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◆1943年11月テヘラン会談(Tehran Conference)
写真(上):1942年8月12-17日,ソビエト連邦、モスクワ、ソ連赤軍を閲兵するイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874-1965)
:テヘラン会談前にチャーチルは、スターリンとのモスクワで会談していた。
National Museum of the U.S. Navy Lot 11596-9: Moscow Conference, August 12-17, 1942. Left to right, foreground: M. Molotov, Peoples’ Commissar for Foreign Affairs, USSR; Prime Minister Winston Churchill; W. Averrell Harriman, representing President Franklin D. Roosevelt; review Russian troops at the Moscow Civil Airport. Office of War Information Photograph. (2016/01/15).
写真は,Wikimedia Commons, the National Museum of the U.S. Navy・Lot 11596-9引用。


写真(上):1943年9月,テヘラン会談を簡潔に表現したチェコの風刺画家アドルフ・ホフマイスター(Adolf Hoffmeister:1902年8月15日-1973年7月24日)の象徴画
:アメリカ大統領FDRのタバコ、イギリス首相チャーチルの葉巻、ソ連首相スターリンのパイプが合わさると勝利のVサインとなる。
Description Čeština: Adolf Hoffmeister, Teheránská konference, 1943 Date 14 January 2016, 15:46:02 Source Adam Hoffmeister (rodinný archiv) Author Adolf Hoffmeister
写真は,Wikimedia Commons, Category:Tehran Conference・File:26. Adolf Hoffmeister, Teheránská konference, 1943.jpg引用。

1.イラン経由の米英のソ連軍事援助

写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ湾岸アバダン港(?)、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資を運搬してきた輸送船から物資を陸揚げする輸送船搭載のデリック:木箱に梱包されているのは、戦闘機の主翼のようだ。港湾に隣接して鉄道が敷設されている。
Description Lot 11604-9: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Shown: Liberty ships unloading their supplies for the Russian fronts at an Iranian port, March 1943. Photographed by Nick Parrino. Office of War Information Photograph, 29905-E. (2016/02/11). Date March 1943 Source Lot 11604-9 Author Nick Parrino National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons,Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino File:Lot 11604-9 (24971317706).jpg引用。


1939年9月に勃発した第二次世界大戦では、1941年6月にドイツがソ連に侵攻し、第二局面に入った。当時、フランスは降伏し、西欧ではイギリスだけがドイツ・イタリアの枢軸国軍と戦っていたが、それはイギリス本土、北アフリカ、エジプト、大西洋など広範囲にわたっていた。

Shah アメリカ大統領フーズベルトは、イギリスへの軍事援助を大々的に実施することを決めた。そこで、1941年3月11日の武器貸与法(Lend-Lease Act)の成立で、中立アメリカは第二次大戦の参戦国に対して戦後の支払いで、軍事物資を事前に貸与すること議会に提出、認めさせた。つまり、イギリス、中国、ソ連など物資のアメリカからの購入・輸入は、戦勝後の後払いでよくなったのである。貸与の対象になった軍事物資は、弾薬、航空機、食糧、車輌、船舶など軍事物資全般であり、狭義の武器だけではなかった。

1941年6月22日、独ソ戦の勃発した。イギリス首相チャーチルは狂喜し、ドイツを倒すためなら悪魔とも手を結ぶとして、共産主義ソ連のスターリンを軍事援助することを即決し、ソ連に伝えた。この軍事援助のためのルートが、中東経路で、イギリス保護國・植民地のある中東からソ連のコーカサスへの陸路/空路、いわゆるペルシャ回廊である。

武器貸与法によるドイツと戦うソ連への軍事援助のために中東は重要であり、同時に、油田を支配するにも欠かせない地域だった。そこで、イギリスとソ連は、1941年8月25日から9月17日に、イランに軍隊を侵攻させた。

1941年6月のドイツのソ連侵攻で、それまで孤軍奮闘だったイギリスは、ソ連との軍事同盟を欲し、ソ連への軍事援助をアメリカとともに約束した。そして、イギリスとソ連は共謀して、1941年8月25日、カウンタナンス作戦Operation Countenance)を発動し、イランに軍事侵攻した。これは、主にイギリス軍の進駐ということだったが、領土不可侵の原則を打ち出していたアメリカもイランを見放したために、イランは大きな抵抗なしに、南はイギリス軍の、北はソ連軍の支配下に入った。まさに、英ソによるイランの南北分割統治である。

写真(右):1943年3月,イラン南西部、アラジン島にあるアングロイラア二アン石油会社(Anglo-Iranian Oil Co.)本部を警備するイギリス・インド軍兵士:兵士が整列して、上官の検閲を受けている。ペルシャ湾には、多数の島々があって、現在は高級リゾート・ホテルが建設されている。
PICTURES FROM IRAN (PERSIA) Original wartime caption: Indian troops lined up outside the H.Q. of the Anglo-Iranian Oil Co. on Aradian Island. Creator No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Photographer) Keating, Geoffrey John (Undefined) Production date 1941-09-04 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 5303
写真は,Imperial War Museums 2024 IWM (E 5303)引用。


Shah 1941年9月16日、それまで反イギリスの立場を表明していたイラン皇帝レザー・シャーは退位し、皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーに譲位した。そして、モハンマド・レザー・シャーとして、イランの皇帝の地位についたが、これはイギリスとソ連の監督下に皇帝が置かれたことを意味する。したがって、1941年8月25日にはじまったカウンタナンス作戦Operation Countenance)は、1941年9月17日に成功裡に終了したのである。

イギリスのカウンタナンス作戦Operation Countenance)と呼ばれる中立国イランの主権を蹂躙する侵略行為である。

1939年3月に、イラン皇太子モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(محمدرضا شاه پهلوی‎, Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日-1980年7月27日)は、エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚した。その直後の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、石油資源、スエズ運河の保全の観点から中東を重視していたイギリスは、中東からのドイツ・イタリアの戦力排除を望んだ。そこで、イランに対しても、イギリスへの協力を期待したが、イランでは、ナショナリズムが興隆し、イギリスの中東における強い影響力を弱体化しようと、枢軸国寄りの政策をとり、連合国の軍隊駐留、イラン国内の鉄道・港湾などの使用を拒み続けた。第二次大戦初戦では、1940年6月にフランスがドイツ・イタリアに降伏し、ソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたために、ドイツの欧州大陸支配が実現する目前とみなされ、イギリスの外交力、軍事力は、中東では低く見積もられるようになった。まさに、反抗の機会が訪れたのである。

写真集Alubum:三菱輸送機そよかぜ号イラン皇太子ご成婚祝賀飛行を見る。

写真(右):1943年3月,イラン、ペルシャ回廊、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資(パイプ)をソ連に輸送するアメリカ製スチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラックと牽引されるトレーラーの隊列:鉄道は従来から敷設されていたが、山岳地の自動車道路は新たに建設する必要があった。これは、ビルマから中国へのビルマルートと同じく、山岳つの峠越えを含む自動車道路であり、建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。イランルートよりも、北海=ムルマンスクの海上ルートが重視されたのは当然である。
Lot 11602-5: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Somewhere on the Persian Corridor, a U.S. Army truck convoy carrying supplies for Russia, moving along a sandy desert road. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 28465-E. (2016/02/19). Date March 1943 Source Lot 11602-5 Author Nick Parrino wikidata:Q30039557 National Museum of the U.S. Navy
写真は,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-5jpg引用。


軍事援助物資を運搬するトラック自体も援助物資としてソ連に貸与した。これには、ビルマから中国へのビルマルートと同じく、山岳地の峠越えを含む自動車道路の整備が必要だった。さらに、道路建設だけではなく、自動車輸送自体の燃料消費や補給施設の整備など、制約が大きかった。大西洋=インド洋=ペルシャ湾ルートと同じく、北大西洋=北極海=ムルマンスク、北太平洋=ハバロフスクの海上ルートも重視された。

アメリカ軍ホワイト6トン×6×6 カーゴトラック 1939年、アメリカ陸軍補給部は、12フィート(3.7 m)の荷台、積載重量2.5ショート・トン (2.3トン)、六輪駆動のトラックの開発を要請した。これにスチュードベーカー、GMC、インターナショナルハーベスターが応じ、みな採用された。

スチュードベーカー製2.5tトラックは武器貸与法による援助用に、GMC製GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックはアメリカ陸軍用に、インターナショナル・ハーベスター製2.5tトラックはアメリカ海軍とアメリカ海兵隊用に生産されることになった。

1941年3月に成立した武器貸与法は、最終的には、イギリス、ソ連への軍事援助が大半を占めることになるが、イラン回廊ルートでは、飛行機は空路で運搬可能だったが、それ以外の物資の多くは、陸上輸送された。これには、鉄道と自動車による輸送方法があった。武器貸与法ではソ連にイラン回廊経由でトラック7200両が貸与されたが、其の積み荷の運搬にも流用された。

写真(右):1943年3月,イラン、アメリカの武器貸与法に基づく軍事援助物資をソ連に輸送するスチュードベーカーUS6(Studebaker US6)(M16A)2.5tトラック運転手たちの休憩:武器貸与法の実施のために、イラン回廊ルートではトラック7200両が貸与され、其の積み荷の運搬にも流用された。
National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-21: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Drivers of an U.S. Army truck convoy carrying supplies for Russia at a rest stop in Iran. The convoy is given twenty minutes every two hours, to allow drivers to relax and to check loads and trucks. Photographed by Nick Parrino, March 1943. Office of War Information Photograph, 29919-E. (2016/02/19).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy Lot 11602-21引用。


GMC CCKW[GMC CCKW 2½-ton 6×6 truck]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4.8t、全長 6.86m、全幅 2.24m、全高2.77m(荷台幌)、GMC 270 6気筒ガソリン搭載、燃料容量 150 L、航続距離 480 km。

1941年3月の武器貸与法[Lend-Lease Act]に基づき、ソ連に貸与されたスチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、20万台が生産され、その8割近くの15万台に達した。

スチュードベーカーUS6[Studebaker US6(M16A)]2.5tトラックは、第二次世界大戦勃発後にアメリカで開発された、積載量2.5tの6輪駆動の軍用トラックである。空虚重量4,479 kg(U3)、4,756 kg(U4)、全長6.37 m(U3)、6.74 m(U4)、全幅2.24 m、全高2.21 m(荷台幌)、GMC 270 直列6気筒5.2Lガソリンエンジン、6x6輪駆動 又は6x4輪駆動、燃料容量 150L(40ガロン)、航続距離380 km。

写真(右):1943年3月頃,イラン、テヘランの貧困地区、イラン住民に食料を配布するイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人
Title Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the United States Minister to Iran, distributing food to natives Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Headings Nitrate negatives. Notes - Title and other information from caption card. - Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944. 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Source Collection Farm Security Administration - Office of War Information photograph collection (Library of Congress) Repository Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA Digital Id fsa 8d29598
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location: LC-DIG-fsa-8d29598引用。


武器貸与法と日本で呼称する1940年成立の軍事援助法は、貸与・貸付法(Lend-Lease Act)であり、戦時の物資購入の支払いを一時立て替えて、戦後、すなわち戦勝後まで支払いを猶予する法律である。この法律に基づいて、まずイギリスに次いで、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされた。また、中国、フランスも援助対象だった。ここでいう武器貸与の対象には、食料も含まれている。

写真(右):1942−1943年,イラン、テヘラン、イラン住民を訪問したイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人グレース・ホーズ(Grace Hawes):武器貸与法に基づいて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。ルイ・ドレフュス ・ジュニアは1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。
Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the United States Minister to Iran, visiting native inhabitants Digital ID: (digital file from original neg.) fsa 8d29593 Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d29593 (digital file from original neg.) LC-USW3-028481-E (b&w film nitrate neg.)
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d29593引用。


ルイ・ドレフュス ・ジュニアは、1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。アメリカは、日本のように官僚出身の融通の利かない組織下の人物ではなく、民間企業・大学教授など能力に秀でた個人手腕のある人物を一国の大使に任じて、外交成果を上げている。

1−A.両共栄圏着々実現 : 米英の欺瞞罪過を撃滅 : [谷正之]外相喝破
大阪毎日新聞 Vol: 第 63巻 Page: 91 出版年 1943-01-29

 帝国の対米英開戦とともに世界は若干の中立国を除きては対立する二大陣営に分れ、両者各総力をあげて相戦う空前の大世界戦争を展開し国際情勢は劃期的変革を見るにいたったのである

 東亜に於ては帝国の蹶起は実に多年米英の圧制下に苦しんでいた東亜諸民族に対し一斉に奮起するの機会を与えたのである、即ち満洲国、中華民国およびタイ国は各その立場において今次征戦の完遂に対し当初より物心両方面よりするあらゆる努力を致し南方地域の諸民族もまた、善謀勇戦しかも慈愛に満ちたる皇軍の手によりはじめて米英の桎梏より解放せられ今さらながら米英両国の政策が貪婪あくなき搾取に外ならざりしことを悟るとともに大東亜共栄圏建設の歴史的必然性を自覚し帝国とともにこれが建設と防衛とに進んで協力を誓いつつある実情であって米英側の欺瞞的宣伝に拘らず事実は儼然として存し八紘為宇の理想の下大東亜は一歩一歩堅実なる建設の歩みを示し、今や帝国は必勝不敗の地位に立つに至ったのである

アフリカ軍団  欧洲方面最近の新事態は北阿においては独伊軍はエジプト戦線を撤収するとともに神速果敢なる対処策に出で目下チュニジヤ方面に重点をおきこの方面よりする米英軍の攻勢を挫折せしめつつある状況である

 米英の非道なる西北アフリカ戦術のため仏国の情勢は一時混乱に陥ったが幸にして独伊の理解ある態度と[ヴィシー・フランス政府][ピエール]ラヴァル[Pierre Laval]首相の不動の親独政策とによりいまや平静に帰し同国は独伊両国との協力関係を一層緊密にし新欧洲の建設に貢献せんことを期待せられているのである かくの如く枢軸傘下における欧洲の現況は敵方のあらゆる虚構宣伝に拘らず漸次建設の道程をたどりつつあり、今や独伊を中心とする欧洲諸国はますますその共同の運命を自覚するとともに遥かに帝国との結束を固くし不撓不屈必勝不敗の態勢の強化に邁進しつつある

