◆ペルシャ回廊(Persian Corridor)経由の対ソ連武器貸与
写真(上):1943年,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)輸送隊:トラック本体の荷台ではなく、車輪のついたトレーラーを繋いでいるトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)である。トレーラーの分だけ、車輪が多くなっている。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia on a desert road
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028464-E [P&P]引用。
写真(上):1943年,イラン、ペルシャ湾に陸揚げされた軍事物資をペルシャ回廊を通って、陸路、ソ連コーカサスまで輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の車列:アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するために、イラン回廊ルートではトラック7200両が貸与され、其の積み荷の運搬にも流用された。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia making a rest stop in a beautiful setting of clouds and snowcapped mountains
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Prints and Photographs Division・Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028342-E [P&P]引用。
1.1941年3月の武器貸与法の成立
武器貸与法と日本で呼称する1941年3月成立の軍事援助法は、貸与・貸付法であり、戦時の物資購入の支払いを一時立て替えて、戦後、すなわち戦勝後まで支払いを猶予する法律である。ペルシャ回廊(Persian Corridor)を通じて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。
ルイ・ドレフュス ・ジュニアは、1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。アメリカは、日本のように官僚出身の融通の利かない組織下の人物ではなく、民間企業・大学教授など能力に秀でた個人手腕のある人物を長官や一国の大使に任じて、外交成果を上げている。以下では、ハル国務長官が外交的に、国際的にどのように武器貸与法を正当化したかを見てみよう。
ハル国務長官の部下でライバルでもあったサムナー・ウェルズ(Benjamin Sumner Welles)国務次官は、FDRの個人的信頼を得た外交官として世界を飛び回った。1939年9月の第二次大戦勃発直後にパナマで汎アメリカ会議を主宰、1940年3月にはバチカン、イタリア、戦時中のドイツ、フランス、イギリスを訪問し、1940年7月に前月のソ連軍によるエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国占領を非難した。
1ー1.米国務長官の暴論
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 158
出版年
1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337930
米国務長官[Cordell Hull]の暴論のいわゆる民主主義国家への武器貸与法案[(Lend-LeaseAct]に関する米国側の理論なるものは、元来強いて理窟をつけんとするものであり、従って今後米国のなさんとするところは、おそらく理窟などどうでもいいのである。ゆえにいまそれを取上げて、問題とするにあたらないが、いやしくも米国国務長官なる[コーデル]ハル[Cordell Hull]氏の所言は、まことに暴論として聞き捨てにならぬものである。
ワシントン十五日発同盟通信社電報によれば、同長官は満洲事変以来、過去八ヶ年間の国際情勢を概評し、日独同盟によって結ばれた三国は、いまや必死となって、大海洋の支配権獲得を狙いつつあり、もし英国が敗れ、枢軸側が大洋を支配することとなる場合には、西半球の安全は現在の幾層倍も危険に曝されるだろうと結論したという。
もとよりかかる所論は、米国本来の観点たる夜郎自大の過度の自尊心と同時に、それに矛眉して、やや病的ともいうべき、米洲に関する恐怖心をば、露出せるに過ぎないのであって、理智的に見て価値のないものである。
しかし枢軸国があたかも大洋支配権を狙い、しかも西半球に迫らんとするかにいうのは、遺憾ながら当今の実情に反するのである。アングロサクソン[Anglo-Saxon]の世界制覇の野望こそ海洋支配観念に拠るものではないか。
英国はしばらく措き、米国としても、もしハル[Cordell Hull]国務長官の所説を少くも理論的に徹底するとすれば、その海上団防線をば太平洋上百八十度子午線ぐらいに止め、以西には進撃を企てる筋のものではないのではあるまいか。
しかるにある幻想を口実とし、または無理に他国の正当権を抑えんとするがゆえに、西方への進攻を計るのみか、さらに南方進攻路を主眼とする工作を着々進めつつあるのである。フィリッピンをあらためて重視するのは、米国として当然であるとしても、さらにニュージーランド、ニューヘブライヅ諸島、オーストラリアのみならず、なおシンガポール、蘭印をもその薬籠中に収めんとしているのである。
その新駐仏大使リーイ提督がヴィシー着任に際し米国は仏印問題に関心を有し、また日本と泰国との関係に注自するものであるなどと声明せるのも、この際、意味ありげに考えられる。吾人はここに米国務長官の独りよがりの議論を重ねて非とすると同時に、わが国は西太平洋に対する米国の侵略的、挑戦的工作を見守りつつ万一の思意を誤ってはならぬと思う。
極東へ進出の野望具体化 ハル[Cordell Hull]演説わが外交筋の見解
しかして若し改めなければ実力を行使してもこれを強行しよう……と謂ったような多少威嚇的態度を以てし、この機に遮二無二日本を抑制し東洋で日本が余り覇権を揮わぬように仕様という所謂「英国に代り東洋の番犬を務める」と云うのがその底意である
それには四十年前に米国の時の国務卿[国務長官]ジョン、ヘー[John Milton Hay:
1838-1905]の主唱した「支那の門戸開放、機会均等主義」や今より十八年前に締結された「九箇国協商」などを引き出して日本を制肘し、日本が米国に倣って東亜に唱道せんとする「亜細亜モンロー主義」を拒もうとするのであるから、双方の見地は可成懸隔甚だしく、今度の野村[吉三郎]・[ジョセフ・]グルー[Joseph Clark Grew]氏の会談もその最後の目的達成には余ほどの相互の隠忍妥譲を要し、成功を見る迄には多くの時日を要するであろうと在米の邦人は最早覚悟している(米国務長官の暴論引用終わり)
1ー2.武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言
大阪朝日新聞
Vol: 第156巻
Page: 160
出版年
1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337650
[写真(ハル国務長官)あり 省略]
【ニューヨーク特電十五日発】武器貸与法案[Lend-Lease Act]審議の下院外交委員会は十五日開かれたが、委員会の要求により出席をもとめられたハル国務長官は「法案の具体的内容の説明は他の政府関係者から述べるであろうから、自分は現下の国際情勢を説明してこの法案がいかに必要であるかを述べたい」と次のごときアメリカの強硬外交方針を述べた
「西半球の安全を講ずる機会は法律秩序を遵奉する諸国によって制海権[Command of the sea]を確保する点に存している、日独伊の三国は法を破って世界の文明の基礎を破壊し、他国民を武力をもって征服することを断行せんとしつつあるのである、もしもイギリスが負けて制海権を失ったら大西洋の安全はまったく失われることとなる、だからわれわれはこれらの征服者と戦っているイギリスその他の諸国に対し、軍需品を無制限に供給する法律を作らねばならぬ」と述べたのち、日本攻撃に移り「太平洋におけるいわゆる新秩序というものは他国の利害を除外して一国による支配を意味するものだ、
アメリカは今日まで日本に対してアメリカとの友好関係を保つことが日本にとって一番よい途であると述べて来たのではなかったか
日本の新秩序というものは経済的には日本が侵略した部分を貧乏に陥らしめることであるし、社会的には人間の自由を破壊し被征服者をして弱者の立場に陥れることにほかならぬ」
とて盛に日本に対する悪罵を浴びせた、ハル[Cordell Hull]長官の説明が終ったのち、武器貸与法案[Lend-Lease Act]に反対の議員である民主党のジョンソン氏、共和党のチンカム・フィシュ両氏、民主党のバージン氏などか起って、同法案が国際法に違反する点、およびこの法案は結局アメリカを戦争に近づけるものである点などについてさかんにルーズヴェルト攻撃の火の事をあげ、ハル長官との間に長時間にわたって激論が繰返された、問題の国際法違反の点についてはハル長官は少しも法律上の説明をしないで
「ただわれわれは現実をみなければならぬ、敵が攻め寄せて来るまで待つか、または手遅れにならぬようにこの法律をつくるか途は二つしかない
と答えた
ハル[Cordell Hull]長官証言内容
【ワシントン十五日発同盟】武器貸与法案[Lend-Lease Act]に対するハル国務長官の証言は過去八ヶ年間の国際情勢を概観して三国同盟[Tripartite Pact]に結ばれた盟約国は今や必死となって大洋の支配獲得を狙いつつあり、もしイギリスが敗北を喫し、枢軸国が大洋支配に成功するがごとき場合には、西半球は現在の数層倍も危険にさらされるであろうと結論している、証言はまず「今日の国際危局は満洲事変勃発からはじまる」と説き起して、日本の東亜新秩序建設の理想に対し独善的無理解な悪罵を浴びせかけ欧洲問題に移って次のごとく述べている
欧洲においては独伊両国が次々と軍事的征服を続け、遂に今日のごとき動乱に到達したのである、侵略者達はその言葉によるもその行動に見るも、被征服諸国に対し古代史の最悪の頁を彷彿せしめるがごとき暴政を布かんとするまがうべくもなき決意を自ら明らかにしている、ドイツはとうてい米州諸国を侵略することはできないなどと考えているものがあるとすれば大間違いである、もしイギリスが敗退し、海上支配権[Sea power]を喪失するような場合に、アメリカが現在のイギリスに代って防衛に当る覚悟と準備がなければドイツは易々と大西洋殊に南大西洋を渡って来るであろう、かかる攻撃は恐らくまず
西半球[Western Hemisphere]のうちアメリカよりも抵抗力の弱い他の部分に向けられるものと予想されるが、そこでは既に現在或種の破壊力が国内不統一を醸し出さんとして活動しているのである
イギリスその他侵略の犠牲となり、またならんとしている諸国に対し、最大限度の援助を最短期間に供給する必要を真に米洲全国民挙って認識することこそ喫緊事である、これは自国防衛の不可欠の一部をなすものである、本法案はこの既定の目的を達成すべく最も有効にアメリカの資源を活用するために絶対に必要とされるにいたったのである、しかして今日最も要求されているものは一にも二にも圧倒的スピードである(武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言)
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を運搬してきた輸送船から物資を陸揚げするアメリカの戦時標準型輸送船リバティー船(Liberty Ship):量産型商船リバティー船は、全長 441 feet 6 inches (135 m)、全幅 57 feet (17 m)、吃水 27 ft 9.25 in (8.4646 m)、蒸気機関出力 2,500 hp 1軸スクリュー、排水量 10,865 ロングトン、総トン数 7,176トン、速力 11.5 ノットで、簡易ブロック工法、溶接組立によって1941−1945年に2,710隻もが大量建造された。
Description Lot 11604-8: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: A Liberty Ship carrying supplies destined for Russia docked at a port in the Middle East, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 28362-E. (2016/02/11).
