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◆三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行
写真(上):1939年4月25日,イラン、テヘラン、左のエジプト王女(花嫁)ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、イラン皇帝(花婿の父)レザー・シャー・パフラヴィーとエジプト王太后(花嫁の母)ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)、イラン皇太子(花婿)モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)
:左端は、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896-1982)、イラン皇太弟アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)
Français : Banquet à l'ambassade d'Egypte à Téhéran lors du mariage de Fawzia Fuad et de Mohammad Reza Pahlavi, le 25 avril 1939 Date 25 April 1939 Source http://putnik1.livejournal.com/4606568.html Author Inconnu, peut-être " Sako "
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaShah001.jpg引用。

1.イラン帝国パレヴィー朝レザー・シャー

写真(右):1925年,イラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi)と子供たち:左から軍服の次男アリ・レザ―(Ali Reza Pahlavi:1922-)、長男モハムンド・レザ―(Mohammad Reza Pahlavi)皇太子、次女アシュラフ・パフラヴィー(Ashraf Pahlavi:1919–2016)、皇帝の右がモハムンド双子長女のシャムス・パフラヴィー(Chams Pahlavi:1917–1996)、三男ゴラム・レザ・パフラヴィー(Gholam Reza Pahlavi:1923–2017)
Description Français : Reza Khan et ses enfants, entre 1923 et 1925 Date between 1923 and 1925 Source https://mashruteh.org/wiki/index. Author Non communiqué
写真は,Wikimedia Commons,Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaKhanCrownPrinceVaChildern.jpg引用。


パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、1921年に軍事クーデターによって、イランの政権を奪取し、1919年イギリス・イラン協定の治外法権を撤廃させた。1924ー1925年にイラン国軍司令官、首相に就任し独裁体制を樹立し、1925年12月15日、ガージャール朝を廃して新たにパフラヴィー朝を興し自らイラン初代皇帝に即位した。

既にカジャール朝の1905−11年の立憲革命によって、憲法が制定されていた。これは、国民議会(マジレス) 、イスラム教シーア派の国教化、宗教法学者の立法監視委員会、三権分立、市民権保護が定められており、絶対王政とは異なる立憲君主制である。しかし、 パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)は、1925年に成立し、 初代イラン皇帝レザー・シャー(在位1925−1941)は、カジャール朝の王家と無関係な コサック騎兵将校だったのであり、カジャール朝に反旗を翻した1924年には、トルコと同じく共和制を目指していたのである。そして、 パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)の下では、立憲君主を頂く議会政治は軽んじられ、皇帝が閣僚を任免し、 国民議会の選挙が軽視されることになった。 他方、 レザー・シャーは、軍人上がりで皇族の確固たる基盤がないために、自ら旧王族の血筋を受け継ぐ2名の女性と結婚し、皇太子の婚姻についても、オスマン帝国後に独立したエジプトの王族との血縁関係を樹立した。しかし、婚姻関係を結んだものの、皇族の基盤は、地主、官僚、大商人など前王朝以来の既存勢力の支持を取り付ける必要があった。 つまり、パフラヴィー朝の創設時期には、 支持基盤の脆弱性から、絶対王政を敷いたとは言い難かったのである。(吉村 慎太郎(1987)パフラヴィー王政の「脆弱性」なるものの構造分析 : イラン革命の原因論に寄せて引用)

写真(右):1934年7月3日,トルコ、アンカラ、競技場でトルコ軍を閲兵するトルコ大統領のケマル・アタチュルク(Kemal Ataturk:1881年5月19日 - 1938年11月10日)とイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)):第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国では、国土防衛のため第9軍監察官(エルズルム)ムスタファ・ケマル・パシャらがメフメト6世の支持を得て、軍事力を結集し、首都イスタンブールを占領した連合国に対抗した。これが、アンカラで結成されたムスタファ・ケマルを議長とするトルコ大国民議会政府(アンカラ政府)である。
Description English: Reza Shah's visit to Turkey. Reza Shah, Fahrettin Altay, Mustafa Kemal Atatürk Türkçe: Rıza Şah'ın Türkiye'yi ziyareti. Rıza Şah, Fahrettin Altay, Mustafa Kemal Atatürk Date 1934 Source Unknown source
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1934・File:Reza Shah Mustafa Kemal Ataturk.jpg引用。


他方、パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)は、第一次大戦で敗北したオスマン帝国でトルコを復興させたケマル・パシャMustafa Kemal Atatürk :1881-1938))を手本として、国内の軍事力、特に陸軍を手中に収めて、軍事独裁政権のような権威的な手法で、イランを立て直した。これは、第一次大戦で少数民族のナショナリズムが復興し、オーストリア、ロシア、ドイツ、オスマンのような大帝国が解体された時期だった。その反動として、大国意識に基づく復興がトルコ、イラン、次いでドイツにも起こることになる。

写真(右):1934年7月3日,トルコ、軍事演習を砲隊鏡で検分するトルコ大統領のケマル・アタチュルク(Kemal Ataturk:1881年5月19日 - 1938年11月10日)とイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)):砲隊鏡は、カニ眼鏡とも呼ばれるが、1894年にドイツのカールツァイス社が開発した光学兵器である。塹壕の下からでも使えるように上に左右2本の潜望鏡(ペリスコープ)が伸びていて、左右の角度のずれから立体感のある映像が映し出され、監視や照準に対応できる。
English: President of Turkey Kemal Ataturk, left, points out something of interest to the Shah of Persia, Reza Shah Pahlavi, during military maneuvers in Turkey, July 3, 1934. Türkçe: Kemal Atatürk ve Rıza Şah Pehlevi askerî manevralarda, 3 Temmuz 1934. Date 3 July 1934 Source Islamic State Awaits The Ataturk Revolution Author Anorak
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:Kemal Ataturk, Reza Shah Pahlavi - Military maneuvers in Turkey.jpg引用。


ケマル・アタテュルク 1−A. ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から 著者 篠原:テヘランにて
大阪朝日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 145 出版年 1935-02-16

ペルシア国政府は十五日広田外相宛「来る三月二十一日(ペルシア暦六日)より国名をイラン国と変更する」旨を通達し来きた

 現国名のペルシアの由来は往時ギリシア人がペルシア湾に面せる一地方をパルシアと呼称(現名パルシア県あり)したにはじまり以来諸外国よりペルシア国と称せられているのであるが、最近国家主義的運動熾烈となり外国人の附したしかも一地方の単なる呼称を断乎変更に決定したものである(ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から引用終わり)

オスマン帝国崩壊後のケマルアタチュルクら軍人によるトルコ共和国の勃興を手本としたパフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)は、帝国主義勢力からの政治的独立、軍事力の増強、中央集権化を図り、女性のチャドル廃止など、上からの近代化を強行し、軍事独裁政権の確立に向かった。反政府勢力を軍事力で弾圧したが、この軍隊は、外国ではなく、国内治安軍としての意味合いが強かった。そこで、1941年は1万2,5000名の兵力があったが、これは内政のため暴力装置であり、独裁政治の道具であった。

したがって、第二次世界大戦初期、1941年8月25日に、イギリス・ソ連軍がシランに侵攻したとき、攻勢は長続きせずに、数日にしてパフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イランは降伏することになった。そして1941年9月には、ナショナリズムを鼓舞し、反イギリス、反ソ連の立場をとっていたレザー・シャー・パフラヴィーは、外圧によって退位を余儀なくされたのである。当時のイラン軍を工業化が進んだイギリス、ソ連の軍隊と比較するのは国であるが、装備だけではなく、戦闘経験の不足、戦術的能力の低さ、軍隊組織の脆弱性などレザー・シャーの皇帝軍は、皇帝の紙幣的意味合いが強く、国民軍的な士気が育っていなかったともいえる。皇帝独裁で、近代的な国民軍の組織化ができていないイラン軍では、英・ソのイラン侵攻という外圧に対処することはできず、官僚組織や外交の上でもイラン皇帝は、緊急事態に対応するすべを持っていなかったといえる。

写真(右):1936年1月8日以降,イラン、ヘジャッブ禁止令(キャシュフェ・ヘジャーブ:Kashf-e hejab)発令後、地方の女性を集めて見分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)):1936年1月8日、近代化を進めるパフラヴィー朝皇帝レザー・シャーは、女性解放を進めるため、宗教的理由で着用が求められていたチャドル(ヘジャッブ)を脱ぎ、洋装を推奨した。また男性も伝統服の着用が制限されるようになった。
Description فارسی: رضاشاه در جمع زنان لر پس از اجرای قانون منع حجاب. در ۱۷ دی ۱۳۱۴ قانونی را از تصویب گذراند که بنابر آن، زنان و دختران ایرانی از چادر، روبنده و روسری منع می‌شدند. العربية: رضا شاه بهلوي صدر القانون بحظر الحجاب للإيرانيات في كل المحافظات سنة 1936 ، بالإضافه إلى ارتداء الزي الغربي للمرأة الايرانية في عقد 1930. مصرى: رضا شاه ايران طلع قانون ان الستات مش حتبلسوا الحجاب, واللى خلى كل ستات يلبس الملابس الغربيه علشان التحضر لازم يتقدم ويتطور سنه 1936. Date circa 1936
写真は,Wikimedia Commons, Category:Women wearing hijabs in Iran ・File:ABan Hjab.jpg引用。


写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザーと結婚したエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)とイラン皇太后(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982):イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi:1878ー1944)は、カイロで行われたイラン皇太子の結婚式に、欠席したが、テヘランでの結婚式には出席している。花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目のナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王太后は、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)とイラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードの母である。
Français : La reine Tadj ol-Molouk et Fawzia Fouad lors du mariage de cette dernière et de Mohmmad Reza Pahlavi, le 25 avril 1939 Date 25 April 1939 Source www.flickr.com/groups /egyptianroyalty Author Inconnu, peut-être " Sako "
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:Fawzia et Tadj Ol Molouk.png引用。


パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)の下、イスラムの宗教規制は、西洋化政策の中で緩和され、1936年1月8日のヘジャッブ禁止令(キャシュフェ・ヘジャーブ:Kashf-e hejab)は、レザー・シャーが発布したものだが、1916年に結婚した皇后タジュ・オル・モルーク(1896-1982)の働きも大きかった。彼女は、トルコ系でバクー出身、トルコに倣って、率先して女性解放、ヘジャッブ禁止の模範となろとし、公式場でも、二人の王女とともにヘジャッブなしの洋装で過ごしている。

写真(右):1936年,イラン、皇帝レザー・シャー・パフラヴィー長男モハムンド・レザ―(Mohammad Reza Pahlavi)皇太子とモハムンド双子長女のシャムス・パフラヴィー(Chams Pahlavi:1917–1996)内親王:イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi)には、次男アリ・レザ―(Ali Reza Pahlavi:1922-)、次女アシュラフ・パフラヴィー(Ashraf Pahlavi:1919–2016)、三男ゴラム・レザ・パフラヴィー(Gholam Reza Pahlavi:1923–2017)と5子がある。王女たちは、生涯、ヘジャッブを付けずに過ごしている。
Description Français : Reza Khan et ses enfants, entre 1923 et 1925 Date between 1923 and 1925 Source https://mashruteh.org/wiki/index. Author Non communiqué
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:Ashraf et shah.jpg引用。


パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)は、第一次世界大戦でオスマン帝国を瓦解させたイギリス、ソ連からの政治的圧力を感じ、イラン国内の資源開発、工業化計画をイギリスやソ連に依存するのではなく、イランが取り戻したいと希望していたが、技術、資本、資金、人材の上でイランが独力で開発ソ進めるのは困難だった。実際、イランの石油は、イギリス系のアングロ・イラン石油会社が独占していたからである。

パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャーは、イギリス、ソ連に対抗するために、ドイツ、フランス、イタリアから技術者を呼び、イランの開発に寄与させようとした。1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が勃発し、イギリスが反ドイツの立場から、イランのドイツ人技術者の追放を求めてきた。イラン皇帝レザー・シャーは、イランの中立国を宣言したが、イギリスはイラン在住ドイツ人はスパイであり、油田などの破壊工作を策謀しているとして、その追放を強く迫った。こうして、イギリスは、中東での支配力を確保するために、イランにおけるドイツ影響力の排除を強く求めたのである。

1941年6月22日にドイツのソ連侵攻で独ソ戦が勃発すると、ソ連への軍事援助を始めるために、中東経由の補給路をぜひ確保する必要が生まれた。これがイギリスとソ連によるイランへの軍事侵攻、イラン占領につながったのである。イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlaviは、親ドイツ的であるとして、外国勢力により退位を余儀なくされ、亡命した。