 これに対し敵米英側の情勢を観望するに専ら米国の豊富なる物力を恃み両三年後の総反攻を企図し差当りは主力をドイツ打倒に置くと称してソ連を声援し物資を供給してドイツの重圧を一手に引受けさせ、その間自らは戦力培養に努めていたのである、しかるにその後皇軍の戦果はますますあがり遠くアリューシャンおよびインド洋方面[アンダマン諸島]まで制圧するところとなるや国内輿論の不満甚だしきものがあり特に米国においては即時反攻実施を要望する声が高まり、ここにおいて米英側は何らか局面の展開をはからざるを得ぬ羽目となり、まず米国においては一層積極的に国内戦時体制の強化に狂奔するとともにアラスカ公路の開設、濠洲の防備強化、支那の一部およびインド方面における航空基地の設定などにより遠巻きに対日反撃の機を窺い、さらにまた英国とともにイラン、イラク方面に兵力を増強しアフリカおよび西南アジヤを連ねて独伊両国の進出を遮断するの態勢に出でつつある、しかのみならずかれらは本年をもって決戦の年と称し東西いずれの戦場たるを問わず一大攻勢に出づべき旨を呼号しておる、元来政治や宣伝が軍事行動を支配する彼らの国情であるからいつ如何なる方面に進出するやもはかられない、しかも敵がこれをあえてせんか彼らは徒らに元寇の轍、[1940年6月]ダンケルクの悲劇を繰返すに過ぎないのである

写真(右):1943年,イラン、テヘランの貧困地区、イラン住民に食料を配布するイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人グレース・ホーズ(Grace Hawes):武器貸与法に基づいて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。ルイ・ドレフュス ・ジュニアは1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。このような才気あふれる果敢な態度で交渉に臨むことのできる人物を大使に任ずるのは、確かに理にかなっている。
Title Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the United States Minister to Iran, giving food to native children Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Headings Nitrate negatives. Genre Nitrate negatives Notes - Title and other information from caption card. - Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944. 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Source Collection Farm Security Administration - Office of War Information photograph collection (Library of Congress) Repository Category:Persian Corridor photographs by Nick Parrino File:Lot 11599-2 (25132386755).jpg引用。


 以上二大陣営の間にあって中立国の地位は極めて困難なるものがある、中南米諸国の大部分はすでに米国の西半球制覇政策の圧力に屈し、その犠牲となっており、現にチリー国は最近米国の圧迫に堪えかね日独伊三国に対し断交するの愚挙に出でたのである、これに反しアルゼンティン国が毅然として中立政策を堅持しておることは尊敬に値するところである、また欧洲方面における中立国、なかんずくトルコ国、スペイン国およびポルトガル国などは敵側の悪辣極まる策謀に抗して独自の立場を竪持してきたのであって、私[外相谷正之]はこれら諸国の賢明なる指導者がよく大局を洞察し、その向うところを誤らざらんことを期待するものである

Mussolini  叙上の如き世界情勢の変転に対処し帝国政府は不断の住意を怠らざるとともに特に意を用いているところは大東亜地域内諸国との関係を一層緊密化すると同時に欧洲にある盟邦諸国との提携をさらに強化しもって共同の目的たる対米英戦争を完遂し世界新秩序の建設に邁進すべき協力体制を整備するにあるのである

 まず帝国と満洲国との関係は一億一心永久不動のものであって彼我の間つねに密接協力をなしつつあることはあらためて申すまでもない、つぎに中華民国においてはさる九日進んで米英両国に対して戦を宣し帝国と緊密一体、大東亜の新秩序建設にさらに積極的に参加協力せんとする決意を中外に宣明したのである、中華民国の独立と繁栄とは帝国いな大東亜[共栄圏]全体の繁栄と福祉とにまったく一致するにいたった、したがってこの際帝国が大胆率直に中華民国の不自然なる過去の屈辱的制度を一擲し東亜本然の姿において中華民国と相信じ相交わるに至ったことは歴史の必然であって東亜の大局上誠に慶賀に堪えぬ

 要するに今次日華新関係の展開は洵に八紘為宇の大精神の顕現であり大東亜[共栄圏]建設、世界新秩序建設に対する帝国の真意と誠意とを全世界に対し明かにしたものであって中国民衆はもとより大東亜諸民族の帝国に対する信頼をますます厚からしむるものなることは私[外相谷正之]の固く信じて疑わないところである

写真(右):1943年,イラン、テヘラン、イランの少女に食料を与えるイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人グレース・ホーズ(Grace Hawes):武器貸与法に基づいて、ソ連に大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。ルイ・ドレフュス ・ジュニアは1940–1943年にイラン大使を務めたが、元来、アメリカの巨大穀物商社の幹部である。他方、上司の顔色を窺い、部局内部の評価や出世を第一とするような官僚は、まったく外交官に向いていな。外務省本省の指示に従うだけで、士気が高まるとは思えない。指示に従う外見だけ取り繕っているのかもしれない。機密費を優雅な個人出費としているのかもしれない。
National Museum of the U.S. NavyFollow Lot 11599-1: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the U.S. Minister to Iran, giving food to native children. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 28488-E. (2016/02/19).
写真はflickr > National Museum of the U.S. NavyFollow Lot 11599-1引用。


写真(右):1943年,イラン、テヘラン、イラン住民に食料を配布するイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人:武器貸与法に基づいて、ソ連に「大量の武器貸与法に基づく軍事援助がなされたが、これには食料も含まれている。ルイ・ドレフュス ・ジュニアは1940–1943年にイラン大使を務めたアメリカの巨大穀物商社の元幹部である。
Title Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the United States Minister to Iran, distributing food to natives Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Digital Id fsa 8d29598引用。


 帝国とタイ国との間に先般文化協定の締結を了したが私[外相谷正之]は同協定の運用が将来の日タイ関係の発展はもとより大東亜の交運復興に対し寄与するところ甚大なるものありと信ずるものである

 なお仏印はすでに帝国との間に軍事上、政治上および経済上密接なる関係に立っているのであるがさらに金融上の取極成立によってこの方面においても帝国と緊密に協力するにいたったことは喜ばしい次第である、私[外相谷正之]は仏印当局が世界全局にわたる情勢を達観し大東亜共栄圏内における帝国の地位と仏印自体の地位とにつきこのうえとも深い省察を加えよくこれを正解しますます帝国に対する協力を積極的ならしめんことを期待する

 翻って盟邦独伊両国との提携は軍事、政治、文化など各般に亘り極めて緊密強固である、帝国政府は右三国関係にさらに一歩を進め今次戦争中日独伊三国が各その経済総力をあげて相互に援助するのみならず戦争終結後においてもそれぞれ自国の経済圏内において各大東亜共栄圏民族の共存共栄を確保すべき新秩序を実現するため経済協力に関する協定を去る二十日日独、日伊間に署名調印した、本協定は昭和十五年九月二十七日の[日独伊]三国条約の精神を如実に経済の分野にも現したものでこれが実施により日独伊三国間の経済協力はますます緊密円滑となり戦力増強に貢献するところ少からざるものあるとともにこれにより枢軸側の勝利はますます確実となってきたと確信する次第である

 なお帝国が大東亜共栄圏建設にあたりなんら排他的または閉鎖的意図を抱くものでないことはすでに闡明せられたところであるが本協定の成立はただに右帝国の意図を如実に表示したばかりでなく、帝国による大東亜共栄圏建設、独伊による欧洲共栄圏の確立が米英流の空虚なる宣伝でなくして現実であり、しかも着々具体的進捗をとげつつあるを明かにしたものである

写真(右):1943年,イラン、テヘラン、貧困地区の家屋を巡回し食料を配るイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人グレース・ホーズ(Grace Hawes):イラン警察が付き添っているが、かれは警護と通訳を兼ねているのであろうか。
National Museum of the U.S. NavyFollow Lot 11599-3: Persian Corridor – British and American Lend-Lease supplies transferred to the Soviet Union during World War II. Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the U.S. Minister to Iran, visiting a poor section and distributing supplies. Photographed by Nick Parrino, 1943. Office of War Information Photograph, 28487-E. (2016/02/19).
写真はflickr > National Museum of the U.S. NavyFollow Lot 11599-3引用。


 つぎにソ連に関しては昭和十六年四月成立せる[1941年4月13日の]日ソ中立条約[Soviet–Japanese Neutrality Pact]を尊重する対ソ外交方針にはなんら変更はないのである

 ただしかかる定刻政府の根本方針はソ連においても本[日ソ]中立条約[Japanese-Soviet neutrality pact ]を遵守することを前提とするものなることはもとより理の当然である

 この機会において私は現在なお敵国ないし断交国にあって辛苦を重ねつつある多数の同胞に対し深甚なる敬意と同情とを表示し切にその健在を祈るものである、これと同時にわが在留同胞に対するこれら諸国の熊度に関しては厳に監視を怠らず不当なる圧迫に対しては厳重抗議するなどその辛苦を軽減せんがためあらゆる手段を講じつつあることをここに言明する

Atlantic Charter  今や米英の指導者は戦後の平和企図に期し[1941年8月14日公表]大西洋憲章[Atlantic Charter]などまことしやかなる宣伝をなしつつあるが右は畢竟米英本位の世界制覇を企図するものに過ぎない、従ってもしかかる企図が実現せば日独伊などの如き新興諸国はついにその所を得るの機なく世界恒久の平和は得て望むべからずと信ずるのである

 また米英側はいわゆる[1941年1月の]四個の自由[Four Freedoms]すなわち言論および宗教の自由ならびに欠乏および恐怖よりの自由などと称するものを掲げ今次戦争は右理想が帝国および枢軸側のため脅威または蹂躪せられたるに対し、これを擁護せんがために「自由のための戦争」「生存のための戦争」であると呼号して国民の戦意鼓舞に努めている

 しかしながら日独伊三国がかつて米英の自由生存を脅威したる事実があるか、否自ら広大なる領土と豊富なる資源とを有しながら平和的開発に従事する東洋の移民を逸早く排斥し、また東亜の天地に傍若無人の進出を敢えてなし現に支那の残存政権を支援して東亜の禍乱を助長しつつあるものは誰であるか、事態の真相を顛倒して国民を欺瞞し今次戦争を導きたる米英指導者の罪過は天人ともに許さざるものがある、

もし彼らの主張するがごとく戦争の責任者を処罰するものならば第一に処罰を受くべきものは彼ら自身なること明らかである、要するに米英の指導者が如何に美辞麗句を極めて強弁を逞しうするとも彼らのいわゆる戦争目的が国民を直に納得せしむるに足りぬのは当然のことである、即ち米国指導者の企図しつつあるのは米国民の真の幸福と没交渉なる新たな世界制覇であり、また英国指導者のひたすら念願しつつあるのは旧態依然たる英帝国の維持である、従って彼らは表面共通の戦争目的を掲げてはいるが内実は同床異夢ともいうべきものであって最近米英両国の間にその戦争目的または戦争指導を繞って激しき意見の対立を露呈しているのはまことに当然と申すべきである、

私は米英両国民が冷静に事の順逆を考えるとき必ずや慄然としてその指導者の犯しつつある罪過に気づきかれらの戦争が如何に無名の師であって、またその犠牲が如何に無意味なるかを悟るにいたるものと信じて疑わない

 これに反し帝国が一年前敢然立ち上ったゆえんのものは米英の利己的世界支配体制の圧迫を排除し正しきものが正しきところを得る道義にもとづく新秩序を建設せんとするにあるのであって万邦をして各その所を得しむるとは実にこのことを指すに外ならないと存ずるのである、即ち帝国の戦争目的は大義名分炳乎として明かなのであり正邪の岐るるところ究極における勝敗の数もまた自から明かなのである、今次大戦はその規模において、またその烈しさにおいて有史以来未曾有のものであるが、その意義においてもまた極めて深遠なるものがある、私[外相谷正之]は戦時外交の要諦も畢竟この聖戦の意義目的に徹し政戦一致これを宣揚完遂するにあるものと信じ対外施策の遂行に万遺憾なきを期したいと存じている次第である(両共栄圏着々実現 : 米英の欺瞞罪過を撃滅 :[谷正之] 外相喝破引用終わり)

写真(右):1943年,イラン、テヘラン、イラン住民に食料を配布するイラン駐在アメリカ大使ルイ・ドレフュス(Louis Dreyfus)夫人:イラン警察が付き添っているが、かれは警護と通訳を兼ねているのであろうか。
Title Teheran, Iran. Mrs. Louis Dreyfus, wife of the United States Minister to Iran, visiting in the poorer section of the city Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Medium 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location LC-USW3- 028489-E [P&P]引用。


1−B.英国の正体
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 123 出版年 1943-03-28

英国は必死になって深い創痍を隠そうとするが、その苦しみはまざまざと表面に現れて来た。同時に苦痛の深度が加わるに従って、恰も瀕死の怪物が化の皮を失うように、その醜い正体は白日の下に曝されて来た。

 ソ連の冬季反攻が驚くべき戦果を挙げるや米英はぎょっとした。殊に英国は烈しい不安に襲われた。ヨーロッバの赤化は英国の堪えるところではないが、ソ連の勢力が澎湃として西亜から中東にかけて南進したならば英帝国は桶の底が抜けたようなことになる。これまた英国の堪えるところでないからである。それはついこの間のことであった。しかるにドイツが意外にも冬季にあって猛然逆襲に移り、剛時破竹の勢いを呈したソ連軍を痛打するに至って米英は別の意味において非常な不安に陥った。ソ連にして米英のために火中の栗を拾う実力を失うにおいては、彼等はドイツおよびその同盟軍の鋭鋒に自ら当らなければならないからである。即ち大戦は岐路に立つわけである。英国の如きは到底この岐路に処すべき自信はない。