Date March 1943
Source
Lot 11604-8
Author
Nick Parrino
National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons, Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino File:Lot 11604-8 (24630014289).jpg引用。
2.米英のソ連軍事援助
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を運搬してきた輸送船から物資をデリックを使って陸揚げするアメリカの戦時標準型輸送船リバティー船(Liberty Ship)
アメリカ戦時標準船リバティ船(Liberty Ship)の諸元
全長:134.57 m
全幅:17.34 m
ステアボード 11.38 m
吃水 7.70 m
乗員: 41名(別に兵装要員21–40名)
機関: 重油ボイラー2基、1軸スクリュー
出力 2,500 hp (1,900 kW)
速力:11–11.5 knots (20.4–21.3 km/h; 12.7–13.2マイル/時)
航続距離: 2万マイル (3万7,000 km; 23,000 mi)
排水量: 1万856 t
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11604-10: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: A 25-pounder gun being hoisted from a ship’s hold in the Middle East, October 1942. Office of War Information Photograph. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-10引用。
1941年3月11日の武器貸与法(Lend-Lease Act)の成立で、中立アメリカは第二次大戦の参戦国に対して戦後の支払いで、軍事物資を事前に貸与することを認めた。つまり、イギリス、中国、ソ連など物資のアメリカからの購入・輸入は、戦勝後の後払いでよくなったのである。
アメリカの武器貸与の対象になった軍事物資は、弾薬、航空機、食糧、車輌、船舶などであり、狭義の武器だけではなかった。また、アメリカがイギリスのハリケーン戦闘機などの航空機、バレンタイン歩兵戦車などの陸戦兵器を購入し、それをソ連に貸与することもあった。イギリスの資金源になったのである。
1941年6月の独ソ戦の勃発直後、英米はソ連への軍事援助を表明した。共産主義のイデオロギーを嫌悪していた資本主義諸国だったが、ヒトラー主義と戦うためなら、喜んで連合国に迎え入れたのである。
写真(右):1942年10月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資のイギリス製オードナンス QF 25ポンド速射砲(Ordnance QF 25 Pounder)をデリックを使って陸揚げする輸送船:25ポンド砲は、弾頭と薬莢が分離している分離薬莢式弾薬で重量11.5 kg (25ポンド)、口径87.6mm(3.45インチ)、砲架込みで重量1,633 kg (3,600 ポンド)。防盾に雲形迷彩塗装が施されている。梱包されてはいないが、衝撃防止の緩衝材、クレーン吊り下げ用の木枠が前もって準備され装着されている。
Lot 11604-10: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: A 25-pounder gun being hoisted from a ship’s hold in the Middle East, October 1942. Office of War Information Photograph. (2016/02/11).
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino File:Lot 11604-9 (24971317706).jpg引用。
写真(右):1942年10月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、輸送船からアメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を陸揚げするために艀に移す作業:木箱で梱包されているが、クレーンで吊り下げることの可能な飛行機の主翼部分が内蔵されていると思われる。
Lot 11604-6
Lot 11604-5: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: A large consignment of American tanks, automobiles, and trucks being loaded into a barge in the Middle East, 1942. Office of War Information Photograph. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-5引用。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻、ポーランドと相互援助条約を結んでいた英仏は、ドイツ軍の撤退を要請したが、聞き入れられなかったために、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告した。これが、第二次世界大戦の勃発である。そして、独ソ不可侵条約の秘密議定書通り、1939年9月17日、ソビエト連邦がポーランド侵攻した。理由は、ポーランド政府が瓦解し、ポーランドに住むウクライナ人、ベラルーシ人を保護するためである。ポーランドは独ソで分割占領されたが、英仏ともにドイツにだけ宣戦布告し、ソ連には宣戦布告はしていない。
カラー図(右):1945年発表,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を陸揚げする輸送船とイラン人港湾労働者たち:木箱で梱包されている荷物を労働者たちが整理している。輸送船には、防御用の105mm級艦砲とデリックが装備されている。埠頭には、貨物移動用の鉄道線路が敷設されている。
Natives Unloading Ships
Khorramshahr, Persia, WWII
catalog number: 2.19.45
Author Richard H. Jansen
写真はU.S. Army Center of Military History, Art Collection Richard H. Jansen引用。
1940年6月、フランス敗北、1941年6月、ドイツのソ連侵攻で、世界大戦は第二局面に入った。西欧ではイギリスだけがイギリス本土、北アフリカ、エジプト、大西洋など広範囲でドイツ・イタリア枢軸軍と戦っていた。
カラー図(右):1945年発表,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をデリックで降ろしているアメリカ戦時標準戦リバティー・シップとアメリカ製トラック:埠頭には、貨物移動用の鉄道線路が敷設されていて、左奥に貨物車が停車している。
Unloading Liberty Ships
Khorramshahr, Persia, WWII
catalog number: 2.11.45
Author Richard H. Jansen
写真はU.S. Army Center of Military History, Art Collection Richard H. Jansen引用。
独ソ戦の勃発で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは狂喜し、ドイツを倒すためなら悪魔とも手を結ぶとして、嫌っていた共産主義ソ連を軍事援助することを即断し、アメリカの武器援助法に基づく支援をソ連に伝えた。この軍事援助のための中東ルートがペルシャ回廊で、イギリス保護国・植民地のある中東からソ連のコーカサスへの陸路/空路である。
カラー図(右):1945年発表,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資(蒸気機関車の車輪)を埠頭備付け大型クレーンで降ろしているアメリカ戦時標準戦リバティー・シップとイラン人港湾労働者たち:埠頭には、貨物移動用の鉄道線路には貨車が並んで停車している。
Unloading Railroad Equipment
Pailyach Creek, Persia, WWII
catalog number: 2.10.45
Author Richard H. Jansen
写真はU.S. Army Center of Military History, Art Collection Richard H. Jansen引用。
1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、イギリスとソ連の軍事支配下に入った。こうして、ペルシャ回廊(Persian Corridor)を通るソ連への軍事援助が始まった。
1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの皇帝の地位についたが、これはイギリスの監督下に皇帝が置かれたことを意味する。
イギリスのカウンタナンス作戦(Operation Countenance)と呼ばれるもので、これはイギリス軍とソビエト軍が南北から中立国イランに侵攻するイランの主権を蹂躙する卑劣きわまる厚顔無恥な作戦である。
カウンタナンス作戦(Operation Countenance)の目的は、
1)イランの親独逸勢力の排除、
2)イランの油田の確保、
3)中東からソ連への軍事物資輸送経路のペルシャ回廊(Persian Corridor)の確保、
であり、そのためにはイランの国家主権を蹂躙することを躊躇しなかった。
⇒写真集Album:英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を見る。
写真(右):1941-1942年,イラン、ペルシャ回廊(Persian Corridor)、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助用の大量の弾薬箱を警備する兵士:後方には船からの積み下ろしに利用する大型のクレーンが2台みえる。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11604-12: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Munitions for Russia, being guarded by an American soldier at an Iranian port, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 29926-E. (2016/02/11).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-12引用。
1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(محمدرضا شاه پهلوی, Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王ファード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、イギリスの影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。
第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低下していたのである。
写真(右):1942年10月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、輸送船からアメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を陸揚げし集積した。:梱包されている箱をイラン人夫が一人で担いでいるので、食糧箱のようだ。港湾に隣接して鉄道が敷設されているが、トラック、牽引トレーラーで物資が運び出されている。右奥は、大型のクレーンの基台である。
Lot 11604-6
Lot 11604-6: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Tons of bully beef from the United States being loaded onto trucks on a quayside in the Middle East, October 1942. Office of War Information Photograph. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-6引用。
武器貸与法によるドイツと戦うソ連への軍事援助のために中東は補給ルートペルシャ回廊(Persian Corridor)として重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍隊を侵攻させた。一部のイラン軍は反撃したが、すぐに鎮圧され、降伏した。イランは、英ソによる南北分割占領の下に置かれた。
写真(右):1941-1942年,イラン、雨模様のペルシャ湾岸アバダン港、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助用トラックのタイヤ準備・装着作業:港湾近くでトラックを組み立てる場合のタイヤのほかに、予備のタイヤをトラック輸送することもあったと考えられる。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-1: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Assembling American trucks destined for Russia somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29938-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-1:引用。
アメリカ陸軍の計画では、武器貸与法に基づくソ連に対する軍事援助は、蒸気機関車 75輌、貨物列車(20トン級) 2,200輌、トラック(大半は7トン級)7,200台 が必要とされた。しかし、ペルシャ回廊(Persian Corridor)では7トンもの大重量の大型トラックの運行は困難で、貸与された1100台は、カラチに回送され、イギリス軍向けに貸与された。
写真(右):1941-1942年,イラン、雨模様のペルシャ湾岸アバダン港、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助用トラックの車輪軸・装着作業:港湾近くでトラックを組み立てるためにタイヤを装着する車軸などシャーシーを準備する労働者。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-2: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Assembling American trucks destined for Russia somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29937-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-2:引用。
トラックの構造は、運転席のあるキャビン(キャブ)、貨物を搭載するボディ(荷台)、車輪が付いたシャーシーからなる。シャーシーはフランス語「chassis」が語源で、「枠組み」「骨格」を意味する。他方、車輪がついた貨物積載部はトレーラーといい、シャーシーの上部に「オープンコンテナ」「カーゴコンテナ」などの荷物を載せたるものである。このトレーラーは、動力がないので自走ができず、トラクター(牽引車)に牽引されて移動する。トラクター(牽引車)とトレーラー(荷車)は、異なるが、2つの車両を合わせて一般には「トレーラー」とも呼ばれている。
写真(右):1941-1942年,イラン、雨模様のペルシャ湾岸アバダン港、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するトラックのシャーシーを吊り下げ、運転席のあるキャビン(キャブ)、貨物を搭載するボディ(荷台)を組み立てる作業:
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-4: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. This truck assembly plant, erected somewhere in Iran by Americans, is turning out trucks at a rate that would make the best assembly plant in Detroit proud. The trucks are used in hauling supplies to Russia. Trucks given to Russia haul supplies across their border and remain. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 29934-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-4引用。
1939年、欧州の戦雲が急を告げる時期、アメリカ陸軍補給部は、12フィート(3.7 m)の荷台、積載重量2.5ショート・トン (2.3トン)、六輪駆動のトラックの開発を要請した。これに1852年ニューヨーク設立スチュードベーカー社(Studebaker Corporation)、1911年デトロイト設立GMC(General Motors Truck Company)、1902年シカゴ設立インターナショナルハーベスター社(International Harvester Company)が応じ、みな採用された。
写真(右):1941-1942年,イラン、雨模様のペルシャ湾岸アバダン港、軍事援助物資をソ連に輸送するトラックの組み立て作業:移動可能なクレーン車によって、トラックの車輪付きシャーシーを持ち上げている。手前のシャーシーには運転席のあるキャビン(キャブ)が取り付けられている。作業中の労働者は、服装から判断して、イラン人のように思われる。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-6: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. A derrick moving a chassis as the men work ankle deep in water at an American truck assembly plant somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 28527-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-6引用。
スチュードベーカー、GMC、インターナショナルハーベスターの試作トラックがすべて制式され、量産に移された理由は、
1)軍用トラックの大増産、
2)試作トラックの失敗リスクの軽減、
3)アメリカ自動車メーカーの利潤確保、
という目的があった。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港、トラックのシャーシーを吊り下げ、運転席のあるキャビン(キャブ)、貨物を搭載するボディ(荷台)を組み立てる作業:すでにエンジンと運転席は据え付けられている。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11601-5: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. A derrick moving a chassis as the men work ankle deep in water at an American truck assembly plant somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 28523-E. (2016/02/19)..
