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◆リバティー船(Liberty Ship)と武器貸与法(Lend-Lease Act)
写真(上):1943年、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で1943年5月31日に進水したリバティ船エドワルド・グリーグ(SS Edvard Grieg)
:満載排水量 14,500英トン(14,733t)、全長441 フィート 6 インチ (134.57 メートル)、全幅56 フィート 11 インチ (17.35 メートル)、吃水28 フィート 4 インチ (8.64 メートル) 速力12.5ノット(23.2 km/h; 14.4 mph)、兵装 1× 5インチ(127mm)砲、40mm対空機関砲4門
Description English: line drawing of a Liberty ship Date 30 December 2012, 09:57:48 Source Own work Author Kallgan
写真はWikimedia Commons,Category:Liberty ships・File:SS A. J. Cassatt (USS Appanoose (AK-226)).jpg引用。

図(上):アメリカ本土の造船所で建造されたリバティ船の内部構造図
(右舷側):アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をイギリス、ソ連に輸送する任務にも動員された。
Description English: line drawing of a Liberty ship Date 30 December 2012, 09:57:48 Source Own work Author Kallgan
写真はWikimedia Commons,Category:Liberty ships・File:Libertyship linedrawing en.jpg引用。

写真(上):2014年10月,アメリカ東岸、メイン州ポートランド、ニューイングランド造船所で1943年6月3日竣工したリバティ船SS ジェレミア・オブライエン(SS Jeremiah O'Brien)
::2,710隻建造されたリバティ船は、アメリカの軍事援助物資をイギリス、ソ連、インド、中国、オーストラリアに海上輸送した。SS ジョン・W・ブラウン、SS ヘラス・リバティ含め3隻が保管されている。
Description Liberty Ship Jeremiah O'Brien Date 9 October 2014, 13:00 Source Liberty Ship Jeremiah O'Brien Author Tony Hisgett from Birmingham, UK
写真は、Wikimedia Commons,Category:Jeremiah O'Brien (ship, 1943) ・File:Liberty Ship Jeremiah O'Brien (15593289272).jpg引用。

1.1941年3月の武器貸与法の成立

Sumner Welles 武器貸与法と日本で呼称する1941年3月成立の軍事援助法は、貸与・貸付法であり、戦時の物資購入の支払いを一時立て替えて、戦後、すなわち戦勝後まで支払いを猶予する法律である。になっての支払をに基づいて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。

ルイ・ドレフュス ・ジュニアは、1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。アメリカは、日本のように官僚出身の融通の利かない組織下の人物ではなく、民間企業・大学教授など能力に秀でた個人手腕のある人物を長官や一国の大使に任じて、外交成果を上げている。以下では、ハル国務長官が外交的に、国際的にどのように武器貸与法を正当化したかを見てみよう。

ハル国務長官の部下でライバルでもあったサムナー・ウェルズBenjamin Sumner Welles)国務次官は、FDRの個人的信頼を得た外交官として世界を飛び回った。1939年9月の第二次大戦勃発直後にパナマで汎アメリカ会議を主宰、1940年3月にはバチカン、イタリア、戦時中のドイツ、フランス、イギリスを訪問し、1940年7月に前月のソ連軍によるエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国占領を非難した。


2.米英のソ連軍事援助

写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を運搬してきたアメリカの戦時標準型輸送船リバティー船(Liberty Ship)
National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-2: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: American seaman giving a haircut to a fellow member of the crew as they pull in to unload their freight which is destined for Russia, somewhere in the Middle East, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 28365-E. (2016/02/11).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11604-2引用。


1941年3月11日の武器貸与法(Lend-Lease Act)の成立で、中立アメリカは第二次大戦の参戦国に対して戦後の支払いで、軍事物資を事前に貸与することを認めた。つまり、イギリス、中国、ソ連など物資のアメリカからの購入・輸入は、戦勝後の後払いでよくなったのである。

アメリカの武器貸与の対象になった軍事物資は、弾薬、航空機、食糧、車輌、船舶などであり、狭義の武器だけではなかった。

また、アメリカがイギリスのハリケーン戦闘機などの航空機、バレンタイン歩兵戦車などの陸戦兵器を購入し、それをソ連に貸与することもあった。イギリスの資金源になったのである。

1941年6月の独ソ戦の勃発直後、英米はソ連への軍事援助を表明した。共産主義のイデオロギーを嫌悪していた資本主義諸国だったが、ヒトラー主義と戦うためなら、喜んで連合国に迎え入れたのである。

写真(右):1941年9月-1942年,イラン南西部、バンダル・シャープール(Bandar Shahpur)、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助物資を積んだ船舶と新造中の岸壁
The Port of Bandar Shahpur on the Persian Gulf. The voyage from New York around South Africa to the Persian Gulf ports averaged 70 days. This port, built on swampy land where the river Jarrahi empties into the gulf, has a semitropical climate..
写真はEUCMH - Graphic Resources,Iran – (Photos Resources)By Doc Snafu -16/04/2021引用。


1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻で、ポーランドと相互援助条約を結んでいた英仏は、ドイツ軍の撤退を要請したが、聞き入れられなかったために、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告した。これが、第二次世界大戦の勃発である。そして、独ソ不可侵条約の秘密議定書通り、1939年9月17日、ソ連のポーランド侵攻がなされた理由は、ポーランド政府が瓦解し、ポーランドに住むウクライナ人、ベラルーシ人を保護するためである。ポーランドは独ソで分割占領されたが、英仏ともにドイツにだけ宣戦布告した反面、ソ連には宣戦布告をしていない。

写真(右):1941-1942年,イラン南西部、バンダル・シャープール(Bandar Shahpur)、アメリカの武器貸与法に基づくソ連援助物資を積んだ船舶と新造された岸壁:岸壁には貨物鉄道が敷設されている。
The Port of Bandar Shahpur on the Persian Gulf. The voyage from New York around South Africa to the Persian Gulf ports averaged 70 days. When the Mediterranean route became available in 1943, the time was shortened to 42 days. This port, built on swampy land where the river Jarrahi empties into the gulf, has a semitropical climate. Both here and at Khorramshahr much of the work was done at night, and even then the temperature was around a hundred degrees Fahrenheit from March until October. The area is subject to torrential rains in winter. Docking space at both ports was often insufficient to accommodate all ships waiting to be unloaded, which necessitated the use of lighters..
写真はEUCMH - Graphic Resources,Iran – (Photos Resources)By Doc Snafu -16/04/2021引用。


1941年6月にドイツがソ連に侵攻し、第二局面に入った。当時、1941年3月11日のフランス降伏後、西欧ではイギリスだけがドイツ・イタリアの枢軸国軍と戦っていたが、それはイギリス本土、北アフリカ、エジプト、大西洋など広範囲にわたっていた。

Shah 独ソ戦の勃発で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは狂喜し、ドイツを倒すためなら悪魔とも手を結ぶとして、嫌っていた共産主義ソ連を軍事援助することを即断し、アメリカの武器援助法に基づく支援をソ連に伝えた。この軍事援助のための中東ルートがペルシャ回廊で、イギリス保護国・植民地のある中東からソ連のコーカサスへの陸路/空路である。

1941年6月22日に、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が激化すると、孤立してたイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助を、アメリカとともに開始することを決めた。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日に、カウンタナンス作戦Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。中立国アメリカも領土不可侵の原則を無視して、イギリスのイラン武力占領を認めた。

1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位させられ、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーがイギリスの傀儡として帝位についた。

カウンタナンス作戦Operation Countenance)の目的は、
1)イランの親独逸勢力の排除、
2)イランの油田の確保、
3)中東からソ連への軍事物資輸送経路、ペルシャ回廊の確保、
であり、そのためにはイランの国家主権を蹂躙することを躊躇しなかった。

写真集Alubum:英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を見る。

カラー写真(右):1943年頃,イギリス、アメリカから武器貸与法に基づく軍事援助物資として輸送船で到着した北米産小麦粉の積み降ろし作業:選手上甲板上には砲座が設けられており、アメリカ製リバティー船の1隻と思われる。荷袋を輸送船から艀に積み替えている。輸送船に設けられたデリック・クレーンを利用しているようだ。武器貸与の対象には、兵器、燃料、自動車の他に、食糧、衣料も含まれた。
THE HOME FRONT IN BRITAIN 1939-1945 Object description The War Effort: A cargo of flour from America and Canada being unloaded into a barge from a merchant ship. Creator British official photographer Catalogue number TR 1427 Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION
写真は,Imperial War Museums 2024  IWM (TR 1427)引用。


スチュードベーカー(Studebaker)、GMC(General Motors Truck Company )、インターナショナルハーベスター(International Harvester Co.)の試作トラックがすべて制式され、量産に移された理由は、
1)軍用トラックの大増産、
2)試作トラックの失敗リスクの軽減、
3)アメリカ自動車メーカーの利潤確保、
という目的があった。

トラックは、援助物資だが、トラックにも援助物資を積んでペルシャ回廊Persian Corridor)を運搬していた。

カラー写真(右):1943年,イギリス、アメリカから武器貸与右方に基づく軍事援助物資として送られたカリフォルニア産ピーチの乾燥食品:梱包された箱を輸送船から艀に積み替えて運び、クレーンで岸壁に荷揚げする。武器貸与の対象には、兵器、燃料、自動車の他に、食糧、衣料も含まれた。
FOOD FROM AMERICA AND CANADA ARRIVING IN BRITAIN, 1943 Object description A ship's cargo of dried California peaches being unloaded into a barge..Catalogue number TR 1428 Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (TR 1428)引用。


中東(イラン・イラクなど)は、ドイツと戦うソ連への軍事援助のために補給ルートとして重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、カウンタナンス作戦Operation Countenance)を発動して、イランを武力制圧した。イランは、英ソによる南北分割占領の下に置かれた。

写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)のフロントガラスを拭くアフリカ系アメリカ人(黒人)ドライバー:運転手とトラック団(コンボイ)リーダーが話している。
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Somewhere on the Persian Corridor, with a U.S. Army truck convoy carrying supplies for the aid of Russia. The driver cleaning the desert dust off his windshield. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28141-E. (2016/02/19).
写真はflicker,National Museum of the U.S. Navy  Lot 11602-3: 引用。


1941年3月の武器貸与法は、最終的には、イギリスへの軍事援助が過半を占めることになるが、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦Operation Countenance)の発動で、イランを占領後、ペルシャ回廊Persian Corridor)は、ソ連への軍事援助に使われた。ドイツの援助で竣工したばかりの鉄道に加えて、山岳地、砂漠を通る未舗装の自動車道路が建設された。武器貸与法ではソ連にイラン回廊経由でアメリカ製トラック7200両が貸与されたが、積荷の運搬にも流用された。

