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◆1940年米英の対日経済制裁と駆逐艦=基地交換協定
写真(上)1939年6月9日、アメリカ、ワシントンDCからバージニア州マウント・バーノンまで航行するアメリカ海軍大統領専用ヨット「ポトマック」(AG-25)(423 t) 艦上の大統領婦人エレノア、イギリス王妃エリザベス・アンジェラ・マーガレット・ボーズ=ライアン( Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon:1900-2002)、イギリス国王ジョージ6世(George VI: Albert Frederick Arthur George;1895-1952)、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882-1945.4.12)
:足の不自由なFDRを海軍将校が支えている。長男ジェームズ・ルーズベルト2世(James Roosevelt II, 1907-1991)長男ウィンザー朝エドワード8世は2度の離婚歴のあるアメリカ人ウォリス・シンプソンと結婚、1936年12月11日に退位し、次男アルバートが国王を継いだ。
English: The Roosevelts with the King and Queen of England sailing from Washington, DC to Mt. Vernon, Virginia on the USS Potomac. June 9, 1939 Date 9 June 1939 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.26817
写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941  File:FDR-George-VI-Potomac-June-9-1939-2-detail-crop.jpg 引用。


序.1939年8月23日、独ソ不可侵条約

写真(右):1940年2月7日、ドイツ占領下ポーランド総督領南部、独領クラコウーソ連領リヴィウ間、プシェミシル(Przemyśl)鉄道駅で、ソビエト連邦からドイツへ輸送される石油輸送列車の積み替えが行われた。;独ソ不可侵条約にソビエト外務人民委員モロトフとドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップが署名したことで、ソ連からドイツに、資源エネルギー、食糧が輸出され、引き換えにドイツから機械、兵器が輸出されることになった。ソ連とドイツでは鉄道の軌道間隔(ゲージ)が異なる。そこで、ソ連広軌1520mmの石油タンカーからドイツ標準軌1435mmの石油タンカーへと給油ホースラインが敷設されて、石油が列車間を移送されている。
Deutsch: Deutscher und russischer Öltransportzug (links) auf dem Verladebahnhof Przemyśl, Schlauchleitungen sind von Tankwagen zu Tankwagen gelegt, das Umfüllen ist wegen der unterschiedlichen Spurweiten der Geleise erforderlich. Date 7 February 1940 Source Weltbild Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty File:Russisches Öl rollt nach Deutschland am 7.02.1940.jpg引用。


1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,
1)相互に相手の領土の不可侵,
2)一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
3)相互間の紛争の平和的解決
を骨子とした,期限10年の条約である.

独ソ不可侵条約の秘密議定書では,東欧における独ソの勢力圏を定めた。ソ連の勢力圏は,フィンランド、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアのソ連隣接地域ベッサラビアである。ドイツの勢力圏は,バルト三国のリトアニアの一部である。そして,ポーランドは,東西がソ連とドイツに分割された。

独ソ不可侵条約は期限10年であるが,1週間後,ドイツのポーランド侵攻,遅れて,ソ連もポーランドを占領した。

1939年9月、独ソのポーランド占領に対して、ポーランド同盟国のイギリスとフランスは、宣戦布告をドイツにはしたものの、ソ連にはしていない。フランス・イギリスは、ドイツ西部戦線に対する攻勢もドイツ本土空襲もせず「偽りの戦争」を続け、ポーランドを見殺しにしてした。

1939年9月,ポーランド占領をしたソ連は,ドイツが盾となり,英仏の干渉を受けないと考え、バルト三国の併合,1939年11月,フィンランドへも「冬戦争」を仕掛けている。

1.冬戦争:ソ連外相[モロトフ]の演説 : 社説
大阪朝日新聞 日付 1940-03-31 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336503
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 去る三月十三日、ソ芬間に停戦成立し、ソ連の北欧工作が一段落を告げるや、それによって再び余力を生ずべきソ連が、次にいかなる方面に積極的行動に出づるであろうか、その向うところはバルカンか近東か、はたまた極東か、このいずれかの方面に対するソ連の侵攻は恰も定説の如くに喧伝されたところであるが、果してソ連の真意如何。この時に当って二十九日のソ連最高会議に対して行ったソ連モロトフ外相の対外方針に関する演説が世界の注目を浴びているのは蓋し当然であろう。ただ右演説に関するモスコー電報は、いささか詳細を欠いている憾みはあるが、なおソ連今後の動向を示唆するに十分である。

しかして、右演説の中から特に指摘せねばならぬことは、ソ連はその独自の外交政策を遂行し、英仏対独の戦争に参加せず、依然中立の態度を取ることを声明した点である。


 抑もソ連がソ芬戦において多大の犠牲を顧みず無理矢理フィンランド最後の守りともいうべきマンネルハイム線を突破し、同要塞線突破を契機として急遽、フィンランドとの和平を講ずるに至った所以はどこにあったか。ソ連の対芬戦におけるフィンランドの武力及び社会情勢の誤算もさることながら、それよりも芬戦を長引かせこれに深入りすることは、ソ連が最も警戒し恐怖しているところの世界の反ソ戦線結成に機縁を与え、これを促進せしめることとなり或は、ソ連をして英仏対独の大事に直接介入せしむる危険を生ずると見たためであったことは、その後のソ連の言動に徴してもほぼ明白である。

冬戦争  ソ連がフィンランドに対い武力行使を敢えてしてまでその目的貫遂を期したのも、フィンランドが地理的に世界の中心から隔絶せる地位にあり、ソ芬戦は地方化されて大戦に直接巻き込まれる危険なしとの見通しの下に行ったと解せられるのであって、ソ連外交は依然として、資本主義国家間の闘争には直接介入せず、これを利用することをその要諦としてきていることであって、この中にこそソ連外交の性格があることを茲に再び明らかにした点に、モロトフ[Vyacheslav Mikhailovich Molotov]外相今次の演説は注目されていいのである。

即ちソ連はその老獪なる外交戦術を駆使し、英仏対独戦の間隙を巧に利用し、その西北隣に勢力を伸張し、東部バルチック海を完全に制圧し、その国際的地位を強化し、かくして、取り得べきものを凡て取ったのちに、依然として中立を声明し英仏対独戦に関与しないことをもってその外交方針となしているのである。

モロトフ外相は英仏との関係の悪化を報告し、もって一方にドイツの好意を迎えつつ、同時に合従連衡の道具に利用されずとて英仏との関係改善の用意を暗に示しているのである。ソ連のこの態度こそ吾人が最も戒心すべきところであって、ソ連外交の本質を見失っては甚だ危険なりといわねばならぬ。


 かかる態度をソ連が取る以上、一部に伝えられるが如く、ソ連がソ芬和平後に直にバルカン乃至近東方面に冒険的な行動に出づることはまずないといわねばならぬ。モロトフ外相がバルカン、近東方面の事態に殆ど言及を避けているのも、この間の消息を語るもので、ただベッサラビヤ問題に言及し、同地方のルーマニヤ隷属不承認態度を再び確言したことは一応の注目に値するが、これとてソ連がフィンランドに対せるが如く直に武力行使によって接収することを意味しはしないであろう。なぜならバルカンの利害は極めて複雑多岐であって不用意なる行動は、直にソ連をしてソ連が警戒している大戦の禍中に投ぜずにはおかないからである。

 近東方面の緊張もしきりに伝えられるところであるが、トルコに対するソ連の態度の極めて慎重なることも注意すべきであり、この方面の紛糾は必ずや英仏との正面衝突を惹起せしめるであろう。フィンランドでの鼎の軽重を問われた英仏は今度こそは立たざるを得まい。要は西欧戦争の発展如何に懸っているのであって、重大なる危険なくして、その周辺への伸張が約束される条件の具備される時を、ソ連はおもむろに待機するものと見てよいであろう。ソ連がその表玄関として最も重視しているバルチック海方面の固めを堅固にした今日においてはなおさらである。


 最後にモロトフ外相が日ソ関係に言及し、目下円満なる進展を遂げていると見做した点は、日ソ関係調整の立場に立つ吾人もこれを諒とするものであるが、しかし実際的な日ソ関係の進展ぶりは、予期されたものより多分に遅々たる憾みなしとしないのである。日ソ関係のはかばかしからぬ理由の主なるものは、ソ連の駆引的態度に求められねばならぬ。たとえばソ芬戦にソ連が手を焼いているころの、諸般の日ソ交渉は却って渋滞勝ちであって、むしろソ連は非協調的態度を提示さえしたのである。

ソ芬戦という弱味を持つソ連は、対日交渉に強がりを示すことによって、その弱味を隠蔽せんとするが如き態度を弄したと做さねばならぬ節のあったのは、ソ連のためにも取らないのである。ソ連が右の如き駆引きをなしていたとすれば、ソ芬の和平成る今日においては、一部に期待されたるが如く、ソ芬の和平成立がソ連の対日攻勢に転ずる契機となるのではなく、却って円満なる日ソ関係の進展が期待されるのであって、モロトフ外相の演説はその反映とも見受けるのである。もし日ソ国交の調整に意あらば、徒らなる強がり的態度乃至駆引きを一擲することが第一の要諦であろう。(引用終わり)

写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛、家族・友人を守るためなら頑強に抗戦した。しかし、隣国フィンランドに対する侵攻には、正当な理由が見いだせず、士気は低かった。赤軍レニングラードが、青軍フィンランドに近すぎるとはいっても、小国フィンランドのレニングラード攻撃を恐れるロシア人はほとんどいなかったであろう。
Organisation Military Museum Photo info: 1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104842引用。


1940年3月13日、冬戦争は終結し、事実上、フィンランドは降伏した。その1か月後、ソ連とフィンランドで捕虜の交換が、カレリア地峡の国境にあるヴァイニッカラ鉄道駅で実施された。ソ連に帰って行く囚人は、帰国後の処遇を心配してた。ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン党書記長が、捕虜となって共産主義を裏切った捕虜を処罰すると不安だったのである。

⇒写真集Album:ノモンハン事件と日米開戦 ◇ Khalkhin Golを見る

日本もドイツもイギリスも戦争に突入していたのとは対照的に,戦争に巻き込まれていないソ連は,列国に対して,有利な立場にあった。日本とソ連は、ノモンハン事件を戦ったが、日本にとっては対中国戦争,ソ連にとっては対ヨーロッパ戦争準備にとって余分な負担だった。日ソ両国とも,ノモンハンでの軍事衝突から離脱したかった。

⇒写真集Album:フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisotaを見る

1940年3月30日、日本は、傀儡の中華民国国民政府(南京政府)を承認した。この南京政府は、南京の傀儡政権・中華民国維新政府(1938年)と北京の傀儡政権・中華民国臨時政府(1937年)を統合したもので、行政院長の汪兆銘(汪精衛)が唱えた「和平・反共・建国」を主導する傀儡政権である。アメリカは、それを無視して、当日、アメリカ輸出入銀行から中華民国国民政府(蒋介石)重慶政権・国民政府に 5000万ドルの借款を与え、日本に対する鉄鋼輸出規制を発表した。

日中とも日中戦争は戦争ではないとの建前をとっていたので、アメリカは1935年の中立法の上、交戦国との貿易制限を適用しなかった。日本も中国も、日中戦争をアメリカから軍事物資を輸入しながら戦った。しかし、日本の中国での特殊権益がアメリカの門戸開放に反するほど侵略性が顕著になったため、アメリカは日本に対して経済制裁、輸出規制を開始した。


2.蘇[ソ連]の先手に伊焦慮 : 虚々実々のバルカン逐鹿[ちくろく]戦 : 日本の身辺も漸く多事 : 週間国際情勢
中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第151巻 Page: 207 出版年 1940-04-29

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337353

今次欧洲戦争の特徴は当初殆と直接の武力衝突はなく交戦国間の経済戦並に外交戦であった、而してこの情勢は何時果てるものとも分らない有様であった、ところが経済戦が深刻化してくるにつれ交戦国間の摩擦面が緊迫化し情勢は次第に武力戦への移行を余儀なくさるるに至り、又[サムナー・]ウェルズ[Sumner Welles国務]次官の訪欧に際し独伊枢軸の交戦的擬制が[1940年4月10日ヒトラー・ムッソリーニ]ブレンネル会談[Brenner Pass Meeting]に於て表明さるるに及んで英仏側も衝撃を受け先ず仏に[ポール・]レイノー[Paul Reynaud]強硬内閣、英[チェンバレン保守党内閣]にチャーチル[Winston Churchill]海相主宰の軍事委員会等が実現し、対独強硬政策の断行を決意するに至り、その第一歩として対独経済封鎖戦線を強化した、日本に対しても独貨拏捕[拿捕(だほ)]令を適用しその他対独圧迫の要求を提出して来たのもその直後である

写真(右)1939年11月、イギリス戦時内閣の閣僚、後方に海軍大臣(海軍卿)ウィンストン・チャーチル、陸軍大臣レズリー・ホア=ベリシャ、前列に外務大臣ハリファックス卿、財務大臣ジョン・サイモン、首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain, Prime Minister :1869 - 1940):、1938年9月、ミュンヘン会談で対ドイツ宥和を図ったが、ドイツはチェコ全土を併合し、1939年9月1日、対ポーランド戦争を開始した。ェンバレンは1938年9月29日「ミュンヘン協定」を見限って、9月3日、フランスとともにドイツへの宣戦布告をした。イギリス遠征軍を大陸に派遣したものの、対ドイツ攻勢をかけず、「まやかし戦争」に終始した。
English: November 1939: Standing, Winston Churchill, First Lord of the Admiralty (1874 - 1965), Leslie Hore-Belisha , Secretary of State for War, (1893 - 1957) and Lord Hankey (without portfolio) (1877 - 1963). Front Row, Lord Halifax, Foreign Secretary (1881 - 1959), Sir John Simon, Chancellor of the Exchequer (1873 - 1954), Neville Chamberlain, Prime Minister (1869 - 1940, Sir Samuel Hoare, Home Secretary (1880 - 1959) and Lord Chakfield, Co-ordination of Defence. (Photo by Walter Bellamy/London Express/Getty Images) Date 28 October 2009, 17:26:22 Author Walter Bellamy
.写真はWikimedia Commons, Category:Winston Churchill in 1939 File:British-war-cabinet-1939-40-churchill-chamberlain.jpg引用。


ノルウェー侵攻  英は次に諾に対しても瑞[瑞典:Sweden]領キルナ鉱山鉄鉱[Iron ore]が冬季諾領のナルヴィク[Narvik]港に出て諾領海を南下し独に輸送されることの制止を要請、その英が已むを得ずと認めた場合には英自ら諾領海内に機雷を敷設してもキルナ鉄鉱の対独輸送路を閉塞することある可きを通告するに至って英独関係は急速に緊張し独は英の先手を打って諾領に上陸したのであった

独の電撃作戦に次いで英も諾領に敵前上陸を敢行し、オスロを初め諾の各要地を奪還したと伝えられたが、その後の報道に依ると英はナルヴィクの南方並にトロントハイム地方の峡湾に可なりの兵力を上陸せしめたこと、右上陸作戦に伴い独海軍に可なりの打撃を与えたこと以外は英の反撃が決定的に奏功したものはないものの如く、却てトロントハイム、オステルダーレン、リレハンメルの各戦線に於て英諾の連合軍は独軍のために撃退されている、

斯かる現状より判断すれば米国筋の観測通り北欧戦局が独に有利に展開しつつあることは疑いないところであろう、スカンヂナヴィア作戦が英に不利であることはスカパフロー、スコットランド地方に脅威を受けるのみならず英が中立国に与えた保障、援助等の約束が何等実効がないことが実証さるることとなるので波、芬に次いで諾に至れば勢い白、蘭等の残余の中立国に対する威信を失墜し外交的にも失敗と見られる

ヒトラー総統は遂に二十七日総統令を以て、諾政府の態度に依り独諾間に戦争状態発生した旨布告したがリッベントロップ[Joachim von Ribbentrop]独外相は今回の独軍の北欧進撃につき独軍の手に帰した外交文書に依り英仏が独の進駐以前に諾国占領の計画を有していたことを暴露する白書を発表した、之は過ぐる独波戦争に就ても米が英並に波を最後的にしかも全体的に支持する駐波米大使の文書を公開しているのと同意味において注目に値する

 しかして独が諾に対して攻撃的であるに反し瑞の一応「厳正中立」の態度を多としている点は独の次に取る可き北欧作戦の出発点が暗示されいると解する向きが多い

 扨て北欧作戦を口火に次に如何なる方面に戦火は発展するであろうか?

