◆英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)と武器貸与法
写真(上):1943年9月,イラン北部、共謀してイラン侵攻を実施したイギリス軍とソ連赤軍の会合:イギリス軍のユニオンジャック旗を掲げた防暑帽・半ズボンの将兵、ソ連軍はBA-10装甲車を装備。1941年6月22日の独ソ戦の勃発後、8月25日、イギリスはソ連と諮って、ペルシャ湾からカスピ海方面に繋がるイランに軍事進攻し、占領下に置いた。
English: British supply convoy in Iran, headed by Soviet BA-10 armored vehicle. "Union Jack" waving on the background.
Date September 1941
Source topwar.ru
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British supply convoy in Iran, headed by Soviet BA-10 armored vehicle.jpg引用。
写真(上):1941年9月,イラン、テヘラン、イランに侵攻したソ連赤軍コーカサス軍団指揮官ヴァシリー・ノビコフ(Vasily Novikov)少将とイギリス陸軍第9装甲旅団指揮官ジョン・ゲルハルト・エドワード・ティアクス(John Gerhard Edward Tiarks:1896-1962)による英ソ合同軍の検閲:
English: Maj. Gen. Vasily Novikov of the Caucasian Army (USSR,) and Brig. Gen. J. G. E. Tiarks of the 9th Armoured Brigade (UK,) inspect the troops, in course of preparations to the Joint Russo-British military parade in Tehran. Iran, September 1941.
Русский: Англо-советский парад в Тегеране в сентябре 1941 года – первый контакт между британскими и русскими солдатами во время войны. Генерал В. В. Новиков (Кавказская армия) и бригадный генерал У. Тиркс (9-й бронетанковая бригада) инспектируют парадный строй советских войск. Сентябрь 1941 года.
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Preparations for the Joint Russo-British military parade in Tehran.jpg引用。
1.パフレヴィ朝イラン皇太子とエジプト王女の結婚
1935年3月21日、国家主義運動の高まりから、ペルシア国号を"イラン"と改称 した。
1−A.
露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる
著者
篠原:テヘランにて
大阪毎日新聞
Vol: 第 7巻
Page: 31
出版年
1935-07-22
露国政府の近東および中東方面に対する政策はスターリン[Joseph Stalin:1878–1953]氏の政権把握、「一国社会主義」への転向以来、各国における国家主義の新政府を確認し、これと政治および経済的接近をはかる方針に転じて来た、殊に露国政府のこの方針に向って、最も熱心に邁進しつつあるは、トルコおよびイラン(旧ペルシャ)との関係であって、イランとの関係は、同国における英国の勢力、今なお相当根強く、ためにトルコ対策ほどにはうまく行っていない模様であるが、しかし、由来、イランは、地理的関係において、経済上少くともその北半をあげて、露国によるほかない立場にある、露国政府が、イランに対し、先ず経済提携の確立に努力を傾倒したるは、たしかに右の点を考慮に入れたものと考えられる、本通信は這般の事情を実に明快に説明している
昨秋以来、露国とイランとの通商関係は大に好転し、露国から経済使節派遣を望んで来たので、今春四月末、イラン国商務長官アーラム氏を団長とし、各省の次官と局長級の若干軍人を網羅した大使節は四週間にわたってモスクワ、レニングラード、スターリングラードなどを歴訪し、露国産業の現状を視察して帰国した、これと前後してテヘラン駐剳露国大使の更迭が行われたが、最近に至って極秘裏に両国間の通商条約が締結されたとの噂がつたえられ、近く発表されることになっている一九三五−三六年度割当の内容にも従来に見なかったほどの大変化が示されるものと期待されている、
イラン政府としては、共産主義の侵入に対しては極力警戒するが、同国の地理的事情から、経済的にはどうしても露国の援助なしには国が立って行けないという点を十分認識しているので、多少の無理は通しても露国と手を握りたい方針である、また露国としても、イランに対し政治的に策動して、多年の宿願たる南下策を露骨に現してはイラン全国にわたって莫大の利権をもつ英国との抗争が避けられなくなるので、この方の活動は当分手控え、専ら経済的にイランを牛耳って行こうとする方針は明かに看取される、
露国と違い英国は極めて明かに政治的に行動しており、現国王リザ・シャー[Reza Shah]の最も苦手とする地方豪族の叛乱という無類の武器をもっているので、その立場は強く事英国の利権に関するかぎり断じて一歩も譲らない強硬な外交方針によっているものと見受けられる国王は英露両勢力の間に処して、いずれの勢力にも禍されぬよう殊に両勢力抗争の渦中にひき込まれぬよう警戒し、親英とか親露とかいう色彩は努めて政府の態度に出さぬようにしているが政治的には英に接近し経済的には露と提携し、両国の勢力を利用して自国の繁栄と安寧に資そうとしているのが真相かと思われる、
噂に上っている露イ新通商条約の内容は全く世に伝わらないが、もし事実とすれば早晩現れる時が来るであろう(六月十六日)(露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる引用終わり)
1−B.イラン輸入統制 : 自動車等に
大阪朝日新聞
Vol: 第a補巻
Page: 12
出版年
1936-09-01
岡本[武三]イラン公使よりの報告によると、イラン政府は八月二十七日以降乗用自動車、貨物自動車、同附属品、部分品、タイヤ類の輸入を国家の独占とする旨発表した(イラン輸入統制 : 自動車等に引用終わり)
写真(右):1938年,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):
Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza
Date between 1936 and 1941
Source mashruteh.org
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File: RezaShah001.jpg引用。
エジプト王族ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad)は、フアード1世と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)の間の第2子(長女)で、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)でイラン皇太子モハンマド・レザーと結婚式を挙げた。
写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)19歳とエジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt:1921年9月5日)17歳:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
The wedding ceremony of Mohammad Reza Pahlavi (1919 - 1980, right ), Crown Prince of Iran, and Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013, with bouquet) at Abdeen Palace in Cairo, Egypt, 15th March 1939. With them are King Farouk of Egypt (1920 - 1965) and Queen Farida of Egypt. (Photo by Central Press/Hulton Archive/Getty Images)
写真は,Getty Images Egyptian Princess Marries Iranian Prince
・引用。
エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、1868年3月26日生まれで、1917年、49歳で即位したが、スンニ派イスラムだがイタリアのナポリ育ちだったために、イタリア語が堪能だった。しかし、長女ファウズィーヤ・ビント・フアードがイラン皇太子と結婚する3年前、1936年4月28日に死去している。その後継エジプト王が、フアード1世(Fuad I of Egypt)の2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とするファールーク1世である。
エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、エジプト保護国イギリス育ちだった。しかし、第二次世界大戦中の1941年にドイツ・アフリカ軍団がエジプトに迫ると、エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、世論を受けて、反イギリスの立場をとろうとした。しかし、イギリスの脅迫に屈してしまい、人気が落ちた。
イラン皇太子モハンマド・レザーは、エジプト王族のファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式は、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)で挙げた。その後、イランに向かい、4月25日にテヘランでも結婚式を行った。
日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の旅客輸送機仕様「そよかぜ号」は、細長い胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加した。九六中攻は、一一型と二一型の双方が輸送機仕様に改造された。海軍では、九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したのが、松井勝吾操縦のそよかぜ号(J-BEOA)である。
⇒写真集Alubm:三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行(Mitsubishi G3M "Soyokaze")
写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節の出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要
「そよかぜ号」の出発式
1939/00/00
郵政博物館
日本郵政株式会社
昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真は、郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。
1−C.帝国とイラン国間に修好条約調印さる
大阪朝日新聞
Vol: 第149巻
Page: 110
出版年
1939-10-20
【テヘラン特電十九日発】イラン政府十九日発表=日本、イラン両国修好条約は十八日夜調印された(帝国とイラン国間に修好条約調印さる引用終わり)
1−D.日泰イラン条約枢府本会議で決定
日本工業新聞
産業経済新聞
Vol: 第155巻
Page: 134
出版年
1940-12-12
十一日の枢府[枢密院]定例本会議は午前十時より宮中において天皇陛下親臨のもとに開催、枢府[枢密院]側から原、鈴木正副議長以下各顧問官、政府側から近衛首相以下関係各閣僚および村瀬法制局長官出席
一、日本国と泰国との間の条約御批准の件
一、日本国とイラン国との間の修交条約御批准の件
一、奏任文官特別任用令中改正の件(新たに地方消防司令設置に伴う特別任用の途を開き大阪、京都、神奈川、兵庫、愛知、福岡の各府県にこれを設置すること)
の三件を上程堀江書記官長より審査経過並に結果の報告あり審議の結果満場一致これを可決し同十時四十分散会した(日泰イラン条約枢府本会議で決定引用終わり)
写真(上):1913年7月1日,イラン、ペルシャ湾岸、アバダン、イギリス系アングロ=イラアニアン社の石油の製油所:1919年設立のイラン初のイギリスの石油大企業で1914年にはイランの石油の51%を独占した。1954年12月にモハンマド・モサデク政権が国営化した。イラクは、戦後にクウェートは、イラク領であり、イギリスによって不当に分離されたと批判している。
Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama)
Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama), Kuwait. (Photo by W.H.I. Shakespear /Royal Geographical Society via Getty Images)コレクション: Royal Geographical Society (with IBG)
作成日: 1913年07月01日(火)
アップロード日: 2018年12月21日(金)
ライセンスタイプ: ライツマネージ
写真は,www.gettyimages.co.jp Category:Fawzia Fuad・Anglo-Persian Oil Company refinery, Abadan (panorama)引用。
1−E.英のイラン進攻へ土、先手を打つ : 独と大経済協定を交渉
大阪毎日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 28
出版年
1941-07-24
【ソフィヤ本社特電二十二日榎本特派員発】シリヤ来電によれば仏英停戦協定に基づく英国軍のシリヤ占領は着々進行し十九日アレッポから北上した部隊はトルコ国境のアレキサンドレッタ地方を占領、ほぼ今週中に全シリヤの重要地点の占拠を終る見込みである、英国占領軍の勢力は英人部隊は歩兵騎兵各一師、濠洲部隊一師、インド部隊一師にド・ゴール[Charles de Gaulle]派仏国部隊一師を加えて約五師、空軍は停戦協定により接収した仏国機百数十機を加えても三百幾機かに過ぎないと報ぜられ、海軍はアレキサンドリヤを根拠地とする地中海艦隊の一部戦艦二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦八隻をもってアレキサンドリヤからパレスチナ、シリヤ海岸を経てキプロスにいたる東地中海の海面を示威、ドイツ軍のクレタ作戦以来中絶していた英商船のアレキサンドリヤ寄港を最近復活するにいたった
占領地行政はウィルソン英国軍司令官の名で軍政を布きすでに反英分子の弾圧、土民所有武器の没収などを開始、一方前仏印総督カトルー将軍はド・ゴール[Charles de Gaulle]派、自由仏国政権の名で十九日シリヤ高級委員に任命され同将軍の権限は停戦協定後のシリヤの治安のためド・ゴール[Charles de Gaulle]派合流を志願した仏将兵管理に関する事務に限定されている、将来ヴィシー政府のシリヤ高等弁務官によって信任されていた外国領事館では英占領軍およびド・ゴール派政権と折衝せざるを得ない微妙な立場に置かれわが国をはじめド・ゴール政権不承認の建前をとる枢軸諸国の領事館は結局引揚のやむなきに至るのではないかと見られている
シリヤ土民の行政は英占領軍当局がシリヤ、レバノン両土民政府を指導する建前をとっている、アレッポ政府の緊迫せる状態に関しトルコ政界の一部には英軍は対トルコ関係を改善して若干の余裕を残すのではないかと見る向もあったが英側がトルコの関心を無視してトルコ、シリヤ国境に兵を進めたことはいたくトルコ側を刺戟しつつありトルコ新聞は一斉に英のシリヤ軍政府を論難し英がシリヤ、レバノンの独立開放を口実に侵略戦を行い停戦協定の成立を見るや独立を公約したのを忘れてシリヤ、レバノンを軍事占領したことを指摘しトルコはシリヤの現状変更に無関心たり得ない旨強調している、これに対し在トルコ英国側当局は当面の応酬を避けているがシリヤ占領地対策の一段落を待ってイラン占領に進み近東、インド防衛線の構成に引続きトルコの東南両国境を包囲した余勢を駆って対土圧迫に転ずるものと観測される
イラク来電によれば東イラク英軍は目下アマラ、エルビル間にインド兵を主力とする約五万の兵を集中してイラン進攻態勢をとっている、数日来イラク東北部のクルド人住居地帯には反英暴動が勃発、英軍が鎮圧に出動したと伝えられ右は英国側がまずトルコの東部国境よりイラクイランにまたがるクルド人地帯の不安を宣伝しこれが鎮圧に名をかりてイラン進駐対トルコ圧迫に出でんとする謀略宣伝と見られる節もあるが
いずれにせよトルコ側では英軍のイラン進攻は不可避と見透し同国占領後の英国側はイラン、バクーの油田地帯確保によりドイツ軍の対ソ作戦目的の達成妨害につとめるだろう、さらに一転してトルコに対しては対枢軸態度の闡明を迫ってくるものと予想これが対策としてトルコ軍はアレキサンドレッタ地区国境に約五師団、トルコ国境に約十五師団を終結し英国軍に備える一方ボスフォラス、ダーダネルス両海峡に面する防備を強化独ソ戦終結期におけるソ連黒海艦隊ことに潜水艦の海峡突破企図に対応して黒海に面するボスフォラス海峡入口には機雷原敷設、監視船の配置、潜水艦拏捕網の二重敷設を行い厳重に警戒すると共に政治機構方面においては独土不可侵条約に引続き大規模な独土経済協定を交渉中で来月初旬までには妥結にいたるべくトルコをして対枢軸態度の強化をもって独ソ戦後の新情勢に備えしめんとする兆候を示している(英のイラン進攻へ土、先手を打つ : 独と大経済協定を交渉引用終わり)
2.独ソ戦後1941年8月25日のイギリス・ソ連のイラン侵攻
2−A.独の脅威対策と称し米海軍、氷島[アイスランド]に進駐す : 英守備隊を補充交代
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 12
出版年
1941-07-09
【ワシントン特電七日発】ルーズヴェルト大統領は七日正午、アメリカ海軍艦艇がアイスランドに進駐、部隊を揚陸せる旨発表した=写真はルーズヴェルト大統領
[写真あり 省略]
ル大統領の教書要旨
【ワシントン特電七日発】ルーズヴェルト大統領は七日議会に対する特別教書をもってアメリカ海軍部隊が七日正午アイスランド島に上陸した旨発表した、これはアメリカ外交政策に重大な転換を来すべき性質のものであるが、大統領は教書中で右措置を次の如く説明している
アメリカはドイツが将来西半球攻撃のため大西洋上の戦略的諸前哨地を占拠、海空基地として使用することを黙過することは出来ない、ドイツがアイスランド島を占拠せる場合次の三方面において米国に脅威を与えるであろう
(一)グリーンランド島および同島沖合の島嶼を含む同方面のアメリカ大陸に対する脅威
(二)北大西洋上のあらゆる物資輸送に対する脅威
(三)米国の対英軍需品援助確保の対する脅威
なおアメリカは大西洋同方面の現在の主権に変更を加える意図はない、今回のアイスランド上陸はルーズヴェルト大統領と同島首相ヨナソン[Hermann Jónasson]氏との諒解の下に行われたもので、米海軍部隊は現在の同島英守備軍を補強の目的をもって移駐、将来は英守備軍と交代し同島の正当なる防備を保障せんとするものである
[写真(ヨナソン[Hermann Jónasson]氷島首相)あり 省略]
なお今回上陸した米海軍部隊の兵数あるいは右海軍部隊に陸軍部隊が加っているか否かは発表されていない、また大統領は今後起り得べきドイツの西半球攻撃に際しドイツ軍の踏石となるべき諸地点にたいし今回と同様の措置が行われるか否かについても何ら言及しなかった
(独の脅威対策と称し米海軍、氷島に進駐す : 英守備隊を補充交代引用終わり)
写真(右):1941年8月,アイスランド、レイキャビク港、イギリス海軍戦艦プリンスオブウェールズ甲板上で勝利のVサインをするイギリス首相ウィンストン・チャーチル:ニューふぁうんどランド沖でアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと会談し、大西洋憲章を定めて、民主主義用語、反枢軸の戦いを進めることを決め、帰国後アイスランドに立ち寄り、イギリスのアイスランド進駐軍を閲兵した。アイスランドは、1940年5月10日、イギリスに占領され、1941年7月7日、アメリカの占領下に置かれることが決まった。
WINSTON CHURCHILL DURING THE SECOND WORLD WAR IN ICELAND
Object description
The Prime Minister Winston Churchill gives the 'V for Victory' sign to a passing ship from the deck of HMS PRINCE OF WALES as she leaves Reykjavik, Iceland, following a brief visit during his return voyage to the United Kingdom from the Atlantic Conference with US President Franklin D Roosevelt in August 1941..Creator
Horton, William George
War Office official photographer
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
H 12862
写真は,Imperial War Museums 2024・IWM (H 12862)引用。
イギリスは、ドイツの影響力、軍事力を恐れて、1940年5月10日、中立国アイスランド(氷島)に進駐、軍事占領した。その後、1941年7月7日、イギリスの占領政策を、中立アメリカが代行し、アメリカ軍が中立アイスランド、デンマーク領グリーンランドに進駐、軍事占領した。国家の戦略が最優先されるパワーポリティックスをイギリスもアメリカも採用し、正義の戦争の大義名分の建前で、中立国の国家主権を蹂躙していたのである。
⇒写真集Alubm:1940年米英の対日経済制裁と駆逐艦=基地交換協定:アイスランド侵攻
写真(右):1941年8月25日以降,イラン南部、ペルシャ湾に近いアバダン、イランに侵攻したイギリス軍所属のインド兵の行進:イギリス軍は、植民地のインド(パキスタン、ネパールを含む)現地採用兵士を中東、北アフリカを中心に利用した。イラン侵攻でも、ソ連への補給経路、油田、港湾の占領・警備につかせた。
English
Indian soldiers enter the world's largest oil refinery on Abadan Island, Iran. They overcame defending Iranian forces during 'Operation Countenance'. Aug. 25, 1941.