Reza Shah パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーの跡継ぎは、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーが、1941年9月16日に父に代わってイラン皇帝の位に就くことを許された。彼は、パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン最高指導者の皇帝であるにも関わらず、事実上、イランがイギリスとソ連の保護国化され、軍事権、外交権も奪われてしまい、英ソの傀儡としてしか皇帝の品位を保つことはできなかった。イラン駐在のイギリス大使、軍指揮官の下に置かれたのである。

レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)の王妃は、エジプト王族ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)で、姉妹とともに2年間パリ留学の経験もある。

イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi:1878–1944)の皇太子モハンマド・レザー(18歳)も、1939年3月16日に、エジプト王族のファウズィーヤ・ビント・フアード(17歳)と結婚した。

1935年2月、 それまでヨーロッパ視点で「ペルシャ」(波斯)と呼ばれていたが、パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇帝の意向で「イラン」に改められた。この時、日本政府はこれを正式に承認し、呼称を「イラン」とした。

1−B.イラン国の綿業事情 : 調査員から報告
大阪時事新報 Vol: 第 20巻 Page: 186 出版年 1935-07-09

本邦綿布の新市場として注目されているイラン(波斯)等近東諸国の輸入防遏政策に備え、日本綿糸布アフリカ輸出組合では同方面を統制区域に編入し、近く輸出統制に乗り出すことになったが、八日大阪輸出組合連盟会派遣員よりの報告により従来事情不明であったイランの綿業事業が漸く判明した

一、一九三四年の同国輸入綿糸総額二三、一九〇千リアール(一リアール邦貨約二十銭) 五八%印度(主として太糸)四〇%日本(主として中糸)二%英国(主として細糸)
一、輸入綿布一四三、一九〇千リアール
四五%日本二八%ソ連一七%英国一〇%其他
一、同国綿糸紡績据付錘数三万錘織機四百台(イラン国の綿業事情 : 調査員から報告引用終わり)


1−C. 露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる 著者 篠原:テヘランにて
大阪毎日新聞 Vol: 第 7巻 Page: 31 出版年 1935-07-22

Stalin 露国政府の近東および中東方面に対する政策はスターリン[Joseph Stalin:1878–1953]氏の政権把握、「一国社会主義」への転向以来、各国における国家主義の新政府を確認し、これと政治および経済的接近をはかる方針に転じて来た、殊に露国政府のこの方針に向って、最も熱心に邁進しつつあるは、トルコおよびイラン(旧ペルシャ)との関係であって、イランとの関係は、同国における英国の勢力、今なお相当根強く、ためにトルコ対策ほどにはうまく行っていない模様であるが、しかし、由来、イランは、地理的関係において、経済上少くともその北半をあげて、露国によるほかない立場にある、露国政府が、イランに対し、先ず経済提携の確立に努力を傾倒したるは、たしかに右の点を考慮に入れたものと考えられる、本通信は這般の事情を実に明快に説明している

昨秋以来、露国とイランとの通商関係は大に好転し、露国から経済使節派遣を望んで来たので、今春四月末、イラン国商務長官アーラム氏を団長とし、各省の次官と局長級の若干軍人を網羅した大使節は四週間にわたってモスクワ、レニングラード、スターリングラードなどを歴訪し、露国産業の現状を視察して帰国した、これと前後してテヘラン駐剳露国大使の更迭が行われたが、最近に至って極秘裏に両国間の通商条約が締結されたとの噂がつたえられ、近く発表されることになっている一九三五−三六年度割当の内容にも従来に見なかったほどの大変化が示されるものと期待されている、

Reza Shah イラン政府としては、共産主義の侵入に対しては極力警戒するが、同国の地理的事情から、経済的にはどうしても露国の援助なしには国が立って行けないという点を十分認識しているので、多少の無理は通しても露国と手を握りたい方針である、また露国としても、イランに対し政治的に策動して、多年の宿願たる南下策を露骨に現してはイラン全国にわたって莫大の利権をもつ英国との抗争が避けられなくなるので、この方の活動は当分手控え、専ら経済的にイランを牛耳って行こうとする方針は明かに看取される、

露国と違い英国は極めて明かに政治的に行動しており、現国王リザ・シャーの最も苦手とする地方豪族の叛乱という無類の武器をもっているので、その立場は強く事英国の利権に関するかぎり断じて一歩も譲らない強硬な外交方針によっているものと見受けられる国王は英露両勢力の間に処して、いずれの勢力にも禍されぬよう殊に両勢力抗争の渦中にひき込まれぬよう警戒し、親英とか親露とかいう色彩は努めて政府の態度に出さぬようにしているが政治的には英に接近し経済的には露と提携し、両国の勢力を利用して自国の繁栄と安寧に資そうとしているのが真相かと思われる、

噂に上っている露イ新通商条約の内容は全く世に伝わらないが、もし事実とすれば早晩現れる時が来るであろう(六月十六日)(露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる引用終わり)

写真(右):1939年,イラン、イスファハン=シラーズ間、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):アケメネス朝ペルシア帝国の都ペルセポリスは、紀元前518年、ダレイオス1世が建築した石造りの祭殿・宮殿である。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid32.jpg引用。


1−D.イラン羊毛輸入促進策 : 近東貿易協会が政府に国家的求償協定交渉神戸又新日報 Vol: 第 4巻 Page: 162 出版年 1936-06-06

対濠報復策に伴い羊毛買付の分散化を目指して南阿、南米のほか近東諸国の羊毛についても研究が進められているが、近東貿易恊会ではイラン国羊毛の有望性に着目しこれが輸入促進をはかるため目下同国が輸出入に施行せる特別許可制に代わるに国家的求償恊定の交渉方を政府当局に要望することとなった、イラン羊毛は年額十万俵程度が輸出されており我が国への輸入は未だとるに足らないが、羊毛工業の多角化が発展すれば濠毛との値鞘も少くかつ運賃採算もトルコその他に比し遥かに有利であるから、輸入増大の可能性は多いものと期待されている(イラン羊毛輸入促進策 : 近東貿易協会が政府に国家的求償協定交渉引用)

写真(右):1939年,イラン、イスファハン郊外、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):ペルセポリスでは、支配下の諸民族からの貢納をペルシャ王に捧げる儀式が描かれた祭殿の階段レリーフが有名である。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid18.jpg引用。


写真(右):1939年,イラン、イスファハン郊外、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):マケドニアのアレクサンドロス大王がペルセポリスを攻略し、宝物を略奪した。しかし、イランのナショナリズムの聖地として記憶され、政治的に利用されてきた。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid11.jpg引用。


1−E.イラン輸入統制 : 自動車等に
大阪朝日新聞 Vol: 第a補巻 Page: 12 出版年 1936-09-01

岡本[武三]イラン公使よりの報告によると、イラン政府は八月二十七日以降乗用自動車、貨物自動車、同附属品、部分品、タイヤ類の輸入を国家の独占とする旨発表した(イラン輸入統制 : 自動車等に引用終わり)


2.イラン皇太子モハメッド・レザー・パフラヴィーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード


写真(上):1938年1月20日,エジプト、カイロ、エジプト先王(父)フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)皇太后(43歳)、エジプト王ファールーク1世(17歳)と結婚した王妃ファリーダ(Farida:1921-1988)16歳、右端はファールーク1世の妹エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(16歳)、右2番目はオスマン帝国エジプト総督・副王イスマーイール・パシャ(Khedive Ismail:1830-1895)末娘ニメット・ムフタル妃(Princess Nimet Mouhtar:1876-1945)
:イスマイール・パシャを継いだオスマン帝国エジプト副王アッバース・ヒルミー2世(Abbas Hilmi II :1874-1944.12)は、1914年の第一次世界大戦勃発時に、親オスマン帝国を掲げ、イギリスからの独立を掲げたために廃位され、スイスに亡命した。
Description English: King Farouk I of Egypt standing at a banquet during his wedding. On his right are his wife Queen Farida, and his mother Queen Nazli. The Bibliotheca Alexandrina's caption erroneously states that the woman on Farouk's left is Sultana Malak; in fact, it is his paternal aunt Princess Nimet Mouhtar, the youngest daughter of Khedive Isma'il. العربية: الملك فاروق يقف إلى جوار السلطانة ملك والملكة فريدة أثناء حفل الزفاف. Date 1938 Source Bibliotheca Alexandrina This image comes from the Bibliotheca Alexandrina's Memory of Modern Egypt Digital Archive.Author Riad Shehata (–1942).
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Wedding of Farouk I and Farida・File: ModernEgypt, Wedding of Mohammad Reza Pahlavi & Fawzia, DHP13655-20-5 01.jpg引用。



1938: Pan of Cairo, 18 year old King Farouk comes out on balcony to accept cheers of crowd on his wedding day, troops marching, men on camels, high shot troops and crowds. People atop buildings, air force salutes the King. Farouk saluting on balcony, mobs cheering in downtown Cairo, bus bedecked with flowers, crowds outside palace, Farouk atop steps awaits his bride, the sixteen year old Queen Farida ( the youngest Queen since Cleopatra) Farouk and Queen pose together, Farouk and Queen up steps, night celebrations last for three days. 1939: 19 year old King Farouk inspecting guard, Farouk riding in carriage. Crowds, troops at attention, troops march past camera. 1949: Farouk opens Cairo exposition, walks in group of men, CU Farouk. 1951: Farouks new bride 17 year old Queen Narriman, she descends steps to travel to wedding, crowds look down from apartment balconies, Queen in car, crowds, Farouk (arms crossed) awaits new Queen, Queen arriving, Farouk and Queen posing. 1952: Farouk, Queen and their child in exile in Capri.

写真(右):1940年頃,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)、エジプト王妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)との長女フェリアル・ビント・ファールーク(Ferial(Farial) bint Farouk:1938年11月17日生まれ):エジプト王ファールーク1世は、ファリダ王妃との間に、フェリアル、ファウズィーヤ ファディアの三人の女子を設けている。しかし、ファリダは世継ぎ男子を埋めないとして、1948年に離縁された。
Title King Farouk of Egypt and his family Created / Published [between 1920 and 1946] Headings Dry plate negatives. - Gift; Episcopal Home; 1978. Medium 1 negative : glass, dry plate ; 4 x 5 in. Call Number/Physical Location LC-M32- 50369-x [P&P] Source Collection Matson photograph collection
写真は, Library of Congress King Farouk of Egypt and his family ・引用。


ムハンマド・アリー朝Muhammad Ali dynasty)エジプト国王ファード1世Fuad I of Egypt)は、1868年3月26日生まれで、1917年、49歳で即位した。スンニ派イスラムだがイタリアのナポリ育ちだったために、イタリア語が堪能だった。ファード1世は、長男(王太子)ファールーク(Farouk)、長女(内親王)ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)が結婚する2−3年前、1936年4月28日に死去している。

エジプト王フアード1世逝去の後、跡継ぎは、王と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王妃の長男であるフアード1世Farouk I:1920年2月11日-1965年3月18日))で、彼は1938年1月20日、17歳の時、カイロのサラヤー・エル・クッバ(Saraya el-Kubba)でサフィナーズ・ズルフィカール(صافيناز ذو الفقار;Safinaz Zulficar: 1921年9月5日 アレクサンドリア-1988年10月16日 カイロ)、当時16歳と結婚した。

ムハンマド・アリー朝Muhammad Ali dynasty)のエジプト王妃は王家の名前に相応しいように”F“で始まる「ファリダ」に改名している。ファリダ王妃Farida of Egypt)は、17歳の時、エジプト王との間に長女フェリアル・ビント・ファールーク(Princess Ferial:1938-2009)を出産、さらにファウズィーヤ(Princess Fawzia:1940-2005)、ファディア(Princess Fadia:1943-2002)と合計3人の娘に恵まれたが、その後も男子が生まれなかったために、1948年に離縁されている。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳の結婚記念写真:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前(1936年4月28日)に逝去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王ファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
English: Wedding of then- Crown Prince Mohammad Reza Pahlavi with Fawzia of Egypt.. 1939. Date 1939 Source mashruteh.org
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:King-Farouks-sister-Princess-Fawzia-married-Mohammad-Reza-Pahlavi-Crown-Prince-of-Persia-391771846562.jpg引用。


スルタン・フアード1世(Fuad I of Egypt)は、1919年5月26日にカイロで名家のナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)と再婚した。その2年後、1922年にファードは、フアード1世Fuad I of Egypt:1868ー1936)となった。1936年、フアード1世は逝去し、王妃ナーズリー・サブリーの生んだ長男エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)が16歳で王位を継いだ。ナーズリーは王太后となり、兄シェリーフ・サブリー・パシャ(Sherif Sabri Pasha)が、未成年のファールークの摂政となった。

