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◆ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機
写真(上)1946-1949年、アメリカ、オハイオ州クリーブランド、ナショナル・エアレース、ベル(Bell) P-63C-5 キングコブラ(Kingcobra)
:1942年12月7日初飛行、全備重量3,465kg、高々度性能向上のため2段過給器付きアリソンV-1710-117液冷エンジン1,500 hp搭載、最高速力660km/h、プロペラ軸に37mm機関砲1門、機首と主翼に各々12.7mm機銃2挺搭載。
Catalog #: 15_002138 Title: Bell P-63C-5 ADDITIONAL INFORMATION: No 53, N73744, Frank Singer Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Cleveland 46, 47, 48, 49 Page #: 12 Tags: National Air Races, Charles Daniels, Air Races, Bell. 写真は , SDASM Archives 引用。



写真(上)2020年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、標的機RP-63A塗装のベル(Bell)P-63E キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の左側面
:1942年12月7日初飛行、全備重量3,465kg、高々度性能向上のため2段過給器付きアリソンV-1710-117液冷エンジン1,500 hp搭載、最高速力660km/h、プロペラ軸に37mm機関砲1門、機首と主翼に各々12.7mm機銃2挺搭載。アメリカでは大半がRP-63標的機として使用されたので、展示用にその時のアカ塗装に変更して復元されている。ただし、標的機特有の重装甲やイルミネーションライトなどはない。
DAYTON, Ohio -- Bell P-63E Kingcobra at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo) This World War II fighter was developed from the P-39 Airacobra, which it closely resembles. The U.S. Army Air Forces never used the P-63 in combat, although some were used for fighter training. Many P-63s were exported as lend-lease aircraft; the Soviet Union received 2,456 and Free French forces obtained 300. Since the P-63's low-level performance was adequate, it was widely used by the Soviets for such missions as "tank busting." Bell produced 3,305 P-63s, 13 of which were P-63Es.
写真はOfficial United States Air Force Website、National Museum of the USAF  Bell P-63E Kingcobra引用。

1.原型ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機

図(右)1938−1942年初期、アメリカ、上空を編隊飛行する仮想敵双発爆撃機を迎撃するアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機の一群:P-39の国籍マークは、アメリカが第二次世界大戦に参加する以前のもので、垂直尾翼の赤白ストライプを描いている。
Lot-4908-5 Lot-4908-5: WWII-US Aircraft. “Trouble Coming Up.” U.S. Army aircraft Bell P-39 Interceptors. Grumman F3F-2 fighters over aircraft carrier. Artwork by Charles H. Hubbell. Courtesy of the Library of Congress. (2018/02/02).
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum 引用。


アメリカ陸軍航空隊は、1936年に高々度迎撃戦闘機の開発要求をしたが、これに応じたベル(Bell)XFM-1 エアラクーダ双発戦闘機は、鈍重で飛行性能が不十分だったために、ベルは単発機の機首に大口径機関砲を搭載することとし、新たにベルXP-39単発戦闘機を開発した。

ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、排気タービン過給機ではなく、機械式一段一速過給器を備えたアリソンV-1710-35液冷エンジンを搭載したP-39Cとして、M4ブローニング(Browning)37mm機関砲1門、12.7 mm機銃2挺、7.62 mm機銃2挺の重戦闘機として生産された。

写真(右)1942−1944年、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39D エアラコブラ(Airacobra)戦闘機の右側面:機首プロペラスピナ―先端に37ミリM4ブローニング(Browning)機関砲の銃口が、機首上面に12.7mm機関銃2挺の銃身が出ている。胴体下面に増加燃料タンクを懸架するラックが見える。
Bell , P-39D, Airacobra Catalog #: 01_00090392 Manufacturer: Bell Official Nickname: Airacobra Designation: P-39D Notes: USA Title: Bell , P-39D, Airacobra Tags: Bell , P-39D, Airacobra, USA
写真はSmugMug+Flickr. 、Category:Bell aircraft at Yanks Air Museum File:Bell P-39N Airacobra ‘28740’ (N81575) (26054857531).jpg引用。


ベル(Bell)XP-39単発戦闘機は、エアラクーダ双発戦闘機と同様に前輪式引込み降着装置を設けたが、アメリカ単発戦闘機としては、前輪式は最初の試みである。操縦席コックピットは、後の戦闘機に先んじて、全面ガラス風防の視界の良いものである。ただし、操縦士の出入りは、コックピット左右両側に扉を設けている。このベル(Bell)XP-39は,アメリカ陸軍の制式となり、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機と命名された。

Airacobras 原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,588機で、4,719機(49.2%)のP-39がソ連への貸与機である。

発展型のP-63 キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機で、2400機(79.9%)のP-63がソ連への貸与機である。独ソ戦勃発後の1941年6月から、イギリス、カナダ、オーストラリアなどに加えて、ソビエト連邦も武器貸与法の対象となったためである。

ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、1938年4月6日に初飛行、三輪式(前輪式)降着装置を採用した。中期型のベル(Bell)P-39D エアラコブラ(Airacobra)は、全備重量3,465kg、アリソンV-1710-35液冷エンジン1,150hp搭載、最高速力579km/h、 プロペラ軸に37mmM4ブローニング(Browning)機関砲1門(携行弾数15発)、機首に.50口径12.7mmAN/M2ブローニング(Browning) 機関銃2挺(携行弾数各200発)主翼にブローニング7.62mm機関銃4挺(携行弾数各500発)を装備する重兵装だった。

写真(右)2015年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、1942年11月までアラスカ準州アリューシャン列島アダックに配備された第57戦闘飛行隊を復元したアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39Q エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(44-3887)の左側面:実機はP-39Q(37mm機関砲搭載)だが、実際に現地部隊が配備していたのは、P-39Qより古い形式のP-39D(20mm機関砲搭載)なので、この展示は実機と戦歴を正確に表しているわけではない。右手前は、ガソリンを燃焼し温風を送風するF-1AヒーターType F-1A Utility Heater)で、エンジン暖気運転を助けている。
DAYTON, Ohio -- Bell P-39Q Airacobra in the World War II Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo) The P-39 was one of America's first-line pursuit planes in December 1941. It made its initial flight in April 1939 at Wright Field, Ohio, and by the time of the Pearl Harbor attack, nearly 600 had been built. Its unique engine location behind the cockpit caused some pilot concern at first, but experience showed that this was no more of a hazard in a crash landing than with an engine located forward of the cockpit. The P-39's spin characteristics, however, could be a problem if proper recovery techniques were ignored. .
写真はOfficial United States Air Force Website、National Museum of the USAF Bell P-39Q Airacobra引用。


37mmM4ブローニング(Browning)機関砲は、既に1937年9月1日初飛行のベル(Bell) YFM-1エアクーダ(Airacuda)双発戦闘機の主翼上のツイン・ナセルの先端にも搭載された。YFM-1エアクーダは量産されずに終わった失敗作だったが、37mmM4ブローニング(Browning)機関砲は、1939年から生産が始まり、ベル(Bell)ベルP-39(Airacobra)のほかにも、アメリカ海軍の魚雷艇PTボートの前甲板にも搭載され、1942年のソロモン群島の対日戦に投入されている。

ベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)と過半のベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)は、プロペラスピナー先端から37mm機関砲の銃身が突き出ている。尖ったプロペラ・スピナーの先端の銃口は射撃すると、反動で後退するが、直ぐに駐退機の働きで、元の位置に戻る。

アメリカ陸海軍戦闘機で、主翼下面にガンポッドを張り出し、空気抵抗増加、飛行性能の低下を忍んでいるのは、ベル(Bell)ベルP-39(Airacobra)P-63 キングコブラ(Kingcobra)だけである。アメリカ人のためではなく、ロシア人のための戦闘機ということで、アメリカ軍も飛行性能向上に厳正な態度ではなく、ベル社もアメリカ政府の支払いによるソ連向け援助(輸出)機としてビジネスを優先していたことが理解できる。

1−A.独飛行機年産額三万六千台 : 米国は遥かに劣勢
東京朝日新聞 Vol: 第 49巻 Page: 180 出版年 1940-05-28

【ニューヨーク特電二十六日発】米国航空商業会議所会頭ジョン・ジュエット氏は二十六日夜米国飛行機生産の現状に関し左の如く述べた

 ドイツの飛行機年生産高は三万六千機に上るが米国の生産高は遥にこれに劣っている、
 米国は飛行機製作工業創始以来四万六千台の飛行機を生産した、来る十二ヶ月間には米国は一万五千乃至二万機を生産し得るものと信ずる(独飛行機年産額三万六千台 : 米国は遥かに劣勢

カラー写真(右)1941年7月以降、アメリカ、飛行中のベル(Bell)XFL-1エアラボニータ(Airabonita)艦上戦闘機試作1号機の左後方側面:陸上機を艦上機に大改造した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:41545774 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000456 Bell XFL-1 1588 mfg - Filename:16_000456 Bell XFL-1 1588 mfg.tif - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリカ海軍は、ベル(Bell)P-39の艦上戦闘機仕様を発注した。そこで、航空母艦飛行甲板からの離着陸が可能なように、P-39の三輪式(前輪式)降着装置をXFLは尾輪式に変更し、尾部に着艦フックを装着した。

ベル(Bell) P-39 エアラコブラ(Airacobra)は、胴体中央部にエンジンを搭載した前輪式の陸上機であった。これを尾輪式の艦上機に変更したが、重心変化のために安定性が悪化し、空母飛行甲板での運用は困難と判断された。既にグラマンF4Fが大量生産され、次世代ヴォ―トF4Uも実用段階に入っていたために、飛行性能の低いベルXFL-1の発注は1942年2月にキャンセルされた。

⇒写真集Album:ベル(Bell)XFL-1エアラボニータ(Airabonita)艦上戦闘機試作機

ソ連 ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)は、大口径機関砲の地上襲撃力、低い飛行性能が相まって、武器貸与法に基づくソ連への軍事援助に回された。ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、9,588機生産、49.2%の4,719機がソ連への貸与機である。発展型ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は、3,303機の生産で、79.9%の2400機がソ連への貸与機である。

イギリス ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は、ソ連、イギリスに貸与機されたため、アメリカ軍が使用した機数・配備数よりも、外国への貸与機のほうが多い。

アメリカのベル社は武器貸与法に支えられて、アメリカ政府から支払いを受けて、P-39とベル(Bell)ベルP-39(Airacobra)1万2591機を大量生産し、膨大な利益を上げた。


写真(上)2013年5月7日、ロシア共和国、ノボシビルスク、飛行場郊外、アメリカから貸与されたソ連空軍ベル(Bell) P-39N エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(白100:219158)
:アメリカが反枢軸国のソ連に武器貸与法で貸与したP-39戦闘機を、ソ連空軍が対フィンランド戦に投入した。しかし、撃墜されフィンランド軍に鹵獲された。その時のオリジナルの塗装に戻して展示されている。手前には、M4ブローニング37mm機関砲が外されて展示してある。
Photographer Gleb Osokin - Russian AviaPhoto Team Location Off-Airport - Novosibirsk, Russia Aircraft type Bell P-39N Airacobra Operator Russia - Air Force Registration 100 white Type Photograph Date 7 May 2013
写真は Wikimedia Commons, 写真は Wikimedia Commons, Category:P-39 Airacobra museum aircraft File:P-39 Airacobra 2006-06-15.jpg引用。


37 mm 自動砲(Automatic Gun)として開発された, M4機関砲は, コルトの設立したブローニング社(Browning Arms Company)が当初、T9と名付けて開発していた口径37 mm (1.46 インチ)の反動利用の自動砲ある。

写真(右)2012年3月、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、アメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39Q エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(44-3887)に搭載されていた37ミリM4ブローニング(Browning)機関砲とそのベルト弾倉
English: 37mm T9 cannon in P-39 and P-63 Date 31 March 2012, 21:45:48 Source Own work Author Moriahsound
写真はWikimedia Commons, 、Category:M4 cannon File:37mm T9 cannon.jpg引用。


37mm M4ブローニング(Browning)機関砲が部隊配備されたのは1942年からで、銃口初速(muzzle velocity)2,000 ft/s (610 m/s) は遅いが、発射速度は毎分 150発で大口径機関砲にして速い。弾薬は、HE弾(high-explosive shell)、すなわち高性能爆薬装填の榴弾、M80徹甲弾(armor-piercing shell)ともに射撃可能。

