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◆第二次世界大戦の航空戦
写真(上)1945年2月月以前、フィリピン群島ルソン島中部、クラーク・フィールド基地、無塗装のアメリカ陸軍航空隊リパブリック(Republic)P-47D サンダーボルト(Thunderbolt)戦闘機:
:アメリカ領フィリピンは、1942年初頭ににうっ本軍に占領されたが、1944年10月に南部レイテ島に、1945年2月にルソン島に米軍が上陸し再占領した。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-62 A group of bare-metal P-47D Thunderbolts on a flightline in the Pacific, mostl likely Bellows Field, HI or Clark Field, Philippines..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum

写真(上)1945年2月、フィリピン群島ミンドロ島サンホセ、無迷彩塗装のアメリカ陸軍航空隊第531爆撃飛行隊コンソリデーテッド(Consolidated)B-24 J リベレーター(Liberator)爆撃機

WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-55 B-24J “Toddy” of 531st Bomb Squadron, 380th Bomb Group, gets a going-over at San Jose, Mindoro, Philippines, February 1945.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。

1.第二次世界大戦の中盤

写真(右)1934-1937年頃、アメリカ、ワシントンDC、飛行機開発を進めるグレン・ルーサー・マーティン(Glenn Luther Martin)と会談するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:FDRの大統領任期は1933年3月4日から1945年4月12日までである。グレン・ルーサー・マーティンが手にしているのは1932年2月16日初飛行のマーチンB-10爆撃機の模型。中国から出撃した中国空軍マーチンB-10爆撃機は日本本土九州初空襲(ビラ散布)を成功させた。
Martin, Glenn L. Catalog #: 02-M-00199 Last Name: Martin First Name: Glenn L. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


1−1.米大統領東京進攻を呼号 : 我が戦力に笑止の評価
大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 76 出版年 1943-01-09

【リスボン特電七日発】米合衆国第七十八議会は七日午後零時半(日本時間八日午前一時半)再開、米大統領ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]は四十五分間にわたって演説を試み、米国の昨年の軍需生産高が数量的に年初の目標に達しなかったことを認め本年は米国国内戦線にとっても容易な年ではないであろうと米国民を戒めて大要次のごとく述べた。

写真(右)1940年頃、アメリカ、ワシントンD.C.、ホワイトハウス大統領官邸、表彰されるダグラス飛行機(Douglas Aircraft Company)社主ドナルド・ウィルズ・ダグラス・シニア(Donald Wills Douglas Sr.:1892‐1981)と握手するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:グレン・L・マーチン社の主任技術者だったドナルド・ダグラスは、1921年自ら飛行機メーカーを設立した。ダグラス社はまず民間航空機、第二次大戦前には爆撃機の開発にも成功した。ダグラスの新鋭輸送機DC-2は、1934年5月11日初飛行で、当時の戦闘機よりも高速だった。ダグラスの主要機は、B-18 ボロ(1935年)、DC-3(1935年)、TBD デバステイター(1935年)、DB-7 ボストン / A-20 ハヴォック(1938年)、SBD ドーントレス(1938年)など。
SDASM Archives Follow Roosevelt, Franklin Catalog #: 02-R-00443 Last Name: Roosevelt First Name: Franklin Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,AIRLINE RATINGS・SmugMug+Flickr. SDASM Archives引用。


ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]の演説要旨

ルーズヴェルト  過去二年間は近代文明史上最も峻厳な時代であった、来るべき数年間は相剋と闘争の時代となろうが、よりよき事態が将来されることが期待される、昨年を顧みてわれわれはまず一年を通じて勝利によってその価値を示した米国軍の人々に感謝の意を捧げたい、彼らの精神は永遠に生きるであろう、

ウェーキ[島]バタアンマライの各戦線で戦いまた現に今もカダルカナルで死闘しつつあり、北大西洋の船団輸送にも参加しつつある人々の勇気と精神は生者と死者を問わず、永遠に生きるであろう、昨年を通じ最大かつ最印象的な事件は左の六点である

一、スターリングラード防衛および十一月後半から開始された東部戦線全域にわたる反攻においてソ連軍が示した勇気であり、これこそ最後の勝利へ導くものであろう
二、日本軍の比島、蘭印、マライ、ビルマ、中部太平洋、南太平洋およびインド洋への一連の進撃
三、西亜における英軍の政勢の成功
四、米英軍の仏領北アフリカ占領
五、船団輸送ルートの限りなき戦闘
六、枢軸側から米英側へ優勢の移 ったこと

枢軸側では昨年に戦勝を収めねば、究極的にすべてを喪うであろうことを知っている、しかし彼らが昨年に勝利を収め得なかったことは余が語るまでもあるまい、昨年米国側の最大の勝利の一つは六月のミッドウェーの勝利であった、この勝利は歴史的に重要なものであり、米軍は数千マイル隔てた各地への交通線を保持することが出来た、

米軍は日本軍の飛機、艦船に対して着々損害を与えつつある、事実上日本軍は取替え得るより以上の軍需品を喪失しつつある、かかる仕事は米海軍によってなされつつあり、米国潜水艦は戦争を横浜港の入口まで持ってゆきつつある、日本の船腹ならびに空軍力は次第に低下の一途を辿り米国のそれは上昇の一途を辿りつつある、その究極の結果は数学的に算出することが出来る

写真(右)1940年頃、アメリカ、ワシントンD.C.、ホワイトハウス大統領官邸、表彰されるダグラス飛行機(Douglas Aircraft Company)社主ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.:1905-1976)と握手するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:ヒューズ社の社主で飛行家だったハワード・ヒューズは、自ら興した飛行機メーカーで、世界最速記録を目指す飛行機や世界最大の輸送飛行艇などを開発したが、飛行機メーカーとしては大成しなかった。
Howard Hughes with President Franklin D. Roosevelt Howard Hughes shakes hands with President Franklin D. Roosevelt in Roosevelt's office, after Hughes received the Harmon Aviator Trophy. Roosevelt is sitting behind his desk. Several unidentified men are standing by. Digital Publisher University of Nevada, Las Vegas Libraries Access and Ordering Information Contact UNLV Digital Collections and provide digital ID number below Digital Collection Name Welcome Home Howard See this item at UNLV's Digital Collections Digital ID whh_000045
写真は, SDASM Archives・引用。


重慶へ嬉しがらせ

Franklin Delano Roosevelt [写真(ルーズヴェルト[Franklin Roosevelt])あり 省略]  これらの攻撃期間中、われらが陣営には重慶の英雄的な行為が加わっている、重慶の平和の理想は米国と近似したものである、米国はヒルマ・ルート上空[The Hump]を通じて送り得る限りの貸与物資を送りつつある、峨峨たる山系を越えると一万七千フィートの高空を飛び、ある時は盲目飛行さえつづけて援蒋物資の輸送に当り、わが共通の敵の戦力を破壊せんとしている重慶の国家的安定と繁栄と尊厳は永久に保全されるであろう

 昨年われわれは日本軍を防いだ、今年はわが方から進撃を決意している、ついで欧洲方面に眼を転ずればわれらが最初の仕事は独軍のソ連に対する圧力を減退せしめるにあった、米英軍は広汎なかつ巨大な諸準備をととのえたのち仏領北アフリカに遠征を試み、最小の損害をもって目的地に到達した、

この作戦行動は英首相チャーチル[Winston Churchill]の言にあったごとく、西アフリカ、南大西洋方面における枢軸軍の作戦および枢軸側の南米大陸に対する戦争計画の裏をかくものである、リビヤ戦線における英第八軍の攻勢もまた米英軍の主要作戦の一部である、

チュニジヤ戦線においては豪雨と言語に絶した泥濘とのため決戦を遅滞せしめている、枢軸軍は強化され、チュニジャの戦闘はわれらにとって困難なものとなることが予想される、しかしわれらは枢軸軍が地中海南岸から一掃されることを確信している

写真(右)1940年頃、アメリカ、ワシントンD.C.、ホワイトハウス大統領官邸、表彰されるアメリカ海軍将校と握手するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:FDRと面会できる機会なので、表彰される人物は、夫人を同伴する場合が多かった。
SDASM Archives Follow Roosevelt, Franklin Catalog #: 02-R-00449 Last Name: Roosevelt First Name: Franklin Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


海外兵力百五十万

Benito Mussolini  米国陸、海、空軍の海外にあるものは概数百五十万に上っている、わが商船隊は彼らに補給品を送りつつある、米空軍力を知らない米国人は多いが敵は確に知っているであろう、毎日毎週、毎月にわたって我らは敵軍を爆撃しつつある、敵は米国機の質と米飛行士の能力を咲得しつつある、アフリカ戦線においては米機一機を喪う度に敵機二機を撃墜しつつある、一方南北大平洋方面においては一機喪失の度毎に敵機を撃墜しつつある、

我らが共通の敵と戦う戦士数百万を送っているソ連、重慶および英国に対し米国は多大の感謝の意を表するものである、我らはまた反枢軸諸国の三軍将士にも感謝を捧げる、わが陣営に参加した仏陸海軍にも感謝する、我らはまた反枢軸諸国の指導者たち—ウィンストン・チャーチルへ、ジョゼフ・スターリンへ、大総統蒋介石へ、感謝する、然り、反枢軸諸国には偉大なる一致結束がある

 われわれは次の作戦を何時また何処に展開するかを予言することは出来ぬ、しかし余は必ずやこれを展開し、しかも強硬に展開するであろう、余は何処で、またいかにしてこれを行うかをいうことは出来ぬ、それはノルウェーか、南欧諸国か、フランスか、サルディニヤか、シチリヤか、バルカンか、ポーランドか、或いはまた同時に数ヶ所で行うかも知れない、我が空軍は敵軍を手痛く、しかも間断なく叩きのめすであろう、夜を昼についで数トンとなく爆弾は投下されるであろう、

ヒットラー独総統およびムッソリーニ伊首相は彼らの誤算の大きさを知るであろう、彼等の優秀性は永久に過ぎ去った、ファシズムもナチズムも求めたものを彼等は得たのだ

写真(右)1942年7月頃、アメリカ、ワシントンDC、4月18日に日本本土東京空襲を成功させたジェイムズ・ハロルド・ドゥリトル(James "Jimmy" Harold Doolittle)中佐を褒賞するフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領:東京初空襲の軍功でジミー・ドーリットル中佐は2階級特進、准将に昇進した。右端には、陸軍参謀総長ジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニア(George Catlett Marshall, Jr.:1880-1959)大将。
Jimmy Doolittle and Franklin Roosevelt Catalog #: 15_001825 Title: Jimmy Doolittle and Franklin Roosevelt Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Doolittle, J.H. Page #: 62 Tags: Jimmy Doolittle, FDR, Roosevelt PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


生産上昇を自讚

 余は真実の誇りをもって一九四二年度の国家生産を報告することが出来る、わが一九四二年度の飛行機、戦車の生産は数量的には目標に達しなかった、軍用飛行機の生産は四万八千台、しかしこれはドイツ、日本、イタリヤの生産を合したものよりなお大なるものである、去る十二月中の生産は五千五百台に上っており、かく生産率は急速に上昇しつつある状態である、その性能の向上もまた実に驚異的なものがある、戦争の生産目標は改訂されたがそれはよりよきしかも十分なる理由に基づいたものであった、

P-40 軍用自動車、戦車、自動砲の生産は五万六千台、また機関銃は六十七万挺—これは一九四一年度生産に比して六倍に当る、対戦重砲が二万一千門で一九四一年度の六倍、小銃弾一千二十五億個で一九四一年度の五倍、大砲弾が十八億一千万個で一九四一年度の十二倍という状況である、正に[1940年12月28日]デモクラシーの兵器廠[arsenal of democracy]は快調を示しているといえるではないか、更条首相ならびにヒットラー総統は頽廃的にして非能率的な民主主義がかくの如き多数の武器と軍隊を作り出すことを説明するに困難を感じていると余は確信する

戦後のことを語るのは未だ時期尚早であるということはしばしば聞くのであるが余は決してそうは思わない、要は戦後のことは解決を迫る問題というのではなく研究されなければならない課題なのである、われわれの国が今戦っているのは悪を懲らしめるためばかりでなく望ましきものをかち得るためであるわれわれは米国の偉大なる過去を保存し、より偉大なる将来を築き上げるために戦っているのである、

しかし全世界にわたる経済の安定なくして恒久的平和はあり得ない、単に米国のみでなく全世界に経済と生活の安定がもたらされないかぎり直の平和はあり得ない、第四の自由は恐怖からの自由である、今度平和がもたらされるときにはまた十年、二十年ないし五十年のうちに再び戦争の惨禍をみないよう確固たる平和を打ちたてねばならぬ、未来の戦争はその規模において、その残忍性において現在の戦争を遥かにしのぐものである、

ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦 われわれは決してわれわれの子供たちまでもその成人したときにかかる残忍な戦争に追いこむことを断じてしてはならない、われわれの敵の牙は二度と生えないように根こそぎ引き扱かれなければならない、もしドイツ、イタリヤおよび日本に軍備あるままで存続することが許されるか、または平和条約締結にあたって再軍備を容認すれば彼らは必ずや再び世界征服の野望をいだくにいたるであろう、戦争再発防止のためには彼らは武装を解除されねばならぬ、前世界大戦後における平和はその理想と理論において誤っていた、純なる意図のみでは不十分なのである、

反枢軸側諸国は相互に結びついた世界大多数の人口を代表する諸勢力の強大なる団結であり如何なる攻撃に対してもまさに鉄壁の布陣である、反枢軸諸国民は"汝貪るなかれ"というモーゼの十戒を蹂躪せんとしつつあるドイツ、イタリヤおよび日本を打倒しなければならぬ、数軸国の哲学こそは人類に対する恐るべき侮辱に根ざせるものである、

今次戦争は人類を信ずるものと然らざるものとの間の戦いであり独裁者と反独裁者との戦いである、余はこの戦争がいつ終るかを予言しようとは思わない、しかし本年こそはベルリン、ローマおよび東京への道に堂々の進軍を約束するものである、第七十八議会は世界の将来を救わんがための集いである、さればわれらすべて確信に満ち今後における闘争のための努力を暗加しようではないか、国民の意志は強固である(米大統領東京進攻を呼号 : 我が戦力に笑止の評価引用終わり)

[NHKスペシャル] “大東亜共栄圏”占領下の人々の本音は 東南アジアで揺らぐ日本の統治 | 新・ドキュメント太平洋戦争 1942 大日本帝国の分岐点(後編) | NHK

1−2.独、戦力増強大動員 : 美容院、酒場、料理店等は閉鎖 : 「全体戦争」への強制労務令大阪朝日新聞 Vol: 第 13巻 Page: 197 出版年 1943-02-03

【上海特電二日発】 一月二十八日公布されたドイツの強制労務令は盟邦ドイツの鋼鉄のごとき決意を中外に示すものとして注目され、その実際的運用は各方面の関心をひいているが、ベルリン発トランスオツエアン電は二日これにつき次のごとき興味ある報道を行っている 美容院の助手は弾薬製造工場の砲弾用旋盤を廻し、また宝石商は航空製作工場でその長年の熟練を利用するであろう、これは「全体戦争」のスローガンの下に計画された多くの措置の一例である、