 英はスカゲラック、カテガット両海峡の封鎖を宣言しているがこれが実現の暁には独は全く後方輸送路を切断されるのでその場合には瑞領通過の必要に迫られることとなるが、更に万一ナルヴィク上陸の英仏軍が独軍を瑞領に圧迫してキルナ鉱山を危殆に陥れればこの方面の瑞領も亦戦火の洗礼を受けることを予期しなくてはならない又英仏がスカンヂナヴィア作戦[Unternehmen Weserübung]に於て独圧迫に功を奏しなければ更に経済圧迫の手をバルカン及び近東に伸ばすことは必至で、既にバルカン開発の国策会社を設け、バルカンにおける独逸の地盤を攪乱することに着手している、

写真(右)1940年4月6日、ヴェ―ゼル演習作戦(Unternehmen "Weserübung:ノルウェー侵攻)、トロンハイム(?)、ドイツ陸軍部隊を揚陸させたドイツ海軍重巡洋艦アドミラル・ヒッパ−"Admiral Hipper":1940年4月9日、ドイツはデンマークとノルウェーに侵攻、ノルウェーには、ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト大将の部隊が上陸した。1940年4月13日、鉄鉱石積出港ナヴィルクにイギリス海軍戦艦ウォースパイトと駆逐艦9隻が突入し、ドイツ海軍駆逐艦8隻を全滅させた。
Title Unternehmen "Weserübung", "Admiral Hipper" Date 6 April 1940 Collection German Federal Archives Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Marine (Bild 101 II) Accession number Bild 101II-MW-5607-32
.写真はWikimedia Commons, Category:Operation Weserübung File:Bundesarchiv Bild 101II-MW-5607-32, Unternehmen "Weserübung", "Admiral Hipper".jpg引用。


独が之に対抗するためにはスカンヂナヴィア作戦[ヴェ―ゼル演習]と同様の順序方法でバルカン制覇を試みるものと見る向きも多いが、それまでにはなお時日があると思われるが独は既にユーゴー国境に四十個師、ハンガリー国境に三十個師を集結していると伝えられ、又二十七日には洪国政府に対する重要使命を帯びた密使を乗せた飛行機がベルリンからブダペストに飛んだといわれている、又蘇連はベッサラビヤ[Bessarabia]の失地回復の宿願を達成するため蘇羅国境に二十個師、更にウクライナのキエフには三十個師を集結していると伝えられる

独は英の手がバルカンに伸びると見るや羅との間に新に通商協定を結び小麦の大量購入の途を開く等着々としてバルカン工作を進めている、これに対し英は俄に蘇連との通商交渉を再開したがこれはバルカンにおいて独伊と蘇連との離間を策すると同時に蘇連より物資を入れ蘇連の対独物資供給を少□にすることを狙ったものである

写真(右)1940年4月、ヴェ―ゼル演習作戦(Unternehmen "Weserübung:ノルウェー侵攻)、トロンハイム、ドイツ軍部隊と捕虜になり整列させられた連合軍兵士たち:ナヴィルク、トロンハイムを中心に、ドイツ軍はイギリス軍に反撃に転じ、5月にはフランス・ベルギー・オランダにも侵攻した。1940年6月4日から8日に、連合軍はナルヴィクから撤退し、6月10日、ノルウェーは降伏した。
Title Deutsch: Drontheim Norwegen, deutscher Hauptfeldwebel "Spieß" (hier im Dientgrad: Oberfeldwebel (OR-7)) vor britische Kriegsgefangene. Scherl UBz.: Gefangene Engländer, die zunächst in Drontheim in Gefangenenlagern untergebracht wurden. Die Tommies hatten sich ihren "Einzug" in diese norwegische Hafenstadt sicherlich anders vorgestellt. PK-Eitel Lange-Scherl 2.5.1940 [Herausgabedatum] Depicted place Drontheim Date April 1940 Collection German Federal Archives Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-L03926
.写真はWikimedia Commons, Category:Operation Weserübung File:Bundesarchiv Bild 183-L03926, Drontheim, britische Kriegsgefangene.jpg引用。


 その上英仏はユーゴースラヴィアと蘇連の通商交渉に斡旋をとったとも伝えられるが有り得ることである、しかしてこのユーゴーに於ける親独伊要人の逮捕は独伊に大きな衝動を与えて居り英蘇のバルカン進出に特に脅威を感ずるのは伊である、元来伊は北欧戦局の発展につれバルカンにおける勢力拡張を図らんとしていたもので独がバルカンに手を伸ばす場合にはこれと呼応して直ちにダルマチア海岸を占領しようとアルバニアに兵力を増強していたところ蘇連とユーゴーとが俄に接近して来たので伊の対ユーゴー工作は蘇連に先手を打たれたことになり伊としても焦慮を感じ出したのである

写真(右)1940年11月以降、イタリア、ヴェネツィア、ローマ・ベルリン枢軸首脳会議におけるイタリア外相ガレアッツォ・チアーノ、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ:1940年6月10日午後、ローマのヴェネツィア広場でムッソリーニは「運命の刻が祖国の空に鼓動する…」とイタリアの第二次大戦参戦を発表した。宣戦布告では、4年前のエチオピア戦争時の国連制裁への反発があったが、イタリア人の戦争というよりも、それはムッソリーニの戦争であった。イタリアは、占領していたアルバニアから隣国ギリシャに侵攻した。しかし、ギリシャ軍は頑強で、アルバニア南部にまで進出してきた。1941年4月6日、ドイツ軍がブルガリアを経由してギリシャに侵攻するマリータ作戦(Unternehmen Marita)を発動した。
Quando Mussolini dichiarò la guerra Un Paese gettato allo sbaraglio Dal 10 giugno con il «Corriere» un libro di Antonio Carioti e Paolo Rastelli sul periodo 1940-43, nell’ottantesimo anniversario dell’entrata nel conflitto al fianco di Hitler
.写真はWikimedia Commons, Category:Operation Weserübung File:Bundesarchiv Bild 183-L03926, Drontheim, britische Kriegsgefangene.jpg引用。


ムッソリーニ[Benito Amilcare Andrea Mussolini]首相も此処に於て何等かの手を打たなければならなくなったわけで三十日に伊の態度を表明する重大声明を発表すると伝えらるるに至った

 その前奏曲としてギヂ内務次官は二十六日の下院に於て「平和な田園の詩が奏でられる静穏な国が明日は凄惨な流血の戦場と化して終う可能性があるのである…かかる際我等が自発的にこの戦局から身を退くことは忍び難き屈辱であり、又舞台の隅の暗闇に臆病な態度で佇んだとて来る可き運命から逃れ去ることが出来るものでないことを我等は銘記して対時局態度を決定すべきである」とし、又伊太利評論家ガイダ氏は二十六日のジオルナーレ・デイタリア紙の社説に於て「伊太利は今や大帝国として大きな領土を持っているが之を維持し且つ之を拡大せねばならぬ」としている

これは伊がバルカンに無関心たり得ず、何等かの方法でバルカン工作に乗出さざるを得ない情勢になったことを物語るものである、而して伊が如何なる情勢の下に如何なる方法で欧洲戦争に参加するかは注目する価値がある、兎に角今やバルカンの形勢は最終段階に至ったことは疑いを容れない

 独の白、蘭侵入説は現在下火になって居るが独は和蘭国境に二百万の兵力を集中し、これに対し英仏は四十万の兵力を白国境に集結していると伝えられている、併し北欧の戦局が決定的にならぬ限りこれ等の兵力が白、蘭に侵入して決戦することは未だその時機ではないであろう

蘇連は前述の如くユーゴーに手を伸ばし土を牽制し更に[ルーマニア北東部]ベッサラビア[モルドバ]の失地回復を図ってバルカンにも重要なる役割を演じ、一方英蘇通商交渉を行っているが更に北欧の戦火に乗じて最近芬に対し「カレリア[Karelia]の現割譲地域を蘇芬戦争[ソ連=フィンランド冬戦争]以前にまでそれ以外の地域を芬[フィンランド]に返還すること」を交換条件としてアーランド群島割譲を要求しこれに対し芬政府は既にモスクワに交渉委員を派遣したと伝えられている

眼を転じて日本を繞る国際情勢を見るに蘇連[ソ連]は前述の如く北欧に、バルカンに着々として地歩を固めつつあるが、之が完遂のため極東政策を緩和し東郷[吉三郎][駐ソ大使]、モロトフ[Vyacheslav Molotov]会談に於ても懸案解決に蘇連側も稍々熱意を示したものの如く、日蘇交渉も漸く軌道に乗ろうとしている、元来日蘇関係調整に関しては日本側が箇箇の懸案を解決して以て全般的な友好的空気を醸成しようとする方針であるに対して蘇連側は原則的、政治的問題を先ず解決して以て箇々の懸案を解決しようとする方針であると見る向きもあるが要するに政策問題で行こうとする蘇連側に対して日本が懸案解決を金科玉条として話を進めていることは明かである

米国は昨年七月二十六日の日米通商航海条約廃棄を転機として従来の抗議政策を捨て実力圧迫政策に乗出して以来、野村[吉三郎][外務大臣]、グルー[Joseph Clark Grew][駐日大使]会談中においても圧迫の手を強化したが、大統領選挙の接近につれて戦争の危機に直面するような危険を孕む強硬政策は一時手控の形となっているが対日空気の底流は依然悪く比島議会に移民入国制限法が提出されるや米国政府及議会方面の要請に基いて原案より更に制限を強化せんとしているとも伝えられる

 蘭印問題を中心とする米の対日猜疑心は依然消えずタウスイック少将の如きは日米戦争不可避を放言するに至った、これは米国内に於てさえ非難の声が昂っている、しかしこのタウスイック少将の意見発表は一部で信じているように彼がスターク提督に作戦部長の地位を争って敗けた腹いせとして自己の存在を認識せしめるために行ったものであるとの観測も伝えられるがこれはタウスイック少将個人の意見として軽々に批判すべきではなく米海軍部内の有力なる一群の対日強硬論者のを代表しているものであり、従って孤立論者の要求に依ってタウスイック少将が苛酷な処分を受けることにでもなれば反動があると見ているものもある

日本は有田[八郎]外相屡次の声明通りこれ以上米国の対日空気を変化させないとの方針で着々として懸案解決を急いで居り我堀内大使が道徳禁輸に関し申入れを行ったが日米間に急激な変化は起らないと見てよい

 日本が傭船した諾船に関する取扱いについて英国側に申入れたが二十三日に至り英より日本の傭船した諾船の航行その他に障害を与えない旨の回答があった、天津銀問題も英仏との話合が終り次第手打となることになっている、ハリファックス[卿][Edward Frederick Lindley Wood, 1st Earl of Halifax:1881-1959]英外相が我重光大使に「英国は極東に何等政治的関心を持たない」といったとか伝えられているがこれが真実であれば一寸おかしい話で「現在政治的関心を持つ余裕がない」というのと同意語ではあるまいか

英が対日接近の態度を示しているのは
(1)対独経済封鎖線に日本を捲き込み日本をしてウラジオ向きの輸出を自制せしめ
(2)英国の在支在南洋権益の保全を図ること
(3)近東及び印度に対する脅威を日本の陸軍力により牽制すること等で戦争中の譲歩は戦勝後再調整出来ると考えているからである、
援蒋政策の放棄等には未だ思を致す段階には勿論なっていない

 英国の極東政策は政治的にも経済的にも現状維持を目標とするもので支那、蘭印を始めとする南洋、タイ、馬来植民地にも或は独を或は日本を警戒して汲々としている(蘇の先手に伊焦慮 : 虚々実々のバルカン逐鹿戦 : 日本の身辺も漸く多事 : 週間国際情勢引用終わり)


⇒写真集Album:バルカン作戦:ユーゴスラビア解体、ギリシャのパルチザン鎮圧を見る

写真(右)1939年8月1日、アメリカ、ワシントンDC、前アメリカ海軍作戦部長(Chief of Naval Operations)だったウィリアム・ダニエル・リーヒ(William D. Leahy)提督、宣誓を取り仕切るアメリカ海軍チャールズ・エジソン(Charles Edison)、海軍作戦部長就任の宣誓をするハロルド・スターク(Harold R. Stark)提督、宣誓証人のアメリカ海軍法務長官ウォルター・ウッドソン(Walter B. Woodson)海軍准将:スタークの前職は、アメリカ艦隊巡洋艦部隊司令官。リーヒ提督は、プエルトリコ総督に就任した後、1940年11月からアメリカ陸海統合幕僚議長(参謀総長)に就任。
NH 57314: Admiral Harold R. Stark, USN (second from right) Takes the Oath of Office as Chief of Naval Operations, in the Secretary of the Navy's office, Navy Department, Washington, D.C., on 1 August 1939. Administering the oath is Rear Admiral Walter B. Woodson, USN, Judge Advocate General. Witnesses are Acting Secretary of the Navy Charles Edison (2nd from left) and the outgoing Chief of Naval Operations, Admiral William D. Leahy, USN, (at left). A portrait of Civil War era Secretary of the Navy Gideon Welles is in the background. Naval History and Heritage Command Photograph. (2016/04/06). Date 6 April 2016, 09:06 Source NH 57314 Author National Museum of the U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:Harold Rainsford Stark File:NH 57314 (25668508433).jpg引用。


