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◆1940-41年米英連合国による対日独枢軸国戦略
写真(上)1941年9月1日、レーバーデイ、アメリカ、ワシントンDC、マスメディアを活用して所信表明するアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882-1945.4.12)
:ラジオ放送を通じて全国に「ヒトラーとナチの暴虐を倒すために我々は自らの力を最大限に活用する」とアメリカの安全を保障することに訴えた。
FDR gives the first broadcast from his study in the Library on Labor Day declaring "We shall do everything in our power to crush Hitler and his Nazi forces", September 1, 1941 More information Date 1 September 1941 Source 47-96 1520 Author FDR Presidential Library & Museum
写真は Wikimedia Commons, Category:Franklin Delano Roosevelt in 1941  File:FDR-Labor-Day-1941-radio-address.jpg 引用。


写真(右)1941年、アメリカ参戦前、アメリカ、カリフォルニア州バーバンク(Burbank)、ロッキード(Lockheed)プラントで生産中のロッキード・ハドソン(Hudson)爆撃機:アメリカ製のハドソン爆撃機は、イギリス空軍に多数貸与され、イギリス・ドミニオンのオーストラリア空軍も採用した。しかし、オーストラリア空軍ハドソン爆撃機は、イギリス植民地マライを日本から防衛するために、現地に派遣されている。
Lockheed Hudson V production line Burbank plant 1941 [Lockheed X3788 via RJF] PictionID:43264718 - Title:Lockheed Hudson V production line Burbank plant 1941 [Lockheed X3788 via RJF] - Catalog:17_000279 - Filename:17_000279.tif - ---------Image from the René Francillon Photo Archive. Having had his interest in aviation sparked by being at the receiving end of B-24s bombing occupied France when he was 7-yr old, René Francillon turned aviation into both his vocation and avocation. Most of his professional career was in the United States, working for major aircraft manufacturers and airport planning/design companies. All along, he kept developing a second career as an aviation historian, an activity that led him to author more than 50 books and 400 articles published in the United States, the United Kingdom, France, and elsewhere. Far from “hanging on his spurs,” he plans to remain active as an author well into his eighties.
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1−1.濠洲空軍をマレーに移駐
大阪朝日新聞 Vol: 第 50巻 Page: 72 出版年 1940-10-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338339

【同盟シンガポール三十日発】極東情勢の新展開に対処しイギリスはマレー半島の軍備強化に腐心しているが三十日イギリス空軍極東司令部は濠洲空軍部隊のマレー移駐に関し左の如く発表した
 最新式の戦闘機および性能極めて優秀な爆撃機を装備した濠洲空軍部隊が最近濠洲よりマレーに来り目下マレー半島に駐屯している、かかる強力なる空軍増強の結果マレー半島の防備は著しく強化されるにいたった、なお操縦士および乗組員とも第一流の空軍将士である(濠洲空軍をマレーに移駐 引用終わり)

写真(右)1941年、アメリカ、イギリス空軍に引き渡されイギリスの国籍マークを記入したロッキード(Lockheed)・ハドソン(Hudson)爆撃機(手前と奥)、ダグラス(Douglas)A-20 ハボック(Havoc)攻撃機、アメリカ陸軍航空隊ノース・アメリカン(North American) B-25 ミッチェル(Mitchell)爆撃機(左奥):アメリカ製のハドソン爆撃機、ハボック(Havoc)攻撃機はイギリス空軍、オーストラリア空軍に貸与されて、アメリカ参戦前から部隊配備されていた。も
SDASM Archives Follow Lockheed : A-28/A-29 : Hudson Catalog #: 00001499 Manufacturer: Lockheed Designation: A-28/A-29 Official Nickname: Hudson.
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive引用。



1−2.日独伊三国同盟成立 : 大詔を渙発あらせらる : 昨日、ベルリンで条約調印
大阪朝日新聞 1940-09-28 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336250
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

日独伊三国政府間にはかねて三国同盟に関する条約交渉について東京、ベルリン、ローマにおいてそれぞれ折衝が進められ、とくにドイツ政府は[ハインリヒ・ゲオルク・]スターマー[Heinrich Georg Stahmer]氏を特派公使として帝国に派遣するにいたって東京交渉は異常の進展を見せ、一方ドイツ外相フォン・リッベントロップ氏の訪伊によって三国交渉は急速に進捗してこのほど三国間に完全に意見一致し妥結を見た、よって三国政府はそれぞれ所定の国内手続を了し、いよいよ二十七日午後八時十五分(ベルリン時刻同一時十五分)ドイツ総統官邸において帝国代表来栖[三郎]駐独大使リッベントロップ独外相、チアノ[Galeazzo Ciano]伊外相の三代表間に調印を終った。

この歴史的調印による三国同盟条約は日独伊三ヶ国語で記載されたもので、その画期的使命と意義は六ヶ条の条文に盛られている、畏くも天皇陛下には三国同盟成立に当り詔書を渙発あらせられ国民の向うところを御示しあそばされた、帝国政府は独伊両国と打合せの上同日午後九時十五分右条約要旨を三国同時に発表するとともに近衛首相は大詔を排して内閣告諭を発し同時に松岡外相謹話のほか河田蔵相兼商相代理、石黒農相談を発表して帝国不動の使命と方針ならびに国民の毅然たる態度を要望した。

また独伊両国に対しては近衛首相からヒットラー独総統およびムソリーニ[Benito Mussolini]伊首相宛祝電を発し松岡外相また独伊外相に祝電を発し、同夜国際電話によって重ねて祝詞の交換をなし三国同盟条約調印によるすべての態勢は同日中に完了した

かくてここに近衛内閣によって標榜された外交方針の転換は実現し世界平和の確立を目指す三国同盟の成立により日独伊三国の枢軸は格段の強化を見、ソ連は本条約によって影響を受けるところなしと明記して三国対ソ連の新外交方策を明らかにし、世界新秩序の建設完成は一段と促進されるであろうが帝国の大東亜における指導者としての立場はこれとともにますます重きを加えるであろう=写真(上から)近衛首相、ヒットラー総統、ムソリーニ伊首相

詔書

大義ヲ八紘ニ宣揚シ抻輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス朕ハ禍乱ノ戡定平和ノ克服ノ一日モ速ナランコトニ●念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌ブ所ナリ

惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ昿古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ

御名御璽    昭和十五年九月二十七日 各国務大臣副署



外務省発表(昭和十五年九月二十七日午後九時十五分)
日独伊三国間に本二十七日ベルリンにおいて左記要旨の三国条約締結せられたり

日本国、独逸国及伊太利国間三国条約要旨

大日本帝国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は万邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜および欧州の地域に於て各其の地域における当該民族の共存共栄の実をあぐるに足るべき新秩序を建設しかつこれを維持せんことを根本義となし右地域においてこの趣旨に拠れる努力に付き相互に提携しかつ協力することに決意せり、しかして三国政府はさらに世界到る所において同様の努力をなさんとする諸国に対し協力を吝まざるものにしてかくして世界平和に対する三国窮極の抱負を実現せんことを欲す、依って日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府は左の通り協定せり

相互援助を規定 期限十年混合委員会設置 条約全文

第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつ之を尊重す

第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に本づく努力につき相互に協力すべきことを約すさらに三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助すべきことを約す

第四条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府により任命せらるべき委員よりなる混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす

第五条 日本国、独逸国、伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴエト連邦との間に現存する政治的状態になんらの影響をもおよぼさざるものなることを確認す

第六条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす

右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に本づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし


写真(上):1940年9月27日、ドイツ、ベルリン、日独伊三国[軍事]同盟条約(Tripartite Pact)調印式に参加した日本特命全権来栖三郎大使、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー、演説するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)
:来栖三郎(くるす さぶろう:188日 -1954)は駐ドイツ特命全権大使として三国同盟に調印したが、翌1941年にはアメリカに特命全権大使として派遣され、野村大使とともに日米交渉を取り仕切った。アメリカの嫌悪する三国同盟調印者を日米交渉全権に任命する日本外務省の「とんでも外交」は、ソ連に太平洋戦争講和仲介を依頼することで繰り返される。もし三国同盟に外務省が反対していたと抗弁するなら、平和・天皇のために命がけで阻止した人物は皆無ということだ。
Description Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact; seated at front left (left to right) are Japan's Ambassador Saburō Kurusu (leaning forward), Italy's Minister of Foreign Affairs Galeazzo Ciano and Germany's Führer Adolf Hitler (slumping in his chair). Date 1940 Author Heinrich Hoffman
写真はWikimedia Commons, Category:Heinrich Hoffmann in NARA public domain images File:Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact;.jpg引用。


近衛[文麿]首相から告諭

近衛[文麿]首相は日独伊三国同盟成立に当り渙発あらせられた詔書を排し二十七日官報号外をもって内閣告諭を発した、首相は右告諭において[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の本旨を明らかにし帝国は独伊両国と相提携しそれぞれ大東亜及び欧州において新秩序建設を建設し進んで世界平和の克復に協力せんことを期する旨帝国不動の方針を述べ国民の毅然たる態度を要望した

告諭

日独伊三国条約ノ締結ニ当リ、畏クモ 大詔ヲ渙発セラレ、帝国ノ向ウ所ヲ明ニシ、国民ノ進ムベキ道ヲ示サセ給エリ。 聖慮宏遠洵ニ恐懼感激ニ堪エザルナリ。

恭シク惟ウニ世界ノ平和ヲ保持シ、大東亜ノ安定ヲ確立スルハ、我ガ肇国ノ精神ニ淵源シ、正ニ不動ノ国是タリ。昨秋欧州戦争ノ発生ヲ見、世界ノ騒乱益々拡大シ、底止スルトコロヲ知ラズ。是ニ於テカ速ニ禍乱ヲ戡定シ、平和克服ノ方途ヲ講ズルハ、現下喫繋ノ要務タリ。適々独伊両国ハ帝国ト志向ヲ同ジウスルモノアリ。

因リテ帝国ハ之ト相提携シ、夫々大東亜及欧州ノ地域ニ於テ新秩序ヲ建設シ、進ンデ世界平和ノ克復ニ協力センコトヲ期シ、今般三国間ニ条約ノ締結ヲ見ルニ至レリ。今ヤ帝国ハ愈々決意ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設ニ邁進スルノ秋ナリ。

然レドモ帝国ノ所信ヲ貫徹スルハ前途尚遼遠ニシテ、幾多ノ障碍ニ遭遇スルコトアルベキヲ覚悟セザルベカラズ。全国民ハ謹デ 聖旨ヲ奉体シ、非常時局ノ克服ノ為益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ、協心戮力、如何ナル難関ヲモ突破シ、以テ 聖慮ヲ安ンジ奉ランコトヲ期セザルベカラズ。是レ本大臣ノ全国民ニ望ム所ナリ。

昭和十五年九月二十七日 内閣総理大臣
公爵 近衛 文麿

相互援助条約よりは緊密 軍事同盟とは異る 須磨[弥吉郎]情報部長語る

日独伊同盟条約[Tripartite Pact]発表後外務省須磨[弥吉郎(すまやきちろう)]情報部長は記者団の質問に答え左の一問一答をなした

問 条約締結にいたるまでの経過如何?
答 この[日独伊]三国条約[Tripartite Pact]の話は九月初旬からはじまって正確にいえば今日——二十七日に終っている
問 条約文第四条にいう混合専門委員会は何処に設置されるか?
答 今後の問題で、まだきまっていないが、置かれる場所は一箇所ではないだろう
問 その組織と任務は?
答 今のところ具体的にはいえぬ
問 日独伊防共協定とこの条約との関係は?
答 二つの条約間には何ら関係はない
問 防共協定はこれで解消されたと解してよいか
答 すこぶるデリケートな問題で「関係なし」という以上は答えられない
問 しかし第五条には特に「ソウエート連邦との間に現存する政治的状態に何らの影響をもおよぼさず」と書いてあるがソ連を特に取上げている理由如何?
答 ソ連はドイツと今では特殊の関係にあり、また日本ともソ連は隣接国家としての関係にあるからである 問 第三条に「現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたる時三国は政治経済軍事的に相互に援助する」とあるがこの「攻撃」という言葉はどういう範囲を指しているか、たとえば禁輸などという経済圧迫が非常に強度なものとして現れて来る場合、これも「攻撃」の一種であると見るか
答 それは解釈の問題だろう、しかし締約国間にはこの解釈についても諒解があるだろう
問 同じ第三条に「一国によって」とあるのは特定の一国か、また特に単数としてある理由如何
答 特定の一国を指すものではない、また条文には単数になっているが二国が一緒になって攻撃して来た場合ももちろん同様である
問 この条約は国際法上の通念から見る時は軍事同盟といえるのか、または相互援助条約といえるのか
答 相互援助条約という言葉ではちょいといい足りない、もっと緊密な度が強いだろう、また軍事同盟といえば大概はある特定の国家を敵国として想定しているが今度の場合はこの仮想敵国はない、まあ三国条約と呼ぶことにしたい
問 期間十年というのはどういうところから割出されたか
答 三国ともに新秩序建設のために真剣に提携しあう考えで、期間も二年とか五年とか短いものでなく特に十年と長期条約になったものと思う
問 アメリカに対してこの条約はどういう風に運用されるか
答 アメリカ関係も従来通りである、われわれはこれで日米関係がとくに悪化するとも考えないし日米国交調整の希望も従来通り持っている、繰返していうが特定の一国を指したものではない、この条約の精神は決して戦争を挑発するようなものではなく一日も早く世界平和を将来したいという気持から出ている
問 昨年九月阿部内閣によって声明された不介入方針はどうなるか
答 不介入方針はあのまま生きていると解釈している
問 相互に指導的地位を認めるとはどういうことか
答 お互の地域では一切を委せるという意味である

トントン拍子で進む [日独伊]三国条約[Tripartite Pact]の締結まで

今回の三国同盟の交渉経過は全く順調の一語につきる、松岡外相がオット大使にそれとなくドイツ側の意向を質したのが八月一日のこと、またヒットラー独総統がスターマー氏を特派公使としてモスコー経由帝国に派遣したのも八月中旬のことで、世界新秩序建設をめざす日独両国の間には期せずして琴線相触れるものがあったのである、