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)とが食堂車で会談した。中央は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥 ;ヒトラー乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード: KE+IX)
マンネルハイム元帥は、第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドは枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥は、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を望んでいた。1942年6月時点で、ドイツはヨーロッパを支配しており、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムもフィンランド国民も、いまこそソ連弱体化の最大の機会であると考え、冬戦争でソ連に奪われた領土の奪還、共産主義ボリシェビキのソ連打倒を目標に対ソ連継続戦争を自らはじめ、ドイツに続いてソ連に侵攻した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Aineistotyyppi?Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04 Aiheet 1942-06-04
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15850引用。


Keitel 目下国防軍総監カイテル[Wilhelm Keitel]元帥、無任所相ハインリッヒ・ラムマース氏、マルチン・ポルマン氏らのお歴々が国内戦線のいかなる方面から総動員に必要な人的資源を浮かせるべきかと慎重に検討中である、すべての事業は戦争に必要であるか否かという角度から厳密に検査を受けつつある、

この点に関し不必要と信ぜられるものの中には美容院、酒場、ナイトクラブ、高級レストラン、時計の修繕を行わない宝石店などがある、ベルリンの有名な高級レストランは一日閉店し、その従業□工業へ廻した、また□の定期刊行物はいまなお数千を数えるが、その五分の一は停刊することになった、

楽器製造工場はそのまま軍需生産へ編成替されるであろう、また代理店の外交係や販売係が御得意廻りをすることがなくなり、株式会社の理事会も今後は開かれないから旅行者の数は減るであろう、

花屋や婦人服装店はこれをどの程度まで残すかは目下慎重考慮中とある、戦争に直接の重要性を持たぬ組織、団体は戦争のすむまで機能を停止することになり、中には学校教員、弁護士、技師などの職業的団体も含まれている(独、戦力増強大動員 : 美容院、酒場、料理店等は閉鎖 : 「全体戦争」への強制労務令引用終わり)

1−3.日本が第一の敵 : 米国輿論調査の結果大阪毎日新聞 Vol: 第158巻 Page: 97 出版年 1943-02-26

【ブエノスアイレス二十四日発同盟】ワシントン来電=ギャラップ輿論調査所は最近「米国の第一の敵は何国か」との質問のもとに全国の輿論を調査したが、二十四日発表された結果によれば
 日本五三パーセント、ドイツ三四パーセント、未決定一三パーセント
となり、日本を第一の敵とする米人が圧倒的多数を占めている、同輿論調査所の一九四二年六月の調査ではドイツ五〇パーセントに対して日本二五パーセント、未決定二五パーセントを示していた(日本が第一の敵 : 米国輿論調査の結果引用終わり)


図(上)1943年頃、アメリカ海軍モンタナ級戦艦(Montana Class Battleship)側面図
:1940年5月、同型艦モンタナ (BB-67) オハイオ (BB-68) メイン (BB-69) ニューハンプシャー (BB-70) ルイジアナ (BB-71)の5隻を計画したが起工しないうちに1941年12月の太平洋戦争が勃発、1943年に全艦建造中止。排水量63,221t、全長 925 ft(281.94 m)、全幅 120.8 ft(36.779 m)、最高速力 28 kn 、乗員 2,355 名、兵装 16インチ(406 mm)/50口径Mark 7三連装砲塔4基12門。
English: line drawing of Montana class battleship Date 6 November 2011 Source USS Montana line drawing.jpg Author MHz`as
写真はWikimedia Commons, Category:USS Kentucky (BB-66) File:USS Montana line drawing.svg引用。


サラトガ 1−4.基地航空隊主義へ : 米海軍三転す大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 75 出版年 1943-03-06

【ブエノスアイレス四日発同盟】米海軍は戦前の戦艦中心主義から空母中心主義となり、さらに陸上基地航空隊主義に三転したが這般の事情をアメリカン・マガジン誌はつぎのように伝えている

 海軍は一九四二年六月陸上機ならびに基地建設費として予算局の主張する一億七千五百万ドルを強引に三億三千九百万ドルに増加させたが、下院陸軍委員コステロの発表によると一九四三年の陸軍飛行士養成計画四万名に対し海軍は陸上機のみでも三万名の養成を計画しているといわれる、

さらに一九四十二年夏には戦艦三隻建造追加計画をも破棄して陸上機および基地建設に振替えた、右三隻のうち[モンタナ級戦艦]メン[USS Maine(BB-69)]、ニューハンプシャー[USS New Hampshire(BB-70)]両艦はすでに建造準備に取りかかっていたので中止した結果おそらく数百万ドル損したことと思われるまた一九三八年着工、四三年完成予定の戦艦のうち若干も中止になっており、たとえば[アイオワ級戦艦]ケンタッキー[USS Kentucky(BB-66)]のごとは現在ノーフォーク海軍基地でそのままになっている(基地航空隊主義へ : 米海軍三転す引用終わり)

写真(右)1943年頃、アメリカ、バージニア州ノーフォーク海軍工廠、建造中のアイオワ級戦艦6番艦ケンタッキー(Kentucky (BB-66)):1940年9月9日発注、1942年3月7日起工、1950年1月20日進水。5番艦イリノイ(USS Illinois)と同じく建造中止、1958年10月スクラップとして売却。第二次大戦後の1946年2月公開の写真。排水量46,000t、全長 887 ft 3 in (270.43 m)、全幅 108 ft 2 in (32.97 m)、最高速力 33 kn (38 mph; 61 km/h)、乗員 将校151名、下士官兵 2,637 名、兵装9 × 16インチ(406 mm)/50口径Mark 7
Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. USNHC # 80-G-701942 Kentucky (BB-66) under construction at the Norfolk Navy Yard, Virginia. Photograph was released for publication in February 1946. www.navsource.org
写真はWikimedia Commons, Category:USS Kentucky (BB-66) File:USS Kentucky construction.jpg引用。


写真(右)1940年以降、イギリス、飛行中の迷彩塗装のイギリス空軍ホーカー(Hawker)ハリケーン(Hurricane)Mk. IID戦闘機:Mk. IIDは地上襲撃用に左右主翼に40 mm 機関砲2門を装備。ハリケーンの初飛行は1935年11月6日、生産数1万4,583機。
15_002619 Hawker Hurricane Mark II Z2326 Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft." PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System..
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


1−5.英空軍の現勢 : 月産三千機が精一杯 : 急降下爆撃機なく輸送機不足大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 88 出版年 1943-04-02

ハリケーン 【リスボン茂木特派員三十一日発】英空軍の現有勢力は北阿上陸前の発表によると英本土に約五千機、ジブルタルラ[Gibraltar]二百機マルタ[Malta]百五十機キプロス島[Cyprus]百機、印度三百機といわれていたが、現在その配置の上に相当変更が加えられていることは勿論だ、

しかしこの数字から英空軍がいなかる点に重点をおいているかは一見してわかる、英本土防衛と欧大陸爆撃は依然として彼らの主要任務であり、北阿は彼らの主要戦場である独ソ戦以来独空軍の主力が東方戦場に出動し対英爆撃が下火となるとともに英本土にある五千機の主要任務は本土防衛から大陸爆撃に移った観があり、殊に独潜水艦基地や独本土のブレーメン、ウィルヘルムスハーフェン[Gibraltar]また潜水艦工場所在地たるニュールンベルグ、コペンハーゲン等に爆撃を集中しつつある

写真(右)1940年以降、イギリス、飛行中の迷彩塗装のイギリス空軍デ・ハビランド DH.98 モスキート(de Havilland DH.98 Mosquito)高速偵察爆撃機:ロールスロイス・マーリン液冷12気筒エンジン2基を装備するモスキート試作1号機(No.W4050)を1940年11月25日に初飛行させた。モスキートの初飛行は1940年11月25日、部隊配備は1942年5月開始、各種合計7,781機が量産された。
De Havilland DH-98 Catalog #: 00078141 Manufacturer: De Havilland Designation: DH-98 Official Nickname: Mosquito
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1943年、イギリス、飛行中のイギリス空軍デ・ハビランド FB.Mk.VI モスキート(Mosquito)戦闘爆撃機'NA-A'(A52-500):機首に 7.7 mm ブローニング(Browning)機関銃4挺(携行弾薬数:2000発)、20 mm イスパノ(Hispano)機関銃4挺(携行弾薬数:600発)装備。モスキートの最初の戦闘爆撃機はF Mk. IIで、初飛行は1943年2月。戦闘爆撃型FB Mk VIは2,718機が量産されたが、これはモスキート派生型で最多生産数である。
15_002555 Dehavilland Mosquito Merlin Engine Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft." Batman_60 9y De Havilland Mosquito FB.Mk.VI A52-500 'NA-A' 1 Squadron RAAF, wrecked in a take-off crash at Labuan on August 11 1945. Click here for a look.
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1943年頃、イギリス、整備中のイギリス空軍デ・ハビランド FB.Mk.VI モスキート(Mosquito)戦闘爆撃機:機首上部に 7.7 mm ブローニング(Browning)機関銃4挺(携行弾薬数:2000発)、機首下部に20 mm イスパノ(Hispano)機関銃4挺(携行弾薬数:600発)装備。スピットファイア戦闘機と同じロールス・ロイス・マーリン V12気筒液冷エンジン1,275 kW (1,710 hp)のエンジンカバーを外して整備している。
perma_001955 Perman Collection Image de Havilland Mosquito--Repository: San Diego Air and Space Museum.
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1940年以降、イギリス、飛行中の迷彩塗装のイギリス空軍スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk.V戦闘機:スピットファイアの初飛行は1936年3月5日、部隊配備は1938年8月4日開始、合計20,351機が量産された。Mk. Vは左右主翼にイスパノスイザ20mm機関銃2挺(携行弾数各60発)、7.7 mm 機銃4挺を装備、6,595機が生産された。
Spitfire V'S SDASM CATALOG #: Blaine_00388 Title: Spitfire V'S Collection: Miles Blaine Collection Repository : San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


カラー写真(右)1944年9月以降、オランダ領インドシナ(蘭印)、モルッカ諸島ハルマヘラ島沖、オーストラリア空軍第71戦術偵察飛行隊スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)戦闘機:アメリカ軍とオーストラリア軍が1944年9月15日にモロタイ島へ上陸したが、日本軍はゲリラ戦で消極的抵抗を行った。ハルマヘラ島から日本陸軍船舶工兵第18連隊の大発動艇10隻による逆上陸が行われ、モロタイ島のゲリラ戦が続けられた。
Charles M. Daniels Collection Photo Catalog #: 15_000028 Title: Charles M. Daniels Collection Photo Aircraft/Subject: Supermarine Spitfire Daniels Album Name: 71st Tactical Reconnaisance Group Reunion, 10/1990 Houston, TX Notes From Album: Australian Spitfire night fighter & pilot, Morotai, 1944. (P-61s weren't hacking it). Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


戦闘機重視主義修正

今までとって来た英空軍の戦闘機重視主義もやや修正を見て、爆撃機にも戦闘機同様力瘤を入れ出したのは注目される、英空軍は開戦以来敗戦に追われつつ質的、量的向上に猛烈なスピードをかけざるを得なかった

 大体フランスの降伏までは対空防禦もフランス任せの観が強く戦闘機の如きもフランスに引摺られていたといってよい、フランス降伏以来一九四〇年夏あのドイツの対英爆撃が頂点に達し、いわゆる英本土の危機に逢着して英国は初めて戦闘機の増産に努力を傾け出したのである、以来米国の参戦を経て今日まで英空軍の戦闘機第一主義は原則として変らず、生産の上においても現在米国は爆撃機、英国は戦闘機という分業が行われているわけだが、最近では更に爆撃機特に奇襲用昼間軽爆撃機『モスキートー[Malta]』の如きものの製造に熱中しつつある

英空軍を生産の方面から見ると、月産額は昨年九月頃には二千四百機といわれ、本年六月生産が頂点に達する場合はその数三千機になると称している、ただしこの中には練習機も相当に含まれているから三千機というのはまず英飛行機生産能力の限度と見てよい、もともと一九三七年の軍備拡張以来例の「影の工場」によってモリス、オースチンなど五大自動車会社に飛行機の部分品製造を請負わせ、空軍拡張に乗出したのだが、いざ大戦となって蓋を開けてみると生産能力は月産六百という心細い有様であった、そこで飛行機だけは特別に独立に飛行機生産省を設置し、増産にこれ努めた結果、昨年に至ってようやく当初の四倍の月産二千四百機に漕ぎつけ、米国よりの輸入量の約三倍方をソ連並に西亜へ廻すようになって来たというわけである

写真(右)1942年、イギリス、低空飛行する迷彩塗装を施したイギリス空軍スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk.Vb戦闘機 "Bondowoso" (BL676):機首下面の空気取り入れエアインテークに砂塵濾過フィルターを装備している熱帯仕様である。スピットファイアMk.Vbは、主翼に20 mm 機関銃2挺、7.7 mm 機関銃4挺を搭載、合計3,923機が量産された。
Supermarine Spitfire Mk.Vb, BL676 SDASM.CATALOG: 01_00092594 SDASM.TITLE: Supermarine Spitfire Mk.Vb, BL676 SDASM.CORPORATION NAME: Supermarine SDASM.DESIGNATION: Spitfire SDASM.TAGS: Supermarine Spitfire Mk.Vb, BL676 Supermarine Spitfire Mk.Vb, BL676 Aircraft after conversion by Air Service Training Ltd., Hamble. Extra Dark Sea Grey/Dark Slate Grey/Sky finish with Sky spinner and rear fuselage band. A1 type RAF roundels on fuselage, B-type above wings.
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1940年、ダグラスA-20 ハボック(Douglas A-20 Havoc)爆撃機:ダグラスDB-7は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-1830-S3C3-G ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン1,100 hp (820 kW)装備で爆弾搭載量は2,000 lb (910 kg)で、1938年10月26日初飛行した。1939年1月23日にDB-7試作機は事故で破損したが、アメリカ訪問中のフランス軍使節団は、1939年2月に100機のDB-7を発注し、1939年10月にはDB-7の発注を170機に引き上げた。DB-7は、爆弾搭載量 1,410 lb (640 kg)、過重状態で1,800 lb (800 kg) となったが、フランス軍制式の7.5mm MAC 1934機関銃を、機首固定機銃として4挺、後上方旋回機銃として1挺配備した。しかし、1940年6月にフランスは降伏したために、これらのDB-7はイギリス空軍に引き渡され「ハボック」(破壊者)と命名された。
Havoc Douglas A-20A PictionID:40972784 - Title:Havoc Douglas A-20A - Catalog:15_002767 - Filename:15_002767.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."----SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1944年、ダグラスA-20 ハボック(Douglas A-20 Havoc)爆撃機:アメリカ陸軍向けには発動機の出力向上しライト(Wright)R-2600ツイン・サイクロン(Twin Cyclone)空冷14気筒エンジンにし換装したA-20が制式された。ただし、A-20は、ターボ過給機付きR-2600-7エンジン 1,700 hp (1,300 kW) 、A-20Aは過給機付き R-2600-3エンジン1,600 hp (1,200 kW)装備である。イギリスは、1940年4月、300機のDB-7B、すなわちA-20Aを発注している。
15_002640 Supermarine Spitfire M.XII Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft." PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System. Mk XII This is a No 41 Sq aircraft and they did not operate any Mk XI Stig
写真は, SDASM Archives・引用。


米の資本に頼る生産

A-20ハボック 生産上最も注目される点は米英側の軍需生産のすべてがそうであるが、飛行機についても英国の生産だけを切離しては考えられず、資本、経営、技術すべて米国との協力のもとに行われているということだ、フランスを同盟国としている間はフランスを頼りフランス敗れた後には米国の資本に頼っているのが英空軍である、