アメリカ軍ホワイト6トン×6×6 カーゴトラック GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5t軍用トラックの諸元 第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発
積載量2.5t
6輪駆動の軍用トラックである
空虚重量4.8t
全長 6.86m
全幅 2.24m
全高2.77m(荷台幌)
GMC 270 6気筒ガソリン
燃料容量 150 L
航続距離 480 km

スチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4,479 kg(U3)、4,756 kg(U4)、全長6.37 m(U3)、6.74 m(U4)、全幅2.24 m、全高2.21 m(荷台幌)、GMC 270 直列6気筒5.2Lガソリンエンジン、6x6輪駆動 又は6x4輪駆動、燃料容量 150L(40ガロン)、航続距離380 km。

1941年3月の武器貸与法[Lend-Lease Act]に基づき、ソ連に貸与されたスチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、20万台が生産され、その8割近くの15万台に達した。

軍事援助物資を運搬するトラックやトラクター・セミトレーラー(牽引式貨物車)自体も援助物資としてソ連に貸与した。これには、イギリス領ビルマから中国蒋介石政権へのビルマ援助ルート(援蒋ルート)と同じく、ペルシャ回廊Persian Corridor)の山岳地の峠越えを含む自動車道路の整備が必要だった。さらに、道路建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。中東ルートのペルシャ回廊と並んで、北大西洋=北極海=ムルマンスクの海上ルート、北太平洋=ハバロフスク/ウラジオストークの海上ルートが重視された。

写真(右):1943年,イラン中部、テヘラン郊外(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送する蒸気機関車正面の機関士たち:イランは、1941年8月までは、ドイツ・イタリアの軍事援助を受け、蒸気機関車もドイツ製を採用していた。しかし、イギリスのイラン進駐後は、イギリス製、アメリカ製の蒸気機関車が導入された。
Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Engineers, an American and a Briton, somewhere in Iran, standing on an American engine, having a smoke. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28138-E. (2016/02/19)..
写真はflicker,National Museum of the U.S. Navy Lot 11603-5引用。


1941年3月に成立した武器貸与法によるアメリカからイギリス、ソ連、中国、インドなどへの軍事物資1780万トンのうち、ソ連向け援助は800万トンで、その45%はイラン回廊経由で輸送された。この物資の多くはアメリカ製の兵器、自動車、食糧、軍靴などであるが、イギリス製のマチルダMatilda)戦車、ハリケーンHawker Hurricane)戦闘機などもアメリカ資金で購入され、ソ連向けの援助に回されている。

写真(右) 1943年、イラン、ペルシャ湾近隣、アバダン(?)、アメリカ製ウィリス M38ジーブ(Willys M38)を検査するアメリカ陸軍上級曹長手ニコラス・チェクマラーフとソ連赤軍の中尉:ジープは、アメリカからソ連への軍事援助物資で、ペルシャ回廊を同じくソ連に引き渡されるトラックのコンボイを先導して、ソ連に行進する。
: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Master Sergeant Nichola Chekmorath is shown with Russian Lieutenant who is in charge of Russian truck inspection. This plant somewhere in Iran here assembles jeeps as well as heavier trucks. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 29931. (2016/02/19)..
写真はflicker,National Museum of the U.S. Navy Lot 11601-8引用。


アメリカ陸軍M3A軽戦車、その改良型M5軽戦車は、ミズーリ州セントチャールズのアメリカ自動車鋳物会社(American Car and Foundry Company)、ミシガン州デトロイトのジェネラル・モーターズ(General Motors)などで、1941–1944年に2万2,744両が生産された。

M3スチュアートM3 Stuart)軽戦車の諸元:
M3スチュアート 全長 4.53 m 全幅 2.24 m
全高 2.64 m
重量 12.9 t
速度 57.9 km/h
行動距離 113 km
53.5口径 M6 37 mm 戦車砲(103発)
M1919A4 7.62 mmブローニング機関銃3挺(7,220発)
砲塔装甲 防盾51.4mm
前面38.1mm 側・後面25.4mm
上面12.7mm
車体装甲 前面上部38.1mm
前面中間部15.2mm
前面下部44.4mm
側面25.4mm 上面12.7mm
後面25.4mm
発動機 コンチネンタル W-670-9A 4ストローク空冷星型7気筒ガソリン 262 馬力/2,400 rpm
乗員 4 名

バレンタイン(Valentine)歩兵戦車 バーミンガム鉄道車輛製造会社(BRC&W:Birmingham Railway Carriage and Wagon Company)は、機関車、客車、貨車、バスなど車両製造メーカーである。第二次世界大戦中、歩兵戦車Mk IIIバレンタインA22 Churchill)、歩兵戦車Mk IV チャーチルA22 Churchill)は、巡行戦車クロムウェル、巡行戦車チャレンジャーを製造した。また、ゼネラル・エアクラフト ハミルカー(General Aircraft G.A.L. 49 Hamilcar)空挺部隊用グライダーも製造した。

イギリス陸軍MKIII歩兵戦車バレンタイン(Valentine)の諸元:
全長:5.4 m、全幅:2.6 m、全高:2.2 m
最大装甲厚:65mm
重量:17 t
最高時速:15 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
主砲はMk.I-VII:50口径2ポンド40ミリQF速射砲(砲弾搭載数60発)。
砲塔に6ポンド(57ミリ)速射砲を搭載した改良型の バレンタインMk.VII-X歩兵戦車も生産された。
砲塔装甲: 全周 65mm 上面前部 20mm 上面後部 15mm
車体装甲: 前面上・下部 60mm 前面傾斜部 30mm 側面 60mm 側面傾斜部 30mm 後面傾斜部 17mmn 後面 60mm
機関室上面 10mm 底面前部 20mm 底面中部 7mm 底面後部 17mm
AEC A190ディーゼルエンジン 131馬力(Mk.II)
GMCモデル6006 138馬力(Mk.IV)
乗員 3名

ボストンIV 2−1.輸出許可制 : 米、更に強化
大阪毎日新聞 Vol: 第 46巻 Page: 159 出版年 1941-04-06

【ワシントン四日発同盟】武器貸与法Lend-Lease Act)による最大限援英の実施に伴い米国の輸出統制強化が予想されていたがマックスウェル輸出統制局長官は四日記者団に対し政府の輸出統制強化方針に関し左のごとく言明した

 現在米国は対英援助実行のため尨大な軍需品の生産に全力をあげているが、おそらくその結果輸出許可制を現在以上に強化しさらに多くの品目を輸出統制下に置くこととなるであろう、なお現に輸出許可制を実施している品目についてもさらに輸出税制を引締める必要があろう(輸出許可制 : 米、更に強化引用終わり)

写真(右):1943年,アメリカ、アメリア製ダグラスA-20ハボック双発攻撃機を艀からクレーンを使っての船積み作業:武器貸与法に基づきイギリスとソ連に海上輸送された。
English: An American Douglas A-20 bomber, provided through Lend-Lease, is loaded on to a ship bound for Allied ports, ca. 1943. Date 1943 Source National Archives and Records Administration, Records of the Foreign Economic Administration. Author Photograph by Gruber for the U.S. Office of War Information
写真はWikimedia Commons,Category:Abadan Airport File:Lend Lease Bomber.jpg引用。


中立国アメリカは、第二次世界大戦初期の1941年3月に成立した 武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいて、戦勝後の支払いの約束で、戦時中に枢軸国と戦うイギリス、ソ連、中国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドへの軍事物資を貸与した。ソ連へは1941年に建設したイラク(現在はクウェート)、アバダン飛行場で組み立てて、イランからソ連までを空輸した。このほか、アラスカ極東ルートでは、ベル(Bell)P-39エアラコブラ(Airacobra)戦闘機など短距離単発機でも空輸に依っている。

スピットファイア Mk.IX 1941年6月22日の「ヒットラのソ連侵攻で独ソ戦が勃発すると、チャーチルは、反ヒットラー主義の立場を最優先し、スーパーマリン スピットファイア戦闘機、歩兵戦車 Mk.IV チャーチル(Churchill Infantry tank)のようなイギリス製兵器をアメリカの資金貸与して購入し、それをイギリスからソ連に向けた軍事援助として送った。したがって、イギリス製兵器生産をアメリカの武器貸与法の対象として促進したのである。

ソ連のヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は、イギリス・アメリカの外交筋、ドイツ・日本のスパイから、ドイツのソ連侵攻の情報を得ていたが、これは独ソ対立を煽動する陰謀だと決めつけていた。そこで、1941年6月、独ソ戦争が始まると驚愕し狼狽えた。しかし、すぐにアイギリス、アメリカの武器や軍需物資提供の申し出があり、武器貸与法Lend-Lease Act)の対象にソ連も加わった。

写真(右):1943年頃,アメリカ、船積みされるアメリカ製ノースアメリカンA-36 アパッチ(North American A-36 Apache)攻撃機:ノースアメリカンA-36は、原型は1942年10月に初飛行し、アリソンV-1710液冷エンジン装備のP-51ムスタングIの主翼下面にダイブブレーキを設けた急降下爆撃型の地上攻撃機である。武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を輸送船で運搬するが、露天係留式なので、機体をコーティングし、エンジンにカバーをかけている。
Dates This item was produced or created in 1941 ?. The creator compiled or maintained the parent series, Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, between 1882–1962.National Archives Identifier 197296 NAIL Control Number NLR-PHOCO-A-491642076(5)
写真はWikimedia Commons,Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Lend Lease - NARA - 197296.jpg引用。


1941年3月に成立した武器貸与法に基づいて、イギリス、ソ連を中心に大規模な軍事援助がなされた。輸送船に積載されたアメリカ製ノースアメリカンA-36アパッチNorth American A-36 Apache)は、1942年10月初飛行、500機の生産で終わった攻撃機である。貨物船で船積み輸送されるときには、尾部、補助翼、プロペラは外されている。風雨・波浪を避けるためか、アリソン V-1710 液冷V型12気筒エンジン(1,325 hp)にはカバーが掛けられている。ガラス風防、胴体、主翼は全体がコーティングされている。舷側の反対側には、まだ飛行機は摘まれていない。甲板に積載用枠組みを組み立てて、そこにA-36 アパッチを積み込んでいる。

P-40 第二次世界大戦が勃発すると、石油が逼迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座に1941年3月の武器貸与法Lend-Lease Act)に基づくソ連への軍事支援を表明した。

1940年11月、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦をあきらめ、ヨーロッパ大陸を支配して英国を孤立させようとし、ソ連外相のモロトフとベルリンで会談した。この時、日独伊三国軍事同盟を結んでいたヒトラーは、ヨシフ・スターリンIosif Stalin)に、トルコのボスポラス海峡とダーダネルス海峡、中東イラン・イラクへの進出を促した。これは、ソ連とイギリスとの対立誘い、日独伊ソの四語句軍事同盟化を意味する。