エジプト王族ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)は、 1921年11月5日、フアード1世と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)の間の第2子(次女)のエジプト王女として誕生した。そして、ファウズィーヤは、1939年3月16日、17歳の時、カイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)でイラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)(18歳)と結婚式を挙げた。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt:1921年9月5日)17歳、花嫁兄エジプト王ファールーク1世(Farouk I)19歳、花嫁エジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳、花婿イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳、花嫁母エジプト王太后ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri):花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
Wedding Party for Shah of Iran and Princess (Original Caption) 3/30/1939-Cairo, Egypt- The wedding group taken after Princess Fawzia, 18-year-old sister of King Farouk of Egypt, and Crown Prince Mohamed Rida Chahbour of Iran, had been married in the Abdin Palace. In accordance with Moslem custom, the Princess was not present at the ceremony when the marriage contract was signed, but met her groom in the Queen's apartments afterwards. Left to right: Queen Farida and King Farouk of Egypt; Princess Fawzia and Crown Prince Mohamed, and Queen Mother Nazli.
写真は,Getty Images Wedding Party for Shah of Iran and Princess・引用。


写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)、エジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト高官:花嫁の父は先代エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)で、花嫁はエジプト王女として誕生した。しかし結婚3年前の 父王は1936年4月28日に死去している。そこで、父王の息子ファールークが王位を継いだ。エジプト王と王妹(花嫁)世は、フアード1世の子であり、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする。写真には、花婿以外、イラン皇族・高官は写っていない。
Egyptian Princess Marries Iranian Prince The wedding ceremony of Mohammad Reza Pahlavi (centre, wearing sash), Crown Prince of Iran, and Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013) at Abdeen Palace in Cairo, Egypt, 15th March 1939. With them is the bride's brother, King Farouk of Egypt (1920 - 1965, left). (Photo by Central Press/Hulton Archive/Getty Images)
写真は,Getty Images Egyptian Princess Marries Iranian Prince・引用。


フアード1世(Fuad I of Egypt)後継エジプト王は、フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)を母とするフアード1世Farouk Iで、その生母ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)はエジプト王太后であり、エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)、エジプト王女ファウズィーヤ(1921-2013)の母である。

エジプト王の妹ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)は、 パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)の最初の妃で、1941年にイラン皇后になる。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)の結婚記念写真:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
Description English: Wedding between Princess Fawzia and Crown Prince Mohammad Reza. Date 1939 Source Keystone via IMS Vintage Photos Author Unknown photographer
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:King-Farouks-sister-Princess-Fawzia-married-Mohammad-Reza-Pahlavi-Crown-Prince-of-Persia-391771846562.jpg引用。


1939年3月16日、カイロでのパフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)と17歳のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)の結婚式には、エジプト王妃ファリダ王妃Farida of Egypt)イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)、皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)が出席しているが、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、欠席している。

パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇太子モハンマドの母は、バクー出身のイラン皇后タジュ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896−1982)で、1939年3月16日カイロでの結婚式に出席。カイロの結婚式にいイラン皇帝は欠席。その後、新郎モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)皇太子・新婦ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)王女は、イランに向かい、1939年4月25日にテヘランでも結婚式を行ったが、エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は欠席している。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザー(Mohammad Rezā Shāh Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)と結婚したエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日):花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去、花嫁の兄は後継エジプト王のファールーク1世。花嫁母は、ファード1世王2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王太后。イラン皇太子の母は、イラン皇帝パフラビーの2番目の妻イラン皇太后タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)である。
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写真は,www.amazon.es/, Mohammad Reza Pahlavi, with his wife, Empress Farah Pahlavi - Vintage Press Photo Marca: Fotomax・引用。


ムハンマド・アリー朝Muhammad Ali dynasty)エジプト王フアード1世Fuad I of Egypt:1868ー1936)は、エジプト保護国イギリス育ちだった。しかし、第二次世界大戦中の1941年にドイツ・アフリカ軍団がエジプトに迫ると、エジプト王フアード1世Fuad I of Egypt)は、世論を受けて、反イギリスの立場をとろうとした。しかし、イギリスの脅迫に屈してしまい、人気が落ちた。

1948年の第一次中東戦争では、イスラエル攻撃を指示し、ナショナリズムに答えたが、敗戦。敗軍の将であるムハンマド・ナギーブ、ガマール・アブドゥン=ナーセルらの自由将校団によるクーデターが1952年に勃発し、退位させられた。そして、1953年にムハンマド・アリー朝Muhammad Ali dynasty)は滅亡した。


写真(上):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世、左右にエジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt)と先王(父)フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)王太后、右に花嫁のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)と夫のイラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)
:ファールーク1世は、1938年1月20日にファリーダ(Farida:1921-1988)と結婚したが、その1年後に妹の結婚式となった。左は2人目はオスマン帝国エジプト総督・副王イスマーイール・パシャ(Khedive Ismail:1830-1895)末娘ニメット・ムフタル妃(Princess Nimet Mouhtar:1876-1945)。花嫁の前に座っているのは、エジプト王妃(花嫁の妹)ファイザ(Princess Faiza:1923-1994)とファイザ(Princess Faika:1926-1983)と思われる。イラン皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)の姿はないようだ。背後のカーテンには、左にエジプトの紋章、右にイランの紋章が記されている。
Description English: The Bibliotheca Alexandrina's caption erronesouly states that this is a commemorative photograph of the wedding of King Farouk I and Queen Farida of Egypt. In fact, it is a commemorative photograph of the wedding of Farouk's sister Princess Fawzia and Mohammad Reza Pahlavi, the then crown prince (later shah) of Iran. The persons sitting in the front row who can be identified with certainty are (from left to right): Sultana Melek (1869–1956), widow of Hussein Kamel, the bride's paternal uncle; Queen Farida (1921–1988), wife of King Farouk I; King Farouk I (1920–1965), the bride's brother, wearing black tie and a tarboosh; Queen Nazli (1894–1978), the bride's mother; Princess Fawzia (1921-2013), the bride, wearing a wedding dress; Crown Prince Mohammad Reza Pahlavi of Iran (1919–1980), the groom, in military uniform with a chain over his chest. Princess Shams (1917–1996), the groom's sister. In the upper side of the photograph can be seen the coat of arms of the Kingdom of Egypt (left) and the coat of arms of Pahlavi Iran (right). The wedding is considered an important event in the history of Egyptian–Iranian relations,[1] as well as a milestone in Shi'a–Sunni relations: King Farouk I was the ruler of the Muslim world's most powerful Sunni country, Mohammad Reza Pahlavi was crown prince of the world's largest Shi'a country, and the wedding ceremony was performed by Mustafa al-Maraghi, rector of Al-Azhar, the world's foremost Sunni religious institution.[2] العربية: صورة تذكارية لحفل زفاف الملك فاروق والملكة فريدة. Date 1939 Source Bibliotheca Alexandrina This image comes from the Bibliotheca Alexandrina's Memory of Modern Egypt Digital Archive.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File: ModernEgypt, Wedding of Mohammad Reza Pahlavi & Fawzia, DHP13655-20-5 01.jpg引用。



ROYAL / EGYPT: Wedding of Princess Fawzia and Prince Reza (1939) British Pathé

写真(右):1939年4月25日,イラン、テヘラン、イラン皇帝(花婿の父)レザー・シャー・パフラヴィーとエジプト王妃(花嫁の母)ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)と右の皇太子(花婿)のモハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)、左のエジプト王女(花嫁)のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)結婚式
English: From left to right: Fawzia Fuad, Reza Shah, Nazli Sabri (Fawzia's mother), Mohammad Reza Pahlavi فارسی: از چپ به راست : پرنسس فوزيه , رضا شاه پهلوي , ملكه نازلي ( مادر پرنسس فوزيه ) و محمد رضا شاه پهلوي Date circa 1939 Source www.khandaniha.eu Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:Fawzia-RezaShah-Nazli-MohammadRezaPahlavi.jpg引用。


写真(右):1939年4月25日,イラン、テヘラン、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)の写真の結婚式記念プログラム:テヘランでの結婚式のもので、イランの国章が記入されている。
Description فارسی: برنامهٔ عروسی والا حضرت همایون ولایتعهد با والا حضرت شاهزاده خانم فوزیه Date 1939 Source https://auctions.dreweatts.com/past-auctions/blooms1-10006/lot-details/f0c99c44-64cd-4dec-8590-aacc00ba9a80 Author Bank Melli Dimensions height: 270 mm (10.62 in); width: 205 mm (8.07 in)
写真は,Wikimedia Commons, Category:Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt File:Programme of events for the marriage ceremony of Mohammad Reza Shah and Princess Fowzia.jpg引用。


パフラヴィー朝Pahlavi dynasty)イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)は、エジプト王女だったファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)の結婚式は、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)で挙げた。その後、イランに向かい、4月25日にテヘランでも結婚式を行った。

エジプト王女として生まれたファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921- 2013)は、兄のエジプト王ファールーク1世(Farouk of Egypt:1920-1965)が1938年1月にファリダ(Farida of Egypt:1921-1988)と結婚した翌年、1939年3月に結婚した。義理の姉エジプト王妃ファダとは、同じエジプトで年1921年に生まれている。またともに子女3人を設けたが、離婚されている。さらに、母国あるいは嫁いだ国が、イギリスの占領下におかれたこと、その王朝が自分の生きているうちにほろんだことも共通している。

写真(右):2010年8月,イラン、テヘラン北部 タージリッシュ、サヘブガラニーエ歴史博物館、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)の写真の入ったメダル:この歴史博物館は、1850年にナセレディン・シャー・カジャール皇帝の命令で建てられた建物で、カジャール朝時代の宮殿としても貴重である。
English: Commemoration Medallion of Marriage of Mohammad Reza Shah Pahlavi and Princess Fawzia of Egypt - March 1939 - The medallion is now in Sahebgharanie palace in Niavaran palace complex فارسی: مدال یادبود ازدواج شاه و فوزیه - اردیبهشت 1318 - این مدال در کاخ صاحبقرانیه در مجموعه کاخ موزه نیاوران نگهداری میشود. Date 5 August 2010 Source Own work Author Truth Seeker (fawiki)
写真は,Wikimedia Commons, Category:Fawzia Fuad・File: Commemoration Medallion of Marriage of Mohammad Reza Shah Pahlavi and Princess Fawzia of Egypt - March 1939.JPG引用。



Royal Wedding Celebrations In Tehran (1939) British Pathé


3.1939年の三菱式双発輸送機「そよかぜ」號

日本海軍は、1930年のロンドン海軍軍縮会議で補助艦保有制限が検討された時期に、三菱に乗員 3名、巡航速度 120ノット(222.2km/h)以上、航続距離 1800マイル(3333.6km)の海上遠距離偵察機として八試特殊偵察機(G1M1)の試作を指示し、八試特偵は1934年4月に初飛行した。この八試特殊偵察機を原型にして、海上長距離攻撃用の九試陸上攻撃機が計画された。

1935年7月に初飛行した三菱八試中型攻撃機は、海上で敵艦船を雷撃あるいは爆撃する攻撃機である。1936年(皇紀2596年)6月2日、九六式陸上攻撃機(G3M)として制式された。

日本海軍は、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中戦争がはじまると、華北の陸軍の軍事行動に後れを取らないように、華中での戦線を自ら開いた。これが1937年8月13日の第二次上海事変で、これを契機に、九州・台湾から中国本土の「渡洋爆撃」を実施し、上海周辺を主張に収めると、中国本土の航空基地から、内陸の南京方面を空爆した。この長距離陸上爆撃に用いられたの九六式陸上攻撃機(G3M)である。

写真集Alubum:九六式陸上攻撃機(G3M)を見る。


資料(上):1939年3月18日,イラン皇帝モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚奉祝飛行に三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)、積載無線機(奉祝飛行のT式超短波用送受信機・A式方向探知機)をフランス・イギリスにも打電を要請
:在バンコク村井公使宛、有田八郎外務大臣の奉祝飛行準備指示(主管:欧亜局長、1939年3月18日打電)(7)日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号) 日本、「イラン」親善往復飛行要領 「イラン」国皇太子殿下御結婚ニ当リ日本国政府ハ左記要領ニ依リ航空機ヲ派遣シ之ガ奉祝ノ意ヲ表スルモノトス 記 一、目的 「イラン」国皇太子殿下御結婚奉祝 二、実施年月日 昭和十四年四月上旬(御結婚式ハ四月二十二日ノ予定) 三、実施者 大日本航空株式会社 四、使用機 三菱式双発輸送機「そよかぜ」号 「そよかせ」は波斯語ては「ナシーム」といひ東天曙光をあでて好便来了の寓意ある由 登録記号J-BEOA 五、 搭載無線機 T式長短兼用送受信機 波長 中波 三三三 Kc 五〇〇 Kc 短波 六、五九〇 Kc 六、二一〇kc。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の旅客輸送機仕様「そよかぜ号」は、細長い胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加した。九六中攻は、一一型と二一型の双方が輸送機仕様に改造された。海軍では、九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したのが、そよかぜ号(J-BEOA)である。