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-5引用。
スチュードベーカー製2.5tトラックは武器貸与法による援助用に、GMC製GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックはアメリカ陸軍用に、インターナショナルハーベスター製2.5tトラックはアメリカ海軍とアメリカ海兵隊用に生産されることになった。
写真(右):1942年5月3日,イラン、ペルシャ湾200km内陸、アンディーメシュク、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する組み立て作業中のトラック・シャーシーの車列:運転席、燃料タンク、タイヤが取り付けられている。
Original wartime caption: A general view of the assembly siding at Andimishk where vehicles for Russia are assembled before being handed over to the Russian authorities, who transport them North under their own power.somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 28523-E. (2016/02/19)..Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Clements, Harold John K.P. (Undefined)
Production date
1942-05-03
Materials
whole: glass
Catalogue number
E 11277
写真は,Imperial War Museums 2024 Image: IWM (E 11277)引用。
イラン最長の川、カールーン川は水量も豊富で古代から灌漑用水として使われてきた。ペルシャ湾から吃水の浅い船舶なら遡航可能で、1941年8月からペルシャ回廊(Persian Corridor)を通じて送られたアメリカの軍事援助物資の集積地にもなったようだ。ここには鉄道を通っているが、自動車道路もあって、アメリカから運んできたトラックの組み立てが行われた。トラックは、援助物資だが、トラックにも援助物資を積んでペルシャ回廊(Persian Corridor)を運搬していた。
写真(右):1941-1942年,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する組立済みのトラックの車列と運ばれてきた貨物木箱:
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Assembling American trucks destined for Russia somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29936-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-7:引用。
1941年3月に成立した武器貸与法は、最終的には、イギリスへの軍事援助が60%以上を占めることになる。しかし、ペルシャ回廊(Persian Corridor)では、飛行機は空路で運搬可能だったが、それ以外の物資の多くは、陸上輸送された。
ペルシャ回廊(Persian Corridor)のソ連補給ルートは、山岳地、砂漠を通るもので、竣工したばかりの鉄道が敷かれていた。その鉄道と並行して未舗装の自動車道路が建設され、陸路による輸送方法が完備していた。武器貸与法ではソ連にペルシャ回廊(Persian Corridor)経由でアメリカ製トラック7200両が貸与されたが、其の積み荷の運搬にも流用された。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)前のアメリカ人運転手とロシア人将校の交歓風景:
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11602-11: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Russian Officers in black leather coats surrounded by a group of American soldiers, truck drivers at a dumping spot for supplies which the Americans brought through the Persian Corridor. This was one of the first all-American convoys to make the trip brining aid to Russia. Somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28520-E. (2016/02/19).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-11引用。
GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5t軍用トラックの諸元
第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発
積載量2.5t
6輪駆動の軍用トラックである
空虚重量4.8t
全長 6.86m
全幅 2.24m
全高2.77m(荷台幌)
GMC 270 6気筒ガソリン
燃料容量 150 L
航続距離 480 km
スチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4,479 kg(U3)、4,756 kg(U4)、全長6.37 m(U3)、6.74 m(U4)、全幅2.24 m、全高2.21 m(荷台幌)、GMC 270 直列6気筒5.2Lガソリンエンジン、6x6輪駆動 又は6x4輪駆動、燃料容量 150L(40ガロン)、航続距離380 km。
写真(右):1943年3月,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を未舗装道路を走りソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車):武器貸与法の実施のために、イラン回廊ルートではトラック7200両が貸与され、其の積み荷の運搬にも流用された。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11602-6: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. A U.S. Army truck convoy, carrying supplies for the aid of Russia, passing through a village somewhere in the Persian Corridor. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28314-E. (2016/02/19).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-6引用。
1941年3月の武器貸与法[Lend-Lease Act]に基づき、ソ連に貸与されたスチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、20万台が生産され、その8割近くの15万台に達した。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラックと牽引されるトレーラーの隊列が停車し、運転手から施し物を受けるイラン住民:左の男子は、運転手からタバコをもらったようだ。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11602-10: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Drivers of a U.S. Army truck convoy with supplies for Russia, giving American cigarettes to Iranian natives somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29923-E. (2016/02/19).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-10引用。
アメリカが1940年に制式した軍用トラック(2.5トン)は、三社が開発し、量産された。スチュードベーカーUS6[Studebaker US6]2.5tトラックは武器貸与法による援助用に生産された。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラックと牽引されるトレーラーの隊列が停車し、運転手が集まってきたイランの子供たちに施しをしている。寒冷な高地の冬を、地元の貧困者たちは、継ぎ接ぎだらけの襤褸をまとって過ごしている。:
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11602-18: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. An Iranian boy and an American driver at rest stop of U.S. Army truck convoy supplies for Russia, somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29900-E. (2016/02/19)..
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-18引用。
GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックはアメリカ陸軍用に生産された。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の隊列が停車し、運転手が見物に来たイランの子供と交歓している風景:
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. An Iranian boy and an American driver at rest stop of U.S. Army truck convoy supplies for Russia, somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29952-E. (2016/02/19)..
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-19引用。
GMC CCKWを原型にした水陸両用トラックが、DUKWで1942年に開発された。両者は同じシャーシー、同じGMC Model 270水冷直列6気筒ガソリンエンジンを搭載した。DUKWは、胴体後端にスクリュー1基を搭載し、寸胴で水上走行した。そこで、DUKWを文字って"ダック"(Duck)の愛称で呼ばれた。1942–1945年に2万1,147台が量産された。
写真(右):1943年6月5日,イラン、イラン回廊をソ連に物資輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラックと牽引されるトレーラーの隊列:手前のイラン住民たちは、見物ついでに物乞いをしに来たのであろうか。
Franklin Delano Roosevelt Library
Title
Near East Iran - truck convoy of US supplies for USSR
Description
English: Iranian women watch an Allied supply convoy halted somewhere on the Corridor
Deutsch: Iranische Frauen vor einem Nachschubkonvoi der Alliierten irgendwo auf der Strecke des Persischen Korridors
Français : Convoi de munitions américaines à destination de l’URSS au cours de son passage en Iran en 1943
Date 5 June 1943 This item was produced or created on 6,5, 1943.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.
Collection
National Archives and Records Administration National Archives Identifier
195340
NAIL Control Number
NLR-PHOCO-A-837(120)
Franklin D. Roosevelt Library (NLFDR), 4079 Albany Post Road, Hyde Park, NY, 12538-1999.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Persian Corridor・File:Near East Iran - truck convoy of US supplies for USSR - NARA - 195340.jpg引用。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、渓谷沿の峠道を登る対ソ軍事援助物資を積んだスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の車列:未舗装の山岳道路は一本道で道に迷うことはないであろうが、車両故障や事故のリスクがあった。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia winding around a gorge in the mountain pass
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028345-E [P&P]引用。
ペルシャ回廊(Persian Corridor)に相当するイランの鉄道は従来から敷設されていたが、山岳地の自動車道路は新たに建設する必要があった。これは、ビルマから中国へのビルマルートと同じく、山岳地の峠越えを含む自動車道路であり、建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、渓谷沿の峠道を登る対ソ軍事援助物資を積んだスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の車列:大渓谷の河川を挟んで大きく迂回するペルシャ回廊の山岳道路。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia winding its way around a gorge over a mountain pass
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028453-E [P&P]引用。
ペルシャ回廊(Persian Corridor)の未舗装山岳道路は、渓谷を超える際に架橋が必要で、その建設の経費・期間を縮小しようと思えば、道路の迂回が長くなり、道路工程も長大になってしまう。そして、燃料消費の増大、運搬日時の長期化、車両故障・事故のリスクの増加を覚悟しなくてはならない。道路が土砂崩れなど浸食されれば、通行止めや大事故になるリスクもあった。
写真(右):1943年,イラン、ペルシャ回廊(Persian Corridor)の山道、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の後方:トラクター・セミトレーラーは、トラックの荷台ではなく、トレーラーをトレーラーにつないでいるので、貨物運搬の量が多くなり、車輪の数も増えている。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia climbing a mountain road
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028348-E [P&P]引用。
写真(右):1943年3月,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するペルシャ回廊(Persian Corridor)のスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車):未舗装で蛇行した道は、燃費が悪く、途中の補給・整備、運転士の休息などの施設が必要になる。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. An Iranian native moving his livestock from the mountain road as a United States truck passes
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 May.
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028309-E [P&P]引用。
ペルシャ回廊(Persian Corridor)で軍事援助物資を運搬するトラックやトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)自体も援助物資としてソ連に貸与した。これには、イギリス領ビルマから中国蒋介石政権へのビルマ援助ルート(援蒋ルート)と同じく、山岳地の峠越えを含む自動車道路の整備が必要だった。さらに、道路建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。中東ルートのペルシャ回廊と並んで、北大西洋=北極海=ムルマンスクの海上ルート、北太平洋=ハバロフスク/ウラジオストークの海上ルートが重視された。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊の雪の峠道、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車):未舗装の山岳道路は一本道で道に迷うことはないであろうが、車両故障や事故のリスクがあった。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia climbing a mountain road over the Iranian mountains
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 May.
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028332-E [P&P]引用。
武器貸与法のソ連援助物資の輸送経路に関して、喜望峰周りのペルシャ回廊(Persian Corridor)(大西洋・ペルシャ湾・コーカサスルート)のほかに、大西洋北回り経路(北極海=ムルマンスク)の海上ルート、北太平洋経路(アラスカ・シベリア鉄道ルート)が併用されたのは、枢軸国の妨害・攻撃のリスク、軍事物資の戦線配備ソ連軍への配備への配慮から当然である。
写真(右):1941-1942年,イラン、ペルシャ回廊(Persian Corridor)、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助用トラックやトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)の中継基地のテントと小屋:トラックの整備点検・給油、運転手の休憩・宿泊などの施設がイランからソ連への経路上に用意された。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11602-15: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Somewhere in the Persian Corridor, a U.S. Army truck convoy carrying supplies for Russia moving past Iranian huts. Note the waterfall in the background. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28456-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-15引用。
GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックはアメリカ陸軍用に生産された。GMCとは、1911年創業のジェネラルモーターズ・トラック社(General Motors Truck Company)の略であるが、実際にはジェネラル・モーターズ(GM)社(General Motors Company)と同一の略称とみなすことができる。
写真(右):1943年3月,イラン、イラン回廊、渓谷に面した絶壁上の峠道を登る対ソ軍事援助物資を積んだスチュードベーカー(Studebaker)M16A 2.5tトラックの車列:渓谷を挟んで大きく迂回するペルシャ回廊の山岳道路。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia moving on the edge of a rocky mountain
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
Medium
1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller.
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028344-E [P&P]引用。
トルコからイラクを経て,イラン中央部に延びるザグロス山脈は、ヨーロッパアルプスとヒマラヤ山脈の間に位置した新生代のアルプス造山運動で形成された大山脈である。ザグロス山脈の北東縁には断層がある。これは、大陸塊と海堆積物の境界をなす断層である。ザグロス山脈の断層の南西側は、盆地があり、一帯にはジュラ紀−白亜紀の炭酸塩岩が広く分布する。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊(Persian Corridor)の山道、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)と先導するバンタム・ジープ(左):未舗装の山岳道路は一本道で道に迷うことはないであろうが、車両故障や事故のリスクがあった。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. Part of the convoy pulling up a mountain road. The convoy leader in a jeep at the left
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 May.