37mm M4ブローニング(Browning)機関砲のM80徹甲弾の貫通力は、射撃距離500ヤード(460 m)で 1 インチ(inch:25.4 mm)である。中戦車の車体上面・砲塔上面の装甲は20mm以下なので、命中角度が直角に近ければ十分に貫通できるが、M80徹甲弾を低空射撃で戦車の上面に命中させても、命中角度が45度以下と浅ければ威力は半減する。

写真(右)2015年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、アメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39Q エアラコブラ(Airacobra)戦闘機(44-3887)に搭載されていた37ミリM4ブローニング(Browning)機関砲とそのベルト弾倉
DAYTON, Ohio -- Bell P-39Q Airacobra in the World War II Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
写真はOfficial United States Air Force Website、National Museum of the USAF Bell P-39Q Airacobra引用。


ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)の装備した37mm M4ブローニング(Browning)機関砲の弾道(drooping trajectory)で、重量のある弾丸を低初速で発射するために、弾道が直進的ではなく、放物線上に落下する。そのため、遠距離になれば37mm M4ブローニング(Browning)機関砲の命中率は低くなる。

37mmM4機関砲の諸元
総重量 213lbs (96.6kg)
砲身重量 55lbs (24.9kg)
全長 89.5in (2,273mm)
砲身長 65in (1,651mm)
弾薬 37x145mmR
弾頭重量
HE(High Explosive:榴弾):1.34lbs (608g)
AP(Armor-piercing:徹甲弾):1.66lbs (753g)
弾薬総重量
HE:1.98lbs (898g)
AP:2.29lbs (1,039g)
銃口初速 HE:2,000fps (610m/s)
AP:1,825fps (556m/秒)
発射速度 150発/分

図(右)アメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39 D エアラコブラ(Airacobra)戦闘機の三面図
Description English: Bell P-39D Airacobra fighter Date 25 January 2012 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons., Category:P-39 Airacobra drawings File:Bell P-39D Airacobra 3-view line drawing.svg引用。


ベル(Bell)P-39 D エアラコブラ諸元
全幅 10.36m
全長 9.21m
全高 3.6m
翼面積: 19.8m²
空虚重量: 2,853kg
全備重量: 3,465kg
燃料容積: 1,937 L
エンジン: アリソンV-1710-35液冷12気筒エンジン(離昇1,150馬力)
プロペラ: 3翅定速回転プロペラ
最高速力: 579km/h(高度4,600m)
実用上昇限度: 14,400 m
上昇力 5,000mまで6分24秒
航続距離  1,770km
兵装 プロペラ軸内 M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲1門(携行弾数15発)
機首 M2ブローニング12.7mm機関銃2挺(携行弾数各200発)
左右主翼 ブローニング 7.62mm機関銃4挺(携行弾数各500発)




BELL P-39 AIRACOBRA 37mm BROWNING M4 CANNON TRAINING FILM "MALFUNCTIONS" AUTOCANNON 17154 PeriscopeFilm: 2020/10/12 This is a restricted, 1943, black and white Official Training Film presented by the United States War Department, training film TF- 9.2041. It was one of a series made by the Army Service Forces, Signal Corps, to educate ground crew about the 37mm automatic cannon then in use aboard the Bell P-39 Airacobra and the derivative P-63 Kingcobra. The 37 mm Automatic Gun, M4, known as the T9 during development, was a 37 mm (1.46 in) recoil-operated autocannon designed by Browning Arms Company. The weapon, which was built by Colt, entered service in 1942. The purpose of the film is to show the many ways the 37mm - M4 can malfunction and how cleaning and care for the M4 can prevent these problems. The M-4 autocannon had a muzzle velocity of 2,000 ft/s (610 m/s) and a cyclic rate of 150 rounds per minute. It was normally loaded with high-explosive shells, but could also be loaded with the M80 armor-piercing shell, which could penetrate 1 inch (25 mm) of armor plate at 500 yd (460 m). The M-4 was disliked by pilots for its drooping trajectory.

⇒写真集Album:ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機


2.ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機

写真(右)1941年7月以降、アメリカ、ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の右前方:1942年12月7日に初飛行のXP-63は、主翼下面にガンポッドを張り出していない。これは、試験段階のためである。舗装滑走路の向こう側には、雪が積もっている。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003491 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は1938年4月6日初飛行、生産数9,588機。ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機はP-39の高々度性能を向上することを目的にした発展型で、2段過給器を付けたアリソン V-1710液冷12気筒エンジンを装備、P-38の3翅プロペラを4翅プロペラに変更した。P-63は、主翼形状の変更、胴体延長による全長の0.75m延長が外見上の特徴である。

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-68371)の左前方:1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”に国籍マークが変更されている。発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。三輪式降着装置を採用した。主翼左右した面にガンポッドに12.7mm機関銃を搭載しているが、銃口がスピナー先端開いているだけで、銃身先端はスピナーから露出していない。1942年12月7日に初飛行したP-63は、ソ連向けの貸与機2400機を中心に3,303機が生産された。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003494 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


 P-39とP-63の相違点
1)プロペラ:3翅と4翅
2)垂直尾翼:小型湾曲と大型四角
3)主翼面積:狭いと広い
4)胴体:短いと長い
5)エンジン;低空用1段過給器と高空用2段過給器

写真(右)1943年6月以降、アメリカ東南部、ジョージア州トーマスビル、アメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の左操縦席キャノーピー扉と飛行インストラクターのウィリアム・ファーグソン(William T. Ferguson Jr):アリソン液冷エンジンの短排気管が片側12本並んでいるが、高温の排気のためにその後方にすすが付いて汚れている。解説には1942年とあるが国籍マークは1943年6月以降の白色バー付きなので錯覚である。
English: William T. Ferguson Jr, US Army Air Corps Flight Instructor, Thomasville Georgia, 1942. Date 6 January 2012 Source Own work Author Wmferguson
写真は Wikimedia Commons, Category:Bell P-63 Kingcobra File:P-39 Aircraft with Flight Instructor.jpg引用。


ベル(Bell)P-63 キングコブラは、前作P-39エアらコブラを引き継いで、操縦席キャノーピー左右両側に開閉扉を設置している。通常の単発戦闘機は、胴体左から主翼に上がり、胴体側面に足をかけて胴体上面にのぼり、上から操縦席に搭乗する。これと比較して、P-39/P-63では左右どちらからでもドアから搭乗できるので、パイロットにとっては出入りが容易で、緊急発進や錦秋脱出にも有利である。ただし、ドアの機構を追加し、強度も維持しなければならないので、重量が増加するという欠点がある。

写真(右)1942-1943年頃、アメリカ、ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(268931)の正面:発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。三輪式降着装置を採用した。銃口がスピナー先端開いているが、スピナーから銃身先端は突出していない。主翼左右下面にガンポッドを設けて、12.7mm機関銃を装備した。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003501 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


1941年6月27日、アメリカ陸軍は、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)の高高度性能を向上させた発展型XP-63をベルに要請した。高々度性能を向上させるために、発動機には、2段過給器付きのアリソン V-1710エンジンを採用したが、構造はP-39と類似しており、M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲のプロペラ軸装備も同じである。XP-63は1942年12月7日に初飛行した。

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(268931)の左側面:このP-63では銃口がスピナー先端開いており、銃身先端はスピナーから露出していない。1942年12月7日に初飛行したP-63は、ソ連向けの貸与機2400機を中心に3,303機が生産された。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003502 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


アメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)とその発展型P-63キングコブラ(Kingcobra)戦闘機はともに、キャノピーのガラス風防が、後方にエンジンの空気取り入れ口インテークが突出しているためにスライドできない構造である。そこで、操縦席に出入りするドア式扉は左右両側についている。

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(268931)の左後方:発動機を胴体中央に置いて、重心を中心部に置き、運動性を向上させようとしたため、排気管は、胴体中央の操縦席後方に配置された。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003500 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


アメリカ陸海軍戦闘機で、
(1)主翼下面にガンポッドを張り出し、空気抵抗増加、飛行性能の低下を忍んでいる
(2)大口径M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲のプロペラ軸を通した搭載、と機首スピナー先端からの発射、
(3)操縦席キャノーピー左右両側への開閉扉の設置
ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)だけである。

アメリカ軍の国籍マーク変遷
アメリカ 第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

写真(右)1942年以降、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-68871)の右側面:37mmM4ブローニング(Browning)機関砲はプロペラ軸から発射するように装備されているのはP-39エアラコブラ(Airacobra)と同じであるが、P-63キングコブラ(Kingcobra)では37mmM4機関砲の銃口がスピナー先端に凹んで開いている。つまりP-38のように37mmM4機関砲の銃身先端がスピナーから露出していない機体が多数みられるのが特徴である。下面に速度を測るピトー管が設置されている。
Bell P-63 Kingcobra from de Wiki
写真は Wikimedia Commons, Category:Bell P-63 Kingcobra by military serial File:Bell P-63 Kingcobra in flight.jpg引用。


ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機は、原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)と同じく、M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲をプロペラ軸から発射するように装備している。射撃時は銃身が反動で後退し、駐退機によって、後座した砲身を元の位置に戻す。しかし、ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)の一部の形式では、37mmM4機関砲の銃口がスピナー先端に凹んで開いており、P-38のように37mmM4機関砲の銃身先端がスピナ
ーから突出していない。

2−A.長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル
大阪朝日新聞 Vol: 第158巻 Page: 109 出版年 1943-03-17

一九四〇年末三選直後のルーズヴェルト[Franklin oosevelt]は股肱の臣ハリー・ホプキンス[Harry Hopkins]を伴い、逐鹿戦の骨休みをかねて巡洋艦タスカルーザでカリブ海巡航の旅に出た、当時敗戦つづきの英国は独軍の連続爆撃に気息奄々たる有様で、その在米資金もいよいよ逼迫を告げ、このまま放置すれは屈服以外に途はないかと思われた、

しかるに米国にはかの[1935年]中立法[Neutrality Act]や戦債未払国への金融を禁止する[1935年]ジョンソン法[Neutrality Act]があって十分の対英援助ができない、そこでルーズヴェルトらがこのタスカルーザ艦上で思いついたのはこれら既存の法に煩わされることのない全然新しい形式の対英援助計画で、右は武器貸与法案[(Lend-LeaseAct](正式の名称は米国国防促進法案)として翌四一年一月議会に提出され、三月十一日正式に採択された、かくて制定された武器貸与法[Lend-Lease Act]はここに成立第三年を迎えたわけだが、あたかもその二周年記念日にあたる去る十一日同法は有効期限の切れ来る六月末日よりさらに向う一ヶ年間その効力を延長されたのである

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63C キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(417)の右下面:37mmM4ブローニング(Browning)機関砲はプロペラ軸から発射されるが、P-63では銃口がスピナー先端開いており、銃身先端はスピナーから露出していない。左主翼下面に速度を測るピトー管が設置されている。国籍記章としては、1943年6月以降採用された、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”が記入されている。
King Cobra Bell P-63C PictionID:40971795 - Title:King Cobra Bell P-63C - Catalog:15_002690 - Filename:15_002690.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ソ連 この武器貸与法[Lend-Lease Act]なるものはその条文にも明記されているようにある国家の国防が米国自身の国防上重大なりと認められた場合該国家に対し軍需品その他国防物資を売却、貸与または賃貸し得る権限を大統領に与えたもので、表面は米国の国防強化を目的としたものだが、その魂胆は

(一)米国の参戦をできるだけ延期すること
(二)民主主義国家群の戦争指導櫃を掌握すること
(三)戦後の発言権を増大し世界制覇の非望を達成すること

の三点にあった

すなわち[フランクリン]ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]は老獪にも「民主主義の兵器廠[Arsenal Of Democracy]」たる役目を引受けることにより、自らの参戦はこれをできるだけ延ばし、あわよくば全然参戦せず、しかも実質的には参戦同様の効果を収めんとたくらんだが、しかし自らも戦争の渦中に身を投ぜざるを得なくなってしまった、

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、農地上空を飛翔する無塗装のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-69432):発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。三輪式降着装置を採用した。主翼左右下面に増加燃料タンクを懸架している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47091013 - Catalog:16_008289 - Title:Bell P-63A 42-69432 mfr 63554 - Filename:16_008289.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


しかし武器貸与法[Lend-Lease Act]の真の狙いは米国自身の参戦如何にかかわらず英ソ蒋以下の反枢軸諸国を援助督励することにより、これら各国の犠牲において枢軸国の戦力を消耗せしめ、同時に如何に平身低頭しても米国の援助にすがらざるを伝ない反枢軸国家群の窮状につけこみ、これら諸国をして援助の代償として米国の戦争指導権を承認せしめるはかりでなく、戦後においてもまったく米国の勢力下に屈従せざるを得ない立場に追いこみ、もって世界支配の夢を実現せんとするにある、ここに武器貸与法の驚くべき老獪かつ巧妙なるたくらみがある