こうした接触で日独両国の気持がお互にはっきりして来ると欧州では独伊両国間に、東京では[オイゲン]オット[Eugen Ott]大使、スターマー公使がドイツ側の代表者となって話はトントン拍子に進捗した、すなわちリッペントロップ[Joachim von Ribbentrop]独外相は九月十八日ローマを訪問しヴェネチヤ宮でムソリーニ首相、[ガレアッツォ]チアノ[Galeazzo Ciano]外相と膝を交えて懇談し、また東京では九月七日に入京したスターマー公使がオット大使を扶けて松岡外相、白鳥敏夫氏、大島浩氏らとしばしば私邸で会談し具体的折衝が進められた

この間白鳥[敏夫]大島[浩]両氏とスターマー公使との会談が具体的折衝を進めるに非常に役立ったことは見逃せないが事の起りは日独伊三国間に独伊の対英作戦や帝国の東亜共栄圏の確立など手を握りあう機運が全く熟していたという点である

そこで帝国政府では十六日に臨時閣議を開いて帝国の最高方針を決定し十八日には御前会議が開かれ二十六日には枢密院会議が開かれて国内手続を完了しいよいよ二十七日の正式調印となったものである

世界史に新時代 駐日独大使声明

[オイゲン]オット[Eugen Ott]駐日独大使は二十七日夜日独伊三国同盟成立の当り左の声明を発した

本日締結せられた条約は有史以来最初の画期的重要なるものであるけだし本条約の目的とするところは締約国各自の相互利益をはかるにあるのみならず世界の三大圏の福祉協力共栄を期するものであるからである、従前の諸条約があまりにもしばしば侵略手段に過ぎざりしことを暴露せるに反し本条約は世界主要構成部分の各自が平和的に発展することにより全世界の恒久平和と繁栄とを保証すべき新秩序及び均衡を樹立する推進力たるべきものである、

[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の結合勢力、連環的努力はこの大目的遂行のために今日までに払われた大犠牲を無にせぬための最善の方法である、

余は本日成立した協約が世界史上に新時代を画しかつ本条約が広大な自然の生活圏の形式とその自由なる発展を促進する事実にかんがみ独日伊三国自身のためのみならず三国の勢力圏内に居住する諸民族延いては全世界の平和、幸福、繁栄への新しき道をも拓くものなることを確信するものである

駐日伊大使の声明

日本、イタリヤ、ドイツ間の三国同盟は最近数年間我ら三国間に結ばれつつあった関係の論理的帰結である、三国の政治的基礎たる国際正義原理の類似性と世界をしてついに真の恒久的平和を達成せしめんがために日本、イタリヤ、ドイツが直面しつつある諸問題の相似性とが今回の協定をもたらしたゆえんであって、これにより三列強の協力は万一の干渉も威嚇もうくることなく各自の圏内においてその強固なる行動方面たる新秩序を確保するのである

近衛首相の祝電

独総統宛 世界新秩序建設の崇高なる共同の目的達成のために日独伊三国がさらに緊密かつ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下に依り率いらるる偉大なる独逸国民がそのすでに獲得せる赫々たる戦果を将来に拡大し、その光輝ある目的を完遂するの日の速ならんことを祈念す

伊首相宛 世界新秩序建設に崇高なる共同目的達成のため日独伊三国がさらに緊密に且つ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともにファシストの愛国心に燃ゆる貴国国民がその双肩に担う重大任務を完遂するの日の近からんことを祈念す

松岡外相の祝電

独外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づき新しき世界秩序の建設と世界恒久平和の確立に貢献するところ大なるべきを確信し余は茲に閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なる独逸国とともにその共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり

伊外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づく新しき世界秩序の建設に不動の礎石を築くものなることを確信し余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下と余の旧情を新にしつつ皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なるファシスト伊太利国とともに共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり。(引用終わり)


1−3.大阪と南方共栄圏 著者 大塚辰治:大阪市産業部長
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 30巻 Page: 40 出版年 1940-11-19
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100140053 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

今次欧洲大戦が果して如何なる結末を告げるかといことはなお予断の限りではないが、来るべき世界経済体制が幾つかの大ブロックに分割されるであろうということはなお想像される、即ち欧洲では独伊を中心とするブロックが戦局の進展と並行して着々と結成されて居り将来アフリカもこの大ブロックに包含されるものと思われる、一面アメリカによって全米洲を打って一丸とする大ブロック工作が進められ、また欧亜に跨がるソ聯は自ら一つの大ブロックを成すものであろう、

これらの大ブロックに対応せんとするのが我国を指導勢力とする大東亜共栄圏に外ならぬ、支那事変勃発以来、その究極の目標として東亜新秩序の建設ということが叫ばれてきた、これはいう迄もなく緊密不可分の日満支がブロック結成を内容とするものであったが、支那をめぐる複雑な国際関係、援蒋ルートの問題、在外華僑の問題等から南洋を切離して事変目的の完遂を論ずることができなくなった、

折柄昨年九月第二次欧洲大戦が勃発し本年春以来戦局が急展開すると共にその南洋方面に及ぼす影響も複雑微妙となり我国としても到底看過し得ない情勢に立至った、加うるに前記の如く今後の世界経済が有力な大ブロックに分割されるとすれば日満支ブロックは必然的に南洋を含めた大東亜共栄圏に拡大発展しなければならないのである

 去る九月二十七日伯林に於て締結された日独伊三国条約は東亜に於ける日本、欧州に於ける独伊が相互にその指導者的地位を確認し相提携して夫々新秩序建設の共同目標に邁進すべきことを盟約したものである、これによって我国の今後とるべき外交国策が力強く中外に闡明され、凡ゆる障害を排除して南洋を含む大東亜共栄圏を確立せんとする決意が明かにされた、斯くて南洋諸国は我国を指導勢力とする共栄圏の一翼たるべき運命に置かれたのであるが今後我が南方政策が強力に推進されるのと呼応して、国民一般にこの南方共栄圏に対する認識を深め積極的な経済進出をはかることが正に焦眉の急務というべきであろう

普通南洋と称せられるのは、我が委任統治領たる内南洋を除けば仏印、泰国、英領馬来、比律賓、蘭印、英領ボルネオ、英領ニューギネア等の広汎な地域を指すものである、

これを政治的に見れば先ず独立国と認められるのは泰国のみで、比律賓は一九四六年を以て独立を完成することになっているが、その他は凡て欧米列強の植民地である、然も蘭印がオランダ領であるのを除けば殆ど英米仏の勢力範囲となっている、経済的にこれを見れば、右の傾向は更に著るしい英領各地に於けるイギリス、仏印に於けるフランス、比律賓に於けるアメリカの地位が夫々支配的であるのはいうまでもなく、更に泰国、蘭印などでも英米の経済的勢力が根強く地盤を張っている、東洋各国の資源産業等に就て茲に詳述することは差控えるが、周知の通りこの地方は大部分熱帯に属して各種の熱帯特有の資源に恵まれているのみでなく、鉱物、其他の資源も豊富である、即ちゴム、甘庶米、規那、ヤシ、麻等の農産物、石油、錫、鉄、ボーキサイト、石炭等の鉱産物、チーク材其他の林産物、各種水産物など貴重な資源が殆ど到るところに産出される、然もこれに資源の開発は植民地的な制約のために十分の努力が払われていない現状にある

 凡そ強大な自主的経済圏を確立するためには熱帯資源を包括することが必要である、斯くて欧洲に於ける独伊枢軸もアフリカをその経済圏内に抱擁すべく意図していることが諒解される、日満支ブロックが鞏固に結成されても経済的に十分の自主性を獲得できるものとは期待し難いのであって、地理的、歴史的にも特殊関係にある南洋をその共栄圏の一翼として包括することが絶対的に必要となるのである

我国と南洋諸国との交渉は歴史的に相当古いが、遺憾乍ら鎖国制度のため最も重要な時期に中絶状態となり、従って南方発展は列国に比し立遅れを余儀なくされた、併し乍ら開国以来の貿易は支那大陸に次いで南洋諸国を主要な相手国とし、我が対外貿易上に占める南洋の地位は極めて重要である、

尤も既存欧米勢力が右の発展趨勢を抑制したのは言うまでもなく、殊に事変以後は種々の事情もあって全く停滞状態に陥っていた、また貿易以外の企業其他の経済的進出に於ても一部先駆者的な活動を除けば、全般的には未だ大して見るべきものがない、然らば南方共栄圏確立のために今後如何なる方策が講ぜられねばならぬか、南洋に産出する鉱産物は我が国防国家建設上必要とされるものが多く、また我国は南洋諸民族の要求する生活必需品其他の工業製品を提供し得るのであり、正に有無相通ずべき関係にある、そこでこの自然的な関係を積極的に計画的に増進することが根本的に必要である、

特に国際情勢が前記のような趨勢をたどり、従前の如き世界自由通商の復活を期待し難い今日、我国として重要輸入資材の供給源を南洋に確保することは絶対に必要である、斯くて彼我の物資交流を増進するのみでなく、邦人の資本を技術を積極的に進出せしめて、資源開発に協力し得るように導くことが要望される、

また貿易決済の如きも漸次円貨本位に導き、欧洲に於てマルクが支配的通貨たることを意図する如く、大東亜共栄圏に於ける円の指導的地位を確立しなければならない、今後の我が南方進出に於て、大阪は如何なる地位を占め、如何なる役割を果すであろうか、我国の対南洋貿易に占める大阪の圧倒的な地位に就ては今更喋々するまでもない、大阪商人は大陸貿易に於ても先駆者としての役割を果してきたのであり、また現在も依然として指導的地位を確保しているのである、この久しい伝統を誇る経験と地盤は、今後の我が南洋貿易増進に就ても当然その威力を発揮するのであろう

 更に企業其他の経済進出に就ても、大阪産業の実力と進取性から見て中心的な役割を果すべきことは疑を容れない、斯くて物資交流の積極的、計画的増進と資本、技術及び人的進出をはかり以て南方共栄圏確立の理想を実現する上に於て産業都市大阪に課せられた使命は極めて重大である

今次欧洲大戦の急展開を契機として既に我が南洋外交は着々進められ日泰間に友好条約締結並に定期航空の開始があり、仏印に対しては軍事協定の成立により皇軍の平和的進駐が行われると共に松宮大使が派遣されて仏印当局と折衝中であり、また蘭印に対しては特に小林商工大臣が派遣されたことは周知の通りである、

勿論英米等の既存勢力がこれに対して反撥的な牽制工作を試みることは当然予想されるが南方共栄圏確立の我が国策は確定不動のものであり断乎として凡ゆる障害を排し、所期の交渉妥結に邁進するものと思う、斯くて南方発展の機運は愈よ熟し産業都大阪市民の活躍すべき最も有望な分野が拓かれんとしている、貿易に企業進出に商工移民に南進基地としての大阪がその面目を発揮すべき秋が切迫しつつある、本市としても国策の命ずるこの重大使命の達成に遺憾のないよう最も有効適切な施設事業を講ずる積りである (大阪と南方共栄圏引用終わり)


1940月,米内光政内閣のソ連への中立条約の検討要請を引き継いで,1940年7月には東郷茂徳駐ソ大使が,日ソ中立条約を提議した。また,次の近衛文麿内閣では,独ソ不可侵条約,日独伊三国軍事同盟の存在を踏まえて,日ソ不可侵条約を提議している。
しかし,ソ連の外相(ソ連では外務人民委員)モロトフは,日露戦争の失地回復を放棄した不可侵条約はありえないとする。ソ連は,独ソ不可侵条約の締結によって,日本との同盟関係を必ずしも必要としなくなっていたのである。


1−4.対日戦に重要 : ス米海軍作戦部長空路延長計画論評
国民新聞 Vol: 第 50巻 Page: 157 出版年 1940-11-20
20.500.14094/0100338911

キング・ジョージ5世 【ニューヨーク十八日発同盟】汎米航空会社は曩に太平洋定期航空路をマニラからシンガポール迄延長する計画を発表したが、右計画に関し元米海軍作戦部長[Chief of Naval Operations]スターリング[William Standley]少将は十七日夜UP通信を通じて長文の論評を発表、右新航空路は軍事的に少からざる重要性を有っていることを指摘、対日海軍作戦につき次の如く論じている

 この計画は戦略的にも外交的にも極めて意義深いものである米海軍が日本海軍と戦いを交えるに至った場合本空路を利用して軍艦相互間の連絡をよくすることが出来るのみならず、かかる準備それ自体が日本を反省させるに役立つであろう対日開戦の場合英国は新造のキング・ジョージ五世[HMS King George V](三五、〇〇〇噸)級の主力艦四隻を太平洋方面へ廻航させるだろうし米国の十二隻と合せ十六隻の主力艦が日本の主力艦に対抗し得るのみでなく蘭印海軍の巡洋艦三隻、駆逐艦六隻、潜水艦二十隻と濠洲の巡洋艦二隻、駆逐艦五隻その他新鋭の水雷艦隊も之に参加するであろう

 対日戦争の場合米国はグアム島を抛棄するだろう、その場合シンガポール、ハワイ間の連絡はホノルル、カントン島、ニューカレドニア、蘭印、シンガポールという迂回路をとることとなろう、日本の南進コースは既に海南島、新南群島を手に入れて居りキイゴンカムラン湾を取ることは困難でないから蘭印一帯の宝庫に一と足というところ迄手が伸びる訳だ、この日本を立止らせ、耳を傾けさせ、考えさせるためには今度の空路延長は重要な意義ありというべきである(対日戦に重要 : ス米海軍作戦部長空路延長計画論評
引用おわり)


1−5.高級ガソリン、亜鉛の輸出制限強化 : 米の日本牽制露骨化
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第156巻 Page: 121 出版年 1940-12-04
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337520 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

援蒋新借款一億弗供与により日支新条約に露骨な態度を示したアメリカはさらに対日禁輸強化により日本を牽制せんと意図しているといわれていたが、アメリカ政府は目下航空用ガソリン並に亜鉛の輸出制限強化を考慮中なることが二日判明した、即ち

一、陸海軍軍需輸出統制委員会マックスウェル中佐が二日アメリカ国防当局は石油の禁輸範囲をさらに拡大して航空用として使用される八十七オクタン価以下の航空用ガソリン並に亜鉛の輸出制限する意向なる旨を示唆した

一、リヴィア鋼、真鍮会社のダラス社長はニ日亜鉛の対日輸出は英米両国国防に必要な真鍮の生産を非常に遅延せしめている旨言明した、これに関連し政府当局は国防的見地から亜鉛を政府の統制下に置くべきか否かの問題は従来もしばしば研究されて来たが未だ最後的結論には到達していない旨語っている、