 ここにおいて米英としては、全力を挙げてソ連を精神的および物質的に援助し飽くまでもドイツの戦力を消耗すべき任務を果たさせねばならない。しかし米と英とは立場と実力と希望とを異にする。従ってソ連を援けるにしても、援助の性質と限度とにおいて両者の間に食違いの生ずるは当然であろう。現在火の手を揚げつつあるヨーロッパ諸小国問題はこの食違いから激発されたものにほかならない。曩に英国はソ連の沿バルト三国およびポーランドに対する領土的野心に乗じ、諸小国の犠牲においてソ連を反枢軸陣営内に維持しようとして遂ににポーランドを慣慨せしめ、その亡命政権をして本拠を米国に移したい旨英外務省に通告せしめるに至ったが、今度は更に一歩を進めて将来ヨーロッパ大陸は英ソ米三国にて経営する、従って諸小国は右三国に依存しなければならない。もしそれ等の国々が独立運働を興すならば断乎として弾圧するであろうという態度を明かにしだのである。諸小国が憤慨するのは当然で、亡命オランダ政権外相の爆弾的抗議ともなるわけであるが、しかし英国の今日の窮境は大西洋憲章[ Atlantic Charter]や従来お題目のように唱え来った鹿爪らしい正義論などに拘泥するを容さないのである。彼にはただただソ連にすがりついて大帝国の維持を万一に僥倖しようとする以外に智慧も分別もないのである。米国は英国までにしてソ連の鼻息を窺おうとはしない。彼は将来欧洲のリーダーを以て自任しているばかりでなく、外交方針としては領土の武力併合を絶対に否認する立場を取っているのである。[アンソニー]イーデン[オーストリア=ハンガリー帝国]の奮闘やタイムスの代弁くらいで解決される問題とは考えられないのだ。

 前大戦中、墺匈[オーストリア=ハンガリー帝国]、トルコ二大帝国を内部から崩壊させるために民族自決主義なるものを煽った英国は、今度はその逆を行って小民族否認主義を唱道しはじめた。読者の中には英国の変節に驚く者があるかも知れないが、元来英国には節操などいうものはないのである。世界の寄生虫たる彼の一念はただ他を操縦して生を保つにある。世界は余りにも長い間、寄生虫の操縦に身を委ねたものだ。(英国の正体引用終わり)

図(右):1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事援助物資の経路別重量(トン)
Lend-lease shipments from the United States to the U.S.S.R. from 1941-45. Department of State In March 1942, as American production capacity was ramping up, the Soviets were still reeling from the initial German offensive. Concerned the Soviets might still capitulate, Roosevelt made the USSR the top priority for Lend-Lease deliveries. Ultimately, aid to the Soviet Union constituted about 23 percent of the total Lend-Lease program.
写真はNational WWII Museum New Orleans,Lend-Lease to the Eastern Front 引用。


武器貸与法の23%がソ連向けだった。時期は、1941−1942年よりも1943年から急増した。1941年6月22日ー1945年9月20日,アメリカから武器貸与法(Lend-Lease Act)に基づいてソ連に船舶輸送された軍事物資の経路別の重量(トン)は、アラスカ太平洋航路が824.4万トン(到着率99%)、ベーリング海・北極海航路が45.2万トン(93%)、大西洋・ペルシャ湾航路が416万トン(96%)、大西洋・地中海航路が68.1万トン(99%)、大西洋・北極海航路が396.4万トン(到着率100%)である。

図(右):1943年頃,イラン進駐を正当化するイギリスのポスター「Britain shall fight on until peace is restored to Iran and all the other Allied nations.;イギリスは、イランと世界に平和を取り戻すまで戦い続ける」:ユニオンジャクの国旗を掲げたチャーチル歩兵戦車の諸元:
全長 7.44 m
全幅 2.74 m
全高 3.25 m
重量 39.57 t
速力 20 km/h(整地)、13 km/h(不整地) 航続距離 145 km(路上)
兵装 QF 2ポンド速射砲 (Mk.I、II)
又は QF 6ポンド速射砲 (Mk.III、IV)
7.92 mm ベサ機関銃2挺
装甲 16〜102 mm
乗員 5 名
Object description whole: the image is positioned in the upper three-quarters. The title is separate and placed in the lower quarter, in white, held within a black inset. All set against a white background. image: a low level view of a British tank, flying the Union flag, cresting over a hill. text: [Persian text] [Britain shall fight on until peace is restored to Iran and all the other Allied nations.] Physical description 51-1290. The same image was used on other posters (see PST 0103, PST 3106, PST 16911 and PST 16913). This poster was printed in Great Britain, presumably for distribution in Iran. Inscription Persian Army.Dimensions Support: Height 762 mm., Width 509 mm.
写真は,Imperial War Museum Catalogue number Art.IWM PST 16914引用。


第二次世界大戦が勃発すると、石油需要が増大し、供給が逼迫したために、産油国のイランの立場は微妙なものになった。石油の利権はあったが、イギリスとソ連の影響力が国内に浸透してきたからである。特に、1941年6月22日、ドイツがバルバロッサ作戦を発動しソ連に侵攻すると、アメリカ・イギリスともに即座に1941年3月の武器貸与法Lend-Lease Act)に基づくソ連への軍事支援を表明した。ヒトラー主義の打倒が欧米の第一の優先事項だったので、ソ連の共産主義やスターリンの独裁は問題にされなかった。いわんやイランの中立をやである。第二次世界大戦に、イランは中立を宣言したものの、反英・親枢軸であったため、1941年8月25日、イギリスとソ連の連合軍はイランに侵攻した。これが、イラン進駐である。1941年9月16日、親独派イラン皇帝レザーは退位させられた。皇太子だったモハンマド・レザーが帝位に即位したものの、パフラヴィー2世と呼ばれたイラン新皇帝は、イギリス・ソ連の傀儡のような扱いだった。

第二次世界大戦が勃発しても、アメリカは中立だったが、すぐにイギリスへの軍事援助をする決意をする。

第1段階は、1935〜1939年の中立法Neutrality Act)で、これは戦争当事国にアメリカは、軍事援助をしないとしたが、各国がアメリカから物資を輸入することは妨げなかった。しかし、アメリカ本土まで輸送船を送って物資を購入できるのは、太平洋に面した日本、大西洋に面したイギリスであった、ドイツ、イタリアという枢軸国は、貿易の障害が大きかった。

第2段階は、アメリカの旧式駆逐艦をイギリスに贈与し、見返りに大西洋・カリブ海上のイギリス基地をアメリカ軍が租借するという駆逐艦=基地交換協定Destroyers-for-bases deal)およびアメリカの旧式駆逐艦50隻のイギリス軍への貸与である。これは、大西洋の米英海上交通ルートをアメリカ軍が警護することを意味した。

第3段階が、武器貸与法によるイギリス・中国、次いでソ連への軍事援助である。ソ連への軍事援助は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後に米英が表明したが、軍事援助した順次物資の代金は、戦勝後の支払いでよかった。これが1941年3月の武器貸与法Lend-Lease Act)である。ソ連に対しては、1941年12月から軍事援助が実現し、1945年までに113億ドル、現在価値にして1800億ドルの軍事援助が行われた。スターリン首相は、ルーズベルト大統領に,米ソは共通の敵であるヒトラー主義に対して、大規模で困難な戦いをしている。"enormous and difficult fight against the common enemy — bloodthirsty Hitlerism.”と述べた。

1945年9月に武器貸与法Lend-Lease Act)が中止されるまでに、アメリカからソ連に対する軍事援助は次の通り。

バレンタイン戦車Mk.IV 40万台のウィリス M38ジーブWillys M38)、ホワイト 666トラックWhite 666 Truck)などの自動車
1万4,000機のベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機などの航空機
8,000台のトラクター・牽引車
1万3,000台のアメリカ軍M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車、イギリス軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車などの戦車
150万の毛布
150万足の軍靴
10.7万トンの綿花
270万トンの燃料など石油製品
450万トンの食料

写真集Album:武器貸与(Lend-Lease)のペルシャ回廊( Persian Corridor)を見る。


2.1943年の対ソ武器貸与

2−A.武器貸与を繞る米蘇の啀み合い : 蘇連、生産力に自信 : 米の『恩の押売り』を蹴飛ばす
日本産業経済新聞 中外商業新報 Vol: 第158巻 Page: 107 出版年 1943-03-16

駐蘇米大使[ウィリアム]スタンドレー[William Harrison Standley]の失言は米蘇間の亀裂を深めるものとして多大の渦紋を起し英米蘇三国関係の調整問題にまで発展したが、この事件は、同時に対蘇援助と蘇連抗戦力の関係を明みに出した事件としても甚だ興味深いものがある、

八日モスクワに於ける米英特派員との会見で行われた[ウィリアム]スタンドレー[William Standley]の所謂『失言』の内容は、要約すると次の通りである 『自分は注意深く蘇連の各紙を読んで見たが米の対蘇援助の状況は何等報道されていない、何故蘇連政府がかかる秘密主義をとっているかと云うとそれは国内及び国外に対し、蘇連が独力で戦っているとの印象を与えんがためである』

換言すると[ウィリアム]スタンドレー[William Standley]は蘇連が独力で戦っているかの如く主張するに対して抗議を行っている訳である、そして、第二戦線こそ出来ないが、米国は莫大な物資によって蘇連の抗戦力を救けているではないかと彼は主張するのである、スタンドレーのこの言葉は米英の一部で失言として非難されたが、同時にこの言葉は米英に於ける他の大部分の意見を代表して発せられたと断じて差使支えない

現にタイムスのモスクワ特電の如き、[ウィリアム]スタンドレー[William Standley]の意図は寧ち『蘇連は米国の払った犠牲に無関心だ』
と云う米国議会や反大統領派の非難を封ずるため、蘇連をして何等かの謝意を公表せしめんがためなされたものであるとの推測を行っている位である、蘇連政府が果して一般に対して米国の対蘇援助状況について秘密主義を守っているかどうかは別として『米国の援助について無関心』であり『独力で戦いつつある』ことを主張していることは事実である、その代表的な一例はスターリン[Joseph Stalin]首相の赤軍記念日に於ける演説で、その中で彼は
 『第二戦戦の欠除のため、欧洲に於いて赤軍は独力で対独戦の負担を負うている』
と述べ対蘇物資援助の事実は全くこれを黙殺した  要するに蘇連測は、対蘇援助は全く問題にならず、目下のところ蘇連は独力で戦っていると主張し一方米国側では米国は重大な犠牲を払って蘇連を援けているにも拘らず蘇側は何等これに感謝しないと主張しているのである、[ウィリアム]スタンドレー[William Standley]問題の直接的な核心は此処にある、従って問題を解く鍵は米国の援蘇物資が果してどれ程蘇連の抗戦力に役立っているか、大に役立っていると云う米国の主張が正しいか、何等役立っていないとする蘇連の主張が正しいかに懸っていると云うことが出来よう

いうまでもなくこの問題が最近異常に大きな渦紋を投げている理由はより根本的な米蘇の利害対立問題に関係しているからであってそういう意味からいうとこの問題自身は派生的な一事件とも見られるのであるが、此処では敢て前述の如き直接的問題に問題を限定することとする

先ず米国側の最近の発表によって対蘇援助の状況を見よう、一月二十五日米議会に対する武器貸与局長官[エドワード]ステチュニアス[Edward Reilly Stettinius]の報告によると対蘇援助開始(一昨年十月)以来昨年十二月夫までの貸与実績は次の通りである(単位百万ドル)

一、軍需品 九一二 一、工菜資材 二四七 一、農産物 一〇二 一、勤楼 二七一 一、合計 一、五三二 亦右のうち軍需品の内訳については次の通りと述べている

一、航空機 二千五百機 一、戦車 三千二百台 一、軍用自動車 八万一千台 なおステチュニアスは同月二十九日の下院外交委員会公聴会の証言で次の通り述べた
 『武器貸与法により、米国が最も多くの飛行機を供給したのは蘇連であり、また戦車に関しては蘇連一国への供給額の方が他の凡ゆる反枢軸国への供給総額よりも多いという有様である』

以上が米側の発表する対蘇援助の概要であるがこの他英国の対蘇援助状況はどうかと云うと[武器貸与局長官]ステチュニアス[Edward Stettinius]によれば
 『同期間に英国が蘇連に供給したものは飛行機二千機、戦車二千六百台である』
とされている、即ち米英を合すると戦車五千八百台、飛行機四千五百機となる訳である、右の数字だけを見ると可成の額に上って居り蘇連がこれを黙殺するのは成程非難に価する底のものと思われるが次の事情をも考慮に入れる必要があろう

一、この数字が果して正確なものであるかどうかは、蘇連側の発表がないので不明である

一、仮に正しいとしても、この数字は米英の港湾を積出した時の額であり、途中の喪失を計算に入れていない

従って右の数字には可成の割引が必要であることは疑いを入れないところである

右に関してスイーデンの共産党機関紙ニア・ダーク紙の社説は「駐米、英軍需生産代表ヒーヴァーブルック[Baron Beaverbrook]の言として  米英両国の本年初頭までの対蘇連援助を併せても、赤軍がスターリングラード[Stalingrad]で鹵獲した戦利品の極く一部にしか当らない
と述べて

 更に供給された飛行機は米国航空機生産の僅か十四日分の生産高でしかない』 と不平を洩している、二月十八日のジュルナール・ド・ジュネーヴ紙は  「蘇連は最近工業力の充実を来したため現在は最早米英よりの供給を仰ぐ必要なきものの如く、例えば独軍の化コーカサス進出の際は米英産の戦車を見ることが出来たが、現在はブリヤンスクから北海に至る戦線に外国製の戦車を見受けない」 と述べている、

これらの観測は、明かに、蘇連が如何に米英の援助を無視しているかを立証するに足るものであるが、同時に恐らくは蘇連の宣伝にとらわれ過ぎて非現実的な誇張を行っている傾向を見逃し難い、即ち、ニア・ダーク紙はス市に於ける戦利品の一部分にしか当らないとのヒーヴァーブルック[Baron Beaverbrook]の言葉を引用しているが、これは明かにヒーヴァーブルック[Beaverbrook]の嘘か、でなければ、ニア・ダーク紙の嘘報である、何故なら蘇連政府自身がス市に於ける戦利品として発表しているところによると飛行機七百四十四機、タンク一千五百十七台で、援蘇物資がこの数字の「極く一部分」とは到底考え得られないからだ、更にジュルナール・ド・ジュネーヴ紙の報道の正反対な例として最近のタイムスのモスクワ電がある、同特電は  「最近の週刊紙は赤軍が米国製の軍靴を使用していると報道し亦米英製の自動車は蘇連の各地都鄙で見受けられる」

と伝えている、斯くの如く喰い違った各種の報道や観測から結論し得ることは、米英の主張する如く援蘇物資が蘇連で重大役割を果している証拠もなければ亦蘇連の主張する如くそれが全く何んの役割をも演じないと云う証拠もないと云うことである、而して此処に推定し得ることは、少くとも蘇連は米英の援助なしにも自力抗戦をなし得る自信を有しているに違いないと云うことであろう