しかして英国以下の被援助国はこの米国の遠望を知悉し米国の情にすがることは自らの墓穴を掘るにひとしいことを十二分に承知していながらなお背に腹はかえられず、泣訴これ努めているわけである

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、湖岸上空を低空飛行する無塗装のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(43-11720):発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。三輪式降着装置を採用した。プロペラ延長軸を通して射撃する37mmM4ブローニング機関砲の銃身はプロペラ内に収まっていて、銃口のみが開いているように見える。主翼左右下面にガンポッドを設置し12.7mm機関銃1挺を搭載している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47091128 - Catalog:16_008297 - Title:Bell P-63E 43-11720 mfr 67836 - Filename:16_008297.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ソ連赤軍 武器貸与[Lend-Lease]予算として現在まで米国議会によって承認された総額は百八十四億一千万ドルに上り、このほか陸海軍関係予算として計上され武器貸与費に流用し得る予算額は実に三百五十九億七千万ドルに達する、

しかるに武器貸与局長官ステッチニアスの発表によれは同法実施以来昨年末までの援助実績は八十二億五千万ドルにすぎず、そのうち七十九%、すなわち六十五億四千万ドルが物資貸与分であるが、食料品が十億四千万ドルを占めている、

然して昨年度においてアメリカが生産した飛行機ならびに戦車の三分一までが反枢軸諸国に供給されアメリカ軍需工場における同年の全生産額の二割弱が貸与物資として海外に輸送されたとつたえられる、

赤軍 これを金額にして国別にして見れは(単位百万ドル)
対英 三、九五九
対ソ 一、五三二
対蒋 一五六
となっている、

ソ連に対する補給額は
飛行機 三六〇〇機
戦車 三二〇〇台
トラック大砲牽引車 八一、〇〇〇台
を含むものであり、飛行機戦車供給の数量はほかのいかなる国に対するよりも多いといわれる、もっていかにアメリカがソ連の御機嫌を取ろうとしているかが窺われる

 なお対蒋援助は上掲の数字が示すごとくきわめて微々たるもので、しかも武器貸与局支那課長フランクリン・レイの言明によれば重慶向貸与物資の五十%は輸送不能のため目下インドに放置されたままになっている、アメリカとしてもつぎつぎとワシントンに乗込んできて援助増加を泣訴する蒋の代表を御馳走政策で機嫌をとり口でなだめて帰す以外今のところうつ手があるまい (延長された米の武器貸与法 : 世界支配への手段 : 純予算のみでも百八十四億ドル引用終わり)

写真(右)1943年6月以降、アメリカ、雲の上を飛行する無塗装のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-69644):胴体中央のエンジンから延長軸でつないで4翅プロペラを廻している。プロペラ延長軸を通して射撃する37mmM4ブローニング機関砲の銃身はプロペラ内に収まっていて、銃口のみが開いているように見える。主翼左右下面にガンポッドを設けて、12.7mm機関銃を装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47091102 - Catalog:16_008295 - Title:Bell P-63A 42-69644 mfr 62343 - Filename:16_008295.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


2−B. 変転する米ソ関係 ( 上・中・下)
東京新聞 Vol: 第158巻 Page: 132 出版年 1943-04-09/1943-04-12
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337051

(上) 米に巣喰う反ソ感情 承認後も依然ソ連利用の魂胆 微妙な米ソ関係

今次戦争の進展につれて反枢軸陣営の内輪もめは日一日と増大する一方てあるが、わけても注目に値するのは米ソ関係が最近極めて微妙になって来たことである、蓋し英帝国の一途を辿りつつある今日では、反枢軸陣営の大立物は米ソ両国であり、両国関係がどういう進展を示すかは戦局並びに将来の世界政局に甚大な影響を及ぼすからである、そして冬季反攻を通じて、ソ連の底力が予想以上に強靱であるととが示された今日では、アメリカはソ連を目指して自己の野望達成上の恐るべき邪魔物となる懼れあるものとなし、将来はその対ソ態度にもおのずから変化が予想されるのである

 既にその徴候はあらわれて居り過般のスタンドレーやウォーレスの声明はアメリカの対ソ感情を反映せるものに外ならぬ、ルーズヴェルト[FDR]スターリン首相との会見を希望している旨を言明したが、同じ反枢軸陣営にありとはいえ、ソ連は米英とは別個の戦争を行っているのである、以上、アメリカとしては今後も援ソを続けてゆく限り、戦後問題を含めてソ連と諒解を遂げておかねばならぬ問題は少くないわけである、今後米ソ関係がいかなる推移を示すかは軽率に予断できぬにせよ、今日までの両国関係を回顧してみることは将来の方向を推察するに少からぬ示唆を与えるであろう

米国の反ソ感情

元来米ソ関係は過去においては友好的だったとはいい難い、アメリカの対ソ感情は無関心に非ずんば反ソ的なものであったことは、列強中はアメリカがソ連を承認した最後の国だったことからも窺われる、米ソ関係が緊密でなかったことは一つには伝統的なもので、帝政時代においてすらロシアとアメリカは相互に交渉する所少く、[1867年720万ドルでの]アラスカ買収その他小問題の場合を除けば、夫々異なる天体にあるかの如く別々の途を進んで来たのであり、前大戦においてすら、アメリカの参戦はロシアが一九一七年の二月革命に伴い事実上連合国戦線から脱落した後であった

 米露の関係が右のように疎遠であったことは「自由の国」をもって任ずるアメリカが、帝政ロシアの専制政治に、反撥を感じていたためで、ロシアにおけるユダヤ人迫害の結果両国の通商条約が破棄されたこともあったのである、かかるアメリカの態度は革命後のロシアにも適用された、ケレンスキー[Kerenskii]時代の短期間はロシアに同情を寄せたものの、十月革命[October Revolution]によりポルシェヴイキ政府が樹立されるや、アメリカは再びこれを新たな専制政治として憎悪し、列国の対ソ武力干渉にも一役買って出た、ソヴィエト政権樹立初期における革命運動の宣伝煽動は各国等しく警戒した所であるが、殊に新政権によるアメリカ人の財産没収や従来の一切の債務の破棄、宗教に対する圧迫、又経済上では所謂ソ連の小麦タンピング等は、アメリカの反ソ感情に拍車をかけて、一九三三年(昭和八年)ルーズヴェルト政府による[ソ連]承認に至るまでは米ソの正式な外交関係は存在していなかったのである

ソ連承認の事情

もっともこの間、ソ連は国内建設の段階に入り、五ヶ年計画による建設事業を米人技師が個人の資格で招聘され、技術的援助を与えたこともあり、謎とされていたソ連の国情もアメリカに伝えられ、米ソの相互理解も漸次深まって来た、

更に満洲事変やヒトラー政権樹立による国際情勢の変化、ニューヨーク株式取引所のパニックにはじまる世界恐慌等の事情は、欲すると否とに拘らず、米ソ両国を接近させた、即ちアメリカはヨーロッパにおいては新興ドイツを、東亜においてに日本を牽制する勢力としてソ連の価値を認識すると共に恐慌で販路を失った国内の滞貨、就中機械類や棉花の新市場としてソ連に絶好のはけ口を見出したのである

 既に一九三〇年(昭和五年)にはソ連のアメリカ機械類購入額は総額一億一千四百万ドルの巨額に達し、これは不況にあえぐアメリカ業界には天来の福音と歓迎されたのであった、かくて一九三三年(昭和八年)三月、国内恐慌と国際情勢悪化の異常な緊張裏にホワイト・ハウスに乗りこん竜で来たルーズヴェルトはソ連との修交を決意し、第一段階として通商交渉が開始され、復興金融会社はソ連にアメリカ棉花買入れの池めの借款を付与することになったが、遂にリトヴィノフ[Maxim Litvinov]ルーズヴェルト[Franklin D. Roosevelt]との折衝により十一月十六日おくればせながらアメリカはソ連を正式に承認したのである

依然たる悪感情

アメリカのソ連承認は米ソ国交上の劃期敵な事件ではあったけれどその後の両国関係は必ずしも緊密とはいい難いものであった、アメリカの意図は政治的には日独両国の牽制力としてソ連を利用することにあったが、ソ連は国内建設を第一義とし、必ずしもアメリカ((及び西欧民主々義国)の思う通りには動かなかった

 なるほど[1934年9月スターリンの]ソ連は国際連盟[League of Nations]に加入したが、これによってソ連と米英との政治的関係が特に密接になることはなかった、米ソ通商も未だ正式の外交関係なかった一九三〇年の額を突破することはなく、蘇に帝政時代の戦債支払問題に関する交渉が決裂した結果、ソ連にも[1934年]ジョンソン法[Johnson Act]Johnson Act:WW1対米債務未払国への借款禁止]が適用されることになったため、ソ連はヨーロッパ諸国に借款を求め、米ソ通商は大した発展を示さなかった、正式の通商協定によってソ連がアメリカから毎年購入する額は債初の二年間は最低三千万ドル、一九三五年以来は四千万ドルに過ぎず、その後アメリカが各種商品に輸出許可制をとるに及んでは、米ソ通闘は益々制限されるようになった

更に一般アメリカ人の対ソ悪感情乃至無理解は、[1933年]ソ連承認によって殆ど改善されず、キーロフ暗殺事件に端を発したソ連の[民主派や自由派の弾圧]所謂「血の粛清」はアメリカの対ソ感情に悪影響を及ぼすこと少くなかった

今次大戦勃発まで

米ソの政治的接近を妨げた原因としては、前記の外に一九三五年モスクウで開催されたコミンテルン第七回大会[7th Congress of the Comintern]が挙げられる、との大会においてコミンテルンは有名な人民戦線[Popular front]綱領を決定し、いわゆる反ファシズム闘争に関しては名国の民主的政府や政党と部分的に協力する方針をたてたのであるが、との大会でアメリカ共産党代表の行った演説は、ソ連が米ソ国交回復の際与えた米国内政不干渉の確約を裏切った事実を示したものとして、米政府はソ連に対し強硬に抗議したのである  一方ヨーロッパ情勢はドイツの躍進により年一年と風雲急を告ぐるに至り、ドイツとの一戦を覚悟した英仏はソ連を抱きこんでドイツ包囲策を企図したが、現実政治家のスターリン[Joseph Stalin]は西欧民主々義国のために火中の栗を拾うことを欲せず、却って昭和十四年(一九三九年)八月従来犬猿の間柄だったドイツと[独ソ不可侵条約を]結んで世界を瞠目させた

かくして遂に今次大戦の火蓋が切られたのであるが、独ソ提携以来アメリカの対ソ関係が急角度に悪化したことはいうまでもなく、枢軸国と並んでとれを敵性国家とみなすことになったのである

写真(右)1943年、アメリカ、ソ連に貸与されたベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-69188)の左側面:白丸赤星のソ連国籍マークは、アメリカの青丸白星の国籍マークの企画を準用したもので、ソ連への貸与機の初期に適用された。直ぐに、ソ連国籍マークは赤星白縁になる。左右主翼下面のガンポッドはないが、機首の37mm M4機関砲は装備されていて、スピナー先端に重心が突出している。左主翼の速度計測用ピトー管、胴体キャノピー後上方に方位測定用環状ループアンテナが設置されている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47091142 - Catalog:16_008298 - Title:Bell P-63A 42-69188 Russian AF Petrov collection - Filename:16_008298.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1943年以降、アメリカ、ソビエト連邦に貸与されるベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(269721)の試験飛行:発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。プロペラ延長軸を通して射撃する37mmM4ブローニング機関砲の銃身はプロペラ・スピナー先端から突出している。37mm機関砲を射撃すると、その反動で銃身は後退するが、駐退機の作用で、後座した銃身は復元する。国籍マークは白丸赤星のソ連の国籍マークだが、アメリカの青丸白星と同形状である。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003496 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


(中) 大東亜戦で愈よ複雑 米、交換条件付の援ソ策を濃化

ソ芬戦争[ソ連=フィンランド冬戦争]の前後

[Winter War] 今次大戦の第一段階は主要交戦国たる独英間の戦闘よりも、国際情勢を利用せるソ連の勢力伸長によって特徴づけられた、まずドイツの鋭鋒の前に崩壊せんとしたポーランド東半を無血占領したのを手始めに沿 バルト三国に軍事基地を提供させて事実上の保護国とし、ついでフィンランドにも同様の要求をなした結果、一九三九年(昭和十四年)十一月三十日遂にソ芬戦争[Winter War]の勃発をみた