1940年5月10日、ドイツは西方侵攻を開始、その当日にチェンバレンに代わってチャーチルがイギリス首相になった。すぐに、5月10日にアイスランド占領が欠航されたが、5月24日には、ドイツの攻勢を防ぐことはできず、ダンケルクに連合軍は追い込まれ、5月26日には、オランダ、ベルギーが制圧された。イギリスは、チェンバレン首相が大陸にイギリス遠征軍を派遣していたが、後を継いだチャーチル首相は、ドイツの西方侵攻に直面しなすところがなかった。

危機に陥ったチャーチル首相は、アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)に、アメリカに、アイルランド・アイスランドの防衛に参加すること、日本を制圧する責任を負うこと、イギリスへの軍事援助物資の供与を求めた。

フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)は1940年5月22日、アメリカ陸軍の武器と軍需物資の余剰をイギリスに送ることを決めていたが、6月10日のヴァージニア州シアトルビルの演説で、アメリカは侵略に敵対する国に物資を提供することを宣言した。そして、西半球・大西洋方面におけるアメリカの防衛は、ドイツと戦うイギリスにかかっているとして、イギリスに対する航空機、駆逐艦、火砲など武器供与を始めるとした。

他方、ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)大統領は、東半球・太平洋方面の日中戦争と日本のアジア侵攻を念頭に、アメリカ太平洋艦隊をハワイに常駐させることを命じた。アメリカ太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン(James Otto Richardson, 1878-1974)は、アメリカの国益は、アジアよりもヨーロッパにあると考えていたから、対ドイツ戦を念頭においた。そこで、アメリカ海軍は、大西洋方面に充当されるべきだと考えた。

アメリカ海軍作戦部長ハロルド・レインスフォード・スタークHarold Rainsford Stark, 1880-1972)は、アジアにおける日本の行動を抑制する必要性を強調したが、太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン(James Richardson)は、アメリカ国防計画レインボー作戦は、西半球の防衛に重点を置くもので、太平洋艦隊のハワイ常駐は西半球の防衛には適当ではないと反論した。

1940年前半当時、太平洋戦争前、ヨーロッパ・大西洋方面における世界大戦で、イギリス・フランスとドイツ、次いでイタリアとの戦いが激化していた。アメリカは、自国安全保障がイギリスの防衛にかかっているとして、西半球中心の戦略をとったのである。

1940年6月14日 、フランス降伏は、アメリカの安全保障の構図を全面的に改める必要性をもたらした。戦争体制づくりのために、1940年7月には、フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)民主党政権に閣僚として、共和党政権で陸軍長官・国務長官を歴任したスチムソン(Henry Stimson)が陸軍長官に返り咲き、共和党副大統領候補として選挙に出たノックス(Frank Knox)が海軍長官に迎えられた。つまり、著名な共和党員を含むルーズベルト民主党政権は、挙国一致の戦時内閣の趣があった。

他方、それまで陸海軍長官の諮問機関にすぎなかった統合会議(Joint Board)、すなわちアメリカ陸軍と海軍の連絡機関が、大統領直轄となり、戦時の統合参謀本部(Joint Chief of Staff)、統合参謀本部議長(参謀総長)が準備され、大統領の軍事指導力が強化された。

統合参謀本部議長に、フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Roosevelt)側近で日本滞在経験も長いリーヒ(William Leahy)海軍大将が就任し、アメリカ海軍艦隊司令長官には意志強固なアーネスト・キング(Ernest J. King)が任命された。

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図(右)1933年刊行、アメリカ、雑誌”TIME”の表紙を飾ったフランクリン・ルーズベルト政権の国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955):部下のウェルズ国務次官は、FDRの個人的信頼を得た外交官で世界を飛び回ったが、ハル長官とライバルの関係にあった。
Description English: Cordell Hull on Time magazine cover, 1933. Date 17 April 1933 Source Time Magazine Author Time Magazine Permission (Reusing this file) Public domain A search of the renewals for periodicals for entries for Time reveals that the publisher, Time Inc., started renewing the copyrights of Time magazine in 1962 with the 29 January 1934, issue.
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Cordell Hull-TIME-1933.jpg引用。


3.孤立は愚策なり : ハル米国務長官が痛論
大阪朝日新聞 Vol: 第153巻 Page: 12 出版年 1940-06-22
https://hdl.handle.net/20.500. 14094/0100335170

【ニューヨーク特電二十日発】アメリカ国務長官ハル[Cordell Hull]氏は二十日マサチュセッツ州ケンブリッヂ[のハーバード(Harvard)]大学において講演し「一国々々と相ついで蹂躪され奴隷となって行くがかくのごとき暴力と欺瞞政策の影は日一日と西半球[Western Hemisphere]のうえに濃くなって来た、かかる際アメリカとして孤立政策をとれというほど馬鹿げたことはない」と痛論した、

過般[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Delano Roosevelt]大統領はイタリヤの参戦を評して「隣人の背中に匕首を突き刺すもの」といい、また右の国務長官の言葉といい、アメリカの責任者の言葉は激越となって行くばかりだが、二十日下院海軍委員会ではタワーズ航空部長が太平、大西両洋艦隊を作る以上、過般議会を通過せる海軍航空基地計画では不十分であると述べ、委員会はただちに右計画を修正し航空勢力を一万五千台に拡大する案を可決した、なおタワーズ氏の説明によれば米海軍の航空勢力は現在は千八百台で、建造中のもの千六百台その他に入札済のもの千台であると(孤立は愚策なり : ハル米国務長官が痛論引用終わり)

写真(右)1939年、アメリカ、ワシントンDC、机上で署名するアメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)を見下ろすアメリカ国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles, 1892-1961)[右後]:名家出身のサムナー・ウェルズはフランクリン・ルーズベルト(FDR)とも親しくなり、ハーバード大を主席卒業、国務省に入省。その後、1932年の大統領選でFDRを助け、1937年に国務次官に就任。FDRと親密だったウェルズは、FDRと疎遠だったハル国務長官とはライバルだった。
English: Title: Group at desk; Sumner Welles, 2nd from right, Cordell Hull, right Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1939 Source Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.27053
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Group at desk; Sumner Welles, 2nd from right, Cordell Hull, right LCCN2016876009.jpg引用。


1940年4月、アメリカ太平洋艦隊の主力は、ハワイ諸島オアフ島真珠湾基地を拠点としたが、これは対日戦の前進基地とみなすものだった。ルーズヴェルトはハワイに艦隊が常駐することで、日本のアジアでの行動を抑制しようとしたのである。他方、ハル国務長官は、1940年5月のオランダ降伏、6月のフランス敗北で、西半球の危機が深刻化したものの、日本のフランス領インドシナ、オランダ領東インドへの関心が高まっているので、アメリカの東半球での影響力を増すことが重要だと考えた。

しかし、イギリスは、孤立してドイツと戦っており、太平洋・インド洋の東半球に兵力を置くことはできなくなっていた。フランス降伏直後、1940年6月25日、ギリス軍総司令部は、政府に対して国家防衛のためイギリス艦隊を太平洋に派遣することは不可能で、中東のイギリス軍をアジアに振替えることもできないと通達した。6月27日、駐米イギリス大使は、アジアの現状維持のために戦争という危険をアジアで起こすことはできないと伝えた。イギリスは、フィリピンおよびインドシナへの日本の侵攻を阻止するような兵力を持ち合わせておらず、マレー半島およびシンガポールの防衛に兵力を集中する戦略を採用した。

写真(右)1935年8月23日、アメリカ、アメリカ海軍コロラド級戦艦2番艦メリーランド (USS Maryland,BB-46) (Maryland (BB46))
Maryland (BB46). Starboard beam, underway (Wikidata search (Cirrus search) Wikidata query (SPARQL) Create new Wikidata item based on this file) Author Unknown author or not provided Record creator Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. Title Maryland (BB46). Starboard beam, underway Date 23 August 1935 Collection National Archives at College Park wikidata:Q38945047 Record ID National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 520812.
.写真はWikimedia Commons, Category:USS Maryland (BB-46) File:Maryland (BB46). Starboard beam, underway, 08-23-1935 - NARA - 520812.jpg引用。


アメリカ海軍コロラド級戦艦は、ワシントン会議前の建造で、日本海軍の八八艦に対抗する16インチ砲連装砲塔四基(計8門)搭載の超弩級戦艦である。ネーバルホリデー(Naval Holiday)のビッグ・セブンとして有名だが、コロラド級戦艦は、コロラド (BB-45)、 メリーランド (BB-46)、ウェストバージニア (BB-48)の3隻が同型艦のみで、1921年ワシントン海軍軍縮会議でワシントン (BB-47) は標的艦として1924年(大正13年)11月25日に処分された。ウェストバージニア (BB-48)は建造中止となった。

メリーランド (USS Maryland,BB-46)の諸元
起工 1917年4月24日
進水 1920年3月20日
就役 1921年7月21日
排水量 33,100 t
全長 624 ft 3 in (190.2 m)
水線長 600 ft (182.9 m) 幅 97 ft 4 in (29.7 m)
吃水 38 ft (11.6 m)
出力 28,900 shp(22 MW)
最高速力 21.0 ノット
航続距離 8,000 マイル
兵装 45口径16インチ40.6cm砲:8門
51口径5インチ12.7cm砲:14門
50口径3インチ7.6cm砲:4門


4. 日本と米国の関係 : 日曜評論著者 馬場恒吾
読売新聞 Vol: 第152巻 Page: 146 出版年 1940-06-30
https://hdl.handle.net/20.500. 14094/0100338152

 ドイツが欧洲大陸の覇者とならんとする形勢があるので、世界の勢力均衡が再検討を要する。ソヴエトも強国であるが、これは当分ドイツと提携して行くであろう。残るところの強国は日本と米国である。欧洲のドイツ、東洋の日本、西半球の米国が世界に鼎立する。その日本と米国との関係がどうあるか。それによって、日本の将来も、世界の将来も影響を受ける。日本には日本の性格があり、それから出づの自主的外交方針のあることは勿論だが、反対側の米国がどういう心持ちになっているか。今日はその意味で、リップマンが、六月六日ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン[The New-York Tribune]に書いた説を紹介する。かれは比較的公平妥当をもって知れたる米国第一流の評論家である。

戦艦BB-60アラバマ  曰く、米国がもっている有りたけの海事はいま太平洋にいる。そこに日本の海軍がいる。日米は今まで一度も戦ったことはないが、近年両国の政策、利害、主義で異ったものが現れた。海軍条約[Washington Naval Treaty][日米]通商[航海]条約[Treaty of Commerce and Navigation between the United States and Japan]も廃棄され、支那に関しては両国は理論的には両立出来ない立場を採った。蘭印に関する両国の声明は曖昧で、事変の発展によっては危険なところがある。

平たくいえば両国は太平洋を間にして対立し、何か思わざる事態が起ると戦争するかもしれないという立場にいる。これは長期戦になって両方の国力を疲弊せしめ、そして日米どちらも国家最大の利益を増進するどころか、却ってそれを犠牲にするものだ。日本はすでに支那事変をもっている。その上に米国との戦争で労力と物資を消耗するならば、日本はソヴエトをどうして防ぐことが出来る。ソヴエトこそ日本の中心地を陸海空軍で攻め得る唯一の強国である。

一方米国にして見れば、こうした日米戦争は何年続けても決勝点には到着しない。そしてその間こそ米国が西半球を守るつもりならば大西洋の要点を占拠するためにその全海軍を必要とする時である。

 かうした時に、両国がずるずるに戦争に引きずり込まれるというのは自殺的な狂気沙汰である。それは今日両国が唱えている主義や利害よりも、もっと大切なものを犠牲に供することになるからだ。人或いはいわん。今の世界では強いことをいう議論のみが通用する。しかるに日米関係に関して、こんなことをいうのは弱みを見せることになってよくないと。

だが私(リップマン)は、正直な事実を基礎として国策を立てようとするのが弱味だとは思わない。日本人にしても日本の長所と弱点を知っていると同時に、米国の長所と弱点をも知っているだろう。われわれだって両国の長所弱点を知っている。彼らも我らも最早、法螺でおどかしたり、或いは戦争挑発を試みるべき時でない。これが事実である。この事実の上に、われわれは国策を樹てねばならぬ。自分がこの議論をするのは欧洲戦争の形勢に驚いたためでない。われわれは欧洲戦争が必至だと思われた頃からこの説を唱えたのである。

その当時からわれわれは、極東に対するわれわれの同情と利害がどうあるにしても、欧洲戦争がわれわれに影響することに比較すれば第二義的だ。しかるに、米国が恫喝的な声明などを出して事態を悪化せしめるのは極めて危険で、政治家らしくない仕業だ。米国が中立という標語に迷わされて、英仏側の海軍力の破滅を坐視しているのは愚の極であるといったのである。昨年七月頃の上院外交委員の行動は愚劣な政治家が如何に国家を危くするかの古典的実例だ。

その頃である。外交委員は日本との海軍条約[Washington Naval Treaty][日米]通商[航海]条約[Treaty of Commerce and Navigation between the United States and Japan]を破棄して、日本に対して挑発的言動に出ていた。それと同時に外交委員会は英仏に対する武器禁輸を維持して、英仏がどうなろうと我れ関せずという態度を採った。これぞ、爾じ左の手でなすことを右の手に知らしめるなかれというひどい例で米国は太平洋においては盲目的に挑戦的で、大西洋においては盲目的に軟弱であった。米国政府も政府で、実際は今少しくよく知っていたに拘らず、この愚劣な敵策を黙認していたのである。

 今日の形総はその時よりは悪くなっている。しかし根底の事実は同じだ。日本も米国も戦争して何ら得るところがなく、失うところが多い。戦争しなくても、戦争するような恰好で対立していることだけでも米国が極果に有する利害は第二義的だ。これが実際の事実であるから、日米間の問題は外交々渉で解決出来ないものはない。米国は直ちに日本と隔意なき交渉を進めて、太平洋の平和に貢献すべきだ。

今は最早法螺や虚栄心に囚われているべき時代でない。われわれはわれわれの独立を大西洋において守らねばならぬ。またアジアに有する利害に関しては、日本の方が米国よりは多い。米国人としてこれは認めなければならぬ。日本の極東における立場は、米国の大西洋における立場に比較して少くとも同様に困難だ。日本は支那と戦争をしている。