Summary
Description
فارسی: ورود سربازان ارتش بریتانیا به پالایشگاه آبادان در جهان اشغال ایران در جنگ جهانی دوم، شهریور ۱۳۲۰
Date 25 August 1941
Source farsi.khamenei.ir/ndata/news
Author مؤسسه پژوهشی فرهنگی انقلاب اسلامی
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Abadan invasion of Iran.jpg引用。
1939年9月に勃発した第二次世界大戦では、1941年6月にドイツがソ連に侵攻し、第二局面に入った。当時、フランスは降伏し、西欧ではイギリスだけがドイツ・イタリアの数菊国軍と戦っていたが、それはイギリス本土、北アフリカ、エジプト、大西洋など広範囲にわたっていた。
写真(右):1941年8月25日以降,イラン南部、ペルシャ湾頭、シャット・アルアラブ川沿岸、アバダン、イランの油田を占領したイギリス軍所属のインド兵たち:シャット・アルアラブ川は、イギリス保護国イラクのバスラ、イランのホラムシャハル、アバダンと港湾都市・油田の近くを流れており、重要な海上船舶航路となっている。
Artist
No 1 Army Film & Photographic Unit, Keating (Capt)
Description
English: Pictures From Iran
British troops attacked the island of Aradian on the River Shatt-el-Arab, at the head of the Persian Gulf, in order to gain control of a large oil refinery, belonging to the Anglo-Iranian Oil Company. Indian troops were landed from assault ships from the quayside and they attacked the Iranian strong points in the refinery. This image shows a view of the Indian riflemen seen at various points in the refinery on guard.
Date
between 1939 and 1945
Source/Photographer
E 5329 from the Imperial War Museums
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Pictures From Iran E5329.jpg引用。
しかし、1941年6月22日、独ソ戦の勃発で、イギリス首相チャーチルは狂喜し、ドイツを倒すためなら悪魔とも手を結ぶとして、共産主義ソ連のスターリンを軍事援助することを即断し、アメリカの武器援助法に基づく支援をソ連に伝えた。この軍事援助のためのルートが、中東経路で、イギリス保護國・植民地のある中東からソ連のコーカサスへの陸路/空路である。
写真(右):1941年8月,イラン南西部、アバダン近郊、中立国イランに侵攻し、石油精製施設を軍事占領下イギリス・インド軍の兵士:イギリス軍とソ連軍は、相計って8月25日にイランに侵攻したが、この中立国への一方的な侵略は、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ状態である。第二次大戦にイランを宣言したイランは、独立国の主権を蹂躙され、軍事占領されてしまった。
Original wartime caption: Types of Indian riflemen who were fighting in Persia and are now guarding the refinery.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Catalogue number
E 5332
写真は, Imperial War Museums 2024・ IWM (E 5332)引用。
武器貸与法によるドイツと戦うソ連への軍事援助のために中東は重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍隊を侵攻させた。これは、イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)と呼ばれる中立国イランの主権を蹂躙する侵略行為である。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾頭、アバダン、石油精製施設のゲートにおけるイランに進駐したイギリス・インド軍兵士による自動車の検問:イラン南西には、カルーン川が流れ、沿岸には河川を利用する水上交通で栄えたホラムシャハル、アバダンなどの港湾都市があり、油田、石油精製施設もある。イラン占領軍の将兵が警備している。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA)
OOriginal wartime caption: Indian riflemen inspecting passes and cars at the entrance to the refinery
Date
between 1939 and 1945
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
写真は,Imperial War Museums・IWM (E 5324)引用。
英ソが中立国イランに軍事侵攻した理由は、
1)1941年6月22日にドイツ軍がソ連に侵攻し、コーカサス地方にまで進軍することが予測されたため、事前に親独逸の立場をとって、ドイツ人技術者やイタリア艦艇を導入していたイランを無力化すること、
2)重要な戦略資源であるイランの油田・製油施設を確保すること、
3)ソ連への軍事援助、特に中立国アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資の補給援助ルートとなるペルシャ回廊を確保すること、
である。
写真(右):1941年8月,イラン北西部、中立国イランの国家主権を蹂躙してイランを侵略したイギリス軍とソ連赤軍の兵士の握手:第二次大戦にイランを宣言したイランは、独立国の主権を蹂躙され、軍事占領されてしまった。
Description
English: Soviet and British infantrymen walks shoulder to shoulder in Iran, 1941.
Date August 1941
Source ziva777.files.wordpress.com
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet and British soldiers in Iran.jpg引用。
1941年8月25日、イギリス軍とソ連軍は、第二次大戦に中立を宣言したイランに共謀して軍隊を派遣し、イランの南北から侵略した。そして、9月17日までにイランを南北で軍事占領下に置いた。
写真(右):1941年8-9月,イラン北西部、中立国イランの国家主権を蹂躙してイランを侵略したイギリス軍とソ連赤軍の歩兵がともに歩んでいるという喧伝写真:イギリス軍とソ連軍は、相計って8月25日にイランに侵攻したが、この中立国への一方的な侵略は、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ状態である。
Description
English: Soviet and British soldiers in Iran.
Українська: Радянські та британські війська спільно діють у Ірані.
Date circa 1941
Source uarmy.com.ua
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写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet and British infantrymen in Iran.jpg引用。
イギリス軍とソ連軍が、相計って1941年8月25日、イランに侵攻したのは、共同謀議による中立国への一方的な侵略である。この国家主権の蹂躙は、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に続く、1939年9月17日のソ連のポーランド侵攻(進駐)と同じ状態である。
写真(右):1941年8月31日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車と検分するイギリス軍将兵:イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じで、独立国の主権蹂躙、暴力的な侵略である。
Description
English: British soldiers curiously inspecting a T-26 battle tank of the Soviet occupation forces after their rendezvous in Iran. Sunday, August 31, 1941.
Date
Taken on 31 August 1941
Source
ww2total.com
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British soldiers on top of a Soviet T-26 in Iran.jpg引用。
イギリスとフランスは、相互援助条約を結んでいたポーランドの国家主権を犯すドイツの侵略行為に反撃するために、9月3日にドイツにに宣戦布告をした。しかし、9月17日にポーランドに軍事侵攻したソ連に対しては、宣戦布告はしなかった。これは、英仏は、ドイツとソ連との二大軍事大国を相手に戦争を始めるには、大きなリスクがあると認識していたためで、軍事的考慮からソ連への宣戦布告を避けたのである。
つまり、ポーランドへのドイツの軍事進攻、ポーランドの主権回復が、イギリス・フランスの戦争目的とされたのは、大義名分の建前だった。このソ連への宥和政策の延長線上に、英ソの共同謀議によるイラン侵略が、反ファシズム、ヒトラー打倒のために実行されたのである。
写真(右):1941年8月27−28日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車:T-26は、乗員3名、重量9.4t、45mmM1932戦車砲装備で、ドイツのソ連侵攻のあった1941年6月の主力戦車の一つだった。
Description
English: Soviet tankmen of the 6th Armoured Division drive through the streets of Tabriz on their T-26 battle tank.
Date 27-28 August 1941
Source topwar.ru
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of the Soviet Union in Iran
・File:Soviet tankmen of the 6th Armoured Division drive through the streets of Tabriz (2).jpg引用。
1939年9月1日、ドイツはポーランドに軍事侵攻し、その撤退を求めた勧告を無視された英仏は、9月1日、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。そして、ドイツと秘密協定を結んでいたソ連は、1939年9月17日、ポーランド政府が瓦解したので、ポーランド東部に住むウクライナ人、ベラルーシ人を保護するという名目で、ポーランドにソ連軍を進駐させた。これは、ドイツとソ連によるポーランド侵攻であり、中立国ポーランドの国家主権を蹂躙する侵略である。
写真(右):1941年8月31日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍第6装甲旅団T-26軽戦車と検分するイギリス軍将兵:イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じで、独立国の主権蹂躙、暴力的な侵略である。
Description
English: British soldiers curiously inspecting a T-26 battle tank of the Soviet occupation forces after their rendezvous in Iran. Sunday, August 31, 1941.
Date
Taken on 31 August 1941
Source
ww2total.com
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:British soldiers on top of a Soviet T-26 in Iran.jpg引用。
T-26軽戦車 1933年式の諸元
全長: 4.62m
全幅: 2.44m
全高: 2.33m
全備重量: 9.4t
乗員: 3名
エンジン: GAZ T-26 4ストローク水平対向8気筒空冷ガソリン
出力: 90hp/2,200rpm
最高速力: 30km/h
航続距離: 130km
兵装: 46口径45mm戦車砲20K×1門(100発)
7.62mm機関銃DT×1〜3丁(2,848発)
装甲: 6〜25mm
写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)に進駐したソ連赤軍T-26戦車:T-26軽戦車は,全長 4.9メートル,重量 9.4トン,航続距離 175キロ,45 ミリ砲装備で,車体前装甲15ミリ,乗員3 名だった。
ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドを分割したが,ポーランドと相互条約を結んでいた英仏は,9月3日,ドイツにだけ宣戦布告し,ソ連には宣戦しなかった。
Polen, Brześć Litewski (heute Brest in Weißrussland).- deutsch-russische Siegesparade, russischer Panzer (T-26 TU ?) neben deutscher Motorrad-Abteilung ; PK [?]
