Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内

◆三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行
写真(上):1939年4月25日,イラン、テヘラン、左のエジプト王女(花嫁)ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、イラン皇帝(花婿の父)レザー・シャー・パフラヴィーとエジプト王太后(花嫁の母)ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)、イラン皇太子(花婿)モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)
:左端は、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896-1982)、イラン皇太弟アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)
Français : Banquet à l'ambassade d'Egypte à Téhéran lors du mariage de Fawzia Fuad et de Mohammad Reza Pahlavi, le 25 avril 1939 Date 25 April 1939 Source http://putnik1.livejournal.com/4606568.html Author Inconnu, peut-être " Sako "
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaShah001.jpg引用。

1.イラン帝国パレヴィー朝レザー・シャー

写真(右):1925年,イラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi)と子供たち:左から軍服の次男アリ・レザ―(Ali Reza Pahlavi:1922-)、長男モハムンド・レザ―(Mohammad Reza Pahlavi)皇太子、次女アシュラフ・パフラヴィー(Ashraf Pahlavi:1919–2016)、皇帝の右がモハムンド双子長女のシャムス・パフラヴィー(Chams Pahlavi:1917–1996)、三男ゴラム・レザ・パフラヴィー(Gholam Reza Pahlavi:1923–2017)
Description Français : Reza Khan et ses enfants, entre 1923 et 1925 Date between 1923 and 1925 Source https://mashruteh.org/wiki/index. Author Non communiqué
写真は,Wikimedia Commons,Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaKhanCrownPrinceVaChildern.jpg引用。


イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、1921年に軍事クーデターによって、イランの政権を奪取し、1919年イギリス・イラン協定の治外法権を撤廃させた。1924ー1925年にイラン国軍司令官、首相に就任し独裁体制を樹立し、1925年12月15日、ガージャール朝を廃して新たにパフラヴィー朝を興し自らイラン初代皇帝に即位した。

イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)は、第一次大戦で敗北したオスマン帝国でトルコを復興させたケマル・パシャMustafa Kemal Atatürk :1881-1938))を手本として、国内の軍事力、特に陸軍を手中に収めて、軍事独裁政権のような権威的な手法で、イランを立て直した。これは、第一次大戦で少数民族のナショナリズムが復興し、オーストリア、ロシア、ドイツ、オスマンのような大帝国が解体された時期だった。その反動として、大国意識に基づく復興がトルコ、イラン、次いでドイツにも起こることになる。

写真(右):1934年7月3日,トルコ、軍事演習を砲隊鏡で検分するトルコ大統領のケマル・アタチュルク(Kemal Ataturk:1881年5月19日 - 1938年11月10日)とイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)):第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国では、国土防衛のため第9軍監察官(エルズルム)ムスタファ・ケマル・パシャらがメフメト6世の支持を得て、軍事力を結集し、首都イスタンブールを占領した連合国に対抗した。これが、アンカラで結成されたムスタファ・ケマルを議長とするトルコ大国民議会政府(アンカラ政府)である。砲隊鏡は、カニ眼鏡とも呼ばれるが、1894年にドイツのカールツァイス社が開発した光学兵器である。塹壕の下からでも使えるように上に左右2本の潜望鏡(ペリスコープ)が伸びていて、左右の角度のずれから立体感のある映像が映し出され、監視や照準に対応できる。
English: President of Turkey Kemal Ataturk, left, points out something of interest to the Shah of Persia, Reza Shah Pahlavi, during military maneuvers in Turkey, July 3, 1934. Türkçe: Kemal Atatürk ve Rıza Şah Pehlevi askerî manevralarda, 3 Temmuz 1934. Date 3 July 1934 Source Islamic State Awaits The Ataturk Revolution Author Anorak
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:Kemal Ataturk, Reza Shah Pahlavi - Military maneuvers in Turkey.jpg引用。


ケマル・アタテュルク 1−A. ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から 著者 篠原:テヘランにて
大阪朝日新聞 Vol: 第 4巻 Page: 145 出版年 1935-02-16

ペルシア国政府は十五日広田外相宛「来る三月二十一日(ペルシア暦六日)より国名をイラン国と変更する」旨を通達し来きた

 現国名のペルシアの由来は往時ギリシア人がペルシア湾に面せる一地方をパルシアと呼称(現名パルシア県あり)したにはじまり以来諸外国よりペルシア国と称せられているのであるが、最近国家主義的運動熾烈となり外国人の附したしかも一地方の単なる呼称を断乎変更に決定したものである(ペルシア国号を"イラン"と改称 : 国家主義運動から引用終わり)

イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi:1878–1944)は、第一次世界大戦でオスマン帝国を瓦解させたイギリス、ソ連からの政治的圧力を感じ、イラン国内の資源開発、工業化計画をイギリスやソ連に依存するのではなく、イランが取り戻したいと希望していたが、技術、資本、資金、人材の上でイランが独力で開発ソ進めるのは困難だった。実際、イランの石油は、イギリス系のアングロ・イラン石油会社が独占していたからである。

そこで、イラン皇帝レザー・シャーは、イギリス、ソ連に対抗するために、ドイツ、フランス、イタリアから技術者を呼び、イランの開発に寄与させようとした。1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を契機に第二次世界大戦が勃発し、イギリスが反ドイツの立場から、イランのドイツ人技術者の追放を求めてきた。イラン皇帝レザー・シャーは、イランの中立国を宣言したが、イギリスはイラン在住ドイツ人はスパイであり、油田などの破壊工作を策謀しているとして、その追放を強く迫った。こうして、イギリスは、中東での支配力を確保するために、イランにおけるドイツ影響力の排除を強く求めたのである。

1941年6月22日にドイツのソ連侵攻で独ソ戦が勃発すると、ソ連への軍事援助を始めるために、中東経由の補給路をぜひ確保する必要が生まれた。これがイギリスとソ連によるイランへの軍事侵攻、イラン占領につながったのである。イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlaviは、親ドイツ的であるとして、外国勢力により退位を余儀なくされ、亡命した。

Reza Shah イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーの跡継ぎは、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーが、1941年9月16日に父に代わってイラン皇帝の位に就くことを許された。彼は、イラン最高指導者の皇帝であるにも関わらず、事実上、イランがイギリスとソ連の保護国化され、軍事権、外交権も奪われてしまい、英ソの傀儡としてしか皇帝の品位を保つことはできなかった。イラン駐在のイギリス大使、軍指揮官の下に置かれたのである。

レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi)の王妃は、エジプト王族ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)で、姉妹とともに2年間パリ留学の経験もある。

イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Rezā Shāh Pahlavi:1878–1944)の皇太子モハンマド・レザー(18歳)も、1939年3月16日に、エジプト王族のファウズィーヤ・ビント・フアード(17歳)と結婚した。

1935年2月、 それまでヨーロッパ視点で「ペルシャ」(波斯)と呼ばれていたが、イアン皇帝の意向で「イラン」に改められた。この時、日本政府はこれを正式に承認し、呼称を「イラン」とした。

1−B.イラン国の綿業事情 : 調査員から報告
大阪時事新報 Vol: 第 20巻 Page: 186 出版年 1935-07-09

本邦綿布の新市場として注目されているイラン(波斯)等近東諸国の輸入防遏政策に備え、日本綿糸布アフリカ輸出組合では同方面を統制区域に編入し、近く輸出統制に乗り出すことになったが、八日大阪輸出組合連盟会派遣員よりの報告により従来事情不明であったイランの綿業事業が漸く判明した

一、一九三四年の同国輸入綿糸総額二三、一九〇千リアール(一リアール邦貨約二十銭) 五八%印度(主として太糸)四〇%日本(主として中糸)二%英国(主として細糸)
一、輸入綿布一四三、一九〇千リアール
四五%日本二八%ソ連一七%英国一〇%其他
一、同国綿糸紡績据付錘数三万錘織機四百台(イラン国の綿業事情 : 調査員から報告引用終わり)


写真(右):1936年,イラン、長男モハムンド・レザ―(Mohammad Reza Pahlavi)皇太子とモハムンド双子長女のシャムス・パフラヴィー(Chams Pahlavi:1917–1996)内親王:イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(Reza Shah Pahlavi)には、次男アリ・レザ―(Ali Reza Pahlavi:1922-)、次女アシュラフ・パフラヴィー(Ashraf Pahlavi:1919–2016)、三男ゴラム・レザ・パフラヴィー(Gholam Reza Pahlavi:1923–2017)と5子がある。
Description Français : Reza Khan et ses enfants, entre 1923 et 1925 Date between 1923 and 1925 Source https://mashruteh.org/wiki/index. Author Non communiqué
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:Ashraf et shah.jpg引用。


1−C. 露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる 著者 篠原:テヘランにて
大阪毎日新聞 Vol: 第 7巻 Page: 31 出版年 1935-07-22

Stalin 露国政府の近東および中東方面に対する政策はスターリン[Joseph Stalin:1878–1953]氏の政権把握、「一国社会主義」への転向以来、各国における国家主義の新政府を確認し、これと政治および経済的接近をはかる方針に転じて来た、殊に露国政府のこの方針に向って、最も熱心に邁進しつつあるは、トルコおよびイラン(旧ペルシャ)との関係であって、イランとの関係は、同国における英国の勢力、今なお相当根強く、ためにトルコ対策ほどにはうまく行っていない模様であるが、しかし、由来、イランは、地理的関係において、経済上少くともその北半をあげて、露国によるほかない立場にある、露国政府が、イランに対し、先ず経済提携の確立に努力を傾倒したるは、たしかに右の点を考慮に入れたものと考えられる、本通信は這般の事情を実に明快に説明している

昨秋以来、露国とイランとの通商関係は大に好転し、露国から経済使節派遣を望んで来たので、今春四月末、イラン国商務長官アーラム氏を団長とし、各省の次官と局長級の若干軍人を網羅した大使節は四週間にわたってモスクワ、レニングラード、スターリングラードなどを歴訪し、露国産業の現状を視察して帰国した、これと前後してテヘラン駐剳露国大使の更迭が行われたが、最近に至って極秘裏に両国間の通商条約が締結されたとの噂がつたえられ、近く発表されることになっている一九三五−三六年度割当の内容にも従来に見なかったほどの大変化が示されるものと期待されている、

Reza Shah イラン政府としては、共産主義の侵入に対しては極力警戒するが、同国の地理的事情から、経済的にはどうしても露国の援助なしには国が立って行けないという点を十分認識しているので、多少の無理は通しても露国と手を握りたい方針である、また露国としても、イランに対し政治的に策動して、多年の宿願たる南下策を露骨に現してはイラン全国にわたって莫大の利権をもつ英国との抗争が避けられなくなるので、この方の活動は当分手控え、専ら経済的にイランを牛耳って行こうとする方針は明かに看取される、