資料(上):1939年3月頃,イラン皇帝モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚の三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)訪イ祝賀飛行の準備の件
:在テヘラン村井公使宛、有田大臣発。(1939年3月×日)(民間・国際)大日本航空会社を奉祝飛行のための許可をイランから取り付け、格納庫他その他の準備を整えることを指示。許可が遅れる場合は、皇室よりのご贈答品を横浜より香港経由で送ることを伝達。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。



資料(上):1939年3月頃,イラン皇帝とエジプト王女ご成婚の訪イ祝賀飛行の準備件
:使用飛行機:三菱式双發輸送機、登録記号JBEOA、無線機:有、武器・寫眞機・弾薬等携帯せず、実施会社:大日本航空會社、乗員:操縦(者)士2名、無線係2名、機関士2名、同乗者3,4名。予定航空路:東京ー広東ー河内(ハノイ)ー盤谷(バンコク)ー蘭貢(ラングーン)ーカルカッターアルハバワド(アラーハーバード)ージョットブルーカラチージヤスターバスラーテヘラン。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。



資料(上):1939年3月,日本、「イラン」親善往復飛行要領
:モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚につきイランに親善飛行し飛行:この後に、3日カルカッタ、4日から6日バンコク(盤谷)、7日広州(広東)、8日台北、9日東京、と帰国の日程が続く。
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)作成年月日昭和14年4月17日〜昭和17年4月16日
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


イラン國皇帝殿下御結婚に当り日本國政府は左記要領に依り航空機を派遣し之が奉祝の意を発するものとする。

1.目的 「イラン」國皇太子殿下御結婚奉祝 

2.実施期日 昭和14年4月上旬(ご結婚式は4月22日の予定) 

3.実施者 大日本航空株式会社 

4.使用機 (1)三菱式双発輸送機 (2)機名「そよかぜ」號 (3)登録記号 登録記号J−BEOA 語。

5.搭載無線機 (1)T式超短波兼用送受信機 (2)A式方向探知機

6.乗員及同乗者 機長 一等飛行操縦士兼一等航空士 松井勝吾 操縦士 一等飛行操縦士権二等航空士 岩堀庄次郎、機関士 清本虎男 技術員 楠木健次郎 無線通信士 清都誠一 日本国政府代表航空局書記官 大久保武雄 大日本航空総務部長 永淵三郎 外務次区間 鶴岡千仞 海軍少佐 江口穂積

イランに親善飛行そよかぜ号(J-BAOY)機長の松井勝吾は、1938年4月23日から29日に、ドイツのベルリンから日本の東京までハインケル(Heinkel)He-116機2機が、全航程15340kmを143時間43分で飛行した記録をつくった経験がある。 これは満州航空が先の購入したハインケル(Heinkel)He-116機長距離郵便機で、8名の搭乗員が技術取得と空輸のため飛行させたのである。日本のハインケル(Heinkel)He-116機は、J-EAKF(関東庁逓信局登録)が東郷号、J-BAKD(日本航空局登録)が乃木号と命名された。J-EAKFの正操縦士が横山八男、副操縦士は松井勝吾、機関士は石川金吾、無線士は塩田陽三で実飛行時間56時間18分でドイツのベルリンから、ロードス島ーバスラージョドプールーカルカッターバンコクー台北ー東京を2機編隊で横断飛行した。


新聞記事(右):1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」
:「畏き邊りから御手箱」「世界に誇る純国産機」
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」では、イラン皇太子モハンマド・レザー(Mohammad Reza:1919-1980)とエジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia of Egypt:1921-2013)ご成婚奉祝使節テヘラン派遣の新聞記事の初めに次のようにある。

「朗報、近東の友邦イラン帝国ではこの度皇太子もハメット・レザ・パーラヴィ殿下がエジプト國皇妹フアウヂア内親王殿下と御結婚遊ばされるについてわが国でも祝意を披瀝すべく奉祝使節を派遣するが、これを機会に最近躍進的に発達を遂げつつあるわが航空技術の粋を盡して「日本ーイラン間往復奉祝大飛行」を決行することとなり具体案を練っていたが、このほど成案全くなり、三十一日の閣議にて藍野逓相[逓信大臣]から計画内容を報告、来る八日(或いは十日)新装の東京羽田国際飛行場を出発、アジアの二友邦を繋ぐ鵬程一万二千九十キロの壮途に上ることになった。(イランは1935年旧名ペルシアを改称されたものである)」

新聞記事(右):1939年4月1日,東京朝日新聞「イランは待つ友邦の使節」飛行機でお祝いの品 「そよかぜ」號を派遣」:「機は純国産 操縦は粒よりの鳥人」「美しい手箱 中山公使が捧呈」「大臣へも贈物」「総理大臣談」「馴染みのコース 感激を語る機長等」。御手箱、武者人形、花瓶など贈物の写真も掲載されている。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


1939年4月1日,東京朝日新聞「イランは待つ友邦の使節」では、イラン皇帝とエジプト王女ご成婚奉祝親善飛行のそよかぜ号(J-BAOY)予定航空路は、東京ー台北ー広東ーバンコクーカルカッターアラハバッド(アラーハーバード)ーカラチージヤスタ(ホルムズ海峡)ーバスラーバクダッドーテヘラン、となっている。

三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BAOY)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。

写真(右)1939年4月8日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸した。後方の機体は、三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。会場は、大日本航空(株)の格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月8日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子ご成婚祝賀に向けた大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社の三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機とその飛行機格納庫NO.2;日本は1935年6月にイギリスからエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy)2機を購入、輸入し、日本海軍もエンボイ輸送機(LXM1)と命名し使用した。初飛行は1934年6月で、引込脚を持つ当時としては近代的な航空機。乗員: 1名 乗客: 6名全幅: 15.9 m 全長: 10.50 m 全高: 2.8m 機体重量: 2,930 kg 発動機: アームストロング・シドレー チーターIX 空冷7気筒 350hp × 2 最高速力: 338 km/h 巡航速力: 309 km/h(高度2,230mでエンジン出力75%) 航続距離: 1,046 km(高度3,050mでエンジン出力62.5%) 上限高度: 6,858 m三菱飛行機は「ひなづる型旅客輸送機」として1936年から1938年に8機ライセンス生産した。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚祝賀出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸した。後方の紅白垂れ幕の奥の機体は、三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機の機首。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。会場は、大日本航空(株)の格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。
昭和14(1939)年4月9日午前7時13分に羽田飛行場を離陸

写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚祝賀出発式、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)正面
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


1939年4月9日午前7時13分、松井機長の三菱式双発輸送機そよかぜ号は、イラン代理公使夫妻をはじめ多数の見送りと万歳の歓声の中を羽田飛行場を離陸、イラン帝国テヘランまでのイラン皇太子モハンマド・レザー(Mohammad Reza:1919-1980)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia of Egypt:1921-2013)ご結婚祝賀親善飛行に飛び立った。

写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節の出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚慶祝使節出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸した。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚祝賀出発式:そよかぜ号には寫眞週報の昭和14年4月19日号に「搭乗者は帝国政府代表大久保航空局国際課長、江口海軍少佐、鶴岡外務事務官、永淵日航総務部長、乗組員は松井機長以下の5鳥人、予定によれば10着陸の上、8日目の15日午前にテヘランへ晴れの車輪を印することになっている。」とある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、ペルシャ皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。



資料(右):『寫眞週報』1939年4月19日号,イラン親善往復飛行に飛び立った大日本航空三菱そよかぜ号
<:コクピット操縦席の天蓋をあけて上半身を出しているのは、機長(一等飛行操縦士兼一等航空士)松井勝吾
写真週報 61号 階層 国立公文書館内閣文庫内閣情報局関係出版物写真週報 作成者名称 内閣情報部 資料作成年月日 昭和14年4月19日 土から油と旋盤へ/護れ 北の権益/そよかぜはイランへ/海外通信 独逸の国防記念日/読者のカメラ さきに事変が勃発するや全国民は夙に尽忠報国の誠を効し克く挙国一致の戦時態勢を確立して来たが、更に時局の重大な新展開に即応するには国民精神総動員運動を一層強化し物心一如の実践運動に推し進めねばならぬ。その企画をなすために荒木文部大臣を委員長とする国民精神総動員委員会が四月一日内閣に
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 「写真週報 61号」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06031065600、写真週報(国立公文書館)引用。


中央研究院 臺灣史研究所Institute of Taiwan History 臺灣新民報掲載のイラン親善奉祝往復飛行(そよかぜ号)の関連記事一覧

臺灣新民報1939年4月 第2940號(1939-04-09) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 天候不良のため 出發を明日に延期...

臺灣新民報1939年4月 第2941號(1939-04-10) 日刊第2版 ...日イ親善、空の使節 そよかぜ號 臺北着 昨日軍官民歡迎裡に...

臺灣新民報1939年4月 第2943號(1939-04-12) 日刊第2版 ...そよかぜ號 昨日 盤谷[バンコク]に安着...

臺灣新民報1939年4月 第2944號(1939-04-13) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 盤谷[バンコク]出發 カルカツタへ向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2945號(1939-04-14) 夕刊第2版 結果節錄: ...そよかぜ號 アラハバツトに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2945號(1939-04-14) 日刊第2版 ...そよかぜ號 カラチに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2946號(1939-04-15) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 バスラに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2946號(1939-04-15) 日刊第2版 ...そよかぜ號 豫定を變更 日程を一日縮める...

臺灣新民報1939年4月 第2947號(1939-04-16) 夕刊第2版 ...「そよかぜ」號 一氣にバスラに安着...

臺灣新民報 第2947號(1939-04-16) 日刊第2版 ...親善の翼そよかぜ號 きのふイランに安着...


資料(上):『寫眞週報』1939年4月19日号,そよかぜはイランへ
:モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚につきイランに親善飛行し飛行
「日本の誠意を込めた贈りものは、飛行場内郵便局でで放送を了へ、さなだ紐でくくられて機内へ」「逓相としてこの日から最後の藍野法相は7日午後3時、朗々と「そよかぜ」命名の文を読み上げる」「日本、イラン両国国旗に飾られた格納庫に関係者数百名参列、満中に祝福をあびて出発式は7日挙行された。」「3月16日エヂプト、カイロのファルーク王宮廷でご結婚あらせられたイラン皇太子モハメッド・レザ・パラヴィ殿下とエヂプト國皇妹ファウジア内親王殿下。(中央)両脇はエジプト王ご夫妻[→修正:左端2人がエジプト王ファールーク1世と王妃ファリダ夫妻、右端は、花婿の母イラン皇太后タジュ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896−1982)]ではなく、花嫁の母エジプト王太后ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri:1894–1978)」  写真週報 61号 階層 国立公文書館内閣文庫内閣情報局関係出版物写真週報 作成者名称 内閣情報部 資料作成年月日 昭和14年4月19日 土から油と旋盤へ/護れ 北の権益/そよかぜはイランへ/海外通信 独逸の国防記念日/読者のカメラ さきに事変が勃発するや全国民は夙に尽忠報国の誠を効し克く挙国一致の戦時態勢を確立して来たが、更に時局の重大な新展開に即応するには国民精神総動員運動を一層強化し物心一如の実践運動に推し進めねばならぬ。その企画をなすために荒木文部大臣を委員長とする国民精神総動員委員会が四月一日内閣に
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 「写真週報 61号」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06031065600、写真週報(国立公文書館)引用。


臺灣新民報1939年4月 第2949號(1939-04-18) 日刊第2版
...イラン皇太子同妃殿下 テヘランに御到着......「来る(3月)22日に盛大なる御成婚式を挙げさせらるるイラン皇太子シャプール殿下並にフアウジア妃殿下は妃殿下の御母君に当らせられるエジプト皇太后陛下と御同乗宮廷列車で(4月)16日午後4時テヘランに御着遊ばれた。」
嘉積市を完全占領 共產匪據點樂會を奪取
新英港(海南島西部の要港)敵前上陸 洋浦、白馬井兩港を占領
海南島の宣撫進捗 皇軍の真價を認め、投降續出
潭州デルタ地帶確保 我陸海兩部隊、悠悠敵前上陸
博鰲港に敵前上陸 敗敵を蹴散らしてこれを占領
撫河南岸に敵前上陸
蔣、しつとしをれず 西北、中支、西南三軍の 監視、督戰に乘出す
新南群島の概況 けふ高雄市編入を公布
ダンチツヒの除外 獨への併合、時の問題と見てか
戰死者遺族を總督代理弔問