Dating: 22. September 1939撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-121-0012-30引用(他引用不許可)。
ドイツのポーランド侵攻の最中,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,1939年9ガル18日ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官を,カチンの森で処刑。
写真真(右)1939年9月,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連軍BA-20装甲車のパレード:1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力保障占領した。ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドをブーク川を境界として,二分したのである。英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻したが,ソ連にはしなかった。
Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost)
Dating: September 1939
Photographer: Höllenthal撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-013-0068-33引用(他引用不許可)。
1939年9月17日、ドイツ軍のポーランド侵攻に呼応して,ソ連軍はポーランドに武力進駐を開始した。これは,同年締結した独ソ不可侵条約秘密議定書に基づいて,東欧を分割するためである。東西から挟み撃ちにされたポーランド政府は,まだ中立国だった隣国ルーマニア,ハンガリーに脱出を図った。
結局,ポーランドは,ドイツとソ連に分割占領され,ドイツ軍とソ連軍は,1939年9月28日,独ソ不可侵条約の秘密議定書を改め,ブーク川の線で東西分割することが決められた。そして,国境となるソ連領ブレスト=リトフスクで,ドイツ軍とソ連赤軍が,軍事行進を行い,その緊密振りを内外に誇示した。
写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ルブリンに進駐したソ連赤軍BA-6/BA-10装甲車:BA-6装甲車は,全長4.9メートル,重量5トン,40馬力エンジン,最高速度43キロ,航続距離200キロ,兵装は42口径45ミリ砲(60発),7.62ミリ機関銃2丁,装甲 3〜8ミリだった。BA-6/BA-10装甲車は、1939年7-8月ノモンハン事件、1941年8月イラン侵攻でも投入されたが、不整地での行動は車輪駆動なので制限された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-013-0068-18A
Old signature: Bild 183-E11261
Original title: info Russischer Offiziersbesuch in Lublin. Die sowjetrussischen Offiziere, die zu Verhandlungen mit den deutschen Militärbehörden über die Festsetzung der Grenze zwischen den beiderseitigen Interessengebieten im besetzten Polen in Lublin eintrafen, waren von zwei Panzerspähwagen der russischen Armee begleitet.
Wie unser Bild zeigt, fand[en] diese Fahrzeuge bei unseren Soldaten verständliches Interesse.
Urhebervermerk: PK-Scherl
3.10.39 [Herausgabedatum]
12026-39
ADN-ZB/Archiv
II.Weltkrieg 1939 - 45; Der Feldzug in Polen, September 1939
Deutsche Soldaten besichtigen zwei sowjetische Panzerspähwagen, mit denen Offiziere der Roten Armee am 22.9. nach Lublin zu Verhandlungen über die Demarkationslinie zwischen Deutschland und der UdSSR gekommen sind.
12026-39 [Fotograf: Höllenthal]
Archive title: Polenfeldzug, Lublin.- Zusammentreffen deutscher und sowjetischer Soldaten. Besichtigung sowjetischer Panzerspähwagen; PK 637 (Ost)
Dating: 22. September 1939
Photographer: Höllenthal
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-013-0068-18A引用(他引用不許可)。
ポーランド分割は,1772年の第一次分割で,プロイセン王国フリードリヒ2世,オーストリア(神聖ローマ)帝国ヨーゼフ2世,ロシア帝国エカチェリーナ2世の間で行われ,1795年の第二次分割で,プロイセン,オーストリア,ロシアによってポーランドは完全に消滅した。その後,第一次世界大戦後の1919年に民族自決が認められポーランドは主権国家として再興されたが,20年後の1939年9月にドイツとソ連にニ分割されてしまった。ポーランド政府は,英国に亡命した。
1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領した。第二次大戦勃発1週間前の1939年8月23日に締結された独ソ不可侵条約では,ポーランドをヴィスワ川の線で独ソ二分割することが密約されていた。
ブレスト=リトフスクは,1939年9月17日にハインツ・グデーリアン将軍の第19装甲軍団が占領したが,町は独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ソ連に譲渡,併合されベラルーシ(白ロシア)の一部となった。
リッベントロップ外相とモロトフ外相の二人が署名した独ソ不可侵条約によって,独ソ連両軍は友好関係にあったが,これは2年と続かなかった。
2−B.英、イランを侵せば土、独側に投ぜん : 近東に再び戦火近し
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 43
出版年
1941-08-17
【イスタンブールにて石山特派員十六日発】現下西アジア(近東)の情勢は一にイギリスが近くイランを侵す作戦に出るか、それともドイツのコーカサス進撃がいつ行われるかの問題を中心として再び戦乱の渦中に投ぜられる運命にある
イラン問題
まずもっとも大きな問題はイラク、シリアを確保したイギリスがさらにイランに兵を進めるかどうかの問題から取りあげよう、イギリスのイラン進軍は二つの意味をもっている
すなわち一つはここを突破してコーカサス[Caucasus]にあるソ連軍と握手し西アジアの防衛陣地を一歩進めるとともにバクー石油地帯をドイツの手から確保すること、第二はイラン南部にあるイギリスの石油利権「アングロ・イラニアン石油会社」[Anglo-Persian Oil Company]の石油タンク石油製造場を自らの軍隊によって守備することの二つである
先般来イギリス、ソ連共同で在留ドイツ人約千五百名の退去を要求しさかんにイラン政府を威嚇していることは単なる口実にすぎずしたがってイギリス軍のイラン進入は目睫の間に迫っていると見るものがある、また一部にはドイツ人の撤退要求をしたのちイギリスは改めてイランに対しソ連向けの武器の通過を要求し、もし聴従しなければ進駐するのではないかと見るものもある
イランはすでに平常軍備約十一個師団を最近は十四個師団にまで拡大し万一に備えているがこれに対してイラクにあるイギリス軍は十個師団ともいわれまた最近はとみに膨脹して二十個師団に達したともいわれている
コーカサス[Caucasus]にあるソ連兵力は一部を西部戦線に送ったためこの方面からのイラン突破はほとんど期待しがたい、しかし機械化部隊をもつイギリス軍がイラクから進入すればイランは相当の苦戦を免れないであろう、しかしこのイギリス軍の進入説に対して疑問をもつものはイギリスがイラン進入をひかえているのは一にトルコの感情を害することを恐れるためである、もしイギリスがここに進入すればトルコはその自衛上からも旗幟を明らかにしてドイツ側につくことは必然である、
また一般イラン国民は政府の意向如何に拘らずイギリスに対する反感がきわめて強いしたがってもしイギリス軍がここに進入し、更にコーカサス[Caucasus]からくるドイツ軍に撃退された場合イランの全土を挙げて反英陣営に参加させることになるからであると説く、いずれにせよこの国の危機は依然として去らない
たとい期待されるがごときイギリス軍の進入がなくともコーカサスからイラクに向けて南下して来るドイツ軍の進路にも当りかつその場合イギリス資本より成るアングロ・イラニアン石油会社[Anglo-Persian Oil Company]は当然俎上にのぼるべき運命にあるからだ、イラン皇帝リザシアは近世不世出の英傑といわれ、ソ連の勢力をも排除することに成功した、しかしていまはドイツとの貿易はこの国の第一位を占めドイツ人の在留するもの千五百名、他の外国人に比して圧倒的に多数を占めている
イラク問題
イラクにおけるイギリス軍の行動は活溌を極めている、インド兵はバスラ[Basra]を経由しまたエチオピア軍の一部はシリア経由で続々と入り込み、イギリス軍の現有勢力は十師団以上といわれている、戦前四個師団であったイラクの軍隊は一師団を縮減され、軍事基地、軍事進路その他ほとんどイギリス軍の手に確保されている、かくて軽戦車約五十台をもつイギリス軍はモスール油田[Mosul Oil field]附近を中心として集結する一方、バスラには潜水艦と駆逐艦が数隻待機しているといわれる、イギリス軍の戒厳令はいよいよ強化されこれに比例して国民の一般生活は次第に窮迫しつつある、殊に貿易路を失って生活必需物価は暴騰し国民のイギリスに対する反感は募るばかりである
この反感の現れとして数回に及ぶマドファイ総理大臣暗殺事件があり、また日本船と日本綿布のバスラ入港に対する執拗なる要求ともなっている
[写真(リザシア・イラン皇帝)あり 省略]
シリア問題
シリアはスエズ[Suez]の防衛線として重要な地位を占めるのみならず、イギリスのトルコ牽制の役割を果すものとして新しい意義を生じて来た、ダンツ将軍麾下のフランス将校の大半を監禁し一切の軍事基地を確保したイギリスは最近アレッポを中心として軍隊を集中している、現にここにあるイギリス軍の兵力は三個師団にすぎないが、エチオピアの兵力の一部がここに移るであろうといわれている、
しかしてもしトルコがドイツに靡けば直ちにトルコに突入せんとの気勢を示し、トルコが枢軸参加を行い得ないのもこれに脅威を感ずるからであろう
しかしシリアが再び戦場と化するのはそんなに遠い将来ではあるまい、ドイツ軍のコーカサス南下が開始される時こそシリア攻撃が開始される時と見て差支えあるまい
何故ならばドイツ軍のコーカサス南下はスエズ[Suez]の後方遮断を意味しシリア攻撃も当然その作戦の一部をなすからである、かくて九月下旬乃至十月上旬にはスエズをめざしてコーカサス、シリアおよびリビアの三方面からドイツ軍の行動が開始されることはほとんど疑いないところであろう、イラクおよびシリアの運命はまた直ちにパレスチナ、トランスヨルダンの運命でもあり、さらにまたサウジ・アラビアをはじめアラビヤ諸国の興廃をも決すべきものであろう、アラビア諸国の反英感情は掩いがたい事実であるが如何せん武力はほとんど零に等しい国である、しかしスエズ攻防戦の展開は直ちにまたこれら諸国の反英蜂起をも約束するものであると見られる
アフガニスタン問題
アフガンはイギリス、ソ連両国間に介在して独立を完うする国である、英ソ提携する今日、外部的にはさして不安は感じていない国である、また先般イギリスがアフガン在住のドイツ人約三百名の去就について警告を発したこともさしたる意味をもつものでもないただイギリスがこの国のドイツ人に対し懸念することはソ連領トルキスタンに対するドイツの働きかけであろう
ソ連崩潰の手段としてもし各地の暴動一揆がドイツによって目論まれているとすればアフガン在住のドイツ人が一応英ソのブラックリストにのることは当然考えられることである、またもしドイツの勢力がトルキスタンに達せんとすればイギリスはその既定の方針によってアフガンに進入しアフガンの中央にあるヒンヅークッシュ山脈によってインドの第一線とし、またドイツがイランに入ればベルチスタン[Baluchistan]からアフガン西部に進入してこれを守ることは考えられるがすべてはソ連の完全なる崩潰後の問題であろう(英、イランを侵せば土、独側に投ぜん : 近東に再び戦火近し引用終わり)
写真(右):1941年8月,イラン北西部、ガズヴィーン、イランからソ連までの軍事物資援助ルートを確保するためにイランを占領したイギリス軍の兵士と軽装甲車ユニバーサル・キャリア(Universal Carrier):ブレン軽機関銃を搭載できる小型装甲車ユニバーサル・キャリアは、ブレンキャリアー(Bren Carrier)とも呼ばれた。全長3.6m、全幅2.1m、全高1.6m、重量3.8t、
乗員数 2-5名、装甲7〜10mm。
Description
Русский: Части советской и английской армии встретились у Кавзина.
Date
August 1941
Source
magnumphotos.com
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Assembly plant in Iran for American fighter warplanes destined for Russia, 1943 (27167675840).jpg引用。
写真(右):1941年8月以降,イラン、イランに侵攻したソ連赤軍BA-10装甲車(デグチャレフ=シュパーギン)12.7mm重機関銃:重量5.14 t、全長4.65 m、全幅2.00 m、全高2.20 m、1939–1941年に3291台量産された。45mm戦車砲(搭載弾薬49発)、7.62mmDT機関銃2丁(搭載弾薬2079発)装備。原型はアメリカ製フォード・トラックをソ連でライセンス生産したGAZ-AAで、後輪2輪駆動。BA-3/6の発展型。
English: Soviet military officer raises a flare pistol, while standing somewhere in the Iranian desert. Behind him is a BA-10 armored vehicle.
Date
circa 1941
Source
oboznik.ru
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of the Soviet Union in Iran
・File:Soviet military officer raises a flare gun in the Iranian desert.jpg引用。
写真(右):1941年9月17日,イラン北西部、カスピ海に近いダブリーズ、イランに侵攻したソ連赤軍の馬匹の曳く砲兵部隊の122mm M1909/37 榴弾砲:M1909/37 122mm榴弾砲は、第一次世界大戦当時の旧式砲M1909榴弾砲を、1937年に炸薬増量、砲強化、照準器改良をし、近代化し改良性能向上型である。重量2,480 kg、最大射程8,910 m。イギリス軍は、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ独立国に対する暴力的な侵略である。
English: Soviet six horse foot artillery team drags a cannon across Iranian street.
Date
August 1941
Source
rnns.ru
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Iran in World War II・File:Soviet six horse foot artillery team on the streets of Tabriz.jpg引用。
写真(右):1941年8月,イラン、イランに侵攻したソ連赤軍の馬匹の曳くDShK38(デグチャレフ=シュパーギン)12.7mm重機関銃:12.7mmDShK38重機関銃は、銃身長1,070mm、弾薬12.7x108mm弾、ベルト給弾式50発、全長1,625mm、重量 銃本体34kg、車輪付き銃架付157kg、発射速度600発/分、銃口初速850m/s。
Description
English: Mounted artillery units of the Red Army on the streets of Tabriz. The Iranian operation, September 17, 1941.