このほかカナダの飛行機生産も馬鹿にならぬ、昨年十一月の発表では生産額約五千機と称している、但しカナダは英空軍の操縦士の訓練を一手に引受けているから主として練習機を製造しているが、本年の分は余裕が出来たので軍用機にも手をのばすといわれている、一方米国の飛行機生産は最近の発表では月産五千四百九十機というから米、英、カナダを合せ練習機をも含めて月産約八千九百機という勘定になる。

写真(右)1944年、イギリス、イギリス空軍スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk XII 戦闘機(EB-;NB8):主翼先端がカットされ、全幅が縮小された、プロペラは3翅から5翅に変更された。Mk.IXはエンジンをマーリンからグリフォンに換装し、試作1号機は1942年10月に完成している。
15_002640 Supermarine Spitfire M.XII Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1944年、イギリス、イギリス空軍スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk XII 戦闘機(AU-H;NH188):主翼先端がカットし、エンジンをマーリンから高出力の大型グリフォンに換装し、速力向上を図った。生産機数100機で終わった。1943年12月20日には後継機Mk. XIVが完成した。機首の延長、プロペラ枚数の増加(5翅)、安定性を回復するため尾翼を大型化した1号機が完成している。総生産数957機。
Supermarine, Spitfire Catalog #: 01_00088417 Manufacturer: Supermarine Official Nickname: Spitfire Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1944年中ごろ、イギリス、飛行中の迷彩塗装のイギリス空軍ホカ―(Hawker)タイフーン(Typhoon)1B戦闘機:主翼下面に白黒の味方識別マークを記入している。スピットファイアのマリーンエンジンよりも強力なネイピア・セイバー2A液冷H24気筒エンジン(排気量36.7 L)2000hpを搭載し、1941年9月11日に初飛行した。当初はエンジンの不調に悩まされたが、空力学的な武骨さはあっても、1941年後半から部隊運用に入り、頑丈な機体として、低高度用戦闘機、地上襲撃機ヤーボとして活躍した。全長: 9.73 m 全幅: 12.66 m 全高: 4.65 m 主翼面積: 25.92 m2 全備重量: 5,030 kg 発動機: ネイピア・セイバー2A(Napier Sabre) エンジン 出力: 2,180 HP 最大速度: 648 km/h 実用上昇限度: 10,200 m 航続距離:1,600 km 兵装: 20mmイスパノ(Hispano-Suiza)HS.404機関砲 4門、450 kg 爆弾 2発、3,317機が量産された。
https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7585381466/in/photolist-cyi5cC-cyi4D5-cyi4J9-cyi5dG-cyi53J-cyi5as-cyi51E-cyi5d1-cyi4uU-cyi4Fs-cyi4QW-cyi4Pj-cyi4YA-2n2BDu5-2n36MJq-2gghPJx-q8vTKJ-q8nUdM-q8vTLq-pbDbGB-pR229a-e6Dd6q-cyi4Aq-2n2BDyU-pbAnBj-2n4Ubza-nA46zb-nAg9j8-q6gs2o-rPHzBa-qSVEYr-e5iKGs-2gghPGy#:~:text=Hawker%2C%20Typhoon%201B,Space%20Museum%20Archive
写真はSmugMug+Flickr. San Diego Air and Space Museum Archive引用。


第一 戦闘機

スピットファイヤ  大戦当初においては僅かに三八年型スピットファイヤーを持っていたのみであったが、その後スピットファイヤーには最新式の九型というのが出来、その他ハリケーン二Bハリケーン二C、さらに夜間戦闘機には長距離機として英国が世界最優秀と自称するボーファイターが出来ている、現在戦闘機で最も問題とされているのは如何にして搭載の機関銃の数を増し、如何にしてその口径を大にするかという問題、いいかえると敵爆撃機の装甲の厚さとの競争である、機関銃の数の競争では最初スピットファイヤーは独仏の六挺に対し四挺を持つにすぎなかったが、開戦後直に改良して八挺となった、これが独空軍の猛爆を防ぎ得た主要原因とされている、現在のハリケーン二C型は機関銃十六挺を備えている、機関銃の数の競争では最初スピットファイヤーは独仏の六挺に対し四挺を持つにすぎなかったが、開戦後直に改良して八挺となった、これが独空軍の猛爆を防ぎ得た主要原因とされている、現在のハリケーン二C型は機関銃十六挺を備えている、機関銃の数の競争から口径の大きさに移ったのはこれも一九四〇年夏ドイツの対英爆撃を境としている、

スピットファイヤ つまり英国のスピットファイヤーの機関銃に対して独爆撃機の装甲が次第に厚くなるとともに英国でも十二ミリから十五ミリ、二十ミリ、更に三十七ミリ機関砲まで飛出すことになったのである、今日ではもはや二十ミリ機関砲は戦闘機の常識でありスピットファイヤ三型は[イスパノ(Hispano-Suiza)HS.404]二十ミリ機関砲二門、機関銃四挺、ハリケーン二Cは[イスパノ(Hispano-Suiza)HS.404]二十ミリ機関砲四門、ボーファイターは二十ミリ機関砲四門、機関銃四挺を備えている、これに対しドイツのメッサーシュミット一一〇[双発戦闘機]は[マウザー(Mauser)MG 151/20]二十ミリ機関砲二門、機関銃四挺、メッサーシュミット一〇九F一は[マウザー(Mauser)MG 151/20]二十ミリ機関砲一門、メッサーシュミット二〇九は[マウザー(Mauser)MG 151]十五ミリ機関砲四門、機関銃二挺である、但し速力ではメッサーシュミットが断然英国機を圧している。

ブリストル・ボーファイター 第二 爆撃機

 前述の如く独爆撃機に対し守勢に立った英国は戦闘機第一主義で今日まで来たのであるが、爆撃機でも今日では相当の域に達している、重爆としては ランカスター[Avro Lancaster]、ハリファック[Handley Page Halifax]、スターリング[Short Stirling]、米国製のボーイングB一七型の四種を主としているが、このうちランカスターは爆弾搭載力八トンといわれ英国が世界最優秀重爆と自称するものである、ところがこれらの重爆のうち前三者は夜間爆撃機で欧大陸爆撃のためには夜の短い期間活動ができないし、米国のB一七型「空の要塞」は、大戦闘機部隊を伴わねばならぬという不便がある、そこで最近英国が力を入れ始めたのが、昼間大爆撃機モスキートーだ、これは軍用機としては珍しく全木製で、重量軽く、速力が速いので昼間の奇襲的空爆に適しており、最近のベルリンの昼間空襲はこのモスキートーでやっている。

VICKERS WELLINGTON 漸く独空軍の水準に

大体以上の如く戦闘機においても爆撃機においても大戦後三年にしてどうやら独空軍の水準に達し得たのであって、それは特にフランス敗戦以来国家の存亡を賭して死物狂いで空軍増強に努めた結果にほかならぬ、北阿英第八軍の攻勢ができたのも、英空軍の強化によるものと英国人は信じている、今日彼らがなおドイツに及ばざる点として挙げているのは、第一に輸送機の不足で、これが北阿上陸後直ちにチュニジア作戦を開始し得なかった主因として地団駄踏んでいる、第二には急降下爆撃機をもたぬことで、これについては米国から供給を受けることになっているが、まだ英国には入っていないようである。

空、海軍両省の摩擦

英空軍の組織は空軍省のもとに英本国司令部と海外駐屯軍とに分れ、前者の下に爆撃機隊、戦闘機隊、沿岸防空隊、陸軍協力隊、海軍協力隊、飛行訓練隊、技術訓練隊、地上勤務隊、気球部隊、北アイルランド部隊等が所属し、海外駐屯軍はマルタ、パレスチナ、トランスヨルダン、西アフリカ、イラン、アデン印度の諸□□地区に分れている、組織上で大戦以来の問題は空軍省と海軍省との摩擦である、即ち海軍省側では、機材も操縦士も空軍省の命令下にあるのは海軍独自の作戦上非常に困ると再三苦情を述べ、その結果操縦士は海軍の指揮下に入ることとなったが、それでも海軍は承知せず、議会でも未だに問題を蒸し返しているが今のところまだ海軍空軍が独立するまでの空気は見えていない。(英空軍の現勢 : 月産三千機が精一杯 : 急降下爆撃機なく輸送機不足引用終わり)

写真(右)1944年9月、イギリス、イギリス空軍のアメリカ製ダグラス(Douglas)ダコダ(Dakoda)輸送機:アメリカが量産したDc-3輸送機軍用仕様C-47輸送機をイギリスが貸与され使用した。
Douglas : C-47 : Skytrain Catalog #: 00013170 Manufacturer: Douglas Designation: C-47 Official Nickname: Skytrain Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1944年9月、イギリス、イギリス空軍のアメリカ製ダグラス(Douglas)ダコダ(Dakota)III (661)、元はC-47A スカイトレイン(Skytrain)輸送機(42-24338):アメリカは、この生産したDC-3輸送機軍用仕様C-47輸送機を1943年9月16日、カナダ空軍(RCAF)に貸与し、さらにカナダからイギリスに譲渡された。
Douglas, C-47A, Skytrain Catalog #: 01_00091375 Title: Douglas, C-47A, Skytrain Corporation Name: Douglas Aircraft Designation: C-47A Official Nickname: Skytrain Additional Information: USA, Originally built for USAAF, sn 42-24338. To RCAF Sep 16, 1943 as Dakota III 661. When it was sold to the British
写真は, SDASM Archives・引用。


写真(右)1941年頃、大西洋方面、飛行甲板にフェアリー ・アルバコア霊撃機を搭載し航行するイギリス航空母艦ビクトリアス (HMS Victorious) :起工 1937年5月4日 進水 1939年9月14日 就役 1941年3月29日 排水量 竣工時:29,500 トン 改装後:35,500 トン 全長 竣工時:225 m 改装後:230 m 全幅 竣工時:29 m 改装後:31.4 m 吃水 竣工時:8.5 m 改装後:9 m 推進 3軸 出力 111,000 shp 最高速力 30.5 ノット (57 km/h) 航続距離 11,000カイリ/14ノット時 乗員 2,200 名 兵装 連装4.5インチ砲8基 搭載機 42機。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937256 - Catalog:16_007117 - Title:HMS Victorious - Filename:16_007117.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1943年5月、フィリピン、マニラ、三菱 キ57 百式輸送機(MC-20)で飛来した内閣総理大臣東條英機首相(1880 – 1950):東條首相は、1943年3月に満州(執政溥儀)と中華民国(汪兆銘)、5月フィリピン(ラウレル)、6ー7月タイ(ピブン)、昭南島(シンガポール)、クチン(ボルネオ島)、インドネシアを歴訪した。その後、1943年11月に東京で大東亜会議を開催、ビルマのバー・モウ、満州の張景恵、中国の汪兆銘、タイのワンワイタヤーコーン殿下、フィリピンのホセ・ラウレル、インド仮政府スバス・チャンドラ・ボースを招待し大東亜共同宣言を採択した。
English: Japanese Prime Minister Hideki Tojo landed in Nichols Field, an airfield south of Manila, for state visit to the Philippines. 日本語: 視察に訪れた陸軍大将東條英機(中央)に対し、出迎えの陸軍将校・陸軍軍属高等官一同(手前列)が「敬礼」を行う姿。陸軍大将(東條)はその「敬礼」に対し「答礼」を行っている。マニラ(フィリピン)1943。 Date 1943 Source Kasaysayan: Story of the Filipino People Volume 7. Source 2: [1] Author Reader's Digest, TT News Agency
写真は Wikimedia Commons, Category:Hideki Tōjō File:Hideki Tojo lands in Manila.jpg引用。


写真(右)1943年頃、迷彩塗装を施した舗装滑走路上の三菱 キ57 百式輸送機(MC-20):日本陸軍九七式重爆撃機(キ21)の主翼を流用して、発動機を小型のハ102空冷星型14気筒(離昇出力1,080hp)に換装し、胴体を太くした軍用輸送機で1940年8月初飛行。全長: 16.10 m 全幅: 22.60 m 全高: 4.90 m 翼面積: 70.08 m2 空虚重量: 5,585 kg 最大離陸重量: 9,120 kg 最高速力: 470 km/h 航続距離: 3,000 km 搭乗員 4名 + 乗客 11名
Mitsubishi, Ki-57,e Topsy (Army type 100 Assualt Plane) Catalog #: 01_00085916 Title: Mitsubishi, Ki-57, Topsy (Army type 100 Assualt Plane) Corporation Name: Mitsubishi Official Nickname: Topsy (Army type 100 Assualt Plane) Additional Information: Japan Designation: Ki-57 Tags: Mitsubishi, Ki-57, Topsy (Army type 100 Assualt Plane)
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1942年6月ー1943年9月、アメリカ、アラスカ準州アリューシャン列島、海上迷彩塗装のアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5 カタリナ(Catalina)飛行艇の前半分:機首に設けられた銃座には、.30口径7.62mm ブローニングAN/M2 機関銃×2 (弾薬合計1,500発) が装備されている。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-101 WWII Activities of a PBY Squadron - Inspecting Engines. 80-GK-14822.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-4 カタリナ(Catalina)飛行艇の諸元

全長 65ft 10in (20.07m)
全幅 104ft (31.7m)
全高 18ft 6in (5.64m)
翼面積 1,400ft2 (130.06m2)
空虚重量 14,999lbs (6,803kg)
離陸重量 29,244lbs (13,265kg)
発動機 プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)1,050hp2基
最高速力 194mph/12,000ft (312km/h 高度3,658m)
航続距離 4,110mile (6,614km)
兵装 ブローニングAN/M2 12.7mm機関銃×2 (弾薬合計800発) + ブローニングAN/M2 7.62mm機関銃2挺 (弾薬合計1,500発)、爆弾 1,000/500ポンド(lbs)爆弾×4発あるいは325ポンド(lbs)爆雷×4発。

写真(右)1942年6月ー1943年9月、アメリカ、アラスカ準州アリューシャン列島、海上で待機しているアメリカ海軍航空隊コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5A カタリナ(Catalina)飛行艇:1942年6月に採用された国籍マーク(青丸白星、両側の袖なし)が描かれている。胴体左右に設けられた涙滴状ブリュスター側方銃座には、.50口径12.7mm ブローニングAN/M2 機関銃×2 (弾薬合計800発) が装備されている。ブリュスター側方銃座の空気抵抗は、低速飛行であればそれほど大きくならないので、視界と射界を確保するには好都合である。
WWII-Kodachrome-images-from-National-Archives-95 WWII PBY Squadron on Airfield. 80-GK-14894.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


アメリカ軍の国籍記章は
(1)第二次大戦以前・アメリカ参戦前・太平洋戦争緒戦:青丸に白星、中央に小さな赤丸、垂直尾翼方向舵に赤白ストライプ
(2)太平洋戦争初期・1943年6月以前:青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白ストライプは廃止
(3)1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
(4)1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
(5)第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