この判断は次の如き事実によって立証することが出来る、独蘇戦々に於けるウラル地方の工業建設状況並に被占領領工業地域より同方面への工場移転状況には見るべきものがあり、某方面の推定によると昨年末既に、戦前の約六割程度の生産力を恢復し、本年上半期にはほぼ戦前の生産力を取戻すものとされれている、今多一時的に赤軍が優勢な反撃を行い得たのも実に斯る工業力の回復を背景としていたに違いないが、この間の消息について、前掲ジュルナール・ド・ジュネーヴ紙は左の通り伝えている

 「冬季反攻に赤軍が使用した武器は主としてウラル地方に集結せる軍需工業より供給された、マグニン・ゴルクス[Magnitogorsk]の製鉄所は米人技師が建設した最新式のものであるが、一九三八年既に銑鉄一八〇万トン、鋼鉄一六〇万トンを生産したが、近く前者は二百五十万トン、後者は二百万トンとなる筈である、チェリアビンスクでは一九三九年既にトラクター一万五千台、ウフアではモーター一万台、ペルムでは戦車一万台を生産した、亦スウエルドロフスクの兵器工場はクルップと同程度の設備を有するに至っている、公式の統計はないが、ウラル、クズネッツ、アルタイ地方は蘇連軍需工場の使用する石炭の七五%鉄材の二五%亜鉛及び鉛の七三%銅の九〇%を現在産出しているものと推定される」

亦、最近のエコノミスト誌は、同じ問題について次の如く述べている

 『蘇連各紙の報道を綜合すると蘇連重工業の大部分はウラル地方に集中されているものの如くである、ウラル地方に於ける工作機械及び金属工業の生産高は一九四二年度に於いて蘇連の生産高の約七割を占め、前年のに比べると増加である、この増産の原因は主として被占領地からの工場移転の結果であるが、移転工場の主なるものにはスリウポル及びケルチの工場、ケルチ及びロストフの機械製作工場、レニングラードの大キーロフ工場を始め、キフエモスクワ、ドニエプロ・ペトロフスク等からの工場を含むでいる』

以上の如き、ウラルの工業建設の進捗に加え更にシベリア並に中央アジア方面の工業発展を考慮に入れる必要があろう現にゲッペルス独宣伝相すら、過般のナチ政権獲得十周年記念日の演説で「蘇連の生産力を過少評価した」ことを自認している位である

斯くの如き自信の上に立ってこそ蘇連政府は米英の「恩」の押売りを拒絶し、独力抗戦を揚言しているのである、これに対し米英は最初[ウィリアム]スタンドレー[William Standley]をして斯る蘇連の態度を難ぜしめたのであるが而も意外に張硬な蘇連の態度を見ると俄てて揉み消しに大童となり責任をスタンドレー個人に押つけて今度は逆に「失言」問題として大騒ぎするといった有様である、斯くて問題は要ずるに蘇連工業力の恢復力に懸って居り、今後同国の工業力が発展すればする程反枢軸国連合戦線に於ける蘇連の独自的態度を強め、乙れを繞る英米との対立を益々激化することとなろう (武器貸与を繞る米蘇の啀み合い : 蘇連、生産力に自信 : 米の『恩の押売り』を蹴飛ばす引用終わり)

2−B.米英苦悶の象徴・イーデン : 食違う対ソ政策 : 三者三様の"第二戦線"
東京朝日新聞 Vol: 第158巻 Page: 113 出版年 1943-03-21

【チューリッヒ田口特派員十九日発】目下ワシントンで行われている英外相[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]と米政府首脳部との会談内容についてはルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]も過般の記者団会見において沈黙を守りまた政府公報並に通信社より出る情報も『戦争遂行並に戦後における反枢軸国間の政治問題に過ぎぬ』とて詳細を発表しないのでいまだ臆測の範囲を出ないが、米英情報筋の見解を綜合するにイーデン訪問の主目的はソ連問題にあるもののごとくである、ソ連と米英間の関係が微妙を極めていることは、いまや欧洲の常識となっているが、東部戦線におけるソ連軍の一部軍事的成功がソ連と米英間にかくも直接的、かつ多くの敵意に満ちた相貌を呈するにいたるだろうとは、果して誰が想像したであろうか

第二戦線を繞る対立

イーデン ソ連と米英間に気まずい空気を醸成した原因として挙げられるのは、大体次のごときものである

一、北阿傀儡政権問題を繞り米英がダルランを擁立したことに対し、ソ連が不満の意を表明したこと
二、カサブランカ会談にソ連の代表が出席しなかったこと
三、フィンランドの対ソ単独和平説に関する米英の宣伝をソ連が完全に無視したこと
四、チャーチルがボルシェヴィズム[Bolshevism]侵入に対する欧洲の防璧といわれるトルコを訪問しアダナ会談を行ったこと
五、英国の支持を受けているユーゴーの叛将ミハイロウィッチがイタリアと策謀しているとて、ソ連が抗議を提出したこと
六、ソ連対旧ポーランド問題に関し、米英がポーランドに同情を示していること
七、ソ連が汎スラヴ主義を再び宣伝しバルカンに対する野望を示唆していること
八、ソ連が大西洋憲章を無視し、戦後バルト諸国における宗主権を掌握せんことを宣言したこと
九、米駐ソ大使スタンドレーの反ソ声明
一〇、米副大統領ウォーレスが『米英ソの諒解が成立しない限り第三次世界大戦は不可避である、しかしこの諒解が成立する前にソ連はまず世界革命を起さんとするが如きトロツキー主義を抛棄し欧洲を米英のキリスト教的民主々義の下におくことに同意しなけれはならぬ』と言明したこと
一一、最後にこれらすべての問題は結局再び第二戦線問題と結びつき、ソ連における第二戦線結成要望の声が再び熾烈化しているとき米英がいたずらに遅疑逡巡していること

強気の米、弱気の英

Charles-de-Gaulle しかしこれら具体的な問題とは別に、米英ソ間の政治的提携が円満に行われない根本的な原因の一つは、なんといっても米英両国間のソ連に対する態度の相違にある、右態度の相違を象徴するものとしては、[1942年12月24日暗殺の]ダルラン[François Darlan]問題に対するルーズヴェルトおよび[ウィンストン]チャーチル[Winston Churchill]の見解の相違であった、仏国の再建は仏国の穏健分子の起用にあるという点についてはルーズヴェルトもチャーチルも全く同意見であったが、チャーチル[Winston Churchill]は[ヴィシー政府]ダルラン[François Darlan]支持の政策についてはソ連に気兼ねする英輿論および[反ヴィシー]ド・ゴール[Charles de Gaulle]派の反対を恐れて極度の沈黙をまもらねばならなかった、

他方ルーズヴェルトはソ連の感情を意に介せず、公然とダルラン支持を表明し独自の欧洲政策をもって進んだ、米国務省の有力筋ことに国務長官[コーデル]ハル[Cordell Hull]、次官ウェルズらがボルシェヴィズム[ABolshevis]との大の反対者であることは周知の事実で急激に増大しつつある米国の軍需生産の現状に鑑み、米当局が英国のごとくソ連の鼻息をうかがうことなく、独自の政策をもって臨まんとしていることは理解出来るところである

 しかし英国としてはこの米ソ間の空気に著しく危懼の念を抱き、三国間の提携がしっくり行っていないことは他日ソ連が欧洲を席巻する誘因をなし、一方目前の問題としても、同盟国としてのソ連を反枢軸陣営から離反せしめることは直接英国を欧洲大陸から孤立せしめ軍事的に危殆に陥れることになるものとして、何とか事態の改善を図らんとしているもののい如くである

この点につきニュース・クロニクル紙が『今回のワシントン会談の主目的は米英両国政府の対ソ態度の同一化におかれなければならぬ』と論じているのは注目される

フランス問題を協議

Eden ワシントン情報によれは、英外相[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]は駐米ソ連大使リトヴィノフと会談したといわれる、しかし一国の外相が友好国の首都を訪問したとてソ連問題が解決されるというわけではない、あらゆる情報を綜合するに[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]と米当局その他との会談内容はなお極めて漠然としているが、会談内容はソ連と米英間の問題ではなくて、むしろ米英の政治的協力をさらに緊密ならしめんとするにある如く、一部新聞は米英政治委員会の実現を希望している、ノイエ・チューリッヒアー・ツアイツング紙のワシントン電報の報ずるごとく今回の会談でフランス問題が議せられたことも疑いなく右によれば米英の仏問題に対する一般概念は『強力なるフランスなしでは欧洲の平和達成は困難である』という一語に尽きる

 今やチュニジアにおける軍事情勢はいよいよ尖鋭化しつつあり米英はこの夏までにチュニジア全土を確保せんと無慮しており、フランスの政治問題はようやく反枢軸陣営の前面に押出されてきたのである、中立国軍事専門家は万一反枢軸軍がチュニジアを占領した場合は、欧洲の南部側面侵入の前提たるべきことを今なお確信しておりこれに関連してモントゴメリー麾下の英第八軍が最近マレス要塞線のロメル[Erwin Rommel]軍の左翼攻撃を開始したことは深甚なる注目をひいている

イーデンとハル声明

チャーチル [アンソニー]イーデン[Anthony Eden]の訪米が第二戦線と関連ありとみる見方に次の二つがある、第一に現下の米ソ間に醸し出された政治的雰囲気はカサブランカ会談後英首相[ウィンストン]チャーチル[Winston Churchill]の発表した『来るべき九箇月間』に実行さるべき反枢軸国の軍事計画を阻害しているためイーデンが急遽ワシントンを訪問したとみる見方であり、これはイーデンの訪米後間もなく反枢軸軍が何処かへ第二戦線の結成を行わんとする計画を立てているという想定に基礎をおくものである

 ゲッベルス独宣伝相も最近、反枢軸軍の侵入作戦は必ず反撃によって挫折されるであろうが、ドイツは常に米英の侵入企図に対処すべき用意を整えていなけれはならぬと警告を発したように、今欧洲の軍事情勢が極めて重大化していることは事実であり、この緊迫した情勢は東部戦線におけるソ連軍の攻勢が衰え独軍が巧みに冬季の重大危機から脱するに成功しさらに四月ともなれば、ソ連南部戦線では雪融けのため大規模作戦が不可能となるという事情から、一段と緊迫感を増した観があり、ソ連はこの情勢を利用して頻りに第二戦線の結成を要求している

今一つの見方によると英国は現下の情勢では第二戦線の結成は望みなしと観念しており、[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]の訪米は先ず米英の確固たる欧洲再建案を確立し、これを基礎としてソ連との諒解をさらに深めんとするにあり、出来れば米英ソ連の政治委員会を設置せんとしているとみ、この反枢軸国の政治攻勢はボルシェヴィズムに対する欧洲十字軍結成を標榜する枢軸側の方針に対抗するためにも必要となっていると観測している、米国務長官ハルはイーデンと協議を遂げたのち注目すべき声明を行った、すなわち「欧洲戦争は一般人が考えているよりも遥に永引くかも知れない」というのである、中立国筋では右声明をもって、第二戦線問題が極度の困難に逢着していることを示すものと解している、しかしながらこれをもって彼らが本年度中に第二戦線を開設する意図を放棄したものと結論するのは明かに早計であるとなしている

 ハル声明の内容は、イーデンのワシントン訪問の使命のうち、その政治的性格との関連において検討すべきであって、その軍事的性格と関連させるべきではない

タイムス紙の説明

[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]の訪米訪米は「ホルシェヴィズム打倒十字軍」を標榜する枢軸側の宣伝活動に対する反作用である、枢軸側の宣伝工作は戦争遂行の全般的活動に対し政治的に相当効果的な影響を与えているのである、それゆえ今回のワシントン会談でユダヤ人問題が協議されたことは決して遇然のものではないのである、しかしながら英国各紙は[アンソニー]イーデン[Anthony Eden]の訪米に対し劇的な結果を期待すべきではないと述べている、すなわち一言にして黙せばイーデンは米国の欧洲政策に英国の影響力を及ぼさんがためにワシントンへ赴いたのである、このイーデンの対米の性格をタイムス紙は別の形で説明している、タイムス紙によれはイーデンの目的は英国の世界政策ならびに植民地政策を米国人と討議しかつ世界帝国としての英国の戦後の地位を討議するところにあった、用語は漠然としているがこのタイムス紙の評はイーデンの使命の方向を暗示していると見なければならぬ(米英苦悶の象徴・イーデン : 食違う対ソ政策 : 三者三様の"第二戦線"引用終わり)

2−C.延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル
大阪朝日新聞 Vol: 第158巻 Page: 109 出版年 1943-03-17

一九四〇年末三選直後のルーズヴェルト[Franklin oosevelt]は股肱の臣ハリー・ホプキンス[Harry Hopkins]を伴い、逐鹿戦の骨休みをかねて巡洋艦タスカルーザでカリブ海巡航の旅に出た、当時敗戦つづきの英国は独軍の連続爆撃に気息奄々たる有様で、その在米資金もいよいよ逼迫を告げ、このまま放置すれは屈服以外に途はないかと思われた、

しかるに米国にはかの[1935年]中立法[Neutrality Act]や戦債未払国への金融を禁止する[1935年]ジョンソン法[Neutrality Act]があって十分の対英援助ができない、そこでルーズヴェルトらがこのタスカルーザ艦上で思いついたのはこれら既存の法に煩わされることのない全然新しい形式の対英援助計画で、右は武器貸与法案[Lend-Lease Act](正式の名称は米国国防促進法案)として翌四一年一月議会に提出され、三月十一日正式に採択された、かくて制定された武器貸与法[Lend-Lease Act]はここに成立第三年を迎えたわけだが、あたかもその二周年記念日にあたる去る十一日同法は有効期限の切れ来る六月末日よりさらに向う一ヶ年間その効力を延長されたのである

この武器貸与法[Lend-Lease Act]なるものはその条文にも明記されているようにある国家の国防が米国自身の国防上重大なりと認められた場合該国家に対し軍需品その他国防物資を売却、貸与または賃貸し得る権限を大統領に与えたもので、表面は米国の国防強化を目的としたものだが、その魂胆は