日本に最も近い隣邦として[1922年成立の]ソヴエト・ロシアがある。日本と米国との貿易は、日本国民の生活水準のために重要な役目を勤めている。これらの事情を考えて通商条約の交渉を進め政治的諒解に達することが出来る。すなわち欧洲戦争は同時に欧洲の革命であるが、それを東洋に波及せしめない。米国は太平洋の新秩序を認めて、日米両国の海軍は各々自分の勢力範囲の安定を守るということにする。

私は日本がこの米国の政策の変化に応ずるか否かを知らぬ。私は日本人がそれに応ずるかもしれないと思う。私は日本人が自分らを米国の敵だとは思っていないと信ずる。日本の良き指導者や国民大衆は米国との平和を望んでいると信ずる。仮りにこれが間違っていたにしてもわれわれは全心を傾けて世界の半分を平和を維持せんと試みたことを後悔しない。

 これがリップマンの説である。今日はただそれを紹介したにとどめる。(日本と米国の関係 : 日曜評論引用終わり)

写真(右):1940年(昭和15年)7月、日本、東京、内閣総理大臣官邸、第二次近衛文麿内閣;1940年7月16日に総辞職した米内光政内閣を引き継いだ近衛は、荻窪の私邸「 荻外荘」で四相会議を開き、外務大臣に内定した松岡洋右、陸軍大臣・東條英機中将、海軍大臣に留任した吉田善吾中将が会した。近衛は、独伊新秩序に呼応し大東亜新秩序建設を唱え、軍は南進を希望した。しかし、日米戦争を危惧する近衛は日米交渉を続けた。外務大臣松岡洋右 内務大臣安井英二、 大蔵大臣河田烈、 陸軍大臣東條英機、 海軍大臣吉田善吾、 司法大臣風見章、 文部大臣橋田邦彦、 農林大臣近衛文麿、 商工大臣小林一三、 逓信大臣村田省藏、 鉄道大臣村田省藏(兼)、 拓務大臣松岡洋右(兼)、 厚生大臣安井英二、 国務大臣平沼騏一郎、 国務大臣鈴木貞一、 国務大臣小倉正恒
Cabinet ministers of Second Cabinet of Fumimaro Konoe(第2次近衞内閣). They finished the first cabinet meeting and took a souvenir picture in Kantei. Date July 1940 Source www.jacar.go.jp Author Mainichi Shimbun/ 毎日新聞
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs of Fumimaro Konoe・File:Fumimaro Konoe Cabinet 19400722.jpg 引用。


日本は、日中戦争に勝利するために、援蒋ルート、すなわち中華民国への軍事援助ルートの遮断強く望んでいた。そこで、ソ連から中国四川省に入る西方ルート、ベトナム北部から雲南省に入る南方ルート、ビルマ北部から雲南省に入るビルマ・ルートを閉鎖することを企図していたのである。そして、対ドイツ戦に全力を傾注したいイギリスに強いて、1940年7月12日、イギリス領ビルマから中国への援蒋ルートの閉鎖を認めさせた。

また、大英帝国ドミニオン[Dominion]のオーストラリアも、イギリス本土のドイツ占領を懸念して、太平洋・東半球で日本の勢力を掣肘するよりも、アメリカ太平洋艦隊主力を大西洋に移動できる体制を維持すべきであるとし、ヨーロッパ対ドイツ戦優先を唱え、太平洋にあっては戦略的防衛の範囲に留まることを甘受した。

実際、オーストラリアは、自国防衛にも寄与するとしてイギリス領マレー[Malaya]に派遣したロッキード・ハドソン[Lockheed Hudson]爆撃隊など航空兵力を、北アフリカ・イギリス本土に移動させることに同意したのである。

1940年6月28日、アメリカ議会で国家防衛法[National Defense Act]National Defense Act)が成立、 7月2日、国防強化のための輸出管理法(Export ControlAct)がなり、アメリカの安全保障にかかわる大統領の権限が強化された。こうして、アメリカが軍事物資と判断した製品の輸出が大統領による禁輸対象になり、1940年7月26日、軍事物資として指定された航空燃料、鉄鋼・屑鉄が規制対象となり、日本への輸出が規制された。

アメリカ海軍は、ワシントン海軍軍縮条約の制約がなくなると、主力艦を戦艦とみて整備を進めた。1938年5月のヴィンソン案ではサウスダコタ級戦艦3隻、エセックス級航空母艦1隻の建造が決まったが、1940年の海軍拡張法によってアイオワ級戦艦2隻、エセックス級航空母艦3隻へと建艦計画は拡張された。

しかし、1940年6月、フランス降伏後のドイツ支配に対抗するために、アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スターク大将は、ヴィンソン案を見直し、16インチ40cm50口径砲三連装砲塔4基搭載の6万3000tモンタナ級(Montana Class)巨大戦艦5隻、アイオワ級高速戦艦2隻を含む建艦計画に修正した。航空母艦(空母)の建造は、1936年4月から1941年4月までの5年間で僅か1隻が建造されたに過ぎなかったが、大戦中に空軍兵力重要性が再認識された。

写真(右)1942年10月20日、アメリカ東岸、ニューヨーク海軍工廠からニュージャージー州ベイヨン海軍基地で艤装するために移動中のアイオワ (USS Iowa (BB 61)):ワシントン海軍軍縮条約の期限切れで、16インチ砲を搭載の排水量4万5,000トンの大型戦艦を新造することになった。
English: 80-G-13556: USS Iowa (BB 61) leaves the New York Navy Yard for completion at the specially built Naval Supply Base, Bayonne, New Jersey, October 20, 1942. The hull is secured in drydock. Photograph released by Public Relations, Third Naval District. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/08/09). Date 9 August 2016, 10:37 Source 80-G-13556 Author National Museum of the U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:HMS Repulse (ship, 1916) File:Haifa, result of terrorist acts & government measures. H.M.S. Repulse with Haifa in background, silhouette effect against Mt. Carmel LOC matpc.18612.jpg引用。


アイオワ級戦艦アイオワ(USS Iowa, BB-61)の諸元
起工 1940年6月27日
進水 1942年8月27日
就役 1943年2月22日
基準排水量 48,500トン
満載排水量 57,450トン
全長 270.43m
最大幅 32.97m
吃水 10.69m
幅 27.4 m
最高速力 31ノット
航続距離 9,400マイル(15ノット)
乗員 1260名(戦没時1309名)
兵装
50口径40.6cm砲 9門
38口径12.7cm砲 20門
56口径40mm対空砲 80門
70口径20mm対空砲 49門
装甲 舷側:307mm(傾斜19度)
装甲甲板121mm+STS32mm
主砲防盾:432mm裏面にSTS64mm
主砲座:439mm
司令塔:439mm

写真(右)1942年9月26日、アメリカ、マサチューセッツ州ベルレヘム・スチールのフォアリバー造船所、進水するアメリカ海軍エセックス級航空母艦2番艦レキシントン (USS Lexington (CV-16))
The U.S. Navy aircraft carrier USS Lexington (CV-16) sliding down the shipways, during her launching at the Bethlehem Steel Company's Fore River Shipyard, Quincy, Massachusetts (USA), 26 September 1942. Date 26 September 1942 Source Official U.S. Navy photo 80-G-K-13954 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command Author U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:USS Lexington (CV-16) File:Launch of USS Lexington (CV-16) at the Fore River Shipyard on 26 September 1942.jpeg引用。


USS Lexington エセックス級空母2番艦レキシントン (USS Lexington (CV-16))の諸元
起工 1941年7月15日
進水 1942年9月23日
就役 1943年2月17日
基準排水量 27,100 トン
満載排水量 36,380 トン
全長 912 ft (277.9 m)
全幅 147.5 ft (45 m)
吃水 34.2 ft (10.42m)
最高速力 33ノット
航続距離 14,100 マイル(26,100 km) 20 ノット
乗員 士官、兵員3,448名
兵装  38口径5インチ両用連装砲12門
装甲 飛行甲板(格納庫): 2.5 インチ (64 mm)
バーベット:330mm(13インチ) 搭載機 36 × グラマン F4F Wildcat
36 × ダグラス SBD Dauntless
18 × グラマン TBF Avenger


高度な戦略論の議論の中で、1940年7月、アメリカ議会は、両洋艦隊法(Two-Ocean Navy Act)を可決したが、それは、1940年6月のフランス敗北、アメリカ本土防衛の危機感を踏まえてのことである。両洋艦隊法は、アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スタークの第四次拡張計画(Stark's plan:スタークスプラン)を実施するために40億ドルの予算措置を講ずるものである。計画では、モンタナ級戦艦5隻 , アイオワ級戦艦2隻、航空母艦18隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻, 巡洋艦 27隻, 駆逐艦115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇を建造し、航空機1万5,000機を生産する計画である。

こうして、太平洋戦争勃発1年半前の1940年7月に成立した両洋艦隊法(Two-Ocean Navy Act)では、戦艦だけではなく、エセックス級など空母の建造を推進することになった。これで、大西洋のドイツ、太平洋の日本の双方に同時に対抗可能であるとされた。ただし、航空兵力の重要性が増し、戦局の悪化が懸念されたために、急速に戦力を増強する必要があり、起工から竣工まで数年が必要な大型戦艦2隻の建造は中止された。両用艦隊法が成立して以降、アメリカでは起工済みのアイオワ級戦艦までは竣工させたが、それ以降の新戦艦は発注されずに終わっている。

ハル国務長官の顧問スタンレー・ホーンベックは、日米通商航海条約が1940年で期限切れになることから、アメリカは日本に対して、懲罰的経済制裁をとることが可能になった。日本への貿易によるアメリカからの物資供給ができなくなれば、日中戦争が続けられrなくなると考えたのである。極東に対して、対ドイツ戦に孤軍奮闘しているイギリス、オーストラリアは宥和政策を採用したが、ハル国務長官は、日本との和平交渉が展開する見込みはなく、日 本に対する航空用ガソリンの輸出制限を主張するほどだった。また、ハル国務長官は、7月24日、アメリカ太平洋艦隊をハワイから引き上げることにも反対し、財務長官モーゲンソーの支持を得た。

陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Lewis Stimson:、1867-1950)は、フランス降伏後、対日経済制裁を強化すべきであると主張し、日本に対する石油、鉄鋼、屑鉄の規制強化を主張した。島国で貿易に依存する日本は、経済制裁に弱く、さらにアメリカ太平洋艦隊をハワイからシンガポールに移動すれば、日本への抑止力は向上し、東半球の防衛に寄与すると考えた。

しかし、国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles)国務次官、国務省極東部長ハミルトン(Maxwell Hamilton)、海軍作戦部長スターク、陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャルGeorge Catlett Marshall:1880ー1959)大将らは、日本に対する石油・屑鉄の禁輸は、日本の東南アジア侵攻、特にオランダ領東インドの進出とその石油獲得のための南進を促すとして反対した。

1945年9月の戦勝後、ジョージ・キャトレット・マーシャルGeorge Catlett Marshall)元帥は、陸軍参謀総長を辞して退役した。第二次大戦後、東西対立が激化したため、マーシャルは、共産党の勢力が伸長する中国で国民党蒋介石政権を支援し、国共合作の新生中国の樹立のために、1945年12月にトルーマン大統領から中国全権特使に任命された。

しかし蔣介石の国民党と毛沢東の共産党は内戦を起こし、マーシャルは本国に召喚された。1947年1月に国務長官に就任したマーシャルは、6月5日のハーバード大学学位授与式の講演でヨーロッパ復興「マーシャル・プラン」を発表した。1949年1月、国務長官を退任したが、1950年9月ー1951年9月まで国防長官の地位にあった。1953年12月、ノーベル平和賞を受賞。

コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化した時期、国民党領袖蒋介石にとって中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義の蒋介石は、ヨシフ・スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切った。スヨシフ・スターリンのソ連からの軍事援助があればこそ、蒋介石は、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。

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蒋介石 蒋介石(蔣中正)の略歴
1936年、中国共産党包囲殲滅を督戦中、張学良により西安で監禁(西安事件)、国共合作へ転換。
1937年 7.7盧溝橋事件の抗日世論に答え「最後の関頭」演説、抗日戦決意。年末に、南京から四川省重慶へ遷都。
1941年、12月に太平洋戦争勃発、連合国共同宣言に署名、主要連合国の地位を確立。
1942年、アメリカ陸軍ジョセフ・スティルウェル将軍が中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任。
1943年、11月のカイロ会談に宋美齢と参加。
1944年、10月、国民党を蔑ろにするスティルウェルを参謀長から解任。
1945年、日中戦争に勝利に終戦。毛沢東と平和建国の双十協定。
1946年、国共内戦の勃発。
1947年、台湾民衆弾圧の二・二八事件。 1948年、中華民国の初代総統に就任。
1949年、国共内戦で敗北。首都南京を放棄、成都を経由して台湾へ脱出。

宋美齢(Soong Mei-ling)の略譜
1898年:父・客家の実業家・浙江財閥の宋嘉澍の宋靄齢(国民政府財政部長を継いだ孔祥熙の妻)・宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国副主席)・宋子文(国民政府財政部長)に次ぐ三女として上海県に誕生。
1908年:アメリカ留学。
1917年:ウェルズリー大学Wellesley College)卒業。
1927年:国民党指導者の蔣介石と結婚。
1930年:国民党中央委員会委員に就任。
1937年:国民党航空委員会秘書長に就任。
1943年:カイロ会談Cairo Conference)に蒋介石に同伴、通訳の役割も果たす。
1949年:国共内戦に敗れ、蒋介石と台湾に脱出。
1975年:蒋介石逝去後、アメリカに移住。
2003年:ニューヨークの自宅で105歳で逝去。


5ー1.メキシコの石油日本が救世主 : 人絹糸も求償外三分の二輸入
大阪毎日新聞 Vol: 第f補巻 Page: 62 出版年 1940-08-06
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100057620 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

貿易組合中央会メキシコ貿易斡旋所およびボコタ(メキシコ国)貿易斡旋所から五日[貿易組合]中央会経由加盟各輸出組合へ石油輸入、人絹糸輸出などに関し左のごとき朗報があった

一、メキシコ貿易斡旋所発=米国の石油、屑鉄問題につきメキシコ政府は声明を避けているがメキシコは目下米国と石油に関し紛議中であり、かつ中南米□国中メキシコのみが石油に関し英米資本を駆逐しているので買手があれはどこへでも輸出するものと見られる、ただパナマ運河通過禁止などの米国の厭迫があるが、しかしメキシコ石油は欧洲への輸出杜絶し、不景気となっているから日本へのはけ口は救世主の感があるが、屑鉄はメキシコに約二万トンあり、解体と運搬に手数がかかりサイズも揃っていないので見込みは少い