スターリン しかし、モロトフは、ヒトラーの勧めた中東侵攻には興味を見せず、結局、ヨシフ・スターリンIosif Stalin)は、ヒトラーとの軍事同盟には至らなかった。こうした不穏な状況で、1941年6月22日、ドイツに奇襲攻撃されたソ連は、フィンランド、ルーマニア、ハンガリー、イタリアからも攻撃を受けることになり、敗走を続けた。

2−2.独ソ戦と世界海運 (一〜三) 著者 太田健一 談 大阪商船遠洋課次長
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 34巻 Page: 205 出版年 1941-07-07

(一)市場性乏しく影響せぬソ連海運界

独ソの開戦が世界の政治外交上に与えた衝動は非常に大きなものであることはいうまでもないが、これを海運界から観ればどうであるか?それは余り大きなものではなかったようだ、というのは独逸海運は一昨年九月頃に参戦しており、海運市場には織込み済みであるこれにソ連が加ったのであるが、それは海運人に大して痛痒を感ぜしむる事柄ではない、その理由として先ずソ連海運界の現状を窺いて見たい

一九三九年の全世界の船腹は六千九百四十四万噸であった、第一位は英国の二一,〇〇〇万噸、第二位は米国の一一,〇〇〇万噸、第三位は日本で、あとは四〇〇万噸台が諾威および独逸、三〇〇万噸が伊太利、二〇〇万噸台が仏蘭西および和蘭一〇〇万噸台がギリシャおよび瑞典、そしてロシアという順位であった、ロシアの所有船舶は七百十七隻で百三十一万六千噸という貧弱さである、と同時にそもそもロシア海運には市場性が乏しい、これまで日本の荷主がロシア船に荷物を載せたという話も聞かないし海運界でもロシア船にチャーターした例はない、それは何故かというにロシアでは小型の沿岸就航路を除いてはデットウエイト五〇噸以上または十五馬力以上の発動機を有する船は全部国有になっているからである

Escout 結局市場性を持っていないため今度の独ソ開戦でも海運界には切実に響いて来ないのである、それではソ連の海運とは如何なるものか?という点について見るに、一九二八年に於て二百二十二隻、三十三万五千噸だったものが一九三二年には三百五十二隻で八十六万七千噸、一九三九年には七百十七隻で百三十一万六千噸と、約十一ケ年間に頻繁に於て約四倍に増加しているが、その内容について見れば老朽船が多く大して進歩していない、これらの増加した船は外国から購入した古船であるため性能が頗る悪く、近来性能がよいとされているモーター船にしてもその所有船腹の四分の一に過ぎない

次にソ連の船舶がどういう方面に就航していたかという点では統計がなく詳かではないが極東配船は浦塩[斯徳][Vladivostok]を中心として約十万噸位であろうか、浦塩[斯徳][Vladivostok]はいま軍用に供されているので十分な修繕が出来ないので、入□は主として上海で行っている、一時は五隻も上海のドックに入っていたこともあるが、これらの船舶は大体フィリッピンから浦塩[斯徳][Vladivostok]の砂糖輸送に当っているわけで、東洋海運への協力は認められない

なお黒海の方面には相当配給している、貨物船並に客船百五十隻で四十二万噸、タンカーが二十八隻で十三万噸合計五十万噸位配給している そして黒海からボスボラス海峡[Bosporus]を抜けて地中海、欧洲方面の貿易に従事している [図表(ソ連の輸出貿易)あり 省略]

右の表でも判るように一九三八年の輸出先の順位を見るに英一位、スペイン二位、米国三位となっているがそれが今次大戦勃発の一九三九年には米国が一位、英国が二位、伊太利が三位と変り更に昨年になると米国及びギリシャに出したのみで英国、伊太利(イタリー)への出荷は全く無くなっている、それはいうまでもなく地中海作戦の結果であって、この方面に於けるソ連海運の力は十分発揮出来なくなっている、この他、バルト海[Baltic Sea]、白海方面に就航している船舶もあろうがお国柄のこととて詳細な材料を得ることは困難である、また自国荷自国船主義でやっているのとその所有船が前記のように大したものでないということからソ連海運の市場性に欠けていることが判るわけである。

図(右):1943年頃,Arms For Russia「ロシアへの武器援助」アメリカあるいはイギリスから、船積みされるアメリカ・イギリス製の軍事物資を輸送するイギリス船とそれを空中援護するソ連空軍戦闘機のポスター:「偉大なイギリスの輸送船団が、ソ連の戦闘機に護衛されてソ連のムルマンスク港に航行する。赤軍に対する大量の供給物資を積んで。」白波を立てて航行する手前の艦船は艦尾にイギリス海軍機ホワイト・エンサイン(White Ensign)を掲げ、甲板に爆雷を2条の爆雷投射機に搭載している。空中を3機編隊のポリカルポフI-16のようなソ連戦闘機、撃墜炎上するのはドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-111双発爆撃機のようだ。
Creator Blake Place made Great Britain, United Kingdom Materials Support: paper medium: lithograph Dimensions Support: Height 328 mm., Width 202 mm. Catalogue number Art.IWM PST 19598
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 19598)引用。


(二)世界注目の的ムルマンスク[Murmansk]インデイグルカの新航路開拓

ソ連海運について頗る興味を惹かれる点が一つある、それはソ連の北氷洋航路の開拓である、即ちソ連は一九三七年に本航路の開拓を試みたが、その年は失敗に終ったその後砕氷船[Icebreaker]の建造、見張所の設置、航空機による氷上偵察、探検船の派遣等によって極力新航路の開拓に努めた結果一九三九年−四〇年には相当効果を挙げたようである、然し北氷洋航路の利用期間はせいぜい七月から十月までの季節なので、それ以外のシーズンに於てもこれを利用し得るよう熱心に研究を進めているようである、ところでソ連は北氷洋開拓[Arctic Ocean]により如何なる利益を得るかというに、これまでヨーロッパ・ロシアから浦塩への荷物の輸送はシベリヤ鉄道にするほかなかったものが、この航路の開拓が成功した□には白海のアルハンゲルスク[Arkhangelsk-]からムルマンスク[Murmansk]を経由して浦塩[Vladivostok]に到る直航航路が拓け非常な利便を得ることになる、いまその一例を挙げると

インデイグルカ[Indigirka]地方への荷物は欧露から全部浦塩[Vladivostok]まで鉄路で輸送され浦塩[Vladivostok]から船によってベーリング海峡[Bering Strait]を抜けコリマ河口まで運びここから陸路インデイグルカまで運んでいたものが新航路によるとムルマンスク[Murmansk]からインデイグルカまで直航して荷物が持って行けるということだ、日数、費用の点でも大いにセーヴ出来るわけで、これは非常な利益をもたらすことになる、現今のように地中海航路が危険に瀕していて欧路からアジア・ロシアへの荷物の輸送が困難なるとき、この新航路の開拓が世界の注目の的になっていることはいうまでもなかろう、あのネバリの強いロシアのことであるから、近き将来にはその計画に或る程度目鼻をつけることであろうから我国としても無関心たり得ない次第である

図(右):1943年頃,BRITAIN'S SEA POWER IS YOURS! 「英国の海軍力はあなたのものだ」アメリカあるいはイギリスから、船積みされるアメリカ・イギリス製の軍事物資を輸送するイギリス船とそれを空中援護するソ連空軍戦闘機のポスター:イギリス国旗を掲げた多数の大型輸送船と護衛艦が大量の物資を輸送し、国力を維持し、兵力を海外のどの方面にも派遣することができる、ということを視覚的に示している。
text: BRITAIN'S SEA POWER IS YOURS! SIG OFF MAG ADM MAG BRIT [Translation: Official Seal of His Britannic Majesty's Admiralty] ISSUED BY THE ADMIRALTY ROWLAND HILDER C.N.I. 621/45. ISSUED BY THE ADMIRALTY. PRINTED FOR H.M. STATIONERY OFFICE BY CHROMOWORKS, LTD., LONDON. 51-1607. Date between 1939 and 1945 Dimensions Support: Height 506 mm., Width 755 mm. Catalogue number Art.IWM PST 14011
写真は,Imperial War Museum IWM (Art.IWM PST 14011)引用。


独ソ開戦と同時に英国政府は援ソを表明し続いて米国も同様の声明を公にした、だが海運界から見て果して英米両国が実際にソ連を援助し得るか、この点について一考してみたい、先ず順序として英米両国の海運力の実勢について検討を要するであろう

第一次欧州大戦当時の英国の所有船舶は二千百万噸、米国は五百二十六万噸で、その当時の世界の全船腹は四千九百万噸であった、而してその当時の英国の船腹噸数は全世界の四三%を占めていた、それが一九三九年には英国二千百二十一万噸、米国一千百八十七万噸、その他の諸国を合せて六千四百四十四万噸となり、英国の所有船舶と全世界船腹の比率は三一%に下落し前大戦時に比しその船舶所有噸数は大差なしとして他の列国はその間に相当船腹の増加を見ているに対し英国は少しも増加していない

なお英国所有船舶の内容を検討して見るに一九一四年には客船四八隻、タンカー百噸で四隻、貨物船五千九百三十一隻であったのに対し今次大戦勃発の一九三九年には客船八十五隻、タンカー三百五十隻に増加したが貨物船は四千噸で三九隻、逆に一千八百九十二隻も減少している、戦時体制下にあっては最も貨物船を必要とするのはいうまでもないことである、即ち英国は今次大戦に於ても第一次大戦の時と同じようにロイド・ジョージをして一にも船、二にも船、三にも船、と叫ばしめ深刻なる船腹不足を喞たしめ米国の援助を希っているような次第である、英国は今次大戦勃発とともに左記の船舶をその傘下に収めた

The Liberty Ships ▼オランダ船(三〇〇万噸)
▼ベルギー船(四〇万噸)
▼ポーランド船(一〇万噸)
▼ドゴール派仏船(三五万噸)
▼デンマーク船(三四万噸)
▼ギリシャ船其他(一六五万噸)
▼独伊の拿捕船(四二万噸)

これに米国から購入の古船七十万噸等で合計一千七十六万噸であるこれに英国自身の所有船舶及びその間の新造船を加えると大体三千二、三百万噸の船腹を持っていたわけである

(三)輸送力の低下船腹不足に悩む英国

今次欧洲大戦による英国側船舶の喪失数は独逸と英国の発表ではそれぞれ相当差違があるが大体その中間をとって約七百万噸と見ることが出来る、とすれば戦前の英国□船腹三千三百万噸として差引二千六百万噸が現在数である、だがその中には軍用に徴用されているものもあり、また喪失しないまでも損傷して入渠しているものもあるとすれば英国自身が必要とする物資輸送の不円滑には相当悩み深いものがあろうと想像される、殊に戦前英国の出入貨物は大体その五割を自国船、その残り五割は外国船に依存していた関係から最近の如く外国船が英国向け就航をなし得なくなった実情では英国の船腹の不足の悩みは更に深刻なものがあろう