 独ソ提携以来のソ連の行動を赤色帝国主義[Social imperialism]として痛烈に非難していたアメリカの反ソ感情は、ソ芬戦争[冬戦争]に至って極度に沸騰し対ソ輸出に道義的禁輸を適用するほか、フィンランド援助の義損金が募集され、又カーミット・ルーズヴェルトを司令官とする米英義勇軍がフィンランド援助に赴く段取りにまでなった、この義勇軍が戦線に到着する以前にフィンランドがソ連に屈服したため、米英の対芬軍事援助は自然解消となったが、一時は駐ソ米大使の引揚げが伝えられるほど米ソ関係は緊迫したのである

独ソの開戦まで

その後も両国関係は少しも改善されず、西部戦線におけるドイツの大勝利の直後の一九四〇年(昭和十五年)七月ソ連がバルト三国を正式に併合するや、アメリカは在米ソ連資産の凍結を断行し、対ソ敵性態度を一層明白にした、かかる米ソ関係悪化を打開すべく、ウーマンスキー[Konstantin Umansky]駐米ソ連大使は屡々米国務省当局と会談を重ねたがモロトフ外相のベルリン訪問によってとの会談も打切られ、独ソ開戦に至るまではアメリカの対ソ敵性視は解消しなかった

 もっともこの間、欧洲大陸から閉め出されつつあったイギリスは、対独戦の必要からソ連をドイツから切り離すことに腐心し左翼政治家のクリップス[Stafford Cripps]を駐ソ大使に任命する等の、対ソ媚態を示しはじめたが、ソ連を枢軸から遊離さすことは愈々緊迫せる太平洋情勢からも米英双方にとり得策と考えられたので、アメリカもイギリスに追随して昭和十六年(一九四一年)一月対ソ道義的禁輸を撤回したことがあった、併レ輸出許可制が緩和されぬため米ソ通商は少くも改善されず、更に又同年四月松岡外相の訪ソによる日ソ中立条約の締結は、米英両国に大きな失望を与えたのであった

写真(右)1943年以降、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の正面:左右主翼下面にガンポッドがあり、そこに12.7mm機関銃を装備している。左主翼先端下面に速度を測るピトー管が設置されている。
P-63A Bell photo PictionID: 43102154 - Title: P-63A Bell photo - Catalog: 16_003716 - Filename: 16_003716.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


始めて同一陣営に

一方独ソ関係はドイツのバルカン進撃の前後から急遽に悪化し、遂に同年六月二十二日独ソ開戦となりこれに伴い米ソ関係も三転して、歴史上はじめて米ソが同一陣営に立って世界史の舞台に登場することになった、ドイツの脅威の前に戦々兢々としていたイギリスにとっては独ソ開戦は正に思う壷であり、チャーチルは天来の福音とばかりとれを歓迎し「ヒトラーと戦うものなら悪魔とでも手を握る」と、即日援ソを声明したが、従来ソ連を敵性視していたアメリカにとって独ソ開戦は些か不意打の形であった、とはいえ「民主々義の兵器牒廠[arsenal of democracy]をもって任じ、打倒ヒトラーの戦争を背後から牛耳っていたアメリカがこれと同一歩歩調とったことは当然で、資産凍結解除は勿論一切の対ソ敵性行為を中止すると共に従来の行きがかりを捨てて対英援助と同様な武器物資の援助を行うことを決意した

 かくてルーズヴェルトの腹心で武器貸与局長官たるホプキンス[Harry Hopkins]の訪ソ、ゴリコフ中将等のソ連軍事使節団の訪米の準備段階を経て九月下旬にはモスクワで米英ソ三国会談が開催され、ソ連に対してもイギリスと同様に武器貸与法が適用されることになったのである

狙いは独ソ共倒れ

併しながら米英の援ソは屡々指摘された如く、対独戦の重圧をソ連に肩代りさせ、独ソの共倒れを狙ったものであるから、独軍の主力が東部戦線に釘付けされ、西部方面が比較的手薄になったにも拘らず、との千載一遇の機会を捉えてドイツを背後から挟撃する意図は少しもなかった

 武器物資の援助にしても、米英は最初のうちはソ連の抗戦力をそれ程高く買って居らず、短期崩壊を懸念したため輸送上の困難と相まって、翌年五月の新協定に至るまでは大した数字にはならなかったらしい、これに対するソ連の不満は一昨年十一月七日の革命記念日におけるスターリン首相の演説で率直に表明され、武器物資援助の強化と並んでいわゆる第二戦線の結成がはじめて要求された

同盟には至らず

この問題はその後繰返しソ連側から持ち出され、一方米英も第一年度の冬季反攻によってソ連の抗戦力を見直す所あり、かくて昨年のドイツの夏季大攻勢の開始される直前の五月末、モロトフ外相はロンドン並びにワシントンを訪問し対独戦における英ソ軍事同盟と米ソ諒解が成立した、これによって米英ははじめて援ソに本腰を入れ武器物資援助の強化と共に、一九四二年中に第二戦線を結成する旨を約したのであるが、イギリスと異なりアメリカがソ連と同盟条約を結ばなかったことは米英両国の対ソ態度に相違あるととを示すものとして注目に値する

写真(右)1943年以降、アメリカ、ニューヨーク州、ウィートフィールド(Wheatfield)、工場で生産中のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39Q エアラコブラ(Airacobra)戦闘機とP-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機:P-39は初飛行1938年4月6日、生産数9,588機。P-63は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機。ただし、性能向上型のP-63でも、ソ連向けの貸与機2400機と72.7%がソ連向けの援助輸出機に回されている。
Author Unknown author Description The assembly plant of the Bell Aircraft Corporation at Wheatfield, New York (directly East of Niagara Falls, USA). The aircraft in the photo are Bell P-39Q-30-BE Airacobra fighters (USAAF serials 44-71105/44-71504), and Bell P-63A-8-BE Kingcobra fighters (USAAF serials 42-69211/42-69410). While externally very similar, the P-39 had a smaller and more rounded tail section and a three-bladed propeller. The two lines at left are P-39Qs, followed by three lines of P-63As. Then are two lines of almost completed P-39Qs (serials clearly visible), and a last line of P-63As. Note the absence of any workers and tools. Date between 1940 and 1946 Medium 1 negative Dimensions 5 x 7 inches or smaller. Collection Library of Congress wikidata:Q131454 Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Accession number Reproduction Number: LC-USW33-059641 (b&w film neg.) Call Number: LC-USW33- 059641 [P&P]
写真は Wikimedia Commons, Category:Bell P-39 Airacobra File:Airacobra P39 Assembly LOC 02902u.jpg引用。


悪感情払拭せず

既述の通り独ソ開戦はアメリカにとり不意打ちであり、米政府はこの場合の対策を予め決定して居らず、イギリスの援ソ声明によって否応なしにこれと歩調を合わせざるを得なかったのである、このことは独ソ開戦二日後のアメリカの対ソ態度公式声明が、ルーズウェルト[Franklin Roosevelt]ではなくて国務次官ウェルズによっで行われた事実の中にあらわれて居り、又この声明においても、ソ連の独裁政治がアメリカにとって堪え難いものであると非難しながら、ヒトラー主義に対する防衛がアメリカ自身の国防保全に利する所ありという理由で、ソ連援助を結論しているのである

 併しイギリスとちがって未だ正式に参戦せず、ドイツの脅威を直接感ずること少く、且つ殆んど一貫してソ連に反感を抱いて来たアメリカから、独ソ戦という事実だけで一朝一夕に反ソ感情の消滅を期待することは不可能だった、殊に外来思想撲滅を標榜して来たダイス委員会やハースト系新聞はルーズヴェルトの援ソ政策を非難し、又政界筋でもアメリカ自身の国防強化の見地から対ソ武器援助に反対する空気が少くなかった

大東亜戦争の勃発

更に又、大東亜戦争の勃発により事態は一層複雑化した、即ちアメリカが枢軸国と全面的に交戦状態に入ったに反し、ソ連があくまでも日本との中立を堅持しているため、日本を中間にさしはさむ米ソの関係は甚だ微妙なものになった、そして緒戦において、東亜より敗退したイギリスにとってはヨーロッパ戦線[Western Front]が第一義であるに対し、アメリカにとって日本の脅威はドイツの脅威以上であるから対日戦にソ連を利用せんとする野望はイギリスより遥かに強く援ソとシベリア基地の提供とを交換条件にしようとする傾向さえ窺われるのである、これらの点で米英の対ソ態度にはかなりの相違があり、モロトフ外相の訪問がイギリスとアメリカとで異なる形式の協定となった所以である

写真(右)1943年以降、アメリカ、ニューヨーク州、ウィートフィールド(Wheatfield)、工場で生産中のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-39Q エアラコブラ(Airacobra)戦闘機とP-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機:P-39は初飛行1938年4月6日、生産数9,588機。P-63は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 48344837 - Catalog: 16_008408 - Title: Bell P-39 and P-63 production line - Filename: 16_008408.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は , San Diego Air and Space Museum引用。


(下) 隠然たる反目状態 世界制覇野望へ第二の邪魔物

第二戦線の確執

米英は昨年五月モロトフ外相訪問の際に、同年中に第二戦線を結成する約束を与えたのであるが、これは米英のあらゆる約束の如く不履行に終った、もっともイギリスはソ連と軍事同盟を結んだ関係もあり、且つドーヴァ海峡一つ距てでドイツと相対しているためその脅威を如実に感じ、ソ連の存亡は直接自国の興廃に影響して来るので、第二戦線はソ連のためばかりでなく自衛上からも望ましいことではあったが、如何せんイギリスの実力ではその結成は不司能で、失敗に終った[1942年8月19日]デイエップ上陸作戦[Dieppe Raid]が関の山であった

 これに反しアメリカにとっては対独戦におけいソ連の利用価値を認める点には変りないにせよまかり間違ってソ連の抗戦力が崩壊した所で直ちに致命的影響を受けるわけではないから、援ソに本腰をいれ始めたといってもおのずから限度があり或時は太平洋第一主義を唱えて第二戦線[The Second Front]問題から狡猾に身をかわした、

 併し、昨年のドイツ大攻勢のためヴォルガの線まで追いつめられたソ連が米英の不誠実に憤慨するのは当然で、昨秋ソ連を訪問したウィルキーは百何十回か第二戦線に関する詰問を受け、スターリン首相もAP記者に与えた声明の中でこの問題に関するソ連の不満を率直に披瀝した、とれに対してアメリカは「ソ連のために米国民を犠牲にすることを欲せず」「いつ対独攻撃を開始するかはアメリカ自身によって決意されるものでスターリンの指し金を受けるべきでない」(いずれもニューヨーク・タイムス紙)と開き直ったのである

 従って昨年十一月の北阿侵略は米英、就中アメリカの世界制覇計画の一環として行われたものであって、東部戦線における独軍を牽制するという第二戦線[The Second Front]的意義は副次的なものに過ぎなかった

米の新たな懸念

かくて独ソ戦が第二の冬を迎えんとする頃からソ連は同じ反枢軸陣営に属するとはいえ軍事的には米英とに別個に単独でドイツと戦うようになったといえる、このことは本年度の反枢軸作戦計画を決定したと称する[1943年1月]カサブランカ会談[Casablanca Conference]にソ連代表が参加しなかったことからも明かである、而してソ連の冬季反攻で予想外の底力を示したことは、米英殊にアメリカに新たな懸念を与えた

 アメリカの援ソの意図が既述の如きものである以上、ソ連が戦後も強国として残りヨーロッパに大きな発言権をもつことはアメリカの希望する所ではなく、世界制覇の野望を抱くアメリカにとっては枢軸国につぐ第二の邪魔物が生ずることである

かくてソ連の勝利はアメリカにとり新な脅威と考えられるようになり、米ソ関係は今日では隠然たる反自の状態になったのである

援ソ物資の論争

P-39 エアラコブラ 新たに生じたアメリカの対ソ反感は、去る二月二十三日の赤軍記念日におけるスターリン布告や将来のソ連西部国境問題を契機として露骨にあらわれて来た、スターリン首相が赤軍への布告において米英の軍事的援助不十分を痛撃し「赤軍が終始戦争の重圧を一手に引受けている」と述べたのに対し、アメリカ各紙は一斉に「スターリンの傲慢」を攻撃し、又駐ソ米大使スタンドレーも、ソ連が米英から与えられた物資援助について全然国民に知らせていないことは遺憾であるとソ連の態度を非難した

