎米航空会社に命じ大型クリッパー機によるアラスカ、ウラジオストック[Vladivostok]間の定期空路ならびに西アフリカおよび地中海経由エジプトソ聯間の二大援ソ・ルートの実現をはかることに決定した

四、かくて英米ソ三国は対独共同作戦遂行のために完全なる軍事相互援助を実現するであろう (浦潮アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充引用終わり)

写真(右):1942年9月28日,イラン、テヘラン、検閲を受けるイランに侵攻したイギリス軍憲兵隊:軍事警察官といえる憲兵は、本来は、民間人というより、兵士に向けた警察である。しかし、権限は民間人にもおよび、戦時下では総力戦を遂行するために、市民の思想取締り、治安維持も任務とする。1941年6月22日に独ソ戦が勃発すると、イギリスは即座にソ連への軍事援助を行うと表明し、アメリカの武器貸与法による物資支援をするために、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。理由は、補給ルートを確保するため、油田を確保するためである。
Artist Hansbury (Sgt), No 1 Army Film & Photographic Unit Description English: The British Army in the Middle East 1942 Military Police at the training depot in Tehran learning how to salute correctly, 28 September 1942. Date between 1939 and 1945 Source/Photographer This photograph E 17489 comes from the collections of the Imperial War Museums.
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:The British Army in the Middle East 1942 E17489.jpg引用。


写真(右):1942年10月,イラン、ペルシャ湾からソ連に続くイラン回廊、輸送船で到着したソ連への軍事援助物資を船からクレーン・デリックを使って降ろして、鉄道あるいは自動車でソ連のコーカサス津法まで運搬する作業:港湾の労働者は、イラク・イランの住民のようだ。
Lot 11604-6: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Tons of bully beef from the United States being loaded onto trucks on a quayside in the Middle East, October 1942. Office of War Information Photograph. (2016/02/11). Date October 1942 Source Lot 11604-6 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Assembly plant in Iran for American fighter warplanes destined for Russia, 1943 (27167675840).jpg引用。


2−D.イラン国王 : 東人西人
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 120 出版年 1941-08-23

Winston Churchill 英ソ両国政府は去る二十日、イランに対し共同通牒を突きつけ、一週間の期限附をもってイラン在住ドイツ人の国外総退出を迫り、もしこの要求を拒絶すれば英ソ両軍はイランに進駐するの態勢を示している、右要求に対しイラン国王レザー・シャー・パレウイは悲壮なる決意のほどを示し、イラン政府またイランはあくまで領土保全と厳正中立の態度をとるのものでなかったいう

レザー・シャー国王は不世出の英傑と謳われ、大の親日家で我が国との間にも公使を交換、イラン鉄道敷設準備の際我が国からの技師の招聘、日本との貿易促進等に自ら意を注がれたという [写真あり 省略]

一八七八年裏海南岸の一貧農の子として生れ、一九〇〇年ペルシア・コサック旅団に入隊、第一次大キ戦に殊勲を現して師団長に昇進、二一年ペルシア協定に関連して擾乱起るや、首都テヘランを乗取って、自己の推す政府を作らしめ、自らは陸相兼陸軍総司令官として羽振りを利かせ、二三年には首相として独裁官的勢威を揮った、同年国王アーメッド・シャー[Ahmad Shah Qajar]国外に去るに及んで、二五年前王朝を廃して自ら国王として即位すべき旨宣言、二六年以来イランをして立憲君主国としての形態を整えしむるに至った

鋭意国内の統一、行政および軍隊組織の改め、国家的には三七年イラク、トルコ、アフガニスタンとの間のサーダバッド不侵略条約、イラクとの間の国境紛争解決協定の締結、皇太子[モハンマド・レザー]エジプト皇妹[ファウズィーヤ・ビント・フアード]との成婚等によって回教国との間に和睦政策を促進し、また国家主義の昂揚によって欧洲の帝国主義的覇絆から脱するに努め永年イラン国内に根を張っていた英ソの勢力にも相当の掣肘を加え、遂に新顔のドイツ人技師商人らは好感をもって迎えらるるに至った (イラン国王 : 東人西人引用終わり)

写真(右):1941-1942年,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するイラン回廊の自動車道路:鉄道は従来から敷設されていたが、山岳地の自動車道路は新たに建設する必要があった。これは、ビルマから中国へのビルマルートと同じく、山岳つの峠越えを含む自動車道路であり、建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費マ補給施設の整備など、制約が大きかった。イランルートyりも、北海=ムルマンスクの海上ルートが重視されたのは当然である。
A mountain pass in one of Iran’s rugged mountain ranges, one of four road routes used by American Army truck convoys to transport supplies to Iran. Supply flow was periodically interrupted by rockslides and bad weather. Despite this, once the U.S. Army assumed control of the supply network, the flow of supplies steadily increased, reaching a peak of 282,097 long tons in July 1944. Photo courtesy of Dwight Jon Zimmerman
写真はDefense Media Networ,Lend-Lease to Russia: The Persian Corridor By Dwight Jon Zimmerman - November 8, 2012引用。


写真(右):1941-1942年,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する自動車道路のGMC CCKW 六輪駆動2.5tトラック輸送隊:GMC CCKWは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4.8t、全長 6.86m 全幅 2.24m、全高2.77m(荷台幌)、GMC 270 6気筒ガソリン搭載、燃料容量 150 L、航続距離 480 km。武器貸与法の実施のために、イランルートではトラック7200両が貸与され、其の積み荷の運搬にも流用された。
A U.S. Army Lend-Lease truck convoy in Iran prepares to transport supplies to Russia. More than 7,200 trucks were used to carry supplies to Russia. Photo courtesy of Dwight Jon Zimmerman
写真はDefense Media Networ,Lend-Lease to Russia: The Persian Corridor By Dwight Jon Zimmerman - November 8, 2012引用。


写真(右):1943年6月5日,イラン、イラン回廊をソ連に物資輸送するアメリカのトラック/トレーラー輸送隊:手前のイラン住民たちは、見物ついでに物乞いをしに来たのであろうか。
Author Unknown author or not provided Record creator Franklin Delano Roosevelt Library Title Near East Iran - truck convoy of US supplies for USSR Description English: Iranian women watch an Allied supply convoy halted somewhere on the Corridor Deutsch: Iranische Frauen vor einem Nachschubkonvoi der Alliierten irgendwo auf der Strecke des Persischen Korridors Français : Convoi de munitions américaines à destination de l’URSS au cours de son passage en Iran en 1943 Date 5 June 1943 Collection National Archives and Records Administration wikidata:Q518155 Franklin D. Roosevelt Library (NLFDR), 4079 Albany Post Road, Hyde Park, NY, 12538-1999. Record ID the National Archives Identifier (NAID) 195340
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Persian Corridor・File:Near East Iran - truck convoy of US supplies for USSR - NARA - 195340.jpg引用。


2ーE1.イランを繞る新情勢 (上・下)
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 55 出版年 1941-08-26

(上) 英露の頤使に応ぜず "中立"遂に戦火を招く

Reza Shah  これまで英邁かつ善謀の誉高かったパレヴィ皇帝[Reza Shah Pahlavi:1878—1944](六十五歳)の治下、面積六十二万八千万マイル、人口千五百万のイラン国にも英軍の侵入によってヨーロッパ大戦の焔が延焼するに至った。

 そは何故であるか、第一としてはドイツの東進が、独りウクライナ[Ukraine]の農園支配と鉄、石炭に満足せずしてさらに前進、コーカサス、裏海岸に出づべきがためである、この地帯は前回第一次大戦のときも、ドイツは長期戦の物資策としては、当時三方の海が連合国に封鎖せられている以上、ウクライナ[Ukraine]およびコーカサスへの進出を策していたものだ、これは大正五年頃早くすでにロンドン、パリ敵国筋専門学者にさえ漏聞して研究題目となっていたものである、渡欧中の余も触れたのである、ただ大正七年十一月休戦急来で、独の歩みはウクライナ[Ukraine]に終ったのであった。

 ところで今回は航空機大発達とともに石油需要大飛躍せる折柄、年産額三千二百二十三万トン(一億九千三百三十万石)のバクー油田[Oil wells in Baku]すなわちソ連石油総産額の八割を狭き地域に集中しているこの貴重なる地域をドイツがどうして黙過しおこうぞ。

 否、これが独の掌裏に落つるとき、露の糧を奪い自己のそれを充たすという二重の利益あるのみではなく、さらに独はこの地域から南下して、もって英資経営のイラク石油(年産四百万トン、二千六百万石)をも潰滅し得るではないか、英露がバクー確保または救援に関心するのは不思議ではないのである。