資料(右):1939年4月17日,在テヘラン中山大使宛、有田大臣発、「そよかぜ」号の土(トルコ)、阿富(アフガニスタン)乗入交渉の件
:軍中央より連絡ありたる「そよかぜ」号のアンカラ、カブール乗入れの件は航空局とも連絡せる結果貴地にて交渉するが実際的と認め事例より貴地□□宛の旨変電せるを貴地に於ける右寄り適切指示ありたし。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


3−A.親善機“そよかぜ”号テヘラン(イラン首都)に安着
大阪毎日新聞 Vol: 第 23巻 Page: 129 出版年 1939-04-16

[図表あり 省略] テヘラン本社特電【十五日発】イラン訪問の親善機「そよかぜ」号は十四日夜バスラに機翼を休め十五日午前六時二十五分(日本時間午後零時二十五分)同地を出発、最後のコーズを快翔、同午前十一時二十分(日本時間午後四時二十分)目的地たるイランの首都テヘランに安着した、東京より一万二千六十一キロを実飛行時間四十六時間五十分(全所要時間百五十三時間七分)で翔破した(親善機“そよかぜ”号テヘラン(イラン首都)に安着引用終わり)

新聞記事(右):1939年4月18日,伯剌西爾(ブラジル)時報「歓呼の嵐に迎へられて 微風號テヘラン着」【テヘラン】が中央に小さく掲載されている。:「我空爆に曝された 重慶政府の逃避行 行政院残して七十哩内に分散 人口二万人の貧弱都市」「国府今やハ行經濟 法幣乱発インフレ時代」「敗残の苦闘物語る総支那兵郷里からの手紙 武寧付近で分捕郵便物の中に発見」「俄然全貌顕した国共合作共同委員会 蒋陣営の最高権力を握る」「米国の武装は? 中立法の精神無し(承前) 欧州戦参加確実」。「輸送機撃墜は伝 青天白日章ある支那機 我海和紙蒙自飛行場爆撃」「軍艦旗翻し熱砂を蹴り 陸戦隊博ゼイ港敵前上陸 海南島東岸中央部の要衝」「國府軍需公債 6億元発行」「世界最高の儀礼に守られ斎藤大使の遺骨到着 アストリア號17日横浜港到着」
写真は 国際日本文化研究センター https://rakusai.nichibun.ac.jp › Brasil › PDF › 1939/04歓呼の嵐に迎へられて. 微風號テヘラン着. 引用。


臺灣新民報1939年4月 第2951號(1939-04-20) 日刊第2版
Reza Shah ...イラン官民を招きティーパーティー 会衆、日本航空技術を称賛...「【テヘラン19日發同盟】イラン訪問親善機そよかぜ号一行は18日午後3時テヘラン飛行場にイラン官民有力者50名を招待してテイーパーテーを開き日本側からが村井公使以下在留官民、イラン側からは航空長官、飛行学校長以下実業家有力者多数が出席して格納庫内に設けられた宴席で日イ交際を行った。一同は先づ日本ビールの舌鼓を打った後大久保航空局国際課長からイラン訪問の指名につき挨拶があり、松井機長は次いでそよかぜ號の数字的に説明、本気の設計は5年前のもので現在ではもっと新式の飛行機が出来ているが比較的旧式の本機を今回の奉祝親善飛行に使用したのはこの機が支那事変に際し貨物郵便などの運送に用ひられ属々敵弾の洗礼をうけた経歴を有するためにイランに使いするに相応しいと考えたからである、と結び非常な喝采を博した。次いで松井機長以下愛機に搭乗して試験飛行を行い日本航空技術の粋を見せ慣習に多大の感銘を与えたが、航空長官は松井機長と固く握手をしてその技術の優秀さを称えた。」

...大久保[武雄]、鶴岡[千仞]両代表 イ國陸相を訪問す...「【テヘラン18日発同盟】そよかぜ號でイランを訪問した日本政府代表大久保航空局国際課長並に外務省代表鶴岡事務官は18日陸軍省にファズリ陸相を訪問今回の奉祝飛行のあいさつを述べ岡野運相のメッセージを手交した。これに対しファズリ陸相は先づイラン国を代表して所持を述べ日本政府に伝達方依頼した後、自分は航空兵出身だが航空の立場から盟邦の飛行機又はその代表がイランに来る場合には最大の好意を持ってこれを歓迎する。従来イラン国は隊商によって世界文化に寄与して来たが今や文化の伝播は隊商の代わりに飛行機で各国との連絡しその中心足らんことを欲している、と遠大な抱負を開陳するところあった。」

ペルセポリス ...そよかぜ號搭乗員 テヘランで大持て...「【テヘラン18日発同盟】イラン訪問親善機そよかぜ號の搭乗者一行は17日午後4時日イ両国旗を揚げた自動車に分乗してテヘラン市内の目抜き通り一巡したが道往く市民は「ジャポネ」「ジャポネ」と口ぎ地に連呼し非常な人気であったがゴレスタン応急付近では折柄市内行進中のイラン国軍隊が一向に対し歩調を取り頭右の禮を取って時ならぬ親善風景を現出した。尚17日にはトルコの飛行機が7台編隊で到着するなど22日の御成婚式を控えてテヘラン市内は祝典気分が横溢している。」
...殆ど全商品に及ぶ 公定價格制の擴大 商工省調查に着手
...青年團を擴充強化 臺北州全青年十二萬を入團せしめ 生產擴充にも即應

臺灣新民報1939年4月 第2956號(1939-04-25) 日刊第2版 ...奉祝ビラ五萬枚 そよかぜ號が撒布...「【テヘラン23日發同盟】愈々(4月)22日から始まった皇太子殿下の御成婚祝典に今やイラン国は挙げて歓喜の□渦と化しているわが親善機そよかぜ号は祝典最終日の25日挙行される大観兵式の空中分列行進に参加し、イタリア、トルコなど友邦機と伍して空から奉祝の意を表する外特に24日午後には単独飛行を行ひテヘラン上空から豫て用意の奉祝ビラ5万枚を散布することとなった」
...広東の防空施設 大したことなし 満富防空課長談...

臺灣新民報1939年4月 第2958號(1939-04-27) 日刊第2版 ...空中分列式に そよかぜ號參加 イラン御成婚祝典最終日...「4日間に亘るイラン皇太子殿下御成婚祝典は25日の最終日を迎へてテヘラン前肢の奉祝気分は絶頂に達した。この日皇太子に同妃殿下には先づエジプト公使館に午後会盡され各国使節を招待された。午後2時から練兵場で空中分列行進と軍人の馬術があり、イラン皇太子殿下以下後続、刻々使節外交官等が列席したが空中分列行進には我がそよかぜ号も堂々参加、日本航空技術の優秀さを示した。」

臺灣新民報1939年5月 第2965號(1939-05-04) 日刊第2版 ...そよかぜ號 十五日發歸還飛行...

臺灣新民報1939年5月 第2970號(1939-05-09) 日刊第2版 ...そよかぜ號 乘組員一行の動靜...

臺灣新民報1939年5月 第2973號(1939-05-12) 日刊第2版 ...そよかぜ號 歸還飛行 臺北[台北]着は二十六日...

臺灣新民報1939年5月 第2977號(1939-05-16) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 けさテヘラン出發...

臺灣新民報1939年5月 第2978號(1939-05-17) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 歸還飛行の途に就く...

臺灣新民報1939年5月 第2979號(1939-05-18) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 カラチ到着...

臺灣新民報1939年5月 第2979號(1939-05-18) 日刊第2版 ...そよかぜ號 カルカツタ[コルカタ]に安着...

臺灣新民報1939年5月 第2980號(1939-05-19) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 カルカツタ[Calcutta]を出發...

臺灣新民報11939年5月 第2981號(1939-05-20) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 ラングーン[Rangoon]に安着...

臺灣新民報1939年5月 第2981號(1939-05-20) 日刊第2版 ...そよかぜ號 盤古[曼谷]着 あす故國へ向け出發...

臺灣新民報1939年5月 第2984號(1939-05-23) 刊別版次: 夕刊第2版 ...そよかぜ號は 廿六日臺北[台北]着 午前十一時十五分...

臺灣新民報1939年5月 第2986號(1939-05-25) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 バンコツク[Bangkok]發廣東へ...

臺灣新民報1939年5月 第2986號(1939-05-25) 日刊第2版 ...そよかぜ號 盤谷[Bangkok]に引返す...

臺灣新民報1939年5月 第2987號(1939-05-26) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 廣東[Guangdong]へ向ふ...

臺灣新民報1939年5月 第2987號(1939-05-26) 日刊第2版 結果節錄: ...そよかぜ號 惡天候で盤谷[Bangkok]に引返す...

: 臺灣新民報1939年5月 卷期名稱: 第2988號(1939-05-27) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 廣東[广东]に向ふ... 臺灣新民報1939年5月 第2988號(1939-05-27) 日刊第2版 ...難航、全員死を覺悟 そよかぜ號 同乘江口少佐談...

臺灣新民報1939年5月 第2989號(1939-05-28) 夕刊第1版 ...重大使命を果して そよかぜ號 島都着 軍官民の歡呼裡に...

臺灣新民報1939年5月 第2990號(1939-05-29) 日刊第2版 ...そよかぜ號 官民の歡呼に迎へられ きのふ羽田に安着...

大日本航空の三菱式双発輸送機そよかぜ号のイラン親善往復飛行経路
往路: 東京→台北→広東→バンコク→カルカッタ(コルカタ)→カラチ→バスラ→テヘラン[Tehran]
復路:テヘラン[Tehran]→バグダッド→バスラ→カラチ→カルカッタ(コルカタ)→ラングーン→バンコク→広東→東京


臺灣新民報1939年5月 第2991號(1939-05-30) 夕刊第2版 ...そよかぜ號鳥人 けふ歸還の挨拶...

臺灣新民報1939年6月 第2995號(1939-06-03) 夕刊第4版 ...圖像:そよかぜ號歸る...

臺灣新民報1939年6月 第3003號(1939-06-11) 日刊第2版 ...新舊遞相が空の漫步 そよかぜ號で鄉土訪問飛行 上空から夫夫通信筒を落す...


新聞資料(上):1939年5月20日,ラングーン・ガゼット(The Rangoon Gazette , Saturday, May 20, 1939)”THE ’SOYOKAZE’”(三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)のイギリス領ビルマ植民地ラングーン訪問)
:英文記事の内容「この機体は、イラン皇太子とエジプト王女との結婚式の奉祝飛行で東京からテヘランを訪問した。ラングーンには、帰国途上の火曜日午後に到着した。写真は、乗客と乗員が、飛行場に出迎えた観衆に手を振っているところである。「そよかぜ号」は、昨日午前中にバンコクに出発した。」有田大臣宛に在蘭貢(ラングーン)領事久我成美の送った現地新聞の切り抜き記事であろう。 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


3−B.帝国とイラン国間に修好条約調印さる
大阪朝日新聞 Vol: 第149巻 Page: 110 出版年 1939-10-20

テヘラン特電十九日発】イラン政府十九日発表=日本、イラン両国修好条約は十八日夜調印された(帝国とイラン国間に修好条約調印さる引用終わり)

3−C.日泰イラン条約枢府本会議で決定
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第155巻 Page: 134 出版年 1940-12-12

十一日の枢府[枢密院]定例本会議は午前十時より宮中において天皇陛下親臨のもとに開催、枢府[枢密院]側から原、鈴木正副議長以下各顧問官、政府側から近衛首相以下関係各閣僚および村瀬法制局長官出席

一、日本国と泰国との間の条約御批准の件
一、日本国とイラン国との間の修交条約御批准の件
一、奏任文官特別任用令中改正の件(新たに地方消防司令設置に伴う特別任用の途を開き大阪、京都、神奈川、兵庫、愛知、福岡の各府県にこれを設置すること)

の三件を上程堀江書記官長より審査経過並に結果の報告あり審議の結果満場一致これを可決し同十時四十分散会した(日泰イラン条約枢府本会議で決定引用終わり)


4.1941年6月の独ソ戦後のイギリス・ソ連のイラン侵攻

4−A.イラン国王 : 東人西人
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 120 出版年 1941-08-23

Winston Churchill 英ソ両国政府は去る二十日、イランに対し共同通牒を突きつけ、一週間の期限附をもってイラン在住ドイツ人の国外総退出を迫り、もしこの要求を拒絶すれば英ソ両軍はイランに進駐するの態勢を示している、右要求に対しイラン国王レザー・シャー・パレウイは悲壮なる決意のほどを示し、イラン政府またイランはあくまで領土保全厳正中立の態度をとるのものでなかったいう