 アメリカ側の発表によれば昨年十一月末迄の対ソ物資供給額は十一億二千五百万ドル、になっているが輸送ルートが枢軸潜水艦の脅威にさらされている以上これらが全部ソ連の手に引渡されて実際の戦力となったとは考えられずましてソ連の切実に要求する第二戦線には頬冠りであるから強豪ドイツを向うに廻して未曾有の大規模な戦闘をつづけるソ連が今更ながら米英の背信を不満に感じ、独力で戦っていると感ずるのは当然であろう

 然るにアメリカは自分の不誠意を棚にあげて、ソ連が自分だけの利益と目的のために戦っていると非難し「今や我々は我々自身の戦争に力を集中すべきだ」(ニューヨーク・タイムス紙)と本音を吐いたのである

波瀾[ポーランド]の国境問題

Anders' Army ソ連西部国境問題をめぐる紛糾は取らぬ狸の皮算用式な滑稽味を帯でいるが、これが反枢軸陣営内の摩擦を増大した点は見逃し難い、ソ連は最小限、独ソ開戦直前の国境線を固執して居り、欧洲重点主義の立場よりソ連の戦線脱落を最も恐れるイギリスはソ連の要求をほぼ鵜呑みにしたが、反枢軸軍勝利による戦前の領土復活を夢みていたポーランド亡命政権[Polish government-in-exile]はこれに狼狽し、[亡命政権首相]シコルスキー[Wladyslaw Sikorski]は[1941年8月14日]大西洋憲章[Atlantic Charter]の違反なりとルーズヴェルトに泣訴する所あった、

 アメリカとしてはポーランド其他の群小亡命政権はどうでもよいことであるが、将来ソ連がヨーロッパの一大勢力となることを警戒し、この問題でも米ソの対立がみられ ヨーロッパ諸国はロシアの支配を甘受せんがためにヒトラーと干戈を交えたのではない、

 もし二者中の一つを選べというならば恐らくスターリンよりはヒトラーを選ぶに躊躇しないであろうというニューヨーク・タイムス紙の論説は、アメリカの対ソ感情を端的に暴露せるものといえよう、イギリスは米ソの間に立って両者の調停に当ろうとし、イーテン[Anthony Eden]訪米の使命の一つもこの点にあったとみられるのである

米の仮想敵はソ連

現在既にアメリカがソ連を仮想敵とみなしていることは疑いなく、「将来の世界に想を致すならば誰でも赤軍という第一級の現象と取組まねばならぬ」というヘラルド・トリビューン紙の論説に示される如く今後やがてはソ連との関係が逆転した場合を考慮して着々準備を進めているのである、

  ニューヨーク・タイムス紙記者クロックによれば、米陸軍当局が一千万常備軍を目標に陸軍拡充に大童になっているのは、ソ連と対等の兵力をもつ必要を感じているからといわれるアラスカ基地の強化の北方基地に至る陸空の交通路の開設にしても、当面の目的としては対日進攻の意図からなされたにせよ、将来ソ連に備える遠大な計画の一部であることは想像に難くない

提携は限界点へ

B-26 マローダー 以上の如く従来の米ソ関係並びに最近の情勢を考察すればアメリカの対ソ提携が永続的なものではなく今や援ソの限界点に近づきつつあることが窺われるのである、アメリカは先月十一日武器貸与法[Lend-Lease Act]を更新して依然とれをソ連にも適用するに決定したが本年度における援ソ物資引渡しは船舶問題や枢軸潜水艦の活動のため昨年の程度に達しないことが予想される、更一千万常備軍をめざすアメリカ自身の装備の必要は武器援助停止乃至は減少の絶好の口実となるであろう

 併しアメリカとしても対枢軸戦という酷しい現実に直面している今日、戦後問題などでソ連と波瀾を起すことの愚を知らぬわけではないから、ここ当分はソ連との提携維持に努め、そのためにはポーランド其他の小国を犠牲にする位の用意はあるだろう、元駐ソ大使のデーヴィス、外交評論家のクラッパーやリップマン等はこのことを頻りに慫慂して居る だがいずれにせよ、現在の隠然たる反目を解決するには、米ソの直接会談が必要であり、ルーズヴェルトがスターリンとの会見を希望している所以である

対立する二大勢力

併し両者の話合による当面の弥縫策は可能であるにしても、ソ連が独自の立場を放棄する見込みなくアメリカが世界制覇の野望を抱いている以上、米ソの根本的対立は永久に解決されず、他日一波瀾は免れぬであろう顧みれば十五世紀末ヨーロッパの二つの辺境としてはじめて世界史の舞台に登場したアメリカとロシアは世界の二大勢力に成長し、一方は西、一方は東に進んでいずれも太平洋岸に到達した、

  アメリカとロシアの距離は一般に考えられているほど地理的に離れているのではない、ペーリング海峡[Bering Strait]をさしはさんでアラスカと東部シベリアとは一衣帯水の間にあり、モスクワと桑港間の無着陸飛行が可能なことは既にソ連飛行士によって実証されている、而して米ソの関係が既述の如きものである以上、従来は主としでヨーロッパの問題を通してしか接触していなかった両国が遂に太平洋の舞台で相見える日は宿命とさえ思われるのである (変転する米ソ関係 ( 上・中・下)引用終わり)

写真(右)1944年11月、アメリカ、ニューヨーク州北部、エリー湖岸、バッファロー(Buffalo)、ソビエト連邦に貸与されるベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(27469)の一群:発動機を胴体中央に置いて、延長軸で4翅プロペラを廻した。三輪式降着装置を採用した。
Русский: Истребители Р-63 «Кингкобра» (Bell P-63A-10-BE) на аэродроме Буффало (Buffalo, штат Нью-Йорк) перед отправкой в СССР. Date 1 November 1944 Source waralbum.ru /109417/ Author waralbum.ru. Фото находится в общественном достоянии.
写真はWikimedia Commons, Category:Bell P-63A-10-BE File:Bell P-63A-10-BE in Buffalo - to USSR.jpg引用。


彩色写真(右)1944年11月、アメリカ、ニューヨーク州北部、エリー湖岸のバッファロー(Buffalo)、ソビエト連邦に貸与されるベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(27469)の一群:ソ連の国籍マークは、白縁赤星を胴体後方側面に描いているが、主翼には描いていない。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003493 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ソ連P-39 中立国アメリカのルーズヴェルト大統領は、1940年12月28日の「炉辺談話」“fireside chat”で、ドイツ、イタリア、日本の三国軍事同盟に対抗する姿勢を示し、アメリカは民主主義の兵器廠(Arsenal Of Democracy)となると宣言した。こうして、武器貸与法Lend-Lease Act)を全会一致で可決1941年6月の独ソ戦勃発以降、ベルP-39を4719機(49.2%)、ベル(Bell)P-63キングコブラ(Kingcobra)を2400機(72.4%)の合計1万2591機をソビエト連邦に貸与している。

第二次大戦中のアメリカからソ連への貸与は、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)の総生産9588機(9584機)の49.2%(49.8%)の4719機(4773機)で、P-63総生産3,303機(3305機)の72.7%(74.3%)の2400機(2456機)である。つまり、ベルP-39とベルP-63の合計生産総数1万8291機(1万2889機)のうち55.2%(56.1%)相当の1万2891機(1万2889機)がソ連に貸与されている。武器貸与法レンド・リース法)の下で、アメリカは1945年9月までに、ソ連に対して、航空機1万4000機、戦車7000両、トラック37万台など軍事物資を支援している。したがって、アメリカからソ連に対する航空機の貸与の92%がベルP-39とP-63戦闘機ということになる。


写真(上)1944年、アメリカ、アラスカ、フェアバンクス、フォートウェインライト、ラッド・フィールド(Ladd Field)基地、雪の飛行場で離陸準備中のソ連貸与機のベル(Bell)P-63A-10-BE キングコブラ(Kingcobra )戦闘機"Little tests"(42-70610)面
:左奥の多数の見送りを受けて、武器貸与法に基づいてソ連に移送中。長距離飛行に備えて、左右主翼下面の500L相当の落下増加タンクを懸架。ただし、ガンポッドは未装着。コックピット後上方に方位測定用の環状ループアンテナが取り付けられている。
English: Bell Bell P-63A-10-BE Kingcobra 42-70610 in Red Air Force markings, 1944 at Ladd Field, Fairbanks Alaska prior to its flight to the Russian front as a Lend-Lease aircraft. Date 1944 Source United States Army Air Forces via Chloe, John Hale, (1984), Top Cover for America. the Air Force in Alaska. 1920-1983, Pictorial Histories Publishing Company, ISBN 0-933126-47-6 Author United States Air Force
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II Lend-Lease aircraft File:Bell P-63 Kingcobra 42-7010.jpg引用。


ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)は、1942年12月7日に初飛行したが、武器貸与法Lend-Lease Act)に基づいて、P-63は2400機から2456機がソ連に貸与された。P-63の生産数3303機(3305機)の72.7%の2400機あるいはP-63の総生産数3305機の74.3%の2456機がソ連向け生産だったことを意味するを意味する。また、原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)の生産数9588機(9584機)の49.2%(49.8%)がソ連向け生産だった。

写真(右)2014年6月、ロシア、モスクワ、大祖国戦争博物館、戦勝公園に展示されているソ連空軍アメリカ製ベル(Bell) P-63C キングコブラ(Kingcobra)(赤08: 44-4011)左前方:この機体は、千島列島最北端の占守島に破損して放置されていたP-63で、1998年に回収、復元作業を経て展示された。現地で回収したオリジナルの部品と他の部品を合わせて完全復元している。
This file was uploaded with Commonist. Date 5 June 2014, 15:11:51 Source Own work Author Mike1979 Russia.
写真はWikimedia Commons, Category:Bell P-63 Kingcobra at The Central Museum of the Great Patriotic War (Moscow)  File:Bell P-63 Kingcobra in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Front.jpg引用。


武器貸与法Lend-Lease Act)に基づいて、P-39は4719機もがソ連に貸与された。つまり、ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)の生産数9588機の49.2%もソ連向け生産だった。

他方、P-39発展型は、1942年12月7日に初飛行したベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)だが、その生産数3003機の72.7%の2400機がソ連向け生産だった。

写真(右)2017年9月、ロシア、モスクワ、大祖国戦争博物館、戦勝公園に展示されているソ連空軍アメリカ製ベル(Bell) P-63C キングコブラ(Kingcobra)(赤08: 44-4011)右側面:この機体は、千島列島最北端の占守島に破損して放置されていたP-63で、1998年に回収、復元作業を経て展示された。現地で回収したオリジナルの部品と他の部品を合わせて完全復元している。
Full US military serial 44-4011. This appears to be the most genuine and complete of all the WW2 aircraft on display here. The restoration was based around a wreck recovered from Shumshu Island in 1998, but completed using sections from other airframes. On display in ‘Victory Park’, Museum of the Great Patriotic War, Poklonnaya Hill, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 12:20 Source Bell P-63A Kingcobra ‘444011 / 08 red’ Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK.
写真はWikimedia Commons, Category:Bell P-63 Kingcobra at The Central Museum of the Great Patriotic War (Moscow)  File:Bell P-63C Kingcobra ‘444011 - 08 red’ (38035996374).jpg引用。


赤軍 原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,588機で、4,719機(49.2%)のP-39がソ連への貸与機である。

発展型のベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,303機で、2400機(79.9%)のP-63がソ連への貸与機である。

したがって、P-39とP-63の合計生産数19710機のうち、ソ連への貸与機は7119機と56.5%が、武器貸与法に基づいて、ソ連の軍事援助に充てられた。アメリカ陸軍では需要が少なかったP-39、P-63戦闘機が大量生産され、ソ連に貸与され、ベル社はアメリカ政府からの支払いを受け膨大な収益を得ることができたのは僥倖だった。

写真(右)1943-1944年頃、アメリカ、ソ連に貸与されたベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)戦闘機複座練習機仕様の左側面:左右主翼下面のガンポッドも機首の37mm機関砲も撤去されているので、スピナー先端の銃口は塞さがれている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:47091156 - Catalog:16_008299 - Title:Bell P-63A Russain AF trainer conversion - Filename:16_008299.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1943年後半以降、アメリカ、スキー式降着装置を装備したベル(Bell)P-63A-6-BE キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(42-68931)の左側面:氷結・雪原した飛行場で、車輪がスリップするので、スキーに変換した。
Army Air Forces Fair 008 Bell P-63A-6-BE 42-68931 Charles Daniels Collection Photo Charles Danield via Wright Patterson Air Force Base Museum..
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機には、半引込み式のスキー降着装置を装着した試験機が作られた。ソ連の氷結・雪原の飛行場での使用を前提に考案されたようで、1930年代から、ソ連、フィンランド、スイスでは冬季の飛行機離着陸にスキー式降着装置を運用していた。これを踏まえて、ソ連への貸与機P-63に実験的にスキー装備がなされたが、量産はされていないようだ。