 第二として、ソ連軍は過去二箇月の連続敗戦において軍器消耗、新供給なしには対独抗戦に苦しまねばならなくなっている、これを行うの道として、東亜は遠い、政情も、輸送方法も簡単ではない、この間イラン経由の道筋は最も近い、殊にこの国は北はロシア、南はイギリスと勢力相対峙し、最近でも公闘、暗闘があったものの、今や両国が同盟国化した以上、面倒はない、装備不十分とイラン国軍二十万、古航空機二百の如き、問題にはならぬと彼らは思うであろう。

 かくて一方英軍が西、北イラクおよびバスラの両方面からイラン首都テヘランを目指し東印度国境からベルチスタン[Beruchisutan]を経、ウェーヴェル[Archibald Percival Wavell]将軍下に大兵を動かし他方ソ連は五十万の兵をイラン国境に集中し、一面在イラン国ドイツ人の放逐を要求し、他面イラン鉄道支配、目下すでにペルシア湾に送りはじめたといわれる軍需品の北送および軍兵進出を企てつつあるのも、諒解し得られないことではないのである。

Reza Shah  だがイラン国は、いままでのところ、毅然局外中立維持、英露の頤使には応ぜざるごとくである、駐米イラン公使シャエ・ステク氏などは「いずれの国を問わず、国土に侵撃し来るものには応戦す」と言明し、[コーデル]ハル[Cordell Hull]米国国務長官から英ソ両軍イラン進撃支持の否認を得たのである。

 これはパレヴィ帝[ רזא שאה פהלווי]の過去を知るものの当然とせねばならぬところである、帝は国権回復、独立確立運動の権化であった、ロシア、イギリスの「半保護国策」を脱し得たのは、帝の事業そのものであった、従って帝としては、その「局外中立策」が二国の御都合の間に蹂躪せられることは、最も遺憾とせらるる点ではなかろうか。

 ことに今英ソが北進に使わんとするトランスイラン鉄道(ペルシア湾のバンダーシャフルから裏海岸バンダーシャに至る八百六十六マイルの線)は三千万ポンドを費し、昭和二年起工、昭和十三年竣工したものだが、特徴は帝が全く外国資本を排斥し、茶、砂糖専売税による国費によった名誉あり意義深い産物なるを記せねばならぬ(仕事の上にはドイツ、フランス、スカンジナヴィア、米、英、伊、白諸国人の手をも要したのであるが)

 また殊にイランは近年同国内には既得権少く危険少きドイツ人の方を安全として招致し、諸事業を興していたものである、そのドイツ人わずか六、七百名をば英ソ圧迫の下に放逐して、独の武力干渉を誘うことが、どうして常理に通じ、どうして国利に合するわけがあろう。

  さらに今までのイギリス、イランおよびソ連のイラン関係を見るときは、ますます瞬間における「打算の圧倒的命令」によるほか、イランを英ソの味方化するの不自然なるを思わしむるのである。

 何ぞや、まずイギリスからいうと、世界大戦後ソ連が混沌化し、イランを英露両国勢力圏に分った一九〇七年協約が空無に化する運命となると、膨脹好きの英外相カーゾン卿[George Curzon]らは「イランの英保護邦化」の千載一遇の好機を発見し、大正八[1919]年八月九日の「英波協約」[Anglo-Persian Agreement]を造ったのである。

 それは第一条に形式的にペルシア独立尊重を謳いながら、第二条以下に「各官省に英人顧問を招聘し、かつこれに十分なる権限を与うこと」「ペルシア陸軍は英将校の指導下に立ち、兵器も英より供給す」「鉄道は英資本でやり」「関税改正も英人の手にて行う」と、すべてイギリスに都合のいいように定めたのである。

 イラン国民族熱[nationalism]は猛烈にこれに反抗した、同保護条約が批准を得るため議会に提出せらるる毎に議員らは欠席した、かくして欠席すること二年間、流石のイギリスもどうも出来ず、在イラン英官吏も障碍に苦しみ、退去するもの生じそれで大正十年同[英波]協約[Anglo-Persian Agreement]は放棄せられた、そしてこれには裏面パレウイ帝(即位前)らの動きが与って力があった。

 帝は卑賤に生れ、十六歳陸軍に入り、陸軍長官から首相となりその間、夙夜苦心外力排除に尽くしたのである、その成功の裏に百四十年間君臨のカジャル帝家[Qajar Iran]の廃位の後を承けて、大正四年十二月新帝朝を創始したる英雄なることは、今更繰返すまでもないであろう。

1941年6月の独ソ戦の勃発後、アメリカ、イギリスはすぐにソ連に武器貸与法[Lend-Lease Act]による軍事援助を約束した。そして、ペルシャ湾、中東イラン経由でソ連南部のコーカサスへの補給ルートを確保するため、カウンタナンス作戦Operation Countenance)を発動、英ソ合同で中立国イランに侵攻し占領下に置いた。

写真(右):1941-1944年,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するイラン国内の鉄道蒸気機関車:1926年から1939年に建設された鉄道は、延長865マイルの区間を海抜7400フィートの地点を超える。途中には架橋3000、トンネル231本が設けられていた。
A train carrying Lend-Lease supplies to Russia pauses at a station somewhere in the mountains of Iran. The 865-mile long Trans-Iranian Railway line, built between 1926 and 1939, had 3,000 bridges, 231 tunnels, and an altitude range of 7,400 feet. Library of Congress photo
写真はDefense Media Networ,Lend-Lease to Russia: The Persian Corridor By Dwight Jon Zimmerman - November 8, 2012引用。


写真(右):1941-1944年,イラン、バンダル・シャープール、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するイラン国内の蒸気機関車:バンダルとは港湾のことで、ペルシャ湾に陸揚げされた軍事物資をソ連に鉄道で運ぶ。
Description Lot 11603-1: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Supplies for Russia via Persian Gulf and Trans-Iranian Railway. Allied war supplies are pouring into Russia in ever increasing quantities via Bandar Shahpour (now Bandar-e Emam Khomeyni ) and the Trans-Iranian Railway. Transported across salt marsh and desert to Ahwaz road and rail convoys there join the flow of supplies proceeding up river from Khurramshahr (now Khorramshahr) and Bushiro, all thence continuing northwards to the U.S.S.R. Shown: I.M.S. rolling stock, shipped from England and christened “Churchill’s Reply” about to move off from the marshalling yards at Ahwaz on the journey northward, loaded with supplies for Russia. Office of War Information Photograph. (2016/02/19). War Office Second World War Official Collection (E 11271) Date 3 May 1942 Source Lot 11603-1 Author National Museum of the U.S. Navy No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer); Lieut. Clements
写真はDefense Media Networ,Lend-Lease to Russia: The Persian Corridor By Dwight Jon Zimmerman - November 8, 2012引用。


スターリン 独裁者 2−E2.イランを繞る新情勢 (上・下)
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 55 出版年 1941-08-26

(下) 英ソ、積年の圧迫 注視の的・独土の出方

 その後もイギリス、イランは度々抗争関係に立っていたのである。主要争点は、英系アングロ・イラン石油会社([Anglo-Iranian Oil Company]問題、ペルシア湾支配権問題であったが、第二次ヨーロッパ戦開始後になると、ソ連の弱勢に乗ずるイギリス海軍根拠地獲得策さえも登場し来ったのである。まずパ帝は英イ会社[アングロ・イラン石油会社Anglo-Iranian Oil Company)]が圧倒的な独占権を持ち、しかもイラン国費に貢献せざるを忌み、昭和七年断乎同会社コンセッションを取消し、英の反抗に会したのである。

 ただ幸いに国際連盟理事会[United League Nations Security Council]に附するを得、一方小国支持のベネシュ([Edvard Beneš]チェッコ外相)が動き他方イギリスも檜舞台のこととて極端な利己振りを永く固執しかね昭和八年二月イラン側の勝利となり、特許区域を五十万方マイルから二十五万方マイルに減少し、同十三年に十万方マイルに減少する件、英人の代りにイラン人使用を増加する件等定められた。

 だが其後も英の老獪な転覆策はやまぬのであった。ゆえに帝は英系シーボルド石油会社その他を誘致し大いにこれが制御策に努めたのである。(昭和十二年二月イラン議会の米権益可決参照)また昭和十一年にはペルシア湾バレイン島において英によるイラン主権侵害問題擡頭し、同十年、十一年にはイラク、イラン国境河流につきての英の態度が非難の標的となり、十四年には欧戦開始後英によるイラン行独貨差押えと、ペルシア湾英海軍根拠地増加主義とにより双方悪寒を加えて来た。