一方消息筋ではもし当局の報告がダラス氏の声明と同様の結論に達したとすれば近き将来において亜鉛もまた政府の輪出許可を要する商品の中に追加されるであろうと見ている(高級ガソリン、亜鉛の輸出制限強化 : 米の日本牽制露骨化引用終わり)


2.1941年の太平洋戦争勃発前の米英の対日戦略

ハル ハル国務長官の部下でライバルでもあったサムナー・ウェルズ国務次官は、FDRの個人的信頼を得た外交官として世界を飛び回った。1939年9月の第二次大戦勃発直後にパナマで汎アメリカ会議を主宰、1940年3月にはバチカン、イタリア、戦時中のドイツ、フランス、イギリスを訪問し、1940年7月に前月のソ連軍によるバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の占領を非難した。

2ー1.米国務長官の暴論
大阪朝日新聞 Vol: 第156巻 Page: 158 出版年 1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337930

 米国務長官[Cordell Hull]の暴論のいわゆる民主主義国家への武器貸与法案[(Lend-LeaseAct]に関する米国側の理論なるものは、元来強いて理窟をつけんとするものであり、従って今後米国のなさんとするところは、おそらく理窟などどうでもいいのである。ゆえにいまそれを取上げて、問題とするにあたらないが、いやしくも米国国務長官なるハル[Cordell Hull]氏の所言は、まことに暴論として聞き捨てにならぬものである。

ワシントン十五日発同盟通信社電報によれば、同長官は満洲事変以来、過去八ヶ年間の国際情勢を概評し、日独同盟によって結ばれた三国は、いまや必死となって、大海洋の支配権獲得を狙いつつあり、もし英国が敗れ、枢軸側が大洋を支配することとなる場合には、西半球の安全は現在の幾層倍も危険に曝されるだろうと結論したという。

グルー駐日大使 もとよりかかる所論は、米国本来の観点たる夜郎自大の過度の自尊心と同時に、それに矛眉して、やや病的ともいうべき、米洲に関する恐怖心をば、露出せるに過ぎないのであって、理智的に見て価値のないものである。

 しかし枢軸国があたかも大洋支配権を狙い、しかも西半球に迫らんとするかにいうのは、遺憾ながら当今の実情に反するのである。アングロサクソン[Anglo-Saxon]の世界制覇の野望こそ海洋支配観念に拠るものではないか。

英国はしばらく措き、米国としても、もしハル[Cordell Hull]国務長官の所説を少くも理論的に徹底するとすれば、その海上団防線をば太平洋上百八十度子午線ぐらいに止め、以西には進撃を企てる筋のものではないのではあるまいか。

しかるにある幻想を口実とし、または無理に他国の正当権を抑えんとするがゆえに、西方への進攻を計るのみか、さらに南方進攻路を主眼とする工作を着々進めつつあるのである。フィリッピンをあらためて重視するのは、米国として当然であるとしても、さらにニュージーランド、ニューヘブライヅ諸島、オーストラリアのみならず、なおシンガポール、蘭印をもその薬籠中に収めんとしているのである。

グルー駐日大使 その新駐仏大使リーイ提督がヴィシー着任に際し米国は仏印問題に関心を有し、また日本と泰国との関係に注自するものであるなどと声明せるのも、この際、意味ありげに考えられる。吾人はここに米国務長官の独りよがりの議論を重ねて非とすると同時に、わが国は西太平洋に対する米国の侵略的、挑戦的工作を見守りつつ万一の思意を誤ってはならぬと思う。

極東へ進出の野望具体化 ハル[Cordell Hull]演説わが外交筋の見解

しかして若し改めなければ実力を行使してもこれを強行しよう……と謂ったような多少威嚇的態度を以てし、この機に遮二無二日本を抑制し東洋で日本が余り覇権を揮わぬように仕様という所謂「英国に代り東洋の番犬を務める」と云うのがその底意である

それには四十年前に米国の時の国務卿[国務長官]ジョン、ヘー[John Milton Hay: 1838-1905]の主唱した「支那の門戸開放、機会均等主義」や今より十八年前に締結された「九箇国協商」などを引き出して日本を制肘し、日本が米国に倣って東亜に唱道せんとする「亜細亜モンロー主義」を拒もうとするのであるから、双方の見地は可成懸隔甚だしく、今度の野村[吉三郎][ジョセフ・]グルー[Joseph Clark Grew]氏の会談もその最後の目的達成には余ほどの相互の隠忍妥譲を要し、成功を見る迄には多くの時日を要するであろうと在米の邦人は最早覚悟している(米国務長官の暴論引用終わり)

2ー2.武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言
大阪朝日新聞 Vol: 第156巻 Page: 160 出版年 1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337650

[写真(ハル国務長官)あり 省略] 【ニューヨーク特電十五日発】武器貸与法案[Lend-Lease Act]審議の下院外交委員会は十五日開かれたが、委員会の要求により出席をもとめられたハル国務長官は「法案の具体的内容の説明は他の政府関係者から述べるであろうから、自分は現下の国際情勢を説明してこの法案がいかに必要であるかを述べたい」と次のごときアメリカの強硬外交方針を述べた

西半球の安全を講ずる機会は法律秩序を遵奉する諸国によって制海権[Command of the sea]を確保する点に存している、日独伊の三国は法を破って世界の文明の基礎を破壊し、他国民を武力をもって征服することを断行せんとしつつあるのである、もしもイギリスが負けて制海権を失ったら大西洋の安全はまったく失われることとなる、だからわれわれはこれらの征服者と戦っているイギリスその他の諸国に対し、軍需品を無制限に供給する法律を作らねばならぬ」と述べたのち、日本攻撃に移り「太平洋におけるいわゆる新秩序というものは他国の利害を除外して一国による支配を意味するものだ、

アメリカは今日まで日本に対してアメリカとの友好関係を保つことが日本にとって一番よい途であると述べて来たのではなかったか

 日本の新秩序というものは経済的には日本が侵略した部分を貧乏に陥らしめることであるし、社会的には人間の自由を破壊し被征服者をして弱者の立場に陥れることにほかならぬ」

とて盛に日本に対する悪罵を浴びせた、ハル[Cordell Hull]長官の説明が終ったのち、武器貸与法案[Lend-Lease Act]に反対の議員である民主党のジョンソン氏、共和党のチンカム・フィシュ両氏、民主党のバージン氏などか起って、同法案が国際法に違反する点、およびこの法案は結局アメリカを戦争に近づけるものである点などについてさかんにルーズヴェルト攻撃の火の事をあげ、ハル長官との間に長時間にわたって激論が繰返された、問題の国際法違反の点についてはハル長官は少しも法律上の説明をしないで  

「ただわれわれは現実をみなければならぬ、敵が攻め寄せて来るまで待つか、または手遅れにならぬようにこの法律をつくるか途は二つしかない
と答えた

ハル[Cordell Hull]長官証言内容

【ワシントン十五日発同盟】武器貸与法案[Lend-Lease Act]に対するハル国務長官の証言は過去八ヶ年間の国際情勢を概観して三国同盟[Tripartite Pact]に結ばれた盟約国は今や必死となって大洋の支配獲得を狙いつつあり、もしイギリスが敗北を喫し、枢軸国が大洋支配に成功するがごとき場合には、西半球は現在の数層倍も危険にさらされるであろうと結論している、証言はまず「今日の国際危局は満洲事変勃発からはじまる」と説き起して、日本の東亜新秩序建設の理想に対し独善的無理解な悪罵を浴びせかけ欧洲問題に移って次のごとく述べている

 欧洲においては独伊両国が次々と軍事的征服を続け、遂に今日のごとき動乱に到達したのである、侵略者達はその言葉によるもその行動に見るも、被征服諸国に対し古代史の最悪の頁を彷彿せしめるがごとき暴政を布かんとするまがうべくもなき決意を自ら明らかにしている、ドイツはとうてい米州諸国を侵略することはできないなどと考えているものがあるとすれば大間違いである、もしイギリスが敗退し、海上支配権[Sea power]を喪失するような場合に、アメリカが現在のイギリスに代って防衛に当る覚悟と準備がなければドイツは易々と大西洋殊に南大西洋を渡って来るであろう、かかる攻撃は恐らくまず 西半球[Western Hemisphere]のうちアメリカよりも抵抗力の弱い他の部分に向けられるものと予想されるが、そこでは既に現在或種の破壊力が国内不統一を醸し出さんとして活動しているのである

 イギリスその他侵略の犠牲となり、またならんとしている諸国に対し、最大限度の援助を最短期間に供給する必要を真に米洲全国民挙って認識することこそ喫緊事である、これは自国防衛の不可欠の一部をなすものである、本法案はこの既定の目的を達成すべく最も有効にアメリカの資源を活用するために絶対に必要とされるにいたったのである、しかして今日最も要求されているものは一にも二にも圧倒的スピードである(武器貸与案審議劈頭 : 枢軸国家を曲解誹謗 : ハル米長官の暴言


2−3.日独伊に対する緩和政策を排撃 『強引外交へ突入』と暴言 : 米国務長官宣戦的演説 大阪毎日新聞 Vol: 第156巻 Page: 159 出版年 1941-01-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337425

[写真】ハル[Cordell Hull]国務長官)あり 省略] 【ワシントン本社特電十五日発】米国の事実上の三選を決定づける[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領の民主主義擁護武器貸与案(米国国防促進法案)を繞る米国議会の論戦はいよいよ白熱化して来たが十五日初めて開かれた下院外交委員会の同案に関する聴問会にハル国務長官は初の証言者として出席しルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領同様宣戦的口調で全体主義国を攻撃し西半球の安全のためにはあらゆる可能的スピードで英国その他の民主主義国に物質的援助を与えることが不可欠であると述べ強引外交への突入を宣言した、同長官はもし英国が失敗すればドイツは容易に大西洋を渡って米国大陸に攻め寄せるであろうといい米国政府は日本の現政策を変更せしめんとして失敗したという例を挙げて日独伊に対する緩和政策を排撃した

ハル[Cordell Hull]長官の演説概要

われわれは米国防衛を強化せんとする議案を討議しているがわれわれはいまこの半球の直面せる危険が如何なる状態のもとに起ったかについてその支配的事実を手短かに堤供する、現下の情勢はこれらの危険に対処すべき準備を出来得る限り大急ぎで進めることを必要ならしめる、過去八年間わが政府は平和維持の合理的希望あらしめるごとき国際状態の確立に努力し来った、この見地からわが政府の外交方針はつぎのごとき目標に向けられた

一、平和と軍備制限乃至縮小を国際的に共通の目的として支持しつつ米国の平和と安全を確保
二、法律的秩序、正義、道徳および不干渉原則の支持
三、均等を旨とする堅実な経済方法の再建と培養
四、右の目的達成を目指す国際協力の全面的実際処置
五、 西半球[Western Hemisphere]の安全結合、一般的安寧の促進

以上の政策の基調たる原則を厳守し適用することは三つの国家が法律下の世界秩序を根底から破毀せんとする決意を言行によって十分に明かとなしかつ武力征服に乗出し他国を圧政の餌食となすに至って日増しに重要となって来た、この致命的方向への第一歩は一九三一年の満洲占領である、

一九二一、二二年のワシントン会議諸条約[Washington Naval Conference][海軍軍備制限条約・中国開放九国条約・太平洋島嶼四国条約]による極東均衡は"満洲国"の樹立によって重大な動揺を来した、満洲に対するこの支配はその遂行上著しく差別的となり、米国その他の外国権益を駆逐する結果を生んだ、日本は武力による発展の準備を着々進め、一九三四年十二月、一九二二年締結の[ワシントン]海軍条約[米英日の主力艦保有比5:5:3]を廃棄する意向を表明した、かくして日本は陸海軍備の強化に傾注し、同時に支那の支配を拡大する程度の行動をとったがこれがため米国を含む他の諸国の合法的権益は無視され破壊された、

これらを通じて明かに看取されることは日本が最初から西太平洋の全区域における支配的地位を確立する大規模な野心的計画を抱懐していたという点である、日本の有力者は日本のこの地位を武力によって達成保持し世界総人口のほとんど半分を含む区域の覇者たらんとする決意を公然宣言した、その結果はこの区域の貿易海路を日本が制扼することにもなる

"西太平洋の新秩序は日本の政治的制覇" 盛んに我国を誣う

過去の経験と現下の進展から判断すれば提唱される太平洋区域の"新秩序"は一国による政治的制覇を意味するものである、経済的にはこの区域の資源をその一国の利益に使用することを意味する、社会的には被征服諸民族の個人的自由を破壊しこれを隷属の地位に陥れることを意味する、かかる圧迫と苛酷な搾取は何処にある如何なる国家にとっても重大な意義をもつものであるということは何人の目にも明かである、

わが政府は幾度となく日本政府に対し日本の最善の利益は米国およびその他の国々との間に友好関係を進展せしむるにあることを説得するに努めた、かかる関係とは国家間の秩序ある平和的折衝を指すものである、われわれは決して恫喝を行ったことはない

写真(右)1937年9-10月、イタリア領東アフリカ、エチオピア北部、ゴンダ―、エチオピア正教会の祭日を祝って集まったイタリア軍アフリカ人兵士:兵士は小銃を手にしてる。後方には、イタリア人の乗用車7台、兵士を運搬するトラック10台が見える。
Maskalfest in Gonder (Reise durch Italienisch-Ostafrika, Sept./Okt. 1937 – 4. Fahrt: Asmara - Gonder und zurück) Italienische Kolonialsoldaten auf dem Maskalfest in Gonder. Im Hintergrund einige Automobile und Lastwagen die als Tribüne genutzt wurden. Im Vordergrund äthiopische Jugendliche der faschistischen Jugendorganisation Balilla.
.写真はThe European Commission Europeana引用。


写真(右)1937年9-10月、イタリア領東アフリカ、エチオピア北部、ゴンダ―、エチオピア正教会の祭日を祝って行進するイタリア軍アフリカ人兵士:1935年10月3日-1936年5月5日の第二次エチオピア戦争に勝利したイタリア王国は、紅海沿岸部のイタリア領エリトリア、インド洋沿岸のイタリア領ソマリランドと合わせて東アフリカ帝国を樹立しイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)が皇帝に即位した。
Maskalfest in Gonder (Reise durch Italienisch-Ostafrika, Sept./Okt. 1937 – 4. Fahrt: Asmara - Gonder und zurück) Aufmarsch äthiopischer Jugendlicher der faschistischen Jugendorganisation Balilla beim Maskalfest in Gonder.
.写真はThe European Commission Europeana引用。