二、ボコタ貿易斡旋所発=メキシコの人絹糸求償外輸入はその都度輸入希望額の三分の一を同国内人絹糸[レーヨン]製造工場に注文すれば三分の二は日本糸の輸入が許可せられることに決定した、同国内の生産月額は三万キロにて消費は十万トン見当である、同国内にて製造出来ざる番手は自由輸入になるや否やは未た決定していない、生糸、綿糸の求償外輸入は目下考慮中である (メキシコの石油日本が救世主 : 人絹糸も求償外三分の二輸入引用終わり)


写真(右)1938年9-10月、アメリカ、ワシントンDC、フランクリン・ルーズベルト大統領にズテーテン危機に関する外交報告書を渡しに登庁したアメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)[左]とアメリカ国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles, 1892-1961)[右]:ウェルズ国務次官は、FDRの個人的信頼を得た外交官として世界を飛び回った。1939年9月の第二次大戦勃発直後にパナマで汎アメリカ会議を主宰、1940年3月にはバチカン、イタリア、戦時中のドイツ、フランス、イギリスを訪問し、1940年7月に前月のソ連軍によるバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の占領を非難した。
English: Title: President receives latest reports on international situation. Washington, D.C., Sept. 27. Secretary Cordell Hull and Undersecretary of State Sumner Welles arriving at the White House today with latest reports on the critical international situation. Both officials have spent much time with the Chief Executive since Hitler set his deadline for war at October 1, 9/27/38 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.25086
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:President receives latest reports on international situation. Washington, D.C., Sept. 27. Secretary Cordell Hull and Undersecretary of State Sumner Welles arriving at the White House today LCCN2016874056.jpg引用。


5−2.米、釈明的回答 : 航空燃料禁輸問題きのう我方に到達
東京朝日新聞 Vol: 第154巻 Page: 21 出版年 1940-08-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337204 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

堀内[謙介]駐米大使が去る三日米国政府に提出した航空機用ガソリン禁輸に関する抗議に対する米国政府の正式回答は九日航空機用ガソリン禁輸からウエルズ[Sumner Welles]国務次官に手交されたが、右米国政府の回答文は十二日朝外務省に到達した、而して右回答の内容は大体米国政府今回の禁輸措置が純然たる国防的見地からなされたものであって、決して我が国に対して差別的待遇を企てたものではない旨を強調したもののようである(米、釈明的回答 : 航空燃料禁輸問題きのう我方に到達引用終わり)

写真(右)1939年、アメリカ、ワシントンDC、堀内謙介(ほりのうちけんすけ)(1886ー1979)駐米日本大使
English: Title: Kensuke Horinouchi, new Japanese Ambassador to U.S., 3-7-39 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1939 Source the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.26213
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Kensuke Horinouchi, new Japanese Ambassador to U.S., 3-7-39 LCCN2016875170.tif引用。


兵庫県出身の堀内謙介(ほりのうちけんすけ)(1886ー1979)、旧制山口高等学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年10月、外交官試験に合格。 青島、イギリス、中華民国を勤務を経て、1930年1月、在ニューヨーク総領事、1934年3月、外務省調査部長、同年6月、アメリカ局長、1936年4月、外務次官に就任。1938年9月、駐米大使。1940年末に駐米大使は野村吉三郎海軍大将が引き継いだ。


6.1940年5月10日イギリスのアイスランド侵攻と1941年7月7日のアメリカのアイスランド占領

写真(右)1941年、アイスランド南西部、カルダーダ―ネス(Kaldadarnes)基地、アメリカ陸軍航空隊第33追撃飛行隊のロッキード(Curtiss)P-40Cウォーホーク (Warhawk) 戦闘機の戦列:試作1号機は1938年10月4日初飛行。P-40Nは、総重量3780 kg、V-1710液冷V型12気筒エンジン895 kW (1217 PS)装備で、最高速力560 km/h、航続距離1200 km、ブローニング(Browning).50口径 (12,7 mm)機関銃6挺装備。
English: P-40C Warhawk, 33d Pursuit Squadron, Kaldadarnes Iceland, 1941 (Flickr - No Restrictions) Date 1941 Source SDASM Archives Author United States Army Air Corps
写真はWikimedia Commons, Category:1941 in Iceland File:P-40C Warhawk, 33d Pursuit Squadron, Kaldadarnes Iceland, 1941.png引用。



写真(上)1941年10月、アイスランド南西部、カルダーダ―ネス(Kaldadarnes)基地、イギリス空軍第269飛行隊のロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson)Mk III爆撃機("Spirit of Lockheed-Vega Emplyees")
:1934年2月23日に初飛行した全金属製、低翼のロッキード・モデル10エレクトラ高速輸送機の発展型スーパー・エレクトラの軍用仕様がハドソンである。
HUDSON MARK 3 (LOCKHEED) No 269 Squadron's most-photographed Hudson, T 9465 'Spirit of Lockheed-Vega Employees', bathed in early-morning sunshine while being readied for an anti-submarine patrol from Kaldadarnes, Iceland, October 1941.
写真は,Imperial War Museums  IWM CS 112引用。


アイスランドはデンマーク領だったが、1874年に自治を認められ、1904年には自治領へとなり、1918年にデンマーク国王を抱く連合王国として独立した。デンマークは、1939年9月の第二次世界大戦勃発に際し、中立を宣言したが、ドイツの侵攻を受けた。

アイスランドも中立を宣言したが、融和政策をとってきたイギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain )に代わって1940年5月10日チャーチルが政権をとった。

1940年5月10日、チェンバレン首相が退陣、チャーチルが新首相に就任したが、ドイツの西方侵攻に直面した。しかし、チャーチルは、同日、直ちに中立国アイスランド侵攻Invasion of Iceland )を発動した。当時、アイスランドは、連合していたデンマークがドイツに占領され、ドイツ軍がアイスランドに無血占領するリスクがあり、そうなればアイスランドを基地としたドイツ海軍潜水艦や航空兵力によって大西洋補給ルートが遮断される恐れがあった。

1940年5月10日、チェンバレン首相が退陣し、チャーチルが新首相となったが、同日即座に、イギリス軍はアイスランド侵攻「フォーク作戦Operation Fork )」を発動し、大西洋の海上交通確を意図して1000名弱の1個大隊規模のイギリス海兵隊をアイルランドに派兵した。

写真(右)1941年8月27日、アイスランド沿岸、カルダザルネース基地を離陸したイギリス空軍第269哨戒飛行隊ロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson) Mark III 爆撃機の爆雷攻撃で急襲されたドイツ潜水艦UボートVII型U-570と拿捕しようと接近するイギリス対潜トローラーノーザン・チーフ(HMT Northern Chief)、上空を警戒する第209哨戒飛行隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBYカタリナ(Catalina)飛行艇(爆雷を装備している):1941年5月15日就役のU-570は艦長ハンス=ヨアヒム・ラームロウ(Hans-Joachim Rahmlow)大尉の初出撃だった。を艦長に急襲され、白旗を掲げて降伏、イギリス兵士がU-570に移乗したが、浸水のため座礁させられた。のちにU-570は回収され拿捕された。そしてイギリス潜水艦グラフ (HMS Graph:P715) として1941年9月19日に就役し実戦に投入された。ドイツ製でイギリスでは整備修繕できなくなったために1944年3月20日に除籍された。
Royal Air Force 1939-1945- Coastal Command On 27 August 1941 Coastal Command claimed a rare and unusual success when one of its aircraft was instrumental in the capture of a U-boat. A No 269 Squadron Hudson operating from Kaldadarnes in Iceland, flown by Squadron leader J. H. Thompson, surprised U-570 on the surface. Thomson dropped a stick of depth charges, after which the German crew was seen spilling out onto the casing, waving white flags. This photograph was taken later by a Catalina from No 209 Squadron, called to the scene along with various Royal Navy vessels. Heavy seas at first prevented a boarding party from reaching the U-boat, but eventually they were able to accept the crew's surrender. C 2066 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Royal Air Force official photographer, HQ Coastal Command.
写真はWikimedia Commons,Category:No. 269 Squadron RAF File:U570 capture.jpg引用。


当時中立を宣言していたアイスランドには、武装警察程度の兵力しかなかったから、アイスランドのドイツ占領を恐れたチャーチル政権に入ったイギリスは、先回りしてアイスランド全土を支配下に置いてしまったのである。もちろん1940年5月10日に開始されたイギリスのアイルランド占領は、ソ連のバルト諸国併合と比すべき、国際法違反の侵略行為である。

しかし、アメリカの参戦と大西洋防衛へのアメリカ進出を目論むイギリスは、アイスランド占領・防衛をアメリカに委ねようとしていた。1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻した直後の1941年7月7日、ルーズベルト大統領は、イギリス首相チャーチルの駐留要請を受けて、大西洋の安全保障を理由に、アイスランドにアメリカ海兵隊4000名を派遣し、アイスランドを再占領した。

1941年7月7日の中立国アメリカによるアイスランド侵攻は、アイスランドは、宗主国といえるデンマークがドイツに占領されなすところがなかった状況で、アメリカの豊富な物資支援、軍事援助を歓迎した。アメリカはまた戦争末期、1944年にアイスランドは、デンマーク国王を元首に戴く連合を解消してしまった。デンマークより、アメリカを頼り、同盟国とする選択をしたのである。


Tales of the American Empire 3,750 回視聴 2019/10/26 On July 7, 1941, a large American naval task force with a 4000-man Marine brigade arrived off Iceland. Despite British pressure, the government of Iceland refused to invite the American troops ashore. President Roosevelt ordered the Marines to invade and informed the US Congress that Marines had landed because it was in Iceland’s best interest.

写真(右)1940年9月、アメリカからイギリスに供与されたアメリカ海軍の旧式駆逐艦50隻のうち3隻;USS Buchnanan (DD-131), USS Crowninshield (DD-134) 、USS Abel P. Upshur (DD-193).米国は中立とはいうものの,1941年武器貸与法の前から、イギリスを軍事援助していた。Collection FDR-PHOCO: Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs, 1882 - 1962 Item: Gunners from the British Navy are being instructed by American Naval gunners in theoperation of a secret device that is part of the guns aboard the over-age Destroyersturned over too Britain in exchange for Naval & Air bases. The photo was taken ata Canadian port, 9/12/1940
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG NAIL Control Number: NLR-PHOCO-A-7420(283) 引用。



7−1.米洲の英海・空軍基地九十九年間米に貸与 : チャーチル首相、下院で報告
大阪朝日新聞 Vol: 第153巻 Page: 46 出版年 1940-08-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100334906

【ロンドン特電二十日発】チャーチル英首相は二十日下院における演説においてイギリスは米洲にある英属領の空軍および海軍基地を九十九年間アメリカに貸与するに決した旨言明した [写真(チャーチル[Winston Churchill]英首相)あり 省略]

WINSTON CHURCHILL 【ロンドン特電二十日発】チャーチル[Winston Churchill]首相は二十日下院における演説で戦況を報告したるのち更に言葉をつづけイギリスはあくまでドイツに抗戦する固き決意を有する旨を表明した、要旨左の如し

一、将来われわれの精力は防備のみに集中されてはならぬ、戦争を急速に終息せしむるためには敵をしてわれわれが永久に戦争を継続する意思と手段とを有するのみならず敵に予期せざる重大なる打撃を与える意思と手段とを有することを覚らしめねばならぬ

二、勝利への途はわれわれの考えるほど遠くはない、しかしその途が長かろうが短かかろうがまた嶮岨であろうが平坦であろうが吾々はあくまで最後の目的地に達することを決意している

三、われわれは独伊仏その他ドイツの手中に陥ちた地域に厳重な封鎖を実施するつもりであってドイツ占領地帯への食糧の流入は断乎阻止する

四、ドイツ空軍の対英空襲は有効に阻止された、そして吾々はイギリスは従来より強力となったと感じ、また事実においても強力となっている、七月中大西洋を越えて多量の軍需品が輸入せられ英軍需工業もまた全力を挙げて生産に従事している、イギリスにおいては抗戦の決意に燃える二百万以上の人々が武器をとっている

UボートVII 五、英海軍はその後建艦計画の進捗によりドイツの潜水艦[Uボート]ならびに機雷による損害にもかかわらず開戦当時よりもかえって強力となっている、吾々はアメリカが戦時軽艦隊[護衛艦隊]勢力を充実するためその軽艦隊[護衛艦隊]をイギリスに貸与せられんことを望むものであるなおイギリスはドイツに屈服した諸国の汽船四百万トンを抑留しこれを使用している

英米連合』を示唆 前陸相[ホア・ベリシャ]の演説

【同盟ロンドン二十日発】二十日下院におけるチャーチル[Winston Churchill]首相の演説に引続いてホア・ベリシャ[Hore-Belisha]前陸相が登壇し英米共同政策を礼讚するとともにこれが終局において「英米連合」に発展する可能性のあることを示唆し左の如き興味ある言明を行った

 もし今日の英米両国関係を押進めてかつてわれわれがフランスに臨んだような種類の関係すなわち「終局の共通市民案」とも称すべき関係にまで発展するならば今年になってからの種々不幸な出来事もすべて起り甲斐があったということになるであろう、しかしてチャーチル首相が今日英米関係について言明したところは今日までの数多い外交的失敗を補って余りあるものだ(米洲の英海・空軍基地九十九年間米に貸与 : チャーチル首相、下院で報告引用終わり)

写真(右)1942年10月20日、アメリカ、イギリス海軍タウン級駆逐艦(Town-class destroyer)チャールズタウン(HMS Charlestown (I21)):1917–1920年50隻建造されたアメリカ海軍ウィッカー級駆逐艦(Wickes-class destroyer)アボット(USS Abbot :DD-184)は1919年6月19日就役、1940年9月23日に中立国アメリカから、ドイツと戦うイギリスに貸与されチャールズタウン(HMS Charlestown (I21))と命名された。
English: HMS Charlestown (I21).
Underway. Date between 1939 and 1945
Second World War (production), Second World War (content) Creator Royal Navy official photographer Materials whole: Nitrate Catalogue number FL 3209 Part of MINISTRY OF DEFENCE FOXHILL
写真は Imperial War Museums IWM FL 3209引用。


イギリス海軍タウン級駆逐艦Town-class destroyer
排水量:1,190 tons
全長Length 314 ft 4.5 in (95.8 m)
全幅Beam 30 ft 11.25 in (9.4 m)
吃水Draught 9 ft 0 in (2.7 m)
速力Speed 30–35 knots (56–65 km/h; 35–40 mph)
乗員Complement 146
兵装Armament 3 × 4 インチ50口径砲
2 × 三連装魚雷発射管 21インチ魚雷

写真(右)1939年5月22日、イギリス、メディアで兵役志願を訴える労働党ホア・ベリシア(Leslie Hore-Belisha:1893-1957)陸軍大臣
Short Summary Footage of the War Minister Mr Belisha talking about army recruitment. Film ID 1011.30 Archive British Pathé Issue Date 22/05/1939 Duration 00:00:57:00
写真はBritish Pathé Ltd. MR HORE BELISHA (WAR MINISTER) ON NATIONAL DEFENCE 引用。