Date
17 September 1941
Source
albumwar2.com
Author
Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Soviet six horse foot artillery team in Iran.jpg引用。
2−C.浦潮[ウラジオストーク]アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充
大阪朝日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 146
出版年
1941-08-22
【ニューヨーク特電二十日発】ルーズヴェルト[FDR]、チャーチル[Winston Churchill]会談の結果近くモスクワで開催さえる英米ソ三国軍事会議にはアメリカ側首席代表として[ハリー]ホプキンス[Harry Hopkins]武器貸与計画局長官が内定し再びロンドン経由モスクワに急行、スタインハート米大使および駐在武官と協力、世界注目の会談に臨むことになったといわれる、
すでにアメリカ政府はソ聯に対するもっとも迅速かつ有効なる武器援助の非常措置を決定して既報のごとくすでにアメリカ油槽船数隻は飛行機用ガソリンを満載してロサンゼルスを出発、ウラジオストック[Vladivostok]アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充に向け航行中であるが、さらに米ソ間の武器輸送路を確立するため次のごとき対策を至急実現することになった
一、アメリカ製最新式爆撃機ならびに戦闘機を多数ソ聯の東部戦線に輸送するため従来のシベリア・ルートのほかに南大西洋および西アフリカ経由のイギリス近東軍に対する輸送路をさらにソ聯まで延長する新ルートを開く
二、従来のシベリア・ルートは太平洋またはアラスカ経由の海上ならびに空中輸送を併用して最大能力を発揮するが、その門戸はウラジオストックとなし、爆撃機は陸揚げまたは到着後直に空路シベリアを横断して東部戦線に向うがウラジオストック[Vladivostok]モスクワ間に多数の特別中継飛行場を昼夜兼行にて建設中である、したがって今後アメリカよりソ聯に供給される軍用機は続々シベリアを横断してソ聯空軍の再建を助けることになった
三、アメリカ政府はソ聯に対する武器輸送ルートの能率を発揮するため現在の英米間の大西洋横断の定期連絡に倣って汎米航空会社に命じ大型クリッパー機によるアラスカ、ウラジオストック[Vladivostok]間の定期空路ならびに西アフリカおよび地中海経由エジプトソ聯間の二大援ソ・ルートの実現をはかることに決定した
四、かくて英米ソ三国は対独共同作戦遂行のために完全なる軍事相互援助を実現するであろう
(浦潮アラスカ間に定期空路 : 米、援ソ・ルートを拡充引用終わり)
ウラジオストック[Vladivostok]は、1860年にロシア帝国の前哨基地として設立された。1872年、太平洋沿岸の「東方要塞」に面したロシア海軍の軍港として整備された。第一次世界大戦中の1916年にハバロフスクまでシベリア鉄道(Trans-Siberian Railway)が開通し、アムール鉄道と繋がり、ロシア国内を通るシベリア鉄道が全線開通した。
しかし、1917年のロシア革命が勃発すると、日本・アメリカ・イギリスなどドイツと戦っていた連合軍がシベリア出兵をはじめ、1918年には連合国軍が占領した。シベリア出兵が終えたのは、日本が最後の撤兵した1922年である。連合国軍が去ったあと、ウラジオストクではソビエト政権の支配下に置かれた。その軍港は、第二次世界大戦の初期の1941年夏から、アメリカの武器貸与法に基づいてソ連への軍事援助物資が送られた。
日本は、反共の立場からこの極東ソ連援助ルートを封鎖しなかったが、これはアメリカとソ連に同時に戦うふりを避けるためだったのであろうか。それとも、ソ連へのアメリカの軍事援助の重要性を認識できなかったためであろうか。対ソ戦、対米戦の決定過程で、この極東ルート封鎖の計画を持っていないなら、それは軍事力、指導者の能力が足りなかったからであろう。
1941年4月、日本の松岡洋右外務大臣は、ベルリンからの帰国途上、モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約の締結に成功した。極東での安定的な国際関係の形成という僥倖に直面した直後、1941年6月の独ソ戦の勃発で、日本は混乱した。このような混乱した日本指導者にとって、日ソ中立条約を破棄して、ソ連攻撃をする、ソ連への医薬となるアメリカからソ連への軍事援助を遮断する決断はできなかったのであろう。1939年9月に集結したノモンハン事件で、日本はソ連の軍事力の大きさに警戒心を強めたことも対ソ戦開戦を忌避した理由であろう。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、アバダン、イランにフェリーで派遣されたイギリス・インド軍が上陸用の小型船に乗り換えた河川上流に向かう。:野砲を保持していない警備用のインド人歩兵部隊が大半と思われる。後方のフェリーの艦首上甲板には、3インチ級の艦砲1門が据え付けられている。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Slinging guns from a Transport.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5313
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5313)引用。
カルーン川(Karun River)を遡上した場所にあるアバダンやホラムシャールの港湾は、堆積物の流れてくる大河の河口で、水深が深くないために、大型輸送船の入港が制約される。そこで、イギリス・インド軍は、吃水の浅い艀やフェリーを用意し、カルーン川(Karun River)を移動して上陸部隊を揚陸した。しかし、吃水が浅い船舶は、外洋航行にはトップヘビーの傾向が高く不向きである。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、アバダン沖、イランに輸送船で派遣されたイギリス・インド軍の火砲積み下ろし作業:この火砲は、イギリス陸軍が1936年に制式したオードナンス QF 2ポンド速射砲(Ordnance QF 2 pounder)あるいは、オードナンス QF 3.7インチ山砲(Ordnance QF 3.7 inch Mountain Howitzer)と思われる。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Slinging guns from a Transport.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5313
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5313)引用。
オードナンス QF 2ポンド速射砲(Ordnance QF 2 pounder)の諸元
重量 814kg(1,794ポンド)
銃身長 2.08m(6ft 10in)L/52
砲弾 40×304mm.R
口径 40 mm (1.575 in)
仰角 -13° to +15°
旋回角 360°
発射速度 22rpm
砲口初速 792m/s(2,600ft/s)
有効射程 914.4m(1,000yds)
最大射程 7,315.2m(8,000yds)
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、アバダン、岸壁にオードナンス QF 3.7インチ山砲を港湾に据付けられた大型クレーンを使って陸揚げするイギリス・インド軍:ゴム主輪付きの機動榴弾砲を岸壁にクレーンを使って下ろしているが、上陸作戦にはイラン軍の激しい抵抗はなかったようだ。クレーンの基部には、ターバンを被ったシーク教徒の兵士の一団が控えている。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: A gun being slung ashore from a transport.
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5314)引用。
イギリス陸軍オードナンス QF 3.7インチ山砲(Ordnance QF 3.7 inch Mountain Howitzer)の諸元
口径:3.7インチ(94mm)
重量:1610lb(729.3kg)
砲身長:43.5インチ(1104.9mm、11.8口径)
仰俯角:-5°~+40°
左右旋回角:40°
射程:5,899ヤード(5,394m)
1930年代に入って、野砲にゴムタイヤ(ゴム主輪)が装着されることが多くなった。これは野砲をは、馬匹ではなく、牽引車による高速移動させ、機動性を確保するためである。木製車輪では、砲架への振動が大きく、野砲に不具合を生じさせるリスク高いため、自動車牽引で高速移動しても振動の少ないようにゴム主輪(タイヤ)が装着されている。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、アバダン近く、カルーン川を艀で移動するイギリス・インド軍のオードナンス QF 3.7インチ山砲と思われる機動野砲:自動車や牽引車で曳くためにゴム主輪付きでの機動野砲が1930年代に開発された。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Catalogue number
E 5307
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5307)引用。
イランの国土は 日本の5倍、165万km'で5割が山地で、多くは乾燥地帯であるが、ザグロス山脈からカスピ海沿岸にかけては、年間50mmから1,000mm以上の降雨が観測される。そのため、カスピ海沿岸は湿潤で、温帯のために森林もある。またザクロス山脈には、硬葉カシ(Quercus)の森林もある。多様な地形と機構の下にあるイランは、山地54%、砂漠21%、農地14%、森林7%とされる。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、イラン侵攻に用いた船舶を警護するイギリス・インド軍の兵士:小銃の射撃準備をしているが、イラン軍将兵の抵抗はほとんどなく、制圧したようだ。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Object description
Original wartime caption: Machine gunners of an Indian Regiment covering the ferry.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5309r
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5309)引用。
リー・エンフィールド(Lee-Enfield)小銃(Lee-Enfield)は、イギリス陸軍が1895年に制式した槓桿式(ボルトアクション)ライフル銃で、第二次世界大戦時でも、イギリス軍の主力小銃として配備されていた。
リー・エンフィールド(Lee-Enfield)小銃の諸元
口径 0.303インチ (7.7mm)
銃身長 25.2インチ(640mm)
使用弾薬 .303 British(7.7mm x 56R)
装弾数 10発
全長 44.5インチ(1130mm)
重量 3900g(弾薬除く)
発射速度 20〜30発/分
銃口初速 744m/秒
有効射程 1000ヤード (約918m)
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、イラン侵攻に用いた船舶をヴィッカース水冷式重機関銃(Vickers machine gun)を構えて警護するイギリス・インド軍の兵士:ビッカース機関銃の射撃準備をしているが、イラン軍将兵の抵抗はほとんどなく、制圧したようだ。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Machine gunners of an Indian Regiment covering the ferry.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5308
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5308)引用。
ヴィッカース水冷式重機関銃は、1912年11月と第一次世界大戦前に試作が完成したイギリス陸軍の主力重機関銃である。弾薬はイギリス陸軍制式のリー・エンフィールド小銃と同じ起縁のあるリムドの.303ブリティッシュ弾(7.7mm×56R)である。給弾方式は布製ベルトに250連発である。の布製リンクに装着して使用する。第二次世界大戦前に戦闘機用に空冷式機関銃として採用されたが、第二次大戦勃発時には、ヴィッカース重機関銃は、発射速度、射程、弾丸の威力の点で旧式化していた。そこで、軽量で高性能なアメリカ式ブローニング .303 機関銃に変換された。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、イラン侵攻に用いた船舶をヴィッカース水冷式重機関銃(Vickers machine gun)の射撃姿勢で警護するイギリス・インド軍の兵士:ビッカース機関銃の射撃準備をしているが、イラン軍将兵の抵抗はほとんどなく、制圧したようだ。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Machine gunners of an Indian Regiment covering the ferry.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5308
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5308)引用。
ヴィッカース水冷式重機関銃(Vickers machine gun)の諸元
口径 7.7mm(0.303in)
銃身長 720mm
使用弾薬 7.7mm×56R(.303ブリティッシュ弾)
装弾数 250発(布ベルト)
作動方式 ショートリコイル方式
全長 1,100mm
重量 33~50kg(全備重量)
発射速度 450ー600発/分
有効射程 740m
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾近く、アバダンを占領したイギリス・インド軍が捕虜にしたイラン労働者とコミュニケーションを図る。:戦闘で死傷者をほとんど出さなかったのか、イギリス軍の物資・給与につられたのか、イラン労働者は仕事口を求めているようだ。イギリス軍は、枢軸国、前イラン皇帝の独裁に抑圧されていたイラン人の味方であるとの宣伝的写真を公開しているようだ。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Original wartime caption: Troops fraternising with Iranians at Abadan.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5318
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5317)引用。
アバダン(آبادان)は、ペルシャ湾から50キロ、ティグリス川とユーフラテス川の合流地点にある河港で、緩やかな流れに囲まれたアバダーン島に位置している。オスマン帝国(Ottoman Empire)の時代、第一次世界大戦前に油田が発見され、1912年にアバダン製油所が設置された石油港湾都市である。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾と河川で繋がったアバダンを占領したイギリス・インド軍に尋問を受けるイラン軍将校の捕虜:警備任務に就いていた現地のイラン軍将兵の多くは、侵攻してきたイギリス軍大部隊に抵抗することなく、すぐに降伏したようだ。英語やドイツ語のできるイラン軍将校捕虜は、イギリス軍将兵とイラン兵捕虜の通訳として利用された。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: A captured Iranian officer talking to a British officers through an interpreter, at a forward post.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5319
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5319)引用。
第二次世界大戦を通して、イギリス陸軍将兵が手にした小銃は、1895年制式の槓桿式(ボルトアクション)リー・エンフィールド(Lee-Enfield)小銃(Lee-Enfield)である。イギリス軍は、第二次世界大戦時でも、大維持大戦同様の槓桿式小銃しか装備していなかった。つまり、イギリスは、アメリカ、ソ連と異なり、第二次世界大戦終結までに国産自動小銃を配備しなかった大国であり、これは日本、イタリアと同じである。
ドイツは少数のG.41(W) 自動小銃、G.43自動小銃、FG42自動小銃を配備した上で、さらに連続発射可能な小型弾薬を用いたStg44突撃銃を開発、大戦末期に部隊配備した。これが、ソ連のAK47突撃銃への発展するのである。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、アバダンを占領したイギリス・インド軍の捕虜になったイラン兵士が荷物検査を受けている。:脇に立っているのは、捕虜になったイラン兵士通訳のようだ。イラン軍将兵の抵抗はほとんどなかったが、イラン海軍の一部は抵抗し、先任士官が戦死している。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Original wartime caption: Iranian prisoners opening a parcel for inspection by a British officer