Edvard Beneš  したがって、最近イラン官民の思潮は、到底英イ提携に適すべくもなかったことは、決して識者を偽って初めて分ることではなかったのである。

 つぎにソ連はどうかというと、第一次大戦の終末頃こそ、赤露当局は帝国主義諸条約を廃棄し、在イラン露将校は「諸君は十一年間ロシアを恐れて自由祭(憲政記念祭の意)を行わなかった。今や恐るる要はない。諸君万歳」と叫んで、イラン人に喜ばれたのである。しかも近年スターリンの「膨脹愛好への改宗」とともに、度々イラン威圧乃至脅迫が繰返されているのである。

 すなわち昭和十四年十月イランにおいて新たに石油利権と米生産支配権を求めたる、さらに十五年七月ソ連およびイラン国境クルヂスタン少数民族問題の解決を名目として、北部ホラサン、エステラバート、マザンデラン、ギラン、アセルバイシァン[Azərbaycan]を含むイラン領を、ソ連に割譲するよう新国境の画定を主張したるなど、顕著の例である。従ってイランは依然ソ連を畏れこそすれ、到底衷心からソ連の友侶たるべくもないのである。

 ただこの間滑稽千万なのは、ソ連が「イランに軍隊進駐の条約権あり」と過日来もっともらしげに吹聴を続けたことだ。余は敢えて滑稽という。何となれば、空中楼閣ではなくても、変造改色も甚だしいからだ。

Edvard Beneš  真相を述ぶると、昭和十年四月イラン代表訪露、同八月イ・ソ通商協定ができソ連は機械道具などをイ国に供給し、諸工場開設を助けることとなったが、この良好空気の中にイラン、トルコ、ソ連間に政治的諒解(アルタン・コルジァル)成り「事情が起り来った場合には、三国協同行動に出づること」を定めたのである。これが時にソ連はイランに兵を入るることもあり得るといえるであろう。

 だがそれはイランもしくはトルコに難関生じたるとき、やむを得ず強国ソ連にも援助を求むるを意味するものであり、弱小国自身の必要に出づるのである。今回のように、大国ソ連自身の必要から、中立の小国を渦中に巻込む精神のものでないのである。

 殊に四、五年来、イランは地理的に遠く心配少きドイツに近づいて来た。昭和十二年五月鉄道機関車客車類その他供給をクルップ会社などに仰ぐ契約をなし、翌十三年ドイツ会社をイ国鉄工場など諸事業に招き、また大いに]独ルフト・ハンザ航空会社[Lufthansa]にも活動を加えしめている。かかる大勢の中においてパレヴィ帝が全く英ソ両国の要求に屈服しなかったのも、だれが不思議とするものがあろう。

 しかも英ソ両軍の進軍は開始せられた。昭和二年および昭和八年、ソ連イラン不可侵条約[The Soviet-Persian Treaty of 1921]なども空文化し終ったのである。ところでドイツとトルコはどうするか、これが問題である。

 ドイツとしては、黙過し得べくもないので、外電の伝える通りに恐らくはコーカサスへの突進を企つるであろう。だが同地のソ連の防備は堅固でこれに時日を要しそうでもあり、また英軍北進の阻止には道遠いので、やむを得ずトルコ横断が企てらるべきは、自然ではなかろうか。

ケマル・アタテュルク  トルコは昭和十年故ケマル[Mustafa Kemal Atatürk]大統領、バラウィ主席会見以来、大いに接近し十二年サーダバッド四国協約以来盟邦である。だがこれのみでは解釈自由の余地があるが、独から領土横断を求めらるとせばどうしても進退決定を延期し得べくもないであろう。同国はソ連とよい外に昭和十一年モントルー会議において英の助により「海峡主権」を取戻しその後度々多額の借款を受け他国枢軸側イタリアのアジア・トルコ発展陰謀を疑いたるため一昨年十月英仏土同盟条約を締結したのであった。だが多年貿易はドイツを主とする(一九三八年トルコの輸入の五割一分三厘同輸出の四割七分五厘はドイツこれを占む)上に、最近パーペン[Franz von Papen]独大使の異常なる外交的活躍があり、殊に昨年五、六月独の対仏戦勝、今春バルカン戦勝並にイギリスの武力に対する信用の減退、さらに伊国の前進目標がトルコ領にあらざることが判明して、一転俄に独土接近の勢を誘致したのであった。

 ことに英仏土同盟は仏の脱退によって「重大事情変更」の原則にもとづき無効化し、かえって本年六月の独土友好条約の出現とはなったのである。これ衆目が大いにトルコに向けられつつある所以ではなかろうか。このとき故ケマル・パーシャ[Mustafa Kemal Atatürk]世に在らば、果断疑いがない。だがイノニュー[İsmet İnönü]現大統領は武人ながらも度々諸国際会議に臨み、つとに慎重かつ巧妙をもって名あり、極端より中道を選ぶ傾向の人である。

 従ってこの際、世人はドイツの作戦と、このトルコの進退とを、イラン政府の英ソ侵入対策の如何と相並んで、注視の目標とせねばならぬであろう。( イランを繞る新情勢 (上・下)引用終わり)

写真(右):1943年1月11日,イラン、テヘラン、行進するイランに侵攻したイギリス軍第2ノーザンプトン部隊(ヨ―マンリー):8月25日の英ソのイラン侵攻は、補給ルートと油田を確保するためとはいえ、中立国イランの主権侵害である。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ独立国に対する暴力的な侵略である。ヨ―マンリーとは、地域出身者の強度部隊を起源とするもので、連隊規模から大隊規模まである。
Artist No 1 Army Film & Photographic Unit, Rooke (Sgt) Description English: The British Army in the Middle East 1943 Men of the 2nd Northamptonshire Yeomanry march through Teheran, 11 January 1943. Date Taken on 11 January 1943 Source/Photographer This photograph E 21172 comes from the collections of the Imperial War Museums
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:The British Army in the Middle East 1943 E21172.jpg引用。


写真(右)1941年7月末、フランス領インドシナ(仏印)、南部仏印、サイゴン、フランスを強引に説き伏せて進駐した日本軍部隊のサイゴン入城行進:1940年6月19日、ドイツのフランス侵攻では大敗しつつあったフランスに対して、日本はフランス領インドシナに、中国に対する物資援助経路となった仏印ルートの閉鎖を要請した。その後、6月22日にフランスがドイツに敗北すると、親独政権のヴィシー・フランス政府は、インドシナ総督カトルーを解任、フランス極東海軍司令官だったジャン・デクーを総督とした。そして、フランス権益の温存のために、日本との妥協を図った。そして、松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との交渉で、1)極東における日本とフランスの利益を相互に尊重、2)フランス領インドシナへの日本軍の進駐、が決まった。これが、1940年9月の北部仏印進駐である。そして、1941年7月28日には、日本軍は、南部仏印にも進駐したが、アメリカはすぐに石油禁輸を発表した。
Description English: Japanese troop in Sai Gon, 1940 Date 26 July 2015 Source http://kienthuc.net.vn/phong-thuy/anh-hiem-quan-nhat-ban-thoi-ky-chiem-dong-dong-duong-295925.html?p=1 Author Vietnamese
写真 Wikimedia Commons, Category:Japanese invasion of Indochina File:Kienthuc-linh-nhat-01 oxwk.jpg引用。


昭和天皇 2−F.イラン侵入と仏印進駐 : 社説
中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第 52巻 Page: 56 出版年 1941-08-28



 英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]と我方の仏印進駐[Japanese invasion of French Indochina]とは、其本質に於て又其形式に於て、全然異っているものであるから、固より彼此照応して考えらるべきものではないが、我方の仏印進駐を目して侵略なりと誹謗した其舌根未だ乾かざるに、間髪を容れず、英蘇軍がイランに侵入して、将に之を席巻せんとするに至っては、敢て予想すべからざる事態ではなかったけれども、其余りに言に信なきを看る。弱小国を侵すことを以て滔天の罪悪なりとする米国が、此非違を黙認すべき筈がないと思うけれども、近来は特に堅白同異の弁を弄するに至っている実状から見れば、或は黙して已むの態度を故意に採るかも知れぬ。他を咎むるものは先ず自ら省みて、一層戒慎自粛を必要とすることは、国際間に於ても個人間と同様の道念がなければならぬ。