レザー・シャー国王は不世出の英傑と謳われ、大の親日家で我が国との間にも公使を交換、イラン鉄道敷設準備の際我が国からの技師の招聘、日本との貿易促進等に自ら意を注がれたという [写真あり 省略]

一八七八年裏海[Caspian Sea]南岸の一貧農の子として生れ、一九〇〇年ペルシア・コサック旅団に入隊、第一次大戦に殊勲を現して師団長に昇進、二一年ペルシア協定に関連して擾乱起るや、首都テヘランを乗取って、自己の推す政府を作らしめ、自らは陸相兼陸軍総司令官として羽振りを利かせ、二三年には首相として独裁官的勢威を揮った、同年国王アーメッド・シャー[Ahmad Shah Qajar]国外に去るに及んで、二五年前王朝を廃して自ら国王として即位すべき旨宣言、二六年以来イランをして立憲君主国としての形態を整えしむるに至った

鋭意国内の統一、行政および軍隊組織の改め、国家的には三七年イラク、トルコ、アフガニスタンとの間のサーダバッド不侵略条約、イラクとの間の国境紛争解決協定の締結、皇太子[モハンマド・レザー]エジプト皇妹[ファウズィーヤ・ビント・フアード]との成婚等によって回教国との間に和睦政策を促進し、また国家主義の昂揚によって欧洲の帝国主義的覇絆から脱するに努め永年イラン国内に根を張っていた英ソの勢力にも相当の掣肘を加え、遂に新顔のドイツ人技師商人らは好感をもって迎えらるるに至った (イラン国王 : 東人西人引用終わり)

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興南新聞1941年2月 第3618號(1941-02-20) 刊別版次: 夕刊第1版 ...イラン、イラク抱込み 英、益益執拗且つ高壓的...

興南新聞1941年2月 第3624號(1941-02-26) 日刊第2版 ...圖像:イランヘ贈る日本人形...

興南新聞1941年5月 第3690號(1941-05-04) 夕刊第1版 ...ソ聯の大軍續續 イラン國境に集結 獨、ソ間に一種の申合せ存在が.

興南新聞1941年5月 第3716號(1941-05-30) 夕刊第1版 ...日、イラン修交條約 批准書の交換を了す 【東京發同盟】近東の友邦イラン國と我國との間に今回修交條約が成立することに

興南新聞1941年6月 第3729號(1941-06-12) 日刊第1版 ...日、イラン間の 修好條約發効...

興南新聞1941年6月 第3745號(1941-06-28) 夕刊第1版 ...イラン中立...

写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾頭、アバダン(?)、イランに進駐したイギリス・インド軍兵士の行進:イラン南西には、カルーン川が流れ、沿岸には河川を利用する水上交通で栄えたホラムシャハル、アバダンなどの港湾都市があり、油田、石油精製施設もある。イラン占領軍の将兵が警備しているのであろう。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA) Original wartime caption: Indian troops on the march to take over guard duties Date between 1939 and 1945 Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer) Keating, Geoffrey John (Undefined) Production date 1941-09-04 Materials Catalogue number E 5322
写真は,Imperial War Museums・IWM (E 5322)引用。


1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦に際して、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年にイギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐で、連合国は、国家の独立、当初の国境、国家主権を侵害するファシズム枢軸ことと戦い、正義と自由を回復すると、1941年8月14日の大西洋憲章で宣言していた。しかし、その舌の根が乾かないうちに、中立国イランの国家主権を蹂躙し、軍事占領し、イラン皇帝を退位・追放に追い込んでしまった。

写真(右):1941年9月4日,イラン南西部、ペルシャ湾頭、アバダン(?)、石油精製施設を占領しゲートで自動車を検問するイギリス・インド軍の将兵:イラン南西には、カルーン川が流れ、沿岸には河川を利用する水上交通で栄えたホラムシャハル、アバダンなどの港湾都市があり、油田、石油精製施設がある。イラン占領軍の将兵が警備しているのであろう。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA) Original wartime caption: Indian riflemen inspecting passes and cars at the entrance to the refinery Date between 1939 and 1945 Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer) Keating, Geoffrey John (Undefined) Production date 1941-09-04 Materials Catalogue number E 5325
写真は,Imperial War Museums・IWM (E 5325)引用。


1941年8月25日、英ソは、中立国イランに南北から軍事侵攻し、イラン全土を占領し支配した。その理由は、
1)1941年6月22日にドイツ軍がソ連に侵攻し、コーカサス地方にまで進軍することが予測されたため、事前に親ドイツの立場をとって、ドイツ人技術者やイタリア艦艇を導入していたイランを無力化すること、
2)重要な戦略資源であるイランの油田・製油施設を確保すること、
3)ソ連への軍事援助、特に中立国アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資の補給援助ルートとなるペルシャ回廊を確保すること、
である。こうして、イランは、半数菊国の側に立ってた戦わされることになった。

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と続く皇太子子のモハンマド・レザー:1941年8月25日にイランに侵攻したイギリスとソ連は、親枢軸派のイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーを1941年9月16日に退位させた。そして、イラン皇太子に帝位を継がせて、イランを保護国化して支配した。
English: Reza Shah Date 1944 Source https://mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Reza Shah in 1941・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。


1941年8月25日に、南からイギリス軍が、北からソ連軍がイランに軍事侵攻し、イラン軍は大きな抵抗をできないままに降伏した。イラン全土が英ソの支配下に置かれ、イランは軍事も外交も完全に英ソに奪われ、保護国化された。レザー皇帝は退位させられて、子のモハンマド・レザーが1941年9月16日に帝位を譲らざるを得なくなった。モハンマド・レザーは、パフラヴィー2世と呼ばれた皇帝だが、第二次大戦中は、満州帝国の皇帝溥儀と同じく、実権のない傀儡皇帝といえる。

⇒写真集Alubm:1941年8月、英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)

写真(右):1938年1月20日,エジプト、カイロでエジプト王ファールーク1世(17歳)と結婚した王妃ファリーダ(Farida:1921年9月5日 アレクサンドリア - 1988年10月16日 カイロ)16歳:エジプト王フアード1世の娘で王太子ファールークの妹ファウズィーヤは、1939年3月にカイロでイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーと結婚した。
The wife of King Farouk of Egypt Digital ID: (digital file from original) matpc 08367 https://hdl.loc.gov/loc.pnp/matpc.08367 Reproduction Number: LC-DIG-matpc-08367 (digital file from original) Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA https://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print
写真は,Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog >The wife of King Farouk of Egypt引用。


エジプト王妃ファリダFarida of Egypt:1921-1988)とイラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia bint Fuad:1921- 2013)の両者の共通点は、
1)エジプト生まれであること、
2)1921年生まれであること、
3)高貴な出自であること、
4)王・皇帝の最初の王妃となったこと、
5)エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)と親族関係にあること、
6)子女3人を設けたこと、
7)自分の国にイギリス(ソビエト)の外国軍が進駐し保護国・属国とされたこと、
8)王権が外交・軍事・財政・法律など大幅に制限されたこと、
9)夫に離婚されたこと、
10)離婚後に夫と離れて外国で暮らしたこと、
11)離婚した夫が、エジプト・イラン最後の王・皇帝になり、王朝が瓦解したこと、
である。

写真(右):1938年,エジプト、カイロ、エジプト王女として生まれたエジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳:1939年3月16日にイラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)と結婚する前年。イラン皇太子妃となる。3女をもうけたものの、1945年にエジプトに帰国、1948年11月17日に離婚が成立した。
Princess Fawzia of Egypt Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013), 1938. The daughter of King Fuad I of Egypt, she became Queen of Iran the following year when she married Mohammad Reza Pahlavi. (Photo by Paul Popper/Popperfoto via Getty Images/Getty Images)
写真は,www.gettyimages.co.jp Princess Fawzia of Egypt・引用。


1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻、それに続く9月3日の英仏に対ドイツ宣戦布告で第二次世界大戦が勃発すると、石油需要がひっ迫したために、中立国の産油国イランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座にソ連への軍事支援を表明した。ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスク・アルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾・イランを経由する中東ルートがあった。

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)の王妃、エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921年11月5日 - 2013年7月2日)20歳:ファウズィーヤ・ビント・フアードは、結婚翌年1940年に長女シャーナーズを出産した。1941年に夫が皇帝に即位し、王妃の地位を得た。
First upload on English wikipedia byen:User:Tuckerresearch, 20:00, 21 October 2005 Original file name: en:Image:Fawzia.jpg Description: Portrait of Princess Fawzia bint Fuad of Egypt Source: www.iranchamber.net
写真は,Wikimedia Commons, Category:Fawzia Fuad・File:Princess Fawzia bint Fuad of Egypt.jpg引用。


ここで、主要なルートは北極海ルートであったが、中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも親イギリスの立場とは言えず、ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社[Anglo-Iranian Oil Company]があり、ペルシャ湾岸のアーバダンは、油田としても港湾としての重要な場所だった。、ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、イラン経由の中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。

⇒写真集Alubm:ソ連への武器貸与(Lend-Lease)経路となったペルシャ回廊(Persian Corridor)

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)の王妃、エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード妃(1921年11月5日 - 2013年7月2日):ファウズィーヤ・ビント・フアードは、結婚翌年1940年に長女シャーナーズを出産した。1941年に夫が皇帝に即位し、王妃の地位を得た。しかし、1945年にエジプトに帰国、1948年11月17日に離婚が成立した。
Queen Fawzia of Iran, daughter of the Egyptian king Fuad I, wife to the Iranian shah Mohammad Reza Pahlavi. Official Imperial photo from the Pahlavi court. Date during her marriage to the Shah of Iran (from 1939 to 1948)
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Fawzia Fuad・File:Fawzia official.jpg引用。


4−B.イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 58 出版年 1941-08-29

【ニューヨーク特電二十七日発】APテヘラン電によれば信ずべき筋の情報としてイラン駐在イギリス公使ならびにソ連大使は二十五日リザ・シャー・パーレヴィ王に謁見せる後戦争中止にたいするイランの申入ならびに実質的にイラン在留全ドイツ人を一週間以内にイランより退去せしむべしとのイラン政府の保障と、同情報によればイラン政府は必要不可欠なる技師たる数名のドイツ人は交代可能時期まで暫時現地に留まらしむるとの意向を申入れたといわれる。

然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。

【ニューヨーク特電二十七日発】アンカラ発NBC放送局特派員の放送によればイラン内閣は二十七日総辞職した、同放送はアンカラの信ずべき筋の報道としてマンスル・イラン首相は新首相が任命され次第恐らく「イラン国民がイランの独立のため侵略に抗しつつあることに満足するもイラン軍は英ソ両軍により屈服を余儀なくされた」との主旨の声明を発するものと見られている旨伝えている。

単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。

【ニューヨーク二十八日発同盟】テヘラン発AP電によればイラン国王は二十七日アリ・マンスル内閣の総辞職を聴許した。 (イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か引用終わり)

写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン、イギリス大使館玄関、皇帝用乗用車の運転席にいる軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi):皇帝の運転席のドアが閉められ、これから、シャー自らの運転で退去する。
Original wartime caption: With H.I.M. the Shah of Persia at the wheel, H.R.H. enters the royal car. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19
写真は,IWM, Imperial War Museums・Catalogue number E 12044引用。


イランは、主権が尊重される独立だった。1941年の大西洋憲章で、米ソは国境線の変更を許さない、主権の侵害には戦うと宣言し、1941年6月の独ソ戦の後には、ソ連もそれを承認した。

しかし、そんな建前を無視して、1941年8月25日、イギリスとソ連は、イランに兵を贈り、南北から侵攻し、占領下に置いた。米ソの圧力でイラン皇帝レザーは退位させられ、子のモハンマド・レザーは帝位に即位したが、喜んだわけではないであろう。

写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン、イギリス大使館玄関、イギリス王族グロスター公(Prince Henry, Duke of Gloucester:Henry William Frederick Albert; 1900–1974)らに見送られて大使館を去る軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi):イギリス政府・軍高官との話し合いが終わったのか、高官たちに見送られ、玄関に用意されたイラン皇帝専用車に移動する。皇帝を迎える付き人が、皇帝専用車の運転席ドアを開けて皇帝を待っている。右の白い軍服は、イギリス軍人で辞去の敬礼をしている。
Object description Original wartime caption: H.I.M. the Shah of Persia leaves the British Legation Teheran. H.R.H. the Duke of Gloucester stands in the doorway. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19
写真は,IWM, Imperial War Museums・Catalogue number E 12045引用。