Headings
- Iran
写真はLibrary of Congress Online Catalog,Library of Congress Prints and Photographs Division LC-USW3- 028321-E [P&P]引用。
GMC CCKWを原型にしたが、水陸両用トラックDUKWで1942年に開発された。両者は同じシャーシー、同じGMC Model 270水冷直列6気筒ガソリンエンジンを搭載した。DUKWは、胴体後端にスクリュー1基を搭載し、寸胴で水上走行した。そこで、DUKWを文字って"ダック"(Duck)の愛称で呼ばれた。1942–1945年に2万1,147台が量産された。
写真(上):1943年,イラン、ペルシャ回廊の砂漠地帯、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)と先導するジープ:運転手とトラック団(コンボイ)リーダーが話している。
Title
Somewhere in the Persian corridor. A United States Army truck convoy carrying supplies for Russia making a rest stop in the desert
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29582引用。
軍事援助物資を運搬するトラックやトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)自体も援助物資としてソ連に貸与した。これには、イギリス領ビルマから中国蒋介石政権へのビルマ援助ルート(援蒋ルート)と同じく、ペルシャ回廊(Persian Corridor)の山岳地の峠越えを含む自動車道路の整備が必要だった。さらに、道路建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。中東ルートのペルシャ回廊と並んで、北大西洋=北極海=ムルマンスクの海上ルート、北太平洋=ハバロフスク/ウラジオストークの海上ルートが重視された。
写真(右):1942年5月3日,イラン南西部、ペルシャ湾・アバダーン近郊、アフワーズ(Ahwaz)操車場、北方ソ連へ出発しようとするイギリス製蒸気機関車:イギリスから出荷されたこの汽車は、「チャーチルの応答」"Churchill's Reply"と命名された。アフワーズの操車場からソ連への軍事物資を輸送する。
Object description
Original wartime caption: L.M.S. rolling stock shipped from England and christened "Churchill's Reply" loaded with supplies for Russia, about to move off from the marshalling yards at Ahwaz on the journey northwards.
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Object Details
Creator
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer)
Clements, Harold John K.P. (Undefined)
Production date
1942-05-03
Catalogue number
E 11272
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog IWM (E 11272)引用。
1926年から1939年に建設されたペルシャ回廊の敷設された鉄道は、延長865マイルの区間を海抜7400フィートの地点を超える。途中には架橋3000、トンネル231本が設けられていた。
1941年6月22日の独ソ戦の勃発後、アメリカ、イギリスはすぐにソ連に武器貸与法(Lend-Lease Act)による軍事援助を約束した。そして、ペルシャ湾、イラン経由でソ連南部への補給ルートを確保するため、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を発動、英ソ合同で中立国イランに侵攻し占領した。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するイラン国内の蒸気機関車:
A train carrying Lend-Lease supplies to Russia pauses at a station somewhere in the mountains of Iran. The 865-mile long Trans-Iranian Railway line, built between 1926 and 1939, had 3,000 bridges, 231 tunnels, and an altitude range of 7,400 feet. Library of Congress photo
写真はLibrary of Congress Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d29405およびDefense Media Networ,Lend-Lease to Russia: The Persian Corridor
By Dwight Jon Zimmerman - November 8, 2012引用。
武器貸与に際して、イラン南北縦断鉄道[Trans-Iranian Railway]が、ドイツからの技術援助で完成したばかりであり、これでペルシャ回廊におけるソ連向け軍事物資輸送が行われた。
写真(右):1943年,イラン中部、テヘラン郊外(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する蒸気機関車:イランは、1941年8月までは、ドイツ・イタリアの軍事援助を受け、蒸気機関車もドイツ製を採用していた。しかし、イギリスのイラン進駐後は、イギリス製、アメリカ製の蒸気機関車が導入された。アメリカから武器貸与されたこの蒸気機関車は、イギリス向け中東で軍事物資輸送用に使用された。イギリス仕様を取入れたこの機関車は、3 か月より1日早く完成した。この短期間での完成は、イギリスは 1940年にフランス使用の機関車を 5 か月で製造した際に、この記録を保持していた。
Title: U.S. record production of lend-lease locomotive. America recently built for the British Ministry of Supply in the fastest time, a locomotive for the transportation of military supplies in the near east. The engine, incorporating many British features, was planned and produced in one day less than three months. Britain previously held the record, established in 1940, when an engine for the use of the B.E.F. in France was built in five months
Related Names:
United States. Office of War Information.
Date Created/Published: 1942 Apr.
Medium: 1 negative : safety ; 4 x 5 inches or smaller.
Reproduction Number: LC-USE6-D-008521 (b&w film neg.)
Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C.
写真は,Library of Congress Call Number: LC-USE6- D-008521 [P&P] LOT 2252引用。
写真(右):1941年9月-1942年,イラン、テヘラン鉄道駅、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助物資を輸送する鉄道貨物列車操車場:
The Main Railroad Station at Tehran (above) and freight train loaded with tanks bound for Tehran (below). US troops from early 1943 operated the southern sector of the Iranian State Railway and the two Iranian ports. They constructed additional roads, docks, and other installations, and continued operation of aircraft and motor vehicle assembly plants. Diesel locomotives and rolling stock were brought in from the United States in large numbers..
写真はEUCMH - Graphic Resources,Iran – (Photos Resources)By Doc Snafu -16/04/2021引用。
敵枢軸国ドイツの技術者を招聘していた全イラン皇帝は、イギリス軍の侵攻後にイランを追放され、皇太子に皇位を譲ることが認められたものの、新皇帝モハメドは、イラン駐在イギリス大使、アメリカ中東司令官の下で、傀儡として扱われた。
写真(右):1942年3月3日,イラン、バンダル・シャープール、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するイラン国内の蒸気機関車:バンダルとは港湾のことで、ペルシャ湾に陸揚げされた軍事物資をソ連に鉄道で運ぶ。
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Supplies for Russia via Persian Gulf and Trans-Iranian Railway. Allied war supplies are pouring into Russia in ever increasing quantities via Bandar Shahpour (now Bandar-e Emam Khomeyni ) and the Trans-Iranian Railway. Transported across salt marsh and desert to Ahwaz road and rail convoys there join the flow of supplies proceeding up river from Khurramshahr (now Khorramshahr) and Bushiro, all thence continuing northwards to the U.S.S.R. Shown: I.M.S. rolling stock, shipped from England and christened “Churchill’s Reply” about to move off from the marshalling yards at Ahwaz on the journey northward, loaded with supplies for Russia. Office of War Information Photograph. (2016/02/19).
War Office Second World War Official Collection (E 11271)
Date 3 May 1942
Source Lot 11603-1
Author
National Museum of the U.S. Navy
No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer); Lieut. Clements
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11603-1引用。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、武器貸与法の軍事援助をソ連に運搬する蒸気機関車の運転室:機関車には、アメリカ、ロシア、イギリスの機関士が乗り込んでいる。既にアメリカは連合国の一員として対枢軸国戦争に突入していたが、イランはイギリス・ソ連の軍事侵攻のために占領下にあった。
Lot 11603-2: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. American, Russian, and English engineers in the cab of an engine. Each of them has done his part in hurrying supplies enroute to Russia along a railroad in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28370-E. (2016/02/19).
Date March 1943
Source
Lot 11603-2
from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division
under the digital ID fsa.8d29538.
写真は,Wikimedia Commons, Category:World War II forces of Britain in Iran・File:Lot 11603-2 (25135625535).jpg引用。
写真(右):1943年3月,イラン、テヘラン(?)、ペルシャ回廊(Persian Corridor)をソ連への軍事物資を鉄道輸送する蒸気機関車とアメリカとイギリスの鉄道技師:1930年代にイランはドイツから蒸気機関車を導入、ドイツ人技術者も招聘している。
Title
American and British railroad workers at a roundhouse somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
Headings
Nitrate negatives.
Genre
Nitrate negatives
Notes
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Library of Congress Control Number
2017854208引用。
1941年3月に成立した武器貸与法によるアメリカからイギリス、ソ連、中国、インドなどへの軍事物資1780万トンのうち、ソ連向け援助は800万トンで、その45%はペルシャ回廊(Persian Corridor)経由で輸送された。この物資の多くはアメリカ製の兵器、自動車、食糧、軍靴などであるが、イギリス製のマチルダ(Matilda)戦車、ハリケーン(Hawker Hurricane)戦闘機などもアメリカ資金で購入され、ソ連向けの援助に回されている。
アメリカ陸軍ポール・ヨートン(Paul F. Yount:1908‐1984)は、1930年にウエストポイント・陸軍士官学校を首席で卒業、コーネル大学で学位を取得。1940年、シカゴ・セントポール・ミネアポリス・オマハ鉄道に配属され、鉄道運営の経験を積む。
写真(右):1943年3月,イラン、テヘラン(?)、イランが導入したドイツ製蒸気機関車の運転手と話すアメリカ陸軍ジョンソン大佐とポール・ヨートン(Paul F. Yount:1908‐1984)大佐:
Title
Colonel Johnson and Colonel Paul Yount, director of the United States Army railway service, somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
Genre
Nitrate negatives
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028383-E [P&P]引用。
第二次世界大戦勃発後、ポール・ヨートン(Paul F. Yount)大佐は、アメリカ参戦前の1941年にイラン派遣団に参加。アメリカ参戦後、1942年3月、中国・ビルマ・インド戦域(CBI)担当として、パキスタンのカラチで第1基地分隊を指揮した。1942年11月、第702鉄道師団の指揮官としてイランに戻り、イギリスからイラン国有鉄道(ISR)の運営を引き継ぎ、鉄道による武器貸与法に基づく軍事物資のソ連への輸送量を5倍に増加させた。
写真(右):1943年3月,イラン、テヘラン(?)、武器貸与法でイランに持ち込まれたアメリカ製蒸気機関車、試運転しているのはアメリカ陸軍兵士である。:
Title
An American locomotive with an American soldier crew hauling freight to Russia somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
Headings
Nitrate negatives.
Genre
Nitrate negatives
Notes
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29524 (digital file from original neg.) LC-USW3-028356-E (b&w film nitrate neg.)引用。
アメリカの蒸気機関車には、ライマ・ノーザン型機関車(1937年)、ゼネラル・エレクトリック社製機関車(1938年)、アメリカン・ロコモーティブ社 ハドソン型機関車(1938年)などがある。
写真(右):1941-1942年,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港、大型クレーンにより船積みしてきたソ連援助用蒸気機関車の線路への据え付け作業:港湾近くで組み立てられたと思われる蒸気機関は、イランからソ連への武器貸与法による軍事援助物資の運搬に使用された。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11603-14: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. An American locomotive being unloaded from a ligther somewhere in the Middle East. This engine will be used in the hauling of supplies for the aid of Russia. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28137-E. (2016/02/19).