労働党ホア・ベリシアLeslie Hore-Belisha:1893-1957)は、1934-1937年ラムゼー・マクドナルドRamsay MacDonald)労働党内閣では1932年‐1934年に財務大臣、1934ー1937年に運輸大臣として活躍したが、戦時内閣における保守党・自由党連立内閣では、1937年5月から1940年1月まで陸軍大臣(戦争大臣)に就任し、保守党チャーチル首相に協力した。

写真(右)1942年9月、アメリカ、ワシントンD.C.,ニュージーランド公使館、イギリス駐米大使ハリファックス卿エドワード・フレデリック・リンドリー・ウッド(Edward Frederick Lindley Wood, 1st Earl of Halifax:1881-1959)とソビエト駐米大使マクシム・リトヴィノフ(Maxim Maksimovich Litvinov:1876ー1951)
Author Marjory Collins (1912–1985) Title Washington, D.C. Lord Halifax, British ambassador, chatting with Maxim Litvinoff, Russian ambassador, at a garden party at the New Zealand Legation Date Spring 1942 Dimensions 35 mm. Collection Prints and Photographs Division Washington, D.C. Accession number Reproduction Number: LC-USW29-000020-M3 LC-DIG-fsa-8d00096 (digital file from original neg.) Call Number: LC-USW29- 000020-M3 [P&P] LOT 198 Other Number: D 9047 Source United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID fsa.8d00096.
写真はWikimedia Commons, Category:Edward Wood, 1st Earl of Halifax File:Lord Halifax, British ambassador, chatting with Maxim Litvinoff, 8d00096v.jpg引用。


ハリファックス卿(Edward Wood, Earl of Halifax)は、名門出身で1934年1月に子爵から男爵、1944年7月に伯爵の爵位を得た。法学博士ハリファックス卿は、インド総督、外務大臣を務めたが、チャーチルの戦略に賛同しなかったために1940年末に外務大臣更迭、駐米大使になった。

リトヴィノフ(Maxim Litvinov)外務人民委員(外相)は、米ソ国交回復と、ソ連の国際連盟加盟・常任理事国就任、スペイン内戦人民戦線支援、中国国共合作支援など多大な功績をあげたが、反ヒトラーのスターリンがヒトラーとの交渉を進めるために、1939年5月独ソ不可侵条約の交渉前に更迭された。しかし、1941年6月の独ソ戦勃発後、再び起用され駐米大使に任じられた。


写真(右)1942年7月12日、南太平洋、トンガ、ヌクアロファ港、アメリカ海軍クレムソン級駆逐艦(Clemson-class destroyer)バーカー(USS Barker :DD-213)と奥の輸送艦ジャクソン(USS President Jackson :AP-37) :1919年から1922年に就役したクレムソン級駆逐艦は、156隻も竣工したが、第二次大戦時は旧式化していたが、潜水艦制圧のためには有用で、1946年まで使用された。駆逐艦-基地交換協定に基づいて、イギリスに19隻が譲渡されタウン級駆逐艦(Town-class destroyer)として使用された。レンドリース法(武器貸与法)の成立1年前のことである。
English: The U.S. Navy destroyer USS Barker (DD-213) on 21 July 1942 in Nukualofa Harbour, Tongatabu. The attack transport USS President Jackson (AP-37) and an oiler are visible in the background. The photo was taken from the aircraft carrier USS Wasp (CV-7). Note: According to Barker´s deck log she arrived in Nukualofa Harbour at 0806 hrs, 21 July and moored alongside the oiler USS Kanawha (AO-1) to refuel. At 1124 hrs she got underway and left the harbour, on her way to Pearl Harbor. The date given, 4 August 1942 (also on the other photos of the series) is obviously wrong as President Jackson was on her way to Guadalcanal on that date. Date 21 July 1942 Collection Naval History & Heritage Command Accession number 80-G-K-559
.写真はWikimedia Commons, Category:USS Barker (DD-213) File:USS Barker (DD-213) and USS President Jackson (AP-37) at Tongatabu, 21 July 1942 (80-G-K-559).jpg引用。


US Flush-Deck Destroyers 1916?45 Caldwell, Wickes, and Clemson classes アメリカ海軍クレムソン級駆逐艦(Clemson-class destroyer)は、艦首から艦尾まで通しの平甲板で、量産性に配慮されていた。アメリカが代位自治体戦に参戦する中で、商船ルシタニアのドイツ潜水艦による撃沈など、対潜水艦哨戒、船舶護衛に使用する駆逐艦として急速建造が図られた。従前のウィックス級駆逐艦の形状を引き継いだが、機関・燃料区画を規格化し、搭載する機関も統一した。1932年に建造が開始された艦隊型駆逐艦といえるファラガット級駆逐艦(Clemson-class destroyer)では、耐浪性を向上するために艦首甲板を高くしたカッター・バウを採用し、満載排水量2,000トンを超える大型艦隊型駆逐艦となった。

クレムソン級駆逐艦(Clemson-class destroyer)の諸元
常備排水量 1,190トン
満載排水量 1,308トン
全長 95.8 m
全幅 9.68 m
吃水 3.00 m
出力 27,600馬力
速力 35.5 ノット
航続距離 4,900 nmi / 15 kt
乗員 士官 8名+下士官 8名+兵員 106名
兵装 竣工時
 50口径 4インチ砲×4基
 23口径 3インチ砲×1基
 3連装533mm魚雷発射管×4基
1944年(ベインフリッジ)
 50口径 3インチ砲×6基
 エリコンSS 20mm機銃
 3連装533mm魚雷発射管×2基
 爆雷投下軌条2基

写真(右)1942年9月3日、アメリカ、ヌクアロファ港、イギリス海軍ロックスボロー(HMS Roxborough(I07)):ウィックス級(Wickes-class)駆逐艦フット(USS Foote:DD-169))は、起工1918年8月7日、進水1918年12月14日、就役1919年3月21日。1940年9月23日にアメリカで除籍され、同日イギリスに引き渡され駆逐艦ロックスボロー(HMS Roxborough(I07))と命名された。その後、駆逐艦ロックスボローは、1944年9月1日にイギリスからソ連海軍に引き渡されている。1919年から1921年に就役したウィックス級駆逐艦は、111隻が竣工した。第二次大戦時は旧式化していたが、1940年、駆逐艦-基地交換協定に基づいて、22隻がイギリス海軍にタウン級駆逐艦(Town-class destroyer)として貸与された。潜水艦制圧や高速輸送艦としては有用で、1946年まで使用された。レンドリース法(武器貸与法)の成立1年前のことである。
English: The Royal Navy destroyer HMS Roxborough (I07) (ex-USS Foote, DD-169) underway in Hampton Roads, Virginia (USA), on 3 September 1942. Note typical British modifications to this former U.S. Navy "Flush deck" destroyer. Date 3 September 1942 Source Official U.S. Navy photo 80-G-10826 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command Author U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:USS Foote (DD-169)) File:HMS Roxburgh (I07) underway in Hampton Roads on 3 September 1942.jpg引用。


アメリカ海軍ウィックス級駆逐艦Wickes-class destroyersWickes-class destroyers)の諸元
建造期間 1917年 - 1921年
就役期間 1918年 - 1946年
常備排水量 1,090トン
満載排水量 1,247トン
全長 95.82 m
水線長 94.5 m
最大幅 9.43 m
吃水 2.74 m
速力 35.3ノット(竣工時)
航続距離 2,500マイル/20kt
乗員 114名
1940年の兵装
・50口径3インチ砲インチ砲×6門
・12.7mm単装機銃×4挺
・爆雷投下軌条2基


図(上)1941年、ドイツ海軍潜水艦Uボート VII C型の内部構造図
:水上排水量:769t 水中排水量:871t 全長:66.5m 全幅:6.2m 吃水:4.7m 全高:9.6m 最高速力:水上17kt、水中7.6kt 出力:水上2,800hp(2,400 kW)、水中:750hp(560 kW) 水上航続距離:10ktで8,500マイル(約15750km) 水中航続距離:4ktで80マイル/2ktで240マイル 燃料搭載量:重油113.5t 最大安全潜航深度:100m 兵装:53cm魚雷発射管5門(艦首4、艦尾1)搭載魚雷14本、 45口径8.8?砲1門、37mm機関砲1門、20mm機関銃2挺 乗組員数:44名(うち4名は士官)
English: A schematic drawing of a Type VIIC U-boat, more precisely w:U-570, captured by the British during World War II Date 1941 Source http://www.uboatarchive.net/U-570/U-570GeneralPlanDavidTaylorHR.htm Author David W. Taylor Model Basin, U.S. Navy
写真はWikimedia Commons , Category:Type VIIC submarines ・File:Type VIIC U-boat schematic drawing.jpg引用。


1940年5月のドイツの西方侵攻で敗退したイギリス首相チャーチルは、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに最初の手紙を書いた。内容は、大西洋の制海権維持のために、アメリカで余剰となった駆逐艦をイギリスに貸与してほしいという要請で、見返りに西半球のイギリス領だったカナダ沖のニューファンドランド (Newfoundland)島、大西洋上のバミューダ (Bermuda)諸島、西インド諸島 (West Indies)のイギリス軍の基地を99年間の譲渡するといういうものである。

この西半球の防衛の申し出は、アメリカの安全保障につながると考えたルーズベルト大統領は、申し出を受け入れた。こうして、1940年9月2日、駆逐艦基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)がなり、アメリカは50隻の排水量1200トン級の駆逐艦をイギリスとイギリス同盟ドミニオン(自治領)カナダへ引き渡した。これらの旧式駆逐艦に、イギリスは、潜水艦探知音響装置アズディック(ソナー)を装備し、対潜水艦哨戒、船団護衛に使用することになったが、駆逐艦の戦備強化のために時間も必要だった。つまり、1940年9月2日には駆逐艦基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)で譲渡されたアメリカ製駆逐艦が大西洋の戦いに投入されるまでには、さらなる日時を要したのである。

1940年8月4日、イギリス駐米大使フィリップ・ロシアン(Philip K. Lothian)は、ハル国務長官に大西洋の戦 い(The Battle of Atlantic)での船団護衛の必要性とドイツ潜水艦Uボートの脅威について説明した。 こうした中、1940年9月2日、駆逐艦=基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)が成立した。

1940年9月2日、駆逐艦=基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)によって、アメリカはコードウェル(Caldwell)級, ウィックス(Wickes)級,クレムソン(Clemson)級の排水量1200トン四本煙突の旧式駆逐艦50隻をイギリスに貸与することになった。その見返りに、アメリカはイギリス領の西インド諸島アンティグア(Antigua)・ 英領ギアナ(British Guiana)・ジャマイカ(Jamaica)・サンタルシア(St. Lucia)、トリニダード(Trinidad)、大西洋のバミューダ(Bermuda)、カナダ東岸ニューファウンドランド(Newfoundland)の7イギリス軍基地を99ヵ年譲渡された。

つまり、アメリカ軍は、大西洋航路上のイギリス軍の基地を自由にの使用できるようになった。これは、アメリカ=イギリス間の海上遮断を企てるドイツ海軍潜水艦Uボート[U-Boot]の活動を抑制し、海上交通確保、船団護衛に有効だった。

写真(右)1940年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト;米国務長官コ−デル・ハルは、1941年11月26日、日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交し、日本はこれを拒否、対米宣戦を決意する。ルーズベルト大統領の1941年12月8日の議会演説Pearl Harbor Address to the Nation.Pearl Harbor Address to the Nationでは,議会に対日宣戦布告するように要請した。これを受けて,連邦議会は,反対1票で,対日宣戦布告をした。連邦憲法の下では,宣戦布告の権利は,大統領にではなく,議会にある。政府,議会,世論を参戦に一本化し、人員・資源・技術を戦争のために動員することが可能になった。
[President Franklin D. Roosevelt]Created / Published [ca. 1941] Format Headings Film negatives. Genre Film negatives .
写真はNATIONAL ARCHIVES CATALOG Physical Location LC-USW33- 042784-ZC [P&P]引用。


もっとも、フランクリン・D・ルーズべルト(Franklin D Roosevelt)大統領は、1940年11月5日の大統領選挙の再選を念頭に置き、第二次大戦への参戦はしないと公約し、戦争への積極的な介入の方針を明確には示してはいなかった。国民世論を背景に、ルーズヴェルトは、戦争による混乱を避けるが、アメリカの国防上、盟邦イギリスの防衛がアメリカの安全保障に繋がるとして、ヨーロッパ優先、大西洋・西半球重視の戦略を採用した。


7−2.米洲内の英海空基地米に租借権(九十九年)を附与 : 英、苦肉の起死回生策 : 英首相・外相声明
東京朝日新聞 Vol: 第153巻 Page: 49 出版年 1940-08-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335014

【ロンドン特電二十日発】チャーチル英首相は二十日下院における演説において英国は米洲にある英属領の空軍及び海軍基地を九十九年間米国に貸与するに決した旨言明した [写真あり 省略]

【ニューヨーク特電二十日発】ハリファックス[エドワード・ウッド][Edward Frederick Lindley Wood, 1st Earl of Halifax:1881-1959]英外相は二十日議会においてニューファウンドランドからカリビア海に至る西大西洋の若干の島嶼の軍事施設の租借権を米国に与える交渉が『原則的に成立した』と発表

過般大統領の『交渉中』と言う言明と相俟って米国がこの方面に大至急海空軍根拠地を建設することが確定的となるに至った、租借さるべき具体的島名はいまだ秘密とされているが、仮に現在西大西洋に限定されるにしてもこれが将来その他の大洋に及ぶことがないかどうかともかく一つの新例を作るものとして注目されている、

英政府の声明も大統領の声明同様租借問題と駆逐艦問題とは無関係なるかの如く称しているがその実両者は密接なる連絡ありと一般に信ぜられ、而して上院海軍委員長ウォルシュ氏が二十日米駆逐艦の英国への提供は絶対反対であると声明したことは海軍当局の意見を繰返し裏書きせるものと解される、

しかし根拠地の獲得それ自体は軍部当局はもとより、上院議員ホイーラー氏の如き孤立派まで異議なきところであるから結局大統領が英の欲する反対給付を如何にして与えるかの技術的方法に興味が注がれている【写真は(上)[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]英首相(下)ハリファックス[Earl of Halifax]外相】

英米一体化の第一歩 英首相演説太平洋に言及せず

【ロンドン特電二十日発】チャーチル[Winston Leonard Spencer Churchill:1874-1965]首相は二十日下院における演説において戦況を報告した後更に言葉を続け英国は飽くまでドイツに抗戦する固き決意を有する旨を発表した、要旨左の如し