イラン皇帝モハンマド・レザーは、のちにシャー、あるいはパフラヴィー2世と呼ばれるようになったが、英ソの占領下で政治的、経済的、軍事的に制約下に置かれた「皇帝」は、傀儡に過ぎず、日本支配下満州帝国の皇帝溥儀を思い起こさせる。

写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン、イギリス大使館の通用口、皇帝用乗用車の運転席に向かう軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi):皇帝の乗る運転席のドアを開けて、侍従が皇帝を待っている。他の写真と明らかに同じ場所だが、建物の位置が異なっている。これから、シャー自らの運転で乗馬クラブに向かうのであろう。
Original wartime caption: H.I.M. the Shah of Persia at the Summer Palace, Teheran. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19
写真は,IWM, Imperial War Museums・Catalogue number E 12043引用。


グロスター公ヘンリーPrince Henry, Duke of Gloucester:1900-1974)は、イギリス国王ジョージ5世の三男、イートン校、王立陸軍士官学校に学び、1937年まで将校として勤務した。第二次世界大戦の勃発で現役に復帰。1955年に陸軍元帥、1958年に空軍元帥に任ぜられた。1935年に35歳でクイーンズベリー公爵三女アリスPrincess Alice:1901ー2004)34歳と結婚した。この結婚は、イラン皇帝夫妻よりも10歳以上年齢を加えた晩婚である。1945年に第11代オーストラリア総督に就任し、1947年まで地位にあった。

写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン、イギリス大使館玄関前、イギリス政府・軍高官の見送りを受けて、皇帝専用車を自ら運転して辞去するイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)、気軽に話しかけるイギリス王族グロスター公ヘンリー(Prince Henry, Duke of Gloucester:Henry William Frederick Albert; 1900–1974)
Object description Original wartime caption: H.I.M. the Shah of Persia with H.R.H. the Duke of Gloucester at the entrance to the British Legation. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19
写真は,IWM, Imperial War Museums・Catalogue number E 12046引用。


グロスター公ヘンリーPrince Henry, Duke of Gloucester:1900-1974)は、イラン皇帝に対面するのに、正装せず、略式の軽装ですませている。話しかけるにも、気軽に声をかけている。これは、乗馬に出かえる前なので、軽装なのかもしれない。しかし、グロスター公は、国王の三男で王族とはいえ、イラン皇帝よりも格下の地位でしかない。職務も、軍に復帰していて軍将校であるからには、軍装で迎えるべきであろう。にもかかわらず、イラン皇帝に会うにもし、属国の下等民族扱いで、気軽な服装で、指南するかのように会談している。

写真(右):写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン郊外、牧場で乗馬を楽しむ前のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi):H.I.M.とはHis Imperial Majestyで、イラン皇帝、H.R.H.とはイギリス国王三男グロスター公ヘンリーのこと。右手前は皇帝専用車で、皇帝自ら運転して牧場に到着したのであろう。
Original wartime caption: H.I.M. the Shah of Persia and H.R.H. with the riding party. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 12038
写真は,IWM, Imperial War Museums・ IWM (E 12038)引用。


中東の騎馬民族・遊牧民には、スキタイScythae)、パルティア、フンなどが世界史に登場する。特にイランのスキタイは、農耕民の国家が栄える時代に、世界史上初の遊牧騎馬民族国家を紀元前8世紀に樹立した。スキタイScythae)は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世、マケドニアのアレクサンドロスと対戦できるだけの軍事力を持っていたが、これは秀逸な騎馬兵力によるところが大きかった。

写真(右):1942年5月19日,イラン、テヘラン郊外、牧場で乗馬を楽しむ前のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)とイギリス王族グロスター公ヘンリー(Prince Henry, Duke of Gloucester):H.I.M.とはHis Imperial Majestyで、男子皇帝・国王など男子の皇族・王族のこと、H.R.H. とはHer Royal Highnessで、皇后・王妃など女子の皇族・王族か、あるいはHis Royal Highnessで男子皇族・王族のこと。右手前は皇帝専用車で、皇帝自ら運転して牧場に到着したのであろう。
Original wartime caption: H.I.M. the Shah of Persia and H.R.H. the Duke of Gloucester meet for an hour's riding. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-05-19 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 12036
写真は,IWM, Imperial War Museums・Image: IWM (E 12036)引用。


イランのスキタイSkythai)の主な活動領域は、ロシア南部の草原ステップからコーカサスにかけてで、周辺国との交易も行った。

935年11月6日,イギリス、ロンドン、バッキンガム宮殿、イギリス国王三男グロスター公ヘンリー(Prince Henry, Duke of Gloucester)とイギリス王族グロスター公ヘンリー(Prince Henry, Duke of Gloucester)35歳とクイーンズベリー公爵三女アリス(Princess Alice:1901ー2004)34歳の結婚式:父イギリス国王ジョージ5世(1865-1936年1月20日)、母王妃メアリー・オブ・テック(Mary of Teck, 1867-1953)、アリス母マーガレット・ブリッジマン(Lady Margaret Bridgeman:1872–1954)、クララ・マーガレット(Clare Margaret Hadow:1920-2006)、王女エリザベス、王女マーガレットらが同席している。しかし、ヘンリー兄弟・王ジョージ5世長男エドワード8世、次男ジョージ6世(エリザベスとマーガレットの父)ら男子は同席していない。父ジョージ5世は、結婚式3か月経たずに崩御。
The wedding of Prince Henry, Duke of Gloucester and Princess Alice, Duchess of Gloucester by Vandyk 10 x 8 inch nitrate negative, 6 November 1935 Given by Bassano & Vandyk Studios, 1974 Photographs Collection NPG x130247 Artist Vandyk (active 1881-1947), Photographer. Artist or producer associated with 662 portraits. Sitters Princess Alice, Duchess of Gloucester (1901-2004), Wife of Prince Henry, Duke of Gloucester; daughter of 7th Duke of Buccleuch and 9th Duke of Queensberry. Lady Angela Christine Rose Dawnay (née Montagu Douglas Scott) (1906-2000), Wife of Sir Peter Dawnay; daughter of 9th Duke of Queensberry. Queen Elizabeth II (1926-2022), Reigned 1952-2022. King George V (1865-1936), Reigned 1910-36. Clare Margaret Hadow (née Phipps) (1920-2006), Wife of David George Hadow; daughter of Charles Bathurst Hele Phipps and Lady Sybil Anne Montagu Douglas Scott. Anne Hawkins, Daughter of Sir Geoffrey Alan Brooke Hawkins and Lady Margaret Ida Montagu Douglas Scott. Prince Henry, Duke of Gloucester (1900-1974), Son of George V. Princess Margaret (1930-2002), Daughter of George VI; Countess of Snowdon. Queen Mary (1867-1953), Queen consort of King George V. Elizabeth Diana Percy (née Montagu-Douglas-Scott), Duchess of Northumberland (1922-2012), Honorary Colonel of the 6th Battalion, Northumberland Fusiliers; daughter of 10th Duke of Queensberry; wife of 10th Duke of Northumberland. Sitter in 12 portraits. Moyra Eileen Smiley (née Montagu-Douglas-Scott) (1919-2011), Former wife of Hugo Douglas Tweedie, and later wife of David de Crespigny Smiley; daughter of Sir Francis George Montagu Douglas Scott. Lady Mary Ilona Margaret Whitley (née Cambridge) (1924-1999), Wife of Peter Whitley; daughter of 2nd Marquess of Cambridge. Places Place made: United Kingdom: England, London (Throne Room, Buckingham Palace, London)
写真は,National Portrait Gallery引用。


写真(右):1942年4月21日,エジプト、アレキサンドリア、ラス・アル・ティン(Ras-el-Tin)宮殿のイギリス海軍基地、イギリス海軍属として勤務する女子書記・事務員を検閲するイギリス王族グロスター公ヘンリー(Prince Henry, Duke of Gloucester:Henry William Frederick Albert; 1900ー1974):グロスター公ヘンリーは、イラン皇帝に対面するのに、略式の軽装ですませたが、エジプト勤務のイギリス民間女子には、軍装で臨んでいるている。話しかけるにも、気軽に声をかけている。部下の海軍士官たちを引き連れて、最下級の人物にも公式のセレモニーで、イギリス王室の権威と尊厳を見せつけているのである。
THE DUKE OF GLOUCESTER INSPECTS SHIPS AND NAVAL ESTABLISHMENTS AT ALEXANDRIA. 21 APRIL 1942. Object description TCreator Zimmerman, E A (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 8782 Part of ADMIRALTY OFFICIAL COLLECTION
写真は,IWM, Imperial War Museums・IWM (A 8782)引用。


写真(右):1942年10月頃,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)、イラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad: 1921年11月5日 - 2013年7月2日)妃22歳、長女シャーナーズ・パフラヴィー(Shahnaz Pahlavi:1940年10月27日生)
Photographer Cecil Beaton (1904–1980) q:it:Cecil Beaton Title Cecil Beaton Photographs- Political and Military Personalities Description English: Political Personalities: Shah Mohammed Reza Pahlevi of Iran with his first wife, Queen Fawzieh, and their daughter, Princess Chahnaz seated by an ornamental pool in Teheran. Depicted people Mohammed Reza Pahlevi, Fawzia Fuad, Shahnaz Pahlavi Depicted place Tehran Date between 1939 and 1945 Medium photograph Current location Ministry of Information Second World War Official Collection Accession number Catalogue number CBM 2404 Database number 205125079 Source roughdiplomacy.com direct link
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Fawzia Fuad of Egypt with Mohammad Reza Pahlavi and their daughter, Shahnaz Pahlavi.jpg引用。


写真(右):1942年10月頃,イラン、テヘラン、平服姿のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi):レザーは退位し、子のモハンマド・レザーが帝位に即位した。1979年2月11日)。パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。
Object description The Shah, Tehran, Iran. Catalogue number CBM 2456 Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Creator Beaton, Cecil (Photographer) Materials whole: Nitrate
写真は,IWM, Imperial War Museums・Catalogue number CBM 2456引用。


第二次世界大戦初期には、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、イランは、親ナチ政権とみなされ、1941年にイギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン侵攻である。

1941年8月25日の英ソのイラン侵攻は、イギリス軍はペルシャ湾から上陸し、沿岸部の油田と石油精製施設を真っ先に占領した。ソ連赤軍は、カスピ海近く、コーカサスからイラン北部に侵攻した。こうして、第二次世界大戦で枢軸国寄りの姿勢を見せていたイランは米ソに分割占領された。

写真(右):1942年10月頃,イラン、テヘラン、イラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921年11月5日 - 2013年7月2日)妃20歳
Political Personalities: Half length portrait of Queen Fawzieh, first wife of Shah Mohammed Reza Pahlevi of Iran, in Teheran. Creator Beaton, Cecil Materials whole: Nitrate Catalogue number CBM 2401 Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION
写真は,IWM, Imperial War Museums・ IWM (CBM 2401)引用。


1939年3月16日にイラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)と結婚したファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad)妃は、当時、エジプト王妹だった。1941年9月にイラン皇帝が米ソの圧力で追放されると、夫がイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)となり、イラン皇后となった。

イギリス支配下でイラン皇后に即位したファウズィーヤ・ビント・フアード妃出身母国のエジプトは、第一次世界大戦後の民族自立の動きの中で、オスマン帝国から独立できたものの、イギリスの外交権、軍事権、スエズ運河などを奪われ、保護国、属国となっていた。そして、嫁ぎ先のイランもイギリスとソ連に占領され、その実効支配を受けることになった。外国人が個人撮影をしたいと申し込んできても、それを無礼だと断ることはできない立場だった。写真家に笑顔を振りまくほど落ちぶれてはいないとの自尊心があったのであろう。

写真(右):1942年10月22日,イラン、テヘラン、マーブル・パレスのテラス、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)夫妻と中東イギリス大使リチャード・ケーシー(Mr. Richard Casey: 1890ー1976)男爵・メイ(Maie)ケイシー男爵夫妻の会談の会合:ケイシーは、オーストラリア生まれだが、イギリス、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで学んでいる。第二次世界大戦中、1940年から1942年まで駐米オーストラリア大使となり、その後1942−1943年にチャーチル戦時内閣の中東大使(Minister-Resident for the Middle East)となった。1944年、インドのベンガル州知事に任命された。
Original wartime caption: Mr. and Mrs. Casey, the Shah and Empress of Persia and the British Minister, on the terrace at the Marble Palace, Teheran. Physical description A black and white negative Show less Object Details Category Photographs Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18157
写真は,IWM, Imperial War Museums・IWM (E 18157)引用。