イタリヤは一九三五年にエチオピヤを征服し一九三九年アルバニヤを獲得して一九四〇年夏ドイツ側に参戦したが、その公然の目的は武力の無制限行使によって世界を"新秩序"に模様替するにある、

イタリヤはさらに何らの理由なくしてギリシャに襲いかかった、この期間米国政府は平和的国際関係の頽廃に対する懸念をイタリヤ政府に通告した

ドイツはヒットラー一派が一九三三年政権を得て以来大規模な軍備に熱中し、あてにならぬ公約によって他国の疑惑をそらせる巧妙な外交駆引を続けた、かくてドイツは一九三三年十二月軍縮会議から脱退して実効ある国際軍備制限協定を不可能ならしめつづく六年間際限なき征服の政策をとり戦争の大災害を必至ならしめた、

この政策の第一は武力の創設で第二は自国の軍略的優位獲得であった、一九三六年のラインランド占領、ついで起ったオーストリヤ併合からチェッコスロヴァキヤ奪取]、メーメル併呑、ポーランド分割へと展開した

開戦以来デンマーク、ノルウェーベルギー、ルクセンブルグの侵略フランスの占領、ルーマニヤの分割を見たがこれらの侵略は外部からの武力行使と内部からの想像に絶する潜入活動とを併用して行われた、占領下の国々は恐喝と圧政のもとにおかれ侵略者はこれらの国々に古代史を彷彿せしむるごとき暴政を布く決意を明かにした、かくて人類は今や地方的に隔絶した戦禍を見るに止まらず苛酷にして不撓なる組織運動による征服の拡大を目撃するに至った

"独の大西洋横断は易々" 『武力は無制限』と戦く

われわれが直面する武力の行動は法律や道義などには一顧をも与えざる無制限のものである、しかもその征服計画は他の諸大陸をも征服する必要な方便として諸大洋の支配権把握に躍起となっている、かかる情勢の下においては法律を遵守する国々による公海の支配が西半球の安全を確保するための鍵となりもしも三国同盟の一方にこの支配権を奪われるようなことがあればわが国の危険は極めて大なるものとなるが将来においてもさらに数倍するであろう、西半球が進入をうけるような心配はないとよくいう、また英仏海峡を渡れないドイツがどうして大西洋を渡られるものかというものもある、

しかし英国が敵前上陸防止のあらゆる施設を挙げて終日終夜抗戦しているという事実がなければドイツ軍は一時間にして海峡を押し渡ることが出来るのだ、欧洲大陸と英国との間に横たわる幅二十マイルの海は英国の支配下にあってドイツの支配下にあるのではない、もし英国にして敗れ諸海洋の支配権を失うならばドイツは容易に大西洋を横ぎることが出来る、ことに南大西洋では英国が現在やっていることをわれわれが敢行せぬ限りドイツの渡洋は容易なのである

かくてわが国防はわれわれの仕事と財産の甚だ大きな部分を傾注した国防生産と、さらに長期の軍役服務と極めて重い納税に応ずることを余儀なからしめ、その強引外交への完全なる巻添えを不可避ならしめねばならぬ

米は要塞 軍備完成せば

英国本国は現在一つの要塞であるということが出来るが米国も現在の軍備計画が完成すればそうなのであろう、しかし侵略国はいきなり米国に攻めかけるようなことはしないだろう、まず米洲の米国以外の部分から攻め初めそれからやがて米国に攻めてくるということが想像出来る、米洲諸国内には侵略国の勢力が食い入って暗躍を続けてきた、これらの勢力は現在すでに根絶されてはいるが、しかし四海の支配を奪われてしまうと情勢はわれに不利になるであろう、かかる状態であるから米洲防衛上の困難は将来いよいよ増すものとみなければならぬ、今日最も重大な問題は公海の支配権が飽くことなき征服を続ける国々のものになるかどうかということである

英国その他民主主義防衛国に対し出来るだけ多くの物資援助をなすということ、このことほど米国民を熱狂させその意見を一致させた問題はない、われわれが侵略の犠牲となりつつある国々に対する援助を控えることは決して平和を回復するゆえんではない、それはすでに侵略されている国々を永久に奴隷化し、かつ侵略国に対しさらに米国を攻撃する力を養わしめる結果を招来するであろう、

今日国際法を無視し他国にのみその遵守を強制するが如き国々が存在する限りわれわれは彼らの挑発もしくは偽善者的抗議によってわれわれは固い決意をひるがえして国土防衛上必要欠くべからざる手段を放棄するようなことがあってはならない、

ダグラスB18 武器貸与法案[Lend-Lease Act]は米国自身資源を最効果的に使用すると同時にわれわれが援助を与えることに決した国々にも使用させることを目的としている、民主主義の大問題はこの機構を組織化してその力を十分に速かにしかも完全に運用することにある、武器貸与法案[Lend-Lease Act]はこの目的を充足するために不可欠なものである、この法案は米国ならびに米洲全体の安全確保上われわれをして最も有効な方法でわれわれの資源を処分せしめることを規定するものである

米国務長官ハル氏が十五日米下院外交聴問会で行った対日政策に関する声明に対するわが外交権威筋の見解を綜合すると左の如きものである

 米国今回の声明は米国は自ら中立国側から侵略される幻想を描き米国の異常心理を暴露しているに過ぎない、少くとも日米両国に関する限り何等「攻撃」および反米的な要素と事実はない今回の声明はさきに発表されたル大統領の議会教書の趣旨を敷衍したもので、さらに新らしい内容は認められないが武力をもって太平洋区域の新秩序を維持するとき日本は武力による発展を準備しているなどと暴言を吐いているがむしろ逆ではないか米国こそ武力による世界平和を口にし、軍備を拡大して徒らに枢軸国側を刺戟している、

極東に関する限り日米が争う要素はないはずだ、それはむしろ米国の対英援助の口実であり多年米国が抱いている極東進出の野望をこの機会に具体化したものであろう(日独伊に対する緩和政策を排撃 『強引外交へ突入』と暴言 : 米国務長官宣戦的演説引用終わり)

写真(右)1938年、アメリカ、ワシントンD.C.、カナダ=アメリカ協定に調印したホワイトハウス連絡将校ワトソン(E.M. Watson)大佐、アメリカ大統領秘書官マービン・マッキンタイア(Marvin Hunter McIntyre:1878–1943/12)、 アメリカ国務長官コーデル・ハルフ(Cordell Hull)、カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相(1874年12月17日ー1950年7月22日)
Description English: Title: Canadian Prime Minister arrives for signing of Canadian-American treaty. Washington, D.C., Nov. 17. Secretary of State Cordell Hull greeted MacKenzie King, Prime Minister of Canada, upon his arrival in Washington today for the signing of the U.S.-Canada Trade Treaty. In the photograph, left to right - Col. E.M. Watson, White House military aide - Presidential Secretary Ary Marvin McIntyre - Minister MacKenzie King, and Secretary Hull Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1938 Source Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer Restrictions the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.25405
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King in 1938・File:Canadian Prime Minister arrives for signing of Canadian-American treaty. Washington, D.C., Nov. 17. Secretary of State Cordell Hull greeted MacKenzie King, Prime Minister of Canada, upon his LCCN2016874374.jpg引用。


2−4.英、濠、蘭三大公使とハル長官、極東策協議 : 米を中心に太平洋の武装進む
大阪朝日新聞 Vol: 第159巻 Page: 13 出版年 1941-02-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100334774

【ニューヨーク特電十六日発】ハリファックス[Earl of Halifax]駐米英大使及びケーシー濠洲公使は十五日ハル国務長官と極東情勢その他について重要協議をとげ、つづいでルードン和蘭公使も同じくハル長官と会見し協議をとげた、故ロシアン前駐米英大使の在任時代ハル[Cordell Hull]、ロシアン、ケーシーの三人は太平洋の共同問題についてしばしば協議したことがあり、ロシアン卿の死後この会談は中絶となっていたのでハリファックス[Edward Wood, 1st Earl of Halifax]卿の着任を待って英、米、濠の三者会談が復活したものと見られている、ハリファックス[Edward Wood, 1st Earl of Halifax]大使はハル長官と会見後ウェルズ国務次官と会見し、ウェルズ[Sumner Welles]次官は直にルーズヴェルト大統領を訪ねて会談の内容を報告したが、ハリファックス大使ならびにルードン和蘭公使は会談後左のごとく語った

ハリファックス[Earl of Halifax]英大使 われわれ三人は利害を同じゅうする共同の問題について語り合った、イギリスは極東において十分に軍備を拡充している

ルードン和蘭公使 本日の会談は一般情勢について協議し情報の交換を行ったのである、蘭印は一旦援急ある場合いかなる国の攻撃に対しても応戦するであろう(英、濠、蘭三大公使とハル長官、極東策協議 : 米を中心に太平洋の武装進む

写真(右)1942年10月12日、アメリカ、ワシントンD.C.、太平洋戦争評議会に参加したアメリカ大統領(Franklin D. Roosevelt)、駐米オーストラリア大使オーウェン・ディクソン(Owen Dixon :Australian Minister to the United States), レイトン・ゴールディ・マッカーシー(Leighton Goldie McCarthy:1869-1952)、駐米ニュージーランド大使ウォルター・ナッシュ(Walter Nash:1882-1968) イギリス外務大臣ハリファックス卿(Lord Halifax)、中国外務大臣宋子文(T. V. Soong:1894ー1971)、駐米オランダ大使アレックス・ラウドン(CAlexander Loudon)、フィリピン大統領マニュエル・ルイス・ケソン(Manuel Quezon :1878−1944.8.1):太平洋戦争評議会は 1942 年4月1日にワシントンD.C.でフランクリン・D・ルーズベルト大統領、顧問ハリー・ホプキンス、英蘭加中豪ニュージーランドの代表から構成された。のちに、インド、フィリピンの代表も追加となる。この評議会には運営危険はなく、その決定は米英連合参謀本部に付託された。
The Pacific War Council, as photographed in Washington D.C. on 12 October 1942. First published by The Argus newspaper in Melbourne, Australia. Pictured are Franklin D. Roosevelt (seated), and standing, from left to right, Owen Dixon (Australian Minister to the United States), Leighton McCarthy (Canadian Minister to the United States), Walter Nash (New Zealand), Edward Wood, 1st Earl of Halifax (UK Ambassador to the United States), T. V. Soong (Chinese Minister for Foreign Affairs), Alexander Loudon (Dutch Ambassador to the United States) and Manuel Quezon (President of the Philippines). PD-Australia as a photograph first published in Australia before 1 January 1955.
写真はWikimedia Commons,Category:Edward Wood, 1st Earl of Halifax File:Pacific War Council.jpg引用。



2−5.風雲のシンガポール : 海上愈よ危険 : 防衛当局から発表
大阪朝日新聞 Vol: 第159巻 Page: 28 出版年 1941-02-20
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335555

【シンガポールにて二宮特派員十九日発】さきにイギリス政府はシンガポール対岸ジョホール国沿岸一帯にわたる機雷敷設を発表したが右に関しシンガポール防衛地区は  「海上危険となりたるにつき航行指示を無視せる船舶は自己の危険において航行すべし」 と発表した

爆撃機、戦闘機の英増援空軍飛来

【ニューヨーク十九日発同盟】イギリス政府当局は極東危機説を流布すると同時にこれに呼応するがごとくシンガポール防備軍の増強をしきりに宣伝しつつあるが、U・Pシンガポール特電によれば十九日爆撃機および戦闘機よりなる有力な空軍増援部隊が同軍港に到着したといわれる

巡洋艦派遣断行せよ 米海軍の強硬派分子主張

【ニューヨーク十九日発同盟】米国の対日疑心は依然として去らぬものあり、殊に米海軍部内には対日積極行動を公然主張するものが多いが、十九日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙ワシントン電は米海軍部内の対日動向を詳細に検討し海軍部内に硬軟両派の存する点を指摘して左の如く報道している

 政府内極東関係専門家は米国がこの際日本に対し断乎たる態度を示さぬ限り日本はここ一ヶ月を出でずしてヤーネル[Harry Yarnell]少将のごときはその筆頭てこの一派の意見によればアメリカはこの際日本に対し単に断乎たる態度を示しさえすれば日本は直ちに積極的南進策を放棄するにいたろうとしこの目的を達するために米巡洋艦隊のシンガポール訪問を断行すべきだと主張している、

ドーントレス これに対し自重論を持する一派はスターク[Harold Stark]作戦部長[1939年8月1日-1942年3月26日]をはじめ極東関係に比較的経験の薄い首脳者でこの一派はアメリカがこの際思い切った対日行動をとれば日本は必ず報復手段に出るだろうとの見解を持し大西洋方面における米海軍への脅威が増大している際日本と交戦状態に入ることをもっとも危懼している、

しかして強硬論者の勢力はすこぶる大きいがヤーネル[Harry Yarnell]少将の如く現在直接海軍の指揮系統外にあるものが多いのに反しスターク作戦部長をはじめ自重論者が重要発言をなし得る立場にあることは注目すべき点である=写真は(上)ヤーネル[Harry Yarnell]提督(下)スターク[Harold Stark]作戦部長 [写真あり 省略](風雲のシンガポール : 海上愈よ危険 : 防衛当局から発表引用おわり)

写真(右)1939年、アメリカ、ワシントンDC、机上で報告書を見るアメリカ国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull:1871-1955)、報告書を手渡したアメリカ国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles, 1892-1961)[右]
Description English: Title: Hull receives report from Under Secretary upon return to Washington. Washington, D.C., Jan. 10. Secretary of State Cordell Hull returned to his desk in the State Department today and called in Under Secretary Sumner Welles to find out what had happened during his trip to Lima, 1/10/39 Abstract/medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Date 1939 Source Author Harris & Ewing, photographer United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.25791
.写真はWikimedia Commons, Category:Cordell Hull File:Hull receives report from Under Secretary upon return to Washington. Washington, D.C., Jan. 10. Secretary of State Cordell Hull returned to his desk in the State Department today and called LCCN2016874760.jpg引用。