露国と違い英国は極めて明かに政治的に行動しており、現国王リザ・シャーの最も苦手とする地方豪族の叛乱という無類の武器をもっているので、その立場は強く事英国の利権に関するかぎり断じて一歩も譲らない強硬な外交方針によっているものと見受けられる国王は英露両勢力の間に処して、いずれの勢力にも禍されぬよう殊に両勢力抗争の渦中にひき込まれぬよう警戒し、親英とか親露とかいう色彩は努めて政府の態度に出さぬようにしているが政治的には英に接近し経済的には露と提携し、両国の勢力を利用して自国の繁栄と安寧に資そうとしているのが真相かと思われる、

噂に上っている露イ新通商条約の内容は全く世に伝わらないが、もし事実とすれば早晩現れる時が来るであろう(六月十六日)(露国とイランの緊密な経済提携 : 通商密約説さえ伝わる引用終わり)

写真(右):1939年,イラン、イスファハン=シラーズ間、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):アケメネス朝ペルシア帝国の都ペルセポリスは、紀元前518年、ダレイオス1世が建築した石造りの祭殿・宮殿である。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid32.jpg引用。

1−D.イラン羊毛輸入促進策 : 近東貿易協会が政府に国家的求償協定交渉神戸又新日報 Vol: 第 4巻 Page: 162 出版年 1936-06-06

対濠報復策に伴い羊毛買付の分散化を目指して南阿、南米のほか近東諸国の羊毛についても研究が進められているが、近東貿易恊会ではイラン国羊毛の有望性に着目しこれが輸入促進をはかるため目下同国が輸出入に施行せる特別許可制に代わるに国家的求償恊定の交渉方を政府当局に要望することとなった、イラン羊毛は年額十万俵程度が輸出されており我が国への輸入は未だとるに足らないが、羊毛工業の多角化が発展すれば濠毛との値鞘も少くかつ運賃採算もトルコその他に比し遥かに有利であるから、輸入増大の可能性は多いものと期待されている(イラン羊毛輸入促進策 : 近東貿易協会が政府に国家的求償協定交渉引用)

写真(右):1939年,イラン、イスファハン郊外、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):ペルセポリスでは、支配下の諸民族からの貢納をペルシャ王に捧げる儀式が描かれた祭殿の階段レリーフが有名である。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid18.jpg引用。

写真(右):1939年,イラン、イスファハン郊外、ペルセポリス(ダクジャムシ)遺跡を検分するイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と皇太子のモハンマド・レザー(Mohammad Reza:19歳):マケドニアのアレクサンドロス大王がペルセポリスを攻略し、宝物を略奪した。しかし、イランのナショナリズムの聖地として記憶され、政治的に利用されてきた。
Description Français : Reza Chah et le prince héritier Mohammad Reza à Persépolis, vers 1939 Date circa 1939 Source mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category: Mohammad Reza Pahlavi in 1938・File:RezaShahBozorgTakhteJamshid11.jpg引用。

1−E.イラン輸入統制 : 自動車等に
大阪朝日新聞 Vol: 第a補巻 Page: 12 出版年 1936-09-01

岡本[武三]イラン公使よりの報告によると、イラン政府は八月二十七日以降乗用自動車、貨物自動車、同附属品、部分品、タイヤ類の輸入を国家の独占とする旨発表した(イラン輸入統制 : 自動車等に引用終わり)


2.イラン皇太子モハメッド・レザー・パフラヴィーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード


写真(上):1938年1月20日,エジプト、カイロ、エジプト先王(父)フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)皇太后(43歳)、エジプト王ファールーク1世(17歳)と結婚した王妃ファリーダ(Farida:1921-1988)16歳、右端はファールーク1世の妹エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(16歳)、右2番目はオスマン帝国エジプト総督・副王イスマーイール・パシャ(Khedive Ismail:1830-1895)末娘ニメット・ムフタル妃(Princess Nimet Mouhtar:1876-1945)
:イスマイール・パシャを継いだオスマン帝国エジプト副王アッバース・ヒルミー2世(Abbas Hilmi II :1874-1944.12)は、1914年の第一次世界大戦勃発時に、親オスマン帝国を掲げ、イギリスからの独立を掲げたために廃位され、スイスに亡命した。
Description English: King Farouk I of Egypt standing at a banquet during his wedding. On his right are his wife Queen Farida, and his mother Queen Nazli. The Bibliotheca Alexandrina's caption erroneously states that the woman on Farouk's left is Sultana Malak; in fact, it is his paternal aunt Princess Nimet Mouhtar, the youngest daughter of Khedive Isma'il. العربية: الملك فاروق يقف إلى جوار السلطانة ملك والملكة فريدة أثناء حفل الزفاف. Date 1938 Source Bibliotheca Alexandrina This image comes from the Bibliotheca Alexandrina's Memory of Modern Egypt Digital Archive.Author Riad Shehata (–1942).
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Wedding of Farouk I and Farida・File: ModernEgypt, Wedding of Mohammad Reza Pahlavi & Fawzia, DHP13655-20-5 01.jpg引用。



1938: Pan of Cairo, 18 year old King Farouk comes out on balcony to accept cheers of crowd on his wedding day, troops marching, men on camels, high shot troops and crowds. People atop buildings, air force salutes the King. Farouk saluting on balcony, mobs cheering in downtown Cairo, bus bedecked with flowers, crowds outside palace, Farouk atop steps awaits his bride, the sixteen year old Queen Farida ( the youngest Queen since Cleopatra) Farouk and Queen pose together, Farouk and Queen up steps, night celebrations last for three days. 1939: 19 year old King Farouk inspecting guard, Farouk riding in carriage. Crowds, troops at attention, troops march past camera. 1949: Farouk opens Cairo exposition, walks in group of men, CU Farouk. 1951: Farouks new bride 17 year old Queen Narriman, she descends steps to travel to wedding, crowds look down from apartment balconies, Queen in car, crowds, Farouk (arms crossed) awaits new Queen, Queen arriving, Farouk and Queen posing. 1952: Farouk, Queen and their child in exile in Capri.

写真(右):1940年頃,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)、エジプト王妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)との長女フェリアル・ビント・ファールーク(Ferial(Farial) bint Farouk:1938年11月17日生まれ):エジプト王ファールーク1世は、ファリダ王妃との間に、フェリアル、ファウズィーヤ ファディアの三人の女子を設けている。しかし、ファリダは世継ぎ男子を埋めないとして、1948年に離縁された。
Title King Farouk of Egypt and his family Created / Published [between 1920 and 1946] Headings Dry plate negatives. - Gift; Episcopal Home; 1978. Medium 1 negative : glass, dry plate ; 4 x 5 in. Call Number/Physical Location LC-M32- 50369-x [P&P] Source Collection Matson photograph collection
写真は, Library of Congress King Farouk of Egypt and his family ・引用。


エジプト国王ファード1世Fuad I of Egypt)は、1868年3月26日生まれで、1917年、49歳で即位した。スンニ派イスラムだがイタリアのナポリ育ちだったために、イタリア語が堪能だった。ファード1世は、長男(王太子)ファールーク(Farouk)、長女(内親王)ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)が結婚する2−3年前、1936年4月28日に死去している。

エジプト王フアード1世逝去の後、跡継ぎは、王と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王妃の長男であるフアード1世Farouk I:1920年2月11日-1965年3月18日))で、彼は1938年1月20日、17歳の時、カイロのサラヤー・エル・クッバ(Saraya el-Kubba)でサフィナーズ・ズルフィカール(صافيناز ذو الفقار;Safinaz Zulficar: 1921年9月5日 アレクサンドリア-1988年10月16日 カイロ)、当時16歳と結婚した。

エジプト王妃は王家の名前に相応しいように”F“で始まる「ファリダ」に改名している。ファリダ王妃Farida of Egypt)は、17歳の時、エジプト王との間に長女フェリアル・ビント・ファールーク(Princess Ferial:1938-2009)を出産、さらにファウズィーヤ(Princess Fawzia:1940-2005)、ファディア(Princess Fadia:1943-2002)と合計3人の娘に恵まれたが、その後も男子が生まれなかったために、1948年に離縁されている。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳の結婚記念写真:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前(1936年4月28日)に逝去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王ファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
English: Wedding of then- Crown Prince Mohammad Reza Pahlavi with Fawzia of Egypt.. 1939. Date 1939 Source mashruteh.org
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:King-Farouks-sister-Princess-Fawzia-married-Mohammad-Reza-Pahlavi-Crown-Prince-of-Persia-391771846562.jpg引用。


スルタン・フアード1世(Fuad I of Egypt)は、1919年5月26日にカイロで名家のナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)と再婚した。その2年後、1922年にファードは、フアード1世Fuad I of Egypt:1868ー1936)となった。1936年、フアード1世は逝去し、王妃ナーズリー・サブリーの生んだ長男エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)が16歳で王位を継いだ。ナーズリーは王太后となり、兄シェリーフ・サブリー・パシャ(Sherif Sabri Pasha)が、未成年のファールークの摂政となった。

エジプト王族ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)は、 1921年11月5日、フアード1世と2番目の妃ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)の間の第2子(次女)のエジプト王女として誕生した。そして、ファウズィーヤは、1939年3月16日、17歳の時、カイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)でイラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)(18歳)と結婚式を挙げた。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt:1921年9月5日)17歳、花嫁兄エジプト王ファールーク1世(Farouk I)19歳、花嫁エジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳、花婿イラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)18歳、花嫁母エジプト王太后ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri):花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
Wedding Party for Shah of Iran and Princess (Original Caption) 3/30/1939-Cairo, Egypt- The wedding group taken after Princess Fawzia, 18-year-old sister of King Farouk of Egypt, and Crown Prince Mohamed Rida Chahbour of Iran, had been married in the Abdin Palace. In accordance with Moslem custom, the Princess was not present at the ceremony when the marriage contract was signed, but met her groom in the Queen's apartments afterwards. Left to right: Queen Farida and King Farouk of Egypt; Princess Fawzia and Crown Prince Mohamed, and Queen Mother Nazli.
写真は,Getty Images Wedding Party for Shah of Iran and Princess・引用。


写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)、エジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト高官:花嫁の父は先代エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)で、花嫁はエジプト王女として誕生した。しかし結婚3年前の 父王は1936年4月28日に死去している。そこで、父王の息子ファールークが王位を継いだ。エジプト王と王妹(花嫁)世は、フアード1世の子であり、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする。写真には、花婿以外、イラン皇族・高官は写っていない。
Egyptian Princess Marries Iranian Prince The wedding ceremony of Mohammad Reza Pahlavi (centre, wearing sash), Crown Prince of Iran, and Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013) at Abdeen Palace in Cairo, Egypt, 15th March 1939. With them is the bride's brother, King Farouk of Egypt (1920 - 1965, left). (Photo by Central Press/Hulton Archive/Getty Images)
写真は,Getty Images Egyptian Princess Marries Iranian Prince・引用。