写真(右)1943年後半-1945年、アメリカ、ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の左側面:尾翼をV字型として、垂直尾翼と水平尾翼の統一を図った。斬新なアイデアだったが、量産はされなかった。
Bell P-63 King Cobra Catalog #: 15_001377 Title: Bell P-63 King Cobra ADDITIONAL INFORMATION: Bell P-63 King Cobra, with experimental V tail. Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: U.S. Manufacturers I, A to Br Page #: 64 Tags: Bell P-63
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1947年6月以降、アメリカ、無塗装のアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(311728)の左側面:第二次世界大戦後の1947年6月以降に採用された国籍マーク、すなわち青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”を描いている。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003508 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1946年9月以降、オハイオ州エリー湖南岸、クリーブランド(Cleveland)で9月に開催されるナショナル・エアレースに参加する無塗装民間機ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra) "SOHIO"の左側面:アメリカ、雪の滑走路に待機する無塗装民間機のベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)の左側面:左右主翼下面にガンポッドはなく、機首にもプロペラ軸にも機関銃はないので、スピナーは先端が尖っている。左主翼先端下面に速度を測るピトー管はない。
Bell P-63 Catalog #: 15_002156 Title: Bell P-63 ADDITIONAL INFORMATION: No 4, NX69797, S.J. Wittman Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Cleveland 46, 47, 48, 49 Page #: 17 Tags: National Air Races, Charles Daniels, Air Races, Bell
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は1938年4月6日初飛行、生産数9,588機。ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機はP-39の高々度性能を向上することを目的にした発展型で、2段過給器を付けたアリソン V-1710液冷12気筒エンジンを装備、P-38の3翅プロペラを4翅プロペラに変更した。ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)は、主翼形状の変更、胴体延長による全長の0.75m延長が外見上の特徴である。

 P-39とP-63の相違点
1)プロペラ:3翅と4翅
2)垂直尾翼:小型湾曲と大型四角
3)主翼面積:狭いと広い
4)胴体:短いと長い
5)エンジン;低空用1段過給器と高空用2段過給器

ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機は、原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)と同じく、M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲をプロペラ軸から発射するように装備してた。射撃時は銃身が反動で後退し、駐退機によって、後座した砲身を元の位置に戻す。しかし、ベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)の一部の形式では、37mmM4機関砲の銃口がスピナー先端に凹んで開いており、P-39のように37mmM4機関砲の銃身先端がスピナーから突出していない。

アメリカ陸海軍戦闘機で、
(1)前輪式(首輪式)引込み降着装置を採用した単発戦闘機、
(2)キャノーピー操縦席左右からパイロットの出入りできる開閉式の扉、
(3)空気抵抗増加を忍んだ左右主翼下面のガンポッド張り出し、
(4)大口径M4ブローニング(Browning)37mm 機関砲のプロペラ軸を通した搭載と機首スピナー先端からの発射、
ベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)だけである。

写真(右)1946年9月以降、オハイオ州エリー湖南岸、クリーブランド(Cleveland)で9月に開催されるナショナル・エアレースに参加する無塗装民間機ベル(Bell) P-63 キングコブラ(Kingcobra)(72: NX63941) "SOHIO"右側面:アメリカ、未舗装滑走路に待機する無塗装のベル(Bell)P-63A キングコブラ(Kingcobra)の左側面:左右主翼下面にガンポッはなく、機首にもプロペラ軸にも機関銃はないので、スピナーは先端が尖っている。左主翼先端下面に速度を測るピトー管はない。
Bell P-63 Catalog #: 15_002149 Title: Bell P-63 ADDITIONAL INFORMATION: No 72, NX63941, Sponsered by J.W. Singleton Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Cleveland 46, 47, 48, 49 Page #: 15 Tags: National Air Races, Charles Daniels, Air Races, Bell PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


原型のベル(Bell)P-39 エアラコブラ(Airacobra)戦闘機は、初飛行1938年4月6日、生産数9,584機で、4,773機(49.8%)のP-39がソ連への貸与機である。

発展型のベル(Bell)P-63キングコブラ(Kingcobra)は初飛行1942年12月7日、生産数3,305機で、2,456機(74.3%)のP-63がソ連への貸与機で、フランスへも300機が貸与されている。

写真(右)1946年9月以降、オハイオ州エリー湖南岸、クリーブランド(Cleveland)で9月に開催されるナショナル・エアレースに参加する無塗装民間機ベル(Bell) P-63C キングコブラ(Kingcobra)(30: N63231) "SOHIO"左側面:舗装滑走路に待機しているが、コックピット脇の排気管からの煤で胴体中央側面が汚れている。左右主翼下面にガンポッはなく、機首にもプロペラ軸にも機関銃はない。左主翼先端下面に速度を測るピトー管はない。
Bell P-63C Catalog #: 15_002128 Title: Bell P-63C ADDITIONAL INFORMATION: No 30, N63231, Charles Tucker Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Cleveland 46, 47, 48, 49 Page #: 11 Tags: National Air Races, Charles Daniels, Air Races, Bell PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1946年9月以降、オハイオ州エリー湖南岸、クリーブランド(Cleveland)で9月に開催されるナショナル・エアレースに参加する無塗装民間機ベル(Bell) P-63C キングコブラ(Kingcobra)(30: N63231) "SOHIO"右側面:舗装滑走路に待機しているが、コックピット脇の排気管からの煤で胴体中央側面が汚れている。左右主翼下面にガンポッはなく、機首にもプロペラ軸にも機関銃はない。左主翼先端下面に速度を測るピトー管はない。
Bell P-63C Catalog #: 15_002130 Title: Bell P-63C ADDITIONAL INFORMATION: No 30, N63231, Charles Tucker Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Cleveland 46, 47, 48, 49 Page #: 11 Tags: National Air Races, Charles Daniels, Air Races, Bell PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1946-51年頃、飛行するフランス空軍ベル(Bell) P-63C-5-BE キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(43-11566):左右主翼下面にガンポッドがあり、そこに12.7mm機関銃を装備している。左主翼先端下面に速度を測るピトー管が設置されている。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 47091043 - Catalog: 16_008291 - Title: Bell P-63C 43-11566 French AF mfr 67828 - Filename: 16_008291.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum---Repository: San Diego Air and Space Museum.
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


ドイツ占領から脱出した亡命フランス政権は、自由フランス軍を結成したが、そこに武器貸与法(Lend-Lease program)に基づいてP-63キングコブラ戦闘機300機が貸与されている。これは、ソ連への2300機に次ぐ貸与数である。

フランス解放後、戦勝国となったフランスは、これらアメリカ製ベル(Bell)P-63 C-5-BEキングコブラ(Kingcobra)戦闘機をフランス植民地アルジェリア(Algeria)、チュニジア(Tunisia)、インドシナ(Indochina:ベトナム)で、現地反乱や独立闘争を鎮圧するのに使用した。

図(右)1950年、インドシナ、フランス空軍ノルマンディ・ニーメン(Normandie-Niemen)ベル(Bell) P-63C-5-BE キングコブラ(Kingcobra)戦闘機(3116 97)
English: Bell Airraft P63C Kingcobra French Air Force Indochina 1950 Français : Bell Airraft P63C Kingcobra Armée de l air Indochine 1950 Date 29 January 2014 Source Own work work dessin personnel Author Newresid stephanelhernault @yahoo.fr.
写真は SmugMug+Flick, Category:French Air Force in the First Indochina War File:P63Cnormiemenweb.jpg引用。


ベル(Bell)P-63C 第二次世界大戦の転換点とされるスターリングラード攻防戦で勝利したソ連軍は、1943年3月、ソ連軍の指揮下の自由フランス空軍のフランス人部隊の活動を認めた。1944年11月、東プロイセン、ネマン川(ニーメン川)での戦闘で功績をあげ、ソ連指導者ヨシフ・スターリンはフランス人戦闘機飛行隊を「ノルマンディ・ニーメン(Normandie-Niemen)」と命名した。

フランス人戦闘機部隊「ノルマンディ・ニーメン(Normandie-Niemen)」は、ソ連軍の下で、1945年5月の対独戦勝利まで戦い続け、東西で有名を馳せた部隊となり、フランスに凱旋した。 1949–1951年の第一次インドシナ戦争では、サイゴンを拠点に活躍した。

フランス植民地では、ベルP-63キングコブラ以外にも、F8Fベアキャット、F4Uコルセアダグラス(Douglas)A-26Cインベーダー(Invader)など第二次大戦後に余剰になったアメリカ製払い下げの機体が多数使用されている。


写真(左)アメリカ、ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機のパイロット操縦席計器盤と操縦桿写真(右)アメリカ、ベル(Bell)P-63 キングコブラ(Kingcobra)戦闘機のパイロット操縦席の右側の扉:P-39戦闘機は、操縦席の左右両側に開閉可能な扉がある。、このように操縦席左右両側に出入りを容易にする扉を設けるのは重量増加をもたらすが、運用上は使いやすくなるために採用されたのであろう。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00029882とCatalog #: 00029881 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


図(右):ベル(Bell) P-63A / P-63C キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の三面図
Description English: A 3-view line drawing of the Bell P-63A and P-63C Kingcobras. Date Unknown date Source AN 01-110FP-2, page 5 Author U.S. Military
写真はWikimedia Commons, Category:Bell P-63 Kingcobra File:Bell P-63A Kingcobra 3-view line drawing (symmetry check).png引用。


ベル(Bell)P-63 A キングコブラ諸元
初飛行:1942年12月7日
就役 1942年10月
1943–1945年生産数:3,303機
乗員: 1名
全幅 11.68m
全長 9.96m
全高 3.84m
翼面積: 1248 sq ft (23.0 m2)
空虚重量: 6,800 lb (3,084 kg)
全備重量: 8,800 lb (3,992 kg)
燃料容積: 1,937 L
エンジン: ベル(Bell)P-63 A キングコブラ-117液冷12気筒エンジン1,800 hp (1,300 kW)
プロペラ: 4翅定速回転プロペラ
最高速力:410 mph (660 km/h, 360 kn)(高度7,620m)
実用上昇限度:  43,000 ft (13,000 m)
上昇力 5,000mまで6分24秒
航続距離 450 mi (720 km, 390 nmi)
フェリー 2,200 mi (3,500 km, 1,900 nmi) 兵装 プロペラ軸内 M4ブローニング 37mm機関砲1門(携行弾数58発)
機首 .50口径12.7mmAN/M2ブローニング(Browning)機関銃2挺(携行弾数各200発)
左右主翼 同12.7mm機関銃2挺(携行弾数各300発)




3.ベル(Bell)PR-63 標的機"Pinball"

写真(右)1945年7月以降、アメリカ、ベル(Bell)PR-63C キングコブラ(Kingcobra)戦闘機"Pinball"(43-11074)
Ray Wagner Collection Image PictionID: 47090877 - Catalog: 16_008279 - Title: Bell RP-63C 43-11074 - Filename: 16_008279.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- airmanisr2, Nipponesque, and Sergio Carneiro faved this Veedubber79 7y Bell RP-63C-2-BE / QF-63C Kingcobra "Pinball" 43-11074 target / tug static ca. '48..
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1945年7月以降、アメリカ、射撃訓練の標的として目立つ縞模様の塗装を施したアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)PR-63C キングコブラ(Kingcobra)有人標的機:パチンコ式ゲーム「ピンボール」"Pinball"と同じく、弾が命中するとランプが点滅するイルミネーションをプロペラスピナーにつけた標的機だったために、"Pinball"の愛称で呼ばれることが多かった。
Bell : P-63 : Kingcobra Catalog #: 00003507 Manufacturer: Bell Designation: P-63 Official Nickname: Kingcobra
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


第二次大戦後開発されたRP-63G は、P-63Cを原型に2基が試作されたが、胴体と主要表面に電光イルミネーションを付けて、空気取り入れ口を変更している。有人標的機として採用され、450機が発注された。発動機はアリソン(Allison)V-1710-135液冷エンジン 1200 HPだが、特徴は操縦士キャビンの装甲板で重量は952.5 kgに達し、機首に重心が移動し安定性が悪化した。