◆日米開戦の4年以上前,1937年7月の日中全面戦争以降,米国は日本の中国侵略を非難し,1939年7月,日米通商条約を廃棄、1941年3月,米国は武器貸与法を成立させた。ここでは,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とした。1941年3月11日の武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が行われた。

1941年3月11日にレンドリース法Lend-Lease Act)、すなわち武器貸与法が成立するが、その1年前から、アメリカは中華民国(中国)を軍事援助していたのである。1941年3月の武器貸与法は、501億ドル相当の物資を貸与したが、国別内訳はイギリス314億ドル、ソ連113億ドル、フランス32億ドル、中国16億ドルであった。


3.1941年4月13日、日ソ中立条約


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名するソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)
:真後ろに立っているのは、外務大臣松岡洋右、その奥にヨセフ・スターリン、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Нарком иностранных дел СССР В. Молотов подписывает Пакт о нейтралитете между СССР и Японией (1941). Присутствуют: И.В.Сталин, министр иностранных дел Японии И.Мацуока, зам. наркома иностранных дел СССР С.А.Лозовский, А.Я.Вышинский. Date 13 April 1941 Source http://victory.rusarchives.ru/index.php?p=31&photo_id=995 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Molotov signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact.jpg引用。


松岡洋右外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた四国同盟の構想を抱き、1941年3月12日、ソ連経由シベリア鉄道でドイツ・イタリア訪問の途についた。1941年3−4月初旬、ドイツとイタリアで日独伊三国同盟にソ連を加える案を提議した外務大臣松岡洋右は、ドイツからはソ連への不信、さらには独ソの対決を仄めかされるほどだった。しかし、帰路にソ連モスクワに立ち寄り、懸案だった日ソ中立条約で調印することに成功した。これは、日本とソ連が相互に領土の保全および不可侵を約束したもので、締約国の一方が第三国から攻撃された場合には他方は中立を維持することも約束している。有効期限は5年で、満期1年前に破棄通告がなされなければ、さらに5年間自動延長される。

 1941年4月13日、日ソ中立条約調印に合わせてソ連と日本が共同声明を発表し、ソ連は日本傀儡の満州国の領土保全と不可侵の尊重し、日本はソ連傀儡のモンゴル人民共和国の領土保全と不可侵を約束した。つまり、ソ連本土・日本本土だけではなく、1939年のノモンハン事件で戦ったモンゴル・満州国境についても、相互の不可侵を約束した。つまり、日ソ中立条約は講和条約の性格を持っている。

大日本帝國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約

第一條
両締約國ハ両國間ニ平和及友好ノ關係ヲ維持シ且相互ニ他方締約國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二條
締約國ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三國ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約國ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三條
本條約ハ両締約國ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約國ノ何レノ一方モ右期間滿了ノ一年前ニ本條約ノ廢棄ヲ通告セサルトキハ本條約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

第四條
本條約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

右證據トシテ各全權委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本條約二通ニ署名調印セリ

昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス
松岡洋右(印)
建川美次(印)
ヴェー、モロトフ(印)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本國皇帝(御名)此書ヲ見ル有衆ニ宣示ス

朕昭和十六年四月十三日「モスコー」ニ於テ帝國全權委員ガ「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約ヲ閲覧點檢シ之ヲ嘉納批准ス
神武天皇即位紀元二千六百一年昭和十六年四月二十五日東京宮城ニ於テ親ラ名ヲ署シ璽ヲオサセシム
御名國璽

3−1.米の政策不変を強弁 : 日ソ条約にハル長官声明
読売新聞 Vol: 第156巻 Page: 182 出版年 1941-04-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094 /0100336190

[写真(ハル長官)あり 省略] 【ワシントン本社特電】(十四日発)ハル国務長官は十四日日ソ中立条約成立に対するアメリカ政府の見解を発表、アメリカ政府の外交政策は、日ソ中立条約によって何等変更を蒙るものでない旨次の如く声明した『日ソ中立条約の意義は一般にやや過大評価されている傾きがある、この条約は従来より日ソ両国間に事実上存在していた状態を単に文書において表現したものと解されよう、両国政府がこの状態を文書において確認することに意見の一致を見るや否やについては若干の疑問もあったがそれが成立を見るに至ったとしても何等驚くに当らない、従ってアメリカ政府の諸政策はこれによって何等変更を蒙るものではない』

【ワシントン十四日発同盟】ハル国務長官は十四日の定例会見で日ソ中立条約に関する公式声明後、記者団と一問一答を行ったが『ソ連が満洲国を承認したことをどう考えるか』との質問には『公式声明以外には付加する必要はない』と答え『日ソ両国に対して圧迫手段を考慮しているか』と質せば『今までのところ本問題は何等討議された事がない、条約を十分検討した上でなくてはこれが米ソ関係及び目下継続中の米ソ通商交渉に何等かの影響を持つかどうか言明出来ない』旨をのべた (米の政策不変を強弁 : 日ソ条約にハル長官声明引用終わり)

写真(右)1941年4月23日、ギリシャ、アテネ、アクロポリス神殿の前でドイツ軍旗を掲揚するドイツ国防軍:1941年4月23日、ドイツ・イタリア両軍は、ギリシャと休戦協定を締結、ドイツ軍はアテネのアクロポリスを占領して、ドイツ軍旗を掲げた。ギリシャ国王ゲオルギオス二世は、クレタ島へ脱出した。
Photographer Scheerer, Theodor Griechenland, Athen.- Deutsche Soldaten beim Aufziehen / Hissen einer Hakenkreuz-Flagge / Reichskriegsflagge auf der Akropolis; PK 690 Title Athen, Akropolis, deutsche Besatzung, Flagge Depicted place Athen Date May 1941 Collection German Federal Archives Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-164-0389-20
.写真はWikimedia Commons, Category:Acropolis in World War II File:Bundesarchiv Bild 101I-164-0389-20, Athen, Hissen der Hakenkreuzflagge.jpg引用。



3−2.繁栄の世界再建 : ハル長官の"夢想"演説
大阪毎日新聞 Vol: 第156巻 Page: 200 出版年 1941-05-20
https://hdl.handle.net /20.500.14094/0100336422

[写真(ハル[Hull note]長官)あり 省略]
【ワシントン本社特電十八日発】ハル[Cordell Hull]米国務長官は十八日外国貿易週間開始に当って次のごとき演説を行った、まず援英と枢軸誹謗からはじまり
 枢軸が勝利を得ることは奴隷関係を再び作るのである、米国自身の安全を考えるに必要なことは英国をしてその抵抗を十分ならしめるため適当な重要品を保有させねばならないということだ、無法な世界が拡大することを防止しなければならない、しからずんば我々は侵略者に囲まれ国の存在のため独力をもって強力なものと戦わねばならなくなるだろう、

枢軸に征服された欧洲諸国はバーター制貿易を強いられているが、その組織の基礎となるものは経済的協力でなくして経済的搾取だ、征服者は自分勝手の値段で物資を自己の手に引渡させるのである、

民主主義国はこの戦争に勝利を得なければ外国貿易計画の如きも役に立たない、米国を囲む二つの大洋と世界平和を望む人間自然の願望によって米国は保護されていると唱える人は間違っている、これらの人々に禍いされた国民が不当な安全感を持つならば米国もまた他の自由な諸国同様死活的危険に陥るのである、支配者達の究極の目的は公海の支配権である、この支配権こそ彼らの世界征服計画の実現に不可欠のものである
と述べついで米国の意図する戦後の世界改造についてつぎのごとく論じた

 戦後の世界経済再建計画についてつぎの五点を挙げる

一、通商制限を強化するがごとき極端なる国家主義は許さるべきでない
二、国際通商関係においては無差別を原則としなければならないかくてこそ国際通商は繁栄に赴くであろう
三、原料資源はあらゆる国に無差別に供給されねばならない
四、物資の供給を規制する国際協定をなすに当っては消費国およびその国民の利益を十分に保護するよう取計らわねばならぬ
五、国際的財政問題の協定および施設をなすに当ってはあらゆる国の必要欠くべからざる企業とその発達のため援助を与えるようにし、あらゆる国の福祉に適合するような方法をもって支払をさせねばならぬ

 自由なる通商政策は世界を現在の軍事的危機と政治的陰謀から解放するまでは実行不可能である、現在世界はこの二つによって虐まれている、米国としても現事態を回避せず苛烈な現実に直面する決意を固めている、われわれは将来にもっと安固な繁栄の世界が作られることを信じている、米国は道具と資源と頭脳と手をもっている、これをもってすればその目的を達成し得るのだ、

しかし最初になすべきことは武力を鎮圧することだ、その後においてはじめて米国も他の国も開放的な経済協力の世界を作り得るのだ(繁栄の世界再建 : ハル長官の"夢想"演説引用終わり)


3−3.米・重慶に治権撤廃約す : ハル長官・郭泰祺(重慶外交部長)に書簡交附 東京朝日新聞 Vol: 第159巻 Page: 79 出版年 1941-06-03
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337352

【ワシントン本社特電三十一日発】ハル米国務長官は駐英大使から重慶政権外交部長[郭泰祺]に赴任の途中米国に立寄った郭泰祺との間に交換した書簡の内容を三十一日公表した、郭泰祺からの書簡は五月二十六日サンフランシスコから発せられたもので、彼の滞米中の歓待をハル氏に対して感謝したものてあるが、これに対する返書において、ハル氏は「米国政府は支那の平和が回復すれば支那における治外法権[Extraterritoriality]の撤廃を提唱する用意がある」旨強調して注目を惹いている、ハル[Cordell Hull]務長官の返書の要旨は左の通り

 余は世界の情勢が貿易の自由、文化の交流を現在よりもさらに活溌ならしめるよう改善されることを希望するものであるが、重慶政権もまたこうした原則を支持している、余は支那の幸福ならびに進歩に対し深甚の関心を寄せているものであり、米政府もまた国際関係の改善について重慶側の希望に副うようすでに実際の措置を講じて来た、

しかして米国政府としては平和が回復すれば重慶政府との秩序正しき交渉によって米国ならびに他の諸外国が久しく支那において持ち続けて来た治外法権[Extraterritoriality]乃至特殊の権利の撤廃を急速に実現したいと期待している、米国政府は合法的な秩序正しき方法によって平和安定、正義、幸福が具現され、促進されることを歓迎するものである、

この意味から支那の外国に対する平等なる待遇ならびに経済上の差別待遇廃止の原則が現在の世界の紛争中も紛争終結後においても健全なる影響を各方面に与えることを信じて疑わない、米国政府は米国民の信ずるこれらの諸原則を支持するに努力している、われらは重慶ならびに他の諸外国とともにとって来た原則、即ち国家の安定、国際間の公正なる交際、正義を伴う平和がやがて世界を支配することをあくまで確信するものである(米・重慶に治権撤廃約す : ハル長官・郭泰祺(重慶外交部長)に書簡交附


4.1941年6月22日の独ソ戦勃発

写真(右):1941年7月,ウクライナのレンベルク(リボフ) でドイツ兵に誇りあるヒゲを刈られているユダヤ人:老人の痛々しい表情と楽しそうなドイツ人の表情が対比される。今日の視点では,弱いものイジメであるが,敵の下等列島人種に情け無用という事なのか。
1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で,ドイツ占領地のユダヤ人は,辱めを受けたり,強制連行されたり,あるいは虐殺されたりした。ドイツ兵は,ユダヤ人を辱めるだけで,この場で殺さなかったのは,慈悲を施してやったつもりなのか。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-187-0203-09 引用(他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連に侵攻した。このドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)が発動された理由は,次のようのものである。

1)バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のこと。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪する。このようにして,大ドイツ繁栄の基礎となる生存圏を形成しようとした。

2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナUkraine)をヒトラーに貸与するという噂があった。

3)フランス降伏後,英国が孤立しても戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。

4−1.ソ連援助に二の足 : 援英ひと筋に邁進せよ : 米紙の論評
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 4 出版年 1941-06-27
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339287

【ニューヨーク二十六日発同盟】二十六日附ニューヨーク・タイムス紙は独ソ戦に関し「米、英、ソ連」と題し米国民はこの際ソ連援助のごとき誤解を惹起しやすいスローガンを捨て「ヒットラーを阻止せよ」という真目的に注意を集中すべきであるとつぎのごとく論じている

 アメリカは少しもソ連の勢力増大を欲していないのであるからアメリカ国民はこの際ソ連援助のごとき誤解を惹起しやすいスローガンを撤廃して真の目的たるヒットラー主義の進出阻止に全力を集中すべきである、アメリカがソ連を直接援助する代りに対英援助を倍加すべしとなす理由はつぎのごとき点である

第一は時間的理由である、すなわちたといアメリカの資源、武器、弾薬が無尽蔵であるとしてもアメリカは独ソ戦の結果を左右するに間に合うように太平洋を越えてこれを送付し、ソ連がこれをシベリア経由輸送し得るとは期待できない 第二は戦略的理由である、軍需品をソ連に送る代りにイギリスに輸送すればわれわれは一層効果を期待できる 第三は敵性の問題である、従来われわれが信頼したことのなかったソ連政府をいまわれわれが信頼したとしてもそれが果して時宜に協っているかどうかは疑問であるとともにソ連の誠意如何も問題だ、ソ連向に輸送されたアメリカの軍需資材が結局はヒットラー総統の手に入る懼れが十分にある、ところがイギリス向に輸送された軍需品にはかかる懼れはまったくない(ソ連援助に二の足 : 援英ひと筋に邁進せよ : 米紙の論評引用終わり)

写真(右) 1941年、イギリス、産業都市コヴェントリー西40キロのスメスウィックの戦車製造工場、「みんなでロシアを助けよう」と書いたプラカードを掲げ、イギリス国旗ユニオンジャックとソ連国旗赤旗をはためかせた労働者たちが、ソ連へ武器貸与するバレンタインValentine歩兵戦車の上で祝賀ムードで騒いでいる。
TANKS FOR RUSSIA, SMETHWICK, STAFFORDSHIRE, ENGLAND, UK, 1941., Catalogue number: P 233, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: Ministry of Information official photographer、 Object description: Factory workers ride on Valentine tanks as they leave a factory in Smethwick. A notice propped on the front of the tanks reads "All Help for Russia Now". The workers are holding a Union flag and a Russian flag and many have their fists raised in a Communist salute.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (P 233)引用。