フアード1世(Fuad I of Egypt)後継エジプト王は、フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)を母とするフアード1世Farouk Iで、その生母ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)はエジプト王太后であり、エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)、エジプト王女ファウズィーヤ(1921-2013)の母である。

エジプト王の妹ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)は、イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)の最初の妃で、1941年にイラン王妃になる。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)、隣の兄でエジプト王ファールーク1世(Farouk I)の結婚記念写真:花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目の妻ナーズリー・サブリーを母とする長男である。つまり、イラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードとは同じ父母をもつ兄妹である。
Description English: Wedding between Princess Fawzia and Crown Prince Mohammad Reza. Date 1939 Source Keystone via IMS Vintage Photos Author Unknown photographer
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:King-Farouks-sister-Princess-Fawzia-married-Mohammad-Reza-Pahlavi-Crown-Prince-of-Persia-391771846562.jpg引用。


1939年3月16日、カイロでのイラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)と17歳のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)の結婚式には、エジプト王妃ファリダ王妃Farida of Egypt)イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)、皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)が出席しているが、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)は、欠席している。

イラン皇太子モハンマドの母は、バクー出身のイラン皇后タジュ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896−1982)で、1939年3月16日カイロでの結婚式に出席。カイロの結婚式にいイラン皇帝は欠席。その後、新郎モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)皇太子・新婦ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)王女は、イランに向かい、1939年4月25日にテヘランでも結婚式を行ったが、エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は欠席している。

写真(右):1939年3月16日,エジプト、カイロ、イラン皇帝モハンマド・レザーと結婚したエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)とイラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982):花嫁の父王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、花嫁の結婚3年前の 1936年4月28日に死去している。そこで、花嫁には兄で、父王の息子、後継エジプト王のファールーク1世がついている。ファールーク1世は、父がフアード1世の子で、父王2番目のナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)王太后は、エジプト王ファールーク1世(Farouk I)とイラン皇太子花嫁ファウズィーヤ・ビント・フアードの母である。
Français : La reine Tadj ol-Molouk et Fawzia Fouad lors du mariage de cette dernière et de Mohmmad Reza Pahlavi, le 25 avril 1939 Date 25 April 1939 Source www.flickr.com/groups /egyptianroyalty Author Inconnu, peut-être " Sako "
写真は,Wikimedia Commons, Category: Wedding of Mohammad Reza Pahlavi and Fawzia of Egypt ・File:Fawzia et Tadj Ol Molouk.png引用。


エジプト王フアード1世Fuad I of Egypt:1868ー1936)は、エジプト保護国イギリス育ちだった。しかし、第二次世界大戦中の1941年にドイツ・アフリカ軍団がエジプトに迫ると、エジプト王フアード1世(Fuad I of Egypt)は、世論を受けて、反イギリスの立場をとろうとした。しかし、イギリスの脅迫に屈してしまい、人気が落ちた。

1948年の第一次中東戦争では、イスラエル攻撃を指示し、ナショナリズムに答えたが、敗戦。敗軍の将であるムハンマド・ナギーブ、ガマール・アブドゥン=ナーセルらの自由将校団によるクーデターが1952年に勃発し、退位させられた。そして、1953年にムハンマド・アリー朝は滅亡した。


写真(上):1939年3月16日,エジプト、カイロ、エジプト王ファールーク1世左右にエジプト王妃ファリダ(Farida of Egypt)と先王(父)フアード1世の2番目の妻ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri: 1894-1978)王太后、右に花嫁のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)と夫のイラン皇太子モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)、イラン王妃(モハメッド母)タジ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896–1982)
:ファールーク1世は、1938年1月20日にファリーダ(Farida:1921-1988)と結婚したが、その1年後に妹の結婚式となった。左は2人目はオスマン帝国エジプト総督・副王イスマーイール・パシャ(Khedive Ismail:1830-1895)末娘ニメット・ムフタル妃(Princess Nimet Mouhtar:1876-1945)。花嫁の前に座っているのは、エジプト王妃(花嫁の妹)ファイザ(Princess Faiza:1923-1994)とファイザ(Princess Faika:1926-1983)と思われる。イラン皇太弟(モハメッド弟)アリー・レザー・パフラヴィー(1922-1954)の姿はないようだ。背後のカーテンには、左にエジプトの紋章、右にイランの紋章が記されている。
Description English: The Bibliotheca Alexandrina's caption erronesouly states that this is a commemorative photograph of the wedding of King Farouk I and Queen Farida of Egypt. In fact, it is a commemorative photograph of the wedding of Farouk's sister Princess Fawzia and Mohammad Reza Pahlavi, the then crown prince (later shah) of Iran. The persons sitting in the front row who can be identified with certainty are (from left to right): Sultana Melek (1869–1956), widow of Hussein Kamel, the bride's paternal uncle; Queen Farida (1921–1988), wife of King Farouk I; King Farouk I (1920–1965), the bride's brother, wearing black tie and a tarboosh; Queen Nazli (1894–1978), the bride's mother; Princess Fawzia (1921-2013), the bride, wearing a wedding dress; Crown Prince Mohammad Reza Pahlavi of Iran (1919–1980), the groom, in military uniform with a chain over his chest. Princess Shams (1917–1996), the groom's sister. In the upper side of the photograph can be seen the coat of arms of the Kingdom of Egypt (left) and the coat of arms of Pahlavi Iran (right). The wedding is considered an important event in the history of Egyptian–Iranian relations,[1] as well as a milestone in Shi'a–Sunni relations: King Farouk I was the ruler of the Muslim world's most powerful Sunni country, Mohammad Reza Pahlavi was crown prince of the world's largest Shi'a country, and the wedding ceremony was performed by Mustafa al-Maraghi, rector of Al-Azhar, the world's foremost Sunni religious institution.[2] العربية: صورة تذكارية لحفل زفاف الملك فاروق والملكة فريدة. Date 1939 Source Bibliotheca Alexandrina This image comes from the Bibliotheca Alexandrina's Memory of Modern Egypt Digital Archive.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File: ModernEgypt, Wedding of Mohammad Reza Pahlavi & Fawzia, DHP13655-20-5 01.jpg引用。



ROYAL / EGYPT: Wedding of Princess Fawzia and Prince Reza (1939) British Pathé


写真(右):1939年4月25日,イラン、テヘラン、イラン皇帝(花婿の父)レザー・シャー・パフラヴィーとエジプト王妃(花嫁の母)ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri)と右の皇太子(花婿)のモハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)、左のエジプト王女(花嫁)のエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)結婚式

English: From left to right: Fawzia Fuad, Reza Shah, Nazli Sabri (Fawzia's mother), Mohammad Reza Pahlavi فارسی: از چپ به راست : پرنسس فوزيه , رضا شاه پهلوي , ملكه نازلي ( مادر پرنسس فوزيه ) و محمد رضا شاه پهلوي Date circa 1939 Source www.khandaniha.eu Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1939・File:Fawzia-RezaShah-Nazli-MohammadRezaPahlavi.jpg引用。


写真(右):2010年8月,イラン、テヘラン北部 タージリッシュ、サヘブガラニーエ歴史博物館、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日)の写真の入ったメダル:この歴史博物館は、1850年にナセレディン・シャー・カジャール皇帝の命令で建てられた建物で、カジャール朝時代の宮殿としても貴重である。
English: Commemoration Medallion of Marriage of Mohammad Reza Shah Pahlavi and Princess Fawzia of Egypt - March 1939 - The medallion is now in Sahebgharanie palace in Niavaran palace complex فارسی: مدال یادبود ازدواج شاه و فوزیه - اردیبهشت 1318 - این مدال در کاخ صاحبقرانیه در مجموعه کاخ موزه نیاوران نگهداری میشود. Date 5 August 2010 Source Own work Author Truth Seeker (fawiki)
写真は,Wikimedia Commons, Category:Fawzia Fuad・File: Commemoration Medallion of Marriage of Mohammad Reza Shah Pahlavi and Princess Fawzia of Egypt - March 1939.JPG引用。


イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラビーMohammad Reza Pahlavi)は、エジプト王女だったファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia Ahmed Fuad)の結婚式は、1939年3月16日にカイロのアブデン宮殿(Abdeen Palace)で挙げた。その後、イランに向かい、4月25日にテヘランでも結婚式を行った。


Royal Wedding Celebrations In Tehran (1939) British Pathé


3−1.1936年制式の日本海軍三菱九六式陸上攻撃機(G3M)

写真(右)1942年頃、飛行場に着陸しようとする日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機(中攻)二一型:胴体下面に250キロ爆弾2発を搭載する爆弾懸架が設けられているが、爆弾は搭載していない。胴体後右側面に、九二式 7.7mm 旋回機銃(ルイス[留]式7.7mm旋回機関銃)を装備したブリュスタ―型側方銃座はついていない。 Description English: Type 96 Japanese attack air-plane Date 1936 Source http://www.geocities.jp/torikai007/japanchina/1937.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Type 96 Japanese attack bomber.jpg引用。


日本海軍は、1930年のロンドン海軍軍縮会議で補助艦保有制限が検討された時期に、三菱に乗員 3名、巡航速度 120ノット(222.2km/h)以上、航続距離 1800マイル(3333.6km)の海上遠距離偵察機として八試特殊偵察機(G1M1)の試作を指示し、八試特偵は1934年4月に初飛行した。この八試特殊偵察機を原型にして、海上長距離攻撃用の九試陸上攻撃機が計画された。

1935年7月に初飛行した三菱八試中型攻撃機は、海上で敵艦船を雷撃あるいは爆撃する攻撃機である。1936年(皇紀2596年)6月2日、九六式陸上攻撃機(G3M)として制式された。

日本海軍は、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中戦争がはじまると、華北の陸軍の軍事行動に後れを取らないように、華中での戦線を自ら開いた。これが1937年8月13日の第二次上海事変で、これを契機に、九州・台湾から中国本土の「渡洋爆撃」を実施し、上海周辺を主張に収めると、中国本土の航空基地から、内陸の南京方面を空爆した。この長距離陸上爆撃に用いられたの九六式陸上攻撃機(G3M)である。

1936年(皇紀2596年)6月2日に制式された海軍の九六式陸上攻撃機は、発動機に、当初の11型では金星三型空冷星形14気筒エンジン(離昇910馬力)を装備していたが、次の21型では、「金星」四二型(離昇1,075馬力)に変更している。

また、最終型の九六式陸上攻撃機23型では、発動機を「金星」五一型(離昇1,300馬力)に大幅に強化し、胴体後上方に20mm旋回機銃搭載の大型銃座を設けたが、生産は三菱ではなく中島飛行機が担当した。