然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。



ベルP-39N  我方の仏印進駐[Japanese invasion of French Indochina]は共同防衛の協定成り、極めて友好平和的に行われたのである。而して其基本観念は、倶に東亜共栄圏の建設に向って協心戮力せんが為に外ならないのであるから、そこに寸毫事端を発生するの余地もなく、又無用の刺戟や脅威を受くるものでないことは、進駐前後の事情と現在の実状とを見れば、殆ど説明の要があるまいと思う。之に反して英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]真はどうであるか、夙にイランは絶対に中立を維持せんとしている。

ベルP-39Q 単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の[イラン]侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。

此位の理由を以て弱小国を侵犯して顧みずと云うのであれば、凡そ地上に弱小国の存立は結局不可能にならざるを得ない。弱肉強食と云うことは曾て聞く古俗の譬えに過ぎないと思っていたのに、眼前此事実を見るのは洵に遺憾の極である。正義人道、而して博愛を世界に高調して已まざる米国が、如何に之を観じ如何に対処すべきか。甚だ興味多く且つ重大なる問題である。



ボストンIV  英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]真個の目的たるや、軍需資源としての油田を獲得するにあり、同時に援蘇通路を此方面に求めんとするにある。

其目的指標既に此の如しとすれば、要するに、自己の慾望乃至目的を遂げんとするに於て、一切他を顧みず、大義も名分も蹂躪して憚らざるものである。国家目的を達成せんとする秋には、蓋し或は若干の無理は已むを得ないかも知れないが、此の如き明々白々の非違を敢行するも、猶且つ独り豪語するばかりでなく、東亜の事態にまで容喙し来るのみならず、故意の非難を放つ如きは思わざるの甚だしきものであろう。何も此の如き故智を学ぶべきではないが、国家目的の達成に向って一路邁往するの精神だけは、冷静に検討するの必要もあると思う。 (イラン侵入と仏印進駐 : 社説引用終わり)

写真(右):1943年,アメリカ、生産されたアメリア製ダグラスA-20ハボック双発攻撃機を艀からクレーンを使って船積みしてソ連などへの軍事援助として移送中
English: An American Douglas A-20 bomber, provided through Lend-Lease, is loaded on to a ship bound for Allied ports, ca. 1943. Date 1943 Source National Archives and Records Administration, Records of the Foreign Economic Administration. Author Photograph by Gruber for the U.S. Office of War Information
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:Lend Lease Bomber.jpg引用。


中立国アメリカは、第二次世界大戦初期の1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、戦勝後の支払いの約束で、戦時中にイギリス、ソ連、中国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドへの軍事物資を貸与した。ソ連へは1941年に建設したイラク(現在はクウェート)、アバダン飛行場で組み立てて、ソ連まで空輸した。このほか、アラスカ極東ルートもあったが、こちらは空輸に依っている。

写真(右):1942-1943年,イラン、ペルシャ湾に面したアバダン飛行場で空輸準備中のアメリカ製軍用機(手前はダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機、中央左に無塗装のノースアメリカン AT-6 テキサン練習機、中央左端にカーチスP-40戦闘機):ペルシャ湾のアバダン港に海上輸送され陸揚げされた飛行機を, 1941年に建設したアバダン飛行場で組み立てて、ソ連まで空輸した。
U.S. planes stand ready to be picked up at Abadan Field, Iran, which in the rainy season was reported as being the “damnedest gumbo you ever saw.” Five principal types of aircraft were delivered to the Soviet Union, three of which are shown here. Of the total, about 20% were P-40s, 25% P-39s, 49% A-20s, 5% B-25s and 1% AT-6s. U.S. Air Force photo
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:British Spitfire in abadan.jpg引用。


A-20 Havoc 中央研究院 臺灣史研究所Institute of Taiwan History 臺灣新民報掲載のイギリス・ソ連のイラン侵攻の関連記事一覧

興南新聞1941年2月 第3618號(1941-02-20) 刊別版次: 夕刊第1版 ...イラン、イラク抱込み 英、益益執拗且つ高壓的...

興南新聞1941年5月 第3690號(1941-05-04) 夕刊第1版 ...ソ聯の大軍續續 イラン國境に集結 獨、ソ間に一種の申合せ存在が.

興南新聞1941年5月 第3716號(1941-05-30) 夕刊第1版 ...日、イラン修交條約 批准書の交換を了す 【東京發同盟】近東の友邦イラン國と我國との間に今回修交條約が成立することに

興南新聞1941年6月 第3729號(1941-06-12) 日刊第1版 ...日、イラン間の 修好條約發効...

興南新聞1941年6月 第3745號(1941-06-28) 夕刊第1版 ...イラン中立...

ハボック 興南新聞1941年7月 第3750號(1941-07-03) 日刊第1版 ...イラン勢力範圍決定を打診 英、ソ聯に對し...

興南新聞1941年7月 第3753號(1941-07-06) 日刊第1版 ...イランが峻拒 英ソの軍隊通過を...

興南新聞1941年8月 第3779號(1941-08-01) 夕刊第1版 ...英、イランに警告 獨のイラン進出切迫...

興南新聞1941年8月 第3787號(1941-08-09) 日刊第1版 ...獨、イランに對し 警告的覺書手交...

North American A-36 興南新聞1941年8月 第3788號(1941-08-10) 夕刊第1版 結果節錄: ...イランを繞り諸說紛紛 戰火?海、近東方面に飛火か...

興南新聞1941年8月 第3791號(1941-08-13) 夕刊第1版 ...イランの形勢緊張 英ソ國境に兵力集中...

興南新聞1941年8月 第3797號(1941-08-19) 夕刊第1版 ...イランに警告 英ソの兩國から...

興南新聞1941年8月 第3797號(1941-08-19) 日刊第1版 ...イランを繞つて 政治工作熾烈化...

興南新聞1941年8月 第3798號(1941-08-20) 夕刊第1版 ...ソ聯への軍需品供給 イラン經由の方針...

写真(右):1944年,アメリカ、船積みされるアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチ(North American A-36 Apache):武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を輸送船で運搬するが、露天係留式なので、機体をコーティングし、エンジンにカバーをかけている。
Lend Lease Author Unknown author or not provided Record creator Roosevelt, Franklin D. (Franklin Delano), 1882-1945 Title Lend Lease Date circa 1941 Collection National Archives and Records Administration NY. Record ID National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 197296
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Lend Lease - NARA - 197296.jpg引用。


1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を中心に大規模な軍事援助がなされた。輸送船に積載されたアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチNorth American A-36 Apache)は、1942年10月初飛行、500機の生産で終わった攻撃機である。貨物船で船積み輸送されるときには、尾部、補助翼、プロペラは外されている。風雨・波浪を避けるためか、アリソン V-1710 液冷V型12気筒エンジン(1,325 hp)にはカバーが掛けられている。ガラス風防、胴体、主翼は全体がコーティングされている。舷側の反対側には、まだ飛行機は摘まれていない。甲板に積載用枠組みを組み立てて、そこにP-40を積み込んでいる。

写真(右):1943年3月,イラン南部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)、飛行機格納庫、イランに船便で到着したアメリカ製カーチス(Curtiss)P-40トマホーク戦闘機の組み立て作業:右側には流線形の落下式燃料増加タンクが置かれている。P-40の機内燃料タンクは157ガロン(594 L)、外装式落下タンクは52ガロン (197 L) 。イラン南部で組み立て、ここからソ連までは空輸された。
Description Lot-11600-4: Middle East Activities, WWII. An assembly plant for American fighter warplanes destined for Russia, somewhere in Iran, March 1943. The aircraft being transported were Curtiss P-40 "Tomahawks". Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph. (2016/06/03). Date March 1943 Source Lot-11600-4 Author Nick Parrino wikidata:Q30039557 National Museum of the U.S. Navy
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Assembly plant in Iran for American fighter warplanes destined for Russia, 1943 (27167675840).jpg引用。


写真(右):1944年,アメリカ、完成したアメリカ製落下式燃料増加タンクの組み立て最終検査工程:流線形の落下式燃料増加タンクの密閉性を検査するために、圧縮空気で満たし20分間放置して、その間に1.5ポンド以下の圧力低下であれば合格である。落下タンクは52ガロン (197 L)程度のように見える。この形式の落下式燃料増加タンクは、アメリカとイギリスで使用されたとある。
Artist Ministry of Information Photo Division Photographer Description English: Jettison Petrol Tanks- the Production of Jettison Tanks For USE by the United States Army Air Force and Royal Air Force, Britain, 1944 At a factory producing jettison petrol tanks, Pearl Bradley (left) and Molly Frazer carry out a final test before dispatch. According to the original caption "the tank is filled with compressed air, left for 20 minutes and allowed a 1 1/2lb drop in pressure over the period". Date 1944 Source/Photographer This photograph D 23462 comes from the collections of the Imperial War Museums
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Jettison Petrol Tanks- the Production of Jettison Tanks For USE by the United States Army Air Force and Royal Air Force, Britain, 1944 D23462.jpg引用。


