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◆ロッキード(Lockheed)XC-35高高度機
写真(上)1937年5月−1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機左側面
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。ロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、円形断面、球形繭型の与圧コックピットを設け、飛行高度30,000 ft (9,144 m)で高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持可能。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 parked.jpg引用。


1.ユンカース(Junkers)の高高度機

写真(右)1931年10月、舗装滑走路に待機するユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機(登録コード:D-UBAZ)の左後方側面:垂直尾翼には赤帯白丸黒スワスチカ卍のドイツの国籍マークが描かれている。1934年8月2日、ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが87歳で死去すると、ヒトラー首相が大統領の権限を引き継ぎ、ドイツ軍は、ヒトラーに個人的忠誠を宣誓するようになった。これが、ヒトラー総統の独裁国家である。
Junkers Ju 49 (1931)Первый полет состоялся в 1931 году. В 1933 году самолет достиг высоты 9300м, а 1935 году высоты 13000м.
写真はFree web-hosting with CMS, высотный, исследовательский・File:Bundesarchiv Bild 102-12368, Junkers-Stratosphären-Flugzeug Ju 49.jpg引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機は、固定脚だが、重量軽減のために脚は細く車輪カバーも取り付けていない。ただし、空気密度の低い高高度用の大直径プロペラを装備したために、降着装置の脚は以上に長い。なによりも、ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。

ユンカース(Junkers)Ju 49 の諸元
乗員Crew: 2名
全長Length: 17.21 m (56 ft 5.5 in)
全幅Wingspan: 28.24 m (92 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 98.0 m2 (1,055 sq ft)
空虚重量Empty weight: 3,590 kg (7,916 lb)
総重量Gross weight: 4,250 kg (9,371 lb)
発動機Powerplant: 1 ×ユンカース(Junkers)L88a V型12気筒4ストローク(排気量45.8 L)液冷エンジン2段排気ガスタービン過給機(supercharger)付き596 kW (800 hp)
最高速力Maximum speed: 146 km/h (91 mph, 79 kn) at sea level; 220 km/h (136 mph) at 13,000 m (42,700 ft)
実用上昇限度Service ceiling: 13,015 m (42,700 ft)
上昇率Rate of climb: 3.5 m/s (690 ft/min) to 8,000 m (26,250 ft)

写真(右)1931年10月、ドイツ、ユンカース飛行機工場で製造されたユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の与圧式コックピット
写真は, Go to WeirdWings r/WeirdWings by MrPlaneGuy・Michael Hundertmark(1985) Phoenix aus der Asches: Die Deutsches Luftfahrt Sammlung [German Edition] berlin.ISBN-10 3924091021 引用。


ユンカース(Junkers)Ju 49 の諸元
乗員Crew: 2名
全長Length: 17.21 m (56 ft 5.5 in)
全幅Wingspan: 28.24 m (92 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 98.0 m2 (1,055 sq ft)
空虚重量Empty weight: 3,590 kg (7,916 lb)
総重量Gross weight: 4,250 kg (9,371 lb)
発動機Powerplant: 1 ×ユンカース(Junkers)L88a V型12気筒4ストローク(排気量45.8 L)液冷エンジン2段排気ガスタービン過給機(supercharger)付き596 kW (800 hp)
最高速力Maximum speed: 146 km/h (91 mph, 79 kn) at sea level; 220 km/h (136 mph) at 13,000 m (42,700 ft)
実用上昇限度Service ceiling: 13,015 m (42,700 ft)
上昇率Rate of climb: 3.5 m/s (690 ft/min) to 8,000 m (26,250 ft)

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度機を見る。 

高空征服への一歩 地上に成層圏 : やがて太平洋も十時間で : 帝大で素晴しい試験

掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 6 出版年 1933-03-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100168629 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(低温低圧風洞)あり 省略]
ベルジューム気象学の権威ブラッセル大学[オーギュスト]ピカール[Auguste Piccard]教授は一九三一年五月軽気球に乗って一万五千七百メートルまで上昇し更に昨年八月一万六千五百メートルの上空をきわめて高度上昇の世界新記録を作り成層圏[stratosphere]に対する新発見を多数にもたらしいわゆる無碍の世界ともいうべき成層圏−地上に嵐が吹いていても雨が降っていても成層圏には低空気象の影響はない−飛行への完成は今や世界の航空界、気象界に残された大問題として世界各方面の研究の焦点となっているがわが国でも帝大航空研究所で早くも大正十四年来故田丸卓郎博士や佐々木達治郎博士が研究に没頭し故田丸博士考案、佐々木博士が設計に当って成層圏[stratosphere]と同一の条件を具備する計器(飛行機の速度計、高度計その他)研究の設備を痛感して同十五年経費十五万円を投じて『低温低圧風洞』の設備に著手し爾来八ケ年の長年月を費して苦心惨憺、最新科学の粋をあつめた工事を急ぎつつあったがいよいよ本月中旬をもって目黒の航空研究所内に『低温低圧風洞』の設備が完成し、来る四月から新設備による成層圏飛行への光彩ある実地研究の第一歩を踏み出すことになった、

しかもこれは世界無二の設備で全く日本が先鞭をつけたものである、この設備は一万メートル以上の高空、いわゆる成層圏[stratosphere]におけると同様の低温(零下五十度以下)低圧の気象状況を現出する装置でこの風洞内においていろいろな航空計器の実験的研究をなすものであるこの実験的研究が完成された暁には成層圏における人間の体力の研究と相まって現在の航空機では不可能とされている成層圏内飛行が可能となり田中館博士が二十年も前から唱えている『高天ケ原飛行』によって太平洋横断も僅十時間の短時間で出来るという世界航空界未踏の研究資料がこの風洞の計器実験から生れようという訳である、右について航空研究所の水口事務官は語る

世界で唯一のものです、この風洞によって航空計器の実験を行い成層圏[stratosphere]では如何にその性能が変化するかを研究して成層圏飛行の参考にするもので広さ五、六十坪高さ五、六間の建物の中に設備され純国産品で作り上げたものです

ユンカース(Junkers)Ju 49 高高度実験機の特徴は、与圧コックピット操縦室で、高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる点にある。Ju 49は高高度記録を更新したわけではないが、パイロットの技量・体力・勇気に依存する高高度席記録よりも、乗客に快適な与圧キャビン、少なくとも操縦者には安全な与圧コックピットの開発には、世界記録更新よりも、その後の航空界にプラスの影響をもたらしている。 

⇒写真集Album:オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)の成層圏気球を見る。 

写真(右)1937−1938年以降、スイス、チューリッヒ(Zürich)郊外、デューベンドルフ(Dübendorf)空港、スイス航空(Swissair)ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B-1輸送機(登録コード: HB-IXE):1934年11月4日初飛行のJu86は、民間航空仕様とドイツ空軍爆撃機仕様の双方に使用できる高速双発機として開発された。発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンで、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった
EN: JUNKERS JU-86 B-1, HB-IXE ON THE GROUND IN DÜBENDORF Photographer Swissair Dating 1936-1939 Format 13 x 18 cm License CC BY-SA 4.0Caption (German) Die Swissair hatte drei verschiedene Ju 86. Die zwei ersten hatten Dieselmotoren. HB-IXI Ju 86 B-0 kam am 7.5.1936 zur Swissair, hatte aber am 12.8.1936 in Wixhausen (D) eine Bruchlandung mit grosser Beschädigung und ging zurück ans Junkers-Werk. Die JU-86 B-1 HB-IXE kam als Ersatz für die HB-IXI am 16.3.37 zur Swissair. Ihre Dieselmotoren waren auf Kurzstrecken sehr störanfällig und sie wurde deshalb am 4.11.38 zur Umrüstung auf BMW-Benzin-Sternmotoren zurück zu Junkers geflogen. Am 5.2.39 kam die ehemalige HB-IXE nun mit Benzinmotoren als Ju 86 Z-11 HB-IXA zurück zur Swissair und stürzte am 20.7.39 bei Konstanz ab. Flugkapitän Walter Ackermann, Bordfunker Anton Mannhart und vier Passagiere fanden den Tod
写真は, ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv LBS_SR02-10803引用。


民間仕様のユンカース(Junkers)Ju86B輸送機は、機首を短くしソリッド化し、胴体の客室キャビンに乗客10人を搭乗せることができた。

ポリカルポフ I-153 ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B 双発輸送機の発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (441 kW)で、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった。

スペイン市民戦争にドイツ・コンドル軍団に配属され参戦したしかし、ソ連製ポリカルポフI-153ポリカルポフ I-16 typ10戦闘機の迎撃を受け、低速のユンカース(Junkers)Ju86 では苦戦したであろう。

ユンカース(Junkers)E型では発動機がユモ205ディーゼルエンジンから信頼性の高いBMW132空冷星型9気筒エンジンに換装された。1938年4月に開発されたG型は、機首を短くして、操縦席からの視界を向上したが、それ以上の改良は行われずに6月にG型を最後に生産は終了した。その後、高高度偵察機P型とR型では、再び高空性能の良いユモ205ディーゼルエンジンを装備している。

Junkers Ju86 伯林から東京へ十五時間で飛込む : 時速七百キロ成層圏を突進 : オリンピック大会をめざす驚異の新計画

掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 12 出版年 1937-06-18

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100186073 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

【同盟ベルリン十六日発】ルフトハンザ航空会社[Deutsche Lufhansa AG]が全機能をあげて研究中だったベルリン、東京十五時間飛行計画は四年後のオリンピック迄に実現しそうだということである、従来欧亜航空聯絡はイギリスのインピリアル・エアウェイ会社[Imperial Airways]に独占されていた形だったのでルフトハンザ会社[Deutsche Lufhansa AG]はこれに対抗して独自の航空路就中日独両国を繋ぐ空路を開拓しようというのでこの空路に必要な新考案の研究を続けていたわけなのだが、最近いよいよこの計画に目鼻がついたといわれる

 この考案というのは空気の抵抗を極度に削減するため特殊の飛行機を使って上空十キロ乃至十五キロの成層圏[stratosphere]に上昇し時速七百キロの猛スピードを出し、東京ベルリンを十五時間位で繋ごうというのだが、ルフトハンザ会社[Deutsche Lufhansa AG]では是非とも一九四〇年東京オリンピックまでに実現して同航空路経由でドイツ選手達に空の一番槍をさせようという意気込み

写真(右)1937年以前、ドイツ、編隊飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 D 爆撃機:爆弾搭載量800 kg (16発 × SC 50キロ爆弾)。機首は長く、先端に銃座を設けている。全長17,87 m、全幅22,50 m、全高5,06 m、主翼面積82m2,発動機は、ユンカース ユモ205C (Junkers Jumo 205C) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (447 kW)を装備。総重量8.200 kg、最高速力325 km/h (3000 m)、航続距離1500km、爆弾搭載量 800 kg (16 × SC 50)、上昇限度5900 m
English: German Junkers Ju 86A or D bombers (with Diesel engine Junkers Jumo 205 ) in flight. Deutsch: Junkers Ju 86 A/D, frühe Bombervariante mit Junkers Jumo 205 Dieselmotoren im Verbandsflug, ca. 1937. Bei dem breiten, vermutlich gelben Rumpfband zwischen Bug- und Führerkanzel handelt es sich wahrscheinlich um eine abwaschbare Manövermarkierung. Das seinerzeit 5-stellige Rumpfkennzeichen auf der vorderen Maschine lautet 42 + C26 und steht für Kampfgeschwader 254, II. Gruppe, 6. Staffel (6./KG 254, Flugzeug C), welches am 01.04.1937 (II. Gruppe) in Eschwege eingerichtet worden war. Date 1937 Source Flightglobal 11 November 1937, p. 466 - 3086.html
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。


写真(右)1940年、ドイツ、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 P 高高度偵察の機首右側:G型を引き継いだので、短い機種で先端に球形ガラス風防がある。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を改良し排気ガービン過給機を装置したユンカース ユモ 207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン直列6気筒液冷ディーゼルエンジン。
A German Junkers Ju 86P-1 high altitude reconnaissance plane. Date circa 1940 Source Royal Air Force Battle of Britain campaign diaries photo Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Junkers Ju 86P high altitude reconnaissance plane c1940.jpg引用。