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5318
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5318)引用。
ペルシャ湾に臨むアバダン(آبادان)では、イランの石油の大半が算出しており、その油田と製油所を無事に占領することは、侵攻したイギリスにとって最重要課題だった。油田や精製所の破壊は、占領後の採掘再開に多大な時間を費消することになってしまうからである。油田や港湾で働くイラン人労働者とは、有効な関係を築くことが大英帝国の占領政策に求められたのである。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、アバダンの油田と石油パイプラインをほぼ無傷で占領したイギリス・インド軍:2019/01/25(金)Economic Media Bulletin (EMB)記事によれば、イランのザンギャネ石油相は23日、同国南西部アーバーダーン(Abadan)で新たな油田を発見したと発表した。同地域で油田が発見されるのは初めて。ロイター通信などが伝えた。 石油はペルシャ湾ミヌー(Minoo)島の探査井の地下3,570メートルで発見された。API比重40度の特軽質原油で、埋蔵量は不明。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Indian riflemen guarding the pipeline across Persia. For the most part it is undamaged.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5335
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5335)引用。
イランの南は、ペルシャ湾とインド洋に面しているが、中東におけるイラク、サウジアラビアとの対抗上、イラン海軍では、ペルシャ湾の制海権の確保が主眼になったようだ。そこで、大型艦艇でも駆逐艦でもなく、水雷艇、哨戒艇クラスの小型艦艇をイタリアから輸入して配備していた。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ホラムシャール、イギリス・インド軍が鹵獲した2隻のイラン海軍イタリア建造の警備用砲艦:331 tons, 52 x 6.7 x 1.83m ships equipped with two Fiat diesels rated for 900 hp, top speed 15.5 knots and armed with two 75 mm and two 37mm dual purpose QF guns. All were launched in 1931.。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: Two Iranian gunboats captured by us at Khorramsharr.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5342
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5342)引用。
イタリア製造の砲艦チャログ(Charogh)は、排水量331 t,全長 52m x 全幅6.7m x 全高1.83m、 フィアット(Fiat)製ディーゼルエンジン(900 hp)搭載,最高速力 15.5 knots、75 mm砲2門、37mm連装速射砲2基を搭載。75mm砲は対艦船用の艦砲で、仰角は小さく、対空用の照準器はついていない。この砲艦チャログ(Charogh)は、4隻あるがいずれも1931年就役で、イランは4隻を購入した。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、アバダン北10km、カールーン川の河畔、ホラムシャール(Khorramshahr)、イギリス・インド軍が鹵獲した2隻のイラン海軍イタリア建造の砲艦チャログ(Charogh)とシムルグ(Simorgh)搭載の75mm単装砲: 港湾都市ホラムシャールは、標高4000mのザグロス山脈から流れてくる大河「小ティグリス川」カルーン川の対岸にアバダン島臨む位置にある。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA). Original wartime caption: Gunners who took part in the battle, examining the Italian guns of the two Italian built gunboats captured by us. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer) Keating, Geoffrey John (Undefined) Production date 1941-09-04 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 5344
写真は,Imperial War Museums 2024・IWM (E 5344)引用。
1922年にイランは、ドイツ海軍の第一次大戦型掃海艇(minesweeper) FM24(1918年型170 tons)を購入し,ファティヤ(Fatiya)と命名し使用した。のちに1926年に艦名は、パフレヴィー(Palhavi)に変更され、さらに1935年にシャー(Shahan)に再変更されている。また、イラン海軍は、イタリアが建造した2隻の102mm砲搭載の哨戒艇(スループ:sloop),4隻の魚雷艇(MTB)。6隻の砲艦(motor gunboat)を購入している。そして、1936年に皇室専用ヨット(Royal Yacht)チェサバー(Chahsever)、タグボート二ロウ(Neyrou)も購入している。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ホラムシャール、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra)が破壊したイラン海軍旗艦哨戒艦艇(Sloop)ババール(Babr)の艦砲:奥には102mm級艦砲がついているが、これはイタリア製チャログ(Charogh)級砲艦の艦砲とは防盾の形状が異なるので、ババール(Babr)後甲板の艦砲であろう。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: A sentry examining a Naval gun which received a direct hit.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5349
写真は,Imperial War Museums 2024・IWM (E 5349)引用。
1941年8月25日のイギリス軍のイラン侵攻で、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra:排水量1000トン)を基幹とする部隊が、ペルシャ湾岸アバダン、ホラムシャールを攻撃し、占領した。イタリア製チャログ(Charogh)級砲艦4隻は、イギリス軍に無傷で鹵獲されてしまった。しかし、この奇襲攻撃への反撃戦で、イラン海軍の先任士官ゴラマリ・バヤンドル(Gholamali Bayandor:1898–1941)准将(Rear Admiral)は、戦死している。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ホラムシャール、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra)が撃沈したイラン海軍旗艦哨戒艦艇(Sloop)ババール(Babr):哨戒艦艇(Sloop)ババール(Babr)は、イタリア建造の排水量950トンのイラン海軍最大級の戦闘艦で、イラン海軍旗艦となった。ホラムシャールは、イラク国境付近、現在のクウェート国境付近にある港湾都市でペルシャ湾にカルーン川を通じて河口でつながっており、外洋にも航行できる交通の要衝である。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: A general view of Knorramsharr showing the sunken "Babr" in the foreground.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5348
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5348)引用。
ペルシャ湾につながるホラムシャール(Khorramshahr)は、イラク国境付近、現在のクウェート国境付近にある港湾都市である。標高4000mのザグロス山脈から流れてくるイランの大河「小ティグリス川」カルーン川(Karun)の対岸にアバダン島を臨む位置にある。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ホラムシャール、イギリス・インド軍が撃沈したイラン海軍旗艦ババール:
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: The flagship of the Iranian Navy, the "Babr" which was sunk at Khorramsharr.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5346
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5345)引用。
オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra:1936年1月竣工)の搭載するアームストロング 10.2cm(45口径)単装高角砲4基の砲撃によって、イラン海軍旗艦ババールがイラン南西岸ホッラムシャフルで1941年9月4日には岸壁で撃沈されていたのであれば、侵攻してきたイギリス・インド軍の一方的な攻撃を受けたのであって、大きな抵抗はできなかったと考えられる。
1941年12月7日の日本海軍にょるアメリカのハワイ真珠湾奇襲攻撃と同じく外交交渉中にいきなり「騙し討ち」を受けたとイラン軍人は思ったであろう。
写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ホラムシャール、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra)が撃沈したイラン海軍旗艦ババール:ホラムシャールは、交通の要衝にあるイラン海軍の軍港だったが、イランに侵攻してきたイギリス軍に、大きな抵抗をすることなく占領されてしまった。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA).
Original wartime caption: The flagship of the Iranian Navy, the "Babr" which was sunk at Khorramsharr.
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Keating, Geoffrey John (Undefined)
Production date
1941-09-04
Materials
whole: Nitrate
Catalogue number
E 5345
写真は,Imperial War Museums 2024・Image: IWM (E 5345)引用。
イギリス軍隷下、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra:排水量1055トン)などによるイランのアバダン、ホラムシャール侵攻によって奇襲されたイラン海軍は、3隻のアゼルバイジャン級(Azerbaidjan class)ボート、2隻のババール級スループ(Babr sloop)を撃沈され、4隻の砲艦チャログ(Charogh)級砲艦はイギリス軍に鹵獲された後、イギリス海軍で運用された。その時には、75mm砲を対空砲に換装している。戦後、1946年にイラン海軍に返還され、元の艦名に戻った。
オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra)は、1936年1月竣工、排水量1055トン、全長 81.2m、全幅 11.0m、吃水 3.07m、最高速力16.5ノット、航続距離5500マイル/15ノット、乗員400名、アームストロング 10.2cm45口径単装高角砲4基、オチキス 4.7cm43口径単装機砲4基、ヴィッカース 4cm39口径単装ポンポン砲4基、爆雷15発搭載である。1942年3月4日、オーストラリア海軍グリムスビー級哨戒艇(スリープ)ヤラ(HMAS Yarra)は、船団護衛中、僚艦アンキン、フランコル、MMS.51とともにジャワ島沖で、日本海軍の重巡洋艦愛宕、高雄、摩耶、駆逐艦嵐、野分に捕捉され撃沈した。
写真(右):1942年9月28日,イラン、テヘラン、検閲を受けるイランに侵攻したイギリス軍憲兵隊:
Artist
Hansbury (Sgt), No 1 Army Film & Photographic Unit
Description
English: The British Army in the Middle East 1942
Military Police at the training depot in Tehran learning how to salute correctly, 28 September 1942.
Date between 1939 and 1945
Source/Photographer
This photograph E 17489 comes from the collections of the Imperial War Museums.
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:The British Army in the Middle East 1942 E17489.jpg引用。
軍事警察官といえる憲兵は、本来は、民間人というより、兵士に向けた警察である。しかし、権限は民間人にもおよび、戦時下では総力戦を遂行するために、市民の思想取締り、治安維持も任務とする。
1941年6月22日に独ソ戦が勃発すると、イギリスは即座にソ連への軍事援助を行うと表明し、アメリカの武器貸与法(Lend-Lease Act)による物資支援をするために、8月25日にイランに侵攻、次いでソ連もイランに侵攻した。理由は、
1)ペルシャ湾とソ連とを結ぶペルシャ回廊の補給ルートを確保するため、
2)ペルシャ湾岸のイランの油田を確保するため、
である。
2−D.イラン国王 : 東人西人
大阪朝日新聞
Vol: 第 6巻
Page: 120
出版年
1941-08-23
英ソ両国政府は去る二十日、イランに対し共同通牒を突きつけ、一週間の期限附をもってイラン在住ドイツ人の国外総退出を迫り、もしこの要求を拒絶すれば英ソ両軍はイランに進駐するの態勢を示している、右要求に対しイラン国王レザー・シャー・パレウイは悲壮なる決意のほどを示し、イラン政府またイランはあくまで領土保全と厳正中立の態度をとるのものでなかったいう
レザー・シャー国王は不世出の英傑と謳われ、大の親日家で我が国との間にも公使を交換、イラン鉄道敷設準備の際我が国からの技師の招聘、日本との貿易促進等に自ら意を注がれたという
[写真あり 省略]
一八七八年裏海[Caspian Sea]南岸の一貧農の子として生れ、一九〇〇年ペルシア・コサック旅団に入隊、第一次大戦に殊勲を現して師団長に昇進、二一年ペルシア協定に関連して擾乱起るや、首都テヘランを乗取って、自己の推す政府を作らしめ、自らは陸相兼陸軍総司令官として羽振りを利かせ、二三年には首相として独裁官的勢威を揮った、同年国王アーメッド・シャー[Ahmad Shah Qajar]国外に去るに及んで、二五年前王朝を廃して自ら国王として即位すべき旨宣言、二六年以来イランをして立憲君主国としての形態を整えしむるに至った
鋭意国内の統一、行政および軍隊組織の改め、国家的には三七年イラク、トルコ、アフガニスタンとの間のサーダバッド不侵略条約、イラクとの間の国境紛争解決協定の締結、皇太子[モハンマド・レザー]のエジプト皇妹[ファウズィーヤ・ビント・フアード]との成婚等によって回教国との間に和睦政策を促進し、また国家主義の昂揚によって欧洲の帝国主義的覇絆から脱するに努め永年イラン国内に根を張っていた英ソの勢力にも相当の掣肘を加え、遂に新顔のドイツ人技師商人らは好感をもって迎えらるるに至った
(イラン国王 : 東人西人引用終わり)
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連コーカサスまで輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)のエンジン点検:鉄道は1939年以来、敷設されていたが、山岳地の自動車道路は新たに建設する必要があった。雪道をジープの先導でソ連まで輸送する。これは、ビルマから中国へのビルマルートと同じく、山岳つの峠越えを含む自動車道路であり、建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費、補給施設の整備など、制約が大きかった。
A truck driver checking the oil. He is with a United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. Somewhere in the Persian corridor
Digital ID: (digital file from original neg.)