写真(右):1943年初期,イラン、ペルシャ湾に面したアバダン飛行場で空輸準備中のソ連空軍の赤い星の国籍マークを描いたイギリス製スピットファイア戦闘機Mk. V:スピットファイア Mk. Vは、3翅プロペラ、ロールス・ロイス マーリン45(離昇1,470馬力)搭載、20 mm Hispano Mk II 機関砲2挺[携行弾数120発]と7.7 mm Browning M1919機関銃4挺[350発]搭載。次のMk.IXは、4羽プロペラ、ロールス・ロイス マーリン66(離昇1,720馬力)搭載。ペルシャ湾のアバダン港に海上輸送され陸揚げされた飛行機を1941年に建設したアバダン飛行場で組み立てて、ソ連まで空輸した。
Description فارسی: هواپیمایی انگلیسی اسپیت‌فایر در آبادان English: Ex-RAF Supermarine Spitfire Vbs being prepared for delivery to the USSR VVS at Abadan, Iran in early 1943. The two Spitfires in the foreground had already seen extensive RA.
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:British Spitfire in abadan.jpg引用。


スピットファイア Mk.IX 興南新聞1941年9月 第3810號(1941-09-01) 日刊第1版
...對ソ輸送ルート 根本的に變化す イラン屈服に依つて...
...イラン國王 テへラン脫出說
...英ソ共同の 和平條件提示 イランに對し
...テヘラン市に 戒嚴令布く
...陸鷲、蘭州を急襲! 天水、南都にも巨弾
...奥地爆撃を敢行
...第29次重慶爆撃 海鷲群の大編隊
...鉄銅改修物件指定 きょう閣令交付実施

興南新聞1941年9月 第3811號(1941-09-02) 夕刊第1版 ...イランの無防備都市を猛爆 ソ聯の飛行機...「パルス通信がテヘランより奉ずる所に依ればソ連飛行機はイランの無防備都市に対して無差別的猛爆を継続し既に多数の死傷者を出した。」
...戒厳令下テヘラン 反英ソ政治家文人多数逮捕...
...ソ連軍隊の入城迫る...

興南新聞1941年9月 第3827號(1941-09-18) 夕刊第1版 ...イラン國王 退位...

興南新聞1942年4月 第4045號(1942-04-26) 日刊第1版 ...市河駐イラン公使 テヘラン發歸國...

写真(右):1944年,イラン、イラン回廊のダイアモンドT 968貨物トラック(Diamond T 968 Cargo Truck)隊列を警護するイラン駐留イギリス軍インド人兵士:ダイアモンドT 968貨物トラックは、第二次世界大戦期にアメリカで開発・生産された6輪駆動4tトラックである。イラン侵攻には、イギリス軍は、すでにアメリカの武器貸与法で軍事援助を受けていた。イラン派遣のイギリス・インド軍は、第8・第10インド歩兵師団、第2インド装甲旅団、第21インド歩兵旅団があった。
Description English: The British and Soviets invaded Iran in August 1941 to secure Persian oil fields and ensure supply lines for the Soviets fighting against Germany on the Eastern Front. The 'Persian Corridor' provides a massive flow of supplies (over five million tons) from the Allies to the USSR. Indian soldiers from the 8th and 10th Indian Infantry Divisions, 2nd Indian Armoured Brigade and 21st Indian Infantry Brigade took part in the invasion and subsequent occupation. Date 1944 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Indian soldiers stand next to a supply convoy en route to the Soviet Union.jpg引用。


写真(右):1944年,イラン北部、イランを占領したイギリス軍インド人兵士と手にしたトンプソン・サブマシンガン(Thompson submachine gun):イラン侵攻には、イギリス軍は、すでにアメリカの武器貸与法で軍事援助を受けていた。トンプソン機関短銃は、トミーガン(Tommy gun)とも呼ばれた45口径ACP弾(Automatic Colt Pistol:11.43×23mm)を連続発射する。APC弾はM1911コルト・ガバメント自動拳銃用の弾薬であるため、軽量で連続射撃には適していたが、射程は短くなった。発射速度は900 rpm あるいは 600–725 rpmで、銃口初速 935 ft/s (285 m/s)、有効射程164 yards (150 m)。
Feed system 20 or 30 round box magazine, 50 or 100 round drum
English: The British and Soviets invaded Iran in August 1941 to secure Persian oil fields and ensure supply lines for the Soviets fighting against Germany on the Eastern Front. The 'Persian Corridor' provide a massive flow of supplies (over 5 million tons) from the Allies to the USSR. Date circa 1944 Source https://collection.nam.ac.uk/detail.php?acc=1977-02-12-14 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Indian soldiers stand next to a supply convoy en route to the Soviet Union.jpg引用。


M1サブマシンガン 2−G.世界経済の動き週報
大阪毎日新聞 Vol: 第 25巻 Page: 61 出版年 1941-09-14

尨大な造船計画 “自由商船隊”と銘打って 紐育 【ニューヨーク本社特電十二日発】米国が戦争政策の遂行上現在最も苦慮している問題の一つは英国、ソ連、支那への武器物資輸送に要する船腹の不足であるが今回海事局長ランド中将が発表した報告によると政府のLiberty ship]はその後予定以上に進行し一九四三年末までには合計一千百五十隻、その総トン数一千二百四十一万トンの新造船[Liberty ship]を洋上に浮べるはずである

米国の造船所が商船建造の全能力を発揮するのは来年になってがらであるが今年の建造数も合計百三十隻ないし百三十四隻に達する見込みで予定の百五隻より約二割五分の増加である、来年度の建造予定は最初の四半期に九十隻総トン数百万トン、次の四半期に百四十六隻総トン数百四十万トン、第三四半期に百五十四隻総トン数百六十四万トン、最後の四半期に百八十四隻総トン数二百万トン合計五百七十四隻総トン数六百四万トンを建造し受渡しを了し一九四三年末までに前記の目標に達するというのである

商船隊 右の計画は去る三月政府が発表した二百隻、四月に発表した二百二十七隻、五月に発表した五百四十一隻の貨物船、油槽船の建造計画を含むものであるが右のうち四月中に竜骨を据えつけられたものが僅が五ケ月後の九月二十七日に一挙に十二隻進水するをとなっている、これらの船舶はデモクラシーのために戦うという意味で自由商船隊[Liberty ship]と称せられ、米国の解放に尽くした有名な人間の名前をつけることになっている、米国はさきの大戦中すなわち一九一八年には百八十三万トンの船舶を大量建造したが前記の計画が順調に進めば前大戦中の記録を突破しドイツ潜水艦による撃沈数を十分補ってあまりあると意気込んでいる

ソ連軽銀生産七割を喪失 米の救援乞う 伯林

【ベルリン本社特電十二日発】独軍によってドニエプル河下流の一帯を抑えられレニングラードを完全に包囲されたソ連の重工業は全く骨抜きにされてしまったが製鉄工業だけでなくアルミニューム[aluminum]部門でも非常に困り最近米国に対してしきりにアルミニュームの輸送援助を要請しているといわれる

アルミニューム工業はソ連重工業の中でももっとも新しいもので、はじめてソ連でアルミニュームが生産されたのは一九三二年、その年産は僅かに九百トンにすぎなかった、その後の増産状態ば一九三八年五万トンで独ソ戦勃発当時のソ連のアルミニューム産額は七万トンで自給自足を誇っている

この生産地帯としては三つあった、すなわち第一はレニングラード附近でその中心はウォルホフ、ウォルホフ河に沿ったスクンカにあるもので年産一万四千トン、第二はすでにドイツ軍の陥れたドニエプロペトロフスクにあるものでここはドニエプロストロイの水力電気とタイアップして年額三万四千トン、ソ連最大最古のものであった、今一つはウラル地方のアラパエフスクにあるもので年産額二万二千トンといわれる

ドニエプロペトロフスクを奪われレニングラードを包囲されてしまった結果第一と第二のアルミニューム[aluminum]生産地帯を失い、ソ連アルミニューム生産の七割は奪われてしまった