また英国船及びその傘下の連合国船腹は前記の如く未だ相当噸数を有しているように見られるが、その輸送力は非常に低下している、何故なら英国への輸送船は全部コンヴォイ・システムで運航されているので或る程度の船国が出来るまで待合わさねばならない

その船国中で最も低いスピード船に調子を合わせて航行する要もあり、その上独逸の潜航艇[U-boat]を避けるためジグザッグのコースをとるためその輸送能力は非常に低いものである、なお英国自身の造船能力も独逸の空爆によって各所の造船所が傷められ、これを免れた造船所は軍用に使用され且夜間ブラックアウリクのため十分能力を揚げ得ない実情にあるから、これらの諸点よりして新造船は殆ど期待出来ないという始末である、謂わば英国海運は米国の輸血に俟って、どうにかその使命を果すことが出来る重病患者の如きものだ、この重病患者が援ソなどとは到底及びもつかぬことである、次に米国であるが、米国海軍に果して反ソ能力ありや?それについて米国海運の状態を□って見よう

Liberty Ship 米国は援英のために既に百二十万噸程度のものを英国に譲渡しており本年一月現在の所有船腹は海洋船四八三万噸、五大湖及び河川船二三四万噸、タンカー二六四万噸、合計九百八十一万噸しか持っていない状態である、然かも米国は戦前同国需要貨物の三〇%しか自国船で運ぶことが出来ず残り七〇%は外国船に依存していた、

然るに既に古船とはいえ百二十万噸程度の船腹を英国のために割愛譲渡し、なお援英二百万噸プール案があり益々船腹を必要としている現状にあり、我国でも馴染み深いプレジデント・ライン[American President Lines]なども姿を消すという窮迫した有様である更らに米国自身が二百万の軍拡並に両洋艦隊[Two-Ocean Navy]建造のために資材その他□を要するものが多く同国の船腹不足も亦頗る深刻なるものがある、そこで米国は去る六月六日附大統領令を以て左の如き外国船接収の強硬手段に出たのである [図表有り 省略]

また自国船の運航能率を上げるため従来南洋よりの重要物資はパナマ[運河]経由太平洋岸に送っていたものを太平洋岸に揚げて、これを鉄路大西洋岸に送る方法をとり、また自国船並に外国船に対してシップス・ラワラント制[一定価格(権利行使価格)で事前に定期間内に船舶を購入できる権利]を強行し重要物資積取りに大□の有様である、即ち米国自身も援英輸血と自国の軍拡に必要な船腹にすら不足し貧血症にかかっているような状態である、この貧血症の米国が今また援ソに船を出すなどということは全く不可能であり「米国の援ソは英国の”怨訴”」と洒落にもならぬ結果を招くこと必定である、斯く観るとき、英米の援ソは声ばかりで海軍界に関する限りその内容は全くの夢といわざるを得ない

米国の所有船舶の内容を見るに五年未満のもの五十八万噸、五年以上十年未満のもの五十五万噸、十年以上十五年未満のもの五十八万五千噸、十五年以上二十年未満のもの三百二十万噸、二十年以上二十五年未満のもの三百五十七万噸、二十五年以上のもの二百七十八万噸という状態で、その所有船舶の八五%以上が十五年以上の老朽船であるそこで米国としては何等かの方法を以て優秀船を入替えねばならぬ必要に迫られているわけで、先ず一九三七年には船舶奨励法により十ケ年計画として左記の如き計画を樹てたのである [図表あり 省略]

右のほか昨年十二月援英の目的で英国政府注文の六十隻を引き受けたまた米国自身がこの急場をしのぐため所轄アグリー・ラクリイング武器貸与法案によって百四十二隻の新造船を引受け、また米国自身その西岸から出る油をその消費地の東岸へ送るため高速タンカーを七十二隻其他M・C規格船の優秀船二十八隻の新造船計画を樹てている、最近の発表によれば一九四一年に百二十五万噸、四二年に三百五十万噸、四三年に五百万噸合計九百七十五万噸を新造すると発表しているのである

Airacobras: Soviet Aces 然し他方別記の如く米国両洋艦隊建造[Two-Ocean Navy]のため現在ではドックの七〇%が海軍に使用されており、従って斯る尨大な造船計画を実行するには先ず造船□の増加がはからねばならない、第一次大戦末には四百四十隻の造船台を所有し年間三百五十八万噸の造船能力を持っていたとはいわれ、これが戦後海運界の不況のため相当台数放棄され昨年の調査では使用中のもの百台、休止中のもの十噸と減少している

そこで最近造船台の急造を計画し百七台の追加が発表されているようなわけである、これら造船台が完成した暁には相当の造船能力が発□されるものと想像される、この際東亜共栄圏の指導者としての日本海運というものを静かに考えて見る必要がある、一九三九年に於ける我国の全所有船舶は二千三百三十七隻で総噸数五百六十三万噸、世界第三位の海運国である、日本海運が今日にまで発展した経路をふりかえってみると次の如く戦争ごとに伸張している

即ち日清戦争前十六万噸だったのが戦後には三十六万噸、日露戦前五十万噸が戦後百万噸また第一次欧洲大戦前百五十万噸が戦後三百万噸にといった調子で目覚しい増加を示している、そこで今次欧洲大戦後の日本の海運も同様で飛躍するものと期待される、、また東亜共栄圏の海運を□当するものとしても是非船腹増加をはからねばならない

昭和十一年の東亜共栄圏内の貿易□を見ると三千九百六十四万噸である、これを日本の船腹で賄うには少くとも一千万噸から一千五百万噸の船腹を必要とするのであるこの限度にまで船腹の増加をはかるには巨額の資金と資材とを必要とすることはいうまでもない次第で我国海運界の当事者は今後に備えるため頗る慎重を要するわけである、殊に今次大戦終了後に於ける独逸の電撃的な海運の整備、また他方大設備を完了せる米国の海運□充と思い合すとき、我海運の将来の使命は更に更に重きを加えるのである、本題の結論としてソ連の海運は前にも詳記した如く同国海運の船舶は民有を許さず全部国有であり、且つ自国荷自国船主義であり、同国がこの方針を変えない限り、またその港湾の偏在している点より見て将来のソ連海運の発展は大して問題にさるべきものではないといえる。(完)(独ソ戦と世界海運 (一〜三) 著者 太田健一 談 大阪商船遠洋課次長引用終わり)

Stalin ヨシフ・スターリンСталин Иосиф Виссарионович)は、予想に反して同一の攻撃を受け狼狽したが、イギリス・アメリカから軍事援助をするとの申し出を受けることができた。そこで、石油資源確保、アメリカからの軍事援助ルートペルシャ回廊確保の目的で、枢軸国寄りだったイランに派兵し、イギリスと共謀して占領した。

ドイツは、ソ連北部のレニングラード、中部のモスクワ、南部の穀倉・工業地域ウクライナへの侵攻を始めたために、ソ連に対する英米の軍事援助は、ノルウェー沖を北極海で迂回して、ソ連北西部の不凍港ムルマンスクアルハンゲリスクへの海上輸送ルート、アリューシャン海峡を超えるアラスカ空輸ルート、極東ウラジ・オストークへの太平洋海上ルート、そして、ペルシャ湾アバダンAbadan)・イランを経由する中東ルートがあった。

中東はイギリス支配下にあるとはいっても、エジプト、イラク、イランとも反イギリスの動きが潜伏しておた。ナショナリズムの下で、反英活動も起こっていた。特に、イランにはイギリス系のアングロ・イラニアン石油会社があり、ペルシャ湾岸のアバダンAbadan)は、油田としても港湾としての重要な場所だった。ソ連にとっては、イラン北のカスピ海、コーカサスには、バクー油田など石油産地が控えており、ドイツの侵攻によって、イランの影響力が拡大する恐れがあった。そこでイギリスとソ連は、ペルシャ回廊を通じた中東ルートを確保するために、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍事侵攻した。これが、カウンタナンス作戦Operation Countenance)基づく、英ソによるイラン進駐である。イギリスでは、カウンタナンス作戦(Operation Countenance)として、実行され、作戦目的は、イギリスの利権がある中東油田の確保、ソビエト連邦への軍事援助ルートの確保である。

2−3.米、二百隻商船引揚 : 対英物資輸送に動員 大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 31 出版年 1941-07-26

【ワシントン二十四日発同盟】アメリカ海事委員会首脳部は二十四日下院予算委員会の席上、米国商船の配船を変更し、合計百万トンに達する二百隻の商船を国内航路から引揚げ、対英物資輸送に当らせることとなったとつぎのごとく発表した

一、海事委員会は合計百万トンに達する二百隻の商船を対英物資輸送に当らせるため国内航路から引揚げることとなったが、右はすでに一部は実施しており残余も近く実施するはずである、

しかしこれでも武器貸与法にもとづく対英軍需品の引渡しを行うためには不足で、なお二百三十万トンの船腹を北大西洋に回航せしめる必要がある、また武器貸与法にもとづき対英石油輸送のため大西洋を往復する油槽船隊にも国内航路に従事する油槽船から約六十万トンを引揚げたが、重慶政権援助を効果あらしめるためにはさらに四十五万トンの油槽船を必要とする(米、二百隻商船引揚 : 対英物資輸送に動員引用終わり)


シャーマン戦車 第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。

第1段階は、1935–1939年の中立法Neutrality Acts)で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスであった、ドイツ、イタリアという枢軸国は、貿易の障害が大きかった。

第2段階は、アメリカの駆逐艦・基地交換協定Destroyers-for-bases deal)をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス基地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定およびアメリカの旧式駆逐艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。

第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これが1941年3月の武器貸与法Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。

US. 1/4TON M38A1 1945年9月に武器貸与法Lend-Lease Act)が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。

40万台のウィリス M38ジーブWillys M38)、ホワイト 666トラックWhite 666 Truck)などの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M4(Sherman)中戦車M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車、イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料

武器貸与法の国別援助額は、イギリス310億ドル64.0%、ソ連110億ドル22.7%、フランス32億ドル7.5%、中国16億ドル3.3%で、過半はイギリスへの援助である。

ソ連赤軍 原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,588機で、4,719機(49.2%)のP-39がソ連への貸与機である。

発展型のベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機で、2400機(72.7%)のP-63がソ連への貸与機である。