一、将来我々の精力は防備のみに集中されてはならぬ、戦争を急速に終息せしむるには敵をして我々が永久に戦争を継続する意思と手段とを有するのみならず敵に予期せざる重大なる打撃を与うる意思と手段とを有することを悟らしめねばならぬ

二、勝利への途は我々の考えるほど遠くはない、併しその途が長かろうが短かかろうが、又嶮岨であろうが平坦であろうが我々は飽くまで最後の目的地に達することを決意している(拍手)

> 三、我々は独、伊、仏その他ドイツの手中に落ちた地域に厳重な封鎖を実施するつもりであって独占領地への食料流入を断乎阻止する

四、ドイツ空軍の対英空襲は有効に阻止された、そして我々は英国は従来より強力となったと感じ又事実に於ても強力となっている

五、七月中大西洋を越えて多量の軍需品が輸入され、英軍需工業も又全力を挙げて生産に従事している、英国に於ては抗戦の決意に燃える二百万以上の人々が武器をとっている

六、英海軍はその後建艦計画の進捗によりドイツの潜水艦並びに機雷による損害にも拘らず開戦当時よりも却て強力となっている、我々は米国が戦時軽艦隊勢力を充実するためその軽艦隊を英国に貸与されんことを望むものである、なお英国はドイツに屈伏した諸国の汽船四百万トンを抑留しこれを使用している

七、ドイツの英本土空襲は今後も続けられるものと思うが現在の如く巧にこれを撃退すると信ずる、英の各種飛行機の補給は十分である、ドイツ機の数は遥に英国を凌駕することは認めるが英国の最近の飛行機生産額はドイツのそれより遥に大である、米国製飛行機は最近漸く到着し始めたばかりである、戦争が永引けば永引くほど英空軍勢力は益々優勢にせねばならぬ、なお英空軍はドイツの陸海空軍基地軍事施設、軍需品倉庫を空襲成功を収めている

八、仏の屈伏により近東及地中海に於ける英国の作戦は重大影響を蒙ったが、英は同方面に多数の軍隊を有し東地中海の制海権を握っているから何ら憂慮すべき事態に立入っていない

九、英国は米国に対し大西洋の彼岸にある英属領の軍事施設を九十九年間米国に租借せしむるに決したが、これは英国の自由意志に出たもので米国より要求されたものではない、併し主権を米国に譲渡するとか住民の意思に反するが如き取決めを行う意思は全然なくかつ当該地域住民及びカナダ並びにニューファウンドランドの利益は十分尊重する

一〇、而して右は英米両国が相互及び一般利益のためある問題に関して渾然一体となることを意味するものである

なおチャーチル[Winston Churchill]首相は太平洋に於ける英属領に関してはさきに米国との間に航空並びに燃料補給基地として二、三の小島嶼に関する協定が成立したのみであると述べ今回英米間に大西洋岸に於けると同様の取決めが成立したか否かについては何ら言及するところはなかった

【ロンドン二十日発同盟】二十日英国下院に於ける[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]首相の演説中英米協力問題に関する部分の全文は左の通り

 英国政府は種々考慮の結果、数ヶ月前に至り米国の利益の為にも亦英国の利益の為にもこの際米国はドイツの攻撃に備えるため西半球内に十分な海軍及び空軍の防衛施設を必要とするという結論に達した、これはドイツの攻撃力が一時的とは云いながら現に西欧洲の大部分を相当長期に亘る支配を獲得したかに見えるからである、斯様な次第で、我々は誰からも頼まれた訳でなく又誰からも誘われた訳でもなく極めて自然に米国政府に対し次の様に通告するに決したのである『英国政府は将来の量り知れぬ危険に対し更に一層の安全を確保するため、大西洋上の属領中の適当なる個所を進んで米国に貸与しその防衛施設の使用を米国の手に委ねる用意を有する』英米両国の間には共通の目的から来る共通の利害関係があると云う根本的な考え方はしていたもので太平洋上の重要給油地となった若干の小島嶼に関する各種の英米協定に早くもその姿を現わしていたものであった

 現在米国では大西洋岸の海上及び空中防衛に関し不安が感ぜられるに至り、ルーズヴェルト大統領は最近英国政府及びカナダ政府とニューファウンドランド前に西インドに於ける米国の海軍及び空軍施設の増強に就き討議を行いたい意向を明かにした

写真(右)1939年5月22日、イギリス、メディアで兵役志願を訴える陸軍大臣ホア・ベリシャ(Leslie Hore-Belisha:1893-1957):モロッコ出身ユダヤ系で保険会社を経営するジェイコブアイザックベリシャの一人息子だったが、父はすぐに死去したため、母がアデアホア卿再婚した。そこで、二重性のホア=べリシャを名乗るようになった。1923年の総選挙で初当選した。
Short Summary Footage of the War Minister Mr Belisha talking about army recruitment. Film ID 1011.30 Archive British Pathé Issue Date 22/05/1939 Duration 00:00:57:00
写真はBritish Pathé Ltd. MR HORE BELISHA (WAR MINISTER) ON NATIONAL DEFENCE 引用。


英米連合[Allies]」への発展も可能 前陸相[ホア・ベリシャ]声明

[写真(ホア・ベリシア[Leslie Hore-Belisha:1893-1957]氏)あり 省略] 【ロンドン二十日発同盟】[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]首相は二十日の下院に於て「英米両国の協同関係は大河ミシシッピーの流れの如く滔々として止まる所を知らぬであろう」と声明し全議場の大喝采を博したがホア・ベリシア前陸相はチャーチル首相に続いて登壇し英米協同政策を礼讚すると共にこれが終局に於て「英米連合[Allies]」に発展する可能性のあることを示唆し左の如き興味ある言明を行った

 若し今日の英米両国関係を推し進めて嘗て我々がフランスに望んだ様な種類の関係、即ち「終局の共通市民案」とも称すべき関係にまで発展するならば今年になってからの種々不幸な出来事も総て起り甲斐があったと云うことになるであろう、而して[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]首相が今日英米関係について言明した所は今日までの数多い外交的失敗を補って余りあるものだ」

のである、何れにしても主権譲渡の問題は出て来ない訳だが、政府は進んで米国に対し之ら防衛施設に対する九十九年間の租借権を賦与する用意を有するものである、余は米国の大西洋防備が強化されることは英本国にとっても各自治領にとっても利益になると確信するものである

こういう経過を辿って行けば当然この『英語を話す』二大民主国間には将来或種の問題につき相互的且つ一般的の利益の立場から或程度の合作を見ることとなるであろう、余としてはこの見通しに対し何等の不安も抱いていない、かかる動向は仮令余がこれを阻止しようと欲しても不可能であろう、否何人もこの進路を阻むことは出来ないのだ北米の大河ミシシッピーの流れの然るが如く滔々と流れ行くままに流れしめよ、やがてこの流れが大洪水と化しより広い土地、より良き時代への不可抗力の氾濫となるまで、ミシシッピーのそれの如く流れしめよ

駆逐艦譲渡は別問題 ル大統領言明

【ハイドパーク二十日発同盟】二十日チャーチル[Winston Churchill]英首相の演説によって愈明かとなった西半球の英領海、空軍基地の対米移譲問題は英米関係今後の動向を示唆するものとして全世界注目の的となっているが、ハイドパークに静養中のルーズヴェルト大統領は二十日記者団に対し英領租借問題に関する英米交渉は目下順調に進捗しつつある旨左の如く言明した

 西半球に在る英領を米国防衛の為取得する交渉は目下英米両国間に於て順調に進捗しつつある但しこの問題と関連し米国政府が英領租借の代償として旧式駆逐艦をカナダに送るとの報道は単に新聞報道に過ぎない(米洲内の英海空基地米に租借権(九十九年)を附与 : 英、苦肉の起死回生策 : 英首相・外相声明引用終わり)

写真(右)1939年9月-1940年5月、フランス、フランスに派遣されたイギリス遠征軍イギリス空軍飛行場警備部隊兵士を検閲するイギリス海軍大臣ウィンストン・チャーチル (Winston Churchill):ドイツによる1939年9月1日ポーランド侵攻後、9月3日イギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)は、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦となった。チェンバレンは、戦時内閣として強硬派チャーチルを海軍大臣に登用、これはチャーチルにとって24年ぶりの海軍大臣だった。ノルウェー防衛失敗後、チェンバレンは退陣、1940年5月10日、国王ジョージ6世によりチャーチル首相に任命されたが、すぐにドイツによるフランス侵攻に直面し大敗北を喫することになった。
Description English: Royal Air Force- France, 1939-1940 Winston Churchill, First Lord of the Admiralty, inspects an RAF guard of honour at an airfield, during his visit to France. Date between 1939 and 1940 C 374 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Stanley Arthur Devon (1907–1995) Royal Air Force official photographer Imperial War Museum Part of Air Ministry Second World War Official Collection
.写真はWikimedia Commons, Category:Winston Churchill File:Royal Air Force- France, 1939-1940 C374.jpg引用。



8.帝国英米の策謀を監視 : 太平洋の現状変更許さず
国民新聞 Vol: 第154巻 Page: 36 出版年 1940-08-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336375

Battle of Britain 独空軍の猛攻撃下に愈々その死命を制されるにいたった英国は溺るる者の藁をも掴むが如く米国に救援を求め、これに対し米国また自国の存亡にかかわる重大危局到来を恐れて周章これに応じ茲に西半球[Western Hemisphere]における英米両国の共同戦線は急速度に緊密化されるに至った、

即ち米国は十八日交戦国の一たる英領カナダとの間に米大陸防衛に関する常設委員会を設置することとなり事実上欧洲大戦に介したが、更にチャーチル英首相は米国に対して大西洋上の[英自治領]ニューファウンドランド、[ジャマイカ/アンティグアなど]西印度諸島を始め西半球上の英領各島嶼の海空軍基地を九十九年間貸与することとなった旨発表、更に太平洋上の島嶼に関しても英米の緊密なる調和が保持されている旨を言明した、これによって予想された如く死生関頭に立つ英国は米国の独伊枢軸国[Rome-Berlin-Tokyo Axis]に対する恐怖を利用して自己の対独戦に抱き込み大西洋を舞台とする欧米新両勢力の歴史的一大決戦は不可避の情勢となった、

英米両国の今回の行動は明かに太平洋の現状に重大なる変更を加えるものであって太平洋上の現状維持に関する[1922年ワシントン体制]四ヶ国条約の精神を蹂躪し去ったものである、更に両国特に米国の態度は[中国の主権/領土尊重の]九ヶ国条約の精神を自ら冒涜するもので、日支事変に対して過去数度に亘って日本に向って行った抗議を自ら撤回したものと断定すべきである、

右に就て外務省では未だ公電に接せず言明を避けているが、太平洋の島嶼に関する航空機の給油協定はハワイの南方にあるカントン、インデビリに於けるものと見られ、公電に接しチャーチル首相の右声明の内容が確認されれば帝国政府としては無関心たり得ず英米両国に対し「従来太平洋の現状維持を主張し来った英米両国の今回の措置は好んで太平洋の現状に変更を来し紛淆を齎さんとする態度に外ならず帝国政府としても太平洋に戦禍の波及することを絶対排撃する見地から適切なる措置に出ざるを得ない」との見解に基き適切有効なる処置を講ずる筈である一方ドイツの英本土攻撃を目睫に控えて米加の国防協定、米ソ国交調整及び英ソの国外交調整等外交の動きは愈々複雑微妙の様相を呈しているが、この秋に当り帝国の外交転換具現化待望の声は朝野に満ち近衛内閣の重大使命たる外交転換の具現化に向って決然乗り出さんことの一日も早からんことを要望している【写真と絵、上から近衛首相、英首相、米大統領】 [写真あり 省略](帝国英米の策謀を監視 : 太平洋の現状変更許さず引用終わり)


1940年6月フランスの降伏後,イギリスは孤立し,イギリス本国はドイツ海軍潜水艦Uボートによる封鎖によって、物資供給が滞った。アメリカ・カナダからイギリスへの海上輸送ルートを維持するために、1940年9月2日、アメリカは、イギリス領西インド諸島など大西洋上のイギリス軍基地をアメリカが99年間譲渡される見返りに、1200トン級の旧式駆逐艦 50隻をイギリスに譲り渡し、船団護衛と海上交通路の確保に充てる協定を結んだ。これが、1940年9月2日の駆逐艦=基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)である。

しかし、イギリスは1941年になっても、海上交通路をドイツ潜水艦Uボート、ドイツ長距離哨戒機に攻撃されており、チャーチル首相は「大西洋の戦い[Battle of the Atlantic]」の重要性をアナウンスし、イギリス国民の奮起とアメリカの軍事援助を要請した。1941年6月アメリカは、アイスランドに軍を駐留させ,12月7日に日本がアメリカ・イギリスを攻撃すると、アメリカは日本に宣戦布告した。そして、直ぐに、ドイツがアメリカに宣戦布告し、アメリカの参戦によって、イギリスはアメリカの陸海空軍兵力の直接支援を受けることができるようになり、イギリス敗北の危機は去ったのである。


9.ガソリンも禁輸か : 米の対日牽制愈々露骨
大阪毎日新聞 Vol: 第154巻 Page: 70 出版年 1940-09-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336042

【ニューヨーク八日発同盟】米国政府が西半球以外に対する石油航空用ガソリンを禁輸しているに拘らず、航空用ガソリンの日本向輸出はその後も引続き行われているとの九月二日附ニューヨーク・タイムス紙の報道は時節柄関係各方面を刺戟し、特に政府はこれに関する真相調査を命ずるとともにその対策を考究中と伝えられていたが、タイムス紙およびUP両ワシントン電によれば米国政府は日本向航空用ガソリン禁輸の徹底を期するため目下これが具体策を練っており、近くガソリン輸出許可規則を修正して取締の強化を図る方針と伝えられる

 即ちタイムス紙ワシントン電が財務省スポークスマン談として報ずるところによれば、米国政府は航空用ガソリンおよび四基エチール鉛の禁輸を断行したがその後なお多量に輸出されつつあるガソリンが日本において航空用に精製されていることを知り、輸出許可制に欠陥があることを認めたため目下輸出許可制規制の修正を考慮中であると伝えており、またUPワシントン電も信ずべき筋よりの情報として輸出許可制監督当局は禁輸項目外の自動車用その他通常ガソリンを航空用に精製されることを発見したので航空用ガソリンの対日禁輸を徹底せしむるためさらに一般ガソリンに対しても輸出制限許可を考慮中だと報じている