写真(右)1943年6月以降、フィリピン、簡易舗装滑走路で離陸の準備をするカナダ製エンジン整備中の舗装滑走路上のアメリカ海軍航空隊第31哨戒飛行隊(VP-31)コンソリデーテッド(Consolidated)PBY-5A カタリナ(Catalina)飛行艇(OA-10A-V1):PBYは、アメリカからイギリスに供与されただけでなく、カナダのヴィッカース工場でPBY飛行艇ライセンス生産された。太平洋戦争の勃発直前、1941年12月7日、哨戒飛行中にマレー半島奇襲攻撃のために航行していた日本軍艦船・輸送船団を発見したのはイギリス軍のPBY飛行艇で、日本軍輸送船団発見を無電連絡した。ただし、戦争勃発前なので、中立国タイに向かう部隊の可能性もあり、イギリス軍は攻撃命令を出さなかった。他方、上空護衛の日本陸軍九七式戦闘機は、攻撃計画の露見防ぐために、PBYを銃撃、撃墜した。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-58 U.S. Army OA-10A-V1 waits on alert in the Philippines. This derivative of the PBY-5A was built under license by Canadian Vickers..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


PBY カタリナ コンソリデーデット(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇の諸元
乗員Crew: 8
全長Length: 63 ft 10.875 in (19.47863 m)
全幅Wingspan: 104 ft (32 m)
全高Height: 21 ft 1 in (6.43 m)
翼面積Wing area: 1,400 sq ft (130 m2)
空虚重量Empty weight: 20,910 lb (9,485 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 35,420 lb (16,066 kg)
発動機Powerplant: 2 × プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)空冷14気筒エンジン1,200 hp (890 kW) each
プロペラPropellers: 3-翅定速プロペラ(constant-speed propellers)
最高速力Maximum speed: 196 mph (315 km/h, 170 kn)
巡行速力Cruise speed: 125 mph (201 km/h, 109 kn)
航続距離Range: 2,520 mi (4,060 km, 2,190 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 15,800 ft (4,800 m)
上昇率Rate of climb: 1,000 ft/min (5.1 m/s)
翼面荷重Wing loading: 25.3 lb/sq ft (124 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.067 hp/lb (0.110 kW/kg)
兵装Armament: 3 x .30 cal (7.62 mm)ブローニング機関銃 (機首回転銃座・尾部銃座)
2 x .50 cal (12.7 mm) ブローニング機関銃 (胴体後方左右ブリュスター(blister))
爆弾Bombs: 4,000 lb (1,814 kg)

写真(右):1942-19463年、アリューシャン列島上空を哨戒するコンソリデーデット・PBY-5A "Catalina"カタリナ飛行艇。;1943/5/13:シカゴウ湾の北東5マイル海上に,0600,潜水艦が浮上。伊31と思われる敵潜水艦に駆逐艦「エドワード」DD-316は発砲し,撃沈。5マイル四方にディーゼル油が流れ広がった。この飛行艇(no. 51 :BUNO 33969)は、1944年1月17日に墜落した。1943年5月11島、アッツ島にアメリカ軍が上陸した。
Title: Consolidated PBY-5A "Catalina" patrol bomber Caption: On a patrol flight over a snow-covered Aleutians Island, circa 1942-1943. Note: this aircraft, no. 51 (BUNO 33969) crashed 17 January 1944 at Massacre Bay, Attu. Description: Catalog #: 80-G-K-15434 Copyright Owner: National Archives
写真はU.S. Navy web site 80-G-K-13763 Massacre Bay, Attu Island 引用


The Forgotten Theater US Submarine Operations in the Aleutiansによれば,アリューシャン方面では1942-1943年の2年間で,1000人以上のアメリカ海軍潜水艦乗員が任務についた。苦労が多かった割には戦果は少なかった。 アラスカ戦線での80回以上の哨戒でたったの日本艦船撃沈(確実)はたった9隻に過ぎない。この四分の三は,真珠湾を基地とした哨戒であり,それは全哨戒の八分の一である。他方,損失は 2隻であり,S-27 と S-44,そして 母艦グニオンGrunion が撃沈された。うち2隻は乗員全員死亡である。極北の海での悪天候と恐怖に米軍潜水艦乗員も,苦闘していた。


写真(上左):1942年10月中旬,アリューシャン列島アダック島のアメリカ陸軍航空隊第11航空軍軍ベルP-39-E「エアコブラ」戦闘機
:Bell P-39-E Airacobra。パイロットは,トーマス中尉(Lt Cecil A. Thomas)第42戦闘中隊所属。42nd Fighter Squadron, Adak Island, Elmendorf Air Foece Base引用。写真(上右):1942年アリューシャン列島のアメリカ陸軍航空隊カーチスP-40戦闘機:第11航空軍第42戦闘戦隊所属。Elmendorf Air Foece Base引用。



写真(上左):1942年,アリューシャン列島アダック島(?)航空基地のアメリカ第11航空軍所属のコンソリデーデットB24「リベレーター」重爆撃機
:B24-D型は,航続距離の長さと信頼性を特徴とした重爆撃機である。日本軍の占領していたアッツ島,キスカ島を爆撃した。 Elmendorf Air Foece Base引用。図(上右):1943年アッツ島南島のアメリカ軍第11航空軍第77爆撃中隊所属のノースアメリカンB25「ミッチェル」中型爆撃機:77th Bomb Squadron's B-25.機種にレーダーを装備しているが,マイクロ波の新型ではなく,長波の旧式なレーダー。日本軍には実用的な機上レーダーはなかった。濃霧の多いアリューシャン列島での使用には制約が多かった。Elmendorf Air Foece Base引用。


Elmendorf Air Foece Base:History of the Eleventh Air Forceによれば,1943年4月の期間中,アメリカ第11航空軍は,合計 延べ1,175機出撃し,771トンの爆弾を投下した。アッツ島攻略が開始された1943年5月初旬からは,悪天候のために,出撃不可能な日が多く,アッツ島抗力の約20日の期間中,わずか11日しか,航空部隊は出撃できなかった。この11日間の出撃回数は,延べ904機で,合計541トンの爆弾を投下した。 Because of the poor weather, air support was limited to 11 days during the battle. The Eleventh Air Force, however, was able to fly 904 sorties and drop 541 tons of bombs during May. Most of the effort was directed against Attu.

写真(右)1942-1943年、アメリカ、アラスカ準州アリューシャン列島、整備中の飛行場に駐機しているアメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed) P-38 ライトニング(Lightning)戦闘機(右と奥)、カーチス(Curtiss)P-40ウォーホーク (Warhawk)戦闘機(左)、コンソリデーテッド(Consolidated)PBY カタリナ(Catalina)飛行艇(左手前の尾部)
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-21 P-38s and P-40s undergoing maintenance in the Aleutian Islands.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。



1−6.アッツ島の皇軍神髄を発揮 : 敵二万邀撃、全員玉砕 : 傷病者は自決、通信絶ゆ
大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 107 出版年 1943-05-31

大本営発表 (五月三十日十七時)

一、アッツ島守備部隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処、五月二十九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは之に先ち悉く自決せり、我が守備部隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり、敵は特殊優秀装備の約二万にして五月二十八日までに与えたる損害六千を下らず
二、キスカ島はこれを確保しあり

書籍収録写真(右)1944年、日本、毎日新聞社 (1944)「軍神山崎部隊」に掲載されたアラスカ準州アリューシャン列島アッツ島守備隊長山崎保代中将:山崎保代(1891年10月17日-1943年5月29日)は、1937年10月歩兵第50連隊補充隊長、1939年3月第36師団兵器部長、1940年3月大佐昇進、1940年8月歩兵第130連隊長、1943年2月北海守備第2地区隊長、1943年5月29日アッツ島で51歳で戦死、中将に二階級級特進。
日本語: 山崎保代部隊長 Date Published in 1944 Source 軍神山崎部隊, 毎日新聞社 (1944)
写真は, 国立国会図書館デジタルコレクションおよびWikimedia Commons、Category:Yasuyo Yamasaki File:山崎保代部隊長.jpg引用。


"莞爾として死に赴く" 山崎[保代]部隊長、最後の報告 谷萩報道部長放送

谷萩[那華雄]大本営陸軍報道部長は三十日午後七時「アッツ島の血戦について」と題して放送を行い同島守備部隊の壮烈なる最期を語り多大の感銘を与えた

一億蹶起、仇敵覆滅の誓い 血涙払い、尽忠の英霊に応えよ

アッツ島守備隊のわが部隊は敵と血戦二旬ついに悉く玉砕しました、その壮烈なる最後はまことに鬼神をも哭かしむるものがあり、皇軍の神髄を発揮してあますところがないのであります、それは大楠公の湊川における戦闘を彷彿とさせるものであります

 アッツ島に上陸した米軍は約一個師団二万でありまして、戦車および優秀なる火力をもって装備され、山地および霧中の戦闘には相当の訓練を受けているものと思われます、そして有力なる艦隊及び空軍の掩護下にありました、これに対しわが方は山崎保代陸軍大佐の指揮する火砲数門を有する約二千名の寡勢でありました、

五月十二日 敵米軍は主力をもって南岸、各一部をもって東岸ならびに北岸に上陸してきたのであるがわが部隊は先ず東岸部隊を水際に殲滅しついで各方面前哨部隊を撤して同島東北角の既設陣地に拠り爾後の戦闘を継続したのである、敵は陸海空より熾烈なる砲、爆撃を反覆し、これに□接して地上よりの猛攻を繰返していたのであるが、我は好機を捕捉しては攻撃に出で、その都度これに大打撃を与えて撃退しつつあった、

五月二十七日ごろには敵は漸く陣地直前に肉薄しここに銃剣及び手榴弾等による白兵戦が展開されるにいたりました、

こういう惨澹悲壮なる状況下にありながら山崎[保代]部隊長はただの一度でも一兵の増援も要求したことがない、また一発の弾丸の補給をも願わない、その烈々の意気、必死の覚悟には誰しも感佩していたのであります、

しかも「兵馬倥偬の間過誤なきを保しがたきも、死も目前に迫りかつ通信また断絶の懼れあるをもって機を逸せず取りあえず観察せる事項を報告する」と前書して敵の編成、装備、戦法および本戦闘における教訓、将来の作戦上尊き記録を逐次詳細に報告して来ております、その心事は佐久間[勉]艇長が沈没せる艦中において死の直前まで日本潜水艦の将来を思い後に続くもののため筆を執った心境にも比すべくその忠誠心の強烈なる、責任感の旺盛なる涙なくしては読めないものがありました、その綽々たる余裕に至ってはすでに生死を超越した聖人の面影すら認められるのであります

 かくのごとくして連日連夜善戦健闘しわが部隊は終始士気極めて旺盛意気天を衝くの概がありましたが死傷は続出し、二十八日ごろには生存者すでに百数十名になりました、しかも敵は続々として新鋭部隊を補充し、特に物質的威力はますます加って参りました、ここにおいて山崎大佐は状況の推移を達観し最後の決心をとりました、それは「敵に大鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せん」というのであります、

すなわち二十九日夜暗を利し敵の主力集団を索めて最後の攻撃を敢行せんとしたのであります、これに基づく一切処置は迅速にとられたのであります、傷病者にして参加し得ざるものは攻撃発起に先立ちことごとく枕を並べて自決し魂魄戦友とともに敵中突入を祈念したのであります、

山崎大佐は処置完了を事こまかに上司に報告し「他に策なきに非ざるも万一を僥倖し武人の名を汚すべきに非ずと覚悟し部下一同も莞爾としてともに死に赴く」旨を述べこの報告が最後でありました

 その後アッツ島の電信所は呼べど永久に答うることなかったのであります、この最後の攻撃が如何に物凄きものであったかは想像に難くないのであります、守備せる全員悉く玉砕し、かくてアッツ島は皇軍の神髄発揮の聖地として永遠に歴史の上に記されることになりました、

五月二十七日米国のニュース解説者フレーザー・ハントはアッツ島攻略の困難を指摘して『米海兵隊中将ホルコムは「日本兵は実に頑強であり、決死的で勇敢な闘士である、ことに困難な情勢下においてこの特質を発揮する」と述べたが、このことは太平洋の各戦線ですでに実証されている、いまや日本軍はアッツ島においてもおそるべき勇敢さをもって戦っていると思われる、西南太平洋戦線から帰還した兵士の話によると、ある場所で日本軍は最後の一人になるまで武器をとって猛烈に抗戦したという、

これによって見ればアメリカ軍がアッツ島の日本軍と対抗しまたこれを制圧することが如何に困難であるかがわかるであろう』と述べておりました「勝利かしからずんは死」をもとむる精強世界無比なる皇軍の真面目が敵米軍の心胆を寒からしめたことは明確であります

Capture of Attu  観じ来ればアッツ島守備隊はわが陸軍において既往の経験にかんがみ常に戦陣において勅諭を仰ぎてこれが服行の完璧を期せんがため具体的行動の憑拠を示しもって皇軍道義の昴揚をはからんとした戦陣訓をそのまま実践したものであります、本訓其一第五協同において「諸兵心を一にし己の任務に邁進すると共に全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし」と教え第六攻撃精神において「防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し必ず主動の地位を確保せよ陣地は死すとも敵に委すること勿れ」と訓示、本訓其二第七死生観について「身心一切の力を尽くし従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」と示しまた第八名を惜むにおいて「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と戒められてあります、その悉くがこの部隊のうえに躍動し顕現されているのであります、ああ何たる祟厳、何たる壮烈でありましょう

 守備隊将兵はその最後の攻撃決行前において遥かに皇居を拝し大元師陛下の万歳を奉唱、神国日本の天壌無窮と大東亜戦争の必勝とそして後に続くものとを信じて心残りなく笑って大義についたのであります、私は謹みて合掌し仇敵撃ちてし止まんの誓いを新にするものであります [図表(アリューシャン列島)あり 省略]

勇戦の聖地アッツ島

写真の(1)ホルツ湾(2)シカゴフ湾(3)イーストピーク(4)ミドルピーク(5)サラナ湾=海軍省提供(東京本社電送) [図表(アッツ島)あり 省略]

歴戦の部隊長 山崎[保代]大佐

[写真(山崎保代部隊長)あり 省略] わがアッツ島守備の部隊長山崎保代大佐は士官学校卒業後大正六年戸山学校を卒業、同九年にハバロフスクの戦闘に参加してはじめて戦功を樹てたのち同十三年歩兵第十五連隊中隊長となり、昭和三年の済南事変にも従軍して戦闘に参加した

 昭和五年群馬県沼田中学校服務、同七年利根農業学校服務の軍事教官として子弟の訓育にあたり、支那事変勃発後は同十四年現地部隊司令部附として勤務し、同十五年ひきつづき戦地部隊長として武勲を樹て、アッツ島守備の部隊長となり、今日におよんだ、本籍は山梨県南都留郡禾生村、上野義一附籍、三男二女がある [記事画像の順番に間違いあり]
アッツ島の皇軍神髄を発揮 : 敵二万邀撃、全員玉砕 : 傷病者は自決、通信絶ゆ引用終わり)

⇒写真集:Album アッツ島玉砕戦の真実 ◇ 大本営から玉砕命令を受けた山崎保代大佐の敢闘

写真(右)1943年8月19日、カナダ、ケベックのシタデル(La Citadelle)、第1回ケベック会談(コードネーム“QUADRANT”)で歓談するアメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)と第16代カナダ総督初代アスローン伯アレキサンダー・ケンブリッジ(Alexander Cambridge)中将、後方はカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング(William Lyon Mackenzie King)首相(1874年12月17日ー1950年7月22日)、イギリス首相ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill):フランス侵攻「オーバーロード作戦」、ドイツ本土空襲、イタリア本土侵攻、中華民国へのビルマ公路・ヒマラヤ山脈ハンプ越え空路による援蒋ルート確保が決定されたの実施決定された。
English: The Quebec Conference, Canada, August 1943 Group photograph on the terrace of the Citadel in Quebec, on the occasion of the First Quebec Conference, with the Chateau Frontenac in the background. Front row: President Roosevelt of the United States and the Earl of Athlone, Governor General of Canada; back row: Mr Mackenzie-King, Prime Minister of Canada and the Prime Minister, the Right Hon Winston Churchill, MP. Date August 1943 TR 1347 Imperial War Museums
写真はWikimedia Commons , Category:William Lyon Mackenzie King and Franklin Delano Roosevelt・File:The Quebec Conference, Canada, August 1943 TR1347.jpg引用。