したがって、P-39とP-63の合計生産数1万2891機のうち、ソ連への貸与機は7119機と55.2%が、武器貸与法に基づいて、ソ連の軍事援助に充てられた。さらに、フランス軍にもP-63戦闘機300機を貸与している。したがって、ベル飛行機社は、アメリカ陸軍では需要が少なかったP-39、P-63戦闘機が大量生産し、武器貸与法によってソ連に輸出して、アメリカ政府からの支払いを受け膨大な収益を得たことになる。性能的に不十分とされた戦闘機をベル社が大量生産し、ソ連に輸出し儲けることができたのは僥倖だった。


2−4.英・米打解けぬ悩み : 貿易問題で葛藤表面化
大阪毎日新聞 Vol: 第c補巻 Page: 46 出版年 1941-11-30

Anthony Eden 【ロンドン本社特電二十八日発】九月十日イーデン[Anthony Eden]外相が[John G. Winant]米大使に対し英国の輸出政策について覚書を提出して以来英の輸出問題は□りつづけ輸出業者は機会あるごとに政府に陳情を続けているが、統計学者は二十八日紙上で英の輸出政策について次ぎの如き諸点を論じ米国との□藤を表面化した

一、英の輸出は二つの点で危機に瀕している、一は英が戦争している以外に米に市場を奪われてしまうことであり、もう一つは戦後の輸出戦に乗出したときには戦争の疲弊で対等の競争が出来ぬことである

一、英はイーデン[Anthony Eden]外相の覚書により米の武器貸与法物資に関連して輸出制限で自らを束縛したが米国の方からこれに応じて戦争中に漁夫の利を占めないとの保障は受けていない

一、戦後債務国たる英国が海外市場を失って危機に瀕するのは債権国たる米国の利益にも反するから米国としては武器貸与法物資の輸出制限を緩和するとともに戦争中に英国の市場を全部奪わないことを保障するのが賢明であろう、

これは業者の意見を代弁したものであるが政府は依然として米国への気兼からむしろ輸出制限をさらに強化して行く意向のごとく二十七日にジョンストン貿易省次官は新聞記者との会見で英国の輸出政策がイーデン[Anthony Eden]外相覚書の線に沿って行われることを強調「武器貸与援助を受けている結果、英国輸出業者は武器貸与法物資を緊急目的以外に濫用したり米国の業者と競争するために使ってはならぬ義務を負担するものだ」と説明し「戦時の輸出問題は幾何輸出したかではなく、戦争目的を遂行するため幾何輸出せねばならぬかである」と論じた、

ジョンストン次官はさらに英国商品の海外における広告にまで言及し「英国商品の名声を保持し海外市場を護るために英国商品の広告を続けるのは必要であるが戦争中は注文をうけることができぬという但書をつけておいて米国業者の猜疑を避けるべきであろう」という細かい注意まで与えた、

これは最近米国の雑誌に英国製のARB消化ポンプの公告が現れたところが英国はポンプまで輸出出来る余裕があるのなら武器貸与物資をやる必要はないだろうと非難の声をあげたのに鑑みたものである、利害相反する英米の業者の中に立って政府が如何に輸出政策を指導して行くかは今後ますます注目すべき問題である(英・米打解けぬ悩み : 貿易問題で葛藤表面化引用終わり)

図(右):1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別重量(トン)
Lend-Lease sent 17 million tonnes of ammunition, food, fuel, weapons, tanks, airplanes and even railroad locomotives to the USSR during the Second World War—most of it from the USA. This episode describes how the icon of capitalism saved the workers' and peasants' paradise from fascism. .
写真はNational WWII Museum New Orleans,Lend Lease: The USAs lifeline to the USSR Map1引用。


バレンタイン戦車Mk.IV 武器貸与法によるアメリカからの軍事物資援助は、1941−1945年の期間に行われた。援助物資は、重量にして1750万トン、金額にして484億ドルー501億ドル相当が38か国に貸与された。被援助国別内訳は、イギリス310億ドル64.0%、ソ連110億ドル22.7%、フランス32億ドル7.5%、中国16億ドル3.3%、オランダ2.5億ドル、ベルギー1.6億ドルなど合計38か国へ軍事物資の貸与がなされた。軍事援助物の重量は1750万トンだが、期間別内訳は1941年2.1%、1942年14.0%、1943年27.4%、1944年35.5%、1945年21.0%で、援助が本格化したのは大戦中期1943年以降である。

武器貸与法のアメリカの軍事援助額は、国別では22.7%がソ連向けだった。時期は、1941−1942年よりも1943年から急増した。1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別の重量(トン)は、太平洋=沿海州航路が824.4万トン(到着率99%)、太平洋=北極海航路が45.2万トン(93%)、大西洋=ペルシャ湾航路が416万トン(96%)、大西洋=地中海=黒海航路が68.1万トン(99%)、大西洋=北極海航路が396.4万トン(到着率100%)である。


3.リバティー船(Liberty Ship)の大量建造

写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)用の鋼板切断作業
Title Shipbuilding. "Liberty" ships. This is a travograph-oxy-acetylene machine, a cutter which treads its own pattern. Here it is cutting two identical floor plates for a tank section at the bottom of a new member of the "Liberty Fleet." The work is done at what was formerly a freight car plant now a large Eastern plant. All parts are prefabricated in this huge Eastern plant which formerly turned out freight cars. The completed sections are then carried six miles to the ways on flatcars. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002425 [P&P] LOT 2069引用。


写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造中のリバティー船(Liberty Ship):リバティ船が造船所の通路の間の船台上にあり、建造中の船の甲板に持ち上げる資材や部品を運ぶ平底貨物車が、鉄道線路上を移動している。
Title Shipbuilding. "Liberty" ships. Between the ways of this large Eastern shipyard run tracks for flat cars carrying materials or sections to be hoisted onto the decks of ships under construction Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress Reproduction Number LC-DIG-fsa-8e10847 引用。


写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)の船体:建造中の船体の脇には、その追加部品が置かれている。船台で、部品や資材の到着を待っている時間が短縮するために、商船一部を吊り上げて、所定の位置に据え付けられる準備が整っている。プレハブのタンクとデッキが組み立て中である。
Title Shipbuilding. "Liberty" ships. Here are prefabricated tanks and deck girder sections ready to be hoisted up and set in their place in one of the new merchant ships under construction in a large Eastern shipyard. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office for Emergency Management. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002339 [P&P] LOT 2069引用。


写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)中期工程:建造中の手前のリバティ船は、大規模な造船所で完成間近である。背景には、アメリカを海の覇者にするために、造船所が稼働しており、造船所労働者用の足場とクレーンが並んでいる。
Title Shipbuilding. "Liberty" ships. This is the midship section of a new member of the Liberty Fleet, nearing completion at a large shipyard. In the background is a maze of scaffolding and cranes typical of the scene in many large American shipyards as builders work to make Uncle Sam master of the seas Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002375 [P&P] LOT 2069 引用。


写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所のリバティー船(Liberty Ship)建造:東部造船所の従来型の進水台を海上から眺めた風景。左側には、上下・左右2方向天井クレーンが設置されている。他方、右側には地上の軌道のあらゆる地点を選んで吊り上げられるように設計されたより新型自在型クレーンが設けられている。
Title Title Shipbuilding. "Liberty" ships. A view from the water of the shipways at a large Eastern yard. At the left is seen the old-style superstructure, with tracks for two-way overhead cranes, while at the right, running on ground tracks, are the more modern cranes, designed for hoisting from any angle. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office for Emergency Management. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6-D-002371 (b&w film neg.) 引用。


アメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)は、1943年には、造船所の船台(ドック)に竜骨(キール)を据えるけてから105日間で完成した。ブロック建造方式は、船台(ドック)のある造船所を長期間占有することなく、短期間に建造することができた。しかし、船員の訓練は、船舶の建造のようには簡単にはいかなかった。

写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship):手前は、従来型の上下・左右移動式の2方向天井クレーンだが、後方には自在型クレーンが配置されている。
Title Title Shipbuilding. "Liberty" ships. In the foreground is the track of a two-direction overhead crane, while in the background may be seen more flexible modern cranes. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office for Emergency Management. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-DIG-fsa-8e10852 (digital file from original neg.) LC-USE6-D-002363 (b&w film nitrate neg.) 引用。


写真(右)1941年後半以降、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造された2隻のリバティー船(Liberty Ship)「リチャード・ヘンリー・リー」(SS Richard Henry Lee)[左]と「ジョン・ランドルフ」(SS John Randolph)[右] :プレハブ工法で船体を電気溶接でブロック組立し、進水させてから岸壁で艤装を完成する。リバティー船(Liberty Ship)の建造は、計画2,751隻、竣工2,710隻である。
Title Shipbuilding. "Liberty" ships. Here are two members of the Liberty Fleet lying at anchor in the basin of a large Eastern shipyard. Bethlehem-Fairfield Shipyards Inc., Baltimore, Maryland Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1941? Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002340 [P&P] LOT 2069 および Wikimedia Commons,Category:Richard Henry Lee (ship, 1942) File:Liberty ship construction 14 fitting out.jpg引用。
引用。

リバティー船(Liberty Ship)EC2-S-C1「リチャード・ヘンリー・リー」( SS Richard Henry Lee)の経歴
起工 1941年7月15日(メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所)
進水 1941年12月6日
竣工 1942年2月20日
モスボール保管船 1942年6月6日

リバティー船(Liberty Ship)EC2-S-C1「ジョン・ランドルフ」( SS John Randolph)の経歴と諸元
起工 1941年7月15日(メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所)
進水 1941年12月30日
竣工 1942年2月27日
撃沈 1942年7月5日(ソ連ムルマンスク発コンボイQP-13に加わりアイスランド沖で霧の中で自軍の機雷に接触)
全長  441 feet 6 inches (135 m)
全幅 57 feet (17 m)
吃水 27 ft 9.25 in (8.4646 m)
機関 2,500 hp 1軸スクリュー
排水量 10,865 ロングトン
総トン数 7,176トン
速力 11.5 ノット
船員 38–62名 USMM
兵士 21–40名 USNAG
船首 3 インチ(76.2 mm)50口径砲1門
船尾 4 インチ(102 mm)/50口径砲1門
20 mmエリコン(Oerlikon)単装対空機関銃(AA)2−8丁
あるいは37 mm ブローニングM1対空機関銃2−8丁

写真(右)1941年後半以降、アメリカ東岸、メイン州カンバーランランド、ポートランド フェアフィールド造船所で建造された2隻のリバティー船(Liberty Ship):ニューイングランドの造船所でレンドリース方式で建造された 5 隻のイギリス貨物船の一部。1942年8月16日、記録破りの大量進水式で 2隻の駆逐艦と1隻のリバティー船がとともに進水した。
Title Ship launching in Portland, Maine. Some of the five British cargo-carrying ships built under lend-lease at a large New England yard and launched along with two destroyers and one liberty ship at a record breaking mass launching August 16, 1942 Names Freeman, Albert, photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Aug. Headings - United States--Maine--Cumberland County--Portland
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002340 [P&P] LOT 2069 引用。