Spitfire Mk.IXc ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1934年11月4日に初飛行したJu86輸送機/爆撃機を原型に、主翼を延長し、操縦席を2人乗り与圧コックピットとし、高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)を防止した。そして、Jumo205ディーゼルエンジンに圧縮空気を送って高高度でも燃焼可能とした特殊仕様を装備した。これがJu86Pde1940年1月に開発され、高高度度1万2000mからイギリス本土を1940年から1942年9月12日、スーパーマリン スピットファイア(Spitfire)Mk IXによる高高度迎撃が実施されるまで使用された。

また、ユンカース(Junkers)Ju86P高高度偵察機は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」発動前の、友好国ソビエト連邦の違法偵察にも投入された、1942年8月、エジプト上空1万4000mで偵察飛行任務にあたっていたユンカース(Junkers)Ju86 PがスピットファイアMK.Vに撃墜されている。1943年に高高度偵察任務から撤退。

図(右)、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 P 高高度偵察機の三面図爆撃機:機首は短く、与圧式コックピットの操縦席となっているが、未密性を高めるために乗員は2名のみ。長く、先細の主翼を備えて、高高度性能を改善している。与圧室化の困難と軽量化のために防御用火器は備えていない。発動機は、ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)を装備。イギリス軍作成の敵機識別表より転載。
Junkers Ju 86 P, from Recognition Guide published by Britsh Army Council 1945 own scan 1937 Source Flightglobal 11 November 1937, p. 466 - 3086.html
写真はWikimedia Commons, Category: Junkers Ju 86 File:Bundesarchiv Bild 141-2402, Flugzeug Junkers Ju 86.jpg引用。


ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンを搭載したのは、ユンカース(Junkers)Ju 86輸送機/爆撃機のほかは、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 138三発飛行艇、ブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV 222六発飛行艇など、長距離低速機に限られた。

ユンカース Junkers Ju 86 R諸元
全長: 16.40 m
全幅: 32.00 m
全高: 4.70 m
翼面積: 97.06 m2
空虚重量: 6,700 kg
全備重量: 11,530 kg
燃料容積: 1,937 L
エンジン: ユンカース ユモ207 (Junkers Jumo 207) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン900 PS (662 kW) 2基
プロペラ: 4翅定速回転プロペラ
最大速度: 420 km/h/9,000m
実用上昇限度: 14,400 m
航続距離: 1,570 km

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju86を見る。 


2.ロッキード(Lockheed Model 10)エレクトラ(Electra )

写真(右)1937年、赤道一周旅行のために愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)コックピット右の副操縦席に付いた女性飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart):アメリアは、1927年のリンドバーク同様、1932年アメリア・イアハートはベガで女性初の大西洋単独横断飛行に成功した。しかし、1937年に挑戦した2回目の地球一周飛行では、最終段階で太平洋上で飛行機ごと行方不明になった。
Author New York World-Telegram and the Sun Newspaper Title An outstanding picture of 1937 - tragedy Description English: Photograph showing Amelia Earhart sitting in the cockpit of an Electra airplane. Medium 1 photographic print : gelatin silver. Accession number LC-DIG-ppmsca-31771 (digital file from original photograph) Call Number: NYWTS - BIOG--Earhart, Amelia--Portraits [item] [P&P] Credit line Rights Advisory: No known restrictions on publication. No copyright renewal found in U.S. Copyright Office, 2012. the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID ppmsca.31771
写真は Wikimedia Commons, Category:Portraits of Amelia Earhart・File:Amelia Earhart 1937.tif引用。


写真(右)1937年頃、カナダ、未舗装飛行場に駐機しているカナダ交通省(Department of Transport)のロッキード・モデル12・エレクトラ・ジュニア(Lockheed Model 12 Electra Junior:登録コード:CF-CCT):1937年7月30日、カナダの東部モントリオール(Montreal)から西部のバンクーバー(Vancouver)まで初めて1日間で飛行することに成功した。
There are several photographs of different models of airplanes in the collections. Including this single-seat fighter aircraft known as Siskin (Image 5). In 1929, the Royal Canadian Air Force (RCAF) formed a flight demonstration team, known as Siskins aerobatic team, that performed daring maneuvers with these airplanes. Another example is this aircraft model Department of Transport CF-CCT (Image 6), which was the first airplane to fly from Montreal to Vancouver in one day on July 30, 1937.
写真はUniversity of British Columbia, Aviation photographs from first half of 1900s By Marina de Souza on February 21, 2023引用。


通常型ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)10E(Lockheed Model 10E Electra )の諸元
空虚重量(Empty Weight): 6,454 ポンド(pounds)
全長(Length): 38 feet, 7 inches
全高(Height): 10 feet, 1 inch
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340「ワスプ」Wasp SH31空冷星形9気筒エンジン600馬力2基
巡航速力(Cruise speed): 時速190-194マイル(mph)
最高速力(Max Speed): 時速202マイル(mph)
航続距離(Range): 619 マイル(nautical miles)
実用上昇限度(Service Ceiling): 19,400 feet


写真(上)1941年9月3日、ブラジル、パン・エアー・ブラジル航空 (Panair do Brasil))のロッキード・スーパーエレクトラ 10(Lockheed Model 10 Electra)(登録コード:PP-PAS)
:この機は 1943 年にヴァリグ航空に売却され、1944年に事故で喪失した。
Português: Lockheed Model 10 Electra-PP-PAS-Panair do Brasil. Essa aeronave foi vendida para a Varig em 1943 e sofreu um acidente fatal em 1944. Date 6 September 1941 Source O Cruzeiro, Ano XIII, edição 45, página 48/republicado pela Biblioteca nacional-Hemeroteca Digital Brasileira http://memoria.bn.br/DocReader/003581/32358 Author Unknown author
写真は,Category:Lockheed Model 10 Electra Digital ID whh001060 Physical Identifier 0373_0775引用。


ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)による世界一周赤道飛行のルートは、カリフォルニア州オークランドから、フロリダ州マイアミに到着時点に大々的に公開され、マイアミからメキシコ湾を超えて、中米、南アメリカを経て、大西洋を越えてアフリカ大陸に渡った。

そして、インド洋を超えて、南東に針路をとり、6月29日、ニューギニア島東北部海岸ラエLae)に到着した。当ここまでの飛行距離は、2万2000マイルで、残すところ7000マイルだった。


写真(上)1937年6月2日、オーストラリア北部、ノーザンテリトリー州ダーウィン(Darwin)、赤道上の世界一周飛行中のアメリカ女性飛行士アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)が愛機ロッキード 10 エレクトラ(Lockheed Model 10 Electra )(登録コード:NR16020)
:燃料給油車とエンジン点検台を持ったメカニックが待機している。ジャワ島スラバヤから東に2000kmの距離にある。
Old Identification Number xi.b.7.j Purdue Identification Number b11f4i8 Title Amelia Earhart's Lockheed Electra plane Description Amelia Earhart’s Lockheed Electra plane, called her “flying laboratory,” with fueling truck and mechanics at left, Darwin, Australia, ca. June 1937 Date of Original 1937-06 Subjects Earhart, Amelia, 1897-1937--Photographs Lockheed Electra Darwin (N.T.) Australia Mechanics (Persons) Extent of Original 1 photograph : sepia ; 18 x 23 cm. Orientation Landscape Collection George Palmer Putnam Collection of Amelia Earhart Papers
写真はPurdue University Libraries ・CD Number AECD_178 引用。


アメリア愛機の特別仕様ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed 10E Electra Special:NR16020)は、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、ウィーラー飛行場(Wheeler Field)に着陸したが、潤滑油と降着装置の不調から、予定を変更して、真珠湾のアメリカ海軍基地で修理を行った。アメリアとヌーナンが修理したロッキード・エレクトラ(Lockheed L-10 Electra:登録コード;NR16020)は、当初の飛行予定を3日遅れで、ホーランド島(Howland Island)を目指して、オアフ島真珠湾フォード島ルーク飛行場(Luke Field)を滑走し始めた。しかし、ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、ルーク飛行場から離陸する最中に、主輪パンクのためか、グランドループ(滑走中のスピン)に陥ってしまい、降着装置が折れて、プロペラや機体下部が大きく損傷した。

ヒューズらは、当初、1937年の世界一周飛行経路は、アメリカ、ニューヨークから、パリ、モスクワ、シベリヤのイルクーツク、アラスカのフェアバンクス、カナダのエドモントにストップオーバーし、ニューヨークに戻ってくるルートを公開していた。、しかし、実際には、7月10日夜にニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)を離陸したヒューズのロッキード 14は、パリ、モスクワと飛んで、シベリヤのオムスク(Omsk)、ヤクーツク(Yakutsk)にストップオーバーした。そして、アメリカのアラスカのフェアバンクスによってから、ミネソタ州ミネアポリスを最後のストップオーバーとして、給油・整備をし、ニューヨークに最後の飛行に飛び立った。

女流飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart)は、再開した第二回目の世界一周赤道飛行の最終段階で、1937年7月2日、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)に搭乗したまま、行方不明となった。こうなれば俺がと、ヒューズは、世界一周を最速で実現してやると決意した。

Howard Hughes 女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)の世界一周は、国際航空連盟の規定通りに、赤道付近を地球周回するという公式の世界一周だったのに対して、飛行事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の世界一周は、ニューヨーク、パリ、モスクワ、シベリア、(戦争で不可能だったが上海・東京)、アラスカと北半球の世界国際周回飛行であり、公式の「世界一周」ではない。アメリアもヒューズも、ロッキード(Lockheed)機による世界一周飛行を行ったが、その目的が異なっていたからである。

アメリアは、女流飛行家として、女性の自己実現として、世界一周の公式記録を樹立したかった。ジェンダー不平等、LGBT差別へ反抗するリベラルな意図も見えてくる。

他方、飛行事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ヒューズ飛行機工場の社主・TWAトランスコンチネンタル航空オーナーとして、国際航空運輸の実現を企図していたのであろう。ヒューズにとって、国際航空連盟の公認の世界一周というお墨付きは不要だった。大富豪で、政治家も軍人にも影響力があったヒューズは、公認にはこだわらず、グローバル・ビジネスにつながる国際航空運輸、特に国際旅客輸送によるグローバル化を夢見ていたのである。

⇒写真集Album:アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)ロッキード 10 エレクトラ(Lockheed Model 10 Electra)の世界一周赤道飛行を見る。 


3.与圧キャビンのロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度実験機


写真(上)1939−1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊のロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の右側面
:発動機は排気タービン付きの550 hp (410 kW)XR-1340-43空冷星型9気筒エンジン。アメリカ陸軍航空隊が発注した高高度試験機なので、国籍マークを付けている。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 2.jpg引用。


アメリカ陸軍航空隊は、ロッキード社と契約して、高高度25,000 ft (7,620 m)を飛行しても、搭乗員が低気圧に苦しめられないで2時間の飛行可能で、航続時間10時間以上の高高度性能をもつ実験機を11万2,197ドルで発注した。これが、ロッキード(Lockheed )XC-35で、高高度飛行が可能な与圧キャビンの実用機テストということである。


写真(右)1937年5月−1940年頃、アメリカ、未舗装滑走路のアメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の右前方
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。
AL61A-340 Lockheed XC-35 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、円形断面、繭型の与圧コックピットpressurized cockpit)を設けた。そのため、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも、キャビン内部の気圧は高度12,000 ft (3,658 m)の水準に維持することができた。


写真(右)1937年5月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機
:1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、主翼を延長し、操縦席を2人乗り与圧コックピットとし、排気タービン(ターボ過給機)を装備した高高度試作機で、1937年5月にライト・フィールドでアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、アメリカ軍機の国籍マークを付けて、8月5日に初飛行をした。発動機は原型エレクトラのプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985-13ワスプジュニア(Wasp Junior)空冷星型9気筒エンジン(排気量16L)450 hp (336 kW)を排気タービン付きの550 hp (410 kW)XR-1340-43に換装している。与圧キャビンにはターボ過給機のコンプレッサーで空気が吸入されており、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも与圧キャビンでは、高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持できた。生産は試作1機のみ。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35.jpg引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35高高度実験機には、酸素マスクだけでなく与圧式コックピット操縦室が設けられている。気圧格差に耐えるために、堅牢な繭型で、気密性を高めるために、出入り口は小さく、視界を得るためのガラス窓も小さな円形にとどめている。高高度の低気圧の中でも低高度の気圧を保つことのできる 与圧コックピットには、気密性と軽量で高い強度が求められた。