写真集Alubum:九六式陸上攻撃機(G3M)を見る。


3ー2.1939年の三菱双発輸送機「そよかぜ号」イラン訪問


資料(上):1939年3月18日,イラン皇帝モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚奉祝飛行に三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)、積載無線機(奉祝飛行のT式超短波用送受信機・A式方向探知機)をフランス・イギリスにも打電を要請
:在バンコク村井公使宛、有田八郎外務大臣の奉祝飛行準備指示(主管:欧亜局長、1939年3月18日打電)(7)日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号) 日本、「イラン」親善往復飛行要領 「イラン」国皇太子殿下御結婚ニ当リ日本国政府ハ左記要領ニ依リ航空機ヲ派遣シ之ガ奉祝ノ意ヲ表スルモノトス 記 一、目的 「イラン」国皇太子殿下御結婚奉祝 二、実施年月日 昭和十四年四月上旬(御結婚式ハ四月二十二日ノ予定) 三、実施者 大日本航空株式会社 四、使用機 三菱式双発輸送機「そよかぜ」号 「そよかせ」は波斯語ては「ナシーム」といひ東天曙光をあでて好便来了の寓意ある由 登録記号J-BEOA 五、 搭載無線機 T式長短兼用送受信機 波長 中波 三三三 Kc 五〇〇 Kc 短波 六、五九〇 Kc 六、二一〇kc。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


日本海軍三菱G3M九六式陸上攻撃機(中攻)の旅客輸送機仕様「そよかぜ号」は、細長い胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加した。九六中攻は、一一型と二一型の双方が輸送機仕様に改造された。海軍では、九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したのが、そよかぜ号(J-BEOA)である。


資料(上):1939年3月頃,イラン皇帝モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚の三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)訪イ祝賀飛行の準備の件
:在テヘラン村井公使宛、有田大臣発。(1939年3月×日)(民間・国際)大日本航空会社を奉祝飛行のための許可をイランから取り付け、格納庫他その他の準備を整えることを指示。許可が遅れる場合は、皇室よりのご贈答品を横浜より香港経由で送ることを伝達。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。



資料(上):1939年3月頃,イラン皇帝とエジプト王女ご成婚の訪イ祝賀飛行の準備件
:使用飛行機:三菱式双發輸送機、登録記号JBEOA、無線機:有、武器・寫眞機・弾薬等携帯せず、実施会社:大日本航空會社、乗員:操縦(者)士2名、無線係2名、機関士2名、同乗者3,4名。予定航空路:東京ー広東ー河内(ハノイ)ー盤谷(バンコク)ー蘭貢(ラングーン)ーカルカッターアルハバワド(アラーハーバード)ージョットブルーカラチージヤスターバスラーテヘラン。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。



資料(上):1939年3月,日本、「イラン」親善往復飛行要領
:モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚につきイランに親善飛行し飛行:この後に、3日カルカッタ、4日から6日バンコク(盤谷)、7日広州(広東)、8日台北、9日東京、と帰国の日程が続く。
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)作成年月日昭和14年4月17日〜昭和17年4月16日
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


イラン國皇帝殿下御結婚に当り日本國政府は左記要領に依り航空機を派遣し之が奉祝の意を発するものとする。

1.目的 「イラン」國皇太子殿下御結婚奉祝 

2.実施期日 昭和14年4月上旬(ご結婚式は4月22日の予定) 

3.実施者 大日本航空株式会社 

4.使用機 (1)三菱式双発輸送機 (2)機名「そよかぜ」號 (3)登録記号 登録記号J−BEOA 語。

5.搭載無線機 (1)T式超短波兼用送受信機 (2)A式方向探知機

6.乗員及同乗者 機長 一等飛行操縦士兼一等航空士 松井勝吾 操縦士 一等飛行操縦士権二等航空士 岩堀庄次郎、機関士 清本虎男 技術員 楠木健次郎 無線通信士 清都誠一 日本国政府代表航空局書記官 大久保武雄 大日本航空総務部長 永淵三郎 外務次区間 鶴岡千仞 海軍少佐 江口穂積

イランに親善飛行そよかぜ号(J-BAOY)機長の松井勝吾は、1938年4月23日から29日に、ドイツのベルリンから日本の東京までハインケル(Heinkel)He-116機2機が、全航程15340kmを143時間43分で飛行した記録をつくった経験がある。 これは満州航空が先の購入したハインケル(Heinkel)He-116機長距離郵便機で、8名の搭乗員が技術取得と空輸のため飛行させたのである。日本のハインケル(Heinkel)He-116機は、J-EAKF(関東庁逓信局登録)が東郷号、J-BAKD(日本航空局登録)が乃木号と命名された。J-EAKFの正操縦士が横山八男、副操縦士は松井勝吾、機関士は石川金吾、無線士は塩田陽三で実飛行時間56時間18分でドイツのベルリンから、ロードス島ーバスラージョドプールーカルカッターバンコクー台北ー東京を2機編隊で横断飛行した。


新聞記事(右):1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」
:「畏き邊りから御手箱」「世界に誇る純国産機」
「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


1939年4月1日,東京毎日新聞「友邦イラン(旧名ペルシア)へ翼の親善使節ー名も床し「そよかぜ號」御慶事の祝福を載せて」では、イラン皇太子モハンマド・レザー(Mohammad Reza:1919-1980)とエジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia of Egypt:1921-2013)ご成婚奉祝使節テヘラン派遣の新聞記事の初めに次のようにある。

「朗報、近東の友邦イラン帝国ではこの度皇太子もハメット・レザ・パーラヴィ殿下がエジプト國皇妹フアウヂア内親王殿下と御結婚遊ばされるについてわが国でも祝意を披瀝すべく奉祝使節を派遣するが、これを機会に最近躍進的に発達を遂げつつあるわが航空技術の粋を盡して「日本ーイラン間往復奉祝大飛行」を決行することとなり具体案を練っていたが、このほど成案全くなり、三十一日の閣議にて藍野逓相[逓信大臣]から計画内容を報告、来る八日(或いは十日)新装の東京羽田国際飛行場を出発、アジアの二友邦を繋ぐ鵬程一万二千九十キロの壮途に上ることになった。(イランは1935年旧名ペルシアを改称されたものである)」


新聞記事(右):1939年4月1日,東京朝日新聞「イランは待つ友邦の使節」飛行機でお祝いの品 「そよかぜ」號を派遣」
:「機は純国産 操縦は粒よりの鳥人」「美しい手箱 中山公使が捧呈」「大臣へも贈物」「総理大臣談」「馴染みのコース 感激を語る機長等」。御手箱、武者人形、花瓶など贈物の写真も掲載されている。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779000、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割1 引用。


1939年4月1日,東京朝日新聞「イランは待つ友邦の使節」では、イラン皇帝とエジプト王女ご成婚奉祝親善飛行のそよかぜ号(J-BAOY)予定航空路は、東京ー台北ー広東ーバンコクーカルカッターアラハバッド(アラーハーバード)ーカラチージヤスタ(ホルムズ海峡)ーバスラーバクダッドーテヘラン、となっている。

三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BAOY)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。

写真(右)1939年4月8日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子とエジプト王女の結婚式慶祝使節を空輸した。後方の機体は、三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。会場は、大日本航空(株)の格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月8日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子ご成婚祝賀に向けた大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右):1935−1938年頃、日本、羽田空港、日本航空輸送株式会社の三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機とその飛行機格納庫NO.2;日本は1935年6月にイギリスからエアスピード AS.6 エンボイ(Airspeed AS.6 Envoy)2機を購入、輸入し、日本海軍もエンボイ輸送機(LXM1)と命名し使用した。初飛行は1934年6月で、引込脚を持つ当時としては近代的な航空機。乗員: 1名 乗客: 6名全幅: 15.9 m 全長: 10.50 m 全高: 2.8m 機体重量: 2,930 kg 発動機: アームストロング・シドレー チーターIX 空冷7気筒 350hp × 2 最高速力: 338 km/h 巡航速力: 309 km/h(高度2,230mでエンジン出力75%) 航続距離: 1,046 km(高度3,050mでエンジン出力62.5%) 上限高度: 6,858 m三菱飛行機は「ひなづる型旅客輸送機」として1936年から1938年に8機ライセンス生産した。
戦前/日本航空輸送(株)旅客機絵葉書2枚 中島ダグラスDC-2型 三菱エアスピード エンボイ 古物 AC197
写真は、ヤフオク! 絵はがき、ポストカード > 航空機引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚祝賀出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸した。後方の紅白垂れ幕の奥の機体は、三菱エアスピード(Airspeed)・エンボイ(Envoy)旅客機の機首。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。会場は、大日本航空(株)の格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。
昭和14(1939)年4月9日午前7時13分に羽田飛行場を離陸

写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚祝賀出発式、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)正面
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


1939年4月9日午前7時13分、松井機長の三菱式双発輸送機そよかぜ号は、イラン代理公使夫妻をはじめ多数の見送りと万歳の歓声の中を羽田飛行場を離陸、イラン帝国テヘランまでのイラン皇太子モハンマド・レザー(Mohammad Reza:1919-1980)とエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia of Egypt:1921-2013)ご結婚祝賀親善飛行に飛び立った。

写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節の出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月9日、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードご成婚慶祝使節出発式の大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA):三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様は胴体内に座席8〜10人分を配置し、ガラス窓を追加したもので、一一型と二一型の双方に改造が施され、海軍で九六式陸上輸送機と命名された。この民間仕様が、三菱式双発輸送機で、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸したそよかぜ号(J-BEOA)、二一型改造で1939年8月〜10月、毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、194時間)に成功したニッポン号(J-BACI)がある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚慶祝使節出発式:三菱九六式陸上攻撃機の輸送機仕様、三菱式双発輸送機そよかぜは、1939年4〜5月、ペルシャ皇太子モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードの結婚式慶祝使節を空輸した。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、イラン皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。


写真(右)1939年4月、東京、羽田飛行場、大日本航空株式会社の飛行格納庫NO.1前、大日本航空の三菱式双発輸送機「そよかぜ号」(登録コード: J-BEDA)ペルシャ皇太子ご成婚祝賀出発式:そよかぜ号には寫眞週報の昭和14年4月19日号に「搭乗者は帝国政府代表大久保航空局国際課長、江口海軍少佐、鶴岡外務事務官、永淵日航総務部長、乗組員は松井機長以下の5鳥人、予定によれば10着陸の上、8日目の15日午前にテヘランへ晴れの車輪を印することになっている。」とある。
概要 「そよかぜ号」の出発式 その他 / 昭和以降 / 日本 1939/00/00 郵政博物館 日本郵政株式会社 解説 昭和14(1939)年4月9日に羽田飛行場を離陸し、ペルシャ皇太子ご成婚祝賀に向かった三菱双発輸送機”そよかぜ号”。背景の格納庫は大日本航空(株)(国策により、日本航空輸送(株)が他社と合併し、昭和13年12月に設立)の第一格納庫。
写真 Wikimedia Commons, 郵政博物館「そよかぜ号」の出発式 引用。



資料(右):『寫眞週報』1939年4月19日号,イラン親善往復飛行に飛び立った大日本航空三菱そよかぜ号
:コクピット操縦席の天蓋をあけて上半身を出しているのは、機長(一等飛行操縦士兼一等航空士)松井勝吾
写真週報 61号 階層 国立公文書館内閣文庫内閣情報局関係出版物写真週報 作成者名称 内閣情報部 資料作成年月日 昭和14年4月19日 土から油と旋盤へ/護れ 北の権益/そよかぜはイランへ/海外通信 独逸の国防記念日/読者のカメラ さきに事変が勃発するや全国民は夙に尽忠報国の誠を効し克く挙国一致の戦時態勢を確立して来たが、更に時局の重大な新展開に即応するには国民精神総動員運動を一層強化し物心一如の実践運動に推し進めねばならぬ。その企画をなすために荒木文部大臣を委員長とする国民精神総動員委員会が四月一日内閣に
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 「写真週報 61号」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06031065600、写真週報(国立公文書館)引用。


中央研究院 臺灣史研究所Institute of Taiwan History 臺灣新民報掲載のイラン親善奉祝往復飛行(そよかぜ号)の関連記事一覧

臺灣新民報1939年4月 第2940號(1939-04-09) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 天候不良のため 出發を明日に延期...