写真(右)1945年7月以降、アメリカ、航空祭に出展されたベル(Bell)PR-63C 標的機"Pinball"(43-11074):ピンボール (pinball)とは、金属球を傾斜盤の上で弾いて点数を稼ぐパチンコ標的ゲームで、標的機に相応しい命名である。
Army Air Forces Fair 019 Bell RP-63 Pinball Charles Daniels Collection Photo Charles Danield via Wright Patterson Air Force Base Museum.
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1943年7月以降、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ベル(Bell)RP-63A 標的機"Pin Ball"(42-69654):ピンボール"Pin Ball"と同様、M22フランジブル弾(Frangible bullet)が機体に命中するとセンサーが作用して命中点数を稼ぐカウンターが作動し、プロペラ先端のイルミネーション・ライトが点灯する。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 47090999 - Catalog: 16_008288 - Title: Bell RP-63A 42-69654 - Filename: 16_008288.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


写真(右)1948年5月以前、アメリカ、民間登録機ベル(Bell)RP-63A 標的機"Pin Ball"(NX69801)とNACAテストパイロットのハワード・ライリー(Howard Clifton Lilly):ピンボール"Pin Ball"と同様、M22フランジブル弾(Frangible bullet)が機体に命中するとセンサーが作用して命中点数を稼ぐカウンターが作動し、プロペラ先端のイルミネーション・ライトが点灯する。
Description: In August 1947, Howard Clifton Lilly became the first permanently assigned NACA engineering test pilot at the National Advisory Committee for Aeronautics' Muroc Flight Test Unit at what later became Edwards Air Force Base in California. During his assignment at Muroc, he flew both the XS-1 rocket research aircraft and the D-558-1 jet-powered research airplane. On March 31, 1948, Lilly became the third pilot to exceed the speed of sound in the XS-1. Lilly died on May 3, 1948 when the Douglas D-558-1 Skystreak he was flying crashed on takeoff. He became the first NACA test pilot to be killed in the line of duty. At the time of his death, he had flown the Skystreak to a higher Mach number than it had previously reached-Mach 0.88 at 36,000 feet on April 29, 1948. Lilly had trained as a Naval aviator and joined the NACA at Langley Memorial Aeronautical Laboratory in Virginia (later, Langley Research Center) in October 1942. In May 1943 he was assigned to the Lewis Flight Propulsion Laboratory in Cleveland, Ohio (today's Glenn Research Center), where he flew numerous airplanes in flight research on powerplant systems. He then transferred to Muroc (now, NASA's Armstrong Flight Research Center). A native of West Virginia, Lilly was 31 at the time of his death. Image # : E49-0091 Date: circa 1949 Source NACA Research Pilot Howard Clifton Lilly
写真は SmugMug+Flick, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


RP-63G有人標的機<ピンボール"Pinballの生産は30機にとどまり、残りはキャンセルされた。1948年、新たにQF-63Gと命名された。このRP-63は重量増加のために、最高速力482 km/hと低下していた。3,303機生産されたP-63戦闘機は、武器貸与法によって2,397機がソ連に貸与されたが、21機は輸送途上で失われたという。

写真(右)1945年7月以降、アメリカ、ベル(Bell)PR-63C キングコブラ(Kingcobra)標的機“Tipsy Miss”(28)
Perma_001180 Permann Collection Image “Tipsy Miss” P-63 King Cobra--Permann Collection Image--Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


RP-63G有人標的機ピンボール"Pinball"は、格闘戦の時の戦闘機同士の戦い、爆撃機の銃塔ターレット、旋回機関銃手など射撃訓練用に開発された。しかし、標的機の操縦者・エンジン・胴体を保護する防弾板、キャノピーの風防防弾ガラスの重量が1トン近くあり、飛行性能が大幅に低下したために、爆撃機の射撃訓練用が主な使い方になった。標的機として確実に識別できるように、機体はオレンジや赤など派手な色で全面塗装されている。

射撃訓練は、実弾射撃ではRP-63G有人標的機ピンボール"Pinball"の危険が高すぎるので、特別な訓練用機関銃が開発されたが、弾丸は鉛とベークライトの複合素材のM22フランジブル弾(Frangible bullet)で、30口径.30インチ(7.62mm)7.1 gである。鉛とベークライトの組み合わせで作られた特別な壊れやすいフランジブル弾は、命中するとは破裂、散乱し無害化された。


写真(上)2020年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、標的機RP-63A塗装のベル(Bell)P-63E キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の左前方
:1958年にベル社から寄贈されたP-63E だが、アメリカでは大半がRP-63A標的機として使用されたので、その時のアカ塗装を施している。ただし、標的機特有の重装甲やイルミネーションライトなどは未装備。
DAYTON, Ohio -- Bell P-63E Kingcobra at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo) This World War II fighter was developed from the P-39 Airacobra, which it closely resembles. The U.S. Army Air Forces never used the P-63 in combat, although some were used for fighter training. Many P-63s were exported as lend-lease aircraft; the Soviet Union received 2,456 and Free French forces obtained 300. Since the P-63's low-level performance was adequate, it was widely used by the Soviets for such missions as "tank busting." Bell produced 3,305 P-63s, 13 of which were P-63Es. The most unusual P-63 variations were the RP-63A and RP-63C "pinball" versions developed late in WWII. Aerial gunnery students fired at these manned target aircraft using .30-cal. lead and plastic frangible machine gun bullets which disintegrated harmlessly against the target's external armor plating. Special instruments sent impulses to red lights in the nose of the "pinball" aircraft, causing them to blink when bullets struck the plane..
写真はOfficial United States Air Force Website、National Museum of the USAF  Bell P-63E Kingcobra引用。


フェアチャイルド AT-21 ガンナー(Fairchild AT-21 Gunner)練習機にマッガラシャン・エアマシンガン(McGlashan Air Machine Gun)を搭載し、有人標的機RP-63ピンボール"Pinball"を敵役にして射撃訓練をしたこともあったようだ。訓練用機関銃も開発され、マッガラシャン・エアマシンガン(McGlashan Air Machine Gun)も使用されたようで、これは1940年にアメリカ陸軍航空隊が採用したものである。


写真(上)2020年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍博物館、標的機RP-63A塗装のベル(Bell)P-63E キングコブラ(Kingcobra)戦闘機の右上方
:1958年にベル社から寄贈されたP-63E だが、アメリカでは大半がRP-63A標的機として使用されたので、その時のアカ塗装を施している。ただし、標的機特有の重装甲やイルミネーションライトなどは装備していない。
DAYTON, Ohio -- Bell P-63E Kingcobra at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo) The P-63E on display was donated by Bell Aircraft Corp. in 1958. Although it lacks the armor plate and other "pinball" features, it is marked and painted in the unusual color scheme of an RP-63A..
写真はOfficial United States Air Force Website、National Museum of the USAF  Bell P-63E Kingcobra引用。


標的機RP-63ピンボール"Pinball"にフランジブル弾が命中すると、胴体・主翼・尾翼の装甲板の背後に配置されたセンサーが作動し、ワイヤーやケーブルで電気信号を操縦席の着弾計器盤に送る。ここには、命中弾数をカウントする計器をつけることもできた。そして、37ミリ機関砲に代わって設置されたイルミネーション発光器がプロペラ先端の銃口のノーズランプを発光させ、その点滅で銃手は射撃が有効な命中弾を与えたかどうかを判断できた。

有人標的機RP-63ピンボール"Pinball"は、プロペラ軸の37mm機関砲を撤去した後にイルミネーション発光器を設置し、命中弾が当たるとプロペラ先端の銃口が赤色発光するが、このシステムから、友人標的機RP-63Gは、ピンボール"Pinball"の愛称が付けられた。しかし、フレキシブル弾とはいえ、標的機RP-63ピンボール"Pinball"の方向舵、昇降舵などは脆弱な構造だったので、損傷して操縦困難になる可能性があった。そこで、この着弾によるリスクを配慮して、友人標的機RP-63Gピンボール"Pinball"の操縦士には、10代から20代の若い操縦士の志願者を充当した。

ベル(Bell)PR-63 標的機"Pinball"の動画(movie):The Fighter Planes That Could Feel Pain: Operation PINBALL
2023/08/24に公開済み Sometimes, the most dangerous jobs in military history are the most forgotten. At the tail end of WWII, American scientists worked closely with the Army Air Corps to develop a program to train aerial gunners. At its core was a heavily armored plane with one job; to be “shot down” every day. Welcome to Operation Pinball.


P-63 Kingcobra and Operation Pinball World of Warbirds 2023/08/19
Join me as we take a look at Bell's upgrade to it's Airacobra: The Kingcobra. Aren't these the best names for aircraft out there?


4.リパブリック(Republic)XP-69高高度戦闘機

写真(右)1941年7月以降、アメリカ、リパブリック(Republic)XP-69(R-2160-3)モックアップの左側面:1941年7月にリパブリックは、層流翼と与圧キャビンを採用し、プロペラ延長軸を採用し、二重反転プロペラを回転させる高高度戦闘機を開発したが、これはベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機と同じような構造だった。
Republic XP-69 XP-69, R-2160-3. In July 1941, the USAAF ordered two prototypes of the AP-18 under the designation XP-69. A P-69 mockup was inspected in June of 1942. However, delays in the delivery of the Wright Tornado engine caused the XP-69 project to PictionID:42002485 - Title:Republic XP-69 XP-69, R-2160-3. - Image from the Charles Daniel's Collection Seversky, Republic and P-47 Aircraft Album.
写真は SmugMug+Flick, : San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


リパブリック(Republic)XP-69は、第二次世界大戦中、リパブリック社が開発した単座高高度戦闘機で、ベルP-39と全く同じに、胴体中央にエンジンを搭載し、プロペラ延長軸で機首の二重反転プロペラを回転する設計だった。主翼は、層流翼で、高高度用に与圧コックピット・キャビンを備えていた。

写真(右)1941年7月以降、アメリカ、リパブリック(Republic)XP-69(R-2160-3)モックアップの左側面:1941年7月にリパブリックは、層流翼と与圧キャビンを採用し、プロペラ延長軸を採用し、二重反転プロペラを回転させる高高度戦闘機を開発したが、これはベル(Bell)P-63Aキングコブラ(Kingcobra)戦闘機と同じような構造だった。しかし、同社の発展型XP-72の開発に集中するため、1943年5月にキャンセルされた。
In July 1941, the USAAF ordered two prototypes of the AP-18 under the designation XP-69. A P-69 mockup was inspected in June of 1942. However, delays in the delivery of the Wright Tornado engine caused the XP-69 project to be cancelled on May 11, 1943 in favor of Republic's parallel XP-72 project which showed more promise. In the event, the Tornado engine project was itself cancelled before anything could be built. - Catalog:15_002993 - Filename:15_002993.TIF - - Image from the Charles Daniel's Collection Seversky, Republic and P-47 Aircraft Album.
写真はWikimedia Commons, Category:Republic XP-69 File:Republic XP-69 mockup in wind tunnel.jpg引用。


リパブリック(Republic)XP-69の火器は、37mm砲2門と12.7mm機関銃4挺と重兵装を予定していた。1942年7月にアメリカ陸軍航空隊が3/4大モックアップの審査し、2機を発注した。しかし、リパブリック社は、XP-72の開発に忙しく、1943年5月にXP-69はキャンセルとなった。


5.リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機

写真(右)1940年、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、無塗装のアメリカ陸軍航空隊リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機先行生産型の右側面:1935年初飛行のセバスキー(Seversky)P-35戦闘機の後継機。
Ray Wagner Collection Image PictionID :48646174 - Catalog: 16_008596 - Title: Republic P-43 55PG 2055P Oakland 1940 - Filename:16_008596.tif - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機は、セバスキー(Seversky)P-35戦闘機(1935年初飛行)の後継機で、1940年3月初飛行した。排気タービン過給機付きの高高度戦闘機として、565km/hの高速を発揮し、陸軍に1941年から引き渡された。しかし、排気タービンに不具合が治らず、偵察機の扱いとなった。

リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)は、その後も、排気タービンが不調だったために、272機の生産で終わった。しかし、1941年6月、アメリカ参戦半年前に、武器貸与法に基づく中国空軍への支援機として、108機のP-43が中国空軍に貸与されている。

しかし、リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)の発展型リバプリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)が1941年5月6日初飛行し、排気タービン過給機付きのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン搭載の高速戦闘機として1943年4月から就役し、1万5,660機もが量産された。