リバティー船Liberty Ship)は、アメリカの18造船所で、1隻当たり建造費200万ドル (2024年換算4300万ドル相当)で、1941-1945年に2,751隻が計画され、 平均して2日に3隻、合計2,710隻が竣工した。

写真(右)1941年12月6日、アメリカ南東岸、ノースカロライナ州ウィルミントン、ノースカロライナ造船所、リバティー船(Liberty Ship)造船所におけるリバティ船 USS ゼブロン B. ヴァンスの進水:ブロック製造から造船所での組立て、進水後の艤装完了まで僅か1年で竣工した。船台に於ける竜骨(キール)据付けから進水までは90日間だった。ただし、これはリバティー船の建造当初1941年の時期で、1943年には線でい据付けから進水まで1カ月とかからなかった。10,000 トンの「バージニア デア」型には90隻の姉妹船が建造された。
Title Launching of 10,000 ton ships. The first of 90 sister ships to be built for the Maritime Commission slides off the dock into the Atlantic. Launched just one year from the time construction work started on the shipyards, this 10,000 ton vessel is of the "Virginia Dare" type. In the future these ships will slide down the runway at the rate of one per week. From laying of keel to launching takes only 90 days Summary Photo shows the launch of the liberty ship the USS Zebulon B. Vance on Dec. 6, 1941, by the North Carolina Shipbuilding Company, in Wilmington, NC. (Source: C. Seavey, 2017) Created / Published [1941 December 6]
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-010602 [P&P] LOT 3452引用。


Liberty Ship リバティー船(Liberty Ship)「バージニア デア」型(SS Virginia Dare)の諸元
トン数Tonnage 7,000 long tons deadweight (DWT)
全長Length 441 ft 6 in (134.57 m)
全幅Beam 56 ft 11 in (17.35 m)
吃水Draft 27 ft 9 in (8.46 m)
機関Propulsion 重油罐2基Two oil-fired boilers
蒸気機関Triple expansion steam engine
短軸スクリュー1基Single screw
2,500 hp (1,864 kW)
速力Speed 11 knots (20 km/h; 13 mph)
積載量Capacity 9,140 tons cargo
乗員Complement 41人
兵装Armament 1 × Stern-mounted 4 in (100 mm) deck gun
AA guns

写真(右)1942年9月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)用の鋼板の鉄道による運搬作業:工場で加工された鋼板を鉄道に乗せて造船所まで運搬する。これらの部品は、クレーンで船台に吊り下げて設置位置に下ろされる。
Title Construction of the liberty ship "Booker T. Washington." This general view of three shipways at the California Shipbuilding Corporation's yards shows three sister ships of the "Booker T. Washington," first liberty ship named for a Negro, being rushed to completion Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Sept.
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002417 [P&P] LOT 2069引用。


写真(右)1942年9月、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で建造中のリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の艤装作業:初めて黒人の名前を付けたリバティー船として竣工する。手前は、従来型の上下・左右移動式の2方向天井クレーンだが、後方には自在型クレーンが配置されている。
Title Construction of the liberty ship "Booker T. Washington." The "Booker T. Washington," first liberty ship to be named for a Negro, is shown being rushed to completion on one of the ways of the California Shipbuilding Corporation Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Sept.- United States--California--Los Angeles County--Wilmington
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-006120 [P&P]引用。


写真(右)1942年9月29日、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で進水したリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の艤装作業:リバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントンは、カリフォルニア造船所で進水した初めての黒人名称のリバティー船で、進水後は岸壁で船内の艤装作業をしている。船台で艤装をすると、船台使用期間が長くなり、その間に新造船の建造が遅れてしまう。そこで、早期に進水させて、船台を開け、船舶の新造を促進した。
Title Production. Launching of the SS Booker T. Washington. The SS Booker T Washington, first Liberty Ship named for a Negro slides down the ways at the Wilmington yards of the California Shipbuilding Corporation at its launching on September 29, 1942 Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Sept. 29. Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress  LC-USE6-D-007659 (b&w film neg.)引用。


リバティー船(Liberty Ship)の船名として初めての黒人名称が使用されたブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington:1856-1915)は、バージニア州フランクリン郡ヘイルズ・フォードで生まれで、奴隷解放後、バージニア州ハンプトンに設立された教員養成学校で学んだ。その後、黒人(アフリカ系アメリカ人)と白人の宥和を唱え、調停者として活動した。これは、資産家からの寄付を基盤にした慈善活動で、黒人への学校教育の普及、職業訓練校・高等教育への進学を支援した。

写真(右)1942年9月29日、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で進水したリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の艤装作業:周囲には自在型クレーンが配置されている。
Title Production. Launching of the SS Booker T. Washington. First Liberty Ship named for a Negro, the SS Booker T. Washington is shown at the California Shipbuilding Corporation's yards a short time before it was christened by Marian Anderson, the celebrated contralto. The cargo vessel was placed in command of Captain Hugh Mulzac, a Negro skipper Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Sept. 29. - United States--California--Los Angeles County--Wilmington
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-007647 [P&P] 引用。


Booker Taliaferro Washington ブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington:1856-1915)は、1900年にボストンに全米黒人実業連盟(The National Negro Business League, NNBL)を設立したが、これは全米最古の実業団体として、黒人の経済的な自立を支援することを目的としていた。 全国黒人実業連盟は創立の翌年にニューヨークで法人化され、10年足らずの間に全米各地に320の支部を設立した。この連盟には企業経営者、医者、弁護士、農場経営者、職人など、様々な専門家が加盟した。

全米黒人実業連盟(The National Negro Business League, NNBL)創始者ブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington:1856-1915)は、人種差別の解消のためには、黒人の経済的自立が必要であるとした。そこで、連盟は「商売と資金の両面で黒人が向上することを支援する」としたのである。

20世紀にはいると、ブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington:1856-1915)は、セオドア・ルーズベルト大統領のゲストとしてホワイトハウスに招待されたり、石油精製施設経営者・鉄道会社オーナーのヘンリー・H・ロジャーズの支援を受けたりして、黒人の生活水準向上に尽力した。1940年4月7日、ブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington)を記念する切手が発行されたが、これはアメリカ史上初の黒人切手となった。

写真(右)1942年9月29日、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で進水したリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の艤装作業:初めて黒人の名前を付けたリバティー船として竣工する。手前は、従来型の上下・左右移動式の2方向天井クレーンだが、後方には自在型クレーンが配置されている。
Title Production. Launching of the SS Booker T. Washington. First Liberty Ship named for a Negro, the SS Booker T. Washington is shown at the California Shipbuilding Corporation's yards a short time before it was christened by Marian Anderson, the celebrated contralto. The cargo vessel was placed in command of Captain Hugh Mulzac, a Negro skipper. Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information. Created / Published 1942 Sept. 29.- United States--California--Los Angeles County--Wilmington
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-007648 [P&P] 引用。


ブッカー・T・ワシントン (Booker Taliaferro Washington)が、20世紀前半のアメリカで評価された理由は、黒人の生活改善に尽力するにとどめ、参政権や白人との平等など政治的権利を超え高に主張しなかった点にある。第二次大戦中は、黒人の労働力、兵士としての動員が課題となっており、アメリカ政府も軍も、そして軍需生産を支えている大企業も、アメリカ国内の黒人の協力を必要としていたのである。

写真(右)1942年9月29日、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で進水したリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の艤装作業:周囲には自在型クレーンが配置されている。リバティー船(Liberty Ship)は、2,751隻が計画されたが、竣工したのは2,710隻である。
Title Production. Launching of the SS Booker T. Washington. The SS Booker T. Washington, first Liberty Ship named for a Negro is shown at the California Shipbuilding Corporation's yards. Marian Anderson, celebrated contralto, christened the ship which was named for the noted Negro educator Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office for Emergency Management. Created / Published 1942 Sept. 29. Headings - United States--California--Los Angeles County--Wilmington
写真は, Library of Congress  LC-USE6-D-007665 (b&w film neg.)引用。


Montford Point ノース・カロライナ州 ジャクソンビル(Jacksonville)に、モントフォード・ポイント・キャンプCamp Montford Point)の海兵基地が設けられ、1942年8月26日から, 1949年9月9日まで活動した。そして、1942年以来、2万人以上の黒人が訓練を受け、海兵隊員となったのである。

こうして、1942年以降、キャンプ・モントフォード・ポイントCamp Montford Point)で訓練を受けて誕生した黒人海兵隊員は、「モントフォード・ポインターズ」と呼ばれるようになった。当時、アメリカ軍では、人種を分離して部隊編成していたのである。黒人を差別して黒人部隊としたが、第二次大戦後の1948年にハリー・S・トルーマン大統領は、軍隊内の人種分離を終わらせる大統領令に署名した。海兵隊は、アフリカ系アメリカ人の入隊が陸海軍で認められたたあとも、入隊を拒否していた。つまり、アメリカ三軍の中では最後の1942年に第二次大戦のアメリカ参戦後になってからやっと入隊が認められたのである。

1974年、キャンプ・モントフォード・ポイントCamp Montford Point)は、訓練教官を務めたアフリカ系アメリカ人上級曹長ギルバート・H・ジョンソンに因んで、キャンプ・ギルバート・H・ジョンソンと改名された。

他方、モントフォード・ポイントはアメリカ海軍モントフォード・ポイント級(Montford Point-class)遠征移送ドックExpeditionary Transfer Dock)の命名に使われた。

写真(右)1942年9月29日、アメリカ東岸、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ウィルミントン、カリフォルニア造船所で進水したリバティー船(Liberty Ship)ブッカー・ワシントン(SS Booker T. Washington)の竣工:岸壁から離れているのは、発動機を駆動しているためで、これから船員の訓練をしてから、「就役」する。
Title Production. Launching of the SS Booker T. Washington. The SS Booker T. Washington, first Liberty Ship named for a Negro is shown at the fitting-out pier a short time after it was launched at the California Shipbuilding Corporation's yards. Marian Anderson, celebrated contralto, christened the ship which was named for the noted Negro educator
Names Palmer, Alfred T., photographer United States. Office of War Information.
Created / Published 1942 Sept. 29.
Headings - World War, 1939-1945--Economic & industrial aspects - Boat & ship industry--1940-1950 - Liberty ships--1940-1950 - United States--California--Los Angeles County--Wilmington
Notes - Actual size of negative is C (approximately 4 x 5 inches).
- Title and other information from caption card.
- Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
- Film copy on SIS roll 41, frame 313.
Medium 1 negative : safety ; 4 x 5 inches or smaller.
写真は, Library of Congress  LC-USE6-D-007663 (b&w film neg.)引用。