バレンタイン歩兵戦車の諸元:
全長:5.4 m、全幅:2.6 m、全高:2.2 m
最大装甲厚:65mm
重量:17 t
最高時速:15 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
主砲はMk.I-VII:50口径2ポンド40ミリQF速射砲(砲弾搭載数60発)。
砲塔に6ポンド(57ミリ)速射砲を搭載した改良型の バレンタインMk.VII-X歩兵戦車も生産された。

ソ連のヨシフ・スターリンJoseph Stalin)は、イギリス・アメリカの外交筋、ドイツ・日本のスパイから、ドイツのソ連侵攻の情報を得ていたが、これは独ソ対立を煽動する陰謀だと決めつけていた。そこで、1941年6月、独ソ戦争が始まると驚愕し狼狽えた。しかし、すぐにアイギリス、アメリカの軍事援助の申し出があった。武器や軍需物資が武器貸与法Lend-Lease Act)の対象にソ連も加わったのである。

 米英からソ連への援助ルートは,ペルシャ湾・黒海からからロシア南部に入るルートと,ノルウェー北岸から,ロシア北部に入るルートの2本が主流で、極東ルートはあまり使用されなかった。つまり、アメリカからソ連への軍事物資は、北海を越える輸送船団あるいはイランを抜けるトラック輸送によって,輸送されたのである。


4ー2.中立法適用せず : 浦潮[ウラジオストック]へ米船の武器輸送容認 : ウェルズ米国務次官言明 件名 大阪毎日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 2 出版年 1941-06-27
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339425

【ワシントン特電二十五日発】[サムナー・]ウェルズ[ Sumner Welles]米国務次官は二十五日の新聞記者団との会見で米国の独ソ戦争に対する国際法的立場につき『米国政府は当分の間今回の独ソ戦争に対し中立の宣言をなさざる』旨の言明をなした、[1935年]中立法[Neutrality Act]によると大統領もしくは議会は外国に戦争勃発の場合特定の条件の下に中立を宣言し米国市民およびその財産保護の措置を講ずることになっているが、大統領は今回の戦争に際しては中立の宣言によって保護の措置を講ずる必要を認めないので[サムナー・]ウェルズ[ Sumner Welles]次官をして発表せしめたわけである

 中立が宣言され交戦区域が発表されると米国船舶はこの区域に出入出来ず、また米国市民の出入も制限されるので、例えば対ソ援助として太平洋を渡り軍需品の輸送が出来ぬわけである、米国では支那事変に対しても同様の措置をとったので前例ありとしている

しかし最近[交戦国への武器輸出と船舶による武器輸送を禁止した]中立法[Neutrality Act]廃止の議論もあり、また最近の戦争において第三国はこれまでのように戦争と中立のいずれかに態度を決定するよりも状況に応じ高度の自由をはかることが国家の利益であるという観があり、米国内でも中立宣言問題について議論があったわけで、大統領はドイツの敵を援助するという建前からこの措置をとることに決定し、ウェルズ>[ Sumner Welles]次官は会見において特に太平洋にはいまだ交戦区域の設定がなされていないことを述べ、政府の見解を暗示したものである(中立法適用せず : 浦潮へ米船の武器輸送容認 : ウェルズ米国務次官言明引用終わり)


4−3.仏も対ソ断交 : ソ連政府へ通告す 大阪毎日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 8 出版年 1941-07-01
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094/0100339188

ヴィシー[Vichy]本社特電三十日発】仏国政府三十日発表=仏国はソ連との外交関係を断絶せる旨ソ連政府へ通告した

【[親独]ヴィシー[Vichy]三十日発同盟】ダルラン[Jean Louis Darlan:1881-1942.12.24]副首席は三十日午前ボゴモロフ駐仏ソ連大使を招致し仏国政府はソ連と国交を断絶する旨を通告、同大使に旅券を手交引揚げ方を要求、同時にベルジュリ駐ソ仏大使にも引揚げ方を電命した

反英ソ態度 土も闡明せん

【イスタンブール本社特電二十九日榎本特派員発】トルコ側情報によればソ連黒海艦隊はドイツ軍の猛爆を逃れるためダーダネルス海峡を通過、地中海へ出てエジプトの英艦隊と合流せんとしつつあり、英国の遣ソ軍事経済使節団も海軍協力に重点をおいて策謀せんとしている、

これに対しトルコ政府は独ソ戦に対する中立声明と同時に[1936年]モントルー条約[Montreux Convention]により交戦国軍艦の[ボスポラス/]ダーダネルス海峡[Dardanelles Strait]通過を禁止する態度を明かにしているが、前大戦当時英潜水艦はトルコ海軍の敷設水雷[機雷]をくぐって夜間同海峡を突破、黒海作戦を敢行した前例もあり、今回も潜水艦の一部が海峡突破を強行する可能性は十分にあるが、その際ドイツの友邦、英国の盟邦として独英戦には非交戦国、独ソ戦には中立国という複雑微妙な姿勢をとりつつあるトルコ政府は反英ソ陣営に投じて態度闡明の必要に迫られるものと見られる(仏も対ソ断交 : ソ連政府へ通告す引用終わり)

写真(右):1941年7月、ソビエト連邦、モスクワ、ソ連首相ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin:1922年4月3日–1953年3月5日):共産党書記長として、ソ連最高指導者だった地位だったスターリンだが、第二次世界大戦が長期化する中で、1941年5月、首相兼外相のモロトフに代わって首相の地位に就いた。国際関係上、国家元首としての立場で交渉するためである。
Description Na de Tweede Wereldoorlog. Een foto van een zwaaiende Stalin uit 1941, die in maart 1953 op de leeftijd van 73 jaar een beroerte kreeg. Rusland. 1941. Date July 1941 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Molotov signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact.jpg引用。


4−4.大危機を警告 : スターリン委員長放送
大阪毎日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 9 出版年 1941-07-05
https://hdl.handle.net/20.500.14094 /0100339655

[写真(スターリン首相)あり 省略]
【モスクワ本社特電三日発】ソ連首相スターリン氏は三日国防委員会委員長の資格でラヂオを通じ全国に向って左の如く演説をした

 同志よ!市民よ!兄弟姉妹よ!わが陸海の将兵よ!余はわが友に話そう、われわれの祖国に対する不信の軍事攻撃は六月二十二日ヒットラー[Adolf Hitler]総統の率いるドイツによって開始され戦いは現在なおつづいている、赤軍の英雄的抵抗にも拘らず敵の最も優秀なる軍隊、最も優秀な空軍がすでに戦場で撃破されながらもなお彼らは新手の兵をもって無二無三に進撃をつづけている、

ヒットラー[Adolf Hitler]の軍はリスアニヤ全部を占領しラトヴィヤの大部分、白ロシヤの西部、ウクライナの西部を占領するに成功した、ファシスト[fascist]の空軍はその爆撃範囲を広げてオルシヤ、モギレフ、スモーレンスク、キエフ、オデッサセヴァストポールを爆撃している、いまや深刻なる危機がわが全土を蔽っているのだ、

わが光栄ある赤軍が多数のわが都市および各地方をファシスト軍に委ねるようなことが一体どうして起り得るであろうか、ホラ吹きのファシスト[fascist]宣伝屋が休みなくまくし立てているようにドイツ軍やファシスト[fascist]軍が実際に無敵なのだろうか、勿論絶対にそんなことはない!歴史を見ても無敵の軍隊などいうものは決して存在しなかった、ナポレオンの軍隊は無敵と考えられた、しかしロシヤ、英国、ドイツの軍隊によってつぎつぎに打破られた、カイゼルの率いるドイツ軍も第一次帝国主義戦争の時には無敵と考えられた、しかしロシヤおよび英仏軍によって数回打破られ最後に英仏軍によって粉砕された、同様のことが今日ドイツ軍およびイタリヤ軍についてもいわれなければならない

 彼等は欧洲大陸でひどい抵抗を受けたことは一度もなかった、ただわが領土においてのみ激しい抵抗に遭遇した、もしこの抵抗の結果独伊のもっとも優秀な軍隊がわが赤軍によって打破られるならば彼等もまたナポレオン、カイゼルの軍隊の場合と同様に撃破されることが出来、事実撃破されることであろう

 ドイツ・ファシスト軍はわが領土の一部を占領した、これは今回の戦争がドイツ軍に有利でわが軍に不利な条件のもとにおいて開始されたによるものである事実ドイツ軍は交戦中の軍隊として十分に動員を完了していたしかもドイツはソ連との国境に百七十個師団という尨大な軍隊を集結し命令一下いつでも進撃し得る態勢にあった、

しかるにわが方は国境方面に兵を増強するためにはなお動員を必要としていた、これはファシスト・ドイツがわが国との不可侵条約[German-Soviet Nonaggression Pact]を蹂躪し全世界から「侵略国」の烙印を捺されたゆえんであり、平和を愛好するわが国が決してこの条約の廃棄に先鞭をつけたものではないことを証明するものである

奴隷と自由の岐路 遊撃戦で飽くまで反攻 不可侵条約により独とソが得たもの

 ソ連がかくのごとき裏切の国ドイツと何故[独ソ]不可侵条約[German-Soviet Pact]を締結したかということになるが、それは決してソ連政府の誤謬ではない、不可侵条約は両国間の平和の条約であり、一九三九年(昭和十四年)にドイツかそれを提議し来ったのである、ソ連政府としてはそれを拒否すべき理由はなかった、余はいかなる国といえどもその隣国との間に—たといその隣国が悪虐な指導者によって支配されていたとしても—平和条約を締結することを拒否しないと信ずる、

ただそれを締結する場合に不可欠の条件がある、それは該条約が直接的にも間接的にも平和を愛好する国の領土保全、独立、名誉を傷つけないということである、

周知のように独ソ不可侵条約[Molotov–Ribbentrop Pact]はまさにかかる条約たるべきであった、この条約によってわれわれが得たところのもの、それはわが国の一年半に亘る平和と、もしドイツがこの条約を無視してわが国を攻撃するとすればこれを反撃すべき力を準備する余裕が与えられたことである、このことはわが国にとって有利な条件であり、ファシスト・ドイツにとっては不利な条件である

 一方ドイツがこの条約によって得たところのもの、この条約を蹂躪することによって失ったところのものは何か?ドイツが得たものは短期間にその軍隊を有利な立場においたことであり、失ったところのものは全世界に血に飢えた侵略国としての正体をまざまざとさらけ出したことである、

ドイツ軍の得た有利な立場は単に今次戦争中の一つの挿話たるに止まるものであり、ソ連が得た政治的な地位は極めて重大な意義を持っている、このゆえにこそわが将兵は勇敢にドイツ軍と戦っているのであるわれらの立場は絶対に正しい、敵は撃破されるであろう、われらは絶対に勝たねばならぬ

 われらに強制されたこの戦争のためにわが国はもっとも邪悪、もっとも背信の敵、すなわちドイツのファシズムと死の闘争を初めるに至った、

われらの軍隊は戦車、飛行機で歯まで武装した敵に対し英雄的に闘いつつある、数知れぬ困難を克服し赤軍赤色艦隊は自己を犠牲にしソ連領土の一インチごとに闘争している赤軍の主力は武装された数千の戦車、飛行機をもって戦闘に参加しつつある、赤軍の将兵は比類なき勇気を発揮しつつある、われらの敵に対する抵抗は強力化しつつある、全ソ連国民は赤軍と手をとり合ってわれらの祖国防衛に立ち上りつつある、

われらの国土を蔽う危険に結末を与えるためには何が要求されているか、また敵を粉砕するためには如何なる手段をとらねばならぬか、何よりももっとも大切なことはわれらソ連国民がわが国を脅威している危険の深さを十分に諒解すべきであり、すべての安心、すべての無頓着、すべての平和的建設的事業の気持を一擲することである

 これらの気持は戦争以前には極めて自然なものではあったが戦争がすべてのものを根本的に変化させてしまった、今日かかる気持は致命的なものであるのだ敵は残忍かつ執念深い、敵はわれらの汗によって灌漑したわれらの国土を奪い、われらの労働によって獲得したわれらの穀物と石油をかすめるためにやって来た、すなわちヒットラーはソ連において地主制度ツアーリズム[Czarism](旧帝政)を復活しソ連の文化を破壊しソ連の刻下としての存在を破滅に陥らせようとしている、また彼はソ連のあらゆる民族をドイツ貴族の奴隷たらせようとしている、従って今回の独ソ戦争はソ連にとって生活の問題であり、ソ連の各民族が自由に生きるか、奴隷の地位に陥るかの重要岐路である、全ソ連民衆はこのことを理解しなければならぬ、

われわれは敵に対し容赦してはならぬ、われらの軍隊に一人の裏切者、臆病者があってはならぬ、わが将兵は滅私奉公の精神をもって敵に当りわが自由の戦争、ファシストの圧政者に対する戦争に参加せねばならぬ

 わが国の偉大な創設者レーニンは常にソ連民衆の偉大なる美徳は勇気果敢敵に対する団結でなければならぬと教えていた、この輝やかしいボルシェヴィキ[ファシスト・ドイツ軍に対する戦争である、

この戦争の目的はわが国に対する危険を除去するためのみならずドイツ・ファシストの桎梏に喘ぐ全欧民衆解放のためである、この自由の戦争においてはわれわれのみが敵と戦うのではなくわれわれは欧洲、米国に忠実な同盟者をもっている、われらは欧米諸国民と闘争をともにし、かれらの独立民主主義的自由のために戦うのである、それはヒットラー軍の奴隷化の脅威に対して自由を護るべき諸国民の共同戦線である

 この秋に当りチャーチル英国首相の援ソ宣言、米国政府の同様の声明はソ連民衆の大きな感謝をもって迎えられている、同志よ、われわれの兵力は無数だ、増上慢の敵はやがてかれらの犠牲においてこの事実を知るだろう赤陸軍赤海軍とガッチリ腕を組んで幾千の労働者、農民、インテリゲンチャ[ Intelligentsia]は侵略の敵と戦うべく立上りつつある、われら民衆は幾百万ずつの固まりとなって立上るだろう、モスクワ、レニングラードの労働者は赤軍を支持するためにすでに広汎な民衆を動員しつつある、かかる民衆動員は敵侵入の危険にさらされている秋にこそはじめられねばならぬ、