写真(右):1942年10月22日,イラン、テヘラン、マーブル・パレスのテラス、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)夫妻と中東イギリス大使リチャード・ケーシー(Mr. Richard Casey: 1890ー1976)男爵・メイ(Maie)ケイシー男爵夫妻の会談:チャーチル戦時内閣の中東大使(Minister-Resident for the Middle East)として、保護国化したイランの皇帝夫妻に会談したが、紅茶でのもてなしのようだ。大使夫人は、帽子をかぶったままだが、格下のイラン皇后にはそれなりの対応をしたということなのか。マーブル宮殿の壁には、鹿、水鳥が描かれた装飾となっている。
Original wartime caption: Mr. and Mrs. Casey with the British Minister were received at the Marble Palace, Teheran by the Shah and Empress of Persia. They were here seen taking tea together. Physical description A black and white negative Show less Object Details Category Photographs Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18156
写真は,IWM, Imperial War Museums・Image: IWM (E 18156)引用。


写真(右):1942年10月22日,イラン、テヘラン、マーブル・パレスのテラス笑顔のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)とイラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921-2013)夫妻:ケイシーは、1940年から1942年まで駐米オーストラリア大使で、その後1942−1943年にチャーチル戦時内閣の中東大使(Minister-Resident for the Middle East)となり、イラン、イラクを訪問した。ケイシーは、アラビア語、ペルシャ語、ベンガル語、インド語も堪能ではなくとも、外国人とのコミュニケーションにたけていたのであろう。イラン皇帝夫妻も、留学経験があるわけではないが、エジプトがイギリスの保護下に置かれ、皇后は英語に親しんでいたようだ。また、イランには、イギリスによる侵攻以前には、ドイツ人技師などを顧問も多かったが、意思疎通は、英語を介していたようだ。皇帝と離婚後、外国暮らしもしている。
Original wartime caption: The Shah and Empress of Persia Physical description A black and white negative Show less Object Details Category Photographs Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18159
写真は,IWM, Imperial War Museums・Image: IWM (E 18159)引用。


Shah 1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。

 ところがイラン皇太子の結婚直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。

しかし、1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、事情は一変した。孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリス軍の影響下に入った。1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの帝位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。

写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)を台上で閲兵するイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、ポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教(Arcybiskup Józef Gawlina:1892–1964):野戦司教を務めたユゼフ・ガウリナ大司教は、第一大戦ではプロイセン・シレジア人だったためにプロイセン兵士として扱われ、ドイツ人捕虜として辛酸をなめた。大戦後、ポーランド人となったが、第二次戦争中は、ポーランドから脱出し、ポーランド難民と軍隊に同行し、本国をドイツに占領され失ったポーランド難民・移民の守護者となった。
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East (first from the right), inspecting troops of the Polish Army in the East (future 2nd Polish Corps) in their camp in Khanaqin, Iraq. He is accompanied by General Władysław Anders, the CO of the formation (second from the right); Shah of Persia Mohammad Reza Pahlavi (third); and Archbishop Józef Gawlina, the Field Chaplain of the Polish Armed Forces.Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18141
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18141)引用。


Shah 5−A.イラン対日断交
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 14 出版年 1942-04-16

【リスボン本社特電十四日発】テヘランのルーター電によればイラン政府は十四日日本と外交関係を断絶し日本代表は一週間以内に同国から退去しなければならない通告を受けたと

歴然・米英の使嗾

昨年八月ソ英両軍のイラン占領によってソ英の属国的存在と化したイランはその圧迫により独伊はじめソ英と外交関係を有しない諸国との外交関係を断絶した、わが国はソ連との外交関係を有するところから断交の通告は受取らなかったものの十月四日に至りイラン政府はついに日本公使館に対し電報暗号使用権停止、外交使臣不可侵権停止などの不法圧迫の挙に出た

 右はわが公使館がアラビヤ民族運動の父で英国がその首に多額の賞金をかけでいるエルサレムの前大司教フッセイン師をひそかに保護したという英側の流布した虚説に基いたもので 当時わが方は厳重に英国に対し抗議した、昨年末にはイランの対日断交説すら伝えられたほどで今回の断交通告の理由も日本公使館が枢軸側の宣伝活動を行っているというにあるが事実は米英側の圧迫と使嗾に基づくことは明かである(イラン対日断交引用終わり)

5−B.日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 25 出版年 1942-05-10

【満洲里本社特電十日川崎特派員発】イランの対日国交戦断絶のため去る四月二十三日テヘランを出発した市河イラン公使、村沢陸軍武官らの一行十名は中央アジヤを横断九日午前十一時四十八分満洲里着、同日哈爾浜に向ったが左の如く語った

 イランには昨年八月二十五日以来英ソ両軍の進駐占領下に戒巌令が布かれている、イラン人は一般に無力で政府も英ソの意のままに動いている、本年一月二十九日の英ソ、イラン同盟により日本との外交関係も当然直ちに断たれるものと思っていたがイラン政府は日ソ中立条約の関係から対目断交の義務なしと考えていたようだ、ところが日本の大戦果が相次ぎインドに危機が迫るや狼狽せる英国はソ連を誘って同盟を楯にとりイランをして対日断交せしめるに至ったのだイラン語による日本放送は英ソ側で極力妨害しているがフランス語のそれは実によく入るので上流階級を通じて一般民衆に伝わり彼らは日本の大戦果を信じこれに大喝采を送っている、

英ソ占領下の租国を独立させるためには英ソの打倒が必要であるとの認識から東亜における英軍緊滅をイラン国民は心から喜んでいるわけだ、テヘラン引揚の際買物に行くと一商人は早く日本が英国を打倒してくれるよう毎日祈っていると語った、民衆は地図をひろげて至るところで話合っている、英国の軍艦にはいくら消してもドイツのハーケンクロイツ[Hakenkreuz]のマークが民衆によって落書される有様だ、同じアジヤ人として大東亜戦の進展に限りない期待をかけているのである(日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話 件名引用終わり)

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)、平服のイラン首相アリ・ソヘイリー(Ali Soheili: 1896–1958)と対面した名誉空軍司令官の軍服を着たイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)69歳
Description English: The Shah of Iran saluting Winston Churchill on the occasion of Churchill's 69th birthday at the close of the Tripartite Conference of Tehran, November 1943. On the far left is Ali Soheili, serving his second term as Prime Minister of Iran. The picture was taken by the Iranian press. Churchill is shown wearing his honorary air commodore's uniform. فارسی: محمدرضاشاه در حال دست‌دادن با وینستون چرچیل در نوامبر ۱۹۴۲. Source Unknown source Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah churchill.jpg引用。


枢軸国側だったイラン帝国は、帝位が父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)
English: Shah with FDR Date 1943 Source U.S. Library of Congress Author U.S. Government
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日に開催され、ビッグスリー(スターリン、ルーズベルト、チャーチル)は、北フランス侵攻オーバーロード作戦[ Operation Overlord]を1944年5月に実施することを決めた。テヘランは、英ソの支配下にあったために、英ソ米首脳の会談の地に選ばれたのであるが、この大前提となった1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害、アメリカの国境線変更の許容を知らない識者が多いようだ。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)
Description English: Mohammad Reza Schah, Stalin und Molotov, Tehran Conference, 1943 Date 1943 Source www.iranian.com/main/blog /darius-kadivar/ photo-restoration-shah- stalin-molotov-tehran -conference-1943 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


1941年3月にレンドリース法[ 武器貸与法]を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。

つまり、戦争勝利の大義のためには、イランの権利侵害を問題としなかったのである。テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日に開催され、ルーズベルトは初めての軍艦と飛行機による大旅行を決断したが、これはスターリンとの会談をぜひ実現したからである。しかし、同時に、イランにおける米英ソの安全保障が確保できているという軍事支配に自信があったからでもある。チャーチルのソ連の戦後勢力拡大の疑念を抑えて、ルーズベルトは、北フランス侵攻オーバーロード作戦[Operation Overlord]を1944年5月に実施するとし、第二線が開かれるまで、ソ連への大量の軍事物資を援助することを確約した。イランへの譲歩はありえないが、ソ連には大幅に譲歩する外交を行った。これは、戦後の米英ソのビッグスリーの協力、連帯を可能とするためだった。

1939年9月12日、ヒトラーに続いてポーランドに侵攻したスターリンは、ポーランド東半分を占領した。1941年622日の独ソ戦勃発後は、アメリカの武器貸与法を受け入れて、北極海、イラン、極東からの軍事援助を受け入れた。このアメリカからの軍事援助受け入れのために、ソ連は、中立国イランの意向を圧殺して、イギリスとともにイランに軍事侵攻した。1943年11月に、テヘラン会談に向かったスターリンは、これが初の外国訪問だったが、それを決断したのは、イランが自分の思い通りになる地域であり、暗殺や妨害工作の不安が払拭されていたからである。

1941年8月25日、イギリス・ソ連によるイラン侵攻によって制圧されたペルシャ(イラン)では、保護国化・属国化が進んだ。すなわち1941年9月17日、レザー・パフラヴィー皇帝を退位させ、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)を皇帝の位につかせて操縦し傀儡化ようとした。

⇒写真集Alubm:1943年11月、米英ソのテヘラン会談(Tehran Conference)


5.第二次世界大戦後のパフレヴィ―朝

Shah 1945年5月にドイツは降伏し、ソ連、イギリスはイランを占領し続ける理由はなくなったはずだが、戦後も、ソ連は、イラン領アゼルバイジャン、クルディスタンの一部に軍を駐留させ続けた。そして、占領地に親ソ連派によるのアゼルバイジャン自治共和国、クルディスターン人民共和国を設立し、傀儡化して、ソビエト連邦に取り込んだ。

第二次大戦後、レンドリース法[Lend‐Lease Act]は廃止されたが、イラン国境付近の石油利権が確保されたソ連は、アメリカの外交圧力、国際連合における連合国の支持を取り付ける必要から、1946年5月、イラン進駐を中止し、占領下にあったソ連傀儡政権は瓦解した。

1951年、イランではソ連の支持を得たモハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)がイギリス支配下のイラン石油会社を国有化することを宣言し、議会と国民の支持を得た。イギリスは、イランへの経済制裁を加え、1952年、モサデグは辞任したが、総選挙で圧勝して、復権した。

1951年から石油国有化を進めたモハンマド・モサッデク首相と対立したイラン皇帝は、アメリカの支援を受け、親欧米路線に基づいて、秘密警察サヴァク(SAVAK)による反政府の動きを弾圧した。すると、イスラム主義者、親ソ連派などの反政府行動が過激化し、デモやストライキが頻発した。パフラヴィー皇帝は、戒厳令で対処したが、反王政のデモが起こり、1979年1月16日にパーレビ国王はエジプトに出国した。イギリスの圧力に従順でイランの石油国有化に躊躇したイラン皇帝モハンマド・レザー・シャーは、国民からの支持も失い国外に脱出することを余儀されたのである。

Ruhollah Khomeini Reza Pahlavi こうして、モハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)首相の下で、イラン共和国が樹立されたが、アメリカは、イランの石油国有化が共産化につながるとして、8月19日、モハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)首相に対する 反政府暴動、クーデターをCIAを使って煽動した。こうして、アメリカ政治干渉・謀略によって、シャーは帰国しイラン皇帝に返り咲き、モサデグは逮捕された。イラン新政権はシャーの支配下に置かれ、石油国有化も中止され、イランの石油利権は、英40%、米40%、仏6%、蘭14%を認められた。

強権的なイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁政治は、親欧米路線に基づいており、イスラム主義者、親ソ連派などの反政府派の勢力が団結し始めた。そこで、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーは、秘密警察サヴァク(SAVAK)による反政府の動きを弾圧し、戒厳令で対処した。つまり、1970年代半、イラン皇帝モハンマド・レザー・シャーの独裁と世俗化に反対する世論が高まり、1978年9月には、イラン全土に戒厳令が敷かれた。しかし、反皇帝勢力は連帯し、反政府行動が過激化し、デモやストライキが頻発した。大衆の大規模抗議が起こり、反王政の世論が高まった。

こうして、国民の支持を失ったイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーは1979年1月16日、エジプトに出国した。皇帝と入れ替わりにフランスに逃れていた反体制イスラム指導者イスラム指導者アーヤトッラー・ホメイニーRuhollah Khomeini: 1900-1989)が、2月1日に帰国し、イラン軍の支持を得て、親皇帝派のバフティヤール首相や帝室親衛隊を排除した。1979年2月11日、イスラム革命評議会を中核とする共和制を開始、アーヤトッラー・ホメイニー師が最高指導者となった。これが、1978−1978年のイラン革命である。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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