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11603-14引用。
ペルシャ回廊では、イランが1930年代にドイツの技術と資本を導入して、鉄道輸送の敷設を行っていた。これは、第一次大戦前の3B政策を思い起こさせる。3B政策とは、ベルリン・ビザンチウム・バクダッドとドイツから中東を結ぶ鉄道網である。ドイツは、実用化のために、オスマン帝国との友好関係を深め、さらに中東のイラクとも交渉を始めていた。
しかし、イギリスはこのようなドイツの中東への影響力を遮断しようとした。そこで、バルカン半島における勢力圏の構想が激化し、バルカン半島・オスマン帝国におけるアルメニア人、セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人、ギリシャ人などの少数民族ナショナリズムの興隆も「火薬庫のバルカン」の状況を生み出した。
カラー図(右):1945年発表,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連カスピ海西部コーカサス方面に運搬したトランス・イラニアン鉄道のデーゼル機関車:ペルシャ湾岸のアバダン(Abadan)やバンダル・シャープール(Bandar Shahpur)の港湾埠頭に荷揚げされた軍事物資を鉄道貨物列車で座グロス山脈を超えてソ連に運んだ。
Trans-Iranian Railroad
Daroud, Persia, WWII
catalog number: 2.5.45
Author Richard H. Jansen
写真はU.S. Army Center of Military History, Art Collection Richard H. Jansen引用。
鉄道の線路は軌道というが、2本の線路の幅、すなわち軌間は、アメリカでは、1800年代前半は民間鉄道会社により多様だった。しかし、1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8 1/2インチとなり、全国的に4フィート8 1/2インチが普及した。一般的に、アメリカ・ソ連(線路幅 1,520 mm)、カナダ・インド(1,676 mm)のような大陸国・高所得国の軌幅は、広軌(broad gauge)で、スイスのような山岳国、日本のような島国、低所得国の軌道は、狭軌(1067mm)である。広軌と狭軌の中間が、イギリス、アメリカの標準軌(1,435 mm;4 ft 8+1/2 in)である。
写真(右):1942年10月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、輸送船からアメリカの武器貸与法に基づくM3Aスチュアート(M3 Stuart)軽戦車を鉄道貨物列車荷台にクレーンで引き上げる作業:戦車の後部車体上に増加燃料タンクが追加されている。
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. An American M3 "Stuart" Tank being loaded onto a railroad car en-route to Russia in the Middle East. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28357-E. (2016/02/19).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11603-15引用。
アメリカ陸軍M3A軽戦車の原型は、1933年に完成したが、アメリカ軍における戦車の仕様・用法が定まらなかったためか、制式されたのは1940年と遅れた。M3軽戦車の実戦配備は、イギリス軍に組み込まれて、1941年7月には北アフリカ戦線に登場したときである。
M3スチュアート(M3 Stuart)軽戦車の諸元:
全長 4.53 m
全幅 2.24 m
全高 2.64 m
重量 12.9 t
速度 57.9 km/h
行動距離 113 km
53.5口径 M6 37 mm 戦車砲(103発)
M1919A4 7.62 mmブローニング機関銃3挺(7,220発)
砲塔装甲
防盾51.4mm
前面38.1mm
側・後面25.4mm
上面12.7mm
車体装甲
前面上部38.1mm
前面中間部15.2mm
前面下部44.4mm
側面25.4mm 上面12.7mm
後面25.4mm
発動機 コンチネンタル W-670-9A
4ストローク空冷星型7気筒ガソリン
262 馬力/2,400 rpm
乗員 4 名
写真(右):1943年,イラン中部、テヘラン郊外(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する蒸気機関車とアメリカ陸軍ジョンソン大佐:イランは、1941年8月までは、ドイツ・イタリアの軍事援助を受け、蒸気機関車もドイツ製を採用していた。しかし、イギリスのイラン進駐後は、イギリス製、アメリカ製の蒸気機関車が導入された。
Title
Colonel Johnson somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29647引用。
1941年3月に成立した武器貸与法によるアメリカからイギリス、ソ連、中国、インドなどへの軍事物資1780万トンのうち、ソ連向け援助は800万トンで、その45%はイラン回廊経由で輸送された。この物資の多くはアメリカ製の兵器、自動車、食糧、軍靴などであるが、イギリス製のマチルダ(Matilda)戦車、ハリケーン(Hawker Hurricane)戦闘機などもアメリカ資金で購入され、ソ連向けの援助に回されている。
写真(右):1943年3月,イラン中部、ペルシャ回廊、テヘラン郊外(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する蒸気機関車に集まったアメリカ軍とイギリス軍の将兵:後方には、雪山が聳えているが、ザグロス(Zagros)山脈であろうか。
Title
American and British soldier trainmen standing about at a station on the route for supplies to Russia. An American engine is seen at the head of the train at left, somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress Reproduction Number
LC-DIG-fsa-8d29534 引用。
アメリカの蒸気機関車には、ライマ・ノーザン型機関車(1937年)、ゼネラル・エレクトリック社製機関車(1938年)、アメリカン・ロコモーティブ社 ハドソン型機関車(1938年)などがある。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、武器貸与法でイランに持ち込まれたアメリカ製蒸気機関車(最前列)が牽引する貨物列車と燃料運搬車:余裕がある地域では、鉄道は複線化されていたのであろうが、険しい山岳地の峠を越える線路は単線だった。
Lot 11603-17: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Tank cars carrying fuel, winding their way through some of the mountainous country somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28352-E. (2016/02/19)..
写真はflikr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11603-17引用。
イラン南北縦断鉄道(راهآهن سراسری ایران)の建設は、イラン皇帝レザー・シャー時代の1930年代にはじまり、首都テヘランとペルシア湾とソ連方面のカスピ海を結ぶ全長1394kmの路線が、第二次大戦勃発時の1939年末に完成した。さらに、ペルシャ湾岸のアバダン近郊からテヘラン、カスピ海岸までのペルシャ回廊を支えるようになり、ソ連への武器貸与法による軍事物資の輸送に大きく貢献した。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊をソ連への軍事物資を鉄道輸送する蒸気機関車:
Title
Mountainous route of trains carrying supplies to Russia. An American engine with an American crew along a gorge through the ever-winding route somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028367-E [P&P]引用。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊をソ連への軍事物資を鉄道輸送する蒸気機関車:トラック輸送と並んで貨物列車による鉄道輸送が行われた。
Title
Mountainous route of trains carrying supplies to Russia. An American engine with an American crew along a gorge through the ever-winding route somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028368-E [P&P]引用。
イラン南北縦貫鉄道[Trans-Iranian Railway]は、2021年にUNESCOの世界遺産リストに登録され、観光名所ともなっている。
写真(右) 1941年、イギリス、「みんなロシアを今助けるために」と書いたプラカードと英ソの国旗を掲げたソ連への武器貸与用のイギリス製バレンタイン(Valentine)歩兵戦車:戦勝Vマークは、テープを切り貼りした宣伝用の臨時マークである。大西洋・バレンツ海の海上ルートで、イギリスのリバプールからソ連の西北部ムルマンスクあるいはアルハゲリンスクに輸送船で運ばれることになる。
TANKS FOR RUSSIA, SMETHWICK, STAFFORDSHIRE, ENGLAND, UK, 1941.,
Object description
Factory workers ride on Valentine tanks as they leave a factory in Smethwick. A notice propped on the front of the tanks reads "All Help for Russia Now". The workers are holding a Union flag and a Russian flag and many have their fists raised in a Communist salute..
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum・IWM (P 233)引用。
イギリス陸軍バレンタイン歩兵戦車の諸元:
全長:5.4 m、全幅:2.6 m、全高:2.2 m
最大装甲厚:65mm
重量:17 t
最高時速:15 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
主砲はMk.I-VII:50口径2ポンド40ミリQF速射砲(砲弾搭載数60発)。
砲塔に6ポンド(57ミリ)速射砲を搭載した改良型の
バレンタインMk.VII-X歩兵戦車も生産された。
2−1.ソ連援助に二の足 : 援英ひと筋に邁進せよ : 米紙の論評
大阪朝日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 4
出版年
1941-06-27
【ニューヨーク二十六日発同盟】二十六日附ニューヨーク・タイムス紙は独ソ戦に関し「米、英、ソ連」と題し米国民はこの際ソ連援助のごとき誤解を惹起しやすいスローガンを捨て「ヒットラーを阻止せよ」という真目的に注意を集中すべきであるとつぎのごとく論じている
アメリカは少しもソ連の勢力増大を欲していないのであるからアメリカ国民はこの際ソ連援助のごとき誤解を惹起しやすいスローガンを撤廃して真の目的たるヒットラー主義の進出阻止に全力を集中すべきである、アメリカがソ連を直接援助する代りに対英援助を倍加すべしとなす理由はつぎのごとき点である
第一は時間的理由である、すなわちたといアメリカの資源、武器、弾薬が無尽蔵であるとしてもアメリカは独ソ戦の結果を左右するに間に合うように太平洋を越えてこれを送付し、ソ連がこれをシベリア経由輸送し得るとは期待できない
第二は戦略的理由である、軍需品をソ連に送る代りにイギリスに輸送すればわれわれは一層効果を期待できる
第三は敵性の問題である、従来われわれが信頼したことのなかったソ連政府をいまわれわれが信頼したとしてもそれが果して時宜に協っているかどうかは疑問であるとともにソ連の誠意如何も問題だ、
ソ連向に輸送されたアメリカの軍需資材が結局はヒットラー総統の手に入る懼れが十分にある、ところがイギリス向に輸送された軍需品にはかかる懼れはまったくない(ソ連援助に二の足 : 援英ひと筋に邁進せよ : 米紙の論評引用終わり)
2ー2.中立法適用せず : 浦潮[ウラジオストック]へ米船の武器輸送容認 : ウェルズ米国務次官言明
大阪毎日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 2
出版年
1941-06-27
【ワシントン特電二十五日発】[サムナー]ウェルズ[Sumner Welles]米国務次官は二十五日の新聞記者団との会見で米国の独ソ戦争に対する国際法的立場につき『米国政府は当分の間今回の独ソ戦争に対し中立の宣言をなさざる』旨の言明をなした、[1935年]中立法[Neutrality Act]によると大統領もしくは議会は外国に戦争勃発の場合特定の条件の下に中立を宣言し米国市民およびその財産保護の措置を講ずることになっているが、大統領は今回の戦争に際しては中立の宣言によって保護の措置を講ずる必要を認めないので[サムナー]ウェルズ[Sumner Welles]次官をして発表せしめたわけである
中立が宣言され交戦区域が発表されると米国船舶はこの区域に出入出来ず、また米国市民の出入も制限されるので、例えば対ソ援助として太平洋を渡り軍需品の輸送が出来ぬわけである、米国では支那事変に対しても同様の措置をとったので前例ありとしている
しかし最近[交戦国への武器輸出と船舶による武器輸送を禁止した]中立法[Neutrality Act]廃止の議論もあり、また最近の戦争において第三国はこれまでのように戦争と中立のいずれかに態度を決定するよりも状況に応じ高度の自由をはかることが国家の利益であるという観があり、米国内でも中立宣言問題について議論があったわけで、大統領はドイツの敵を援助するという建前からこの措置をとることに決定し、ウェルズ[ Sumner Welles]次官は会見において特に太平洋にはいまだ交戦区域の設定がなされていないことを述べ、政府の見解を暗示したものである(中立法適用せず : 浦潮へ米船の武器輸送容認 : ウェルズ米国務次官言明引用終わり)
2−3.仏も対ソ断交 : ソ連政府へ通告す
大阪毎日新聞
Vol: 第 52巻
Page: 8
出版年
1941-07-01
【ヴィシー[Vichy]本社特電三十日発】仏国政府三十日発表=仏国はソ連との外交関係を断絶せる旨ソ連政府へ通告した
【[親独]ヴィシー[Vichy]三十日発同盟】ダルラン[Jean Louis Darlan:1881-1942.12.24]副首席は三十日午前ボゴモロフ駐仏ソ連大使を招致し仏国政府はソ連と国交を断絶する旨を通告、同大使に旅券を手交引揚げ方を要求、同時にベルジュリ駐ソ仏大使にも引揚げ方を電命した
反英ソ態度 土も闡明せん
【イスタンブール本社特電二十九日榎本特派員発】トルコ側情報によればソ連黒海艦隊はドイツ軍の猛爆を逃れるためダーダネルス海峡を通過、地中海へ出てエジプトの英艦隊と合流せんとしつつあり、英国の遣ソ軍事経済使節団も海軍協力に重点をおいて策謀せんとしている、
これに対しトルコ政府は独ソ戦に対する中立声明と同時に[1936年]モントルー条約[Montreux Convention]により交戦国軍艦の[ボスポラス/]ダーダネルス海峡[Dardanelles Strait]通過を禁止する態度を明かにしているが、前大戦当時英潜水艦はトルコ海軍の敷設水雷[機雷]をくぐって夜間同海峡を突破、黒海作戦を敢行した前例もあり、今回も潜水艦の一部が海峡突破を強行する可能性は十分にあるが、その際ドイツの友邦、英国の盟邦として独英戦には非交戦国、独ソ戦には中立国という複雑微妙な姿勢をとりつつあるトルコ政府は反英ソ陣営に投じて態度闡明の必要に迫られるものと見られる(仏も対ソ断交 : ソ連政府へ通告す引用終わり)
写真(右):1943年,アメリカ、生産されたアメリア製ダグラスA-20ハボック双発攻撃機を艀からクレーンを使っての船積み作業:武器貸与法に基づきソ連あるいはイギリスへの軍事援助として海上輸送される。
English: An American Douglas A-20 bomber, provided through Lend-Lease, is loaded on to a ship bound for Allied ports, ca. 1943.