軍需工業以外にアルミニュームの使用を禁じているほどの米国がどの程度までソ連の要求を充たし得るかが疑問だ

Liberty Ship 対米経済的隷属の第一歩 貸与物資に絡み輸出政策改変 倫敦

【ロンドン本社特電十二日発】武器貸与法[Lend-Lease Act]による物資に関して英国の輸出政策の改変を約束した白書は見ようによっては英国の対米経済的隷属の第一歩を示すものとして注視される、英国が米国からの援助によって獲得した物資を輸出に振向けて米国の輸出業者を圧迫しているとの宣伝はドイツ側および米国の孤立派達から盛んに唱えられ大統領が議会で困難な立場に立つことが看取されたので主として政治上の理由から今回の白書の発表となったのであるが、純然たる経済的観点からも武器供与のために英米工業界の軋轢の起ることは当然の帰結であって、たとえ英国が問題の輸出は武器貸与法[Lend-Lease Act]制定以前に商□ができたものと弁明してももしそれを放置すれば今後英米の利害衝突の起ることは夙に指摘されていたところである、白書で指摘された原則は米国の製造業者に供給か制限されていて英国が武器貸与法[Lend-Lease Program]によって供給されている原料品を英国は外国市場に輸出しないことを約したものであるがそれには三つの例外がある

ルーズベルト秘録 第一、 自治領および同盟国が戦争遂行上必要で米国から得ることが出来ぬ場合
第二、 武器貸与法[Lend-Lease Program]による原料を一部分に含んでいる製品
第三、 修繕用の部分品このほかに[1941年3月の]武器貸与法[Lend‑Lease Act]による原料品にして米国では供給が制限されているものに対する取極めがあってかかる物資は英国は自国で生産するかまたは米国から輸入した原料以上を輸出出来ぬことになっている、これは主として棉花を意味していると解される

以上により最も影響をうけるのは鋼鉄産業であろう、食料品に関しても[1941年3月の]武器貸与法[Lend‑Lease Act]で供給される食料品の暴利を取締る条項がある、これらは今日まで英国が懸命に奨励して来た輸出振興方針に違反するものであるが武器貸与法Lend Lease Act)で米国から物資の供給を受ける以上当然の義務であるとして大体において英産業界はこの処置を是認している

生糸二百万封度重慶増産計画 上海

【上海本社特電十三日発】資産凍結[振込や売却など資産取引の停止]の結果日本生糸の対米輸出は事実上杜絶することになるので華中蚕糸会社ではその対策を考究、生糸製品を支那内地の需要に向けること、羊毛代用としての短繊維化の技術的研究などを進めているが重慶からの報道によれば日本生糸の対米輸出杜絶に乗じて支那生糸の進出を企図し重慶農林部は四川省に桑田を開拓、年二百万ポンドの生糸増産計画中と伝えられている 支那側業者は二百万ポンドの支那生糸増産は世界の通商状態が平常に復した際には当然生糸の世界的生産過剰の原因になることを予想されるのでこの際これに投資することは危険であると見ている(世界経済の動き週報引用終わり)

写真(右):1941年頃,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1878年3月16日 - 1944年7月26日)と続く皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza Pahlavi:1919–1980):1941年9月16日、親独派とされたイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーはイギリス・ソ連の圧力により退位させられ、皇太子モハンマド・レザーがイラン皇帝に即位した。
English: Reza Shah Date 1944 Source https://mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Reza Shah in 1941・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。


第二次世界大戦初期には、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年8月25日、イギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。1941年9月16日、親独派イラン皇帝レザーは退位させられ、子のモハンマド・レザーが帝位に即位した。パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。

U.S.ジープ・ウイリスMB H 第二次世界大戦が勃発すると、石油需要がひっ迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座にソ連への軍事支援を表明した。ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスク・アルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾・イランを経由する中東ルートがあった。

ここで、主要なルートは北極海ルートであったが、中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも親イギリスの立場とは言えず、ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアーバダンは、油田としても港湾としての重要な場所だった。、ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、イラン経由の中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、カウンタナンス作戦Operation Countenance)基づく、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。

Airacobras: Soviet Aces 第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。

第1段階は、中立法で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスであった、ドイツ、イタリアという枢軸国は、貿易の障害が大きかった。

第2段階は、アメリカの旧式駆逐艦をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス貴地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定およびアメリカの旧式駆逐艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。

第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これがレンド=リース法(Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。

バレンタイン戦車Mk.IV 1945年に武器貸与が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。

40万台のジーブ、トラックなどの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料

2−H.イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 58 出版年 1941-08-29

Shah 【ニューヨーク特電二十七日発】APテヘラン電によれば信ずべき筋の情報としてイラン駐在イギリス公使ならびにソ連大使は二十五日リザ・シャー・パーレヴィ王に謁見せる後戦争中止にたいするイランの申入ならびに実質的にイラン在留全ドイツ人を一週間以内にイランより退去せしむべしとのイラン政府の保障と、同情報によればイラン政府は必要不可欠なる技師たる数名のドイツ人は交代可能時期まで暫時現地に留まらしむるとの意向を申入れたといわれる。

然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。

【ニューヨーク特電二十七日発】アンカラ発NBC放送局特派員の放送によればイラン内閣は二十七日総辞職した、同放送はアンカラの信ずべき筋の報道としてマンスル・イラン首相は新首相が任命され次第恐らく「イラン国民がイランの独立のため侵略に抗しつつあることに満足するもイラン軍は英ソ両軍により屈服を余儀なくされた」との主旨の声明を発するものと見られている旨伝えている。

単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。

【ニューヨーク二十八日発同盟】テヘラン発AP電によればイラン国王は二十七日アリ・マンスル内閣の総辞職を聴許した。 (イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か引用終わり)


3.イラン経由の英米の武器貸与と外交圧力

写真(右):1941年12月9日,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインと会談するアドルフ・ヒトラー総統:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすために,イスラム指導者を利用しようとした。また,ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Grossmufti von Palästina vom Führer empfangen. Der Führer empfing in Gegenwart des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop den Grossmufti von Palästina, Sayid Amin al Husseini, zu einer herzlichen und für die Zukunft der arabischen Länder bedeutungsvollen Unterredung. 9.12.41 Presse Hoffmann Dating: Dezember 1941 Photographer: Hoffmann撮影。 Agency: Presse Hoffmann
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1987-004-09A引用(他引用不許可)。

Mufti アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊していたが,戦後は英委任統治領パレスチナ政府のアラブ人顧問となった。1921年,エルサレム・ムフティ選挙に,対英協調を主張して当選,1923年最高ムスリム評議会議長,1933年エルサレム総主教を名乗る。パレスチナにあって,アラブ人(のちのパレスチナ人)とユダヤ人の抗争を煽動、 汎アラブ主義を唱えた。第二次大戦中,ドイツ軍のエジプト攻撃に便乗して,1941年にイラクで反英クーデターを策謀するも失敗,ドイツに亡命。1941年12月,ヒトラーとも会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争と引き換えに,汎アラブ主義を認められた。パレスチナに向けての反ユダヤ放送をドイツから実施した。モスレムによる武装SSの設立に加わった。ドイツ敗戦後は,対独協力者として英軍に逮捕,1946年,脱走,翌年脱獄、再びパレスチナで汎アラブ主義を唱えた。

アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,1921年にムフティ選挙に当選,1923年には,最高ムスリム評議会議長に就任し,1933年エルサレム総主教として,パレスチナで, 汎アラブ主義を主張した。そして,アラブ人に対して,パレスチナのユダヤ人排除を訴えた。

フサイニは,第二次大戦中,ドイツ軍アフリカ軍団によるエジプト攻撃に便乗し,1941年にイラクで反英クーデターを策謀した。しかし,反乱は失敗,ドイツに亡命した。

1941年12月,フサイニは,ヒトラーと会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争を約束し,パレスチナからのユダヤ人排除,汎アラブ主義を認めさせた。しかし,ヒトラーは,アラブ人など非アーリア人,アジア人を野蛮人として軽蔑しており,このフサイニとの取り決めは,あくまでもドイツの勢力を増強するための方便だった。

写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Großmufti schreitet die Front mit Hitlergruß ab. SS-PK-Kriegsber. Mielke Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini (Mitte) und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig (links) Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。


3−A.イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾
大阪朝日新聞 Vol: 第156巻 Page: 268 出版年 1941-10-04

Mufti 【ニューヨーク特電二日発】APアテネ電報によればイラン政府は二日二本公使館に対し電信暗号使用権および外交便不可侵権を停止した、しかして右は英ソ両国がイラン政府を圧迫してかかる手段をとらしめたものといわれており、信ずべき筋では右の結果日本ならひにヴィシー政府両公使館は近くイランを退去するの余儀なきにいたるであろうと述べている

 なおイギリス側では日本公使館圧迫の理由として日本公使館が反英の大立者たるエルサレムのムフチ大司教[ムハンマド・アミーン・アル=フサイニー]を匿ったと虚構の事実を捏造して日本公使館を非難している

報復措置を考究 帝国、英の不信に抗議

イラン政府の措置は英ソ両国の圧迫によるものであることは明らかであるが、テヘランにおけるわが公使館に対するイギリス側の不信行為は今回の不当措置に止らないすなわちエルサレムのムフチ大司教が日本公使館にかくまわれており、また有力なドイツ人が同様日本公使館に庇護されているとしてイギリス側はその引渡しをわが方に要求し来ったことがあり、わが外務当局でもただちに調査したところ、かかる事実は全く虚構であることが判明し、よって外務当局では不確実な情報にもとづきかかる行為にでるイギリス側の態度に対し厳重抗議した

Mufti  なおわが方の公用文書に対するイギリスの検閲はエジプト、ベイルート、インドにおいてすでに実施しており、さらにテヘランにおいて実施されることになり、かかる相次ぐ外交特権に対するイギリスの侵害措置についてはわが方でも何らかの報復措置を講ずべく考究することとなった

ムフチ大司教とはどんな男?