写真(右)1940年、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機(41-31449)の左側面:装備、全長:8.69 m 全幅:10.97 m 全高:4.27 m 翼面積:20.72 m2 全備重量:3,850 kg 乗員: 1名 発動機:排気タービン過給器付きプラット・アンド・ホイットニー(Pratt and Whitney)R-1830空冷星型14気筒エンジン(排気量30 L)1,200 hp 最高速力:573 km/h 実用上昇限度:10,973 m 航続距離:2,333 km 兵装 12.7mm機関銃 4挺。
Republic P-43 Lancer P-43, 41-31449. Another view of the aircraft. PictionID:41567186 - Title:Republic P-43 Lancer P-43, 41-31449. Another view of the aircraft. - Catalog:15_002938 - Filename:15_002938.TIF - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "Seversky, Republic and P-47"  Veedubber79 9y This is Republic P-43A-1 Lancer 41-31449, the 2nd of 125 Lancers (s/n 41-31448 thru 41-31572) ordered for the Chinese AF under Roosevelt's Lend-Lease program in June 1941. Only 108 of the a/c were eventually delivered to China with some of the other a/c sent to Australia's RAAF. The engine was a Pratt and Whitney R-1830-57.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機は、排気タービン過給機付きの高高度戦闘機として、1940年3月初飛行した。565km/hの高速を発揮したリパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)だったが、排気タービンが不調だったために、272機の生産で終わった。1941年6月、アメリカ参戦半年前に、中国空軍へ、108機のP-43が貸与された。

しかし、リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)の発展型リバプリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)が1941年5月6日初飛行し、排気タービン過給機付きのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン搭載の高速戦闘機として1943年4月から就役し、1万5,660機もが量産された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第318戦闘飛行隊のリパブリック(Republic)P-47D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:サイパン島周辺の防空任務に就いたが、航続距離の不足のために、日本本土への攻撃に向かうB-29を護衛することはできなかった。しかし、1945年2月まで、硫黄島を基地とした日本陸海軍機がサイパン島を攻撃してきたので、その防衛に使用された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-75 P-47D Thunderbolts zooming just above the waves, head outbound from their 318th Fighter Group base at Isely Feild, Saipan.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)戦闘機は、排気タービン過給機付きの高高度戦闘機として、1940年3月初飛行した。565km/hの高速を発揮したリパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)だったが、排気タービンが不調だったために、272機の生産で終わった。1941年6月、アメリカ参戦半年前に、中国空軍へ、108機のP-43が貸与された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第414戦闘飛行隊のリパブリック(Republic)P-47N サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:超大型落下式増加燃料タンクを装備しP-47N戦闘機で、マリアナ諸島の第6爆撃飛行隊B-29が日本本土への攻撃に向かうをの途中までの援護した。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-88 414th Fighter Group P-47N flies close escort for a 6th Bomb Group P-29 over the far reaches of the Western Pacific in 1945..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


しかし、リパブリック(Republic)P-43 ランサー(Lancer)の発展型リバプリック(Republic)P-47 サンダーボルト(Thunderbolt)が1941年5月6日初飛行し、排気タービン過給機付きのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン搭載の高速戦闘機として1943年4月から就役し、1万5,660機もが量産された。

写真(右)1944年7月以降、マリアナ諸島サイパン島イスレー飛行場を基地とした、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第10戦闘飛行隊、落下式燃料タンク(165ガロン)を両翼に懸架したリパブリック(Republic)P-47D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:750L(165ガロン)の大型落下式増加燃料タンクを装備しP-47N戦闘機で、マリアナ諸島のB-29が日本本土への攻撃に向かうをの途中までの援護することができるようになった。その後、P-47Nは、本土の地上襲撃を行うようになったが、1945年2月まで、硫黄島を占領してからである。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-86 Lockheed-designed laminar-flow 165-gallon drop tanks were used extensively by Fifth Air Force P-47Ds in the Pacific, such as this 10th Fighter Squadron aircraft, where they became indispensible for long-range operations..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


5ーA.ソ連を裏切れば第三次大戦 : 米副大統領頭痛
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 103 出版年 1943-03-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347453

【ブエノスアイレス八日発同盟】
亡命ポーランド政権が一九三九年九月の国境線を基礎に失地回復の要求を提出して以来反枢軸陣営内部の利害対立はついに表面化するにいたったが、オハイオ州ベラウエア来電によれば米副大統領ウォーレス[Henry Wallace]は八日同地のウェスレー派大学における「世界秩序のキリスト教的基礎」に関する会議の開会式にあたりつぎの通り述べたと伝えられる

 一九四三年ないし四四年におけるわれわれの遣り方によって第三次世界大戦の種が蒔かれるかどうかが決るであろう、もしわれわれがソ連政府を裏切る場合にはおそらく第三次大戦が持上るであろう、

 今回の戦争が終結するに先立ち民主主義国がソ連と満足な諒解に到達しなければ第三次世界大戦[World War III]は避け難いであろうということを衷心より懸念している次第だ、ソ連とわれわれとの間に緊密な信頼と理解がなければ早晩重大な危機に陥るかも知れない(ソ連を裏切れば第三次大戦 : 米副大統領頭痛引用終わり

Roosevelt 5ーB.痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 114 出版年 1943-03-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336730

[写真((上)イーデン(下)リトヴィノフ大使)あり 省略]
【ブエノスアイレス特電十九日鈴木特派員発】英外相イーデン[Anthony Eden]、米大統領ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]会談後には恐らくただ戦後問題のみが例のごとく誇らしげに発表されるものと見られているが、この問題はこれまでもルーズヴェルトやチャーチル[Winston Churchill](英首相)やウォーレス(米副大統領)ウェルズ(米国務次官)といった連中からしばしば放送され、しかもそれは大西洋憲章、いいかえれば民主主義の名における米英の覇権確立を敷衍したものにほかならない、このような戦後計画は米国が勝てるかどちかも極めて怪しい今日単なる附け景気に過ぎないだろうイーデンがワシントンに飛んだ真の目的はつぎの二つである

一、米英間の政治的、戦略的食違いを至急解決あるいは調節すること
二、ソ連と重慶を反枢軸陣営に引止める手段を講じ反枢軸戦線の統一をはかること

たとえばアフリカ戦線では米英間では政治的、戦略的にいまだに全然一致をみていない、英国は依然ド・ゴール[Charles de Gaulle]を、米国はジローを支持している、米軍がもっとも恐るべきロンメル軍と直接立向うことを余儀なくされている時英軍は単に米軍の両翼にあって損害も比較的少ししか受けていない、

  米英軍の北阿戦線は欧洲上陸作戦の前提とされているが、実は政治的な目的から行われたもので決して戦略的な目的から出たものではない、従って彼らの間に政治的背反が生れて来るのは当然である、

このほどアイゼンハウワー[Dwight Eisenhower]が最高司令宮に任命され米英両者の不一致が一応解決を見たかのようにいわれているが、実は依然和解にほど遠い 重慶が反枢軸国戦線から否応なしに脱落する可能性は著しく増大して来た、それは重慶の物資供給が殆ど完全に杜絶してしまったからである、

現在援蒋物資の量は二千五百トンの船が運び得る程度のものと推定されているが、これくらいでは支那に駐屯している米空軍を支えるだけでせいぜいである、かかる哀れな供給では当然重慶は戦争を継続し得ず困難に堪えて行くにも限度がある

訪米中の宋美齢[Soong Mei-ling]が先月大統領やエリノア・ルーズヴェルト[Anna Eleanor Roosevelt](大統領夫人)とともにホワイト・ハウスで新聞記者団に会見した際記者団から「重慶は飛行機やガソリンをどのくらい供給されているか」という大胆な質問を受けたところが狡猾にも美齢[宋美齡]は[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]の方をチラリと見ただけで答えない、

  そこで仕方なしに[エリノア・]ルーズヴェルト[Eleanor Roosevelt]が代って答えた「米国では大童になって努力しているが重慶にまで飛行機やガソリンを送るのは非常に困難である」この一挿話は援蒋物資の供給状態をよく伝えている

重慶の軍事使節熊式輝もワシントンからこれ以上の援助を得るのはあきらめてロンドンに立去った、ソ連にしても米英の態度に不満をもっているのはいうまでもない、スターリン首相が二月の赤軍記念日に米英に対する不満を公然と述べて彼らを驚かせている、ソ連が米英のために失った皿はソ連が米英から受けている援助などとは比較にならないほど高価である、

ソ連を米英の陣営に引留め得る方法としては欧洲第二戦線の展開が最上であるが、独ソをとことんまで戦わせようとしている米英としては今すぐ腰をあげる気持はさらにない、そこでこれにつぐ方法としては口先だけの援助の代りに物資をもっと送ることである、しかしソ連があまり強くなってはまた困る、だから米英の立場はハムレットの科白によく似ている、すなわち
 「もっと助けようか、助けずにおこうか、これが問題だ」

そこでイーデン[Anthony Eden]はまずワシントンに飛び、ルーズヴェルトかハル(米国務長官)をつれてスターリン首相を訪問しようというのではなかろうか、というのはソ連と別個に交渉することは彼らにとって不安でもあり危険でもあるからだ、

イーデンはルーズヴェルトと協議してから十七日リトヴィノフ[Maxim Litvinov]駐米ソ連大使と午餐をともにした、何を話したかはもちろん不明だが、恐らく最近のスタンドレー演説をめぐって話を進めたものと思われる、リトヴィノフ[Litvinov]大使は必ずや援助の不足を指摘したに違いない、彼は民主主義的ではあるが外交上の駆引ではイーデンに騙されるには余りにも老練である、ソ連と米英との食違いを調整するにはすでに手遅れなのだからスターリン首相ロンドンにおける援ソ示威運動をおそらく笑っているに違いない (痛し痒し対ソ援助 : 食違い調整は至難 : 英外相の訪米も手遅れ)引用終わり)


6.ロッキード(Lockheed) P-38 戦闘機

ロッキード(Lockheed) P-38L 1937年2月、アメリカ陸軍航空隊は単座・高々度迎撃戦闘機インターセプターを開発するように要求をアメリカ航空メーカーに出した。性能要求は、最高速力360 mph (580 km/h)、上昇時間20,000 ft (6,100 m)まで6分 、爆弾搭載量1,000 lb (450 kg)だった。

それに対して、ロッキードはアリソン(Allison)V-1710液冷V型12気筒液令エンジンに排気タービン過給器を付けた双発双胴戦闘機で応じた。これが、X-608、後のXP-38で、1939年1月27日に初飛行した。

ロッキードXP-38は、1939年1月27日に初飛行し、12週間後の2月11日には軍用機としては最高峰の最高速力420 マイル(680 km/h)を記録した。制式されたロッキード(Lockheed) P-38 L ライトニング(Lightning)は、1941-1945年に1万機が量産された。

当初、爆撃機を迎撃する大口径機関砲が望まれていたため、1939年4月27日から13機生産された先行量産型YP-38は、アメリカ陸軍砲兵工廠(Army Ordnance Department)の開発した 37 mm (1.46 in)T9自動砲、すなわち後に 37mmM4ブローニング(Browning)機関砲と弾薬15発を搭載した。これは、P-39の37mm機関砲と同じものだった。

量産型の P-38Eの兵装は、機首にイスパノ(Hispano)20 mm 機関砲(弾薬150発)1門と.50口径12.7mmAN/M2ブローニング(Browning)機関銃4挺とされた。

  ロッキード(Lockheed) P-38 ライトニング(Lightning)戦闘機の諸元

初飛行:1939年1月27日
生産数:10,037機
全長: 11.53 m (37 ft 10 in)
全高: 3.00 m (9 ft 10 in)
翼幅: 15.85 m(52 ft 0 in)
翼面積: 30.43 m2 (327.5 ft2)
空虚重量: 5,800 kg (12,780 lb)
全備重量: 7,940 kg (17,500 lb)
最大離陸重量: 9,798 kg (21,600 lb)
発動機: アリソン(Allison) V-1710液冷スーパーチャージャーV型12気筒液令エンジン1,600 hp (1,200 kW) × 2
最高速力: 高度 7,620 m 時 667 km/h (高度 25,000 ft 時 415 mph) 航続距離: 1,770 km (1,100 マイル)
実用上昇限度: 13,400 m (44,000 ft)
イスパノ M2(C) 20 mm 機関銃× 1(携行弾数150発)
ブローニング MG53-2 12.7 mm 機関銃 (携行弾数500発)×4
爆弾:1,000 lb(454 kg)爆弾×2
落下タンク: 300 カロン (1,100 L) 2個

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2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

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