ここに見逃せないのは、この報道が真実とすれば航空用ガソリン禁輸の目的が米国国防上の必要に基づくとは単に名目のみで実際的には対日経済制裁手段として採用されたものだということを米国自身が暗黙裏に肯定していることである、即ち米国としては十分の供給量を持つ通常ガソリンが航空用ガソリンに再精製するからという理由が基づき、これに対しても禁輸を拡大せんとすることは禁輸の理由が米国国防上の必要以外の考慮に基づくことを自ら暴露したものであって、屑鉄禁輸のごとき強化とともに多分に政治的意義が織込まれていると見做さざるを得ず、この際かかる報道が政府筋から出ていることは最近の対日牽制工作と呼応する政府筋の放送と見做される筋がある(ガソリンも禁輸か : 米の対日牽制愈々露骨引用終わり)

イギリス首相チャーチルは、1940年5月のヨーロッパでの敗北に危機感を感じ、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに最初の手紙を書き、旧式駆逐艦の貸与を要請した。それはイギリス領だったカナダ沖のニューファンドランド島、大西洋上のバミューダ諸島、西インド諸島のイギリス軍の基地を99年間の賃貸を引き替えに、アメリカ海軍の旧式駆逐艦50隻を譲渡してほしいという駆逐艦基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)である。

1940年9月2日、駆逐艦=基地交換協定(Destroyers for Bases Agreement)が成立し、アメリカが西半球のイギリス軍基地を99年譲渡され、見返りに駆逐艦50隻をイギリス軍に譲渡することになった。その直後、1940年9月22日ー9月26日に、日本は、ドイツに降伏したフランスに強いてフランス領インドシナ(French Indochina)北部に日本軍を進駐させることを認めさせた。これが、いわゆる北部仏印進駐だが、実際は日本の武力を背景にした恫喝で、軍事占領を認めさせたのである。

日本軍の北部仏印進駐の第一目的は、援蒋ルートの遮断で、ハノイから中国南部へ蒋介石政権のための援助物資が入らないようにすることだった。そして、ドイツの欧州制覇に幻惑され、フランス領インドシナ、オランダ領東インド、イギリス領マレーなど日本の勢力下に取り込む大東亜共栄圏の野望を抱いた。

これに対して、アメリカは、1940年9月26日、日本への屑鉄の輸出を禁止 、12月に、銑鉄、鉄合金、鉄の半製品の輸出規制を強化した。

日本は、フランス領植民地インドシナ(French Indochina)の北部仏印に進駐したが、続いて、1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結した。これは、ヨーロッパおよびアジアにおける新秩序建設を目指し、三国が指導的地位を相互に確認し、日中戦争、欧州大戦に参加していない第三国(アメリカ、ソ連)の攻撃に対する軍事同盟を結んだ。この日独伊三国同盟、その世界新秩序の侵略性に反発したアメリカは、日本に対して、航空機用ガソリン禁輸、屑鉄禁輸といった経済制裁を科した。


10.日本と蘭印[オランダ領東インド]の経済関係 回顧と展望 : 輸入確保へ重点移る : 世界変局に即し根本調整へ
大阪朝日新聞 Vol: 第f補巻 Page: 118 出版年 1940-09-13

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100233519

小林蘭印使節団の一行は十二日無事目指すバタヴィヤに入港した。この歴史的日蘭会商の幕が切って落されようとしているこの時、日蘭経済関係に一応の回顧と展望を加え、交渉の前途に新たなる関心を喚起することにしたい。

 日蘭間の経済関係は、先ず通商貿易の部面から次第に緊密の度を加えて今日におよんでいるわけであるが、欧洲大戦前およびそののち約十年間というものの日蘭貿易は決して大なるものとはいうことが出来ない。問題は結局満洲事変[Mukden Incident]勃発および金輸出禁止後における円為替の低落を主因として廉価な邦品が世界各市場に氾濫するような情勢がはじまってから後のことであって、たとえば昭和六年に僅か千七百万円に過ぎなかったわが対蘭印[オランダ領東インド]出超は翌年にいたって五千九百万円、翌々年は一億円という巨額に達した。

蘭印[オランダ領東インド]は、他方、たまたま一九二九年以来の世界恐慌の風に見舞われ、異常な不況の裏にその対外輸出貿易は激減するの非勢に逢着して、日本とのこうした驚くべきこの貿易の調整は蘭印経済の死活問題として取り上げられるようになった。しかも世は世界不況対策として、自由通商主義を一擲し、貿易統制の風潮が滔々として流れるようになって、蘭印[Dutch East Indies]政府が一九三三年ついに非常時輸入制限令を実施するにいたってから、日蘭間には貿易調整問題をめぐって外交的紛糾とその折衝の絶え間がないこととなった。

 一九三四年、長岡大使を首席とするわが代表がバタヴィヤに乗り込み、本邦品の輸入制限緩和を中心に六ヶ月の長きに亙り折衝を重ねたが物にならずして引揚げ、蘭印当局はここにおいて一時発布を差控えていた五十六種制限令の発布を早速通告するとともに蘭印における営業制限令を実施して本邦商人の圧迫に仮藉するところがなかった。その後通商問題の紛糾はやがて海運問題に飛火し、一九三五年神戸で日蘭海運会議を開いたがこれも駄目、用語問題で決裂してしまった。

 ところが翌三六年になって、日蘭間の空気はやや転換の兆を萌し、海運問題が先ず解決したのに勢を得て当時の石沢バタヴィヤ総領事がハルト経済長官と根気よく交渉を進めた結果、三七年にかの石沢、ハルト覚書交換が成立し、日蘭通商紛争は四年振りで漸く一応の解決をみて今日に及んだのである。

石沢、ハルト覚書の内容は

一、日本側は蘭印の砂糖を出来るだけ買付ける

二、蘭印側は本邦品の輸入が最も多かった一九三三年を基準として輸入割当を行い、従来の輸入制限令を出来るだけ緩和する

三、邦商の蘭印における取扱比率は最高二割五分の現制度を存続し一部商品については最高三割を賦与する

四、在日本蘭商は日本側輸出組合に参加するよう日蘭両国政府が斡旋する

五、協定期限は一九三八年末、但し三ヶ月前に廃棄の意思表示なき限り有効存続する

 この覚書は今日と雖もなお存続しているものと認められているのであるが、日本は支那事変後、蘭印側は欧洲戦争勃発後相手国の商品買付について覚書通りに実行することが出来なくなり、従って部分的には実際上反古となっていると看做してもいい。  右にみて来たように昭和八、九年ごろより今日まで日蘭間の貿易調整問題は、日本から蘭印に流れて行く商品の数量を如何に堰止めるかということに最大の重点が置かれていたことは明らかである。ところが今日における日蘭通商問題は蘭印における石油、錫、ゴム、マグネサイト、ニッケル、タングステンというような重要物資の輸入を如何にして確保するかということ、いい換ると、輸出よりも輸入に問題の重点が移行したということに時代的意義の変遷が認められる。もちろんわが国がこうした重要資源を大量に輸入して行くということの次ぎには、その代償として本邦品を蘭印がより多量に買付けることを要求するという問題を惹起してゆくことはいうまでもない。

 蘭印の輸入総額において、ヨーロッパ諸国が占めている比率は一九三九年度で、オランダ本国二一・四パーセント、英国七・四パーセント、その他仏国、北欧諸国、ベルギーなどからもかなりな数量が輸入されていたところ欧洲戦争の拡大によって殆ど杜絶し、輸出についても大体同様な傾向に陥っている今日、蘭印の貿易は、欧洲への依存関係から離脱し、最も手近な日本との間に新しい抱合関係を設定せさるを得ないところに来ていることは明瞭である。

 かくして、蘭印の豊富な原料資源と本邦の工業製品とのバーター的基礎の上に今日の日蘭貿易額は幾倍かに拡充増大することが望ましい。

 しかしながら、日蘭間の物資交流、つまり流通関係を画期的に改善強化するためには流通に至る前の生産に直接参加して行くということが基礎的課題であって、例えば今日オランダの鉱業投資総額五億一千五百万盾の中オランダ三億九百万盾、英国一億二千四百万盾、米国二千五百万盾となっている。こうした欧米資本の圧倒的優勢は、ゴム、砂糖、規那、煙草などの重要なる農産部門においても大体同じことがいえるのであって

 台湾総督府調査によるわが蘭印投資は栽培業二千四百十九万円林業二百六十万円、鉱業四十万円、漁業十万円、商業八百八十三万円というような貧弱な状態の下に、蘭印の鉱、農、林産品などの輸入を希望通りに確保することはそれこそ木によって魚を求むる類である、従って蘭印政府が本邦資本に対し石油、錫、ニッケル、タングステン、ボーキサイトその他の鉱物資源ゴム、規那、繊維などの農業資源などの開発について積極的に門戸を開放することが望ましい。

 ただここで一応注意を要するのは今次の日蘭会商が立っている政治外交的基礎の特殊な性格についての認識である。  小林使節を蘭印に派遣することが決定されるや日本政府はパブスト在京オランダ公使の来訪を求めて右の次第を通告し、今後の交渉に出来るだけ便宜を提供するよう要望した。ところがパブスト公使は今日ロンドンに逃亡し、英国の庇護の下にあるオランダ政府を代表するものであり、パブスト公使は間接的ではあるが英国政府の命令によって働いているものと看做すことが出来る。また蘭印総督も結局は英国政府の指令によって行動しているものと考えざるを得ない。

 従っていま蘭印総督と外交交渉を進めるということは、春秋の筆法をもってすれば、英国政府と交渉することを意味することになりはしないか。しかも他方和蘭本国は今日独逸の完全占領下にあり、独逸は圧倒的優勢裏に英本土攻撃を展開しているのである。今後にいろいろな問題を残すとすればこの点だが余りにデリケートであるからこれ以上触れることを避けたい。これは今日のわが外交政策の複雑なる性格を反映していると見ていいだろう。 (日本と蘭印の経済関係 回顧と展望 : 輸入確保へ重点移る : 世界変局に即し根本調整へ引用終わり)


写真(右)1941年11月17日、アメリカ、ワシントンDC、アメリカ国務長官コーデル・ハル[67歳](Cordell Hull:1871-1955)と最後の会談に臨む野村吉三郎駐米大使 (左) と来栖三郎特命大使:米国は,日本に対して経済制裁を行い,「ハル・ノート」によって,(満州を除く)中国からの日本軍の(期限の定めのない)撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求した。「ハル・ノート」が手交された時点で,日本は和平交渉を諦め,開戦を決意した。1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を決意した。しかし,米国の日本への要求は,「満州の日本軍は撤退しなくともよい」「中国からの日本の撤兵は5年後からでもよい」として,日米交渉を継続することが可能であった。日独伊三国軍事同盟の解消といっても,即座に実行する必要はなかった。
English: Secretary of State Cordell Hull (1887–1955) brought Japanese Ambassador Kichisaburō Nomura (1877–1964, left) and Special Envoy Saburō Kurusu (1886–1954, right) to the White House for a meeting with President Franklin Roosevelt (1882-1945) on 17 November 1941.
日本語: フランクリン・ルーズベルト大統領との会談のためにコーデル・ハル国務長官と共にホワイトハウスに向う野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特命大使(右)(1941年11月17日)。
Date 17 November 1941 Source www.jacar.go.jp Author Mainicni Shinbun /『毎日新聞』
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Hull, Nomura and Kurusu on 7 December 1941.jpg引用。


1937年7月の日中全面戦争以来,米国は日本の中国侵略を非難しているが,1939年7月に日米通商条約を廃棄した。

ルーズベルト大統領は、1939年9月勃発の欧州大戦には、「アメリカの若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年後半には駆逐艦=基地交換協定 (Destroyers for Bases Agreement)をイギリスと結び、50隻もの駆逐艦をイギリスに貸与した。護衛中のアメリカ艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英艦と誤認され)撃沈され、アメリカ人乗員が死亡する事件も起きた。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。

しかし、1941年になるとアメリカの戦略は、対決参戦方針を顕わにする。1941年3月、アメリカは武器貸与法を成立させ,「アメリカ防衛に不可欠と大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を、大統領に与える」とした。そして,1941年7月末-8月,アメリカは、在外日本資産を凍結,日本の在米不動産・親友資産の海外移転が不可能になり、対日石油輸禁輸、9月末,対日鉄屑禁輸の制裁を科す。

ハル国務長官は1941年4月16日、野村駐米大使に「ハル四原則」を渡し、領土主権尊重、内政不干渉、通商無差別の原則、軍事的手段による現状変更禁止、を求めた。近衛文麿首相は、賛同し「日米諒解案」がなったように錯覚したが、6月21日にこの「日米諒解案」は松岡外相とハル国務大臣の双方に否定された。

また、松岡洋右外相は、1941年4月13日に日ソ中立条約の締結していながら、6月22日に独ソ戦が勃発するとソ連攻撃を主張し、南部仏印は延期するよう強硬に主張した。近衛首相ばかりか、昭和天皇の信頼も失った松岡洋右外相は、7月16日、外相を更迭され、新たに豊田貞次郎を外相にむかえた第三次近衛内閣が誕生した。

新外相豊田貞次郎は野村吉三郎駐米大使に命じ、1941年7月24日にサムナー・ウェルズ国務次官に、25日にFDRと会談し日本の南部仏印進駐を認めるよう求めた。日本の指導者は、インドシナ半島を占領する日本の軍事行動が東南アジア侵攻の前触れとみなされるとは思ってもみなかったようだ。7月28日の仏印占領の制裁として、アメリカ、イギリス、オランダは在外日本資産凍結、対日石油全面禁輸の報復措置をとった。

11.護送制の新方法 : 米空軍の哨戒に主眼
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 76 出版年:1941-09-18
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339586

【ニューヨーク特電十六日発】ニューヨーク・タイムス紙ワシントン特電によるとアメリカ海軍は英米船舶護衛の新方式を案出、ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領も十六日の新聞会見でこの旨を暗示したが、ロンドン駐在のアメリカ海軍将官がイギリス海軍省と協力して「発砲哨戒」方法の詳細を取極めたといわれる、米国軍艦が商船団を護衛して行く従来の方法とは異なり新方法では米国爆撃機および偵察機は数ヶ所の主要地点を基点として休みなく哨戒をつづけることになっている、過般ロンドンへ派遣された米海軍将官は今日までの商船護衛記録からつぎのごとき結論に達した

 すなわち速力の大きな商戦を遅い船と一緒にして護送船団を組織しこれを護衛しつつ航行するよりも速力のはやい船だけを単独で航行させ航路の妨害を絶えず排除する方がはるかに効果的であるというのである

なお米海軍の哨戒範囲については正確なことは発表されていないが信ずべき情報によるとアイスランドまで延長されていることは確実であり、さらに北アイルランドへも延長される予定ともあるいはまたすでに延長されているともいわれる(護送制の新方法 : 米空軍の哨戒に主眼引用終わり)


⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。

⇒写真集:1940-41年米英連合国による対日独枢軸国戦略を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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