英はテヘランの日本公使館が汎アラビア運動の大立者パレスチナのムフチ大司教[Amin al-Husseini]をかくまっているとのデマを世界的に流布したがグランデ・ムフチ[ Mohammed Amin al-Husseini]とはどんな男か、外務省欧亜局第三課長大田三郎氏は語る

 グランデ・ムフチ[ Mohammed Amin al-Husseini]は前大戦当時は帝政トルコの陸軍軍人であったが、戦後イギリス人ロレンスと結んでイラク国のフェイサル一世とともにアラビア民族独立運動を起した、その後廻り廻ってパレスチナの大司教となった、クランデ・ムフチとは回教における宗教財産を管理する最高権力者の職名である、彼の就任は従来相背馳していた汎アラブ主義と汎イスラム主義とを交叉させる結果となり、全アラビア人の大きな希望をつないでいたが、次第にイギリスに睨まれてパレスチナを亡命、しばらくイラク国のバグタッドにいたが、英軍のイラク侵駐によって最近イラクに潜入したと伝えられ、それが因で日本公使館でかくまっているとの虚構の噂がひろまったものである(イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾引用終わり)

写真(右):1943年11月,ドイツ、ベルリン、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵している:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem bei den bosnischen Freiwilligen-Verbänden der Waffen-SS. Der Grossmufti ist auf dem Truppenübungsplatz eingetroffen und schreitet die Front der angetretenen Freiwilligen mit erhobenem Arm ab. SS-PK.-Mielke Nov.1943 Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien.- Mohammed Amin al-Husseini und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig beim Abschreite Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X) Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-05A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。


3−B.日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 25 出版年 1942-05-10

【満洲里本社特電十日川崎特派員発】イランの対日国交戦断絶のため去る四月二十三日テヘランを出発した市河イラン公使、村沢陸軍武官らの一行十名は中央アジヤを横断九日午前十一時四十八分満洲里着、同日哈爾浜に向ったが左の如く語った

 イランには昨年八月二十五日以来英ソ両軍の進駐占領下に戒巌令が布かれている、イラン人は一般に無力で政府も英ソの意のままに動いている、本年一月二十九日の英ソ、イラン同盟により日本との外交関係も当然直ちに断たれるものと思っていたがイラン政府は日ソ中立条約の関係から対目断交の義務なしと考えていたようだ、ところが日本の大戦果が相次ぎインドに危機が迫るや狼狽せる英国はソ連を誘って同盟を楯にとりイランをして対日断交せしめるに至ったのだイラン語による日本放送は英ソ側で極力妨害しているがフランス語のそれは実によく入るので上流階級を通じて一般民衆に伝わり彼らは日本の大戦果を信じこれに大喝采を送っている、

英ソ占領下の租国を独立させるためには英ソの打倒が必要であるとの認識から東亜における英軍緊滅をイラン国民は心から喜んでいるわけだ、テヘラン引揚の際買物に行くと一商人は早く日本が英国を打倒してくれるよう毎日祈っていると語った、民衆は地図をひろげて至るところで話合っている、英国の軍艦にはいくら消してもドイツのハーケンクロイツのマークが民衆によって落書される有様だ、同じアジヤ人として大東亜戦の進展に限りない期待をかけているのである(日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話 件名引用終わり)

1941年9月17日のイギリス・ソ連によるイラン侵攻によって制圧されペルシャ(イラン)では、レザー・パフラヴィー皇帝が退位し、皇太子だったモハンマド・レザー・パフラヴィーが皇帝の位についた。1951年から石油国有化を進めたモハンマド・モサッデク首相と対立したが、アメリカの支援を受けたクーデターにより権力を回復した。親欧米路線に基づいて、秘密警察サヴァク(SAVAK)による反政府の動きを弾圧したが、女性解放を進めながら国王独裁を強化した。しかし、イスラム主義者、親ソ連派などの反政府行動が過激化し、デモやストライキが頻発した。パフラヴィー皇帝は、戒厳令で対処したが、反王政のデモが起こり、1979年1月16日にパーレビ国王はエジプトに出国した。皇帝と入れ替わりにフランスに逃れていた反体制イスラム指導者ホメイニー師が、2月1日に帰国し、イラン軍の支持を得て、親皇帝派のバフティヤール首相や帝室親衛隊を排除し、イスラム革命評議会を中核とする共和制を開始した。

Shah 1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(محمدرضا شاه پهلوی‎, Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。

しかし、1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、事情は一変した。孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリス軍の影響下に入った。1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの皇帝の地位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。

3−C.イラン対日断交
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 14 出版年 1942-04-16

【リスボン本社特電十四日発】テヘランのルーター電によればイラン政府は十四日日本と外交関係を断絶し日本代表は一週間以内に同国から退去しなければならない通告を受けたと

歴然・米英の使嗾

昨年八月ソ英両軍のイラン占領によってソ英の属国的存在と化したイランはその圧迫により独伊はじめソ英と外交関係を有しない諸国との外交関係を断絶した、わが国はソ連との外交関係を有するところから断交の通告は受取らなかったものの十月四日に至りイラン政府はついに日本公使館に対し電報暗号使用権停止、外交使臣不可侵権停止などの不法圧迫の挙に出た

 右はわが公使館がアラビヤ民族運動の父で英国がその首に多額の賞金をかけでいるエルサレムの前大司教フッセイン師をひそかに保護したという英側の流布した虚説に基いたもので 当時わが方は厳重に英国に対し抗議した、昨年末にはイランの対日断交説すら伝えられたほどで今回の断交通告の理由も日本公使館が枢軸側の宣伝活動を行っているというにあるが事実は米英側の圧迫と使嗾に基づくことは明かである(イラン対日断交引用終わり)


4.1943年の対ソ武器貸与とテヘラン会談

4−A.延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル
大阪朝日新聞 Vol: 第158巻 Page: 109 出版年 1943-03-17

一九四〇年末三選直後のルーズヴェルト[Franklin oosevelt]は股肱の臣ハリー・ホプキンス[Harry Hopkins]を伴い、逐鹿戦の骨休みをかねて巡洋艦タスカルーザでカリブ海巡航の旅に出た、当時敗戦つづきの英国は独軍の連続爆撃に気息奄々たる有様で、その在米資金もいよいよ逼迫を告げ、このまま放置すれは屈服以外に途はないかと思われた、

しかるに米国にはかの[1935年]中立法[Neutrality Act]や戦債未払国への金融を禁止する[1935年]ジョンソン法[Neutrality Act]があって十分の対英援助ができない、そこでルーズヴェルトらがこのタスカルーザ艦上で思いついたのはこれら既存の法に煩わされることのない全然新しい形式の対英援助計画で、右は武器貸与法案[Lend-Lease Act](正式の名称は米国国防促進法案)として翌四一年一月議会に提出され、三月十一日正式に採択された、かくて制定された武器貸与法[Lend-Lease Act]はここに成立第三年を迎えたわけだが、あたかもその二周年記念日にあたる去る十一日同法は有効期限の切れ来る六月末日よりさらに向う一ヶ年間その効力を延長されたのである

この武器貸与法[Lend-Lease Act]なるものはその条文にも明記されているようにある国家の国防が米国自身の国防上重大なりと認められた場合該国家に対し軍需品その他国防物資を売却、貸与または賃貸し得る権限を大統領に与えたもので、表面は米国の国防強化を目的としたものだが、その魂胆は