ロッキード(Lockheed )XC-35が目標とした高度と気圧の低下は、
18000フィート(5486m)1/2
27000フィート(8230m)1/3
38000フィート(11582m)1/5
50000フィート(15240m)1/10
と 加速度的に気圧は低下する。


写真(右)1937年5月−1940年頃、アメリカ、舗装滑走路上のアメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の左前面
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。
Lockheed, Model 10 (XC-35), Electra Catalog #: 01_00091577 Title: Lockheed, Model 10 (XC-35), Electra Corporation Name: Lockheed Designation: Model 10 (XC-35) Official Nickname: Electra Additional Information: USA, Delivered to the United States Army Air Corps as a research vehicle for pressurization and high altitude flight. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


軍用機の現在及将来 : 速度、高度とも驚異的進歩 : 成層圏飛行も期待
掲載誌 満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 43巻 Page: 137 出版年 1937-07-02

情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

 欧洲大戦当時の飛行機は、その性能未だ完備の域に達せず時速一五〇粁、航続時間四、五時間、爆弾搭載量僅かに三〇〇瓩程度であって、その航法及び爆撃法も甚だ幼稚なものであったが、しかもドイツ爆撃機の如きはしばしばロンドンを空襲し、その与えたる被害は左程大でなかったにも拘らず、英国市民の心胆を寒からしめたのは周知の事実であるしかるに大戦後列強は全力を挙げて航空技術の進歩発達に没頭し、毎年性能優秀なる飛行機の製作研究を行い飛行速度、上昇高度、無着陸航続時間等の世界的記録を自国飛行機により獲得せんと努めたので、飛行機の性能は真に文字通り日進月歩の勢いをもって改善された
 軍用機の性能中最も重要なものは飛行速度航続時間(距離)爆弾搭載量の三つであって、特に飛行速度は極めて重要ものであるから列強は競ってこれが進歩を図っている、今軍用機の性能の進歩の跡を見れば次の通りである

一、爆撃機の飛行速度は、昭和五年(一九三〇年)より著しく増加し、特に昭和八年(一九三三年)以後には顕著なる発達を示し、今や軽爆撃機は時速平均四五〇粁、最大五二〇粁、重爆撃機は時速平均四一〇粁、最大四七五粁に達し、欧洲大戦末期に比し、時速三、四倍の増加であって、本年度末においては五〇〇—五五〇粁に達するものと考えられる

二、戦闘(駆逐)機の飛行速度は昭和八年(一九三三年)まで概ね同比率で増加しているが、それ以後急速に比率を増大し、今や時速平均四九五粁、最大五二〇粁に達し、欧洲大戦当時に比し時速二、三倍に増加した、これを爆撃機に比すればその増加率は低いが本年度においては五七五粁に達するものと予想さる

三、戦闘機と軽爆撃機との飛行速度の差は昭和五、六年ごろ最大となっていたが、爾後逓減し今や両者の平均時速差は僅か四、五粁であって最大時速を比較すれば、優劣なき現象を呈している

四、戦闘機と重爆撃機との飛行速度の差は、大正九年—昭和四年(一九二〇年—一九二九年)は概ね一定していたが、それ以後著しく減少し、昭和八年(一九三三年)以後急速に逓減して今や両者の平均時速差は約九〇粁であって、最大時速差は僅か二〇粁にすぎぬという状況である

 将来の航空機はどうなるか、という問題には現在の三つの傾向がある、すなわちその一つは漸時大型となりつつある、その二は益々高空を飛行するようになり、成層圏飛行の実現が期待される、その三は速度が著しく大となりつつある、更に現在の航空原理(翼と発動機とプロペラの三者による飛行)の範囲を脱した新規な考案による航空機の出現ということも相当期待されている、先ずどの位の大型機が出現するかというと一九四〇年ごろには全備重量三十五万封度、総馬力二万四千馬力という巨大な飛行艇が出現するだろうといわれている、現に米国ダグラス航空会社の設計にかかる大型機は時速四八〇粁の快速でニューヨークからリヴァプールまで僅かに十一時間で大西洋を翔破する性能を有するといわれている

 成層圏或はそれに近い高空を飛行することによって飛行機は平均時速五百粁を得ることは困難でなく、東京—サンフランシスコ間の太平洋は十二時間で横断連絡され、ニューヨーク、ロンドン間の如きは僅かに八時間で連絡される、更にベルリン—東京間十五時間空輸も話題に上っている程である、なお明日の航空機として多くの期待をかけられているものにロケットがあるがここでは省略する(満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 43巻 Page: 137 出版年 1937-07-02引用終わり)


写真(右)1937年5月−1940年頃、アメリカ、ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機右前方
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。2翅プロペラが古めかしいが、可変ピッチなので、速度に応じて適正なプロペラ角度を取ることが可能である。銀色無塗装の美しい形状で、機体表面の工作も上質であることが見て取れる。よれや皺が目立つ日本軍機とは異なっている。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 3.jpg引用。


世界に跨る航空日本の底力成層圏飛行に光明 : 航空衛生学上の基礎研究成る 航研淡路氏の輝く業績

掲載誌 報知新聞 Vol: 第 6巻 Page: 67 出版年 1939-11-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100186858 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(淡路円次郎氏)あり 省略]
成層圏飛行は最もスピィディで障害の少い理想的な航空路として列強が競って研究を続けているが、我が帝大航空研究所でも事変以来成層圏飛行については殊に熱心に研究を続けており、これが実現の日も歩一歩近づきつつあるとき今度同研究所員の淡路円次郎氏が『成層圏飛行における加速度の精神機能に及ぼす影響』という航空医学上画期的な業績の一部を完成、今度文部省の学術振興会から研究助成金を得ていよいよ第二期研究に着手することになった

この研究は成層圏飛行のような超スピード飛行に必然的に伴なう加速度が飛行士や機関士などの搭乗者の心身に如何なる影響を与えるかを明らかにしたもので、これは成層圏飛行にとって最も重大な宿題であるにも拘らず今まで全く等閑に附されていたものを同氏が初めて明らかにしたものである、同氏の研究は人間を被実験生体としてその影響を研究する前に先ず白マウスを被験生体として研究を行ったもので既に成層圏のスピード飛行ではどれだけの加速度と持続時間で死に至るかの限界を明らかにすると共に成層圏飛行におけるいろいろな精神的、肉体的前駆徴候を明らかにし、我国航空医学界に不滅の金字塔を打ちたてたものである

 同氏は更に今回学術振興会からの研究助成金によっていよいよ残された低気温圧下における加速度の影響について研究を進めることになった。(引用終わり)


写真(上)1937年5月−1941年前半、、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の左前方
:アメリカ陸軍航空隊が発注した高高度試験機なので、国籍マークを付けている。発動機は排気タービン付きの550 hp (410 kW)XR-1340-43に換装している。尾輪は固定式のままである。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin, in flight. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 in flight.jpg引用。


地球の大気圏は、下層から対流圏[troposphere]成層圏[stratosphere]・中間圏(100km)・熱圏(500km)・外気圏と層をなしている。成層圏[stratosphere]とは、地球大気の対流圏の上空にある大気圏である。対流圏と成層圏との境界は、高緯度の極地では高度8km、低緯度の赤道では高度17kmである。成層圏と中間層の界面高度50kmである。

成層圏の上空は、中間圏で、その境界は、高度50kmである。したがって、成層圏に達するには、中緯度であれば高度12−13kmである。つまり、成層圏飛行機とは高度1万2000m以上まで上昇、高高度で飛行し続けることの可能な航空機ということになる。

成層圏では強い対流は見られないが、対流圏上部の偏西風の影響を受ける。他方、成層圏上部では、気圧差とコリオリから、地軸の傾きに応じて冬は成層圏偏西風、夏は成層圏偏東風が吹いている。


写真(右)1937年5月−1941年前半、、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機

Bilstein_00668 Lockheed XC-35 1937 (USAF W-2712) Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum 引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35やジェット旅客輸送機の巡行高度は、高度1万メートル(10km)程度であるが、その理由は、空気密度の抵抗とエンジンの稼働に必要な大気(酸素)との関連である。つまり、空気密度は、海面上(標高0m)に比して、高度10kmでは、33.7%に低下するが、これは飛行機の空気抵抗は、高高度ほど減少することを意味する。

しかし、ロッキード(Lockheed)XC-35の目指すような高高度であれば、エンジンの燃料燃焼のための酸素も減少しているので、エンジン駆動には向いていない。例えば、高度50kmでは、空気密度は海面上に比較して0.08%しかなく、酸素不足でジェット・エンジンもレシプロエンジンも燃料燃焼に必要な酸素部不足で稼働できなくなる。したがって、航空機が飛行可能な高度は、エンジンの関係上15kmが限度である。

そこで、ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機で、与圧キャビンpressurized cabinを備えている。


写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機(シリアルナンバー: 36-353 MSN 3501)
:カリフォルニア州の農地上空を飛行しているようだ。
Bilstein_00667 Lockheed XC-35 1937 36-353 MSN 3501 Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum 引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35は、 1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、主翼を延長し、4人乗り与圧コックピットpressurized cockpit)とし、排気タービン(ターボ過給機)を装備した。

1937年5月、ロッキード(Lockheed)XC-35はオハイオ州ライト・フィールド(Wright Field)でアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、アメリカ軍機の国籍マークを付けて、8月5日に高高度飛行の審査を受けた。ロッキード(Lockheed )XC-35の発動機は原型エレクトラの450 hp (336 kW)プラット・アンド・ホイットニー R-985-13を排気タービン付きの550 hp (410 kW)プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジンに換装している。


写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機(シリアルナンバー: 36-353 MSN 3501)
:カリフォルニア州の農地上空を飛行しているようだ。
Bilstein_00668 Lockheed XC-35 1937 (USAF W-2712) Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum 引用。


ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機の与圧キャビンにはプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量22 L) 550 hp (410 kW) のターボ過給機のコンプレッサーで空気が吸入されており、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも与圧コックピットpressurized cockpit)では、高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持できた。生産は試作1機のみ。

ロッキード(Lockheed )XC-35の飛行する高高度飛行の制約の第一は、高高度では酸素不足・気温の低下である。そこで、人間が高高度に滞在するには、酸素吸入マスク・暖房機が必要になる。気温は海面上から100メートル上昇するごとに摂氏0.6度低下する。そのため、高度8kmではマイナス30度、高度10kmでは海面上より60度も低下し摂氏マイナス50度にもなる。そこで、高高度では、酸素不足と気温低下に対応することが必要で、そのために航空機の操縦士や同乗者には酸素吸引マスク電熱服などが開発され、1930年代には実用化されていた。

ロッキード(Lockheed)XC-35の飛行する高高度飛行の制約の第二、高高度では空気の密度が薄くなり、気圧が低下することである。人間が気圧が極端に低い場所に長時間滞在し続けると、高山病高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)ような健康上の障害が起こる。たとえ酸素吸入器や暖房機を持参しても、高度27000フィート(8230m)で気圧は海面上の1/3、38000フィート(11582m)で1/5、50000フィート(15240m)で1/10と大きく低下するので、低気圧に晒された人間は、健康を維持できない。

写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の与圧コックピット左右正副操縦席と計器盤:複式操縦席で、左が正操縦士、右が副操縦士で、エンジン関係計器は双発機なので2組ずつ備わっている。
English: Cockpit of the Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 cockpit.jpg引用。


民間機の旅客輸送でも軍用機の作戦飛行でも、ロッキード(Lockheed)XC-35が高高度を巡行する場合、機内の気圧が低下すれば、高地脳浮腫のような高山病と同じ症状が出る。それを防ぐには、海面上に近い1気圧を維持できるようにすればよいが、実は、深海に潜水すると水圧がかかるのと同様に、高高度8000mで気圧が3分の1に低下するなかで、1気圧を保つような気密性を確保することは非常に困難である。3倍もの気圧差があれば、密閉するとしても圧力に耐えられるだけの強度が求められる。