写真は、Library of Congress Prints and Photographs Division fsa 8d29399引用。
1939年、アメリカ陸軍補給部は、12フィート(3.7 m)の荷台、積載重量2.5ショート・トン (2.3トン)、六輪駆動のトラックの開発を要請した。これにスチュードベーカー、GMC、インターナショナルハーベスターが応じ、みな採用された。
スチュードベーカー製2.5tトラックは武器貸与法による援助用に、GMC製GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックはアメリカ陸軍用に、インターナショナルハーベスター製2.5tトラックはアメリカ海軍とアメリカ海兵隊用に生産されることになった。
GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4.8t、全長 6.86m、全幅 2.24m、全高2.77m(荷台幌)、GMC 270 6気筒ガソリン搭載、燃料容量 150 L、航続距離 480 km。
1941年3月の武器貸与法[Lend-Lease Act]に基づき、ソ連に貸与されたスチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、20万台が生産され、その8割近くの15万台に達した。
スチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4,479 kg(U3)、4,756 kg(U4)、全長6.37 m(U3)、6.74 m(U4)、全幅2.24 m、全高2.21 m(荷台幌)、GMC 270 直列6気筒5.2Lガソリンエンジン、6x6輪駆動 又は6x4輪駆動、燃料容量 150L(40ガロン)、航続距離380 km。
写真(上):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)輸送隊:トラック本体の荷台ではなく、車輪のついたトレーラーを繋いでいるトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)である。トレーラーの分だけ、車輪が多くなっている。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia on a desert road. This is the beginning of a tough trip
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028460-E [P&P]引用。
2ーE1.イランを繞る新情勢 (上・下)
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 55
出版年
1941-08-26
(上) 英露の頤使に応ぜず "中立"遂に戦火を招く
これまで英邁かつ善謀の誉高かったパレヴィ皇帝[Reza Shah Pahlavi:1878—1944](六十五歳)の治下、面積六十二万八千万マイル、人口千五百万のイラン国にも英軍の侵入によってヨーロッパ大戦の焔が延焼するに至った。
そは何故であるか、第一としてはドイツの東進が、独りウクライナ[Ukraine]の農園支配と鉄、石炭に満足せずしてさらに前進、コーカサス、裏海岸に出づべきがためである、この地帯は前回第一次大戦のときも、ドイツは長期戦の物資策としては、当時三方の海が連合国に封鎖せられている以上、ウクライナ[Ukraine]およびコーカサスへの進出を策していたものだ、これは大正五年頃早くすでにロンドン、パリ敵国筋専門学者にさえ漏聞して研究題目となっていたものである、渡欧中の余も触れたのである、ただ大正七年十一月休戦急来で、独の歩みはウクライナ[Ukraine]に終ったのであった。
ところで今回は航空機大発達とともに石油需要大飛躍せる折柄、年産額三千二百二十三万トン(一億九千三百三十万石)のバクー油田[Oil wells in Baku]すなわちソ連石油総産額の八割を狭き地域に集中しているこの貴重なる地域をドイツがどうして黙過しおこうぞ。
否、これが独の掌裏に落つるとき、露の糧を奪い自己のそれを充たすという二重の利益あるのみではなく、さらに独はこの地域から南下して、もって英資経営のイラク石油(年産四百万トン、二千六百万石)をも潰滅し得るではないか、英露がバクー確保または救援に関心するのは不思議ではないのである。
第二として、ソ連軍は過去二箇月の連続敗戦において軍器消耗、新供給なしには対独抗戦に苦しまねばならなくなっている、これを行うの道として、東亜は遠い、政情も、輸送方法も簡単ではない、この間イラン経由の道筋は最も近い、殊にこの国は北はロシア、南はイギリスと勢力相対峙し、最近でも公闘、暗闘があったものの、今や両国が同盟国化した以上、面倒はない、装備不十分とイラン国軍二十万、古航空機二百の如き、問題にはならぬと彼らは思うであろう。
かくて一方英軍が西、北イラクおよびバスラの両方面からイラン首都テヘランを目指し東印度国境からベルチスタン[Beruchisutan]を経、ウェーヴェル[Archibald Percival Wavell]将軍下に大兵を動かし他方ソ連は五十万の兵をイラン国境に集中し、一面在イラン国ドイツ人の放逐を要求し、他面イラン鉄道支配、目下すでにペルシア湾に送りはじめたといわれる軍需品の北送および軍兵進出を企てつつあるのも、諒解し得られないことではないのである。
だがイラン国は、いままでのところ、毅然局外中立維持、英露の頤使には応ぜざるごとくである、駐米イラン公使シャエ・ステク氏などは「いずれの国を問わず、国土に侵撃し来るものには応戦す」と言明し、[コーデル]ハル[Cordell Hull]米国国務長官から英ソ両軍イラン進撃支持の否認を得たのである。
これはパレヴィ帝[
רזא שאה פהלווי]の過去を知るものの当然とせねばならぬところである、帝は国権回復、独立確立運動の権化であった、ロシア、イギリスの「半保護国策」を脱し得たのは、帝の事業そのものであった、従って帝としては、その「局外中立策」が二国の御都合の間に蹂躪せられることは、最も遺憾とせらるる点ではなかろうか。
ことに今英ソが北進に使わんとするトランスイラン鉄道[Trans-Iranian Railway](ペルシア湾のバンダーシャフルから裏海岸バンダーシャに至る八百六十六マイルの線)は三千万ポンドを費し、昭和二年起工、昭和十三年竣工したものだが、特徴は帝が全く外国資本を排斥し、茶、砂糖専売税による国費によった名誉あり意義深い産物なるを記せねばならぬ(仕事の上にはドイツ、フランス、スカンジナヴィア、米、英、伊、白諸国人の手をも要したのであるが)
また殊にイランは近年同国内には既得権少く危険少きドイツ人の方を安全として招致し、諸事業を興していたものである、そのドイツ人わずか六、七百名をば英ソ圧迫の下に放逐して、独の武力干渉を誘うことが、どうして常理に通じ、どうして国利に合するわけがあろう。
さらに今までのイギリス、イランおよびソ連のイラン関係を見るときは、ますます瞬間における「打算の圧倒的命令」によるほか、イランを英ソの味方化するの不自然なるを思わしむるのである。
何ぞや、まずイギリスからいうと、世界大戦後ソ連が混沌化し、イランを英露両国勢力圏に分った一九〇七年協約が空無に化する運命となると、膨脹好きの英外相カーゾン卿[George Curzon]らは「イランの英保護邦化」の千載一遇の好機を発見し、大正八[1919]年八月九日の「英波協約」[Anglo-Persian Agreement]を造ったのである。
それは第一条に形式的にペルシア独立尊重を謳いながら、第二条以下に「各官省に英人顧問を招聘し、かつこれに十分なる権限を与うこと」「ペルシア陸軍は英将校の指導下に立ち、兵器も英より供給す」「鉄道は英資本でやり」「関税改正も英人の手にて行う」と、すべてイギリスに都合のいいように定めたのである。
イラン国民族熱[nationalism]は猛烈にこれに反抗した、同保護条約が批准を得るため議会に提出せらるる毎に議員らは欠席した、かくして欠席すること二年間、流石のイギリスもどうも出来ず、在イラン英官吏も障碍に苦しみ、退去するもの生じそれで大正十年同[英波]協約[Anglo-Persian Agreement]は放棄せられた、そしてこれには裏面パレウイ帝(即位前)らの動きが与って力があった。
帝は卑賤に生れ、十六歳陸軍に入り、陸軍長官から首相となりその間、夙夜苦心外力排除に尽くしたのである、その成功の裏に百四十年間君臨のカジャル帝家[Qajar Iran]の廃位の後を承けて、大正四年十二月新帝朝を創始したる英雄なることは、今更繰返すまでもないであろう。
2−E2.イランを繞る新情勢 (上・下)
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 55
出版年
1941-08-26
(下) 英ソ、積年の圧迫 注視の的・独土の出方
その後もイギリス、イランは度々抗争関係に立っていたのである。主要争点は、英系アングロ・イラン石油会社([Anglo-Iranian Oil Company]問題、ペルシア湾支配権問題であったが、第二次ヨーロッパ戦開始後になると、ソ連の弱勢に乗ずるイギリス海軍根拠地獲得策さえも登場し来ったのである。まずパ帝は英イ会社[アングロ・イラン石油会社(Anglo-Iranian Oil Company)]が圧倒的な独占権を持ち、しかもイラン国費に貢献せざるを忌み、昭和七年断乎同会社コンセッションを取消し、英の反抗に会したのである。
ただ幸いに国際連盟理事会[United League Nations Security Council]に附するを得、一方小国支持のベネシュ([Edvard Beneš]チェッコ外相)が動き他方イギリスも檜舞台のこととて極端な利己振りを永く固執しかね昭和八年二月イラン側の勝利となり、特許区域を五十万方マイルから二十五万方マイルに減少し、同十三年に十万方マイルに減少する件、英人の代りにイラン人使用を増加する件等定められた。
だが其後も英の老獪な転覆策はやまぬのであった。ゆえに帝は英系シーボルド石油会社その他を誘致し大いにこれが制御策に努めたのである。(昭和十二年二月イラン議会の米権益可決参照)また昭和十一年にはペルシア湾バレイン島([Bahrain]において英によるイラン主権侵害問題擡頭し、同十年、十一年にはイラク、イラン国境河流につきての英の態度が非難の標的となり、十四年には欧戦開始後英によるイラン行独貨差押えと、ペルシア湾英海軍根拠地増加主義とにより双方悪寒を加えて来た。
したがって、最近イラン官民の思潮は、到底英イ提携に適すべくもなかったことは、決して識者を偽って初めて分ることではなかったのである。
つぎにソ連はどうかというと、第一次大戦の終末頃こそ、赤露当局は帝国主義諸条約を廃棄し、在イラン露将校は「諸君は十一年間ロシアを恐れて自由祭(憲政記念祭の意)を行わなかった。今や恐るる要はない。諸君万歳」と叫んで、イラン人に喜ばれたのである。しかも近年スターリンの「膨脹愛好への改宗」とともに、度々イラン威圧乃至脅迫が繰返されているのである。
すなわち昭和十四年十月イランにおいて新たに石油利権と米生産支配権を求めたる、さらに十五年七月ソ連およびイラン国境クルヂスタン少数民族問題の解決を名目として、北部ホラサン、エステラバート、マザンデラン、ギラン、アセルバイシァン[Azərbaycan]を含むイラン領を、ソ連に割譲するよう新国境の画定を主張したるなど、顕著の例である。従ってイランは依然ソ連を畏れこそすれ、到底衷心からソ連の友侶たるべくもないのである。
ただこの間滑稽千万なのは、ソ連が「イランに軍隊進駐の条約権あり」と過日来もっともらしげに吹聴を続けたことだ。余は敢えて滑稽という。何となれば、空中楼閣ではなくても、変造改色も甚だしいからだ。
真相を述ぶると、昭和十年四月イラン代表訪露、同八月イ・ソ通商協定ができソ連は機械道具などをイ国に供給し、諸工場開設を助けることとなったが、この良好空気の中にイラン、トルコ、ソ連間に政治的諒解(アルタン・コルジァル)成り「事情が起り来った場合には、三国協同行動に出づること」を定めたのである。これが時にソ連はイランに兵を入るることもあり得るといえるであろう。
だがそれはイランもしくはトルコに難関生じたるとき、やむを得ず強国ソ連にも援助を求むるを意味するものであり、弱小国自身の必要に出づるのである。今回のように、大国ソ連自身の必要から、中立の小国を渦中に巻込む精神のものでないのである。
殊に四、五年来、イランは地理的に遠く心配少きドイツに近づいて来た。昭和十二年五月鉄道機関車客車類その他供給をクルップ会社などに仰ぐ契約をなし、翌十三年ドイツ会社をイ国鉄工場など諸事業に招き、また大いに]独ルフト・ハンザ航空会社[Lufthansa]にも活動を加えしめている。かかる大勢の中においてパレヴィ帝が全く英ソ両国の要求に屈服しなかったのも、だれが不思議とするものがあろう。
しかも英ソ両軍の進軍は開始せられた。昭和二年および昭和八年、ソ連イラン不可侵条約[The Soviet-Persian Treaty of 1921]なども空文化し終ったのである。ところでドイツとトルコはどうするか、これが問題である。
ドイツとしては、黙過し得べくもないので、外電の伝える通りに恐らくはコーカサスへの突進を企つるであろう。だが同地のソ連の防備は堅固でこれに時日を要しそうでもあり、また英軍北進の阻止には道遠いので、やむを得ずトルコ横断が企てらるべきは、自然ではなかろうか。
トルコは昭和十年故ケマル[Mustafa Kemal Atatürk]大統領、バラウィ主席会見以来、大いに接近し十二年サーダバッド四国協約以来盟邦である。だがこれのみでは解釈自由の余地があるが、独から領土横断を求めらるとせばどうしても進退決定を延期し得べくもないであろう。同国はソ連とよい外に昭和十一年モントルー会議において英の助により「海峡主権」を取戻しその後度々多額の借款を受け他国枢軸側イタリアのアジア・トルコ発展陰謀を疑いたるため一昨年十月英仏土同盟条約を締結したのであった。だが多年貿易はドイツを主とする(一九三八年トルコの輸入の五割一分三厘同輸出の四割七分五厘はドイツこれを占む)上に、最近パーペン[Franz von Papen]独大使の異常なる外交的活躍があり、殊に昨年五、六月独の対仏戦勝、今春バルカン戦勝並にイギリスの武力に対する信用の減退、さらに伊国の前進目標がトルコ領にあらざることが判明して、一転俄に独土接近の勢を誘致したのであった。
ことに英仏土同盟は仏の脱退によって「重大事情変更」の原則にもとづき無効化し、かえって本年六月の独土友好条約の出現とはなったのである。これ衆目が大いにトルコに向けられつつある所以ではなかろうか。このとき故ケマル・パーシャ[Mustafa Kemal Atatürk]世に在らば、果断疑いがない。だがイノニュー[İsmet İnönü]現大統領は武人ながらも度々諸国際会議に臨み、つとに慎重かつ巧妙をもって名あり、極端より中道を選ぶ傾向の人である。
従ってこの際、世人はドイツの作戦と、このトルコの進退とを、イラン政府の英ソ侵入対策の如何と相並んで、注視の目標とせねばならぬであろう。(
イランを繞る新情勢 (上・下)引用終わり)
写真(右):1943年1月11日,イラン、テヘラン、行進するイランに侵攻したイギリス軍第2ノーザンプトン部隊(ヨ―マンリー):8月25日の英ソのイラン侵攻は、補給ルートと油田を確保するためとはいえ、中立国イランの主権侵害である。これは、1939年のドイツのポーランド侵攻に続くソ連のポーランド侵攻と同じ独立国に対する暴力的な侵略である。ヨ―マンリーとは、地域出身者の強度部隊を起源とするもので、連隊規模から大隊規模まである。
Artist
No 1 Army Film & Photographic Unit, Rooke (Sgt)
Description
English: The British Army in the Middle East 1943
Men of the 2nd Northamptonshire Yeomanry march through Teheran, 11 January 1943.
Date Taken on 11 January 1943
写真は,Wikimedia Commons, the Category:World War II forces of Britain in Iran・File:The British Army in the Middle East 1943 E21172.jpg引用。
写真(右)1940年7月末、フランス領インドシナ(仏印)、南部仏印、サイゴン、フランスを強引に説き伏せて進駐した日本軍部隊のサイゴン入城行進:1940年6月19日、ドイツのフランス侵攻では大敗しつつあったフランスに対して、日本はフランス領インドシナに、中国に対する物資援助経路となった仏印ルートの閉鎖を要請した。その後、6月22日にフランスがドイツに敗北すると、親独政権のヴィシー・フランス政府は、インドシナ総督カトルーを解任、フランス極東海軍司令官だったジャン・デクーを総督とした。そして、フランス権益の温存のために、日本との妥協を図った。そして、松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との交渉で、1)極東における日本とフランスの利益を相互に尊重、2)フランス領インドシナへの日本軍の進駐、が決まった。これが、1940年9月の北部仏印進駐である。そして、1941年7月28日には、日本軍は、南部仏印にも進駐したが、アメリカはすぐに石油禁輸を発表した。
Description
English: Japanese troop in Sai Gon, 1940
Date 26 July 2015
Source kienthuc.net.vn
Author Vietnamese
写真 Wikimedia Commons, Category:Japanese invasion of Indochina File:Kienthuc-linh-nhat-01 oxwk.jpg引用。
2−F.イラン侵入と仏印進駐 : 社説
中外商業新報
日本産業経済新聞
Vol: 第 52巻
Page: 56
出版年
1941-08-28
一
英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]と我方の仏印進駐[Japanese invasion of French Indochina]とは、其本質に於て又其形式に於て、全然異っているものであるから、固より彼此照応して考えらるべきものではないが、我方の仏印進駐を目して侵略なりと誹謗した其舌根未だ乾かざるに、間髪を容れず、英蘇軍がイランに侵入して、将に之を席巻せんとするに至っては、敢て予想すべからざる事態ではなかったけれども、其余りに言に信なきを看る。弱小国を侵すことを以て滔天の罪悪なりとする米国が、此非違を黙認すべき筈がないと思うけれども、近来は特に堅白同異の弁を弄するに至っている実状から見れば、或は黙して已むの態度を故意に採るかも知れぬ。他を咎むるものは先ず自ら省みて、一層戒慎自粛を必要とすることは、国際間に於ても個人間と同様の道念がなければならぬ。
然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。
二
我方の仏印進駐[Japanese invasion of French Indochina]は共同防衛の協定成り、極めて友好平和的に行われたのである。而して其基本観念は、倶に東亜共栄圏の建設に向って協心戮力せんが為に外ならないのであるから、そこに寸毫事端を発生するの余地もなく、又無用の刺戟や脅威を受くるものでないことは、進駐前後の事情と現在の実状とを見れば、殆ど説明の要があるまいと思う。之に反して英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]真はどうであるか、夙にイランは絶対に中立を維持せんとしている。
単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の[イラン]侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。
此位の理由を以て弱小国を侵犯して顧みずと云うのであれば、凡そ地上に弱小国の存立は結局不可能にならざるを得ない。弱肉強食と云うことは曾て聞く古俗の譬えに過ぎないと思っていたのに、眼前此事実を見るのは洵に遺憾の極である。正義人道、而して博愛を世界に高調して已まざる米国が、如何に之を観じ如何に対処すべきか。甚だ興味多く且つ重大なる問題である。
三
英蘇軍のイラン侵入[Anglo-Soviet invasion of Iran]真個の目的たるや、軍需資源としての油田を獲得するにあり、同時に援蘇通路を此方面に求めんとするにある。
其目的指標既に此の如しとすれば、要するに、自己の慾望乃至目的を遂げんとするに於て、一切他を顧みず、大義も名分も蹂躪して憚らざるものである。国家目的を達成せんとする秋には、蓋し或は若干の無理は已むを得ないかも知れないが、此の如き明々白々の非違を敢行するも、猶且つ独り豪語するばかりでなく、東亜の事態にまで容喙し来るのみならず、故意の非難を放つ如きは思わざるの甚だしきものであろう。何も此の如き故智を学ぶべきではないが、国家目的の達成に向って一路邁往するの精神だけは、冷静に検討するの必要もあると思う。
(イラン侵入と仏印進駐 : 社説引用終わり)
中立国アメリカは、第二次世界大戦初期の1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、戦勝後の支払いの約束で、戦時中にイギリス、ソ連、中国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドへの軍事物資を貸与した。ソ連へは1941年に建設したイラク(現在はクウェート)、アバダン飛行場で組み立てて、ソ連まで空輸した。このほか、アラスカ極東ルートもあったが、こちらは空輸に依っている。
中央研究院 臺灣史研究所Institute of Taiwan History 臺灣新民報掲載のイギリス・ソ連のイラン侵攻の関連記事一覧
興南新聞1941年2月
第3618號(1941-02-20)
刊別版次:
夕刊第1版
...イラン、イラク抱込み 英、益益執拗且つ高壓的...