臺灣新民報1939年4月 第2941號(1939-04-10) 日刊第2版 ...日イ親善、空の使節 そよかぜ號 臺北着 昨日軍官民歡迎裡に...

臺灣新民報1939年4月 第2943號(1939-04-12) 日刊第2版 ...そよかぜ號 昨日 盤谷[バンコク]に安着...

臺灣新民報1939年4月 第2944號(1939-04-13) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 盤谷[バンコク]出發 カルカツタへ向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2945號(1939-04-14) 夕刊第2版 結果節錄: ...そよかぜ號 アラハバツトに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2945號(1939-04-14) 日刊第2版 ...そよかぜ號 カラチに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2946號(1939-04-15) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 バスラに向ふ...

臺灣新民報1939年4月 第2946號(1939-04-15) 日刊第2版 ...そよかぜ號 豫定を變更 日程を一日縮める...

臺灣新民報1939年4月 第2947號(1939-04-16) 夕刊第2版 ...「そよかぜ」號 一氣にバスラに安着...

臺灣新民報 第2947號(1939-04-16) 日刊第2版 ...親善の翼そよかぜ號 きのふイランに安着...


資料(上):『寫眞週報』1939年4月19日号,そよかぜはイランへ
:モハンマド・レザーとエジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアードのご成婚につきイランに親善飛行し飛行
「日本の誠意を込めた贈りものは、飛行場内郵便局でで放送を了へ、さなだ紐でくくられて機内へ」「逓相としてこの日から最後の藍野法相は7日午後3時、朗々と「そよかぜ」命名の文を読み上げる」「日本、イラン両国国旗に飾られた格納庫に関係者数百名参列、満中に祝福をあびて出発式は7日挙行された。」「3月16日エヂプト、カイロのファルーク王宮廷でご結婚あらせられたイラン皇太子モハメッド・レザ・パラヴィ殿下とエヂプト國皇妹ファウジア内親王殿下。(中央)両脇はエジプト王ご夫妻[→修正:左端2人がエジプト王ファールーク1世と王妃ファリダ夫妻、右端は、花婿の母イラン皇太后タジュ・オル・モルーク(Tadj ol-Molouk:1896−1982)]ではなく、花嫁の母エジプト王太后ナーズリー・サブリー(Nazli Abdel Rehim Sabri:1894–1978)」  写真週報 61号 階層 国立公文書館内閣文庫内閣情報局関係出版物写真週報 作成者名称 内閣情報部 資料作成年月日 昭和14年4月19日 土から油と旋盤へ/護れ 北の権益/そよかぜはイランへ/海外通信 独逸の国防記念日/読者のカメラ さきに事変が勃発するや全国民は夙に尽忠報国の誠を効し克く挙国一致の戦時態勢を確立して来たが、更に時局の重大な新展開に即応するには国民精神総動員運動を一層強化し物心一如の実践運動に推し進めねばならぬ。その企画をなすために荒木文部大臣を委員長とする国民精神総動員委員会が四月一日内閣に
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 「写真週報 61号」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06031065600、写真週報(国立公文書館)引用。


臺灣新民報1939年4月 第2949號(1939-04-18) 日刊第2版
...イラン皇太子同妃殿下 テヘランに御到着......「来る(3月)22日に盛大なる御成婚式を挙げさせらるるイラン皇太子シャプール殿下並にフアウジア妃殿下は妃殿下の御母君に当らせられるエジプト皇太后陛下と御同乗宮廷列車で(4月)16日午後4時テヘランに御着遊ばれた。」
嘉積市を完全占領 共產匪據點樂會を奪取
新英港(海南島西部の要港)敵前上陸 洋浦、白馬井兩港を占領
海南島の宣撫進捗 皇軍の真價を認め、投降續出
潭州デルタ地帶確保 我陸海兩部隊、悠悠敵前上陸
博鰲港に敵前上陸 敗敵を蹴散らしてこれを占領
撫河南岸に敵前上陸
蔣、しつとしをれず 西北、中支、西南三軍の 監視、督戰に乘出す
新南群島の概況 けふ高雄市編入を公布
ダンチツヒの除外 獨への併合、時の問題と見てか
戰死者遺族を總督代理弔問


資料(右):1939年4月17日,在テヘラン中山大使宛、有田大臣発、「そよかぜ」号の土(トルコ)、阿富(アフガニスタン)乗入交渉の件
:軍中央より連絡ありたる「そよかぜ」号のアンカラ、カブール乗入れの件は航空局とも連絡せる結果貴地にて交渉するが実際的と認め事例より貴地□□宛の旨変電せるを貴地に於ける右寄り適切指示ありたし。
テヘラン中山公使//有田外務大臣//蘭貢久我領事//倫敦重光大使//巴里宮崎代理大使//甲谷陀吉田總領事//航空局長官//井上欧亜局長//千葉臺灣外務部長//そよかぜ乗組一同//臺北そよかぜ號永淵三郎//廣東岡崎總領事//エム、バハドリ//M. Bahadori//カラチ鶴岡事務官//バスラ鶴岡事務官//アンカラ武富大使 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


3−A.親善機“そよかぜ”号テヘラン(イラン首都)に安着
大阪毎日新聞 Vol: 第 23巻 Page: 129 出版年 1939-04-16

[図表あり 省略] テヘラン本社特電【十五日発】イラン訪問の親善機「そよかぜ」号は十四日夜バスラに機翼を休め十五日午前六時二十五分(日本時間午後零時二十五分)同地を出発、最後のコーズを快翔、同午前十一時二十分(日本時間午後四時二十分)目的地たるイランの首都テヘランに安着した、東京より一万二千六十一キロを実飛行時間四十六時間五十分(全所要時間百五十三時間七分)で翔破した(親善機“そよかぜ”号テヘラン(イラン首都)に安着引用終わり)


新聞記事(右):1939年4月18日,伯剌西爾(ブラジル)時報「歓呼の嵐に迎へられて 微風號テヘラン着」【テヘラン】が中央に小さく掲載されている。
:「我空爆に曝された 重慶政府の逃避行 行政院残して七十哩内に分散 人口二万人の貧弱都市」「国府今やハ行經濟 法幣乱発インフレ時代」「敗残の苦闘物語る総支那兵郷里からの手紙 武寧付近で分捕郵便物の中に発見」「俄然全貌顕した国共合作共同委員会 蒋陣営の最高権力を握る」「米国の武装は? 中立法の精神無し(承前) 欧州戦参加確実」。「輸送機撃墜は伝 青天白日章ある支那機 我海和紙蒙自飛行場爆撃」「軍艦旗翻し熱砂を蹴り 陸戦隊博ゼイ港敵前上陸 海南島東岸中央部の要衝」「國府軍需公債 6億元発行」「世界最高の儀礼に守られ斎藤大使の遺骨到着 アストリア號17日横浜港到着」
写真は 国際日本文化研究センター https://rakusai.nichibun.ac.jp › Brasil › PDF › 1939/04歓呼の嵐に迎へられて. 微風號テヘラン着. 引用。


臺灣新民報1939年4月 第2951號(1939-04-20) 日刊第2版
Reza Shah ...イラン官民を招きティーパーティー 会衆、日本航空技術を称賛...「【テヘラン19日發同盟】イラン訪問親善機そよかぜ号一行は18日午後3時テヘラン飛行場にイラン官民有力者50名を招待してテイーパーテーを開き日本側からが村井公使以下在留官民、イラン側からは航空長官、飛行学校長以下実業家有力者多数が出席して格納庫内に設けられた宴席で日イ交際を行った。一同は先づ日本ビールの舌鼓を打った後大久保航空局国際課長からイラン訪問の指名につき挨拶があり、松井機長は次いでそよかぜ號の数字的に説明、本気の設計は5年前のもので現在ではもっと新式の飛行機が出来ているが比較的旧式の本機を今回の奉祝親善飛行に使用したのはこの機が支那事変に際し貨物郵便などの運送に用ひられ属々敵弾の洗礼をうけた経歴を有するためにイランに使いするに相応しいと考えたからである、と結び非常な喝采を博した。次いで松井機長以下愛機に搭乗して試験飛行を行い日本航空技術の粋を見せ慣習に多大の感銘を与えたが、航空長官は松井機長と固く握手をしてその技術の優秀さを称えた。」

...大久保[武雄]、鶴岡[千仞]両代表 イ國陸相を訪問す...「【テヘラン18日発同盟】そよかぜ號でイランを訪問した日本政府代表大久保航空局国際課長並に外務省代表鶴岡事務官は18日陸軍省にファズリ陸相を訪問今回の奉祝飛行のあいさつを述べ岡野運相のメッセージを手交した。これに対しファズリ陸相は先づイラン国を代表して所持を述べ日本政府に伝達方依頼した後、自分は航空兵出身だが航空の立場から盟邦の飛行機又はその代表がイランに来る場合には最大の好意を持ってこれを歓迎する。従来イラン国は隊商によって世界文化に寄与して来たが今や文化の伝播は隊商の代わりに飛行機で各国との連絡しその中心足らんことを欲している、と遠大な抱負を開陳するところあった。」

ペルセポリス ...そよかぜ號搭乗員 テヘランで大持て...「【テヘラン18日発同盟】イラン訪問親善機そよかぜ號の搭乗者一行は17日午後4時日イ両国旗を揚げた自動車に分乗してテヘラン市内の目抜き通り一巡したが道往く市民は「ジャポネ」「ジャポネ」と口ぎ地に連呼し非常な人気であったがゴレスタン応急付近では折柄市内行進中のイラン国軍隊が一向に対し歩調を取り頭右の禮を取って時ならぬ親善風景を現出した。尚17日にはトルコの飛行機が7台編隊で到着するなど22日の御成婚式を控えてテヘラン市内は祝典気分が横溢している。」
...殆ど全商品に及ぶ 公定價格制の擴大 商工省調查に着手
...青年團を擴充強化 臺北州全青年十二萬を入團せしめ 生產擴充にも即應

臺灣新民報1939年4月 第2956號(1939-04-25) 日刊第2版 ...奉祝ビラ五萬枚 そよかぜ號が撒布...「【テヘラン23日發同盟】愈々(4月)22日から始まった皇太子殿下の御成婚祝典に今やイラン国は挙げて歓喜の□渦と化しているわが親善機そよかぜ号は祝典最終日の25日挙行される大観兵式の空中分列行進に参加し、イタリア、トルコなど友邦機と伍して空から奉祝の意を表する外特に24日午後には単独飛行を行ひテヘラン上空から豫て用意の奉祝ビラ5万枚を散布することとなった」
...広東の防空施設 大したことなし 満富防空課長談...