しかし、潜水艇のように厚く頑丈な金属外殻で覆ったコックピット操縦席や客室キャビンは、重量が過大となり、飛行性能を低下させ、高緯度10kmまで上昇することはできなくなってしまう。軽量化が求められる航空機に大きな気圧差に耐えられるだけ堅固な気密室を設置するのは容易ではない。

航空機は、空気抵抗減少とエンジン稼働のバランスを取って、高度10kmでの巡行飛行が効率が良いが、高高度飛行では、滞在する人間に、酸素・気温・気圧が十分に維持されなくてはならないのである。酸素・気温の問題は、酸素吸入マスク、電熱服・暖房機によって1920年代には克服できたが、ロッキード XC-35( Lockheed 10-E XC-35) (36-353 c/n 3501)でもコックピットの低気圧下での高地障害症候群(high altitude syndrome: HAS)への対処は、最も困難だった。


写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)与圧コックピットの前部の操縦席

English: Lockheed XC-35 interior view, looking forward at cockpit with engineer station at left. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 interior forward.jpg引用。


ロッキード XC-35( Lockheed 10-E XC-35) (36-353 c/n 3501)のように10km以上の高高度を飛行する高高度飛行機、すなわち「成層圏航空機」は、操縦士、機関士などの搭乗するコックピットの気圧を、人間が長時間耐えられるような低高度の気圧にまで高める「与圧室」も設ける必要があった。室内と外気の気圧格差が大きいので、与圧室は隔壁の強度を維持するために繭のような形状にして、気密性と強度の両立を図っている。気圧格差が大きい高空を飛行するには、高高度まで上昇できるように航空機は軽量であり、かつ気圧格差に耐えられるだけの強度が与圧室に求められた。

つまり、高高度を飛ぶ航空機には、深海の高い水圧の中を航行する潜水艇と同じように、呼吸用の酸素供給が溜まった居住空間を隔壁で覆って密閉する必要があった。他方、潜水艇では、重量の影響をあまり配慮する必要がないが、航空機では、軽量化しないと高高度にまで上昇することができなかった。

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、キャビンが高高度で低気圧となるのを防ぐために、与圧可能な円筒断面・球形の与圧キャビンpressurized cabin)となっている。外気が低気圧であるために、内部が高気圧だと空気が外部に流出する圧力が加わるが、高高度になるほど気圧差を維持することが困難になる。そこで、ロッキード(Lockheed )XC-35は、気圧格差が隔壁の局所に集中しないように、与圧キャビンpressurized cabin)形状を採用した。

写真(右)1940年以降、アメリカ、ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機与圧コックピットの正操縦士席後方フライトデッキ:側方にもガラス窓があるが、厚い隔壁の構造、窓ガラスの設置が厳封されている構造が見て取れる。
English:Lockheed XC-35 engineer station. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 engineer station.jpg引用。


航空日本躍進譜 : 列強ご自慢も顔負け : 科学の粋を蒐め目ざす世界一 : 一日から愈よ開く中央研究の施設

掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 81 出版年 1939-03-15
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100170249 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

明日の航空日本建設に備える綜合的研究機関として各方面の期待と注目とを蒐めている国立中央航空研究所は四月一日から店開きするが目下法制局で審議中の同研究所完成も近く決定する見込であり第一期五ケ年計画五千万円の「空の殿堂」設立計画もいよいよ晴れの第一歩を踏み出すこととなった−

蓋開けする「中央航研」は第一期、第二期に分って建設されるが同研究所の施設はいずれも「世界一」をめざすだけに列強ご自慢の国立航空研究機関−たとえばアメリカのNACAをはじめドイツのDVL、イギリスのRAE、フランスのSPAなど−を凌ぐ桁違いのものばかりで完成の暁には広大な附属飛行場とともにわが航空国策の実現に一新紀元を画するわけだ

第一期「十四年度から五ケ年計画」における同研究所の組織は第一部風洞、水槽測器、第二部機体艤装工作、第三部発動機、材料、第四部飛行、第五部庶務一般調査などと五部にわかれ更に将来は技術、最高両委員会を設けあらゆる方面からわが航空界を指導することになっている

話題に上る豪華な施設としては離陸水の実験に使用する長さ五百メートル(将来は二千メートルに延長する方針)の「高速水槽」をはじめ実物大の飛行気を容れる大風洞、秒速数百メートルにも達する「高速風洞」発動機とプロペラーの性能を研究する「発動機風洞」さては一万一千メートル以上の高空いわゆる「成層圏」の状態を地上にそのまま再現する「低温低圧発動機試験装置」などがあるが、初年度(設置費、研究費合せて予算約三百六十四万円)の今年はその下凖備に当るとともに当面の研究課題としてはすでにアメリカでは一部実用化されようとしている「成層圏飛行」の研究に乗出す方針で、このため小規模の「低温低圧室」は本年中に建設し、また成層圏飛行に必要な「過給機」(高空の薄い空気を圧縮し地上と同じ密度にしてから発動機の気化器に送りこむ装置)の研究に力をそそぐ方針である

なお[国立中央航空研究所]初代所長は「大学総長級の人物」?を閣議を経て決定することになっているが同研究所の敷地三十万坪は近く帝都の近郊(場所未定)に選定、買収の上バラックの仮庁舎を建てて

東京 広東一日半の”特急” 十月から定期飛行

東京−広東間を僅か一日半で結ぶ快適な”空の旅”が実現する−大陸と内地の空を結ぶ興亜の定期航空網拡充案の一つとして逓信省航空局ではかねて台北−広東線の開設を計画、関係当局と折衝を進めていたがいよいよ今秋から大日本航空会社をして実施させることとなり十四日その要項を発表するとともに同定期空路開設に要する経費(補助金)六十二万五千円を追加予算として十五日衆議院に提出することになった

これによると同定期の実施は今秋十月からの予定で毎日一往復ロックヒード[Boeing 247]または中島式AT機を使用し台北、広東間約九百キロを三時間半で翔破するが同定期界設の暁は東京を午前六時半発の”ダグラスDC三型”もしくは午前七時発の”ロックヒード[Boeing 247]”に乗れば福岡を経由して午後四時五十分には台北着、ここで広東線に聯絡して翌日の午前中には広東に到着することが出来待望の内地−南支間を結ぶ空の特急線が実現するわけである

なお航空局では同定期補助に要すする経費とともに既報の大日本航空会社法施行に要する経費千九万一千円と日満聯絡試験飛行に要する経費四十五万九千円をも追加予算案として衆議院へ提出するが後者はハインケル一一六型機による日本海横断の東京−新京間直通定期航路開始に関するものである(東京)(大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 81 出版年 1939-03-15引用終わり)

写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)与圧コックピットの正操縦士席後方、フライトデッキ左側にある機関士席と機関士用計器盤:発動機2基なのでレバーも2組ずつ揃っている。排気タービンを利用した与圧用コンプレッサの調整も機関士が行った。側方にもガラス窓があるが、厚い隔壁の構造、窓ガラスの設置が厳封されている構造が見て取れる。
English: Lockheed XC-35 engineer's panel. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 engineer panel.jpg引用。


成層圏へ「爆撃路」 : 空の新戦場 : 独、英が狙う”翼の弾道”

掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 144 出版年 1941-09-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100071915 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(ドイツのユンカース四十九型[Ju 49] )あり 省略]
【伯ベルリン本社特電六日発】まだドイツ側が確認していないので噂の範囲を出ないが英空軍は最近米国から購入した四発の重爆撃機[B-17]で成層圏をやって来るといわれている、あるときなど余り高く飛んで来たのでベルリン近辺の対空監視哨でも発見出来ず爆弾が落ちてから初めて警報を鳴らしたとさえいわれている、とにかく成層圏飛行が研究の範囲を出て実戦にまで用いられて来たことは事実だ

かつてヒマラヤ飛行を敢行したドイツ飛行探検隊のハルトマン氏の研究によると普通の状態では酸素吸入器なしでは成層圏の飛行は出来ぬことが発見されたが八千乃至一万メートルの高度になると酸素吸入管が凍結し酸素管を啣えたまま眠りながら死んでゆくという危険が生ずる、そこで成層圏飛行となると操縦者のいる部屋全体を圧搾酸素の室とする必要が生じて来る、

ドイツで初めて圧搾酸素の操縦室をつけたユンカース四十九型[Ju 49] という飛行機を作ったが米国のロックヒード会社が作製したSC三十八型[XC-35] という飛行機もやはり非常に良い圧搾酸素の操縦室をもっていてこれらの飛行機だと九千メートルまで昇って実際に活動できるが酸素の補給というほかに防寒の設備が必要なことはいうまでもない、

一万五千メートルで零下七十度になる、そこで右の操縦室は二重の壁でつつまれている上に内部は電熱で温度を保つようになっている、仮に圧搾酸素の操縦室が敵弾に打ち抜かれた場合にどうするかということになると大きな弾丸の場合はしかたがないが小さな弾丸の場合は内部から厚紙でおさえれば室内の高圧のために穴が塞がってしまうというのである、

成層圏飛行のための操縦室の問題はこれで解決されたわけだが残るはモーターとプロペラを如何に作るかということだ、これについては未だ問題があるようだ

【ロンドン七日発同盟】英当局発表=六日正午英「空の要塞」機の編隊はオスロを白昼奇襲したが、成層圏を飛行して英本土より約八百キロの距離を往復、同機製作以来の記録を作った(引用終わり)。


写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機、与圧コックピットの最後部の隔壁扉
:隔壁扉には、開閉状況を確認する説明書きがあるが、与圧のために厳重な取り扱いが求められた。与圧しやすいように円筒断面・球形のキャビン形状となっている。クッション付きの客席・搭乗員席が設けられている。
English: Lockheed XC-35 interior view, looking aft toward two passenger seats and closed pressure bulkhead hatch. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 aft pressure bulkhead.jpg引用。


ロッキード XC-35( Lockheed 10-E XC-35) (36-353 c/n 3501)が求められた20000フィートの高度飛行では、気温も気圧が低下して、飛行機同乗者は身体的な困難に直面した。そこで、酸素マスクや電熱服が高高度飛行では不可欠とされたのである。旅客機の場合、電熱暖房で室温をためめても、外気の気圧が低ければ、暖気は外に流出してしまう。さらに、気圧の低下は、同乗者に高山病のように身体障害を引き起こした。


写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)与圧キャビンと非与圧コックピットの境目にある隔壁扉バルクヘッド
:与圧室に繋がる非与圧室には洗面所が付いていおり、予備のクッション付きの客席・搭乗員席1席が設けられている。
Lockheed XC-35 interior view, looking aft, with pressure bulkhead hatch open. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 aft bulkhead hatch open.jpg引用。


ロッキード XC-35( Lockheed 10-E XC-35) (36-353 c/n 3501)の高高度飛行に伴う大気圧低下に対処するために、客室キャビンを密閉して、気圧を低高度と同じように1気圧に近づけることが考えられた。完全な密閉した空間に、追加的に空気を送り込めば、気圧を外気よりも高く維持することが可能になる。これが、与圧室であり、旅客機の客室キャビンを与圧化した与圧客室キャビンpressurized cabin)が開発されたのである。与圧された客室キャビンでは快適な空の旅が楽しめたが、これは高高度を飛行することで、空気抵抗を減少させ、燃費を良くするという航続距離延長。高速化という飛行性能を向上する効果もあった。

写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機、非与圧コックピットと後部にある洗面所扉:与圧室に繋がる非与圧室も、構造上、円筒断面・球形の形状に繋がっている。予備のクッション付きの客席・搭乗員席1席が設けられている。
English: Lockheed XC-35 interior view of aft-most compartment, with passenger seat and closed lavatory door. (U.S. Air Force photo) Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed XC-35 Fact Sheet Media (page 2). Author United States Air Force
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35File:Lockheed XC-35 interior aft compartment.jpg引用。


ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)の諸元
最大乗員Crew: 6名
全長Length: 38 ft 7 in (11.76 m)
全幅Wingspan: 55 ft (17 m)
全高Height: 10 ft 1 in (3.07 m) 翼面積Wing area: 458.5 sq ft (42.60 m2)
空虚重量Empty weight: 7,940 lb (3,602 kg)
総重量Gross weight: 10,500 lb (4,763 kg) 発動機Powerplant: 2 × Pratt & Whitney R-1340-43 9-cylinder turbo-supercharged air-cooled radial piston engine2, 550 hp (410 kW) each
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)プロペラ

写真(右)1940年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機、非与圧コックピット後部にある洗面所:与圧室に繋がる非与圧室も、構造上、円筒断面・球形の形状に繋がっている。予備のクッション付きの客席・搭乗員席1席が設けられている。
Lockheed XC-35 Lockheed XC-35 interior view, aft-most compartment, passenger seat and open toilet door. (U.S. Air Force photo) PHOTO BY: VIRIN: 051207-F-1234P-016
写真はOfficial United States Air Force Website,National Museum of the U.S. Air Force 引用。


気圧の低下は、同乗者に高山病のように身体障害を引き起こしたが、ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)は、操縦席キャノーピーは与圧化され、高度6100mでも低高度2400mの気圧が維持されていた。高空での寒さは、電熱ヒーターや温風器で対処できた。しかし、低気圧には与圧コックピット操縦室pressurized cabin)でないと対応しきれないのである。1964年のアメリカの連邦航空コードでは、旅客機運航には、§ 25.841 Pressurized cabins.で与圧キャビンの機能と装備が要求されている。

ロッキード(Lockheed )XC-35試作機の諸元

最高速力Maximum speed: 236 mph (380 km/h, 205 kn) at 20,000 ft (6,096 m)
巡行速力Cruise speed: 214 mph (344 km/h, 186 kn)
実用上昇限度Service ceiling: 31,500 ft (9,600 m)
上昇率Rate of climb: 1,125 ft/min (5.72 m/s)
翼面荷重Wing loading: 22.9 lb/sq ft (112 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.105 hp/lb (0.173 kW/kg)


写真(右)1941−1942年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊のロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機と航空委員会顧問(NACA:National Advisory Committee for Aeronautics )パイロットのハーバート・H・フーヴァー(Herbert H. Hoover)
:アメリカ陸軍航空隊ではXC-35を陸軍長官補佐官、後の国防長官ルイス・ジョンソンの個人輸送機としたが、1943年になっても、NACAパイロットのハーバート・H・フーヴァー(Herbert H. Hoover)が各種試験飛行を担当している。
English: The Lockheed XC-35, the first American aircraft with a pressurized cabin. NACA pilot Herbert H. Hoover intentionally flew the XC-35 into thunderstorms to gather data on the effects of severe weather on aircraft. These flights were following years later by further studies at Langley Research Center conducted with a Convair F-106 and a Learjet. Date 3 February 1943(刊行時期?) Source NASA Langley Research Center - Multimedia Repository Information for ID # EL-2000-00220
写真はWikimedia Commons,Category:Lockheed XC-35 File:Lockheed XC-35 (EL-2000-00220).jpeg引用。



4.排気タービン装備のベルXFM エアクーダ(Bell YFM-1 Airacuda)

写真(右)1937年、アメリカ、バージニア州ハンプトン、風洞実験中のベルXFM-1 エアクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機のモックアップ・モデル
A Bell FM-1 Airacuda mockup at the Langley Aeronautical Laboratory wind tunnel at Hampton, Virginia (USA). Not a "real" aircraft, this full-size mockup of the Bell FM-1 Airacuda was tested in Langley's 30 x 60 Full Scale Tunnel in 1937. Date 22 January 1937 Source NASA Langley Research Center [1] photo EL-2003-00276
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Bell XFM-1 36-351.jpg引用。


1935年7月28日初飛行のボーイングB-17爆撃機は、排気タービン(ターボ過給機)を装備し高高度飛行が可能だったが、同じような高高度爆撃機を迎撃できる戦闘機の試作要求がアメリカ陸軍航空隊からなされた。これに応えたのがベルXFM エアラクーダで1937年9月1日初飛行した。


写真(上)1937年9月−−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルXFM-1 エアラクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機試作機(36-351)
:1937年9月1日初飛行。
English: Bell XFM-1 Airacuda 36-351 Date 20 March 2017 Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Bell XFM-1 36-351.jpg引用。


世界空軍の"宿題"成層圏軍用機出現 : 米空軍・恐るべきヒット

掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 43巻 Page: 148 出版年 1937-08-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100347150 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

成層圏を飛ぶ快速度航空機は各国ともその研究、完成に腐心し特に米国は輸送機、軍用機両方面で真剣な実験が続けられているが、わが国では北支事変で空軍、戦闘、爆撃機に国民の注意が集中されている折柄最近米国からの通信によればこの世界航空界の決勝点たる成層圏用戦闘兼爆撃機が完成したという驚異的ニュースが齎らされた【写真は完成されたXFM一型機

これは米国陸空軍が世界最速の軍用機と豪語している米国ニューヨーク市バファローのベル航空機会社で製作した多座戦闘兼爆撃機XFM一型機で近くテイトンのライト飛行場で陸空軍の手で性能試験が行われる予定で、同機こそ正に「明日の軍用機」として各国が待望しているものである

写真(右)1937年9月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルXFM-1 エアラクーダ(Bell XFM-1 Airacuda)高高度戦闘機試作機(36-351)
PictionID:40971821 - Title:Airacuda Bell XFM-1 36-351- Catalog:15_002692 - Filename:15_002692.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."--SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Source Airacuda Bell XFM-1 Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Airacuda Bell XFM-1 (15954491367).jpg引用。


 [XFM-1の]発動機はアリソン工業会社製作の過給器(高空でも地上付近と同じような空気の量を発動機の内部に送る装置)付のブレストン冷却液による一千馬力を二基装備しているが、幾多の特徴のうち発動機は各々推進式のプロペラーを主翼後部に有しているため発動機ナセルの前部は機関銃を装備、従って何の方向からの敵機でも邀え撃つことが出来、その他胴体に銃手座があり四挺の機関銃を装備、上方、下方からの敵機でも射撃し得その上小爆弾を携行するという恐るべき性能を持つ

 [XFM-1の]乗員は正、副両操縦士、無線士兼銃手、両銃手の五名、全金属低翼単葉、脚は発動機の下部に引込み、見事な流線型で、常用高度三万フィートで三百マイル以上の巡航速力を出すものと予想される、三万フィート以上の空気の密度が稀薄な成層圏を飛行するために胴体主翼その他各部も強度を増しまた座席にはそれぞれ酸素吸入装置やラヂオ設備を有しているといい、全世界軍用機界の異常な注目を集めている(東京日日新聞 Vol: 第 43巻 Page: 148 出版年 1937-08-07引用終わり)

写真(右)1937年9月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ベルYFM-1B エアラクーダ(Bell YFM-1B Airacuda)高高度戦闘機試作機:XFM-1試作1号機は、1937年9月1日初飛行したが、最高速力は 431 km/hで計画より37km/hも遅かった上に、鈍重な機体だったが、アメリカ陸軍航空隊は、1938年5月に高高度重戦闘機の増加試作機YFM-1を13機発注した。ターボ過給器の不調のため、増加試作機は、ターボ過給器未装備のアリソンV-1710-23液冷12気筒エンジンに換装している。
PictionID:40971875 - Title:Airacuda Bell YFM-1B - Catalog:15_002696 - Filename:15_002696.tif - Image from the Charles Daniels Photo Collection album "US Army Aircraft."--SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Source Airacuda Bell YFM-1B Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Bell YFM-1 Airacuda File:Airacuda Bell XFM-1 (15954491367).jpg引用。


ベルYFM エアラクーダ(Bell YFM-1 Airacuda)の諸元
全長: 14.34 m
全幅: 21.34 m
全高: 5.94 m
翼面積:63.7 m2
全備重量: 8,607 kg
発動機:排気タービン(ターボ過給機)付のアリソンV-1710液冷12気筒エンジン1,150 hpを搭載、プロペラは推進式。
最高速力: 431 km/h
実用上限高度:9,296 m
航続距離: 1,513 km
爆弾搭載量:140 kg ×2発
37mmM4ブローニング(Browning)機関砲 ×2門、左右のエンジンナセルにフライトデッキを設けて、先端に各1門を装備。
7.62mm M1919ブローニング(Browning)機関銃×2挺。

⇒写真集Album:ベルXFM エアクーダ(Bell YFM-1 Airacuda)を見る。 


5.ボーイング(Boeing)247輸送機

写真(右)1935-1939年頃、アメリカ西北岸、ワシントン州シアトル、ボーイング工場で製造中のボーイング(Boeing)247 輸送機の胴体:発動機はプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney )R-1340 S1H1-G ワスプ(Wasp)空冷星形9気筒エンジン500 hp (370 kW)で工場の天井の梁にはレールと吊り下げ金具があるようだ。
Boeing 247's are built at the Boeing factory in Washington. Date 29 September 2008 Author San Diego Air & Space Museum Archives.
写真はWikimedia Commons Category:Boeing 247 File:Boeing 247 factory.jpg引用。


1933年2月8日初飛行のボーイング(Boeing)247輸送機の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney )R-1340 S1H1-G ワスプ(Wasp)空冷星形9気筒エンジン500 hp (370 kW) 2基である。プロペラは2翅可変ピッチだが、後期型は3翅に変更されている。

写真(右)1935-1939年頃、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外ハリウッド、ユニオンエアーターミナル空港(?)、ターミナルビル前に駐機しているユーナイテッド航空のボーイング(Boeing)247 輸送機:胴体後方側面には、UNITED AIR LINESのロゴ(アメリカ本土)が描かれている。機首先端にある手荷物収納庫のハッチを開けて、荷物を収めているように見える。尾輪は固定式である。
Charles Rector Album Collection (AL-77) English: Image from an Album (AL-77) belonging to Charles Rector, who was a pilot whose career spanned several generations. Some highlights of his life include working for Tallmantz aviation on many major Hollywood Movies, and working as Mick Jagger's pilot. SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, Wikimedia Commons Category:Boeing 247 File:AL77B-050 (14334433558).jpg引用。


1933年2月8日初飛行のボーイング(Boeing)247輸送機の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney )R-1340 S1H1-G ワスプ(Wasp)空冷星形9気筒エンジン500 hp (370 kW) 2基である。プロペラは2翅可変ピッチだが、後期型は3翅に変更されている。

写真(右)1934年頃、アメリカ、飛行機格納庫の前に待機しているユナイテッド航空ボーイング(Boeing)247 輸送機:胴体後方側面には、UNITED AIR LINESに挟まれたアメリカ本土の愚案のロゴが描かれている。
Boeing : 247 Manufacturer: Boeing Designation: 247 Official Nickname: Notes: On the ground Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真はSDASM Archives Catalog #: 00061565引用。


写真(右)1935-1939年頃、アメリカ西北岸、ワシントン州シアトル、ボーイング工場で製造中のボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビン乗客とエアホステス:10人乗りの客室は2列で各々にガラス窓、遮光カーテンが付き、天井にはネット式の収納スペースがあって、そこに枕が入っている。
English: Interior passenger seating area of a Boeing 247 airplane, ca. 1933 Photographer: Unknown Subjects (LCSH): Boeing 247 (Transport planes) Boeing airplanes Passengers Checkers Digital Collection: Transportation Collection http://content.lib.washington.edu. Author UW Digital Collections
写真はWikimedia Commons Category:Boeing 247 File:Boeing 247 factory.jpg引用。


写真(右)1935-1939年頃、カナダ、カナダ空軍のボーイング(Boeing)247 D 輸送機(7835):カナダはイギリス連邦のドミニオン(自治領)として、イギリス外交と気を一にしている。そこで、イギリスがドイツに宣戦布告した1939年9月3日に時期を同じくして、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦とともに第二次世界大戦に参戦した。垂直尾翼は先端から赤白青三色縦縞のカナダ空軍の国籍マークが、胴体後方側面には、赤白青三色ラウンデルの国籍マークが描かれている。ただし、胴体側面には黄色の外縁がある。カナダ空軍はイギリス空軍と同一色・同一形状であり、フランス空軍の青白赤三色ラウンデル、イタリア空軍(バドリオ政権)の緑白赤三色ラウンデルと同じ形状である。
English: Boeing 247D Source Canadian Forces RCAF 7635 operated alongside 7655 from RCAF Station Dartmouth
写真は,Wikimedia Commons Category:Boeing 247 File:AL77B-050 (14334433558).jpg引用。