興南新聞1941年5月
第3690號(1941-05-04)
夕刊第1版
...ソ聯の大軍續續 イラン國境に集結 獨、ソ間に一種の申合せ存在が.
興南新聞1941年5月
第3716號(1941-05-30)
夕刊第1版
...日、イラン修交條約 批准書の交換を了す 【東京發同盟】近東の友邦イラン國と我國との間に今回修交條約が成立することに
興南新聞1941年6月
第3729號(1941-06-12)
日刊第1版
...日、イラン間の 修好條約發効...
興南新聞1941年6月
第3745號(1941-06-28)
夕刊第1版
...イラン中立...
興南新聞1941年7月
第3750號(1941-07-03)
日刊第1版
...イラン勢力範圍決定を打診 英、ソ聯に對し...
興南新聞1941年7月
第3753號(1941-07-06)
日刊第1版
...イランが峻拒 英ソの軍隊通過を...
興南新聞1941年8月
第3779號(1941-08-01)
夕刊第1版
...英、イランに警告 獨のイラン進出切迫...
興南新聞1941年8月
第3787號(1941-08-09)
日刊第1版
...獨、イランに對し 警告的覺書手交...
興南新聞1941年8月
第3788號(1941-08-10)
夕刊第1版
結果節錄:
...イランを繞り諸說紛紛 戰火?海、近東方面に飛火か...
興南新聞1941年8月
第3791號(1941-08-13)
夕刊第1版
...イランの形勢緊張 英ソ國境に兵力集中...
興南新聞1941年8月
第3797號(1941-08-19)
夕刊第1版
...イランに警告 英ソの兩國から...
興南新聞1941年8月
第3797號(1941-08-19)
日刊第1版
...イランを繞つて 政治工作熾烈化...
興南新聞1941年8月
第3798號(1941-08-20)
夕刊第1版
...ソ聯への軍需品供給 イラン經由の方針...
興南新聞1941年9月
第3810號(1941-09-01)
日刊第1版
...對ソ輸送ルート 根本的に變化す イラン屈服に依つて...
...イラン國王 テへラン脫出說
...英ソ共同の 和平條件提示 イランに對し
...テヘラン市に 戒嚴令布く
...陸鷲、蘭州を急襲! 天水、南都にも巨弾
...奥地爆撃を敢行
...第29次重慶爆撃 海鷲群の大編隊
...鉄銅改修物件指定 きょう閣令交付実施
興南新聞1941年9月
第3811號(1941-09-02)
夕刊第1版
...イランの無防備都市を猛爆 ソ聯の飛行機...「パルス通信がテヘランより奉ずる所に依ればソ連飛行機はイランの無防備都市に対して無差別的猛爆を継続し既に多数の死傷者を出した。」
...戒厳令下テヘラン 反英ソ政治家文人多数逮捕...
...ソ連軍隊の入城迫る...
興南新聞1941年9月
第3827號(1941-09-18)
夕刊第1版
...イラン國王 退位...
興南新聞1942年4月
第4045號(1942-04-26)
日刊第1版
...市河駐イラン公使 テヘラン發歸國...
写真(右):1941年頃,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1878年3月16日 - 1944年7月26日)と続く皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza Pahlavi:1919–1980):1941年9月16日、親独派とされたイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーはイギリス・ソ連の圧力により退位させられ、皇太子モハンマド・レザーがイラン皇帝に即位した。
English: Reza Shah
Date 1944
Source https://mashruteh.org/wiki/
Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Reza Shah in 1941・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。
第二次世界大戦初期には、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年8月25日、イギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。1941年9月16日、親独派イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー([Rezā Shāh Pahlavi]は退位させられ、子のモハンマド・レザー([Mohammad Rezā Shāh Pahlavi]が帝位に即位した。パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。
2−G.イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 58
出版年
1941-08-29
【ニューヨーク特電二十七日発】APテヘラン電によれば信ずべき筋の情報としてイラン駐在イギリス公使ならびにソ連大使は二十五日リザ・シャー・パーレヴィ王に謁見せる後戦争中止にたいするイランの申入ならびに実質的にイラン在留全ドイツ人を一週間以内にイランより退去せしむべしとのイラン政府の保障と、同情報によればイラン政府は必要不可欠なる技師たる数名のドイツ人は交代可能時期まで暫時現地に留まらしむるとの意向を申入れたといわれる。
然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。
【ニューヨーク特電二十七日発】アンカラ発NBC放送局特派員の放送によればイラン内閣は二十七日総辞職した、同放送はアンカラの信ずべき筋の報道としてマンスル・イラン首相は新首相が任命され次第恐らく「イラン国民がイランの独立のため侵略に抗しつつあることに満足するもイラン軍は英ソ両軍により屈服を余儀なくされた」との主旨の声明を発するものと見られている旨伝えている。
単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。
【ニューヨーク二十八日発同盟】テヘラン発AP電によればイラン国王は二十七日アリ・マンスル内閣の総辞職を聴許した。
(イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か引用終わり)
15.英「イラン」合弁石油会社
外務省外交史料館戦前期外務省記録E門
レファレンスコード B08061138000
所蔵館における請求番号 E.2.2.1.2_001(外務省外交史料館)
作成者名称 欧亜局長//浅岡代理公使
資料作成年月日 昭和16年10月13日
内容 15 照合票 記録件名 欧三秘第三九二三号 昭和十六年十月十三日 発信者欧亜局長 受信者 陸軍省軍務局長 参謀本部第二部長 海軍省軍務局長 軍令部第三部長 件名 英「イ」石油会社ノ新設「パイプライン」ニ千スル件 願書ハ左記ニ在リ 記 E門4類8項〇目@@8号 記録件名 各国間合弁社関係雑件 昭和16二六六一 暗 テヘラン 二月一日後発 欧 本省 二日後着 松岡外務大臣 浅岡代理公使 第九号 当地独逸公使館ヨリノ情報ニ依レハ英国ハ英「イ」右油会社ノ経営ヲ米国ニ移譲スヘシトノ説アル由ナリ 英、土、蘇ヘ転電「イラク」ヘ暗送セリ
「15.英「イラン」合弁石油会社」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08061138000、各国間合弁会社関係雑件(E.2.2.1.2_001)(外務省外交史料館)
22 イラン
外務省外交史料館戦前期外務省記録A門
レファレンスコード B02033019000
所蔵館における請求番号 A.7.0.0.9-63_003(外務省外交史料館)
作成者名称 齋田領事
資料作成年月日 昭和16年11月11日
組織歴/履歴(日本語) 外務省
内容 イラン 昭和16 三四三三七 暗 日枝丸 本省 十一月十一日前着 東郷外務大臣 斎田領事 号外ノ一(館長符号扱) 在「イラン」市河公使ノ依頼ニ依リ左記電報ス 一、英軍(四箇師団)蘇聯軍(六箇師団)制圧ノ下ニ在リテ「イラン」ハ完全ニ独立国トシテノ機能ヲ喪失セル状態ニ在リ従テ外交政策モ目下ノ所自ラノ意志ニ依ラス英蘇ノ指図ノ儘ニ動クノミナリ 英蘇ハ「テヘラン」日本公使館カ枢軸側ノ為ニ秘密ノ情報ヲ供給スル可能性ヲ理由トシテ暗号ヲ先ツ禁止シタル次第ナリ 二、英蘇ハ新聞通信モ完全ニ「コントロール」シ当方面ニ於テハ短波ノ「ラジオ」以外情報入手ノ方法無キ次第ナリ 三、同盟ヨリ毎日供給スル羅馬字「ニユース」ヲ@命ニ利用スルコトニ依リ当方面ニ対スル本省側ノ御意嚮ヲ当地ニ伝ヘ得ヘキニ付此ノ点御研究アリタシ
(「22 イラン」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02033019000、大東亜戦争関係一件/館長符号扱来電綴 第三巻(A.7.0.0.9-63_003)(外務省外交史料館)引用終わり)
英、ソ、イラン間軍事同盟成立 ロンドン英語放送一月三十一日 ロンドン英語放送一月三十日
作成者名称 内閣情報局
資料作成年月日 昭和17年02月04日
内容 英・ソ・イラン間軍事同盟成立 ロンドン電台 一月三十一日 英語放送 昨日テヘランに於て英・ソ連・イラン国に或る條約が締結された、調印せる各国代表は夫々英公使リーダ・ブラード郷、ソ連大使アレクセイ・チエルニフ、イラン外相であつた。 一月三十日 英語放送 昨日イラン国テヘラン市に於て英、ソ、イラン三国同盟條約が締結された。右條約の内容は大要左の如くである。 連合国はイランの領土保全、主権尊重、及び政治独立を保証すること イランの領土、海洋及軍事基地の使用権を連合国が保有すること 今次@@終熄して六ケ月後に英・ソ連軍はイラン国領土より撤退すること イラン国をして今次戦争に絶対に参戦せしめざること イラン国
(「英、ソ、イラン間軍事同盟成立 ロンドン英語放送一月三十一日 ロンドン英語放送一月三十日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024801700、各種情報資料・外国宣伝情報(国立公文書館)引用終わり)
2−H.世界経済の動き週報
大阪毎日新聞
Vol: 第 25巻
Page: 61
出版年
1941-09-14
尨大な造船計画 “自由商船隊”と銘打って 紐育
【ニューヨーク本社特電十二日発】米国が戦争政策の遂行上現在最も苦慮している問題の一つは英国、ソ連、支那への武器物資輸送に要する船腹の不足であるが今回海事局長ランド中将が発表した報告によると政府のLiberty ship]はその後予定以上に進行し一九四三年末までには合計一千百五十隻、その総トン数一千二百四十一万トンの新造船[Liberty ship]を洋上に浮べるはずである
米国の造船所が商船建造の全能力を発揮するのは来年になってがらであるが今年の建造数も合計百三十隻ないし百三十四隻に達する見込みで予定の百五隻より約二割五分の増加である、来年度の建造予定は最初の四半期に九十隻総トン数百万トン、次の四半期に百四十六隻総トン数百四十万トン、第三四半期に百五十四隻総トン数百六十四万トン、最後の四半期に百八十四隻総トン数二百万トン合計五百七十四隻総トン数六百四万トンを建造し受渡しを了し一九四三年末までに前記の目標に達するというのである
右の計画は去る三月政府が発表した二百隻、四月に発表した二百二十七隻、五月に発表した五百四十一隻の貨物船、油槽船の建造計画を含むものであるが右のうち四月中に竜骨を据えつけられたものが僅が五ケ月後の九月二十七日に一挙に十二隻進水するをとなっている、これらの船舶はデモクラシーのために戦うという意味で自由商船隊[Liberty ship]と称せられ、米国の解放に尽くした有名な人間の名前をつけることになっている、米国はさきの大戦中すなわち一九一八年には百八十三万トンの船舶を大量建造したが前記の計画が順調に進めば前大戦中の記録を突破しドイツ潜水艦による撃沈数を十分補ってあまりあると意気込んでいる
ソ連軽銀生産七割を喪失 米の救援乞う 伯林
【ベルリン本社特電十二日発】独軍によってドニエプル河下流の一帯を抑えられレニングラードを完全に包囲されたソ連の重工業は全く骨抜きにされてしまったが製鉄工業だけでなくアルミニューム[aluminum]部門でも非常に困り最近米国に対してしきりにアルミニュームの輸送援助を要請しているといわれる
アルミニューム工業はソ連重工業の中でももっとも新しいもので、はじめてソ連でアルミニュームが生産されたのは一九三二年、その年産は僅かに九百トンにすぎなかった、その後の増産状態ば一九三八年五万トンで独ソ戦勃発当時のソ連のアルミニューム産額は七万トンで自給自足を誇っている
この生産地帯としては三つあった、すなわち第一はレニングラード附近でその中心はウォルホフ、ウォルホフ河に沿ったスクンカにあるもので年産一万四千トン、第二はすでにドイツ軍の陥れたドニエプロペトロフスクにあるものでここはドニエプロストロイの水力電気とタイアップして年額三万四千トン、ソ連最大最古のものであった、今一つはウラル地方のアラパエフスクにあるもので年産額二万二千トンといわれる
ドニエプロペトロフスク([Dnipropetrovsk ]を奪われレニングラードを包囲されてしまった結果第一と第二のアルミニューム[aluminum]生産地帯を失い、ソ連アルミニューム生産の七割は奪われてしまった
軍需工業以外にアルミニュームの使用を禁じているほどの米国がどの程度までソ連の要求を充たし得るかが疑問だ
対米経済的隷属の第一歩 貸与物資に絡み輸出政策改変 倫敦
【ロンドン本社特電十二日発】武器貸与法[Lend-Lease Act]による物資に関して英国の輸出政策の改変を約束した白書は見ようによっては英国の対米経済的隷属の第一歩を示すものとして注視される、英国が米国からの援助によって獲得した物資を輸出に振向けて米国の輸出業者を圧迫しているとの宣伝はドイツ側および米国の孤立派達から盛んに唱えられ大統領が議会で困難な立場に立つことが看取されたので主として政治上の理由から今回の白書の発表となったのであるが、純然たる経済的観点からも武器供与のために英米工業界の軋轢の起ることは当然の帰結であって、たとえ英国が問題の輸出は武器貸与法[Lend-Lease Act]制定以前に商□ができたものと弁明してももしそれを放置すれば今後英米の利害衝突の起ることは夙に指摘されていたところである、白書で指摘された原則は米国の製造業者に供給か制限されていて英国が武器貸与法[Lend-Lease Program]によって供給されている原料品を英国は外国市場に輸出しないことを約したものであるがそれには三つの例外がある
第一、 自治領および同盟国が戦争遂行上必要で米国から得ることが出来ぬ場合
第二、 武器貸与法[Lend-Lease Program]による原料を一部分に含んでいる製品
第三、 修繕用の部分品このほかに[1941年3月の]武器貸与法[Lend‑Lease Act]による原料品にして米国では供給が制限されているものに対する取極めがあってかかる物資は英国は自国で生産するかまたは米国から輸入した原料以上を輸出出来ぬことになっている、これは主として棉花を意味していると解される
以上により最も影響をうけるのは鋼鉄産業であろう、食料品に関しても[1941年3月の]武器貸与法[Lend‑Lease Act]で供給される食料品の暴利を取締る条項がある、これらは今日まで英国が懸命に奨励して来た輸出振興方針に違反するものであるが武器貸与法(Lend Lease Act)で米国から物資の供給を受ける以上当然の義務であるとして大体において英産業界はこの処置を是認している
生糸二百万封度重慶増産計画 上海
【上海本社特電十三日発】資産凍結[振込や売却など資産取引の停止]の結果日本生糸の対米輸出は事実上杜絶することになるので華中蚕糸会社ではその対策を考究、生糸製品を支那内地の需要に向けること、羊毛代用としての短繊維化の技術的研究などを進めているが重慶からの報道によれば日本生糸の対米輸出杜絶に乗じて支那生糸の進出を企図し重慶農林部は四川省に桑田を開拓、年二百万ポンドの生糸増産計画中と伝えられている