(一)米国の参戦をできるだけ延期すること
(二)民主主義国家群の戦争指導櫃を掌握すること
(三)戦後の発言権を増大し世界制覇の非望を達成すること

の三点にあった

すなわちルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]は老獪にも「民主主義の兵器廠[Arsenal Of Democracy]」たる役目を引受けることにより、自らの参戦はこれをできるだけ延ばし、あわよくば全然参戦せず、しかも実質的には参戦同様の効果を収めんとたくらんだが、しかし自らも戦争の渦中に身を投ぜざるを得なくなってしまった、

しかし武器貸与法[Lend-Lease Act]の真の狙いは米国自身の参戦如何にかかわらず英ソ蒋以下の反枢軸諸国を援助督励することにより、これら各国の犠牲において枢軸国の戦力を消耗せしめ、同時に如何に平身低頭しても米国の援助にすがらざるを伝ない反枢軸国家群の窮状につけこみ、これら諸国をして援助の代償として米国の戦争指導権を承認せしめるはかりでなく、戦後においてもまったく米国の勢力下に屈従せざるを得ない立場に追いこみ、もって世界支配の夢を実現せんとするにある、ここに武器貸与法の驚くべき老獪かつ巧妙なるたくらみがある

しかして英国以下の被援助国はこの米国の遠望を知悉し米国の情にすがることは自らの墓穴を掘るにひとしいことを十二分に承知していながらなお背に腹はかえられず、泣訴これ努めているわけである

武器貸与[Lend-Lease]予算として現在まで米国議会によって承認された総額は百八十四億一千万ドルに上り、このほか陸海軍関係予算として計上され武器貸与費に流用し得る予算額は実に三百五十九億七千万ドルに達する、

しかるに武器貸与局長官ステッチニアスの発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、

M3A3軽戦車 然して昨年度においてアメリカが生産した飛行機ならびに戦車の三分一までが反枢軸諸国に供給されアメリカ軍需工場における同年の全生産額の二割弱が貸与物資として海外に輸送されたとつたえられる、

これを金額にして国別にして見れは(単位百万ドル)
対英 三、九五九
対ソ 一、五三二
対蒋 一五六
となっている、

ソ連に対する補給額は
飛行機 三六〇〇機
戦車 三二〇〇台
トラック大砲牽引車 八一、〇〇〇台
を含むものであり、飛行機戦車供給の数量はほかのいかなる国に対するよりも多いといわれる、もっていかにアメリカがソ連の御機嫌を取ろうとしているかが窺われる

 なお対蒋援助は上掲の数字が示すごとくきわめて微々たるもので、しかも武器貸与局支那課長フランクリン・レイの言明によれば重慶向貸与物資の五十%は輸送不能のため目下インドに放置されたままになっている、アメリカとしてもつぎつぎとワシントンに乗込んできて援助増加を泣訴する蒋の代表を御馳走政策で機嫌をとり口でなだめて帰す以外今のところうつ手があるまい (延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル引用終わり)

写真集Alubum:武器貸与(Lend-Lease)のペルシャ回廊( Persian Corridor)を見る。


3.イランにおけるアンデルス将軍の第2ポーランド軍団編成

写真(右):1942ー1943年,ペルシャ回廊、ソ連に鉄道輸送で送られるソ連駐留ポーランド軍に対するアメリカから軍事援助用のトラック:ペルシャ回廊を通った最初のアメリカ製トラックは、ソ連で編成された第1ポーランド軍団への援助となった。1939年9月17日のソ連のポーランド侵攻で捕虜となったポーランド軍人が、ソ連に抑留されていたので、それを基幹にソ連は反ファシスト軍の編成を認めたのである。
A trainload of American trucks bound for the First Polish Corps of the Red Army. This shipment was part of the Lend-lease program. The policy was strongly opposed in the US by isolationists, non-interventionists, and German sympathizers, many of whom saw this as a first step toward US participation in the war. However, the Lend-Lease Act passed both houses of Congress by wide margins in March 1941.
写真はNational WWII Museum New Orleans,Lend-Lease 引用。


アメリカは、武器貸与(Lend-Lease)に基づいてソ連に軍事物資を輸送したが、その中にはソ連軍ではなくポーランド軍のソ連駐留部隊、アンデルス軍に対する援助もあった。このソ連のポーランド軍は、1939年のソ連のポーランド進駐の際に捕虜となったポーランド軍将兵が中核となっていた。のちにヴワディスワフ・アンデルスWładysław Anders)将軍の指揮下に置かれたポーランド人部隊は、家族やポーランド人難民とともにイランに移動し、そこでイギリス指導の下で軍事訓練を受けた。そして、北アフリカ戦線、イタリア作戦に投入され、ドイツ・イタリアの枢軸軍とたたかった。

写真(右)1941年12月、ソ連、カスピ海北700km、オレンブルク市から180km、トツコエ(Тоцкое)、ポーランド軍捕虜兵士から編成されたポーランド軍の女子補助部隊を閲兵するヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍:1954年9月14日、トツコエに設けられた原爆実験場で、4万5000人のソ連軍将兵が参加して。
THE POLISH ARMY IN THE SOVIET UNION, 1941-1942 Object description General Władysław Sikorski inspecting female members of Polish Women's Auxiliary Service in Buzuluk (Totskoye) in Russia. He is accompanied, amongst others, by General Władysław Anders (on the right), the CO of the Polish Army in Soviet Union, and Colonel Leopold Okulicki (right behind General Sikorski), the Chief of Staff of the Army. Creator Polish official photographer Production date 1941-12 Catalogue number MH 1725
写真は , Imperial War Museums IWM (MH 1725)引用。


第一次世界大戦中、ロシア帝国のカスピ海北700キロに位置する辺地トツコエTotskoye)には捕虜収容所が設けられた。そして、それから20年以上経過した1939年9月にドイツのポーランド侵攻で、第二次世界大戦が勃発すると、このトツコエТоцкое)にポーランド人捕虜収容所が設置された。

写真(右)1942年、ソ連、キルギスタン、ジャララバード、ポーランド軍捕虜兵士から編成されたポーランド第2軍( 2nd Polish Corps)第5「クレソヴァ」歩兵師団(5th "Kresowa" Infantry Division)第5「ヴィルノ」歩兵旅団(5th "Wilno" Infantry Brigade)の隊列:1954年9月14日、トツコエに設けられた原爆実験場で、4万5000人のソ連軍将兵が参加して。
THE POLISH ARMY IN THE SOVIET UNION, 1941-1942 Object description Column of soldiers of the 5th 'Wilno' Infantry Division (Polish Army in Soviet Union) marching through their camp, probably at Jalal-Abad in Kyrgyzstan. They are already equipped with the British Army uniforms. Creator Polish official photographer Production date 1942 Part of ZIMNAL MARIAN (LIEUTENANT COLONEL) COLLECTION 03
写真は , Imperial War Museums IWM (MH 1771)引用。


Anders 1939年9月のソ連のポーランド侵攻で追われたり、捕虜となったりしたポーランド人は、ソ連に連行された。しかし、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻で、ソ連は米英の連合軍の側になり、アメリカの武器貸与法による軍事支援も受けられるようになった。

そこで、ロンドンに亡命していたポーランド亡命政府とソ連との協定によって、1941年8月にソ連にあったポーランド捕虜を解放することが決まり、ソ連首相スターリンも、ポーランド人を反共産主義者として弾圧するのではなく、ヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders)の指揮下で、ポーランドを編成し、反ファシストの戦いに参加させることを認めた。

1941年6月の独ソ戦勃発後、米英はドイツと戦うソ連が西側連合国に加わることを求めた。ドイツ軍の大攻勢を受けたスターリンは米英との同盟を認め、武器貸与法によるアメリカの軍事援助を受け入れることになった。ただし、西欧はドイツ占領下にあり、地中海方面の枢軸国イタリアがあったために、ソ連への援助は、ノルウェー沖からムルマンスク港、極東のウラジオストーク港、ペルシャ湾からイラン高原のペルシャ回廊が主要ルートとなった。

1941年8月14日、ソ連に抑留されていた親米英派だったポーランド捕虜も釈放されることになった。そして、1941年末から1942 年に、トツコエТоцкое)にポーランド軍のキャンプができた。

写真(右)1942年11月6日、ロシア南部からペルシャに移動したポーランド難民の一団:山岳地や砂漠を超えて移動した難民の一団だが、持ち物は少数の私物と食料・水だけだった。それでもソ連での抑留生活より自由であり、益しだった。
EVACUATION OF POLISH CIVILIANS FROM THE SOVIET UNION TO PERSIA, 1942 Group of Polish refugees, mostly women and children, trekking over the mountains from Russia into Persia, 6 November 1942. They carry whatever they can in the way of personal belongings. Creator Ashwood Terry (Photographer) No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit (Undefined) Production date 1942-11-06
写真は , Imperial War Museums IWM (E 19024)引用。


1941年8月14日、独ソ戦勃発から2か月後、ソ連で捕虜になっていたポーランド軍兵士ほか、抑留されていたポーランド人の大半は釈放が決まった。そして、ソ連とポーランド亡命政府間の協定によって、反ファシストのポーランド軍の編成が認められた。このソ連在住ポーランド軍の指揮官が、ポーランド軍将校で捕虜だったヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders:1892−1970)である。

2ズロッチ ソ連奥地キルギスタン、トツコエTotskoye)の捕虜収容所で、ポーランド軍のヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders:1892−1970)将軍隷下に、ポーランド第6および第7歩兵師団が編成されることが許された。

アンデルス軍Władysław Albert Anders)には、将校が不足していた。1940年にはポーランド軍将兵の捕虜は18万人、そのうち将校は9000人とみられていた。そこで、ポーランド軍将校の捕虜の行方について、ソ連側に照会がなされたが、納得のゆく説明はなかった。実際は、反共産主義者として捕まったポーランド軍将校、高級官吏、インテリなど2万人以上がソ連軍によって密かに処刑されていたのである。これが、カティンの森虐殺事件Katyn massacre)だが、このポーランド人処刑現場は、1943年2月にドイツによって発見された。しかし、当時はソ連の責任はなく、ドイツによる虐殺との釈明が礼号国の見解だった。ソ連との協調を重視した英米は、反ソ宣伝につながるカティンの森虐殺事件をソ連による仕業であるとは認めなかったのである。

実際、ポーランド軍将兵の多くは、第一次世界大戦後に独立したポーランドと戦った共産主義ソ連を敵視しており、ソ連軍の下で、ドイツと戦う立場には困惑を示していた。アンデルス将軍もソ連に不信感を抱いていたので、米英軍と共に中東あるいはヨーロッパで戦う道を選んだ。

1942年3月、アンデルス軍は、ポーランド民間人抑留者とともに、ペルシア回廊を通って、米英ソの占領下にあるイランに移動することになった。移動は、陸路によってだが、徒歩での移動も強いられたらようだ。1942年9月までに11万4千人がイラン回廊を移動した。アンデルス中将は、1942年8月、アンデルスは、米英の兵器を貸与され、アンデルス軍として、第3、第5、第6、第7歩兵師団を基幹に編成し、1943年6月21日、第2ポーランド軍団The Polish 2nd Corps)を成立させた。

写真(右)1942年3月6日、ロシア南部からペルシャにトラックで移動するポーランド軍兵士の一団
EObject description Column of trucks, loaded with troops of the Polish Army in Soviet Union, on their way through Persia. Photograph might be taken in March 1942. Creator Polish official photographer Production date 1942-03 Catalogue number MH 1827
写真は , Imperial War Museums IWM (MH 1827)引用。


ソ連での捕虜生活、抑留生活を送っていたポーランド軍兵士や民間人の中から、反ファシスト軍を編成することがソ連朱書スターリンによって認められた。理由は、独ソ戦によるソ連援軍としての活用、米英との親善関係構築による武器貸与の促進が指摘できる。キルギスで編成された部隊がコーカサスを超えてイランに入ったが、これと逆のルートで、ペルシャ湾に陸揚げされた武器貸与法に基づく戦車・火砲・トラック・食料・衣料など軍事援助物資がソ連に運搬された。山岳地や砂漠を超えるペルシャ回廊である。

写真(右):1943年3月頃,イラン、テヘラン、国際赤十字の支援する難民収容キャンプのイラン在住のポーランド難民たち:1939年9月のソ連のイラン進駐で、ソ連に抑留されていたポーランド人とポーランド兵士の家族がイランへの出国を出国を認められた。1941年6月以降、ソ連も連合国の一員として枢軸国との戦闘を開始したからである。
Title Teheran, Iran. Children playing at an evacuation camp operated by the Red Cross Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Notes - Actual size of negative is D (approximately 3 1/4 x 4 1/4 inches). - Title and other information from caption card.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location LC-USW3- 028508-E [P&P]引用。


1939年9月17日のソ連のイラン進駐で、ソ連に多数のポーランド軍兵士とポーランド民間人がソ連に連行され、抑留された。しかし、3年後、1941年6月22日以降、ドイツのソ連侵攻があり、独ソ戦が勃発した。こうして、共産国ソ連も連合国の一員として枢軸国との戦闘を開始すると、英米はすぐに武器貸与法に基づいて、ソ連への軍事支援をする用意があることを表明した。

写真(右):1943年3月頃,イラン、テヘラン、国際赤十字の支援する難民収容キャンプ、バケツで水汲みをするイラン在住のポーランド難民女性たち:国際赤十字は、キャンプ、衣食住を支援したが、彼女は、赤十字が民間寄付を募って集めたバスローブを受け取ったが、それを寒さしのぎのコートとして着用している。
Title Teheran, Iran. Polish refugees at an American Red Cross camp using woolen bathrobes donated by the Red Cross as overcoats Names Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Notes - Actual size of negative is D (approximately 3 1/4 x 4 1/4 inches). - Title and other information from caption card.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location LC-USW3- 028505-E [P&P]引用。


他方、しばらくしてソ連も共産主義者以外のポーランド人兵士とその家族が、反ファシストのポーランド軍を組織すること認めた。ソ連で、亡命ポーランド政府も加わって、ヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders)の指揮するポーランド軍が編成されたのである。一部のヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders)のポーランド人部隊は、ソ連国内で戦ったが、多くはイランに移動し、そこで、イギリス・アメリカ軍の供与を受けて戦備を整え、北アフリカ・中東の戦いに参加した。