1−7.航空機増産に重点 : 工場転用を促進 : 戦力化決戦に驀進せよ : 佐藤戦備課長談大阪朝日新聞 Vol: 第 1巻 Page: 75 出版年 1943-08-25

今次世界大戦において日夜随所の戦線に巨大なる消耗戦が繰返されつつあるが、かかる際一国経済戦力の強弱は決してその保有する物資の大小や工業力の多寡に存せずその保有する物資、工業力をもつとも迅速、的確に戦力化し得るや否やに存するのである、すなわち戦局の様相は従来の平面的なる「資源戦争」乃至「生産戦争」より立体的なる「戦力化戦争」の段階に入っているが、かかる見地より陸軍当局では陸軍軍需の要請にもとづく航空機工場を中心とする軍需施設の拡大にあたってはつとに一昨年の夏以来いわゆる平和産業施設の転用に着目し、当時から遊休施設の利用をはかった、さらに昨年の夏ごろからは操業工場の転用にも着手した、

しかして第八十二議会の企業整備要綱の設定以来戦力増強を目標とする企業整備は全般的に進行しつつあるが、ことに陸軍の担当する工場の転活用は着々として進捗しすでに転換利用されて全面的操業をなすもの相当数に上り、戦力化の点においてかなりの成績をあげている、陸軍省戦備課長佐藤裕雄大佐は二十四日陸軍記者団に対し陸軍における工場など転用の状況と将来の企図につき左のごとく語ったが、将来の企業整備にあたり従来の当該企業の優秀性残置第一主義を改めて戦力増強第一主義に基づくことを明示したことはとくに注目すべきである

佐藤戦備課長談

今次の戦力増強企業整備は大東亜戦争の現段階に対処して戦争の完遂を確固不抜ならしめるため、国民戦時生活の確保を期しながら、皇国の綜合戦力なかんずく直接戦力を急速かつ最高度に増強する目的をもって戦力遂行上必要なる生産力を軍需その他の重点部門へ計画的に転活用し、これを挙げて戦力化しようとするものであって、これは一国経済戦力の強弱は決してその保有する物資の大小や、工業力の多寡にあるのではなくて、この保有する物資、工業を最も迅速、的確に戦力化し得るやいなやにある、

如何に富において豊富でもこれを適時適切に戦力として動員集中し得なければその国の経済戦力は増大出来ぬものであると信ずる 陸軍としては夙にこの考え方にもとづき工場の転活用を実施して来たのでこの概況と将来の利用法ならびにその希望などに関し述べて見たい

工場の転用

陸軍でいわゆる平和産業施設の転用をはじめたのは一昨年の夏ごろからであるが、当分はなお遊休施設の利用の範囲を出でなかった、戦力化の見地から操業工場をも転用することになったのは昨年の夏ごろからであって、当時の情勢としてはその実施はなかなか困難であった、しかるに大東亜戦争開始後の情勢の変化に即応する必要上よりする航空機緊急増産のために陸軍の要請に欣然として応じ且つ多大の犠牲を忍んで最優秀の操業工場を提供せられた東洋紡日清紡両社の態度には陸軍あげて感激し、陸軍大臣より感謝状を授与されたほどであり、指導斡旋の労をとられた商工省にも多大の感謝を禁じ得なかったのである、

両工場はいまやいずれも三菱重工業に使用されて、航空機生産の重大なる一翼としておそらく既往の転換工場中もっとも大きな成績をあげていると思う、その後各方面の御協力によりすでに各種工場の相当量は陸軍において転換利用することになっており、すでに全面的操業を実施しているもの、転換実施中のものも多く、これが完全操業後の戦力増加はけだし大きなものであろう

その他実に多種多様の工場が転換せられつつあって、天井走行起重機を装置するなど特殊重材料を取扱う工場あるいは火造作業を実施する工場のほか、いかなる工場にても転換を実施することが出来かつ実施している

拡充の余地さえあれば要すれば組立工場あるいは特殊火造工場などは建増しをしてもよろしいし、規模の小さい工場には他から適当のものを移設してもよろしい 規模の小さい工場もこれを活用するという見地から集団的に利用する、あるいは大工場を中心としてこれに中小工場などを抱き合せ利用するなど現に着々として実行している、しかし甚だしく小さな工場を独立して転換させることは一方では整理しながら、他方では非能率的な弱小工場を続出させることになり易いので注意を要する

転換利用の形式としては譲渡、賃貸、出資または自家使用などいろいろの形式があるけれども、陸軍としては関係軍需会社に対し工場の物的設備のみに着目することなく、経営力、資本力、労働力なども大いに活用するのみならず、軍需生産上支障のない限り努めて転換工場の希望を容れさせるようにしている

すこし変った例では現在は一応出資或は譲渡で経営には参画しないが、転換完了して所望の生産があがるようになったら独立会社として転換前の会社に指導権を譲ろう、或は転換前の会社に返してやろうというようなのがある、

多くの軍需会社の中には不心得のものもあるけれども多くは転用工場に対し多大の同情と理解ある態度をもって臨んでいるばかりでなく、転業の条件についても転業の斡旋は結婚の仲介と同じだと心得て主として陸軍で仲介役を勤め、家柄(会社の歴史、社是、社風)血統(資本系統)学歴(事業の経歴)職業(生産品目)結婚条件(転業形式、価格)など努めて気に入るものを世話して来たので、陸軍関係工場に対しては整備せらるべき各種の会社が欣然として工場の転業に協力せられつつある状態で、これらの工場は転換決定後平均数ヶ月位でそれぞれ生産に着手している以上は主として工場に転用することをのべたが、その他寄宿舎、倉庫などにも十分活用しているばかりでなく、その設備であるボイラー、タンク、配線、配管設備、動力設備、競馬場、競技場およびその上屋、従業員なども大いに活用している、とくに従業員の措置であるが、工場を譲渡するものも従業員は引継ぎ転換完了まで親工場で技術指導を受けさせたり、自営或は共同経営するものは転換完了まで親となるべき工場に実習に派遣させるなどの処置を講じている

将来の利用

設備拡充の方法には新規資材の注入によるものと既設設備の転用によるものとが考えられる、武力戦の戦場において新規兵力の注入のみでは徹底した重点形成を期し難く、また戦闘加入の遅延を顧慮せられる場合には非重点正面より兵力の転用を断行し、かつこれを徹底して行うものがよく戦勝を獲得しているように目下の生産戦線において急速かつ重点に徹底した生産増強を計るためには非重点部門より設備その他の生産要素を転用しなければならない、

すなわち資材量は何れの国でも限定されているのであるから、設備拡充に用い得る資材はつとめてこれを節約し一機でも一銃でも多く直接兵器を作り、また一日も早く生産に参加させたい、また防空上からも工場などをつとめて分散させたいとの考え方で将来とも工場内部設備、素材などいくらでも転用してゆくつもりである

特にこれまでは主として軍需大企業が第一種工業部門に属する大企業の工場などを転用したのであるが、今後地方長官の手で整備せられる工場は拡充中あるいは計画中の工場も再検討のうえ主として中小規模の軍需工場に利用させるようにしたい、倉庫なども狭隘あるいは密集しある工場倉庫などがあればつとめて利用すべきである、以上は主として第一種工業部門に属するものをいったのであるが、第二種工業部門に属するもので設備、技術ともに優秀であってこれを転用し得るものはなお歓迎利用すべきである

将来の希望

従来の企業整備は主として当該企業の優秀性残置第一主義で整備せられて来たが、今後は戦力増強第一主義で整備する必要がある、すなわち優秀性残置第一主義で実施すれば整理せられた工場は極めて小規模で転換利用は困難であるばかりでなく、弱小工業のみを圧迫することになる、もし生産能力の半分を整理する必要のある場合に工場を一、二、三、四流に大別すれば従来のように横に線を引いて三流、四流工場を切り捨てることにしないで縦に線を引いて各流工場のそれぞれを転用するか、優秀性残置は最小限にして一、二流工場の転換を多くしたい、転用の重点はもちろん航空機の生産であるが、兵器行政本部においては地上兵器だけを整備しているのではなく、航空関係など重視すべき兵器多数を整備しているのであるから転用の際部隊の名前だけをみて利用希望の軽重を判断しないようにして戴きたい、

倉庫として利用したい場合も親工場に附属した倉庫を改造して生産工場とし、やや遠隔しても倉庫は他に求める場合も多いので一概に馬鹿にしないようにして戴きたい、

中小規模の軍需工場の中には技術者が少いとか、増量すべき製品の性質上分離困難だとかいって転用を躊躇し、それぞれ小拡充を実施しているものもあるのであるが、前者にあっては同種工場が綜合して適当なる転用工場を求めればよいし、後者にあっては親工場の製品中比較的軽易なものを外に出すことにすればよいし、どうしても親工場に附属して建設するを要する場合でも移設も出来るのであるから大いに工夫を加えて零細な資材と雖も節約する必要がある、また急ぎますからと新設のための諸許可を急がせる工場があるが、お急ぎなれば古着で間に合せなさいといいたい

また被転用会社などの弱点とするところは技術力のないこと、重工業としての経験に乏しいことであるので軍需品の性質によっては幾ら自営を希望せられてもちょっと困難であるから特に自営を希望される場合においても簡易なる製品以外は重工業を兼営している会社等特殊会社のほか概ね既存軍需会社との共同経営ぐらいにしてあまり不相応なことは考えぬことにし、有利な転用条件を求めて転用先を漁り廻り従来若干の軍需品を生産していることを盾として残置運動をするなどのことも断然やめて、新しい軍需生産に転換して戴きたい、種々なる条件をもった嫁入り先が沢山あるばかりでなく各地の軍需動員地方協議会長、造兵廠長、航空監督官長らが地方長官と力を合せて仲人の役を勤めるから潔く工場および従業員を提げて軍需生産に転換して戴きたい

これを要するにわが国はいまだ戦力化せられない諸生産要素を多数もっているばかりでなく、衣は寒を防ぎ食は飢をしのぐに足る往時の生活に比べたならばその経済生活はなお甚だ豊かだといい得るから戦力増強、生産増強の途は頗る大きい、敵米英の経済力そのものは何ら畏怖するにたらない、敵に先んじしかも敵に勝る速度をもって果敢なる戦力化を断行すれば統帥の卓越、将兵の勇猛と相俟って敵米英を屈服せしめ得るものと確信する、切に工場等転用の促進を冀念してやまない [写真(佐藤戦備課長)あり 省略](航空機増産に重点 : 工場転用を促進 : 戦力化決戦に驀進せよ : 佐藤戦備課長談引用おわり)


勝利は翼から(航空機増産の歌).mp4

写真(右)1943年頃、アメリカ、カリフォルニア州、サンジエゴ、コンソリデーテッド(Consolidated Aircraft)飛行機工場で生産中の B-24 リベレーター(Liberator)爆撃機:1939年12月29日初飛行、1万8,431機が生産された。1941年後半にフリートは引退し株式をヴァルティーに売却して、コンソリデーテッドは、1943年にヴァルティーと合併しコンソリデーテッド・ヴァルティー・エアクラフト社(Consolidated Vultee Aircraft Corporation)、すなわちコンベア(Convair)社となった。
B-24 pictionid66051649 - cataloglastb24b32.bmp - title consolidated b-24 - filenamelastb24b32.bmp---Born Digital Image. .Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)- TVL1970 6y This is a photo of the end of B-24 Liberator production at Consolidated - San Diego. The front to back, the three aircraft are Consolidated B-24M-45-CO Liberator bombers, USAAF Ser Nos. 44-42720 (c/n 6656), 44-42721 (c/n 6657), and 44-42722 (c/n 6658). 44-42722 was the last Liberator bomber to roll off of Consolidated's Liberator production line. All of these last Liberators in the photo would be converted into F-7B photo reconnaissance aircraft.
写真はSmugMug+Flickr., San Diego Air and Space Museum Archive引用。



2.第二次世界大戦の後半

2−1.戦時型へ全面化 : 企業集団生産へ発足
産業経済新聞 日本工業新聞 Vol: 第 2巻 Page: 76 出版年 1944-01-06

航空機増産が現下絶対的要請たるにかんがみ、政府は昨年八月三十一日閣議で「航空機の増産確保のため必要なる工作機械に関する応急措置の件」を決定し、航空機増産に必要不可欠なる工作機械の確保を期した

 すなわち航空機、艦船等は綜合工業であり、あらゆる産業が有機的に綜合動員されねばならないが、現下航空機生産の隘路は発動機であり、これが生産は工作機械に依存せざるを得ないので、政府は幾多の困難を押切って、工作機械を緊急増産せんとするも一にかかって航空戦力を増強し、大東亜戦争を勝ち抜くために外ならない、この目的を達する手段として現在の工作機械(旋盤およびフライス盤)を機構簡易な戦時型に切換え、右の戦時型は連合生産すなわち企業集団をして担当せしめる、もう一つは戦時型と別個に「ユニット」を多量生産する

以上の三要素が閣議決定の眼目をなすものであって戦時型は両機種八種類、企業集団は既に全国に十九ヶ所設置された、戦時型は既存汎用工作機機に比し約三分の一の機構であり、また歯車数を極端に減らしてあるので、生産上の能率がすこぶる高い、集団の責任工場は各々その傘下分業工場を有効に動員し、集団としての最高生産能力発揮に努力するもので、いわゆる責任生産遂行の義務が負わされている、

そしてこれを裏付けるために責任生産を行うに必要なる生産要素は当局で絶対確保するのみならず、軍需会社法で指定されるはずである、かくて責任工場は法的根拠に基く明確なる地位と多年の経験による生産の妙味を遺憾なく発揮し、割当生産確保に邁進出来る仕組となっている、もう一つ注目すべきは発注の一元化ということで、戦時型の発注は一切軍需省(精密機械統制会)が統轄し如何なる方面の需要者といえども個々発注を許さず、またその納入関係も集団側が直接関与する必要なく、生産者はただ一途供与された条件のもと、生産増強に専念すればよく、この点も戦時型工作機械の緊急対策上特記すべき臨機措置といえる、

以上のごとく戦時型は当局の伸張果断なる対策と優秀企業の一致団結は必ずや敵米の生産力を圧倒するは明かでありまた今回の戦時型移行を機として多年にわたって無意味に生産された「汎用工作機械」は逐次整理されわが工作機械工業はいよいよ堅実な歩調のもと逞しく発展するであろう (戦時型へ全面化 : 企業集団生産へ発足引用終わり)


写真(右)1944年7月以降、内閣総理大臣小磯國昭首相(1880 – 1950):朝鮮総督だった小磯は、東條英機首相の後任として、1944年7月22日から1945年4月7日まで内閣総理大臣を務め海軍大臣米内光政とともに、政界を指導した。
Portrait of Koiso Kuniaki (小磯國昭, 1880 – 1950), 41st Prime Minister of Japan (1944 – 1945) Date before 1946
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II color photographs of the Pacific War in 1944  File:Prime Minister Koiso Kuniaki photograph.jpg引用。