支那側業者は二百万ポンドの支那生糸増産は世界の通商状態が平常に復した際には当然生糸の世界的生産過剰の原因になることを予想されるのでこの際これに投資することは危険であると見ている(世界経済の動き週報引用終わり)
3.イラン経由の英米の武器貸与と外交圧力
第二次世界大戦が勃発すると、石油需要がひっ迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座に1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づくソ連への軍事支援を表明した。
ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスクとアルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾アバダン(Abadan)・イランを経由する中東ルートがあった。
ここで、主要なルートは北極海ルートであったが、中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも親イギリスの立場とは言えず、ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアバダン(Abadan)は、油田としても港湾としての重要な場所だった。ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、イラン経由の中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)基づく、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。
第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。
第1段階は、中立法で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスであった、ドイツ、イタリアという枢軸国は、貿易の障害が大きかった。
第2段階は、アメリカの旧式駆逐艦をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス基地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定およびアメリカの旧式駆逐艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。
第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これが1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。
1945年9月に武器貸与法(Lend-Lease Act)が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。
40万台のウィリス M38ジーブ(Willys M38)、ホワイト 666トラック(White 666 Truck)などの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車、イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料
⇒写真集Alubm:武器貸与(Lend-Lease)ルートのペルシャ回廊( Persian Corridor)
4.イスラム指導者ムフティ・アル・フサインとヒトラーの同盟
写真(右):1941年12月9日,パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインと会談するアドルフ・ヒトラー総統:イラク,パレスチナにおける反英暴動を引き起こすために,イスラム指導者を利用しようとした。また,ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Grossmufti von Palästina vom Führer empfangen.
Der Führer empfing in Gegenwart des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop den Grossmufti von Palästina, Sayid Amin al Husseini, zu einer herzlichen und für die Zukunft der arabischen Länder bedeutungsvollen Unterredung.
9.12.41 Presse Hoffmann
Dating: Dezember 1941
Photographer: Hoffmann撮影。
Agency: Presse Hoffmann
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1987-004-09A引用(他引用不許可)。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊していたが,戦後は英委任統治領パレスチナ政府のアラブ人顧問となった。1921年,エルサレム・ムフティ選挙に,対英協調を主張して当選,1923年最高ムスリム評議会議長,1933年エルサレム総主教を名乗る。パレスチナにあって,アラブ人(のちのパレスチナ人)とユダヤ人の抗争を煽動、
汎アラブ主義を唱えた。第二次大戦中,ドイツ軍のエジプト攻撃に便乗して,1941年にイラクで反英クーデターを策謀するも失敗,ドイツに亡命。1941年12月,ヒトラーとも会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争と引き換えに,汎アラブ主義を認められた。パレスチナに向けての反ユダヤ放送をドイツから実施した。モスレムによる武装SSの設立に加わった。ドイツ敗戦後は,対独協力者として英軍に逮捕,1946年,脱走,翌年脱獄、再びパレスチナで汎アラブ主義を唱えた。
アミン・アル・フサイニ(1895-1974)は,1921年にムフティ選挙に当選,1923年には,最高ムスリム評議会議長に就任し,1933年エルサレム総主教として,パレスチナで,
汎アラブ主義を主張した。そして,アラブ人に対して,パレスチナのユダヤ人排除を訴えた。
フサイニは,第二次大戦中,ドイツ軍アフリカ軍団によるエジプト攻撃に便乗し,1941年にイラクで反英クーデターを策謀した。しかし,反乱は失敗,ドイツに亡命した。
1941年12月,フサイニは,ヒトラーと会談し,パレスチナ・北アフリカにおける反英闘争を約束し,パレスチナからのユダヤ人排除,汎アラブ主義を認めさせた。しかし,ヒトラーは,アラブ人など非アーリア人,アジア人を野蛮人として軽蔑しており,このフサイニとの取り決めは,あくまでもドイツの勢力を増強するための方便だった。
写真(右):1943年11月,ドイツ、パレスチナのイスラム指導者ムフティ・アミン・アル・フサインが部下のムスリム武装総親衛隊を閲兵する:ヒムラーは、ユーゴに於けるモスレム人の協力を得るために,イスラム教指導者ムフティの協力を要請し,モスレムからなる武装親衛隊を編成した。
Der Großmufti von Jerusalem [Amin al Husseini] bei den bosnischen Freiwilligen der Waffen-SS. Der Großmufti ist auf dem Truppenübungsplatz ein[getroffen] und schreitet die Front der angetretenen Freiwilligen mit erhobenem Arm ab.
Truppenübungsplatz Neuhammer/Schlesien [?].- Mohammed Amin al-Husseini (Mitte) und der Divisionskommandeur der 13. Waffen-Gebirgs-Division der SS "Handschar" (kroatische Nr. 1), SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS Karl-Gustav Sauberzweig (rec
Depicted people Husseini, Amin al Hadj: Großmufti von Jerusalem, Vorsitzender des Obersten Islamischen Rates, (GND 11883679X)
Sauberzweig, Karl-Gustav: 1899-1946; SS-Brigadeführer, Deutschland
Date November 1943
写真は,Wikimedia Commons, the ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 146-1980-036-05, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。
4−A.イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 268
出版年
1941-10-04
【ニューヨーク特電二日発】APアテネ電報によればイラン政府は二日二本公使館に対し電信暗号使用権および外交便不可侵権を停止した、しかして右は英ソ両国がイラン政府を圧迫してかかる手段をとらしめたものといわれており、信ずべき筋では右の結果日本ならひにヴィシー政府両公使館は近くイランを退去するの余儀なきにいたるであろうと述べている
なおイギリス側では日本公使館圧迫の理由として日本公使館が反英の大立者たるエルサレムのムフチ大司教[ムハンマド・アミーン・アル=フサイニー]を匿ったと虚構の事実を捏造して日本公使館を非難している
報復措置を考究 帝国、英の不信に抗議
イラン政府の措置は英ソ両国の圧迫によるものであることは明らかであるが、テヘランにおけるわが公使館に対するイギリス側の不信行為は今回の不当措置に止らないすなわちエルサレムのムフチ大司教が日本公使館にかくまわれており、また有力なドイツ人が同様日本公使館に庇護されているとしてイギリス側はその引渡しをわが方に要求し来ったことがあり、わが外務当局でもただちに調査したところ、かかる事実は全く虚構であることが判明し、よって外務当局では不確実な情報にもとづきかかる行為にでるイギリス側の態度に対し厳重抗議した
なおわが方の公用文書に対するイギリスの検閲はエジプト、ベイルート、インドにおいてすでに実施しており、さらにテヘランにおいて実施されることになり、かかる相次ぐ外交特権に対するイギリスの侵害措置についてはわが方でも何らかの報復措置を講ずべく考究することとなった
ムフチ大司教とはどんな男?
英はテヘランの日本公使館が汎アラビア運動の大立者パレスチナのムフチ大司教[Amin al-Husseini]をかくまっているとのデマを世界的に流布したがグランデ・ムフチ[
Mohammed Amin al-Husseini]とはどんな男か、外務省欧亜局第三課長大田三郎氏は語る
グランデ・ムフチ[
Mohammed Amin al-Husseini]は前大戦当時は帝政トルコの陸軍軍人であったが、戦後イギリス人ロレンスと結んでイラク国のフェイサル一世とともにアラビア民族独立運動を起した、その後廻り廻ってパレスチナの大司教となった、クランデ・ムフチとは回教における宗教財産を管理する最高権力者の職名である、彼の就任は従来相背馳していた汎アラブ主義と汎イスラム主義とを交叉させる結果となり、全アラビア人の大きな希望をつないでいたが、次第にイギリスに睨まれてパレスチナを亡命、しばらくイラク国のバグタッドにいたが、英軍のイラク侵駐によって最近イラクに潜入したと伝えられ、それが因で日本公使館でかくまっているとの虚構の噂がひろまったものである(イラン、我公使館前の通信特権を停止 : 英ソの悪辣な使嗾引用終わり)
1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(محمدرضا شاه پهلوی, Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。
しかし、1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、事情は一変した。孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリス軍の影響下に入った。1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの皇帝の地位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。
4−B.イラン対日断交
大阪毎日新聞
Vol: 第158巻
Page: 14
出版年
1942-04-16
【リスボン本社特電十四日発】テヘランのルーター電によればイラン政府は十四日日本と外交関係を断絶し日本代表は一週間以内に同国から退去しなければならない通告を受けたと
歴然・米英の使嗾
昨年八月ソ英両軍のイラン占領によってソ英の属国的存在と化したイランはその圧迫により独伊はじめソ英と外交関係を有しない諸国との外交関係を断絶した、わが国はソ連との外交関係を有するところから断交の通告は受取らなかったものの十月四日に至りイラン政府はついに日本公使館に対し電報暗号使用権停止、外交使臣不可侵権停止などの不法圧迫の挙に出た
右はわが公使館がアラビヤ民族運動の父で英国がその首に多額の賞金をかけでいるエルサレムの前大司教フッセイン師をひそかに保護したという英側の流布した虚説に基いたもので
当時わが方は厳重に英国に対し抗議した、昨年末にはイランの対日断交説すら伝えられたほどで今回の断交通告の理由も日本公使館が枢軸側の宣伝活動を行っているというにあるが事実は米英側の圧迫と使嗾に基づくことは明かである(イラン対日断交引用終わり)
4−C.日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話
大阪毎日新聞
Vol: 第158巻
Page: 25
出版年
1942-05-10
【満洲里本社特電十日川崎特派員発】イランの対日国交戦断絶のため去る四月二十三日テヘランを出発した市河イラン公使、村沢陸軍武官らの一行十名は中央アジヤを横断九日午前十一時四十八分満洲里着、同日哈爾浜に向ったが左の如く語った
イランには昨年八月二十五日以来英ソ両軍の進駐占領下に戒巌令が布かれている、イラン人は一般に無力で政府も英ソの意のままに動いている、本年一月二十九日の英ソ、イラン同盟により日本との外交関係も当然直ちに断たれるものと思っていたがイラン政府は日ソ中立条約の関係から対目断交の義務なしと考えていたようだ、ところが日本の大戦果が相次ぎインドに危機が迫るや狼狽せる英国はソ連を誘って同盟を楯にとりイランをして対日断交せしめるに至ったのだイラン語による日本放送は英ソ側で極力妨害しているがフランス語のそれは実によく入るので上流階級を通じて一般民衆に伝わり彼らは日本の大戦果を信じこれに大喝采を送っている、
英ソ占領下の租国を独立させるためには英ソの打倒が必要であるとの認識から東亜における英軍緊滅をイラン国民は心から喜んでいるわけだ、テヘラン引揚の際買物に行くと一商人は早く日本が英国を打倒してくれるよう毎日祈っていると語った、民衆は地図をひろげて至るところで話合っている、英国の軍艦にはいくら消してもドイツのハーケンクロイツのマークが民衆によって落書される有様だ、同じアジヤ人として大東亜戦の進展に限りない期待をかけているのである(日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話
件名引用終わり)
⇒写真集Alubm:1943年11月テヘラン会談(Tehran Conference)
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
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