写真(右):1943年3月頃,イラン、テヘラン、国際赤十字の支援する居住施設に収容されたイラン在住のポーランド難民女性たち:1939年9月のソ連のイラン進駐で、ソ連に抑留されていたポーランド人とポーランド兵士の家族がイランへの出国を出国を認められた。1941年6月以降、ソ連も連合国の一員として枢軸国との戦闘を開始したからである。
Teheran, Iran. Women making their own clothing at a Polish evacuee camp operated by the Red Cross Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Medium 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Source Collection Farm Security Administration - Office of War Information photograph collection (Library of Congress)
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Reproduction Number LC-DIG-fsa-8d29607 (digital file from original neg.) LC-USW3-028494-E (b&w film nitrate neg.)引用。


1941年6月の独ソ戦の緒戦、ソ連はドイツに大敗し、大幅な退却を余儀なくされた。1941年冬にはモスクワの陥落も近いとの観測が有力になっていたのである。しかし、ソ連首相スターリンは、モスクワに踏みとどまり、ソ連軍の退却を許さず、徹底抗戦と冬季攻撃を命じた。

写真(右):1943年3月頃,イラン、テヘラン、国際赤十字の支援する施設で自らの衣服を縫製するイラン在住のポーランド難民女性たち:1939年9月のソ連のイラン進駐で、ソ連に抑留されていたポーランド人とポーランド兵士の家族がイランへの出国を出国を認められた。1941年6月以降、ソ連も連合国の一員として枢軸国との戦闘を開始したからである。
Teheran, Iran. Women making their own clothing at a Polish evacuee camp operated by the Red Cross Parrino, Nick, photographer Created / Published 1943. Headings - Iran--Tehran Medium 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Library of Congress Control Number 2017854318
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog Call Number/Physical Location LC-USW3- 028492-E [P&P]引用。


1941年冬、モスクワ陥落の危機の中、スターリンは米英からの軍事援助が有益であると認識し、米英との友好関係を気付くためにも、ソ連の捕虜となっていたポーランド軍兵士を中心に反ファシズムのポーランド軍とすること、その指揮官をヴワディスワフ・アンデルスWładysław Albert Anders)将軍とすることを認めた。のちにポーランド軍は、イランに移動し、中東でドイツ軍、イタリア軍と戦火を交えることになった。

写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)を台上で閲兵するイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、ポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教(Arcybiskup Józef Gawlina:1892–1964):野戦司教を務めたユゼフ・ガウリナ大司教は、第一大戦ではプロイセン・シレジア人だったためにプロイセン兵士として扱われ、ドイツ人捕虜として辛酸をなめた。大戦後、ポーランド人となったが、第二次戦争中は、ポーランドから脱出し、ポーランド難民と軍隊に同行し、本国をドイツに占領され失ったポーランド難民・移民の守護者となった。
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East (first from the right), inspecting troops of the Polish Army in the East (future 2nd Polish Corps) in their camp in Khanaqin, Iraq. He is accompanied by General Władysław Anders, the CO of the formation (second from the right); Shah of Persia Mohammad Reza Pahlavi (third); and Archbishop Józef Gawlina, the Field Chaplain of the Polish Armed Forces.Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18141
写真はIWM, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18141)引用。


1942年1月1日、ワシントンで発表された26カ国による連合国(国連)共同宣言[Declaration by United Nations]は、大西洋憲章[Atlantic Charter]を引き継いで、連合国の協力と戦勝を謳い、単独不調和を約したが、これには、ルーズべルト、チャーチル、駐米ソ連大使リトヴィノブ、駐米中国大使宗子文が各々本国を代表して署名している。残る22カ国の署名を集めるのはアメリカ国務省に一任されたが、これが国際平和機構の名称「国際連合=連合国」として採用された。こうして、米英の陸海空三軍の統合会議が設置され、ソ連を含め米英三国が相会することがを期待された。

写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)を台上で閲兵するイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コット (Stanisław Kot:1885–1975)、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、奥にポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教:ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コットは、1939年、ドイツのポーランド侵攻後にすぐ亡命し、1939年10月にポーランド亡命政府の設立に参加し、ヴワディスワフ・シコルスキ首相の下で国務次官に就任した。1940年2月、コットはパリで、ポーランドの強制収容所を内偵したレジスタンス特使ヤン・カルスキと会談した。1940年10月から1941年8月で、コットは内務大臣を務めた。1941年6月の独ソ戦勃発で、それまでソ連の捕虜だったポーランド兵士を基幹に連合国軍に参加するポーランド軍が設立された。そこで、コットは、1941年11月から1942年7月までソ連駐在ポーランド大使として、ソ連にあるポーランド捕虜・難民の支援、ポーランド軍入隊に助力した。その後、1943年までポーランド軍がソ連から中東の出国を許されたため、ポーランド中東軍の育成に参加し、同地のポーランド亡命政府国務大臣、情報大臣となった。
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East (holding a hat), inspecting troops of the Polish Army in the East (future 2nd Polish Corps) in their camp in Khanaqin, Iraq. He is accompanied from left to right by: Shah of Persia Mohammad Reza Pahlavi (far left, holding a hat); Stanisław Kot, Polish Minister of State in the Middle East; General Władysław Anders, the CO of the formation (saluting his troops); and General Zygmunt Bohusz-Szyszko, the Deputy CO of the Polish Army in the East (wearing a beret)..Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18141
写真はIWM, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18142)引用。


1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章[Atlantic Charter]以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。

写真(右):1943年10月22日,イラク、ハーナキーン、イラン西国境、ポーランド中東軍(のちのポーランド第2軍)司令部、昼食を摂るイギリス中東駐在大臣リチャード・ケーシー(Richard Gardiner Casey)、ポーランド中東国務大臣スタンスラフ・コット (Stanisław Kot:1885-1975)、カップを取ったポーランド軍ヴワディスワフ・アンデルス(Władysław Anders)将軍、、イラン皇帝モハムンド・レザ―・パレヴィー、奥にポーランド従軍司祭ヤツェク・ジュレク: ユゼフ・ガウリナ大司教
Richard Gardiner Casey, Minister Resident in the Middle East, in conversation with Stanisław Kot, Polish Minister of State in the Middle East, during a lunch in the Polish Army in the East HQs in their camp in Khanaqin, Iraq. General Władysław Anders, the CO of the formation, is having a drink while talking to Mohammad Reza Pahlavi, the Shah of Persia, on the left. Creator Flack, Jack No. 1 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1942-10-22 Materials whole: Nitrate Catalogue number E 18146
写真はIWM, THE POLISH ARMY IN THE MIDDLE EAST, 1942-1943 IWM (E 18146)引用。


枢軸国寄りとみなされたイラン帝国は、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦Operation Countenance)の発動で、英ソの支配下に置かれた。そして、イラン皇帝の帝位は、父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。イラン皇帝とはいっても、民主政治の下での国民の元首ではなく、イギリスの大臣・官僚・地方軍司令官、亡命政権の地方軍司令官と以下の地位しか与えられなかった。イラン国民の主権は、大西洋憲章が認めているはずだが、同盟国イランの国家元首も国民もその主権は、米英ソによって蔑ろにされていることは、不問に付されたのである。

写真集Album:英ソのイラン進駐カウンタナンス作戦(Operation Countenance)を見る。

米英ソは、大西洋憲章[Atlantic Charter]を反故にして、イランを占領下に置いた以上、その主権回復には関心はなく、戦争中は占領下に置くことを決めていた。米英ソの関心は戦争勝利のあり方であった。第二次大戦の激戦が続く1940年後半から、1943年まで、ドイツの真正面で戦っているのは、ドイツ東部戦線正面のソ連だけであり、大西洋の戦い、ドイツ本土空襲、地中海方面の戦いは生起していても、ドイツ軍の主力を受け止めていたのはにソ連一国だった。そこで、スターリンは、ヨーロッパに第二線を一刻も早く開くべきであるとして、1943年6月、駐米・駐英のソ連大使を召還し、米英に対する深刻な不満を表明した。

そこで、1943年8月の第一次ケベック会談で、第二戦線の形成とその期日を明示し、モスクワ外相会議が始まった。モスクワ外相会談は、1943年10月後半に開催され、モスクワに飛んだアメリカのコーデル・ハル米国務長官、イギリスのアンソニー・イーデン外相とソ連のモロトフ外相が出席し、第二線、ヨーロッパの戦後国境問題、戦後の国際平和機構の問題が討議された。

Mussolini テヘラン会談Tehran Conference)の開催される半年前、地中海方面では、枢軸国イタリアに動揺があった。1943年4月7日、イタリア統領ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)は、オーストリアのザルツブルクにあるクレスハイム宮殿で、ヒトラー総統との会談し、ソ連との和平を提案した。これは、ソ連一国でドイツの大軍を引き受けている現状にスターリンが不安をもっている、そして、米英西側連合国は、ソ連とドイツを戦わせ、共産主義もファシズムも共倒れにしようとしているとのスターリンは猜疑心かを理解していたからである。しかし、ムッソリーニの二正面作戦を解消する戦略は、ヒトラーの東方生存圏の獲得、共産主義の殲滅という戦略目標とは相いれなかった。

1943年7月10日、連合国軍はハスキー作戦によってシチリア島へ上陸し、1か月後にはシシリー島は陥落しイタリア軍は兵力20万を喪失した。こうして、イタリア本土決戦前に、イタリア軍官のなかに西側連合国との和平の動きが強まった。1943年7月24日、ファシスト大評議会において、ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)の独裁を解消し、イタリア国王サヴォイア王家ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世への権力返上が提言され、翌日にはベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)は、イタリア警察によって拘束され失脚した。

写真集Alubum:イタリア国王に裏切られたベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)を見る。


4.1943年11月のビッグスリーのテヘラン会談

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)
English: Shah with FDR Date 1943 Source U.S. Library of Congress Author U.S. Government
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


米英ソのビッグスリーの初会合の場所は、スターリンが戦線指導に不都合が少ない候補地としてバクダット、カイロなどが米英から提案されたが、結局、スターリンの要望で、テヘランが指定され、1943年11月28日から、三巨頭のテヘラン会談Tehran Conference)が開催されることが決まった。この会談の最大の成果は、三巨頭による直接会談が初めて開催され、相互に意思疎通を図り、戦争の遂行について第二線を1944年5月に開くこと、ソ連も含め、戦後の安全保障のために、国際平和機構にソ連が参加することが決まったことである。

ビッグスリーによる1943年11月28日から12月1日にかけてのテヘラン会談Tehran Conference)では、
1)ユーゴスラビアにおける共産党系パルチザンへの軍事支援、
2)北フランス侵攻のオーバーロード作戦による1944年5月の第二線の開進、
3)戦後ポーランド国境線(西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線)、
が定められたが、同時に戦後イランの国境維持も合意された。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、軍服のイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)、平服のイラン首相アリ・ソヘイリー(Ali Soheili: 1896–1958)と対面した名誉空軍司令官の軍服を着たイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)69歳
Description English: The Shah of Iran saluting Winston Churchill on the occasion of Churchill's 69th birthday at the close of the Tripartite Conference of Tehran, November 1943. On the far left is Ali Soheili, serving his second term as Prime Minister of Iran. The picture was taken by the Iranian press. Churchill is shown wearing his honorary air commodore's uniform. فارسی: محمدرضاشاه در حال دست‌دادن با وینستون چرچیل در نوامبر ۱۹۴۲. Source Unknown source Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah churchill.jpg引用。


テヘラン会談Tehran Conference)が1943年11月28日から12月1日に開催され、ビッグスリー(スターリン、ルーズベルト、チャーチル)は、北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施することを決めた。テヘランは、英ソの支配下にあったために、英ソ米首脳の会談の地に選ばれたのであるが、この大前提となった1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害、アメリカの国境線変更の許容を知らない識者が多いようだ。

枢軸国寄りとみなされた結果、イラン帝国は、帝位が父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィーMohammad Reza Pahlavi)に譲位することが許されたものの、イギリスの保護国化がなされた。

写真(右):1943年11月,イラン、テヘラン、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi:38歳)と対面したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)
Description English: Mohammad Reza Schah, Stalin und Molotov, Tehran Conference, 1943 Date 1943 Source www.iranian.com/main/blog /darius-kadivar/ photo-restoration-shah- stalin-molotov-tehran -conference-1943 Author Unknown author
写真は,Wikimedia Commons, Category:Mohammad Reza Pahlavi in 1942 ・File:Shah with FDR.jpeg引用。


Wjatscheslaw Molotow また、アメリカも領土不可侵の原則を順守していなかった。1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、12月からはソ連を軍事支援したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しすべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためにアメリカは仲介をすることを拒否したのである。

ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフ Wjatscheslaw Molotow )は、スターリンの忠実な部下として、1939年8月23日の独ソ不可侵条約、9月のポーランド分割、1940年8月のリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト諸国併合、1941年4月13日の日ソ中立条約など、枢軸国側との協力、領土拡大に熱心に進めた外交官である。

しかし、スターリンが独ソ戦の勃発後に豹変して、連合国側に参加すると、すぐにイギリスに飛び、イーデンと会談して1942年5月に英ソ協定(Anglo-Soviet Treaty of 1942)に署名し。その後、イギリスからアメリカに飛んでルーズベルト大統領と会談して、武器貸与法(Lend Lease Act)による軍事援助を確約させた。

そして、1943年10月のテヘラン会談Tehran Conference)、1945年2月のヤルタ会談Yalta Conference)、1945年7月のポツダム会談Potsdam Conference)にも出席し、連合国の中でのソ連の立場を強化することに尽力した。


5.1943年11月29日のテヘランのスターリングラード剣贈答式

写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、ソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)にイギリス国王ジョージ6世の贈答品として、イギリス首相チャーチルが贈ったスターリングラード剣(Sword of Stalingrad):第二次世界大戦の転換点といわれた1943年初頭のスターリングラード防衛線勝利を称えて、イギリス国民の敬意の印として、イギリス国王ジョージ6世が作成させた豪華なスターリングラード剣は、1943年11月29日、テヘラン会談中の式典で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領らの見守る中で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルからソ連首相・大元帥ヨシフ・スターリンに贈られた。スターリン手前は、ヴャチェスラフ・モロトフ外相。
National Museum of the U.S. Navy Lot 11597-4: Tehran Conference, November 28-December 1, 1943. The presentation of the Stalingrad sword in the reception room of the Russian embassy. Prime Minister Winston Churchill and Marshal Josef Stalin, hand upraised, during the playing of the Russian national anthem. Anthony Eden is behind the Prime Minister; Stalin is flanked by General Voroshilov (right) and Foreign Minister Molotov, (left). The sword was presented to the people of Stalingrad as a token of the regard and admiration of the British people for the gallant defense of the city. Note, V. M. Molotov, Peoples’ Commissar for Foreign Affairs, to Stalin’s right. Originally an U.S. Army photograph. Office of War Information Photograph (2016/01/15).
写真はflickr,National Museum of the U.S. Navy  Lot 11597-4引用。