Date
1943
Source
National Archives and Records Administration, Records of the Foreign Economic Administration.
Author
Photograph by Gruber for the U.S. Office of War Information
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:Lend Lease Bomber.jpg引用。
中立国アメリカは、第二次世界大戦初期の1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、戦勝後の支払いの約束で、戦時中にイギリス、ソ連、中国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドへの軍事物資を貸与した。ソ連へは1941年に建設したイラク(現在はクウェート)、アバダン飛行場で組み立てて、イランからソ連までを空輸した。このペルシャ回路以外にもアラスカ極東ルートでは、ベルP-39戦闘機など短距離単発機でも空輸に依っている。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製ベルP-39あるいはカーチスP-40戦闘機などの主翼を梱包した木箱、奥にA-20ハボックが見える。
Title
Crated fighter planes awaiting assembly at a delivery point of American warplanes to Russia somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress
LC-DIG-fsa-8d29541 引用。
写真(上)1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製飛行機の部品(主翼)の入った木箱を開けるクレーン車:船舶で運ばれた木箱が吊り下げられ開けらた。木箱には、アメリカ製ベルP-39あるいはカーチスP-40戦闘機と思われる左右の主翼が収納されている。
Title
Mobile crane lifting the top from a crate containing a United States fighter plane awaiting assembly at the assembly, testing, and delivery point of American warplanes destined for Russia. Somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は, Library of Congress LC-DIG-fsa-8d29546 (digital file from original neg.) 引用。
写真(右)1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製飛行機の部品(主翼)を収納した木箱の覆いを開けているクレーン車:アメリカ製ベルP-39あるいはカーチスP-40戦闘機と思われる左右主翼を梱包した木箱が海上輸送されて、集積された。
Title
Mobile crane lifting the top from a crate containing a United States fighter plane awaiting assembly at the assembly, testing, and delivery point of American warplanes destined for Russia. Somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
- Actual size of negative is D (approximately 3 1/4 x 4 1/4 inches).
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
- Film copy on SIS roll 14, frame 781.
Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028377-E [P&P]
Source Collection
Farm Security Administration - Office of War Information photograph collection (Library of Congress)
写真は, Library of Congress LC-DIG-fsa-8d29545引用。
1941年8月25日、イランに侵攻したイギリスとソ連は、イランを南北で占領し、イランの石油を確保し、ペルシャ湾からソ連コーカサスまでのペルシャ回廊を使ってのソ連への軍事援助ルートを整備した。
ペルシャ湾のアバダン港に海上輸送され陸揚げされたアメリカあるいはイギリス製の飛行機は、1941年に建設されたアバダン飛行場で組み立てられた。イランには、ソ連から飛行士が飛来し、アメリカ機、イギリス機の操縦、航法を学び、ソ連まで機体を空輸した。
写真(右):1942年,イラン南西部、ペルシャ湾に面したアバダン飛行場で空輸準備中のアメリカ製軍用機(手前はダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機、中央左に無塗装のノースアメリカン AT-6 テキサン練習機、中央左端にカーチスP-40戦闘機):
U.S. planes stand ready to be picked up at Abadan Field, Iran, which in the rainy season was reported as being the “damnedest gumbo you ever saw.” Five principal types of aircraft were delivered to the Soviet Union, three of which are shown here. Of the total, about 20% were P-40s, 25% P-39s, 49% A-20s, 5% B-25s and 1% AT-6s. U.S. Air Force photo
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:Abadanairfield.jpg引用。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着した組み立て作業中のアメリカ製ダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機:A-20ハボックの胴体には、アメリカ軍の1943年前半までの国籍マーク「青丸白星」が描かれた跡が残っている。これをソ連の国籍マークである赤星に塗り替える。イラン南部で組み立てられたA-20は、ここからソ連まで空輸される。
Lot-11600-5: Middle East Activities, WWII. American airplane mechanic putting finishing touches to a warplane before delivery to Russia, somewhere in Iran, March 1943. The aircraft being transported were Douglas A-20 Havoc “Boston”. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph. (2016/06/03).
Date March 1943
Source Lot-11600-5
Author
Nick Parrino wikidata:Q30039557
National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino
File:American mechanic on Douglas A-20 before delivery to Russia, somewhere in Iran, 1943 (27372406451).jpg引用。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製ダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機の整備作業(コックピット左側):A-20ハボックの胴体機首下には、首輪(前輪)があり、主翼左右の2個の主輪と並んで機体を支えるために、地面でも機体は水平になる。
National Museum of the U.S. Navy
Lot-11600-6: Middle East Activities, WWII. American airplane mechanic assisted by an Iranian boy working on a light bomber before delivery to Russia, somewhere in Iran, March 1943. The aircraft being transported were Douglas A-20 Havoc “Boston”. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph. (2016/06/03).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy
Lot-11600-6引用。
写真(右):1943年3月,イラン南部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製ダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機の左後方に集まり煙草を吸いあうイギリス、アメリカ、ロシアの飛行機パイロットたち:A-20ハボックの胴体には、アメリカ軍の1943年前半までの国籍マーク「青丸白星」が描かれた跡が残っている。これをソ連の国籍マークである赤星に塗り替える。イラン南部で組み立てられたA-20は、ここからソ連まで空輸される。
National Museum of the U.S. Navy
Lot-11600-3: Lot-11600-3: Middle East Activities, WWII. American, Russian, and Royal Air Force pilots at a delivery point of Allied warplanes to the Russians somewhere in Iran, March 1943. The aircraft being transported were Douglas A-20 Havoc “Boston”. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph. (2016/06/03).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy
Lot-11600-3引用。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、イランに船便で到着したアメリカ製ダグラス(Douglas)A-20ハボック(Havoc)双発攻撃機の尾部左後方に集まったイギリス、アメリカ、ロシアの飛行機搭乗員たち:A-20ハボックの垂直尾翼・方向舵、水平尾翼・昇降舵の構造が分かる。尾端には、尾灯がガラスカバーで覆われている。
Title
Somewhere in Iran. American, Russian and Royal air force pilots at a delivery point of Allied warplanes to the Russians
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
Headings
- Iran
写真は,Library of Congress
Lot-11600-3引用。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、中東方面アメリカ陸軍司令官ルイス・ブレアトン(Lewis Hyde Brereton :1890–1967)中将を囲んだ4名のソ連軍将兵、後方はイランに船便で到着した組み立ての終わったイギリス製スーパーマリン(Supermarine)スッピットファイア(Spitfire)Mk.V戦闘機、アメリカ製カーチス(Curtiss)P-40トマホーク(Tomahawk)戦闘機、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機:P-40の機内燃料タンクは157ガロン(594 L)、外装式落下タンクは52ガロン (197 L) 。イラン南部で組み立て、ここからソ連までは空輸された。右手前にカメラが写り込んでいるが、ソ連への軍事援助を大々的に行っている証拠として、大規模なプロパガンダが行われ、ソ連のスターリンの交戦意欲を維持しようとした。
Description
A United States warplane is being tested in the background and bears the red star insignia of Russia, which is made by filling in the white star of the United States with red paint.
Photographer: Nick Parrino.
March, 1943.
LOC Farm Security Administration/Office of War Information collection.
LC-USW3- 028382-E
Date March 1943
Source Somewhere in Iran. Major General Lewis Brereton in the center, the Commander of the United States Army force in the Middle East, with a group of Russian officers standing before an American warplane delivered to the Russians.
Author Signal Corps Archive from Ireland and United States
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino
File:Somewhere in Iran. Major General Lewis Brereton in the center, the Commander of the United States Army force in the Middle East, with a group of Russian officers (50162261661).jpg引用。
中東方面アメリカ陸軍司令官ルイス・ブレアトン(Lewis H. Brereton)
は第一次大戦末期、1918年10月にアメリカ遠征軍航空隊参謀を務め、1924年に航空隊戦術学校の教官、第二次大戦勃発儀の1939年には、ルイジアナ州バークスデール飛行場基地司令官だった。その後、フィリピンで極東航空軍を指揮、ジャワ島に撤退後は連合国空軍の航空総司令官に就任。
写真(右):1943年3月,イラン南西部、ペルシャ湾に近いアバダン(?)飛行場、中東方面アメリカ陸軍司令官ルイス・ブレアトン(Lewis Hyde Brereton :1890–1967)中将と両脇のソ連軍将兵、背景はイランに船便で到着・組立ての終わったイギリス製スーパーマリン(Supermarine)スッピットファイア(Spitfire)Mk.V戦闘機:
A United States warplane is being tested in the background and bears the red star insignia of Russia, which is made by filling in the white star of the United States with red paint.
Photographer: Nick Parrino.
March, 1943.
LOC Farm Security Administration/Office of War Information collection.
LC-USW3- 028382-E Author Signal Corps Archive from Ireland and United States
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino
File:Somewhere in Iran. Major General Lewis Brererton in the center, the Commander of the United States Army force in the Middle East, with a group of Russian officers (51065831117).jpg引用。
1942年3月、ルイス・ブレアトン(Lewis H. Brereton)はインドで第10空軍を組織し、指揮官となったが、6月、中東航空軍(後の第9航空軍)司令官に任命された。さらに1943年2月に中東のアメリカ陸軍部隊の指揮官に就任している。1943年10月、中東を離任し、ヨーロッパ戦域で第9空軍の司令官を務めた。
写真(右):1943年初期,イラン南西部、ペルシャ湾に面したアバダン飛行場で空輸準備中のソ連空軍の赤い星の国籍マークを描いたイギリス製スピットファイア戦闘機Mk. V:スピットファイア Mk. Vは、3翅プロペラ、ロールス・ロイス
マーリン45(離昇1,470馬力)搭載、20 mm Hispano Mk II 機関砲2挺[携行弾数120発]と7.7 mm Browning M1919機関銃4挺[350発]搭載。次のMk.IXは、4羽プロペラ、ロールス・ロイス
マーリン66(離昇1,720馬力)搭載。ペルシャ湾のアバダン港に海上輸送され陸揚げされた飛行機を1941年に建設したアバダン飛行場で組み立てて、ソ連まで空輸した。
Description
فارسی: هواپیمایی انگلیسی اسپیتفایر در آبادان
English: Ex-RAF Supermarine Spitfire Vbs being prepared for delivery to the USSR VVS at Abadan, Iran in early 1943. The two Spitfires in the foreground had already seen extensive RA.