独のファシズムに対するわれらの愛国的戦争においてわれらの自由、われらの名誉、われらの祖国を護るため全労働者は奮起しなければならぬ、ソ連国民全力の急速な動員を遂行するために、またわれらの祖国を卑怯にも攻撃し来った敵を撃退するために国防委員会は創設され同委員会の手に国家の全権は委ねられた、国防委員会はレーニンおよびスターリン党たるソ連政府を中心に全ソ国民の運命を掌ることとなった、ゆえにわれわれはわが赤軍および赤色海軍に最大の支援を与え勝利への道をたどろう(大危機を警告 : スターリン委員長放送引用終わり)

写真(右)1942−1944年頃、アメリカ南東岸、ジョージア州ブランズウィック・リバティー船(Brunswick Liberty Ship)造船所におけるリバティ船の進水:仙台城には建造中のリバティー船が並んでいる。建造工期短縮のために船台で半加工のブロック組み立て、リベット打ちに代わる電気溶接を導入した。
English: This historical image shows a Brunswick Liberty Ship launching from port. Courtesy of John Fahey. Source fletc.gov
写真はWikimedia Commons, Category:Liberty ships File:Bwk Liberty Ship Launch.PNG引用。


リバティー船(Liberty Ship)の諸元
トン数:10,856 t (10,685 long tons) (積載重量)
排水量Displacement 14,245 long tons (14,474 t)
全長Length 441 ft 6 in (134.57 m)
全幅Beam 56 ft 10.75 in (17.3 m)
吃水Draft 27 ft 9.25 in (8.5 m)
1軸single screw, 2,500 hp (1,900 kW)
速力Speed 11–11.5 knots (20.4–21.3 km/h; 12.7–13.2 mph)
航続距離Range 20,000 nmi (37,000 km; 23,000 mi)
乗員Complement
38–62名 USMM(船員)
21–40名 USNAG(銃手・砲手)


4−5.独ソ戦と世界海運 (一〜三) 著者 太田健一 談 大阪商船遠洋課次長
日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 34巻 Page: 205 出版年 1941-07-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100154600

(一)市場性乏しく影響せぬソ連海運界

独ソの開戦が世界の政治外交上に与えた衝動は非常に大きなものであることはいうまでもないが、これを海運界から観ればどうであるか?それは余り大きなものではなかったようだ、というのは独逸海運は一昨年九月頃に参戦しており、海運市場には織込み済みであるこれにソ連が加ったのであるが、それは海運人に大して痛痒を感ぜしむる事柄ではない、その理由として先ずソ連海運界の現状を窺いて見たい

一九三九年の全世界の船腹は六千九百四十四万噸であった、第一位は英国の二一,〇〇〇万噸、第二位は米国の一一,〇〇〇万噸、第三位は日本で、あとは四〇〇万噸台が諾威および独逸、三〇〇万噸が伊太利、二〇〇万噸台が仏蘭西および和蘭一〇〇万噸台がギリシャおよび瑞典、そしてロシアという順位であった、ロシアの所有船舶は七百十七隻で百三十一万六千噸という貧弱さである、と同時にそもそもロシア海運には市場性が乏しい、これまで日本の荷主がロシア船に荷物を載せたという話も聞かないし海運界でもロシア船にチャーターした例はない、それは何故かというにロシアでは小型の沿岸就航路を除いてはデットウエイト五〇噸以上または十五馬力以上の発動機を有する船は全部国有になっているからである 結局市場性を持っていないため今度の独ソ開戦でも海運界には切実に響いて来ないのである、それではソ連の海運とは如何なるものか?という点について見るに、一九二八年に於て二百二十二隻、三十三万五千噸だったものが一九三二年には三百五十二隻で八十六万七千噸、一九三九年には七百十七隻で百三十一万六千噸と、約十一ケ年間に頻繁に於て約四倍に増加しているが、その内容について見れば老朽船が多く大して進歩していない、これらの増加した船は外国から購入した古船であるため性能が頗る悪く、近来性能がよいとされているモーター船にしてもその所有船腹の四分の一に過ぎない

次にソ連の船舶がどういう方面に就航していたかという点では統計がなく詳かではないが極東配船は浦塩を中心として約十万噸位であろうか、浦塩はいま軍用に供されているので十分な修繕が出来ないので、入□は主として上海で行っている、一時は五隻も上海のドックに入っていたこともあるが、これらの船舶は大体フィリッピンから浦塩の砂糖輸送に当っているわけで、東洋海運への協力は認められない

なお黒海の方面には相当配給している、貨物船並に客船百五十隻で四十二万噸、タンカーが二十八隻で十三万噸合計五十万噸位配給している そして黒海からボスボラス海峡を抜けて地中海、欧洲方面の貿易に従事している [図表(ソ連の輸出貿易)あり 省略]

右の表でも判るように一九三八年の輸出先の順位を見るに英一位、スペイン二位、米国三位となっているがそれが今次大戦勃発の一九三九年には米国が一位、英国が二位、伊太利が三位と変り更に昨年になると米国及びギリシャに出したのみで英国、伊太利への出荷は全く無くなっている、それはいうまでもなく地中海作戦の結果であって、この方面に於けるソ連海運の力は十分発揮出来なくなっている、この他、バルト海、白海方面に就航している船舶もあろうがお国柄のこととて詳細な材料を得ることは困難である、また自国荷自国船主義でやっているのとその所有船が前記のように大したものでないということからソ連海運の市場性に欠けていることが判るわけである

(二)世界注目の的ムルマンスクインデイグルカの新航路開拓

ソ連海運について頗る興味を惹かれる点が一つある、それはソ連の北氷洋航路の開拓である、即ちソ連は一九三七年に本航路の開拓を試みたが、その年は失敗に終ったその後砕氷船の建造、見張所の設置、航空機による氷上偵察、探検船の派遣等によって極力新航路の開拓に努めた結果一九三九年−四〇年には相当効果を挙げたようである、然し北氷洋航路の利用期間はせいぜい七月から十月までの季節なので、それ以外のシーズンに於てもこれを利用し得るよう熱心に研究を進めているようである、ところでソ連は北氷洋開拓により如何なる利益を得るかというに、これまでヨーロッパ・ロシアから浦塩への荷物の輸送はシベリヤ鉄道にするほかなかったものが、この航路の開拓が成功した□には白海のアルハンゲルスクからムルマンスクを経由して浦塩に到る直航航路が拓け非常な利便を得ることになる、いまその一例を挙げると

インデイグルカ地方への荷物は欧露から全部浦塩まで鉄路で輸送され浦塩から船によってベーリング海峡を抜けコリマ河口まで運びここから陸路インデイグルカまで運んでいたものが新航路によるとムルマンスクからインデイグルカまで直航して荷物が持って行けるということだ、日数、費用の点でも大いにセーヴ出来るわけで、これは非常な利益をもたらすことになる、現今のように地中海航路が危険に瀕していて欧路からアジア・ロシアへの荷物の輸送が困難なるとき、この新航路の開拓が世界の注目の的になっていることはいうまでもなかろう、あのネバリの強いロシアのことであるから、近き将来にはその計画に或る程度目鼻をつけることであろうから我国としても無関心たり得ない次第である

独ソ開戦と同時に英国政府は援ソを表明し続いて米国も同様の声明を公にした、だが海運界から見て果して英米両国が実際にソ連を援助し得るか、この点について一考してみたい、先ず順序として英米両国の海運力の実勢について検討を要するであろう

第一次欧州大戦当時の英国の所有船舶は二千百万噸、米国は五百二十六万噸で、その当時の世界の全船腹は四千九百万噸であった、而してその当時の英国の船腹噸数は全世界の四三%を占めていた、それが一九三九年には英国二千百二十一万噸、米国一千百八十七万噸、その他の諸国を合せて六千四百四十四万噸となり、英国の所有船舶と全世界船腹の比率は三一%に下落し前大戦時に比しその船舶所有噸数は大差なしとして他の列国はその間に相当船腹の増加を見ているに対し英国は少しも増加していない

なお英国所有船舶の内容を検討して見るに一九一四年には客船四八隻、タンカー百噸で四隻、貨物船五千九百三十一隻であったのに対し今次大戦勃発の一九三九年には客船八十五隻、タンカー三百五十隻に増加したが貨物船は四千噸で三九隻、逆に一千八百九十二隻も減少している、戦時体制下にあっては最も貨物船を必要とするのはいうまでもないことである、即ち英国は今次大戦に於ても第一次大戦の時と同じようにロイド・ジョージをして一にも船、二にも船、三にも船、と叫ばしめ深刻なる船腹不足を喞たしめ米国の援助を希っているような次第である、英国は今次大戦勃発とともに左記の船舶をその傘下に収めた

▼オランダ船(三〇〇万噸)
▼ベルギー船(四〇万噸)
▼ポーランド船(一〇万噸)
▼ドゴール派仏船(三五万噸)
▼デンマーク船(三四万噸)
▼ギリシャ船其他(一六五万噸)
▼独伊の拿捕船(四二万噸)

これに米国から購入の古船七十万噸等で合計一千七十六万噸であるこれに英国自身の所有船舶及びその間の新造船を加えると大体三千二、三百万噸の船腹を持っていたわけである

(三)輸送力の低下船腹不足に悩む英国

今次欧洲大戦による英国側船舶の喪失数は独逸と英国の発表ではそれぞれ相当差違があるが大体その中間をとって約七百万噸と見ることが出来る、とすれば戦前の英国□船腹三千三百万噸として差引二千六百万噸が現在数である、だがその中には軍用に徴用されているものもあり、また喪失しないまでも損傷して入渠しているものもあるとすれば英国自身が必要とする物資輸送の不円滑には相当悩み深いものがあろうと想像される、殊に戦前英国の出入貨物は大体その五割を自国船、その残り五割は外国船に依存していた

関係から最近の如く外国船が英国向け就航をなし得なくなった実情では英国の船腹の不足の悩みは更に深刻なものがあろう

また英国船及びその傘下の連合国船腹は前記の如く未だ相当噸数を有しているように見られるが、その輸送力は非常に低下している、何故なら英国への輸送船は全部コンヴォイ・システムで運航されているので或る程度の船国が出来るまで待合わさねばならない

その船国中で最も低いスピード船に調子を合わせて航行する要もあり、その上独逸の潜航艇を避けるためジグザッグのコースをとるためその輸送能力は非常に低いものである、なお英国自身の造船能力も独逸の空爆によって各所の造船所が傷められ、これを免れた造船所は軍用に使用され且夜間ブラックアウリクのため十分能力を揚げ得ない実情にあるから、これらの諸点よりして新造船は殆ど期待出来ないという始末である、謂わば英国海運は米国の輸血に俟って、どうにかその使命を果すことが出来る重病患者の如きものだ、この重病患者が援ソなどとは到底及びもつかぬことである、次に米国であるが、米国海軍に果して反ソ能力ありや?それについて米国海運の状態を□って見よう

米国は援英のために既に百二十万噸程度のものを英国に譲渡しており本年一月現在の所有船腹は海洋船四八三万噸、五大湖及び河川船二三四万噸、タンカー二六四万噸、合計九百八十一万噸しか持っていない状態である、然かも米国は戦前同国需要貨物の三〇%しか自国船で運ぶことが出来ず残り七〇%は外国船に依存していた、

然るに既に古船とはいえ百二十万噸程度の船腹を英国のために割愛譲渡し、なお援英二百万噸プール案があり益々船腹を必要としている現状にあり、我国でも馴染み深いプレジデント・ラインなども姿を消すという窮迫した有様である更らに米国自身が二百万の軍拡並に両洋艦隊建造のために資材その他□を要するものが多く同国の船腹不足も亦頗る深刻なるものがある、そこで米国は去る六月六日附大統領令を以て左の如き外国船接収の強硬手段に出たのである [図表有り 省略]

また自国船の運航能率を上げるため従来南洋よりの重要物資はパナマ経由太平洋岸に送っていたものを太平洋岸に揚げて、これを鉄路大西洋岸に送る方法をとり、また自国船並に外国船に対してシップス・ラワラント制を強行し重要物資積取りに大□の有様である、即ち米国自身も援英輸血と自国の軍拡に必要な船腹にすら不足し貧血症にかかっているような状態である、この貧血症の米国が今また援ソに船を出すなどということは全く不可能であり「米国の援ソは英国の”怨訴”」と洒落にもならぬ結果を招くこと必定である、斯く観るとき、英米の援ソは声ばかりで海軍界に関する限りその内容は全く空慮といわざるを得ない

米国の所有船舶の内容を見るに五年未満のもの五十八万噸、五年以上十年未満のもの五十五万噸、十年以上十五年未満のもの五十八万五千噸、十五年以上二十年未満のもの三百二十万噸、二十年以上二十五年未満のもの三百五十七万噸、二十五年以上のもの二百七十八万噸という状態で、その所有船舶の八五%以上が十五年以上の老朽船であるそこで米国としては何等かの方法を以て優秀船を入替えねばならぬ必要に迫られているわけで、先ず一九三七年には船舶奨励法により十ケ年計画として左記の如き計画を樹てたのである [図表あり 省略]

右のほか昨年十二月援英の目的で英国政府注文の六十隻を引き受けたまた米国自身がこの急場をしのぐため所轄アグリー・ラクリイング武器貸与法案によって百四十二隻の新造船を引受け、また米国自身その西岸から出る油をその消費地の東岸へ送るため高速タンカーを七十二隻其他M・C規格船の優秀船二十八隻の新造船計画を樹てている、最近の発表によれば一九四一年に百二十五万噸、四二年に三百五十万噸、四三年に五百万噸合計九百七十五万噸を新造すると発表しているのである 然し他方別記の如く米国両洋艦隊建造のため現在ではドックの七〇%が海軍に使用されており、従って斯る尨大な造船計画を実行するには先ず造船□の増加がはからねばならない、第一次大戦末には四百四十隻の造船台を所有し年間三百五十八万噸の造船能力を持っていたとはいわれ、これが戦後海運界の不況のため相当台数放棄され昨年の調査では使用中のもの百台、休止中のもの十噸と減少している

そこで最近造船台の急造を計画し百七台の追加が発表されているようなわけである、これら造船台が完成した暁には相当の造船能力が発□されるものと想像される、この際東亜共栄圏の指導者としての日本海運というものを静かに考えて見る必要がある、一九三九年に於ける我国の全所有船舶は二千三百三十七隻で総噸数五百六十三万噸、世界第三位の海運国である、日本海運が今日にまで発展した経路をふりかえってみると次の如く戦争ごとに伸張している