2−2.企業整備で国民の志気昂揚せよ 著者 上田孝吉談
産業経済新聞 日本工業新聞 Vol: 第 2巻 Page: 93 出版年 1944-01-25

決勝議場から

[写真あり 省略]  私の受持ったのは御承知の通り企業整備であるが、三日間の質疑の間で企業整備に関しては私だけがやることになったのだが、この企業整備の問題は一面において余り華かでない面をもっているが、今日戦力増強企業整備ということは昨年の第八十二議会に既に謳われてから大体において企業整備というものの様相が変って来た

 すなわち戦力増強を表からいえば[戦力増強]企業整備ということになって来る、それほど[戦力増強]企業整備というものは、戦局に大きな役割をもつことになっているのである、この議会でも、総理の施政方針演説にあったように、飛行機製造が二倍以上も出来るようになったといわれたが、それはいろいろの点において改善された点もあるから、一部はこの企業整備の御蔭なのである、

例えば第一種工業部門の紡績、織物というような工場が殆どみな軍需工場に、所謂航空機製造工場に変ってしまったというようなことが非常に大きな影響をもっているのである、また昔は女工というと紡績ということになっておったところがその女工がやはりみな軍需工場にゆくことになった、

特に第一種工業部門の紡績や織物の当事者は女工を使うことに多年の経験を積んでいるので、普通の工業の経営者よりも非常に上手であり、それが今度の[戦力増強]企業整備で転換して軍需工場となり、それが女工を使うのだから、それが飛行機の大量生産が出来るようになったということに対して最も大きな役割りをもっているという状態である、だからこの企業整備というものに対する政府の方針は一層闡明して置く必要があるというので質疑を行ったわけである

 そこでこの[戦力増強]企業整備というものは何分いままでの職業を転換させるのであるから非常に面倒なこともあって相当その間に時間を要することはそれは已むを得ないのであるが、今日はそういうことをやっておれない、

それこそ一刻を争うている時であるから、そこで私の質疑としても今度戦力増強企業整備については所謂計画性の下に迅速果敢にやるということをまず第一に私は声を高く叫んだ、そうでなければもう戦争が済んでから[戦力増強]企業整備が漸く終ったのでは間に合わないので、此点について政府も非常によく答弁したので、私としては満足に思っている、これはこの企業によって出て来る労務の活用という問題が今一番大切で従来ややともすれば大工場に徴用で所謂□徴士を入れることが出来るためにもう転業工というものは厄介視したような傾向はなかったとは言えないが、これを徹底的に改めるようにしなければんらぬということと

 今一つは高齢者の労務をもっと活用しなければならぬということ、転廃業の労務者は四十五歳以上の人が比較的に多いのであるが、この今迄の工員所謂工員は大抵四十歳迄のものを歓迎して四十五歳以上のものは余り歓迎せぬ点があった、今日この高齢者労務というものを活用することをやって行かねばならぬ、丁度この[戦力増強]企業整備による転廃業者はその高齢者労務に当るものが多いのであるからこれを出来るだけ活用するということについてはその人の志気を沮喪せぬように官庁も請入れ工場もよく諒として行くようにしなければならぬ、

結局私の考え方は企業の整備というものはそうだらだらやってはいかん或時期を尽して早く完了するようにして行かねばならぬ、それからこの企業の整備によって国民の志気を昂揚しなければならぬ、それには、[戦力増強]企業整備をやるには何処までも公平に、そこに偏頗な片手落があってはならぬ、この点政府其他関係方面の努力を要望する (企業整備で国民の志気昂揚せよ引用終わり)


2−3.廃品回収を組織化 : 業者に担当責任区制
日本産業経済新聞 中外商業新報 Vol: 第 3巻 Page: 137 出版年 1944-03-25

中央物資活用協会では重要物資の補給源として一般家庭で一片の廃品でも速かに戦力資源化するよう東京、大阪、名古屋、京都、神戸横浜、広島、福岡の八大都市で回収業者の職域奉公運動を展開し担当責任区域制によって組織的に回収の強化を図ることとなった

 これは一般家庭、寺院、教会、会社、銀行その他の施設(工場は除く)を対象とし、東京の三月二十五日を皮切りに適宜各都府県回収団体で約十日間に亘って回収を開始するもので、買出の具体的方法は地方の実情を参酌して決定するが、千世帯に対し買出人一人の割合とし、買出に当っては一般家庭の非難を蒙ることのないよう特に指導する(廃品回収を組織化 : 業者に担当責任区制引用終わり)

グラマン(Grumman)F6F グラマン(Grumman)XF6F-1は、ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hpを搭載し、1942年6月26日に初飛行した。これがF6Fの試作1号機XF6F-1である。

その後、グラマン(Grumman)XF6F-3プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン(排気量45.9 L)2,000hpを搭載し、1942年7月30日に初飛行した。降着装置は90度捻って主翼に引込まれるが、これはユンカースJu88の主脚引込み方法と同じである。

しかし、このXF6F-3は、1942年8月17日にエンジン故障で墜落した。そこで、XF6F-1の発動機ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hpを、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン(排気量45.9 L)2,000hpに換装して実用試験に移った。

グラマン(Grumman)F6F イギリス海軍航空隊(British Fleet Air Arm (FAA) )は、グラマン(Grumman)ヘルキャット(Hellcat)Mk I 艦上戦闘機を合計1,263機をアメリカから貸与された。F6Fは、武器貸与法(Lend-Lease Act)にしたがって、アメリカからイギリスに引き渡された。当初。イギリスではF6Fをグラマン(Grumman)ガネット(Gannet)Mark Iと命名した。

しかし、イギリスは、1943年前半にはすぐにアメリカと同じヘルキャット(Hellcat)と改名した。そして、F6F-3はヘルキャット(Hellcat)Mk. Iと, F6F-5はヘルキャット(Hellcat)Mk. II と、夜間戦闘機型F6F-5Nはヘルキャット(Hellcat)NF Mk. IIと命名している。

グラマン(Grumman)F6F 第二次大戦勃発1年前の1938年2月、アメリカ海軍は新型機ブリュスター(Brewster)F2A バッファロー艦上戦闘機を配備し始めていた時期に、そのF2A後継となる新型艦上戦闘機の開発要求を各社に出した。それに対して、アメリカ有数の飛行機メーカーグラマン社は、既にアメリカ海軍の主力艦上戦闘機となるF4Fを完成させ、量産しようとしていたが、強力な新型発動機ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン1,600hpを搭載することを前提に後継機グラマン(Grumman)XF6F-1の開発を開始した。

写真(右)1943年、アメリカ、編隊飛行中のアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F6F-3 艦上戦闘機の左側面:国籍マークは、アメリカの第二次大戦末期に制定された赤縁付きの白星と白帯の国籍マークを描いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:41544997 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000460 Grumman F6F-3 40018 - Filename:16_000460 Grumman F6F-3 40018.tif - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives・引用。


カラー写真(右)1943-44年、アメリカ、太平洋方面、アメリカ海軍空母ヨークタウン(USS Yorktown)飛行甲板上のアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F6F-3 艦上戦闘機の左側面:胴体下面には、落下式増加タンク(150gal:568L)を搭載している。車輪止めは赤色で着脱忘れがないように注意している。国籍マークは、アメリカの第二次大戦中期に制定された赤縁なし白星と白帯の国籍マークを描いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:41545985 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000462 Grumman F6F-3 USS Yorktown 1943-44 - Filename:16_000462 Grumman F6F-3 USS Yorktown 1943-44.tif - go.osu.edu/110
写真は, SDASM Archives・引用。


グラマン(Grumman)F6F アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F6F 艦上戦闘機は、当初はライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hp搭載の予定だったが、ライバルのチャンス・ヴォート(Chance Vought)F4U コルセア(Corsair)がより高出力のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン(排気量45.9 L)2,000hpを搭載していた。

ライト(Wright)R-2600 サイクロン14(Cyclone 14)空冷星型14気筒エンジン(排気量42.7 L)1,600hp搭載のグラマンXf6F-1試作機は、F4U コルセア(Corsair)と同じ大型高出力のプラット・アンド・ホイットニー(P & W)R-2800ダブルワスプ(Double Wasp)空冷星型18気筒エンジン2,000hpに換装され、開発が進められた。


写真(右)1943-1944年、アメリカ、太平洋方面、アメリカ海軍空母ヨークタウン(USS Yorktown)飛行甲板上で、主翼を動力展開するのを整備員が補助しているアメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)F6F-3 艦上戦闘機
:胴体下面には、落下式増加タンク(150gal:568L)を搭載している。車輪止めは外されている。3翅プロペラが回転している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:41546386 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000464 Grumman F6F-3 USS Yorktown 1943-44 - Filename:16_000464 Grumman F6F-3 USS Yorktown 1943-44.tif - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives・引用。


カラー写真(右)1945年8月以前、西太平洋、マリアナ諸島あるいは沖縄諸島、飛行しているアメリカ海軍航空隊第354戦闘飛行隊(VMD-354)グラマン(Grumman)F6F-5P ヘルキャット(Helldcat)艦上戦闘機の右側面:発動機プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-2800空冷星型18気筒エンジン (2,000hp)を搭載、3翅プロペラ(直径13ft 1in :3.99m)を回転させる。左右主翼内の.50口径12.7mmブローニング(Browning)M2機関銃各々3挺(携行弾数:各400発)搭載。
Pearl Harbor Aviation Museum Follow WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-91 F6F-5P photo ships attached to VMD-354 were part of a detachment that went to Guam, and then moved to Peleliu, Ulithi and Okinawa before the war ended..
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


写真(右)1943‐1944年、西太平洋上、アメリカ海軍航空母艦ヨークタウン(USS Randolph)飛行甲板上を飛行するグラマン(Grumman) F6F-5 ヘルキャット(Hellcats)艦上戦闘機:手前には、スウェーデンの開発したボフォース40mm四連装機関砲がある。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-90 Grumman F6F-5 Hellcat takes a wave off because of planes or equipment in the landing area as it soars past 40mm anti-aircraft cannon at the stern of the USS Randolph in the Pacific..
写真は, Pearl Harbor Aviation Museum引用。


アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)XF6F-1戦闘機試作機の初飛行は、1942年6月26日、太平洋戦争参戦半年後だった。

しかし、ゼロ戦など日本戦闘機に対抗できる新型機として、グラマン(Grumman)F6F-1は、急速量産に入り、1943年の中部太平洋方面で実戦参加したのを皮切りに、生産数は1万2,275機とゼロ戦を2割上回った。

写真(右)1944年末、西太平洋、アメリカ海軍航空母艦ワスプ(USS Wasp (CV-18))飛行甲板上の第81戦闘飛行隊(VF-81)のグラマン(Grumman) F6F-3 ヘルキャット(Hellcats)艦上戦闘機
English: A U.S. Navy Grumman F6F-5 Hellcat of Fighting Squadron 81 (VF-81) "Freelancers" aboard the aircraft carrier USS Wasp (CV-18), circa in late 1944. VF-81 was assigned to Carrier Air Group 81 (CVG-81) aboard the Wasp from November 1944 to January 1945. Date circa December 1944 Source U.S. Navy photo [1] from the Carrier Air Group 81 1944-1945 cruise book available at Navysite.de Author U.S. Navy
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II color photographs of the Pacific War in 1944  File:Grumman F6F-5 Hellcat of VF-81 aboard USS Wasp (CV-18), circa in December 1944.jpg引用。


図(右)アメリカ海軍航空隊グラマン(Grumman)ヘルキャット(Hellcat) 艦上戦闘機の三面図:赤線は、主翼を折り畳んだ状態。
Description English: Grumman F6F Hellcat Date 24 January 2016 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Grumman F6F Hellcat・File:Grumman F6F Hellcat 3-view line drawing.svg引用。


グラマン(Grumman)F6F-3ヘルキャット(Hellcat) 艦上戦闘機の諸元
全長 33ft 7in (10.24m)
全幅 42ft 10in (13.06m) → 16ft 2in (4.93m) 主翼折り畳み時
全高 14ft 5in (4.39m)
翼面積 334ft² (31.03m²)
プロペラ ブレード3翅 直径13ft 1in (3.99m)
発動機 Pratt & Whitney R-2800-10W (2,000Bhp 最大:2,110Bhp)
空虚重量 9,207lbs (4,176kg)
戦闘重量 12,575lbs (5,704kg)
翼面荷重 183.82kg/m²
燃料 250gal (946ℓ)
最高速力 372mph/18,000ft (599km/h 高度5,486m) F6F-5:330ノット/23,400ft (611km/h 高度7,132m)
上昇能力 3,250ft/m S.L. (16.51m/s 海面高度)
20,000ft (6,096m)まで7分
実用上昇限度 38,800ft (11,826m)
降下制限速度 415kn (769km/h)
航続距離 1,340st.mile (2,157km) 落下式増加タンク(150gal:568L)搭載時
兵装 M2ブローニング12.7mm機関銃6挺 (弾数計2,400発)
爆弾:胴体下面 2,000/1,600/1,000/500lbs爆弾×1発
翼下面:1,000/500/250lbs爆弾×2発

写真(右)1944年12月、西太平洋、アメリカ海軍航空母艦ワスプ(USS Lexington (CV-16))飛行甲板に着艦しようとする第20攻撃飛行隊(VT-20)のグラマン(Grumman) TBF アベンジャー(Avenger)艦上雷撃機:TBFの尾部には、着艦フックが降りているが、これで飛行甲板の中ほどに張られたワイヤーに引っ掻けて停止する。
English: A U.S. Navy Grumman TBF Avenger of Torpedo Squadron 20 (VT-20) lands aboard the aircraft carrier USS Lexington (CV-16), in December 1944. Date December 1944 Collection Naval History & Heritage Command wikidata:Q3250126 Accession number 80-G-K-15629
写真は Wikimedia Commons, Category:World War II color photographs of the Pacific War in 1944 File:Grumman TBF Avenger lands aboard USS Lexington (CV-16), in December 1944 (80-G-K-15629).jpg引用。


写真(右)1945年、西太平洋、マリアナ諸島テニアン島、アメリカ陸軍航空隊ダグラスC-47/R4D スカイトレイン(Skytrain)/ダコダ(Dakota)双発輸送機:テニアン島にはB-29四発爆撃機の忌避が整備され、1944年11月以降、B-29は日本本土空襲を開始した。港湾設備のあるサイパン島、グアム島からテニアン島への空輸任務に就いた双発輸送機と思われる。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-77 Douglas C-47/R4D Skytrain/Dakota, carrying unusual red tail numbers is shown after the effects of the sun’s rays and white coral dust at Tinian Island in 1945..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。