写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、イギリス国王ジョージ6世からスターリングラード剣が贈られた首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)がイギリス首相チャーチル首相との握手:スターリングラード剣がテーブル上の箱に収められているが、中の剣が見えるように箱の蓋は開いている。握手をするスターリンは、少し身を引きたそうにしているように見えるが、このような剣1本もらうより先にヨーロッパ侵攻を開始し、第二線を作れと言いたいであろう。チャーチル後ろに、背の高いイギリス外相イーデン、右にはソ連国家防衛委員会・元ソ連国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥が控えている。
AMR CHURCHILL PRESENTS THE STALINGRAD SWORD. 29 NOVEMBER 1943, SOVIET LEGATION, TEHRAN, IRAN. MR CHURCHILL PRESENTED THE SWORD OF STATE, TRIBUTE OF THE KING AND THE PEOPLE OF BRITAIN TO THE PEOPLE OF STALINGRAD, TO MARSHAL STALIN. Object description Mr Churchill congratulating Marshal Stalin after the presentation of the sword. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20720)引用。


写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、イギリス国王ジョージ6世からスターリングラード剣が贈られた首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)がイギリス首相チャーチル首相との敬礼:スターリングラード剣がテーブル上の箱に収められているが、中の剣が見えるように箱の蓋は開いている。握手をするスターリンは、少し身を引きたそうにしているように見えるが、このような剣1本もらうより先にヨーロッパ侵攻を開始し、第二線を作れと言いたいであろう。チャーチル後ろに、背の高いイギリス外相イーデン、スターリン手前にはソ連外相モロトフ、通訳、ソ連国家防衛委員会・元ソ連国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥が控えている。
AMR CHURCHILL PRESENTS THE STALINGRAD SWORD. 29 NOVEMBER 1943, SOVIET LEGATION, TEHRAN, IRAN. MR CHURCHILL PRESENTED THE SWORD OF STATE, TRIBUTE OF THE KING AND THE PEOPLE OF BRITAIN TO THE PEOPLE OF STALINGRAD, TO MARSHAL STALIN. Object description Marshal Stalin and the Prime Minister at the salute during the playing of international and national anthems before the ceremony. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20718)引用。


写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、イギリス軍将兵からソ連軍将兵に手渡される、首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)にイギリス国王ジョージ6世から贈られたスターリングラード剣(Sword of Stalingrad):スターリングラード剣は、第二次世界大戦の転換点といわれた1943年初頭のスターリングラード防衛線勝利を称えて、イギリス国民の敬意の印として、イギリス国王ジョージ6世が作成させた。奥には、イギリスのチャーチル首相、イーデン外相、ソ連国家防衛委員会・元ソ連国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥、スターリン首相。
Author Signal Corps, US Army (as noted on photo) Record creator Roosevelt, Franklin D. (Franklin Delano), 1882-1945 Title The Prime Minister in behalf of King George VI of Great Britain, presents The Sword of Stalingrad to Stalin, for the citizens of Stalingrad, in the board room of the Russian Embacy at Teheram. Date circa 29 November 1943 Collection National Archives and Records Administration
写真は Wikimedia Commons,Category:Sword of Stalingrad  File:The Prime Minister in behalf of King George VI of Great Britain, presents The Sword of Stalingrad to Stalin, for the... - NARA - 195332.jpg引用。


写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、イギリス国王ジョージ6世から首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に贈られたスターリングラード剣をイギリス軍兵士から手渡されたソ連軍兵士と両脇の衛兵:スターリングラード剣がテーブル上の箱から、イギリス兵士が取り上げ、それをロシア兵士にわたした。イギリス国王からの剣なので、チャーチルからスターリンに手渡されては、スターリンが格下になってしまう。そこで、受け渡しは、英ソの兵士の間で行われた。兵士がイギリス国王からの剣をはじめに手にして、位を落としたので、あとは最高位のスターリンに捧げられることになる。
MR CHURCHILL PRESENTS THE STALINGRAD SWORD. 29 NOVEMBER 1943, SOVIET LEGATION, TEHRAN, IRAN. MR CHURCHILL PRESENTED THE SWORD OF STATE, TRIBUTE OF THE KING AND THE PEOPLE OF BRITAIN TO THE PEOPLE OF STALINGRAD, TO MARSHAL STALIN. Object description The Stalingrad Sword carried by a member of the Russian Guard in the Soviet Legation. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20721)引用。


写真(右):1943年11月29日、イラン、テヘラン会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)が見守る中、ソ連国家防衛委員会クリメント・ヴォロシーロフ元帥が手にしたスターリングラード剣(Sword of Stalingrad)をアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルト見せている。:手前には、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが控えている。手にしているのは、スターリングラード権を贈るときのスピーチ原稿であろう。
Artist No 1 Army Film & Photographic Unit, Lotzof (Lt) Description English: The Teheran Conference, Iran, 28 November To 1 December 1943 Marshal Kliment Voroshilov shows the Stalingrad sword to US President Franklin D Roosevelt in the conference room at the Soviet Legation in Teheran, Iran, on 28 November 1943 while the Prime Minister Winston Churchill and Marshal Joseph Stalin look on. Date between 1939 and 1945 Source/Photographer E 26634 Imperial War Museums.
写真は Wikimedia Commons,Category:Sword of Stalingrad  File:The Teheran Conference, Iran, 28 November To 1 December 1943 E26634.jpg引用。


つまり、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、戦争勝利の大義のためには、1941年8月のイギリス・ソビエト連邦が共謀したイラン侵攻という国家主権侵害を問題としなかったのである。

フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、1943年1月14日、イギリス首相チャーチルと会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに大旅行を敢行し、さらに1943年11月、軍艦と飛行機による大旅行を決断したが、中国の蒋介石とのカイロ会談、スターリンとのテヘラン会談をぜひ実現したからである。テヘラン会談は、1943年11月28日から12月1日にイランで開催されたが、これは、イラン進駐によりイランにおける米英ソの安全保障が確保できているという軍事支配に自信があったからでもある。

テヘラン会談Tehran Conference)で、ウィンストン・チャーチル[Winston Leonard Spencer Churchill]のソ連の戦後勢力拡大の疑念を抑えて、フランクリン・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt]は、第二線を作る北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施するとし、第二線が開かれるまで、ソ連への大量の軍事物資を援助することを確約した。イランへの譲歩はありえないが、ソ連には大幅に譲歩する外交を行った。これは、戦後の米英ソのビッグスリーの協力、連帯を可能とするためだった。

写真(右):2014年9月5日、ロシア ヴォルゴグラード、ヴォルゴグラード・パノラマ博物館(Volgograd Panorama Museum)、1943年11月のテヘラン会談の際にイギリス国王からソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)に贈られたスターリングラード剣(Sword of Stalingrad)と鞘の展示:剣は、イギリスのアーサー王伝説にある魔剣エクスカリバー(Excalibur)を念頭に置き、アーサー王とスターリンを対比し、彼らが敵を打ち払ったことを示している。また、エクスカリバーの鞘は、身に着けるものを守護する魔力があるとされた魔法の鞘である。このスターリングラード剣のあるヴォルゴグラード・パノラマ博物館には、1942年のスタリングラード攻防戦を中心とした3,500 点の展示、4個の大ジオラマ(各々5m x 25m)がある。
Description Русский: меч Сталинграда Date 09.05.2014 Source Self-photographed Author Patriot k.
写真は Wikimedia Commons,Category:Sword of Stalingrad  File:Меч Сталинграда в Музее-заповеднике «Сталинградская битва».jpeg引用。



6.1943年11月30日、テヘランでのチャーチル誕生会

写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、69歳誕生日を迎えたイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)を讃えて、イラン・イラク方面司令官司令官代行A・セルビー少将がチャーチルによるイラン・イラク方面軍の兵士からなる名誉警護隊の閲兵を依頼し、付き従っている。:パイ軍隷下の連隊は、第4軽騎兵連隊、第2大隊バフー連隊、第3大隊第11シク連隊(ラトレイ・シク連隊)である。
MR CHURCHILL'S 69TH BIRTHDAY IN TEHRAN. 1 DECEMBER 1943, TEHRAN, IRAN. OFFICERS AND MEN OF THE PERSIA AND IRAQ COMMAND WHO FORMED THE GUARD DURING THE PRIME MINISTER'S STAY AT THE BRITISH LEGATION IN TEHRAN, PRESENTED HIM WITH BIRTHDAY GIFTS WHEN HE CELEBRATED HIS 69TH BIRTHDAY THERE. THE REGIMENTS IN THE PAI COMMAND WHICH PRESENTED THE GIFTS WERE THE 4TH HUSSARS, 2ND BATT BUFFS, AND THE 3RD BATT 11TH SIKH REGIMENT (RATTRAY SIKHS). Object description The Prime Minister with Major general A Selby, (right) acting Commander in Chief, Persia and Iraq Command. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20739
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20739)引用。


写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、69歳誕生日を迎えたイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)を讃えて、イラン・イラク方面司令官司令官代行A・セルビー少将がチャーチルによるイラン・イラク方面軍の兵士からなる名誉警護隊の閲兵を依頼し、付き従っている。:パイ軍隷下の連隊は、第4軽騎兵連隊、第2大隊バフー連隊、第3大隊第11シク連隊(ラトレイ・シク連隊)である。
MR CHURCHILL'S 69TH BIRTHDAY IN TEHRAN. 1 DECEMBER 1943, TEHRAN, IRAN. OFFICERS AND MEN OF THE PERSIA AND IRAQ COMMAND WHO FORMED THE GUARD DURING THE PRIME MINISTER'S STAY AT THE BRITISH LEGATION IN TEHRAN, PRESENTED HIM WITH BIRTHDAY GIFTS WHEN HE CELEBRATED HIS 69TH BIRTHDAY THERE. THE REGIMENTS IN THE PAI COMMAND WHICH PRESENTED THE GIFTS WERE THE 4TH HUSSARS, 2ND BATT BUFFS, AND THE 3RD BATT 11TH SIKH REGIMENT (RATTRAY SIKHS). Object description Mr Churchill inspecting men of the PAI Force who formed the Guard of Honour. With him is Major General A Selby and the British Minister in TEHRAN. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20739
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20740)引用。


写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、69歳誕生日を迎えたイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)を讃えて、イラン・イラク方面司令官司令官代行A・セルビー少将がチャーチルによるイラン・イラク方面軍の兵士からなる名誉警護隊の閲兵を依頼し、付き従っている。:パイ軍隷下の連隊は、第4軽騎兵連隊、第2大隊バフー連隊、第3大隊第11シク連隊(ラトレイ・シク連隊)である。
MR CHURCHILL'S 69TH BIRTHDAY IN TEHRAN. 1 DECEMBER 1943, TEHRAN, IRAN. OFFICERS AND MEN OF THE PERSIA AND IRAQ COMMAND WHO FORMED THE GUARD DURING THE PRIME MINISTER'S STAY AT THE BRITISH LEGATION IN TEHRAN, PRESENTED HIM WITH BIRTHDAY GIFTS WHEN HE CELEBRATED HIS 69TH BIRTHDAY THERE. THE REGIMENTS IN THE PAI COMMAND WHICH PRESENTED THE GIFTS WERE THE 4TH HUSSARS, 2ND BATT BUFFS, AND THE 3RD BATT 11TH SIKH REGIMENT (RATTRAY SIKHS). Object description Mr Churchill inspecting men of the PAI Force who formed the Guard of Honour. With him is Major General A Selby and the British Minister in TEHRAN. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20740
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20740)引用。


写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、69歳誕生日を迎えたイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)に乾杯するソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日):チャーチル左手前に長身のイギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)、スターリン左後方にソ連国家防衛委員会・元ソ連国防人民委員(大臣)クリメント・ヴォロシーロフ元帥が控えている。
CELEBRATIONS TO MARK PRIME MINISTER CHURCHILL'S 69TH BIRTHDAY Object description The Stalingrad Sword carried by a member of the Russian Guard in the Soviet Legation. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20731)引用。


写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、チャーチルの69歳誕生日を祝うテヘラン会談ディナーのビッグスリーの記念撮影:アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニア(George Catlett Marshall, Jr.、1880年12月31日 - 1959年10月16日)大将
English: The 'Big Three', Franklin D Roosevelt, Winston Churchill and Joseph Stalin, sit together at a dinner party held in the Victorian Drawing Room of the British Legation, Tehran, in Iran, to mark Winston Churchill's 69th birthday on 30th November 1943. Date 30 November 1943
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:RooseveltChurchillStalinConferenciaDeTeherán--A 020732.jpg引用。


写真(右):1943年11月30日,イラン、テヘラン、69歳誕生日を迎えたイギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)、被っているのはイギリスのメディア団から首相に贈られたアストラカン・ハット:アストラカン・ハットとは、アストラカン織の帽子のことで、ソ連南部アストラカン地方、あるいはペルシャ産の子羊の毛皮でできた黒い帽子のこと。現地では、カルクール(Karakul)と呼ばれる帽子で、中央アジアと南アジアのイスラムの男子用で、さらにパキスタン建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーも愛用したほか、インド、アフリカにも普及した。カルクールの色彩は、黒、白、グレーなどが一般的である。右の衛兵は、インド軍のシーク教徒の兵士で、長髪のためにターバンを巻いている。
THE PREMIER'S BIRTHDAY HAT. 30 NOVEMBER 1943, TEHRAN, IRAN. MR CHURCHILL WAS PRESENTED AN ASTRAKAN HAT ON HIS 69TH BIRTHDAY BY MEMBERS OF THE BRITISH PRESS UNIT WHO WERE WITH HIM IN TEHRAN. Object description Mr Churchill inspecting men of the PAI Force who formed the Guard of Honour. With him is Major General A Selby and the British Minister in TEHRAN. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20739
写真は IWM,Imperial War Museums  IWM (A 20723)引用。