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:British Spitfire in abadan.jpg引用。
1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を中心に大規模な軍事援助がなされた。イギリス空軍スーパーマリン スピットファイアV型(Spitfire Mk.V)は、初飛行1936年3月5日の古い設計だが、エンジン改良により大戦末期までイギリス空軍の主力戦闘機の座を守っている。1941年に入ってから部隊配備されたMk.Vは、エンジン過給機を装備し航空性能を向上させ6,487機もが量産された中期主力型である。
しかし、ドイツ空軍のFw-190戦闘機との対戦では苦戦したために、大幅に速力と高高度性能を向上させたイギリス空軍スーパーマリン スピットファイアIX型(Spitfire Mk.IX)が開発され、1942年末から部隊配備され、5,656機が量産された。これが後期主力型である。
スーパーマリン スピットファイア全型の生産機数は、2万351機である。その後、1942−1943年にスピットファイアの主力生産型は、Mk.IX型に移行すると、それがソ連に貸与されるようになった。イギリスは、アメリカからの貸与を返済せずに済ませたから、購入資金はすべてアメリカの支払い、儲けたのである。
写真(右):1943年頃,アメリカ、船積みされるアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチ(North American A-36 Apache)攻撃機:ノースアメリカンA-36は、原型は1942年10月に初飛行し、アリソンV-1710液冷エンジン装備のP-51ムスタング(Mustang)Iの主翼下面にダイブブレーキを設けた急降下爆撃型の地上攻撃機である。エンジンをマリーン(Merlin)66に、プロペラを4翅に換装し高空性能を向上させたのがP-51P-51Bマスタング Mk.III戦闘機である。武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を輸送船で運搬するが、露天係留式なので、機体をコーティングし、エンジンにカバーをかけている。
Dates
This item was produced or created in 1941 ?.
The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.National Archives Identifier
197296
NAIL Control Number
NLR-PHOCO-A-491642076(5)
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Lend Lease - NARA - 197296.jpg引用。
1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を中心に大規模な軍事援助がなされた。輸送船に積載されたアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチ(North American A-36 Apache)は、1942年10月初飛行、500機の生産で終わった攻撃機である。貨物船で船積み輸送されるときには、尾部、補助翼、プロペラは外されている。風雨・波浪を避けるためか、アリソン V-1710 液冷V型12気筒エンジン(1,325 hp)にはカバーが掛けられている。ガラス風防、胴体、主翼は全体がコーティングされている。舷側の反対側には、まだ飛行機は摘まれていない。甲板に積載用枠組みを組み立てて、そこにA-36 アパッチを積み込んでいる。
第二次世界大戦初期には、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であった。そこで、親ナチ政権とみなされ、1941年8月25日、イギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。1941年9月16日、親独派イラン皇帝レザーは退位させられ、子のモハンマド・レザーが帝位に即位した。パフラヴィー2世と呼ばれたが、イスラム革命で1979年2月11日に廃位された。
第二次世界大戦が勃発すると、石油が逼迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座に1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づくソ連への軍事支援を表明した。
写真(右):1942年,イラン南西部、ペルシャ湾岸、アバダンの飛行場に到着したソ連空軍の飛行機搭乗員たち:後方には、ソ連の国籍マーク赤い星を描いた大型輸送機が駐機している。КАК ДОМА: Советские летчики на авиабазе в иранском Абадане принимают американские самолеты, 1942 год
写真はNew Voice,ФинляндияНаша и ИранНаш 引用。
1940年11月、ヒトラーは英国本土上陸作戦をあきらめ、ヨーロッパ大陸を支配して英国を孤立させようとし、ソ連外相のモロトフとベルリンで会談した。この時、日独伊三国軍事同盟を結んでいたヒトラーは、ヨシフ・スターリンに、トルコのボスポラス海峡とダーダネルス海峡、中東イラン・イラクへの進出を促した。これは、ソ連とイギリスとの対立誘い、日独伊ソの四語句軍事同盟化を意味する。しかし、モロトフは、中東侵攻に興味を見せず、結局、スターリンは、ヒトラーとの軍事同盟にはならなかった。1941年の夏にドイツに攻撃されたソ連は、フィンランド、ルーマニア、ハンガリーとも戦うことになった反面、石油資源確保、アメリカからの軍事援助ルートペルシャ回廊確保の目的で、枢軸国寄りだったイランに、イギリスと共謀して侵攻した。
ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスクとアルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾アバダン(Abadan)・イランを経由するペルシャ回廊の中東ルートがあった。
ここで、ソ連戦場までの距離と時間の上では、イギリスからはノルウェー沖・北極海ルートであったが、中東はイギリス支配下にあり、ソ連南部コーカサスには近い距離にあった。しかし、中東のエジプト、イラク、イランとも親イギリスの立場とは言えず、ナショナリズムの勃興で、反英活動もあった。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアバダン(Abadan)は、油田としても港湾としての重要な場所だった。ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、イラン経由の中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)基づく、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。
第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。
第1段階は、中立法で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスだった。
第2段階は、アメリカの旧式駆逐艦をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス基地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定およびアメリカの旧式駆逐艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。
第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これが1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。
1945年9月に武器貸与法(Lend-Lease Act)が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。
40万台のウィリス M38ジーブ(Willys M38)、ホワイト 666トラック(White 666 Truck)などの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車、イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料
リバティー船(Liberty Ship)は、建造工期短縮のために船台で半加工のブロック組み立てされ、アメリカの生産した軍事援助物資をイギリス、ソ連、オーストラリアなど反ファシズム連合国に海上輸送した。
⇒写真集Alubum:リバティー船(Liberty Ship)と武器貸与法(Lend-Lease Act)を見る。
3.1943年以降の武器貸与法(レンド・リース法)によるソ連支援
写真(右):1943年,イラン、テヘラン(?)、イラン・イラク方面軍司令官アメリカ陸軍ドナルド・コノリー(Donald H. Connolly:1886−1969)少将と会談する連合国の駐在官とメディア報道官:
Title
Major General Donald H. Connolly, Commander of the United States Army forces in Iran and Iraq at a press conference somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
Headings
Nitrate negatives.
Genre
Nitrate negatives
Notes
- Actual size of negative is D (approximately 3 1/4 x 4 1/4 inches).
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location: LC-USW3- 028516-E [P&P]引用。
アメリカ陸軍ドナルド・ヒラリー・コノリー(Donald H. Connolly)少将の経歴
1941年1月に准将(アメリカ陸軍)、1942年10月25日に少将(最終階級)に進級
1940年7月-1942年1月、国家航空諮問委員
1942年1月–1942年9月 陸軍航空隊の民間航空軍事部長
1942年10月20日–1942年12年10月にペルシア湾補給サービス司令官
1942年12月–1944年12月24日まで、ペルシア湾軍司令官
1945年2月-1946年にはアメリカ陸海軍解体委員長代理
写真(右):1943年,イラン、テヘラン(?)、イラン・イラク方面軍司令官アメリカ陸軍ドナルド・ヒラリー・コノリー(Donald H. Connolly:1886−1969)少将と会談する連合国の駐在官とメディア報道官:
Title
Major General Donald H. Connolly, Commander of the United States Army forces in Iran and Iraq at a press conference somewhere in Iran
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943.
Headings
- Iran
Headings
Nitrate negatives.
Genre
Nitrate negatives
Notes
- Actual size of negative is D (approximately 3 1/4 x 4 1/4 inches).
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location: LC-USW3- 028517-E [P&P]引用。
写真(右):1943年3月,イラン、テヘラン(?)、イラン・イラク方面軍司令官アメリカ陸軍ドナルド・ヒラリー・コノリー(Donald H. Connolly:1886−1969)少将:アメリカが第二次大戦に参戦した時期の1940年7月-1942年1月に、国家航空諮問委員、その後、1942年1月–1942年9月に 陸軍航空隊の民間航空軍事部長を経て、1942年10月20日–1942年12年10月にペルシア湾補給サービス司令官に就任した。1942年12月–1944年12月24日まで、ペルシア湾軍司令官となった。
Title
Major General Donald H. Connolly, the Commander of the United States Army forces in Iran and Iraq
Names
Parrino, Nick, photographer
Created / Published
1943 Mar.
NMedium
1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller..Source Collection
Farm Security Administration - Office of War Information photograph collection (Library of Congress)
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location
LC-USW3- 028443-E [P&P]引用。
アメリカ陸軍ドナルド・ヒラリー・コノリー(Donald H. Connolly)少将は、1942年10月20日から1944年12月24日まで、ペルシア湾方面のイラン・イラク軍司令官として、1941年3月成立の武器貸与法に基づくソ連に対するペルシャ回廊を通じた軍事援助を担当した。これは、イギリス、ソ連とも協調を有する軍務であり、イラン占領行政ともかかわるために、戦術作戦というよりも、外交的手腕が必要な任務だった。
写真(右):1943年,イラン、テヘラン(?)、長靴を履いたイラン・イラク方面軍司令官アメリカ陸軍ドナルド・ヒラリー・コノリー(Donald H. Connolly:1886−1969)少将とスーツのドナルド・ネルソン(Donald Marr Nelson:1888-1959)、カメラに顔を向けているS・L・スコット准将(Brig Gen S L Scott):ドナルド・ネルソンは、デパートのシアーズ・ローバックの副社長を務めていた手腕を買われて、1942年から1944年8月まで、戦時生産委員会の委員長に就任し、武器貸与法に関しても、連合国への軍需品の生産・貸与を監督する任務に就いた。 後方は、コンソリデーテッド B-24 リベレーター(B-24 Liberator)爆撃機の輸送機仕様C-87 リベレーター・エクスプレス(Consolidated C-87 Liberator Express)で、1942年からVIP輸送用に使用された。生産機数287機。
Author
English: Stanley Scott Collection
Title
English: 130 Donald Nelson and officers by airplane
Description
English: Donald P. Nelson, Chairman, U.S. War Production Board. Informal group at airport somewhere in Iran. Second from left Maj Gen D H Connolly, Mr Nelson, Brig Gen S L Scott (facing camera).
Subject
English: World War, 1939-1945; Equipment and supplies; Lend-lease operations (1941-1945); Persian Gulf Region; Strategic aspects
Date 1943
Medium
English: 3.5x4.5 in. b&w print affixed to white photo album paper.
Credit line
English: Stanley Scott Collection, Office of History, HQ, U.S. Army Corps of Engineers
Notes
English: Photographs, invitations, and newspaper clippings pertaining to Stanley Scott's tour of duty as Chief of Staff of the Persian Gulf Command from November 20, 1942 to February 27, 1944.
写真はU.S. Army Corps of Engineers Digital Library U.S. Army Corps of Engineers 130 Donald Nelson and officers by airplane引用。
武器貸与法と日本で呼称する1940年成立の軍事援助法は、貸与・貸付法であり、戦時の物資購入の支払いを一時立て替えて、戦後、すなわち戦勝後まで支払いを猶予する法律である。になっての支払をに基づいて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。
ルイ・ドレフュス ・ジュニアは、1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。アメリカは、日本のように官僚出身の融通の利かない組織下の人物ではなく、民間企業・大学教授など能力に秀でた個人手腕のある人物を一国の大使に任じて、外交成果を上げている。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシア回廊、アメリカの従軍看護部隊の女性看護将校たちとその蒲鉾型兵舎の居住区:彼女たちは、女性で好待遇を受けたが、それは当初より階級が中尉という将校扱いだったからである。武器貸与法に基づいて、イランを中継してアメリカ・イギリスの軍事物資をソ連に輸送していたが、多数のアメリカ人が参加していたために、アメリカ人の看護婦も配置されていた。。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11605-5: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. American nurses outside their living quarters, a corrugated iron hut, somewhere in Iran. Left to right: Lieutenant Mannette Smulyan; Lieutenant Norma Sisson; Lieutenant Lightstone; and Lieutenant Eleanor Lasof. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29925-E. (2016/02/19).