2022年8月6日、海兵隊246年の隊の歴史で初めて、黒人の四つ星将軍マイケル・E・ラングリーMichael Elliott Langley)大将が誕生した。海兵隊に四つ星将軍は3人しかいない最高幹部で、就任記念式典は、首都ワシントンの海兵隊会館で開かれた。マイケル・ラングリーMichael Langley)大将は、新たに、地域別統合軍であるアメリカ・アフリカ軍(United States Africa Command:USAFRICOM)司令官に任じられ、式典のあいさつで、第2次世界大戦中にフランクリン・D・ルーズベルトが大統領令で海兵隊の人種制限をなくし、黒人の入隊が認められるようになったことに言及した。それから道を切り開いてきた先人の名をいくつかあげた。

写真(右)1942年10月27日、アメリカ南東岸、1942年10月27日、ルイジアナ州ニューオーリンズのデルタ造船所におけるリバティ船「リッチモンド・マムフォード・ピアソン」の横向き進水:輸送船・商船の進水には船尾から水面に降ろす船尾進水あるいはドック(船渠)内に水を入れて浮上させる浮上進水が一般的である。しかし、ドックの構造によっては、船体を横向きに海上に滑り降ろす横向進水も採用された。1942年10月23日、エジプトのエル・アラメインの戦いの終盤が始まった。ここで、アメリカの武器貸与によって戦車・戦闘機など兵力を増強したイギリス軍に敗れたドイツ・アフリカ軍団を中核とする独伊枢軸同盟軍は、イギリス領エジプトからの撤退、さらに1943年2月イタリア領リビアから、旧フランス領チュニジアまで敗走させられた。
NH 75817 "Liberty" ship RICHMOND MUMFORD PEARSON Summary Description English: Launching, at Delta Shipbuilding Co., New Orleans, Louisiana, 27 October 1942. Date 27 October 1942 Author US Navy
写真はU.S. Navy web site, Naval History and Heritage Command Catalog #: NH 75817引用。


アメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)は、1万級の大型貨物船であるが、1943-1944年には、1隻当たり船台上で105日間で完成させたこともある。1941年から1945年までの短期間のうちに戦時標準商船リバティー船(Liberty Ship)は、2,710隻もが急速建造された。このリバティー船の発展型が巡航速力を向上したビクトリー船Victory Ship)である。しかし、戦争が終結したために、建造数は1944年-1946年に534隻とリベティー船の建造数の20%にとどまった。

アメリカの商船造船所は,戦前に持っていた船舶の4倍の船舶を建造した。こうして,3500隻以上の貨物船と900隻の高速タンカーが就航し,1944年には船舶が運んだ貨物7850万トンの72%を,この戦時標準船の船団が運搬した。欧州や太平洋への航海距離は,1万2000マイルから1万8000マイルに達する。

写真(右)1942−1944年頃、アメリカ南東岸、ジョージア州ブランズウィック・リバティー船(Brunswick Liberty Ship)造船所におけるリバティ船の進水:岸壁には船台から進水した建造中のリバティー船が並んでいる。リバティー船(Liberty Ship)は、2,710隻が竣工した。
English: This historical image shows a Brunswick Liberty Ship launching from port. Courtesy of John Fahey. Source fletc.gov
写真はWikimedia Commons, Category:Liberty ships File:Bwk Liberty Ship Launch.PNG引用。


リバティー船(Liberty Ship)は、建造工期短縮のために船台で半加工のブロック組み立てされたが、これがブロック工法である。また、ブロックを繋ぐには、リベット打ちに代わる電気溶接が導入された。これが溶接工法である。船台上で船体部の組み立てが終わると船台から進水させた。そして、岸壁に移動して、そこで船の艤装を整えた。こうして竣工したリバティー船は、試験航行の後と就役し、船員の訓練を行った。

写真(右)1943年5月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship):ブロック工法で建造されているリバティー船は、重量 3,200 英トン、10,500 トン級の貨物用の戦時標準船である。
Title Baltimore, Maryland. Way no. 8 of the Bethlehem-Fairfield shipyards, showing the Liberty ship Frederick Douglass in its early stage of construction Names Smith, Roger, photographer Created / Published 1943 May. Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress LC-USW3- 024135-C [P&P] LOT 988 引用。


写真(右)1943年5月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造中のリバティー船(Liberty Ship):電気溶接工が作業している。従来型の上下・左右移動式の2方向天井クレーンではなく、自在型クレーン2基が配置され、資材・部品を吊り下げて、組み立て位置に移動している。
Title Title [Untitled photo, possibly related to: Baltimore, Maryland. Electric welders at work on the Liberty ship Frederick Douglass at the Bethlehem-Fairfield shipyards] Names Smith, Roger, photographer Created / Published 1943 May. Headings - United States--Maryland--Baltimore
写真は, Library of Congress Digital Id fsa 8d28670引用。


写真(右)1942年、アメリカ、洋上を進むリバティー船(Liberty Ship)「サムタンパ」(SS Samtampa) 7,219 ton:アメリカ海事運航協会(U.S. MARAD:Maritime Administration) 設計のEC2-S-C1「サムタンパ」は、メイン州サウスポートランド、ニューイングランド造船会社(New England Shipbuilding Corporation)建造のリバティー船「ペレグ・ワズワース」として起工1943年11月1日、進水 1943年12月12日、竣工1943年12月22日。レンドリースでイギリスに送られた。 1947年4月23日、ウェールズ沖で難破。
Description A heavily retouched photo of a U.S. "Liberty" cargo ship (U.S. MARAD design EC2-S-C1), circa 1941/42. Date circa 1941/42 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID fsa.8e00940
写真はLibrary of Congress > Prints and Photographs Division Digital ID: (digital file from intermediary roll film) fsa 8e00940引用。


写真(右)1943年3月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、リバティー船(Liberty Ship)の起工初日:手前のゴーマン技師が竜骨(キールブロック)を船台に並べ、ブロックをセットするように作業員に指示を出している。これは、新造船の新しいキールを設置する最初のステップである。
Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. Engineer Gorman in the foreground lining up keelblocks with his transit and signalling to workmen as they set the blocks. This is the first step in laying a new keel Created / Published 1943 Mar. Headings - United States--Maryland--Baltimore County
写真は, Library of Congress LC-USE6- D-002363 [P&P] digital ID fsa.8e01454引用。


アメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)第1号船「パトリック・ヘンリー」(SS Patrick Henry)は、メリーランド州ボルチモアのベツレヘム造船所で1941年9月27日に進水した。このリバティ船第1号の進水式には、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(FDR)も出席し、盛大に祝われたが、「リバティ」(自由)とは、第二次大戦中、1940年春以来ドイツに占領された西ヨーロッパをイギリスを後押しすることで自由に戻すという解放の意味を込めていた。

写真(右)1943年3月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、リバティー船(Liberty Ship)起工2日目:竜骨が設定され、水平方向のビームがすべて設置された。スクリュー軸のブロックも設置されている。
Title: Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the second day all horizintal beams have been laid and keel blocks set at the proper pitch. Keel plates are being put in place Date Created/Published: 1943 Mar. Medium: 1 negative : safety ; 4 x 5 inches or smaller. Reproduction Number: LC-USW33-029959-C (b&w film neg.)
写真は, Library of Congress Digital ID: (digital file from intermediary roll film) fsa 8e01452引用。


 アメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)は就役当初、未だアメリカは中立国で、第二次大戦に参戦していなかったが、1941年3月の武器貸与法(Lend-Lease Acts)が成立し、イギリスなど西側連合軍への武器貸与が始まっていた。この軍需物資を運搬する貨物船が、リバティ船である。


写真(左):1943年3月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、竜骨(キール)が据え付けられて建造が始まったばかりの標準商船リバティー船(Liberty Ship)起工2日目;ブロック建造で、陸上でのブロック組み合わせも導入し、ドックのある造船所を長期間占有することなく、建造することができた。 Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. Laying of the keelplates to which will be attached the vertical keel Created / Published 1943 Mar. Headings - United States--Maryland--Baltimore County Notes - Image source: Saint Louis Dispatch, May 23, 1943. - Title and other information from caption card. - Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944. Call Number/Physical Location LC-USW33- 029966-ZC [P&P] . 写真はLibrary of Congress: Digital Id fsa 8e01459引用。
写真(右):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、船底が形を成してきたリバティー船(Liberty Ship); Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Constructing a Liberty ship. Ten hours after the laying of the first keelplate the bottom of the ship begins to form. Bottom shell plates are added which are bolted at first and will be riveted together later Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County Notes - Image source: Saint Louis Dispatch, May 23, 1943. - Title and other information from caption card. Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01457引用。


1941年6月にドイツがソ連に侵攻すると、ソ連に対する武器貸与もすぐに開始されている。反ヒトラー主義がリバティの意味だったのである。1941年12月には、日本がマレー半島、フィリピン、ハワイ、グアムなどを奇襲攻撃したため、太平洋戦争が始まった。リバティ船は、太平洋方面への物資輸送にも投入された。


写真(左):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、船首から船尾方向に船底が完成したリバティー船(Liberty Ship)起工3 日目
;船底の燃料タンク・バラスト部も設置された。 Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the third day the bottom is completed except for forward and aft ends, and on it have been set inner bottom tanks for fuel or ballast. The midships bulkhead has been raised Created / Published 1943 Apr. Notes - Image source: Saint Louis Dispatch, May 23, 1943. - Title and other information from caption card. Division. Washington Division; 1944. 写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01460引用。
写真(右):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、起工6日目で850トンの船体が設置されたリバティー船(Liberty Ship)起工6日目;船内を仕切る隔壁(バルクヘッド)が設置され、船底が形を成してきた。船底の燃料タンクもプレハブ構造で仕上げられている。 Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the sixth day, 850 tons of the ship are in place. Bulkheads and girders below the second deck are in place. The bulkheads and inner bottom tanks were prefabricated Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County. 写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01458引用。


写真(右)1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship):16トンのチェーン・ロッカーで衝突隔壁が船首の所定の位置に降ろされている。
Title: Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. The sixteen-ton chain locker and collision bulkhead assembly being lowered into position in the forepeak of the ship Date Created/Published: 1943 Apr. Medium: 1 negative : safety ; 4 x 5 inches or smaller.
写真は, Library of Congress digital ID fsa.8e01462.引用。


リバティー船(Liberty Ship)の諸元
トン数:10,856 t (10,685 long tons) (積載重量)
トン数Tonnage 7,176 GRT, 10,865 DWT
排水量Displacement 14,245 long tons (14,474 t)
全長Length 441 ft 6 in (134.57 m)
全幅Beam 56 ft 10.75 in (17.3 m)
吃水Draft 27 ft 9.25 in (8.5 m)
1軸single screw, 2,500 hp (1,900 kW)
速力Speed 11–11.5 knots (20.4–21.3 km/h; 12.7–13.2 mph)
航続距離Range 20,000 nmi (37,000 km; 23,000 mi)
乗員Complement
38–62名 USMM(船員)
21–40名 USNAG(銃手・砲手)