7.1943年12月のテヘラン会談の三巨頭

枢軸国側だったイラン帝国は、1941年8月25日、英ソ連合軍によるカウンタナンス作戦(Operation Countenance)の発動で、英ソの支配下に置かれた。そして、イラン皇帝の帝位は、父から皇太子モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)に位することが許されたものの、イギリスに保護国化された。テヘラン会談は、1943年11月28日から12月1日に開催され、ビッグスリー(スターリン、ルーズベルト、チャーチル)は、北フランス侵攻オーバーロード作戦を1944年5月に実施することを決めた。テヘランは、英ソの支配下にあったために、英ソ米首脳の会談の地に選ばれたが、この大前提となった1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害、アメリカの国境線変更の許容に思い至る必要がある。

1941年3月にレンドリース法(武器貸与法)を定め、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻直後にソ連への軍事支援を表明したアメリカは、軍事物資をイラン経由でソ連に送る都合上、1941年の英ソのイラン侵攻という中立国への領土侵害については、事前に知らせれていた。アメリカ大統領ルーズベルトは、大西洋憲章以降、領土不可侵、国境維持、人民抑圧の禁止をうたっていたが、英ソによるイラン軍事侵攻は、当然実施しべきことと考えており、イランによる英ソの侵攻中止のためのアメリカの仲介を拒否した。

つまり、アメリカ大統領ルーズベルト(Roosevelt)は、戦争勝利の大義のためには、1941年8月のイギリス・ソビエト連邦が共謀したイラン侵攻という国家主権侵害を問題としなかったのである。

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリー記念撮影;ソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)
Description Lot 11597-2: Tehran Conference, November 28-December 1, 1943. The strategy meeting of Premier Joseph Stalin, President Franklin D. Roosevelt, and Prime Minister Winston Churchill at the Russian Embassy at Tehran, Iran. This conference was the first of “Big Three” leaders (Soviet Union, United States and United Kingdom). Note, all the reporters and staff not usually seen. Originally an U.S. Army photograph. Office of War Information Photograph (2016/01/15). Date 15 January 2016, 10:41 Source Lot 11597-2 Author National Museum of the U.S. Navy
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Lot 11597-2 (24295426512).jpg引用。


Stalin テヘラン宣言(英米ソ三国宣言) 1943.12.1 JACAR(アジア歴史資料センター
外務省外交史料館戦後外交記録B'門
レファレンスコード B19010292200
所蔵館における請求番号 B'.2.0.0.1-1(外務省外交史料館)
言語 日本語,英語,ロシア語
作成者名称 外務省條約局//ROOSEVELT//STALIN//CHURCHILL
資料作成年月日 1943年12月1日〜1944年1月29日
内容 (4)テヘラン宣言 千九百四十三年十一月二十八日から十二月一日までのテヘラン会議公表文 (a)千九百四十三年十二月一日の三国宣言 千九百四十三年十二月一日にテヘランで署名 (出典=アメリカ合衆国第八十一議会第一会期上院への提出用として上院外交委員会及び国務省が作成した文書第百に十三号) 千九百四十三年十二月一日の三国宣言 われら、すなわち、合衆国大統領、英国総理大臣及びソヴィエト連邦首相は、この四日間当地すなわちわれらの同盟国であるイランの首府に会合して、われらの共通政策を編制し且つ確認した。 われらは、われらの諸国が戦争に関しても、また、平和に関してもともに行動しなければならないという決意を表明する。 戦争に関しては、われらの軍参謀は、ーーー(4.テヘラン宣言(英米ソ三国宣言) 1943.12.1 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B19010292200、国際連合関係雑件 設立経緯関係(B'.2.0.0.1-1)(外務省外交史料館)引用終わり)

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日)
Artist Lotzof H (Lieut), No 1 Army Film & Photographic Unit Description English: The British Army in the Middle East 1943 Winston Churchill, Franklin Roosevelt and Joseph Stalin at the Teheran conference, 3 December 1943. Date 3 December 1943 Source/Photographer This photograph E 26615 comes from the collections of the Imperial War Museums
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:The British Army in the Middle East 1943 E26615.jpg引用。


昭和19年6月26日から昭和19年8月30日
外務省外交史料館戦前期外務省記録A門
レファレンスコード B02032417600
所蔵館における請求番号 A.7.0.0.8-43-3(外務省外交史料館)
資料作成年月日 昭和19年6月26日〜昭和19年8月30日
内容 昭和19 八〇一一 平 伯林 五月二十六日〇〇、一〇発政 八〇一二 本省 二十七日〇七、四〇着 重光外務大臣 大島大使 第四九六号 (蘚聯戦力増強ニ関スル独紙論説) 二十三日「ベルゼン、ツアイツング」ハ蘚聯ノ勢力増大ニ関スル論説(執筆者「カルル、メゲルレ」)ヲ掲ケ「テヘラン」、莫斯科会議後「ハル」ハ勢力範囲設立並ニ勢力均衝政治ノ時代ハ既ニ終リタリト希望的声明ヲナセルモ蘚聯ノ勢力範囲設立工作最近ニ至リ愈々急ニシテ英米ハ欧洲全般ニ亘リ外交的総退却ヲ余儀ナクサレ居ル旨述ヘ特ニ英国ノ新「アビーズメント」政策ニ批判ヲ加ヘ居ル処要旨左ノ如シ (一)蘚聯ノ勢力範囲設立工作ハ先ツ「モロトフ、ベネシユ」条約締結及「チト」支持ニ伺ハ (「2 昭和19年6月26日から昭和19年8月30日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B02032417600、第二次欧州大戦関係一件/戦後経営問題/ソ連ノ動向(A.7.0.0.8-43-3)(外務省外交史料館)引用終わり)

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)
English: Franklin D. Roosevelt, Stalin, and Churchill in Teheran, Iran Date 29 November 1943 Source narademo.umiacs.umd.edu Author Franklin D. Roosevelt Library Public Domain Photographs
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin)・File:Tehran Conference.tif引用。




写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill):後方にソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)Sir Archibald Clark-Kerr and
Description English: Joseph Stalin, President Roosevelt, and Winston Churchill, full-length portrait, sitting outside entrance to building during the Tehran Conference; Vyacheslav Mikhaylovich Molotov and Anthony Eden are standing in the background. Date 1 December 1943 Source:United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3c35324.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Group photographs at the Tehran Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin): File:Stalin Roosevelt Churchill at Tehran cph.3c35324.jpg引用。


1939年9月12日、アドルフ・ヒトラーに続いてポーランドに侵攻したスターリンは、ポーランド東半分を占領した。1941年6月22日の独ソ戦勃発後は、アメリカの武器貸与法を受け入れて、北極海、イラン、極東からの軍事援助を受け入れた。このアメリカからの軍事援助受け入れのために、ソ連は、中立国イランの意向を無視して、イギリスとともにイランに軍事侵攻した。1943年11月に、テヘラン会談に向かったスターリンは、これが初の外国訪問だったが、テヘラン会談Tehran Conference)の場所が決定したのは、イランが自分の思い通りになる地域であり、暗殺や妨害工作の不安が払拭されていたからである。

1941年8月以降のイギリス・ソ連によるイラン侵攻によって制圧されたペルシャ(イラン)では、保護国化・属国化が進んだ。すなわちレザー・パフラヴィー皇帝を退位させ、皇太子モハンマド・レザーMohammad Reza Pahlavi)を皇帝の位につかせて操り人形の傀儡化した。

1943年11月28日から12月1日の米英ソビッグスリーによるテヘラン会談Tehran Conference)の最大の課題は、ドイツ東部戦線で戦うソ連に対して、米英が、1944年5月に北フランス侵攻オーバーロード作戦を実施し、第二線を開くことを約束したことである。また、第二次大戦の勝利の後に、第二次大戦の契機となったポーランドをソ連の安全保障上の理由で、西に国境線を移動すること、すなわち西はオーデル・ナイセ線、東は1919年のカーゾン線Curzon Line)が認められたことである。このポーランドの国境変更は、ポーランド亡命政府の意向に反したものであるが、大国の論理が優先された。

写真(右):1943年12月1日,イラン、テヘラン、テヘラン会談最終日のビッグスリーの記念撮影したソ連首相ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Joseph Vissarionovich Stalin:1878年12月6日-1953年3月5日)、アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt:1882年1月30日 - 1945年4月12日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill:1874年11月30日 - 1965年1月24日):後方にチャーチル次女サラ・オリバー(Srah Oliver:1914–1982)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Vyacheslav Mikhailovich Molotov:1890年2月25日-1986年11月8日)、駐ソ連イギリス大使アーチボルド・クラーク・カー(Archibald Clark Kerr:1882ー1951)、イギリス外務大臣ロバート・アンソニー・イーデン(Robert Anthony Eden:1897年6月12日 - 1977年1月14日)
Object description From left to right: Stalin; Vyacheslav Molotov, the Soviet Foreign Commissar; Averell Harriman, the US Ambassador to Moscow; Archibald Clark-Kerr, the British Ambassador to Moscow; Roosevelt; Srah Oliver; Churchill's daughter who was acting as ADC to her father; Anthony Eden, the British Foreign Secretary; Churchill. Object description Joseph Stalin, Franklin Roosevelt and Winston Churchill on the portico of the Soviet Embassy during the Tehran Conference, 28 November-1 December 1943.Creator Lotzof, Harry (Photographer) British official photographer (Undefined) Production date 1943
写真は,Imperial War Museums・Image: IWM (E 26619)引用。


また、テヘラン会談Tehran Conference)が行われたイランの国境維持も合意されたが、戦時中のイランは米英ソの軍隊に分割占領されていた。英ソにイランの国家主権は蹂躙され、イラン皇帝の座を与えられたシャー・パフレヴィーも、イラン駐在イギリス大使、エジプト駐在イギリス大使、イラン・イラク方面軍司令官、ポーランド亡命第2ポーランド軍団司令官と同格以下の扱いしか受けていない。

しかし、終戦後も、イラン領アゼルバイジャン、クルディスタンの一部にソ連軍は駐留を続け、親ソ連派によるのアゼルバイジャン自治共和国、クルディスターン人民共和国を設立して、ソビエト連邦に取り込んだ。しかし、アメリカの強い反対にあって、ソ連はイランあら徹底し、イラン北部のソ連傀儡政権も破壊された。

1951年、イランではソ連の支持を得たモハンマド・モサデグがイギリス支配下のイラン石油会社を国有化することを宣言し、イラン共和国が樹立されたが、アメリカは、イランの石油国有化が共産化につながるとして、8月19日、反政府暴動、クーデターを煽動した。アメリカの介入によって、一時国外に脱出していたイラン皇帝シャー・パフレヴィー2世はイラン皇帝に復帰し、モサデグを逮捕した。石油国有化は中止され、イランの石油利権は、英40%、米40%、仏6%、蘭14%が認められた。イラン皇帝シャー・パフレヴィー2世の独裁国家とはいっても、実際はアメリカの軍事力・経済力の援助を受けた国家基盤の弱い王朝だったといえる。

写真(右):1943年12月3日頃,エジプト、カイロ、、ジャクリーン・アルディン・レスリー(レディー・キラーン)(Jacqueline Lampson,Lady Killearn :1910-2015)男爵夫人、駐エジプト英国大使兼スーダン高等弁務官マイルズ・ウェダーバーン・ランプソン (Miles Wedderburn Lampson, 1st Baron Killearn)初代男爵:テヘラン会談に出席し、イギリスへ戻る途中、イギリス首相ウィンストン・チャーチルはカイロのイギリス大使館を、チャーチル次女サラ・オリバー同伴で訪問した。マイルズ・ウェダーバーン・ランプソンは、1943年5月17日にチャーチルの推挙によって男爵の爵位を得たばかりだった。
The Dowager Lady Killearn - obituary Energetic socialite who was a celebrated hostess as the wife of the wartime ambassador to Cairo 12 October 2015 • 5:13pm The Dowager Lady Killearn, who has died aged 105, remained, in old age, as vivacious, colourful and controversial as she had been as the glamorous young wife of Britain’s wartime ambassador to Cairo... Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20883
写真は,The Chelsea Magazine Company The Telegraph引用。


レディー・キラーンJacqueline Aldine Leslie:1910-2015)の夫マイルズ・ウェダーバーン・ランプソン卿Miles Wedderburn Lampson, 1st Baron Killearn)は、1936年から1946年までエジプト駐在イギリス大使およびスーダン高等弁務官を務めた。1934年に結婚した2番目の妻がジャクリーン・カステラーニ(Jacqueline Aldine Leslie Castellani)。大使は、保護国エジプトの最高権力者としてふるまい、1936年に即位した若いエジプト国王ファルーク1世Farouk of Egypt:1920–1965)に圧力を加え、第二次大戦中は、エジプトを傀儡国家として支配下に置いた。

写真(右):1943年12月3日頃,エジプト、カイロ、チャーチル次女サラ・オリバー、ジャクリーン・アルディン・レスリー(レディー・キラーン)(Jacqueline Lampson,Lady Killearn :1910-2015)男爵夫人と2人子息:テヘラン会談後にイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はカイロのイギリス大使館に立ち寄った。その際に、チャーチル次女サラ・オリバーは、ジャクリーン・アルディン・レスリー(レディー・キラーン)(Jacqueline Lampson,Lady Killearn :1910-2015)男爵夫人を訪ねている。2人の子供たちは、レディー・キラーンの子息ヴィクトル殿下とジャケティー殿下。
MR CHURCHILL IN CAIRO. 6 DECEMBER 1943, BRITISH EMBASSY. MR CHURCHILL VISITED THE EMBASSY DURING THE MIDDLE EAST CONFERENCE IN CAIRO. Object description The Premier's daughter, Section Officer Sarah Churchill (Mrs Vic Oliver) with Lady Killearn and her children the Hon Victor and the Hon Jaquette. Creator Oulds, D C (Lt) Materials whole: glass Catalogue number A 20883
写真は,Imperial War Museums・Image: IWM (A 20883)引用。


イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は、エジプトをイギリス保護国として支配し、北アフリカ戦線でドイツ軍撃破に寄与したとして、エジプト駐在イギリス大使マイルズ・ウェダーバーン・ランプソンを高く評価した。そこで、ランプソンを推挙して、初代キラーン男爵に叙せられるように取り計らった。 しかし、1945年7月の総選挙で、チャーチル首相失脚した。そして、クレメント・アトリーClement Richard Attlee:1883-1967)労働党政権は、1946年3月にエジプトを抑圧してきたランプソン大使を解任した。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism

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