臺灣新民報1939年4月 第2958號(1939-04-27) 日刊第2版 ...空中分列式に そよかぜ號參加 イラン御成婚祝典最終日...「4日間に亘るイラン皇太子殿下御成婚祝典は25日の最終日を迎へてテヘラン前肢の奉祝気分は絶頂に達した。この日皇太子に同妃殿下には先づエジプト公使館に午後会盡され各国使節を招待された。午後2時から練兵場で空中分列行進と軍人の馬術があり、イラン皇太子殿下以下後続、刻々使節外交官等が列席したが空中分列行進には我がそよかぜ号も堂々参加、日本航空技術の優秀さを示した。」

臺灣新民報1939年5月 第2965號(1939-05-04) 日刊第2版 ...そよかぜ號 十五日發歸還飛行...

臺灣新民報1939年5月 第2970號(1939-05-09) 日刊第2版 ...そよかぜ號 乘組員一行の動靜...

臺灣新民報1939年5月 第2973號(1939-05-12) 日刊第2版 ...そよかぜ號 歸還飛行 臺北[台北]着は二十六日...

臺灣新民報1939年5月 第2977號(1939-05-16) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 けさテヘラン出發...

臺灣新民報1939年5月 第2978號(1939-05-17) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 歸還飛行の途に就く...

臺灣新民報1939年5月 第2979號(1939-05-18) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 カラチ到着...

臺灣新民報1939年5月 第2979號(1939-05-18) 日刊第2版 ...そよかぜ號 カルカツタ[コルカタ]に安着...

臺灣新民報1939年5月 第2980號(1939-05-19) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 カルカツタ[Calcutta]を出發...

臺灣新民報11939年5月 第2981號(1939-05-20) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 ラングーン[Rangoon]に安着...

臺灣新民報1939年5月 第2981號(1939-05-20) 日刊第2版 ...そよかぜ號 盤古[曼谷]着 あす故國へ向け出發...

臺灣新民報1939年5月 第2984號(1939-05-23) 刊別版次: 夕刊第2版 ...そよかぜ號は 廿六日臺北[台北]着 午前十一時十五分...

臺灣新民報1939年5月 第2986號(1939-05-25) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 バンコツク[Bangkok]發廣東へ...

臺灣新民報1939年5月 第2986號(1939-05-25) 日刊第2版 ...そよかぜ號 盤谷[Bangkok]に引返す...

臺灣新民報1939年5月 第2987號(1939-05-26) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 廣東[Guangdong]へ向ふ...

臺灣新民報1939年5月 第2987號(1939-05-26) 日刊第2版 結果節錄: ...そよかぜ號 惡天候で盤谷[Bangkok]に引返す...

: 臺灣新民報1939年5月 卷期名稱: 第2988號(1939-05-27) 夕刊第2版 ...そよかぜ號 廣東[广东]に向ふ... 臺灣新民報1939年5月 第2988號(1939-05-27) 日刊第2版 ...難航、全員死を覺悟 そよかぜ號 同乘江口少佐談...

臺灣新民報1939年5月 第2989號(1939-05-28) 夕刊第1版 ...重大使命を果して そよかぜ號 島都着 軍官民の歡呼裡に...

臺灣新民報1939年5月 第2990號(1939-05-29) 日刊第2版 ...そよかぜ號 官民の歡呼に迎へられ きのふ羽田に安着...

大日本航空の三菱式双発輸送機そよかぜ号のイラン親善往復飛行経路
往路: 東京→台北→広東→バンコク→カルカッタ(コルカタ)→カラチ→バスラ→テヘラン[Tehran]
復路:テヘラン[Tehran]→バグダッド→バスラ→カラチ→カルカッタ(コルカタ)→ラングーン→バンコク→広東→東京


臺灣新民報1939年5月 第2991號(1939-05-30) 夕刊第2版 ...そよかぜ號鳥人 けふ歸還の挨拶...

臺灣新民報1939年6月 第2995號(1939-06-03) 夕刊第4版 ...圖像:そよかぜ號歸る...

臺灣新民報1939年6月 第3003號(1939-06-11) 日刊第2版 ...新舊遞相が空の漫步 そよかぜ號で鄉土訪問飛行 上空から夫夫通信筒を落す...


新聞資料(上):1939年5月20日,ラングーン・ガゼット(The Rangoon Gazette , Saturday, May 20, 1939)”THE ’SOYOKAZE’”(三菱式双発輸送機そよかぜ号(JBEOA)のイギリス領ビルマ植民地ラングーン訪問)
:英文記事の内容「この機体は、イラン皇太子とエジプト王女との結婚式の奉祝飛行で東京からテヘランを訪問した。ラングーンには、帰国途上の火曜日午後に到着した。写真は、乗客と乗員が、飛行場に出迎えた観衆に手を振っているところである。「そよかぜ号」は、昨日午前中にバンコクに出発した。」有田大臣宛に在蘭貢(ラングーン)領事久我成美の送った現地新聞の切り抜き記事であろう。 「7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074779100、本邦人航空関係雑件 第五巻(F.1.10.0.3_005)(外務省外交史料館)
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, 標題:7.日本、「イラン」親善飛行ニ関スル件(そよかぜ号)/分割2 引用。


3−B.帝国とイラン国間に修好条約調印さる
大阪朝日新聞 Vol: 第149巻 Page: 110 出版年 1939-10-20

テヘラン特電十九日発】イラン政府十九日発表=日本、イラン両国修好条約は十八日夜調印された(帝国とイラン国間に修好条約調印さる引用終わり)

3−C.日泰イラン条約枢府本会議で決定
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第155巻 Page: 134 出版年 1940-12-12

十一日の枢府[枢密院]定例本会議は午前十時より宮中において天皇陛下親臨のもとに開催、枢府[枢密院]側から原、鈴木正副議長以下各顧問官、政府側から近衛首相以下関係各閣僚および村瀬法制局長官出席

一、日本国と泰国との間の条約御批准の件
一、日本国とイラン国との間の修交条約御批准の件
一、奏任文官特別任用令中改正の件(新たに地方消防司令設置に伴う特別任用の途を開き大阪、京都、神奈川、兵庫、愛知、福岡の各府県にこれを設置すること)

の三件を上程堀江書記官長より審査経過並に結果の報告あり審議の結果満場一致これを可決し同十時四十分散会した(日泰イラン条約枢府本会議で決定引用終わり)


4.1941年6月の独ソ戦後のイギリス・ソ連のイラン侵攻

4−A.イラン国王 : 東人西人
大阪朝日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 120 出版年 1941-08-23

Winston Churchill 英ソ両国政府は去る二十日、イランに対し共同通牒を突きつけ、一週間の期限附をもってイラン在住ドイツ人の国外総退出を迫り、もしこの要求を拒絶すれば英ソ両軍はイランに進駐するの態勢を示している、右要求に対しイラン国王レザー・シャー・パレウイは悲壮なる決意のほどを示し、イラン政府またイランはあくまで領土保全と厳正中立の態度をとるのものでなかったいう

レザー・シャー国王は不世出の英傑と謳われ、大の親日家で我が国との間にも公使を交換、イラン鉄道敷設準備の際我が国からの技師の招聘、日本との貿易促進等に自ら意を注がれたという [写真あり 省略]

一八七八年裏海南岸の一貧農の子として生れ、一九〇〇年ペルシア・コサック旅団に入隊、第一次大キ戦に殊勲を現して師団長に昇進、二一年ペルシア協定に関連して擾乱起るや、首都テヘランを乗取って、自己の推す政府を作らしめ、自らは陸相兼陸軍総司令官として羽振りを利かせ、二三年には首相として独裁官的勢威を揮った、同年国王アーメッド・シャー[Ahmad Shah Qajar]国外に去るに及んで、二五年前王朝を廃して自ら国王として即位すべき旨宣言、二六年以来イランをして立憲君主国としての形態を整えしむるに至った

鋭意国内の統一、行政および軍隊組織の改め、国家的には三七年イラク、トルコ、アフガニスタンとの間のサーダバッド不侵略条約、イラクとの間の国境紛争解決協定の締結、皇太子のエジプト皇妹との成婚等によって回教国との間に和睦政策を促進し、また国家主義の昂揚によって欧洲の帝国主義的覇絆から脱するに努め永年イラン国内に根を張っていた英ソの勢力にも相当の掣肘を加え、遂に新顔のドイツ人技師商人らは好感をもって迎えらるるに至った (イラン国王 : 東人西人引用終わり)

スターリン 独裁者 中央研究院 臺灣史研究所Institute of Taiwan History 臺灣新民報掲載のイギリス・ソ連のイラン侵攻の関連記事一覧

興南新聞1941年2月 第3618號(1941-02-20) 刊別版次: 夕刊第1版 ...イラン、イラク抱込み 英、益益執拗且つ高壓的...

興南新聞1941年2月 第3624號(1941-02-26) 日刊第2版 ...圖像:イランヘ贈る日本人形...

興南新聞1941年5月 第3690號(1941-05-04) 夕刊第1版 ...ソ聯の大軍續續 イラン國境に集結 獨、ソ間に一種の申合せ存在が.

興南新聞1941年5月 第3716號(1941-05-30) 夕刊第1版 ...日、イラン修交條約 批准書の交換を了す 【東京發同盟】近東の友邦イラン國と我國との間に今回修交條約が成立することに

興南新聞1941年6月 第3729號(1941-06-12) 日刊第1版 ...日、イラン間の 修好條約發効...