写真(右)1934年6月、ドイツ、ザクセン州ドレスデン飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空ユンカースG38大型輸送機と新鋭ボーイング(Boeing)247 輸送機(登録コード:D-AGAR):垂直尾翼にはドイツの国章としてナチ党鍵十字黒のスワスチカ卍が赤帯白丸に描かれている。
Flugplatz Dresden-Heller, Rollfeld mit Boing 247 und Großflugzeug Junkers G38 "Generalfeldmarschall von Hindenburg" Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Datensatz 70058794 Hahn, Walter: Flugplatz Dresden-Heller, Rollfeld mit Boing 247 und Großflugzeug Junkers G38 "Generalfeldmarschall von Hindenburg", 1934.06Dresden Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland KEYWORDS / CLASSIFICATION: Technikgeschichte, Flughafen, Flugverkehr.
写真はSLUB / Deutsche Fotothek Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309799引用。


写真(右)1934年6月、ドイツ、ザクセン州ドレスデン飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空ユンカースG38大型輸送機と新鋭ボーイング(Boeing)247 輸送機:垂直尾翼にはドイツの国章としてナチ党鍵十字黒のスワスチカ卍が赤帯白丸に描かれている。
Dresden. Flugplatz Dresden-Heller. Rollfeld mit Verkehrsflugzeugen Junkers G-38 "generalfeldmarschall von Hindenburg", Boeing 247 und Junkers Ju-60. Blick zum Abfertigungsgebäude mit Kontrollturm Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Dresden Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland KEYWORDS / CLASSIFICATION: Technikgeschichte, Flughafen, Flugverkehr.
写真はSLUB / Deutsche Fotothek Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309800引用。


図(右)、アメリカ、ボーイング(Boeing)247輸送機の三面図
At Oakland, CA, in 1940. Description English: Boeing 247 Date 14 November 2016 Source Own work Author Kaboldy .
写真はWikimedia Commons, UC Libraries File:Boeing 247.svg引用。


ボーイング(Boeing)247輸送機の諸元
初飛行 1933年2月8日
乗員 3名(エアホステス1名を含む)
乗客 10名
全長 51 ft 7 in (15.72 m)
全幅 74 ft 1 in (22.58 m)
全高 12 ft 1.75 in (3.7021 m)
主翼面積 836.13 sq ft (77.679 m2)
空虚重量 8,921 lb (4,046 kg)
全備重量 13,650 lb (6,192 kg)
発動機 プラット・アンド・ホイットニー (Pratt & Whitney)R-1340 S1H1ワスプ(Wasp)空冷星形9気筒エンジン500 hp (370 kW) 2基

ボーイング(Boeing)247の性能
巡航速力 189 mph (304 km/h, 164 kn) / 12,000 ft (3,658 m)
最高速力 200 mph (320 km/h, 170 kn)
航続距離 1207km
実用上昇限度 25,400 ft (7,700 m)
上昇率 1,150 ft/min (5.8 m/s)
生産期間 1932年から1935年
生産機数 75機


⇒写真集Album:ボーイング(Boeing)247輸送機を見る。


6.与圧客室キャビン装備のボーイング 307(Boeing Model 307)

写真(右)1938年7月7日、アメリカ、ワシントン州シアトル、世界一周早回りに出発する前のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen):シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のテスト飛行前の記念撮影。
Photograph of Howard Hughes and Edmund T. Allen, Seattle, Washington, July 7, 1938 Description Date 1938-07-07 Description Description given with photograph: "Howard Hughes tests the Hughes plane. Seattle--Howard Hughes (right), millionaire aviation enthusiast and record holder, shown with Edmund T. Allen, Boeing test engineer, before they made a recent test flight in a Boeing-built Stratoliner. The huge machine was equipped with extra fuel tanks for the test. Hughes did not reveal the reasons for his interest in the four-motored, 30 passenger plane, designed for substratosphere flight."
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries  Digital ID whh001215 Physical Identifier 0373_0930引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、ロッキード(Lockheed )XC-35よりはるかに大型であり、与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた初めての旅客機で1938年12月31日に初飛行した。エンジン4基を装備した大型四発旅客機は、1930年代末に実用化されたが、高高度飛行の時に気圧が低下して、飛行機同乗者が気分が悪くなっても酸素マスクくらいしか対処方法がなかった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)は、高高度飛行でも与圧客室キャビンpressurized cabin)の室内気圧は、低高度の1気圧に近い状態で維持することができたのである。

写真(右)1939−1940年頃、アメリカ、ワシントン州シアトル、ボーイング飛行機工場で生産中のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner):胴体が、天井のクレーンに吊り下げられて、工場内を移動している。与圧式客室キャビン・操縦席の工作は厳格さが求められる。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061653 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はFlicker, SDASM Archives 引用。


ボーイング307(Boeing Model 307)試作1号機は、登録コード NX19901を与えられたが、1939年3月18日にでも飛行をした際に墜落事故を起こしてしまった。18日1257時にワシントン州シアトル(Seattle)のボーイング飛行場を搭乗員10人で離陸し高度11,000 フィート (3,400 m)にまで上昇し、飛行安定性のテストにかかった。しかし、その時に失速し、スピン状態に入った。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のパイロットは、数分間、姿勢を元通りにしようとしたが、降下姿勢に入ったままだった。機体の再上昇を試みつつ、地面に激突した。左主翼外側がはじけ、胴体は地面にのめり込んだ。1317時のことだった。ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)搭乗員10名全員が死亡、その中にはTWA航空の幹部、KLMオランダ航空のエンジニア、オランダ航空省の幹部、ボーイングのテストパイロットなど航空会社幹部も含まれる。

写真(右)1938‐1939年、アメリカ西岸、ワシントン州シアトル、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の関心を集めたシアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)試作1号機(NX19901):地上テストのときに撮影。
English: Catalog #: 01_00091288 Title: Boeing, Type 307, Stratoliner Corporation Name: Boeing Aircraft Designation: Type 307 Official Nickname: Stratoliner Additional Information: USA Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Boeing, Type 307, 307, Stratoliner Date 20 March 2012, 04:30:10 Source https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7204073940/in/photostream/ Author San Diego Air & Space Museum Archives.
写真は Wikimedia Commons, Category:NX19901 (aircraft)  File:Boeing, Type 307 Prototype Ground Tests.jpg引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年に世界大戦でKLMオランダ航空の運航はかなわなかったが、ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空では、気圧の低い高空でも快適に過ごせる与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた、大型四発高速旅客機として採用された。

写真(右)1938年末‐1939年3月18日以前、アメリカ、ワシントン州シアトル、ボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)試作1号機(NX19901):地上テスト最中の撮影。
English: Catalog #: 01_00091291 Title: Boeing, Type 307, Stratoliner Corporation Name: Boeing Aircraft Designation: Type 307 Official Nickname: Stratoliner Additional Information: USA Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Boeing, Type 307, 307, Stratoliner Author San Diego Air & Space Museum Archives.
写真は Wikimedia Commons, Category:NX19901 (aircraft)  File:Boeing, Type 307 Prototype Ground Tests.jpg引用。


ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の主翼、発動機、尾部は、先に開発が進んでいたボーイング(Boeing)B-17C 爆撃機のもの流用している。幅広い太い胴体は、与圧客室キャビンpressurized cabin)と寝台を備えるためでリクライニングシートも装備している。

空の旅客輸送の高速化と並んで、快適さ、豪華さがを求めたのが、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)である。

第二次世界大戦勃発後でも、1940年までは、アメリカの民間航空はハワード・ヒューズが社主を務めるTWA航空のように、アメリカ大陸横断航路に大型旅客機を就役させていた。しかし、1941年12月にアメリカが参戦してからは、戦時中の民間旅客航空は徴用され、軍用輸送にとってかわった。しかし、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)登録コードNC19904は、TWA航空社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)の個人専用機としてボーイング社から購入されている。

写真(右)1939‐1940年頃、アメリカ、ワシントン州シアトル、フラップを下ろして着陸態勢に入ったTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)のボーイング 307B(Boeing SA-307B NC19907 'Zuni' )ストラトライナー(Stratoliner)(登録コード:NC19907):フラップが閉じているので離陸するときに撮影であろう。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061672 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年12月31日に初飛行し、直ぐにKLMオランダ航空が採用を決定したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役は叶わなかった。しかし、まだ中立国だったアメリカでは、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン(Transcontinental & Western Air)航空社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)が、ボーイングの技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)旅客機を高く評価し、与圧客室キャビンpressurized cabin)装備の快適な長距離大量空輸の実現のために、5機のボーイング307(登録コード:NC19905、NC19906、NC19907、NC19908、NC19909)を購入した。

Howard Hughes ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の生産機数は10機で、試作1号機は、事故で喪失、5機がTWA航空に、3機がPAA航空(Pan American Airways)に引き渡され、さらにTWA航空社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が自分専用にボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19904)1機を購入している。

[ダグラス]DC-6Bでは左右の 外方発動 機から伝動軸を介してナセル内に与圧 のための空気過給器がある。ナセル内方の前縁部空気取口から入った空気は過給器で加圧され,導管を通って胴体に入り,客室部から前方の胴体(胴体後部を除く)に最大5.46psiの差 圧まで与圧する。すなわち,飛行高度25,000ft.において機内を8,000ft.に相当する気圧に保つことがで きる。その時の送風最は70°Fの空 気を50lb/minで 供給でき,機内空気は3minで更新される割合である。胴体に送り込まれた空気は機内を循環して換気し,胴体下(与圧調整室)右側の与圧調整孔(pressure control valve)から排出される。この排出孔には蝶弁があってその開度を自動的に制御することに よって与圧 が保たれる。与圧の度合をきめるものは過給器よりもむしろこの排出孔の蝶弁の開度によるのである。(「最近の航空機装備(2)」井上 真 六引用)

ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、アメリカで開発された与圧客室キャビンの高速大型四発旅客機である。1938年12月31日に初飛行したたが、その前の1939年初めには、KLMオランダ航空が導入を決めていた。しかし、1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、オランダは、民間機ではなく、軍用機の導入を図ることとなり、 ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)購入はキャンセルされた。

既に第二次世界大戦が、1939年9月1日に勃発していたが、まだ中立国で参戦していなかったアメリカでは、1940年3月にパンアメリカン航空が ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)をアメリカ大陸横断路線、南米航路に導入した。ヒューズのTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)も採用したが、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦の参戦を契機に、資源・労力のかかる大型民間機の生産は中止された。生産機数は僅か10機のみに終わったが、ハワード・ヒューズは自家用機として使用した。

写真(右)1939‐1940年頃、アメリカ、飛行するTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ボーイング 307 B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の下面:試作1号機は、ロスアンゼルスからニューヨークまでを乗員5人、乗客33人合計38人を乗せて、15時間40分で横断飛行した。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061639 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はFlicker, SDASM Archives 引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、1938年12月31日に初飛行し、直ぐにKLMオランダ航空が採用を決定したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役は叶わなかった。

しかし、まだ中立国だったアメリカでは、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン(Transcontinental & Western Air)航空社主ハワード・ヒューズHoward Hughes)が、ボーイングの技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)旅客機を高く評価し、与圧客室キャビンpressurized cabin)装備の快適な長距離大量空輸の実現のために、5機のボーイング307(登録コード:NC19905、NC19906、NC19907、NC19908、NC19909)を購入した。

1940年にはTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)の大陸横断航路として、ニューヨーク(New York)、ロスアンゼルス西部バーバンク(Burbank)、ミズーリ州カンザスシティ(Kansas City)、イリノイ州シカゴ(Chicago)を結ぶ路線に就役させている。料金は、ニューヨークからバーバンクは149.95ドル、カンザスシティは66.45ドル、シカゴは44.95ドルで逆も東西回りとも同一料金だった。他方、PAAパンナム航空(Pan American Airways:"Pan Am")は、3機のボーシング307旅客機(登録コードNC19902、NC19910、NC19903)を購入した。