写真(左):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、1575トンの船体が据え付けられた。下甲板がほぼ完成したリバティー船(Liberty Ship)起工10日目;上甲板の施工も始まっている。Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the tenth day 1575 tons of ship are in place. The lower deck is being completed and the upper deck amidship is erected with the inner stack installed Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County. 写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01461引用。
写真(右):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、14日間で上甲板が完成したリバティー船(Liberty Ship)起工14日目;後甲板マストも設置されている。 Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the fourteenth day the upper deck has been erected and mast houses and the after-deck house are in place. Electrical conduits and engine and boiler room piping are being installed Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County. 写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01463引用。


 リバティ船の建造には、溶接された船体の一部をブロック化して、それを溶接で組み合わせるブロック工法が導入された。陸上の工場で船体を分割して建造し、それを船台(ドック)の上で結合し、1隻の船舶として完成するブロック工法の採用によって、造船所の船台(ドック)を占有する期間を短縮することができる。


写真(左):1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、 船首砲座が設置され塗装も済んだリバティー船(Liberty Ship)進水2日前;砲座は、船首は3 インチ(76.2 mm)50口径砲1門、船尾は4 インチ(102 mm)/50口径砲1門が装備される。Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. With two days to go before launching, all structural work is being completed. Underwater installations are in place and the hull has been painted Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County. 写真はLibrary of Congress:Digital Id fsa 8e01455引用。
写真(右):1943年3月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所、船体がほぼ完成した戦時標準リバティー船(Liberty Ship)起工24日目;進水式の準備が艦首前に置かれた式台上で進められている。
Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. On the twenty-fourth day the ship is ready for launching. The christening platform is in place Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County. 写真はLibrary of Congress: Digital Id fsa 8e01456引用。


アメリカ戦時標準船リバティ船Liberty Ship)は、1万級の大型貨物船で、それまでのリベット(鋲)をうって鉄板を繋げる造船方法とは異なって、溶接による建造が全般的に採用された。溶接の採用は、1930年代から導入されており、決して目新しいものではなかったが、溶接建造による信頼性に疑念が持たれていた。リバティー船の建設には、不適切な溶接作業のために戦隊切断の大事故もあったが、一部の例外を除いて、2700隻もの1万トン級輸送船を短期量産させ、海上輸送ルートを円滑に機能させたところにリバティー船の最大の功績である。

写真(右)1943年4月、アメリカ南東岸、メリーランド州ボルチモア近郊、ベツレヘム フェアフィールド造船所で建造されるリバティー船(Liberty Ship)起工24日目:造船所での建造開始からわずか 1年で進水した。船台に於ける竜骨(キール)据え付けから進水までは24日間だった。艤装にはさらに10日間が必要である。重量は 3,200 英トンで、10,500 トン級の貨物船である。
Title Bethlehem Fairfield shipyards, near Baltimore, Maryland. Construction of a Liberty ship. The ship sliding down the ways just twenty-four days after her keelplates were laid. It will take ten days longer to install furnishings. The ship weighs 3200 long tons and is known as a 10,500 ton cargo vessel Created / Published 1943 Apr. Headings - United States--Maryland--Baltimore County
写真は, Library of Congress LC-USW33- 029960-C [P&P]引用。


リバティー船Liberty Ship)派生型各型式
EC2-S-AW1 石炭運搬船(Collier)24隻
EC2-S-C1 貨物船、一部は兵員輸送船(220隻)、弾薬運搬船に改造
EC2-S-C1 海軍用アクベンス級輸送船(Acubens-class:AKS) 11 隻、バシラン級内燃機関修理船(Basilan-class Internal Combustion repair ship:ARG) 2隻、海軍用輸送船(Belle Isle-class General Stores Issue Ship AKS), 6 隻、カーター級貨物船(Crater-class cargo ship:AK) 65 隻、シューレ級航空機修理船(Chourre-class aircraft repair ships (ARV) 2 隻、インダス級敷設網船(Indus-class net cargo ships :AKN) 4 隻、ルソン級内燃機関修理船(Luzon-class Internal Combustion repair ship:ARG) 12隻、クサントス級修理船(Xanthus-class repair ship :AR) 5 隻
EC2-S-C1 沿岸警備隊(US Coast Guard)訓練用(US Coast Guard training)
EC2-S-C1 陸軍(US Army)用航空機修理船1隻
Z-ET1-S-C3 海軍用アルマジロ級タンカー(Armadillo-class tanker: IX) 18隻、スタッグ級給水船(Stag-class water distillation ship IX)2隻
Z-EC2-S-C2, 戦車運搬船(Tank carrier)[大型ハッチと30トンクレーン装備] 8隻
Z-EC2-S-C5航空機箱詰め運搬船(Boxed aircraft transport)[大型ハッチと30トンクレーン装備] 28隻

しかるに武器貸与局長官ステッチニアス[Edward Reilly Stettinius]の発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、

Roosevelt 3ー1.英の貿易窮状 : 対外決済困難 中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第 26巻 Page: 143 出版年 1942-05-19

【リスボン十七日発同盟】デイリー・テレグラフ紙は英国の対外貿易の窮状について「輸出における英国のディレンマ」と題する次の如き論評を掲げ注目をひいている米国の武器貸与法の適用を受けていない諸外国と英国との貿易関係は最近非常に困難となって来た、特にポルトガル、スペイン、アルゼンチンに対しては輸入の代金として英国は最早従来の如く石炭、機械、化学製品及び自動車等を輸出し得ない状態にあり、貿易決済は極めて困難となって来た、かくてこれ等諸国の英国に対する貸越は増加の一途を辿り、従ってその結果今後は英国が渇望する物資の積出をこれ等の国が手控えるだろうと見られ、事態は甚だ憂慮すべきものがある (英の貿易窮状 : 対外決済困難引用終わり)

3ー2.痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 114 出版年 1943-03-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336730

[写真((上)イーデン(下)リトヴィノフ大使)あり 省略]
【ブエノスアイレス特電十九日鈴木特派員発】英外相イーデン[Anthony Eden]、米大統領ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]会談後には恐らくただ戦後問題のみが例のごとく誇らしげに発表されるものと見られているが、この問題はこれまでもルーズヴェルトやチャーチル[Winston Churchill](英首相)やウォーレス(米副大統領)ウェルズ(米国務次官)といった連中からしばしば放送され、しかもそれは大西洋憲章、いいかえれば民主主義の名における米英の覇権確立を敷衍したものにほかならない、

このような戦後計画は米国が勝てるかどちかも極めて怪しい今日単なる附け景気に過ぎないだろう。

イーデン[Anthony Eden]がワシントンに飛んだ真の目的はつぎの二つである

一、米英間の政治的、戦略的食違いを至急解決あるいは調節すること

二、ソ連と重慶を反枢軸陣営に引止める手段を講じ反枢軸戦線の統一をはかること

たとえばアフリカ戦線では米英間では政治的、戦略的にいまだに全然一致をみていない、

英国は依然ド・ゴール[Charles de Gaulle]を、米国はジローを支持している、米軍がもっとも恐るべきロンメル軍と直接立向うことを余儀なくされている時英軍は単に米軍の両翼にあって損害も比較的少ししか受けていない、

  米英軍の北阿戦線は欧洲上陸作戦の前提とされているが、実は政治的な目的から行われたもので決して戦略的な目的から出たものではない、従って彼らの間に政治的背反が生れて来るのは当然である、

このほどアイゼンハウワー[Dwight Eisenhower]が最高司令宮に任命され米英両者の不一致が一応解決を見たかのようにいわれているが、実は依然和解にほど遠い 重慶が反枢軸国戦線から否応なしに脱落する可能性は著しく増大して来た、それは重慶の物資供給が殆ど完全に杜絶してしまったからである、

現在援蒋物資の量は二千五百トンの船が運び得る程度のものと推定されているが、これくらいでは支那に駐屯している米空軍を支えるだけでせいぜいである、かかる哀れな供給では当然重慶は戦争を継続し得ず困難に堪えて行くにも限度がある

訪米中の宋美齢[Soong Mei-ling]が先月大統領やエリノア・ルーズヴェルト[Anna Eleanor Roosevelt](大統領夫人)とともにホワイト・ハウスで新聞記者団に会見した際記者団から「重慶は飛行機やガソリンをどのくらい供給されているか」という大胆な質問を受けたところが狡猾にも美齢[宋美齡]は[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]の方をチラリと見ただけで答えない、

  そこで仕方なしに[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]が代って答えた「米国では大童になって努力しているが重慶にまで飛行機やガソリンを送るのは非常に困難である」この一挿話は援蒋物資の供給状態をよく伝えている

重慶の軍事使節熊式輝もワシントンからこれ以上の援助を得るのはあきらめてロンドンに立去った、ソ連にしても米英の態度に不満をもっているのはいうまでもない、スターリン首相が二月の赤軍記念日に米英に対する不満を公然と述べて彼らを驚かせている、ソ連が米英のために失った皿はソ連が米英から受けている援助などとは比較にならないほど高価である、

ソ連を米英の陣営に引留め得る方法としては欧洲第二戦線の展開が最上であるが、独ソをとことんまで戦わせようとしている米英としては今すぐ腰をあげる気持はさらにない、そこでこれにつぐ方法としては口先だけの援助の代りに[貸与]物資をもっと送ることである、しかしソ連があまり強くなってはまた困る、だから米英の立場はハムレットの科白によく似ている、すなわち
 「もっと助けようか、助けずにおこうか、これが問題だ」

そこでイーデン[Anthony Eden]はまずワシントンに飛び、ルーズヴェルトかハル(米国務長官)をつれてスターリン首相を訪問しようというのではなかろうか、というのはソ連と別個に交渉することは彼らにとって不安でもあり危険でもあるからだ、

イーデン[Anthony Eden]はルーズヴェルトと協議してから十七日リトヴィノフ[Maxim Litvinov]駐米ソ連大使と午餐をともにした、何を話したかはもちろん不明だが、恐らく最近のスタンドレー演説をめぐって話を進めたものと思われる、リトヴィノフ[Litvinov]大使は必ずや援助の不足を指摘したに違いない、彼は民主主義的ではあるが外交上の駆引ではイーデンに騙されるには余りにも老練である、ソ連と米英との食違いを調整するにはすでに手遅れなのだからスターリン首相ロンドンにおける援ソ示威運動をおそらく笑っているに違いない (痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ)引用終わり)

写真集Alubum:米英ソの1943年11月テヘラン会談(Tehran Conference)を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism


2024年10月22日公開の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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