(一)米国の参戦をできるだけ延期すること
(二)民主主義国家群の戦争指導櫃を掌握すること
(三)戦後の発言権を増大し世界制覇の非望を達成すること

の三点にあった

すなわちルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]は老獪にも「民主主義の兵器廠[Arsenal Of Democracy]」たる役目を引受けることにより、自らの参戦はこれをできるだけ延ばし、あわよくば全然参戦せず、しかも実質的には参戦同様の効果を収めんとたくらんだが、しかし自らも戦争の渦中に身を投ぜざるを得なくなってしまった、

しかし武器貸与法[Lend-Lease Act]の真の狙いは米国自身の参戦如何にかかわらず英ソ蒋以下の反枢軸諸国を援助督励することにより、これら各国の犠牲において枢軸国の戦力を消耗せしめ、同時に如何に平身低頭しても米国の援助にすがらざるを伝ない反枢軸国家群の窮状につけこみ、これら諸国をして援助の代償として米国の戦争指導権を承認せしめるはかりでなく、戦後においてもまったく米国の勢力下に屈従せざるを得ない立場に追いこみ、もって世界支配の夢を実現せんとするにある、ここに武器貸与法の驚くべき老獪かつ巧妙なるたくらみがある

しかして英国以下の被援助国はこの米国の遠望を知悉し米国の情にすがることは自らの墓穴を掘るにひとしいことを十二分に承知していながらなお背に腹はかえられず、泣訴これ努めているわけである

イギリス 武器貸与[Lend-Lease]予算として現在まで米国議会によって承認された総額は百八十四億一千万ドルに上り、このほか陸海軍関係予算として計上され武器貸与費に流用し得る予算額は実に三百五十九億七千万ドルに達する、

しかるに武器貸与局長官ステッチニアスの発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、

然して昨年度においてアメリカが生産した飛行機ならびに戦車の三分一までが反枢軸諸国に供給されアメリカ軍需工場における同年の全生産額の二割弱が貸与物資として海外に輸送されたとつたえられる、

ソ連赤軍 これを金額にして国別にして見れは(単位百万ドル)
対英 三、九五九
対ソ 一、五三二
対蒋 一五六
となっている、

ソ連に対する補給額は
飛行機 三六〇〇機
戦車 三二〇〇台
トラック大砲牽引車 八一、〇〇〇台
を含むものであり、飛行機戦車供給の数量はほかのいかなる国に対するよりも多いといわれる、もっていかにアメリカがソ連の御機嫌を取ろうとしているかが窺われる

 なお対蒋援助は上掲の数字が示すごとくきわめて微々たるもので、しかも武器貸与局支那課長フランクリン・レイの言明によれば重慶向貸与物資の五十%は輸送不能のため目下インドに放置されたままになっている、アメリカとしてもつぎつぎとワシントンに乗込んできて援助増加を泣訴する蒋の代表を御馳走政策で機嫌をとり口でなだめて帰す以外今のところうつ手があるまい (延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル引用終わり)

写真(右)1943-1944年、アメリカ、アラスカ、ノーム、武器貸与法に基づいてソ連に移送中のベル(Bell)P-39L-1 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(42-4961)の左側面:プロペラから長い37mm機関砲の銃身を突き出している。37mm機関砲を射撃すると銃身は反動で後退するが、駐退機の作用で、後座した銃身は元の位置に戻る。手前の左主翼に7.62mm機関銃の銃身2本が出ている。
A Bell P-39L-1-BE Airacobra (USAAF s/n 42-4673?) at Nome, Alaska (USA), in 1943-44. The red Soviet stars under the wings identify this as a lend-lease aircraft ferried to the USSR via Alaska. Date between 1943 and 1944..Author USAAF
写真は Wikimedia Commons, Category:42-4673 (aircraft) File:P39 Nome Alaska LOC fsa 8e02409.jpg引用。


写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)、平服のイラン首相アリ・ソヘイリー(Ali Soheili: 1896–1958)と対面した名誉空軍司令官の軍服を着たイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)69歳
Description English: The Shah of Iran saluting Winston Churchill on the occasion of Churchill's 69th birthday at the close of the Tripartite Conference of Tehran, November 1943. On the far left is Ali Soheili, serving his second term as Prime Minister of Iran. The picture was taken by the Iranian press. Churchill is shown wearing his honorary air commodore's uniform. فارسی: محمدرضاشاه در حال دست‌دادن با وینستون چرچیل در نوامبر ۱۹۴۲. Source Unknown source Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・FFile:Shah churchill.jpg引用。


枢軸国側だったイラン帝国は、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦Operation Countenance)の発動で、英ソの支配下に置かれた。そして、イラン皇帝の帝位は、父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)
English: Shah with FDR Date 1943 Source U.S. Library of Congress Author U.S. Government
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日に開催され、ビッグスリー(スターリン、ルーズベルト、チャーチル)は、北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施することを決めた。テヘランは、英ソの支配下にあったために、英ソ米首脳の会談の地に選ばれたのであるが、この大前提となった1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害、アメリカの国境線変更の許容を知らない識者が多いようだ。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)
Description English: Mohammad Reza Schah, Stalin und Molotov, Tehran Conference, 1943 Date 1943 Source www.iranian.com/main/blog /darius-kadivar/ photo-restoration-shah- stalin-molotov-tehran -conference-1943 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Description EEnglish: Joseph Stalin, President Roosevelt, and Winston Churchill, full-length portrait, sitting outside entrance to building during the Tehran Conference; Vyacheslav Mikhaylovich Molotov and Anthony Eden are standing in the background. Date 1 December 1943 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3c35324.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Stalin Roosevelt Churchill at Tehran cph.3c35324.jpg引用。


つまり、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、戦争勝利の大義のためには、1941年8月のイギリス・ソビエト連邦が共謀したイラン侵攻という国家主権侵害を問題としなかったのである。

フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、1943年1月14日、イギリス首相チャーチルと会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに大旅行を敢行し、さらに1943年11月、軍艦と飛行機による大旅行を決断したが、中国の蒋介石とのカイロ会談、スターリンとのテヘラン会談をぜひ実現したからである。テヘラン会談は、1943年11月28日から12月1日にイランで開催されたが、これは、イラン進駐によりイランにおける米英ソの安全保障が確保できているという軍事支配に自信があったからでもある。

ウィンストン・チャーチル[Winston Leonard Spencer Churchill]のソ連の戦後勢力拡大の疑念を抑えて、フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、第二線を作る北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施するとし、第二線が開かれるまで、ソ連への大量の軍事物資を援助することを確約した。イランへの譲歩はありえないが、ソ連には大幅に譲歩する外交を行った。これは、戦後の米英ソのビッグスリーの協力、連帯を可能とするためだった。

1939年9月12日、アドルフ・ヒトラーに続いてポーランドに侵攻したスターリンは、ポーランド東半分を占領した。1941年6月22日の独ソ戦勃発後は、アメリカの武器貸与法を受け入れて、北極海、イラン、極東からの軍事援助を受け入れた。このアメリカからの軍事援助受け入れのために、ソ連は、中立国イランの意向を武力弾圧して、イギリスとともにイランに軍事侵攻した。1943年11月に、テヘラン会談に向かったスターリンは、これが初の外国訪問だったが、それを決断したのは、イランが自分の思い通りになる地域であり、暗殺や妨害工作の不安が払拭されていたからである。

1941年8月以降のイギリス・ソ連によるイラン侵攻によって制圧されたペルシャ(イラン)では、保護国化・属国化が進んだ。すなわちレザー・パフラヴィー皇帝を退位させ、皇太子モハンマド・レザーMohammad Reza Pahlavi)を皇帝の位につかせて操縦し傀儡化さた。

1943年11月28日から12月1日にかけての米英ソのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。

戦後、イラン領アゼルバイジャン、クルディスタンの一部にソ連軍は駐留を続け、親ソ連派によるのアゼルバイジャン自治共和国、クルディスターン人民共和国を設立して、ソビエト連邦に取り込んだ。しかし、イラン国境付近の石油利権が確保されたソ連は、1946年5月、イラン進駐を中止し、傀儡政権も瓦解した。

1951年、イランではソ連の支持を得たモハンマド・モサデグがイギリス支配下のイラン石油会社を国有化することを宣言し、イラン共和国が樹立されたが、アメリカは、イランの石油国有化が共産化につながるとして、8月19日、反政府暴動、クーデターを煽動した。アメリカの介入によって、シャーはイラン皇帝に復帰し、モサデグを逮捕した。石油国有化は中止され、イランの石油利権は、英40%、米40%、仏6%、蘭14%が認められた。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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