写真(上)1944年11月、マリアナ諸島テニアン島、無塗装のアメリカ陸軍航空隊第318戦闘飛行隊ロッキード(Lockheed) P-38 戦闘機の戦列
:機首にイスパノ(Hispano)M2(C) 20 mm 機関銃1挺、0.50 インチ (12.7 mm) M2 ブローニング(Browning)機関銃4丁を搭載している。滑走路には、圧縮簡易舗装している。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-56 P-38s on the line at Tinian are ready for duty with the 318th Fighter Group Nov 1944..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1944年6月-1945年3月、中国内陸、四川省、重慶のアメリカ陸軍航空隊第449飛行隊所属ロッキード(Lockheed) P-38J ライトニング(Lightning)戦闘機:中国空軍へのアメリカ機の貸与による支援だけではなく、中国にアメリカ航空部隊を派遣して日本軍を攻撃した。発動機はアリソンV-1710液冷エンジンで、長距離飛行用には、すぐに500L相当の落下増加タンクを主翼下面に2個装備できるように懸架を装備するようになった。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-45 P-38Js of the 449th Fighter Squadron rest on the line at Chengkung, where the unit spent most of its time between June 1944 and March 1945...
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1945年1月以降、フィリピン群島ルソン島リンガンエン(Lingayen)湾、無塗装のアメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed) 第475戦闘飛行隊P-38L-5 戦闘機(後方)を整備する地上勤務員:フィリピン群島中部のレイテ島に1944年10月に上陸したアメリカ軍だったが、首都マニラのあるルソン島への上陸は1945年1月6日と遅れた。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-71 Large team of 475th Fighter Group mechanics swarm over and under this P-38 at Lingayen, Luzon. They are giving the aircraft a major stage check and refit for its next round of combat missions.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1945年4月以降、沖縄諸島、伊江島、無塗装のアメリカ陸軍航空隊のボーイングB-17 爆撃機とタキシングするロッキード P-38双発戦闘機:1945年4月1日、沖縄本島に、4月16日、伊江島にアメリカ軍が上陸した。平坦な伊江島には日本軍も飛行場を建設したが、アメリカ軍はそれを占領し、巨大な航空基地が設営された。同島に駐留するP-47が事故あるいは攻撃で炎上して爆発し、火災となり噴煙を上げている。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-84 Lockheed P-38 hurries down taxi strip past a B-17 on Ie Shima, a very small island only a few miles from Okinawa. Explosion and fire from P-47 and a second fire in the distance create giant smoke clouds over the field.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


B-17 ボーイング B-17 E フライングフォートレス(Boeing B-17E Flying Fortress)重爆撃機の諸元
全長 74.8ft (22.8m)
全幅 103.8ft (31.64m)
全高 19.1ft (5.82m)
翼面積 1,420ft2 (131.92m2)
空虚重量 35,972lbs (16,317kg)
離陸重量 67,860lbs (30,781kg)

B-17は、当初モデル 299試作機として、1935年7月28日に初飛行した。その後も先行生産型がYB-17で、第二次大戦勃発3年前の1936年12月2日初飛行である。

ボーイング B-17 E フライングフォートレスは、初めての大量生産型でアメリカ参戦3か月前の1941年9月5日に初飛行し、512機が生産された。B-17の量産は、1942年5月初飛行のB-17Fが3,405機、1943年8月初飛行のB-17Gが8,680機で、総計1万2,731機もが量産された。

ボーイング B-17 E フライングフォートレスは、B-17で初めて尾部銃座を設け、胴体下部にボールターレット球形銃座を設置し、防御力を向上させている。

写真(右)1944年初期、サイパン島とハワイ諸島の間、アメリカ陸軍航空隊第7航空軍第548飛行隊あるいは第549飛行隊ノースロップ(Northrop)P-61B-1-NO ブラック・ウィドウ(Black Widow) 夜間戦闘機 'The Spook' :1942年5月26日初飛行、全備重量12,610kg、P&W R-2800空冷星型18気筒エンジン2,250hp2搭載、最高速力589 km/h、胴体下部に20mm機関銃4挺を装備。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-84 WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-79 WWII 7-30-20 COLOR Units operating P-61s in the Seventh Air Force included the 6th, 548th and 549th Night Fighter Squadrons, operating between Saipan and Hawaii beginning in the first half of 1944.
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


カラー写真(右)1944年10月以降、フィリピン諸島、アメリカ陸軍航空隊ノースロップ(Northrop) P-61B ブラックウィドウ(Black Widow)夜間戦闘機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-2800ダブル・ワスプ(Double Wasp)空冷星型エンジン(排気量45.9L)2000hp2基を装備したが、最高速力も600km/h以下で、日本軍の長距離夜間爆撃が少なかったので、撃墜戦果もあまり上げていない。1944年10月にアメリカ軍はレイテ島に上陸し、日本陸軍は満州にあった第1師団1.3万人を急遽派遣し、ルソン島持久戦の方針をレイテ島決戦に変更した。これは、1944年10月10日からの台湾沖航空戦で、アメリカ海軍空母任務部隊に大打撃を与えたという誤報が信じられてしまったためである。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-74 Northrop P-61B Black Widow is shown on flight line in the Philippines..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。



カラー写真(右)1945年1月以降、フィリピン諸島ルソン島、穴の開いた金属板を敷き詰めた簡易飛行場をタキシングするアメリカ陸軍航空隊ノースロップ(Northrop) P-61B ブラックウィドウ(Black Widow)夜間戦闘機と後方のB-25爆撃機、P-38戦闘機
:解説では1944年ルソン島撮影というが、アメリカ軍がルソン島に上陸したのは1945年1月9日、ダグラス・マッカーサー指揮の軍隊がリンガエン湾に上陸した。他方、フィリピン南部、レイテ島へのマッカーサー上陸は1944年10月20日である。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-60 A lineup of several Northrop P-61B night fighters, America’s first radar-nosed fighter aircraft in the Philippines in 1944..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。


カラー写真(右)1945年1月以降、フィリピン諸島ルソン島、穴の開いた金属板を敷き詰めた簡易飛行場をタキシングするアメリカ陸軍航空隊ノースロップ(Northrop) P-61B ブラックウィドウ(Black Widow)夜間戦闘機と後方のB-25爆撃機、P-38戦闘機:解説では1944年ルソン島撮影というが、アメリカ軍がルソン島に上陸したのは1945年1月9日、ダグラス・マッカーサー指揮の軍隊がリンガエン湾に上陸した。他方、フィリピン南部、レイテ島へのマッカーサー上陸は1944年10月20日である。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-59 A solitary P-61 Black Widow, America’s first true night fighter, rolls along the lengthy Luzon PSP strip populated by B-25s and P-38s in 1944..
写真は Pearl Harbor Aviation Museum引用。



3.中国大陸の戦い

3−1.重慶撃砕即米英掃滅 : 国府軍参加・意義大 : 支那大陸新作戦を見直せ
大阪毎日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 70 出版年 1943-02-1
https://hdl.handle.net /20.500.14094/ 0100347454

I-153 【上海特電十六日発】十五日[湖北省]沙市[Shashi]南昌方面に開始された新作戦についで十六日江蘇省北部蘇淮地区に突如として重慶軍韓徳勤麾下の第八十九軍掃蕩の火蓋が切られた、期せずして同時に開始された中支における二つの新作戦は第一には支那大陸における本年最初の大規模掃蕩戦であり、第二には国民政府が参戦後はじめて堂々たるわが友軍としてこれに参加した点で極めて重要な意義を有する

重慶が単なる支那の反逆児であるという性格から完全に米英世界侵略の一単位に変ってからすでに一年余、支那の戦場もまた大東亜戦争の海陸にわたる広大な戦線の主要な一部に変貌した、

われわれはいまや大陸においても米英空軍の必死の反攻に直面しているのである、無差別爆撃[Strategic Bombing]の宣戦布告文には在支米英空軍の支那各地盲爆を重要な理由にあげているがこれに応えて敵は和平支那各地に[汪兆銘]国民政府を揚言して憚らない、新鋭国府軍の新作戦参加はここに全く新たな意義を持つのである、

重慶撃砕作戦はいまや直に米英掃蕩戦である、和平地区に残存する敵勢力の掃蕩は治安の確立、生産の増強、戦時意識の昂揚を参戦の三大目標とする国府軍の第一着手であり殊に戦力培養の先決条件として要請されている、大陸戦線と海洋戦線の密接なる結びつきは次ぎの如き重慶情報によっても裏附けられるすなわち大東亜戦における皇軍の歴戦連勝は反枢軸側のいわゆる対日包囲陣形作戦計画を瓦解せしめたが執拗なる敵は重慶治下地域とインドとを一方の基地としソロモン群島を他の根拠地として頽勢挽回に狂奔しており大陸における戦線は今や全く新たな眼をもって見直さなければならなくなって来た (重慶撃砕即米英掃滅 : 国府軍参加・意義大 : 支那大陸新作戦を見直せ引用終わり)


3−2.飛行工場四十を整備 : 敵、大陸からの対日空襲に汲々
大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 80 出版年 1943-03-20

【上海特電十八日発】米英蒋の企図する東亜第二戦線たるビルマ奪回作戦は次第に激化しつつあるがこれがいわゆる対日総反攻として展開されるかどうかの鍵を握るものとして在支米空軍の動向が世界的注視を浴びるにいたった、

カーチスP-40 最近上海に達した諸情報を綜合するに重慶政権においても空軍の重要性を認識し、航空委員会が中心となって官民各種団体を動員して飛行機献納運動や、グライダー熱昂揚に当たってきたが、民衆一般に働きかけた一元献金運動は昨年中に約三十機の献納を見る一方支那人操縦練習生を約七回にわたってアメリカに派遣し二ヶ年の課程を終わった約二百名がすでに帰国して成都飛行場を中心に現に訓練中であるといわれるが米英よりの援助飛行機の入手が困難なるため現有勢力は少数の爆撃機を含む戦闘防空隊にすぎずその機種もアメリカ製を中心とするとはいえイギリス製、ソ連製の旧式[SB]爆撃機もあり、実に雑然としたいかにも寄せ集めという感じの強い旧式飛行隊である、その総数については種々の説があるが多くとも二百機を出でず、その五分の四は爆撃機で大多数を占める、

成都、重慶、、梁山、昆明

戦闘機はアメリカ製の[Vultee]P66型[Vanguard]、これについで[Curtiss]P40型およびソ連製にイ-16型[Polikarpov I-16]とみられている如く未だ第一線に出撃して積極的に対日反攻をとり得ず、成都、重慶、蘭州、梁山、昆明各飛行場に蟄伏している現状である

 一方在支アメリカ空軍は一月下旬より二月下旬にいたる約一ヶ月間にさえ二十数回にわたるわが陸軍航空部隊の出撃を受けながらも依然として支那奥地に残存してビルマを中心とする占領地区に蠢動をつづける執拗性を見せている、

ノースアメリカンB25 現在ほとんど毎日にわたって猛襲を続行するわが陸軍航空部隊活躍の跡をを見るに猛爆の雨は翁源、肇慶、清遠、恵州、思成路、老川口、渦陽、三斗坪、巴東、漢中、桂林、衡陽、盧氏、柳州、万県など奥地飛行場をほとんど潰滅に期せしめ、いまなお続行中であり、その戦果はきわめて甚大なるものがある

しかし在支アメリカ空軍は現にその主力を昆明、霑益、桂林方面において今やビルマ奪回作戦に努力を集中するのみでいわゆる支那大陸作戦ならびに対日爆撃には消極的態度をとる以外余力なきもののごとくである、もっとも去る二月中旬重慶空軍戦闘機部隊と協力して支那戦線に出動せんとする企図を示したが二月二十四日のわが戦爆連合による梁山飛行場急襲によって出鼻を挫かれた事実もあり、今後もアメリカより飛行機の来援を予想されるため航空機による対日積極的進撃の可能性はなお残存するものと思われる、

しかしこれがためにはなお現有勢力百余機(うち爆撃機はノースアメリカンB25型を中心とする三十機程度)と見られており在支アメリカ空軍戦闘機隊長スコットは去る二月二日付の前鉾画報(ニューヨーク発行)において「もし在支アメリカ空軍が五百機をもって重慶軍の反攻を掩護すれば必ず日本軍を撃砕し得るであろう」といえるごとくなお数倍の増強が必要であり、重慶政権ならびに米当局の焦躁が窺われるのである

しかし重慶治下には現に航空関係工場が蘭州、成都、簡州、白市駅、遂寧、梁山、嘉定、雅安、大定、貴陽、緑山、昆明、都安、柳州、臨安、衡陽などをはじめ野戦航空機修理工場を入れれば約四十ケ所整備されたことは重慶側の積極的関心を示すものとして注目されている(飛行工場四十を整備 : 敵、大陸からの対日空襲に汲々引用終わり)

アメリカ軍の国籍マーク変遷

第二次世界大戦初戦・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

2−3.米軍機に新標識 : 現れた「赤丸なし」や「黄輪附」
大阪朝日新聞 Vol: 第 54巻 Page: 102 出版年 1943-04-21

敵米軍用機に最近新しい標識が附されているという報道があり、近着のスイス週刊雑誌「インターラヴィア」十月七日附によれば米軍用機は陸海両機とも従来の濃青色の円に内接する白い星形の中央に赤丸を描いた旧標識に代って中央赤丸を除き新標識を採用したものが現れたという、但し旧標識を廃したとの報道はなく、新旧両標識が併用されているものと思われる

 また同誌によれば欧洲方面に派遣されているアメリカ航空部隊にはこの新標識の周囲に黄色の円を描いているものもあり、外国派遣航空部隊にはこの黄輪附の新標識を採用しているらしいと報じているので、大東亜戦域にもこの「赤丸なし」および「黄輪附」の標識を附した小癪な敵機が旧標識のものに混って姿を現すであろうことを銘記すべきである=写真は新標識をつけた米軍用機(東京本社電送)と円内は旧標識[写真あり 省略](米軍機に新標識 : 現れた「赤丸なし」や「黄輪附」

写真(右)1942−1943年、西太平洋、ニューギニア島南岸、ポートモレスビーを飛び立つアメリカ陸軍航空隊第345爆撃航空団ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機(237443):この部隊はB-25による低空襲撃を始めて作戦行動として活用した部隊である。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-24 Flying out of Port Moresby, the 345th Bomb Group quickly established itself as one of the premier B-25 low-level attack units in the Pacific, were eventually nicknamed the Air Apaches.
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1944年、インド、ビルマの日本軍を攻撃に出撃したアメリカ陸軍航空隊第13爆撃集団第83爆撃航空団ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機の後方下面
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-37 83rd Squadron, 12th Bomb Group B-25Js head for targets in Burma, flying out of Fenny, India in 1944.
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1944年中期以降、インド、ビルマの日本軍を攻撃に出撃したアメリカ陸軍航空隊第13爆撃集団ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機の後方下面
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-35 12th Bomb Group supported the drive to reopen the Burma road to China and retake the critical airfield at Myitkyina. The airfield fell on May 17, 1944..
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943年、インド東部(現在のバングラデシュ)、フェニィ、ビルマのミートキーナを空襲するアメリカ陸軍航空隊第12爆撃集団のノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機:このB-25は12.7mm機関銃をソリッド化した機首内部に4挺、機首左右外側に2挺、胴体コックピット後上方の動力回転銃塔に2挺を備えており、合計10挺もの強力な火力で地上を機銃掃射できる。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-36 12th Bombing Group of B-25s flies first mission from newly completed base at Fenny, India, hitting Myitkyina..
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機の諸元
初飛行:1940年8月19日
生産数:9,816機
乗員 6名 (操縦2名 航法/爆撃1名 回転銃座/機関1名 無線/側面銃座1名 尾部銃座1名)
全長 53.5ft (16.31m)
全幅 67.6ft (20.60m)
全高 16.3ft (4.97m)
翼面積 610ft2 (56.67m2)
空虚重量 19,530lbs (8,859kg)
総重量 離陸重量:35,000lbs (15,876kg)
戦闘重量:27,400lbs (12,428kg)
燃料 1,137gal (4,304L)
発動機 Wright R-2600-13/-29 (1,700Bhp) ×2
最高速力 255kn/15,000ft (472km/h 高度4,572m)
上昇能力 1,890ft/m S.L. (9.60m/s 海面高度)
実用上昇限度 24,200ft (7,376m)
航続距離 1,316n.mile (2,437km)
兵装 .50口径12.7mmブローニングAN/M2 機関銃×12挺 (弾薬携行数4,600発)
爆弾搭載量:4,000lbs (1,814kg)12.7mm