写真はflickr > National Museum of the U.S. Navy Lot 11605-5引用。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシア回廊、アメリカ陸軍病院にジープで移動する7名のアメリカの従軍看護部隊の女性看護将校たち:彼女たちは、軍隊式の制服、略帽を被って、足元はヒールを履いている。1940年6月、アメリカ陸軍はアメリカの自動車メーカー100社以上に軍用の軽量偵車両の開発を要請し、それにアメリカン・バンタム、ウィリス・オーバーランド、フォードの3社が応じた。その競争試作の結果、アメリカン・バンタム1941 WILLYS MAが制式され、3社が量産に当たることになった。これが量産型の1941-1945 WILLYS MBで重量は1トン、4×4輪駆動だった。
Description
English: United States Army nurses being helped into the back end of a truck somewhere in Iran
Date 1943
Source Library of Congress
Author U.S. Government
写真は Wikimedia Commons, Category:Iran in World War II File:United States Army nurses being helped into the back end of a truck somewhere in Iran8d29624v.jpg引用。
写真(右):1943年3月,イラン、ペルシア回廊、アメリカ陸軍病院前に整列した7名のアメリカの従軍看護部隊の女性看護士:彼女たちは、軍隊式の制服、略帽を被っているが、足元はヒールを履いている。女性保護の視点で、好待遇を受けたが、それは階級が下士官から少尉・中尉という将校扱いだったからである。
National Museum of the U.S. Navy
Lot 11605-8: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. American Nurses standing on the steps of a U.S. Army hospital, somewhere in Iran. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29928-E. (2016/02/19).
写真はflickr > National Museum of the U.S. Navy Lot 11605-8引用。
図(右):1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別重量(トン):
Lend-Lease sent 17 million tonnes of ammunition, food, fuel, weapons, tanks, airplanes and even railroad locomotives to the USSR during the Second World War—most of it from the USA. This episode describes how the icon of capitalism saved the workers' and peasants' paradise from fascism. .
写真はNational WWII Museum New Orleans,Lend Lease: The USAs lifeline to the USSR Map1引用。
武器貸与法によるアメリカからの軍事物資援助は、1941−1945年の期間に行われた。援助物資は、重量にして1750万トン、金額にして484億ドルー501億ドル相当が38か国に貸与された。被援助国別内訳は、イギリス310億ドル64.0%、ソ連110億ドル22.7%、フランス32億ドル7.5%、中国16億ドル3.3%、オランダ2.5億ドル、ベルギー1.6億ドルなど合計38か国へ軍事物資の貸与がなされた。軍事援助物の重量は1750万トンだが、期間別内訳は1941年2.1%、1942年14.0%、1943年27.4%、1944年35.5%、1945年21.0%で、援助が本格化したのは大戦中期1943年以降である。
武器貸与法のアメリカの軍事援助額は、国別では22.7%がソ連向けだった。時期は、1941−1942年よりも1943年から急増した。1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別の重量(トン)は、太平洋=沿海州航路が824.4万トン(到着率99%)、太平洋=北極海航路が45.2万トン(93%)、大西洋=ペルシャ湾航路が416万トン(96%)、大西洋=地中海=黒海航路が68.1万トン(99%)、大西洋=北極海航路が396.4万トン(到着率100%)である。
3−1.延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル
大阪朝日新聞
Vol: 第158巻
Page: 109
出版年
1943-03-17
一九四〇年末三選直後のルーズヴェルト[Franklin oosevelt]は股肱の臣ハリー・ホプキンス[Harry Hopkins]を伴い、逐鹿戦の骨休みをかねて巡洋艦タスカルーザでカリブ海巡航の旅に出た、当時敗戦つづきの英国は独軍の連続爆撃に気息奄々たる有様で、その在米資金もいよいよ逼迫を告げ、このまま放置すれは屈服以外に途はないかと思われた、
しかるに米国にはかの[1935年]中立法[Neutrality Act]や戦債未払国への金融を禁止する[1935年]ジョンソン法があって十分の対英援助ができない、そこでルーズヴェルトらがこのタスカルーザ艦上で思いついたのはこれら既存の法に煩わされることのない全然新しい形式の対英援助計画で、右は武器貸与法案[Lend-Lease Act](正式の名称は米国国防促進法案)として翌四一年一月議会に提出され、三月十一日正式に採択された、かくて制定された武器貸与法[Lend-Lease Act]はここに成立第三年を迎えたわけだが、あたかもその二周年記念日にあたる去る十一日同法は有効期限の切れ来る六月末日よりさらに向う一ヶ年間その効力を延長されたのである
この武器貸与法[Lend-Lease Act]なるものはその条文にも明記されているようにある国家の国防が米国自身の国防上重大なりと認められた場合該国家に対し軍需品その他国防物資を売却、貸与または賃貸し得る権限を大統領に与えたもので、表面は米国の国防強化を目的としたものだが、その魂胆は
(一)米国の参戦をできるだけ延期すること
(二)民主主義国家群の戦争指導櫃を掌握すること
(三)戦後の発言権を増大し世界制覇の非望を達成すること
の三点にあった
すなわちルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]は老獪にも「民主主義の兵器廠[Arsenal Of Democracy]」たる役目を引受けることにより、自らの参戦はこれをできるだけ延ばし、あわよくば全然参戦せず、しかも実質的には参戦同様の効果を収めんとたくらんだが、しかし自らも戦争の渦中に身を投ぜざるを得なくなってしまった、
しかし武器貸与法[Lend-Lease Act]の真の狙いは米国自身の参戦如何にかかわらず英ソ蒋以下の反枢軸諸国を援助督励することにより、これら各国の犠牲において枢軸国の戦力を消耗せしめ、同時に如何に平身低頭しても米国の援助にすがらざるを伝ない反枢軸国家群の窮状につけこみ、これら諸国をして援助の代償として米国の戦争指導権を承認せしめるはかりでなく、戦後においてもまったく米国の勢力下に屈従せざるを得ない立場に追いこみ、もって世界支配の夢を実現せんとするにある、ここに武器貸与法の驚くべき老獪かつ巧妙なるたくらみがある
しかして英国以下の被援助国はこの米国の遠望を知悉し米国の情にすがることは自らの墓穴を掘るにひとしいことを十二分に承知していながらなお背に腹はかえられず、泣訴これ努めているわけである
武器貸与[Lend-Lease]予算として現在まで米国議会によって承認された総額は百八十四億一千万ドルに上り、このほか陸海軍関係予算として計上され武器貸与費に流用し得る予算額は実に三百五十九億七千万ドルに達する、
しかるに武器貸与局長官ステッチニアス[Edward Reilly Stettinius]の発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、
然して昨年度においてアメリカが生産した飛行機ならびに戦車の三分一までが反枢軸諸国に供給されアメリカ軍需工場における同年の全生産額の二割弱が貸与物資として海外に輸送されたとつたえられる、
これを金額にして国別にして見れは(単位百万ドル)
対英 三、九五九
対ソ 一、五三二
対蒋 一五六
となっている、
ソ連に対する補給額は
飛行機 三六〇〇機
戦車 三二〇〇台
トラック大砲牽引車 八一、〇〇〇台
を含むものであり、飛行機戦車供給の数量はほかのいかなる国に対するよりも多いといわれる、もっていかにアメリカがソ連の御機嫌を取ろうとしているかが窺われる
なお対蒋援助は上掲の数字が示すごとくきわめて微々たるもので、しかも武器貸与局支那課長フランクリン・レイの言明によれば重慶向貸与物資の五十%は輸送不能のため目下インドに放置されたままになっている、アメリカとしてもつぎつぎとワシントンに乗込んできて援助増加を泣訴する蒋の代表を御馳走政策で機嫌をとり口でなだめて帰す以外今のところうつ手があるまい
(延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル引用終わり)
写真(右)1943-1944年、アメリカ、アラスカ、ノーム、武器貸与法に基づいてソ連に空路移送中のベル(Bell)P-39L-1 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(42-4673)の左側面:P-39やP-63戦闘機は、ペルシャ回廊よりも、極東ルートのアラスカ、アリューシャン列島からシベリアにまで空輸されソ連に送られた。胴体と主翼には保護カバーがかけられている。左主翼に7.62mm機関銃の銃身2本、速度計測ピトー管が出ている。
A blanketed Bell P-39N Airacobra (USAAF s/n 42-4961) at Nome, Alaska (USA), in 1943-44. The red Soviet stars under the wings identify this as a lend-lease aircraft ferried to the USSR via Alaska. Note the belly tank.
Date between 1943 and 1944
Source
United States Library of Congress's Prints and Photographs division
under the digital ID fsa.8e02408..Author USAAF
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II Lend-Lease aircraft File:P-39N Nome Alaska 1943-44.jpg引用。
原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,588機で、4,719機(49.2%)のP-39がソ連への貸与機である。
発展型のベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機で、2400機(72.7%)のP-63がソ連への貸与機である。
したがって、P-39とP-63の合計生産数1万2891機のうち、ソ連への貸与機は7119機と55.2%が、武器貸与法に基づいて、ソ連の軍事援助に充てられた。さらに、フランス軍にもP-63戦闘機300機を貸与している。したがって、ベル社は、アメリカ陸軍では需要が少なかったP-39、P-63戦闘機が大量生産し、武器貸与法によってソ連に輸出し、アメリカ政府からの支払いを受け膨大な収益を得たことになる。性能的に不十分とされた戦闘機をベル社は大量生産し、ソ連に輸出し儲けたのである。
4.イラン占領後の英ソ対立
1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。
しかし、枢軸国寄りとみなされたイラン帝国は、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦(Operation Countenance)の発動で、英ソの支配下に置かれた。そして、イラン皇帝の帝位は、父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。イラン皇帝は、イギリスの大臣・官僚・地方軍司令官、亡命政権の地方軍司令官以下の地位しか与えられなかった。イラン国民の主権は、大西洋憲章が認めているはずだが、同盟国イランの国家主権は、米英ソにの下に置かれた。
米英ソは、イランを占領下に置いた以上、その主権回復には関心はなく、戦争中は占領下に置くことを決めていた。米英ソの関心は戦争勝利のあり方であった。第二次大戦の激戦が続く1940年後半から、1943年まで、ドイツの真正面で戦っているのは、ドイツ東部戦線正面のソ連だけであり、大西洋の戦い、ドイツ本土空襲、地中海方面の戦いは生起していても、ドイツ軍の主力を受け止めていたのはにソ連一国だった。そこで、ヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は、ヨーロッパに第二線を一刻も早く開くべきであるとして、1943年6月、駐米・駐英のソ連大使を召還し、米英に対する深刻な不満を表明した。
写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Description
EEnglish: Joseph Stalin, President Roosevelt, and Winston Churchill, full-length portrait, sitting outside entrance to building during the Tehran Conference; Vyacheslav Mikhaylovich Molotov and Anthony Eden are standing in the background.
Date 1 December 1943
Source
United States Library of Congress's Prints and Photographs division
under the digital ID cph.3c35324.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Stalin Roosevelt and Churchill at Tehran Conference, November 28-December 1, 1943 (24377431366).jpg引用。
1942年1月1日、ワシントンで発表された26カ国による連合国(国連)共同宣言は、大西洋憲章を引き継いで、連合国の協力と戦勝を謳い、単独不調和を約したが、これには、ルーズべルト、チャーチル、駐米ソ連大使リトヴィノブ、駐米中国大使宗子文が各々本国を代表して署名している。残る22カ国の署名を集めるのはアメリカ国務省に一任されたが、これが国際平和機構の名称「国際連合=連合国」として採用された。こうして、米英の陸海空三軍の統合会議が設置され、ソ連を含め米英三国が相会することがを期待された。
ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。
⇒写真集Album:米英ソの1943年11月テヘラン会談(Tehran Conference)を見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
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