写真(右)1947年頃、アメリカ、イリノイ州シカゴ空港、雪の積もった舗装滑走路上のTWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ボーイング307(Boeing Model 307)と赤い郵便運搬車:赤い郵便運搬車は、機首にある郵便収納庫から郵便物を出し入れしている。貨物室や郵便収納庫は、与圧の必要はないので、開閉ドアを設けやすい。
IMLS Digital Collections & Content Description: TWA Stratoliner refuels at Chgo(Chicago) airport Creator: Cushman, Charles Weever, 1896-1972 Taken sometime in 1941
.写真はSmugMug+Flickr, IMLS Digital Collections & Content Chicagoland (Charles W. Cushman Collection)引用。


1938年にシアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、KLMオランダ航空が採用したものの、1939年9月に勃発した世界大戦で就役できずに終わった。しかし、TWAトランスコンチネンタル・ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)社主のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen)のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)与圧客室キャビンpressurized cabin)を備えた画期的な性能を評価し、快適な長距離高速空輸の拡張のために、ボーシング307旅客機を採用、当初生産された5機を購入している。他方、PAAパンナム(Pan American Airways)航空は、3機のボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)(登録コードNC19910、NC19903)を購入したにとどまった。

ヒューズは、アメリア・イヤハートと同じく飛行機とその操縦を愛する飛行家だった。しかし、アメリアのような冒険飛行家・パイオニアではなかった。飛行機の操縦はできたが、多分、飛行時間が少なかったために、その熟練技術はアメリアほどではなかったであったであろう。ヒューズは、飛行機の操縦よりも、新型機を開発して、空の夢をかなえる、そしてその夢は、ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のような与圧客室キャビンpressurized cabin)付き輸送飛行機による安全で高速・快適な空の旅というグローバルな国際旅客輸送、大空のビジネスの実現することに賭けていたのである。

1940年代、TWA航空旅客輸送機の機体には、トランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)と記入していた。しかし、第二次大戦後、それをTWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)と書き換えるようになった。TWA(Trans World Airlines)が、1950年に正式な社名になったが、TWA航空の機体は、正規の社名変更前に、宣伝的な機体の塗装に、TWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)を先んじて取り入れていたようだ。

図(右)ボーイング307(Boeing Model 307)の三面図
English: Catalog #: 00061669 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 26 September 2008, 12:50:44 Source www.flickr.com Author SDASM Archives
.写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 307 File:Boeing 307 Stratoliner 3 view drawing.jpg引用。


ボーイング 307B(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の諸元
乗員Crew: 5名, including pilot, co-pilot, flight engineer and 2 flight attendants
乗客Capacity: 昼間 33座席, 夜間 25名(ベット16台、リクライニングシート9台)
全長Length: 74 ft 4 in (22.66 m)
全幅Wingspan: 107 ft 3 in (32.69 m)
全高Height: 20 ft 9 in (6.32 m) at rudder
降着装置間隔Undercarriage track: 295 in (7.5 m)
翼面積Wing area: 1,486 sq ft (138.1 m2)
空虚重量Empty weight: 30,000 lb (13,608 kg) to 31,200 lb (14,200 kg)
総重量Gross weight: 45,000 lb (20,412 kg)
最大搭載量Maximum load: 15,000 lb (6,800 kg), with 30 passengers, 650 lbs of baggage and 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)/5,750 lb (2,610 kg) of fuel
燃料搭載量Fuel capacity: 1,275 US gal (4,830 l; 1,062 imp gal)通常の 主翼燃料タンク利用. 過重燃料搭載(Overload)1,800 US gal (6,800 l; 1,500 imp gal)
燃費Fuel consumption: 200 US gal (760 l; 170 imp gal)/h
潤滑油Oil capacity: 100–180 US gal (380–680 l; 83–150 imp gal)
発動機Powerplant: 4 × ライト(Wright)GR-1820-G105A サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン、二速過給機(superchargers)付き, 1,100 hp (820 kW) /2400 rpm/海面上, 900 hp (670 kW)/ 2300 rpm /17,300 ft (5,300 m)
プロペラPropellers: 3-翅(bladed)ハミルトンスタンダード(Hamilton Standard)恒速回転,直径 11 ft 6 in (3.51 m)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 250 mph (400 km/h, 220 kn) / 16,200 ft (4,900 m)
巡航速力Cruise speed: 222 mph (357 km/h, 193 kn) / 19,000 ft (5,800 m) / 75% power
失速Minimum control speed: 70 mph (110 km/h, 61 kn) フラップ作動時
離陸Takeofff run: 1,800 ft (550 m)
着陸Landing run: 2,050 ft (620 m)
航続距離Range: 1,300 mi (2,100 km, 1,100 nmi)/ 19,000 ft (5,800 m) & 75% power
実用上昇限度Service ceiling: 23,800 ft (7,300 m) , 18,000 ft (5,500 m) /エンジン3基稼働
巡航高度Cruising altitude: 15,000–20,000 ft (4,600–6,100 m)
上昇限度Absolute ceiling: 25,200 ft (7,700 m)
上昇率Rate of climb: 1,200 ft/min (6.1 m/s) 海面上
翼面荷重Wing loading: 30 lb/sq ft (150 kg/m2)
出力重量比Power loading: 12.5 lb/hp (7.6 kg/kW) 離陸時, 10.25 lb/hp (6.23 kg/kW) 巡航時

写真(右)1964年4月20日、フランス、パリ郊外、ル・ブルジェ空港(Paris–Le Bourget Airport)、舗装滑走路上のフランス、ノーティック航空(Air Nautic )ボーイング307(Boeing Model 307)ストリームライナー(Streamliner)
Photographer Jon Proctor Location Paris Le Bourget - LFPB, France Aircraft type Boeing 307 Stratoliner Operator Airnautic Registration F-BELY Type Photograph Date 20 April 1964 Source Gallery page https://www.jetphotos.com/photo/6984495 Construction number 2001
.写真はSmugMug+Flickr, IMLS Digital Collections & Content Chicagoland (Charles W. Cushman Collection)引用。


ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)の諸元
全幅Wingspan: 32.7 m (107 ft 3 in)
全長Length: 22.7 m (74 ft 4 in)
全高Height: 6.3 m (20 ft 9 in)
空虚重量Weight, empty: 13,749 kg (30,310 lb)
総重量Weight, gross: 19,051 kg (42,000 lb)
最高速力Top speed: 396 km/h (246 mph)

ライト R-1820-97 サイクロン 9Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンの諸元

ボア 6.125in (155.58mm)
ストローク 6.875in (174.63mm)
全長 48.23in (1,225.04mm)
直径 55.10in (1,399.54mm)
排気量 29.87L (1,823in³)
乾燥重量 1,310lbs (594kg)
過給機 B-22排気タービン (遠心式スーパーチャージャー1段2速)
離昇出力 1,200Bhp/895kW/2,500rpm/S.L.
最大出力 1,380Bhp/1,029kW/2,500rpm/26,700ft
1,200Bhp/895kW/2,500rpm/32,700ft

ライト R-1820-97 サイクロン 9Wright R-1820-97 Cyclone)空冷星型9気筒エンジンは、1930年代から1940年代までに合計4万7,475台も量産されたベストセラーである。このライト R-1820エンジンのシリンダーは、単列9気筒であるが、二重星型14気筒としたライト(Wight)R-2600 サイクロン 14、二重星型18気筒としたライト(Wight)R-3350 サイクロン 18へと発展し、出力が向上していった。

⇒写真集Album:ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)を見る。   


7.与圧客室キャビンのロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)

写真(右)1943年9月-1944年、アメリカ、ワシントンDC( Washington D.C.)、滑走路でTWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ロッキード(Lockheed)069 コンステレーション(Constellation)旅客機を降機し、左主翼の下を通り過ぎるヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson:1867ー1950)陸軍長官と続くハワード・ヒューズ(Howard Hughes):TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空は、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)として世界有数の航空会社を目指した。
Title Photograph of Howard Hughes and others, circa 1943 Description A view of Howard Hughes and other exiting the Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane after the aircraft landed. Date 1942; 1943; 1944
Description A view of Howard Hughes and other exiting the Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane after the aircraft landed.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001322 Physical Identifier 0373_1032引用。


1939年9月、欧州で第二次大戦がはじまると、弁護士に戻っていたヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Stimson)は、アメリカの孤立主義、不参戦、中立政策が、枢軸国による侵略をお打ちしているとラジオ放送で批判した。このスチムソンと同じく、中立政策を問題視していたフランクリン・ルーズベルトFranklinDelanoRoosevelt:1882–1945)大統領は、ヘンリー・ルイス・スティムソンHenry Stimson)に陸軍長官への復帰するよう要請したのである。ヘンリー・スティムソン(Henry Stimson)は、1940年7月10日 - 1945年9月21日というアメリカの参戦前から、第二次世界大戦の戦勝まで、2度目の陸軍長官を務めた。

1939年に、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は自分が社主を務めるトランス・ワールド航空(TWA)で採用する与圧客室キャビンpressurized cabin)装備の高速長距離旅客輸送機を開発することとし、ロッキードのカリフォルニア州バーバンク工場で「L-49」と命名した新鋭機の開発を始めた。これが、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)である。

ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)を持っている。

写真(右)1943−1944年、アメリカ、TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)左前方側面で記念撮影したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とTWA機に試乗したらしい民間人乗客たち:左から8人目、後列にスーツ姿のヒューズが立っている。
Photograph of Howard Hughes and others, circa 1944 Photograph of Howard Hughes and others, circa 1944 Description A view of a group of unidentified men and Howard Hughes standing together in front of the Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane after the aircraft had landed. Date 1943; 1944; 1945 Date Digitized 2013-12-17
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001324 Physical Identifier 0373_1034引用。


第二次世界大戦のアメリカ参戦前、スティムソン陸軍長官は、フランクリン・ルーズベルトFranklinDelanoRoosevelt:1882–1945)大統領の下で中立政策の根幹をなす、戦争当事国への武器輸出・貸与を禁止していた状況を改めるために、1941年3月11日、武器貸与法Lend-Lease Act)を成立させ、不参戦であっても、アメリカがイギリス・カナダ・オーストラリアなど連合国に対して兵器や弾薬から車両・食料に至るまで軍需物資を戦後の支払いで貸与することができるようになった。



ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションロッキード コンステレーションLockheed Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。

民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、ロッキード コンステレーションLockheed Constellation)は、B-29重爆撃機と同じ強力なエンジンを搭載、客室キャビンを与圧室とし豪華な内装も施したので、機体は高価であり、戦時中は民間仕様は量産されなかった。



写真(右)1946年2月15日、アメリカ東岸ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)にアメリカ西岸バーバンク(Burbank)から無着陸8時間38分で到着したTWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)。機首左の正操縦席に座っているのはハワード・ヒューズ(Howard Hughes)自身である。:右の副操縦席は、TWA社長ジョン・ジャック・フライ(John "Jack" Frye)である。TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空は、1950年2月22日には社名をTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)に変えている。
Photograph of Howard Hughes in cockpit, New York, February 15, 1946 Description Description given with photo: ""After Non-Stop Coast to Coast Flight -- Pilot Howard Hughes (left) millionaire flier and movie producer, co-pilot Joseph Bartles, and navigator Robert Stevens, relax at the controls of their Lock-heed Constellation after landing at LaGuardia Field in new York City, Feb. 15 on Pre-Inaugural non-stop coast to coast flight from Burbank, Calif. the Constellation, named ""Start of California"" and carrying 34 passengers, including movie stars and a crew of seven, landed at LaGuardia Field eight hours and 38 minutes after leaving Burbank. 22/15/46."" Date 1946-02-15 Date Digitized 2013-12-17
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001345 Physical Identifier 0373_1055引用。


1947年5月3日 、アメリカ、ワシントンDC( Washington D.C.)の滑走路に着陸したTWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空(Transcontinental & Western Air)ロッキード(Lockheed)069 コンステレーション(Constellation)旅客機は、左正操縦席のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の操縦で、ロサンゼルス=ニューヨーク間の大陸横断の最速記録の7時間27分を達成した。これは、1944年4月17日当時、コンステレーションが乗客を乗せて、8時間38分で大陸を横断した記録を上回るものである。

ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーション(Constellation)輸送機は、1947年3月14日初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、コンステレーションは高価で量産されなかった。

1947年5月3日、ヒューズの開発した機上搭載型新型レーダーを搭載したロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションConstellation)のテストが行われた。ここで新型アレーダーは、山脈などの飛行障害には2000フィート(609.6m)、着陸用には500フィート(152.4m)で反応し、操縦席の計器で示すことができた。つまり、この新型レーダーによって、悪天候や暗闇で操縦席からの視界が制限されても旅客機の安全運航が可能になったといえる。

1928年創設トランスコンチネンタル・エアー・トランスポートは、大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグを顧問に迎えた。そして、1930年10月1日、他社を吸収して、TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空Transcontinental & Western Air)として飛躍した。 そして、1932年には、全金属製、低翼単葉、引込み式降着装置のダグラス DC-1を導入、その改良型ダグラス DC-2、DC-3を配備した。しかし、1939年、社主ジャック・フライの友人だったハワード・ヒューズが買収し、1965年まで社主を務めた。戦時中に民間旅客需要は見込めなくなっていたが、戦後、社主のヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な大型旅客機ロッキード・コンステレーションの開発を促し、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)として世界有数の航空会社を目指した。

ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)は、湾曲した細い胴体、3枚垂直尾翼と特徴のある優美な形状で与圧客室キャビンpressurized cabin)だったが、客室キャビンが狭く、経済性には乏しい旅客機で、ダグラスDC-4、DC-6のような量産向きで堅実な旅客機とは対照的である。

⇒写真集Album:ヒューズのロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)を見る。 

⇒写真集Album:マッカーサー将軍・アイゼンハワー大統領専用機ロッキード(Lockheed)VC-121コンステレーションを見る。   


8.ダグラス(Douglas)B-18 爆撃機

写真(右)1936-1939年、アメリカ、飛行するアメリカ陸軍航空隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機(初期短機首型)の右正面:初飛行は、1936年4月。全幅 89 ft 6 in (27.28 m)、全長 57 ft 10 in (17.63 m)、翼面積 89.1 m2、自重 16,320 lb (7,403 kg)、総重量 24,000 lb (10,886 kg)、 発動機 ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基、最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)、航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)、乗員6名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。1939年までに351機量産。
SDASM Archives Follow Douglas B-18 (2) From the Paul Fedelchak Collection. Fedelchak was born in Brownsville PA, June 22, 1917, served as an aerial photographer in the USAAC from 1939. His duties included service at Chanute Field, Washington and Alaska where he was involved in the aerial surveys that made the Alcan Highway possible. These photos were loaned to the museum for copy by the family. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は SDASM Archives引用。


ダグラスB-18 ボロは1936年制式で、ダグラスDC2旅客機の主翼を流用した設計で、開発期間を短縮できたものの、速力不足(357km/h)、爆弾搭載量(2000lbs/908kg)は十分ではなかった。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。 


9.ダグラス(Douglas)B-23爆撃機

写真(右)1939−1941年初期、アメリカ、無塗装のダグラス(Douglas)B-23爆撃機(10-89R)の左側面:第二次世界大戦参戦以前の国籍マークを付けている。主輪にも尾輪にも引込み式の降着装置を採用。尾部には .50 インチ(12.7mm)ブローニング(Browning)機関銃1丁を装備した尾部銃座とその銃手用のガラス窓がある。
Douglas : B-23 : Dragon Catalog #: 00005878 Manufacturer: Douglas Designation: B-23 Official Nickname: Dragon Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


ダグラス社は前作のB-18 ボロを1936年に制式したが、その発展型が、DC-3輸送機の主翼と強力なライト R-2600エンジン 2基(1,600馬力)を使用したダグラス(Douglas)B-23爆撃機で1939年7月23日に初飛行した。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機を見る。 


10.航空工科大学の提唱 掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 42 出版年 1937-10-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100162623

写真(右)1941-42年、日本あるいは仏印、離陸しようとする250kg爆弾2発搭載の日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃機(Nell)二二型:1942年公開の映画、東宝『ハワイ・マレー沖海戦』の一コマ。陸上基地から発進し、海上にある敵艦戦を水平爆撃あるいは雷撃する艦船攻撃機として、1935年7月に初飛行し、皇紀2596年に日本海軍が制式した。日中戦争の緒戦で、中国の杭州、南京、武漢などを都市空襲した。生産数:1,048機。
Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語: 九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦』) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真は,Category:Mitsubishi G3M File:Hawai Mare oki kaisen (28 - Mitsubishi G3M 01) PDVD 068.JPG引用。



 上海方面における支那側の攻勢と共に猛颱風を衝いて敢行された我が海軍航空隊の渡洋爆撃が、世界戦史にかつて見ざる勇猛果敢なるものであったことは、改めて説くまでもない。爾来海軍の精鋭は中支、南支に寧日なく活躍、あらゆる軍事施設、作戦の本拠に[渡洋]爆撃の手を弛めず殆ど敵の戦意を喪失せしめんとしつつあることは吾人の感謝に堪えざるところである。この戦果が忠勇なる我が将士の勇猛果敢と平時の戦技猛訓練の結果であることはいうを俟たないが、一面航空機製造技術の優秀がこの勝利を齎したことを見逃してはならぬのである。

九六式陸攻
 一日数千キロメートルの遠距離を航して数百キログラムの爆弾を投下し、高速度を利して空中戦闘を展開するこの精鋭機が、ただ偶然の所産であると思ったら大きな間違いである。過去二十幾年、研究に研究を重ね、幾多の犠牲を出した涙ぐましい努力の結果が、本事変に世界列強を驚倒せしむるにいたったことを忘れてはならないのである。しかしながら吾人はここに深く将来の航空機製作技術に関し考慮を加えねばならぬものあるを感ずるのである。すなわち、一面には今まで示されなかった我が航空技術者の全貌が今や世界環視の中に曝け出されたのである。従ってこの海軍機精鋭の「標準」を知った列国は、今後競ってこれを凌駕する精鋭機の研究製作に努力するであろうことは誰しも想像し得るところである。

『より優秀なる航空技術者を作れ』これこそ今次の事変が世界的に打たしめる警鐘ではあるまいか。すでに今日の航空機はその形の上においてさえ行詰りを生じつつあるといわれ、設計に技術に新機軸を生み出すことが斯界における急務中の急務となっているのである。成層圏を飛ぶことも、ロケットの研究も優秀なる[航空]技術者にして始めて行われるものであろう。優秀なる技術者を有つことは航空界の行詰りを打開する唯一の鍵なのである。

写真(右)1941-42年、日本あるいは仏印、離陸した日本海軍G3M三菱九六式陸上攻撃機(Nell)二二型:二二型は、乗員員:7人、全長:16.45m、全幅:25m、全高:3.68m、空虚重量:4,965kg、全備重量:8,000kg、最高速力:375km/h、航続距離:4,400km、上昇限度:9,200m、三菱空冷星型14気筒エンジン「金星」四二型2基、胴体前上面に7.7mm旋回機銃1挺、胴体後上面に20mm旋回機銃1挺、胴体左右側面ブリスター型銃座に7.7mm旋回機銃各1挺を装備、爆弾搭載量:800kg。
Description English: Mitsubishi G3M from "Hawai Mare oki kaisen (The War at Sea from Hawaii to Malay)". 日本語: 九六式陸上攻撃機(東宝『ハワイ・マレー沖海戦』) Date 1942 Source Screenshot Author 東宝 / Toho
写真は,Category:Mitsubishi G3M File:Hawai Mare oki kaisen (29 - Mitsubishi G3M 02) PDVD 069.JPG引用。



 我国において従来航空技術者は東大航空科を主として年々僅に数名を養成するに過ぎず、他にも一二航空学講座を持つものもあるがその規模小にして箱庭式の域を脱しなかった。時局の要求は東大における学生数を今年より漸く九名から十四名に増加したと聞くが、かかる数字、かかる設備では航空日本として誠に心細い次第といわねばならぬ。この欠を補うために、従来造船科出身の者が航空界に多数転身しているのであるが、一時の便法はとに角、航空日本の強化には専門的根本的の教育を必要とすること言を俟たぬ。

九六式陸攻  ここにおいて吾人は、この箱庭式教育の弊を脱却するために現在施設の完備せる帝大航空研究所の一切を挙げてこれを航空工科大学たらしめることを提唱したいのである。同研究所は、大正五年四月東京帝国大学内に設置せられた航空学調査委員会の業務を継承し、航空船、飛行機、気球、航空用発動機、航空心理その他航空に関する諸般の研究を行う目的をもって大正七年四月東大に附属創設せられ、物理、化学、冶金、料材、風洞、発動機、飛行機、測器、航空心理などの研究科目を有し、この種の機関として完璧に近いものといえる。しかして、これを単科大学とするとともに学生の数も一挙に五十名乃至百名とする必要があろう。かくてはじめて将来の航空界に備えることが出来るのである。かの同所で苦心設計した長距離機が昨今正に世界制覇の小手調べをなしつつあり、近くこの周廻記録を樹立すれば同所としても使命の大半は達したわけで、時機としても今が機会と考えらるるのである。

[帝大]航空研究所が航空工科大学となり、多年にわたる所員諸氏の蘊蓄が新学生の教育に傾注されるとき航空日本の強化は幾十倍せられるのである。今日まで東大において少数ではあるが優秀な技術者を出したことはもとより多とするところであるが、航空日本として専門の大学を一つくらいは持ち、大量に技術者を養成することは当然のことであり、むしろ遅きに失するのである。一方[帝大]航空研究所には航空研究所としての伝統と使命があり、吾人の提唱は多少それと相容れぬところがあるかも知れないが、躍進航空日本の新しき目標のためには大同に就かんことを希望し、敢て文部当局の一考を煩わす次第である。(航空工科大学の提唱引用終わり)


写真(右)1941-42年、日本、浜松近郊を編隊飛行する日本陸軍浜松陸軍飛行学校所属の三菱九七式重爆撃機(Sally)二型:1935年、陸軍が九三式重爆撃機(キ2)後継機となる重爆の仕様を示し、1936年2月に中島キ19、三菱キ21の試作が決まり、1937年(皇紀2597年)1月にキ21が九七式重爆撃機として制式された。生産数:2,055機。
日本語: 浜松付近くの上空で撮影された。 Date before 1945 Source 零戦落穂ひろい Author 浜松市千歳町「アケミ写真館」。 "Akemi shashinkan" at Chitose-cho, Hamamatsu, Shizuoka.
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-21 File:97siki juu-baku.jpg引用。


写真(右)1941-42年、日本、日本陸軍飛行第12戦隊所属の三菱キ21九七式重爆撃機(Sally)二型乙:垂直尾翼には、「一二」21戦隊に因むマークが描かれている。尾部には、7.7mm機関砲が装備されているように見える。1944年公開の映画、 東宝『加藤隼戦闘隊』でビルマ、ラングーン爆撃のシーンとして放映。
English: Mitsubishi Ki-21, Air Raid Scene from "Kato hayabusa sento-tai (Colonel Kato's Falcon Squadron)". 日本語: 東宝『加藤隼戦闘隊』(ラングーン空襲シーンのうち、九七式重爆撃機の実写部分) Date 1944 Source Screenshot Author 東宝 (Toho)
写真はWikimedia Commons, Category:Mitsubishi Ki-21 File:97siki juu-baku.jpg引用。


三菱キ21九七式重爆撃機(Sally)二型乙の諸元
全幅: 22.50 m
全長: 16.00 m
全高: 4.85 m
主翼面積: 69.60 m2
自重: 6,070 kg
全備重量: (正規)9,710 kg (過荷)10,610 kg
乗員: 7 名
最高速力: 478 km/h
巡航速力: 380 km/h
航続距離: 2,700 km
発動機: 三菱ハ101空冷星型14気筒エンジン1500 hp2基
兵装: ホ103 12.7 mm機関砲 ×1(後上方)、テ4 7.7 mm旋回機関銃 ×4(前方 1、後下方 1、後左方 1、後右方 1)、八九式 7.7 mm 遠隔操作機関銃 ×1 (尾部) 爆弾搭載量: 1000 kg


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機


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