即ち日清戦争前十六万噸だったのが戦後には三十六万噸、日露戦前五十万噸が戦後百万噸また第一次欧洲大戦前百五十万噸が戦後三百万噸にといった調子で目覚しい増加を示している、そこで今次欧洲大戦後の日本の海運も同様で飛躍するものと期待される、、また東亜共栄圏の海運を□当するものとしても是非船腹増加をはからねばならない

昭和十一年の東亜共栄圏内の貿易□を見ると三千九百六十四万噸である、これを日本の船腹で賄うには少くとも一千万噸から一千五百万噸の船腹を必要とするのであるこの限度にまで船腹の増加をはかるには巨額の資金と資材とを必要とすることはいうまでもない次第で我国海運界の当事者は今後に備えるため頗る慎重を要するわけである、殊に今次大戦終了後に於ける独逸の電撃的な海運の整備、また他方大設備を完了せる米国の海運□充と思い合すとき、我海運の将来の使命は更に更に重きを加えるのである、本題の結論としてソ連の海運は前にも詳記した如く同国海運の船舶は民有を許さず全部国有であり、且つ自国荷自国船主義であり、同国がこの方針を変えない限り、またその港湾の偏在している点より見て将来のソ連海運の発展は大して問題にさるべきものではないといえる。(完)(独ソ戦と世界海運 (一〜三) 著者 太田健一 談 大阪商船遠洋課次長引用終わり)


写真(右)1941年9月,ソ連北部、東部戦線,歩兵部隊に悪路を補修してもらい通り抜けようとしているドイツ軍のIII号戦車G型:砲塔には43口径5センチ戦車砲を装備しており、当時ドイツ軍の中で最も強力な対戦車戦闘能力を持つ戦車だった。しかし、ソ連赤軍T-34戦車の76.2ミリ砲とその重装甲には全く歯が立たなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-212-0247-16A Archive title: Sowjetunion-Nord.- Nach Durchqueren eines kleinen Flusses wird für diesen Panzer III der Abhang mit Sand befestigt; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-212-0247-16A 引用(他引用不可)。


4ー6.ソ軍誘引策 : 戦線膠着は独の作戦
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 33 出版年 1941-08-04
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339393

【イスタンブール特電二日発】スターリン線を突破して後独軍の進撃がやや一服状態にあるため独ソ戦線の膠着が各方面に論議されているが、当地における枢軸側、英米側および中立国筋などの軍事通の間においてはこの点はほとんど否定的に取扱われ独ソ戦線が膠着のごとき感を与えるのはむしろ独軍の新なる前進の前の静けさであると見る向きが多い、すなわちその理由として

一、独軍は新なる行動を開始するため機甲部隊の前進を一応止め歩兵部隊の到着による陣容の再整備を急ぎつつあること

二、ドイツ国境よりスターリン線まで約七百キロあるためこの線で暫定的に行動を停止、軍需資材その他の補給をすべきことはほとんど軍事上の常識であること

三、スモレンスク附近、ペイブス湖附近、ジトミル附近の三地点で目下包囲されつつあるソ連軍を殲滅し後顧の憂を断って前進を開始すべきは理の当然で、モスクワ、レニングラード、キエフなどのごとき地点の確保は強いて急ぐを要せぬこと 四、一見全線膠着の如く見せつつあるはむしろドイツの作戦手段に基づくものでこれによってソ連各地の兵力を前線に誘いよせ一挙に殲滅戦に導かんとしていること

五、目下ソ連は極東、コーカサスその他の軍を続々西部戦線に集結しつつあるが、これに対し着々全線の再整備を急ぎつつありドイツはここ数日内に再び大規模な行動を開始していわゆる独ソ戦線の膠着説を一掃するであろうとみるものが殆ど大部分を占めている

なお新なる局面打開の暁においては独軍は再び圧倒的な勝利を得、ソ連軍を簡単にウラルの東に駆逐するであろうとみるものと、一方これに対して目下続々西部戦線に集結しつつあるソ連兵力ならびに野戦を得意とするソ連軍本来の面目から独軍は相当苦戦をまぬかれないとみるものとの二つの観測が行われている(ソ軍誘引策 : 戦線膠着は独の作戦引用終わり)


4ー7.殊勲の機甲部隊 : 捕虜三十一万、鹵獲品莫大 : スモレンスク陥落経過 : 独軍公表
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 37 出版年 1941-08-08
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339225

【ベルリン特電七日発】ドイツ軍司令部は七日正午スモレンスク地区の戦闘経過を次の如く発表した  すでに特別発表によって公表した如くフォン・ボック元帥麾下の軍団はケッセルリング元帥麾下の空軍と協力しスモレンスクの大戦闘を成功裏に終結した、わが方の損害は大したことはなかったが敵の損害は異常に大きかった、約三十一万人の捕虜がわが手に落ち、三千二百五台の装甲自動車、三千百二十門の大砲と莫大なその他の軍需品が鹵獲された、ソ連空軍は一千九十八台の飛行機を失った、右戦闘の経過は次の通りである

戦闘経過

 ビアリストック、ミンスク附近の二重戦闘の終結前、陸軍および親衛隊の快速部隊は堅固に防備されたスターリン線まで前進した、スターリン線はドニエプル河とデューナ河上流の背後を走りモギレフ、オルシャ、ヴィテブスク、ポロックの要塞地域において極めて強固なる基地が密集していた、激戦ののちわが方はポロックの両側において前進基地を形成するに成功した、七月十一日ヴィテブスクを占領、ソ連軍の防備するモギレフ、オルシャ南方のドニエプル地区が局部的な奇襲によって計画どおり突破された、これに続く数日間中央部隊はオルシャ、スモレンスク間の道路の両側に沿って東方の広汎なる戦線に向け前進した、

七月十六日敵の死守していたスモレンスクはついに一機械化歩兵師団の突撃戦法によって占領された、わが機甲部隊がこの突破区域をスモレンスクの東南、南および東北に拡大し各所で的を捕捉した、かくて幅二百五十キロ、深さ百五十キロの戦線において大激戦が展開されたが、その中心はスモレンスクのほかヴィテブスク、ポロック、ネヴェル、モギレフなどであった、包囲された敵諸部隊は四週間近くも必死に包囲陣の突破を試みたがついに優秀なるわが軍に撃滅された、わが空軍は地上部隊と協力して偉勲を樹てた(殊勲の機甲部隊 : 捕虜三十一万、鹵獲品莫大 : スモレンスク陥落経過 : 独軍公表引用終わり)

写真(右)1941年9月,ソ連北部でドイツ国防軍に降伏し捕虜になった3000名のソ連赤軍兵士:ドイツ中央軍集団は、モスクワへ進撃をする途上、1941年7月6日、交通の要衝スモレンスクでソ連赤軍の反撃を受けた。しかし、グデーリアン将軍の第2装甲軍は南方から迅速に反撃し、7月16日にはスモレンスクを占領。北方からは、ホート将軍率いる第3装甲軍が挟撃した。ソビエト赤軍は、包囲された30万名が降伏、捕虜となったが、20万名は包囲を脱
Signature: Bild 183-L19828 Original title: info Unser Bild zeigt einige der 3000 Gefangene, die bei den Kämpfen umd Balta gemacht wurden. PK-Brunnengräber, Scherl 14.8.41 [Herausgabedatum] Dating: August 1941 Photographer: Brunnengräber 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-L19828引用(他引用不許可)。



4−8.英国流の対ソ援助
大阪朝日新聞 Vol: 第 52巻 Page: 68 出版年 1941-09-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339394

 イギリス軍の占領を伝えられたスピッツベルゲン諸島は、北緯七十六度二十五分より以北に位する北部辺陬の土地である。イギリスの報告によれば、第一次世界大戦当時石炭価格の高騰に促されて、この土地の石炭採掘が行われ、汽缶用として調法がられたとのことで、石炭が主たるもので、このほかにはグリーン・ハーパーに放送局が設けられている位のものであり、軍事的に見た同諸島の価値は、大体右のような程度である。かつまた船舶による外部との交通も、四月末から九月までの間に限られ、冬季は太陽を見ない長夜が続くのであって、作戦基地としての利用価値は、非常に少いものとしか思われない。

 イギリス軍は、最近その土地を占領したが、同軍は同島の放送局を破壊し、炭坑と貯蔵石炭を処分し、住民全部を引揚げさせてからただちに撤退したと伝えられるが、イギリスの立場から見ても長期にわたっての占領を必要としないであろうから、イギリス軍の占領につぐ撤退説は、恐らく真相を伝えたものであろう。

 独ソ開戦を機として、アメリカのアイスランド占領があり、その態度は頗る積極化しているが、イギリスもまたアメリカと同一の態度を取り、英米協力してソ連に働きかけ、独ソ戦争を利用することに汲々たるものがある。イギリスがイラン攻略についで、スピッツベルゲン占領を行ったのも、独ソ戦争を利用し、その間に乗じて、一歩々々先手を取らんとするものであることはいうまでもあるまい。イギリスがかかる辺陬の地域にまで作戦行動を及ぼすところを見れば、独ソ戦争によって、思わぬ余裕を見出した機会において、あらゆる手を打たんとしていることを知るのである。スターリン首相の泣訴に対し、老獪なるイギリスの対ソ援助は概ねこの形において行われる。(英国流の対ソ援助引用終わり)


5.1941年8月14日の大西洋憲章(Atlantic Charter)


写真(右)1941年8月10日、カナダ東岸、ニューファンドランド(Newfoundland)島沖、イギリス海軍キング・ジョージ5世 (HMS King George V)級戦艦1941年就役のプリンス・オブ・ウェールズ(HMS Prince of Wales)に後方のアメリカ海軍駆逐艦マクドゥガル (USS McDougal (DD-358))から移乗したアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)と米英軍高官首脳陣:後方はFDRの重巡洋艦オーガスタから戦艦プリンス・オブ・ウェールズへの移乗に一時使用された駆逐艦マクドゥガルの38口径5インチ両用砲塔。先頭FDRの腕をとっているのはFDR次男エリオット・ルーズベルト(Elliot Roosevelt:1910-1990)陸軍大尉、 続く平服のFDR外交顧問のハリー・ロイド・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins)と同ウィリアム・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman)、ポケットに手を入れたイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Minister Winston)、アメリカ海軍大西洋方面指揮官アーネスト・ジョゼフ・キング(Ernest Joseph King)大将、海軍作戦部長ハロルド・スターク(Harold R. Stark)、アメリカ海軍医務部長ロス・マッキンタイア(Ross T. McIntire)准将、アメリカ海軍兵学校ジョン・ビーダル(John R. Beardall)、アメリカ海軍作戦部長ハロルド・スターク(Harold R. Stark)、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル(George Catlett Marshall)大将、アメリカ国務次官サムナー・ウェルズ(Sumner Welles, 1892-1961)らが続いている。
Description 80-G-26856: Atlantic Charter, August 1941. President Franklin D. Roosevelt and staff coming onboard HMS Prince of Wales from USS Augusta (CA 31) during the Atlantic Charter meeting. Photograph released August 1941. U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/03/22). Date 10 August 1941 Source 80-G-26856 Author National Museum of the U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:Atlantic Charter File:80-G-26856 (25366207133).jpg引用。


英首相チャーチルが英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 (HMS Prince of Wales) に乗艦,カナダにきた。ドイツ戦艦「ビスマルク」を撃沈した新鋭戦艦による演出は,会談への熱意の表れである。大西洋憲章では,米英の政府と軍の最高指導者が集まり,事実上,米英同盟を宣言した。米国が,英国の側に立って,対ドイツ,さらに対日戦争をも視野に入れて、戦争準備するものである。米英連合の戦争計画、あるいは共同謀議とも解釈できる。

写真(右)1941年8月10日、カナダ東岸、ニューファンドランド島沖、イギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上で会談したアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)とイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Minister Winston)、が大西洋憲章に合意した。:左からFDR外交顧問のハリー・ロイド・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins)と同ウィリアム・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman)、アメリカ海軍大西洋方面指揮官アーネスト・ジョゼフ・キング(Ernest Joseph King)大将、イギリス陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル(George Catlett Marshall)大将、海軍医務部長ロス・マッキンタイア(Ross T. McIntire)准将、イギリス陸軍参謀総長ジョン・ディル(John Greer Dill)、海軍兵学校ジョン・ビーダル(John R. Beardall)、海軍作戦部長ハロルド・スターク(Harold R. Stark)、イギリス海軍参謀総長ダドリー・パウンド (Dudley Pound)元帥
Description 80-G-26854: Atlantic Charter, August 1941. President Franklin D. Roosevelt and Prime Minister Winston S. Churchill and high-ranking naval and military men of both nations following divine services onboard Royal Navy battleship HMS Prince of Wales during the Atlantic Charter. Standing left to right: Harry Hopkins; Averill H. Harriman; Admiral Ernest J. King; General George C. Marshall; Rear Admiral Ross T. McIntire; General Sir John Dill; Captain John R. Beardall; Admiral Harold R. Stark; Admiral Sir Dudley Pound. Photograph released August 10, 1941. U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/03/22). Date 10 August 1941 FDR Day by Day for August 10, 1941 Source 80-G-26854 Author National Museum of the U.S. Navy
.写真はWikimedia Commons, Category:Atlantic Charter File:80-G-26854 (25694386220).jpg引用。


1941年8月14日の大西洋憲章(Atlantic Charter)は、領土不拡大,国境維持,反ドイツの立場で,次のように謳った。

第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。

アメリカ大統領ルーズベルトは,イギリスを軍事支援しており、第二次大戦に参戦する希望を抱いていた。しかし,アメリカ世論は、自国の安全保障第一であり、大西洋を越えて派兵するドイツとの戦争を望んでいなかった。そこで,ルーズベルト大統領は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,鉄屑,石油を禁輸し,日本軍の占領地からの撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を求めるようになる。この要求を拒否した日本と開戦となり,それがドイツとの戦争にも繋がると考えたようだ。

他方,日本は,海軍艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠であり,米国からの輸入に70%以上を頼っていた。石油輸入が途絶えては,国力維持は困難である。そこで、航空機用ガソリン禁輸など経済制裁を受けた日本の近衛文麿内閣は,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに日米和平交渉がまとまらない場合,アメリカだけではなく、石油、ゴムなど資源獲得と大東亜共栄圏の盟主になることを夢見て、対米英蘭戦争を起こすことを決定した。


⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集:1940年米英の対日経済制裁と駆逐艦=基地協定を見る。

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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