写真(右)1943−1944年、西太平洋あるいは中国、アメリカ陸軍航空隊ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機:このB-25は12.7mm機関銃をソリッド化した機首内部に4挺、機首左右外側に2挺、胴体コックピット後上方の動力回転銃塔に2挺を備えており、合計10挺もの強力な火力で地上を機銃掃射できる。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-93 B-25J Mitchell sitting in the bright Pacific sun after arrival for combat duty late in the war..
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


写真(右)1943−1944年、西太平洋あるいは中国、降下着陸間近のアメリカ陸軍航空隊第8234ノース・アメリカン(North American)B-25 J ミッチェル(Mitchell)爆撃機:このB-25は12.7mm機関銃をソリッド化した機首内部に4挺、機首左右外側に2挺、胴体コックピット後上方の動力回転銃塔に2挺を備えており、合計10挺もの強力な火力で地上を機銃掃射できる。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-89 Solid-nose B-25Js were a real terror to enemy shipping and installations. This 8234d Squadron, 38th Bomb Group B-25J Mitchell has six .50 caliber machine guns in the nose..
写真は ,Pearl Harbor Aviation Museum引用。


3−3.喘ぐ重慶・窮余の対策 日本攻勢の基地『西北』 : ソ連勢力微弱化しのさばるアメリカ
大阪朝日新聞 Vol: 第 8巻 Page: 104 出版年 1943-04-16

Stilwell Mountbatten 【北京特電十四日発】東亜の孤児に顛落した重慶が抗戦の継続によって経済的、思想的に自然崩潰の一途を辿りつつある重大危機を転換するとともに反枢軸勢力に便乗して長期戦態勢を確立するがため最後の活路として選ばれた西北開発工作は東亜における第二戦線の展開を呼号して米英の野心を東亜に繋ぎ止めるとともに奥地経済開発によって急速に自力抗戦力を補充して行く狙いから出発したものであるが、戦争遂行上アメリカの重慶に対する発言権が絶対化するにしたがい西北地区に対するアメリカの進出もまた漸く露骨となり対日反攻の基地たらしめんとする野望が看取されるにいたったことは頗る注目すべきものがある

鉄道、自動車路計画

現下の西北開発は西北ルートの輸送力増強とともに中印連絡空路[駝峰航線]の強化、甘粛省の産業開発、蘭州、西安、成都と重慶を結ぶ連絡路の強化の四つに重点がおかれている

すなわち鉄道の建設計画では現在着工中の□海線宝□、天水間の工事を逐次西方に延長すべく計画している、これは各種資材ことに鉄材の不足で行き悩みの状態にあり、宝□、天水間の工事完成は早くて来年一杯を要すると称している、このため応急対策として自動車道路の開発に主力を注ぎ蘭州から臨□、岷県偕州、広元を経て成都、重慶にいたる線、他の一つは蘭州から天水、徽県、漢中を経て西安に至る線と主として蘭州以南の交通路建設に狂奔している [図表あり 省略]

カラー写真(右)1945年2月以降、フィリピン群島、ルソン島リンガンエン湾、アメリカ陸軍航空隊第54輸送飛行隊カーチス(Curtiss)C-46Dコマンド(Commando)右側面:1942年6月から輸送任務に就いたカーチス(Curtiss)C-46Dコマンドは、ルソン島を拠点とした物資の搬入搬出に使用された。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-69 Curtiss C-46s were first delivered in July 1942. This 54th Troop Carrier Wing C-46D was hauling supplies in and out of Lingayen, Luzon, Philippines in 1945.
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


中印ルート強化策

現在援蒋物資輸送の主要ルートとなっている中印空路[駝峰航線]の強化策として新疆省内の莎車、阿克蘇、庫車、輪台、且末、焉耆、奇台の各地をはじめ青海、甘粛、西康方面に十数ケ所の飛行場を設置し、いずれも昨年中に完成を見ており、これによって中印空路[The Hump]は相当補強された模様である

以上の動向からも窺われるごとく重慶の西北開発は産業開発の部面では資材、資金および労力の不足を解決出来ず、甘粛省の例で見ても僅かに嘉唆江、白竜江、●河の水運を黄河に結び薬剤、毛皮などの特産物は蒙彊方面に搬出して経済的な苦境を打開するか、あるいは河西地区の開発計画などいずれもまだ自力抗戦力の培養に対する単なる構想に止まり極めて消極的な動きを見せているに過ぎない状態で現在は専ら西北の交通網を拡大して援蒋ルートを強化するあくまでも他力本願的な抗戦を企図している


《悲壮的驼峰空运》下集 LEGENDARY & HEROIC HUMP AIRLIFT

カラー写真(右)1943年、アメリカ、カリフォルニア州ハミルトン・フィールド基地、アメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)C-54スカイマスター(Skymaster)輸送機:初飛行1942年2月14日のC-54輸送機は、アメリカ陸軍航空隊がC-54として952機、アメリカ海軍航空隊がR5Dとして211機を引き渡されている。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-81 C-54 Skymasters at Hamilton Field, CA, being readied to head across the Pacific. A total of 952 Skymasters were rolled out for AAF, plus another 211 for the USN, designated R5D..
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


カラー写真(右)1944年、沖縄諸島、那覇、アメリカ陸軍航空隊カーチス(Curtiss)C-46Aコマンド(Commando)右側面:インドから中国へ物資輸送「ハンプ越え」を担った空輸部隊だったが、太平洋方面の輸送空路がアメリカ本土からハワイ諸島、マリアナ諸島、フィリピン群島にまで伸びていた。これが、沖縄諸島にまで伸びると、インド=ビルマ=中国の空路は、ヒマラヤ山脈越えの難所、直距離空路のために不必要になった。
WWII-Pacific-War-Eagles-Color-Photos-97 Camouflage paint on this C-46A Commando at Naha, Okinawa has discolored to a mauve shade, typical of Pacific sun and weather taking their toll on the pigments..
写真は Pearl Harbor Aviation MuseumArchive 引用。


印度経由で技術者

この傾向を裏□するものとして重慶[蒋介石政権]はかねて西北ルート上の輸送計画を立案、主として蘭州以西の道路補修に狂奔していたが最近この計画に基づき援蒋物資の輸送が開始された模様である、輸送計画の内容は判明しないが主として中印空路[The Hump]によるアメリカからの航空機ならびに機材の輸送に重点が置かれているもののごとく米支空軍による対日反攻の企図と関連して注目すべきものがある

在支敵国空軍の現況を見るとまず重慶空軍蒋介石[Chiang Kai-shek]を委員長とする航空委員会の下に第一(重慶)第二(桂林)第三(成都)第四(蘭州)第五(昆明)の各路司令部を置き、これに配属された第一線機は二百機前後、このうち爆撃機は約三分の一と推定され、ソ連機は影を潜めアメリカ製の飛行機が大部分を占めている、

重慶[蒋介石政権]は航空関係の資材の供給をアメリカに仰ぐとともに航空機搭乗員の養成に躍起となり成都の幼年航空学校[空军幼年学校]、航空参謀学校[空軍参謀学校]、中央空軍軍士学校などの教育機関を設け乗員の粗製濫造に努め、さらに技術員の養成機関として中央空軍飛行技術学校を設けている、しかしいずれも程度が低くて問題にならず昨年末から印度経由でアメリカから多数の技術者が入り込んでその指導に当るとともに奥地の飛行基地、修理工場の整備に全力を挙げている

米国の軍事的発言権

一方在支アメリカ空軍は去る三月アメリカ十四航空部隊[Fourteenth Air Force]として在印度アメリカ空軍から独立、東亜方面空軍司令官スチルウェル[Joseph Stilwell]の直轄部隊となり印度空軍の支配を脱して支那大陸における独自の作戦行動を企図しており、現有勢力は百三十機以上と見られ、このうち約三分の一が爆撃機でいずれもアメリカ空軍の第一線機を配置している、在支アメリカ空軍の増強に伴い重慶に対するアメリカの軍事的発言権は今や絶対的となり重慶は全くその□使に甘んぜざるを得ない状態にあり、専らアメリカに頼って兵力、機材の増強に狂奔している

これらの在支敵国空軍はわが空軍の不断の鉄槌に怯えて奥地退避の消極戦法に終始し昨年十一月以降大陸では全く蟄伏して鳴りをひそめていたが、今月下旬からビルマ方面が雨季に入るので同方面での活躍が封ぜられるとともに漸次東方ならびに北方に向って頤動の気配を示しつつある、これに対してはわが方もまた見敵必墜の態勢を強化し確実に敵の企図を粉砕しつつあるが敵空軍は執拗に日本本土や和平地区に対する空襲を企図しているので今後の形勢は断じて軽視を許さぬものがある

米・玉門油田に投資

この動向と関連してアメリカの重慶に対する支配権が強化されるにしたがい西北地区に対するアメリカの野望もまた急速に具体化されつつあることは注目される、従来新疆省ならびに西北ルートはソ連の絶対勢力下にあったが、独ソ戦を契機としてこれが漸次後退するとともに新疆省に対する重慶勢力の進出をみ、新疆、甘粛省境猩々峡の封鎖もついに撤廃されて新疆入境が緩和された

この形勢に便乗したアメリカはソ連の後退を好機として新疆、甘粛省方面に相ついで領事館を開設すると共に玉門油田その他に巨額の投資を行い西北における支配的地位を獲得しつつあるが、この方面に対するアメリカの政治的、経済的進出は当初重慶側の企図した西北開発の狙いである虫のよい他力抗戦策が巧にアメリカの野心に逆用されたものであると同時にこの方面よりするアメリカの対日反攻の企図も窺われるのであって大東亜戦争の進展に伴い西北の形勢はすこぶる注目を要する [図表あり 省略](喘ぐ重慶・窮余の対策 日本攻勢の基地『西北』 : ソ連勢力微弱化しのさばるアメリカ引用終わり)

3−5.陸海軍機の規格統一 : 軍需省の専管範囲を明確化
大阪朝日新聞 Vol: 第 2巻 Page: 158 出版年 1943-10-28

九七式重爆 二十七日午前の衆議院軍需会社法委員会において船田中氏(栃木)より軍需会社法運営に重大関連ある発注の一元化ならびに規格の統一およびその調弁はいかに実現するかとの質疑があったに対し岸国務相ならびに吉積陸軍整備局長、保科海軍兵備局長より左のごとき極めて注目すべき答弁があった、しかして軍需省は原則として航空機ならびにこれに関連する兵器を専管するとともに軍需会社の大部分を所管することとなるのであるが、他の兵器と密接な関連あるものは従来のごとく陸海軍に残るとともに工廠は軍需省に移管せられないことが明らかとなった

発注と調弁の問題

岸[信介]国務相 軍需大臣の所管する事項は重要軍需品の原料および材料ならびに特定軍需品の生産管理発注および調弁に関する事項ということになる、この特定軍需品というのはさしあたり航空機およびこれに関する資材を指しているのである、調弁発注の方法などについては予算との関係もあるのでなお考究すべき点があると思う、なお重要軍需品の範囲などについては関係省において具体的に決めなければならぬ点があると思う、この重要軍需品の原料および材料についても同様にこれの生産管理と発注調弁をすることになっている、しかし軍需会社は広いので製鉄事業、アルミニュウムなどの素材に対する生産を命令する場合にはそのものはすべて契約調弁するものではなくて他の方面に行く部分もあるわけである

一式陸攻 迫水[久常]大蔵相総務局長 払いは軍需省が払いをして買ったものは軍需省所属の品物になるが、それを今度は陸海軍へ無償で管理換えをするということになる 規格の統一問題

岸[信介]国務相  軍需省におい陸海軍の航空機関係を一元化する狙いの大きな理由の一は陸海軍において融通しもしくは規格を統一し得る限度においてこれを統一して行くとともに、共通にすることが非常に大きな狙いの一になっている、従来においても最近は余程規格なども陸海軍統一の傾向に行っているが、なお軍需省が設定されれば能う限り統一されることになる

吉積政府委員 陸軍としては只今国務大臣のいわれた通り考えている、ただ一言申上げたいことはものをルーズに考えるのではないが、余り規則にとらわれて権限をやかましくいわないで実質的にうまく行くことを狙ってやりたいと考えている

保科政府委員 陸軍の御発言と同様であるが航空機に関しては海軍陸軍もいろんなことが実質的に実績の挙がるよう研究されており、十分航空機の画期的生産が出来るよう努力して行くつもりである

軍用の重要資材生産配給支障なし 軍需省と艦本、兵本関係闡明

百式重爆 岸[信介]国務大臣は軍需資材の適正なる配給、とくに軍需省と陸海軍省の鑑本、兵本との関係について二十七日衆議院軍需会社法委員会における小山倉之助氏(宮城)の質問に対しつぎのごとく答弁し注目された

 今回の軍需省の設置によって企画院が廃止され国家総動員法の基本に関するものは軍需省の管轄となった、したがって重要資材の割当はどうなるかという根本はいうまでもなく物動計画によって今後は軍需省が基本を定めてゆき、実施計画により実施官庁があたるわけである、軍需省は一般鉱工業に関する広い権限をもっているので、重要資材の実施計画も軍需省がもとになってやることになる、

したがってこれによって各陸軍、海軍もしくは民需の各用途にどういう資材を、四半期別にどういう風に割当てるかが決るわけで、艦本、兵本その他陸海軍の必要とする重要な資材はいまの計画にもとづいて軍需省が生産と配給を担当するので決して艦本や兵本が陸海軍に残っているということから資材配給などに非常な支障を来すことはないと思う 責任範囲は生産現場に限定

銀河 軍需会社の生産責任制における生産責任者ならびに生産担当者の具体的責任の範囲について二十七日午後の衆議院軍需会社法案委員会で椎名商工省総務局長は野田武夫氏(神奈川)の質問に対しつぎの如き注目すべき答弁を行った、なおこの答弁において生産製品の納入価格については必ずしも公定価格によらず生産コストに一定の利潤を加算し、買取価格の面において生産を阻害することのないよう措置する点についても明言した

椎名商工省総務局長 生産責任量を決める場合は生産責任者側の生産可能量に基づいて決定し、生産命令を発することになるが、その生産命令の責任量の生産を達成するに無理な事情があった場合はその責任量を変更することもあろう、しかしてその生産責任を問う場合には生産責任審査会において審査する生産責任者および生産担当者の直接責任は大体生産現場に限定されることになり、対外的な労務、資材などの配給割当の確保ができないために生産責任量が生産できなかった場合はそれが官庁や監理官の職務懈怠その他のことによって生じた時はその方の責任を追及し、官吏または監理官の服務規律によって処断することになる、なお生産責任者、同担当者などに今回の官庁減員による旧官吏を置替えるような生産現場を無視した天降り人事は絶対行わない(陸海軍機の規格統一 : 軍需省の専管範囲を明確化引用おわり)

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

⇒写真集Album:支那事変と欧州戦を繞る日米の関係/米の極東対日攻勢を見る。 

⇒写真集Album:第二次大戦前のイギリス・ドイツ・フランス・ソ連の航空機の発達を見る。

⇒写真集Album:目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦を見る。 

⇒写真集Album:英米の極東対日戦略と航空兵力を見る。 

⇒写真集:欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料を見る。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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