興南新聞1941年6月 第3745號(1941-06-28) 夕刊第1版 ...イラン中立...

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィー(1878年3月16日 - 1944年7月26日)と続く皇太子子のモハンマド・レザー:1941年9月16日にイランに侵攻したイギリスとソ連は、親枢軸派のイラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーを1941年9月16日に退位させた。そして、イラン皇太子に帝位を継がせて、イランを半保護国として支配した。
English: Reza Shah Date 1944 Source https://mashruteh.org/wiki/ Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Reza Shah in 1941・File:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg引用。


1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦に際して、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年にイギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。レザー皇帝は退位させられて、子のモハンマド・レザーが1941年9月16日に帝位を譲らざるを得なくなった。モハンマド・レザーは、パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。

写真(右):1938年1月20日,エジプト、カイロでエジプト王ファールーク1世(17歳)と結婚した王妃ファリーダ(Farida:1921年9月5日 アレクサンドリア - 1988年10月16日 カイロ)16歳:エジプト王フアード1世の娘で王太子ファールークの妹ファウズィーヤは、1939年3月にカイロでイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーと結婚した。
The wife of King Farouk of Egypt Digital ID: (digital file from original) matpc 08367 https://hdl.loc.gov/loc.pnp/matpc.08367 Reproduction Number: LC-DIG-matpc-08367 (digital file from original) Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA https://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print
写真は,Library of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog >The wife of King Farouk of Egypt引用。


エジプト王妃ファリダFarida of Egypt:1921-1988)とイラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアードFawzia bint Fuad:1921- 2013)の両者の共通点は、
1)エジプト生まれであること、
2)1921年生まれであること、
3)高貴な出自であること、
4)王・皇帝の最初の王妃となったこと、
5)エジプト王ファールーク1世Farouk of Egypt:1920-1965)と親族関係にあること、
6)子女3人を設けたこと、
7)自分の国にイギリス(ソビエト)の外国軍が進駐し保護国・属国とされたこと、
8)王権が外交・軍事・財政・法律など大幅に制限されたこと、
9)夫に離婚されたこと、
10)離婚後に夫と離れて外国で暮らしたこと、
11)離婚した夫が、エジプト・イラン最後の王・皇帝になり、王朝が瓦解したこと、
である。

写真(右):1938年,エジプト、カイロ、エジプト王女として生まれたエジプト王妹ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921年11月5日 - 2013年7月2日)17歳:1939年3月16日にイラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)と結婚する前年。イラン皇太子妃となる。3女をもうけたものの、1945年にエジプトに帰国、1948年11月17日に離婚が成立した。
Princess Fawzia of Egypt Princess Fawzia of Egypt (1921 - 2013), 1938. The daughter of King Fuad I of Egypt, she became Queen of Iran the following year when she married Mohammad Reza Pahlavi. (Photo by Paul Popper/Popperfoto via Getty Images/Getty Images)
写真は,www.gettyimages.co.jp Princess Fawzia of Egypt・引用。


1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻、それに続く9月3日の英仏に対ドイツ宣戦布告で第二次世界大戦が勃発すると、石油需要がひっ迫したために、中立国の産油国イランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座にソ連への軍事支援を表明した。ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスク・アルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾・イランを経由する中東ルートがあった。

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)の王妃、エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad:1921年11月5日 - 2013年7月2日)20歳:ファウズィーヤ・ビント・フアードは、結婚翌年1940年に長女シャーナーズを出産した。1941年に夫が皇帝に即位し、王妃の地位を得た。
First upload on English wikipedia byen:User:Tuckerresearch, 20:00, 21 October 2005 Original file name: en:Image:Fawzia.jpg Description: Portrait of Princess Fawzia bint Fuad of Egypt Source: www.iranchamber.net
写真は,Wikimedia Commons, Category:Fawzia Fuad・File:Princess Fawzia bint Fuad of Egypt.jpg引用。


ここで、主要なルートは北極海ルートであったが、中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも親イギリスの立場とは言えず、ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアーバダンは、油田としても港湾としての重要な場所だった。、ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、イラン経由の中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。

写真(右):1941年,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー(1919年10月26日 - 1980年7月27日)の王妃、エジプト王女ファウズィーヤ・ビント・フアード(1921年11月5日 - 2013年7月2日):ファウズィーヤ・ビント・フアードは、結婚翌年1940年に長女シャーナーズを出産した。1941年に夫が皇帝に即位し、王妃の地位を得た。しかし、1945年にエジプトに帰国、1948年11月17日に離婚が成立した。
Queen Fawzia of Iran, daughter of the Egyptian king Fuad I, wife to the Iranian shah Mohammad Reza Pahlavi. Official Imperial photo from the Pahlavi court. Date during her marriage to the Shah of Iran (from 1939 to 1948)
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Fawzia Fuad・File:Fawzia official.jpg引用。


4−B.イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 58 出版年 1941-08-29

【ニューヨーク特電二十七日発】APテヘラン電によれば信ずべき筋の情報としてイラン駐在イギリス公使ならびにソ連大使は二十五日リザ・シャー・パーレヴィ王に謁見せる後戦争中止にたいするイランの申入ならびに実質的にイラン在留全ドイツ人を一週間以内にイランより退去せしむべしとのイラン政府の保障と、同情報によればイラン政府は必要不可欠なる技師たる数名のドイツ人は交代可能時期まで暫時現地に留まらしむるとの意向を申入れたといわれる。

然らざれば徒らに他を責むるの資格はないのである。一片の良心が存し、不断に唱うる道義観があるならば、惟うに米国は英蘇の侵犯行為を黙過することはあるまい。吾等は米国政府今後の態度に一段の注意を向けざるを得ない。

【ニューヨーク特電二十七日発】アンカラ発NBC放送局特派員の放送によればイラン内閣は二十七日総辞職した、同放送はアンカラの信ずべき筋の報道としてマンスル・イラン首相は新首相が任命され次第恐らく「イラン国民がイランの独立のため侵略に抗しつつあることに満足するもイラン軍は英ソ両軍により屈服を余儀なくされた」との主旨の声明を発するものと見られている旨伝えている。

単に中立維持の声明に止まらず、名実共に中立の態度に終始していたのである。寧ろ忠実神妙と評せざるを得ないのであるが、然るに英蘇軍の侵入理由を見れば、在留独人の退去を迫ると云うに過ぎず、所謂難題を強いて持掛け、侵入の理由としたる如き形跡を見るのは言語道断と云わざるを得ない。

【ニューヨーク二十八日発同盟】テヘラン発AP電によればイラン国王は二十七日アリ・マンスル内閣の総辞職を聴許した。 (イラン内閣総辞職 : 国王英ソへ休戦提議 : 独人の退去を承服か引用終わり)

写真(右):1942年,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)、イラン皇后ファウズィーヤ・ビント・フアード(Fawzia bint Fuad: 1921年11月5日 - 2013年7月2日)22歳、長女シャーナーズ・パフラヴィー(Shahnaz Pahlavi:1940年10月27日生):第二次世界大戦初期には、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年にイギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。レザーは退位し、子のモハンマド・レザーが帝位に即位した。1979年2月11日)。パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。
Photographer Cecil Beaton (1904–1980) q:it:Cecil Beaton Title Cecil Beaton Photographs- Political and Military Personalities Description English: Political Personalities: Shah Mohammed Reza Pahlevi of Iran with his first wife, Queen Fawzieh, and their daughter, Princess Chahnaz seated by an ornamental pool in Teheran. Depicted people Mohammed Reza Pahlevi, Fawzia Fuad, Shahnaz Pahlavi Depicted place Tehran Date between 1939 and 1945 Medium photograph Current location Ministry of Information Second World War Official Collection Accession number Catalogue number CBM 2404 Database number 205125079 Source roughdiplomacy.com direct link
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Fawzia Fuad of Egypt with Mohammad Reza Pahlavi and their daughter, Shahnaz Pahlavi.jpg引用。


Shah 1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi:1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。

しかし、1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、事情は一変した。孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリス軍の影響下に入った。1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの低位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。

写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)を台上で閲兵するイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、ポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教(Arcybiskup Józef Gawlina:1892–1964):野戦司教を務めたユゼフ・ガウリナ大司教は、第一大戦ではプロイセン・シレジア人だったためにプロイセン兵士として扱われ、ドイツ人捕虜として辛酸をなめた。大戦後、ポーランド人となったが、第二次戦争中は、ポーランドから脱出し、ポーランド難民と軍隊に同行し、本国をドイツに占領され失ったポーランド難民・移民の守護者となった。
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East (first from the right), inspecting troops of the Polish Army in the East (future 2nd Polish Corps) in their camp in Khanaqin, Iraq. He is accompanied by General Władysław Anders, the CO of the formation (second from the right); Shah of Persia Mohammad Reza Pahlavi (third); and Archbishop Józef Gawlina, the Field Chaplain of the Polish Armed Forces.Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18141
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18141)引用。


写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)を台上で閲兵するイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コット (Stanisław Kot:1885–1975)、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、奥にポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教:ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コットは、1939年、ドイツのポーランド侵攻後にすぐ亡命し、1939年10月にポーランド亡命政府の設立に参加し、ヴワディスワフ・シコルスキ首相の下で国務次官に就任した。1940年2月、コットはパリで、ポーランドの強制収容所を内偵したレジスタンス特使ヤン・カルスキと会談した。1940年10月から1941年8月で、コットは内務大臣を務めた。1941年6月の独ソ戦勃発で、それまでソ連の捕虜だったポーランド兵士を基幹に連合国軍に参加するポーランド軍が設立された。そこで、コットは、1941年11月から1942年7月までソ連駐在ポーランド大使として、ソ連にあるポーランド捕虜・難民の支援、ポーランド軍入隊に助力した。その後、1943年までポーランド軍がソ連から中東の出国を許されたため、ポーランド中東軍の育成に参加し、同地のポーランド亡命政府国務大臣、情報大臣となった。
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East (holding a hat), inspecting troops of the Polish Army in the East (future 2nd Polish Corps) in their camp in Khanaqin, Iraq. He is accompanied from left to right by: Shah of Persia Mohammad Reza Pahlavi (far left, holding a hat); Stanisław Kot, Polish Minister of State in the Middle East; General Władysław Anders, the CO of the formation (saluting his troops); and General Zygmunt Bohusz-Szyszko, the Deputy CO of the Polish Army in the East (wearing a beret)..Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18141
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18142)引用。


写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)司令部、昼食を摂るイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コット (Stanisław Kot:1885-1975)、カップを取ったポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、奥にポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East, in conversation with Stanisław Kot, Polish Minister of State in the Middle East, during a lunch in the Polish Army in the East HQs in their camp in Khanaqin, Iraq. General Władysław Anders, the CO of the formation, is having a drink while talking to Mohammad Reza Pahlavi, the Shah of Persia, on the left. Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18146
写真はアジア歴史資料センター,Japan Center for Asian Historical Records, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18146)引用。


Shah 5−A.イラン対日断交
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 14 出版年 1942-04-16

【リスボン本社特電十四日発】テヘランのルーター電によればイラン政府は十四日日本と外交関係を断絶し日本代表は一週間以内に同国から退去しなければならない通告を受けたと

歴然・米英の使嗾

昨年八月ソ英両軍のイラン占領によってソ英の属国的存在と化したイランはその圧迫により独伊はじめソ英と外交関係を有しない諸国との外交関係を断絶した、わが国はソ連との外交関係を有するところから断交の通告は受取らなかったものの十月四日に至りイラン政府はついに日本公使館に対し電報暗号使用権停止、外交使臣不可侵権停止などの不法圧迫の挙に出た

 右はわが公使館がアラビヤ民族運動の父で英国がその首に多額の賞金をかけでいるエルサレムの前大司教フッセイン師をひそかに保護したという英側の流布した虚説に基いたもので 当時わが方は厳重に英国に対し抗議した、昨年末にはイランの対日断交説すら伝えられたほどで今回の断交通告の理由も日本公使館が枢軸側の宣伝活動を行っているというにあるが事実は米英側の圧迫と使嗾に基づくことは明かである(イラン対日断交引用終わり)

Stalin 5−B.日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 25 出版年 1942-05-10

【満洲里本社特電十日川崎特派員発】イランの対日国交戦断絶のため去る四月二十三日テヘランを出発した市河イラン公使、村沢陸軍武官らの一行十名は中央アジヤを横断九日午前十一時四十八分満洲里着、同日哈爾浜に向ったが左の如く語った

 イランには昨年八月二十五日以来英ソ両軍の進駐占領下に戒巌令が布かれている、イラン人は一般に無力で政府も英ソの意のままに動いている、本年一月二十九日の英ソ、イラン同盟により日本との外交関係も当然直ちに断たれるものと思っていたがイラン政府は日ソ中立条約の関係から対目断交の義務なしと考えていたようだ、ところが日本の大戦果が相次ぎインドに危機が迫るや狼狽せる英国はソ連を誘って同盟を楯にとりイランをして対日断交せしめるに至ったのだイラン語による日本放送は英ソ側で極力妨害しているがフランス語のそれは実によく入るので上流階級を通じて一般民衆に伝わり彼らは日本の大戦果を信じこれに大喝采を送っている、

英ソ占領下の租国を独立させるためには英ソの打倒が必要であるとの認識から東亜における英軍緊滅をイラン国民は心から喜んでいるわけだ、テヘラン引揚の際買物に行くと一商人は早く日本が英国を打倒してくれるよう毎日祈っていると語った、民衆は地図をひろげて至るところで話合っている、英国の軍艦にはいくら消してもドイツのハーケンクロイツのマークが民衆によって落書される有様だ、同じアジヤ人として大東亜戦の進展に限りない期待をかけているのである(日本の大勝に喝采 : 英国打倒を日毎祈る : 対日断交したイランの真相 市河公使みやげ話 件名引用終わり)

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)、平服のイラン首相アリ・ソヘイリー(Ali Soheili: 1896–1958)と対面した名誉空軍司令官の軍服を着たイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)69歳
Description English: The Shah of Iran saluting Winston Churchill on the occasion of Churchill's 69th birthday at the close of the Tripartite Conference of Tehran, November 1943. On the far left is Ali Soheili, serving his second term as Prime Minister of Iran. The picture was taken by the Iranian press. Churchill is shown wearing his honorary air commodore's uniform. فارسی: محمدرضاشاه در حال دست‌دادن با وینستون چرچیل در نوامبر ۱۹۴۲. Source Unknown source Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah churchill.jpg引用。


枢軸国側だったイラン帝国は、帝位が父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)
English: Shah with FDR Date 1943 Source U.S. Library of Congress Author U.S. Government
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日に開催され、ビッグスリー(スターリン、ルーズベルト、チャーチル)は、北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施することを決めた。テヘランは、英ソの支配下にあったために、英ソ米首脳の会談の地に選ばれたのであるが、この大前提となった1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害、アメリカの国境線変更の許容を知らない識者が多いようだ。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)
Description English: Mohammad Reza Schah, Stalin und Molotov, Tehran Conference, 1943 Date 1943 Source www.iranian.com/main/blog /darius-kadivar/ photo-restoration-shah- stalin-molotov-tehran -conference-1943 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, the Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。

写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、チャーチルの69歳誕生日を祝うテヘラン会談ディナーのビッグスリーの記念撮影:アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)、ソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニア(George Catlett Marshall, Jr.、1880年12月31日 - 1959年10月16日)大将:後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Description EEnglish: Joseph Stalin, President Roosevelt, and Winston Churchill, full-length portrait, sitting outside entrance to building during the Tehran Conference; Vyacheslav Mikhaylovich Molotov and Anthony Eden are standing in the background. Date 1 December 1943 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3c35324.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:RooseveltChurchillStalinConferenciaDeTeherán--A 020732.jpg引用。


つまり、戦争勝利の大義のためには、イランの権利侵害を問題としなかったのである。テヘラン会談が1943年11月28日から12月1日に開催され、ルーズベルトは初めての軍艦と飛行機による大旅行を決断したが、これはスターリンとの会談をぜひ実現したからである。しかし、同時に、イランにおける米英ソの安全保障が確保できているという軍事支配に自信があったからでもある。チャーチルのソ連の戦後勢力拡大の疑念を抑えて、ルーズベルトは、北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施するとし、第二線が開かれるまで、ソ連への大量の軍事物資を援助することを確約した。イランへの譲歩はありえないが、ソ連には大幅に譲歩する外交を行った。これは、戦後の米英ソのビッグスリーの協力、連帯を可能とするためだった。

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Description Lot 11597-2: Tehran Conference, November 28-December 1, 1943. The strategy meeting of Premier Joseph Stalin, President Franklin D. Roosevelt, and Prime Minister Winston Churchill at the Russian Embassy at Tehran, Iran. This conference was the first of “Big Three” leaders (Soviet Union, United States and United Kingdom). Note, all the reporters and staff not usually seen. Originally an U.S. Army photograph. Office of War Information Photograph (2016/01/15). Date 15 January 2016, 10:41 Source Lot 11597-2 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Lot 11597-2 (24295426512).jpg引用。


1939年9月12日、ヒトラーに続いてポーランドに侵攻したスターリンは、ポーランド東半分を占領した。1941年622日の独ソ戦勃発後は、アメリカの武器貸与法を受け入れて、北極海、イラン、極東からの軍事援助を受け入れた。このアメリカからの軍事援助受け入れのために、ソ連は、中立国イランの意向を圧殺して、イギリスとともにイランに軍事侵攻した。1943年11月に、テヘラン会談に向かったスターリンは、これが初の外国訪問だったが、それを決断したのは、イランが自分の思い通りになる地域であり、暗殺や妨害工作の不安が払拭されていたからである。

1941年9月17日のイギリス・ソ連によるイラン侵攻によって制圧されたペルシャ(イラン)では、保護国化・属国化が進んだ。すなわちレザー・パフラヴィー皇帝を退位させ、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)を皇帝の位につかせて操縦し傀儡化ようとした。

⇒写真集Alubm:英ソのイラン進駐と武器貸与法(Anglo-Soviet nvasion of Iran)


5.第二次世界大戦後のイラン皇帝レザー・シャーとパフレヴィ―朝の崩壊

Shah 1945年5月にドイツは降伏し、ソ連、イギリスはイランを占領し続ける理由はなくなったはずだが、戦後も、ソ連は、イラン領アゼルバイジャン、クルディスタンの一部に軍を駐留させ続けた。そして、占領地に親ソ連派によるのアゼルバイジャン自治共和国、クルディスターン人民共和国を設立し、傀儡化して、ソビエト連邦に取り込んだ。

その後、イラン国境付近の石油利権が確保されたソ連は、アメリカの外交圧力、国際連合における連合国の支持を取り付ける必要から、1946年5月、イラン進駐を中止し、占領下にあったソ連傀儡政権は瓦解した。

1951年、イランではソ連の支持を得たモハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)がイギリス支配下のイラン石油会社を国有化することを宣言し、議会と国民の支持を得た。イギリスは、イランへの経済制裁を加え、1952年、モサデグは辞任したが、総選挙で圧勝して、復権した。同時に、イギリスの圧力に従順でイランの石油国有化に躊躇したイラン皇帝モハンマド・レザー・シャーは、亡命を余儀されるた。

モハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)首相の下で、イラン共和国が樹立されたが、アメリカは、イランの石油国有化が共産化につながるとして、8月19日、反政府暴動、クーデターを煽動した。アメリカの介入によって、シャーは帰国しイラン皇帝になり、モサッデグは逮捕され、新政権はシャーの支配下に置かれた。石油国有化も中止され、イランの石油利権は、英40%、米40%、仏6%、蘭14%を認められた。

Reza Pahlavi モハンマド・モサデグMohammad Mosaddegh)首相と対立したイラン皇帝モハンマド・レザー・シャーは、アメリカの支援を受けたクーデターにより権力を回復した。親欧米路線に基づいて、秘密警察サヴァク(SAVAK)による反政府の動きを弾圧したが、多国籍企業への融和、女性解放を進めながら国王独裁を強化した。

しかし、強権的なイラン皇帝モハンマド・レザー・シャーの独裁政治は、イスラム主義者、親ソ連派などの反政府行動が過激化させ、デモやストライキが頻発した。パフラヴィー皇帝は、戒厳令で対処したが、反王政のデモが起こり、1979年1月16日にパーレビ国王はエジプトに出国した。皇帝と入れ替わりにフランスに逃れていた反体制イスラム指導者ホメイニー師が、2月1日に帰国し、イラン軍の支持を得て、親皇帝派のバフティヤール首相や帝室親衛隊を排除し、イスラム革命評議会を中核とする共和制を開始した。

1970年代半、イラン皇帝モハンマド・レザー・シャーの独裁と世俗化に反対する世論が高まり、1978年9月には、イラン全土に戒厳令が敷かれた。しかし、反皇帝勢力は連帯し、大衆の大規模抗議が起こった。1979年1月16日、モハンマド・レザー・シャーはイランから退去し、1979年2月1日、フランスに亡命していたイスラム指導者アーヤトッラー・ホメイニーRuhollah Khomeini: 1900-1989)が帰国し、2月11日、最高指導者となった。これが、1978−1978年のイラン革命である。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

2024年9月3日公開の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先: torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Flag Counter
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 10000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.


Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2024 All Rights Reserved.